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名古屋大空襲と大曽根(ナゴヤドーム・大曽根駅・片山八幡宮)

名古屋の大曽根駅周辺を散策してみました。


名古屋大空襲

1938年7月1日に三菱名古屋航空機製作所(大江)からエンジン製造部門を分離独立したのが三菱重工業名古屋発動機製作所(大幸)。

https://www.mhi.com/jp/company/location/nagoyaguidew/history

名古屋でB-29爆撃機による本格的な空襲がはじまった1944年12月13日に真っ先に爆撃目標となったのが、三菱重工業名古屋発動機製作所(三菱発動機)であった。
当時、三菱発動機大幸工場では日本の航空機用発動機(エンジン)の4割を生産していた大工場であり、米軍にとっては、東の中島飛行機武蔵工場、西の三菱発動機大幸工場は壊滅させねばならない工場であった。

昭和19年12月13日、三菱発動機大幸工場に対する初の本格的な空襲が実施。。翌年4月7日まで、執拗な爆撃が実施され、三菱発動機大幸工場は壊滅した。
また、昭和20年3月12日に名古屋市街地が被災、3月19日に名古屋駅が炎上、5月14日に名古屋城が焼失など、大規模な空襲が名古屋市に対して繰り返し行われた。こうして名古屋市に対しては、63回の空襲が行われ、B29飛来2579機、死者は7858名、負傷者10378名に及ぶという。


ナゴヤドーム
(三菱重工業名古屋発動機製作所跡)

1994年8月8日より三菱重工業大幸工場の跡地で建設を着工。
1997年2月18日に完工し、同年3月12日に、同市中川区露橋にあるナゴヤ球場(旧・中日スタヂアム/中日球場)に代わる中日ドラゴンズの本拠地として開場した。

総合案内所

総合案内所の脇に、掲げられたプレート。

平和への礎になられた人々を忘れません
 ナゴヤドームが建つこの地は、かつて三菱重工業名古屋発動機製作所大幸工場があり、第2次世界大戦下の1944年(昭和19)12月13日に米空軍B-29爆撃機70機の空襲を受け、工場で働く人たち、挺身隊の女性たち、学徒動員の生徒ら300余人の尊い命が奪われました。

 この大戦では、名古屋軍(現中日ドラゴンズ)石丸進一投手(当時24歳)も特攻隊員として出撃、野球への熱い想いを胸に抱いたまま空の彼方へ消えて行きました。

 私たちは今日、平和への礎となられた人々を決して忘れず、野球やコンサートなどを通して感動を味わうことができることに深く感謝し、ここにご冥福をお祈りいたします。
2004年4月2日
株式会社 ナゴヤドーム

ナゴヤドームの地の歴史を伝承するプレート

場所

https://maps.app.goo.gl/sHW7QoM8zWkJ8fR49

北側には、三菱電機名古屋製作所大幸ビル

イオンモールもある。

見えてきたのは、三菱電機名古屋製作所

近代的なビルと、三角屋根の工場。

三菱の街

大曽根駅の南側に向かいます。


殉職者慰霊碑(大曽根駅)

JR大曽根駅の南側に、昭和20年4月7日の空襲での大曽根駅における殉職者を祀る。

合掌

殉職者慰霊碑
桂秋 吉田 藤 謹書

至誠公ニ奉シ毅然
トシテ職ニ殉ス業
ヲ我國有鐵道ニ操
ル者ノ儀表タリ茲
ニ其ノ義烈ヲ稱ヘ
長ヘニ旧字 靈ノ呵護
ヲ祈ル

昭和二十年四月七日大曽根驛ニ於ケル殉職者
(故人名略)
昭和二十一年 八月建之 建設委員
遺家族一同
大曽根驛員一同

大曽根駅の南口は、住宅街。商業エリアは北口で。

場所

https://maps.app.goo.gl/WrVHmNqq7in6Rx6w5


片山八幡宮に残る弾痕

名古屋鬼門鎮護の片山八幡神社。旧社格は県社。

敷地の東側を囲う石垣には焼夷弾の跡が多数残っている。破損や焼け跡など。

鳥居には、爆弾の破片が当たってできた弾痕がある。

昭和8年の社号標にも弾痕。

場所

https://maps.app.goo.gl/Jdt1dx7XRNxRXywE8

撮影:2023年7月及び9月


名古屋関連

はじめに

ポツダム宣言受諾を発信した隠蔽送信所「多摩送信所」跡地散策

町田市相原にある法政大学の多摩キャンパス。
遺構が残っているというので足を運んでみた。


多摩送信所

第二次世界大戦末期、軍部は本土空襲に備えて海外放送、電信通信・連絡を確保する必要から、2カ所の通信施設の設置場所を選定し、国際電気通信株式会社に敷設を要請。

1カ所は御殿場線の山北駅と駿河小山駅の中間にある廃トンネルで、1944(昭和19)年に耐弾式送信所として「足柄送信所」が設けられた。

もう1カ所で選ばれたのが、東京都南多摩郡堺村相原と横山村寺田にわたる山林内で、三方を尾根に囲まれた一帯に、1945年4月、起伏と樹林を利用した隠蔽送信所として「多摩送信所」が開設。

1945(昭和20)年8月10日、日本政府はポツダム宣言を受諾。
日本政府は宣言受諾を連合国側には外交ルートを通じて伝えたが、ニュースとしても世界に発信された。その発信を担ったとされる多摩送信所であった。

10日午前7時、外務省は「国体護持」を前提に宣言を受諾する電報をスイス、スウェーデン公使を通じ連合国側に伝達。
さらに同日午後7時、戦時中の通信社・同盟通信の短波(モールス放送)にて受諾を、多摩送信所を始めとする国内に点在する対外放送施設を用いて、全世界に放送した。この放送によって世界のプレスなどは戦争終結を知った。
しかし10日の受諾宣言以降も、日本国内は激動の日々=「日本のいちばん長い日」が続き、御前会議で持って14日の御聖断をあおぎ、大多数の日本国民は、15日の玉音放送で終戦を知ることとなった。

https://www.tokyo-np.co.jp/article/123208

https://www.hosei.ac.jp/hosei/daigakugaiyo/daigaku_shi/museum/2011/111012/?auth=9abbb458a78210eb174f4bdd385bcf54

https://adeac.jp/machida-digital-museum/text-list/d200020/ht001040

https://machida-aihara.info/?kiji=tamasoushinjyo-ato


多摩送信所跡

多摩送信所跡
二次世界第大戦末期に近い1944年(昭和19)、本土空襲の本格化に備え対外送信の確保が要請され、国際電気通信株式会社によって隠蔽送信所として多摩送信 所の建設が着手された。当時の東京都南多摩郡堺村相原と横山村寺田にわたるこの地に、アンテナ敷地74000 坪(244,000平方メートル)を確保し、高さ60 メートルの木支柱を立て、空中線六基を樹林にめぐらした。技術者、職員計50 名が勤務する局舎を点在させ、翌年4 月竣工し、5 月5 日から操業を開始した。当時、我が国の対外送信は、政府関係以外に同盟通信社のモールス電と日本放送協会が諸外国語で流す「海外放送」および「東亜中継放送」があった。これらの対外送信は、1945 年8 月10 日から15 日の間、日本政府のポツダム宣言受諾表明に際して歴史的な役割を果たした。政府の外交ルートとは別に、ポツダム宣言受諾に関するニュースを送り出したのである。ここにあった「多摩送信所」も木造、手動による回転式アンテナから電波を送ることによって、ポツダム宣言受諾の際に重要な役割を担い、1946 年11 月10 日、開設以来一年半で活動の幕を閉じた。本学の多摩校地は多摩送信所の跡地に位置し、発掘調査により一部の遺構も確認された。ここにその事歴を誌し、永く後世に伝えるものである。
 1988年3月30日 法政大学

アンテナ木柱台石

この山奥にアンテナ群が展開していた。

法政トンネル。

法政大学 多摩キャンパス

アクセスは、法政大学多摩キャンパス行きのバスで。

場所

https://maps.app.goo.gl/4Ve326HQRYszW3LR6

※撮影 2023年9月


関連

花巻の戦跡散策

岩手県花巻市。宮沢賢治の生誕の地、イーハトーブとして有名な街。
どこか牧歌的なイメージを抱く花巻にも戦跡が残っているので、足を運んでみました。


花巻防空監視哨聴音壕跡

花巻には、珍しい円筒形の壕の形で「防空監視哨聴音壕」が残っている。

防空監視哨は、敵機の来襲をいち早く感知するためのもの。
高台から双眼鏡で監視する防空監視とは違い、「聴音壕」は、円筒形の壕の中に人が入り、飛行機の接近する音を聞き分ける壕となる。
花巻防空監視哨の、聴音壕は直径3.5m、高さ3.17mのレンガ積みで、内部の深さは約2mの空洞になっている。上空から見て軍の施設と分からないように、当時の壕のまわりは盛土され、かやぶき屋根がかけられていたという。
聴音壕の西側には平屋建て18坪(約60m2)の管理棟もあった。
円筒形の聴音壕の形状がほぼ完全な形で残っているものは珍しく、貴重な戦跡。

内部の様子が看板の写真に掲載されている。

住宅地の中に、ある。

円筒状の様子がわかる。

ぱっと見は、レンガの筒。

場所

https://goo.gl/maps/gQJk37hTsBudZKkF8

聴音壕関連

山梨県大月市の防空監視哨聴音壕


花巻空襲

昭和20年8月10日に、アメリカ海軍の航空母艦ハンコックの艦載機22機(SB2C爆撃機12機とF6F戦闘機10機)により、500ポンド爆弾等が20発以上投下された空襲。
花巻駅や、その周辺の建物が破壊された。焼失家屋673戸、倒壊家屋61戸、死者42名、負者約150名。岩手県内では2番目に大きな戦争被害となった。花巻町内豊沢町にあった宮沢賢治の生家も焼失、花巻に疎開していた高村光太郎も被災した。
ちなみに岩手県内で最大の戦争被害は「釜石艦砲射撃」であった。(2回の艦砲射撃での死者714名)


花川橋に残る花巻空襲の痕跡

花巻空襲の戦跡として。
「花川橋」に残る花巻空襲の爆撃跡。花川橋の改修工事で、痕跡は消失の危機にあったが、寸前のところで保存となり、痕跡を残した状態での改修となった。
花川橋は昭和9年に造営された鉄筋コンクリ-ト製の橋。花巻空襲では、花川橋周辺にも500ポンド爆弾が投下され、爆弾の破片が橋の欄干にあたり、一部を破損している状況。

昭和9年12月竣工の花川橋

花巻空襲の爆撃痕、上部

花巻空襲の爆撃痕、下部

鉄筋が剥きだしている。

爆撃痕のある一部分だけ、補修されずに残った。

場所

https://goo.gl/maps/uhpRemR2ZkLKbexF8


花巻駅

2013年(平成25年)から2014年にかけてリニューアルした駅舎。
1890年(明治23年)開業、1950年(昭和25年)改築。

花巻駅も花巻空襲で大きな被害を受けた。


やすらぎの像

花巻駅の東口ロータリーの東端にある花巻空襲の犠牲者を慰霊する像。

合掌。

やすらぎの像
 昭和二十年八月、太平洋戦争の終戦間際、花巻市内が空襲を受けましたが、特に、この花巻駅周辺の空襲は激しく、死者負傷者多数を数えたほか、建物等にも甚大な被害を受けたのであります。
 爾来、多くの方々の不屈の精神と心血を注ぐ努力により、焦土と化した花巻駅周辺をはじめとする市街地も見事に復興整備をみたところです。
 都市基盤の整備が進む今日、市民から平和祈念の像の建設の話が持ち上がり、建設促進会議が中心となって広く市民に呼びかけたところ、壱千弐百万円を超す浄財が寄せられました。
 ここに、戦後五十年を迎え、花巻空襲の激しかったこの地に、恒久平和を願い「やすらぎの像」を建立するものです。
  平成七年三月建立
   花巻市長 吉田 功

昭和20年(1945年)8月10日ひる
来襲 米軍艦載機グラマン15機
投下爆弾 20個(推定)
機銃掃射 各所
死者 42名
負傷者 約150名
焼失家屋 673戸
倒壊家屋 61戸
 資料 花巻市中央公民館発行
    「忘れまいあの日」より

「やすらぎの像」建立について
市老連会長佐藤通郎氏が中心となり次の団体の努力を得て建立しました。
 花巻空襲に基づく平和祈念の像建設促進会議
 花巻市老人クラブ連合会
 花巻市地域婦人団体協議会
 花巻市区長会
  原像作成 池田次男
  制作   岩手製鉄株式会社

場所

https://goo.gl/maps/ZyYYZiSxM6xQpxJU8


近代史として。

花巻電鉄デハ3(材木町公園)

