Date-SKN のすべての投稿

「朝霞駐屯地 観桜 一般開放」陸軍予科士官学校跡地散策(令和5年)

陸上総隊司令部や東部方面総監部のある「朝霞駐屯地」。
戦前は、ゴルフ場を買収して新設された「陸軍予科士官学校」があり、そして戦後は「米軍朝霞キャンプ」もあった場所。

今回、あいにくの雨ではあったが、観桜での一般公開があるというので足を運んでみた。


朝霞駐屯地の歴史

東京ゴルフ倶楽部
昭和7年(1932)5月、東京ゴルフ倶楽部が朝霞コースを開場。
東京ゴルフ倶楽部の痕跡として「びわ湖」がある。これは「東京ゴルフ倶楽部」朝霞コース(膝折ゴルフ場)の三番ショートホールの名残。
昭和15年、東京ゴルフ倶楽部朝霞コースの地が、陸軍省によって買収され、東京ゴルフ倶楽部は狭山に移転。朝霞コースは昭和16年閉鎖。

陸軍予科士官学校
昭和16年(1941)10月1日、陸軍予科士官学校が市ヶ谷から朝霞に移転。
昭和18年(1943)12月9日、 昭和天皇行幸し、「振武台」と命名。

アメリカ陸軍
昭和20年9月(1945)9月、アメリカ陸軍が朝霞地区を接収し、「キャンプ・サウス・ドレイク」(米軍朝霞キャンプ)として進駐。

陸上自衛隊
昭和29年(1954)の警察予備隊時代を経て、昭和35年(1960)3月15日に「朝霞駐屯地」が開設。
朝霞駐屯地(2023年現在)の主な駐屯部隊は以下

  • 陸上総隊司令部
  • 東武方面総監部
  • 第1師団第1偵察戦闘大隊
  • 第1師団第1施設大隊
  • 第1師団第1後方支援連隊
  • 中央音楽隊
  • 陸上自衛隊輸送学校
  • 自衛隊体育学校

朝霞駐屯地 観桜 一般開放

コロナ禍で、公開中止が続いていたため、令和になってからは初の一般公開。
朝霞駐屯地は、創立記念行事などは一般公開しておらず、桜の季節と夏祭り以外ではなかなか入る機会がない。

振武臺記念館の桜

振武臺記念館(陸軍士官学校皇族舎)に関しては下記にて。

駐屯地側から、振武臺記念館を垣間見る。

今回は、振武臺記念館の公開はありませんでした。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス

【1】
ファイル:8921-C5-115
1944年11月7日、日本陸軍軍撮影の航空写真。

【2】
ファイル:USA-M380-18
1947年07月24日、米軍撮影の航空写真。

それぞれを切り取ってみるとこんな感じ。
【1】1944年の「びわ湖」と「交差点」

【2】1947年の「びわ湖」と「交差点」

そして現在の「びわ湖」と「交差点」
Google航空写真から。


「びわ湖」の桜

駐屯地構内の池「びわ湖」は東京ゴルフ倶楽部三番ショートホールの名残り。
ゴルフ場~陸軍予科士官学校~米軍朝霞キャンプ~朝霞駐屯地と、変遷とともにあった人工湖。

現在は、渡河訓練場としても使用されているそうで。

これはなんだろう。。。

びわ湖の周辺は野外走路、でした。


石灯籠

後世センターや居酒屋のある東側に、石灯籠がありました。
絶妙に放置されている石灯籠。

もしかして、陸軍予科士官学校時代に関係ある?
将校集会所庭園跡とか?

真相はわかりませんが、なにやら直感で反応しましたので、記録しておきます。

1つ目の灯籠。

水盤?

2つ目の灯籠

これは、往時の庭園跡なのでは。。。

すぐとなりには、いまは居酒屋。
将校集会所と親和性あるし、、、、

こっちはラウンジ店だそうで。


自衛隊車両と桜

自衛隊っぽい、自衛隊ならではの観桜写真。


厚生センター

お買い物ができます。
陸自っぽい迷彩カラーの数々も。


北グランド

北グランドも開放されていましたが、雨のため、ほぼ人がいません。。。

第一施設大隊


朝霞駐屯地の桜

観桜を。


交差点の桜

交差点の中心部の円形の場所は、陸軍時代から変わっていない。


朝霞駐屯地入口(朝霞門)

朝霞門は、広報センター(りっくんランド)も併設。

雨が強く、見学者もそこまで多くはなかったので、自分のペースで陥凹できたのは良いことですが、写真撮るのは大変でした。。。
あと、大泉門にも行けばよかった、です。。。
(次回は、立ち入り制限の有無はわかりませんが大泉門周辺も探索したく)
※撮影:2023年3月26日



「下志津駐屯地・高射学校 観桜開放」下志津陸軍飛行学校跡地散策(2023)

かつて「下志津原」と呼ばれていた平坦な土地には、佐倉藩の射撃場から発展した陸軍の射撃場が広がり、そして「陸軍砲兵射的学校」があった。

そして、共同訓練を行っていた「下志津陸軍飛行学校」もあった。

陸軍砲兵射的学校は、のちに四街道に移動し、「陸軍野戦砲兵学校」となる。

そして、下志津原を活用すべく近くには、航空学校が開設される。
「下志津陸軍飛行学校」では、射撃観測などで、砲兵との連動訓練などを実施することもあり、「陸軍野戦砲兵学校(野砲兵校)」が近くにあることは多くのメリットがあった。


下志津陸軍飛行学校

主に空中偵察に関する各種の教育と研究を行った陸軍の学校。

明治45年(1912)に、日本陸軍は飛行機操縦者の教育を国内で本格的に開始する。
当時は、国内唯一の航空関係部隊であった所沢の飛行試験場の気球隊での教育から始まった。
大正4年(1915)に常設部隊として所沢に「航空大隊」が創設。

大正8年、「陸軍航空学校」が所沢に開設。フォール大佐を長とするフランス航空団が航空教育を指導。
航空偵察観測は、砲兵との連携が重視されたために、陸軍野戦砲兵学校と下志津陸軍演習場にて航空教育を実施。
大正10年(1921)4月、「陸軍航空学校」は、所沢を本校に、空中偵察訓練がすでに実施されていた「千葉の下志津」に分校を設置。
陸軍航空学校下志津分校」が開設される。

「下志津分校」は砲兵の連携に最適な環境ではあったが、所沢の陸軍航空学校本校とは離れており、本校分校との連携には難儀があった。
大正13年(1924)5月、陸軍航空学校が再編となり、「所沢陸軍飛行学校」、「下志津陸軍飛行学校」(偵察等)、「明野陸軍飛行学校」(空中戦闘等)の3校が設立された。

昭和11年(1936)に、下志津陸軍飛行学校銚子分教場を設置。

銚子の戦跡散策

昭和13年(1938)7月、「水戸陸軍飛行学校」が新設され、通信関連の教育や幹部候補生教育は、水戸に移管となった。

昭和16年(1941)3月に、下志津陸軍飛行学校八街分教所を設置。
昭和19年(1944)には、広島市の吉島にも分教所が設置されていた。

下志津教導飛行師団

戦局の悪化とともに、下志津陸軍飛行学校も教育機関から防空戦闘機関に移行となり、教育と作戦行動が並行するようになり、昭和19年6月に下志津陸軍飛行学校は閉鎖。下志津教導飛行師団に改編となった。

昭和20年7月には、下志津教導飛行師団は教育部隊と作戦部隊の分離改編がおこなわれ、教育部隊は「教導飛行師団 第5教導飛行隊」となった。そして作戦部隊として「教導飛行師団 第1・第2独立飛行隊」が編成された。
昭和20年8月15日、終戦。

陸上自衛隊下志津駐屯地(陸上自衛隊高射学校)

昭和30年(1955)、陸上自衛隊下志津駐屯地が開設。陸上自衛隊高射学校も設置されている。
下志津駐屯地司令は、高射学校長が兼任している。


下志津陸軍飛行学校の遺構

※移築格納庫 解体済み

格納庫と便所


下志津陸軍飛行学校跡地散策

下志津駐屯地の観桜一般公開がありましたので、足を運んできました。
良い感じに桜が満開です。かなりの雨でしたが。。。

下志津陸軍飛行学校の歩哨舎(門柱)

平成23年に正門改修工事が行われている門柱(手前)。
かつては下志津陸軍飛行学校の「歩哨舎」であった。
歩哨舎の外観を生かして、内部空間を塞いで、近年に「門柱」としたようだ。

陸上自衛隊 下志津駐屯地

高射学校

駐屯地観桜開放のお知らせ

雨天中止しなくて良かったです!

桜散策コースガイド

正門から右側のみ見学可能。「桜メイン」の開放ですから。
左側にも行きたかったが。

いくつか記念碑が集まっています。

下志津陸軍飛行学校跡碑

下志津陸軍飛行学校跡

菅原道大 の揮毫
昭和41年5月建立

菅原道大は、水戸つばさの塔も揮毫していました。

下志津陸軍飛行学校跡碑の裏面

下志津は所沢明野と共に陸軍航空揺籃の三大基地であった
大正8年偵察観測班創設以来分校より下志津飛行学校〇〇成長し大東亜戦争熾烈化に伴い教育師団となり次で第五教育飛行隊の基地として終戦を迎えたこの間二十有六年教育せし学生総数実に四千五百九十四名の多きに達するの功績を遺した
 昭和四十一年五月
  第八代校長 菅原道大

菅原道大は、陸軍中将。
大正14年(1925年)に菅原は陸軍航空科へ転科し航空少佐として飛行第6聯隊に着任。
昭和6年(1931年)、「下志津陸軍飛行学校教官
昭和14年12月に、「下志津陸軍飛行学校長」
昭和16年(1941年)、開戦時は第3飛行集団長。マレー作戦の航空作戦を指揮。
昭和17年7月、新設された第3航空軍司令官に着任。ビルマ航空戦を指揮。
昭和18年5月、内地に帰還し陸軍航空士官学校長に着任。
昭和19年3月、航空総監部次長。7月には、航空総監兼航空本部長を拝命。12月、第6航空軍司令官。沖縄方面の航空作戦の責任者として、海軍の戦艦大和の菊水作戦の支援や、指揮下の義烈空挺隊の義号作戦の指揮を執ることとなる。
昭和20年8月15日、終戦。
海軍の九州方面の航空責任者であった宇垣纏が沖縄に特攻出撃する中で、陸軍の九州方面の航空責任者であった菅原のもとにも部下たちが最後の特攻出撃を申し出る中で、「陛下の終戦玉音を拝聴した後は、余は一人の兵士も殺すわけにはゆかぬ。皆、おとなしく帰れ」と部下を諭している。
海軍側の宇垣纏中将、大西瀧治郎中将が亡き後、陸軍側の責任者とて、自決することを断念し、特攻隊員の顕彰、慰霊、遺族への弔問を行うことを決意。
「特攻平和観音奉賛会」を設立し、「特攻平和観音像」「知覧特攻平和観音像」「知覧特攻観音堂」を建立している。

古河内貞一先生碑

陸上防空の慈父
古河内貞一先生碑

FATHER OF ELPASO

古河内貞一は、戦前に海外で活躍した医師。メキシコ国境に近い米国テキサス州エルパソに1924年に医院を開業し、戦前戦後を通じ、民間領事といわれるほど日、墨米人間に絶大な信頼があり慈父と慕われた人物。

