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東郷神社例祭(令和5年5月28日)

2023年(令和5年)5月28日。
東郷神社例祭(式年大祭)

御祭神(東郷平八郎命)が、日露戦争で輝かしい功績を残された日で、東郷神社において最も大きな祭典。

118年前の今日、日本海海戦で東郷平八郎の連合艦隊が勝利を確定させた日。


日本海海戦

1905年(明治38年)5月27日
「日本海海戦」
東郷平八郎の旗艦三笠をはじめとする連合艦隊が対馬沖にてバルチック艦隊と海戦が勃発。


海軍記念日(5月27日)

1905年(明治38年)5月27日に行われた日本海海戦を記念して制定。1945年(昭和20年)を最後に、日本の太平洋戦争敗戦により廃止された。


5月28日

1905年(明治38年)5月28日。
ロシア戦艦・バルチック艦隊旗艦「ニコライ1世」の降伏により日本海海戦は終了し日本の勝利が確定した。


東郷神社例祭(式年大祭)

5月28日祭行

足を運んでみました。

東郷神社例大祭
5月28日 11時斎行

強運御守を戴きました。
毎月1日、5/28、5/30、12/22のみの限定頒布です。

世界の海軍史にその名を残した御祭神等郷平八郎命。
多くの苦難や困難を強靭な意思とその強運で乗り越えてきました。
東郷平八郎命には、様々な強運話があります。
左記のような話がありました。
海軍大臣山本権兵衛は、明治天皇に東郷平八郎命を連合艦隊司令長官に推薦した理由として、
「東郷平八郎は、運のいい男です」
と奏上した逸話があります。
御祭神等郷平八郎芽命の強運にあやかった御守です。

強運御守

東郷元帥の強運にあやかりたく。

御朱印も戴きました。

令和5年5月限定の御朱印だそうです。
Z旗ですね!

「皇國ノ興廢此ノ一戰ニ在リ、各員一層奮勵努力セヨ」

東郷神社の戦跡散策は別記事を予定

※2023年5月28日撮影


関連

多摩陸軍飛行場(横田基地)の戦跡散策

在日米空軍横田基地
「日米友好祭フレンドシップ・フェスティバル2023」(日米友好祭2023)
第47回目だそうで。
年に一度の横田基地、散策してみましょう。

今回は、消化不良でおわった昨年のリベンジとして再訪してきました。

前回記事はこちら。

一部は、重複しますが。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-R556-No1-80
1947年11月14日に米軍が撮影した航空写真を加工。

下記の黄色が現存。

当時の写真と、Google航空写真との照合。
5つの格納庫を、南側から便宜上で通し番号を振っておく。


多摩陸軍飛行場(福生飛行場・横田飛行場)

昭和15年(1940)、立川陸軍飛行場の付随施設として建設。
同年4月に、陸軍飛行実験部(陸軍航空審査部飛行実験部)が立川から多摩に移転。
大戦末期の本土防空戦時には、飛行実験部戦闘隊を「福生飛行隊」と通称し、第10飛行師団指揮下の臨時の防空飛行部隊として投入され、戦果も上げている。
戦時中の米軍は、従来把握していなかった多摩陸軍飛行場を「横田飛行場」と名付たことから、「横田基地」と呼ばれるようになった。
終戦後は、アメリカ軍に接収され、朝鮮戦争やベトナム戦争でも積極的に活用された。


旧多摩陸軍飛行場格納庫1

米軍横田基地内に残る多摩陸軍飛行場時代からの格納庫。
前述の地図で、一番南側の格納庫。


旧多摩陸軍飛行場格納庫2と3

2つの格納庫が並んでいる。


旧多摩陸軍飛行場格納庫4と5

北側に4番目と5番目の格納庫。近寄ることは出来ないので遠望で。

どうみても格納庫ばっかり撮っている人、になっていますね。


そのほか

丸い屋根の格納庫は戦後の米軍時代もの。

横田名物


横田名物

横田名物のハンバーガーに並んでみました。
ゴールが見えないw

行列のゴールは、「外人バーガー GAIJIN BURGER」

第36空輸飛行隊(イーグル・エアリフター)が焼く、本場モノで間違いない!

GAIJIN BURGER!!ってノリノリになりながら、作っていました!

外人バーガーは、肉厚なハンバーグが3つ。あとはチーズのみ。
ピクルスやマスタード、マヨネーズはセルフで好きなだけ使って良しのスタイル。
これは大満足のハンバーガー
(ちなみに1時間、並びました、、、)

あっ、これも名物。甘いものもほしいですよね。

フライドオレオ。5個買ったらTシャツもらえました。

オレオをフライド、、、カロリー爆弾

Tシャツ。

青くて良いね。2022年の米空軍75周年の記念Tシャツ。


飛行展示

飛行展示は小規模ですね。あくまでおまけな感じ。

空挺展示。

ヘリでの救難展示。

そして、これを待ってました。

CV-22 オスプレイの飛行展示。

飛んでいるところを生で初めてみました。

機動力にびっくりです。

オスプレイのお辞儀。機種をちょっと下げるアクション。

カメラ設定が甘くて、写真が失敗多数でした。
普段は、静態ばかりを撮影しているため、シャッタースピードは遅めが基本のため、動いているもの撮ったのが久しぶりで、設置ミスった、とか。


地上展示

気になったものだけ撮影。

軍事機密の塊ですね。隠してあります。

水上機、いいねえ。

ホンダ

CH‐47J。
横田基地日米友好祭も47回目。

F-2

T-4。青と赤。

青のブルーインパルス
赤のレッドドルフィン

入間基地の飛行点検機 U-680A


おしまい

また来年?