なんとなく歩いていたら、公園に花巻電鉄の車両が保存されていた。
花巻電鉄デハ3。
1931年製造。
細長い車両は、通称「馬面電車」「ハーモニカ電車」といわれていた。
昭和47年(1972)鉄道・軌道線廃止。

旧花巻町役場 庁舎(花巻市民の家)

花巻町が設置される前年の1928年 (昭和3年) に竣工した総ヒノキ造、瓦葺きの建物。
当初は花巻市花城町にあった。
1954年に町から市に移行した後は議事堂といても利用され、庁舎が新築された1970年に解体され、現在の材木町公園に移築された。

場所(材木町公園)

https://goo.gl/maps/15qCv9XFWigVV73d9

※撮影:2023年8月


「三島陸軍墓地」三島の戦跡散策・その2

静岡県三島市。
町おこしで軍隊の誘致を実施し、陸軍の街となった「軍都・三島」。
現在も、往時を物語るものが残っていると聞き、散策してみました。

本編は「その2」となります。
「その1」はこちらから。


三島陸軍墓地

かつて川原ケ谷と呼ばれた地であり、古くは源頼朝が三嶋大社へ参詣する際には、三島から川原ケ谷付近を通って芦ノ湖畔に出る箱根路を往来したと言われている場所。
「川原ケ谷城」という中世城址と、頼朝にもゆかりのある「願成寺」のちかくに、近代には「陸軍墓地」が設けられていた。

三島陸軍墓地の入口。

表札のある部分は、えぐられている。

空き地であった隣に、新築住宅ができた。
この草むらに陸軍境界標があるらしいがあるのかないのか確認できず。
消失した可能性が大。

陸軍境界標石
1つ目。

陸軍用地

陸軍境界標石
2つ目。

陸軍境界標石
3つ目。
西側の敷地。埋もれている。

三島陸軍墓地跡。

1週間後に再訪したら、草刈りされていました。
(三島が一回で終わらなかったので、短期間に2回訪れたという)

忠魂碑

野戦重砲兵第21大隊戦没者慰霊

平和の碑
御製

碑文
我らは戦争の悲惨を身をもって体験した者として二度と戦争を繰り返す事のないよう訴え、日本の繁栄と、世界の恒久的平和を祈念する。
 従って、我等が最後の傷痍軍人であり、又その妻であることを願望して、その名をここに残す。
   昭和55年10月吉日
    三島市傷痍軍人会
    同    妻の会 建立

子どもでも読めるように、丁寧にルビが振ってあります。

平和への道標
 ここ城山墓地に祀られている方々は、皆さんの美しい故郷の山や河を守り、日本の平和と豊かな暮らしを願いながら、長い戦争の中で亡くなられました。
 今日の平和を思うとき、私たちは、ここに眠る方々を決して忘れません。この尊い御霊の心を受け継いで、感謝の心を持って二度と戦争のない平和な国をめざして、一日一日を大切に暮らしましょう。
 平成30年11月吉日
  三島市遺族会

墓標はない。
ここにまつられていた戦士たちの暮鐘がどうなってしまったかは不詳…

陸軍墓地の境界柵の跡。

道路を挟んで、古刹「願成寺」。

場所(三島陸軍墓地跡)

https://goo.gl/maps/QFNkZFZHF4xwn1tx8


三島憲兵分所跡(三島商工会議所)

三島商工会議所の裏に、陸軍境界標石(陸軍境界標柱)が残っている。かつてこのあたりに、憲兵隊司令部三島分隊が駐留していたという。

場所:

https://goo.gl/maps/5JKj9E2oHbRBD88U8

うなぎがいた、三島のうなぎ。


三島

三島といえば、三嶋大社。

伊豆国一宮。延喜式内名神大社。旧社格は官幣大社。
戦争中も被災せずに、神域を保っている。
社殿は慶応2年(1866)の造営、国重要文化財。

水の都、三島。あっちこっちで湧き水。

撮影:2023年6月


野戦重砲兵関連

「三島野戦重砲兵聯隊」三島の戦跡散策・その1

静岡県三島市。
町おこしで軍隊の誘致を実施し、陸軍の街となった「軍都・三島」。
現在も、往時を物語るものが残っていると聞き、散策してみました。

本編は「その1」となります。
「その2」はこちらから。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-R440-27
1948年11月12日、米軍撮影の航空写真。


軍都・三島

明治22年(1889)に東海道線が国府津駅から静岡駅まで開通(現在の御殿場線)した際は、東海道の宿場町であった三島には駅が開設されなかった。
鉄道が開通しなかったことにより街が寂れ、そうして町おこしとして軍隊の誘致活動が始まり、大正8年(1919)に野戦重砲兵第一旅団・第二聯隊が横須賀から三島に移転。三島衛戌(えいじゅ)病院(国立病院機構静岡医療センター)も開設。
翌年、大正9年に第三聯隊も三島に移転。
昭和9年(1934)には丹那トンネル開通に伴い、東海道線のルートも変更され、現在の三島駅も開業している。

野戦重砲兵第二聯隊及び第三聯隊をもって野戦重砲兵第一旅団となる。
こうして、三島に聯隊が来て、鉄道も来たことで活気を取り戻し道路も整備された。
現在の日大通りは、大学、高校、中学校、小学校と並んでいるが、このころは十間道路と呼ばれ、道の両側には桜と銀杏が植えられたという。現在は、銀杏だけが残って見事なイチョウ並木となっている。

また、現在の国立遺伝学研究所のある一帯には、中島飛行機株式会社三島製作所が進出していた。


野戦重砲兵第二聯隊跡(三島市立北中学校)

野戦重砲兵第二聯隊の正門門柱と歩哨舎、記念碑などがある。

野戦重砲兵第二聯隊跡
従四位 木下 滋 謹書

木下 滋 は、陸士22期。最終階位が陸軍大佐(陸軍砲兵大佐)。昭和11年に野戦重砲兵第二聯隊長。昭和12年に予備役となるも、招集され昭和20年に重砲兵第13聯隊長となり終戦を迎えている。

略歴
明治23年要塞砲兵大隊として神奈川県浦賀に創設爾来野戦重砲兵第二聯隊と改称、大正8年10月三島に移転、大正天皇、今上陛下の行幸を仰ぎ日清、日露、日独戦役、上海事変、支那事変m大東亜戦争等に参加
昭和20年8月終戦、聯隊の跡を永く残すため此の地に記念碑を建つ
 昭和47年10月1日
 野戦重砲兵第二聯隊
  関係者有志一同

公孫樹碑

大正八年巳未の春三島野戦重砲兵旅団当地に新設さる当時市民挙げて之を歓迎す 人馬絡繹として殷賑を加え新明の地ここに軍容を重ぬ 今の街道を以て然りとなす 当時在郷軍人会相計つて 之が新設を永久に記念すべく公孫樹を植う 爾来四十有八年今や天空を摩さんとす 既往の兵舎は学舎と化し軍歌嘶馬は攻学の和声と変せしも公孫樹は語らず天中を指す 嗚呼 市民朝夕この銀杏並樹の美観に酔う ここに公孫樹並樹記念の碑を建立す 蓋し八万市民の心肺に通う企挙なるを疑わす
 昭和42年11月3日
 (略)

場所(三島北中学校)

https://goo.gl/maps/Am43Rkriq87deQHX8


野戦重砲兵第三聯隊跡(三島市立北幼稚園)

野戦重砲兵第三聯隊も同じく、正門門柱と歩哨舎、記念碑がある。

野戦重砲兵第三聯隊兵営址

野戦重砲兵第三聯隊は当初紀州深山の地に誕生し大正9年11月5日此の地に転営す 終始15糎榴弾砲を装備とし初は輓馬後に自動車を以て牽引せり 尓来星霜40年 訓練に実戦に常に軍の骨幹たるの重責を果し昭和20年ビルマ及チモールに於て解隊す 此の間死生相許したる戦友実に3万を越ゆべし その士どもの夢の跡 東西四百米南北凡そ七百米に亘る兵営の址 歳と共に面影を失うに至るを嘆き残存有志相図って茲に碑を刻し以て永く記念とするもの也
 昭和四十年3月10日
 元野戦重砲兵第3聯隊出身 愛鷹会員有志一同
 撰文並書 元大隊長 本田森造

場所(三島市立北幼稚園)

https://goo.gl/maps/GiTzNbqxP4W2udZX8


野戦重砲兵第三聯隊の通用門跡(三島市立北小学校)

三島市立北小学校の北側には、通用門が残っている。

こちらにも、歩哨舎が残っている。

歩哨舎の窓は塞がれている

門扉。
なんて書いてあるのだろうか。

公孫樹並木に、3つの門跡と歩哨舎跡が集中して残っているのは、なかなかに貴重な空間。

場所(三島市立北小学校)

https://goo.gl/maps/Xh9m1Uysxoe3Y5U8A


日大三島校舎

文教エリアの中心にかまえる日大。
かつての野戦重砲兵第二聯隊の跡地。


野戦重砲兵第二聯隊の境界塀の支柱(日大三島校舎最北端)

日大三島校舎の最北端に、往時の境界の支柱が残っている。

場所

https://goo.gl/maps/hrrgETNpFrKMtTg86


野戦重砲兵第二聯隊の将校集会所

日大三島校舎11号館の奥にある建屋。
コの字型の平屋。
大学構内への部外者立ち入りができないために敷地外より見学。
シンプルだけどモダンなデザイン。

立ち入りできれば正面玄関も見ることができるが、立ち入りできないので、敷地外から側面のみ。

場所

https://goo.gl/maps/77p9P5YycV2NpBwx6

※撮影:2023年6月

「その2」へ


野戦重砲兵関連

「桜花」発射の行川基地跡(いすみ)

千葉県いすみ市。
いすみ鉄道「上総中川駅」の北側の山中に、桜花の発射基地があった。


桜花

「桜花」
この美しき言霊は、時に残酷な言霊でもあり。

靖國神社
一一型レプリカ

神ノ池・桜花公園
一一型レプリカ

神栖中央公園
一一型レプリカ

河口湖自動車・飛行館
桜花一一型


桜花四三乙型(桜花43乙型)

ネ20ジェットエンジンを搭載し、300km近い航続距離を得たタイプ。
陸上からのカタパルト発進を行う予定で開発された。
また特徴としては、自力飛行で基地移動が可能となるように設計されており、より「飛行機」に近い形となった。その為、無線と落下傘も装備が予定されていた。トンネル式格納庫に収める為に主翼は折り畳み式で、さらに突入時に加速がつくよう翼端が火薬により切り離せる構造になっていたが、これは可変翼実用化のはしりであったという指摘もある。
実物木型模型は1945年4月に修了、海軍航空技術廠と愛知航空機で量産準備を進めていたところで終戦を迎えている。
この型ではエンジンと燃料タンクの設置のため爆弾重量は800kgに減らされていた。

※参照:Wikipedia 桜花 (航空機)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%9C%E8%8A%B1_(%E8%88%AA%E7%A9%BA%E6%A9%9F)#%E6%B4%BE%E7%94%9F%E5%9E%8B

千葉県房総南部には、12基の桜花発射用カタパルト(桜花43乙型発射基地)が建設されていた。
行川基地には、桜花が配備されることなく、終戦を迎えている。


特攻機「桜花四三乙型」行川基地跡

いすみ市指定史跡
特攻機「桜花四三乙型」行川基地跡
平成十六年三月二十三日指定

 航空特攻兵器として有名な「桜花」の基地がこの地に建設され、現在、格納庫用の洞窟と旋回盤跡が残っています。
「桜花」はまず、一式陸上攻撃機の胴体下に吊るして目標付近まで曳航させ、滑空もしくはジェットエンジンで敵艦船に体当たりするグライダー型の「一一型」及び「二二型」が開発されました。
しかし、本土決戦の意識が高まってくると、近海に押し寄せるアメリカ艦船に対して、本土から直接発進させ激突させようとする計画が持ち上がりました。
この計画によって開発されたのが、頭部に八〇〇キロ爆弾を搭載した、単葉タービンロケット推進の脚なし単座特攻機「桜花四三乙型」です。
これは、山間部から海上に向けて射出するために、非常に高い初速が求められ、そのための高性能のカタパルトの開発は昭和二十年二月、「桜花四三乙型」本体の開発は三月から始まりました。

五月には横須賀鎮守府が、桜花四三乙型噴進射出装置基地施設構築を命じました。
基地候補地のうち八月末に使用可能を目標として工事に着手したのは伊豆半島の十国峠および竹ノ沢、筑波の五輪堂および閉居山、房総半島南部の上滝田および下滝田(南房総市)、房総半島東部では黒原(大多喜町)およびこの行川の八か所でした。
 『中川小学校沿革史』によると、基地は七月二十六日に滑走路が完成したとありますが、それ以降も勤労奉仕が続いたとあるので、工事はまだ続いていたようです。
しかし、八月十五日の終戦までに、「桜花」が基地に届くことはなく、その役目を果たすことはありませんでした。
【格納庫の寸法】
 奥行 三十六・五m
 高さ 五・二m
 幅  四・五五
 旋回盤の直径 三m

