「慰霊碑・顕彰碑・記念碑」カテゴリーアーカイブ

立川駐屯地の戦跡散策(立川防災航空祭)

令和元年11月9日

立川駐屯地の一般公開に合わせて見学をしてきました。
旧軍や戦跡に関することを中心に記載を。

立川の戦跡としては、以下も参照に。


史料館の中庭にいくつかの記念碑が集められている。まずはそこから。

八紘一宇


八紘一宇
陸軍中将 山下奉文 謹書
昭和15年建立


紀元二千六百年記念
陸軍大佐 川崎正寴 謹書

八紘一宇 (立川駐屯地 史料館 より)

※ 昭和15年に、紀元2600年を記念して陸軍航空補給廠本部前に建立されました。
「陸軍航空補給廠」は、昭和9年3月所沢より立川に移転しました。当時立川や近在の人々からは「航空支廠」と呼ばれており、まさに日本陸軍航空補給の総元締でありました。」

※ 長年にわたりアジアが欧米列強の植民地と化している実情を憂い、アジアおよび世界が一つの家族のように一つの傘のもと、いつまでも平和で共に栄えるようにとの願いをこめて、昭和15年に記念して建立されました。そして、八紘一宇の願いどうり、我国によって大東亜戦争がはじまり、数多くのアジアの国々が植民地から開放され、その勢いは、アフリカなど全世界へ広がりました。

※ 字は、陸軍中将 山下 奉文が書いた字です。

行幸紀念

行幸紀念
周次郎 謹書

維時昭和八年五月四日  聖駕此地へ幸シ給ヒ親シク陸軍航空ノ威容ヲ臠セラレ當所ノ研究兵器亦  天覧ノ光栄二浴ス乃テ碑ヲ以テ之ヲ不朽二傳フ

周次郎とは、伊藤周次郎陸軍少将のこと。陸軍航空本部技術部長(1932~1935)、昇格後の陸軍航空技術研究所所長(1935~1936)を努めている。
天覧のあった、昭和8年(1933)に、伊藤周次郎が部長を努めていた。

飛行第五戦隊記念碑

飛行第五戦隊之碑
開雲 高木秀明謹書


飛行第五戦隊の母隊である航空第五大隊は 大正十年各務原で創設 翌年立川に移駐し 同十四年飛行第五連隊となった
昭和十三年夏飛行第五連隊の戦闘中隊は改編して飛行第五戦隊となり 千葉県柏に移駐した
昭和十六年大東亜戦争の勃発により戦隊は首都防空に任じた 次いで昭和十八年夏南方戦線に進出してジャワ、チモール、ハルマヘタ、比島方面で作戦任務を遂行した
戦局の推移に伴い昭和十九年秋小牧に転進し 同二十年終戦まで中京地区の要塞防空に任じた この間戦隊は武勲を重ねて感状を授与され陸軍戦闘戦隊の華と謳われた
茲に戦隊の歴史を刻し創隊以来国家に殉じた幾多の戦友病没隊員の遺徳を偲びこの碑を建立する
 昭和五十八年五月二十九日
 飛行第五戦隊生存者有志一同

行啓記念碑

昭和10年11月19日 皇太子殿下の行啓

皇太子殿下行啓記念碑

昭和16年10月28日

史料館東庭園

移駐当時の隊員が造成。飛んでいった飛行機が無事に帰ってくるようにと、ブーメランの形を模している。

立川駐屯地竣工記念植樹碑

昭和58年5月29日

ちょっと移動しまして「本館」前に。

立川黒松

立川黒松の由来
 立川の発展は 飛行場とともにあり 立川は歴史の中から また立川を語る上でも飛行場を忘れることが出来ない
 過ぎた日の飛行場を懐ひ 飛行場がもつ歴史的背景をおもいおこすときいつも立川飛行場を見守っているのが 此の黒松であり現在もそのさまはみごとである
 当駐屯地は 大正10年陸軍が飛行場の建設を開始し 翌年飛行場の開港とともに陸軍飛行場第5大隊が創隊して 兵舎の間には桜や梅など様々な植木が植樹された
 その中でも ひときわ立派で枝振りの良い此の黒松は 本部隊舎前の植え込みに植樹されたもので 昭和56年現在の立川駐屯地が建設された際に現在地に移植された

立川駐屯地史料館

陸軍飛行第五聯隊配置図

ステンドグラス
陸軍飛行第五大隊将校集会所の2階窓に取り付けられていたもの。
大正11年製

灯籠
立川駐屯地東地区 旧軍通用門門柱

国連旗・日章旗・星条旗
米合衆国極東空軍立川基地全面返還式当日に降納された国連旗・日章旗・星条旗 昭和52年11月30日

オルガン
陸軍飛行第五戦隊の将校集会所にあった

昭和初期の蓄音機

杉山元 元帥の書
板垣征四郎 大将の書

二式射撃照準器甲一号
皇紀2602年(昭和17年)正式採用

三菱式双発型輸送機ニッポン号羅針盤
大毎東日新聞社が帝国海軍九六式陸上攻撃機を改造し世界一周を行った機体の羅針盤

そのほか展示など

野外展示

立川防災航空祭
駐屯地の様子など

飛行展示

史料館に籠もっていたので、飛行展示はあまり見れませんでした・・・

スタートダッシュが遅かったので、大型ヘリ搭乗整理券は貰えず・・・でした。そのあたりはまた次回にでも。

「陸軍登戸研究所」跡地散策(明治大学生田キャンパス)

令和元年9月散策

神奈川県川崎市多摩区生田の丘の上に。
現在の明治大学生田キャンパスはかつて大日本帝国陸軍の研究所であった。


登戸研究所(第九陸軍技術研究所)

昭和14年(1939)、陸軍中野学校を創設し「謀略の岩畔」と異名を残す陸軍省軍務局軍事課長・岩畔豪雄大佐によって、秘密戦研究部門として、通称「登戸研究所」が陸軍科学研究所の下に設立された。
前身は、大正8年(1919)に陸軍火薬研究所が改編して発足した「陸軍科学研究所登戸出張所」であった。

昭和19年(1944)の「陸軍登戸研究所」組織
陸軍第9研究所(登戸研究所)
 所長 篠田鐐 中将 (工学博士)
第一科 科長 草場秀喜 少将
 第一班 風船爆弾・宣伝用自動車
 第二班 特殊無線機・ラジオゾンデ
 第三班 怪力電波・殺人光線
 第四班 人工雷
第二科 科長 山田桜 大佐(工学博士)
 第一班 科学的秘密通信法・防諜器材・謀略兵器
 第二班 毒物合成・え号剤
 第三班 毒物謀略兵器・耐水耐風マッチ
 第四班 対動物謀略兵器
 第五班 特務機関用カメラ・超縮写法・複写装置
 第六班 対植物謀略兵器
 第七班 対動物謀略兵器
第三科 科長 山本憲蔵 大佐
 北方班 用紙製造
 中央班 分析・鑑識・印刷インキ
 南方班 整版・印刷
第四科 科長 畑尾正央 大佐
 第一科・第二科研究品の製造、補給、指導


明治大学・生田キャンパス内を散策してみましょう。

登戸研究所跡碑

明治大学生田キャンパスの「弥心神社」境内に往時を物語る石碑が建立されていた。

登戸研究所跡

すぎし日は この丘に立ち めぐり逢う
 昭和63年10月建之
 旧陸軍登戸研究所 有志


弥心神社(現・生田神社)

小田急線生田駅から明治大学生田キャンパスに赴く通学路、坂道を登りきった先に鎮座している。
今は学生の通学路、当時は研究員の通勤路であった。(小田急線生田駅を利用する場合は、神社のある裏門を通る。南武線登戸駅を利用する場合は、ここではなく正門を通る。)

弥心神社は昭和18年建立。陸軍技術有功賞を受賞したときの金一封で、後述する「動物慰霊碑」と同時期に建立。
登戸研究所の前身であった新宿戸山の陸軍科学研究所から分祀した「発明の神・八意思兼神」を祀り、同時に研究所殉職者を慰霊のために祀ったという。

弥心神社(現 生田神社)
 現在は生田神社といいますが、もとは登戸研究所が1943(昭和18)年に建立した神社で、研究(知恵)の神様である「八意思兼神」を祀る「弥心神社」と呼ばれていました。
 境内向かって右手、1988(昭和63)年に元所員有志により建てられた「登戸研究所跡碑」裏面には「すぎし日は この丘にたち めぐり逢う」という句が刻まれています。これには、一度胸の奥にしまい込んだ研究所時代の記憶を、戦後数十年を経て再びこの丘に立ち、ようやく話し合うことが許された、という万感の思いが込められています。


位置関係

ファイル:USA-M1121-A-20
1948年07月26日に米軍が撮影した航空写真(国土地理院より)

抜粋の上、拡大

上の赤丸が「弥心神社」
右の赤丸が「動物慰霊碑」
下の赤丸が「登戸研究所資料館」

道の雰囲気が、さほどに変わっていないこともわかる。


消火栓

生田キャンパス内に2つ残されている。陸軍の五芒星を残す消火栓。

1つ目は「学生会館」の前に。地中に半分埋まっていた。

もうひとつは「図書館」の前に。

消火栓
 登戸研究所時代に設置された消火栓です。明治大学生田キャンパスとなった今も当時と同じ場所に残る貴重なものです。すでに消火栓として機能しませんが、旧陸軍の☆のマーク(五芒星)が確認できます。現在は埋もれている学食棟前に残る消火栓もこの消火栓同様、以前は左の写真の姿をしていました。


動物慰霊碑

生田キャンパス正門の守衛所裏手に鎮座。動物慰霊碑としては国内最大級。

(表)
動物慰霊碑
篠田鐐書

(裏)
昭和十八年三月
陸軍登戸研究所建之

揮毫の 篠田鐐 は登戸研究所所長。

動物慰霊碑
 1943(昭和18)年、研究で用いられた実験動物の霊を慰めるために登戸研究所が建立しました。台座を含め、高さ約3m、幅約95cm、奥行約15cmの大きさは動物慰霊碑としては国内最大級です。
 敗戦後、軍により証拠隠滅を図られた登戸研究所ですが、この裏面に刻まれた「陸軍登戸研究所」の文字は、戦時中より登戸研究所がここに存在した事実を如実に語ります。


登戸研究所本館跡(ヒマラヤ杉)

「第二校舎A館」と「ヒマラヤ杉」、「図書館」の間にかつて「登戸研究所本館」があったという。
往時からの名残としては、「ヒマラヤ杉」とアスファルトを敷いた車寄せへのアプローチ部分が路面上に残る。

旧登戸研究所本館前一帯
 登戸研究所の本館は、ちょうどこのヒマラヤ杉並木と現在の図書館との間に建っていました。
 1944(昭和19年)に撮影された写真でも当時の杉並木の様子が確認できます。また、写真背景足元に映る円形に囲われた車寄せへのアプローチも、そのままに近い形で植え込みとして残っており、この一帯は登戸研究所時代の名残をもっともよく残す場所となっています。


防火水槽

キャンパス内にいくつか点在して残っている。火薬も扱っていた登戸研究所ゆえに防火水槽の数も多かったという。

中央校舎の脇に。

防火水槽
 登戸研究所時代からある防火水槽です。火災に備え、敷地内の各建物付近に設置されました。現在は花壇として使用されていますが、当時は中に水をためておき、その水を火災の消火に使用しました。この他に資料館エントランス横、農学部南田圃などキャンパス内各所に現存しています。

資料館の入口に。


倉庫跡(通称 弾薬庫)

資料館の裏手に。
登戸研究所で製造された「特殊携行兵器」などが収納されていたとされる倉庫。

倉庫跡(通称 弾薬庫)
 登戸研究所時代に設置された建築物で、通称「弾薬庫」と呼ばれていますが詳細な用途は不明です。
 外観は台形ですが、内部は奥行約3.2m、間口約2.7mの長方形をしており、天井までの高さは約3m。壁面にはスイッチやコンセント跡が見られます。
 第一校舎1号館裏手にも同様の倉庫跡が残っています。


倉庫跡(通称 弾薬庫)

第一校舎1号館の裏手に。
草に覆われた建物。「花卉園芸同好会」と表記が残る。

倉庫跡(通称 弾薬庫)
 登戸研究所時代に設置された建築物で、通称「弾薬庫」と呼ばれていますが詳細な用途は不明です。明治大学となってからは、一時、花卉園芸部が部室として使用していたこともありました。
 外観は台形ですが、内部は奥行約5.7m、間口約4.0mの長方形をしており、天井までの高さは約3m。資料館裏手の倉庫跡より内部は広く、入り口すぐの前室と奥の広い部屋の二間に分かれています。


登戸研究所第二科研究棟(36号棟)
明治大学平和教育登戸研究所資料館

鉄筋コンクリート造りの生物兵器研究棟。この建物は、かつて細菌・ウイルスなど生物・化学兵器の研究開発をしていた登戸研究所第二科の研究棟。
2009年までは明治大学農学部の研究棟として使用され、2010年から明治大学平和教育登戸研究所資料館として開館。

明治大学平和教育登戸研究所資料館
設立趣旨

登戸研究所は、戦前日本の戦争・軍隊を知る上で、きわめて貴重な戦争遺跡である。登戸研究所は、戦争には必ず付随する「秘密戦」(防諜・謀報・謀略・宣伝)という側面を担っていた研究所であり、そのため、その活動は、戦争の隠された裏面を示しているといえる。私たちはこうした戦争の暗部ともいえる部分を直視し、戦争の本質や戦前の日本軍がおこなってきた諸活動の一端を、冷静に後世に語り継いでいく必要がある。

私たちは、登戸研究所の研究施設であったこの建物を保存・活用して「明治大学平和教育登戸研究所資料館」を設立し、登戸研究所という機関のおこなったことがらを記録にとどめ、大学として歴史教育・平和教育・科学教育の発信地とするとともに、多年にわたり、登戸研究所を戦争遺跡として保存・活用することをめざして地道な活動を続けてきた地域住民・教育者の方々との連携の場としていきたいと考えている。
 2010年3月29日


陸軍境界石

資料館の前に。どこからの移築かと思われる。


登戸研究所第二科研究棟(36号棟)
明治大学平和教育登戸研究所資料館
 建屋外観


登戸研究所第二科研究棟(36号棟)
明治大学平和教育登戸研究所資料館
 内部

当時からの設備、流し台などもそのままで残っている。


風船爆弾(ふ号作戦)

登戸研究所第一科を中心に風船爆弾の研究が行われた。

気球紙は、和紙と蒟蒻糊の貼り合わせ、

風船爆弾放球の地

大津

勿来

一宮


偽札

登戸研究所第三科では主に中国大陸向けの紙幣を偽造していた。通貨謀略戦の要。


解体された26号棟の保存資料

26号棟に第三科が展開されていた。偽札研究の拠点。


時計式時限装置一号

「缶詰爆弾」と「時計」を接続させると「時限式爆弾」となった。
登戸研究所は諜報活動向けに最適な小型兵器の開発が多い。


秘密戦

「秘密戦関係」書籍は防諜教育に用いられた憲兵学校のテキスト。


陸軍技術有功章の賞状

昭和18年4月14日、総理大臣兼任陸軍大臣の東条英機の名で授与された賞状。「秘密戦兵器」は「特殊理化学資材」として記されている。


クランク式暗室

36号棟の当所から作られていた暗室。
写真の現像や細菌戦の研究に使用されていたという。


石井式濾水機 濾過筒

「軍事秘密」として扱われていた濾過筒。
濾過筒には防疫給水に役立つほか、細菌戦実施時にも飲料水を確保できるという側面もある。


登戸研究所本館将校食堂に飾られていた日本画

この絵画が飾られていた理由は不明。
「漁を待つ人々」佐藤耕寛 作


陸軍 電波兵器練習部隊

「登戸研究所」の電波部門が独立して「陸軍多摩研究所(多摩陸軍技術研究所)」となり、その直属部隊となったのが「東部第九二部隊( 東部第92部隊 )」。一橋大学に展開していた。

気がつけば3時間くらい、大学構内を散策していたようです。

明治大学平和教育登戸研究所資料館、なかなか見応えがありました。よい展示。

また来ましょう。


明治大学平和教育登戸研究所資料館サイト

https://www.meiji.ac.jp/noborito/index.html

「若宮八幡宮と川崎大師」周辺の戦跡散策

令和元年10月

川崎でちょっとだけ時間が出来たので、京急大師線で川崎大師駅まで足を伸ばしてみました。

若宮八幡宮御本殿
(旧川中島国民学校奉安殿)

若宮八幡宮本殿
旧川中島国民学校奉安殿

昭和12年4月
川崎市立大師尋常小学校より分立独立して「川崎市立川中島尋常小学校」として創立。
昭和16年4月「川崎市立川中島国民学校」と名称変更。(現在の川崎市立川中島小学校)
「奉安殿」の創建年代は不詳。1935年(昭和10年)頃に全国各地の小学校にて奉安殿建設が活発化してきたという。

若宮八幡宮が戦災で焼失してしまい、戦後に「川中島国民小学校」から奉安殿を移設し、若宮八幡宮の本殿として再活用。

奉安殿(御真影奉安殿)

奉安殿とは、戦前において
天皇陛下
皇后陛下
の御真影(お写真)と教育勅語を納めていた建物。
当初は職員室や校長室に奉安所が設けられていたが、被災による危険を防ぐために、金庫型や独立した奉安殿としての建設がはじまった。小型ながらに耐火耐震構造とされてものも多く、威厳を備えた荘厳重厚なデザインの建造物が多い。
戦後、奉安殿は廃止され解体や撤去が行われるが、その頑丈な建造物が戦災で焼失した神社社殿などに再活用もされ、現在に残っている例もある。

若宮八幡宮(川崎)

旧大師河原総鎮守
境内には「かなまら祭」で有名な金山神社がある。
室町期1500年代の創建。
創建以来、川崎大師平間寺の鎮守社。明治の神仏分離で平間寺から独立。

境内社の金山神社

若宮八幡宮から川崎大師へ移動。

祈りと平和の像
(川崎大師 平間寺)

川崎大師境内に、弘法大師1150年遠忌を記念して昭和59年(1984)建立。制作者は円鍔勝三。
中央には富士山の上に降臨した観音をモチーフとした女神が「祈り」、周囲には鹿野苑で楽器を奏でる天女たちが「平和」を表している。

一心祈念 恒久平和
     大本山川崎大師 平間寺
一盌からピースフルネスを
     茶道裏千家淡交会川崎支部
修練 奉仕 友情
     社団法人川崎青年会議所

「祈りと平和」の像に寄す
 茶道裏千家家元勤仕による当山ご供茶式と茶道裏千家淡交会川崎支部、川崎青年会議所、川崎大師平間寺共催の大茶会は、三者の協調に献身的な努力のもとに、大いに地域社会の文化向上に寄与し、ここに、心新たに意義ある20周年を迎えた。
 本年、宗祖弘法大師壱千百五十年御遂忌並びに、当山吉例十年目ごと大開帳奉修の法縁にあたり、大師の鴻恩に報謝の誠を捧げ三者の目的達成、発展を期するとともに、更に祈りに徹してやすらぎに住し、永遠の平和を願う真心を伝承せんがために、ここにこの像を建立する。
 作者は、霊峰冨士の頂上に来迎された観世音菩薩(女神)の天にひろがる大慈悲心と釈尊の初転法輪の聖地・鹿野苑にみなぎる世界永遠の平和の祈りを象徴されている。
 因みに、彫刻家である、文化功労者・日本芸術院会員・圓鍔勝三先生にこの制作を依頼した。
 昭和59年10月7日 
  大本山平間寺貫首
   第四十四世 
   中興第一世 
    大僧正 隆天

「祈りと平和」像賛歌
   貫主 高橋隆元
いまここに
  仰がん祈りの像
いまここに
  讃えん平和の像  
みほとけは
  女神とともに
  神鹿のあそぶ苑に
 平和を奏でて
  人びとを見まもり
 慈悲の
  まなざしを示し給う 
祈りの声は 
 宇宙に広がる 
  朋友よ 幸せに 
  朋友よ 豊かに
平和のハトは
 蒼天に翔ぶ 
  朋友よ 明るく 
  朋友よ 健やかに
   
昭和60年10月7日
 「祈りと平和」の像建立1周年に寄せて

霊木「奇跡の銀杏」
(川崎大師 平間寺)

霊木「奇跡の銀杏」
 この銀杏は、第二次世界大戦の大空襲により幹の大半を焼失。今でも痕跡を樹木の根元に見ることができます。戦後、川崎大師はご信徒の信授により大本堂をはじめ七堂伽藍を復興。
同様にこの銀杏も奇跡的に蘇生、灰燼に帰した川崎大師の歴史を今に伝える古木であります。
「奇跡の銀杏」の樹勢にあやかり、健康長寿、心願成就を祈念ください。 
 平間寺

忠魂碑
(川崎大師 平間寺)

乃木希典書
明治三十七八年戦役(日露戦争)にて戦没した大師河原村出征軍人を祀る。
明治四十二一月建立。

川崎大師 平間寺

平間寺(へいけんじ)は真言宗智山派の大本山。
大治3年(1128)建立。本尊は弘法大師。

川崎大師駅へ。

発祥之地
京浜急行電鉄株式会社

京急「発祥之地」碑

 京浜急行電鉄株式会社は、明治31年2月25日 大師電気鉄道株式会社 として設立され、翌明治32年1月21日、川崎六郷橋~川崎大師間の営業を開始した。
 開業時の資本金は 9万8千円、営業路線は 単線2粁、車輌数は5両で 開業当時の営業報告書には、次の通りに記されている。
 
