「神奈川県-横須賀,三浦」カテゴリーアーカイブ

世界最大の駆逐艦「ズムウォルト級ミサイル駆逐艦・マイケル・モンスーア」と「YOKOSUKA軍港めぐり」(横須賀)

横須賀に「世界最大の駆逐艦」が来航したというので、足を運んでみました。


マイケル・モンスーア
USS Michael Monsoor DDG-1001

ズムウォルト級ミサイル駆逐艦の2番艦。
2019年就役
姉妹艦は、3隻

満載排水量 14,564 トン
全長 600 ft (182.9 m)
最大幅 80.7 ft (24.6 m)
吃水 27.6 ft (8.4 m)
兵装 62口径155mm単装砲 2門
30mm機関砲 2門
Mk 57 VLS(20セル) 4基

満載排水量は14,000t以上で、これは現在アメリカ海軍が唯一保有する巡洋艦であるタイコンデロガ級ミサイル巡洋艦よりも大きい。世界最大の駆逐艦。

主砲は、単装155mm先進砲システム(AGS)2基搭載。

海自護衛艦と比較。遠近は考慮しても、とにかく大きい。

せっかくなので「横須賀軍港めぐり」を活用して、近くから拝見。

YOKOSUKA軍港めぐり

https://yokosuka-gunko.jp


横須賀軍港めぐり~米海軍

マッキャンベル (ミサイル駆逐艦)
マッキャンベル (USS McCampbell, DDG-85) は、アメリカ海軍のアーレイ・バーク級ミサイル駆逐艦の35番艦。イージス艦。

ラファエル・ペラルタ (ミサイル駆逐艦)
ラファエル・ペラルタ (USS Rafael Peralta, DDG-115) は、アメリカ海軍のミサイル駆逐艦。アーレイ・バーク級ミサイル駆逐艦の65番艦。

デューイ (ミサイル駆逐艦・2代)
デューイ (USS Dewey, DDG-105) は、アメリカ海軍のミサイル駆逐艦。アーレイ・バーク級ミサイル駆逐艦の55番艦。

ブルー・リッジ (揚陸指揮艦)
ブルー・リッジ(USS Blue Ridge, LCC-19)は、アメリカ海軍の揚陸指揮艦。ブルー・リッジ級揚陸指揮艦の1番艦。

修理宿泊船(非自走) YRB-30
1945年5月12日進水、5月28日運用開始という戦前の船は、横須賀で最古参の現役船。

ルイス・アンド・クラーク級貨物弾薬補給艦
T-AKE-11
ワシントン・チャンバース
USNS Washington Chambers

米海軍の警備艇、艦首に機銃あり


横須賀軍港めぐり~海自

「たかなみ」「あすか」

「あすか」の後甲板には、レールガン砲塔が白幕で隠されてました。

護衛艦「たかなみ」
試験艦「あすか」

潜水艦救難艦「ちよだ」

海洋観測艦「にちなん」

海保

田浦の倉庫群

潜水艦は、呉と横須賀のみ。

新井堀割水路
明治期に、海軍が短絡水路のために人工的に掘割を設けたことにより吾妻島として半島が切り離された。

特務艇「はしだて」
迎賓艇、病院艇

多用途支援艦「えんしゅう」

補給艦「ときわ」
護衛艦「まや」

護衛艦「きりしま」
護衛艦「くまの」
練習艦「やまぎり」

海洋観測艦「わかさ」

護衛艦「もがみ」


海自横須賀

護衛艦「もがみ」が一般公開でした。

ちなみに、横須賀基地からは、米軍基地方面は撮影禁止、でした。
マイケル・モンスーアに配慮。。。

海洋観測艦「わかさ」
近くで見る機会がなかなかない艦


高台から

例の高台から。
横須賀のヌシ(いずも)がいない光景も新鮮。

※撮影:2025年7月


関連

練習艦「かしま」体験航海(横須賀港~東京港)

2025年6月。
練習艦隊「かしま」「しまかぜ」が、横須賀港(逸見岸壁)から東京港に航行するタイミングにあわせて、運良く乗艦する機会がありました。横須賀水交会(水交会横須賀支部)の部隊研修として、貴重な体験航海の模様を以下に写真中心で掲載。

ちなみに、乗艦に際しては、海上自衛隊横須賀地方総監部の正門に「朝7時集合」ということで、家からでは始発でも到達できないので、近隣で前泊しての参加、でしたが、艦に乗れるのであれば、なんてことないです。

東京湾を北上する「かしま」と「しまかぜ」


練習艦「かしま」

TV-3508
練習艦「かしま」。旧海軍の戦艦「鹿島」、練習巡洋艦「鹿島」に次いで、艦名としては3代目。
1993年4月20日起工、1994年2月23日進水、1995年1月26日就役。
母港は「呉」。
練習艦隊直轄艦、練習艦隊旗艦。

2025年は6月13日から、「かしま」「しまかぜ」にて、一般幹部候補生75期の実習幹部を乗せ遠洋練習航海へと赴くこととなる。


練習艦「しまかぜ」

はたかぜ型護衛艦の2番艦。艦名としては3代目。
1985年1月13日起工、1987年1月3日進水、1988年3月23日就役。2021年3月19日、練習艦に種別変更。
練習艦隊第一練習隊に所属、定係港は「呉」。


出港前の練習艦隊(横須賀地方総監部逸見岸壁)

壁岸壁に停泊する練習艦隊。
「かしま」と「しまかぜ」


「かしま」乗艦

午前7時すぎ。
ちなみに、招待者ゆえ、手荷物検査は一切なし、で。
「かしま」に乗艦です!!

雨が厳しいことがわかっていたんで、カッパで。


「しまかぜ」出港

「かしま」の隣に停泊する「しまかぜ」が先行して出向していきます。

ちなみに「しまかぜ」に乗艦することも任意選択で可能でしたが、やっぱ「かしま」でしょってことで。なにげに「かしま」に乗艦したのも今回が初めて。

「73式54口径5インチ単装速射砲」の存在感。

「しまかぜ」が離れていきました。

すごい旋回で一気に離岸。

曳舟(タグボート)が大活躍

「しまかぜ」出港


「かしま」出港

つづいて、「かしま」も出港です。

通称「オランダ坂」と称される傾斜は、後甲板と中甲板を結んでおり、艦上体育で艦の全周がランニングできる構造になっている。

出港に際しての立ち入り制限

タグボート

出港!

おっ、米軍の揚陸艇ですね。トラックが小さく見える。


「かしま」11メートル作業艇の揚艦

吉倉護衛艦A桟橋から、作業艇が近づいてきました。

「かしま」に接舷し、揚艦されます。

おお。作業艇を引き揚げる光景、始めて見ました!!


「横須賀」吉倉桟橋の様子

2025年6月3日の吉倉桟橋の様子。

「いかづち」むらさめ型護衛艦の7番艦

左から
「たかなみ」たかなみ型護衛艦の1番艦
「あがの」もがみ型護衛艦の6番艦
「くまの」もがみ型護衛艦の2番艦
「もがみ」もがみ型護衛艦の1番艦


「かしま・特別公室」

国家元首級の来賓を想定し、公式儀礼をおこなう内装が配慮された特別公室。
練習艦隊旗艦として、世界各国に寄港する「かしま」だからこその内装。

窓の外は前甲板

日本国練習艦隊
JAPAN TRAINING SQUADRON

この帽子、欲しい、、、

第65代練習艦隊司令官 渡邉海将補
海将補は旧軍における海軍少将
ちょうど、プレスの取材を受けていました。

特別公室への入口も豪華


初代戦艦「鹿島」の水差し

特別公室の机に、凄いものがありました。

初代戦艦「鹿島」の水差し
この水差しは、初代戦艦「鹿島」士官室で使用されていた水差しです。平成10年4月9日横須賀において、作家の阿川弘之氏が来艦された際、本艦に寄贈していただきました。

初代戦艦「鹿島」
143.3m 16,400t
明治39年5月23日~大正12年9月20日

初代 戦艦「鹿島」
士官室用水差し
平成10年4月9日
作家 阿川弘之氏 寄贈


「かしま神社」(練習艦かしま神社)

かしま神社由来
由緒
日本の船には古くから慣習として、船霊様(航海安全の守り神)を祭っております。
本艦もこの例にならい就役に先立ち、平成7年1月12日に本艦の命名地の氏神様である鹿島神宮の分社として入魂式を行い、平和と本艦の航海安全、乗員一同の健康を守る船霊様を祭っております。
例祭 1月12日

鹿島神宮由来
鎮座地 茨城県鹿島郡鹿島町
御祭神 武甕槌大神(たけみかづちのおおかみ)
由緒 神代の昔に、天照大神の御命令により出雲の国に天降り、大国主命と話し合って、日本の国を一つにまとめられた神様です。
その後、日本中を歩かれ最後に関東地方の開拓と鎮撫に当たられ、当時水陸交通の要所であった鹿島に鎮まられ、地霊を鎮め氏子を異境の神々から守り、航海の安全を司る海の神様として全国の人々より崇敬されています。
例祭 9月1日

自衛艦命名書
本艦をかしまと命名する
平成6年2月23日
国務大臣防衛庁長官 愛知知男


「かしま・13メートル将官艇」

通常の護衛艦に搭載されている11メートル作業艇とは別に、13メートル将官艇も搭載されているのが「かしま」の特徴。


「かしま・76ミリ速射砲」

62口径76ミリ速射砲
オート・メラーラ社第2世代の62口径76ミリ砲(コンパクト砲)

前甲板の76ミリ速射砲


「かしま・前甲板」

手前に見えるのは、「礼砲」

すれ違うのは、オーストラリア海軍 ホバート級駆逐艦シドニー(HMAS Sydney DDG-42)

右舷1時の方向に「しまかぜ」

エモい。。。


「かしま・訓練甲板(後甲板)」

雨降る訓練甲板で作業する海自隊員

もうね、艦尾の自衛艦旗のゆらめきをずっと見ていたい。

この台は、栄誉礼用のお立ち台である。
上に物を置いたり、もたれ掛かったり、掃除用具盗ったりするな。 
射撃員長

突然の掃除用具w
そして管轄が射撃員長、、、

「しまかぜ」の台が「かしま」に置きっぱなし。。。


「かしま・下後甲板」

訓練甲板の下。


「かしま・甲板」

航行中に、制限なしで、甲板をいったりきたり。
雨なので人が少なくて、ある意味で快適。。。

前方に「しまかぜ」
右舷に転回したもよう。

潜水艦救難艦「ちよだ」

ん?
帆船?
これは、二代目「日本丸」か!

東海汽船の「セブンアイランド・友」


「かしま・艦橋」

雨だから、艦内が特に混み合ってました。
(逆にいうと甲板は、空いていました)

人員
総員 163名
幹部 19名
曹士 143名
入院 0名
休暇 16名
その他 2名
現在員 144名
司令部 51名 1名
実習幹部 195名
その他 297名
合計 687名

わたしを含めた便乗乗客が297名いるのかな、ですね。

0745 横須賀出港
1100 東京国際ターミナル入港


「かしま・食堂」

昼も夜も、どんぶり!

ポップコーンと綿菓子の振る舞いがありました。


「かしま・操縦室兼応急指揮所」

こんなところも見せてくれました、良いの?


「かしま・士官室」

士官室

「ましか」と「かしまる」


「かしま・艦内」

日本国 練習艦隊 旗艦 TV3508 KASHIMA

WAVE区画

お、男子禁制のエリア
WAVE=Woman Accepted for Volunteer Emergency Service


「かしま・実習員講堂」

雨だから、実習員講堂は、常に満杯でした。
せっかく自衛艦(練習艦)に乗っているのだから、あっちこっち見に行かないと損だとばかりに、私はかっぱを着込んで、雨を機にせず甲板をウロチョロしてました。
実習生を170名は収容できる講堂。

東京国際ターミナル到着で、下艦が始まったあと。


「かしま・東京入港」

1030ごろから入港準備、11時15分頃に下艦でした。

タグボートのお世話になります。

着岸準備

東京国際ターミナルを海側から見たのは、始めてでした。

ロープを投擲

着岸し、階段を展開


「しまかぜ・入港」

かしまの着岸が完了し、「しまかぜ」が「かしま」の左舷に横付けされます。

近づいてくる「かしま」

エモい


東京国際クルーズターミナル

11時35分に「かしま」を下艦。
約4時間をみっちり「かしま」堪能してしまいました。

ちなみに以前は「晴海」でしたが、現在は晴海に停泊ができなくなったとかで、「東京国際クルーズターミナル」に着岸。レインボーブリッジをくぐることもなくなってしまったのだ。

雨の体験航海というのも、なかなか貴重な時間。
雨ゆえに、甲板は人が少なく、それはそれで逆に得難き光景にも出会え、非常に貴重な体験を得ることが出来ました。
海上自衛隊横須賀地方総監部のご配慮に感謝します。

撮影機材:今回本格的に役に立った防水カメラ「PENTAX WG-1000」が8割で、残りは「PENTAX KP」とスマホ、でした。
撮影:2025年6月3日


関連

日米親善よこすかスプリングフェスタ 2025(米海軍横須賀基地)

久しぶりに米軍基地に行って、見たいものをサクッと見てきました。

始発で地元駅を出発し、7時過ぎに横須賀中央駅に到着。そこから、「三笠ウォンブルゲート」に到着。1時間程度の待ちで8時にはゲート前に列が圧縮され、そして8時半にはゲートを通過できました。ほぼほぼ全員が艦船公開に方向に向かっていく中で、私はとりあえず門柱をパシャパシャと。


旧海軍工機学校の門柱

神奈川歯科大学側から、海軍工機学校の門柱を見たことはあったけど、米軍側から見たのは初めて。

神奈川歯科大側のレポートは下記にて。

米軍側から、海軍工機学校の門柱を。
「三笠ウォンブルゲート」からの入場時に見学できます。


旧海軍工機学校の境界壁

海軍工機学校の境界壁も。

これは裏門の門柱かな?


旧横須賀海軍病院の門柱

みちなりに進むと、横須賀海軍病院の門柱が見え得てきます。
その奥の建屋は、横須賀海軍病院の建屋。

横須賀海軍病院

門柱に表記がそのまま残っています。

旧横須賀海軍病院の建屋。


旧横須賀海軍病院の境界壁

旧横須賀海軍病院時代からの境界壁が現存しています。


旧横須賀海軍病院の西側の防空壕跡

コンクリで塞いだ横穴が多数、見受けられます。

防空壕群の上は、邸宅のようなものが整備されている。


旧横須賀鎮守府軍法会議所の正門跡

三笠公園ゲートから来ると突き当り、三笠ウォンブルゲートから来ると左手に見えてくる独特の形状をした門柱が、横須賀鎮守府軍法会議所の正門跡。

旧横須賀鎮守府軍法会議所の北側の防空壕

比較的に大きな開口の防空壕跡。


海軍砲術学校の入口

海軍砲術学校は、1907年(明治40年)から1941年(昭和16年)までの名称。1941年に館山砲術学校が開設されると、「横須賀砲術学校」に改名した。
このトンネルが、海軍砲術学校の正門に相当する入口であった。

望遠レンズを持ってこなかったので、トリミング拡大で。
今度は望遠を持ってこよう。。。


旧海軍の消火栓蓋

ひさしぶりに、消火栓蓋と再開。


SABERHAWKS(セイバーホークス)

第77ヘリコプター海洋打撃飛行隊
愛称は「セイバーホークス」
厚木海軍基地所属。
MH-60R


米軍基地っぽいもの

とりあえず、ステーキを。

エナジードリンクばかり買ってしまいました。
配布用とか。
日本未上陸のモンエナ、とか。

ゲータレードも。

メガモンエナは710ml(日本は355ml)
やばい

iPhone12と並べてみた(大きさ比較)


記念艦「三笠」

米軍側から海を挟んで三笠を見れると、その軍艦当たる雄姿に接することができる。
三笠公園からだと、陸地に接しているので、やはり海側から、ですね。

スプリングフィスティバル

艦船見学は途中まで近寄りましたが、まあいいかなってことで、スルーしました。

※撮影:2025年3月


横須賀関連

はじめに

よこすかYYのりものフェスタ2024(海自・横須賀基地)

2024年6月9日。久しぶりに横須賀に護衛艦を見に行きました。
海上自衛隊横須賀地方総監部へ。

横須賀のヌシ「いずも」はお出かけで、いつもとはちょっと違うメンバーが停泊。

写真中心で。

横須賀のヌシ「いずも」は、何度か乗ってます。。。


護衛艦「てるづき」「あきづき」試験艦「あすか」

DD-116 護衛艦「てるづき」(あきづき型2番艦)母港は横須賀
DD-115 護衛艦「あきづき」(あきづき型1番艦)母港は佐世保
ASE-6102 試験艦「あすか」母港は佐世保

低視認塗装(ロービジ化)で艦番号が薄くなっている「あきづき」「てるづき」
一方で、試験艦「あすか」は、低視認塗装にする必要はないので、くっきりはっきりの艦番号。

護衛艦「てるづき」見学

護守印の中央上部には月の女神「アルテミス」を、右下には「つるづき」を描き、「照り輝く月の下、率先して任務に挑み、達成する」という艦の方針を示しています。
乗員は艦名の由来「照り輝く月」を誇りに思っています。

となりの僚艦「あきづき」

おっ、照月ちゃん。かわいい!


