「近代史全般」カテゴリーアーカイブ

東京大空襲・慰霊

撮影:平成29年3月及び平成30年3月

昭和20年(1945)3月10日
「東京大空襲」
罹災者は100万人を超え、死者は7万から10万人以上といわれている…

3月10日。
毎年この日には、墨田区横網町公園「東京都慰霊堂」や台東区隅田公園「戦災により亡くなられた方々の碑」をはじめ、都内各所にて東京大空襲に関連した追悼慰霊行事がある。

慰霊鎮魂の日

合掌

東京大空襲戦災犠牲者追悼碑
(戦災により亡くなられた方々の碑)

あゝ
東京大空襲
朋よやすらかに

戦災により亡くなられた方々の碑
台東区浅草七丁目一番
 
 隅田公園のこの一帯は、昭和二十年三月十日の東京大空襲等により亡くなられた数多くの方々を仮埋葬した場所である。
 第二次世界大戦(太平洋戦争)中の空襲により被災した台東区民(当時下谷区民、浅草区民)は多数に及んだ。
 亡くなられた多くの方々の遺体は、区内の公園等に仮埋葬され、戦後だびに付され東京都慰霊堂(墨田区)に納骨された。
 戦後四十年、この不幸な出来事や忌わしい記憶も、年毎に薄れ、平和な繁栄のもとに忘れ去られようとしている。
 いま、本区は、数少ない資料をたどり、区民からの貴重な情報に基づく戦災死者名簿を調製するとともに、この地に碑を建立した。
 昭和六十一年三月 台東区

言問橋の縁石
 ここに置かれているコンクリート塊は1992年言問橋の欄干を改修した際にその基部の縁石を切り取ったものです。1945年3月10日、東京大空襲のとき言問橋は猛火に見舞われ、大勢の人が犠牲になりました。
 この縁石は当時の痛ましい出来事の記念石として、ここに保存するものです。

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/virtual/memorialsite/tokyo_taito_city001/index.html


言問橋

東京大空襲の際、浅草方面及び向島方面へ避難する人々などが、橋の上で交叉し身動きがとれない状態となってしまった。
それは、浅草(台東区)と本所深川(墨田区)とそれぞれの住民が川の向こう岸は安全だと信じて、火を逃れ対岸に逃げるために橋に殺到したためだった。
そうこうしているうちに橋の上に猛火が燃え移り、燃え盛る中で逃げるすべもなく、 両岸と橋上とすさまじき猛火の中で、行き場を失った人々が隅田川に飛び込んだとされ、そして多くの人々が焼死したという。

石柱には黒焦げた跡が残る・・・


言問橋の欄干と縁石

江戸東京博物館には、言問橋の欄干と縁石が保存されている。

言問橋の欄干と縁石
言問橋は、1928年(昭和3)に完成した、いわゆる震災復興橋梁のひとつである。1945年(昭和20)3月10日未明の東京大空襲の際、浅草方面から向島方面へ避難しようとする人びとと、その反対側に渡ろうとする人びとが橋上で交叉し、身動きがとれない状態となった。人びとだけでなく、荷車やリヤカーも通行を妨げた。そこへ日が燃え移り、橋上はたちまち大火災に包まれた。橋上では逃げるすべもなく、多くの市民が焼死した。
1992年(平成4)の言問橋の改修工事にあたって、当時の欄干と縁石が撤去されることとなったため、東京大空襲の被災資料として、その一部を当館に譲っていただいた。


関東大震災・東京大空襲 犠牲者慰霊碑

場所は変わって隅田川の下流、東京湾のかつての防波堤。

賑わう「台場公園」の片隅にヒッソリとある石碑。

関東大震災・東京大空襲 犠牲者慰霊碑
東京は、関東大震災及び第二次世界大戦末期の空襲により甚大なる犠牲を被った。二度の被災により隅田川河口近くに位置したここ旧防波堤にも、漂着した犠牲者が数多くみられたという。
 これら諸霊に対し、故富川栄氏の呼びかけに共鳴した地元の心ある人々により、長い歳月に亘りたゆみなき供養が続けられてきた。
 いま、当地周辺は未来都市に発展すべくまちづくりがすすめられている。そして、ここお台場海浜公園も新たな海上公園として再整備することとなった。これを受け平成五年九月二七日当地での最後の慰霊祭が行われ、その後は都の施設にて慰霊が続けられることになった。この事実を後世に伝えるべくここに記録する。
 平成六年三月吉日  東京都港湾局


東京都慰霊堂(横綱町公園)
旧陸軍被服廠跡地

墨田区・都立横網町公園
「東京都の歴史的建造物」選定

https://tokyoireikyoukai.or.jp/index.html

伊東忠太設計。
昭和5年(1930)に関東大震災の身元不明の遺骨を納め、死亡者の霊を祀る震災記念堂として創建。
昭和23年(1948)より東京大空襲の身元不明の遺骨も納め、死亡者の霊を合祀。昭和26年に現在の姿に。仏教各宗により慰霊祭祀されている。

当地は元々「陸軍被服廠」があったが1922年に赤羽に移転し、東京市が買収し公園として整備しているさなかに関東大震災が発生。造成中の横網町公園に避難していた3万8千人が犠牲となり、昭和5年に震災記念堂が創建。

200坪の講堂を持ち、三重塔がその奥にある。
三重塔は高さ約41m。基部が納骨堂。

昭和20年3月10日、東京大空襲。
多くの公園や寺院などに犠牲者が仮埋葬。終戦後に身元不明の遺骨などを「震災記念堂」納骨堂を拡張し合祀。
昭和26年(1951年)に「東京都慰霊堂」と改称され現在に至る。
祭壇には震災死亡者・空襲死亡者の霊をそれぞれ合祀した位牌が2基祀られている。

震災記念堂 東京都慰霊堂 由来記
 顧れば大正十二年九月一日突如として関東に起こった震災は、東京市の大半を焦土と化し、五万八千の市民が業火のぎせいとなった。このうち最も惨禍をきわめたのは陸軍被服廠跡で、当時横網町公園として工事中であった、与論は再びかかる惨禍なきことを祈念し慰霊記念堂を建立することとなり官民協力広く浄財を募り伊東忠太氏等の設計監督のもとに昭和五年九月この堂を竣成し東京震災記念事業協会より東京市に一切を寄付された。
 堂は新時代の構想を加味した純日本風建築の慰霊納骨堂であると共に、広く非常時に対応する警告記念として、亦公共慰霊の道場として設計された三重塔は百三十五尺基部は納骨堂として五万八千の霊を奉祀し約二百坪の講堂は祭式場に充て正面の祭壇には霊碑霊名簿等が祀られてある。
 爾来年々祭典法要を重ね永遠の平和を祈願し「備えよつねに」と相戒めたのであったが、はからずも昭和十九、二十年等にいたって東京は空前の空襲により連日爆撃焼夷の禍を受け数百万の家屋財宝は焼失し無慮十万をこえる人々はその難に殉じ大正震災に幾倍する惨状を再び見るに至った、戦禍の最も激じんをきわめたのは二十年三月十日であった、江東方面はもとより全都各地にわたって惨害をこうむり約七万七千人を失った、当時殉難者は公園その他百三十ヶ所に仮埋葬されたが昭和二十三年より逐次改葬火葬しこの堂の納骨堂を拡張して遺骨を奉安し、同二十六年春戦災者整葬事業を完了したので東京都慰霊堂と改め永く諸霊を奉安することになった。
 横網公園敷地は約六、〇〇〇坪、慰霊堂の建坪は三七七坪余、境内には東京復興記念館中華民国仏教団寄贈の弔霊鐘等があり、又災害時多くの人々を救った日本風林泉を記念した庭園及び大火の焔にも耐え甦生した公孫樹を称えた大並木が特に植えられてある。
 昭和二十六年九月 東京都


震災遭難児童弔魂像

震災遭難児童弔魂像
 大正12(1923)年9月1日、関東大震災により東京市小学校児童約5000人が亡くなりました。
 この死を悼み、冥福を祈るため、全市学校長等が弔魂碑建立を計画し、寄付を募りました。その寄付金により彫刻家小倉右一郎氏に制作を依頼、昭和6(1931)年5月16日に除幕式が行われました。
 その後、像部分は、昭和19(1944)年、金属回収のため撤去されましたが、昭和36(1961)年、都は、小倉右一郎氏の高弟である、津山昌平、山畑阿利一両氏に制作を依頼し、往時の群像を模して再建されました。(略


東京空襲犠牲者を追悼し平和を祈念する碑

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/virtual/memorialsite/tokyo_sumida_city002/index.html

東京空襲犠牲者を追悼し平和を祈念する碑
 第二次世界大戦で、東京は、昭和17年4月18日の初空襲から終戦当日の昭和20年8月15日に至るまで、アメリカ軍の度重なる空襲により甚大な被害を受け、大方が非戦闘員である多くの都民が犠牲
となりました。
 こうした東京空襲の史実を風化させることなく、また、今日の平和と繁栄が尊い犠牲の上に築き上げられていることを次の世代に語り継ぎ、平和が永く続くことを祈念するための碑を建設しました。
 この碑の建設に当たっては、「東京の大空襲犠牲者を追悼し平和を願う会」の呼びかけにより、多くの方々から寄附が寄せられました。
 斜面を覆う花は生命を象徴しています。碑の内部には東京空襲で犠牲になった方々のお名前を記録した「東京空襲犠牲者名簿」が納められています。
 平成13年3月 東京都

内部には「東京空襲犠牲者名簿」が納められており、3月10日と9月1日の法要の際は、内部公開も行われる。

花壇のレイアウトデザインは、都度都度かわるという。


東京都復興記念館

震災記念堂(東京都慰霊堂)の付帯施設として昭和6年に建立。
「東京都の歴史的建造物」選定。

https://tokyoireikyoukai.or.jp/museum/history.html

(上記サイトより引用)
東京都復興記念館は、関東大震災の惨禍を永く後世に伝え、また官民協力して焦土と化した東京を復興させた当時の大事業を永久に記念するため、震災記念堂(現東京都慰霊堂)の付帯施設として昭和6年(1931年)に建てられました。
震災の記念品などは当初震災記念堂に展示する予定でしたが、昭和4年(1929年)に開催された帝都復興展覧会に出品された資料も加わり、その数が膨大となったことから予定を変更して「復興記念館」を建設し、展示することとしたものです。
大震災の被害、救援、復興を表す、遺品や被災物、絵画、写真、図表などが展示されました。
その後、第二次世界大戦の空襲により東京都下で亡くなった方々の遺骨を震災記念堂に合祀したため、記念館においても、東京空襲の被害や当時の状況、復興に向けた取り組みを伝える写真、図表などの展示を加えました。
平成元年(1989年)には、震災記念屋外展示場の解説等も充実させています。
平成11年(1999年)には東京都の歴史的建造物に選定されました。
平成29年11月~31年3月にかけて、基礎の補強や壁の増量などの耐震化工事を実施し、設備を含めて大幅に改修しました。
現在は、外壁の改修に着手していて、特徴あるテラコッタ仕上げなどの修復をしています。

摩耗していた怪獣は、復元リニューアル(令和3年3月撮影)

復興記念館館内

昭和4年開催 帝都復興展覧会出品模型
第二号幹線九段坂付近(靖國神社前) 復興局出品


築地本願寺慈光院

東京都慰霊堂のある墨田区横網町公園の南隣に。
陸軍本所被服廠跡にたつ寺院。

震災慰霊。
関東大震災を祈念して建立された寺院。
境内の梵鐘は、関東大震災および第二次世界大戦の犠牲者を偲ぶ。3月10日には、戦災記念追悼法要・東日本大震災追悼法要が斎行される。


なお、東京大空襲に際して、軍人・軍属の犠牲者は「東京都戦没者霊苑」において慰霊追悼している。

東京都戦没者霊苑


東京大空襲関連

戦災電柱

本記事は、ひとまず

戦争の犠牲になった動物たち「上野動物園と動物慰霊碑」

令和元年(2019)11月

「上野動物園」
日本で最初の動物園、明治15年(1882)開園。
東京市時代の戦前は「東京市公園局・上野恩賜公園動物園」と称していた。
現在の正式名称は「東京都恩賜上野動物園」

そんな歴史由緒ある上野動物園の園内に、ひっそりと「動物慰霊碑」があった。

これもまた戦跡としての慰霊碑・・・。

合掌を


戦時猛獣処分

戦争において空襲等に巻き込まれた動物園の猛獣が逃亡して被害を及ぼすのを未然に防ぐための殺処分のことをいう。


上野動物園の戦時猛獣処分

昭和18年(1943)以降、日本の各動物園で戦時猛獣処分が行われた。
食糧不足も重なり、多くの動物達も、戦争の犠牲となった。

昭和18年8月11日に上野動物園において、象1匹の殺処分が決定したのを皮切りに、昭和19年には全国の動物園で戦時猛獣処分が始まった。
処分は軍部による命令ではなく、あくまで行政機関の命令をうけた動物園の判断での実施であったという。

昭和18年8月16日、大達茂雄東京都長官(東京市と東京府が廃止されて東京都が設置された際の初代東京都知事)は、上野動物園などの都内の動物園に猛獣殺処分を発令。
これは前職でシンガポール市長(昭南特別市長)を努めていた大達茂雄が、既に時局の厳しさを感じ取り、猛獣被害予防という点以外にも、国民の危機意識を高めるために行ったという側面もある。
大達茂雄東京都長官が決断をした、昭和18年夏の段階では、まだ東京に対して空襲が頻発する前段階であり、そのため空襲のために殺処分が決まった、というわけでもなかった。
しかし「絵本」では、わかりやすく、軍の命令、空襲が続く中で・・・となっている。

上野動物園では、ゾウ・ライオン・トラ・クマ・ヒョウ・ヘビなど14種27頭が殺処分対象となる。
特に気性が荒く危険とされていたゾウの「ジョン」は、処分命令に先立つ8月11日に早くも殺処分が決定され、13日から絶食状態となっていた。 
そうして、8月17日から9月1日までに、ゾウ1頭(ジョン)を含む24頭の殺処分され、そして9月23日に最後のゾウが死亡し、計画された一連の殺処分が終わった。

なかでも、3頭のインドゾウの殺処分は特に有名。
気性の荒い「ジョン」は、いち早く8月13日に餓死による殺処分が着手され、17日後の8月29日に餓死。残る2頭のゾウも餓死による殺処分。
当初は、ゾウも他の動物と同じように薬殺が予定されていたが、繊細なゾウは毒餌を受け入れなかったために餓死させることとなったという。
食べ物を欲した象たちは、痩せた体でヨロヨロと飼育員の前で必死の芸をしたという。芸当をすれば、きっと餌がもらえると信じての行動であったが、飼育員たちは餌を与えることは出来ず、ただただ、象たちのやせ細る姿を見守ることしか出来なかった。
そうして、9月11日に「ワンリー(別称「花子」)」が餓死、最後まで残った「トンキー」も9月23日に餓死した。

昭和18年9月2日に「時局捨身動物」として戦時猛獣処分実施が公表。
さらには、9月4日には「処分動物慰霊祭」(殉難猛獣慰霊法要)が斎行された。
慰霊祭は象舎の前で行われたが、そのときはまだ象舎では「ワンリー(花子)」と「トンキー」は絶食中でも生存しており、慰霊祭に際して象舎に鯨幕を張り、象の姿を見せないために目隠しをしたという。

「処分動物慰霊祭」(殉難猛獣慰霊法要)
位牌は「殉難猛獣霊位」
墓標は「時局捨身動物」


上野動物園の猛獣を懇切処置

懇切処置という表現といい、記事の文面のもやもやした言い回しが、時局を表していて、とても複雑な気持ちになる・・・。

昭和18年(1943年)9月2日
同盟時事月報(通号208号) 第7巻 第09号

上野動物園の猛獣を懇切処置

【二日】東京都では、日頃都民から限りない親愛の情をもたれて来た、上野動物園の人気者象の花子さんを始めライオンなどの猛獣が、馴染みの姿を柵から消す処置がとられた。
(東京都発表)(二日午後二時)
東京都に於いては非常時に際しての万一の場合を考慮し、上野動物園に飼育する最も危険な猛獣をこのほど懇切に処置した。依ってこれらの動物供養のため、来る四日午後二時、本園内動物慰霊塔に於て、浅草寺大森大僧正を導師として法要を営む。如何に馴れた動物でも激烈な衝撃によって怖るべき狂乱状態となるので、誠に不憫ながらライオン以下の猛獣を処置することは止むを得ざる次第で、平素愛護を頂いた都民皆様の御諒解を願ひ度い。


