「近代史全般」カテゴリーアーカイブ

いのはなトンネルの悲劇「湯の花トンネル列車銃撃事件」(高尾)

平成31年1月撮影

JR高尾駅には「銃撃痕」が残っていたが、高尾駅からちょっと奥まったトンネルでも「銃撃」による悲劇があった。


湯の花トンネル(いのはなトンネル)へ
(蛇滝口バス停)

高尾駅から「湯の花トンネル」(いのはなトンネル)列車銃撃の慰霊碑へむかいます。

高尾駅から小仏方面に向かうバスに乗り「蛇滝口」バス停で下車。
線路近くに慰霊碑がありますので参りましょう・・・

戦時中に銃撃の悲劇があった場所となります。


湯の花トンネル列車銃撃空襲

昭和20年8月5日
新宿発長野行419列車が浅川駅(現在の高尾駅)を出発し、湯の花(猪の鼻)トンネルに差し掛かった時、硫黄島から飛来したP‐51マスタングの銃撃を受け、52人が死亡、133名が重軽傷を負った。
列車への銃撃空襲としては日本最大級の被害であった。

 太平洋戦争末期の1945(昭和20)年8月5日、この地で米国戦闘機群によるわが国で最大規模の旅客列車銃撃空襲がおきました。
 8月2日の八王子空襲で中央本線が普通になった後、3日ぶりに新宿発長野行き419列車が浅川駅(現高尾駅)を出発し湯の花(猪の鼻)トンネルにさしかかった時、硫黄島から飛来したP51ムスタングの銃撃を受けました。この銃撃により警視庁の調べで52名が死亡し(実際は60名以上)、133名が重軽傷を負いました。
(以下略)
 2018(平成30)年8月
 いのはなトンネル列車銃撃遭難者慰霊の会


湯の花トンネル列車銃撃空襲
戦災死者供養塔
慰霊の碑

慰霊の碑
 終戦間近の昭和二十年(一九四五)八月五日、真夏の太陽が照りつける午後十二時二十分頃、満員の新宿発長野行き四一九列車が、いのはなトンネル東側入口に差しかかったとき米軍戦闘機P51二機または三機の銃撃を受け、五十二名以上の方々が死没し、百三十三名の方々が重軽傷を負いました。
 この空襲は日本最大の列車銃撃といわれています。
 私どもは、この戦争の惨禍を決して忘れることができません。
 ここに、確認された犠牲者のお名前を書きとどめ、ご遺族とともに心からご冥福をお祈り申し上げ、現在の平和の日々をかみしめ、戦争を知らない世代へこのことを語り伝えます。

平成四年八月五日
 いのはなトンネル列車銃撃遭難者慰霊の会

碑裏面
 戦災死者供養塔は、昭和二十五年八月、当時の上長房(現:裏高尾町、西朝川町)青年団が、亡くなった方々を供養するため、団員協力のもとに建立したものです。
 供養塔には、亡くなった方々を荼毘に付した日影沢の石が用いられました。
 地元に住む人々は、尊い犠牲者のお名前も人数も知ることなく、供養塔の前に手を合わせご冥福をお祈りしていました。
 昭和五十六年から八王子市教育委員会が八王子の空襲の調査を行い その後あらゆる手だてを尽くした結果、この事件の犠牲者は六十名以上と推定いたしました。
 そのうち、四十名のお名前と遺族が判った昭和五十九年、遺族関係者、地元の有志により七月二十一日に「いのはなトンネル列車銃撃遭難者慰霊の会」が発足いたしました。
 会では、この年の八月五日を「供養の日」に定め、毎年供養の集いを行い現在に至っています。
 供養塔は、はじめ唐沢踏切の北側にありましたが、地主のご好意で南側の土地を無償で提供していただき、昭和六十一年七月二十八日現在地に安置されました。
 かねてから、会では蓄積した浄財で亡くなった方々のお名前を刻んだ慰霊の碑の建立を計画していたところ、平成四年三月、東京八王子南ロータリークラブからも協力の申し出があり、ここに念願でありました慰霊の碑が完成いたしました。

平成四年六月十日
 いのはなトンネル列車銃撃遭難者慰霊の会

列車は湯の花トンネル手前で、進行方向左側の太平洋側から飛来した米軍P-51戦闘機に捕捉され、機関車と1両目は特に激しく攻撃されトンネルに2両目の半分程が入ったところで停止。そのためトンネルから出ていた車両が反復して機銃掃射に晒されて犠牲者が増加してしまった…

いのはなトンネル

このトンネルは戦後の新線(下り線)

煉瓦造の上り線が、空襲時から残っているトンネル。
(上り線は踏切の位置関係上、走行写真は撮影不可。)

現在の下り線(前述の列車写真は下り線)は新線。

高尾から先の複線は昭和37年以降。
煉瓦造トンネルの節々に欠けがあるのが空襲時の銃撃痕かもしれない。


湯の花トンネルの脇、甲州街道に面した蛇滝口バス停にある建物。

旧蛇滝茶屋
(蛇瀧信仰講中の宿泊休憩所)

この建物は空襲当時には既にここにあり、遺体安置所になったとも、遺族の集会所になったとも、雨戸を外して犠牲者救助に活用されたとも伝承されている建物。

当時、この地で起きた悲劇に想いを寄せつつ、慰霊碑に手を合わせる。

合掌


電気機関車ED16形(青梅鉄道公園)

中央本線419列車。新宿発長野行きの下り列車は、午前10時10分に新宿駅を出発する電気機関車ED16形7号機が牽引する8両編成であった。

同形式の電気機関車ED16形1号機が準鉄道記念物・国重要文化財として青海鉄道公園に保存されている。
参考掲載。

準鉄道記念物
ED161 号電気機関車
ED16 形式は昭和6年に開発され、18両制作されました。現役の電気機関車としては国鉄最古の形式で、当初は中央線 八王子-交付缶、上越線 水上-石打缶などで活躍しましたが、昭和40年以降全機が立川機関区に集結し、南武線・青梅線を主体に貨物輸送の主力となって、半世紀の永きにわたり活躍しました。
このED161 号機は昭和55年9月末まで使用されましたが、10月の時刻改正により現役を退き、平成30年10月31日、国の重要文化財に指定されました。

なお、八王子郷土資料館には、いのはなトンネルで銃撃を受けた該当機関車「ED16-7号機 標識」が保存されているというが、まだ未見。


参考

総務省
一般戦災死没者の追悼 > 追悼施設 > いのはな慰霊碑、戦災死者供養塔

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/virtual/memorialsite/tokyo_hachioji_city002/index.html


関連

昭和20年8月5日の空襲。米軍戦闘機P-51マスタングの集団は、二宮駅にも機銃掃射を行っていた。

東京駅にのこる近代史跡

先日、東京駅に用事があったので立ち寄ってみました。


伊号潜水艦の潜望鏡?

もともとは東京ステーションホテルを支えていた柱。
当時は「日本海軍(帝国海軍)の伊号潜水艦の潜水鏡」流用とされていたが、近年の研究ではその可能性は薄いという。 とはいっても戦災復旧以降、支えてきた歴史ある柱。 (平成30年5月撮影)


原敬首相遭難現場(東京駅)

東京駅丸の内南口改札外に。
「原敬首相遭難現場」
大正10(1921)年11月4日 この場所で原敬首相が暗殺されました。
この丸い印が暗殺現場。
よく見ないと見落としてしまいます。 (平成27年7月撮影)


浜口首相遭難現場(東京駅)

東京駅の新幹線中央乗り換え口近く。
この場所も人の往来が多く見逃しやすいです。
原敬よりかは目立つタイルですが。
「浜口雄幸首相遭難現場」
昭和5(1930)年11月14日。
浜口雄幸首相が狙撃され重傷となった現場。 (平成27年7月撮影)


東京駅開業時からの柱

1914年(大正3年)の東京駅開業時からホームに残っていた鋳鉄製の柱2本が展示されている。
山手線と京浜東北線の5・6番線ホーム南端の事務室前。
上部がレリーフで装飾、下部には製造年とみられる「明治四十一年」(1908)の文字あり。
(平成27年10月撮影)


東京駅

東京駅ドーム屋根・祝賀ライトアップ

(平成27年11月撮影)

東京ステーションホテル開業100周年記念の祝賀赤色ライトアップ

「荻外荘と目白近衛町」近衛家と近衛文麿旧宅

平成30年撮影

現在、杉並区によって「荻外荘公園」として再整備中。
豊島区に移築されている建物( 荻外荘の一部 )も、杉並区に戻して再整備をする計画だというので、経過を見守りつつ。

「荻外荘公園」
国史跡 荻外荘(近衛文麿旧宅)

杉並区にある「荻外荘公園」 この地に残る「国史跡 荻外荘(近衛文麿旧宅)」に旧宅が残っているので見学してみました。平成30年2月撮影。

通常は南側の公園部から邸宅跡を外観のみ見学可能。
(午前9時から午後5時まで)
将来的には近衞文麿居住当時への復元が予定されているという。

中央の部屋が近衛文麿が自決した書斎部。

昭和20年、近衛文麿にGHQから逮捕命令が伝えられ、A級戦犯として極東国際軍事裁判で裁かれることが決定。
近衞は巣鴨拘置所に出頭を命じられた最終期限日12月16日未明に荻外荘で青酸カリを服毒して自殺。享年54歳。

公園内(敷地南部)には井戸がありました。
川本式手押しポンプ井戸

敷地南側。
井戸で遊んでいたらレンズの下部に水滴がついたままだったようで。

公園部から北側に回り込んで、近衛邸正門へ。
現在、入口は堅く閉ざされている。 再整備が終わったら、こちらから荻外荘の見学もできるようになれば・・・ですね。

荻外荘・一般公開(杉並)

昨日(平成30年9月29日)、荻窪にある荻外荘(近衛文麿旧宅)の一般公開に参加することができまして。
(公開情報を教えてくれましたフォロワーさんの情報に感謝です!)
見学の様子を以下に展開。

近衛文麿が自殺した書斎部屋

普段は門が閉じられ立ち入りができない近衛邸。

近衛通隆氏(近衛文麿氏の次男)が平成24年に亡くなるまで居住されていた屋敷。 「近衛」と高らかに標識も掲げられており。
近衛通隆氏死後の平成26年に杉並区が荻外荘を含む敷地を購入し再整備計画中。
国指定史跡指定。

荻外荘の変遷は3つの時代に別れる。

入澤家時代(昭和2年~昭和12年)
近衛文麿家時代(昭和12年~35年)
近衛通隆家時代(昭和35年~平成)

