「航空隊・航空全般」カテゴリーアーカイブ

B29墜落搭乗員慰霊碑とB29墜落地点の慰霊巡拝(群馬県‎‎邑楽町‎秋妻)

群馬県と栃木県の県境。
群馬県‎邑楽郡‎邑楽町‎秋妻は、のどかな水田が広がる農村地帯。
戦時中、この地にB29が墜落し、そして地域住民は搭乗員を慰霊した。

すぐ近くにあった、東洋一の飛行機メーカー「中島飛行機」の工場(中島飛行機太田工場)を狙ったものであった。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M606-49
1947年10月27日、米軍撮影の航空写真。一部加工。

中島飛行機大田工場や太田飛行場、小泉製作所のすぐ近くで墜落したことがわかる。

墜落地点を拡大。

墜落地点は、今も昔も水田。集落には尾翼が落ちたが幸いにして落下地点は矢場川の横であったために人家共に被害は皆無であった。

現在の様子。

集落と水田の位置関係はさほどに大きく変わっていない。

余談だが、邑楽郡‎邑楽町‎の「‎邑楽」は「おうら」と読む。難読です。


B29爆撃機墜落地点

B29爆撃機墜落地点
 1945(昭和20)年2月10日、中島飛行機太田製作所をねらって午後3時過ぎに飛来した118機(米軍公表)のB29大編隊の爆撃により、多くの生命財産が失われました。このとき、大編隊の中の2機が空中接触しこの地に墜落炎上しました。(2機の搭乗員23人全員即死)。なお、Slicks Chicks号(機体番号224784)の尾翼が
秋妻集落東側民家すぐそばの矢場川にかかる旭橋横に墜落しました。当日は西風の強い日で、この黒煙により秋妻集落は全滅したという噂も出たほどでしたが、幸いにも人家とも無傷でした。しかし同日、ここから北東に直線距離で1kmも離れていない隣町の足利市百頭町では、軍需施設とは無縁な一集落が集中爆撃され33人もの一般の人たちが犠牲となりました。
 この事実を風化させることなく、戦争の悲惨さと平和の尊さを後世に伝え、世界平和を祈念していきたいと思います。
  平成22年11月
   ‎邑楽町‎教育委員会
   ‎邑楽町‎第17区(秋妻)自治会

墜落地点は、3か所。
Deaner Boy 号(機体番号224815)は、下図の1番。
Slicker Chicks号(機体番号224784)は胴体(下図2番)と尾翼(下図3番)が分かれて落下。

落下地点

わかりにくいが、黄枠のところに「赤い目印」は立っている。
このあたりに、「Deaner Boy 号(機体番号224815)」が落下した。

赤城山の方向。

ここに、Slicker Chicks号(機体番号224784)の胴体が落下した。

2機のB29が空中衝突し、田園に落下した。

ちなみに、なにもないところでアクセス方法は悪い。
東武足利市駅でレンタサイクルをしてみました。
東武足利市駅からは、だいたい自転車で30分位かかりました。

場所

https://goo.gl/maps/ePgwVA1CJKXyEE6r8


B29爆撃機尾翼墜落地点

Slicker Chicks号(機体番号224784)の尾翼が落下した地点。

矢場川にかかる旭橋。

とくに看板等もなく。

ちょっとした建屋とベンチがあった。

矢場川の東側なので、こっちは栃木県。

場所

https://goo.gl/maps/HF6kobatj7JuY36r7


清岩寺

邑楽郡邑楽町秋妻の天華山清岩寺

清岩寺の開山は、大雲文龍。大雲文龍(1545-1617)は曹洞宗を関東に広めた高僧。


清岩寺の戦争慰霊碑と記念碑

境内の一角に、先の戦争関連の慰霊碑や式辞記念碑があつめられている。

合掌

日清日露大東亜演奏戦歿者報国之英霊塔
B29日米合同追悼式七十年供養塔

平成27年建立

B29墜落搭乗員慰霊碑

B29墜落搭乗員慰霊碑 
The Memorial Monument of B29 Crash Crew

墜落日時 Crash Data 1945年2月10日  Feb.10th,1945
墜落位置 Crash Site  群馬県邑楽郡高島村秋妻(現群馬県邑楽郡邑楽町秋妻)
                Akizuma Ora-machi Ora-gun Gunma
所属   Affiliation  第2空軍第313爆撃団第505爆撃群第483爆撃隊
     483 BSQ 505th BG 313rd BW of 20th AF
攻撃目標 Target     中島飛行機太田製作所 Nakajima Aircraft Ota Factory
墜落原因 Cause of Crash 接触事故 Midair Collision

B29#42-24784 SLICK’S CHICKS
操縦士    Pilot      C McC SLAUGHTER Jr 大尉   CAPT
副操縦士   Copilot    DAN E.GODSY     少尉   2D LT
航法士    Navigator   JOSEPH F.JAROSZ   少尉   2D LT
爆撃手    Bombardier   KENNETH E.SWANSON  中尉   1ST LT
機関士    Engineer    HERBERT WEINER   少尉   2D LT
通信士    Radio Operator NICK CORBO     二等軍曹 S SGT
レーダー士  Radar Operator KENNETH F.MAGO   軍曹     SGT
中央火器管制 CFC      ROBERT K.YONCE   二等軍曹 S SGT
左銃手    Left Gunner  JAMES E.MELVIN    軍曹     SGT
右銃手    Right Gunner  RALPH J.McCLELLAN  二等軍曹 S SGT
尾部銃手   Tail Gunner  FRANK P.KASTENMEVER 軍曹     SGT
同乗員    Observer    BIRRELL WALSH    大佐     COL

B29#42-24815 DEANER BOY
操縦士    Pilot     OWEN o.BARNHART Jr   中尉   1ST LT
副操縦士   Copilot    DONALD M.MORRISON   少尉   2D LT
航法士    Navigator   CORNELIUS R.KERNS   少尉   2D LT
爆撃手    Bombardier   HUGH D.BURNER     中尉   1ST LT
機関士    Engineer    HARLEY H.HAZELWOOD  少尉   2D LT
通信士    Radio Operator NORMAN E.SMITH    二等軍曹 S SGT
レーダー士  Radar Operator JAMES F.GREUP     軍曹   SGT
中央火器管制 CFC      GEORGE B.WILBUR Ⅲ   軍曹   SGT
左銃手    Left Gunner  HARRY J.HARZ Jr    軍曹   SGT
右銃手    Right Gunner  DONALD A.W.KISSINGER 軍曹   SGT
尾部銃手   Tail Gunner  HARVEY J.FITZPATRICK 軍曹   SGT

ここ秋妻の空に散った23名の勇士の御霊に哀悼の誠をささげるとともに日米両国の友好と世界の平和を希求いたします
We wish to commemorate the 23 brave souls and offer a wish for world peace and friendship between Japan and America

秋妻B29日米合同追悼式

邑楽郡邑楽町秋妻257 清岩寺 殿
秋妻B29日米合同追悼式
秋妻B二九日米合同追悼式並びに慰霊碑建立除幕式がしめやかに執り行われますにあたり御霊の安らけくもありますことを祈念申し上げ謹んで追悼の誠を捧げます 今日の開催に至りますまでの日米ご遺族様、米国横田基地のご関係皆様、木崎代表をはじめ秋妻B二九世話人会の皆様の常日頃のご労苦に深く敬意を表しますとともにご参集皆様の今後益々のご発展と関係皆様のご活躍を心から祈念申し上げます 
 平成二十五年三月二十日 
  参議院自由民主党議員会長 参議院議員 
   元外務大臣 中曽根 弘文

グラマン搭乗員鎮魂碑(清岩寺)

グラマン搭乗員鎮魂碑 
Grumman Crew Memorial

 1945年2月16日 空母バンカーヒルを発進したグラマン・アヴェンジャー TBM-38316は太田上空で高射砲に撃たれ現足利市田中町に墜落、3名死亡。

On 16 February 1945,a Grumman Avenger(TBM-38316)that took off from the USS Bunker Hill was hit by Japanese abti-aircraft fire and crashed in Ashikaga.
The following three crew members lost their lives.

操縦士 Pilot     Richard Brothers    海軍少尉 Ensign
射撃手 GunnerEd   Edward V.Andriso   三等兵曹 AOM3c
通信士 Radioman   Walter L.Paulissen Jr. 上等空兵 ARM1c

 異国で命を落としたアメリカ海軍将兵の霊を慰め、人類永遠の平和を祈ります。
May these brave American soldiers rest in peace.And may peace prevail among mankind eternally.

”人間の持つ残酷さを克服し、この人生を平穏なものにしよう”
  日本人の皆さんに心からの感謝を込めて
“Please,let us tame the savageness of man and make gentle the life of this world.”
  with warmest gratitude to people of Japan
    Maxwell Taylor Kennedy

B29・グラマン日米合同追悼式

B29・グラマン日米合同追悼式
ごあいさつ
 「B二九・グラマン戦没者二十六名の日米合同追悼式」が挙行されるにあたり、戦没者の御霊に謹んで哀悼と慰霊の誠を捧げます。
 本日の日米合同追悼式は、戦争によって失われた尊い命を慰めるものであり、合せて「不戦の誓い」であります。そして日米両国の関係者が相集い追悼式が開催できますことは日米両国の信頼と友好の証でもあります。開催に際しご尽力いただきました横田基地関係者の皆様ならびに木崎様をはじめとする多くの関係者の皆様に深く敬意を表しますとともに感謝申し上げます。
 本年は、終戦から七十年という大きな節目の年にあたります。節目の年を迎えるにあたり、現在の繁栄は、多くの犠牲と悲劇の上に築かれていることを再認識しなければなりません。
是非、本日の追悼式を「命」と「平和」の尊さを心に刻む機会にしていただければと思います。
 なお、本日は在日米軍関係者の皆様もご出席でいただいておりますが、二〇一一年三月十一日に起きた東日本大震災ではアメリカ合衆国から寄せられた温かいご支援、米軍の各部隊の力強いご支援に改めて心から感謝申し上げます。有難うございました。
 今後も日米両国がともに協力しながら、アジアの平和・世界の平和のために努力をしていくことが大事であると考えております。
 最後に、本日ご参会の皆様ならびにご遺族の皆様のご健勝とご多幸を心からお祈り申し上げ、あいさつといたします。
 平成二十七年三月二十一日
  衆議院議員 笹川博義

To the Seiganji Temple Memorial,
清岩寺追悼記念式典に寄せて

AMBASSADOR OF THE UNITED STATES OF AMERICA TOKYO
 March 20,2015

To the Seiganji Temple Memorial,

 Thank you for the very kind in vitation to the dedication of the
memorial to the fallen United States Service members in Gunma Prefecture.
It is my honor to provide a short message of remembrance.
 This healing process is essential for the families and also essential
for our two nations. Activities such as this memorial that are driven by the community truly show the world that former enemies cun put aside their differences and animosities and become the closest of friends. The future of the US-Japan Alliance is strong.
For decades families have suffered both the pain of losing loved ones
far from home and also the emptiness that accompanies the loss when that loved one is not returned to the family,in order to begin the healing process.The unknown whereabouts of their last resting place puts the grieving process on hold. However,through your commendable efforts,you bring comfort to those families whose loved ones have now been found. Your dedication provides closure and allows the families an opportunity to hela. I play for the crews aboard B29 Bombers and Grumman TBM that they may rest in peace.
 We continue to work together side-by-side to ensure the bonds we
have forged over the last seven decades are stronger than ever and are a
daily reminder of the future cooperation necessary to maintain peace,
stability and prosperity in the region.
 It is my hope and the hope of the United States that peace and
reconciliation will continue to flourish. There is no berrer place to see this
process in action than the US-Japan Allaince.
     Sincerely,
           Caroline Kennedy

清岩寺追悼祈念式典に寄せて

 このたびは群馬県で開催される戦没米兵慰霊碑の除幕式にお招きいただき、感謝申し上げます。こうして追悼のメッセージをお送りできて光栄です。
 こういった癒しの過程は、遺族、そして日米両国にとって欠かせません。今回の追悼式のようなコミュニティ主導の活動は、過去に敵対関係にあった国同士でも、互いの違いや敵対心を忘れ、親しい友人関係を築けるということを世界に向けて示してくれます。日米同盟の未来は強固です。
 これまで長いあいだ、米兵の遺族は、故郷から遠く離れた場所で大切な家族を亡くした傷みと、愛する人が家族のもとに戻ってこない虚しさに苦しみ、心の傷を癒すための第一歩を踏み出せずにいました。家族がどこに葬られたのか分からないがゆえに、深い悲しみをいつまでも乗り越えられずにいたのです。しかし、皆様のご尽力のおかげで家族を見つけたいま、遺族の心に安らぎがもたらされました。皆様の献身的な活動は、遺族の苦しみを終わらせ、また、遺族に癒しを得る機会を与えてくださいました。B29爆撃機とグラマンTBMの乗組員のご冥福をお祈りします。
 これまでの七十年間で築きあげてきた絆が、今後もますます強まっていくよう、そしてその絆が、この地域における平和、安定、繁栄の維持に必要な将来の協調関係を日々思い出させてくれるよう、私たちはこれからも協調して歩みつづけます。
 平和と和解の過程が続くことは、私、そしてアメリカ合衆国の願いです。そして、ほかのどこよりもその過程が進んでいることを実感できる場所、それが日米同盟なのです。
  キャロライン・ケネディ
    中村有以[訳]

ハナミズキ
秋妻とアメリカを結ぶ絆となることを願い、キャロライン・ケネディ駐日大使より賜った「ハナミズキ」
千九百四十五年2月、異国に散ったB29スリックス・チックス号の操縦士カーネル・スローター大尉の縁者アルベルト・グリグノロ氏に依ってここに植樹される。
  平成28年4月

B29慰霊碑建立除幕式
日米合同追悼式
記念館

B29慰霊碑建立除幕式
日米合同追悼式
記念館

平成25年3月20日
清岩寺代表役員 木崎伸雄

とくに銘記がなかったが、隣の建屋がきっと記念館なのかな。。。

場所

https://goo.gl/maps/FNroaFbeZTs1BWU39


光林寺

邑楽郡邑楽町秋妻の秋妻山光林寺。


B29墜落ゆかりの寺碑(光林寺)

昭和20年(1945年)2月10日、太田市の中島飛行機の工場爆撃のために飛来した118機のB29のうち2機が空中衝突し、光林寺の西南600mの地点に墜落した。搭乗員23名が犠牲となった。搭乗員の遺体は光林寺の墓地に手厚く埋葬された。
戦後まもなく進駐軍が遺体を引き取りにきたが、光林寺にて丁重に葬られていた事に驚き、大変感謝したという。

B29墜落ゆかりの寺
 昭和20年2月10日午後3時過ぎ中島飛行機製作所太田工場を爆撃する為、サイパンのテニアン島を飛びたったB29編隊118機のうちの2機が、接触事故を起こし、当寺より西南約600mの秋妻田んぼに墜落しました。搭乗員23人は全員死亡が確認され、光林寺の本堂裏の墓地に横死者の供養の為手厚く埋葬されました。終戦後まもなく進駐軍が光林寺に駆け付け遺体を引き取って行きましたが、丁重に葬られていた事に驚き、大変感謝されました。
 以後毎年お盆の施餓鬼法要の時、歴代住職が檀徒の供養と共に(B29no)搭乗員の冥福を祈り回向しております。戦後74年を迎えた今日、戦争の記憶が薄れる中、今を生きている者の責務としてこの事実を碑に刻し、未来永劫世界平和を願い後世に残したいと思います。
  平成31年2月吉日
   秋妻山根本院光林寺
    B29墜落ゆかりの寺碑建立委員会

B29搭乗員埋葬地跡

本堂の裏手の墓地に、B29搭乗員埋葬地跡の墓碑があった。
平成31年2月吉日の建立。

場所

https://goo.gl/maps/TNtJUSUbHdoZzQa69


玉取神社

B29とは関係はないが、秋妻集落の鎮守様である玉取神社に興味深いものがあるので足を運んでみる。

御祭神:天児屋根命
創立は天長2年(825)。旧社格は村社。
藤原信綱が所領していたこの地を開いて、藤原綱義(大栄師)が天児屋根命を祀り、建立。
祖先の鎌足公が房崎の浦で竜宮から玉を取り得て日本の宝としたので、鎌足公を玉取明神として崇敬したという伝説に由来。

奈良時代、藤原鎌足に贈られるため船で運ばれていた宝の玉が瀬戸内で竜神に奪われてしまった。鎌足の子不比等は玉を奪還するために志度へ赴き、身分を隠して暮らすうちに海女と夫婦になり、子、房前をもうけた。海女は不比等の目的を知り、竜宮に潜って玉を取り戻そうとするが追撃にあって命を落としてしまう。そのとき海女は自らの乳房を切って中に玉を隠して持ち帰ったという。これが玉取姫の伝説。

浮標水雷缶(玉取神社)

昭和3年に「御大典紀念」として、海軍省から横須賀海軍軍需部在庫の廃兵器(水雷)を下付されたもの。

玉取姫の伝説に出てくる、龍宮から取り戻した「宝の玉」を模したモニュメントに見えますが、「浮標水雷缶」です。

今では「玉取神社」という社名と、浮標水雷缶の銀玉の形状がパチンコ玉にみえることから、パチンコ祈願の神社になっているとか、、、

場所

https://goo.gl/maps/997qycAvtnMH25Si9

※2023年1月撮影


B29慰霊関連

河口湖自動車博物館・飛行舘(2022年8月版)

2022年8月、「河口湖自動車博物館・飛行館」に赴きました。
毎年8月の1ヶ月間のみ公開される博物館。前々から気にはなっていましたが、ようやくに赴くことができました。


「河口湖飛行館」に関しては、多くの記事がありますので、写真中心に。

2023年の記事は下記にて


河口湖自動車・飛行館

山梨県南都留郡鳴沢村富士桜高原内にある自動車および航空機の博物館。
原田信雄氏が私費を投じて設立した博物館で、毎年8月の1ヶ月間だけ開館している。

https://www.car-airmuseum.com/index.html


零式艦上戦闘機52型(靖國神社遊就館)

冒頭から脇道です。。。

ちなみに、靖國神社遊就館に保存されている零式艦上戦闘機52型の復元に携わったのも、「河口湖自動車博物館・飛行館」であった。(2002年、靖国神社ご創立130年記念のため遊就館に奉納)


F-86F-40 セイバー

飛行館の脇で出迎えてくれるのは、航空自衛隊創設期の主力戦闘機「F-86」。


飛行館・入口

ケイタイ電話の撮影のみOK!

