Date-SKN のすべての投稿

錦着山護国神社(栃木市)

栃木駅から、歩いていける場所に、ちょっと気になる神社があったので、足を運んでみた。

社殿の脇にたつ記念燈台がひときわに存在感を放つ錦着山護国神社。


錦着山護国神社

栃木県の初代県令鍋島幹が、戊辰戦争・西南戦争(明治10年)の戦死者を祭り、忠魂を慰めるために、招魂社(栃木招魂社・私祭招魂社)の建立を検討。
明治11年(1878)に起工し、明治12年9月に社殿・社務所が完成。
明治17年(1884)に、栃木県庁が栃木町から宇都宮町に移転するとともに、管理は栃木県から下都賀郡へ移管となり、その後は栃木町への移管となっている。
大正10年(1921)に、栃木町長と帝国在郷軍人会栃木町分会で協議の結果、日清戦争日露戦争の下都賀郡出身の英霊を合祀。
昭和14年(1939)に、招魂社制度の改正となり「錦着山護国神社」と改称。
その後、上海事変・満州事変・支那事変・大東亜戦争の英霊も合祀し、下都賀郡の8300余柱を祀っている。
なお、招魂社としての官祭招魂社は、宇都宮招魂社(栃木県護国神社)と黒羽招魂社の2社のみ。
栃木招魂社(錦着山護国神社)は、私祭招魂社とされる。

ちなみに、錦着山とは、巾着の形ににているからとも、つつじが満開の頃は錦を着ているように美しいことからとも名前がつけられたとされている。

栃木市観光協会

https://www.tochigi-kankou.or.jp/spot/kinchakusan

栃木県観光物産協会

https://www.tochigiji.or.jp/spot/s9016

大鳥居は、大正12年(1923)11月帝国在郷軍人会下都賀郡連合分会の建立。

社号標は一度折れてしまったようです。

「錦着山護國神社」名称での社号標

参道途中の鳥居。

神額には「招魂社」と記載あります。謹書が誰かは読み取りできず。

両脇には、「獅子の子落とし」の阿吽の狛犬。
帝国在郷軍人会栃木市総合分会の奉納。昭和13年8月。

錦着山護國神社御社殿(拝殿)

合掌

至誠の扁額。謹書は読み取れず。

錦着山護國神社御社殿(ご本殿)

錦着山護國神社社務所。年季が入っている。


日露戦争記念燈台

社殿の向かって右隣りに高くそびえる「燈台」。
詳細は不明であるが、日露戦争を記念して建てられたものという。


栃木市海友会の碑(同期の桜碑)

昭和46年5月27日の建立。海軍記念日の建立ですね。

大日本帝国海軍
貴様と俺とは同期の桜
同じ海兵団の庭に咲く
栃木市海友会

錨と桜

海軍旗(旭日旗)

碑のことば
我々は日本の海を護って戦った。平和のために。
貴様と俺と呼びあい相擁して戦いの歌を若い血潮のたぎりの中に歌いあげた。
はげしく厳しかった、その道を何時も我々は支え堪えた。
眼を閉じるとその励まし慰めあいの戦いの日々が胸を往き来して果てしない。
平和が続いている。何時までも続けなければならない。
其の為にあの嵐の中に命を賭けてかち得た、ちえを感激にとかして持ちよろう。
関東の山野に風薫る朝、同期の桜、相寄りて此の碑を建つ。
 昭和46年5月27日
  栃木市海友会会長 森戸清一郎


栃木市海友会の碑(七つの海は桜に錨碑)

栃木市海友会
創立15周年記念
昭和52年五月27日設置
七つの海は桜に錨
海友会長 森戸清一郎かく

海行かば
 水漬く屍
山行かば
 草むす屍
大君の辺に
 こそ死なめ
返り見はせじ


奉祝 御大典紀念碑

下都賀郡傷痍軍人會
昭和3年閏戊辰11月10日建之


日露戦役忠魂碑

伏見宮貞愛親王殿下謹書。
明治41年12月20日竣工。


支那事変大東亜戦争 戦歿者慰霊碑

栃木市青年学校同窓会
昭和38年9月24日建之


記念塔

詳細不明。銘板等は外されたような形跡あり。

ちょっとした山。
三等三角点がある。
標高80.45m

記念燈台は、道路からもよく見える。

栃木駅からは、徒歩約20分。

場所

https://goo.gl/maps/YfAi1XFf6nD17RCQ6

「平和の礎」小金井空襲・小金井駅戦災(栃木県下野市)

栃木県下野市。かつての栃木県下都賀郡国分寺村。
小金井駅と付近を走る列車に対して機銃掃射による空襲があった。


小金井空襲

昭和20年7月28日
艦載機P51戦闘機14機が宇都宮市内空爆と機銃掃射を実施。国鉄宇都宮駅前にあった日清製粉宇都宮工場を襲撃し、勤労動員の下野中学校生(現在の作新学院高等学校)5名が犠牲となった。また乱射された宇都宮駅や周辺の列車も犠牲となり、当日は全体で30名以上の死者が出たという。
宇都宮を襲撃した14機のうち3機は、宇都宮駅を発車した列車を追跡。

11時55分ごろ。
宇都宮駅を出発して南下し、東北本線「小金井駅」に向けて走行していた福島発の東北本線上り上野行き「第118号旅客列車」は、戦死者の遺骨を抱いて乗車していた遺族などもおり、そして小金井駅では、乗客を迎えるために集まった群衆もいた。

そんな「第118号旅客列車」を米軍のグラマン艦載機P51戦闘機3機は機銃掃射。さらに小金井駅に集まる群衆にも機銃掃射を行い、結果として、列車出迎えの市民らをはじめ、駅員や列車の乗客らも死傷し、31人が亡くなり、70人以上が負傷したとされている。

この昭和20年7月28日の空襲では、宇都宮駅、小金井駅、小山駅周辺で、米軍艦載機が機銃掃射を実施。
栃木県下では7月12日の宇都宮大空襲に次ぐ、70余名の犠牲者を出した空襲であった。


平和の礎

小金井駅西口広場に慰霊碑が立つ。

昭和20年7月28日
小金井駅戦災
平和の礎
平成10年秋 国分寺町之建

第二次世界大戦の昭和20年(1945年)7月28日正午ごろ、福島発上野行き列車が小金井駅手前で米軍戦とう機3機の銃撃をうけ多数の死傷者が出た。
 駅には戦死者の遺骨を迎える人が集まっていて、停車中の列車とともに再び銃撃をうけた。
 ぎせい者は、死者31名、負傷者7~80名である。
 こんな農村にまで及んだ戦争の惨禍を決して忘れることはできない。
 ここに、ぎせいになられた方の、ごめい福をお祈りし、碑を建て後世に語りつぐものである。
  平成10年秋天
   国分寺町長 若林英二謹書

国分寺駅前にはほかにもいろいろあった。

C57の動輪。C5738機。

下野の国分寺

国分寺があれば古代の下野国の中心地。

歴史好きとしては、興味深い街でもあり。

かんぴょう生産量が日本一だそうで、カンピくん。

レンタサイクルもある。私は今回は駅前のみの散策でしたが。

東の飛鳥とは、大きく出た感じですね。

https://www.city.shimotsuke.lg.jp/0059/info-0000006609-0.html

ご当地アニメもあった

https://www.city.shimotsuke.lg.jp/0061/info-0000004735-3.html

小金井駅の北側。この空に、銃撃があった。。。

※2023年1月撮影


関連

B29墜落搭乗員慰霊碑とB29墜落地点の慰霊巡拝(群馬県‎‎邑楽町‎秋妻)

群馬県と栃木県の県境。
群馬県‎邑楽郡‎邑楽町‎秋妻は、のどかな水田が広がる農村地帯。
戦時中、この地にB29が墜落し、そして地域住民は搭乗員を慰霊した。

すぐ近くにあった、東洋一の飛行機メーカー「中島飛行機」の工場(中島飛行機太田工場)を狙ったものであった。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M606-49
1947年10月27日、米軍撮影の航空写真。一部加工。

中島飛行機大田工場や太田飛行場、小泉製作所のすぐ近くで墜落したことがわかる。

墜落地点を拡大。

墜落地点は、今も昔も水田。集落には尾翼が落ちたが幸いにして落下地点は矢場川の横であったために人家共に被害は皆無であった。

現在の様子。

集落と水田の位置関係はさほどに大きく変わっていない。

余談だが、邑楽郡‎邑楽町‎の「‎邑楽」は「おうら」と読む。難読です。


B29爆撃機墜落地点

B29爆撃機墜落地点
 1945(昭和20)年2月10日、中島飛行機太田製作所をねらって午後3時過ぎに飛来した118機(米軍公表)のB29大編隊の爆撃により、多くの生命財産が失われました。このとき、大編隊の中の2機が空中接触しこの地に墜落炎上しました。(2機の搭乗員23人全員即死)。なお、Slicks Chicks号(機体番号224784)の尾翼が
秋妻集落東側民家すぐそばの矢場川にかかる旭橋横に墜落しました。当日は西風の強い日で、この黒煙により秋妻集落は全滅したという噂も出たほどでしたが、幸いにも人家とも無傷でした。しかし同日、ここから北東に直線距離で1kmも離れていない隣町の足利市百頭町では、軍需施設とは無縁な一集落が集中爆撃され33人もの一般の人たちが犠牲となりました。
 この事実を風化させることなく、戦争の悲惨さと平和の尊さを後世に伝え、世界平和を祈念していきたいと思います。
  平成22年11月
   ‎邑楽町‎教育委員会
   ‎邑楽町‎第17区(秋妻)自治会

墜落地点は、3か所。
Deaner Boy 号(機体番号224815)は、下図の1番。
Slicker Chicks号(機体番号224784)は胴体(下図2番)と尾翼(下図3番)が分かれて落下。

落下地点

わかりにくいが、黄枠のところに「赤い目印」は立っている。
このあたりに、「Deaner Boy 号(機体番号224815)」が落下した。

赤城山の方向。

ここに、Slicker Chicks号(機体番号224784)の胴体が落下した。

2機のB29が空中衝突し、田園に落下した。

ちなみに、なにもないところでアクセス方法は悪い。
東武足利市駅でレンタサイクルをしてみました。
東武足利市駅からは、だいたい自転車で30分位かかりました。

場所

https://goo.gl/maps/ePgwVA1CJKXyEE6r8


B29爆撃機尾翼墜落地点

Slicker Chicks号(機体番号224784)の尾翼が落下した地点。

矢場川にかかる旭橋。

とくに看板等もなく。

ちょっとした建屋とベンチがあった。

矢場川の東側なので、こっちは栃木県。

場所

https://goo.gl/maps/HF6kobatj7JuY36r7


清岩寺

邑楽郡邑楽町秋妻の天華山清岩寺

清岩寺の開山は、大雲文龍。大雲文龍(1545-1617)は曹洞宗を関東に広めた高僧。


清岩寺の戦争慰霊碑と記念碑

境内の一角に、先の戦争関連の慰霊碑や式辞記念碑があつめられている。

合掌

日清日露大東亜演奏戦歿者報国之英霊塔
B29日米合同追悼式七十年供養塔

平成27年建立

B29墜落搭乗員慰霊碑

B29墜落搭乗員慰霊碑 
The Memorial Monument of B29 Crash Crew

墜落日時 Crash Data 1945年2月10日  Feb.10th,1945
墜落位置 Crash Site  群馬県邑楽郡高島村秋妻(現群馬県邑楽郡邑楽町秋妻)
                Akizuma Ora-machi Ora-gun Gunma
所属   Affiliation  第2空軍第313爆撃団第505爆撃群第483爆撃隊
     483 BSQ 505th BG 313rd BW of 20th AF
攻撃目標 Target     中島飛行機太田製作所 Nakajima Aircraft Ota Factory
墜落原因 Cause of Crash 接触事故 Midair Collision

B29#42-24784 SLICK’S CHICKS
操縦士    Pilot      C McC SLAUGHTER Jr 大尉   CAPT
副操縦士   Copilot    DAN E.GODSY     少尉   2D LT
航法士    Navigator   JOSEPH F.JAROSZ   少尉   2D LT
爆撃手    Bombardier   KENNETH E.SWANSON  中尉   1ST LT
機関士    Engineer    HERBERT WEINER   少尉   2D LT
通信士    Radio Operator NICK CORBO     二等軍曹 S SGT
レーダー士  Radar Operator KENNETH F.MAGO   軍曹     SGT
中央火器管制 CFC      ROBERT K.YONCE   二等軍曹 S SGT
左銃手    Left Gunner  JAMES E.MELVIN    軍曹     SGT
右銃手    Right Gunner  RALPH J.McCLELLAN  二等軍曹 S SGT
尾部銃手   Tail Gunner  FRANK P.KASTENMEVER 軍曹     SGT
同乗員    Observer    BIRRELL WALSH    大佐     COL

B29#42-24815 DEANER BOY
操縦士    Pilot     OWEN o.BARNHART Jr   中尉   1ST LT
副操縦士   Copilot    DONALD M.MORRISON   少尉   2D LT
航法士    Navigator   CORNELIUS R.KERNS   少尉   2D LT
爆撃手    Bombardier   HUGH D.BURNER     中尉   1ST LT
機関士    Engineer    HARLEY H.HAZELWOOD  少尉   2D LT
通信士    Radio Operator NORMAN E.SMITH    二等軍曹 S SGT
レーダー士  Radar Operator JAMES F.GREUP     軍曹   SGT
中央火器管制 CFC      GEORGE B.WILBUR Ⅲ   軍曹   SGT
左銃手    Left Gunner  HARRY J.HARZ Jr    軍曹   SGT
右銃手    Right Gunner  DONALD A.W.KISSINGER 軍曹   SGT
尾部銃手   Tail Gunner  HARVEY J.FITZPATRICK 軍曹   SGT

ここ秋妻の空に散った23名の勇士の御霊に哀悼の誠をささげるとともに日米両国の友好と世界の平和を希求いたします
We wish to commemorate the 23 brave souls and offer a wish for world peace and friendship between Japan and America

秋妻B29日米合同追悼式

邑楽郡邑楽町秋妻257 清岩寺 殿
秋妻B29日米合同追悼式
秋妻B二九日米合同追悼式並びに慰霊碑建立除幕式がしめやかに執り行われますにあたり御霊の安らけくもありますことを祈念申し上げ謹んで追悼の誠を捧げます 今日の開催に至りますまでの日米ご遺族様、米国横田基地のご関係皆様、木崎代表をはじめ秋妻B二九世話人会の皆様の常日頃のご労苦に深く敬意を表しますとともにご参集皆様の今後益々のご発展と関係皆様のご活躍を心から祈念申し上げます 
 平成二十五年三月二十日 
  参議院自由民主党議員会長 参議院議員 
   元外務大臣 中曽根 弘文

グラマン搭乗員鎮魂碑(清岩寺)

グラマン搭乗員鎮魂碑 
Grumman Crew Memorial

 1945年2月16日 空母バンカーヒルを発進したグラマン・アヴェンジャー TBM-38316は太田上空で高射砲に撃たれ現足利市田中町に墜落、3名死亡。

On 16 February 1945,a Grumman Avenger(TBM-38316)that took off from the USS Bunker Hill was hit by Japanese abti-aircraft fire and crashed in Ashikaga.
The following three crew members lost their lives.

