「空自」カテゴリーアーカイブ

旧陸軍航空士官学校の格納庫跡(入間基地)

2024年11月の入間基地航空祭に際して、旧陸軍航空士官学校時代の倉庫が5棟残っているというので、航空機はそこそこに倉庫の見学をしてきました。

もっとも、2024年の航空祭は、C-1ばかり見ていましたけど。


陸軍航空士官学校

陸軍航空士官学校
昭和12年(1937)に陸軍所沢飛行場内に陸軍士官学校の分校として「陸軍士官学校分校」が開校。(現在の入間基地・入間飛行場)
昭和13年5月に「陸軍士官学校分校」が豊岡町(現在の入間市)に移転。
昭和13年12月に、「陸軍航空士官学校」として独立し、昭和16年には行幸された 昭和天皇より「修武台」の名称を賜った。

陸軍航空士官学校の本校は豊岡(入間)、その他に飛行練習をするために狭山・高萩・坂戸・館林の陸軍飛行場が練習地として使用された。

狭山飛行場

高萩飛行場

坂戸飛行場

館林飛行場関連は未訪問。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:891-C2-92
1944年9月28日、米軍撮影の航空写真

かつての陸軍航空士官学校時代の様子がわかる。

残存の格納庫部分を拡大

現在の様子

当時の写真と照合し、赤枠部分が残存と推測できる。


陸軍航空士官学校時代の北側建屋3棟の現況

2024年11月3日現在の様子。
北側には、3棟が残存している。

北側から。

南側から。
当時は、こちら側が駐機エリア。

西側の側面。


陸軍航空士官学校時代の西側建屋2棟の現況

西側には2棟、残存している。

現在も航空自衛隊入間基地の倉庫として活用されている。


修武台記念館・陸軍航空士官学校航空神社跡・修武台命名記念碑

そこにあるのはわかっているけど、見学は、いつになったらできるのかな、と。
申し込めばよいのですけど。

敷地外の柵の外から。

※2024年11月撮影


関連

「C-1 FOREVER」C-1よ永遠なれ(入間基地一般開放2025年3月)

2025年(令和7年)3月にて、C-1/EC-1は全機引退となる。
その引退前に入間基地一般開放にて、最後の晴舞台、最後の雄姿を魅せてくれた。

これは、行く以外の選択肢は無いでしょ、です。


キュージョンと402飛行隊

入間基地救助犬「キュージョン」と、C-1所属の402飛行隊の部隊旗がお出迎え。
救助とジョンソン(空自入間基地になる前の米軍ジョンソン空軍基地)なキュージョンは、パイロットに憧れている救助犬だとか。

402飛行隊は、航空自衛隊航空支援集団第2輸送航空隊隷下の輸送機部隊。入間基地に所属し、輸送機にC-2、多用途支援機にU-4を運用している。C-1も運用していた。


C-1(28‐1002号機/試作2号機/フィニックス特別塗装)

フィニックス(不死鳥)
永遠に飛び続ける思いを込めて。

第2輸送航空隊(2nd TAG)

C-1 FOREVER


EC-1(78-1021号機/電子線訓練機/カモノハシ)

カモノハシ!

最後のツーショット、、、


展示場所移動

フェニックスとカモノハシの移動。

あっ、C-2が来ました。

世代交代

C-1とC-2の最後のツーショットと思うと、なんか込み上げてくるものがあり。。。

このタイミングは粋な演出。

C-2を見送り。


EC-1カモノハシ地上滑走

カモノハシの地上滑走

放水のフィナーレ


C-1フェニックス地上滑走

同じく、放水のお出迎え

お疲れ様

パイロット


ターミナルから

入間基地ターミナルからの2機

投稿写真で描かれたEC-1

そして、C-1も。

よくみると、ひとつひとつの写真が。これはすごい力作!

段ボールすごい。。。


C-1地上展示(08-10030号機)

なにげに、C-1の機内をちゃんと見るのは初めてだったかも。


C-1地上展示(18-1031号機)

2024年11月3日の入間基地航空祭で、ラストフライトをした31号機。
もう飛べないけど、まだその姿をみることができました。


YS-11地上展示(02-1159号機/スーパーYS-11)

まさか、YS-11より先に、C-1が全機引退とは、誰が予想しただろうか。。。
エンジンを換装しプロペラ3枚に変更したスーパーYS-11はまだ、空自で運用されているという奇跡。

YS-11EB(159号機)

YS-EA(162号機)も。


こうやって、C-1最期の姿を眺めるだけで、感慨深くなります。
高校生のとき、初めて行った航空祭で、C-1の高機動に魅了されて以来、好きな機体でした。

ありがとうございました!!
お疲れ様でした!!

※撮影:2025年3月


関連

入間基地航空祭「C1 031号機ラストフライト」(2024年11月)

2024年11月、入間基地航空祭。
日本が誇る中型輸送機「C-1」の全機退役を控えて、最後のC-1揃い踏みな航空ショーが開催された。
体調はいまいちでしたが、なんとか観覧に。


C-1(試作1号機XC-1/空中試験母機/001号機/銀ちゃん)

岐阜基地所属

試作1号機と2号機、光景のC-2の揃い踏み


C-1展示飛行

C-1とC-2の編隊飛行


C-1 31号機ラストフライト

C-1量産の最終号機31号機のラストフライト。
僚機30号機とともに、最後の飛行。

31号機の着陸。

放水アーチでのお出迎え

LAST FLIGHT
C-1 18-1031

空自70周年


ブルーインパルス

毎度おなじみってことで。

※撮影:2024年11月


関連

【展示移設作業中】「日本初の零戦復元機」零式艦上戦闘機52型甲(空自浜松広報館エアパーク)

空自浜松広報館エアパークの展示格納庫にて吊り下げられていた「零戦(ゼロ戦)」が展示場所移設作業のために床下に降ろされ、前部胴体/後部胴体に分割されました。
移設完了までの二度と目にすることがないであろう状態の展示。なぜか(仕事の都合で)運良く浜松にいたので、二度とないチャンスとし、無理やり足を運んできました。

浜松広報館によると、以下の通り、どこかのタイミングで「ご覧いただけなく」なるようだけど、ご覧いただくことが出来ました。

令和6年6月24日から展示格納庫に展示中の零戦を、より間近で見ていただける様、展示資料館2階に移設する作業を行います。
移設作業が完了するまでの間、零戦をご覧いただくことができない旨ご了承ください。

浜松広報館NEWS https://www.mod.go.jp/asdf/airpark/NEWS/20240626.html

以前の様子は下記にして。


零式艦上戦闘機五二型甲 A6M5
43-188号機

日本への里帰り第1号機の零戦。

昭和19年3月、三菱名古屋工場製造機。
所属は、第三四三海軍航空隊(1944年1月に開隊した初代、通称隼部隊)。
昭和19年6月〜7月にかけてのマリアナ諸島攻防戦で、米軍との戦闘や米軍機の空襲などにより壊滅し、7月10日に解隊。
浜松基地浜松広報館に保存されている零戦は、第三四三海軍航空隊の飛行隊長・尾崎伸也大尉(海兵68期)が昭和19年6月19日に米軍と交戦し被弾し不時着し放棄された機体。尾崎伸也大尉は戦死されている。
海兵68期の尾崎伸也大尉の同期には、作家・豊田穣、撃墜王・鴛淵孝、九軍人の広尾彰、海軍中将松永貞市の息子・松永市郎、捕虜第一号となった酒巻和男など。
第三四三海軍航空隊は、昭和19年12月に再編(二代目)される、これが通称「剣部隊」として紫電改を用いて有名となった航空隊。

