「慰霊碑・顕彰碑・記念碑」カテゴリーアーカイブ

「45cm四四式二号魚雷」神山神社に残る国産初の魚雷(小田原)

小田原駅から北西に約2キロの地に鎮座している神社に「魚雷」があると聞き、足を運んでみた。
なんでも地元では「久野の爆弾神社」といわれているらしい。


45cm四四式二号魚雷

昭和2年に神山神社に下付された魚雷。
第24代横須賀鎮守府長官・安保清種まで魚雷提供の相談があったという。

日清・日露戦争時の帝国海軍は輸入魚雷に頼っていた。
日露戦争後、明治44年(1911)に国産化にはじめて成功した魚雷が「45cm四四式魚雷」。
この四四式魚雷が帝国海軍の魚雷技術発展の礎となり、世界で唯一実用化に成功した酸素魚雷を生み出すこととなる。

由来(郷社神山神社の魚雷について)
「戦時下の小田原地方を記録する会」の調査によると、神社関係者が戦前旧日本海軍から譲り受けたとみられる。
防衛省防衛研究図書館所蔵の「廃兵器無償下附の件」と題する文章によると、1927年8月1日で同神社の関係者から旧日本海軍の横須賀鎮守府長官迄に魚雷提供の要請があり、同9月に許可が下りる。陸軍大臣にも同様の要請を行い、魚雷、砲弾が送られる。戦後、魚雷1基と砲弾2発は慰霊碑とともに残されたが砲弾は火薬が残存する疑いがあり、2003年に撤去する。
海上自衛隊による魚雷調査結果は、全長5.2メートル直径45センチメートル、明治44年制式と推定された。

 久野氏子の皆様に恒久の平和を願うものです

思った以上に、しっかりとした魚雷。

細部を観察。

ネジ穴が海中の抵抗を考慮し、涙滴型となっている。

内部に木材が使われていました。

当時、最新のテクノロジーで作られたであろう機器が露出。

シャフト部分

横舵と縦舵と推進プロペラ

これは貴重な戦跡、戦争遺産。一見の価値ありです。


魚雷の後方に並んでいる3つの慰霊碑。

忠魂碑

忠魂碑
陸軍大将正三位勲一等功三級男爵 奥保鞏 書

明治三七八年戦役戦没者

日露戦争の慰霊碑。明治39年建立。
日露戦争における戦没者17柱の慰霊顕彰。

二七八役戦歿者碑

陸軍歩兵大佐従五位勲三等功四級 隠岐重筋 書
明治31年3月建立。日清戦争の慰霊碑。
日清戦争における戦没者2柱の慰霊顕彰

忠霊塔

忠霊塔
靖国神社宮司 筑波 藤麿 書

昭和32年3月建立。
大東亜戦争における戦没者110柱の慰霊顕彰。

砲弾が置かれていたであろう場所。


神山神社(こうやま神社)

神奈川県小田原市久野に鎮座。明治社格は郷社。

神山神社
 神山神社の祭神は天照大神、伊弉諾命、伊弉冉命で、第六十六代一条天皇の永延2年(988)に創建されたといわれています。
 かつて神山神社は、久野坊所村山中に在社していましたが、兵火により焼け落ち、その時社殿から御幣が舞い上がり、松田の神山と現在地に落ちた。また、権現再興のために牛に乗せ山道を降りて来た時、現在地にて牛が動かなくなったため、この地を霊地として御魂を移した、などと言い伝えられています。
 応永23年(1416)、上杉禅秀の乱により、それまでの社殿や宝物などが焼失しましたが、大栄永4年(1524)神山権現を信仰した北条氏綱により社殿が改修されました。
 天正18年(1590)、小田原合戦の際に、神主の窪倉中務正広は、戦火を逃れるために神社の宝物類を携えて逃げる途中に亡くなったため、神社はこれまでの繁栄を失ったといわれています。
 小田原合戦前は近隣の村々18箇所の総鎮守でしたが、江戸時代後期には久野・池上・荻窪の3箇所の、そして現在は久野地区及び水之尾地区の一部の総鎮守となっています。例祭日は10月吉日です。

場所

https://goo.gl/maps/d591NSrv74k3NsiX7


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https://www.townnews.co.jp/0607/2014/09/20/252243.html

英連邦兵士たちが眠る日本唯一の墓苑「英連邦戦死者墓地」(横浜)

神奈川県横浜市保土ケ谷区。
この地に、イギリス連邦諸国の戦死者専用墓地がある。
日本の中のイギリス。足を運んでみました。

アクセスはバスで。
保土ヶ谷駅から市営バス「児童遊園地前」バス停を利用するのが便利。

手入れの行き渡り整えられた芝生と草木。ありがたいばかりに神聖で静謐な空間が広がっておりました。
勇者に敵味方なし。自ずと頭をたれて、手を合わせる。


英連邦戦死者墓地

第二次世界大戦後に、現在の横浜市保土ケ谷区に所在していた保土ヶ谷児童遊園地・保土ヶ谷錬成場が接収され、英連邦戦死者墓地が作られたことにはじまる。約3ヘクタールの土地に1800余柱が眠っているという。

英連邦では1917(大正6)年に定められた原則があり、「戦死者の遺体は本国に送還せず、階級差なく現地で埋葬する」という方針のもと、英連邦戦死者墓地委員会が設置され、世界中にある英連邦戦死者の墓地を管理している。

1952年に日本国との平和条約発効によってイギリス連邦占領軍による占領解除されるが、1955年に日本国とイギリス連邦諸国(イギリス、カナダ、オーストラリア、ニュージーランド、南アフリカ共和国、インド、パキスタン)の間に締結された「日本国における英連邦戦死者墓地に関する協定」(1955年9月21日署名、1956年6月22日効力発生)に基づき、「英連邦戦死者墓地」の設置が確認された。
敷地は、日本国政府より英連邦戦死者墓地委員会に対し無償かつ自動更新(30年期限)で使用を許可している。

詳細は「英連邦戦死者墓地委員会(コモンウェルス戦争墓地委員会)」公式サイトにて。

CWGC
Commonwealth War Graves Commission
コモンウェルス戦争墓地委員会

https://www.cwgc.org/visit-us/find-cemeteries-memorials/cemetery-details/49433/YOKOHAMA%20WAR%20CEMETERY/

COMMONWEALTH
WAR GRAVES

COMMONWEALTH WAR
CEMETERY YOKOHAMA

英連邦戦死者墓地

日本政府の厚意によって提供されたこの土地には、英連邦諸国、アメリカ合衆国、オランダ王国の各国民で祖国の為に生命をささげた人々が葬られています。
この墓地の維持管理は英連邦戦死者墓地委員会が英国、カナダ、オーストラリア、ニュージーランド、南アフリカ共和国、インド、パキスタンの諸国に代わって行っています。
参観時間は8:00AM~5:00PM迄となっています。
 英連邦戦死者墓地委員会

VISITORS BOOK
記載室(資料有り)

パンフレットがありましたが、英文でした。。。

1939-1945
この共同墓地の土地は第二次大戦で亡った陸・海・空軍戦没者の永遠の安らいの場所として日本国民から贈られたものです。

1939-1945
THE LAND ON WHICH THIS CEMETERY STANDS IS THE GIFT OF THE JAPAN FOR THE PERPETUAL RESTING PLACE OF THE SAILORS SOLDIERS AND AIEMAN WHO ARE HONOURED HERE

CWGC
Commonwealth War Graves Commission

英連邦戦死者墓地委員会にようこそ
横浜戦死者墓地
Yokohama War Cemetery

ここは日本で唯一の英連邦の墓地です。第二次世界大戦中に亡くなった2000名以上の連合国要員が、ここに埋葬または慰霊されています。大部分はオーストラリア、カナダ、統一インド、ニュージランドおよび英国から英連邦軍に所属していましたが、80名は米国とオランダ軍からでした。

第二次世界大戦(1939年-1945年)中、何万人もの連合国兵士と女性が日本軍の捕虜(POW)になりました。35,000人以上の捕虜が、労働力として日本に連行され、鉱山や造船から農業や軍需品製造まで、さまざまな産業で働かされました。福岡、広島、大阪、名古屋、東京、仙台、函館の7ヵ所には、主要な捕虜収容所が設けられました。収容所の状態は過酷だったので、何千人もの人々が捕虜の身のまま死亡しました。

1945年の日本の降伏後、この墓地は第38オーストラリア戦争墓地ユニットによって始められました。収容所で亡くなった人々の遺骨は埋葬のためにここに運ばれました。

  • 1 戦死者名簿と訪問者の記載室
  • 2 「犠牲の十字架」 ここに埋葬されたキリスト教徒に敬意を表す
  • 3 横浜記念碑 墓石のない20名のインド兵を追悼
  • 4 イギリス兵の墓地
  • 5 オーストラリア兵の墓地
  • 6 インド兵の墓地
  • 7 ニュージランドとカナダ兵のの墓地
  • 8 横浜納骨堂 火葬された335名の英連邦の兵士、オランダ兵およびアメリカ兵を追悼
  • 9 第二次世界大戦後の墓地

1917年5月
 大英帝国死者墓地委員会を設立
1939年9月
 英国、第二次世界大戦に参戦
1941年12月
 日本軍の真珠湾攻撃と東南アジア侵攻
1942年2月
 シンガポールの英連邦軍、日本に降伏
1942年6月
 日本軍、ミッドウェイの戦いで敗北
1944年6月
 日本軍、インドで敗北
1944年6月
 日本への大規模な爆撃開始
1945年3月
 東京大空襲
1945年6月
 日本軍、沖縄で敗北
1945年8月
 原爆投下と日本降伏。第二次世界大戦終了
1945年
 この地での最初の埋葬
1951年
 墓地委員会に墓地の土地を恒久的に貸与
1960年
 英連邦戦死者墓地委員会と名称変更

ジョージ・ヘンリー・ビールについて
ジョージ・ビールは、第二次世界大戦中オーストラリア軍に所属しました。ジョージと彼の兄弟のフレデリックは、1942年2月にシンガポールで捕虜となりました。彼は日本に収容され、製鉄所で強制労働をさせられました。ジョージは、24時間シフトの工場での事故で重傷を負った後、1943年5月28日に死亡しました。彼はオーストラリア区のE区画、A列、墓石3番に埋葬されています。彼の兄弟は戦争を生き抜き、1945年9月に開放されました。

設計と建築
戦前、この地域一帯は横浜市の公園でしたが、1945年に捕虜埋葬のために接収されました。1951年、公式にこの土地は墓地委員会に恒久的に貸与されました、ニュージランドとカナダ両国のための合同区画と共に、英国、統一インド、オーストラリア各軍に所属した人々の埋葬のために独立した区画が設けられました。それぞれの墓には、そこに埋葬された人についての詳細が記載されたブロンズのプレートが付いています。

CWGC
1917年に設立された英連邦戦死者墓地委員会(CWGC)は、第一次世界大戦と第二次世界大戦の間に英国軍と英連邦軍に従軍して戦死した170万人以上の軍人と女性を慰霊しています。CWGCは、世界中の150以上の国と地域で活動しています。CWGCは、第二次世界大戦中に亡くなった24,000人以上の連邦国軍の兵士が慰霊されているシンガポール・メモリアルなど、アジア太平洋地域の何十もの墓地や慰霊碑を管理しています。

こちらは英語版の看板。

日本語と英語と2つの看板が並んでいる。


横浜納骨堂

火葬された335名の英連邦の兵士、オランダ兵およびアメリカ兵を追悼

https://www.cwgc.org/visit-us/find-cemeteries-memorials/cemetery-details/2086701/YOKOHAMA%20CREMATION%20MEMORIAL/

YOKOHAMA CREMATION MEMORIAL

1939-1945
IN THE URN BELOW REST THE ASHES OF 335 SAILORS. SOLDIERS AND AIRMAN OF THE BRITISH COMMONWEALTH. THE KINGDOM OF THE NETHERLANDS AND THE UNITED STATES OF AMERICA WHO DIED AS PRISONERS OF WAR IN JAPAN. THE NAMES OF 284 ARE INSCRIBED ON THESE WALLS. THE IDENTITY OF THEIR 51 COMRADES IS UNKNOWN
THERE BE OF THEM THAT HAVE LEFT A NAME BEHIND THEM THAT THEIR PRAISES MIGHT BE REP ORTED AND SOME THERE BE WHICH HAVE NO MEMORIAL. BUT THEIR RIGHT-EOUSNESS HATH NOT BEEN FORGOTTEN AND THEIR GLORY SHALL NOT BE BLOTTED OUT

(意訳)
1939-1945
下の骨壺には、英国連邦の水兵、兵士、空軍兵士、日本で捕虜として死亡した英国連邦、オランダ王国、米国の兵士など335名の遺灰が納められています。この壁には284名の名前が刻まれています。51人の仲間の身元は不明である。
彼らの中には、その称賛を伝えるために名前を残した者もいれば、記念碑のない者もいるだろう。しかし、彼らの正義は忘れられず、その栄光は消し去られることはない。


イギリス兵の墓地

「犠牲の十字架」 ここに埋葬されたキリスト教徒に敬意を表す


インド兵の墓地

統一インド兵の墓地(イギリス領インド=インド・パキスタン・バングラデッシュ)

「横浜記念碑」
墓石のない20名のインド兵を追悼

1939-1945
IN HONOUR OF THESE OFFICERS AND MEN WHO DIED IN THE SERVICE OF THEIR COUNTRY AND NO KNOWN GRAVE
(意訳)祖国のために亡くなった将校や、決まった墓のない男たちに敬意を表す

INDIAN FORCES
1939-1945

INDIAN
PAKISTAN


第二次世界大戦後の墓地

BRITISH COMMONWEALTH FORCES CEMETERY
(英国連邦軍墓地)


オーストラリア兵の墓地


ニュージランドとカナダ兵の墓地


徽章

墓石には、亡くなられた方々が所属していたであろう、さまざまな部隊の徽章(シンボルマーク)があった。
以下、順不同で。

●英国

●ニュージランド

●カナダ

●統一インド


場所

https://goo.gl/maps/S3Kts5BvwY22X9uRA

参考

https://hamarepo.com/story.php?page_no=1&story_id=358

※撮影は2021年4月

臨時東京第三陸軍病院跡(相模原)

小田急相模原駅から一直線に伸びる道路を1.5キロほど突き当たりまで歩いていくと、「国立相模原病院」にたどり着く。「国立相模原病院」はかつて、「陸軍病院」であった。

軍都相模原
昭和12年(1937)に「陸軍士官学校本科」が、座間・相模原に移転。
その後も続々と陸軍関連施設が展開。
「相模陸軍造兵廠」「陸軍兵器学校」「陸軍機甲整備学校」「陸軍通信学校」「相武台陸軍病院」など。

臨時東京第三陸軍病院
昭和13年4月、野戦病院として、「臨時東京第三陸軍病院」創設。突貫でバラック建物を建てたという短期間設営の病院であったが、規模は大病院以上。陸軍直轄病院。東日本最大の陸軍病院であった。
陸軍病院の開院に合わせて小田急相模原駅が開業。
昭和天皇が、戦地からの傷病兵を見舞うために、行幸された唯一の陸軍病院。敷地内は記念碑が残っている。

昭和20年12月、戦後、臨時東京第三陸軍病院は、厚生省に移管され、「国立相模原病院」として発足する。

臨時東京第三陸軍病院 行幸記念碑

相模原病院正門右手に。陸軍病院時代を物語る石碑。

行幸記念碑
陸軍省医務局長 三木良英 謹書

(裏面)
行幸 昭和14年3月14日
臨時東京第三陸軍病院

(添碑)

昭和15年5月
 臨時東京第三陸軍病院長
 陸軍軍医少将 押火権太郎 選並書

昭和14年3月14日に、支那事変での傷病将兵を 昭和天皇が見舞うために行幸されたことを記念する碑。
昭和15年に建立された。

行幸記念碑と相模原病院


相模原病院

相模台商店街通り(サウザンロード相模台)

古道「辰街道」(たつ街道)
小田急相模原駅と相模原病院を結ぶ道路。

※2021年4月撮影


関連

「八面九体地蔵」空襲犠牲者供養の地蔵(板橋区)

東京都板橋区大山金井町16-8。東武東上線大山駅徒歩8分。

大山の住宅地の交差点に、お地蔵様が建立されていた。
「八面九体地蔵」
文字通りに、八面あり、それぞれにお地蔵様が掘られている。一面のみは、親子の地蔵様。

昭和20年4月13日「板橋空襲」
この地にあった防空壕に避難していた1人の乳児を含む9人が、直撃弾を受けて犠牲となった。
昭和25年、この地を所有した小川氏が、供養のために建立したのが、「八面九体地蔵」であった。

地元に人々によって祀られており、乳児も含む9体のお地蔵様それぞれに、綺麗な頭巾が乗せられており、前掛けも回されていた。

合掌

空襲犠牲者供養の地蔵
第二次世界大戦中の昭和二十年(一九四五)四月十三日夜、板橋から志村の地域にかけてアメリカ軍による空襲がありました。この空襲は、区内最大の羅災者約四万五千人を出し、板橋駅、区役所、養育院など板橋区の中枢を焼け野原にしました。
 この空襲で、当地の防空壕に避難していた、一人の乳児を含む九人が、爆弾の直撃弾を受け犠牲になったといわれています。
 戦後、当地を購入し、公衆浴場を開業した小川忠雄氏が、先の空襲による被害を知り、供養のために建てたのが、このお地蔵さまです。昭和二十五年(一九五〇)に現在地に建てられました。八面の胴部分に一体ずつの地蔵が刻まれ、そのうちの一体が子供を抱いています。
 昭和四十九年(一九七四)には、覆屋(おおいや)も作られ、現在ではまちの方々によって大切におまもりされています。
 このお地蔵さまは、板橋区における空襲の事実を伝え、後世に戦争の悲惨さと平和の尊さを伝える史跡として、平成七年度、板橋区の記念物に登録されました。
 平成九年二月 
  板橋区教育委員会

小川医院の敷地の角地に建立されている。

場所

https://goo.gl/maps/hGrvHVxWj2SCks1v8


関連

板橋空襲で、甚大な被害を出した「養育院」

板橋区内の空襲犠牲者を祀る「平安地蔵」

板橋区内には都内有数の軍需工場があった。「東京第二陸軍造兵廠板橋製造所」

平和の碑・探照灯基地跡(川崎市麻生区)

神奈川県川崎市麻生区古沢。
小田急線新百合ヶ丘駅から歩いて10分ほどの里山に、かつて「探照灯基地」があったという。

戦争末期、内地防空の為に、「高射第1師団」が編成。
麾下の「高射砲第112聯隊」は世田谷を本部とし東京西部地区、多摩川を挟んで南北に展開していた。
この川崎市麻生区の探照灯基地も、この照空隊陣地の一つであったと思われる。