 全般ノ機械運転上成績好結果ニシテ一日モ運転ヲ中止セシ事ナク即チ 五月丗一日ニ至ル本期間ノ営業日数ハ一百三十一日ナリシ而シテ乗客ハ相応ニ多ク 毎月廿一日ノ如キハ非常ノ雑踏ヲ極メシモ線路ノ単線ナリシト車輌ノ不足ナリシ為メ 充分ニ乗客ヲ運ビ能ハザリシノ感アリ本期間平均一日一哩ノ乗車賃ハ 五拾円九拾銭二厘ニ相当セリ。元来本社ハ関東ニ於ケル電気鉄道ノ嚆矢ニシテ 成績ノ如何ハ将来電気鉄道事業ノ発達ニ重大ナル関係ヲ有セシモノナリ 幸ニシテ今ヤ営業初期ニ於テ相応ナル純益配当ノ報告をナスヲ得 又運転開始以来一人ノ負傷者ヲ生ズルナク毎月廿一日ノ如キ数万ノ老幼群集シ 往来叢ルガ如キ場所ニ於テ乗客ヲ満載シ乍ラ一日弐百五六十回余ノ運転ヲナシテ 過チナカリシハ実ニ本社ノ幸福ニシテ亦以テ電気鉄道ノ市街交通機関ニ適シ 更ニ危害ノ虞レナキヲ表示スルヲ得タルモノナリ

 かくて好調裡に営業を開始した大師電鉄は 同年4月 京浜電気鉄道と改称 昭和23年6月 京浜急行電鉄 となり 逐次事業の拡張を図って今日の隆昌をみるに至った。
 ここに創立70周年に当り
会社設立発起人代表 立川勇次郎 はじめ先人の遺徳を偲び 大師電鉄発祥のこの地 に本記念碑を建立する。
 昭和43年12月21日
  京浜急行電鉄株式会社

以上、川崎大師と若宮八幡宮を近代史・戦跡目線での参拝散策でした。

上野公園の戦跡・近代史跡散策

令和元年10月

上野恩賜公園、通称は「上野公園」
「戦争に纏わる史跡」「近代史跡」としての公園散策をしてみた。

時忘れじの塔

東京大空襲の犠牲者を悼む慰霊碑
初代林家三平夫人の海老名香葉子さんらにより平成17年3月9日建立

時忘れじの塔
関東大震災(大正十二年)東京大空襲(昭和二十年)

  東京にも、現在からは想像もできない悲しい歴史があります。今、緑美しい上野の山を行き交う人々に、そのような出来事を
思い起こしてもらうとともに、平和な時代へと時をつなげる心の
目印として、この時計台を寄贈しました。
 建立、寄贈 初代林家三平妻 海老名香葉子
 建立有志一同

海老名香葉子さんのもう一つの慰霊碑
「哀しみの東京大空襲」

http://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/virtual/memorialsite/tokyo_taito_city005/index.html


上野大仏(上野大佛)

もともとは 明暦万治(1655~1660)頃に建立された像高約6メートルの釈迦如来坐像であった。
幕末の上野戦争では辛くも被害を免れたが、明治6年に大仏殿が解体され、そして大正12年(1923)の関東大震災により頭部が落下。大破した頭部、解体撤去した胴体部以下が上野寛永寺に保管され再建を目指すも資金難により頓挫。
昭和15年(1940)に顔面部を除く頭部及び胴体部は、戦時中の金属供出で失われ、現在は顔面部のみがレリーフとして、昭和47年に旧跡の地に安置された。これ以上落ちない合格大仏として現在では信仰を集めている


小松宮彰仁親王銅像

小松宮彰仁親王銅像
台東区上野公園八番
 彰仁親王は伏見宮邦家親王の第八王子。安政五年(一八五八)京都仁和寺に入って純仁法親王と称し、慶応三年(一八六七)勅命により二十二歳で還俗、東伏見宮嘉彰親王と改称した。同四年一月の鳥羽・伏見の戦に、征東大将軍として参戦。ついで会津征討越後口総督となり、戊辰戦争に従軍した。明治十年五月、西南戦争の負傷者救護団体として、博愛社が創立されると、九月その総長に就任した。同十五年には、小松宮彰仁親王と改称。同二十年、博愛社が日本赤十字社と改名すると、総裁として赤十字活動の発展に貢献した。同三十六年一月十八日、五十八歳で没。
 銅像は明治四十五年二月に建てられ、同三月十八日、除幕式が挙行された。作者は文展審査員の大熊氏廣。『下谷區史』は当地に建てた理由について、寛永寺最後の門跡・輪王寺宮公現法親王(のちの北白川官能久親王)の兄宮であったことに因んだのだろうと推察している。
 平成8年7月
 台東区教育委員会


グラント将軍植樹碑

ユリシーズ・シンプソン・グラント
南北戦争時の北軍の将軍
アメリカ史上初の陸軍士官出身の大統領として第18代アメリカ大統領(1869‐1877)に就任。
1872年にアメリカを訪問した岩倉使節団と会見。
大統領職後の1879年7月から9月まで国賓として日本に滞在、アメリカ大統領経験者では初めて日本にきた人物でもある。

「Let us have peace」
将軍の言葉「平和を我等に」の文字を刻む植樹碑。

グラント将軍植樹碑
上野公園八番
 明治十年(一八七七)から同十三年にかけて、グラント将軍は家族同伴で、世界を周遊した。その際、来日。同十二年八月二十五日、ここ上野公園で開催の大歓迎会に臨み、将軍はロウソン檜、夫人は泰山木を記念に植えた。植樹の由来が忘れられるのを憂い、昭和四年八月、この碑を建設。碑は正面に将軍の胸像を刻み、向かって右側に和文、左側に英文で、将軍の略歴・日本滞在中の歓迎の模様、植樹の由来を記している。胸像下部には、英語で、将軍の言葉「平和を我等に」の文字を刻む。
 グラント将軍のフルネームはユリシーズ・シンプソン・グラントという。北軍の義勇軍大佐として、南北戦争に従軍。戦功を重ね、のち総司令官となり、北軍を勝利に導いた。明治二年、アメリカ合衆国大統領に選ばれ、同十年まで二期在任した。いま、将軍植樹の木は大木に成長している。
 平成4年11月
 台東区教育委員会


明治天皇日本美術協會行幸所阯

上野の森美術館

史蹟名勝天然記念物保存法ニ依リ史蹟トシテ昭和16年8月文部大臣指定

昭和18年3月建設


西郷隆盛銅像

西郷像は高村光雲作、犬(ツン)は後藤貞行作
明治22年(1889)の大日本帝国憲法発布に伴う大赦によって西郷の「逆徒」の汚名が説かれたのをきっかけに建設計画が始まり、明治31年(1898)12月18日に西郷隆盛銅像除幕式が行われた。
銅像の高さは370.1cm。頭部が大きく見えるのは足下からの遠近法を考慮したデザインという。

敬天愛人
西郷隆盛と銅像の由来

西郷隆盛は文政10年(1827年)12月7日薩摩藩士として鹿児島加冶屋町に生まれた。通称吉之助、南州はその号である。
若くして、藩主島津斉彬に重用され、幕末内外多難の際、大いに国事に奔走したが、これに関連して奄美大島に流されること2回、元治元年(1864年)許されて京都に上るや、朝廷の意を重んじて一旦は長州を敵としたが、後、木戸孝允と謀って薩長連合を結成し、慶応3年(1867年)ついに王政復古の大業を成就、その後も官軍の参謀として、大功を樹て、明治維新の基礎を確立した。
その間、高橋泥舟、勝海舟、山岡鉄舟等の請を容れて江戸城の無血開城を実現、江戸を戦火から救ったことは余りにも有名である。
その後は故郷に退隠したが、明治4年(1871年)正月、三条実美以下新政府首脳の懇請を受けて状上京、参議に昇任し、廃藩置県その他の近代国家建設のための主動的役割を果した。
然るに、明治6年6月いわゆる征韓論が閣議に上がるや断乎反対して、大使派遣による平和的修好を主張し、その決定を見るに至ったが、後欧米出張から帰国し、内治優先論を固執する岩倉具視、大久保利通等の反対に敗れて辞官帰郷、私学校を興して後進青年の育成に努めた。
明治10年2月当局者の謀に激した私学校生徒に擁せられて西南の役となり、転戦7カ月余、ついに敗れて城山に自刃した。9月24日、享年51才。
そのため一時逆賊とされたが、明治22年2月、明治天皇の特旨により賊名を除かれ、正三位を追贈された。
この銅像はこれに感激した隆盛の旧友、吉井友実が、同志と共に追慕の情を表わすべく建立を計画したものであり、御下賜金のほか有志2万5千人の醵金を得て、明治26年起工、同30年竣工、我が国彫刻界の巨匠高村高雲の作である。
西郷隆盛の偉大な功業は、その心情たる敬天愛人の至誠没我な精神に発した愛と所産であり、日本の代表的偉人として今なお、敬慕される所以は実にここに在るのである。

近くには、かなりの年代を経たと思われる燈籠が残されていた。


西郷像の右手に。

摂政宮関東大震災視察碑

大正12年9月15日 摂政殿下大震災の惨状御視察に際し、畏くも此地より御展望遊され被害の情況を聞召さる。越えて7歳昭和5年3月24日 天皇陛下此に臨御あらせられ親しく街衢の復興を曫はせ給ふ。乃て石を此處に樹て以て 聖恩を不朽に傳へんとす。

西郷像の奥に。

彰義隊の墓

彰義隊の墓(台東区有形文化財)
上野公園一番
 江戸幕府十五代将軍徳川慶喜は大政奉還の後、鳥羽伏見の戦いに敗れて江戸へ戻った。東征軍(官軍)や公家の間では、徳川家の処分が議論されたが、慶喜の一橋家時代の側近達は慶喜の助命を求め、慶応四年(一八六八)二月に同盟を結成、のちに彰義隊と称し、慶喜の水戸退隠後も徳川家霊廟の警護などを目的として上野山(東叡山寛永寺)にたてこもった。
 慶応四年五月十五日朝、大村益次郎指揮の東征軍は上野を総攻撃、彰義隊は同夕刻敗走した。いわゆる上野戦争である。彰義隊士の遺体は上野山内に放置されたが、三ノ輪円通寺(現、荒川区南千住)の住職仏磨らによって当地で茶毘に付された。
 正面の小墓石は、明治二年(一八六九)寛永寺子院の寒松院と護国院の住職が密かに付近の地中に埋納したものだが、後に堀り出された。大墓石は、明治十四年(一八八一)十二月に元彰義隊小川興郷(椙太)らによって造立。彰義隊は明治政府にとって賊軍であるため、改府をはばかって彰義隊の文字はないが、旧幕臣山岡鉄舟の筆になる「戦死之墓」の字を大きく刻む。平成二年に台東区有形文化財として区民文化財台帳に登載された。
 平成8年3月
 台東区教育委員会


そのほか

楠木正成像(皇居外苑)

令和元年9月撮影

楠木正成像

「東京三大銅像」のひとつ。(残りは上野公園の西郷隆盛像、靖國神社の大村益次郎像)
本体の高さは約4メートル、花崗岩の台座を含めると8メートルに及ぶ。

別子銅山開坑200周年事業として住友財閥から宮内庁に献納されたもの。

高村光雲と後藤貞行らの制作による、我が国で初めての分解鋳造法による銅像。
明治29年(1896年)9月、銅像が完成。
明治33年(1900年)台座の完成を待ち、ついに楠木正成像は二重橋外に竣工。

像は台座正面から見ると背を向けているが、これは皇居に背を向けない配慮という。

住友グループ広報委員会>住友の歴史>楠木正成像

 この楠木正成像は、別子銅山開坑200周年事業として住友から宮内庁に献納されものだ。明治22年(1889年)末、当時の住友総理人の広瀬宰平(初代総理事)は、翌年に別子銅山開坑200周年を控え、住友家13代当主住友友忠と相談し、別子銅を用いて銅像を製作し献納することを決めた。
 製作は、岡倉天心が校長を務めていた東京美術学校(現在の東京藝術大学の前身)に依頼。当時、東京美術学校には塑造科はなく、原型は木彫を使用する時代だったため、同校の木彫科教授であった高村光雲が主任となり、指揮をとった。翌年、東京美術学校は後に製作担当者となる3人を次々と教師として採用。高村光雲は頭部を担当し、山田鬼斎と石川光明が身体・甲冑部などを、後藤貞行が馬の製作を担当した。

https://www.sumitomo.gr.jp/history/related/kusunoki/

環境省>皇居外苑>楠木正成像
皇居外苑の南東の一角に、花崗岩の台座に据えられた騎馬姿の武者像が楠木正成の銅像です。この銅像は、別子銅山を開いた住友家が、開山200年の記念として企画し、東京美術学校に依頼し作成し、宮内庁へ献納したもので、高村光雲など東京美術学校の職員らにより当時の技術の粋を集めて作成され、明治33年7月に完成し献納されたものです。

https://www.env.go.jp/garden/kokyogaien/1_intro/his_06.html

 楠木正成(くすのきまさしげ)は鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて後醍醐天皇(ごだいごてんのう:1288年‐1339年)に仕えた武将です。鎌倉幕府を倒し、約150年の武家政権から、朝廷による支配の復活を図りました。
 この銅像は、隠岐(おき)から還幸した後醍醐天皇を兵庫で迎えた楠木正成の勇姿を象ったものです。

自臣祖先友信開伊
予別子山銅坑子
孫継業二百季亡
兄友忠深感国恩
欲用其銅鋳造楠公
正成像献之闕下
家允未果臣継其志
菫工事及功竣謹献
明治三十年一月
従五位臣住友吉左衛門謹識

台座の銘文には、住友家第15代・住友友純(住友家養嗣子、徳大寺実則・西園寺公望の実弟)の銘で、「亡兄友忠、深く国恩を感じ、別子銅を用いて楠木正成像を鋳造し、天皇陛下の御前に献納したい」と記されている。

愛宕山の戦跡散策(青松寺と愛宕神社)

令和元年9月参拝

芝鎮座の「青松寺」の境内には、戦争にまつわる史跡がいくつか残されている。
境内裏手の墓地の一角に。

肉弾三勇士(爆弾三勇士)

「肉弾三勇士」は大阪朝日新聞・東京朝日新聞の呼称。
「爆弾三勇士」は大阪毎日新聞・東京毎日新聞の呼称。
それぞれの新聞社が公募した「肉弾三勇士の歌」「爆弾三勇士の歌」もある。

肉弾三勇士・爆弾三勇士とは、独立工兵第18大隊(久留米)の、
 江下武二(えした たけじ)
 北川丞(きたがわ すすむ)
 作江伊之助(さくえ いのすけ)
の3名の一等兵のことをいう。
3名は戦死後に2階級特進し陸軍伍長となった。

昭和7年(1932年)2月22日
第一次上海事変にて、トーチカと鉄条網とクリークで守られた敵陣へ突入するために、 鉄条網を破壊し突撃路を切り開くために点火した破壊筒を3名で抱えて敵陣に突入。破壊の爆発に巻き込まれて3名は戦死したが鉄条網の破壊には成功。
突撃路を切り開いた英雄として讃えられ「昭和最初の軍神」とされる。

昭和9年。
全国からの寄付金が集まり、貴族院議員・金杉英五郎が委員長となった「肉弾三勇士銅像建設会」によって東京都港区の青松寺に三人が破壊筒を抱えて突撃する様子の銅像「肉弾三勇士の像」(新田藤太郎作)が設置された。
しかし戦後に撤去され、後に切り離された「江下武二の像」の部分のみが新たな台座とともに青松寺に安置されている。「北川丞の像」は長崎県北松浦郡佐々町にある三柱神社に移築。「作江伊之助の像」は所在不明。

肉弾三勇士三霊
肉弾三勇士・江下武二の像

当地には肉弾三勇士の一人、江下武二の像のみが残されている。

肉弾三勇士の三霊に合掌を

碑文
 忠孝の心を存し仁義の事を行い難至って節見はれ累至って行明かなるは我日本帝国臣民の伝統的精神にして其れも善き例を示したるは廟行鎮の役に挺進爆薬筒を抱き肉弾と化して瞬間に能く敵前鉄条網の堅陣を爆破し以て皇軍進出に便ならしめ砕身奉公の誠を致したる作江伊之助・北川丞・江下武二の3士にして其忠烈古今に絶し其壮烈世界を震撼す真に所謂死して護国の鬼となり永く報国の訓を掲けたるものと謂ふへし依て茲に銅像を建て建設して3士の遺骨を其の内に納め以て忠魂を無窮に弔い義烈を万代に顕彰する所以なり
 昭和9年2月22日
  肉弾三勇士銅像建設委員会 

「肉弾三勇士三霊」の隣に。

國體護持 孤忠留魂之碑

いわゆる「宮城事件」に関係する、陸軍・畑中健二少佐らを祀る。
 椎崎二郎中佐(陸軍省軍務局軍務課内政班)
 畑中健二少佐(陸軍省軍務局軍務課内政班)
 古賀秀正少佐(近衛師団参謀)
 上原重太郎大尉(陸軍航空士官学校区隊長)
上記四士の慰霊碑が青松寺に鎮座している。

宮城事件

昭和20年8月14日深夜から8月15日にかけて、宮城(皇居)で一部の陸軍省将校と近衛師団参謀が中心となって起こしたクーデター未遂事件。

日本の降伏を阻止しようと企図した将校達は、8月15日に決起。
午前0時過ぎに玉音放送の録音を終えて宮城を退出しようとしていた下村宏情報局総裁と放送協会職員などの身柄を拘束。
近衛第一師団長森赳中将に面会を強要しクーデターの参加を求めるも決裂し、近衛第一師団長森赳中将と同席していた第二総軍参謀白石通教中佐を殺害。
師団長命令を偽造し近衛歩兵第二連隊を用いて宮城(皇居)を占拠し東部軍管区 にクーデター参加を求めたが、東部軍管区司令部で司令官の田中静壱大将は鎮圧を決定。

昭和20年8月15日
5時半
 陸相官邸で阿南惟幾陸軍大臣が自決。
午前11時過ぎ
 椎崎中佐と畑中少佐は、皇居前広場(二重橋と坂下門の間の芝生)で自決。
正午
 古賀少佐は、玉音放送の放送中に近衛第一師団司令部二階の貴賓室に安置された森師団長の遺骸の前で自決。
 上原大尉は、修武台航空神社前で自決
事件鎮圧の功労者だった田中静壱東部軍管区司令官は8月24日に自決している

碑文
陸軍中佐 椎崎二郎
陸軍少佐 畑中健二
陸軍少佐 古賀秀正
陸軍大尉 上原重太郎

大東亜戦争終結に際し 護るべからざる講和条件即ち国体護持の確認こそ日本国民の果たすべき責務なりとし 上記四士は畑中健二主導のもとに近衛師団の決起を策し 大事去るや従容自決す これ宮城事件なり
その孤忠留魂の至誠は神州護持の真髄といふべく 仰いで茲にこれを継述せんとするものなり
 昭和五十九年秋 有志建之

旧山口藩出身御親兵死没者合祀之碑

明治22年11月建立

軍馬之碑

工兵第二十三聯隊 戦友之碑

青松寺の右手、愛宕グリーンヒルズフォレストタワーの通り道に。

故市来・吉住両君の記念碑

インドネシアゆかりの記念碑。
日本敗戦後もインドネシアに留まり、独立軍に参加して戦死した市来龍夫氏 、吉住留五郎氏の名前の刻まれたスカルノ・インドネシア大統領の直筆の顕彰碑。この石碑のある青松寺の隣にある老舗料亭「醍醐」は、スカルノ大統領ゆかりの料亭であったという。

昭和20年(1945)8月17日、インドネシアは独立を宣言。それに対しイギリスの支援を受けたオランダ軍が再びインドネシアを支配するべく進駐し。4年間にわたる独立戦争が勃発。
日本軍撤退後もインドネシアに留まり義勇軍・独立派に身を投じた元日本兵の多くがインドネシア独立戦争に協力。
昭和20年8月15日以降の、元日本軍死者は1000人を超え、独立戦争で命を落とした元日本兵はインドネシア各地の英雄墓地に葬られている。生き延びた元日本兵もインドネシア国籍を得て1960年代の日本企業のインドネシア進出が本格化する際には橋渡し役として活躍もされている。

1958年に訪日したスカルノ大統領は、日本へ感謝の意を表すとともに、インドネシア独立戦争において特に活躍した、 市来龍夫氏(アブドルラフマン) 、吉住留五郎(アレフ)氏 に対して感謝の言葉を贈り、それが記念碑として建立された。

市来龍夫君と
 吉住留五郎君へ

独立は一民族の
 ものならず
全人類のものなり

1958年8月15日
 東京にて
  スカルノ

PRESIDEN
REPUBLIK INDONESIA

 市来龍夫君、熊本縣の人、明治三十九年生
 吉住留五郎君、山形縣の人、明治四十四年生
 両君は共に青春志を抱いてジャワに渡航力学よくイ語の蘊蓄を極め、相次いでインドネシアで現地の新聞記者となる。爾来インドネシア民族の独立達成を熱望して蘭印政府より投獄追放の厄に会うも不撓不屈、第二次大戦に乗じて、再びインドネシアに渡り、終戦に際して同志を統合、イ軍に投ずるや共に軍参謀、指揮官となり、激闘、転戦ののち、遂に市来君は一九四九年マラン・ダンペッドの戦場に、吉住君はそれに先立つこと一年ケデリ州セゴンの山中に、インドネシア永遠の礎石となって散す。

青松寺

曹洞宗・萬年山青松寺
太田道灌ゆかり寺院。文明8年(1476)創建。
江戸時代は長州藩・土佐藩・津和野藩などが江戸で藩主や家臣が死去した際の菩提寺として利用した。