操縦士 Pilot     Richard Brothers    海軍少尉 Ensign
射撃手 GunnerEd   Edward V.Andriso   三等兵曹 AOM3c
通信士 Radioman   Walter L.Paulissen Jr. 上等空兵 ARM1c

 異国で命を落としたアメリカ海軍将兵の霊を慰め、人類永遠の平和を祈ります。
May these brave American soldiers rest in peace.And may peace prevail among mankind eternally.

”人間の持つ残酷さを克服し、この人生を平穏なものにしよう”
  日本人の皆さんに心からの感謝を込めて
“Please,let us tame the savageness of man and make gentle the life of this world.”
  with warmest gratitude to people of Japan
    Maxwell Taylor Kennedy

B29・グラマン日米合同追悼式

B29・グラマン日米合同追悼式
ごあいさつ
 「B二九・グラマン戦没者二十六名の日米合同追悼式」が挙行されるにあたり、戦没者の御霊に謹んで哀悼と慰霊の誠を捧げます。
 本日の日米合同追悼式は、戦争によって失われた尊い命を慰めるものであり、合せて「不戦の誓い」であります。そして日米両国の関係者が相集い追悼式が開催できますことは日米両国の信頼と友好の証でもあります。開催に際しご尽力いただきました横田基地関係者の皆様ならびに木崎様をはじめとする多くの関係者の皆様に深く敬意を表しますとともに感謝申し上げます。
 本年は、終戦から七十年という大きな節目の年にあたります。節目の年を迎えるにあたり、現在の繁栄は、多くの犠牲と悲劇の上に築かれていることを再認識しなければなりません。
是非、本日の追悼式を「命」と「平和」の尊さを心に刻む機会にしていただければと思います。
 なお、本日は在日米軍関係者の皆様もご出席でいただいておりますが、二〇一一年三月十一日に起きた東日本大震災ではアメリカ合衆国から寄せられた温かいご支援、米軍の各部隊の力強いご支援に改めて心から感謝申し上げます。有難うございました。
 今後も日米両国がともに協力しながら、アジアの平和・世界の平和のために努力をしていくことが大事であると考えております。
 最後に、本日ご参会の皆様ならびにご遺族の皆様のご健勝とご多幸を心からお祈り申し上げ、あいさつといたします。
 平成二十七年三月二十一日
  衆議院議員 笹川博義

To the Seiganji Temple Memorial,
清岩寺追悼記念式典に寄せて

AMBASSADOR OF THE UNITED STATES OF AMERICA TOKYO
 March 20,2015

To the Seiganji Temple Memorial,

 Thank you for the very kind in vitation to the dedication of the
memorial to the fallen United States Service members in Gunma Prefecture.
It is my honor to provide a short message of remembrance.
 This healing process is essential for the families and also essential
for our two nations. Activities such as this memorial that are driven by the community truly show the world that former enemies cun put aside their differences and animosities and become the closest of friends. The future of the US-Japan Alliance is strong.
For decades families have suffered both the pain of losing loved ones
far from home and also the emptiness that accompanies the loss when that loved one is not returned to the family,in order to begin the healing process.The unknown whereabouts of their last resting place puts the grieving process on hold. However,through your commendable efforts,you bring comfort to those families whose loved ones have now been found. Your dedication provides closure and allows the families an opportunity to hela. I play for the crews aboard B29 Bombers and Grumman TBM that they may rest in peace.
 We continue to work together side-by-side to ensure the bonds we
have forged over the last seven decades are stronger than ever and are a
daily reminder of the future cooperation necessary to maintain peace,
stability and prosperity in the region.
 It is my hope and the hope of the United States that peace and
reconciliation will continue to flourish. There is no berrer place to see this
process in action than the US-Japan Allaince.
     Sincerely,
           Caroline Kennedy

清岩寺追悼祈念式典に寄せて

 このたびは群馬県で開催される戦没米兵慰霊碑の除幕式にお招きいただき、感謝申し上げます。こうして追悼のメッセージをお送りできて光栄です。
 こういった癒しの過程は、遺族、そして日米両国にとって欠かせません。今回の追悼式のようなコミュニティ主導の活動は、過去に敵対関係にあった国同士でも、互いの違いや敵対心を忘れ、親しい友人関係を築けるということを世界に向けて示してくれます。日米同盟の未来は強固です。
 これまで長いあいだ、米兵の遺族は、故郷から遠く離れた場所で大切な家族を亡くした傷みと、愛する人が家族のもとに戻ってこない虚しさに苦しみ、心の傷を癒すための第一歩を踏み出せずにいました。家族がどこに葬られたのか分からないがゆえに、深い悲しみをいつまでも乗り越えられずにいたのです。しかし、皆様のご尽力のおかげで家族を見つけたいま、遺族の心に安らぎがもたらされました。皆様の献身的な活動は、遺族の苦しみを終わらせ、また、遺族に癒しを得る機会を与えてくださいました。B29爆撃機とグラマンTBMの乗組員のご冥福をお祈りします。
 これまでの七十年間で築きあげてきた絆が、今後もますます強まっていくよう、そしてその絆が、この地域における平和、安定、繁栄の維持に必要な将来の協調関係を日々思い出させてくれるよう、私たちはこれからも協調して歩みつづけます。
 平和と和解の過程が続くことは、私、そしてアメリカ合衆国の願いです。そして、ほかのどこよりもその過程が進んでいることを実感できる場所、それが日米同盟なのです。
  キャロライン・ケネディ
    中村有以[訳]

ハナミズキ
秋妻とアメリカを結ぶ絆となることを願い、キャロライン・ケネディ駐日大使より賜った「ハナミズキ」
千九百四十五年2月、異国に散ったB29スリックス・チックス号の操縦士カーネル・スローター大尉の縁者アルベルト・グリグノロ氏に依ってここに植樹される。
  平成28年4月

B29慰霊碑建立除幕式
日米合同追悼式
記念館

B29慰霊碑建立除幕式
日米合同追悼式
記念館

平成25年3月20日
清岩寺代表役員 木崎伸雄

とくに銘記がなかったが、隣の建屋がきっと記念館なのかな。。。

場所

https://goo.gl/maps/FNroaFbeZTs1BWU39


光林寺

邑楽郡邑楽町秋妻の秋妻山光林寺。


B29墜落ゆかりの寺碑(光林寺)

昭和20年(1945年)2月10日、太田市の中島飛行機の工場爆撃のために飛来した118機のB29のうち2機が空中衝突し、光林寺の西南600mの地点に墜落した。搭乗員23名が犠牲となった。搭乗員の遺体は光林寺の墓地に手厚く埋葬された。
戦後まもなく進駐軍が遺体を引き取りにきたが、光林寺にて丁重に葬られていた事に驚き、大変感謝したという。

B29墜落ゆかりの寺
 昭和20年2月10日午後3時過ぎ中島飛行機製作所太田工場を爆撃する為、サイパンのテニアン島を飛びたったB29編隊118機のうちの2機が、接触事故を起こし、当寺より西南約600mの秋妻田んぼに墜落しました。搭乗員23人は全員死亡が確認され、光林寺の本堂裏の墓地に横死者の供養の為手厚く埋葬されました。終戦後まもなく進駐軍が光林寺に駆け付け遺体を引き取って行きましたが、丁重に葬られていた事に驚き、大変感謝されました。
 以後毎年お盆の施餓鬼法要の時、歴代住職が檀徒の供養と共に(B29no)搭乗員の冥福を祈り回向しております。戦後74年を迎えた今日、戦争の記憶が薄れる中、今を生きている者の責務としてこの事実を碑に刻し、未来永劫世界平和を願い後世に残したいと思います。
  平成31年2月吉日
   秋妻山根本院光林寺
    B29墜落ゆかりの寺碑建立委員会

B29搭乗員埋葬地跡

本堂の裏手の墓地に、B29搭乗員埋葬地跡の墓碑があった。
平成31年2月吉日の建立。

場所

https://goo.gl/maps/TNtJUSUbHdoZzQa69


玉取神社

B29とは関係はないが、秋妻集落の鎮守様である玉取神社に興味深いものがあるので足を運んでみる。

御祭神:天児屋根命
創立は天長2年(825)。旧社格は村社。
藤原信綱が所領していたこの地を開いて、藤原綱義(大栄師)が天児屋根命を祀り、建立。
祖先の鎌足公が房崎の浦で竜宮から玉を取り得て日本の宝としたので、鎌足公を玉取明神として崇敬したという伝説に由来。

奈良時代、藤原鎌足に贈られるため船で運ばれていた宝の玉が瀬戸内で竜神に奪われてしまった。鎌足の子不比等は玉を奪還するために志度へ赴き、身分を隠して暮らすうちに海女と夫婦になり、子、房前をもうけた。海女は不比等の目的を知り、竜宮に潜って玉を取り戻そうとするが追撃にあって命を落としてしまう。そのとき海女は自らの乳房を切って中に玉を隠して持ち帰ったという。これが玉取姫の伝説。

浮標水雷缶(玉取神社)

昭和3年に「御大典紀念」として、海軍省から横須賀海軍軍需部在庫の廃兵器(水雷)を下付されたもの。

玉取姫の伝説に出てくる、龍宮から取り戻した「宝の玉」を模したモニュメントに見えますが、「浮標水雷缶」です。

今では「玉取神社」という社名と、浮標水雷缶の銀玉の形状がパチンコ玉にみえることから、パチンコ祈願の神社になっているとか、、、

場所

https://goo.gl/maps/997qycAvtnMH25Si9

※2023年1月撮影


B29慰霊関連

日露戦争の海軍三提督がお手植え「足利学校の月桂樹」

栃木県足利市。
下野国足利荘にある「足利学校」は、日本最古の学校として知られている国指定史跡。


足利学校

中世において足利学校は関東最高の学府であったが、明治維新後、足利藩は足利学校を藩校とすることで復興を図ったが、明治4年(1871年)、廃藩置県の実施により足利藩校である足利学校の管理は足利県(のち栃木県に統合)に移り、明治5年(1872年)に至って廃校とされた。明治5年(1872年)に廃校となっていた。

明治36年(1903年)に足利学校の敷地内に、栃木県内初の公共図書館である足利学校遺蹟図書館が設立。
そして大正10年(1921年)、残っていた足利学校の敷地と孔子廟や学校門などの現存する建物は「足利学校跡」として国の史跡に指定され、保存されることとなった。

平成2年(1990年)に建物と庭園の復元が完了。
平成27年(2015年)には、「近世日本の教育遺産群 ―学ぶ心・礼節の本源―」のひとつとして日本遺産に認定された。


海軍三提督のお手植え「月桂樹」

足利学校孔子廟(大成殿)前庭には、海軍三提督がお手植えした月桂樹がある。
明治38年(1905)9月に終結した日露戦争の1年後の明治39年(1906)12月23日の「釋奠」(孔子祭)の行事に海軍の三提督が参列。
参列した海軍の三提督は、伊東祐亨、東郷平八郎、上村彦之丞の三名。

なお、足利学校で孔子を祀る釋奠(せきてん)の行事は冬至の日(12月22日ごろ)に行われていたが、大正4年以降は11月23日に変更され、現在に至っている。

東郷平八郎お手植えの月桂樹

月桂樹
海軍大将 東郷平八郎 手植
明治39年12月23日

東郷平八郎
日露戦争時の連合艦隊司令長官。大日本帝国海軍連合艦隊を率いて日本海海戦で当時世界屈指の戦力を誇ったロシア帝国海軍バルチック艦隊を撃滅、完勝をして日本の勝利を導いた提督。

孔子廟大成殿の向かって左にお手植えの月桂樹がある。

伊東祐亨お手植えの月桂樹

月桂樹
元帥海軍大将 伊東祐亨 手植
明治39年12月23日

伊東祐亨
(日清戦争時の)初代連合艦隊司令長官。
日露戦争時は軍令部長として大本営で海軍を統括した。
明治38年(1905年)の終戦の後は元帥に列せられた。

上村彦之丞お手植えの月桂樹

月桂樹
海軍中将 上村彦之丞 手植
明治三九年12月23日

上村彦之丞
日露戦争では第二艦隊司令長官として、蔚山沖海戦でウラジオストク艦隊を撃破。
日本海海戦では、判断よくバルチック艦隊の進路を塞ぎ勝利に貢献した。

伊東と上村の月桂樹は並んでいる。

孔子廟大成殿の向かって右側に2提督の月桂樹。

日本最古の学校として、文の象徴であった足利学校に、当時の日本で最高の武を誇った海軍提督が揃って、祭礼に参加したというのもなかなか趣深い。

孔子廟(大成殿)

聖廟とも呼ばれ孔子を祀ってある廟。
建物の名称は「大成殿」で寛文8年(1668)足利学校第13世庠主伝英元教の時に造営

扁額「大成殿」は有栖川宮織仁親王の王子で、のちに京都知恩院門跡となった尊超法親王の書。

孔子坐像

小野篁公像

杏壇門

扁額「杏壇」は紀伊徳川家第10代藩主大納言徳川治宝の書。

学校門

寛文8年(1668)に創建され、現在、足利学校の象徴的な門。
扁額「學校」の文字は明の書家 蒋 竜渓 が来日した時の書を、当時の江戸国史館助教授の 狛高庸 が縮模。