ちなみに、日本陸軍では「照空灯(照空燈)」と呼称し、陸軍船舶部隊及び日本海軍では「探照灯(探照燈)」と呼称していたので、本来であれば、麻生区古沢での記載は「照空灯基地跡」とするのが正しい。
(現在の自衛隊では「サーチライト」と呼称。

平和の碑 探照灯基地跡

(裏面)
世界第二次大戦により古沢288番地海抜70m地点に探照灯が据えつけられ昭和19年9月20日から昭和20年8月17日まで使用された

(側面)
平成2年6月吉日
 柿生郷土誌古沢編集委員協力者

里山の丘陵の中腹に。
「平和の碑」のとなりにあるのは、「地神塔」嘉永6(1853)年建立。

実際には、石碑のある場所の上、丘陵の高台に「照空基地」があった。

場所

https://goo.gl/maps/9nWHfM21U3f22i5R6

新百合ヶ丘駅から10分ほど歩いた場所に、のどかな里山風景が残っていて、そして戦時中のエピソードがあるというのが驚きであった。

※撮影2021年4月

東京裁判と久保山火葬場(横浜)

東京裁判と殉国七士

巣鴨プリズン
昭和23年(1948年)12月23日、 当時、皇太子であった 上皇陛下の15歳の誕生日であった。

12月23日の尊い「国民の祝い日」であった夜中の午前0時。
巣鴨拘置所(巣鴨プリズン)で極東国際軍事裁判(東京裁判)により「戦犯」として死刑判決が処せられた7名の絞首刑が執行された。

  • 板垣征四郎 陸軍大将・陸相
           <中国侵略・米国に対する平和の罪>
  • 木村兵太郎 陸軍大将・ビルマ方面軍司令官
           <英国に対する戦争開始の罪>
  • 土肥原賢二 陸軍大将・奉天特務機関長
           <中国侵略の罪>
  • 東條英機  陸軍大将・第40代内閣総理大臣
           <真珠湾不法攻撃、米国軍隊と一般人を殺害した罪>
  • 武藤章   陸軍中将・第14方面軍参謀長
           <一部捕虜虐待の罪>
  • 松井石根  陸軍大将・中支那方面軍司令官
           <捕虜及び一般人に対する国際法違反(南京事件)>
  • 広田弘毅  文官・第32代内閣総理大臣
           <近衛内閣外相時に南京事件を止めなかった不作為責任>

横浜・久保山
巣鴨プリズンで処刑された7人の遺体は、横浜の久保山火葬場に運び込まれ、厳重警戒の中で焼却された。
遺族は遺骨遺灰の引き取りを願ったが、GHQはA級戦犯七士が神聖化されることを恐れ拒絶。
そうして、A級戦犯七士の遺骨は米兵によって粉々に砕かれ東京湾に捨てられた。
遺骨灰の殆どは米軍が処理したが、細かい遺骨や遺灰は、久保山火葬場のコンクリ穴に捨てられていた。この僅かな遺骨と遺灰を回収するために、小磯国昭弁護人三文字正平、興禅寺住職市川伊雄、久保山火葬場場長飛田善美は、米兵がクリスマスで浮かれている12月26日の夜中に、必至の覚悟で密かに忍び込み、苦心の末に骨壺一杯分の遺骨灰を集めることに成功した。

熱海・興亜観音
骨壺は密かに久保山火葬場から、すぐ隣に鎮座していた市川住職の興禅寺に運び出され、しばらくは興禅寺に隠されていたが、やはり久保山葬祭場のすぐ近くは危険だということもあり、三文字弁護士や市川住職、七士の遺族の人々が、極秘のうちに相談した結果、翌年昭和24年5月三日に松井石根大将ゆかりの熱海・興亜観音に運ばれることとなった。
三文字正平は、広田弘毅氏の令息、東條未亡人、武藤未亡人らとともに興亜観音住職伊丹忍礼に相談。「知り合いの方の遺骨灰だが時期が来るまで、誰にもわからぬように秘蔵しておいて欲しい」と申し出て、伊丹住職は一見して七士のご遺骨灰であることを直感し、快諾。そうして東亜観音にて遺骨灰は秘匿された。

「七士之碑」建立
密かに興亜観音に運び込まれた七士のご遺灰は10年もの間、秘事として興亜観音の初代住職伊丹忍礼によって護持されてきた。
昭和34年4月一九日、松井大将の無二の親友であった高木陸郎氏(興亜観音奉賛会長)らの発起により、吉田茂元総理の筆になる「七士の碑」が建立された。吉田茂は、広田弘毅の外交官時代の同期でもあった。「七士之碑」建立の際は、81歳と高齢な吉田茂は、興亜観音の山道を籠に乗って登られた。
ご遺灰は、「七士之碑」の碑の下に約3メートルの地下に埋葬されている。
碑文についても種々議論があったが、「知る人ぞ知る「七士之碑」でいいではないか」との結論に落ち着いたという。
そして昭和35年には、遺灰の回収と秘匿に尽力した三文字弁護士の発起により愛知県の三ヶ根山(松井石根の出身地)にある「殉国七士墓」に、「興亜観音」にある骨壷から香盒1ヶ分ほどが分骨埋葬された。


六十烈士忠魂碑(光明寺)

久保山火葬場近くの光明寺には、極東軍事裁判によって巣鴨プリズンで極刑死せられ、久保山火葬場で茶毘に付された、東條英機(陸軍大将)らA級戦犯7人をはじめとする、六十吊の方々の忠魂碑がある。

合掌

顕彰記
この碑は天をも畏れぬ赦し難き 不法な極東国際軍事裁判の結果 巣鴨刑務所で極刑死せられ 当地 久保山で茶毘に付された東條首相 以下六十吊の忠魂碑である (烈士吊は碑裏面に処刑順記載) この殉国烈士の慰霊は日本協会 や有志の方により行われていたが 昭和四十三年当光明寺境内に碑が 建立せられるに及び 日本協会に 次いで昭和五十七年以降は当会が 毎年慰霊祭を挙行している
 平成十年六月 日本郷友連盟神奈川県支部

六十烈士  忠魂碑

別記の諸氏は大東亞戦争おいて盡忠報国の誠を貫きたるに拘らず旧敵國の一方的裁判により巣鴨において極刑を授けられたり 本会は深く之を悼み諸氏を此地に合祀して忠霊を慰めかつ其遺功を後世に伝えんことを冀う

六十烈士元官職吊故氏吊
陸軍中尉 由利敬、陸軍大尉 福原勲、陸軍大尉 平手嘉一、陸軍大尉 満淵正明
陸軍中尉 池上宇一、陸軍大尉 末松一幹、陸軍軍属 本田始、陸軍憲兵中尉 本川貞
陸軍軍属 牟田松吉、陸軍軍曹 武田定、陸軍軍属 髙木芳郎、陸軍大佐 宮沢亥重
陸軍軍曹 穂積正克、海軍上等兵曹 潁川幸生、陸軍大尉 都市野順三郎
陸軍伊長 相原一胤、陸軍大尉 中島祐雄、陸軍軍属 平松貞次
陸軍一等兵 川手晴美、陸軍軍属 木村保、陸軍軍属 吉沢国夫、陸軍曹長 道下正能
陸軍少佐 村上宅治、陸軍大佐 尾屋刢、陸軍大尉 西澤正夫、陸軍准尉 柴野忠雄
首相 東條英機、陸軍大将 土肥原賢二、陸軍大将 松井石根、陸軍大将 板垣征四郎
首相 広田弘毅、陸軍大将 木村兵太郎、陸軍中将 武藤章、陸軍軍医少将 水口安俊
陸軍少将 河根良賢、陸軍大佐 平野庫太郎、陸軍中尉 石﨑英男
陸軍曹長 片岡正雄、陸軍上等兵 斉藤善太郎、陸軍伊長 富岡菊雄
陸軍兵長 伊藤正治、陸軍中佐 田中義成、陸軍主計准尉 小西貞明
海軍中佐 大隈馨、海軍中佐 佐藤勇、陸軍軍属 柳沢章、陸軍軍属 関原政次
陸軍軍属 秋山米作、陸軍軍属 小日向治、陸軍軍属 鈴木賞博、陸軍軍属 牛木榮一
陸軍中将 岡田資、陸軍衛生曹長 青木勇次、海軍大佐 井上乙彦
海軍大尉 井上勝太郎、海軍大尉 幕田稔、海軍少尉 田口泰正、海軍大尉 榎本宗応
海軍一等兵曹 藤中松雄、海軍上等兵曹 成迫忠邦  昇霊順
 昭和四十三年十月建之
  日本協会
  日本郷友連盟神奈川県支部協賛
  日本協会々長 正三位勲一等下村定謹誌
   久保山花塚石材店謹刻

いわゆるA旧戦犯として、処刑された、七士
 首相 東條英機、
 陸軍大将 土肥原賢二、
 陸軍大将 松井石根、
 陸軍大将 板垣征四郎
 首相 広田弘毅、
 陸軍大将 木村兵太郎、
 陸軍中将 武藤章

光明寺


市川伊雄大和尚顕彰碑(興禅寺)

東條英機らA級戦犯7名の遺骨を密かに運び出した市川伊雄大和尚の功績を讃える顕彰碑。
昭和44年9月7日建立。

市川伊雄大和尚顕彰碑
碑文
(和尚の経歴など前略)
大東亜戦争後東京軍事裁判々決により、連合軍の東條元首相外六氏は、久保山火葬場に於て火葬 その遺骨の総てが遺族に還らざるを知り愕然出家の身として黙し難く身の危険をも顧りみず其の遺骨を搬出密かに当寺に安置回向其の冥福を祈る等禅僧としてその気概気風は寔に豪にして高邁の姿に後日世の注目を集めたが大和尚の姿は終始一貫経典の心にあり正義を貫く和尚一代を畢生の念願とした


久保山火葬場(久保山斎場)

神奈川県横浜市西区元久保。

久保山火葬場は昭和20年10月に連合軍に接収。
極東軍事裁判で裁かれた巣鴨プリズン刑死者の火葬が、この久保山火葬場で行われた。

久保山火葬場場長飛田善美は、極東軍事裁判終了後に、巣鴨で処刑され久保山で火葬された60名の遺灰が集められていた場内に供養塔を建立。今も久保山斎場内に残されているという。(火葬場という性質上、無造作に足を運ぶべき場所ではないので敷地内は未確認)


久保山墓地には、広田弘毅と外交官同期であった吉田茂の墓がある。

吉田茂墓

吉田茂墓の詳細に関しては、別記事で。

※本記事の撮影は2021年3月


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難波宮跡公園周辺の戦跡散策(大阪)

大阪城の南側、難波宮跡周辺を散策してみた。
「難波宮跡公園」界隈。


大阪医学校跡 明治天皇聖躅碑
大阪師範学校跡 明治天皇聖躅碑
(国立病院大阪医療センター)

大阪城の南側、中央区の法円坂。明治の初め頃、この地に大阪医学校と大阪師範学校があった。
そして、学校が廃止された後は、陸軍の地、であった。

大阪医学校
大阪医学校の歴史は、適塾までさかのぼる。緒方洪庵が大阪で開いた蘭学・蘭医学の個人塾「適塾」。その緒方洪庵の息子であった緒方惟準が院長として就任したのが明治元年(1869)2月に設立した「大阪府仮病院」(上本町の大福寺を仮地としてスタート)。大阪府仮病院には適塾出身者が多く採用された。
明治2年に「大阪府仮病院」は法円坂に移転し「大阪府医学校病院」(大阪医学校病院)となった。緒方洪庵の弟子であった大村益次郎が運び込まれて、そして絶命したのが、この病院であった。南東角には「大村益次郎卿殉難報国之碑」は建立されている。

「大阪医学校」は明治5年の学制発布により文部省管轄の「第四大学区医学校」と改称。
しかし、改称2ヶ月後の明治5年(1872)10月に大阪の「第四大学区医学校」は廃校となり、「第一大学区医学校」(東大医学部)に医学教育が集中されることとなる。
「大阪医学校」は官立であったために国の方針で廃校となってしまったが、その後に公立医学校として復活。現在の大阪大学医学部へとつながっている。

大阪師範学校(官立大阪師範学校)
明治5年(1872)に廃校となった「大阪医学校」の跡地に、明治6年8月に大阪師範学校(官立大阪師範学校)が開設。明治11年(1878)に学制改革により廃止。大阪府師範学校として、現在の大阪教育大に連なる。

明治天皇聖躅碑
明治天皇は、大阪師範学校を明治10年(1877年)2月に行幸されており、 明治天皇聖躅碑が大正14年5月に建立された。
明治天皇聖躅碑は、所在不明であったが2016年に発掘調査時に発見された。

明治天皇聖躅碑

大阪医学校
大阪師範学校

大阪市青年聨合團

大正14年5月10日建之


国立病院 大阪医療センター
(独立行政法人国立病院機構大阪医療センター)

大阪医学校・大阪師範学校のあと、この地は陸軍の兵営となった。
昭和22年、「旧大阪陸軍病院」の流れをくむ「国立大阪病院」が河内長野から現在地に移転。

大阪医学校があった地は、陸軍の時代を経て、再び医学の地に戻ったこととなる。


歩兵第三十七聯隊(歩兵第37連隊)

「大阪医療センター」の敷地内に陸軍時代の記念碑がある。
歩兵第三十七聯隊に関係する石碑。

歩兵第三十七聯隊(歩兵第37連隊)
明治29年(1896)連隊本部設置
明治31年(1898)3月24日  明治天皇より軍旗拝受
明治37年(1904)日露戦争従軍
昭和12年(1937)南京攻略戦に参加、翌年昭和13年に徐州会戦に参加
昭和15年(1940)漢水作戦に参加
昭和17年(1942)バターン半島攻略戦、コレヒドール島攻略戦に参加
昭和18年(1943)スマトラ島パレンバン警備
昭和20年(1945)タイに転戦、タイ・ビルマ国境で終戦。

歩兵第三十七聯隊
創立100周年 記念碑

碑文
明治三十一年三月二十四日 歩兵第三十七聯隊が創立されて本年を以て100周年に当たるため由緒あるこの地に記念として建立した所以であります。 
 平成十年三月吉日 
  歩三七会建立

歩兵第三十七聯隊跡
昭61年11月 歩三七会 建之

克忠

克忠とは、「より忠に」の意。大正11年5月二五日建立。
上部の「克忠」は、第四師団長・鈴木荘六中将の揮毫
下部の「詩」は、歩兵第三十七聯隊長・井染禄郎大佐の揮毫

(碑面裏)
此碑は元営門築山に在りし物にして終戦後撤去されおりしも北庭園を増築するに当たり37会此を再建せしものなり。

歩兵第三十七聯隊
明治三十六年創設
昭和二十年廃止
 三七会

かつて営門築山にあった灯籠?かもしれない。

大阪医療センターの一角に記念碑が集められていた。


歩兵第八聯隊(歩兵第8連隊)

またも負けたか八連隊(大阪の歩兵第8連隊)、それでは勲章九連隊(くんしょうくれんたい)(京都の歩兵第9連隊)」といわれた大阪の歩兵第八聯隊の兵営地は、現在の難波宮跡公園であった。
その歩兵第八聯隊は、決して弱かったわけではなく多くの勝ち戦もある。語呂の耳障りの良さと大阪人らしい気質とウィットに富んでいたために流布された里謡という側面もありそうだ。

歩兵第八聯隊(歩兵第8連隊)
明治7年(1874)5月、第10大隊と第14大隊を基幹に改編
        10月、萩の乱に第3大隊が従軍
12月、 明治天皇より軍旗拝受
明治10年(1877)西南戦争に従軍
明治27年(1894)日清戦争に従軍
明治37年(1904)日露戦争に従軍
大正3年(1914)第一次世界大戦にて、青島の戦いに参戦
昭和12年(1937)満州転戦
昭和17年(1942)第二次バターン半島攻略戦、コレヒドール島攻略戦に参加
昭和18年(1943)スマトラ島に移動
昭和20年(1945)仏印に転進、明号作戦に参加、その後タイへ転進し終戦

歩兵第八聯隊跡

碑文
歩兵第八聯隊は 明治7年5月14日創設
同年12月18日天皇より軍旗を親授せられ 萩の乱 西南の役 日清戦争 日露戦争 日独戦争 支那事変 大東亜戦争等に参加
七十有余年にわたり 国土の防衛に任じた
碑は 国史に著き摂河泉出身の若人が 練武に励んだ想い出の聯隊跡地を記念し 中馬馨大阪市長の揮毫をいただいて建てたもので この記念碑には 全国歩八関係戦友の魂がこもっている
 昭和50年4月
  歩八会

御臨幸之
 昭和7年11月14日

昭和7年(1932)年11月、奈良と大阪で陸軍特別大演習が行われ、
昭和天皇が大阪城東練兵場において観兵式を御統監になったのを記念して建立された碑。

石垣部分は当時からのもの、という。

排水孔

歩兵第八聯隊兵営の南門門柱。

難波宮跡公園。
大阪城と教育塔を望むことができる。

※撮影は2021年4月


関連

兵部大輔大村益次郎卿殉難報國之碑と埋腿骨之地(大阪)

大阪市中央区法円坂の国立病院機構大阪医療センター近くの上町交差点。
ひときわに大きな石碑がある。
当時、この地にあった鈴木町の大阪府医学校病院(大阪府仮病院)に大村益次郎が運び込まれ、そしてこの地で亡くなった。


大村益次郎

文政7年5月3日〈1824年5月30日〉 – 明治2年11月5日〈1869年12月7日〉
幕末期の長州藩の医師、西洋学者、兵学者。「維新の十傑」の一人。
日本陸軍の創設者
村田蔵六、良庵、諱は永敏。あだ名は「火吹き達磨」

周防国の村医の家柄に生まれた村田蔵六は、弘化3年(1846年)、大坂に出て緒方洪庵の適塾で学ぶ。適塾の塾頭まで進む。
嘉永6年(1853年)、宇和島藩で蘭学者として勤務。
安政3年(1856年)4月、宇和島藩主・伊達宗城の参勤にしたがって江戸に出府。
同年11月、宇和島藩御雇の身分のまま幕府の蕃書調所教授方手伝となる。
安政4年(1857年)11月11日、築地の幕府の講武所教授に就任。
万延元年(1860年)、長州藩の要請により江戸在住のまま同藩士となる。
文久3年(1863年)10月、萩へ帰国、長州藩の軍事を掌り、高杉晋作の奇兵隊の指導などを行う。
慶応2年(1866年)、第二次長州征伐に際して、石州石見国方面の実戦指揮を担当し、軍事的才能を遺憾なく発揮し幕府軍を撃破。
明治元年(1868年)、戊辰戦争では有栖川宮東征大総督府補佐として、軍務官判事、江戸府判事を兼任し、江戸を掌握。討伐軍を指揮し、上野山に籠もる彰義隊を撃破。その後も江戸から事実上の新政府軍総司令官として戊辰戦争を指揮し、新政府軍を勝利に導く。