青松寺の北隣、愛宕山に現在はNHK放送博物館がある。

NHK放送博物館

NHKの前身のひとつである社団法人東京放送局はこの愛宕山に放送局を置き、1925年から1938年まで、ここからラジオ放送が発信された。
1956年にNHK発祥の地である地に世界初の放送専門博物館が開館。当時の建物は現存しておらず、現在の建物は1968年(昭和43年)に建設されたもの。

NHK放送博物館の隣には、愛宕山の愛宕神社が鎮座している。

殉皇十二烈士女之碑
弔魂碑

いわゆる「愛宕山事件」
昭和20年8月15日の降伏終戦に対して、反対する民間団体「尊攘同志会 」首領・飯島与志雄ら12名が決起。
内大臣木戸幸一邸を襲撃し殺害を試みるも失敗し、抗戦派軍人の呼応を期待し愛宕山に籠城。
警視庁は70余名の警官隊を動員し愛宕山を包囲し投降を呼びかけるも決裂。
8月22日午後6時ごろ、警官隊が発砲し突入。手榴弾で自決を図り10名が死亡。8月27日には残された2婦人が集団自決が行われた場所でピストル自決をしている。

弔魂碑碑文
昭和二十年八月廟議降伏に決するや決起して内府木戸邸を襲ふ
転じて愛宕山に篭り所在の同志と呼応
天日を既墜に回さむとする者 即ち尊攘義軍十烈士
しかれども遂に二十二日午後六時相擁して聖寿万歳とともに手榴弾を擲ち一瞬にして玉砕す 
時俄に黒風暴雨満山を蔽ふ
二十七日払暁 同じき処に座して二夫人亦従容後を遂ふ
忠霊芳魂 永遠に此処に眠る 
遺烈万古尽くる時なからむ
 天なるや 秋のこだまか とこしえに 
 愛宕のやまの 雄たけびのこゑ

愛宕神社

愛宕山鎮座の愛宕神社。天然の山としては東京23区内最高峰。(25.7m)
京都の愛宕神社が総本社。
1603年(慶長8年)、徳川家康の命にて創建。

青松寺と愛宕神社

愛宕山は「爆弾三勇士」「宮城事件」「愛宕山事件」といった慰霊鎮魂の地でもありました。

合掌

「ペルリ提督の像」と「遣米使節記念碑」(芝公園)

令和元年9月撮影

増上寺の向かいの芝公園に。

ペルリ提督の像

マシュー・ペリーの頭像。
Matthew Calbraith Perry(1794年4月10日 – 1858年3月4日)
「蒸気船海軍の父」
1853年に浦賀に入港し、東インド艦隊司令長官として日本開国交渉を行った。
「ペルリ(漢字では彼理)」 と来航当時は表記されていた。

昭和27年(1952)に催された日本開国百年記念祭に際し、ペリーの生誕地・ロードアイランド州ニューポート市から親善のために贈られた像という。


嘉永6年7月(1853年)および安政元年(1854年)に日本の開港のため米国代表として江戸湾を訪れたペルリ提督の出生地でありまた当時日本訪問の出港地である米国ロードアイランド州ニューポート市から親善のしるしに東京都に贈られたものである
米国人フェリックス・ド・ウエルドン作
東京都

その向かい側に。

万延元年遣米使節記念碑

 西暦1860年2月9日(万延元年正月18日)新見豊前守正興一行は日米修好通商条約批准書交換の使命をおびて江戸竹芝より米艦ポーハタンに搭乗、初の使節として米国に赴いた。
副使村垣淡路守範正の詠にいう、
 竹芝の浦波遠くこぎ出でて
  世に珍しき舟出なりけり
 遣米使節渡航より百周年にあたり、日米両国民の友好親善の基礎を築いたその壮途をここに記念するものである。
 1960年6月 日米修好通商百年記念行事運営会

なぜ、芝のこの場所にあるのかは不詳。
開国に揺れる徳川幕府と深い関係にある芝増上寺の門前というのが意味深であった。


関連

阿波丸事件殉難者之碑(増上寺)

令和元年9月参拝

阿波丸事件殉難者之碑

芝の増上寺境内に建立。

日本郵船が所有していた貨客船「阿波丸」は、三池丸級貨客船3番船として建造され、もともとは豪州航路向けであったが、開戦後の1943年3月5日竣工となり、海外航路に就役することもなく陸軍徴傭船となる。

阿波丸
 総トン数 11,249トン
 全長 154.97メートル
 最大速力 20.8 ノット

昭和20年、残存する輸送船のなかで程度がよく優秀だった阿波丸は「緑十字船」となる。
日米間の協定で「赤十字船」(病院船)に準じた保護が約束され「緑十字」の識別マークが描かれ、アメリカ軍は阿波丸の航路情報を各部隊に通知し、攻撃しない約束がされていたはずの船であった。

阿波丸事件
昭和20年4月1日、シンガポールから日本に向けて航行中であった貨客船「阿波丸」がアメリカ海軍潜水艦クイーンフィッシュに雷撃により撃沈。
2000人以上の乗客のほとんどが死亡した事件。
阿波丸事件(wikipedia)

合掌

緑十字船「阿波丸」
File:Awa Maru 11249gt.JPG
https://en.wikipedia.org/wiki/File:Awa_Maru_11249gt.JPG より

碑文
 阿波丸は第二次世界大戦も終りに近い昭和20年4月1日夜半台湾海峡で米国潜水艦クイン・フィッシュ号に不法撃沈された。同船は連合国側の要請に応じ日本軍占領の南方諸地域に抑留されている捕虜および民間人に對する救恤品の輸送に当っていた。国際法でその安全が保障されていたにもかかわらず、この悪魔のような所業により遭難者の数は2千有余名、世界史上最大の海難事故となった。
 加害者に対する責任の追求や賠償交渉も進まないうち、同年8月わが国は無條件降伏し、軍政下の日本政府はなぜか事件の真相を究明せず、米国に対する賠償請求権を国会の決議として放棄した。いまや平和の時代となり、経済は復興したが戦争の悲惨と虚しさは私たちの胸を去らず、帰らぬ人のことを思ひ続け悲しみを抱いて三十餘年、事件の謎は今なほ解けず、船体の引揚げ遺骨の拾集も実行に移されないままである。
 三十三回忌に当り、悲憂を文に記し世に訴へるとともに、法要の心とするものである。
 昭和52年4月1日 
 阿波丸事件犠牲者 遺族一同

納骨
 犠牲者等の遺骨は中国の手により引揚げられ、日本政府派遣の遺骨受領訪中団に引渡された。阿波丸遺族会代表はこれに参加し、かつ分骨をうけ、納骨供養を営んだ。遺骨の拾集は遺族の三十五年の永きに渉る悲願であり、これが実現に尽力された中国の関係者に対し、衷心より感謝をおくる。
 昭和54年 7月5日 納骨
 昭和55年 4月1日 納骨
 昭和56年5月29日 納骨
  阿波丸遺族会


昭和52年10月1日
青木一男著

この慰霊碑は犠牲者の遺族をはじめ、故人がもと所属していた団体及先輩知人、知己並びに親戚等の、多大の協力を仰ぎ完成したものである。

芝の増上寺

殉職救護員慰霊碑と看護婦立像(日本赤十字社)

令和元年9月撮影

港区芝大門の日本赤十字社本社前庭に。

慰霊碑には明治27年の日清戦争から第二次世界大戦において戦時救護に服し、殉職した1317人と、関東大震災や集中豪雨災害などの際の救護による殉職救護員9人の合計1326人の名簿と各人の功績を収録した「遺芳録」が納められている。

合掌

殉職救護員慰霊碑
 この慰霊碑及び救護看護婦立像は、日本赤十字社創立以来、戦地或いは災害の現場において救護活動に従事し、このため殉職された救護員の方々の御霊の安らかならんことを願い、創立百周年行事の一環として昭和52年に建立されたものです。
 立像は、元東京芸術大学教授 菊池一雄氏 の彫塑によるものです。
  日本赤十字社

http://www.jrc.or.jp/activity/international/news/140815_002057.html

寺内正毅像台座跡と三宅坂

令和元年9月

現在の三宅坂小公園 (東京都千代田区隼町4)
最高裁判所付近にある三宅坂交差点の三角エリアの公園

立派な台座の上には 「3人の裸婦像」銅像が建っている。
アンバランスな台座と銅像。
それもそのはず。
もともとこの台座は「陸軍元帥」のためのものであった。


寺内正毅像台座跡
 現・広告記念像(平和の群像)

大正12年(1923年)5月建立。
ここには北村西望作「寺内元帥騎馬像(寺内正毅像) 」があった。
しかし、戦時下体制の昭和18年(1943年)の金属供出により撤去され鋳潰される。

戦後、1950年に 株式会社日本電報通信社 が創立50周年を記念して3人の裸婦像を設置。
3人の裸婦は、それぞれ愛情・理知・平和を表現しているという。この像をきっかけに全国各地で「平和の象徴=裸婦、平和祈念の像=裸婦像」の図式ができあがったとされている。

なお、台座は「寺内正毅像」時代から「裸婦像」に変わった際に、半分ほどの高さに削られている。威風堂々とした軍人騎馬像を見上げる時代は終わり、裸婦像が平和を訴える時代へと変遷したのだ。

 広告がわが国仁平和産業と産業文化の発展に貢献した事績は極めて大きい。わが社は昭和25年(1950)7月1日その創立50年を自祝し過去半世紀を回顧してこれを記念するに当り、平和を象徴する広告記念像を建設して東京都民に贈り、広告先覚者の芳名を記録してその功労を永久に偲ぶこととした。
 西暦1950年 
 株式会社 日本電報通信社

(略)

     建設者 株式会社日本電報通信社
            社長 吉田秀雄
     制作者 菊池一雄
     鋳造者 伊藤忠雄
     施工者 松井建設株式会社


寺内正毅

1852年2月24日‐1919年11月3日
銅像は寺内正毅没4年後に建立

長州出身
元帥陸軍大将
第7代陸軍大臣、第18代内閣総理大臣、第19代大蔵大臣、初代朝鮮総督などを歴任。「ビリケン宰相」の異名を持つ。
日露戦争時(第一次桂内閣)の陸軍大臣。(児玉源太郎の後任)


北村西望作品 > 寺内正毅元帥騎馬像

http://hiharada.web.fc2.com/40/4081.html


三宅坂

江戸時代には三河国田原藩・三宅家の上屋敷があったことから「三宅坂」と呼称されてきた。
この三宅坂に沿って三宅家があり。そして現在の国会前庭や憲政記念館のあるあたりには彦根藩井伊家上屋敷があった。

明治期に井伊家・三宅家の屋敷用地は新政府の手に移り、そして陸軍中枢の「陸軍参謀本部」「陸軍省」などが置かれる。

いつしか「三宅坂」といえば「陸軍参謀本部」を指す代名詞となっていたが、開戦の昭和16年(1941年)12月に、陸軍省・参謀本部・教育総監部・陸軍航空総監部が三宅坂から市ヶ谷台に移転している。

寺内正毅像のあった場所は、田原藩上屋敷跡にして渡辺崋山誕生の地。
寺内正毅像の後方は「 陸軍航空本部 」があったという。現在は最高裁判所。

奥に国会議事堂が見える。
三宅坂の交差点

場所

今昔マップにて位置関係を。

青線で囲った場所が「寺内正毅像」のあった場所。

戦没学友の碑(一橋大学)

令和元年9月参拝・国立市

一橋大学「佐野書院」。
ここに2000年に建立された慰霊碑がある。

佐野書院は東京商科大学初代学長佐野善作氏が私邸を大学に寄付したことにはじまる建物。現在の建物は平成6年改築。

訪れたときは施錠されておりましたので、敷地外より遥拝させていただきました。


戦没学友の碑

第二次大戦戦没学友800余名を偲びて

還らざる学友よ 
君たちの志は
ここ国立に 
永遠に生き続ける

平成12年(2000年)4月建立
800余名の一橋大学(旧・東京商科大)戦没学友を祀る。

合掌

一橋大学佐野書院

https://goo.gl/maps/rcvKkSVWxfCtPPT88

一橋大学の近代建築群は別の記事にて。

興亜神社(亜細亜大学)

令和元年九月参拝・武蔵野市

友人より「亜細亜大学に興亜神社という神社があって・・・」と貴重な情報を耳にしたので、足を運んでみました。

興亜専門学校から亜細亜大学へ

昭和16年(1941)に設立された旧制専門学校。亜細亜大学の前身。

昭和16年4月財団法人興亜協会が創設。
同時に協会付属の専門学校として「興亜専門学校」が現在地に設立。
「大東亜共栄圏」建設のための有為な人材を養成する目的として開校。

終戦後の昭和20年9月25日に開かれた興亜協会理事会で「財団法人興亜協会」は「財団法人日本経済専門学校」となり「興亜専門学校」は「日本経済専門学校」と改称。
興亜専門学校大陸科と南洋科は廃止され、内地科を拡充した経済科が設置。その後、亜細亜大学へと変遷する。


亜細亜大学武蔵野キャンパス
体育館と8号館の裏にひっそりと佇む神社があった。

興亜神社

興亜専門学校(亜細亜大学)の戦没者97柱を祀る。
毎年11月3日に例祭が斎行されている。
例祭は同じ武蔵野市内の杵築大社の神職が御奉仕されている。

神社敷地は施錠されておりましたので、敷地外より遥拝。
施錠が日曜日だからか、普段からなのかは不詳。
敷地外より撮影。

戦没校友銘
97柱の御名と戦没地が記銘されている…

合掌


せっかくなので亜細亜大学構内を散策すると、なにやら銅像が目にとまる。

太田耕造初代学長胸像

太田耕造先生 岸信介 書
自助協力 大田耕造 書

大田耕造
1889年(明治22年)12月15日-1981年(昭和56年)11月26日
亜細亜大学の創立者のひとり。

東京帝国大学法学部英法科卒業の弁護士として活躍。
一方で平沼騏一郎主宰の国本社に参加し幹事を務める。
五・一五事件、血盟団事件にて被告弁護士。
1939年(昭和14年)1月発足の平沼騏一郎内閣では首相秘書官を務め同年4月には内閣書記官長(現在の官房長官相当)に就任。平沼内閣総辞職直前に貴族院勅選議員に勅任。公職追放される1945年まで貴族院議員。
1941年(昭和16年)興亜専門学校設立に関与。
1945年(昭和20年)鈴木貫太郎内閣では文部大臣を務める。
戦後は戦犯容疑を問われ巣鴨プリズンに勾留されるも不起訴出所。
その後は興亜専門学校の後進である亜細亜大学学長として活躍。
墓所は多磨霊園。


興亜神社
(亜細亜大学サイトより例祭の様子など)
例祭では、「海ゆかば」「第一学生歌」を献歌として斉唱しているという。

https://www.asia-u.ac.jp/information/campusmap/#anchor80

https://www.asia-u.ac.jp/asu_news/2018/11/6187/

明治天皇荻窪御小休所と西郊ロッヂング(荻窪)

平成30年9月撮影

荻窪駅から東に歩く。駅から3分ほどの地に唐突に和風建築が見えてきた。

明治天皇荻窪御小休所

明治天皇荻窪御小休所
昭和11年11月建設
史蹟名勝天然記念物保存法ニ依リ史蹟トシテ昭和九年十一月文部大臣指定

明治1 6年4月1 6日、飯能の近衛師団演習御統監のために名馬金華山号で演習地に向かう途上に御小休された聖蹟。
明治天皇聖蹟として昭和9年に文部省より史跡指定されたが、敗戦後に史跡解除。文化財としての再申請は行われていない。

武家長屋門

当地の名主中田家が鷹狩に際して第11代将軍徳川家斉を迎えていたという長屋門。青梅街道旧道に位置していたが、昭和62年のビル建築にあたり現在地に移築。

格別な説明はないけど、こちらが「御小休所」の建屋。 かつては茅葺きであったという。名主中田家の離れ。

史蹟境界標石

史蹟
指定區域境界
文部省・東京市

文部省・東京市連名の史蹟境界石。
初めて目にしました。
さきほどの碑の建設時期と一緒であるなら昭和11年でしょうか。
3つありました。

さらに東に歩くと、レトロな建物が。

西郊ロッヂング・旅館西郊本館

「本館」は昭和6年(1931)建設。
「新館」は昭和13年(1938)建築。

現在、本館は「旅館西郊(せいこう)」として営業。新館「西郊ロッヂング」は当所は下宿であったが、2001年に改装して現在は賃貸住宅として活用されている。

2009年11月
「旅館西郊本館」及び「西郊ロッヂング」は国の登録有形文化財に登録された。

参考

https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/173182

https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/145141

場所

明治天皇荻窪御小休所

https://goo.gl/maps/QiacJC4f5SXAzNzj6

明治天皇荻窪御小休所の後ろのビル(藤澤ビル)にはアメックス(アメリカン・エキスプレス)の日本オフィスがある。ビル建設に当たり、現在の御小休所と長屋門は移築が行われたという。

https://goo.gl/maps/3GL1SKnKz6JGKh4Y9

高島秋帆と高島平(火技中興洋兵開祖)


高島秋帆 (たかしま しゅうはん)

江戸時代末期の砲術家
高島流砲術の創始者(流祖)
火技之中興洋兵之開祖

寛政10年(1798)の生れ。先祖は近江国高島郡の武士。
高島四郎太夫、諱は茂敦、字は舜臣、通称は糾之丞、秋帆と号す。贈正四位。

文化11年(1814)に父の跡を継ぎ長崎会所調役頭取に就任。日本砲術と西洋砲術の格差に愕然とし出島のオランダ人を通じて洋式砲術を学ぶ。
天保5年(1834)に私費を投じて銃器を揃え高島流砲術を完成。
天保6年(1835)には自作第一号の大砲(青銅製モルチール砲)を完成。
天保12年(1841)、武蔵国徳丸ヶ原(現在の高島平)にて、日本初の洋式砲術と洋式銃陣の公開演習を行った。この結果、高島秋帆は砲術専門家として幕府に徴用され、老中阿部正弘から「火技中興洋兵開祖」と称賛された。
しかし天保13年(1842)に、長崎会所の杜撰な運営の責任者として長崎奉行に逮捕投獄される。
嘉永6年(1853)、ペリー来航(ペルリとも呼称)による社会情勢の変化により赦免され出獄。
その後は幕府の砲術訓練指導に尽力。
慶応2年(1866)に69歳で死去。


高島平

当地はかつては徳丸ヶ原と呼称されてた。
江戸時代は、荒川の後背湿地であり幕府の鷹狩場に指定された荒地。

天保12年(1841)
砲術家 高島秋帆 が「徳丸ヶ原」にて日本で初めてとなる洋式砲術と洋式銃陣の公開演習を行った。

昭和40年代に当地域の再開発がはじまり、昭和44年に板橋区によって「高島秋帆」に因む町名「高島平」が採用された。


高島秋帆先生紀功碑

東京都板橋区「松月院」境内。
大正11年(1922)落成。
陸軍省より下付された高島秋帆ゆかりの「安政4年(1857)鋳造の銅製二十四斤加農砲砲身」を中心に、東京砲兵工廠にて鋳造された「火焔砲弾4発」などの付属品を配置した記念碑。 砲術訓練を行った際の本陣跡に設けられた。

高島秋帆先生紀功碑

 この紀功碑は、別名火技中興洋兵開祖碑とも呼ばれ、ここ松月院に本陣を置き、徳丸原で日本最初の本格的な西洋式砲術を指揮した、高島秋帆 を顕彰する目的で大正十一年十二月六日建立された記念碑である。

 高島秋帆は、寛政十年長崎町年寄の名家に生まれ、長じて出島のオランダ人より西洋の砲術 を学んだ。天保十一年、中国清国と英国との間で阿片戦争 が勃発し、西洋の進んだ軍事技術に清国が大敗すると、その危惧が日本に及ぶことを恐れた高島秋帆は、天保上書を幕府に上申、日本の従来からの砲術技術の変革を唱え、西洋列強諸国に対する防備の一環としての西洋式軍事技術の導入を説いた。

 天保十二年五月七日〜九日までの三日間、高島秋帆は赤塚の朱印寺として名高い松月院に本陣を置き、門弟一〇〇名と起居を共にしながら、現在の高島平、徳丸原にて洋式砲術調練を公開し、世にその名声を得たが、間もなく讒言にあい永牢に繋がれた。

 嘉永六年夏、十一年に及ぶ幽閉を解かれた高島秋帆は、江戸幕府の肝いりで講武所を開設し、支配及び師範に出仕し幕府あるいは諸藩の西洋式軍事技術普及に貢献した。慶応二年正月江戸小早川にて六十九歳の生涯を閉じた。日本陸軍創設者の一人として名高い。

 紀功碑は、安政四年に鋳造された銅製二十四斤加農砲を砲身に火焔砲弾四発を配した大理石製の台座にのせた特異な形をとり、砲術に長けた高島秋帆を象徴する。総高六メートル。

平成26年度区登録文化財

火技中興洋兵開祖
 正二位勲一等 文学博士
 男爵 細川潤次郎 書

贈正四位高島四郎太夫先生 諱は茂敦 字は子厚 秋帆と号す。長崎の人なり。夙に内外の形勢を洞察して本邦兵制の革新せさるへからす。火技戦法の採用せさるへからさるを悟り私財を損てて新様の鉄砲を購ひ門人に教ふるに洋式の操練を以てせり。(略)

天皇皇后両陛下御下賜金貳百圓
(略)

紀功碑用砲身 陸軍省下付
紀功碑架台及付属品 東京砲兵工廠
(略)
着手 大正十一年六月十四日
落成 大正十一年十二月六日
(略)


萬吉山 宝持寺 松月院

高島秋帆先生紀功碑のある「松月院」

東京都板橋区赤塚鎮座。曹洞宗の寺院、山号は萬吉山。
房総の千葉自胤が康正2年(1456)に千葉市川から当地の赤塚城に移り(武蔵千葉氏)、1492年に当地の宝持寺を菩提寺として定め、松月院と改称したことにはじまるという。
幕末に高島秋帆が砲術訓練を行った際に、境内に本陣を設けている。
明治期には一時期、旧赤塚村役場が境内に設置されていた。