デジカメとかは駄目。
最近はスマホカメラも機能向上しているから、それなりの写真は撮れるかな。そんなわけで本記事は、すべてスマホ写真となります。(スマホ=Motorola moto g PRO)

なにかのプロペラ


飛行館・館内

さっそく目に飛び込んでくる情報量の多い空間に圧巻。
まずは2機の「隼」

一式戦闘機 隼1型

天井に展示されている隼1型。
中島飛行機が開発。第日本帝国陸軍を代表する戦闘機。

一式戦闘機(ハヤブサ)1型
上昇力や加速力では、ゼロ戦をも上回る性能を持つ、旧日本陸軍の戦闘機で、日本でハヤブサを見られるのは、この飛行館だけです。
ゼロ戦が海軍機として造られたのと動揺に、陸軍機として造られたのが、このハヤブサです。抜群の性能を持つこれらの2機は、同じエンジンを搭載し、旧日本軍の主力戦闘機として運用されました。2枚のプロペラが、ハヤブサ1型の特徴です。

一式戦闘機2型(6750号機)

無塗装で展示されているのは隼2型。プロペラは3枚ですね。

一式戦闘機(ハヤブサ)2型
ゼロ戦52型と同じパワーアップしたエンジンを搭載しているため、エンジンカウリングの形状が異なり、プロペラが3枚に変更されているのが、1型との大きな違いです。天井展示の1型と比べてください。
この機体は1944年にニューギニアで米軍に捕獲され、性能調査が行われました。調査の結果、ハヤブサは操縦が容易で、旋回性能はいかなる連合国機より優れていると米軍は評価しました。


艦上偵察機 彩雲 11型1290号機

中島飛行機が開発。大日本帝国海軍の艦上偵察機。
実用化した海軍機の中で、彩雲は海軍最速機として陸上偵察機としても活用され、米軍機の追跡を振り切った際に「我ニ追イツクグラマン無シ」の名言も残っている。

1944年に愛知の半田製作所にて量産が開始。半田1号機は1944年6月に完成。終戦までに463機生産(半田では427機)されたという。

河口湖飛行館とアメリカ国立航空宇宙博物館(非公開)にのみ現存。
河口湖飛行館では、彩雲の復元作業に着手している。

彩雲の水平尾翼・垂直尾翼の復元。昨年2021年は胴体中央部が公開。少しずつ、復元が進んでいる。

彩雲の右主脚部


特殊滑空機 桜花11型 I-16

機首部に大型の徹甲爆弾を搭載した小型の航空特攻兵器。
母機(一式陸攻)に吊るされて目標付近で分離し発射される。その後はロケット推進で加速し、搭乗員が目標に誘導して体当たりを決行する。

桜花
特攻機、人間爆弾です。
米国ではBAKA BOMBと呼ばれた。
大型艦を一撃で大破させることが可能な1.2トンの大型爆弾を搭載した特攻専用の航空兵器です。
一式陸上攻撃機に吊るされた桜花は、標的付近で切り離され、人間の操縦により体当たりをしました。ロケットエンジンの搭載で急降下時には時速800km以上の猛スピードで敵艦に向かうために、連合軍は迎撃不可能と判断し、攻撃目標を切り離し前の一式陸上攻撃機に変更したほどです。


一式陸上攻撃機(一式陸攻)22型

大日本帝国海軍の陸上攻撃機。略称は一式陸攻。開発は三菱。
日本海軍の主力陸上攻撃機として活躍した。
河口湖飛行館では、12017号機、尾翼番号 62-22の機体を、現在は尾翼番号 「龍41」と塗装し、主翼を除いて復元展示している。
「龍」は第761海軍航空隊所属機。絶対国防圏防衛の主力爆撃機隊として、太平洋戦争終盤にマリアナ諸島およびフィリピンで哨戒・爆撃・雷撃行動に従事した。

一式陸上攻撃機22型
太平洋戦争海鮮から終戦まで、爆撃、低朝つ、輸送と大戦全般のあらゆる場面で運用されました。海軍大将の山本五十六元帥が最期に登場した機体としても有名です。
全長20mにも及ぶ大型機でありながら、優れた設計により幕軍の操縦性を実現した傑作機です。2,400機もの一式陸上攻撃機が生産されましたが現存する機体はmこの展示機のみです。

尾部の旋回機銃

一式陸上攻撃機の内部。

乗員出入り口を開放するとこうなる。
日の丸の部分が扉だったのですね。

前方の旋回機銃。

上方にも旋回機銃を備える。

一式陸攻の機首。曲線美。

これは、すごい。

前方視界が、ある意味で恐怖な、一式陸攻。
前に居たくない。。。

火星二一型(一式陸攻用エンジン)

今でもオイルがたれているエンジン。

91式航空魚雷(一式陸攻用魚雷)


零式艦上戦闘機(ゼロ戦)52型

大日本帝国海軍の主力戦闘機。零戦。開発は三菱。
河口湖飛行館では4機の零戦を復元し、1機は靖國神社遊就館に奉納。残り3機を展示保存している。

零戦52型1493号機「豹187」
昭和19年(1944年)5月頃、中島飛行機にて製造。栄三一型エンジン、四式射爆照準機などを装備した後期の機体。

零式艦上戦闘機(ゼロ戦)52型 
強力なエンジンの搭載で、最高速度は21型より30km/h向上の560km/hにも達した後期型モデルのゼロ戦です。
エンジンのパワーアップに伴う大型化したエンジンカウリングと折り曲げ機構のない主翼先端が21型との大きな相違点です。21型と違いを較べて見てください。
展示機は、1,150馬力の最終型「栄31型」エンジンを搭載しています。

栄エンジンがわかるように展示。

栄発動機31型(中島)


栄12型 ゼロ戦用エンジン

世界で、回る唯一のエンジン。
中島飛行機が開発。零戦や隼に使用された。

エンジンが生きている証。オイルが下にポタポタと。


九三式中間練習機

大日本帝国海軍の練習機。愛称は「赤とんぼ」。開発は川西飛行機。

九三式中間練習機
天井展示の複葉機は、旧日本海軍の操縦士養成用練習機です。
海軍のパイロットはこの機で、高度な操縦技術を身につけました。
三菱や中島飛行機など海軍と関係を持つほとんどの航空機製造メーカーにより、5,800機もの機体が生産されています。
練習中に海に落ちても見つけやすいよう、尾翼が朱色に塗られていたことから、通称「赤とんぼ」と呼ばれていました。


零式艦上戦闘機(ゼロ戦)21型

大日本帝国海軍の主力戦闘機。零戦。開発は三菱。
河口湖飛行館では4機の零戦を復元し、1機は靖國神社遊就館に奉納。残り3機を展示保存している。

スケルトン状態の21型92717号機

零式艦上戦闘機(ゼロ戦)21型
昭和19年4月頃に生産された末期の21型です。
既に後期型モデルである52型の生産は始まっておりましたが、この頃までは中島飛行機により、21型も製造されておりました。
ゼロ戦の内部構造がわかる貴重な資料として残すため、できる限りのオリジナル部品を装着し、外板を張らない骨組みの状態で展示しております。

それにしても情報量が多い。。。


四式戦闘機 疾風(方向舵)

大日本帝国陸軍の戦闘機。四式戦闘機。開発は中島飛行機。


特殊攻撃機 剣(外板)

大日本帝国陸軍の特殊攻撃機(特攻機)。開発は中島。生産は昭和飛行機も参加している。生産は105機であったが、実践には使用されなかったという。陸軍名称は「剣」、海軍名称は「藤花」であった。


アツタ21型(艦上爆撃機彗星用エンジン)

愛知航空機が製造。ドイツのダイムラー・ベンツDB601のライセンス生産。


金星11型(九六式陸上攻撃機用エンジン)

三菱が開発。大日本帝国海軍の主力エンジン。


誉11型(銀河用エンジン)

中島飛行機と海軍空技廠が開発。中島飛行機の最後の量産航空エンジンでもあった。


誉11型(彩雲用エンジン)


栄12型(零戦21型用エンジン)


栄12型(零戦21型用エンジン)

製造番号12515


落下増槽燃料タンク

鉄板製タンクと木製タンク

鉄板製タンク

木製タンク


水上偵察機 零式観測機(フロート)

三菱が開発した水上偵察機。


零式艦上戦闘機(ゼロ戦)21型

大日本帝国海軍の主力戦闘機。零戦。開発は三菱。
河口湖飛行館では4機の零戦を復元し、1機は靖國神社遊就館に奉納。残り3機を展示保存している。

21型91518号機、尾翼は「AI-101」塗装(一航戦赤城の戦闘機1番機)になっている。

零式艦上戦闘機(ゼロ戦)21型
ゼロ戦は旧日本海軍の主力戦闘機で、21型は初期型モデルです。
抜群の運動性能を誇り、ゼロ戦の名を世界中に広めました。
尾翼に記された「AI-101」は真珠湾攻撃の際、空母赤城より出撃したエースパイロット板谷少佐の機番です。
展示機は90%以上ものオリジナル部材を使用して復元されており、本物のエンジンが装着された世界唯一の機体です。

零式艦上戦闘機
零式艦上戦闘機(艦上機:航空母艦から発着可能な航空機)、通称ゼロ戦は昭和12年(1937年)三菱重工、大江工場にて堀越二郎氏を主任設計者として開発が始まった。
約2年の猛スピードで試作機が完成。翌年の昭和15年7月には、正式に海軍戦闘機として採用される。ゼロ戦(零戦)の名称は、昭和15年が旧暦、皇紀2600年である、その年号最後の数字が”0”であることから、そう呼ばれた。
・最高速度550km/h(世界的なレベルは500km/h)
・航続距離2,500km(世界的な距離は500km以下)
・20mm機関砲2門と、最大の機銃を装備
そして、他に類を見ない、抜群の運動性能などから、世界一のゼロ戦と呼ばれた。

このような機械の設計・開発を行った堀越二郎氏は操縦ができなかったと云われているが、ゼロ戦の隅々までに”美”を追求した、芸術家であったとも云える。
制作から75年経過した現在でも、美しい機体をもつゼロ戦は世界的に人気が絶えない。
ゼロ戦は21型から、22型、32型、52型、62型と5回もの設計変更が行われたが、最初に設計された21型が、一番性能が良かったと云われている。
初期型のゼロ戦は空の雲の色に溶け込むように機体色はグレーであったが、後期型からは主に熱帯のジャングルで使用された為、グリーンに塗装されている。
約10,000機も作られたゼロ戦だが、現在は30機のオリジナルのゼロ戦と、1990年にロシアとアメリカで完成した3機の新造機(エンジンはアメリカ製)のみが残されている。
日本では10機ものゼロ戦が保存されているが、残念ながら何れも飛行できる状態ではない。アメリカでは飛行機は飛ばすものとの考えから、航空祭などで我々を楽しませてくれているのだが、悲しいことに我が国では、完全なゼロ戦でも”キケン”とされ、航空局から許可が出ないのが現状である。

復元前の機体の翼端

オリジナルの下地。1944年の段階では資材不足のために、内部塗装はしていなかった。

折り畳み翼端が、21型の特徴。

尾翼の「AI-101」


ライト兄弟1号機「フライヤー1」

飛行機時代の開幕。

1903年(明治36年)12月14日、ライト兄弟の第1号飛行機「フライヤー1」が人類最初のエンジン付き飛行機による飛行に成功した。


GE J79(F104用ジェットエンジン)

空冷のガソリンエンジンから、全く新しいジェットエンジンへと。


戦時下のポスター

戦時下の啓蒙活動。いろいろ。


富嶽

6発の超大型戦略爆撃機。中島飛行機が設計をすすめるも、戦局悪化で開発中止。


ラバウル航空隊ジオラマ

昭和17年のころをジオラマで再現。


そのほか

いろいろ。


野外展示

T-6 テキサン

S2F-1トラッカー

H-19 チカソー

T-33A シューティングスター

F-86F セイバー(ブルーインパルス)

C-46D コマンドー


1190形蒸気機関車

1923年(大正12)のドイツ・コッペル社製の蒸気機関車。
2両が輸入され、鶴見臨海鉄道301号機、302号機となるも、鶴見臨海鉄道は戦時買収で国有化され、1190形となった。1190形は1950年に三井埠頭に譲渡され、1968年まで使用された後、廃車後に河口湖自動車博物館で展示されている。


F-104DJ

河口湖自動車博物館のうえにも飛行機が。
今回は、飛行館のみを見学しました。自動車は余り興味が沸かなかった、、、ということもありましが。


お土産

零戦21型に、隼1型に、一式陸攻22型で。

ここはすごいです、これはまた来たいです!
歴史遺産、戦争遺産を修復復元して後世に伝承する現在の工廠ですね。
彩雲も楽しみ、です。

※撮影:2022年8月


関連

武蔵航空吉田工場跡と河口湖散策(富士吉田)

山梨県の富士吉田にも、軍需工場があった。
工場の跡地に、空襲の犠牲者の慰霊碑があるというので、足を運んでみた。


武蔵航空吉田工場(武蔵航空株式会社吉田工場)

富士北麓は、もともと軍需工業とは無縁の地域であったが、戦争末期になると、立川地区の航空機工場の疎開先として、当時の下吉田町(現在の富士吉田市)は1943年以降、一大軍需産業地帯と化した。
富士吉田市の竜ヶ丘自治会館周辺には、「武蔵航空吉田工場」があった。中島飛行機武蔵工場の下請けとして、勤労動員学徒を含む約2000名が海軍双発陸上爆撃機「銀河」尾翼の組み立てや発動機の修理、特攻日の整備なども行っていたという。


富士吉田空襲

1945年7月30日。午後1時半頃。
富士吉田にあった武蔵航空吉田工場に米軍機グラマンF6Fが襲来。
工場にいた15歳から39歳の工員12人が犠牲となった。
1945年8月13日にも空襲があり、工場は全壊となった。(人的被害はなかった)


武蔵航空工場被爆殉難者之碑

武蔵航空工場被爆殉難者之碑
  題字 西山巧記
太平洋戦爭の末 此の地に二萬坪の敷地を整地して広大な工
場が建ち竝び勤労学徒隊を含めて二千余名の者が航空機の生
産に從つて居りました 昭和二十年七月三十日午後一時突如
として米軍艦載機数編隊の襲撃を受け一瞬にして十二人の貴
い生命を喪い二十余人の負傷者を出すという惨事に至りまし
た 旧字えて八月十五日終戦を迎え爾來星霜十有二年 工場跡
は一望の水田と変り世人の記憶も漸く薄れゆこうとする時
元從業員一同亡き友を偲んで記念碑建立のことを発起しまし
たところ 過去十二年間朝夕にねんごろな供養を續けてこら
れた元社長西山巧記殿の絶大なご協力と県市当局並びに有志
縁故多数の方々の御力添によつてここに成就することを得ま
した 謹んで十二柱英靈の御冥福を祈る次第であります

昭和三十二年七月三十日
 為十三年忌法要供養建立

富士吉田空襲で犠牲となった12名のお名前が刻まれている。
合掌。

場所

https://goo.gl/maps/pW9CuAnGtZoukFdL7


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-R772-37
1948年1月3日、米軍撮影の航空写真。

上記から抜粋及び加工

現在の様子


河口湖

せっかくだから河口湖に寄り道。

河口湖シンボル像「源泉」
北村西望の終生最期の作品。

場所

https://goo.gl/maps/cqHUmtF1zDuJ5DoF9


富士山麓電気鉄道「モ1号」

昭和4年(1929)に富士山麓電気鉄道が線路開業した際に新造した車両。

河口湖駅

トーマスですね。

大月駅

察しの良い人は、富士吉田とか河口湖で、わかるかもしれませんが、「河口湖自動車博物館・飛行館」に行くのがメインでした。その記事はまた別立てにて。

※撮影2022年8月


戦後国産機リスタート2「新立川飛行機」と「立飛R-53型軽飛行機」(立川立飛)

戦後日本の航空産業は、時(とき)を止めていた。
そして終戦から7年後に、国産機の復活の口火を切ったのが「新立川飛行機」であった。

本記事は、2022年に一般公開された「R-53」を中心とした「新立川飛行機その2」、です。

「その1」は、下記にて。

今回、「一式双発高等練習機・キ54」の公開とあわせて、普段は非公開の「R-53型軽飛行機」も公開されました。


新立川飛行機

戦前、中堅飛行機メーカーとして、「赤とんぼ」や中島飛行機「隼」のライセンス生産などを行ってきた「立川飛行機」。
終戦により、立川飛行機をはじめ、日本国内の航空産業はすべて停止させられた。
立川飛行機は、1949年(昭和24年)11月15日に企業再建整備法により、「立飛企業」と「タチヒ工業」(のちの新立川飛行機)とに分割された。

昭和20年(1945年)11月18日
「民間航空廃止ニ関スル連合軍最高司令官指令覚書」発令
連合軍による航空活動の禁止命令(航空禁止令)

昭和25年(1950年)6月25日、朝鮮戦争勃発。
昭和26年(1951年)9月8日、サンフランシスコ講和条約
同年10月25日、民間航空再開。
昭和27年(1952年)7月、航空法及び航空機製造法が公布。


R-52型軽飛行機

昭和27年9月、飛行機制作が解禁され立川飛行機の技術伝承を目的に設立されていた第二会社「新立川飛行機」が、戦後最初の国産機「立飛R-52練習機」を制作。戦時中に作られた部品の寄せ集めではあったが、国産航空機生産は、「新立川飛行機」から始まった。
「R」は練習機を意味し、「52」は1952年型を意味する。
R-52は、戦前に試作していたR-38練習機をベースとしているため、戦前の航空機を再生産したような古い設計の飛行機であったが、それでも戦後の国産飛行機のはじまりには違いない。


