「慰霊碑・顕彰碑・記念碑」カテゴリーアーカイブ

浄牧院の爆弾型石塔(東久留米)

東久留米市大門町鎮座。
曹洞宗寺院 神護山 浄牧院

東久留米の南には「中島航空金属田無製造所」や「中島飛行機武蔵製作所」などの軍需工場があり、北多摩地区は度重なる空襲被害を受けていた。

東久留米市に鎮座する浄牧院の境内にも爆弾が落下してきたという。

爆弾型石塔(爆弾落下点)

爆弾落下点
第二次世界大戦末期西暦1944年(昭和19年)11月24日、アメリカ空軍爆撃機の空襲の際に投下された爆弾が本堂前庭に落下し直径約5米・深さ約2米の穴が生じ飛び散った土砂は本堂裏の竹林に至った。爆弾の着下した穴に植えたヒマラヤ杉が開創560年本堂工事のため伐採されたので此の地点に爆弾型石塔を建立して後世に伝えることとなった。
 維時平成16年5月23日 当院丗貳世猷孝 記載

御本堂の目前に爆弾が落下してきたという。
現在の御本堂は平成17年建立。

神護山 浄牧院

位置関係


少年航空兵像と所沢陸軍整備学校(所沢航空記念公園)

明治44年(1911年)、日本初の飛行場として、所沢飛行場が開設。
以来、昭和20年(1945年)の終戦に至るまで、日本の航空発展の歴史は、所沢とともにあった。

所沢陸軍整備学校

大正8年、陸軍航空学校が所沢に開設。フォール大佐を長とするフランス航空団が航空教育を指導。
大正10年、陸軍航空学校は、所沢を本校に、千葉の下志津と伊勢の明野に分校を開設。
大正13年、所沢陸軍飛行学校に改称。
昭和8年、少年航空兵教育が追加。
昭和10年、所沢陸軍飛行学校から機関科が分離し、陸軍航空技術学校が開設。
昭和12年、下士官と少年航空兵の整備科を分離し、陸軍航空整備学校が開設され。所沢陸軍学校は廃止。陸軍士官学校分校に転用。
昭和13年、陸軍士官学校分校は、現在の入間基地の地に移転し陸軍航空士官学校として独立。のち「修武台」と命名される。
昭和16年、陸軍航空技術学校は立川に移転。
昭和18年、所沢陸軍整備学校へと名称変更。
昭和19年、所沢陸軍整備学校の敷地内に「少年飛行兵の像」が建立。
昭和20年、所沢陸軍整備学校は陸軍幹部候補生・少年飛行兵の航空整備技術の中心地として機能して終戦を迎える。


少年航空兵像

航空発祥の地・ところざわ
航空整備兵の像
 この像は、昭和18年、彫刻家故長沼孝三氏(1908~1993)が第二回大東亜戦争美術展に出品し、翌19年5月21日に、当時この地にあった所沢航空整備学校内に建立されたものです。
 翼を抱き、空を見上げる航空整備兵三人の姿は、当時の少年飛行兵や整備兵のシンボルとされていました。
 戦後、所沢飛行場は米軍基地として接収され、昭和46年の基地返還により、所沢航空公園として整備されました。しかしこの像は痛みがはげしかったため、所沢航空資料調査収集する会では、後世にわたりこの像を保存していこうと、平成9年2月、長沼孝三彫刻館(山形県長井市)の協力をいただき、修復工事を行いました。
 空への夢と希望を抱いたこの像が、市民のやすらぎや平和への祈りを込めた像として永く市民に親しまれていくことを願ってやみません。
 平成10年3月
  所沢市
  所沢航空資料調査収集する会

翼を抱き空を仰ぐ少年飛行整備兵


位置関係

国土地理院航空写真
ファイル:892-C2A-107
1944年(昭和19年)9月24日、日本陸軍撮影

一部拡大

現在の様子

今も昔もはっきりと分かる空間。


大正天皇御駐輦之跡

大正天皇御駐輦之跡
 大正元年(1912)11月15日から19日にかけて関東地方で10万人の将兵が参加する陸軍特別大演習が行われました。所沢飛行場からはブレリオ機、会式3号機、会式4号機と飛行船パルセバルが初参加しました。この碑は、同年11月17日に大正天皇が所沢飛行場に行幸され、飛行機の飛行を統監されたのを記念して建立されたものです。
 尚、この碑には当時の井上幾太郎の直筆による文字が刻まれれており価値ある記念碑と言われています。
 2020年3月
  所沢市
  所沢資料調査収集する会


フォール大佐胸像

フォール大佐胸像
 日本にとって航空の黎明期であった大正7年(1918)、陸軍の航空本部長であった井上幾太郎大将は、先進国であったフランスに我が国の航空技術全般の指導を要請しました。
 日本からの妖精を受けたフランスは、フォール大佐を団長とする技術者63名の航空教育団を大正8年(1919)1月から大正9年(1920)10月までの間、派遣してくれました。
 この間、フランス航空教育団は、日本各地で陸軍の将校や技術者に学科と飛行訓練を指導しました。
 フォール大佐は、44歳で砲兵連隊長として第一線で活躍しており、フランスの航空部隊の第一人者でした。また、優れた操縦者であり、教育者でもあったので航空教育団の団長として派遣されたと言われています。
 日本でのフォール大佐の功績は大きく、日本の「航空の父」と呼ばれ、昭和3年(1928)4月に所沢飛行学校の校庭だったこの地に胸像が建立されました。
 しかし、胸像部分と正面プレートは、第二次世界大戦中に接収され、取り外されたままになっていましたが、昭和57年(1982)10月、少年飛行会及び所沢航空資料調査収集する会等の協力を得て、石川県金沢市の水野朗氏制作の原型を基に復元し、所沢市が建立したものです。
 なお、現在フォール大佐胸像正面にあるプレートは、フランス航空教育団来日100周年となる平成31年(2019)に、オリジナルの姿に復元したものとして、フランス航空宇宙工業会(GIFAS)から寄贈されたものです。
 2019年3月
 所沢市
 所沢航空資料調査収集する会

この胸像は昭和3年 当時所沢陸軍飛行学校校庭だったこの場所に建立されましたが 戦後取り外されたままとなっていました
この度少飛会有志の御協力により 金沢市の水野朗氏制作の原型を求め復元したものです
 昭和57年10月 所沢市

~記念植樹~
フランス航空教育団来日100周年記念
2019年4月7日(日)、フランス航空教育団来日100周年記念式典の実施にあたり、日仏交流の証、そしてフランスが日本の航空技術の発展に大きく貢献してくれたことをいつでも思い出すことができ、次の100年後も語り継げるよう、桜の木の植樹をしました。
(以下略)

ジャック・P・フォール大佐
フォール大佐の功績を記念して、所沢陸軍飛行学校校庭に設置された胸像の原型


ニューポール81E2(甲式一型練習機)

1918年(大正7年)、陸軍がフランスから輸入したニューポール81E2練習機。
翌大正8年に来日したフォール大佐のフランス航空団の教材として所沢陸軍航空学校設立以来、活用された練習機。その後、国内でも三菱によって国産化されている。写真の機体はレプリカ機。

岩田正夫のニューポール81E2

埼玉県ときがわ町の慈光寺に保存されていた「ニューポール81E2」の残骸。都幾川村出身の民間飛行家であった岩田正夫が、郷土訪問飛行時に機体を破損させたために、そのまま村に寄贈した機体。


所沢航空発祥記念館に関係する記事

日本初の航空犠牲者・木村中尉と徳田中尉(所沢)

日本初の飛行場、航空発祥の地「所沢」
航空事故も所沢が日本初であった・・・。

東京青山練兵場から所沢飛行場に向けてのフライトで、所沢飛行場を目の前にして墜落してしまったのが、木村中尉と徳田中尉が搭乗したブレリオ機であった。


木村・徳田両中尉像
(木村・徳田両中尉記念塔)

我が国最初の航空犠牲者 
木村・徳田両中尉像

 大正2年(1913年)3月28日、所沢飛行場を離陸した木村鈴四郎砲兵中尉と徳田金一歩兵中尉の搭乗する「ブレリオ機」は青山練兵場に着陸し、貴・衆両議院の観覧及び説明の後、午前11時36分帰航の途につきました。
 ところが、所沢飛行場北東約1500メートルの大字下新井字柿の木台の上空に差し掛かったとき、突風に左の翼を破壊され両中尉は飛行機と共に墜落して殉職し、我が国最初の航空犠牲者となり、国民のすべてが深くその死を悲しみました。
 当時の「やまと新聞」は義捐金を募り、墜落地点に記念塔を建て、両中尉の英姿を銅像として残しました。
 墜落地が交通不便のため訪れる人も少なかったので、当時所沢町のほか六カ村の在郷軍人会が発起人となり、昭和4年3月西武線所沢駅に移設しました。
 その後西部園から航空自衛隊入間基地へ移設されましたが、関係者の協力を得て、昭和55年3月航空発祥の地である現在地に移設したものです。
 所沢市

大正二年三月二十八日、陸軍ノ航空術ヲ兩院議員ノ觀覧ニ供スルニ當リ、陸軍砲兵中尉木村鈴四郎ハ「ブレリオ」式飛行機ヲ操縦シテ所澤ヨリ青山練兵場ニ至リ。
次テ陸軍歩兵中尉徳田金一ヲ載セテ歸航セシニ、偶突風ニ機翼ヲ毀損セラレ、木村中尉ハ其ノ卓絶セル伎倆ヲ施スニ由無ク、徳田中尉ト共ニ此ノ地ニ墜落シテ壮烈ナル最期ヲ遂ケタリ。
惟フニ、飛行機ノ軍國ノ用ヲナスコト多大ナルハ言ヲ俟タス。
其ノ研鑽ノ初ニ於テ一身ヲ犠牲ニ供シタル兩中尉ノ事蹟ハ、之ヲ千載ニ傳ヘテ朽チサルヘシ。
乃チ、有志相謀リ記念塔ヲ建テ、以テ後人ニ貽スト云爾。
 大正三年三月
 建設發起者 やまと新聞社

塔本在松井村村域、両中尉殉職之処。
経癸亥之大震而、荒廃甚殆瀕倒壊。今兹際、同志相謀而修復之、鑑所在僻遠而、有詣者漸稀看守屡絶之、憾移之於此地庶幾長全。
建立之趣旨、云爾。
 昭和四年三月
 発起者 帝国在郷軍人会所沢町外六箇村聯盟分会

場所


木村・徳田両中尉墜落地

所沢航空記念公園の東方が墜落地点であった。

木村 德田 兩中尉殉職之處
所澤陸軍飛行學校長古谷清書
大正二年三月二十八日兩中尉之殉職於此地也
有志者建塔而記念之今茲昭和四年三月之於所澤驛頭別勒碑而傳後人
 発起者 帝國在郷軍人會所澤町外六箇村聯盟分會

所沢市指定文化財(史跡)
木村・徳田両中尉墜落地
 所沢市は日本初の飛行場が開設され、「航空発祥の地」として知られていますが、航空界初の犠牲者が出たのも、この所沢の地でした。
 大正2年(1913)3月28日、陸軍省は航空機の重要性を説くため、貴族院・衆議院議員を対象に青山練兵場で観覧飛行を行いました。その帰路、木村鈴四郎砲兵中尉と徳田金一歩兵中尉の搭乗したブレリオ機は、午前11時59分、所沢飛行場を目前にして突風を受け左翼が折れて墜落、両中尉とも即死でした。事故現場は、旧松井村下新井柿木台(現在の所沢市下新井)にあたります。
 両中尉の所沢での葬儀は、3月31日におこなわれ、会葬者は所沢飛行場から飛行機新道、日吉町を通り所沢駅に行き、停車場踏切南方まで見送ったといいます。事故後、両中尉の記念塔を建てようとする運動がおこり、やまと新聞社が中心となって義金を募集、墜落現場の土地を購入して、両中尉の銅像記念塔が建設されました。除幕式は一周忌にあたる大正3年(1914年)3月28日に挙行されています。
 この記念塔は、昭和4年(1929年)に所沢駅前へ移され、更に何度か移転を繰り返しましたが、昭和56年(1981年)に所沢航空記念公園内に移され、現在に至っております。
 記念塔の移転後、ここ墜落地跡には、根府川石で作られた「木村・徳田両中尉殉職記念碑」が建立されました。
 平成23年3月
 所沢市教育委員会

我が国ではじめての
航空殉職の地
大正2年3月28日正午頃、東京青山練兵場において皇太子をはじめ、貴・衆両院議員の公開飛行を終え、所沢飛行場に帰航中の「ブレリオ」式単葉機が、この上空300メートルにさしかかった時、突風のため左翼が壊れ墜落し搭乗の
木村鈴四郎
徳田金一
両中尉が、殉職を遂げられました。
 所沢市牛沼戦友会 建

所沢市指定文化財史跡
木村・徳田両中尉墜落地

日本最初の航空機事故犠牲者墜落の地

日本初飛行機事故の地

墜落地点

墜落地点

平成25年3月28日建立
殉職100年記念

墜落地点

木村中尉と徳田中尉が墜落死をされた場所。
もともとは、記念塔がこの地に建立されていたが、昭和4年に記念塔は所沢駅前に移転し、当地には新たにこの石碑が建立された。

所沢聖地霊園の駐車場の南側に建立。

航空公園駅前からは3km


所沢航空発祥記念館

所沢航空発祥記念館の展示より、木村・徳田両中尉に関係するものを。

ブレリオⅪ-2bis単葉機
1911(明治44)年4月13日、徳川大尉の操縦で、滞空時間1時間9分30秒、距離80kmの当時の最大記録を作る。1913(大正2)年3月28日、木村、徳田両中尉搭乗、所沢、東京間野外飛行の帰途、所沢上空で空中破壊、両中尉はわが国最初の犠牲者となる。
 発動機:グノーム空冷式回転星型50馬力
 座席:2
 全備重量:550kg
 最大速度:90km/h
 航続距離:4時間
 全幅:11.00m
 全長:8.80m
 全高:3.40m

出発前のブレリオ機と木村中尉

木村鈴四郎砲兵中尉と徳田金一歩兵中尉

墜落したブレリオ機のハンドル

木村/徳田両中尉 遺品
この遺品は大正3年3月28日午前11時36分、木村徳田両中尉が「ブレリオ」式にて松井地区柿の木台(こぶし団地東北方)に墜落の際、祖父越阪部一(初代の所沢市議会議長)が最初に駆けつけ燃えさかる機体から操縦士の救助にあたったとのことで遺族からお礼の記念として贈られた遺品で戦時中は陸軍航空士官学校に飾られていたものを戦後当家に返還されたものでありまして、この尊き遺品を独り保存するに忍び得ず航空発祥の地所沢市の遺品として長く保存いたしたい次第であります
  (以下略

木村・徳田両中尉の事故の状況

木村・徳田両中尉の事故現場

墜落大破したブレリオ機

木村鈴四郎中尉、徳田金一中尉が日本の航空史に名を残した偉大な実績に感謝を。

合掌


「日本の航空事始め・その1」アンリ・ファルマン機と徳川好敏(所沢航空発祥記念館と代々木公園)

所沢航空発祥記念館に展示されている「アンリ・ファルマン機」。
日本で初めての動力飛行を行った飛行機。
徳川好敏とともに初フライトを行ったアンリ・ファルマン機と日本の航空史を簡単にまとめてみました。

所沢航空発祥記念館での「アンリ・ファルマン機」展示は2022年2月27日で終了しました。(航空自衛隊に返却)


日本の航空事始め

日本の航空史上、多くの「初」が溢れている。
以下に事象を箇条書きしてみる。

1877年(明治10年)5月21日
日本初の乗用気球飛行
  海軍兵学校が乗用繋留気球を制作。
  海軍省前の築地海軍練兵場で試験を行い高度110mまで上昇し成功。

1891年(明治24年)4月29日
日本初のプロペラ飛行実験
  二宮忠八による烏型飛行機・ゴム動力が完成。

1909年(明治42年)7月30日
臨時軍用気球研究会が設立
  陸海軍が設置した気球と飛行機の研究会
  委員に田中館愛橘・日野熊蔵・徳川好敏・相原四郎・奈良原三次ら。

1909年(明治42年)12月9日
日本初のグライダー制作
日本初の滑空飛行
  上野不忍池
  フランス海軍士官ル・プリウールがグライダー滑空飛行に成功。
  田中館愛橘(物理学者)・相原四郎海軍大尉がグライダー制作協力。
  (相原は明治44年1月にドイツで搭乗していた飛行船墜落により死去)
  相原四郎は日本人初の航空事故犠牲者となる。。

1910年(明治43年)3月18日
  日野熊蔵陸軍大尉設計の日本初の国産機「日野式1号機」が完成。
  戸山ヶ原で飛行試験を実施するも離陸できず。
   ※戸山ヶ原の射撃場を流用したため滑走距離不足とも。

1910年(明治43)10月
  奈良原三次海軍技師設計の「奈良原式1号飛行機」が完成。
  戸山ヶ原で飛行試験を実施するも地上滑走のみで離陸失敗。
   ※戸山ヶ原の射撃場を流用、馬力不足であったという。

1910年(明治43年)12月14日
日本初の動力飛行(動力滑空・動力跳躍)(非公式記録)
  代々木練兵場
  日野熊蔵大尉(グラーデ単葉機・独機)

1910年(明治43年)12月19日
日本初の公式動力飛行
  代々木練兵場
  徳川好敏陸軍大尉(アンリ・ファルマン・仏
  日野熊蔵陸軍大尉(グラーデ単葉機)
  日本人による(外国機)国内初飛行

1911年(明治44年)4月1日
日本初の航空機専用飛行場
  所沢陸軍飛行場が完成。

1911年(明治44年)4月5日
日本初の飛行場からの飛行
  所沢陸軍飛行場
  徳川好敏大尉が操縦する「アンリ・ファルマン機」飛行。
  高度10m、飛行距離800m、飛行滞空時間1分20秒の試験飛行を実施。

1911年(明治44年)5月5日
日本人による民間国産機での国内初飛行
  所沢陸軍飛行場
  奈良原三次(海軍を退役)が製造・操縦する「奈良原式2号飛行機」初飛行。
  高度約4m、距離約60mの飛行に成功。

1911年(明治44年)10月13日
日本人による軍用国産機での国内初飛行
  所沢陸軍飛行場
  徳川好敏陸軍大尉が設計した「会式一号機」が初飛行。

1912年(明治45年)5月
民間初の飛行場
  稲毛海岸
  奈良原三次が稲毛海岸の干潟を利用した飛行場を開設。

1912年(大正元年)11月2日-5日
日本海軍機の初飛行
  追浜飛行場(横須賀)
  河野三吉、金子養三による海軍機初飛行、観艦式への航空機初参加に成功。

1913年(大正2年)3月28日
日本初の航空機死亡事故
  所沢陸軍飛行場
  木村鈴四郎・徳田金一両中尉が死亡。
   ※別記事にて


地域でまとめると、
代々木
「日本航空発始の地」
「日本初飛行離陸の地」
「日本初飛行の地」
所沢
「航空発祥の地」
「日本初の飛行場」
稲毛
「民間航空発祥の地」
ということに。