孔子像

入徳門

足利学校に入る最初の門です。寛文8年(1668)徳川幕府第4代将軍家綱の時の創建であったが、火災焼失。現在の門は、明治の中頃に裏門を移転修築したものという。
扁額「入徳」は紀伊徳川家第11代藩主大納言徳川斎順の書。

方丈・庫裡


足利学校遺蹟図書館

足利学校伝来の書籍の保存を目的として明治36年(1903)3月に足利学校遺蹟図書館が発足し、大正4年(1915)に現在の建物が完成し開館した。

※撮影:2023年1月


戦時迷彩塗装の残る旧足利織物赤レンガ工場群(トチセン・足利)

栃木県足利市内に残る大規模煉瓦工場。
壁面に残る戦時迷彩塗装を見に行ってきました。

最寄りは東武伊勢崎線福居駅。私は東武足利市駅からレンタサイクルで赴いてみた。

なお、敷地内は通常非公開。
年一度11月頃に、足利市文化財一般公開時のみ公開されるという。


トチセン

国登録有形文化財 
トチセン(旧足利織物)
赤レンガ捺染(なっせん)工場・赤レンガサラン工場・汽罐室(ボイラー2基付)

 トチセンは、足利が織物産業で隆盛していた大正2年(1913)に足利織物株式会社として創業。同8年(1919)に明治紡績株式会社となり「明紡」として知られました。
 6連の鋸屋根が特徴の赤レンガ捺染工場は、イギリス積みのレンガ造平屋建で、鋸屋根破風部分の軒蛇腹や外壁側に突出した付柱(つけばしら)、出入口や窓等の開口部マグサ上に走る横材などに外観上の特徴があります。
 赤レンガサラン工場は、捺染工場同様レンガ造平屋建で、半円のドーマー窓が付いた切妻洋瓦葺の建物です。
 汽罐室(ボイラー室)は捺染工場の西に位置し、イギリス積みのレンガ積平屋建切妻スレート波板葺の建物です。内部には4基の蒸気ボイラーが設置されており、中央にある石炭を燃料とするランカシャーボイラーは、昭和16年(1941)に設置された創業期と同型のボイラーです。
 これらの建物に使用されているレンガには「上敷免製」の刻印が見られることから、渋沢栄一が中心となって創設した埼玉県深谷市の日本煉瓦製造の工場で製造されたものであり、東京駅や迎賓館に使われているレンガと同じものであることがわかります。
 また、建物の壁面全体に塗られた黒い迷彩柄は、終戦直前に空襲を避けるためのカモフラージュとして施されたものです。
 これらは、織物産業発展期に輸出織物の大量生産を目的として建てられた近代工場で、大規模な赤レンガ造工場建築としては唯一現在まで残されている貴重な建物です。
 足利市教育委員会

トチセン正面。

赤レンガ捺染工場

イギリス積みのレンガ造平屋建

赤レンガサラン工場

汽罐室(ボイラー室)

煉瓦は、渋沢栄一が中心となって創設した埼玉県深谷市の日本煉瓦製造の工場で製造されてものを使用している。ちょうど、利根川の対岸ですね。

思った以上に、戦時迷彩塗装が残っていました。これはなかなか見応えありますね。
一般公開の際にも訪れてみたいです。

場所

https://goo.gl/maps/T8qvi1gBGxe7Afvf8

※2023年1月撮影


関連

会社概要

http://www.tochisen.co.jp/company/

文化庁

https://kunishitei.bunka.go.jp/heritage/detail/101/00001407

文化遺産オンライン

https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/114487

足利市

https://www.city.ashikaga.tochigi.jp/site/bunkazai/tochisen-kyuahikagaorimono-akarenganassenkoujyou-akarengasarankoujyou.html

足利駅と足利散策

JR足利駅。
なんとなく足利を散策したいと思い、足を運んでみたら、これは近代建築ですね。
足利散策の小話とともに、掲載しておきます。
近代史としての足利散策はそれぞれ別立てにて。

正直って、都内から足利に行くには、JRよりも東武のほうが圧倒的に楽ではある。
今回は、JRの「休日おでかけパス」切符を使用した場合、足利まではフリーエリアのため、それを活用してみたという理由もある。


足利駅

明治21年(1888)5月22日、両毛鉄道の駅として開業。
昭和8年(1933)現在の駅舎が完成。
平成10年(1998)関東の駅百選に選定。選定理由は「歴史のある土地にありながらステンドグラスを使い開設当時の外国文化を表す洋風な建築模様が目をひく駅」。
平成20年(2008)7月25日、落雷直撃によって駅舎2階部分の一部を焼失。
平成26年(2014)駅舎観光美化工事
平成31年(2019)「現今の足利の礎を築いた交通・物流基盤施設、昭和モダンの風情と煌めきを留める歴史的建造物」として、土木学会選奨土木遺産に選定。

かつて庇の上のガラスはステンドグラスだったそうだけど、なくなってしまったようで。


以下、近代史からは逸脱するけど、なんとなく足利観光編をざっくり掲載。

EF60 123 形直流電気機関車

駅前に。かつて両毛線で貨物を牽引していた。

足利駅前の観光ガイドマップ。
「日本一の足利3名所」が4つあるなと思ったら、足利学校と鑁阿寺はセットのようでした。


鑁阿寺・足利氏邸宅跡

足利学校の隣にある鑁阿寺、(足利学校は別記事にて)

国史跡。足利氏の氏寺。また足利氏邸宅跡として、日本100名城のひとつにも数えられている。

鑁阿寺本堂(国宝)

建久7年(1196)に足利義兼が建立。
雷火により正安元年(1299)に再建。

鑁阿寺多宝塔(栃木県指定文化財)

開基足利義兼の創建。
元禄5年(1692)徳川五代将軍綱吉の母、桂昌院尼が再建と伝わるが、寛永6年(1629)までさかのぼることが判明している。。

鑁阿寺大銀杏

開基足利義兼のお手植えと伝わる。

鑁阿寺経堂(国指定重要文化財)

開基足利義兼の創建。
現在の建物は、応永14年(1407)に関東管領足利満兼の再建。

鑁阿寺鐘楼

開基足利義兼の創建。建久7年(1196)建立。
梵鐘は元禄年間の再鋳であるが、歴史的資料があるために、戦時中の金属供出は免れている。


征夷大将軍足利尊氏公像

平成3年造。

足利尊氏鎧

NHK大河ドラマ「太平記」での足利尊氏の鎧。


渡良瀬橋

現在の鉄橋は昭和9年(1934)の架橋。
昭和9年11月の大日本帝国陸軍の大演習が足利で開催される際に、従来の旧橋(木橋)では陸軍車両の走行に困難をきたすために、急遽で鉄橋として架橋された。

夕日までは、待てませんでした。。。

渡良瀬橋歌碑

森高千里の名曲、渡良瀬橋の聖地。

ボタンを押すと、曲も流れます。

八雲神社

足利の氏神様。足利総鎮守。

貞観年間(859-876年)に、佐野唐沢山城主であった藤原村雄(秀郷の父)が夢のお告げにより素盞嗚男命他二神を祀ったのが始まりとも、貞観11年(869)に清和天皇が夢のお告げにより右大臣藤原基経に命じて祀らせたともいわれている。
平成24年(2014年)出火により社殿全焼。
平成29年(2017年)内宮別宮の月讀荒御魂宮から式年遷宮の古材を譲り受け社殿を再建。

お参りしてきました。

足利織姫神社

現在の社殿は、昭和12年(1937)の再建。
祭神は天御鉾命(服部連祖)と八千々姫命。

社号標は、金子堅太郎の謹書。

昭和12年の社殿。

足利の街並み。

渡良瀬橋と足利男山。
山頂の男浅間神社の社殿も見えますね。
昭和10年築のRC造(鉄筋コンクリート造)。

足利織姫神社といい、男浅間神社といい、戦前のRCA造の社殿は、都内以外では珍しい建造物。

足利と足利織物の歴史

樅山唯四郎君像

これは台座、ですね。。。供出されたようです。
樅山唯四郎(1861-1922)は、足利の発展に尽力し、学校の設立や、織物組合を立ち上げたりしている。

足利駅と渡良瀬橋以外は、近代史跡の要素はないですね。
もっとも、足利織物を掘り下げれば、そこは近代史の範疇ですが、、、

※撮影:2023年1月


「昭和天皇祭(山陵に奉幣の儀)」34年目の昭和天皇武蔵野陵に拝する(令和5年1月7日)

昭和64年(1989年)1月7日午前6時33分。
国民の祈りの中で、
昭和の天皇陛下は御崩御あそばされた。

あの日から、34年。

今年も、 昭和天皇 武蔵野陵(しょうわてんのう むさしののみささぎ)へ参拝をいたしました。そして、昭和記念公園の「 昭和天皇記念館」にも足を運んできました。

昭和から平成、そして令和へと、時代は移り変わるも、決して忘れてはいけない昭和の記録を伝承し、そして歴史として、後世に紡いでいくために。


昭和天皇 武蔵野陵(むさしののみささぎ)

昭和天皇 武蔵野陵 
昭和六十四年一月七日午前六時三十三分崩御 平成元年二月二十四日斂葬

陵内には幔幕(青白の浅黄幕・神事での葬祭)が張られ、祭祀の為の仮屋が設けられております。


昭和天皇祭(山陵に奉幣の儀)

祭礼に関する撮影は一切禁止、です。
午前9時半頃より、一般参拝が停止され、祭員参進が始まります。
午前10時より、「山陵に奉幣の儀」が奉祭されます。
おわるのは、午前10時30分から11時の間くらい。
祭員が退出次第で、一般参拝が再開されます。

祭祀は、神道式。

  • 祭員参進
  • 式部官参進(宮内庁式部職)
  • 招待者参進
  • 皇族代表参進 (本年は、 秋篠宮佳子内親王殿下)
  • 勅使参進
  • 献饌(奏楽)
  • 勅使拝礼(奉幣)
  • 皇族代表拝礼
  • 招待者拝礼
  • 撤饌(奏楽)
  • 勅使退出
  • 皇族代表退出
  • 招待者退出
  • 式部官退出
  • 祭員退出

祭礼の全容は把握できていませんが、おそらく上記の流れ。

一般参拝再開直後。午前10時45分頃。

静謐な空気のもと、 昭和天皇に拝礼をしてきました。
ありがとうございました。


関連ニュース記事

一般参列者は撮影禁止でしたので、マスコミ代表撮影の記事を掲載しておきます。

https://www.fnn.jp/articles/-/467753

https://www.yomiuri.co.jp/koushitsu/20230107-OYT1T50117/


香淳皇后 武蔵野東陵(むさしののひがしのみささぎ)

大正天皇 多摩陵(たまのみささぎ)

貞明皇后 多摩東陵(たまのひがしのみささぎ)

武蔵陵墓地


多摩御陵参道

カラーコーンも幔幕(青白の浅黄幕)


南浅川橋

昭和11年(1936年)に設置されたコンクリートアーチ式の橋です。南浅川に架り、多摩御陵(武蔵陵墓地)への参道となっています。御陵参道の橋であるため、威厳のある形式と周辺の自然との調和を考慮したデザインが施されているのが特徴。

https://www.city.hachioji.tokyo.jp/kankobunka/002/003/p003407.html

橋歴
「東京の著名橋・南浅川橋」
 大正15年(西暦1926年)12月25日大正天皇崩御により、当時の東京府南多摩郡横川村・浅川村および元八王子村(元八王子市長房町・甘里町・元八王子町)地域に御陵所の造営が決定した。これに伴い、東京府が八王子駅と浅川(現高尾)駅間の仮駅から御陵(多摩陵)に至る参道新設を行い、南浅川に全長約87mの木橋が架けられ、南浅川橋と命名されたのが始まりである。
 現在の橋は、昭和11年(西暦1936年)の大正天皇十年式年祭にあわせて、東京府が木橋を架け替えたものである。構造形式は関東大震災後の東京(帝都)復興時に開発されたコンクリートラーメン橋台のコンクリートアーチ橋で、御陵参道の橋として、威厳のある形式と周辺の自然との調和を考慮した意匠が施されている。
 昭和64年(1989年)1月7日の昭和天皇崩御、武蔵野陵造営にあわせて、平成元年2月に東京都が南浅川橋の洗浄・補修、参道の整備を行った。

南浅川橋(コンクリート橋)
昭和11年12月竣工
全長 53.3m
幅員 21.4m
構造 鉄筋コンクリート橋
形式 コンクリートラーメン橋台・固定アーチ橋

1993年1月 補修
東京都
施工 吉田建設株式会社

東京府建造
昭和11年12月完成
合資会社 清水組


多摩御陵参道(武蔵陵墓地参道)入口


陵南会館(東浅川駅跡・東浅川仮停車場跡)

この地には、東浅川駅があった。
東浅川駅は、大正天皇の大喪列車用の臨時駅として開設された皇室専用の駅で、社殿造の駅舎であった。
昭和35年(1960年)に廃止となり、八王子市に払い下げされ、公民館「陵南会館」となっていた。
平成2年(1990年)に、新左翼の皇室テロによって爆破されてしまった。

陵南会館

石碑があった。

1964
オリンピック東京大会 自転車競技この地で行わる


高尾駅

大正天皇の大喪列車の始発駅として「新宿御苑に設置された仮設駅舎」を移築したもの。

八王子の富士森公園の大正殿は、大正天皇多摩陵での「大喪の儀」で「祭場殿」として使用された建物の移築。


昭和天皇記念館

せっかくなので、立川の記念館にも足を伸ばしました。
高尾と立川は、中央線で一本ですし。

https://f-showa.or.jp/museum/

館内は撮影禁止

今回、ボールペンを追加購入したかったのですが、売り切れでした。写真のボールペンは以前に購入したものです。(仕事用で愛用しています)