R-53型軽飛行機

「R-53型軽飛行機」について
R-52の改良型として製作され、基本的な設計は変わらず、エンジンをイギリス製シラス・メジャー(155hp)に換装するなど改良が加えられました。同機は「R-52」と共に全日本学生飛行連盟に貸与され、日本一周飛行に参加しました。その後、一旦、航空大学校での練習機としての使用を経て1957年に新立川航空機㈱に返却されました。

機体概要
全長:7.5m、全幅:10.7m、全高:2.65m、最高速度:時速207km/h、上昇限度:4,500m

以下、写真を中心に。


R-HM型軽飛行機

立川市の複合施設「GREEN SPRINGS」のTAKE-OFF-SITEにて公開されている、R-HM型軽飛行機は、操縦席の公開があったので、座ってきました。

操縦席。
極めて原始的な造り。これは間違いなく操縦が難しい。。。

復元作業の様子など。


立飛ビールとステッカー

https://www.tachihibrewery.com

立飛ビールを購入して、ステッカーを頂きました。

※撮影:2022年10月


立川飛行機「一式双発高等練習機・キ54」(立飛ホールディングス最後の一般公開)

立川市の立飛ホールディングスで、昨年に引き続いて、2022年10月27日(木)から30日(日)まで、「一式双発高等練習機」が一般公開されました。

2022年10月の今回が、「立飛ホールディングスとしての最後の一般公開」(予定)という。
スタッフに「最後?」の詳細を聞いたところ、今後は立川市が保存をし、立川市として恒常的な施設ないし展示を実施する予定という。つまり、一民間企業たる「立飛ホールディングス」として、このような形の一般公開は最後となる見通し。

本記事は2022年公開時のものです。
2021年公開時の模様は、下記の記事にて


立川飛行機


新立川飛行機


国内唯一の立川飛行機「一式双発高等練習機」現存機

一式双発高等練習機
大日本帝国陸軍の練習機。
キ番号は、「キ54」。
略称は、「一式双発高練」「一式双高練」「双発高練」など。
連合軍のコードネームは、「Hickory」(ヒッコリー、クルミの意味)
開発製造は、立川飛行機。
昭和16年(皇紀2601年、1941年)に正式採用。
立川飛行機として、はじめての自社開発全金属製双発機。
傑作機として重宝され総生産機数は、1342機に及ぶ。

展示機は、飛行第38戦隊所属機。昭和18年(1943年)9月27日、能代飛行場から離陸後にエンジントラブルによって十和田湖に不時着水。乗員4名のうち3名が死亡、1名が生還。
低温淡水の十和田湖底であったために、機体腐食が少なく当時の塗装が残るままで発見され、2012年に引き揚げ。
青森県立三沢航空科学館で展示されていたが、2020年に立飛ホールディングスに譲受された。
また同時に引き上がられた天風型エンジンの1基は製造を担当した東京瓦斯電気工業(日立航空機)の後継企業にあたる日野自動車が復元処理をおこなっている。


一式双発高等練習機(一式双発高練)・キ54
「写真」

以下、写真中心にお送りいたします。
昨年の記事で詳細を記載しているので、今回は省略。

開場直後。1時間前に並んだ成果の最初の1枚。

昨年と展示の状態が異なっている。
機首の木枠がなくなっていたり、上部の窓の跳ね上げがなくなっていたり、胴体部と機首部をつなげていたり。

双発エンジンは、空冷単列星型9気筒。
東京瓦斯電気工業(日立航空機)が開発・製造した航空機用空冷星型エンジン
陸軍名称は「ハ13」、海軍名称は「天風」。陸海軍統合名称は「ハ23」。

一式双発高等練習機に使用されたエンジンは、「日立ハ13甲」 (九八式四五〇馬力発動機)。

主に、陸海軍の中間・高等練習機で使用されたエンジン。
陸軍では、「一式双発高等練習機」、「一式輸送機」、「二式高等練習機」などに採用。
海軍では、「赤とんぼ」と呼称された「九三式中間練習機」や、機上作業練習機「白菊」などにも採用されている。


立川飛行機の概史と三大生産数機種について

石川島飛行機製作所から立川飛行機へ
大正11年(1922)夏に立川飛行場が完成。(2022年で立川飛行場100周年)
大正13年(1924)11月、東京石川島造船所の出資により、石川島飛行機製作所が設立。
社長は渋沢栄一の三男・渋沢正雄。渋沢財閥と大倉財閥の資本であった。
創業地の月島は飛行場がないことから、飛行機製制作には不便ということもあり、昭和5年(1930)5月に立川に移転。昭和9年4月に陸軍から練習機の単独試作を命ぜられたことから、航空機メーカーとして地位を気づき、95式1型練習機(赤トンボ)を正式化。

昭和11年2月、2代目社長の渋沢武之助が退任し、大倉財閥系の門野重九郎が代表取締役に就任。7月に「立川飛行機:へ称号を変更した。

三大生産数機種
九五式一型練習機 2398機
九八式直協機 849機 / 九九式高等練習機 1067機
一式双発高等練習機 1347機

立川飛行機は、陸軍すべての練習機を製造していた。
初等練習機としての「九五式三型練習機」
中間練習機としての「九五式一型練習機」
そして、実践機へとつながる高等練習機としての「九九式高等練習機」「一式双発高等練習機」。

メイドイン多摩
上記の三大生産数機種は、北多摩製であった。
機体は、立川飛行機、発動機(天風系)は日立航空機、点火栓は立川工作所であった。


作業台

キ54の作業台。


重要航空遺産

日本航空協会認定。


各種説明

昨年の記事を参照で。省略します。。。


立川飛行機の建屋

おおくの建屋は、立川飛行機時代のもの。

正門

ノコギリ屋根の建屋

いずれも、立川飛行機時代の建屋。

車庫も当時からの建屋。

車庫の隣の建屋も。

写真は取らなかったけど、守衛所も。

立川飛行機の建屋の詳細は、こちらで。


立飛ビール

https://www.tachihibrewery.com

ビールを購入すると、ステーカーがもらえました。

一式双発高等練習機「キ54」(一式双発高練)

九五式一型練習機「キ9」(赤とんぼ・九五式中練)

※撮影:2022年10月


関連

茂原海軍航空基地跡散策・その2「引込線跡と地下壕跡」

千葉県茂原市。掩体壕が残る街。そんな掩体壕群は「その1」で記載しました。

「その2」では、掩体壕以外の「茂原の戦跡」をまとめます。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M50-8
1947年02月22日、米軍撮影の航空写真。

以下、抜粋の上、補足加工。

滑走路は西側の1本完成していたが、東側の二本目と南側の東西滑走路は未完成。

茂原駅から、引込線の跡をたどりながら、北上をしていきます。


茂原海軍航空基地

1941年(昭和16年)07月に建設決定し、同年09月に着工。東郷地区の約150戸と東郷小学校及び寺社等が強制移転。(旧東郷小学校跡記念碑がある)
1942年12月に「第五五二航空隊」が茂原に開隊。しかし翌年昭和18年にマーシャルに進出し、茂原に戻ることなくテニアンにて解隊。
1943年9月に佐伯空艦爆隊を主体とする「第五〇二航空隊」が茂原海軍航空基地の管理部隊となる(現駐は松島基地)。同隊は1944年2月に北海道に転進し、1944年10月に解隊。
1943年10月に夜戦部隊を主体とする「第三二一航空隊 (鵄)」が茂原に開隊。1944年2月にマーシャルに進出し、7月に解隊。
1943年11月に第三〇一航空隊 (艦戦)が、茂原基地を原駐として横須賀基地で開隊。1944年7月に硫黄島にて解隊。
1942年に館山で開隊した第二五二航空隊 (元山航空隊戦闘機部隊を主体) はマーシャルで壊滅状態となり、1944年2月に館山基地にて再建。本部は館山基地に置かれ、1944年(昭和19年)8月以降、茂原基地に転進している。
「二五二空」は本土防空の迎撃に従事。1945年(昭和20年)5月28日、米軍が茂原飛行場を強襲。「二五二空」は郡山飛行場に退避。そのまま終戦を迎えた。

戦後の1955年(昭和30年)3月18日、茂原海軍航空基地が自衛隊の基地になろうとしたとき、茂原市議会は満場一致で基地に反対する決議し、跡地の大部分は工業地帯と学校用地、農地、住宅地となった。


茂原駅

午前8時、茂原駅到着。散策のスタート駅。


茂原海軍航空基地引込線跡

サンシティ町保通りを北上する。この道がかつての引込線の跡。


北上していくと、文教エリアに到達する。

茂原海軍航空基地本部跡(茂原市立萩原小学校)

特に何もないけど、萩原小学校がかつての本部跡。

ちょっと雰囲気のある建屋があった。
往時の航空写真では一致できなかったので、茂原海軍航空基地とは関係ないとは重いけど。


茂原海軍航空基地兵舎跡(茂原市立茂原中学校)

茂原中学校のあたりには兵舎があった。こちらも何もない。

この道は引込線の跡。

なにもないと思ったが、ちょうど引込線が阿久川を渡るためにカーブするあたりに、古めの建屋があった。関係ないかもしれないけど兵舎っぽいといえば、兵舎っぽい。関係ないと思うけど。

長屋をぶった切った感じがするんです、、、


茂原海軍航空基地引込線橋脚土台跡

阿久川を渡るための引込線の橋脚土台が残っている。

場所

https://goo.gl/maps/4dwuYPRmr4p1oMc67

阿久川

沢井製薬の工場。滑走路エリア。

滑走路のあった方向。


茂原海軍航空基地誘導路跡

掩体壕を散策した記事は「その1」にまとめました。掩体壕があるのであれば。もちろん誘導路もあるわけで、誘導路を歩いてみる。

沢井製薬関東工場の前の道が誘導路。

誘導路が滑走路の向けて曲がるあたりは、三井化学アグロ株式会社。


茂原海軍航空基地滑走路跡

東西の誘導路が合流して、南に真っ直ぐ伸びる正面の道路が滑走路跡。

場所

https://goo.gl/maps/cWbGLbL27odWdUuN6

誘導路の先には、茂原市が管理している掩体壕への誘導がある。

このさきに掩体壕がある。この道も誘導路。

この先の掩体壕の記録は別記事の「その1」で。


茂原海軍航空隊病院壕「腰当地下壕」

場所は変わって、掩体壕エリアから外房線を横断して、茂原市腰当へ。ここにはかつて茂原海軍航空隊の海軍病院壕があり、通称「腰当地下壕」と呼称されている。

その山の下に地下壕がある。

ちかくにある、光福寺。

地下への入り口っぽいのがあるが、封鎖。

洞窟内の壁が一部崩れており危険ですので中には入れません。
茂原市教育委員会

あっ、はい。。。

場所

https://goo.gl/maps/2jttYmGYJhqHfFpy5

光福寺から山裾の道をたどって裏へ。天然ガス基地の裏。

いくつか開口している。そして毎回、思うわけです。夏に山を散策するのは駄目だと。。。

今回は、むりに壕には入らない。退散します。

腰当地下壕のある山。

そのまま山裾の道を歩いて行く。


茂原海軍航空隊司令部壕「長尾地下壕」

なにか見えた。
いい感じの素掘りのトンネル。海軍がこの地に地下壕を設置する前に掘られたトンネルのようで、海軍も連絡路として活用していたという。
この地にあった茂原海軍航空隊司令部壕は、通称で「長尾地下壕」と呼称されている。
私は北から歩いて来たが、茂原市立豊田小学校の脇から赴くのがわかりやすい。

切通のトンネル。

トンネルの北側に、なんとなく山に入れる獣道のような小道がある。
進んでみましょう。

開口してます。

入れそうなので、入ってみましょう。

入ってみたものの、装備はライトのみ。普通の靴なの足下がこころもとない。足下が水気を帯びた泥に張り付かれながら、慎重に歩いて行く。

まがりみち。

おおう。水没してみますね。これは長靴がないと厳しい。

引き返しましょう。
地下壕に関しては、諸先輩方がいらっしゃいますので、私はさわりのみで。
ちなみに他にも地下壕の開口がいくつかあり、山を縦断すれば、前述の腰当地下壕にも到達できるらしいが、何分にも夏場は山の散策は無理です。冬ですね、再訪するのであれば。

場所

https://goo.gl/maps/4WcqMt2WsrRHnfxP8

切り通しに戻ってきました。


長尾地下壕から新茂原駅まで歩き。

新茂原駅

新茂原駅に戻ってきました。
茂原駅に比べると、かなり寂しい駅ですね。

新茂原駅から北西方面には、地下壕があった。

新茂原駅から北東方面には、掩体壕群。

新茂原駅の東側には、誘導路があった。

そして新茂原駅の南東には、滑走路があった。

茂原駅から、引込線と誘導路を経由して掩体壕群を10基めぐって、地下壕を2箇所を確認して、新茂原に戻ってきた行程が下記となります。
15キロ約5時間、でした。真夏にやることではないですね。。。

※撮影:2022年8月


関連

茂原海軍航空基地跡散策・その1「茂原掩体壕群」

千葉県茂原市。掩体壕が残る街。それも10基もの掩体壕が今も残っている。これだけ残っているのは、全国屈指レベル。まさに掩体壕群と呼称するにふさわしい。
そんな掩体壕の街「茂原」を散策してみました。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M50-8
1947年02月22日、米軍撮影の航空写真。

以下、抜粋の上、補足加工。

滑走路は西側の1本完成していたが、東側の二本目と南側の東西滑走路は未完成。

北側には誘導路があり、多くの掩体壕がある。
誘導路は現在の道路とは一部しか重なっていない。

番号は茂原市の管理番号に従います。


茂原海軍航空基地

1941年(昭和16年)07月に建設決定し、同年09月に着工。東郷地区の約150戸と東郷小学校及び寺社等が強制移転。(旧東郷小学校跡記念碑がある)
1942年12月に「第五五二航空隊」が茂原に開隊。しかし翌年昭和18年にマーシャルに進出し、茂原に戻ることなくテニアンにて解隊。
1943年9月に佐伯空艦爆隊を主体とする「第五〇二航空隊」が茂原海軍航空基地の管理部隊となる(現駐は松島基地)。同隊は1944年2月に北海道に転進し、1944年10月に解隊。
1943年10月に夜戦部隊を主体とする「第三二一航空隊 (鵄)」が茂原に開隊。1944年2月にマーシャルに進出し、7月に解隊。
1943年11月に第三〇一航空隊 (艦戦)が、茂原基地を原駐として横須賀基地で開隊。1944年7月に硫黄島にて解隊。
1942年に館山で開隊した第二五二航空隊 (元山航空隊戦闘機部隊を主体) はマーシャルで壊滅状態となり、1944年2月に館山基地にて再建。本部は館山基地に置かれ、1944年(昭和19年)8月以降、茂原基地に転進している。
「二五二空」は本土防空の迎撃に従事。1945年(昭和20年)5月28日、米軍が茂原飛行場を強襲。「二五二空」は郡山飛行場に退避。そのまま終戦を迎えた。

戦後の1955年(昭和30年)3月18日、茂原海軍航空基地が自衛隊の基地になろうとしたとき、茂原市議会は満場一致で基地に反対する決議し、跡地の大部分は工業地帯と学校用地、農地、住宅地となった。


掩体壕(茂原市教育委員会)

第3掩体壕にある茂原市の解説板。

掩体壕
 太平洋戦争開戦直前の昭和16(1941)年9月に、木崎・谷本・町保・新小轡・本小轡等の約150戸の民家や東郷国民学校(現東郷小学校)及び寺社等が強制移転を命じられ、茂原海軍航空基地の建設が始まりました。
 司令部跡は現萩原小学校、兵舎跡は現茂原中学校、滑走路跡は三井化学(株)東側の約1,000mの道路で、基地の東端は東郷保育所前を通る通称海軍道路と呼ばれている辺りです。基地の北側には誘導路が巡らされ、戦闘機を敵襲から守るための格納施設である掩体壕が造られました。
 この壕は土砂を壕の形に盛って転圧して筵(むしろ)や板を並べ、その上に鉄網等を張ってセメントを流して造られており、総面積365平方メートル、壕の中の面積286平方メートル、高さは最大6m70cmあります。
 築城は、主に横須賀鎮守府から派遣されてきた海軍設営隊が行っておりましたが、長生中学校や茂原農学校(現長生高校・茂原樟陽高校)の生徒、近隣住民等も動員されたことが確認されております。
 戦争の記憶が薄れていく中、当時の様子を物語る貴重な戦争遺跡です。
  令和2年12月25日
   茂原市教育委員会

茂原市

https://www.city.mobara.chiba.jp/0000007259.html


まずは、掩体壕を中心に散策を。

第1掩体壕

個人宅敷地内で車庫兼物置小屋。
掩体壕の番号は茂原市での管理番号。散策順番とは異なります。

敷地外から遠望。

個人宅の掩体壕は、さくっとチラ見で。

場所

https://goo.gl/maps/fvRLf8kpVHNc7pdq7


第10掩体壕

個人宅敷地内で車庫として利用。同じく敷地外から遠望。

裏にまわると、ソーラーパネル。

場所

https://goo.gl/maps/spg6VhoXtQW2L5ps7


第11掩体壕

ソーラーパネルに囲まれている、、、。

掩体壕とソーラーパネル。

ある意味で、新鮮な組み合わせ。

近寄ることはできない。

場所

https://goo.gl/maps/ejUFpKmWPZ5VF4wi6


第3掩体壕

茂原市が管理している掩体壕。

場所

https://goo.gl/maps/nqEvbGiV74ihoGAu7


第6掩体壕

田んぼの中に。

ムシロの様子もわかる。

場所

https://goo.gl/maps/roafNBT1nFcqvPcG9


第8掩体壕

個人宅で物置として活用。敷地外から遠望。

場所

https://goo.gl/maps/H6s5r7arH8oEYZ3p8


第9掩体壕

個人所有。作業場として活用。

住めそうな空間。

場所

https://goo.gl/maps/qw2w6behUU87MEmS9


旧東郷小学校跡記念碑

東郷小学校は飛行場設置に伴い、移転を強いられた。

場所

https://goo.gl/maps/zALnxudqvN4PY24S8


第7掩体壕

ちょっとした森の中に。

場所

https://goo.gl/maps/96DXpDWZqqaz61xN7


第5掩体壕跡

宅地造成で消失。第6掩体壕の北西だった。


第4掩体壕

物置小屋。状態はよくない。

場所

https://goo.gl/maps/Wutb7NoLGty4TtMa8


第2掩体壕

物置小屋。よい状態。

場所

https://goo.gl/maps/24UZZUzcigZ4Nah19

以上、茂原に残る掩体壕10基の散策でした。
「その2」では、掩体壕以外の茂原海軍航空基地関連の戦跡を巡ってみます。

※撮影:2022年8月


関連(千葉と茨城の掩体壕)