基地跡はこの奥約60mの場所にあります。

※崩落の危険があるので、格納庫内部には立ち入らないで下さい。
  いすみ市教育委員会


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M399-116
1947年8月11日、米軍撮影の航空写真。

一部拡大

現在の様子と照合


桜花行川基地跡の散策(格納庫跡と旋回盤跡)

桜花四三乙型の格納庫跡と旋回盤跡(ターンテーブル跡)が残っている。

貴重な戦跡。

格納庫の手前に旋回台がある。

旋回台は、直径約3メートル

アンカーボルトが残る

格納庫

※崩落の危険があるので、格納庫内部には立ち入らないで下さい。

入口部分から、内部を見学する。

内部には、翼を折りたたんだ桜花が2機格納できたという。奥行きは36.5m。

左右に溝が掘ってある。

右側

左側

格納庫の床面。排水用に斜面が設けられている。

なお、案内看板近くの道路斜面には、カタパルト部分の基礎も残っているというが、茂みで基礎は確認できず。

実際は配備が間に合わなかった、桜花発射基地。
間に合わなかったことが、何よりも救いであり。


桜花行川基地跡へのアクセス

場所

https://goo.gl/maps/HdN1CcSnCwmvUMWy9

旧いすみ市立夷隅小学校(現在はJapanNextが使用)の脇の細道をのぼっていくと、いすみ市が設置した看板がある。

季節によっては、藪こぎになるので注意。

道中の右手にパレットで造られた階段の道があるが、それは罠なので、パレットは気にせずに直進を。

桜花の搬出路跡の小道をすすんでいくと、格納庫に到着します。

搬出路跡

周囲は水気に帯びているので、季節に寄ってはぬかるみにも注意が必要。。
カエルさんもいました。

ちなみに、私はレンタサイクル(いすみ鉄道・国吉駅)でアクセスしました。
ほかにも寄ってみたいところがあったので。

廃校となった夷隅小学校。

JAPANNEEXT。一部の界隈では有名なモニターメーカー。


いすみ鉄道

アクセスには、いすみ鉄道を利用しました。

かつての国鉄木原線。昭和5年に大原駅‐大多喜駅間が開業している。

大原駅にて。

国鉄木原線廃線に伴って第三セクター線として、昭和63年に「いすみ鉄道」が開業。
愛称は「い鉄」。

ちょうどお昼時だったので。
駅で「大原漁港 漁師のまかない飯」を購入。

美味。
外房名物、鯵(アジ)の「さんが焼き」そぼろご飯。

国吉駅。ここでレンタサイクルを借りました。

いすみ鉄道の有名撮影ポイント。
かなり久しぶりに走行撮影にチャレンジ。

キハ52 125号車も走っていました。
桜花行川発射基地の南側に鎮座する妙泉寺の門前踏切にて。


ポッポの丘

一部の界隈で有名な「ポッポの丘」

立ち寄ってみました。

懐かしいですね。銚子電鉄の701号と702号。

実は、戦前の車両なんですよ。

デハ700形は、銚子電気鉄道が1978(昭和53)年に導入した車両。
もとは、近江鉄道モハ51形電車。近江鉄道の全線電化に合わせて1928(昭和3)年に川崎造船所で製造された。

ほかにも懐かしい車両の大集結。

ここは、時間をつくって、ゆっくり見学したい、、、ですね。

場所

https://goo.gl/maps/GpgwHGAe9eiG9d4k6


いすみ鉄道 国吉駅

国吉駅でレンタサイクルを返却して、大原駅から帰路へ。

ちなみに、い鐵揚げ、美味しいので是非に。

※撮影:2023年5月


姫路城周辺の戦跡散策

姫路に行く機会があったので、隙間の時間で夕方に駆け足気味に姫路城の周辺を散策してみた。きちんと、散策できてないけど、まずはざっくりでも、何もしないよりかはマシかな、という感じで、巡ってみました。


姫路城

実は、初めて見ます。これは、やはり美しいですね。
良いものを拝見できました。
なお、日没直前なので、あまり時間もなく、城を遠望するのみ。


歩兵第10聯隊跡碑

柵の内側、立入禁止エリアになにやら石碑があります。

三の丸広場の北東。天守閣のすぐ下、です。

歩兵第十聯隊跡碑

歩兵第10聯隊は、明治7年に大阪鎮台にて編成され、明治9年に姫路に転営。
宇垣軍縮の影響で、大正14年に岡山に転営。

望遠で、、、

歩兵第十聯隊は明治七年大阪鎮台に於て編成同九年此の城域に移る爾来駐屯して大正十四年岡山轉營に至る
 其の間兵庫岡山及び當初は鳥取縣に跨る徴募区より毎年入營せし壮丁皆滅私奉公の至誠に徹して日夜練武に精進一旦有事の秋に備ふ
 春風秋雨五十年終始衞戍の責に任じ更に西南の役を始め日清日露の両戰役に際し勇躍國難に於いて偉勲を樹つ
 茲に其の史蹟を永く記念して此の碑を建つ
  昭和四十二年三月
   姫路歩十會

誠忠

奥になにかあった。立ち入りできないので望遠。。。

(前略)
廢藩置縣後陸軍ノ所管タリシヲ昭和八年五月文部省ニ移管シ本市ニ於テ縦覧通路ヲ開設ス仍テ此ノ碑ヲ建ツ

陸軍から移管されて姫路市が通路を開設したことを記録する石碑。

場所

https://goo.gl/maps/F81hPo5TiqDrVqvu8


迫撃第四大隊

姫路城の南西の広場にある記念碑。

中国戦線で戦い抜いた迫撃砲部隊の記念碑。第11軍に属していた。
迫撃第四大隊発祥の地。

迫四の友 集い来りて 白鷺乃地に立つ

迫撃第四大隊發祥の地に之を建つ
 昭和十二年七月日中事變の勃發と共に郷土の衆望を擔ひ姫路に於て編成せられた我が大隊は十年の歳月を大陸の戰野に轉戰常に特殊任務に從事する獨立大隊として國軍唯一の精華たりしも曽て征旅に就くに方り命運懸けて祈りしひと本の植樹も今は亡く仍てその跡に生還せる者相集ひ我等が鎮魂の賦をここに埋銘し以て萬世不易世界平和を祈念するものである。
 昭和五十六年三月吉日 迫四會

愛馬の碑

場所

https://goo.gl/maps/9F9UFNCmAWZ4n9r87


歩兵第39聯隊碑

兵ども乃 あゝ三九 庭の跡
姫路市長 吉田豊信 書

歩兵第三十九聯隊は日清戦争後姫路に創設せられ第二次大戦の終わるまで姫路城内に屯し文武両道を練磨すること五十有余年平時は國家の中堅となり出でては北満より南洋に至るまで勇躍國難に当たり赫々たる偉勲を樹つ
我等戦友は関連諸部隊と相計り往年の面影を偲び茲元営内跡に記念碑を建て血染の軍旗の一部を地下に浄めて永へに顕彰せんとす
 昭和五十一年十一月
  姫路 三九会

場所

https://goo.gl/maps/bxyRo6wQNPapLQzZ7

左側に、第39聯隊の兵営があった。
現在は、兵庫県立姫路聴覚特別支援学校などがある。


歩兵第39聯隊の境界標石

「姫路城 埋門跡」近くに、陸軍の境界標石(陸軍標柱)が残っている。

陸軍省

このあたりが、第39聯隊の兵営の最南西端にあたる。

埋門跡


国道2号線建設之碑

姫路城の中堀を埋め立てて国道2号線を建設した記念碑。
案内板に掲げられた御紋が重々しい。

この石碑は昭和七年(一九三二)二月、国道2号線の改修を記念して建てられた。改修にあたって、中堀が東西約四五〇メートルにわたって埋め立てられた。中堀のあったことがわかるように、その境界線にこの石碑が建てられた。この石碑は元々は道路の西側にあったが、昭和六十一年(一九八六)の国道2号線拡張工事のため、同所に移転された。中堀の埋め立ては大正期にも進められていた。昭和七年当時、この石碑から東側はすでに埋め立てられて商業地等に変貌しており、姫路市立女子技芸学校(現在の姫路市立琴丘高等学校)も建てられていた

姫路駅のテラスから。この眺望は絵になりますね。

時間がなくて、陸軍第10師団兵器庫(姫路市立美術館)に行けなかったのが悔しい。

https://goo.gl/maps/L7G1L8NUxsHXE4L87

ストリートビューより。。。

姫路、再訪できるかな、、、、

※2023年6月撮影


関連

兵庫縣姫路護國神社

「兵庫縣姫路護國神社」に立ち寄る機会がありましたので、参拝してきました。

御英霊に感謝を。

ちなみに兵庫県は、護國神社が2社あります。神戸と姫路。内務大臣指定護国神社として。
 兵庫縣神戸護國神社:兵庫県東部地区出身の戦没者53,257柱
 兵庫縣姫路護國神社:兵庫県西部地区出身の戦没者56,988柱

参考

兵庫縣姫路護國神社

戊辰の役(明治元年)以降国難に殉ぜられた兵庫県西南部地域(播州、但馬地区)出身の護国の「みたま」五万六千九百八十八柱命を祀る。

1893年(明治26年)より毎年、現鎮座地の近くに祭庭を設けて招魂祭が行われていたが、正式な社殿を造営して招魂社とすることとなり、1936年(昭和11年)に鎮座地を決定。
1938年(昭和13年)に竣工・鎮座した。
翌1939年(昭和14年)、制度改革により「兵庫縣姫路護國神社」となり、内務大臣指定護国神社となった。
第二次世界大戦後のGHQ占領下では一時的に姫路城の別名の白鷺城に因んで「白鷺宮」と改称していたが独立後は元の社名に復している。


兵庫縣姫路護國神社境内

社号標

昭和天皇御製
静かなる
 神のみそのの
  朝ぼらけ
世のありさまも
 かかれとぞおもふ

昭和13年歌会始の御製「神苑朝」

狛犬

社号標

昭和17年12月8日建立。開戦の1年後。

御社殿

拝礼

ありがとうございます。


御朱印

御朱印をいただきました。


護國神社の由緒

兵庫縣姫路護國神社の由緒を、書き起こし。
これは、とても佳き記述です。

護國神社の由緒 
明治という時代は今に続く国の仕組みの基になりました。
慶応3年(1867)徳川慶喜公が大政奉還を明治天皇に上奏し、王政復古の大号令によって明治政府樹立が宣言されました。この前後、国内では、独立を保つ近代国家をめざして様々な議論や戦いがありました。
姫路藩河合惣兵衛宗元をはじめ明治維新の志半ばで倒れた勤王の志士を、慰霊顕彰する祭祀が、明治26年(1893)この地で執行されました。それが当護國神社の始まりであります。
その時代から昭和に至るまで国家を守護し、地域とそして何より家族を守ろうとして殉ぜられた方々を英霊とお呼びし、最新としてお祭りしています。
先人の困難を振り返り、あらためて私たちが平和で豊かな国土に暮らしていることに感謝し未来の御加護を祈りましょう。

我が国が米国や英国などと戦った大東亜戦争は、国内に物資も乏しい上に供給を止められ惨烈を極めました。特に「比島散華碑」に記載された部隊が派遣されたフィリピン、ルソン島のように、南方では武器も食料も尽きその上マラリアなど熱帯特有の病気に罹るなど、将兵の疲労困憊は、極度に達し、遂に力尽きて斃れるものも多かったのです。生存者は少なく、戦後13年を経て昭和33年(1958)4月、政府の手により比島方面遺骨収集が行われました。共に戦った戦友は、護國神社に相よって英霊の偉勲を讃え、石碑を建立しました。
召集や志願で戦地に向かわれ戦死された方々の残された手紙や遺書には、本土への空襲を阻止するなど祖国防衛の気概と家族を守らんとする思いにあふれています。

明治維新のさきがけから、戦陣に倒れた英霊は246万余柱です。当護國神社には郷土の人たち56,988柱の方々が祀られています。多くの方々が「欧米諸国によるアジアの植民地を開放し、自立を目指すという理念と構想」を元に始まったとされる大東亜戦争で戦死をされました。
昭和6年(1931)の満州事変から昭和20年(1945)の長い戦いの中、我が国は、資源や財力も乏しく敗戦を迎えました。戦後約6年8ヶ月もの間、占領下におかれ、民族固有の価値観が制限されました。その間当護國神社は、社名を「白鷺宮」として祭祀を永続し、昭和27年占領が解かれ、再び護國神社と復称いたしました。昭和28年8月衆議院本会議において「戦争犯罪による受刑者の赦免に関する決議案」が、全会一致で承認され、東京裁判でいわゆる戦犯と呼ばれた方々の名誉が回復されました。