現在の近衛家の玄関は文麿時代のものではなく通隆時代のもの。
(文麿時代の玄関は現在は文京区に移築されている)
昭和35年に屋敷が分割しており玄関等も付け替えされている。
将来的には分割部分を戻して復元予定という。

敷地の東側部分の空き地。

この部分に近衛文麿時代の「客間棟」と「玄関棟」があった。
(昭和35年に文京区染井に移築)
ゆえに荻外荘に残っている建屋は「居住棟」と「別棟」を改修したもの。
杉並区の計画では移築された建屋もこの地に戻して、改めて復元をするとのことで。

東側。
戦後の改修部分。
和室の手前にバルコニー。
奥は食堂、そして暖炉の煙突。

耐震補強工事実施前ゆえに見学には制限があり。
この日は15人で1組の整理券制で先着順受付。
全14回。30分見学。見学時はヘルメット着用。

戦後は長らく近衛通隆氏が居住していた空間でありそんなに古さはない。
「文麿時代の何か」を期待してはいけない。
ガイドの人も「お宝的なものはないです」と言ってました。

写真は食堂部分。
窓の外にはかつては「屋敷(客間棟)」があったが移築後の改修で外窓となっている。

復元模型の中心部で会談している人たち。

昭和15年「荻窪会議」と日独伊三国同盟問題
近衛文麿(首相)
松岡洋右(外相)
吉田善吾(海相)
東条英機(陸相)
この部分は「客間棟」(染井に移築現存)。
移築された東側が荻窪に戻ってきて復元されてからが史跡「荻外荘」の本番ですね。

昭和20年12月6日
近衛文麿に対する逮捕命令発令。
巣鴨拘置所出頭日は12月16日。
その16日午前2時まで文麿は次男の通隆と和室にて話し合いを行っていた。
そして午前6時過ぎに文麿が和室で息絶えていたのが発見された。
享年54歳。青酸カリによる自殺。
法名は荻外院殿象山道賢。

写真は近衛文麿が自殺をした和室。

本棚にあったものなどは陽明文庫に送られたようです。
陽明文庫は近衛家伝来の史料を保管している京都の施設。
昭和13年に近衛文麿が設立。

荻外荘(近衛文麿旧宅)の蔵

居住棟と別棟の間にあるのが「蔵」
近衛家の至宝が納められていた名家の蔵。
堂々たる蔵扉。
入澤氏から邸宅を譲られた近衛文麿が建設。
別棟とともに昭和13年と推測。

蔵外観。
近衛文麿時代から、おおむね往時の姿を留めているという。
2階建ての蔵は、平屋の荻外荘のなかでは高さが頭一つ飛び出ている。

荻外荘(近衛文麿旧宅)別棟

昭和13年増築。
もともとは近衛文隆(文麿長男)が母親のために作ったものという。
アメリカ留学後に文隆も別棟に一時居住をしている。
(近衛文麿の長男近衛文隆はのちシベリアに連行され獄死している)

受付のとなりで販売がありましたので、 おもわず書籍を購入してしまいました。
(こういう書籍は見逃せないんですよね・・・)

敷地内にあった何か。
そんなに古くはなさそう・・・

荻外荘
案内人の一言が印象深く
「復元するとしてもどの時代にあわせるのか。伊東忠太が手がけた木造建設にも価値がある。(伊東忠太の現存する数少ない木造建造物、昭和2年) そして歴史舞台としては荻窪会談、近衛文麿邸としての価値がある。史跡登録もされた。」
あぁ、これは複雑な気持ちになります…

荻外荘・近衛文麿旧宅
豊島区の移築部分)

染井霊園の正面近くに近代史跡として意外なものが残っている。

「荻外荘」
もともと荻窪にあった近衛文麿別邸が何故か染井の地にある。
これも近いうちに荻窪に戻る(再移築)らしいので、ここで見れるのも残り僅かかもしれず…

もともと荻外荘は大正天皇侍医頭であった入澤達吉邸(昭和2年・伊東忠太設計)であったが昭和12年に近衛文麿別邸となる。
昭和20年近衛文麿が荻外荘にて服毒自殺。
戦後は吉田茂が荻外荘に居住したこともあった。
※敷地外より撮影

昭和35年に北半分にあたる玄関・応接間・客間が「天理教東京教務支庁」東京寮として移築。
荻窪に残った南半分は杉並区が取得し「荻外荘公園」として再整備。
杉並区では天理教と交渉し元の荻窪に再移築の上で復元を予定しているという。

近衛町(東京都新宿区下落合

場所は変わって新宿区へ。
東京都新宿区下落合
かつては「目白近衛町」と呼称された高級住宅地。
いまでもあちこちに「近衛」の名が残っている。

前述の荻外荘は「近衛別邸」
かつてこの目白近衛町に「近衛本邸」があった。
東京電力やNTTの電柱にも「近衛」の名が。

近衛篤麿公記念碑

かつて近衛邸があった地区に近衛篤麿公(近衛文麿の父)を記念する碑が残っている。大正13年(1924)に建立。
明治37年の篤麿死後、大正11年頃から近衛邸宅の一部が「近衛町」として分譲され近衛家の足跡を記録するために建立。

入口は極めて細く、その細い空間の中ほどに「記念碑」が残っている。

新宿区地域文化財第五号
「近衛篤麿公記念碑」

この地には大正末まで近衛公爵家の屋敷があり、分譲後も近衛町と呼ばれた。
大正13年建立。


近衛篤麿公記念碑

 公の諱は篤麿、霞山と号した大職冠藤原鎌足の後裔で、五摂家筆頭近衛家の第二十八代当主。文久三(1863)年六月二六日京都に生まる。  
 明治一七(1884)年、華族に列し公爵。翌年ドイツに留学、明治二三(1890)年帰国し、貴族院議員。明治二八(1895)年学習院院長、翌年貴族院議長に就任。時の内閣からしばしば入閣を懇請されたが固辞し、常に野にあって国政の大局的指導に当たった。
 日清戦争前後における西欧列強の清国侵略に慷慨し、中国の保全と日中の協力を提唱。明治三一(1898)年東亜同文会を組織し、次いで上海に東亜同文書院、
東京に東京同文書院を設立、日中両国学生の教育に尽瘁した。
 ロシアの中国への南下を憂慮し、国民同盟会、対露同志会を結成し、国論の喚起に努めた。しかし不幸にして難病に罹り、日露開戦直前の明治三七(1904)年一月一日逝去・行年僅か四二歳。
 当地は、公が明治三五(1902)年に晩年の居を定めたところでもあり、終焉の地となった。現在この辺は下落合と呼ばれるが別称近衛町ともいう。この記念碑は、公没後、二〇余年の大正一三(1924)年七月に建立された。
 平成八(1996)年一月  
 財団法人 霞山会  
 会長 近衛通隆

かつての霞山公の碑は良く整備されたこの地(広さ百坪)に築かれた塚の上に東側を正面に向けて建てられていた。
平成8年1月に現在のように再建された。
(昔日の霞山公紀念碑)昭和初期の大雪の日

霞山公記念碑・・・のうしろの煉瓦壁
たぶん近衛云々とは関係ないとおもうけど良い雰囲気。

旧近衛邸のケヤキ

旧近衛家のケヤキ
新宿区地域文化財第10号
樹齢100年を超えるケヤキの大木で、近衛家屋敷の車廻しにあったと伝えられる。地域の要望により残された。

現在は道路の真ん中に残された欅の大木。これも近衛家の名残。

「昭和寮」(旧・学習院高等科寄宿舎)

近衛家が分譲されたのちに当地に建てられた学習院の寄宿舎。
近衛篤麿は第7代学習院院長でもあり。
昭和3年建築、設計は宮内省。
現在は「日立目白クラブ」として活用されている。
(関係者以外立ち入り不可)

昭和寮跡碑

学習院大学建立

昭和寮跡
 昭和寮は、昭和3年(1928)に学習院高等科(旧制)学生の寄宿舎として現在の新宿区下落合2丁目13番28号の敷地に建設された。
 西洋式建築の堅牢な建物であったが、昭和27年(1952)に廃寮。同年、此の地に大学学生のための新たな寮を設け、それ以前の寮の名称を引き継ぎ「昭和寮」とした。以後、当初から数えると70年近い歴史を刻み多くの学生に利用、親しまれてきた昭和寮は、平成9年(1997)3月その幕を閉じた。
 平成13年6月 建立

杉並と目白と近衛にゆかりのある地を巡ってみました。


以下は補足。

近衛家墓所(近衛秀麿墓)

五摂家の一つである近衛家の墓所は京都の大徳寺。近衛文麿はそこに眠る。
近衛文麿(近衛篤麿の長男)の弟である近衛秀麿(近衛篤麿の次男)、そして近衛秀麿養子となった近衛通隆(近衛文麿の次男)の墓は東京池袋にほど近い練馬区桜台の広徳寺にある。

公爵 子爵 近衛家墓所

近衛秀麿

1898年(明治31年)11月18日-1973年(昭和48年)6月2日
作曲家・指揮者
元子爵 正三位勲三等
元貴族院議員
後陽成天皇男系十二世子孫

父は、近衛篤麿
異母兄は、近衛文麿(政治家・元内閣総理大臣)
実弟は、近衛直麿(雅楽)、水谷川忠麿(春日大社宮司)

第2次世界大戦中は主にヨーロッパで音楽活動に従事。
1945年4月に、ドイツの敗戦によりアメリカ軍に抑留。
1945年12月に帰国を果たすが、その同じ12月には兄の近衛文麿が自殺をしている。

近衛秀麿墓(近衛文麿の弟)
近衛秀麿
公爵子爵 近衛家墓所

近衛秀俊

1921年-1923年(大正12年)9月1日
後陽成天皇男系十三世子孫

近衛秀麿の長男。
関東大震災で死去。

近衛秀俊墓(近衛秀麿長男・関東大震災で死去)

近衛通隆

1922年(大正11年)5月11日-2012年(平成24年)2月11日
後陽成天皇男系十三世子孫
歴史学者
東京大学史料編纂所教授、霞山会会長、陽明文庫理事長を歴任。

近衛文麿の次男。(近衛文麿の長男である近衛文隆の次弟)
1935年に近衛秀麿の養子となる。近衛忠煇の叔父。

近衛家墓
近衛通隆墓(近衛文麿次男・近衛秀麿養子)

近衛秀健

1931年(昭和6年)2月4日-2003年(平成15年)3月31日
後陽成天皇男系十三世子孫
作曲家・指揮者

近衛秀麿の次男。非嫡出子。1935年に近衛秀麿から認知。
近衛秀健氏の子息は音楽一家として現在も活躍中。

近衛秀健墓(近衛秀麿の次男)