上野動物園 動物慰霊碑

動物よ安らかに
 古賀忠道書

古賀忠道(1903-1986)
1937年に園長制度が設立され上野動物園初代園長に就任。
戦前から戦後まで上野動物園とともにあったお人。
「動物よ安らかに」に重みを感じる。
1962年の動物園創立80周年記念行事を最後に園長を引退。

「動物園は平和なり」は古賀忠道氏の残した言葉。

なお、動物慰霊の後方に見える、石塔は、津藩藤堂家墓地。
上野公園の地には、かつて津藩藤堂家の屋敷地があり、東京の「上野」は高虎の領した「伊賀上野」が語源になったとの説もある。
上野の寛永寺内にあった藤堂高虎の菩提寺「寒松院」の地が、上野動物園となり、そして、藤堂高虎を始めとした歴代の藤堂藩主の墓は、上野動物園内に残された。なお、藤堂家墓地は非公開立入禁止エリア。

動物慰霊碑
動物慰霊碑は、動物園で死亡した動物の霊をなぐさめるためのものです。戦争の犠牲となった動物たちをはじめ、園内で暮らしたすべての動物たちが供養されています。ブロンズのリボンは動物への愛情と弔意をあらわし、フクロウは動物たちの霊をみまもる象徴として選ばれました。
最初は1931年に、今のゴリラとトラの森付近に建立され、当時は動物たちを近くに埋葬していました。この慰霊碑は1975年、園内の改修にあたり新たに建立されました。


上野動物園旧正門

明治44年建立。昭和9年頃までは恩賜上野動物園の玄関口として使用されていた表門。
現在は臨時門として使用されることもある。


上野動物園

上野動物園。久しぶりに園内に。

象舎の裏に慰霊碑がある。


上野動物園モノレール(廃止)

「東京都交通局 上野懸垂線」
日本で最初に開業したモノレール。 開業は1957年。日本最短のモノレール。
現在の車両は4台目の車両(2001年導入)であったが、令和元年(2019年)11月1日で車両経年劣化もあり運行休止。

https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/other/monorail/


関連

動物慰霊碑

上野界隈の散策

愛宕山の戦跡散策(青松寺と愛宕神社)

令和元年9月参拝

芝鎮座の「青松寺」の境内には、戦争にまつわる史跡がいくつか残されている。
境内裏手の墓地の一角に。

肉弾三勇士(爆弾三勇士)

「肉弾三勇士」は大阪朝日新聞・東京朝日新聞の呼称。
「爆弾三勇士」は大阪毎日新聞・東京毎日新聞の呼称。
それぞれの新聞社が公募した「肉弾三勇士の歌」「爆弾三勇士の歌」もある。

肉弾三勇士・爆弾三勇士とは、独立工兵第18大隊(久留米)の、
 江下武二(えした たけじ)
 北川丞(きたがわ すすむ)
 作江伊之助(さくえ いのすけ)
の3名の一等兵のことをいう。
3名は戦死後に2階級特進し陸軍伍長となった。

昭和7年(1932年)2月22日
第一次上海事変にて、トーチカと鉄条網とクリークで守られた敵陣へ突入するために、 鉄条網を破壊し突撃路を切り開くために点火した破壊筒を3名で抱えて敵陣に突入。破壊の爆発に巻き込まれて3名は戦死したが鉄条網の破壊には成功。
突撃路を切り開いた英雄として讃えられ「昭和最初の軍神」とされる。

昭和9年。
全国からの寄付金が集まり、貴族院議員・金杉英五郎が委員長となった「肉弾三勇士銅像建設会」によって東京都港区の青松寺に三人が破壊筒を抱えて突撃する様子の銅像「肉弾三勇士の像」(新田藤太郎作)が設置された。
しかし戦後に撤去され、後に切り離された「江下武二の像」の部分のみが新たな台座とともに青松寺に安置されている。「北川丞の像」は長崎県北松浦郡佐々町にある三柱神社に移築。「作江伊之助の像」は所在不明。

肉弾三勇士三霊
肉弾三勇士・江下武二の像

当地には肉弾三勇士の一人、江下武二の像のみが残されている。

肉弾三勇士の三霊に合掌を

碑文
 忠孝の心を存し仁義の事を行い難至って節見はれ累至って行明かなるは我日本帝国臣民の伝統的精神にして其れも善き例を示したるは廟行鎮の役に挺進爆薬筒を抱き肉弾と化して瞬間に能く敵前鉄条網の堅陣を爆破し以て皇軍進出に便ならしめ砕身奉公の誠を致したる作江伊之助・北川丞・江下武二の3士にして其忠烈古今に絶し其壮烈世界を震撼す真に所謂死して護国の鬼となり永く報国の訓を掲けたるものと謂ふへし依て茲に銅像を建て建設して3士の遺骨を其の内に納め以て忠魂を無窮に弔い義烈を万代に顕彰する所以なり
 昭和9年2月22日
  肉弾三勇士銅像建設委員会 

「肉弾三勇士三霊」の隣に。

國體護持 孤忠留魂之碑

いわゆる「宮城事件」に関係する、陸軍・畑中健二少佐らを祀る。
 椎崎二郎中佐(陸軍省軍務局軍務課内政班)
 畑中健二少佐(陸軍省軍務局軍務課内政班)
 古賀秀正少佐(近衛師団参謀)
 上原重太郎大尉(陸軍航空士官学校区隊長)
上記四士の慰霊碑が青松寺に鎮座している。

宮城事件

昭和20年8月14日深夜から8月15日にかけて、宮城(皇居)で一部の陸軍省将校と近衛師団参謀が中心となって起こしたクーデター未遂事件。

日本の降伏を阻止しようと企図した将校達は、8月15日に決起。
午前0時過ぎに玉音放送の録音を終えて宮城を退出しようとしていた下村宏情報局総裁と放送協会職員などの身柄を拘束。
近衛第一師団長森赳中将に面会を強要しクーデターの参加を求めるも決裂し、近衛第一師団長森赳中将と同席していた第二総軍参謀白石通教中佐を殺害。
師団長命令を偽造し近衛歩兵第二連隊を用いて宮城(皇居)を占拠し東部軍管区 にクーデター参加を求めたが、東部軍管区司令部で司令官の田中静壱大将は鎮圧を決定。

昭和20年8月15日
5時半
 陸相官邸で阿南惟幾陸軍大臣が自決。
午前11時過ぎ
 椎崎中佐と畑中少佐は、皇居前広場(二重橋と坂下門の間の芝生)で自決。
正午
 古賀少佐は、玉音放送の放送中に近衛第一師団司令部二階の貴賓室に安置された森師団長の遺骸の前で自決。
 上原大尉は、修武台航空神社前で自決
事件鎮圧の功労者だった田中静壱東部軍管区司令官は8月24日に自決している

碑文
陸軍中佐 椎崎二郎
陸軍少佐 畑中健二
陸軍少佐 古賀秀正
陸軍大尉 上原重太郎

大東亜戦争終結に際し 護るべからざる講和条件即ち国体護持の確認こそ日本国民の果たすべき責務なりとし 上記四士は畑中健二主導のもとに近衛師団の決起を策し 大事去るや従容自決す これ宮城事件なり
その孤忠留魂の至誠は神州護持の真髄といふべく 仰いで茲にこれを継述せんとするものなり
 昭和五十九年秋 有志建之

旧山口藩出身御親兵死没者合祀之碑

明治22年11月建立

軍馬之碑

工兵第二十三聯隊 戦友之碑

青松寺の右手、愛宕グリーンヒルズフォレストタワーの通り道に。

故市来・吉住両君の記念碑

インドネシアゆかりの記念碑。
日本敗戦後もインドネシアに留まり、独立軍に参加して戦死した市来龍夫氏 、吉住留五郎氏の名前の刻まれたスカルノ・インドネシア大統領の直筆の顕彰碑。この石碑のある青松寺の隣にある老舗料亭「醍醐」は、スカルノ大統領ゆかりの料亭であったという。

昭和20年(1945)8月17日、インドネシアは独立を宣言。それに対しイギリスの支援を受けたオランダ軍が再びインドネシアを支配するべく進駐し。4年間にわたる独立戦争が勃発。
日本軍撤退後もインドネシアに留まり義勇軍・独立派に身を投じた元日本兵の多くがインドネシア独立戦争に協力。
昭和20年8月15日以降の、元日本軍死者は1000人を超え、独立戦争で命を落とした元日本兵はインドネシア各地の英雄墓地に葬られている。生き延びた元日本兵もインドネシア国籍を得て1960年代の日本企業のインドネシア進出が本格化する際には橋渡し役として活躍もされている。

1958年に訪日したスカルノ大統領は、日本へ感謝の意を表すとともに、インドネシア独立戦争において特に活躍した、 市来龍夫氏(アブドルラフマン) 、吉住留五郎(アレフ)氏 に対して感謝の言葉を贈り、それが記念碑として建立された。

市来龍夫君と
 吉住留五郎君へ

独立は一民族の
 ものならず
全人類のものなり

1958年8月15日
 東京にて
  スカルノ

PRESIDEN
REPUBLIK INDONESIA

 市来龍夫君、熊本縣の人、明治三十九年生
 吉住留五郎君、山形縣の人、明治四十四年生
 両君は共に青春志を抱いてジャワに渡航力学よくイ語の蘊蓄を極め、相次いでインドネシアで現地の新聞記者となる。爾来インドネシア民族の独立達成を熱望して蘭印政府より投獄追放の厄に会うも不撓不屈、第二次大戦に乗じて、再びインドネシアに渡り、終戦に際して同志を統合、イ軍に投ずるや共に軍参謀、指揮官となり、激闘、転戦ののち、遂に市来君は一九四九年マラン・ダンペッドの戦場に、吉住君はそれに先立つこと一年ケデリ州セゴンの山中に、インドネシア永遠の礎石となって散す。

青松寺

曹洞宗・萬年山青松寺
太田道灌ゆかり寺院。文明8年(1476)創建。
江戸時代は長州藩・土佐藩・津和野藩などが江戸で藩主や家臣が死去した際の菩提寺として利用した。

青松寺の北隣、愛宕山に現在はNHK放送博物館がある。

NHK放送博物館

NHKの前身のひとつである社団法人東京放送局はこの愛宕山に放送局を置き、1925年から1938年まで、ここからラジオ放送が発信された。
1956年にNHK発祥の地である地に世界初の放送専門博物館が開館。当時の建物は現存しておらず、現在の建物は1968年(昭和43年)に建設されたもの。

NHK放送博物館の隣には、愛宕山の愛宕神社が鎮座している。

殉皇十二烈士女之碑
弔魂碑

いわゆる「愛宕山事件」
昭和20年8月15日の降伏終戦に対して、反対する民間団体「尊攘同志会 」首領・飯島与志雄ら12名が決起。
内大臣木戸幸一邸を襲撃し殺害を試みるも失敗し、抗戦派軍人の呼応を期待し愛宕山に籠城。
警視庁は70余名の警官隊を動員し愛宕山を包囲し投降を呼びかけるも決裂。
8月22日午後6時ごろ、警官隊が発砲し突入。手榴弾で自決を図り10名が死亡。8月27日には残された2婦人が集団自決が行われた場所でピストル自決をしている。

弔魂碑碑文
昭和二十年八月廟議降伏に決するや決起して内府木戸邸を襲ふ
転じて愛宕山に篭り所在の同志と呼応
天日を既墜に回さむとする者 即ち尊攘義軍十烈士
しかれども遂に二十二日午後六時相擁して聖寿万歳とともに手榴弾を擲ち一瞬にして玉砕す 
時俄に黒風暴雨満山を蔽ふ
二十七日払暁 同じき処に座して二夫人亦従容後を遂ふ
忠霊芳魂 永遠に此処に眠る 
遺烈万古尽くる時なからむ
 天なるや 秋のこだまか とこしえに 
 愛宕のやまの 雄たけびのこゑ

愛宕神社

愛宕山鎮座の愛宕神社。天然の山としては東京23区内最高峰。(25.7m)
京都の愛宕神社が総本社。
1603年(慶長8年)、徳川家康の命にて創建。

青松寺と愛宕神社

愛宕山は「爆弾三勇士」「宮城事件」「愛宕山事件」といった慰霊鎮魂の地でもありました。

合掌

戦時下の蓄光タイル?(名古屋駅)

令和元年9月撮影

真偽不明ではあるがネット界隈で情報が散見していたので見に行ってみました。


JR名古屋駅中央本線の階段。
階段の隅に正方形の「ガラス板」装飾がある。
戦時中、空襲警報発令の灯火管制時に、旅客を安全に誘導するために、階段の両脇にガラスで覆った蓄光タイルを配置し、薄暗い光でも足元を照らし旅客を安全に誘導したもの、とされている。

詳細は不明。以下、写真にて。

参考情報

■名古屋駅の空襲警報発令時の旅客の誘導設備の工事が始まる(3)
国鉄全体としては優等列車の削減と平行して軍需物資の輸送と兵員輸送の列車の増加が目立つようになった。毎日配布されるマル秘の名古屋鉄道管理部報に運転の時刻と注意書きが多くなってきた。
我が職場では見出しの様な設備の工事が始まった。
空襲警報発令時の旅客の誘導は真っ暗闇とは行かなくて、ホームの天井にラドン管といううす暗い光を出す細長い電球を吊るし、それを一段一段の階段の両端に埋めこまれた透明ガラスで覆った蓄光塗料のレンガが、光を受けて、真っ暗闇でも淡い黄緑色に光り、旅客の安全に役たっていた。
名古屋駅の全階段(新幹線の階段はない)に施されたこの設備は戦後は、くその役にも立たず(おそらく撤去費用が掛かるため)旅客にも殆ど知られることなく約53年近く取り付けたままになっている。 乗降の際、気をつけて見てください。

https://www.meieki.com/meieki_fucchi1.php

今日の名古屋駅では、一部の階段のみに「蓄光タイル」が残されている。
その他の階段は普通の階段でした。

小野光賢と小野光景父子にまつわる史跡散策(信州小野と横浜)

平成28年4月ほか

友人と諏訪地方を訪れる機会があった。

というよりも、もともと友人が「この記念館」に訪れるために事前予約をしており、私が便乗した、という機会があった。


小野光賢光景記念館

〒399-0601
長野県上伊那郡辰野町小野985
TEL 0266-46-2001(要事前連絡)

小野光賢と小野光景親子の記念館

信州小野の名士であった小野光賢(みつかた・小野兵助とも)は、創生期の横浜で活躍し、横浜発展の礎を築き横浜開港の創始者ともいわれている人物。
文政元年(1818年)信州小野生まれ。
安政6年(1859年)に横浜に出て貿易を営み、草創期に横浜発展に尽力し町名主や横浜副市長などを務めた人物。

光賢の子である小野光景(みつかげ)は横浜商法学校(現市立横浜商業高校)や横浜正金銀行などに絡む人物。

明治から大正にかけて、創生期の港町横浜の縁の下を支えた小野親子の記念館。

現在の小野家の当主は小野光賢の曾孫に当たる方。
小野家当主自ら小野光賢光景記念館の隅々を案内していただきました。話が非常に面白く時間を忘れるほどに。
以下、順番に記念館を見ていきます。


以下、館内写真は許可を得て撮影

光賢庵

小野光賢終焉の庵という。

光賢庵
横浜開港の創始者とうたわれた兵右エ門光賢(通称兵助)終焉の庵である。
安政6年(1859)横浜開港の時、苗字帯刀御免の大名主をつとめた兵助は、開港といふ激務のため健康をそこない「わが素志、成就のときなり」と時の県令陸奥宗光公に辞意を表明、許されて職を長子光景に譲り、明治5年十有余年ぶりに故郷信州に帰り、風月を共に悠々自適、静養につとめていたが、明治33年(1900)7月27日83歳の天寿を全うし、
ここ光賢庵に於いて波瀾の生涯をとじた。
 館長

蔵も残っている。

小野光賢光景記念館 館内

建物の創建年代は不詳。(聞いておけばよかったです)
信州小野に唐突に現れた洋館にビックリ。

小野光景翁像

横浜で活躍した小野光賢は幕末の三舟とも親交があり、記念館には勝海舟・山岡鉄舟・高橋泥舟から小野光賢に贈られた書も展示してあった。

小野の集落を見下ろす高台に、小野光賢の像があった。
郷土の名士を誇る記念像。
例の如く戦中供出されて、今は台座のみ残っている。 (後述)
台座のレリーフは小野家の紋章。