※撮影:2023年5月


関連

「旧開明尋常小学校奉安庫と機銃掃射の弾痕跡」尼崎の戦跡と近代建築散策・その2(兵庫尼崎)

兵庫県尼崎市。大阪の隣。
先日、関西方面に赴いた際に尼崎を散策。
いくつか戦跡と近代史跡を巡ってみました。

その1は下記にて


奉安庫

明治23年(1890年)10月30日発布された 明治天皇の勅語「教育ニ関スル勅語(教育勅語)」と御真影とを、不敬にあたらないように保管し、そして火災から守るための設備として、校内に奉安庫もしくは奉安殿(奉安所)を設置することが明治24年(1891年)11月文部省訓令第4号によって定められた。

学校校舎内に設ける場合は「奉安庫」、校舎外に独立しさせた場合は「奉安殿」となる。

終戦後、連合国軍総司令部(GHQ)の指令で、奉安庫や奉安殿の撤去、解体が進んだが、当校の奉安庫は解体を免れ、貴重な遺産として現存している。


旧開明尋常小学校の奉安庫跡

平成14年(2002年)に閉校した尼崎市立開明小学校。
現在は「尼崎市役所開明庁舎」として活用されている。

現存する校舎は、室戸台風の災害復興事業として、昭和12年(1937年)に竣工。RC造3階建。
戦前の奉安庫が残っているのが非常に珍しい。

1階の旧校長室には戦前の奉安庫や家具が現存し、現在はメモリアルコーナーとして使用されている。


旧開明尋常小学校

開明尋常小学校は、昭和12年の竣工。
現在は、尼崎市役所開明庁舎として活用されている。

艦船の艦橋のようなデザイン。

尼崎市役所開明庁舎(旧開明尋常小学校校舎)

この建物は室戸台風の災害復興事業として1937年(昭和12)2月に開明尋常小学校校舎として竣工しました。校庭を 囲むようにしてL字型に建つ建物は、整然と並ぶ窓の上部に校舎の端から端につながる庇が取り付けられ、水平性が強調された端正な趣を示しています。建物の南端と西端には意匠が異なる玄関が設けられていますが、特に南玄関から上階に上がる階段室は外部に半円形に張り出し、煙突のように天に突き出した柱とも相まって、まるで艦船の艦橋のようなダイナミックなイメージを受け、外観上の最大の特徴になっています。また1階の旧校長室には戦前の奉安庫が現存しています。


機銃掃射による弾痕が残る塀


学校の塀には、機銃掃射の弾痕が生々しく残っていた。

機銃掃射による弾痕が残る塀
 ここに現地保存している旧尼崎市立開明小学校(元、開明国民学校)校庭の塀には、太平洋戦争末期の米軍機の機銃掃射によると思われる無数の弾痕が残っています。
 尼崎では1945年(昭和20年)3月から8月まで10回にわたり米軍機による空襲があり、当時の尼崎市の報告書によれば死者479人、家屋全焼約1万1000戸、り災者総数約4万2000人という大きな被害を受けています。
 この弾痕がいつの空襲のときのものであるかについては断定できませんが、同年6月1日午前に大阪・尼崎方面を襲った空襲では、開明築でも犠牲者が出ており、学校近隣に所在する病院が全焼するなどの被害を受けています。また、米軍の記録によれば、このときの空襲にはB29爆撃機とともに、P51戦闘機が飛来していることが判明しているので、この塀に残る弾痕は、この時に刻まれた可能性があります。
 戦争の悲惨さ、残酷さを記憶にとどめ、平和な社会の実現を願って弾痕が残るこの塀を保存します。
   平成17年3月

尼崎市サイト

https://www.city.amagasaki.hyogo.jp/manabu/bunkazai_0/1028308/1028313/1028787.html

https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/171572

場所

https://goo.gl/maps/V9VM4JE1EXPDqPvD6

※撮影:2023年4月


関連(尼崎)

鳴尾飛行場と川西航空機鳴尾製作所の戦跡散策(西宮)

兵庫県西宮市の東部。武庫川や鳴尾地区には、戦前、川西飛行機の工場と海軍の飛行場があった。
往時を偲ぶものは少ないが、そんな西宮市の東部を散策してみました。


川西航空機株式会社

現在の新明和工業の前身。
九四式水上偵察機、九七式飛行艇、二式飛行艇、強風、紫電、紫電改などの海軍向けの航空機を製造した。特に水上機と飛行艇には定評を持つメーカー。
傑作機「二式大艇」を生み出したのも川西航空機。
飛行艇のDNAは、帝国海軍の二式大艇から救難飛行艇 US-2(US-1A改)へと受け継がれている。

中島知久平(中島飛行機)に出資していた川西清兵衛は、トラブルから出資を引き上げ、1920年(大正9年)に自社での飛行機メーカーを目指して川西機械製作所を創業。
川西機械製作所飛行機部は、1928年(昭和3年)に川西航空機(現・新明和工業)として独立した。
1930年(昭和5年)鳴尾製作所を開設。帝国海軍と密接な関係となり、海軍も積極的に川西飛行機を後押しし、大型飛行艇メーカーとしての成長をすすめていく。
1938年(昭和13年)、海軍管理工場となる。
1942年(昭和17年)に、甲南製作所(鳴尾製作所分所・現在の新明和工業甲南工場)、姫路製作所が完成。
1943年(昭和18年)、鳴尾製作所に隣接していた鳴尾競馬場と鳴尾ゴルフ倶楽部の土地が接収され、鳴尾飛行場と川西飛行機用地として使用され、従業員輸送と資材輸送のために、阪神国道駅及び国鉄西宮駅と接続する専用鉄道(のちの阪神武庫川線)も建設された。
川西飛行機は、鳴尾・甲南・宝塚・姫路に製作所(工場)を擁していたが、戦争末期には4製作所ともに米軍空襲により壊滅。工場疎開を余儀なくされた。
戦後の企業再建では、母体であった株式会社川西機械製作所は、第二会社として神戸工業を設立し、解散。神戸工業は富士通と合併。引き継いだ部門は、富士通テンを経て、デンソーテンとして、川西器械製作所を継承している。
川西飛行機株式会社は、昭和22年に明和興業と社名変更し、昭和s4年に、自動車部門の明和自動車工業と、汎用機械の新明和興業に分割。明和自動車工業はのちにダイハツ傘下となり吸収。
新明和興業は、昭和35年に「新明和工業株式会社」に社名変更し、海上自衛隊の救難飛行艇をはじめてとした航空機製造を継続している。


二式大艇(二式飛行艇)