古河内先生略歴
明治20年 千葉市寒川町に生まる
大正12年 渡米 テキサス州率医科大学にて研修
大正13年 テキサス州エルパソ市において開業 爾来市民に広く仁愛の恵を施し市民慕いて慈父と敬う
昭和30年 以降留学自衛隊員の誘致指導に尽力
昭和35年 日米親善の功績により日本政府から勲四等瑞宝章を受く
昭和35年 産業発展等の功により大日本農会から緑白綬章を受く
御高徳を讃え昭和40年7月これを建つ

第一ロケット実験訓練隊記念之碑ほか

第一ロケット実験訓練隊記念之碑

第一ロケット実験訓練隊は、防空装備近代化の一環として昭和34年12月に新設。昭和43年夏に高射学校の改編に伴い廃止。
石碑は廃止となった昭和43年8月の建立。

8H編合記念
第309射撃中隊
 昭和51年8月1日

記念
第123特科大隊

第123特科大隊は、昭和34年創設、昭和45年廃止。

広報史料館

広報史料館

入れませんでしたが、非常に興味深いものが入口の前に展示してありました。

三式12糎高射砲

三式12糎高射砲
 三式12cm高射砲は、太平洋戦争中の昭和18年(1943年)にアメリカのB29爆撃機に対抗するために高度10,000mまで届く高射砲として量産化され、約120門製造された。
 本高射砲は、当時陸軍の対空兵器として多大な期待がかけられ、試作から量産までを担当した㈱日本製鋼所の功績は高く評価された。
 その後、本高射砲の出現によりB29爆撃機が更に高高度を飛行するようになり、陸軍はそれに対抗して15cm高射砲の開発に着手することとなった。
 本砲身は、2008年1月横浜市・子安台公園で横浜環状北線の土壌調査中に出土したものであり、現存する唯一の方針である。

前面

背面

99式8糎高射砲

由来書
 「京阪地区」昭和3年から軍官民の総合防空訓練を定期的に行うなど平素から防空について関心が高かったが昭和16年11月中部防空旅団が編成完結し以来、質、量ともに増強され第2次大戦末期には高射第3師団が展開配置されていた。
 この高射砲は発見された一(神戸市生田区)から見て神戸地区の防空に任じていた。
 高射砲第12連隊又は高射砲第123連隊の主力火砲であり99式8糎高射砲12門中の1門であると推定される。

25ミリ機関砲

25ミリ機関砲
 この機関砲は、第2次世界大戦の末期(20.4.1~20.6.23)沖縄本島の防衛に当たったものである。
 沖縄首里西方真嘉比、安里、天久台地区及び大名方面等で活躍し、特に天久台地区の激戦で一角を固守する独立第2大隊機関砲第103大隊(大隊長 苧坂清治少佐 千葉で編成 19.7.20 第62師団に編入)は、よく奮戦し沖縄の防衛に活躍した大隊装備の25ミリ機関砲の一門である。
 この機関砲は沖縄首里東側の大名附近で発見したもので昭和48年8月 第101不発弾処理隊によって発掘したものである。

この砲身は、なんだろう?

野外展示。こちらは陸自時代ですね。

75mm高射砲(M51)

40mm自走高射機関砲(M42)

35mm2連装高射機関砲(L-90)

地対空誘導弾改良ホーク

下志津のつつじ

毎年、4月29日に下志津駐屯地創設記念行事「つつじ祭り」が開催。

右が桜の開放エリア。

左は立入禁止。。。

グランドの隅に。

天皇の松

天皇の松

天皇の松の由来
この松は今上天皇が皇太子当時大正11年五月旧下志津飛行学校の開校式に行啓の際将校集会所の前庭(現位置より東百米)に記念植樹された由緒ある松であり昭和49年2月11日に移植し「天皇の松」と命名し末永く保存することになったものである。
 昭和54年10月吉日

グランド

通信鉄塔

通信鉄塔がシンボルになってますね。

高射学校本部庁舎

理想を持て
勇気を持て
前進せよ
 昭和42年6月
 福富繁書

福富繁
陸軍としては、陸大56期、陸軍少佐で第28軍参謀。
戦後は、陸将、第4代の陸上自衛隊高射学校長。


下志津駐屯地の観桜開放

ここからは観桜を。写真で。

医務室

下志津厚生センター(体育館)
トイレと売店はこちら

迷彩の真価を発揮する溶け込み具合。

立ち入りできないエリアも多く、古そうな建物観察とかはできませんでした。

通信鉄塔と桜

雨がすごかったので、人出はまばら。
逆にゆっくり見学できたのは良かったですね。
4月29日の「つつじ祭り」にも足を運びたいと思いつつ。

撮影:2023年3月25日


「桜咲く宮・靖國神社」~靖國櫻(令和5年)

令和5年(2023年)。終戦から78年。
今年も靖國神社の桜花を愛でる。

境内に献木された桜たち。
一木一木に込められた戦友・ご遺族の皆様の想いが、花を咲かせる。

御英霊の皆様と、今年も花見と洒落込もう。
「花の都」「桜咲く宮」を楽しもう。

靖國の桜花「靖國櫻」には御英霊の御心が宿っている。
感謝を。哀悼を。

散る桜 残る桜も 散る桜
 良寛和尚

奉頌歌「靖國神社の歌」

日の本の 光に映えて
尽忠の 雄魂祀る
宮柱 太く燦たり
  あゝ大君の 御拝し給ふ
  栄光の宮 靖國神社
日の御旗 断乎と守り
その命 国に捧げし
ますらをの 御魂鎮まる
  あゝ国民の 拝み称ふ
  いさをしの宮 靖國神社
報国の 血潮に燃えて
散りませし 大和をみなの
清らけき 御霊安らふ
  あゝ同胞の 感謝は薫る
  桜咲く宮 靖國神社
幸御魂 幸はへまして
千木高く 輝くところ
皇国は 永遠に厳たり
  あゝ一億の 畏み祈る
  国護る宮 靖國神社

奉頌歌「靖國神社の歌」 
昭和16年(1941)3月  
献納:主婦之友社 
作詞:細渕国造 作曲:陸海軍軍楽隊

軍歌「同期の桜」

貴様と俺とは 同期の桜
 同じ兵学校の 庭に咲く
咲いた花なら 散るのは覚悟
 みごと散りましょ 国のため

貴様と俺とは 同期の桜
 同じ兵学校の 庭に咲く
血肉分けたる 仲ではないが
 なぜか気が合うて 別れられぬ

貴様と俺とは 同期の桜
 同じ航空隊の 庭に咲く
仰いだ夕焼け 南の空に
 未だ還らぬ 一番機

貴様と俺とは 同期の桜
 同じ航空隊の 庭に咲く
あれほど誓った その日も待たず
 なぜに死んだか 散ったのか

貴様と俺とは 同期の桜
 離れ離れに 散ろうとも
花の都の 靖国神社
 春の梢に 咲いて会おう


軍歌「同期の桜」
昭和14年

令和5年春の靖國神社

3月21日撮影。写真を。

大鳥居

キッチンカーが集っていました。
(アルコールは無し)

灯籠

社務所

参道

第三鳥居と拝殿

軍鳩慰霊碑

靖国会館

遊就館

到着殿

招魂斎庭

空挺櫻
花の都の靖國神社
 庭の梢で咲いて会おう
  平成元年四月八日
  陸軍落下傘部隊戦友一同

武蔵櫻

軍艦武蔵会

南会櫻

第六三四海軍航空隊・呉瑞雲隊有志一同

御社殿

令和5年の東京の桜(ソメイヨシノ)開花は、3月13日。過去最速タイでの開花宣言でした。
なお、靖国神社の境内に、東京の開花基準木がある。

靖国通り

旧軍人会館

※撮影:2023年3月21日


関連

東京大空襲と下町(深川東陽町・千石・千田周辺)

東京大空襲と下町。
深川・東陽地区なども大きな被害を被っている。

慰霊巡拝を。


扇橋戦災地蔵尊

江東区扇橋。
戦災地蔵尊と関東大震災地蔵尊。

あの日炎の中履き物は熱で溶け裸足で逃げまどった人々のことを思うにつけ二度と再び戦争を起こさせない世界を希求します
恒久平和を願い
この布ゾーリをお供えします

場所:

https://goo.gl/maps/Jyv8S28xxwLJ1TWc8


世薀多観音(光明寺)

江東区千田。
昭和25年、東京大空襲で犠牲となった千田地区の殉難者を慰霊。
戦災殉難霊供養観音。
世薀多(せうんだ)は仏教用語で「地名の千田(せんだ)」にかけて命名されたもの。

世薀多観音

場所:

https://goo.gl/maps/TyDyWVdpCSYXdSeW8


千石地蔵尊(仙台堀川公園)

仙台堀川公園の西端に。
江東区千石。旧石住橋。
戦争中ではあったが、昭和20年5月頃にはすでに供養の地蔵が祀られていたという。

千石地蔵尊の由来
昭和20年3月10日未明、米軍機の大空襲により、我が郷土は焼野原と化し、掘割や路端、学校などで、尊い生命が数多く奪われ、殆ど肉親に逢うこともなく葬られました。
 劫火に追われて逃げ惑い、離れ離れになった家族の行方を捜して、焼跡に住み続けた、杉岡桂治郎氏らの有志が、夥しい死者の霊を悼み、同年5月頃、当地に地蔵尊を祀り、供養を続けて参りました。
 この度山崎ムメ氏外有志が、地区内の風致化に伴い、豊かな景観に添う御堂修築を発願し、会員及び地元の有志や企業のご賛同により竣工致しました。茲にみ霊のご冥福を祈り二度と無惨な悲しみを繰り返さぬよう、恒久平和を希って、この碑を建立します。
 昭和62年3月10日
  千石長寿会 会長 山岡英太郎

仙台堀川公園

場所:

https://goo.gl/maps/Uv6Z56wBqk1k4SYg7


母子像「希い」

江東区東陽。江東区役所前に鎮座。
昭和57年3月10日、平和を願う人々の願いを託した「希い」と第された母子像。

希い
 江東区は、昭和20年(1945年)3月9日夜半から10日にかけての、東京大空襲により、街は壊滅状態となり、多くの尊い人命を失いました。この犠牲者の鎮魂と恒久の平和、安全を念願し、永く忘れないために、この記念像を建立したのであります。
 この母子像は、母が子を慈しみ育て幸せな日々が続き、そしてこの子が成長した時も平和な日々であることを願うものであり、人と人とが愛し合い、国と国とが平和で結ばれていますよう祈るものであります。
 平和の希いは、現在に生きる私達の心であります。
  昭和57年3月10日建之
   江東区長 小松崎軍次

撮影のときは、江東区役所は一部工事中でした。
(2021年1月)

場所:

https://goo.gl/maps/mYEppaM33axPiTG76


東京大空襲戦災殉職者慰霊之碑(深川高校)

江東区東陽。
昭和20年3月10日の東京大空襲にて、深川高校は全焼。避難していた人々の中からも死傷者が出て、校舎内外に約100体の焼死体があったという。
また深川高校の生徒も焼死や行方不明など230名以上にも及び、宿直や先生の中にも殉職された方もいた。
昭和53年、33回忌を迎えるに当たり、慰霊碑を建立。
東京都は「都有地である校内には、いかなる理由であっても宗教的なものは設立許可できない」というスタンスであったともいう。