近衛牡丹の家紋

余談ではあるが、東京の近衛家墓所のある広徳寺にはいくつかの大名家の墓所があつまっている。

広徳寺には、以下の歴史的な著名人の墓がある。
柳生家 柳生宗矩・柳生十兵衛三厳・柳生宗冬
小堀家 小堀遠州正一
立花家 立花宗茂

柳生家墓所
立花家墓所
小堀家墓所

最後は余談でした。
近衛家に関するなんやかんや、でした。

都内の射的場跡散策・弥生と大森

平成29年11月撮影

戦前の都内にはいくつか「射的場」があり、今でも地図上でその痕跡を見つけることが出来る。
有名なところでは現在は戸山公園となっている「陸軍戸山射撃場」などがあるが、今回は「弥生」と「大森」にあった射的場跡を(極めて地味に)巡ってみます。

射的場跡散策・弥生

弥生、いわずと知れた東京大学。
その東大エリアの地図を眺めてみると気になる住宅街があるかと思います。
東京大学本郷キャンパス・弥生キャンパス・浅野キャンパスに三方を囲まれた一画。現在は住宅地となっているエリアにかつて「射的場」があった。

この地区は「弥生式土器発掘ゆかりの地」で有名。
明治からの射的場を偲ぶものは特になく、それこそ地図が物語っているといった感じです。

東大武田先端知ビル建設時には射的場で使用された弾丸も出土。

東京共同射的会社射的場
明治10年(1887)に警視局(警視庁)射的場として開設。明治15年に宮内省所轄射的場となり皇宮地附属地の東京共同射的会社射的場となった。明治21年に射的場は大森に移転。

東京共同射的会社射的場は明治21年に大森に移転(後述)しているので、当地には射的場を物語るなにかは残っていない。
敢えて言えば直線的な住宅地空間が唯一の名残。
射的場の南東端(4枚目)は、ちょうど文京区と台東区の境目。

これだけで弥生はおわり…だと寂しいので蛇足を。
射的場跡の隣に現在は東大病院がある。
東大病院近くの 「東大弥生門」を出てすぐ近くの「弥生美術館」の壁にレリーフがあった。

東京大学医学部戦没同窓生の碑

平成13年5月27日建立
満洲事変・日中戦争・太平洋戦争の犠牲となった東大医学部同窓生200余名を慰霊。

射的場跡散策・大森

弥生から大森に移った射的場は、大森にて明治22年(1889)から昭和12年(1937)ごろまで使用されていたという。

「日本帝国小銃射的協会跡碑」

この碑が何時建立されたかは不明。碑右上部に欠落が有る。裏面無銘。

「大森射的場」
「日本帝国小銃射的協会跡碑」
地図を見てみるとやはり空間が。射的場跡は現在は「大森テニスクラブ」として活用。
射的場時代の大正12年には「大森庭球倶楽部」が併設開設されており、周辺環境の変化から射的場は昭和12年頃に鶴見北寺尾に移転。

時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」
http://ktgis.net/kjmapw/index.html より

現在の「大森テニスクラブ」。
もちろん射的場当時を物語るものは地図上の形ぐらいしかなく。 やはり敢えて言えば弥生と同じく直線的な道路。

こんな感じで極めて地味すぎる散策でした。

面白いのは弥生式土器発見の地「弥生」日本考古学発祥の地「大森」「射的場」で繋がっていた歴史にニヤリと出来た事。 大森の射的場跡から駅に向かう途中にも弥生があったり。

東京23区内に残る寺社の防空壕

平成30年12月撮影

  • 千住神社(東京都足立区千住宮元町)
  • 成願寺(東京都中野区本町)

千住神社と防空壕跡

千住神社
創建は延長4年(926)という古社。旧社格は郷社。千寿七福神の一神(恵比寿)。
この神社にはなんと…防空壕が残っているのです。
参拝しつつ、ちょっと防空壕を見てみましょう。

北千住鎮座の千住神社。
北千住駅から歩いて15分ほどの地に鎮座。

昭和20年(1945)4月13日 空襲で社殿を焼失。
境内の御神木や石鳥居などは戦災を免れて残っている。
そして戦争の記憶を残す防空壕跡も。
戦後昭和33年(1958)9月に社殿が再建という。

千住神社と防空壕跡
境内の片隅に残る防空壕跡。 平地での防空壕は半地下構造。その上部には戦時下特有の瓦礫混じりコンクリ15センチ厚程度のものが渡されている。

境内の片隅に残る防空壕跡。
内部はおもったよりも広い。膝をかがめた状態で大人なら10人程度は入れる空間。
東京都内のそれも23区内に、こうして防空壕が残っていると知ったのはつい最近のことでした。これはとても貴重な戦争史跡、素晴らしい戦跡です。

※現在はロープが張ってあり、壕の中に入ることはできません

北千住界隈の戦跡は以下でまとめました。


千住神社 御神木
「夫婦銀杏」
千住神社を始め千住宮元町の建物が戦災で焼失したなかで、焼け残った御神木。

千住神社
掲揚台座「八紘一宇」
神武天皇故事
 掩八紘而為宇事(八紘を掩いて宇と為さん事)…
紀元二千六百年記念(昭和15年11月建立)

八紘一宇に関しては以下も。


千住神社
日露戦役紀念碑(乃木希典書)
明治39年3月建立

二つに割れた痕跡が痛々しい・・・ 割れた後に、なんとか修復されたようですが。

千住神社・鳥居
慶応2年(1866)の石鳥居及び大正15年(1926)の石鳥居

千住神社・富士塚
大正12年(1923)浅間神社を勧請し富士塚を建立
これらも昭和20年の空襲戦災を逃れた建造物。


成願寺と防空壕跡

中野長者の寺 多宝山成願寺(曹洞宗)

http://www.nakanojouganji.jp 

中野区本町鎮座

こちらの寺院に残る戦時中の防空壕(但し崩落防止の為に鉄筋にて補修済)の見学をさせていただきました。
普段は施錠してあり許可を得て、成願寺僧侶立ち合いのもとでの見学となります。

防空壕を見学希望の際は、事前の電話予約が必要です。
電話:03(3372)2711 成願寺寺務所まで

http://www.nakanojouganji.jp/boukuugou.htm

防空壕の長さは約30メートル。総面積は約80平方メートル。崩落の危険があった為、2000(平成12)年に鉄筋での補強工事を行っている。
壕の真ん中には6畳間ほどの小部屋がある。かつては多くの部屋があり、本堂や風呂・雪隠(トイレ)も備えた本格的な設備だったという。

本堂の裏山を貫くように通路が設けられており入口は2カ所。本堂の隣の入口から見学。
防空壕は崩落の危険があったため鉄筋にて補修。鉄筋の合間合間に隙間がある。これは仏像を置くつもりでスペースを予定していたが赤土が脆いために現在は木の皮で塞いでいる、とのこと。

昭和20年(1945)5月25日、東京大空襲(山の手空襲)をはじめ幾多の空襲に際して、多くの人々を救った防空壕は歴史の生き証人として今に残っている。
空襲で堂宇、仏像は全焼する中で、辛うじて御本尊様と御開山様と古文書や掛け軸・過去帳などの一部が防空壕で護られた…と。

写真は防空壕の入口(本堂側)と裏山の頂上から。
現在、お寺には附属幼稚園があり今でも万が一の際は園児100人が過ごせるように水と食料(乾パン)が備蓄されているという。 時代を超えた空間…

快く防空壕をご案内してくださいました成願寺僧侶の方に感謝。防空壕に関する資料や御由緒書もありがとうございました。

成願寺住職 小林貢人さんの中学1年生向け防空壕や空襲に関する解説など

http://www.nakanojouganji.jp/backno/chugaku1.htm

中野区平和史跡案内

https://www.city.tokyo-nakano.lg.jp/dept/101500/d005246.html


成願寺 (中野区)

開基である鈴木九郎は紀州出身の馬商人であったという。商売が成功し財を成し「中野長者」と。鈴木九郎には小笹という一人娘がいたが18歳で病死。娘を失った事を機に仏門に帰依。小田原大雄山最乗寺の春屋宗能の教えを受け1438年(永享10)に邸宅を寺院としたことが成願寺のはじまり。

もともと鈴木家は紀州藤代の熊野社の神官の一族であったが源義経に従い流転。
九郎は、当地を開拓にあたるとともに自身の産土神である熊野社を祀る。
明治時代の神仏分離令により成願寺より十二社熊野神社が分離。これが現在の新宿十二社熊野神社。
写真は成願寺境内 中野長者鈴木九郎ものがたり

史跡 中野長者遺跡
鈴木九郎長者塚

境内墓地には「蓮池鍋島家の墓地」(蓮池鍋島家。蓮池藩は佐賀藩の支藩)がある。
鍋島家は、寛永16年(1639)に佐賀藩主鍋島勝茂の四男直澄が、蓮池に分封されたのを始祖とし、五万二千六百石を領していた。
中野の寺院で大名家の墓所があるのはここだけという。

達磨絵
縦5メートル、横11メートルの大看板 莫妄想 (まくもうぞう 禅語)

新宿十二社熊野神社

http://12so-kumanojinja.jp 

折角なので新宿熊野さんにも。 成願寺を建立した鈴木九郎が自身の産土神である熊野三山より若一王子宮を祀ったことにはじまる。その後鈴木家は家運が上昇し中野長者と呼ばれ、応永10年(1403)熊野三山の十二所権現すべてを祠る。
明治に神仏分離。

今回、防空壕をご案内してくれました成願寺の僧侶さんが、
「多忙な時以外は防空壕の見学は可能ですので御遠慮なく…」 とのことでしたので、時代を超えて今に残る防空壕に御興味がございましたら、是非に成願寺さんに。
改めて、ありがとうございました! http://www.nakanojouganji.jp/boukuugou.htm 

二・二六事件と海軍

平成29年2月投稿

突然ではございますが、なんとなく表題の件「二・二六事件と海軍」と題して、かなりざっくりとまとめてみたいと思います。
知っての通り、二・二六事件といえば陸軍の青年将校が起こした事件であり陸軍の話はいくらでもあり、わざわざ海軍に着目する理由は… 私は海軍好きというだけの話です。(いちおう水交会会員ですし、、、