護衛艦「もがみ」見学

FFM-1多機能護衛艦「もがみ」(母港は横須賀)

「もがみ」「くまの」とはよく会いますね。最近。


護衛艦「きりしま」

「もがみ」の隣に停泊。
DDG-174ミサイル護衛艦「きりしま」母港は横須賀。

艦番号423は、補給艦「ときわ」


もがみ型護衛艦

もがみ型護衛艦
FFM-2くまの(横須賀)
FFM-5やはぎ(舞鶴)

艦番号110は、護衛艦「たかなみ」


潜水艦「うずしお」見学

SS-592潜水艦「うずしお」(母港は横須賀)

潜水艦は甲板の上のみだけど、一番混んでました、、、

潜望鏡!!
潜望鏡をぐるぐるするデモ


そのほか

そのほか、目についたものを。

補給艦「ときわ」

AMS-4305 多用途支援艦「えんしゅう」
水中処分船「YDT-03」

曳船YT10


横須賀海軍港務部の境界塀

JRと海自のあいだあたりに残存している境界塀


横須賀海軍港務部係船環表示板


海上自衛隊横須賀地方総監部

繋留用ブイ繋止錨

四瓲 昭和十三、一 (住友マーク)NO5

国産水産物を食べよう!

艦めしーふーど

佳きデザイン!

護衛缶!!

ちょっと高級な缶詰(護衛缶)でしたが、がんばろう!ということで、ゲットしました!

わんわんお


海上自衛隊横須賀資料室(横須賀厚生センター)

なにげにはじめて、でした。

海自の主要部隊配置図。

横須賀と海軍の沿革
 横須賀における海軍の歴史は嘉永6年(1853年)ペリーの来航から始まります。当時、勘定奉行小栗忠順の提唱により建設された横須賀造船所があったことから、明治17年(1884年)海軍省は横須賀に鎮守府を置き「横須賀鎮守府」が誕生しました。横須賀には造船部が開設され、海軍工廠として戦艦「薩摩」「陸奥」空母「鳳翔」「加賀」など多くの軍艦が建造されました。
 また、砲術練習所、機関練習所が置かれ、追浜には海軍航空隊が開設され、海軍基地として大きく発展しました。
 戦時下に水雷学校、通信学校(久里浜)、海兵団(武山)など多くの機関が設けられました。
 昭和20年(1945年)8月帝国海軍は消滅し、在日米海軍司令部が横須賀に移りました。旧海軍施設の一部は民間に払下、昭和27年4月水雷学校跡に海上警備隊横須賀監部が設けられました。

横須賀厚生センター

喫茶と食堂

なんか茶色い揚げ物がてんこ盛りのカレーを食べました。

海上自衛隊横須賀地方総監部庁舎

自衛隊がんばれ!

横須賀で偉い人

撮影:2024年6月


久里浜駐屯地 創立73周年記念行事・その2(海軍通信学校の戦跡散策)

2023年11月19日。
神奈川県 横須賀市にある陸上自衛隊 久里浜駐屯地で「久里浜駐屯地 創立73周年記念行事」が開催されました。
今は、陸上自衛隊通信学校。そして、かつては、海軍通信学校のあった久里浜。
駐屯地内が開放されましたので、足を運んでみました。

ちなみに、久里浜駐屯地は日本最古の駐屯地、でもあります。

その1は、訓練展示など。

こちらも参照で。


海軍通信学校

日本海軍においては、明治36年(1903)に海軍水雷学校に於いて無線電信術練習生として無線通信要員の育成がはじまり、昭和5年(1930)に海軍通信学校が独立するに至っている。
昭和14年(1939)11月に通信学校は 久里浜に移転。昭和18年には通信科要員の需要が増し、海軍防府通信学校が併設され、従来の通信学校は「海軍横須賀通信学校」と改称。


海軍通信学校跡碑

海軍通信学校跡

我々ここに巣立つ 
 第五十二期普通科練習生 十四志 
 昭和四十七年十一月五日 建立 
  海軍中将 志摩清英書

志摩清英中将は、昭和18年9月16日から昭和19年1月31日までの通信学校長。ついで、昭和19年2月に第5艦隊司令長官となり、第二遊撃部隊(通称志摩艦隊)を率いてレイテ沖海戦を戦う。

碑の脇には、海軍用地の標石がある。海軍通信学校の境界標かと。

もともと「海軍通信学校碑」がある場所は、海軍通信神社が鎮座していた場所であった。本部庁舎前。


通校神社(海軍通信学校神社) ※長安寺

海軍通信学校・本部庁舎前に鎮座していた「通校神社(海軍通信学校神社)」。
「通校神社」 は終戦後に長安寺に遷座されている。

長安寺は2018年撮影


防空壕跡

海軍通信学校本部庁舎前の庭にあるこんもりとした丘。
防空壕跡と推測。


海軍通信学校・本部庁舎
(久里浜駐屯地・本館・建屋1)

昭和14年(1939)開校の 「海軍通信学校」は閉校後は復員局を経て米軍が接収。

戦後、昭和25年に「警察予備隊」が発足すると久里浜部隊が開設され、その後は「保安隊」の通信学校となる。

昭和29年に陸上自衛隊が設立すると、当地は「陸上自衛隊通信学校」が開設。陸上自衛隊として最も古い駐屯地であり、旧海軍通信学校庁舎をそのまま使用している。

正面玄関

陸上自衛隊 通信学校

中に入ってみます。

正面玄関

在室確認のランプ

歴史を感じさせる廊下。

本部庁舎の裏側。

建屋番号は「1」


海軍通信学校・第一兵舎(久里浜駐屯地・建屋2)

昭和14年(1939)開校の 「海軍通信学校」。
おそらく本部庁舎と第一兵舎・第二兵舎は開校当初同じ時期に建設されたものと推測。


海軍通信学校・第二兵舎(久里浜駐屯地・建屋3)

昭和14年(1939)開校の 「海軍通信学校」
おそらく本庁舎と第一兵舎・第二兵舎は開校当初同じ時期に建設されたものと推測。


海軍通信学校・車庫

陸自時代の現在も同じく車庫として使用されている。


地下通路入り口

久里浜駐屯地には、地下通路が4ヶ所設けられていたという。そのうちの一箇所は、タイヤ倉庫になっている。
立ち入りはできないので、望遠にて。

敷地の北側。南を向いている開口部。

上記写真は「C」に該当する。

久里浜駐屯地の東側の山にも地下通路があった。


久里浜駐屯地内の記念碑

いくつかの記念碑が、整備されている。

甲種飛行予科練習生 電信術錬成之地
昭和62年4月吉日建立

保安隊記念碑 
昭和29年

保安隊駐屯記念碑 
昭和28年

保安大学校開校之地(防衛大学校創設の記念碑)
平成31年3月吉日建立


海軍電話蓋

「波」に「話」
建屋1の本部庁舎と建屋2の兵舎のあいだに。


海軍蓋(制水弁蓋)

敷地内にいくつかあるらしい。
私は2つ見つけました。

1つ目。建屋2の近く。

2つ目(歴史館前)


歴史館

主に通信に関係するものなどを展示。

海軍の精神注入棒

山下奉文ゆかりの書


御稜威橋

海軍通信学校、そして久里浜駐屯地の入り口。
平作川にかかる「御稜威橋」

御稜威とは、天皇陛下の強い御威光のこと。


日本最古の駐屯地「御稜威橋」(日本酒)

 陸上自衛隊久里浜駐屯地は、昭和14年「海軍通信学校」として開設、その後は昭和27年から通信電子の教育の中核として「通信学校」が置かれている。
 自衛隊としては最も古い駐屯地である。

販売は、久里浜駐屯地限定。
製造は、岩手の「世嬉の一酒造」

久里浜駐屯地 創立73周年記念行事・その1(訓練展示他)

2023年11月19日。
神奈川県 横須賀市にある陸上自衛隊 久里浜駐屯地で「久里浜駐屯地 創立73周年記念行事」が開催されました。
今は、陸上自衛隊通信学校。そして、かつては、海軍通信学校のあった久里浜。
駐屯地内が開放されましたので、足を運んでみました。

ちなみに、久里浜駐屯地は日本最古の駐屯地、でもあります。

その2は、海軍通信学校の戦跡散策。


久里浜駐屯地

久里浜駐屯地の敷地は、昭和14年(1939年)に旧海軍通信学校として開設。
その後、昭和25年に発足した自衛隊の前身である警察予備隊当時から続く 自衛隊最古の駐屯地。
駐屯部隊には昭和27年(1952年)から続く「通信学校」のほか、「通信教導隊」、「(システム通信団)中央野外通信群」、「(東部方面後方支援隊)通信教育直接支援中隊」、 「(東部方面警務隊)第129地区警務隊」、「(東部方面システム通信群)第316基地通信中隊久里浜派遣隊」がある。


観閲式(久里浜駐屯地 創立73周年記念行事)

観閲式。だいたいの流れはどこの駐屯地でも一緒。

観閲

音楽隊演奏(久里浜駐屯地 創立73周年記念行事)

観閲行進(久里浜駐屯地 創立73周年記念行事)

訓練展示(久里浜駐屯地 創立73周年記念行事)

通信を専門とする部隊としての訓練展示。

前線に通信設備の橋頭堡を確保する訓練。
極めて地味だけど、なかなか他にはない展示は、それはそれで見応えあり。

まずは準備

状況開始!のラッパ

バイクによる先行偵察。

偵察

不審者の制圧

銃撃戦

火力追加

久里浜が保有する最大火力?
通信部隊なので、、、

制圧完了

通信設備の設営

負傷者の収容

迷彩、完了

通信設備の開設完了

状況終了!のラッパ

おつかれさまでした!

※2023年11月撮影


関連

「最後の海軍大臣・米内光政」所縁の地を辿る(盛岡・横須賀・東京)


米内光政

1880(明治13)年3月2日~1948(昭和23)年4月20日
海兵29期、海大12期、海軍大将、連合艦隊司令長官(23代)、海軍大臣(19代、24代)、内閣総理大臣(37代)を歴任。
 
支那事変当時の第一次近衛の内閣海軍大臣。
林・一次近衛・平沼内閣の海相を歴任、昭和15年には予備役入りし総理大臣(第37代)となり、支那事変の対応や三国同盟問題、戦争回避に尽力する。
昭和19年には現役復帰し小磯・鈴木内閣の海相として終戦の為に奔走。
戦後も東久邇宮・幣原内閣の海相として日本帝国海軍の最後を看取る。

首相官邸>

https://www.kantei.go.jp/jp/rekidainaikaku/037.html

国立国会図書館>近代日本の肖像

https://www.ndl.go.jp/portrait/datas/218/

盛岡市>

https://www.city.morioka.iwate.jp/kankou/kankou/1037106/1009526/1024995/1025018/1025020.html

ちなみに、学生時代の私は、卒論を「米内光政を中心とした海軍の対支政戦略」で書いていました。


岩手の米内光政

1880年(明治13年)、岩手県盛岡市に、旧盛岡藩士の米内受政の長男として誕生。

2023年8月に、盛岡を散策し、米内光政関連の地を巡ったので、以下に掲載。


米内光政像

盛岡八幡宮の境内に建立されている、米内光政像。
小泉信三による撰文。
小泉信三は、戦時下の慶應義塾大学の塾頭。米内光政と親交が深かった。

米内光政
 米内光政は、明治13年3月、旧盛岡藩士米内受政、母とみの長男として盛岡市下小路(愛宕町)に生まれる。盛岡中学を経て海軍兵学校へ進み、卒業後海軍少尉に任官、日露戦争では海軍中尉として従軍した。後にロシアやポーランドなどヨーロッパに駐在し、その地の実情を直に見聞した。1937(昭和12)年には林内閣のもと海軍大臣に就任し、陸軍の主張する三国同盟に反対した。この反戦主義の姿勢は終戦まで変わらなかった。
 天皇の信頼も厚く、1940(昭和15)年には岩手県出身者としては3人目となる内閣総理大臣に就任。しかし陸軍の反対に遭い半年後に退任した。太平洋戦争末期には小磯内閣のもとで4期目の海軍大臣として入閣、終戦のために尽力する。終戦後も海軍大臣に留任し、海軍省廃省の責任者として日本海軍の最期を見届けた。昭和23年4月20日逝去、享年69歳。

米内光政

米内光政自身の筆跡となる。

米内光政氏は盛岡の人
若くして海軍に入り進んで大将大臣に至り又内閣総理大臣となる
昭和二十年八月太平洋戦争の終局に際し米内海軍大臣が一貫不動平和の 聖断を奉じて克くわが国土と生民をその壊滅寸前に護ったことは永く日本国民の忘れてはならぬところである 
逝去十三年至誠沈勇のこの人今も世にあらばの感を新たにしつつこの文を撰ぶ
 昭和三十五年十月
  後進 小泉信三

場所

https://maps.app.goo.gl/1tDJamLqY4f5ueac7


米内光政首相と畑俊六陸相(米内内閣)

第37代内閣総理大臣・米内光政。
第二次世界大戦が勃発し、ドイツが攻勢を強めている情勢下において、陸軍は日独伊三国同盟締結を推進していく中で、阿部信行内閣の後継として畑俊六を首班として準備を進めていく中で、陸軍からの首班を嫌った、 昭和天皇が海軍の意中の人物として、米内光政を指名。
そうして軍事参議官・予備役海軍大将(米内は組閣に際して自ら現役を退いて予備役となった)の米内光政が、第37代内閣総理大臣に任命。1940年(昭和15年)1月16日から1940年(昭和15年)7月22日までの内閣。

米内内閣の陸相として畑俊六が就任するも、陸軍は米内内閣の組閣とともに倒閣を開始。ドイツのフランス侵攻を開始し降伏に追い込むと、陸軍首脳部は「陸軍の総意」として、畑俊六陸軍大臣が単独で辞表を提出米内は後任大臣を求めたが陸軍が拒絶し、これで米内内閣は、半年で総辞職となってしまった。

米内内閣倒閣の引き金となった畑俊六は、戦後の東京裁判において戦前最期の新英米派内閣であった米内内閣を倒閣させた罪状を問われてA級戦犯として起訴される。
米内光政は、弁護側証人として東京裁判に出廷し、米内内閣倒閣は畑の意思本意ではなく、陸軍組織として動かざるを得なかったことを踏まえ、畑俊六をかばった。
そうして畑俊六は死刑を免れ終身禁固となり、畑俊六は6年の服役後の1954年(昭和29年)に仮釈放となった。
畑俊六は、海軍の責任に関して極めて厳しく罵る回想メモを戦後に残しているが、その中でも米内光政に関しては、東京裁判で畑の弁護側証人として庇ってくれたことに恩義を感じ、米内に対する感謝感動を終生深く忘れることなかったという。

米内光政没後12年の昭和35年(1960年)、盛岡八幡宮の境内に米内光政の銅像が建立され除幕式が執り行われた際、81歳の畑俊六が、人目を避けるように黙々と周囲の草むしりをしていたと伝承されている。
畑俊六は昭和37年(1962年)、福島県棚倉城址に建立された戦没者慰霊碑除幕式中に脳内出血で倒れ82歳で死去している。(棚倉城址には「畑俊六終焉の地」碑もある。行かないと、です)


米内光政墓所

盛岡市の円光寺。

米内光政は、昭和23年4月20日、目黒区富士見台の自宅で68歳1ヵ月の生涯を終えた。
4月24日、自宅で仏式の葬儀と告別式が斎行。
葬儀委員長は、山梨勝之進大将であった。

山梨勝之進は、海兵25期、海大5期、海軍大将。条約派であったために大角人事で予備役となるも、米内光政らの推挙もあって学習院院長に就任。皇太子明仁親王の教育を任せられた。戦後は海軍の最長老の立場にあり、海上自衛隊の創建にも尽力した。山梨は長生きし昭和42年(1967年)90歳で死去。