※学校内のため非公開

この奥に、慰霊碑がある。

場所:

https://goo.gl/maps/AnYWJ8eLnPMLqLN57


深川親子地蔵尊

江東区東陽。東陽町駅近く。
東陽4丁目、東陽5丁目の東京大空襲の犠牲者の方々の霊を供養するため、昭和23年3月の3回忌に町会によって建立。

親子地蔵尊の由来
この親子地蔵尊は第二次大戦も終わりに近い昭和20年3月10日の下町地区の大空襲の砌この地域に於いて殉難死された方々の霊の供養回向の為昭和23年3月10日の3年忌法要を記念し遺族及有志の初願によって建立したものです。
 昭和53年3月10日 親子地蔵保存会

戦災殉難者諸精霊位

戦災殉難者7回忌紀念
親子地蔵尊
昭和26年3月建立

場所:

https://goo.gl/maps/rQCKxEFKMcMTKmXY8

※撮影:2021年1月


関連

東京大空襲

はじめに

東京大空襲と下町(深川富岡と門前仲町周辺)

東京大空襲と下町。
深川・門仲地区も大きな被害を被っている。

慰霊巡拝を。


富岡八幡宮・天皇陛下御野立所

「こんなに焼けたか」

東京大空襲の被害状況のご説明を富岡八幡宮境内にて聞き終えた 昭和天皇は、しばし絶句されて、立ちすくまれた、という。

詳細は前述の記事にて。

https://goo.gl/maps/TQWchAv3mK1Nw9AP7


富岡八幡宮の被災イチョウ

境内に残るイチョウは、東京大空襲で被災をしたイチョウ。

大鳥居の左手、伊能忠敬銅像の後ろのイチョウは、東京大空襲被災のイチョウ。

富岡八幡宮御社殿

富岡八幡宮本殿後方の神域の二本の御神木イチョウも、東京大空襲の被災イチョウとなる。

天皇陛下御製の碑もある。

昭和天皇御製

身はいかになるともいくさとどめけり
 ただたふれゆく民をおもひて

  元侍従次長 鈴木一謹書

昭和20年8月15日 終戦時の御製

天皇陛下御在位60年奉祝記念
 大東亜戦争末期の昭和20年3月18日、
天皇陛下は、大空襲で焼土と化した東京をご視察になり、ここ富岡八幡宮境内にお立ち寄りになった。この時、 陛下は爆撃の惨状に深く御心を痛められ、その後終戦の御聖断を下されたのである。この御製は、その当時お詠みになった大御歌である。 陛下の御聖徳を讃え、後世に伝えるため、ここに刻む。
昭和61年10月26日
天皇陛下御在位60年東京都奉祝委員会

場所

https://goo.gl/maps/reQ2h2EW5QMwta4QA


平和の鐘(深川不動尊)

江東区富岡。護摩行がちょっとしたエンターテイメントで現代的な魅せる場ともなっている深川不動尊は一見の価値ある。
そんな深川不動尊の仏殿内に設置されているのが「平和の鐘」。平成14年設置。

昭和20年3月10日、東京大空襲により日本の首都は一瞬にして火の海となり、特に江東区(当時の深川区と城東区)は最も被害を受け、「広島」や「長崎」と同じく戦争により余りにも多くの人命が奪われたことは、私達の心に大きな傷跡を残しました。この鐘は、内仏殿建立工事のおり、土中より発掘された爆弾の破片を含ませ鋳造し、戦災で亡くなられた方々の鎮魂ならびに平和を願い、此処に「平和の鐘」と命名し永代に亘りご祈念申し上げます。

場所

https://goo.gl/maps/GXRSeBKcv7UqmajPA


戦災殉難者慰霊碑
門前仲町1丁目

江東区門前仲町一丁目。
門前仲町の交差点、ハンバーガーショップの脇に鎮座。
1990年にビルが新築された際に、建立されていた木造の「戦災殉難者供養塔」にかわって、建立された。台座はビルのオーナーが寄贈。

場所

https://goo.gl/maps/Bwc3gzFaHjZW114NA


戦災殉難者慰霊之碑(黒船橋)
牡丹町1丁目

江東区牡丹1丁目。
江東区界隈では一番新しい慰霊碑。
2002年10月に牡丹町1丁目町会が建立。

場所

https://goo.gl/maps/2GHnYoEXevnGxG7a8


東京大空襲戦災殉難者慰霊碑(越中島橋)
永代2丁目

江東区永代2丁目。
「大震火災歿者霊追悼供養塔」のとなりに、「東京大空襲戦災殉難者慰霊碑」がある。
昭和55年建立。

今次大東亜戦争末期、昭和二十年三月十日の大空襲により、当町内及び周辺地区はほとんど原形をとどめぬまでの戦災を被り三百有余名の殉難者を出しました。
これ等の方々の霊を慰め再び平和な世界を祈り之を建立する。
 昭和五十五年七月一日

場所

https://goo.gl/maps/MJCHmkvGr4Z8z4x19


戦災殉難者慰霊碑(万徳院)
永代2丁目

江東区永代2丁目。
東京大空襲で被災した人々が、隅田川などに水を求めて殺到。隅田川に近い、万徳院の周辺でも多くの人命が失われた。
昭和36年9月に、永代2丁目町内会によって建立。

場所

https://goo.gl/maps/BPKtPLw9g8VWRgwN6


戦災殉難殃死者供養塔(冬木弁財天)
深川1丁目・深川2丁目・冬木町

江東区冬木。冬木弁財天境内。
殃死は、横死とも表記。
冬木町会と深川1丁目、2丁目町会によって、昭和26年3月10日に建立。
永代2丁目の万徳院住職と町会によって、毎年3月10日に慰霊供養が実施されている。

冬木弁財天は、深川七福神の一つ。

冬木弁財天

場所

https://goo.gl/maps/wrSMASp9Mb4vEzqJ7


十日地蔵尊(法乗院えんま堂)
牡丹町2丁目・牡丹町3丁目・牡丹町4丁目町会・南北町

江東区深川。
東京大空襲で全滅した牡丹町を含む深川地区すべての犠牲者を供養するために、昭和26年に牡丹町2丁目、3丁目、4丁目町会、南北町会によって地蔵尊が建立された。
当初は、平久橋脇にあったが、現在は法乗院に遷座している。3つの地蔵尊の左側が、十日地蔵尊。
平久橋には、供養塔が建立されている。

閻魔大王

場所

https://goo.gl/maps/8MhXdT6P6Vn9Roax9


観音像・戦死戦歿者戦災被歿者供養塔(永代寺)

江東区富岡。
昭和33年3月10日に木場筏組合によって建立。

場所

https://goo.gl/maps/irQ3ZGaRu9fwwo2H6


戦災地蔵尊

江東区富岡。ビルの角に鎮座。


 この地蔵尊は一九四五年(昭和二十年)三月十日の東京大空襲で炎に追われて亡くなられた方々の来世と焦土と化した深川の復興を願って故 堀㐂代 がこの地に建立したものです
 この地蔵尊が人々を見守り故 堀㐂代 の願いが永遠に成就されることを願ってここに記します
 (連絡先は略)

場所

https://goo.gl/maps/jTqz5fFbJ1YSaAfy6


戦災殉難者供養塔(平久橋)
牡丹町2丁目・牡丹町3丁目・牡丹町4丁目・南北町

江東区牡丹。
前述のとおり、平久橋脇に、東京大空襲で全滅した牡丹町を含む深川地区すべての犠牲者を供養するために、昭和26年に牡丹町2丁目、3丁目、4丁目町会、南北町会によって「十日地蔵尊」が建立された。地蔵尊は、のちに法乗院えんま堂に遷座。

戦災殉難者供養塔は、昭和36年三月10日に建立。

供養塔の左隣には、「旧平久橋の石橋」が一部保存されている。

右隣には「波除碑」。寛永3年(1791)の高潮被害のにちに、徳川幕府が建立。

場所

https://goo.gl/maps/j39Abax6MzpE8H2SA


戦災殉難者供養塔(西州崎橋)
木場6丁目

江東区木場。
昭和23年頃、平木橋の角に木製の供養塔が建立された。その後、高速道路の建設に伴い、西州崎橋の脇にあった地蔵尊の隣に移転。
現在の供養塔は、平成5年3月10日に、木場ラジオ体操会によって石造の供養塔が昆建立された。

場所

https://goo.gl/maps/GtB9VWkAA8fYNyvH7

※撮影は、2021年11月、2022年1月


関連(東京大空襲)

はじめに

関連(深川・門前仲町)

旧松永橋モニュメントに残る弾痕

大島川西支川の東西、江東区福住と江東区佐賀を結んでいる松永橋。

なにやら不思議なモニュメントがある。


旧松永橋モニュメント

旧松永橋の鋼材が戦跡として保存されている。

 平成8年まであった旧松永橋には、戦争の傷跡である弾痕が残っていました。このモニュメントは、橋の鋼材の一部を使ったものです。
 古い橋の鋼材を使って過去を表し、新しい鋼材によって現在と未来への情熱と希望を想像したものです。

弾痕は2箇所残っている。

松永橋は1996年に架替られた。

場所

https://goo.gl/maps/LRTAMXKGAqdg1BfQ8

※撮影:2021年11月


関連

はじめに

3月10日の慰霊「東京大空襲」あの日から78年(令和5年・東京都慰霊堂と言問橋)

令和5年(2023年)3月10日。

あの日から78年。

昭和20年(1945)3月10日午前0時過ぎ、爆撃が開始。

犠牲者10万人を超す規模は、単独の空襲としては世界史上最大の犠牲者となっている。
これが、世にいう、「東京大空襲」(下町大空襲)であった。

「東京都平和の日」

慰霊鎮魂を。

3月10日に手を合わせてきました。


東京都慰霊堂

東京都慰霊堂では、毎年、関東大震災の9月1日と東京大空襲の3月10日に、慰霊大法要が執り行なわれている。

詳しくは下記にて。

東京大空襲・慰霊

昨年の様子

今年は、例年より、警備が厳重。
話を聞くと、 秋篠宮殿下が参列されるとのことで、なるほどなっとくの警備体制。

東京都慰霊堂

都内戦災遭難者 関東大震災遭難者
春季慰霊大法要

献花と線香を。

合掌


東京都慰霊堂「春季慰霊大法要」

10時の法要にあわせて、
秋篠宮両殿下がご参列されました。

コロナ禍のやめ、参列者数に制限あり。

10時に法要が斎行。
10時30分に、 秋篠宮両殿下が退出されました。

秋篠宮殿下

退出後に、限界警備体制が解除となり、参拝が可能となりました。

春季慰霊大法要終了後の、11時から、堂内で一般の焼香が可能となる。

あっ、2023年は関東大震災100年、でした。

晴天の東京都慰霊堂。

東京空襲犠牲者を追悼し平和を祈念する碑

内部には霊璽簿が奉納されており、3月10日と9月1日の春秋の法要にあわせて、内部で手を合わせることが可能。

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/virtual/memorialsite/tokyo_sumida_city002/index.html

https://tokyoireikyoukai.or.jp/kuyou/meibo.html


言問橋

言問橋に移動しました。

言問橋は関東大震災後の復興事業として架橋。内務省外局の復興局が建設した。
1928年(昭和3年)2月10日竣工。

東京大空襲の焼け跡が残る言問橋

東京大空襲では、浅草(台東区)の人々は「川の向こうに行けば助かる」と考え言問橋を渡ろうとした。
同じく向島・本所深川(墨田区)の人々も「対岸へ」と橋に殺到。
向島本所地区は、すでに火の海であり、住民らは同様に対岸への避難を試みたため、両者が橋の上でぶつかり合い進退窮まる状態となった。そこに焼夷弾が落ち、言問橋の上に猛火が燃え移り、燃え盛る中で逃げるすべもなく、 両岸と橋上とすさまじき猛火の中で、行き場を失った人々が隅田川に飛び込んだとされ、そして多くの人々が焼死したという。
言問橋の親柱は、その時の黒焦げた焼き跡が今も残っている。


言問橋と東京大空襲

浅草よりの親柱のところに、おじいさんがいました。
私が親柱を撮影しようと近寄ったのと、ちょうど同じタイミング。
同じタイミングで写真を取ろうと親柱に近寄った二人。おじいさんとお話をしました。


「子供の頃に、昭和20年3月10日、今日、言問橋の近くの天蓋の防空壕(素掘りの防空壕)で一命をとりとめた。言問橋の北側には、陸軍の陣地(防空陣地)があって北にはいけなかったので、言問橋にみんなが殺到してしまった」
「近くに住んでいるのに、【言問橋】の表示をまだ写真に撮っていなかったことに気がついたので、今日は写真を撮りに来た」
「今年が3月10日は、最後になるかもしれない、体が良くないので。」

たまたま出会ったおじいさんから聞く、戦争体験談。応じの惨劇の生き証人。貴重なお話、ありがとうござます。しばらくの間、言問橋でお話をさせていただき、おじいさんは最後に「引き止めて悪かったね」と言いながら、歩いていかれまして。
いえいえ、引き止めていただき、ありがとうござました。お陰で、貴重なお話をお伺いできました。

そうして、写真を撮り終えて立ち去っていった、おじいさん。
ありがとうござました!