きちんと本筋立ててガチガチには内容をまとめてないので、ちょっと話が散らかりますがお付き合いくださいませ。

たぶん察しの良い方はわかると思いますが「横鎮」メインになりそうです、、、

二・二六事件発生時の海軍

海軍省
大臣 大角岑生大将
次官 長谷川清中将
軍務局長 豊田副武中将

軍令部
総長 伏見宮博恭王
次長 嶋田繁太郎中将
第一部長 近藤信竹少将

横須賀鎮守府
長官 米内光政中将
参謀長 井上成美少将

連合艦隊
第一艦隊旗艦「長門」
 高橋三吉中将 連合艦隊司令長官兼第一艦隊司令長官
第二艦隊旗艦「愛宕 」
 加藤隆義中将 第二艦隊司令長官

横須賀警備戦隊
「木曽」艦長 岡新大佐
第三駆逐隊(汐風・島風・灘風・夕風)
横須賀陸戦隊 指揮官 佐藤正太郎大佐


昭和4年(1929年)10月

ウォール街の株価暴落に始まった世界恐慌は各国に波及し混乱を極めた。
日本においては、昭和6年満州事変、昭和7年第一次上海事変以来、日本の大陸進出とともに海外情勢も悪化。

昭和7年(1932年)5月

五・一五事件が発生。(海軍青年将校が内閣総理大臣犬養毅を殺害)
これは昭和5年に締結された「ロンドン海軍軍縮条約」を起因とした海軍青年将校の暴発。

ロンドン海軍軍縮条約

いわゆる対米6割に抑えられた軍縮条約。
海軍内部で条約に賛成する「条約派」(海軍省側)と条約に反対する「艦隊派」(軍令部側)という対立構造が発生。後に統帥権干犯問題に波及。
さらには昭和8年の「大角人事」を招く。

大角人事

大角岑生海軍大臣による条約派追放人事。
艦隊派の加藤寛治軍令部部長がロンドン海軍軍縮条約の締結に憤り昭和5年に軍令部長を辞表。谷口尚真(条約派)をへて艦隊派の伏見宮博恭王が軍令部長に就任したことから海軍省と軍令部の歯車が狂い始める。
もともと伏見宮博恭王が軍令部長に就任したのは昭和6年末、陸軍参謀総長に皇族の閑院宮載仁親王が就任した事から、バランスを取るための人事でもあったが、のちに人事を担当する海軍省及び大角海軍大臣の首を締めることにもなり。軍令部を辞表した加藤寛治は伏見宮博恭王・末次信正らとともに艦隊派の中心人物として昭和8年頃から大角大臣へ条約派に対する人事圧力を断行。山梨勝之進大将・谷口尚真大将・左近司政三中将・堀悌吉中将などのロンドン海軍軍縮条約締結時の海軍省要人が相次いで予備役に。

φ(..)メモ
予備役っていうのは一言で言えば「首」です。退役軍人ですね。

海軍省と軍令部の違い。
海軍省は内閣に従属。軍政・人事を担当。 軍令部は天皇に直属。天皇の統帥を輔翼し海軍全体の作戦指揮を統括担当。 軍令部は政治と人事には口出ししては駄(

とにもかくにも伏見宮博恭王は軍令部の権限を強化。
軍令部総長となり海軍省を圧倒。
海軍の対立縮図も多少は二・二六事件にも影響かな。

みんな大好き対立図式
陸軍 皇道派(二・二六事件) vs 統制派
海軍 艦隊派(五・一五事件) vs 条約派

ちなみに二・二六事件の際に陸軍皇道派に襲われた総理大臣・岡田啓介海軍大将は条約派。
というか、海軍の穏健派はロンドン条約締結賛成派。
で、前述の大角人事で艦隊派(強硬派)に左遷させられたわけで。 大角自身は事なかれ主義な人物。

海軍の艦隊派と皇道派は通じるものがあったようで。
ちょっと話題を先走ります。
それこそ二・二六事件に際しては、事件発生の朝に海軍の伏見宮軍令部総長と加藤寛治海軍大将、そして陸軍の真崎甚三郎大将が打ち合わせを行ってます。このメンツが濃すぎるんです。
陸軍の真崎甚三郎といえば皇道派の首領。事件の青年将校たちに「お前たちの気持ちはよく分かる」云々発言で有名。
で、伏見宮と加藤と真崎の三人で朝方に協議を行った後で宮中へ参内。伏見宮は昭和天皇に拝謁したが、天皇はご立腹で伏見宮は不興を買う、と。

横須賀鎮守府

話は横須賀へ。

昭和10年8月1日。
比叡艦長であった井上成美に横須賀鎮守府付(参謀長内定)人事が発令。
この時の横須賀鎮守府長官は末次信正大将。
その三ヶ月半後、昭和10年11月15日に井上成美は少将に進級し横須賀鎮守府参謀長に就任する。

その後、末次は12月1日付で軍事参議官に転出。

昭和10年12月。
第二艦隊司令長官であった米内光政中将が横須賀鎮守府長官として着任。 のちのちまで語られる「米内・井上コンビ」のはじまりの時であった。

井上が横鎮参謀長として赴任した同じ月(昭和10年8月12日)に陸軍皇道派と統制派の対立は激化。 皇道派の相沢三郎中佐中佐が統制派の軍務局長永田鉄山少将を刺殺する事件(相沢事件・永田事件)が勃発。

永田鉄山 諏訪護国神社

海軍に五・一五事件で遅れを取ったと感じる陸軍過激派の暴発を苦慮した井上参謀長は緊迫する状況を鑑み、横須賀鎮守府での即応戦力準備に取り掛かる。

まずは特別陸戦隊一個大隊を編成。そして警備艦「那珂」艦長に「昼夜雨雪関わらずに芝浦へ急航する為の研究」を命令。

※補足
当初は、「那珂」艦長に芝浦急航の研究を命じていたが、二・二六事件が発生した際は予定していた軽巡「那珂」は九州方面で活動をしていたため、実際に横須賀から芝浦に出動したのは軽巡「木曽」。

昭和11年2月26日

早朝。横須賀では珍しく積雪となった朝。
井上参謀長へ副官より第一報が到来。
「陸軍は大変なことをやりました。」
「一部は総理官邸を襲って…」
実は海軍は東京に兵力を持っておらず、横鎮の責任において在京守備をするしかない状況…

かねてより陸軍の暴発を危惧していた井上参謀長は横須賀鎮守府より矢継ぎ早に用意の手を打つ。

・砲術参謀を東京へ自動車で急派
・横須賀砲術学校より即応体制の掌砲兵20人を海軍省急派
・緊急呼集
・特別陸戦隊用意
・軽巡木曽急速出港準備
・麾下各部自衛警戒

どうやら、 総理大臣岡田啓介、内大臣斎藤實、侍従長鈴木貫太郎、 大蔵大臣高橋是清、陸軍教育総監渡辺錠太郎、前内大臣牧野伸顕が襲われ殺害された、と情報が入り始める。
(実際は岡田総理と牧野伸顕は助かり、鈴木貫太郎は重傷で一命をとりとめる)

襲われた六人の重臣のうち3名が海軍出身の重鎮(岡田・斎藤・鈴木)であったことから海軍将兵の憤りは尋常ではなく、命令下り次第陸軍と一戦を交える気構えに、いやがおうにも包まれていく。

午前9時ごろ。
長官官舎にいた米内光政長官より井上参謀長に電話入電。
「おれもそろそろ出て行った方がいいか?」
※横須賀へは朝帰り説もありますが、まあ米内提督は強運の持ち主だったということで。

※写真は2004年撮影(盛岡八幡宮境内・米内光政銅像

いかにも米内光政長官といった堂々たる(のんびりした)態度に感じ入りながらも井上成美参謀長は返答。
「差し当たっての打つ手は皆打ってありますが、国の大事ですから、やはり鎮守府に来ておられた方がよろしいでしょう」
こうして間もなく米内長官も鎮守府へ出勤。

混乱した各方面の首脳は永田町一帯を占拠した部隊をなんと呼称するかで迷っている様子もみられ。「蹶起部隊」という呼称も出てくる中で
井上は「海軍はあくまで逆賊として対処する」と。
米内も「あれは叛乱軍だよ」と参謀長と同意見。

米内は井上に言う。
「陸軍が宮城を占領したらどうしようか」
井上は即座に返答。
「もしそうなったら、どんなことがあっても陛下を比叡(御召艦)においで願いましょう。そのあと、日本国中に号令をかけなさい。陸軍がどんなことを行っても海軍兵力で陛下をお守りするのだと。とにかく軍艦に乗っていただければ、もうしめたものだ。」
米内
「そうか、貴様、そう考えているのか。ようし、俺も腹が決まった」
横鎮では米内長官、井上参謀長以下各員は鎮守府に籠城・厳戒体制。

同じ2月26日午前9時ごろ。
すでに準備を終え特別陸戦隊を乗せた軽巡「木曽」がまさに出港しようとしていたときに、軍令部から「待った」の声がかかる。
「警備派兵は手続きがいる。横鎮が勝手に軍艦を出すのはいかん。手続きがすむまで待て」

万全の体制で準備をしてきた横鎮に対しての軍令部の横槍に井上は憤る。
「横鎮長官が麾下の警備艦に管区内を行動させるのに、何を軍令部が文句を言うのか」と。
(この横槍は軍令部次長嶋田繁太郎中将あたりから出てきたものかどうか…。)

上記写真:横須賀鎮守府司令長官米内光政(中央) 参謀長井上成美(左から2番目)
(「井上成美」井上成美伝記刊行会の巻頭写真より)

事件当日の海軍中央部の動きは、陸軍に気を使ってのことか芳しくない。

大角海軍大臣は事なかれ主義。
伏見宮軍令部総長は皇道派の真崎大将と打ち合わせをしていたり、陛下に叱責されたり。

で、軍令部は肝心の軍隊を動かす「手続」にことのほか手間どっていた。

2月26日の海軍主力。
ちょうどこのとき連合艦隊は土佐沖で演習中であった。

連合艦隊
第一艦隊旗艦「長門」
  高橋三吉中将 連合艦隊司令長官兼第一艦隊司令長官
第二艦隊旗艦「愛宕」
 加藤隆義中将 第二艦隊司令長官(加藤友三郎元帥の養子)

軍令部としての手続き。
軍令部総長が天皇の允裁を受けて統帥命令を伝達するという形式を踏まねばならなかった。そのため陸戦隊が海軍省に到達できたのは26日午後遅くとなってしまい、兼ねてより準備を進めていた井上参謀長としては不本意な結果となってしまった。

26日午後。
土佐宿毛湾沖で演習中の連合艦隊第一艦隊(旗艦長門)を東京湾へ派遣。 第二艦隊(旗艦愛宕)を大阪湾へ。
横須賀警備戦隊の木曽・第三駆逐隊・特別陸戦隊を東京に派遣。
午後になって、ようやく方針が固まった。

井上によって編成され軍令部指示で増強された派兵部隊。
軽巡木曽と第三駆逐隊(峯風型駆逐艦の島風・灘風・夕風)に乗って芝浦に急行した横須賀鎮守府特別陸戦隊四個大隊(約2000名)は井上と同期の佐藤正四郎大佐(砲術学校教官)によって率いられ芝浦から東京へ。