昭和39年1月に日本に里帰り。

零式艦上戦闘機(零戦)の展示経緯
昭和38年4月  
 本展示機がグアム島で発見される。
昭和38年7月
 グアム島知事から日本への返還が決まる。
昭和39年1月
 米軍C-130輸送機により岐阜基地へ搬送。
 本機の製造元である三菱重工業大江工場にて忠実な復元作業を実施。
昭和39年10月
 我が国で最初の零戦復元機が完成。(その後、全国各地において展示されたため期待の損傷がひどくその管理が必要とされた。)
昭和42年11月
 航空自衛隊の航空機整備のメッカ(航空機の整備学校が所在)である浜松基地に移送されその後浜松基地において展示・管理された。
平成11年4月
 航空自衛隊浜松広報館開設に伴い、当館において展示される。

零戦52型
零戦52型は1943年8月初飛行し、太平洋戦争後半の日本海軍の主力戦闘機として活躍した機体である。この機体には甲、乙、丙の3種の型があり、零戦総生産数約1万機のうち、4種あわせた52型シリーズは約6,000機が生産された。

性能
全幅 11m
全長 9.1m
全高 3.5m
全備重量 2,733kg
エンジン 栄21型 最大出力1,100馬力x1基
最大速度 565km/h
実用上昇限度 11,740m
航続距離 1,920km
乗員 1名
搭載武装 7.7mm固定銃x2門 99式20mm固定銃x2門

以下、移設作業中の展示状態を見学。

撮影:2024年7月


入間基地ランウェイウォーク2024

令和6年(2024)6月1日(土)。
航空自衛隊入間基地で開催された入間基地ランウェイウォーク2024。今年は、「航空自衛隊70周年記念」として制限なしの一般開放が実施されましたので、足を運んでみました。

YS-11やC-1など、いつ見納めになってもおかしくない機体が見れたのがなによりの収穫。


YS-11EB電子測定機

日本航空機製造が製造した双発ターボプロップエンジン方式飛行機。第二次世界大戦後に初めて日本のメーカーが開発した旅客機でもある。
YS11(02-1159号機)は、1970年初飛行。
1996年にYS-11EBとして「スーパーYS」化改造した電子測定機(電子情報収集機)。

レアなツーショット!
YS-11EB電子測定機のうしろには、EC-1電子戦訓練機


YS-11EA電子戦訓練機

YS-11EA 12-1162号機と12-1163号機。
YS-11Eを「スーパーYS」化改造した電子戦訓練機。
航空自衛隊のYS-11としては、一番最後に導入された世代(1971年初飛行)
2機ともにプロペラが外されて保管されている状態。
すでに、事実上用廃ではあるが、2024年度内に、書類上でも正式に用途廃止(用廃)予定という。


EC-1電子戦訓練機

C-1輸送機を改造した機体。一機のみ。
78-1021号機
通称「カモノハシ」
2024年度内の用途廃止(用廃)予定という。


C-1輸送機

18-1031号機、28-1002号機が駐機。
23年末現在で現存6機のみという。
用途廃止(用廃)が迫っている。。。

18-1031号機。最終生産の機体。


C-2輸送機

C-1輸送機の後継。3機が駐機展示されていました。


T-4練習機


CH-47J輸送ヘリコプター


入間基地ランウェイウォーク

滑走路の北から南に、歩こう!!というのが本来のメインイベント。

最北端からスタート。

ざっくり2キロのウォーキング。
なお、滑走路を2キロ歩いて、誘導路を2キロ歩くので、実質4キロのウォーキング。

広い!

すごく気持ちよく歩けました。

滑走路を歩くだけだけど、滑走路は普段は絶対に歩けないので、楽しいw

西武線。
車窓から見ていた滑走路を、逆から見るのが新鮮。

最南端。

誘導路。

コンクリートが白くて綺麗。


入間ターミナル

入間飛行場の入間ターミナル。
基地間を飛ぶ定期便(航空自衛隊各分屯基地間の物資及び、人員の輸送任務)がある。


第3補給処

航空自衛隊第3補給処
「前進」

前進
第3補給処創立15周年ニ当タリ処全隊員ガ先輩の築カレタ輝カシイ伝統ヲ受ケ継ギ更二発展向上ノ努力ヲ重ネル決意ヲ前進ノ二字二表ワシコレヲ建立スル
昭和52年10月1日

北門から入場しました。

10時開門で、10時30分くらいについたら、行列もなく、そして手荷物検査もなく、非常にのんびりと、貴重な航空機の見学などができたのが、なによりのイベント。これは楽しいですね。

※撮影:2024年月

百里基地航空祭2023・その2

2023年12月17日、茨城県の百里基地航空祭に行ってきましたので、その模様を。

本編は、「その2」となります。歴史的なことは「その1」で。

高機動でフライトをする戦闘機を撮影したのは、ぶっちゃけて初めてレベル。

機材
PENTAX KP (APS-C)
HD PENTAX-DA 55-300mmF4.5-6.3ED PLM WR RE
(焦点距離84.5~460mm相当)


F-2戦闘機

航空自衛隊中部航空方面隊第7航空団第3飛行隊のF-2戦闘機。


F-15J戦闘機

北部航空方面隊第2航空団(千歳基地)所属機。


T-4練習機

基本操縦課程の全てを担う、信頼性・整備性の高い純国産の練習機。

開幕での上空フライトのみでした。


救難活動展示

UH-60J
U-125A
救難活動展示。
百里救難隊。

小美玉の方向で火事があったようで。
奇しくも救難活動と黒煙が、リアリティを増してしまい。。。


その他

米軍の機動飛行は中止。。。

あいまあいまで民間機も共用利用するのが茨城空港。

百里名物らしい、、、没収預かりコーナー。


※撮影:2023年12月

百里基地航空祭2023・その1(百里原海軍航空隊の戦跡散策)

2023年12月17日、茨城県の百里基地航空祭に行ってきましたので、その模様を。

本編は歴史的なところを触れる「その1」となります。
航空祭そのものは「その2」で。


関連


百里原海軍航空隊

百里原海軍航空隊(ひゃくりはら)は、昭和13年に筑波海軍航空隊の補助飛行場が建設されたことに始まる。
昭和14年(1939)12月1日に筑波海軍航空隊百里原分遣隊から独立して開隊。初歩飛行訓練に従事。
昭和17年には予科練の受け入れを開始。
昭和19年(1944年)10月1日、「桜花訓練隊」として「第七二一海軍航空隊」が百里飛行場に開隊。
昭和19年11月7日、七二一空は「神ノ池飛行場」に転出。

