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「国士の模範」日露戦争特別任務に殉じた烈士・横川省三の史跡散策

「横川省三」という人物がすこし気になっていた。
歴史上、日露戦争の片隅で決して目立つ人物ではなく、徐々に忘れ去られそうになっている人物。
そんな時流のなかで、六本木麻布台エリアの再開発に伴い、彼の住居跡である「横川省三記念公園」という小さな公園が、大都会のビル群の下で消失していた。
ところが、2025年に、その「横川省三記念公園」が復活したと聞き、最新状況を知るべく散策をしてみた。

復活後の公園は、新たに枕詞に「我善坊」というなにやら厳めしい名称が付与され、「我善坊横川省三記念公園」となっていた。


横川省三

元治2年4月4日(1865年4月28日) – 明治37年(1904年)4月21日)
明治期の新聞記者。日露戦争時の軍事探偵(スパイ)。ロシア軍に捕縛され処刑された。
南部盛岡藩の出身。初名は「勇次」。
旧姓は「三田村」であったが、徴兵逃れの養子で「山田」姓に、結婚後に「横川」姓となっている。

1884年の加波山事件(栃木県令三島通庸等の暗殺未遂事件)で自由民権運動に関わり投獄。
1887年、保安条例施行により、皇居周辺三里から追放。
1889年、花巻の横川家に婿入りし、横川佳哉と結婚し、横川姓となる。
 ※花巻市東和町に「横川省三記念公園」がある。
1890年、朝日新聞の記者となり、妻子とともに上京。
郡司成忠の千島列島探検隊(1893年)の特派員となる。

https://senseki-kikou.net/?p=10795

1894年、日清戦争の従軍記者。
1897年、記者を辞め、サンフランシスコに渡米。邦字新聞となる『ジャパン・ヘラルド』(→「桑港日本新聞」→「日米新聞』)を創刊。

1901年(明治34)には勇治改め横川省三と改名。日露戦争に際して、北京公使館の内田康哉清国公使に招かれ中国に渡る。
青木宣純大佐率いる特別任務班のメンバーとなり、横川省三は特別任務班第六班班長として沖禎介とともに特殊工作に従事する。
1904年に、ロシア軍の東清鉄道爆破任務のためラマ僧に変装して満洲に潜伏。ロシア軍兵砧の大動脈である東清鉄道のチチハル雅児河鉄橋の爆破をくわだてるが、ツルチハ駅(隣駅)付近で発見され、横川省三は沖禎介とともにロシア軍に捕らえら、ハルビンに移送される。

裁判にかけられた際、検察官は絞首刑を求刑したが、横川は異議を唱え「どうか軍人に対する礼をもって、銃殺刑に処していただきたい」と嘆願。裁判長は、慎重な審議の末、二人を軍人として扱い、銃殺刑とすることを決めた。
銃殺刑の判決を聞いた二人は満足そうに笑みを浮かべ、裁判長と法務官に深々と一礼したという。

1904年(明治37年)4月21日、満洲ハルビン(哈爾浜・哈爾濱)にて。
銃殺刑の執行当日、死刑執行官は、射撃手に「射撃用意」と命じ、その後「愛をもって撃て」と付け加えた。尊敬すべき二人の日本人が苦しまないように、正しく心臓を狙えという指示であった。
二人は最期に「天皇陛下万歳」と叫び、横川省三は39歳の若さで刑場に露と消えた。
横川省三は、遺言で所持金をロシア赤十字社への寄付を申し出た。敵国の赤十字社に所持金全てを寄付するという前例のない行動は、ロシア人を驚嘆させ、感動させた。

なお、横川省三の銃殺刑のシーンは、映画「二百三高地」(昭和55年・東映)の冒頭でも描かれており、映画は、横川省三と沖禎介の両名が、銃殺刑で処刑されるシーンから始まる。

https://www.city.morioka.iwate.jp/kankou/kankou/1037106/1009526/1024995/1025018/1025110.html

https://shimoyonai.site/home/watashitatinomachishimoyonai/shimoyonainosyokai/yokokawasyozo


我善坊横川省三記念公園

2025年9月30日開園。六本木麻布台の再開発によって新設された公園。

「横川省三記念公園」
昭和12年(1937)12月、横川省三遺跡保存会により、横川省三邸宅跡地(麻布箪笥町24番地)を公園用地として東京市に寄付。
昭和13年(1938)11月、東京市営公園として開園。
昭和25年(1950)10月、東京市から移管され区立公園として開園。
昭和39年(1964)7月、首都高速整備事業により廃園。
昭和41年(1966)4月、麻布台1丁目4番6号に移設開園。
平成31年(2019)4月、麻布台地区再開発により廃園。
令和7年(2025)9月、麻布台1丁目4番12番にて移築開園。
移設開園時に公園名を「我善坊横山省三記念公園」と改称。

三度、場所を変えつつ、6年ぶりに移設開園した「横川省三記念公園」。

我善坊横川省三記念公園

公園名のインパクトがちょっと強い。
背景を知らなくても、なんとなく「横川省三」は人名と察することができとしても、「我善坊」って?なりそうな。

麻布我善坊町
町域に我善坊谷があるので谷の名前をとって我善坊町と名付けられました。我善坊谷の由来については、座禅をする僧侶がいたから、あるいは二代将軍徳川秀忠の夫人崇源院の火葬の際の龕前堂があったからなど諸説があります。

もともと、この地が「我善坊町」だったとのことで。

場所

https://maps.app.goo.gl/e3b5ckeEcNvAHoj47

以前の様子>日本1000公園

https://nippon1000parks.blogspot.com/2014/12/8631000.html

プレートのみではなく、この時の記念碑のまま、残してほしかった、、、が、逆にプレートだけでもきれいに残してくれたことに感謝すべきか。


横川省三記念公園の記念碑

我善坊横川省三記念公園には、旧横川省三記念公園時代に設けられた記念碑(記念プレート)が移設されている。
プレートのみなので、ちょっと味気ない。

横川省三記念公園
勲五等
横川省三
岩手県盛岡市出身
行年四十歳

同行国士
勲五等
沖禎介
長崎県平戸市出身
行年二十八歳

同行国士
勲六等 脇光三
 滋賀県彦根市出身 行年二十四歳
同 松崎保一
 宮崎県宮崎市出身 行年三十歳
同 中山直熊
 熊本県熊本市出身 行年二十四歳
同 田村一三
 宮崎県宮崎市出身 行年二十二歳
寄贈者 横川省三遺跡保存会世話人代表
 吉澤照英司・吉澤てる(故黒川茂隆長女)
平成三年九月吉日補修

脇光三、松崎保一、中山直熊、田村一三の4氏は、鉄橋爆破作戦の失敗で戦死している。

横川省三略傳
明治三十七八年戰役ニ特別任務ヲ帯ヒ
北満ノ野ニ壮烈ナル最後ヲ遂ケタル志
士横川省三君ハ南部盛岡ノ人ナリ歳甫
メテ十九東京ニ來リ自由黨ニ投シ後操
觚界ニ入リ雄健ノ筆ヲ以テ盛名ヲ謳ハ
レシカ明治三十年移民開拓ノ為北米ニ
航シ三十四年歸朝ス偶暗澹タル日露ノ
風雲ニ際會シ敵状探知ノ重命ヲ荷ヒテ
北京公使館嘱託トナリ日夜東奔西走ス
ル事三年時恰モ明治三十七年二月 大
詔下ルヤ輙チ擢テラレテ敵後方輸送路
遮断ノ命ヲ拜シ嫩江鐵橋爆破ニ赴キシ
ガ遂ニ敵兵ノ為ニ捕ヘラレ四月二十一
日同志沖禎介ト共ニ哈爾賓ニ於テ銃殺
セラル
君ハ性剛毅恬淡ニシテ機略アリ身軍籍
ニ非ルモ敵地深ク突入シテ國難ニ殉ス
其忠勇義烈真ニ國士ノ龜鑑タリ後年其
功ニヨリ勲五等ヲ授ケラレ特旨ヲ以テ
靖國神社ニ合祀セラル

<横川省三 略伝(現代語・意訳>
明治三十七・八年の役(日露戦争)において、特別な任務を帯び、北満州の野で壮絶な最期を遂げた志士、横川省三君は、南部盛岡(現在の岩手県盛岡市)の人である。
十九歳の時に上京して自由党に加わり、のちに文筆の世界(新聞記者)に入ると、力強い文章によってその名を世に広く知られるようになった。明治三十年には移民開拓のために北米へ渡り、同三十四年に帰国。ちょうど日露の関係が緊迫し、暗雲立ち込める時期にあたって、敵国の情勢を探知するという重大な使命を担うこととなった。北京公使館の嘱託として、日夜、東奔西走すること三年に及んだ。
時あたかも明治三十七年二月、宣戦布告の詔勅が下されるや、ただちに抜擢されて「敵の後方輸送路を遮断せよ」との命を受けた。嫩江(のんこう)鉄橋の爆破に向かったが、ついに敵兵に捕らえられ、四月二十一日、同志である沖禎介(おき ていすけ)と共にハルビンにおいて銃殺された。
君の人となりは、剛毅で執着がなく(さっぱりしており)、機略に富んでいた。軍籍に身を置いていたわけではないが、敵地の深くへ突入して国難に殉じたその忠勇義烈な振る舞いは、まさに「国士の模範」というべきものである。後年、その功績によって勲五等を授けられ、特別な計らい(特旨)によって靖国神社に合祀された。

此地ハ明治三十七八年戰役ニ際
シ特命ヲ帯ヒテ敵地深ク侵入シ
北満ノ野ニ於テ國難ニ殉シタル
志士横川省三氏カ寓居ノ遺阯ト
シテ知ラレタリシカ同氏ノ赫々
タル英名ヲ永ク追慕シ其ノ光輝
アル舊蹟ヲ後世ニ傳ヘンカ為ニ
地元横川省三遺跡保存會代表者
黒川茂隆氏ハ之ヲ本市公園用地
トシテ昭和十二年十二月附近ヲ
併セ百二十餘坪ノ地ヲ寄附セラ
レタリ本市ニ於テハ寄附者ノ厚
意ヲ享ケ英靈ヲ偲フ記念公園ト
ナシ諸施設ヲ完了シタルヲ以テ
茲ニ開園ニ臨ミ來歴ヲ敍シ以テ
地元ノ芳志ヲ銘記ス

<横川省三 遺址記念公園 開園の辞(現代語・意訳>
この地は、明治三十七・八年の役(日露戦争)に際して、特別な命令を帯びて敵地の深くへ侵入し、北満州の野において国難に殉じた志士、**横川省三氏がかつて住んでいた場所(寓居の遺址)**として知られています。
同氏の輝かしい勇名を末永く慕い、その光輝ある旧跡を後世に伝えるため、地元「横川省三遺跡保存会」の代表者である黒川茂隆氏は、ここを本市(当時の東京市、現在の東京都など)の公園用地とするべく、昭和十二年十二月、付近の土地と合わせて百二十余坪を寄附されました。
本市においては、寄附者の厚意を受け、英霊を偲ぶための記念公園として諸施設の整備を完了いたしました。ここに開園を迎えるにあたり、その来歴を記し、地元の皆様の尊い志を記録にとどめるものとします。

壁にプレートが埋め込まれている。

公園自体は、麻布台の新しい公園。とてもきれい。

麻布台の高層ビル群。

最寄り駅は、六本木一丁目。

※2025年12月撮影


横川省三墓跡(青山霊園)

横川省三の墓は、青山霊園にあった。
場所は、青山霊園1種イ16-1

訪れたら、その番地には何も無かった。移転したのか、墓仕舞いしたのか。。。
少し調べてみたら、2023年には、どうやら既に無かったようで。うーむ。

ここに、横川省三の墓があった。
あったという記録として、ここに、いまの状況を残しておく。

いまは、何もない。
こうして、忘れ去られていく、歴史の軌跡。
寂しくもあるが、致し方がない側面もあり。

※2026年1月撮影


横川省三墓(盛岡・聖寿禅寺)・未訪問

盛岡の聖寿禅寺。
盛岡藩主南部家の国元の菩提寺、盛岡五山の一山。

未訪問のため、将来の訪問にそなえてメモとして記載。

場所

https://maps.app.goo.gl/QeKxGei9T2DFSsN18


横川省三墓(花巻東晴山・横川省三記念公園)・未訪問

岩手県花巻市東和町東晴山にある。
花巻の横川省三記念公園。

未訪問のため、将来の訪問にそなえてメモとして記載。

場所

https://maps.app.goo.gl/5GjkYB184dSLoijo9


横川省三像台座と六烈士弔霊塔

盛岡に赴いていた際に、この近くに散策ポイントがあったので、奇跡的に記録を取っていました。
陸軍墓地跡、が台座のちかく、だったのです。

https://senseki-kikou.net/?p=36368

横川省三像台座と六烈士弔霊塔
昭和7年6月26日建立。
当時の盛岡市長によって「高松池」のほとりに、横川省三の銅像と六烈士弔霊塔が建立された。
11年後の昭和18年に金属供出で銅像は撤去され、現在は台座のみが残っている。

台座の銘板は削られており、この台座は由縁を知らないと、ぱっと見で謎の建立物となっている。

六烈士弔霊塔
横川省三の台座のとなりに、六烈士弔霊塔が建立されている。

弔霊塔

大纛斯発軍勢
愈揚偉矣六士
遠人氈郷伐課
不果子涂而僵
一死慘烈千載 
流芳神庭山上
建像焚香櫻華
萬朶浴以朝陽
 北田親氏誌

遠い地で犠牲となった6人の士(六士)の惨烈な死を悼み、その芳名を後世に伝えるために神庭の山上に像を建て、桜の舞う下で朝陽を浴びて祀っている様子を詠んだ漢詩。

<現代語・意訳>
大本営を進発し、ますます偉大さを高めた六人の士よ。
遠く氈(せん)の郷(北方の異郷・異民族の土地)へ遠征したが、目的を果たせず、その地に倒れ伏した。
その惨烈な死は千年の時を超えて語り継がれ、その香しい名(流芳)は神庭(かみにわ)の山上に残る。
像を建て香を焚いて、桜の花が咲き誇る中で、朝日をいっぱいに浴びて(祀られている)。

六烈士氏名
盛岡 横川省三 四十歳
長崎 沖禎介  二十八歳
延岡 松崎保一 三十歳
宮崎 田村一三 二十四歳
滋賀 脇光三  二十三歳
熊本 中山直熊 十八歳
 昭和七年六月二十六日建
  山口剛介書
  高橋仁助刻 

六烈士の名前が刻まれている。

高松池

※2023年8月撮影

場所:

https://maps.app.goo.gl/GEMniGFqWyiBmY8k7


横川省三像(報恩寺)

横川省三像

堀江尚志の作 (原像の鋳型である)
高松公園の神庭山に設置されていたものの鋳型。
前述の通り、高松公園の神庭山の銅像は戦時中の金属供出で失われ、立派な台座だけが残されている。

未訪問のため、将来の訪問にそなえてメモとして記載。

報恩寺(岩手県盛岡市名須川町31-5)
https://maps.app.goo.gl/MR8UX634KjgkKfpz7


沖禎介(青山霊園)

沖禎介(おきていすけ)
1874年(明治7年)6月8日 – 1904年(明治37年)4月21日)
明治期の諜報活動家(スパイ)。長崎県平戸市出身。

1904年(明治37年)、日露戦争開戦に際しては民間人ながら陸軍の特務機関に協力し、ロシア軍の輸送路破壊工作に従事する。
横川省三とともにラマ僧に変装して満州に潜伏しているところをロシア兵に捕獲され、ハルピン郊外で処刑される。

墓所は青山霊園(1イ1-41)。

長崎県平戸市の亀岡神社に沖禎介胸像がある。

https://maps.app.goo.gl/X6WMAymzD5pHSfqo7

また、平戸の居宅跡に大イヌマキが残っている。

https://maps.app.goo.gl/yxRvecE6G4YvHseu7

平戸は将来の訪問のためのメモ、ですね。

https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/232031

https://www.ndl.go.jp/portrait/datas/42

沖君禎介之碑

乃木希典の篆書。
明治42年10月の建立。

沖君禎介之碑
殉國志士沖君禎介碑          法學博士戸水寛人譔文
君諱禎介姓沖氏肥前平戸人為人慷慨尚氣節讀書不事章句薄遊東京鬱鬱不
得志乃航到清國北京創私學教育清人子弟會満洲事件我海陸兵陸續北進君
奮然與死士數人變表為喇嘛僧経蒙古入満洲渉幕漠無人之境淩冒氷雪僃嘗
艱苦欲出露軍背後以毀壊鐵路橋梁為哨騎所獲并佗一人押送於哈爾賓君既
被囚禁眠食如平常露人服其膽勇屢以甘言誘降一日間君曰露人在日本犯如
此罪其刑如何曰殺之耳露人曰公若告我以日本事清吾宥公臥君笑不應露人
和君終不可奮乃銃殺之哈爾賓城外其就死露人取白布授君令蔽其眼君摽太
不受神色自若賭者莫不感嘆焉時明治三十七年四月二十一日也年三十有一
父名荘蔵那覇地方裁判所部長判事有二弟曰順次病死曰三雒陸軍歩兵中尉
頃者 官追賞君功授以勲章合祀于靖國神社而有志者又醵金為君建碑徴文
於余嗚呼古來捐身殉國者不為少矣而従容就義遺芳異惑如君者果幾人余雖
不文以與君相識之故不辭而誌之庶幾百垂之下有聞風而興起者矣乎
明治四十年六月  陸軍大将伯爵乃木希典篆額  本田定季書
                            鱸猛麟刻

<現代語・意訳>
殉国志士 沖禎介之碑
沖君は名を禎介(ていすけ)、姓を沖といい、肥前国平戸(現在の長崎県)の人である。 人柄は気力に溢れ、節義を重んじる性格であった。読書をしても単なる字句の解釈にこだわらず(常に実践を重んじ)、東京に遊学したものの、思うように志を遂げられず鬱々としていた。
そこで清国の北京へと渡り、私塾を創設して現地の若者たちの教育にあたった。やがて満洲事件(日露戦争)が起こり、我が国の陸海軍が続々と北進するに及び、君は奮い立った。決死の志士数人とともに、姿をラマ僧に変装させ、モンゴルを経由して満洲へと潜入したのである。
人影のない砂漠を渡り、激しい氷雪をしのぎ、筆舌に尽くしがたい艱難辛苦をなめながら、ロシア軍の背後に出ようと試みた。その目的は鉄道や橋梁を破壊することにあったが、敵の偵察兵に見つかり、他の一名(横川省三)とともにハルビンへ押送された。
囚われの身となっても、君の寝食の様子は普段と変わらず平然としていた。ロシア兵はその度胸に感服し、何度も甘い言葉で投降を促した。 ある日、ロシア兵が「もし日本で、ロシア人が同じような罪を犯せば、どのような刑に処されるか」と問うた。君は「ただ殺されるだけだ」と答えた。ロシア兵は「もし公(君)が、日本の軍事機密を我々に教えるならば、命を助けよう」と誘ったが、君はただ笑って応じなかった。
ロシア側も、ついに君の意志を翻すことはできないと悟り、ハルビン城外にて銃殺に処することとした。 死に臨み、ロシア兵が目を覆うための白布を渡そうとしたが、君はそれを投げ捨て、全く恐れる様子もなく、落ち着き払った態度でいた。その最期を見届けた者は、敵味方問わずみな感嘆したという。
時は明治37年(1904年)4月21日。享年31歳であった。 父の荘蔵氏は那覇地方裁判所の部長判事である。二人の弟がおり、一人の順次は病死、もう一人の三雒(さぶらく)は陸軍歩兵中尉である。
このたび、国は君の功績を称えて勲章を授け、靖国神社に合祀した。さらに志を同じくする者たちが寄付を募り、君のためにこの碑を建て、私(戸水寛人)に文章を依頼したのである。
ああ、古来より身を捨てて国に尽くした者は少なくない。しかし、これほどまでに落ち着いて義に就き、異国の地にまでその誉れを残した者が、果たして君のほかに何人いるだろうか。私は文才に乏しいが、君と旧知の仲であった縁から、辞退せずにこの事実を記録する。願わくば、百代の後の人々がこれを聞き、その志に深く感銘を受けることを。
明治40年6月
 題字(篆額):陸軍大将 伯爵 乃木希典
 撰文:法学博士 戸水寛人
 書:本田定季
 刻: 鱸猛麟

建碑総代には、「頭山満」も名を連ねている。

※2026年1月撮影

場所:

https://maps.app.goo.gl/dWVuV229u7ehXhbv9


報国六烈士碑(護国寺)

日露戦争戦後3年の1908年(明治41年)に建立された慰霊碑。
扁額は陸軍元帥・大山巌(日露戦争時は満洲軍総司令官)、撰文は陸軍中将・福島安正(日露戦争時は万種群総司令部参謀)。


六烈士、すなわち横川省三、沖禎介、脇光三、松崎保一、中山直熊、田村一三の6名を慰霊する。

報国六烈士碑

碑文には、青木宣純(日露戦争では満洲軍総司令部付として特別任務班を組織した責任者・最終階級は陸軍中将)、橋口勇馬(日露戦争では満洲軍総司令部付として、馬賊を率いて、ロシア軍の広報を撹乱、最終階級は陸軍少将)、井戸川辰三(日露戦争では兼大本営付、特別任務従軍、満州軍総司令部付、兼新民府軍務官、最終階級は陸軍中将)らによって、烈士たちの功績を不朽のものとすべく建碑した旨、横川班の活躍と殉難、戦後の叙勲や靖國合祀の旨などが記載されている。

撮影:2026年1月

場所:

https://maps.app.goo.gl/phDcvjusCtJThqwE8


芳流 烈士脇光三碑

拓殖大学八王子キャンパスにある。
未訪問のため、将来の訪問にそなえてメモとして記載。

場所:

https://maps.app.goo.gl/k4g2LNvtXA2cq6VZ9


大アジア主義の第一人者「頭山満」と福岡の政治結社「玄洋社」関連の史跡散策(福岡・東京)

福岡に赴いていたときに、福岡の地図を眺めていたら、歴史的に香ばしい感じで「玄洋社」とか「頭山満」とか、興味をひいたポイントがいくつかあったので、そんな関連史跡をふらりと巡ってみました。
そして記事を書いているうちに、東京に玄洋社関係者の墓がいくつかあったので、それもあわせて掲載してみました。


頭山満

頭山 満(とうやま みつる)
安政2年4月12日(1855年5月27日)- 昭和19年(1944年)10月5日
玄洋社の中心人物、右翼・国家主義者、アジア主義者。
昭和の巨人とよばれた国家主義の第一人者であった。

頭山満が組織した玄洋社は、日本における民間の国家主義運動の草分け的存在であり、後の愛国主義団体や右翼団体に道を開いたとされる。
また、教え子の内田良平の奨めで黒龍会顧問となり孫文とともに中国同盟会も設立し、大陸浪人にも影響力を及ぼす右翼の巨頭・黒幕的存在と見られた。
一方で、中江兆民や吉野作造などの民権運動家や、遠縁のアナキストの伊藤野枝や大杉栄とも交流があった。
鳥尾小弥太、犬養毅、広田弘毅、中野正剛など政界にも広い人脈を持ち、実業家(新聞社代表)や民族的活動を支援する篤志家としての側面も持っていた。
中国の孫文や蔣介石、インドのラス・ビハリ・ボース、ベトナムのファン・ボイ・チャウ、朝鮮の金玉均など、日本に亡命したアジア各地の民族主義者・独立運動家への援助を積極的に行った。

遠山満は、歴史の節々に影響力を発揮しており、孫文亡命、ラス・ビハリ・ボーズと新宿中村屋の仲介、井上日召の血盟団事件、五・一五事件・犬養毅暗殺事件、などに関わっていた。

晩年は、静岡県御殿場の富士山を望む山荘で、第二次世界大戦末期の昭和19年(1944年)10月5日、89年の生涯を閉じた。
葬儀委員長は元総理の広田弘毅、副委員長は緒方竹虎がつとめた。

頭山満の墓は、以下の3箇所にある。
・頭山家の菩提寺である圓應寺(未訪問)
・玄洋社墓地のある崇福寺
・東京の青山霊園

https://www.ennouji.or.jp/concept/history-omen/h8.html


玄洋社

1881年(明治14年)に旧福岡藩士が中心になって、結成された政治団体。
日本で初めて誕生した右翼団体ともいわれている。
自由民権運動の拡充を目指し結成され、植民地支配に対抗して、アジア民族の欧米隷属からの脱却を目指し、人民の権利を守るためには、まず国権の強化こそが必要であると主張した。
同時に、対外的にはアジア民族の欧米隷属からの独立を支援し、アジア諸国との同盟によって西洋列国と対抗する大アジア主義を構想した。

明治10年(1877年)の西南戦争の後、高知の板垣退助のもとで学んだ頭山満は、明治12年(1879年)帰郷し、自由民権運動の結社として向陽義塾(後に向陽社)を設立した。これが、玄洋社の前身である。社長は箱田六輔、幹事は頭山満、進藤喜平太。

明治14年(1881年)、向陽社を玄洋社と改称する。
旧福岡藩士らが中心となり、 藩立修猷館出身の平岡浩太郎を社長として、頭山満、箱田六輔、大原義剛、福本誠、内田良五郎(内田良平の父)、進藤喜平太(進藤一馬の父・玄洋社2代目社長)、月成功太郎(廣田弘毅夫人となる静子の父)、末永純一郎、武井忍助、古賀壮兵衛、的野半介、月成勲、児玉音松らが創立に参画、のち杉山茂丸も加わった。
明治22年(1889年)、大隈重信爆殺未遂事件の首謀者であった来島恒喜も玄洋社社員。
日露戦争で勝利に貢献した明石元二郎も玄洋社社員であった。
昭和期に活躍する、廣田弘毅や中野正剛、緒方竹虎なども玄洋社に関係があった。
また、玄洋社2代目社長であった進藤喜平太の子息で、中野正剛の秘書や玄洋社の最後の社長を務めた「進藤一馬」は戦後に福岡市長を務めている。