レリーフは台座から落ちていたのを見つけた人が届けてくれた、と。
4面のうち、3面はまだ台座に残っていました。

台座から落下したレリーフ
小野光賢像の台座

戦前の外交官・来栖三郎は実は小野家の親戚にあたる。
小野光景の義弟が横浜財界を代表する来栖壮兵衛。その子が外交官の来栖三郎。

曜変天目茶碗(稲葉茶碗)
国宝茶碗にも小野家が絡んでいたり。
将軍家から春日局・稲葉家へと伝えられ、小野光景が大正7年に購入し昭和9年に岩崎小弥太へ。現在は静嘉堂文庫美術館所蔵。

旧家ゆえ色々と歴史的なものも多く。
川中島の合戦絵図。
この絵の面白いところは信玄が謙信に追われ騎馬で後ろを見せて逃げていたり。 ここは信玄の地元たる甲州ではなく信州諏訪ですから(意味深

光賢墓碑陰記

拓本・総持寺
日下部東作書

光景頌徳碑記
拓本

小野病院前庭
貴族院議員高橋作衛選

小野光景は横浜正金銀行頭取、横浜商工会議所会頭、貴族院議員などを歴任。郷里小野では病院設立、紡績工場運営などに携わっている。

明治21年9月29日 公論新報(明治の新聞)

私選東京市長最高点者 福沢諭吉 (右)
私選横浜市長最高点者 小野光景 (左)

あの福沢諭吉と並んで取り上げられてました。

小野光賢光景記念館 は要事前予約となりますが、ご興味ございましたら是非に。
当主の話が面白く展示も興味深いもの多く気がつけばあっという間に二時間を過ごしてしまいました。

小野光賢・光景記念館 紹介サイト

http://www.shiojiri.info/~ryouono/onomitsukage/HTML/index.html

場所

https://goo.gl/maps/t3yvPSQaXtXYbSrv7


小野宿


南塩終点の地

太平洋沿岸で取れる塩が伊那谷・伊那街道を北上してこの地(南小野)まで運ばれた。北隣の松本藩では越後の塩が糸魚川街道によって北小野まで運ばれた。
南北の小野が南北の塩の境目でもあった。


小野光景翁寿像
(小野公園)

小野駅の南東側、小野光賢光景記念館 の東側。
丘の上に小野光景の像が・・・あった。

小野公園

https://goo.gl/maps/jUpdtku6XDqXXdz58

小野光景翁寿像の台座。

小野光景翁寿像 の 台座

小野光景翁と寿像
 小野光景(みつかげ)は父光賢(みつかた)の長子として1845年(弘化2年)に生まれ、21歳の時、国内の政治混乱に「男子時至れり」と横浜に出奔。
 先に横浜に出て行政面で名を成した父の跡を継いで「横浜港内第一区小一区戸長」を手はじめに要職を歴任する傍ら生糸貿易にかかわり、横浜商法学校(現・市立横浜商業高校)創設、横浜商法会議所(現・横浜商工会議所)会頭、横浜成金銀行(現・三菱東京UFJ銀行)頭取を務めるなど、貿易商としても成功しました。横浜は光賢(1900年没)と父子が活躍した縁とゆかりの地です。
 以来、一世紀半の歳月が流れ、2009年に横浜市は開港150周年を迎えました。改めて小野光賢・光景父子の功績が脚光を浴び、横浜市と新たな交流も始まりました。
 特に光景翁は郷里である小野(旧・小野村)の地にも、小野駅敷地を寄贈、小野病院(現・小野国保診療所)、小野図書館の設立、高等小学校の敷地、校舎の建設など、郷里の発展のために多大な貢献をされました。
 これらの功績を記念して、郷里の人々はこの小野公園山頂に小野光景翁の寿像を小野家の方向に向けて1919年(大正8年)に建立いたしました。その後、銅像部は第二次世界大戦のために供出され、現在は台座だけになっていますが、それでもこの大きさには圧倒されるものがあります。
 平成22年9月吉日
 小野地区振興会

小野公園から見渡す小野の街なみ。
小野光賢と小野光景親子が育んだ街。


忠魂碑

右は乃木希典公、左は有馬良橘公


小野光賢翁・小野光景翁生誕記念碑


横浜開港と郷土発展の恩人
小野光賢光景父子の実績

横浜開港と郷土発展の恩人
小野光賢光景父子の実績

撰文 明海大学教授 岩下哲典
 小野光賢は、文政元年(1818)小野村名主小澤小左衛門の二男に生まれ、のち名主小野光珍の養子となった。安政6年(1859)42歳の時、幕府の開港事業を知り、これに応じて横浜に出た。横浜本町5丁目はじめ太田町等の名主を勤め、明治元年(1868)新政府設置の公選横浜町名主や副市長となった。また小野村周辺から横浜に出た郷土の人士をよく世話した。激務により退職し帰郷後、同33年7月7日、小野の光賢庵にて死去した。享年83。
 小野光景は、光賢の長男として弘化2年(1845)小野村に生まれた。慶応2年(1866)父光賢を頼って信州を出た。横浜では光賢を補佐して町政に携わり、神奈川県会議員となり、又貴族院議員に勅任され国家に貢献した。そのほか横浜商法学校(現Y高)設立者、横浜正金銀行頭取、横浜商法会議所会頭、横浜本町他十三か町貿易商組合総理、横浜鉄道会社創立発起人等を務めた。まさに横浜の財界発展やインフラ整備に果たした役割は大きかった。のみならず、小野高等小学校敷地・校舎建設費や小野駅敷地の寄付、小野病院の設立等々揚げて枚挙の遑あらざる偉業を成し遂げた。大正8年(1919)9月18日横浜別邸にて死去。享年74であった。
 小野光賢光景父子は、横浜開港とその発展のみならず常に郷土に思いを馳せ、その発展に多大なる貢献をした。ここに光賢翁生誕二百年を記念して一碑を建て、光賢・光景翁の実績を永く後世に伝えることを願ってやまない。
 平成24年9月9日 建立
 小野光賢・光景翁
 生誕記念碑建立委員会
 小野地区・北小野地区
 辰野町 


詠帰亭の碑

詠帰亭の碑
大正8年5月有志相はかり郷土出身の実業家小野光景翁の寿像が建立された際、翁のため此の地に別荘を新築。中国の故事に倣って詠帰亭と称した。然しながら翁は一度も入来することなく同年9月逝去。
以後詠帰亭は地域の人々の社交の場として利用されていた。
昭和3年11月、詠帰亭は昭和天皇即位の大礼記念事業として小野村青年会館と改称され、同時に図書館を併設、小野村がこれを管理することとなった。
その後、昭和28年に至って図書館は移設され、昭和36年辰野町へ合併するにあたり辰野町小野財産区の所有となり小野商工会工業部によって管理されてきた。
ところが、平成7年8月28日未明の火災によって全焼。建設以来70有余年にして詠帰亭の歴史は幕を閉ることとなった。
ここに詠帰亭の由来の一端を記し、末永く記憶にとどめるものである。
 平成8年10月吉日
 辰野町小野財産区


小野病院

小野光景氏が設立した小野病院は、今は両小野診療所となっている。


小野駅

小野駅の敷地も小野光景氏の寄付。
小野駅は明治39年(1906)、中央本線の岡谷-塩尻間開通と同時に開業。

小野の集落で、小野光賢光景父子を偲びし歴史散策。あまり知ることない郷土史の一幕に触れることができたのは貴重な経験。知的好奇心への良き刺激となりました。


場所と月日はかわって、平成28年(2016年)8月。
横浜の本牧に、脚を運んでみました。
小野の集落を訪ねたときと同じ友人と一緒に。

本牧臨海公園

本牧臨海公園が「小野光景別邸」跡地、という。
三渓園の隣。

https://goo.gl/maps/jtGGXc6NQb9Q4Jne7

公園には「横浜市 八聖殿 郷土資料館」があり、この場所もかつては「小野光景別邸」であった。

横浜市 八聖殿 郷土資料館内にも、小野光景の紹介がある。

https://www.rekihaku.city.yokohama.jp/shisetsu/hasei/

https://www.city.yokohama.lg.jp/kurashi/machizukuri-kankyo/midori-koen/koen/koen/daihyoteki/kouen006.html

https://shimin-rinkai.jp/

本牧臨海公園と小野光景氏
 ここ本牧臨海公園一帯は明治時代に生糸貿易商として活躍した小野光景氏の約2万6千坪(約8.6ha)に及ぶ別荘地であった。
 海が見渡せる丘に洋館を始めとする幾つかの建物が点在していた。
 当時、別荘地の一部分は市民に広く公開され、「小野公園」と呼ばれていた。

横浜開港の功労者
小野光景別邸跡
 かって、この地は幕末の激動がようやく鎮まった安政六年(1859)横浜開港の創始者とうたわれた横浜町名主小野塀上門光賢の長子小野光景の広大な別荘地で当時この公園と呼ばれていました。豪華絢爛たる洋式別荘は外国使節団当承知ノ場とされ、開港にかかわる歴史的場羽陽な場所であった。
 明治五年(1872)、光景は父光賢の職を継ぎ、次いで明治十三年(1880)、わが横浜商工会議所の創設を始め、横浜学校の始、壮行・如春の二学舎の開設、横浜正金銀行開設、横浜商法学校設立、新港埠頭の建設、八王子横浜間鉄道の新設等々、揚げて枚挙にいとまなく主唱者として貢献し、更に、明治十六年(1883)には自ら貿易行小野商店を開業するなど、障害の前半を成二に、後半を実業に捧げて燃えつくし、と横浜の地鶴見の総持寺の一隅に、父光賢の墓とならんで葬られている。
 このように、この地は横浜発展の礎を築いた小野光景を偲ぶことのできる場所であり、ここに一碑を建て光景の事情を永く後世に伝えることを願ってやまないものである。
 平成15年11月13日 横浜商工会議所会頭 高梨昌芳

春惜しむ
 臨海公園
  波遠し
    忠秋
     記念碑寄贈者 光景生家 忠秋

小野光景氏の功績
 1845年に長野県上伊那郡辰野町小野に生まれ、1859年の開港直後、横浜に移住した。
 父光賢氏の職を引き継ぎ町政業務に携わるとともに、横浜商法会議所(現横浜商工会議所)や横浜正金銀行(現三菱東京UFJ銀行)及び横浜商法学校(現横浜商業高等学校)、新港埠頭、横浜鉄道(現JR横浜線)等を設立・建設した。
 また、生糸貿易商としても活躍し、明治期の横浜の発展に大いに貢献した人物である。

「小野公園」の記憶
 この油絵は、往時の「小野公園」を海に向かって描いたもので、光景氏の三男哲郎氏の妻、煕子氏の作品である。
 広い芝地に50mのプールがあり、海の水をポンプアップして使っていた。また、海岸に出るためのトンネルが掘られ、崖下は絶好の釣り場となっていた。この芝地はいつも手入れが行き届いていて、秋にはよく運動会が開かれていたという。

小野光景氏別邸洋館
 小野光景氏別邸は、2階建ての洋館で、シャンデリアのついた大広間もあり実に立派なものであったという。
 この豪華絢爛な洋館には、政府の要人や外国の使節を招待するなど、華やかな政治・外交の舞台となっていた。
 しかし、大正12年(1923)9月1日の関東大震災で倒壊したといわれる。
 前列中央の、赤ちゃんを抱いているのが小野光景氏である。

明治4年(1871年)頃の本牧の海岸
 かつての本牧の海には良質な漁場が広がっていた。明治末頃からは海苔の要職が盛んになった。また、景色も良く海も美しいことから海水浴場としても使われていくようになる。

埋立で大きく変わる本牧の海岸
 昭和34年(1959年)から46年(1971年)にかけて、根岸湾埋立が行われた。
 左は根岸湾の埋立前の写真。八聖殿が見え、「小野公園」の山の一部がまだ残っている。
 下は昭和30年代末の写真。埋立が進み、本牧臨海公園の整備が行われている。

本牧臨海公園・本牧市民公園・三渓園
周辺からみた景色。


2015年3月撮影

横浜正金銀行本店
(現・神奈川県立歴史博物館)

横浜正金銀行は明治13年(1880)開設。
小野光景氏は 横浜正金銀行 設立にかかわり、そして第二代頭取(1882-83)を務めた。
現在の建物は明治37年(1904)完成。残念ながら小野光景が関わっていた時代ではなく。

http://ch.kanagawa-museum.jp/dm/syoukin/ysb_ayumi/nenpyo/d_toudori02.html


場所は変わって鶴見総持寺。

小野家墓所(総持寺)

鶴見の総持寺に小野家の墓、小野光賢墓と小野光景墓がある。浅野一族(浅野総一郎)と同じ並び。奥まった区画に小野家の墓があった。小野家墓所の区画番地は「中央ハ2」。具体的な場所の情報が皆無のため、この場所を見つけ出すのに結構時間を要してしまった。
(目印となる浅野総一郎墓「中央ハ6」、清浦奎吾墓「中央ニ1-27」とも近い。)

総持寺には、小野光賢夫妻と小野光景夫妻をはじめ、一族が眠っている。

※撮影は令和2年12月

小野光賢夫妻の墓。

小野光景夫妻の墓。

親子で並んでいる。

小野家の家紋。

通路の突き当りが浅野家の墓。小野家の墓は、浅野家の脇の通りに鎮座。


横浜開港の功労者である小野光賢と小野光景の親子。正直にいってほとんど知名度がなく、あまり知られていない人物。横浜の人ですら知らないのでは・・・といったレベル。
そんな横浜の功労者を知ることができた今回の散策はとても貴重なものとなりました。

惜しむらくは、信州小野の「祭林寺」のお墓に詣でていなかったこと。
またの機会は有るのだろうか。。。

本記事はいったん〆

私の片隅散策「広島・江波編」

平成29年3月

広島・江波散策
・映画「この世界の片隅に」舞台探訪(広島・江波編)


この世界の片隅に 私の片隅散策

平成29年3月4日、広島市江波。
すずさんが生まれ育った街。

目立った観光地ではなく、この映画に出会わなければきっと訪れることもなかったであろう街。そんな街を私なりの目線で歩いてみようかな、と。

午前8時過ぎ。
宿屋を出発し活動開始。

広島駅から広島電鉄に乗車。
江波往復では元は取れないけど一日乗車券を購入。(市内線4回乗車でお得、原爆ドーム・中島本町と梯子する際は便利かと思います) 広島電鉄江波線の終点へ、と。

江波へ

広島電鉄江波線の終点へ、江波電停に向かいます。
広島電鉄は各地から集まった路面電車があちらこちらに走っており、見ていて飽きない。
すれ違った1913は京都市電出身。

江波

すずさんが嫁入りした時はまだ江波線は江波まで開通しておらず、昭和18年に江波線が舟入本町まで開通したばかり。
これは江波で埋立てていた新設軍需工場通勤需要。
すずさん幼年期は路面電車はまだ無かったのね。
江波停留所は昭和29年開業。

江波車庫後方に見えるのが皿山。
かつては皿山は江波山とつながっていて江波島と呼称。
また皿山を上山(かみやま)、江波山を下山(しもやま)とも。

すずさんの時代は射撃場があった。

http://www.asahi.com/area/hiroshima/articles/MTW20160404351100001.html

江波停留所にて案内看板を眺める。

ありゃー、見所たくさんあるよー
(事前調査が甘くて慌てる…街歩きのルートをざっと組み立て )

forever ほぉ〜江波! すばらしい、江波らしい。

おさん狐の像

かつて江波皿山に住んでいた「おさん狐」。
年齢80歳、500匹の一族を操る。 人をからかうも、人を苦しめることはなかった、と。また、京参りや伏見に位を貰いにいったりと風格があった、と。

江波停留所の隣の道路。
おさん狐は口に木の葉を咥えてました。

広島市江波児童館・江波第二保育園

すずさんが通っていた尋常小学校は、かつてこのあたりにあった。
尋常小学校から南に赴けば江波港。 学校と江波山の位置関係を把握。

太田川河川敷

尋常小学校のあった場所から太田川の川沿いへ。

太田川上流が中島本町や原爆ドーム界隈。 幼年期のすずさんが舟に便乗しておつかいへと向かった場所。

江波を横切るように渡る高架道路は広島高速3号線。

松下商店

太田川の河川敷から道路に戻ると松下商店がみえてくる。

すずさんとすみちゃんが元気に走って尋常小学校に通った道。
鬼イチャンの白木の箱(遺骨…)を家族とともに運び歩いた道。

松下商店。
往時と変わらぬ姿で、すずさんが育った時代が目の前に残っていた。リアルと映画がリンクした瞬間。
何とも言えない感動的な光景が拡がる。
窓にはロケ地マップが貼られおり、すずさんの足跡を辿るランドマークとしても機能していた。