そのため、かわりにまだ戴いていなかった目録とハンドタオルなどを戴きました。

昭和天皇のお印は「若竹」

昭和天皇記念館は、武蔵野陵参拝とセットでいつも足を運んでしまいます。


関連

「敵機侵入を察知した聴音壕」大月防空監視哨跡の散策

2022年8月に大月から富士急で河口湖に赴いていました。
河口湖飛行館に行きたかったので。

そのときに大月の防空監視哨跡に赴こうかなと思っていたのですが、夏場で草むらが心配だったということもあり、そのときはやめときました。
そうして、行こうと思ったところを、先延ばしにしていると、気になるもので、飛行館の記事を遅ればせながらで、ようやく掲載したところで、どうしても記事にしたくなりましたので、大月まで足を運んでみました。


大月防空監視哨跡(聴音壕跡)

おむすび山の展望台に穴が空いていました。これが、「聴音壕」の跡。

大月防空監視哨跡
日本は昭和一六年(一九四一年)一二月アメリカ・イギリス等に宣戦布告をし、第二次世界大戦に突入した。
緒戦こそ戦果が上がったが軍事も経済も豊かな連合軍にかなうはずもなく、昭和一七年のミッドウェー海戦に敗れてからは不利を余儀なくされた。
昭和一七年米爆撃機による本土初空襲があり、空の守りとして「民防空監視隊」が組織された。その時山梨県には甲府・大月・南部に監視隊本部が設置され、その下にそれぞれ一五・一〇・七の監視哨が置かれた。
大月監視隊本部は、昭和一八年暮れに猿橋から大月へ警察署と共に移転し、傘下には、丹波・西原・上野原・七保・大月・笹子・谷村・吉田・精進・河口の各監視哨があった。監視哨は、哨長一名監視隊員九名で編成され、三交代で昼夜を分かたず空の守りについていた。
その役割を、昼は二名で双眼鏡で空を監視し、夜は一名が監視、一名は聴音壕の中で飛行機の音を聴き飛んでいる方向や機種を探り、一名は電話番としてキャッチした情報を本部に伝えるという、分担制で果たしていた。
左にある縦穴は聴音壕の、右の平らの部分は事務所のあった跡である。
監視隊本部では、各監視哨からの情報を、女子隊員が警察電話を使い、直通で東部軍管区へ通報した。
東部軍管区では、これらの情報を、警戒警報や空襲警報を発令したり、立川にある飛行集団本部に連絡し、迎撃の飛行機を発進させたりする判断の資料とした。
昭和一九年サイパン島が占領され、そこから飛び立つアメリカ爆撃機B29は富士山を目標に北上し、東に折れて京浜方面へ、西に進んで中京方面へ向かうという進路を取るようになり、大月の監視哨の役割は重要性を増してきた。
昭和一九年から二〇年にかけて、B29による本土爆撃は三五三回におよび、東京をはじめ二〇〇近くの都市が空襲され、八月には広島・長崎に原爆が投下された。
八月一五日敗戦。「国破れて山河あり」、そして疲弊という無謀な戦争によるつけも残った。
戦後半世紀を経た今、この地から望める大月の町を眺めるにつけ、世界平和が続くことを祈らずにはいられない。五〇年前の苦しみを平和への一里塚ととらえ、この記念標を建てた。
決して戦争賛美の為ではない。
(この文は、当時の大月監視隊本部隊長山口明男氏の貴重な体験談をもとに作りました。)
 平成三年
  大月公民館

大月防空監視哨跡

縦穴は「聴音壕」
夜間に、聴音壕のなかで、飛行機の音を聴くことで、飛んでくる方向や機種を探り、取得した情報を大月監視隊本部に電話にて連絡した。

下に降りてみた。結構深い。。。

面白い石の積み方。

開けた場所は、事務所が置かれていた。

富士山が見えました。

大月の街並み

桂川から。通称「おむすび山」。

ちなみに夏はこんな感じになります。
このとき(2022年8月)は、山の様子だけみて、疲れていたので、登るのはやめました。。。
そうして、2023年1月にリベンジしたわけです。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-R1232-51
1948年3月31日、米軍撮影の航空写真。

該当部分を拡大。

現在の様子。

ちなみに、聴音壕は、はっきりみえる。


行き方

JR大月駅。背後には、岩殿山。岩殿城址がある。
そして、中央戦ユーザーが恐怖の終電乗り過ごしで「大月行」となってしまった場合に、救いとなるらしいビジホが力強くそびえています。

大月駅

大月駅から、15分くらい歩きます。
桂川をわたって、大月市民病院が見えてきたら、その裏山。

病院の脇の道路をあがっていけば、、、

ここが入口。

登山口です。ちょっとした山登りがまってます。

おむすび山展望台登山口
(旧陸軍防空監視所跡)

高川山へ登る登山道の通りに「おむすび山」がある。

このうえに、防空監視哨跡がある。

かたくり群生地、だそうです。

登山口から、おむすび山の山頂までは、15分くらいの登山でした。そうすると駅からは30分くらいですね。

場所

https://goo.gl/maps/VRtUNL3of9PtDHG29

※撮影:2023年1月


河口湖自動車博物館・飛行舘(2022年8月版)

2022年8月、「河口湖自動車博物館・飛行館」に赴きました。
毎年8月の1ヶ月間のみ公開される博物館。前々から気にはなっていましたが、ようやくに赴くことができました。


「河口湖飛行館」に関しては、多くの記事がありますので、写真中心に。

2023年の記事は下記にて


河口湖自動車・飛行館

山梨県南都留郡鳴沢村富士桜高原内にある自動車および航空機の博物館。
原田信雄氏が私費を投じて設立した博物館で、毎年8月の1ヶ月間だけ開館している。

https://www.car-airmuseum.com/index.html


零式艦上戦闘機52型(靖國神社遊就館)

冒頭から脇道です。。。

ちなみに、靖國神社遊就館に保存されている零式艦上戦闘機52型の復元に携わったのも、「河口湖自動車博物館・飛行館」であった。(2002年、靖国神社ご創立130年記念のため遊就館に奉納)


F-86F-40 セイバー

飛行館の脇で出迎えてくれるのは、航空自衛隊創設期の主力戦闘機「F-86」。


飛行館・入口

ケイタイ電話の撮影のみOK!

デジカメとかは駄目。
最近はスマホカメラも機能向上しているから、それなりの写真は撮れるかな。そんなわけで本記事は、すべてスマホ写真となります。(スマホ=Motorola moto g PRO)

なにかのプロペラ


飛行館・館内

さっそく目に飛び込んでくる情報量の多い空間に圧巻。
まずは2機の「隼」

一式戦闘機 隼1型

天井に展示されている隼1型。
中島飛行機が開発。第日本帝国陸軍を代表する戦闘機。

一式戦闘機(ハヤブサ)1型
上昇力や加速力では、ゼロ戦をも上回る性能を持つ、旧日本陸軍の戦闘機で、日本でハヤブサを見られるのは、この飛行館だけです。
ゼロ戦が海軍機として造られたのと動揺に、陸軍機として造られたのが、このハヤブサです。抜群の性能を持つこれらの2機は、同じエンジンを搭載し、旧日本軍の主力戦闘機として運用されました。2枚のプロペラが、ハヤブサ1型の特徴です。

一式戦闘機2型(6750号機)

無塗装で展示されているのは隼2型。プロペラは3枚ですね。

一式戦闘機(ハヤブサ)2型
ゼロ戦52型と同じパワーアップしたエンジンを搭載しているため、エンジンカウリングの形状が異なり、プロペラが3枚に変更されているのが、1型との大きな違いです。天井展示の1型と比べてください。
この機体は1944年にニューギニアで米軍に捕獲され、性能調査が行われました。調査の結果、ハヤブサは操縦が容易で、旋回性能はいかなる連合国機より優れていると米軍は評価しました。


艦上偵察機 彩雲 11型1290号機

中島飛行機が開発。大日本帝国海軍の艦上偵察機。
実用化した海軍機の中で、彩雲は海軍最速機として陸上偵察機としても活用され、米軍機の追跡を振り切った際に「我ニ追イツクグラマン無シ」の名言も残っている。

1944年に愛知の半田製作所にて量産が開始。半田1号機は1944年6月に完成。終戦までに463機生産(半田では427機)されたという。

河口湖飛行館とアメリカ国立航空宇宙博物館(非公開)にのみ現存。
河口湖飛行館では、彩雲の復元作業に着手している。

彩雲の水平尾翼・垂直尾翼の復元。昨年2021年は胴体中央部が公開。少しずつ、復元が進んでいる。

彩雲の右主脚部


特殊滑空機 桜花11型 I-16

機首部に大型の徹甲爆弾を搭載した小型の航空特攻兵器。
母機(一式陸攻)に吊るされて目標付近で分離し発射される。その後はロケット推進で加速し、搭乗員が目標に誘導して体当たりを決行する。

桜花
特攻機、人間爆弾です。
米国ではBAKA BOMBと呼ばれた。
大型艦を一撃で大破させることが可能な1.2トンの大型爆弾を搭載した特攻専用の航空兵器です。
一式陸上攻撃機に吊るされた桜花は、標的付近で切り離され、人間の操縦により体当たりをしました。ロケットエンジンの搭載で急降下時には時速800km以上の猛スピードで敵艦に向かうために、連合軍は迎撃不可能と判断し、攻撃目標を切り離し前の一式陸上攻撃機に変更したほどです。


一式陸上攻撃機(一式陸攻)22型

大日本帝国海軍の陸上攻撃機。略称は一式陸攻。開発は三菱。
日本海軍の主力陸上攻撃機として活躍した。
河口湖飛行館では、12017号機、尾翼番号 62-22の機体を、現在は尾翼番号 「龍41」と塗装し、主翼を除いて復元展示している。
「龍」は第761海軍航空隊所属機。絶対国防圏防衛の主力爆撃機隊として、太平洋戦争終盤にマリアナ諸島およびフィリピンで哨戒・爆撃・雷撃行動に従事した。

一式陸上攻撃機22型
太平洋戦争海鮮から終戦まで、爆撃、低朝つ、輸送と大戦全般のあらゆる場面で運用されました。海軍大将の山本五十六元帥が最期に登場した機体としても有名です。
全長20mにも及ぶ大型機でありながら、優れた設計により幕軍の操縦性を実現した傑作機です。2,400機もの一式陸上攻撃機が生産されましたが現存する機体はmこの展示機のみです。

尾部の旋回機銃

一式陸上攻撃機の内部。

乗員出入り口を開放するとこうなる。
日の丸の部分が扉だったのですね。

前方の旋回機銃。

上方にも旋回機銃を備える。

一式陸攻の機首。曲線美。

これは、すごい。

前方視界が、ある意味で恐怖な、一式陸攻。
前に居たくない。。。

火星二一型(一式陸攻用エンジン)

今でもオイルがたれているエンジン。

91式航空魚雷(一式陸攻用魚雷)


零式艦上戦闘機(ゼロ戦)52型

大日本帝国海軍の主力戦闘機。零戦。開発は三菱。
河口湖飛行館では4機の零戦を復元し、1機は靖國神社遊就館に奉納。残り3機を展示保存している。

零戦52型1493号機「豹187」
昭和19年(1944年)5月頃、中島飛行機にて製造。栄三一型エンジン、四式射爆照準機などを装備した後期の機体。

零式艦上戦闘機(ゼロ戦)52型 
強力なエンジンの搭載で、最高速度は21型より30km/h向上の560km/hにも達した後期型モデルのゼロ戦です。
エンジンのパワーアップに伴う大型化したエンジンカウリングと折り曲げ機構のない主翼先端が21型との大きな相違点です。21型と違いを較べて見てください。
展示機は、1,150馬力の最終型「栄31型」エンジンを搭載しています。

栄エンジンがわかるように展示。

栄発動機31型(中島)


栄12型 ゼロ戦用エンジン

世界で、回る唯一のエンジン。
中島飛行機が開発。零戦や隼に使用された。

エンジンが生きている証。オイルが下にポタポタと。


九三式中間練習機

大日本帝国海軍の練習機。愛称は「赤とんぼ」。開発は川西飛行機。

九三式中間練習機
天井展示の複葉機は、旧日本海軍の操縦士養成用練習機です。
海軍のパイロットはこの機で、高度な操縦技術を身につけました。
三菱や中島飛行機など海軍と関係を持つほとんどの航空機製造メーカーにより、5,800機もの機体が生産されています。
練習中に海に落ちても見つけやすいよう、尾翼が朱色に塗られていたことから、通称「赤とんぼ」と呼ばれていました。


零式艦上戦闘機(ゼロ戦)21型

大日本帝国海軍の主力戦闘機。零戦。開発は三菱。
河口湖飛行館では4機の零戦を復元し、1機は靖國神社遊就館に奉納。残り3機を展示保存している。

スケルトン状態の21型92717号機

零式艦上戦闘機(ゼロ戦)21型
昭和19年4月頃に生産された末期の21型です。
既に後期型モデルである52型の生産は始まっておりましたが、この頃までは中島飛行機により、21型も製造されておりました。
ゼロ戦の内部構造がわかる貴重な資料として残すため、できる限りのオリジナル部品を装着し、外板を張らない骨組みの状態で展示しております。

それにしても情報量が多い。。。


四式戦闘機 疾風(方向舵)

大日本帝国陸軍の戦闘機。四式戦闘機。開発は中島飛行機。


特殊攻撃機 剣(外板)

大日本帝国陸軍の特殊攻撃機(特攻機)。開発は中島。生産は昭和飛行機も参加している。生産は105機であったが、実践には使用されなかったという。陸軍名称は「剣」、海軍名称は「藤花」であった。


アツタ21型(艦上爆撃機彗星用エンジン)

愛知航空機が製造。ドイツのダイムラー・ベンツDB601のライセンス生産。


金星11型(九六式陸上攻撃機用エンジン)

三菱が開発。大日本帝国海軍の主力エンジン。


誉11型(銀河用エンジン)

中島飛行機と海軍空技廠が開発。中島飛行機の最後の量産航空エンジンでもあった。


誉11型(彩雲用エンジン)


栄12型(零戦21型用エンジン)


栄12型(零戦21型用エンジン)

製造番号12515


落下増槽燃料タンク

鉄板製タンクと木製タンク

鉄板製タンク

木製タンク


水上偵察機 零式観測機(フロート)

