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英国輸入の大阪鉄道6号蒸気機関車(明24・西武鉄道3号・昭和鉄道高校)と池袋散策

池袋はなにげに鉄道にゆかりのある街。黎明期の鉄道を軸に、ちょっと散策してみた。


昭和鉄道高等学校に保存されている明治期の蒸気機関車。

西武鉄道3号機関車

1891年に輸入され、「大阪鉄道6号機」として運用。
1900年に大阪鉄道は関西鉄道に買収され、関西鉄道「駒月57号機」となった。
1907年に関西鉄道が国有化された後は、「220形220号機」と改称。
1917年に多摩鉄道に譲渡され、「A1号機」と改称。
1927年に、多摩鉄道は西武鉄道に合併。
1944年に「西武鉄道3号機」と改称。
1956年3月に日本ニッケル鉄道に貸与。
1956年10月に後身の上武鉄道に譲渡され、「上武鉄道8号機」と改称。
1965年に廃車となり西武鉄道に返却。同年に西武鉄道から昭和鉄道高校に寄贈。

西武鉄道3号機関車
1891(明治24)年イギリスのダブス社で製造された車両配置が1B1型のタンク蒸気機関車です。
大阪鉄道が輸入し、1900(明治33)年大阪鉄道が関西鉄道に吸収されたために関西鉄道に移り「駒月」の形式名で活躍しました。
1907(明治40)関西鉄道が国有化され、形式220(No,220)と改称、活躍の場が神戸付近に移りました。
1917(大正6)年に廃車。その後、多摩鉄道(のちに西武鉄道に併合)に譲渡され、A1の番号をつけて使用されましたが、晩年は埼玉県にあった日本ニッケル鉄道でも走り、1965年(昭和40)に廃車という経歴を持っています。
1967(昭和42)年に西武鉄道から寄贈され、ここが安住の地となりました。
機関車重量25.14t、動輪直径が1.219mmの小さな車体ですが、日本の鉄道の歴史を物語る、大変貴重な蒸気機関車です。

敷地外から見学

※撮影は2022年12月

ちなみに2021年は、無限列車になっていました。。。(以下のみ ※撮影は2021年2月)


昭和鉄道高等学校

校名に鉄道がはいる日本で唯一の高校。

帝都高速度交通営団丸ノ内線 モハ500形685号

近代史ではないけど、豊昭学園には、もう1両、保存車両がある。

※2022年12月撮影

場所

https://goo.gl/maps/f2jce3WvmZW9ioih6


明治天皇御野立所跡

昭和40年8月吉日建立。
明治8年12月27日、明治天皇が板橋での近衛兵の演習を天覧された際に、この地で休息されたことを記念している。
これは通りすがりだっったので、なんとなく掲載。

ちょっと摩耗していて読みにくい。。。

※2021年2月撮影

https://goo.gl/maps/penFCYfzyLdMZc6t7


東京鉄道教習所跡・東京鉄道中学跡

メトロポリタンプラザは、芝浦工業大学高等学校跡地を再開発したエリア。

さらに遡ると、明治から太平洋戦争後にかけて存在した鉄道院、鉄道省、運輸通信省鉄道総局、運輸省鉄道総局、日本国有鉄道の職員養成機関があった。

動輪の由来
ここにはかつて東京鉄道教習所があり、広大な敷地に校舎、大講堂、図書館、プール、寄宿舎など立派な施設が完備され、多数の鉄道マンが勉学にいそしんだ場所である。
 当時の所在地 東京府北豊島郡西巣鴨町字池袋
 敷地及び建物 約37000平方米の敷地に校舎、大講堂、寄宿舎など約100棟の建物があった。
 存在した時期 大正13年(1924年)~昭和29年(1954年)
またこの地は鉄道開通50年記念事業の一環として設立認可された財団法人鉄道育英会により設立した東京鉄道中学が東京教習所内に開校し、後に東京育英中学、東京育英中学校、東京育英高等学校、芝浦工業大学高等学校と改称し、昭和57年まで存在していた場所でもある。
 存在した時期 大正13年(1924年)~昭和57年(1982年)
これらの施設は昭和20年4月14日の東京大空襲で一旦焼失した。
なお、この地は成蹊学園発祥の地でもあり、若者と教育に由緒深い土地柄である。

ルミネの入口の脇に。

※2021年3月撮影

場所

https://goo.gl/maps/hSc69bd8vEDokGYFA


池袋関連

自由学園明日館

英国輸入の鉄道院403号蒸気機関車(明19・西武鉄道4号・芝浦工大付属中学高校)

豊洲にある芝浦工業大学付属中学高等学校100周年記念事業として、西武鉄道から寄贈を受けた「旧鉄道院403号蒸気機関車」が、2022年11月に復元保存公開されましたので、足を運んでみました。


鉄道院403号(西武鉄道4号)蒸気機関車

2022年11月12日。
芝浦工業大学が西武鉄道から寄贈を受けた元鉄道院403号蒸気機関車を、芝浦工業大学附属中学高等学校の新豊洲校地にて保存一般公開を開始。
2022年に100周年を迎えた芝浦工大附属中高は、1922年に鉄道省設立の「東京鐡道中学」を前身としている。この縁にちなんで、今回、西武鉄道から寄贈があった。
403号蒸気機関車の車両展示とあわせて、港区教育委員会とJR東日本から寄贈を受けた「高輪築堤」の海側の築石を土台として活用。
さらに、博物館明治村の協力のもと、汽笛及び走行音を動態保存されている蒸気機関車9号から採音して定刻に鳴らすようにもなっている。

鉄道院403号(西武鉄道4号)蒸気機関車
403号の概要
 1886年(明治19年)にイギリスのナスミス・ウィルソン社で製造された400形の1両です。
 同一設計車として500形・600形・700形(鉄道作業局A8形)など存在しており、いずれもイギリスから輸入されました。後に国産の860形(A9形)、230形(A10形)などの礎となりました。すなわち、本車は我が国の鉄道の歴史を現在に伝える貴重な存在となります。
 特徴としては機構が簡便なジョイント式弁装置の採用が挙げられます。また、先輪と従輪はウェップ式ラジアル軸箱となっており、円弧上に移動することで、動揺が抑制される機構となっています。
 保存展示にあたっては、徹底した補修整備を実施しました。
 また、失われていた製造銘板とナンバープレートを復元して取り付けました。

略歴
1886年 鉄道局No.73として、ナスミス・ウィルソン社(製造No.302)にて製造 
    日本鉄道が借り入れ、番号不変
1892年 鉄道局から日本鉄道に譲渡
1894年 No.20に改番
    逓信省鉄道局(鉄道作業局】に返却、Jクラスとなる
1899年 房総鉄道に譲渡、No6となる
1907年 房総鉄道国有化、帝国鉄道庁No6となる
1909年 No.403となる
1914年 東部局にて廃車
1914年 川越鉄道に譲渡、のちにNo5となる
1914年 川越鉄道が武蔵水電に吸収合併、番号不変
1922年 武蔵水電の鉄道部門を(旧)西武鉄道として独立、番号不変
    No4に改称
1945年 武蔵野鉄道と)(旧)西武鉄道が合併、西武農業鉄道となる
1946年 (新)西武鉄道に改称
1961年 上武鉄道が借り入れ
1965年 上武鉄道から返却、廃車、所沢市のユネスコ村にて保存
    その後、西武鉄道横瀬車両管理所に移送され保管
2022年 芝浦工業大学付属中学高等学校100周年記念事業として保存

製造者 ナスミス・ウィルソン社(イギリス)
製造年 1886年(明治19年)
寄贈者 西武鉄道株式会社殿

竣工    2022年11月
事業者   学校法人芝浦工業大学
SL寄贈者  西武鉄道株式会社
積石寄贈者 東日本旅客鉄道株式会社
施工会社  西武建設株式会社

芝浦工業大学付属中学高等学校の公開敷地に展示。
豊洲六丁目第二公園に隣接。

運転台にも入れる。

NASMYTH,WILSON&Co
LIMITED
No302
1886
MANCHESTER

403
TYPE400


高輪築堤オブジェ

高輪築堤の石が土台に活用されている。

高輪築堤オブジェ
高輪築堤とは
 高輪築堤は日本初の鉄道として造られた新橋~横浜間の約29kmのうち、現在の田町駅の北(芝浦周辺)から品川駅の南までの海上に気づかれた鉄道用の約2.7kmの堤のことです。構想から3年、着工からわずか2年という期間で完成しました。
403号蒸気機関車と高輪築堤の関係
 明治19(1886)年に製造された403号蒸気機関車は年代的にも高輪築堤と同じ時代に国内で走っていました。明治期の姿に修復した403号蒸気機関車と高輪築堤の海側築石を使用しオブジェとして設置した土台は親和性も高く、当時の姿に想いを馳せることができます。
 今回、港区教育委員会と東日本旅客鉄道株式会社のご厚意により高輪築堤築石をご寄贈いただきました。
汽笛について
 定時に鳴らす汽笛の音源は、博物館明治村にご協力いただき403号蒸気官舎と同じく明治期に製造され動態保存されている蒸気機関車9号の汽笛及び走行音を採音加工し使用しています。

高輪築堤築石モニュメント
 展示してある築石は、鉄道が開業した明治5年(1872)に造られた海側の高輪築堤の一部(発掘現場4街区海側)です。石は安山岩で相州真鶴をはじめとする全国から集められ、お台場や東海道沿いの護岸石垣も再利用されました。品川車両基地の再編や高輪ゲートウェイ駅の新駅を伴った大規模開発の中で令和2年に発掘されました。この築石は403号蒸気機関車展示土台にも使われています。
 高輪築堤は、明治9年(1876)の複線化、明治32年(1899)の3線化のために陸側に拡張されています。海側の石垣は、最大で15段確認しています。石垣の土台は角材として加工した「胴木(土台木)」で石を受け、その上部は約30度の傾斜で、石段を1段ずつ並べる「布積み」を用いて積み上げています。一方、山側では石を斜めに使って積み上げる「谷積み」を用いて積み上げており、明治32年(1899)の3線化に伴い拡張された際のものであると考えられます。

豊洲六丁目第二公園

※撮影:2022年12月

場所

https://goo.gl/maps/h22aNzVsxZdZBQAQ8


関連(鉄道開業)

関連(蒸気機関車)

芝浦工大付属中学高等学校の前身にあたる東京鐡道中学は池袋にあった。

北多摩陸軍通信所の戦跡散策(東久留米)

東京都東久留米市前沢のあたりに、陸軍の通信施設があった。
前沢南公園には、防火水槽跡が残っている。散策してみましょう。

前沢南公園の中にある円形が、防火水槽の名残。


北多摩陸軍通信所跡

東久留米市指定旧跡 旧跡第5号
北多摩陸軍通信所跡 前沢5丁目他
 この場所には、昭和8年(1933)から同20年(1945)まで、海外無線の傍受を目的とする陸軍の通信所がありました。
 当時の住所は久留米村前沢1470番地で、当初は1500坪(4,950㎡)の敷地に45m自立式鉄塔4基(逆L字型空中線)と受信所が建設されました。その後の増設により、高速・低速受信機など53台と千数百人に及ぶ人員を要していました。
 昭和18年8月には「陸軍中央特殊情報部通信隊」と改名され、歴史に残る数々の重要な通信の傍受と解読にあたりました。
 戦後、敷地の大部分は民間に譲渡され、当時の施設は現存しませんが、通信施設の中心部分であった受信所や官舎の区画は、道路などでほぼその形状を留めています。旧跡指定は東久留米市の所有部分のみです。
 東久留米市教育委員会

通信所
(米軍撮影空中写真、昭和22年)
官舎に囲まれた丸い防火水槽のある長方形の土地が現在の前沢南公園。

小金井街道から見た通信所と鉄塔
(郷土資料室提供、昭和22年)


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M390-51
1947年8月8日、米軍撮影の航空写真。

写真中央に密集している建屋が、かつての北多摩陸軍通信所の官舎群。

上記を拡大。

現在は住宅密集。。。

更に拡大。黄枠が今回の散策ポイント。

現在の様子。道路の区画もほぼ同じ。
防火水槽のある場所は前沢南公園。その北側に当時の官舎が2棟、残っている。
1棟は完全な形で。そして1棟は半分のみ残っている。


北多摩通信所防火水槽(前沢南公園)

前沢南公園まえの道路。この区画も当時のまま。

公園の北側に、丸くなった区画がある。これが防火水槽の名残。

前沢南公園を貫く東西の通路。公園内に残る基礎も名残かな。。。

こちらは南北の通路。

前沢南公園

いまも「防火水そう」がある。


北多摩陸軍通信所の官舎跡(南)

いまも居住されている建屋のため、チラ見で。
建屋の西側は、削られているために、かなり不自然。前述の航空写真でも、その様子がわかる。


北多摩陸軍通信所の官舎跡(北)

北側の官舎跡の建屋は現在は空家。心置きなく見学できる。

財務省関東財務局が管理する国有地だった。

入口。往時の面影が残っている。

これは、、、「陸軍の官舎」として、保存してくれたりしないかなあ。。。
かなり良い状態にみえます。

防火水槽跡は公園内で保存されているので心配は無いですが、国有地管理の官舎跡は、いつ宅地造成されてもおかしくない雰囲気。
気になる方は、早めの散策が良いかもしれません。

※撮影:2022年12月


関連

北東には海軍の通信所(海軍大和田通信隊)もありました。

東には中島飛行機関連

南には陸軍技術研究所も

旧九段会館(軍人会館)から生まれ変わった「九段会館テラス」

昭和9年(1934)に竣工した「軍人会館」は、戦後に「九段会館」と名称を変更して存続していたが、東日本大震災の影響などもあり、平成23年(2011)に廃業。

その後、令和4年(2022)10月1日に、旧九段会館を一部保存(腰巻建築)しながら新築された「九段会館テラス」が開業した。

建て替え前の「九段会館」の記録は、以下より。


九段会館テラス外観

公式サイト

https://kudan-kaikan-terrace.jp/

旧九段会館
建物前面の低層部分は昭和9(1934)年に「軍人会館」として作られたもので、戦後は「九段会館」として長く親しまれてきました。
建物のうち、正門にあたる北側と内堀通りに面する東側が保存されています。
そのデザインは「帝冠様式」と呼ばれ昭和初期の設計手法をよく示し、現在「登録有形文化財」に登録されています。

内堀通り

KUDAN-KAIKAN TERRACE
なんか、おしゃれ。。。

九段会館テラスは「免震建築物」となりました。
(旧九段会館は地震で天井が崩落し2名が死亡するという事故もありました。)

九段下の交差点から。

北の丸方向から。
昭和感の存在感。。。


九段会館テラス正面内部

正面から中に、はいってみます。


九段会館テラス屋上庭園

5階部分は、旧九段会館部分を活用した屋上になっている。

靖国神社の大鳥居もみえる。


九段会館テラス階段

行きはエレベーターを使用しましたが、かってがわかったので、帰りは階段で降りることにしました。

「一般財団法人 日本遺族会」事務局の入居するフロア(4階)


歴史の小径(九段会館テラス敷地)

歴史の小径
敷地内には戦前からある以下の記念碑等が保存されています。
1・軍人亀鑑碑
明治16(1883)年の建碑。陸軍伍長谷村計介(1853-1877)の功績が一面に記載されており、その功績を後世の軍人に伝えるために建てられました。
2・表忠碑
明治11(1878)年の建碑。西南戦争(1877)の戦没者のために建てられました。
3・楠公記念楠
武将楠木正成をしのんで植樹された楠が現在も残されています。石碑には、海軍大将東郷平八郎(1848-1934)の書により「楠公記念楠」と刻まれています。
4・乃木大将詠草碑
昭和12(1937)年の建碑。陸軍大将乃木希典(1849-1912)の歌碑で、「武士は玉も黄金もなにかせむ いのちにかへて 名こそをしけれ」と刻まれています。
5・西征陣亡陸軍士官学校生徒之碑
明治14年(1881)の建碑。西南戦争(1877)で殉職した陸軍士官学校生33名のために建てられました。
6・貝塚碑
昭和9(1934)年、軍人会館建設時に発見された貝塚の碑。「一部ヲ之ニ納メ」と記されており、当時は碑の下に貝の一部を展示していたことが窺えます。
7・弥助砲
薩摩藩士の砲兵大山弥助(のちの大山巌元帥 1842-1916)が明治18(1885)年に四斤山砲を改良し発明した弥助砲の砲身です。