玄洋社は「皇室を敬戴すべし」「本国を愛重すべし」「人民の権 利を固守すべし」の三憲則を基幹とし、自由民権の普及に献身、憲法の新設、国会の開設、次いで祖国の国力の伸張に奔走する一方、屈辱的外交条約の破棄、アジア主義に基くアジア民族の自決独立の援助に勇往邁進した。
中でも中国革命に於ける玄洋社の存在は大きく、第二次世界大戦終了直後まで日中和平工作を継続していた政治結社は玄洋社を除いて他になかった。

https://genyosha.jp

本編では、下記の玄洋社の主要人物に言及。
・頭山満
・高場乱
・来島恒喜
・中野正剛
・緒方竹虎
・内田良平

※広田弘毅は、別記事にて。


玄洋社跡碑

福岡市中央区舞鶴の玄洋社跡地に隣接して「玄洋ビル」があったが解体済み。同ビル跡地はNTTドコモ舞鶴ビルとなり一角に記念碑が建立されている。
玄洋社関係の各種資料を収蔵した「玄洋社記念館」も玄洋ビル内にあった。1978年(昭和53年)11月に開館し、2008年(平成20年)5月末をもって閉館したが、資料は福岡市博物館に寄託された。

玄洋社跡

玄洋社跡記念碑
明治、大正、 昭和と激動する世界の中にあって、日本の独立を守りアジアの解放を目指して活躍した玄洋社は 自由民権運動の中で、明治十二年(一八七九)談生した。
以来昭和二十一年(一九四六)解散まて、六十七年にわたりこの地を本拠地として活動を続けた。
 平成九年十月
  社団法人玄洋社記念館建之


玄洋社墓地(崇福寺)

臨済宗大徳寺派の寺院、三道場のひとつ。福岡藩主黒田家の菩提寺。かつての伽藍は広大な寺域を誇っていたが、福岡大空襲で灰燼に帰した。(現在の寺域は戦前の五分の一の規模に縮小)

玄洋社墓地には、頭山満、来島恒喜、高場乱の墓、そして154基ある玄洋社員の墓などがある。

西都法窟
勅賜萬年崇福禅寺

頭山満先生之墓所

玄洋社墓地

玄洋社基地整備趣旨
「玄洋社の生みの親」高場乱の生誕百九十年を迎えるにあたり その偉業に思いを触せ高場乱の子孫である株式会社アキラホールティンクス代表取締役安部泰宏は私財を投じて、玄洋社基地を整備し、遺徳を未来永幼に伝え残すものとする。
 令和四年八月二十日

安部泰宏氏は、玄洋社の創始者・高場乱の姉の子孫にあたるという。
高場乱保存会「人参畑塾の会」顧問、高場乱の銅像建立にも尽力。

獨 朗 天 眞

先亡霊塔

昭和十一年十月改葬の折、立ち並んでいた玄洋社員の墓標を整理し、全物故者を弔うために五輪塔が建てられた。
裏面には論語の一節「殺身成仁」(自分を犠牲にして仁を成す)(頭山満書)
※写真撮り忘れ

場所:

https://maps.app.goo.gl/VwtnVS626nUnXYWs8


頭山満先覚之墓(玄洋社墓地)

玄洋社の先覚者として、祀られている頭山満。

頭山満先覚之墓

昭和十九年十月五日於富士山麓御殿場帰幽享寿九十歳乞分骨同年十一月六日葬於崇福寺玄洋社墳域
 後学 宮川五郎三郎敬書

宮川五郎三郎は、奈良原至の弟。
奈良原至は、玄洋社の草創期からの社員で 玄洋社随一の豪傑と呼ばれた人物。
宮川五郎三郎は玄洋社の組織の根幹を支えた人物。


高場乱(玄洋社墓地)

高場 乱(たかば おさむ)
天保2年10月8日(1831年11月11日)- 明治24年(1891年)3月31日)
江戸時代末期の女性儒学者で、眼科医、教育者。
頭山満ら多くの国士を育てた。「人参畑の先生」。

代々眼科医の名門で福岡藩の藩医を務めていた高場家・高場正山の末子として生まれる。
高場乱は男子扱いで育てられており、天保12年(1841年)、10歳で男性として元服した。16歳で結婚したが、これを不服として自ら離縁し、20歳の時に儒学者・亀井昭陽(亀門学)の亀井塾に入った。亀井塾は当時身分性別を問わない学風で、女性の弟子も多かった。

明治6年(1873年)、福岡藩住吉村の薬用人参畑の跡(現在博多駅の近く)に私塾興志塾(通称「人参畑塾」)を開設。
興志塾に明治7年(1874年)頃に入門したのが、頭山満であり、のちに玄洋社の主要なメンバーとなった平岡浩太郎や進藤喜平太、箱田六輔、武部小四郎などが、いずれも興志塾で学んだ。
頭山満らが結成した向陽社(玄洋社の前身)内部の抗争を仲裁するなど、弟子となる玄洋社の面々を見守ってきた。
弟子の一人である来島恒喜が大隈重信へテロを仕掛けた上で自殺したことには衝撃を受け嘆きの歌を詠んでいる。
来島の自殺の翌年、乱は病床に伏し、弟子たちに看取られつつ逝去した。明治24年(1891年)3月31日、59歳であった。

高場先生之墓

勝海舟の揮毫

碑面題識勝海舟先生之書也

2023年には高場乱の生誕190周年を記念し、高場乱の銅像が建立された。
「高場乱騎牛象」牛に横乗りする高場乱

高場乱先生之像

高場乱先生は、天保二年(一八三一)博多の瓦町に誕生。家は代々、眼科医である。乱先生の父である正山先生は高場流眼科の九世を継承したが、元々は福岡藩医の一統でもある。
正山先生には二女があり、長女は小田家に嫁いだことから、次女の乱先生を高場流眼料の後継者に据えた。しかし、時は封建時代。正山先生は乱先生を男子として福岡藩庁に届け出、刀を持つことも許された。正山先生は乱先生を男子として教育。乱先生も正山先生の意に応え、医学を学び、漢籍の学問にも励まれた。後年、正山先生の代診を務めるほど乱先生は評判の眼料医になられた。
乱先生は、福岡藩の薬草園である人参畑近くに学塾を構え、眼科診療の傍ら、有為の青年教育にも尽力された。この塾が人参畑塾こと興志塾である。乱先生は塾生からの謝礼どころか、貧しい人からは治療代を受け取らない無欲の人。博多の衆は乱先生を「人参畑の婆さん」と、尊敬と親しみを込めて呼んだ。
乱先生の学墊には、入門を願う青年が多数押しかけた。しかも、塾生の行動に対し、一身に責任を負うという気概を示され、ごの事実は今もって語り草てある。塾は歴史に名を刻む著名な志士を多数輩出。門弟たちの活躍の場は遠くアジアにまで及び、乱先生の教育方針が、どれほど壮大なものてあったかが窺いしれる。しかし、明治二十四年(一八九一)三月三十一日、乱先生は病没された。
医師として自身の余命を知り、静かに息を引き取られたという。弟子たちは旧藩主黒田家の墓地を分けてもらい、乱先生の墓を建てた。葬儀の会葬者は五百人余り。葬列は整然とじて、見送りの人垣が続いたという。
墓碑銘には、乱先生の人柄を著す言葉が簡潔に刻まれている。
金銭や名誉を求めず、清貪に負けず、よく他人を援け、自身の事は後回しだった。名を成した後も、師について易経を学んだ。時代が変わっても、その教育方針に変わりはなく、門下生たちは皆、豪傑揃いで盛ん。皆、義を胸に抱いたものばかりで、美しい綾を織りなすがごとく。だが、志は大きいが行いが伴っていない。この春、俄かに高場先生は具合が悪くなり、亡くなられた。その天命は果てしないだけに、敬愛する人を喪い茫然とするばかり。形もなく、変化もなく、どどまることを知らない万物の母。その識見が高い人はかくれてしまった。平原は薄暗くなり、その魂は愛する故鄉に帰るがごとく天に還っていった。
  高場乱先生略伝慧碑後面の「勝海舟書」より


来島恒喜之墓(玄洋社墓地)

来島 恒喜(くるしま つねき)
1860年1月31日〈安政6年12月30日〉 – 1889年〈明治22年〉10月18日
玄洋社元社員。
条約改正に絡む外国人司法官任用問題から、当時外務大臣を務めていた大隈重信の暗殺を計画。
計画には同じく玄洋社の社員であった月成功太郎も加わっていたが、老母、妻子を持つ月成の身を欺き、単独で決行。

1889年(明治22年)10月18日、外務省からの帰路にあった大隈に、彼の乗る馬車へ爆弾を投げつけた。
爆弾は馬車の中に入り、大隈の足元で爆発。来島はその場で短刀で喉を突き自害。享年29。
大隈は命はとりとめたものの、顔と手に軽症、右膝と踝に重症を負い、右脚を切断することとなった。

来島も学んだ興志塾(通称・人参畑塾)の塾長高場乱は、かつて塾生だった来島が爆弾テロ事件を起こしたことを聞くと、国際情勢や日本の国際環境を理解しない浅はかな者だと否定し、批判した。一方で、自決したことには「ながらえて明治の年の秋なから心にあらぬ月を見るかな」という嘆きの歌を詠んでいる、

来島の葬儀の際、弔辞を読むこととなった頭山満は「天下の諤諤(がくがく)は君が一撃に若(し)かず」と、国民輿論を無視し条約改正に突き進む政府の政策を打ち破った来島を激賞した。

来島の墓碑を寄贈した石工の広田徳平は、後に首相となる広田弘毅の父。また、計画に加わっていた月成功太郎は弘毅の妻の父であり、岳父にあたる。

来島恒喜之墓

明治廿二年十月十八日於東京霞関自刃行年三十一


玄洋社墓地内の碑群

満洲義軍志士之碑
明道館柔道之碑

154基ある玄洋社員の墓

時間がなかったので、福岡藩主黒田家の墓所には訪れず。
そのあたりは、また次回かな。


頭山満墓(東京・青山霊園)

頭山満の墓は、東京の青山霊園にもある。参考掲載。

頭山 満 墓
室 峰尾

1855年、福岡藩士・筒井亀策の三男として生まれた「筒井満」。
1873年の春、男手のなかった母方の頭山家に当時3歳だった娘の峰尾の婿として迎え入れられ、頭山に姓を改め「頭山満」となる。
頭山が峰尾と正式に結婚するのは、1885年頭山が30歳になってから。

昭和19年10月5日
享年89歳

※青山霊園撮影:2021年5月


来島恒喜之墓(東京・谷中霊園)

来島恒喜の墓は、東京の谷中霊園にもある。参考掲載。

来島恒喜之墓
 頭山満書

来島恒喜の墓は、勝海舟によって谷中霊園に建立されたが、その後に、玄洋社の頭山満によって長け替えられた。当初の墓石も、傍らに残されている。

来島恒喜の碑。
昭和13年に頭山満揮毫で墓碑が建立されたことを記す。

当初の墓石、一部が摩耗している。
来島恒喜之墓 勝安芳書

明治廿三年十一月建

東京の来島恒喜の墓は、谷中霊園の乙10号17側

※谷中霊園撮影:2026年1月


頭山満手植えの楠

西新緑地に、頭山満が手植えしたクスノキがある。

楠木の由来
このクスノキは、政治結社「玄洋社」の創設者の一人、頭山満翁(1855~1944年)が植えたものです。
そばに建つ石碑には、慶応元(1865)年、頭山満翁が11歳の時に「楠木正成のような人になりたい」との願いを込めて生家の庭に苗木を植えたとあります。

場所:

https://maps.app.goo.gl/ZsAJ6iL2P3ecxZhb7


中野正剛

中野 正剛(なかの せいごう)
1886年(明治19年)2月12日 – 1943年(昭和18年)10月27日
ジャーナリスト、政治家。東方会総裁、衆議院議員。号は耕堂。

旧藩校の流れをくむ修猷館を卒業後、早稲田大学高等予科に進学。修猷館時代に出会った緒方竹虎とは、早稲田大学や東京朝日新聞社でも行動を共にし、大学時代には2人で下宿する仲であった。
1909年(明治42年)7月早稲田大学政治経済学科を卒業し、東京日日新聞(現・毎日新聞)を発行していた日報社に入社、同年11月退社。
同年12月東京朝日新聞(東朝、現・朝日新聞)に入社。1911年(明治44年)11月大阪朝日新聞に移籍。
1913年(大正2年)に三宅雪嶺(金沢出身の哲学者・評論家)の長女・多美子と結婚。仲人は、頭山満と古島一雄(三宅雪嶺が主宰する雑誌「日本人」の記者、のちに衆議院議員・貴族院議員)であった。
1916年(大正5年)7月大阪朝日新聞を退職し、東方時論社に移って社長兼主筆に就任。
1920年(大正9年)5月の総選挙で当選する。以後、8回当選。
反軍派政党人として名を馳せ、政府では、内務大臣だった濱口雄幸の推薦で、大蔵参与官や逓信政務次官などを歴任した。1928年(昭和3年)1月から1929年(昭和4年)4月まで九州日報社長も務めた。
1936年(昭和11年)3月に、東方会を結成し会長となった。
1937年(昭和12年)11月から1938年(昭和13年)3月にかけて、イタリア、ドイツ両国を訪問し、ムッソリーニ、ヒトラーと会見。秘書として中野正剛に進藤一馬(後の衆議院議員、福岡市長)が随行していた。
1940年(昭和15年)10月大政翼賛会常任総務に就任。

東條英機倒閣運動
1941年(昭和16年)3月、東條英機の権力強化に反対するために大政翼賛会を脱会。
1942年(昭和17年)4月の翼賛選挙に際しては、東方会総裁として非推薦候補を擁立し、東条首相に反抗。中野正剛は非推薦でありながら当選。
同年11月10日、早稲田大学大隈講堂において、2時間半にわたり東條を弾劾する大演説を実施。当時、早稲田第一高等学院の学生であった竹下登は、この演説を聴いて感動し政治家の道を志し当時、早稲田第一高等学院の学生であった竹下登は、この演説を聴いて感動し政治家の道を志している。
戦時中の中野正剛は反東條英機の動きを鮮明し、倒閣運動を実施。

中野正剛事件
1943年(昭和18年)年9月21日、東方同志会の会長だった中野をはじめとする39人が一斉に検挙された。
国会議員であった中野 正剛(なかの せいごう)
1886年(明治19年)2月12日 – 1943年(昭和18年)10月27日
ジャーナリスト、政治家。東方会総裁、衆議院議員。号は耕堂。

旧藩校の流れをくむ修猷館を卒業後、早稲田大学高等予科に進学。修猷館時代に出会った緒方竹虎とは、早稲田大学や東京朝日新聞社でも行動を共にし、大学時代には2人で下宿する仲であった。
1909年(明治42年)7月早稲田大学政治経済学科を卒業し、東京日日新聞(現・毎日新聞)を発行していた日報社に入社、同年11月退社。
同年12月東京朝日新聞(東朝、現・朝日新聞)に入社。1911年(明治44年)11月大阪朝日新聞に移籍。
1913年(大正2年)に三宅雪嶺(金沢出身の哲学者・評論家)の長女・多美子と結婚。仲人は、頭山満と古島一雄(三宅雪嶺が主宰する雑誌「日本人」の記者、のちに衆議院議員・貴族院議員)であった。
1916年(大正5年)7月大阪朝日新聞を退職し、東方時論社に移って社長兼主筆に就任。
1920年(大正9年)5月の総選挙で当選する。以後、8回当選。
反軍派政党人として名を馳せ、政府では、内務大臣だった濱口雄幸の推薦で、大蔵参与官や逓信政務次官などを歴任した。1928年(昭和3年)1月から1929年(昭和4年)4月まで九州日報社長も務めた。
1936年(昭和11年)3月に、東方会を結成し会長となった。
1937年(昭和12年)11月から1938年(昭和13年)3月にかけて、イタリア、ドイツ両国を訪問し、ムッソリーニ、ヒトラーと会見。秘書として中野正剛に進藤一馬(後の衆議院議員、福岡市長)が随行していた。
1940年(昭和15年)10月大政翼賛会常任総務に就任。

東條英機倒閣運動
1941年(昭和16年)3月、東條英機の権力強化に反対するために大政翼賛会を脱会。
1942年(昭和17年)4月の翼賛選挙に際しては、東方会総裁として非推薦候補を擁立し、東条首相に反抗。中野正剛は非推薦でありながら当選。
同年11月10日、早稲田大学大隈講堂において、「天下一人を以て興る」という演題で2時間半にわたり東條を弾劾する大演説を実施。

諸君は、由緒あり、歴史ある早稲田の大学生である。便乗はよしなさい。歴史の動向と取り組みなさい。天下一人を以て興る。諸君みな一人を以て興ろうではないか。日本は革新せられなければならぬ。日本の巨船は怒涛の中にただよっている。便乗主義者を満載していては危険である。諸君は自己に目覚めよ。天下一人を以て興れ、これが私の親愛なる同学諸君に切望する所である。

中野の雄弁と早稲田の聴衆の興奮熱気はあまりにすさまじく、憲兵隊の制止どころではなかった。
当時、早稲田第一高等学院の学生であった竹下登は、この演説を聴いて感動し政治家の道を志し当時、早稲田第一高等学院の学生であった竹下登は、この演説を聴いて感動し政治家の道を志している。
1943年(昭和18年)正月、朝日新聞紙上に「戦時宰相論」を発表し、名指しこそしなかったものの、東條首相を痛烈に批判。この記事の内容に東條は激怒し、朝日新聞に対して記事の差し止めを命じた。
戦時中の中野正剛は反東條英機の動きを鮮明し、倒閣運動を実施。宇垣一成擁立を進めるが重臣会議での連携不足で失敗、次いで東久邇宮稔彦王擁立を進めるが、東條側の対策の打つ手が先行してしまう。

中野正剛事件
1943年(昭和18年)年9月21日、東方同志会(東方会の改称)の会長だった中野をはじめとする39人が一斉に検挙された。
東條英機は大いに溜飲を下げたが、国会議員であった中野の身柄拘束は強引すぎるものとして世評の反発を買うことになった。結局、中野は10月25日に釈放される。
釈放されたものの、憲兵2名の見張りがつき、追い詰められた中野は10月27日に割腹自殺した。
享年57歳。

戦前の帝国議会議員で最初の自殺者であった。


中野正剛先生像

中野正剛像
昭和30年3月27日に鳥飼八幡宮境内に建立された。


中野正剛先生碑
 緒方竹虎書

緒方竹虎と、中野正剛は修猷館、早稲田大学、東京朝日新聞記者を通じ、変わらぬ親友であった。大学時代には2人で下宿をしていた時期もあった。

中野正剛先生略伝
明治十九年二月十二日福岡市西湊町(現荒戸一丁目)ニ生レ中学修猷館、早稲田大學ニ学ブ。
東京朝日新聞記者、東方時論主幹トシテ健筆ヲ揮イ郷土紙九州日報ヲ経営ス。
福岡県一区ヨリ衆議院議員ニ当選スルコト八回在職二十年四月。
其間大蔵参與官逓信政務次官トナル。
後、東方会ヲ組織シ全国ノ青年同志ヲ糾合国事ニ奔走ス。
性剛直果断、愛国ノ至誠ハ熱血ノ雄弁不抜ノ筆陣トナリ毅然トシテ所信ニ邁進、太平洋戦争酣ナルヤ戦局日ニ非ナルヲ憂イ東條内閣ノ退陣ヲ図リ其収拾ニ盡瘁。
東條首相ノ熾烈ナル弾圧ニ屈セズ抗議スルモ志成ラズ。
昭和十八年十月二十七日渋谷ノ自邸ニテ自刃。
 歳 満五十七
  門人 進藤一馬 謹書

豪傑之志
雖無文王
猶興

 耕堂正剛

孟子「豪傑之士雖無文王猶興」
「才知や徳のある豪傑は、文王の教えがなくても、自発的に立ち上って善を行うことができる」の意
中野正剛が提唱した猶興は アジア主義(南進論)の思想的拠点、「猶興居(ゆうこうきょ)」に関連し、中野正剛の「アジア主義」と「東方会」の活動の根幹をなす概念。
「猶興(東洋の興隆)」は中野正剛の理想を表している。

中野正剛先生旧家跡

鳥飼八幡宮の参道脇に。

鳥飼八幡宮

筑前藩主黒田家の氏神、 福岡市の鎮守。
旧社格は県社。2022年に建て替えられたモダンな神社建築。
神功皇后が胎内の応神天皇の将来をお祝いした地・鳥飼村に社を建てたのが創始という。

場所:

https://maps.app.goo.gl/SBRmrqjoGFe2g9Yf9


中野正剛生家跡

電信柱に、生家跡の表記があった。石碑があるものばかり思って探していたら、これはなかなか見つける難易度が高い。

中野正剛生家跡
明治19年(1886)年2月12日、旧筑前藩士中野泰次郎とトラの長男として、当地の伯父中野和四郎宅で出生。幼名甚太郎。
中野正剛という人物には謎がある。朝日新聞の辣腕記者であって、電信電話の民営論者。大塩中斎と西郷隆盛と頭山満に憧れていて、犬養毅と尾崎咢堂の擁護者。シベリア出兵の反対者にして極東モンロー主義者。それでいて満州国支持者で、ファシストであって東条英機の戦線拡大反対者。酒も煙草もやらないが、論争と馬には目がなく、やたらに漢詩漢文が好きな男。いったいこれは何者か。はっきりいえるのは、自死は中野正剛が最後の最後に選んだ結論だったということである。腹は真一文字に切り、左頸動脈を切断した。(昭和18年(1943年)10月27日未明、知らせで駆けつけた頭山満が、「古武士のような見事な最期」と言った。)中野正剛については、ほとんど詳細な研究がない。(松岡正剛「千夜千冊」より)

場所:

https://maps.app.goo.gl/A4zabw5yiDoQ16FK7


中野正剛墓(多磨霊園)

中野正剛の墓は、東京の多磨霊園にもある。参考掲載。
12区1種1側2番

中野家之墓

昭和十年六月 中野正剛 建之

扁額は、頭山満。
碑の撰は徳富蘇峰、書は緒方竹虎

才該衆美 氣吐長虹 矯々不群 國士之風

友人 蘇峰徳富正敬撰
同学 緒方竹虎書

※多磨霊園撮影:2026年1月


緒方竹虎墓(青山霊園)

中野正剛の友であった緒方竹虎。
玄洋社の頭山満は緒方竹虎の結婚の仲人を務めた。
そして、緒方竹虎は頭山満の葬儀副委員長を務めている。葬儀委員長は、廣田弘毅であった。

緒方竹虎は、朝日新聞社副社長・主筆、自由党総裁、自由民主党総裁代行委員、国務大臣、情報局総裁、内閣書記官長、内閣官房長官、副総理などを歴任。栄典は正三位勲一等旭日大綬章。

緒方竹虎の墓は、東京の青山霊園にもある。参考掲載。

緒方家之墓

※青山霊園撮影:2021年5月


内田良平墓(多磨霊園)

黒龍会主幹。柔道家。
頭山満の玄洋社の三傑といわれた平岡浩太郎が伯父(父・内田良五郎の実弟)。
明治34年(1901年)黒龍会を結成。玄洋社の一部がアジア主義を掲げて大陸で活動するために、玄洋社初代の平岡浩太郎の甥に当たる内田良平を中心として設立。頭山満が顧問であった。
昭和6年(1931年)に大日本生産党を結成し、その総裁となる。
昭和7年(1932年)の血盟団事件・昭和8年(1933年)の神兵隊事件などの黒幕と呼ばれた。
昭和9年(1934年)大本教系昭和神聖会副統管。
昭和12年(1937年)7月26日死去。没年64歳。墓所は多磨霊園14区1号9番地。

内田良平之墓

頭山満書

昭和12年7月26日逝去 享年64歳
 昭和13年7月26日建之

※多磨霊園撮影:2026年1月

※福岡の写真撮影:2025年7月


靖國神社の新春初詣(令和8年)

あけましておめでとうございます。
靖國神社、正月朔日の初詣。

境内の様子などを、徒然に。

令和丙午

昨年の様子。

2025年もいろいろなことがありました。
仕事的なことですが、結果として、今の職場を年度末で退職することに決めました。今の会社は7年半ほど務めまして、中堅的な立ち位置で学びも多く、出張も国内外いろいろ赴くこともでき、仲間も居て、そういう意味では居心地の良い感じでしたが、上層部との方向性の違いなどもあり、最後は私の意地と信念もあり、このままではダメだなってことで。

さて、2026年はどうなることやら。
ただ、引き続き、サイト運営など、あまりアクティブな状態には、できなさそうですが。

御英霊の皆様、やすらかに。

御朱印
正月限定の刺繍御朱印と切り絵御朱印と。

おみくじは、末吉。
これから良くなるヤツですね。
自制心を働かせ、ます、です。

おしるこを。

甘酒も。

毎年、ありがとうございます。

いななき

遊就館の特別展示室

いつもこれが気になっていたけど、記録を撮っていなかったので。
星と錨とプロペラで、陸海空の意匠ですね。

馬年ですね。軍馬慰霊。

振る舞い酒

樽酒ならではの風味を楽しむ。
ありがとうございます。

※撮影:2026年1月1日

「戦争記録画」の記録・東京国立近代美術館(2025年企画展) 