三菱が開発した水上偵察機。


零式艦上戦闘機(ゼロ戦)21型

大日本帝国海軍の主力戦闘機。零戦。開発は三菱。
河口湖飛行館では4機の零戦を復元し、1機は靖國神社遊就館に奉納。残り3機を展示保存している。

21型91518号機、尾翼は「AI-101」塗装(一航戦赤城の戦闘機1番機)になっている。

零式艦上戦闘機(ゼロ戦)21型
ゼロ戦は旧日本海軍の主力戦闘機で、21型は初期型モデルです。
抜群の運動性能を誇り、ゼロ戦の名を世界中に広めました。
尾翼に記された「AI-101」は真珠湾攻撃の際、空母赤城より出撃したエースパイロット板谷少佐の機番です。
展示機は90%以上ものオリジナル部材を使用して復元されており、本物のエンジンが装着された世界唯一の機体です。

零式艦上戦闘機
零式艦上戦闘機(艦上機:航空母艦から発着可能な航空機)、通称ゼロ戦は昭和12年(1937年)三菱重工、大江工場にて堀越二郎氏を主任設計者として開発が始まった。
約2年の猛スピードで試作機が完成。翌年の昭和15年7月には、正式に海軍戦闘機として採用される。ゼロ戦(零戦)の名称は、昭和15年が旧暦、皇紀2600年である、その年号最後の数字が”0”であることから、そう呼ばれた。
・最高速度550km/h(世界的なレベルは500km/h)
・航続距離2,500km(世界的な距離は500km以下)
・20mm機関砲2門と、最大の機銃を装備
そして、他に類を見ない、抜群の運動性能などから、世界一のゼロ戦と呼ばれた。

このような機械の設計・開発を行った堀越二郎氏は操縦ができなかったと云われているが、ゼロ戦の隅々までに”美”を追求した、芸術家であったとも云える。
制作から75年経過した現在でも、美しい機体をもつゼロ戦は世界的に人気が絶えない。
ゼロ戦は21型から、22型、32型、52型、62型と5回もの設計変更が行われたが、最初に設計された21型が、一番性能が良かったと云われている。
初期型のゼロ戦は空の雲の色に溶け込むように機体色はグレーであったが、後期型からは主に熱帯のジャングルで使用された為、グリーンに塗装されている。
約10,000機も作られたゼロ戦だが、現在は30機のオリジナルのゼロ戦と、1990年にロシアとアメリカで完成した3機の新造機(エンジンはアメリカ製)のみが残されている。
日本では10機ものゼロ戦が保存されているが、残念ながら何れも飛行できる状態ではない。アメリカでは飛行機は飛ばすものとの考えから、航空祭などで我々を楽しませてくれているのだが、悲しいことに我が国では、完全なゼロ戦でも”キケン”とされ、航空局から許可が出ないのが現状である。

復元前の機体の翼端

オリジナルの下地。1944年の段階では資材不足のために、内部塗装はしていなかった。

折り畳み翼端が、21型の特徴。

尾翼の「AI-101」


ライト兄弟1号機「フライヤー1」

飛行機時代の開幕。

1903年(明治36年)12月14日、ライト兄弟の第1号飛行機「フライヤー1」が人類最初のエンジン付き飛行機による飛行に成功した。


GE J79(F104用ジェットエンジン)

空冷のガソリンエンジンから、全く新しいジェットエンジンへと。


戦時下のポスター

戦時下の啓蒙活動。いろいろ。


富嶽

6発の超大型戦略爆撃機。中島飛行機が設計をすすめるも、戦局悪化で開発中止。


ラバウル航空隊ジオラマ

昭和17年のころをジオラマで再現。


そのほか

いろいろ。


野外展示

T-6 テキサン

S2F-1トラッカー

H-19 チカソー

T-33A シューティングスター

F-86F セイバー(ブルーインパルス)

C-46D コマンドー


1190形蒸気機関車

1923年(大正12)のドイツ・コッペル社製の蒸気機関車。
2両が輸入され、鶴見臨海鉄道301号機、302号機となるも、鶴見臨海鉄道は戦時買収で国有化され、1190形となった。1190形は1950年に三井埠頭に譲渡され、1968年まで使用された後、廃車後に河口湖自動車博物館で展示されている。


F-104DJ

河口湖自動車博物館のうえにも飛行機が。
今回は、飛行館のみを見学しました。自動車は余り興味が沸かなかった、、、ということもありましが。


お土産

零戦21型に、隼1型に、一式陸攻22型で。

ここはすごいです、これはまた来たいです!
歴史遺産、戦争遺産を修復復元して後世に伝承する現在の工廠ですね。
彩雲も楽しみ、です。

※撮影:2022年8月


関連

靖國神社の新春初詣(令和5年)

令和5年(2023年)正月元日。
靖國神社に初詣。

初詣

良き青空の年始め

令和癸卯

新春初詣の正式参拝を。

御本殿には、 明治天皇が明治7(1874)年1月27日に、初めて招魂社をご参拝された際に詠まれた御製が奉書された御宸筆の扁額が掲げられている。

年のはじめに、改めて御本殿の扁額に接する。

我國の為をつくせる人々の
 名もむさし野にとむる玉垣

※2019年特別展にて写しを撮影

御本殿の神鏡(明治10年11月14日の臨時大祭にて御親拝された 明治天皇の幣帛料で制作された。

※2019年特別展にて写しを撮影

国家のために尊い命を捧げられた人々の御霊みたまを慰め、その事績を永く後世に伝えるお社。

感謝と哀悼を。

甘酒を頂戴しました。

振る舞い酒を頂戴しました。

正月の風物詩。

遊就館に。ちょっとデザインが変わりましたね。

C5631の正月飾り。

チハにも正月奉納

新しい年への祈り
まごころこめて
初詣は靖国神社へ

菊の御紋

参道の賑わい

社務所

神門

第二鳥居

大村益次郎の広場には屋台も。

参道

迎春 靖國神社

初詣は靖國神社へ

令和五年冬季限定刺繍朱印

大鳥居


初詣でお頒かちいただいた授与品

正式参拝のおさがりで、黒豆(大納言甘納豆)は初めていただきました。

令和五年冬季限定刺繍朱印

刺繍が美しいです。梅と鶯。

令和癸卯の祝枡

毎年、いただいている「桜みくじ」

毎年、お守りが増えていきます。。。


関連

武蔵航空吉田工場跡と河口湖散策(富士吉田)

山梨県の富士吉田にも、軍需工場があった。
工場の跡地に、空襲の犠牲者の慰霊碑があるというので、足を運んでみた。


武蔵航空吉田工場(武蔵航空株式会社吉田工場)

富士北麓は、もともと軍需工業とは無縁の地域であったが、戦争末期になると、立川地区の航空機工場の疎開先として、当時の下吉田町(現在の富士吉田市)は1943年以降、一大軍需産業地帯と化した。
富士吉田市の竜ヶ丘自治会館周辺には、「武蔵航空吉田工場」があった。中島飛行機武蔵工場の下請けとして、勤労動員学徒を含む約2000名が海軍双発陸上爆撃機「銀河」尾翼の組み立てや発動機の修理、特攻日の整備なども行っていたという。


富士吉田空襲

1945年7月30日。午後1時半頃。
富士吉田にあった武蔵航空吉田工場に米軍機グラマンF6Fが襲来。
工場にいた15歳から39歳の工員12人が犠牲となった。
1945年8月13日にも空襲があり、工場は全壊となった。(人的被害はなかった)


武蔵航空工場被爆殉難者之碑

武蔵航空工場被爆殉難者之碑
  題字 西山巧記
太平洋戦爭の末 此の地に二萬坪の敷地を整地して広大な工
場が建ち竝び勤労学徒隊を含めて二千余名の者が航空機の生
産に從つて居りました 昭和二十年七月三十日午後一時突如
として米軍艦載機数編隊の襲撃を受け一瞬にして十二人の貴
い生命を喪い二十余人の負傷者を出すという惨事に至りまし
た 旧字えて八月十五日終戦を迎え爾來星霜十有二年 工場跡
は一望の水田と変り世人の記憶も漸く薄れゆこうとする時
元從業員一同亡き友を偲んで記念碑建立のことを発起しまし
たところ 過去十二年間朝夕にねんごろな供養を續けてこら
れた元社長西山巧記殿の絶大なご協力と県市当局並びに有志
縁故多数の方々の御力添によつてここに成就することを得ま
した 謹んで十二柱英靈の御冥福を祈る次第であります

昭和三十二年七月三十日
 為十三年忌法要供養建立

富士吉田空襲で犠牲となった12名のお名前が刻まれている。
合掌。

場所

https://goo.gl/maps/pW9CuAnGtZoukFdL7


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-R772-37
1948年1月3日、米軍撮影の航空写真。

上記から抜粋及び加工

現在の様子


河口湖

せっかくだから河口湖に寄り道。

河口湖シンボル像「源泉」
北村西望の終生最期の作品。

場所

https://goo.gl/maps/cqHUmtF1zDuJ5DoF9


富士山麓電気鉄道「モ1号」

昭和4年(1929)に富士山麓電気鉄道が線路開業した際に新造した車両。

河口湖駅

トーマスですね。

大月駅

察しの良い人は、富士吉田とか河口湖で、わかるかもしれませんが、「河口湖自動車博物館・飛行館」に行くのがメインでした。その記事はまた別立てにて。

※撮影2022年8月


英国輸入の大阪鉄道6号蒸気機関車(明24・西武鉄道3号・昭和鉄道高校)と池袋散策

池袋はなにげに鉄道にゆかりのある街。黎明期の鉄道を軸に、ちょっと散策してみた。


昭和鉄道高等学校に保存されている明治期の蒸気機関車。

西武鉄道3号機関車

1891年に輸入され、「大阪鉄道6号機」として運用。
1900年に大阪鉄道は関西鉄道に買収され、関西鉄道「駒月57号機」となった。
1907年に関西鉄道が国有化された後は、「220形220号機」と改称。
1917年に多摩鉄道に譲渡され、「A1号機」と改称。
1927年に、多摩鉄道は西武鉄道に合併。
1944年に「西武鉄道3号機」と改称。
1956年3月に日本ニッケル鉄道に貸与。
1956年10月に後身の上武鉄道に譲渡され、「上武鉄道8号機」と改称。
1965年に廃車となり西武鉄道に返却。同年に西武鉄道から昭和鉄道高校に寄贈。

西武鉄道3号機関車
1891(明治24)年イギリスのダブス社で製造された車両配置が1B1型のタンク蒸気機関車です。
大阪鉄道が輸入し、1900(明治33)年大阪鉄道が関西鉄道に吸収されたために関西鉄道に移り「駒月」の形式名で活躍しました。
1907(明治40)関西鉄道が国有化され、形式220(No,220)と改称、活躍の場が神戸付近に移りました。
1917(大正6)年に廃車。その後、多摩鉄道(のちに西武鉄道に併合)に譲渡され、A1の番号をつけて使用されましたが、晩年は埼玉県にあった日本ニッケル鉄道でも走り、1965年(昭和40)に廃車という経歴を持っています。
1967(昭和42)年に西武鉄道から寄贈され、ここが安住の地となりました。
機関車重量25.14t、動輪直径が1.219mmの小さな車体ですが、日本の鉄道の歴史を物語る、大変貴重な蒸気機関車です。

敷地外から見学

※撮影は2022年12月

ちなみに2021年は、無限列車になっていました。。。(以下のみ ※撮影は2021年2月)


昭和鉄道高等学校

校名に鉄道がはいる日本で唯一の高校。

帝都高速度交通営団丸ノ内線 モハ500形685号

近代史ではないけど、豊昭学園には、もう1両、保存車両がある。

※2022年12月撮影

場所

https://goo.gl/maps/f2jce3WvmZW9ioih6


明治天皇御野立所跡

昭和40年8月吉日建立。
明治8年12月27日、明治天皇が板橋での近衛兵の演習を天覧された際に、この地で休息されたことを記念している。
これは通りすがりだっったので、なんとなく掲載。

ちょっと摩耗していて読みにくい。。。

※2021年2月撮影

https://goo.gl/maps/penFCYfzyLdMZc6t7


東京鉄道教習所跡・東京鉄道中学跡

メトロポリタンプラザは、芝浦工業大学高等学校跡地を再開発したエリア。

さらに遡ると、明治から太平洋戦争後にかけて存在した鉄道院、鉄道省、運輸通信省鉄道総局、運輸省鉄道総局、日本国有鉄道の職員養成機関があった。

動輪の由来
ここにはかつて東京鉄道教習所があり、広大な敷地に校舎、大講堂、図書館、プール、寄宿舎など立派な施設が完備され、多数の鉄道マンが勉学にいそしんだ場所である。
 当時の所在地 東京府北豊島郡西巣鴨町字池袋
 敷地及び建物 約37000平方米の敷地に校舎、大講堂、寄宿舎など約100棟の建物があった。
 存在した時期 大正13年(1924年)~昭和29年(1954年)
またこの地は鉄道開通50年記念事業の一環として設立認可された財団法人鉄道育英会により設立した東京鉄道中学が東京教習所内に開校し、後に東京育英中学、東京育英中学校、東京育英高等学校、芝浦工業大学高等学校と改称し、昭和57年まで存在していた場所でもある。
 存在した時期 大正13年(1924年)~昭和57年(1982年)
これらの施設は昭和20年4月14日の東京大空襲で一旦焼失した。
なお、この地は成蹊学園発祥の地でもあり、若者と教育に由緒深い土地柄である。

ルミネの入口の脇に。

※2021年3月撮影

場所

https://goo.gl/maps/hSc69bd8vEDokGYFA


池袋関連

自由学園明日館

英国輸入の鉄道院403号蒸気機関車(明19・西武鉄道4号・芝浦工大付属中学高校)

豊洲にある芝浦工業大学付属中学高等学校100周年記念事業として、西武鉄道から寄贈を受けた「旧鉄道院403号蒸気機関車」が、2022年11月に復元保存公開されましたので、足を運んでみました。