九段会館解体部分に使用されていた以下のものが展示されています。
8・コンクリート杭先端部
旧九段会館解体部の地中から取り出したコンクリート杭。設計上の長さは5.5m。現在も、約1,900本の杭が保存部分を支えています。
9・鉄骨柱の柱脚部分
旧九段会館は、鉄骨鉄筋コンクリート造。展示されているのは、柱脚部分のコンクリート・鉄筋を取り除いた状態です。

貝塚碑

貝塚碑
軍人会館建築工事ノ際地下約八尺ノ処ヨリ掘出シタルモノナリ
其一部ヲ之ニ収メ記念トス
昭和九年五月

昔は、ここに貝が展示されていたのかな。。。

西征陣亡陸軍士官学校生徒之碑

明治14年(1881)の建碑。

乃木大将詠草碑

希典
武士は
 玉も黄金も
  なにかせむ 
いのちにかへて 
 名こそをしけれ

昭和12(1937)年の建碑。

表忠碑
明治11(1878)年の建碑。西南戦争(1877)の戦没者のために建てられた。

軍人亀鑑碑
明治16(1883)年の建碑。陸軍伍長谷村計介(1853-1877)を讃える。

楠公記念楠

鉄骨柱の柱脚部分

鉄骨柱の柱脚部分
旧九段会館は、鉄骨鉄筋コンクリート造。展示されているのは、柱脚部分の鉄筋コンクリートを取り除いた内蔵鉄骨柱です。図は、創建時の構造計算書。柱脚部分の構造安全性を確認しています。

コンクリート杭先端部

コンクリート杭先端部
旧九段会館解体部分の地中から取り出した鉄筋コンクリート杭。設計上の長さは5.5m。現在も、約1,900本の杭が保存部分を支えています。
図は、創建時の構造計算書。杭の断面サイズ、配筋、支持力が記載されています。

弥助砲

弥助砲
薩摩藩士の砲兵大山弥助(のちの大山巌元帥 1842-1916)が明治18(1885)年に四斤山砲を改良し発明した弥助砲の砲身です。

弥助砲は、ちょっと展示がわかりにくい。当時のままっぽい。

弥助砲の下にある煉瓦造りの壁は、それこそ軍人会館時代のものだろう。目立たないけど、貴重。

生まれ変わった九段会館。
建造物としてまるで魂が抜かれてしまったかのようにもみえる腰巻建築への是非はあるが、まったく無くなるよりかは、少しでも往時をしのぶ景観が残ってくれたことは、せめてもの救い、ではある。

※撮影は2022年12月


良長院の海軍慰霊碑(横須賀鎮守府海軍建築部請負と横須賀鎮守府所属看護科員)

横須賀中央駅と、汐入駅の中間、聖ヨゼフ病院の近くにある良長院に、海軍関連の2つの慰霊碑がある。


横須賀海軍建築部請負工事
殉職者弔魂碑

横須賀海軍建築部請負工事 
殉職者弔魂碑
 海軍大将 野村吉三郎書

昭和8年11月建立
横須賀建工同志会・傷害救済会建立

横須賀の海軍施設請負工事で殉職した民間の方々を慰霊顕彰している。
裏面には殉職された方々の名前が刻まれている。


横須賀鎮守府看護科員 戦病死者之霊碑

横須賀鎮守府看護科員 
戦病死者之霊
 海軍大将山本英輔謹書

(裏面)
昭和7年9月23日建立
赤心会建立

文字通りに横須賀鎮守府看護科員戦病死者の方々を慰霊顕彰する碑。


良長院

龍谷山良長院(曹洞宗)
保年間(1645-1648)創建

横須賀軍港で、建築部請負工事殉職者の碑と看護科員戦病死者の碑と。
それぞれの碑前で、海軍を支えた方々の御魂に合掌をする。

※参拝と撮影は2018年4月

「米ヶ濱砲台跡地」(横須賀平和中央公園)と「横須賀市自然・人文博物館」

米ヶ濱砲台のあった「中央公園」が2021年に「平和中央公園」へと再整備されたという話を聞いたので、足を運んでみました。


平和中央公園

明治時代には旧陸軍の東京湾要塞として米ヶ濱砲台が設置。
関東大震災の被災と演習砲台への転用を経たのち終戦。
「砲台山」として親しまれており、1970年に「中央公園」として開園、50年目の2020年にリニューアル工事を経て、2021年4月に「平和中央公園」として開園している。

中央公園

これは以前の表記ですね。

平和中央公園

再整備されてだいぶきれいになっています。

https://www.kanagawaparks.com/heiwacyuou/

https://www.kanagawaparks.com/heiwacyuou/about.html

https://www.city.yokosuka.kanagawa.jp/5560/sisetu/fc00000484.html


米ヶ濱砲台跡

かなりきれいになってますね。以前は半分埋もれていた掩体部も見学できるように掘り返しされていました。

https://www.city.yokosuka.kanagawa.jp/2120/oldays/houdai.html

https://routemuseum.jp/area/b/b12/

米ヶ濱砲台跡とは
 米ヶ濱砲台は、陸軍が建設した東京湾要塞を構成する砲台の一つです、江戸幕府が海防のために建設した台場に代えて、明治政府は西洋の築城技術・建築資材を導入して海岸防御のための砲台群を、全国の要地に建設しました。これらの砲台群は、後にその地名を冠してん某要塞と呼ばれます。東京湾要塞は新首都東京と横須賀軍港っを守ることを任務とした要塞で、明治10年代に建設が始められた唯一の要塞です。
 明治時代の東京湾要塞建設は、大きく3つの時期に分けられます。明治10年代には東京湾が最も狭くなる富津岬~観音崎を防御する砲台群(観音崎砲台、猿島砲台、走水低砲台など)の建設が始まり、明治20年代前半には横須賀・長浦両軍港を守備する砲台群(夏島砲台、箱崎低砲台など)、明治20年代後半には富津岬~観音崎を守備する既設砲台の背面防御や側防を担う砲台・堡塁(千代ヶ崎砲台、大浦堡塁、小原台堡塁など)とともに新たな砲台(三軒屋砲台)も増設されました。
 米ヶ濱砲台は明治23(1890)年から明治24年(1891)にかけて建設され、横須賀軍港を守備するとともに、不入斗にあった要塞砲兵第一聯隊(後の横須賀重砲兵聯隊)の教育・訓練砲台としての役割も担いました。 
 米ヶ濱砲台は西側の榴弾砲砲台と東側の加農砲砲台で構成され、28cm榴弾砲6門、24cm加農砲2門が備砲されました。明治27(1894)年に開戦した日清戦争では戦備につき、明治37(1904)年に開戦した日露戦争では28cm榴弾砲6門がロシア軍の旅順要塞攻略のため運び出されました。その後は、火砲の進歩や航空機の出現による戦術の変化、安浦町の埋立事業により重要度は低下し、さらに大正12(1923)の関東大震災で大きな被害を受けたことで、加農砲砲台は廃止され、榴弾砲砲台は28cm榴弾砲4門からなる演習砲台に改変されました。
 戦後は、中央公園して市民に親しまれてきましたが、令和元(2019年)に公園リニューアル工事に伴う発掘調査を行い、明治時代の砲台の構造物の多くが良好に残っていることを確認し、遺構保存のため埋め戻しをしました。また一部の構造物については切り取りを行い、横須賀市自然・人文博物館に移設しました。

要塞配置地図

平和公園の地下には、米ヶ濱砲台の遺構が埋め戻しで保存されている。

平和公園の地下に眠る米ヶ濱砲台

榴弾砲砲台弾薬庫跡

榴弾砲砲台の弾薬庫跡

かつては公園の管理室としても使用されていた。
下部には、焼過煉瓦を用いている。天井はコンクリート。

榴弾砲砲台土塁跡

弾薬庫の上部には、榴弾砲砲台の土塁が設けられている。
土塁の上には観測所が設けられ、土塁の中には観測所付属室があったという。

榴弾砲砲台弾薬庫排気口

排気口。弾薬庫と通じている。

カバーがついている。

覗くと、通風口が見える。

土塁の上から、東京湾。

猿島が見える。

猿島砲台と連動している立地であることがわかる。

榴弾砲砲台の跡。

弾薬庫が2つ。

以下は、以前の米ヶ濱砲台跡。
改修前の中央公園時代(2018年4月撮影)

このときは、まだ整備前。


榴弾砲砲台右翼観測所跡

平和モニュメントの下にも地下施設があった。(現在は埋戻し)
榴弾砲砲台右翼観測所の付属室など。平和モニュメントの場所が、右翼観測所であった。

埋戻し保存。

榴弾砲台右翼隧道跡

埋戻し保存。


平和モニュメント

榴弾砲砲台右翼観測所跡。

中央公園時代の平和モニュメント(2018年4月撮影)。
公園リニューアル工事時の際に、平和モニュメントもリニューアルされた。

説明など。


芝生広場(加農砲台跡)

芝生広場の下には、加農砲砲台の弾薬庫などもあったが、埋戻し保存されている。

加農砲台跡の芝生公園も、海がよく見える。走水低砲台や観音崎砲台のある方向を望む。

「あぶない」の英語表記があるのが、横須賀ならでは。


デッカー司令官

1946年、ベントン・ウィーバー・デッカー司令官は、第4代横須賀米国海軍基地司令官として横須賀に着任。横須賀の戦後復興、市民救済、病院や学校などの設立に尽力した「横須賀市再建の恩人」でもあった。
アメリカ軍人として日本人の手による初めての胸像が作られるほどの功績があった。

デッカー司令官

横須賀市再建の恩人
ベントン・W・デッカー司令長官

川村吾蔵作。
川村吾蔵は太平洋前はアメリカで彫像活動をしていた。1940年に帰国。戦後GHQの通訳などをさせられれるも、昭和22年にデッカー米軍横須賀司令長官に招聘されて、胸像を多数作成。このときに最晩年の作品としてデッカー胸像を作っている。
マッカーサーも噂を聞き、胸像作成を依頼するも、完成前の昭和25年に死去。未完成だったマッカーサー元帥胸像は川村の妻娘が完成させている。

頌徳
ベントン・W・デッカー司令官は、横須賀米国海軍基地司令官として、大戦後混沌たる昭和二十一年四月着任せられ、爾来四ヶ年に亘り本市経済の復興に絶大な同情と好意とを以て吾々市民を指導された偉大なる恩人である。軍港を失った本市を民主的な経済都市として更生させるために新しい商工会議所、婦人会、赤十字会、福祉委員会等の設立を促され、更に本市の文化、教育、救済等凡ゆる社会的事業にも適格な指導精神を指示せられ、殊に新規転換工業の育成に対しては最大の援助を与へられ、本市諸産業が今日の復興を見るに至ったことは偏えに同司令官の有難き徳政の賜であって吾々は哀心深い感銘と敬意とを表するものである。
玆に同司令官の頌徳を永く偲びつつ今後不断の努力を続けるため玆に巨匠川村吾蔵氏畢生の力作になる記念胸像を建立した次第である。
 昭和二十四年十一月
  社団法人横須賀商工会議所

デッカーは、1946年4月に着任し、1950年6月までの4年間を、横須賀基地司令官として、横須賀の占領行政に携わっていた。そんな時間軸の中で、はやくも記念胸像が1949年に建立されているのが、なによりも驚きである。

横須賀の海を望む高台から、横須賀を見守る。


戦没者慰霊塔

平和中央公園の東端にある慰霊塔。公園の先端を船の舳先のように造形した鉄筋コンクリート製の慰霊塔。前面には御影石。長さ31メートル、高さ8.7メートル。
昭和44年4月建立。
横須賀市出身の日清、日露、第一次、第二次世界大戦での戦病死者の遺影約3600枚を納めている。

船の先端をイメージ。

戦没者慰霊塔

日本が 
世界の夜明けに目覚めてから 
今日の栄光をかちえるまで 
多くの戦争において 
国のため尊い命を捧げられた 
諸霊よ 
横須賀市民は 
諸霊の遺族とともに 
この地を定め塔をたて 
熱いまごころをもって 
み霊を慰めたてまつる 
 昭和四十四年三月誌す 
  横須賀市長 長野正義

ありがとうございます
合掌


島田修二の歌碑

横須賀の 丘に吹く風
いちにんの いのちの重み
世界に告げよ
 島田修二

島田修二(1928年~2004年)は、昭和3年8月19日、神奈川県横須賀市大津町に生まれた。父 島田英之、母 島田敏子。陽一、修二、章三、迪男、嘉寿江の四男一女の次男であった。
兄 陽一は海軍士官として戦没した。修二も旧制横須賀中学校を経て海軍兵学校に進み、そこで終戦を迎える。その後は、読売新聞記者を経て、短歌の道に精進し、宮中の歌会始選者等を勤めるに至った。
修二は、平成16年1月、この丘に来て、ふるさと横須賀の歴史と未来を思い、世界の平和を思い、ひとりの、そしてすべての人のいのちの重みを思って、この歌を詠んだ。私たちは、この歌の心を広く、また永く、世に伝えることを願い、横須賀の海をみはるかすここ中央公園の地に、これを建てる。
 平成16年11月5日 草木短歌会有志一同


岩崎泡鳴「田戸の海ぬし」

昭和58年(1983年)に設置の文学碑。


横須賀市自然・人文博物館

自然博物館と人文博物館が併設されている総合博物館、横須賀市営で、三浦半島の展示が充実しているのに無料で観覧できるという、おすすめ穴場スポット。

近代史的には、日本遺産に登録された、横須賀製鉄所で制作の日本製で最古級の煉瓦の展示などは興味深く。

ヨコスカ製銕所

刻印スタンプもあります。

近現代展示エリア

横須賀軍港の境界標注ですね。

横須賀軍港境界標
明治33年2月13日
海軍省

横須賀海軍航空技術廠の本部庁舎の模型。
追浜にあったが、建屋は解体済み。
(先日、フィールド調査はしたけど、レポ掲載はまだ。。。)

おもしろそうな企画展もあります。デジタルですね。

おお、海軍の蓋です。

旧海軍消火栓蓋(旧海軍水雷学校跡地)

消火栓、錨のマーク付き。

これは、摩耗も少なく、大変にキレイな状態ですね。

旧海軍水雷学校第四兵舎 階段親柱

旧海軍水雷学校第四兵舎階段の親柱
(昭和4(1929)年頃、当館蔵・トヨタ自動車東日本株式会社寄贈)

この部材は、横須賀市田浦港町にあった「旧海軍水雷学校代四兵舎」で使われてきたものです。終戦時の田浦地区沿岸部には、旧海軍の水雷学校と軍需部の施設群が集積していました。この地区周辺への旧海軍施設の設置は、明治10年代にさかのぼり、以後、埋め立てと施設の拡充が続きました。そして、明治40(1907)年には、前身の水雷術練習所等の歩みを経て、海軍水雷学校が発足しました。
 終戦後の昭和29(1954)年、海軍水雷学校の跡地の一部は、関東自動車工業株式会社(トヨタ自動車東日本株式会社)の敷地となりました。同敷地内にあった、第四兵舎も平成20(2008)年に解体されるまで長らく利用されてきました。第四兵舎は、昭和4年頃に建築された、鉄骨造2階建の大きな建物でした。この建物の中央階段の1階にあった親柱には、旧海軍でよく使われていた錨をモチーフとした装飾があり、同じ敷地内にあった上下水道設備の点検用の蓋にも、同じく錨のマークが刻まれていました。
 これらの部材は、トヨタ自動車東日本株式会社にて大切に保存され、令和4(2022)年に同社から寄贈をうけました。
  横須賀市自然・人文博物館

海軍水雷学校兵舎の階段親柱

錨をモチーフにした装飾

https://www.museum.yokosuka.kanagawa.jp/

水雷学校の記事はこちらにて。


小栗忠順像 栗本鋤雲像

横須賀製鉄所の建設に携わった2名が、横須賀の発展の礎であった、ともいえる。

小栗さんと栗本さんの胸像。
小栗上野介忠順とその小栗の盟友であった栗本鋤雲はともに軍艦奉行や外国奉行などの要職にあった。 小栗が画策した「横須賀製鉄所」の建設を栗本が助け事業に貢献。横須賀発展の礎を築いた人物たち。

小栗さんの像はヴェルニー公園にもありましたね。そちらではヴェルニーさんと並んでましたが、こちらでは栗本さんと。

小栗忠順に関しても、いろいろまとめたいとは思いつつ、なのですが、まだ、調査が出来あがっておらず、でして。

横須賀市自然・人文博物館の中にも胸像がある。

こっちは、ヴェルニーと小栗忠順と、ちょと時代は違うが、ウイリアム・アダムス。

ヴェルニーも記事を書きたいですね。。。

小栗忠順

https://www.museum.yokosuka.kanagawa.jp/

https://www.city.yokosuka.kanagawa.jp/8161/benri/hakubutukan.html


文化会館(横須賀海軍病院跡)