東京国立近代美術館で、2025年7月15日から10月26日まで展示された企画展。
 コレクションを中心とした特集 
  記録をひらく 
  記憶をつむぐ
昭和100年、戦後80年の節目の展示は、企画展のタイトルからは読み取ることができかったが、蓋を開けてみれば、「戦争記録画(戦争絵画)」の展示であった。

図録の用意もない企画展ゆえ、今後の備忘のために、以下、私自身のためにも、記録と記憶の形を残しておきたいと思う。

以下、余計な主観は交えずに、粛々と作品を掲載をしていきたい。

アッツ島玉砕(藤田嗣治)


記録をひらく 記憶をつむぐ

東京国立近代美術館

ごあいさつ
 「昭和100年」、「戦後80年」という節目の年となる2025年、美術を手がかりとして、1930年代から1970年代の時代と文化を振り返る展覧会を開催します。当館のコレクションを中心に、他機関所蔵の作品·資料を加えて、絵画や写真や映画といった視覚的な表現が果たした「記録」という役割と、それらを事後に振り返りながら再構成されていく「記憶」の働きに注目しながら、過去を現在と未来につなげていく継承の方法を、美術館という記憶装置において考察するものです。
 東京国立近代美術館は、戦時下の1930年代から1940年代の美術について
は、購入や寄贈によって収集した作品のほか、いわゆる「戦争記録画」を153点収蔵しています。これらは戦意昂揚と戦争の記録を目的に制作され、戦後アメリカに接収された後、1970年に「無期限貸与」という形で「返還」されたものです。本展では戦時中の作品に、戦争体験を想起させる戦後美術を加えて、美術が戦争をどのように伝えてきたかを検証します。
 戦中にプロパガンダとして機能した戦争記録画の展示においては、戦時体制下で美術が担った社会的な役割を歴史的事実に基づいて見つめ直していきます。このような当時の経験を時代や地域を超えて共有し、未来の平和に資する想像力を引き出すことを試みます。
 戦後80年となる今年、戦争体験を持たない世代が、どのように過去に向き合うことができるかが問われています。それは他でもない、現在を生きる私たちの実践にかかっているといえるでしょう。これまで蓄積されてきた過去の記録に触れながら、それらをもとに新たな記憶を紡ぎだしていくこと。私たちは、美術館がこのような記憶を編む協働の場になることができると考えています。
 なお、本展に展示される作品や資料の中には、今日の社会通念や人権意識に照らして不適切な表現を含むものがありますが、当時の時代背景を伝える歴史資料としての意義を重視し、改変や削除などは施さずに紹介しています。
 最後になりますが、本展開催にあたり、貴重な作品·資料をご出品くださいました美術館、博物館、所蔵家の皆さま、ならびにご協力いただきました関係各位に深く感謝申し上げます。
 東京国立近代美術館

戦時の美術の分類(その名称と画題)
戦時に制作·発表された絵画は膨大な数にのぼります。そのうち東京国立近代美術館が保管する「作戦記録画」は軍によって委嘱された公式な作品群ですので、全体のごく一部にすぎません。画題は戦史に残すべき戦闘の場面が選ばれています。一方で「戦争記録画」という呼称は、軍からの依頼の有無にかかわらず戦闘場面を記念碑的に描いた作品を指します。
そのまわりに、「前線の光景」「銃後の光景」「大陸·南方風景」「歴史主題」「仏教主題」「象徴(桜·富士山など)」などを主題とする時局を反映した美術のすそ野が広がっているのです。これらを総称する用語として定着したものはありませんので、この図では仮に「戦時の美術」としました。「戦争画」という一般的な用語も使われますが、その境界を確定すること
は難しく、狭義には上記の「戦争記録画」を、広義には総力戦を表象する絵画全体を指す場合があります。

■作戦記録画を発注した軍部の認識を、当時の文献から抜粋して紹介しましょう。
-黒田千吉郎「戦争画について」『南方画信』1942年9月
「美術、特に戦争美術の重要性を知る陸軍は、支那事変勃発するや、直ちにこれを記録して永く後世に残すべく作戦記録画の制作を企図した」
「渾身の力を傾注して完成された作品は、銃後国民の士気を昂揚せしむるのみならず、永く後世に残って子々孫々に至るまで、我等日本人の血を湧き立てさせずにはおかない」

-画家·山口蓬春の手元に残っていた「昭和十九年度大東亜戦争陸軍作戦記録画制作計画(案)」
【註:読みやすいようひらがな表記にしています】
「三、作画公開目的 1国内 作画を以て国内展覧会を開催し銃後一般国民をして戦況裡に正確なる聖戦の実相を把握せしめ第一線将兵の労苦を偲ばしむると共に英霊に対する感謝の念を深め一層奉公精神の強化奮起を以て志気の昂揚に努めんとす」
「五、記録すべき戦闘並画材 画材選定に当たりては関係方面と密に連絡し将来記録として必要なる著名若くは重要なる戦闘を選択し併せて銃後国民に対する宣伝価値を考慮せり」

戦時の美術・戦争画
戦争記録画
作戦記録画


【1】絵画は何を伝えたか

二つの世界大戦が勃発した20世紀は、しばしば「戦争の世紀」と呼ばれます。日本は、1931年から1945年までの間に、満洲事変から日中戦争、太平洋戦争を経験しました。この時代の日本は、新聞、雑誌、ラジオ、映画などのメディアが発達し、人々の間に浸透した時期でもありました。1930年代になると、誕生間もないラジオ放送やニュース映画が戦況を伝えるようになり、戦争報道の速報性や迫真性をめぐってメディア間の競争が激しくなります。このような中、旧来の絵画という「遅い」メディアは、どのようにその存在感を示したのでしょうか。展覧会芸術としての絵画からは、大画面によって戦果を伝える
「作戦記録画」という新たなジャンルが生まれました。それ以外にも、ポスター、軍事郵便絵葉書、子ども向けの絵本などの印刷物を介して、他のメディアには欠けている「想像力」と「色彩」を武器に、絵画は社会に浸透していきました。展覧会の冒頭となる本章では、戦時下のメディアのひとつとして絵画が果たした役割を整理します。

本間、ウエンライト会見図(宮本三郎)

宮本三郎
本間、ウエンライト会見図
1944 作戦記録画
油彩·キャンバス
東京国立近代美術館(無期限貸与)

日中戦争から太平洋戦争中に、陸海軍によって委嘱された公式な戦争画としての「作戦記録画」は、展覧会で公表されることで銃後における啓発宣伝の役割を担うと同時に、後世に記録を残すという機能も期待されていました。したがって「作戦記録画」の中には対戦国との停戦会見を主題とする「会見図」というカテゴリーが存在します。本作は米軍とのフィリピン、コレヒドール島での戦果を示す1942年5月の会見を描いたものですが、戦況が悪化した1944年の陸軍美術展に発表されていることが示す通り、「作戦記録画」はある記念すべき出来事を後から振り返るという性格を持っています。本作の創意は、会見図そのものというよりは、それを後方から撮影する報道班員を中心に据えた構図にあり、「戦争」を伝達するメディアの舞台裏に注目するメタ戦争画となっている点が特徴的です。

ニューギニア沖東方敵機動部隊強襲(御厨純一)

御厨純一
ニューギニア沖東方敵機動部隊強襲
1942 作戦記録画
油彩·キャンバス
東京国立近代美術館(無期限貸与)

海軍作戦記録画に描かれる海戦は、大海原と青空という広大な空間を背景に、戦艦、空母、戦闘機など軍事技術の最先端を体現する兵器の活躍を示すという点で、大衆の好奇心をかきたてる戦争エンタテイメントとの親和性が高いといえるでしょう。この御厨純一の作品は、「記録画」といいながら、躍動感あふれる空中戦を絵画にしかできない脚色によって描いた想像図にほかなりません。1940年5月に創刊された「国防科学雑誌」を謳う『機械化』は、小松崎茂などの人気の挿絵画家を起用し、その空想科学兵器のイラストによって少年たちを魅了しました。このようなイラストと作戦記録画との間には、表現ジャンルを超えた共通点が見て取れます。


【2】アジアへの/からのまなざし

明治時代以降の日本は、台湾と朝鮮を植民地として領有し、アジアにおける帝国主義国家としてその圏域を拡張していきました。台湾、朝鮮、満洲、華北は戦時下にあっても観光地として紹介され、人々の旅行熱を掻き立てるとともに、異国の文化や風俗が美術のモチーフになり、画家に豊富な画題を提供しました。
さらに「大東亜共栄圏」というスローガンが発表されて以降、東南アジアにメディアの関心が向かうと、フィリピン、ビルマ(現ミャンマー)、インドネシアなどの自然や生活文化を異国趣味的に描き出す作品が多数制作されました。
こういった過程で、美術は自己と他者の差異を視覚的なイメージとして表現することを通して、「日本」や「日本人」の自己像(アイデンティティ)の形成に寄与しました。絵画に描かれたものと描かれなかったものに注目しながら、日本とアジアの間の視線のやり取りと、そこに含まれる政治的な力学について想像を巡らせます。

薬水を汲む(岩崎勝平)

岩崎勝平
薬水を汲む
油彩·キャンバス
川越市立美術館

岩崎は1937年の暮れから翌年にかけて朝鮮を何度か旅行しており、そのときの取材をもとに1938年の第2回新文展に《水くみ》、1941年の第4回新文展に本作を出品しました。いずれも朝鮮の民族衣装をまとった女性が大きな水瓶を携え、泉の水を汲む様子が描かれています。本展であわせて展示される絵葉書にも見られるように、女性と水瓶の組み合わせは当時、朝鮮風俗を表す定番のモチーフでしたが、本作では俯瞰の構図をとり、空を描かずに大地と樹木と女性たちだけで画面をシンプルに構成しています。彼女たちの視線は画面下の水くみの動作に集中しており、穏やかな中にも一種の張りつめた空気を感じさせます。

満洲の収穫(リウ·ロンフォン)

リウ·ロンフォン(劉栄楓)
満洲の収穫
1930
油彩·キャンバス
福岡アジア美術館

リウ·ロンフォン(劉栄楓)は、1892年神奈川県出身。日本に帰化して陸軍大学校等で教授を務めた中国系日本人の父の家庭に生まれました。独学で油彩画を学んだのち、「満洲」を画題とする作品を大正時代から描きはじめ、文展等で発表。旧関東州に縁のある人物だったのか、大連で個展を開催するなど、日本と関東州を往復していたようです。日露戦争後に日本が満洲の権益を得たことによって、その肥沃な大地のイメージが絵画に描かれるようになりました。明らかに19世紀のフランスの画家ミレーの絵画を参照したと思われる本作の収穫風景は、満洲事変前の作品とはいえ、その後の日本の大陸進出を予見する希望のイメージを創出しています。同種の地平線が広がる田園風景が、その後の満蒙開拓団募集の広告等に繰り返し使用され、1932年に建国された満洲国の典型的な視覚像として定着します。

満洲へ!!(拓務省ポスター)

1930年代

手前に大きく、笑顔の農夫/農婦を配し、背後に果てしなく広がる大地を描く構図のポスターが、満洲開拓移民募集として数多く制作されました。これはその典型的な一枚。同様の構図は、旅行案内である『満鮮の旅』の表紙や、プロパガンダ誌『満洲グラフ』裏表紙にも見られます。福沢一郎の《牛》は、この構図を逆手にとって諷刺化しているわけです。

「五族協和」のスローガン

1932年に「満洲国」が日本の傀儡国家として建国された際に提唱されたのが、複合民族国家を志向する「五族協和」という理念です。ここでいう「五族」とは、基本的には漢族、満洲族、モンゴル族、朝鮮人、日本人を指します。このイデオロギーは、ポスターやグラフ誌を媒体に、様々なパターンで視覚化されましたが、新京(現長春)の満洲国国務院総務庁玄関の壁画として描かれた岡田三郎助《民族協和》をはじめ、しばしば女性や子どもの姿で表象されました。

満洲·中国観光と戦争

1937年に日中戦争が始まり、当時のいわゆる「北支」(現在の華北地区に重なる)が日本軍の占領下におかれると、すぐさま観光案内パンフレットが発刊されました。日本人画家や写真家も現地を訪問し、競うように中国の文化·風物を題材に制作しました。なかでも万里の長城、河北省の承徳のラマ廟、北平(現北京)の紫禁城、山西省大同の雲崗石窟といった「文化遺産」が主題として選択されたことが注目されます。
貴重な文化遺産の庇護者としての日本、という象徴的な意味合いが、その表象の背後に潜んでいるためです。

牛(福沢一郎)

福沢一郎

1936
油彩·キャンバス
東京国立近代美術館

福沢は1935年に「満洲国」を旅行しましたが、旅行前には建設と生産の国と聞いていたのに、現地を訪れてみると多くの人々が道端で昼寝をしているのに驚いたといいます(『みづ系』1935年10月号)。その体験はこの作品にも反映されているようです。地平線の広がる乾いた大地の手前には、二頭の牛が威容を誇りますが、よく見ると部分的に穴があき、安普請の看板のようです。理想国家と宣伝された「満洲国」の、遠く離れた日本から見える虚像と、現地で体験した現実とのギャップが、象徴的に描き出されているといえるでしょう。

「行軍」の情景

日中戦争の過程で、緒戦においては戦果を伝える報道に人々は沸き立ちましたが、長期化するにつれ、次第に兵士の日常を伝える戦争ルポルタージュ文学が注目されるようになります。その代表的なものが、火野葦平(陸軍伍長·玉井勝則)の『麦と兵隊』です(1938年9月単行書刊行)。また「露営の歌」(1937年)や「愛馬進軍歌」(1939年)などの軍歌もこの当時ヒットしました。このように「行軍」の主題は、文学や音楽や映画などのメディアの複合により、大衆的な共感の磁場を形成したのです。絵画もこれに加わり、「歴史画」と呼ぶべきモニュメンタルな表象をめざしました。

娘子関を征く(小磯良平)

小磯良平
娘子関を征く
1941 作戦記録画
油彩·キャンバス
東京国立近代美術館(無期限貸与)

1937年10月の中国山西省の要衝、娘子関での日本軍の進軍を描いた作品です。小磯は、激しい戦闘場面ではなく、進軍する兵士の群像として本作を描きました。画面の右端には休息をとる兵士、そこから左に進むにつれ、画面奥へと進む隊列に、兵士や馬が加わっ
ていくように、見る者の視線が誘導されます。縦長の画面を1:2で分割する石橋の下に、綿密に人と馬を
構成し(画面全体に下書きのグリッドが鉛筆で描かれているのがわかります)、一見、何気ない軍隊の日常
を、あたかもモニュメンタルな歴史画のように描きだしています。

臨安攻略(硲伊之助)

硲伊之助
臨安攻略
1941年代 作戦記録画
油彩·キャンバス
東京国立近代美術館(無期限貸与)

空爆の視点

空爆の視点
1941年に開催された第5回海洋美術展には、田辺至《南京空襲》など「空爆」に関わる絵画が数多く展示されました。上空から俯瞰の視点で、空爆する航空機の機影と、その下に広がる攻撃対象となる大地を同一フレームに収める典型的な空爆イメージが、公式な作戦記録画として定着を見たのです。一方でこの構図からは、破壊された日常や難民化する人々といった地上の被害の情景が排除され、空を支配したという優越性が美的に強調されています。

南京空襲(田辺至)

田辺至
南京空襲
1940 作戦記録画
油彩·キャンバス
東京国立近代美術館(無期限貸与)

大東亜共栄圈の夢

1940年8月、第二次近衛内閣は「大東亜共栄圏」の構想を唱えました。これは欧米の帝国主義の打倒と、日本主導によるアジア全体の共存共栄を謳うものでしたが、その背景には、戦争を継続するための資源を東南アジアで確保しようとするねらいがありました。『写真週報』など当時のグラフ誌には、南方の豊かな資源を紹介する記事が頻出します。また同じグラフ誌をめくると、これらの地域で「日本語学習」「ラジオ体操」「神社設営」といった「日本化」が進められていたことを示す記事も目につきます。

シンガポール最後の日(藤田嗣治)

藤田嗣治
シンガポール最後の日(ブキ・テマ高地)
1942 作戦記録画
油彩·キャンバス
東京国立近代美術館(無期限貸与)

1941年12月8日から始まるマレー作戦の大詰め、翌年2月11日のシンガポール、ブキ·テマ高地の占領を描いた作品です。画面手前の高地には日本軍兵士の群像が描かれ、画面右では傷ついた戦友を抱きかかえた兵士が、はるか遠方を眺めるように促しています。
彼らの視線の先にはシンガポール市街がパノラマ的に広がり、陥落直前の市街の随所から煙が立ち上る一方、画面左上からは陽光が幾条も差し込み、市街を明るく照らし出しています。藤田は、西洋の古典的歴史画の系譜に連なるように近代戦を描くことを企図して、このような演出を施したと考えられます。

古い通り(リウ·カン)

リウ·カン(劉抗)
古い通り
1950
油彩·キャンバス
福岡アジア美術館

1911年、中国福建省の生まれ。1916年家族とともに英領マラヤに移住。1928年上海新華芸術大学卒業後渡仏、アカデミー·ド·ラ·グランド·ショミエールで学びました。1941年よりシンガポールの南僑師範学校で教鞭をとり、シンガポールの近代美術のパイオニアのひとりとして自身の制作と後進の指導にあたります。
 ここで描かれているのは、ショップハウスと呼ばれる、1階が店舗、2、3階が住居になっているマレー半島の華人居住区独特の建築様式です。南洋のローカルな華人文化としてしばしば画題に取り上げられた風景ですが、本作にその賑わいはありません。1階の入口部分が木材を打ち付けて封鎖されており、「何かが起こったあと」の荒んだ場景として表現されています。抜けるような青空と対照させることで、戦争と日本占領下で受けた傷が、戦後も癒えずに残っていることを物語っています。

神兵の救出到る(藤田嗣治)

藤田嗣治
神兵の救出到る
1944 作戦記録画
油彩·キャンバス
東京国立近代美術館(無期限貸与)

場所は蘭印(オランダ領東インド、現在のインドネシアおよびマレーシアの一部)。現地に駐在するオランダ人の邸宅に、今まさに日本兵が踏み込んだ瞬間が描かれています。壁にかけられた絵や調度品から、その富裕ぶりがうかがえますが、家の主はすでに逃げ出し、縛り上げられた現地女性(家政婦)だけが怯えるようにうずくまっています。題名が示すように、欧米による植民地支配から東南アジアを解放するために、日本兵が「救出」に来た場面のはずですが、怯える現地女性の様子からは、日本兵もまた脅威でしかないことが露呈しているようにも見えます。

衛生隊の活躍とビルマ人の好意(鈴木良三)

鈴木良三
衛生隊の活躍とビルマ人の好意
1944 作戦記録画
油彩·キャンバス
東京国立近代美術館(無期限貸与)

医師の子として生まれ、自身も医学を学んだ後に画家に転向した鈴木は、戦闘場面よりも医療や看護の場面を描いた作品を得意としました。1943年に陸軍と日本赤十字社から記録画作成の依頼を受けた彼はビルマ(現ミャンマー)に渡り、シャン高原の野戦病院に1ヶ月ほど滞在して、その取材をもとに本作を描きました。作戦記録画で現地の人々が描かれる場合は女性か子どもであることが多く、「守る日本兵/守られる·奉仕する現地女性」という関係の枠組みが堅持されていますが、兵士たちにヤシの実を供給する女性たちを描いた本作も、そのバリエーションとして位置づけられます。

四月九日の記録 バタアン半島総攻撃(向井潤吉)

向井潤吉
四月九日の記録(バタアン半島総攻撃)
1942 作戦記録画
油彩·キャンバス
東京国立近代美術館(無期限貸与)

1942年4月9日、日本はフィリピンのルソン島にあるバターン半島を占領しました。左右に画面を横切る人々は、前景がアメリカ兵とフィリピン兵の捕虜、中景が日本兵であり、後景にはフィリピンの避難民が立ち尽くしています。日本陸軍の報道班員として現地に赴いた向井はこの光景を「濁流」と形容し、人々がひしめき合う混沌とした様子で描き残しています。マラリアなどで多くの死者を出したこの移動は、のちに「バターン死の行進」と呼ばれることになります。

バターンの少女(フェルナンド·アモルソロ)

フェルナンド·アモルソロ
バターンの少女
1942
油彩·キャンバス
福岡アジア美術館

20世紀のフィリピンを代表する国民画家のひとり。牧歌的な田園風景を描く穏健な作風で定評のある画家でしたが、1942年以降の日本占領下のマニラで、日本軍への抵抗の意思を示す絵画を多数制作しました。本作が言及するバターン半島での日本軍との激戦は「死の行進」(投降した米軍·フィリピン軍捕虜を収容所まで歩かせ、多くの犠牲者を出した出来事)で知られ、バターン半島は後にフィリピンの愛国·抵抗を象徴する場所となりました。キリスト教の図像学を介して倒れた兵士を悼むこの作品は、1967年に切手の図柄に採用されています。


【3】戦場のスペクタクル

戦場のスペクタクル
日中戦争から太平洋戦争にかけて、陸海軍は当時の中堅画家に対して、前線における兵士たちの活躍を銃後に伝え、後世に永く残すことを目的とする作戦記録画の制作を依頼しました。大画面に構成された戦争を「記録」する絵画は、聖戦美術展、大東亜戦争美術展、陸軍美術展、海洋美術展など、全国を巡回した展覧会で公開され大勢の観客を集めました。これらの展覧会には、軍の委嘱による記録画のみならず、公募による作品も含まれていました。例えば、1939年開催の第1回聖戦美術展の公募要項をみると、「戦線」「占拠地」「銃後」等と主題別のカテゴリーが設けられていたことがわかります。これらが「戦争画」と総称される絵画ジャンルを形成したのです。公式の作戦記録画が担ったのは主として「戦線」の描写となりますが、戦況を伝えるために写真や映画ではなく絵画が選択された理由はどこにあったのでしょうか。他のメディアと異なる「絵画」の性質や約束事に注目しつつ、戦闘場面のスペクタクル化という観点から代表的な作品を読み解きます。

香港島最後の総攻撃図(山口蓬春)

山口蓬春
香港島最後の総攻撃図
1942 作戦記録画
紙本彩色
東京国立近代美術館(無期限貸与)

1941年に起きた、英国が支配する九龍半島および香港島への日本軍の攻撃を題材にしています。戦争記録画の制作において、日本画は油彩に比べ迫真性に欠けると指摘されましたが、この絵は「静的なピトレスクな絵画的効果」(『国画』1943年1月号)をあげ、「大和絵風の描写をうまく生かして、陥落三日前の香港島を美しく描き出している」(『旬刊美術新報』1942年12月20日号)と評価されました。岩絵具の鮮やかな群青(山並み)や金(炎)が描き出す「美しい」風景は、しかし同時に戦争の「美化」という、戦争と芸術を考える際に避けて通れない問題をはらんでいるともいえます。

哈爾哈河畔之戦闘(藤田嗣治)

藤田嗣治
哈爾哈河畔之戦闘
1941 作戦記録画
油彩·キャンバス
東京国立近代美術館(無期限貸与)

1939年7月に満蒙国境をめぐって日本軍とソ連軍が衝突した「ノモンハン事件」を描いたものです。実際の戦闘は、双方が多大な犠牲を払う悲惨なものでしたが、その事実は当時の国民には伝えられていません。この作品の発注者である予備役中将·荻洲立兵はノモン
ハンで戦死した部下の鎮魂のために、藤田に制作を依頼しました。藤田は4mを超える極端に横長のキャンバスを用いてこれに応え、匍匐前進する日本軍兵士の隊列によって横の広がりを、手前の戦車と画面奥の戦闘との大きさの対比によって奥行きを強調し、パノラマ的な効果を高めています。

佐野部隊長還らざる大野挺身隊と訣別す(田村孝之介)

田村孝之介
佐野部隊長還らざる大野挺身隊と訣別す
1944 作戦記録画
油彩·キャンバス
東京国立近代美術館(無期限貸与)

1942年12月15日、ガダルカナル島の米軍司令部に奇襲攻撃を行った大野挺身隊の3人が、出撃前に部隊長と別れの盃を交わしている場面を描いた作品です。題名の通り3人は帰還することはありませんでした。密林の暗がりの中、画面中央の彼らにスポットライトのように光が差し込み、劇的な演出効果を挙げています。悲壮な場面ではありますが、当時の人々はこの絵を宗教画における殉教図のように受け止めたものと思われます。

神兵パレンバンに降下す(鶴田吾郎)

鶴田吾郎
神兵パレンバンに降下す
1942 作戦記録画
油彩·キャンバス
東京国立近代美術館(無期限貸与)

本作品に描かれたのは、1942年2月14日、蘭印スマトラ島のパレンバンに陸軍落下傘部隊が降下した模様です。落下傘部隊のイメージは鮮烈な印象を与え、同じ年に「藍より蒼き 大空に大空に 忽ち開く 百千の 真白き薔薇の 花模様 見よ落下傘 空に降り…(以下略)」と謳われた「空の神兵」という軍歌も誕生します。鶴田は空挺作戦の一連の動きを異時同図法的に構成しようと努力しますが、最終的に青空に舞う落下傘の遠景に重きを置く構図を選択しました。それは当時「見るからに楽天的」(『新美術』1943年2月号)と評されたようです。