東京大空襲戦災犠牲者追悼碑
(戦災により亡くなられた方々の碑)

あゝ
東京大空襲
朋よやすらかに

合掌

戦災により亡くなられた方々の碑
台東区浅草七丁目一番
 
 隅田公園のこの一帯は、昭和二十年三月十日の東京大空襲等により亡くなられた数多くの方々を仮埋葬した場所である。
 第二次世界大戦(太平洋戦争)中の空襲により被災した台東区民(当時下谷区民、浅草区民)は多数に及んだ。
 亡くなられた多くの方々の遺体は、区内の公園等に仮埋葬され、戦後だびに付され東京都慰霊堂(墨田区)に納骨された。
 戦後四十年、この不幸な出来事や忌わしい記憶も、年毎に薄れ、平和な繁栄のもとに忘れ去られようとしている。
 いま、本区は、数少ない資料をたどり、区民からの貴重な情報に基づく戦災死者名簿を調製するとともに、この地に碑を建立した。
 昭和六十一年三月 台東区

言問橋の縁石
 ここに置かれているコンクリート塊は1992年言問橋の欄干を改修した際にその基部の縁石を切り取ったものです。1945年3月10日、東京大空襲のとき言問橋は猛火に見舞われ、大勢の人が犠牲になりました。
 この縁石は当時の痛ましい出来事の記念石として、ここに保存するものです。

東京大空襲犠牲者追悼集会

多くの犠牲者を出した言問橋の袂にある慰霊碑では「東京大空襲犠牲者追悼集会」が斎行。
3月10日13時から。

私が訪れたのが12時。
13時からの集会に参加する都合がつきませんでしたが、慰霊碑に手を合わせてきました。

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/virtual/memorialsite/tokyo_taito_city001/index.html

言問橋の先。いまは東京スカイツリーの絶好のビューポイント。


関連

はじめに

東京大空襲の焼夷弾痕?を残す「永代橋」

隅田川にかかる永代橋は、関東大震災で壊滅した下町復興のために架橋されたシンボルブリッジであり、「帝都の門」とも称せられていた。

そんな永代橋に東京大空襲の痕跡が残っていると聞いたので、改めて足を運んでみた。


永代橋

隅田川の最下流に架かる「帝都の門」として大正15年12月20日竣工。
現存最古のタイドアーチ橋かつ日本で最初に径間長100 mを超えた橋。

2000年(平成12年)に清洲橋と共に土木学会の「第一回土木学会選奨土木遺産」に選定。
2007年(平成19年)6月18日、永代橋は都道府県の道路橋として初めて同じ隅田川に架かる勝鬨橋・清洲橋と共に国の重要文化財(建造物)に指定。

永代橋に用いられた重厚な鋼材は、もともと軍艦用の高級鋼材であった。
ワシントン軍縮会議によって戦艦の保有数に制限が生じ戦艦建造中止となったため、もともと戦艦用に確保していた鋼材を、永代橋に流用したものであるという。


永代橋に残る弾痕?

ちょうど真ん中あたり。アーチになっている橋梁の一部に凹みがある。
この凹みは、昭和20年3月10日の東京大空襲で焼夷弾が直撃した跡ではないかとされている。

たしかに凹んでいますね。

角度を変えて。

ぱっと見だとわからないですね、よく見ないと。

拡大。

梁の反対側にも、衝撃がわずかに残っている。

ワシントン軍縮会議で廃艦となった戦艦用の高級鋼材を用いたという永代橋。
焼夷弾が着弾しても耐え、先の東日本大震災でも影響がなかったほどの頑丈度を誇る。

いわれなければ気が付かない、焼夷弾弾痕の跡。

※撮影:2023年3月


参照

https://www.tokyo-np.co.jp/article/147492

https://minamisuna1.com/161/


東京大空襲関連

はじめに

入間川神社(八幡神社境内社)・入間川国民学校奉安殿(狭山市入間川)

狭山市駅から西の高台に鎮座している古社。新田義貞ゆかりの八幡神社の境内に鎮座している地元の犠牲者を祀る護国神社は入間川神社として、祭祀されている。
この入間川神社も、もとは奉安殿の建物を流用したものであった。


奉安殿(御真影奉安殿)

奉安殿とは、戦前において
天皇陛下
皇后陛下
の御真影(お写真)と教育勅語を納めていた建物。
当初は職員室や校長室に奉安所が設けられていたが、被災による危険を防ぐために、金庫型や独立した奉安殿としての建設がはじまった。小型ながらに耐火耐震構造とされてものも多く、威厳を備えた荘厳重厚なデザインの建造物が多い。
戦後、奉安殿は廃止され解体や撤去が行われるが、その頑丈な建造物が戦災で焼失した神社社殿などに再活用もされ、現在に残っている例もある。


入間川神社

終戦後、取り壊しの予定となっていた入間川小学校の奉安殿を、護国神社として町民の勤労奉仕によって、八幡神社の境内に移し22年2月に鎮座した。

入間川神社
祭神
日進、日露、第二次世界大戦の戦役に殉じた軍人軍属及び旧入間川町の発展に貢献した文化人を祀る。
由緒
昭和20年大戦の集結にともない旧入間川小学校の奉安殿を現在地に移し22年2月鎮座祭が斎行された。
例祭
4月15日

昭和28年に書かれた由緒書。

由緒
當社は昭和廿年八月十五日大東亜戦争が我国に利あらず遂に未曾有の敗戦となった結果国の状勢が一変し敬神の念をもって建設せられた各学校の奉安殿も全部とりのぞくこととなり茲に入間川町當局にあっても種々協議の結果護国神社として町の鎮守たる八幡神社に移管し保存方正式に交渉があったので八幡神社役員審議の上戦歿者の英霊を祀ることによって英霊双びに遺家族をなぐさめ励まし困苦を克服して生活していただく様にと決しここに早速この由を町當局に申出同二十年十二月に町より移転費の交付を受けただちに工事に着手し神社役員日清日露以来の遺家族を始め同町共生會青年団婦人會帰還軍人等の心からの賛同を得て全員汗と涙の勤労奉仕に当り寒風膚をさす十二月より翌年初頭に渡る約四十日間を奉仕し二月一日ここに入間川神社として恵まれた天候の下に日清日露戦役以来の英霊の遺家族双びに名士有志各位多数参列の中に盛大なお且厳粛なる遷座祭を挙行全員涙の中に終了をみましたその後国の規則の変更によって軍人軍属以外でも国家双び地方公共のために尽力されたる人も文化人として祀るようにとの達しがありこれにより昭和二十一年より最初の文化人として審議厳撰の結果三名の合祀をみるにいたりました昭和二十六年末よりは入間川神社奉賛会発足によってこの神社の維持運営を司るようになった
 昭和二十八年四月八日
  入間川神社奉賛会

砲弾がある。

昭和六年十一月 
移転改築記念

戦捷紀念碑(乃木希典書)

忠魂碑

狭山市サイト

https://www.city.sayama.saitama.jp/manabu/dentou/jinjya/irumagawa_chiku/irumagawajinjya.html

場所

https://goo.gl/maps/BAtFgRKkdHGMu9dX6


八幡神社(入間川八幡神社)

入間川村の総鎮守。
九州宇佐八幡宮を本社とする。
新田義貞必勝祈願の八幡宮。「新田の八幡宮」と呼称されたこともあった。

本殿並びに彫刻は、狭山市指定文化財(江戸時代末期)

新田義貞駒つなぎの松。

元弘3年5月、北条高時を討つべく上州新田群生品明神の社頭に挙兵した新田義貞は、5年10日所沢小手指原に幕府軍との戦火を交えた。その時、新田軍は源氏ゆかりの当八幡神社へ自ら戦勝を祈願した。

八幡神社サイト

https://www.sayamahachimanjinja.com/

狭山市サイト

https://www.city.sayama.saitama.jp/manabu/dentou/jinjya/irumagawa_chiku/hachimanjinjya.html

撮影:2022年2月

下新河岸ノ日枝神社・高階国民学校奉安殿(川越市下新河岸)

川越市下新河岸。
新河岸川は江戸時代は船運が盛んな河川であり、新河岸の日枝神社の近くには多くの船問屋が集まっていたという。ここも奉安殿が流用とのことで、足を運んでみた。


奉安殿(御真影奉安殿)

奉安殿とは、戦前において
天皇陛下
皇后陛下
の御真影(お写真)と教育勅語を納めていた建物。
当初は職員室や校長室に奉安所が設けられていたが、被災による危険を防ぐために、金庫型や独立した奉安殿としての建設がはじまった。小型ながらに耐火耐震構造とされてものも多く、威厳を備えた荘厳重厚なデザインの建造物が多い。
戦後、奉安殿は廃止され解体や撤去が行われるが、その頑丈な建造物が戦災で焼失した神社社殿などに再活用もされ、現在に残っている例もある。


新河岸ノ日枝神社

本殿は、高階小学校奉安殿を流用したものという。
昭和23年に同地に移築。
下新河岸日枝神社の創建年代等は不詳。
明治5年に村社に列格、明治40年に上新河岸の村社厳島神社及び同境内社の水神社・琴平神社を合祀。

場所

https://goo.gl/maps/f3b3jnhronEDdJk37


砂氷川神社

奉安殿とは関係ないが、新河岸駅から、下新河岸日枝神社に赴く途中にあった神社。
道路の両脇に、旗掲揚台が備えられていた。
明治39年建立とあるので、日露戦争の凱旋記念の構造物。なかなか立派。

場所

https://goo.gl/maps/JchK5rYUFJUJRt8CA

※撮影:2022年2月

稲荷神社・青梅第五小学校奉安殿(青梅市梅郷)

青梅市梅郷。
吉野梅郷の「梅の公園」入口交差点の近くに鎮座している稲荷社。かつての奉安殿だというので、足を運んでみた。


奉安殿(御真影奉安殿)