昭和20年「第六〇一海軍航空隊」が百里原飛行場に進出。
同年4月には「神風特別攻撃隊・正気隊」が編成され出撃が行われている。
終戦後、飛行場は引揚者の開拓地に転用され破却されるも、首都圏唯一の戦闘機基地として昭和41年に百里基地が開隊している。


百里基地(雄飛園)

百里基地内にある用廃機(用途廃棄機)を保存展示しているエリア。
保存機の記録は多いようだけど、慰霊碑や記念碑の記録がすくないようなので、百里基地航空祭で開放をされていたエリアを散策記録しました。


百里原海軍航空隊記念碑

ここに百里旗海軍航空隊ありき
記念に桜を植え その栄光を伝う 
 昭和51年3月
  百里原海軍航空隊有志

百里原海軍航空隊と特攻について
百里原海軍航空隊は昭和13年、練習機の教育航空隊として発足した。
昭和16年大東亜戦争勃発、昭和18年練習機境域は他基地に移され、実用機の操縦員、偵察員の教育が開始されて昭和20年8月の終戦まで続けられた。
昭和20年3月沖縄戦が始まると、百里空も作戦に参加、教育に使用中の飛行機35機が九州から出撃、85名の隊員が沖縄の海域に散華した。
この記念碑の下に戦死者の名簿が埋めてある。
 平成20年3月
  百里原海軍航空隊有志


雄魂碑(殉職者慰霊碑

基地殉職者を祀っている。
昭和49年4月吉日の建立。


犬魂碑

基地内警備犬慰霊碑


F-4EJ飛行隊発祥の地記念碑

この記念碑は、第301飛行隊が昭和48年10月16日航空自衛隊初のF-4EJ飛行隊として誕生し昭和60年
3月九州に移動するまでの間、この百里基地において活躍したことを記念して建立したものである。

記念碑修復の記
 昭和六十年、部隊移動に先立ち建立されし本記念碑なれど、爾来十数年の風雪に耐え難く、「銘板」等の損傷見るに忍びず、第三〇一飛行隊(百里)出身者より浄財を募り、ここに「銘板」の修復・土手基礎部の造成をみるに至る。
 尚、「銘板」につきては、当初揮毫せりし土屋重正氏に依頼致したものなり。
 平成十三年九月吉日 記念碑修復実行委員会


第206飛行隊記念碑

栄光と共に
昭和40年12月~昭和53年12月
 第206飛行隊


アルゼンチンの碑

「アルゼンチンの碑」
大正十三年(一九二四)六月、アルゼンチン空軍のサンニ大佐とベルトラメ技師の二人が四五〇馬力の単発機を駆使し、アムステルダムから世界一周に飛び立ちました。
 同年十月、約二万キロメートルにも及ぶ人類未踏の大飛行を達成し、土浦の霞ヶ浦に着陸しました。
 その後、航空機の故障によりやむなく世界一周は断念することとなりましたが、二人の偉業を永久に顕彰するため、昭和五十六年十二月、アルゼンチン大統領の訪日に際し、最後の着陸地となった霞ヶ浦に近い百里基地に当記念碑が建立されました。


保存機

向こう側の保存機

こっち側の保存機

あまり興味がなかったようで、撮影ほぼシていませんでした。


百里基地

入り口。茨城空港とは反対側。航空祭の機会がなければ、まずこないですね。

航空祭の様子は、その2で。

2023年12月撮影


航空自衛隊 浜松基地 監修「空上げ缶詰」

浜松駅のおみやげコーナーで見つけました。

2020年に発売されていたんですね。知りませんでした。
目に止まった瞬間に、購入しました。。。


空自 空上げ缶詰

焼き鳥缶詰でおなじみのホテイフーズと、航空自衛隊浜松基地のコラボ。

航空自衛隊 浜松基地×ホテイフーズ 『空自からあげ』「うなぎ蒲焼味」&「三ヶ日みかん味」2缶セットで 発売!
株式会社ホテイフーズコーポレーション(静岡市清水区、代表取締役社長:山本達也)は、航空自衛隊浜松基地監修の「空自空上げ うなぎ蒲焼味」と「空自空上げ 三ケ日みかん味」をセットにした「空自空上げ2缶セット」を2月3日(月)より、航空自衛隊 浜松基地の土産売場、および静岡県内の一般土産店等で発売します。
航空自衛隊では、鶏のからあげを「より上を目指す」という意味で「空自空上げ」と呼び、全国各基地の給食やイベント等で、それぞれの地域の特色を活かした空上げを提供し、大変人気を博しています。
今回、弊社が2019 年春に発売し話題となった業界初の「からあげ缶詰」が大変ご好評をいただくなか、同じ静岡県というご縁もあり、実現した浜松基地とのコラボレーション企画です。
パッケージには、航空自衛隊が誇るアクロバット飛行チーム「ブルーインパルス」の機体をデザイン。浜松基地のオリジナル空上げである浜名湖名物のうなぎを使った「うなぎ蒲焼味」と、同じく地元特産の三ヶ日みかんを使った「三ヶ日みかん味」をいつでも気軽に楽しめ、お土産にすることもできる缶詰で再現した商品です。

ホテイフーズ・ニュース
https://www.hoteifoods.co.jp/news/200131/

防衛日報

https://dailydefense.jp/_ct/17366976

航空自衛隊浜松基地

https://www.mod.go.jp/asdf/hamamatsu/

浜松基地グルメ

https://www.mod.go.jp/asdf/hamamatsu/other_gurume/other_gurume.html

からあげ うなぎ蒲焼味
からあげ 三ヶ日みかん味

からあげ缶詰
航空自衛隊浜松基地
空自 空上げ(からあげ)
航空自衛隊では鶏のからあげを「より上を目指す」という意味で「空自空上げ」と呼び、各基地で名物料理となっています。
浜松基地では、浜名湖産うなぎを使った蒲焼味と三ケ日みかんを使った爽やかな味が人気。浜松基地監修のもと、手軽に楽しめる缶詰で再現しました。

三ヶ日みかん味
航空自衛隊では鶏からあげを「空上げ」と呼び、各基地の名物となっております。
三ヶ日みかんを使った爽やかな味わい。

うなぎ蒲焼味
航空自衛隊では鶏からあげを「空上げ」と呼び、各基地の名物となっております。
浜名湖産うなぎと山椒の効いた濃厚な甘辛味。

TVで紹介されたらしいけど、なんのTVだろう。。。

航空自衛隊浜松基地の監修。

まだ、食べてないし、あけてないので、味の感想は、そのうち追記するかも。

ホテイフーズ直販ショップのページ

http://hoteifoods.jp/shopdetail/000000000336/

やっぱりカレーは金曜日だよね(市ヶ谷)

市ヶ谷といえば、防衛省と靖國神社の最寄り駅。
そんな市ヶ谷のカレー屋さん。
店名がおもしろい。わかる人はわかる「金曜カレー」


やっぱりカレーは金曜日だよね

ランチタイムにちょっと足を運んでみました、カレー屋さん。
エンタメ要素が先行しているお店かと思いつつ、食事をしてみれば、これは美味しい。
味わってみれば、「カレー」も「からあげ」も非常に丁寧に作られていることがわかります。

美味しく楽しい。
これは、通ってしまいますね。月替りメニューで出会えるであろう各地の部隊や基地の味わいも、楽しみ!