米内光政墓所
 南部利英書

南部利英は南部家44代当主。
昭和13年(1938)には、岩手出身の陸軍大臣板垣征四郎の就任祝賀会に、同じく岩手出身の海軍大臣米内光政と板垣を左右として、南部利英を中央にした記念撮影なども記録に残っている。

米内光政銅像と同じ文面。書き起こしは省略。

米内光政の墓所。

救国の偉人 米内光政之墓

米内光政墓

天徳院殿仁海光政大居士

昭和23年4月20日歿
 享年69歳

緒方竹虎書

墓石の「米内光政墓」は友人であった緒方竹虎の書。
緒方竹虎は、朝日新聞副社長・主筆を経て、政治家に転身した人物。米内光政と親交があり、「一軍人の生涯 提督・米内光政」の書籍も残している。

米内家の家紋。

丸に違い鷹の羽

九代光政
天徳院殿仁海光政大居士
昭和23年4月20日

円光寺

場所

https://maps.app.goo.gl/3hkM83TkiJYjVXc36


米内光政居住地跡

米内光政が幼少期を過ごした八幡町。

米内光政居住地跡「説明」
米内光政は盛岡の下小路(愛宕町)で生れ幼少時代を八幡町で育ち、盛岡中学校(盛岡一)を経て、海軍兵学校に入り、以来、連合艦隊司令長官、海軍大将、内閣総理大臣、そして海軍大臣とすて終戦を迎えた。人格重厚沈勇、国家百年の計を思い大局を誤らず天皇の信任篤く、終戦内閣の中心閣僚として善処勇断よく祖国の壊滅を未然に護った偉業は、日本国民の永く銘記するところであります。
八幡宮境内に等身大の銅像が建っています。
 平成19年4月20日

突き当りは、銅像が建立された盛岡八幡宮。

場所

https://maps.app.goo.gl/aVCkhkm7jcQCV7GU8


盛岡市立下橋中学校(盛岡高等小学校)

岩手県内で一番長い歴史を持つ学校。
米内光政は、1890年(明治23年)、盛岡高等小学校に入学している。
米内光政のほかに、金田一京助、石川啄木も卒業生。

場所

https://maps.app.goo.gl/Jbymb9nSkWk5VzjY6


盛岡中学校濫觴の地(岩手銀行本店)

旧制盛岡中学校(現 岩手県立盛岡第一高校)の跡地。
旧制盛岡中学校は,、明治13年(1880)に「公立岩手中学校」としてこの地に設立された。
その後 「岩手県尋常中学校」「岩手県立盛岡中学校」と改称し, 大正6年(1917)に 現在地(盛岡市上田3丁目)に移転した。
戦後 昭和23年(1948)に「岩手県立盛岡第一高等学校」と改称。

米内光政は、1894年(明治27年)、岩手県尋常中学校に入学している。

旧制盛岡中学校の卒業生
海軍では、米内光政(海軍大将・海軍大臣)、八角三郎(海軍中将)、及川古志郎(海軍大将・海軍大臣)、多田武雄(海軍中将)。
陸軍は、板垣征四郎(陸軍大将・陸軍大臣)。
そのほか、郷古潔(三菱重工社長、東條内閣顧問)、文学方面では、金田一京助、野村胡堂、宮沢賢治、石川啄木など、そうそうたる卒業生を排出している。

岩手県立盛岡中学校濫觴の地

盛岡の中学校の
露台の
欄干に最一度 我を倚らしめ
 石川啄木

場所

https://maps.app.goo.gl/1b7NUp95tcsVcBMSA


盛岡市先人記念館

盛岡市の先人記念館。
ここには、金田一京助、新渡戸稲造、そして米内光政のコーナーが個別に設けられており、そのほか盛岡市の先人たちの記録が展示されている。
一見の価値ある記念館。

盛岡市先人記念館

米内光政 1880‐1948
 海軍大臣を経て第37代内閣総理大臣に就任、三国同盟締結阻止を貫きました。
 太平洋戦争末期に海相に復帰、冷静な判断力、的確な洞察力、一方にかたよらない姿勢で、戦争の早期終結に尽力しました。

新渡戸稲造と米内光政と金田一京助と。
館内は、この場所以外は撮影禁止。

盛岡市先人記念館案内図録と、米内光政のピンバッチを入手しました。

米内の特徴をよく捉えたイラスト。

盛岡先人記念館>

https://www.mfca.jp/senjin/yonai/index


横須賀の米内光政

昭和10年12月。
第二艦隊司令長官であった米内光政中将が横須賀鎮守府長官として着任。
このときの参謀長が、のちに重要な局面で度々コンビを結成する井上成美少将であった。

横須賀鎮守府
 長官 米内光政中将
 参謀長 井上成美少将

そして昭和11年2月26日。
米内と井上は、横須賀にて、「二・二六事件」を迎えることになった。

上記写真:横須賀鎮守府司令長官米内光政(中央) 参謀長井上成美(左から2番目)
(「井上成美」井上成美伝記刊行会の巻頭写真より)

米内光政は、二・二六事件で重傷を負った鈴木貫太郎の後任侍従長との声もあったが、横鎮長官職の次職慣例もありその話はお流れ。鈴木の後任侍従長は百武三郎海軍大将。 昭和11年12月に、第23代連合艦隊司令長官へ。(連合艦隊司令長官兼第一艦隊司令長官。)


米内光政と井上成美

井上成美とは、昭和10年の横須賀鎮守府、昭和12年の海軍省、そして昭和19年の終戦に向けての海軍省と、コンビを三度組んでいる。

昭和10年、井上成美は海軍少将に任命。横須賀鎮守府参謀長に就任。横須賀鎮守府長官は米内光政。二・二六事件を対処。

昭和12年、井上成美は海軍省軍務局長に就任。米内光政が海軍大臣、山本五十六が海軍次官。米内光政・山本五十六・井上成美の三人を「海軍省の左派トリオ」「海軍左派三羽烏」などと称した。
米内・山本・井上の海軍省は日独伊三国同盟に反対するも時勢の流れは変えることはできなかった。

昭和19年7月、サイパン失陥により東條内閣は崩壊。予備役であった米内光政が現役に復帰し、小磯内閣副総理格で海軍大臣に就任。米内光政海軍大臣の懇請で井上成美は海軍次官に就任。海軍省人事局の高木惣吉少将を、海軍省出仕とし、米内ー井上ー高木のラインで、終戦のための研究・海軍の終戦工作が行われた。


東京の米内光政

昭和8年に佐世保鎮守府長官、昭和10年に横須賀鎮守府長官を歴任し、昭和11年12月に、連合艦隊司令長官に就任。
しかし艦隊司令としてわずか2か月後の昭和12年2月2日に、広田弘毅内閣のあとを受けた林銑十郎内閣の海軍大臣に就任。
このときの米内は軍政には興味がなく、連合艦隊長官をわずか2ヶ月で退任することを非常に渋ったというが、海軍次官であった山本五十六が前海軍大臣の永野修身、軍令部総長の伏見宮博恭王の同意を得て強く推薦し、米内光政海軍大臣が誕生した。山本五十六は海軍次官を留任し、永野修身は米内光政と入れ替わるように連合艦隊司令長官に就任している。

この昭和12年の海軍大臣就任以降、米内光政は、否が応でも軍政に携わざるを得なくなった。


米内光政と山本五十六

※山本五十六に関しては、別記事の「長岡散策」をまとめました。

日独伊三国同盟に断固反対の立場を貫く、海軍省は、海軍大臣米内光政、海軍次官山本五十六、軍務局長井上成美で「海軍省の左派トリオ」「海軍左派三羽烏」と称されていた。

山本五十六は、昭和10年12月に海軍航空本部長に就任。昭和11年2月の二・二六事件では、横須賀鎮守府長官の米内光政と連携し、岡田啓介首相救出などに尽力し、このときの米内の対応を高く評価し、永野修身が海軍大臣を辞任した際に、後任に米内光政を推薦している。

昭和12年1月に海軍次官に就任。永野修身海軍大臣が山本五十六の手腕を熱望したものであったという。2ヶ月後に、広田弘毅内閣が総辞職し、海軍大臣も永野修身から米内光政に変わった。
山本五十六は、米内光政海軍大臣の下で、海軍次官として、林内閣・第一次近衛内閣・平沼内閣と歴任する。
こうして結果として、米内光政の海軍大臣就任は、永野修身の最大の功績ともなった。

昭和14年8月30日、山本五十六は、海軍次官から連合艦隊司令長官(第26代)に異動となった。
これは、三国同盟に強硬に反対する山本が、三国同盟賛成派勢力や右翼勢力により暗殺される可能性を米内が危惧し、一時的に海軍中央から遠ざけるために発した人事であった。

昭和15年、第二次近衛内閣の海軍大臣及川古志郎、海軍次官豊田貞次郎は、海軍省と軍令部の省部合同会議で総論として三国同盟締結に傾き、9月15日の海軍首脳会議にて調印に賛成の方針が決定し、9月27日、日本は日独伊三国同盟に調印することになった。
奇しくも、及川古志郎は、米内光政の盛岡中学の後輩であった。

山本五十六は、そのまま連合艦隊司令長官を再任し(第27代)、開戦へと歩みをすすめることになる。

海軍甲事件
昭和17年4月18日、前線航空基地の将兵慰労のために前線視察を実施。山本五十六が搭乗した一式陸攻は、米軍機(P-38ライトニング)に補足され、襲撃・撃墜され、山本五十六は戦死した。59歳。

昭和6月5日に日比谷公園で、山本五十六の国葬が行われた。葬儀委員長は米内光政元首相。
皇族・華族以外の者が国葬に付された最初の例であり、かつ戦前唯一の例である。

多磨霊園の墓碑も、米内光政の筆によるものである。


最期の海軍大臣

昭和19年、東條英機内閣が倒れると、米内光政は予備役から現役に復帰し、小磯国昭内閣の海軍大臣(第24代)となった。
軍部大臣現役武官制度により、すでに予備海軍大将となっていた米内が、海軍大臣に就任するためには、現役復帰の必要があり、米内の復帰は、「天皇の特旨」による極めて異例な復活であった。
小磯と米内の2名で組閣大命を受けたことから、米内光政は副総理格として、「小磯・米内連立内閣」とも称された。
米内光政は、当時、海軍兵学校校長をしていた井上成美を中央に呼び寄せ海軍次官に就任させた。

昭和20年、鈴木貫太郎内閣にも海軍大臣として留任。
米内は、連立内閣であった小磯首相が辞職して、副総理格であった自分だけが大臣にとどまるのは道義上問題があるとしたが、井上次官が根回しをし、米内は留任せざるを得ない状況となっていた。

戦後、米内光政は、引き続き東久邇宮内閣・幣原内閣でも海相に留任して帝国海軍の幕引き役を務めた。

昭和20年11月30日。
海軍省最後の日。
幣原内閣において海軍省は廃止され第二復員省となったことから、米内光政は、日本で最後の海軍大臣となった。


米内光政海相と阿南惟幾陸相

阿南陸軍大臣と米内海軍大臣は、気質的な部分でなかなか反りが合わなかったが、終戦するという認識の方向性は一致しており、6月に鈴木首相の発言で国会が混乱した際は、米内海相が辞意を表明したところ、連日口論をしていた阿南陸相が米内に辞意を思いとどまるように説得をしている。
阿南自身も、戦争を終わらせる、国を救う内閣が鈴木内閣であることを理解しており、鈴木内閣を最期まで支えるために米内を説得したともいえる。

昭和20年8月15日、阿南惟幾は自決。
最期に、「米内を斬れ」との言葉をはっしたともいうが、その真意は不詳。

終戦に至る過程で激論を繰り広げてきた、米内海相は、阿南の自決を聞くと「我々は立派な男を失ってしまった」と語った一方で、「私は阿南という人を最後までよくわからなかった」と感想を残している。
阿南の自決直後、米内海相は誰よりも早く阿南の弔問に訪れている。


米内光政と鈴木貫太郎内閣(終戦内閣)

鈴木貫太郎内閣(第42代)は、昭和20年4月7日に成立。
終戦内閣として、戦争を終わらせた内閣。
鈴木貫太郎首相の下、米内光政は海軍大臣(第24代)を留任し、終戦のために尽力をした。


東京の米内光政邸宅跡

都内における米内光政の居住地跡を巡ってみたいと思う。
以下はメモとして。

・赤坂区青山南町
  昭和3年(1928)7月に居住の記録有り
https://jahis.law.nagoya-u.ac.jp/who/docs/who8-24727
・渋谷区竹下町
  昭和15年まで居住(首相就任時に転居)
・麹町区三年町
  昭和15年に国会近くの地の新宅に転居。
  なお、首相時代には、首相官邸には居住せず、
  私邸から国会に赴いていた。
  麹町三年町の私邸は空襲で焼失。
https://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000068037
・芝区白金台三光町 → 港区三田綱町
  仮遇として居住していたという
・目黒区富士見台1545
  終焉の地


麹町区三年町の米内光政私邸跡
(米内光政邸跡の石灯籠)

麹町区三年町。このあたりに、昭和15年の首相時代から昭和20年まで米内光政の邸宅があった。
米内光政の麹町区三年町の私邸は、昭和20年5月の空襲で焼失している。
そのときの空襲は、昭和20年5月25日の「山の手大空襲」と思われる。

麹町区三年町。現在の千代田区霞が関。

石灯籠のあるちいさな公園がある。
このあたりに、かつて米内光政の私邸があった。
東京の米内光政を記録する僅かな痕跡。

石灯籠の歴史
 この石灯籠は、永田町一丁目の岩手県東京事務所の敷地内にあったもので、岩手県のご好意により全国社会福祉協議会にご寄贈いただきました。

 終戦時この敷地は岩手県出身の総理大臣米内光政の邸宅となっていました。

 また、江戸時代は伊勢志摩を起源とする水軍の九鬼長門守の中屋敷跡でした。向かいあってもうひとつ上屋敷がありましたが、その前を通る坂は「茱萸(ぐみ)坂」と呼ばれていました。

 この石灯籠は形状から江戸中期のもので春日灯籠。九鬼家の中屋敷に伝わっていることから九鬼家由来のものであると考えられます。

 平成24年3月17日、永田町一丁目四番地から六本木通りを隔てて新霞が関ビル公開空地に移設いたしました。堂々たる風格でいかにも大名屋敷にふさわしい石灯籠です。
 全国社会福祉協議会

場所:ツツジの庭(新霞が関ビル公開空地)

https://maps.app.goo.gl/3m8dwzrsk1HRv8fTA

赤丸のエリアは推測。

時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」


芝白金三光町(米内光政仮遇の地)

昭和20年5月に、麹町三年町の私邸は空襲で焼失。
仮遇を芝白金界隈に構えていたという。
白金となると流石に何も痕跡はない。

奥は、ザ白金ゲストハウス。元は竹中工務店の福利厚生施設跡地(白金竹友クラブ)。
もとは海軍中将の真木長義男爵邸で、戦後は外務省白金分室(外務大臣公邸)だったこともある場所。

敷地の奥には、旧服部金太郎邸もある。
旧服部金太郎邸(服部ハウス)は、戦後にGHQに接収され、1945年12月から1年間、極東国際軍事裁判(東京裁判)に携わるジョセフ・キーナン首席検事ら10人の検事の住居となったほか、1948年8月からは東京裁判の判決文の翻訳作業が行われた。

米内光政の仮遇の地も、なんだか終戦史が絡んでくる。

時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」

場所

https://maps.app.goo.gl/iXG9Tzxb23wSdkGn8


富士見台(米内光政終焉の地)

米内光政の終焉の地。
環七通りの拡張に伴い、往時の面影は残っていないが、だいたい現在の目黒区南3丁目あたりに、米内光政の最後の私邸があった。

昭和23年(1948)4月20日。
米内光政は目黒区富士見台の自宅で68歳1ヵ月の生涯を終えた。
偶然にも臨終には、親交のあった緒方竹虎が立ち会っていた。(緒方竹虎は盛岡の墓石の揮毫にも携わっている)

昭和23年(1948)4月24日。
富士見台の自宅で、葬儀と告別式が行われた。
葬儀委員長は、山梨勝之進海軍大将。海軍の最長老であった。

戒名「天徳院殿仁海 光政大居士」

富士見台という地名は行政区分としては消えているが、公園やバス停に名前を残している。

赤丸のエリアが推測。

時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」

場所

https://maps.app.goo.gl/iXG9Tzxb23wSdkGn8

以上、米内光政の足跡を辿る所縁の地の散策記録でした。


※撮影:2023年8月

日本初のジェットエンジン「ネ20」(特殊攻撃機「橘花」)