【4】神話の生成

神話の生成
戦時下の美術は、他の表現分野から切り離された形で存在していたわけではありません。美術は、文学や音楽や映画など他の芸術ジャンルと連動しながら、時局を反映したイメージを供給し続けました。特に紀元二千六百年を記念する事業や、太平洋戦争の開戦、そして戦況が悪化してからの「玉砕」、「特攻」など社会的に大きな影響を与えた報道に際しては、必ず複数のジャンルから作品が登場し、それらが連鎖することで国民感情に働きかける力が増幅していった過程が見て取れます。ラジオからは軍歌や愛国詩が流れ、街中には標語やポスターが溢れ、展覧会では戦果を記念する壁画大の戦争画が展示されていました。このように目と耳に訴える表現がかけ合わされて、人々を動かす「物語」が生まれていくのです。

「12月8日」という記念日
米英蘭を相手に太平洋戦争が始まった1941年12月8日。一般にはハワイの「真珠湾攻撃」をその端緒として認識する人が多いですが、実際には英領マレー半島への上陸作戦がわずかに先行します。中村研一《コタ·バル》はその作戦を描いたものです。開戦はラジオによって国民に広く報じられ、緒戦の勝利は国民を熱狂させました。ラジオではまた、高村光太郎ら詩人たちによる「愛国詩」が朗読される番組が誕生します。開戦から1年後の1942年12月に開かれた第1回大東亜戦争美術展では、《コタ·バル》をはじめ戦勝を描いた作戦記録画が展示され、多くの観衆を集めました。

コタ·バル(中村研一)

中村研一
コタ·バル
1942 作戦記録画
油彩·キャンバス
東京国立近代美術館(無期限貸与)

1941年12月8日の真珠湾攻撃によって太平洋戦争は始まったと言われることが多いのですが、その1時間ほど前に、マレー半島北端のコタ·バルへの上陸作戦は始まっていました。対英米開戦を告げる歴史的作戦を描くにあたって、中村は翌年6月に現地を訪れ、実際に作戦のあった日と同じ月齢、同じ時間帯の海岸を取材しました。中村はこの取材をもとに、月明かりによる光と闇の対比と、敵側からの視点による迫力ある構図によって、はいつくばりながら鉄条網を切断しようとする兵士や手榴弾を投げようとする兵士を劇的に描き出しました。発表時には「レアリズムの段階から、すでに浪漫主義絵画の域に踏み入っている」(『新美術」1943年2月号)と評されています。

「玉砕」の神話

「玉砕」の神話
1943年5月、アリューシャン列島のアッツ島で、日本陸軍守備隊がアメリカ軍との戦闘により全滅しました。同年4月の、海軍連合艦隊司令長官·山本五十六のパプアニューギニアでの戦死の知らせと続けて報道されたこともあり、日本国民に大きな衝撃を与えました。部隊の全滅は「玉砕」という言葉により美化され、歌や文学や絵本などさまざまなメディアに取り上げられて、「仇討ち」の国民感情を醸成しました。藤田嗣治の作品《アッツ島玉砕》もその文脈の中で生み出されたのです。

アッツ島玉砕(藤田嗣治)

藤田嗣治
アッツ島玉砕
1943 作戦記録画
油彩·キャンバス
東京国立近代美術館(無期限貸与)

1943年5月29日、アリューシャン列島のアッツ島で、アメリカ軍の攻撃により日本の守備隊が全滅した出来事が、敵味方の入り乱れる死闘図として描かれています。全滅は「玉砕」という言い方で美化され、国に殉じる行為が軍人の鑑であると報じられたため、藤田の絵は陰惨な図柄であるにもかかわらず、観衆に熱狂的に受け入れられました。同年9月の国民総力決戦美術展に展示された際には、作品の前に賽銭箱が置かれ、脇には藤田自身が直立し、観客が賽銭を入れると藤田がお辞儀したというエピソードもあります(野見山暁治『四百字のデッサン』河出書房新社、1978年)。ここで作品は単なる記録を超え、追悼と「仇討ち」の気分を醸成するための機能を果たしました。その気分の醸成には、報道や文学、絵本、歌などのメディア·ミックスがあったことも見逃せません。

アッツ島爆撃(小川原脩)

小川原脩
アッツ島爆撃
1944
油彩·キャンバス
東京国立近代美術館(無期限貸与)

1942年6月に日本軍はアリューシャン列島のアッツ島を占領します。その際の爆撃の様子を描いた作品ですが、写真をもとに描いたというその描写は淡々としていて、派手な爆炎も燃え盛る敵陣も見当たりません。しかも不思議なことに、本作が発表されたのは1944年3月の第2回陸軍美術展。つまりすでにアッツ島は米軍に奪還され、日本軍の守備隊が玉砕した1943年5月よりずっと後のことでした。玉砕が国民に知れ渡った後に、それ以前の戦闘を淡々と描いた作者の真意はどのようなものだったのでしょうか。

「肉弾」、特攻の原型

1932年2月22日、第一次上海事変において、敵陣に爆弾とともに突入して戦死した3人の兵士(江下武二、北川丞、作江伊之助)は「肉弾三勇士」または「爆弾三勇士」の名で、新聞各紙で大きく報道され、その後、映画、歌舞伎、軍歌から童謡や玩具に至るまで、さまざまなメディアで表されました。美術においても、銅像や絵画がいくつも制作されています。こうしたブームは軍主導ではなく、メディアと大衆の側の自発的な活動だったといえますが、結果として、自己犠牲を尊重する後の「特攻」の原型をかたちづくることになります。

「特攻」の表象

「特攻」は特別攻撃の略で、軍の組織的作戦としては1944年10月に編成された「神風特別攻撃隊」を端緒とする、体当たり攻撃を指します。航空機によるものと潜航艇(人間魚雷)によるものとがありました。士気高揚の面から、体当たりの場面そのものが描かれる例は稀で、むしろ出撃前の盃をかわす儀式、旗を振っての見送り、そして飛び立つ飛行機と大空に消えていくまでのロングショットが、当時のメディアに繰り返し表されました。さらに、子どもたちを次世代の航空兵として「空」へといざなう言葉とイメージが頻出したことも見逃せません。

萬朶隊比島沖に奮戦す(宮本三郎)

宮本三郎
萬朶隊比島沖に奮戦す
1945 作戦記録画
油彩·キャンバス
東京国立近代美術館(無期限貸与)

萬朶隊は、富嶽隊とともに陸軍最初の特別攻撃隊として1944年10月に編成されました。フィリピンで特攻を行うべく準備を進める中、移動中に米軍機の攻撃を受け隊長以下主力の4名を失いましたが、その後11月12日に残された部下たちはレイテ湾において米軍の艦隊に突入、任務を遂行しました。ただひとり生還した操縦士については、鴻上尚史『不死身の特攻兵』(講談社、2017年)に詳しく記されています。なお、このときの戦果は過大に報道されましたが、本作もそれを受けてか、爆炎や荒波の過剰なまでの交錯によって、現代の戦闘をフランス19世紀のロマン主義絵画のように描き出し、記録を超えてモニュメンタルなものにしようとする意図を感じさせます。

特攻隊内地基地を進発す(伊原宇三郎)

伊原宇三郎
特攻隊内地基地を進発す(一)
1944 作戦記録画
油彩·キャンバス
東京国立近代美術館(無期限貸与)

1944年12月3日、茨城県水戸東飛行場から飛び立つ陸軍特別攻撃隊「殉義隊」と、それを見送る同僚や家族が描かれています。機体の尾翼に記されたカタカナは、飛行士の頭文字で、「ツ」は隊長の敦賀真二の搭乗機であることを示しています。彼らはフィリピンに向かい、12月21日と22日にミンドロ島付近で特攻を行いました。伊原は隊長の敦賀と同郷だったこともあり、出撃前の彼らを取材する際に、彼とその両親に話を聞く機会があったといいます。見送る人々の中にはその両親もいたそうですが、その中に一人だけ、画面を見る私たちのほうを見つめ返す少女がいて、はっとさせられます。

水戸東飛行場


【5】日常生活の中の戦争

日中戦争から太平洋戦争は、日本がはじめて経験する総力戦でした。総力戦は、兵士のみならず民間人も含めてすべての人々とあらゆる資源を動員するものです。前線/銃後、男/女、大人/子どもなどの境界は、戦況の変化とともに揺れ動き、それに応じて日常生活の形やそれぞれに割り当てられた役割が変化していきました。
本章では、とりわけ女性画家が集団制作した作品や『主婦之友』の挿図などの戦時の女性イメージの分析を通して、日常と戦争が隣り合わせにあった当時の暮らしを追体験するとともに、様々な分野にわたって戦時の労働を担った女性のあり方について考察します。
さらに、戦況が悪化する過程で、安定していると思われた前線/銃後の境が根本から揺らいだ事態を表す戦争画が登場します。ひとつは民間人も巻き込んだ戦闘場面を描いた作品。もうひとつは空襲下で逃げ惑う人々を描いた作品です。兵士を中心とする前線の戦闘場面から、日常が戦場と化していく戦争表象の変化をたどります。

女流美術家奉公隊

戦時下において、女性は「良妻賢母」として、さらに男性に代わる労働力として銃後を守る役割を担っていました。美術の分野においては、多くの男性画家が従軍して戦地に赴く一方で、女性画家には静物画や風俗画を描くことが求められていました。そんな中、1943年に洋画家·長谷川春子を中心に女流美術家奉公隊が結成されます。奉公隊は「戦ふ少年兵」展を開催し、世の母親たちに息子を少年兵として志願させるよう呼びかけました。また1944年には陸軍省の依頼により、銃後を支える女性たちの諸相をモンタージュした《大東亜戦皇国婦女皆働之図》を共同制作しています。

大東亜戦皇国婦女皆働之図・春夏の部
(女流美術家奉公隊)

女流美術家奉公隊
大東亜戦皇国婦女皆働之図
春夏の部
1944
筥崎宮

この作品には、防空訓練や軍需工場での労働をはしめ、さまざまな場面が描かれています。近代日本美術研究者·吉良智子氏の研究により、ここに描かれた女性たちの労働の具体的な内容が明らかになりました。たとえば、画面上段左中央に描かれた白い服の女性たちは、製図作業に従事しています。中段左端からは、炭鉱での選炭作業、造船、砲弾の製造、塩田での労働、さらにその隣には海女の姿も見て取れます。これらの描写にあたっては、当時の雑誌や新聞、グラフ誌に掲載された写真や挿絵が参照されました。

大東亜戦皇国婦女皆働之図・秋冬の部
(女流美術家奉公隊)

女流美術家奉公隊
大東亜戦皇国婦女皆働之図
秋冬の部
1944
油彩·キャンバス
靖國神社遊就館

この作品の遠景には、「春夏の部」の太陽と対比をなすように、月と富士山のイメージが配されています。上段右中央には靖國神社が描かれ、その脇には千人針を縫う女性たちの姿が見られます。さらに中段右側では、6人の女性たちが飛行機の翼に張る白い大きな羽
布を縫っている様子が描かれています。終戦後、多くの戦争画が廃棄·焼却処分される中で、《皆働之図》の2点は、長谷川春子のはたらきにより崎宮に保管されました。本作には靖國神社が描かれていることから、その後1962年に同社へ奉納されました。

総力戦と国民の生活

日中戦争勃発後の1938年に国家総動員法が公布され、日本は総力戦へと突入していきました。男性が戦地へと徴兵されるなか、女性や子どもたちも検約に努め、千人針を縫い、労働に従事することで、国家に貢献しました。総動員体制の確立とともに、ポスターは商品やサービスの広告にとどまらず、国策宣伝を担うメディアへと変化し、戦況が悪化するにしたがってその傾向を強めていきます。
戦時下のスローガン「進め一億火の玉だ」の「一億」という数字には、銃後の女性や子どもだけでなく、当時の外地の日本人および植民地の人口も含まれていました。

前線と銃後の境がなくなるとき

サイパン島に日本空襲のための航空基地を設置しようとする米軍と日本の守備隊との闘いは、7月7日の日本軍の「玉砕」で終結しました。大本営による発表後、新聞紙上ではサイパン島陥落に至る状況と、兵士と民間人の自決の様子が詳細に報道されました。藤田嗣治はこの記事をもとに、民間人を中心に据えて集団自決の場面を描く群像表現を構想し、1945年4月から東京府美術館で開催された陸軍美術展で発表しました。サイパン島陥落後の報道では「前線も銃後もない。正に国土が戦場」(『写真週報』1944年7月6日)であると、本土決戦の覚悟が唱えられましたが、藤田の作品《サイパン島同胞臣節を全うす》は、まさに日常生活が戦場と化した東京空襲の最中に公表されたのです。

サイパン島同胞臣節を全うす(藤田嗣治)

藤田嗣治
サイパン島同胞臣節を全うす
1945 作戦記録画油彩·キャンバス
東京国立近代美術館(無期限貸与)

1944年、サイパン島では日米両軍による死闘が繰り広げられました。戦火に巻き込まれた住民たちは、島の北端に位置するマッピ岬へと追い詰められ、次々と身を投じたことから、この断崖は後に「バンザイ·クリフ」と呼ばれるようになります。製糖業が盛んだったサイパン島には沖縄からの移民が多く、民間人の犠牲者の大半は沖縄県出身者でした。藤田は報道記事をもとに、戦闘のなかで集団自決に至った民間人の姿を想像によって描いています。宗教画のような劇的な描写は、しばしばドラクロワの《キオス島の虐殺》(ルーヴル美術館蔵)と比較されます。

空襲のイメージ 地上の視点から

第2章2-6で空爆イメージの定着について紹介しましたが、実はそれと同時に空襲を受ける地上の観点から「防空思想」の普及が図られていました。空からの爆撃に備えて、日中戦争勃発直後の1937年10月に、灯火管制や防毒や避難といった防空業務を統制する「防空法」が施行されました。そのシンボルとして様々なメディアに流布したのが「ガスマスク」です。空襲の恐怖をあおる画像と、そこから身を守る道具としての物々しいガスマスク、そして「銃後」を守る役割を負わされた女性がセットとなって、日本における地上の側の「空襲」イメージが生成されました。

空襲!備へよ防毒面(東京・藤倉工業株式会社ポスター)

1930年代
山崎記念 中野区立歴史民俗資料館

皇土防衛の軍民防空陣(鈴木誠)

鈴木誠
皇土防衛の軍民防空陣
1945 作戦記録画
油彩·キャンバス
東京国立近代美術館(無期限貸与)

画面左側には防火活動にあたる女性たち、右側には避難する人々の姿が描かれています。防災頭巾や女性が手にするバケツ、延焼を防ぐための鳶口といった道具は、物資が不足するなかで重要な防災用具とされていました。戦時下の国民は「隣組」単位でバケツリレー
などの防空演習に励みました。本作は、1945年3月10日の東京大空襲の様子を描いたもので、翌月に開催された陸軍美術展覧会に出品されました。多くの作戦記録画が前線を題材とする中、銃後の市民生活を描いた本作は、珍しい作品といえるでしょう。


【6】身体の記憶

1945年8月15日の戦争終結を伝える玉音放送、そして9月2日の日本による降伏文書の調印によって太平洋戦争は終結しました。敗戦国となった日本は連合国の占領下で非軍事化や民主化等の改革を進めます。深刻な不況に陥っていた日本経済は、1950年に勃発した朝鮮戦争の特需によって回復し、焼け跡からの経済的な復興を実現しました。東西冷戦が激化する中、日本は西側諸国との講和を選択。1952年のサンフランシスコ平和条約の発効によって日本は主権国としての独立を回復しますが、同時に日米安全保障条約によって独立後も米軍への基地提供義務を負うことになります。
このような複雑な力学で成り立つ「戦後」の社会において、過去の戦争の事実から何が記憶され、何が忘却されたかという現在にまで続く「戦争の記憶」の問題が立ち上がります。1950年代には忘却に抗うように、戦争の痛ましい記憶を定着しようと試みる一群の作家が登場しました。戦時中には描かれることのなかった傷つき、変形した身体イメージが媒介となり、容易には消えることのない過去の戦争の悪夢が呼び起こされたのです。

原爆の図 第2部 火 再制作版(丸木位里·俊)

丸木位里·俊
原爆の図 第2部 火(再制作版)
1950-51(後年に加筆)
紙本彩色
広島市現代美術館

この作品は、丸木位里と赤松俊子(丸木俊)による「原爆の図」三部作の「火」(前期展示)、「水」(後期展示)の再制作版です。被爆した人々の身体を克明に描写した「原爆の図」は全国を巡回し、占領下において統制されていた原爆被害の情報をいち早く国民に伝えるメディアとしての機能を果たすようになります。1950年末頃にアメリカでの展示を打診されると、丸木夫妻は「原爆の図」を複数化するためにこの再制作版を制作。海外展示は実現しませんでしたが、「原爆の図」への関心と需要が高まるなか、再制作版も各地で展示されました。なお、1974年に作者自身によって彩色などの大幅な加筆が施されています。


【7】よみがえる過去との対話

1965年以降ベトナム戦争が激化すると、その映像はテレビや週刊誌等を介して日本にも届けられました。日本と沖縄に存在する米軍基地が出撃·兵站基地となり、日本がベトナム戦争に間接的に関与していることが明らかになると、1965年4月に「べ平連」(ベトナムに平和を!市民連合)が結成され、様々なメディアを駆使して反戦運動が展開されました。同時に日本人の作家、写真家、美術家、漫画家、デザイナー等がベトナム戦争に反応する仕事を発表します。ベ平連の主要メンバーであった小田実が主張したように、ベトナム戦争は日本人が過去の戦争を想起する契機となりました。戦争体験の風化が叫ばれた1970年前後に、アジアとの関係において過去の戦争を捉え直す視点が芽生えたのです。
さらに、この時期に特筆すべきは、「空襲」「原爆」「沖縄戦」において、歴史から零れ落ちてしまいそうな民間人の戦争体験を収集·記録する活動が、市民を巻き込んで立ち上がったことです。戦争の「小さな」記憶を掘り起こす実践が、過去に向き合う意識の変化をもたらしました。

証言の時代

戦後20年が経過し、戦争体験の「風化」が叫ばれた1965年以降、一般の人々の体験を記録する動きが活発になりました。1968年に『暮しの手帖』は、公募で集まった原稿をもとに「戦争中の暮しの記録」特集を組みました。1970年には空襲体験の記録を残そうと「東京空襲を記録する会」が発足します。軍隊の戦闘の経緯を記す公式の戦記とは異なり、そこから零れ落ちてしまう民間人の「小さな」記憶を拾い集める動きが、市民運動と連動しながら全国に拡大していきました。漫画家の手塚治虫や水木しげるが、個人史に基づいた戦争漫画を発表するのも同時期のことです。終戦から時を経て、封印していた記憶の扉が開きはじめたのです。


【8】記録をひらく

戦争の記録を目的に制作された戦争美術は、他国においては戦争博物館や
歴史博物館に収蔵されることが多いのですが、日本では近代美術館である当館が保管しています。これらは、終戦直後に米軍に接収され、長らく米国内で保管されていましたが、「日本近代美術史上の一つの大きな穴となっており、これを補填する文化的な観点」から返還交渉を行ったという報告が残されています(当館発行『現代の眼』188号、1970年7月)。このような1960年代の交渉の結果、1970年、日本に「無期限貸与」という形で「返還」されました。
接収された日本映画や戦争美術といった文化財を取り戻そうとする流れがこの時期に進行していたのです。では、戦時のプロパガンダとして機能した美術が、戦後25年を経た社会の変化を背景に、どのように読み替えられ、歴史の中に位置づけられたのでしょうか。戦争画を描いた作家の反応や、本土とは異なる眼差しで事態を見つめていた沖縄の作家の視点も交えて、当時の日本社会の受容の仕方を様々な資料を通して検証し、戦争記録画から受け取ることのできる「学び」を提示します。

山下、パーシバル両司令官会見図(宮本三郎)

宮本三郎
山下、パーシバル両司令官会見図
1942 作戦記録画
油彩·キャンバス
東京国立近代美術館(無期限貸与)

太平洋戦争の緒戦のシンガポール陥落を伝える本作は、当時、歴史画の達成として高く評価されたものです。1960年代に戦争画返還に向けた世論が形成されていく過程でも、この作品は象徴的に使われ、1967年8月18日の『週刊読売』の「失われた戦争絵画」特集の表紙も飾っています。作者の宮本三郎は、戦争画について語る座談会にしばしば招かれて発言をしていますが、返還前に、現在の視点からの読み替えについて次のように語っていました。「ああいう絵画は、ある意味では戦争を避けるための戒めにもなるだろうし、まとまった場所に、外国の例にしたがって保管されてしかるべきだ」と(『週刊読売』1967年8月18日号)。

無題(真喜志勉)

真喜志勉
[無題]
1977
油彩·キャンバス
東京国立近代美術館

沖縄出身の画家·真喜志勉は、ジャズをはじめとするアメリカ文化への憧れと、沖縄に存在する米軍基地への反発とが混ざり合った感情を抱えながら、ベトナム戦争下の沖縄の現実を、マスメディアに流布するイメージのコラージュを通して描き出しました。その作品に、日本の軍人のイメージが登場するのは1970年代半ばのことです。アメリカから返還された宮本三郎の《山下·パーシバル両司令官会見図》を参照する本作は、沖縄、アメリカ、日本の関係の織物となっています。1972年に基地はそのままに沖縄の施政権は「返還」され、1975年の沖縄国際海洋博覧会を契機として本土資本による開発が急速に進展します。アメリカ世からヤマト世への移行を象徴するイメージとして宮本三郎の作品が召喚されたのです。

成都爆撃(小川原脩)

小川原脩
成都爆撃
1945 作戦記録画
油彩·キャンバス
東京国立近代美術館(無期限貸与)

小川原は「殺し合いや撃ち合いといった人間を主題とした絵はやりたくなかった」と考えていたようで、制作した戦争画はすべて飛行機をモチーフにしたものです(『画家たちの「戦争」』新潮社、2010年)。いずれも現場に立ち会うことなく写真と資料をもとに描いたといいます。戦後は、軍部に協力したことを理由に美術界との関係が疎遠になり、また小川原自身が自責の念を抱えていたこともあって、故郷北海道に戻ることを決心しました。その後亡くなるまで中央画壇と距離をとって制作を続けました。小川原の戦後の代表作のひとつ《群れ》(図)に描かれた孤独な犬の姿には、作者自身が投影されているといえるでしょう。90年代のインタビューで、小川原は戦争画が実在することの責任は自分にあると言い、50年以上にわたってその運命に向き合ってきた胸の内を吐露していました。

マユ山壁を衝く(向井潤吉)

向井潤吉
マユ山壁を衝く
1944 作戦記録画
油彩·キャンバス
東京国立近代美術館(無期限貸与)

向井潤吉は、自ら志願して従軍するなど、日中戦争初期から戦争という大きな出来事に積極的に向き合い、表現のレベルで可能なことを模索してきました。本展の第2章で示した、敵側から日本兵の姿を捉えた《突撃》(絵葉書)は戦争表象に新しいボキャブラリーを加えるものでした。しかし、戦況が悪化してからの《マユ山壁を衝く》は、もはや兵士が主役ではなく、それを飲み込む熱帯の植物群に焦点が当たっています。この克明な自然描写と、向井が戦後に開始した民家のシリーズのリアリズムには共通する眼を感じることができるでしょう。向井は、全国を旅して消えゆく民家を記録することに、生涯をかけて取り組みました。

おわりに

本展覧会では、当館が保管する戦争記録画を、どのように次世代に継承すべきかがひとつのテーマとなりました。最大の課題は、すでに終戦から80年が経過し、戦争体験者がますます少なくなる中で、戦時下の文化が置かれていた社会的·政治的な文脈が共有されにくくなっていることです。本展が明らかにしたように、美術を含む視覚的な表現は、決して他のメディアから自立していたわけではなく、同時代に流通していた言説に密接にかかわるものでした。
本展は、「戦争を知らない」世代が、実体験者と異なる視点で過去に向き合うことを積極的に考える機会でもありました。美術や文学などの芸術が虚構を交えて構成する戦争表象を、ジャンル間の比較や大衆文化との関係も含めて俯瞰できる視座を持つこと、さらに、時代や地域を超えた戦争経験との比較考察ができる視点を持つことは、戦争の記憶の継承にとって大きな可能性となるのではないでしょうか。
この展覧会で見てきたように、芸術は過去に、人々を戦争へと駆り立てる役割を果たしました。人々の心を動かす芸術の力の両義性を理解したうえで、未来の平和に向けた想像力に繋げていくために、今後も当館が収蔵する戦争記録画をはじめとする作品は貴重な記録として存在し続けるのです。


別フロアで連動して展示していた戦争画関連

日本画家の戦前/戦中

日本画家の戦前/戦中
昭和に入ると、日本画にもモダンな表現が見られるようになります。単純化されたフォルムや明快な色彩が特徴的です。一方で、戦争がはじまると、日本画家も絵筆によって国に貢献しました。洋画家たちが臨場感に満ちた写実的な描写を目指したのに対し、日本画家たちが使用する岩絵具は写実表現には不向きな画材でした。そのため、日本画家による戦争画には、劇的な演出や迫真的な描写はあまり見られません。しかし、彼らはそれまでの画業で培った造形感覚をいかしながら、外地の風土や自然、日常の光景を描きました。
戦前と戦中の作品を見比べたとき、どのような関係を見出せるでしょうか。

軍用機献納作品展
日本画家報国会が主催したこの展覧会は1942(昭和17)年3月19日から22日
に日本橋三越で開催され、その後、大阪に巡回しました。当館はこの時に出品された184点を所蔵しています。これらはすべて三越に買い上げられ、代価20万円(現在の約5億円)は陸海軍に、作品は東京帝室博物館に納められました。一見、戦争とは無関係な作品に見えますが、国土を象徴する富士や桜、国花である菊、戦闘機を暗示する猛禽類、祝勝を象徴する鯛などのモチーフには、戦勝祈願の意図が込められています。そのほかにも、歴史画や、良妻賢母の理念を説く主題などが好まれました。