公式サイト >

https://yapparicurryfriday.com/

市ヶ谷経済新聞 >

https://ichigaya.keizai.biz/headline/3129/

防衛日報デジタル >

https://dailydefense.jp/_ct/17481890

空と海をイメージした店内で、
全国各地の「海自カレー」と「空上げ(からあげ)」を楽しめるお店。
スタッフもとても好感触で良い雰囲気でした。


海上自衛隊「カレー」

2023年6月。
月替りカレーは、厚木航空基地隊の「厚木勝つカレー(金曜おまけの空上げ付き)」
潜水艦のカレー皿が、楽しい!
ご飯は艦首までびっちりでボリューム満点、美味しい!

サラダとデザートは、飛行機(ブルーインパルス)のお皿。
やばい、楽しい。

大人のお子様ランチっぽい楽しさがある。

航空自衛隊「空上げ」

月替り空上げは、「千歳基地オリジナル空自空上げ」。

食べ終わると、ブルーインパルス。

券売機

2023年6月のメニュー

机の下には、ブルーインパルス

メッセージノートは、埋まったら防衛省広報室に送られる、とか。
また、食事代の15円が子ども食堂への寄付されるという、良き試み。

海自カレー
海上自衛官にとってカレーは元気の源。
長い船上生活で曜日感覚を忘れないため、毎週金曜日にカレーを食べる慣習が定着したと言われています。船艇や基地それぞれに工夫を凝らしたレシピがあり、その数はなんと200以上。当店では、そのレシピを参考に月替わりで提供しています。

空自空上げ
「空上げ」は航空自衛隊食堂の人気メニュー。”空自全体で上を目指す”という想いを込めて「空上げ」と呼んでいます。各基地ごとにご当地の調味料や名物の味からインスピレーションを得たものなど、個性のある美味しい空上げがあります。当店では、各基地の空上げを月替わりで提供しています。

陸自飯 ロコモコ丼(北海道 美幌駐屯基地)
「海上自衛隊=カレー」「航空自衛隊=空上げ」が定着しつつある中、陸上自衛隊は全国の駐屯地毎にバラエティに富んだメニューが勢揃いしています。
その中でも人気のハンバーグをロコモコ丼にシました。

オリジナルグッツもある。

語彙力少ないから、美味しいとしか言ってないけど、美味しい。おすすめ!

場所

https://goo.gl/maps/qsCSDCwsKYxkc4pk6


関連

https://tabelog.com/tokyo/A1309/A130904/13258886/

https://www.hotpepper.jp/strJ001269742/

多摩陸軍飛行場(横田基地)の戦跡散策

在日米空軍横田基地
「日米友好祭フレンドシップ・フェスティバル2023」(日米友好祭2023)
第47回目だそうで。
年に一度の横田基地、散策してみましょう。

今回は、消化不良でおわった昨年のリベンジとして再訪してきました。

前回記事はこちら。

一部は、重複しますが。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-R556-No1-80
1947年11月14日に米軍が撮影した航空写真を加工。

下記の黄色が現存。

当時の写真と、Google航空写真との照合。
5つの格納庫を、南側から便宜上で通し番号を振っておく。


多摩陸軍飛行場(福生飛行場・横田飛行場)

昭和15年(1940)、立川陸軍飛行場の付随施設として建設。
同年4月に、陸軍飛行実験部(陸軍航空審査部飛行実験部)が立川から多摩に移転。
大戦末期の本土防空戦時には、飛行実験部戦闘隊を「福生飛行隊」と通称し、第10飛行師団指揮下の臨時の防空飛行部隊として投入され、戦果も上げている。
戦時中の米軍は、従来把握していなかった多摩陸軍飛行場を「横田飛行場」と名付たことから、「横田基地」と呼ばれるようになった。
終戦後は、アメリカ軍に接収され、朝鮮戦争やベトナム戦争でも積極的に活用された。


旧多摩陸軍飛行場格納庫1

米軍横田基地内に残る多摩陸軍飛行場時代からの格納庫。
前述の地図で、一番南側の格納庫。


旧多摩陸軍飛行場格納庫2と3

2つの格納庫が並んでいる。


旧多摩陸軍飛行場格納庫4と5

北側に4番目と5番目の格納庫。近寄ることは出来ないので遠望で。

どうみても格納庫ばっかり撮っている人、になっていますね。


そのほか

丸い屋根の格納庫は戦後の米軍時代もの。

横田名物


横田名物

横田名物のハンバーガーに並んでみました。
ゴールが見えないw

行列のゴールは、「外人バーガー GAIJIN BURGER」

第36空輸飛行隊(イーグル・エアリフター)が焼く、本場モノで間違いない!

GAIJIN BURGER!!ってノリノリになりながら、作っていました!

外人バーガーは、肉厚なハンバーグが3つ。あとはチーズのみ。
ピクルスやマスタード、マヨネーズはセルフで好きなだけ使って良しのスタイル。
これは大満足のハンバーガー
(ちなみに1時間、並びました、、、)

あっ、これも名物。甘いものもほしいですよね。

フライドオレオ。5個買ったらTシャツもらえました。

オレオをフライド、、、カロリー爆弾

Tシャツ。

青くて良いね。2022年の米空軍75周年の記念Tシャツ。


飛行展示

飛行展示は小規模ですね。あくまでおまけな感じ。

空挺展示。

ヘリでの救難展示。

そして、これを待ってました。

CV-22 オスプレイの飛行展示。

飛んでいるところを生で初めてみました。

機動力にびっくりです。

オスプレイのお辞儀。機種をちょっと下げるアクション。

カメラ設定が甘くて、写真が失敗多数でした。
普段は、静態ばかりを撮影しているため、シャッタースピードは遅めが基本のため、動いているもの撮ったのが久しぶりで、設置ミスった、とか。


地上展示

気になったものだけ撮影。

軍事機密の塊ですね。隠してあります。

水上機、いいねえ。

ホンダ

CH‐47J。
横田基地日米友好祭も47回目。

F-2

T-4。青と赤。

青のブルーインパルス
赤のレッドドルフィン

入間基地の飛行点検機 U-680A


おしまい

また来年?