鉄道院403号(西武鉄道4号)蒸気機関車

2022年11月12日。
芝浦工業大学が西武鉄道から寄贈を受けた元鉄道院403号蒸気機関車を、芝浦工業大学附属中学高等学校の新豊洲校地にて保存一般公開を開始。
2022年に100周年を迎えた芝浦工大附属中高は、1922年に鉄道省設立の「東京鐡道中学」を前身としている。この縁にちなんで、今回、西武鉄道から寄贈があった。
403号蒸気機関車の車両展示とあわせて、港区教育委員会とJR東日本から寄贈を受けた「高輪築堤」の海側の築石を土台として活用。
さらに、博物館明治村の協力のもと、汽笛及び走行音を動態保存されている蒸気機関車9号から採音して定刻に鳴らすようにもなっている。

鉄道院403号(西武鉄道4号)蒸気機関車
403号の概要
 1886年(明治19年)にイギリスのナスミス・ウィルソン社で製造された400形の1両です。
 同一設計車として500形・600形・700形(鉄道作業局A8形)など存在しており、いずれもイギリスから輸入されました。後に国産の860形(A9形)、230形(A10形)などの礎となりました。すなわち、本車は我が国の鉄道の歴史を現在に伝える貴重な存在となります。
 特徴としては機構が簡便なジョイント式弁装置の採用が挙げられます。また、先輪と従輪はウェップ式ラジアル軸箱となっており、円弧上に移動することで、動揺が抑制される機構となっています。
 保存展示にあたっては、徹底した補修整備を実施しました。
 また、失われていた製造銘板とナンバープレートを復元して取り付けました。

略歴
1886年 鉄道局No.73として、ナスミス・ウィルソン社(製造No.302)にて製造 
    日本鉄道が借り入れ、番号不変
1892年 鉄道局から日本鉄道に譲渡
1894年 No.20に改番
    逓信省鉄道局(鉄道作業局】に返却、Jクラスとなる
1899年 房総鉄道に譲渡、No6となる
1907年 房総鉄道国有化、帝国鉄道庁No6となる
1909年 No.403となる
1914年 東部局にて廃車
1914年 川越鉄道に譲渡、のちにNo5となる
1914年 川越鉄道が武蔵水電に吸収合併、番号不変
1922年 武蔵水電の鉄道部門を(旧)西武鉄道として独立、番号不変
    No4に改称
1945年 武蔵野鉄道と)(旧)西武鉄道が合併、西武農業鉄道となる
1946年 (新)西武鉄道に改称
1961年 上武鉄道が借り入れ
1965年 上武鉄道から返却、廃車、所沢市のユネスコ村にて保存
    その後、西武鉄道横瀬車両管理所に移送され保管
2022年 芝浦工業大学付属中学高等学校100周年記念事業として保存

製造者 ナスミス・ウィルソン社(イギリス)
製造年 1886年(明治19年)
寄贈者 西武鉄道株式会社殿

竣工    2022年11月
事業者   学校法人芝浦工業大学
SL寄贈者  西武鉄道株式会社
積石寄贈者 東日本旅客鉄道株式会社
施工会社  西武建設株式会社

芝浦工業大学付属中学高等学校の公開敷地に展示。
豊洲六丁目第二公園に隣接。

運転台にも入れる。

NASMYTH,WILSON&Co
LIMITED
No302
1886
MANCHESTER

403
TYPE400


高輪築堤オブジェ

高輪築堤の石が土台に活用されている。

高輪築堤オブジェ
高輪築堤とは
 高輪築堤は日本初の鉄道として造られた新橋~横浜間の約29kmのうち、現在の田町駅の北(芝浦周辺)から品川駅の南までの海上に気づかれた鉄道用の約2.7kmの堤のことです。構想から3年、着工からわずか2年という期間で完成しました。
403号蒸気機関車と高輪築堤の関係
 明治19(1886)年に製造された403号蒸気機関車は年代的にも高輪築堤と同じ時代に国内で走っていました。明治期の姿に修復した403号蒸気機関車と高輪築堤の海側築石を使用しオブジェとして設置した土台は親和性も高く、当時の姿に想いを馳せることができます。
 今回、港区教育委員会と東日本旅客鉄道株式会社のご厚意により高輪築堤築石をご寄贈いただきました。
汽笛について
 定時に鳴らす汽笛の音源は、博物館明治村にご協力いただき403号蒸気官舎と同じく明治期に製造され動態保存されている蒸気機関車9号の汽笛及び走行音を採音加工し使用しています。

高輪築堤築石モニュメント
 展示してある築石は、鉄道が開業した明治5年(1872)に造られた海側の高輪築堤の一部(発掘現場4街区海側)です。石は安山岩で相州真鶴をはじめとする全国から集められ、お台場や東海道沿いの護岸石垣も再利用されました。品川車両基地の再編や高輪ゲートウェイ駅の新駅を伴った大規模開発の中で令和2年に発掘されました。この築石は403号蒸気機関車展示土台にも使われています。
 高輪築堤は、明治9年(1876)の複線化、明治32年(1899)の3線化のために陸側に拡張されています。海側の石垣は、最大で15段確認しています。石垣の土台は角材として加工した「胴木(土台木)」で石を受け、その上部は約30度の傾斜で、石段を1段ずつ並べる「布積み」を用いて積み上げています。一方、山側では石を斜めに使って積み上げる「谷積み」を用いて積み上げており、明治32年(1899)の3線化に伴い拡張された際のものであると考えられます。

豊洲六丁目第二公園

※撮影:2022年12月

場所

https://goo.gl/maps/h22aNzVsxZdZBQAQ8


関連(鉄道開業)

関連(蒸気機関車)

芝浦工大付属中学高等学校の前身にあたる東京鐡道中学は池袋にあった。

北多摩陸軍通信所の戦跡散策(東久留米)

東京都東久留米市前沢のあたりに、陸軍の通信施設があった。
前沢南公園には、防火水槽跡が残っている。散策してみましょう。

前沢南公園の中にある円形が、防火水槽の名残。


北多摩陸軍通信所跡

東久留米市指定旧跡 旧跡第5号
北多摩陸軍通信所跡 前沢5丁目他
 この場所には、昭和8年(1933)から同20年(1945)まで、海外無線の傍受を目的とする陸軍の通信所がありました。
 当時の住所は久留米村前沢1470番地で、当初は1500坪(4,950㎡)の敷地に45m自立式鉄塔4基(逆L字型空中線)と受信所が建設されました。その後の増設により、高速・低速受信機など53台と千数百人に及ぶ人員を要していました。
 昭和18年8月には「陸軍中央特殊情報部通信隊」と改名され、歴史に残る数々の重要な通信の傍受と解読にあたりました。
 戦後、敷地の大部分は民間に譲渡され、当時の施設は現存しませんが、通信施設の中心部分であった受信所や官舎の区画は、道路などでほぼその形状を留めています。旧跡指定は東久留米市の所有部分のみです。
 東久留米市教育委員会

通信所
(米軍撮影空中写真、昭和22年)
官舎に囲まれた丸い防火水槽のある長方形の土地が現在の前沢南公園。

小金井街道から見た通信所と鉄塔
(郷土資料室提供、昭和22年)


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M390-51
1947年8月8日、米軍撮影の航空写真。

写真中央に密集している建屋が、かつての北多摩陸軍通信所の官舎群。

上記を拡大。

現在は住宅密集。。。

更に拡大。黄枠が今回の散策ポイント。

現在の様子。道路の区画もほぼ同じ。
防火水槽のある場所は前沢南公園。その北側に当時の官舎が2棟、残っている。
1棟は完全な形で。そして1棟は半分のみ残っている。


北多摩通信所防火水槽(前沢南公園)

前沢南公園まえの道路。この区画も当時のまま。

公園の北側に、丸くなった区画がある。これが防火水槽の名残。

前沢南公園を貫く東西の通路。公園内に残る基礎も名残かな。。。

こちらは南北の通路。

前沢南公園

いまも「防火水そう」がある。


北多摩陸軍通信所の官舎跡(南)

いまも居住されている建屋のため、チラ見で。
建屋の西側は、削られているために、かなり不自然。前述の航空写真でも、その様子がわかる。


北多摩陸軍通信所の官舎跡(北)

北側の官舎跡の建屋は現在は空家。心置きなく見学できる。

財務省関東財務局が管理する国有地だった。

入口。往時の面影が残っている。

これは、、、「陸軍の官舎」として、保存してくれたりしないかなあ。。。
かなり良い状態にみえます。

防火水槽跡は公園内で保存されているので心配は無いですが、国有地管理の官舎跡は、いつ宅地造成されてもおかしくない雰囲気。
気になる方は、早めの散策が良いかもしれません。

※撮影:2022年12月


関連

北東には海軍の通信所(海軍大和田通信隊)もありました。

東には中島飛行機関連

南には陸軍技術研究所も

旧九段会館(軍人会館)から生まれ変わった「九段会館テラス」

昭和9年(1934)に竣工した「軍人会館」は、戦後に「九段会館」と名称を変更して存続していたが、東日本大震災の影響などもあり、平成23年(2011)に廃業。

その後、令和4年(2022)10月1日に、旧九段会館を一部保存(腰巻建築)しながら新築された「九段会館テラス」が開業した。

建て替え前の「九段会館」の記録は、以下より。


九段会館テラス外観

公式サイト

https://kudan-kaikan-terrace.jp/

旧九段会館
建物前面の低層部分は昭和9(1934)年に「軍人会館」として作られたもので、戦後は「九段会館」として長く親しまれてきました。
建物のうち、正門にあたる北側と内堀通りに面する東側が保存されています。
そのデザインは「帝冠様式」と呼ばれ昭和初期の設計手法をよく示し、現在「登録有形文化財」に登録されています。

内堀通り

KUDAN-KAIKAN TERRACE
なんか、おしゃれ。。。

九段会館テラスは「免震建築物」となりました。
(旧九段会館は地震で天井が崩落し2名が死亡するという事故もありました。)

九段下の交差点から。

北の丸方向から。
昭和感の存在感。。。


九段会館テラス正面内部

正面から中に、はいってみます。


九段会館テラス屋上庭園

5階部分は、旧九段会館部分を活用した屋上になっている。

靖国神社の大鳥居もみえる。


九段会館テラス階段

行きはエレベーターを使用しましたが、かってがわかったので、帰りは階段で降りることにしました。

「一般財団法人 日本遺族会」事務局の入居するフロア(4階)


歴史の小径(九段会館テラス敷地)

歴史の小径
敷地内には戦前からある以下の記念碑等が保存されています。
1・軍人亀鑑碑
明治16(1883)年の建碑。陸軍伍長谷村計介(1853-1877)の功績が一面に記載されており、その功績を後世の軍人に伝えるために建てられました。
2・表忠碑
明治11(1878)年の建碑。西南戦争(1877)の戦没者のために建てられました。
3・楠公記念楠
武将楠木正成をしのんで植樹された楠が現在も残されています。石碑には、海軍大将東郷平八郎(1848-1934)の書により「楠公記念楠」と刻まれています。
4・乃木大将詠草碑
昭和12(1937)年の建碑。陸軍大将乃木希典(1849-1912)の歌碑で、「武士は玉も黄金もなにかせむ いのちにかへて 名こそをしけれ」と刻まれています。
5・西征陣亡陸軍士官学校生徒之碑
明治14年(1881)の建碑。西南戦争(1877)で殉職した陸軍士官学校生33名のために建てられました。
6・貝塚碑
昭和9(1934)年、軍人会館建設時に発見された貝塚の碑。「一部ヲ之ニ納メ」と記されており、当時は碑の下に貝の一部を展示していたことが窺えます。
7・弥助砲
薩摩藩士の砲兵大山弥助(のちの大山巌元帥 1842-1916)が明治18(1885)年に四斤山砲を改良し発明した弥助砲の砲身です。

九段会館解体部分に使用されていた以下のものが展示されています。
8・コンクリート杭先端部
旧九段会館解体部の地中から取り出したコンクリート杭。設計上の長さは5.5m。現在も、約1,900本の杭が保存部分を支えています。
9・鉄骨柱の柱脚部分
旧九段会館は、鉄骨鉄筋コンクリート造。展示されているのは、柱脚部分のコンクリート・鉄筋を取り除いた状態です。

貝塚碑

貝塚碑
軍人会館建築工事ノ際地下約八尺ノ処ヨリ掘出シタルモノナリ
其一部ヲ之ニ収メ記念トス
昭和九年五月

昔は、ここに貝が展示されていたのかな。。。

西征陣亡陸軍士官学校生徒之碑

明治14年(1881)の建碑。

乃木大将詠草碑

希典
武士は
 玉も黄金も
  なにかせむ 
いのちにかへて 
 名こそをしけれ

昭和12(1937)年の建碑。

表忠碑
明治11(1878)年の建碑。西南戦争(1877)の戦没者のために建てられた。

軍人亀鑑碑
明治16(1883)年の建碑。陸軍伍長谷村計介(1853-1877)を讃える。

楠公記念楠

鉄骨柱の柱脚部分

鉄骨柱の柱脚部分
旧九段会館は、鉄骨鉄筋コンクリート造。展示されているのは、柱脚部分の鉄筋コンクリートを取り除いた内蔵鉄骨柱です。図は、創建時の構造計算書。柱脚部分の構造安全性を確認しています。

コンクリート杭先端部

コンクリート杭先端部
旧九段会館解体部分の地中から取り出した鉄筋コンクリート杭。設計上の長さは5.5m。現在も、約1,900本の杭が保存部分を支えています。
図は、創建時の構造計算書。杭の断面サイズ、配筋、支持力が記載されています。

弥助砲

弥助砲
薩摩藩士の砲兵大山弥助(のちの大山巌元帥 1842-1916)が明治18(1885)年に四斤山砲を改良し発明した弥助砲の砲身です。

弥助砲は、ちょっと展示がわかりにくい。当時のままっぽい。

弥助砲の下にある煉瓦造りの壁は、それこそ軍人会館時代のものだろう。目立たないけど、貴重。

生まれ変わった九段会館。
建造物としてまるで魂が抜かれてしまったかのようにもみえる腰巻建築への是非はあるが、まったく無くなるよりかは、少しでも往時をしのぶ景観が残ってくれたことは、せめてもの救い、ではある。

※撮影は2022年12月


良長院の海軍慰霊碑(横須賀鎮守府海軍建築部請負と横須賀鎮守府所属看護科員)