戦艦献納展
こちらの2点は、1944年2月に東京帝室博物館表慶館(現在の東京国立博物
館)で開催された「戦艦献納帝国芸術院会員美術展」の出品作です。さかのぼること2年前、日本海軍は第三次ソロモン海戦で戦艦2隻を失いました。兵力の要である戦艦の喪失は国民に衝撃を与え、戦艦献納運動が広がります。戦艦献納展には帝国芸術院の会員である横山大観、川合玉堂、小林古径、安田報彦などの大家が参加しました。

基地に於ける整備作業(山口華楊)

山口華楊
基地に於ける整備作業
1943 昭和18年
紙本彩色
無期限貸与

1943(昭和18)年、華楊は海軍の従軍画家としてインドネシアに赴きました。海辺の前線基地に着水した戦闘機を整備兵たちが迎えています。中央には、パンツ姿のたくましい兵士が、搭乗員のブーツが海水に濡れないように背負って浜まで運んでいる様子が描かれています。水上戦闘機は、プロペラや水上滑走用のフロートなど細部に至るまで克明に描写されており、花鳥画や動物画の名手として知られる華楊としては稀有な作例です。

《基地に於ける整備作業》のための下絵(山口華楊)

山口華楊
《基地に於ける整備作業》のための下絵
1943 昭和18年
鉛筆、彩色·紙
上田研一氏寄贈

当館が保管する戦争記録画《基地に於ける整備作業》の下絵として描かれました。海軍の従軍画家としてインドネシアに派遣された華楊は、1943(昭和18)年10月に帰国すると、直ちに作品の制作に取り掛かり、本画は同年12月に開催された第2回大東亜戦争美術展に出品されています。下絵の右下には紙が貼り足され、人物の大きさやポーズを試行錯誤しながら構図を練っていたことがわかります。兵士たちが着用している白いふんどしが、本画では丈の長いパンツに描き直されている点も興味深いです。

山口華楊発 上田秀雄宛書簡
1943 昭和18年
墨·紙
上田研一氏寄贈

1943(昭和18)年5月25日、従軍画家としてインドネシアに派遣される直前、華楊は知人に一通の手紙を出しました。そこには「銃後もいよいよ第一線と変りが無くなりました[…]絵画がこれからどうなるだろうとか世の中がどうなるだろうとか、そんな空想の時ではありません。もっと切実に此の戦争を勝ちぬく為めに闘ふべき時代です」と書かれており、当時の画家としての華楊の覚悟がうかがい知れます。

輸送船団海南島出発(川端龍子)

川端龍子
輸送船団海南島出発
c.1944 昭和19年頃
紙本墨画淡彩
無期限貸与

海南島は南シナ海北部に位置します。この島で鉄鉱石を採掘し本土へ送る輸送作戦は、太平洋戦争末期になると決死の様相を帯びました。そんな主題に日月と南十字星が描きこまれているのはなぜでしょう?日月の意匠には天に命運を祈るという意味合いがあり、戦国時代には武具や衣裳の飾りにも用いられました。一方、南十字星は当時、南方への領土拡大のシンボルでしたが、祈りの仕草にも見えることを龍子は意識していたでしょうか。

小休止(岩田専太郎)

岩田専太郎
小休止
1944 昭和19年
紙本彩色
無期限貸与

岩田専太郎は、大正から昭和にかけて雑誌や新聞などで連載される大衆小説の挿絵を描き、とりわけ華麗で官能的な女性像が絶大な人気を博しました。そんな岩田もまた時代に翻弄され、
本作のような戦争記録画を描いています。
「…華麗な絵を描いて、ものの役に立たない絵かきのごとく扱われた口惜しさに、無理とは知りつつも兵隊の絵を描いて、戦争末期の昭和二十年には、陸軍報道局の命令で、『神風特攻隊基地出発』の記録画を描いている。[…]それが、戦争が終わると、またもとのような華麗な絵を描け、との注文である。どうすればい
いのだ!と思った。」
岩田専太郎『わが半生の記』(家の光協会、1972年)より

攻略直後のシンガポール軍港(矢沢弦月)

矢沢弦月
攻略直後のシンガポール軍港
c.1942 昭和17年頃
紙本彩色
無期限貸与

山田新一と戦争記録画

山田新一と戦争記録画
山田は東京美術学校で油彩画を学んだ後、1923(大正12)年の関東大震災を機に、当時日本の植民地下にあった京城(現在のソウル)に渡り、朝鮮美術展や帝展を中心に活躍しました。1928年からは、友人·佐伯祐三の誘いを受けて2年間パリに滞在します。その後再び朝鮮に戻り、終戦まで同地を拠点としました。戦時中は朝鮮軍報道部美術班長を務め、自らも作戦記録画を制作しました。
敗戦直後、軍司令部から京城駅構内の倉庫に保管されていた戦争画の焼却命令を受けますが、山田はそれらを後世に残すことを望み、朝鮮人の知人宅に分散して隠しました。
そこには宮本三郎、鶴田吾郎、猪熊弦一郎などの代表的な作例も含まれていました。
帰国後にGHQから依頼を受けた山田は、日本各地と朝鮮を巡って151点の戦争画を収集し、東京都美術館に集めました。戦後、画家たちは戦争責任を追及されることをおそれ、戦争画の多くが焼かれたり、行方不明になったりしましたが、当館が保管する戦争記録画は、このような経緯により残された作品群なのです。

仁川俘虜収容所に於ける英豪兵の作業(山田新一)

山田新一
仁川俘虜収容所に於ける英豪兵の作業
1943 昭和18年
無期限貸与

日本軍は1942(昭和17)年に朝鮮の京城(現在のソウル)と仁川に捕虜収容所を設置し、フィリピンやシンガポールなど南方の地域から捕虜を送り込みました。仁川に収容された捕虜たちは港や製鉄所などで労働に従事したとい
われています。朝鮮を拠点にしていた山田は朝鮮軍報道部美術班長を務め、「内鮮一体」(日本本土と朝鮮の一体化を目指す標語)を推し進めるべく戦争画を描きました。敗戦後、戦争記録画の保存に奔走した人物としても知られています。

曉明の天津附近戦闘(山田新一)

山田新一
曉明の天津附近戦闘
1944 昭和19年
油彩·キャンバス
無期限貸与

1937(昭和12)年7月の盧溝橋事件をきっかけに、日本軍は華北へ侵攻し、北平(現在の北京)や天津を制圧しました。本作は、当時の戦闘の様子を描いた作品で、京城の総督府美術館で開催された決戦美術展に出品されました。戦前から朝鮮を拠点に活動していた山田は、1946年にGHQの命令を受け、朝鮮に残された作戦記録画の回収のため現地へ渡航します。捜索の末、京城YMCAのロビーで本作を発見し、日本へ持ち帰りました。


国立工芸館

国立工芸館は近現代の工芸·デザイン専門の美術館です。
1977年に東京の北の丸公園に「東京国立近代美術館工芸館」として開館し、2020年には政府関係機関の地方移転政策により、石川県金沢市へ移転。2021年には館名を「国立工芸館」と改めました。
陶磁、ガラス、漆工、木工、竹工、染織、人形、金工、工業デザイン、グラフィック·デザインなどの各分野にわたって、総数約4,000点を収蔵し、特定のテーマに基づいた所蔵作品展、企画展を年に4~5回開催しています。他にも工芸の技法や専門用語をわかりやすく解説したデジタル鑑賞システムを備えた「工芸とであう」や、漆芸家·松田権六(1896-1986)の工房を移築·復元した「松田権六の仕事場」のコーナーがあります。
建物は明治期に建てられた国登録有形文化財の旧陸軍第九師団司令部庁舎と旧陸軍金沢偕行社を移築するとともに、過去に撤去された部分や外観の色などを復元して活用しています。周辺には石川県立美術館、金沢21世紀美術館、兼六園などの文化施設も充実しています。


図録 藤田嗣治、全所蔵作品展示

今回の企画展の図録はなかったけれども、藤田嗣治に注目した図録があったので購入しました。

2026年は、藤田嗣治・生誕140周年。
軽井沢安東美術館 では「生誕140周年 藤田嗣治展」の開催を予定している、とか。

https://www.musee-ando.com/blogs/exhibition/exhibit202601

藤田嗣治の戦争絵画以外も知りたくなってきたり、です。猫とか少女とか。


関連

近衛師団司令部庁舎(東京建築祭2025)

「東京国立近代美術館工芸館」でもあった「近衛師団司令部庁舎」が一般開放していると聞いたので脚を運んでみました。


近衛師団司令部庁舎

国重文
明治43年(1910)造営。
陸軍技師田村鎮の設計による赤レンガ造り、二階建て、スレート葺、簡素なゴシック風。明治洋風建築の代表建築。

周辺界隈は、下記も参照で

重要文化財 旧近衛師団司令部庁舎
建築 明治43年3月
指定 昭和47年10月

東京建築祭2025

重要文化財 旧近衛師団司令部庁舎
 この建物は、近衛師団司令部庁舎として明治43(1910)年3月に竣工したもので、設計者は陸軍技師田村鎮と考えられています。第2次世界大戦後は、皇宮警察の寮として使用されましたが、昭和38(1963)年の北の丸地区の森林公園整備計画策定に伴い、取り壊されることになりました。しかしながら、この建物は、明治時代の官庁建築の特徴をよく残すものとして現存する数少ない遺構であるため、その建築的価値を惜しむ声が寄せられ、重要文化財に指定した上で、東京国立近代美術館工芸館として活用することが決定されました(昭和47(1972)年重要文化財指定)。
 昭和48(1973)年から、美術館施設として活用するための保存修理工事が行われました。煉瓦壁体には破損が見られたため、内側に新たに鉄筋コンクリートの構造体を設けて補強するととともに、屋根を関東大震災後の桟瓦葺から建築当初のスレート葺に復原し、取り壊されていた軒蛇腹を整備するなど、創建当初の外観に復しました。内部は、保存状態の良かった中央の階段回りとホールの部分のみ当時の姿を残し、建築家谷口吉郎氏の設計により、美術館仕様に改修しました。
 工芸館は、昭和52(1977)年11月に開館し、政府機能移転基本方針により、令和2(2020)年10月に石川県金沢市に移転するまでの間、ここで活動していました、現在この建物については、今後の保存活用のために、重要文化財保存活用計画を策定しています。
 煉瓦造りのゴシック様式の外観のほか、床下通風口の金具、玄関アーチ両脇の四葉飾り、破風(ペディメント)の頂華(フィニアル)、大棟中央塔屋のデザインなどをお楽しみください。

近衛師団は、旧陸軍が北海道から九州までの主要都市に設置した19の師団のうちの一つで、明治時代から第2次世界大戦終了時までの皇室の警護を担っていました。

閉館しました Closed
東京国立近代美術館工芸館は2020年2月28日で東京での活動を終了し、2020年夏、石川県金沢市に移転します。
42年間、誠にありがとうございました。
工芸館は、通称・国立工芸館として新たに活動がはじまります。


近衛師団司令部庁舎 外観


近衛師団司令部庁舎 玄関


近衛師団司令部庁舎 裏口


近衛師団司令部庁舎 階段


近衛師団司令部庁舎 2階ホール

東京国立近代美術館工芸館の名残。。。

※撮影 2025年5月


関連

旧朝香宮邸「東京都庭園美術館」散策(港区)

国立科学博物館附属自然教育園が、明治時代の「白金火薬庫の跡地」で、大正時代に宮内省の白金御料地になり、そして、朝香宮邸として、朝香宮鳩彦王が、昭和22年に皇籍離脱をするまで居住していた建物。
白金火薬庫からの流れで、足を運んでみました。


旧朝香宮邸(東京都庭園美術館)

需要文化財(建造物)
旧朝香宮邸
  四棟 本館・茶室・倉庫・自動車庫
  一基 正門
  所在地 港区白金台五丁目二六番
  指定 平成二七年七月八日
 朝香宮鳩彦王の住宅として昭和8年(1933年)に竣工した建築群で、昭和22年まで朝香宮の本邸として使われていた。
 本館は鉄筋コンクリート造2階建(一部3階建)で、外観は簡明な意匠である。中庭を囲むロの字形平面の南半分を客間や住居とし、他を事務や厨房にするのは、この時期の宮内省内匠寮設計の邸宅に共通の配置である。南側テラスは洋風庭園へ続き、和風庭園や正門からのアプローチも往時の雰囲気を良く留める。和風庭園には茶室が現存する。
 本館主要室の内装設計はフランス人装飾美術家アンリ・ラパンが担当、実施設計は内匠寮工務課技師の権藤要吉らが分担して行った。鳩彦殿下と允子(のぶこ)妃殿下は大正14年(1925年)にパリで、のちにアール・デコ博といわれる美術博覧会を視察。新邸にもアール・デコ様式が随所に採用され、新鮮かつ洗練された華やかな意匠に満ちている。正面玄関のガラス扉は工芸家ルネ・ラリックの作品として有名である。
 当時最新のフランスの芸術作品を取り入れたこの建物は、宮内省内匠寮による邸宅建築の頂点のひとつとして意匠的に優れ、価値が高い。
  東京都教育委員会

重要文化財 旧朝香宮邸 東京都庭園美術館 本館
アール・デコの館と呼ばれる旧朝香宮邸。1925年のアール・デコ博覧会でその様式美に魅せられた朝香宮ご夫妻は、自邸の建設にあたり、フランス人装飾美術家アンリ・ラパンに主要な部屋の設計を依頼。ルネ・ラリックのガラス扉など、アール・デコの精華を積極的に取り入れました。基本設計は宮内省内匠寮が担当し、建造には日本古来の高度な職人技が随所に発揮されています。旧朝香宮邸は、アール・デコ様式を正確に留め、昭和初期の東京における文化受容の様相をうかがうことができる貴重な歴史的建造物として、2015年に国の重要文化財に指定されました。

「建物公開2024」のイベントに便乗して、建物見学してきました。

正門

旧朝香宮邸本館
鉄筋コンクリート造2階建て(一部3階建て)、地下1階で1929年(昭和4年)頃から建築準備に取り掛かり1933年(昭和8年)5月に完成。

香淳皇后の叔父にあたる朝香宮鳩彦王がパリ遊学後2年をかけて建設し、1947年の皇籍離脱まで暮らした邸宅だった。この土地は白金御料地と呼ばれ、近世には高松藩松平家の下屋敷があった。明治期には陸軍の火薬庫が一時置かれ、後に皇室財産となっている。
宮邸は朝香宮一家が退去した後、吉田茂によって外務大臣公邸(ただし、外相は総理の吉田が兼務していたので実質的には総理大臣仮公邸)として、1947年から1950年にかけて使用された。
1950年には西武鉄道に700万円で払い下げられ、1955年4月に白金プリンス迎賓館として開業し、国賓・公賓来日の際の迎賓館として1974年まで使用された。
1971年にホテル建設計画が発表されたが反対運動が起こり、1974年5月からプリンスホテルの本社として使用された後、1981年12月に139億円で東京都に売却され、1983年(昭和58年)に都立美術館の一つとして一般公開される。


旧朝香宮邸外観散策

正面から。
やばいですね、ずっと見ていられる。全然飽きない。現在でも通用するデザインの美しさ。

庭園側から。

庭園側は、表とはまた雰囲気が変わる。これはこれで良き。四角と、ワンポイントな曲線のバランスが良き。


旧朝香宮邸内部散策

年に一度の「建物公開」の際は、館内撮影もOK。何も考えずに足を運んでいたが、これは私はだいぶ運が良いですね。

正面玄関

建物公開のコンセプトが「あかり、ともるとき」
朝香宮邸の特徴的な「あかり」が「ともされるとき」は、いちいち狙いすぎて、きれいすぎる。

第一応接室

大広間

次室

小客室

大客室

1階テラス

大食堂

大食堂の曲線美が、ね。

第一階段

2階広間

若宮寝室

若宮居間

テラス

書斎

殿下居間

殿下寝室

第一浴室

妃殿下寝室

朝香宮鳩彦王妃允子内親王
明治天皇第8皇女

ベランダ

妃殿下居間

2階廊下

姫宮寝室

姫宮居間

3階への階段

ウインターガーデン(温室)

小食堂

姫宮寝室前廊下

これはずるい。こんなライト、絶対的に勝利すぎる。

こんな感じで、朝香宮邸とライトを堪能した建物見学でした。

※2024年9月撮影


関連

白金火薬庫跡地「国立科学博物館付属自然教育園」散策(港区)

国立科学博物館附属自然教育園が、明治時代の「白金火薬庫の跡地」であったと聞き、何もないとは思うけれども足を運んでみました。

ちなみに、白金火薬庫は、大正期には、白金御料地になりまして。


位置関係

「今昔マップ on the web」より。

https://ktgis.net/kjmapw/kjmapw.html?lat=35.638639&lng=139.714004&zoom=16&dataset=tokyo50&age=0&screen=2&scr1tile=k_cj4&scr2tile=k_cj4&scr3tile=k_cj4&scr4tile=k_cj4&mapOpacity=10&overGSItile=no&altitudeOpacity=2

山手線の東側に「白金火薬庫」(旧白金御用地)、そして西側には「火薬製造所」があり、両地を軽便鉄道が結んでいることがわかる。


国立科学博物館付属自然教育園

「国立科学博物館付属自然教育園」の地は、古代においては「旧白金御料地遺跡」として埋蔵文化財包蔵地であり、中世においては「白金長者屋敷」として中世城館遺跡であり、近世においては、「高松藩主松平家下屋敷」であった。
明治時代に、「陸海軍の火薬庫」となり、大正時代に宮内省「白金御料地」となり、戦後に文部省「旧白金御用地」、そして「国立科学博物館附属自然教育園」となった。


白金火薬庫

国立科学博物館附属自然教育園飛び地にかかる 調査報告書
【資料編】
史跡にかかる個別調査報告

https://ins.kahaku.go.jp/research/download/ins_tobichi03.pdf

資料をもとに、白金火薬庫について、以下にまとめておきたい。

「白金火薬庫」
「高松藩主松平家下屋敷」は、明治4年(1871)新政府の所有となり、松平下屋敷跡地に「海軍火薬庫(海軍白金火薬庫)」が置かれたことにはじまる。

徳川幕府が設立した「目黒砲薬製造所」は、明治元年十月に軍務官の所管となり、「目黒火薬庫」として使用。
明治5年2月に海軍省の兵部省より独立分置されるが、「目黒火薬庫」は陸軍省に所属。松平讃岐守下屋敷に海軍の「白金火薬庫」が設置された。明治12年10月24日、海軍は「目黒火薬庫」を廃止して「白銀火薬庫」に合併。「目黒火薬庫」跡地に「火薬製造所」を新設。
明治26年(1893)まで、「白金火薬庫」は海軍の所管であったが、同年4月に陸軍省に移管。「目黒火薬製造所」も海軍省から陸軍の東京砲兵工廠に移管となり、「東京砲兵工廠目黒火薬製造所」となった。
陸軍の「白金火薬庫」は大正2年(1913)に廃止。
陸軍の「目黒火薬製造所」も昭和3年(1928)に群馬県岩鼻に移転している。

「東京砲兵工廠目黒火薬製造所」
現在の防衛省の目黒地区は、明治11年に海軍の火薬製造所として建設が進められて明治18年に完成したのち、明治26年に陸軍へ引き継がれて砲兵工廠所轄の目黒火薬製造所となった。
その後、大正12年に発生した関東大震災の影響で、設備は他へ移転して目黒火薬製造所は廃止されることとなり、替わって海軍技術研究所が築地から移転した。

「火薬運搬軌道」
明治34年(1901)、目黒火薬製造所と白金火薬庫の間に、火薬や物資運搬用の軽便軌道が敷かれた。
現在も、目黒区立茶屋坂児童公園から目黒三田通りに向かう道には、「陸軍」と記した石柱が残っており、軍用軌道の跡とわかる。
軍用軽便軌道は、明治44年(1911)、白金火薬庫の管理換えにより廃止撤去となった。


国立科学博物館付属自然教育園の散策

国立科学博物館附属自然教育園
歴史と自然
 自然教育園は、室町時代に白金長者と呼ばれる豪族が館を構えていたといわれています。江戸時代は高松藩主松平讃岐守の下屋敷、明治時代は海軍省・陸軍省の火薬庫、大正時代は白金御料地と移り変わり、昭和24年に国の「天然記念物及び史跡」に指定されるとともに、国立自然教育園として一般に公開されるようになりました。
(以下略)

自然教育園のおいたち
古代   縄文中期、この地に人が住みつく
室町時代 豪族 白金長者が館を構えていたといわれる
江戸時代 高松藩主松平讃岐守頼重の下屋敷
明治時代 海軍省・陸軍省の火薬庫
大正時代 宮内省の白金御料地
昭和24年
1949年  国の天然記念物及び史跡に指定
     国立自然教育園として一般に公開
昭和37年
1962年  国立科学博物館附属自然教育園となる

自然教育園の地図。散策してみましょう。

一番、北の赤丸で囲んだところがポイント。

火薬庫跡のレンガ片
現在、建屋の痕跡は残っておらず、レンガ片(煉瓦片)は。火薬庫時代の名残という。

中世の痕跡もある。

土塁。

土塁は、火薬庫時代にも造成されていると思われる。

前述の資料(国立科学博物館附属自然教育園飛び地にかかる 調査報告書【資料編】 史跡にかかる個別調査報告)によると、敷地内の南西に境界を示す「陸軍用地の標柱」があるいうが、立ち入り禁止エリア。

前述の資料の引用に留める。

白金火薬庫の名残を探して、レンガ片でもって往時を感じる。
ちょっとした断片的なものであれど、このちょっとした痕跡があるだけでもだいぶ、趣きが出てきて、散策のやりがいがあるものとなる。

※2024年9月撮影


関連

令和六年・靖國神社みたままつり

靖國神社のみたま祭りは、毎年7月13-14-15-16日の4日間、祭行されます。
今年も、なんとか1日だけでしたが、足を運ぶことが出来ました。

御英霊とともに楽しむ光の祭典。東京で一番早い夏のお祭り。


「みたままつり」とは? 