紀元二千六百年記念
昭和十六年五月竣成

新東京八名勝
赤塚 松月院

新東京八名勝は1932年に東京市が拡大されたことを記念し報知新聞社が企画したもの。松月院は第五位。

  • 池上本門寺(大森区)
  • 西新井大師(足立区)
  • 北品川天王社(品川神社)(品川区)
  • 日暮里諏訪神社(荒川区)
  • 赤塚松月院(板橋区)
  • 目黒祐天寺(目黒区)
  • 洗足池(大森区)
  • 亀戸天神(城東区)

伝千葉一族の墓
 松月院は、康正2年(1456)に下総国での戦いに敗れ、市川城から武蔵国の赤塚城・石浜城へと移った千葉一族の菩提寺です。また、この墓も同一族を弔ったものと伝えられています。
 当墓については、文化9年(1812)に斉藤幸孝が記した『赤塚紀行』に挿絵入りで記されるなど、当時から広く知られていました。
 向かって中央右側にあるものが千葉介自秀の墓とされ、松月院殿南州玄参大禅定門の法名と、永正3年(1506)6月23日の忌日が刻まれています。この墓碑については、すでに江戸時代の段階で後世に造立されたものと指摘されています。また、松月院ではこれを開基檀越である千葉自胤の墓碑としており、文化文政期(19世紀前半)に成稿した地誌、『新編武蔵風土記』でも墓銘にある自秀は自胤を誤記したものとしています。
 左側には比丘尼了雲の宝篋印塔があります。『赤塚紀行』では、これを自秀室の墓としていますが、時代的にはそれ以前の、元徳元年(1329)の年号が刻まれています。これは、区内最古の墓碑であり、境内の発掘調査成果と合わせて、武蔵千葉氏が当地に移る以前の段階で、当所に寺院が存在していたことを証明する貴重な資料となっています。
 平成22年3月
 板橋区教育委員会

下総を追い落とされた武蔵千葉氏一族の墓。
千葉自胤(よりたね)は武蔵千葉氏2代目当主。千葉一族の勢力争いに破れ下総に帰還することなく、子孫は武蔵国人に転落。

高島平駅からバス、もしくは成増駅からバスで。赤塚8丁目バス停下車。


徳丸ヶ原碑(徳丸原遺跡碑)

高島平駅すぐ近くの「板橋区立 徳丸ヶ原公園」
もともと新高島平駅ちかくの弁天塚に1922年に建立されていた「徳丸ヶ原碑」が1968年に現在地に移転。
1841年に高島秋帆による西洋式砲術調練が行われた徳丸ヶ原を記念する石碑。

徳丸原遺跡
此より北荒川に至る南北一千米突東西約二千米突の地域は古の所謂徳丸原なり天保十二年五月高嶋四郎太夫先生が幕府の命を承けて門人百餘人を指揮し始めて洋式の歩砲兵隊操練等を行ひし處とす
 大正十一年六月
   高島秋帆先生紀功碑建設首唱者

扁額は徳富蘇峰の筆。

徳丸ヶ原 
 東京都旧跡(大正9年) 
 区登録記念物(昭和60年度)

 高島平・三園・新河岸一帯は、江戸時代徳丸原とよばれ、台地寄りに水田がありましたが、荒川寄りには近在の村々の入会地として秣や肥料のための草刈場が広がっていました。
 当地は、当初幕府の鷹場でしたが、のちに鉄砲稽古場として大砲や鉄砲の稽古が行われるようになりました。天保12年(1841年)には、5月7日~9日の3日間にわたり、長崎の町年寄高島秋帆によって初めての西洋洋式砲術調練が行われました。
 秋帆は、弁天塚(現、新高島平駅)付近に陣を構え、門弟らに筒袖上衣に裁着袴、頭には黒塗円錐形のトンキョ帽と言う兵装束をさせて、砲兵・騎兵・歩兵の三兵による銃陣を行いました。この時の演習の様子は、区立郷土資料館で所蔵する「高島四郎太夫砲術稽古業見分之徳丸図」に描かれています。
 明治時代になると、徳丸ヶ原は民間に払い下げられ開墾が行われ、最終的には約4百ヘクタールの徳丸田んぼ、赤塚田んぼと呼ばれる一大水田地帯が出現しました。
 昭和40年代となると、東京周辺の住宅難の解消を目的に開発が行われ、高層団地や地下鉄の建設、住宅地の分譲が進められて現在の街が形成されました。 高島平の地名は、当地で砲術訓練を行なった高島秋帆にちなんで付けられたものです。
 平成25年3月
  板橋区教育委員会


東京都文京区向丘(白山駅近く)に鎮座する大円寺に高島秋帆の墓がある。
(出生の長崎市にも高島家墓地あり)

高島秋帆墓

国指定史跡
高島秋帆墓
 (江戸時代の砲術家 1798-1866)
 文京区教育委員会 

戦災で被災した墓石は傷つき、かろうじて「高」の字のみを残していた。

史跡 高島秋帆墓

大円寺は「ほうろく地蔵」で有名。


場所は変わって川口市。

18ポンドカノン砲(復元)

鋳物の町・川口。
川口の鋳物師・増田安次郎が高島秋帆と協力して作ったという大砲=18ポンドカノン砲を増田安二郎から連なる増幸産業株式会社が復元している。

18ポンド カノン砲
 この大砲は幕末の嘉永5年 (1852年)に津軽藩により依頼を受けた増田安次郎が、後に砲術奉行を務めた高島秋帆とが協力して作り上げた18ポンドカノン砲の復元品です。当時は製作不可能とされていた大型砲で、1857年までの5年間に213門の大砲と41323発の砲弾が製造され、全国各地に配備されました。
 幕末の日本近海にはロシア、イギリス、フランス、アメリカ等の異国船(黒船)が来航し、鎖国していた日本に対し強く開国を迫りました。脅威を感じた幕府は文政8年(1825年)に「異国船打ち払い令」を発布。その後江戸の台場をはじめ各地に砲台を作り警戒するようになりましたが、当時はまだ大砲もろくにない状態で打払いできる力はありませんでした。その頃、攘夷思想盛んな水戸、薩摩、長州、土佐の各藩では、海防のための大砲作りを必死に行なっていましたが、高性能な大砲を作るには至らず、そのため当時大砲作りで名のあった川口の鋳物師 増田安次郎が作ったものが多く用いられました。その性能は群を抜いており「増田安次郎」の銘は高性能砲の証、ブランドだったのです。後に高島秋帆より「増田氏は国家の干城なり」という褒状を授与されました。
全長:3.5m、重量:3トン、口径:15センチ、射程距離:2500m
材質:青銅砲、弾丸:炸裂弾

武州足立郡川口
鋳物師増田安二郎

嘉永壬子五年仲春

高島秋帆が増田安二郎に送った褒状が、川口市立文化財センターのサイトに掲載されている。
「国家干城可也」の一文がある。

http://www.kawaguchi-bunkazai.jp/center/bunkazai/CulturalProps/bunkazai_031.html

また、増幸産業株式会社様のサイトにも「大砲の歴史」がまとめられている。

http://www.masuko.com/company/taihou.html

川口の戦跡などはこちらにて


さらに場所はかわって深谷市。渋沢栄一で盛り上がっている街へ。

高島秋帆は、岡部藩(現在の深谷市)に11年間、幽囚されていた。
そして深谷市の北部には、渋沢栄一の出身地である血洗島があった。

高島秋帆幽囚の地

天保13年(1842年)、長崎会所の責任者としての不備を問われ長崎奉行によって逮捕投獄。讒言であったという。
囚われた高島秋帆は武蔵国岡部藩にて幽閉される。
幽閉中であっても、洋式兵学の必要を感じた諸藩は秘密裏に高島秋帆に接触し教わっていた、という。
嘉永6年(1853年)、ペリー来航による社会情勢の変化により11年にわたる幽閉がとかれ赦免出獄している。

高島秋帆幽囚の地
 高島秋帆は、寛政10(1798)年、長崎の町年寄の家に生まれた。名は茂敦といい、通称は四郎太夫、秋帆は号である。父の跡を継ぎ、町年寄や鉄砲方を勤めるかたわら、広く蘭学を修め、特にオランダ人を通じ、砲術を研究し、西洋式の高島流砲術を創始した。天保年間には、欧米のアジア進出の危機に備えて、砲術の改革を幕府に進言するなどした。天保12(1841)年、秋帆44歳のとき、幕府の命により、江戸近郊の徳丸ヶ原(現在の東京都板橋区高島平)で西洋式の調練を実施し、西洋式の兵術・砲術を紹介した。
 その結果、幕府は幕臣にも西洋式の兵術・砲術を学ばせることとなり、伊豆韮山の代官、江川太郎左衛門をはじめ、多くの幕臣が彼のもとに入門した。しかし翌13(1842)年、秋帆は中傷により獄に投ぜられ、弘化3(1846)年から赦免される嘉永6(1853)年まで岡部藩預かりの身となった。
 現在地は、当時の岡部藩陣屋の一角であり、この石碑の立つ場所に秋帆は幽囚されていた。岡部藩では客分扱いとし、藩士に兵学を指導したと伝えられている。その後、江川太郎左衛門ら、秋帆の門人たちは幕府に願い赦免に尽力、ついに嘉永6(1853)年、ペリー来航と共に幕府は近代兵学の必要性に迫られたことから急きょ秋帆を赦免した。
 この後、秋帆は幕府に仕え講武所教授方頭取、講武所奉行支配などをつとめ、慶応2(1866)年、69歳で没した。日本の西洋式兵学の先駆者である。
 平成3年3月
  埼玉県
  深谷市

http://www.city.fukaya.saitama.jp/soshiki/kyoiku/bunka/digitalmuseum/jinbutsu02/1487555460716.html

http://www.city.fukaya.saitama.jp/ikkrwebBrowse/material/files/group/76/takashimasyuuhan.pdf

岡部藩について
 岡部藩は、天正18年(1590)徳川家康の関東入国に際して、家臣の安部信勝が武蔵国榛沢郡岡部などを拝領した計 5,250 石を基に発展しました。
 信勝の遺領を受け継いだ嫡男・信盛は、上杉景勝討伐や大阪の役で功を挙げ、大番役などの役職を勤めました。江戸幕府初期のこの間、寛永 13 年(1636)に三河国内 4,000 石加増、次いで慶安2年(1649)摂津国内に 10,000 石を加増されて信盛は大名となりました。
 その後、所領高 20,250 石となった岡部藩は、現在の深谷市岡部を本拠地にしながら、摂津国桜井谷(現在の大阪府豊中市)や三河国半原(現在の愛知県新城市)に当地よりも大きな所領を有し、これを分割統治して幕末まで続きました。安部家は、江戸時代の全期間を通じて、移封・転封なく、岡部藩を治め続けたのです。
 慶応4年(1868)に最後の藩主となった信発は、半原へ本拠移転を願い出て半原藩となり、岡部藩の歴史は幕をおろすこととなったのです。

http://www.city.fukaya.saitama.jp/ikkrwebBrowse/material/files/group/76/okabehann_leaflet.pdf

秋帆先生幽囚之地

陸軍中将渡邊金造、昭和14年2月建立。

国道17号の岡部北交差点に、案内標石がある。

高島秋帆が捕らえられていた岡部藩陣屋と、渋沢栄一の出身地・血洗島の位置関係。4キロほどしか離れていないのだ。


以上、高島秋帆に関わるあれこれ、でした。

佐世保海軍墓地

平成28年(2016)7月撮影

佐世保市の「東公園」(「東山公園」)
「佐世保東山海軍墓地」「佐世保旧海軍墓地」「東山旧海軍墓地」

平成28年7月。
実は嫁さんが旧佐世保海軍墓地を詣でておりました。(私は未訪問です。)
以下、嫁さん撮影写真をベースに、佐世保ゆかりの海軍艦艇の慰霊碑を展開をしてみようと思います。

※現地(佐世保海軍墓地)の写真は、嫁写真を拝借です。
※私自身は佐世保海軍墓地は未訪。
※文責は私にあります。

佐世保海軍墓地

明治22年(1889)7月1日佐世保鎮守府開庁とともに区画整備がはじまり、明治25年10月2日から軍人軍属の埋葬がはじまったという。
終戦後は、佐世保市の所管となり墓地を中心とした「東公園」として再整備。 現在は合葬碑62基・個人碑437基、そして御英霊約17万6千余を祀っている。

佐世保旧海軍墓地案内図
 この墓地は、天神山の北麓、東山町に位置し、敷地面積は約2万8000平方メートル(8.763坪)あります。終戦までは旧海軍の所有地でしたが、終戦後は、種々の経緯を経て佐世保市有地となっています。
 各墓碑は、主として旧佐世保鎮守府管下の九州・四国・沖縄各県の出身者のもので、明治25年の初埋葬以来、国難に殉じた旧海軍の軍人・軍属の英霊約17万余柱を祀った墓地となっています。また、域内には各艦船ごとの慰霊碑や東郷平八郎元帥像なども建立されています。

著名なる英霊碑
日清戦争の勇敢なる水兵 三浦 虎次郎
旅順港閉塞隊 江戸丸指揮官 高柳 直夫
美しき天然の作曲者 田中 穂積
旅順港閉塞隊の勇士 杉野兵曹長
赤城艦長 坂元 八郎太
明治陸軍一等卒 箱山 善之助
ドイツ水兵三等機関兵 シュミット

慰霊殿(礼拝殿)

昭和46年3月8日建立

東郷平八郎元帥像

墓園入口から拡がる慰霊祭式場の広場、その奥には「慰霊殿」、そして広場に面して「東郷平八郎像」。

東郷平八郎は明治32年に佐世保鎮守府司令長官。
明治38年に連合艦隊司令長官として日露戦争バルチック艦隊に勝利。
凱旋時に旗艦三笠は佐世保港内で発生した爆発事故で一度沈没している。

戦没者を追悼し平和を祈願する
佐世保東山海軍墓地保存会

 東郷平八郎元帥は、明治16年、第二丁卯の艦長として佐世保港の調査測量に来港され、佐世保開港に大きく寄与されるとともに、明治32年には、第7代佐世保鎮守府司令長官として佐世保港の整備充実に力を尽くされました。又その後明治38年には連合艦隊司令長官として勤務する等、極めて当市に縁の深い武人であり、その人格、識見は、国内のみならず、広く世界に「アドミラルトーゴー」として名声を広め、尊敬されている歴史上の人物でもあります。
 戦後40数年、日本の平和と繁栄は、ようやく安定し、わが佐世保市も観光立市を目指してその貴能はますます充実しているところであります。
 「みなと佐世保」の象徴として同氏の遺徳を偲び、国民教育のシンボルとして銅像を建立いたしました。
 平成5年5月
 東郷平八郎元帥銅像建立期成会
 会長 中村克介

海の防人之碑

礼拝殿の隣に。
海軍から海自に至る海に殉じた御霊を慰霊顕彰した碑としては、戦後初めての碑という。
平成15年5月17日建立

碑文
この碑は、明治22年日本海軍佐世保鎮守府開設以来、崇高な使命に殉じられた日本海軍将兵軍属の御霊を、そして昭和28年海上警備隊佐世保地方隊発足以来、志半ばにして職に殉じられた海上自衛隊隊員の御霊を、共にお慰めしその功績を称えるため、佐世保市制百周年並びに海上自衛隊創設50周年の平成14年に発起、海軍の英霊が眠るこの地に建立するものであります。
 平成15年5月17日

佐世保総監 谷川清登 海将揮毫
(海軍時代は雷航海長・嵐水雷長・横須賀航空隊教官で終戦・海軍少佐)

隣の錨は「護衛艦ちくご主錨」平成8年4月除籍。

錨台座の赤レンガは明治40年台に帝国海軍が建設した佐世保倉島倉庫に使われていた壁材の一部を使用という。

錨の由来
この錨は護衛艦「ちくご」の主錨です。
護衛艦「ちくご」は、ちくご型護衛艦として 三井玉野造船所で建造され、昭和45年7月就役、平成8年4月除籍されるまでの間、主として「みくま・いわせ」と共に佐世保を母港とした当時の第34護衛隊の一艦として活躍しました。
なお、台座の赤レンガは海上自衛隊佐世保基地業務隊のL字型倉庫(明治41~44年頃日本海軍が建築)に使われていた壁材の一部であります。
海上防衛顕彰碑建立委員会

大東亜戦争戦役者慰霊塔

昭和32年5月13日建立

戦後、忠魂碑建立に制限がかかるなかで遺骨を旧海軍墓地で埋葬して欲しいという申し出などが多く昭和24年に納骨所建設。
昭和31年に慰霊塔建立が決まり昭和32年竣工。
納骨所約4万余柱の遺骨分骨や13万余柱の戦没者芳名録が慰霊塔塔内に格納されている。

この塔は佐世保鎮守府所属ならびに同府関係海軍軍人軍属にして、日華事変及び大東亜戦争において戦没した13万余柱の英霊を慰め、その功を顕彰せんとするものである。
これらの軍人軍属はこの地において海軍の教育訓練をうけ、夙に有数の精兵練達者の域に達していたものであるが、事変戦争に際しては、身を挺して救国の難に赴き、南溟朔北の空に地に戦って散華した。
戦い終わって十余年往時を追想してその面影を偲べば、哀惜の情ことに切々たるものがある。
仍って、われら九州四国の海軍復員者ならびに有志は、縁深きこの地を卜として一塔を建て、戦没者の遺骨と芳名録とを安置収納して永く後世に伝えんとするものである。
 昭和32年5月
 大東亜戦争戦没者慰霊塔建立期成会

東公園休憩所

墓地管理人さんとのおはなし。
ちょうどこの日(平成28年7月6日)、佐世保海軍墓地に居た墓地管理人さんのお父様が空母「加賀」乗組の生き残りの方であったという。
「加賀」沈没後は「榛名」乗艦しガダルカナル島・ヘンダーソン基地艦砲射撃作戦にも参戦したという。その後は海防艦などの乗組をへて終戦。
そして御子息は、今は「加賀」や「榛名」の慰霊碑を見守る管理人さんとして聖域を守っていらっしゃった。

個人墓

左右に軍人軍属の個人墓が立ち並んでいる。
砲弾は定遠のものという。

今回撮影データはないが、ここ佐世保には旅順閉塞隊勇士の杉野兵曹長や日清戦争での勇敢なる水兵(三浦虎次郎)などの墓もある。


艦船慰霊碑

戦艦 金剛 戦没者慰霊碑

昭和47年11月21日建立
金剛型戦艦1番艦「金剛」

捷一号作戦・レイテ作戦(サマール沖海戦)後の昭和19年11月21日、修理のため内地へ回航中、台湾北方海面において敵潜水艦(シーライオン)の魚雷攻撃により沈没。
生存者は約250名。
艦と運命を共にした第三戦隊司令官鈴木義尾中将、艦長島崎利雄少将以下1250名を祀る。

戦艦 榛名 戦没者慰霊碑

昭和56年11月8日建立
金剛型戦艦3番艦「榛名」

各作戦を戦い抜いた武勲艦「榛名」。
昭和20年に呉鎮部隊警備艦となり呉工廠に係留。3月19日の米軍艦載機攻撃で被弾、6月22日にも被弾。江田島小用沖に転錨したが7月24日28日の呉大空襲で大破着底。
榛名乗組の戦死者135名を祀る。

建立の記
忠誠を誓い熾烈なる愛情を捧げた国家そしてこの象徴こそ我等が戦艦榛名であった
平時にありては海上兵力主力の一艦として重きをなし 昭和16年12月大戦開始と共に佛印及びボルネオの上陸支援作戦を緒戦として 南支那海遠くは印度洋を制圧 更にその高速を利して急遽中部太平洋ミッドウェー海戦と息つく暇なき連戦であった
そして南太平洋 就中ソロモン群島要衝を巡る彼我の攻防は今次戦局の帰趨を決するとして凄絶を極めた
10月半ば第3戦隊榛名、金剛は敵拠点ガダルカナル島挺身攻撃の命下る
暗夜漆黒の海ソロモンの島を縫って目的地に近接 ガ島飛行場に対し榛名は実に36糎主砲483発、副砲21発の砲弾を浴びせ三斉射目にして天をも焦す大爆発誘爆を起し 一面火の海と化せしむる大任を全うした
戦況次第に緊迫の度を深め南太平洋海戦・ア号作戦と南北半球を往復すること幾度か その神出鬼没の行動と沈着果敢な奮戦は大いに敵を震撼せしめたのである
昭和19年10月 日本海軍がその命運をかけた捷一号作戦の令下るや 直ちにブルネイの基地を出撃した我等主力は比島ミンドロ島北方より海峡を東進する
制空権既になく敵大編隊の波状攻撃実に十数回に及ぶ
一艦又一艦が消える
被弾し戦列を離れる艦が続出漸くにして比島東方海上に到達すると同時に敵艦隊と遭遇忽ち対空対水上の死闘が繰り広げられた
その間 空母1を撃沈
榛名又凄まじい闘魂を漲らせ言語に絶する苦闘の3日間を戦い抜いたのである
内地に帰投した榛名は間もなく第2艦隊より除かれ錨地を小用沖に移し本土防衛に任じたるも執拗なる敵機大小延240機の来襲により 昭和20年7月28日午後5時過ぎ 遂に被爆着底す
秀麗榛名の山にあやかり天運を恵与された榛名 曽ては御召艦の栄を担いよく勇戦奮闘 日本海軍の誇りを全うした光栄あるその30年の歴史を閉じたのである
来るべきの日を既に直感しながら後に続くを渇望し雄々しくも海に散華せし榛名桜
そして互いに愛国の至情に燃え艦と共に戦い生存せし我等
その運命の深遠を追憶し遥に港を望むこの台地に碑を建て 永劫の鎮魂顕彰の場として心からなる慰霊の誠を捧ぐ