「水戸陸軍飛行場跡(水戸東飛行場跡)」水戸つばさの塔(ひたちなか市)

茨城県ひたちなか市。

戦前、水戸の周辺には3つの陸軍飛行場があった。
水戸飛行場(水戸東飛行場)
水戸南飛行場(吉田飛行場)
水戸北飛行場(水戸北秘匿飛行場)、未完成の特攻用飛行場。

今回は、その中心にあたる「水戸飛行場(水戸東飛行場)」に関して。


水戸飛行場

昭和13年(1938年)、「水戸飛行場」設定。場所は茨城県那珂郡前渡村(現在のひたちなか市新光町)。
昭和14年(1939年)、「水戸陸軍飛行学校」が開校。東部には「陸軍航空審査部水戸試験場」が設置。
昭和15年(1940年)、水戸南飛行場に「陸軍航空通信学校」が開校。
昭和18年(1943年)8月、「水戸陸軍飛行学校」は仙台に移駐となり、「明野陸軍飛行学校分校」(明野陸軍飛行学校水戸分校)が開校。
昭和19年(1944年)6月、陸軍教育機関が随時で防空戦闘体制に移行。「明野陸軍飛行学校分校」も「常陸教導飛行師団」に改編。以降、水戸東飛行場及び水戸南飛行場から本土防衛のための特攻作戦が敢行された。
昭和20年(1945年)4月、「常陸教導飛行師団」主力は群馬の「新田飛行場」に移転。
昭和20年7月、各地の教導飛行師団は統合され地名を冠しない「教導飛行師団」(本部は宇都宮)に統括。「常陸教導飛行師団」も教育部隊と作戦部隊に分離改編され、「教導飛行師団第2教導飛行隊」「飛行第112戦隊」となる。

各地の教導飛行師団としては、下志津教導飛行師団、明野教導飛行師団、浜松教導飛行師団、鉾田教導飛行師団、常陸教導飛行師団、宇都宮教導飛行師団があった。統合後の単一組織としての教導飛行師団本部は宇都宮。明野には第1教導飛行隊が、常陸(水戸)には第2教導飛行隊が置かれた。

そして改編分離された作戦部隊として新設された、明野教導飛行師団第1教導飛行隊「飛行第111戦隊」と、常陸教導飛行師団第2教導飛行隊「飛行第112戦隊」は、最後の陸軍戦闘機部隊であった。

戦後は付近一帯の現国営ひたち海浜公園および常陸那珂地区が1946年(昭和21年)から27年間アメリカ軍の「水戸対地射爆場」として使用され、1973年(昭和48年)に日本に返還されている。


陸軍航空通信学校

昭和15年(1940年)8月、水戸陸軍飛行学校内で開設。
昭和15年12月、水戸南飛行場(吉田飛行場)に移転。
昭和20年5月、陸軍航空通信学校は「水戸教導航空通信師団」に改編。水戸教導航空通信師団の任務は主として将校と下士官の教育であった。

水戸教導航空通信師団事件
昭和20年8月17日、水戸教導航空通信師団教導通信第二隊第二中隊を率いる岡島哲少佐らは、宮城事件などで東京で終戦阻止で決起した部隊と合流しようと画策。林慶紀少尉は決起に反対する教導通信第二隊長田中常吉少佐を射殺。
そうして、水戸教導航空通信師団の将兵391人は、終戦阻止の動きに呼応して「東京での徹底抗戦」を目指し、水戸駅を出発、正午過ぎに続々と上野公園(東京美術学校)に集結。

近衛第一師団参謀石原貞吉少佐が上野で上京した水戸教導航空通信師団部隊に対し撤収の説得を行った。これは、指揮官岡島哲少佐が、石原の陸軍士官学校本科教練班長時代の教え子であったからという。
しかし、石原貞吉少佐は、林慶紀少尉に射殺され、そして林慶紀少尉は自決。林少尉の所属していた小隊長の松島利雄少尉も責任を取り自決。リーダー格であった岡島哲少佐、杉茂少佐も自決し事件は収拾した。


水戸飛行場に関係する組織

水戸陸軍飛行学校
 (仙台陸軍飛行学校)
陸軍航空通信学校
明野陸軍飛行学校分校
 (明野陸軍飛行学校水戸分校)
常陸教導飛行師団
 (教導飛行師団第2教導飛行隊と飛行第112戦隊)
水戸教導航空通信師団
陸軍航空審査部水戸試験場


水戸つばさの塔

かつての陸軍水戸飛行場跡の一角、現在の那珂湊運動公園の南東に、往時を偲ぶ空間があった。

水戸つばさの塔
 菅原道大書

散る桜 残る桜も
 散るさくら

菅原道大は、陸士21期。最終階級は陸軍中将。生粋の航空畑育ちで陸軍航空の第一人者。陸軍特攻の軍司令官であった菅原の名とともに垣間見る「残る桜」の重みを痛感。

合掌

昭和50年5月吉日建立。つばさと日本刀を象徴しているという。


由来記

由来記
 昭和13年、ここ前渡の地に千二百ヘクタールに及ぶ水戸飛行場を設定し翌年水戸陸軍飛行学校が開校。通信、戦技、武装、高射、化学戦、自動車、特操、佐尉官等の教育と研究を実施し、東部に陸軍航空審査部水戸試験場が設置された。
 昭和15年、水戸南飛行場に陸軍航空通信学校が開校され、通信教育と研究を移管した。
 戦局の要請により昭和18年8月、明野陸軍飛行学校分校が開校、水戸校は仙台に移駐した。昭和19年6月に至るや、分校は常陸教導飛行師団に改編。精鋭空中戦士の養成と研究に加え、本土防空の作戦任務を附与された。
 この地にあってその職に殉ずる者および、昭和20年2月16・17日の艦載機群邀撃等により身命を捧げた者その数百八十余柱、また南飛行場に於いても電鍵を片手に華と散った者数知れず。更に昭和19年11月以降特別攻撃隊一宇隊、殉義隊、第24振武隊、第53振武隊、第68振武隊、平井隊、誠35飛行隊の勇士七十余人は、相ついで進発レイテ沖に、台湾、沖縄海域に敵艦船を求めて突入し国難に殉じた。
 昭和20年4月、師団主力は群馬県新田飛行場に移動し終戦に至った。
 ここに終戦30周年を期し、関係者ならびに有志相計りこの戦跡を後世に伝え、殉国英霊の偉業を顕彰し、祖国永遠の平和を祈念して、この塔を建立す。
  昭和50年5月3日
   水戸飛行場記念会


陸軍 境界票石

上記の由来記の記念碑の隣に、さりげなくある。

2 陸軍用地


国旗掲揚塔(紀元2600年記念)

紀元2600年記念は、昭和15年(1940年)。

昭和15年に水戸陸軍飛行学校長であった、中薗盛孝の書と思われる。中薗盛孝は、最終階級は陸軍中将。
第3飛行師団長として出征し昭和18年(1943年)9月、搭乗機が広東上空で撃墜され戦死。


陸軍航空通信学校の門柱

水戸南陸軍飛行場にあった陸軍航空通信学校の門柱。


この校門は昭和15年陸軍航空通信学校が開校された元の所在地(水戸市住吉町)付近の畑に破損したまま放置されていたもので表題字は同校元副官山口敦氏の揮毫である。
 昭和56年4月16日
 水戸つばさの塔奉賛会

陸軍航空通信学校
山口敦の揮毫

金具が一つしか残っていない。


立川98式直協偵察機(キ36)プロペラ

立川九八式直接協同偵察機
別称は、九八式直協偵察機、九八式直協、九八直協、直協機など。司令部偵察機(司偵機)は戦略的な偵察任務を主とし、直接協同偵察機(直協機)は戦術的な偵察、近距離偵察を主任務としていた。立川飛行機としては初めての全金属製機であった。九八直協の総生産機数は1,334機で、立川飛行機としては最も多く生産した機種でもあった。

単葉機の割には短距離での離着陸が可能で、操縦性・低速安定性もよく、エンジン故障が少なく整備も容易だったため、使いやすい万能機として偵察、指揮、連絡、対地攻撃などの任務、さらには爆装した特攻機として終戦まで活躍した機体。

立川98式直協偵察機の「陸軍ハ13甲エンジン(九八式四五〇馬力発動機)(海軍呼称では天風エンジン」につけられていたプロペラが展示してある。

立川98式直協偵察機(キ36)プロペラ
このプロペラは、昭和20年2月26日の艦載機大空襲の際に、当飛行場から迎撃に飛び立ち、激闘のすえ壮烈な自爆を遂げた戦友(不詳)の最期を偲ぶもので、昭和51年8月11日、日立港沖合の海底から引揚げられたものである。
 昭和52年1月吉祥日
  水戸つばさの塔奉賛会


2式複座戦闘機(キ45改・屠龍)プロペラとエンジン

川崎二式複座戦闘機(二式複戦)。愛称は屠龍。エンジンは、三菱の陸軍ハ102(海軍呼称では瑞星21型)。
1942年(昭和17年)2月(皇紀2602年)に二式複座戦闘機として制式採用され。B-29迎撃で活躍。屠龍生産機数は1,704機。三菱のエンジン(陸軍ハ26・ハ102、海軍瑞星、陸海軍統合ハ31)としては、全型式総計で12,795台生産された。

2式複座戦闘機(キ45改・屠龍)プロペラとエンジン
この発動機は大洗沖で操業中の漁船の網に掛かりひき揚げられたもの。二式複座戦闘機(キ-45屠龍)のものと判明


増槽

屠龍のエンジンの後方には「増槽」も展示してある。
屠龍の増槽タンクなのかは不詳。後部には安定翼もあるジュラルミン製の燃料増槽タンク。


航空神社の御手洗

常陸教導飛行師団の本部前の航空神社の御手洗盤。


この御手洗はかつて本部前の航空神社に奉納されていたもので正面には当時の常陸教導飛行師団所属機が尾翼につけたマークが刻まれている
 昭和53年1月吉祥日
 水戸つばさの塔奉賛会

常陸教導飛行師団の所属機尾翼とおなじシンボルが描かれている。


水戸つばさの塔奉賛会

昭和50年5月3日、水戸つばさの塔竣工除幕式ならびに慰霊祭を執り行い、名称を水戸つばさの塔建立委員会(昭和42年発足)から水戸つばさの塔奉賛会と改称し、以後毎年慰霊祭を執り行い現在に至っている。


アクセス方法

私は、ひたちなか海浜鉄道「那珂湊駅」からレンタサイクルで訪問しました。バスもないエリアのようで、公共機関ではこの選択肢が最適な感じです。歩くとなると、阿字ヶ浦駅か磯崎駅かとなりますので、どのみち「ひたちなか海浜鉄道」となります。

場所

https://goo.gl/maps/vG1adtmDfo8E5vBJ8

※撮影:2022年9月


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-R526-6
1949年01月12日、米軍撮影の航空写真。
すでに北側に、射爆場が拡張されている。

「水戸つばさの塔」は、水戸飛行場(水戸東飛行場)の南東にあたる。


関連

「熊谷陸軍飛行学校桶川分教場(陸軍桶川飛行学校)」跡地散策・4

桶川にあった陸軍桶川飛行学校の跡地散策。
本記事は、「その4」です。

「その1」から順を追って見ていただければ、幸いです。

埼玉県桶川市、そして荒川の対岸の川島町にまたがるホンダエアポート。この場所がかつての熊谷陸軍飛行学校桶川分教場(陸軍桶川飛行学校)の桶川飛行場の滑走路があった場所。


川田谷飛行場(桶川飛行場)

現在のホンダエアポート。
昭和12年(1937年)に熊谷陸軍飛行学校桶川分教場開校時に「川田谷飛行場」として開設。桶川分教場(桶川飛行学校)の演習施設として使用されてきた。
戦後、放置されていたこの地を、ホンダが航空産業参入を目指しホンダエアポート(本田航空)を設立し、かつての川田谷飛行場を再活用している。ただし、陸軍時代とは滑走路は同じではない。(滑走路の位置等が多少変わっている。)

太郎右衛門橋からホンダエアポート方面を望む。この河川敷にかつて桶川分教場(桶川飛行学校)の滑走路があった。

河川敷をホンダエアポート方面に近づく。
ホンダエアポートを運用する本田航空の本社と格納庫が見える。

埼玉県防災航空隊の「あらかわ2」が駐機されていた。
「ユーロコプター AS365 N3」(機体記号: JA31KN)

AIRPORT

コンクリート構造物1(給水塔基礎跡)

このあたりに格納庫がありました。

吹き流しの隣に、なにやらコンクリート構造物がある。
給水塔基礎とされている。

コンクリート構造物2(固定ブロック跡)

滑走路方面に向うと、横堤の上にもなにやらコンクリート構造物が残っている。
何を固定していたのか。

コンクリート構造物3(吹き流し塔の台座跡)

滑走路の横堤の突端には、吹き流しを立てた台座が残っている。さきほどの固定ブロックの先。

訓練時には、この台座に立っていた吹き流しを目指して急降下訓練などもおこなわれていたという。

ホンダエアポート(川田谷飛行場)を離陸する小型機。

横堤の上から、往時を知る戦跡のコンクリートともに、小型機を見送る。

滑走路エリアは、立入禁止。

スカイダイビングが落下してきた。

ホンダエアポートはちょっとアクセスしにくい場所。
途中のバス停からでも、だいぶ歩きました。。。

※撮影は2022年3月

場所

https://goo.gl/maps/Jh3k1KNi3dL6iYSU8

参考リンク

https://www.city.okegawa.lg.jp/soshiki/soumubu/jichishinko/shisetsu_ichiran/shogai_bunka/otherfacilities/1937.html

https://www.okegawa-hiko.org/

https://www.jiji.com/jc/v4?id=okegaku15030001


関連

その2

その3

「熊谷陸軍飛行学校桶川分教場(陸軍桶川飛行学校)」跡地散策・3

桶川にあった陸軍桶川飛行学校の跡地散策。
本記事は、「その3」です。

「その1」から順を追って見ていただければ、幸いです。

ここでは、おもに展示内容に関して掲載していきます。


旧熊谷陸軍飛行学校桶川分教場 兵舎棟

旧熊谷陸軍飛行学校桶川分教場 兵舎棟
市指定文化財
旧熊谷陸軍飛行学校桶川分教場建物 兵舎棟
種別:有形文化財(建造物)
平成28年2月29日指定
 兵舎棟は、主に生徒が居住していた建物です。当時は、午後9時に将校がそれぞれの寝室の点呼を行い、生徒たちは異常なしの報告をした後に就寝しました。朝は午前5時30分に起床し、乾布摩擦や清掃、食事の後、6時30分には飛行場へ移動して飛行機の操縦訓練を開始していました。寝室は寝る場所であること以外に、銃や刀の手入れをしたり、毎夜、「軍人勅諭」を読み上げる場所でもありました。兵舎棟の前は校庭で、入校式が行われたり、準備運動を行う場所でした。兵舎棟の建物は、守衛棟と同様に、木造平屋建て切妻造の建物です。簡易な木造であることから、寒さ対策として天井裏には藁が敷かれていました。5つの寝室のうち、最も西側に位置する部屋は、昭和18年(1943年)生徒の増員に伴い増築されたものです。寝室のほか、建物に残る墨書から「事務室」や「医務室」があったことがわかっています。

手前側は当時の木材を再利用している。

このあたりは、当時の木材を利用。

復原整備された寄宿舎
 この部屋は、桶川分教場当時、生徒たちが寝泊まりしていた様子を再現したものである。床や壁などの部材も、ほぼ当時使われていた部材を使って復原している。
 生徒たちは朝、この部屋から日々の訓練へと出発し、夕方、訓練から帰り、就寝した。そして、卒業を迎えるとこの部屋を去り、戦場へと向かっていった。
 1部屋には18台の木製のベットが置かれていたが、隣との感覚が狭いことから、頭の位置を互い違いにするように配置されていた。棚には各自の銃や服、帽子、水筒などが整理整頓して置かれていた。

もちろん、布団はイメージ。これは当時のものではありません。


熊谷陸軍飛行学校桶川分教場と昭和の戦争

飛行学校誕生までの歩み
 1903(明治36)年、アメリカのライト兄弟が飛行機の初飛行に成功。飛行機が誕生する。
 それから11年後の1914(大正3)年に第一次世界大戦が勃発する。大戦当初、飛行機は敵の軍の偵察をその任務としていた。しかし、その後、軍の関連施設や街を直接攻撃するために爆撃機が開発され、兵器としての重要性が増していった。
 日本においても第一次世界大戦の終了後の1920(大正9)年に所沢に陸軍航空学校が開校し、操縦者や研究者の育成が始まった。
 1931(昭和6)年に満州事変が勃発すると、日中関係の緊張が高まった。こうした情勢を受け、航空兵力の増強が必要と考えた陸軍は、軍比較台の後押しも受けて、各地に飛行学校や分教場を開校していった。1935(昭和10)年には熊谷市に熊谷陸軍飛行学校が開校し、2年後の1937(昭和12)年6月3日には川田谷に桶川分教場が開校した。桶川分教場の開校は新聞でも取り上げられ、各地から入隊希望者が集まった。