 毎年7月13日から16日にかけて、靖國神社では夏の風物詩として「みたままつり」が斎行されている。 

 この「みたままつり」とはなんであるかを簡単に触れてみようと思う。 

 靖國神社の「みたままつり」は靖國150年の歴史から鑑みれば決して古い祭儀ではない。従来、戦前の靖國神社は現在のように庶民がいつでも気楽に参拝できる神社ではなく、国家と軍部が管理していた神社であった。 

 昭和20年8月終戦後、靖國神社はGHQの厳しい統制下に置かれ、その段階で未合祀であった戦没者の御霊を今後合祀できるかどうかがわからないという懸念から11月19-20日に臨時大招魂祭を斎行。本来は戦没者氏名等を明白にし霊璽簿に奉斎すべきところを緊急時ということで、まずは氏名不詳のままで招魂しその後に調査が進み次第で霊璽簿奉安祭を行い逐次ご本殿におまつりする手はずとなった。こうして創建以来の軍部が関与する最後の招魂式が行われた。 

 その1ヶ月後にGHQは国家神道・神社神道をターゲットとした「神道指令」を発令。昭和21年2月を以って靖國神社は国家との関係を絶ち一宗教法人へと再生することとなる。 靖國神社規則では、「当神社は靖國神社と称し、国事に殉じた御霊を祭神とし、神徳光昭、遺族慰藉、平和醇厚なる民風を振励するのを目的として事業を行う」ことを明記している。 

 昭和21年7月、神社として国家と断絶し今後の立ち行く様を模索していた靖國神社に長野県遺族会の有志の方々が、神社の勧誘や依頼というべきものではなく自発的に上京してきて、境内で盆踊りを繰り広げ民謡を歌唱して戦没のみたまを慰めるという出来事があった。 

 このような民間発案の慰霊行事は戦中戦前含めかつてなかった事例であり、これが今日の「みたままつり」の起源とされている。 

 これにヒントを得て、翌年の昭和22年7月には、13日の前夜祭にはじまり、新暦のお盆の3日間(14日・15日・16日)に神社主導ではじめての「みたままつり」を斎行、以後は夏の恒例となった。 

 お精霊様の迎え火を焚き、茄子や胡瓜の馬・牛の乗り物を飾り、先祖の霊の一時帰宅を待ち受けるという古い民間習俗の風習は、平安期には京都では廃れていたが関東では盛んであったと兼好法師の「徒然草(第19段)」には記載されている。 「亡き人のくる夜とて魂まつるわざは、このごろ都にはなきを、東のかたには、なおする事にてありしこそ、あわれなりしか」

 往時は歳事であった古習も時代の変遷の中で、いつしかお盆の祭事として、先祖の祭り・家の祭りとして伝承されてきた。もともと家々の祭りであった祖霊の祭りは「公」の祭りではなく「私」のまつりであり、昭和21年2月に「公」たる靖國神社が、一宗教法人にならざるを得なかった以後をもって、その年の7月に「私」たる民間有志の発案でもってはじまった「みたまのまつり」であった。 

 こうして長野県遺族会の方々が自発的に盆踊りを始められた「みたまのまつり」は、その契機は柳田國男の「先祖の話」で記述された下地が根底にある。 

 柳田翁の先祖の話は昭和20年4月から5月にかけて書かれたものであり、昭和21年4月に刊行されている。その柳田翁は日本降伏後の昭和20年10月付けの序文に「まさか是ほどまでに社会の実情が改まってしまうとは思わなかった」とし「家の問題は自分の見るところ、死後の計畫と關聯し、また靈魂の觀念とも深い交渉をもつて居て、國毎にそれぞれの常識の歴史がある。理論は是から何とでも立てられるか知らぬが、民族の年久しい慣習を無視したのでは、よかれ惡しかれ多數の同胞を、安んじて追随せしめることが出来ない。家はどうなるか、又どうなつて行くべきであるか。もしくは少なくとも現在に於て、どうなるのがこの人たちの心の願ひであるか。」と記している。、終戦後の日本の行く末を案じ混沌からの憂いが強く伝わってくる序文である。 

 先祖の話。すなわち「先祖から子孫に向けての相続と先祖祭祀の継承という民俗の根底になしている伝統に大いなる断絶がせまっていることへの危機感と解決方法」「子孫を残さずに死んでいく(戦死者の)霊の存在を目の当たりにし、日本の家の構造と先祖の祀りの有り様」を記述している。 

 靖國神社で祀られる「みたま」は「国のために戦って死んだ若人」「国難に身を捧げた者」というのが特徴的であり、中でも若人の御霊は、これを家々の先祖として祭るであろう子孫を有していない場合も多い。そこに祖霊信仰の断絶が発生してしまう。祭ってくれる子孫を持たぬ御霊を直系の子孫に代わって祭り、その記憶を伝承し、それら先祖の霊を後世の祭祀される人々の守護霊として安んじる。これが「靖國神社」であり、後世の社会が祭る「みたままつり」である。「この祭りは、祭ってくれるべき子孫を欠いた若き御霊達を安らかにあの世に在らんしめんがために、あるべかりし子孫に代わって共同体の常民が営む祭」(小堀桂一郎氏)であり、その祭りは格別な儀礼に基づくものではない。 

 「みたままつり」は伝統的な民間風習を兼ね備えるとともに、「個」ではない社会的な祭祀が行われるという公的な位置づけも帯びた、昭和22年にはじまった新しい「お祭り」ではある。その新しいお祭りは新暦お盆の三日間で斎行され、東京では一番最初の盆踊りも奉納されるということもあり、異色な趣も感じさせずに自然なカタチで受け入れられたのも、その性質が「日本人の信仰」の根底に根付いたものであった、といえる。 

 後世の我々が御霊の献身的な御心を記憶に留めて回想し、往時に想いをはせる。そうして御霊とともに「お盆」を過ごし、その意志を継承することで御霊達は後世の守護神となる。これを「祖霊信仰」から一段と特化した「靖國信仰」と称しても良いのかもしれない。 

  みたまを慰めるこの信仰。「生きた人の社会と交通しようとするのが、先祖の霊だといふ日本人の考へ方」(柳田國男)が共通共同の事実として根付いていたからこそのまつりであり信仰である。「この曠古(こうこ)の大時局に当面して、目ざましく発露した国民の精神力、殊(こと)に生死を超越した殉国の至情には、種子とか特質とかの根本的なるもの以外に、是を年久しく培ひ育てて来た社会制、わけても常民の常識と名づくべきものが、隠れて大きな動きをして居るのだといふことである。(略)人を甘んじて邦家の為に死なしめる道徳に、信仰の基底が無かつたといふことは考へられない。」とこの「常民の常識」が共通した信仰に根ざしていたのであり、「信仰はただ個人の感得するものでは無くて、寧ろ多数の共同の事実だつたといふことを、今度の戦ほど痛切に証明したことは曾て無かつた。」と力説をされている。 

 そのうえで柳田翁は「但しこの尊い愛国者たちの行動を解説するには、時期がまだ余りにも早過ぎる」と昭和20年春の段階ではこれ以上の追求は遠慮されているが、その言わんとしている深意は日本人の心底に根付いており、戦後も連綿と続く靖國の祭祀、みたまのまつりに継承されてきている。 

※本節は、下記を参照


中庭参拝

みたままつりといえば、中庭参拝が定着しましたね。
年に一度だけの中庭参拝。

ありがとうございます。

※許可された場所からの撮影も可能


境内風景

御朱印

こすずまもりは、中庭参拝で授与


つのだ☆ひろ 奉納特別野外コンサート

毎年恒例。

御英霊に捧げる。

御英霊の奉納するコンサート

「海行かば」
海行かば水漬くかばね
山行かば草むすかばね
大君の辺にこそ死なめ
かえりみはせじ

「ありがとう」
ありがとう、祖先の皆様
ありがとう、おじいちゃん、おばあちゃん
ありがとう、おやじとおふくろ
あなたがたのおかげです
ありがとう
ありがとう
ありがとう


みたままつりの夜

御英霊に、感謝を。哀悼を。

そして

御英霊に、ありがとうを。

※撮影:2024年7月14日


関連

護衛艦「おおよど」と測量船「拓洋」(東京みなと祭2024)・練習艦「かしま」「しまかぜ」

東京みなと祭で、「おおよど」「拓洋」を見学。
あわせて、ちかくの晴海ふ頭にいた「かしま」「しまかぜ」も見学。


護衛艦「おおよど」

あぶくま型護衛艦の3番艦。
就役は1991年。2027年度までに除籍することになっている。
護衛艦隊第15護衛隊に所属し、定係港は大湊。

以下、写真メインで。

62口径76mm単装速射砲

大淀さん

高性能20mm機関砲

活動写真集

護守印(ほぼ、大淀さんじゃん、、、)


海上保安庁測量船「拓洋」

HL02 拓洋。
1983年竣工。

手書きの船内図

船内神社(船内神棚)
天照皇大神宮(伊勢神宮)、明治神宮、厳島神社

調理室

公室

居室

無人探査機「ごんどう」

スタンプ

台紙は、使用済みの海図を裁断したもの。


東京国際クルーズターミナルから。

ゆりかもめから。


練習艦「かしま」「しまかぜ」

晴海ふ頭に練習艦隊が入港していたので、あわせて見学。

かしま
TV-3508 練習艦
1995年就役

しまかぜ
TV-3521 練習艦
はたかぜ型護衛艦の2番艦。1988年に護衛艦として就役、2021年に練習艦に種別変更。

※撮影:2024年5月

「桜咲く宮・靖國神社」~靖國櫻(令和6年)

令和6年(2024年)。終戦から79年を迎える年。
今年も靖國神社の桜花を愛でる。
毎年恒例。
御英霊の皆様と、今年も花見と洒落込もう。
「花の都」「桜咲く宮」を楽しもう。

境内に献木された桜たち。
一木一木に込められた戦友・ご遺族の皆様の想いが、花を咲かせる。
靖國の桜花「靖國櫻」には御英霊の御心が宿っている。
感謝を。哀悼を。

ありがとうございます。

以下、写真にて。


2023年4月5日の早朝

2023年の東京の開花宣言は、3月29日であった。
訪れたのは、4月5日の早朝。雨模様だったが、ちょうど満開のタイミング。

散る桜 残る桜も 散る桜
 良寛和尚

奉頌歌「靖國神社の歌」

日の本の 光に映えて
尽忠の 雄魂祀る
宮柱 太く燦たり
  あゝ大君の 御拝し給ふ
  栄光の宮 靖國神社
日の御旗 断乎と守り
その命 国に捧げし
ますらをの 御魂鎮まる
  あゝ国民の 拝み称ふ
  いさをしの宮 靖國神社
報国の 血潮に燃えて
散りませし 大和をみなの
清らけき 御霊安らふ
  あゝ同胞の 感謝は薫る
  桜咲く宮 靖國神社
幸御魂 幸はへまして
千木高く 輝くところ
皇国は 永遠に厳たり
  あゝ一億の 畏み祈る
  国護る宮 靖國神社

奉頌歌「靖國神社の歌」 
昭和16年(1941)3月  
献納:主婦之友社 
作詞:細渕国造 作曲:陸海軍軍楽隊

軍歌「同期の桜」

貴様と俺とは 同期の桜
 同じ兵学校の 庭に咲く
咲いた花なら 散るのは覚悟
 みごと散りましょ 国のため

貴様と俺とは 同期の桜
 同じ兵学校の 庭に咲く
血肉分けたる 仲ではないが
 なぜか気が合うて 別れられぬ

貴様と俺とは 同期の桜
 同じ航空隊の 庭に咲く
仰いだ夕焼け 南の空に
 未だ還らぬ 一番機

貴様と俺とは 同期の桜
 同じ航空隊の 庭に咲く
あれほど誓った その日も待たず
 なぜに死んだか 散ったのか

貴様と俺とは 同期の桜
 離れ離れに 散ろうとも
花の都の 靖国神社
 春の梢に 咲いて会おう


軍歌「同期の桜」
昭和14年


2023年4月5日の夜

夜の参拝も。

※撮影:2024年4月5日


関連

「ともちゃん地蔵」満洲難民収容所の悲話を伝承するお地蔵様(六本木)

麻布十番から六本木ヒルズへ抜ける道の途中に、戦争を物語るお地蔵様がいらっしゃいました。

この記事は、六本木の「ともちゃん地蔵」になります。
岩槻の「ともちゃん地蔵」は下記にて。

箱根や浜松にもありますが、まだ未訪問です。。。


ともちゃん地蔵

ともちゃん地蔵は、増田昭一さん(2020年12月に急逝、ドラマ「遠い約束」の原作者)が自身の体験をつづった「満州の星くずと散った子供たちの遺書 新京敷島地区難民収容所の孤児たち」に収められた「ともちゃんのおへそ」という伝承に基づく。
「ともちゃんのおへそ」は、のちに絵本にもなった。

公益財団法人中国残留孤児援護基金 中国帰国者支援・交流センター 

https://www.sien-center.or.jp/

ともちゃんのおへそ

https://www.kikokusha-center.or.jp/kikokusha/shuki/sm/hokuman_top.html

増田昭一の本

http://www.yumekoubou-t.com/raiburari/masudasyouitinohonn.html

~ともちゃんの おへそは お母さんの顔~

ともちゃん地蔵の碑
「お母さんに会いたいときはおへそを見なさい。きっとお母さんに会えるでしょう。」
ともちゃんのお母さんは収容所の死の床でそう言いました。
お母さんのお墓の前で毎日ともちゃんはおへそを眺めました。
そんなともちゃんも厳しい冬が来ると、身体をくの字に曲げておへそを見ながら死んでいきました。
遠い昔、中国の北の街にそんな子供たちがいたことを忘れないでください。
二度とこんな悲しみを子供たちに負わせないでください。
 2001年7月29日
 語りつごう ともちゃんの会
  代表 千野誠治

引き揚げ経験者で中国残留孤児の支援にも尽力した千野誠治さんは2014年に89歳でなくなっている。

ともちゃんの おへそは お母さんの顔

「ギャラリー壁」には千野誠治さんの作品なども展示してある。

ちかくの食堂の看板にも「ともちゃん地蔵」が。
「海南鶏飯(シンガポールチキンライス)」。

増田昭一さんの『満州の星くずと散った子供たちの遺書』を知った、千野誠治さんは「語りつごう、ともちゃんの会」を立ち上げ、絵本「ともちゃんのおへそ」を企画。
「ともちゃん地蔵」を、東京六本木を皮切りに、全国各地に賛同者を得て造立してきたという。
そうして、ともちゃん地蔵は、ここ六本木のほかに、箱根(阿弥陀寺)、岩槻(慈恩寺玄奘塔)、浜松(浜名区根堅)にある。

場所

https://maps.app.goo.gl/mA826kPq8xFJtmfG9

撮影:2024年1月


関連

浅草「まんしゅう母子地蔵」の願主も、千野誠治さん。

西多摩墓苑の「中国帰国者之墓」の建立にも千野誠治さんが関わっている。

靖國神社の新春初詣(令和6年)

あけましておめでとうございます。
靖國神社、正月朔日の初詣。

境内の様子などを、徒然に。

清々しい青空

正月朔日の午後。

神門


玉串料改定のお知らせ

あら、こんなところにも値上げの余波が。

新春初詣の正式参拝を。

御本殿には、 明治天皇が明治7(1874)年1月27日に、初めて招魂社をご参拝された際に詠まれた御製が奉書された御宸筆の扁額が掲げられている。

年のはじめに、改めて御本殿の扁額に接する。

我國の為をつくせる人々の
 名もむさし野にとむる玉垣

※2019年特別展にて写しを撮影

御本殿の神鏡(明治10年11月14日の臨時大祭にて御親拝された 明治天皇の幣帛料で制作された。

※2019年特別展にて写しを撮影

国家のために尊い命を捧げられた人々の御霊みたまを慰め、その事績を永く後世に伝えるお社。

感謝と哀悼を。


今年は、設置場所が変わりました。

靖国名物の大絵馬。

令和甲辰

福引きは、安定の入浴剤。

甘酒振舞。
温まります、ありがとうございます。

毎年、いただいている「桜みくじ」

ちなみに、、、、凶でした。
まあ、この瞬間が、どん底ということで。


遊就館

獅子舞

振舞酒


初詣正式参拝の撤饌

撒下神饌はフリーズドライの甘酒。初めて頂戴しました。

御朱印
冬季限定 刺繍入り朱印
美濃和紙に獅子頭と万両の実、社紋を刺繍した朱印

お神酒と祝枡

※撮影:2025年1月1日


関連

「最後の海軍大臣・米内光政」所縁の地を辿る(盛岡・横須賀・東京)


米内光政

1880(明治13)年3月2日~1948(昭和23)年4月20日
海兵29期、海大12期、海軍大将、連合艦隊司令長官(23代)、海軍大臣(19代、24代)、内閣総理大臣(37代)を歴任。
 
支那事変当時の第一次近衛の内閣海軍大臣。
林・一次近衛・平沼内閣の海相を歴任、昭和15年には予備役入りし総理大臣(第37代)となり、支那事変の対応や三国同盟問題、戦争回避に尽力する。
昭和19年には現役復帰し小磯・鈴木内閣の海相として終戦の為に奔走。
戦後も東久邇宮・幣原内閣の海相として日本帝国海軍の最後を看取る。

首相官邸>

https://www.kantei.go.jp/jp/rekidainaikaku/037.html

国立国会図書館>近代日本の肖像

https://www.ndl.go.jp/portrait/datas/218/

盛岡市>

https://www.city.morioka.iwate.jp/kankou/kankou/1037106/1009526/1024995/1025018/1025020.html

ちなみに、学生時代の私は、卒論を「米内光政を中心とした海軍の対支政戦略」で書いていました。


岩手の米内光政

1880年(明治13年)、岩手県盛岡市に、旧盛岡藩士の米内受政の長男として誕生。

2023年8月に、盛岡を散策し、米内光政関連の地を巡ったので、以下に掲載。


米内光政像

盛岡八幡宮の境内に建立されている、米内光政像。
小泉信三による撰文。
小泉信三は、戦時下の慶應義塾大学の塾頭。米内光政と親交が深かった。

米内光政
 米内光政は、明治13年3月、旧盛岡藩士米内受政、母とみの長男として盛岡市下小路(愛宕町)に生まれる。盛岡中学を経て海軍兵学校へ進み、卒業後海軍少尉に任官、日露戦争では海軍中尉として従軍した。後にロシアやポーランドなどヨーロッパに駐在し、その地の実情を直に見聞した。1937(昭和12)年には林内閣のもと海軍大臣に就任し、陸軍の主張する三国同盟に反対した。この反戦主義の姿勢は終戦まで変わらなかった。
 天皇の信頼も厚く、1940(昭和15)年には岩手県出身者としては3人目となる内閣総理大臣に就任。しかし陸軍の反対に遭い半年後に退任した。太平洋戦争末期には小磯内閣のもとで4期目の海軍大臣として入閣、終戦のために尽力する。終戦後も海軍大臣に留任し、海軍省廃省の責任者として日本海軍の最期を見届けた。昭和23年4月20日逝去、享年69歳。

米内光政

米内光政自身の筆跡となる。

米内光政氏は盛岡の人
若くして海軍に入り進んで大将大臣に至り又内閣総理大臣となる
昭和二十年八月太平洋戦争の終局に際し米内海軍大臣が一貫不動平和の 聖断を奉じて克くわが国土と生民をその壊滅寸前に護ったことは永く日本国民の忘れてはならぬところである 
逝去十三年至誠沈勇のこの人今も世にあらばの感を新たにしつつこの文を撰ぶ
 昭和三十五年十月
  後進 小泉信三

場所

https://maps.app.goo.gl/1tDJamLqY4f5ueac7


米内光政首相と畑俊六陸相(米内内閣)

第37代内閣総理大臣・米内光政。
第二次世界大戦が勃発し、ドイツが攻勢を強めている情勢下において、陸軍は日独伊三国同盟締結を推進していく中で、阿部信行内閣の後継として畑俊六を首班として準備を進めていく中で、陸軍からの首班を嫌った、 昭和天皇が海軍の意中の人物として、米内光政を指名。
そうして軍事参議官・予備役海軍大将(米内は組閣に際して自ら現役を退いて予備役となった)の米内光政が、第37代内閣総理大臣に任命。1940年(昭和15年)1月16日から1940年(昭和15年)7月22日までの内閣。

米内内閣の陸相として畑俊六が就任するも、陸軍は米内内閣の組閣とともに倒閣を開始。ドイツのフランス侵攻を開始し降伏に追い込むと、陸軍首脳部は「陸軍の総意」として、畑俊六陸軍大臣が単独で辞表を提出米内は後任大臣を求めたが陸軍が拒絶し、これで米内内閣は、半年で総辞職となってしまった。

米内内閣倒閣の引き金となった畑俊六は、戦後の東京裁判において戦前最期の新英米派内閣であった米内内閣を倒閣させた罪状を問われてA級戦犯として起訴される。
米内光政は、弁護側証人として東京裁判に出廷し、米内内閣倒閣は畑の意思本意ではなく、陸軍組織として動かざるを得なかったことを踏まえ、畑俊六をかばった。
そうして畑俊六は死刑を免れ終身禁固となり、畑俊六は6年の服役後の1954年(昭和29年)に仮釈放となった。
畑俊六は、海軍の責任に関して極めて厳しく罵る回想メモを戦後に残しているが、その中でも米内光政に関しては、東京裁判で畑の弁護側証人として庇ってくれたことに恩義を感じ、米内に対する感謝感動を終生深く忘れることなかったという。

米内光政没後12年の昭和35年(1960年)、盛岡八幡宮の境内に米内光政の銅像が建立され除幕式が執り行われた際、81歳の畑俊六が、人目を避けるように黙々と周囲の草むしりをしていたと伝承されている。
畑俊六は昭和37年(1962年)、福島県棚倉城址に建立された戦没者慰霊碑除幕式中に脳内出血で倒れ82歳で死去している。(棚倉城址には「畑俊六終焉の地」碑もある。行かないと、です)


米内光政墓所

盛岡市の円光寺。

米内光政は、昭和23年4月20日、目黒区富士見台の自宅で68歳1ヵ月の生涯を終えた。
4月24日、自宅で仏式の葬儀と告別式が斎行。
葬儀委員長は、山梨勝之進大将であった。

山梨勝之進は、海兵25期、海大5期、海軍大将。条約派であったために大角人事で予備役となるも、米内光政らの推挙もあって学習院院長に就任。皇太子明仁親王の教育を任せられた。戦後は海軍の最長老の立場にあり、海上自衛隊の創建にも尽力した。山梨は長生きし昭和42年(1967年)90歳で死去。

米内光政墓所
 南部利英書

南部利英は南部家44代当主。
昭和13年(1938)には、岩手出身の陸軍大臣板垣征四郎の就任祝賀会に、同じく岩手出身の海軍大臣米内光政と板垣を左右として、南部利英を中央にした記念撮影なども記録に残っている。

米内光政銅像と同じ文面。書き起こしは省略。

米内光政の墓所。

救国の偉人 米内光政之墓

米内光政墓

天徳院殿仁海光政大居士

昭和23年4月20日歿
 享年69歳

緒方竹虎書

墓石の「米内光政墓」は友人であった緒方竹虎の書。
緒方竹虎は、朝日新聞副社長・主筆を経て、政治家に転身した人物。米内光政と親交があり、「一軍人の生涯 提督・米内光政」の書籍も残している。

米内家の家紋。

丸に違い鷹の羽

九代光政
天徳院殿仁海光政大居士
昭和23年4月20日

円光寺

場所

https://maps.app.goo.gl/3hkM83TkiJYjVXc36


米内光政居住地跡

米内光政が幼少期を過ごした八幡町。

米内光政居住地跡「説明」
米内光政は盛岡の下小路(愛宕町)で生れ幼少時代を八幡町で育ち、盛岡中学校(盛岡一)を経て、海軍兵学校に入り、以来、連合艦隊司令長官、海軍大将、内閣総理大臣、そして海軍大臣とすて終戦を迎えた。人格重厚沈勇、国家百年の計を思い大局を誤らず天皇の信任篤く、終戦内閣の中心閣僚として善処勇断よく祖国の壊滅を未然に護った偉業は、日本国民の永く銘記するところであります。
八幡宮境内に等身大の銅像が建っています。
 平成19年4月20日

突き当りは、銅像が建立された盛岡八幡宮。

場所

https://maps.app.goo.gl/aVCkhkm7jcQCV7GU8


盛岡市立下橋中学校(盛岡高等小学校)

岩手県内で一番長い歴史を持つ学校。
米内光政は、1890年(明治23年)、盛岡高等小学校に入学している。
米内光政のほかに、金田一京助、石川啄木も卒業生。

場所

https://maps.app.goo.gl/Jbymb9nSkWk5VzjY6


盛岡中学校濫觴の地(岩手銀行本店)

旧制盛岡中学校(現 岩手県立盛岡第一高校)の跡地。
旧制盛岡中学校は,、明治13年(1880)に「公立岩手中学校」としてこの地に設立された。
その後 「岩手県尋常中学校」「岩手県立盛岡中学校」と改称し, 大正6年(1917)に 現在地(盛岡市上田3丁目)に移転した。
戦後 昭和23年(1948)に「岩手県立盛岡第一高等学校」と改称。

米内光政は、1894年(明治27年)、岩手県尋常中学校に入学している。

旧制盛岡中学校の卒業生
海軍では、米内光政(海軍大将・海軍大臣)、八角三郎(海軍中将)、及川古志郎(海軍大将・海軍大臣)、多田武雄(海軍中将)。
陸軍は、板垣征四郎(陸軍大将・陸軍大臣)。
そのほか、郷古潔(三菱重工社長、東條内閣顧問)、文学方面では、金田一京助、野村胡堂、宮沢賢治、石川啄木など、そうそうたる卒業生を排出している。

岩手県立盛岡中学校濫觴の地

盛岡の中学校の
露台の
欄干に最一度 我を倚らしめ
 石川啄木

場所

https://maps.app.goo.gl/1b7NUp95tcsVcBMSA


盛岡市先人記念館

盛岡市の先人記念館。
ここには、金田一京助、新渡戸稲造、そして米内光政のコーナーが個別に設けられており、そのほか盛岡市の先人たちの記録が展示されている。
一見の価値ある記念館。

盛岡市先人記念館

米内光政 1880‐1948
 海軍大臣を経て第37代内閣総理大臣に就任、三国同盟締結阻止を貫きました。
 太平洋戦争末期に海相に復帰、冷静な判断力、的確な洞察力、一方にかたよらない姿勢で、戦争の早期終結に尽力しました。

新渡戸稲造と米内光政と金田一京助と。
館内は、この場所以外は撮影禁止。

盛岡市先人記念館案内図録と、米内光政のピンバッチを入手しました。

米内の特徴をよく捉えたイラスト。

盛岡先人記念館>

https://www.mfca.jp/senjin/yonai/index


横須賀の米内光政

昭和10年12月。
第二艦隊司令長官であった米内光政中将が横須賀鎮守府長官として着任。
このときの参謀長が、のちに重要な局面で度々コンビを結成する井上成美少将であった。

横須賀鎮守府
 長官 米内光政中将
 参謀長 井上成美少将

そして昭和11年2月26日。
米内と井上は、横須賀にて、「二・二六事件」を迎えることになった。

上記写真:横須賀鎮守府司令長官米内光政(中央) 参謀長井上成美(左から2番目)
(「井上成美」井上成美伝記刊行会の巻頭写真より)

米内光政は、二・二六事件で重傷を負った鈴木貫太郎の後任侍従長との声もあったが、横鎮長官職の次職慣例もありその話はお流れ。鈴木の後任侍従長は百武三郎海軍大将。 昭和11年12月に、第23代連合艦隊司令長官へ。(連合艦隊司令長官兼第一艦隊司令長官。)


米内光政と井上成美

井上成美とは、昭和10年の横須賀鎮守府、昭和12年の海軍省、そして昭和19年の終戦に向けての海軍省と、コンビを三度組んでいる。

昭和10年、井上成美は海軍少将に任命。横須賀鎮守府参謀長に就任。横須賀鎮守府長官は米内光政。二・二六事件を対処。

昭和12年、井上成美は海軍省軍務局長に就任。米内光政が海軍大臣、山本五十六が海軍次官。米内光政・山本五十六・井上成美の三人を「海軍省の左派トリオ」「海軍左派三羽烏」などと称した。
米内・山本・井上の海軍省は日独伊三国同盟に反対するも時勢の流れは変えることはできなかった。

昭和19年7月、サイパン失陥により東條内閣は崩壊。予備役であった米内光政が現役に復帰し、小磯内閣副総理格で海軍大臣に就任。米内光政海軍大臣の懇請で井上成美は海軍次官に就任。海軍省人事局の高木惣吉少将を、海軍省出仕とし、米内ー井上ー高木のラインで、終戦のための研究・海軍の終戦工作が行われた。