海軍艦艇主力の動向。
26日12時30分。
連合艦隊は演習しつつ宿毛湾に入港。

26日15時頃。
「両舷直整列」「急速出港準備ヲナセ」

26日17時。
長門以下連合艦隊は宿毛湾を出港。
長門以下第一艦隊は東京湾へ。
愛宕以下第二艦隊は大阪湾へ。

襲われた岡田啓介と鈴木貫太郎は、かつて連合艦隊旗艦「長門」艦上で連合艦隊司令長官として艦隊の指揮をとった海軍の重鎮。
(岡田は第15代司令長官、鈴木は第16代司令長官)

海軍としては断固たる決意で陸軍の蹶起に反対する意気込みが連合艦隊内にみちていた。

27日16時。
急航した連合艦隊旗艦「長門」を中心とした艦艇約40隻が芝浦沖に集結。第一艦隊では艦隊での陸戦隊を編成し上陸展開。陸戦隊で鎮定できないときは国会議事堂を艦砲射撃で破壊する案まで展開され反乱軍にいつでも砲撃できる体制を整えた。

一方で、重巡洋艦「愛宕」を旗艦とする第二艦隊は大阪湾へ。 第二艦隊は艦隊の多数を大阪の沖合に留め、旗艦「愛宕」のみを大阪港内に進入させて警戒に務めた。 これは(特に東京の叛乱軍と連動していない)大阪の陸軍(第四師団)を刺激しない配慮もあったようだ。

中央の様子

さて、中央の様子をちょっとだけ。

殺害されたとの噂も流れていた岡田啓介首相。
実は岡田首相は難を逃れ官邸の女中部屋に潜んでいた。
官邸に残った秘書官の福田耕秘書官は救出の策を練り、こっそり逃げ出した秘書官の迫水久常は宮中に岡田生存の報告へ。

秘書官の迫水久常は、なんとか岡田を救出しようと海軍大臣大角岑生に相談を持ちかける。
迫水は岡田生存の事情を伏せつつ大角大臣に相談する。
「陸戦隊を出して欲しい」
しかし、大角は(事なかれ主義の大角としては当たり前だが)
「そんなことをしたら陸海軍の戦争になる」
と反対。

大角海軍大臣はとにかく「事なかれ主義」。


二・二六事件対応では横鎮井上参謀がとにかく強硬派。
面白いことに海軍内では、いわゆる強硬派(艦隊派)が今回の事件に関しては対陸軍慎重派が多く、逆に普段は慎重派(条約派)な面々が対陸軍では強硬派だったり。

迫水大角対談。
迫水は更に言葉を続け「もし都合が悪かったらこの話は聞かなかったことにしていただきたい。実は岡田大将は生きてます。官邸の一部屋に隠れて救出を待っています。」と。
聞かされた大角海軍大臣「君、その話は聞かなかったことにするよ」と不甲斐なく…。

海軍大臣の協力を得られなかった迫水は最終的には東京憲兵隊の小坂慶助曹長らの尽力を得て岡田首相の救出に成功する。(憲兵さんの良きエピソードですが詳細割愛)
官邸では首相秘書官で義弟の松尾伝蔵が岡田首相の身代わり(勘違い?)となり殺害されていた。

初動で海軍も部隊を展開したらあとは叛乱軍と陸軍中枢との折衝が中心となり、海軍の出番はもう終わりだったり。
鈴木貫太郎のお話とかもここでは省略します。
陸軍中枢の動きと迷走や石原莞爾とかもここでは深く触れないことにする。


後日談

こうしていろいろあって(はしょりすぎ)


昭和11年3月9日。
二・二六事件により岡田啓介内閣は総辞職。広田弘毅内閣が成立。
広田内閣の一番の失策は「軍部大臣現役武官制」を復活させたこと。 これにより、この先々は陸軍の横暴に苦しめられることになる…

岡田啓介

岡田は政界の表舞台からは身をひき裏方へ。そして8年後の昭和19年。もう一度殺される覚悟でもって東条内閣打倒に尽力。終戦に向けての最後の舞台へと米内を押し出す原動力ともなる。こうして岡田の尽力で既に現役を引退していた米内は現役に復し最後の海軍大臣へ、と

大角岑生

大角岑生海軍大臣の後任は永野修身。(永野は海軍大臣ののちに連合艦隊長官。) 海軍大臣退官後の大角は軍事参議官。現役大将序列は伏見宮に次ぐ立場であったが、ぱっとせず。伏見宮軍令部総長の後任に、大角と永野の名が挙がるも、昭和16年2月に大角は飛行機事故で死去。

井上成美

昭和11年11月。 井上成美は二・二六事件ののちに横鎮参謀長から軍令部出仕兼海軍省出仕へ。 翌昭和12年10月に海軍省軍務局長に。 その時の海軍大臣は米内光政。海軍次官は山本五十六。 ここに「海軍三羽烏」「海軍省の左派トリオ」が誕生した。

米内光政

米内光政は、二・二六事件で重傷を負った鈴木貫太郎の後任侍従長との声もあったが、横鎮長官職の次職慣例もありその話はお流れ。鈴木の後任侍従長は百武三郎海軍大将。 昭和11年12月に、第23代連合艦隊司令長官へ。(連合艦隊司令長官兼第一艦隊司令長官。)

しかし米内光政は連合艦隊司令長官としての職を果たす間もなく着任わずか2ヶ月後の昭和12年2月に林内閣海軍大臣として中央に戻されることとなる。 連合艦隊司令長官の米内後任は永野修身(海軍大臣)。永野事情による海軍大臣と聯合艦隊長官の入れ替えだった、とか。

海に出た米内であったが僅か2ヶ月で中央に戻され、海軍大臣、さらには首相として本人は不本意な政治を行い、それが日本の要になるとは皮肉なものであった。そんな海軍省には次官として山本五十六がいた。(山本五十六は事件当時は海軍航空本部長で口出しする立場に無し)

いずれにせよ二・二六事件以降の動きは、また別の機会に。(あるのか?) 米内光政海軍大臣・山本五十六海軍次官・井上成美海軍省軍務局長のいわゆる「海軍三羽烏」「海軍省の左派トリオ」は、次の「日独伊三国軍事同盟」に向けての政局混乱に動き出すわけです。

鈴木貫太郎

参考文献

参考文献は手の届く間近の本棚から慌てて取り出した本を中心に。 (そこまでガッツリ書こうと思っていなかったので資料にかたよりアリ。本箱に埋もれて今回活用できなかった本も多数、残念)

「井上成美」伝記刊行会の題字は、本人の直筆筆跡。


関連

戦災電柱

平成29年11月撮影 台東区三筋町

台東区三筋の住宅地のなかに残る戦跡。

昭和20年3月10日、東京大空襲のさなかで辛うじて焼け残った電柱。

場所→台東区三筋1ー13ー12
https://goo.gl/maps/h4N11AgjgHu …

第二次世界大戦下の1945(昭和20)年3月10日、米軍機B29による東京大空襲で、10万人以上の貴重な人命が失われ、三筋町も一面に火の海となりました。辛うじて焼け残ったこの電柱には当時の惨状が刻みこまれています。私達はこの悲惨な歴史の生き証人としての電柱を保存することにより、あのような悲劇をひき起こした戦争を二度とくり返さないことを神に誓い、恒久の世界平和を宣言するものであります。
 Mar 101988 焼け残った電柱を保存する会

台東区三筋町の住宅地のなかに残る戦跡。
昭和20年3月10日、東京大空襲のさなかで辛うじて焼け残った電柱。
交差点の向こうにみえる赤い鳥居は「梅森稲荷神社」


黒焦げの電柱(複製)

現地に保存されている電柱の複製が、江戸東京博物館に保存されている。

 台東区三筋1-13の交差点角に立っていた電柱で、1945年(昭和20)3月10日の東京大空襲で被災したものである。高さは本来7mほどあったが、焼けて半分ほどになってしまった上に、黒く炭化してしまった。
 戦後は街路灯として使用されていたが、付近の交通が頻繁になり、撤去することになった。しかし空襲の記憶を語り継ぐ資料として現地保存されていた。
 1995年(平成7)、当館に収蔵された。


関連

東京大空襲・慰霊


B-29のタイヤとプロペラ

平成30年6月・他


B-29のタイヤ
(機体番号44-69728・第314航空団29爆撃群所属)

舎人公園の近くの畑の片隅に。
大きなゴムタイヤがありました。 なんでも「B29のタイヤ」だそうで。

B-29のタイヤ
このゴムタイヤのB-29履歴は以下を参考。

1945年5月25-26日 東京都足立区入谷町の水田
B29(機体番号44-69728、第314航空団29爆撃群所属)が墜落。

B29は南方から火を吹きながら飛来し、高度500メートルほどで爆発、現在のトラック・ターミナル付近に墜落した。破片は広範囲に散らばり、エンジンは2日間燃え続けた。戦後、B29のプロペラ1枚が土地の所有者によって掘り出され、入谷南中学校に寄贈されたが、現在は足立区郷土博物館に保管されている。
(略)

「POW研究会」本土空襲の墜落米軍機と捕虜飛行士  http://www.powresearch.jp/jp/archive/pilot/tobu.html …

日暮里・舎人ライナーの「舎人駅」から歩いて10分ほど。

畑の片隅の「タイヤ」を見学して、そして駅に戻るというプチ散策。
緑が茂り過ぎていたので、こちらの観察は冬のほうが良いかも・・・〆


冬の季節に再訪しました。
木の繁りがなくなってよく観察できますね。(伐採されてた)
一方で、柵は強化されてました。

16 PLY
 56
SMOOTH CONTOUR

182974-6M

グッドイヤー(GOOD YEAR)のロゴか?