明治2年(1869年)、明治新政府の幹部として軍政改革の音頭を取るも、兵制論争となり、結果として大久保利通派に敗れるも、軍政では大村益次郎に変わるものもなく、新たに設置された兵部省の兵部大輔(次官)に就任。兵部卿(大臣)は仁和寺宮嘉彰親王であったために、実質的には大村益次郎は近代日本の軍制建設を指導する立場となる。

大村益次郎は大阪に大阪城近くに兵部省の兵学寮(士官学校)を設け、造兵廠(大阪砲兵工廠)、宇治に火薬製造所の建設するなどを決め、東京から関西へ軍事拠点を移転させることを決定。

明治2年(1869年)8月、視察のために京阪方面に出張。
9月4日夕刻、益次郎は京都三条木屋町上ルの旅館で会食中、8人の刺客に襲われる。
重傷を負い9月7日に京都の山口藩邸へ移送され、数日間の治療を受けるも、傷口から菌が入り敗血症となる。医療設備の整っていた「大阪府医学校病院」(浪華仮病院・大阪府仮病院)に転院を決め、教え子であった寺内正毅、児玉源太郎らが担架で高瀬川船着き場まで運び、10月2日に大阪府医学校病院(大阪仮病院)に入院。
大阪府医学校病院は院長が緒方惟準(大村益次郎の恩師・適塾緒方洪庵の次男)、オランダ人医師ボードウィンを主席教授とし、楠本イネ(シーボルトの娘)らが看護。蘭医ボードウィンによる左大腿部切断手術をおこない、足を切断するも、翌11月1日に敗血症による高熱を発して容態が悪化し11月5日の夜に死去した。享年46歳。
大村益次郎は「切断した私の足は緒方洪庵先生の墓の傍に埋めるように。」と遺言した。(龍海寺の緒方洪庵の墓の隣に足塚がある)


兵部大輔大村益次郎卿殉難報國之碑

昭和15年11月に大村益次郎が治療を受けた大阪府医学校病院(浪華仮病院・大阪仮病院)、そして亡くなった地に鎮座。
昭和15年(1940)は、1月米内光政内閣、7月に第2次近衛文麿内閣が成立し陸相には東条英機が就任。9月には、日独伊三国同盟条約が締結され、11月には、紀元2600年祝賀行事が行われるという時局であった。
ひときわに大きい、大村益次郎の殉難報國之碑もそんな時局をあらわしていた。

兵部大輔大村益次郎卿殉難報國之碑

明治兵制ノ創始者兵部大輔大村益次郎卿ハ周防ノ人資性沈毅明敏少壮ニシテ漢籍ヲ廣瀬淡窓ニ蘭学ヲ梅田幽斎及緒方洪庵等ニ学ビ専ラ醫学及兵学ヲ修メ夙ニ皇政維新ノ大業ヲ翼賛シテ東京以北戡定ノ偉勲ヲ樹テ親兵ヲ創設シテ兵馬ノ大権確立ニ資シ徴兵ノ制ヲ布キテ國民皆兵ノ實ヲ擧ゲンコトヲ主張シ兵学寮及兵器弾薬製造所並軍艦碇泊場ノ設立等ニ拮据奔走中明治二年九月四日京都ニ於て刺客ノ難ニ遭ヒ後大阪病院ニ於て右大腿切断ノ手術ヲ受ク病牀二ケ月瀕死ノ中ニ在ツテ尚ホ書ヲ要路ニ致シ陸海兵制ノ整備ト軍事醫療ノ急設トヲ説キ傷處ノ疼痛ニ悩ミツゝ一言モ之ニ及ブ■ク愬フル所皆是レ國家公共ノ大策ニ非サルハ無カリキ不幸経過良好ナラズ遂ニ十一月五日経國ノ雄圖ヲ抱イテ空シク此ノ地ニ薨ス時ニ年四十六本會ハ茲ニ卿ノ高邁ナル識見ト偉大ナル功績トヲ敬慕シ特ニ終焉ノ地ヲ選ビ記念碑ヲ建テ此遺跡ト共ニ其洪勲ヲ長ヘニ後昆ニ傳フト云爾
   昭和十五年十一月 大村卿遺徳顕彰會

※中央部に亀裂が有り、一部の文字が読み取れず

発起人・賛助者にはそうそうたる名前が刻まれていた。
昭和15年当時の軍人・関西財界人など。

また、緒方銈次郎の名も有る。
緒方銈次郎は、大村益次郎の恩師であった緒方洪庵の子・緒方惟準の二男。大村益次郎は緒方惟準が院長を務める、適塾の流れをくむ浪華仮病院・大阪仮病院に担ぎ込まれた。

財界
伊藤忠兵衛(伊藤忠)
鳥井信治郎(サントリー)
種田虎雄(近鉄)
松下幸之助(パナソニック)
鴻池善右衛門(鴻池家)
小林一三(阪急)
江崎利一(江崎グリコ)
野村徳七(野村証券)

陸軍
畑俊六
林銑十郎
東条英機
大島健一
松井石根
松岡洋右
寺内寿一
荒木貞夫
杉山元

海軍
及川古志郎
高橋三吉
末次信正

場所

https://goo.gl/maps/UoLZBv6H6k1Debqy7

現在は、国立病院大阪医療センター。
この地は、のちに元歩兵第三十七連隊が展開されていた。
敷地内には、歩兵第三十七連隊の慰霊碑などもある。


大村益次郎寓居跡「漏月庵」

少し時系列をさかのぼる。
大村益次郎(村田蔵六)は、22歳のころに来阪して「緒方洪庵の適塾」に入門して塾頭まで務める。そのころにこの場所から適塾に通っていたという。

大村益次郎寓居跡
「漏月庵」

 大村益次郎は1825(文政8)年、山口・周防の医者の家に生まれた。蘭学、医学、蘭式兵学に通じ、日本の近代兵制を創始した。
 緒方洪庵に師事し、1849(嘉永2)年からこの家に住んで適塾に通った。初めて構えた居宅を愛し、ひさしのすき間から見える月の美しさに感謝して「漏月庵」と名付けた。
 後、故郷に戻って医者になったが洋楽の知識を認められ、明治新政府の兵部大輔(軍事大臣)となり、日本の兵制をととのえた。1869(明治2)年没。
「漏月庵址」の石碑は1950(昭和25)年まで存在したが、その後不明になり今回改めて建立した。
 令和2年9月吉日
  古川宏太郎建立

場所

https://maps.app.goo.gl/vPs8sqw7kCMfZRp78


大村益次郎埋腿骨之地(足塚)
緒方洪庵墓所

大阪市北区の龍海寺。緒方洪庵の菩提寺。
緒方洪庵の墓は東京文京区の高林寺にもあり、この龍海寺には遺髪が埋葬されている。
適塾で恩師であった緒方洪庵の墓之隣に、大村益次郎は切断した右足を埋めるように遺言した。
埋葬後も、しばらくは秘匿されており、昭和14年(1939)に、「埋腿骨之地」が建立された。

大村兵部大輔埋腿骨之地

裏面は陸軍軍医中将飯島茂による撰文。

緒方洪庵先生之墓
洪庵先生夫人億川氏墓

緒方洪庵の墓の隣に、大村益次郎足塚がある。

場所

https://goo.gl/maps/wqmbK9kYwMZDJQ1f6

靖國地蔵尊

龍海寺境内に。
昭和17年1月14日建立。開戦直後、ですね。


付記

緒方洪庵墓所(東京文京区・高林寺)

緒方洪庵墓(文京区指定史跡)
 洪庵は、江戸時代末期の蘭学者、医学者、教育者。文化7年~文久9年(1810~63)現在の岡山県に生まれ、名は章、後に洪庵と改めた。
 大坂、江戸、長崎で蘭学、医学を学び、天保9年(1838)、大坂に”適々斎塾”(適塾)を開き、診療と研究のかたわら、三千人におよぶ門弟の教育に当たった。この塾から大村益次郎、橋本左内、福沢諭吉などが輩出した。
 洪庵は、幕府の奥医師として江戸に招かれ、翌年、文久3年(1863)に病没した。


付記

大村益次郎像(靖國神社)

明治15年(1882)、大村益次郎の意思を継いで陸軍創設に貢献をした山田顕義らにより、大村益次郎の功績を称えるべく銅像の建立が発議される。
明治26年(1893)、6月、大村益次郎も創建に尽力をしていた東京の靖国神社の境内に大村益次郎の銅像が建立され、除幕式が執行。日本初の西洋式銅像、であった。

この像は、戊辰戦争の際、司令官として江戸城本丸から、彰義隊が立てこもる上野を見つめている姿であるという。

靖國神社の大村益次郎は、上野公園の方向を向いているという。そして上野公園の西郷隆盛と向かい合っている、ともいう。


関連

大阪大空襲 京橋駅爆撃被災者慰霊碑(大阪京橋)

1945年8月14日、約150機のB29による大阪空襲にて、国鉄京橋駅では甚大な被害が発生した。
そのため「京橋空襲」とも呼称されている。

往時の犠牲者の慰霊碑がJR京橋駅南口に建立されているので、参拝を。

合掌


大阪大空襲

大阪市では昭和20年(1945)3月から8月にかけて、8回もの大規模な空襲があり、1万人以上の一般市民が犠牲になったと言われている。

昭和20年(1945年)
第1回大阪大空襲 3月13日
第2回大阪大空襲 6月1日
第3回大阪大空襲 6月7日
第4回大阪大空襲 6月15日
第5回大阪大空襲 6月26日
第6回大阪大空襲 7月10日 (堺大空襲)
第7回大阪大空襲 7月24日
第8回大阪大空襲 8月14日 (京橋空襲)

京橋空襲(京橋駅空襲)

これまで7回の空襲を大阪に対して行っていた米軍ではあったが、大阪最大の軍需工場であった大阪陸軍造兵廠への爆撃は失敗に終わっていた。
昭和20年8月14日、米軍は約150機のB29でもって「大阪陸軍造兵廠」を狙い、約700個に及ぶ1トン爆弾を集中投下。大阪陸軍造兵廠は壊滅した。
この爆撃によって、大阪陸軍造兵廠(大阪城)の北東に位置する国鉄京橋駅周辺にも1トン爆弾が4発落下し、駅にいた乗客などに直撃し身元判明車210名以上、身元不明者600名以上の犠牲者を出した。


大阪大空襲 京橋駅爆撃被災者慰霊碑

大阪大空襲
京橋駅爆撃被災者慰霊碑
 太平洋戦争終戦前日の昭和20年8月14日、大阪は最後の大空襲を受けた。B29戦略爆撃機は特に大阪城内の大阪陸軍造兵廠に対し、集中攻撃を加えたが、その際、流れ弾の1トン爆弾が4発、京橋駅に落ちた。うち1発が多数の乗客が避難していた片町線ホームに高架上の城東線(現、環状線)を、突き抜けて落ちたため、まさに断末魔の叫びが飛び交う生き地獄そのものであったという。判明している被爆犠牲者は210名であるが、他に無縁仏となったみ霊は数え切れなく、500名とも、600名とも言われている。       
 当時、地獄のような惨状を目撃した大東市の森本栄一郎氏があまりの悲惨さに胸を痛め、その霊を弔おうと昭和22年8月14日、自費で建立された慰霊碑である。

納経塔
 戦後、被爆犠牲者を弔う法要が毎年8月慰霊碑の前で鴫野・妙見閣寺によって行われているが、37回忌を機に写経による供養をと、遺族及び当時駅での体験者、大阪大空襲の体験を語る会々員他多数の市民からの基金、協力を得て建立した納経塔である。

釈迦牟尼仏尊像と平和祈念像
 この惨事を後世に伝えるため、昭和59年に釈迦牟尼仏尊像が建立された。これは大阪城東ライオンズクラブが結成20周年事業として寄贈したものである。

 空襲被災者慰霊祭世話人会
 大阪市城東区役所
 JR西日本京橋駅

(正面) 南無阿彌陀佛
(側面) 昭和20年8月14日受難者供養之為
(背面) 昭和22年8月14日 森本栄一郎建之

釈迦牟尼仏尊像

納経塔

JR京橋駅前の平和祈念像

平和よ永遠なれ


関連

板橋の田園調布「ときわ台駅」周辺散策

東京都板橋区常盤台。東武東上線「ときわ台駅」。
東急の「田園調布」、小田急の「成城学園」などの鉄道会社主体の住宅地造成ブームの中で、東武鉄道が手掛けた最初の本格的な住宅地開発が「ときわ台駅」であった。

そんな、開発当初の昭和の雰囲気を感じつつ散策してみました。


常盤台(ときわ台)

東上鉄道
大正3年に東上鉄道として開通した際は、「ときわ台駅」はまだ未開業であった。大正9年(1920)に東上鉄道は東武鉄道と対等合併し、「東武鉄道東上本線」となった。

西板線
合併後の東武鉄道は伊勢崎線などの本線系統と東上鉄道系統との接続を予定し、「西板線」の建設を計画。これは西新井駅と上板橋駅を結ぶ計画であった。しかし関東大震災の影響などもあり頓挫。西板線は、東武大師線として一部が開業。

前野飛行場
西板線の車両基地・操車場予定地として東武鉄道が買収していた用地は、昭和4年(1929)に前野飛行場(板橋飛行場・遠藤飛行場)として、退役軍人の遠藤辰五郎に貸し出され、東京市内などの遊覧飛行が行われていたが、東武鉄道が西板線計画を撤退し、常盤台住宅地として分譲をすることを決め、昭和8年頃に前野飛行場を廃止。

武蔵常盤駅
常盤台住宅地の分譲地への最寄り駅として、昭和10年(1935)10月20日、武蔵常盤駅として開業。
昭和11年より13年にかけて、「常盤台住宅地」として分譲開始。

常盤台住宅地「板橋の田園調布」
駅前ロータリーから放射状に道路が伸びており、大田区田園調布の町並みと比較されることが多い。
そのため「板橋の田園調布」などとも呼称される。
常盤台住宅地分譲の際、東武鉄道が当時の内務省都市計画課職員小宮賢一の設計を採用。地域を一周する並木道(プロムナード)、袋小路(クルドサック)、道路に沿った緑道(ロードベイ)を配置する設計を行い、日本では先駆的な事例となった。

ときわ台駅
昭和26年に武蔵常盤駅から、ときわ台駅に改称。


ときわ台駅

平成30年(2018)に、北口駅舎のリニューアル工事が完了し、昭和20年の開業時の姿で復元。
開業当時からある青色スペイン瓦の三角屋根や、その下に配された縦長の三連窓、大谷石の表面に幾何学的模様を凹凸で表現した壁面や大谷石貼りの柱脚などを残しつつ、開業当初の塗装色で塗り直しなどを行い、改札上部の欄間のデザインなども再現。

特徴的な三連窓。

昭和10年の開業当時から残る大谷石の壁面・柱脚。


ときわ台駅ギャラリースペース
武蔵常盤小径

常盤台住宅地に関連した11枚のパネルが提示してある。


1935(昭和10)年10月20日、ときわ台駅は「武蔵常盤駅」として産声を上げました。以来、80余年にわたり、地域の発展、そして、時代の浮沈みを感じながら、町のシンボルとして皆さまに愛され続けてまいりました。

このたび、駅舎のリニューアルを記念し、11面のパネルから成るギャラリースペースを設けました。特徴的な青瓦と大谷石、幾何学的意匠の目立つ「ときわ台駅」は、今後も地域のシンボルであり続けます。

なお、パネル製作にあたり、板橋区教育委員会、常盤台の景観を守る会、東武博物館より、貴重な資料を提供いただきましたことに感謝いたします。

平成30年5月
東武鉄道株式会社

常盤台住宅
常盤台住宅は、東武東上線で池袋から5つ目「ときわ台」駅の北側に広がる2万3千余坪の面積を持つ住宅地で、現在の常盤台1丁目、2丁目に当ります。東武鉄道株式会社によって昭和11年度から分譲されました。

街づくり
常盤台アーバンデザインの最大の特徴は、地区内を一周できる環状のプロムナード(散歩道)です。日本では珍しい曲線を多用した街路で、5か所に設けられたクルドサック(袋路)や、プロムナード沿いの3か所にロードベイも用意されました。 

常盤台住宅地建築内規
大正期から昭和戦前期までに開発された郊外住宅地の中には、住環境の保全対策を講じていたものが多くあります。常盤台住宅地にも住環境保全を謳った規制が存在しました。開発主体である東武鉄道が定めた「常盤台住宅地建築内規」です。昭和13年4月には成文化されています、以下にそれを要約します。
 (略)

常盤台住宅販売
(略)

思ひ出の建物

思ひ出の景色

思ひ出の駅

帝都幼稚園
帝都幼稚園付門柱 常盤台1丁目6番
板橋区登録有形文化財(建造物) 登録年月日 平成25年(2013)3月27日

 帝都幼稚園は、昭和11年(1936)に、常盤台住宅地の分譲開始に合わせ、元東京府豊島師範学校教諭で、音楽家であった山本正夫が、帝都学園女学校を開いたことに始まります。

 その後、昭和17年に財団法人帝都学園高等女学校の認可を受けましたが、同21年に起きた漏電事故により校舎の3分の2を焼失し、同26年に高等学校は廃止となりました(なお、その跡地には現在区立常盤台小学校が建っています)。その後は、帝都幼稚園として再出発し、現在にいたります。

 建物調査の結果、現在園舎として使われている建物は、昭和21年の焼失を免れた設立当時の「家事割烹室」や「教育棟」などの建物を移築したものと考えられます。

 当園は、薄緑色に塗装された南京下見の外壁や、セメント瓦による勾配の緩い寄棟造や切妻造の屋根に直線的で幅の狭い破風板が施されているなどの特徴が認められます。また、教室空間を大きくとるために、洋小屋構造などの洋風建築の意匠や構造が採用されるなど、昭和初期の時代性を顕著に現わす近代建築となっています。

 なお、幼稚園正門の門柱は、昭和32年に卒園生一同が寄贈したものですが、当時、南常盤台に住居をかまえていた童画家、武井武雄がその設計に当たっています。 

 帝都幼稚園の園舎は、移築をしているものの、昭和戦前当時の最先端の開発がなされた常盤台住宅地における草創期の姿をとどめる数少ない現存している建造物であり、区の近代の歴史を明らかにする上でも重要な建造物となっています。

※現在も幼稚園として使われており、内部への立ち入り・見学はできません。

おさんぽマップ
(略)