アンリ・ファルマン機(原型:1910年型)

日本で、最初に動力飛行を記録した飛行機。

アンリ・ファルマン機
(原型:1910年型)


 当機は1910(明治43)年12月、徳川好敏大尉の操縦により日本で初めての動力飛行を記録したのち、翌1911(明治44)年には日本初の飛行場である「所澤飛行場」(現在の「所沢航空記念公園」)に備えられ、飛行訓練などに活躍しました。

主要諸元(原型)
●型式:1910年型アンリ・ファルマン(複葉複座型)
●エンジン:グノーム50馬力7気筒 星型回転式
●全幅:10.5m(展示機:10.8m)
●全長:12.0m(展示機:10.5m)
●重量:約600Kg
●水平速度:65Km/h
●航続時間:4時間
●製造国:フランス

アンリ・ファルマン機展示について
 このアンリ・ファルマン機は、徳川好敏大尉が操縦技術の取得と飛行機購入のために訪れていたフランスで買い付け、帰国とともに輸入したものです。
 1910(明治43)年12月19日に、わが国最初の動力飛行機による公式記録飛行を代々木練兵場において大尉自身の操縦により行ったのち、日本最初の飛行場である所澤飛行場で、これもまた徳川大尉らによって飛行技術の教育訓練に使用されました。
 第一線を退いたのちは、所沢の陸軍施設内にあった航空参考館(通称:南創庫)に展示・保管されていましたが、1945年、第二次世界大戦終結時にアメリカのライト・パターソン空軍博物館に運ばれ、15年後の1960(昭和35)年5月21日、日米修好100年ならびに日本の航空50年を機に日本へと返還されたものです。
 ときの航空幕僚長源田実氏は、わが国最初の動力飛行を記録したこのアンリ・ファルマン機を、青少年の教育・育成に役立てることを提案され、以来約50年間、東京都千代田区にあった交通博物館に展示されていましたが、2008(平成20)年3月、交通博物館の鉄道博物館へのリニューアルの折に航空自衛隊へと返却され、入間基地修武台記念館に移設・展示・保管されました。
 そしてこのたび、フランス航空教育団来日100周年を記念する事業を契機として、埼玉県が2019(令和元)年7月より航空自衛隊からの貸与を受け、かつこのアンリ・ファルマン機が活躍した地に立地する、所沢航空発祥記念館に展示することとなりました。
 このアンリ・ファルマン機を展示公開することは、わが国の航空発展に尽力した先人の足跡、ならびに日本とフランスの航空分野における深い係わりを、広く知っていただく機会となるとともに、空と空に関する技術や文化に対する興味や関心の喚起に繋がるものと確信します。

アンリ・ファルマン機のグノームエンジン
 当アンリ・ファルマン機に装備されているグノーム・エンジンは、普通のエンジンと全く逆で、クランク軸は回転せずに固定したままでシリンダー全体が回転します。放射状のシリンダーが弾み車のように回転し冷却効果を得ることができるこのタイプのエンジンをロータリー・シリンダー・エンジンといいますが、ピストンが回転するロータリー・エンジンとは全くの別物です。
 当時の航空界に衝撃を与えた画期的なこのエンジンはベストセラーになり、1910年頃のフランス機を中心に普及していきました。その後、飛行機の高速化にともなってシリンダーを回転させなくても冷却が可能となると、ロータリー・シリンダー・エンジンは姿を消していきます。

二人乗りの座席。複座。操縦席は脚が空中に飛びでるようで雰囲気で考えただけでも結構怖い。

ロータリー・シリンダー・エンジン

所沢航空発祥記念館での「アンリ・ファルマン機」展示は2022年2月27日で終了しました。(航空自衛隊に返却)


徳川好敏

御三卿清水徳川家第八代当主。男爵。最終階級は陸軍中将。
黎明期の陸軍航空を主導。
日本国内で初の航空機飛行に成功。

徳川好敏の軍用行李

漢詩「代々木初飛行の感慨」
徳川好敏が1910(明治43)年12月19日、東京・代々木練兵場もおける日本最初の動力飛行に成功した時の感慨を50年後の1960(昭和35)年に漢詩に認め、木村秀政・日本大学教授に贈ったもの。

漢詩読み下し
代々木原頭風凍る
寸時の飛行、是天祐
春秋去来す五十年
当時を偲びて、感慨更に新

飛行するアンリ・ファルマン機


航空発祥の地

航空発祥の地
この地は明治45年我が国で初めて飛行場が解説され同年4月5日早朝徳川大尉操縦のアンリファルマン機が初飛行に成功しました
それ以来、我が国航空界の発達に貢献した由緒ある「航空発祥の地」であります
 平成12年4月5日
 所沢市
 所沢航空資料調査収集する会

所沢市指定文化財(史跡)
航空発祥の地
 所沢市が日本の航空発祥の地といわれているのは、明治44年(1911年)4月、所沢に日本初の飛行場が開設されたことによります。
 明治42年(1909年)7月、勅令により臨時軍用気球研究会が発足し、航空機に関する研究が開始されました。気球研究会は、設置直後から試験場候補地を検討。栃木県大田原や千葉県下志津なども候補地にあがりましたが、旧所沢町と松井村にまたがる地域に決定されました。気象条件や地形の起伏などが選定の理由であったとされています。
 開設当初、所沢飛行場の敷地面積は約76.3ヘクタール。飛行機格納庫、気象観測所、軽油庫、東西方向に幅約50メートル、長さ約400メートルの滑走路を持つ飛行場でした。
 所沢飛行場での初飛行は、明治44年(1911年)4月5日の早朝に開始されました。まず、徳川好敏大尉がアンリ・ファルマン機で飛揚し、約1分で着陸。続いて、日野熊蔵大尉がライト機で3分30秒の飛行時間を記録しました。
 所沢の住民はもとより、多くの見学者が、飛行を一目見ようと近在各地から集まり、訓練日には桟敷が設けられ、飛翔のたびに歓声が上がったといわれています。
 平成23年3月
 所沢市教育委員会


1911年の所沢飛行場

当時、この場所に滑走路があった。

「あっ、飛行機がとんだ!」
この地点はわが国最初の公式飛行場「所沢飛行場」の滑走路にあたります。
この滑走路で1911年(明治44年)4月5日早朝、徳川好敏大尉操縦のアンリ・ファルマン機が初飛行をお行いました。この飛行は公式飛行場における日本最初の快挙であり、以来所沢は「日本の航空発祥の地」といあわれています。
このモニュメントは、その偉業を成し遂げた滑走路を永遠にたたえる意味で作成されました。
 1994年5月
 創立5周年記念
 所沢東ロータリークラブ


会式1号機(日本初の国産軍用機)

臨時軍用気球研究会式1号・徳川式1号機

所沢飛行場が開設され、飛行機が足りなくなってきたことから、1911年(明治44年)4月、臨時軍用気球研究会として新しい飛行機の設計を開始。
徳川好敏を中心としてアンリ・ファルマン機をベースに設計された新型機は7月より所沢飛行場格納庫内で制作され、10月に完成した。
日本最初の国産軍用機であった。
10月13日に所沢飛行場で試験飛行が行われ、時速は72km/h・最高高度は85mで飛行試験は成功した。

所沢航空発祥記念館には、原寸大に復元された「会式1号機」も展示している。
入り口に吊り下げられているので、うっかりしていると見逃す展示。(実際、初見で私は見逃したために再訪しました。)

会式一号飛行機(日本・1911)
所沢で富んだ日本初の国産軍用機
明治44年、徳川好敏大尉の設計・制作により日本で初めて作られた軍用機。この前年に代々木練兵場で日本での初飛行に成功した「アンリ・ファルマン機」を参考にして、より高い性能を持つ飛行機を作ることを目的として、所沢飛行場格納庫内で制作された。明治44年10月13日所沢飛行場で、徳川大尉みずからの操縦によって初飛行に成功した。主に操縦訓練や空中偵察教育に使われ、同大尉の設計で4号機までが生産された。


奈良原式2号複葉機(国産機初飛行)

奈良原式2号複葉機
1911(明治44)年5月5日、所沢飛行場で奈良原三次の操縦によって高度4m、距離約60mを跳び、国産機による最初の飛行記録を作る。その後、最大距離約600m、高度約60mを記録した。奈良原三次は海軍技師として臨時軍用気球研究会に参加していたが、委員会の活動とは別に自作の飛行機を設計、制作した。
 発動機:グノーム空冷式回転星型50馬力
 座席:1
 全備重量:550kg
 全幅:10.00m
 全長:10.00m

国産機の初飛行
奈良原三次と“奈良原式2号機”
日本の初飛行は海外から購入した飛行機によるものであったが、国産の飛行機が初めて日本の空に舞い上がったのは、民間人の手により、ここ所沢で実現された。1911(明治44)年五月5日、海軍造兵中技師であった奈良原三次は、自ら私財を投じて“奈良原式2号機”を制作し、所沢飛行場にて初飛行に成功している。この初飛行の半年前、奈良原は1号機を完成させ東京・戸山ヶ原練兵場で飛行実験をしたが、わずか30cmほど浮き上がっただけで失敗している。この原因は、搭載を予定しフランスに注文したエンジン“ノーム50馬力”に対し、誤って“アンザニ25馬力”が届いたためであった。奈良原は、馬力不足であることを承知で行ったこの実験で、わずか30cmでも浮き上がったという事実で得た自信を旨に、所沢で2号機の飛行に挑み成功、これが国産飛行機の初飛行となった。続いて“奈良原式3号機”“奈良原式4号機”がつくられ、“4号機”は「鳳」号と命名された。翌4月13日に神奈川県川崎競馬場で日本初の有料飛行会を開催し、以後、地方巡回飛行を行った。
(以下略)


二宮忠八(航空思想のパイオニア)


臨時軍用気球研究会

日本での軍用気球の研究は、明治10年の西南戦争がきっかけであった。
明治10年5月21日、海軍兵学校が乗用繋留気球を制作。海軍省前の築地海軍練兵場で試験を行い、高度110mまで上昇し成功。
これが日本最初の気球飛行となる。

日本における航空技術は欧米に比べ遅れていたということから、専門の研究機関の設立が必要であった。
そこで、気球と飛行機の軍事利用のための研究組織として明治42年(1909年)に勅令によって、陸軍大臣と海軍大臣の監督に属する「臨時軍用気球研究会)が設立。

会長
 長岡外史(陸軍中将)
委員
 田中舘愛橘(東京帝国大学教授)
 日野熊蔵(陸軍)
 徳川好敏(陸軍)
 井上幾太郎(陸軍)
 相原四郎(海軍)
 奈良原三次(海軍)
 金子養三(海軍)
 河野三吉(海軍)
 ほか

臨時軍用気球研究会は陸軍主導で運営されていた為に、海軍の意向が反映されにくい状況があった。海軍では明治45年6月に横須賀追浜にて独自研究を開始。翌年には事実上の退会状態であった。
大正8年には陸軍航空部が設立。
大正9年(1920)五月14日、田中義一陸軍大臣と加藤友三郎海軍大臣が協議し、臨時軍用気球研究会は解散となった。

長岡外史(陸軍中将)と田中舘愛橘(東京帝国大学教授)


所沢市内のいたる所に「アンリ・ファルマン機」


所澤神明社

徳川好敏は、明治44年4月、所沢飛行場での初飛行を行う前に所沢神明社にて正式参拝を行ったという。

鳥船神社(所沢航空神社)
 所澤神明社の境内社

https://www.shinmeisha.or.jp/shinmeisha/hikouki.html

https://www.shinmeisha.or.jp/omamori/

所澤神明社 サイトより
所澤神明社 サイトより

境内再整備後の記事


ここまでは所沢を中心とした記事でしたが、以下は場所を変わって代々木公園に。日本の航空を鑑みる上で、所沢とともに重要な歴史が代々木公園にもあります。

代々木練兵場(代々木公園)

戦前の代々木公園は「帝国陸軍代々木練兵場」でした。所沢に日本初の飛行場が整備される前、日本の飛行機は代々木練兵場を利用して飛んでおりました。

日本初飛行の地
日本航空発始之地記念碑

明治43年(1910)12月19日
代々木練兵場において徳川好敏陸軍大尉が飛行に成功。
次いで日野熊蔵陸軍大尉も飛行に成功。

これが日本航空史上「最初の飛行」である。
(ライト兄弟初飛行の7年後)

日本航空発始之地
陸軍大将井上幾太郎書

紀元二千六百年ヲ記念シテ此處ニ此碑ヲ建ツ蓋シ代々木ノ地タル明治四十三年十二月我國最初ノ飛行機ガ國民歓呼ノ裡ニ歴史的搏翼ヲ試ミタル所ニシテ爾来大正ノ末年ニ至ルマテ内外ノ飛行機殆ト皆ココヲ離着陸場トセリ即チ朝日新聞社ノ東西郵便飛行モ關東大震災後一時此地ヲ發着場トシソノ第一回訪欧飛行モ亦此原頭ヨリ壮擧起セリ是レ此地ヲ航空發始ノ所トナス所以三十年進展ノ跡ヲ顧ミテ感慨盡クルナシ今ヤ皇國多事ノ秋志ヲ航空ニ有スル士ノ来リテ此原頭ニ俯仰シ以テ益々報國ノ赤心ヲ鼓勵スルアラバ獨リ建立者ノ本懐ノミニアラサル也
昭和十五年十二月 朝日新聞社

日本初飛行の地
 1910年(明治43年)12月19日, 当時代々木練兵場であったこの地において、徳川好敏陸軍大尉はアンリ・フォルマン式複葉機を操縦して4分間、距離3,000m、高度70mの飛行に成功した。
 継いで日野熊蔵陸軍大尉も、グラーデ式単葉機により1分間、距離1,000m、高度45mの飛行に成功した。これが日本航空史上、最初の飛行である。

日本航空発始之地記念碑
 建立 朝日新聞社
 設計 今井兼次
 彫刻 泉二勝麿

徳川好敏之像
 建立 航空同人会
 彫刻 市橋敏雄

日野熊蔵之像
 建立 航空五〇会
 彫刻 小金丸義久

 東京都 昭和49年12月

日本初飛行離陸之地

徳川好敏之像と日野熊蔵之像

日本航空の父
徳川好敏之像
 井上幾太郎書

誠実 謹厳 航空に生涯を捧げた この人が明治四十三年(一九一〇年)十二月一九日 この地代々木の原でアンリ・ファルマン機を操縦しわが国の初飛行を行い飛行時間四分 飛距離三〇〇〇米 飛行高度七〇米の記録を創造して日本の空に人間飛翔の歴史をつくった 
 昭和三九年四月十七日 
  赤城宗徳 
 像作者 鋳金家 市橋敏雄

至誠
通神
 好敏(花押)

平成17年4月17日
日本航空発始之地顕彰保存会
航空碑奉賛同人会

日野熊蔵之像
 美土路昌一書

限りなき大空
限りある人生
限りなき代々の祖国のため
限りある現世の定命をささぐ

翁は熊本の産 豪放磊落英仏独語に通じ 数理に秀で選ばれて 独逸に飛行機操縦を取得し一九一〇年十二月一九日此地に於いて発動機の不調を克服してグラーデ式を駆り一分間一〇〇〇米の飛行をした不屈の精神は次代の青少年の範とすべきである 
 昭和四一年四月二三日
  松野頼三

飛行機唱歌
  明治44年(1911)6月17日作
   作詞 日野熊蔵   
   作曲 岡野貞一
勇み立つたる推進機の
 響きは高し音高し
時こえて よけれ放てよと
 弓手を挙ぐる一刹那
御國を守るますらをよ
 勲立つる戦場は
かの大空にありと知れ
 かの大空にありと知れ
  平成17年(1942)4月17日
   日本航空発始之地顕彰保存会 
   航空碑奉賛同人会


関連ページ

飛行神社・二宮忠八

日野熊蔵

戸山(戸山ヶ原の射撃場で飛行試験)

代々木(代々木練兵場で初飛行)

稲毛(民間航空発祥の地)

航空神社

日本初の航空犠牲者

移動演劇さくら隊 原爆殉難碑(目黒区)

目黒不動に隣接する五百羅漢寺。
境内には、疎開巡業中に広島で原爆の被害にあった劇団さくら隊(桜隊)の慰霊碑が建立されている。

移動演劇さくら隊 原爆殉難碑

移動演劇隊さくら隊 原爆殉難碑
徳川夢声

原爆殉難碑
 昭和20年8月6日、世界で初めて原爆が広島に投下された。
 巡業中だった、新劇の名優「丸山定夫」の主宰する移動演劇隊「さくら隊」が被ばくし、団員9名が悲惨な最期を遂げました。
 この碑は、旧友たちの死を哀悼し、原爆という非人道的な武器を発明した人類の愚かさに、永遠に抗議するため、昭和27年、徳川夢声によって建てられました。
 碑の文字は徳川夢声、台座には亡くなられた9名の名前が刻まれ、碑の裏面には、柳原白蓮の自筆の追悼歌が刻まれています。
 原爆のみたまに誓ふ人の世に
  浄土をたてむ みそなはしてよ
              白蓮

桜隊(さくら隊)

1942年「苦楽座」結成。主要メンバーは薄田研二、徳川夢声、丸山定夫、藤原釜足。1944年に「苦楽座」は解散となり国策演劇団体「日本移動演劇連盟」に強制的に組み込まれ旧苦楽座は「桜隊」として改組。

1945年8月6日、「桜隊」疎開先の広島市中心部に近い堀川町の宿舎兼事務所も被爆し全壊焼失。当時、宿舎にいた9名のうち5名は即死であったという。
 ・森下彰子(23歳) 女優
 ・羽原京子(23歳) 女優
 ・島木つや子(22歳) 女優
 ・笠絅子(41歳) 島木つや子の母、衣裳方
 ・小室喜代(30歳) 桜隊事務長槙村浩吉の妻
   槙村浩吉は、たまたま広島から東京に赴いており広島不在だった。

辛くも脱出し避難した4名も次々と亡くなってしまう。
 ・丸山定夫(44歳) 桜隊隊長
   8月16日。避難先の厳島存光寺で死去。
 ・高山象三(21歳) 桜隊舞台監督、薄田研二の息子
   園井恵子とともに神戸の園井知人宅に避難するも8月20日死去。
 ・園井恵子(32歳) 女優、宝塚歌劇団出身
   高山象三とともに神戸の園井知人宅に避難するも8月21日死去。
   「宝塚歌劇の殿堂」殿堂入り。
   殿堂入りしたタカラジェンヌでは最年少物故者で唯一の戦災死者となる。
 ・仲みどり(36歳) 女優
   なんとか東京の実家に戻り東京帝国大学付属病院に入院。
   放射線医学の権威・都築正男教授の治療を受けるも8月24日死去。
   医学的に認定された「原子爆弾症認定患者第一号」となる。
   肺と骨髄の一部が今でも東大病院にてホルマリン保存されている。