2023年10月に開催された横須賀田浦の海上自衛隊第二術科学校オープンスクール。
企業展示コーナーが解説されており、なんと株式会社IHIのブースで「ネ20」が展示されておりました。


ネ20

日本で始めて実用段階に到達したターボジェットエンジン。
横須賀追浜にあった海軍航空技術廠(空技廠)が中心となって研究開発が行われた。
並行して試作されていた特殊攻撃機「橘花」へ搭載。
「ネ」は燃焼噴射推進器(燃焼ロケット)の頭文字の「ネ」。

空技廠と石川島重工業(現IHI)が軍民一丸となって開発。
1944年7月にドイツからもたらされたBMW 003の図面を基にしているが、図面の大部分と実物エンジンを搭載していた伊号29潜水艦は撃沈しているために、完全なコピーが出来ない状況での開発であった。
1946年6月にネ20は完成し、12基が試作され、4基が地上試験、1基が空中実験に用いられ、残りが橘花の飛行試験に充当。1945年8月までに約50基が量産されていたという。

ネ20は終戦とともに、東側諸国に対する秘密保持のために、連合国によりほとんどが破壊され、現在は3基が現存している。
そのうちの2基は米国にあり、1基が日本でIHIが「IHIそらの未来館」(通常非公開)で保管。


特殊攻撃機「橘花」

大日本帝国海軍が開発したジェット戦闘攻撃機(特殊攻撃機)。
日本初のジェット機。
ジェットエンジンを、空技廠と石川島重工業、機体を中島飛行機が開発製造した。
1945年8月7日に飛行試験を木更津飛行場で実施し初飛行するも、1週間後に終戦を迎えた。

※画像は、Wikipediaより
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Kikka_Orange_Blossom_Kikka-10.jpg


現存する国内唯一の「ネ20」ジェットエンジン

はじめて拝見しました。

企業展示コーナーにて

ネ20
IHIの航空宇宙事業の道をひらいた、日本初のジェットエンジン
第二次世界大戦中、海軍航空技術廠により開発された日本初のジェットエンジンである。”ネ”という呼称は「燃料ロケット」のネをとった。ドイツBMW-003A系の構造を参考に開発され、1945年七月に特殊戦闘機「橘花(きっか)に搭載、1945年8月に現・木更津航空基地で高度600m、12分間の初飛行に成功した。1944年12月、東京石川島造船所(現IHI)は5台の量産試作エンジンを受注し、翌年8月1日に横須賀海軍航空技術廠に納入した。IHIの航空宇宙事業は、ネ20から始まった。

Breakthrough Point
限られた物資の中のジェットエンジン開発
ネ20には、限られた物資を有効に使う技術が活かされていた。たとえば、耐熱材料が手に入らず、タービン部は入手困難なニッケルをマンガンに置き換えた鉄ベースの材料で代替した。化石燃料も枯渇していたため、松根油とアルコールを混合して使用した。

四方八方から見学する。

HISTORICAL TURBINE ENGINE
BUILT IN JAPAN
COURTESY OF
NORTHROP INSTITUTE
OF
TECHNOLOGY
INGLEWOOD CALLFORNIA

日本製の歴史的なタービンエンジン
戦後に、米国に鹵獲されたが、現在は、「永久無償貸与、返還要求なし」としてIHIが保管をしている。

米国の銘板、米国での試験時にとりつけられたものか?

貴重な技術遺産。良いものを拝見できました。

※撮影:2023年10月


関連(東京石川島造船所関連)

関連(中島飛行機関連)

横須賀で最初の民間トンネル「梅田隧道」

近くに赴く機会があったので、足を運んでみました。
まあ、近くというのは「海軍工廠造兵部」散策のためだったんですけどね。


梅田隧道(梅田トンネル)

トンネルの数が日本一ともいわれている横須賀市。
そんな横須賀で、軍用以外のものとして、民間が掘った一番最初のトンネルが「梅田隧道」であった。

明治19年(1886)、船越新田から田浦および浦郷にかけて、海軍水雷営と水雷修理工場が展開され、海岸地域は軍用地となり上陸禁止。
村民たちは船で往来することが出来なくなり、また生業を奪われた漁民は水雷修理工場等の従業員に転じ、いくつかの山路を越えて工場へ通勤するようになった。往来の不便を解消するために山坂を避けて梅田坂に新道を作ることに決め、地元有志の私財でもって、梅田隧道は、明治20年(1887)に素掘りで開通。
トンネルの掘削で出た残土は榎戸の渡船場周辺から日向にかけての埋立てに利用され、またトンネルの開通によって、それまで何時間もかけて山越えして海軍工廠造兵部に通う従業員たちは、往来が大変便利となった。

海軍工廠造兵部は、現在の東芝ライテックのあるあたりが中心。
(海軍工廠造兵部関連散策記事は後日、未作成)

横須賀市>

https://www.city.yokosuka.kanagawa.jp/2744/walk_taura/b10008.html

カナコロ>

https://www.kanaloco.jp/news/life/entry-199035.html

南側の坑門。

梅田隧道

現在は、鉄板で保護されている。

北側の坑門。

梅田隧道


梅田隧道碑(梅田隧道之碑)

大正4年(1915)11月建立。
碑は梅田隧道の北側口から約140mのところにある。
高さ160㎝ほどで、1行35字、18行にわたり田辺新之助による漢文と詩が刻まれている。
扁額は海軍大将樺山資紀。

横須賀市>

https://www.city.yokosuka.kanagawa.jp/2120/g_info/l100004013.html

横須賀市指定市民文化遺産
梅田隧道碑
軍用以外では、本市で最初のトンネルで、近隣町村の有志が多額の費用を出し合い、明治20年3月に完成した。碑は大正4年に建てられた。

梅田隧道碑について
 かつて日向、榎戸地区では大勢の人が漁業で暮しをたててゐましたが、明治十五年、船越に海軍水雷艇基地や修理工場ができて、周辺の港は軍用になつたので、多くの人は生活の手段を奪はれ、軍関係の工場で働くやうになりました。しかし通勤は険しい山坂を超えて行かなければならないので、難渋をきはめました。そこで田川幸蔵、渡辺富太郎らの地元有志は、村の発展と通勤者の便宜を図るため、私財を投じてトンネルを掘る決心をしました。工事は明治十九年五月から始まり、二人の犠牲者を出すといふ難工事の末、二年を経て完成して、梅田隧道と命名されました。
 横須賀市内では民間人が掘つた初のトンネルで、国に頼ることなく、すべて自力でやり遂げ、今でいふボランティア活動の先駆けといつてよいでせう。大正四年、先人たちの努力と功績を後世に伝へるため、この記念碑と建てました。
 題字は海軍大臣などをつとめた樺山資紀、顕彰碑文は逗子開成中学(現在の逗子開成学園)の創立者で、漢学者の田辺新之助が書いたものです。

樺山資紀の扁額

梅田隧道之碑

※撮影:2023年4月

場所

https://goo.gl/maps/Djfje3d1bMAyatn8A

https://goo.gl/maps/14RPJkB9tuDt9Qb79


良長院の海軍慰霊碑(横須賀鎮守府海軍建築部請負と横須賀鎮守府所属看護科員)

横須賀中央駅と、汐入駅の中間、聖ヨゼフ病院の近くにある良長院に、海軍関連の2つの慰霊碑がある。


横須賀海軍建築部請負工事
殉職者弔魂碑

横須賀海軍建築部請負工事 
殉職者弔魂碑
 海軍大将 野村吉三郎書

昭和8年11月建立
横須賀建工同志会・傷害救済会建立

横須賀の海軍施設請負工事で殉職した民間の方々を慰霊顕彰している。
裏面には殉職された方々の名前が刻まれている。


横須賀鎮守府看護科員 戦病死者之霊碑

横須賀鎮守府看護科員 
戦病死者之霊
 海軍大将山本英輔謹書

(裏面)
昭和7年9月23日建立
赤心会建立

文字通りに横須賀鎮守府看護科員戦病死者の方々を慰霊顕彰する碑。


良長院

龍谷山良長院(曹洞宗)
保年間(1645-1648)創建

横須賀軍港で、建築部請負工事殉職者の碑と看護科員戦病死者の碑と。
それぞれの碑前で、海軍を支えた方々の御魂に合掌をする。

※参拝と撮影は2018年4月

「米ヶ濱砲台跡地」(横須賀平和中央公園)と「横須賀市自然・人文博物館」

米ヶ濱砲台のあった「中央公園」が2021年に「平和中央公園」へと再整備されたという話を聞いたので、足を運んでみました。


平和中央公園

明治時代には旧陸軍の東京湾要塞として米ヶ濱砲台が設置。
関東大震災の被災と演習砲台への転用を経たのち終戦。
「砲台山」として親しまれており、1970年に「中央公園」として開園、50年目の2020年にリニューアル工事を経て、2021年4月に「平和中央公園」として開園している。

中央公園

これは以前の表記ですね。

平和中央公園

再整備されてだいぶきれいになっています。

https://www.kanagawaparks.com/heiwacyuou/

https://www.kanagawaparks.com/heiwacyuou/about.html

https://www.city.yokosuka.kanagawa.jp/5560/sisetu/fc00000484.html


米ヶ濱砲台跡

かなりきれいになってますね。以前は半分埋もれていた掩体部も見学できるように掘り返しされていました。

https://www.city.yokosuka.kanagawa.jp/2120/oldays/houdai.html

https://routemuseum.jp/area/b/b12/

米ヶ濱砲台跡とは
 米ヶ濱砲台は、陸軍が建設した東京湾要塞を構成する砲台の一つです、江戸幕府が海防のために建設した台場に代えて、明治政府は西洋の築城技術・建築資材を導入して海岸防御のための砲台群を、全国の要地に建設しました。これらの砲台群は、後にその地名を冠してん某要塞と呼ばれます。東京湾要塞は新首都東京と横須賀軍港っを守ることを任務とした要塞で、明治10年代に建設が始められた唯一の要塞です。
 明治時代の東京湾要塞建設は、大きく3つの時期に分けられます。明治10年代には東京湾が最も狭くなる富津岬~観音崎を防御する砲台群(観音崎砲台、猿島砲台、走水低砲台など)の建設が始まり、明治20年代前半には横須賀・長浦両軍港を守備する砲台群(夏島砲台、箱崎低砲台など)、明治20年代後半には富津岬~観音崎を守備する既設砲台の背面防御や側防を担う砲台・堡塁(千代ヶ崎砲台、大浦堡塁、小原台堡塁など)とともに新たな砲台(三軒屋砲台)も増設されました。
 米ヶ濱砲台は明治23(1890)年から明治24年(1891)にかけて建設され、横須賀軍港を守備するとともに、不入斗にあった要塞砲兵第一聯隊(後の横須賀重砲兵聯隊)の教育・訓練砲台としての役割も担いました。 
 米ヶ濱砲台は西側の榴弾砲砲台と東側の加農砲砲台で構成され、28cm榴弾砲6門、24cm加農砲2門が備砲されました。明治27(1894)年に開戦した日清戦争では戦備につき、明治37(1904)年に開戦した日露戦争では28cm榴弾砲6門がロシア軍の旅順要塞攻略のため運び出されました。その後は、火砲の進歩や航空機の出現による戦術の変化、安浦町の埋立事業により重要度は低下し、さらに大正12(1923)の関東大震災で大きな被害を受けたことで、加農砲砲台は廃止され、榴弾砲砲台は28cm榴弾砲4門からなる演習砲台に改変されました。
 戦後は、中央公園して市民に親しまれてきましたが、令和元(2019年)に公園リニューアル工事に伴う発掘調査を行い、明治時代の砲台の構造物の多くが良好に残っていることを確認し、遺構保存のため埋め戻しをしました。また一部の構造物については切り取りを行い、横須賀市自然・人文博物館に移設しました。

要塞配置地図

平和公園の地下には、米ヶ濱砲台の遺構が埋め戻しで保存されている。

平和公園の地下に眠る米ヶ濱砲台

榴弾砲砲台弾薬庫跡

榴弾砲砲台の弾薬庫跡

かつては公園の管理室としても使用されていた。
下部には、焼過煉瓦を用いている。天井はコンクリート。

榴弾砲砲台土塁跡

弾薬庫の上部には、榴弾砲砲台の土塁が設けられている。
土塁の上には観測所が設けられ、土塁の中には観測所付属室があったという。

榴弾砲砲台弾薬庫排気口

排気口。弾薬庫と通じている。

カバーがついている。

覗くと、通風口が見える。

土塁の上から、東京湾。

猿島が見える。

猿島砲台と連動している立地であることがわかる。

榴弾砲砲台の跡。

弾薬庫が2つ。

以下は、以前の米ヶ濱砲台跡。
改修前の中央公園時代(2018年4月撮影)

このときは、まだ整備前。


榴弾砲砲台右翼観測所跡

平和モニュメントの下にも地下施設があった。(現在は埋戻し)
榴弾砲砲台右翼観測所の付属室など。平和モニュメントの場所が、右翼観測所であった。

埋戻し保存。

榴弾砲台右翼隧道跡

埋戻し保存。


平和モニュメント

榴弾砲砲台右翼観測所跡。

中央公園時代の平和モニュメント(2018年4月撮影)。
公園リニューアル工事時の際に、平和モニュメントもリニューアルされた。

説明など。


芝生広場(加農砲台跡)

芝生広場の下には、加農砲砲台の弾薬庫などもあったが、埋戻し保存されている。

加農砲台跡の芝生公園も、海がよく見える。走水低砲台や観音崎砲台のある方向を望む。

「あぶない」の英語表記があるのが、横須賀ならでは。


デッカー司令官

1946年、ベントン・ウィーバー・デッカー司令官は、第4代横須賀米国海軍基地司令官として横須賀に着任。横須賀の戦後復興、市民救済、病院や学校などの設立に尽力した「横須賀市再建の恩人」でもあった。
アメリカ軍人として日本人の手による初めての胸像が作られるほどの功績があった。

デッカー司令官

横須賀市再建の恩人
ベントン・W・デッカー司令長官

川村吾蔵作。
川村吾蔵は太平洋前はアメリカで彫像活動をしていた。1940年に帰国。戦後GHQの通訳などをさせられれるも、昭和22年にデッカー米軍横須賀司令長官に招聘されて、胸像を多数作成。このときに最晩年の作品としてデッカー胸像を作っている。
マッカーサーも噂を聞き、胸像作成を依頼するも、完成前の昭和25年に死去。未完成だったマッカーサー元帥胸像は川村の妻娘が完成させている。

頌徳
ベントン・W・デッカー司令官は、横須賀米国海軍基地司令官として、大戦後混沌たる昭和二十一年四月着任せられ、爾来四ヶ年に亘り本市経済の復興に絶大な同情と好意とを以て吾々市民を指導された偉大なる恩人である。軍港を失った本市を民主的な経済都市として更生させるために新しい商工会議所、婦人会、赤十字会、福祉委員会等の設立を促され、更に本市の文化、教育、救済等凡ゆる社会的事業にも適格な指導精神を指示せられ、殊に新規転換工業の育成に対しては最大の援助を与へられ、本市諸産業が今日の復興を見るに至ったことは偏えに同司令官の有難き徳政の賜であって吾々は哀心深い感銘と敬意とを表するものである。
玆に同司令官の頌徳を永く偲びつつ今後不断の努力を続けるため玆に巨匠川村吾蔵氏畢生の力作になる記念胸像を建立した次第である。
 昭和二十四年十一月
  社団法人横須賀商工会議所

デッカーは、1946年4月に着任し、1950年6月までの4年間を、横須賀基地司令官として、横須賀の占領行政に携わっていた。そんな時間軸の中で、はやくも記念胸像が1949年に建立されているのが、なによりも驚きである。

横須賀の海を望む高台から、横須賀を見守る。


戦没者慰霊塔

平和中央公園の東端にある慰霊塔。公園の先端を船の舳先のように造形した鉄筋コンクリート製の慰霊塔。前面には御影石。長さ31メートル、高さ8.7メートル。
昭和44年4月建立。
横須賀市出身の日清、日露、第一次、第二次世界大戦での戦病死者の遺影約3600枚を納めている。

船の先端をイメージ。

戦没者慰霊塔

日本が 
世界の夜明けに目覚めてから 
今日の栄光をかちえるまで 
多くの戦争において 
国のため尊い命を捧げられた 
諸霊よ 
横須賀市民は 
諸霊の遺族とともに 
この地を定め塔をたて 
熱いまごころをもって 
み霊を慰めたてまつる 
 昭和四十四年三月誌す 
  横須賀市長 長野正義

