「慰霊碑・顕彰碑・記念碑」カテゴリーアーカイブ

ドーリットル空襲と石出巳之助之墓

ドーリットル空襲

昭和17年(1942)4月18日。
米陸軍所属のB-25爆撃機16機が米海軍所属の空母ホーネットより発進し、日本本土への空襲を実施。この空襲がアメリカ軍による日本本土初空襲(東京初空襲)であり、ミッドウェー海戦のきっかけともなった。
「ドーリットル空襲」の名称は爆撃機隊の指揮官であったドーリットル中佐に由来する。

日本側の被害は、死亡約90人、負傷約460人であったという。

水元小学校と石出巳之助君

昭和17年4月17日(土曜日)
この日は土曜日だったので半ドン、つまり午前中で学校の授業は終わりだった。

4月に入学したばかりの東京都水元国民学校学校高等科1年生(中学1年生)の石出巳之助君(13歳)たちは午前の授業を終え、12時過ぎに校門を出たところで「空襲警報」が鳴ったという。
空襲警報を聞き、石出巳之助君たちは日頃の訓練どおりに急いで校舎に引き返し教室の机の下に潜ろうと廊下を走っていたところで、B-25の機銃掃射を受け背中に命中。応急処置を施すも、午後2時に命を引き取った。

石出くんを機銃掃射したB-25は、米空母ホーネットを8時30分に発艦したドーリットル隊3番機であった。3番機は水元国民学校に15発の機銃掃射を行ったという。

日本発空襲の被害は、東京だけで死者は39名であった。

翌日の新聞(朝日新聞)は、「鬼畜の敵、校庭を掃射」等、報じている。
また実際にはB-25を1機も撃墜していないが「けふ帝都に敵機来襲 9機を撃墜、わが損害軽微」との報道もなされた。

東部軍司令部発表(昭和17年4月18日午後2時)
「午後零時30分頃、敵機数方向より京浜地方に来襲せるも、わが空地上両航空部隊の反撃を受け、逐次退散中なり。現在までに判明せる敵機撃墜数は9機にして、我が方の損害、軽微なる模様。皇室は御安泰で渡らせらる。」

石出巳之助之墓

戒名は「悲運銃撃善士」
石出君の死は、軍部による国威発揚に利用されたのだ。

墓前にて合掌。

(表) 石出巳之助之墓
(左) 悲運銃撃善士 昭和十七年四月十八日
(右) 昭和十七年四月十八日
    米國敵機ノ機銃彈ヲ受ケテ死亡ス
    性温和至純至孝身體強健ニシテ
    將來ヲ囑望セラレシニ此ノ災禍ニ遭ヒテ殉難ス 
    享年十四歳
(裏) 昭和十七年八月
    施主 石出文五郎建之

石出巳之助之墓

第2章 葛飾の歴史
第9節 昭和時代

■葛飾区への空襲 :
初めは勝利を重ねた日本でしたが、だんだん負けることが多くなりました。そして、日本は空襲を受けるようになり、沖縄では上陸したアメリカ軍との激しい戦いがありました。

空襲による犠牲者  
 1942(昭和17)年4月18日、東京がはじめてアメリカ軍による空襲を受けました。飛行機が飛んできて爆弾を落とし、空から銃をうったのです。この空襲では、葛飾区も被害を受け、水元国民学校高等科1年生(中学1年生)の石出巳之助君がうたれて亡くなっています。当日は、土曜日で午前中に授業がありました。家に帰ろうと校門を出たときに空襲が始まり、日ごろの訓練どおりに校舎に引き返しましたが、1階のろう下でうたれたのです。亡くなった後、学校では石出君の写真を校舎内にかかげて、毎朝手を合わせました。  
 1944(昭和19)年にサイパン島がアメリカの手にわたると、そこからくる飛行機による空襲が本格化し、葛飾区でも被害がありました。

葛飾区史(葛飾区総務部総務課)http://www.city.katsushika.lg.jp/history/child/2-9-4-86.html

上記、葛飾区史(葛飾区総務部総務課)のサイトより写真を引用。

石出巳之助君の墓(1943〔昭和18〕年)
水元国民学校の校舎に残った銃弾のあと(葛飾区郷土と天文の博物館所蔵)
石出巳之助君が亡くなった空襲のときに、学校に残った銃弾による傷です。
なお、砲弾は後日、寄贈されたものです。

石出くんのお墓は「法林寺」にある。

浄土宗寺院の見池山法林寺

総務省>一般戦災死没者の追悼>石出巳之助之墓

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/virtual/memorialsite/tokyo_katsushika_city001/index.html


旧水元小学校

石出くんが通っていた水元国民学校の校舎の一部が今も残されている。
現在は、葛飾区強度と天文の博物館の管理ではあるが、耐震性の問題があり平成28年で「教育資料館」としては閉館。立入禁止となっている。

葛飾区指定有形文化財
水元小学校旧校舎 1棟
 所在地 葛飾区水元4丁目21番1号
 指定年月日 昭和59年(1984)2月27日

 この建物は、水元村立水元尋常高等小学校の増築校舎として、大正14年(1925)7月20日に竣工しました。
 大正12年(1923)に発生した関東大震災の影響で材木が不足していたことから、アメリカから輸入した松材を用いて建築、当時としては構造上の強化も図られています。
 竣工当時は、廊下に沿って4部屋の教室がありましたが、現在の校舎新築に伴い昭和40年(1965)に北側の教室2部屋が撤去されました。この際に発見された棟札には、棟上げ日(大正14年5月16日)の他、当時の関係者の名前が記載されています。その後も、南側の2教室は昭和57年(1982)まで校舎として使用されました。
 昭和58年(1983)に現在地に曳家のうえ、建設当初の状態に復元されて、平成28年(2016)3月まで葛飾区教育資料館として使用されました。
 大正時代に建てられた校舎として貴重なことから、昭和59年2月に、葛飾区指定有形文化財に指定されています。
 葛飾区教育委員会

葛飾区郷土と天文の博物館>旧教育資料館 関連展示

https://www.museum.city.katsushika.lg.jp/exhibition/permanent/shiryokan.php


位置関係

国土地理院
ファイル;C36(8913)-C1-297
1944年10月24日-日本陸軍撮影。

水元小学校が上空からでも目立つのがわかる。
(機銃掃射すべき対象物でないこともわかるはずだが。)

現在の様子。水元公園は戦前は水田地帯であったのが意外。

以上、
ドーリットル空襲と、本土空襲最初の犠牲者の一人であった石出巳之助さんにまつわる話でした。

赤羽台の戦跡散策

東京都北区赤羽台

軍都赤羽

赤羽台。
現在の赤羽八幡神社の裏手や星美学園、東京北医療センター界隈には2つの工兵大隊が駐留をしていた。
「第一師団工兵第一大隊」と「近衛工兵大隊」、2つの部隊を合わせて「赤羽工兵隊」と呼んだという。

そんな赤羽台と赤羽工兵隊ゆかりの史跡を探して散策をしてみたいと思う。

赤羽招魂社(赤羽八幡神社境内社)

位置関係

国土交通省国土地理院航空写真 ファイル:893-C1-191
1944年9月27日に陸軍撮影

上記を一部加工。クリックで拡大。


赤羽招魂社
 陸軍第一師団工兵第一大隊営内神社

赤羽駅から線路沿いに北上する。
ちょうど線路がYの字に分岐する狭間に鎮座するのが赤羽八幡神社。
その赤羽八幡神社の境内に鎮座しているのが「赤羽招魂社」。このお社は、陸軍第一師団工兵第一大隊の営内神社の流れをくんでいる工兵隊ゆかりの神社。

「営内神社」は、東京の赤羽神社を嚆矢とする。明治三十一年(1898)、東京赤羽工兵隊第一大隊構内に天照大神、歴代皇霊、天地地砥を祀った社祠を設け、将校以下兵士までに拝礼させることにした。これが軍隊内に神を祀った最初とされ、以後全国に広まったものという。(注65)
 (注65)『工兵第一大(連)隊史』赤羽招魂社奉賛会編刊、一九八四年。

営内神社と地域社会 本康宏史
https://rekihaku.repo.nii.ac.jp/?action=repository_uri&item_id=1654&file_id=22&file_no=1

社号標
正面 赤羽招魂社
右面 營内神社
左面 工兵第一大隊
裏面 明治三十一年四月鎮座

忠魂
工兵第一大隊は皇軍の創設と共に発祥し、明治廿年桜田門より赤羽台上に転営し後聯隊となり、昭和十一年留守部隊に後を託して北満孫呉に移駐。軈て大東亜戦争に際会して遠く南方に転進し、昭和廿年比島にて玉砕して諸兵悉く国難に殉す。この間凡そ六十年赤羽工兵の声価は広く、人口に膾炙し、特に地元に親愛せらる。即ち幾多の当隊編成部隊と共に累次の戦役、事変に出陣し、各地に勇戦奮斗毎に赫々たる偉勲を樹て燦然たる光彩を発揮し又内地に在りては、関東大震災を始め、数次の災害に出動し、警備援護の任を全うし、克く公衆の信倚に応えたり。この間護国の華と散りし、幾百先輩の英霊を祀る営内神社は明治三十一年以来敬仰団結の核心として鎮座し、終戦と共に八幡神社の神域に奉遷、更に赤羽町戦没英霊を合祀して赤羽招魂社と崇め、毎年桜花四月の交慰霊祭を奉仕して今日に至る。然るに兵営の跡既に変貌して旧記念碑亦散逸して往時を偲ぶ由なきを憂い、茲に生存戦友遺族及び地元有志相図りて本碑を社頭に建立し、以て聯隊の功績と先輩の偉勲を顕彰し、永く之を後世に伝えんとするもの也。
 昭和42年4月29日
 赤羽招魂社奉賛会長 大河原 鉄之助 謹書

戦歿英霊合祀
明治十年戦役    27柱
明治二十七八年戦役 52柱
明治三十七八年戦役 238柱
日独戦争      14柱
支那事変      427柱
大東亜戦争     戦没者英霊
赤羽町出身者    戦没者英霊 
公務殉職者     11柱

戦没者神霊
明治十年西南戦役    27柱
明治二七・八年日清戦争 52柱
明治三七・八年日露戦争 238柱
大正三年日独戦争    1柱
大正七年西伯利亜出兵  13柱
大正・昭和演習殉難者  9柱
満州事変・支那事変   465柱
大東亜戦争       5660柱
赤羽八幡神社氏子    92柱
           計6557柱   

戦後50年奉賛会記念事業として玉垣を造成奉納する
 赤羽招魂社奉賛会
   会長 年代 茂
      役員一同
平成9年4月29日
   関係部隊有志一同

工兵第一大隊動員編成野戦部隊
工兵第一大隊
工兵第一連隊
 (以下略

工兵第一大隊の営内神社であった当社は、戦後に赤羽八幡神社に遷座し、地元赤羽の戦没者も合祀し、赤羽招魂社となった。営内神社の歴史から連なる貴重なお社。戦没者の御霊に深く拝する。


赤羽八幡神社

東京都北区赤羽台に鎮座。旧赤羽村の総鎮守。
延暦3年(784)に、坂上田村麻呂が当地に陣を張り、八幡三柱を勧請したことにより創建。

赤羽台の当地の下、正確には赤羽八幡神社社務所の下を東北新幹線が通過している。

赤羽八幡神社の入り口近くに日露戦争の紀念碑が2つ鎮座していた。

日露戦役紀念碑
明治三十七年二月乃十日刀云布日尓天皇乃大詔以上露西亜国止戦乎開幾給比志興里軍人等諸波皇我大命平畏美上海行加波水清久屍山行加婆草生須骸刀御国乃為大君乃御為刀一向尓大和心平振比起之上海外陸尓進美戦比志功波弦久二年尓満多奴尓海陸乃戦波光輝介留終乎曽告介留敵後乃世乃人等乃紀念ホ湿久此郷乃人等乃此御軍尓加波里上忠心平蓋志々大伎功清伎名平萬世末上尓伝辺牟止上哀尓如名平彫刻牟尓南牟

東京帝國大學史科大學講師 佐々木信綱識  弟子朝日重光謹書

 明治39年 赤羽兵事義会々員建立

日露戦役紀念碑
後備陸軍歩兵軍曹沼野佐吉君以明治三十七年六月十四日召集干第一師団司令部命第二兵姑司令部附仝二十日出発東京七月十一日上陸清国盛京省南尖入第四軍戦斗序列爾来或参加千戦斗或従事千兵姑開設十月十日任陸軍歩兵曹長、三十八年十二月十日任陸軍歩兵特務曹長命第四師団第二補助輪卒隊附翌三十九年二月二十六日凱旋第四師団之本営二月三日召集解除為
豫備陸軍砲兵伍長丸峰萬五郎君以明治廿七年二月八日召集干近衛野砲兵聯隊第五中隊二月十一日発東京向戦地二月丗日初鳴緑江九里島之戦而爾来転戦干各處六月一日任陸軍砲兵軍曹七月二十一日苦戦於様子嶺八月廿一日砲撃孟家房之際―戦傷送還千本国既而癒命臨時軍用鉄道監部附復赴清匡廿九年二月廿匹日凱掟於東京召集隼除為

赤羽八幡神社にも拝礼。

高台の神社は鉄道スポットでも有名。

むかし、御朱印と御朱印帳を頂いておりました。
「下元八運」の「8」が、関ジャニ∞ファンにも好評だとか。

御朱印は平成27年ですね。
実はこのころは、ここが陸軍工兵隊ゆかりの神社とは全く知らず、でした。
3年後ぐらいに戦跡としての赤羽八幡神社を知って、そして再訪したというわけです。興味の方向性がどこにあるかで感じることは全く違いますね。

高架線路に挟まれた赤羽八幡神社。


師団坂

赤羽八幡の脇の坂道、赤羽台に登っていく坂を「師団坂」という。文字通り、この坂を登っていくと、坂の上には「近衛師団」と「第一師団」に所属した「二つの師団の工兵大隊」が展開されていた。

師団坂
 この坂は、旧陸軍の近衛師団と第一師団に所属した二つの工兵大隊に向かう坂道でした。明治二十年(一八八七)八月から九月にかけてこれらの工兵大隊が現在の丸の内一丁目から赤羽台四丁目内に移ってきたので、坂はつくられました。
 この坂は「工兵坂」とも呼ばれ、休日などの際は軍人や面会者の往来で賑わいました。当時の工兵隊の兵営は、『赤羽の兵隊屋敷』と呼ばれ、工兵隊による浮間橋の架橋や花見時の兵営開放などにより、付近の住民にも親しまれていました。
 現在、兵営の間にあった練兵場は住宅地となり、第一師団工兵大隊兵営跡は学校法人星美学園の敷地となっています。


師団坂通りバス停と星美学園
(陸軍第一師団工兵第一大隊兵営跡)

師団坂を登りきったところに「師団坂通りバス停」があり、そこには「星美学園」がある。
この星美学園の場所に、当時は「陸軍第一師団工兵第一大隊」の兵営があった。

師団坂通り
(共用練兵場跡)

星美学園と東京北医療センターの間の住宅地は、両工兵隊共用で使用していた練兵場であった。突き当りが近衛工兵大隊(現在の東京北医療センター)


東京北医療センター
(近衛工兵大隊兵営跡)

現在の東京北医療センターはかつては近衛工兵大隊の地であった。

近衛工兵大隊ゆかりの石碑群

東京北医療センターと赤羽台さくら並木公園との境目あたりに、木々に埋もれるようにして、4つの石碑が集められていた。

(表面)
御幸松
(裏面)
大正4年乙卯夏6月18日
近衛工兵大隊長陸軍工兵大佐佐藤正武謹識

(表面)
白楊坐記
 (漢文略)
大正9年4月7日
(裏面)
近衛工兵大隊第三中隊大正6年兵
満期除隊者植白楊樹三百株
并36名各刻碑面文字

(表面)
澄宮
御手植松
(裏面)
昭和2年5月2日
近衛工兵大隊長?原允長謹識

澄宮とは 三笠宮崇仁親王のこと。

(表面)
皇太子殿下
御手植松
(裏面)
大正4年5月18日
近衛工兵大隊長陸軍工兵大佐佐藤正武建之
 陸軍工兵二等卒重田昌司謹刻

ここでいう皇太子殿下とは、のちの 昭和天皇

近衛工兵大隊時代の石碑がこの一箇所にあつめられていた。それぞれ御手植碑だったり植樹碑だったりするが、その肝心の木々はどこにあるのだろうか。


陸軍境界石(陸軍境界標石)

東京北医療センターの東南、赤羽台さくら並木公園の北東
ごみ集積場の陰に隠れるように石柱が残っていた。
近衛工兵大隊の境界石。

陸軍用地


赤羽台さくら並木公園
 (射撃訓練場跡)

この細長い公園は当時は射撃場であったという。

防空壕跡

当時は射撃場があった赤羽台さくら並木公園の中に、ひっそりと残されていた防空壕。


浮間橋

北赤羽駅ちかくの浮間橋まで移動。

新河岸川にかかる浮間橋の脇に、近衛工兵大隊にちなむ石碑が残されている。

当時の浮間地域は荒川と新河岸川の間に挟まれ、交通手段を渡船に頼らざるを得ない場所でした。
そこで浮間地域の人々が、建設費用として6,000円を用意し橋の建設を「近衛工兵大隊(近衛師団工兵隊)」に相談。そうして昭和3年(1928)5月に木造の橋が完成したことを記録する石碑。
当時の6,000円は1000万円ぐらいか。

浮間橋の碑
北区浮間1-1(左岸)
 荒川は江戸時代より洪水が多く、「荒れ狂う」川として知られていました。明治43年(1910)8月の大洪水をきっかけに大規模な河川改修事業に着手します。
 改修では、洪水時の4分の3の水量を流すことができる新しい川(荒川放水路)を開削する方式がとられ、元の荒川の流水量を調節するために岩淵水門が建設されました。
 しかしその結果、浮間は荒川と新河岸川の間に挟まれ、交通手段を渡船に頼らざるを得なくなりました。そこで浮間地域の人々が、現在の赤羽台4丁目にある東京北社会保険病院付近に駐屯していた近衛師団工兵隊へ計6千円を拠金して架橋を依頼し、昭和3年(1928)5月に幅2間、長さ65間半の木造の橋が完成しました。その記念に建てられたのが大きな碑(旧浮間橋建設記念碑)です。
 橋は昭和9年(1934)に幅8メートルの鋼板鋼桁橋になり、昭和15年(1940)には鉄橋に架け替えられました。しかしその橋もJR(旧国鉄)の東北・上越新幹線の建設計画に伴い再び架け替えられることになったため、旧浮間橋建設記念碑建立に関与した人々の子孫を中心に、記念碑の移設及び顕彰保存を目的とした浮間橋記念碑保存会が設立されました。碑は昭和60年(1985)9月に現在の浮間橋脇に移設され、記念に小さな碑が建てられました。
 地元の人達によって建てられた大小二つの碑は、地域と浮間橋の関わりを永く後世に伝えています。
 平成8年3月(平成17年一部改訂)  
  東京北区教育委員会