斯波家住宅
常盤台・斯波家住宅 常盤台2丁目13番
板橋区登録有形文化財(建造物) 登録年月日 平成20年(2008)3月27日

 東武東上線ときわ台駅北側の常盤台1丁目・2丁目一帯は、東武鉄道が田園都市づくりをめざし開発された住宅地です。昭和8~13年かけて駅の開発を含めた26万4千平方mに及ぶ区画整理事業がすすめられ、「常盤台住宅地」と呼ばれています。

 近年、建物の老朽化や生活様式の変化にともなう建て替え、相続による土地の細分化等によって開発当初の建物が大変少なくなっています。

 当住宅は、平成16年に、昭和13年(1938)の建築当初の形が維持できなくなる状況となりましたが、当時の所有者は建造物の文化財的価値の重要性を鑑み、建物二階部分と北側一部分を曳家として保存しました。

 当住宅は、建設当初と比較すると、規模は40%に縮小され、位置も同敷地内において移動していま す。しかし、広縁を含む四部屋と屋根は、昭和戦前当時の最先端の開発がなされた常盤台住宅における草創期の姿をとどめており、現存している数少ない建造物となっています。区の近代の歴史を明らかにする上でも大変重要です。

※現在も住居として使われており、内部への立ち入り・見学はできません


帝都幼稚園

昭和11年(1936)の建物が今も使われている幼稚園。

帝都幼稚園付門柱
 帝都幼稚園は、昭和11年(1936)に、常盤台住宅地の分譲開始に合わせて、元東京府豊島師範学校教諭で、音楽家であった山本正夫が、帝都学園女学校を開きました。
 その後、昭和17年に財団法人帝都学園高等女学校の認可を受けましたが、同21年に起きた漏電事故により校舎の3分の2を焼失し、同26年に高等学校は廃止となりました(なお、その跡地には現在区立常盤台小学校が建っています)。その後は、帝都幼稚園として再出発し、現在にいたります。
 建物調査によれば、現在の建物は、昭和21年の焼失を免れた設立当時の「家事割烹室」や「教育棟」などの建物を移築し、使用しているものと考えられます。
 当園は、薄緑色に塗装された南京下見の外壁や、セメント瓦による勾配の緩い寄棟造や切妻造の屋根に直線的で幅の狭い破風板、教室空間を大きくとるために採用された洋小屋構造などの、洋風建築の意匠や構造を取り入れた、昭和初期の時代性を顕著に現わす近代建築です。
 また、幼稚園正門の門柱は、昭和32年に卒園生一同が寄贈したものですが、当時、南常盤台に住居をかまえていた童画家、武井武雄がその設計に当たったものです。
 帝都幼稚園の園舎は、移築をしているものの、昭和戦前当時の最先端の開発がなされた常盤台住宅地における草創期の姿をとどめる数少ない現存している建造物です、また、区の近代の歴史を明らかにする上でも重要な建造物です。平成24年度に登録文化財となりました。 ※内部の見学は不可
  平成26年2月 
   板橋区教育委員会

正門門柱

昭和11年の建造物

帝都幼稚園という、名称に歴史と尊厳を感じさせる。

場所

https://goo.gl/maps/tAJnAkUN97fQmxGZ8


閉館した板橋区立中央図書館。

板橋区立中央図書館旧館は、1970年に開館。2021年度に解体。
旧館は2020年12月20日閉館。新館は板橋区平和公園内に新築され2021年3月28日開館。

曲線を描くプロムナード。


常盤台・斯波家住宅

板橋区登録有形文化財
常盤台・斯波家住宅

木造二階建・近代和風建築
所在地 常盤台2丁目13番
登録年月日 平成20年3月27日
所有者 (略)

 ときわ台駅北側の常盤台1丁目・2丁目一帯は、東武鉄道が田園都市づくりをめざし、昭和8~13年に駅の開発を含めた26万4千平方mに及ぶ区画整理により造った街で、住宅地は「常盤台住宅地」と呼ばれています。
 しかし近年、建物の老朽化・生活様式の変化に伴う建替えや、相続による土地の細分化等で建築当初の建物が大変少なくなってきました。
 この住宅も、平成16年に建築当初の形を維持できなくなる事態が生じましたが、現所有者は建築物の価値の重要性を鑑み、建物の二階部分と北側一部分とを曳家して保存しました。  
 建築当初と比較すると規模は縮小され、位置も同敷地内にて移動していますが、広縁を含む四部屋が屋根を含めて建設当初のまま残っており、「常盤台住宅」の歴史を伝える上で重要な建造物です。
 平成21年3月
  板橋区教育委員会
  ※現在も居住していますので、内部への立ち入りはできません。

場所

https://goo.gl/maps/o9hYsm4x19ay43297


常盤台の南に空襲の慰霊碑があるので足を伸ばしてみる。
マンションのの間に鎮座。

平安地蔵

昭和20年6月10日の板橋区内で最大の死者(死者269名)を出した空襲の犠牲者「戦災死没者之霊」を祀る。昭和二十三年六月十日建之。

平安地蔵尊
平安地蔵尊由来
 この地は、大東亜戰争末期の昭和二十年六月十日午前八時半頃、米爆撃機参拾数機の編隊により數百発の爆彈を投下され一瞬にして修羅の巷と化し死者貮百八拾余名を出せり
 ここに戰災死没者永遠の冥福を祈るため地元有志發起人となり昭和二十三年六月十日平安地蔵尊を建立する

平らけく 安ら希く
  世越は 護り座す
 地蔵菩薩の
   誓ひうれしき

伊藤康安撰 長谷川耕南拜書

平安地蔵
 昭和二十年(一九四五)六月十日、午前七時五十五分より約二時間にわたり、この付近一帯はB29による空襲をうけました。『帝都防空本部情報』の記録によると、死者二六九名、重傷者八六名、建物の全壊二六〇戸、投下爆弾(二五〇キログラム級)一一六個、罹災者二、四六七人羅災世帯四九八世帯とあります。区内では最大の死者を出した空襲といわれ、実際にはこの数字より多い被害があったようです。
 戦後、亡くなった人々の供養と再びこの悲劇を繰り返すまいという誓いのもとに昭和二十三年六月十日、地元有志の人々が浄財を集め、おとな、子どもを表す大小の地蔵を造立、平安地蔵と命名しました。太平洋戦争を語る区内では数少ない史跡の一つです。
 平成七年度、板橋区の記念物に登録されました。
  平成九年三月 板橋区教育委員会

場所

https://goo.gl/maps/SCDofGz5KnhB6jqL7

※本記事の撮影は2021年2月


板橋区関連

B29搭乗員慰霊碑(川口市安行吉蔵)

埼玉県川口市にB29の慰霊碑があるというので足を運んでみた。
川口市の安行吉蔵(あんぎょうきちぞう)。安行地区には、安行〇〇という地名がいくつもある。

現在、「安行吉蔵八幡神社」は、安行原の「九重神社」に合祀されており、安行吉蔵八幡神社跡として小祠が祀られている。その境内に、B29の慰霊碑が建立されている。

以下、B29の由来。

1945年5月25〜26日
埼玉県北足立郡安行村(現・川口市安行吉蔵)の田んぼ
 B29(機体番号42−24826、ニックネーム「IN THE MOOD」、第313航空団505爆撃群所属)が墜落。
 (注)上記作戦の損失機26機のうちの1機
 飛行機は、対空砲火を受けて東京方面から炎に包まれて飛来して安行村の吉蔵新田に墜落、3日間燃え続けた。
 6人が墜落死し、安行村原の密蔵院墓地に埋葬。1956年、地元の人によって吉蔵八幡神社に米兵の慰霊碑が建てられた。(略)

POW研究所 本土空襲の墜落米軍機と捕虜飛行士  http://www.powresearch.jp/jp/archive/pilot/tobu.html

B29搭乗員慰霊碑

吉蔵八幡神社境内に建立されたB29搭乗員慰霊碑。昭和31年8月終戦記念日に建立。

祈冥福

昭和二十年五月二十六日午前一時頃 片翼の一部を失いたるB29一機 浦和の方面より飛来し 草加方面に逃避せしも 再び旋回し来たり この地に墜落し全搭乗員戦死す 遺体を住民の人類愛により火葬とし 終戦後進駐米軍に引渡しを了せり 残骸は政府整理せしも 墜落地一千坪は荒野と化したり 然るを土地所有者巨費を投じて美田に復元せり 終戦十周年を迎えるに際し 碑を建て後世に伝ふ

村社八幡社旧蹟

かつてB29が飛んでいた、今は平和な安行吉蔵の空を眺める。

場所

https://goo.gl/maps/e9dCzJm6wXL71J54A


関連

足立区のB29タイヤとプロペラ

足立区のB29無名戦士慰霊碑

青梅市のB29搭乗員慰霊碑とエンジン

東村山市のB29搭乗員慰霊の平和観音

B29搭乗員慰霊碑とB29エンジン(青梅)

青梅市の山中にB29が墜落したのは、昭和20(1945)年4月2日未明のことであった。
その墜落現場の山中に、B29搭乗員の慰霊碑が建立されているというので、足を運んでみた。

青梅線・軍畑駅

青梅線・軍畑駅から多摩川を渡る「軍畑大橋」の向こうに広がる山中にB29が墜落した。

後述するが、青梅市郷土博物館に保管されているエンジンの一部は、墜落時に多摩川に落ちたものを回収したものという。

B29が墜落した山を目指す。

写真後方の山中にB29が墜落した。

最初、道にまよったので、場所を明記しておく。

「吉野街道」の「柚木町三丁目交差点」が目印。

場所

https://goo.gl/maps/Jo2DbpK9UGh7NvB56

B29入口 →

看板もある。

案内看板を目印にしよう。

B29入口 →

B29へ →

道が思ったよりも危険でした。

危険

← 40m先 B29

けっこう、集中して歩かないと本当に危ないです。

足元に注意

B29 →

ひたすら山道を歩く。しっかりとした靴でないと辛い道。

B29へ →

B29

B29 →

見えてきました。

軍畑駅から入口までは約15分。
私は入口がわからなく迷ってしまったので、結果プラス30分かかりましたが。
そして、入口からは山道を約15分ほど歩いた感じでした。


B29搭乗員慰霊碑

山林所有者が建立した慰霊碑。
格別な説明はなく、ただ一言「當所無縁一切聖霊」とのみ刻まれた慰霊碑。

昭和20年4月2日未明、柚木の山中にB29が墜落した際に、11人のB29搭乗員のうち既に5名が亡くなっていた。
近くに疎開していた吉川英治は、「死ねば敵も味方もない」「丁重に葬るべし」と提言され、火葬の上で近くの即清寺に埋葬された。(戦後、米軍が回収)

生き残った6名のうち2名はその後になくなり、4名は米国に帰国している。

吉川英治は1944年に横浜から青梅に疎開し戦中戦後の9年5ヶ月間を青梅に居住していた。(近隣に吉川英治記念館がある。)

1945年4月2日午前3時頃
東京都西多摩郡吉野村柚木(現・青梅市柚木町)の愛宕山山腹

 B29(機体番号43ー93999、第73航 空団498爆撃群所属)が墜落。
 飛行機は空襲が終わるころ高射砲弾を受けたらしく、火の玉になって飛来、墜落と同時に爆発してバラバラになり、破片が山麓の吉野街道付近まで散乱した。
 (注)作戦任務第51号(目標:東京−中島飛行機武蔵製作所、第73航空団から出撃122機、損失6機)

 機長のCarl C.SMITHなど5人は機体とともに墜落死、遺体は吉野村即清寺の墓地に火葬して埋葬され、戦後、米軍が回収。参考人は即清寺住職。
 パラシュート降下した5人(西多摩郡三田村で4人、小曾木村で1人)が1両日中に捕虜になり、サイドカーで立川憲兵隊を経て東京憲兵隊へ送られた。彼らのうち、Francis M.REYNOLDS二等軍曹、Sylvio LAMARCA二等軍曹、John W.EVANS 二等軍曹、Morris W.SANSOUCI軍曹の4人は戦後米国へ帰還したが、John S.HOUGHTON少尉は全身に火傷を負っており、東京憲兵隊に収容中症状がさらに悪化、治療の見込みなしとして11日に毒殺された。東京都小石川の陸軍墓地に埋葬。
 また、Kenneth PETTERSON軍曹は数日間山中に隠れていたが、空腹に耐えかねて黒沢3丁目の民家に現れて捕虜になり、東京憲兵隊へ送られた後、東京陸軍刑務所に移送、5月26日の空襲による火災で死亡。
 青梅市立郷土博物館には、このB29のエンジンや破片の一部が保存されている。
 また、山林の所有者の野村哲也さんは、2001年に墜落現場近くにB29搭乗員の慰霊碑を建立し、06年には在日米軍横田基地の代表や青梅市長など150人が参加して慰霊祭が催された。

POW研究会「本土空襲の墜落米軍機と捕虜飛行士」 http://www.powresearch.jp/jp/archive/pilot/tobu.html

當所無縁一切聖霊

無縁一切聖霊

【無縁仏】より
…供養されることがないのでつねに腹をすかせ,あるいは安らかな死が迎えられず,怨恨をもって迷っているため,たたりやすく,またこの世に害を与えるので,無縁仏には個人または集団でことあるごとにまつる必要があるとされた。中世の霊魂祭祀では,個々の無縁霊がもれないように,総括して法界,三界万霊,無縁一切精霊などと表現していた。民俗用語としては,現今,南九州・南島ではフケジョロ(外精霊),ウケジョロ(浮精霊),ホカドン(外殿),トモドン(供殿)など,紀ノ川沿いではお客ボトケ,兵庫県宍粟郡ではショウロサン(精霊様),岐阜県加茂郡では一切精霊様,壱岐ではサンゲバンゲ(三界万霊)などとよばれている。…

コトバンク  https://kotobank.jp/word/%E7%84%A1%E7%B8%81%E4%B8%80%E5%88%87%E7%B2%BE%E9%9C%8A-1424491

慰霊碑はB29が墜落したという山中に、人知れずに鎮座している。

平和の鐘

B29墜落現場の慰霊碑の先にも案内看板があった。

山ノ神さま →

足を伸ばしてみる。

眼下に広がる柚木の集落。
この山中の斜面にB29が墜落したのだ。

そうして、山ノ神さまが、柚木の集落を見守っていた。


軍畑駅から青梅駅に移動。
青梅駅から再び多摩川を渡って、青梅市郷土博物館へ。


青梅市郷土博物館

青梅市郷土博物館に、前述の柚木の山林に墜落したB29のエンジンの一部が展示されている。

B29のエンジン

墜落したB29のエンジンの一部
 昭和20(1945)年、吉野村柚木(現在の青梅市柚木町)の山林に墜落したB29爆撃機のエンジンの一部です。
 日本側の記録によると、昭和20(1945)年4月2日未明に北多摩地区が空襲を受けたが、午前3時12分頃、柚木の山林にB29が1機墜落したとあります。その際、墜落の直前に4基あるエンジンのうち1基が脱落し、多摩川に落ちたと当時の目撃者が語っております。
 このエンジンは、その後、放置されたままでしたが、昭和54(1979)年、地元の方達により引き上げられ、保管されていました。
 そして、平成5年9月、保管主の青木光男氏より当館にへ寄贈されました。

市内柚木町に墜落したB29「Filthy FayⅡ」と搭乗員

 昭和20年(1945)4月2日未明、中島飛行機武蔵製作所付近(現在の武蔵野市、西東京市、練馬区付近)爆撃任務中に高射砲(搭乗員の証言)により被弾し炎上、市内柚木町2丁目(当時は西多摩郡吉野村)の山中に墜落しました。11人の搭乗員のうち墜落時に5人が死亡し、その後ヤケドや空襲で2人が死亡、終戦後アメリカに帰国したのは4人でした。
 4月2日の爆撃は、午前2時20分ごろから30分ごろまで120機前後のB29が爆撃に参加し、焼夷弾や照明弾、時限爆弾などが投下され、保谷町(現在の西東京市)などで200名以上の犠牲者が出ました。

中島飛行機武蔵製作所

B29のエンジンの一部。


飛龍のエンジン

青梅市郷土博物館には、墜落した帝国陸軍の四式重爆撃機(キ67)「飛龍のエンジン」も展示している。

墜落した「飛龍」のエンジン
 昭和20年8月11日の夕刻、大日本帝国陸軍の重爆撃機「飛龍」が吉野村柚木(現在の青梅市柚木町)の山中に墜落しました。終戦の4日前のことです。墜落機は埼玉県熊谷の第1航空軍、第16独立飛行隊に所属していました。
 当日は、静岡県浜松飛行場での事故機の支援任務を終え、傷病兵2名を乗せて熊谷に帰還する途中、何らかのトラブルにより墜落したものと思われます。
 墜落した場所は、愛宕山尾根の東端付近で、梅ノ木峠と三ツ沢峠をつなぐ稜線の北側斜面です。
 平成16年1月18日、小川秋子氏(元青梅市文化財保護指導員)を始めとする多くの方々の献身的な努力によって、急峻な谷底から100キロを超えるエンジンの一部が搬出されました。
 このたび、小川秋子氏より寄贈を受け、本館に展示することとなりました。

四式重爆撃機「飛龍」

墜落した「飛龍」
○墜落事故
 昭和20年8月11日の夕刻、大日本帝国陸軍の重爆撃機「飛龍」が吉野村柚木(現在の青梅市柚木町)の山中に墜落しました。終戦の4日前のことです。墜落機は埼玉県熊谷の第1航空軍、第16独立飛行隊に所属していました。
 当日は、静岡県浜松飛行場での事故機の支援任務を終え、傷病兵2名を乗せて熊谷に帰還する途中、何らかのトラブルにより墜落したものと思われます。
 墜落した場所は、愛宕山尾根の東端付近で、梅ノ木峠と三ツ沢峠をつなぐ稜線の北側斜面です。
○エンジンの回収
 平成16年1月、墜落現場の山中でエンジンの一部(強制冷却ファン)が発見され、地元有志の協力により谷底から引き上げて回収されました。
○慰霊祭と回収品
 平成20年8月9日、関係者が集まり墜落現場で慰霊祭を挙行、その後、回収品の管理について回収にあたられた地元有志の方々のご厚意により「青梅市郷土博物館」で保管・展示することになりました。
(以下略)

四式重爆撃機「飛龍」のアンテナの一部・アルミ合金・やっきょう・風防ガラスなど。

これらは墜落した飛龍の部品の一部です。
墜落現場から飛龍のエンジンの一部が回収された際に、付近に散乱していたこれらの部品も一緒に改修されました。

四式重爆撃機「飛龍」の模型(1/72)
四式重爆撃機「飛龍」は大日本帝国陸軍が太平洋戦争末期に生産した重爆撃機です。三菱重工業によって開発され、三菱の各工場や陸軍立川航空廠などで生産されました。三菱製の新型発動機などを搭載して優れた性能を持っており、大戦末期の旧日本軍劣勢下においても活躍したといわれています。