川西航空機が製造した当時世界最高の性能を誇った傑作機。
「恐るべき機体」「空飛ぶ戦艦」「全世界の飛行艇に君臨する王者」と別称された名機。連合国コードネームEmily。
二式大艇でもって、飛行艇技術では日本が世界に勝利したと讃えられ数々の勇名を誇る。
川西航空機が生み出した帝国海軍の飛行艇の伝統は、戦後は、新明和工業によって海自PS-1/US-1/US-2へと受け継がれている。

「船の科学館」に在りし日の彼女。2003年撮影。
※現在は鹿児島鹿屋に展示
 (鹿屋にも行きたい、、、、

以下、参照


甲子園口駅

この日の散策は、甲子園口駅からスタート。

まずはJR神戸線に沿って西に歩いてみました。


甲子園SL公園

川西航空機鳴尾製作所への輸送のために、昭和18年に阪神電鉄により武庫川ー洲先駅が開通。昭和19年に武庫大橋ー武庫川駅間が開通。西宮駅からは国有鉄道としての乗り入れも行われた。

甲子園SL公園には、国有鉄道と阪神電鉄武庫川線の貨物を物語る給水塔がモニュメントとして残っていた。

 この給水塔は、昭和19年の戦争末期に蒸気機関車の給水塔として軍需輸送のために阪神電鉄により武庫川線として敷設され、当時の省線(JR線の旧称)との間で相互乗り入れが行われていた。
 この路線は、その後、工業資材などの輸送を行ってきましたが、昭和30年代にその役目を終え廃止されました。
 戦後の社会復興に貢献してきた武庫川線の歴史を残す貴重な資料、また、歴史的かつ地区のシンボルとして補修を施し、モニュメントとして生まれ変わりました。

武庫川線に関しては後述します。

場所

https://goo.gl/maps/48tXzUwvr9mKW63S8


まんぼうトンネル(甲子園口)

JRの線路の下をくぐるトンネル。屈まないと通行できないほどの小ささ。高さは130センチほど。
地図を見て、ちょっと面白そうだったので立ち寄り。

もともとは、明治7年に官設鉄道が開業する際に線路の盛り土の下を
用水路が流れるように作ったトンネルだったという。
西宮には、3つほど通称「まんぼうトンネル」がある。今回はそのうちの一番東側のトンネル。これが一番、間口が小さい。

下記の写真は、わかるかな、自転車を押したおじさんがかがみながら通行中です。

北側の半円トンネルは明治29年の複線工事でレンガで造営され、南側の四角トンネルは大正15年の複々線工事のときに延伸したものという。そのために形状が違うのかな。

場所

https://goo.gl/maps/MsmkJTwyUVNH55SX7


いったん、甲子園口駅まで戻って、そこから南下していきます。

武庫川女子大学 甲子園会館
(旧大阪海軍病院・旧甲子園ホテル)

武庫川女子大学の甲子園会館。
昭和5年(1930年)に甲子園ホテルとして竣工。
その後、昭和19年に帝国海軍が借受し、呉海軍病院大阪分院として開院。昭和20年3月に、大阪海軍病院として独立し、終戦を迎える。
その後、米軍の将校宿舎を経て、昭和40年(1965年)、武庫川学院が譲り受け教育施設として活用されている。

甲子園会館(武庫川女子大学サイト)

https://www.mukogawa-u.ac.jp/~kkcampus/

申請をすれば見学も可能。

流石に女子大なので、私は通りすがりに敷地外からチラ見。
時間がある時に改めて申請して見学したい。

場所

https://goo.gl/maps/46fyrEBYJKmqYbyZ8


明和病院

川西航空機株式会社(現在の新明和工業株式会社)は、福利厚生として、社員用に4つの病院を有していた。
その一つが西宮市鳴尾にあった昭和17年9月に川西航空機株式会社付属病院として創設された「鳴尾病院」。
鳴尾病院は、昭和20年の終戦後に川西龍三社長が戦後の苦難の時期に、地域に恩返しをしたいとして「明和病院」を再出発させた病院。

明和病院 理事長あいさつ

https://www.meiwa-hospital.com/outline/directors-greetings.html

明和病院 概要

https://www.meiwa-hospital.com/outline/profile.html

場所

https://goo.gl/maps/oRdQcrw3UWewGnYY7


鳴尾飛行場

帝国海軍の航空基地。
鳴尾川を挟み、川西航空機鳴尾製作所に隣接しており、川西航空機の試験飛行用飛行場でもあった。
川西航空機鳴尾飛行場の隣には、もともと鳴尾競馬場(旧・阪神競馬場)があったが、1943年(昭和18年)の春競馬終了後に海軍に接収され、鳴尾飛行場として再整備されることになった。
鳴尾飛行場を建設するにあたっって、浜甲子園阪神パーク(遊園地)などの施設も接収している。
かつての旧鳴尾競馬場本館(大スタンド正面玄関貴賓館)は、鳴尾飛行場管制塔として流用されることになり、いまも武庫川女子大学附属中学校・高等学校「芸術館」として現存。

戦後は、武庫川女子大学付属中学校・高等学校や浜甲団地、浜甲子園運動公園などに再開発されている。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M18-4-44
1948年2月20日、米軍撮影の航空写真を加工。

拡大。滑走路は、米軍の資材置き場として活用されている。
左上には、甲子園球場(1924年完成)。
滑走路から鳴尾川を挟んだ右側が、川西航空機鳴尾製作所。


旧鳴尾飛行場管制塔
旧鳴尾競馬場本館(貴賓館)

竣工は昭和10年(1935年)。もともとは、競馬場のスタンドだった。

現在の武庫川女子大学附属中学校・高等学校「芸術館」。
かつての旧鳴尾競馬場本館(大スタンド正面玄関貴賓館)は、鳴尾飛行場管制塔として流用されることになり、いまも武庫川女子大学附属中学校・高等学校「芸術館」として使用されている。