旧浮間橋建設記念碑

浮間橋
郊外浮間里有名櫻草鮮
北方隔水路對横曾根邊
西南挟清流望志村翠煙
曩離北足立新併合岩淵
此地如孤島交通常乗船
憂慮萬一事頻希架橋便
里民咸應分醵出金六干
本町請軍衙以實情開陳
近衛工兵来施工盡力研
今日橋梁成如長蛇横川

昭和三年四月二十六日
建於岩淵町大字浮間
小柳通義撰文併書

旧浮間橋建設記念碑が国鉄建設工事に伴い、移設されることになり
国鉄当局と地元代表との話し合いの結果、新幹線工事完了の暁、新浮間
橋際に建設されることになった。
今般旧浮間橋建設記念碑移設工事が完了したことを記念した碑を立てる。
 昭和60年9月 浮間橋記念碑保存会

当時の浮間地域の人々の架橋の思いと近衛工兵隊への感謝が込められた石碑は橋は変われど、今も浮間橋の脇で大切にされておりました。

赤羽から北赤羽へ工兵隊を廻る散策から、ちょっと南の方に足を伸ばしてみます。


陸軍火薬庫の陸軍境界石

東京都北区桐ケ丘。都営桐ケ丘アパート界隈。
「近衛工兵隊」の南、前述の位置関係では「作業場」の南西に「陸軍火薬庫」があった。
その陸軍火薬庫のあった場所に残る「陸軍」と銘のある境界石は電信柱の後ろに隠れるように残っていた。


師団坂・軍用鉄道のあったエリアの南側

陸軍被服本廠の陸軍境界石 

陸軍被服本廠は大正8年(1919)に本所から赤羽台に移転してきた。本所の跡地は関東大震災で大惨事となりのちに東京都慰霊堂が建立された。
赤羽台の陸軍被服本廠は、戦後は米軍東京兵器補給廠所属地となり米軍住宅赤羽ハイツが建設。変換後は赤羽台団地が造成。また小中学校も建設された。そのときに建設された赤羽台中学校も廃校となり、跡地には「東洋大学赤羽台キャンパス」が開設。東洋大学赤羽台キャンパス北側の墓地ちかくに「陸軍用地の境界石」が残されていた。

東京大空襲・慰霊

陸軍兵器補給廠線跡(軍用線路跡)

再び赤羽八幡神社に。
この赤羽八幡神社の参道からナショナルトレーニングセンターまで、かつて軍用鉄道が走っていた。

北区赤羽緑道公園
(陸軍兵器補給廠線跡)

巨大な構造物。なんとなく鉄道があったことをイメージさせる。

遊歩道は線路をイメージ

鉄橋ぽいのも。

赤羽緑道公園から赤羽自然観察公園を抜け、住宅地の先に、赤羽リハビリテーション。その先には国立西が丘サッカー場。

味の素フィールド西が丘(国立西が丘サッカー場)や味の素ナショナルトレーニングセンターのある界隈が、かつての「陸軍兵器補給廠」

このさきには、「東京陸軍兵器補給廠」があり「陸軍稲付射場」もある。そして、「東京第一陸軍造兵廠」「東京第二陸軍造兵廠」という大きな見どころがあるが、それはまた別の記事にて。

関連

海軍水雷学校と海自第2術科学校

令和元年11月・横須賀 JR田浦駅近く。

現在の「海上自衛隊第2術科学校」は、海軍水雷学校の敷地を受け継いでいる。

海軍水雷学校

大日本帝国海軍の水雷術(魚雷・機雷・爆雷)指揮官・技官を養成する教育機関であった。
明治26年(1893)12月2日に水雷術練習所が設置。
明治40年(1907)4月20日に海軍水雷学校に改編。
水雷学校から、海軍通信学校、海軍機雷学校(海軍対潜学校)が派生増設。
昭和20年の終戦までこの地で海軍教育が行われてきた。
歴代校長に著名人が多く、岡田啓介・鈴木貫太郎・南雲忠一・小澤治三郎など。

術科学校

第1術科学校・江田島 機関科を覗く水上艦艇術科教育
第2術科学校・横須賀 機関・電機・情報・外国語等の特殊部門専門教育
第3術科学校・下総  航空機整備員・航空基地員養成機関
第4術科学校・舞鶴  業務管理・経理・補給関係術科教育訓練

海上自衛隊第2術科学校、すなわち「2術校」

http://www.mod.go.jp/msdf/twomss/

機関、電機、応急工作等及び情報、技術、電子計算機、外国語といった特殊な部門の専門教育や、調査研究を主体とする機関

戦前の水雷教育から戦後の特殊専門教育へとつながる、そんな「海自2術校」にて、当時の姿を残すものなどを。



海軍水雷学校 圧縮ポンプ室
 (旧整備科倉庫)

第2術科学校は海軍水雷学校の敷地を受け継いでいます。この建物はS9年に建てられた木造建築で、現存する唯一の帝国海軍水雷学校当時からの建物です。

オープンスクール(一般公開)時に見学

うしろの建屋は、「日立パワーソリューションズ田浦工場」
手前には海保のPM14たかとり(てしお型巡視船)

海上自衛隊第2術科学校のある田浦は、海自と海保の共同使用地。全国でも共同使用地は、ここだけだという。


位置関係

国土地理院航空写真「USA-M46-A-7-2-77」より。
1946年02月15日 米軍撮影

一部加工
ポンプ室のみが現在も残る水雷学校の遺構。

田浦駅北部の海軍軍需部倉庫も数棟が現存している。

拡大


近くにはロ号艦本式ボイラーが展示してあった。(別記事にて掲載)


歴史保存エリア

第2術科学校内に「歴史保存エリア」がある。

海軍水雷学校跡碑

海軍水雷学校跡碑

海軍水雷学校 跡
 明治26年12月2日水雷術練習所が設置されました。明治40年4月20日海軍水雷学校となり、昭和20年の終戦まで教育が行われました。
 昭和50年5月、水雷学校の歴史を後世に残すため、第二術科学校に隣接する関東自動車株式会社本館前に設置されていましたが、関東自動車株式会社の移転により、平成21年、この血に移設されました。

沿革
明治三年十一月四日
 海軍兵学寮に水雷火設置
明治七年九月二十日
 海軍兵学寮にて水雷術伝習開始
明治十二年八月二十三日
 水雷術練習所横須賀に開所
明治十六年二月六日
 水雷術練習所を廃止し水雷局を長浦に設置
明治十九年一月二十九日
 水雷局廃止水雷術練習艦設置(迅鯨)
明治二十年十一月十六日
 水雷術練習工概則制定(水雷術練習生の起源)
明治二十二年十二月二十三日
 水雷術練習艦で下士官、兵に掌水雷兵教育開始
明治二十六年十二月一日
 水雷練習艦を水雷練習所に改める(迅鯨)
明治三十九年十二月一日
 同右を長浦の陸上に移転
明治四十年四月二十日
 海軍水雷学校条例制定
明治四十年四月二十二日
 海軍水雷学校田浦に開校
 電気器具、防御水雷、攻撃水雷、通信術の四科目伝習開始
昭和五年六月一日
 海軍通信学校分離独立
昭和九年五月二十三日
 航空魚雷練習生制度設置
昭和十年七月
 航空兵器術練習生のなかに魚雷爆撃専修の練習生制度設置
昭和十五年六月二十日
 雷撃員制度設置雷撃練習生教育開始
昭和十六年四月一日
 海軍機雷学校分離独立
昭和一九年三月一五日
 海軍対潜学校と改称
昭和二十年七月十五日
 同右を廃止海軍水雷学校久里浜分校となる
昭和十八年六月十七日
 海軍水雷学校魚雷艇訓練規則制定
昭和十九年四月一日
 海軍水雷学校川棚魚雷艇訓練所開始、
 魚雷艇、特攻兵器、震洋艇の教育訓練実施
昭和二十年八月十五日
 終戦閉校

昭和五十八年五月八日
 海軍水雷学校跡碑建設委員会
  委員長 有田雄三
   他八七三名を以って建立
    兼平芳雄謹書

海軍通信教育発祥記念碑

海軍通信教育発祥記念碑

海軍通信教育発祥記念碑
 明治三十六年、この地にあった海軍水雷術練習所で無線電信術教育が開始されたことを記念し、昭和四十五年十一月に建立されました。
 海軍水雷術練習所は、明治四十年、海軍水雷学校になりましたが、通信術の教育所要が増大したため、昭和五年同地の一部に海軍通信学校が海軍水雷学校から分離独立しました。 海軍通信学校は、昭和十四年に現在の陸上自衛隊久里浜駐屯地がある地に移転し、終戦を迎えました。

海軍無線通信教育の沿革
明治三十六年二月
 この地海軍水雷術練習所で無線電信術教育開始
大正七年八月
 海軍水雷学校に通信部設立
昭和五年六月
 この地に海軍通信学校として独立
昭和十四年十一月
 神奈川県久里浜に移転
昭和十七年五月
 横須賀海軍通信学校と改称
昭和十七年五月
 山口県防府に防府海軍通信学校を増設
昭和十九年九月
 神奈川県藤沢に海軍電測学校設立
昭和二十年七月
 各学校教育中止

   昭和四十五年十一月 
    海軍通信同窓有志建立

海軍上等兵曹上崎辰次郎之碑

海軍上等兵曹上崎辰次郎之碑
海軍中将従三位功三級男爵伊藤雋吉君題碑

「上崎上等兵曹之碑」の由来
 上崎上等兵曹は青森県上北郡の人旧会津藩士であり、万延元年(1880年)岩代国若松城下で出生した
 十四歳で海軍に入り水雷術を専攻した
 征藩の役 西南の役に従軍し 明治二十二年上等兵曹に任ぜされ 二十七年勲七等に叙せられ瑞宝章を賜った
 明治二十七年日清戦争が起こるや第六号水雷艇に乗り戦地に赴く 艇長は海軍大尉鈴木貫太郎(後に大将 終戦の時の内閣総理大臣)であった
  明治二十八年二月四日夜 わが水雷艇隊は威海衛の夜襲を決行 第六号水雷艇もこの中にあって港内に突入 はげしい敵弾をうけながら敵艦鎮遠に近迫まさに水雷を射出して敵艦を粉砕しようとしたところ はからずも厚い氷が発射管を閉鎖し水雷が出なかった 上崎上等兵曹はこの責任を感じ 敵降伏後の三月十四日 従容として艇内において自刃した ときに三十六歳であった  鈴木艇長をはじめ艇員はその忠誠を永久に伝えるために横須賀竜本寺にこの碑を建てた  昭和三年田浦(田浦交番隣)に移してあったものを昭和四十三年五月十八日 第2術科学校に移したものである

(台座)
建碑及遺族慰問
資金義捐者
 海軍将校以下有志
  一千十五名
 通常有志
  七名
発起人 
 海軍大尉鈴木貫太郎
  外 三十七名
永代施餓鬼料
 金貳拾圓

碑面裏の撰文は上崎の乗艇である第六号艇長が読んだ弔辞を漢文に直したもの
第六号艇長は鈴木貫太郎海軍大尉、のちの海軍大将、内閣総理大臣

発起人にも海軍大尉鈴木貫太郎の名が刻まれている。

上等兵上崎辰次郎君碑
君諱辰次郎上崎氏青森県上北郡人旧会津藩士也萬延元年十二月生于岩代国若松城下年十四入海軍酷苦励精技術大進
明治七年航台湾従征藩役十年西南之役起君乃乗軍艦討賊兵十三年任下士官十九年新造軍艦浪速於英国成君被撰為回
航委員至英国乗之而帰廿二年叙勲八等無何任上等兵曹廿七年叙勲七等賜瑞宝章是歳征清役起時君在第六号水雷艇慨
然決意曰吾欲誓死以報国恩十月航戦地従常備艦隊占領花園口十一月略大連湾攻旅順口屡々有功廿八年二月我軍攻威
海衛敵艦隊拠劉公島以水雷及防材鎖港恃険要而防戦数日不能遽抜同月三日夜第六号水雷艇乗月明迫港口敵知之砲撃
甚烈而君自苦冒弾雨而破防材通航路以是翌夜水雷艇隊得進入港内襲撃敵艦隊轟沈定遠等二艦此夜第六号水雷艇亦在
隊中冒砲撃而迫近鎮遠飛弾如雨注中艇者六十餘弾将射出水雷粉砕敵艦何計巌水閉管妨碍発射自是君憤慨不巳更期大
功自慰十二日敵艦隊力屈遂乞降三月和議再起清使李鴻章発天津君時在威海衛港聞之而知戦機既去亦不可為遺憾不自
禁以此月十四日従容自刃艇内歳丗六艇員火化之帰葬横須賀龍本寺君為人沈毅義胆処事綜密克耐艱楚常尚節義至誠奉
公服軍務廿有二年於茲励精如一日威海之襲撃不奏効因巌冬結氷所致於君何有然哀心不能自安負責謝過以死矣可勝歎
惜哉頃者故旧捐金樹碑余甞長第六号水雷艇懐旧殊切乃為君叙其事為之銘曰
至誠奉公 孰若其忠 偉績将奏 孰妬其功 憤慨難禁 視天夢々 
鬼哭神泣 烈士致躬 大書深刻 其碑穹隆 嗚呼崎氏 英名無窮
 海軍大尉正七位勲六等功五級 鈴木貫太郎選

海上自衛隊発祥乃碑

海上自衛隊発祥乃地

海上自衛隊発祥乃碑
 昭和27年4月」26日、海上自衛隊の前身である海上警備隊がこの地で創設されました。創設に際し戦後の海軍再建を検討したY委員会において全国数箇所の候補地の中から、地元と米軍の了承が得られた唯一の場所が、ここ田浦の地だったのです。
 なお、戦後当地は旧軍港市転換法により民間企業等が使用していましたが、その会社が旧軍との関係が深く、海上自衛隊が使用することを快諾されたこともこの地に決定した理由となりました。

国旗掲揚旗竿基部

国旗掲揚旗竿基部
海上自衛隊創設当時にこの地に建てられたものであり、海上自衛隊の歴史を残すものである。

第2術科学校開校20周年記念機関

「350馬力蒸気往復機関」
海自が昭和27年発足時から昭和32年まで「えい船4号」として使用した旧帝国海軍雑役船の主機械。同船除籍後に教材として活用。創立20周年に際して記念機関として永く保存されている。


海軍機関術参考資料室
海上自衛隊創設史料室

ひとまず別記事を参照でお願いします。。。


そのほか

横穴の壕。消火栓もみえる。

このあたりも当時からかもしれない

海上自衛隊第2術科学校と俗世界の境界。これも当時から。

また来ます


関連

館山の海軍戦跡散策・その1

平成28年4月

・館山海軍航空隊跡
  赤山地下壕
  掩体壕
  水上班滑走台跡(米軍上陸の地)
・第二海軍航空廠館山補給工場跡
・安房神社
  館山海軍砲術学校第三期兵科予備学生戦没者慰霊碑
  海軍落下傘部隊慰霊碑
・館山海軍砲術学校跡
  正門跡・戦車橋
  平和祈念塔
  炊事場跡(ボイラー室跡)
  飛行特技訓練プール跡(落下傘部隊訓練プール跡)
  化学兵器実験施設跡
  ヤシの木
・震洋滑走台跡

令和元年房総半島台風(令和元年台風第15号)被災前の記録です

その2は、海自で。

この日(平成28年4月某日)は、突然ではあれど友人と館山へ。
友人車の機動力を活かして、館山に点在する海軍戦跡と神社をいくつか散策。


館山海軍航空隊(館空)

昭和5年(1930)に館山海軍航空隊(館空)開隊。海軍航空隊としては5番目。
横須賀海軍航空隊(横空)の実戦部隊が館山に移動することで「横空」は研究航空隊に特化。
昭和11年に木更津海軍航空隊(木空)が開隊すると、「木空」が外戦作戦任務を担当し、「館空」は内戦作戦部隊となる。
開戦後の1944年(昭和19年)に、東日本の哨戒航空隊を統合した「第九〇三海軍航空隊」が館山を中心に展開され、対潜哨戒機が配備され広大な哨戒区域をカバーする事となる。

洲ノ埼海軍航空隊(洲ノ空)

館山海軍航空隊の隣には、「洲ノ埼海軍航空隊」(洲ノ空)が昭和18年6月1日に開隊。それまで「横空」で行われていた射爆兵器の整備教育を担当する全国でただひとつの兵器整備練習航空隊で、操縦以外の航空機にかかわる専門技術を学ぶ養成機関であった。


位置関係

国土地理院航空写真「USA-M583-25」米軍撮影-1947年10月23日

USA-M583-25を一部加工。クリックして拡大。

上記地図のオレンジ色の箇所を散策。紫色の箇所は次回の宿題。未訪問個所。


赤山地下壕

まずは「赤山地下壕跡」へ。
館山市内の戦跡として一番有名な場所から。

https://www.city.tateyama.chiba.jp/syougaigaku/page001892.html

館山市指定史跡 館山海軍航空隊 
赤山地下壕跡
平成17年1月27日指定
 1930(昭和5)年、海軍5番目の実戦航空部隊として、館山海軍航空隊がつくられました。それから、1945(昭和20)年の終戦までの間、館山市香(こうやつ)から沼(ぬま)にかけての一帯には、航空機の修理部品の補給などをおこなった第2海軍航空廠館山補給工場、食料・衣服・燃料などを補給した横須賀軍需部館山支庫関係の施設や、1943(昭和18)年に兵器整備の練習航空隊として開かれた洲ノ崎海軍航空隊など、さまざまな軍事施設がつくられました。
 東京湾の入り口にあることから、館山市には、海軍の施設だけではなく陸軍の砲台や、教育機関(洲ノ崎海軍航空隊、館山海軍砲術学校)など、いろいろな種類の戦争遺跡が残されています。
 このような場所は、わが国のなかでも例が少ないといわれていますが、この赤山地下壕は、合計した長さが約1.6㎞と全国的にみても大きな地下壕で、館山市を代表する戦争遺跡のひとつです。
 つくられた時期は、はっきりしていませんが、このような大きな地下壕が、1941(昭和16)年の太平洋戦争開戦の前につくられた例はないといわれています。
 その一方で、昭和10年代のはじめに建設が始まったという証言もありますが、当時の軍部が本格的に防空壕をつくり始めたのは、1942(昭和17)年より後であるという歴史的な事実があります。
 全国各地につくられた大規模な地下壕の壕と壕の間の長さは、一般的には10~20m以上(長野市松代大本営の象山壕は25mであるとされていますが、この赤山地下壕は5~10mと狭い上、計画的に掘られたとは考えにくい、そのつくりから見て、終戦がさし迫った1944(昭和19)年より後にけんせつされたのではないかと考えられています。
 アメリカ軍の空襲が激しくなった太平洋戦争の終わりの頃、この赤山地下壕が、館山海軍航空隊の防空壕として使われていたことは内部にある発電所跡や、終戦間際に、この壕の中で実際に館山海軍航空隊の事務を行ったという体験や、病院の施設があったなどの証言から、知ることができます。
 平成15年 館山市・館山市教育委員会