こうして、広島に滞在していた桜組の9名は原爆によって命を奪われてしまった。

五百羅漢寺の碑には9名の隊員の遺骨も少量ずつ納められている、という。

合掌

台座には被爆し亡くなられた9名の御名前が刻まれている。

裏面には柳原白蓮の自筆の追悼歌が刻まれている。


五百羅漢寺


目黒区の五百羅漢寺境内に東京の「移動演劇さくら隊原爆殉難碑」がある。

広島にもおなじく「移動演劇さくら隊原爆殉難碑」があるが未訪。
いつか訪れたいです・・・


関連

B29と平和観音(東村山・秋津)

JR武蔵野線・新秋津駅と西武池袋線・秋津駅が交わる地。
この場所にかつて、米軍B-29爆撃機が墜落し、土地の地主が私財を投じて慰霊の観音様を建立した。

B29(B29機体番号#44-69752、所属:第73爆撃団第21爆撃隊第498爆撃群第873爆撃隊)は中島飛行機武蔵製作所を爆撃するために向かっている途中であった。

平和観音(秋津)

東村山市秋津町1-4鎮座

平和観音発願由来
東村山々会議員として在職中、偶々極度の苦難に遭遇せし時、計らずも同村西宿在徳蔵寺住職より菩薩の御教を聞き深く発信する処あり。以来ここに日常坐臥観音自在菩薩を守護神として、身に帯し今日迄何等事無きを得、戦時中偶々此地に於て貴き幾多の人命を損す。茲に人類の永久平和を発願し、在天の英霊を慰め 慈悲を求め本像を発願建立せし次第なり。散華の英霊願くば我が意を汲み、安らかに眠り給へ。
 昭和三十五年七月二日  小俣権次郎

平和観音に思う
 1945年(昭和20年)第二次世界大戦の末期、日本の敗色が濃厚となりし同年の4月2日午前3時15分東村山町秋津地区一帯の住民は突然起こった百雷一時に落つるが如き轟音に驚愕した。
 それは米国空軍B-29爆撃機(約50機)による首都東京近郊空襲中の出来事であった。耳朶を震わした轟音の真相は米国空軍B-29爆撃機一機が日本軍対空砲火により被弾自爆せしものであった。悪夢の夜が明けると我が家前は直径40米、深さ20米に及ばんとする大穴が掘られていた。それがB-29爆撃機自爆の痕跡であり機体の破片は数百米に散乱し凄絶鬼気迫るものがあった。
 1945年8月15日、大戦は米国等連合国勝利のうちに終局を見た。その後父権次郎は我が家の庭前に散った米国空軍勇者の慰霊に心を痛め続ける毎日であった。
 そして熱心な観音菩薩信者であった権次郎は11名の勇者の慰霊と世界平和の為に平和観音像の建立っを発願した。

 その銘に曰く
人類の恒久平和を祈願し在天の英霊を慰め慈悲を求め本像を発願建立せし次第なり。
散華の英霊願わくば我が意を汲み安らかに眠り給え。
 1960年(昭和35年)7月2日 小俣権次郎

 観音の慈悲に生きた人 父権次郎は不幸にも1960年(昭和35年)7月13日幽明界を異にする人となった。然しその意志は固く受け継がれ同年11月27日、在日空軍司令官、東村山市長、市当局の協力を得て平和観音の開眼法要が曹洞宗安松山長源寺住職、松永全隆導師により盛大且厳粛裡に執り行われた。
 時は流れ、平和観音像は小俣家庭前に変わらぬ永遠の微笑みを浮かべ立つ。
 それはこの地に散った11名の勇者を慈悲の衣で優しく包んだほほえみである。 合掌

平和観音像建立賛同者
(個人名略)

B-29 乗組員リスト
ミズーリ州セントルイス、兵士記録部室によると当該B-29機体番号44-69752は第21爆撃隊第498爆撃大隊内873爆撃中隊に所属し、乗組員は次の通りです。
(個人名略)

以下略
右部英文略

秋津の平和観音が建立されているこの場所は、小俣家の庭先だった。
小俣家が私財を投じてB29乗組員の冥福を祈った観音様は、慈悲の微笑みで犠牲者の冥福を祈っている。


東村山ふるさと歴史館

東村山ふるさと歴史館には、秋津に墜落したB29の残骸一部が保存されている。

B29の墜落と南秋津の平和観音
 昭和20年(1945)4月2日の夜間空襲の際、B29が高射砲により撃墜され、南秋津の茶畑に墜落した。付近の空襲被害と墜落の巻き添えにより、被害民家23戸、消失家屋1戸、死者3名、B29搭乗員11名は全員死亡した。米軍の遺体は花見堂墓地周囲の小高いところに埋葬され、終戦直後に「無名戦士の墓」と題した墓標が建てられた。遺体・遺品は返還された。墜落地点の畑の地主である小俣権次郎氏は亡くなった米兵と平和を祈念するために「平和観音」の建立を発願した。昭和35年12月に、ジョンソン基地司令官等大勢の来賓を迎えて開眼法要が行なわれた。

秋津の墜落したB29の機体部品
昭和20年(1945)4月2日に墜落したB29の機体部品、モーター部分と考えられる。

秋津町に墜落したB29の爆弾破片・薬きょう・機体部品(ジュラルミン製)

B29の爆弾破片

薬莢

乗組員指名


関連

傷痍軍人東京療養所・外気舎(清瀬)

東京都清瀬市
現:独立行政法人国立病院機構東京病院・外気舎記念館


結核治療のメッカとなった清瀬。いまでも多くの病院が集まる病院街。
そんな清瀬の森に戦前からの結核治療を物語る歴史が残されていた。

現在の「独立行政法人 国立病院機構 東京病院」は、戦前は「傷痍軍人東京療養所」として、軍人結核治療の中心地であった。

特効薬がなかった時代でもあり、ここでは自然療法での治療が行われ、そしておそらく多くの結核患者がなくなったであろう場所であった。
合掌。

傷痍軍人東京療養所・外気舎
外気舎記念館

外気舎記念館
傷痍軍人東京療養所は昭和14年に建設されたのでありますが、同時にその一番裏手の松と雑木の静かな武蔵自然林内に別図のごとく診察室及及び食堂を中心として外気舎72棟が扇形に建設されました。そこでは一棟に二人づつ作業患者が入っておりました。その頃はまだ結核薬のない時代で大気・安静・栄養が結核治療の主軸であり、外気舎はその名のごとく外気療養を行うと同時に作業療法患者の病舎でもありました。作業療法盛んな頃は72棟の外気舎も満員で130名から140名ほど入舎しておりましたが、昭和41年4月に作業患者が18病棟に移転すると同時に外気舎も廃止されました。ところが今度その一部を移転、ここに記念館として永久に保存することとなりました。
 国立療養所 東京病院

市指定有形文化財
外気舎記念館
 所在地 清瀬市竹丘3丁目
     (独立行政法人国立病院機構東京病院内)
 指定日 平成26年月14日

 清瀬における結核治療の歴史は、昭和6年(1931)に「東京府立清瀬病院」が開院したことに始まります。昭和8年(1933)には「べトレヘムの園病院」、昭和14年(1939)には「傷痍軍人東京療養所」が開所し、以後続々と病院がつくられ、今の病院街が形作られていきました。
 当時、結核は不治の病として恐れられ、死亡原因の上位に位置しました。抗結核薬であるストレプトマイシンの発見以前は、きれいな空気の中で、栄養を取りながら安静に療養生活を送ることが治療の方法だったのです。
 ここに残る「外気舎記念缶館」は、傷痍軍人東京療養所の付帯施設として、回復期にある患者を二人一組にして大気療法や軽作業を行い体力の回復を図るために使用した病棟(外気舎)です。こうした病棟は72棟が建てられましたが、現存するのはこの「外気舎記念館」のみになります。室内は狭く、木製のベットが2台置かれており、大きな窓が作られています。療養の為空気の循環を良くするために、この窓は冬の夜でも開け放たれていたと伝えられています。
 国民疾患であった結核の治療の歴史を今に伝える施設として大切なものです。
  平成28年月31日
   清瀬市教育委員会

とても小さく素朴な病棟

前後には、上下に開く扉が備え付けられている。半蔀(はじとみ)

内部には2つの簡易的なベットと小さな洗面台。
左右と前後の扉。すべてを開け放てば極めて開放的な空間。
まさに文字通りの「外気舎」。外の空気を取り入れることに特化した病棟。

軒先には鐘が吊り下げられていた。
非常時に打ち鳴らすのだろうか・・・。

清瀬の森の中に残された結核治療病棟「外気舎」

再起奉公
 東京府知事 岡田周造 

昭和15年5月
恩賜財団 軍人援護會東京府支部寄贈
慰安施設
1.釣堀池
2.休憩舎
3.温室
4.大弓場
5.テニスコート
6.バレーボールコート
7.果樹園
8.広場
9.庭園
10.野外卓
11.腰掛
12.其他

この紀念碑は昭和62年11月まで社会事業大学敷地(旧東京病院敷地)に残されていたがこのたび当院敷地内に移設したものである。
第二次大戦中当院に入院していた傷痍軍人が「再起奉公」を願い又国民がこれを支えた碑があります。この碑が所在していたあたりには右側にある外気舎72灯に140名ほど入舎していたと云う。
 昭和62年11月吉日
  国立療養所東京病院
 (当表札は平成14年10月吉日に復元)

桜の園
 この地は東京病院の前身である傷痍軍人療養所に隣接して当時は松の大木等が生い茂り昔の武蔵のそのままの状態であったのですが昭和17年に当療養所で1万坪を購入し農場と運動場とを作りました。運動場の回りには桜(桜園の回りに特に大きい桜)を植え、グランドには庭球コートを設け患者職員の運動会を催したものであります。戦争が激しくなるにしたがって職員の食糧自給の必要が生じ運動場を職員各自に地割をして畑にし食糧増産の場となりました。終戦後食料も次第に入手できる様になると畑を作る人もなくなったので、昭和31年埼玉県安行から桜の木(ソメイヨシノ)を購入し、樹高約4m、幹の太さ直径5-6cmの木を患者の作業療法として植付けたものです。桜爛漫の春となると患者のための憩いの場となっております。
 国立療養所東京病院

ここに寿康館ありき
ここに寿康館があった。
傷痍軍人東京療養所が昭和14年に開設された際、恩師財団軍人援護会からの寄贈にかかる。傷痍軍人療養所時代には国家的祝日がここで祝はれたし「精神講話」も行はれたし、はなやかな慰問演芸が拍手をもつて迎へられた。患者と職員が直立して終戦の放送を聞いたのもここであったが、終戦後は患者会、職員組合の熱っぽい集会にも利用された。患者の文化祭も行はれ、劇「父帰る」出演者のうち少なからぬ人達が再悪化をしたと云ふ記録も残っている。日本間には全国国立療養所の組合の本部がたむろしたこともあったが、ここで歌会や句会が行はれたから多くの風流人の思い出の場所でもある。ところが終戦以来殆ど手入がなされないまま放置されたため屋根は傾き屋台骨は腐り果て、風、火、地震の危険にさらされるに至ったので昭和53年春ついに取りはらわれ残された礎石がわづかに昔を語っている。こうして国立結核療養所の歴史の1こまが終わったのである。
 昭和53年8月
  国立療養所東京病院長
  砂原茂一

独立行政法人国立病院機構東京病院

位置関係

国土地理院航空写真:USA-M68-A-6-2-151
1946年02月09日-米軍撮影

上記を一部加工

現在の様子


関連

ランドセル地蔵(八王子)

相即寺・延命閣地蔵堂(東京都八王子市泉町)

西八王子駅よりバスに揺られて約15分ほどで「花川バス停」に到着。すぐ隣の寺院が目的地の「相即寺」

相即寺には、戦争ゆかりのお地蔵様、通称「ランドセル地蔵」というお地蔵様が鎮座しているというので足を運んでみた。


ランドセル地蔵

昭和20年6月、米軍による空襲が激化した都市部では、子どもたちの強制疎開がはじまっていた。
なかでも、八王子は、東京都心部からの手近な疎開先として約1200名の子どもたちが疎開をしてきたという。

品川区立原国民学校(旧品川区立原小学校・現在品川区立小中一貫校伊藤学園)4年生であった神尾明治くんも、八王子に疎開していた。
八王子に疎開中の子供たちに対し、昭和20年7月8日に飛来した米軍戦闘機P51は機銃掃射を実施。
神尾明治くんの体を、機銃弾は貫き、そして「痛いよー」と悲痛な叫びを残して、神尾明治くんは絶命した。

悲報を聞いた母親は、形見となってしまった遺品のランドセルを、我が子の面影に一番良く似た堂内のお地蔵様に背負わせたという。
そのお地蔵様が「ランドセル地蔵」として、そうしていまも往時のランドセルを背負われ、悲劇を伝承し続けている。

ランドセル地蔵の鎮座する「相即寺延命閣地蔵堂」は、毎年、6月23日・7月8日・8月8日の3日間のみ御開帳。

合掌

八王子城戦死者供養150体地蔵・ランドセル地蔵尊
相即寺延命閣地蔵堂

相即寺延命閣地蔵堂
御本尊-延命地蔵尊
建立年月日-明和8年12月8日

堂内百五十体地蔵尊
天正18年6月23日、八王子城落城の時、283人の相即寺縁の戦死者供養の為、造立されたもの。

ランドセル地蔵尊
昭和20年7月8日、東京品川の原国民学校四年生神尾明治君が、疎開先の元八王子隣保館保育園で米軍飛行機P51の銃弾を受けて死亡し明治君のお母様が、明治君が使用していたランドセルを、明治君に一番似ている堂内一地蔵にかけて東京に帰り、お母様も昭和21年2月28日死亡した。
児童文学作家古世古先生が「家出ねこのナゾ」を書かれて後、初めて真相が判明した。

ご開帳の月日
毎年6月23日。7月8日。8月8日。
午前8時より午後6時まで。

神尾明治くんのランドセル


相即寺延命閣地蔵堂

「ランドセルをしょったじぞうさん」
古世古和子/作北島新平/絵

 ケンジは、肩ひものちぎれたランドセルの修理をお母さんにたのんだまま、とつぜん疎開先のお寺をおそった空襲で死んでしまった。お母さんはわが子に似たじぞうさんにランドセルを背負わせます。じぞうさんは、現在もじっとたっています。

新日本出版社
https://www.shinnihon-net.co.jp/child/detail/code/978-4-406-00691-0

相即寺延命閣地蔵堂・延命地蔵尊

八王子城での戦死者供養の地蔵尊


相即寺山門

山門の扉には機銃掃射の銃弾痕が残っている。


相即寺

浄土宗寺院。八王子城の鬼門除けの寺。

同じ日。昭和20年7月8日に、高尾駅も機銃掃射を受けていた。。。


位置関係

国土地理院航空写真:94C7-C14-211
1944年12月21日-帝国陸軍撮影

上記を一部加工。


関連

東幼観音と東京陸軍幼年学校(八王子)

八王子市長房町地区。
多摩御陵の東側にかつて陸軍の学校があった。

「東京陸軍幼年学校」
学校の近くにある「東照寺」には、当時を偲ぶものがあるというので、脚を運んでみた。


東京陸軍幼年学校

陸軍のエリート養成学校。
前身は明治29年(1896)に設置された「東京陸軍地方幼年学校」。
東京陸軍地方幼年学校では13歳から16歳までの少年が入学し3年間の教育を受け卒業後は「中央幼年学校」に進学しさらに2年間の教育を受け士官候補生となった。

東京陸軍幼年学校
大正9年(1920)に陸軍幼年学校令が制定され、陸軍中央幼年学校本科を「陸軍士官学校予科」に、陸軍中央幼年学校予科を「東京陸軍幼年学校」に改称。
入校年齢は13歳から15歳までで3年間の教育を受けた。昭和12年以降の卒業生は「陸軍予科士官学校」に無試験で進学できた。
昭和19年に早稲田戸山から八王子長房町の「建武台」に移転。終戦に伴い廃止解散。
終戦時には第47期(180名)・第48期(333名)・第49期(362名)の生徒が在学していた。


位置関係

国土地理院航空写真:USA-R556-No1-174より。
1947年11月14日-米軍撮影。

一部加工。
終戦後の写真のため、東京陸軍幼年学校は空襲焼失後。

昭和20年8月2日の八王子空襲によって、東京陸軍幼年学校や多摩御陵前駅が空襲により消失している。

八王子空襲前の航空写真も掲載。
東京陸軍幼年学校の校舎の様子などがわかる。

国土地理院航空写真:94C7-C15-248を一部加工。
昭和19年(1944)12月21日-帝国陸軍撮影。


東幼観音

八王子市長房町に鎮座している「東照寺」。
東照寺の墓地の一角に「東幼観音」が鎮座していた。

東照寺の東側に、現在は長房団地が造成されているが、当時は「東京陸軍幼年学校(東幼校)」が展開されていた。

白玉の東幼観音
八王子空襲で散華した東京陸軍幼年学校の職員3名と生徒7名の計10名を慰霊する。

東幼観音

 この東照寺の東の台地にはかつて東京陸軍幼年学校があったが、昭和二十年八月二日の米軍空襲により大量三万発もの焼夷弾攻撃を受けて全焼した。同校は陸軍の禎榦となるべき将校を養成するために明治三十年東京市谷台に開校、戸山台時代を経て昭和十九年春八王子市西郊に移転していた。
 当時の在校生徒は約八百七十名で、消火に挺身して勇敢に任務を遂行、散華した職員と生徒が芳名碑の方々である。春秋に富み、大きな可能性を秘めた十名であった。この痛恨事を伝え、歳若くして戦死した御霊を末永く供養するため、当寺と地元関係者の御理解を得て、白玉の東幼観音を東方に向けて建立し、謹んで慰霊の誠を捧げる。
 昭和六十二年八月二日
 東京陸軍幼年学校旧職員生徒有志建立委員会
  松本筑放峯書


建武台之碑

東京陸軍幼年学校は市ヶ谷台から戸山台を経て昭和19年に当地「建武台」へと移動してきた。
昭和二十年三月十三日、朝香宮鳩彦王殿下により「建武台」と命名。
この碑はもともとは横山橋の南に建立されていたが、橋と道路の拡張に伴い東照寺に移転されてきたという。
この碑の台座には、東幼本部建物の正面に掲げられていた「菊花 御紋章」と
「校門標札」が埋められているという。

碑文
 この碑の北方約五百メートルの台地に、かつて東京陸軍幼年學校があった。昭和二十年八月二日未明の空襲で職員生徒十名が戦死、校舎は全焼。八月十五日の戦争終結により、五十年の校史を閉じた。
 本校は日清戰争後日本陸軍の中核となる將校を養成するため、明治三十年に東京市牛込区本村町の市ヶ谷台に誕生。大正十年からの戸山台時代を経て、昭和十九年春、南多摩横山村のこの地に移った。約十万坪のこの台上に學んだ生徒は、第四十六期から第四十九期生まで千二十三名。四十六期生卒業式の昭和二十年三月十三日、朝香宮鳩彦王殿下により、建武台と命名された。
 多摩丘陵から健児の雄叫が絶えて三十有六年。國敗れて山河ありとはいいながら、台上は全く変貌した。ここに戰死者の靈を悼み、我々の足跡をとどめるため、柴田孝夫教官のご好意によって碑を建てるものである。
 昭和五十六年八月二日
 東京陸軍幼年学校職員生徒有志
 題字は石橋犀水教官筆