ありがとうございます
合掌


島田修二の歌碑

横須賀の 丘に吹く風
いちにんの いのちの重み
世界に告げよ
 島田修二

島田修二(1928年~2004年)は、昭和3年8月19日、神奈川県横須賀市大津町に生まれた。父 島田英之、母 島田敏子。陽一、修二、章三、迪男、嘉寿江の四男一女の次男であった。
兄 陽一は海軍士官として戦没した。修二も旧制横須賀中学校を経て海軍兵学校に進み、そこで終戦を迎える。その後は、読売新聞記者を経て、短歌の道に精進し、宮中の歌会始選者等を勤めるに至った。
修二は、平成16年1月、この丘に来て、ふるさと横須賀の歴史と未来を思い、世界の平和を思い、ひとりの、そしてすべての人のいのちの重みを思って、この歌を詠んだ。私たちは、この歌の心を広く、また永く、世に伝えることを願い、横須賀の海をみはるかすここ中央公園の地に、これを建てる。
 平成16年11月5日 草木短歌会有志一同


岩崎泡鳴「田戸の海ぬし」

昭和58年(1983年)に設置の文学碑。


横須賀市自然・人文博物館

自然博物館と人文博物館が併設されている総合博物館、横須賀市営で、三浦半島の展示が充実しているのに無料で観覧できるという、おすすめ穴場スポット。

近代史的には、日本遺産に登録された、横須賀製鉄所で制作の日本製で最古級の煉瓦の展示などは興味深く。

ヨコスカ製銕所

刻印スタンプもあります。

近現代展示エリア

横須賀軍港の境界標注ですね。

横須賀軍港境界標
明治33年2月13日
海軍省

横須賀海軍航空技術廠の本部庁舎の模型。
追浜にあったが、建屋は解体済み。
(先日、フィールド調査はしたけど、レポ掲載はまだ。。。)

おもしろそうな企画展もあります。デジタルですね。

おお、海軍の蓋です。

旧海軍消火栓蓋(旧海軍水雷学校跡地)

消火栓、錨のマーク付き。

これは、摩耗も少なく、大変にキレイな状態ですね。

旧海軍水雷学校第四兵舎 階段親柱

旧海軍水雷学校第四兵舎階段の親柱
(昭和4(1929)年頃、当館蔵・トヨタ自動車東日本株式会社寄贈)

この部材は、横須賀市田浦港町にあった「旧海軍水雷学校代四兵舎」で使われてきたものです。終戦時の田浦地区沿岸部には、旧海軍の水雷学校と軍需部の施設群が集積していました。この地区周辺への旧海軍施設の設置は、明治10年代にさかのぼり、以後、埋め立てと施設の拡充が続きました。そして、明治40(1907)年には、前身の水雷術練習所等の歩みを経て、海軍水雷学校が発足しました。
 終戦後の昭和29(1954)年、海軍水雷学校の跡地の一部は、関東自動車工業株式会社(トヨタ自動車東日本株式会社)の敷地となりました。同敷地内にあった、第四兵舎も平成20(2008)年に解体されるまで長らく利用されてきました。第四兵舎は、昭和4年頃に建築された、鉄骨造2階建の大きな建物でした。この建物の中央階段の1階にあった親柱には、旧海軍でよく使われていた錨をモチーフとした装飾があり、同じ敷地内にあった上下水道設備の点検用の蓋にも、同じく錨のマークが刻まれていました。
 これらの部材は、トヨタ自動車東日本株式会社にて大切に保存され、令和4(2022)年に同社から寄贈をうけました。
  横須賀市自然・人文博物館

海軍水雷学校兵舎の階段親柱

錨をモチーフにした装飾

https://www.museum.yokosuka.kanagawa.jp/

水雷学校の記事はこちらにて。


小栗忠順像 栗本鋤雲像

横須賀製鉄所の建設に携わった2名が、横須賀の発展の礎であった、ともいえる。

小栗さんと栗本さんの胸像。
小栗上野介忠順とその小栗の盟友であった栗本鋤雲はともに軍艦奉行や外国奉行などの要職にあった。 小栗が画策した「横須賀製鉄所」の建設を栗本が助け事業に貢献。横須賀発展の礎を築いた人物たち。

小栗さんの像はヴェルニー公園にもありましたね。そちらではヴェルニーさんと並んでましたが、こちらでは栗本さんと。

小栗忠順に関しても、いろいろまとめたいとは思いつつ、なのですが、まだ、調査が出来あがっておらず、でして。

横須賀市自然・人文博物館の中にも胸像がある。

こっちは、ヴェルニーと小栗忠順と、ちょと時代は違うが、ウイリアム・アダムス。

ヴェルニーも記事を書きたいですね。。。

小栗忠順

https://www.museum.yokosuka.kanagawa.jp/

https://www.city.yokosuka.kanagawa.jp/8161/benri/hakubutukan.html


文化会館(横須賀海軍病院跡)

中央公園の隣には文化会館。 かつての「市民病院」跡。
市民病院は昭和37年焼失。
さらに遡ると、深田台の市民病院があった、この場所は「横須賀海軍病院」があった。
明治13年開院。関東大震災で全焼移転(移転先は現在の米軍基地内。現存建物)
昭和3年に海軍用地だった当地は区画再整備され宅地化したという。
※2018年4月撮影

米軍の基地内に残る、横須賀海軍病院に関しては、下記にて。

※撮影は2022年11月


関連

「日本の近代の幕開け」ペリー上陸記念碑と浦賀奉行所跡(浦賀・久里浜)

日本の近代は、ペリー率いる黒船来航とともに幕を開けたといっても過言はない。すなわち、いわゆる「幕末」は、嘉永6年(1853)の浦賀への黒船来航とともにはじまる。

「泰平の眠りを覚ます上喜撰たつた四杯で夜も眠れず」
日本の近代は、ここから始まった。


北米合衆国水師提督伯理上陸記念碑

久里浜のペリー公園として整備されている上陸地点。

嘉永6年(1853)のペリー艦隊の来航時、アメリカ大統領からの国書受け渡しは、久里浜で実施された。
ペリー上陸を記念し明治三十四年(1901)に、建立・除幕された記念碑。

北米合衆国水師提督伯理上陸記念碑
大勲位伊藤公爵博文書

MONUMENT IN COMMEMORATION OF THE LANDING OF COMMODORE
PERRY U.S.N.
MARQUIS HIROBUMI ITO CRAND ORDER OF CHRYSANTHEMUM

嘉永6年6月9日上陸
明治34年7月14日建之

THIS MONUMENT
COMMEMORATES
The First Arrival
OF
COMMODORE PERRY,
AMBASSADOR FROM THE
UNITED STATES OF AMERICA
WHO LANDED AT THIS PLACE
JULY 14,1853
ERECTED JULY 14.1901.
BY
AMERICA’S FRIEND ASSOCIATION

 1853年7月8日、浦賀沖に来航したアメリカ合衆国東インド艦隊司令長官M.C.ペリー(Matthew C.Perry)は、7月14日、ここ久里浜の海岸に上陸し、大統領フィルモアの親書を江戸幕府に渡した。翌年、神奈川において日米両国間に和親条約が締結された。この一連の出来事は、幕府支配のもとに鎖国を続けていた日本を、世界へと引き戻す原動力となった。
 ペリー来航より48年後の1901年7月14日、米友協会の手によって、日本開国ゆかりの地として、ここに記念碑が建てられた。

ペリー公園

北米合衆國水師提督伯理上陸記念碑建設者タル米友協會ノ意志ヲ繼キ本日以後本會ニ於テ該記念碑並構内ノ維持管理ニ當ルコトヽナレリ仍テ茲ニ之ヲ誌ス
 昭和十年二月二日
  神奈川縣廳内伯理記念碑保存會

KANEKO PINE
THIS TREE PLANTED
BY
VISCOUNT KANEKO
JULY 14TH 1901

かねこ松
米友協会会長
子爵金子堅太郎氏
手植松
明治34年7月14日

RODERS PINE
THIS TREE PLANTED
BY
REAR ADMIRAL RODERS
JULY 14TH 1901

ろぢあーす松 
米海軍少将 
ろぢあーす氏 
手植松 
明治三十四年七月十四日

手植えの松は、記念碑の左右に。

ぺるり上陸の地記念碑

県下名勝史蹟45佳選当選紀念
ぺるり上陸の地
横浜貿易新報社

昭和10年10月建立

じょうきせんの碑

泰平の
ねむりをさます
じようきせん
たつた四はいで
夜も眠られず

じょうきせんの碑
 江戸幕府は約200年にわたり、外国との通商・交通を禁止する鎖国政策をとっていた。
 その日本に対し突如として泰平の夢を破るように1853年7月8日(旧暦嘉永6年6月3日)開国を迫る4隻の黒い艦隊が浦賀・鴨居沖に現れ、同艦隊は6日後に久里浜に上陸した。
 この艦隊の指揮をとっていたのが、ペリー提督であった。
 江戸湾の守備にあたっていた諸藩の藩士や浦賀奉行所の人たちは、この大きな黒船を見て、驚き動揺した。
 開国を促す黒船の来航に幕府要人はもちろんのこと、その戒容を見聞きした人たちの驚きはどんなであったろう。
 その驚きを端的に表現したのが、この落首である。
 なお、「久里浜村詩」によれば、この落首は、老中松平下総守(間部詮勝)号松堂作とも言われている。
 平成2年7月
  横須賀市

ハイネ画 ペリー久里浜上陸図

ペリー上陸記念碑物語
 長い間外国との貿易を制限していた徳川幕府に1853年(嘉永6年)アメリカ大統領の国書をもって来航した東インド太平洋艦隊司令長官ペリーは幕府と交渉し強い態度で開国を迫り、ついに1853年7月14日幕府に大統領の国書を受理させ再来航を約束しアメリカに帰りました。
 このとき今まで200年以上にわたり外国との交流を閉じていた日本の地に外国の使節団が上陸し、幕府とアメリカの交渉が行われた場所が場所が久里浜であり、新しい日本の夜明けはこの久里浜から始まったのです。
 ペリー提督が初めて日本の地に上陸してから47年後の1900年(明治33年)10月25日アメリカ退役海軍少将ビアズリーが夫人と共に久里浜を訪れました。ビアズリーは17歳の時、少尉候補生としてペリー提督と共に久里浜に上陸したのです。彼は青年の頃訪れた美しい久里浜にたくさんの思い出があり、アメリカの使節団が初めて訪れた地に何も記念するものがないことを残念に思いました。
 ホテルのある横浜に帰ったとき新聞記者に久里浜でのことを話しました。その内容が新聞に掲載されました。また、明治政府の下で近代社会を築きつつあった明治10~20年代には前途有為な人達が留学や働く場所をもとめて欧米に渡りました。特にアメリカに留学し日本に帰国した後、政界や経済界で活躍する人達が集まり、1898年(明治31年)交友の場として米友協会が設立され、その米友協会の席上でもビアズリーが演説し、このことが契機となって当時の米友協会の会長でハーバード大学で学んだ金子堅太郎男爵(当時)を中心に上陸記念碑建設の運動が起こり「記念碑建設委員会」が組織され募金や明治天皇の下賜金によって記念碑は完成し、1901年(明治34年)7月14日ペリーの上陸と同じ日に除幕式が行われました。参列者は桂首相ほか閣僚、徳川家達、榎本武揚、アメリカからはビアズリーやペリーの孫にあたるロジャース少将等、総数1000人で久里浜沖では日米の軍艦が祝砲を放つなど盛大な式典となりました。
 日米親善の象徴となた上陸記念碑ですが太平洋戦争中にはアメリカに関するものは敵性のものと憎まれ1945年(昭和20年)2月8日横須賀市の翼賛青年団を中心としたグループに引き倒されました。ところが半年後の8月15日に終戦となり11月に復元されました。
 日本の歴史上大切な足跡を刻んだペリー上陸記念碑のもつ意義をこれからも大切に見守ってゆきましょう。

参考
 記念碑の大きさ 高さ4.5m 重さ11.4t 仙台産の花崗岩 碑の台座は根府川石
 刻まれている文字は伊藤博文の書で「北米合衆国水師提督伯理上陸記念碑」と書かれており碑文を彫刻した石工は横浜あの横溝豊吉です
 令和4年(2022年)3月 久里浜地域運営協議会 久里浜の文化を考える会

記念碑の前で記念撮影するのは、ペリーの曾孫にあたるペリー大僧正と、浦賀奉行の曾孫にあたる戸田夫妻。昭和8年。

なお、戦時中に、ペリー上陸記念碑は倒されている。破壊粉砕をしようとする過激な動きもあったが、海軍横須賀鎮守府は反対。神奈川県知事は当初は反対するも、強硬派の圧力に屈し撤去に合意。昭和20年2月に記念碑は倒された。倒された直後に米軍の空襲などもあり、記念碑を粉砕する話は報復を恐れ立ち消えとなっている。重機不足で倒すのが精一杯だったというのもあるようだが。
戦後、昭和20年11月に、ペリー上陸記念碑は再建された。

https://www.kanagawaparks.com/perry/

https://www.cocoyoko.net/spot/perry-park.html

https://www.city.yokosuka.kanagawa.jp/5560/sisetu/fc00000435.html

場所

https://goo.gl/maps/iLY9J6wYuPqTroRB7


ペリー記念館

ペリー公園には、ペリー記念館もある。
横須賀市市制80周年を記念して1987(昭和62)年に建てられた記念館。

ペリー提督

戸田伊豆守

浦賀奉行の戸田氏栄。
黒船来航の初動対応は、奉行所応接掛であった中島三郎助が担当していた。

https://www.city.yokosuka.kanagawa.jp/5560/sisetu/fc00000442.html


ペリー上陸の砂浜(久里浜)

ペリー公園のすぐ目の前に、ペリーが上陸した砂浜がある。

※撮影 2022年8月


ペルリ上陸記念碑道

明治の道標で英語でも記載があるが、おしゃれ。

ペルリ上陸記念碑道
COMMODORE PERRY’S MONUMENT
明治41年1月18日建設

車道側に向いているので、ちょっと撮影しにくい。。。

場所:

https://maps.app.goo.gl/tdev2C5q76iN4rwB9

※撮影:2023年11月


浦賀(黒船来航の地)

ペリー提督の黒船は、浦賀沖に来航した。浦賀に来航して、久里浜に上陸。

1853年7月8日(嘉永6年6月3日)、浦賀沖に停泊したペリー艦隊。それまでみてきたロシア海軍やイギリス海軍の帆船とは違う、蒸気外輪フリゲートを目の当たりにした人々は「黒船」と呼称し、恐れおののいた。

浦賀奉行戸田氏栄は、司令長官旗を掲げていた米艦隊旗艦サスケハナに対して、まず浦賀奉行所与力の中島三郎助を派遣。
ペリーの渡航が将軍にアメリカ合衆国大統領親書を渡すことが目的であることを把握した。
日本側は長崎に向かうように交渉をするも、ペリーは了承せず、江戸に向かい直接国書を渡すと主張。ペリーの強硬姿勢に幕府側は譲歩し、国書受け取りを決断。

1853年7月14日(嘉永6年6月9日)、幕府は当初、浦賀港近くの燈明堂近くの館浦で受け取り予定であったが、土地が狭く、警備を担当する4藩(川越・彦根・会津・忍)の反対もあり、結果として、国書受け取りは浦賀の隣の入江であった久里浜で行われることになった。

黒船来航の地
ようこそ浦賀へ

1853年 浦賀に黒船来航

ペリーとサスケハナ号
嘉永6年(1853)6月、アメリカ大統領の国書を持ったペリーが率いるサスケハナ号以下4隻の黒船が浦賀沖に姿を現わした。このペリー来航により鎖国政策はピリオドをうち、日本の近代はここにはじまった。
 浦賀国際文化村推進協議会


浦賀奉行所跡

黒船来航で、奇しくも近代の幕開けの口火として、その最前線となったのが、浦賀奉行所であった。

石橋(浦賀奉行所跡)
 浦賀奉行所表門の前のお堀に架けられていた石橋が、役宅(官舎)の通りより少し北に寄っているのは、奉行所が敵に攻められても直線で侵入できないように配慮されていたためで、同様に町家(商家)から役宅に入るところのカギの手に曲がっているのも江戸時代のままです。
 お堀は江戸時代後期の改築にともなって表門とその脇の三方に低いながらも石垣が積まれてできています。
 浦賀行政センター市民協働事業・浦賀探訪くらぶ