武庫川女子大学

https://www.mukogawa-u.ac.jp/~okazaki/designworks/mwu-jhs/index.html

日経新聞

https://www.nikkei.com/article/DGXLASIK17H01_Y5A510C1AA1P00/

管制塔として使用された最上部。

いまでは、そんなに高くは無いが、往時は一際高い建物として管制塔の役目を果たしたのだろう。

X字を描く滑走路のちょうど真ん中に、管制塔がある。

場所

https://goo.gl/maps/4biu4yYk7hkefKk2A


鳴尾飛行場跡

内陸部は、再開発で跡形もない。
浜甲子園運動公園の向こうの団地群は、武庫川団地。川西航空機鳴尾製作所があった場所。

海側。
当時、鳴尾飛行場の滑走路は海上に面していた。
しかし、海際は、「浜甲子園阪神パーク(遊園地)」の残骸もあり、排水溝の跡もあり、なにがなにやらよくわからない残骸にあふれている。鳴尾飛行場の滑走路の残骸もあるのだろう。

残骸があつまる。
きっと、鳴尾飛行場滑走路の残骸もある、、、はず。

甲子園浜

沖合に見える岩礁が鳴尾飛行場時代の海岸線(防波堤)という。

鳴尾飛行場時代の防波堤

鳴尾飛行場の滑走路の残骸。

滑走路東南に位置するところに、瓦礫があつまっている。

場所

https://goo.gl/maps/wSd5Gb2fxQr6sTty9


鳴尾川

鳴尾川の西が鳴尾飛行場、東が川西航空機鳴尾製作所であった。
写真の左側にみえる武庫川団地が川西航空機鳴尾製作所の跡地。


武庫川団地

このあたり一帯は、戦前は川西航空機鳴尾製作所であった。
往時を偲ぶものはなく。

阪神電車がいました。

阪神電車の赤胴車。

自販機も特別仕様。

キレイに保存されている車両。良いですね。

場所

https://goo.gl/maps/nxgZiR4tCNq2ez739


阪神電鉄武庫川線

冒頭の「甲子園SL公園」でも触れたが、阪神電鉄武庫川線の前身は、川西航空機鳴尾製作所への輸送のために、昭和18年に阪神電鉄により武庫川駅ー洲先駅が開通したことにはじまる。
昭和19年には、武庫大橋駅ー武庫川駅間が開通。西宮駅からは国有鉄道としての乗り入れも行われた。
終戦後に旅客営業中止。昭和23年に武庫川駅ー洲先駅間での運行が再開。
昭和33年に西ノ宮駅ー洲先駅間の貨物線は休止され、45年に貨物廃止、昭和60年に休止中の武庫大橋ー武庫川間が廃止。
その1年前に昭和59年に現在の「武庫川団地前駅」まで南側は路線が延伸された。

西宮市

https://archives.nishi.or.jp/04_entry.php?mkey=14039

武庫川団地前駅

武庫川駅

武庫川駅の引込線は、かつての線路跡。

武庫川線の引込線は途中でおわり、線路も剥がされて、線路跡のみがのこる。

武庫川橋の北側からは、住宅地として、線路跡が活用されている。

場所(武庫川橋)

https://goo.gl/maps/2JYjCqWgCDVgimni7

鳴尾・武庫川の散策は、9時スタートで、12時終了。ざっくり3時間で10キロ(電車利用部分は除く)の散策でした。

※撮影:2023年4月


関連

尼崎の戦跡と近代建築散策・その1(兵庫)

兵庫県尼崎市。大阪の隣。
先日、関西方面に赴いた際に尼崎を散策。
いくつか戦跡と近代史跡を巡ってみました。

その2は下記にて


橘公園の高射砲台座

尼崎市役所に隣接する橘公園。
この公園に、高射砲陣地の台座(砲座)が残っている。

関西方面の防空は高射第3師団(司令部は大阪市立美術館に設置)が担当。

尼崎は大阪に隣接する地の利もあり、戦前から工業都市として発展。尼崎市内には最大規模の軍需工場「住友金属工業プロペラ製造所」もあったが、昭和20年6月15日の第4回大阪空襲で壊滅している。

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/situation/state/kinki_09.html

橘公園の高射砲台座(砲座)は2基残っている。

1基は、花時計の奥にあるライオン像の台座。

2期目は、ベンチと水道の横になんとなくある不自然な円柱。
柱上には、砲床も残っている。

公園には特に、高射砲台座を示す由来看板などはない。

尼崎公園

https://amagasaki-park.com/plant1

場所

https://goo.gl/maps/gyW2GnWDgsSawPug8


高射砲台座の位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M18-4-15
1948年2月20日、米軍撮影の航空写真を加工。

該当部分を拡大。
黄色が橘公園の部分。赤色は住宅地となり、遺構は特に残っていない。
黄色部分の陣地は、残っている台座(砲座)の高さがあることからもわかるが、土塁でもって丘のように盛り上がっていたことがわかる。
中央の黒い部分は「溜池」。1962年に尼崎市役所が建設されるまえは、この地は「池」であった。


昭和大典記念時計塔

昭和天皇の即位の礼を記念して、昭和3年・1928年11月に建立されたもの。

大阪の陸軍第四師団長・林弥三吉中将の揮毫

帝国在郷軍人会

場所

https://goo.gl/maps/WjWHnRRty18nfzk2A


旧尼崎警察署

大正15年(1926)11月30日竣工の旧尼崎警察署。
兵庫県内において完全な形で残る戦前期の警察署庁舎としては唯一のもの。

昭和45年(1970)3月31日、尼崎中央警察署は新築庁舎に転出し、敷地と建物は尼崎市の管理となった。
尼崎市立城内児童館として約20年活用されたが、阪神淡路大震災で被災。安全性を考慮し閉鎖され、現在に至る。

レファレンス協同データベース

https://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000289653

場所

https://goo.gl/maps/9ApJyJf7S92Yh3Qq7

旧警察署の隣の敷地に、なにやら石碑。
昭和16年建立の紀元2600年記念での青山幸利公顕彰碑のようでした。尼崎藩2代目藩主。初代は、青山幸成。

陸軍大将・本庄繁の扁額謹書。

本庄繁は、兵庫出身であったので、その縁から、かも。


尼崎市立歴史博物館(旧尼崎高等女学校)