青梅市郷土博物館

https://www.city.ome.tokyo.jp/site/provincial-history-museum/

青梅市郷土博物館 収蔵品データベース

http://jmapps.ne.jp/oume/

青梅市郷土博物館 収蔵品データベース > B29のエンジン

http://jmapps.ne.jp/oume/det.html?data_id=7909

青梅市郷土博物館 収蔵品データベース > 飛龍のエンジン

http://jmapps.ne.jp/oume/det.html?data_id=7910


関連

B29搭乗員慰霊の平和観音(東村山市)

B29のタイヤとプロペラ(足立区)

B29無名戦士慰霊碑(足立区j)

B29搭乗員の慰霊碑(川口市)

「哀しみの東京大空襲」と「時忘れじの塔」

上野には、2つの東京大空襲関連の慰霊碑がある。
その2つともに、海老名 香葉子 氏(落語家初代林家三平の妻・作家)が携わっていた。

2005年、海老名 香葉子 氏 は私財と寄付でもって上野に、東京大空襲の慰霊碑「哀しみの東京大空襲」「時忘れじの塔」を建立している。


哀しみの東京大空襲

慰霊碑 哀しみの東京大空襲

慰霊碑 哀しみの東京大空襲
何の罪もない多くの人々が、
戦時体制の下で悲惨な最期を
遂げられたことを心から悼み、
あらためてそのご冥福をお祈り
すると共に、再びこうした悲劇が
繰り返されないことを願って、
この慰霊碑を建立する。
 平成十七年(二〇〇五)年三月十日

哀しみの心をいつまでも
 今年は昭和二十(一九四五)年の第二次世界大戦の終結からちょうど六十年、あの本所、深川を中心とした三月十日の「東京大空襲」も、次第に人々の記憶から薄れていこうとしています。
 この年は、元旦早々B29が飛来して、浅草付近を空襲したのに始まり、一月だけでも百機を越える来襲があり、五百発もの爆弾と二千五百発もの焼夷弾が投下され、何の罪もない千五百余人の一般市民が死傷されました。
 その後も東京は、実に数十回にも及ぶ空襲を受け、中でも三月九日の夜半から十日にかけての空襲は言葉に絶する程凄まじいものでした。
 房総半島を経て飛来したB29 は、十日の午前零時八分から一斉に
下町を襲いました。
 この日来襲したB29は三百二十五機といわれ、実に千七百トンもの
高性能焼夷弾を投下したのです。
 人々は隅田川や上野公園を目指して必死に逃げましたが、このたっ
た二時間の間に、実に十万人以上もの方が犠牲になられたのです。
 それは今想いだしても、本当の地獄図といえる程、悲惨な光景でした。
 そして、翌日からこの上野の山には焦土と化した下町から夥しい
数のご遺体が運ばれて来ました。この慰霊碑の付近の道端にも、米俵
や筵を掛けられたご遺体が並べられたのです。
 やがて、大八車やリヤカーを引いて、ご遺体を引き取りにみえる方
もありましたが、多くのご遺体は身元不明のままでした。
 そうしたご遺体は、この近くに巨大な穴を掘って、そこに仮埋葬され二年後に改めて掘り起こされ、荼毘に付されたうえ、本所横網町の
震災記念堂にお祀りされました。
 無論、こうした東京への空襲はその後も続きました。なかでも、こ
の上野の山とその周辺が罹災した五月二十四日、二十五日の空襲は、
凄まじいものでした。
 今、終戦から六十年の歳月が経ち、こうした生々しい記憶が次第に
薄れていきつつある時、下町の焦土化を見守り、そこでの無辜の犠牲者を暖かく迎えたこの上野の山に、私たちは心からの慰霊碑を建て、
東京全域に亘る悲惨な犠牲者の霊を弔い、これからの日本を支えていく若い人々に、この「哀しみの心」を伝えていきたいと希っているのです。
 平成十七(二〇〇五)年三月十日
  海老名香葉子
  建立有志一同

場所
現龍院墓地の前、寛永寺が土地を提供している。

https://goo.gl/maps/QepVyD9k6WmH8wu5A


時忘れじの塔

東京大空襲の犠牲者を悼む慰霊碑。
初代林家三平夫人の海老名香葉子さんらにより平成17年3月9日建立。

時忘れじの塔
関東大震災(大正十二年)東京大空襲(昭和二十年)
  東京にも、現在からは想像もできない悲しい歴史があります。今、緑美しい上野の山を行き交う人々に、そのような出来事を思い起こしてもらうとともに、平和な時代へと時をつなげる心の目印として、この時計台を寄贈しました。
 建立、寄贈 初代林家三平妻 海老名香葉子
 建立有志一同

場所
都立上野公園。
都立公園内に一般寄贈の碑が建立された珍しい例でもある。

https://goo.gl/maps/mxgdrSDJ2fXUUwp3A

※2つとも2021年3月11日撮影(3月10日の翌日)


東京大空襲関連

東京大空襲・慰霊

上野公園関連

3月10日(東京大空襲から76年)

令和3年(2021)3月10日で76年目。

昭和20年(1945)3月10日午前0時過ぎ、爆撃が開始。
犠牲者10万人を超す規模であり、単独の空襲としては世界史上最大の犠牲者となっている。
世にいう、東京大空襲(下町大空襲)であった。

「東京都平和の日」

慰霊鎮魂を。

東京都慰霊堂

都内戦災遭難者 関東大震災遭難者
春季慰霊大法要

東京都慰霊堂では、毎年、関東大震災の9月1日と東京大空襲の3月10日に、遭難者慰霊大法要が執り行なわれている。

震災記念堂 東京都慰霊堂 由来記
 顧れば大正十二年九月一日突如として関東に起こった震災は、東京市の大半を焦土と化し、五万八千の市民が業火のぎせいとなった。このうち最も惨禍をきわめたのは陸軍被服廠跡で、当時横網町公園として工事中であった、与論は再びかかる惨禍なきことを祈念し慰霊記念堂を建立することとなり官民協力広く浄財を募り伊東忠太氏等の設計監督のもとに昭和五年九月この堂を竣成し東京震災記念事業協会より東京市に一切を寄付された。
 堂は新時代の構想を加味した純日本風建築の慰霊納骨堂であると共に、広く非常時に対応する警告記念として、亦公共慰霊の道場として設計された三重塔は百三十五尺基部は納骨堂として五万八千の霊を奉祀し約二百坪の講堂は祭式場に充て正面の祭壇には霊碑霊名簿等が祀られてある。
 爾来年々祭典法要を重ね永遠の平和を祈願し「備えよつねに」と相戒めたのであったが、はからずも昭和十九、二十年等にいたって東京は空前の空襲により連日爆撃焼夷の禍を受け数百万の家屋財宝は焼失し無慮十万をこえる人々はその難に殉じ大正震災に幾倍する惨状を再び見るに至った、戦禍の最も激じんをきわめたのは二十年三月十日であった、江東方面はもとより全都各地にわたって惨害をこうむり約七万七千人を失った、当時殉難者は公園その他百三十ヶ所に仮埋葬されたが昭和二十三年より逐次改葬火葬しこの堂の納骨堂を拡張して遺骨を奉安し、同二十六年春戦災者整葬事業を完了したので東京都慰霊堂と改め永く諸霊を奉安することになった。
 横網公園敷地は約六、〇〇〇坪、慰霊堂の建坪は三七七坪余、境内には東京復興記念館中華民国仏教団寄贈の弔霊鐘等があり、又災害時多くの人々を救った日本風林泉を記念した庭園及び大火の焔にも耐え甦生した公孫樹を称えた大並木が特に植えられてある。
 昭和二十六年九月 東京都

新型コロナの影響で規模が縮小。法要の参列者は限定され、法要終了後に一般参列者が祭壇で追悼可能となりました。


東京空襲犠牲者を追悼し平和を祈念する碑

「東京空襲犠牲者を追悼し平和を祈念する碑」の中には、「東京空襲犠牲者名簿」が納められている。
大法要が行われる3月10日と9月1日に内部公開。

こちらも手を合わせてきました。

東京空襲犠牲者名簿

現在は、35巻まで納められており、令和2年(2020年)3月現在、81,273名のお名前が登載されている。


リンク

公益財団法人 東京都慰霊協会 都立横綱町公園-震災、戦災の記憶-

https://tokyoireikyoukai.or.jp/kuyou/meibo.html

総務省 一般戦災死没者の追悼

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/virtual/memorialsite/tokyo_sumida_city001/index.html

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/attend/detail/tokyo.html

東京大空襲・戦災資料センター 東京大空襲とは

https://tokyo-sensai.net/about/tokyoraids/

東京都生活文化局 東京都平和の日関連事業

https://www.seikatubunka.metro.tokyo.lg.jp/bunka/bunka_seisaku/0000000632.html#:~:text=%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E9%83%BD%E3%81%A7%E3%81%AF%E3%80%81%E3%80%8C%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E9%83%BD,%E3%82%92%E5%AE%9F%E6%96%BD%E3%81%97%E3%81%A6%E3%81%84%E3%81%BE%E3%81%99%E3%80%82


関連

東京大空襲・慰霊
戦災電柱

深川と渋沢栄一宅跡【渋沢栄一9】

渋沢栄一は深川とも縁が深かった。

渋沢栄一は、明治9年に深川福住町に屋敷を購入、明治21年に中央区兜町(渋沢が創建した第一国立銀行の近く)に本邸が移されたのちは、深川邸は別邸として利用。(最終的な渋沢栄一の本邸は飛鳥山であった)

明治22年から37年まで、渋沢栄一は深川区会議員および区会議長を勤め深川の発展のため尽力。明治30年には深川に渋沢倉庫部(現澁澤倉庫)を創業。
そして明治44年の深川鎮守の富岡八幡宮の大修繕は、渋沢栄一が実行会長として推進している。

渋沢倉庫の社章「ちぎり紋(りうご紋)」が刻まれた力石。


渋沢栄一宅跡

渋沢榮一は、明治9年に深川福住町に住居を構え、明治21年に兜町に本邸を移し、この地は別邸となり、また澁澤倉庫部が設置された。

江東区登録史跡 
渋沢栄一宅跡
 渋沢栄一は、明治から大正にかけての実業界の指導者です。天保11年(1840)武蔵国榛沢郡血洗島村(深谷市)に生まれました。25歳で一橋家に仕え、のち幕臣となり渡欧しました。帰国後、明治政府のもとで大蔵省に出仕しましたが、明治6年(1873)に実業界に転じ、以後、金融・産業・運輸などの分野で近代企業の確立に力をそそぎました。晩年は社会工業事業に貢献し、昭和6年(1931)92歳で没しました。
 栄一は、明治9年(1876)に深川福住町(永代2)の屋敷を購入し、修繕して本邸としました。明治21年(1888)には、兜町(中央区)に本邸を移したため、深川邸は別邸として利用されました。
 栄一と江東区との関係は深く、明治22年(1889)から明治37年(1904)まで深川区会議員および区会議長を勤め、深川区の発展のために尽力しました。また、早くから倉庫業の重要性に着目し、明治30年(1897)、当地に渋沢倉庫部を創業しました。大正5年(1916)、実業界を引退するまでに500余の会社設立に関与したといわれていますが、本区に関係するものでは、浅野セメント株式会社・東京人造肥料会社・汽車製造会社・旭焼陶器組合などがあげられます。
  平成21年3月  江東区教育委員会

渋沢邸の跡地は、澁澤倉庫となり、そして今では「渋沢」の名を冠したビルが建立されている。

澁澤シティプレイス永代

澁澤倉庫発祥の地

澁澤倉庫発祥の地
「わが国の商工業を正しく育成するためには、 銀行・運送・
保険などと共に倉庫業の完全な発達が不可欠だ」

日本資本主義の生みの親である、渋澤榮一は、右の信念のもと、
明治三十年三月、私邸に澁澤倉庫を創業した。
この地は、澁澤倉庫発祥の地である。

渋澤榮一の生家は、現在の埼玉県深谷市にあり、農業・養蚕の
他に藍玉(染料)の製造、販売も家業としていた。
この藍玉の商いをするときに使用した記章が
(ちぎり・りうご)であった。
明治四十二年七月、澁澤倉庫部は、澁澤倉庫株式会社として
組織を改めたが、この(ちぎり・りうご)の記章は、現在も
「澁澤倉庫株式会社」の社章として受け継がれている。

澁澤シティプレイス永代建築を記念し本碑を建立する。
     平成十六年四月吉日
      澁澤倉庫株式会社

ちぎり(りうご)

澁澤倉庫の社章「ちぎり紋(りうご紋)」

血洗島の渋沢家では、藍玉の製造販売を行っていた。
藍玉の商いの際にシンボルとして使用していた記章が澁澤倉庫の社章の期限となっている。
澁澤倉庫では「りうご」と呼称しているが、渋沢家では「ちぎり」と呼ばれていた。
元来は糸巻きに糸を巻き付けた形を図案化したもので、この形が鼓を立てて横から見た形に似ているところから「立鼓(りうご)」と呼ぶようになったなどと言われている。

https://www.shibusawa.co.jp/company/future/


駐車場の片隅に神社があった。

福住稲荷神社

澁澤倉庫の守護神。

福住稲荷神社は、深川福住町(現永代2)にあった近江屋喜左衛門屋敷の邸内祠であったもので、明治9年に(1876)澁澤栄一が近江屋屋敷を買収して、明治30年に澁澤倉庫部(のちの澁澤倉庫株式会社)を創業したあとは、同社の守護神として祀られました。
神狐像は、大正12年(1923)の関東大震災で焼失した福住稲荷神社が、昭和5年(1930)に再興されたことをうけて、澁澤倉庫社員一同によって奉納されたものです。平成3年に社殿内部から発見された奉納目録には、奉納者として当時の社員87名の名前が連なっており、深川の近代倉庫業に関わった人々の信仰を伝える貴重な文化財です。

江東区
https://www.city.koto.lg.jp/103020/bunkasports/bunka/bunkazaisiseki/chokoku/88757.html

澁澤倉庫奉納の石鳥居。

昭和5年2月吉日建之
澁澤倉庫株式會社

神狐像も昭和5年に澁澤倉庫が奉納。

昭和5年(1930)は、渋沢栄一が90歳のとき。渋沢栄一は昭和6年(1931)に91歳で亡くなっている。

福住稲荷神社
子爵渋沢栄一書時年九十

渋沢倉庫が奉納した力石・さし石。力比べでさし上げた(持ち上げた)石。澁澤倉庫の従業員と思われるさし上げた力自慢の者の名前が刻まれている。

力石の中には、渋沢倉庫の社章「ちぎり紋(りうご紋)」が刻まれたものもある。

澁澤シティプレイス永代と澁澤永代ビル

澁澤倉庫株式会社

https://www.shibusawa.co.jp/#top-pamphlet

https://www.shibusawa.co.jp/story/photos/

場所

https://goo.gl/maps/2dtapXGK2BVn5TWW7


富岡八幡宮

明治44年の富岡八幡宮大修繕の際は、渋沢栄一が中心となって進められた。
なお、現在の社殿は昭和31年(1956)に造営されたもの。

深川公園

明治三十七 八年役戦死者忠魂碑

日露戦争の忠魂碑
渋沢栄一謹書

明治卅七八年役戦死者忠魂碑
正四位勲三等男爵澁澤榮一謹書


関連

渋沢栄一と血洗島(深谷市)【渋沢栄一7】

深谷市の北部「血洗島」。
「日本近代経済の父、日本資本主義の父」渋沢栄一の出身地を散策してみます。
(散策ポイントが広域に点在しているのでレンタサイクルが便利です)


旧渋沢邸「中の家」

慶応3年(1967年)の若き日の渋沢栄一

若き日の榮一
Eiichi in Paris 1867

渋沢栄一の生家「中の家」は、学校法人青淵塾渋沢国際学園として海外留学生向けの教育機関として昭和60年から平成12年まで使用されていた。
若き日の渋沢栄一像は、昭和58年(1983)10月1日の「青淵塾・渋沢国際会館」開館式で除幕された。

若き日の榮一像は、将軍徳川慶喜の異母弟である徳川昭武(水戸藩第11代)の訪欧使節団(パリ万博)に、会計係兼書紀(御勘定格陸軍附調役)として随行し慶応3年3月朔日(1867年4月5日)に、フランス マルセイユで撮影された写真を元に製造された。

中の家。旧渋沢邸。

渋沢栄一翁と論語の里

近代日本資本主義の父
渋沢栄一(1840~1931)

 深谷市血洗島に生まれ、尾高惇忠に学問を学びました。20代で従兄弟らと倒幕を計画し、中止された後は一橋(徳川)慶喜に仕え、家臣として慶喜公の名代昭武に同行し渡欧しました。
 明治維新後は政府の大蔵省で官営富岡製糸場の設立に関わりました。34歳で大蔵省を辞した後、実業界で活躍。幼少期に学んだ「論語の精神」を基に500社以上の企業の設立に関わりました。

論語の里
 栄一は7歳頃から、尾高惇忠に論語をはじめとする学問を習いました。生涯を通じて論語に親しんだ栄一は、「道徳経済合一説」を唱え、「近代日本資本主義の父」と呼ばれるに至りました。
 栄一が淳忠の家に通った道はいつしか「論語の道」と呼ばれ、栄一に関する史跡が多く残されていることから、それらを総称し「論語の里」と呼んでいます。

青淵まつり
栄一翁の命日(11月11日)を偲び、11月中に渋沢栄一記念館前で開催される。

血洗島獅子舞
市指定無形民俗文化財
諏訪神社の祭礼(秋季大祭)に奉納される。元亀2年(1571)にはじまると伝わり、雄獅子(おじし)・雌獅子(めじし)・法眼(ほうがん)の3頭が一組となって、笛のお囃子のもとで舞う。栄一翁も幼少より雄獅子を舞っており、帰郷の際には参観していた。