中央公園の隣には文化会館。 かつての「市民病院」跡。
市民病院は昭和37年焼失。
さらに遡ると、深田台の市民病院があった、この場所は「横須賀海軍病院」があった。
明治13年開院。関東大震災で全焼移転(移転先は現在の米軍基地内。現存建物)
昭和3年に海軍用地だった当地は区画再整備され宅地化したという。
※2018年4月撮影

米軍の基地内に残る、横須賀海軍病院に関しては、下記にて。

※撮影は2022年11月


関連

「日本の近代の幕開け」ペリー上陸記念碑と浦賀奉行所跡(浦賀・久里浜)

日本の近代は、ペリー率いる黒船来航とともに幕を開けたといっても過言はない。すなわち、いわゆる「幕末」は、嘉永6年(1853)の浦賀への黒船来航とともにはじまる。

「泰平の眠りを覚ます上喜撰たつた四杯で夜も眠れず」
日本の近代は、ここから始まった。


北米合衆国水師提督伯理上陸記念碑

久里浜のペリー公園として整備されている上陸地点。

嘉永6年(1853)のペリー艦隊の来航時、アメリカ大統領からの国書受け渡しは、久里浜で実施された。
ペリー上陸を記念し明治三十四年(1901)に、建立・除幕された記念碑。

北米合衆国水師提督伯理上陸記念碑
大勲位伊藤公爵博文書

MONUMENT IN COMMEMORATION OF THE LANDING OF COMMODORE
PERRY U.S.N.
MARQUIS HIROBUMI ITO CRAND ORDER OF CHRYSANTHEMUM

嘉永6年6月9日上陸
明治34年7月14日建之

THIS MONUMENT
COMMEMORATES
The First Arrival
OF
COMMODORE PERRY,
AMBASSADOR FROM THE
UNITED STATES OF AMERICA
WHO LANDED AT THIS PLACE
JULY 14,1853
ERECTED JULY 14.1901.
BY
AMERICA’S FRIEND ASSOCIATION

 1853年7月8日、浦賀沖に来航したアメリカ合衆国東インド艦隊司令長官M.C.ペリー(Matthew C.Perry)は、7月14日、ここ久里浜の海岸に上陸し、大統領フィルモアの親書を江戸幕府に渡した。翌年、神奈川において日米両国間に和親条約が締結された。この一連の出来事は、幕府支配のもとに鎖国を続けていた日本を、世界へと引き戻す原動力となった。
 ペリー来航より48年後の1901年7月14日、米友協会の手によって、日本開国ゆかりの地として、ここに記念碑が建てられた。

ペリー公園

北米合衆國水師提督伯理上陸記念碑建設者タル米友協會ノ意志ヲ繼キ本日以後本會ニ於テ該記念碑並構内ノ維持管理ニ當ルコトヽナレリ仍テ茲ニ之ヲ誌ス
 昭和十年二月二日
  神奈川縣廳内伯理記念碑保存會

KANEKO PINE
THIS TREE PLANTED
BY
VISCOUNT KANEKO
JULY 14TH 1901

かねこ松
米友協会会長
子爵金子堅太郎氏
手植松
明治34年7月14日

RODERS PINE
THIS TREE PLANTED
BY
REAR ADMIRAL RODERS
JULY 14TH 1901

ろぢあーす松 
米海軍少将 
ろぢあーす氏 
手植松 
明治三十四年七月十四日

手植えの松は、記念碑の左右に。

ぺるり上陸の地記念碑

県下名勝史蹟45佳選当選紀念
ぺるり上陸の地
横浜貿易新報社

昭和10年10月建立

じょうきせんの碑

泰平の
ねむりをさます
じようきせん
たつた四はいで
夜も眠られず

じょうきせんの碑
 江戸幕府は約200年にわたり、外国との通商・交通を禁止する鎖国政策をとっていた。
 その日本に対し突如として泰平の夢を破るように1853年7月8日(旧暦嘉永6年6月3日)開国を迫る4隻の黒い艦隊が浦賀・鴨居沖に現れ、同艦隊は6日後に久里浜に上陸した。
 この艦隊の指揮をとっていたのが、ペリー提督であった。
 江戸湾の守備にあたっていた諸藩の藩士や浦賀奉行所の人たちは、この大きな黒船を見て、驚き動揺した。
 開国を促す黒船の来航に幕府要人はもちろんのこと、その戒容を見聞きした人たちの驚きはどんなであったろう。
 その驚きを端的に表現したのが、この落首である。
 なお、「久里浜村詩」によれば、この落首は、老中松平下総守(間部詮勝)号松堂作とも言われている。
 平成2年7月
  横須賀市

ハイネ画 ペリー久里浜上陸図

ペリー上陸記念碑物語
 長い間外国との貿易を制限していた徳川幕府に1853年(嘉永6年)アメリカ大統領の国書をもって来航した東インド太平洋艦隊司令長官ペリーは幕府と交渉し強い態度で開国を迫り、ついに1853年7月14日幕府に大統領の国書を受理させ再来航を約束しアメリカに帰りました。
 このとき今まで200年以上にわたり外国との交流を閉じていた日本の地に外国の使節団が上陸し、幕府とアメリカの交渉が行われた場所が場所が久里浜であり、新しい日本の夜明けはこの久里浜から始まったのです。
 ペリー提督が初めて日本の地に上陸してから47年後の1900年(明治33年)10月25日アメリカ退役海軍少将ビアズリーが夫人と共に久里浜を訪れました。ビアズリーは17歳の時、少尉候補生としてペリー提督と共に久里浜に上陸したのです。彼は青年の頃訪れた美しい久里浜にたくさんの思い出があり、アメリカの使節団が初めて訪れた地に何も記念するものがないことを残念に思いました。
 ホテルのある横浜に帰ったとき新聞記者に久里浜でのことを話しました。その内容が新聞に掲載されました。また、明治政府の下で近代社会を築きつつあった明治10~20年代には前途有為な人達が留学や働く場所をもとめて欧米に渡りました。特にアメリカに留学し日本に帰国した後、政界や経済界で活躍する人達が集まり、1898年(明治31年)交友の場として米友協会が設立され、その米友協会の席上でもビアズリーが演説し、このことが契機となって当時の米友協会の会長でハーバード大学で学んだ金子堅太郎男爵(当時)を中心に上陸記念碑建設の運動が起こり「記念碑建設委員会」が組織され募金や明治天皇の下賜金によって記念碑は完成し、1901年(明治34年)7月14日ペリーの上陸と同じ日に除幕式が行われました。参列者は桂首相ほか閣僚、徳川家達、榎本武揚、アメリカからはビアズリーやペリーの孫にあたるロジャース少将等、総数1000人で久里浜沖では日米の軍艦が祝砲を放つなど盛大な式典となりました。
 日米親善の象徴となた上陸記念碑ですが太平洋戦争中にはアメリカに関するものは敵性のものと憎まれ1945年(昭和20年)2月8日横須賀市の翼賛青年団を中心としたグループに引き倒されました。ところが半年後の8月15日に終戦となり11月に復元されました。
 日本の歴史上大切な足跡を刻んだペリー上陸記念碑のもつ意義をこれからも大切に見守ってゆきましょう。

参考
 記念碑の大きさ 高さ4.5m 重さ11.4t 仙台産の花崗岩 碑の台座は根府川石
 刻まれている文字は伊藤博文の書で「北米合衆国水師提督伯理上陸記念碑」と書かれており碑文を彫刻した石工は横浜あの横溝豊吉です
 令和4年(2022年)3月 久里浜地域運営協議会 久里浜の文化を考える会

記念碑の前で記念撮影するのは、ペリーの曾孫にあたるペリー大僧正と、浦賀奉行の曾孫にあたる戸田夫妻。昭和8年。

なお、戦時中に、ペリー上陸記念碑は倒されている。破壊粉砕をしようとする過激な動きもあったが、海軍横須賀鎮守府は反対。神奈川県知事は当初は反対するも、強硬派の圧力に屈し撤去に合意。昭和20年2月に記念碑は倒された。倒された直後に米軍の空襲などもあり、記念碑を粉砕する話は報復を恐れ立ち消えとなっている。重機不足で倒すのが精一杯だったというのもあるようだが。
戦後、昭和20年11月に、ペリー上陸記念碑は再建された。

https://www.kanagawaparks.com/perry/

https://www.cocoyoko.net/spot/perry-park.html

https://www.city.yokosuka.kanagawa.jp/5560/sisetu/fc00000435.html

場所

https://goo.gl/maps/iLY9J6wYuPqTroRB7


ペリー記念館

ペリー公園には、ペリー記念館もある。
横須賀市市制80周年を記念して1987(昭和62)年に建てられた記念館。

ペリー提督

戸田伊豆守

浦賀奉行の戸田氏栄。
黒船来航の初動対応は、奉行所応接掛であった中島三郎助が担当していた。

https://www.city.yokosuka.kanagawa.jp/5560/sisetu/fc00000442.html


ペリー上陸の砂浜(久里浜)

ペリー公園のすぐ目の前に、ペリーが上陸した砂浜がある。

※撮影 2022年8月


ペルリ上陸記念碑道

明治の道標で英語でも記載があるが、おしゃれ。

ペルリ上陸記念碑道
COMMODORE PERRY’S MONUMENT
明治41年1月18日建設

車道側に向いているので、ちょっと撮影しにくい。。。

場所:

https://maps.app.goo.gl/tdev2C5q76iN4rwB9

※撮影:2023年11月


浦賀(黒船来航の地)

ペリー提督の黒船は、浦賀沖に来航した。浦賀に来航して、久里浜に上陸。

1853年7月8日(嘉永6年6月3日)、浦賀沖に停泊したペリー艦隊。それまでみてきたロシア海軍やイギリス海軍の帆船とは違う、蒸気外輪フリゲートを目の当たりにした人々は「黒船」と呼称し、恐れおののいた。

浦賀奉行戸田氏栄は、司令長官旗を掲げていた米艦隊旗艦サスケハナに対して、まず浦賀奉行所与力の中島三郎助を派遣。
ペリーの渡航が将軍にアメリカ合衆国大統領親書を渡すことが目的であることを把握した。
日本側は長崎に向かうように交渉をするも、ペリーは了承せず、江戸に向かい直接国書を渡すと主張。ペリーの強硬姿勢に幕府側は譲歩し、国書受け取りを決断。

1853年7月14日(嘉永6年6月9日)、幕府は当初、浦賀港近くの燈明堂近くの館浦で受け取り予定であったが、土地が狭く、警備を担当する4藩(川越・彦根・会津・忍)の反対もあり、結果として、国書受け取りは浦賀の隣の入江であった久里浜で行われることになった。

黒船来航の地
ようこそ浦賀へ

1853年 浦賀に黒船来航

ペリーとサスケハナ号
嘉永6年(1853)6月、アメリカ大統領の国書を持ったペリーが率いるサスケハナ号以下4隻の黒船が浦賀沖に姿を現わした。このペリー来航により鎖国政策はピリオドをうち、日本の近代はここにはじまった。
 浦賀国際文化村推進協議会


浦賀奉行所跡

黒船来航で、奇しくも近代の幕開けの口火として、その最前線となったのが、浦賀奉行所であった。

石橋(浦賀奉行所跡)
 浦賀奉行所表門の前のお堀に架けられていた石橋が、役宅(官舎)の通りより少し北に寄っているのは、奉行所が敵に攻められても直線で侵入できないように配慮されていたためで、同様に町家(商家)から役宅に入るところのカギの手に曲がっているのも江戸時代のままです。
 お堀は江戸時代後期の改築にともなって表門とその脇の三方に低いながらも石垣が積まれてできています。
 浦賀行政センター市民協働事業・浦賀探訪くらぶ

黒船に最初に乗り込んだ男
中島三郎助
 浦賀奉行所与力・中島三郎助は、浦賀を代表する人物で、嘉永6年(1853)ペリー来航の際、最初に黒船(使節団)との、折衝にあたるなど敏腕をみせ、翌年、日本最初の洋式軍艦・鳳凰丸を建造しました。
 三郎助は、文武に優れ、「大衆帰本塚」の碑文を書き、俳号は「木鶏」と称し、人々から敬慕されていました。
 明治維新では、幕臣としての意思を貫き、函館の千代ケ岡台場で2人の息子と共に戦死しました。
 享年49歳、父子の墓は東林寺。
 函館中島町に「中島三郎助父子最後の地」の碑があります。
  浦賀行政センター市民協働事業・浦賀探訪くらぶ

浦賀奉行所跡

(一部抜粋)
嘉永6年(1853)6月、浦賀に来航したペリー艦隊は、日本が近代に進む第一歩としてよく知られていますが、浦賀奉行所にとっては、文政元年(1818)5月に来航したイギリス船から数えて7度目の異国船でした。ペリー来航時には、中島三郎助や香山栄左衛門をはじめとした浦賀奉行所の役人たちが大きく活躍し、交渉の結果、アメリカ大統領の親書を久里浜で受け取る事になりました。

今は、更地。
堀が残る。

場所

https://goo.gl/maps/1ysfN1eUvoncFkLh6


船番所跡

船番所跡
 浦賀奉行所の出先機関で、享保6年(1721)から明治5年まで、江戸を出切りするすべての船の乗組員と積み荷を検査する「船改め」を行い、江戸の経済を動かすほどと言われました。
 与力、同心の監督のもと、「三方問屋」と呼ばれる下田と西浦賀の廻船問屋百軒余が、昼夜を通して実務を担当しました。「入鉄砲に出女」を取り締まる海の関所としても重要なものでした。
 浦賀行政センター市民協働事業・浦賀探訪くらぶ

船番所跡

奉行所はもともと下田にあったが、享保5年(1720)に、浦賀に移転。江戸への出入りをチェックを強化。

船改めはの業務は浦賀奉行だけでは手が足りないために、廻船問屋も協力。下田から移転してきた下田問屋が63軒、西浦賀に22軒、東浦賀に20軒の合計105軒で船改めを実施していた。また船番所は、幕末に急増したは異国船への警備なども担っていた。

船番所のあとは、いまは陸軍桟橋とも呼称されている。

場所

https://goo.gl/maps/vQ64mnFng8GXfnZh7

浦賀の沖合に来航した黒船から、日本の近代が幕を開けた。

※撮影:2022年7月及び8月


関連

渋沢栄一ゆかりの「川間ドック」(浦賀)

「浦賀ドック」から南に足を伸ばすと「川間ドック」があった。
せっかくなので、川間ドック跡にも足を運んでみよう。


渋沢栄一と川間ドック

浦賀ドックは榎本武揚、そして川間ドックは渋沢栄一が設立に関与していた。

川間ドック
 ㈱東京石川島造船所が、大型船の建造修理のため、当時、取締役会長であった渋沢栄一の提案により、明治28年(1895)10月に浦賀分工場として建設に着手し、同31年に営業を開始しました。
 同35年には浦賀船渠㈱に買収され、以後、同社の川間分工場になりました。
 現在は、レンガ造りのドックを残すのみで、そのレンガは、当時、浦賀で焼かれたものです。
 浦賀行政センター市民協働事業・浦賀探訪くらぶ

浦賀ドックと川間ドック
浦賀の軍艦建造で功績のあった浦賀奉行所の与力・中島三郎助招魂碑の除幕式に参列した荒井郁之助が中心となり、榎本武揚・塚原周造も賛同し中島三郎助の業績を称えて浦賀にドックを建設することを決定。

明治30年(1897年)、かつての浦賀造船所と同じ場所に「浦賀船渠株式会社」が設立された。(浦賀船渠の浦賀ドックの竣工は明治32年)
明治31年には 東京石川島造船所浦賀分工場(川間ドック)が、渋沢栄一によって開業し、浦賀での造船競争が活発化。
最終的には、明治35年(1902)に、浦賀船渠が石川島の浦賀分工場(川間ドック)を買収し、浦賀船渠川間分工場となっている。

榎本武揚・渋沢栄一と浦賀ドック
日本で最初の洋式軍艦・鳳凰丸の建造に貢献した中島三郎助の招魂碑の除幕式の列席メンバーによって「浦賀ドック」は創設され、この中心人物が榎本武揚であった。時を同じくして、西浦賀の川間の地に同様に造船所を創ったのは明治期の大実業家渋沢栄一であった。
 浦賀国際文化村推進協議会

明治28年(1895年)
渋沢栄一率いる㈱東京石川島造船所が、浦賀ドックにほど近い川間でドック建設に着手
明治28年に、渋沢栄一率いる㈱東京石川島造船所(現在の㈱IHI)は、浦賀ドックにほど近い川間でドライドック建設に着手し、明治31年に営業を開始した。明治32年には、浦賀船渠㈱により、浦賀1号ドライドックが竣工し、浦賀には、同時期に2つのドライドックが稼働することになった。後に、浦賀船渠㈱が川間のドライドックを買収・合併することとなった。