赤山地下壕跡。
豊津ホールの受付で200円を納めて住所氏名を記載。
そしたらヘルメットと懐中電灯をお借りして地下壕に入ることができます。

今ではストリートビューもできるの便利になったものです。

https://www.google.com/maps/@34.9817322,139.841558,3a,75y,248.85h,83.7t/data=!3m4!1e1!3m2!1s4cv31GKv7mIAAAQo8FbG5A!2e0

自力発電所跡
 この一角は、壁面がコンクリートで補強され、コンクリートの土台や、床面の鉄筋が残っています。発電所があったところで、昭和20年2月に、航空隊の正門前の変電所から移転して使用されていたということです。4気筒200馬力のディーゼルエンジンが2台、発電機が2台、変圧器が9個あったそうです。

このクボミは?その1
 変電所電気員の待機所です。右側の浅いクボミには2段式のベットがあったそうで、10人くらいが交代勤務していたとか。空襲で爆弾の振動があると、天井の土がサラサラと落ちてきたそうです。
 壕内には科(職種)ごとの居住区があったらしく、木の棚のベットがあったそうです。

このクボミは?その2
 この縦長のクボミには、電話番が腰掛けて勤務をしていたそうで、中段左右の突起にコードを巻いていたということです。左隣の窪みはトイレで、桶がおいてあったそうです。

この壕はどうのように使われたのだろう
 防衛庁防衛研究所に「館山航空基地次期戦備施設計画位置図」という図面があります。太平洋戦争末期につくられたこの図面をみると、赤山地下壕跡の位置には、「工作科格納庫」「応急治療所」「自力発電所」と記されています。天井が高い壕は、格納庫として使われたのかもしれません。

戦後の赤山地下壕跡
 終戦後は「忘れられた存在」になっていましたが、温度が年中一定していることから、昭和30年前後頃より、キノコ栽培に使われていました。国内の他の戦争遺跡にも、戦後しばらくキノコ栽培に使われた地下壕跡があります。この風呂やボイラー、コンクリートブロックなどは、そのときに設置されたものです。

このクボミは?その3
 この部屋はがんルームとよばれていたという証言があります。少尉クラスの士官たちの部屋だったようです。奥の四角く切った大きなクボミは御真影を安置した奉安殿で、桧の板張りだったそうです。空襲のときに航空隊から御真影を移したということで、少尉クラスの士官の役割でした。

とにかく地層が美しい。
自然の芸術としても、よりいっそうの見応えがある。 現実には戦跡であるが。

安全に見学でき、そして良く整備されていた空間。
戦跡として歴史伝聞物として、このインパクトは極めて貴重。

海軍の街館山の最初の歴史散策として、この地下壕はうってつけの場でした。


掩体壕

赤山地下壕からはすぐ隣に。

サイズは小ぶり。戦闘機用かと。 掩体壕のすぐ隣は畑。日常との同居。 内部が解放され、自由に中に入れる掩体壕は貴重な存在だったり。


第二海軍航空廠館山補給工場跡

海自館山基地の隣にのこる大きな建物。
現在は民間企業が使用している。


米軍上陸の地


昭和20年9月2日降伏文書調印。 翌9月3日午前9時20分、米陸軍第8軍第11軍団第112騎兵連隊戦闘団約3,500人(司令官カニンガム准将)が館山上陸。 この館山が米軍による本土初上陸の地なのだ。

米軍上陸の地
1945(昭和20)年9月2日、東京湾上の戦艦ミズーリの降伏文書調印式によって第二次大戦が終わった。翌3日、カニンガム准将の率いる米陸軍第8軍約3500名が館山海軍航空隊水上半滑走台から上陸した。東京湾の入口である軍都館山は、このとき本土で唯一、4日間の直接軍政が敷かれた。


館山海軍航空隊水上班滑走台跡

館山海軍航空隊水上班滑走台跡。
この場所にて水上機が運用されていた、と。
水上機用スロープ(スリップ)が残っている。

9月3日に館山に上陸した米軍司令官カニンガム准将は「米軍ニヨル館山湾地区ノ占領」指令を発出。外務省が抗議し4日後の9月7日に軍政解除。 これが日本本土唯一の直接軍政となっている。

米軍上陸の地であり館空水上班滑走台跡でもある界隈から、第二海軍航空廠館山補給工場跡を遠望。 降伏文書調印翌日の9月4日。 館山から日本の戦後が始まっていたのを知るのも感慨深い。

スリップ関連では、ほかに・・・


館山の沖ノ島

館山の沖ノ島。沖ノ島公園。
海自館山航空基地の先、なかなか面白いところにある島。 関東大震災で隆起して陸続きになったらしい。

こんな感じで陸続き。 夏場はリア充空間になりそうですねw

島の入り口脇にいきなりなんかありました。
なんかの建物の基礎ですね。
海軍関係かな? 島内には地下壕なども点在しているらしいですが時間の都合で散策割愛。 せっかくなので島の鎮守様を参拝する。

館山の沖ノ島宇賀明神

安房国司源親元が嘉保3年(1096年)勧請の古社。 宇賀は「なが」に通じ「白い蛇」とも。 館山沖ノ島の鎮守様。

ご神木はタブノキ。 島内一の巨木。

館山沖ノ島宇賀明神神社。 社頭から対岸を望む。海上自衛隊 館山航空基地方面。
島を巡るのはまたの機会にして次に。


安房神社

安房神社。
安房国一ノ宮・延喜式内明神大社・旧官幣大社。
社号標は東郷平八郎謹書。
私にとっては平成14年以来の参拝。
新緑が鮮やかな境内に心が踊りつつの参拝。

本社(上の宮) 天太玉命 天比理刀咩命(天太玉命の后)
摂社(下の宮) 天富命(天太玉命の御孫) 天忍日命(天太玉命の御弟)

天富命が神武天皇勅命によって阿波の忌部氏を率いて東国安房・上下総国に渡った事に始まる。

安房国開拓の祖神。 創建年代は神武天皇の頃まで遡る古社。
安房国開拓を進めた天富命は、祖神であり祖父である天太玉命(天太玉命は天照大神の側近)をこの地に祀ったことに始まる。

延喜式神明帳「安房坐社」名神大社。
千葉県内では「香取神宮」に次ぐ神階。

社頭には「日露戦役記念碑」

新緑が鮮やかな境内。
境内が気持ち良すぎて満足してしまい、なんか色々写真を撮るのを忘れてしまったような。

安房神社オリジナル御朱印帳。
黒をベースに御神紋と社号。シンプルなデザインは好みを分けるかも知れませんが、私は好きですね。格好良いと思います。 初穂料は1500円。御朱印代は別。

御神水。 安房神社後方に鎮座する、吾谷山の霊水。

洞窟遺跡とあったので、戦跡か?と早とちりするも、古代遺跡。
安房神社界隈での原始的な人々の営みの記録。 古社たるべき格がここにあった。

安房神社境内には幾つか横穴がある。
ただし、これが信仰的な穴なのか、戦跡的な壕なのかは不詳。

安房神社界隈には布良陣地群が展開されていたという。
周辺も興味深いが、それは宿題。


館山海軍砲術学校第三期兵科予備学生
戦没者慰霊碑

安房神社境内に。
館山海軍砲術学校 第三期兵科予備学生 戦没者慰霊碑
 ※ 館山海軍砲術学校(館砲)に関しては、後述。

昭和45年10月10日建立。
慰霊碑には館山海軍砲術学校の第三期兵科予備学生229名の戦没者の名が記載。

館山海軍砲術学校 第三期兵科予備学生 戦没者慰霊碑
碑文
過ぐる大戦のさ中 当地神戸村地先にあった館山海軍砲術学校へ入校し教育訓練を受けた第三期兵科予備学生は1440名に及び 彼等は全て全国官公私立の大学高専等より志願によって馳せ参じ 選抜されて入校した学徒である
昭和18年10月8日入校式が行われ海軍予備学生を拝命 直ちに日夜の猛訓練が開始された 翌昭和19年1月末基礎教程を終了 一部は他の術科学校へ転属したが大部は2月1日術科教程に入る 術科では陸戦、対空、化兵の各班に分科し それぞれ第一線指揮官としての徹底的専門教育を受けた
同年5月31日術科教程を修了 卒業式が行われ 即日海軍少尉に任官した 戦雲正に急を告げるの秋 太平洋全域から印度洋に亘る前線へ あるいは諸艦艇等へ赴任し 熾烈な戦列に身を投じた
既にこの年の4月緊急な要請で卒業を繰り上げられて先発して行った同期を含めて任官総数は 陸戦班385名 対空班772名 化兵班50名で 総員1207名である
しかして戦勢は日を追って凄絶となり 勇戦奮闘した同期戦友も相次いで倒れて行った あるいは北海に あるいは南冥の果てに ときに戦争と平和を想い ときに戦局の前途を憂えながら 祖国にその青春の総てをかけたのである かくして尊き英霊となった者は実に228名に及ぶのである
われらはこのことを永久に忘れることはできない ここに栄光有る我等同期生一同の冥福を祈念し 永遠の芳名を刻印して 由緒あるこの神社に一碑を建立するものである
 昭和45年10月10日
 館山海軍砲術学校 第三期兵科予備学生 慰霊碑建設委員長 高橋末吉 誌

同期戦没者二二九名に捧ぐ

参道のソメイヨシノ。
安房神社の染井吉野229本は、この慰霊碑建設の際に229名の戦没者に因んで植えられたものという。


海軍落下傘部隊慰霊碑

海軍落下傘部隊慰霊碑
内閣総理大臣田中角栄揮毫

館山は海軍落下傘部隊発祥の地でもある。

正面には、 翼をひろげた鷲と落下傘、そして地球と錨の彫刻。

海軍落下傘部隊慰霊碑
碑誌
太平洋戦争を告ぐる昭和十六年後期我が国最初の海軍落下傘部隊として誕生し、 十八才より四十五才までの精鋭なる将兵二千有余名により編成、任務の特質上、其の訓練は厳正なる軍規の基猛烈にして不撓不屈の落下傘部隊魂は茲に編成された。
第一特別陸戦隊は昭和十七年一月十一日・十二日 セレベス島メナドランゴワン飛行場に十字砲火を浴び戦闘降下を敢行 更に第三特別陸戦隊は、同年二月二十日・二十一日 チモール島クーパンに戦闘降下を敢行共に占領に成功
其の功績の顕著なる事に対し時の連合艦隊司令長官山本五十六大将より感状を授与せらる。 爾後大スンダ、小スンダ列島の島々を制圧、次期作戦準備の為、一旦内地に帰還し、戦争の末期再度灼熱の南洋サイパン、トラック、ナウルの諸島に作戦し、
特にサイパンの戦いは惨烈を極め善戦の甲斐もなく昭和十九年七月十六日全員玉砕す。 我等茲に往事を顧み戦友相謀り志を結集し今は亡き戦友の霊を慰め其の功績を永く讃えんものと当隊発祥の地、ここ舘山に慰霊碑を建立した。
 昭和四十八年十一月十日
 元海軍落下傘部隊隊員一同建立

昭和48年に元海軍落下傘部隊一同によって建てられた慰霊碑。
右に横須賀鎮守府 第一特別陸戦隊43名、
左に横須賀鎮守府 第三特別陸戦隊46名、の戦没者名が記されている。

横一特・横三特(海軍陸戦隊)として、その勇名を歴史に残している。
合掌。

空の神兵

 藍より蒼き 大空に大空に
 忽ち開く 百千の
 真白き薔薇の 花模様
 見よ落下傘 空に降り
 見よ落下傘 空を征く
 見よ落下傘 空を征く
心のなかで奉歌し慰霊する…


館山海軍砲術学校

館山海軍砲術学校跡。
安房神社からはすぐ北隣に展開されていました。

館山海軍砲術学校。
昭和16年(1941)に館山砲術学校(館砲)が新設。
館砲では陸戦隊の操練術や高角砲対空砲の操作術・化学戦術など。一方、従来の横須賀砲術学校(横砲)では、艦載兵装の操作術を担当。
昭和20年4月25日に横須賀砲術学校分校に格下げ。終戦直前の同年7月31日には閉鎖。これは米軍上陸地点想定地近くでの教育訓練は適切ではないため、という。


位置関係

国土地理院航空写真「USA-M583-14」米軍撮影1947年10月23日

「USA-M583-14」一部加工。画像はクリックで拡大可。

館山海軍砲術学校跡
 第二次世界大戦以前は海戦における主な攻撃力は大砲であると考えられ、明治時代以来、旧海軍の砲術教育は神奈川県横須賀で行われていました。
 昭和16(1941)年6月1日、陸上砲術の実地訓練を目的とした館山海軍砲術学校 (館砲)が新設されると、それまでの海軍砲術学校は横須賀海軍砲術学校(横砲)と名称をあらためました。
 「館砲」の特色は、士官候補であった大学出身の海軍予備学生が訓練を受けていたことです。陸戦、対空、化兵(3期以降)の3班にわかれ、陸戦班では、敵前上陸や対戦車戦闘などの訓練が、対空班では、高角砲などの射撃訓練が、化兵班では、毒ガス戦の訓練が行われていました。
 「館砲」で訓練を受けた学生は、海軍予備学生の1期から6期に及び、開校直後は軍医学生が海軍士官としての素養を学ぶ基礎教育の場でもありました。
 昭和19(1944)年10月に入隊した5期予備学生等の約4000名は5ヶ月間の基礎教育を受けたあと、それぞれが術科(各職種)学校に進み、館砲には655名が入校したとされています。
 訓練施設としては広大な平砂浦演習場、東砲台・西砲台の対空訓練砲台、犬石射撃場、飛行特技訓練プールなどがありました。
 昭和20(1945)年4月25日に、館砲は横砲の分校となり、終戦を目前にした同年7月31日には閉鎖されました。その理由はアメリカ軍の本土上陸か想定されていたなか、太平洋岸の平砂浦で教育訓練を行うことが適当ではなくなったためといわれています。  
 平成18年3月 館山市・館山市教育委員会

館山海軍砲術学校と訓練に向う予備学生隊
 真継不二夫氏撮影

 昭和18年10月、この館山海軍砲術学校へ入学した海軍第三期予備学生は1,440名であった。
 かれらは全て全国の官公私立の大学、高等専門学校より馳せ参じ、選抜されて入隊した学徒である。
 昭和18年10月 8日入校式が行われ海軍第三期兵科予備学生を拝命、直ちに日夜の猛訓練が開始された。
 翌昭和19年1月末基礎教程を修了、引続き術科教程に入り、陸戦、対空、化兵の各班に分科し、夫々第一戦指揮官としての専門教育を受けた。同三月末、あるいは五月末術科教程を修了。卒業式が行われ、即日海軍少尉に任官し、戦雲まさに急を告げる太平洋全域からインド洋に亘る前線に赴任し、激烈なる戦列に身を投じたのである。この隊列(写真)の中にも多数の戦没者がいる。
戦没者はフィリピン(比島)、硫黄島を第一として各地域の部隊および艦船(大和9、武蔵6、山城6、長門5、扶桑3、那智3、大鷹・大鳳・熊野・羽黒・葛城各1)における戦没者は次ぎの通りである。
グアム4名、テニアン5名、パラオ1名、
比島方面92名、インド洋方面6名、ビルマ4名、
ビアク2名、ボルネオ10名、セレベス2名、
ラボール3名、南漢島2名、マレー方面1名、
スマトラ1名、舟山島1名、東支那海3名、
モルッカ諸島1名、マリアナ群島1名、黄海3名、
内南洋2名、アンボン1名、ニューギニア1名、
ペリリュー島5名、サイパン方面11名、硫黄島18名、
東シナ海方面13名、台湾方面8名、
沖縄方面8名、南西諸島方面10名、千島2名、内地近辺8名
合計229名。この外基礎教程後他術科へ転出後戦死者若干名、法務死若干名。
 ここに館砲校全景を伝える希少な写真を展示し、「鬼の館砲」といわれた猛訓練を受け、勇敢敢闘の末倒れた万余といわれる将兵・同期生たちの護国の想念を偲び、深き感謝と鎮魂の想いを捧げる次第である。終
 平成年5月27日(1999年海軍記念日)
 館砲3期会有志(以下個人名略)