※撮影:2023年5月


関連

「空自・熊谷基地さくら祭」熊谷陸軍飛行学校跡地散策

令和5年(2023年)4月2日。
熊谷市の航空自衛隊熊谷基地(航空自衛隊第4術科学校)にて、「令和5年度 熊谷基地さくら祭」が開催されましたので、足を運んでみました。
かつての熊谷陸軍飛行学校跡地、です。


熊谷陸軍飛行学校
(三尻飛行場・熊谷飛行場・稜威ケ原飛行場)

昭和9年、所沢陸軍飛行学校が開設。
翌年の昭和10年(1935年)12月に、操縦分科の生徒教育のために、熊谷陸軍飛行学校が開設。
主として飛行機操縦に従事する航空兵科下士官となる生徒、少年飛行兵、あるいは将校、下士官の操縦学生などに対し、飛行機操縦の基本教育を行った。
昭和12年に所沢陸軍飛行学校が廃止され、操縦学生は本格的に、熊谷陸軍飛行学校で教育されることとなった。
昭和13年10月に昭和天皇行幸。
熊谷陸軍飛行学校は昭和20年2月に第52航空師団の一部に改編のため閉鎖。

熊谷陸軍飛行学校の跡地は1945年九月に進駐したアメリカ陸軍第43師団によって接収され米軍キャンプ「U.S.ARMY CAMP WHITTINGTON」として使用。昭和33年(1958)返還され、同年8月より「航空自衛隊熊谷基地」となっている。

熊谷陸軍飛行学校に関しては、航空自衛隊熊谷基地の記事も参照で。

https://www.mod.go.jp/asdf/kumagaya/Base_tour.html


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-R465-No1-78
1947年11月3日、米軍撮影の航空写真を加工。

庁舎や格納庫のあったエリアを拡大。

黄丸が陛下行幸の御野立所があった「御稜威ヶ原の碑」
赤丸が「給水塔」

GoogleMapで現在の航空写真と照合。
格納庫の位置関係もよく分かる。


御稜威ヶ原の碑(みいづがはら)

昭和13年10月10日(月)
天皇陛下が熊谷陸軍飛行学校に行幸され教育状況を御覧になられた。
学校長である江橋陸軍中将は、この日を記念して、この地を「御稜威ケ原(みいづがはら)」と命名して、記念碑を中央格納庫と第二格納庫の間の中央道路の真中(御野立所となった場所)に設置した。

御稜威ヶ原
 昭和13年10月10日
 御臨幸記念
 
  さしつけに
   仰ぎまつれる
大御稜威 
 伝えてはげめ 
  空の益良雄

熊谷陸軍飛行学校長陸軍中将
従四位勲二等功五級 江橋英二郎 選書

中央道路の真ん中に。

御稜威ヶ原の碑
昭和13年10月
昭和天皇の行幸を記念し、御野立所となった場所に建立

昭和初期まで、現在の基地及びその一帯は赤松・くぬぎ等の樹木が生い茂る森林であったが、昭和10年2月に突如として陸軍の飛行場が建設されることとなり、その秋までに森林は伐採され飛行場に変わった。飛行場としての工事も完了に近い昭和13年10月10日天皇陛下が行幸され、平の訓練状況や高等飛行などを観閲された。時の熊谷陸軍飛行学校長江橋英二郎中将は、この感激を後世に伝えようと「さしつけに 仰ぎまつれる 大御稜威 伝えてはげめ空の益良雄」と歌い、当時の飛行場を「御稜威ヶ原」と名付けた。行幸の際、御野立所となった地点に建てられた江橋中将自筆のこの碑は、今なお当時を偲ぶよすがとなっている。

現代略:直接に見申し上げた天皇陛下の御威光を、皆に伝えては空の勇者たちよ


方位盤

当時のものと思われる方位盤。

かすれていて、細かくは不明であるが、方位盤とおもわれる。


荒鷲之碑

昭和50年5月、航空自衛隊熊谷基地内に、荒鷲の慰霊碑が建立された。揮毫は、菅原道大。

荒鷲之碑
菅原道大書

昭和50年5月建立

由来
昭和十年この地に熊谷陸軍飛行学校が誕生した。爾来、万を数える若鷲が巣立っていった。戦いの場は遠く洋の南北に拡がり勇士は荒鷲となり愛機と共に生死し昭和二十年歴史を閉じた。散華した荒鷲の霊を慰め勲を顕彰し事実を後世に永く伝える為、残りし者、相集って、この碑を建てる。
 昭和50年5月5日

由来碑
昭和33年8月航空自衛隊熊谷基地発足以来任務遂行中殉職され基地発展の礎となった自衛隊員を慰霊するため「荒鷲の碑」を奉祀し永くその栄誉を伝承するものである

平成12年4月8日
航空自衛隊熊谷基地司令 空将補 原充男

熊谷陸軍飛行学校
荒鷲之碑奉賛会
平成11年3月建之

揮毫をした菅原道大は、陸軍航空の第一人者。陸軍特攻の軍司令官でもあった。

菅原道大は、陸軍中将。
大正14年(1925年)に菅原は陸軍航空科へ転科し航空少佐として飛行第6聯隊に着任。
昭和6年(1931年)、「下志津陸軍飛行学校教官
昭和14年12月に、「下志津陸軍飛行学校長」
昭和16年(1941年)、開戦時は第3飛行集団長。マレー作戦の航空作戦を指揮。
昭和17年7月、新設された第3航空軍司令官に着任。ビルマ航空戦を指揮。
昭和18年5月、内地に帰還し陸軍航空士官学校長に着任。
昭和19年3月、航空総監部次長。7月には、航空総監兼航空本部長を拝命。12月、第6航空軍司令官。沖縄方面の航空作戦の責任者として、海軍の戦艦大和の菊水作戦の支援や、指揮下の義烈空挺隊の義号作戦の指揮を執ることとなる。
昭和20年8月15日、終戦。
海軍の九州方面の航空責任者であった宇垣纏が沖縄に特攻出撃する中で、陸軍の九州方面の航空責任者であった菅原のもとにも部下たちが最後の特攻出撃を申し出る中で、「陛下の終戦玉音を拝聴した後は、余は一人の兵士も殺すわけにはゆかぬ。皆、おとなしく帰れ」と部下を諭している。
海軍側の宇垣纏中将、大西瀧治郎中将が亡き後、陸軍側の責任者とて、自決することを断念し、特攻隊員の顕彰、慰霊、遺族への弔問を行うことを決意。
「特攻平和観音奉賛会」を設立し、「特攻平和観音像」「知覧特攻平和観音像」「知覧特攻観音堂」を建立している。

関連では、熊谷陸軍飛行学校のほか、下志津陸軍飛行学校、水戸陸軍飛行学校の跡地に、菅原道大の碑がある。


給水塔

推測の域を出ないが、かもし出す雰囲気からして往時のものと思われる給水塔。前述の位置関係の航空写真でも照合したが、場所も適合している。近寄れないので望遠で。

給水塔の手前は、「基地補給倉庫」。


格納庫跡

かまぼこ型の格納庫のような建屋がある。手前は「武道場」、そして格納庫型の「基地体育館」と「基地補給倉庫」。位置関係は、熊谷陸軍飛行学校時代と同じ場所。
ここだけ切り取ると飛行場な雰囲気。


教育参考館

熊谷陸軍飛行学校や航空自衛隊航空生徒隊の資料を展示。


熊谷陸軍飛行学校本部庁舎の玄関扉

本部庁舎で実際に使用されていた玄関扉が、移設保存されている。

 この扉は、昭和10年12月陸軍熊谷飛行学校開校以来、本部庁舎玄関で使用していました。
 平成14年11月、庁舎取り壊しに伴い、約67年の歴史の一部を保存するため、当施設に移設し保存しました。