昭和13年(1938)に竣工した尼崎高等女学校校舎。
その後、城内中学校となったが、平成17年に中学校は移転統合。
空き校舎を活用し、平成21年(2020)に尼崎市立歴史博物館としてリニューアル。

博物館の見学も今度しないと、、、

場所

https://goo.gl/maps/TLA1VDmGHDh8PzqXA


阪神電鉄旧尼崎発電所

明治34年(1901年)竣工の煉瓦造りの尼崎火力発電所。
発電所としては大正8年4月6日に休止。
現在は資材倉庫として活用。

阪神電車の車窓から、尼崎城と煉瓦建造物を一緒に楽しみ事ができる。

ホームからも。

公道から見学。

尼崎城が小さく見える。

赤が先状側からも。

ちなみに城址公園は、西三の丸に当たる場所で2018年の外観復元天守。本丸は、尼崎市立明城小学校の場所となる。

場所

https://goo.gl/maps/LMvZdr9kcwX4hG8Z7

※撮影:2023年4月


関連(尼崎)

軍艦「橋立」のキャプスタン(素戔嗚神社・尼崎)

関西方面に行く機会があったので、気になっていた場所に足を運んでみました。


軍艦「橋立」

大日本帝国海軍の防護巡洋艦「橋立」。
艦名は名勝「天橋立」に由来する。
排水量4,210トンで、三景艦のうち唯一の国産艦(横須賀造船部で建艦)であった。

清国が保有していた戦艦「鎮遠」「定遠」に対抗する軍艦として、計画されたのが松島型防護巡洋艦。いわゆる「三景艦」(松島・厳島・橋立)であった。

1885年に清国北洋艦隊が就役させた「定遠」「鎮遠」
定遠級戦艦2隻は、基準排水量7,220t、主砲30.5cm連装砲を2基4門、舷側装甲最大厚305mmという、当時の列強海軍が東アジアに配備していた大型艦を凌駕する、アジア最強の戦艦であった。
日本海軍は定遠級戦艦に対抗するために、より口径の大きい32cm(38口径)単装砲を装備する軍艦を建造。「松島」は後部甲板に主砲を配備し、「厳島」と「橋立」の2隻は前部甲板に主砲を配備した。当時の日本海軍の艦艇では32cm砲を取り扱いするには困難を極めたが、一番艦の「松島」は日清戦争では連合艦隊の旗艦を務めた。
「橋立」は、日清戦争開戦直前の明治27年(1894年)6月26日竣工。同年の8月1日に日清戦争開戦。
連合艦隊に所属し、松島・厳島・橋立の三景艦として、清国北洋艦隊の鎮遠・定遠を撃破し、日清戦争の勝利に貢献した。

明治37年(1904 )の日露戦争では、三景艦の松島・厳島・橋立と、拿捕艦であった鎮遠を交えた第三艦隊第五戦隊の旗艦を橋立が務めている。

大正11年には横須賀海兵団の練習船として使用され、大正14年に廃船となり、大正15年(1926)に解体となっている。

軍艦「橋立」のキャプスタン

兵庫県尼崎市の素戔嗚神社。
境内に、軍艦「橋立」のキャプスタンが奉納されている。
キャプスタン(capstan)は、垂直軸回転式のウインチのことをいう。

明治廿七八年日清戦役旗艦橋立表上甲板ノCAPSTANロクロナリ昭和元年赤井氏が其艦ヲ拂下ゲ之ヲ本神社ニ献納 紀元二千六百年 赤井常吉

要約すると
明治27年~明治28年の日清戦役(日清戦争)旗艦(旗艦じゃない)の「橋立」の表上甲板のCAPSTAN「ロクロ」。
解体の翌年、昭和元年(1926)に払い下げされ、素戔嗚神社に献納された、という。

キャプスタンのことを「轆轤(ろくろ)」と表現しているのは面白い。たしかん「ろくろ」だ。

緑の四角は、塞いだ蓋。
ここに、キャプスタンバー(横棒)をさして、人力で回転させた。

明治40年頃、横須賀軍港の「橋立」
wikipedia参照写真

以下は参考まで。キャプスタンの例。

「明治丸」
これは橋立と近いメージですね。回転させるためのキャプスタンバー(横棒)があると、イメージがわかりやすい。これで人力で回します。

記念館「三笠」
橋立の5年後に竣工した三笠。すでに機械化されてますね。 

護衛艦「しらぬい」
いまどきのキャプスタン


素盞嗚神社(西素盞嗚神社)

兵庫県尼崎市大庄西町鎮座。
永禄年間の創建という。

兵庫県神社庁

https://www.hyogo-jinjacho.com/data/6304065.html

武庫川の上にある「阪神武庫川駅ホーム」
「素盞嗚神社」は阪神武庫川駅の北、尼崎側の東にある。

場所

https://goo.gl/maps/TfECLbvZAEXRepdR9

※撮影:2023年4月


関連

兵庫県には海軍艦艇関連の奉納神社が多いような。

東京砲兵工廠の煉瓦遺構?(小石川)

文京区の後楽園周辺は、かつて軍需施設であった。
その界隈の散策は以前に以下の記事でまとめた。

戦後は、東京都戦没者霊苑も設置された。

東京都戦没者霊苑

軍需施設は、戦後は、「小石川後楽園」や「東京ドーム」「文京区立礫川公園」「中央大学後楽園キャンパス」などに活用されている。

小石川(住所は春日であるが)に、以前散策したときには見逃した煉瓦遺構があると耳にしたので、足を運んでみました。

2022年12月の写真となりますので、現状は不明です。


煉瓦遺構(小石川税務署裏)