陸軍航空学校
 日本では1909(明治43)年に臨時軍用気球研究会が設立され、気球と飛行機の研究がなされていたが、第1次世界大戦により欧米列強の飛行機の技術は飛躍的に向上し、日本は技術や軍編成で大きく後れをとることとなる。
 この事態を打開するために、1919(大正8)年には所沢陸軍飛行場に陸軍航空学校(1924年所沢陸軍航空学校に改編)が開設され、操縦者や研究者の育成が本格的に始められた。

熊谷陸軍飛行学校
 1931(昭和6)年9月の満州事変勃発とその後の緊迫した国際情勢、さらに極東におけるソビエト軍の空軍増強により、陸軍は軍備や人員を拡充する必要に迫られることとなる。
 これを受け1935(昭和10)年7月に熊谷飛行学校令の勅令が交付され、8月より着工、同年12月1日に熊谷陸軍飛行学校が開校する。
 以後、1945(昭和20)年の閉校まで陸軍における少年飛行兵教育の中心的役割を担う。

熊谷陸軍飛行学校と各地の分教場
 1935(昭和10)年熊谷陸軍飛行学校が開校した後、航空兵力の増強のため、各地に分教場が開設されていった。
 1937(昭和12)年には桶川の他にも、栃木県に金丸原分教場(番号10)、長野県に上田分教場(番号4)が開設された。その後も群馬県の新田分教場(番号2)、館林分教場(番号3)といった関東地方のみならず、東北地方の仙台や朝鮮半島にも分教場が開設されていった。

第三の空都 桶川分教場
 東京日日新聞埼玉版は、桶川分教場の着工から開校まで約4ヶ月の様子を3回にわたり伝えている。
 1937(昭和12)年6月3日付けの新聞記事にみられる「第三の空都」とは、桶川分教場が所沢、熊谷に続く3番目の飛行学校施設であったことを伝えている。

飛行機に夢を託した国民
 1932(昭和7)年には有志が基金を募り、軍用飛行機を購入し国に寄附する「軍用機献納運動」がおこるなど、飛行機に対する国民の期待が高まっていった。こうした機運の中で、飛行学校の生徒は「若鷲」とも呼ばれ、憧れの的としてマスコミ等で取り上げられるようになった。桶川分教場においても、1943(昭和18)年からは「桶川教育隊」と呼称が変更され、施設の規模も最大となり、訓練生たちが最も多く入校した時期となっている。


桶川分教場での学校生活

桶川分教場の1日
 桶川分教場の1日は、午前5時30分の気象のラッパとともにはじまった。
 起床した生徒たちは、校庭での乾布摩擦、寝室の内外や校庭の整頓・掃除、洗面、朝食を済ました後、午前6時30分には飛行場へ集合し、飛行機の操縦訓練が始まった。
 午前中、操縦訓練をした後、昼食をとり午後1時30分からは飛行機学などの学科が午後4時まで行われた。
 なお、訓練と学科は2班に編成された。操縦訓練を午前中に行う半は午後に学科を、午前中に学科を行う班は、午後は操縦訓練を行っていた。
 午後5時30分に夕食をとると、午後9時までは自習時間となった。その後点呼がとられ、軍人勅諭の読み上げが終わると、午後9時30分に消灯となる。
 こうして、分教場での長い1日は終わりまた翌日の、忙しい朝が始まるのである。

飛行訓練の様子
 飛行訓練は、荒川の対岸にあった飛行場で行われた。
 生徒たちは、地上での操縦桿の操作方法学習から始まり、助教官が同乗しての操縦訓練、一人での操縦訓練、編隊を組んでの飛行訓練と段階を追って訓練を受けていた。
 桶川分教場での飛行訓練には、95式乙Ⅰ型中間練習機と九九式高等練習機が使用されていた。

学習の様子
 桶川分教場では飛行兵として必要な知識の学習も教室棟で行われていた。飛行機の高度計や速度計などの計器について学ぶ計測器学、地図や地形について学ぶ地形学、天候や天気図について学ぶ気象学など多岐にわたる授業が、日々行われていた。
 こうした熊谷陸軍飛行学校桶川分教場での共同生活を通じて、生徒たちは飛行兵として育てられていった。

橋本久氏の日誌
 橋本陸軍曹長は1918(大正7)年、茨城県長田村(現、境町)で農業を営む橋本家の三男として生まれました。21歳の時に満州歩兵国境守備隊へ入隊し、2年後、航空兵へ転属をします。そして8月には桶川分教場へ入校します。
 橋本氏は1941(昭和16)年8月から翌年の10月にかけて「熊谷陸軍飛行学校日誌」を書き残しています。日誌には訓練の様子や学習の内容、行事など、桶川分教場で行われていた教育の内容が詳細に記されています。

桶川分教場ゆかりの品々。

教本など


飛行学校から戦地へ

拡大する戦争と飛行学校
 1937(昭和12)にはじまった日中戦争は戦線を中国全土に拡大しながら長期化の様相を呈していた。戦争の長期化に伴い、石油をはじめとする資源の確保および中国を支援するイギリス・フランスの支援ルートを遮断するため、1941(昭和16)年7月に日本はフランス領インドシナに進軍する。このことは英・仏のみならずアメリカとの関係も悪化させることになった。アメリカは在米日本資産を凍結し、対日石油輸出の全面的禁止を決定した。同年12月、ハワイの真珠湾およびイギリス領マレー半島にて米英との先端を開くことになり、太平洋戦争が始まる。
 中国のみならず東南アジア・太平洋諸島への戦線の拡大と戦争の長期化は物資や兵員の不足を招いた。こうした中、航空兵力の補充が急務となり、1943年(昭和18)年には桶川分教場の増築工事が実施される。しかしながら、本来は金具で補強されるべき部分を木材で補強するなど、当時、鉄が不足していた影響が現れている。

日中戦争
 大陸への進出を図っていた日本と中国の対立は深刻となり、1937(昭和12)年7月7日、中国の北京郊外の盧溝橋付近で日中両国軍の衝突事件が発生する。一時は現地で停戦協定が成立するものの、日本は現地へ兵を派遣して兵力を増加し、戦線を拡大した。これに対し中国の国民政府側も徹底抗戦の姿勢をとったことから、戦争は当初の日本側の予想をはるこにこえた日中の全面戦争に発展していった。

軍需工場と空襲被害
 戦争が長期化すると戦時体制は一層強まり、民需工場の軍需への転用が行われ、埼玉にも多くの軍施設や軍需工場が作られた。
 入間の豊岡には航空士官学校が、朝霞には予科士官学校が開設された。また、大宮には終戦まで世界屈指の業績を誇っていた日本の航空機・エンジンの会社である中島飛行機製作所の工場があった。このような軍需工場は、米軍による戦略爆撃の主な攻撃目標とされた。

太平洋戦争の推移
 開戦当初、日本軍は、マレー半島・ビルマ(ミャンマー)、オランダ領東インド(インドネシア)、アメリカ領フィリピンなど東南アジアから南太平洋にかけて、広大な地域を半年の内に制圧して、軍政下に置いた。国内では勝利が呼び起こした興奮の中で、政府・軍部に対する国内の指示が高まっていた。
 しかしながら、開戦から半年後の1942(昭和17)年6月のミッドウェー海戦の敗北をきっかけに、戦況は日本側に不利になっていった。
 1943(昭和18)年二月にはアメリカ軍との激しい戦いの末、ガダルカナル島から退却した。1944(昭和19)年7月には南洋諸島の中でも重要な軍事基地であったサイパン島が陥落した。こうしたことが機会となり、国内では小磯国昭内閣となったが、戦争はなお続けられた。
 1944(昭和19)年10月、アメリカ軍がフィリピンのレイテ島に上陸すると、日本軍は特攻(特別攻撃)隊による敵艦船への体当たり攻撃という作戦まで実行するようになった。

戦時下のくらし
 戦線の拡大と戦争の長期化は、やがて物資の不足と軍事費の増大を招き、ひいては、物価の上昇を招いた。
 1938(昭和13)には国家総動員法が制定された。その結果、政府は議会の承認なしに戦争に必要な物資や労働力を動員できるようになった。また翌年には国民徴用令の公布により、民間の人々が軍需産業に労働力として動員されるようになった。
 1940~1941(昭和15~16)年には、砂糖・マッチ・木炭・米・衣料などが次々に切符制・配給制となるなど。国民の生活はあらゆるところで切りつめられていった。
 さらに日中戦争が終結しないまま、豆理科・イギリスとの戦争を開始したことにより、物資・兵力・労働力の不足はより深刻化した。1943(昭和18)年には大学・高等学校・専門学校に在学中の学生を軍に徴集し、また学校に残る学生や女性を軍需工場で働かせた。

熊谷空襲
 熊谷空襲はポツダム宣言受諾を決定した1945(昭和20)年8月14日の午後11時30分頃から15日未明にかけての出来事であり、埼玉県下最大の空襲と記録されている。この空襲により、熊谷の市街地は一瞬のうちに火の海と化し、死者は266名、罹災者は15,390名にもおよぶ。
 終戦後、熊谷空襲から1ヶ月後の9月13日、軍政上の重要地として、県内で初めて熊谷陸軍飛行学校に米駐留軍12,000にんの進駐が始まる、その後、県内・近県に分散駐留することになった。

熊谷空襲に関しては、こちらの記事も。

熊谷陸軍飛行学校の廃止と特攻(徳月攻撃)隊
 1945(昭和20)年2月、不足する戦力を補うべく、教育隊の戦力化を図るため、熊谷陸軍飛行学校の機能が停止され、第52航空師団第6練習飛行隊として改編される。これに伴い、桶川分教場も閉鎖され、以後は特攻(特別攻撃隊)の訓練施設とて使用されることとなる。
 特攻(特別攻撃)とは200キロ爆弾や500キロ爆弾などを航空機等に装備し、期待ごと敵艦船に体当りするをする、操縦者の死を前提とした作戦である。特攻(特別攻撃)隊のうり、陸軍が沖縄戦のために編成し、知覧飛行場(現:南九州市)や万世飛行場(現:南さつま市)などの南九州の飛行場から出撃した部隊を「振武隊」と呼んだ。
 1945(昭和20)年3月27日に桶川分教場で教官を務めていた伍井氏が第二十三振武隊として、同年4月5日に第七九振武隊が知覧飛行場へ向かい飛び立った。

伍井芳夫 第二十三振武隊長
 伍井大尉(殉職後 中佐)は、1912(明治45)年7月、北埼玉郡豊野村(現、加須市)に父源助と母さたの二男として生まれました。小学校は豊野小学校に通い、中学校は加須の旧制不動岡中学に入学しました。若い頃から飛行機に憧れ、中学校卒業後は、航空士官学校を経て、熊谷陸軍飛行学校桶川分教場にて教官を務めていました。その温厚で誠実な性格から、多くの出身者の記憶に残っています。
 1945(昭和20)年3月27日、鹿児島県の知覧飛行場へ向うため、他の隊員11名とともに、壬生飛行場を出発します。その途中、桶川上空を通ったときに、2度旋回し、翼を左右に振って、桶川にいた家族に別れを告げました。
 当時、桶川には妻と幼い3人の子供が暮らしていました。
 1945年(昭和20)年4月1日、満32歳で特攻(特別攻撃)隊第二十三振武隊の隊長として、知覧飛行場より出撃し、慶良間列島付近で敵艦隊に突撃、二度と帰らぬ人となりました。

伍井大尉の遺書(写し)。

第七九振武隊
 第七九振武隊は、12名の隊員で編成された特攻(特別攻撃)隊です。隊員たちは1945(昭和20)年4月まで桶川飛行場で特攻の練習を続け、同月5日の正午に鹿児島県の知覧飛行場に向けて出発しました。途中、岐阜県の各務原飛行場、山口県の小月飛行場に1泊し、4月7日には知覧飛行場に到着します。
 同隊は9日後の4月16日に知覧飛行場から出撃し、うち2機は期待の故障などで戻りましたが、1機は22日に再出撃して、沖縄の海に消えていきました。

山田孝准尉
 山田孝准尉は1918(大正7年)、福岡県西牟田町(現、筑後市)に生まれました。1938(昭和13)年に砲兵から航空兵へ転属し、熊谷飛行学校に入校しました。1940(昭和15)年に同校を卒業後、満州のハイラル基地に配属されます。
 さらに1943(昭和18)年からはラバウル島やニューギニア島などの南方戦線に配属されます。1944(昭和19)年、負傷の為、本国へ還送され入院しました。担任伍、佐賀県の目達原基地にて、訓練生の指導にあたります。

終戦後の特攻命令
 山田氏は1945(昭和20)年8月15日、目達原基地にて玉音放送を聞きます。しかし、その2日後、基地に出勤したヤマダ市に特攻(特別攻撃)命令が下されます。
 展示している遺書は命令を受けた直後、山田氏が家族に宛てて書いたものです。
 結果として出撃前に命令は中止されますが、終戦後の現場の混乱を今に伝える貴重な資料といえます。

山田准尉の遺書(写し)


戦争から平和へ

平和への道のり
 3年8ヶ月にわたった太平洋戦争は、1945(昭和20)年9月2日、日本と連合国とのあいだで降伏文書の調印がおこなわれ、終結した。
 終戦後、にほんにはGHQ(連合国最高司令官総司令部)が進駐した。GHQは新憲法案を日本に提示し、日本の政府はGHQあんをもとに草案をつくり、1946(昭和21)年11gタウ3日、国民主権・平和主義・基本的人権の保障の原理にもとづく日本国憲法が公布された。
 また、1948(昭和23)年12月10日、フランスで開かれた第3回の国際連合の総会で「世界人権宣言」が採択される。
 一方で、軍施設としての役割を終えた桶川分教場は大陸からの引揚者を対象とした市営住宅として利用されることとなる。
(以下略)

戦後の旧飛行学校桶川分教場
 1945(昭和20)年8月15日に終戦を迎えると桶川分教場もその軍事的役割を終える。
 終戦後の当地には、1年ほど米軍が進駐したとの記録が残されている。また駐留米軍の指示により、軍事に直結した施設構造物は解体撤去され、火薬類や軍事書類の焼却処分が行われた。その後、桶川分教場は町が仲介する大陸からの引揚者寮(若宮寮)として、また空襲で家を失った人たちへの住宅としての活用がはじまった。
 若宮寮では最大で64世帯、約300人ほどが生活していた。
 若宮寮も2007(平成19)年3月に最後の住人が転出したことに伴い、約61年の歴史に幕を閉じたのである。

公共機関のアクセスは少々悪いけど、見ごたえのある展示。気がついたら90分ほど滞在してしまいました。過去を振り返っても致し方がないことですが、復原前の姿も見ておきたかった、、、ということはありますが。

次は、その4へ。荒川対岸の滑走路があった場所へ。

※撮影は2022年3月

場所

https://goo.gl/maps/gWNwrSWX2Uo1m1n4A

参考リンク

https://www.city.okegawa.lg.jp/soshiki/soumubu/jichishinko/shisetsu_ichiran/shogai_bunka/otherfacilities/1937.html

https://www.okegawa-hiko.org/

https://www.jiji.com/jc/v4?id=okegaku15030001


関連

その2

その4

「熊谷陸軍飛行学校桶川分教場(陸軍桶川飛行学校)」跡地散策・2

桶川にあった陸軍桶川飛行学校の跡地散策。
本記事は、「その2」です。

「その1」から順を追って見ていただければ、幸いです。


桶川飛行学校平和祈念館

桶川飛行学校平和祈念館

さて、敷地内に。

桶川飛行学校平和祈念館 施設案内
開館時間 午前9時~午後4時30分
休館日 月曜日(祝日の場合はその翌日休館)
    毎月月末(日曜の場合は開館)
    年末年始(12月27日~1月5日)
    その他特別整理期間等
入館料 無料


守衛棟

熊谷陸軍飛行学校桶川分教場と建物
熊谷陸軍飛行学校桶川分教場
熊谷陸軍飛行学校桶川分教場は、昭和10年(1935年)に現在の熊谷市に開校した熊谷陸軍飛行学校の分校として昭和12年(1937年)に設置されました。各地から集った生徒はここで寝食をともにしながら、陸軍航空兵になるための飛行機の操縦教育を受け、その後戦地へ向かいました。当時の桶川分教場には、飛行機学・発動機学・気象学など、複数棟の建物がありました。現在、本部棟や食堂棟など約半数の建物は基礎だけ残っている状態ですが、守衛棟・車庫棟・兵舎棟・便所棟・弾薬庫の5棟については建物全体が残されています。

市指定文化財
旧熊谷陸軍飛行学校桶川分教場建物 守衛棟
種別:有形文化財(建造物)
平成28年2月29日指定
 桶川分教場時代の守衛棟には、門衛が待機し、生徒や教官、分教場で働く地元の人々など、入場者の管理をしていました。一時期は、生徒が利用する売店があったとも伝えられています。建物は木造平屋建て切妻造で、壁は木材を横に張る南京下見板張とし、屋根はセメントを固めてつくるスレートという材料で葺かれています。


建物跡(消防ポンプ小屋)

井戸跡。


車庫棟

旧熊谷陸軍飛行学校桶川分教場建物 車庫棟
市指定文化財
旧熊谷陸軍飛行学校桶川分教場建物 車庫棟
種別:有形文化財(建造物)
平成28年2月29日指定
 車庫棟は、桶川分教場で使用されていたトラックなどの軍事車両を格納・整備するための建物です。室内のコンクリートの土間には一段下がった部分があり、これは車両整備のためのピットとして使用されていました。車庫棟は、木造平屋建て切妻造の建物で、壁には主に波板鉄板張としながら、一部がささら子下見板張で、屋根はスレートで葺かれています。当時は陸軍省経理局から「陸軍建築設計要領」が発行されていたため、桶川分教場もこれにならい、やめに不燃材料であるスレートを使用し、屋根の骨格には洋小屋(キングポストトラス)を採用しています。また、この建物は昭和18年(1943年)に増築され、4間半(9m)文、建物が拡大されました。当初部分と増築部分では、異なる工法が用いられています。屋根を構成する洋小屋の合掌の補強を見ると、当初部分は金属製の留め具が用いられていますが、増築部分は木の板に釘留めをすることで代用されています。戦争が長期化したことで、金属資源が不足したことによるものであると考えられます。