我が人生は、実業に在り。 渋沢栄一

天保11年(1840)豪農、渋沢市郎右衛門の子として誕生。
昭和6年(1931)92歳の大生涯を閉じるまで、実に五百にものぼる企業設立に携わり、六百ともいわれる公共・社会事業に関係。
日本実業界の祖。希代の天才実業家と呼ばれる所以である。
男の転換期。慶応3年(1867)15代将軍・徳川慶喜の弟、昭武に随行してヨーロッパに渡る。
28歳の冬であった。栄一にとって、西欧文明社会で見聞したものすべてが驚異であり、かたくなまでに抱いていた攘夷思想を粉みじんに打ち砕かれるほどのカルチャー・ショックを体験。しかし、彼はショックを飛躍のパワーに換えた。持ち前の好奇心とバイタリティで、新生日本に必要な知識や技術を貧欲なまでに吸収。とりわけ、圧倒的な工業力と経済力は欠くべからざるものと確信した。
他の随員たちの戸惑いをよそに、いち早く羽織・袴を脱ぎ、マゲを断った。己が信ずる道を見つけるや、過去の過ちと訣別、機を見るに敏。時代を先取りするのが、この男の身上であった。
2年間の遊学を終え、明治元年(1868)帰国。自身の改革を遂げた男は、今度は社会の改革に向って、一途に歩み始めた。
帰国の同年、日本最初の株式会社である商法会所を設立。明治6年(1873)には、第一国立銀行を創立し、総監役に就任した。
個の力、個の金を結集し、システムとして、さらなる機能を発揮させる合本組織。栄一の夢は、我が国初のこの近代銀行により、大きく開花した。
以後、手形交換所・東京商法会議所などを組織したのをはじめ、各種の事業会社を起こし偉大なる実績を重ねていった。
栄一はまた、成功は社会のおかげ、成功者は必ず社会に還元すべきという信念の持ち主でもあった。
私利私欲を超え、教育・社会・文化事業に賭けた情熱は、生涯変わることなく、その柔和な目で恵まれない者たちを見守り続けた。
失うことのなかった、こころの若さ。そこから生まれた力のすべてを尽して、日本実業界の礎を築いた渋沢栄一。並はずれた才覚と行動力は、今なお、人々を魅了する。
 昭和59年1月
 寄贈 エコー実業株式会社

深谷市指定文化財
旧渋沢邸「中の家」(なかんち)
 旧渋沢邸「中の家」に残る現在の建物は、母屋、副屋、4つの土蔵、門、塀から構成されます。明治時代の埼玉県北部の豪農の屋敷として貴重な歴史遺産です。渋沢栄一翁も天保11年(1840)にこの地で誕生しました。

中の家の敷地内にいくつかの碑があつまっている。

渋沢平九郎追懐碑

人の楽しみを楽しむ者は 人の憂いを憂う
人の食を喰う者は 人の事に死す
  渋沢平九郎昌忠

日月らかにするありて能く寃(えん)を雪(そそ)ぐ 
 九原豈(あに)幽魂を慰めざらんや
遺刀今夜灯(あかり)を挑(かかげ)て見るに 
 なお剰(あま)す当年碧血の痕(あと)
  義父・渋沢栄一

渋沢平九郎追懐碑

渋沢平九郎は、尾高淳忠の弟で、渋沢栄一の養子。幕末の飯能戦争で敗れ自刃。(尾高惇忠の項で詳述。)

【解説】
 この碑は、渋沢栄一翁が、飯能戦争で亡くなった自分の義子平九郎を偲んで作ったものである。
 平九郎は尾高惇忠の末弟で、栄一翁がパリ万博へ旅立つ際に養子となった。兄淳忠は栄一翁の学問の師で、富岡製糸場初代場長となった。
 慶応4年4月、江戸城が開場すると、平九郎は、年少ながら主家の窮状を見過ごすことが出来ず、振武軍に身を投じた。振武軍は、渋沢喜作や尾高惇忠を中心に、旧幕臣で構成されたものであるが、5月23日、飯能で官軍を迎え撃った。わっずか半日の戦闘で壊滅状態となり、平九郎は戦場から故郷を目指して逃走、顔振峠を超えて黒山(現越生町)に至り、官軍と遭遇、進退窮まり、ついに自刃して果てた。
 この追悼碑は、平九郎没後50年を経た大正6年に建てられたもので、平九郎の手跡を石に刻むとともに、栄一翁が平九郎を追悼して作った詩が刻まれている。時を経てもなお、若くして亡くなった義子平九郎を悼む栄一翁の、思いの深さをうかがわせる。

渋沢平九郎追懐碑
楽人之楽者憂人之憂
喰人之食者死人之事
 昌忠

嗚呼此我義子平九郎取義之前日自題寓舎障壁之辞也。 明治戊辰五月官軍入江戸城。 平九郎年尚少不忍坐視主憂便投振武軍廿三日遂殞命草野。 甲午家祭日有人贈其戦没時所佩刀予。 悲喜交至賦詩曰。 
 日月有明能雪寃 九原豈不慰幽魂
 遺刀今夜挑灯見 猶剰当年碧血痕
此憫其孤忠也。 今玆丁巳五十年忌辰重展遺墨不勝追懐之情。乃鈎摹刻石以見其志云。
 大正六年十二月 義父 渋沢栄一識並題額

【渋沢平九郎追懐碑移設の経緯】
 この碑は、渋沢栄一翁の眠る東京都台東区の谷中霊園にある渋沢家
墓所内に建立されていたものです。
 渋沢家墓所の整理縮小にあたり、ご子孫より寄贈の申し出を受け、
平成26年3月に、旧渋沢邸「中の家」へ移設いたしました。

晩香渋沢翁招魂碑

渋沢栄一の父渋沢市郎の招魂碑。
渋沢市郎右衛門は晩香と号した。

【解説】
 この碑は、渋沢栄一翁の父で、晩香と号した渋沢市郎右衛門の招魂碑である。
 明治四年十一月二十二日、享年六十三で亡くなった。年が明けた正月五日に郷里の墓地に葬られた。
 晩香没後の明治五年、故郷血洗島を出て東京に居を構える栄一翁が、時宜に応じて父の祭事を欠かすことのないよう、東京の谷中天王寺境内に建立したものである。撰文は尾高惇忠、書は明治の三筆に上げられる日下部東作(鳴鶴)、題額は同じく三筆の巌谷修(一六)である。

晩香渋沢翁招魂碑
翁諱美雅渋沢氏通称市郎号晩香。武蔵国血洗島村人。世農。考諱敬林君妣高田氏。実同族諱政徳者第三子。嗣敬林君之後配其長女。翁自幼嗜学慨然有特立之志。而思慮周密一事不苟。凡自耕稼生産之道至尋常瑣事必反復審思本於実際。是以施設不差成算。家製藍為品素精。至翁研究益到名伝遠近其業大盛家産致優。至有郷人倣以立産者。村原係半原藩封内。藩侯有土木若不時之費毎令翁供財。翁毫無難色。曰財之用在応緩急耳況藩命乎。又厚於親姻故旧。人或失産破家則諄諄誘誨為捐財賑恤使其復産。故人皆称之不已。明治四年冬十一月二十二日病歿。年六十三。越五日葬其郷先兆之次。贈号曰藍田青於。五男八女。長男栄一君見為大蔵省三等出仕叙正五位。長女適吉岡十郎。少女配外甥須永才三郎委其家産。余夭。男栄一君以在東京建招魂碑於谷中天王寺以為行香之便。嗚呼翁行修於家信及郷里而老死畎畝之間終無著于世。洵為可惜矣。然栄一君擢草莾居顕職望属而名馳。蓋有所以矣哉。惇忠於翁有叔氏之親而蒙師父之恩。謹叙其行状表之。
 租税大属 尾高惇忠 撰文 
 少内史正六位 日下部東作 書 
 少内史正六位 巌谷修 隷額

晩香渋沢翁招魂碑(裏面)
明治五年壬申十一月廿二日
男正五位 渋沢栄一建

【大意】
 翁は、諱は美雅といい、通称は市郎、晩香と号した。武蔵国血洗島に、代々農業を生業とする渋沢家に生まれた。翁の父の諱は敬林、母は高田氏。もとは同族(東の家)の政徳の第三子である。養子として中の家に入り、敬林の後を継ぎ、その長女を妻とした。
 幼少より学問を好み、はっきりとした独立の志を持っていた。そして、思慮深く、ささいたことでも疎かにしなかった。家の仕事や日常の細々とした事まで、慎重に考え、事実に基づいて判断した。このようなわけで、何事も見通しと違うようなことはなかった。
 実家の藍玉づくりでは、もともと品質を大事にしてきたが、翁に至って、ますます研究が深まった。翁の名は広く知れ渡り、藍玉づくりは大変盛んになり、財産も大いに増えた。地元の人で、藍玉づくりを習って生計を立てるものもあらわれた。
 村はもともと半原藩の領地で、藩主の方で土木工事や不意の出費がある時は、いつも翁に費用を出させたが、翁は少しも苦にしなかった。翁が言うことに、「お金というのは緊急の時に使うためにあるのであって、まして藩の命令ならなおさらである。」というのである。また、親戚や古い友人に対しても同じようにした。他人で財産を失って家を傾ける人があれば、よく教えを諭すとともに、自らの財産を投げ打って助けてやり、元通りの生活が出来るようにした。それゆえ、だれもが翁を称賛してやまなかった。
 翁の行状は、家を修め、信用は郷里全体に及んだが、生涯を一農民として過ごしたため、世の中に知られることがなかったのは、まことに残念である。しかし、栄一の君が国家の中枢の仕事に携わり、大いに期待されているのも、翁の感化があったればこそといえるのである。惇忠にとって翁は、叔父であるが、父親以上に親愛の情を注いでくれた。謹んでその一生を文章に表すものである。

【晩香渋沢翁招魂碑移設の経緯】
 この碑は、渋沢栄一翁の眠る東京都台東区の谷中霊園にある渋沢家
墓所内に建立されていたものです。
 渋沢家墓所の整理縮小にあたり、ご子孫より寄贈の申し出を受け、
平成26年3月に、旧渋沢邸「中の家」へ移設いたしました。

先妣渋沢氏招魂碑

渋沢栄一の母、渋沢えいの招魂碑。

【解説】
 この碑は、渋沢栄一翁の母 えい の招魂碑である。
 碑の内容は、よく働き、贅沢をせず、慈愛をもって人々に接するという、えいの人となりを記すもので、栄一翁は生涯にわたり多数の社会福祉事業に携わったが、その資質は母から受け継がれたものであることがよく示している。
 えいは明治七年病により東京で逝去し、夫晩香の墓に寄り添うように葬られ、この碑は明治十六年癸未十一月七日谷中に建てられた。
 碑の撰文には栄一翁自身が行い、題額と書は、明治の三筆に数えられる巌谷修(一六)によるもので、亡き母を敬慕する栄一翁の心情をうかがわせる碑である。

先妣渋沢氏招魂碑
          不肖男正五位 渋沢栄一抆涕撰
先妣諱恵伊子、武蔵国榛沢郡血洗島村渋沢敬林君長女、君無男、養同族宗助君第三男晩香翁為嗣、即先考也、配以妣、妣幼善事父母、既長任中饋及蚕織澣濯之労、孜孜不懈、五十年如一日矣、為人勤倹慈恵凡衣食器皿自取敝麤而供人以豊美、遇親戚故旧煦煦推恩、見疾病窮苦則流涕賑給唯恐不及、平素率家人愛恕有余、至教督生産之道不毫仮貸、子女僮婢克服命、足以見其内助有方焉、晩往来東京之邸、以楽余年矣明治七年一月七日以病卒于東京、享年六十有三、其十日帰葬晩香翁墓側、仏諡曰梅光院盛冬妙室大姉、越十六年癸未十一月七日建招魂碑谷中、因記其行実之概略
       脩史館監事従五位勛五等巌谷修書并題額
                         広群鶴刻

【大意】
えいは、渋沢敬林の長女として生まれたが、敬林に男子がいなかったため、同族の「東の家」渋沢宗助の三男晩香翁を婿に迎え家を継いだ。
幼いころからよく両親の手伝いをしたえいは、長ずるに及んでは食事の支度はもちろん、養蚕や機織の仕事、洗濯までこなし、怠ることなく長い年月にわたってよく働き続けた。贅沢をせず、人には慈愛をもって接した。衣服や食器なども、自らは粗末なものを用いても、人にはより良いものを供した。病に苦しんだり、困っている人を見れば、涙を流して施しを与えた。ふだん家業にあたって人を使うにも愛情と思いやりをもち、余力があれば生活に役立つ方法や技術を教えるなどして、少しも気を緩めることがなかった。
皆がえいによく従ったことは、妻としてのあり方にきちんとしたものがあったということをよく示している。
晩年には東京の栄一翁の邸宅へも往来し、余生を楽しんでいたが、明治七年一月七日病により東京で逝去した。享年は六十三であった。十日には郷里に移され、晩香翁の墓の側に葬られた。仏諡は梅光院盛冬妙室大姉という。
明治十六年癸未十一月七日招魂碑を建てた。そこで、その生涯の概略を記すのである。

【先妣渋沢氏招魂碑移設の経緯】
 この碑は、渋沢栄一翁の眠る東京都台東区の谷中霊園にある渋沢家
墓所内に建立されていたものです。
 渋沢家墓所の整理縮小にあたり、ご子孫より寄贈の申し出を受け、
平成26年3月に、旧渋沢邸「中の家」へ移設いたしました。

場所

https://goo.gl/maps/NuKVHwYEx7Qn9PY38


青淵公園

「中の家」の後方は、清水川が流れており青淵公園として整備をされている。

青淵由来之跡碑

渋沢栄一の号、「青淵」の由来となった場所。「中の家」のすぐ後ろ。
「青淵」の号は渋沢栄一が18歳の頃に尾高惇忠(藍香)に付けてもらった。

撰書の渋沢治太郎は渋沢栄一の甥。県会議員や八基村長などを勤めていた。渋沢栄一に代わって渋沢栄一生家の「中の家」を継いだ、渋沢てい(渋沢栄一の妹)の次男。

青淵由来之跡
正二位伯爵清浦奎吾書

建碑の記
奉祝 皇太子明仁親王殿下御降誕を記念申上る為め、八基村青年団は村内の史蹟保存の事業を企てらる、血洗島支部亦其の挙に出て、故子爵青淵先生雅号発祥の跡を追慕すると同時に、利用厚生の実を挙ぐる耕地改良の整備に恵まれたる永久の幸福に感謝の誠を捧けんものをと青淵由来の跡と題し建碑の企を決議せらる、而して之れの揮毫を日本青年協会総裁伯爵清浦奎吾閣下に仰がんとせし所、夙夜世道風教の刷新振興を念とせらるゝ伯爵は、特に青淵先生と旧交を懐はれ、高齢と尊貴とを忘れて青年等の請を快諾せられたり、斯くして建碑の業進捗に伴ひ、血洗島青淵会並に大字血洗島は進んで其の企てを援け完成を期せられしは誠に機宜を得たるものと謂ふべきなり、抑も此地は元清水川の一部に属し、東西百五十米余、南北五十米の池沼の跡にして、蘆荻禽影を宿し、処々湧水あり、古来上の淵と呼ばれたるは新編武蔵風土記稿等にも載せられたる所にして、右岸の部落を血洗島字淵の上と云ひ、近世の名士子爵渋沢栄一・同喜作の君等此地に生れたるは世人の悉知する処なるか、其号を青淵といひ、蘆陰と称したるは、蓋し郷土の風物に因み各々撰ばれたる所なりと、故子爵より親しく語られたるを聴けり、昭和六年八基村昭和耕地整理組合設立せられ、干拓開道の工を加ふるに方り、地区の人々は之と連繋して由緒ある遺跡保存に意を用ゐ、一部の地を村社諏訪神社の社有地と為し、若干の風致を施こして新道に小橋を架設す、之を青淵橋と名付け永遠に記念を劃す余は耕地整理組合に長たるの名を汚し、各役員並に組合員の協力に倚りて事業完結を告げたる縁故者として、玆に建碑発起者の嘱に応じ其の顛末を識すこと爾利
  昭和十一年十月          渋沢治太郎撰書
           発起者 八基村青年団血洗島支部
                    血洗島青淵会
                     大字血洗島

場所

https://goo.gl/maps/GYT5wxKmZ491fmBs7


水戸藩烈士弔魂碑

岡部藩によって討たれた水戸藩天狗党浪士2名の慰霊碑。
渋沢栄一生家の「中の家」のすぐ手前の薬師堂に建立されている。

弔魂碑
 此弔魂碑は旧水戸藩士二人合葬の所を標せしなり、元治甲子の年、水藩の志士田丸稲之衛門・藤田小四郎等尊王攘夷の説を唱へ同志を糾合して幕府に抗し、事敗るゝに及び一橋慶喜公に就きて天朝に愬ふる所あらむとし、武田耕雲斎等と共に西上せむとす、兵凡三百余人、其嘗て筑波山に拠れるを以て世人呼びて筑波勢といふ、幕府傍近の諸藩に令して之を討たしむ、十一月十二日其勢七隊に分かれ利根川を越えて中瀬村に至る、岡部藩の家老吉野六郎左衛門兵を率ゐて其通過を止めしかば、夜陰に乗じて本庄宿に去れるが、其隊中の二人は一行に後れて藩兵の殺す所となれり、血洗島村人其非命を憐み遺骸を収めて墓石を建て、其氏名を詳にせざるを以て唯無縁塔とのみ称したりき、今玆大正七年、村人其久しくして湮滅せむことを恐れ碑を刻して之を表せむとし、余に其事由を記せむことを請はる、嗚呼筑波勢の挙言ふに忍びざるものあり、其行為には議すべきものありといへども、其志は朝旨を遵奉して幕政を革め、外侮を禦がむとするにありき、然るに事志と違ひ却て慶喜公の旗下に降服して、遂に幕府の為に敦賀に刑せらる、心ある者誰か痛惜せざらむや、明治二十四年、朝廷武田・藤田等の諸士に位を贈りて其忠悃を追賞せられ、寃魂始て黄泉の下に伸び、精忠永く青史の上に顕る、然るに此二士は其名だに伝はらず、空しく寒烟荒草の下に朽ちむとす、村人の之を歎きて貞石に刻せむとするは固より美挙といふべきなり、回顧すれば当時余は、慶喜公の軍に従ひ海津に在りて筑波勢の入京を防止せむとせし者なり、今二士の為に此文を作る、実に奇縁といふべく、書に臨みて中心今昔の感に堪へざるなり
  大正七年九月
                  青淵 渋沢栄一 撰并書

血洗嶋中建之

場所

https://goo.gl/maps/Eb9PtS5cgtorDbCG6


血洗島の諏訪神社

渋沢栄一の出身地、血洗島の鎮守。
渋沢栄一崇敬の鎮守様。「中の家」から南に500メートルほど。

渋沢栄一寄進の拝殿。大正5年(1916年)建立。

諏訪神社
 血洗島の鎮守社で、古来より武将の崇敬が厚く、源平時代に岡部六弥太忠澄は戦勝を祈願したといわれ、また、この地の領主安部摂津守も参拝したと伝えられている。
 大正5年(1916)に渋沢栄一の喜寿を記念して村民により建てられた渋沢青淵翁喜寿碑が境内に残る。神社の拝殿は栄一がこれに応えて造営寄進したものである。
 栄一は帰郷の際、まずこの社に参詣した。
 そして、少年時代に自ら舞った獅子舞を秋の祭礼時に鑑賞することを楽しみとしていた。
 境内には、栄一手植えの月桂樹があった。また長女穂積歌子が父、栄一のために植えた橘があり、その由来を記した碑がある。
  深谷市