丸子山不動院

松下商店の南側に小高い高台がある。
「丸子山不動院」
この江波地区は江波皿山、江波山、そして、丸子山の三つの島があり、その高台の一つ。
丸子山不動院は広島新四国八十八ヶ所霊場第76番霊場という。 また、丸子山の下部には古井戸も残る。

小さな稲荷祠が境内に鎮座していた。
この稲荷社、前述した、江波の「おさん狐」を祀っているともいう。

「丸子山不動院」
文化5年(1808)、江波の仲屋幸助が筑紫国に航海の際、豊後国の海中で漁師の網にかかった像を貰い受け江波に持ち帰り、丸子山に堂宇を建立。
大正5年(1916)火災消失し同年再建。

「丸子山不動院」丸子山からの眺望。

北側の太田川方面。
西側の江波皿山方面
南側の似島・安芸小富士方面。

安芸小富士が見える方向は、すずさんも波の兎とともに眺めた海。
(波の兎は後述の江波山ですが安芸小富士を眺めるには丸子山がベスト)

「丸子山不動院」境内に。

江波地区 戦死者戦病死者並原爆死者之霊

現実に呼び戻される空間。
ここは広島であった。
被爆の歴史とともに。
卒塔婆に頭を下げて合掌を…

江波港

丸子山から南に。
小さな小さな瀬戸内の漁港がみえてくる。

「江波港」
江戸時代は広島の外港として栄え半農半漁の集落であった。特に海苔とカキが採取され養殖が盛んな港。
明治期に宇品港が開港したことにより広島の外港の地位を譲る。

「江波」
江波がまだ島であった頃、漁業の餌が肥え魚も良く獲れたという。このことから良いエサ場の意「餌場」(えば)と呼ばれるようになり「衣波・衣羽・江波」と転嫁。

鎮守は「衣羽神社」。 すずさんたちが過ごした江波港を巡る。

海神宮

江波港の鎮守。江波港の出入口に鎮座。
海上交易と海上守護を願い江戸時代に創建。
御祭神は、大綿津見神。
現在の社殿は安政7年(1860)再興。

原爆に耐えた被爆建物。
江波港は爆心より3330mの距離。

海苔製造を生業としていた浦野家もきっとお世話になったであろう江波港の護り神。
幼年期のすずさんやすみちゃんは、この江波港を元気に駆けずりまわっていたのだろうなあ。
江波港の鎮守を前にして、夢想するひととき。

松下商店・江波港界隈。
広島ロケ地マップより。

聖山稲生神社

江波港の北西に。
「聖山稲生神社」が鎮座している。
鎮座地はもと海中の一小島であったと。江戸期の創建。
江波のこのあたりは徐々に埋め立てられていった歴史を持つ。

御神木は榎。樹齢300年超えとされている。
なんか変だなと思ったら、木の後ろ半分が失われている状態でした。

沿岸部では希少な巨木という。
飢饉の時、榎の葉は貴重な食料でもあった、と。

衣羽神社

江波港から南に江波山方面に歩く。
その江波山の北東側中腹に神社が鎮座。

「衣羽神社」(えばじんじゃ)
江波の集落の総鎮守。
御祭神は市杵島姫神、 多紀理比売神、多岐都比売命
いわゆる宗像三神(厳島三神)

鎮座年代は不詳なれど、正和2年(1313)編纂による安芸国国司所祭官社を集録した古代神名帳(官社神名帖安藝國官社百八十社)に「三位衣羽明神」とあり、広島市内でも有数の古社。
現在の社殿は宝暦3年(1753)、天井構造を「船底様式」で造営。

本殿は江波山の斜面に沿うように拝殿よりも一段高い場所に鎮座。
この拝殿と本殿は昭和20年8月6日の原爆に耐えた被爆建物。
爆心地より3,590mの距離。

御神木。

ふと見上げたら、御社殿の屋根瓦に狛犬がおられました。

江波山中腹に鎮座している衣羽神社から江波港を望む。往時から変わらず鎮座している江波の鎮守様。きっと浦野家(お父ちゃん、お母ちゃん、鬼イチャン、すずさん、すみちゃん)も初詣でここに参拝に来ただろうなあ、とか思いながらしばし佇む。

衣羽神社から山頂方面へ。
すぐ裏手に江波のお大師さま「龍光院」(広島新四国八十八ヶ所霊場第七十七番、江波の観音さま、お大師さま)
そして隣に「江波山気象館」

港方面から江波山に最短で向かおうとすると、いやがおうでも衣羽神社参道を進んでいくことになりますね。

江波山気象館

もとは昭和9年に建築された「旧広島測候所」。旧広島地方気象台。 原爆にも耐えた被爆建物であり、広島市重要文化財指定。

建築様式的には、20世紀初頭に花開いたドイツ表現主義の影響を受けたモダンな造形、というものらしい。

「江波山気象館」からの展望。

北側。広島中心部方面。
北東側。江波港方面。
南側。安芸小富士がちょっとだけ見える。埋立地方面。

「江波山気象館」
気象に関する展示がある中で、どうしても建物内にある原爆痕に目がいってしまう。

昭和20年8月6日8時15分頃。原爆の爆風で窓ガラスが吹き飛ばされ多くの破片が壁に突き刺さり痕跡が今も残っている。
江波山での爆風の速さは秒速700mだったと推定。

原爆痕の残っている部屋の片隅で。
何気なく馴染んでいました。

http://kuresc.net/ksk/

そうそう。 もう終わってしまったけど(3/20で終了)、訪れた時にちょうど開催されていた「すずさんの嫁入り」スタンプラリーにも参加しました。

江波山気象館(広島市江波)をスタートし入船山記念館(呉市)ゴール。

昭和19年2月
広島江波から呉へと、 すずさんの嫁入りを辿る、なかなか粋なスタンプラリー。

全部回ると記念ポストカードが貰えました。
ちょうどスタンプラリーのタイミングで広島に赴けたのも運がよかったと。

「江波山気象館」
戦前の鉄筋コンクリート造としては最末期の建造物としても価値があるこの建物。

そういえば、柳田国男の「空白の天気図」ではこの広島測候所での枕崎台風の記録が描かれているとのことで読んでみたくなりました。

さて、名残惜しいけど次へ向いましょう。

江波山公園

江波山の山頂。 すずさんが「コクバ」(焚き付け)を拾ってくる山
すずさんと水原が「波のうさぎ」を眺めた山

「困ったねえ」と晴れ着を被った珍奇な女(すずさん)が途方にくれていた山

そして、例のアングルを探す私w

江波山公園。 江波山の山頂。

実はこのあたりは眺望が良くない。3月の枯木だからまだ何とか向こうが見えるも、夏に訪れたら樹木の茂りで結構厳しさな状態。

例の位置関係を探す。

南側。今でこそ埋め立てられているが、向こうに微かに、似島の安芸小富士が見えるこの場所。確かにこの場所だ。

瀬戸内を向こうに感じるこの場所で、すずさんは「波のうさぎ」が跳ねる姿を描いたのだ。

「うさぎがよう跳ねよる。ほれ白い波が立っ取ろう 白いうさぎが跳ねよるみたいなが」
「ああ、ほんまじゃねえ 白うさぎみたいなねえ」


水原の運命を決めた兄の転覆事故死。
すずさんの脳裏に刻まれた江波の思い出。 安芸小富士を望むこの場所…

江波山公園。江波山の山頂。

戦後に開通した道路が江波山の下を抜ける。
江波トンネル。

江波山公園。
原爆の記録は至る所に残っている。それは広島市南端の江波も例外ではなく。

被爆者慰霊 母子愛の像

碑によせて
 昭和二十年八月六日午前八時十五分。
 一発の原子爆弾は相生橋上空五百数十米において炸裂した。一瞬にして街は阿鼻叫喚の場と化した。
 わが江波町の人的物的被害は中心部に比して軽かったが、時を経ずして、多くの負傷者が見るも無残な姿で殺到し、その数は一万人を突破した。
 一方、炎熱に耐えかねて本川に入水した無数の死傷者が折からの下げ潮にのって江波町の波打ち際に漂着して来た。
 その日、江波町は夏祭りであったが暗転して惨劇の街と化していった。
 肉親探し、救護、看護、更には火葬等の諸活動は町内会・警防団・婦人会等、役割を分担しながら秋まで続いた。
 あれから時は流れて半世紀、今日に至る江波町有縁の犠牲者は推定一万数千万にも及んでいる。
 襟を正して、これらすべての犠牲者の魂安かれと祈ることは現代に生きる者の責務であろう。更には人類の滅亡につながる核兵器の廃絶を願い、不戦の決意も新たに、ひいては世界恒久平和の実現を誠実に希求するその証しとして、心ある人々の浄財をもってこの碑を建立するに至った。
 碑面は「平和希望」を礎に、不変の真理である「おやこの愛」と「生命の尊さ」を訴えた。作者は中国広州美術学院教授曹崇恩先生であり、日中友好の架け橋ともなればとの想いも含まれている。
 願わくばこの心を子々孫々に至るまで受け継ぎ護り給わんことを。

平成七年八月七日 除幕 江波地区社会福祉協議会

「来月の6日は江波のお祭りじゃけえ、早う帰っておいでね…」

その日、江波町は夏祭りであったが暗転して惨劇の街と化していった。

あぁ…

廣島工業港 魚介藻類慰霊碑

昭和15年11月。
すずさんが呉に嫁入りに行く3年ほど前。(嫁入りは昭和19年2月)
江波沖を埋め立てる工事がはじまる。 この慰霊碑は埋立てにあたって江波沖の魚介藻類の生命を奪うことを慰霊するという珍しいもの。

魚介藻類慰霊碑「生物ノ多クハ多年漁家ノ人為増殖シテ其ノ生活ヲ支エ來リシモノナレバ此ノ漁場ノ異變ハ直チニ其ノ生活ニ甚大ナル影響ヲ及ボスモノナリ」 浦野家の海苔も江波港埋立で廃業。
「うちも江波の埋め立てで海苔はやめてましてのう」

廣島工業港 魚介藻類慰霊碑
碑文裏

廣島工業港修築ハ萬般ノ準備整フテ着工ノ日(昭和十五年十一月三日)近キニ在リ
此ノ工タル實ニ百三十萬坪ノ地域ニ及ブ大事業ニシテ地下ニ埋没シ生命ヲ絶ツ魚介藻類其ノ數ヲ知ラズ
而モ是等ノ生物ノ多クハ多年漁家ノ人為増殖シテ其ノ生活ヲ支エ來リシモノナレバ此ノ漁場ノ異變ハ直チニ其ノ生活ニ甚大ナル影響ヲ及ボスモノナリ
然レドモ國家興亡ノ此ノ秋ニアタリ本工業港完遂ノ一日モ速カナランコトヲ待望スル朝野ノ念ニ應ヘ漁業関係者各位ハ萬苦ヲ忍ビ漁業関係者各位ハ萬苦ヲ忍ビ敢然此ノ擧ニ賛同シ協力支援ノ態度ヲ表明セラレタリ
茲ニ魚介藻類ニ回向スルト共ニ漁業關係者各位ニ深甚ナル敬意ト感謝ヲ捧グ

昭和十五年九月二十一日魚介藻類
慰霊法要ニオケル廣島縣知事
相川勝六氏ノ式辭ヨリ抜萃

江波山(高さ37.6m)を後にして次へ。

江波山は元々「江波島」。
江戸時代から埋め立てが進み文化8年(1811)に陸続きに。その当時の江波島は江波山(下山)と皿山(上山)と連なっており両山の土砂を埋立に活用して現在に至る。

なんとなく陸と海の境目を歩く。
左側に見える建物が「広島市江波山気象館」

こうやってみると、思ったほどには高くない。

昭和の頃は江波と対岸の草津は渡し船があったり干潮時に遠浅の海を歩いて渡ったりもできたようだけれども、平成の世になると高架道路が江波を東西に貫いている。広島南道路・広島高速三号線。草津ー江波ー吉島ー宇品を結ぶ。奥が草津方面。

シュモーハウス

シュモー博士が被爆者の為に建てた住宅のうち唯一の現存建造物。
2012年より広島平和記念資料館の附属展示施設。
ちょうど3月末まで映画に関するパネル展も行っていたので足を運んでみました。

「シュモーハウス」この世界の片隅にin江波
「波のうさぎ」鏝絵(こて・え)の新聞記事など。

関連パネル展。

原爆ドームと中島本町。T字型の相生橋。
被爆直後の昭和20年10月5日撮影。

昭和26年(1951)に米国のフロイド・シュモー氏は原爆により家を失った人々の為に尽力し、該当施設はシュモー氏にとって集会所として建設された。

江波の界隈を改めて。 ロケ地マップ抜粋。

さて時刻はそろそろ12時になろうかという頃合い。
足は自然と松下商店の方向に向いていた。

江波には有名なラーメン屋があるけども、それじゃあ味気ない。
せっかくなので、松下商店の右隣にある「お好み焼き屋」さんに。

「お好み焼き・わいわい」
松下商店の隣。先客が1人。映画を見て訪れたとか。しばし談笑。
私のあとからは近所で仕事をしていた方が2人来客。そのあとにやはり映画ファンが1人来客。
お姉さんが忙しく鉄板でお好み焼きを焼いてくれます。

「お好み焼き・わいわい」

アツアツの鉄板。広島ならではのお好み焼き。
お姉さんがテキパキと作ってくれます。

あー、なんか良いですね。こういう雰囲気。
見ているだけで楽しいです。

出来ました。アツアツです。
(生ビールをうっかり頼んでしまいました。
(熱すぎたので取り皿もらいました。

旨いです。
鉄板で食べる。そして広島江波で食べるというシチュエーションが旨さを倍増させてくれます。

江波停留所に戻る。午前9時半に江波停留所をスタートして12時半に戻ってきたので約3時間の散策。

すずさんの足跡を辿りながら、
原爆と向き合う旅ともなった江波散歩。
楽しみつつ、神妙になりつつの
充実した散策となりました。

13時半頃。広電で広島駅に戻ってきました。
広島駅は爆心地より1.9kmの場所。

さようなら
さようなら江波
さようなら広島

乗り込んだJR呉線は「広」行きでした。
広(広工廠の地)は今回いけませんでしたが。

「江波」編はこのあたりで〆ていきましょう。


※呉編は準備中


「この世界の片隅に」 散策ガイド

現地散策の参考に。
「この世界の片隅に ロケ地マップ」 (広島中島本町・広島江波)

有志作成のgoogleマイプレイス この世界の片隅に_ロケ地MAP

https://www.google.com/maps/d/viewer?mid=1o7HGZm0YISZ6RDNGTnoTn26_zjs&hl=en_US&ll=34.185055680214056%2C132.18369739999991&z=9

広島散策。江波散策。
街を歩けば常に感じさせられる戦災と原爆の爪痕。
すずさんたちの生きた世界の片隅を垣間見つつ。
現実と虚構の狭間をゆらゆらと漂いながら。
不思議な心持ちでの重厚な聖地巡礼のひとときでした。

江波編〆

私の片隅散策「広島・中島本町と原爆ドーム編」

平成29年3月

広島・中島本町と原爆ドーム散策
・平和記念公園
・原爆ドーム
・レストハウス
・映画「この世界の片隅に」舞台探訪(広島・中島本町編)


この世界の片隅に 私の片隅散策

平成29年3月3日夕暮れ。
その象徴的な空間に吸い寄せられるように歩みを進める。

その尊き墓標に真正面から対座する。
極めて神妙な面持ちの中で、 魂が、心が、震え緊張する空間を。

この日は、広島護國神社を参拝し、そして南下。 

広島電鉄八丁堀電停。
八丁堀の交差点に着いたのは17時ごろであった。

福屋百貨店

八丁堀交差点の「 福屋百貨店 」

里帰りしたすずさんが鉛筆を持つ右手を伸ばし構図を作りながら描いた建物ですね。 早速の既視感のある光景に早速興奮してしまう私…。

八丁堀交差点「福屋百貨店」
爆心地から約710メートル

鉄筋コンクリート造地上8階地下2階建て建造物。
原爆の炸裂により被災した建物は、骨組みと外郭を残すだけと。

広島の町に残る被災建造物は、そのひとつひとつが歴史の伝承者であり。

紙屋町交差点

八丁堀の交差点から西に歩めば紙屋町交差点。
広島城の真南であり、今も昔も往来激しい交通の要所。

旧・広島県産業奨励館(原爆ドーム)