黒船に最初に乗り込んだ男
中島三郎助
 浦賀奉行所与力・中島三郎助は、浦賀を代表する人物で、嘉永6年(1853)ペリー来航の際、最初に黒船(使節団)との、折衝にあたるなど敏腕をみせ、翌年、日本最初の洋式軍艦・鳳凰丸を建造しました。
 三郎助は、文武に優れ、「大衆帰本塚」の碑文を書き、俳号は「木鶏」と称し、人々から敬慕されていました。
 明治維新では、幕臣としての意思を貫き、函館の千代ケ岡台場で2人の息子と共に戦死しました。
 享年49歳、父子の墓は東林寺。
 函館中島町に「中島三郎助父子最後の地」の碑があります。
  浦賀行政センター市民協働事業・浦賀探訪くらぶ

浦賀奉行所跡

(一部抜粋)
嘉永6年(1853)6月、浦賀に来航したペリー艦隊は、日本が近代に進む第一歩としてよく知られていますが、浦賀奉行所にとっては、文政元年(1818)5月に来航したイギリス船から数えて7度目の異国船でした。ペリー来航時には、中島三郎助や香山栄左衛門をはじめとした浦賀奉行所の役人たちが大きく活躍し、交渉の結果、アメリカ大統領の親書を久里浜で受け取る事になりました。

今は、更地。
堀が残る。

場所

https://goo.gl/maps/1ysfN1eUvoncFkLh6


船番所跡

船番所跡
 浦賀奉行所の出先機関で、享保6年(1721)から明治5年まで、江戸を出切りするすべての船の乗組員と積み荷を検査する「船改め」を行い、江戸の経済を動かすほどと言われました。
 与力、同心の監督のもと、「三方問屋」と呼ばれる下田と西浦賀の廻船問屋百軒余が、昼夜を通して実務を担当しました。「入鉄砲に出女」を取り締まる海の関所としても重要なものでした。
 浦賀行政センター市民協働事業・浦賀探訪くらぶ

船番所跡

奉行所はもともと下田にあったが、享保5年(1720)に、浦賀に移転。江戸への出入りをチェックを強化。

船改めはの業務は浦賀奉行だけでは手が足りないために、廻船問屋も協力。下田から移転してきた下田問屋が63軒、西浦賀に22軒、東浦賀に20軒の合計105軒で船改めを実施していた。また船番所は、幕末に急増したは異国船への警備なども担っていた。

船番所のあとは、いまは陸軍桟橋とも呼称されている。

場所

https://goo.gl/maps/vQ64mnFng8GXfnZh7

浦賀の沖合に来航した黒船から、日本の近代が幕を開けた。

※撮影:2022年7月及び8月


関連

渋沢栄一ゆかりの「川間ドック」(浦賀)

「浦賀ドック」から南に足を伸ばすと「川間ドック」があった。
せっかくなので、川間ドック跡にも足を運んでみよう。


渋沢栄一と川間ドック

浦賀ドックは榎本武揚、そして川間ドックは渋沢栄一が設立に関与していた。

川間ドック
 ㈱東京石川島造船所が、大型船の建造修理のため、当時、取締役会長であった渋沢栄一の提案により、明治28年(1895)10月に浦賀分工場として建設に着手し、同31年に営業を開始しました。
 同35年には浦賀船渠㈱に買収され、以後、同社の川間分工場になりました。
 現在は、レンガ造りのドックを残すのみで、そのレンガは、当時、浦賀で焼かれたものです。
 浦賀行政センター市民協働事業・浦賀探訪くらぶ

浦賀ドックと川間ドック
浦賀の軍艦建造で功績のあった浦賀奉行所の与力・中島三郎助招魂碑の除幕式に参列した荒井郁之助が中心となり、榎本武揚・塚原周造も賛同し中島三郎助の業績を称えて浦賀にドックを建設することを決定。

明治30年(1897年)、かつての浦賀造船所と同じ場所に「浦賀船渠株式会社」が設立された。(浦賀船渠の浦賀ドックの竣工は明治32年)
明治31年には 東京石川島造船所浦賀分工場(川間ドック)が、渋沢栄一によって開業し、浦賀での造船競争が活発化。
最終的には、明治35年(1902)に、浦賀船渠が石川島の浦賀分工場(川間ドック)を買収し、浦賀船渠川間分工場となっている。

榎本武揚・渋沢栄一と浦賀ドック
日本で最初の洋式軍艦・鳳凰丸の建造に貢献した中島三郎助の招魂碑の除幕式の列席メンバーによって「浦賀ドック」は創設され、この中心人物が榎本武揚であった。時を同じくして、西浦賀の川間の地に同様に造船所を創ったのは明治期の大実業家渋沢栄一であった。
 浦賀国際文化村推進協議会

明治28年(1895年)
渋沢栄一率いる㈱東京石川島造船所が、浦賀ドックにほど近い川間でドック建設に着手
明治28年に、渋沢栄一率いる㈱東京石川島造船所(現在の㈱IHI)は、浦賀ドックにほど近い川間でドライドック建設に着手し、明治31年に営業を開始した。明治32年には、浦賀船渠㈱により、浦賀1号ドライドックが竣工し、浦賀には、同時期に2つのドライドックが稼働することになった。後に、浦賀船渠㈱が川間のドライドックを買収・合併することとなった。

※浦賀ドック跡地の壁面に

歴史の小話
明治28年3月8日付の「国民新聞」には、浦賀に計画された2つの造船所について書かれている。「榎本武揚ら武士が発起人となって、西浦賀に設立しようとする船渠は、政府内部の許可は早くとれたのに、地元の地主との交渉が難航して、未だ工事に着工できない」一方、「渋沢栄一ら町人一派が東浦賀に計画している船渠は、すでに地主との間に売買の契約が整い、一坪3円ずつお手付け金も渡してあるが砲台に近いという理由で、陸軍省からクレームがあり、これまた設立に至らず。」どちらが先に問題を解決して、造船所の建設を進められるのか。浦賀の人々を自陣に取り込もうと、榎本ら武士と渋沢ら町人が、両者一歩も引かぬにらみ合いが行われていたようだ。

※浦賀ドック「レンガドック活用センター」より


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M46-A-7-2-163
1946年2月15日、米軍撮影の航空写真。

川間ドックのすぐ南は「千代ケ崎砲台」であった。

川間ドック周辺。

現在はヨットハーバー

場所

https://goo.gl/maps/qnha8Rzr5zvQx87G8


川間ドック跡

東京石川島造船所浦賀分工場跡
浦賀船渠川間分工場跡
住友重機械工業川間工場跡

ヨットハーバーの駐車場から見学ができる。
もとはドライドックであったが、ゲートが撤去されているために、現在は海水をためている状況。

渠頭側

上から。

※撮影:2022年8月


関連

「駆逐艦のふるさと」浦賀ドック跡地(浦賀船渠第1号ドック)

横須賀の浦賀。ここに幾多の駆逐艦を生み出した造船所があった。
「浦賀船渠」
「西の藤永田、東の浦賀」と称された、大日本帝国海軍駆逐艦のふるさとである「浦賀船渠」跡地を散策してみた。

西の藤永田造船所のレポートは以下にて。

「浦賀ドック」は、横須賀市浦賀地区にあった造船所。
2003年に「浦賀ドック」は閉鎖され、2021年に住友重機械工業から横須賀市に無償寄付された。


浦賀造船所

嘉永6年(1853年)、ペリー来航を期に、江戸幕府は「大船建造の禁」を解禁し、大型船の建造を開始。「浦賀造船所」を設置。

安政元年(1854年)、「浦賀造船所」にて、国産初の洋式軍艦「鳳凰丸」が建造される。これは、浦賀奉行所与力の「中島三郎助」の尽力による。

中島三郎助と鳳凰丸
ペリー来航により、幕府は軍艦の必要性を強く感じ、浦賀奉行所の与力・中島三郎助らに軍艦建造を命じた。安政元年(1854)5月、日本で最初の洋式軍艦鳳凰丸は浦賀の地で誕生した。
 浦賀国際文化村推進協議会

安政6年(1859)には、日本初のドライドックが完成。アメリカに向かう咸臨丸の整備も浦賀で行われ、咸臨丸は浦賀から出港している。

慶応元年(1865)、江戸幕府の勘定奉行であった小栗忠順の進言により、フランスの技師ヴァルニーによって「横須賀製鉄所」が開設。造船所としての拡張も行われ、江戸幕府が瓦解したのちの明治4年(1871)に「横須賀造船所」(横須賀海軍工廠)となり、艦艇建造は浦賀から横須賀に移り、「浦賀造船所」は明治9年(1876)に閉鎖となった。

戦前の浦賀船渠

浦賀造船所の基礎を築いた中島三郎助は、戊辰戦争に際して、榎本武揚らと行動をともにし、函館政権(蝦夷共和国)下では、箱館奉行並、砲兵頭並として要職を務め、箱館戦争では、本陣前衛の千代ヶ岱陣屋の陣屋隊長として奮戦。五稜郭への撤退及び新政府への降伏も拒絶し、本陣五稜郭降伏の2日前に、中島三郎助は長男次男とともに戦死している。

明治24年(1891年)、中島三郎助の23回忌にあたり、三郎助を慕う地元の人々によって、愛宕山公園に中島三郎助招魂碑が建てられた。

中島三郎助招魂碑の除幕式に参列した荒井郁之助が中心となり、榎本武揚・塚原周造も賛同し中島三郎助の業績を称えて浦賀にドックを建設することを決定。
明治30年(1897年)、かつての浦賀造船所と同じ場所に「浦賀船渠株式会社」が設立された。(浦賀船渠の浦賀ドックの竣工は明治32年)
明治31年には 東京石川島造船所浦賀分工場(川間ドック)が、渋沢栄一によって開業し、浦賀での造船競争が活発化。
最終的には、明治35年(1902)に、浦賀船渠が石川島の浦賀分工場(川間ドック)を買収し、浦賀船渠川間分工場となっている。

榎本武揚・渋沢栄一と浦賀ドック
日本で最初の洋式軍艦・鳳凰丸の建造に貢献した中島三郎助の招魂碑の除幕式の列席メンバーによって「浦賀ドック」は創設され、この中心人物が榎本武揚であった。時を同じくして、西浦賀の川間の地に同様に造船所を創ったのは明治期の大実業家渋沢栄一であった。
 浦賀国際文化村推進協議会

浦賀船渠は、日露戦争に際して、横須賀海工廠から艦載水雷艇の受注を受けたことから、軍艦製造を開始。
明治40年(1907年)に、浦賀船渠は初めて駆逐艦を建造。最初の建造は駆逐艦「長月」であった。
大阪の藤永田造船所と共に駆逐艦建造の名門となり、「西の藤永田、東の浦賀」として、多くの艦艇を生産した。
海軍軍艦として建造実績は、軽巡洋艦 2隻、駆逐艦 44隻、海防艦 11隻+2隻未完、であった。
また、大正13年(1924)には、青函連絡船の原点となった、国内初の旅客兼車両渡船(鉄道連絡船)として青函連絡船「翔鳳丸」を竣工させ、その後の多くの青函連絡船も浦賀での建造となった。

浦賀船渠で造られた艦艇

軽巡洋艦
  五十鈴(長良型2番艦)
  阿武隈(長良型6番艦)
敷設艦
  厳島(2代目)
駆逐艦
 神風型駆逐艦 (初代、昭和5年全艦退役)
  長月、菊月
 樺型駆逐艦(昭和7年全艦退役)
  桐
以下は太平洋戦争に参加世代の艦艇
 樅型駆逐艦
  柿、萩、菱、蓮
 若竹型駆逐艦
  早苗、早蕨
 神風型駆逐艦 (2代目)
  追風(2代目)
 睦月型
  弥生(2代目)、水無月(2代目)、望月
 吹雪型
  深雪、磯波(2代目)、狭霧、潮(2代目)、雷(2代目)
 初春型
  子日(2代目)、初霜(2代目)
 白露型
  時雨(2代目)、五月雨(2代目)、山風(2代目)、涼風
 朝潮型
  霞(2代目)
 陽炎型
  不知火(2代目)、早潮、時津風(2代目)、浜風(2代目)、萩風、秋雲
 夕雲型
  風雲、高波、涼波、岸波、清波、清霜
 秋月型
  宵月
官公庁船
 関門連絡船:長水丸、豊山丸
 青函連絡船:飛鸞丸
 青函連絡船・戦時標準船:第三青函丸
 青函連絡船・W型戦時標準船:第四青函丸、第五〜第十青函丸
民間船
 貨物船:葛城丸
 貨客船:白山丸

戦後の浦賀船渠

戦後も浦賀船渠では海上自衛隊向けの艦艇の建造や、米空母ミッドウェイの大規模改修、日本丸建造なども行われた。
昭和44年に住友機械工業と合併し、「住友重機械工業浦賀造船所」となり、追浜造船所(現横須賀造船所)も開設。工場集約に伴い浦賀地区は平成15年(2003)に閉鎖され資材置き場となる。
2007年(平成19年)11月30日、浦賀船渠の第1号ドック、ポンプ施設、ドックサイドクレーンが近代化産業遺産に認定。
2021年(令和3年)3月に、浦賀ドックとその周辺部が、住友重機械工業から横須賀市に無償で寄付され、現在に至る。

昭和52年 市制施行70周年期記念  
横須賀風物百選
浦賀造船所
 浦賀湾を囲むこの施設は、住友重機械工場株式会社追浜造船所浦賀工場です。
 創業以来、浦賀船渠株式会社、浦賀重工業株式会社、更には現在の社名と変わりましたが、広く「浦賀ドック」の愛称で呼ばれてきました。
 この造船所は、明治29年(1896)、当時農商務大臣であった榎本武揚などの提唱により、陸軍要さい砲兵幹部練習所の敷地及び民有地を取得して設立準備を進め翌年、明治30年(1897)6月21日の会社設立登記をもって発足したものです。資本金は100万円でした。
 そのころの日本は、日清戦争などの影響もあって、外国から多くの艦船を買い入れ、世界的な海運国に発展しようとしていました。一方造船界は、技術面や設備面で大きく立ち遅れていました。その遅れを取り戻すため、外国人技師を雇い入れて国内各地に次々と造船所を造っていきました。この造船所もその なかの一つで、ドイツ人技師ボーケルを月給約150円で雇いドックを築きました。
 明治35年(1902)10月15日、フィリピンの沿岸警備用砲艦ロンブロン号(350排水トン)を進水させました。創業以来手がけてきた船は、いずれも 国内の企業から受注した工事用運搬船のたぐいばかりでしたが、14隻目に初めて外国から受注した本格派の艦船を世に送り出しました。
 この浦賀造船所で建造した艦船は、戦前・戦後を通じ約千隻にのぼります。現在もなお技術革新の旗手として、新しい船を造り続け、造船の浦賀の象徴として、今もな地元市民に基盤を置いています。


「浦賀ドック」ツアー見学

現在、限定公開されている浦賀ドックの見学会に参加してきました。

NPO邦人よこすかシティガイド協会

http://yokosuka.kankoh-guide.com/uraga-dokku-hp/uraga-dokku-guide.html

令和3年3月に住友重機械工業株式会社から横須賀市に寄附された浦賀レンガドックは、明治32年(1899年)に建造されてから平成15年(2003年)に閉鎖されるまで1,000隻以上の船の製造や修理を行ってきた歴史のある造船所。
レンガ造りのドライドックとしては日本では浦賀にしか現存していない貴重な施設となっている。

入口。ツアーに申し込みしないと入れない。。。

レンガ片


浦賀船渠「ドックサイドクレーン」(ジブクレーン)

昭和20年6月と銘記のあるドックサイドクレーン。
現存する唯一のクレーン。

浦賀船渠
昭和20年6月

ジブクレーンは、一本の支柱で腕(ジブ)を支えるクレーン。


浦賀船渠「ドライドック側面」(乾ドック)

世界に4箇所(5個)しか現存していないレンガ積みのドライドックのひとつ。
長さは約180m、幅は約20m、深さ約11m。レンガ使用数は約215万個、積み方はフランドル積(フランス積)