 建武台之碑はかつて長房団地入口の南浅川に架かっている横山橋(御楯橋)の南側に建立されていた。
 その後、道路と橋の拡幅に際し移転の必要が生じたため、東幼校の西側に所在している長房山 東照寺にお願いしたところ、ご好意を頂き此処に移築された。
 この移築により碑文中の「この碑の北方」は「この碑の東方」ということになる。
 東方の大地とは眼下に広がる長房団地一帯のことである。
 なお、この碑の台座に東幼本部建物の正面に掲げられていた「菊花 御紋章」と「校門標札」が納められている。
  平成十六年四月 
  東京陸軍幼年学校職員生徒有志


放鯉記念碑

東京陸軍幼年学校は当地(八王子)に移転する前は戸山台にあった。その戸山台時代の石碑も縁あって当地に移転。

放鯉記
夫レ鯉ハ三十六鱗ヲ有シ龍門ノ水ヲ遡リテ龍ニ化スト云フ
今ヤ母校ヲ去ルニ臨ミ胥謀リテ曰ク我等カ三十六期ニ因ミ彼ノ溌剌タル姿ニ青雲ノ意氣ヲ留メハヤト乃チ鯉魚
三十六尾ヲ日夕我等カ親シメル此ノ琵琶湖ニ放ツ
此ノ學ニ遊フ者樹影ヲ碎キテ游躍シ波紋ヲ眙シテ跳盪スル健鯉ニ我等カ越え聲氣ヲ偲ヘカシ
 昭和十年春三月

放鯉記念碑   
 放鯉記念碑は都内新宿区戸山町にかつて所在した東京陸軍幼年学校を昭和10年3月に卆業した第36期生(陸軍士官学校第51期生)が東幼を卆業するに当り、校庭内の池塘(琵琶湖)に記念として36匹の鯉を放魚
したことを記念した碑である。
 戦後戸山町の東幼校旧地は都営住宅用地となった。琵琶湖はそのまま公園とされたが碑は旧軍の施設ということで撤去を求められたため、此処長房山東照寺のご好意によって移築したものである。
 平成16年4月
 東京陸軍幼年学校第36期生

実は東照寺を訪問した際、東幼観音がどこに有るか分からず墓苑をぐるぐると回ってしまった。性質上、区画から隔離されているかと思ったためでしたが、結果としては普通に墓苑に馴染むように鎮座しておりました。
東幼観音の扉は幸いにして施錠されていなかったため、開扉してご尊顔を仰ぐことができました。拝し終えた後は、もとのように閉扉を。

長房山東照寺(曹洞宗)


十二社神社

東京陸軍幼年学校のあった長房町より南の地に。
八王子市東浅川町の三田公園に鎮座している「十二社神社」という神社が鎮座している。

八王子空襲により東浅川町の十二社神社は全焼、同じ空襲で東京陸軍幼年学校も焼失するも奇跡的に焼失を免れた「東京陸軍幼年学校の神社=雄健神社」の社殿を戦後に奉遷鎮座させて奥殿とした。幼年学校の建造物として唯一のもの。
この奥殿を直接拝むことができるのは5月3日の十二社祭礼「十二社御燈明祭」のときに限られるという。

次回は祭礼の際に「東京陸軍幼年学校時代からの御本殿」を拝みたいものです。

関連

市ヶ谷台

戸山台

振武台

南浅川橋と東浅川駅跡

ドーリットル空襲と石出巳之助之墓

ドーリットル空襲

昭和17年(1942)4月18日。
米陸軍所属のB-25爆撃機16機が米海軍所属の空母ホーネットより発進し、日本本土への空襲を実施。この空襲がアメリカ軍による日本本土初空襲(東京初空襲)であり、ミッドウェー海戦のきっかけともなった。
「ドーリットル空襲」の名称は爆撃機隊の指揮官であったドーリットル中佐に由来する。

日本側の被害は、死亡約90人、負傷約460人であったという。

水元小学校と石出巳之助君

昭和17年4月17日(土曜日)
この日は土曜日だったので半ドン、つまり午前中で学校の授業は終わりだった。

4月に入学したばかりの東京都水元国民学校学校高等科1年生(中学1年生)の石出巳之助君(13歳)たちは午前の授業を終え、12時過ぎに校門を出たところで「空襲警報」が鳴ったという。
空襲警報を聞き、石出巳之助君たちは日頃の訓練どおりに急いで校舎に引き返し教室の机の下に潜ろうと廊下を走っていたところで、B-25の機銃掃射を受け背中に命中。応急処置を施すも、午後2時に命を引き取った。

石出くんを機銃掃射したB-25は、米空母ホーネットを8時30分に発艦したドーリットル隊3番機であった。3番機は水元国民学校に15発の機銃掃射を行ったという。

日本発空襲の被害は、東京だけで死者は39名であった。

翌日の新聞(朝日新聞)は、「鬼畜の敵、校庭を掃射」等、報じている。
また実際にはB-25を1機も撃墜していないが「けふ帝都に敵機来襲 9機を撃墜、わが損害軽微」との報道もなされた。

東部軍司令部発表(昭和17年4月18日午後2時)
「午後零時30分頃、敵機数方向より京浜地方に来襲せるも、わが空地上両航空部隊の反撃を受け、逐次退散中なり。現在までに判明せる敵機撃墜数は9機にして、我が方の損害、軽微なる模様。皇室は御安泰で渡らせらる。」

石出巳之助之墓

戒名は「悲運銃撃善士」
石出君の死は、軍部による国威発揚に利用されたのだ。

墓前にて合掌。

(表) 石出巳之助之墓
(左) 悲運銃撃善士 昭和十七年四月十八日
(右) 昭和十七年四月十八日
    米國敵機ノ機銃彈ヲ受ケテ死亡ス
    性温和至純至孝身體強健ニシテ
    將來ヲ囑望セラレシニ此ノ災禍ニ遭ヒテ殉難ス 
    享年十四歳
(裏) 昭和十七年八月
    施主 石出文五郎建之

石出巳之助之墓

第2章 葛飾の歴史
第9節 昭和時代

■葛飾区への空襲 :
初めは勝利を重ねた日本でしたが、だんだん負けることが多くなりました。そして、日本は空襲を受けるようになり、沖縄では上陸したアメリカ軍との激しい戦いがありました。

空襲による犠牲者  
 1942(昭和17)年4月18日、東京がはじめてアメリカ軍による空襲を受けました。飛行機が飛んできて爆弾を落とし、空から銃をうったのです。この空襲では、葛飾区も被害を受け、水元国民学校高等科1年生(中学1年生)の石出巳之助君がうたれて亡くなっています。当日は、土曜日で午前中に授業がありました。家に帰ろうと校門を出たときに空襲が始まり、日ごろの訓練どおりに校舎に引き返しましたが、1階のろう下でうたれたのです。亡くなった後、学校では石出君の写真を校舎内にかかげて、毎朝手を合わせました。  
 1944(昭和19)年にサイパン島がアメリカの手にわたると、そこからくる飛行機による空襲が本格化し、葛飾区でも被害がありました。

葛飾区史(葛飾区総務部総務課)http://www.city.katsushika.lg.jp/history/child/2-9-4-86.html

上記、葛飾区史(葛飾区総務部総務課)のサイトより写真を引用。

石出巳之助君の墓(1943〔昭和18〕年)
水元国民学校の校舎に残った銃弾のあと(葛飾区郷土と天文の博物館所蔵)
石出巳之助君が亡くなった空襲のときに、学校に残った銃弾による傷です。
なお、砲弾は後日、寄贈されたものです。

石出くんのお墓は「法林寺」にある。

浄土宗寺院の見池山法林寺

総務省>一般戦災死没者の追悼>石出巳之助之墓

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/virtual/memorialsite/tokyo_katsushika_city001/index.html


旧水元小学校

石出くんが通っていた水元国民学校の校舎の一部が今も残されている。
現在は、葛飾区強度と天文の博物館の管理ではあるが、耐震性の問題があり平成28年で「教育資料館」としては閉館。立入禁止となっている。

葛飾区指定有形文化財
水元小学校旧校舎 1棟
 所在地 葛飾区水元4丁目21番1号
 指定年月日 昭和59年(1984)2月27日

 この建物は、水元村立水元尋常高等小学校の増築校舎として、大正14年(1925)7月20日に竣工しました。
 大正12年(1923)に発生した関東大震災の影響で材木が不足していたことから、アメリカから輸入した松材を用いて建築、当時としては構造上の強化も図られています。
 竣工当時は、廊下に沿って4部屋の教室がありましたが、現在の校舎新築に伴い昭和40年(1965)に北側の教室2部屋が撤去されました。この際に発見された棟札には、棟上げ日(大正14年5月16日)の他、当時の関係者の名前が記載されています。その後も、南側の2教室は昭和57年(1982)まで校舎として使用されました。
 昭和58年(1983)に現在地に曳家のうえ、建設当初の状態に復元されて、平成28年(2016)3月まで葛飾区教育資料館として使用されました。
 大正時代に建てられた校舎として貴重なことから、昭和59年2月に、葛飾区指定有形文化財に指定されています。
 葛飾区教育委員会

葛飾区郷土と天文の博物館>旧教育資料館 関連展示

https://www.museum.city.katsushika.lg.jp/exhibition/permanent/shiryokan.php


位置関係

国土地理院
ファイル;C36(8913)-C1-297
1944年10月24日-日本陸軍撮影。

水元小学校が上空からでも目立つのがわかる。
(機銃掃射すべき対象物でないこともわかるはずだが。)

現在の様子。水元公園は戦前は水田地帯であったのが意外。

以上、
ドーリットル空襲と、本土空襲最初の犠牲者の一人であった石出巳之助さんにまつわる話でした。

赤羽台の戦跡散策

東京都北区赤羽台

軍都赤羽

赤羽台。
現在の赤羽八幡神社の裏手や星美学園、東京北医療センター界隈には2つの工兵大隊が駐留をしていた。
「第一師団工兵第一大隊」と「近衛工兵大隊」、2つの部隊を合わせて「赤羽工兵隊」と呼んだという。

そんな赤羽台と赤羽工兵隊ゆかりの史跡を探して散策をしてみたいと思う。

赤羽招魂社(赤羽八幡神社境内社)

位置関係

国土交通省国土地理院航空写真 ファイル:893-C1-191
1944年9月27日に陸軍撮影

上記を一部加工。クリックで拡大。


赤羽招魂社
 陸軍第一師団工兵第一大隊営内神社

赤羽駅から線路沿いに北上する。
ちょうど線路がYの字に分岐する狭間に鎮座するのが赤羽八幡神社。
その赤羽八幡神社の境内に鎮座しているのが「赤羽招魂社」。このお社は、陸軍第一師団工兵第一大隊の営内神社の流れをくんでいる工兵隊ゆかりの神社。

「営内神社」は、東京の赤羽神社を嚆矢とする。明治三十一年(1898)、東京赤羽工兵隊第一大隊構内に天照大神、歴代皇霊、天地地砥を祀った社祠を設け、将校以下兵士までに拝礼させることにした。これが軍隊内に神を祀った最初とされ、以後全国に広まったものという。(注65)
 (注65)『工兵第一大(連)隊史』赤羽招魂社奉賛会編刊、一九八四年。

営内神社と地域社会 本康宏史
https://rekihaku.repo.nii.ac.jp/?action=repository_uri&item_id=1654&file_id=22&file_no=1

社号標
正面 赤羽招魂社
右面 營内神社
左面 工兵第一大隊
裏面 明治三十一年四月鎮座

忠魂
工兵第一大隊は皇軍の創設と共に発祥し、明治廿年桜田門より赤羽台上に転営し後聯隊となり、昭和十一年留守部隊に後を託して北満孫呉に移駐。軈て大東亜戦争に際会して遠く南方に転進し、昭和廿年比島にて玉砕して諸兵悉く国難に殉す。この間凡そ六十年赤羽工兵の声価は広く、人口に膾炙し、特に地元に親愛せらる。即ち幾多の当隊編成部隊と共に累次の戦役、事変に出陣し、各地に勇戦奮斗毎に赫々たる偉勲を樹て燦然たる光彩を発揮し又内地に在りては、関東大震災を始め、数次の災害に出動し、警備援護の任を全うし、克く公衆の信倚に応えたり。この間護国の華と散りし、幾百先輩の英霊を祀る営内神社は明治三十一年以来敬仰団結の核心として鎮座し、終戦と共に八幡神社の神域に奉遷、更に赤羽町戦没英霊を合祀して赤羽招魂社と崇め、毎年桜花四月の交慰霊祭を奉仕して今日に至る。然るに兵営の跡既に変貌して旧記念碑亦散逸して往時を偲ぶ由なきを憂い、茲に生存戦友遺族及び地元有志相図りて本碑を社頭に建立し、以て聯隊の功績と先輩の偉勲を顕彰し、永く之を後世に伝えんとするもの也。
 昭和42年4月29日
 赤羽招魂社奉賛会長 大河原 鉄之助 謹書

戦歿英霊合祀
明治十年戦役    27柱
明治二十七八年戦役 52柱
明治三十七八年戦役 238柱
日独戦争      14柱
支那事変      427柱
大東亜戦争     戦没者英霊
赤羽町出身者    戦没者英霊 
公務殉職者     11柱

戦没者神霊
明治十年西南戦役    27柱
明治二七・八年日清戦争 52柱
明治三七・八年日露戦争 238柱
大正三年日独戦争    1柱
大正七年西伯利亜出兵  13柱
大正・昭和演習殉難者  9柱
満州事変・支那事変   465柱
大東亜戦争       5660柱
赤羽八幡神社氏子    92柱
           計6557柱   

戦後50年奉賛会記念事業として玉垣を造成奉納する
 赤羽招魂社奉賛会
   会長 年代 茂
      役員一同
平成9年4月29日
   関係部隊有志一同

工兵第一大隊動員編成野戦部隊
工兵第一大隊
工兵第一連隊
 (以下略

工兵第一大隊の営内神社であった当社は、戦後に赤羽八幡神社に遷座し、地元赤羽の戦没者も合祀し、赤羽招魂社となった。営内神社の歴史から連なる貴重なお社。戦没者の御霊に深く拝する。


赤羽八幡神社

東京都北区赤羽台に鎮座。旧赤羽村の総鎮守。
延暦3年(784)に、坂上田村麻呂が当地に陣を張り、八幡三柱を勧請したことにより創建。

赤羽台の当地の下、正確には赤羽八幡神社社務所の下を東北新幹線が通過している。

赤羽八幡神社の入り口近くに日露戦争の紀念碑が2つ鎮座していた。

日露戦役紀念碑
明治三十七年二月乃十日刀云布日尓天皇乃大詔以上露西亜国止戦乎開幾給比志興里軍人等諸波皇我大命平畏美上海行加波水清久屍山行加婆草生須骸刀御国乃為大君乃御為刀一向尓大和心平振比起之上海外陸尓進美戦比志功波弦久二年尓満多奴尓海陸乃戦波光輝介留終乎曽告介留敵後乃世乃人等乃紀念ホ湿久此郷乃人等乃此御軍尓加波里上忠心平蓋志々大伎功清伎名平萬世末上尓伝辺牟止上哀尓如名平彫刻牟尓南牟

東京帝國大學史科大學講師 佐々木信綱識  弟子朝日重光謹書

 明治39年 赤羽兵事義会々員建立

日露戦役紀念碑
後備陸軍歩兵軍曹沼野佐吉君以明治三十七年六月十四日召集干第一師団司令部命第二兵姑司令部附仝二十日出発東京七月十一日上陸清国盛京省南尖入第四軍戦斗序列爾来或参加千戦斗或従事千兵姑開設十月十日任陸軍歩兵曹長、三十八年十二月十日任陸軍歩兵特務曹長命第四師団第二補助輪卒隊附翌三十九年二月二十六日凱旋第四師団之本営二月三日召集解除為
豫備陸軍砲兵伍長丸峰萬五郎君以明治廿七年二月八日召集干近衛野砲兵聯隊第五中隊二月十一日発東京向戦地二月丗日初鳴緑江九里島之戦而爾来転戦干各處六月一日任陸軍砲兵軍曹七月二十一日苦戦於様子嶺八月廿一日砲撃孟家房之際―戦傷送還千本国既而癒命臨時軍用鉄道監部附復赴清匡廿九年二月廿匹日凱掟於東京召集隼除為

赤羽八幡神社にも拝礼。

高台の神社は鉄道スポットでも有名。

むかし、御朱印と御朱印帳を頂いておりました。
「下元八運」の「8」が、関ジャニ∞ファンにも好評だとか。

御朱印は平成27年ですね。
実はこのころは、ここが陸軍工兵隊ゆかりの神社とは全く知らず、でした。
3年後ぐらいに戦跡としての赤羽八幡神社を知って、そして再訪したというわけです。興味の方向性がどこにあるかで感じることは全く違いますね。

高架線路に挟まれた赤羽八幡神社。


師団坂

赤羽八幡の脇の坂道、赤羽台に登っていく坂を「師団坂」という。文字通り、この坂を登っていくと、坂の上には「近衛師団」と「第一師団」に所属した「二つの師団の工兵大隊」が展開されていた。

師団坂
 この坂は、旧陸軍の近衛師団と第一師団に所属した二つの工兵大隊に向かう坂道でした。明治二十年(一八八七)八月から九月にかけてこれらの工兵大隊が現在の丸の内一丁目から赤羽台四丁目内に移ってきたので、坂はつくられました。
 この坂は「工兵坂」とも呼ばれ、休日などの際は軍人や面会者の往来で賑わいました。当時の工兵隊の兵営は、『赤羽の兵隊屋敷』と呼ばれ、工兵隊による浮間橋の架橋や花見時の兵営開放などにより、付近の住民にも親しまれていました。
 現在、兵営の間にあった練兵場は住宅地となり、第一師団工兵大隊兵営跡は学校法人星美学園の敷地となっています。


師団坂通りバス停と星美学園
(陸軍第一師団工兵第一大隊兵営跡)

師団坂を登りきったところに「師団坂通りバス停」があり、そこには「星美学園」がある。
この星美学園の場所に、当時は「陸軍第一師団工兵第一大隊」の兵営があった。

師団坂通り
(共用練兵場跡)

星美学園と東京北医療センターの間の住宅地は、両工兵隊共用で使用していた練兵場であった。突き当りが近衛工兵大隊(現在の東京北医療センター)


東京北医療センター
(近衛工兵大隊兵営跡)