大きさがよく分かる。

※上記の撮影は2021年3月


B29のタイヤの場所

場所は、足立区入谷5丁目。

https://goo.gl/maps/EKvTzR5zMKcb2yfK9


B-29のプロペラ
(機体番号44-69728・第314航空団29爆撃群所属)
足立郷土博物館

畑の片隅に残されているタイヤ以外に、このときに墜落したB29プロペラ1枚が足立区郷土博物館に保管されている。

別の日に、足立区郷土博物館に脚を運んでみました。

B29プロペラ(部分)
昭和20(1945)年 入谷南中学校寄贈・当館蔵
 昭和20年5月25~26日空襲のとき撃墜されたB29の1機が入谷町(足立区入谷)に落ちました。墜落地点近くの地元の人が保存していた#44-69728号機のプロペラの一部です。

https://www.city.adachi.tokyo.jp/hisho/ku/kucho/20210719-mainichi.html


これは別のB29に関係するものですが。

B29無名戦士之墓碑
(機体番号42-63517・第313航空団505爆撃群所属) 
足立郷土博物館

1945年4月13〜14日 東京都足立区花畑町
 B29(機体番号42−63517、ニックネーム「POCAHONTAS」、第313航空団505 爆撃群所属)が墜落。B29は火の玉になって飛来、空中分解して主要部分は現在の北加平町12−8付近に、尾翼部分は現在の谷中町の営団地下鉄車庫付近に落下した。機体は数時間にわたって炎上したが、落下地点は田んぼだったので消火活動は行われなかった。
(注)上記作戦の損失機7機のうちの1機

 機長のJohn KRETZER中尉など11人全員死亡。
 戦後、地元民によって北加平公園に「B29無名戦士」の墓がつくられたが、現在は、その銘碑のみが足立区郷土博物館に保管されている。

「POW研究会」本土空襲の墜落米軍機と捕虜飛行士 http://www.powresearch.jp/jp/archive/pilot/tobu.html

B29無名戦士之墓(碑)
昭和21(1946)年 足立区加平・山野正雄氏寄贈
 昭和20年4月13日空襲時に墜落したB29(ポカホンタス号)の搭乗員を慰霊する墓の碑の部分で、北加平町に昭和21年12月25日に建立されました。現在。慰霊碑は道路となり撤去されました。

B29無名戦士の墓は北加平公園付近に建立されたという。

B29の勇士たち
 ここに眠り
平和の使徒として
 自由と正義を
真実に展開せし
 勇士たちよ
  安らかに憩へ
(以下建立者や後援者などの個人名は略)

後援者名には、作家の長谷川伸も名を連ねている。

昭和21年12月25日、まさにクリスマスにあたる日に、「平和の使徒」としてB29の搭乗員を慰霊する碑が建立されたというのが、戦後史を見る上で興味深い。

以下の記事もB-29関連として。


保木間高射砲陣地

足立区には「保木間高射砲陣地」があった。

足立郷土博物館には、保木間高射砲陣地に関するものも残されていた。
以下、足立郷土博物館の収蔵品を。

弾薬筒収容箱
昭和20(1945)年以前 当館蔵
保木間高射砲陣地で使用する砲弾を入れた箱です。

8cm高射砲段薬莢
昭和20(1945)年以前 当館蔵
高射砲弾の薬莢です。ここに火薬が詰められて弾を砲から撃ちました。保木間高射砲陣地の兵士が収集し戦後までながく保管していました。

M69小型焼夷弾
昭和20(1945)年 竹の塚・黒田倉蔵氏寄贈・当館蔵
火災を起こすための爆弾で、筒の中に油脂がはいっていました。地上700mで親弾から38発の小型焼夷弾がバラバラになり点火して落ちてきました。この小型焼夷弾は千住新橋付近で採集されました。

展示されていたM69小型焼夷弾は千住新橋付近での採集という。
大正13年に竣工した「千住新橋の親柱」も昭和53年に役目を終えて、足立郷土博物館に展示されている。
親柱の上部が焼けたように黒いのは、やはり当時の空襲の激しさを物語っているのかもしれず。

木銃
昭和20(1945)年以前 足立区保木間・吉岡秀典氏寄贈 当館蔵
保木間高射砲陣地の訓練用です。銃床部分に書かれている「AA」は高射砲部隊を表す記号です。

東部防空情報と敵襲図解
昭和20(1945)年 当館蔵
B29の進入経路を図示しています。

保木間高射砲の位置

このB-29が保木間高射砲陣地での墜落かどうかは定かではないけれども、こちらも参考までに。

国土地理院 地図・空中写真閲覧サービス
http://mapps.gsi.go.jp/ 
USA-M676-131 1947年11月28日、米軍撮影

画像の中心部、今でいう国道4号線の左右に陣地が展開されているのがわかる。


青砥高射砲陣地

足立区の隣の葛飾区には「青砥高射砲陣地」がありました。

青砥高射砲陣地跡

以上、足立区のB-29にまつわる戦跡でした。


B29・関連

青梅市のB29搭乗員慰霊碑とエンジンの一部

東村山にあるB29搭乗員を慰霊する平和観音

川口市のB29搭乗員の慰霊碑

松脂油採取の跡(高幡不動)

平成29年11月撮影 高幡不動

戦争末期。苦肉の策として航空燃料原料としての利用が試みられたのが「松から採取された油」であった。しかし労力と効率の割が悪く、また粗悪のために実用には至らず。 松の根からは「松根油」、樹皮からは「松脂油」が採取されたという。

その痕跡を高幡不動で探してみました…

今回は高幡不動で「戦時中に松脂油を採取された松の木」探しを。
高幡不動尊の裏山、愛宕山はかつてはクロマツ群生地であったようで。
看板には「現存するものにも、ほとんどが第二次大戦中の樹脂(松やに)採取の傷あとを根元に刻み込んでいる」と記載あり。

これも戦跡のひとつ…

東南の松。樹齢は350年以上と推定され高さは約25メートル。高幡不動愛宕山では最も大きい古木という。
その根元近くには「樹皮をV字型に傷つけて松ヤニをとった跡」が残っておりました。
この切傷に違和感を感じても、これが松脂油の採取痕跡だと言われなければわからない傷跡…

こうして切り刻まれたから70余年ほど経っていても、その傷跡は松の古木たちに「当時を偲びし歴史の一幕」として残っている。

高幡不動愛宕山の山中で松を見かけたら根元をよく見てみて下さい。
大なり小なり、刻まれた跡が残っています。
これもまた戦跡・・・

今回は(平成29年11月23日)、高幡不動で松を探してみました。


都内ではこの「高幡不動」の他には「井の頭自然文化園」にも戦争当時を偲びし松が残っている。

紅葉を愛でながら、松の幹で戦争を偲ぶというのも不思議な心持ちではありますが…

「インド独立運動の英雄」チャンドラ・ボース胸像(杉並区)

平成30年1月撮影


インド独立運動の英雄
チャンドラ・ボース

ボース事故死より30年後の昭和50年8月18日に遺骨を預かる頂光山蓮光寺(杉並区)境内に建立。
先日、友人よりチャンドラ・ボース像の話を聞きまして脚を運んでみました。

杉並区・蓮光寺
地図→ https://goo.gl/maps/Bh2e4LYonzm …


 昭和20年9月18日、蓮光寺第29世住職望月教栄師の仏教者としての英断により印度独立の英雄スバス・チャンドラ・ボース氏の御遺骨をこのお寺に安置し供養を続けて以来45年、我々スバス・チャンドラ・ボース・アカデミーは現住職望月康史氏の御厚意により茲に胸像を建て之を後世に伝えるものである
平成2年8月18日

チャンドラ・ボース胸像

昭和50年8月18日
頂光山蓮光寺
第29世 日輝
第30世 日史
建立

歴史を感じる…

スバス・チャンドラ・ボース・アカデミー

ビルマ方面軍司令官・河辺正三大将
第十五軍司令官・牟田口廉也中将
ビルマ方面軍高級参謀・片倉衷少将
印度独立協力機関長・岩畔豪雄少将
特務機関光機関長・磯田三郎中将
参謀本部第二部長・有末精三中将
駐ドイツ特命全権大使・大島浩中将

・・・

スバス・チャンドラ・ボース・アカデミー
そこに連なる名前はチャンドラ・ボース氏とともに、日本とインドが歩んだ歴史。
そしてインパールへと連なる歴史。

_φ(・_・.
初代会長には渋沢敬三元蔵相
初代副会長には岩畔元少将
最高顧問には河辺元司令官


ネタジ・スバス・チャンドラボースの碑

當寺に参ってネタジの聖なる遺骨にお祈りを捧げる事を私の幸運とするところであります
1958年10月4日 ラジェンドラ・プラサット大統領

佛陀の使命が人類に平和をもたらす様に祈ります
1957年10月13日 ジャワハルラル・ネルー首相

御仏の光が真心と平和に向かって人々のために永久に私達を導かれんことを
1969年6月26日 インディラ・ガンジー首相

インドの偉大な自由の闘士ネタジースバッシュチャンドラボーズの霊を安置している蓮光寺を再び訪れることができてうれしく思います
2001年12月9日 パジパイ首相


インド独立運動の英雄
スバス・チャンドラ・ボース

インド独立運動の非暴力主義のマハトマ・ガンディーに対し急進派として活躍。英独間で戦争が始まるとイギリスと敵対するドイツに亡命。

昭和16年12月
大東亜戦争初戦でのマレー作戦での日本勝利と英大敗は、ボースを奮い立たせ日本行きを熱望する。

昭和17年6月
シンガポールにて日本に亡命していたラース・ビハーリー・ボース(通称・中村屋のボーズ・新宿中村屋の相馬家の婿でもあった)を指導者とするインド独立連盟が設立。
しかしビハーリー・ボースの体調が芳しくない事から後継者として独立運動家として著名なチャンドラ・ボースの招聘が決定。

昭和18年2月8日
チャンドラ・ボースがドイツから日本に移動する手段として、既に陸路も空路も危険が伴うために日独の潜水艦がインド洋で合流するという海路での移動が選ばれる。
そうして、チャンドラ・ボースが乗り込んだドイツ海軍のUボートU180がフランス大西洋岸のブレストを出航。

昭和18年4月26日
インド洋マダガスカル島東南沖でUボートと日本海軍巡潜乙型伊号第二九潜水艦(伊29)が海面で合流。翌日にチャンドラ・ボースは日本潜水艦伊29に移乗。

画像はWikipediaより
伊29艦長・伊豆寿一中佐と乗組員、チャンドラ・ボース氏と秘書ハッサン氏
https://commons.m.wikimedia.org/wiki/File:19430428_japanese_submarine_crew_i-29.png#mw-jump-to-license …

昭和18年5月6日
伊29は海軍特別根拠地隊指揮下サバン島サバン港入港。ボースは同地で日本行きの飛行機便を待ち5月16日に東京到着。
東京に到着後、ビハーリー・ボース後継者としてインド独立連盟総裁とインド国民軍最高司令官に就任。のち10月21日にシンガポールで自由インド仮政府首班に就任。

余談
伊29初代艦長は前述の伊豆寿一中佐
そして2代目艦長が有名な木梨鷹一中佐

伊29は木梨艦長の下で日独往復成功寸前まで行った潜水艦。昭和18年11月に呉出航し翌3月に独領仏ロリアン港入港。4月に帰路につきシンガポール7月入港。
呉に向かう途中に米潜水艦により轟沈。艦長以下百余名戦死…