浦賀船渠「ポンプ所」

ドライドック(乾ドック)では、ポンプが必須。壁のレンガは、レンガドックと同じ年に完成した、貴重な遺構。

浦賀湾の奥を望む。この護岸も往時からのもの。


浦賀船渠「浦賀ドック船尾側(フラップゲート側)」

海水をせき止めるのが、フラップゲート。自重で海面側に倒れるようになっているという。

船尾側(海側)から浦賀ドックを一望する。

船とドックのセンターを合わせる水平装置。船尾側。

ゲートを開閉する装置。

このあたりはタワークレーンの跡。


浦賀船渠「ボラード」

岸壁の杭。係留用だったり進入防止用だったり。


浦賀船渠「ドック底部」

いよいよ下に降ります。

盤木。船を固定するための土台。
現在の盤木は、2002年に浦賀ドックに最後に入渠した「しらはま丸」のもの。盤木は船の設計図にあわせて、都度作成していた。

フランス積みの煉瓦

船首方向

浦賀ドックを拡張した昭和35年7月の銘板。

見えなかったが、竣工当時の銘板もあるらしい。

これはワクワクする空間ですね。


レンガドック活用センター

浦賀ドックに関する資料が集められた建屋を見学。

浦賀船渠株式会社
浦賀工場

浦賀と浦賀レンガドックの歴史
(住友重機械工業浦賀工場第1号ドック)

享保5年(1720年)
浦賀奉行所の開設

嘉永6年(1853年)
浦賀沖にペリー来航、久里浜に上陸

慶応元年(1865年)
横須賀製鉄所の起工
幕末に開国した日本は、欧米諸国に追いつくため、現在の米海軍横須賀基地と京急線汐入駅周辺の場所に、日本で初めて石造りのドライドックを備える横須賀製鉄所(後の横須賀造船所)を建設した。蒸気機関を動力として、造船に必要な部品生産から組み立て、メンテナンスまでを一貫して行い、技術者育成機関も備える大工場だった。伴って、蒸気機関に欠かせない水道や物流に欠かせない鉄道など都市基盤の整備もいち早く進み、横須賀は最先端技術が集まる造船の町へと変容していった。

明治28年(1895年)
渋沢栄一率いる㈱東京石川島造船所が、浦賀ドックにほど近い川間でドック建設に着手
明治28年に、渋沢栄一率いる㈱東京石川島造船所(現在の㈱IHI)は、浦賀ドックにほど近い川間でドライドック建設に着手し、明治31年に営業を開始した。明治32年には、浦賀船渠㈱により、浦賀1号ドライドックが竣工し、浦賀には、同時期に2つのドライドックが稼働することになった。後に、浦賀船渠㈱が川間のドライドックを買収・合併することとなった。

歴史の小話
明治28年3月8日付の「国民新聞」には、浦賀に計画された2つの造船所について書かれている。「榎本武揚ら武士が発起人となって、西浦賀に設立しようとする船渠は、政府内部の許可は早くとれたのに、地元の地主との交渉が難航して、未だ工事に着工できない」一方、「渋沢栄一ら町人一派が東浦賀に計画している船渠は、すでに地主との間に売買の契約が整い、一坪3円ずつお手付け金も渡してあるが砲台に近いという理由で、陸軍省からクレームがあり、これまた設立に至らず。」どちらが先に問題を解決して、造船所の建設を進められるのか。浦賀の人々を自陣に取り込もうと、榎本ら武士と渋沢ら町人が、両者一歩も引かぬにらみ合いが行われていたようだ。

明治32年(1899年)
浦賀1号ドライドック(浦賀ドック)の竣工
明治30年に、農商務大臣であった榎本武揚らの提唱により、浦賀船渠㈱が設立された。浦賀1号ドライドックの工事着手に先立ち、オランダの技師デレーケに設計を委嘱、元横須賀造船所技師の古川庄八の協力などにより設計と整備が進められた。明治30年に本工事に着手し、最終的には、横須賀造船所のドライドック建造に関わった経験を持つ杉浦栄次郎が、浦賀ドック㈱の主任技師に赴任し、紆余曲折を経て完成した。

平成15年(2003年)
住友重機械工業裏が工場の閉鎖
浦賀1号ドライドック(現在の浦賀レンガドック)で最後の修繕した船は”しらはら丸”。
惜しまれつつ閉鎖した後、令和3年に、浦賀1号ドライドック(現在の浦賀レンガドック)と周辺部が住友重機械工業㈱から横須賀市に寄付され、現在に至る。

場所

https://goo.gl/maps/LFqbbg3TVQ4HZWH86


浦賀船渠「浦賀ドック渠頭側」

渠頭側からドックを一望する。

船とドックのセンターを合わせる水平装置。渠頭側。

敷地内の見学は、以上。
レンガ積みのドライドック。これは、ぜひとも、見学すべき貴重な空間。

次は、浦賀コミュニティセンター分館(郷土資料館)に向かいます。


浦賀船渠「浦賀ドック煉瓦壁」

道すがら。
外壁の一部も往時からのもの。

内側から


浦賀コミュニティセンター分館(浦賀郷土資料館)

浦賀奉行所を模した入口。

浦賀屯営碑
旧浦賀ドック構内の非公開エリアにある、浦賀屯営碑の説明。
明治9年9月1日から浦賀に「浦賀水平屯集所」が設立。以後、水兵練習所・浦賀屯営・横須賀海兵隊と名前を変えつつ水兵養成機関があった。

場所

https://goo.gl/maps/AJo4HEZkbRR1JqCr8


浦賀ドックの最後の建造「護衛艦たかなみ」

2003年(平成15年)3月12日、浦賀ドック(住友重機械工業浦賀艦船工場)で最後の建造となったのが護衛艦「たかなみ」。
「たかなみ」竣工後の3月31日に、浦賀工場は閉鎖した。

護衛艦「たかなみ」

2017年に撮影していた「たかなみ」の姿。


陸軍用地境界石

浦賀コミュニティセンター分館(浦賀郷土資料館)に保存されている陸軍用地の境界石。


浦賀ドック跡

浦賀駅前周辺。

屯営跡の碑
築地新町と言われたこの地に、水兵の基礎教育機関として、1875年(明治8年)、「浦賀水平屯集所」が設置されました。
 その後「東海水兵分営」、明治15年には「水兵練習所」、明治18年に「浦賀屯営」と改称し、数多くの水兵を送り出しました。
 その事績を残すため、昭和9年に「屯営跡の碑」が建てられました。
 この碑の石は、日露戦争のとき、旅順口の封鎖のために沈没させた弥彦丸に使用したものが使われていました。
 浦賀行政センター市民協働事業・浦賀探訪くらぶ

参考

https://www.city.yokosuka.kanagawa.jp/2752/uraga_walk/higasi2.html

敷地の外から浦賀ドックを。

※撮影:2022年7月及び8月


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M46-A-7-2-143
1946年2月15日、米軍撮影の航空写真。

浦賀ドック周辺

現在の様子

浦賀ドック

現在の様子


2016年の浦賀ドック

2016年に浦賀に訪れていたときに何気なく撮影をしていました。
今思えば、もっと撮影をしておくべきでした。。。

昭和18年建造のハンマーヘッドクレーンの姿も撮影していました。
撤去解体済み。

「ドックサイドクレーン」(ジブクレーン)も写真を撮っていました。

※撮影:この箇所のみ2016年4月


関連

浦賀ドックのきっかけとなった「中島三郎助招魂碑」と横須賀最古の公園「浦賀園」(愛宕山公園)

「浦賀ドック」の浦賀船渠が創立したきっかけが、浦賀奉行所の与力であった中島三郎助。その慰霊碑がある愛宕山に行ってみる。


愛宕山公園

横須賀で一番古い公園という。

愛宕山公園
 明治24年(1891)に開園したしないで一番古い公園で、「浦賀園」と呼ばれていました。
 浦賀奉行所与力・中島三郎助の招魂碑が建立され篆額の題字は榎本武揚によって書かれました。開園に出席した人たちの提唱よって浦賀船渠㈱が創設された話は有名です。
 咸臨丸出航の碑には乗組員全員の名が刻まれています。
 与謝野鉄幹・晶子の歌碑は、浦賀を訪れた時に詠んだものです。
 江戸時代には鐘撞堂があり、町中に時刻を知らせていました。
  浦賀行政センター市民協働事業・浦賀探訪くらぶ

浦賀園の入口。

えーっと。道がない。
夏場に来ては駄目なところでした。

強行突破しました。。。

夏以外に訪れることをおすすめします。。。

ヤブを抜けた先の開けた場所に記念碑がありました。


咸臨丸出航の碑

市制施行70周年記念
横須賀風物百選
咸臨丸出航の碑
 嘉永6年(1853)6月3日、米国水師提督ペリーが、黒船四隻を率いて、浦賀湾沖に現れました。我が国との貿易を進めることが目的でした。当時、我が国は、長崎を外国への門戸としておりました。それが、江戸近くに現れたから大変です。「泰平の眠りをさます上喜撰たった四はいで夜も寝られず」当時流行した狂歌が、世情の一端をよく物語っています。
 7年後の安政7年(1860)幕府は、日米修好通商条約批准書交換のため、米軍艦ポーハタン号で新見豊前守正興を代表とする、使節団をワシントンへ送ることにしました。幕府は万が一の事故に備えて、軍艦奉行・木村攝津守喜毅を指揮者に、勝麟太郎以下、九十有余名の、日本人乗組員で、運航する、咸臨丸を従わせることにしました。
 1月13日、日本人の力で、初めて太平洋横断の壮途につくため、咸臨丸は品川沖で錨を上げました。途中、横浜で難破した、米測量船クーパー号の選任11名を乗せ、16日夕刻、浦賀に入港しました。それから2日間、食糧や燃料その他の航海準備作業が行われました。意気天をつく若者たちを乗せた、咸臨丸は、1月19日午後3時30分、浦賀港を出帆しました。不安に満ちた初めての経験と、荒天の中を39日間かけて、咸臨丸は無事サンフランシスコに入港しました。米国での大任を果した咸臨丸が、故国の浦賀に帰港したのは、家々の空高く鯉のぼりの舞う、万延元年(1860)5月5日でした。
 この碑は、日米修好通商百年記念行事の一環として、咸臨丸・太平洋横断の壮挙を永く後世に伝えるため、サンフランシスコに建てられた「咸臨丸入港の碑」と向い合うように、ゆかりの深い、この地に建てられたものです。
 なお、この愛宕山公園は、明治26年開園で、市内最古の公園です。また、彼方に建つ、招魂碑の主・中島三郎助は、咸臨丸修理の任にあたったことがあります。

咸臨丸出航の碑

日米修好通商百年を記念して昭和三十五年に建立。
碑は船型、材質は花崗岩。

裏面には乗組員の名が刻まれている。
軍艦奉行 木村摂津守喜毅
教授方頭取 勝麟太郎
通弁役 中浜万次郎
奉行従者 福沢諭吉、ほか


愛宕山公園

広場にたどり着くも、とにかく草がひどい。
何度も記載するが、夏はやめときましょう。


中島三郎助の招魂碑

横須賀市指定 市民文化資産
中島三郎助招魂碑
明治24年、彼を追慕する浦賀の有志によって建てられたもので、篆額は、当時の外務大臣・榎本武揚の筆である。愛宕山公園は、この碑の建立の際に整備された。

榎本武揚の篆額

中島君招魂碑

浦賀コミュニティセンター分館(浦賀郷土資料館)に拓本がある。

浦賀奉行所与力
中島三郎助生誕200年祭
令和3年(2021年)1月25日
中島三郎助と遊ぶ会

中島三郎助の生涯
 中島三郎助は、幕臣であることを貫き通して49年の生涯を終えた。その中島が見習うべき人物としたのは、鎌倉時代に源頼朝に生涯を捧げた三浦大介義明であった。
 文政4年(1821年)21月25日に浦賀で生まれ、三郎助で8代目となる奉行所の与力の家系であった。

  天保6年(1835年)閏7月、15才で奉行所の与力見習いとして出仕した。見習いに出仕するまでに槍術・剣術ともに当時砲術三派であった田付流・荻野流・集最流をすでに学んでおり、後に西洋式の高島流まで含めてすんべて免許皆伝となっている。
 この砲術の腕前は、天保8年(1837年)6月に浦賀沖に来航したアメリカ商船・モリソン号に観音崎台場から砲撃を加え、打払っている。この時の功績で、浦賀奉行・大田資統から太刀を拝領した。
 また、この年岡田定十郎の娘・すず(15才)と結婚している。

 嘉永2年(1849年)6月、父の跡を継ぎ与力となった。翌年7月には館浦にあった「玉薬製造所」の責任者を勤めていたが、足軽役の者の過失から製造所と隣接の船蔵が焼失す、その責任から謹慎処分を受けた。

 嘉永6年(1853年)6月、アメリカ東インド艦隊のペリーが率いる2隻の蒸気軍艦と2隻の帆走軍艦が来航すると、応接掛として最初に黒船に乗り込み交渉した。もっとも中島の関心は最新鋭の蒸気軍艦には装備されていると思われる炸裂弾を発射できる大砲を検分することにあった。
 ペリー来航後、幕府に提出した上申書には、今は海外諸国の知見を養うことが大事であると述べており、力の差を見せつけられた中島ならではの提言であろう。

 幕府も軍艦の必要性を実感し、浦賀奉行所へ軍艦建造を申し付けた。この軍艦・鳳凰丸は日本人の手による最初の洋式軍艦であり、その中心人物となったのが三郎助であった。しかも9ヶ月というスピードで翌年5月に完成させている。
 こうした三郎助の活躍は広く知れ渡り、長州藩の桂小五郎(後の木戸孝允)が三郎助のところに弟子入りしている。三郎助は幕府が長崎に開いた海軍伝習所へ派遣され、オランダ人から造船や洋式砲台の建設などを習得した。

 安政5年(1858年)長崎から戻った三郎助は、幕府海軍の草創期に活躍し、多くの後輩を指導している。
 また和歌や俳句を通じて、浦賀周辺の人々とも交流をもっていた。
 戊辰戦争が始まると榎本武揚らとともに北海道にわたり、ここに新しい国(中島のなかでは新徳川幕府)づくりに親子で参加したが、新政府軍の攻撃を受け、函館五稜郭近くで1869年5月15日桓太郎・英次郎ともに戦死した。
 
 明治23年(1890年)5月、名誉が回復され、浦賀の人々の手によって「招魂碑」が建てられた。その除幕式で中島の意思を継ぐ造船所の建設が提案されて、浦賀船渠が発足した。

中島三郎助
 明治2年(1869)5月、旧幕府軍と新政府軍の最後の戦いが函館郊外の五稜郭近くで行われた。この戦いで浦賀奉行所与力・中島三郎助親子は戦死した。三郎助の二十三回忌にあたり、彼の功績と名誉を浦賀の町に末永く残すことを目的に、彼とともに激動の明治維新期を生きた友人、知人たちによって建てられたのが真向かいにある中島三郎助招魂碑である。碑の篆額(題辞)は三郎助と公私ともに親交があり五稜郭で共に戦った榎本武揚が記し、激動の時代を象徴するような彼の人生を表したのは当時の外務官僚の田辺太一である。また、この碑の除幕式の日、初代の中央気象台長であった荒井郁之助の発案で、三郎助の意思を継いだ近代造船所を浦賀の地で開業することが決定した。

招魂碑建碑由来碑

同じく、浦賀コミュニティセンター分館(浦賀郷土資料館)に拓本がある。

浦賀コミュニティセンター分館(浦賀郷土資料館)

浦賀ドックや浦賀の歴史を、調べようとすると、この中島三郎助にたどりつく。いままで知るよしもなかったことをこうして新たに知れるのが楽しい。


与謝野夫妻歌碑

良さの夫妻の歌碑もあった。

黒船を怖れし世などなきごとし 
 浦賀に見るはすべて黒船
               寛
春寒し造船所こそ悲しけれ 
 浦賀の町に黒き鞘懸く
               晶子

昭和10年3月3日に与謝野夫妻が観音崎・浦賀・久里浜を訪れている。与謝野寛は同年3月26日に亡くなっているため、生涯最後の歌のひとつといわれている。

愛宕山から海を望む。
夏はやめといたほうが良いですね。(大事なことなので何度も書きます)


関連

https://www.city.yokosuka.kanagawa.jp/2752/uraga_walk/nisi7.html

https://www.city.yokosuka.kanagawa.jp/2120/g_info/l100004024.html

https://www.city.yokosuka.kanagawa.jp/2120/g_info/l100004001.html

https://routemuseum.jp/theme/g05/

https://www.city.yokosuka.kanagawa.jp/2752/tokubetuten/4.html

記念碑の台座となった「旅順口閉塞船弥彦丸の閉塞石」(久里浜・若宮神社)

久里浜の神社に、日露戦争の旅順港閉塞船に積まれていた石が使用されているというので、足を運んでみた。


旅順口閉塞船弥彦丸の閉塞石

昭和10年の「久比里ノ若宮神社」の社殿改築を記念して建立された石碑。

この記念碑の台座は、日露戦争の旅順閉塞隊に参加した弥彦丸に積まれていた花崗岩。
日露戦争後に、旅順港口を復旧させるために、閉塞船として擱座していた弥彦丸を旅順港口から撤去し、浦賀船渠の川間分工場で解体した際、その船底から取り出したものという。