館山海軍砲術学校正門跡には往時を偲ぶ記念板がある。
「鬼の館砲」と称された海軍陸戦隊の教育機関。


館山海軍砲術学校
正門跡・戦車橋

正門跡の通りにかかる橋は「戦車橋」と言われている。戦車橋脇の側溝も往時のままのもの。 砲術学校ゆえに「戦車橋」。正門の道はさながら「戦車道」。


館山海軍砲術学校
平和祈念塔

館山海軍砲術学校平和祈念塔。
戦車橋からまっすぐ進んでいくと右手に砲身のようなものが見えてくる。 砲身のような塔。

館山海軍砲術学校跡

舘山海軍砲術学校の沿革
 舘山海軍砲術学校(「舘砲」)は大東亜戦争の開戦直前、風雲急を告げる秋に当たり、阿部孝壮初代校長(後に、第六特別根拠地隊司令官。戦後敗軍の将としての責めに任じ、グァムで慫慂として法務死)を載して、昭和十六年六月一日、当地(千葉県粗郡神戸村、現在は、舘山市佐野地区)に開設された。
  学校用地は、帝国海軍当局の現地調査による当地が最適との報告に基づき決定された。用地問題は安田義達開設委員(初代教頭。後年、横須賀第五特別陸戦隊指令としてブナで壮烈な戦死)の熱誠溢れる説得と、耕地及び山林原野の大半を失うという苦難を克服して、なお誠心誠意の協力を惜しまなかった出口常次村長、錦織寅吉助役を初めとする村民各位の尊い愛国の至情と献身的努力により解決され、急遽、建設の運びとなったものである。
  「舘砲」は、横須賀海軍砲術学校(「横砲」)の陸戦、対空等、陸上関係の砲術部門が分離独立する形で開設された術科学校である。訓練設備として広大な平砂浦演習場並びに東砲及び西砲台の対空訓練砲台を備えていた。後に、化学兵器に関する部門が加えられ、常時、一万数千人の将兵を擁する規模であった。
  戦局の悪化に伴い昭和二十年四月二十五日、「横砲」に併合されて同校の分校となり、終戦直前の昭和二十年七月三十一日、閉鎖、廃校となった。開校から廃校までの存続期間は、僅か四年間に過ぎなかったが、厖大な人員が教育訓練を受けたと推定される。しかし、記録喪失のため詳細は不明である。
 「舘砲」では研究部員が、陸戦、対空、化兵に関する専門技術・教育訓練に関する指導研究に当たった。その術科教育の対象は、兵科将校学生及び術科講習員の他、初級幹部の緊急訓練対策として、第一期兵科予備学生、第二期兵科予備学生、特別第三期兵科予備学生と第三期兵科予備学生、学徒動員の第四期兵科予備学生と第一期兵科予備学生、第五期兵科予備学生及び第二期兵科予備生徒並びに第一下士官候補訓練生及び第二下士官候補訓練生(師範学校卒)が挙げられる。
  更に優秀な下士官兵指導員の練成を目指して、高等科訓練生及び普通科練習生に対する教育訓練にも重点がおかれた。また、若年者の特別志願制度に基づく特年兵の教育訓練も行われ、その第一期及び第二期は、年少のまま実戦にも参加した。なお、台湾・朝鮮半島出身志願兵に対する教育も実施された。
  初期にはメナド落下傘降下で勇名を馳せた横須賀第一特別陸戦隊、中期にはソロモン群島方面で悪戦苦闘を続けていた横須賀第七特別陸戦隊、呉第六陸戦隊、佐世保第六特別陸戦隊、呉第七特別陸戦隊並びに佐世保第七特別陸戦隊、末期には、山岡S特攻部隊等々の部隊編成及び特別訓練も行われ発信基地ともなった。
 この間、前線の各地に向けて多数の防空隊が陸続として派遣されたが、その部隊編成及び特別訓練も行われ、その発進基地ともなった。その隊員の中には、国民兵役から徴集された多数の、年長の補充兵も含まれていた。
 「舘砲」は、開校直後、軍医科学生、薬剤科学生及び歯科医科の普通科学生の基礎教育の場としても利用されており、また、終戦間際の段階では、飛行科士官に対する陸戦指導法の演錬、艦船乗組の機関科・工作科系統の特務士官・準士官に対する防空指導法の演錬等、緊急の切替教育も行われた。
  このように、「舘砲」は、帝国海軍の各種陸上部隊、とりわけ、特別陸戦隊、基地警備隊、特別根拠地隊等の陸戦・対空専門技術に関する教育訓練の中核であったため、その影響する範囲は、広く、且つ、深く、その実戦即応を重視した教育内容は、誠に、多岐多彩なものがあった。
 「舘砲」の特色は帝国海軍の指揮官先頭の伝統による猛特訓を特徴とし、人は、「鬼の舘砲」と呼んだという。ここの教育訓練を受けた戦友は、陸戦、対空の実戦に臨んでは、遺憾なく指導力を発揮した。北は極寒不毛の孤島から南は、炎熱の島に至るまで、悪条件をものともせず、縦横無尽に活躍し、時として、激しい爆撃弾の下、寡兵よく大敵に屈せず、長期持久の戦いを闘い抜き、或は、力尽きて倒れ玉砕された将校各位も多い。その数は、一千数千柱にも及ぶと推定されている。この勇戦奮闘が、今日の日本繁栄の基礎を築いた原動力である。祖国の安泰を願い、同朋への愛に殉じる志こそ、国家の存立及び発展に不可欠なものである。
  祖国愛に殉じたこれら多数の戦士のご遺徳を偲び、切に、そのご冥福を祈りつつ、開校五十周年の記念日に、想い出尽きない舘山海軍砲術学校跡に、地元各位の絶大なるご協力を仰ぎつつ、ここに、多年念願の記念碑を建立し、永世に、太平を開かせ給えと、希うものである。
 平成三年六月一日
 舘山海軍砲術学校跡に記念碑を建立する会

雄魂
元連合艦隊兼横須賀鎮守府参謀 寺崎隆治謹書

平和祈念の塔
 平成3年6月吉日
 館山市長 庄司厚書

過ぎし戦に 玉と砕けし戦友の 英霊安かれと祈り
 永世に 太平を開かせたまえと ひたすら 希う

朽ちていく四一式山砲。
20センチ・ロケット弾(噴進弾)。
戦地より収集された遺品(銃剣)などが塔の周辺に展示してありました。

館山海軍砲術学校時代からの井戸という。

世界各地を示す標識


館山海軍砲術学校
炊事場跡(ボイラー室跡)

館山海軍砲術学校炊事場跡(ボイラー室跡)
赤煉瓦の壁だけが奇跡的に残っている空間。
何というか、存在感に圧倒されてしまった。


館山海軍砲術学校
飛行特技訓練プール跡
(落下傘部隊訓練プール跡)

炊事場跡から高台に移動。
その高台から見えるは、館山海軍砲術学校飛行特技訓練プール跡(落下傘部隊訓練プール跡)
この場所も奇跡的に残っていた。

Google航空写真より抜粋


館山海軍砲術学校
化学兵器実験施設跡

館砲の中心から隔離された場所に朽ちかけた史跡がある。
軍機(軍事機密)であったが、館砲では細菌などの生物兵器や毒ガスなどの化学兵器に関する教育や訓練が行われた海軍唯一の養成機関もあり、教育機関としては陸戦班、対空班、化兵班の三班制であった。

館砲化兵班が何らかの化学兵器実験施設として使用していた建物跡という。
いまは、何を語るでもなく畑の中に風化しつつある歴史遺産。


通りすがりに参拝。

洲崎神社

「洲崎神社」 安房国一宮
(ただし一宮は江戸期以降の主張、安房神社に対する二宮とも。洲崎神社に対する二宮は洲宮神社)
旧社格は県社。 延喜式内論社。
御祭神は天比理乃咩命(天太玉命の后神)

参道石段に圧倒。これは見事な神域。
御手洗山中腹に鎮座している。

神武天皇の御代、安房忌部一族の祖天富命が勅命により四国の忌部族を率いて房総半島を開拓。 忌部族の総祖神天太玉命の后神天比理乃咩命を祀ったことにはじまる古社。

延喜式内社神名帳では、式内大社・后神天比理刀咩命神社。(論社)

治承4年(1180)石橋山の合戦に敗れ房総半島に逃れてきた源頼朝は当社に参詣し源氏の再興を祈願。以後、武家の崇敬が篤い。 ちなみに。 文治3年(1187)に源頼朝が洲崎神社から天比理乃咩命を勧請したのが品川神社の創建由来ともなる。

東京湾海上鎮護神として。 洲崎神社から品川神社へと連なる歴史を辿るのも興味深いものではあり。 更には阿波国から房総へと渡ってきた忌部一族の足跡を辿るのも一興。

洲崎神社。浜鳥居へ。 洲崎神社の旧鎮座地は、この浜であった、と。 浜から現在の鎮座地を望めば、美しい神奈備山。

御神石

洲崎神社。御神石。
なんとも言えない格を帯びている御神石。 長さは2.5メートル。

実は洲崎神社に奉納された神石は二対ある。 ひとつは、この吽形の神石。
もう一つは三浦半島安房口神社の阿形の神石。

洲崎神社の吽形の御神石と対になる御神石。
もう一つの御神石は三浦半島に飛んでいったと伝承。 房総半島から東京湾を挟むように対坐する三浦半島の御神石。 これは忌部一族の海上支配の具現化であろうか。古代の信仰文化圏を夢想する。

こちらは三浦半島の安房口神社(2014年撮影)

三浦半島。安房口神社の阿形の御神石。
安房口神社は三浦半島最古の神社。 館山で三浦半島を感じる。海の目線で見れば隣。まさに安房口。 洲崎神社の文化は深いですね… 実に面白い。

洲崎神社の浜。対岸を眺めつつ洲崎神社を後にする。ここは興味深い信仰文化の宝庫。きっとまた来ることになりそうです。 時間は16時過ぎ。最後に戦跡を一カ所だけ寄り道してみる。


震洋滑走台

洲崎から海岸線沿いを進む。
波左間漁港。

ここの海に不思議な造形物がある。
震洋滑走台。

震洋は、いわゆる特攻兵器。爆薬をつんだモーターボート。
付近には震洋を格納した壕も点在しているという。

訪れた時が満潮だったようで、形は今ひとつ。雰囲気レベルで。

第一特攻戦隊第18突撃隊
波左間「震洋」特攻基地跡


館山駅前のヤシの木

館山駅前のヤシの木は館山砲術学校正面にあったものを戦後に移植したものだとか。 車のなかから撮影したので今ひとつな写りですが、記録として。

googleMapのストリートビューも参照に。

館山は、戦跡の宝庫であり、今回の掲載はそのほんの一部。見逃したところも多いので、いずれかに再訪せねばならない地であれど、今回はいったんこれにて〆。


平和観音と平和島(大森捕虜収容所跡)

大森捕虜収容所跡地に建立された平和観音

平和島は、昭和14年(1939年)1月31日に京浜第2区埋立地として免許取得。東京都が事業主体として埋め立てを開始。

しかし、埋め立ては第二次世界大戦により一時中止。

戦時中は、埋め立てが進んでいた一部(現在の平和島一丁目付近)にアメリカ合衆国などの連合国側の捕虜を収容する場所(東京捕虜収容所)が設けられた。そのまま戦後は、東條英機ら戦犯の一時収容所にもなっていた。

そのような経緯から、平和への祈りを込めて「平和島」と呼称されるようになり、昭和42年(1967年)7月18日に埋立人工島「平和島」が竣工。同年9月に東京都大田区に編入され10月に町名が「平和島」に確定する。

東京俘慮収容所(大森捕虜収容所)

東京俘虜収容所(東京捕虜収容所)
昭和16年(1942)9月25日開設。
当初は品川区東品川3丁目の京浜運河建設事務所の建物を流用して「品川俘虜収容所」として9月12日に開設。9月25日に東京俘虜収容所本所と改称。
昭和17年(1943)7月20日、現在の平和島に移転。当時の住所は大森区入新井町の東京第2埋立地。
終戦時収容人員606人(米437、英115、蘭28、他26)、収容中の死者41人。

戦後は、東條英機をはじめとするA級戦犯が、 巣鴨刑務所に移送されるまでの間この収容所に収容。
横浜BC級裁判では、初代本所長鈴木薫二大佐、 2代目本所長酒葉要大佐ともに死刑判決。(両者ともに巣鴨で獄死)

参考:POW研究会
ttp://www.powresearch.jp/jp/archive/camplist/index.html

位置関係

国土地理院航空写真「USA-M58-A-6-135」(1946年2月28日-米軍撮影)より。
埋め立ては陸地側の一部分のみで、そこに大森捕虜収容所が設けられていることがわかる。

その後、平和島は埋め立てが進み、昭和57年(1982)の「平和の森公園」の開園でもって、陸続きとなった。


平和観音

大森捕虜収容所 跡地に建立された「平和観音」
平和島劇場の前、ボートレース平和島の隣に鎮座している。
このあたりが、かつての大森捕虜収容所跡地。

平和観音由来記
 昭和三十五年七月十九日 建立 
  長沼孝三 作

人類最高の希いは「平和」であります。そして平和を祈り念ずる心が宇宙の慈悲をもとめます。地上永遠の平和を祈り続ける為に平和観音の建立を思いたったゆえんが此處にあります。
観音さまは人類の誠のねがいをきいて、いちばんよい方法でおすくい下さる佛さまであります。佛さまとは宇宙不変の理をあがめたお姿であり、その理をさとって大きな力を得た方の呼び名であります。
佛さまのなかで観音さまは災禍に苦しむ人々に宇宙の慈悲を示してすくいの手だてをとって下さる菩薩であります。
平和観音像が建立された平和島はさきの大戦中相手国の俘虜収容所があった處、戦後はわが国戦犯が苦難の日々を送った請わば「戦争と平和」の因縁の地であります。
大慈悲の御姿を建立して、地上変わることなき平和を念ずる一人一人の小さなまごころからの祈願をみのらせ給え。

平和観音の隣では、猫さんがお休みをされておりました。

ボートレース平和島
かつて、この界隈に大森捕虜収容所があった。


いわゆるA級戦犯と呼称された昭和受難者の方々は、大森捕虜収容所から巣鴨拘置所・巣鴨プリズンへ移送される。

東条英機邸跡

「日本の鉄道の父」井上勝像と井上勝墓

東京駅丸の内駅前広場北西端に井上勝像がある。

井上勝

天保14年8月1日(1843年8月25日) – 明治43年(1910年)8月2日
長州藩士。政治家。正二位勲一等子爵。
鉄道庁長官などを歴任し日本の鉄道発展に貢献。「日本の鉄道の父」と称される。
墓所は東海寺大山墓地。鉄道記念物指定。

井上勝像

1914年(大正3年)に、本山白雲(代表作は坂本龍馬像)の原型制作により東京駅丸の内側の駅前広場に銅像が設置。
しかし戦時中の金属供出に伴い撤去。
のち井上勝の没後50年を機に、1959年に朝倉文夫の制作により再建。

その後工事での一時撤去もありながら、1987年からは東京駅正面から皇居を向く形で立ち2007年には東京駅復元工事に際し一時撤去され、2017年12月7日の駅前広場リニューアルに伴い初代像の位置に近い駅前広場の北西端から駅舎中央を向く形で再設置された。

建立時の銅像身長は12尺5寸、台座の高さは24寸5寸。
1914年(大正3年)12月6日に銅像除幕式が執り行われた。

正二位勲一等 子爵 井上勝君像

君自明治初年専任創設鐵道之事拮据経營基礎始立盡心斯業抵老不渝四十三年夏力疾訪制歐洲歿子塗次可謂斃
而後巳矣茲同志胥謀鋳君像置諸東京車站以傳偉績於不朽云
大正3年11月建

大正3年11月  建立
昭和34年10月 再建
昭和38年4月  移転
平成29年12月 移設

井上勝像の後方は、一部が保存された「日本工業倶楽部会館」(大正/1920竣工)

井上勝像の先には、東京駅。


東京駅から品川駅に。
南側の東海道新幹線や山手線や東海道本線がちょうど分岐するあたりの場所に東海寺大山墓地がある。そこに井上勝墓がある。

井上勝墓

(表)
正二位勲一等 子爵 井上勝

子爵夫人 井上宇佐子
故陸軍工兵大尉 正五位勲五等 井上亥六

(裏) 
明治四十三年八月二日 薨

明治四十年一月五日 逝
明治三十九年五月二日 逝 

初代鉄道頭
井上 勝 1843(天宝4)年~1910(明治43)年
”鉄道の父”と称される井上勝は、萩藩士の三男として生れた。15才から長崎、江戸で学び、1863(文久3)年 井上馨、伊藤博文らとともにイギリスに密航し、鉄道と鉱山技術を学ぶ。日本の鉄道建設に最初から関わり、1871(明治4)年には初代鉄道頭となり、1872(明治5)年、新橋・横浜間の鉄道を完成させた。その後、鉄道局長、鉄道庁長官を歴任して、東海道線をはじめとする主要路線の建設に努めるなど、生涯を鉄道に捧げた。外国から導入した鉄道を、日本の鉄道として発展させた功績は多大である。生前、自らの墓地は東海道本線と山手線(現在は新幹線も並走)に挟まれたこの地を選んだのは、死後も鉄道を見守っていたいという意向からであったと伝えられている。

鉄道記念物 井上 勝 墓
昭和39年10月14日指定
 建植年月日 平成10年10月14日
  東日本旅客鉄道株式会社

井上家祖先之墓

井上勝墓のすぐ脇を、東海道新幹線や山手線・横須賀線・京浜東北線・東海道本線、そしてリニア中央新幹線などが通過する鉄道大動脈となっている。

ちなみに余談ですが、井上勝墓の向かいには、島倉千代子墓がある。未撮影ですが。
そのほか、東海寺大山墓地は、沢庵和尚・賀茂真淵・渋川春海・西村勝三の墓がある。


新幹線の父

地下鉄の父

汎太平洋の鐘と南洋群島平和慰霊像(源覚寺)

東京都文京区小石川
源覚寺

「こんにゃくえんま」(こんにゃく閻魔・蒟蒻閻魔・身代わり閻魔)で知られる小石川の「源覚寺」に、サイパンゆかりの釣鐘があると聞き、足を運んでみました。
後楽園駅・春日駅のすぐ近く。

汎太平洋の鐘
THE PAN PACIFIC TEMPLE BELL

汎太平洋の鐘
THE PAN PACIFIC TEMPLE BELL

1690年 元禄3年 粉河丹後守の鋳造により当山に奉納された。
1937年 昭和12年 サイパン島南洋寺に転出、南太平洋にひびきわたる。
1944年 昭和19年 サイパン島軍民玉砕して、以後消息不明となる。
1965年 昭和40年 米国テキサス州オデッサ市において発見される。
          発見者 ミツエ・ヘスター
1974年 昭和49年 カリフォルニア州オークランド市居住 D.V.クレヤー氏によって、サンフランシスコさくら祭りに展示され、その後当山に寄贈される。

元禄3年(1690)に鋳造された釣り鐘が、昭和12年(1937)にサイパン島の中心都市(「南洋の東京」とも呼称)であったガラパン郊外に建立された「南洋寺」(浄土宗 多寶山 南洋寺)に転出。