ピット(作業用のくぼみ)
ピットをまたぐ形で車両を停め、車体の整備を行っていました。
ピットの寸法
幅 0.93m
奥行4.03m
深さ1.04m

1 建物の概要
桶川市指定文化財
旧熊谷陸軍飛行学校桶川分教場建物
 1.守衛棟
 2.車庫棟
 3.兵舎棟
 4.便所棟
 5.弾薬庫

2 桶川分教場の敷地
 陸軍省は、昭和12年(1937年)に桶川分教場の建設用地を購入しました。昭和14年(1939年)及び昭和18年(1943年)にも、周囲の土地を買い足しています。
 当時の桶川分教場は、現在の桶川飛行学校平和祈念館の敷地より広い敷地を有していました。

3 桶川分教場の建設
 桶川分教場は当時の陸軍の規定に則して、守衛棟・車庫棟・兵舎棟・便所棟は木造で、爆発するおそれがある弾薬庫は、鉄筋コンクリート造で設計されました。
 建物の工事期間は、わずか4ヶ月ほどで、建設を急いでいる様子が当時の新聞でも報道されています。建設を急いだためか、建物の部材各所に残る墨書の筆跡からは、複数の大工集団が建設にあたっていた様子が伺えます。敷地内の植樹は、地元川田谷村青年団の努力奉仕により行われました。
 荒川対岸にあった飛行場では、開校当時、飛行機は天幕によって格納されていましたが、昭和14年(1939年)、格納庫の建設が決まりました。現在は、その基礎のみが残っています。

4 建物の特徴

5 建物の調査

6 文化財建造物の修理


建物跡(学校本部棟)


建物跡(食堂棟)


便所棟

旧熊谷陸軍飛行学校桶川分教場建物 便所棟
市指定文化財
旧熊谷陸軍飛行学校桶川分教場建物 便所棟
種別:有形文化財(建造物)
平成28年2月29日指定
 便所棟は、生徒の便所・洗面場として使用された建物です。生徒は午前5時30分に起床し掃除の後、ここで顔を洗い、葉を磨き、身支度を整えました。便所は汲み取り式で、便房の床下に設置した甕に溜まったものを、取り出し口からひしゃくなどで汲み取っていました。便所棟の建物は、守衛棟・兵舎棟と同様に、木造平屋建て切妻造の建物で、壁は南京下見板張、屋根はスレートで葺かれています。守衛棟・車庫棟・兵舎棟は屋根の骨格が「洋小屋」ですが、便所棟の屋根の骨格は「和小屋」です。当時、陸軍省から発行されていた「陸軍建築設計要領」には、間仕切壁の多い厠(現在の便所)は和小屋にすることが規定されていたので、これに従い和小屋を採用したと考えられます。昭和18年(1943年)には生徒の増員に伴い、便房が2室増築されました。創建当初からある甕は陶器製ですが、増築部分の甕はコンクリート製です。

昭和18年(1943年)増築部の便房(東側の2室)で使用されたコンクリート製の甕

井戸


建物跡(教室棟)


防火水槽跡(円形)


防火水槽跡(八角形)


講堂跡

桶川飛行学校平和祈念館の敷地裏。ここは、桶川飛行学校平和祈念館の敷地外。講堂があったという。ホンダの管理敷地。

次は、その3へ。メインの兵舎棟へ。


関連

その3

その4

「熊谷陸軍飛行学校桶川分教場(陸軍桶川飛行学校)」跡地散策・1

桶川にあった陸軍桶川飛行学校は、戦後は市営住宅として活用されていたが、木造建築であったために老朽と廃墟化が進んでいた。その後、私が戦跡に興味を持ったときは、桶川飛行学校跡地は復元整備工事の最中となり、長く立ち入ることができなかった。
そういえばそろそろ落ち着いたかなと、ふと思い出して脚を運んだのが2022年3月のこと。そうして復元が完了した桶川飛行学校の跡地を散策してみる。


熊谷陸軍飛行学校桶川分教場(陸軍桶川飛行学校)

熊谷陸軍飛行学校
昭和9年、所沢陸軍飛行学校が開設。翌年の昭和10年(1935年)12月に、操縦分科の生徒教育のために、熊谷陸軍飛行学校が開設。主として飛行機操縦に従事する航空兵科下士官となる生徒、少年飛行兵、あるいは将校、下士官の操縦学生などに対し、飛行機操縦の基本教育を行った。
昭和12年に所沢陸軍飛行学校が廃止され、操縦学生は本格的に、熊谷陸軍飛行学校で教育されることとなった。
熊谷陸軍飛行学校は昭和20年2月に第52航空師団の一部に改編のため閉鎖。

熊谷陸軍飛行学校桶川分教場
昭和12年(1935年)6月に、熊谷陸軍飛行学校桶川分教場として竣工。
昭和20年(1945年)2月、熊谷陸軍飛行学校は廃止され、傘下の桶川分教場(「桶川教育隊」と呼称)も、第52航空師団第6練習飛行隊(秘匿名称「紺第540部隊」)に改編され、特攻攻撃の訓練基地となった。
昭和20年4月5日、桶川で訓練をしていた「第79振武特別攻撃隊」12機が特攻隊として知覧基地へ移動し16日に沖縄に向けて出撃をしている。使用された航空機は、旧式の「九九式高等練習機」。特別攻撃隊第79振武隊は、陸軍で初めての練習機編成による特攻隊とされている。

熊谷陸軍飛行学校桶川分教場跡
 熊谷陸軍飛行学校桶川分教場(桶川飛行学校)は、昭和10年に開校した熊谷陸軍飛行学校(現在の航空自衛隊熊谷基地)の分教場として、昭和十二年六月ここに開校しました。
 守衛所(衛兵所)、車庫、本部宿舎、便所、弾薬庫などが現存し、滑走路は荒川の対岸にあり、現在、ホンダ航空が使用しています。川島町側、本田航空社屋脇の堤防から滑走路に向かう広々とした所には、格納庫と現地事務所がありました。教官、学生以外は熊谷本校に雇用された地元の人たち(軍属)で、学校事務のほか、飛行機の整備や通信、気象などの業務にあたりました。
 昭和十八年三月までは、ほかの兵科から飛行兵を希望してきた召集下士官学生を教育し、以後、陸軍少年飛行兵、学徒出陣の特別操縦見習士官など、昭和二十年二月の閉校までに二十期余り、推定千五百~千六百の飛行兵を教育しました。昭和十八年九月に卒業した陸軍少年飛行兵第十二期生は四十五名中十八名が、昭和十九年三月卒業の特別操縦見習士官第一期生は八十余名中二十名近くが戦死しています。
 昭和二十年二月以降は特攻隊の訓練基地として使用され、同年四月五日、陸軍初の練習機による特攻となる特別攻撃隊第七十九振武隊が出撃基地である鹿児島県知覧飛行場に向け出発しています。隊員十二名は四月十六日に沖縄の海に向け出撃し、十一名がなくなりました。特攻機は隊員たちが高等練習機を近隣の飛行場から集めてきて戦闘機の色に塗装したもので、尾翼に描いた標識(マーク)も隊員たちが考案したものだあると推定されています。特攻機が知覧飛行場に向かう際、下関の小月飛行場まで同乗していった元整備員の体験談も公表され、また、特攻隊出発時の写真や隊員の手記、寄せ書きなども残されています。
 戦後、旧校舎は内部を改造して、住宅困窮者の住居(通称「若宮寮」)として使用され、昭和三十一年には六十四世帯、三百人余りがひとつのコミュニティを形成していました。
 平成十六年、桶川市による戦争体験記募集の事業をきっかけに、この歴史を調査記録するNPOが設立され、多くの関係者の手記や当時のエピソードが収集されています。平成十九年三月に最後の住民が転出した後、桶川市は、同NPOが実施した保存署名に応える形で敷地を国から購入し、現在、保存に向けて事業が進められています。
 平成二十七年五月
 看板寄贈 桶川ロータリークラブ
 文責 NPO法人 旧陸軍桶川飛行学校を語り継ぐ会

参考
NPO法人旧陸軍桶川飛行学校を語り継ぐ会

https://www.okegawa-hiko.org/


桶川飛行学校平和祈念館

昭和12年に熊谷陸軍飛行学校桶川分教場、昭和20年に特攻隊訓練基地として使用され終戦。戦後は、GHQにより進駐もあったが、その後は市営住宅(若宮寮)として2007年まで使用されていた。
その後、跡地建屋を解体して国に返還する予定であったが、保存活動もあり、桶川市として保存に方針転換。2018年から2020年にかけて、復元整備工事が行われ、2020年8月に「桶川飛行学校平和祈念館」として開館した。

桶川飛行学校平和祈念館は、当時の熊谷陸軍飛行学校桶川分教場の建物を活用し、平和を発信し、平和を尊重する社会の実現、及び地域の振興に寄与するための施設として、2020年(令和2年)8月4日に開館しました。
熊谷陸軍飛行学校桶川分教場は、1935年(昭和10年)に現在の熊谷市に開校した熊谷陸軍飛行学校の分校として1937年(昭和12年)に設置されました。各地から集まった生徒はここで寝食をともにしながら、陸軍航空兵になるための飛行機の操縦教育を受け、その後戦地へ向かいました。
戦後、桶川分教場の建物は、引揚げ者のための市営住宅「若宮寮」として使用されました。2016年(平成28年)には、守衛棟、車庫棟、兵舎棟、便所棟、弾薬庫の5棟が市の文化財に指定され、2018年(平成30年)から2020年(令和2年)にかけて、これらの建物について復原整備工事を実施しました。 

桶川市 https://www.city.okegawa.lg.jp/soshiki/soumubu/jichishinko/shisetsu_ichiran/shogai_bunka/otherfacilities/1937.html

位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-R402-14
昭和22年(1947年)10月28日、米軍撮影の航空写真。

荒川を挟んで、東西。ちょっと不便そうな立地。。。


「桶川飛行学校平和祈念館」散策

川越駅と桶川駅を結んでいる東武バスウエストにて、最寄りとなるは柏原バス停で下車。跡地に向かう。バスは少ない。。。

旧陸軍桶川飛行学校跡地

95式1型乙練習機(赤とんぼ)

アプローチ道路。


熊谷陸軍飛行学校桶川分教場 弾薬庫と周辺施設

熊谷陸軍飛行学校桶川分教場 弾薬庫と周辺施設
市指定文化財 
旧熊谷陸軍飛行学校桶川分教場建物 弾薬庫
種別:有形文化財(建造物)
平成28年2月29日指定
 弾薬庫は、桶川分教場の時代から存在する建物の一つで、鉄筋コンクリート造平屋建て、室内の内寸が間口1.82m、奥行き1.47mほどの小さな建物です。室内の床を地面より高くすることで、湿気が上がらないように配慮されています。屋根を木造、壁をコンクリート造とすることで、爆発したときには屋根のみが引き飛ぶ構造とされています。桶川分教場は戦闘用の基地ではなく、あくまで訓練用の施設であったため、大きな弾薬庫が必要なかったものと考えられます。

飛行場(滑走路・格納庫)
 荒川の西側にある河川敷に、かつては滑走路と格納庫を備えた60万㎡ほどの飛行場があり、生徒はそこで通称「赤とんぼ」と呼ばれる九五式1型練習機に乗って操縦訓練を受けていました。当時の飛行場は残っていませんが、現在、同じ場所を本田航空株式会社が滑走路として使用しています。

境界杭
 敷地の周囲には境界を示す杭が残り、「陸軍」と刻まれています。桶川分教場の敷地は複数回にわたって買い増しされています。
  令和2年3月 桶川市

滑走路跡は「その4」で掲載。


陸軍桶川飛行学校の陸軍境界標

アプローチ道路の両脇には「陸軍境界標」が林立している。

1つ目。

2つ目。

境界標「陸軍」

3つ目。

4つ目。

5つ目。

6つ目。

7つ目。

8つ目。

9つ目。

10つ目。
門柱の脇に。

もっとあるかもしれないけど、とりあえず「陸軍境界標石」は10個を確認。

陸軍桶川飛行学校


陸軍桶川飛行学校の弾薬庫

弾薬庫は往時から残る建屋。上部は復元されている。


陸軍桶川飛行学校の防火水槽

弾薬庫の目の前に残る防火水槽。

さて、次は「桶川飛行学校平和祈念館」の敷地内にむかいます。

※撮影は2022年3月

場所

https://goo.gl/maps/gWNwrSWX2Uo1m1n4A

参考リンク

https://www.city.okegawa.lg.jp/soshiki/soumubu/jichishinko/shisetsu_ichiran/shogai_bunka/otherfacilities/1937.html

https://www.okegawa-hiko.org/

https://www.jiji.com/jc/v4?id=okegaku15030001


関連

その3

その4

厚木海軍飛行場の戦跡散策(米海軍厚木航空施設)

2022年8月20日(土曜日)、3年ぶりに米海軍厚木航空施設にて、「盆踊り(BONODORI)」が実施され、一般公開が行われた。せっかくでしたので脚を運んでみました。


厚木海軍飛行場

帝国海軍が帝都防衛の拠点として昭和13年(1938年)に工事着工、昭和17年(1942年)完成した飛行場。
整備訓練航空隊として「相模野海軍航空隊」「第二相模野海軍航空隊」や戦闘機操縦士錬成部隊として「厚木海軍航空隊(第二〇三海軍航空隊)」が置かれた。末期には防空隊として「第三〇二海軍航空隊」が設置され、帝国陸軍の調布・柏・松戸・成増などとならび、首都防空の一翼を担った。
戦争末期、特に302空司令の小園安名大佐は徹底抗戦を主張し、8月15日は混乱と反乱状態にあたった。8月22日、小園大佐の拘束後も逃走せず暴動状態であった兵たちを強制退去させ、厚木飛行場の反乱は収束。8月30日にダグラス・マッカーサー連合軍総司令官の乗った輸送機「バターン号」が厚木飛行場に着陸。アメリカ軍の管理下に置かれた。


マッカーサーガーデン
MacArthurGarden

1945年8月30日。
ダグラス・マッカーサー連合軍総司令官の乗った輸送機「バターン号」が厚木飛行場に着陸。細いコーンパイプを咥えてタラップを降りたマッカーサーは、「メルボルンから東京へ、長い道のりだった」と第一声を放った。

日本の民主主義の生みの親マッカーサー

この表現には、いろいろ思うところもあるが、少なくとも「戦後民主主義」の枕詞が必要かと。

なるほど、日本人による寄贈か。。。

余談だが、マッカーサーの像は八王子にもある。

連合国軍最高司令官総司令部が入った第一生命館


厚木海軍航空隊時代の止水栓(海軍栓)

米海軍厚木航空施設には、海軍時代の遺構として「止水栓(海軍栓)」がいくつか残っている。探せばもっとあるのかもしれないが、今回の立ち入り可能範囲内では「6つ」を見つけることができました。

1つめ
入口ゲート近く

2つめ
ゲートからまっすぐ歩いた向かって右側

3つめ。
正門ゲート直進の鳥居の近く。

4つめ。

5つめ。

6つめ。

以下は、参考までに、「止水栓(海軍栓)」のわかりやすい見本ものせておきます。
厚木は摩耗していたり、黄色いペンキで塗ってあったりでいささかわかりにくいので。

上記の写真は横須賀の海軍工機学校敷地内に残っているもの。記事は下記から。


謎のコンクリート造形物

米海軍厚木航空施設内にあった、不自然なコンクリートの塊。コンクリートの状態から、帝国海軍時代のものと思われるのだが。一節には「防空監視哨」という話もあるが、設置場所は、いうほど高台ではないので監視できているかもあって謎。


米海軍厚木航空施設(海上自衛隊厚木航空基地)

以下、写真にて。

ATSUGI NAF JAPAN

米海軍厚木航空施設 海上自衛隊厚木航空基地

k-9 POLICE

字が反転している。

危険 軍用犬

盆踊り22

BONODORI

SNJ-6
テキサン
海上自衛隊のT-6ですね。

米海軍厚木航空施設マンホール

塗装なしマンホール

こっちは海自のマンホールかな。

MWR ATSUGI JAPAN

多分偉い人のレセプション会場

米海軍厚木基地

盆踊り会場

友好広場
ALLIANCE PARK

協調と安全保障の50年を記念して

友好広場には錨もありました。

ごーるでんふぁるこんず!
HSC-12 GOLDEN FALCONS

おねーさん!!
目線Thanks!

F-14 Tomcat

F-4S

A-4 SKYHARK

旭日と富士山塗装のヘリ。

H-3 SEA KING

フードコード

ぴったりが支払えない場合は、カード払いで。。。

コップを購入したら飲み放題になるシステム。しかし補充が追いつかず、飲み尽くされた状態。。。。

教会

McDonald’s

マクドナルド!