東京の米内光政

昭和8年に佐世保鎮守府長官、昭和10年に横須賀鎮守府長官を歴任し、昭和11年12月に、連合艦隊司令長官に就任。
しかし艦隊司令としてわずか2か月後の昭和12年2月2日に、広田弘毅内閣のあとを受けた林銑十郎内閣の海軍大臣に就任。
このときの米内は軍政には興味がなく、連合艦隊長官をわずか2ヶ月で退任することを非常に渋ったというが、海軍次官であった山本五十六が前海軍大臣の永野修身、軍令部総長の伏見宮博恭王の同意を得て強く推薦し、米内光政海軍大臣が誕生した。山本五十六は海軍次官を留任し、永野修身は米内光政と入れ替わるように連合艦隊司令長官に就任している。

この昭和12年の海軍大臣就任以降、米内光政は、否が応でも軍政に携わざるを得なくなった。


米内光政と山本五十六

※山本五十六に関しては、別記事の「長岡散策」をまとめました。

日独伊三国同盟に断固反対の立場を貫く、海軍省は、海軍大臣米内光政、海軍次官山本五十六、軍務局長井上成美で「海軍省の左派トリオ」「海軍左派三羽烏」と称されていた。

山本五十六は、昭和10年12月に海軍航空本部長に就任。昭和11年2月の二・二六事件では、横須賀鎮守府長官の米内光政と連携し、岡田啓介首相救出などに尽力し、このときの米内の対応を高く評価し、永野修身が海軍大臣を辞任した際に、後任に米内光政を推薦している。

昭和12年1月に海軍次官に就任。永野修身海軍大臣が山本五十六の手腕を熱望したものであったという。2ヶ月後に、広田弘毅内閣が総辞職し、海軍大臣も永野修身から米内光政に変わった。
山本五十六は、米内光政海軍大臣の下で、海軍次官として、林内閣・第一次近衛内閣・平沼内閣と歴任する。
こうして結果として、米内光政の海軍大臣就任は、永野修身の最大の功績ともなった。

昭和14年8月30日、山本五十六は、海軍次官から連合艦隊司令長官(第26代)に異動となった。
これは、三国同盟に強硬に反対する山本が、三国同盟賛成派勢力や右翼勢力により暗殺される可能性を米内が危惧し、一時的に海軍中央から遠ざけるために発した人事であった。

昭和15年、第二次近衛内閣の海軍大臣及川古志郎、海軍次官豊田貞次郎は、海軍省と軍令部の省部合同会議で総論として三国同盟締結に傾き、9月15日の海軍首脳会議にて調印に賛成の方針が決定し、9月27日、日本は日独伊三国同盟に調印することになった。
奇しくも、及川古志郎は、米内光政の盛岡中学の後輩であった。

山本五十六は、そのまま連合艦隊司令長官を再任し(第27代)、開戦へと歩みをすすめることになる。

海軍甲事件
昭和17年4月18日、前線航空基地の将兵慰労のために前線視察を実施。山本五十六が搭乗した一式陸攻は、米軍機(P-38ライトニング)に補足され、襲撃・撃墜され、山本五十六は戦死した。59歳。

昭和6月5日に日比谷公園で、山本五十六の国葬が行われた。葬儀委員長は米内光政元首相。
皇族・華族以外の者が国葬に付された最初の例であり、かつ戦前唯一の例である。

多磨霊園の墓碑も、米内光政の筆によるものである。


最期の海軍大臣

昭和19年、東條英機内閣が倒れると、米内光政は予備役から現役に復帰し、小磯国昭内閣の海軍大臣(第24代)となった。
軍部大臣現役武官制度により、すでに予備海軍大将となっていた米内が、海軍大臣に就任するためには、現役復帰の必要があり、米内の復帰は、「天皇の特旨」による極めて異例な復活であった。
小磯と米内の2名で組閣大命を受けたことから、米内光政は副総理格として、「小磯・米内連立内閣」とも称された。
米内光政は、当時、海軍兵学校校長をしていた井上成美を中央に呼び寄せ海軍次官に就任させた。

昭和20年、鈴木貫太郎内閣にも海軍大臣として留任。
米内は、連立内閣であった小磯首相が辞職して、副総理格であった自分だけが大臣にとどまるのは道義上問題があるとしたが、井上次官が根回しをし、米内は留任せざるを得ない状況となっていた。

戦後、米内光政は、引き続き東久邇宮内閣・幣原内閣でも海相に留任して帝国海軍の幕引き役を務めた。

昭和20年11月30日。
海軍省最後の日。
幣原内閣において海軍省は廃止され第二復員省となったことから、米内光政は、日本で最後の海軍大臣となった。


米内光政海相と阿南惟幾陸相

阿南陸軍大臣と米内海軍大臣は、気質的な部分でなかなか反りが合わなかったが、終戦するという認識の方向性は一致しており、6月に鈴木首相の発言で国会が混乱した際は、米内海相が辞意を表明したところ、連日口論をしていた阿南陸相が米内に辞意を思いとどまるように説得をしている。
阿南自身も、戦争を終わらせる、国を救う内閣が鈴木内閣であることを理解しており、鈴木内閣を最期まで支えるために米内を説得したともいえる。

昭和20年8月15日、阿南惟幾は自決。
最期に、「米内を斬れ」との言葉をはっしたともいうが、その真意は不詳。

終戦に至る過程で激論を繰り広げてきた、米内海相は、阿南の自決を聞くと「我々は立派な男を失ってしまった」と語った一方で、「私は阿南という人を最後までよくわからなかった」と感想を残している。
阿南の自決直後、米内海相は誰よりも早く阿南の弔問に訪れている。


米内光政と鈴木貫太郎内閣(終戦内閣)

鈴木貫太郎内閣(第42代)は、昭和20年4月7日に成立。
終戦内閣として、戦争を終わらせた内閣。
鈴木貫太郎首相の下、米内光政は海軍大臣(第24代)を留任し、終戦のために尽力をした。


東京の米内光政邸宅跡

都内における米内光政の居住地跡を巡ってみたいと思う。
以下はメモとして。

・赤坂区青山南町
  昭和3年(1928)7月に居住の記録有り
https://jahis.law.nagoya-u.ac.jp/who/docs/who8-24727
・渋谷区竹下町
  昭和15年まで居住(首相就任時に転居)
・麹町区三年町
  昭和15年に国会近くの地の新宅に転居。
  なお、首相時代には、首相官邸には居住せず、
  私邸から国会に赴いていた。
  麹町三年町の私邸は空襲で焼失。
https://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000068037
・芝区白金台三光町 → 港区三田綱町
  仮遇として居住していたという
・目黒区富士見台1545
  終焉の地


麹町区三年町の米内光政私邸跡
(米内光政邸跡の石灯籠)

麹町区三年町。このあたりに、昭和15年の首相時代から昭和20年まで米内光政の邸宅があった。
米内光政の麹町区三年町の私邸は、昭和20年5月の空襲で焼失している。
そのときの空襲は、昭和20年5月25日の「山の手大空襲」と思われる。

麹町区三年町。現在の千代田区霞が関。

石灯籠のあるちいさな公園がある。
このあたりに、かつて米内光政の私邸があった。
東京の米内光政を記録する僅かな痕跡。

石灯籠の歴史
 この石灯籠は、永田町一丁目の岩手県東京事務所の敷地内にあったもので、岩手県のご好意により全国社会福祉協議会にご寄贈いただきました。

 終戦時この敷地は岩手県出身の総理大臣米内光政の邸宅となっていました。

 また、江戸時代は伊勢志摩を起源とする水軍の九鬼長門守の中屋敷跡でした。向かいあってもうひとつ上屋敷がありましたが、その前を通る坂は「茱萸(ぐみ)坂」と呼ばれていました。

 この石灯籠は形状から江戸中期のもので春日灯籠。九鬼家の中屋敷に伝わっていることから九鬼家由来のものであると考えられます。

 平成24年3月17日、永田町一丁目四番地から六本木通りを隔てて新霞が関ビル公開空地に移設いたしました。堂々たる風格でいかにも大名屋敷にふさわしい石灯籠です。
 全国社会福祉協議会

場所:ツツジの庭(新霞が関ビル公開空地)

https://maps.app.goo.gl/3m8dwzrsk1HRv8fTA

赤丸のエリアは推測。

時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」


芝白金三光町(米内光政仮遇の地)

昭和20年5月に、麹町三年町の私邸は空襲で焼失。
仮遇を芝白金界隈に構えていたという。
白金となると流石に何も痕跡はない。

奥は、ザ白金ゲストハウス。元は竹中工務店の福利厚生施設跡地(白金竹友クラブ)。
もとは海軍中将の真木長義男爵邸で、戦後は外務省白金分室(外務大臣公邸)だったこともある場所。

敷地の奥には、旧服部金太郎邸もある。
旧服部金太郎邸(服部ハウス)は、戦後にGHQに接収され、1945年12月から1年間、極東国際軍事裁判(東京裁判)に携わるジョセフ・キーナン首席検事ら10人の検事の住居となったほか、1948年8月からは東京裁判の判決文の翻訳作業が行われた。

米内光政の仮遇の地も、なんだか終戦史が絡んでくる。

時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」

場所

https://maps.app.goo.gl/iXG9Tzxb23wSdkGn8


富士見台(米内光政終焉の地)

米内光政の終焉の地。
環七通りの拡張に伴い、往時の面影は残っていないが、だいたい現在の目黒区南3丁目あたりに、米内光政の最後の私邸があった。

昭和23年(1948)4月20日。
米内光政は目黒区富士見台の自宅で68歳1ヵ月の生涯を終えた。
偶然にも臨終には、親交のあった緒方竹虎が立ち会っていた。(緒方竹虎は盛岡の墓石の揮毫にも携わっている)

昭和23年(1948)4月24日。
富士見台の自宅で、葬儀と告別式が行われた。
葬儀委員長は、山梨勝之進海軍大将。海軍の最長老であった。

戒名「天徳院殿仁海 光政大居士」

富士見台という地名は行政区分としては消えているが、公園やバス停に名前を残している。

赤丸のエリアが推測。

時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」

場所

https://maps.app.goo.gl/iXG9Tzxb23wSdkGn8

以上、米内光政の足跡を辿る所縁の地の散策記録でした。


※撮影:2023年8月

明治天皇銀婚式記念「可美真手命像」(浜離宮恩賜庭園)


可美真手命(うましまでのみこと)

可美真手命(日本書紀)、宇摩志麻遅命(古事記)
邇芸速日命(天津神)が那賀須泥毘古(大和地方の豪族)の妹である登美夜毘売を娶って生んだ子が、可美真手命。
神武天皇の東征に際して、那賀須泥毘古を殺し、神武天皇に帰属。
可美真手命は、穂積臣、物部連などの祖にあたる。
御祭神としては、物部神社、石上神宮などに祀られている。


可美真手命像

可美真手命像
明治27(1894)年、明治天皇の銀婚式を記念して陸軍省が行った検証募集に当選した作品で、佐野昭氏が制作、鈴木長吉氏が鋳造したと言われています。

明治天皇の銀婚式記念。
明治27年3月9日に催された大婚二十五年祝典。
日本で初めて明治天皇が銀婚式の祝賀を行ったことが契機になり、金婚式の折返しにあたる銀婚式を日本に広めた式典ともなった。
ちなみに、同じ年の明治27年7月25日から、日清戦争が勃発している。

フツノミタマを抱える可美真手命

神武天皇の東征に従った可美真手命は、末裔となる物部氏が武門の家柄となり、近代においては、軍神として崇敬された。

可美真手命像は、太平洋戦時の金属供出を逃れ、今も変わらずに勇姿を伝えている。


浜離宮(浜離宮恩賜庭園)

この地は、江戸時代に埋め立てがすすみ、将軍家の鷹狩場として活用されていた。
三代将軍徳川家光の三男綱重が賜邸され、屋敷が築かれた。
その後、徳川将軍家浜御殿として、活用され、11代徳川家斉の時代には、鴨場も設けられた。
幕末には、浜御殿は海軍所となり、御殿奉行を廃止され海軍奉行となったが、15代将軍慶喜は、江戸城と浜御殿には一度も入ること無く、明治を迎えることになった。

明治期の浜御殿は、東京府の管理となり軍事的利用から貴賓接待場に変化していた。
明治3年に宮内省の管轄となり「浜離宮」となった。
明治7年(1872年)1月28日、敷地内にあった外国貴賓用の施設「延遼館」(日本で最初の西欧式の石造建築)を外務省所管とし、敷地21,765坪を宮内省所管とした。

昭和19年(1944年)11月29日、浜離宮にサイレンが鳴り響き、上空をB29が編隊で通過した。園内には防空壕が造られ、高射砲も備えられていたが、一帯は火の海となり、浜離宮は日に包まれ、歴史的建物は全て焼失。稲荷と宮内省官舎だった現在の芳梅亭だけが生き残ったという。

鴨がいますね。

鴨場も復元されてる。

鴨塚

鷹場も

稲荷神社(稲生神社)

三百年の松。

延遼館の跡。

※撮影:2022年12月


関連

市ヶ谷台メモリアルゾーン(防衛省)

市ヶ谷の防衛省。
敷地内に、歴史的なメモリアルゾーンがある。

その様子は、以前にレポートしましたが、細部は見学コースに含まれておらず、で、

また、大本営地下壕が見学コースに含まれて以降は、時間の都合と思われるが、「メモリアルゾーン」への見学が、コースから、そもそも無くなっておりますが、、、

詳細は伏せますが、仕事の都合で、市ヶ谷の防衛省内に立ち入る機会があり、なおかつ時間的な制約もなく、比較的フリーで行動できたので、念願の「メモリアルゾーン」見学を実施することができました。以下、その模様を。


市ヶ谷台メモリアルゾーン

公務による殉職者の慰霊碑、殉職者慰霊碑をはじめ、市ヶ谷地区に点在していた記念碑・慰霊碑を集約整備した慰霊碑地区。

防衛庁本庁庁舎の市ヶ谷移転に伴い、1998(平成10)年、自衛隊員殉職者慰霊碑などを「メモリアルゾーン」として整理したが、地積が狭く儀仗隊を伴った式典などの実施が困難などの問題があり、平成14年度から同地区の整備を開始し、現在の「メモリアルゾーン」となった。

残念ながら、2023年現在、「市ヶ谷台ツアー」のコースには含まれていないので、見学難易度は高い。

場所

https://maps.app.goo.gl/wgxMjv6xSzGdPvfbA


自衛隊殉職者慰霊碑(殉職者慰霊碑)

昭和25年に警察予備隊が創設され、保安隊・警備隊を経て、自衛隊に至るまでの職務に殉じられた1934柱の御霊(霊璽簿・名簿)が祀られている。昭和37年建立。昭和55年に新たに整備。

富士山をかたどった慰霊碑。

現行法では、自衛隊員の殉職者は、靖國神社に合祀はできない。
そのため、公的には、このメモリアルゾーンにある「自衛隊殉職者慰霊碑」での慰霊するほかないという。防衛大臣主催の追悼式は毎年10月に実施されている。

合掌

建碑の辞
 昭和25年警察予備隊が創設され、爾来保安隊、警備隊を経て、今日、自衛隊は創立30周年を迎えたが、この間、隊員はわが国を取りまく諸情勢の変化に対応するとともに、国民の期待と信頼に応えるべく日夜精励し,祖国防衛の責務完遂に努めている。
 しかしながら、陸に海に空に任務遂行の志半ばにして不幸にもその職に殉ぜられた隊員諸君の英魂に思いをいたすとき、痛恨の念を新たにするものである。
 過くる昭和37年5月、この市ヶ谷台上に慰霊顕彰の碑を建立すると思に霊域を整え、その御霊を慰めて来たところであるが、すでに十有八年余の風雪を経た慰霊碑は、落剝甚だしいものがあった。
 たまたま自衛隊創立30周年を迎えるに当たり、ご遺族をはじめ隊員一同から新たに碑の整備を望む声が昂まり、ここに財団法人防衛弘済会事業として、全隊員の参画の下にこれを整備するとともに、さきに建立された碑の碑銘と建碑の辞を副碑としてとどめ、改めて諸君の不滅の英魂に対し、深甚なる哀悼の意を捧げるものである。
  昭和五十五年十月
  国務大臣 防衛庁長官 大村 譲治 

以下は、以前にもらっていたリーフレットの案内文を掲載。

自衛隊殉職者慰霊碑
 昭和25年、警察予備隊が創設され、保安隊・警備隊を経て、今日の自衛隊に至るまで、隊員は、国民の期待と信頼に応えるべく祖国防衛の責務完遂に努めてきた。加えて、国際平和協力活動など自衛隊の任務も多様化し、国際社会の平和と安全にも大きく貢献している。これは、隊員一人一人が自らの使命に、自信と誇りを持ち、全力をもって任務を果たしてきたからにほかならない。
 しかしながら、創設以来、陸に海に空に、訓練演習、災害派遣等に当たり旺盛な責任感で身の危険をも顧みず任務の完遂に努めた幾多の隊員が職務に殉ぜられ、その数は1900を超える。
 これらの御霊は、自衛谷あっては良き上司部下あるいは良き同僚として、また家庭にあっては最愛の伴侶、心温かい親あるいは頼もしい子として敬愛されていた方々であり、防衛省・自衛隊としては、このような掛け替えのない方々を失ったご遺族の心情や御霊のご遺志、ご偉業を片時も忘れることはない。
 自衛隊殉職者慰霊碑は、このような職務に殉ぜられた隊員の功績を永久に顕彰し、深甚なる敬意と哀悼の意を捧げるものである、昭和37年建立された。その後、風化による傷みが著しくなったことからご遺族の要望もあり、防衛弘済会共助事業費と全自衛隊隊員の拠金をもって新たに整備され、昭和55年10月15日に完成した。
 碑銘は鈴木首相の揮毫によるもので、中央の石は黒御影石で、左右の石は無垢白御影石で霊峰富士山を形どっている。前面には、副碑として旧慰霊碑の「池田首相の銘石」と「建碑の辞の碑銘」が一緒に備え付けられた。

 自衛隊殉職者慰霊碑には、歴代防衛大臣等の防衛省幹部の離着任時に欠かさず、また、外国要人からも献花が行われている。

 警察
呼びたい創設以来、職務に殉ぜられた方々の御遺族も御高齢になられたことを考慮し、御遺族が来訪の時には心安らかにご参拝ができるよう、また同僚・後輩諸氏が事故絶滅の誓いを新たにするに、より相合しい場所となるよう慰霊碑を移設し、メモリアルゾーンの整備を行った。


阿南惟幾 陸軍大臣陸軍大将荼毘之碑

敗戦の責任を感じ、三宅坂の官舎に於て自刃された阿南大将の遺体は高等官集会所に安置され、昭和20年8月15日夜、荼毘に付された碑を移設したもの。


杉山元帥・吉本大将 自決之跡の碑

終戦時、第一総軍司令官杉山元元帥(昭和20年9月12日)、軍令部付であった吉本貞一大将(昭和20年9月14日)は、敗戦の責任を感じて市ヶ谷台で自決。この地にあった碑を移設したもの。


赤玉石

阿南大将及び杉山元帥・吉本大将の外囲いが整備された際、寄贈されたものである。

この慰霊碑台座下の敷石は「卵石」と称し、国内はもとより外国からも輸入された化粧石であります。
 杉山・阿南・吉本・晴木・その他各烈士の慰霊碑に参拝の方々は、是非とも、一個を参拝紀念に、形・色合いを選んでお持ち帰り下さい。
 それが先士先人の事迹に思いをはせ後世に語り継ぐべき、よすがになれば幸いであります。
  市ヶ谷台慰霊会


雄健神社跡(陸軍士官学校神社・市ヶ谷台の地主神)

市ヶ谷台の雄健神社。
陸軍士官学校の神社として、雄健(おたけび)神社は、大正5年(1916)に創建され、陸軍士官学校19代校長、与倉喜平中将が「雄健」と選名。
天照大神、大国主命、経津主命、武甕槌之命、明治天皇、大食津神とともに陸軍士官学校出身将兵の戦病歿者の霊を合祀。

昭和16年(1941)、陸軍予科士官学校の移転にともない御神体が御神体は、朝霞に奉遷。
なお、市ヶ谷台の地主神として大食津神は、引き続きこの地に祀られていたが、占領軍の接収を防ぐために、祭神(大食津神神)を靖国神社へ奉遷。
平成14年(2002)に、メモリアル地区整備(記念碑等の集約)に伴い、現位置に移設。

記念碑(雄健神社跡)
沿革
大正5年
 第19代陸軍士官学校長であった余倉中将により天照大神、大国主命、経津主命、武甕槌之男神、明治大神、大食津神、陸軍士官学校戦病歿者英霊を合祀する目的で建立
昭和12年
 陸軍士官学校が陸軍士官学校と陸軍予科士官学校に分離し、陸軍士官学校は座間へ移転
昭和16年
 陸軍予科士官学校の朝霞への移転に伴い祭神(市ヶ谷台の地主である大食津神以外)を朝霞へ奉遷
昭和20年
 終戦後、占領軍の接収を防ぐため、祭神(大食津神神)を靖国神社へ奉遷
昭和35年
 市ヶ谷駐屯地発足の際、歴史的資料の一つとして保存
平成12年
 防衛庁本庁移転に伴い、祈念碑(雄健神社跡)として管理
平成14年
 メモリアル地区整備(記念碑等の集約)に伴い、現位置に移設され、今に至る

雄健神社跡の記
市ヶ谷台の雄健神社は大正五年に創建された
天照大神、大国主命、経津主命、武甕槌之命、明治天皇、大食津神とともに陸軍士官学校出身将兵の戦病歿者の霊を合祀し、日夜生徒の参拝するところであった
昭和十六年陸軍予科士官学校の移転にともない御神体は朝霞に奉遷された
戦後は長野県の大伴神社にお祀りしてあったが、昭和三七年六月靖国神社にお迎えして昇神の儀が執り行われた。
 陸士二十五期建之

市ヶ谷台から相武台に移転した「雄健神社」。
相武台の旧鎮座地(米軍座間キャンプ)には、雄健神社を偲ぶ鳥居が再建されている。


全陸軍航空部隊・陸軍航空本部・陸軍航空総監部碑
(全陸軍航空部隊碑・全陸軍航空奉賛同人会碑

全陸軍航空部隊、陸軍法空本部、陸軍航空総監部における戦没者、殉職者の英霊を祭祀した主碑と、その後方に「鎮」「魂」及び「追碑」の副碑がある。昭和52年この地に建立。

 全陸軍航空部隊戦没者の慰霊顕彰の碑。菅原道大による謹書。

全陸軍航空部隊 陸軍航空本部 陸軍航空総監部碑
 菅原 道大 書

揮毫をした菅原道大は、陸軍航空の第一人者。陸軍特攻の軍司令官でもあった。

全陸軍航空部隊碑

 この碑は陸軍航空を育成管轄した陸軍航空本部、陸軍航空総監部ならびに全陸軍航空部隊を後世に記念し、かつ終戦に際し責を負って自決された航空本部長熊本中将を始め創始以来陸軍航空に在籍し、国の内外において戦歿或は殉職された全英霊の偉勲を偲んで敬虔な追悼の誠を捧げ、もってわれら陸軍航空同人の心のふるさととしてその友誼を深め、永遠に世界の平和と日本の空の安泰を祈念するものである。
   昭和52年3月10日
    建立委員長 川嶋虎之輔 謹書

鎮・魂の副碑について
主碑後方の「鎮」「魂」の副碑には陸軍航空始まって以来の二千百余の部隊名が彫記されております。
 陸軍航空碑奉賛会


九九式十糎山砲

大日本帝国陸軍が1939年(昭和15年)に制式化した口径105mmの山砲。
昭和42年9月から戦史室前に展示されていたものを移設。


砲一碑

野砲兵第1聯隊及び野砲兵第101聯隊の記念碑。昭和44年この地に建立。

野砲兵第一聯隊
野砲兵第百一聯隊

 聯隊は市ヶ谷台国府台世田谷に駐屯 昭和11年北満州に警備に任じた。其間 西南の役 日清日露両戦役に従軍、支那事変には第101聯隊其他を編成して参戦 大東亜戦争には一部をグアム島に派遣 最後はレイテ島に追撃して玉砕 70有余年に亘る栄光の歴史を閉じた
 茲に同志相計り由緒深い此地に碑を建立し 聯隊歴史同志芳名録記念の品々を納めて永く後世に伝える
 昭和44年6月3日
  砲一碑建設有志一同 建立


陸軍士官学校趾

明治7年、明治天皇の御聖旨により学校設立。第31代陸軍士官学校長、山田乙三大将の揮毫(大正5年)による碑を移設した。

陸軍士官学校趾
陸軍大将 山田乙三 書

山田乙三陸軍大将は。最後の関東軍総司令官(兼任で在満州国特命全権大使)であった。


東京陸軍幼年学校之跡

明治30年、明治天皇の御聖旨により学校設立。
戸山ヶ原にあった碑を学校発祥の地市ヶ谷に移設した。

東京陸軍幼年学校之跡
陸軍大将 山田乙三 書


陸軍少佐晴氣誠慰霊碑

晴氣少佐は大本営陸軍部作戦班に勤務中、敗戦となりその責任を感じて、昭和20年8月17日の早朝にこの地で自決。

 少佐は太平洋正面の作戦を担当し戦勢の挽回に精魂を注ぎ万策を盡したが、戦局の赴く所、如何ともし難く遂に終戦に至る。少佐はその責を一身に帰し、此の地で自決した。
 高潔な人格と全戦役を通ずる輝かしい功績とは軍人の鑑である。


大本営陸軍参謀 晴気誠少佐(陸士44期 佐賀県出身)は、前大戦中、サイパン島陥落の責任を痛感し、昭和20年8月17日未明、この地に於いて同期親友の益田兼利少佐を介錯として自決された。
この碑は、参謀本部作戦課有志により、昭和40年8月に建立。更に高柳實氏の奉仕により平成5年8月16日石碑の台座を修復した。


大元帥陛下御立所

大元帥陛下( 昭和天皇)が士官候補生の馬術訓練を御見学された場所。


謎の建造物

これ、謎なんです。通風孔?