南洋寺は、現在の「フィエスタリゾート&スパホテル」あたりに鎮座しており、リゾートホテル南東に、往時の「南洋寺門柱」が残っているという。

https://goo.gl/maps/LU7HSQePQuP1Gdvy7

昭和19年6月15日から7月9日にかけてマリアナ諸島サイパン島で激戦が繰り広げられ、海上ではマリアナ沖海戦(あ号作戦)も発生。
サイパン島での日本軍の戦死者は約3万人、民間人の死者は約1万人。米軍の死者は3441人という。
ガラパンの街も荒廃に帰し日本軍民は玉砕。

サイパンの激戦を物語る銃痕跡


南洋群島物故者慰霊像

第二次世界大戦において、サイパンをはじめとする南洋群島で犠牲になった人たちを追悼する菩薩像

合掌

南洋群島物故者慰霊像建立の趣旨
 かつて南洋群島は、日本の委任統治領として南洋庁施政の下に三十有七年、その治績は顕著であった。然るに第二次世界大戦に敗れ、米国太平洋信託統治領(ミクロネシア地域)となった。これ等の島々で、明治、大正、昭和の三代に渉って南方開拓に努め、志半ばに物故された人々並に今次太平洋戦争に祖国に身命を捧げられた将兵及び在留邦人の冥福を祈念して、先年南洋群島関係者に依ってサイパン島に物故者慰霊像を建立したが、遠隔の地であるので参拝の叶わぬ人々のために、南洋群島とゆかりの深い此の源覚寺境内に遥拝所としてこの慰霊像を建立したものである。
  昭和50年7月18日
  財団法人 南洋群島協会

慰霊像の脚下には、南洋諸島を思い起こさせる貝殻…

歌碑
 サイパンの夜のしじまの洞窟に
  ねむりしあらん友をしぞ思ふ

汎太平洋の鐘 と 南洋群島物故者慰霊像 


鎮魂 南洋諸島海没者 慰霊碑

南洋諸島海没者
亜米利加丸 494名
千代丸 97名
白山丸 277名
赤城丸 512名
泰南丸 1名
総洋丸 7名
龍田川丸 2名
ぱたびあ丸 18名
ぶらじる丸 1名
青森丸 4名
門司丸 5名
神島丸 54名
第三大栄丸 43名
美山丸 27名
ジョクジャ丸 7名
広順丸 15名
三池丸 7名
靖国丸 6名

総計 1,580名

平成20年8月吉日
南洋群島在島者有志


第十四期飛行予備学生記念碑

第十四期飛行予備学生記念碑

雲ガハシル
 学徒ガ征ク
  空ニ
同期ノ華
 参千六百

 昭和63年戌辰8月15日建立
  廿四世徳誉叢願 廿五世真誉代


源覚寺

浄土宗 常光山 源覚寺
通称「こんにゃくえんま」
寛永元年(1624)に創建。
小石川七福神のひとつでもあり毘沙門天を祀る。

こんにゃくえんま像は鎌倉時代の作と推定。文京区内で最も古い仏像に属しており文京区市指定有形文化財。


都内には、サイパン観音もあります。

いつの日か、サイパンへ慰霊に訪れることは出来るだろうか・・・

陸軍航空士官学校高萩飛行場跡(陸軍高萩飛行場跡)

埼玉県坂戸市及び日高市
 東武越生線・一本松駅及び西大家駅
 JR川越線・武蔵高萩駅

陸軍高萩飛行場
(陸軍航空士官学校高萩分教場)

高萩飛行場は、昭和13年12月、陸軍航空士官学校高萩分教場として使用開始された。

陸軍航空士官学校
昭和12年(1937)に陸軍所沢飛行場内に陸軍士官学校の分校として「陸軍士官学校分校」が開校。(現在の入間基地・入間飛行場)
昭和13年5月に「陸軍士官学校分校」が豊岡町(現在の入間市)に移転。
昭和13年12月に、「陸軍航空士官学校」として独立し、昭和16年には行幸された 昭和天皇より「修武台」の名称を賜った。

陸軍航空士官学校の本校は豊岡(入間)、その他に飛行練習をするために狭山・高萩・坂戸・館林の陸軍飛行場が練習地として使用された。

今回の散策は、そのうちの陸軍航空士官学校高萩飛行場にあたる。
高萩飛行場の規模は、東西1700メートル、南北1300メートル、面積は約220ヘクタール。
飛行場設備の主な建物としては、格納庫四庫(内二庫は鉄骨)、本部舎(二階建)、兵舎二棟(二階建)、機材庫、車庫、庶務事務所、講堂、将校下士官用控室、炊事用建物などであった。
陸軍航空士官学校高萩分教場の飛行練習は、主に通称赤トンボと呼ばれていた九五式練習機などを用いて行われた。
昭和20年2月まで、航空士官学校生徒の飛行練習場として活用され、その後、昭和20年4月より中島 キ84 四式戦闘機「疾風」を配備した飛行第一戦隊が展開。首都防衛の一翼を8月の終戦を迎えた。

位置関係

国土地理院:USA-M29-32
1947年02月08日-米軍撮影の航空写真を加工
国土地理院:USA-M29-32
1947年02月08日-米軍撮影の航空写真を加工

飛行第一戦隊納翼の地
(飛行第一戦隊納翼の碑)

東武越生線一本松駅の北に鎮座している「大栄寺」
昭和20年4月から8月の終戦まで、飛行第一戦隊が当寺に兵舎を設けた所縁で、境内に「飛行第一戦隊納翼の碑」が建立されている。

飛行第一戦隊納翼の地
 本隊は、日本陸軍最初の戦闘機隊として、大正・昭和にわたり、幾度か編成を繰返し、古い伝統と輝かしい戦績に飾られている、誇り高い部隊である。
 満州事変・日華事変・及びノモンハン事変では、多くの戦果を収め、昭和16年大東亜戦争の際は、マレー半島に進出し、東南アジア・ビルマ方面の制空に任じ、ガダルカナル島撤収に従事した。
 昭和19年、主力部隊はフィリピン作戦に飛翔し、熟練の飛行士は、わが国の未来を信じて、特攻隊として出撃し、また地上将兵は、異国の山谷で精魂盡きて散華した。
 昭和20年4月、残留部隊と再編し、入間高萩飛行場に於いて四式戦闘機(可動20機)を配備し、帝都防空の任務を遂行した。
 戦闘本部を旧大家村に置き、清水山大栄寺も兵舎に当てられたが、昭和20年8月、終戦を迎えた。
未だ天空をさまよい、平和の礎となった戦友の功績をしのび、御霊を癒し、恒久平和への願いをこめ、納翼の碑を建立する。
 平成12年8月15日
  飛行第一戦隊戦友会

戦隊長
 四至本広之烝 大阪
整備隊長
 壁谷利之 神奈川
(略)
後援 清水寺大栄寺
 高萩の 空に舞いたる 銀翼に
  想いもあらたに 平和噛みしむ
   大栄寺 小住 志村巧人
(略) 

中島 キ84 四式戦闘機「疾風」

元高萩飛行場跡地発見
機体(キの84)炎上融解片

清水山大榮寺

大栄寺から、一本松駅の隣、西大家駅に向けて歩く。
大谷小学校の近くに鎮座している「西光寺」も、飛行第一戦隊が兵舎を展開した場所であるという。

西光寺

JAいるま野サービス北部店のある辺りが、かつての陸軍飛行第一戦隊の本部があった場所という。

そして、西大家駅近くの「国渭地祇神社(森戸神社)」には陸軍第一戦隊の炊事場が設けられたという。

国渭地祇神社(森戸神社)を訪れたのは実は2回目。15年ほど前に「武蔵国延喜式内社」の論社を巡っていたとき(当時のレポート)は、この神社が戦争に関係していたと知る由もなく。
陸軍第一戦隊が炊事場で使用していたと知ったのは、今回の散策のための調査で、でした。

国渭地祇神社(森戸神社)の社号標は大正2年建立。往時を見てきた社号標ですね。

東武越生線西大家駅
昭和11年(1936)開業。

西大家駅から日高川島線を南西に30分ほど歩く。
「醤遊王国」という施設の近くに戦没者慰霊碑が建立されていた。

大東亜戦争戦没者慰霊碑

千手観世音のお堂の隣にある「戦没者之碑」

大東亜戦争戦歿者之碑
元陸軍中将 遠藤三郎書

陸軍第一飛行戦隊の戦死者8名を祀る慰霊碑。1953年建立。
遠藤三郎は、第3飛行団長、陸軍航空士官学校幹事などを経て、昭和17年12月に陸軍中将となり陸軍士官学校第4代校長に就任。その後は陸軍航空本部総務部長、軍需省航空兵器総局長官などを歴任。昭和22年から約1年、戦犯として巣鴨プリズンに収監され、その後は陸軍航空士官学校跡地に入植し農業に従事。その頃に遺族の要望で揮毫に協力したと思われる。

高萩飛行場方面に。

陸軍高萩飛行場跡地(北西端)

「中東京変電所」のあたりが。高萩飛行場の北西端。そこから西端を歩く。

高萩飛行場の中心部へ。

高萩飛行場跡の碑

「旭ヶ丘神社」「旭ヶ丘公会堂」の敷地内に、飛行場を物語る石碑が「建立されていた。

高萩飛行場跡碑
開拓碑
自治会組織法人化と経緯碑

高畑飛行場跡
 日高市長 大沢幸夫書

高萩飛行場は、昭和十三年十二月、陸軍航空士官学校(現在の入間市)の高萩分教場として使用開始された。当時この地は、北海道などからの入植者によって山林が農地として開拓されていたが、日華事変の拡大に伴い軍用地として接収された。
飛行場の規模は、東西一七〇〇メートル、南北一三〇〇メートル、面積は約二二〇ヘクタールで、飛行場設備の主な建物としては、格納庫四庫(内二庫は鉄骨)、本部舎(二階建)、兵舎二棟(二階建)、機材庫、車庫、庶務事務所、講堂、将校下士官用控室、炊事用建物などであった。飛行練習は、主に通称赤トンボと呼ばれていた九五式練習機などを用いて行われた。昭和二十年二月まで、航空士官学校生徒の飛行練習場として、大きな役割を果たした。飛行場としては、同年八月の終戦まで使用された。
 所在地 日高市大字旭ヶ丘全域及び一部森戸新田を含む 

昭和四十四年旭ヶ丘開拓農業協同組合の解散にともない、精算開始。
総会により現状の道路C号線五本と開拓事務所敷地等を共有とすることに決定する。
その後推移を経たが、旭ヶ丘地主会を結成して今日に至る。
ここに開拓地以前の高萩飛行場の碑を建て後世の遺文とするものである。
 平成二十年十月吉日 旭ヶ丘地主会建立

開拓碑
碑文
 昭和二十年終戦を迎えるや、首都衛星基地であった旧陸軍高萩飛行場跡へ十二月一日国の緊急開拓政策のもとに県下でもいち早く高萩開拓団を組織し、鍬入れを行った。
 当地は旧高萩村及び旧高麗川村の一部に亙り、総面積は出耕作地も含め六十余万坪に及び主として復員軍人、引揚者、近隣の二三男の百二十四名で構成し、字を旭ヶ丘と命名した。
 当時世相は混沌とし、農業経験の未知に加えて食糧物資は極度に不足し、更に打続く各種災害等に依り、経営基盤の弱い入植者の生活は困窮を極めた。
然し同士一同克くその苦難に耐え、昭和二十二年より国の助成による住宅の建設も始り、二十三年秋には待望の点灯工事を了え、同年農協法の施行により開拓団を旭ヶ丘開拓農協に改組し、苦難の中にも一歩一歩建設への段階を進め、二十七年国の開拓完成検査に全員合格した。
 更に心の據り処として部落中央に旭ヶ丘神社を建立し、幹線道路も逐次整備を進め、四十年代に入り蔬菜を中心とする営農も漸くその基礎を固めることが出来た。
 昭和四十四年開拓農協を解散し各自一本立ちの農家として再出発出来たのも、一重に各行政当局、各種諸団体、諸先輩の尽力指導の賜であることは勿論、入植者一同の団結と努力の成果であろう。
 茲に当地の足跡を後世に伝えると共に旭ヶ丘の将来の繁栄を希念しこの碑を建てる 
 昭和五十三年十二月一日

飛行場跡地のあった旭ヶ丘神社は、かつての高萩飛行場のほぼ中心部。
ここから東に歩いていくと、格納庫などがあったエリアに到達できる。

陸軍高萩飛行場跡地(東端)

ファミリーマートのあるあたりに、当時は格納庫があった。

ゴルフ練習場のあたりにも格納庫があった。

高萩飛行場の東端。

高萩飛行場跡(高萩北公民館)

高萩北公民館の敷地内にも跡地を記す看板があった。
内容はほぼ、旭ヶ丘神社境内にあった碑文と同じ。所在地の範囲が若干違うのは新旧での認識に誤差があった、のかもしれない。

高萩飛行場跡
 所在地 日高市大字旭ヶ丘全域 

 高萩飛行場は、昭和十三年十二月、陸軍航空士官学校(現在の入間市)の高萩分教場として使用開始された。
 当時この地は、北海道などからの入植者によって山林が農地として開拓されていたが、日華事変の拡大に伴い軍用地として接収された。
 飛行場の規模は、東西一七〇〇メートル、南北一三〇〇メートル、面積は約二二〇ヘクタールで、飛行場設備の主な建物としては、格納庫四庫(内二庫は鉄骨)、本部舎(二階建)、兵舎二棟(二階建)、機材庫、車庫、庶務事務所、講堂、将校下士官用控室、炊事用建物などであった。
 飛行練習は、主に通称赤トンボと呼ばれていた九五式練習機などを用いて行われた。
 昭和二十年二月まで、航空士官学校生徒の飛行練習場として、大きな役割を果たした。飛行場としては、同年八月の終戦まで使用された。
 平成八年一月 
 日高市教育委員会

陸軍高萩飛行場跡地(南東端)

「のりたま」の看板が目立つ。丸美屋食品工業(株) 埼玉工場のある場所が高萩飛行場の南東端。

この日の散策は、一本松駅から武蔵高萩駅までを歩くこと約15キロ、約3時間の散策でした。


付記

武蔵高萩駅

以前は、開業以来の瓦葺の地上駅舎が使われており貴賓室もあった。
貴賓室や車寄せは陸軍航空士官学校卒業式に臨席した昭和天皇が利用したが、2005年(平成17年)の改築に伴い旧駅舎は取り壊された。
新駅舎にも緑色の瓦を使用したデザインが踏襲されているほか、駅舎内部に旧駅舎の瓦と車寄せの柱を使って作られた展示コーナーが設けられた。

駅前通りは、陸軍航空士官学校に赴く昭和天皇の御車が走った御幸通りということになる。

昭和天皇行幸記念碑

旧豊岡町の陸軍航空士官学校卒業式に御臨席されたのを記念する石碑。
昭和16年3月28日、昭和17年3月27日、昭和19年3月20日の3回、昭和天皇が行幸されている。
北には、陸軍航空士官学校高萩飛行場(陸軍高萩飛行場)があったが、南には旧豊岡町の陸軍航空士官学校があった。すなわち、現在の入間基地。当時、皇室としては、武蔵高萩駅が、南の陸軍航空士官学校の最寄駅でもあった。


関連

彩帆観音(サイパン観音)

東京都北区。
王子駅より荒川の方角に15分ほど歩く。
「西福寺」という寺院に、サイパンゆかりの観音様が建立されているというので足を運んでみた次第。

彩帆観音(サイパン観音)

彩帆観世音菩薩(サイパン観世音菩薩)

昭和48年建立。
西福寺住職が、サイパンにて日本軍が玉砕した洞窟から血に染まった土砂や遺骨を収集して、観音塔に遺骨を埋葬し、聖観音像を安置し、彩帆観音塔として建立。

サイパン玉砕慰霊の観音様
昭和19年6月15日から7月9日にかけてマリアナ諸島サイパン島で激戦が繰り広げられ、海上ではマリアナ沖海戦(あ号作戦)も発生。
サイパン島での日本軍の戦死者は約3万人、民間人の死者は約1万人。米軍の死者は3441人という。

合掌

彩帆観音塔建立の賦
私は一昨年の十二月下旬、戦争を知らない学徒代表ら拾名を伴い、第二次世界大戦で数多くの戦死者を出した南太平洋上に浮かぶミクロネシア諸島激戦の跡を歴訪した。特に日本人全員玉砕の悲しい思い出を残したサイパン島においては、怨恨親平等の仏教精神に則り、サイパン政庁長官と互にメッセージを交換して親善友好を深めると共に、自ら導師となって慰霊祭を執行し、国境を超えて現地人に多大な感銘を与えたが、その際旧日本軍参謀本部跡の洞窟内から血に染まった土砂や遺骨を収集しt帰国した。今回機縁熟するところとなり、塔内に遺骨を埋葬して聖観音像を安置し、彩帆観音塔と銘してこれを建立したわが国唯一のものである。
願わくは亡き英霊が現世に廻向して観音菩薩の慈悲を仰ぎ、世界平和国家隆盛萬民豊楽のために、無限のご加護あらんことを祈念して建立の賦とする。

 謹んで唱へ奉る
  南無彩帆観世音菩薩

 昭和48年9月
  当山主 小松原賢誉 
          合掌

彩帆観音

英霊菩提
世界平和

鎮護国家
現世安楽


西福寺

東京都北区に鎮座する真言宗豊山派の寺院。
山号は三縁山
院号は無量寿院

江戸六阿弥陀霊場1番札所
豊島八十八ヶ所霊場67番札所
荒川辺八十八ヶ所霊場20番・33番札所


場所

ちなみに、近くの「豊島公園」は明治大正期に陸軍によって作られた「豊島ドッグ」と呼ばれた掘割の跡。現在は埋め立てられており、往時の雰囲気は、細長い公園にその姿を感じさせるのみ。

これはまた別の話題ですね。

旧官幣大社南洋神社鎮座跡地遥拝殿(久伊豆神社境内社)

埼玉県越谷市 久伊豆神社境内社

旧官幣大社南洋神社鎮座跡地遥拝殿

旧官幣大社南洋神社鎮座跡地 遥拝殿
(きゅうかんぺいたいしゃなんようじんじゃちんざあとちようはいでん)