現在の東京北医療センターはかつては近衛工兵大隊の地であった。

近衛工兵大隊ゆかりの石碑群

東京北医療センターと赤羽台さくら並木公園との境目あたりに、木々に埋もれるようにして、4つの石碑が集められていた。

(表面)
御幸松
(裏面)
大正4年乙卯夏6月18日
近衛工兵大隊長陸軍工兵大佐佐藤正武謹識

(表面)
白楊坐記
 (漢文略)
大正9年4月7日
(裏面)
近衛工兵大隊第三中隊大正6年兵
満期除隊者植白楊樹三百株
并36名各刻碑面文字

(表面)
澄宮
御手植松
(裏面)
昭和2年5月2日
近衛工兵大隊長?原允長謹識

澄宮とは 三笠宮崇仁親王のこと。

(表面)
皇太子殿下
御手植松
(裏面)
大正4年5月18日
近衛工兵大隊長陸軍工兵大佐佐藤正武建之
 陸軍工兵二等卒重田昌司謹刻

ここでいう皇太子殿下とは、のちの 昭和天皇

近衛工兵大隊時代の石碑がこの一箇所にあつめられていた。それぞれ御手植碑だったり植樹碑だったりするが、その肝心の木々はどこにあるのだろうか。


陸軍境界石(陸軍境界標石)

東京北医療センターの東南、赤羽台さくら並木公園の北東
ごみ集積場の陰に隠れるように石柱が残っていた。
近衛工兵大隊の境界石。

陸軍用地


赤羽台さくら並木公園
 (射撃訓練場跡)

この細長い公園は当時は射撃場であったという。

防空壕跡

当時は射撃場があった赤羽台さくら並木公園の中に、ひっそりと残されていた防空壕。


浮間橋

北赤羽駅ちかくの浮間橋まで移動。

新河岸川にかかる浮間橋の脇に、近衛工兵大隊にちなむ石碑が残されている。

当時の浮間地域は荒川と新河岸川の間に挟まれ、交通手段を渡船に頼らざるを得ない場所でした。
そこで浮間地域の人々が、建設費用として6,000円を用意し橋の建設を「近衛工兵大隊(近衛師団工兵隊)」に相談。そうして昭和3年(1928)5月に木造の橋が完成したことを記録する石碑。
当時の6,000円は1000万円ぐらいか。

浮間橋の碑
北区浮間1-1(左岸)
 荒川は江戸時代より洪水が多く、「荒れ狂う」川として知られていました。明治43年(1910)8月の大洪水をきっかけに大規模な河川改修事業に着手します。
 改修では、洪水時の4分の3の水量を流すことができる新しい川(荒川放水路)を開削する方式がとられ、元の荒川の流水量を調節するために岩淵水門が建設されました。
 しかしその結果、浮間は荒川と新河岸川の間に挟まれ、交通手段を渡船に頼らざるを得なくなりました。そこで浮間地域の人々が、現在の赤羽台4丁目にある東京北社会保険病院付近に駐屯していた近衛師団工兵隊へ計6千円を拠金して架橋を依頼し、昭和3年(1928)5月に幅2間、長さ65間半の木造の橋が完成しました。その記念に建てられたのが大きな碑(旧浮間橋建設記念碑)です。
 橋は昭和9年(1934)に幅8メートルの鋼板鋼桁橋になり、昭和15年(1940)には鉄橋に架け替えられました。しかしその橋もJR(旧国鉄)の東北・上越新幹線の建設計画に伴い再び架け替えられることになったため、旧浮間橋建設記念碑建立に関与した人々の子孫を中心に、記念碑の移設及び顕彰保存を目的とした浮間橋記念碑保存会が設立されました。碑は昭和60年(1985)9月に現在の浮間橋脇に移設され、記念に小さな碑が建てられました。
 地元の人達によって建てられた大小二つの碑は、地域と浮間橋の関わりを永く後世に伝えています。
 平成8年3月(平成17年一部改訂)  
  東京北区教育委員会

旧浮間橋建設記念碑

浮間橋
郊外浮間里有名櫻草鮮
北方隔水路對横曾根邊
西南挟清流望志村翠煙
曩離北足立新併合岩淵
此地如孤島交通常乗船
憂慮萬一事頻希架橋便
里民咸應分醵出金六干
本町請軍衙以實情開陳
近衛工兵来施工盡力研
今日橋梁成如長蛇横川

昭和三年四月二十六日
建於岩淵町大字浮間
小柳通義撰文併書

旧浮間橋建設記念碑が国鉄建設工事に伴い、移設されることになり
国鉄当局と地元代表との話し合いの結果、新幹線工事完了の暁、新浮間
橋際に建設されることになった。
今般旧浮間橋建設記念碑移設工事が完了したことを記念した碑を立てる。
 昭和60年9月 浮間橋記念碑保存会

当時の浮間地域の人々の架橋の思いと近衛工兵隊への感謝が込められた石碑は橋は変われど、今も浮間橋の脇で大切にされておりました。

赤羽から北赤羽へ工兵隊を廻る散策から、ちょっと南の方に足を伸ばしてみます。


陸軍火薬庫の陸軍境界石

東京都北区桐ケ丘。都営桐ケ丘アパート界隈。
「近衛工兵隊」の南、前述の位置関係では「作業場」の南西に「陸軍火薬庫」があった。
その陸軍火薬庫のあった場所に残る「陸軍」と銘のある境界石は電信柱の後ろに隠れるように残っていた。


師団坂・軍用鉄道のあったエリアの南側

陸軍被服本廠の陸軍境界石 

陸軍被服本廠は大正8年(1919)に本所から赤羽台に移転してきた。本所の跡地は関東大震災で大惨事となりのちに東京都慰霊堂が建立された。
赤羽台の陸軍被服本廠は、戦後は米軍東京兵器補給廠所属地となり米軍住宅赤羽ハイツが建設。変換後は赤羽台団地が造成。また小中学校も建設された。そのときに建設された赤羽台中学校も廃校となり、跡地には「東洋大学赤羽台キャンパス」が開設。東洋大学赤羽台キャンパス北側の墓地ちかくに「陸軍用地の境界石」が残されていた。

東京大空襲・慰霊

陸軍兵器補給廠線跡(軍用線路跡)

再び赤羽八幡神社に。
この赤羽八幡神社の参道からナショナルトレーニングセンターまで、かつて軍用鉄道が走っていた。

北区赤羽緑道公園
(陸軍兵器補給廠線跡)

巨大な構造物。なんとなく鉄道があったことをイメージさせる。

遊歩道は線路をイメージ

鉄橋ぽいのも。

赤羽緑道公園から赤羽自然観察公園を抜け、住宅地の先に、赤羽リハビリテーション。その先には国立西が丘サッカー場。

味の素フィールド西が丘(国立西が丘サッカー場)や味の素ナショナルトレーニングセンターのある界隈が、かつての「陸軍兵器補給廠」

このさきには、「東京陸軍兵器補給廠」があり「陸軍稲付射場」もある。そして、「東京第一陸軍造兵廠」「東京第二陸軍造兵廠」という大きな見どころがあるが、それはまた別の記事にて。

関連

海軍水雷学校と海自第2術科学校

令和元年11月・横須賀 JR田浦駅近く。

現在の「海上自衛隊第2術科学校」は、海軍水雷学校の敷地を受け継いでいる。

海軍水雷学校

大日本帝国海軍の水雷術(魚雷・機雷・爆雷)指揮官・技官を養成する教育機関であった。
明治26年(1893)12月2日に水雷術練習所が設置。
明治40年(1907)4月20日に海軍水雷学校に改編。
水雷学校から、海軍通信学校、海軍機雷学校(海軍対潜学校)が派生増設。
昭和20年の終戦までこの地で海軍教育が行われてきた。
歴代校長に著名人が多く、岡田啓介・鈴木貫太郎・南雲忠一・小澤治三郎など。

術科学校

第1術科学校・江田島 機関科を覗く水上艦艇術科教育
第2術科学校・横須賀 機関・電機・情報・外国語等の特殊部門専門教育
第3術科学校・下総  航空機整備員・航空基地員養成機関
第4術科学校・舞鶴  業務管理・経理・補給関係術科教育訓練

海上自衛隊第2術科学校、すなわち「2術校」

http://www.mod.go.jp/msdf/twomss/

機関、電機、応急工作等及び情報、技術、電子計算機、外国語といった特殊な部門の専門教育や、調査研究を主体とする機関

戦前の水雷教育から戦後の特殊専門教育へとつながる、そんな「海自2術校」にて、当時の姿を残すものなどを。



海軍水雷学校 圧縮ポンプ室
 (旧整備科倉庫)

第2術科学校は海軍水雷学校の敷地を受け継いでいます。この建物はS9年に建てられた木造建築で、現存する唯一の帝国海軍水雷学校当時からの建物です。

オープンスクール(一般公開)時に見学

うしろの建屋は、「日立パワーソリューションズ田浦工場」
手前には海保のPM14たかとり(てしお型巡視船)

海上自衛隊第2術科学校のある田浦は、海自と海保の共同使用地。全国でも共同使用地は、ここだけだという。


位置関係

国土地理院航空写真「USA-M46-A-7-2-77」より。
1946年02月15日 米軍撮影

一部加工
ポンプ室のみが現在も残る水雷学校の遺構。

田浦駅北部の海軍軍需部倉庫も数棟が現存している。

拡大


近くにはロ号艦本式ボイラーが展示してあった。(別記事にて掲載)


歴史保存エリア

第2術科学校内に「歴史保存エリア」がある。

海軍水雷学校跡碑

海軍水雷学校跡碑

海軍水雷学校 跡
 明治26年12月2日水雷術練習所が設置されました。明治40年4月20日海軍水雷学校となり、昭和20年の終戦まで教育が行われました。
 昭和50年5月、水雷学校の歴史を後世に残すため、第二術科学校に隣接する関東自動車株式会社本館前に設置されていましたが、関東自動車株式会社の移転により、平成21年、この血に移設されました。

沿革
明治三年十一月四日
 海軍兵学寮に水雷火設置
明治七年九月二十日
 海軍兵学寮にて水雷術伝習開始
明治十二年八月二十三日
 水雷術練習所横須賀に開所
明治十六年二月六日
 水雷術練習所を廃止し水雷局を長浦に設置
明治十九年一月二十九日
 水雷局廃止水雷術練習艦設置(迅鯨)
明治二十年十一月十六日
 水雷術練習工概則制定(水雷術練習生の起源)
明治二十二年十二月二十三日
 水雷術練習艦で下士官、兵に掌水雷兵教育開始
明治二十六年十二月一日
 水雷練習艦を水雷練習所に改める(迅鯨)
明治三十九年十二月一日
 同右を長浦の陸上に移転
明治四十年四月二十日
 海軍水雷学校条例制定
明治四十年四月二十二日
 海軍水雷学校田浦に開校
 電気器具、防御水雷、攻撃水雷、通信術の四科目伝習開始
昭和五年六月一日
 海軍通信学校分離独立
昭和九年五月二十三日
 航空魚雷練習生制度設置
昭和十年七月
 航空兵器術練習生のなかに魚雷爆撃専修の練習生制度設置
昭和十五年六月二十日
 雷撃員制度設置雷撃練習生教育開始
昭和十六年四月一日
 海軍機雷学校分離独立
昭和一九年三月一五日
 海軍対潜学校と改称
昭和二十年七月十五日
 同右を廃止海軍水雷学校久里浜分校となる
昭和十八年六月十七日
 海軍水雷学校魚雷艇訓練規則制定
昭和十九年四月一日
 海軍水雷学校川棚魚雷艇訓練所開始、
 魚雷艇、特攻兵器、震洋艇の教育訓練実施
昭和二十年八月十五日
 終戦閉校

昭和五十八年五月八日
 海軍水雷学校跡碑建設委員会
  委員長 有田雄三
   他八七三名を以って建立
    兼平芳雄謹書

海軍通信教育発祥記念碑

海軍通信教育発祥記念碑

海軍通信教育発祥記念碑
 明治三十六年、この地にあった海軍水雷術練習所で無線電信術教育が開始されたことを記念し、昭和四十五年十一月に建立されました。
 海軍水雷術練習所は、明治四十年、海軍水雷学校になりましたが、通信術の教育所要が増大したため、昭和五年同地の一部に海軍通信学校が海軍水雷学校から分離独立しました。 海軍通信学校は、昭和十四年に現在の陸上自衛隊久里浜駐屯地がある地に移転し、終戦を迎えました。

海軍無線通信教育の沿革
明治三十六年二月
 この地海軍水雷術練習所で無線電信術教育開始
大正七年八月
 海軍水雷学校に通信部設立
昭和五年六月
 この地に海軍通信学校として独立
昭和十四年十一月
 神奈川県久里浜に移転
昭和十七年五月
 横須賀海軍通信学校と改称
昭和十七年五月
 山口県防府に防府海軍通信学校を増設
昭和十九年九月
 神奈川県藤沢に海軍電測学校設立
昭和二十年七月
 各学校教育中止

   昭和四十五年十一月 
    海軍通信同窓有志建立

海軍上等兵曹上崎辰次郎之碑

海軍上等兵曹上崎辰次郎之碑
海軍中将従三位功三級男爵伊藤雋吉君題碑

「上崎上等兵曹之碑」の由来
 上崎上等兵曹は青森県上北郡の人旧会津藩士であり、万延元年(1880年)岩代国若松城下で出生した
 十四歳で海軍に入り水雷術を専攻した
 征藩の役 西南の役に従軍し 明治二十二年上等兵曹に任ぜされ 二十七年勲七等に叙せられ瑞宝章を賜った
 明治二十七年日清戦争が起こるや第六号水雷艇に乗り戦地に赴く 艇長は海軍大尉鈴木貫太郎(後に大将 終戦の時の内閣総理大臣)であった
  明治二十八年二月四日夜 わが水雷艇隊は威海衛の夜襲を決行 第六号水雷艇もこの中にあって港内に突入 はげしい敵弾をうけながら敵艦鎮遠に近迫まさに水雷を射出して敵艦を粉砕しようとしたところ はからずも厚い氷が発射管を閉鎖し水雷が出なかった 上崎上等兵曹はこの責任を感じ 敵降伏後の三月十四日 従容として艇内において自刃した ときに三十六歳であった  鈴木艇長をはじめ艇員はその忠誠を永久に伝えるために横須賀竜本寺にこの碑を建てた  昭和三年田浦(田浦交番隣)に移してあったものを昭和四十三年五月十八日 第2術科学校に移したものである

(台座)
建碑及遺族慰問
資金義捐者
 海軍将校以下有志
  一千十五名
 通常有志
  七名
発起人 
 海軍大尉鈴木貫太郎
  外 三十七名
永代施餓鬼料
 金貳拾圓

碑面裏の撰文は上崎の乗艇である第六号艇長が読んだ弔辞を漢文に直したもの
第六号艇長は鈴木貫太郎海軍大尉、のちの海軍大将、内閣総理大臣

発起人にも海軍大尉鈴木貫太郎の名が刻まれている。

上等兵上崎辰次郎君碑
君諱辰次郎上崎氏青森県上北郡人旧会津藩士也萬延元年十二月生于岩代国若松城下年十四入海軍酷苦励精技術大進
明治七年航台湾従征藩役十年西南之役起君乃乗軍艦討賊兵十三年任下士官十九年新造軍艦浪速於英国成君被撰為回
航委員至英国乗之而帰廿二年叙勲八等無何任上等兵曹廿七年叙勲七等賜瑞宝章是歳征清役起時君在第六号水雷艇慨
然決意曰吾欲誓死以報国恩十月航戦地従常備艦隊占領花園口十一月略大連湾攻旅順口屡々有功廿八年二月我軍攻威
海衛敵艦隊拠劉公島以水雷及防材鎖港恃険要而防戦数日不能遽抜同月三日夜第六号水雷艇乗月明迫港口敵知之砲撃
甚烈而君自苦冒弾雨而破防材通航路以是翌夜水雷艇隊得進入港内襲撃敵艦隊轟沈定遠等二艦此夜第六号水雷艇亦在
隊中冒砲撃而迫近鎮遠飛弾如雨注中艇者六十餘弾将射出水雷粉砕敵艦何計巌水閉管妨碍発射自是君憤慨不巳更期大
功自慰十二日敵艦隊力屈遂乞降三月和議再起清使李鴻章発天津君時在威海衛港聞之而知戦機既去亦不可為遺憾不自
禁以此月十四日従容自刃艇内歳丗六艇員火化之帰葬横須賀龍本寺君為人沈毅義胆処事綜密克耐艱楚常尚節義至誠奉
公服軍務廿有二年於茲励精如一日威海之襲撃不奏効因巌冬結氷所致於君何有然哀心不能自安負責謝過以死矣可勝歎
惜哉頃者故旧捐金樹碑余甞長第六号水雷艇懐旧殊切乃為君叙其事為之銘曰
至誠奉公 孰若其忠 偉績将奏 孰妬其功 憤慨難禁 視天夢々 
鬼哭神泣 烈士致躬 大書深刻 其碑穹隆 嗚呼崎氏 英名無窮
 海軍大尉正七位勲六等功五級 鈴木貫太郎選

海上自衛隊発祥乃碑

海上自衛隊発祥乃地

海上自衛隊発祥乃碑
 昭和27年4月」26日、海上自衛隊の前身である海上警備隊がこの地で創設されました。創設に際し戦後の海軍再建を検討したY委員会において全国数箇所の候補地の中から、地元と米軍の了承が得られた唯一の場所が、ここ田浦の地だったのです。
 なお、戦後当地は旧軍港市転換法により民間企業等が使用していましたが、その会社が旧軍との関係が深く、海上自衛隊が使用することを快諾されたこともこの地に決定した理由となりました。

国旗掲揚旗竿基部

国旗掲揚旗竿基部
海上自衛隊創設当時にこの地に建てられたものであり、海上自衛隊の歴史を残すものである。

第2術科学校開校20周年記念機関

「350馬力蒸気往復機関」
海自が昭和27年発足時から昭和32年まで「えい船4号」として使用した旧帝国海軍雑役船の主機械。同船除籍後に教材として活用。創立20周年に際して記念機関として永く保存されている。


海軍機関術参考資料室
海上自衛隊創設史料室

ひとまず別記事を参照でお願いします。。。


そのほか

横穴の壕。消火栓もみえる。

このあたりも当時からかもしれない

海上自衛隊第2術科学校と俗世界の境界。これも当時から。

また来ます


関連

館山の海軍戦跡散策・その1

平成28年4月

・館山海軍航空隊跡
  赤山地下壕
  掩体壕
  水上班滑走台跡(米軍上陸の地)
・第二海軍航空廠館山補給工場跡
・安房神社
  館山海軍砲術学校第三期兵科予備学生戦没者慰霊碑
  海軍落下傘部隊慰霊碑
・館山海軍砲術学校跡
  正門跡・戦車橋
  平和祈念塔
  炊事場跡(ボイラー室跡)
  飛行特技訓練プール跡(落下傘部隊訓練プール跡)
  化学兵器実験施設跡
  ヤシの木
・震洋滑走台跡