昭和20年8月6日。
史上初の原子爆弾はこの建物の直上600mで空中爆発。

実は昔、ここには来たことはあった。
しかし当時はさほどに興味を抱いていなかった。

あれから十数年。
改めてこの場所で、真摯に対座する。

各地の戦争遺跡や慰霊碑をめぐるようになって 各地で手を合わせ、頭を垂れるようになって、そうして一段とこの場所が重くのしかかってきた。

薄っぺらい平和学習では伝わらなかった、凄みが。
まさに墓標であった。
しばし立ち竦み緊張した面持ちで静かに対座する…

歩みを進める。原爆ドームから対岸へ。

右上が旧市民球場(旧・護國神社)。
原爆ドーム隣の橋は相生橋。
T字の相生橋の南は中洲となっている「旧・中島本町」が現在の平和記念公園。
この中島本町こそが原爆で消滅し、「この世界の片隅に」で蘇った街。

広島・平和記念公園

平和の灯
平和の池

「核兵器が地上から姿を消す日まで火を燃やし続けよう」という象徴の灯火。 慰霊碑と原爆ドームの中間に位置する。

原爆死没者慰霊碑

鎮魂

無心で手を合わせる。
政治や思想の色を持たずに雑念を捨てて、 真摯に頭を垂れる。
余計なことはここでは言わない…

広島市平和記念公園レストハウス

元安川にかかる元安橋まで戻る。

この橋の先に見えてくる建物が「広島市平和記念公園レストハウス」
原爆被災の中心となった中島地区でただ一つ残った戦前からの建造物。

「レストハウス」
1929年「大正屋呉服店」として中島本町に開業。
1943年に閉店し「広島県燃料配給統制組合」が使用。
1945年に原爆被爆するも全壊は免れた。

幼少のすずさんがおつかいにきた冒頭の街が被爆前の中島本町。

中島地区。
爆心から100~700m
戦前は市内有数の繁華街。スズラン灯が設置されモダンな街であった。

街の北側の相生橋は市の中心部でT字型であったために原爆投下目標となり、1945年8月6日に被爆し「中島本町」は全滅する。

「大正屋呉服店」(レストハウス)以外にはもちろん往時を物語る何かはない。失われてしまった空間。
あの瞬間から約70年後。
「この世界の片隅に」で、昭和8年12月22日の歳末で賑わうモダンな「中島本町」が蘇ったのだ…

中島本町・中洲の西側。
太田川にかかる本川橋付近。

ここあたりが、幼少のすずさんが江波からおつかいに行く途中に、舟から上陸した場所。
石垣の石段(雁木)は上陸地点の対岸の石段をイメージで撮影。
(かなり滑りやすいので注意!)

中島本町北端。嫁入り後の里帰り。
この場所で、すずさんは「産業奨励館(原爆ドーム)」をスケッチ。

「さようなら広島」

そして昭和21年1月。
草津の森田家にすみちゃんを見舞いに訪れた帰路。同じ場所で破壊された建物を見つめる。

中島の中洲から元安川むこうの対岸に。

産業奨励館(原爆ドーム)
爆心地から約160m 1915年(大正4年)4月完成。
原爆によって建物は大破・全焼。

相生橋

橋名の由来は、2つの橋が「相合う」ことから、と。

初代親柱 1878
二代目親柱 1945再建
三代目親柱 1983 が現在の相生橋。

相生橋。
その特徴的なT字の橋は1940年(昭和15年)に形成されている。
幼年期のすずさんが中島本町におつかいに来たとき、すなわち「ばけものにさらわれて、そして周作さんとはじめて会った」時は、まだT字にはなっておらず。

戦後、相生橋上の二人。

周作さん
「もうあの頃には戻らん。この街もわしらも変わり続けていくんじゃろうが。」
すずさん
「周作さんありがとう。この世界の片隅にうちを見つけてくれて…」


幼少のあの頃と戦争を乗り越えたその後の光景。

原爆ドーム

再びこの場所に。
18時15分。

徐々に闇へと包まれていく、その墓標を前に。

18時30分。
相生橋の片隅で。

奇妙な心持ちであった。
これは皮肉なものであった。

語弊のある言い方になってしまうが、美しかった。
緊張する美しさがそこにあった。

慰霊の念とともに、 心静かにファインダーを覗きシャッターを切る。

気がつけば19時近く。
立ち去るのが名残惜しい。が、時間は有限であった。

最後に深々と一礼、そうして私は新たな歩みを。

多様な目線と思案とともに貴重な反芻を行いつつ、薄っぺらい平和学習では得られない良き経験ができました。

ありがとうございました。


※呉編はこちら。


「この世界の片隅に」 散策ガイド

現地散策の参考に。
「この世界の片隅に ロケ地マップ」 (広島中島本町・広島江波)

有志作成のgoogleマイプレイス この世界の片隅に_ロケ地MAP

https://www.google.com/maps/d/viewer?mid=1o7HGZm0YISZ6RDNGTnoTn26_zjs&hl=en_US&ll=34.185055680214056%2C132.18369739999991&z=9

外務省外交史料館別館(吉田茂記念資料特別展示場)

平成27年

この年(平成27年・2015年)は戦後70年目の節目でした。

昭和20年9月2日。
第二次世界大戦での日本の降伏調印。日本帝国政府代表として重光葵外相、大本営代表として梅津美治郎陸軍参謀総長が東京湾の戦艦ミズーリ号艦上で連合国に対する降伏文書(ポツダム宣言)に調印し、第二次世界大戦が終結。

この節目を記念して、「降伏文書原本特別公開 」が行われましたので足を運んでみました。

外務省外交史料館 戦後70年企画「降伏文書」「指令第一号」原本特別展示


外交史料館入口。
普段は平日のみ開館で、なかなか行く機会がない場所なのだ。
外務省飯倉公館敷地内に併設。

以下、目についたものを記録。

日本の対外的条約はここから始まります。

日米和親条約

日米修好通商条約

樺太千島交換条約

蝋缶。
蝋缶のなかには国璽が押されて保管されている。
条約批准書に蝋缶をつけるのは西洋様式。

第1回日英同盟協約

日清講和条約調印書

日露講和条約調印書

日露講和条約批准書

第一次大戦
パリ講和会議各国記念サイン

ワシントン海軍軍縮条約

ロンドン海軍軍縮条約

ワシントン海軍軍縮条約破棄通告

日独防共協定

日独伊三国同盟条約調印書

日ソ中立条約調印書

日米交渉日本側最終案
「甲案」「乙案」

それに対し、アメリカはハルノートで回答し、決裂…… 日米交渉の矢面に立つは野村大使。

降伏文書

そして、戦争は終わる。 ミズーリ号での降伏文書調印。

大日本帝国政府代表として重光葵外相、大本営代表として梅津美治郎陸軍参謀総長 この署名に深く込めらた重みに想いをはせる。

司令第一号

降伏文書と共に発行された連合国による司令第一号。
最初の命令。

重光葵書簡

降伏文書調印前日に、重光葵外務大臣より寺崎英成氏に宛てられた書簡。
調印式に臨む重光外相の胸の内。

対日平和条約認証謄本
サンフランシスコ平和条約

昭和26年9月8日調印。翌年4月発行。
日本は独立を回復する。

吉田茂全権が読み上げた対日平和条約受諾演説の原稿はまるでトイレットペーパーだと称された。

旧・日米安全保障条約

昭和26年9月8日調印。 吉田茂。

新・日米安全保障条約

昭和35年1月19日調印。 岸信介。

日本国と大韓民国との間の基本関係に関する条約

昭和40年6月22日調印。
この条約により、日本と韓国は国交正常化……
その後の日韓関係を規定……………

吉田茂のパスポート

サンフランシスコ講和会議に首席全権として参加のために発行。
戦後発行第一号のパスポート。
ステッキは昭和40年に米寿祝いとして御下賜された鳩杖。吉田茂遺品。

明治17年天長節晩餐会メニュー

明治26年天長節鹿鳴館夜会舞踏会メモ帳。

ほかにも見どころたくさんですが、平日のみの公開というのがなかなか敷居が高く。
また機会あれば見学したいですね。

「こんなに焼けたか」昭和天皇と富岡八幡宮

令和元年5月撮影・門前仲町

富岡八幡宮

「こんなに焼けたか」

東京大空襲の被害状況のご説明を富岡八幡宮境内にて聞き終えた 昭和天皇は、しばし絶句されて、立ちすくまれた、という。


天皇陛下御野立所

(おのだちしょ)

天皇陛下御野立所

昭和二十年三月十八日
戦災地御巡幸ノ際
玉歩シ此處ニ駐ノサセ給フ

東京都

昭和三十五年四月二十九日建立

昭和天皇 救国のご決断と富岡八幡宮

昭和天皇 救国のご決断と富岡八幡宮

 昭和19(1944)年11月に、アメリカ軍による東京空襲が始まった。
昭和天皇はこの年10月に靖国神社例大祭に行幸されたのを最後に、皇居から出られなかった。
 天皇は3月10日に東京大空襲が行われると、被災地を視察されたいと仰言せられた。軍は天皇の抗戦のご決意が揺らぐことを心配して強く反対したが、天皇が固執された。
 宮内省と軍が「御巡幸」の日時について打ち合わせ、3月18日日曜日午前9時から1時間と決定された。
 御料車からボンネットに立つ天皇旗を外し、いつもは沿道に警官が並ぶが、天皇であることが分からないように、できるだけ少なくし、交通を寸前まで規制しなかった。
 御料車が永代橋を渡り深川に入ると、見渡すかぎりの焼け野原だった。
 天皇は富岡八幡宮の焼け焦げた大鳥居の前で降りられると、大達内相の先導によって、延焼を免れた手水舎の前に向かわれた。粗末な机が置かれていた。
 内相が被害状況のご説明を終えると、天皇は「こんなに焼けたか」としばし絶句されて、立ちすくまれた。
 この時に、昭和天皇は惨禍を目のあたりにされて、終戦の御決意をされたにちがいない。
 大戦が8月15日に終結した。8月15日は江戸時代を通じて、富岡八幡宮の例大祭に当たった。終戦は富岡八幡宮の御神威によるものだった。
 新日本の再建は、富岡八幡宮から始まった。

 富岡八幡宮友の会一同
 加瀬英明

 昭和天皇は、ここ富岡八幡宮から
東京大空襲の被災地を視察されました

江戸・東京の発展と、日本の平和と発展を願い、ここに石碑を建立する
平成31年3月18日
富岡八幡宮友の会

「日本ニュース 第248号」でも、 昭和天皇の視察のようすが記録されている。

https://www2.nhk.or.jp/archives/movies/?id=D0001300376_00000&chapter=001

先日、富岡八幡宮に参拝する機会がありまして、手水舎脇に新たに設立された「石碑」を拝見。
東京大空襲後の東京を、1週間後の3月18日に 昭和天皇は富岡八幡宮から御巡幸なされ、焼け野原の様子をご覧になられたという。

参拝を

灯籠は明治45年奉納。
昭和天皇御巡幸の際も石灯籠は戦災から逃れ残っていた。


天皇陛下御製

昭和天皇御製

身はいかになるともいくさとどめけり
 ただたふれゆく民をおもひて

 元侍従次長 鈴木一謹書

昭和20年8月15日 終戦時の御製

鈴木 一(はじめ)氏は、侍従長・首相 鈴木貫太郎の長男。
元陸軍主計中尉、首相秘書官、侍従次長、外務省入国管理庁長官などを努めた。

天皇陛下御在位60年奉祝記念
 大東亜戦争末期の昭和20年3月18日、
天皇陛下は、大空襲で焼土と化した東京をご視察になり、ここ富岡八幡宮境内にお立ち寄りになった。この時、 陛下は爆撃の惨状に深く御心を痛められ、その後終戦の御聖断を下されたのである。この御製は、その当時お詠みになった大御歌である。陛下の御聖徳を讃え、後世に伝えるため、ここに刻む。
昭和61年10月26日
天皇陛下御在位60年東京都奉祝委員会


天皇皇后両陛下 行幸啓記念碑

この碑の歴史的な意義とは別の、お家騒動的な話は、格別には触れません。
一時期は埋められていた「宮司」の二文字も戻されておりました。

合掌。

天皇皇后両陛下 行幸啓記念碑
富岡八幡宮宮司富岡長子謹書

天皇皇后両陛下には、平成24年8月12日、富岡八幡宮に行幸啓の栄を賜りました。
この行幸啓は、昭和天皇が昭和20年3月18日という東京大空襲のわずか8日後に被害状況ご視察のため、当神社に行幸あそばされたことを忍ばれてのことと拝察され、当日はご参拝の後、婚儀殿にて東京大空襲に被災した江東区民と御懇談になり、当時の体験談を熱心にお聞きになって親しくお言葉をおかけになられました。(後略)
平成26年4月26日 江東区長 山崎孝明

https://www.tomiokahachimangu.club/

http://www.tomiokahachimangu.or.jp/shahou/h2404/htmls/p05.html


富岡八幡宮の周辺にいくつか近代史的なスポットがありますのであわせて掲載。

石造燈明台

明治31年 深川公園

江東区指定有形文化財(建造物)
石造燈明台 明治三十一年在銘 一基

 日清戦争(1894~1895)の勝利を記念して、深川不動堂の境内南東地に建てられました。明治28年(1895)12月に起工し、明治31年(1899)7月に竣工しました。高さ839.4cm、最大幅373.4cmの大きな燈明台で、内部煉瓦造り、外壁には安山岩の石板が貼られています。設計及び監督技師の佐立七次郎(1856~1922)は、工部大学校造家学科(現東京大学工学部)の第一期生でジョサイア・コンドルに師事した日本近代建築家の1人です。成田山新勝寺にもほぼ同形状の燈明台(明治27年〔1894〕竣工)が現存します。
 外壁には奉納者・奉納団体が刻まれた石板が359点貼られています。奉納者には「団菊左時代」を築いた9世市川団十郎、5世尾上菊五郎、初世市川左団次をはじめとする歌舞伎役者や常磐津などの芸能界、土木実業組合や東京石工組合、東京株式取引所などの実業界、また魚河岸、船頭、吉原・洲崎の遊郭や割烹料理屋などがみられ、深川不動堂が幅広い人々によって信仰されていたことがうかがえます。就航当初は上部に八角の火袋がありましたが関東大震災により倒壊しました。平成19年度に区指定有形文化財に指定され、平成20年(2008)に現在地に移設されました。
 平成21年(2009)9月 江東区教育委員会

dav
dig

明治三十七 八年役戦死者忠魂碑

日露戦争の忠魂碑
渋沢栄一謹書

たまに足を運びたくなる深川散歩でした


関連

もう一つの真珠湾「九軍人」岩佐直治を偲ぶ

もう一つの真珠湾。
九軍神と讃えられた勇士の一人、岩佐直治を偲ぶ


昭和16年12月8日 ハワイ真珠湾

大東亜戦争の口火が切られた日。
文字通りに水面下の戦いがあった。

特殊潜航艇(甲標的)

のちに九軍神と讃えられた勇士たちの戦い

先日、特殊潜航艇の主任搭乗員であった 岩佐直治 大尉(死後に二階級特進・海軍中佐)の墓前に手を合わせてくる機会がありました。


岩佐直治

群馬県前橋市天川原出身
大正4年(1915)5月6日 – 昭和16年(1941)12月8日(26歳没)

特殊潜航艇「甲標的」による真珠湾攻撃の考案者の一人であり、自ら搭乗して真珠湾攻撃での決死的攻撃により戦死なされた。九軍神の一人。

御墓は松竹院(前橋市本町3-17-12)にある。


大戦の
 思い出つまる
  松竹院

岩佐直治之墓

故海軍中佐
正六位
勲四等
功三級

岩佐直治之墓

眞珠院殿護國純忠大居士

艦隊司令長官 海軍中将 清水光美 書


清水光美は第六艦隊司令長官。

開戦時は清水中将指揮下に潜水艦隊(特殊潜航艇)があった。

のちに清水中将は「陸奥」爆沈事故の責任を取らされる形で第一艦隊司令長官を罷免、予備役編入されている…


甲標的の初陣

甲標的の最先任搭乗員である岩佐直治が開戦劈頭に敵の港湾にひそかに侵入して攻撃する実行案を立案。

母艦「千代田」艦長の原田覚と協力し具体案を軍令部作戦課潜水艦作戦主務参謀 有泉龍之助 中佐に相談して同意を得え、更に数度と改善案を練り直すことによりついに採用となった。