奉安殿とは、戦前において
天皇陛下
皇后陛下
の御真影(お写真)と教育勅語を納めていた建物。
当初は職員室や校長室に奉安所が設けられていたが、被災による危険を防ぐために、金庫型や独立した奉安殿としての建設がはじまった。小型ながらに耐火耐震構造とされてものも多く、威厳を備えた荘厳重厚なデザインの建造物が多い。
戦後、奉安殿は廃止され解体や撤去が行われるが、その頑丈な建造物が戦災で焼失した神社社殿などに再活用もされ、現在に残っている例もある。


青梅市梅郷ノ稲荷神社

青梅線日向和田駅から多摩川を渡って吉野街道に。梅の公園入口の信号近くに鎮座している。
社号標もなく、忽然と祠がある状態である。
うしろに控える「青梅私立第五小学校」の奉安殿であったという。奉安殿の役目を終え、戦後に180度回転して、吉野街道側に再鎮座し、稲荷社となったとされる。

奉安殿らしい重厚さを備えている。

社殿の後ろは、青梅私立第五小学校。

場所

https://goo.gl/maps/msjxyoDA645Cngem8

※撮影:2023年1月

五所神社境内社「頌徳社」・湯河原小学校奉安殿(湯河原)

湯河原に鎮座する「五所神社」(旧社格は郷社)の境内に鎮座する「頌徳社」は、かつては「奉安殿」であった。


奉安殿(御真影奉安殿)

奉安殿とは、戦前において
天皇陛下
皇后陛下
の御真影(お写真)と教育勅語を納めていた建物。
当初は職員室や校長室に奉安所が設けられていたが、被災による危険を防ぐために、金庫型や独立した奉安殿としての建設がはじまった。小型ながらに耐火耐震構造とされてものも多く、威厳を備えた荘厳重厚なデザインの建造物が多い。
戦後、奉安殿は廃止され解体や撤去が行われるが、その頑丈な建造物が戦災で焼失した神社社殿などに再活用もされ、現在に残っている例もある。


湯河原頌徳社

元は、湯河原小学校の奉安殿であったという。奉安殿としての由来は不詳。
昭和21年9月24日、奉安殿を移設し、祖霊社として創立された。
旧湯河原及び熱海市泉から出征した戦没者301柱と郷土の自治功労者200余柱を祭神としている。

湯河原頌徳社

湯河原頌徳社
神奈川県足柄下郡湯河原町宮下三五九-一

一、祭神
明治以来郷土湯河原(旧湯河原町=奥湯河原、湯河原、宮上、宮下、城堀、門川)及熱海市泉(本区、五軒町、中沢)より出征し祖国防衛に挺身、散華した殉国の士三〇一柱と郷土の発展に尽した先賢(自治功労者)二〇〇余柱

一、由緒
大東亜戦終結直後の昭和二十一年九月二十四日心ある有志の熱意により祖霊社として創立、昭和二十五年三月二十一日奉賛会を結成、同年五月十九日五所神社境内社として神社本庁の認証を受く、昭和五十一年八月十九日創立三十周年を記念して大忠魂碑の東側より現在地に社殿を移転、頌徳碑及社号標を建立、大忠魂碑並頌徳碑裏面に祭神名を刻みその栄誉を称え境内外の整備拡充をした

一、例祭並合祀祭
毎年四月二十九日(以前は春分の日・昭和五十二年より四月中、下旬の日曜日)

14弁の菊の御紋。十四菊。

頌徳碑


忠魂碑(五所神社境内)

大きな忠魂碑が、隣接して鎮座している。

灯籠には文字が刻まれている。

千載不朽
芳名萬古
陸軍大将男爵本庄繁書

千年ののちまで朽ちない、永久に名を残す、の意味。
本庄繁が、侍従武官長時代の昭和10年の建立。

忠魂碑
陸軍大将本庄繁書

昭和10年5月27日に軍友会によって建立。日露戦争の戦没者を祀る忠魂碑。
のち、昭和51年5月19日にその後の大東亜戦争の戦没者が追記され合祀されている。

明治三十七八年役戦歿者碑


以下は付記として。

五所神社(湯河原)

ご本殿は、神奈川県指定重要文化財
元和七年棟札

明神の楠

五所神社のクスノキ、御神木。


湯河原駅


土肥氏館跡

湯河原駅前。
源頼朝の石橋山の戦いに参じた土肥実平ら一族。


養生園の碑(東郷平八郎)

湯河原の熊野神社の境内に。

養生園の碑
明治38年、日本海海戦でロシアのバルチック艦隊に完勝しその名を世界に知られた東郷平八郎は、帰国後、湯河原の大倉孫兵衛の別荘に滞在し、温泉療養をしながら別荘の庭園「養生園」で英気を養いました。
東郷は、養生園について漢文で次のような感謝の意を表し、孫兵衛に残しました。
 大倉翁孫兵衛自ら資を投じて、此の仙境を開き、
 衆と之を楽しむ。
 余既に園の風勝を愛し、
 今又翁之人となりの淡雅なるを喜び、
 遂に筆を抽きて之の為に記す。
石碑上部の横書きの「養生園」の文字は東郷の真筆を刻し、本文は高千穂学園教官・丹所啓行の書による楷書体を刻しています。

東郷平八郎筆の「養生園」


熊野神社

湯河原温泉の神様。

手水は温泉源泉。


湯河原温泉

湯河原温泉は万葉集に、「足柄の 土肥の河内に 出ずる湯の 世にもたよらに 子ろが言はなくに」と詠まれている古い温泉。

万葉歌碑

湯河原温泉街を流れる藤木川。

湯河原町町営の「こごめの湯」。
2・26事件の光風荘の近く。

温泉タヌキ
湯河原温泉の伝説。

狸福神社

温泉タヌキを祀る神社。


坦々焼きそば

湯河原温泉の伝説から生まれた、湯河原名物の坦々焼きそば。

撮影:2023年2月


関連

はじめに

「平和外交を尽力し続けた隻脚の名外交官」(重光葵記念館・湯河原)

湯河原駅からバスに揺られて終点の奥湯河原バス停から、数分歩いたところに、私設の記念館があった。

重光葵記念館

「重光葵記念館」
「昭和の動乱」を第一線の外交官として活躍し、終戦時には日本全権として降伏文書に調印。日本の戦争を幕引きし、そして戦後日本を国際連合加盟のために尽力した外交官「重光葵」が、その最後を過ごした別荘(保養所)のあった場所。
そこに、重光葵の次男、重光篤氏が、2000年に開設したのが、「重光葵記念館」。

重光葵記念館

http://contra99.ojiji.net/index.html

産経新聞記事

https://www.sankei.com/article/20140810-3GXA64WRCVKTHJLLLQD27R7QFA/

神奈川新聞記事

https://www.kanaloco.jp/news/life/entry-19643.html

開館の日時は要注意。

金曜日 1200-1700
土曜日 1000-1700
日曜日 1000-1300

記念館内は撮影禁止。

展示品の一部は、サイトでも確認できる。

http://contra99.ojiji.net/tenjihin/index.htm

重光葵が、ここ一番の大事なときに使用した義足「恩賜の義足」(皇太后(大正天皇の貞明皇后)より賜った)も展示してある。また、重光葵の写真や手記などとともに昭和の動乱期の事象が時系列で展示。重光葵の書斎や、外交官時代の旅行鞄などもある。そして、重光葵に関する動画を視聴させていただくこともできた。ありがとうございます。

邸宅は、重光葵の頃からは、さすがに建て替えられています。


以下、多くを「平和への努力 重光葵の生涯」(重光葵記念館発行)を参照する。

重光 葵 (しげみつ まもる)

葵と書いて「まもる」(あおい ではない)

重光葵 
1887年〈明治20年〉7月29日 – 1957年〈昭和32年〉1月26日)
上海事変当時の駐華臨時代理公使。上海での天長節遙拝式場にて爆弾により右足を失う。
のち外務次官として対華問題に取り組み、張鼓峰事件時の駐ソ大使、そして二次世界大戦開戦時の駐英大使。
東条・小磯・東久邇宮内閣時の外相。降伏時の日本首席全権。戦後は改進党総裁。
鳩山一郎内閣副総理・外相として日ソ共同宣言・国連加盟を果たすなど、「昭和の動乱」を駆け抜けた第一級の外交官であった。

駐華公使での上海天長節爆弾事件
昭和7年1月28日に上海事変(第一次上海事変)が勃発。
なんとか停戦協定をまとめ、あとは調印を残すだけとなった、昭和7年4月29日、上海での天長節祝賀式典において、朝鮮テロリスト尹奉吉の爆弾攻撃に遭い重傷を負う(上海天長節爆弾事件)。なお、参列者は、爆弾が投げつけられた際も逃げることなく微動だもしなかった。これは「国歌君が代」斉唱中であったということもあった。
即死
 上海居留民団行政委員会会長 医師河端貞次
重傷
 上海派遣軍司令官 白川義則大将(翌月5月26日に死亡)
 第9師団長 植田謙吉中将(足指切断)
 第3艦隊司令長官 野村吉三郎海軍中将(右眼を失明)
 在上海公使 重光葵(右脚を失う)
 在上海総領事 村井倉松

この事件の7日後の5月5日、重光葵は、右脚切断手術の直前に上海停戦協定の署名を果たす。右脚切断の大手術のあとは、別府温泉で静養するも、昭和8年5月には外務次官に就任している。昭和11年の2・26事件の際も外務次官の要職にあった。岡田圭右内閣辞職後に、外部大臣であった広田弘毅が首相に任命されたのを期に、重光葵は、ソビエト駐在大使に任命となった。

写真参照元

駐ソ大使での張鼓峰事件
重光葵が駐ソ大使としてシベリア鉄道経由でモスクワに着いた日が昭和11年(1936)11月25日であった。奇しくもこの日に「日独防共協定」が調印。日本とドイツが共産主義インターナショナル(コミンテルン)に共同で対抗するとあっては、ソビエトはまったく歓迎できない空気感のもとでの重光の着任であった。
昭和13年(1938)7月29日、張鼓峰事件が勃発。ソビエトのリトヴィノフ外相との折衝で停戦協定は成立したが、このときに重光葵はソ連に睨まれ、のちの東京裁判で、ソ連側から張鼓峰事件の責任者として戦犯指名されることにもなってしまう。

駐英大使での日独伊三国同盟
張鼓峰事件ののち昭和13年10月に駐英大使として、モスクワを離れロンドンに着任。支那事変拡大の影響もあり、日英関係も悪化していた。
昭和14年(1939)9月1日、ドイツはポーランドに侵攻、英仏はドイツに宣戦布告し、第二次世界大戦が勃発。1940年5月にはチェンバレン内閣の海相であったチャーチルが首相に就任し、英国では挙国一致内閣が成立となった。
日本では、陸軍主導でドイツへの接近が強まり、日独伊三国同盟が駐独大使の大島浩中将によって進められていた。
昭和15年(1940)9月、欧州の情勢をつぶさに報告し、日独伊三国同盟の危険性を指摘し警笛を鳴らしていた重光葵駐英大使の声も虚しく、第二次近衛内閣は、東條英機陸相、松岡洋右外相のもとに、日独伊三国同盟を締してしまう。
駐英大使として、英国チャーチル首相と親交を深めていた重光葵であったが、イギリスでの外交は完全に手詰まりとなり、昭和16年(1941)6月に英国を離れ、アメリカ経由で7月20日日に鎌倉丸で日本へ帰国した。