令和元年房総半島台風(令和元年台風第15号)被災前の記録です

その2は、海自で。

この日(平成28年4月某日)は、突然ではあれど友人と館山へ。
友人車の機動力を活かして、館山に点在する海軍戦跡と神社をいくつか散策。


館山海軍航空隊(館空)

昭和5年(1930)に館山海軍航空隊(館空)開隊。海軍航空隊としては5番目。
横須賀海軍航空隊(横空)の実戦部隊が館山に移動することで「横空」は研究航空隊に特化。
昭和11年に木更津海軍航空隊(木空)が開隊すると、「木空」が外戦作戦任務を担当し、「館空」は内戦作戦部隊となる。
開戦後の1944年(昭和19年)に、東日本の哨戒航空隊を統合した「第九〇三海軍航空隊」が館山を中心に展開され、対潜哨戒機が配備され広大な哨戒区域をカバーする事となる。

洲ノ埼海軍航空隊(洲ノ空)

館山海軍航空隊の隣には、「洲ノ埼海軍航空隊」(洲ノ空)が昭和18年6月1日に開隊。それまで「横空」で行われていた射爆兵器の整備教育を担当する全国でただひとつの兵器整備練習航空隊で、操縦以外の航空機にかかわる専門技術を学ぶ養成機関であった。


位置関係

国土地理院航空写真「USA-M583-25」米軍撮影-1947年10月23日

USA-M583-25を一部加工。クリックして拡大。

上記地図のオレンジ色の箇所を散策。紫色の箇所は次回の宿題。未訪問個所。


赤山地下壕

まずは「赤山地下壕跡」へ。
館山市内の戦跡として一番有名な場所から。

https://www.city.tateyama.chiba.jp/syougaigaku/page001892.html

館山市指定史跡 館山海軍航空隊 
赤山地下壕跡
平成17年1月27日指定
 1930(昭和5)年、海軍5番目の実戦航空部隊として、館山海軍航空隊がつくられました。それから、1945(昭和20)年の終戦までの間、館山市香(こうやつ)から沼(ぬま)にかけての一帯には、航空機の修理部品の補給などをおこなった第2海軍航空廠館山補給工場、食料・衣服・燃料などを補給した横須賀軍需部館山支庫関係の施設や、1943(昭和18)年に兵器整備の練習航空隊として開かれた洲ノ崎海軍航空隊など、さまざまな軍事施設がつくられました。
 東京湾の入り口にあることから、館山市には、海軍の施設だけではなく陸軍の砲台や、教育機関(洲ノ崎海軍航空隊、館山海軍砲術学校)など、いろいろな種類の戦争遺跡が残されています。
 このような場所は、わが国のなかでも例が少ないといわれていますが、この赤山地下壕は、合計した長さが約1.6㎞と全国的にみても大きな地下壕で、館山市を代表する戦争遺跡のひとつです。
 つくられた時期は、はっきりしていませんが、このような大きな地下壕が、1941(昭和16)年の太平洋戦争開戦の前につくられた例はないといわれています。
 その一方で、昭和10年代のはじめに建設が始まったという証言もありますが、当時の軍部が本格的に防空壕をつくり始めたのは、1942(昭和17)年より後であるという歴史的な事実があります。
 全国各地につくられた大規模な地下壕の壕と壕の間の長さは、一般的には10~20m以上(長野市松代大本営の象山壕は25mであるとされていますが、この赤山地下壕は5~10mと狭い上、計画的に掘られたとは考えにくい、そのつくりから見て、終戦がさし迫った1944(昭和19)年より後にけんせつされたのではないかと考えられています。
 アメリカ軍の空襲が激しくなった太平洋戦争の終わりの頃、この赤山地下壕が、館山海軍航空隊の防空壕として使われていたことは内部にある発電所跡や、終戦間際に、この壕の中で実際に館山海軍航空隊の事務を行ったという体験や、病院の施設があったなどの証言から、知ることができます。
 平成15年 館山市・館山市教育委員会

赤山地下壕跡。
豊津ホールの受付で200円を納めて住所氏名を記載。
そしたらヘルメットと懐中電灯をお借りして地下壕に入ることができます。

今ではストリートビューもできるの便利になったものです。

https://www.google.com/maps/@34.9817322,139.841558,3a,75y,248.85h,83.7t/data=!3m4!1e1!3m2!1s4cv31GKv7mIAAAQo8FbG5A!2e0

自力発電所跡
 この一角は、壁面がコンクリートで補強され、コンクリートの土台や、床面の鉄筋が残っています。発電所があったところで、昭和20年2月に、航空隊の正門前の変電所から移転して使用されていたということです。4気筒200馬力のディーゼルエンジンが2台、発電機が2台、変圧器が9個あったそうです。

このクボミは?その1
 変電所電気員の待機所です。右側の浅いクボミには2段式のベットがあったそうで、10人くらいが交代勤務していたとか。空襲で爆弾の振動があると、天井の土がサラサラと落ちてきたそうです。
 壕内には科(職種)ごとの居住区があったらしく、木の棚のベットがあったそうです。

このクボミは?その2
 この縦長のクボミには、電話番が腰掛けて勤務をしていたそうで、中段左右の突起にコードを巻いていたということです。左隣の窪みはトイレで、桶がおいてあったそうです。

この壕はどうのように使われたのだろう
 防衛庁防衛研究所に「館山航空基地次期戦備施設計画位置図」という図面があります。太平洋戦争末期につくられたこの図面をみると、赤山地下壕跡の位置には、「工作科格納庫」「応急治療所」「自力発電所」と記されています。天井が高い壕は、格納庫として使われたのかもしれません。

戦後の赤山地下壕跡
 終戦後は「忘れられた存在」になっていましたが、温度が年中一定していることから、昭和30年前後頃より、キノコ栽培に使われていました。国内の他の戦争遺跡にも、戦後しばらくキノコ栽培に使われた地下壕跡があります。この風呂やボイラー、コンクリートブロックなどは、そのときに設置されたものです。

このクボミは?その3
 この部屋はがんルームとよばれていたという証言があります。少尉クラスの士官たちの部屋だったようです。奥の四角く切った大きなクボミは御真影を安置した奉安殿で、桧の板張りだったそうです。空襲のときに航空隊から御真影を移したということで、少尉クラスの士官の役割でした。

とにかく地層が美しい。
自然の芸術としても、よりいっそうの見応えがある。 現実には戦跡であるが。

安全に見学でき、そして良く整備されていた空間。
戦跡として歴史伝聞物として、このインパクトは極めて貴重。

海軍の街館山の最初の歴史散策として、この地下壕はうってつけの場でした。


掩体壕

赤山地下壕からはすぐ隣に。

サイズは小ぶり。戦闘機用かと。 掩体壕のすぐ隣は畑。日常との同居。 内部が解放され、自由に中に入れる掩体壕は貴重な存在だったり。


第二海軍航空廠館山補給工場跡

海自館山基地の隣にのこる大きな建物。
現在は民間企業が使用している。


米軍上陸の地


昭和20年9月2日降伏文書調印。 翌9月3日午前9時20分、米陸軍第8軍第11軍団第112騎兵連隊戦闘団約3,500人(司令官カニンガム准将)が館山上陸。 この館山が米軍による本土初上陸の地なのだ。

米軍上陸の地
1945(昭和20)年9月2日、東京湾上の戦艦ミズーリの降伏文書調印式によって第二次大戦が終わった。翌3日、カニンガム准将の率いる米陸軍第8軍約3500名が館山海軍航空隊水上半滑走台から上陸した。東京湾の入口である軍都館山は、このとき本土で唯一、4日間の直接軍政が敷かれた。


館山海軍航空隊水上班滑走台跡

館山海軍航空隊水上班滑走台跡。
この場所にて水上機が運用されていた、と。
水上機用スロープ(スリップ)が残っている。

9月3日に館山に上陸した米軍司令官カニンガム准将は「米軍ニヨル館山湾地区ノ占領」指令を発出。外務省が抗議し4日後の9月7日に軍政解除。 これが日本本土唯一の直接軍政となっている。

米軍上陸の地であり館空水上班滑走台跡でもある界隈から、第二海軍航空廠館山補給工場跡を遠望。 降伏文書調印翌日の9月4日。 館山から日本の戦後が始まっていたのを知るのも感慨深い。

スリップ関連では、ほかに・・・


館山の沖ノ島

館山の沖ノ島。沖ノ島公園。
海自館山航空基地の先、なかなか面白いところにある島。 関東大震災で隆起して陸続きになったらしい。

こんな感じで陸続き。 夏場はリア充空間になりそうですねw

島の入り口脇にいきなりなんかありました。
なんかの建物の基礎ですね。
海軍関係かな? 島内には地下壕なども点在しているらしいですが時間の都合で散策割愛。 せっかくなので島の鎮守様を参拝する。

館山の沖ノ島宇賀明神

安房国司源親元が嘉保3年(1096年)勧請の古社。 宇賀は「なが」に通じ「白い蛇」とも。 館山沖ノ島の鎮守様。

ご神木はタブノキ。 島内一の巨木。

館山沖ノ島宇賀明神神社。 社頭から対岸を望む。海上自衛隊 館山航空基地方面。
島を巡るのはまたの機会にして次に。


安房神社

安房神社。
安房国一ノ宮・延喜式内明神大社・旧官幣大社。
社号標は東郷平八郎謹書。
私にとっては平成14年以来の参拝。
新緑が鮮やかな境内に心が踊りつつの参拝。

本社(上の宮) 天太玉命 天比理刀咩命(天太玉命の后)
摂社(下の宮) 天富命(天太玉命の御孫) 天忍日命(天太玉命の御弟)

天富命が神武天皇勅命によって阿波の忌部氏を率いて東国安房・上下総国に渡った事に始まる。

安房国開拓の祖神。 創建年代は神武天皇の頃まで遡る古社。
安房国開拓を進めた天富命は、祖神であり祖父である天太玉命(天太玉命は天照大神の側近)をこの地に祀ったことに始まる。

延喜式神明帳「安房坐社」名神大社。
千葉県内では「香取神宮」に次ぐ神階。

社頭には「日露戦役記念碑」

新緑が鮮やかな境内。
境内が気持ち良すぎて満足してしまい、なんか色々写真を撮るのを忘れてしまったような。

安房神社オリジナル御朱印帳。
黒をベースに御神紋と社号。シンプルなデザインは好みを分けるかも知れませんが、私は好きですね。格好良いと思います。 初穂料は1500円。御朱印代は別。

御神水。 安房神社後方に鎮座する、吾谷山の霊水。

洞窟遺跡とあったので、戦跡か?と早とちりするも、古代遺跡。
安房神社界隈での原始的な人々の営みの記録。 古社たるべき格がここにあった。

安房神社境内には幾つか横穴がある。
ただし、これが信仰的な穴なのか、戦跡的な壕なのかは不詳。

安房神社界隈には布良陣地群が展開されていたという。
周辺も興味深いが、それは宿題。


館山海軍砲術学校第三期兵科予備学生
戦没者慰霊碑

安房神社境内に。
館山海軍砲術学校 第三期兵科予備学生 戦没者慰霊碑
 ※ 館山海軍砲術学校(館砲)に関しては、後述。

昭和45年10月10日建立。
慰霊碑には館山海軍砲術学校の第三期兵科予備学生229名の戦没者の名が記載。

館山海軍砲術学校 第三期兵科予備学生 戦没者慰霊碑
碑文
過ぐる大戦のさ中 当地神戸村地先にあった館山海軍砲術学校へ入校し教育訓練を受けた第三期兵科予備学生は1440名に及び 彼等は全て全国官公私立の大学高専等より志願によって馳せ参じ 選抜されて入校した学徒である
昭和18年10月8日入校式が行われ海軍予備学生を拝命 直ちに日夜の猛訓練が開始された 翌昭和19年1月末基礎教程を終了 一部は他の術科学校へ転属したが大部は2月1日術科教程に入る 術科では陸戦、対空、化兵の各班に分科し それぞれ第一線指揮官としての徹底的専門教育を受けた
同年5月31日術科教程を修了 卒業式が行われ 即日海軍少尉に任官した 戦雲正に急を告げるの秋 太平洋全域から印度洋に亘る前線へ あるいは諸艦艇等へ赴任し 熾烈な戦列に身を投じた
既にこの年の4月緊急な要請で卒業を繰り上げられて先発して行った同期を含めて任官総数は 陸戦班385名 対空班772名 化兵班50名で 総員1207名である
しかして戦勢は日を追って凄絶となり 勇戦奮闘した同期戦友も相次いで倒れて行った あるいは北海に あるいは南冥の果てに ときに戦争と平和を想い ときに戦局の前途を憂えながら 祖国にその青春の総てをかけたのである かくして尊き英霊となった者は実に228名に及ぶのである
われらはこのことを永久に忘れることはできない ここに栄光有る我等同期生一同の冥福を祈念し 永遠の芳名を刻印して 由緒あるこの神社に一碑を建立するものである
 昭和45年10月10日
 館山海軍砲術学校 第三期兵科予備学生 慰霊碑建設委員長 高橋末吉 誌

同期戦没者二二九名に捧ぐ

参道のソメイヨシノ。
安房神社の染井吉野229本は、この慰霊碑建設の際に229名の戦没者に因んで植えられたものという。


海軍落下傘部隊慰霊碑

海軍落下傘部隊慰霊碑
内閣総理大臣田中角栄揮毫

館山は海軍落下傘部隊発祥の地でもある。

正面には、 翼をひろげた鷲と落下傘、そして地球と錨の彫刻。

海軍落下傘部隊慰霊碑
碑誌
太平洋戦争を告ぐる昭和十六年後期我が国最初の海軍落下傘部隊として誕生し、 十八才より四十五才までの精鋭なる将兵二千有余名により編成、任務の特質上、其の訓練は厳正なる軍規の基猛烈にして不撓不屈の落下傘部隊魂は茲に編成された。
第一特別陸戦隊は昭和十七年一月十一日・十二日 セレベス島メナドランゴワン飛行場に十字砲火を浴び戦闘降下を敢行 更に第三特別陸戦隊は、同年二月二十日・二十一日 チモール島クーパンに戦闘降下を敢行共に占領に成功
其の功績の顕著なる事に対し時の連合艦隊司令長官山本五十六大将より感状を授与せらる。 爾後大スンダ、小スンダ列島の島々を制圧、次期作戦準備の為、一旦内地に帰還し、戦争の末期再度灼熱の南洋サイパン、トラック、ナウルの諸島に作戦し、
特にサイパンの戦いは惨烈を極め善戦の甲斐もなく昭和十九年七月十六日全員玉砕す。 我等茲に往事を顧み戦友相謀り志を結集し今は亡き戦友の霊を慰め其の功績を永く讃えんものと当隊発祥の地、ここ舘山に慰霊碑を建立した。
 昭和四十八年十一月十日
 元海軍落下傘部隊隊員一同建立

昭和48年に元海軍落下傘部隊一同によって建てられた慰霊碑。
右に横須賀鎮守府 第一特別陸戦隊43名、
左に横須賀鎮守府 第三特別陸戦隊46名、の戦没者名が記されている。

横一特・横三特(海軍陸戦隊)として、その勇名を歴史に残している。
合掌。

空の神兵

 藍より蒼き 大空に大空に
 忽ち開く 百千の
 真白き薔薇の 花模様
 見よ落下傘 空に降り
 見よ落下傘 空を征く
 見よ落下傘 空を征く
心のなかで奉歌し慰霊する…


館山海軍砲術学校

館山海軍砲術学校跡。
安房神社からはすぐ北隣に展開されていました。

館山海軍砲術学校。
昭和16年(1941)に館山砲術学校(館砲)が新設。
館砲では陸戦隊の操練術や高角砲対空砲の操作術・化学戦術など。一方、従来の横須賀砲術学校(横砲)では、艦載兵装の操作術を担当。
昭和20年4月25日に横須賀砲術学校分校に格下げ。終戦直前の同年7月31日には閉鎖。これは米軍上陸地点想定地近くでの教育訓練は適切ではないため、という。


位置関係

国土地理院航空写真「USA-M583-14」米軍撮影1947年10月23日

「USA-M583-14」一部加工。画像はクリックで拡大可。

館山海軍砲術学校跡
 第二次世界大戦以前は海戦における主な攻撃力は大砲であると考えられ、明治時代以来、旧海軍の砲術教育は神奈川県横須賀で行われていました。
 昭和16(1941)年6月1日、陸上砲術の実地訓練を目的とした館山海軍砲術学校 (館砲)が新設されると、それまでの海軍砲術学校は横須賀海軍砲術学校(横砲)と名称をあらためました。
 「館砲」の特色は、士官候補であった大学出身の海軍予備学生が訓練を受けていたことです。陸戦、対空、化兵(3期以降)の3班にわかれ、陸戦班では、敵前上陸や対戦車戦闘などの訓練が、対空班では、高角砲などの射撃訓練が、化兵班では、毒ガス戦の訓練が行われていました。
 「館砲」で訓練を受けた学生は、海軍予備学生の1期から6期に及び、開校直後は軍医学生が海軍士官としての素養を学ぶ基礎教育の場でもありました。
 昭和19(1944)年10月に入隊した5期予備学生等の約4000名は5ヶ月間の基礎教育を受けたあと、それぞれが術科(各職種)学校に進み、館砲には655名が入校したとされています。
 訓練施設としては広大な平砂浦演習場、東砲台・西砲台の対空訓練砲台、犬石射撃場、飛行特技訓練プールなどがありました。
 昭和20(1945)年4月25日に、館砲は横砲の分校となり、終戦を目前にした同年7月31日には閉鎖されました。その理由はアメリカ軍の本土上陸か想定されていたなか、太平洋岸の平砂浦で教育訓練を行うことが適当ではなくなったためといわれています。  
 平成18年3月 館山市・館山市教育委員会

館山海軍砲術学校と訓練に向う予備学生隊
 真継不二夫氏撮影

 昭和18年10月、この館山海軍砲術学校へ入学した海軍第三期予備学生は1,440名であった。
 かれらは全て全国の官公私立の大学、高等専門学校より馳せ参じ、選抜されて入隊した学徒である。
 昭和18年10月 8日入校式が行われ海軍第三期兵科予備学生を拝命、直ちに日夜の猛訓練が開始された。
 翌昭和19年1月末基礎教程を修了、引続き術科教程に入り、陸戦、対空、化兵の各班に分科し、夫々第一戦指揮官としての専門教育を受けた。同三月末、あるいは五月末術科教程を修了。卒業式が行われ、即日海軍少尉に任官し、戦雲まさに急を告げる太平洋全域からインド洋に亘る前線に赴任し、激烈なる戦列に身を投じたのである。この隊列(写真)の中にも多数の戦没者がいる。
戦没者はフィリピン(比島)、硫黄島を第一として各地域の部隊および艦船(大和9、武蔵6、山城6、長門5、扶桑3、那智3、大鷹・大鳳・熊野・羽黒・葛城各1)における戦没者は次ぎの通りである。
グアム4名、テニアン5名、パラオ1名、
比島方面92名、インド洋方面6名、ビルマ4名、
ビアク2名、ボルネオ10名、セレベス2名、
ラボール3名、南漢島2名、マレー方面1名、
スマトラ1名、舟山島1名、東支那海3名、
モルッカ諸島1名、マリアナ群島1名、黄海3名、
内南洋2名、アンボン1名、ニューギニア1名、
ペリリュー島5名、サイパン方面11名、硫黄島18名、
東シナ海方面13名、台湾方面8名、
沖縄方面8名、南西諸島方面10名、千島2名、内地近辺8名
合計229名。この外基礎教程後他術科へ転出後戦死者若干名、法務死若干名。
 ここに館砲校全景を伝える希少な写真を展示し、「鬼の館砲」といわれた猛訓練を受け、勇敢敢闘の末倒れた万余といわれる将兵・同期生たちの護国の想念を偲び、深き感謝と鎮魂の想いを捧げる次第である。終
 平成年5月27日(1999年海軍記念日)
 館砲3期会有志(以下個人名略)