英魂 とこしえにこの聖地に眠れ 合掌

 昭和56年11月8日
 戦艦榛名生存者有志一同
        遺族一同

戦艦 霧島 戦没者慰霊碑

昭和56年11月8日建立
金剛型戦艦4番艦「霧島」
霧島神宮宮司小久保光雄謹書

昭和17年11月14日、第三次ソロモン海戦にて米戦艦ワシントンのレーダー射撃により航行不能となる。 救難手段を講じるも効果なく11月15日午前1時25分沈没。
艦と運命を共にした将兵は212名であった。

碑文
巡洋戦艦霧島は明治42年3月17日長崎三菱造船所に於て起工
大正4年4月19日進水
第一次第二次の大改装を経て沈没時その主なる要目次の如し
全長219.61米常備状態に於ける屯数36601屯最大速力30.5ノット航続距離18ノットにて1万浬乗員1430名兵装主砲36糎砲8門副砲15糎砲14門その他高角砲機銃及水偵3機搭載す
昭和5年10月26日神戸沖特別大演習観艦式には御召艦の光栄に浴し大東亜戦争中旗艦比叡と共に作戦に従へり
(艦長山口次平大佐後少将)
昭和17年11月12日ガダルカナル飛行場砲撃の為ルンガ沖に突入せり
此の時比叡は敵の集中砲火を受け舵機故障航行不能となりたる処更に米軍機の雷爆撃を受け13日1305サボ島沖に自沈す
明けて14日第2艦隊に合同の命を受け霧島は長官近藤信竹中将の指揮下に入り旗艦愛宕を先頭に高雄長良川内他駆逐艦6隻と共に再度ガダルカナル飛行場砲撃を企図し突入せんとしたるもその南西方向を西航する米戦艦ワシントン及サウスダコダの2隻を発見之と交戦初弾よくサウスダコダをして戦列を離脱せしむるの損害を與え之を撃破するも霧島も又ワシントンの16吋砲弾6発5吋砲弾40発の集中砲火を受け舵機故障大破航行不能に陥り艦長岩渕三次大佐(後中将マニラにて散華)は総員退去を命じキングストン弁を開いてサボ島の265度11浬の地点に自らその栄光の生涯を閉ず
時に昭和17年11月15日0130噫
茲に艦と共に散華せる英霊を顕彰してその勲を永久に欽仰するものなり
 昭和55年11月14日
  霧島乗組生存者一同
       有志一同

航空母艦 飛龍 戦没者慰霊碑

昭和49年6月5日建立
源田実書

昭和17年6月5日、ミッドウェー海戦。
南雲機動部隊(第一航空艦隊)直下の第二航空艦隊にて山口多聞少将の旗艦として出撃。最後の一艦として奮戦するも飛龍は6月6日午前0時15分総員退去、沈没。山口司令官、加来艦長以下800余名を祀る。

慰霊碑建立の記
航空母艦飛龍(17,300噸)は昭和14年7月横須賀海軍工廠にて竣工、支那事変の際は支那沿岸各地に於いて戦功を樹て昭和16年12月大東亜戦争勃発するや開戦劈頭僚艦と共に真珠湾奇襲に成功し更に「ウエーキ」島、豪州、比島、蘭印、インド洋作戦に武勲を樹て昭和17年6月5日「ミッドウエー」島攻略戦に於いては敵陸上基地を猛攻し赤城加賀蒼龍の三航空母艦被弾後は飛龍只一隻孤軍奮戦敵空母「ヨークタウン」を撃破し、更に攻撃準備中武運拙なく被弾大破し火焔に包まれ必死の消火作業も其の効なく遂に総員退去の止むなきに至り第二航空戦隊司令官山口多聞中将、艦長加来止男少将は従容として艦に止どまり多数の戦没者と運命を共にさる
茲に三十三回忌を期し慰霊碑を建立して航空母艦飛龍の功績を顕彰し併せて英霊の冥福を祈念す
 昭和49年6月5日
 航空母艦飛龍遺族生存者有志一同

在天の 山口司令官
加来艦長はじめ たくさんの戦友たちよ
あの日のことども ともに語りたい
その後のことも 聞いてほしい
だが今日は それもかなわず
とこしえに この聖地に
み霊安らかに 眠れかしと
ただ祈るのみ

※附記
「飛龍」艦上攻撃機隊飛行隊長として、ミッドウェー空襲隊隊長を努めた友永丈市中佐の生誕地碑が大分県別府市にあります。

海軍中佐 友永丈市 誕生地

別府市野口中町
場所→ https://goo.gl/maps/vGkw8azgPQKxDS4a8
墓所も別府市内にあるようですが未訪問。
なお、この写真も嫁提供(私は未訪問)

航空母艦 加賀 戦没者慰霊碑

昭和50年6月5日建立

南雲忠一海軍中将を司令長官とした「第一航空艦隊」。
第一航空戦隊(赤城・加賀)と第二航空戦隊(飛龍・蒼龍)で編制。

昭和17年6月5日、ミッドウェー海戦で赤城、飛龍、蒼龍とともに没する。
岡田次作艦長以下800余命の戦死者を祀る。

碑文
泪く時になく
 笑ふ時に笑ふ
そんな立派な
 戦友だった
御国のため
 身を投し
  もう笑う事も
   泪く事も
出来なくなった
 戦友の御霊を
  少しでも
   安らかにと
こゝに碑を建てる
 安らかに遠久に
   ねむれかし

慰霊碑建立の記
航空母艦加賀は大正9年7月19日神戸川崎造船所にて戦艦として起工
進水後は横須賀工廠にて航空母艦に改装
昭和3年3月31日竣工し昭和9年6月25日から約1年の歳月をかけ近代的最新鋭空母に大改装した
昭和12、3年支那事変に際しては支那沿岸各地に於て幾多の戦功を樹て 昭和16年12月大東亜戦争勃発するや開戦劈頭長躯真珠湾を奇襲し敵に壊滅的打撃を与え更に印度洋蘭印ラボールと数次の作戦に参加数々の戦果を収めた
昭和17年6月5日「ミッドウエー」島攻略戦に於ては敵陸上基地を猛攻し反復攻撃のため準備中敵機の集中攻撃を受け艦を挙げての必死の防戦にも拘わらず敵艦上爆撃機の急襲により武運拙く被弾誘爆火災を起し全艦火に包まれ遂に総員退去の止むなきに至り同日16 25頃ガソリン庫に引火し大爆発を起し沈没
岡田次作艦長以下多数の戦没者は艦と運命を倶にされた
茲に慰霊碑を建立し航空母艦加賀の数々の功績を顕彰し併せて英霊の冥福を祈念する
 昭和50年6月5日
 航空母艦加賀遺族生存者有志一同

航空母艦 瑞鳳 戦没者慰霊碑

昭和53年3月10日建立

昭和19年10月24日。
レイテ沖海戦・エンガノ岬沖海戦にて小澤機動部隊(第三艦隊・小澤治三郎海軍中将)の空母として出撃。
千歳・瑞鶴が沈むなかで奮戦するも午後3時27分奮戦虚しく沈没。
戦死者216名を祀る。

おとうさん、お兄さん、愛しい吾子達よ、永遠に安らかに

建碑の詞
あれから星霜30有余年!!
想いおこせばあの大東亜戦争で赫々の武勲に輝く空母瑞鳳とその「瑞鳳」と共に散華された7百余名の戦友は今だにレイテ湾沖に瞑りその収骨は絶望で戦友は永遠に還らぬ人となりました。
私達「瑞鳳」生存者一同相計り英霊の瞑りの安らかなことを願い懐かしい母港「佐世保」を一望できる此処東山の景勝の地に慰霊の碑を建立いたしました。
数多の遺族が、かけがえのない肉親の遺影を偲び時には私達が訪れて戦友を弔い香華を手向ける静かな心の里としたいとおもいます。
今祖国日本は平和で世界有数の経済大国といわれていますこれも偏にあなた方諸勇士の犠牲でなくてなんでありましょう。
英霊よこの聖地から祖國日本の益々の繁栄と御遺族の御多幸をお護りください。
こゝに空母「瑞鳳」と共に殉じた諸勇士の輝かしい武勲とその殉国の精神を後世に伝え又今後の戦争再発防止と祖国日本の永遠の平和を祈りながら「瑞鳳」と共に殉じた戦友よ祖国の地にこころやすらかにお瞑りください。
 昭和53年3月20日
 瑞鳳生存者一同

航空母艦 大鷹 戦没者慰霊碑

昭和59年10月16日建立

日本郵船春日丸を改装した特設空母。
昭和19年8月18日夜、ヒ71船団護衛中にルソン島西方で米潜水艦(ラッシャー)雷撃により撃沈。給油艦「速吸」や海防艦「松輪」「日振」「佐渡」も沈没。
大鷹沈没時に運命をともにした477名を含む戦没者484名を祀る。

碑文
軍艦大鷹は日本郵船欧州航路の貨客船として昭和15年9月19日三菱重工業長崎造船所にて進水しその後佐世保海軍工廠において改装、16年9月5日佐世保鎮守府所管の特設航空母艦春日丸として軍艦旗を掲揚し、排水量20000屯速力21ノット搭載飛行機27機12センチ単装高角砲6門25ミリ連装機銃48門を装備し乗組定員747名なり。
17年7月1日連合艦隊に同年8月31日軍艦籍に編入され航空母艦大鷹と命名せらる。
太平洋戦争の当初、飛行機の発着艦訓練に当り以後トラック、クエゼリン、ルオット、ラバウル、ウルシー、タロア、マニラ、スラバヤ等南方基地への零式艦上戦闘機輸送を主任務とし、17年8月には戦艦大和、駆逐艦曙あけぼの、潮うしお、漣さざなみと共に作戦主隊となり18年5月にはシンガポールへの船団護衛に従事し、その行動は前後17回に及び南西太平洋の全域にわたり数百機の零戦を輸送したるは特筆すべきことにして赫々たる戦果を収めたりと言うべし。
されども戦局は次第にわれに利あらず、マニラにおもむくヒ71船団14隻を護衛航行中フィリピン群島ルソン島北西部ボヘヤドール岬沖40海里にてアメリカ潜水艦ラッシャーの魚雷攻撃を受け、19年8月18日22時48分北緯18度10分東経120度22分、濛雨の南支那海に艦首を直上にして沈没す。
就航以来3年余その行動力と武運の久しきを誇りし大鷹は被雷後僅か20分にて忠勇なる将士数百名とともに1400メートルの深海にその艦歴を閉じたり。
ああ痛恨の極み悲壮これに過ぐるものなし。
従前17年9月28日トラック島南水道南方40海里にて3柱、18年9月24日父島北東200海里にて4柱、いずれもアメリカ潜水艦の魚雷攻撃による戦没者あり、その終焉の際第931航空隊員を含め戦没せられしは477柱、本艦乗員にて國に殉ぜられしはあわせて484柱なり。
護国の英霊に慰霊の誠を捧げその功績を永く後世に伝えんことはつとに各々心にあるところなりしも世情人心不安定にして思うにまかせず、ようやく一昨年元乗組、生存者、遺族をもって空母大鷹会を組織し英霊ゆかりの佐世保旧海軍墓地に軍艦大鷹慰霊碑を建立するに至れり。
すでに戦後39年を閲せしことわれら慙愧ざんきに堪えざるもあやに尊き英魂の各位、冀こいねがわくはこの地に神霊として鎮まり、時あれば天を翔かけりて祖国日本をみそなわせ給わんことを。
 昭和59年10月16日
 空母 大鷹会

航空母艦 雲龍 戦没者慰霊碑

昭和62年12月19日建立

昭和19年12月19日。内地よりフィリピン方面に軍需物資・陸軍兵員輸送及び桜花30機輸送従事中に米潜(レッドフィッシュ)に雷撃され沈没。
艦長小西要人少将以下乗組員1240名及び便乗していた第634海軍航空隊・陸軍滑空歩兵聯隊など約3000名の犠牲者を祀る。

碑文
 航空母艦雲龍(174,840噸)は太平洋戦争愈々苛烈を極める中、昭和19年8月6日横須賀海軍工廠にて竣工し海軍機動部隊の主力である第一航空戦隊に編入された。
 竣工するや否や海軍少将小西要人艦長のもと千5百余名の乗員一致団結祖国と民族の為身を鴻毛の軽きにおき日夜ひたすらに出撃に向けての訓練に励み昭和19年12月17日マニラ方面緊急輸送作戦に呉軍港を出撃東支那海大陸沿岸を一路激戦地のマニラに向かった。
 12月19日1637時及び1651時敵潜水艦の雷撃を受け勇戦空しく海底深く沈んだ。
 小西艦長はじめ乗組員将兵、便乗中の第634海軍航空隊将兵、陸軍滑空歩兵第1連隊将兵、比島方面へ赴任中の海軍将兵を含み3千名の多数が艦と運命を共にされ生存者は僅に142名であった。
童顔の15歳の少年兵も 学徒出陣の少尉もいた。
 父、母に、兄弟姉妹に、最愛の妻や子にも別れを告げることもなく嵐の海にのまれてしまった。
 あれから43年、今日のこの平和な繁栄は英霊の方々の尊き犠牲により築かれた。
 このたびやっと遺族、生存者相つどい御魂らを慰め再び戦争の悲劇を繰り返さないことを希ってここ佐世保の海軍墓地に慰霊の碑を建立する。

 御霊よ 安らかに 鎮まり給え   合掌

昭和62年12月19日
 航空母艦雲龍戦没者慰霊碑建設委員長 森野 廣
 元 雲龍航海士

※附記

航空母艦 千歳 慰霊碑

  • 「千歳」の慰霊碑は福岡県久留米市の水天宮境内にある。
  • 佐世保海軍墓地には案内標が建立。千歳は佐世保を母港としていた。
  • こちらの写真は平成16年に私の撮影。この頃の私は神社散策メインで慰霊碑はあまり撮影していなかったのが悔やまれます。

昭和19年10月25日、千歳はエンガノ岬沖海戦にて小澤機動部隊として出撃し沈没。艦長岸良幸大佐以下468名が艦と運命をともにした。

水天宮境内(福岡県久留米市)

碑文
いつよりの千歳かわかぬ千歳川 
 始めも果もなき名なりけり

 昭和十三年就役以来、日支事変・太平洋戦争と幾多の戦闘海戦に出撃。赫赫たる戦果を挙げた軍艦千歳は、フィリピン沖海戦に於て勇戦奮闘するも衆寡敵せず。遂にフィリピン・エンガノ岬東方に艦長以下数百の将兵と共にその勇姿を没した。
 時に昭和十九年十月二十五日午前九時三十七分

 軍艦千歳は筑後川(別名千歳川)の名を取って命名されたものであり、艦内神社に水天宮を奉祀してありました

軍艦千歳郷土会に就いて
軍艦千歳が呉海軍工廠で竣工、就役間もない昭和13年10月久留米を中心とした筑後地方一帯より、一千九百余名の有志の方々で軍艦千歳会を発足させ(会長 石橋徳次郎氏 当時久留米市長)その頃珍しかった蓄音機、レコード絵葉書及び軍艦旗など多数献納されております。この度の千歳慰霊碑建設に当っては生存者及び遺族の方々は申す迄もなく、軍艦千歳の事を全く知らない多くの方から又筑後川遥か上流の方々からも暖い御協力を賜り見事な慰霊碑が出来ました。軍艦千歳は6ヶ年の短い生涯でありましたが、他の艦に見られない一般の方々の祝福を受けた幸せの艦であったと思います。艦長、副長機関長など幹部の方々は殆んど戦死いたしました。もし艦長存命ならば皆様に対し、どんなに御礼の言葉を述べた事でありましょう。
 昭和53年10月25日 軍艦千歳慰霊碑建設委員会

300年前は筑後川を千歳川と呼んでいたそうであります
いつよりの千年かわかぬ千歳川 始めも果もなき名なりけり

軍艦 羽黒 戦没者慰霊碑

昭和46年5月16日建立
防衛庁長官 中曽根康弘謹書
妙高型重巡洋艦4番艦「羽黒」

昭和20年5月16日、マラッカ海峡にて英国駆逐隊と遭遇し沈没。
司令官橋本信太郎中将、艦長杉浦嘉十少将以下800余名が戦没。
慰霊碑前には平成17年にペナン沖で引揚げられた羽黒舷窓枠が奉納されている。

軍艦羽黒
昭和4年三菱長崎造船所に於て当時最新鋭重巡として進水
帝国海軍の精鋭として常に我が国海上防衛の第一線に在り
大東亜戦争勃発するや比島攻略戦に従事
以来スラバヤ沖海戦珊瑚海々戦第二次ソロモン海戦ブーゲンビル島沖海戦等主要海戦に従事し赫々たる武勲を樹たり
然れども昭和20年5月16日このとき日本艦隊既に影なく羽黒は駆逐艦神風を従へ陸海の将兵が孤立するアンダマン諸島に輸送作戦中戦艦を含む30余隻の英国機動部隊と交戦
緒戦克く駆逐艦を轟沈し志気いよいよ旺んなるも羽黒も又雷撃を受け操艦意の如くならず勇戦奮斗1時間有余
衆寡敵せず遂にその勇姿を橋本第5戦隊司令官杉浦艦長以下8百余名の将兵とともに波高き印度洋に没せり
時将に午前3時35分

併記
戦後交戦せし英国司令官をして日本海軍の精華なりと称賛せしめたりと謂う

軍艦羽黒舷窓枠
西暦2006年3月 福島県いわき市 堀 龍一 氏ら世界的ダイバーグループによって、マラッカ海峡ペナン島南西48浬 水深64mに 戦没している軍艦羽黒 艦橋前方左舷側上甲板より、60年振りに引き揚げられたものです。
(素材真鍮・内径31cm・重さ約9kg)
軍艦羽黒会

軍艦 那智 戦没者慰霊碑

昭和46年11月5日建立
妙高型重巡洋艦2番艦「那智」

沈没時の鹿岡艦長以下850名の犠牲者を含む乗組戦没者1000余名を祀る。 昭和19年10月、レイテ沖海戦にて第五艦隊(志摩艦隊)旗艦として参戦。スリガオ海峡にて先行する西村艦隊の敗退を受け撤退。11月5日に米軍120機の波状空襲にて沈没。

忠魂
軍艦 那智 佐世保鎮守府所属一等巡洋艦
大正13年11月26日呉海軍工廠において起工、昭和3年11月26日竣工
帝國海軍技術の粋を結集せる当時世界第一の威力を誇る重巡洋艦として誕生し、爾来我が国海上防衛の第一線部隊に在り。
大東亜戦争勃発するや緒戦、比島、蘭印攻略作戦、スラバヤ沖海戦に参加、以後西太平洋に戦闘行動を続け、アッツ沖海戦、レイテ作戦等に第5艦隊旗艦として活躍、何れも大なる戦果を挙げたり。
昭和19年11月5日比島方面作戦中、米機動部隊艦載機120機以上の集中攻撃を受け、克く敵機多数を撃墜、勇戦激闘8時間余の末、那智もまた被害続出、満身創痍となり操艦、応急意の如くならず、遂に戦雲高きマニラ湾にその勇姿を没せり。
時に午後3時40分。
このとき艦と運命を共にするもの艦長以下将兵800余名。
開戦以来累次の戦闘に戦死せる乗員を併せ、英霊約1000名。
その勇戦は壮烈無双にして、その武勲は赫々たり。

軍艦 足柄 戦没者鎮魂之碑

昭和47年6月8日建立
妙高型重巡洋艦3番艦「足柄」

緒戦以来の同艦戦死者300余名を祀る。
レイテ沖海戦は志摩艦隊所属で参加。
昭和20年6月8日にシンガポールに向け航行中に米潜水艦(トレンリャント)の雷撃により沈没。
※カメラ不調により撮影失敗
※画像は公式サイトより( http://kaigunbochi.jp/publics/index/61/

建碑の詞
太平洋戦争が終って20数年 世情もようやく平和に慣れて あの悲惨な戦いも忘れ去られようとしている今日 私達は 軍艦足柄と共に南溟の果てに散華した3百有余の戦友を思うとき 断腸の念を禁じ得ません
軍艦足柄は 昭和4年神戸川崎重工において 世界注視の最新鋭巡洋艦として進水
昭和12年5月英国皇帝ジョージ6世の戴冠式には 秩父宮殿下のお召艦として参加した
日中戦争が勃発するや 中国方面派遣艦隊の一翼をになって海の護りにつき 太平洋戦争の緒戦におけるスラバヤ沖海戦には 僚艦妙高那智等と共に 英国重巡エクゼター及び駆逐艦2隻を撃沈した
続く蘭印作戦では支援艦隊の旗艦として南海に活躍し その後北方警備の任を果たし 昭和19年10月25日 捷1号作戦における志摩艦隊の2番艦として スリガオ海峡よりレイテ湾に突入
同年12月24日ミンドロ島サンホセ沖海戦では 決死の突撃を敢行して数多くの敵商船団に痛撃を加えたが その攻撃中我が艦の対空砲火で撃墜された敵機によって火災を起こし数多くの戦友を失った
昭和20年6月8日未明 第2回陸軍輸送作戦においてジャカルタ港を出港
厳重警戒航行中敵潜水艦の雷撃に遭い 急ぎ応戦避退したが 浅海と減軸運転中のため 遂に敵魚雷4本をうけ 3百余名の戦友と共にその勇姿をジャカルタ沖に没した
時に6月8日正午 ああ悲しあの勇壮な足柄の艦影も あの元気な戦友の英姿も 今は遂に帰らぬものとなった
今ここに母港を一望する景勝のこの地を選び 英霊が帰り集う霊場と定め またの遺族が我が子 我が夫を偲ぶよすがの地とし 又私達が時に訪れて戦友を弔い 平和達成への誓いを新たにする馬ともし 軍艦足柄と共に殉じた諸勇士の輝かしい武勲と その殉国の精神を後世に伝え且又戦没諸子の霊を供養して平和の礎とするために 我等足柄生存者一同相はかってこの碑を建てるものであります
 昭和47年6月8日建之
 軍艦足柄生存者一同