外務大臣での大東亜憲章(大東亜共同宣言)
昭和16年(1941)12月8日、太平洋戦争開戦。
日本に帰国していた重光葵は、昭和16年12月19日に駐英大使を被免となり、駐華大使として南京に赴任。
重光葵は、米国ルーズベルト大統領と英国チャーチル首相の大西洋憲章を意識した大東亜憲章の構想を練り、大東亜憲章のもとにアジア各国の共同機関「大東亜機構」を作り、協力体制を確立する計画であった。
昭和18年4月に、日本に帰国し上京した重光葵は「大東亜憲章」を東条首相に進言。その夜に首相官邸より呼び出しがあり、谷外相が辞表を出したということで、重光葵は外務大臣に就任。
重光外相は東条首相の大東亜省設置には反対をするも、自らの大東亜憲章構想に奔走し、昭和18年(1943)11月、大東亜共同宣言として、実現し、大東亜会議が開催となった。
大東亜共同宣言の内容は、軍部からの異論を抑えるために、重光外相が、直接に東条首相に提出しており、「1.大東亞各國ハ協同シテ大東亞ノ安定ヲ確保シ道󠄁義ニ基ク共存共榮ノ秩序ヲ建設ス」に始まる5条は、大東亜各国の自主独立、民族の創造性、文化高揚、経済発展を謳ったものであり、重光外相には、和平や戦後構想にむけて、長年欧米諸国の植民地として搾取されていた各国の独立構想が織り込まれていたものであった。
昭和19年7月19日、東條内閣は戦局の悪化と重臣による倒閣運動により総辞職。小磯国昭内閣が成立。東條英機の後任は難航し、陸軍大将を専任順に選考するも、寺内寿一、畑俊六は断られ、3番手の小磯国昭陸軍大将に落ち着く。しかし小磯は政界に疎く政治基盤もないために指導力不足が懸念されたため、総理経験者の米内光政海軍大将を副総理格として起用し、重光葵は引き続き外相に就任した。

終戦工作
小磯内閣が、中国国民党政府との和平工作(繆斌工作)に失敗したため、内閣総辞職すると、重光葵も外相を辞任。
三番町の自宅は5月25日の空襲で焼失していたために、日光の別荘に疎開。
昭和20年8月に、木戸内大臣より外務省を通じて、東京に来るように依頼があり、8月8日に上京。木戸内大臣や近衛元首相たち重臣たちと終戦に向けての工作に奔走することになる。

日本全権での降伏文書調印
「不名誉の終着点ではなく、再生の出発点」

鈴木貫太郎内閣は昭和20年(1945)8月15日に終戦を決定し、総辞職。後継は、軍部の暴走を抑えるための宮様内閣として東久邇宮稔彦王内閣となった。
重光葵は、3度めの外務大臣に就任。終戦処理を担う外務大臣となった。

降伏文書調印式の日本全権は、天皇及び日本政府を代表して重光葵外相、大本営を代表して梅津美治郎参謀総長。
昭和20年9月2日、重光葵全権が早朝に詠んだ心境。
 ながらへて甲斐ある今日はしも
  しこの御楯と吾ならましを
上海の爆弾事件で失っていた命を永らえて、今日は 天皇の御楯として調印式へと向かう重光は、終戦反対の国家主義者にいつおそわれてもおかしくないなか、東京湾のミズーリ号に乗艦するするために横浜に向かった。

ミズーリ号艦上での調印式。

写真参照元

外務省外交史料館別館で展示されている降伏文書(原本特別公開)


調印の心境を、重光は以下のように詠んでいる。
 願わくは御国の末の栄え行き
  我が名さけすむ人の多きを

「降伏文書に調印した自分のような恥ずべき外相が蔑まれるような、栄えある日本になってほしい」との意を込めた、志の高い名外交官による屈辱的でもあり歴史的でもあった大きな一幕であった。

軍政施行中止要望
調印式が終わって、帰郷した重光全権は、東久邇宮首相に報告をしたのちに、参内して 天皇にも委細を奏上。その夜に。外務省からの通報で、GHQは、占領下においても日本の主権を認めるとしたポツダム宣言を反故にし、行政・司法・立法の三権を奪い軍政を敷き、軍票を使用させ、公用語も英語にする方針であることがわかった。
重光外相は翌日朝に、再び横浜赴き、旧横浜税関のGHQ総司令部でマッカーサーと面談。「占領軍による軍政は日本の主権を認めたポツダム宣言を逸脱する」「 天皇は、受諾したポツダム宣言を忠実に履行する決意がある。日本国民の崇敬する天皇の指令する日本政府を通じて、占領政策を実行するのが一番の方法だ」と軍政布告の取り下げを要求し、その結果、占領政策は日本政府を通した間接統治となった。
昭和20年10月5日、東久邇宮内閣は総辞職。元外相の幣原喜重郎内閣が成立。重光葵も外相を離れ日光から鎌倉に転居。

A級戦犯
昭和21年(1946)4月13日に来日したソ連代表検事セルゲイ・A・ゴルンスキーが、ジョセフ・キーナン主席検事に対して、東條内閣・小磯内閣の外務大臣であった重光葵をA級戦犯にするように強硬に要求。GHQは、重光を戦犯起訴するつもりはなかったが、ソ連の揺さぶりに屈する形で要求を容認せざるを得ず、重光葵は昭和21年4月29日の起訴当日に逮捕起訴され、巣鴨プリズンに連行となった。奇しくも天長節の4月29日は、重光が右脚を失った日でもあった。
2年半を要した軍事裁判は、昭和23年11月12日に判決が言い渡され、東條英機以下7名が絞首刑となる。この中には文官として元首相で重光にとっては外務省の先輩に当たる広田弘毅も含まれていた。東郷茂徳元外相は禁錮20年、そして重光葵は禁錮7年と一番軽く、その他は終身刑であった。
重光は、A級戦犯の中では最も軽い禁錮7年ではあったが、日本だけではなくアメリカでも重光は無罪と予想されてたなかでの有罪判決は、ソ連に対する政治的な妥協があったとも批評されている。
重光は、4年7ヶ月の服役後で、昭和25年(1950)11月21日に巣鴨拘置所を仮出所(減刑保釈)。昭和27年(1952)に講和条約(サンフランシスコ平和条約)の発行後に恩赦により刑の執行を終了となった。

改進党総裁
吉田茂の自由党に対抗する第二の保守として、昭和27年6月、改進党の元首相芦田均(重光の外務省時代の同僚)の要請があり、重光は改進党総裁に就任。
昭和28年には、自由党の吉田茂と鳩山一郎が分裂。
昭和28年11月24日に、鳩山一郎を総裁とし、重光葵を副総裁、幹事長を岸信介とする「日本民主党」が設立し、吉田茂内閣不信任案を提出。第5次吉田内閣は総辞職となり、鳩山一郎内閣が成立。重光葵は、4回目の外務大臣、そして副総理となった。

国連加盟と「東西の架け橋」
鳩山内閣では、「日ソ交渉」と「国際連盟への加盟」が大きな課題であった。
重光外相は、昭和31年(1956)7月に全権としてモスクワでソ連との交渉を行うが領土問題で交渉は難航。重光葵は対ソ強硬論であったが、鳩山一郎は日ソ国交回復を最優先する方針であった。
10月に鳩山一郎首相によって「領土問題は棚上げ」しての「日ソ共同宣言」が調印。日ソ国交回復が実現した。(なお、日ソないし日露での平和条約は現在においても未締結。)

昭和31年(1956)12月18日、これまではソ連の反対で加盟できなかったが、共同宣言締結によってソ連の支援を得られることにより、国連総会は、加盟国の全会一致で、日本の国連加盟を承認した。
重光葵外相は、12月18日の総会の、加盟の謝辞とともに、有名な演説を行った。
 わが国の今日の政治、経済、文化の実質は、過去一世紀にわたる欧米及びアジア両文明の融合の産物であつて、日本はある意味において東西のかけ橋となり得るのであります。このような地位にある日本は、その大きな責任を充分自覚しておるのであります。
 私は本総会において、日本が国際連合の崇高な目的に対し誠実に奉仕する決意を有することを再び表明して、私の演説を終ります。
これが、後世にのこる有名な「東西の架け橋」演説となる。

外務省サイト

https://www.mofa.go.jp/mofaj/press/enzetsu/18/esm_1218.html

終焉
昭和31年12月23日、第三次鳩山一郎内閣が総辞職。石橋湛山内閣が成立。重光も辞任し、後任の外相は岸信介となる。
日本に帰国した重光は、昭和32年の正月を郷里の大分県国東で過ごした。
帰京して、湯河原の別荘で静養をしていたが1月26日夜半に、狭心症の発作を起こし急逝した。69歳だった。

 霧は晴れ 国連の塔は輝きて
  高くかかげし 日の丸の旗 

日本の国連加盟が承認され、本部前に初めて日の丸が掲揚された様を詠んだ句が辞世となった。
重光は、国連演説の後、加瀬俊一初代国連大使に「ありがとう。もう思い残すことはない」と言い残し、そのわずか一ヶ月後にこの世を去ってしまった。

墓は大分県国東市安岐町にある。安岐町には、重光葵元外務大臣の遺徳を偲び、後世にその功績を伝えるために建立された「山渓偉人館」もある。また、杵築市には重光邸「無迹庵」も残っている。
葵(あおい)は中国では向日葵(ひまわり)を意味し、「向陽」と号していた。
地元の大分県国東市安岐町では遺徳を偲び命日に「向陽祭」が執り行われている。

「志四海」
「四海を志す。志が全世界を覆う。志を全世界に及ぼす。」という意味。重光が常に胸に留めていたこの言葉は、今も重光葵記念館や母校の大分県立杵築高等学校に残されている。


機会あれば、大分の重光関連の土地にも訪れたいものです。
※撮影:2023年2月


関連(湯河原)


関連(昭和外交)


もう一つの「二・二六事件」光風荘襲撃事件(湯河原)

昭和11年(1936)2月26日。
後の世に言う「2・26事件」。東京以外では唯一、湯河原・熱海でも事件があった。


湯河原の二・二六事件

東京の反乱軍と連動した河野壽大尉。
民間人を主体とした襲撃部隊以下8人は、別働隊(河野隊)として湯河原「光風荘」に滞在していた牧野伸顕伯爵を襲撃した。

河野壽
河野壽(こうの ひさし)は、陸軍航空兵大尉。陸軍士官学校(陸士40期)卒業。所沢陸軍飛行学校操縦学生。

牧野伸顕伯爵
牧野伸顕は大久保利通の次男。事件当時75歳。前内大臣として 天皇陛下の側近であり欧米強調主義であったために、「君側の奸」( 天皇を取り巻く悪者)として暗殺対象となっていた。麻生太郎の母、麻生和子は吉田茂の長女(吉田和子)であったが、当時、祖父であった牧野伸顕ともに湯河原に滞在して事件を経験している。(吉田和子は事件当時20歳)

河野寿大尉の指揮する湯河原襲撃隊
現役は、河野寿大尉・宇治野時参軍曹(歩一第六中隊歩兵軍曹)・黒沢鶴一上等兵(歩一歩兵砲隊歩兵一等兵)。
民間元陸軍からは、黒田昶(予備役歩兵上等兵)・中島清治(予備役歩兵曹長)・宮田晃(予備役歩兵曹長)
民間からの参加者は、水上源一(弁理士)・綿引正三の合計8名。
河野寿大尉自身は、学生であったために部下がおらず、同士であった栗原中尉からの紹介で7名を率いることとなった。

