平和観音は総持寺に鎮座、記念碑は田無駅前に建立。
田無(西東京市)は、「中島航空金属田無製造所」があり、そして「中島飛行機武蔵工場」にも近く、多摩地区でも特に空襲被害が大きい地区であった。
戦災者慰霊塔
昭和二十年四月十二日祈念
昭和三十二年四月十二日建立
戦災者慰霊塔建設会
平和観音
太平洋戦争末期の1945年4月12日、米軍機B29の爆撃により田無駅前において五十数名の罪なき人々が一瞬にして爆死し、その他多数の人々が被災者となった。更にこの年の8月15日の終戦までに田無全域において百数十の尊い命が爆撃の犠牲となった。
1957年4月12日、被災地居住の歯科医海老沢太一氏が中心となり被災者遺族及び篤志家により金物店主下田武主氏がその所有地を無償提供され駅前の爆心地に観音像の戦災者慰霊塔が建立された。爾来、霊を同所で慰めてきたが、アスタビル建設のため、1992年移転せざるを得なくなり、総持寺のご好意によりこの地を安住の地と定める事となり移住した。
田無駅前被災の中心地には「田無平和の日」条例制定記念として記念碑を設け、この慰霊塔はこの地で平和のシンボルとして子孫が平和を享受出来るよう祈願する。
1999年4月12日
田無山 総持寺
別名は、田無不動尊
真言宗智山派の寺院
田無戦災記念碑
平和観音はもともと田無駅前に建立されていた。
この田無駅前は被災中心地であったという。
田無戦災記念碑
太平洋戦争末期の昭和20年4月12日、B29爆撃機の空襲により市内各所で130余名という多数の犠牲者をだしました。駅前周辺だけで死者が50余名 破壊家屋は50軒に達したといわれております。
その後、被災者遺族及び篤志家により戦災者慰霊のため、この地に観音像の戦災者慰霊塔が建立されました。
以来、その霊を多くの方々が慰めてきましたが田無駅北口再開発事業のため、その慰霊塔は田無山総持寺の一角に移りました。
よって 戦争による田無の被災中心がこの地であることを末永く伝え、恒久の平和を願いこの碑を設けるものです。
平成八年(1996)三月
田無市