※浦賀ドック跡地の壁面に

歴史の小話
明治28年3月8日付の「国民新聞」には、浦賀に計画された2つの造船所について書かれている。「榎本武揚ら武士が発起人となって、西浦賀に設立しようとする船渠は、政府内部の許可は早くとれたのに、地元の地主との交渉が難航して、未だ工事に着工できない」一方、「渋沢栄一ら町人一派が東浦賀に計画している船渠は、すでに地主との間に売買の契約が整い、一坪3円ずつお手付け金も渡してあるが砲台に近いという理由で、陸軍省からクレームがあり、これまた設立に至らず。」どちらが先に問題を解決して、造船所の建設を進められるのか。浦賀の人々を自陣に取り込もうと、榎本ら武士と渋沢ら町人が、両者一歩も引かぬにらみ合いが行われていたようだ。

※浦賀ドック「レンガドック活用センター」より


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M46-A-7-2-163
1946年2月15日、米軍撮影の航空写真。

川間ドックのすぐ南は「千代ケ崎砲台」であった。

川間ドック周辺。

現在はヨットハーバー

場所

https://goo.gl/maps/qnha8Rzr5zvQx87G8


川間ドック跡

東京石川島造船所浦賀分工場跡
浦賀船渠川間分工場跡
住友重機械工業川間工場跡

ヨットハーバーの駐車場から見学ができる。
もとはドライドックであったが、ゲートが撤去されているために、現在は海水をためている状況。

渠頭側

上から。

※撮影:2022年8月


関連

「駆逐艦のふるさと」浦賀ドック跡地(浦賀船渠第1号ドック)

横須賀の浦賀。ここに幾多の駆逐艦を生み出した造船所があった。
「浦賀船渠」
「西の藤永田、東の浦賀」と称された、大日本帝国海軍駆逐艦のふるさとである「浦賀船渠」跡地を散策してみた。

西の藤永田造船所のレポートは以下にて。

「浦賀ドック」は、横須賀市浦賀地区にあった造船所。
2003年に「浦賀ドック」は閉鎖され、2021年に住友重機械工業から横須賀市に無償寄付された。


浦賀造船所

嘉永6年(1853年)、ペリー来航を期に、江戸幕府は「大船建造の禁」を解禁し、大型船の建造を開始。「浦賀造船所」を設置。

安政元年(1854年)、「浦賀造船所」にて、国産初の洋式軍艦「鳳凰丸」が建造される。これは、浦賀奉行所与力の「中島三郎助」の尽力による。

中島三郎助と鳳凰丸
ペリー来航により、幕府は軍艦の必要性を強く感じ、浦賀奉行所の与力・中島三郎助らに軍艦建造を命じた。安政元年(1854)5月、日本で最初の洋式軍艦鳳凰丸は浦賀の地で誕生した。
 浦賀国際文化村推進協議会

安政6年(1859)には、日本初のドライドックが完成。アメリカに向かう咸臨丸の整備も浦賀で行われ、咸臨丸は浦賀から出港している。

慶応元年(1865)、江戸幕府の勘定奉行であった小栗忠順の進言により、フランスの技師ヴァルニーによって「横須賀製鉄所」が開設。造船所としての拡張も行われ、江戸幕府が瓦解したのちの明治4年(1871)に「横須賀造船所」(横須賀海軍工廠)となり、艦艇建造は浦賀から横須賀に移り、「浦賀造船所」は明治9年(1876)に閉鎖となった。

戦前の浦賀船渠

浦賀造船所の基礎を築いた中島三郎助は、戊辰戦争に際して、榎本武揚らと行動をともにし、函館政権(蝦夷共和国)下では、箱館奉行並、砲兵頭並として要職を務め、箱館戦争では、本陣前衛の千代ヶ岱陣屋の陣屋隊長として奮戦。五稜郭への撤退及び新政府への降伏も拒絶し、本陣五稜郭降伏の2日前に、中島三郎助は長男次男とともに戦死している。

明治24年(1891年)、中島三郎助の23回忌にあたり、三郎助を慕う地元の人々によって、愛宕山公園に中島三郎助招魂碑が建てられた。

中島三郎助招魂碑の除幕式に参列した荒井郁之助が中心となり、榎本武揚・塚原周造も賛同し中島三郎助の業績を称えて浦賀にドックを建設することを決定。
明治30年(1897年)、かつての浦賀造船所と同じ場所に「浦賀船渠株式会社」が設立された。(浦賀船渠の浦賀ドックの竣工は明治32年)
明治31年には 東京石川島造船所浦賀分工場(川間ドック)が、渋沢栄一によって開業し、浦賀での造船競争が活発化。
最終的には、明治35年(1902)に、浦賀船渠が石川島の浦賀分工場(川間ドック)を買収し、浦賀船渠川間分工場となっている。

榎本武揚・渋沢栄一と浦賀ドック
日本で最初の洋式軍艦・鳳凰丸の建造に貢献した中島三郎助の招魂碑の除幕式の列席メンバーによって「浦賀ドック」は創設され、この中心人物が榎本武揚であった。時を同じくして、西浦賀の川間の地に同様に造船所を創ったのは明治期の大実業家渋沢栄一であった。
 浦賀国際文化村推進協議会

浦賀船渠は、日露戦争に際して、横須賀海工廠から艦載水雷艇の受注を受けたことから、軍艦製造を開始。
明治40年(1907年)に、浦賀船渠は初めて駆逐艦を建造。最初の建造は駆逐艦「長月」であった。
大阪の藤永田造船所と共に駆逐艦建造の名門となり、「西の藤永田、東の浦賀」として、多くの艦艇を生産した。
海軍軍艦として建造実績は、軽巡洋艦 2隻、駆逐艦 44隻、海防艦 11隻+2隻未完、であった。
また、大正13年(1924)には、青函連絡船の原点となった、国内初の旅客兼車両渡船(鉄道連絡船)として青函連絡船「翔鳳丸」を竣工させ、その後の多くの青函連絡船も浦賀での建造となった。

浦賀船渠で造られた艦艇

軽巡洋艦
  五十鈴(長良型2番艦)
  阿武隈(長良型6番艦)
敷設艦
  厳島(2代目)
駆逐艦
 神風型駆逐艦 (初代、昭和5年全艦退役)
  長月、菊月
 樺型駆逐艦(昭和7年全艦退役)
  桐
以下は太平洋戦争に参加世代の艦艇
 樅型駆逐艦
  柿、萩、菱、蓮
 若竹型駆逐艦
  早苗、早蕨
 神風型駆逐艦 (2代目)
  追風(2代目)
 睦月型
  弥生(2代目)、水無月(2代目)、望月
 吹雪型
  深雪、磯波(2代目)、狭霧、潮(2代目)、雷(2代目)
 初春型
  子日(2代目)、初霜(2代目)
 白露型
  時雨(2代目)、五月雨(2代目)、山風(2代目)、涼風
 朝潮型
  霞(2代目)
 陽炎型
  不知火(2代目)、早潮、時津風(2代目)、浜風(2代目)、萩風、秋雲
 夕雲型
  風雲、高波、涼波、岸波、清波、清霜
 秋月型
  宵月
官公庁船
 関門連絡船:長水丸、豊山丸
 青函連絡船:飛鸞丸
 青函連絡船・戦時標準船:第三青函丸
 青函連絡船・W型戦時標準船:第四青函丸、第五〜第十青函丸
民間船
 貨物船:葛城丸
 貨客船:白山丸

戦後の浦賀船渠

戦後も浦賀船渠では海上自衛隊向けの艦艇の建造や、米空母ミッドウェイの大規模改修、日本丸建造なども行われた。
昭和44年に住友機械工業と合併し、「住友重機械工業浦賀造船所」となり、追浜造船所(現横須賀造船所)も開設。工場集約に伴い浦賀地区は平成15年(2003)に閉鎖され資材置き場となる。
2007年(平成19年)11月30日、浦賀船渠の第1号ドック、ポンプ施設、ドックサイドクレーンが近代化産業遺産に認定。
2021年(令和3年)3月に、浦賀ドックとその周辺部が、住友重機械工業から横須賀市に無償で寄付され、現在に至る。

昭和52年 市制施行70周年期記念  
横須賀風物百選
浦賀造船所
 浦賀湾を囲むこの施設は、住友重機械工場株式会社追浜造船所浦賀工場です。
 創業以来、浦賀船渠株式会社、浦賀重工業株式会社、更には現在の社名と変わりましたが、広く「浦賀ドック」の愛称で呼ばれてきました。
 この造船所は、明治29年(1896)、当時農商務大臣であった榎本武揚などの提唱により、陸軍要さい砲兵幹部練習所の敷地及び民有地を取得して設立準備を進め翌年、明治30年(1897)6月21日の会社設立登記をもって発足したものです。資本金は100万円でした。
 そのころの日本は、日清戦争などの影響もあって、外国から多くの艦船を買い入れ、世界的な海運国に発展しようとしていました。一方造船界は、技術面や設備面で大きく立ち遅れていました。その遅れを取り戻すため、外国人技師を雇い入れて国内各地に次々と造船所を造っていきました。この造船所もその なかの一つで、ドイツ人技師ボーケルを月給約150円で雇いドックを築きました。
 明治35年(1902)10月15日、フィリピンの沿岸警備用砲艦ロンブロン号(350排水トン)を進水させました。創業以来手がけてきた船は、いずれも 国内の企業から受注した工事用運搬船のたぐいばかりでしたが、14隻目に初めて外国から受注した本格派の艦船を世に送り出しました。
 この浦賀造船所で建造した艦船は、戦前・戦後を通じ約千隻にのぼります。現在もなお技術革新の旗手として、新しい船を造り続け、造船の浦賀の象徴として、今もな地元市民に基盤を置いています。


「浦賀ドック」ツアー見学

現在、限定公開されている浦賀ドックの見学会に参加してきました。

NPO邦人よこすかシティガイド協会

http://yokosuka.kankoh-guide.com/uraga-dokku-hp/uraga-dokku-guide.html

令和3年3月に住友重機械工業株式会社から横須賀市に寄附された浦賀レンガドックは、明治32年(1899年)に建造されてから平成15年(2003年)に閉鎖されるまで1,000隻以上の船の製造や修理を行ってきた歴史のある造船所。
レンガ造りのドライドックとしては日本では浦賀にしか現存していない貴重な施設となっている。

入口。ツアーに申し込みしないと入れない。。。

レンガ片


浦賀船渠「ドックサイドクレーン」(ジブクレーン)

昭和20年6月と銘記のあるドックサイドクレーン。
現存する唯一のクレーン。

浦賀船渠
昭和20年6月

ジブクレーンは、一本の支柱で腕(ジブ)を支えるクレーン。


浦賀船渠「ドライドック側面」(乾ドック)

世界に4箇所(5個)しか現存していないレンガ積みのドライドックのひとつ。
長さは約180m、幅は約20m、深さ約11m。レンガ使用数は約215万個、積み方はフランドル積(フランス積)


浦賀船渠「ポンプ所」

ドライドック(乾ドック)では、ポンプが必須。壁のレンガは、レンガドックと同じ年に完成した、貴重な遺構。

浦賀湾の奥を望む。この護岸も往時からのもの。


浦賀船渠「浦賀ドック船尾側(フラップゲート側)」

海水をせき止めるのが、フラップゲート。自重で海面側に倒れるようになっているという。

船尾側(海側)から浦賀ドックを一望する。

船とドックのセンターを合わせる水平装置。船尾側。

ゲートを開閉する装置。

このあたりはタワークレーンの跡。


浦賀船渠「ボラード」

岸壁の杭。係留用だったり進入防止用だったり。


浦賀船渠「ドック底部」

いよいよ下に降ります。

盤木。船を固定するための土台。
現在の盤木は、2002年に浦賀ドックに最後に入渠した「しらはま丸」のもの。盤木は船の設計図にあわせて、都度作成していた。

フランス積みの煉瓦

船首方向

浦賀ドックを拡張した昭和35年7月の銘板。

見えなかったが、竣工当時の銘板もあるらしい。

これはワクワクする空間ですね。


レンガドック活用センター

浦賀ドックに関する資料が集められた建屋を見学。

浦賀船渠株式会社
浦賀工場

浦賀と浦賀レンガドックの歴史
(住友重機械工業浦賀工場第1号ドック)

享保5年(1720年)
浦賀奉行所の開設

嘉永6年(1853年)
浦賀沖にペリー来航、久里浜に上陸

慶応元年(1865年)
横須賀製鉄所の起工
幕末に開国した日本は、欧米諸国に追いつくため、現在の米海軍横須賀基地と京急線汐入駅周辺の場所に、日本で初めて石造りのドライドックを備える横須賀製鉄所(後の横須賀造船所)を建設した。蒸気機関を動力として、造船に必要な部品生産から組み立て、メンテナンスまでを一貫して行い、技術者育成機関も備える大工場だった。伴って、蒸気機関に欠かせない水道や物流に欠かせない鉄道など都市基盤の整備もいち早く進み、横須賀は最先端技術が集まる造船の町へと変容していった。

明治28年(1895年)
渋沢栄一率いる㈱東京石川島造船所が、浦賀ドックにほど近い川間でドック建設に着手
明治28年に、渋沢栄一率いる㈱東京石川島造船所(現在の㈱IHI)は、浦賀ドックにほど近い川間でドライドック建設に着手し、明治31年に営業を開始した。明治32年には、浦賀船渠㈱により、浦賀1号ドライドックが竣工し、浦賀には、同時期に2つのドライドックが稼働することになった。後に、浦賀船渠㈱が川間のドライドックを買収・合併することとなった。

歴史の小話
明治28年3月8日付の「国民新聞」には、浦賀に計画された2つの造船所について書かれている。「榎本武揚ら武士が発起人となって、西浦賀に設立しようとする船渠は、政府内部の許可は早くとれたのに、地元の地主との交渉が難航して、未だ工事に着工できない」一方、「渋沢栄一ら町人一派が東浦賀に計画している船渠は、すでに地主との間に売買の契約が整い、一坪3円ずつお手付け金も渡してあるが砲台に近いという理由で、陸軍省からクレームがあり、これまた設立に至らず。」どちらが先に問題を解決して、造船所の建設を進められるのか。浦賀の人々を自陣に取り込もうと、榎本ら武士と渋沢ら町人が、両者一歩も引かぬにらみ合いが行われていたようだ。

明治32年(1899年)
浦賀1号ドライドック(浦賀ドック)の竣工
明治30年に、農商務大臣であった榎本武揚らの提唱により、浦賀船渠㈱が設立された。浦賀1号ドライドックの工事着手に先立ち、オランダの技師デレーケに設計を委嘱、元横須賀造船所技師の古川庄八の協力などにより設計と整備が進められた。明治30年に本工事に着手し、最終的には、横須賀造船所のドライドック建造に関わった経験を持つ杉浦栄次郎が、浦賀ドック㈱の主任技師に赴任し、紆余曲折を経て完成した。

平成15年(2003年)
住友重機械工業裏が工場の閉鎖
浦賀1号ドライドック(現在の浦賀レンガドック)で最後の修繕した船は”しらはら丸”。
惜しまれつつ閉鎖した後、令和3年に、浦賀1号ドライドック(現在の浦賀レンガドック)と周辺部が住友重機械工業㈱から横須賀市に寄付され、現在に至る。

場所

https://goo.gl/maps/LFqbbg3TVQ4HZWH86


浦賀船渠「浦賀ドック渠頭側」

渠頭側からドックを一望する。

船とドックのセンターを合わせる水平装置。渠頭側。

敷地内の見学は、以上。
レンガ積みのドライドック。これは、ぜひとも、見学すべき貴重な空間。

次は、浦賀コミュニティセンター分館(郷土資料館)に向かいます。


浦賀船渠「浦賀ドック煉瓦壁」

道すがら。
外壁の一部も往時からのもの。

内側から


浦賀コミュニティセンター分館(浦賀郷土資料館)

浦賀奉行所を模した入口。

浦賀屯営碑
旧浦賀ドック構内の非公開エリアにある、浦賀屯営碑の説明。
明治9年9月1日から浦賀に「浦賀水平屯集所」が設立。以後、水兵練習所・浦賀屯営・横須賀海兵隊と名前を変えつつ水兵養成機関があった。

場所

https://goo.gl/maps/AJo4HEZkbRR1JqCr8


浦賀ドックの最後の建造「護衛艦たかなみ」

2003年(平成15年)3月12日、浦賀ドック(住友重機械工業浦賀艦船工場)で最後の建造となったのが護衛艦「たかなみ」。
「たかなみ」竣工後の3月31日に、浦賀工場は閉鎖した。