館山海軍砲術学校正門跡には往時を偲ぶ記念板がある。
「鬼の館砲」と称された海軍陸戦隊の教育機関。


館山海軍砲術学校
正門跡・戦車橋

正門跡の通りにかかる橋は「戦車橋」と言われている。戦車橋脇の側溝も往時のままのもの。 砲術学校ゆえに「戦車橋」。正門の道はさながら「戦車道」。


館山海軍砲術学校
平和祈念塔

館山海軍砲術学校平和祈念塔。
戦車橋からまっすぐ進んでいくと右手に砲身のようなものが見えてくる。 砲身のような塔。

館山海軍砲術学校跡

舘山海軍砲術学校の沿革
 舘山海軍砲術学校(「舘砲」)は大東亜戦争の開戦直前、風雲急を告げる秋に当たり、阿部孝壮初代校長(後に、第六特別根拠地隊司令官。戦後敗軍の将としての責めに任じ、グァムで慫慂として法務死)を載して、昭和十六年六月一日、当地(千葉県粗郡神戸村、現在は、舘山市佐野地区)に開設された。
  学校用地は、帝国海軍当局の現地調査による当地が最適との報告に基づき決定された。用地問題は安田義達開設委員(初代教頭。後年、横須賀第五特別陸戦隊指令としてブナで壮烈な戦死)の熱誠溢れる説得と、耕地及び山林原野の大半を失うという苦難を克服して、なお誠心誠意の協力を惜しまなかった出口常次村長、錦織寅吉助役を初めとする村民各位の尊い愛国の至情と献身的努力により解決され、急遽、建設の運びとなったものである。
  「舘砲」は、横須賀海軍砲術学校(「横砲」)の陸戦、対空等、陸上関係の砲術部門が分離独立する形で開設された術科学校である。訓練設備として広大な平砂浦演習場並びに東砲及び西砲台の対空訓練砲台を備えていた。後に、化学兵器に関する部門が加えられ、常時、一万数千人の将兵を擁する規模であった。
  戦局の悪化に伴い昭和二十年四月二十五日、「横砲」に併合されて同校の分校となり、終戦直前の昭和二十年七月三十一日、閉鎖、廃校となった。開校から廃校までの存続期間は、僅か四年間に過ぎなかったが、厖大な人員が教育訓練を受けたと推定される。しかし、記録喪失のため詳細は不明である。
 「舘砲」では研究部員が、陸戦、対空、化兵に関する専門技術・教育訓練に関する指導研究に当たった。その術科教育の対象は、兵科将校学生及び術科講習員の他、初級幹部の緊急訓練対策として、第一期兵科予備学生、第二期兵科予備学生、特別第三期兵科予備学生と第三期兵科予備学生、学徒動員の第四期兵科予備学生と第一期兵科予備学生、第五期兵科予備学生及び第二期兵科予備生徒並びに第一下士官候補訓練生及び第二下士官候補訓練生(師範学校卒)が挙げられる。
  更に優秀な下士官兵指導員の練成を目指して、高等科訓練生及び普通科練習生に対する教育訓練にも重点がおかれた。また、若年者の特別志願制度に基づく特年兵の教育訓練も行われ、その第一期及び第二期は、年少のまま実戦にも参加した。なお、台湾・朝鮮半島出身志願兵に対する教育も実施された。
  初期にはメナド落下傘降下で勇名を馳せた横須賀第一特別陸戦隊、中期にはソロモン群島方面で悪戦苦闘を続けていた横須賀第七特別陸戦隊、呉第六陸戦隊、佐世保第六特別陸戦隊、呉第七特別陸戦隊並びに佐世保第七特別陸戦隊、末期には、山岡S特攻部隊等々の部隊編成及び特別訓練も行われ発信基地ともなった。
 この間、前線の各地に向けて多数の防空隊が陸続として派遣されたが、その部隊編成及び特別訓練も行われ、その発進基地ともなった。その隊員の中には、国民兵役から徴集された多数の、年長の補充兵も含まれていた。
 「舘砲」は、開校直後、軍医科学生、薬剤科学生及び歯科医科の普通科学生の基礎教育の場としても利用されており、また、終戦間際の段階では、飛行科士官に対する陸戦指導法の演錬、艦船乗組の機関科・工作科系統の特務士官・準士官に対する防空指導法の演錬等、緊急の切替教育も行われた。
  このように、「舘砲」は、帝国海軍の各種陸上部隊、とりわけ、特別陸戦隊、基地警備隊、特別根拠地隊等の陸戦・対空専門技術に関する教育訓練の中核であったため、その影響する範囲は、広く、且つ、深く、その実戦即応を重視した教育内容は、誠に、多岐多彩なものがあった。
 「舘砲」の特色は帝国海軍の指揮官先頭の伝統による猛特訓を特徴とし、人は、「鬼の舘砲」と呼んだという。ここの教育訓練を受けた戦友は、陸戦、対空の実戦に臨んでは、遺憾なく指導力を発揮した。北は極寒不毛の孤島から南は、炎熱の島に至るまで、悪条件をものともせず、縦横無尽に活躍し、時として、激しい爆撃弾の下、寡兵よく大敵に屈せず、長期持久の戦いを闘い抜き、或は、力尽きて倒れ玉砕された将校各位も多い。その数は、一千数千柱にも及ぶと推定されている。この勇戦奮闘が、今日の日本繁栄の基礎を築いた原動力である。祖国の安泰を願い、同朋への愛に殉じる志こそ、国家の存立及び発展に不可欠なものである。
  祖国愛に殉じたこれら多数の戦士のご遺徳を偲び、切に、そのご冥福を祈りつつ、開校五十周年の記念日に、想い出尽きない舘山海軍砲術学校跡に、地元各位の絶大なるご協力を仰ぎつつ、ここに、多年念願の記念碑を建立し、永世に、太平を開かせ給えと、希うものである。
 平成三年六月一日
 舘山海軍砲術学校跡に記念碑を建立する会

雄魂
元連合艦隊兼横須賀鎮守府参謀 寺崎隆治謹書

平和祈念の塔
 平成3年6月吉日
 館山市長 庄司厚書

過ぎし戦に 玉と砕けし戦友の 英霊安かれと祈り
 永世に 太平を開かせたまえと ひたすら 希う

朽ちていく四一式山砲。
20センチ・ロケット弾(噴進弾)。
戦地より収集された遺品(銃剣)などが塔の周辺に展示してありました。

館山海軍砲術学校時代からの井戸という。

世界各地を示す標識


館山海軍砲術学校
炊事場跡(ボイラー室跡)

館山海軍砲術学校炊事場跡(ボイラー室跡)
赤煉瓦の壁だけが奇跡的に残っている空間。
何というか、存在感に圧倒されてしまった。


館山海軍砲術学校
飛行特技訓練プール跡
(落下傘部隊訓練プール跡)

炊事場跡から高台に移動。
その高台から見えるは、館山海軍砲術学校飛行特技訓練プール跡(落下傘部隊訓練プール跡)
この場所も奇跡的に残っていた。

Google航空写真より抜粋


館山海軍砲術学校
化学兵器実験施設跡

館砲の中心から隔離された場所に朽ちかけた史跡がある。
軍機(軍事機密)であったが、館砲では細菌などの生物兵器や毒ガスなどの化学兵器に関する教育や訓練が行われた海軍唯一の養成機関もあり、教育機関としては陸戦班、対空班、化兵班の三班制であった。

館砲化兵班が何らかの化学兵器実験施設として使用していた建物跡という。
いまは、何を語るでもなく畑の中に風化しつつある歴史遺産。


通りすがりに参拝。

洲崎神社

「洲崎神社」 安房国一宮
(ただし一宮は江戸期以降の主張、安房神社に対する二宮とも。洲崎神社に対する二宮は洲宮神社)
旧社格は県社。 延喜式内論社。
御祭神は天比理乃咩命(天太玉命の后神)

参道石段に圧倒。これは見事な神域。
御手洗山中腹に鎮座している。

神武天皇の御代、安房忌部一族の祖天富命が勅命により四国の忌部族を率いて房総半島を開拓。 忌部族の総祖神天太玉命の后神天比理乃咩命を祀ったことにはじまる古社。

延喜式内社神名帳では、式内大社・后神天比理刀咩命神社。(論社)

治承4年(1180)石橋山の合戦に敗れ房総半島に逃れてきた源頼朝は当社に参詣し源氏の再興を祈願。以後、武家の崇敬が篤い。 ちなみに。 文治3年(1187)に源頼朝が洲崎神社から天比理乃咩命を勧請したのが品川神社の創建由来ともなる。

東京湾海上鎮護神として。 洲崎神社から品川神社へと連なる歴史を辿るのも興味深いものではあり。 更には阿波国から房総へと渡ってきた忌部一族の足跡を辿るのも一興。

洲崎神社。浜鳥居へ。 洲崎神社の旧鎮座地は、この浜であった、と。 浜から現在の鎮座地を望めば、美しい神奈備山。

御神石

洲崎神社。御神石。
なんとも言えない格を帯びている御神石。 長さは2.5メートル。

実は洲崎神社に奉納された神石は二対ある。 ひとつは、この吽形の神石。
もう一つは三浦半島安房口神社の阿形の神石。

洲崎神社の吽形の御神石と対になる御神石。
もう一つの御神石は三浦半島に飛んでいったと伝承。 房総半島から東京湾を挟むように対坐する三浦半島の御神石。 これは忌部一族の海上支配の具現化であろうか。古代の信仰文化圏を夢想する。

こちらは三浦半島の安房口神社(2014年撮影)

三浦半島。安房口神社の阿形の御神石。
安房口神社は三浦半島最古の神社。 館山で三浦半島を感じる。海の目線で見れば隣。まさに安房口。 洲崎神社の文化は深いですね… 実に面白い。

洲崎神社の浜。対岸を眺めつつ洲崎神社を後にする。ここは興味深い信仰文化の宝庫。きっとまた来ることになりそうです。 時間は16時過ぎ。最後に戦跡を一カ所だけ寄り道してみる。


震洋滑走台

洲崎から海岸線沿いを進む。
波左間漁港。

ここの海に不思議な造形物がある。
震洋滑走台。

震洋は、いわゆる特攻兵器。爆薬をつんだモーターボート。
付近には震洋を格納した壕も点在しているという。

訪れた時が満潮だったようで、形は今ひとつ。雰囲気レベルで。

第一特攻戦隊第18突撃隊
波左間「震洋」特攻基地跡


館山駅前のヤシの木

館山駅前のヤシの木は館山砲術学校正面にあったものを戦後に移植したものだとか。 車のなかから撮影したので今ひとつな写りですが、記録として。

googleMapのストリートビューも参照に。

館山は、戦跡の宝庫であり、今回の掲載はそのほんの一部。見逃したところも多いので、いずれかに再訪せねばならない地であれど、今回はいったんこれにて〆。


平和観音と平和島(大森捕虜収容所跡)

大森捕虜収容所跡地に建立された平和観音

平和島は、昭和14年(1939年)1月31日に京浜第2区埋立地として免許取得。東京都が事業主体として埋め立てを開始。

しかし、埋め立ては第二次世界大戦により一時中止。

戦時中は、埋め立てが進んでいた一部(現在の平和島一丁目付近)にアメリカ合衆国などの連合国側の捕虜を収容する場所(東京捕虜収容所)が設けられた。そのまま戦後は、東條英機ら戦犯の一時収容所にもなっていた。

そのような経緯から、平和への祈りを込めて「平和島」と呼称されるようになり、昭和42年(1967年)7月18日に埋立人工島「平和島」が竣工。同年9月に東京都大田区に編入され10月に町名が「平和島」に確定する。

東京俘慮収容所(大森捕虜収容所)

東京俘虜収容所(東京捕虜収容所)
昭和16年(1942)9月25日開設。
当初は品川区東品川3丁目の京浜運河建設事務所の建物を流用して「品川俘虜収容所」として9月12日に開設。9月25日に東京俘虜収容所本所と改称。
昭和17年(1943)7月20日、現在の平和島に移転。当時の住所は大森区入新井町の東京第2埋立地。
終戦時収容人員606人(米437、英115、蘭28、他26)、収容中の死者41人。

戦後は、東條英機をはじめとするA級戦犯が、 巣鴨刑務所に移送されるまでの間この収容所に収容。
横浜BC級裁判では、初代本所長鈴木薫二大佐、 2代目本所長酒葉要大佐ともに死刑判決。(両者ともに巣鴨で獄死)

参考:POW研究会
ttp://www.powresearch.jp/jp/archive/camplist/index.html

位置関係

国土地理院航空写真「USA-M58-A-6-135」(1946年2月28日-米軍撮影)より。
埋め立ては陸地側の一部分のみで、そこに大森捕虜収容所が設けられていることがわかる。

その後、平和島は埋め立てが進み、昭和57年(1982)の「平和の森公園」の開園でもって、陸続きとなった。


平和観音

大森捕虜収容所 跡地に建立された「平和観音」
平和島劇場の前、ボートレース平和島の隣に鎮座している。
このあたりが、かつての大森捕虜収容所跡地。

平和観音由来記
 昭和三十五年七月十九日 建立 
  長沼孝三 作

人類最高の希いは「平和」であります。そして平和を祈り念ずる心が宇宙の慈悲をもとめます。地上永遠の平和を祈り続ける為に平和観音の建立を思いたったゆえんが此處にあります。
観音さまは人類の誠のねがいをきいて、いちばんよい方法でおすくい下さる佛さまであります。佛さまとは宇宙不変の理をあがめたお姿であり、その理をさとって大きな力を得た方の呼び名であります。
佛さまのなかで観音さまは災禍に苦しむ人々に宇宙の慈悲を示してすくいの手だてをとって下さる菩薩であります。
平和観音像が建立された平和島はさきの大戦中相手国の俘虜収容所があった處、戦後はわが国戦犯が苦難の日々を送った請わば「戦争と平和」の因縁の地であります。
大慈悲の御姿を建立して、地上変わることなき平和を念ずる一人一人の小さなまごころからの祈願をみのらせ給え。

平和観音の隣では、猫さんがお休みをされておりました。

ボートレース平和島
かつて、この界隈に大森捕虜収容所があった。


いわゆるA級戦犯と呼称された昭和受難者の方々は、大森捕虜収容所から巣鴨拘置所・巣鴨プリズンへ移送される。

東条英機邸跡

「日本の鉄道の父」井上勝像と井上勝墓

東京駅丸の内駅前広場北西端に井上勝像がある。

井上勝

天保14年8月1日(1843年8月25日) – 明治43年(1910年)8月2日
長州藩士。政治家。正二位勲一等子爵。
鉄道庁長官などを歴任し日本の鉄道発展に貢献。「日本の鉄道の父」と称される。
墓所は東海寺大山墓地。鉄道記念物指定。

井上勝像

1914年(大正3年)に、本山白雲(代表作は坂本龍馬像)の原型制作により東京駅丸の内側の駅前広場に銅像が設置。
しかし戦時中の金属供出に伴い撤去。
のち井上勝の没後50年を機に、1959年に朝倉文夫の制作により再建。

その後工事での一時撤去もありながら、1987年からは東京駅正面から皇居を向く形で立ち2007年には東京駅復元工事に際し一時撤去され、2017年12月7日の駅前広場リニューアルに伴い初代像の位置に近い駅前広場の北西端から駅舎中央を向く形で再設置された。

建立時の銅像身長は12尺5寸、台座の高さは24寸5寸。
1914年(大正3年)12月6日に銅像除幕式が執り行われた。

正二位勲一等 子爵 井上勝君像

君自明治初年専任創設鐵道之事拮据経營基礎始立盡心斯業抵老不渝四十三年夏力疾訪制歐洲歿子塗次可謂斃
而後巳矣茲同志胥謀鋳君像置諸東京車站以傳偉績於不朽云
大正3年11月建

大正3年11月  建立
昭和34年10月 再建
昭和38年4月  移転
平成29年12月 移設

井上勝像の後方は、一部が保存された「日本工業倶楽部会館」(大正/1920竣工)

井上勝像の先には、東京駅。


東京駅から品川駅に。
南側の東海道新幹線や山手線や東海道本線がちょうど分岐するあたりの場所に東海寺大山墓地がある。そこに井上勝墓がある。

井上勝墓

(表)
正二位勲一等 子爵 井上勝

子爵夫人 井上宇佐子
故陸軍工兵大尉 正五位勲五等 井上亥六

(裏) 
明治四十三年八月二日 薨

明治四十年一月五日 逝
明治三十九年五月二日 逝 

初代鉄道頭
井上 勝 1843(天宝4)年~1910(明治43)年
”鉄道の父”と称される井上勝は、萩藩士の三男として生れた。15才から長崎、江戸で学び、1863(文久3)年 井上馨、伊藤博文らとともにイギリスに密航し、鉄道と鉱山技術を学ぶ。日本の鉄道建設に最初から関わり、1871(明治4)年には初代鉄道頭となり、1872(明治5)年、新橋・横浜間の鉄道を完成させた。その後、鉄道局長、鉄道庁長官を歴任して、東海道線をはじめとする主要路線の建設に努めるなど、生涯を鉄道に捧げた。外国から導入した鉄道を、日本の鉄道として発展させた功績は多大である。生前、自らの墓地は東海道本線と山手線(現在は新幹線も並走)に挟まれたこの地を選んだのは、死後も鉄道を見守っていたいという意向からであったと伝えられている。

鉄道記念物 井上 勝 墓
昭和39年10月14日指定
 建植年月日 平成10年10月14日
  東日本旅客鉄道株式会社

井上家祖先之墓

井上勝墓のすぐ脇を、東海道新幹線や山手線・横須賀線・京浜東北線・東海道本線、そしてリニア中央新幹線などが通過する鉄道大動脈となっている。

ちなみに余談ですが、井上勝墓の向かいには、島倉千代子墓がある。未撮影ですが。
そのほか、東海寺大山墓地は、沢庵和尚・賀茂真淵・渋川春海・西村勝三の墓がある。


新幹線の父

地下鉄の父

汎太平洋の鐘と南洋群島平和慰霊像(源覚寺)