南洋神社は、南洋群島の中心地パラオ(現パラオ共和国のコロール島)に昭和15年2月11日、皇紀2600年に際して、昭和天皇の格別の思し召しにより創立された神社です。その御祭神を「皇祖天照大神」一座とする官幣大社であり、我々神社人が「本宗」と仰ぐ伊勢の神宮の「南洋における分社」ともいうべき神社です。その後、昭和20年8月の終戦によって、御社殿は御焚き上げとなり、神社の祭祀は終結、社殿跡地が残るのみとなりました。しかし、創立以来、南洋の地で開拓・入植に励んだ方々が、また戦時下、アジアの解放と大東亜共栄圏の実現を信じて、遥か遠く故郷を離れて南方の戦地へと赴いた部隊・兵士たちが篤い祈りと誓いを捧げられた事実は永遠に消滅するものではありません。

伊勢の神宮と旧南洋神社との御神縁・御神慮を拝し、神宮当局の御指導・御協力を賜って平成16年4月11日久伊豆神社境内に「旧官幣大社南洋神社鎮座跡地遥拝殿」を建立いたしました。この遥拝殿は、氏子・崇敬者共々遥かに、幾多の兵士の最期の祈りと誓いをお受けになった大神様の御霊を和め、遠く故国を離れた南洋の地に散華された英霊への感謝と慰霊・鎮魂、功績顕彰の誠を致す御殿です。

久伊豆神社公式サイト より

旧官幣大社南洋神社鎮座跡地遥拝殿竣工をお祝いして
この度、久伊豆神社境内に戦前パラオに創立され敗戦によって廃止された官幣大社南洋神社を偲び彼の地で戦没された方々の御霊を慰霊顕彰するための施設である旧官幣大社南洋神社鎮座跡地遥拝殿が目出度く竣工いたしました。洵に御同慶の至りであり衷心よりお祝い申し上げる次第であります。
ご承知の通り、南洋神社は我々神社人が本宗と仰ぐ伊勢の神宮の南洋における分社ともいうべき格別の神社であり、御祭神を皇祖天照大神一座とする官幣大社として昭和天皇の格別の思し召しから創立された神社であります。
そのことは、昭和15年2月1日付で拓務大臣小磯国昭が慎みて皇統の始祖に存します天照大神を奉祀し、永へに報本反始の誠を致さしめたく祭神を天照大神とし、社号を南洋神社と定め、社格を官幣大社に列せられる旨仰せ出られたく、右慎みて奏すと昭和天皇へ上奏し、それを天皇が裁可されたことからもご理解いただけることでしょう。
そして日本が、国際連盟規約により委任統治していた南洋群島の中心地であるパラオに鎮座した南洋神社に、南洋の地で開拓入植に励んだ方々が、また戦時下アジアの開放と大東亜共栄圏の実現を信じて遥か遠く故国を離れて南方の戦地に赴いた部隊・兵士たちが、篤い祈りと誓いを捧げた事実は、永遠に消滅するものではありません。
伊勢の神宮と旧南洋神社との御神縁御神慮を拝し、神宮御当局の御指導御協力を賜って、久伊豆神社境内に旧官幣大社南洋神社鎮座跡地遥拝殿が恙無く無事建立竣工なったことに、改めて慶賀の意を表すと共に、氏子崇敬者の方々はじめ多くの人々が竣工なったこの遥拝殿を通じて、幾多の兵士の最期の祈りと誓いをお受けになった旧南洋神社を偲び、遠く故国を離れた南洋の地に散華なされた英霊への感謝と慰霊、鎮魂、御功績顕彰の誠を致されることを記念致すものであります。
 平成16年4月11日
  國學院大學教授 阪本是丸

旧官幣大社南洋神社遥拝殿

南洋神社

現在のパラオ共和国コロール島に鎮座していた神社。
旧社格は官幣大社。

1914年に勃発した第一次世界大戦にて、日本は日英同盟に基づき連合国として参戦。日本海軍はパラオを統治していたドイツ軍を降伏させ占領。
1919年の第一次世界大戦戦後処理であるパリ講和会議によって、南洋諸島は日本の委任統治領となった。
コロール島には南洋庁及び南洋庁西部支庁(パラオ支庁)が置かれ、南洋諸島の中心的な島となり、多くの日本人も移住。
紀元2600年記念事業の一環として、そして南洋群島総鎮守として、昭和15年(1940)に創建。
太平洋戦争では、コロール島は帝国海軍の重要な基地として、北西太平洋方面の作戦拠点として展開。
昭和19年(1944)には、コロール島の南に位置するペリリュー島にて、ペリリュー島の戦いが勃発。日米双方に多くの戦死者を出した。
昭和20年(1945)8月の終戦により、日本の南洋統治は終了。

昭和20年9月11日に、南洋神社奉焼式が行われ社殿奉焼。11月17日、日本政府より南洋神社廃止の連絡を受け、翌1946年1月5日、パラオ本島の仮本殿で昇神の儀・仮本殿の奉焼を行い、ご神体は船で東京の宮内省に運ばれ、1月19日御奉遷の手続きが行われた。

https://ja.wikipedia.org/wiki/南洋神社

http://www.himoji.jp/database/db04/preview.php?name=南洋神社

位置関係

久伊豆神社(ひさいず神社)

埼玉県越谷市越ヶ谷鎮座。越ヶ谷総鎮守。旧社格は郷社。
元荒川流域に分布する久伊豆神社の総本社とされている。
境内には国学者平田篤胤の仮寓跡もある。

https://www.hisaizujinja.jp/

第三鳥居
伊勢神宮の第61回遷宮撤去材の皇大神宮板垣南御門を再建
平成7年9月28日竣工

平田篤胤仮寓跡

平田篤胤(1776-1843)は、江戸時代後期に復古神道を唱えた有名な国学者です。しばしばこの地を訪れ、暮らしたと伝えられています。
 平成18年12月 久伊豆神社 越谷市教育委員会 埼玉県教育委員会

平田篤胤先生遺徳之碑

昭和17年10月建立

久伊豆神社の藤
平田篤胤遺愛の藤。樹齢200余年。

誠忠碑
神社本庁総裁北白川房子謹書

昭和6年満州事変、昭和12年支那事変、昭和16年大東亜戦争戦没者と応招者の名前を刻む。
昭和38年5月建立

戦捷記念碑
埼玉県知事従四位勲四等大久保利武謹書

明治39年12月建立、日露戦争

日本海軍大東亜戦争戦没者殉国者慰霊碑(龍口寺)

令和元年(2019年)11月撮影

神奈川県藤沢市片瀬鎮座の龍口寺。
日蓮が処刑されそうになった地。

ちょうど江ノ島の入口に位置しており、門前には江ノ島電鉄(江ノ電)が走る。

そんな龍口寺の境内に、人知れず大東亜戦争の海軍慰霊碑がある。

日本海軍大東亜戦争戦没者殉国者慰霊碑

日本海軍戦没者47万3千余柱と殉国者200余柱の英霊を慰霊する。
昭和62年4月8日建立。

日本海軍大東亞戰争戰没者殉国者 
南無妙法蓮華経 慰霊碑 

 龍口十三世 日宣(花押)

維時 昭和六十二年四月吉日 
 海交会 
  龍口寺大本願人
   秦野秀雄 建之

追悼の辞
大東亜戦争日本海軍戦没者四十七万三千余名殉国者二百余名の 
 御英霊に捧ぐ 
祖国日本の繁栄と同朋の幸福を念じつ 悠久の大義に殉じた 
御英霊に感謝申し上げ御冥福を祈る
 施主 元海軍一等兵曹 秦野秀雄 
  奉賛者 
   元法務大臣 秦野章 
   元参議院議員 藤井裕久
   衆議院議員 田中慶秋 
   立正山光妙寺 柴山宣哲

主要慰霊行事 
一 中部太平洋ソロモン方面慰霊祭施行 海交会 
   昭和五十六年十一月十二日より十二月一日まで
一 タラワ ナウル グアム マショロ島慰霊祭施行 
   昭和五十八年十一月二十二日より十二月一日まで
    熊野原妙光寺 田中栄海 
    亀井野法泉寺 酒井光雄 
    愛国歌手 渡辺はま子
一 南太平洋方面慰霊祭施行 
   昭和五十九年十一月二十八日より十二月九日まで
一 フィリッピン 台湾 沖縄方面慰霊祭施行 
   昭和六一年十一月二十六日より十二月十日まで
 
世話人 
 海交会 元海軍中尉 山北林
 謹書 元海軍少尉 米本八百重

(碑面裏)
昭和六十二年四月八日建之
 (以下奉賛者名は略)


地下壕(陸軍抵抗拠点陣地)

龍口寺境内に残されている、陸軍抵抗拠点陣地は戦跡として著名。
陸軍歩兵第401聯隊のよる米軍上陸による水際の防衛陣地。
実際には使われることなく終戦を迎えているが、境内には地下壕の開口部が数箇所残されている。

今回は、地下壕が目的ではなかったので、この話題はここまで。
関係者以外進入禁止エリアですし。

龍口寺や界隈の地下壕に関しては、ネット上に情報が散見しておりますので、ご参照をば。

龍口寺(りゅうこうじ)

神奈川県藤沢市片瀬鎮座。
文永8年(1271)9月12日に日蓮宗の開祖日蓮が、この地にあった龍口刑場で処刑されそうになったことに、関連する寺院。

明治43年(1910)建立の五重塔。

天保3年(1832)建立の本堂。

昭和45年(1970)竣工の仏舎利塔。

龍口刑場跡

山門前には、江ノ電。

鎌倉江ノ島界隈は戦跡が多いけれども、巡りきれておりません・・・

関連

陸軍関東松山飛行場跡(唐子飛行場跡)

松山飛行場

今も昔も「松山」という地名は混乱をきたす。
戦国の頃は、この地にも「松山城」があり、武蔵の松山もそれなりの知名度を持っていたが、愛媛松山に対して「東の松山」という位置づけ。

東上鉄道(東武東上線)が大正12年(1923年)に「武州松山駅」を開業。(戦後に東松山駅に改称)
当時は「武州松山駅(東松山駅)の隣の駅は「菅谷駅(現在の武蔵嵐山駅)であり、まだ「森林公園駅」は開業前であった。

その当時は存在していなかった「森林公園駅」の南側に、かつて飛行場があった。

「陸軍松山飛行場(陸軍関東松山飛行場)
通称は、地元名称から「唐子飛行場」(唐子の飛行場)と呼称していたという。

愛媛の松山には、松山海軍航空隊・松山海軍航空基地(源田実の第343海軍航空隊が著名)、そして現在の松山空港があり、海軍と陸軍でそれぞれの松山だった感じですね。

余談ついでに。
台湾は台北飛行場(松山飛行場)が昭和11年(1936)日本統治時代の台湾総督府によって建設されておりますので、戦前のあるタイミングでは3つの松山飛行場があった、というわけですね。

陸軍関東松山飛行場(唐子飛行場)

戦時中、首都防衛のために関東各地に陸軍の飛行場が建設され、この松山飛行場もそのうちの一つ。

昭和17年(1942)
測量と土地買収が開始される。

昭和19年(1944)10月
現在の森林公園の南側の地に、陸軍によって「松山飛行場」建設開始。
同時に松山飛行場建設のために、東武鉄道東上線「武州松山駅(東松山駅)」~「武蔵嵐山駅」間5.3キロを北に迂回させる必要があった。。
迂回工事は松山中学(現在の松山高校)の生徒なども動員され3ヶ月後の昭和20年1月には完了。
西側の旧軌道跡は、飛行機誘導路としてそのまま利用され、そのまま現在も道路として活用されている。

昭和20年8月
飛行場未完成のまま終戦。
滑走路面が固まりきっておらず離着陸にはまだ使用できない状況で、飛来した航空機が不時着を試みたことがあったが、車輪が滑走路にめり込んで転倒してしまったいう。

戦後は「農業地」「東松山工業団地」として再開発。

位置関係

昭和22年に米軍撮影の「関東松山飛行場跡」周辺の航空写真。
比較的にわかりやすい正方形。
国土地理院より)

USA-R356-18
1947年10月24日-米軍撮影

今昔マップ on the webで、飛行場ができる前、昭和14年の地図を以下に参照。一部加工済み。

昭和14年 飛行場建設前
東武東上線は「旧線」

青線は、飛行場建設後に北側に移転された線路。
ポイントは「森林公園駅」と「つきのわ駅」。

赤線は、飛行場区画。
ポイントは区画の四隅。
現在の様子。
昭和14年と照らし合せると違いがわかりやすい。
GoogleMAPを一部加工。
紫ポイントは「開拓記念之碑」石碑

森林公園駅

昭和46年(1971)開業。飛行場当時は当駅はまだ存在していなかった。

東松山工業団地案内板

飛行場跡地は工業団地に。比較的良くある戦後再開発。

森林公園駅の南側、住宅地区画の先が、旧飛行場エリア。

都開拓記念碑

松山開拓都会館に「開拓の石碑」が建立されていた。
開拓の歴史は、この地に「飛行場」があった歴史の記録でもあり。

都開拓記念碑
 旧村の宮前、唐子両村を境して、民地約二00ヘクタールが大東亜戦争に軍用の唐子飛行場となったが終戦とともに、戦後国民の食糧事情が飢餓の状態であったので、開拓による食糧増産が国策となり、唐子飛行場跡地も開拓入植の土地となりこの旧宮前地区には昭和二十五、二十六年にわたり、旧宮前、唐子の人達家族ごと十五戸が入植となった。この地は字名を都と称し、唐子分は新郷と称したとくに、表土をけずられてあるこの都は、黄塵にして荒れ、開拓家族は、石油ランプをたよりに起居し、農具も鍬や万能の、手による作業で、血と汗にまみれ排水工事を施工、困苦の日々の闘いの開拓であった。開拓当初、都開発者は唐子開拓農業協同組合を設立したが旧村がそれぞれに町村合併により東松山市と滑川村とになり、組合も松山開拓農業協同組合と合併した。電灯も入り辛苦の十数年、作物も実りが得られるようになった。この頃より国の経済の動向は農業から工業生産と変化した。市村も将来の発展的計画に基づき県企業局の協力のもとに工業団地として組合にその協力を求められた。血と汗の結晶の土地であるが組合として協力の決がとられた。その後地区内を関越高速道の通過があり全員が協力した。以上のように開拓者一致の協力は、この地域と住民の発展を大きく進展させたことは事実でありかっての苦闘の努力は歴史を綴り不滅に輝き続けてゆくことであろう。都開拓三十周年記念の開拓者建碑にあたり碑文とする。 
 滑川村長小久保正男 
 昭和五十八年四月吉日建之 

大東亜戦争に軍用の唐子飛行場となったが・・・

刻まれる「唐子飛行場」の名称。

石碑の向いている南側が、かつての飛行場区画。

飛行場区画の東側に足を伸ばしてみた。
「東武東上線の旧線」にあたる道路であり、水路との境界地。

この水路は「唐子飛行場」時代から設けられた水路。当時の飛行場排水路であろうと推測。

石碑と水路と。
往時を偲ぶものはさほどには残されていないが、地図には当時の飛行場を忍ばせる区画が残っていた。

国旗掲揚所跡(秋葉原・岩本町)

秋葉原・岩本町界隈。
「和泉橋」の隣の駐輪場に、ひっそりと「昭和の遺産」が残っていた。

国旗掲揚所跡
(国旗掲揚台跡・国旗掲揚塔跡 )

(表面)
帝國在郷軍人會
國旗掲揚所 第拾班
神田區分會

(側面)
陸軍中將赤井春海書
昭和八年八月建設 寄贈 大熊柳三

大熊柳三は東京神田の呉服商。
陸軍中将・赤井春海(1876-1954)は、大正12年(1926)に陸軍中将、昭和5年(1930)に予備役。

「星と錨」が掲げられた。国旗掲揚台。
星と錨は「帝国在郷軍人会」のシンボルマーク。
「帝国陸軍の五芒星」と「帝国海軍の錨」。

「帝国在郷軍人会」のシンボルマークは、昭和8年(1933)建設以来、約90年の時を経て、留め具が緩み始めていました。

国旗掲揚台には、当時、国旗を掲げたであろう木製の柱の残骸も残っていた。


帝国在郷軍人会

現役を離れた軍人(予備役・後備役の軍人)が入会していた団体。

全国統一的組織としての「帝国在郷軍人会」は、1910年(明治43年)11月3日、予備役・後備役軍人の軍人精神向上などを目的に伏見宮貞愛親王を総裁として発足。

以下は、参考資料。
平和祈念展示資料館(新宿)展示の帝国在郷軍人会徽章

現在、帝国在郷軍人会に相当する組織は、自衛隊員OB組織である公益社団法人隊友会、か。


和泉橋

国旗掲揚台の隣は和泉橋。
この橋も実は古い。

江戸期には伊勢国津藩の藤堂和泉守屋敷があったことから、「和泉橋」と呼称。町名としても「神田和泉町」として残っている。
大正5年(1916)に鋼橋に架け替えられ、昭和2年(1927)に、帝都復興事業の一環で拡張。今も残る親柱は大正5年当時のもの。

秋葉原、岩本町界隈。
ひとしれず、戦前を偲ぶものが残っている空間でした。

鎮守様の戦跡~海老名・神武社

海老名市河原口(海老名市河原口3丁目3付近)に小さなお社が鎮座している。
その名も「神武社」。
海老名市総鎮守・有鹿神社の境外摂社。

社号の通り「神武天皇」を祀っている当社は「石碑」がご神体という、珍しい神社。

神武社
神武天皇碑
日露戦争戦勝祈願 橿原神宮遥拝記念

神武社

江戸時代の頃は、辺りは桑畑であったといい、この地には「石神社」が鎮座していた。
明治37年(1904)に勃発した日露戦争に際して、戦勝祈願の為に、この地に河原口の人々が集まり、橿原神宮を遥拝したという。その後、橿原神宮遥拝の地を記念して「神武天皇碑」が建立。その石碑を覆う社殿も建立されたという。
社殿と鳥居は橿原神宮の方向(西面)を向いている。

もともと河原口の氏神様は神明社であったが、戦後に神武社にかわった、とされる。
河原口地区には、神武社が建立される前、「新編相模風土記」によると、天神社・神明社・諏訪社・熊野社・石神社・第六天社・弁天社などが鎮座していた。明治期の神社合祀政策により、これらの小社は「有鹿神社」に合祀されたが、その後に河原口地区で疫病が流行ったために、現在地に遷座。
現在、「神武社」の境内には、石神社・神明社・天神社・熊野社・第六天社の石祠が鎮座している。

<本記事は有鹿神社宮司様よりお伺いしたお話を基礎としております>

神武天皇碑
神武社
神武社
鳥居は昭和35年建立
神武社と石祠群
石祠は、 石神社・神明社・天神社・熊野社・第六天社 という(順不同)
御社殿と鳥居は西面。橿原神宮の方向。
ちょうど西日が差す先には現在は「圏央道」