護衛艦「たかなみ」

2017年に撮影していた「たかなみ」の姿。


陸軍用地境界石

浦賀コミュニティセンター分館(浦賀郷土資料館)に保存されている陸軍用地の境界石。


浦賀ドック跡

浦賀駅前周辺。

屯営跡の碑
築地新町と言われたこの地に、水兵の基礎教育機関として、1875年(明治8年)、「浦賀水平屯集所」が設置されました。
 その後「東海水兵分営」、明治15年には「水兵練習所」、明治18年に「浦賀屯営」と改称し、数多くの水兵を送り出しました。
 その事績を残すため、昭和9年に「屯営跡の碑」が建てられました。
 この碑の石は、日露戦争のとき、旅順口の封鎖のために沈没させた弥彦丸に使用したものが使われていました。
 浦賀行政センター市民協働事業・浦賀探訪くらぶ

参考

https://www.city.yokosuka.kanagawa.jp/2752/uraga_walk/higasi2.html

敷地の外から浦賀ドックを。

※撮影:2022年7月及び8月


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M46-A-7-2-143
1946年2月15日、米軍撮影の航空写真。

浦賀ドック周辺

現在の様子

浦賀ドック

現在の様子


2016年の浦賀ドック

2016年に浦賀に訪れていたときに何気なく撮影をしていました。
今思えば、もっと撮影をしておくべきでした。。。

昭和18年建造のハンマーヘッドクレーンの姿も撮影していました。
撤去解体済み。

「ドックサイドクレーン」(ジブクレーン)も写真を撮っていました。

※撮影:この箇所のみ2016年4月


関連

浦賀ドックのきっかけとなった「中島三郎助招魂碑」と横須賀最古の公園「浦賀園」(愛宕山公園)

「浦賀ドック」の浦賀船渠が創立したきっかけが、浦賀奉行所の与力であった中島三郎助。その慰霊碑がある愛宕山に行ってみる。


愛宕山公園

横須賀で一番古い公園という。

愛宕山公園
 明治24年(1891)に開園したしないで一番古い公園で、「浦賀園」と呼ばれていました。
 浦賀奉行所与力・中島三郎助の招魂碑が建立され篆額の題字は榎本武揚によって書かれました。開園に出席した人たちの提唱よって浦賀船渠㈱が創設された話は有名です。
 咸臨丸出航の碑には乗組員全員の名が刻まれています。
 与謝野鉄幹・晶子の歌碑は、浦賀を訪れた時に詠んだものです。
 江戸時代には鐘撞堂があり、町中に時刻を知らせていました。
  浦賀行政センター市民協働事業・浦賀探訪くらぶ

浦賀園の入口。

えーっと。道がない。
夏場に来ては駄目なところでした。

強行突破しました。。。

夏以外に訪れることをおすすめします。。。

ヤブを抜けた先の開けた場所に記念碑がありました。


咸臨丸出航の碑

市制施行70周年記念
横須賀風物百選
咸臨丸出航の碑
 嘉永6年(1853)6月3日、米国水師提督ペリーが、黒船四隻を率いて、浦賀湾沖に現れました。我が国との貿易を進めることが目的でした。当時、我が国は、長崎を外国への門戸としておりました。それが、江戸近くに現れたから大変です。「泰平の眠りをさます上喜撰たった四はいで夜も寝られず」当時流行した狂歌が、世情の一端をよく物語っています。
 7年後の安政7年(1860)幕府は、日米修好通商条約批准書交換のため、米軍艦ポーハタン号で新見豊前守正興を代表とする、使節団をワシントンへ送ることにしました。幕府は万が一の事故に備えて、軍艦奉行・木村攝津守喜毅を指揮者に、勝麟太郎以下、九十有余名の、日本人乗組員で、運航する、咸臨丸を従わせることにしました。
 1月13日、日本人の力で、初めて太平洋横断の壮途につくため、咸臨丸は品川沖で錨を上げました。途中、横浜で難破した、米測量船クーパー号の選任11名を乗せ、16日夕刻、浦賀に入港しました。それから2日間、食糧や燃料その他の航海準備作業が行われました。意気天をつく若者たちを乗せた、咸臨丸は、1月19日午後3時30分、浦賀港を出帆しました。不安に満ちた初めての経験と、荒天の中を39日間かけて、咸臨丸は無事サンフランシスコに入港しました。米国での大任を果した咸臨丸が、故国の浦賀に帰港したのは、家々の空高く鯉のぼりの舞う、万延元年(1860)5月5日でした。
 この碑は、日米修好通商百年記念行事の一環として、咸臨丸・太平洋横断の壮挙を永く後世に伝えるため、サンフランシスコに建てられた「咸臨丸入港の碑」と向い合うように、ゆかりの深い、この地に建てられたものです。
 なお、この愛宕山公園は、明治26年開園で、市内最古の公園です。また、彼方に建つ、招魂碑の主・中島三郎助は、咸臨丸修理の任にあたったことがあります。

咸臨丸出航の碑

日米修好通商百年を記念して昭和三十五年に建立。
碑は船型、材質は花崗岩。

裏面には乗組員の名が刻まれている。
軍艦奉行 木村摂津守喜毅
教授方頭取 勝麟太郎
通弁役 中浜万次郎
奉行従者 福沢諭吉、ほか


愛宕山公園

広場にたどり着くも、とにかく草がひどい。
何度も記載するが、夏はやめときましょう。


中島三郎助の招魂碑

横須賀市指定 市民文化資産
中島三郎助招魂碑
明治24年、彼を追慕する浦賀の有志によって建てられたもので、篆額は、当時の外務大臣・榎本武揚の筆である。愛宕山公園は、この碑の建立の際に整備された。

榎本武揚の篆額

中島君招魂碑

浦賀コミュニティセンター分館(浦賀郷土資料館)に拓本がある。

浦賀奉行所与力
中島三郎助生誕200年祭
令和3年(2021年)1月25日
中島三郎助と遊ぶ会

中島三郎助の生涯
 中島三郎助は、幕臣であることを貫き通して49年の生涯を終えた。その中島が見習うべき人物としたのは、鎌倉時代に源頼朝に生涯を捧げた三浦大介義明であった。
 文政4年(1821年)21月25日に浦賀で生まれ、三郎助で8代目となる奉行所の与力の家系であった。

  天保6年(1835年)閏7月、15才で奉行所の与力見習いとして出仕した。見習いに出仕するまでに槍術・剣術ともに当時砲術三派であった田付流・荻野流・集最流をすでに学んでおり、後に西洋式の高島流まで含めてすんべて免許皆伝となっている。
 この砲術の腕前は、天保8年(1837年)6月に浦賀沖に来航したアメリカ商船・モリソン号に観音崎台場から砲撃を加え、打払っている。この時の功績で、浦賀奉行・大田資統から太刀を拝領した。
 また、この年岡田定十郎の娘・すず(15才)と結婚している。

 嘉永2年(1849年)6月、父の跡を継ぎ与力となった。翌年7月には館浦にあった「玉薬製造所」の責任者を勤めていたが、足軽役の者の過失から製造所と隣接の船蔵が焼失す、その責任から謹慎処分を受けた。

 嘉永6年(1853年)6月、アメリカ東インド艦隊のペリーが率いる2隻の蒸気軍艦と2隻の帆走軍艦が来航すると、応接掛として最初に黒船に乗り込み交渉した。もっとも中島の関心は最新鋭の蒸気軍艦には装備されていると思われる炸裂弾を発射できる大砲を検分することにあった。
 ペリー来航後、幕府に提出した上申書には、今は海外諸国の知見を養うことが大事であると述べており、力の差を見せつけられた中島ならではの提言であろう。

 幕府も軍艦の必要性を実感し、浦賀奉行所へ軍艦建造を申し付けた。この軍艦・鳳凰丸は日本人の手による最初の洋式軍艦であり、その中心人物となったのが三郎助であった。しかも9ヶ月というスピードで翌年5月に完成させている。
 こうした三郎助の活躍は広く知れ渡り、長州藩の桂小五郎(後の木戸孝允)が三郎助のところに弟子入りしている。三郎助は幕府が長崎に開いた海軍伝習所へ派遣され、オランダ人から造船や洋式砲台の建設などを習得した。

 安政5年(1858年)長崎から戻った三郎助は、幕府海軍の草創期に活躍し、多くの後輩を指導している。
 また和歌や俳句を通じて、浦賀周辺の人々とも交流をもっていた。
 戊辰戦争が始まると榎本武揚らとともに北海道にわたり、ここに新しい国(中島のなかでは新徳川幕府)づくりに親子で参加したが、新政府軍の攻撃を受け、函館五稜郭近くで1869年5月15日桓太郎・英次郎ともに戦死した。
 
 明治23年(1890年)5月、名誉が回復され、浦賀の人々の手によって「招魂碑」が建てられた。その除幕式で中島の意思を継ぐ造船所の建設が提案されて、浦賀船渠が発足した。

中島三郎助
 明治2年(1869)5月、旧幕府軍と新政府軍の最後の戦いが函館郊外の五稜郭近くで行われた。この戦いで浦賀奉行所与力・中島三郎助親子は戦死した。三郎助の二十三回忌にあたり、彼の功績と名誉を浦賀の町に末永く残すことを目的に、彼とともに激動の明治維新期を生きた友人、知人たちによって建てられたのが真向かいにある中島三郎助招魂碑である。碑の篆額(題辞)は三郎助と公私ともに親交があり五稜郭で共に戦った榎本武揚が記し、激動の時代を象徴するような彼の人生を表したのは当時の外務官僚の田辺太一である。また、この碑の除幕式の日、初代の中央気象台長であった荒井郁之助の発案で、三郎助の意思を継いだ近代造船所を浦賀の地で開業することが決定した。

招魂碑建碑由来碑

同じく、浦賀コミュニティセンター分館(浦賀郷土資料館)に拓本がある。

浦賀コミュニティセンター分館(浦賀郷土資料館)

浦賀ドックや浦賀の歴史を、調べようとすると、この中島三郎助にたどりつく。いままで知るよしもなかったことをこうして新たに知れるのが楽しい。


与謝野夫妻歌碑

良さの夫妻の歌碑もあった。

黒船を怖れし世などなきごとし 
 浦賀に見るはすべて黒船
               寛
春寒し造船所こそ悲しけれ 
 浦賀の町に黒き鞘懸く
               晶子

昭和10年3月3日に与謝野夫妻が観音崎・浦賀・久里浜を訪れている。与謝野寛は同年3月26日に亡くなっているため、生涯最後の歌のひとつといわれている。

愛宕山から海を望む。
夏はやめといたほうが良いですね。(大事なことなので何度も書きます)


関連

https://www.city.yokosuka.kanagawa.jp/2752/uraga_walk/nisi7.html

https://www.city.yokosuka.kanagawa.jp/2120/g_info/l100004024.html

https://www.city.yokosuka.kanagawa.jp/2120/g_info/l100004001.html

https://routemuseum.jp/theme/g05/

https://www.city.yokosuka.kanagawa.jp/2752/tokubetuten/4.html

記念碑の台座となった「旅順口閉塞船弥彦丸の閉塞石」(久里浜・若宮神社)

久里浜の神社に、日露戦争の旅順港閉塞船に積まれていた石が使用されているというので、足を運んでみた。


旅順口閉塞船弥彦丸の閉塞石

昭和10年の「久比里ノ若宮神社」の社殿改築を記念して建立された石碑。

この記念碑の台座は、日露戦争の旅順閉塞隊に参加した弥彦丸に積まれていた花崗岩。
日露戦争後に、旅順港口を復旧させるために、閉塞船として擱座していた弥彦丸を旅順港口から撤去し、浦賀船渠の川間分工場で解体した際、その船底から取り出したものという。

この台石は浦賀工場の寄贈にして日露戰役の際 旅順口閉塞船弥彦丸に使用せしものなり


第二次旅順港口閉塞作戦

旅順港に立てこもったロシア艦隊を壊滅できない日本海軍の連合艦隊は、旅順港の入口を封じてしまう「旅順港口閉塞作戦」を決行。三次にわたり海上を封鎖する閉塞作戦が行われたが、充分な封鎖はできなかった。

第二次旅順港口閉塞作戦は明治37年(1904年)3月27日未明に決行された。4隻の閉塞船(千代丸、福井丸、弥彦丸、米山丸)を投入して実行されたが、ロシア軍に察知されて失敗。閉塞船「福井丸」を指揮した広瀬武夫少佐(のち中佐に特進)が戦死し、のちに軍神となった。
また、杉野孫七上等兵曹(没後、兵曹長)の他、「朝日」乗組の菅波正次2等信号兵曹(没後、1等信号兵曹)、「高千穂」乗組の小池幸三郎2等機関兵(没後、1等機関兵)も戦死している。


若宮神社

久比里地区の氏神様。西叶神社が本務社。

1531年(享録4年)、千葉介常胤の末流にあたる臼井惣左衛門が鎌倉の鶴岡若宮明神を奉戴して建立した。
祭神は仁徳天皇。
1983年(昭和58年)社殿は焼失し、1985年(昭和60年)新築されている。社殿の左側に、古い鳥居の一部や額が保存されている。
境内にある石碑には神社の縁起について書かれており、その台座は日露戦争の際、旅順口閉塞船の弥彦丸に使用されたとされる。
例年7月には「例大祭」がおこなわれる。

https://kurihama.info/jisya/wakamiyajinja/

享禄4年(1531)の建立で、御祭神は仁徳天皇です。
鎌倉の鶴岡若宮明神を奉戴して氏神とする久比里の鎮守様です。
神社の縁起を記した謹誌の基壇には、日露戦争で旅順口閉塞船の弥彦丸に積まれた石が使われています。
ここの祭礼は「久比里の下駄まつり」と呼ばれ、かつては勝海舟が書いた大幟が上がりました。

https://www.city.yokosuka.kanagawa.jp/2752/uraga_walk/yosii9.html

社号標。
揮毫は、海軍大将・小栗孝三郎。黎明期の潜水艇研究の第一人者。

撮影:2022年7月


写真の撮り忘れがありましたので、2022年11月に再訪しました。。。

28糎砲弾

久比里の若宮神社の境内社、八雲神社の社殿横に鎮座。
日露戦争の勝利を記念して明治39年2月に氏子によって建立されたもの。

征露紀念

明治三十九年二月 氏子中

境内社の八雲神社


関連

海軍機雷学校跡・海軍潜水学校跡(久里浜)

千代ケ崎砲台の南側に、海軍の学校があった。
千代ヶ崎砲台を見学した後に、足を伸ばしてみました。

千代ヶ崎砲台はこちらにて。

「千代ヶ崎砲台跡」散策(横須賀)

海軍機雷学校

日露戦争の教訓を踏まえ、水雷学校の教育課程に機雷戦のカリキュラムを設定したことに始まる。
昭和16年3年に機雷戦専門の学校として「海軍機雷学校」が設立。所在地は、久里浜港の突端にあたる久里浜長瀬。

海軍対潜学校

昭和19年3月、海軍機雷学校は海軍対潜学校に改称。対戦戦闘を重視した措置であった。
昭和20年に本土決戦要員を捻出するために、術科学生は繰り上げ卒業となり、対潜学校は閉校。高等科教育は海軍水雷学校に編入となった。(海軍水雷学校久里浜分校)
繰り上げられた学生は、ほぼ特攻要員(伏龍)とされたようで。

海軍対潜学校の最後の校長は、キスカ撤退を指揮した木村昌福少将であった。

跡地は、横須賀刑務所、久里浜少年院、防衛装備庁艦艇装備研究所、港湾技術研究所などとなっている。

浦賀引揚援護局(浦賀検疫所)

終戦後、南方からの引揚に浦賀港が指定。
陸軍桟橋から引揚者が上陸していたが、引揚船内でコレラが発生したことから、対潜学校に検疫所が設けられている。
横須賀刑務所内には、引揚者の供養塔があるという。


海軍機雷学校 海軍対潜学校跡

跡地は刑務所や少年院、行政機関の敷地などになっており、立ち入ることができない。なにやら岸壁や沖合には構造物が残っているようでもあるが、大事なことなので2回書くが立入禁止なので。

海軍機雷学校 海軍対潜学校跡

碑の由来 
ここ横須賀市長瀬三丁目一帯には、次の海軍の学校がありました。
海軍機雷学校(昭和16年4月1日創設)
海軍対潜学校(昭和19年3月15日改称)
この学校では、機雷術(機雷・掃海・防潜網・爆雷など)、水中測的術(探信儀・聴音機・磁気探知機など)の教育が行われました。
終業して任地におもむいた若人は約2万7千人、そのうち約8千人の尊い生命が失われました。
この石碑はこのことを後世にのこすために建てたものです。 
 平成5年(1993年)4月1日 
  有志一同

