中島航空金属と武蔵野鉄道引込線跡の戦跡散策(東久留米・西東京)

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西武線の東久留米駅から西東京方面に向けて、かつて貨物線路が引かれていた。中島飛行機関連の工場に向けての貨物線であった。

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中島飛行機田無試運転工場
中島航空金属田無製造所(田無鋳鍛工場)

昭和13年に中島飛行機株式会社荻窪製作所田無鋳鍛工場として発足。その後、独立して中島航空金属株式会社となった。
中島航空金属田無製造所では飛行機エンジンの鋳物部品を製造しており、その製造のために大量の砂を必要としていたために、東久留米駅から中島航空金属田無製造所まで貨物輸送用の引き込み線が作られたという。
また、隣接する中島飛行機田無試運転工場では、すぐ近くにあった中島飛行機武蔵製作所で組み上げたエンジンの試運転などを行っていたという。

中島航空金属(現在の住友重機械工業田無製造所)


位置関係

国土地理院航空写真
ファイル:USA-R360-77
1947年10月24日-米軍撮影

一部加工。クリックで拡大。

GoogleMapで現在の様子を。

わかりやすいので参考までにマークをした自由学園の位置も変わらず。
学校内にも往時の建造物が残っているが、今回はその脇を歩く形となる。


武蔵野鉄道引込線跡

東久留米市指定旧跡 旧跡第4号
武蔵野鉄道引き込み線跡
 学園町1丁目1番から2丁目1番他
 この「たての緑地」は、昭和19年(1944)に武蔵野鉄道(現在の西武池袋線)東久留米駅から旧中島航空金属田無製造所へ敷設された鉄道の引き込み線跡です。
 東久留米から分岐された全長2.84Kmの側線で、正式名称は「東久留米駅構外線」です。当時、西東京市保谷(旧保谷町・田無町)には軍用機エンジンを製造していた中島飛行機武蔵製作所(現武蔵野市)の鋳造部門の工場である中島航空金属田無製造所があり、砂などの原材料や燃料を小型蒸気機関車が引く貨車に乗せて運んでいました。昭和20年8月の終戦によって廃線となり、引き込み線は昭和30年代までその原形を保っていましたが、現在は築堤された道床や切通しなど、その一部を残すのみとなっています。旧跡指定は東久留米市所有部分のみです。
  東久留米市教育委員会

武蔵野鉄道引込線跡の散策

東久留米駅から散策を開始。

しばらくは線路と並走

引き込み線の築堤と送電線。
当時の引き込み線の場所を、今は送電線が走る。

築堤は西武鉄道の所有。

築堤と川。この場所に川を渡る橋梁があった。

Google マップで地図を検索。乗換案内、路線図、ドライブルート、ストリートビューも。見やすい地図でお店やサービス、地域の情報を検索できます。世界地図も日本語で、旅のプランにも便利。

両側ともに西武鉄道の管理地。

しばらくすすむと「たての緑地」となる。「緑道」といっても問題ない廃線跡。東久留米市の管轄。

足下に境界石。西武鉄道のシンボルマーク、ですね。

送電線と廃線跡。

東久留米市立南中学校や西武ハイヤー多摩地区配車センターのある笠松坂通り近くで廃線跡は終わり、ひばりが丘団地へと吸収。

そろそろ中島航空金属かなという手前の住宅地、ひばりが丘団地交番の奥の路地

にあった境界石。これはなんだろうな。


中島航空金属株式会社
住友重機械工業株式会社田無製造所

現在、こちらは「住友重機械工業株式会社田無製造所の正門」

そして、こちらは「住友重機械工業株式会社田無製造所の通用門」とのこと。
この門柱は中島航空金属当時からのものであろうか。

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中島飛行機武蔵製作所と中島航空金属を結ぶ軽便鉄道跡

中島航空金属田無製造所から、中島飛行機武蔵製作所までも線路が結ばれていたという。
が、この区間に線路があった時代は短く、その名残をたどるのは既に難しくなっている。

この辺りも軽便鉄道の跡、とはいうが。。。

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西武柳沢駅近くの西武鉄道と軽便鉄道の交差ポイント。

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中島航空金属田無製造所の周辺には、中島飛行機の社紋が刻まれた境界石も残っているという。探しに行かねば。。。課題ですね。


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コメント

  1. 中嶋 より:

    昭和50年(1975年)より、ひばりが丘団地に住み平成8年まで拠点としていました。たての緑道(南中学校から竹林公園に至る道)は何時も使って居ましたがこの道が線路跡だとは思っても居ませんでした。ひばりが丘団地での最終の住居は、西武タクシーの配車場が真裏にある場所でした。私が小学生の頃は一般住宅地の再開発流行りで宅地造成の度に不発弾(1977年~1983年)が見つかり学校避難が年に1回以上ありましたので、爆弾馴れ(何時ものか~)と成りましたが、令和の時代に想えば異常事態だったんだなと感じます。小学校の校庭からは2発程不発弾を処理したと聞いています。