渋沢青淵翁喜寿碑

大正5年(1916)建立。徳川慶久の題額。
徳川慶久は、徳川慶喜の七男。貴族院議員。そして渋沢栄一が設立した第一銀行取締役なども勤めていた。

澁澤青淵翁喜寿碑
公爵徳川慶久題額
男爵渋沢青淵翁、今年七十七の高齢に達せられたるを以て、郷里なる八基村字血洗島の人々、碑を立てゝ、翁の徳を頌せんとして、余に文を求めらる、余訝り問ひて、翁の功績は甚大なり、村人の私すべき所ならんやといふに、人々首打掉りて否々、吾村は武蔵平野の小村ながら、翁の如き大人物を出したるを誇とすべし、翁や青年の頃村を去りて国家の為に奔走し、今は世界の偉人として内外に瞻仰せらるれども我等は尚翁を吾村の父老として親しみ慕ひ、翁も亦喜びて何くれと村の事に尽すを楽となせり、翁は嚮に八基小学校の新築と、其維持法とに就きて、多くの援助を与へ、一村の子弟をして就学の便を得しめたり、村社諏訪神社は、翁が幼少の時境内にて遊戯し、祭日には村の若者と共に、さゝらなど舞ひたる事あれば、村に帰れば先づ社に詣づるを例とし、社殿の修理にも巨資を捐てゝ父老を奨励したり、今年は翁の喜寿に当りたれば、翁を迎へて彼のさゝらを催しゝに翁は記念として拝殿を造りて寄進したり、村人は此後春秋の告賽にも、子女の婚礼にも其便を得て、敬神の念嚮学の風と相待ちて風俗の益敦厚ならんことを喜び合へり、翁が尊貴を忘れて郷閭に尽せる功徳と情愛とは、村人の深く感謝する所なりと、余此言を聞きて感じて曰く、微賤より起りて富貴を一身に聚めたる人の草深き故郷を疎かにするは世の常なり翁や世界の偉人として其故旧を忘れず父老を敬ひ青年を導く、大人にして赤子の心を失はずとは翁の謂なり、翁の行は社会の模範となすべく、翁の徳は伝へて天下の風気を振起せしむべし、余は翁の知遇を蒙る者、いかでか人々の請を辞すべけんやと、因りて其言を録すること此の如し、翁の寿の九十に躋り百歳に至るは言はんも愚なり、後世翁の徳を聞きて感奮し、翁に継ぎて与る者あらば、翁は千歳にわたりて長へに生くべきなり
  大正五年九月       文学博士 萩野由之撰
                    阪正臣書

宮城遥拝所

紀元2600年記念(昭和15年)

諏訪神社修繕記念碑
 当社は、その創立の年代を詳らかにしていませんが、かつては諏訪大明神ととなえ、信州諏訪の地より勧請したものと伝えられています。江戸時代には岡部藩主安部氏の崇敬するところでもありました。
 現在の本殿は、明治四十年九月に竣工したもので、郷土の偉人澁澤榮一翁と当時の血洗島村民が費用を折半して造営されました。さらに現在の拝殿は、榮一翁がその費用を全額負担して造営され、大正五年九月に竣工したものです。以後代々の氏子により厚く崇敬されてきました。
<省略>

澁澤父子遺徳顕彰碑は、昭和48年11月建立。

澁澤父子遺徳顕彰碑
以和為貴

 君子は本を務む本立ちて道生ずその根柢をなすものこそ孝悌である わが澁澤父子三氏の如き正に斯の道の亀鑑と仰ぐべきであろう
 澁澤市郎は群馬縣太田市成塚須永氏に生れ初め才三郎と稱した わが國經濟界の泰斗澁澤榮一の妹ていの婿に迎えられて市郎と改名し榮一に代って中の家を嗣いだ 市郎は資性惇朴信義を重んじ常に謙虚に中の家は義兄に代って自分が守るのである 自分の任務は家名を傷つけず資産を失わないことであると語った 夫婦能く和合して家政を理め立派にその負託に應え長子元治次子治太郎を舉げた 市郎は生涯を通じて各般の地方公共事業に盡力した 八基信用組合を興し特に科學肥料の普及と農作物の増収に努めた さらに八基村名譽村長に就任し埼玉縣會議員に當選治水同盟を組織 利根川小山川の改修工事を促進した これに因って流域住民は始めて多年に亙る水害の苦難を脱することを得その恩澤は猶今日に及んでいる 大正六年齢七十一を以て歿した 市郎の一周忌に當り 榮一は自らその墓誌銘に諄信好義の士と撰書して厚く義弟を弔った
 長子元治は當時公職に在って東京に移住した爲榮一は二子と謀り次子治太郎が中の家を管理し農業を經営する方針を決めた 治太郎は誠意を盡して中の家を管理した 後年元治は自分が中央において心置きなく働けたのは偏に弟治太郎のお陰であると述懐している 治太郎は中の家を中心に産業の振興地方の發展に大いに貢献した 西部蚕業改良組合を結成してわが國最初の生繭正量取引を実施した 埼玉縣養蚕組合連合會を組織して會長となり更に全國養蚕業者の利益代表として奮闘した 當時治太郎らが政府當局に献策した蚕絲業振興策は悉く國策として採用された 父市郎を後を承け八基産業組合長となって經營の基礎を確立し八基村名譽村長埼玉縣會議員等に選ばれて自治行政を強力に推進し幾多地方の重要公共事業を遂行した なお自ら首唱して耕地整理を行い公民學校及び青淵図書館を開設した また埼玉興業株式会社深谷倉庫株式会社その他治太郎が設立経営した事業は多数に上りその目覚しい活躍と業績とは恰も伯父栄一の事蹟を地方に再現した觀があるとさえ評された 昭和十七年齢六十五を以て歿した
 隅々元治は昭和二十一年名古屋帝國大學總長の職を罷め父市郎弟治太郎の後を継いで中の家の主人となった 爾來元治は専ら著述と後進指導に力を注ぎ地方文化の進展に寄与した 元治は生來學問を好み東京帝國大學工學部に學び欧米各国に留学後工学博士の学位を得逓信技師となり次で東京帝國大學教授に就任工學部長を經て昭和十二年退官した 同十四年名古屋帝國大學初代總長に任ぜられ名古屋帝國大學を創立した 同三十年わが國電氣事業の開發育成に盡力した功績に依り文化功勞章を授與された 元治は本年九十八歳の高齢に達したが現在正三位勲一等日本學士院會員として活躍しその申申たる温容は衆人の齊しく景仰措かざる所である
 われらは澁澤父子が三代にわたり中の家を管理されさらに國家社會に貢獻された偉績を想起しその功業を永く後昆に傅える爲茲に顕彰碑を建立した 冀くは貞石と共に愈々その遺徳の顕彰されんことを祈ってやまない
     昭和四十八癸丑年十一月 
      澁澤父子遺徳顕彰會選書建立

扁額は渋沢栄一謹書。

場所

https://goo.gl/maps/68VxWDRNSGMAjcvN9


尾高惇忠生家


「中の家」から東に約1.5キロ。

尾高惇忠(おだか じゅんちゅう)は渋沢栄一の従兄。号は藍香。
渋沢栄一は10歳年上の尾高惇忠に師事している。
「藍香ありてこそ、青淵あり」と称えられた。

のちに尾高惇忠は、官営富岡製糸場初代場長や第一国立銀行仙台支店長などを努めている。
尾高惇忠の妹である尾高ちよは渋沢栄一に嫁いでいる。(渋沢ちよ)
そして、尾高惇忠の弟である、尾高平九郎(渋沢平九郎)は、渋沢栄一の養子となるが飯能戦争で敗れ自刃している。

深谷市指定史跡
尾高惇忠生家
 尾高惇忠は天保元年(1830)下手計村に生まれ、通称は新五郎、藍香と号しました。渋沢栄一の従兄にあたり、栄一は少年時代からここ藍香のもとに通い、論語をはじめ多くの学問を藍香に師事したことが知られています。“藍香ありてこそ、青淵(栄一)あり”とまで、後の人々は称えており、知行合一の水戸学に精通し、栄一の人生に大きな影響を与えました。淳忠や渋沢栄一、喜作ら青年同志が、ときの尊皇攘夷論に共鳴し、高崎城の乗っ取りを謀議したのもこの2階であると伝わります。その後官営富岡製糸場初代場長や国立第一銀行仙台支店長を努めたことでもよく知られています。
 この尾高惇忠生家は、江戸時代後期に淳忠の曽祖父礒五郎が建てたものと伝わっており、屋号が油屋と故障されていた、この地方の商家建物の趣を残す貴重な建造物です。母屋の裏にある煉瓦倉庫は、明治30年頃建てられたといわれ、日本煉瓦製造株式会社の煉瓦を使用している可能性が考えられます。

尾高家の人々
尾高惇忠(藍香)
渋沢栄一の学問の師、従兄、義兄。富岡製糸場初代場長。第一国立銀行仙台支店長。
尾高(渋沢)ちよ
淳忠の妹で、渋沢栄一の妻。
尾高(渋沢)平九郎
淳忠の弟で、渋沢栄一の養子となる。飯能戦争で新政府軍に敗れ、22歳で自刃。
尾高ゆう
淳忠の長女。14歳で富岡製糸場の第1号伝習工女となる。

以下は、場所は変わって埼玉県越生町。
渋沢平九郎に関する案内板が越生駅近くにある。越生町は渋沢平九郎の終焉の地。せっかくなのであわせて記載。

※以下は、越生町にて

渋沢平九郎
尾高(旧姓)平九郎の生涯
 弘化4年(1847)、武蔵国榛沢郡下手計村(現深谷市)の名主尾高勝五郎の末子として生まれました。幼少期から兄の新五郎(淳忠)や長七郎、従兄の渋沢栄一や渋沢成一郎(喜作)らと学問・文芸に親しみ、剣の腕を磨きました。そして兄や従兄たちと尊皇攘夷運動に傾倒していきました。
 「渋沢平九郎昌忠伝(藍香選)」は、平九郎は「温厚で沈勇果毅(沈着で勇気があり、決断がよく意思が強い)で、所作は美しく色白で背が高く腕力もある」と評しています。

 安政5年(1858)に姉千代が渋沢栄一に嫁ぎ、平九郎と栄一は義兄弟になりました。慶応3年(1867)には渡欧する栄一の養子となって、幕臣として江戸に出府しました。翌年2月に彰義隊に加わり、のちに、成一郎、淳忠らと振武軍を組織します。
 慶応4年(明治元年)5月23日、飯能で新政府軍に敗れ、顔振峠を下って黒山村(現越生町黒山)へ逃れてきた平九郎は、芸州藩斥候隊と遭遇、孤軍奮闘後、川岸の岩に座して自決しました。まだ20歳の若さでした。

深谷の尾高惇忠生家にもどる。

尾高惇忠生家にある煉瓦蔵は、日本煉瓦製造株式会社製か?といわれている。

旧尾高家 長屋跡

現在は基壇が残るのみ。

場所

https://goo.gl/maps/QEPW4cAZj51upvCW6


尾高家墓所

尾高家の近くではあるが、しょうしょうわかりにくい場所。

藍香、尾高惇忠の墓。

尾高長七郎(尾高弘忠)の墓

渋沢平九郎昌忠君招魂碑
渋沢栄一の建立。

場所

https://goo.gl/maps/oWjnNoqZyN51RWcV9


東の家跡

近くには、東の家跡もある。
中の家の東側が、尾高の下手計となるので、東の家は尾高家と近い。

渋沢市郎右衛門・喜作
宗助 東の家跡地


下手計の鹿嶋神社

尾高惇忠の下手計村(しもてばか)は、渋沢栄一の血洗島村の隣町。
下手計の鎮守は鹿嶋神社。
尾高惇忠家から、西に約500メートル、渋沢栄一「中の家」かたは東に約1キロ。

鹿島神社
 創立年代は不明だが、天慶年代(十世紀)平将門追討の際、六孫王源経基の臣、竹幌太郎がこの地に陣し、当社を祀ったと伝えられる。以降武門の守とされ、源平時代に竹幌合戦に神の助けがあったという。享徳年代(十五世紀)には上杉憲清(深谷上杉氏)など七千余騎が当地周辺から手計河原、瀧瀨牧西などに陣をとり、当社に祈願した。祭神は武甕槌尊で本殿は文化七年(一八一〇)に建てられ千鳥破風向拝付であり、拝殿は明治十四年で軒唐破風向拝付でともに入母屋造りである。境内の欅は空洞で底に井戸があり、天然記念物に指定されていたが、現在枯凋した。尾高惇忠の偉業をたたえた頌徳碑が明治四十一年境内に建立された。
  昭和六十年三月  深谷上杉顕彰会    (第二十二号)

渋沢栄一揮毫の扁額

鹿嶋神社 従三位勲一等男爵澁澤榮一謹書

克己復禮 尾高次郎書

尾高惇忠の次男、尾高次郎による揮毫。「克己復礼」は論語の出典。
尾高次郎は、尾高惇忠のあと、尾高家を相続。渋沢栄一の第一銀行(現・みずほ銀行)にて各地の支店長を勤め、武州銀行(現・埼玉りそな銀行)を設立し頭取に就任している。渋沢栄一は岳父にあたる。

鹿島神社
 下手計の鎮守社で、拝殿には渋沢栄一揮毫になる「鹿島神社」の扁額が掲げられている。
 境内には、栄一の師である尾高藍香の偉業を称える頌徳碑が建立されている。
 この碑のてん額は徳川慶喜公の揮毫、三島毅文学博士(号 中洲)の撰文によるものである。
 今では朽木となったが、大欅の根元に湧いた神水で共同風呂が設けられていた。栄一の母、栄はこれを汲み、らい病患者の背を流したと伝えられている。
 栄一手植えの月桂樹と長女穂積歌子が植えた橘があり、その由来を記した碑がある。
    深谷市教育委員会

渋沢栄一手植えの月桂樹などは記録しそこねました・・・


藍香尾高翁頌徳碑

篆額は、徳川慶喜の揮毫。堂々たる石碑。

藍香尾高翁頌徳碑について
 尾高惇忠を敬慕する有志によって建てられたこの碑の除幕式は、明治四十二年(一九〇九)四月十八日に挙行されました。
 おりから桜花満開の当日、澁澤栄一はじめ穂積陳重、阪谷芳郎、島田埼玉県知事など、建設協賛者である名士多数が臨席されました。その際、尾高惇忠の伝記「藍香翁伝」が参列者一同に配布されたのです。
 碑の高さは約四・五メートル、幅は約一・九メートル、まさに北関東における名碑の一つです。石碑の上部の題字は、澁澤栄一が最も尊敬する最後の将軍、徳川慶喜によるものです。碑文は三島毅、書は日下部東作、碑面に文字を刻む細工は東京の石工・吉川黄雲がそれぞれ当たりました。
 郷土の宝物であるこの名碑を大切にし、藍香翁はじめ先人の遺徳を偲び、共に感激を新たにいたしましょう。
    平成十七年十月

藍香尾高翁頌徳碑
藍香尾高翁頌徳碑   従一位公爵徳川慶喜篆額
西武有君子人、曰尾高翁、々少時遭人倫之変、慈母与祖父不相協、去而不帰者数年、翁泣涕往来其間、或哀請、或幾諫、蒸々克諧以復旧、親戚郷党、莫不感称焉、嗚呼孝百行之本、自此以往、翁之進退出処、皆有功徳、物故已七年、人々追慕不已、況其門人故旧乎、乃胥謀欲樹碑於村社側以頌之、謁余文、按状翁諱惇忠、称新五郎、号藍香、尾高氏、武蔵榛沢郡下手計村人、祖曰磯五郎、父曰勝五郎、並為里正、家業農商、母渋沢氏、今男爵青淵君姑也、天保元年七月某日生翁、々少聡敏強記、独学通経史、業暇教授隣里子弟、青淵君亦就学焉、嘉永中辺警荐臻、海内騒然、翁喜水藩尊攘之説、窃与四方志士交、有所謀議文久元年襲里正、而心不在焉、慶応中以嫌疑下岡部藩獄、無幾免、既而翁悔悟攘夷未可遽行、専務殖産興業、而徳川慶喜公夙聞其名、行将用之、時公奉還大政、退大阪、誠意未上達、将陥危難、翁聞之慨然蹶起、欲有所救、到信州、則官軍既在木曾、乃還、明治元年二月入彰義隊、又起振武軍、屯飯能、与官軍戦敗、匿于家、乱已平、為静岡藩勧業属吏、亡何辞帰、家居三年、民部省辟為監督権少佑、転勧業大属、兼富岡製糸場長、十年辞之、為東京府養育院幹事、兼蚕種組合会議長翁曾得秋蚕之製於信州、伝之遠邇、皆獲大利、先是青淵君創立第一銀行、翁応嘱為盛岡支店長、土人又推為商業会議所長、傍勧製藍、励染工、後歴転秋田仙台支店長、興植林会社、二十三年刱製靛之方、得専売権、翌年以老辞職、翁助青淵君掌銀行業已十五年、功労不少、且所在為斯民授業興利、不可枚挙、遂寓東京福住街、専販藍靛、暇則矻々著述、而泰東格物学、其所最注心、毎曰名教之本、全在此、三十四年一月二日病終、享年七十有二、帰葬郷塋、青淵君以妹婿作墓銘、可謂交有終始矣、元室根岸氏、生二男五女、先亡、長男勝五郎夭、次次郎出為支族幸五郎嗣、季女配養子定四郎奉祀、余皆適人、翁天資惇誠温良、与物歓洽、有器局、処艱難能耐忍、為郷党謀最忠実、歳歉則廉価糶貯穀、有紛議則懇諭和解、其他善行不可勝記、而莫不一本於至性、豈可不謂君子人乎哉、銘曰、
  維孝為本 学術正淳 事君則藎 育英則循
  述作垂後 名教維因 造次顛沛 志在経済
  殖産刱業 大起民利 誰言理財 不由徳義
明治四十年七月
        東宮侍講正四位勲三等 文学博士 三島毅撰
        正五位日下部東作書  吉川黄雲鐫