軍艦 妙高 戦没者慰霊碑

昭和48年9月15日建立
妙高型重巡洋艦1番艦「妙高」

戦没者90余名を祀る。 レイテ沖海戦では栗田艦隊所属で参加。米軍機猛攻で戦線離脱しブルネイに退避。その後シンガポールに入港し応急修理後を施して内地に向かう途中に米潜水艦雷撃で大破。そのままシンガポールで終戦。海没処分。

建碑のことば
軍艦妙高は昭和4年 最新鋭の重巡洋艦として世界注視の中に横須賀海軍工廠で建造
その秀れた性能とシャープな艦型は まさに日本刀の鋭さと美しさであった
国運を賭けた大東亜戦争が起こると比島作戦を始め スラバヤ 珊瑚海 ミッドウェー アリュウシャン ソロモン サイパン等々の大海戦に参加し スラバヤ沖海戦では英重巡エクゼター及び駆逐艦2隻を屠る赫々たる戦果をあげた
だがマララグ湾では米軍機の爆撃によって40余名が戦死傷し シブヤン海及びサイゴン沖では米軍機米軍潜水艦の雷撃をうけて多数の戦死者を出した
昭和20年終戦をむかえ連合軍の命によってマラッカ海峡で注水しその勇姿を永久に海底に没したのである
時に昭和21年7月14日
以来28有余年これらのことも今や既に国民の脳裏から消えようとしている
ここにおいて我々は妙高の輝やかしい武勲を伝え国に殉じた70余名の戦友の霊を慰さめ かつは祖国日本の永久平和を祈念するため ここにこの碑を建てるものである
艦よ 英霊よ 静かに眠れかし

 昭和48年9月15日
  軍艦妙高生存者一同
  各界有志一同

碑歌
泣くにあらず 悲しむにあらず
若き日の命捧げし 君よ 武人の鑑なる
今平和甦る日に 過ぎし戦場の惨烈を想い
水漬く屍の君を憶ふ
潮騒と倶に 尽くることなし

軍艦 鳥海・藤波 慰霊碑

平成10年12月建立
高雄型重巡洋艦4番艦「鳥海」
夕雲型駆逐艦11番艦「藤波」

重巡洋艦「鳥海」駆逐艦「藤波」はともにレイテ沖海戦に参戦。 レイテ沖海戦において鳥海は当初、第四戦隊(愛宕・摩耶・高雄・鳥海)に編成。
が、愛宕・摩耶が沈没し高雄が大破し鳥海は第五戦隊に編入。サマール沖海戦において鳥海は舵故障により戦列離脱。
昭和19年10月25日。米軍艦載機が戦列を離れた鳥海を攻撃し鳥海は被弾し航行不能状態に陥る。そこで警戒にあたっていた第32駆逐隊の藤波が鳥海救助を命じられ鳥海乗組員を収容し、航行不能となった鳥海を雷撃処分している。
「鳥海」乗組員を救助した「藤波」は栗田艦隊から別れ、別航行中にさらに米軍機の空襲を受け轟沈。
戦没者は鳥海乗組員830名、藤波乗組員130名。藤波・鳥海ともに一人の生存者もいなかったという。
慰霊碑は遺族により平成10年に建立。
以後は護衛艦「ちょうかい」が毎年慰霊祭を行っている。

時経るも 消えゆる嘆きの あらなくに 「鳥海」「藤波」 ここに慰霊す

銘碑
大東亜戦争において巡洋艦「鳥海」は昭和19年10月25日比島レイテ沖海戦において戦没しました
その生存者を駆逐艦「藤波」が収容して 反転中その藤波も昭和19年10月27日比島シブヤン海において戦没しました
それで「鳥海」「藤波」の生存者は一人もなしという最後でした
それから50数年の歳月が流れておりますが このままでは 尊い生命を犠牲にされた殉国の英霊に対し申し訳ないと遺族数名が立ちあがり ここに慰霊碑建立がなされましたことを誠に感激します
 平成10年12月吉日建立 鳥海 藤波 遺族有志
 発起人 内田美津代

軍艦 矢矧 戦没者慰霊碑

昭和44年4月13日建立
阿賀野型軽巡洋艦3番艦「矢矧」

昭和20年4月7日、大和護衛の第二水雷戦隊旗艦として活躍し大和とともに轟沈。
艦と運命をともにした内野副長以下446名及び他海戦の戦死者などを含む486柱の英霊を祀る。

※カメラ不調により撮影失敗
※画像は公式サイトより( http://kaigunbochi.jp/publics/index/64/

いしぶみ
みたまら いま ここにねむる
おんみら 軍艦矢矧 のつわものとして
マリアナ海戦 フィリピン沖海戦に散じ
はたまた国家の存亡をかけし沖縄特攻作戦に
戦艦大和 らとともに徳之島西方に没す
この日 昭和20年4月7日なりき
戦敗れ 苦難の道をあるくこと二十有五年
いま 世は太平
このたび ようやく機熟して
戦没者の霊をなぐさめ かつは
再び戦争の悲劇をくりかえさざることをね希い
母なる港をのぞむ東山の聖地に
慰霊の碑をつくりたり
みたまらよ
とわに 安らかに眠れかし
  ゆきしふね
    かえらぬおかに
         はなふぶき
 昭和44年4月7日
 矢矧会有志一同

軍艦 矢矧
昭和18年12月末佐世保海軍工廠において最新鋭巡洋艦として完工しマリアナ海戦フィリピン沖海戦など数次の海戦に参加す
昭和20年4月6日片道燃料をつんで徳山沖を抜錨し翌4月7日鹿児島西方海上において米空母艦隊の艦上機群と遭遇しその連続攻撃をうけ勇戦奮闘もむなしく徳之島西方海上において大和その他とともに爆沈す

併記
海上自衛隊の御援助により
沖縄および徳之島より石各々1個を運び
つわもののみたまやすらかれと念じつつ安置す

軍艦 阿武隈 慰霊碑

昭和57年10月24日建立
長良型軽巡洋艦6番艦「阿武隈」

碑題字は清水芳人謹書。海軍少佐。阿武隈沈没時の副長兼砲術長。(その後は大和第十分隊長として大和特攻に出撃し生還)

阿武隈は昭和19年10月25日、志摩艦隊としてスリガオ海峡海戦に参戦、翌26日に空襲により沈没。
戦死者262名を祀る。

慰霊のことば
軍艦阿武隈(5千5百噸級軽巡洋艦)は大正14年5月浦賀ドックにて竣工し数度の改装を行い昭和16年12月8日大東亜戦争開戦時第1水雷戦隊旗艦としてハワイ作戦に参加
同17年ビスマルク諸島、ポートダーウィン、ジャワ、インド洋作戦
同18年アリューシャン方面作戦、アッツ島沖海戦、キスカ撤収作戦等に活躍
同19年10月25日比島沖海戦に第2遊撃部隊としてスリガオ海峡突入時交戦被雷
翌26日 B24 30機の猛爆を受け勇戦奮闘空しく遂にミンダナオ海に多くの戦友と共に勇姿を没す。(時刻午後零時42分位置北緯9度9分東経121度54分ダピタンの西北西約180粁)
38年後旧乗組員有志相諮り母港佐世保市東公園旧海軍墓地に参集
軍艦阿武隈の輝く戦歴を記念すると共に祖國の難に赴き名誉の戦死を遂げ今日の日本の繁栄の礎となりし戦友を永く顕彰せんと欲しその芳名を刻み慰霊碑を茲に建立す

英霊よ軍艦阿武隈よ
     安らかに眠り給え

 昭和57年10月24日
  軍艦阿武隈戦友会
  会長 元副長 清水芳人
  他 会員有志

駆逐艦 杉 戦没者慰霊碑

昭和54年3月10日建立
戦時急造の松型駆逐艦7番艦「杉」

昭和19年8月竣工。護衛輸送作戦に従事。終戦を呉で迎える。復員輸送に従事したのち昭和22年に賠償艦として中華民国に引き渡され「恵陽」と改称。国共内戦で座礁し1951年に解体。
戦死者43名の霊を祀る。

建碑の詞
あれから星霜三十有余年の才月も容赦なく過ぎ去ろうとする今駆逐艦杉生存者一同相計りあの大東亜戦争末期かの過酷な余りにも厳しい悪條件下のレイテ沖海戦を始め幾多の戦いにも只々ひたすらに祖国日本の為に散華された戦没者の英霊よ永遠に安かれと願い懐かしい母港が一望出来る此地佐世保東山旧海軍墓地に慰霊碑建立しました
慰霊碑に瞑する時あの童顔の中にも逞しい姿、かけがえのない青春おも、いといもせず殉じた戦友の思影が脳裏の底に髣髴します
遺族に変り戦友を偲び折り見て私達が此処を訪づれ戦友を吊い香華する中に亦得がたいものがあろうかと思います
且つ動静の場としたいものです
今日祖国日本も平和の一言につきます経済的にも一驚する発展を遂げました
而し片時も忘れてならない心すべき事は極限の中にも動ぜず殉じた戦友の代償でなくてなんでありましょう
駆逐艦「杉」の名に恥じない諸勇士の不滅なる武勲を永久に後世に伝へ祖国日本の真の平和を吾々の手で「シッカリ」守り二度と繰り返してならない戦争の悲惨を固く心に誓い其の平和の永久ならん事を祈り乍ら駆逐艦杉戦没者戦友よ祖国の土に安らかに瞑って下さい
 昭和54年3月10日
 駆逐艦杉生存者一同建立

戦友よ皆さん永遠に安かれ

駆逐艦 若葉 戦没者慰霊碑

昭和55年10月24日建立
初春型駆逐艦3番艦「若葉」
二ノ方兼文海軍少佐謹書(若葉最後の艦長)

昭和9年10月竣工。
レイテ沖海戦では志摩艦隊に属し輸送任務に従事。志摩艦隊本体に合流するために航海中の10月24日空襲にて沈没。
戦没者93名を祀る。

建碑の言葉
駆逐艦若葉は昭和9年佐世保海軍工廠に於て進水す
第21駆逐隊(若葉 初春 初霜 子ノ日)の司令艦なり
排水量1700トン速力34ノット12.7糎砲4門61糎魚雷発射管6門機銃多数搭載の新鋭艦にして支那事変及大東亜戦争始まるやダバオ方面に出撃マカッサル、バリ島攻略作戦に参加す
17年北方に転じアッツ島攻略作戦に参加
アリューシャン方面に行動す
18年奇蹟と称されたキスカ撤収作戦に参加し、陸軍部隊を収容す
19年10月米軍比島に上陸の報に接し10月15日呉軍港を出撃
同23日マニラを出港レイテ湾突入の志摩艦隊と合流すべく追尾中24日0800米海軍空母「フランクリン」の艦上機「グラマン」20機の攻撃を受け補機室付近に爆弾命中して機銃掃射を受け戦死戦傷者続出す
艦腹の破孔よりの浸水はげしく吸い込まれる如くに海中に没す
時に0900なり
此の海面をスルー海と称す
加えて沈没直後艦内の火薬の大爆発のために漂流中の乗員多数水中爆傷を受く
後僚艦初春、初霜の救助を受く
二ノ方艦長の進言により効なき突入を中止し後日を期しマニラに入港す
戦死者を火葬に付し戦傷者は海軍病院に入院す
一部の乗員転勤者は帰還し得たるも、ほとんどが上陸米軍と交戦戦死す
沈没後36年を経て此所に乗員及遺族の方方の協力を得て戦没者ゆかりの此の地に慰霊碑を建立し、招魂の式典を行ない多年の念願を果すを得たり
在天の英霊来たりて肉親と語られん事祈るものなり
 昭和55年10月24日
 第21駆逐隊 駆逐艦若葉戦友会

第六十一駆逐隊
駆逐艦 秋月 慰霊之碑

昭和56年10月24日建立
秋月型駆逐艦1番艦「秋月」
緒方友兄大佐謹書(秋月最後の艦長)

昭和17年6月竣工。昭和19年10月25日、レイテ沖海戦(エンガノ岬沖海戦)では小澤艦隊に所属し対空戦闘に従事。米機空襲により二つに折れ沈没。
戦没者208名を祀る。

碑文
駆逐艦秋月は昭和17年6月11日秋月型防空駆逐艦第1号艦として舞鶴海軍工廠で竣工
総排水量3800トン特殊性能10糎高角砲8門3連装25粍機銃5基4連魚雷発射管1基更に全甲板に単装機銃を配し最新鋭の防空駆逐艦として誕生す
秋月は竣工間もなくアリューシャンに向け出撃
北方作戦に参加後マカッサル、カビエン、ラバウル、トラック島等南太平洋方面作戦に従事
ガ島攻防戦から「あ号」「捷1号」作戦まで機動部隊附属の防空駆逐艦として活躍転戦亦連戦
敵味方が共に瞠目する輝しい戦果と武勲を挙げ駆逐艦秋月の名声轟かせり
然し度び重なる戦斗で損傷も著しく昭和17年10月25日ガ島沖の戦で11名昭和18年1月19日ソロモン方面にて14名の尊い命を失う
併して昭和19年10月25日「捷1号」作戦中比島沖の航空戦で秋月は身を捨て旗艦瑞鶴始め空母の援護射撃中被爆遂に命運盡きて沈没せり
秋月の命は短くもその功績は偉大なり
ガ島から比島沖までの長い戦斗で最後の勝利と栄光とを信じて散華して逝った乗員数208名の多数に上る
茲に生き残りし我等一同尊き御霊に対して祖国日本の復興は成り平和と繁栄が続いている旨を告げ願くは心安らかに御冥福あらんことを心から祈ってこの碑を建てゝ祭る
 秋月会

第六十一駆逐隊
駆逐艦 初月 慰霊之碑

昭和59年10月20日建立
秋月型駆逐艦4番艦「初月」
緒方友兄大佐謹書(僚艦秋月艦長)

第61駆逐隊司令天野重大佐・艦長橋本金松中佐以下355名の霊を祀る。昭和19年10月25日レイテ沖海戦(エンガノ岬沖海戦)において小澤艦隊に属し撤退戦で奮戦し撃沈。

碑文
駆逐艦 初月 は防空駆逐艦として昭和17年12月29日舞鶴海軍工廠にて竣工、直ちに第61駆逐隊に配属され以来「い号作戦」に行動し「マリアナ沖海戦」では旗艦「大鳳」を護衛して奮戦した。
戦局急を告げる昭和19年10月25日「レイテ沖海戦」に於ては旗艦「瑞鶴」を直衛し4次に亙る延べ5百余機の米艦載機と交戦、多大の戦果を挙げるも「瑞鶴」の沈没を見るや身を挺してその乗員の救助作業中突如襲い来つた15隻の米艦隊の重囲に陥るも孤艦奮斗2時間有余、為に我が艦隊は遠く北方に戦場から離脱するを得た。
而し我が初月は遂に力盡き同日午後8時57分エンガノ岬の沖深く無念を胸に愛する者への萬感の思いをこめて最後の水中爆発と共にその英姿を没した。
全員戦死の為その凄絶なる最後を語る者無きも戦後米国の戦史が発表されるに及びその勇戦奮斗が明白となった。
米海軍にさえ高く称賛されるその奮戦は永く子子孫孫に語り継がれよう。
茲に駆逐艦 初月 の栄誉を顕彰し英霊の冥福を祈らんと遺族及び元乗組員 生存者の有志相寄り謹んで此の碑を建立する。
 昭和59年10月20日
 委員長 阪口雄三 謹書

鎮魂歌
魂きはる
 生命をかけて
  國鎮る
わが初月の
 御霊安かれ
  初月乗組員生存者代表
  有澤貞彦謹書

駆逐艦 涼月・冬月・柳 慰霊碑の案内標

上記3艦の慰霊碑は北九州市若松区の高塔山に鎮座。
その案内標が佐世保海軍墓地にある。

秋月型駆逐艦3番艦「涼月」8番艦「冬月」
桃型駆逐艦4番艦「柳」

涼月・冬月は大和特攻作戦に参加し2艦ともに佐世保に帰還。(涼月は大破後進帰還)
尚、涼月・冬月・柳は「軍艦堤防」として北九州の地で防波堤になっている。

駆逐艦 涼月・冬月・柳三艦の慰霊碑は左記の地に建立して有ります
北九州市若松区高塔山中腹忠霊塔東側
 涼月会

※附記

軍艦堤防(軍艦防波堤)

北九州市若松区
秋月型防空駆逐艦3番艦「涼月」8番艦「冬月」 桃型駆逐艦4番艦「柳」(初代) この3艦は今も「軍艦防波堤」として北九州市若松港の防波堤として国土を護っている・・・

駆逐艦 初霜 慰霊碑

昭和58年10月8日建立
酒匂雅三少佐謹書(初霜最後の艦長)
初春型駆逐艦4番艦「初霜」

戦没者26名を祀る。 大和の沖縄特攻に直衛艦として参加するも奇跡的に損傷を受けず佐世保に帰還。昭和20年7月30日宮津港において対空戦闘回避中に機雷触雷し大破着底し終戦を迎えた。

碑文
駆逐艦初霜は昭和9年9月27日浦賀造船所にて竣工、直ちに聯合艦隊に編入就役す。
昭和16年12月第1艦隊、第1水雷戦隊、第21駆逐隊に属し、同年12月8日太平洋戦争勃発するや、南にマカッサル、バリ島の攻略作戦に参加し、続いて北にアッツ、キスカの攻略撤収作戦に勇戦す。
更には艦艇、船団護衛の任を帯び南海に走駆し、その大任を全うせしこと再度ならず。
いよいよ戦局急を告ぐるや、昭和19年6月マリアナ沖海戦、レイテ島作戦に参加し、その武勲赫々たり。
就中昭和20年4月6日戦艦大和を基幹として第2艦隊、第2水雷戦隊として、沖縄洋上特攻作戦に決然として出撃し、その眞価を発揮するも、戦運われに利あらず、大和他沈没損傷し、雄図空しく佐世保に回航す。
その後第17駆逐隊に編入され、宮津湾にて港湾警備に従事中、同年7月30日米軍機の来襲をうけ、対空戦斗中触雷、艦体切断し、獅子ヶ崎に擱座す。
あに歴史変転の悲運の命と云んや。
ゆめ予測だにせざりし終戦を目前にして、歴戦の武運を誇りし初霜の雄姿は無残に潰え、さらに幾多戦友の屍を重ねたるは、誠に痛恨の極みである。
茲に駆逐艦初霜の栄光を後世に伝え、且つは亡き戦友の英魂の冥福を祈り、今世のわれら戦友一同の安心立命の定礎として、謹んでこの碑を建立する。
 昭和58年10月8日
 駆逐艦初霜戦友会一同

※附記:初霜の錨

駆逐艦 初霜の錨

駆逐艦 蓮 戦没者之碑

平成8年10月建立
樅型駆逐艦17番艦「蓮」

大正11年(1922)竣工。
昭和12年、支那事変勃発に際しては揚子江流域の輸送・揚陸支援・警備活動などに従事。
昭和16年、大東亜戦争開戦時は支那方面艦隊・上海方面隊として活躍。
青島にて終戦。
支那事変の犠牲者3名、大東亜戦争の犠牲者19名を含む戦病死者計23名を祀る。

鎮魂
駆逐艦蓮は、二等駆逐艦樅型の一艦として、大正11年7月31日浦賀船渠において竣工、聯合艦隊水雷戦隊、舞鶴及び鎮海要港部警備駆逐艦として活躍した後、昭和9年から南支方面の警備に当たった。
昭和12年支那事変勃発するや、第3艦隊第11戦隊に属し、揚子江流域における海陸軍部隊の輸送・揚陸支援、水路啓開・交通保護等に任じ、15年以降は中支沿岸の海上封鎖作戦に従事し、赫々たる武勲を立てたが、この間戦友3名が尊い犠牲となった。
昭和16年12月大東亜戦争起こるや、支那方面艦隊上海方面部隊の一艦として開戦劈頭8日未明、黄浦江上において英国砲艦「ペテレル」を撃沈、以後18年6月までの約1年半は、中支沿岸の海上封鎖、対潜哨戒掃討、船団護衛等に従事した。
同年7月以降終戦までの約2年間は、専ら南支中支次いで北支方面の船団護衛に奮闘した。
この間、護衛回数はおよそ百回、護衛した船舶は優に2百隻を越え、作戦の多くは任を全うした。
しかしながら、護衛作戦中及び香港における対空戦闘において、19名の戦友が勇戦敢闘、惜しくも散華した。
また無念にも、輸送船数隻を敵の雷撃及び爆撃で失った。
今なお痛恨の極みである。
我ら生き残った戦友は、常々卿ら護国の英霊を追慕し、感謝報恩の念切なるものがあったが、このたび相計り、卿らの御霊を慰め功績を称え、これを後世に伝え残すため、謹んでここにこの碑を建てる。
御霊よ、願わくば永遠に安らかに。
 平成8年10月
 駆逐艦蓮戦友会会員一同

第二十二駆逐隊慰霊碑
 皐月・文月・水無月・長月

昭和63年10月建立
飯野忠男皐月艦長、磯部慶二水無月艦長以下300有余名の英霊を祀る。
睦月型12隻は全て佐世保を本籍としていたが全艦戦没。 第二十二駆逐隊はフィリピン・マレー・ジャワ作戦に従事。ソロモン・ガ島撤退作戦にも参加。