先の大戦は、国家国民を挙げての戦いでありました。
勉学に励む20歳以上の学生も戦場に向かいました。
東京オリンピックが開催された国立競技場は、昭和18年(1943)に出陣学徒壮行会が行われました場所です。
また、国民は男女を問わず、地域や工場で奉仕するなど銃後を守りました。「賀堂流碑」は、戦地に兵士の慰問に行かれ戦死された宗家を顕彰して建立されました
今を生きている私たちが、戦争の起こった当時の状況を学び理解することは、大変重要なことです。私たちはそれらの資料に基づいてその歴史を客観的に見ることができます。しかし、動乱のなかに生きた英霊は、大変な困難を前に一心に、自分の命をかけて、国家を、地域を、家族を守ることが、正しい道と考え立ち向かわれました。
そのことを後世の人達が称え、感謝することはとても大切なことです。

日本全国には8万柱を超える神社が鎮座しています。
日本最古の歴史書「古事記」が編纂されて1300余年になりますが、それ以前から私たち民族は、自然と祖先を崇拝し感謝をささげるために、8百万の神々を祀ってきました。
私たちが命をいただき生きているのは、自然の恵みと祖先のおかげであります。
護國神社の御祭神は身近なご先祖の一柱です。
あなたのたくさんのご先祖様の中には、必ず御英霊がいらっしゃいます。
ふりかえって、もう一度社殿を見てください。
子孫を温かく見守って下さるまなざしを感じられると思います。
神社のいわれを深く知り、もう一度頭を垂れ感謝の気持ちを伝えてください。
 ここはあなたの祈りが届場所です。
  姫路市本町118
  兵庫縣姫路護國神社


境内の慰霊碑

鉄五四五四部隊 比島散華碑

鉄五四五四部隊(第十師団輜重兵第十聯隊)の慰霊顕彰碑。
昭和三十四年十月建立。

鉄五四五四部隊(第十師団輜重兵第十聯隊)は昭和十九年七月満州国三江省佳木斯に於て動員下令翌八月同所を出発台湾防衛の任に就く同年十二月比島作戦参加の為め高雄港を出発主力を以てルソン島リンガエンに一部を以てマニラ及アパリに上陸す途中主力の乗船せる乾端丸は敵潜水艦の攻撃を受けて軣沈部隊長鍋島少将以下多数の戦友を失う昭和二十年一月中部ルソン島ハレテ峠付近に集結米軍迎撃の準備を整ふ同年二月優勢なる米軍は空陸呼応して我が陣地正面に対し攻撃を開始す此処に於て聯隊は第一大隊をして第一線部隊に対する補給を継続せしむると共に第二大隊をして其の補給任務を解除し之を歩兵部隊に改編し第一線陣地の守備に就かしむ恰も我が第二大隊陣地正面は米軍の主攻撃方向に当りたる為其の戦斗は惨烈を極め全員勇戦奮斗せるも戦況我に利あらず大隊長以下多大の犠牲者を出すに至れりかくの如くして此の方面に於て激戦を継続すること半年有余部隊は爾后の作戦準備の為ビノンカシブを経てビナバガンに向ひ転進を開始せり此の間凡そ二百粁人類未踏の山岳地帯にして進まんとすれど道無く食はんとすれど糧なく将兵の疲労困憊は極度に達し遂に力尽きて斃るゝもの数を知らずかくして八月初めピナバガンに到着戦斗準備を完了す此の時に於ける部隊の生存者は百有余名なり昭和二十年九月十一日終戦を知る 戦後十有三年を経て昭和三十三年四月政府の手により我等念願の比島方面遺骨収集が行はれ幸にしてこれが分骨を受く此処に生存者同志相寄り護国神社境内に石碑並に献木し亡き戦友の偉勲を讃え其の霊を弔う

碑の傍らには、「輜重車の車輪」が献納されておりました。

散華鎮魂
二六四三

2643は、紀元かな。
そうすると、1983年(昭和58年)奉納の鐘と推測できる。
(紀元2600年=西暦1940年=昭和15年)


姫路歩兵第百三十九聯隊 
鎮魂碑

第百三十九聯隊の戦友戦没者1357柱の慰霊顕彰

姫路歩兵第百三十九聯隊略史
昭和十三年六月、軍旗を拝受。北支に出征。鷺三九〇八部隊として河北省、山東省その他を転戦し、数年にわたり、よく治安の大任を果す。
昭和十九年、黄河を渡り京漢作戦に参加、梃進部隊として密県、登封、洛河々谷を進撃し、その武勲高く輝く。こえて昭和二十年、老河口作戦開始せらるるや、たちまち内郷、西峡口に突入し、数倍の敵を阻止し、その武功抜群の奮戦により感状が上聞に達した。
終戦後、八月二十四日軍旗を奉焼し、洛陽に集結。翌二十一年三月、同地出発、帰国、復員する。散華して祖国に帰り得ない英霊一三五七柱あり。
われら、鎮魂のため、永久平和を祈念して、この碑を建立する。

第139聯隊戦友会  
 会長 伊藤栄一謹書
  平成四年五月吉日


歩兵第八十一聯隊・野砲兵第二十三聯隊 
鎮魂

歩兵第八十一聯隊、野砲兵第二十三聯隊戦友戦没者の慰霊顕彰

鎮魂
 元第十七師団長 酒井康

酒井康は、第17師団長・留守第56師団長・陸軍兵器本部企画部長等を歴任し、階級は陸軍中将、勲一等に至る。陸士24期を経て陸大32期首席。
昭和17年12月から17師団長として南方戦線ニューブリテン島の防衛にあたり、ラバウルで持久戦のさなか、終戦を迎えた。

歩兵第八十一聯隊戦友会
野砲兵第二十三聯隊戦友会
建之

歩兵第八十一聯隊ハ支那事変酣ノ昭和十三年第十七師団隷下ニ編制八月軍旗ヲ遠ク長江山野ニ進メ宜昌・漢水・豫南・浙贛他数多作戦悉ク捷チ馳騁千里武名華中ニ遍ク 
戦雲南東太平洋ヲ蓋フヤ十八年秋敵雷撃ニ僚船轟沈ノ悲運ニ堪ヘ南溟ノ怒涛遙カニューブリテン島マーカス岬ニ奮迅御嘉賞ヲ賜フ士氣凛々祖国ノ興廃ヲ賭シテブーゲンビル島タロキナ攻隊ノ死闘半ハ終戦ノ令下り無念軍旗ヲ奉焼ス 征戦七年殉国ノ勇士五千有余敵弾ト飢餓瘴癘ニ遂ニ還ラス実ニ痛恨断腸ノ極茲ニ我等碑ヲ刻ミ忠烈武勲ヲ千載ニ垂レテ英魂ヲ鎮メ邦家無窮ノ安寧ヲ希フヤ切ナリ
 昭和五十七年五月三日
  歩兵第八十一聯隊戦友会

第十七師団野砲兵第二十三聯隊は明治四十一年創立大正十四年廃隊昭和十三年再編同年七月大陸に進出
武漢攻畧・高瑞鎮・漢水・豫南・浙贛等各作戦に武勲を挙げ十八年装備を山砲に改め同年秋呉淞出港台湾沖にて敵潜水艦の雷撃を受け聯隊長以下の枢軸を失ふもニューブリテン島ブーゲンビル島に上陸・ツルブガスマタ・タラセヤ・タロキナの攻防戦に死闘し 時に利なく二十年八月終戦の令下り二十一年五月名古屋にて解隊す
創立以來敵弾飢餓瘴癘に殪れた幾多戦友の英魂を鎮め武勲を千載に残すため我等戦友遺族相寄りこの神域に鎮魂碑を建立す
  昭和五十七年五月三日
   野砲兵第二十三聯隊戦友会


詩歌吟詠道 賀道流碑

部隊慰問中に急逝された詩歌吟詠道賀堂流(初代宗家・礒部賀堂)の慰霊顕彰の碑

詩歌吟詠道 賀道流碑

碑文
詩歌吟詠道賀堂流は初代崇吟社礒部賀堂創始 礒部家を宗家として伝承す
初代は明治二十六年七月姫路東郷町松下家に生れ礒部家に入婿坂田町に住す姫路藩吟詠を伝えし西村宣孝の教を受く多年刻苦の末豪壮且つ幽麗なる吟詠法を創案しその格調天下に冠たり
全国に門人を得社会人心の醇化並に吟詠界に貢献多大なりしが昭和十七年再度戦陣慰問吟行中に中国山西省喉馬鎮に急逝し靖国神社に合祀さる
爾來二十星霜茲に及門相謀り流碑を建立して当流の由来を記しその発展を期すると共に創始の偉績を万世に顕揚す
   昭和三十七年三月
     詩歌吟詠道賀堂流門弟一同


征き逝きし 同胞迎う 里もみじ


敬仰 国旗掲揚塔

敬仰

海軍少将 水井静治 書

水井静治は海兵40期。千代田や千歳の艦長、舞鶴や呉の防戦司令官を経て終戦時は第81戦隊司令官。

碑文
 戊辰の役以降、今次大戦に至る数次の戦役において祖国の負託に応え国難に赴き散華された御霊の、不滅の偉勲を顕彰し国際社会にあって国家を表徴する英霊由縁の日章旗と、海軍伝統精神の象徴たる軍艦旗を捧げるとともに、併せて国旗尊厳を後世に伝承すべく念願して、海軍在籍者の団体兵庫県海交会、ならびに海軍ゆかりの有志により、ここに国旗掲揚塔を建立し奉献する。
  平成2年11月吉日
    兵庫県海交会

境内の石碑群

兵庫縣姫路護國神社サイト

TOP

姫路城

周辺も散策してみましたが、それは別記事にて

※撮影:2023年6月


関連

ちなみに仕事の移動の関係で、同日で滋賀県と兵庫県姫路の護國神社を参拝しました。。。

護國神社関連

はじめに

滋賀縣護國神社

「滋賀縣護國神社」に立ち寄る機会がありましたので、参拝してきました。

御英霊に感謝を。


滋賀縣護國神社

明治戊辰の役以来、西南の役、日清戦争、日露戦争から大東亜戦争に至る幾多の戦役、国事・国難に殉じられた滋賀県出身の英霊3万4750柱をお祀りする。

明治2年9月、彦根藩は戊辰戦争の戦死者をとむらうため、古沢村(現・古沢町)の地に招魂碑を建立。
明治8年には内務省の発令と旧彦根藩主・井伊直憲公の発議により、旧彦根藩士と協議の上で現在の地に招魂社を造営する。
明治9年5月に竣工され、戊辰戦争の御英霊26柱が祀られた。
昭和14年(1939)4月に内務省の告示により、全国の招魂社が護国神社と改名され、滋賀県の招魂社も「滋賀縣護國神社」となった。
昭和20年8月15日に敗戦を迎え、占領軍の干渉により、滋賀縣護國神社は沙々那美(さざなみ)神社と改名。その後、サンフランシスコ講和条約の締結で主権を回復し、同28年10月に再び社名を滋賀縣護國神社に戻された。


滋賀縣護國神社 社頭

滋賀縣護國神社

陸軍大将鈴木孝雄謹書

鳥居

狛犬


滋賀縣護國神社 御社殿

拝礼

ありがとうございます

近江を制する者は天下を制す

彦根藩第17代最後の藩主である井伊直憲公の具足「紅緘二枚胴具足」を保有している。(彦根城博物館に保管)
井伊家の赤備え

御朱印

滋賀縣護國神社の御朱印

浦安の舞 の 御製 
昭和天皇(昭和8年歌会始)
天地の 神にぞ祈る 朝なぎの 海のごとくに 波たたぬ世を

限定御朱印は際限がないので、基本の御朱印をいただきました。

ありがとうございます。


境内の慰霊碑を巡拝する

第二十号掃海艇 慰霊碑

第二十号掃海艇 
慰霊碑

第二十号掃海艇戰闘詳報
第二十号掃海艇は昭和二十年五月二日海防艦男鹿が門司港から上海に向かう途中敵潜水艦の魚雷攻撃をうけ沈没した情報に接し同艦の遭難者を救助するため翌三日五時十五分朝鮮木浦港を出発、男鹿の沈没地点である黄海南部に向け航行中同月五日二十時に通信連絡を行った後同艇は消息不明となりその遭難地点は北緯三三度五六分東経一二二度四九分附近と認定せらる。
同艇乗組員艇長海軍中佐田中三蔵以下一七五名壮烈なる戦死を遂ぐ。
 滋賀縣護國神社宮司
  山本浅次郎

碑の裏に順不同として刻されている府県別戦没者氏名の柱数は以下。
滋賀県16柱、京都府28柱、兵庫県1柱、福井県12柱、石川県15柱、富山県20柱
新潟県50柱、山形県32柱、秋田県1柱。