小石川税務署の裏手の後方に、煉瓦構造物があった。
状況からすると、「東京砲兵工廠」の遺構か?
想像では、火薬庫(弾薬庫)のような気配もあるば詳細は不明。

中央大学小石川キャンパスの新設工事で、アーチ状の遺構は中央大側の3分の2が失われているが、税務署側がかろうじて残っていた。

ちなみに「東京砲兵工廠」移転後は、「小石川陸軍工科学校」があり、そして高台の上には、「小石川春日高射砲陣地」もあった。

中央大側と税務署側で明雲を分けた煉瓦遺構。

中央大学小石川キャンパス

税務署側もどうなることやら、、、です。

場所

https://goo.gl/maps/w5CwxsT1A8Zcodv97


牛坂の煉瓦

北野神社(牛天神)の北側の坂「牛坂」。

崖面に煉瓦擁壁の構造物があった。この台地の上に「牛天神」がある。

東京砲兵工廠は小石川水戸藩邸の地に1871年(明4)に操業し関東大震災の影響もあり1935年(昭10)に移転。工廠跡の一部は、陸軍砲兵工科学校となったが、後楽園球場ともなっている。
後楽園球場では煉瓦は邪魔でしか無いので、工廠跡の大量な煉瓦が近隣で再利用されたのかもしれない。


北野神社(牛天神)

北野神社。源頼朝公伝説が残る古社。

裏手の駐車場の壁が、煉瓦積みでした。
いびつな積み方は「ガンタ積」というそうで。

面白い積み方。
上でも書いたけれども、東京砲兵工廠移転後に建設された後楽園球場では不要となった工廠跡の大量な煉瓦が廃材として近隣で再利用されたのではないかという仮説として、不揃いな形が多かったために、ガンタ積みになったのかもしれない。

常泉院の煉瓦壁

一部だけ、煉瓦壁が残っている。

※撮影:2022年12月

善光寺坂のムクノキ(戦災樹木・文京区)

文京区では初の指定天然記念物(文京区指定天然記念物)。
戦災をくぐり抜けたムクノキの巨木に会ってきました。


善光寺坂のムクノキ

伝通院の鎮守であった澤蔵司稲荷の御神木。
第二次世界大戦中の昭和20年(1945)5月25日の空襲で樹木上部が焼けて欠損し、樹幹下部もその空襲によって幹に炭化した部分が見受けられる。

善光寺坂 のムクノキ  
 文京区指定天然記念物
  所在地 小石川3丁目18番(ポケットパーク内)
  指定   平成25年3月1日

 樹高約13m(主幹約5m)、目通り幹周約5mを測る推定樹齢約400年の古木 である。第二次世界大戦中、昭和20年5月の空襲により樹木上部が焼けてしまったが、それ以前の大正時代の調査によると樹高は約23mもあった。
 ムクノキは、ニレ科ムクノキ属の落葉高木である。東アジアに広く分布し、日当たりのよい場所を好む。成長が早く、大木になるものがある。
この場所は江戸時代、伝通院 の境内であった。その後、本樹は伝通院の鎮守であった澤蔵司稲荷 (たくぞうすいなり)の神木 として現在に至っている。
 樹幹上部が戦災により欠損し、下部も幹に炭化した部分が見受けられるが、幹の南側約半分の良好な組織から展開した枝葉によって樹冠が構成されている。枝の伸び、葉の大きさ、葉色ともに良好であり、空襲の被害を受けた樹木とは思えないほどの生育を示している。
 本樹は、戦災をくぐりぬけ、地域住民と長い間生活を共にし、親しまれてきたものであり、貴重な樹木 である。
 平成26年1月
  文京区教育委員会

戦争の爪痕を遺しつつも、力強く立派なに枝を伸ばしている樹木。

善光寺坂。寺町にある坂道。よい風情。

文化庁>文化遺産オンライン

https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/276710

澤蔵司稲荷

https://takuzousuinari.com/mukunoki/

場所

https://goo.gl/maps/jeCkmYaapvT57inY8


澤蔵司稲荷 (たくぞうすいなり)

小石川善光寺

ちかくにある料理学校。
明治15年(1882年)日本で最初の日本で最初の家庭料理の学校として開校した「赤堀割烹教場」以来の伝統を誇る日本最古の料理学校とのことで。

※撮影:2022年12月


関連

5月25日の空襲は、東京にとどめを刺した「山の手空襲」。

明治生命館(GHQ接収・米極東空軍司令部)

明治生命館を見学していましたので、掲載。
かつて、アメリカ極東空軍司令部として接収されたこともある建造物。

公式サイト

https://www.meijiyasuda.co.jp/profile/meiji-seimeikan/

一般公開もありますので、見学してきました。


明治生命館(外観)

昭和9年(1934)3月31日竣工。
昭和20年8月、終戦後に連合国軍が進駐を開始。連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)は、日比谷の第一生命館を接収するとともに、明治生命館に対しても米極東空軍司令部(FEAF)として使用するために接収した。
接収期間中、2階の会議室では、米・英・中・ソの4カ国代表による「対日理事会(ACJ)が開催され、昭和21年(1946)4月5日、その第一回には連合国軍総司令官D.マッカーサーが演説を行っている。対日理事会は、隔週ごとに開催され、サンフランシスコ講和条約が発行され、GHQが廃止された昭和27年(1952)まで164回にも及んでいる。昭和31年に返還。

昭和建造物としては、昭和の建造物として初めて、平成9年に「明治生命保険相互会社本社本館」として重要文化財指定。

設計は「様式建築の名手」岡田信一郎・捷五郎(兄弟)、構造設計は内藤多仲、施工は竹中工務店。5階分のコリント式列柱が並ぶ古典主義様式に則ったデザイン。

明治生命館
重要文化財
竣工 1934年(昭和9年)
指定 1997年(平成9年)


明治生命館(内部)

往時の雰囲気を残すエレベーターで2階に。

受付をすまして、まずは資料・展示室。


資料・展示室


手すり

手すり
回廊に巡らされている手すりはブロンズ製です。
この手すりは戦時中に金属回収されましたが、昭和31年の改修工事の際に当初と同じ形式に復元されました。


吸塵バルブ

吸塵バルブ
当時としても珍しい真空掃除機設備が設置されていました。各階では壁の吸塵バルブにホースをつなげ、吸引清掃していました。吸い寄せられたゴミは館内に張り巡らせた配管を通り、地下二階の米国製バキュームポンプとダクトタンクへと運ばれました。


会議室(対日理事会)

古典主義様式が取り入れられた会議室。

戦後、明治生命館は米極東空軍司令部(FEAF)として使用するために連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)に接収された。
接収期間中、2階の会議室では、米・英・中・ソの4カ国代表による「対日理事会(ACJ)が開催されている。