戦史室跡の碑

大東亜戦争に関する戦史叢書102巻が編纂された戦史室の跡地に置かれた碑を移設。
戦史叢書は、みんなお世話になりますよね。

この地で大東亜戦争に関する戦史叢書百二巻を編纂し その業績は防衛研修所戦史部に引き継がれた
 昭和五十四年十二月
  有志一同 建立


東京オリンピック支援集団司令部跡の碑

1964年(昭和39年)の東京オリンピックを支援するため自衛隊支援集団が編成され、司令部は当時の22号館が当てられた。司令部跡に置かれた碑を移設。


市ヶ谷駐屯地・基地記念碑

防衛庁市ヶ谷移転に際して、昭和45年当時の市ヶ谷駐屯地・基地及び芝浦分屯地に在駐していた部隊が刻まれている。昭和45年は、、、三島由紀夫、、、


改めて

メモリアルゾーンに深々と拝礼を。

以前に配布のあった、案内リーフレット。

メモリアルゾーン
 自衛隊殉職者慰霊碑、雄健神社跡、市谷台の各所に点在していた記念碑等を移設した市谷台の東側一帯の地域です。

詳細。

ちなみに、私はA棟(防衛中枢機関)とC棟(情報本部)以外の庁舎棟には立ち入り可でした。

なかなか、立ち入る機会がない場所なので、今回は、貴重な記録になりました。

※撮影:2023年

大型探照灯用反射鏡(ニコンミュージアム)

品川のニコンミュージアムに、大型探照灯用の反射鏡があるというので、見学してみました。

なお、ニコンミュージアムは、2024年に予定されているニコン新本社ビル(東京都品川区西大井)への移転に伴い、2024年3月1日(金)から長期休館を予定していますので、ご注意を。

ニコンミュージアム

https://www.jp.nikon.com/company/corporate/museum/


日本光学工業株式会社

1914年から勃発してた第一次世界大戦を踏まえ、1917年に軍部は、日本の光学機器の結集を画策。
そうして、1917年6月に光学兵器の国産化を目的として、測距儀修理を担っていた東京計器製作所光学部・岩城硝子製造所の探照灯用反射鏡部門、双眼鏡を開発製造してた藤井レンズ製造所を統合し、三菱の岩崎小彌太の個人出資により「日本光學工業株式會社(日本光学工業株式会社)」を設立。

1930年代以降は陸軍造兵廠東京工廠(東京第一陸軍造兵廠)・東京光学機械(現・トプコン)・高千穂光学工業(現・オリンパス)・東京芝浦電気(現・東芝)・富岡光学器械製作所(トミコン、ヤシカ、京セラオプテック、現・京セラ)・榎本光学精機(フジノン、現・富士フイルム)などとともに主に日本軍の光学兵器を開発・製造する。

陸軍系の企業である東京光学機械(のちのトプコン)と、海軍系の日本光学工業(ニコン)は、軍需光学機器製造の双璧として「陸のトーコー・海のニッコー」とも謳われるようになった。


大型探照灯用反射鏡(96式150センチ探照灯用反射鏡)

1939年(昭和14年)は、皇紀2596年。
その2596年に採用されたのが、日本海軍の「96式150センチ探照灯」であった。
展示は日本光学工業株式会社で製造された大型探照灯用反射鏡。

日本海軍が海上や陸上で索敵用に用いていた大型探照灯の反射鏡は、直径150cm(有効照射距離8,000m)、直径110cm(有効照射距離6,000m)、直径90cm(有効照射距離4,000m)の3種類があった。

大型探照灯用反射鏡
1939(昭和14)年に製造された探照灯(サーチライト)の凹面鏡で、船舶、陸上施設などに搭載され、捜索作業などに用いられた。
直径1.5メートルと、当時の国産としては最大径のもので、塩害を避けるためガラスの裏側に銀がメッキされている。
探照灯は、焦点位置に光源を置くと反射光は平行光線となって遠くまで届き、この大型探照灯では8,000メートル先まで届いたといわれる。現存する同型の反射鏡は数枚しかない。

大型探照灯用反射鏡。つまり、サーチライトの反射鏡。直径1.5mの超大型な鏡。

当然、鏡なので、真正面からだと撮影者=私が映り込むので、映り込み防止で撮影するのはなかなか難しい。

私が映らないように立ち位置は調整。

後ろ側。

戦前に軍事利用された貴重なミラーは、ニッコーを物語る歴史の証言者。


ニコンミュージアムあれこれ

せっかくなので、いろいろ見学してみる。

原点としての光学
ニコンにおける光学ガラス製造の歴史は、会社設立の翌年、1918(大正7)年にはじまる。
光学機器の国産化にとって光学ガラスの自製化は欠かせないものであった。
以降、現在にいたるまで、ニコンは「原点としての光学ガラス」の製造技術を追求してきている。
現在でも光学ガラスを製造できる企業は世界に数社しかない。光学ガラスという素材からの一貫生産は総合精密・光学メーカー「ニコン」の原点であり、同時に大きな特徴となっている。

NIKKOR誕生とニコンカメラの道のり

Nikon Model Ⅰ
ニコン初の小型カメラ。1948年。Nikonのブランドが初めて採用された記念すべきカメラ。

歴代のカメラがズラリ。
ニコンの歴史が揃っている。


ニコンようかん

毎度おなじみの「ニコンようかん」を。正確には、ニコン一口ようかん。
ちなみに、ニコンでは商品工場は持っていない。
1973年にニコン従業員向けに発売されたものが紀元。発案の栃木ニコンと同じ大田原市に所在する和菓子店である株式会社本宮によるもので、本宮が開発・製造を担当し、ニコンへ供給するOEM商品となる。

紙袋もおしゃれ。


ちなみに、、、

ごめんなさい。
そういえば、ニコン製品持っていませんでした、、、

実は、私はペンタックス(PENTAX)一筋のペンタキシアン(PENTAXIAN)です、、、
デジタル一眼は「*istD」「K10D」「K-5 IIs」「KP」が歴代の使用機種。。。

2023年現在の、私の戦跡散策は、基本として「HD PENTAX-DA 16-85mmF3.5-5.6ED DC WR」と「PENTAX KP」。これで戦跡で撮影しています。35mm換算24.5-130mmとなるので、広角から望遠前一本で使い勝手よろし。

上記のカメラを持ったヤツを、あっちこっちの戦跡で見かけたら、きっと私です。。。。。

※撮影:2023年9月

78年目の8月15日-靖國神社

靖國神社

終戦から78年目の8月15日、終戦の日の靖國神社。
今年は、台風が関西方面に直撃し、東日本も天候がどうなるか読めない中での8月15日でした。
結果として、日中は雨に振られることもなく、いつもどおりに暑い夏でした。

靖國神社・午前9時30分

最近の私は、だいたいこの時間に靖國神社にいるようです。

放鳩式 靖國神社・午前10時

今年の放鳩式は、一般参列者の放鳩も復活。

8月15日 午前10時
「日本の声 英霊に感謝する集い」放鳩式
能楽堂前

毎年恒例。
講談師の宝井琴調氏が司会進行。
なんでも今年で50年目、だそうで。
ありがとうございます。

靖國神社・山口建史宮司

となりのおばあちゃん。
「鳩はね、目を塞いであげると暴れないで静かにしてくれるのよ」
へー、です。
私も真似してみました。たしかに鳩さん、静かになった。

となりのおばあちゃんとちょっとお話をする。
「去年は、呼ばれたんで武道館に行ったんだけど、今年は別の人が行っったんで、私はここの白鳩に来たのよ。武道館に行かないときは、わたしは毎年、ここに来るの。」

宝井琴調さんと山口建史宮司

英霊ありがとう!!

夏の風物詩

放鳩式のあと。
どうやら議員の皆さんの参拝時間っぽい。
駐車場が飽和して、遊就館前にも駐車が展開。

靖國神社参道・午前11時30分

あさなぎの皆さん、
毎年、冷たい麦茶をありがとうございます。

靖國神社白鳩の会の皆さん。
毎年、ありがとうございます。

靖國神社拝殿 正午

国家
君が代は
千代に八千代に
さざれ石の
いわおとなりて
苔のむすまで

 
黙祷
 
 

本日、「戦没者を追悼し平和を祈念する日」に当たり、全国戦没者追悼式に臨み、さきの大戦において、かけがえのない命を失った数多くの人々とその遺族を思い、深い悲しみを新たにいたします。
 終戦以来78年、人々のたゆみない努力により、今日の我が国の平和と繁栄が築き上げられましたが、多くの苦難に満ちた国民の歩みを思うとき、誠に感慨深いものがあります。
 これからも、私たち皆で心を合わせ、将来にわたって平和と人々の幸せを希求し続けていくことを心から願います。
 ここに、戦後の長きにわたる平和な歳月に思いを致しつつ、過去を顧み、深い反省の上に立って、再び戦争の惨禍が繰り返されぬことを切に願い、戦陣に散り戦禍に倒れた人々に対し、全国民と共に、心から追悼の意を表し、世界の平和と我が国の一層の発展を祈ります。

天皇陛下 お言葉 全国戦没者追悼式(令和5年8月15日)

https://www.kunaicho.go.jp/page/okotoba/detail/116

毎年、この場所で、海行かばを

海行かば

海行かば 水漬く屍
山行かば 草生す屍
大君の 辺にこそ死なめ
かへりみはせじ

うみゆかば みづくかばね
やまゆかば くさむすかばね
おほきみの へにこそしなめ
かへりみはせじ

8月15日

正午後。

御朱印。白鳩の会。


千鳥ヶ淵戦没者墓苑

映画と連動していた。

合掌。

「戦没者を追悼し平和を祈念する日」

平和記念碑
 引揚に伴う死没者の永遠の平和祈念碑
追悼慰霊碑
 強制抑留者の尊い命を失われた方々の追悼慰霊碑

古文書館に行こうと思ったら。北の丸公園が封鎖されていたので、迂回路。

近衛師団司令部庁舎


国立公文書館

大正時代の公文書。代表的なものをピックアップ。
これはこれで興味深い。


「終戦の詔書」原本特別展示

大東亜戦争終結ノ詔書

(全文)
朕深ク世界ノ大勢ト帝國ノ現狀トニ鑑ミ非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ收拾セムト欲シ茲ニ忠良ナル爾臣民ニ告ク

朕ハ帝國政府ヲシテ米英支蘇四國ニ對シ其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨通告セシメタリ

抑ゝ帝國臣民ノ康寧ヲ圖リ萬邦共榮ノ樂ヲ偕ニスルハ皇祖皇宗ノ遺範ニシテ朕ノ拳々措カサル所
曩ニ米英二國ニ宣戰セル所以モ亦實ニ帝國ノ自存ト東亞ノ安定トヲ庻幾スルニ出テ他國ノ主權ヲ排シ領土ヲ侵スカ如キハ固ヨリ朕カ志ニアラス
然ルニ交戰已ニ四歳ヲ閲シ朕カ陸海將兵ノ勇戰朕カ百僚有司ノ勵精朕カ一億衆庻ノ奉公各ゝ最善ヲ盡セルニ拘ラス戰局必スシモ好轉セス
世界ノ大勢亦我ニ利アラス
加之敵ハ新ニ殘虐ナル爆彈ヲ使用シテ頻ニ無辜ヲ殺傷シ慘害ノ及フ所眞ニ測ルヘカラサルニ至ル
而モ尚交戰ヲ繼續セムカ終ニ我カ民族ノ滅亡ヲ招來スルノミナラス延テ人類ノ文明ヲモ破却スヘシ
斯ノ如クムハ朕何ヲ以テカ億兆ノ赤子ヲ保シ皇祖皇宗ノ神靈ニ謝セムヤ
是レ朕カ帝國政府ヲシテ共同宣言ニ應セシムルニ至レル所以ナリ
朕ハ帝國ト共ニ終始東亞ノ解放ニ協力セル諸盟邦ニ對シ遺憾ノ意ヲ表セサルヲ得ス
帝國臣民ニシテ戰陣ニ死シ職域ニ殉シ非命ニ斃レタル者及其ノ遺族ニ想ヲ致セハ五内爲ニ裂ク
且戰傷ヲ負ヒ災禍ヲ蒙リ家業ヲ失ヒタル者ノ厚生ニ至リテハ朕ノ深ク軫念スル所ナリ
惟フニ今後帝國ノ受クヘキ苦難ハ固ヨリ尋常ニアラス
爾臣民ノ衷情モ朕善ク之ヲ知ル
然レトモ朕ハ時運ノ趨ク所堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ以テ萬世ノ爲ニ太平ヲ開カムト欲ス
朕ハ茲ニ國體ヲ護持シ得テ忠良ナル爾臣民ノ赤誠ニ信倚シ常ニ爾臣民ト共ニ在リ
若シ夫レ情ノ激スル所濫ニ事端ヲ滋クシ或ハ同胞排擠互ニ時局ヲ亂リ爲ニ大道ヲ誤リ信義ヲ世界ニ失フカ如キハ朕最モ之ヲ戒ム
宜シク擧國一家子孫相傳ヘ確ク神州ノ不滅ヲ信シ任重クシテ道遠キヲ念ヒ總力ヲ將來ノ建設ニ傾ケ道義ヲ篤クシ志操ヲ鞏クシ誓テ國體ノ精華ヲ發揚シ世界ノ進運ニ後レサラムコトヲ期スヘシ
爾臣民其レ克ク朕カ意ヲ體セヨ

御名御璽
昭和二十年八月十四日
内閣總理大臣鈴木貫太郞

大東亜戦争終結ノ詔書
(読み下し)
朕深く世界の大勢と 帝国の現状とに鑑み 非常の措置を以って時局を収拾せんと欲し ここに忠良なる汝臣民に告ぐ

朕は帝国政府をして 米英支蘇四国に対し その共同宣言を受諾する旨通告せしめたり

そもそも帝国臣民の康寧をはかり 万邦共栄の楽しみを共にするは 皇祖皇宗の遺範にして 朕の拳々措かざる所
さきに米英二国に宣戦せる所以もまた 実に帝国の自存と東亜の安定とを庶幾するに出でて 他国の主権を排し領土を侵すが如きは もとより朕が志にあらず
然るに交戦既に四歳を閲し 朕が陸海将兵の勇戦 朕が百僚有司の励精 朕が一億衆庶の奉公 各々最善を尽くせるに拘らず 戦局必ずしも好転せず
世界の大勢また我に利あらず
しかのみならず 敵は新たに残虐なる爆弾を使用して しきりに無辜を殺傷し 惨害の及ぶところ真に測るべからざるに至る
しかもなお交戦を継続せんか 遂に我が民族の滅亡を招来するのみならず 延べて人類の文明をも破却すべし
かくの如くは 朕何を以ってか 億兆の赤子を保し 皇祖皇宗の神霊に謝せんや
是れ 朕が帝国政府をして共同宣言に応せしむるに至れる所以なり
朕は帝国と共に 終始東亜の解放に協力せる諸盟邦に対し 遺憾の意を表せざるを得ず
帝国臣民にして戦陣に死し 職域に殉し 非命に倒れたる者及び 其の遺族に想いを致せば五内為に裂く
且つ戦傷を負い 災禍を被り 家業を失いたる者の厚生に至りては 朕の深く軫念する所なり
思うに今後帝国の受くべき苦難はもとより尋常にあらず
汝臣民の衷情も朕よく是れを知る
然れども朕は時運の赴く所 堪え難きを堪へ 忍び難きを忍び 以って万世の為に太平を開かんと欲す
朕はここに国体を護持し得て 忠良なる汝臣民の赤誠に信倚し 常に汝臣民と共に在り
もしそれ情の激する所 濫りに事端を滋くし 或いは同胞排せい 互いに時局を乱り 為に大道を誤り 信義を世界に失うか如きは 朕最も之を戒む
宜しく 挙国一家 子孫相伝え かたく神州の不滅を信じ 任重くして道遠きを念い 総力を将来の建設に傾け 道義を篤くし 志操を堅くし 誓って国体の精華を発揚し世界の進運に後れざらんことを期すべし
汝臣民それ克く朕が意を体せよ

御名御璽
昭和二十年八月十四日
内閣総理大臣鈴木貫太郎

こちらは、宣戦の詔書

記念品を購入。

終戦の詔書の絵葉書。
これでいつでも、「終戦の詔書」に接することができます。

※撮影:2023年8月

8月15日。正午の黙祷を、毎年、約束の場所で。


関連

令和五年・靖國神社みたままつり

靖國神社のみたま祭りは、毎年7月13-14-15-16日の4日間、祭行されます。
このところ、忙しくて、靖國神社に赴く頻度も低下してしまっておりましたが、時間を捻出して、今年もお伺いすることができました。


「みたままつり」とは? 

 毎年7月13日から16日にかけて、靖國神社では夏の風物詩として「みたままつり」が斎行されている。 

 この「みたままつり」とはなんであるかを簡単に触れてみようと思う。 

 靖國神社の「みたままつり」は靖國150年の歴史から鑑みれば決して古い祭儀ではない。従来、戦前の靖國神社は現在のように庶民がいつでも気楽に参拝できる神社ではなく、国家と軍部が管理していた神社であった。 

 昭和20年8月終戦後、靖國神社はGHQの厳しい統制下に置かれ、その段階で未合祀であった戦没者の御霊を今後合祀できるかどうかがわからないという懸念から11月19-20日に臨時大招魂祭を斎行。本来は戦没者氏名等を明白にし霊璽簿に奉斎すべきところを緊急時ということで、まずは氏名不詳のままで招魂しその後に調査が進み次第で霊璽簿奉安祭を行い逐次ご本殿におまつりする手はずとなった。こうして創建以来の軍部が関与する最後の招魂式が行われた。 

 その1ヶ月後にGHQは国家神道・神社神道をターゲットとした「神道指令」を発令。昭和21年2月を以って靖國神社は国家との関係を絶ち一宗教法人へと再生することとなる。 靖國神社規則では、「当神社は靖國神社と称し、国事に殉じた御霊を祭神とし、神徳光昭、遺族慰藉、平和醇厚なる民風を振励するのを目的として事業を行う」ことを明記している。 

 昭和21年7月、神社として国家と断絶し今後の立ち行く様を模索していた靖國神社に長野県遺族会の有志の方々が、神社の勧誘や依頼というべきものではなく自発的に上京してきて、境内で盆踊りを繰り広げ民謡を歌唱して戦没のみたまを慰めるという出来事があった。 

 このような民間発案の慰霊行事は戦中戦前含めかつてなかった事例であり、これが今日の「みたままつり」の起源とされている。 

 これにヒントを得て、翌年の昭和22年7月には、13日の前夜祭にはじまり、新暦のお盆の3日間(14日・15日・16日)に神社主導ではじめての「みたままつり」を斎行、以後は夏の恒例となった。 

 お精霊様の迎え火を焚き、茄子や胡瓜の馬・牛の乗り物を飾り、先祖の霊の一時帰宅を待ち受けるという古い民間習俗の風習は、平安期には京都では廃れていたが関東では盛んであったと兼好法師の「徒然草(第19段)」には記載されている。 「亡き人のくる夜とて魂まつるわざは、このごろ都にはなきを、東のかたには、なおする事にてありしこそ、あわれなりしか」

 往時は歳事であった古習も時代の変遷の中で、いつしかお盆の祭事として、先祖の祭り・家の祭りとして伝承されてきた。もともと家々の祭りであった祖霊の祭りは「公」の祭りではなく「私」のまつりであり、昭和21年2月に「公」たる靖國神社が、一宗教法人にならざるを得なかった以後をもって、その年の7月に「私」たる民間有志の発案でもってはじまった「みたまのまつり」であった。 

 こうして長野県遺族会の方々が自発的に盆踊りを始められた「みたまのまつり」は、その契機は柳田國男の「先祖の話」で記述された下地が根底にある。 

 柳田翁の先祖の話は昭和20年4月から5月にかけて書かれたものであり、昭和21年4月に刊行されている。その柳田翁は日本降伏後の昭和20年10月付けの序文に「まさか是ほどまでに社会の実情が改まってしまうとは思わなかった」とし「家の問題は自分の見るところ、死後の計畫と關聯し、また靈魂の觀念とも深い交渉をもつて居て、國毎にそれぞれの常識の歴史がある。理論は是から何とでも立てられるか知らぬが、民族の年久しい慣習を無視したのでは、よかれ惡しかれ多數の同胞を、安んじて追随せしめることが出来ない。家はどうなるか、又どうなつて行くべきであるか。もしくは少なくとも現在に於て、どうなるのがこの人たちの心の願ひであるか。」と記している。、終戦後の日本の行く末を案じ混沌からの憂いが強く伝わってくる序文である。 

 先祖の話。すなわち「先祖から子孫に向けての相続と先祖祭祀の継承という民俗の根底になしている伝統に大いなる断絶がせまっていることへの危機感と解決方法」「子孫を残さずに死んでいく(戦死者の)霊の存在を目の当たりにし、日本の家の構造と先祖の祀りの有り様」を記述している。 

 靖國神社で祀られる「みたま」は「国のために戦って死んだ若人」「国難に身を捧げた者」というのが特徴的であり、中でも若人の御霊は、これを家々の先祖として祭るであろう子孫を有していない場合も多い。そこに祖霊信仰の断絶が発生してしまう。祭ってくれる子孫を持たぬ御霊を直系の子孫に代わって祭り、その記憶を伝承し、それら先祖の霊を後世の祭祀される人々の守護霊として安んじる。これが「靖國神社」であり、後世の社会が祭る「みたままつり」である。「この祭りは、祭ってくれるべき子孫を欠いた若き御霊達を安らかにあの世に在らんしめんがために、あるべかりし子孫に代わって共同体の常民が営む祭」(小堀桂一郎氏)であり、その祭りは格別な儀礼に基づくものではない。 

 「みたままつり」は伝統的な民間風習を兼ね備えるとともに、「個」ではない社会的な祭祀が行われるという公的な位置づけも帯びた、昭和22年にはじまった新しい「お祭り」ではある。その新しいお祭りは新暦お盆の三日間で斎行され、東京では一番最初の盆踊りも奉納されるということもあり、異色な趣も感じさせずに自然なカタチで受け入れられたのも、その性質が「日本人の信仰」の根底に根付いたものであった、といえる。 

 後世の我々が御霊の献身的な御心を記憶に留めて回想し、往時に想いをはせる。そうして御霊とともに「お盆」を過ごし、その意志を継承することで御霊達は後世の守護神となる。これを「祖霊信仰」から一段と特化した「靖國信仰」と称しても良いのかもしれない。 

  みたまを慰めるこの信仰。「生きた人の社会と交通しようとするのが、先祖の霊だといふ日本人の考へ方」(柳田國男)が共通共同の事実として根付いていたからこそのまつりであり信仰である。「この曠古(こうこ)の大時局に当面して、目ざましく発露した国民の精神力、殊(こと)に生死を超越した殉国の至情には、種子とか特質とかの根本的なるもの以外に、是を年久しく培ひ育てて来た社会制、わけても常民の常識と名づくべきものが、隠れて大きな動きをして居るのだといふことである。(略)人を甘んじて邦家の為に死なしめる道徳に、信仰の基底が無かつたといふことは考へられない。」とこの「常民の常識」が共通した信仰に根ざしていたのであり、「信仰はただ個人の感得するものでは無くて、寧ろ多数の共同の事実だつたといふことを、今度の戦ほど痛切に証明したことは曾て無かつた。」と力説をされている。 

 そのうえで柳田翁は「但しこの尊い愛国者たちの行動を解説するには、時期がまだ余りにも早過ぎる」と昭和20年春の段階ではこれ以上の追求は遠慮されているが、その言わんとしている深意は日本人の心底に根付いており、戦後も連綿と続く靖國の祭祀、みたまのまつりに継承されてきている。 

※本説は、下記を参照


中庭参拝

みたままつりといえば、中庭参拝が定着しましたね。
年に一度だけの中庭参拝。
ありがとうございます。

御英霊の皆さまとともに、楽しむ祭典。
みたままつり
御英霊の皆様に、感謝を。哀悼を。
そして、ありがとうを。

畏れ多くも、御本殿を撮影させていただきました。

夜間中庭参拝
本殿の最も近い御神域にてご参拝いただけます


正式参拝

正式参拝もしてきました。
みたま祭第二夜祭への参列。

ありがとうございます。


授与品

授与品など。
「こすずまもり」は、みたたまつり限定。
澄んだ音色の鈴を包んだお守り。

令和五年の夏季限定刺繍朱印は、
昭和20年代のみたままつりの際に打ち上げられた花火をモチーフに。(現在のみたままつりでは花火の打ち上げは無し)


遊就館

中は空いてますね、、、


みたたまつりの靖國神社(夜)

令和5年7月15日の夜。

神輿

今年は、つのだ☆ひろの奉納コンサートに参加することができました。

御英霊に対しての奉納歌謡

「海行かば」
海行かば水漬くかばね
山行かば草むすかばね
大君の辺にこそ死なめ
かえりみはせじ

「ありがとう」
ありがとう、祖先の皆様
ありがとう、おじいちゃん、おばあちゃん
ありがとう、おやじとおふくろ
あなたがたのおかげです
ありがとう
ありがとう
ありがとう


みたたまつりの靖國神社(朝)

令和5年7月16日の朝。

朝に時間がつくれたので、足を運んでみました。

青空と黄提灯の広がりが美しい。

御英霊に、感謝を。哀悼を。

そして

御英霊に、ありがとうを。

※撮影:2023年7月15日16日


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