横須賀中央駅と、汐入駅の中間、聖ヨゼフ病院の近くにある良長院に、海軍関連の2つの慰霊碑がある。


横須賀海軍建築部請負工事
殉職者弔魂碑

横須賀海軍建築部請負工事 
殉職者弔魂碑
 海軍大将 野村吉三郎書

昭和8年11月建立
横須賀建工同志会・傷害救済会建立

横須賀の海軍施設請負工事で殉職した民間の方々を慰霊顕彰している。
裏面には殉職された方々の名前が刻まれている。


横須賀鎮守府看護科員 戦病死者之霊碑

横須賀鎮守府看護科員 
戦病死者之霊
 海軍大将山本英輔謹書

(裏面)
昭和7年9月23日建立
赤心会建立

文字通りに横須賀鎮守府看護科員戦病死者の方々を慰霊顕彰する碑。


良長院

龍谷山良長院(曹洞宗)
保年間(1645-1648)創建

横須賀軍港で、建築部請負工事殉職者の碑と看護科員戦病死者の碑と。
それぞれの碑前で、海軍を支えた方々の御魂に合掌をする。

※参拝と撮影は2018年4月

「米ヶ濱砲台跡地」(横須賀平和中央公園)と「横須賀市自然・人文博物館」

米ヶ濱砲台のあった「中央公園」が2021年に「平和中央公園」へと再整備されたという話を聞いたので、足を運んでみました。


平和中央公園

明治時代には旧陸軍の東京湾要塞として米ヶ濱砲台が設置。
関東大震災の被災と演習砲台への転用を経たのち終戦。
「砲台山」として親しまれており、1970年に「中央公園」として開園、50年目の2020年にリニューアル工事を経て、2021年4月に「平和中央公園」として開園している。

中央公園

これは以前の表記ですね。

平和中央公園

再整備されてだいぶきれいになっています。

https://www.kanagawaparks.com/heiwacyuou/

https://www.kanagawaparks.com/heiwacyuou/about.html

https://www.city.yokosuka.kanagawa.jp/5560/sisetu/fc00000484.html


米ヶ濱砲台跡

かなりきれいになってますね。以前は半分埋もれていた掩体部も見学できるように掘り返しされていました。

https://www.city.yokosuka.kanagawa.jp/2120/oldays/houdai.html

https://routemuseum.jp/area/b/b12/

米ヶ濱砲台跡とは
 米ヶ濱砲台は、陸軍が建設した東京湾要塞を構成する砲台の一つです、江戸幕府が海防のために建設した台場に代えて、明治政府は西洋の築城技術・建築資材を導入して海岸防御のための砲台群を、全国の要地に建設しました。これらの砲台群は、後にその地名を冠してん某要塞と呼ばれます。東京湾要塞は新首都東京と横須賀軍港っを守ることを任務とした要塞で、明治10年代に建設が始められた唯一の要塞です。
 明治時代の東京湾要塞建設は、大きく3つの時期に分けられます。明治10年代には東京湾が最も狭くなる富津岬~観音崎を防御する砲台群(観音崎砲台、猿島砲台、走水低砲台など)の建設が始まり、明治20年代前半には横須賀・長浦両軍港を守備する砲台群(夏島砲台、箱崎低砲台など)、明治20年代後半には富津岬~観音崎を守備する既設砲台の背面防御や側防を担う砲台・堡塁(千代ヶ崎砲台、大浦堡塁、小原台堡塁など)とともに新たな砲台(三軒屋砲台)も増設されました。
 米ヶ濱砲台は明治23(1890)年から明治24年(1891)にかけて建設され、横須賀軍港を守備するとともに、不入斗にあった要塞砲兵第一聯隊(後の横須賀重砲兵聯隊)の教育・訓練砲台としての役割も担いました。 
 米ヶ濱砲台は西側の榴弾砲砲台と東側の加農砲砲台で構成され、28cm榴弾砲6門、24cm加農砲2門が備砲されました。明治27(1894)年に開戦した日清戦争では戦備につき、明治37(1904)年に開戦した日露戦争では28cm榴弾砲6門がロシア軍の旅順要塞攻略のため運び出されました。その後は、火砲の進歩や航空機の出現による戦術の変化、安浦町の埋立事業により重要度は低下し、さらに大正12(1923)の関東大震災で大きな被害を受けたことで、加農砲砲台は廃止され、榴弾砲砲台は28cm榴弾砲4門からなる演習砲台に改変されました。
 戦後は、中央公園して市民に親しまれてきましたが、令和元(2019年)に公園リニューアル工事に伴う発掘調査を行い、明治時代の砲台の構造物の多くが良好に残っていることを確認し、遺構保存のため埋め戻しをしました。また一部の構造物については切り取りを行い、横須賀市自然・人文博物館に移設しました。

要塞配置地図

平和公園の地下には、米ヶ濱砲台の遺構が埋め戻しで保存されている。

平和公園の地下に眠る米ヶ濱砲台

榴弾砲砲台弾薬庫跡

榴弾砲砲台の弾薬庫跡

かつては公園の管理室としても使用されていた。
下部には、焼過煉瓦を用いている。天井はコンクリート。

榴弾砲砲台土塁跡

弾薬庫の上部には、榴弾砲砲台の土塁が設けられている。
土塁の上には観測所が設けられ、土塁の中には観測所付属室があったという。

榴弾砲砲台弾薬庫排気口

排気口。弾薬庫と通じている。

カバーがついている。

覗くと、通風口が見える。

土塁の上から、東京湾。

猿島が見える。

猿島砲台と連動している立地であることがわかる。

榴弾砲砲台の跡。

弾薬庫が2つ。

以下は、以前の米ヶ濱砲台跡。
改修前の中央公園時代(2018年4月撮影)

このときは、まだ整備前。


榴弾砲砲台右翼観測所跡

平和モニュメントの下にも地下施設があった。(現在は埋戻し)
榴弾砲砲台右翼観測所の付属室など。平和モニュメントの場所が、右翼観測所であった。

埋戻し保存。

榴弾砲台右翼隧道跡

埋戻し保存。


平和モニュメント

榴弾砲砲台右翼観測所跡。

中央公園時代の平和モニュメント(2018年4月撮影)。
公園リニューアル工事時の際に、平和モニュメントもリニューアルされた。

説明など。


芝生広場(加農砲台跡)

芝生広場の下には、加農砲砲台の弾薬庫などもあったが、埋戻し保存されている。

加農砲台跡の芝生公園も、海がよく見える。走水低砲台や観音崎砲台のある方向を望む。

「あぶない」の英語表記があるのが、横須賀ならでは。


デッカー司令官

1946年、ベントン・ウィーバー・デッカー司令官は、第4代横須賀米国海軍基地司令官として横須賀に着任。横須賀の戦後復興、市民救済、病院や学校などの設立に尽力した「横須賀市再建の恩人」でもあった。
アメリカ軍人として日本人の手による初めての胸像が作られるほどの功績があった。

デッカー司令官

横須賀市再建の恩人
ベントン・W・デッカー司令長官

川村吾蔵作。
川村吾蔵は太平洋前はアメリカで彫像活動をしていた。1940年に帰国。戦後GHQの通訳などをさせられれるも、昭和22年にデッカー米軍横須賀司令長官に招聘されて、胸像を多数作成。このときに最晩年の作品としてデッカー胸像を作っている。
マッカーサーも噂を聞き、胸像作成を依頼するも、完成前の昭和25年に死去。未完成だったマッカーサー元帥胸像は川村の妻娘が完成させている。

頌徳
ベントン・W・デッカー司令官は、横須賀米国海軍基地司令官として、大戦後混沌たる昭和二十一年四月着任せられ、爾来四ヶ年に亘り本市経済の復興に絶大な同情と好意とを以て吾々市民を指導された偉大なる恩人である。軍港を失った本市を民主的な経済都市として更生させるために新しい商工会議所、婦人会、赤十字会、福祉委員会等の設立を促され、更に本市の文化、教育、救済等凡ゆる社会的事業にも適格な指導精神を指示せられ、殊に新規転換工業の育成に対しては最大の援助を与へられ、本市諸産業が今日の復興を見るに至ったことは偏えに同司令官の有難き徳政の賜であって吾々は哀心深い感銘と敬意とを表するものである。
玆に同司令官の頌徳を永く偲びつつ今後不断の努力を続けるため玆に巨匠川村吾蔵氏畢生の力作になる記念胸像を建立した次第である。
 昭和二十四年十一月
  社団法人横須賀商工会議所

デッカーは、1946年4月に着任し、1950年6月までの4年間を、横須賀基地司令官として、横須賀の占領行政に携わっていた。そんな時間軸の中で、はやくも記念胸像が1949年に建立されているのが、なによりも驚きである。

横須賀の海を望む高台から、横須賀を見守る。


戦没者慰霊塔

平和中央公園の東端にある慰霊塔。公園の先端を船の舳先のように造形した鉄筋コンクリート製の慰霊塔。前面には御影石。長さ31メートル、高さ8.7メートル。
昭和44年4月建立。
横須賀市出身の日清、日露、第一次、第二次世界大戦での戦病死者の遺影約3600枚を納めている。

船の先端をイメージ。

戦没者慰霊塔

日本が 
世界の夜明けに目覚めてから 
今日の栄光をかちえるまで 
多くの戦争において 
国のため尊い命を捧げられた 
諸霊よ 
横須賀市民は 
諸霊の遺族とともに 
この地を定め塔をたて 
熱いまごころをもって 
み霊を慰めたてまつる 
 昭和四十四年三月誌す 
  横須賀市長 長野正義

ありがとうございます
合掌


島田修二の歌碑

横須賀の 丘に吹く風
いちにんの いのちの重み
世界に告げよ
 島田修二

島田修二(1928年~2004年)は、昭和3年8月19日、神奈川県横須賀市大津町に生まれた。父 島田英之、母 島田敏子。陽一、修二、章三、迪男、嘉寿江の四男一女の次男であった。
兄 陽一は海軍士官として戦没した。修二も旧制横須賀中学校を経て海軍兵学校に進み、そこで終戦を迎える。その後は、読売新聞記者を経て、短歌の道に精進し、宮中の歌会始選者等を勤めるに至った。
修二は、平成16年1月、この丘に来て、ふるさと横須賀の歴史と未来を思い、世界の平和を思い、ひとりの、そしてすべての人のいのちの重みを思って、この歌を詠んだ。私たちは、この歌の心を広く、また永く、世に伝えることを願い、横須賀の海をみはるかすここ中央公園の地に、これを建てる。
 平成16年11月5日 草木短歌会有志一同


岩崎泡鳴「田戸の海ぬし」

昭和58年(1983年)に設置の文学碑。


横須賀市自然・人文博物館

自然博物館と人文博物館が併設されている総合博物館、横須賀市営で、三浦半島の展示が充実しているのに無料で観覧できるという、おすすめ穴場スポット。

近代史的には、日本遺産に登録された、横須賀製鉄所で制作の日本製で最古級の煉瓦の展示などは興味深く。

ヨコスカ製銕所

刻印スタンプもあります。

近現代展示エリア

横須賀軍港の境界標注ですね。

横須賀軍港境界標
明治33年2月13日
海軍省

横須賀海軍航空技術廠の本部庁舎の模型。
追浜にあったが、建屋は解体済み。
(先日、フィールド調査はしたけど、レポ掲載はまだ。。。)

おもしろそうな企画展もあります。デジタルですね。

おお、海軍の蓋です。

旧海軍消火栓蓋(旧海軍水雷学校跡地)

消火栓、錨のマーク付き。

これは、摩耗も少なく、大変にキレイな状態ですね。

旧海軍水雷学校第四兵舎 階段親柱

旧海軍水雷学校第四兵舎階段の親柱
(昭和4(1929)年頃、当館蔵・トヨタ自動車東日本株式会社寄贈)

この部材は、横須賀市田浦港町にあった「旧海軍水雷学校代四兵舎」で使われてきたものです。終戦時の田浦地区沿岸部には、旧海軍の水雷学校と軍需部の施設群が集積していました。この地区周辺への旧海軍施設の設置は、明治10年代にさかのぼり、以後、埋め立てと施設の拡充が続きました。そして、明治40(1907)年には、前身の水雷術練習所等の歩みを経て、海軍水雷学校が発足しました。
 終戦後の昭和29(1954)年、海軍水雷学校の跡地の一部は、関東自動車工業株式会社(トヨタ自動車東日本株式会社)の敷地となりました。同敷地内にあった、第四兵舎も平成20(2008)年に解体されるまで長らく利用されてきました。第四兵舎は、昭和4年頃に建築された、鉄骨造2階建の大きな建物でした。この建物の中央階段の1階にあった親柱には、旧海軍でよく使われていた錨をモチーフとした装飾があり、同じ敷地内にあった上下水道設備の点検用の蓋にも、同じく錨のマークが刻まれていました。
 これらの部材は、トヨタ自動車東日本株式会社にて大切に保存され、令和4(2022)年に同社から寄贈をうけました。
  横須賀市自然・人文博物館

海軍水雷学校兵舎の階段親柱

錨をモチーフにした装飾

https://www.museum.yokosuka.kanagawa.jp/

水雷学校の記事はこちらにて。


小栗忠順像 栗本鋤雲像

横須賀製鉄所の建設に携わった2名が、横須賀の発展の礎であった、ともいえる。

小栗さんと栗本さんの胸像。
小栗上野介忠順とその小栗の盟友であった栗本鋤雲はともに軍艦奉行や外国奉行などの要職にあった。 小栗が画策した「横須賀製鉄所」の建設を栗本が助け事業に貢献。横須賀発展の礎を築いた人物たち。

小栗さんの像はヴェルニー公園にもありましたね。そちらではヴェルニーさんと並んでましたが、こちらでは栗本さんと。

小栗忠順に関しても、いろいろまとめたいとは思いつつ、なのですが、まだ、調査が出来あがっておらず、でして。

横須賀市自然・人文博物館の中にも胸像がある。

こっちは、ヴェルニーと小栗忠順と、ちょと時代は違うが、ウイリアム・アダムス。

ヴェルニーも記事を書きたいですね。。。

小栗忠順

https://www.museum.yokosuka.kanagawa.jp/

https://www.city.yokosuka.kanagawa.jp/8161/benri/hakubutukan.html


文化会館(横須賀海軍病院跡)