昭和18年11月
大東亜会議開催
左から
ビルマ国 バー・モウ
満州国 張景恵
中華民国(南京)国民政府 汪兆銘
日本国 東條英機
タイ王国 ワンワイタヤーコーン親王
フィリピン共和国 ホセ・ラウレル
自由インド仮政府 チャンドラ・ボース
 ※なお、インドはオブザーバー枠

https://commons.m.wikimedia.org/wiki/File:Greater_East_Asia_Conference.JPG#mw-jump-to-license …

昭和19年
ボースが指揮するインド国民軍はビルマ・ラングーンに拠点を置き、同地にて河辺正三ビルマ方面軍司令官と面談。
のちに、河辺司令官及び牟田口廉也第十五軍司令官は日本軍によるインド侵攻のためのインパール作戦を決行することとなる。

一説にはボースのインド独立に賭ける意志に河辺司令官が惚れ込み、その壮図を見殺しに出来ないという情がインパール作戦の背景にあったともされている。
結果として、インド国民軍は日本軍と共同してインパール作戦及びビルマ戦線に参加するも日本軍ともどもに大損害を受ける。

昭和20年8月15日
日本の敗戦によりインド国民軍は連合国(イギリス)に降伏。
ボースの悲願であった日本と協力して英国からインド独立を勝ち取るという夢は破れ、チャンドラボースは新たなインド独立運動の協力先として(一説には)ソ連に亡命し交渉を行うつもりであったともされている。

昭和20年8月18日午後
台湾にいたチャンドラ・ボースは台湾松山飛行場から中国大連へ向かう予定であった陸軍九七式重爆撃機に便乗する。
しかし同機は台湾松山飛行場からの離陸に失敗し墜落。搭乗していたボースは重傷を負い台湾陸軍病院に搬送されるも癒えること無く永眠。

最後に立ち会ったハブビル・ラーマン大佐に残したチャンドラ・ボースの言葉

「私は生涯を祖国の自由のために戦い続けてきた。私は祖国の自由のために死のうとしている。祖国に行き、祖国の人々にインドの自由のために戦い続けるよう伝えてくれ。インドは自由になるだろう。そして永遠に自由だ。」

昭和20年8月20日
台北市営火葬場でボースの遺体は荼毘に付され、台北市内の西本願寺で法要が行われた。
そうして9月5日にボースの遺骨が日本に移送される。

ボースの遺骨は陸軍からインド独立連盟東京代表ラマ・ムルティに引き渡される。目立たぬように表向きは同じくインド独立に尽力していたビハーリー・ボース(中村屋のボース)の葬儀ということにしてビハーリー・ボース側近サハイ夫人宅がある荻窪周辺でチャンドラ・ボースの葬儀を行える寺院寺を探すが…

だが、敗戦直後の政情不安定のさなかでなおかつ米英を始めとするGHQの監視下で、各寺院は確実にイギリスにマークされるであろうチャンドラ・ボースの葬儀を行うことを拒絶。
そんななかで頂光山蓮光寺住職がボースの葬儀を行なうことを快諾する。

チャンドラ・ボースの葬儀を執り行った蓮光寺住職望月教栄氏は、
「霊魂には国境はないのみならず、死者に回向することは仏法に従事する僧侶の使命だと感じ、即時快諸した。」
vとのちに回想している。

ボースの葬儀以後、蓮光寺によって遺骨は引き続き保存。
ボースとともにあったインド独立運動家の関係者は次々と「国家反逆罪」容疑でインド本国に送還されイギリスの裁判にかけられる(この裁判などからインド国民の英国反発と暴動がはじまり独立へと連なる)も、ボースの遺骨は日本に取り残され何度かインドへの遺骨返還運動が起きるも関係者にボースの死を信じたくない人々などもおり返還は難航。インド国内では度々ボース事故死の調査委員会などがひらかれていた。
ようやく2017年にインド政府はボースが「1945年8月18日、飛行機事故のため台北で死亡したと結論付けた」と正式回答に至り、このあたりは日本とインドでの遺骨の取り扱いや考えの違い、インド人の物事に取りかかる時間軸の考え方など、意識のすれ違いなどもあったのかもしれず。 2004年には顕彰と遺骨返還運動などをしていた関係者高齢化のため「スバス・チャンドラ・ボース・アカデミー」が解散

独立の英雄チャンドラボースの名はインドにおいても讃えられ、カルカッタ(コルカタ)国際空港は「ネタジ・スバス・チャンドラ・ボース空港」と呼称。 インド国会議事堂ではガンディー(非暴力独立運動)、ジャワハルラール・ネルー(インド初代大統領)らの肖像画に並んでボースの肖像も掲げられている。

遺骨返還運動に関しては紆余曲折のさなかにあるようではあるが…

蓮光寺本堂ではネタジ(指導者)として愛された「スバス・チャンドラ・ボース」の遺骨が安置されており、
毎年の命日8月18日には、ネタジ・スバス・チャンドラ・ボースの法要が蓮光寺にて引き続きとり行われている。


余談

もう一人のボース
ラース・ビハーリー・ボース(中村屋のボーズ)

ビハーリー・ボースは自由インド仮政府の指導者の一人。
日本のインドカレーの父とも。インド独立連盟名誉総裁。晩年は体調を崩し、チャンドラ・ボースを後継者としてインド独立連盟総裁とインド国民軍指揮権を移譲。ビハーリー・ボースは昭和20年1月21日に日本で病死している。

インドカレー
日本に伝わっていたカレーは英国式(軍隊式=いわゆる海軍カレー)のものでインドカレーとは全く別物であった。 日本のインドカレーの父とも称されるビハーリー・ボースは新宿中村屋の相馬家の婿となり昭和2年(1927)に新宿中村屋「純印度式カリー」を開発。

https://www.nakamuraya.co.jp/pavilion/products/pro_001.html

昭和2年(1927) 新宿中村屋「純印度式カリー」


新宿中村屋

日本初
純印度式カリー
発祥の地
since1927


A.M.ナイル

更にビハーリー・ボースの腹心として日本でインド独立運動を展開していたA.M.ナイルが戦後はパール判事の通訳なども務め、そして1949年に東京都中央区銀座に「日本初のインド料理専門店」として「ナイルレストラン」を開業。現在は二代目三代目が営業を続けている。

http://www.ginza-nair.co.jp/history.html 


東銀座
印度料理専門店 ナイルレストラン

たまたま、前を通りかかったことがありました。
時間がある時にカレーを食べに来たいものです…

ビハーリー・ボースの腹心として日本でインド独立運動を展開していたA.M.ナイルが戦後に「日本初のインド料理専門店」として開業させたお店。


蓮光寺(れんこうじ)

東京都杉並区にある日蓮宗寺院。
山号は頂光山。
本尊は十界諸尊。
文禄3年(1594)両国矢の倉(現・中央区東日本橋)に開山。 正保元年(1644)浅草新寺町に移転。 大正4年(1915)浅草の区画整理のため現在地に移転。


マハトマ・ガンジー

奇しくも同じ杉並区にインド独立運動のもうひとりの功労者ガンジーの像がある。
杉並区中央図書館の裏庭に。

マハトマ・ガンジー
1869年10月2日-1948年1月30日

東京都杉並区にこのガンジー翁の銅像を、2008年11月6日にガンジー・アシュラム(修養所)再建財団創立者・インド国会議員・故ニルマラ・デッシュバンデ女史の遺志により、ガンジー翁の精神に基づいて、世界平和と相互理解が強められることを記念して、贈る。

7つの大罪
汗なしに得た財産
良心を忘れた快楽
人格が不在の知識
道徳心を欠いた商売
人間性を尊ばない科学
自己犠牲をともなわない信心
原則なき政治

杉並区中央図書館は改修工事中の為、このときは近くでの観覧はできず、でしたが。

再訪しました。


参考サイト


Netaji unfogettable Hero of India
http://www.yorozubp.com/netajiunfogettable_indian/ …
英雄チャンドラ・ボースいまだ帰国せず
http://www004.upp.so-net.ne.jp/saitohsy/chandra_bose.html …
チーム・ネタジ
http://www.teamnetaji.org/index.html 
Wikipedia関連項目各種
ほか

「風船爆弾打ち上げの大津基地」と「震洋の平潟訓練基地」(北茨城)

平成29年8月撮影

茨城県北茨城市に点在する「震洋基地跡」と「風船爆弾放球台跡」。
あわせて平潟港と大津港の鎮守様も。

平成29年8月13日。
常磐線にて大津港駅へ。 茨城県最北端の地・北茨城市で、ちょっとした戦争関連の史跡とあわせて平潟港・大津港の鎮守神社2社を散策して参りました。

風船爆弾放球台

大津港

午前9時20分。大津港駅到着。1時間に1本クラスだと接続も悩ましいですね。 当地は観光地的には「岡倉天心」と「六角堂」などが有名。

大津港駅

大津港駅は平成25年リニューアルし「六角堂」を模すデザインに。(六角堂は東日本大震災の津波直撃で土台のみをのこして消失。その後平成24年に再建) 駅は平成27年3月ダイヤ改正で特急通過駅に。翌年には駅前にあった大津港駅前観光案内所(&レンタサイクル)も撤退。

つまりレンタサイクルはない。バスもない。

歩くしか無いわけです。
(財力があればタクシーという選択肢もありますが…)

駅前の観光案内図を見ればちゃんと「風船爆弾打上跡地」と記載ありますね。 目的地が記載してあって安心。

ざっくり30分くらい歩けばいいのかな。

大津港駅前

のっけから駅前にあるレンガ造り建物に吸い寄せられてしまい。
なんですか、この美しい造形は。
大正元年(1912)に造られた大津港駅で貨物業務を請け負っていた倉庫らしく。
※2016年に大津港駅前から撤退した観光案内所はここにありました。

平潟港へ歩いていると道標を見つけました。
「記念御成婚」とあります。
昭和天皇(大正当時は摂政)の御成婚ですね。
大正13年8月30日建立。 現在の陸前浜街道から関本駅(大津港駅)・平潟町・大津町への道しるべ。

ずいぶん遠くに来たような気がします。
「仙台」とか「いわき」とか書いてあります。
どうしてこんなところを歩いているんだろ、と我に返ってはダメです。
無心で歩いていたら平潟の集落を通り抜けてしまい。
よき港町だったのに写真に納めるのを忘れてしまいました。

平潟港

茨城観光百選「平潟港」 昭和60年に「つくば科学万博」関連事業で制定。 鮟鱇像(あんこう) 東北地方太平洋沖地震で被災した北茨城市。 このモニュメントは北茨城市の魚であるアンコウをシンボルとし被災地の安寧と明るい未来に向けた復興に願いを込め建立。