熊谷陸軍飛行学校本部庁舎の中央階段

おなじく、熊谷陸軍飛行学校本部庁舎の中央階段の一部が移設保存されている。

 この階段は、昭和10年12月陸軍熊谷飛行学校開校以来、本部庁舎の中央階段として使用していました。
 平成14年11月、庁舎取り壊しに伴い、約67年の歴史の一部を保存するために、当場所に下側3段部分を移設し保存しました。
 基地司令室が2階にあったため、赤絨毯が敷かれていました。
 昭和13年10月昭和天皇が行幸された際、この階段を登られた由緒ある階段です。
 木材:ケヤキ材使用


熊谷陸軍飛行学校本部庁舎の一部

とくに説明はなかったが、取り壊しの旧庁舎の一部かと。


熊谷基地展示エリア

旧軍資料

通信機材など。

戦争末期のドラム缶。竹製、、、ですね。

図書館戦争コーナー?


公募空士第1期生入隊20周年記念

歴代航空幕僚長の名前もある。

この寄せ書きは、公募空士第1期生の20周年を祝って書かれたものです。
寄せ書きには、歴代の航空幕僚長「源田実元空将」「白河春元元空将」「角田義隆元空将」の名前があります。

源田実
帝国海軍では、海兵52期を卒業し最終階級は海軍大佐、航空参謀を経て、松山の第343海軍航空隊司令で終戦を迎える。
空自では初代航空総隊司令、第3代航空幕僚長、ブルーインパルス創設、航空自衛隊育ての親。また、参議院議員を4期24年努めている。

白川元春
白川義則の三男。白川義則は、上海天長節爆弾事件で死去。
白川元春は陸士51期、陸大58期卒。最終階級は陸軍少佐。
航空自衛隊では第11台航空幕僚長

角田義隆
帝国海軍では海軍機関学校卒。最終階級は海軍大尉。
航空自衛隊では、第12代航空幕僚長。
海軍機関学校出身者が大将(幕僚長たる将)に相当する地位まで昇進したのは、帝国海軍・自衛隊を通じて角田が唯一の事例となる。


生徒隊展示エリア

航空自衛隊生徒隊の展示エリア。2006年に募集が停止され、2011年に生徒隊は廃止となっている。
虚空自衛隊航空教育隊生徒隊で採用時は、3等空士となり4年間の教育修了後は3等空曹として、通信、レーダー操作及び整備などに補職されたという。


航空自衛隊生徒隊創立50周年記念モニュメント

負けじ魂

流れも清き大利根の
 岸辺に緑の色染めし
練武の庭に都度至る
 若人の任いや重し
  誇りに満てり
   航空生徒隊

このモニュメントは生徒隊創立50周年記念を機に教育環境整備の一環として、第8航空団からF-1垂直尾翼を譲り受け、表面は生徒隊歌詩を裏面は第8航空団(築城)第6飛行隊のマーク等を遺して、第4術科学校の支援を得て建立したものである。
なお、表面のデザインは生徒隊生活4年間で培った「負けじ魂」に代表される不撓不屈の精神を持って巣立っていく生徒の翼をイメージしてデザインしたものである。
 平成17年5月吉日


熊谷基地 友縁の酒「空の華」

基地内の売店にて購入(熊谷基地厚生棟ミニストップ熊谷基地店)

空の華
ソラノハナ 
勲業赫々 輝萬國
埼玉縣大里郡三ヶ尻
権田酒造店吟醸

赤とんぼ

空の華
 昭和10年、熊谷陸軍飛行学校が当地に創立されたことを記念して発売した「空の華」を平成14年秋、約60年ぶりに復刻させて頂きました。
 熊谷の研究所で開発された酵母で醸し、熊谷の水と大気の中で育んだ熊谷基地の地酒です。
 上質の旨味を湛えた柔らかな香味、冷やしても温めても美味しくお召し上がり頂けます。


熊谷基地さくら祭

令和5年(2023)は、4月2日の公開でした。

以下は、さくら祭の写真を。

熊谷基地庁舎。平成15年(2003)新設。

桜並木が気持ち良い。

桜とトラック

熊谷基地には、「第1移動通信隊」が所在している。

御稜威フィールド

現在、航空自衛隊熊谷基地には、滑走路はない。
運動場にヘリが着陸することは可能。

草刈り機。パイロット座乗。

来年もおいでをお待ちしています

なかなか楽しめました熊谷基地。
熊谷陸軍飛行学校の名残もあり、興味ある方はこれは必見ですね。

※2023年4月撮影


熊谷関連

陸軍飛行学校関連

銚子の戦跡散策

ブルーインパルスと東京パラリンピック2020

2021年8月22日。
東京パラリンピック2020の開会式予行のためにブルーインパルスが再び東京の空をフライトした。

前回、東京オリンピック2020開会式のブルーインパルスのフライトは、明治神宮で観覧。
今日は、パラリンピックに際しての予行フライト。

今回は、東京駅で観覧することとしました。

2021年8月22日・東京パラリンピック予行フライト
東京駅

東京駅の背後を一直線に飛び抜けるブルーインパルス。

14時3分。東京駅。北から南に。

ありがとうの気持ちを込めて拍手でお見送り。


ちなみに。。。

東京駅広場で結婚式の撮影をしている新婚さんがいました。
この時間の、このタイミングを狙っての、撮影は見事としか言いようがないです。
これは一生の思い出になりそうですね。

東京駅前広場。
撮影者が遠巻きに控えることで、自然と空間を開ける配慮が行われていました。


2021年8月24日 東京パラリンピック本番フライト
東京タワー

東京らしいところ、ということで東京タワーで観覧。
あいにくの曇り空。

あえて魚眼で撮影チャレンジ。
しょうしょう撮影には厳しいコンディションで色がうまく出せませんでした。。。

下の写真はトリミングで。

曇天であれ、東京タワーで見るブルーインパルスは、二度とない思い出。
ありがとうございました!