滋賀県近衛歩兵第一聯隊会 灯籠


慰霊

日露戦争従軍記念の碑

慰霊 散りてこそ誉れあるなりやま桜 正雄

戦場の四季 和歌4句


石部隊独立歩兵第十一大隊 
北支沖縄戦没勇士慰霊碑

石部隊独立歩兵第十一大隊 
北支沖縄戦没勇士慰霊碑

昭和13年2月10日 部隊編成於北支天津
同20年6月20日 沖縄南部に於て玉砕
昭和45年3月 昔陽會 建之

部隊は昭和13年2月北支天津に於て編成され、北支山西省昔陽県に駐屯し、山西河南河北の各省に亘り大行山系の各作戦また中原会戦等に参加、赫々たる戦果を挙げ太平洋戦争となるや部隊は昭和19年沖縄に転戦
米軍上陸と共にこれを迎え撃ち激戦の末部隊は突撃を敢行し全員玉砕す
茲に部隊の在籍生存者が相集り今は亡き戦友の霊に対して心からその栄誉を賞え偉功を永久に伝えるため慰霊碑を建立したものであります
この碑の下には沖縄激戦地の石を持帰り奉祀してあります
 独立歩兵第11大隊
  昔陽会


平和の礎 シベリア強制抑留者慰霊碑

シベリア強制抑留者の慰霊碑。
平成12年11月建立。

平和の礎
シベリア強制抑留者慰霊碑
 滋賀県知事 國松善次

碑文
悲惨な第二次世界大戦は、日本のポツダム宣言受諾により、昭和二十年八月十五日を以って終結した。
然るに旧ソ連は、協定を守る事なく六十余万人の日本将兵を酷寒のシベリア各地に連行抑留し長期に及ぶ過酷な重労働を強制した。飢えと寒さと生地獄の中、祖国日本への帰還の願い空しく、本県出身者四百余名は、遂に力尽きて無念の死を遂げた。
誠に痛恨の極みである。辛酸に耐え生還した私たちはこのことに深く想いを致すと共にその事実を後世に正しく伝え、且つ抑留死没者の冥福と恒久の平和を祈念し、財団法人全国強制抑留者協会の助成並びに会員、遺族等の賛助を得て、ここにこの碑を建立する。
 平成十二年十一月吉日  
 滋賀県シベリア抑留者慰霊碑建立委員会


戦歿軍馬軍犬軍鳩靈之碑

戦歿した軍馬・軍犬・軍鳩の霊を、戦士と共に末長く慰霊顕彰するため彦根・長浜地区の旧軍人等有志が「戦歿軍馬軍犬軍鳩慰霊塔建設委員会」を組織し県下一円に篤志を募って建立。
御影石製台座の上に馬1頭、犬1匹、鳩2羽の像が据えられている。

昭和61年10月1日建立。

戦歿軍馬軍犬軍鳩靈之碑

戦歿軍馬軍犬軍鳩を慰む
昭和二十年の終戦を迎えるまで幾多の戦役に従い傷病に斃れあるひは海没となり草むす屍水漬く屍となり一頭も故国に帰らずして終る軍馬犬鳩幾十百万とも数知れず。
祖国の護りのため英霊と運命を共にした無言の軍馬犬鳩の尊い犠牲をしのび永くその功をたたえると共にその霊を慰むる一端として有志の主唱により県内は勿論全国から五阡余名の方々の浄財を得ここ彦根市尾末町一番地滋賀県護国神社内に慰霊銅像を建立し安らかな眠りと永遠の平和を希う。
 昭和六十一年十月一日


祈 平和之碑

昭和57年5月吉日建立。

祈 
平和之碑
彦根傷痍軍人会

御製
国もると 身をきすつけし ひとびとの 
うへをしおもふ あさにゆうへに
 滋賀縣護國神社宮司 山本浅次郎 謹書

広島長崎の原爆を忘れず
人類の破滅を招く戦争を
二度とおこすことなく
世界の平和を守ろう
 滋賀縣護國神社宮司 山本浅次郎 謹書


拓魂碑

昭和47年12月建立。滋賀県知事 野崎欣一郎 謹書

昭和7年からの満蒙開拓事業に参加した滋賀県送出の44個団隊1800余名の開拓者のうち、青少年義勇隊員も含む物故者約400余名の諸霊の慰霊顕彰のため、滋賀県拓魂碑建立委員会が建立。

顧みるに満蒙開拓事業は昭和七年より二十ヵ年百万戸移住計画に基づき民族協和の理想現実と日本民族の発展とを目ざした当時の国策であった。
この要請にこたえて本県送出の四十四個団隊千八百余名の開拓者たちは、現地の苛烈な気候風土を克服しあらゆる困苦欠乏に耐えながら営々と未墾の沃野を拓き着々その成果を挙げつつあった。
然るに、昭和二十年八月、終戦によってその雄図は挫折したのみならず、異境で遭難した開拓者の末路はあまりにも悲惨であった。
戦火に追われて混乱する治安のなかで一家は離散し母子相擁して命を絶つ者、逃避放浪の末生死不明の者、ひたすら帰国を夢みつつも遂に飢餓と病魔に斃れた者四百名を数え、この渦中に可憐な十四・五歳の青少年義勇隊員の多くもあたら青春を犠牲にしたのである。
爾来二十幾星霜辛うじて生還した拓友をはじめ同志相計り多くの賛同を得て、此の地に拓魂碑を建立するに至った。
悲運の肉親同胞を偲び、諸霊の冥福を祈願するとともに、われわれもまたこの碑に集い、祖国永遠の平和と弥栄を翼うものである。
 昭和四十七年十二月九日  
 滋賀県満蒙開拓物故者 
 慰霊碑建立委員会


拓友碑

昭和44年9月建立。満蒙開拓の慰霊碑。

顧ミルニ昭和七年カラ十九年ニカケテ我国ハ満蒙ノ開拓ヲ国策トシテ日本各県カラ大陸移民ヲ奨メ又満洲各地ニ満洲青年義勇隊訓練所ヲ設ケテ北満ノ守リヲ兼ネ開拓部落建設ニ当ラシメ三年ヲ勉学教練農事ノ訓練期間トシテ十五、六歳ノ青少年ヲ全国各県カラ続々其訓練所ニ入所セシメタ
昭和十八年三重滋賀両県カラ集マッタ青少年二百三名ハ滋賀県甲西町針出身ノ北島光三ヲ隊長トシテ大志ヲ抱イテ元満洲国北安省対店義勇隊ニ入所シタ
爾来三年炎熱ノ大平原二千里果ナイ銀世界ニ理想実現ヲ目サシテ青春ノ情熱ヲ傾ケタノデアッタガ太平洋戦争ハ敗北シ其雄図ハ空シク挫折シタ昭和二十年九月満洲ニ進駐シタソ聨軍ノ命ニヨッテ北安捕虜収容所ニ収容の憂目ヲミタ
厳寒ノ冬来ル頃出所ヲ見タモノノ乏シイ糧ヲ分ケ合ヒ幾十日カヲ過シタ収容生活ニ体力ノ消耗甚シク其上アラユル強制労役ニ服スル事一年有余加エテ混乱スル治安ハ言語ニ絶シ五十一名ノ若イ命ガ赤イ夕日ノ荒野ニ悲シク露ト消エタ
此碑ハ只管帰郷ノ夢ヲ見ツツ今尚寂シク異国ノ土ニ眠ル友ト且又漸クニシテ故国ノ土ヲ踏ンダガ幸薄クシテ早ク逝ッタ友ノ霊ヲ慰メル為ニ此地ニ昭和四十四年九月建立シタ墓石ト礎石ハ隊員数二百三個ノ郷土ノ石ヲ我等ガ持寄ッタモノデアル毎年秋生存者一同ガ墓前ニ集マリ永眠スル拓友ノ冥福ヲ祈ルモノデアル
 昭和四十八年九月
 元満洲国北安省対店青年義勇隊北島中隊
 三滋北義會


花塚

平成4年4月建立

花に感謝
平成元年花塚建立、平成23年花塚改修


宮田思洋句碑

昭和52年春建立。
宮田常蔵(思洋)氏は、能楽シテ方観世流師範・俳人・郷土史研究家。弟子によって建立。

お天守の 窓に野山の錦かな


父の像

昭和44年8月建立。滋賀県遺族会。

平和を願う
戦争で幾百万という兵士が死んだ
兵士には父や母があり妻と子がいた
その子供達は父のいない家庭に育ち
父がほしいと何度か思って大人になった
そして自分達で父の像をつくった
異国で散った兵士も遺された家族も
 願いは一つ平和であった

父の像に捧ぐ 詞 我孫子元治
おとうさん
あなたに抱かれたことのない子が
あなたの遺骨を抱いたとき

おとうさん
あなたの無言の帰還を迎えて
あなたのきびしい声を聞いた

おとうさん
あなたの遺志を継いだ子が
あなたの霊に改めて誓う

おとうさん
あなたの抱き続けた平和への祈りを
あなたの子として祈り続ける   

 滋賀県遺族会青壮年部


母の像

平成19年9月建立。

 祖国の危機に際し、多くの若者が戦場に赴いた。そして幾百万人もが戦禍に散った。
 残された家族は、深い悲しみに耐えながらも敗戦の中で様々な困難と闘い、家族を守り、国の復興に努めた。とりわけ兵士の妻たちは、夫の無言の帰還の日から悲しみや孤独に耐え、唯一子供の成長を頼りに母として必死に生きた。
 子供たちも、その母と父を誇りに、二度と戦争のない世界を目指し、遺族として各種の活動を展開した。
滋賀県遺族会は創立六十周年を記念し、ここに平和への願いをこめて「母の像」を建立する。
 平成十九年 九月 吉日
 財団法人 滋賀県遺族会
      会長 山田利治


天皇陛下皇后陛下御親拝記念碑

天皇陛下皇后陛下御親拝記念碑

昭和50年5月28日建立。

昭和50年5月28日天皇・皇后両陛下には、第26回全国植樹祭ご臨席のため、滋賀県に行幸啓あらせられ、滋賀縣護國神社にご親拝を賜ったのを記念。


滋賀県英霊顕彰館

御英霊のお写真を掲揚

滋賀縣護國神社サイト

https://www.shigagokoku.jp/


彦根城

時間がなかったので、彦根城は寄らずに遠巻きに、見ただけでした。。。

※撮影:2023年6月


関連

ちなみに仕事の移動の関係で、同日で滋賀県と兵庫県姫路の護國神社を参拝しました。。。

護國神社関連

はじめに

78年目の8月15日-靖國神社

靖國神社

終戦から78年目の8月15日、終戦の日の靖國神社。
今年は、台風が関西方面に直撃し、東日本も天候がどうなるか読めない中での8月15日でした。
結果として、日中は雨に振られることもなく、いつもどおりに暑い夏でした。

靖國神社・午前9時30分

最近の私は、だいたいこの時間に靖國神社にいるようです。

放鳩式 靖國神社・午前10時

今年の放鳩式は、一般参列者の放鳩も復活。

8月15日 午前10時
「日本の声 英霊に感謝する集い」放鳩式
能楽堂前

毎年恒例。
講談師の宝井琴調氏が司会進行。
なんでも今年で50年目、だそうで。
ありがとうございます。

靖國神社・山口建史宮司

となりのおばあちゃん。
「鳩はね、目を塞いであげると暴れないで静かにしてくれるのよ」
へー、です。
私も真似してみました。たしかに鳩さん、静かになった。

となりのおばあちゃんとちょっとお話をする。
「去年は、呼ばれたんで武道館に行ったんだけど、今年は別の人が行っったんで、私はここの白鳩に来たのよ。武道館に行かないときは、わたしは毎年、ここに来るの。」

宝井琴調さんと山口建史宮司

英霊ありがとう!!