湯河原・熱海の「二・二六事件」
2月26日早朝午前5時頃、牧野伸顕が滞在していた湯河原「光風荘」を襲撃。
玄関前で乱射された機関銃の銃声で目覚めた身辺警護の皆川義孝巡査(警視庁警務部警衛課勤務・牧野礼遇随衛)は、機転を働かせ牧野伯爵を裏口から避させることに成功。
河野壽大尉の襲撃部隊は護衛の皆川義孝巡査と銃撃戦となり、河野大尉と宮田が負傷。河野大尉が負傷したことで計画変更を余儀なくされ、放火を行い光風荘を炎上させるも、牧野伸顕伯爵襲撃は失敗。

銃撃戦で皆川義孝巡査は死亡(享年32歳・殉職)、河野壽大尉と宮田晃予備役曹長は負傷。河野壽大尉重傷後の部隊指揮は民間出身であった水上源一が務めている。(そのために民間人でありながら水上源一は、河野大尉自決後の湯河原隊責任者として唯一の死刑となっている)

襲撃隊8名の内、宮田は湯河原の病院に入院。重傷の河野大尉は熱海の東京第一衛戍病院熱海分院に入院し胸部盲貫の弾丸摘出手術を受ける。残る6名は翌日の2月27日に三島憲兵隊に収容。

河野壽の最期
熱海陸軍病院に入院し、刃物などを取り上げられた河野壽は、密かに兄の河野司に自決用の刃物を用意するように頼み、河野司は果物ナイフを差し入れ。
昭和11年3月5日午後、軍服に着替え病室を抜け出した河野壽大尉は、病院の外、裏山で自決。しかし果物ナイフでの自決は致命傷を得られず、16時間後の3月6日朝に死去。享年28歳。

辞世
 あを嵐 過ぎて静けき 日和かな
戒名 
 徹心院天嶽徳寿居士

河野壽大尉自決の地
熱海の陸軍病院跡に、記念碑が残っている。

https://senseki-kikou.net/?p=15368

以下、案内看板より。

湯河原の二・二六事件
 昭和11年(1936)2月26日首都東京で、首相をはじめ政府高官の官邸、私邸が、国家改造を求める陸軍青年将校らの率いる兵1400余名の部隊に襲われ、斎藤内大臣、高橋大蔵大臣、渡辺教育総監、松尾陸軍大佐らは即死、鈴木侍従長は重傷、護衛の巡査数名死傷という大事件が起こった。
 これと同時に、遠く離れたこの湯河原でも、青年将校の一人河野大尉の率いる別働隊7名が、元内大臣牧野伸顕伯爵を、静養中のこの場所伊東屋旅館の元別館光風荘に襲い、銃撃、放火。急を知り駆けつけた地元消防団員の救出活動により、牧野伯爵とその家族は辛くも難を逃れたが、付添いの森看護婦は銃創、護衛の皆川巡査は銃弾に倒れ、後に焼死体で発見されるという事態に至った。
 また牧野伯爵を助け出した前第五分団長(現温泉場分団)岩本亀三は銃創、消火に当たった消防団員も負傷するなどのほか、銃剣をも恐れぬ地元消防団員らの勇敢な救出消火活動があった。
 これらの事実は、湯河原の歴史の一こまとして湯河原町民の心意気と共に後世に永く語り伝うべきものである。
  平成14年2月26日
   郷土史研究家 高橋徳
   光風荘保存会

史跡 二・二六事件「光風荘」見学ご案内
昭和史上稀にみる大事件は、首都圏のほか、ここ湯河原にも別働隊による襲撃があり、その唯一の地方現場「光風荘」を次の通り、見学できます。(略)

史跡 二・二六事件 光風荘 
 麻生太郎書

碑文は、光風荘に宿泊静養中に襲撃された牧野伯爵の曾孫に当たる麻生太郎の直筆。平成17年11月建立。


光風荘

光風荘は、二・二六事件の際に放火され焼失している。現在の光風荘は、昭和37年に、消失前とほぼ同じ間取りで再建された。

湯河原町

https://www.town.yugawara.kanagawa.jp/soshiki/8/1282.html

主な展示物
皆川巡査の遺体の傍らにあった、焼け焦げた愛用の万年筆(現物)
河野大尉が自決に用いた果物ナイフ(刃こぼれが痛ましい)と直筆の辞世の句(現物)
兄大尉に自決を促した実弟(大学生)からの手紙(現物)
事件を回想した麻生和子さん(牧野伯爵の孫、祖父母に付添い事件に遭遇)の手紙(直筆)ほか当時の新聞、写真など 
多数

ご来館の皆様へ
本日2月26日は、混雑が予想されます。
混雑時には、入場規制をかける場合がありますので係員の指示に従って頂ますようお願い申し上げます。

2月26日にピンポイントで光風荘に足を運ぶ人は、思うところありますよね。
私もそのうちの一人。
しかし、たまたま人が少ないタイミングでの訪問となり、ボランティアスタッフにて展示物の解説をしていただきました。ありがとうございます。結構、へぇ~な話が聞けました。やはり地元ならではの話を聞けるのは面白いですね。

なお、建物内部は撮影禁止。

場所

https://goo.gl/maps/cijAp9NzzQtEBbaE9

2・26事件と湯河原
1936年(昭和11年)2月26日珍しい大雪の早朝、国家改造(昭和維新)を目指す陸軍の一部青年将校らは1400人あまりの部下将兵を率いて、首都の中心部を占拠し、軍・政府高官の官邸、私邸を襲うという、日本近代史上未曾有のクーデター未遂事件「2.26事件」を起こした。
 この事件で斎藤内大臣・高橋蔵相・渡辺教育総監や護衛の警察官らが犠牲になったほか多数が負傷した。
 この事件では東京以外で唯一の現場がここ湯河原の「光風荘」である。
 老舗旅館伊藤屋の元別館「光風荘」には、前内大臣の牧野伸顕伯爵が静養のため家族、使用人と共に滞在していた。天皇側近として国政の中枢にあり、リベラルな考え方で政・官・財界に影響力を持っていた牧野伯爵は、急進的な青年将校たちに、天皇の判断を誤らせる「君側の奸」(天皇を取り巻く悪者)と見なされ襲撃の対象となった。
 2月26日早朝、東京から雪の湯河原に着いた河野壽大尉以下8名の別動隊は「光風荘」を急襲、当直の護衛官・皆川義孝巡査と銃撃戦のあと同荘を放火炎上させたが、目指す牧野伯爵は地元消防団員らの活躍で脱出に成功。この事件で護衛の皆川巡査は死亡。河野大尉も部下の下士官と共に重傷を負ったほか、伯爵づきの看護婦や地元消防団員も銃弾や消火作業で負傷した。
 河野大尉は事件後、収容先の熱海陸軍衛戌病院(分院)で差入れの果物ナイフで自決した。


伊藤屋

牧野元内大臣夫妻とそれぞれのお付の女中、看護婦、護衛の巡査の計7名は、伊藤屋の別館「光風荘」に滞留していた。

牧野伯爵襲撃の責任者であった河野寿陸軍航空大尉は、予め民間人の渋川善助夫妻と偵察のため伊藤屋本館に宿泊。牧野伯爵の動向を確認後一旦東京に戻り、そして兵を連れ自動車で湯河原に入り、夜明けを待って光風荘を襲撃した。

伊藤屋の2階からは、光風荘の様子がよく見えたので絶好の偵察場所であった。

●歴史が動いたその日。舞台になったのが伊藤屋でした
昭和11年2月26日に日本帝国陸軍若手将校が決起した2.26事件は、陸軍の皇道派の青年将校が対立していた統制派の打倒と国家改造を目指し、約1500名の部隊を率いて首相官邸等を襲撃した事件です。
この時、元内大臣であった牧野伸顕伯爵が宿泊していたのが伊藤屋で、東京以外で唯一事件の舞台となりました。
宿泊者は牧野元内大臣夫妻とそれぞれのお付の女中、看護婦、護衛の巡査の計7名。宿泊先の条件は独立した建物であるということから、弊館別館「光風荘」が選ばれました。
牧野伯は滞在10日の予定でお見えになり、3日目に事件に遭遇。襲撃の責任者 河野寿陸軍航空大尉は、予め民間人の渋川善助夫妻と偵察のため弊館本館に宿泊。牧野伯の動向を確認後一旦東京に戻ります。
その後兵を連れ自動車で湯河原に入り、夜明けを待って光風荘を襲撃しました。
その際牧野伯はお付の女中の機転で女物の着物をかぶり勝手口から脱出、塀を乗り越えて裏山に逃れました。
河野大尉の「女子供は傷つけるな」との命令により助かったとのことです。
襲撃の際光風荘は全焼し、現在ある建物はその後建てられたものです。河野大尉らが襲撃前の偵察に宿泊した本館の客室は、当時のまま現在も利用されています。

伊藤屋「2.26事件と伊藤屋」https://www.itouya-net.jp/backup/01_about/02.html

河野寿大尉は、渋川善助夫妻とともに伊藤屋の2階から、光風荘のようすを偵察したという。

千歳川

当時は、このあたりに火の見櫓があったようだ。

老舗の富士屋旅館。

このあたりには回春園という医院があった。現在は歯医者。
牧野伯爵付きの看護婦であった森すず江(避難中に流れ弾で腕に銃創)、 岩本屋旅館主人であっった岩本亀三(当日は光風荘の火災に気付き、現場に急行し牧野伯爵を救出、小銃弾で左足に貫通銃創、全治1ヶ月の重傷)、襲撃に参加した宮田晃(左脛銃創)が、治療を受けている。
河野寿は重傷のため、熱海の陸軍病院で治療を受けている。

湯河原温泉

せっかくだから温泉、ですね。

光風荘の近くには湯河原町営温泉「こごめの湯」があります。

https://kogomenoyu.com/

※撮影:2023年2月


関連

「領土・主権展示館」我が国固有の領土の歴史と領土・主権を学ぶ

先日、近くを通りすがったので、せっかくなので足を運んでみました。

虎の門三井ビルディング

東京都千代田区の虎の門三井ビルディングの1階に。
奇しくも、「領土・主権展示館」と「日本一おかき処・播磨屋本店(東京店)」が同じビルに同居していました。空間としての濃厚度は、ある意味で最大級に熱量が高いエリア。


領土・主権展示館

日本の領土と主権を学ぶことができる展示館。
近現代史における日本の領土を歴史的に国際法上に知ることができ、そして先人たちの苦労を学ぶとともに、我が国固有の領土を日本政府の公式見解とともに、あらためて正確に理解できる展示館。
これは一見の価値ありです。

公式サイト

https://www.cas.go.jp/jp/ryodo/tenjikan/index.html

領土主権展示館」は、北方領土・竹島及び尖閣諸島が我が国固有の領土であることを示す歴史的資料や人々の営みを示す資料をまとめて紹介する初めての国の施設です。

領土・主権展示館
展示の目的

世界のすべての国家は、領土をもち、そこには国家の主権が及んでいます。
日本にも領土があり、そこには日本の主権が及んでいます。

主権とは、国家が時刻の領域において有する他の権力に従属することのない最高の統治権のことであり、国家の基本的な地位を表す権利を意味します。

しかし、日本の領土でありながら、このような権利の一部を事実上行使できない場所が二つあります。
北方領土と竹島です。

また、日本の領土のうち、尖閣諸島については、領有権の問題はありませんが、周辺海域における情勢が複雑化しています。

北方領土、竹島、尖閣諸島は、いずれも、一度も他の国の領土になったことがない日本固有の領土です。

領土・主権展示館では、これらを含む島々について、歴史を振り返りながら、日本が領有する根拠、他国・地域の主張や行動、それに対する日本の対応や考え方を説明していきます。