中央公園の隣には文化会館。 かつての「市民病院」跡。
市民病院は昭和37年焼失。
さらに遡ると、深田台の市民病院があった、この場所は「横須賀海軍病院」があった。
明治13年開院。関東大震災で全焼移転(移転先は現在の米軍基地内。現存建物)
昭和3年に海軍用地だった当地は区画再整備され宅地化したという。
※2018年4月撮影

米軍の基地内に残る、横須賀海軍病院に関しては、下記にて。

※撮影は2022年11月


関連

「日本の近代の幕開け」ペリー上陸記念碑と浦賀奉行所跡(浦賀・久里浜)

日本の近代は、ペリー率いる黒船来航とともに幕を開けたといっても過言はない。すなわち、いわゆる「幕末」は、嘉永6年(1853)の浦賀への黒船来航とともにはじまる。

「泰平の眠りを覚ます上喜撰たつた四杯で夜も眠れず」
日本の近代は、ここから始まった。


北米合衆国水師提督伯理上陸記念碑

久里浜のペリー公園として整備されている上陸地点。

嘉永6年(1853)のペリー艦隊の来航時、アメリカ大統領からの国書受け渡しは、久里浜で実施された。
ペリー上陸を記念し明治三十四年(1901)に、建立・除幕された記念碑。

北米合衆国水師提督伯理上陸記念碑
大勲位伊藤公爵博文書

MONUMENT IN COMMEMORATION OF THE LANDING OF COMMODORE
PERRY U.S.N.
MARQUIS HIROBUMI ITO CRAND ORDER OF CHRYSANTHEMUM

嘉永6年6月9日上陸
明治34年7月14日建之

THIS MONUMENT
COMMEMORATES
The First Arrival
OF
COMMODORE PERRY,
AMBASSADOR FROM THE
UNITED STATES OF AMERICA
WHO LANDED AT THIS PLACE
JULY 14,1853
ERECTED JULY 14.1901.
BY
AMERICA’S FRIEND ASSOCIATION

 1853年7月8日、浦賀沖に来航したアメリカ合衆国東インド艦隊司令長官M.C.ペリー(Matthew C.Perry)は、7月14日、ここ久里浜の海岸に上陸し、大統領フィルモアの親書を江戸幕府に渡した。翌年、神奈川において日米両国間に和親条約が締結された。この一連の出来事は、幕府支配のもとに鎖国を続けていた日本を、世界へと引き戻す原動力となった。
 ペリー来航より48年後の1901年7月14日、米友協会の手によって、日本開国ゆかりの地として、ここに記念碑が建てられた。

ペリー公園

北米合衆國水師提督伯理上陸記念碑建設者タル米友協會ノ意志ヲ繼キ本日以後本會ニ於テ該記念碑並構内ノ維持管理ニ當ルコトヽナレリ仍テ茲ニ之ヲ誌ス
 昭和十年二月二日
  神奈川縣廳内伯理記念碑保存會

KANEKO PINE
THIS TREE PLANTED
BY
VISCOUNT KANEKO
JULY 14TH 1901

かねこ松
米友協会会長
子爵金子堅太郎氏
手植松
明治34年7月14日

RODERS PINE
THIS TREE PLANTED
BY
REAR ADMIRAL RODERS
JULY 14TH 1901

ろぢあーす松 
米海軍少将 
ろぢあーす氏 
手植松 
明治三十四年七月十四日

手植えの松は、記念碑の左右に。

ぺるり上陸の地記念碑

県下名勝史蹟45佳選当選紀念
ぺるり上陸の地
横浜貿易新報社

昭和10年10月建立

じょうきせんの碑

泰平の
ねむりをさます
じようきせん
たつた四はいで
夜も眠られず

じょうきせんの碑
 江戸幕府は約200年にわたり、外国との通商・交通を禁止する鎖国政策をとっていた。
 その日本に対し突如として泰平の夢を破るように1853年7月8日(旧暦嘉永6年6月3日)開国を迫る4隻の黒い艦隊が浦賀・鴨居沖に現れ、同艦隊は6日後に久里浜に上陸した。
 この艦隊の指揮をとっていたのが、ペリー提督であった。
 江戸湾の守備にあたっていた諸藩の藩士や浦賀奉行所の人たちは、この大きな黒船を見て、驚き動揺した。
 開国を促す黒船の来航に幕府要人はもちろんのこと、その戒容を見聞きした人たちの驚きはどんなであったろう。
 その驚きを端的に表現したのが、この落首である。
 なお、「久里浜村詩」によれば、この落首は、老中松平下総守(間部詮勝)号松堂作とも言われている。
 平成2年7月
  横須賀市

ハイネ画 ペリー久里浜上陸図

ペリー上陸記念碑物語
 長い間外国との貿易を制限していた徳川幕府に1853年(嘉永6年)アメリカ大統領の国書をもって来航した東インド太平洋艦隊司令長官ペリーは幕府と交渉し強い態度で開国を迫り、ついに1853年7月14日幕府に大統領の国書を受理させ再来航を約束しアメリカに帰りました。
 このとき今まで200年以上にわたり外国との交流を閉じていた日本の地に外国の使節団が上陸し、幕府とアメリカの交渉が行われた場所が場所が久里浜であり、新しい日本の夜明けはこの久里浜から始まったのです。
 ペリー提督が初めて日本の地に上陸してから47年後の1900年(明治33年)10月25日アメリカ退役海軍少将ビアズリーが夫人と共に久里浜を訪れました。ビアズリーは17歳の時、少尉候補生としてペリー提督と共に久里浜に上陸したのです。彼は青年の頃訪れた美しい久里浜にたくさんの思い出があり、アメリカの使節団が初めて訪れた地に何も記念するものがないことを残念に思いました。
 ホテルのある横浜に帰ったとき新聞記者に久里浜でのことを話しました。その内容が新聞に掲載されました。また、明治政府の下で近代社会を築きつつあった明治10~20年代には前途有為な人達が留学や働く場所をもとめて欧米に渡りました。特にアメリカに留学し日本に帰国した後、政界や経済界で活躍する人達が集まり、1898年(明治31年)交友の場として米友協会が設立され、その米友協会の席上でもビアズリーが演説し、このことが契機となって当時の米友協会の会長でハーバード大学で学んだ金子堅太郎男爵(当時)を中心に上陸記念碑建設の運動が起こり「記念碑建設委員会」が組織され募金や明治天皇の下賜金によって記念碑は完成し、1901年(明治34年)7月14日ペリーの上陸と同じ日に除幕式が行われました。参列者は桂首相ほか閣僚、徳川家達、榎本武揚、アメリカからはビアズリーやペリーの孫にあたるロジャース少将等、総数1000人で久里浜沖では日米の軍艦が祝砲を放つなど盛大な式典となりました。
 日米親善の象徴となた上陸記念碑ですが太平洋戦争中にはアメリカに関するものは敵性のものと憎まれ1945年(昭和20年)2月8日横須賀市の翼賛青年団を中心としたグループに引き倒されました。ところが半年後の8月15日に終戦となり11月に復元されました。
 日本の歴史上大切な足跡を刻んだペリー上陸記念碑のもつ意義をこれからも大切に見守ってゆきましょう。

参考
 記念碑の大きさ 高さ4.5m 重さ11.4t 仙台産の花崗岩 碑の台座は根府川石
 刻まれている文字は伊藤博文の書で「北米合衆国水師提督伯理上陸記念碑」と書かれており碑文を彫刻した石工は横浜あの横溝豊吉です
 令和4年(2022年)3月 久里浜地域運営協議会 久里浜の文化を考える会

記念碑の前で記念撮影するのは、ペリーの曾孫にあたるペリー大僧正と、浦賀奉行の曾孫にあたる戸田夫妻。昭和8年。

なお、戦時中に、ペリー上陸記念碑は倒されている。破壊粉砕をしようとする過激な動きもあったが、海軍横須賀鎮守府は反対。神奈川県知事は当初は反対するも、強硬派の圧力に屈し撤去に合意。昭和20年2月に記念碑は倒された。倒された直後に米軍の空襲などもあり、記念碑を粉砕する話は報復を恐れ立ち消えとなっている。重機不足で倒すのが精一杯だったというのもあるようだが。
戦後、昭和20年11月に、ペリー上陸記念碑は再建された。

https://www.kanagawaparks.com/perry/

https://www.cocoyoko.net/spot/perry-park.html

https://www.city.yokosuka.kanagawa.jp/5560/sisetu/fc00000435.html

場所

https://goo.gl/maps/iLY9J6wYuPqTroRB7


ペリー記念館

ペリー公園には、ペリー記念館もある。
横須賀市市制80周年を記念して1987(昭和62)年に建てられた記念館。

ペリー提督

戸田伊豆守

浦賀奉行の戸田氏栄。
黒船来航の初動対応は、奉行所応接掛であった中島三郎助が担当していた。

https://www.city.yokosuka.kanagawa.jp/5560/sisetu/fc00000442.html


ペリー上陸の砂浜(久里浜)

ペリー公園のすぐ目の前に、ペリーが上陸した砂浜がある。

※撮影 2022年8月


ペルリ上陸記念碑道

明治の道標で英語でも記載があるが、おしゃれ。

ペルリ上陸記念碑道
COMMODORE PERRY’S MONUMENT
明治41年1月18日建設

車道側に向いているので、ちょっと撮影しにくい。。。

場所:

https://maps.app.goo.gl/tdev2C5q76iN4rwB9

※撮影:2023年11月


浦賀(黒船来航の地)

ペリー提督の黒船は、浦賀沖に来航した。浦賀に来航して、久里浜に上陸。

1853年7月8日(嘉永6年6月3日)、浦賀沖に停泊したペリー艦隊。それまでみてきたロシア海軍やイギリス海軍の帆船とは違う、蒸気外輪フリゲートを目の当たりにした人々は「黒船」と呼称し、恐れおののいた。

浦賀奉行戸田氏栄は、司令長官旗を掲げていた米艦隊旗艦サスケハナに対して、まず浦賀奉行所与力の中島三郎助を派遣。
ペリーの渡航が将軍にアメリカ合衆国大統領親書を渡すことが目的であることを把握した。
日本側は長崎に向かうように交渉をするも、ペリーは了承せず、江戸に向かい直接国書を渡すと主張。ペリーの強硬姿勢に幕府側は譲歩し、国書受け取りを決断。

1853年7月14日(嘉永6年6月9日)、幕府は当初、浦賀港近くの燈明堂近くの館浦で受け取り予定であったが、土地が狭く、警備を担当する4藩(川越・彦根・会津・忍)の反対もあり、結果として、国書受け取りは浦賀の隣の入江であった久里浜で行われることになった。

黒船来航の地
ようこそ浦賀へ

1853年 浦賀に黒船来航

ペリーとサスケハナ号
嘉永6年(1853)6月、アメリカ大統領の国書を持ったペリーが率いるサスケハナ号以下4隻の黒船が浦賀沖に姿を現わした。このペリー来航により鎖国政策はピリオドをうち、日本の近代はここにはじまった。
 浦賀国際文化村推進協議会


浦賀奉行所跡

黒船来航で、奇しくも近代の幕開けの口火として、その最前線となったのが、浦賀奉行所であった。

石橋(浦賀奉行所跡)
 浦賀奉行所表門の前のお堀に架けられていた石橋が、役宅(官舎)の通りより少し北に寄っているのは、奉行所が敵に攻められても直線で侵入できないように配慮されていたためで、同様に町家(商家)から役宅に入るところのカギの手に曲がっているのも江戸時代のままです。
 お堀は江戸時代後期の改築にともなって表門とその脇の三方に低いながらも石垣が積まれてできています。
 浦賀行政センター市民協働事業・浦賀探訪くらぶ

黒船に最初に乗り込んだ男
中島三郎助
 浦賀奉行所与力・中島三郎助は、浦賀を代表する人物で、嘉永6年(1853)ペリー来航の際、最初に黒船(使節団)との、折衝にあたるなど敏腕をみせ、翌年、日本最初の洋式軍艦・鳳凰丸を建造しました。
 三郎助は、文武に優れ、「大衆帰本塚」の碑文を書き、俳号は「木鶏」と称し、人々から敬慕されていました。
 明治維新では、幕臣としての意思を貫き、函館の千代ケ岡台場で2人の息子と共に戦死しました。
 享年49歳、父子の墓は東林寺。
 函館中島町に「中島三郎助父子最後の地」の碑があります。
  浦賀行政センター市民協働事業・浦賀探訪くらぶ

浦賀奉行所跡

(一部抜粋)
嘉永6年(1853)6月、浦賀に来航したペリー艦隊は、日本が近代に進む第一歩としてよく知られていますが、浦賀奉行所にとっては、文政元年(1818)5月に来航したイギリス船から数えて7度目の異国船でした。ペリー来航時には、中島三郎助や香山栄左衛門をはじめとした浦賀奉行所の役人たちが大きく活躍し、交渉の結果、アメリカ大統領の親書を久里浜で受け取る事になりました。

今は、更地。
堀が残る。

場所

https://goo.gl/maps/1ysfN1eUvoncFkLh6


船番所跡

船番所跡
 浦賀奉行所の出先機関で、享保6年(1721)から明治5年まで、江戸を出切りするすべての船の乗組員と積み荷を検査する「船改め」を行い、江戸の経済を動かすほどと言われました。
 与力、同心の監督のもと、「三方問屋」と呼ばれる下田と西浦賀の廻船問屋百軒余が、昼夜を通して実務を担当しました。「入鉄砲に出女」を取り締まる海の関所としても重要なものでした。
 浦賀行政センター市民協働事業・浦賀探訪くらぶ

船番所跡

奉行所はもともと下田にあったが、享保5年(1720)に、浦賀に移転。江戸への出入りをチェックを強化。

船改めはの業務は浦賀奉行だけでは手が足りないために、廻船問屋も協力。下田から移転してきた下田問屋が63軒、西浦賀に22軒、東浦賀に20軒の合計105軒で船改めを実施していた。また船番所は、幕末に急増したは異国船への警備なども担っていた。

船番所のあとは、いまは陸軍桟橋とも呼称されている。

場所

https://goo.gl/maps/vQ64mnFng8GXfnZh7

浦賀の沖合に来航した黒船から、日本の近代が幕を開けた。

※撮影:2022年7月及び8月


関連