夏の風物詩

放鳩式のあと。
どうやら議員の皆さんの参拝時間っぽい。
駐車場が飽和して、遊就館前にも駐車が展開。

靖國神社参道・午前11時30分

あさなぎの皆さん、
毎年、冷たい麦茶をありがとうございます。

靖國神社白鳩の会の皆さん。
毎年、ありがとうございます。

靖國神社拝殿 正午

国家
君が代は
千代に八千代に
さざれ石の
いわおとなりて
苔のむすまで

 
黙祷
 
 

本日、「戦没者を追悼し平和を祈念する日」に当たり、全国戦没者追悼式に臨み、さきの大戦において、かけがえのない命を失った数多くの人々とその遺族を思い、深い悲しみを新たにいたします。
 終戦以来78年、人々のたゆみない努力により、今日の我が国の平和と繁栄が築き上げられましたが、多くの苦難に満ちた国民の歩みを思うとき、誠に感慨深いものがあります。
 これからも、私たち皆で心を合わせ、将来にわたって平和と人々の幸せを希求し続けていくことを心から願います。
 ここに、戦後の長きにわたる平和な歳月に思いを致しつつ、過去を顧み、深い反省の上に立って、再び戦争の惨禍が繰り返されぬことを切に願い、戦陣に散り戦禍に倒れた人々に対し、全国民と共に、心から追悼の意を表し、世界の平和と我が国の一層の発展を祈ります。

天皇陛下 お言葉 全国戦没者追悼式(令和5年8月15日)

https://www.kunaicho.go.jp/page/okotoba/detail/116

毎年、この場所で、海行かばを

海行かば

海行かば 水漬く屍
山行かば 草生す屍
大君の 辺にこそ死なめ
かへりみはせじ

うみゆかば みづくかばね
やまゆかば くさむすかばね
おほきみの へにこそしなめ
かへりみはせじ

8月15日

正午後。

御朱印。白鳩の会。


千鳥ヶ淵戦没者墓苑

映画と連動していた。

合掌。

「戦没者を追悼し平和を祈念する日」

平和記念碑
 引揚に伴う死没者の永遠の平和祈念碑
追悼慰霊碑
 強制抑留者の尊い命を失われた方々の追悼慰霊碑

古文書館に行こうと思ったら。北の丸公園が封鎖されていたので、迂回路。

近衛師団司令部庁舎


国立公文書館

大正時代の公文書。代表的なものをピックアップ。
これはこれで興味深い。


「終戦の詔書」原本特別展示

大東亜戦争終結ノ詔書

(全文)
朕深ク世界ノ大勢ト帝國ノ現狀トニ鑑ミ非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ收拾セムト欲シ茲ニ忠良ナル爾臣民ニ告ク

朕ハ帝國政府ヲシテ米英支蘇四國ニ對シ其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨通告セシメタリ

抑ゝ帝國臣民ノ康寧ヲ圖リ萬邦共榮ノ樂ヲ偕ニスルハ皇祖皇宗ノ遺範ニシテ朕ノ拳々措カサル所
曩ニ米英二國ニ宣戰セル所以モ亦實ニ帝國ノ自存ト東亞ノ安定トヲ庻幾スルニ出テ他國ノ主權ヲ排シ領土ヲ侵スカ如キハ固ヨリ朕カ志ニアラス
然ルニ交戰已ニ四歳ヲ閲シ朕カ陸海將兵ノ勇戰朕カ百僚有司ノ勵精朕カ一億衆庻ノ奉公各ゝ最善ヲ盡セルニ拘ラス戰局必スシモ好轉セス
世界ノ大勢亦我ニ利アラス
加之敵ハ新ニ殘虐ナル爆彈ヲ使用シテ頻ニ無辜ヲ殺傷シ慘害ノ及フ所眞ニ測ルヘカラサルニ至ル
而モ尚交戰ヲ繼續セムカ終ニ我カ民族ノ滅亡ヲ招來スルノミナラス延テ人類ノ文明ヲモ破却スヘシ
斯ノ如クムハ朕何ヲ以テカ億兆ノ赤子ヲ保シ皇祖皇宗ノ神靈ニ謝セムヤ
是レ朕カ帝國政府ヲシテ共同宣言ニ應セシムルニ至レル所以ナリ
朕ハ帝國ト共ニ終始東亞ノ解放ニ協力セル諸盟邦ニ對シ遺憾ノ意ヲ表セサルヲ得ス
帝國臣民ニシテ戰陣ニ死シ職域ニ殉シ非命ニ斃レタル者及其ノ遺族ニ想ヲ致セハ五内爲ニ裂ク
且戰傷ヲ負ヒ災禍ヲ蒙リ家業ヲ失ヒタル者ノ厚生ニ至リテハ朕ノ深ク軫念スル所ナリ
惟フニ今後帝國ノ受クヘキ苦難ハ固ヨリ尋常ニアラス
爾臣民ノ衷情モ朕善ク之ヲ知ル
然レトモ朕ハ時運ノ趨ク所堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ以テ萬世ノ爲ニ太平ヲ開カムト欲ス
朕ハ茲ニ國體ヲ護持シ得テ忠良ナル爾臣民ノ赤誠ニ信倚シ常ニ爾臣民ト共ニ在リ
若シ夫レ情ノ激スル所濫ニ事端ヲ滋クシ或ハ同胞排擠互ニ時局ヲ亂リ爲ニ大道ヲ誤リ信義ヲ世界ニ失フカ如キハ朕最モ之ヲ戒ム
宜シク擧國一家子孫相傳ヘ確ク神州ノ不滅ヲ信シ任重クシテ道遠キヲ念ヒ總力ヲ將來ノ建設ニ傾ケ道義ヲ篤クシ志操ヲ鞏クシ誓テ國體ノ精華ヲ發揚シ世界ノ進運ニ後レサラムコトヲ期スヘシ
爾臣民其レ克ク朕カ意ヲ體セヨ

御名御璽
昭和二十年八月十四日
内閣總理大臣鈴木貫太郞

大東亜戦争終結ノ詔書
(読み下し)
朕深く世界の大勢と 帝国の現状とに鑑み 非常の措置を以って時局を収拾せんと欲し ここに忠良なる汝臣民に告ぐ

朕は帝国政府をして 米英支蘇四国に対し その共同宣言を受諾する旨通告せしめたり

そもそも帝国臣民の康寧をはかり 万邦共栄の楽しみを共にするは 皇祖皇宗の遺範にして 朕の拳々措かざる所
さきに米英二国に宣戦せる所以もまた 実に帝国の自存と東亜の安定とを庶幾するに出でて 他国の主権を排し領土を侵すが如きは もとより朕が志にあらず
然るに交戦既に四歳を閲し 朕が陸海将兵の勇戦 朕が百僚有司の励精 朕が一億衆庶の奉公 各々最善を尽くせるに拘らず 戦局必ずしも好転せず
世界の大勢また我に利あらず
しかのみならず 敵は新たに残虐なる爆弾を使用して しきりに無辜を殺傷し 惨害の及ぶところ真に測るべからざるに至る
しかもなお交戦を継続せんか 遂に我が民族の滅亡を招来するのみならず 延べて人類の文明をも破却すべし
かくの如くは 朕何を以ってか 億兆の赤子を保し 皇祖皇宗の神霊に謝せんや
是れ 朕が帝国政府をして共同宣言に応せしむるに至れる所以なり
朕は帝国と共に 終始東亜の解放に協力せる諸盟邦に対し 遺憾の意を表せざるを得ず
帝国臣民にして戦陣に死し 職域に殉し 非命に倒れたる者及び 其の遺族に想いを致せば五内為に裂く
且つ戦傷を負い 災禍を被り 家業を失いたる者の厚生に至りては 朕の深く軫念する所なり
思うに今後帝国の受くべき苦難はもとより尋常にあらず
汝臣民の衷情も朕よく是れを知る
然れども朕は時運の赴く所 堪え難きを堪へ 忍び難きを忍び 以って万世の為に太平を開かんと欲す
朕はここに国体を護持し得て 忠良なる汝臣民の赤誠に信倚し 常に汝臣民と共に在り
もしそれ情の激する所 濫りに事端を滋くし 或いは同胞排せい 互いに時局を乱り 為に大道を誤り 信義を世界に失うか如きは 朕最も之を戒む
宜しく 挙国一家 子孫相伝え かたく神州の不滅を信じ 任重くして道遠きを念い 総力を将来の建設に傾け 道義を篤くし 志操を堅くし 誓って国体の精華を発揚し世界の進運に後れざらんことを期すべし
汝臣民それ克く朕が意を体せよ

御名御璽
昭和二十年八月十四日
内閣総理大臣鈴木貫太郎

こちらは、宣戦の詔書

記念品を購入。

終戦の詔書の絵葉書。
これでいつでも、「終戦の詔書」に接することができます。

※撮影:2023年8月

8月15日。正午の黙祷を、毎年、約束の場所で。


関連

河口湖自動車博物館・飛行舘(2023年8月版)

昨年に続けて、2023年8月も「河口湖自動車博物館・飛行舘」でに行ってきました。
昨年の記事は以下にて。

正式名称は「河口湖自動車博物館・飛行舘」となりますが、「飛行館」の表記揺れがあります。

2024年の模様は下記にて。

以下、2023年版の写真を展開。

彩雲は、ついに尾部と胴体が完成!


河口湖自動車・飛行舘

山梨県南都留郡鳴沢村富士桜高原内にある自動車および航空機の博物館。
原田信雄氏が私費を投じて設立した博物館で、毎年8月の1ヶ月間だけ開館している。

https://www.car-airmuseum.com/index.html

飛行館・入口

ケイタイ電話の撮影のみOKです!

※本記事はすべて「Motorola moto g52j 5G」にて撮影


艦上偵察機 彩雲 11型1290号機

中島飛行機が開発。大日本帝国海軍の艦上偵察機。
実用化した海軍機の中で、彩雲は海軍最速機として陸上偵察機としても活用され、米軍機の追跡を振り切った際に「我ニ追イツクグラマン無シ」の名言も残っている。

1944年に愛知の半田製作所にて量産が開始。半田1号機は1944年6月に完成。終戦までに463機生産(半田では427機)されたという。

河口湖飛行館とアメリカ国立航空宇宙博物館(非公開)にのみ現存。
河口湖飛行館では、彩雲の復元作業に着手している。

ちなみに、来年にはエンジン部(機首部)も搭載されるとのことで。

艦上偵察機 彩雲 11型1290号機
Nakajima C6N1 MYRT
この彩雲は、最高速度654Km/h、最大航続距離5,000kmを誇る、日本海軍の高速偵察機である。
設計は、中島飛行機小泉製作所の山本良造、福田安雄、2名の技師にゆるものだ。太平洋戦争の開戦により、日本海軍は急遽、優れた偵察機が必要になり、昭和17年1月、中島飛行機に開発指示が下った。
要求された最高速度630km/hを実現させるためには、2,000馬力級のエンジンが必要であったが、当時そのような高出力エンジンは存在しなかった。山本、福田両技師は、1,000馬力級の星型エンジン2基を串刺にして、同軸でプロペラを駆動させることで要求を満足させようと考えていたが、幸いにも開発中であった、1,800馬力エンジンの実用化に目処がついたため、このエンジン”誉(ほまれ)”を搭載することで開発が進められた。エンジン出力の不足分は機体の設計技術により補うことで対応した。
彩雲には様々な新技術が採用された。それらの技術は現在の航空機にも使われている。今なお、傑作機として名を残している由縁であろう。

昭和18年4月26日に小泉製作所で量産試作機が完成。
翌年の昭和19年4月には愛知県の半田製作所にて、本格的な量産が開始され、終戦までに463機もの彩雲が生産されている。
現在は、河口湖飛行館とアメリカの博物館の”2機のみ”が現存するが、アメリカにある機体は未公開で、未だ復元が開始されていないため、ここに展示されている彩雲が、世界で初公開となる。

艦上偵察機 彩雲
太平洋戦争の終わり頃に、最新の技術を取り入れ、中島飛行機で開発され造られた、高速で飛べる偵察機である。
強力なエンジンにより、時速654kmのスピードで飛行できた。
現在でも量産プロペラ飛行機の最高速度の記録を持っている。
てんじされている機体は、ミクロネシアのジャングルに隠されていたもので、2000年頃に発見された。
その後、河口湖飛行館に運ばれ、現在修復が行われている。
政界で、この彩雲を見ることができるのは、ここ河口湖飛行館だけなのである。

彩雲の復元、来年も楽しみです!