「長月」睦月型駆逐艦8番艦
昭和18年7月4日、コロンバンガラ島緊急輸送を行った第三水雷戦隊(含む第二二駆逐隊)は米艦隊と遭遇(クラ湾海戦・クラ湾夜戦)。
長月は戦闘により座礁、僚艦皐月が復旧を試みるも失敗。
7月6日爆撃により放棄。

「文月」睦月型駆逐艦7番艦
昭和19年1月30日のラバウル空襲で損傷した文月は修理の為にトラックに回航。 修理中の2月17日にトラック島空襲により爆撃され浸水。
翌昭和19年2月18日に沈没。

「水無月」睦月型駆逐艦6番艦
水無月はジャワ攻略戦以降22駆の3艦とは別に船団護衛に従事。
昭和18年以降はソロモン諸島輸送作戦に参加。
昭和19年6月6日、ダバオ南東セルベス海で米潜水艦雷撃で沈没。磯部慶二艦長以下乗員全員戦死。

「皐月」睦月型駆逐艦5番艦
22駆が昭和19年8月20日で解隊され第三〇駆逐隊に編入。
昭和19年9月21日、マニラ湾にて米空母艦載機の攻撃を受け沈没。戦死者52名。なお皐月生存者はマニラ地上戦に巻き込まれずに帰国できている。

第22駆逐隊慰霊顕彰碑文
第22駆逐隊(皐月 文月 水無月 長月)は大正の末より昭和の始めにかけて建造された睦月型12隻中の4艦で 上海及び支那の両事変に参加
大東亜戦争開戦時は比島部隊として アパリ リンガエン湾の上陸作戦に参加し 続いてマレー半島 ジャワ島方面に作戦行動した
昭和17年4月以降は第一海上護衛隊に編入され 18年1月まで南西方面から西南太平洋に及ぶ広範な海域の船団護衛に従事したが ガダルカナル争奪を巡る死闘に参加すべく 第22駆逐隊は第8艦隊に編入され 18年2月の3次に及ぶ「ガ」島撤収作戦に参加 1万数千名に及ぶ将兵を救出した
その後各艦ソロモン海域を中心にニューギニア方面など広大な海域の護衛 並に 補給作戦に東奔西走して席暖まる暇なく 敵の優勢な航空兵力や電波兵器に多大の苦労と危険を強いられるにいたった
「長月」は18年7月6日コロンバンガラ島へ兵力強行輸送の途次 クラ湾夜戦で座礁 翌朝敵機の爆撃で破砕された
「文月」はラバウルで敵機と交戦損傷してトラックに回航修理中 19年2月17日の大空襲で直撃弾至近弾を受け浸水翌18日沈没
「水無月」は19年6月「あ」号作戦時 中部太平洋艦隊の第30駆逐隊に編入され 西南太平洋方面で護衛作戦中 19年6月6日セレベス海に於いて敵潜水艦の攻撃を受け沈没全員戦死
「皐月」は19年1月カビエン輸送作戦時 敵機と交戦損傷の為内地に回航修理後 連合艦隊直属となり 南西太平洋海域の船団護衛に従事中 19年9月21日マニラ湾に於いて敵機動部隊の空襲を受け沈没
かくて第22駆逐隊はここにすべてその勇姿を南海に没した
この間 飯野忠男皐月艦長 磯部慶二水無月艦長以下3百有余の戦友が護国の鬼と化した
この碑は青春を国に捧げ若くして戦いに殉じたこれ等勇敢なる戦友の御霊を慰めんがため遺族並びに生き残りの戦友相はかり併せて我が国永遠の平和を祈願して奉納したものである
 昭和63年10月
 元長月艦長 二ノ方 兼文
 第22駆逐隊遺族生存者一同

第二十四駆逐隊慰霊碑
 江風・海風・山風・涼風

平成元年建立
江風・海風・山風・涼風 四艦長以下800有余柱の英霊を祀る。 第二十四駆逐隊は大東亜戦争初戦においては、フィリピン攻略・蘭印作戦、ミッドウェー海戦などに参加。

「山風」白露型駆逐艦8番艦(海風型駆逐艦/改白露型2番艦)
ミッドウェー作戦では主力部隊随伴タンカーを護衛。
昭和17年6月23日、タンカー護衛の為に分離行中に房総半島沖で敵潜の雷撃により沈没。白露型最初の喪失艦。 浜中脩一艦長以下280余名が戦死。

「江風」白露型駆逐艦9番艦。海風型駆逐艦/改白露型3番艦)
昭和18年8月6日、第三水雷戦隊旗艦川内以下駆逐艦4隻(萩風・嵐・江風・時雨)がラバウル出撃。コロンバンガラ島強行輸送中にベラ湾において敵艦隊と交戦し江風は轟沈。柳瀬善雄艦長以下169名戦死。

「涼風」白露型駆逐艦10番艦(海風型4番艦)
トラックを最前線としていた24駆の涼風はブラウン諸島に向かう輸送船護衛の為に出撃。
昭和19年1月25日にポナペ島北東で米潜水艦の雷撃を受け沈没。山下正男艦長以下231名が戦死。

「海風」白露型7番艦(海風型/改白露型1番艦)
昭和19年1月、涼風とともにトラックを拠点として活動。米潜水艦に襲撃された伊良湖救難を涼風とともに行う。その数日後に涼風沈没。
海風は昭和19年2月1日にトラック泊地南水道で米潜の襲撃を受け沈没。

第24駆逐隊戦没者慰霊顕彰碑文
第24駆逐隊(江風 海風 山風 涼風)は白露型駆逐艦として昭和12年建造され 水雷戦隊の新鋭駆逐隊として支那事変に活躍
大東亜戦争においては当初比島部隊の一隊として レガスピー タラカン バリックパパン ジャワ島攻略作戦に従事
赫々たる戦果をあげ 昭和17年6月に行われたミッドウェイ作戦には主力部隊として参加した
同年6月23日山風が輸送船団護衛の為分離行動中 房総半島沖において敵潜水艦と交戦中その雷撃により沈没
当隊にとって最初の犠牲となった
同年8月ガダルカナル島に敵来襲するや 南東方面部隊の増援部隊としてガダルカナル島争奪をめぐる死闘に従事
各艦20回におよぶ強行輸送 第二次 第三次ソロモン海戦 南太平洋海戦 ルンガ沖夜戦に活躍したが 優勢な敵兵力とレーダーを始めとする電波兵器には抗し難く我が軍はガダルカナル撤収の止むなきに至り 昭和18年2月他の駆逐艦20隻とともに3回に及ぶ撤収輸送により 1万数千人の将兵を救出した
続いて同年8月コロンバンガラ島増強輸送作戦中 クラ湾において敵艦隊と遭遇
雷撃により敵巡洋艦を撃沈したが 江風は同月6日敵艦隊と交戦中 ベララベラ島沖において沈没した
物量を誇る敵の攻勢が益々増強された19年 涼風は1月25日輸送船護衛中 ポナペ島沖において 海風はトラック島南方海面での作戦行動中の2月1日 いずれも敵潜水艦の雷撃により沈没
就役以来常に第一線において勇戦奮闘した第24駆逐隊はその一生を閉じたのである
この間浜中脩一山風艦長 柳瀬善雄江風艦長 山下正男涼風艦長外8百有余名の戦友が護国の鬼と化した
この碑は青春を国に捧げ 若くして戦いに殉じた勇敢な戦友の御霊を慰め併せて我が国の永遠の平和を祈願するため遺族並びに生き残りの戦友相い計り建立したものである
 平成元年 秋
  建立発起人代表 伊藤治義
  第24駆逐隊 遺族生存者一同

第二十七駆逐隊慰霊碑
 有明・夕暮・白露・時雨

平成4年9月27日建立
加茂喜代之夕暮艦長、川橋秋史有明艦長、松田九郎白露艦長を始め 400数余柱の英霊を祀る。

「有明」初春型駆逐艦5番艦
昭和18年7月27日、有明と三日月でラバウルからニューブリテン島ツルブへの輸送作戦中にB-25爆撃機の爆撃により「有明」は沈没、「三日月」は座礁放棄。

「夕暮」初春型駆逐艦6番艦
昭和18年7月20日、コロンバンガラ島近海において夜間空襲(ニュージョージア島の戦い)によって、「夕暮」と「清波」が撃沈。

「白露」白露型駆逐艦1番艦
昭和19年6月15日、ダバオを出港した輸送船団(タンカー3隻)を第27駆(白露・時雨)および浜風・響・秋霜で護衛し小澤機動部隊本体と合流する途中で、米潜水艦雷撃回避中に白露はタンカー「清洋丸」と衝突。白露は爆雷誘爆により沈没。

「時雨」白露型駆逐艦2番艦
「呉の雪風、佐世保の時雨」と称された歴戦の幸運艦。
昭和20年1月24日、輸送船団(ヒ87船団)護衛中にマレー半島コタバル近海で米潜水艦の雷撃によって沈没。

慰霊之詞
我が有明 夕暮 白露 時雨の4艦は昭和10年より翌年にかけ竣工
第9駆逐隊を編成したが同13年の改編以後第27駆逐隊となった。
支那事変に続き大東亜戦争に従事
開戦初頭は艦艇及び船団の護衛並に対潜哨戒の任に就いたが 有明 夕暮は一時期別行動してインド洋方面作戦に参加した
戦域の拡大に伴い南太平洋海域へ進撃し昭和17年5月珊瑚海々海戦 同年6月ミッドウェー海戦に従事
同年8月ガダルカナル島攻防戦開始されるや「ガ」島への緊急増援の為にラバウル ショートランド基地より敵の攻撃反撃しつつ各艦十数回の緊急輸送を行い 第3次ソロモン海戦その他の海戦にて敢闘した
「ガ」島攻防戦後もソロモン海域及び東部ニューギニア方面への緊急輸送や内地とカロリン諸島並に比島方面等への艦艇船団の護衛にと 時には敵の攻撃により被害をだしながらも果敢なる行動で任務を遂行したが夕暮は同18年7月20日コロンバンガラ輸送作戦中チョイセル島沖に於て有明も同月27日ツルブ輸送作戦中いづれも敵機群と交戦被爆沈没した
白露と時雨はブーゲンビル島沖海戦同19年に入ってビアク島増援作戦に参加敢闘した
同年6月マリアナ諸島周辺への敵進攻の兆に迎撃作戦行動中の白露は同月15日夜敵潜水艦の雷跡回避時護衛中のタンカーと触衝沈没した
時雨はマリアナ沖海戦 比島沖海戦及び輸送作戦にと最後まで勇戦敢闘したが 同20年1月24日マレー半島東岸沖でタンカー護衛中敵潜水艦と交戦雷撃を受け沈没した
斯して就役以来水雷戦隊の精鋭として活躍した我が第27駆逐隊は戦争の終結を待たず 戦火の裡で全艦滅失し此の間 加茂喜代之夕暮 川橋秋史有明 松田九郎白露の各艦長を始め4百数十余名の尊い殉難者を出したのである
大東亜共栄圏樹立の国是を信じ愛国の至情に燃えつつ散華された多くの戦士の鎮魂と勲を後世に伝えるべくこの碑を建立する

英霊よ 安らかに

 平成4年9月27日
  第27駆逐隊乗員遺族並に戦友有志一同

佐世保鎮守府潜水艦合同慰霊碑

昭和60年10月20日建立
内閣総理大臣 中曽根康弘 謹書

大東亜戦争期間中、佐世保を本籍とした潜水艦は52隻。そのうち32隻を喪失し、戦公死した乗組員は総計で2591名。

佐鎮潜水艦勇士に捧ぐ
さきの大東亜戦争、昭和16年12月8日開戦より、20年8月15日終戦まで、3年8ヶ月の間大命一下、帝国海軍は、広大な諸海域において、寧日なく激烈な戦斗行動に従事した
戦前、戦中を通じ、佐世保鎮守府潜水艦は、見敵必勝の旨を体して勇戦奮斗したが、沈没したもの32隻、戦公死者2591名の多きに達した、痛惜の極みである今、終戦40周年の好機に際会し佐世保潜水艦乗員の残存者有志一同相図り、関係遺族及び他の多数有志者の協賛を賜わり、旧海軍墓地聖域に合同慰霊碑を建立することを得た
茲に、謹しんで、英霊を慰め、旧帝国海軍潜水艦の栄光を讃えて、無限の哀悼の微衷を捧げ、併せて日本国将来の安泰と繁栄を祈念する
 昭和60年10月20日
 佐世保鎮守府潜水艦合同慰霊碑
 建立委員会会長 高津信彦

喪失潜水艦名
伊10潜 伊13潜 伊60潜 伊61潜 伊63潜 伊67潜 伊164潜 伊165潜 伊166潜 伊177潜 伊178潜 伊179潜 伊180潜 伊181潜 伊182潜 伊183潜 伊184潜 伊185潜 伊368潜 伊370潜 伊371潜 呂33潜 呂34潜 呂61潜 呂65潜 呂66潜 呂106潜 呂107潜 呂108潜 呂109潜 呂110潜 呂111潜 伊372潜

潜望鏡

嗚呼 伊號第十潜水艦

昭和57年4月18日建立
中島清次艦長以下113名の霊を祀る

伊9型潜水艦・巡潜甲型の2番艦
昭和16年10月31日竣工(川重神戸)
昭和19年7月4日、サイパン島附近で撃沈される。伊10号潜水艦の撃沈隻数(14隻)、トン数(81,553トン)ともに第一位の戦果を誇る。

碑文
南十字星輝く南海に青春をかけて祖国のため戦い散華した伊号第十潜水艦将兵のみ霊にこの慰霊碑を捧げその勲を永久に讃える
 昭和57年4月18日 建之

伊号第10潜水艦戦歴
昭和16年神戸川崎重工において竣工
同年11月横須賀出撃以来南太平洋・東太平洋・印度洋・中部太平洋等各海域に転戦
9回の作戦行動に従事し20万海里余を走破、抜群の戦果をおさめたが昭和19年7月サイパン島東方において壮烈な最後を遂げた。

主要戦果
敵船撃沈破17隻余 敵要地飛行偵察及び潜航偵察十余回 訪独潜水艦伊号第8潜水艦に対する支援補給 印度洋作戦において映画「轟沈」の主役艦として活躍
 昭和62年9月21日

伊号第百八十五潜水艦之碑

昭和57年4月18日建立
栢原司令、荒井艦長以下95名の霊を祀る

伊百七十六型潜水艦・海大七型10番艦
昭和18年5月23日横須賀工廠で竣工
昭和19年6月22日、あ号作戦に連動する散開線展開中に、米駆逐艦の攻撃を受け沈没。
第二二潜水隊司令 栢原 保親 少将 、艦長 荒井淳大尉 以下95名戦死。 栢原保親 少将は伊10潜水艦艦長時代に商船9隻 撃沈する戦果を揚げていた。

特務艦 佐多 戦没者慰霊碑

昭和63年3月31日建立

大正10年2月竣工の給油艦。竣工から昭和12年まで海外重油輸送に従事。昭和13年より潜水艦救難艦として活躍。「伊63」「伊61」の引き揚げに従事。
大東亜戦争時は輸送任務に従事。
昭和19年3月31日、パラオ大空襲により沈没。

軍艦 若鷹 戦没者慰霊碑

平成2年5月1日建立
戦死者17名を祀る

急設防潜網敷設艦「若鷹」は昭和16年1月30日竣工。
初鷹型敷設艦3番艦。

大戦中は輸送船団の護衛に従事。西部ニューギニアを防衛。スラバヤにて終戦。引き揚げ輸送艦となり、昭和21年7月に英国に賠償艦として引き渡された。

第百三十一号輸送艦
第一黒潮 戦没者慰霊碑

昭和59年7月建立
戦没者30名の霊を祀る

二等輸送船(SB艇)は69隻が建造された。そのうち20隻が佐世保を本籍とした。そのうち16隻が戦没し、1隻が大破放棄された。
第131号輸送艦は昭和19年10月末よりオルモック輸送作戦(多号作戦)に従事。マニラに向けて帰港中にB-24爆撃機の爆撃を受け航行不能となり曳航され帰港。修理のうえ昭和20年2月10日をもって「第一黒潮」と改名して交通船に区分。
昭和20年7月27日、マラッカ海峡において米潜水艦の雷撃を受け沈没。


<戦前>

軍艦 松島 殉難者之碑

松島は日清戦争時の連合艦隊旗艦であった。
日清戦争後に橋立・厳島・松島の三景艦揃って遠洋練習航海に参加。
明治41年4月30日、台湾馬公要港停泊中に火薬庫が爆発し瞬時に沈没。殉難者は艦長・副長以下221名。少尉候補生は57名中33名が殉職。

軍艦 初瀬 戦死下士卒之碑

明治37年5月15日、日露戦争において旅順口封鎖作戦行動中、戦艦八島とともに老鉄山付近海面で機雷に触れて爆沈。
戦死下士官兵458名を祀る。

第二特務艦隊 戦没者之碑

第一次世界大戦において、日本海軍が地中海に派遣した艦隊の一つ。地中海で連合国軍とともに船団護衛作戦に従事した。
第二特務艦隊は巡洋艦「明石」を旗艦とし駆逐艦8隻で編成され大正6年4月から地中海に派遣。途中で旗艦は「出雲」にかわり、駆逐艦15隻まで増やされた。
第二特務艦隊が地中海で船団護衛をした回数は348回、護衛した艦船数は軍艦21隻、運送船767隻、護衛した連合国人員は75万人に達し、対潜戦闘回数は36回に及んだ。日本海軍において対潜戦闘はこの第二特務艦隊が初めての経験であり、尊い犠牲者も出た。
駆逐艦「榊」は大正6年6月11日の護衛作戦行動中、ドイツ潜水艦の攻撃を受け、沈没は免がれたものの大破し艦長上原中佐以下59名が戦死。
碑は戦死者(病死者も含む)73名を祀る。
なお、同艦隊の慰霊碑はマルタ島にも建立されている。

特務艦 志自岐 殉難者碑

わが国最初の重油輸送艦(給油艦)
大正8年(1919)8月15日、ボルネオ島からの帰途台風に遭い、種子島南方・源三郎礁付近で座礁沈没した。遭難者111名を祀る。

伊號第六十三潜水艦殉難者之碑

伊63潜水艦は昭和3年12月竣工。
昭和14年2月2日未明に豊後水道で浮上漂泊中に僚艦伊60と衝突し沈没。殉職者は先任将校中島大尉以下81名。

第七十号潜水艦殉難海軍々人碑

海軍殉職者43名を祀る。

第七十号潜水艦
大正十二年八月二十一日、竣工引き渡し直前の公試運転の際に淡路島鍛屋沖で事故沈没。軍人四十三名、海軍職工3名、川崎造船所職員42名の計88名が艦と運命をともにしている。


護衛艦せんだい転籍記念植樹

第二十九駆逐隊
駆逐艦夕凪会植樹

長崎県出身
海軍甲種飛行予科練習生戦没者
鎮魂の櫻

平成17年12月8日
長崎縣甲飛會

父子桜

九州甲飛16期 長崎大会記念

昭和55年3月植樹


感謝と哀悼を・・・

この記事では、全ては網羅できておりませんが、その雰囲気と往時のよすがだけでも感じていただければ幸いです。

そのほかは公式サイトをご参照でお願い致します。「慰霊碑リスト」に詳しく掲載されております。
「一般社団法人佐世保海軍墓地保存会」様

http://kaigunbochi.jp/

また本記事は
「社団法人 佐世保東山海軍墓地保存会」様が作成した
「佐世保東山海軍墓地 墓碑誌」を参照に作成させていただきました。


宝塚聖天英霊礼拝堂「大光明殿」

令和元年9月参拝

宝塚市に鎮座している寺院。
「宝塚聖天了徳密院」

「ゼロ戦墓地」「零戦墓地」としても著名。
(不本意ながら心霊スポットとしても著名らしい)
噂は聞いており気になっていたところ、ちょうど関西方面に赴く用事がありましたので、これ幸いと脚を運んでみました。

宝塚聖天 英霊礼拝堂
大光明殿

終戦33周年の年、昭和53年8月に「戦没者英霊礼拝堂」として建立。
全国陸海空戦没者260万の英霊を祀る。

合掌

宝塚聖天英霊礼拝堂「大光明殿」建立縁起

 兵庫県宝塚市宝梅町の「宝塚聖天」(真言宗了徳密院)に此の度(昭和53年 )、英霊礼拝堂「大光明殿」が建立されました。此の礼拝堂は(写真)の如く堂上に祖国の勝利を信じ青春を捧げ国に奉じた戦没者の象徴として零式戦闘機(零式戦斗機)が安置されています。何故このような礼拝堂が此の寺に建立されたのか、その縁起を述べて一人でも多くの賛同者が出られることを願います。此の礼拝堂は、宝塚市に住む一人の信者K氏の寄進によって建立されました。K氏は少年の頃、その生れ故郷の山村には特攻隊の飛行訓練場がありました。いよいよ明日は出撃!「鹿屋」に飛立つ前夜の光景が、今でもありありと目の前に浮かぶのであります。「おばちゃん行って来ます!」と云って、K氏の母親の手を両手で握りしめた少年兵の姿!目に一杯涙をためて、K氏の姉と握手して別れて行った少年兵の顔!日の丸の鉢巻をシッカリとしめて操縦席に坐った雄雄しい姿!