北方領土

竹島

尖閣諸島

正月明けにいきましたので鏡餅といっしょ。

エリカちゃん(北方領土のイメージキャラクター)
りゃんこ(竹島のイメージキャラクター)
アルバちゃん(尖閣諸島のイメージキャラクター)

https://www.cas.go.jp/jp/ryodo/kids/index.html

これは腰を据えて時間に余裕があるときに、しっかりと見学しなければ、です。

エリカちゃん(北方領土のイメージキャラクター)
「ロシアとは、戦後70年以上も領土問題が解決していないのか」

りゃんこ(竹島のイメージキャラクター)
「韓国は、裁判にも応じようとしないんだね。日本は、国際法にのっとって解決しようとしているのに、意図的に無視しているのか。」

アルバちゃん(尖閣諸島のイメージキャラクター)
「中国が尖閣諸島をめぐる独自の主張を始めたのは50年前なんだね。だけど、500年以上も前から領有しているなんて言っているのか」

いろいろいただくことができます。
充実の資料。

ありがとうございます。またきます。


江戸城外堀跡 溜池櫓台跡

この界隈は、江戸城の外堀。虎の門というぐらいだし、ねえ。


日本一のおかき処 播磨屋本店

東京店が、領土・主権展示館のとなりに。

はい、おかき、美味しいんですよね。

サイトとかトラックとか、いろいろ云われているけど、
おかきは美味しい。

公式サイト

https://www.harimayahonten.co.jp/

※2023年1月撮影

宮内庁庁舎(旧宮内省省舎・昭和10年/1935年竣工)

年に数回、宮内庁庁舎を見る機会がある。
具体的には、新年一般参賀と 天皇誕生日一般参賀の帰路に見る機会がある。誕生日の日は午後から記帳もあり、その時にも見ることができるので、2023年2月23日の 天皇誕生日一般参賀午後の記帳に足を運んできた。(一般参賀は抽選となり気楽にいけなくなってしまった、、、)

宮内庁庁舎

かつての旧宮内省庁舎。現在は宮内庁舎として使用。
昭和10年(1935)に竣工。
戦前の宮内省は、1官房2職8寮2局13外局と京都事務所を持ち、職員6200余人を擁する巨大組織であったが、戦後は、分離独立などをして機構を縮小した。
昭和22年(1947)に宮内府となった際は、1官房3職4寮と京都事務所で、職員も1500人弱となっている。

昭和24年(1949)、宮内省は廃止され、総理府外局の宮内庁となる。
昭和27年(1952)3月に宮内庁庁舎の3階が改装され、昭和43年の新宮殿落成までの間、仮宮殿として使用されていた。
昭和27年11月10日の立太子の礼の際には、宮内庁正面玄関上のバルコニーにて、一般参賀があった。

平成13年(2001)に内閣府により、宮内庁の組織改正があり、1官房5職2部と京都事務所の体制となっている。

天皇誕生日一般参賀の記帳

以下は、2017年01月02日の撮影。

残念ながら、中に入る機会はない。。。

富士見櫓

江戸城遺構として残る唯一の三重櫓。1659(万治2)年の再建。

旧枢密院庁舎(皇宮警察本部)

大正10年(1921)に完成した枢密院庁舎。非公開。木々の隙間から建屋がほんの少しだけ垣間見ました。。。裏側、、、こちらも非公開のために近くで見るすべがない。。。

しょうじき、見れたと言えないレベルですが。。。


大手門

昭和20年4月の空襲で焼失。鯱は焼け残った。

大手門。昭和42年復元。

※2023年2月撮影


関連

上田中坑道陣地(速射砲防御陣地)跡の散策(東金市田中・法光寺)

東金市の寶珠山法光寺。
寺院墓地の裏山に、かつて速射砲陣地があった。

砲室から外を望む。


法光寺

東金市田中鎮座。日蓮宗寶珠山法光寺。
江戸時代に完成した灌漑用貯水池である雄蛇ヶ池の近くに鎮座。

法光寺の裏山に、速射砲陣地があった。

本堂は、令和元年の房総半島台風により全壊し、その後、再建された。

場所

https://goo.gl/maps/RKvSkJT7goNLSN6R8


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M50-109
1947年2月22日、米軍撮影の航空写真。一部加工。

上記を拡大加工。
ちょうど、上田中の谷間を貫く国道126号が、外房から内房にアクセスする幹線道路であることがわかる。東金台地の南端に、御殿山観測所を設け、後背地には東金拠点陣地群が展開。
そして、西に御蛇ヶ池を控える独立した丘陵である上田中速射砲陣地が、東の大豆谷と北の由井と連携することで、上陸してくる戦車部隊に対する強力な防御陣地であった。しかし、敵中に取り残され後退場所がない上田中の陣地は、そのまま全滅することも予想に固くない。


上田中坑道陣地(上田中速射砲防御陣地)

陸軍は本土防衛・首都防衛をするに際し、連合軍の上陸地点として、相模灘・九十九里浜を予測していた。
九十九里浜には、砂浜には蛸壺陣地、丘陵地帯には洞窟陣地を構築し、迎撃体制を整えるなかで、この東金上田中は、近衛歩兵第10連隊独立速射砲中隊が工事を請け負い、独立第二四速射砲中隊の四七ミリ速射砲が配備される計画になっていた。


上田中坑道陣地(上田中速射砲防御陣地)跡を法光寺墓地から

上田中坑道陣地(上田中速射砲防御陣地)を墓地から見学してみる。

すでにいくつかの横穴がありますね。

ブロック塀で塞いである横穴も。


上田中坑道陣地(上田中速射砲防御陣地)跡を坑道内から

戦後も、上田中の洞窟陣地の坑道は一部が残存。現在も墓地の端の方に、一箇所だけ開口している箇所がある。法光寺の庫裡に見学を申し入れれば快諾していただける。

それでは、洞窟陣地、見学してみます。

懐中電灯は必要。見学用には整備されていないので、洞窟内には灯りはない。

「カメ(甕)」が落ちてました。昔は便器で甕が使用されていたけど、違うよね、きっと後世、、、

振り返り。

おや、昔は甕は便器とか言っていたら、今度はほんとに便器だし。

突き当り。弾薬庫かな。

瓶がたくさん。

全体的に砂っぽい洞窟。細かい砂が積もっている。

47mm速射砲砲室。上田中で唯一完成した砲室。

冷蔵庫がある。

竹が生えている。

洞窟に生える竹、なかなかの生命力。

砲室から外に出てみた。もうひとつ開口部があった。

祠もあった。

隣の開口部は倉庫みたい。どこにもつながっていない。

もとの砲室から、洞窟内に戻る。(砲室の外は民家に裏に繋げっている模様)。

左側に進む。

明かりが見える。

表は、さっきの墓地ですね。

中に戻る。

これも弾薬庫かな。

こっちは土砂が流入している。埋まってますね。

外の灯りが見えます。
開口部砲室になるはずの部分。こっちは作りかけ。

竹に覆われている。

スタート地点に戻ってきました。

そんなに広くはないけど、なかなかおもしろい空間だったため、気がつけば20分くらい散策してました。

法光寺の裏山。速射砲陣地を攻勢側の目線でみるとこんな感じ。実際にはこの山を左手に進軍することになるので、側面射撃を食らうイメージ。


大豆谷坑道陣地?

ちなみにバス停(台方一丁目)の近くも、穴がありました。
もしかしたら、上田中と相対する位置関係で連動していた大豆谷坑道陣地に関連する開口部かもしれませんが、遠望のみで。

場所

https://goo.gl/maps/kwsiDa4B3feaD46F6


東金駅

行きは東金駅から歩きました。ちょっと後悔する距離感。
帰りは近くのバス停(台方一丁目)から東金駅に戻ってきました。千葉と東金と成東を結んでいる路線バスが、1時間に1本前後走っているので、状況によっては、東金駅でJR東金線を使用するよりも、バスのほうがアクセス事情が良好かも。
まあ、そもそも公共交通機関で赴くのは不利ですが。

東金駅は歴史が古く、開業は明治33年(1900)。

かつて東金駅から九十九里浜の片貝駅までを結んでいた九十九里鉄道は大正11年(1922)開業、昭和36年(1961)に鉄道を廃止しバス事業に専念。
太平洋戦争中は、ガソリンの入手が困難な中で、気動車の燃料を沿線地域の片貝付近の地下で採取した天然ガスで動くように改造して代用することによって運行を継続という逸話を持つ。

東金界隈は、御殿山観測所のリベンジもありますし、東金飛行場跡(豊成飛行場跡)もありますんで、また再訪します。

※撮影:2023年2月


関連

八鶴湖周辺の近代史跡散策(東金市)

千葉県東金市。
東金から上総一ノ宮の外房地区、すなわち九十九里浜は、米軍上陸に備え、本土防衛のために展開した近衛第3師団の陣地構築が盛んに行われた場所。戦跡も豊富にある。今回は東金の八鶴湖周辺にある戦跡を散策しようとしたが、結果として、目的地に立ち入りできなかったので、再訪が必須となってしまいました。本記事は「封鎖されてますよ!」という、今(2023年2月現在)の状況報告も兼ねています。


東金御殿山観測所跡・防空壕跡

東金城のあった御殿山には「観測所」や「防空壕」があった。

しかし、現在は立入禁止。東金城址に入れないと、砲台観測所跡にもいけない、、、

東金市指定文化財 東金城址
※東金城址は現在、令和元年台風15号の影響により、史跡内の見学はできません。ご了承ください。

東金市(https://www.city.togane.chiba.jp/0000000463.html

現在、東金城址は倒木の影響により立ち入り禁止となっています。今後の立ち入りの再開は未定となっています。ご理解ご協力をお願いします。

東金市観光協会(https://www.toganekanko.jp/2021/11/7611/

入り口は固く閉じられている。
物理的に門の脇から強行突破できそうな雰囲気はあるが、もちろんそんなことはしない。いつの日か、再開されることを願い、引き返す。

令和元年房総半島台風(2019)の倒木の影響で東金城址は立入禁止となっております。

東金城址、東金御殿。
九十九里平野の中心都市であった東金。戦国時代は東金城、そして江戸時代には徳川家康の鷹狩り場として、東金御殿が設けられていた。
船橋から東金までの直線が、いまも「御成街道」として残っているのも、その名残。

東金高校の脇から。

東金城址碑


八鶴湖

徳川家康が東金御殿を築造した際に、拡張した人口の御殿池。東金御成街道の終点。


八鶴湖畔の慰霊碑群

湖畔にはいくつかの慰霊碑が集まっている。

忠勇の碑

旧山辺郡出身者444名と旧武射郡出身者282名の従軍記念碑。明治29年9月建立。

忠魂碑

旧東金村出身の日露戦争の戦没者46柱を祀る。
川村景明書。日露戦争時の陸軍大将・鴨緑江軍司令官。
大正11年11月建立。

大東亜戦争 旧東金町出身の戦没者の碑

満州事変から太平洋戦争までの英霊276柱を祀る。
昭和27年4月建立。


八鶴亭

明治期創業の旅館。関東大震災後の大正から昭和初期にかけて建てられた建造物が国指定重要文化財となっている。
2006年に旅館としては経営破綻し、現在は日本料理屋として生まれ変わっている。

本館

浴室棟

新館

ビリヤード棟


千葉県立東金高校

徳川家康の千葉御殿の跡地にある。
千葉県第二の高等女学校であった東金高等女学校が前身。

明治45年の東金高等女学校時代の作法室と正門画残る。

はい、東金城址にはリベンジしないと、です。。。

※撮影:2023年2月


関連