国立科学博物館附属自然教育園が、明治時代の「白金火薬庫の跡地」であったと聞き、何もないとは思うけれども足を運んでみました。
ちなみに、白金火薬庫は、大正期には、白金御料地になりまして。
目次
位置関係
「今昔マップ on the web」より。
山手線の東側に「白金火薬庫」(旧白金御用地)、そして西側には「火薬製造所」があり、両地を軽便鉄道が結んでいることがわかる。
国立科学博物館付属自然教育園
「国立科学博物館付属自然教育園」の地は、古代においては「旧白金御料地遺跡」として埋蔵文化財包蔵地であり、中世においては「白金長者屋敷」として中世城館遺跡であり、近世においては、「高松藩主松平家下屋敷」であった。
明治時代に、「陸海軍の火薬庫」となり、大正時代に宮内省「白金御料地」となり、戦後に文部省「旧白金御用地」、そして「国立科学博物館附属自然教育園」となった。
白金火薬庫
国立科学博物館附属自然教育園飛び地にかかる 調査報告書
【資料編】
史跡にかかる個別調査報告
https://ins.kahaku.go.jp/research/download/ins_tobichi03.pdf
資料をもとに、白金火薬庫について、以下にまとめておきたい。
「白金火薬庫」
「高松藩主松平家下屋敷」は、明治4年(1871)新政府の所有となり、松平下屋敷跡地に「海軍火薬庫(海軍白金火薬庫)」が置かれたことにはじまる。
徳川幕府が設立した「目黒砲薬製造所」は、明治元年十月に軍務官の所管となり、「目黒火薬庫」として使用。
明治5年2月に海軍省の兵部省より独立分置されるが、「目黒火薬庫」は陸軍省に所属。松平讃岐守下屋敷に海軍の「白金火薬庫」が設置された。明治12年10月24日、海軍は「目黒火薬庫」を廃止して「白銀火薬庫」に合併。「目黒火薬庫」跡地に「火薬製造所」を新設。
明治26年(1893)まで、「白金火薬庫」は海軍の所管であったが、同年4月に陸軍省に移管。「目黒火薬製造所」も海軍省から陸軍の東京砲兵工廠に移管となり、「東京砲兵工廠目黒火薬製造所」となった。
陸軍の「白金火薬庫」は大正2年(1913)に廃止。
陸軍の「目黒火薬製造所」も昭和3年(1928)に群馬県岩鼻に移転している。
「東京砲兵工廠目黒火薬製造所」
現在の防衛省の目黒地区は、明治11年に海軍の火薬製造所として建設が進められて明治18年に完成したのち、明治26年に陸軍へ引き継がれて砲兵工廠所轄の目黒火薬製造所となった。
その後、大正12年に発生した関東大震災の影響で、設備は他へ移転して目黒火薬製造所は廃止されることとなり、替わって海軍技術研究所が築地から移転した。
「火薬運搬軌道」
明治34年(1901)、目黒火薬製造所と白金火薬庫の間に、火薬や物資運搬用の軽便軌道が敷かれた。
現在も、目黒区立茶屋坂児童公園から目黒三田通りに向かう道には、「陸軍」と記した石柱が残っており、軍用軌道の跡とわかる。
軍用軽便軌道は、明治44年(1911)、白金火薬庫の管理換えにより廃止撤去となった。
国立科学博物館付属自然教育園の散策
国立科学博物館附属自然教育園
歴史と自然
自然教育園は、室町時代に白金長者と呼ばれる豪族が館を構えていたといわれています。江戸時代は高松藩主松平讃岐守の下屋敷、明治時代は海軍省・陸軍省の火薬庫、大正時代は白金御料地と移り変わり、昭和24年に国の「天然記念物及び史跡」に指定されるとともに、国立自然教育園として一般に公開されるようになりました。
(以下略)
自然教育園のおいたち
古代 縄文中期、この地に人が住みつく
室町時代 豪族 白金長者が館を構えていたといわれる
江戸時代 高松藩主松平讃岐守頼重の下屋敷
明治時代 海軍省・陸軍省の火薬庫
大正時代 宮内省の白金御料地
昭和24年
1949年 国の天然記念物及び史跡に指定
国立自然教育園として一般に公開
昭和37年
1962年 国立科学博物館附属自然教育園となる
自然教育園の地図。散策してみましょう。
一番、北の赤丸で囲んだところがポイント。
火薬庫跡のレンガ片
現在、建屋の痕跡は残っておらず、レンガ片(煉瓦片)は。火薬庫時代の名残という。
中世の痕跡もある。
土塁。
土塁は、火薬庫時代にも造成されていると思われる。
前述の資料(国立科学博物館附属自然教育園飛び地にかかる 調査報告書【資料編】 史跡にかかる個別調査報告)によると、敷地内の南西に境界を示す「陸軍用地の標柱」があるいうが、立ち入り禁止エリア。
前述の資料の引用に留める。
白金火薬庫の名残を探して、レンガ片でもって往時を感じる。
ちょっとした断片的なものであれど、このちょっとした痕跡があるだけでもだいぶ、趣きが出てきて、散策のやりがいがあるものとなる。
※2024年9月撮影