湾内を一望する。
むかって北西側に小高い丘、南東側にもちょこっと小高い丘。
南東の島のような丘が震洋基地跡という。(のちほど)
小さいけれども良い港。

北側の高台に穴が覗いていたり、神社が鎮座していたり。
やはり気になりますね。まずは神社に行ってみましょう。

|-`).。oO(真似する人がいるかどうか知りませんが参考情報。

ちなみに大津港駅から平潟港までは徒歩25分でした。
この日は港に着いたら雨が降ってきまして・・・

平潟八幡神社

平潟港を見下ろす平潟町の鎮守様
平潟港は仙台江戸間で唯一の自然港として仙台藩によって整備され河村瑞賢により築港(行政は棚倉藩)
八幡神社は寛和元年(985)に鎌倉より分霊し鎮座
現在地には延宝9年(1681)に遷座
嘉永6年(1853)棚倉藩により再建という

社頭の狛犬は昭和2年4月。ブロンズ製の狛犬。なかなか格好良い。

後述しますがこの平潟港には戦中に海軍特攻艇「震洋」訓練基地として平潟基地が展開されていた。
往時の震洋隊員たちも、きっと平潟港鎮守たる八幡様に武運長久を祈ってお参りし狛犬達が出迎えた事でしょう…

この神社、何やら凄い。
港から約50メートル高い台の崖の上に鎮座。
社殿後方の崖に幾つか穴が掘られており・・・

御社殿後方に「虎像」が奉納されておりました。
恵比寿様やら稲荷様なども鎮座しておりました。

境内から更に一段と高い崖の上にお社が鎮座。
奥社のような佇まい 。

境内から更に一段と高い崖の上にお社が鎮座。
予備知識無しでの参拝でしたが、予想以上の空間に驚きました。
山道が更に奥に続いているようでしたので、その気になればもっと探索できそうでしたがこれ以上は自粛。

神社境内から平潟湾を見下ろす。

対岸の小島のようにポッコリとした丘が、海軍特殊攻撃艇「震洋」が秘匿された平潟基地跡という。
灰色の蓋はされているが、確かに幾つかの穴が遠望でも確認できる。

忠魂碑
元帥子爵川村景明書
大正10年10月建立

川村景明は元帥陸軍大将。日露戦争時は鴨緑江軍司令官として明治38年に奉天会戦に参戦。
平潟町の犠牲者を慰霊。
川村が帝国在郷軍人会会長在任中に書に応じたものと思われる。

ご神木スギ
推定樹齢約300年

このあたり平潟八幡神社の鎮座している丘の先は「鵜ノ子岬」と呼ばれているそうで。

この岬の北側は「福島県」。まさに関東と東北の境目。
穴が開いていました。(近寄れず)

平潟港はアンコウ鍋の発祥の地とされていて時間があればゆっくりしたかったのですが(ムリでした…

震洋・海軍平潟訓練基地跡

平潟港には海軍特殊攻撃艇「震洋」の訓練基地が展開されていた。
昭和20年6月25日に小名浜基地に編成された141震洋隊が翌月下旬頃に平潟訓練基地に移動。搭乗員50名を含む173名であったという。
当部隊は出撃はせずに終戦を迎え9月20日に解隊。

※靖國神社遊就館大ホールには復元された震洋が奉納されている。

震洋は船首内に250キロ炸薬を搭載し敵艦への体当たり攻撃を目的とした特攻艇 各型合せて6200隻が量産され4000隻が配備。震洋隊戦没者は2500余名という
原寸模型は震洋一型
1/10模型は震洋五型

幸いにして平潟港で訓練を重ねていた震洋隊は出撃せずに終戦を迎えた。

が、終戦の翌日に1隊員が猛スピードで震洋を乗り回し沈没したという逸話が残っている。(※「フィールドワーク茨城県の戦争遺跡」による)

静かに往時を偲びしとき…

東日本大震災記録碑

2011年3月11日14時46分
北茨城市でも震度6弱を記録し15時31分に到達した津波は最大6.7mを記録。 死者5名、行方不明1名の尊き命を奪い、全壊半壊家屋は2400戸を越したという。

この場所は幾多の歴史が重なりし場所であった…合掌


風船爆弾放球台跡( 北茨城大津)

平潟港から南に歩むこと25分ほど。五浦海岸にアクセスする県道354号線の脇に不思議な空間(円形の何か)があるのが地図上でもわかります。
これが「いわゆる風船爆弾」を放球した台座の跡。

https://goo.gl/maps/66XpvazGJsmQ3qiR8

「風船爆弾放流大津基地」跡

夏場なので草が心配でしたが放球台座跡は整地されており見学は容易でした。 (助かりました)
直径約16m円形のコンクリート台座が残っておりました。

放球台座の円周縁に設けられている2箇所の四角い台座は気球を飛ばすための水素を充填する水素ボンベを設置した跡とされている。

「風船爆弾」は戦後の俗称。
往時は「気球爆弾」と呼称されており秘匿名称は「ふ号兵器」

第二次世界大戦で使用された兵器としての到達距離としては最長であり、史上初めて大陸間を跨いで使用された兵器でもある。

昭和19年11月に「ふ号兵器」として実用化。ジェット気流を利用し気球に爆弾を乗せ日本本土から米本土空襲を行うもので、茨城県大津(最大規模→18基の放球台があった)・千葉県一宮・福島県勿来の基地から19年11月から20年春までの間に約9300発が放球されたという。

9300発のうち米本土に到達したのは約300~1000程度(資料にブレあり)。 被害としては1945年5月5日オレゴン州で風船爆弾不発弾に触れた民間人6人が爆死。あとは小規模の山火事など。 風船爆弾による心理的効果は大きく米国内では箝口令が引かれていた。

風船爆弾を開発した登戸研究所

大津の北にある勿来の放球基地跡

一宮の放球基地跡


風船爆弾犠牲者鎮魂碑

「風船爆弾放球台」の向かい側にひっそりと鎮魂碑が建立されている。

昭和19年11月3日「明治節」に大津基地で最初の風船爆弾放球を行う際に誤爆事故が発生。3人が犠牲となり、のちに鎮魂碑が建立された。 この誤爆事故により放球は11月7日に延期。

風船爆弾放流地跡「わすれじ 平和の碑」

新しい誓い
海のかなた 大空のかなたへ 消えて行った 青い気球よ
あれは幻か 今はもう 呪いと殺意の 武器はいらない
青い気球よさようなら さようなら戦争
鈴木俊平作・書

場所→https://goo.gl/maps/KUdRHetRF1x …

風船爆弾放流地跡

この辺一帯は、昭和19年11月から昭和20年4月の間、アメリカ本土に向けて風船爆弾を放流させた地です。…大本営直属の部隊本部はこの地にあり、作戦の中心でした。…永遠の歴史の片隅で人目を忍び、いぶし銀のようにささやかに光る夢の跡です。昭和59年11月25日建之

五浦海岸ジオサイト
海を渡ってアメリカへ…戦争の記憶を将来へ伝える地

青い青い海を見ながら、
歴史の一幕に感じつつ、
往時を偲ぶ…

放球台跡から山道に入った所に「水素ガス製造の為にケイ素鉄を粉砕した工場跡」遺構があるというが
うん、夏場に探索はムリです…
一宮基地・勿来基地では水素供給工場が被災し途中で作戦遂行不可になる中で大津基地のみは工場は無事で最後まで作戦が遂行されたという

山道を踏破はしました、なんとか。

白丸が風船爆弾放球台跡。
赤丸が風船爆弾放流地跡石碑。
青丸が水素生成ケイ素鉄粉砕工場跡推定(夏はムリw

のどかでした。
水田の緑が眩しい。黄金色に輝くときが楽しみです。
今日の安寧に感謝する。

さて、ここで駅に向かうか寄り道をするかの二択を迷う。
散策を開始して約8キロ2時間半経過。
電車は1時間に1本。寄り道すれば次は13時18分。

うん、寄り道してみるか

ここからは寄り道。戦跡とは離れます。
大津港に鎮座している「佐波波地祇神社」を目指します。
常陸国延喜式内論社
この前述の場所からは歩いて30分位かかりそうです… https://goo.gl/maps/ZJeZJBz93h12 …

道途中に「おおっ??」と反応してしまいました。
「聖徳太子碑」 大津平潟桶師組合・大正4年建立
「即位紀念」とありますが、 どうして「聖徳太子」と刻んだのか。
それも「桶師組合」が。
謎です。
場所→https://goo.gl/maps/xezpWnmm2Bo …

佐波波地祇神社

大津港駅からは徒歩約40分の道のり。現実的に歩いて行く距離ではないのですが、戦跡巡りで歩き続けていた私には誤差になっていたようで。無駄にテンション上げて歩いておりました。
場所→https://goo.gl/maps/yoKw6u77aTP2 …

さすがにもう石段はつらいですね。
やっとの思いで登ると、海が見えました。

大津の港。
地図で見るとわかるとおり阿字ヶ浦から小名浜にかけての海岸線でちょこっと突き出た五浦の北の平潟港と南の大津港は良港であったことがわかる。 高台に鎮座した大津港の鎮守様。

延喜式内社の古社。常陸國二十八座多珂郡一座小「佐波波地祇社」
古くは佐波波神また六所明神と尊称。
元禄年間に西山公(徳川光圀公)が神徳を景仰して大宮大明神と尊称。
鎮座の丘は「唐帰山」(からかいさん)と称され航海の目標となっている。

御本殿は享保12年(1727)造営とされている。
海上守護の神として崇敬されており、御社殿の脇には「錨」が多く奉納されていることからも崇敬の篤さが伝わってくる。

航海故事としては東征時の日本武尊や水戸光圀公の逸話も残っている。

「唐帰山の御神水」
鎮座地の台地は宮平と呼称され唐帰山は海抜55m。
この井戸は享保年間以前に掘られており爾来300年以上に渡り地下30mの水脈より枯れることなく汲み上げている。
わざわざ歩いて登ってきただけある良き佇まいの古社でした。

帰路。
あとはもう駅への道を真っ直ぐに。
なにげない橋だけど「昭和9年2月竣工」
場所→https://goo.gl/maps/A5R6pyNK3tz …
歴史重ねし建造物が、今も何食わぬ顔してこうして縁の下を支えていると思うと感慨深いものがあります。

この日の行程。
午前9時20分に大津港駅に到着。
平潟港には午前9時50分着。
平潟港の散策を約1時間行ない10時45分に南下開始して風船爆弾放球台跡には11時10分到着。大津港を経由して駅に戻ってきたのは13時10分。
約13キロ約4時間所要の散策でした。