控室(食堂控室)

料理用昇降機(小型エレベーター)が設置されており、地下にある厨房から料理が2階まで運ばれた。


食堂


象徴的なデザイン。吹き抜け部分にはイオニア式を貴重とする26本の角柱。回廊内側は、トスカナ式。イタリア産大理石。


回廊

1階部分は、静嘉堂展示室のエレアのみでならず、店舗営業室(ほけんショップ丸の内)としても、現在も活用されている。

消火栓格納


メールシュート

メールシュート
郵便物を各階から直接投函することができる、米国カットラー社製メールシュートが、館内各階二ヵ所に設置されていました。
一階北玄関と東玄関には、各階のメールシュートから投函された郵便物が集積される集合郵便箱が設置されていました。


天井

天井
天井は漆喰と石膏で作られています。吹き抜けの中央部に設置されたトップライト(天窓)の南・西・北側を取り囲む天井には八角形と小さな正方形のくぼみがあり、八角形の中には石膏で造られたロゼット(丸い花飾り)が施されています。


執務室


執務室隣接応接室


階段


応接室


健康相談室

健康相談室は昭和13年(1938)に創設された健康増進施設であり、現在のように健康診断が一般的ではなかった頃に、生命保険会社もよる社会貢献の一環として発足しました。当時としては最新のドイツ製の心電図計(エレクトロ・カルヂオグラム)が導入されていました。

2階を一周して見学終了。

これは良いですね。いいものを見学させて頂きました。
見学できることがあまり周知されていないのか、ほどんど独占状態での見学。ゆっくり楽しめました。


明治生命館「講堂」(東京建築祭2025)

2025年5月、「東京建築祭2025」にて、通常は非公開の明治生命館7階の「講堂」が一般公開されましたので、足を運んでみました。

以下、写真は2025年5月撮影。


第一生命館

明治生命館と同じく連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)が接収したのが、日比谷の第一生命館。マッカーサー記念室など一部が残っているというが通常非公開。


第一生命日比谷ファースト展示資料(東京建築祭2025)

第一生命日比谷ファーストビルの1階公開エリアにて、東京建物祭2025に際して、関連資料の展示がありましたので、足を運んでみました。

以下、写真は、2025年5月。

マッカーサー執務室(保存・非公開)

資料展示コーナー(保存・非公開)

貴賓室(保存・非公開)


第一生命館


マッカーサー記念室と保存諸室

この部分が一番興味あるので、拡大しつつ紹介

GHQによる接収
 昭和20年8月15日、昭和天皇によるポツダム宣言受諾の詔書により、第二次世界大戦は終わりを告げた。同年8月30日には、連合国総司令官ダグラス・マッカーサーが厚着飛行場に降り立ち、連合国総司令部(GHQ)による戦後処理が始まることとなった。
 第一生命館がGHQによって、建物の地上部分すべて接収されることになった。9月10日に日本政府より正式の接収命令が通知され、9月15日の正午をもって明け渡しの期限とするまことにあわただしいものであった。建物が戦前に陸軍からの要請で、屋上スラブ厚40cm、1階床スラブ厚60cmの耐爆対弾構造であったこと、また冷暖房装置が整っていたことなどが接収の理由であったと考えられる。隣接する農林中央金庫有楽町ビルも同様に急な接収が行われた。
民主化の象徴として
 第一生命館は昭和27年7月に、農林中央金庫有楽町ビルは昭和31年2月に接収が解除され両社に返還された。
 しかし、この建物が財閥解体、農地改革、新憲法の草案などの諸政策の発信源として、戦後の民主化の象徴と認められていたことも事実である。第一生命館の返還受領式の挨拶の中で、矢野社長は次のように述べている。
「・・・第一に、この家が日本および日本人の為に、延いては更にまた世界の為に最も有効に役立つお努めをしたいということが何より欣ばしいことであります。又之は会社にとっても名誉と考えるものであります。
 第二に6年10ヶ月の長い間このビルに関して私dも何等不愉快な出来事を経験せず、終始気持ちのよい思い出のみを持ったことを喜ぶものであります。
 このビルをめぐっての美わしい話は沢山あるのであります。之は要するに所有者である第一生命と使用者であるGHQの間に頭から絶対的な強力と理解があったことによるものであると思います。(中略)・・・第一ビルが永らく歴史的な建物として人々の心に残るものである丈に、日本の為、世界の為によかったことだと思って居ります」(「」内は第一生命八十五年史より引用)

復旧・保存されたマッカーサー執務室
 本館6階には、旧第一生命館の歴史の舞台となった貴賓室、大小会議室およびマッカーサー執務室があった。これらのうちマッカーサー執務室と貴賓室は、現状を完全保存し、記念室として残すことになった。

イメージ保存の手法
 大小会議室とそれにまつわるホワイエと廊下は、要所に旧建物のデザイン要素を取り込みながら、床、壁、天井を新たに作り直してイメージ保存を行っている。(以下略)

あとは、写真共有で。


外堀から

※撮影:2023年1月


関連

東京都戦没者霊苑

礫川公園の奥に東京都戦没者霊苑がある。
以前にも掲載していたが、独立したページとして改めて掲載。


東京都戦没者霊苑

さきの大戦における16万余にのぼる東京都関係戦没者の慰霊と都民の平和への願いをこめて、昭和35年6月に建立。
敷地は、小石川台地にあり、古くは水戸藩上屋敷の一部でした。その後、陸軍砲兵工廠・諸工伝習所敷地となり、戦後は、財団法人東京都慰霊協会が戦没者・戦災者慰霊施設として管理し、昭和28年に戦没者慰霊施設用地として、東京都に寄付されたもの。
現在の戦没者霊苑は、全面改修が施され、昭和63年3月に竣工したもの。

合掌

東京都戦没者霊苑
この霊苑は、先の大戦において尊い犠牲となられた東京都関係の戦没者をお慰めするとともに、平和を願う都民の強い決意を表すため、建立されたものです。


東京都戦没者鎮魂の碑

広場正面に池(水盤)を配置し、池の中に高さ3.36メートルの人工滝がある。滝を背景に、その中心の水面に浮かぶ形で、高さ1.59メートルの門形の白御影石に囲まれた黒御影石の「東京都戦没者鎮魂の碑」があり、鈴木俊一都知事(当時)の書による「鎮魂」の文字が刻まれている。