 それを見送る家族の人々の涙一杯の顔!あれから三十三年経過しました。然し今尚ハッキリと胸に浮かぶのは、英霊となられた人々の其の時の心の中であります、見送る家族の人々の心の中であります。その心の中が痛い程ハッキリとK氏の胸に映るのであります。此の胸の痛みは、恰度其の同じ年齢と成った我が子の顔を見るにつけ一層切実と成るのであります。現在の世の中は坐っていて世界中の物が食べられます。テレビを見ていればパリの花も、ロンドンの川の流れも目の前に楽しみことが出来ます。然し一体、 これは誰のおかげなのか、私達に代わって国の為にあえて、何の疑いも持たず戦死された方々を忘れてはならない。其の方々の英霊をお祭りしなけれればならない。慰霊せねば罰があたる。家でも国でも同じことではないか。K氏はそんな思いで一杯でした。そんな心境の時に宝塚聖天の住職と出会ったのであります。

 宝塚聖天は、今から50年程前に日下義禅大僧正と宝塚市名士、平塚嘉右ヱ門翁との二人の力に依って開創された寺であります。日下義禅和尚は昭和9年6月15日、弘法大師降誕千五百年記念に陸軍省に爆撃機を献納した人であります。平塚嘉右ヱ門翁は宝塚ホテル宝塚ゴルフ場等を創設して、阪急電鉄創立者小林一三氏と共に宝塚市生みの親として敬愛され、現在宝塚市建立の「平塚嘉右ヱ門翁頌徳碑 」が宝塚聖天境内に建てられています。このような環境ですから、支那事変勃発するや直ちに、宝塚聖天隣接地に広々とした軍人墓地が開設されて堂々たる軍人のお墓がズラリとお祭りされています。

「お母ちゃん!あれ、誰のお墓なの?」
「アレはね、だまされて、戦争して、死んだ人のお墓なのよ!」
 何という言葉でしょう。鉛の煮え湯を呑まされた気がしました。一体全体、今の世の中は、どうなっているのか。第一、これで戦死した人々に対して、すむのか。遺族が聞いたらどんな気がするのか、こんな母親に育てられて日本の国の将来は、一体どうなるのか?唯々茫然とするバカリでした、と住職は嘆息しました。宝塚聖天の住職は、毎月靖國神社に「月参り」しています。靖国社頭の「英霊の遺書」に非常に感銘し、是非宝塚軍人墓地にも此の「英霊遺書」の掲示場を設けて、一人でも多くの人々に読んで頂き度いと念願していました。そんな時にK氏の家に頼まれて「神さん」をお祭りすることに成りました此時、K氏と住職と、二人の胸中は一度に爆発したのであります。そして英霊礼拝堂建立の話が宝塚聖天信徒総代須藤真男氏に相談され、茲に具体化して行ったのであり、須藤真男氏は平塚嘉右ヱ門翁の御令孫であります。

 合掌のその手で築こう世界の平和

 世界の平和は、先づ見えない英霊の慰霊鎮魂が根本であります。
青春を捧げ散っていった戦没者の象徴として、零式戦闘機を堂上に奉安しましょう。
 戦没者260万の英霊をお祭りしましょう。
 護国英霊、日清、日露戦役大東亜戦争の忠魂をお祭りしましょう。
 敵、味方怨親平等供養回向しましょう。
 遺品、遺書、写真、書籍等を出来るだけ、広く、多く永く子孫に伝へて、二度と再びかかる事なきよう世界の平和を誓いましょう。
 英霊の前に黙祷を捧げて、静かに英霊の声に耳を傾けましょう。

賛助団体(アイウエオ順 6月20日現在)
一、 一生会有志
一、  大阪市傷痍軍人会
一、  大阪市傷痍軍人妻の会
一、  金鵄会宝塚支部
一、  甲飛十期会有志
一、  三〇三会
一、  特操会
一、  陸軍特別操縦見習士官有志
一、  独立野砲第二聯隊
一、  三重空甲飛十一期会
一、  陸軍少年飛行兵有志
一、  陸軍少年飛行兵十五期会有志
一、  六親会
一、  その他五団体程度の申し込みがあります。

英霊礼拝堂 堂内

終戦33周年戦没者英霊堂 建立
願主 宝塚遺徳顕彰会
寄進 神戸道雄
設計 株式会社 宮本公務設計事務所
施工 中央建設 株式会社
零戦制作 全日本整備 株式会社
完成 1978年8月

記念樹靖国神社拝桜
昭和53年8月吉日

零式艦上戦闘機

英霊礼拝堂「大光明殿」堂上には、祖国の勝利を信じ青春を捧げ国に奉じた戦没者の象徴として零式戦闘機が安置されている。

カウル部分や20mm機銃なども再現されている。

機体番号は「63-888」
零戦五三型の胴体下に250キロ爆弾を設置した戦闘爆撃機型が零戦六三型。その「63」を意味しているものかどうかは不明。


神風特別攻撃隊之魁
甲飛十期之碑

甲飛十期(予科練・土浦空)は、特攻第一号となった神風特別攻撃隊・敷島隊に2名を出し、その魁となっている。

第一神風特別攻撃隊 敷島隊
昭和19年10月25日
マバラカット基地発 タクロバン沖機動部隊攻撃
零戦
大尉  関 行男  (愛媛・海兵70期) 戦闘301飛行隊
一飛曹 中野 盤雄 (福島・甲飛10期) 戦闘301飛行隊
一飛曹 谷 暢夫  (岐阜・甲飛10期) 戦闘305飛行隊

飛長  永峰 肇  (宮崎・丙飛15期) 戦闘305飛行隊
上飛  大黒 繁男 (愛媛・丙飛17期) 戦闘331飛行隊

 昭和初期、海軍航空戦力の急激な拡充を目指して、甲飛予科練制度が創設され、我々は昭和十七年(十九四二年)四月一日、土浦海軍航空隊に第十期甲種飛行予科練習生として入隊、秋霜烈日の猛訓練に耐え飛行練習生教程を終えて太平洋戦争決戦の大空へ巣立った。昭和十九年十月フィリピン・レイテ湾に米航空母艦三十数隻を含む大機動部隊が殺到、迎え撃つ我が栗田を主力とする連合艦隊とのフィリピン沖海戦は、太平洋戦争中最も熾烈な一大海空戦であった。時に第一航空艦隊司令長官大西滝治郎中将は、この国家存亡の瀬戸際こそ二百五十キロ爆弾を零戦に装着、一機一機肉弾体当り攻撃の他なしと決意し、十月十九日、第二〇一航空隊副長玉井中佐に特攻隊の編成を命じた。命を受けた彼は、かつての教え子甲飛十期の零戦搭乗員より二十四名を選抜し、第一神風特別攻撃隊を編成した。

ああ、これが特別攻撃隊の魁になろうとは

 敷島の大和心を人問わば 
  朝日に匂う山桜花(本居宣長)

 この歌より隊名を敷島、大和、朝日、山桜の四隊とし、直後菊水隊が加えられた。索敵数日、十月二十五日に至り各隊見敵に成功、祖国の安泰を祈り一矢報いる信念に燃え、全機突入多大の戦果を挙げた。若干20歳にも満たない若者がひたすら祖国最後の勝利を信じ、父母を思い故山を偲び、黙々とその任務を完遂して散華し、卒業時1004名の80%が還らぬ人となった。その崇高で至純な行為と精神を後世に伝え、霊を慰め徳を顕彰する為にこの碑を建立する。

飛天光明之珠海

レイテ海の真砂
この海に甲飛十期生が数多く特攻で散華し光明の珠となり輝いている。
甲飛十期會

あなたを忘れない

建記
一、地鎮祭 平成5年11月10日
一、定礎式 平成5年12月10日
一、題文 谷一枝書
一、碑文 甲飛十期會撰
一、タイムカプセル内に
散る桜 残る桜 甲飛十期の記録
 戦死者 名簿
 生存者 名簿
 醵金者 名簿
一、竣工除幕式 平成6年4月1日
甲飛十期會建立


戦没者追悼
平和祈念碑

終戦50周年記念 平成10年8月15日


中村純一中尉慰霊碑

君黙思不動
至誠廉潔士
祖国ノ難ニ殉ズ
兄等ノ礎ニ
日本ハ在リ
魂魄不滅

陸軍中尉中村純一は学鷲として阪神防衛に参戦
絶望的な戦局に動ぜず眦を決して天翔る
愛機飛燕を駆り凄絶死闘
夏蒼穹に光烈散華す
雲染めて声なし
時 昭和二十年七月九日 
於 大阪星田村 
特操一期 鹿児島二中 東京農大卒 
二十三歳  愛惜尽きず

鹿児島市 弟中村三郎建之
特別操縦見士官有志一同
昭和56年6月28日

中村純一陸軍中尉は特操1期。(特別操縦見習士官・学鷲)
昭和20年7月9日、陸軍・飛行第56戦隊は硫黄島より飛来したP51を迎撃するために伊丹飛行場より出撃。
三式戦「飛燕」で迎撃をした中村純一中尉は空中戦闘で被弾。脱出し落下降下中に敵機の翼で落下傘の紐が切断され、星田村(大阪府交野市)の水田に落下し戦死された。JR学研都市線・星田駅近くに慰霊碑あり。
被弾した飛燕は大阪府交野市星田北に墜落。
平成17年、第二京阪道路建設工事現場で搭乗機「飛燕」の部品(残骸)が発見されている。


宝塚軍人墓地

合掌


宝塚聖天了徳密院

七宝山了徳密院。宝塚の聖天さん。

七宝山了徳密院は大阪浦江福島聖天了徳院の別院として、大正8年、日下義禅大和尚(元真言宗東寺派管長)によって建立。

http://www.ryomitu.com/

神仏習合の寺院、聖天様。

夏空の下での参拝でした。

逆瀬川駅(さかせがわ)からバスでアクセスを。
地図にも「零戦」と記載されている場所。

真田山陸軍墓地(大阪)

令和元年五月参拝

大阪城東南の丘「真田山」(宰相山)。大阪冬の陣では真田幸村(真田信繁)が出城を築いた古戦場跡。「三光神社」に隣接。

明治4年(1871)に創設された日本で最初の陸軍墓地。

感謝と哀悼の念を抱きつつ、真摯に真田山陸軍墓地に拝する。

合掌

真田山陸軍墓地

真田山陸軍墓地
 本墓地は、一八六九年(明治二年)から一八七〇年にかけて我国陸軍の中枢機関が次々と大阪に創設されたことに伴って、一八七一年(明治四年)に日本で最初に設置された陸軍墓地で、現在の面積は約一五、〇九〇平方メートルあります。
 このような陸軍墓地は戦前、全国で八〇箇所以上つくられましたが、それらの中で最も大きな規模を持つ真田山陸軍墓地は終戦当時の景観をよく残していると言われています。
 終戦に伴い一九五四(昭和二十年)十二月陸軍省が廃止され、大蔵省の管理する国有財産となりましたが、一九四六(昭和二十一年)に大蔵省との国有財産無償貸付契約により、貸付を受けた大阪市が管理をし今日に至っています。
 墓地内には、一八七三(明治六年)の徴兵令施行以前に属する兵士の墓碑にはじまり、西南戦争や日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦を経て、先の大戦終結後に設置された墓碑も含め、約五、一〇〇基の個人墓碑、日露戦争・満州事変戦病没将兵合葬墓並びにアジア太平洋戦争の戦病没将兵約八、二〇〇人の遺骨等を納めた納骨堂があります。また、軍役夫や日本軍の捕虜となった清国兵、ドイツ兵の墓碑、及び兵役従事中の平時病死者の墓碑もあることがこの墓地の特徴となっています。
 これまで二回にわたり研究者による大掛かりな墓碑や納骨堂をはじめとする当墓地に関する学術調査が行われ、多くの貴重な事実が判明いたしました。
 当墓地では、大阪市と締結した確認書に基づき公益財団法人真田山墓地維持会が、毎年十月に埋葬・納骨せる戦没者の慰霊祭を行うほか、特定非営利活動法人旧真田山陸軍墓地とその保存を考える会による当墓地に関する調査・研究、資料の公開や見学者に対する案内等、多くのボランティアの皆様に支えられながら、墓地の除草・清掃を行い環境維持活動や痛んだ墓碑の修復・保存のための事業を行っています。
 ここを訪れる方々は、整然と並んだ多くの将兵の墓碑にまず圧倒され、そしてそこに刻まれた文字を読み取るとき、必ずや平和の尊さを実感されるものと存じます。
 二〇一六年(平成二十八年)三月
 公益財団法人 真田山陸軍墓地維持会
 理事長 吉川秀隆

真田山旧陸軍墓地の由来
 真田山旧陸軍墓地は大阪市天王寺区玉造本町にあり、明治4年8月わが国最初の鎮台(後の陸軍第4師団)が大阪に置かれて、この地、真田山が陸軍墓地となりました。
 ちなみに真田山は大阪城の出丸で真田幸村が陣地を構えて、徳川の大軍を迎え撃った古戦場であります。敷地は5,359坪(17,685平方米)あり、墓地には西南の役以来、日清、日露及び今次第二次世界大戦に至る間における、戦没英霊の御冥福を祈念し、4千8百余柱と清国及び独逸人戦病没者10柱の墓標が建立されており、尚 霊堂(納骨堂)には4万2千余柱の遺骨が奉安されてあります。
 戦後陸軍省廃止と共に国家が維持及び祭祀を行う事が出来なくなり、大蔵省よりの大阪府又は大阪市の宗教団体、遺族会等により維持管理を行うべしとの通牒に基づき、財団法人大阪靖国霊場維持会が創立され、以来祭祀については靖国霊場維持会他有志多数の奉仕により行われております。
 平成7年12月 建之
 社団法人 日本郷友連盟大阪府支部他有志

下田織之助之墓

真田山陸軍墓地で最も古い墓標という。
明治3年(1870)に亡くなった下田織之助(長州奇兵隊隊士・陸軍兵学寮生徒・大坂で病死)

仮納骨堂 (仮忠霊堂)

昭和18年建立。仮納骨堂は忠霊堂を建てるまでの仮として建設されたが、戦時中の物資不足もあり、忠霊堂が建立されることなく今日に至る。

慰霊碑

大坂鎮台 第四師団及び大阪の地より出征された英霊にささげる

みおつくし帰らぬ戦友の多きかな 
いくさの庭に出で行きしまま
 篠塚 捷夫 作

献木 桜とつつじ
昭和六拾弐年四月吉日建之
歩兵第八聯隊と僚友部隊戦友
有志奉仕者代表 中野幸作

篠塚捷夫は元陸軍大佐(陸士37期・陸大49期・第16方面軍参謀)か?

萬國英霊菩提(破損墓標)

破損した墓標が一角に集められている。

外国人俘虜墓標

日清戦争の清国兵、第一次大戦のドイツ兵も眠る。

独逸俘虜
 兵卒 リードリヒ クラフト(左)
 軍曹 へルマン ゴル(右)

恐らく、戦後に「俘虜」の文字を埋めたものと思われる。

清国俘虜の方々の墓標。
同じく俘虜の字を埋めたと思われる。

合葬碑

滿洲事變戦病沒将兵合葬碑
(満州事変戦病没将兵合葬碑)

第四師団長 陸軍中将 従三位勲二等功四級 伯爵 寺内壽一 書
(寺内寿一)
昭和九年九月建之

弔魂燈

昭和六年捨貳月奉建之(昭和6年12月)
婦人古友會

明治三十七八年戦役戦病死者合葬碑

階級ごとに4基が並んでいる。
日露戦争の戦病死者合葬碑。

明治三十七八年戦役将校同相当官戦病死者合葬碑

明治39年11月建之

明治三十七八年戦役准士官戦病死者合葬碑

明治39年11月建之

明治三十七八年戦役下士戦病死者合葬碑

明治39年11月建之

明治三十七八年戦役兵卒戦病死者合葬碑

明治39年11月建之

陸軍少将今井兼利墓

真田山陸軍墓地内で最も大きい墓標。
歩兵第七旅団長。明治23年9月、野外演習視察中にコレラを発症し逝去。今井兼利の二男はのちの海軍少将今井兼昌(日露戦争時の鎮遠艦長、水雷艇隊総指揮官) 。

公益財団法人 真田山陸軍墓地維持会

敷地内の建屋に。

https://www.sanadayama.or.jp/

生兵の墓標

明治期の陸軍においては、入営して半年間は「生兵」(せいへい・なまへい)と呼称されていた。

境界石・境界石標

北側に2本、東側(三光神社側)に1本の合計3本が残されている。

北側の境界石
「境界査定標」 「陸軍」

東側の境界石
「陸軍省所轄地」

当時のレンガ塀か?

真田山陸軍墓地の写真

空堀地蔵尊(朝おき地蔵尊)

真田山陸軍墓地内に鎮座。

三光神社

真田山陸軍墓地の隣に鎮座。

仁徳天皇から三代後人皇十八代反正天皇時代の創建という。
創建以後神職として奉仕された武内宿弥の末裔武川氏(八十六代)が代々の宮司家。

先代の鳥居柱
「国家安泰平和祈願」
昭和20年6月戦災を蒙り
倒壊その片柱をここに留む
三光神社奉賛会

御社殿

真田幸村公之像

真田の抜け穴

真田神社サイト

http://www.sankoujinja.com/


なお、真田山陸軍墓地の参拝及び本記事作成に関して、
大日本者神國也」( 盡忠報國 様 Twitterアカウント)を参考とさせていただきました。ありがとうございました。

http://shinkokunippon.blog122.fc2.com/blog-entry-867.html

拓魂公苑(満洲開拓殉難者之碑)

令和元年8月撮影

聖蹟桜ヶ丘駅からバスで「記念館」まで。
聖蹟記念館のある「桜ヶ丘公園」の手前に「満洲開拓殉難者」を祀る聖域がある。

満洲開拓殉難者之碑
「拓魂」碑

(表面)
拓魂

(裏面)
満洲開拓受難者之碑
 昭和38年4月
 満洲開拓殉難碑建立委員会建之
  加藤寛治書

満蒙の荒野に無残に散った8万の開拓者と、その人々を守りつつ自らも逝った関係者多数の御霊を祀る。

合掌

この土地(1,621平方メートル)と満州開拓の歴史を刻んだ拓魂碑などは、社団法人全国拓友協会の厚意により都市計画公園用地及び紀念碑等として東京都が寄贈を受けたものです。
 平成13年3月
  東京都

満洲開拓殉難者之碑建設の由来
 この碑は、満蒙の荒野に無残に散った八万の開拓者と、その人々を守りつつ自らも逝った関係者多数の御霊が合祀してあります
 昭和7年(1932年)はじめられた、満洲の開拓事業は、満蒙の天地に世界に、比類なき民族協和の平和村建設と、祖国の防衛という高い日本民族の理想を実現するために、重大国策として、時の政府により行われたものであります
 凍土をおこし黒土を耕し、三十万の開拓農民は、日夜祖国の運命を想いながら黙々と開拓の鍬を振るいました
 然し、その理想の達せられんとした昭和20年の夏、思わざる祖国の敗戦により、地と汗の建設は一瞬にして崩れ去り、八万余の拓士と関係者は、満蒙の夏草の中に露と消えていきました
 そして、そこには、未だ一輪の花も供えられたことはないのです
 ここに同志相図り、水漬きこの多摩川の丘に一碑を建てて、祖国と民族のために、雄々しく不屈の開拓を戦い抜き、そして散っていった亡きこれらの人々の御霊をお祀りするとともに、再びかかる悲しみのおこることなき世界の平和の実現を、心からお祈りせんとするものです
 昭和三十八年八月  
 建設委員長 安井 謙

 上掲の由来文にもあるように、非業に斃れた満洲開拓犠牲者の御霊を祀るべく、関係者相図り、昭和三十二年に国や全国都道府県の強力なご支援と、内閣総理大臣や各国務大臣を歴任された方々など多くの有識者のご理解とご協力のもと、満洲開拓殉難者之碑建設委員会(委員長 安井誠一東京都知事)が発足し、その後、跡を継いだ実弟の安井謙氏(後の参議院議長)を筆頭とする建設委員会各位の並々ならぬご尽力によって、同三十八年ようやく満洲開拓に所縁のある景勝の地、ここ聖蹟桜ヶ丘の一角を選定して土地を取得し、その中央に拓魂碑を建立、同年八月十日に除幕式が執り行われました。
 さらにその後、碑の周囲を取り巻くように、関係者それぞれが在満当時所属していた開拓団ごとの団碑の建立も逐次行われ、その総数百七十三基を数えるに至り現在見られるような拓魂公苑に整備されました。
 爾来三十有余年、全国拓友協会と拓魂碑奉賛会の共催のもとに桜花爛漫の四月第二日曜日を「拓魂祭」の例祭日と決め、毎年毎年全国津々浦々から集い来る老若男女の数は、たとえ荒天風雨の日となるも一〇〇〇名を下ることはなく、各々がこの拓魂碑および各団碑の前にぬかずき、香を焚き花を捧げ、在りし日の肉親縁者や同志を偲ぶ慰霊の行事を続けて今日に至りました。
 いま、私ども満洲開拓関係者の最大の悲願は、この公苑と拓魂碑等の永久護持にありますが、そのための方途として、この度理解ある関係各位のご尽力と、東京都知事のご英断により、これらを都有施設としてお引き受け戴くとともに、爾後の維持管理をもお願いすることになりました。
 それに伴い、ここに全国拓友協会の所有にかかる公苑敷地一六二一㎡及び樹木、拓魂碑、団碑等の一切を東京都に寄付することと致しました。
 拓魂よ永遠なれと念じつつ。 
 
 平成十三年一月吉日  
 社団法人全国拓友協会 会長 戸谷義次

柵のように見える石柱はひとつひとつが慰霊碑です。

拓魂碑を中心に左右を囲むように開拓団ごとに慰霊の団碑が建立され、その数は173基に及ぶという。

慰霊の団碑(むかって左)

慰霊の団碑(むかって右)

中央には桜の木。春はさぞかし美しい空間となるだろう。。。

桧山桜
 中隊長の遺徳を偲んで
 昭和四十七年建碑記念樹 第三次桧山中隊生存者一同

入り口には「馬頭観音」

場所

https://goo.gl/maps/DhbqW6TVMQcuknYq8

すぐとなりは、聖蹟記念館。