北阿賀野の稲荷神社

「中の家」から北に約800メートルの地に鎮座。
青淵公園を流れていた清水川の北側にあたる。

稲荷神社 子爵澁澤榮一謹書

稲荷神社・菅原神社(天神社)改築記念碑
 深谷市北阿賀野一番地に鎮座する稲荷神社は倉稲魂命を御祭神と仰ぎ祀り五穀豊穣の神として先祖代々尊崇篤く現在に及んでいる。創建については風土記稿などによれば徳川氏関東に入国の頃との記述があることから四百年以上の歴史があるものと思われる。菅原神社(天神社)は宝暦十三年(一七六三)の建立と記されている。
 旧社殿内の棟木や記念誌からは御殿が明治二十六年に造営され大正十五年に改築し、その後昭和五十一年に氏子延百二十人の出役による改修事業が行われたなどの記録が残されている。
 境内には昭和二年に當地出身の偉人桃井可堂の顕彰碑が澁澤榮一翁により建立されている。社名の扁額も翁の揮毫によるものである。
 又戦争で尊い命を国家に殉じた英霊と従軍者の扁額が昭和三十九年に奉納され平和の尊さを今に伝えている。
 當神社は稲荷様として氏子に親しまれ豊作や商売繁盛・家内安全などを祈願する祭祀のみならず境内でのスポーツなど住民の交流の場として心の拠となっていた。しかし老朽化も著しく幾度となく修復も試みられてきた。
 この状況を憂い平成二十五年九月地元出身の実業家石坂好男氏により両神社の改築並びに境内の整備を寄進したい旨の申し入れがあり氏子総意の下、有難くこれを拝受し、平成二十六年六月起工・平成二十七年六月竣工の運びとなった。
 誠に氏子の喜び此の上なく尊崇篤くして地域の振興を子々孫々の繁栄を祈願してやまない。
 茲に石坂好男氏への報徳とその功績を後世に永く伝えると共に本事業の施工業者並びに協力・奉賛頂いた全ての皆様に衷心より感謝の誠を捧げてこの記念碑を建立する。
   平成二十七年六月吉日
     北阿賀野稲荷神社宮司 宮壽照代
     同          氏子一同

可堂桃井先生碑

桃井可堂(もものい・かどう)
幕末の尊皇攘夷活動家。渋沢栄一の血洗島村の北隣りに位置する北阿賀野村出身。渋沢栄一より37歳年上。
文久3年(1863)に慷慨組を組織するも挙兵計画が漏洩し川越藩に自首。幽囚され自ら絶食して死去。「深谷の吉田松蔭」と称された。

可堂桃井先生碑
慷慨国を憂ひ率先義を唱へ、時運未だ会せず謀成らずして身を殞し、英魂慰する所なかりしも、適昭代の隆運に遭ひて恩賞枯骨に及ぶ、吾が可堂桃井先生の如きは寔に生前に否にして死後に泰なるものと謂ふべし、先生諱は誠、通称は儀八、字は中道、可堂は其号なり、享和三年八月八日武蔵榛沢郡北阿賀野村に生る、本姓は福本、忠臣新田氏の後裔なり、父諱は守道、世々農を業とす、先生幼より好みて稗史野乗を読み、能く其要を記す、一日父先生に謂て曰く、汝をして大儒に就て修学せしめんと欲するも、家貧にして資なきを如何せんと、言畢りて撫然たり、先生も亦切歯涙を垂る、時に甫めて八歳なり、幾もなく郷儒渋沢仁山に就て学ぶ、仁山深く望を属す、年二十二、蹶然江戸に遊び、東条一堂の門に入り、清川八郎・那珂梧楼と併せて三傑と称せらる、業成り帷を下して教授す、名声日に揚り交道月に広し、庭瀬侯賓礼を以て先生を聘し、亀山侯も亦師事せり、嘉永六年米艦渡来し、物情騒然たり、先生感ずる所あり、藤田東湖に因りて書を水戸烈公に上らんとす、適東湖の死に遭ひて果さず、尋で米国の通商強要、安政戊午の大獄等ありて、幕政日に非なり、先生慨然職を辞して郷に帰り窃に名族岩松某を推して謀首と為し、兵を挙げて外人を掃攘し、一挙幕府を倒さんとす、某期に臨み遅疑して起たず、事漸く漏る、先生責を一身に負ひ、衆に代りて川越藩に自首す、幕府先生を江戸に檻送し福井藩邸に幽す、先生憂憤自ら食を絶ちて死す、実に元治元年七月二十二日なり、享年六十又二、巍然たる大節、真に忠臣の裔たるに恥ぢずと謂ふべし、諡して義道院猛雲至誠居士と云ふ、麻布光専寺に葬る
大正天皇登極の年、特旨を以て正五位を追贈せらる、是に於て戚族相議し駒込吉祥寺に改葬す、先生二男あり、長は之彦、畳山と号し、次は直徳、山東と号す、明治の初予大蔵省に勤務するに及び、二人を薦めて民部・大蔵両省に奉職せしめしに、頗る循吏の聞ありしが、不幸短命にして倶に世を蚤くせり、山東五男あり、長可雄は早く横浜の渋沢商店に入りて、生糸輸出の業に従ひ、季健吾は石井氏を冒して現に第一銀行副頭取たり、是亦予の推薦する所にして、倶に経済界に令名あり、忠誠の報空しからずと謂ふべし、頃日八基村教育会、碑を村社の境域に樹て、其義烈を顕揚せんとし、文を予に嘱す、嗚呼、先生と同憂の士多くは玉砕し、其子其孫亦既に地下に入りて、相見る能はざるものあり、予は郷閭先生と相近く、壮時同じく尊攘を以て念とせしも、故ありて事を共にせず、瓦全今に至る、偏に聖世の恩沢に因ると雖も、亦曷ぞ命長くして悲傷多きの歎なきを得んや、往時を追懐して悵然たること之を久しうす
  昭和二年五月 正三位勲一等子爵 渋沢栄一撰并書

場所

https://goo.gl/maps/iUQCydJk2o3MgwWf9

桃井可堂が塾を開いた中瀬村には、個人史料館「桃井可堂郷土史料館」もある。歯科医院の敷地内。

郷土の先人 苦学力闘の人
桃井可堂郷土史料館

場所

https://goo.gl/maps/SwRpz7gxRAAhn7T16


渋沢栄一記念館

渋沢栄一の「中の家」 血洗島村からは東に約500メートル。
平成7年(1995)11月11日(栄一翁の祥月命日)に開館。八基公民館を兼ねている。

「富岡製糸場と深谷の三偉人」
 深谷市は、平成26年に世界文化遺産に登録された富岡製糸場の設立に深く関わった渋沢栄一・尾高惇忠・韮塚直次郎三氏の偉業を称え、顕彰しています。
 渋沢栄一は明治政府において官営製糸場設置を推進し、尾高淳忠は富岡の地にフランス式機械製糸場を竣工、初代場長として運営を行い、韮塚直次郎は富岡製糸場の巨大建造物を支える煉瓦などの資材調達に尽力しました。
 ※このレリーフは、石坂産業株式会社創業者である石坂好男氏の寄附ににより制作しました。

渋沢栄一

尾高惇忠

韮塚直次郎


渋沢記念館の後ろ側、清水川、そして上州を見渡す方向に、大きな渋沢栄一像が建っている。

渋沢栄一像

渋沢栄一翁
 本像はもと深谷駅頭にありき
 昭和63年3月、有志1500有余名の錠剤をもとに駅前区画整理事業の完成と翁の顕彰を記念して建立せしものなり
 平成7年10月、翁、生誕八基の地に渋沢栄一記念館の落成に伴い、ここに遷座し奉る
 この地や、園日に渉り以て趣を成すの如く大いなる発展をとげしも、刀水は悠遠にして、翁、在世の昔も今の如し上毛三山の遠望も又、今も昔もなし
 翁没して65年、翁の像が故山の風物を眺めて起つは又美しき哉
 平成8年11月吉日
  深谷市長 福嶋健助


桃井可堂が塾を開いていた中瀬村には「河岸場」があった。

中瀬河岸跡

古来は、新田義貞が鎌倉幕府倒幕の兵を揚げ「中瀬の渡し」を渡り、そして江戸時代には武蔵国と上野国を結ぶ利根川の船着場として栄えていた河岸。物資や船客の乗り換え場所であったということから、江戸の情報がいち早く伝わる情報発信地であり、これが北武蔵で渋沢榮一を始めとする偉人を生んだきっかけでもあった。

中瀬河岸跡
 中瀬河岸は、江戸時代から明治にかけて利根川筋の河岸場として大いに繁栄した。
 慶長12年(1607)に江戸城秋竹の栗石中瀬から運んだ記録があり、この頃には既に中瀬からの水運が行われていたようである。その後、中瀬は周辺の物資の集積所となり上流や下流から来た乗客や荷物を積み替えるように定められ、関所のような役割を果たしたという。
最盛期には、大小100隻近くの舟が出入りし、問屋、旅籠屋などが軒を連ねて賑わった。
明治16年(1883)の高崎線の開通により次第に衰退し、明治43年の大洪水とその後の河川改修で河岸場の姿は失われた。
 平成5年11月 深谷上杉顕彰会

以上、渋沢栄一の出身地「血洗島」周辺の記事でした。

「誠之堂・清風亭」は、別記事にて。


リンク

渋沢栄一デジタルミュージアム

http://www.city.fukaya.saitama.jp/shibusawa_eiichi/index.html


関連

渋沢栄一像と深谷駅【渋沢栄一5】

渋沢栄一の出身地「深谷市」。
その深谷駅前に渋沢栄一像がある。

渋沢栄一像

青淵澁澤榮一像

青淵広場

碑文
正二位勲一等子爵澁澤栄一先生は、天保11年(1840)2月13日私達のまち深谷市大字血洗島に生まれました。
幼い時から読書を好み、家業を助け、少壮の頃は国事に奔走、慶應3年第15代将軍慶喜公の命令により渡欧して見聞を広め、帰国後明治新政府に出仕し、近代国家形成のための諸制度、諸事業を策定しました。
明治6年富国の道を求めて野に下り、わが国最初の銀行を創立し、続いて製紙・紡績・製鋼・造船・鉄道・ガス・電気・窯業等先進諸国が有する諸事業のすべてを創立あるいは援助育成しました。
一方、福祉・教育・医療等数多くの分野にそれぞれの機関を創設してその運営に挺身、その他労資協調・国際親善に心を砕き、昭和6年11月11日、91年の生涯を閉じられました。
先生は常に道徳と経済の合一を説かれ、その思想を経営の基本とされました。
先生を追慕する私達は、朝夕その教えを守り、後世に余光の及ぶことを祈念してここにこの像を建立しました。
  建立 昭和63年3月吉日   青淵・澁澤栄一銅像建設協賛会

建立 1996年7月  澁澤栄一座像  田中 昭 作


深谷駅

関東の駅百選。
平成8年(1996)7月10日改築。
東京駅が深谷産の煉瓦を使用していることから東京駅を模して「ミニ東京駅」として改築された。
これは、東京駅・丸の内口駅舎の建築時、深谷に所在した「日本煉瓦製造株式会社」で製造された煉瓦が使用されたことにちなむ。

日本煉瓦製造株式会社は、渋沢栄一による設立。深谷駅から日本煉瓦製造工場まで、専用線が敷設されていた。

ようこそ!渋沢栄一のふるさと深谷市へ!

祝 渋沢栄一 一万円札に

ようこそ 青天のまち 深谷へ

コミュニティバスにも渋沢栄一が描かれていた。

ようこそ 大河ドラマ「青天を衝け」の舞台へ
渋沢栄一の生誕地 埼玉県深谷市

深谷市のマンホール、深谷市のキャラクターふっかちゃん


渋沢栄一からくり時計

深谷駅気前に設置されたからくり時計。
第一国立銀行をイメージした時計台。
7時~23時の定時になると、ふっかちゃんの下から、渋沢栄一翁が現れる。

日本人移民の排斥運動が加熱し日米関係が悪化した1927年(昭和2年)に、アメリカ人宣教師のシドニー・ギューリック博士が「万国児童親交会委員(世界児童親善会)」を設立し、アメリカから友情の証として「青い目の人形」が日本へ贈られた。そして、ギューリック博士と親交のあった渋沢栄一が中心となって「日本国際児童親善会」が呼びかけを行い、全国の役場や学校を通して集められた募金を元に製作された「市松人形」(答礼人形)がアメリカに送られた。

渋沢栄一からくり時計
 渋沢栄一(1840年~1931年)は維新後の急激な近代化を迎えた明治・大正期の日本を経済という舞台で支えた人物で、現深谷市の血洗島に生まれた。
 日本で初めての銀行である第一国立銀行の創立者。
 論語の精神を重んじ「道徳経済合一説」を唱え、生涯設立にかかわった会社はゆうに500を超える。
 日本人移民の排斥運動が加熱し日米関係が悪化したときには、それをやわらげるためにお互いの国の人形を交換した。そのとき日本に送られたのが「青い目の人形」、その返礼としてアメリカに贈ったのが「市松人形」である。
 このからくり時計は、時計塔の部分は当時の第一国立銀行をイメージし、定刻になると「青い目の人形」と「市松人形」を持った栄一が現れ、時刻を知らせる仕掛けとなっている。また、時計はソーラーエネルギーを使っている。
平成24年2月
 深谷市(渋沢栄一没後80年記念事業) 
 深谷ロータリークラブ(深谷ロータリークラブ創立50周年記念事業)

ふだんは、ふっかちゃんが回っている。

定刻になると、下から渋沢栄一翁が登場。ふっかちゃんは上に押し出される。
童謡「青い眼の人形」が流れる。

青い目の人形と市松人形を手にした渋沢栄一翁。

https://www.shibusawa.or.jp/museum/newsletter/302.html


あかね通りにかかる歩道橋。
あかね通りは、日本煉瓦製造専用鉄道線跡の遊歩道。
日本煉瓦製造に関しては別記事にて。。。


渋沢栄一関連

渋沢栄一像と日本銀行【渋沢栄一3】

日本橋界隈の渋沢栄一関連を散策してみる。

常盤橋公園(常磐橋)

常盤橋公園は、江戸城の城門の一つ常盤橋門があったところ。

昭和8年(1933)に財団法人渋沢青淵翁記念会(現在の渋沢栄一記念財団)によって復旧整備が行われた公園。令和3年現在、工事のため閉鎖中。2021年度中に一部を暫定開放予定。

明治10年(1877年)に再建された2連アーチ石橋が残る。経年劣化と東日本大震災による被害のために全面的な修復工事が行われている。

公園の名前は、「常盤橋公園」
石橋は「常磐橋」
下流には「常盤橋」
上流には「新常盤橋」
磐と盤がややこしい。


渋沢栄一像(常盤橋公園)

工事中の常盤橋公園のなかで、渋沢栄一像の一角のみ開放されている。

渋沢栄一像は、日本で初めて設立された銀行「第一国立銀行」(日本銀行ではなく)の方向を向いているという。

青淵澁澤榮一

 青淵澁澤榮一翁は、天保十一年埼玉縣の農家に生まれたが時勢に激して志士となり、後轉じて幕臣となって、慶應三年歐州に赴き、民主主義自由主義を知る機會を得た。
 歸朝後大蔵省に仕官して諸制度の改革に當ったが、明治六年退官し、同年創立された第一國立銀行の頭取となり、爾来産業経濟の指導者成りに任じ開與した會社五百、常に道徳経濟合一主義を唱えて終生之を實錢し我が國運の發展に偉大な貢獻をした。
 また、東京市養育院等社會事業の助成、一橋大學・日本女子大學等實業及び女子教育の育成、協調會等による勞資の協調、日華日米親善等世界平和の促進、道徳風教振作のために九十二歳の高齢に達するまで盡力し、昭和六年十一月十一日に逝去した。
 翁の没後、財界有力者によりその遺徳顯彰の目的で設立された澁澤青淵翁記念會が、昭和八年此処に銅像を建立したが、第二次世界大戦中金属供出のために撤去された。
 然るにこのたび、銅像再建の聲が盛り上がり各界の有志によって、再び朝倉丈夫氏に製作を委託しこの位置にこの銅像を建て、東京都に寄附したのである。
  昭和三十年十一月 澁澤青淵記念財團龍門社

昭和8年11月11日
財團法人澁澤青淵翁記念會建之

場所

https://goo.gl/maps/2SjJoNKm8PrTUNbX6


常盤橋

日本場川に架かる橋。上流は石橋の常磐橋。左手には渋沢栄一像、右手には日本銀行本館。

常盤橋
昭和元年11月完成

渋沢栄一像

日本銀行本館

日本橋川の上流には石橋二連の「常磐橋」

渋沢栄一・渋沢敬三と日本銀行

明治5年(1872)、国立銀行条例が制定。
明治9年(1876)、国立銀行条例全面改正。不換紙幣の発行を認めたことが一因となって、インフレが進行する。
明治14年(1881)、大蔵卿松方正義は不換紙幣の整理と中央銀行の創立をめざす建議を三条太政大臣宛に提出。大蔵卿松方正義により日本銀行創設へ。
明治15年(1882)、日本銀行条例により日本銀行が設立。第一国立銀行頭取であった渋沢栄一は割引手形審査のための日本銀行割引委員に就任。

渋沢栄一は、明治6年(1873)に日本最初の銀行「第一国立銀行」を創設。民間資本の民間経営の株式会社であったが、国立銀行条例による発券機能等を有していた。

渋沢栄一の孫である渋沢敬三は、昭和17年(1942)に日本銀行副総裁、そして昭和19年(1944)には第16代日本銀行総裁に就任している。就任は昭和19年3月18日であり、戦前最後の日本銀行総裁であった。幣原喜重郎内閣の大蔵大臣就任のために、昭和20年10月9日に日本銀行総裁を辞任している。

日本銀行本店本館

ベルギー国立銀行を参考に明治29年(1896)2月竣工。設計は辰野金吾。
明治24年(1891)に発生した濃尾地震の教訓から、高橋是清の指示で建物上部を軽量化し耐震性を高めており、2階3階は煉瓦造石貼り建築。
1974年2月5日に国の重要文化財に指定。

日本銀行本店別館

辰野金吾の弟子・長野宇平治の設計。昭和13年(1938)竣工。なお、長野宇平治は日本銀行本店別館の完成前の昭和12年に死去している。

本館の隣に別館が増築されている。

場所

https://goo.gl/maps/e93utY2d91aThXtw5


日本銀行創業の地

ちなみに、「日本銀行創業の地」は中央区日本橋箱崎にある。隅田川と日本橋川が合流する箱崎の地で創業し14年後に現在地に移転した、とのことで。
現在の日本IBM本社近く。

日本銀行創業の地
 明治十五年十月十日日本銀行はこの地で開業した
 明治二十九年四月日本橋本石町の現在地に移転した
 創業百周年を記念してこの碑を建てる
      昭和五十七年十月
         日本銀行総裁  前川春雄

場所

https://goo.gl/maps/ncwXnUADuhVYrJy6A


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