昭和16年11月
甲標的部隊は「特別攻撃隊」と第六艦隊司令長官 清水光美中将によって命名される。
清水中将は訓練母艦「千代田」原田覚艦長と、10名の特別攻撃隊隊員、母潜となる5名の潜水艦艦長、佐々木半九特別攻撃隊指揮官らを集め、真珠湾攻撃命令のコピーを異例ながら自ら隊員に手渡したという。

昭和16年(1941)11月18日午後8時から19日午前2時過ぎにかけて、大型巡洋艦丙型の5隻の伊号潜水艦は、それぞれに「特殊潜航艇」を搭載し、広島倉橋島から一路ハワイ真珠湾に向けて出航。

特殊潜航艇
特別攻撃隊指揮官・佐々木半九大佐
伊22搭載・岩佐艇(岩佐直治大尉、佐々木直吉一曹)
伊16搭載・横山艇(横山正治中尉、上田定二曹)
伊18搭載・古野艇(古野繁実中尉、横山薫範一曹)
伊20搭載・広尾艇(広尾彰少尉、片山義雄二曹)
伊24搭載・酒巻艇(酒巻和男少尉、稲垣清二曹)

昭和16年12月7日
伊号第22潜水艦に乗艦した岩佐大尉は真珠湾湾口に至り、いよいよ総員戦闘配置に就いたところで伝声室を通じて、よどみない最後の挨拶を述べて特殊潜航艇に移乗されたという。

岩佐直治の挨拶

本艦に来艦してから約一ヶ月、呉出港してから三週間、一同の○勢なる協力と絶大なる努力に依りまして、只今真珠湾港外二〇浬の地点に達することが出来ました。此の上は天佑と神助に依りまして目的の貫徹を期し私の最後の任務達成に向て出発致します。終りに臨み伊22潜の武運長久を祈ります サヨーナラ

ハワイ時間・1941年12月7日午前0時42分
(日本時間・昭和16年12月7日20時12分)

特殊潜航艇は順次で真珠湾に向かって出撃をした。
横山艇は午前0時42分
岩佐艇は午前1時16分
古野艇は午前2時15分
広尾艇は午前2時57分
酒巻艇は午前3時33分

ハワイ時間12月7日午前3時42分
真珠湾入口を掃海していた掃海艇コンドルが海面に1隻の潜望鏡を発見、哨戒中の駆逐艦ウォード(USS Ward)に連絡。
ウォードが捜索するも何も発見できず、誤報が続いていたことから格別な報告もあげなかった。
この時に辛くも逃げ切った特殊潜航艇は横山艇といわれている。

ハワイ時間12月7日午前6時33分
横山艇を見逃した米軍であったが、哨戒帰路のPBY偵察機が引き続き国籍不明の小型潜水艇を発見。
再び駆逐艦ウォードは現場に急行する。

ハワイ時間12月7日午前6時45分
駆逐艦ウォードは不審な潜水艇に対し発砲を開始し重ねて爆雷攻撃を行い撃沈させた。
この特殊潜航艇は広尾艇か古野艇とされている。

午前7時55分に開始された日本海軍機による真珠湾空襲より1時間早く、水面下の戦いは始まっており、そして日米の最初の犠牲は特殊潜航艇であった…

ハワイ時間12月7日午前8時35分
米海軍応急出動艦モナハン(USS Monaghan)は、水上機母艦カーティス(USS Curtiss)の「敵潜水艦発見」の報告を受けた。
すでに日本海軍機の真珠湾攻撃は始まっており、カーティスは急降下爆撃機による攻撃が直撃し炎上、消火活動中であった。

ハワイ時間12月7日午前8時37分
カーティスが発見した特殊潜航艇はカーティスへ向け魚雷1本を発射(カーティスから外れドックに命中)、報告を受けたモナハンは艦首右舷1100mの距離で潜望鏡と司令塔の一部を発見、フルスピードで特殊潜航艇に向け突進、体当たりを敢行する。

この特殊潜航艇は向かってきたモナハンに向けても魚雷を発射(外れてフォード島に命中)、モナハンは全速力で特殊潜航艇に乗り上げ突進し、艇を海底に叩きつけ爆雷攻撃を開始。

激闘の末に駆逐艦モナハン(USS Monaghan)によって轟沈させられた特殊潜航艇が、岩佐直治艇であったという…

昭和22年3月
ハワイの米海軍軍当局は特殊潜航艇の遺品として真珠湾底の泥にまみれた海軍大尉の袖章を日本に送還。
特別攻撃隊の隊員のうち大尉は岩佐直治隊長のみ。
岩佐直治の遺族に送られ、昭和39年12月8日、開戦そして岩佐直治戦死から23年目に遺族から靖國神社に奉納され遊就館に展示されている。


軍神 岩佐中佐

軍神 岩佐中佐
(読売新聞社選詞・東京音楽学校作曲)

1.
仰ぐ赤城の山は映え
大利根めぐる厩城下
こゝに建武の血をうけて
郷土群馬に男子あり
姓は岩佐ぞ名は直治

2.
君のみために死する時
孝を遂げしと思召せ
かをる勲の絶筆を
手にせる父はほゝゑみて
あゝ軍神の母泣かず

3.
敵がたのみの真珠湾
防塞くぐる新兵器
断乎撃滅大和魂
血の訓練の甲斐ありて
「われ襲撃に成功す」

4.
見よや類なき大戦果
輝く特別攻撃隊
率ゐて散りし武士の華
軍神岩佐中佐こそ
その名燦たりとこしへに

昭和17年4月11日 文部省検定済
昭和58年3月彼岸 岩佐直衛建之


特別攻撃隊

特別攻撃隊
(読売新聞社選詞・東京音楽学校作曲)

1.
撃ちてしやまむ ますらをに
なんの機雷ぞ 防潜網
あゝこの八日 待ちわびて
鍛へぬきたる晴れの技
示すは今ぞ 真珠湾

2.
神なり すでに九つの
生死越えたる 荒御魂
いざ皇國の 興廃と
史上例なき 肉薄に
必殺ちかふ 海の底

3.
轟沈 撃破 ときの間に
屠る戦艦 巡洋艦
みよ友軍の 爆撃に
あがる火柱 水柱
天誅くだる 米主力

4.
襲撃まさに 成功と
月の出潮に 打つ無電
おゝその無電 打ち終へて
遂に還らず 艇五隻
還らず遂に 九勇士

5.
一億あふげ 盡忠の
天地つらぬく その誠
げに大東亜 聖戦の
基かためし 軍神
燦たり 特別攻撃隊

昭和17年4月11日 文部省検定済
平成12年12月8日 岩佐直衛 建之


岩佐中佐 遺書ノ碑

岩佐中佐 遺書ノ碑

昭和の鴻業、未だ半ばにして前途益々多端今一歩を誤らんか。
三千年の光輝ある歴史は一朝にして破砕され、延びゆく大和民族の壮図は中道に挫折す。
此の秋、此の世に生を承け、この難関突破の使命を負ふを得たる。
まして軍人として國民の第一線に立ち、大和歴史の擁護者として、現下の時局に対処し得たる、此直治、最大の栄誉なり。
ましてや選ばれて、単身敵港湾に突入、以て直撃一挙に敵意図を打破し、大和正義を認識せしめ、民族の福祉と世界平和招来の大任を帯ぶるにおいておや。
今、勇躍壮図に就くに際し、思いを述ぶれば、皇國の安危比岐るる時、命を承け此の大任に就く。
武人の本懐これに過ぐる無し。
御稜威の下、必ずや、大任を果たし得るを確信するものなり。
然れども又此の業、容易のものに非ず、再会を期し難し。
願はくは此の世に生を承けてより二十有七星霜暑きにつけ寒きにつけ、御心の程をなやまし、子としての務まだ務めざりし、御許し被下度。 此行果し得ば、後果つるとも御讃め被下度、又行半ばにして果つるとも、直治の魂の赴く所を得さしめられ度。

(岩佐直治 辞世)
櫻花 散るべき時に 散りてこそ
 大和の花と 賞らるるらん
身はたとえ異境の海に はつるとも
 護らでやまじ 大和皇國を
              直治
父上様 母上様


有泉龍之助

岩佐直治の提案に共感をした有泉龍之助 (最終階級は海軍大佐) は、当時は軍令部第1部第2課部員の要職にあり潜水艦作戦の主務者であった。
岩佐とともに作戦を練り上げ、真珠湾攻撃に特殊潜航艇「甲標的」を使用することを上層部に主張し実現させた人物。

昭和20年1月、有泉海軍大佐は第1潜水隊司令に就任。
7月23日、ウルシー環礁襲撃の命を受け「伊号第四百一潜水艦」(伊401)に座乗し出撃するも作戦中に終戦。降伏のため本土帰還途上の8月29日、米海軍により伊401は海上接収される。
その時、有泉司令は司令室で自決。
机には真珠湾攻撃の九軍神の写真があったという…


九軍神

真珠湾攻撃において、甲標的に乗組み、未帰還となった岩佐直治ら以下の9名。

岩佐直治 中佐
横山正治 少佐
古野繁実 少佐
広尾彰 大尉
佐々木直吉 特務少尉
横山薫範 特務少尉
上田定 兵曹長
片山義雄 兵曹長
稲垣清 兵曹長

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:9_Gunshin.jpg


岩佐直治は8人兄姉の末っ子であった。
尋常小学校時代を偲ぶ碑もある。
卒業生総代として成績優秀であった直治は旧制前橋中学校(群馬県立前橋高等学校)を経て海軍兵学校(海兵65期)を卒業している。

岩佐家の家紋とは別に、潜望鏡と菊を連想させる紋もあった。

未曾有の国難に殉じた英霊に 哀悼の誠を捧げ、今日の我が国の安泰と繁栄に感謝する。

参考書籍 「九軍神は語らず―真珠湾特攻の虚実」(牛島 秀彦 著)

平成30年参拝

浅川地下壕の戦跡散策

平成29年11月 八王子市・高尾駅

ある秋の日。
事前に申し込みをしていた見学会に参加しておりました。

浅川地下壕の保存をすすめる会」様主催の地下壕見学。

http://asakawatikagou.web.fc2.com/index.html

保存をすすめる会様では地権者など関係各位との許諾のもと、月1度の見学会を行っている。そんな見学会に参加してきた模様を以下に。

中島飛行機関連

https://senseki-kikou.net/?p=7066

浅川地下壕

戦争末期、中島飛行機武蔵製作所疎開工場として機能した地下工場跡。
高尾駅の南に、イロハの3地区に別れており、現在は「浅川地下壕イ地区」が月一度公開されている。総延長は10km以上という。

浅川地下壕イ地区南端開口部の地権者高乗寺の協力と東大地震研との協定により月1度の公開。

壕内には東大地震研による地震計が設置。
これは地表の振動影響を受けない地下壕地盤は観測装置を設置するのに最適環境である為。ゆえに振動が発生する見学会は月一度に制限され見学会中は観測は中断。

中島飛行機武蔵製作所

昭和19年11月24日、中島飛行機武蔵製作所が空襲されたことを機に工場疎開が決定。
東京多摩浅川、福島信夫山、栃木大谷などに地下工場の建設が始まる。
まずは陸軍浅川地下倉庫として昭和20年2月に第一期工事が完了。次いで第二次工事にて地下壕の増設が終戦まで続く。

中島飛行機浅川工場
 (第十一製造廠浅川工場)

昭和20年4月、中島飛行機武蔵製作所は第一軍需工廠第十一製造廠と改称。 昭和20年6月に中島飛行機武蔵製作所より機械の搬入がはじまり7月頃に「第十一製造廠浅川工場」として地下工場が稼働。

しかし湿気による機械の腐食と劣悪な地下環境による工員の体調不良もあり、また各種部品製造所を分散疎開させたために交通事情の悪化も伴い効率は低下。
生産性は悪かった。

白く見えるものはカビ、この日は外は雨ということもあり湿気も一段と・・・

終戦迄の浅川地下工場でのエンジン生産台数は諸説ありゼロ台~数十台とも。
戦後の米軍調査によると約10台のエンジンが完成、組み立て中が18台、多数のエンジン部品が残されていたという。

全体として生産力減少の影響は空襲被害よりも疎開による非効率が大きかったと分析されている。

昭和20年8月17日創業停止。
中島飛行機は社名を変更。第十一軍需工廠は解散。

中島飛行機武蔵製作所は「富士産業株式会社武蔵工場」、
中島飛行機浅川工場は「武蔵工場浅川分工場」と名称変更。

戦後は地主への返還や払い下げなどが行われ旧地下壕の一部ではマッシュルーム栽培などに使われたこともあった。

平成9年「浅川地下壕の保存をすすめる会」発足。

平成11年には「イ地区」でダイナマイトなど3トンの火薬が発見。

平成26年、長年私有地であった「ロ地区」(金比羅山)が八王子市の市有地となり市文化財保存に期待が高まっている…

地下壕の掘削には削岩機とダイナマイトを使用。

岩盤にダイナマイトをつめる「穴」を開け、爆破させ掘削をした名残も残っている。

「浅川地下壕」に関しては、(月一回の公開もあり)多くのレポートがあるので詳細は割愛。

壕に入ったときは雨でしたが、壕から出たら晴れておりました。

金比羅山

せっかくなので金比羅山(標高280m)に登ってみよう。
山頂には「浅川金比羅宮」が鎮座。

かつて金比羅山は戦国時代に八王子城主北条氏照が整備した砦を設けた地でありかつての「堅堀跡」などが残っている。

その金比羅山の下には昭和の戦争遺跡として「浅川地下壕・ロ地区」が残っている。

浅川金比羅宮

江戸時代後期に商売繁盛の神社として建立。
戦時中は地下壕建設のために金比羅山が軍により接収されるも、戦後は浅川の鎮守として崇敬を集めている。

浅川金比羅宮
 平和観音像

平和観音の像
浅川地下壕は第二次世界大戦の史跡です
戦争の裏側での犠牲者を偲び世界平和をここに祈念する
平成7年8月15日

金比羅山(浅川地下壕・ロ地区)から地下壕が掘られた山々を望む。
正面に「浅川地下壕・イ地区」
左手は「浅川地下壕・ハ地区(初沢山)」

高尾駅

正面に見える山が金比羅山。
この山の下に浅川地下壕が広がっている。

日本経緯度原点(海軍水路寮観象台跡)

平成30年11月撮影 東京都港区麻布台2-18-1

日本経緯度原点

この地が日本の測地座標系の原点。

明治7年、海軍水路寮が当地に観象台を設置。明治21年に帝国大学付属東京天文台が置かれ明治25年に陸軍参謀本部陸地測量部が天文台の子午環の中心を日本経緯度原点として設定。関東大震災で子午環が崩壊したために金属標を設置し今日に至る。

わが国における緯度と経度を測定する基準となる点。

平成23年3月11日の東北地方太平洋沖地震の地殻変動により原点数値を改定。

経度:東経139度44分28秒8869
緯度:北緯35度39分29秒1572
原点方位角:32度20分46秒209

現在は国土交通省国土地理院関東地方測量部の管轄となっている。

港区指定文化財
史跡 日本経緯度原点
 ここには、わが国の経度・緯度を決める基準となる日本経緯度原点が設置されています。この原点の経度・緯度の数値は、大正7年(1918)に文部省告示によって確定した「東経139度44分40秒5020、北緯35度39分17秒5148」でしたが、平成13年の測量法の改正により、最新の宇宙測地技術を用いて新たに「東経139度44分28秒8759、北緯35度39分29秒1572」と定められました。
 この場所には、明治7年(1874)から海軍の観象台が置かれていましたが、明治21年になって、赤坂区溜池葵町の内務省地理局天象台と合併し、東京帝国大学付属東京天文台が置かれました。原点の位置は、天文観測に用いられた機器である「子午環」の中心位置にあたります。その後東京天文台は大正12年に三鷹に移転しましたが、子午環跡は国土地理院が日本経緯度原点として引継ぎ、現在もわが国の地理測量の原点として利用されています。
 日本経緯度原点は、日本の測地座標系の原点であるだけでなく、わが国の天文測量が始まったところとして、科学技術史及び文化史上意義深い場所です。
 平成8年10月22日指定
 港区教育委員会