関連

昭和39年(1964)、東京パラリンピック開催。
日本代表選手53名。そのうち傷痍軍人(傷病兵)出身は7名であり、選手宣誓を行った青野選手も戦地で傷つき箱根療養所で療養していた傷痍軍人であった。

東京駅の近代史跡。

ブルーインパルスと東京オリンピック2020


2021年7月23日。
東京オリンピック2020(TOKYO2020)

昭和39年(1964)
昭和の東京五輪(東京オリンピック)開会式にて、航空自衛隊のアクロバット飛行「ブルーインパルス」が東京の空に五輪の輪を描いた。
この航空自衛隊のアクロバット飛行を行う、ブルーインパルスは、もとを正せば、日本海軍で曲芸飛行を披露した源田実の「源田サーカス」に始まるとも言ってもよく、その源田実は昭和の東京五輪当時、航空幕僚長であった。

そして、57年後の東京の空。
令和3年(2021)
令和の東京五輪(東京オリンピック2020)開会式にあわせて、「T-4ブルーインパルス」が東京の空を舞った。

どこで、ブルーインパルスを見上げようか。。。
迷いに迷って、明治神宮で、令和の空を、東京の空を見上げることとした。

入間基地を飛び立ったブルーインパルスは、新宿を北から南に飛び抜ける。

12時38分すぎ。
明治神宮の御神木・夫婦楠のはるか上空を飛び去っていくブルーインパルス。

そして、明治神宮境内の東から。
編隊を組んだブルーインパルスは、国立競技場上空で、オリンピックカラーの5色スモークを青空に描く。

12時45分すぎ。

西の空に、大きな大きな五輪の輪を描くブルーインパルス。
雲が多めで五輪をはっきりと拝むことができなかったがそれでもわかる大きな円。
描いている途中、なぜだろう、なにやら感無量となって目頭が熱くなる。

ありがとう

ブルーインパルスの曲芸がおわり、明治神宮境内で鑑賞していた人々から、大きな大きな拍手が何度も巻き起こる。
鑑賞していた人々も皆、一体となって感動を分かち合う空間。

ありがとうございました。

一生記憶に残る、良き思い出となりました。

「日本初の零戦復元機」零式艦上戦闘機52型甲(空自浜松広報館エアパーク)【浜松2】

航空自衛隊の広報施設である浜松広報館「エアパーク」。
ここには空自の退役機に混じって、零戦が展示されている。

展示場所が移設されます(2024年6月24日~)


零式艦上戦闘機五二型甲 A6M5
43-188号機

日本への里帰り第1号機の零戦。

昭和19年3月、三菱名古屋工場製造機。
所属は、第三四三海軍航空隊(1944年1月に開隊した初代、通称隼部隊)。
昭和19年6月〜7月にかけてのマリアナ諸島攻防戦で、米軍との戦闘や米軍機の空襲などにより壊滅し、7月10日に解隊。
浜松基地浜松広報館に保存されている零戦は、第三四三海軍航空隊の飛行隊長・尾崎伸也大尉(海兵68期)が昭和19年6月19日に米軍と交戦し被弾し不時着し放棄された機体。尾崎伸也大尉は戦死されている。
海兵68期の尾崎伸也大尉の同期には、作家・豊田穣、撃墜王・鴛淵孝、九軍人の広尾彰、海軍中将松永貞市の息子・松永市郎、捕虜第一号となった酒巻和男など。
第三四三海軍航空隊は、昭和19年12月に再編(二代目)される、これが通称「剣部隊」として紫電改を用いて有名となった航空隊。

昭和39年1月に日本に里帰り。

零戦52型
零戦52型は1943年8月初飛行し、太平洋戦争後半の日本海軍の主力戦闘機として活躍した機体である。この機体には甲、乙、丙の3種の型があり、零戦総生産数約1万機のうち、4種あわせた52型シリーズは約6,000機が生産された。

性能
全幅 11m
全長 9.1m
全高 3.5m
全備重量 2,733kg
エンジン 栄21型 最大出力1,100馬力x1基
最大速度 565km/h
実用上昇限度 11,740m
航続距離 1,920km
乗員 1名
搭載武装 7.7mm固定銃x2門 99式20mm固定銃x2門

零式艦上戦闘機(零戦)の展示経緯
昭和38年4月  本展示機がグアム島で発見される。
同   7月  グアム島知事から日本への返還が決まる。
昭和39年1月  米軍C-130輸送機により岐阜基地へ搬送。
       本機の製造元である三菱重工業大江工場にて忠実な復元作業を実施。
同   10月 我が国で最初の零戦復元機が完成。
(その後、全国各地において展示されたため期待の損傷がひどくその管理が必要とされた。)
昭和42年11月 航空自衛隊の航空機整備のメッカ(航空機の整備学校が所在)である浜松基地に移送され
       その後浜松基地におきて展示・管理された。
平成11年4月  航空自衛隊浜松広報館開設に伴い、当館において展示される。

国内で吊り下げ展示されている唯一の零戦。

航空自衛隊浜松広報館

浜松陸軍飛行場

「浜松陸軍飛行場」は、浜松陸軍飛行学校と飛行第7聯隊があった。
現在は、航空自衛隊浜松基地。

広報館とは別に、浜松基地内にある「浜松基地資料館」にも行きたいんですけどねええ。。
基地内には「陸軍爆撃隊発祥之地」碑もある。

空自関係の展示多数。

※撮影は2020年11月


https://www.mod.go.jp/asdf/airpark/


浜松には陸軍の施設が集中していた。戦跡もちらほら残っている。
そんな散策の記録は別途で。

百里原海軍航空隊跡散策

平成29年7月

平成29年7月30日。 茨城空港(百里基地)の近くに残されている「百里原海軍航空基地」の跡を偲びに脚を運んでみました。

なお、私が訪れた後に、百里原海軍航空隊ゆかりである「百里神社」を取り巻く環境がかわり、社叢の杜は開拓され深々とした緑に包まれる森ではなくなったことを先に明記しておきます。

また、「百里神社」を管理(管理される神社=所管社)する常陸小川の「素鵞神社」(管理する神社=本務社)にて、百里神社関連の御朱印帳や御朱印の頒布が始まりましたが、私は素鵞神社へは未参拝ですので、言及いたしません。

以下は「素鵞神社 」サイトを参照まで

https://www.sogajinja.com/%E5%BE%A1%E5%AE%88%E3%81%A8%E5%BE%A1%E6%9C%B1%E5%8D%B0/%E5%BE%A1%E6%9C%B1%E5%8D%B0/

百里基地内の記念碑は下記にて


石岡駅から

石岡駅から茨城空港行きのバスに乗り込む。
(もっとも私は「鹿島鉄道(かしてつ)」跡散策も兼ねていたので(小川駅や小川高校下駅跡)寄り道してます。

当時、海軍航空隊員たちの足となっていた鉄道(鹿島鉄道)も、もはや残っておらず。現在はその百里原航空基地の流れをくむ、茨城空港行きのバスが石岡駅から出ている。


雲の墓標 阿川弘之

阿川弘之による小説。海軍予備学生たちは特攻隊員として、空や海の果てに消えていく。作中に「百里原」も出てくることを思い出し、このときの散策後に読み出してしまい・・・

「百里原は、茨城県でももっとも辺鄙なところで、三里四方民家が無いと言われており、鉄道からも遠く、楽しい外出など思いも寄らぬことになるであろう。」

「上野発2時3分で常磐線石岡、軽便鉄道で小川を経て、百里原へは夕方7時ちかくに到着した。小川から2里、交通機関なし。」

雲の墓標 阿川弘之

鹿島鉄道跡地のバス専用道

茨城空港へ。
ちなみに乗り込んだバスは・・・木張りでした!
バスマニアではないのですが、これにはテンション上がりました。

車内で「かしてつバス」1日フリーきっぷを購入。
廃線前の鹿島鉄道に思い入れがある私としては、ひとつひとつにグッとくるものがありますが、早いもので10年ひとむかし。
廃線前は鉄道に乗りに来ておりましたが、廃線後はこの沿線に足を運ぶこと亡く、気がつけば10年たってしまいました。