東京都文京区小石川
源覚寺

「こんにゃくえんま」(こんにゃく閻魔・蒟蒻閻魔・身代わり閻魔)で知られる小石川の「源覚寺」に、サイパンゆかりの釣鐘があると聞き、足を運んでみました。
後楽園駅・春日駅のすぐ近く。

汎太平洋の鐘
THE PAN PACIFIC TEMPLE BELL

汎太平洋の鐘
THE PAN PACIFIC TEMPLE BELL

1690年 元禄3年 粉河丹後守の鋳造により当山に奉納された。
1937年 昭和12年 サイパン島南洋寺に転出、南太平洋にひびきわたる。
1944年 昭和19年 サイパン島軍民玉砕して、以後消息不明となる。
1965年 昭和40年 米国テキサス州オデッサ市において発見される。
          発見者 ミツエ・ヘスター
1974年 昭和49年 カリフォルニア州オークランド市居住 D.V.クレヤー氏によって、サンフランシスコさくら祭りに展示され、その後当山に寄贈される。

元禄3年(1690)に鋳造された釣り鐘が、昭和12年(1937)にサイパン島の中心都市(「南洋の東京」とも呼称)であったガラパン郊外に建立された「南洋寺」(浄土宗 多寶山 南洋寺)に転出。

南洋寺は、現在の「フィエスタリゾート&スパホテル」あたりに鎮座しており、リゾートホテル南東に、往時の「南洋寺門柱」が残っているという。

https://goo.gl/maps/LU7HSQePQuP1Gdvy7

昭和19年6月15日から7月9日にかけてマリアナ諸島サイパン島で激戦が繰り広げられ、海上ではマリアナ沖海戦(あ号作戦)も発生。
サイパン島での日本軍の戦死者は約3万人、民間人の死者は約1万人。米軍の死者は3441人という。
ガラパンの街も荒廃に帰し日本軍民は玉砕。

サイパンの激戦を物語る銃痕跡


南洋群島物故者慰霊像

第二次世界大戦において、サイパンをはじめとする南洋群島で犠牲になった人たちを追悼する菩薩像

合掌

南洋群島物故者慰霊像建立の趣旨
 かつて南洋群島は、日本の委任統治領として南洋庁施政の下に三十有七年、その治績は顕著であった。然るに第二次世界大戦に敗れ、米国太平洋信託統治領(ミクロネシア地域)となった。これ等の島々で、明治、大正、昭和の三代に渉って南方開拓に努め、志半ばに物故された人々並に今次太平洋戦争に祖国に身命を捧げられた将兵及び在留邦人の冥福を祈念して、先年南洋群島関係者に依ってサイパン島に物故者慰霊像を建立したが、遠隔の地であるので参拝の叶わぬ人々のために、南洋群島とゆかりの深い此の源覚寺境内に遥拝所としてこの慰霊像を建立したものである。
  昭和50年7月18日
  財団法人 南洋群島協会

慰霊像の脚下には、南洋諸島を思い起こさせる貝殻…

歌碑
 サイパンの夜のしじまの洞窟に
  ねむりしあらん友をしぞ思ふ

汎太平洋の鐘 と 南洋群島物故者慰霊像 


鎮魂 南洋諸島海没者 慰霊碑

南洋諸島海没者
亜米利加丸 494名
千代丸 97名
白山丸 277名
赤城丸 512名
泰南丸 1名
総洋丸 7名
龍田川丸 2名
ぱたびあ丸 18名
ぶらじる丸 1名
青森丸 4名
門司丸 5名
神島丸 54名
第三大栄丸 43名
美山丸 27名
ジョクジャ丸 7名
広順丸 15名
三池丸 7名
靖国丸 6名

総計 1,580名

平成20年8月吉日
南洋群島在島者有志


第十四期飛行予備学生記念碑

第十四期飛行予備学生記念碑

雲ガハシル
 学徒ガ征ク
  空ニ
同期ノ華
 参千六百

 昭和63年戌辰8月15日建立
  廿四世徳誉叢願 廿五世真誉代


源覚寺

浄土宗 常光山 源覚寺
通称「こんにゃくえんま」
寛永元年(1624)に創建。
小石川七福神のひとつでもあり毘沙門天を祀る。

こんにゃくえんま像は鎌倉時代の作と推定。文京区内で最も古い仏像に属しており文京区市指定有形文化財。


都内には、サイパン観音もあります。

いつの日か、サイパンへ慰霊に訪れることは出来るだろうか・・・

陸軍航空士官学校高萩飛行場跡(陸軍高萩飛行場跡)

埼玉県坂戸市及び日高市
 東武越生線・一本松駅及び西大家駅
 JR川越線・武蔵高萩駅

陸軍高萩飛行場
(陸軍航空士官学校高萩分教場)

高萩飛行場は、昭和13年12月、陸軍航空士官学校高萩分教場として使用開始された。

陸軍航空士官学校
昭和12年(1937)に陸軍所沢飛行場内に陸軍士官学校の分校として「陸軍士官学校分校」が開校。(現在の入間基地・入間飛行場)
昭和13年5月に「陸軍士官学校分校」が豊岡町(現在の入間市)に移転。
昭和13年12月に、「陸軍航空士官学校」として独立し、昭和16年には行幸された 昭和天皇より「修武台」の名称を賜った。

陸軍航空士官学校の本校は豊岡(入間)、その他に飛行練習をするために狭山・高萩・坂戸・館林の陸軍飛行場が練習地として使用された。

今回の散策は、そのうちの陸軍航空士官学校高萩飛行場にあたる。
高萩飛行場の規模は、東西1700メートル、南北1300メートル、面積は約220ヘクタール。
飛行場設備の主な建物としては、格納庫四庫(内二庫は鉄骨)、本部舎(二階建)、兵舎二棟(二階建)、機材庫、車庫、庶務事務所、講堂、将校下士官用控室、炊事用建物などであった。
陸軍航空士官学校高萩分教場の飛行練習は、主に通称赤トンボと呼ばれていた九五式練習機などを用いて行われた。
昭和20年2月まで、航空士官学校生徒の飛行練習場として活用され、その後、昭和20年4月より中島 キ84 四式戦闘機「疾風」を配備した飛行第一戦隊が展開。首都防衛の一翼を8月の終戦を迎えた。

位置関係

国土地理院:USA-M29-32
1947年02月08日-米軍撮影の航空写真を加工
国土地理院:USA-M29-32
1947年02月08日-米軍撮影の航空写真を加工

飛行第一戦隊納翼の地
(飛行第一戦隊納翼の碑)

東武越生線一本松駅の北に鎮座している「大栄寺」
昭和20年4月から8月の終戦まで、飛行第一戦隊が当寺に兵舎を設けた所縁で、境内に「飛行第一戦隊納翼の碑」が建立されている。

飛行第一戦隊納翼の地
 本隊は、日本陸軍最初の戦闘機隊として、大正・昭和にわたり、幾度か編成を繰返し、古い伝統と輝かしい戦績に飾られている、誇り高い部隊である。
 満州事変・日華事変・及びノモンハン事変では、多くの戦果を収め、昭和16年大東亜戦争の際は、マレー半島に進出し、東南アジア・ビルマ方面の制空に任じ、ガダルカナル島撤収に従事した。
 昭和19年、主力部隊はフィリピン作戦に飛翔し、熟練の飛行士は、わが国の未来を信じて、特攻隊として出撃し、また地上将兵は、異国の山谷で精魂盡きて散華した。
 昭和20年4月、残留部隊と再編し、入間高萩飛行場に於いて四式戦闘機(可動20機)を配備し、帝都防空の任務を遂行した。
 戦闘本部を旧大家村に置き、清水山大栄寺も兵舎に当てられたが、昭和20年8月、終戦を迎えた。
未だ天空をさまよい、平和の礎となった戦友の功績をしのび、御霊を癒し、恒久平和への願いをこめ、納翼の碑を建立する。
 平成12年8月15日
  飛行第一戦隊戦友会

戦隊長
 四至本広之烝 大阪
整備隊長
 壁谷利之 神奈川
(略)
後援 清水寺大栄寺
 高萩の 空に舞いたる 銀翼に
  想いもあらたに 平和噛みしむ
   大栄寺 小住 志村巧人
(略) 

中島 キ84 四式戦闘機「疾風」

元高萩飛行場跡地発見
機体(キの84)炎上融解片

清水山大榮寺

大栄寺から、一本松駅の隣、西大家駅に向けて歩く。
大谷小学校の近くに鎮座している「西光寺」も、飛行第一戦隊が兵舎を展開した場所であるという。

西光寺

JAいるま野サービス北部店のある辺りが、かつての陸軍飛行第一戦隊の本部があった場所という。

そして、西大家駅近くの「国渭地祇神社(森戸神社)」には陸軍第一戦隊の炊事場が設けられたという。

国渭地祇神社(森戸神社)を訪れたのは実は2回目。15年ほど前に「武蔵国延喜式内社」の論社を巡っていたとき(当時のレポート)は、この神社が戦争に関係していたと知る由もなく。
陸軍第一戦隊が炊事場で使用していたと知ったのは、今回の散策のための調査で、でした。

国渭地祇神社(森戸神社)の社号標は大正2年建立。往時を見てきた社号標ですね。

東武越生線西大家駅
昭和11年(1936)開業。

西大家駅から日高川島線を南西に30分ほど歩く。
「醤遊王国」という施設の近くに戦没者慰霊碑が建立されていた。

大東亜戦争戦没者慰霊碑

千手観世音のお堂の隣にある「戦没者之碑」

大東亜戦争戦歿者之碑
元陸軍中将 遠藤三郎書

陸軍第一飛行戦隊の戦死者8名を祀る慰霊碑。1953年建立。
遠藤三郎は、第3飛行団長、陸軍航空士官学校幹事などを経て、昭和17年12月に陸軍中将となり陸軍士官学校第4代校長に就任。その後は陸軍航空本部総務部長、軍需省航空兵器総局長官などを歴任。昭和22年から約1年、戦犯として巣鴨プリズンに収監され、その後は陸軍航空士官学校跡地に入植し農業に従事。その頃に遺族の要望で揮毫に協力したと思われる。

高萩飛行場方面に。

陸軍高萩飛行場跡地(北西端)

「中東京変電所」のあたりが。高萩飛行場の北西端。そこから西端を歩く。

高萩飛行場の中心部へ。

高萩飛行場跡の碑

「旭ヶ丘神社」「旭ヶ丘公会堂」の敷地内に、飛行場を物語る石碑が「建立されていた。

高萩飛行場跡碑
開拓碑
自治会組織法人化と経緯碑

高畑飛行場跡
 日高市長 大沢幸夫書

高萩飛行場は、昭和十三年十二月、陸軍航空士官学校(現在の入間市)の高萩分教場として使用開始された。当時この地は、北海道などからの入植者によって山林が農地として開拓されていたが、日華事変の拡大に伴い軍用地として接収された。
飛行場の規模は、東西一七〇〇メートル、南北一三〇〇メートル、面積は約二二〇ヘクタールで、飛行場設備の主な建物としては、格納庫四庫(内二庫は鉄骨)、本部舎(二階建)、兵舎二棟(二階建)、機材庫、車庫、庶務事務所、講堂、将校下士官用控室、炊事用建物などであった。飛行練習は、主に通称赤トンボと呼ばれていた九五式練習機などを用いて行われた。昭和二十年二月まで、航空士官学校生徒の飛行練習場として、大きな役割を果たした。飛行場としては、同年八月の終戦まで使用された。
 所在地 日高市大字旭ヶ丘全域及び一部森戸新田を含む 

昭和四十四年旭ヶ丘開拓農業協同組合の解散にともない、精算開始。
総会により現状の道路C号線五本と開拓事務所敷地等を共有とすることに決定する。
その後推移を経たが、旭ヶ丘地主会を結成して今日に至る。
ここに開拓地以前の高萩飛行場の碑を建て後世の遺文とするものである。
 平成二十年十月吉日 旭ヶ丘地主会建立

開拓碑
碑文
 昭和二十年終戦を迎えるや、首都衛星基地であった旧陸軍高萩飛行場跡へ十二月一日国の緊急開拓政策のもとに県下でもいち早く高萩開拓団を組織し、鍬入れを行った。
 当地は旧高萩村及び旧高麗川村の一部に亙り、総面積は出耕作地も含め六十余万坪に及び主として復員軍人、引揚者、近隣の二三男の百二十四名で構成し、字を旭ヶ丘と命名した。
 当時世相は混沌とし、農業経験の未知に加えて食糧物資は極度に不足し、更に打続く各種災害等に依り、経営基盤の弱い入植者の生活は困窮を極めた。
然し同士一同克くその苦難に耐え、昭和二十二年より国の助成による住宅の建設も始り、二十三年秋には待望の点灯工事を了え、同年農協法の施行により開拓団を旭ヶ丘開拓農協に改組し、苦難の中にも一歩一歩建設への段階を進め、二十七年国の開拓完成検査に全員合格した。
 更に心の據り処として部落中央に旭ヶ丘神社を建立し、幹線道路も逐次整備を進め、四十年代に入り蔬菜を中心とする営農も漸くその基礎を固めることが出来た。
 昭和四十四年開拓農協を解散し各自一本立ちの農家として再出発出来たのも、一重に各行政当局、各種諸団体、諸先輩の尽力指導の賜であることは勿論、入植者一同の団結と努力の成果であろう。
 茲に当地の足跡を後世に伝えると共に旭ヶ丘の将来の繁栄を希念しこの碑を建てる 
 昭和五十三年十二月一日

飛行場跡地のあった旭ヶ丘神社は、かつての高萩飛行場のほぼ中心部。
ここから東に歩いていくと、格納庫などがあったエリアに到達できる。

陸軍高萩飛行場跡地(東端)

ファミリーマートのあるあたりに、当時は格納庫があった。

ゴルフ練習場のあたりにも格納庫があった。

高萩飛行場の東端。

高萩飛行場跡(高萩北公民館)

高萩北公民館の敷地内にも跡地を記す看板があった。
内容はほぼ、旭ヶ丘神社境内にあった碑文と同じ。所在地の範囲が若干違うのは新旧での認識に誤差があった、のかもしれない。

高萩飛行場跡
 所在地 日高市大字旭ヶ丘全域 

 高萩飛行場は、昭和十三年十二月、陸軍航空士官学校(現在の入間市)の高萩分教場として使用開始された。
 当時この地は、北海道などからの入植者によって山林が農地として開拓されていたが、日華事変の拡大に伴い軍用地として接収された。
 飛行場の規模は、東西一七〇〇メートル、南北一三〇〇メートル、面積は約二二〇ヘクタールで、飛行場設備の主な建物としては、格納庫四庫(内二庫は鉄骨)、本部舎(二階建)、兵舎二棟(二階建)、機材庫、車庫、庶務事務所、講堂、将校下士官用控室、炊事用建物などであった。
 飛行練習は、主に通称赤トンボと呼ばれていた九五式練習機などを用いて行われた。
 昭和二十年二月まで、航空士官学校生徒の飛行練習場として、大きな役割を果たした。飛行場としては、同年八月の終戦まで使用された。
 平成八年一月 
 日高市教育委員会

陸軍高萩飛行場跡地(南東端)

「のりたま」の看板が目立つ。丸美屋食品工業(株) 埼玉工場のある場所が高萩飛行場の南東端。

この日の散策は、一本松駅から武蔵高萩駅までを歩くこと約15キロ、約3時間の散策でした。


付記

武蔵高萩駅

以前は、開業以来の瓦葺の地上駅舎が使われており貴賓室もあった。
貴賓室や車寄せは陸軍航空士官学校卒業式に臨席した昭和天皇が利用したが、2005年(平成17年)の改築に伴い旧駅舎は取り壊された。
新駅舎にも緑色の瓦を使用したデザインが踏襲されているほか、駅舎内部に旧駅舎の瓦と車寄せの柱を使って作られた展示コーナーが設けられた。

駅前通りは、陸軍航空士官学校に赴く昭和天皇の御車が走った御幸通りということになる。

昭和天皇行幸記念碑

旧豊岡町の陸軍航空士官学校卒業式に御臨席されたのを記念する石碑。
昭和16年3月28日、昭和17年3月27日、昭和19年3月20日の3回、昭和天皇が行幸されている。
北には、陸軍航空士官学校高萩飛行場(陸軍高萩飛行場)があったが、南には旧豊岡町の陸軍航空士官学校があった。すなわち、現在の入間基地。当時、皇室としては、武蔵高萩駅が、南の陸軍航空士官学校の最寄駅でもあった。


関連

彩帆観音(サイパン観音)

東京都北区。
王子駅より荒川の方角に15分ほど歩く。
「西福寺」という寺院に、サイパンゆかりの観音様が建立されているというので足を運んでみた次第。

彩帆観音(サイパン観音)

彩帆観世音菩薩(サイパン観世音菩薩)

昭和48年建立。
西福寺住職が、サイパンにて日本軍が玉砕した洞窟から血に染まった土砂や遺骨を収集して、観音塔に遺骨を埋葬し、聖観音像を安置し、彩帆観音塔として建立。

サイパン玉砕慰霊の観音様
昭和19年6月15日から7月9日にかけてマリアナ諸島サイパン島で激戦が繰り広げられ、海上ではマリアナ沖海戦(あ号作戦)も発生。
サイパン島での日本軍の戦死者は約3万人、民間人の死者は約1万人。米軍の死者は3441人という。

合掌

彩帆観音塔建立の賦
私は一昨年の十二月下旬、戦争を知らない学徒代表ら拾名を伴い、第二次世界大戦で数多くの戦死者を出した南太平洋上に浮かぶミクロネシア諸島激戦の跡を歴訪した。特に日本人全員玉砕の悲しい思い出を残したサイパン島においては、怨恨親平等の仏教精神に則り、サイパン政庁長官と互にメッセージを交換して親善友好を深めると共に、自ら導師となって慰霊祭を執行し、国境を超えて現地人に多大な感銘を与えたが、その際旧日本軍参謀本部跡の洞窟内から血に染まった土砂や遺骨を収集しt帰国した。今回機縁熟するところとなり、塔内に遺骨を埋葬して聖観音像を安置し、彩帆観音塔と銘してこれを建立したわが国唯一のものである。
願わくは亡き英霊が現世に廻向して観音菩薩の慈悲を仰ぎ、世界平和国家隆盛萬民豊楽のために、無限のご加護あらんことを祈念して建立の賦とする。

 謹んで唱へ奉る
  南無彩帆観世音菩薩

 昭和48年9月
  当山主 小松原賢誉 
          合掌

彩帆観音

英霊菩提
世界平和

鎮護国家
現世安楽


西福寺

東京都北区に鎮座する真言宗豊山派の寺院。
山号は三縁山
院号は無量寿院

江戸六阿弥陀霊場1番札所
豊島八十八ヶ所霊場67番札所
荒川辺八十八ヶ所霊場20番・33番札所


場所

ちなみに、近くの「豊島公園」は明治大正期に陸軍によって作られた「豊島ドッグ」と呼ばれた掘割の跡。現在は埋め立てられており、往時の雰囲気は、細長い公園にその姿を感じさせるのみ。

これはまた別の話題ですね。