日本経緯度原点
 日本経緯度原点は、わが国における経度と緯度を測定する基準となる点である。明治25年(1892年)に東京天文台の子午環(特殊な望遠鏡)の中心を日本経緯度原点と定め、その緯度、経度および方位角を原点数値として決定した。
 大正12年(1923年)の関東地震では子午環が崩壊したため、日本経緯度原点の位置に金属標を設置した 。
 平成13年(2001年)の測量法改正により、測量の基準として世界測地系を採用した。この改正に伴い、新たな原点数値を世界測地系に基づき決定した。
 その後、平成23年3月11日の東北地方太平洋沖地震による地殻変動に伴い、日本経緯度原点が東に27センチメートル移動したため、原点数値を以下の値に改正した。
       原点数値
     経 度  東経 139° 44′28.8869″
     緯 度  北緯  35° 39′29.1572″
     方位角       32° 20′46.209″
    (つくば超長基線電波干渉計観測点に対する値)
 平成23年10月21日
 国土地理院


資料


関連

日本水準原点

霊岸島水位観測所

油壷潮位観測場

「日本経緯度原点」の隣にはかつて「中央官庁合同会議所」がありましたが現在は「アフガニスタン大使館」があります。

ここに赴くには「Tokyo American Club」や「ロシア連邦大使館」の脇を歩いていくことになりますので、ちょっと不思議な気分で緊張します。

写真はアフガニスタン大使館


国土地理院の資料

http://www.gsi.go.jp/common/000198164.pdf

中島飛行機三鷹研究所跡散策

平成29年10月撮影

位置関係

USA-R360-124
1947年(昭和22年)10月24日-米軍撮影
現在は「国際基督教大学(ICU)」と「SUBARU東京事業所」

中島飛行機は東京工場(中島飛行機東京製作所)を大正14年に開設後も急成長を遂げる。

昭和13年(1938)には三鷹北部の武蔵野に大規模工場として「武蔵製作所」を開設。

そして昭和16年(1941)に三鷹南部の大沢に「三鷹研究所」を開設し、総合的な研究機関の設立を目指すも終戦により、中島知久平の夢は敗れる。


地元の調布駅からバスに乗り、降りたバス停名は「富士重工業前」。 2017年4月に「富士重工業株式会社」は社名変更して「株式会社SUBARU」に。
富士重工業の前身「中島飛行機」時代には「三鷹研究所」として航空機研究開発拠点だった地。

現在は「SUBARU 東京事業所

森山荘

東京スバル三鷹店の裏側の森。
SUBARU東京事業所の敷地内にひっそりと佇む建物が「森山荘」
(敷地外から撮影。一般非公開。)

中島飛行機時代には、来客をもてなすために使用された建物という。 現在はSUBARU関係者の懇親に利用されているという。

「中島飛行機三鷹研究所」の敷地の大部分、現在は「国際基督教大学(ICU)」となっております。
ちょうど訪問した 10月21~22日は学園祭「ICU祭」でしたので、(大雨ですが)このタイミングを狙って脚を運んでみました。

入り口は中島飛行機時代と変わらずの位置関係。

「中島飛行機三鷹研究所」
南に「調布飛行場」を控え、
北には「武蔵製作所」
北東には「東京製作所」
絶好の立地環境。

そして中島知久平はその晩年を三鷹研究所内「泰山荘」で過ごし亡くなっている。
墓は三鷹研究所の西側に拡がる「多磨霊園」に。

多磨霊園
中島知久平墓

中島 知久平(なかじま ちくへい)
明治17年(1884年)1月1日 – 昭和24年(1949年)10月29日)65歳没。
海軍軍人(海軍大尉)、のち実業家・政治家。
中島飛行機(のちの富士重工業・SUBARU)創始者。

国際基督教大学学園祭「ICU祭」の時のみ一般公開される施設が大学構内にあるので行ってみました。

泰山荘

中島飛行機の中島知久平が晩年を過ごした地。

が、雨天中止。
こればかりはしょうがない。またこんどです。

参考 「泰山荘」 国際基督教大学サイト

http://subsites.icu.ac.jp/yuasa_museum/taizanso_web/index.html

国際基督教大学(ICU)校内
泰山荘・表門

1936(昭和11)年頃の建設。表門だけは見学できました。
日産財閥の重役であった山田敬亮の別荘として建設され、昭和15年(1940)に山田家から中島飛行機に売却。中島知久平の住宅となった。

泰山荘
中島知久平
昭和20年8月終戦直後の東久邇宮内閣で軍需大臣及び商工大臣。
12月にGHQよりA級戦犯に指定。
病気を理由に中島飛行機三鷹研究所内の泰山荘にて自宅拘禁扱い。
昭和22年9月にA級戦犯指定解除。
昭和24年10月29日に脳出血のため泰山荘にて死去。

国際基督教大学(ICU)本館
中島飛行機三鷹研究所本部棟

中島飛行機三鷹研究所として昭和16年12月に建築開始された建物がベース。
戦後、ICU所有後に中央4階部分を増築し窓外壁など改築し1953年完成。2003年に外壁を改装。

国際基督教大学(ICU)本館
中島飛行機三鷹研究所本部棟

大雨の為、学祭も室内メインに。
それゆえに外観の写真は逆に取りやすかったが。

本館は大幅改良されているので往時の雰囲気だけを脳裏に思い浮かべつつICUをあとにする。

泰山荘はまた次回に?
宿題ですね

参考ニュース

第二次世界大戦中に製造された ジェットエンジン・ネ 230 の排気ノズル と推定される部品をキャンパス内で発見

https://www.icu.ac.jp/about/public/press/docs/ICUPressRelease_%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%83%83%E3%83%88%E3%82%A8%E3%83%B3%E3%82%B8%E3%83%B3%E9%83%A8%E5%93%81_WEB.pdf

中島飛行機発動機発祥之地

平成29年10月撮影

中島飛行機発動機発祥之地碑
(中島飛行機東京製作所跡地)

昭和62年12月10日建立

中島飛行機東京製作所(中島飛行機東京工場とも荻窪工場とも呼称)

東洋最大にして世界有数の航空機メーカー「中島飛行機」
この地で中島飛行機を代表する発動機(エンジン)が生まれていたのだ。


大正6年5月
 中島知久平が群馬県に「飛行機研究所」を創業
大正7年
 「日本飛行機製作所」に商号変更
大正8年
 「中島飛行機製作所」に商号変更
大正14年11月
 東京府豊多摩郡井萩町に「東京工場」が完成
 東京での最初の工場がこの地であった
 (武蔵製作所は昭和13年開設)
昭和6年12月15日
 「中島飛行機株式会社」と改称
昭和12年7月1日
 「中島飛行機東京工場」を「中島飛行機東京製作所」に改称
昭和20年4月1日
 中島飛行機は「第一軍需工廠」となり事実上の国営化
昭和20年8月16日
 敗戦により、社名を「富士産業株式会社」と改称
昭和25年5月
 解体の上で解散


中島飛行機東京製作所 で開発・生産されたエンジンと主な搭載機。
 「寿」エンジン(ハ1)
     海軍 九六式艦上戦闘機
     陸軍 九七式戦闘機
 「栄」エンジン(ハ25)
     海軍 零式艦上戦闘機(零戦) 月光
     陸軍 隼 九九式双発軽爆撃機
 「誉」エンジン(ハ45)
     海軍 紫電・紫電改 銀河 流星 彩雲
     陸軍 疾風

中島飛行機は戦後にGHQの手によって解体。

中島飛行機東京製作所は戦後に富士精密工業となり、そののちプリンス自動車工業をへて日産自動車荻窪事業所としてロケット開発へと推移。

中島飛行機東京製作所
 ↓
富士精密
 ↓
プリンス自動車工業
 ↓
日産自動車
 1981年に自動車開発移転
 1998年に宇宙開発移転
 
平成13年に日産より用地が売却され再開発。
現在は「日産プリンス東京販売株式会社 荻窪店」と「杉並区桃井原っぱ公園」などに。

ロケット発祥の地碑

ロケット発祥の地
碑文

戦後間もない昭和28年、旧中島飛行機から社名を変えた富士精密工業は東京大学生産技術研究所(現、文部科学省宇宙科学研究所)の指導を受け、ロケットの開発に着手した。2年後の昭和30年にはペンシルロケットの初フライトに成功し、これが日本のロケット第1号となった。
 爾来、約半世紀、富士精密工業は、プリンス自動車工業、日産自動車、アイ・エイチ・アイ・エアロスペースと変遷を重ねたが、ロケット技術は脈々と後進に受け継がれ、現在の日本の主力ロケットを生み出す原動力となった。ロケット開発の拠点たる日産自動車荻窪事業所は平成10年5月に群馬県富岡市へ移転したが、跡地は再開発されることになった。
 この地の生み出した創造的意義に鑑み、ここに記念碑を建立し、往時を偲びつつ、宇宙開発のさらなる発展を祈念するものである。

 平成13年11月
  旧富士精密工業株式会社
  旧プリンス自動車工業株式会社
  旧日産自動車株式会社  宇宙航空事業部   
                  有志一同

位置関係

R9-C1-53
陸軍撮影 昭和16年6月25日

https://goo.gl/maps/fSb5EkG1WEBiaXt29

いのはなトンネルの悲劇「湯の花トンネル列車銃撃事件」(高尾)

平成31年1月撮影

JR高尾駅には「銃撃痕」が残っていたが、高尾駅からちょっと奥まったトンネルでも「銃撃」による悲劇があった。


湯の花トンネル(いのはなトンネル)へ
(蛇滝口バス停)

高尾駅から「湯の花トンネル」(いのはなトンネル)列車銃撃の慰霊碑へむかいます。

高尾駅から小仏方面に向かうバスに乗り「蛇滝口」バス停で下車。
線路近くに慰霊碑がありますので参りましょう・・・

戦時中に銃撃の悲劇があった場所となります。


湯の花トンネル列車銃撃空襲

昭和20年8月5日
新宿発長野行419列車が浅川駅(現在の高尾駅)を出発し、湯の花(猪の鼻)トンネルに差し掛かった時、硫黄島から飛来したP‐51マスタングの銃撃を受け、52人が死亡、133名が重軽傷を負った。
列車への銃撃空襲としては日本最大級の被害であった。

 太平洋戦争末期の1945(昭和20)年8月5日、この地で米国戦闘機群によるわが国で最大規模の旅客列車銃撃空襲がおきました。
 8月2日の八王子空襲で中央本線が普通になった後、3日ぶりに新宿発長野行き419列車が浅川駅(現高尾駅)を出発し湯の花(猪の鼻)トンネルにさしかかった時、硫黄島から飛来したP51ムスタングの銃撃を受けました。この銃撃により警視庁の調べで52名が死亡し(実際は60名以上)、133名が重軽傷を負いました。
(以下略)
 2018(平成30)年8月
 いのはなトンネル列車銃撃遭難者慰霊の会


湯の花トンネル列車銃撃空襲
戦災死者供養塔
慰霊の碑

慰霊の碑
 終戦間近の昭和二十年(一九四五)八月五日、真夏の太陽が照りつける午後十二時二十分頃、満員の新宿発長野行き四一九列車が、いのはなトンネル東側入口に差しかかったとき米軍戦闘機P51二機または三機の銃撃を受け、五十二名以上の方々が死没し、百三十三名の方々が重軽傷を負いました。
 この空襲は日本最大の列車銃撃といわれています。
 私どもは、この戦争の惨禍を決して忘れることができません。
 ここに、確認された犠牲者のお名前を書きとどめ、ご遺族とともに心からご冥福をお祈り申し上げ、現在の平和の日々をかみしめ、戦争を知らない世代へこのことを語り伝えます。

平成四年八月五日
 いのはなトンネル列車銃撃遭難者慰霊の会

碑裏面
 戦災死者供養塔は、昭和二十五年八月、当時の上長房(現:裏高尾町、西朝川町)青年団が、亡くなった方々を供養するため、団員協力のもとに建立したものです。
 供養塔には、亡くなった方々を荼毘に付した日影沢の石が用いられました。
 地元に住む人々は、尊い犠牲者のお名前も人数も知ることなく、供養塔の前に手を合わせご冥福をお祈りしていました。
 昭和五十六年から八王子市教育委員会が八王子の空襲の調査を行い その後あらゆる手だてを尽くした結果、この事件の犠牲者は六十名以上と推定いたしました。
 そのうち、四十名のお名前と遺族が判った昭和五十九年、遺族関係者、地元の有志により七月二十一日に「いのはなトンネル列車銃撃遭難者慰霊の会」が発足いたしました。
 会では、この年の八月五日を「供養の日」に定め、毎年供養の集いを行い現在に至っています。
 供養塔は、はじめ唐沢踏切の北側にありましたが、地主のご好意で南側の土地を無償で提供していただき、昭和六十一年七月二十八日現在地に安置されました。
 かねてから、会では蓄積した浄財で亡くなった方々のお名前を刻んだ慰霊の碑の建立を計画していたところ、平成四年三月、東京八王子南ロータリークラブからも協力の申し出があり、ここに念願でありました慰霊の碑が完成いたしました。

平成四年六月十日
 いのはなトンネル列車銃撃遭難者慰霊の会

列車は湯の花トンネル手前で、進行方向左側の太平洋側から飛来した米軍P-51戦闘機に捕捉され、機関車と1両目は特に激しく攻撃されトンネルに2両目の半分程が入ったところで停止。そのためトンネルから出ていた車両が反復して機銃掃射に晒されて犠牲者が増加してしまった…

いのはなトンネル

このトンネルは戦後の新線(下り線)

煉瓦造の上り線が、空襲時から残っているトンネル。
(上り線は踏切の位置関係上、走行写真は撮影不可。)

現在の下り線(前述の列車写真は下り線)は新線。

高尾から先の複線は昭和37年以降。
煉瓦造トンネルの節々に欠けがあるのが空襲時の銃撃痕かもしれない。


湯の花トンネルの脇、甲州街道に面した蛇滝口バス停にある建物。

旧蛇滝茶屋
(蛇瀧信仰講中の宿泊休憩所)

この建物は空襲当時には既にここにあり、遺体安置所になったとも、遺族の集会所になったとも、雨戸を外して犠牲者救助に活用されたとも伝承されている建物。

当時、この地で起きた悲劇に想いを寄せつつ、慰霊碑に手を合わせる。

合掌


電気機関車ED16形(青梅鉄道公園)

中央本線419列車。新宿発長野行きの下り列車は、午前10時10分に新宿駅を出発する電気機関車ED16形7号機が牽引する8両編成であった。

同形式の電気機関車ED16形1号機が準鉄道記念物・国重要文化財として青海鉄道公園に保存されている。
参考掲載。

準鉄道記念物
ED161 号電気機関車
ED16 形式は昭和6年に開発され、18両制作されました。現役の電気機関車としては国鉄最古の形式で、当初は中央線 八王子-交付缶、上越線 水上-石打缶などで活躍しましたが、昭和40年以降全機が立川機関区に集結し、南武線・青梅線を主体に貨物輸送の主力となって、半世紀の永きにわたり活躍しました。
このED161 号機は昭和55年9月末まで使用されましたが、10月の時刻改正により現役を退き、平成30年10月31日、国の重要文化財に指定されました。

なお、八王子郷土資料館には、いのはなトンネルで銃撃を受けた該当機関車「ED16-7号機 標識」が保存されているというが、まだ未見。


参考

総務省
一般戦災死没者の追悼 > 追悼施設 > いのはな慰霊碑、戦災死者供養塔

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/virtual/memorialsite/tokyo_hachioji_city002/index.html


関連

昭和20年8月5日の空襲。米軍戦闘機P-51マスタングの集団は、二宮駅にも機銃掃射を行っていた。

東京駅にのこる近代史跡

先日、東京駅に用事があったので立ち寄ってみました。


伊号潜水艦の潜望鏡?