誉11型(彩雲用エンジン)

中島飛行機と日本海軍航空技術廠発動機部が開発した航空機用空冷式レシプロエンジン。
1942年(昭和17年)9月に生産が始まり、銀河、彩雲、疾風や紫電改など第二次世界大戦後期の航空機にメーカーや機種を問わず幅広く搭載された。


三菱 十字号(自転車)

これは22年には、なかった展示です。一式陸攻つながりですかね。

三菱 十字号(自転車)
一式陸上攻撃機を設計した本庄季郎により、航空機技術を応用して考案された、ジュラルミンフレームの珍しい自転車である。
戦後、GHQにより、航空機の製造が禁止され、ジュラルミン材が豊富に残されていたことから、三菱が民生用の自転車として発売した。
板材をリベットで固定する航空機同様の作り方がなされている。


九九式艦上爆撃機 銘板

昨年、見逃し、、、


戦時下のポスター

昨年、見逃し分


人力ヘリコプター ア・デイ・フライ(A Day Fly)

内藤晃氏の二重反転式の人力ヘリコプター。
これは、昨年、展示されてなかった気がする。


一式陸攻山本長官機・宇垣機の模型

昨年、ちゃんと見ていなかったショーケース。

昭和18年4月18日

山本長官機705空323号機の不時着時の状態

戦時中に回収された「山本長官機」破片

昭和18年4月18日
連合艦隊司令長官前線視察団2番機
705空326号機(宇垣機)
不時着水事の状況を再現


あとは昨年も見ているけど。

一式陸上攻撃機(一式陸攻)22型

22年は日の丸部分の扉が開いていたけども、23年は閉まってますね。


特殊滑空機 桜花11型 I-16


「零戦」とか「隼」とか

あとは、昨年の記録を見ていただければ。だいたい一緒なので省略。


メッセージ

そろそろスペースが無くなりそう。
彩雲が完成後は、どこに展示するんかな、、、


河口湖自動車博物館

興味をもったのをいくつか。(ちなみに車は詳しくないです。。。)

自動車第一号車

ロールスロイス

DATSUN ダットサン

RIKUO 陸王

オオタ ODER型トラック

1937型 ダットサン トラック

ジープ ウイリス MB

戦争映画によく出てくるやつ

ダイハツ3輪トラック

戦前の車を中心に見学してました。
(戦後の車はあまり興味ないらしい、、、)


アクセス

ちなみに、河口湖駅からレンタサイクルで、行きました。
これが、電車からのアクセスの最適解。

バスもあるけど、前提は別荘向けだし、そもそも時間的にちょっと、、、、

河口湖と富士山。山頂は雲隠れ、、、

フジサン特急 かわいい

富士ミネラルウォーター
創業は昭和4年!!

※撮影:2023年8月

また、来年!!

「高ノ島と沖ノ島」館山の海軍戦跡散策・その6

館山散策の続き。
本記事は「その6」です。「その5」はこちらにて。


鷹之島弁天閣(館山海軍航空隊航空神社跡)

境内には、館山海軍航空隊のマークが取り付けられた手水盤がある。
もともとは、館山海軍航空隊の鎮護のために建立された「航空神社」に奉納されたもの。
高ノ島には、厳島神社が祀られていたが、海軍用地となり移転。
「航空神社」が創建し、昭和10年6月22日銘で手水盤が奉納されている。
「航空神社」は、戦後に破却され、厳島神社が昭和24年に復し鷹之島弁天閣となった。

高ノ島の厳島神社(弁財天)は平安時代中期の1092年に安房国司により勧進。
高ノ島は、大将12年(1923)の関東大震災による隆起で干潟となっている。

昭和十年六月二十二日

御社殿の手前に、手水盤


海軍兵器整備予備学生戦没者慰霊碑

鷹之島弁天閣境内。
戦没した海軍兵器整備予備学生を慰霊する。

海軍兵器整備予備学生戦没者慰霊碑

此処に刻せる戦没者名は昭和拾六年より昭和弐拾年に亘る第二次世界大戦の間 戦雲急を告げ全国の高等工業学校専門学校及び大学理工科系卒業後の若人等が 此の地館山洲ノ埼海軍航空隊に入隊し海軍兵器整備予備学生の教育訓練課程修業 期間を卒業し勇躍任務地に赴きしが武運に恵まれること無く国家の為散華せる 英霊を顕彰慰霊したるものなり
 
思い起こせば敗戦より四拾有余年遺憾交々去来す茲に兵器整備予備学生存命の同士等連携相集いて本碑建立せり
 平成弐年拾月

関東大震災の祈念碑もある。

大正地震祈念碑

場所

https://goo.gl/maps/iF5P9dvocghiAa5a8


沖ノ島

はい、季節を間違えました。
こういう場所は、閑散期に訪れるべきでした。大絶賛で繁忙期です。

さすがにカメラをぶら下げて、海水浴場を歩けないので、ここからはスマホに切り替え。

沖ノ島狙撃陣地跡

沖ノ島地下壕跡

まあ、冬に来ましょう、、、

場所

https://goo.gl/maps/Dtm9QZ7LpoLXD3ox9


第二海軍航空廠館山補給工場跡

海自館山基地の隣に残る大きな建物。
現在は民間企業が使用している。

外装がキレイになってますね。


米軍上陸の地

昭和20年9月2日降伏文書調印。 翌9月3日午前9時20分、米陸軍第8軍第11軍団第112騎兵連隊戦闘団約3,500人(司令官カニンガム准将)が館山上陸。 この館山が米軍による本土初上陸の地なのだ。

米軍上陸の地
1945(昭和20)年9月2日、東京湾上の戦艦ミズーリの降伏文書調印式によって第二次大戦が終わった。翌3日、カニンガム准将の率いる米陸軍第8軍約3500名が館山海軍航空隊水上半滑走台から上陸した。東京湾の入口である軍都館山は、このとき本土で唯一、4日間の直接軍政が敷かれた。

案内看板が、だいぶ薄くなってますね、、、

https://goo.gl/maps/VJ6eXCJh1acqtnpB7

むかしは、この脇の通路を抜けて、「館山海軍航空隊水上班滑走台跡」なスリップ場にも行けたのですけど、いまは行けなくなりました。

場所

https://goo.gl/maps/Uoz2GHxs4eXHLf4B7

館山湾から、館山城を望む。館山城址には砲台もあった。

散策漏れ多数なので、館山は再訪必須ですね、、、

※2023年7月


関連

「退避壕と香掩体壕」館山の海軍戦跡散策・その5

館山散策の続き。
本記事は「その5」です。

「その4」はこちらにて。


蟹田川

洲ノ埼海軍航空隊と館山海軍航空隊が隣接するエリア。
蟹田川を境としている。
今も、蟹田川を挟んで、北側が「館山航空基地」。管制塔が目印。

用水路


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M583-25
1947年10月23日、米軍撮影の航空写真。

対象エリアを拡大。
ちなみにこの場所は、洲ノ埼海軍航空隊と館山海軍航空隊とどちらに属しているのだろうか。
左下が洲ノ埼海軍航空隊、右上が館山海軍航空隊にあたる。
蟹田川にかかる橋と、用水路の区割りから、館山海軍航空隊と連携しているような気もするが。


掲揚台

掲揚台跡。


退避壕(1つ目)

畑にいくつか退避壕が見える。この写真では3つ見えています。
ここを中心部に。

いまはいずれの退避壕も半分以上埋もれているために、中に入って退避するスペースはないですね。

まずは、1つ目。


退避壕(2つ目)

覗けました。


退避壕(3つ目)


基礎跡?

なにかの基礎?もしくは塀?の跡。
コンクリート礫の具合から、往時のものと思われるが。


退避壕(4つ目)

一番、東側に残存。民家の庭先、、、
管制塔との位置関係で東側となります。


退避壕(5つ目)

こちらは、西側に残存。
管制塔からの位置関係で西側とわかるかな。

退避壕(6つ目)

どうやら6つ目もあるらしいが見逃しました、、、再訪しないと、、、

場所

https://goo.gl/maps/12gj4ahRN7f7NC428


場所は変わって。。。

香掩体壕

所在地は、千葉県館山市香。香と書いて「コウヤツ」と読む。難しい。
「こうやつ」掩体壕。
中攻(中型攻撃機・陸上攻撃機/陸攻)用の掩体壕とされている。

私有地にあたるため、近寄ることはできない。
もっとも、掩体壕はの全面から水没しているので、どのみち近寄ることはできない。

下記写真の柵の右側に、掩体壕が開口して残っている。

敷地前は水没している。さらに樹木が多くて、全容は不明。

場所

https://goo.gl/maps/vAgE6tKLgWaiUv3HA

※撮影:2023年7月


「その6」へ

「洲ノ埼海軍航空隊と射撃場跡」館山の海軍戦跡散策・その4

館山散策の続き。
本記事は「その4」です。「その3」はこちらにて。


洲ノ埼海軍航空隊(洲ノ空)

館山海軍航空隊の隣には、「洲ノ埼海軍航空隊」(洲ノ空)が昭和18年6月1日に開隊。それまで「横空」で行われていた射爆兵器の整備教育を担当する全国でただひとつの兵器整備練習航空隊で、操縦以外の航空機にかかわる専門技術を学ぶ養成機関であった。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M583-25
1947年10月23日、米軍撮影の航空写真。

拡大、加工。

現在の様子。


洲ノ埼海軍航空隊射撃場跡

昭和18(1943)年につくられた洲ノ埼海軍航空隊は、飛行機を整備する兵隊を教育するための航空隊であった。
洲ノ埼海軍航空隊射撃場は、この前約100mの位置に、戦闘機をおいて、機銃の調整をおこなうための的として使われていた施設の跡。
射朶が5つ並んでいる。

毎回思うのですけど、こういうところは夏はだめですよ。冬にしましょう、、、

この奥に射撃場跡がある。

場所

https://goo.gl/maps/LGRGTwJ3vB4TVQiH7


洲ノ埼海軍航空隊の碑

館山海上技術学校の裏門近くに、洲ノ埼海軍航空隊の碑がある。

昔こゝに洲ノ崎海軍航空隊あり

隣家のワンコが吠え立ててくる。。。

海軍第六期兵器整備科予備練習教程修了 四十周年を記念してこれを建てる
 昭和五十九年甲子九月十五日  
  洲ノ空六期会
   題字 館山市長 半澤 良一

場所

https://goo.gl/maps/wJovD3zuXkDEE8du6


東京湾要塞第一区地帯標

正面:東京湾要塞第一区地帯標
裏面:海軍省
左側面:第一八号
右側面:昭和十六年七月三十日建設

どこかからか、移築された模様。

この「東京湾要塞第一区地帯標」の後ろの山は、洲ノ埼航空隊関連の砲台や監視所などがあるというが、いまは繁る山に登る季節ではないので、また今度。

※撮影:2023年7月

洲ノ埼海軍航空隊は、ほかにも防火水槽跡とかあるけど、やっぱり見逃し。再訪します。。。。

「その5」へ

「赤山地下壕と宮城掩体壕」館山の海軍戦跡散策・その3

先日、「海自館山航空基地ヘリコプターフェスティバル2023」で館山を訪れ、改めて館山の戦跡を散策したくなった私は、翌週にも館山を訪れ、いくつか気になっているところを散策してみました。

しかし、館山はいろいろありすぎる。見逃しが多すぎることが判明しているので、きっとまた行きます。。。

一部は、下記と重複します。

その2は、海自館山航空基地


館山駅

館山駅前のヤシの木は館山砲術学校正面にあったものを戦後に移植。
館山駅東口のロータリーに植えられているヤシの木が、「館山砲術学校」から移植されたものという。

西口にもヤシの木はある。

この日は、レンタサイクルで館山を移動

レンタサイクルの機動力に感謝。(また館山に行ったら使います)


赤山地下壕跡

赤山地下壕は2回目。真夏に冷を求めるのにちょうどよい。

立ち寄ってみる。

(入り口にある海軍止水弁の写真撮り忘れた、、、)

後世に伝えていきたい館山の戦争遺跡
赤山地下壕跡
東京湾の入り口にある館山は、かつて首都・東京を守る軍事的な要衝で、旧陸海軍の様々な施設が置かれていました。その中でも全長1.6kmにもなる赤山地下壕は、館山を代表する戦争遺跡です。本土決戦に向け、終戦の日まで壕の掘削が行われていたといわれています。今でもツルハシの跡が鮮やかに残っており、人の手を感じ取ることができます。赤山地下壕の吸い込まれるような美しい地層の中で、何を思って過ごしていたのでしょうね。

だいたいわかるw

館山市指定史跡 館山海軍航空隊 
赤山地下壕跡
平成17年1月27日指定
 1930(昭和5)年、海軍5番目の実戦航空部隊として、館山海軍航空隊がつくられました。それから、1945(昭和20)年の終戦までの間、館山市香(こうやつ)から沼(ぬま)にかけての一帯には、航空機の修理部品の補給などをおこなった第2海軍航空廠館山補給工場、食料・衣服・燃料などを補給した横須賀軍需部館山支庫関係の施設や、1943(昭和18)年に兵器整備の練習航空隊として開かれた洲ノ崎海軍航空隊など、さまざまな軍事施設がつくられました。
 東京湾の入り口にあることから、館山市には、海軍の施設だけではなく陸軍の砲台や、教育機関(洲ノ崎海軍航空隊、館山海軍砲術学校)など、いろいろな種類の戦争遺跡が残されています。
 このような場所は、わが国のなかでも例が少ないといわれていますが、この赤山地下壕は、合計した長さが約1.6㎞と全国的にみても大きな地下壕で、館山市を代表する戦争遺跡のひとつです。
 つくられた時期は、はっきりしていませんが、このような大きな地下壕が、1941(昭和16)年の太平洋戦争開戦の前につくられた例はないといわれています。
 その一方で、昭和10年代のはじめに建設が始まったという証言もありますが、当時の軍部が本格的に防空壕をつくり始めたのは、1942(昭和17)年より後であるという歴史的な事実があります。
 全国各地につくられた大規模な地下壕の壕と壕の間の長さは、一般的には10~20m以上(長野市松代大本営の象山壕は25mであるとされていますが、この赤山地下壕は5~10mと狭い上、計画的に掘られたとは考えにくい、そのつくりから見て、終戦がさし迫った1944(昭和19)年より後にけんせつされたのではないかと考えられています。
 アメリカ軍の空襲が激しくなった太平洋戦争の終わりの頃、この赤山地下壕が、館山海軍航空隊の防空壕として使われていたことは内部にある発電所跡や、終戦間際に、この壕の中で実際に館山海軍航空隊の事務を行ったという体験や、病院の施設があったなどの証言から、知ることができます。
 平成15年 館山市・館山市教育委員会

