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可美真手命(うましまでのみこと)
可美真手命(日本書紀)、宇摩志麻遅命(古事記)
邇芸速日命(天津神)が那賀須泥毘古(大和地方の豪族)の妹である登美夜毘売を娶って生んだ子が、可美真手命。
神武天皇の東征に際して、那賀須泥毘古を殺し、神武天皇に帰属。
可美真手命は、穂積臣、物部連などの祖にあたる。
御祭神としては、物部神社、石上神宮などに祀られている。
可美真手命像
可美真手命像
明治27(1894)年、明治天皇の銀婚式を記念して陸軍省が行った検証募集に当選した作品で、佐野昭氏が制作、鈴木長吉氏が鋳造したと言われています。
明治天皇の銀婚式記念。
明治27年3月9日に催された大婚二十五年祝典。
日本で初めて明治天皇が銀婚式の祝賀を行ったことが契機になり、金婚式の折返しにあたる銀婚式を日本に広めた式典ともなった。
ちなみに、同じ年の明治27年7月25日から、日清戦争が勃発している。
フツノミタマを抱える可美真手命
神武天皇の東征に従った可美真手命は、末裔となる物部氏が武門の家柄となり、近代においては、軍神として崇敬された。
可美真手命像は、太平洋戦時の金属供出を逃れ、今も変わらずに勇姿を伝えている。
浜離宮(浜離宮恩賜庭園)
この地は、江戸時代に埋め立てがすすみ、将軍家の鷹狩場として活用されていた。
三代将軍徳川家光の三男綱重が賜邸され、屋敷が築かれた。
その後、徳川将軍家浜御殿として、活用され、11代徳川家斉の時代には、鴨場も設けられた。
幕末には、浜御殿は海軍所となり、御殿奉行を廃止され海軍奉行となったが、15代将軍慶喜は、江戸城と浜御殿には一度も入ること無く、明治を迎えることになった。
明治期の浜御殿は、東京府の管理となり軍事的利用から貴賓接待場に変化していた。
明治3年に宮内省の管轄となり「浜離宮」となった。
明治7年(1872年)1月28日、敷地内にあった外国貴賓用の施設「延遼館」(日本で最初の西欧式の石造建築)を外務省所管とし、敷地21,765坪を宮内省所管とした。
昭和19年(1944年)11月29日、浜離宮にサイレンが鳴り響き、上空をB29が編隊で通過した。園内には防空壕が造られ、高射砲も備えられていたが、一帯は火の海となり、浜離宮は日に包まれ、歴史的建物は全て焼失。稲荷と宮内省官舎だった現在の芳梅亭だけが生き残ったという。
鴨がいますね。
鴨場も復元されてる。
鴨塚
鷹場も
稲荷神社(稲生神社)
三百年の松。
延遼館の跡。
※撮影:2022年12月