しょうしょう話が逸れます・・・

鹿島鉄道

2007年春
茨城県石岡市から鉾田市まで霞ヶ浦北湖畔を走っていた鉄道が廃線を迎えた。
あれから10年。
2017年の夏(撮影時)に、私はようやく廃線跡と対面することとなった。 現役時代の往時を思い出しつつ・・・

鹿島鉄道坂戸駅跡

あぁ…鹿島鉄道坂戸駅。
廃駅から10年の月日が過ぎ往時の名残を自然が飲み込もうとしていた。
この駅が現役だった頃を知っている身としては、変わり果てた姿を目の前にすると何やらこみ上げてくるものがある。
10年ぶりの覚悟の訪問…

鹿島鉄道 小川高校下駅跡

鹿島鉄道 現役時代の写真

当時の写真はまだまだあるけど、キリがない上に趣旨から外れるのでこのぐらいで。2006年頃は毎月のように石岡の鹿島鉄道に通っていました。このときはまだ戦跡方面には興味がなかったのが今思えばもったいないことで。

さて、
「鹿島鉄道」の後を引き受けた「かしてつバス」に揺られながら、今はなき鹿島鉄道のことに思いを馳せながらも茨城空港に到着です。


茨城空港
百里飛行場

茨城県小美玉市の共用飛行場 防衛省・航空自衛隊が管理する飛行場であったが、2010年に民間共用化され茨城空港としての営業開始。

民間共用時に滑走路が一本増えている。
この茨城空港整備で戦争遺跡(多数の無蓋掩体壕)の消失も多数…しょうがない ですが。

旅客ターミナルから滑走路を2本挟んだ反対側が「航空自衛隊百里基地」となります。
スカイマークのボーイング737の向こう側。

つまり「茨城空港」と「百里基地」はあっちとこっち。だいぶ遠いです。 百里基地には戦闘機部隊が配備されてますがこの日は姿は見えず。

百里原海軍航空隊

百里原海軍航空隊(ひゃくりはら)は、昭和13年に筑波海軍航空隊の補助飛行場が建設されたことに始まる。

昭和14年(1939)12月1日に筑波海軍航空隊百里原分遣隊から独立して開隊。初歩飛行訓練に従事。

昭和17年には予科練の受け入れを開始。

昭和19年(1944年)10月1日、「桜花訓練隊」として「第七二一海軍航空隊」が百里飛行場に開隊。

昭和19年11月7日、七二一空は「神ノ池飛行場」に転出。

昭和20年「第六〇一海軍航空隊」が百里原飛行場に進出。

同年4月には「神風特別攻撃隊・正気隊」が編成され出撃が行われている。

終戦後、飛行場は引揚者の開拓地に転用され破却されるも、首都圏唯一の戦闘機基地として昭和41年に百里基地が開隊している。


茨城空港から北側に歩みを進める。
「フィールドワーク茨城県の戦争遺跡」(本)を片手に持ちつつ。

ただしこの本は空港ができる前に発刊されているので界隈の事情はだいぶ変わっている。
「試射場跡」とされるものも、もうよくわからない。(写真は場所が違う気がする…)

海軍道路

「海軍道路」と呼称されている道路。
この道路が「百里原海軍航空隊」基地の正門からまっすぐに伸びていた道路という。

百里原海軍航空隊正門跡・旧正門

大谷石の門柱と鉄筋コンクリート製扉。
門柱の向かって右側は従来の場所から移設、本来は前述の海軍道路に面して立っていたと推測。(実は門柱の向きがあべこべに置かれている)

正門跡に建立された石碑 昭和二十年八月十五日記念

真心國柱

建立は昭和五十二年二月。
裏面には建立された八組の夫妻と思われる名が刻まれていた。

刻まれていた「真心国柱」で思い出した歌が江田島健児だったり。

「江田島健児の歌」より
 ああ光栄の国柱
  護らで止まじ身を捨てて
   …
 斃れて後に止まんとは
  我が真心の呼びなれ
   …

よくよくみたら、敷地の壁柱の部分も往時のものかもしれません。
(壁そのものは年代的に新しそうですが)

百里神社

正門跡から東に歩んだ先の森のなかに。

百里原海軍航空隊の守護神として創建。
若き海鷲たちの崇敬をあつめていた神社。
今は忘れ去られたかのように深き森のなかに埋もれていた。

現在は森が開拓されております。
写真のような森はなくなりました。

「百里神社」

拝する。

ここ百里原の空から飛びたてり若き海鷲たちを偲びつつ。
今日の平穏と安寧に感謝する。

ありがとうございます。

「百里神社」

百里原海軍航空隊名残の航空神社

この何とも独特な鳥居が、
この何ともいえない空間の中で
圧倒的な存在感を放つ。

この鳥居の柱、 まるで航空機の脚(車輪カバー)のようでもあり。

「百里神社」
百里原海軍航空隊名残の航空神社

御社殿は、みたことのない様式の建屋。
入口は固く閉ざされている。

屋根の部分が…あぁ…

北に歩いてみる。

バス停に目をやると「百里原」 もっとも運転本数は一日1~2本なので実用的ではないですが。
(バスは茨城空港までピンポイントで利用しましょう)

かつて百里原と呼称されていた森が切り開かれ百里原海軍飛行場が開設、 戦後は原がなくなり大字「百里」へと。

とある森に到着しましたが諦めました。

手元の資料によるとこの場所に「E型無蓋掩体壕」が残っているとありましたが、まあちょっと夏場に無蓋を探すのは難しいですね。
雰囲気だけ堪能しつつ遠目から覗いてみる…

フィールドワーク茨城県の戦争遺跡

http://amzn.asia/5dKqQ7t 

https://www.amazon.co.jp/dp/4894880415/ref=cm_sw_r_cp_ep_dp_5XgGzbG2HGSFF

こちらの本によると百里原には最盛期に72基の掩体壕が建造されたというが出版時の2008年には現存8基と記載がある。
茨城空港の開港前の記録故、今はもっと現存は少ないだろう…

周辺を歩いていると「境界石(境界標石)」を見つけました。

残念ながら「海軍境界石」ではなく…
「防衛省境界石」
「防衛施設局境界石」

茨城空港に戻ってデッキから飛行機を見学。

ちょうど「スカイマーク」は搭乗手続き中。
その隣には「タイガーエア台湾」が。

地上整備スタッフが手を振って見送る中、 スカイマーク「ボーイング737」(11時発の那覇便)は滑走路へと。

見ていてほっこりする好きなシーンです。
主翼の端っこに描かれたサクランボがカワイイです!
スカイマーク機の特徴ですね。

百里原の空

海軍から空自、そして民間共用。

往時の歴史を周辺に僅かに残しつつ、 今も飛行場として生きている空間がここにあった。

今の空を飛ぶ飛行機をみながら、往時の光景を脳裏に描きつつ、往時に思いを馳せつつ、自然と目頭が熱くなる私がいた。