海老名総鎮守「有鹿神社」(あるか神社)

相模国最古の神社。近年はパンダ宮司で有名。

公式サイト

https://www.arukajinja.jp

有鹿神社の後方には「横須賀水道」が縦断している。
これもまた「戦跡」のひとつ。

「横須賀水道みち」の戦跡散策もおすすめ。

東郷氏祖先発祥地

海老名駅から綾瀬市役所方面に向かうバスに揺られて、城山公園バス停で下車。

この地にあった「城山城」が、「東郷平八郎の祖先発祥の地」であったという。早川城址の物見塚の上に記念碑が建立されている。

東郷氏祖先発跡地

東郷氏祖先発跡地
 元帥伯爵東郷平八郎書之

相模高座の郡早川郷は往古渋谷庄司重国の領地にして其子光重孫重直実重の住地なり
光重承久の乱に戦功あり薩摩国薩摩郡の数郷に封せられたり
光重は長男重直と共に早川に在城し次男早川次郎実重三男吉岡三郎重保四男大谷四郎重茂五男曹同五郎坊定心下男落合六郎重貞は宝治二年の春薩州の封地に下向せり而して実重は川内川の上域東郷の地を領し姓を東郷と改む
元亀元年東郷の一族島津氏に帰服するに至る迄三百十有余年間其子孫東郷地方に割拠し渋谷党と称し雄を北薩に振へり爾来東郷の姓を冒す者概ね其後裔なり昭和六年有志相謀り東郷氏の祖先発跡の旧地を卜し早川の城山物見塚に碑を建て以て後昆に伝ふと云爾
 昭和六年 月
  海軍中将正四位勳一刀功四級東郷吉太郎撰並書

物見塚と東郷氏祖先発祥地碑
 早川城本郭の西側に位置するこの塚は、物見塚と呼ばれています。南北21m、東西23m、高さ約2mの塚です。発掘調査の結果, 表土直下に宝永火山灰(1707年、富士山の噴火による火山灰)が見られることから江戸時代初期以前に築かれていることは明らかです。また、塚の作り方が土塁と同 様の版築(黒土と赤土を交互に敷きつめて突き固めたもの) であることから、城郭の関連遺構のひとつであり、外敵の侵入を見張るため築かれた塚であると思われます。
 物見塚の上には、昭和7年に祖先発祥地東郷会により建てられた「東郷氏祖先発祥地碑」があります。この碑は日露戦争で有名な旧海軍元帥である東郷平八郎の先祖の地であることを記念して建てられたものです。東郷家は、早川城主であったと伝えられる渋谷氏の末裔の一つでした。
 綾瀬市

早川城址
東郷元帥祖先発祥地

県下名勝史蹟四十五佳撰当選記念 横浜貿易新報社

城山公園

早川城跡
 早川城跡は、地元では古くから「城山(じょうやま)」と呼ばれ、鎌倉時代の御家人渋谷氏の城と伝えられています。しかし、文献資料がないことから、その実態は明らかではありませんでした。
 そこで、綾瀬市教育委員会では平成元年度から平成六年度にかけて、早川城跡の学術調査を行ないました。
 発掘調査によって、堀切・土塁・物見塚・曲輪等、多くの城郭関連遺構が発見され、県内でも有数な保存状態の良好な中世城郭であることが明らかとなりました。また、城郭が構築される以前には、縄文時代や古代の集落が営まれていたことも明らかとなりました。

渋谷氏と早川城跡
 渋谷氏は平安の末期、綾瀬市域を中心に渋谷荘(吉田荘)という荘園を支配し、勢力をもった武士でした。『吾妻鏡』によると、平治の乱(1159年)に敗れて奥州に落ち延びていく源氏の重臣佐々木秀義を渋谷重国が保護したとの記事があることから、この頃までには綾瀬市域一帯を支配下に置いたものと思われます。
 鎌倉時代になると、渋谷重国は源頼朝の家臣である御家人となり、その子高重が後をつぎました。高重は早川次郎と名乗り、早川に拠点を置いて一族を統率していたものと思われます。1213年の和田合戦では高重は和田義盛に組したため高重はじめ多くの一族が討たれましたが、1247年、宝治合戦の後、その軍功により薩摩国入来院ほかに所領を得、地頭となり、その際多くの一族が移っていきました。しかし、室町時代の初め頃までは綾瀬市域に渋谷氏の支配が続いたと思われ、その一族が早川城を築城したものと考えられます。

堀切と土塁
 鎌倉時代に築城されたと推定される早川城跡は、天守閣を持つ江戸時代の城と異なり、自然の地形を巧みに利用し、堀切と土塁を周囲に巡らした「砦」的な要素の強い城郭であることが発掘調査によって明らかとなりました。堀切とは外敵の進入を防ぐため、城の周囲に巡らされた堀のことです。
 堀切の内側には、堀切を掘った土を利用して、土塁と呼ばれる高い土手を築き、さらに堅固な防御施設を作り上げています。早川城の場合、東西及び南側は急峻な崖に囲まれ、自然の要害となっています。しかし、北側は平坦なため、幅約11メートル、深さ5メートル以上という大規模な堀切と土塁を築いて敵の侵入を阻んでいます。
 早川城は、有事の際に周囲に暮らす武士たちが集結して、外敵の進入に備える防御施設として、また、領民に対しては、権力を誇示するシンボルとしてそれぞれ機能していたものと思われます。

見事な堀切と土塁が残る。

西側は低地の湿地帯となっている。天然の要塞。現在は湿生園として整備されている。

薩摩の東郷平八郎の東郷氏が、まさか渋谷氏の流れを踏んでいるとは、此の地に足を運ぶまで知りませんでした。
良い知的散策が出来ました。


陸軍成増飛行場の戦跡散策

令和2年(2020年)2月撮影

かつて東京都練馬区にあった陸軍飛行場。


陸軍成増飛行場

昭和17年(1942)4月18日のドーリットル空襲を期に、帝都防空の飛行場として急遽建設が計画され突貫工事が行われ、昭和18年(1943)12月に陸軍成増飛行場が完成。

陸軍成増飛行場完成と同時に第1航空軍第17飛行団隷下の飛行第47部隊が展開。
昭和19年3月、飛行第47部隊は、第10飛行師団隷下となり、11月には特攻隊(B29に対する空対空の特別攻撃隊)「震天制空隊」が編成される。

戦後は連合国に接収され、グラントハイツ(アメリカ空軍の宿舎)となる。1973年に日本に返還。「光が丘」として再開発された。

住居に再活用された掩体壕

位置関係

現在の都立光が丘公園を中心とした一帯が「成増陸軍飛行場」であった。

国土地理院
C36(8913)-C2-399
陸軍撮影、1944年10月24日
GoogleMapに、おおよその位置関係を追記
国土地理院
USA-R585-No2-1
米軍撮影、1949年03月02日
グラントハイツ

陸軍成増飛行場の掩体壕跡

赤塚新町の住宅地の中に、掩体壕が残っている。

残っている・・・というよりも住居として、掩体壕の上下の空間が巧みに活用されていた。

だいたいの住所は、「板橋区赤塚新町3-29」地区内。
住宅地なので見学は状況をわきまえつつで。

前述の グラントハイツ 周辺を撮影した航空写真、国土地理院USA-R585-No2-1・米軍撮影(1949年03月02日)から位置関係を確認してみる。

都立光が丘公園へ。


都立光が丘公園

陸軍成増飛行場は、戦後グラントハイム(米空軍宿舎)を経て返還後に光ヶ丘団地に隣接する公園となった。

光が丘公園 のあらまし
 都市近郊の農村地帯 であったこの付近一帯は、昭和15年(1940年)紀元2600年 記念事業として、東京府の「東京大緑地計画 」のひとつにあげられました。
 しかし、大平洋戦争 が始まったため、大緑地としては整備されず、昭和20年8月の終戦まで旧陸軍の成増飛行場 として使用され、戦後は、昭和48年9月の全面返還 までの間、米軍の住宅地(グラントハイツとして使用されました。
 昭和47年(グランドハイツ〕 跡地(182ha)の処分により、同49年3月その跡地の三 分の一に当たる 60.7haが都市計画公園として計画に決定されました。
 昭和49年4月から公園造成に着手し、“豊かな自然とスポーツの公園”をテーマに、災害時の広域避難場所としても機能するみどり豊かな、都民に広く親しまれる公園として整備され、同56年12月に34.6haを開園しました。その後、各種の公園施設を整備し、現在60.7haを有する都内でも有数の規模の公園として都民に利用されています。

◎ 開園年月日 昭和56年(1981年)・12月26日
◎ 公園の規模607,675.05m (平成7年6月1日現在) ..
◎所在地 練馬区光が丘四丁目、同二丁目、旭町二丁目 板橋区赤塚新町三丁目
◎主な施設 スポーツ施設のほか、芝生広場、バードサンクチュアリ 、ゲートボール 場、噴水、流れ、光りのアーチ、売店、駐車場など。


屋敷森跡地

昭和18年に成増飛行場が造営されるにあたり、周辺住民は立ち退きを命じられるも、この屋敷森の家は境界の都合で1軒だけ残ることが出来た。
戦後、グラントハイツとなり飛行場の周りの土地も接収されるも、この屋敷森の住宅は宅地であったためにそのまま残ることが出来たという。
光が丘公園として再開発時に、当主が無くなり「屋敷森のまま」保全されることにあったという。

屋敷森の樹木は、成増陸軍飛行場のころから変わらずにそこにあったのだろうか。特攻隊の飛び行く姿を見守っていたのだろうか。


平和祈念碑

平和祈念碑
 この地には 1943年(昭和18年) 帝都(首都)防衛のため成増陸軍飛行場がつくられ 多くの若い生命が空に散っていった。
地元住民にとっても 農地を強制買収され 基地づくりに動員された忘れがたい地である。
 終戦直後の一時期 この広大な地域は米軍キャンプとして接収され 米国第18代大統領グラント将軍にちなみグラントハイツと呼ばれた。
その後 多年にわたる返還運動が実り みどりと太陽の武蔵野台地にコミュニティ「光が丘」が誕生した。
 練馬区は1983年(昭和58年)に『非核都市練馬区宣言』を制定し 「世界の恒久平和は人類共通の願い」であるとして「核兵器の廃絶と軍縮」を強く訴えている。
 本年は戦争終結から50年 歴史の大きな節目の年にあたる。この時にあたり戦中 戦後の歴史の激しい流れを見つめてきたこの地に 区民の総意を込めて平和の祈念碑を建て 練馬地域の多数の戦没者を悼むとともに 空爆による被災者や第二次世界大戦による内外諸国民の多大な犠牲を省りみるものである。
 ここに練馬区民は 戦争の悲惨さと平和の尊さを心に刻み 平和を守る決意を新たにしたい。
 1995年(平成7年)8月15日
 練馬区

平和への祈り
練馬区長 岩波三郎書

平和祈念碑.彫刻
デザイン.制作
彫刻家 田中昭

健やかに
田中昭

都立光が丘公園には、成増陸軍飛行場の面影は残っていない。なんとなくここに滑走があったのか・・・と感慨にふけるのみ。

総務省
練馬区における戦災の状況(東京都)

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/situation/state/kanto_18.html


2023年9月追記

成増陸軍飛行場開設80周年・写真展

郷土史家の山下徹さんの展示と秘話公開がありました(2023年9月)
「成増陸軍飛行場秘蔵写真&今だから語る秘話公開」

http://akatsuka-tokumaru.cocolog-nifty.com/blog/2023/09/post-9876ce.html

https://itabashi.keizai.biz/headline/667/

そこで知った2つの史跡を以下に追記。


飛行場建設で移転した観音立像

丸彫聖観音立像廻国供養塔
練馬区登録有形民俗文化財

成増陸軍飛行場の建設に伴い、飛行場予定地の住民たちは移住を余儀なくされたが、そんな住民の一人(Kさん)は、道端で打ち捨てられそうになっていた観音様を保護し、近隣の神社に預けたという。

江戸時代(享保13年・1728)に66ヶ国巡りを達成した記念碑です。元は光が丘の地域に建てられました。成増(高松)陸軍飛行場建設のため、土支田八幡宮、さらに旭町2丁目にあった稲荷神社に移設されました。その後、保護のため、現在地に移設しました。
 平成27年10月 練馬区教育委員会

上練馬公園にて


吉澤平吉中尉(震天制空隊)の勇魂碑

震天制空隊(震天隊)は空対空の特攻隊。B29に対して体当たり特攻を実施防空した。成増陸軍飛行場にも震天隊が編成され、首都防空の一翼を担っていた。

昭和20年2月10日、B29に対して体当たり散華した吉澤中尉。
震天隊として成増陸軍飛行場にもゆかりがあった。

東部第一〇七部隊飛行第四十七戦隊、震天制空隊近衛鐘馗戦闘隊
吉澤平吉中尉(陸軍航空士官学校第56期)
実は吉澤中尉は特攻隊員ではなかった。しかし部隊から多くの体当たりでの特攻隊員を出した先任将校として、自らもと覚悟を決めていたのかもしれなかった。

吉澤中尉(特進で少佐)の体当たり散華から38年後の昭和58年2月10日の、吉祥寺(武蔵野市)の大法禅寺境内に、勇魂碑が、吉澤中尉の姉達によって建立された。

勇魂 
従六位功四級勲六等 
故陸軍少佐吉澤平吉之碑

感状
 陸軍中尉 吉澤平吉

右者マリアナ基地ヨリスル米空軍ノ数次ニ亙ル帝都来襲ニ際シ其ノ都度勇戦以テB29撃墜ニ機撃破4機ノ赫々タル戦果ヲ収メアリシカ昭和20年2月10日敵B29約90機ノ太田付近空襲ニ方リ勇躍之ヲ下館上空ニ邀撃シ忽チ其ノ1機ヲ撃破セリ敵機攻撃ニ方リ自機亦被弾損傷シタルモ吉澤中尉ハ毫モ之ニ屈スルコトナク勇戦奮闘遂ニ後続敵編隊ノ左外側機ニ對シ敢然躰當リヲ決行之ヲ確実ニ撃墜スルト共ニ自ラ亦壮烈ナル戦死ヲ遂ク
吉澤中尉ハ真摯者実而モ内ニ烈々タル気魄ヲ蔵シ戦技亦卓抜ナリ敵機要地ニ侵襲スルヤ憤然挺身ヲ勇猛果敢毎戦武勲ヲ重ネ遂ニ玉砕以テ要地援護ノ大任ヲ完遂セルモノニシテ其ノ行動真ニ軍人ノ亀鑑ト謂フヘク武功亦抜群ナリ
依テ茲ニ感状ヲ授与シ之ヲ全軍ニ布告ス
  昭和20年2月23日
   防空総司令官 稔彦王

防空総司令官 東久邇宮稔彦王殿下の感状が掲げられている。

辞世
君の為 捧げし命の 重からで 只一筋に 宮居護らむ
大君の 御楯とあらば 何惜しまむ 雲染め散なむ 翼なりせば

戦歴
防衛総司令官東久邇宮稔彦王殿下命名の震天制空隊にて昭和十九年来帝都護持の任務を遂行中 「マリアナ」基地より発進する米空軍の数次に亙る帝都襲来に際し其の都度勇戦B29二機を撃墜四機を撃破せしが 昭和二十年二月十日B29約九十機関東地方襲来に際し下館上空に於て其の一機を撃破せしも 自機又被弾損傷せるも毫も之に屈せず更に勇戦奮闘遂に後続編隊の左外側機に敢然体当りを決行 之を確実に撃墜すると共に梅花に魁けて萬朶の櫻となり雲染む屍は大空に潔散壮烈なる戦死を遂く 昭和二十年二月二十三日東久邇宮稔彦王殿下より上記感状を授与せられ二階級特進畏くも陛下のお耳に達し 同じく仏印の空に散華し兄陸軍大尉吉澤正夫と共に金鵄勲章並に勲六等単光旭日章を賜ふ

略歴
大正11年 9月19日 本籍埼玉県北埼玉郡下忍村大字樋上64番地
(略)
昭和14年12月   陸軍士官学校予科 入学
昭和16年 3月   同校卒業 士官候補生隊付勤務
         飛行第二十九戦隊
昭和16年 6月   陸軍航空士官学校 入校
昭和16年 7月   第二十九独立飛行隊に転属
昭和18年 5月   陸軍航空士官学校を卒業(五十六期)
         任 陸軍少尉 叙正八位
昭和18年 6月   明野陸軍飛行学校 入校
昭和18年11月   同校退校 調布飛行部隊 部隊所沢へ移動
昭和19年     東部第一〇七部隊飛行第四十七戦隊
         震天制空隊近衛鐘馗戦闘隊
昭和19年 8月  陸軍中尉 従七位  
昭和20年 2月10日 群馬県に於て空中戦闘中戦死 2階級特進
         陸軍少佐従六位功四級勲六等を賜う 
         享年二十四才

碑文
このたび 昭和十六年来 府中市多磨霊園に埋骨されておりました父母兄弟の遺骨を当大法寺の永代納骨堂に奉移して未来永劫にわたり御供養をいただくことになりました 私達の弟二人は純粋に忠君愛国の念に燃え殉じましたが 志ならずして敗戦となり数多くのあらゆる面に罹災されました皆様の筆舌に尽くせぬ御辛苦に思いを馳せ さぞかし無念の涙に咽んだことと思います
然し身は大空に散華いたしましても霊魂は今なお天空に留まって日本国と国民の皆様の御安泰を祈り永遠なる平和への礎となっていることと思います 戦後三十八年を経た今日 新に戦死した弟達が蘇って参りました思いを切実に感じあらためて永遠の平和をひたすらに祈るものでございます
合掌
 昭和五十八年二月十日建立 吉澤富子 吉澤満子

合掌

吉祥寺の大法禅寺


立教大学の近代建築

池袋駅のほど近く、立教大学池袋キャンパス。
近代建築を散策してきました。


立教大学 池袋キャンパス
立教学院平和祈念の碑

チャペル近くにひっそりと慰霊の碑があった。

立教学院平和祈念の碑
 剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする
国は国に向かって剣を上げず もはや戦うことを学ばない (イザヤ書2章4節)