限定メニュー

実は、厚木基地は初めて行きました。

盆踊りが始まる前に離脱してしまいました。。。

また、次回も機会があれば、止水栓(海軍栓)探しを行ってみましょう。

※撮影:2022年8月


関連

戦後国産機リスタート「新立川飛行機」と「立飛R-HM型軽飛行機」(立川立飛)

戦後日本の航空産業は、時(とき)を止めていた。
そして終戦から7年後に、国産機の復活の口火を切ったのが「新立川飛行機」であった。


新立川飛行機

戦前、中堅飛行機メーカーとして、「赤とんぼ」や中島飛行機「隼」のライセンス生産などを行ってきた「立川飛行機」。
終戦により、立川飛行機をはじめ、日本国内の航空産業はすべて停止させられた。
立川飛行機は、1949年(昭和24年)11月15日に企業再建整備法により、「立飛企業」と「タチヒ工業」(のちの新立川飛行機)とに分割された。

昭和20年(1945年)11月18日
「民間航空廃止ニ関スル連合軍最高司令官指令覚書」発令
連合軍による航空活動の禁止命令(航空禁止令)

昭和25年(1950年)6月25日、朝鮮戦争勃発。
昭和26年(1951年)9月8日、サンフランシスコ講和条約
同年10月25日、民間航空再開。
昭和27年(1952年)7月、航空法及び航空機製造法が公布。

R-52型軽飛行機

昭和27年9月、飛行機制作が解禁され立川飛行機の技術伝承を目的に設立されていた第二会社「新立川飛行機」が、戦後最初の国産機「立飛R-52練習機」を制作。戦時中に作られた部品の寄せ集めではあったが、国産航空機生産は、「新立川飛行機」から始まった。
「R」は練習機を意味し、「52」は1952年型を意味する。
R-52は、戦前に試作していたR-38練習機をベースとしているため、戦前の航空機を再生産したような古い設計の飛行機であったが、それでも戦後の国産飛行機のはじまりには違いない。

R-53型軽飛行機

https://www.tachihi.co.jp/2013/10/02/%E3%80%8Cr-53%E5%9E%8B%E8%BB%BD%E9%A3%9B%E8%A1%8C%E6%A9%9F%E3%80%8D%E4%BF%AE%E5%BE%A9%E5%AE%8C%E4%BA%86%E3%81%AE%E3%81%8A%E7%9F%A5%E3%82%89%E3%81%9B/

「R-53型軽飛行機」について
R-52の改良型として製作され、基本的な設計は変わらず、エンジンをイギリス製シラス・メジャー(155hp)に換装するなど改良が加えられました。同機は「R-52」と共に全日本学生飛行連盟に貸与され、日本一周飛行に参加しました。その後、一旦、航空大学校での練習機としての使用を経て1957年に新立川航空機㈱に返却されました。

機体概要
全長:7.5m、全幅:10.7m、全高:2.65m、最高速度:時速207km/h、上昇限度:4,500m

R-HM型軽飛行機

https://www.tachihi.co.jp/2013/05/01/%E3%80%8Cr-hm%E5%9E%8B%E8%BB%BD%E9%A3%9B%E8%A1%8C%E6%A9%9F%E3%80%8D%E4%BF%AE%E5%BE%A9%E5%AE%8C%E4%BA%86%E3%81%AE%E3%81%8A%E7%9F%A5%E3%82%89%E3%81%9B/

R-HM型軽飛行機はフランス人技師のアンリ・ミニエ氏指導の下1954年(昭和29年)に新立川航空機㈱で製作(機体番号:JA3094)され、同年に試作機の初飛行に成功しました。 当初は「空のジープ」として海外の飛行場が未整備の国に輸出する意向でしたが、操縦が難しい為、量産には至りませんでした。

機体概要
全長5.80m 全幅8.00m 全高2.00m 最高速度150km/h 上昇限度3,000m

ーーー

こうして、新立川飛行機は戦後、上記3機の飛行機を設計開発した。

修復作業

新立川飛行機が2013年にエンジン部品の製造部門を廃止することから、過去資料を残す意味合いから、保存されていた「R-53」と「R-HM」の修復作業が施された。
2020年から、「R-HM」のみ、立飛ホールディングスも経営に関わる立川市の複合施設「GREEN SPRINGS」に移され一般公開されている。


R-HM型軽飛行機の公開

R0HM型軽飛行機(機体番号:JA3094)
終戦と同時に禁止となった飛行機制作が1952年に解禁されて以降、立飛グループでは、飛行機制作技術の再興を目的に、戦後初の国産飛行機であるR-52型軽飛行機を含む3機の飛行機を製作しました。
3機のうちの1機であるR-HM型軽飛行機は、フランス人技師のアンリ・ミニエ氏が設計し、1954年に初飛行に成功しました。「プー・ド・シェル(空の虱)」の愛称で呼ばれた同機は、低速での飛行が可能な反面、高度な操縦技術が要求されたことから量産には至りませんでした。
2013年、立川における飛行機制作の歴史を地域の子どもたちにお伝えするために、長年立飛グループの倉庫に保管されていたオリジナルの機体を修復いたしました。設計図以外の資料が殆ど無い中、試行錯誤の末に修復された同機は、羽布を貼る工程等について、外部の専門家から高い評価を受けました。

機体諸元
全幅:8,000mm 
全長:5,080mm 
全高:2,000mm 
最高速度:150km/h 
上昇限度:3,000m

商業施設のいっかくに、飛行機が展示してある。

新日本立川航空機株式会社
タチヒ
R-HM型

場所

https://goo.gl/maps/H4sbnGpcvoB2Hdhy6

https://goo.gl/maps/oYhSG2WoCCxQN2tX6

※撮影2022年6月


関連

戦前日本第四位の航空機メーカー「立川飛行機」の跡地散策(立川立飛)

戦前日本の航空機メーカーのトップスリーは、中島・三菱・川崎。この大手三社に続く四番手が「立川飛行機」。
戦後、航空機産業の道は閉ざされ、航空機メーカー各社は、それぞれの道を歩むことになる。そんな中で、立川飛行機は、今も色濃く立川の街に溶け込んでいくことになる。
そんな立川飛行機の名残を立川に散策してみる。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-R556-No1-15
昭和22年(1947年)11月14日、米軍撮影の航空写真。

立川飛行場周辺

わかりやすく、区画が残っている。

南地区。

ほとんどの建屋が、位置が変わらずに今も使用されているような感じで残っている。
これはすごい。。。

西地区。こちらも一部の建屋が位置も変わらずに、今も使用されている。


立川飛行機関連


立川の飛行機メーカー関連

中島飛行機

日立航空機

昭和飛行機


立川飛行機

石川島飛行機
1924年(大正13年)、石川島飛行機製作所(石川島飛行機)が設立。これは東京石川島造船所(現在のIHI)が中心となって出資設立されたものであった。
1930年(昭和5年)、立川陸軍飛行場のある立川に移転。
1934年(昭和9年)、陸軍の依頼で中等練習機を開発。陸軍主力中等(初等)練習機「九五式一型練習機」として正式採用され、「赤とんぼ」として親しまれた。

立川飛行機の戦前
1936年(昭和11年)、陸軍省の要請により、工場所在地の地名を取り込んで「立川飛行機」と改称。中堅航空機メーカーとして、
ロッキードよりL-14 スーパーエレクトラのライセンス生産権を購入して「ロ式輸送機」として生産し、また「九八式直協偵察機」・「九九式高等練習機」・「一式双発高等練習機」等の開発・生産を行いつつ、中島飛行機が開発した一式戦闘機「隼」の大規模な移管生産を行っていた。
一式戦「隼」二型(キ43-II)は約1000機、三型(キ43-III)は約1500機が立川飛行機で量産されている。
昭和19年、軍需会社指定。
昭和20年三月及び4月の大空襲で立川飛行機立川工場の施設大破。

「新立川飛行機株式会社」
敗戦後、工場は進駐軍によって接収。1949年には立川飛行機株式会社の出資によって第二会社である「タチヒ工業株式会社(立飛工業株式会社)を設立。
1952年には、戦後国産第一号機となる「R-52型軽飛行機(練習機)」を開発。
立飛工業株式会社は、「新立川航空機株式会社」と改称し、「R-53型軽飛行機」「R-HM型軽飛行機」も開発。日本の航空機開発は戦後の断絶があったことから時代遅れな技術であり、量産には至らなかった。

「たま電気自動車」から「プリンス自動車」
1947年、飛行機の開発を禁じられた立川飛行機の元従業員ら約200名が「東京電気自動車(たま電気自動車)」を設立。世界初の量産された電気自動車を生み出す。当時はガソリン流通に制限がある一方で、多くの工場が空襲被災し電気が余っている情勢であり、電気自動車が最適な選択肢であったが、1950年の朝鮮戦争勃発で鉛が高騰し、電気自動車の製造を終了させている。
その後、立川飛行機の流れをくむ「たま自動車」は、「プリンス自動工業(プリンス自動車)」となり、中島飛行機系の「富士精密工業」と合併。
1966年、「プリンス自動車工業」は、日産自動車に吸収合併となる。

「立川飛行機」本家の戦後
本家の立川飛行機は、戦後の1955年に「立飛企業株式会社」に改称。主力事業は不動産賃貸となる。
2012年、「株式会社立飛ホールディングス」を設立。現在に至る。


立川飛行機の給水塔(南地区)

昭和13年(1938年)建築。立川飛行機時代の名残。以前は周辺に建屋があったが、2022年6月現在は、給水塔の周りの建屋が解体されており、全景をよく見ることができる。
4階建ての建屋で、上部は給水槽となっている。

多摩モノレールの高松駅から給水塔を観察。

高松駅を降り、地上から。給水塔の脇に、記念碑がある。

立飛企業株式会社発祥之地碑

昭和45年11月建立。
統治が米軍に接収されていたため、記念碑設置当初は、別の場所(新立川ビル)に建立されていたが、その後に米軍から土地返還され、平成17年に本来の地に記念碑が移設されている。

南地区の敷地をぐるっと回ってみる。

建屋が解体され、いまなら給水塔がよく見える。

場所

https://goo.gl/maps/XvWqCiQEBKDsnb658


立川飛行機(南地区)

南地区の建屋。立川飛行機時代の戦前建造建造物の様相を残す。

南地区を外周から建屋観察。

のこぎり屋根、ですね。

だいたい、戦前からの建屋。。。

立川飛行機南地区の入り口。

一周して、多摩モノレール高松駅に戻ってきました。


多摩モノレールから見る立川飛行機(南地区)

モノレールからみる工場敷地。
上から全体的に見ることができるので、おすすめ。


多摩モノレール高松駅から立川飛行機(南地区)

ホームからも。

場所

https://goo.gl/maps/ZmHYRTidxqPu7QbFA


立川飛行機(西地区)

多摩モノレール立飛駅。
立飛駅の東側は再開発されて、「ららぽーと立川立飛」。西側には「アリーナ立川立飛」や「TACHIHI BEACH」などもある。
文字通りに立飛の街。立川飛行機の街。

こちらにも「給水塔」が残っているが工場敷地なので望遠で。
立川飛行機の給水塔(立飛の給水塔)。

場所

https://goo.gl/maps/ZZ7ypiaHBHHZf5Fg6

給水塔の手前にある管理事務所も、往時からの建屋だろう。

西地区は近寄れなかったので、望遠で。

工場のノコギリ屋根が見える。


多摩モノレールから見る立川飛行機(西地区)

同じく、モノレール車中から観察。


多摩モノレール立飛駅から立川飛行機(西地区)

ホームから、西地区を観察。

立川飛行機の名残を散策してみましたが、思っている以上に当時の建屋が残っていることを実感しました。
しかし、南地区の給水塔の近くにあった建屋は解体されており、今後も解体が増えていく可能性も否定できません。給水塔は残してくれるかとは思いますが、それ以外の建屋に関しては見れる間に、早めに見に行ったほうがよいかもしれません。

※撮影:2022年6月

多摩陸軍飛行場(横田基地)の格納庫

在日米空軍横田基地で「日米友好祭フレンドシップフェスティバル2022」が、5月21日22日にかけて、3年ぶりの開催された。

実は横田基地は初めて。
事前学習せずに、何気ない気持ちで行ってみたら、大行列と雨に巻き込まれて散々な状態となり、写真もまともに撮れていないひどいありさま。今回の記事は、掲載を見合わせようかと思うレベルではありましたが、来年以降のリベンジの念も込めて、かなり半端な内容ですが掲載します。

2023年にリベンジしました。
より詳細な記事は、以下にて


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-R556-No1-80_19471114
1947年11月14日に米軍が撮影した航空写真を加工。

拡大。

当時の写真と、Google航空写真との照合を行ってみる。
横田に行く前に事前に、この照合作業をおこなっていれば、よいものを、今回は手抜かりもあり、記事に漏れが多数。。。

日本戦跡協会さまより、
「南の右の格納庫は、米軍が建てたもの」とコメントを頂きました。


多摩陸軍飛行場(福生飛行場・横田飛行場)

昭和15年(1940)、立川陸軍飛行場の付随施設として建設。
同年4月に、陸軍飛行実験部(陸軍航空審査部飛行実験部)が立川から多摩に移転。
大戦末期の本土防空戦時には、飛行実験部戦闘隊を「福生飛行隊」と通称し、第10飛行師団指揮下の臨時の防空飛行部隊として投入され、戦果も上げている。
戦時中の米軍は、従来把握していなかった多摩陸軍飛行場を「横田飛行場」と名付たことから、「横田基地」と呼ばれるようになった。
終戦後は、アメリカ軍に接収され、朝鮮戦争やベトナム戦争でも積極的に活用された。


横田基地に残る陸軍の格納庫

上記の位置関係と照合した結果、格納庫がいくつか残っていることがわかる。

三角屋根の格納庫が当時からの格納庫。
オスプレイと一緒に写る。

こちらも当時からの格納庫。最南部。

撮影していた格納庫の写真は以上のみ。
記録写真としても、まったくできていないので、リベンジが必須。

オスプレイ
初めて垣間見たオスプレイは、おもったよりも小さかった。

2022
Firendship Festival
Yokota Air Base

いろいろ

いろいろ。

また、リベンジします。

※撮影:2022年5月


関連

昭和飛行機工業東京製作所の跡地散策(昭島)

昭島市。昭和3年(1928年)に発足した昭和村を前身とする。
立川陸軍飛行場の隣ということもあり、航空機関連の軍需工場が昭和村にも進出。
そんな昭和村に進出した「昭和飛行機」の名残を昭島に辿ってみる。


昭和飛行機工業株式会社

多摩四大航空機メーカーといえば、立川飛行機・日立航空機・中島飛行機、そして昭和飛行機。

昭和12年(1937年)6月5日に、三井系新興企業の「昭和飛行機工業株式会社」が設立され、翌昭和13年(1938年)には、昭和村(現在の昭島市)の「東京製作所」において、三井物産を経由して製造権を獲得した米ダグラスDC-3のライセンス生産を開始。
昭和飛行機工業株式会社は、米ダグラスDC-3をベースとした大日本帝国海軍の主力輸送機「零式輸送機」を430機を生産。その他海軍向け各種航空機を含めると700機の航空機を生産したという。

昭和村は、昭和飛行機とともに発展し、昭和16年に町制を施行し昭和町に。
戦後の昭和29年に昭和町と拝島村が合併し、昭島市が発足している。

昭和飛行機工業は、戦後はGHQによって航空機事業の全面禁止を余儀なくされた。昭和飛行機の航空機製造工場も賠償指定工場として接収を受け、米軍の各種車両(航空機燃料給油車・消防車・クレーン車・バスなど)・エンジン・航空機などの修理作業に従事。米国の新技術と技法を習熟し、民需転換後の新事業の基礎となった。
現在の昭和飛行機工業は、航空機内装美品や特殊車両などを手掛ける一方で、国内唯一のハニカム総合メーカーとしても確立し、自社保有地の都市開発業務を分社化している。

かつての昭和飛行機工業の広大な土地(滑走路跡など)は、「昭和の森ゴルフコース」「昭和の森テニスセンター」や「モリタウン」「モリパーク」「昭島つつじヶ丘ハイツ」などに生まれ変わっている。

昭和飛行機工業の格納庫は、屋内テニス場に。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-R556-No1-20
昭和22年(1947年)11月14日、米軍撮影の航空写真。

上記を拡大。
西には昭和飛行機工業の工場エリア。
中央に格納庫。
東には滑走路が広がっていることがわかる。

現在の航空写真。
西には引き続き、昭和飛行機工業の工場。
中央の格納庫は、昭和の森テニスセンターへ。
滑走路跡は、ハイツやカインズ、昭島市民会館、そして昭和の森ゴルフコースが広がっている。

格納庫部分を拡大。
格納庫が6棟並んでいる。

いまは格納庫が3棟、残っていることがわかる。
現在、当時の格納庫は、昭和の森テニススクールとして活用。

昭和飛行機の工場エリアを拡大。現在の南工場エリア。

工場特有のノコギリ屋根が残っているのがわかる。
ただノコギリ建屋の東3分の1が削られていることもわかる。
10年ほど前は東工場にもノコギリ屋根の建屋があったが、現在は解体されグランドになっている。
(下記写真の緑の芝生グランドの場所)


昭和飛行機工業東京製作所の跡地散策

昭島駅から散策スタート。

「昭島駅」は、かつては「昭和前駅」と呼称されていた。
昭和飛行機工業東京製作所の従業員向けに昭和13年(1938)1月に青梅電気鉄道の「昭和前仮停留場」として開業。同年12月に「昭和前駅」に昇格している。


昭和飛行機本館跡地(昭和の森広場)

現在の「昭島市立昭和の森広場」が昭和飛行機本館の跡地。本館は2014年に取り壊しをされており、公園へと整備されている。

昭和飛行機工業株式会社 創設の地
当地は、昭和12年に航空機の製造を目的として創設された昭和飛行機工業株式会社の本館跡地であり、このヒマラヤスギは、創設時に植樹されたものです。永く当地の歴史を見届けてきたヒマラヤスギを保存し市民の憩いの場とするため、当地を「昭和の森広場」として昭島市へ寄贈いたします。
 平成27年8月10日 昭和飛行機工業株式会社

場所

https://goo.gl/maps/V8KmBuFG43UYboK57


昭和飛行機工業に残る往時の建屋?