入壕

自力発電所跡
 この一角は、壁面がコンクリートで補強され、コンクリートの土台や、床面の鉄筋が残っています。発電所があったところで、昭和20年2月に、航空隊の正門前の変電所から移転して使用されていたということです。4気筒200馬力のディーゼルエンジンが2台、発電機が2台、変圧器が9個あったそうです。

このクボミは?その1
 変電所電気員の待機所です。右側の浅いクボミには2段式のベットがあったそうで、10人くらいが交代勤務していたとか。空襲で爆弾の振動があると、天井の土がサラサラと落ちてきたそうです。
 壕内には科(職種)ごとの居住区があったらしく、木の棚のベットがあったそうです。

このクボミは?その2
 この縦長のクボミには、電話番が腰掛けて勤務をしていたそうで、中段左右の突起にコードを巻いていたということです。左隣の窪みはトイレで、桶がおいてあったそうです。

この壕はどうのように使われたのだろう
 防衛庁防衛研究所に「館山航空基地次期戦備施設計画位置図」という図面があります。太平洋戦争末期につくられたこの図面をみると、赤山地下壕跡の位置には、「工作科格納庫」「応急治療所」「自力発電所」と記されています。天井が高い壕は、格納庫として使われたのかもしれません。

応急治療所跡
このあたりに病院施設があったという証言が聞かれます。金属の2段ベッドがあり、軽い患者が治療対象だったようです。被弾した兵士も治療をうけていたそうですが、重症者は横須賀海軍病院で治療を受けたということです。

戦後の赤山地下壕跡
 終戦後は「忘れられた存在」になっていましたが、温度が年中一定していることから、昭和30年前後頃より、キノコ栽培に使われていました。国内の他の戦争遺跡にも、戦後しばらくキノコ栽培に使われた地下壕跡があります。この風呂やボイラー、コンクリートブロックなどは、そのときに設置されたものです。

外が見える。

このクボミは?その3
 この部屋はがんルームとよばれていたという証言があります。少尉クラスの士官たちの部屋だったようです。奥の四角く切った大きなクボミは御真影を安置した奉安殿で、桧の板張りだったそうです。空襲のときに航空隊から御真影を移したということで、少尉クラスの士官の役割でした。

奉安殿の棚。

場所:

https://goo.gl/maps/NdvFCLhPsVeuKDM68

外へ。

赤山のみち
長い時を越えて館山の歴史を伝える
地層・隆起海岸
房総半島南部の海岸沿いは、隆起したことによる海岸段丘と海食崖が帯状に分布しています。
また、沼地区には県指定天然記念物の沼サンゴ層があります。この地層や化石から見て、縄文時代は海水面が高く、谷の奥まで広がっていたことがわかります。房総半島南部は自然に海岸線が後退しただけではなく、度々の地震によって土地の隆起が繰り返され、4つの海岸段丘が形成されました。現在もその痕跡を見ることができます。

中からもみた、外側の開口部ですね。

場所:

https://goo.gl/maps/LbepPiBj3F17JbGn8


宮城掩体壕

忘れてはいけない戦争の名残
掩体壕
東京湾入口にある館山は、かつて首都・東京を守る軍事的な要衝でした。関東大震災による隆起で、海岸線から沖ノ島と高ノ島の間が浅瀬となり、そこを埋め立てて館山海軍航空基地が設置されました。敵機から戦闘機を守るための格納庫を掩体壕といい、戦争末期に学生や住民、兵士達によって多数造られました。かつては赤山周辺だけでも10基余りありましたが、現存するのは1基のみです。この1基はここの近くにあるので、ぜひ探してみてください。

掩体壕の見学も2回目。ここの掩体壕はキレイ。

非常にきれいな内部。

奥が赤山。

場所

https://goo.gl/maps/8hmHZYry31zuUzFMA

※撮影:2023年7月


「その4」へ

「たてやま海まちフェスタ2023」船内見学会(館山)

2023年7月23日、たてやま海まちフェスタ2023が、海自館山航空基地ヘリコプターフェスティバル2023と連動して開催されておりましたので、あわせて船内見学などを。

海自と海保と国交省の船。


水中処分母船YDT-03(海上自衛隊)

水中処分母船1号型。
YDT-03 水中処分母船3号、前畑造船で2001年3月に竣工。
横須賀水中処分隊に所属。

水中処分母船を見学するのは初めて。


PC57巡視艇たかたき(海上保安庁)

千葉海上保安部所属。
よど型巡視艇の7番艇。新潟造船。2013年2月15日就役。

神棚をみると、つい撮影してしまいます。

高滝神社は、船名の由来として理解できるが、寒川神社はなぜ?
第三管区の本部が横浜、だから?


清掃兼油回収船べいくりん(国交省)

国土交通省 関東地方整備局 千葉港湾事務所

https://www.pa.ktr.mlit.go.jp/chiba/bayclean/specs/index.html

2022年3月に就役したばかりの新造船。双胴船。ジャパン マリンユナイテッド製造。
海洋環境整備船。

神棚。熊野神社。どこの熊野さんだろう?


館山港耐震岸壁

今回の船舶一般公開の会場。海上自衛隊館山航空基地の近く。
館山城の山もよく見える。

航行中の海保ふさかぜ
(千葉海上保安部館山分室所属CL179巡視艇ふさかぜ)
体験航海

館山城と、船内公開の3隻。

※撮影:2023年7月


関連

「海自館山航空基地ヘリコプターフェスティバル2023」館山の海軍戦跡散策・その2

海上自衛隊 館山航空基地。
2023年7月23日に、館山航空基地開隊70周年(Since1953)として「ヘリコプターフェスティバル in TATEYAMA 2023」イベントが開催された。

せっかくなので、館山に行ってみました。


館山海軍航空隊(館空)

昭和5年(1930)に館山海軍航空隊(館空)開隊。海軍航空隊としては5番目。
(横須賀・佐世保・霞ヶ浦・大村・館山)
横須賀海軍航空隊(横空)の実戦部隊が館山に移動することで「横空」は研究航空隊に特化。
昭和9年(1934)に最新鋭の中型陸上攻撃機(中攻)が開発され、館山に配備。館山ーサイパン島間2220Kmの無着陸飛行に成功している。
昭和11年に木更津海軍航空隊(木空)が開隊すると、「木空」が外戦作戦任務を担当し、「館空」は内戦作戦部隊となる。
館山の房総特有の西風を強く受ける滑走路の環境は、航空母艦の短い甲板から飛び立つ訓練に最適であり、「陸の空母」として機動部隊のパイロット養成が行われた。
開戦後の1944年(昭和19年)に、東日本の哨戒航空隊を統合した「第九〇三海軍航空隊」が館山を中心に展開され、対潜哨戒機が配備され広大な哨戒区域をカバーする事となる。

洲ノ埼海軍航空隊(洲ノ空)

館山海軍航空隊の隣には、「洲ノ埼海軍航空隊」(洲ノ空)が昭和18年6月1日に開隊。それまで「横空」で行われていた射爆兵器の整備教育を担当する全国でただひとつの兵器整備練習航空隊で、操縦以外の航空機にかかわる専門技術を学ぶ養成機関であった。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M583-25
1947年10月23日、米軍撮影の航空写真。

拡大、加工。

現在の様子。


海上自衛隊館山航空基地

戦後、海上保安庁海上警備隊が保安庁警備隊に改編。
1953年(昭和28年)8月、館山海軍航空隊跡地にベル型ヘリコプターが配備されて操縦訓練を開始。同年9月館山航空隊が開設。海上航空再興の第一歩として、海上自衛隊航空部隊の発祥の地ともなった。

現在は、第21航空群司令部が所在し、護衛艦艦載ヘリコプター部隊、哨戒ヘリSH-60J・SH-60Kと救難ヘリUH-60Jを運用する航空基基地となっている。


本部庁舎・号令台

数年前まで残っていた館山海軍航空隊本部庁舎は、2015年に解体され、新しい庁舎が新築された。本部庁舎と号令台、練兵場の位置関係は海軍時代と海自時代で、かわっていない。

号令台。

今回、立ち入り可能な場所が制限されており、本部庁舎周辺に近寄ることは叶わなかった。


燃料庫

管制塔

展望回廊の見学

鷹の島の方向

エプロン

沖ノ島の方向

西側

北側

東側

東南側

眺望が良いときは富士山も見えるという。


教育史料館

どうやら、基地内を再整備した際に、史料館が移設され縮小したようで。展示物に旧軍関連が皆無となっており、、、

※旧軍関係は2階にありました

第21航空群公式キャラクター
ろくまる

本部庁舎の写真

解体前の庁舎、号令台が写る。

館山航空基地の年表

南極の氷

しらせ飛行科


基地内の散策

基地内を散策。。。歩ける場所が少ない。。。
旧軍遺構っぽいものもない。。。

案内図が古い。
本部庁舎のちかくの「3」に史料館が記載あるが、史料館は別の場所に移転。かつての史料館は兵舎流用であったが、

礎石
 慶長年間、江戸城外壕の石垣用として海路仙台から24個の大石を千石船に積んで江戸に運ぶ途中暴風に遭い鷹の島の島陰にのがれたが不幸にも大浪に呑まれて沈没してしまった。昭和5年、旧海軍館山航空隊創設の際海中から引揚げられたもので皇居外壕にものと同じといわれている。
残余の石は当隊庁舎の礎石並びに鷹の島弁天の手洗石に設置されている。
 敷石は南鳥島(マーカス)の珊瑚砂である。

格納庫(第1はない、、、)

車庫


SH‐60K 飛行展示

海上自衛隊の主力ヘリであるSH-60Kによるフライト展示。

救難展示

着陸後、専用の洗浄エリアに。

洋上飛行したヘリに付着した塩分をシャワーで洗浄。
これをすることにより塩分起因のサビなどを防止し機体寿命を伸ばすことは可能。

水浴び

炎天下でみるヘリのシャワーは気持ち良い。

洗浄終了!


飲食

とりあえず、たてやま海自カレーを。

味が違うというので食べ比べ。

あと、炎天下でかなり危険なので、体内冷却を。

台湾マンゴー。すぐ溶けた、、、


保存機

2024年にすべて撤去解体されました

立入禁止エリアにある、記念碑の見学ができなかったのが残念。
 悠久之碑
 海軍航空写真分隊記念之碑
 海上航空再興之地
 海軍中攻隊之碑
 海軍落下傘部隊発祥の地
上記の記念碑があるというが。
次の公開日に拝見できるといいな、、、と。

館山の海軍戦跡はまだまだ豊富なので、どうやら足繁く通うことになりそう。。。

※撮影:2023年7月


関連

日露戦勝記念の「砲弾狛犬」(館山・長須賀の熊野神社)

以前、横浜と川崎の砲弾狛犬を特集した。その続き。

日露戦勝記念の「砲弾狛犬」(横浜・川崎)

先日、館山に赴いた際に、宿題となっていた館山の砲弾狛犬にも会ってきたので、写真を掲載。


長須賀の熊野神社「砲弾狛犬」(館山市)

千葉県館山市長須賀406に鎮座する狛犬。
前足を砲弾に乗せていますね。

明治34年(1904)から明治35年にかけて日本とロシアの間で勃発した日露戦争での戦勝記念で建立奉納されたもの。
神社において伝統的であった「狛犬」が、近代の熱狂の中で、砲弾を抱え始めたという、ひとつの時代の象徴的な姿、でもある。

椎実型砲弾を前足で抑えつけている。

銘がないため詳細じは不詳だが、大正8年(1919年)に奉納されたものという。

こちらは球型砲弾といって良いのか?

熊野神社
長須賀熊野神社の創建年代等は不詳。
明治社格制定に際しては村社に列格。

拝殿前は、普通の狛犬。

こちらは昭和17年の奉納。

※撮影:2023年7月


砲弾狛犬5社

神奈川県横浜市南区山王町5-32
 お三の宮日枝神社

神奈川県横浜市中区本牧原29-18
 吾妻神社

神奈川県川崎市中原区下小田中1-2-8
 大戸神社

神奈川県川崎市川崎区大島3ー4ー8
 八幡神社

千葉県館山市長須賀406
 熊野神社