アジア太平洋地域の戦争で没した
本学院出身者の名簿をここに納める

2001年11月
立教学院

昭和16年(1941年)太平洋戦争開戦。
昭和17年、「基督教主義ニヨル教育」から「皇国ノ道ニヨル教育」に変更、チャペルを閉鎖し「修養堂」と改称。
昭和18年「学徒出陣」。文系学生は原則として全員が軍務に服することとなり文学部閉鎖。
立教大学からは658人(文学部23人、経済学部635人)の学生が入隊。

太平洋戦争に先立つ日中戦争下の昭和14年(1939年)に戦没した交友・教職員のための第一回慰霊祭がチャペルで執り行われた。昭和17年(1942年)の第四回慰霊祭までの戦没者30名の名前がチャペルに掲げられたタブレットに刻まれた。第5回目以降はチャペルが閉鎖され神道式での慰霊祭が執り行われた。
戦後、戦没者のうち在学中にチャペルで洗礼を受けた者とチャペル活動に積極的だった者の名がタブレットに刻まれ、昭和59年には昭和19年度卒業生のうちで戦没が明らかになった者の名も追加で刻まれたという。

チャペルに掲げられているタブレット
「名誉之戦死者」
人その友のために己の生命を棄つる之より大いなる愛はなし
そこには68名の名前が刻まれている


立教大学 池袋キャンパス
本館(モリス館)

東京都選定歴史的建造物
大正8年(1919年)竣工。立教大学のシンボル的な建造物。
米国聖公会宣教師アーサー・ラザフォード・モリス氏の寄付によって建てられたことから通称は「モリス館」。中央時計台の時計はイギリス・デント社製で直径90cm。池袋キャンパスのレンガ建造物は「フランス積み」で構築。

東京都選定歴史的建造物
立教大学本館(モリス館)、図書館旧館、諸聖徒礼拝堂、第1食堂、2号館、3号館

所在地 豊島区西池袋3-34-1
設計者 マーフィ&ダナ建築事務所
建設年 1818年(大正7)
    礼拝堂聖別式 1920年(大正9)

 立教大学の前身立教学校は、1874年(明治7)築地の開市場内に米国聖公会系の一私塾として開校された。その後、1918年(大正7)に現在の池袋に移転し、大学本館(モリス館)、図書館、寄宿舎、食堂、教授住宅等が完成し、礼拝堂は1920年(大正9)に聖別献堂が行われた。
 大学キャンパスの基本計画は、ニューヨークの建築家マーフィ&ダナ建築事務所によるもので、大学の主要な機能をもつ大学本館を据え、左に図書館、右に諸聖徒礼拝堂(チャペル)を配して正面を構成し、さらに中央の軸線を延長して、中庭を囲んで学生食堂を中心に左右に寄宿舎を整える構成となっている。
 各建物の意匠はゴシックリヴァイバル様式を基調とし、簡素でありながら重厚な赤レンガ造りでまとめられている。
 東京都


立教大学 池袋キャンパス
本館(モリス館)内部

内部は洗練された美しさがある。
2012年に改修工事が行われ、全館バリアフリー化対応。現在も教室として使用されている。


立教大学 池袋キャンパス
図書館旧館
メーザーライブラリー記念館

東京都選定歴史的建造物。
大正8年(1919年)竣工。
平成24年(2912)まで図書館として使用され、平成26年からは「立教学院展示館」として活用されている。本館の向かって左側。建設時に大きな貢献があったサミュエル・メーザー氏に由来する。


立教大学 池袋キャンパス
諸聖徒礼拝堂(チャペル)

東京都選定歴史的建造物。
大正5年(1916年)に定礎式がおこなわれ、大正8年(1919年)に竣工。


立教学院創立者
主教 ウイリアムス之像

人の子がきたのも
 仕えられるためではなく
  仕えるためであり
また多くの人の
 あがないとして
  自分の命を
    与えるためである
    
立教学院創立者
主教 ウイリアムス之像
昭和42年5月18日建之


立教大学 池袋キャンパス
第1食堂

東京都選定歴史的建造物。
大正7年(1918年)竣工。 イギリスの寄宿舎を思われる様相。
入口にはラテン語で「 APPETTTVS RATIONI OBEDIANT (食欲は理性に従うべし)」と記載。これは哲学者キケロの「欲望は理性に従うべし」をもじったものという。


立教大学 池袋キャンパス
2号館

東京都選定歴史的建造物。
大正7年(1918年) 、「寄宿舎東寮」として竣工 。
寄宿舎は1932年に閉鎖され、その後は教室や研究室として使用。


立教大学 池袋キャンパス
3号館

東京都選定歴史的建造物。
大正7年(1918年)、「寄宿舎西寮」として竣工。


立教大学 池袋キャンパス
4号館

昭和12年(1937年)、「予科校舎」として竣工。
現在は4号館(理学部研究室)。
立教大学内では珍しいレンガ造り以外の建造物。

神の栄光と
国民教育の
ため
 昭和12年4月


立教大学 池袋キャンパス
ライフスナイダー館

1926~27年(大正15~16年)にかけて校宅として建設された。空襲や再開発などによって10棟あった校宅は現在は、ライフスナイダー館のみを残す。
この建物は明治45年(1912)に立教学院総理として池袋校舎建築に尽力されたライフスナイダーの邸宅であった。ライフスナイダーは日米関係悪化により昭和15年(1940)に立教学院を辞任している。
現在は1階をレセプションルーム、2階を院長室や立教英国学院東京事務所などに使用されている。


江戸川乱歩邸

ほか立教大学関係の戦前建造物としては、「江戸川乱歩邸」がある。
邸宅は昭和9年(1934)、書庫として使われた土蔵。豊島区指定有形文化財。
平成14年(2002)に立教大学管理となり、公開日限定で公開されている。

2023年現在、公開日は毎週月曜日と金曜日。平日限定。

※江戸川乱歩邸は2023年2月撮影
※それ以外の立教大学関連は2022年2月撮影

早稲田大学の近代建築

2020年1月

早稲田大学に残る近代建築と戦跡などを散策してみました。

早稲田大学
喜久井町キャンパス
(理工学術総合研究所)

戦時中、喜久井キャンパスの研究所地下には防空壕があった。
空襲に際して周辺住民と学生などが避難していた防空壕も被災し300余名が亡くなったという。

戦災供養観音像(早稲田大学)

戦災者供養観音像建立の由来
 第二次世界大戦の終局も近い昭和二十年五月二十五日(1945年)米軍の東京空襲は、山手地区の多くを焼土と化した。
 理工学研究所も建物のほとんどが焼失し、とりわけ研究所敷地地下に作られた防空壕に避難した学生数名と、近隣の人々あわせて三百余名が火焔と煙に包まれて、悲しくも尊い犠牲となった。
 昭和三十年五月罹災十周年を迎えるにあたりこれらの人々の霊を慰め、永遠の 平和を祈願するため本観音像を建立した。
 昭和五十八年三月  
 観音像製作者 二紀会 永野隆業氏
 早稲田大学理工学研究所

近くの感通寺にも、慰霊観音さまがある。

早稲田の穴八幡の交差点。
かつては大隈家、そして近衛騎兵連隊御用達として、この地にあった「 三朝庵」は既に面影が無し。

ありし日の「三朝庵」

早稲田大学早稲田キャンパス

早稲田キャンパス内に残る近代建築を巡る前に、記念碑や銅像などを先に。

杉浦千畝レリーフ

第二次世界大戦中、リトアニアのカウナス領事館に赴任していた杉原千畝は、ドイツの迫害により逃れてきた難民たちに対し1940年7月から8月にかけて、外務省からの訓令に反して大量のビザ「命のビザ(杉原ビザ)」を発給。多くのユダヤ系避難民を救った「東洋のシンドラー」とも呼称される。

杉原千畝は早稲田大学高等師範部英語科予科に入学し外務省留学生試験に合格している。

外交官としてではなく
人間として当然の
正しい決断をした

命のビザ発給者
杉浦千畝

杉浦千畝
(1900~1986)
原型 櫻庭裕介
平成23年10月24日 建立

杉浦千畝レリーフは11号館と14号館の間に鎮座。

杉浦千畝レリーフの隣には「楠」が植樹されている。


 この楠の親木は、明治10年に創立者大隈重信が熱海より実を持ち帰り播種し、その後、雉子橋(九段南)から早稲田への本邸移転に際し、大隈庭園に移植されたものである。
 明治10年の実生からおよそ125年後の今日まで、学園を見守り続けたその実から再び第二世紀の苗木を育て、各キャンパスにおいて植樹し育成していくものである。
 2002年10月
 植樹〔第14代総長 奥島孝康〕

総長大隈老侯像
大隈重信像

早稲田大学の創立者である大隈重信の銅像。高さ298センチの立像。昭和7年10月17日に大学創立50周年と大隈重信10回忌を兼ねて制作。製作者は朝倉文夫。

大礼服姿大隈重信石膏像

大礼服姿大隈重信石膏像
小倉惣次郎作
明治40年(1907)10月の創立25周年記念式典の際、大礼服(明治期から太平洋戦争終戦までの宮中の儀式等で着用した最高の礼装)姿の大隈重信像が校庭に設置された。本像は石膏によるその同型像である。
 早稲田大学大学史資料センター蔵

元となった大礼服の大隈重信像は現在は大講堂バルコニーにあるという。

坪内逍遥胸像と台座歌碑

坪内逍遥像と台座歌碑
台座上の坪内逍遥胸像は、彫刻家、長谷川栄作氏の願望により昭和37年(1962)に鋳造されてもので、逍遥の「シェイクスピア」講義の姿である。
また、台座は、早稲田大学後援会事業資金、池田恒雄氏、近桂一郎氏の協力により演劇博物館創立70周年記念に建立され、歌碑の内容は逍遥を偲んだ会津八一の自筆の和歌である。

むかしひと
 こゑも
ほからに
 たくうちて
とかしし
 於もわ
みえ
 きたる
  かも
秋神道人


早稲田キャンパスの近代建築

大隈記念講堂(21号館)

国指定重要文化財
昭和2年建造

重要文化財
早稲田大学大隈記念講堂


所在地 新宿戸塚町1丁目104番
設計者 佐藤功一・佐藤武夫
建築年 昭和2年(1927年)
指定年 平成19年(2007年 )

早稲田大学大隈記念講堂は、創立者である大隈重信に対する記念事業として計画され、同大建築学科の佐藤功一教授と佐藤武夫助教授が設計し、同教授の内藤多仲が構造を担当し、昭和2年10月15日に竣工した。
早稲田大学大隈記念講堂は、早稲田大学のシンボル的存在であり、ロマネスク様式を基調としてゴシック様式を加味した我が国近代の折衷主義建築の優品として、高い評価がある。
また早稲田大学建築学科で永く教鞭をとり、多くの建築家を育てた佐藤功一の代表作としても重要である。

早稲田大学総合案内所
(大隈重信邸守衛詰所)

かつての大隈重信邸守衛詰所であった建物。
明治35年(1902年)建造という。

早稲田大学総合案内
 この建物は、戦争によって全焼した旧大隈重信邸(明治35年竣工)の唯一の現存遺構であり、当時は守衛詰所として用いられていたものである。
 建物は木造一階建ての簡素なつくりであるが、ハーフ・ティンバーの外観、妻飾りのハンマー・ビームやがらり窓が印象的である。小規模ながら、旧東京専門学校校舎(具ルーンハウス・現在は追分セミナーハウスに移築)と並んで、木造校舎時代の雰囲気を伝える貴重な建築物である。

大隈庭園(大隈重信邸跡)

大隈会館(大隈會舘)の入口門柱に一対の狛犬が鎮座している。台湾狛犬。

早稲田大学
百年祈念
中華民国
台湾同学会敬贈

脚を運んだ日は、天候不良のために大隈庭園は閉門しておりました。残念。

大隈重信邸沓脱ぎ石

早稲田大学
早稲田キャンパス1号館

専門部・高等師範部校舎として昭和10年(1935年)竣工。
現在、1号館には「早稲田大学歴史館」が併設されている。

1号館入口の円柱について
左に位置する一対の御影石円柱は、この建物の建設(1935年竣工)にあたり、明治期に正門となっていた門柱を加工したものである。
戦火に耐え、本学草創期の息吹を今日に伝えるこの円柱は、「歴史を明日に伝える」早稲田大学歴史館の象徴となっている。

早稲田大学
早稲田キャンパス2号館

大正14年竣工の旧図書館。
東京都選定歴史的建造物。
現在は會津八一記念博物館などに使用されている。

東京都選定歴史的建造物
早稲田大学2号館(旧図書館)(早稲田大学)
所在地 新宿区西早稲田1-6-1(早稲田大学)
設計者 今井兼次・桐山均一・内藤多仲
建築年 大正14年(1925)

 平成3年(1991)まで大学図書館として使用された。設計者今井兼次は、建築様式について”質実、豪放、端正なる現代の様式に東洋の印象を加味したもの”とした。
 建物は本館と書庫からなり、本館は玄関大広間ならびに大階段室、大閲覧室の空間構成がとられている。玄関大広間の柱東武は植物の形態をデフォルメしたもので、石膏製の彫刻である。表現主義の影響を受けたユニークな造形となっている。
 東京都

早稲田大学
早稲田キャンパス3号館

昭和8年(1933)竣工の建物(本部校舎)であったが、平成23年(2011)に解体。平成26年(2014)に新3号館が竣工。新3号館の低層部には旧校舎の様相が復元されている。

早稲田大学
早稲田キャンパス5号館
演劇博物館

新宿区指定有形文化財
昭和3年(1928)竣工
正式名称は「早稲田大学坪内博士記念演劇博物館」という。

新宿区指定有形文化財 建造物
演劇博物館
所在地 新宿区西早稲田1丁目6番地
指定年月日 昭和62年3月12日
 
 正式には早稲田大学坪内博士記念演劇博物館という。
 昭和3(1928)年10月に坪内逍遥の古稀と「シェークスピア全集」の完訳を祝って学界・演劇界の有志1500余名の協賛により建設された。建物の意匠は逍遥の発案によりイギリスのエリザベス朝(16世紀後半)の様式で、シェイクスピア時代の劇場フォーチュン座を模して設計されている。
 鉄筋コンクリート造、地上3階、、地下1階m建坪は約400平方メートルで、内部は逍遥記念室をはじめ8つの展示室、図書閲覧室がある。
 また、外部は実際にシェイクスピア劇ができるようになっており、館の正面は舞台、2階のt廊下は上舞台、建物の両翼は桟敷、前庭は一般席となる。
 なお、正面舞台上に掲げてあるラテン語は「全世界は劇場なり」という意味で、シェイクスピア時代の劇場グローブ座に掲げてあった看板の句である。
 平成3年11月
 東京都新宿区教育委員会

早稲田大学
早稲田キャンパス6号館

昭和10年(1935年)竣工。 1号館と同じ時期の建設。現在は教育学部。

豊明会記念
応用化学実験室
関東大震災で焼失した建物銘板を掲げる6号館
演劇博物館5号館と6号館

早稲田キャンパスの近代建築。
講堂からは1号館と3号館が並ぶ姿が見れる。

さて、ちょっと移動します。
早稲田キャンパスと西早稲田キャンパスのあいだあたりに、「早稲田大学 各務記念材料技術研究所」があります。


早稲田大学
各務材料技術研究所

昭和13年(1938年)、各務幸一郎・良幸父子の寄付により「鋳物研究所」として創立。所長は元海軍中将の石川登喜治。私立大学での理工系研究所としては最初の研究所となる。
現存する建物も昭和13年の竣工。

旧鋳物研究所の正門
この門は旧鋳物研究所(現在の各務記念材料技術研究)の正門であった。
昭和元年から昭和10年まで、早稲田大学の正門として使われていたものである。
昭和13年の鋳物研究所開設に伴い、初代所長の石川登喜治先生がこの門を田中穂積総長から譲り受け、研究所の正門とした。
旧大隈邸の門であったともいわれているが、その確証はない。
第二次大戦中には、鉄資源としての供出を恐れた石川先生が所内に隠され、木製の門が使われていた時期もある。この門では幅が狭く、大型トラックの出入りに不便であるとの理由で平成9年4月に現在の門に取り換えられた。
 2011年(平成23年)10月

早稲田大学正門の門柱は1号館に活用され、正門の扉はひっそりと材料技術研究所に保存されていた。


早稲田奉仕園
スコットホール

早稲田大学ではないけども、近くでしたので足を運んでみた。ここにも近代建築が残っている。

スコットホール

東京都選定歴史的建造物
早稲田奉仕園スコットホール
 この煉瓦組積造の建物は、1918年の米国バプテスト総会で報告された早稲 田奉仕園の事業に強く賛同された J・E・スコット夫人(1851-1936)によって、天に召された夫の記念として寄贈されたものです。
 ヴォーリズ建築事務所の設計原案に基づき、早稲田大学の内藤多仲教授研究 室が施工管理を行い、同研究室の今井兼次助教授(当時)が担当者となって設計 を完成させ、竹田米吉店が施工を請け負いました。
 1922 年(大正11年)1月に献堂式(竣工式)を行い、翌年の関東大震災で塔屋の一部 が崩落し補修をされた以外は、現在もほぼその原型が保たれています。
 1990年東京都より「歴史的建造物の景観意匠保存」の指定を受け、寄贈者の志を覚え永く後世に保存 したいとの願いから、1991年に多くの賛同者の寄付・協力によって、構造の補強と外観の全面保存改修が行われました。
 2008年10月
 公益財団法人 早稲田奉仕園

早稲田奉仕園創立者 H.B.ベニンホフ博士(1874-1949)
米国北部バブテストの宣教師として派遣されたベニンホフ は、1908年に早稲田大学の学生に請われて英語による聖書研究会“3Lクラブ”を築地にあった自宅で始めました。
同年早稲田大学 の創立者大隈重信 に要請され、キリスト教に基く学生寮「友愛学舎」を早稲田鶴巻町に創設、奉仕園の礎となる活動が開始されました。その後牛込弁天町に場所を移し、更に1920年現在の土地を購入して、友愛学舎のほか、スコットホール、スポーツ施設などを備えた学生センター「早稲田奉仕園」をつくりました。
長らく早稲田大学の講師も務め、また、日米間の相互理解と親善に努力しましたが、国際情勢の悪化により1941年志半ばにして帰国、再び日本に戻ることを願いながら、1949年1月24日インディアナ州フランクリンで天に召されました。
この像は1963年に関係者の寄附によりたてられました。
 2008年9月
 公益財団法人 早稲田奉仕園

早稲田大学周辺の散策は以上にて〆