もともとは東京ステーションホテルを支えていた柱。
当時は「日本海軍(帝国海軍)の伊号潜水艦の潜水鏡」流用とされていたが、近年の研究ではその可能性は薄いという。 とはいっても戦災復旧以降、支えてきた歴史ある柱。 (平成30年5月撮影)


原敬首相遭難現場(東京駅)

東京駅丸の内南口改札外に。
「原敬首相遭難現場」
大正10(1921)年11月4日 この場所で原敬首相が暗殺されました。
この丸い印が暗殺現場。
よく見ないと見落としてしまいます。 (平成27年7月撮影)


浜口首相遭難現場(東京駅)

東京駅の新幹線中央乗り換え口近く。
この場所も人の往来が多く見逃しやすいです。
原敬よりかは目立つタイルですが。
「浜口雄幸首相遭難現場」
昭和5(1930)年11月14日。
浜口雄幸首相が狙撃され重傷となった現場。 (平成27年7月撮影)


東京駅開業時からの柱

1914年(大正3年)の東京駅開業時からホームに残っていた鋳鉄製の柱2本が展示されている。
山手線と京浜東北線の5・6番線ホーム南端の事務室前。
上部がレリーフで装飾、下部には製造年とみられる「明治四十一年」(1908)の文字あり。
(平成27年10月撮影)


東京駅

東京駅ドーム屋根・祝賀ライトアップ

(平成27年11月撮影)

東京ステーションホテル開業100周年記念の祝賀赤色ライトアップ

「荻外荘と目白近衛町」近衛家と近衛文麿旧宅

平成30年撮影

現在、杉並区によって「荻外荘公園」として再整備中。
豊島区に移築されている建物( 荻外荘の一部 )も、杉並区に戻して再整備をする計画だというので、経過を見守りつつ。

「荻外荘公園」
国史跡 荻外荘(近衛文麿旧宅)

杉並区にある「荻外荘公園」 この地に残る「国史跡 荻外荘(近衛文麿旧宅)」に旧宅が残っているので見学してみました。平成30年2月撮影。

通常は南側の公園部から邸宅跡を外観のみ見学可能。
(午前9時から午後5時まで)
将来的には近衞文麿居住当時への復元が予定されているという。

中央の部屋が近衛文麿が自決した書斎部。

昭和20年、近衛文麿にGHQから逮捕命令が伝えられ、A級戦犯として極東国際軍事裁判で裁かれることが決定。
近衞は巣鴨拘置所に出頭を命じられた最終期限日12月16日未明に荻外荘で青酸カリを服毒して自殺。享年54歳。

公園内(敷地南部)には井戸がありました。
川本式手押しポンプ井戸

敷地南側。
井戸で遊んでいたらレンズの下部に水滴がついたままだったようで。

公園部から北側に回り込んで、近衛邸正門へ。
現在、入口は堅く閉ざされている。 再整備が終わったら、こちらから荻外荘の見学もできるようになれば・・・ですね。

荻外荘・一般公開(杉並)

昨日(平成30年9月29日)、荻窪にある荻外荘(近衛文麿旧宅)の一般公開に参加することができまして。
(公開情報を教えてくれましたフォロワーさんの情報に感謝です!)
見学の様子を以下に展開。

近衛文麿が自殺した書斎部屋

普段は門が閉じられ立ち入りができない近衛邸。

近衛通隆氏(近衛文麿氏の次男)が平成24年に亡くなるまで居住されていた屋敷。 「近衛」と高らかに標識も掲げられており。
近衛通隆氏死後の平成26年に杉並区が荻外荘を含む敷地を購入し再整備計画中。
国指定史跡指定。

荻外荘の変遷は3つの時代に別れる。

入澤家時代(昭和2年~昭和12年)
近衛文麿家時代(昭和12年~35年)
近衛通隆家時代(昭和35年~平成)

現在の近衛家の玄関は文麿時代のものではなく通隆時代のもの。
(文麿時代の玄関は現在は文京区に移築されている)
昭和35年に屋敷が分割しており玄関等も付け替えされている。
将来的には分割部分を戻して復元予定という。

敷地の東側部分の空き地。

この部分に近衛文麿時代の「客間棟」と「玄関棟」があった。
(昭和35年に文京区染井に移築)
ゆえに荻外荘に残っている建屋は「居住棟」と「別棟」を改修したもの。
杉並区の計画では移築された建屋もこの地に戻して、改めて復元をするとのことで。

東側。
戦後の改修部分。
和室の手前にバルコニー。
奥は食堂、そして暖炉の煙突。

耐震補強工事実施前ゆえに見学には制限があり。
この日は15人で1組の整理券制で先着順受付。
全14回。30分見学。見学時はヘルメット着用。

戦後は長らく近衛通隆氏が居住していた空間でありそんなに古さはない。
「文麿時代の何か」を期待してはいけない。
ガイドの人も「お宝的なものはないです」と言ってました。

写真は食堂部分。
窓の外にはかつては「屋敷(客間棟)」があったが移築後の改修で外窓となっている。

復元模型の中心部で会談している人たち。

昭和15年「荻窪会議」と日独伊三国同盟問題
近衛文麿(首相)
松岡洋右(外相)
吉田善吾(海相)
東条英機(陸相)
この部分は「客間棟」(染井に移築現存)。
移築された東側が荻窪に戻ってきて復元されてからが史跡「荻外荘」の本番ですね。

昭和20年12月6日
近衛文麿に対する逮捕命令発令。
巣鴨拘置所出頭日は12月16日。
その16日午前2時まで文麿は次男の通隆と和室にて話し合いを行っていた。
そして午前6時過ぎに文麿が和室で息絶えていたのが発見された。
享年54歳。青酸カリによる自殺。
法名は荻外院殿象山道賢。

写真は近衛文麿が自殺をした和室。

本棚にあったものなどは陽明文庫に送られたようです。
陽明文庫は近衛家伝来の史料を保管している京都の施設。
昭和13年に近衛文麿が設立。

荻外荘(近衛文麿旧宅)の蔵

居住棟と別棟の間にあるのが「蔵」
近衛家の至宝が納められていた名家の蔵。
堂々たる蔵扉。
入澤氏から邸宅を譲られた近衛文麿が建設。
別棟とともに昭和13年と推測。

蔵外観。
近衛文麿時代から、おおむね往時の姿を留めているという。
2階建ての蔵は、平屋の荻外荘のなかでは高さが頭一つ飛び出ている。

荻外荘(近衛文麿旧宅)別棟

昭和13年増築。
もともとは近衛文隆(文麿長男)が母親のために作ったものという。
アメリカ留学後に文隆も別棟に一時居住をしている。
(近衛文麿の長男近衛文隆はのちシベリアに連行され獄死している)

受付のとなりで販売がありましたので、 おもわず書籍を購入してしまいました。
(こういう書籍は見逃せないんですよね・・・)

敷地内にあった何か。
そんなに古くはなさそう・・・

荻外荘
案内人の一言が印象深く
「復元するとしてもどの時代にあわせるのか。伊東忠太が手がけた木造建設にも価値がある。(伊東忠太の現存する数少ない木造建造物、昭和2年) そして歴史舞台としては荻窪会談、近衛文麿邸としての価値がある。史跡登録もされた。」
あぁ、これは複雑な気持ちになります…

荻外荘・近衛文麿旧宅
豊島区の移築部分)

染井霊園の正面近くに近代史跡として意外なものが残っている。

「荻外荘」
もともと荻窪にあった近衛文麿別邸が何故か染井の地にある。
これも近いうちに荻窪に戻る(再移築)らしいので、ここで見れるのも残り僅かかもしれず…

もともと荻外荘は大正天皇侍医頭であった入澤達吉邸(昭和2年・伊東忠太設計)であったが昭和12年に近衛文麿別邸となる。
昭和20年近衛文麿が荻外荘にて服毒自殺。
戦後は吉田茂が荻外荘に居住したこともあった。
※敷地外より撮影

昭和35年に北半分にあたる玄関・応接間・客間が「天理教東京教務支庁」東京寮として移築。
荻窪に残った南半分は杉並区が取得し「荻外荘公園」として再整備。
杉並区では天理教と交渉し元の荻窪に再移築の上で復元を予定しているという。

近衛町(東京都新宿区下落合

場所は変わって新宿区へ。
東京都新宿区下落合
かつては「目白近衛町」と呼称された高級住宅地。
いまでもあちこちに「近衛」の名が残っている。

前述の荻外荘は「近衛別邸」
かつてこの目白近衛町に「近衛本邸」があった。
東京電力やNTTの電柱にも「近衛」の名が。

近衛篤麿公記念碑

かつて近衛邸があった地区に近衛篤麿公(近衛文麿の父)を記念する碑が残っている。大正13年(1924)に建立。
明治37年の篤麿死後、大正11年頃から近衛邸宅の一部が「近衛町」として分譲され近衛家の足跡を記録するために建立。

入口は極めて細く、その細い空間の中ほどに「記念碑」が残っている。

新宿区地域文化財第五号
「近衛篤麿公記念碑」

この地には大正末まで近衛公爵家の屋敷があり、分譲後も近衛町と呼ばれた。
大正13年建立。


近衛篤麿公記念碑

 公の諱は篤麿、霞山と号した大職冠藤原鎌足の後裔で、五摂家筆頭近衛家の第二十八代当主。文久三(1863)年六月二六日京都に生まる。  
 明治一七(1884)年、華族に列し公爵。翌年ドイツに留学、明治二三(1890)年帰国し、貴族院議員。明治二八(1895)年学習院院長、翌年貴族院議長に就任。時の内閣からしばしば入閣を懇請されたが固辞し、常に野にあって国政の大局的指導に当たった。
 日清戦争前後における西欧列強の清国侵略に慷慨し、中国の保全と日中の協力を提唱。明治三一(1898)年東亜同文会を組織し、次いで上海に東亜同文書院、
東京に東京同文書院を設立、日中両国学生の教育に尽瘁した。
 ロシアの中国への南下を憂慮し、国民同盟会、対露同志会を結成し、国論の喚起に努めた。しかし不幸にして難病に罹り、日露開戦直前の明治三七(1904)年一月一日逝去・行年僅か四二歳。
 当地は、公が明治三五(1902)年に晩年の居を定めたところでもあり、終焉の地となった。現在この辺は下落合と呼ばれるが別称近衛町ともいう。この記念碑は、公没後、二〇余年の大正一三(1924)年七月に建立された。
 平成八(1996)年一月  
 財団法人 霞山会  
 会長 近衛通隆

かつての霞山公の碑は良く整備されたこの地(広さ百坪)に築かれた塚の上に東側を正面に向けて建てられていた。
平成8年1月に現在のように再建された。
(昔日の霞山公紀念碑)昭和初期の大雪の日

霞山公記念碑・・・のうしろの煉瓦壁
たぶん近衛云々とは関係ないとおもうけど良い雰囲気。

旧近衛邸のケヤキ

旧近衛家のケヤキ
新宿区地域文化財第10号
樹齢100年を超えるケヤキの大木で、近衛家屋敷の車廻しにあったと伝えられる。地域の要望により残された。

現在は道路の真ん中に残された欅の大木。これも近衛家の名残。

「昭和寮」(旧・学習院高等科寄宿舎)

近衛家が分譲されたのちに当地に建てられた学習院の寄宿舎。
近衛篤麿は第7代学習院院長でもあり。
昭和3年建築、設計は宮内省。
現在は「日立目白クラブ」として活用されている。
(関係者以外立ち入り不可)

昭和寮跡碑

学習院大学建立

昭和寮跡
 昭和寮は、昭和3年(1928)に学習院高等科(旧制)学生の寄宿舎として現在の新宿区下落合2丁目13番28号の敷地に建設された。
 西洋式建築の堅牢な建物であったが、昭和27年(1952)に廃寮。同年、此の地に大学学生のための新たな寮を設け、それ以前の寮の名称を引き継ぎ「昭和寮」とした。以後、当初から数えると70年近い歴史を刻み多くの学生に利用、親しまれてきた昭和寮は、平成9年(1997)3月その幕を閉じた。
 平成13年6月 建立

杉並と目白と近衛にゆかりのある地を巡ってみました。


以下は補足。

近衛家墓所(近衛秀麿墓)

五摂家の一つである近衛家の墓所は京都の大徳寺。近衛文麿はそこに眠る。
近衛文麿(近衛篤麿の長男)の弟である近衛秀麿(近衛篤麿の次男)、そして近衛秀麿養子となった近衛通隆(近衛文麿の次男)の墓は東京池袋にほど近い練馬区桜台の広徳寺にある。

公爵 子爵 近衛家墓所

近衛秀麿

1898年(明治31年)11月18日-1973年(昭和48年)6月2日
作曲家・指揮者
元子爵 正三位勲三等
元貴族院議員
後陽成天皇男系十二世子孫

父は、近衛篤麿
異母兄は、近衛文麿(政治家・元内閣総理大臣)
実弟は、近衛直麿(雅楽)、水谷川忠麿(春日大社宮司)

第2次世界大戦中は主にヨーロッパで音楽活動に従事。
1945年4月に、ドイツの敗戦によりアメリカ軍に抑留。
1945年12月に帰国を果たすが、その同じ12月には兄の近衛文麿が自殺をしている。

近衛秀麿墓(近衛文麿の弟)
近衛秀麿
公爵子爵 近衛家墓所

近衛秀俊

1921年-1923年(大正12年)9月1日
後陽成天皇男系十三世子孫

近衛秀麿の長男。
関東大震災で死去。

近衛秀俊墓(近衛秀麿長男・関東大震災で死去)

近衛通隆

1922年(大正11年)5月11日-2012年(平成24年)2月11日
後陽成天皇男系十三世子孫
歴史学者
東京大学史料編纂所教授、霞山会会長、陽明文庫理事長を歴任。

近衛文麿の次男。(近衛文麿の長男である近衛文隆の次弟)
1935年に近衛秀麿の養子となる。近衛忠煇の叔父。

近衛家墓
近衛通隆墓(近衛文麿次男・近衛秀麿養子)

近衛秀健

1931年(昭和6年)2月4日-2003年(平成15年)3月31日
後陽成天皇男系十三世子孫
作曲家・指揮者

近衛秀麿の次男。非嫡出子。1935年に近衛秀麿から認知。
近衛秀健氏の子息は音楽一家として現在も活躍中。

近衛秀健墓(近衛秀麿の次男)

近衛牡丹の家紋

余談ではあるが、東京の近衛家墓所のある広徳寺にはいくつかの大名家の墓所があつまっている。

広徳寺には、以下の歴史的な著名人の墓がある。
柳生家 柳生宗矩・柳生十兵衛三厳・柳生宗冬
小堀家 小堀遠州正一
立花家 立花宗茂

柳生家墓所
立花家墓所
小堀家墓所

最後は余談でした。
近衛家に関するなんやかんや、でした。

都内の射的場跡散策・弥生と大森

平成29年11月撮影

戦前の都内にはいくつか「射的場」があり、今でも地図上でその痕跡を見つけることが出来る。
有名なところでは現在は戸山公園となっている「陸軍戸山射撃場」などがあるが、今回は「弥生」と「大森」にあった射的場跡を(極めて地味に)巡ってみます。

射的場跡散策・弥生

弥生、いわずと知れた東京大学。
その東大エリアの地図を眺めてみると気になる住宅街があるかと思います。
東京大学本郷キャンパス・弥生キャンパス・浅野キャンパスに三方を囲まれた一画。現在は住宅地となっているエリアにかつて「射的場」があった。

この地区は「弥生式土器発掘ゆかりの地」で有名。
明治からの射的場を偲ぶものは特になく、それこそ地図が物語っているといった感じです。

東大武田先端知ビル建設時には射的場で使用された弾丸も出土。

東京共同射的会社射的場
明治10年(1887)に警視局(警視庁)射的場として開設。明治15年に宮内省所轄射的場となり皇宮地附属地の東京共同射的会社射的場となった。明治21年に射的場は大森に移転。

東京共同射的会社射的場は明治21年に大森に移転(後述)しているので、当地には射的場を物語るなにかは残っていない。
敢えて言えば直線的な住宅地空間が唯一の名残。
射的場の南東端(4枚目)は、ちょうど文京区と台東区の境目。

これだけで弥生はおわり…だと寂しいので蛇足を。
射的場跡の隣に現在は東大病院がある。
東大病院近くの 「東大弥生門」を出てすぐ近くの「弥生美術館」の壁にレリーフがあった。

東京大学医学部戦没同窓生の碑

平成13年5月27日建立
満洲事変・日中戦争・太平洋戦争の犠牲となった東大医学部同窓生200余名を慰霊。

射的場跡散策・大森

弥生から大森に移った射的場は、大森にて明治22年(1889)から昭和12年(1937)ごろまで使用されていたという。

「日本帝国小銃射的協会跡碑」

この碑が何時建立されたかは不明。碑右上部に欠落が有る。裏面無銘。

「大森射的場」
「日本帝国小銃射的協会跡碑」
地図を見てみるとやはり空間が。射的場跡は現在は「大森テニスクラブ」として活用。
射的場時代の大正12年には「大森庭球倶楽部」が併設開設されており、周辺環境の変化から射的場は昭和12年頃に鶴見北寺尾に移転。

時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」
http://ktgis.net/kjmapw/index.html より

現在の「大森テニスクラブ」。
もちろん射的場当時を物語るものは地図上の形ぐらいしかなく。 やはり敢えて言えば弥生と同じく直線的な道路。

こんな感じで極めて地味すぎる散策でした。

面白いのは弥生式土器発見の地「弥生」日本考古学発祥の地「大森」「射的場」で繋がっていた歴史にニヤリと出来た事。 大森の射的場跡から駅に向かう途中にも弥生があったり。