いまでもいくつか往時からのものと思われる建屋が残っている。

昭和飛行機工業(南工場)の「ノコギリ屋根の工場」
昭和初期当時からの建屋と思われる。

2つ目の建屋。ノコギリ屋根の工場の西側に。

当時の航空写真を照らし合わせて、ノコギリ屋根の工場の西側の2棟の建屋も当時からのものと推測。
敷地外からは、前述のノコギリ建屋とあわせて、往時の建屋と推測できるものとして3棟を確認。

3つ目の建屋。わかりにくいが真ん中の木の左側の建屋。

給水施設の場所も、往時から変わりなしの雰囲気。

給水タンクは新しくなっている。かつての航空写真ではこの場所に給水塔が確認できる。

場所

https://goo.gl/maps/ep94XvWWj6PRadPe7


モリパークを横目に北上をする。


新昭和通

説明文を読むと、南に昭和12年に昭和飛行機工業が開設した「昭和通」があり、この通りが北側で対となる「新昭和通」とのこと。のちほど、南にも足を運んでみましょう。

新昭和通
 この道路は、「新昭和通」と呼称し、昭島駅北口の十字路から北へ進み、ゆるくカーブをしながら「フォレスト・イン昭和館」の南東角にある十字路に至る、全長594m・幅員16mの道路で、「昭和館」の建設に合わせて、全額昭和飛行機の負担で新しく築造され、昭島市に寄贈されたものであります。
 この工事は、道路用地にかかわる工場敷地内の建物等の移転と並行して、平成8年10月に着工、18ヶ月の工期を経て、平成10年4月17日開通しました。
 昭和12年の昭和飛行機創立当時、当社は機械設備等の搬入のため、旧奥多摩街道から諏訪神社脇を北上し宮沢地区を経て旧工場正門に至る、延長約2km・幅員11mの道路を当社の負担で新設し、地元に寄贈しました。
 その道路は、「昭和通」の名で、広く人々に親しまれていましたが、道路築造に合わせて当時建立された「昭和通」の石標は、年を経て散失してしまいました。しかしながらその後、地元有志の熱意により、昭島駅南側の宮沢町1丁目1番5号(株)カトービルドシステム前にこの石標は修復再建され今日に至っております。
 当社ではこれに呼応して、このたび昭島駅北側に新設した道路を「新昭和通」と称し、南の昭和12年当時の「昭和通」の石標と同型、同寸法の「新昭和通」の石標をここに建て、南北両道路ともども永く人々の記憶に留まり、また広く活用され親しまれることを念願するものであります。 
 平成10年4月吉日  昭和飛行機工業株式会社

場所

https://goo.gl/maps/yQoM7MYWn45BTxMR6

このあたりの道路が、工場から格納庫や滑走路方面に向かう、誘導路にもあたる。

フォレスト・イン 昭和館がある。


昭和飛行機工業東京製作所格納庫
(現・昭和の森テニススクール)

前述の航空写真では、仮に北から順番に番号を振ると「第一」「第二」「第四」の格納庫が残っていることがわかる。順番に見てみよう。

仮称の第一、第二格納庫。

場所

https://goo.gl/maps/cptteYKsAb8m5StY9

換気のために窓が空いていた。

中の様子は、公式サイトから流用させて頂く。

昭和の森テニスセンター 施設紹介

http://www.showasp.co.jp/sports/facilities

上記サイトから画像を参照

(仮称)第一格納庫を北から。横からの全景がよくわかる。

滑走路側へ。

(仮称)第二格納庫には「昭和の森テニスセンター」の看板が大きく掲げられている。

すこし南側の「(仮称)第四格納庫」。

(仮称)第四格納庫の東側、滑走路に面している側は、スライド式の扉。

今では開けることはなさそうだけれども。

西側(写真西側)に格納庫。道路は駐機場、東側(写真右側)は滑走路だった。

格納庫の北側。
写真右側が格納庫。左側(トヨタショップの側)が滑走路だった。

滑走路を北上する。

全然関係ないけど、HOYAのPENTAXがあった。
PENTAXのカメラ部門がHOYAからリコーに売却された際に、PENTAXのメディカル部門はHOYAに残った。PENTAXがユーザーとして目に止まったので。。。

北上すると、玉川上水にたどり着く。


昭和飛行機滑走路延伸コンクリート覆蓋部

玉川上水に沿って東に歩むと、蓋がかけられた箇所が見える。ここから玉川上水は長さ300mほど蓋をされている。
昭和飛行の敷地は南を青梅線、北を玉川上水とする広大な面積があり、その敷地の南北に試験飛行用の滑走路も設けていた。
昭和飛行機は、滑走路オーバーランの事故防止のために玉川上水に蓋をかけて滑走路を延長し玉川上水以北の土地も買収する計画があった。
玉川上水に対する覆蓋工事は東京市水道局の設計し、工事は昭和飛行機が実施。昭和15年(1940)秋頃に完成し、現在はそのまま緑道として活用されている。
なお、オーバーラン防止として玉川上水には覆蓋まではされたが、玉川上水北部の滑走路延伸そのものは未着工であった。

玉川上水覆蓋上部。違和感のない緑道。駐車場側が滑走路。現在はゴルフ場。

昭和15年に昭和飛行機によって、玉川上水にコンクリート覆蓋が実施された。

場所

https://goo.gl/maps/HZDjtX15u6DcMGBn8


昭和通

昭島駅の南側に。昭和飛行機が建設した道路の名残が残っている。

昭和通

昭和13年8月
昭和飛行機工業株式会社

「昭和通」の道しるべ
 この御影石(みかげいし)の標柱は、かつて、奥多摩街道から通称「昭和通」へ入る道しるべとして、阿弥陀寺の東南の角に戦後間もない頃まで建てられていたものです。
 昭和の初めまでは林や桑畑などのまだまだ武蔵野の面影を残すこの地域に、昭和12年、昭和飛行機工業(株)により軍用機の製造が始められるとともに、まちづくりや物資の輸送のために、道路の整備が進められました。
 奥多摩街道から現在地点を経て、かつての昭和前駅(現昭島駅)へ至る全長約2キロメートルのこの「昭和通」もまさに主要な道路の一つでありました。
 なお、現在の「昭和通り」は昭島駅の東側から奥多摩街道に通ずる南北の道路(市道昭島21号の一部と西247号)を指します。
 昭島市

場所

https://goo.gl/maps/HQqZSgNGrW7BJ12y6

現在の「昭和通り」

昭島駅の南口。よくみれば、北口と同じデザイン。

散策は以上。思ったよりも見どころ多数で散策のやりがいのあるエリアでした。

※撮影は2022年4月及び5月


関連

「日本の航空事始め・その2」グラーデ単葉機と日野熊蔵(所沢航空発祥記念館と代々木公園)

以前に、「日本の航空事始め」として、アンリ・ファルマン機と徳川好敏に触れてました。今回は、「日本の航空事始め・その2」として、グラーデ単葉機と日野熊蔵に関して、記載してみたいと思う。


日本の航空事始め・その1
アンリ・ファルマン機と徳川好敏


所沢航空発祥記念館での特別展「二人の空の開拓者 発明家日野熊蔵と航空人徳川好敏」展示は2022年3月31日で終了しました。

1910年(明治43年)12月。
代々木演習場にて、日本初の飛行に向けて準備を行っていた、アンリファルマン機の徳川好敏と、グラーデ単葉機の日野熊蔵。

実は公式記録の5日前。
明治43年12月19日の「初飛行を目的とした記録会」に先立つ、12月14日の滑走試験中、日野熊蔵陸軍大尉のグラーデ単葉機が飛行に成功し(滑走から誤って離陸?)、これが非公式な日本史上の初飛行ともされている。


グラーデ単葉機

グラーデ単葉機
80%スケール模型
所蔵:航空科学博物館

グラーデ単葉機とアンリ・ファルマン機は、今から110年前の1911(明治44)年4月に開設した所沢飛行場にその翼を並べました。
前年には代々木演習場(現在の代々木公園)において、グラーデ単葉機を日野熊蔵大尉が、アンリ・ファルマン機を徳川好敏大尉がそれぞれ操縦し、日本初飛行を記録しています。

グラーデ単葉機は、アンリ・ファルマン機のような補助翼式ではなく、竹製骨組の主翼をねじることで操縦する「たわみ翼式」です。また、アンリ・ファルマン機はグノーム社のエンジンを載せていたのに対し、グラーデ単葉機は自前のグラーデ社製空冷4気筒エンジンを載せていました。

この80%スケール模型は航空科学博物館(千葉県芝山町)が2010年に同館の企画展「日本の初飛行100年展」のために制作したものです。

操縦席は、エンジンの直下の布張りの椅子。
正直言って、怖い。


日野熊蔵

日野 熊蔵(ひの くまぞう)
1878年6月9日-1946年1月15日陸軍軍人。最終階級は陸軍歩兵中佐。
発明家でもあり、日本航空界黎明期のパイロットの1人でもある。
1910年(明治43年)4月11日、臨時軍用軽気球研究会から徳川好敏大尉とともに操縦技術習得のためフランスのアンリ・ファルマン飛行学校エタンプ校に派遣され5月末に入学。その後7月25日に単身ドイツに移動しヨハネスタール飛行場で操縦技術を学びグラーデ単葉機を購入。
1910年(明治43年)12月14日、代々木錬兵場(現・代々木公園)において滑走試験中の日野熊蔵は飛行に成功し、これが非公式ながら日本史上の初飛行とされる。
1910年(明治43年)12月19日には「公式記録飛行会」が行われ、日野熊蔵・徳川好敏の両名が初飛行に成功した。これが改めて動力機初飛行として公式記録となる。
飛行順番として(華族であり清水徳川家の名門であった)徳川好敏が最初に飛んだために「アンリ・ファルマン機を駆る徳川大尉が日本初飛行」として記録に残ることとなる。

日本初飛行以降、順調に昇進する徳川好敏に対して、日野熊蔵は陸軍上層部と折り合わずに左遷。1918年(大正7年)に陸軍歩兵中佐を最後に陸軍を去り、民間で発明家となる。
1935年(昭和10年)には萱場製作所が実用化を目指したラムジェットエンジン搭載の無尾翼機、「HK-1(HKは日野のイニシャル)」の開発にも参加している。

1945年(昭和20年)、東京大空襲により日野は自宅と共に多くの発明品の資料の全てを焼失。敗戦後の1946年、栄養失調により死去。
1974年(昭和49年)、東京代々木公園に胸像と「日本初飛行の地」の碑が建立。
日野の胸像は1964年(昭和39年)建立の徳川の胸像と並んで設置され、碑文には日野・徳川の両名が日本初飛行の人物として顕彰されている。

日野熊蔵生誕の地、熊本県人吉市に建つ記念碑。人吉は戦跡的にも見どころ豊富で気になる地。いつか訪れたい。。。

日本初飛行
日野熊蔵生誕之地


日本の空のパイオニア
 日野熊蔵は、明治11年(1878)6月9日この地に生まれ、明治43年(1910)12月、東京代々木におけるわが国初の飛行テストに、ドイツ製ハンスグラーデ機を操縦し、フランス製アンリファルマン機に搭乗した徳川好敏氏とともに、日本最初のパイロットとなった。
 以来終生飛行機の研究と開発を続け、昭和21年(1946)67歳で逝去した。

 日野氏の生誕120年を記念してこの碑を建てる。

 平成10年6月9日 日野熊蔵顕彰会


日野熊蔵之像

以下は、代々木公園にて。

日野熊蔵之像
 美土路昌一書

限りなき大空
限りある人生
限りなき代々の祖国のため
限りある現世の定命をささぐ

翁は熊本の産 豪放磊落英仏独語に通じ 数理に秀で選ばれて 独逸に飛行機操縦を取得し一九一〇年十二月一九日此地に於いて発動機の不調を克服してグラーデ式を駆り一分間一〇〇〇米の飛行をした不屈の精神は次代の青少年の範とすべきである 
 昭和四一年四月二三日
  松野頼三

徳川好敏之像と日野熊蔵之像が代々木公園に並んで建立されている。

日本航空の父
徳川好敏之像
 井上幾太郎書

誠実 謹厳 航空に生涯を捧げた この人が明治四十三年(一九一〇年)十二月一九日 この地代々木の原でアンリ・ファルマン機を操縦しわが国の初飛行を行い飛行時間四分 飛距離三〇〇〇米 飛行高度七〇米の記録を創造して日本の空に人間飛翔の歴史をつくった 
 昭和三九年四月十七日 
  赤城宗徳 
 像作者 鋳金家 市橋敏雄

日本初飛行の地
日本航空発始之地記念碑

日日本航空発始之地
陸軍大将井上幾太郎書

日本初飛行の地
 1910年(明治43年)12月19日, 当時代々木練兵場であったこの地において、徳川好敏陸軍大尉はアンリ・フォルマン式複葉機を操縦して4分間、距離3,000m、高度70mの飛行に成功した。
 継いで日野熊蔵陸軍大尉も、グラーデ式単葉機により1分間、距離1,000m、高度45mの飛行に成功した。これが日本航空史上、最初の飛行である。
日本航空発始之地記念碑
 建立 朝日新聞社
 設計 今井兼次
 彫刻 泉二勝麿
徳川好敏之像
 建立 航空同人会
 彫刻 市橋敏雄
日野熊蔵之像
 建立 航空五〇会
 彫刻 小金丸義久
 東京都 昭和49年12月

碑文
紀元二千六百年ヲ記念シテ此處ニ此碑ヲ建ツ蓋シ代々木ノ地タル明治四十三年十二月我國最初ノ飛行機ガ國民歓呼ノ裡ニ歴史的搏翼ヲ試ミタル所ニシテ爾来大正ノ末年ニ至ルマテ内外ノ飛行機殆ト皆ココヲ離着陸場トセリ即チ朝日新聞社ノ東西郵便飛行モ關東大震災後一時此地ヲ發着場トシソノ第一回訪欧飛行モ亦此原頭ヨリ壮擧起セリ是レ此地ヲ航空發始ノ所トナス所以三十年進展ノ跡ヲ顧ミテ感慨盡クルナシ今ヤ皇國多事ノ秋志ヲ航空ニ有スル士ノ来リテ此原頭ニ俯仰シ以テ益々報國ノ赤心ヲ鼓勵スルアラバ獨リ建立者ノ本懐ノミニアラサル也
昭和十五年十二月 朝日新聞社

日本初飛行離陸之地

場所

https://goo.gl/maps/ZivgUwnzK7cbKwEq8


新宿にも日野熊蔵ゆかりの地がある。

国産飛行機発祥の地

新宿区指定史蹟
国産飛行機発祥の地
所在地 新宿区西五軒町34番地
指定年月日昭和60年12月6日
  明治42~43年(1909~1910)にかけて 日野熊蔵大尉により 最初の国産飛行機 「日野式一号機」が製作された林田商会 (のち日本醸造機株式会社) 跡地である。
 明治時代末期, 飛行機が欧米各国で長足の進歩を遂げているのを見て 日野大尉はその将来性に着目し, 全くの独力で英・米・独・仏の文献を参考に 飛行機用発動機, および飛行機の設計と製作に着手し, 明治43年2月この地で完成した。
 一層式で翼長8メートル, 全長3メートル, 発動機はニ衝程空冷式8馬力を搭載し, 完成まで3ヵ月の期間と約1900円を費やした。
 大尉はこの飛行機に自ら搭乗して外山ヶ原で試験飛行を実施した。
 平成3年11月  東京都新宿区教育委員会

場所

https://goo.gl/maps/aPi4WVLtspFVXpsK7


黎明期の航空機

所沢航空発祥記念館にて。

アンリ・ファルマン1910年型飛行機(フランス)
日本初の公式記録飛行に成功した飛行機
明治43年12月19日、代々木演習場で行われた日本初の公式飛行に、徳川好敏大尉の操縦によって初飛行に成功した飛行機。同大尉が飛行研究のためにフランスに留学した時に購入した。初飛行の後、所沢飛行場で訓練飛行などに使われていたが大正5年頃に引退後、所沢の航空参考館に展示された。第二次大戦後、一時アメリカにわたっていたが、1960(昭和35)年、日米修好100年、日本の航空50年の折に、日本に返還された。

ハンス・グラーデ1910年型飛行機(ドイツ)
アンリ・ファルマンと共に公式記録飛行に参加
臨時軍用気球研究会の日野熊蔵大尉が、飛行機研究のためドイツに留学した時に購入した飛行機。明治43年12月19日に代々木練兵場で行われた公式飛行では、徳川大尉操縦の「アンリ・ファルマン機」と共に、日野大尉の操縦によって初飛行に成功した。その後、所沢飛行場で操縦訓練に使われたが、翌44年4月9日、訓練中に墜落した。乗員は助かったが機体が壊れ、日本初の飛行機墜落事故になった。

ブレリオXI bis飛行機(フランス・1911)
日本記録を更新した高性能単葉機
明治43年、臨時軍用気球研究会の委員、徳川好敏大尉がフランス留学中に「アンリ・ファルマン機」と共に現地で購入した飛行機。研究機として最初に購入された4機種中では最も高性能で、対空、距離、高度の日本記録を次々に更新した。所沢飛行場では主に偵察訓練に用いられていたが、大正2年3月28日に青山練兵場で行われた公開飛行の帰りに空中分解を起こして墜落、登場していた木村、徳田両中尉は脂肪、日本で初めての航空殉職者となった。

ライト飛行機(ドイツ・1910)
ドイツで作られたライト兄弟設計の飛行機
明治43年、日野熊蔵大尉が、ドイツに留学した時に「ハンス・グラーデ機」と共に購入した飛行機。世界で初めて動力飛行に成功したアメリカのライト兄弟によって設計され、ドイツで滑走するためのゴムタイヤを付けて生産された。明治44年3月に日本に到着し、4月に日野大尉によって所沢飛行場で初飛行が行われた。

会式一号飛行機(日本・1911)
所沢で富んだ日本初の国産軍用機
明治44年、徳川好敏大尉の設計・制作により日本で初めて作られた軍用機。この前年に代々木練兵場で日本での初飛行に成功した「アンリ・ファルマン機」を参考にして、より高い性能を持つ飛行機を作ることを目的として、所沢飛行場格納庫内で制作された。明治44年10月13日所沢飛行場で、徳川大尉みずからの操縦によって初飛行に成功した。主に操縦訓練や空中偵察教育に使われ、同大尉の設計で4号機までが生産された。

※撮影:2022年3月


関連

飛行神社・二宮忠八

戸山(戸山ヶ原の射撃場で飛行試験)

代々木(代々木練兵場で初飛行)

稲毛(民間航空発祥の地)

航空神社

日本初の航空犠牲者