この台石は浦賀工場の寄贈にして日露戰役の際 旅順口閉塞船弥彦丸に使用せしものなり


第二次旅順港口閉塞作戦

旅順港に立てこもったロシア艦隊を壊滅できない日本海軍の連合艦隊は、旅順港の入口を封じてしまう「旅順港口閉塞作戦」を決行。三次にわたり海上を封鎖する閉塞作戦が行われたが、充分な封鎖はできなかった。

第二次旅順港口閉塞作戦は明治37年(1904年)3月27日未明に決行された。4隻の閉塞船(千代丸、福井丸、弥彦丸、米山丸)を投入して実行されたが、ロシア軍に察知されて失敗。閉塞船「福井丸」を指揮した広瀬武夫少佐(のち中佐に特進)が戦死し、のちに軍神となった。
また、杉野孫七上等兵曹(没後、兵曹長)の他、「朝日」乗組の菅波正次2等信号兵曹(没後、1等信号兵曹)、「高千穂」乗組の小池幸三郎2等機関兵(没後、1等機関兵)も戦死している。


若宮神社

久比里地区の氏神様。西叶神社が本務社。

1531年(享録4年)、千葉介常胤の末流にあたる臼井惣左衛門が鎌倉の鶴岡若宮明神を奉戴して建立した。
祭神は仁徳天皇。
1983年(昭和58年)社殿は焼失し、1985年(昭和60年)新築されている。社殿の左側に、古い鳥居の一部や額が保存されている。
境内にある石碑には神社の縁起について書かれており、その台座は日露戦争の際、旅順口閉塞船の弥彦丸に使用されたとされる。
例年7月には「例大祭」がおこなわれる。

https://kurihama.info/jisya/wakamiyajinja/

享禄4年(1531)の建立で、御祭神は仁徳天皇です。
鎌倉の鶴岡若宮明神を奉戴して氏神とする久比里の鎮守様です。
神社の縁起を記した謹誌の基壇には、日露戦争で旅順口閉塞船の弥彦丸に積まれた石が使われています。
ここの祭礼は「久比里の下駄まつり」と呼ばれ、かつては勝海舟が書いた大幟が上がりました。

https://www.city.yokosuka.kanagawa.jp/2752/uraga_walk/yosii9.html

社号標。
揮毫は、海軍大将・小栗孝三郎。黎明期の潜水艇研究の第一人者。

撮影:2022年7月


写真の撮り忘れがありましたので、2022年11月に再訪しました。。。

28糎砲弾

久比里の若宮神社の境内社、八雲神社の社殿横に鎮座。
日露戦争の勝利を記念して明治39年2月に氏子によって建立されたもの。

征露紀念

明治三十九年二月 氏子中

境内社の八雲神社


関連

海軍機雷学校跡・海軍潜水学校跡(久里浜)

千代ケ崎砲台の南側に、海軍の学校があった。
千代ヶ崎砲台を見学した後に、足を伸ばしてみました。

千代ヶ崎砲台はこちらにて。

「千代ヶ崎砲台跡」散策(横須賀)

海軍機雷学校

日露戦争の教訓を踏まえ、水雷学校の教育課程に機雷戦のカリキュラムを設定したことに始まる。
昭和16年3年に機雷戦専門の学校として「海軍機雷学校」が設立。所在地は、久里浜港の突端にあたる久里浜長瀬。

海軍対潜学校

昭和19年3月、海軍機雷学校は海軍対潜学校に改称。対戦戦闘を重視した措置であった。
昭和20年に本土決戦要員を捻出するために、術科学生は繰り上げ卒業となり、対潜学校は閉校。高等科教育は海軍水雷学校に編入となった。(海軍水雷学校久里浜分校)
繰り上げられた学生は、ほぼ特攻要員(伏龍)とされたようで。

海軍対潜学校の最後の校長は、キスカ撤退を指揮した木村昌福少将であった。

跡地は、横須賀刑務所、久里浜少年院、防衛装備庁艦艇装備研究所、港湾技術研究所などとなっている。

浦賀引揚援護局(浦賀検疫所)

終戦後、南方からの引揚に浦賀港が指定。
陸軍桟橋から引揚者が上陸していたが、引揚船内でコレラが発生したことから、対潜学校に検疫所が設けられている。
横須賀刑務所内には、引揚者の供養塔があるという。


海軍機雷学校 海軍対潜学校跡

跡地は刑務所や少年院、行政機関の敷地などになっており、立ち入ることができない。なにやら岸壁や沖合には構造物が残っているようでもあるが、大事なことなので2回書くが立入禁止なので。

海軍機雷学校 海軍対潜学校跡

碑の由来 
ここ横須賀市長瀬三丁目一帯には、次の海軍の学校がありました。
海軍機雷学校(昭和16年4月1日創設)
海軍対潜学校(昭和19年3月15日改称)
この学校では、機雷術(機雷・掃海・防潜網・爆雷など)、水中測的術(探信儀・聴音機・磁気探知機など)の教育が行われました。
終業して任地におもむいた若人は約2万7千人、そのうち約8千人の尊い生命が失われました。
この石碑はこのことを後世にのこすために建てたものです。 
 平成5年(1993年)4月1日 
  有志一同

ぱっと見は、記念碑しか残っていない。

場所

https://goo.gl/maps/arnEcR4YRp6uzyX38

※撮影:2022年7月


軽質油庫跡

上記の記事を書くために情報を整理していたときに、遺構として軽質油庫(軽質原油庫)が残っているとのことがわかったので、再訪をしました、、、

近くのケアセンターの駐車場として活用されていました。

とても綺麗な壕ですね。

海軍機雷学校 海軍対潜学校跡地

跡地は気楽に立ち入りできない施設が多い。

横須賀刑務所支所

防衛装備庁・艦艇装備研究所

久里浜少年院

港湾施設

※撮影:2022年11月


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M46-A-7-2-162
1946年2月15日、米軍撮影の航空写真。

海軍機雷学校(海軍対潜学校)の該当部分を拡大。
千代ヶ崎砲台のすぐ南であることがわかる。

現在の様子。

ちなみに、久里浜少年院の沖合に、謎の構造物がある。どうやら干潮時に燈明堂の海岸から見えるところまで、近づくことができるらしい。。。

構築物は海軍機雷学校(海軍対潜学校)の施設として使用されていたもので、当時は陸続きであったらしい。荷役施設として使用され、戦後は、引揚船内でコレラが発生したために、浦賀港で会場隔離が実施され、浦賀引揚援護局浦賀検疫所が久里浜の海軍対潜学校跡地に設けられ、検疫所としても活用された。


長瀬海岸

長瀬海岸から、海軍対潜学校と千代ヶ崎の岬を望む。
平作川の北側。

干潮時には下に降り、ちかくで見れるらしいが、この日は潮が満ちてまして。。。
フランス積みのレンガ片が転がっている。古い時代のレンガ。この界隈では、千代ヶ崎、観音崎、浦賀ドック、猿島などもフランス積み。

※撮影:2022年11月


関連

「陸軍桟橋」と「浦賀港引揚記念の碑」海外引揚者が第一歩を踏みしめた港(浦賀)

昭和20年8月15日の終戦を海外で迎えた邦人(日本人)は、軍人と民間人をあわせて約660万人以上に及んでいた。戦後、日本各地の引揚者指定港では、引揚者の受け入れを行い、中でも東京湾の入口に位置する浦賀港は、約56万人の受け入れを実施した。これは舞鶴港の約67万人に次ぐ規模であった。


海外引揚者

終戦当時、旧陸軍308万人、旧海軍45万、一般法人300万の約660万人が海外にいたという。
1945年9月2日のGHQ(連合国総司令官マッカーサー)による「日本政府宛一般命令第1号」にて、外地にいた日本人は、それぞれの軍管区の下に降伏することになり、軍人・軍属・一般人を含め、すべての日本人は各軍管区の支配下に置かれた。

  • 中国軍管区
     満州以外の中国全土、台湾など
      約312万人
  • ソ連軍管区
     満州、38度以北の朝鮮、樺太、千島列島
      約161万人
  • イギリスならびにオランダ軍管区
     インドシナ、インドネシア、マレーシアなど東南アジア
      約74万人
  • オーストラリア軍管区
     ボルネオ、ニューギニア、ビスマルク、ソロモンなど
      約14万人
  • アメリカ軍管区
     38度以南の朝鮮、沖縄、フィリピン、小笠原ほか太平洋諸島など
      約99万人

実際の引き揚げは、各軍管区ごとに実施された。
昭和20年12月1日に陸軍省は「第一復員省」に改組、海軍省は「第二復員省」に改組となり、軍人の復員を司った。昭和21年6月に廃止、「復員庁」に統合された。
復員庁は昭和22年10月に廃止となり、最終的には昭和23年の「厚生省引揚援護庁」(厚生省外局)に引き継がれた。軍人軍属は復員、一般人は引揚と呼称され、一般人は厚生省担当であったが、復員・引揚それぞれの概念的呼称も「復員援護」として統一され厚生省での管轄となった。
なお、陸軍の復員はソ連軍管区で抑留された軍人以外は昭和23年1月までにほぼ完了。海軍の復員は昭和22年末迄に概ね完了していた。
一般人の引揚を含めると昭和24年(1949年)までに624万人が帰還。昭和51年(1976年)までに約629万(軍人軍属311万人、一般318万人)が帰還している。


横須賀地方復員局

厚生省引揚援護庁の横須賀地方復員局が岩手県、宮城県、福島県、茨城県、千葉県、栃木県、群馬県、埼玉県、東京都、神奈川県、山梨県、静岡県、長野県の復員業務を担当。
現在も保存されている、「氷川丸」「宗谷」も横須賀地方復員局所管の復員船として活躍している。


浦賀引揚援護局(浦賀検疫所)

「浦賀引揚援護局」は昭和20年(1945年)11月~昭和22年(1947年)5月まで引揚者の援護や検疫業務を担当。昭和22年5月からは「引揚援護院横浜援護所」(昭和22年に引揚援護庁援護局横浜援護所に改称)が設置された。昭和30年7月11日に引揚所は廃止され、業務は「横浜検疫所」が引き継いでいる。

昭和21年3月29日に中国広東からの引揚船内でコレラが発生し蔓延したまま引揚船は浦賀港に4月5日に入港。海上隔離を実施。
浦賀引揚援護局では「コレラ防疫本部」を設置し、中国及びベトナムからやってくる引揚船の海上隔離を継続し20隻が海上隔離のために沖合停泊、隔離者が7万余人に到達。患者等の食糧、飲料水の確保・提供が窮迫するも、急ピッチで施設及び衛生資材等が整備し、同年5月4日には停留船隔離者が上陸可能となった。
浦賀港での汚染船は22隻にも及び、患者483人(うち死亡72人)、保菌者191人、疑似者345人であった。
浦賀引揚援護局浦賀検疫所は、旧海軍対潜学校の敷地を活用。

https://www.forth.go.jp/keneki/yokohama/museum/page2-5.html

なお、久里浜駅近くの「長安寺」には、浦賀引揚援護局引揚者精霊塔の慰霊碑が建立されている。引揚船コレラ病没者(身元不明者)を祀っている慰霊碑。

「浦賀引揚援護局引揚者精霊塔」

また、浦賀引揚援護局の下には、引揚者を援護するための援護所も設置された。

  • 久里浜援護所(海軍工作学校)
  • 鴨居援護所(浦賀船渠鴨居工員宿舎)
  • 馬堀援護所(陸軍重砲兵学校)

馬堀援護所(陸軍重砲兵学校)「行幸之地碑」


陸軍桟橋(西浦賀緑地)

陸軍桟橋の名称で歴史を伝えている桟橋。今は釣り人たちが集う場所となっている。

この海岸線は浦賀港の海の玄関口であり、歴史を語るうえで、重要なスポットである。
L字型の桟橋は、通称・陸軍桟橋と呼ばれ、昭和10年代に出来たものである。
太平洋戦争終結後、この桟橋に南方からの引揚者が何十万人上陸し、帰国の第一歩を印した思い出深い桟橋である。
また、この場所は、享保6年(1721)に浦賀奉行所の主要機関である船番所が置かれ、江戸へ出入りするすべての船の乗組員と荷物の検査が行われた船の関所であった。この検査は江戸経済の安定を図るために行われ、港町浦賀の繁栄にもつながった。
※この、港湾緑地は、国土交通省の環境整備事業により、整備したものであります。

関連

https://www.city.yokosuka.kanagawa.jp/5575/minato/amenity_kouen/nisiuraga/index.html

https://www.cocoyoko.net/spot/rikugunsanbashi.html


浦賀港引揚記念の碑

西浦賀みなと緑地公園内にある記念碑。

浦賀港引揚記念の碑
昭和20年(1945年)8月15日、太平洋戦争は終結。ポツダム宣言により海外の軍人、軍属及び一般邦人は日本に返還された。ここ浦賀港も引揚指定港として、中部太平洋や南方諸地域、中国大陸などから56万余人を受け入れた。引揚者は敗戦の失意のもと疲労困憊の極限にあり、栄養失調や疫病で倒れる者が続出した。ことに翌21年、華南方面からの引揚船内でコレラが発生。以後、続々と感染者を乗せた船が入港。このため、旧海軍対潜学校(久里浜長瀬)に設けられた浦賀検疫所に直接上陸、有史以来かってない大防疫が実施された。この間、祖国を目前にして多くの人々が船内や病院で亡くなる悲劇があった。昭和22年5月浦賀引揚援護局の閉鎖で、この地の引揚業務も幕を閉じる。私たちは再び繰り返してはならない戦争により悲惨な引揚の体験を後世に伝え、犠牲となられた方々の鎮魂と恒久の平和を祈念し、市制百周年にあたりここに記念碑を建立する。
 横須賀市

裏面に設立趣旨が記載されている。(裏面が見にくいのは、、、)

(裏面の設立趣旨)
ここ浦賀港は、先の大戦終結後、引揚指定港の一つとして極めて重要な責務を担いました。引揚とコレラ等の防疫に携わったすべての人々をねぎらい謝意を表するとともに、この地で倒れた幾多の御霊に弔意を表します。この碑は、引揚者や地元の方々の熱意により建立が実現したものであり、市制百周年を迎えるにあたり、当地の歴史を再認識し、恒久平和の願いを後世に伝えんとするものです。
 平成18年(2006年)10月 横須賀市長 蒲谷亮一

浦賀港。
外地からの引揚者が最初の一歩を踏みしめた祖国の大地。

関連

https://www.city.yokosuka.kanagawa.jp/2752/uraga_walk/hikiage.html


船番所跡

陸軍桟橋の前の駐車場の地が浦賀奉行所の出先機関であった番所が置かれていたところという。

関連

https://www.city.yokosuka.kanagawa.jp/2752/uraga_walk/nisi9.html


浦賀の渡し(浦賀渡船)

浦賀港の東西を往来する渡し船。ポンポン船の愛称で親しまれている。

もともとは、奉行所が浦賀に置かれてまもない享保10年(1725年)頃から始まる渡し船。
渡し船の愛宕丸は「御座船(ござぶね)」と呼ばれた東叶神社の祭礼の際に御輿を運んだ船をモチーフにしている。
浦賀港の東西を結ぶ海上航路は横須賀市道(2073号線)に認定されている。

関連

https://www.cocoyoko.net/spot/uraga-watashi.html

https://ponponsen.jp/


関東大震災の慰霊塔

現在、愛宕山公園(浦賀園、横須賀最古の公園)になっている愛宕山が、関東大震災によって土砂崩れを起こし、その時の土砂によって生き埋めになってしまった人々の慰霊塔。


叶神社

浦賀港の東西には叶神社が鎮座している。
東叶神社と西叶神社。宗教法人としては別法人なので、まとめて記載するのはしょうしょう乱暴ではあるが、今回は神社は社頭で遥拝するのみ。

西叶神社

東叶神社(後方が奥宮と浦賀城址)

撮影:2022年7月


叶神社の御朱印帳と御朱印

むかし、参拝していたときに御朱印を戴いてました。

以下は、平成28年(2016年)の写真です。ご注意を。

西叶神社、平成28年(2016年)

東叶神社、平成28年(2016年)

昔は、神社メインでした。海軍的なところはまだ深掘りできてなくて。
今思えば、浦賀ドックの写真をもっと撮っておくべきでした。

懐かしい気持ちにもなりつつ、浦賀港関連は、いったん〆