ぱっと見は、記念碑しか残っていない。

場所

https://goo.gl/maps/arnEcR4YRp6uzyX38

※撮影:2022年7月


軽質油庫跡

上記の記事を書くために情報を整理していたときに、遺構として軽質油庫(軽質原油庫)が残っているとのことがわかったので、再訪をしました、、、

近くのケアセンターの駐車場として活用されていました。

とても綺麗な壕ですね。

海軍機雷学校 海軍対潜学校跡地

跡地は気楽に立ち入りできない施設が多い。

横須賀刑務所支所

防衛装備庁・艦艇装備研究所

久里浜少年院

港湾施設

※撮影:2022年11月


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M46-A-7-2-162
1946年2月15日、米軍撮影の航空写真。

海軍機雷学校(海軍対潜学校)の該当部分を拡大。
千代ヶ崎砲台のすぐ南であることがわかる。

現在の様子。

ちなみに、久里浜少年院の沖合に、謎の構造物がある。どうやら干潮時に燈明堂の海岸から見えるところまで、近づくことができるらしい。。。

構築物は海軍機雷学校(海軍対潜学校)の施設として使用されていたもので、当時は陸続きであったらしい。荷役施設として使用され、戦後は、引揚船内でコレラが発生したために、浦賀港で会場隔離が実施され、浦賀引揚援護局浦賀検疫所が久里浜の海軍対潜学校跡地に設けられ、検疫所としても活用された。


長瀬海岸

長瀬海岸から、海軍対潜学校と千代ヶ崎の岬を望む。
平作川の北側。

干潮時には下に降り、ちかくで見れるらしいが、この日は潮が満ちてまして。。。
フランス積みのレンガ片が転がっている。古い時代のレンガ。この界隈では、千代ヶ崎、観音崎、浦賀ドック、猿島などもフランス積み。

※撮影:2022年11月


関連

「陸軍桟橋」と「浦賀港引揚記念の碑」海外引揚者が第一歩を踏みしめた港(浦賀)

昭和20年8月15日の終戦を海外で迎えた邦人(日本人)は、軍人と民間人をあわせて約660万人以上に及んでいた。戦後、日本各地の引揚者指定港では、引揚者の受け入れを行い、中でも東京湾の入口に位置する浦賀港は、約56万人の受け入れを実施した。これは舞鶴港の約67万人に次ぐ規模であった。


海外引揚者

終戦当時、旧陸軍308万人、旧海軍45万、一般法人300万の約660万人が海外にいたという。
1945年9月2日のGHQ(連合国総司令官マッカーサー)による「日本政府宛一般命令第1号」にて、外地にいた日本人は、それぞれの軍管区の下に降伏することになり、軍人・軍属・一般人を含め、すべての日本人は各軍管区の支配下に置かれた。

  • 中国軍管区
     満州以外の中国全土、台湾など
      約312万人
  • ソ連軍管区
     満州、38度以北の朝鮮、樺太、千島列島
      約161万人
  • イギリスならびにオランダ軍管区
     インドシナ、インドネシア、マレーシアなど東南アジア
      約74万人
  • オーストラリア軍管区
     ボルネオ、ニューギニア、ビスマルク、ソロモンなど
      約14万人
  • アメリカ軍管区
     38度以南の朝鮮、沖縄、フィリピン、小笠原ほか太平洋諸島など
      約99万人

実際の引き揚げは、各軍管区ごとに実施された。
昭和20年12月1日に陸軍省は「第一復員省」に改組、海軍省は「第二復員省」に改組となり、軍人の復員を司った。昭和21年6月に廃止、「復員庁」に統合された。
復員庁は昭和22年10月に廃止となり、最終的には昭和23年の「厚生省引揚援護庁」(厚生省外局)に引き継がれた。軍人軍属は復員、一般人は引揚と呼称され、一般人は厚生省担当であったが、復員・引揚それぞれの概念的呼称も「復員援護」として統一され厚生省での管轄となった。
なお、陸軍の復員はソ連軍管区で抑留された軍人以外は昭和23年1月までにほぼ完了。海軍の復員は昭和22年末迄に概ね完了していた。
一般人の引揚を含めると昭和24年(1949年)までに624万人が帰還。昭和51年(1976年)までに約629万(軍人軍属311万人、一般318万人)が帰還している。


横須賀地方復員局

厚生省引揚援護庁の横須賀地方復員局が岩手県、宮城県、福島県、茨城県、千葉県、栃木県、群馬県、埼玉県、東京都、神奈川県、山梨県、静岡県、長野県の復員業務を担当。
現在も保存されている、「氷川丸」「宗谷」も横須賀地方復員局所管の復員船として活躍している。


浦賀引揚援護局(浦賀検疫所)

「浦賀引揚援護局」は昭和20年(1945年)11月~昭和22年(1947年)5月まで引揚者の援護や検疫業務を担当。昭和22年5月からは「引揚援護院横浜援護所」(昭和22年に引揚援護庁援護局横浜援護所に改称)が設置された。昭和30年7月11日に引揚所は廃止され、業務は「横浜検疫所」が引き継いでいる。

昭和21年3月29日に中国広東からの引揚船内でコレラが発生し蔓延したまま引揚船は浦賀港に4月5日に入港。海上隔離を実施。
浦賀引揚援護局では「コレラ防疫本部」を設置し、中国及びベトナムからやってくる引揚船の海上隔離を継続し20隻が海上隔離のために沖合停泊、隔離者が7万余人に到達。患者等の食糧、飲料水の確保・提供が窮迫するも、急ピッチで施設及び衛生資材等が整備し、同年5月4日には停留船隔離者が上陸可能となった。
浦賀港での汚染船は22隻にも及び、患者483人(うち死亡72人)、保菌者191人、疑似者345人であった。
浦賀引揚援護局浦賀検疫所は、旧海軍対潜学校の敷地を活用。

https://www.forth.go.jp/keneki/yokohama/museum/page2-5.html

なお、久里浜駅近くの「長安寺」には、浦賀引揚援護局引揚者精霊塔の慰霊碑が建立されている。引揚船コレラ病没者(身元不明者)を祀っている慰霊碑。

「浦賀引揚援護局引揚者精霊塔」

また、浦賀引揚援護局の下には、引揚者を援護するための援護所も設置された。

  • 久里浜援護所(海軍工作学校)
  • 鴨居援護所(浦賀船渠鴨居工員宿舎)
  • 馬堀援護所(陸軍重砲兵学校)

馬堀援護所(陸軍重砲兵学校)「行幸之地碑」


陸軍桟橋(西浦賀緑地)

陸軍桟橋の名称で歴史を伝えている桟橋。今は釣り人たちが集う場所となっている。

この海岸線は浦賀港の海の玄関口であり、歴史を語るうえで、重要なスポットである。
L字型の桟橋は、通称・陸軍桟橋と呼ばれ、昭和10年代に出来たものである。
太平洋戦争終結後、この桟橋に南方からの引揚者が何十万人上陸し、帰国の第一歩を印した思い出深い桟橋である。
また、この場所は、享保6年(1721)に浦賀奉行所の主要機関である船番所が置かれ、江戸へ出入りするすべての船の乗組員と荷物の検査が行われた船の関所であった。この検査は江戸経済の安定を図るために行われ、港町浦賀の繁栄にもつながった。
※この、港湾緑地は、国土交通省の環境整備事業により、整備したものであります。

関連

https://www.city.yokosuka.kanagawa.jp/5575/minato/amenity_kouen/nisiuraga/index.html

https://www.cocoyoko.net/spot/rikugunsanbashi.html


浦賀港引揚記念の碑

西浦賀みなと緑地公園内にある記念碑。

浦賀港引揚記念の碑
昭和20年(1945年)8月15日、太平洋戦争は終結。ポツダム宣言により海外の軍人、軍属及び一般邦人は日本に返還された。ここ浦賀港も引揚指定港として、中部太平洋や南方諸地域、中国大陸などから56万余人を受け入れた。引揚者は敗戦の失意のもと疲労困憊の極限にあり、栄養失調や疫病で倒れる者が続出した。ことに翌21年、華南方面からの引揚船内でコレラが発生。以後、続々と感染者を乗せた船が入港。このため、旧海軍対潜学校(久里浜長瀬)に設けられた浦賀検疫所に直接上陸、有史以来かってない大防疫が実施された。この間、祖国を目前にして多くの人々が船内や病院で亡くなる悲劇があった。昭和22年5月浦賀引揚援護局の閉鎖で、この地の引揚業務も幕を閉じる。私たちは再び繰り返してはならない戦争により悲惨な引揚の体験を後世に伝え、犠牲となられた方々の鎮魂と恒久の平和を祈念し、市制百周年にあたりここに記念碑を建立する。
 横須賀市

裏面に設立趣旨が記載されている。(裏面が見にくいのは、、、)

(裏面の設立趣旨)
ここ浦賀港は、先の大戦終結後、引揚指定港の一つとして極めて重要な責務を担いました。引揚とコレラ等の防疫に携わったすべての人々をねぎらい謝意を表するとともに、この地で倒れた幾多の御霊に弔意を表します。この碑は、引揚者や地元の方々の熱意により建立が実現したものであり、市制百周年を迎えるにあたり、当地の歴史を再認識し、恒久平和の願いを後世に伝えんとするものです。
 平成18年(2006年)10月 横須賀市長 蒲谷亮一

浦賀港。
外地からの引揚者が最初の一歩を踏みしめた祖国の大地。

関連

https://www.city.yokosuka.kanagawa.jp/2752/uraga_walk/hikiage.html


船番所跡

陸軍桟橋の前の駐車場の地が浦賀奉行所の出先機関であった番所が置かれていたところという。

関連

https://www.city.yokosuka.kanagawa.jp/2752/uraga_walk/nisi9.html


浦賀の渡し(浦賀渡船)

浦賀港の東西を往来する渡し船。ポンポン船の愛称で親しまれている。

もともとは、奉行所が浦賀に置かれてまもない享保10年(1725年)頃から始まる渡し船。
渡し船の愛宕丸は「御座船(ござぶね)」と呼ばれた東叶神社の祭礼の際に御輿を運んだ船をモチーフにしている。
浦賀港の東西を結ぶ海上航路は横須賀市道(2073号線)に認定されている。

関連

https://www.cocoyoko.net/spot/uraga-watashi.html

https://ponponsen.jp/


関東大震災の慰霊塔

現在、愛宕山公園(浦賀園、横須賀最古の公園)になっている愛宕山が、関東大震災によって土砂崩れを起こし、その時の土砂によって生き埋めになってしまった人々の慰霊塔。


叶神社

浦賀港の東西には叶神社が鎮座している。
東叶神社と西叶神社。宗教法人としては別法人なので、まとめて記載するのはしょうしょう乱暴ではあるが、今回は神社は社頭で遥拝するのみ。

西叶神社

東叶神社(後方が奥宮と浦賀城址)

撮影:2022年7月


叶神社の御朱印帳と御朱印

むかし、参拝していたときに御朱印を戴いてました。

以下は、平成28年(2016年)の写真です。ご注意を。

西叶神社、平成28年(2016年)

東叶神社、平成28年(2016年)

昔は、神社メインでした。海軍的なところはまだ深掘りできてなくて。
今思えば、浦賀ドックの写真をもっと撮っておくべきでした。

懐かしい気持ちにもなりつつ、浦賀港関連は、いったん〆


「千代ヶ崎砲台跡」散策(横須賀)

明治時代に、東京防衛のために構築されたのが、「東京湾要塞」。
なかでも「千代ケ崎砲台」は、東京湾がもっとも狭まる浦賀水道の入口に位置している防衛上の重要拠点でもあり、近年まで自衛隊管理下にあり立入禁止区域だったということもあり、当初の面影をよく残している砲台跡。
自衛隊跡地となった国有地を横須賀市が管理し史跡整備を実施。そうして2021年10月より土日祝日限定で一般公開が開始されたので、足を運んでみました。


千代ヶ崎砲台跡

国指定史跡 東京湾要塞跡

千代ヶ崎砲台とは
 千代ケ崎砲台は、江戸時代後期に会津藩により台場が造られた平根山に、明治25年(1892年)から明治28年(1995年)にかけて陸軍が建設した西洋式の砲台です。
 東京湾内湾口を防衛する観音崎砲台の援助や、浦賀湾前面海域への防御、また久里浜から上陸した敵に対する防衛が任務で、榴弾砲の海正面防御砲台と臼砲・加農砲・機関砲からなる陸正面防御砲台で構成されています。
 建造当初の姿を良好にとどめていること、日本の近代の軍事や築城技術を理解するうえで重要であることから、猿島砲台跡(横須賀市猿島1番)とあわせて平成27年に国の史跡に指定されました。

東京湾要塞とは
 日本で始めて西洋の築城技術と建築資材を導入して建設された砲台は観音崎砲台の第一・第二砲台で、明治13年(1880年)起工、明治17年(1884年)竣工です。観音崎砲台の起工以後、明治政府は首都東京や軍港防衛のために東京湾岸に沿岸砲台群を建設しました。これらの砲台群によって守備する土地を「要塞」と定め、東京湾要塞と呼称しました。
 東京湾要塞を構成する砲台群は、明治20年代後半までに20か所、大正から昭和にかけては火砲の能力向上に伴い防衛ラインを東京湾の南側に拡大して12か所の砲台が築かれました。

日本遺産
 千代ヶ崎砲台跡は、「鎮守府 横須賀・呉・佐世保・舞鶴~日本近代化の躍動を体感できるまち~」の構成文化財として平成28年に日本遺産に認定されました。
 横須賀市の歴史、文化、自然を「ルート」でつなぎ、市内全体を大きな「ミュージアム」として楽しむ「よこすかルートミュージアム」のサテライト施設でもあります。

千代ケ崎砲台の構造
 千代ケ崎砲台の海正面防御砲台は、3つの砲座が南北に並び、1砲座に2問ずつ、合計6門の28cm榴弾砲が配備されていました。地表からすり鉢状に深く掘りこまれた露天砲座の地下には、砲側弾薬庫や棲息掩蔽部が造られ、砲弾の供給や地上との連絡、砲台内での貯水や排水の仕組みが合理的に設計されています。
 地下施設の壁は煉瓦造で、天井は無筋コンクリート造となっています。千代ヶ崎砲台より11年前に建設を開始した猿島砲台は地下施設の壁・天井ともに煉瓦造であり、2つの砲台を比較することにより建築資材や技術の改良と発展を見ることができます。

以下は案内所にて。

日本の要塞と東京湾要塞

日本の要塞

東京湾要塞

千代ケ崎砲台とは
 千代ケ崎砲台は東京湾要塞を構成した砲台のひとつで、明治25年(1892年)に工事が始まり、明治28年(1895年)に完成しました。
 東京湾要塞の中での任務は観音崎の砲台群の側防と浦賀湾前面海域の防御で、対岸の富津元州砲台とともに援助砲台に位置づけられました。
 千代ケ崎砲台は、28cm榴弾砲と呼ばれる大口径の大砲が備えられた榴弾砲砲台と小口径の加農砲などが備えられた近接防御砲台で構成されていました。
 榴弾砲砲台は南北に一直線に並んだ3砲座からなり、その延長線上の北側と南側にそれぞれ左翼観測所と右翼観測所が配置されていました。各砲座には28cm榴弾砲を据え付けた砲床は2つ置かれ、3つの砲座で合計6門の28cm榴弾砲が備えられました。

28cm榴弾砲
 28cm榴弾砲の砲身は全長約2.8m、最大射程距離は7.8km、砲弾の重量は217kgになります。砲身を水平にして砲弾と装薬を装填した後、砲身を仰角に合わせて発射します。弾道は高く放物線を描き、敵艦の甲板を貫いて、エンジンや火薬庫などの艦艇の重要な部分を破壊する狙いがありました。

砲座と地下施設
 千代ヶ崎砲台の榴弾砲砲座は地表から約6m低い場所に砲床が設計され、周囲はすり鉢状の高い旨檣が築かれて大砲を隠していました。敵艦艇からの砲撃による着弾の被害を小さくするため、砲側弾薬庫や棲息掩蔽部などは砲座間の地下に造られています。

砲台の建設
 千代ヶ崎砲台が建設された土地は、浅く谷が入った細尾根が続く丘陵地でした。
 砲台の建設にあたっては、丘陵頂部を削平し、地下施設の建設場所を掘削して施設を建設した後に埋戻し、残土で浅谷の埋め立てや土塁などを造成する大規模な土木工事が行わました。建設工事は陸軍工兵第一方面が担当しました。

千代ケ崎砲台の構造

集水と排水の仕組み
 千代ケ崎砲台の水の流れには、砲台内部で雨水を集水・ろ過して生活用水を確保するための集水系統と、砲座などからの汚水を砲台の外に排出する排水系統の2系統がありました。
 集水系統は、飲用水など生活用水を確保する貯水所への導水システムです。貯水所は塁道の南北2か所で確認され、類同には貯水所につながる「ろ過下水溝」が埋設されています。ろ過下水溝で簡易ろ過された雨水は沈殿池の給水口から導水され、沈殿池からろ過池を経由して、最終的にきれいに濾過されて貯水池に貯められ、生活用水として利用される仕組みになっています。
 排水系統は、雨水とともに砲座や地下施設から出る汚水を砲台の外に排水する仕組みです。貯水所への集水系統と交わらないように設計されていました。

地下室に使われた建築資材
 千代ケ崎砲台の地下に造られた砲側弾薬庫などの諸施設は、脚壁が煉瓦造、天井は無筋コンクリートで造られています。また柵門への切通しや塁道の露天空間部分の擁壁は凝灰質礫岩という石材で造られています。
 煉瓦の積み方はイギリス積みと呼ばれる方式です。塁道に面した貯水所や棲息掩蔽部の煉瓦壁は、雨水の帯水を防ぐために撥水性の高い焼過煉瓦(焦げ茶色)、直接雨風にさらされない室内や隧道内は普通煉瓦(赤色)を用いるという使い分けをしています。使われている煉瓦は小菅集治監という当時の刑務所に併設されていた煉瓦工場で造られたもので、桜の花の刻印が押されています。
 一般公開に先立ち実施した砲台の構造体の健全度調査では数か所でコア抜きを行い、煉瓦の脚壁は奥壁が約75cm、天井を支える側壁が開く1.5mの厚さで、コンクリート像のヴォールト天井は最も厚いところで約2mに及びました。
 コンクリートの強度試験では、現在のコンクリートトンネルに必要とされる強度と同等の数値が得られ、千代ケ崎砲台の地下に残る諸施設は堅牢な構造物であることが分かりました。 

現在に残る砲台跡

千代ヶ崎砲台の歴史

28cm榴弾砲模型(原寸)

28糎榴弾砲 1/35スケール

千代ケ崎砲台(現状)の模型

小菅集治監製の煉瓦


軍道

千代ケ崎砲台にアクセスするための唯一の道として「軍道」が設けられていた。現在は横須賀市道であるが、唯一のアクセス道路としての役割は変わっていない。


柵門

千代ケ崎砲台の出入り口。唯一の出入り口。

凝灰質礫岩の擁壁。


掘井戸

入口近くに掘井戸が設けられている。水は貴重。

国史跡 東京湾要塞跡 千代ヶ崎砲台跡


土塁

土塁は海上自衛隊時代に削られたりもしているが、よく姿を残している。


塁道

千代ケ崎砲台は3つの砲座と3つの弾薬庫、3つの棲息掩蔽部と2つの貯水庫などの関連施設にわかれており、塁道でそれぞれが結ばれている。

塁道の擁壁は凝灰質礫岩。

アーチ部分はコンクリートで強化している。

塁道と砲座を結ぶ交通路。


濾過池と沈殿池

奥が濾過池で手前が沈殿池。斜面を利用し、雨水を貯めるために濾過溝で水を集水し、水が下りきったところに濾過池と沈殿池が設置されている。


貯水池(第二貯水所)

沈殿と濾過を終えた浄水は、貯水池に貯められる。千代ケ崎砲台には、南北の2か所に貯水所が設けられていた。

自衛隊時代は、蓄電池倉庫だったようで。。。
(剥がして撤収しなかったようで)

オランダ積み(イギリス積み)の煉瓦。

見事な煉瓦のグラデーション。露天部や入口部分は強度を高めた撥水性に優れた「焼過煉瓦(焼きすぎ煉瓦)」が用いられ、通常の普通煉瓦と使い分けているために色が異なる。


棲息掩蔽部

兵員の待機所、倉庫などが設けられていた。

交通路


弾薬庫

弾薬庫部分。

揚弾井


点灯室

点灯室。弾薬庫にランプが持ち込みできないために、ランプは隣の部屋にある。

弾薬庫から砲座に向けて階段を上がる。


高塁道

砲座への連絡通路。砲弾供給の通路でもある。
そして砲弾の揚弾井の上部。

砲弾を砲座に移動させるためのガイドが取り付けられていたと推測。



砲座

砲弾は横のスペース縦置きで並べていた。

伝声管の穴。隣の台座とつながっている。

砲座から弾薬庫に戻ります。

塁道へ。

棲息掩蔽部の上部には通風孔がある。

塁道

小菅のマーク入り煉瓦

棲息掩蔽部と貯水所

この先には右翼観測所があるが、民有地のために立ち入りができない。。。


砲台上部

砲台の上部に。気持ち良い空間。

第三砲座。

第二砲座。

そして第一砲座。

第一砲座
28cm榴弾砲を据え付けた場所です。
地上からコンクリートの床面まで約6mの深さがあります。
1つの砲座に2門の榴弾砲が設置されました。

桜の季節にも来てみたい。桜並木。

浦賀水道。東京湾フェリーが航行している。

千代ケ崎砲台の立地
 千代ヶ崎砲台は、眼下に東京湾を一望できる標高約65mの山の上に建設されました。
 要塞建設期(明治時代)に建設された砲台群の中では最も南に位置し、当時の防御線の外側です。28cm榴弾砲が据え付けられた海正面砲台は、東京湾内湾に侵入しようとする艦船と最初に対峙することが想定されていました。
 対岸の房総半島側は水深が浅く、大型の艦船は三浦半島寄りを航行します。そのため、三浦半島側に集中して砲台が建設されました。
 大型艦が通行する航路は浦賀水道とも呼ばれ、現在では世界有数の海上交通量を誇っています。

これは、良い東京湾要塞。

なにかの遺構。
横須賀市が管理している千代ヶ崎砲台跡地の敷地外の民有地。南側堡塁にあたる。

このあたりに右翼観測所。また近接防御砲台もあるエリアであるが同じく横須賀市管理敷地外の民有地。

富士山が見えた。

塁道を上から。

通風孔は塞がれている。

千代ケ崎砲台、ここは面白いですね。
ちょっとアクセスは不便ですが、一見の価値あり。
ボランティアガイドを活用して見学するのがおすすめです。

夏場に訪問したので、ちょっと草木が茂りすぎていたので、冬にも再訪したい、あと桜の季節にも良き花見ができそう。


燈明堂跡

千代ケ崎砲台の眼下には、もともとは燈明堂があった。
江戸時代に造られた日本式灯台。

燈明堂は慶安元年(1648)から明治5年(1872】まで灯台として機能していた。
そして燈明堂背後の山には、平根山台場が設けられた。
天保8年(1837)に日本人漂流民を送り届けるために来航した米国商船モリソン号を最初に砲撃した台場。
また燈明堂は浦賀奉行所の処刑場でもあり、供養塔もあつまっている。

千代ケ崎砲台のある場所を望む。
夏場なので、海水浴客で大賑わい。燈明堂に至る道が路駐で溢れてました、、、

※撮影:2022年7月

なお、千代ケ崎砲台の下には、海軍の学校があった。


関連

https://www.city.yokosuka.kanagawa.jp/8120/bunkazai/chiyogasaki-koukai.html

https://routemuseum.jp/theme/navy/c03/

https://chiyogasaki-supporter.jimdofree.com/

https://www.cocoyoko.net/event/chiyogasaki-.html

砲台関連

「走水低砲台跡」散策(横須賀)

横須賀の走水。
古くは、日本武尊と弟橘媛命の伝説の地「御所ヶ崎」(旗山崎)として知られている当地は、江戸期には「走水番所」が置かれ、そして幕末には「旗山崎台場」が設けられた。
明治19年(1886)には、陸軍によって半円形の低砲台が築かれ「走水低砲台」として跡が残っている。
近年、横須賀では今まで未公開であった砲台跡の整備がすすみ、一般公開・見学ができるようになったので足を運んでみた。


御所ヶ崎

横須賀風物百選

日本武尊 弟橘媛命 伝説の地 御所ヶ崎
古事記・日本書紀によれば日本武尊(やまとたけるのみこと)が東国征伐のおり、走水から上総(千葉)へ船で渡ろうとした時、海が荒れて進めず弟橘媛(おとたちばなひめ)は海神の怒りを静めるために身を投じ荒れ狂う海を鎮めました。
地元伝承によれば武尊がこの地に臨時の御所を設け軍旗を立てたことから御所ヶ崎、旗山崎と呼び弟橘媛は御所ヶ崎先端の「むぐりの鼻」 に次女たちと共に身を投じたと伝わります。港には尊が海を渡るときに乗船したといわれる寺島(御座島)の名があります。
《古東海道》
日本武尊の東征の道は古東海道といわれ足柄峠を越えて相模国に入り三浦半島を横切って衣笠宗源寺・天神坂辺りから安房口神社、小原台・走水から上総へ渡る道順と考えられています。
 大津行政センター市民協働事業・大津深訪くらぶ

走水番所・旗山崎台場跡
天正18年(1590)徳川家康が関東に入封しました。
その後、船手衆である向井一族に明治走水に御船番を置き、向井政良は御船番、走水奉行を務め、後に三崎奉行・向井忠勝が兼任しました。三崎では上り船を、走水では江戸に下る船を検査しました。今も同心町海岸の名があります。
天保14年(1843)川越藩が江戸湾海防のため台場を築いた所で、六挺の大砲を配備し異国船の侵入に備えました。
明治19年(1886)旧陸軍によって築かれた半円形の低砲台が前方の松の木に現在も残されています。
旗山崎の名は日本武尊(やまとたけるのみこと)が上総(千葉)に渡る時海が荒れて進めず臨時の御所を設け軍旗を立てたことに由来します。
 大津行政センター市民協働事業・大津深訪くらぶ


走水低砲台跡

走水低砲台跡
走水低砲台跡とは?
 走水低砲台は、明治18年(1885年)から19年(1886年)に陸軍によって建設された砲台です。27cm可農砲4門を備え、東京湾要塞を構成する砲台の一つとして首都東京を守る任務にあたりました。
 日清、日露戦争とも交戦することはなく、また関東大震災で被害を受けましたが、その後、横須賀重砲兵学校の演習用砲台として復旧し、終戦まで稼働状態にありました。現在も良好な状態でほとんどの遺構が残っています。
 走水周辺は東京湾の内湾が房総半島と近接して最も狭くなる場所に位置し、江戸時代後期には旗山崎台場が築かれ、明治時代には低砲台のほかにも走水高砲台、小原台堡塁、花立台砲台が築かれるなど海防の重要地点でした。走水低砲台が建設された丘を含む岬一帯を示す「御所ヶ崎」や丘の周辺を指す「旗山崎」という地名は、古事記・日本書紀に伝わる日本武尊と妻の弟橘媛の伝説に由来しています。
 横須賀市の歴史、文化、自然を「ルート」でつなぎ、市内全体を大きな「ミュージアム」として楽しむ「よこすかルートミュージアム」のサテライト施設でもあります。

兵舎の左右に弾薬庫がそれぞれ。
弾薬庫の左右に、砲座(第一から第四まで)がそれぞれ。
そして左翼観測所の遺構が残されているようだ。

一般公開は祝日と土日のみ、門扉が開放される。


弾薬庫(左翼)

まずは最初に弾薬庫が見える。
左翼の弾薬庫の奥には第四砲座と第三砲座がある。

走水低砲台の構造
 海岸に突出した海抜約20mの低丘上に4つの砲座が並び、27cm加農砲が設置されていました。
 4つの砲座の中央には地下式の兵舎(掩蔽部)を設け、第一砲座と第二砲座の間に共通の地下式の弾薬庫、第三砲座と第四砲座の間に同じく共通する地下式の弾薬庫が設置されています。

砲弾供給の仕組み
 砲座間の横檣(=防弾用の土塁)の下に設置された弾薬庫からは、左右の揚弾井を使用して地上の砲座に砲弾を供給しました。引き揚げられた砲弾は各砲座の弾室に納められ、射撃に備えました。
 2つの砲座は高塁道で連絡し、その中間には小隊長掩壕が造られ、両側の砲座に指示を出すことができました。

左翼の弾薬庫は、外からの見学のみ。


兵舎(兵員棲息部)

左右の弾薬庫の間には、兵舎がある。中に入れます。

ここに兵隊さんが待機していたのだろうが、収容人数はどのくらいなのだろうか。

左右の砲座と弾薬庫に繋がる道。


弾薬庫(右翼)

右側の弾薬庫。開放されている。

内部は、左右にわかれている。
右側は第一砲座、左側は第二砲座。

揚弾井
弾薬をここから引き揚げる。

弾薬を引き揚げる場所。
揚弾井
揚弾機の金具も残る。


第一砲座

砲座を第一から順番に見ていく。
見学用に見事に整備されている。

中央に、27cm加農砲が置かれていた。

海が見える。


速射加農砲座

9cm速射加農砲のアンカーボルト。4つ残っている。
横須賀陸軍重砲兵学校の演習用として、南門砲台(観音崎・関東大震災で大破除籍)の九糎速射加農砲4門が移設されたという。

1つ目。

東京湾要塞の砲台。
竣工順に32砲台が記載されている。走水低砲台は7番目。


第四砲座

見学用にきれいに整備されている。


左翼観測所

左側の観測所の基礎が残っている。
左翼があるなら右翼もと思いたいが、右翼は消失したのかな、、、。


第三砲座

樹木に覆われているが、第三砲座。


第二砲座

基本的には、同じ作り。

4つの台座と、2つの弾薬庫と、兵舎と、とても綺麗にのこっている、大変貴重な空間。ゆっくりと見学できたということもあり、ここは必見ですね。

撮影:2022年8月


関連

https://www.city.yokosuka.kanagawa.jp/5560/sisetu/hasirimizuteihoudai.html

https://routemuseum.jp/area/c/c01/

https://www.cocoyoko.net/spot/hasirimizuteihoudaiato.html

砲台関連

走水低砲台を演習用砲台として活用していたのが、横須賀重砲兵学校。

横須賀には、重砲聯隊も配備されていた。

観音崎が東京湾要塞の要であった。

走水関連

走水神社の近代史跡散策(横須賀)

横須賀の走水。日本武尊と弟橘媛命の伝説を残す古社。
今回は近代史の目線で参拝をしてみる。


弟橘媛命の記念碑

明治43年6月5日建立。
弟橘媛命の今際の御歌が刻まれている。
記念碑は、東郷平八郎、伊東祐亨、井上良馨、乃木希典、高崎正風、上村彦之丞、藤井茂太の7名が発起人となり建立。

さねさしさがむのをぬにもゆるひの
ほなかにたちてとひしきみはも
勲一等昌子内親王書

昌子内親王は、明治天皇の第六皇女。竹田宮恒久王の妃となる。

嗚呼此は 弟橘比賣命いまはの御歌なり命夫君 日本武尊の東征し給ふ伴われ
駿河にては危き野火の禍を免れ 此の走水の海を渡り給う時端無く暴風に遭ひ 御身を犠
牲として尊の御命を全からしめ奉りし其のいまはの御歌なり御歌に溢るゝ真情はすべて
夫君の御上に注ぎ露ばかりも他に及ばず其の貞烈忠誠まことに女子の亀鑑たるのみならず
亦以て男子の模範たるべし平八郎等七人相議り同感者の賛成を得記念を不朽ならしめ
むと御歌の御書を 常宮昌子内親王殿下に乞ひ奉り彫りてこの石を建つ
明治四十二年十月
発起人
海軍大将正三位大勲位功一級 伯爵 東郷平八郎
海軍大将従二位勲一等功一級 伯爵 伊東祐亨
海軍大将従二位勲一等功二級 子爵 井上良馨
陸軍大将従二位勲一等功一級 伯爵 乃木希典
樞密顧問官兼御歌所長従二位勲一等 男爵 高﨑正風
海軍中将従三位勲一等功一級 男爵 上村彦之丞
陸軍中将従四位勲二等功二級  藤井茂太
  御歌所主事従五位勲六等 阪正臣謹書
  旭海鶴永富萬治敬刻

そうそうたる発起人が名を連ねる。

東郷平八郎
 日露戦争時の連合艦隊司令長官
伊東祐亨
 日清戦争時の連合艦隊司令長官、日露戦争時の軍令部長
井上良馨
 日露戦争時の横須賀鎮守府司令長官 
乃木希典
 日露戦争時の第3軍司令官
高﨑正風
 御歌所初代所長、初代國學院院長
上村彦之丞
 日露戦争の第二艦隊司令長官
藤井茂太
 日露戦争の第1軍参謀長


機械水雷

日露戦争での鹵獲品が奉納。

この機雷(機械水雷)は、弟橘媛(弟橘比賣命)の記念碑の序幕にあたり、発起人の一人で建立のため中心的な役割を果した海軍中将上村彦之丞から走水神社に寄贈されたもの。
上村中将は、除幕式の折には、第一艦隊司令長官に転じていますが、少し前まで横須賀鎮守府司令長官を勤めていた。

奉献
露国機械水雷
横須賀鎮守府司令長官
男爵 上村彦之丞
明治43年6月5日
走水神社氏子会


走水神社

御祭神:日本武尊 弟橘媛命

創建年代は不詳であるが、伝承では日本武尊が東征の途上に当地から浦賀水道を渡る際、自分の冠を村人に与え、村人がこの冠を石櫃へ納め土中に埋めて社を建てたのが始まりという。
走水神社は兼務社であり神職は非常駐。本務社は西浦賀の叶神社となる。旧社格は郷社。

社号額には、海軍少将大勲位依仁親王とある。
東伏見宮依仁親王のことですね。
海軍少将時代に、横須賀予備艦隊司令官(明治44年)や横須賀鎮守府艦隊司令官(大正2年)などを努めていたので、そのご縁で揮毫されたものと推測。

走水から眺める浦賀水道。

横須賀に来ると、たまに足を運んでしまう神社です。

※撮影は2022年8月

なお、御朱印帳と御朱印は、戦跡に興味を抱く前に参拝していた、だいぶ昔のころにいただいていましたので、参考までに掲載しておきます。

平成26年(2014)でした。8年前、、、


関連

トーハクで近代建築散策(東京国立博物館)

トーハクの近代建築散策。写真中心で。


150周年

1872年(明治5年)3月10日。
日本で最初の「博覧会」(文部省博物館)として湯島聖堂博覧会が、東京・湯島の湯島聖堂大成殿で開催された。これが日本の「博物館」の始まりであり、東京国立博物館はこの年を創設の年としている。


東京国立博物館本館
旧東京帝室博物館本館)

初代は、1881(明治14)年竣工であったが関東大震災で被災し、現在の本館は、2代目。
現在の本館は「日本趣味を基調とする東洋式」という様式規定による設計案が1929(昭和4)年12月に公募され、渡辺仁による案が選定。
1932年(昭和7年)着工、1937年(昭和12年)に竣工、1938(昭和13)年に開館。
和洋折衷の「帝冠様式(洋風建築(コンクリート建築)に東洋風の屋根)」の代表的建築。
2001(平成13)年に重要文化財に指定されている。

無料観覧日でした。


本館の内部

中の様子も。トーハクは一部を除いて、内部も撮影できるのが良いです。

エントランス。いろいろなドラマでも登場する場所。

便殿(旧貴賓室)
現在の本館が昭和13年に東京帝室博物館の本館として開館したときに貴賓室として造られ、天皇はじめ皇族方がお出でになられたときのご休憩所として使われました。
帝室博物館から国立博物館となった今日では、皇族方だけではなく、国賓や公賓など国の大事なお客様の休憩室として利用されることもありますという。


庭園から本館を

庭園にもいくつか興味深いものがありますので見てみましょう。

詰所、これも趣がある。。。


第二回内国勧業博覧会の碑

庭園内に。

内国勧業博覧会碑

第二回内国勧業博覧会の碑
明治政府は勧業政策の一環として内国勧業博覧会を開催、その第一回から第三回の会場が上野公園だった。明治14年(1881)に開催された第二回内国勧業博覧会では、新築間もないコンド設計の博物館本館(旧本館)が美術館として使われた。


町田石谷君碑

庭園内に。

初代帝国博物館館長に当たる博物局長を務めた町田久成(1838~97)をしのんで明治43年(1911)に建てられた。

町田久成の碑
初代博物局長(博物館長)町田久成の顕彰碑。町田久成は天保9年(1838)薩摩(現在の鹿児島県)に生まれ、慶応元年(1865)にイギリスへ渡った。大英博物館などを訪れた町田は、日本での博物館創設を志し、帰国後日本の博物館の基礎を築いた。


町田久成館長像

庭園を離れ、平成館の近くに、胸像もある。

初代 町田久成館長像

題字の揮毫は、第97代内閣総理大臣であった安倍晋三。平成28年11月建立。

初代館長 町田久成
薩摩藩の名族に生まれ、幕末に藩命を受けて欧州に留学。維新後は文化行政を担い、博物館の初代館長として上野博物館の建設や博覧会開催に尽力した。辞官後、出家して園城寺子院の住職となり、「岩谷」と号した。当館庭園にその事跡を偲んだ「町田岩谷君碑」がある。

 町田久成は、天保9年(1838)薩摩国日置郡石谷領主の町田久長の長男として鹿児島城下に生まれ、町田家29代当主となる。19歳で江戸の昌平黌に学び、文久3年(1863)26歳で大目付にとなった。同年に藩の開成所が創設されると学頭となり、慶応元年(1865)薩摩藩英国留学生を率いて渡英した。帰国後は新政府で外国官判事や外務大丞として外国事務に携わったが、明治3年(1870)に大学大丞に転じて文化財行政に専念した。明治5年、旧湯島聖堂の大成殿で開催した博覧会を機に「文部省博物館」が発足すると、初代館長に就任し、ただちに文化財を恒常的に保管・展示するための本格的な博物館建設の必要性を太政官に建言し、明治15年、上野寛永寺跡地の新たな博物館開館に至るまでその運営に尽力した。その後明治18年に元老院議官となったが、4年後には職を辞し、岡倉天心やフェノロサなどと共に、園城寺法明院住職の桜井敬徳和尚に帰依し、園城寺光浄院の住職として文化財の保護に努めた。
 明治30年9月13日上野の明王院にて逝去。享年60歳。
   平成28年11月吉日
    建立 町田家32代当主 町田忠夫
    題字揮毫 第97代内閣総理大臣 安倍晋三
    政策 文化勲章受賞・日本芸術院会員 中村晋也

安倍さんの揮毫。


森鴎外総長室跡

平成館の前。池から浮き出る森鴎外総長。。。

森鴎外総長室跡
平成館及び前庭の一帯は、明治15年(1882)に博物館が上野に移転してから、展示棟に付属する事務棟の建物が多く建てられました。この付近には底質博物館を統括する総長の居室があり、森林太郎(鴎外)は大正6年(1917)から大正11年に死去するまで、総長としてここで執務しました。
 2012年10月 鴎外誕生150年にあたり
帝室博物館総長森林太郎(鴎外)大正6年12月~大正11年7月


表慶館

1900(明治33)年、皇太子(後の大正天皇)のご成婚を記念して計画され、1909(明治42)年に開館。
東宮御所(現在の迎賓館赤坂離宮)などで知られる宮廷建築家の片山東熊による設計。明治末期の洋風建築を代表する建物として1978(昭和53)年、国の重要文化財に指定。

こんな感じで、トーハクの近代建築散策。

トーハクは、一日過ごしても、すべてを見きれない感じで、毎回、退出時には後ろ髪を引かれています。。。またこよう。

※撮影:2022年7月


上野関連

「台湾ウイスキー・山豬迷路」日本統治下時代の台湾の酒造伝承

先日、「台湾ウイスキー」を、懇意にしている「とある台湾メーカー」からいただきました。
covid-19の影響で、往来に制限があった日台両国でしたが、2022年10月より、制限なく往来ができるようになり、そうして台湾メーカーが日本の展示会にも久しぶりに出展。
代理店として私が、来日した台湾メーカーをサポートをしたという縁もあって、このたび台湾ウイスキーをいただいた次第でした。
最初は、台湾ウイスキー?なイメージでしたが、ちょと調べてみると面白く、さらには戴いた銘柄が、日本統治下時代からのエピソードをもっていたので、本記事に掲載したという感じ。


台湾ウイスキー

2002年に台湾が世界貿易機構(WHO)に加盟したことにより、50年以上続いていた酒類専売制度が廃止され、自由製造となったことにより、台湾での酒造製造が活性化。「カバラン(KAVALAN)」は台湾初のウイスキー蒸溜所として台湾ウィスキー界を牽引。そして「オマー(OMAR)」のナントー蒸溜所も有名。
さらには、村おこし事業として各地の農村でも「農村酒莊」として酒造が行われるようになってきている。


新高山(玉山)と信義郷

新高山(玉山)
台湾最高峰の玉山。標高3952m。日本統治時代の旧称は「新高山(ニイタカヤマ)」として、日本の最高峰でもあった山。
昭和12年(1937年)には大日本帝国の「新高阿里山国立公園」に指定。
昭和16年(1941年)12月2日に発令された日米開戦の日時を告げる、大日本帝国海軍の暗号電文『ニイタカヤマノボレ一二〇八』の「ニイタカヤマ」とは、現在の「玉山」のことである。

信義郷
信義郷は南投県の東部に位置しており、南投県内最大の面積の郷鎮であり、全国でも第2位を誇る広さを有している。
信義郷は中央山脈及び玉山山脈上に位置し、台湾最高峰の玉山を域内に含んでいる。また、南投県信義郷は「梅の故郷」と称される台湾最大の梅の生産地でもある。


信義郷農会梅子夢工廠

南投県信義郷農会の梅子夢工廠は、信義郷を代表する梅を主力製品とする台湾のさまざまな地元農業特産品を開発している加工工場や、酒造設備を備えた「農村酒莊」となっている。

今回、戴いたウイスキーは、台湾一の名峰「玉山」の名水を活用した信義郷農会(日本で言う農協みたいなもの)「農村酒莊」で蒸留したウイスキーとなります。日本で言うところの富士山ですね。

https://www.52313.com.tw/

場所

https://goo.gl/maps/xspZt9WrPyTF6juD7


「山豬迷路」

「山豬迷路」を直訳すると「迷い込んだイノシイ」とか「迷子のイノシシ」とか、こんな感じだろうか。どうもイノシシを迷わせるらしい。
前置きが長くなったが、「山豬迷路」がウイスキーの銘柄。なかなか面白い。

クエッションマークがいっぱいで、これは酔って迷ってますね、、、
????

なにが書いてあるが、半分ぐらいは分からないが公式サイトを覗いてみよう。

https://www.52313.com.tw/index.php?route=product/product&path=86_87&product_id=265

「威士忌」でウイスキーなのですね。

【品名】山豬迷路
【類別】威士忌 (ウイスキー)
【原料】台灣穀類精釀
【酒精度】40度
【容量】600毫升 
【產地】台灣
【注意事項】瓶塞採天然軟木,酒液中若有木屑沉澱,屬正常現象。
コルクは天然コルクを使用しており、木片がワインに沈殿するのは正常な状態です。
【威士忌說明】以穀類為原料,經糖化、發酵、蒸餾,貯存於木桶二年以上,其酒精成分不低於百分之四十之蒸餾酒。
【ウイスキーの説明】穀物を原料とし、糖化、発酵、蒸留を行い、木樽で2年以上貯蔵したアルコール度数40度以上の蒸留酒。

山豬迷路-米的威士忌:玉山山簏泉水及精選台灣優質米
米のウイスキー 玉山篭泉水と台湾産の厳選された高級米を使用

以精純工法釀製蒸餾,再以頂級橡木桶存封數年裝瓶上市
洗練された方法で蒸留され、上質なオーク樽で数年間、樽詰め。
石板酒窖長年溫度介於18-23°C,絕佳的熟成環境、時間的淬鍊,造就非凡風味,四十度的口感不嗆不辣。些許的煙燻味以及大地的稻米香,想微醺、放鬆的夜晚來和山豬一起迷路吧!
貯蔵庫の温度は一年間を通して18~23℃で、優れた熟成環境と時間が格別な味わいを生み出します。ほんのりスモーキーな香りとお米と土の香り、ちょっと酔ってリラックスしたい夜に、イノシシと一緒に迷子になりませんか!

山豬建議:
イノシシのおすすめ:
直接啐飲 享受原味 迷路指數40%
ストレートで飲む オリジナルの味を楽しむ 迷子指数40%
加水稀釋 味道更豐富 迷路指數20%
水割り より豊かな風味を味わう 迷子指数20%
冰塊飲用 享受酒體的變化 迷路指數25%
ロック 味わいの変化を楽しむ 迷子指数25%


「山豬迷路」の由来

日本統治時代の台湾では大正11年( 1922)、酒専売が導入され、台湾総督府の財政状況を安定化し、台湾のインフラ整備にも貢献することになった。

公式サイトには、「山豬迷路」の由来も記載されている。エピソードは日本統治下に遡ります。

      故事來自日據時代受到強制遷村到山下的信義地利部落。據說當時部落裡有一位相當擅長釀酒的伍禡 WU MA 奶奶,由於日人限制私釀。所以伍禡WU MA奶奶都會利用黑夜用黑布將自家窗戶緊密遮住,進行穀釀的最後蒸餾作業,以提供族人於慶典中飲用。待作業完畢後再利用深夜將蒸餾完的酒渣,運至山谷中丟棄,適巧倒完之後出外覓食的山豬受到酒香的吸引,蜂擁而至,開懷品嚐起酒香四溢的酒渣。
      或許是不勝酒力,也可能是意猶未盡山豬們竟然循著味往伍禡WU MA奶奶的家中前進。整理完畢的伍禡WU MA奶奶最後將黑布收下,窗戶的燭火燈光在深夜異常明亮。山豬們此時竟然狂奔的衝進伍禡WU MA奶奶家中。
        此後族人就笑稱伍禡 WU MA奶奶的穀類精釀叫山豬迷路。而且在那限制私釀的年代,族人一提到-山豬迷路更是相視會心一笑。
        信義鄉農會酒莊沿用伍禡 WU MA 奶奶精純工法釀製蒸餾,再以頂級橡木桶存封數年裝瓶上市。為每位享用山豬迷路的同好保留住當年部落居民山居生活最為可愛的默契、友誼與歡樂。

山豬迷路(https://www.52313.com.tw/home/public/board-content?id=28

簡単に意訳します。。。
 この物語は、日本統治時代に村を山間部に強制移住させられた信義地利部落に由来する。この部族には、酒を造るのが得意な呉馬婆さん(伍禡WU MA奶奶・ウーマーおばあちゃん)がいたと言われている。日本統治下時代は個人での酒造には制限がかかっていたため、ウーマー御婆さんは、真夜中に黒い布で家の窓を暗闇の中でしっかりと覆い、穀物酒(雑穀酒)の蒸留を行って、そうして部族が祝賀会で婆さんの蒸留酒を飲むことができるようにしました。
蒸留が終わると、残り滓は深夜に渓谷に運ばれて廃棄される。ちょうど、渓谷に残り滓を注いだ後に、餌を食べにきていたイノシシが、ワインの香りにつられて群がってきた。
 アルコールをもっと欲していたのか、イノシシたちはアルコールの匂いを追ってウーマー婆さん家へ。片付けが終わって、ようやく婆さんが作業を隠していた黒い布を片付けると、窓の蝋燭の明かりが異常に明るく真夜中を照らしはじめた。このとき、イノシシたちはウーマー婆さんの家に一斉に殺到してしまった。
 それ以来、部族では「ウーマー婆さんの雑穀酒でイノシシが迷子になった」と冗談を言うようになった。 自家醸造が制限されていた当時、イノシシが道に迷ったという話をすると、部族一族郎党が笑い合った。
 信義郷農協蒸留所(信義郷農會酒莊)では、ウーマー婆さんの穀物酒の蒸留方法に従い、最高級のオーク樽で数年間樽詰めしている。 丘陵地帯の部族生活の友情、仲間意識、喜びといった最も素敵な絆は、「山猪迷子」を楽しむすべての人にとって守られています。

※画像は公式サイトより引用

迷子の猪がかわいい。。。
看板には「東埔温泉」「信義酒莊」と記載あり。
東埔温泉は、台湾最高峰の温泉地であり霊峰・玉山の名湯。

信義地利部落

https://goo.gl/maps/fBmmVbrJNQupPEbJA


「山豬迷路」パッケージ

まだ、飲んでいませんので、味わいに関してはまた後日。。。
ウイスキーは寒冷地というイメージがありましたが、もちろん台湾は南国。南国ゆえに熟成スピードが早く、台湾ウイスキーはフルーティでまろやかになるのだとか。開封が楽しみ。

というか、台湾行きたい、、、

※撮影2022年11月


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