東京都戦没者霊苑
鎮魂

山本健吉氏撰書による平和への願いを記した文章がある。
山本健吉は、文芸評論家。

碑文
あの苦しい戦いのあと、四十有余年、私たちは身近かに一発の銃声を聞かず、過して来ました。あの日々のことはあたかも一睡の悪夢のように、遠く悲しく谺して来ます。
だが、忘れることができましょうか。かつて東京都の同朋たちの十六萬にも及ぶ人々が、陸に海に空に散華されたことを。 あなた方のその悲しい「死」がなかったら、私たちの今日の「生」もないことを。
そして後から生れて来る者たちの「いのち」のさきわいのために、私たちは何時までもあなた方の前に祈り続けることでしょう。 この奥津城どころは、私たちのこの祈りと誓いの場です。同時に、すべての都民の心の憩いの苑でもありましょう。
この慰霊、招魂の丘に、御こころ永遠に安かれと、茲にこれが辞を作る。
 山本健吉

由来文
 東京都戦没者霊苑は昭和六年の満州事変から日中戦争を経て、昭和二十年(一九四五年)八月の太平洋戦争終結までの東京都関係戦没者約十六万人の霊をまつる。
 敷地は、昭和十五年に忠霊塔建設予定地に選ばれた小石川陸軍工科学校跡地である。
 昭和三十五年、ここに東京都戦没者霊苑が建設されたが、それは歳月の中に老朽した。また、年々齢を加える遺族が、安全に慰霊祭に参加するための配慮も必要となった。
 そこで戦没者の慰霊と平和への願いを新たに、このたび全面改修を行い昭和六十三年(一九八八年)三月に完成した。
 設計は、建築家相田武文、碑文は、芸術院会員、文化勲章受章者山本健吉、碑名の揮毫は東京都知事鈴木俊一による。
 私たち都民はこの霊苑につどい、霊前にぬかずき、改めて戦争とは何であったかを深く考えたい。
 戦没者の御霊にお願い申し上げる。
 お声を風に託して、戦争の実態を私たちに語り聞かせていただきたい。 そして私たちが強い意志と英知をもって、平和を守るという至上の命題にとり組めるよう、お導きいただきたい。
 霊苑が戦没者の御霊と私たちの心の通い路になることを願って、ここに謹んでその由来を記す。
 角田房子

角田房子氏は近現代史をテーマとした題材を多く発表されたノンフィクション作家。


御製(日本遺族会創立30周年記念式典)

侍従長入江相政謹書。
昭和55年11月17日の日本遺族会創立30周年記念式典での御製。

みそとせを 
 へにける今も 
  のこされし 
うからの幸を 
 ただいのるなり


太平洋戦争における地域別戦没者数一覧

東京都遺族連合会
1989年8月15日


御製(民生委員・児童委員顕彰碑)

同じく、侍従長入江相政謹書。

前面の碑に刻まれた御製は、民生委員制度創設50周年を記念する全国社会福祉大会に出席された天皇・皇后両陛下から民生委員に対し多年の労をねぎらう励ましのお言葉を賜ったもの

いそとせも
 へにけるものか
    このうえも
  さちうすき人を
    たすけよといのる

民生委員制度創設50周年を記念して、過去50年にわたり、社会福祉の増進のため活躍した民生委員・児童委員の遺徳をしのび、その業績を顕彰する目的で、昭和42年11月東京都民生委員連合会にとって建設。


東京都戦没者霊苑展示室

訪れたときは休館中でした。
※令和5年3月再開予定

東京都戦没者霊苑

https://www.fukushihoken.metro.tokyo.lg.jp/seikatsu/senso/reien.html

場所

https://goo.gl/maps/cRoupNhXbVMBTkVq7


陸軍砲兵工科学校・工科学校跡
諸工伝習所跡記念碑

隣接地にて以前にも掲載したので詳細は割愛。

礫川公園

東京砲兵工廠跡の公園。
同じく以前にも掲載したので詳細は割愛。

射撃場跡

※撮影:2022年12月


東京大空襲と下町(江東区砂町周辺)

東京大空襲と下町。
江東区砂町地区なども大きな被害を被っている。

慰霊巡拝を。


戦災殉難者供養之碑(砂村新田六地蔵)
南砂町1丁目・南砂町3丁目

江戸時代のことから、砂村新田六地蔵尊が祀られていたという。昭和20年3月9日夜半からの東京大空襲によって、六地蔵は瓦礫と化し戦災焼失。
昭和27年頃に「戦災殉難者慰霊」を兼ねて再建。

昭和20年3月10日歿
戦災殉難者供養之碑
起縁南砂町1、3丁目

砂町新田六地蔵
(前略)
さても恐ろしいのは戦争である。昭和20年(1945)3月9日、あの夜半からの大空襲のため、六地蔵は瓦礫と化し江戸時代からの文化財が一つ消えて行ってしまった。
 この地蔵は、戦災で焼失したため、昭和27年(1952)頃に戦災殉難者慰霊も兼ねて再建された。現在は「六地蔵尊奉賛会」によって守られている。

場所:

https://goo.gl/maps/QEi531KqViBth1cMA


戦災殉難者供養碑・波除地蔵尊

江東区南砂。
南砂2丁目町会会館に隣接。
大正6年(1917)10月の大津波によって砂村新田で亡くなった方を供養する波除地蔵尊とともに、東京大空襲の殉難者を供養する碑が建立されている。

地蔵尊の左側、お供えの花に埋もれているが、供養碑がある。
左側の石碑は地蔵尊の由来碑。

手前の線路は、貨物専用の越中島支線。

場所

https://goo.gl/maps/yPykKbWJf7sSmdr2A


戦災殉難者供養碑(妙久寺)

江東区北砂。
砂町地区での戦災殉難者を供養する。

寺院境内墓地内には、空襲で破損した墓石や焼けた墓石も多数残っている。

場所

https://goo.gl/maps/ovFeZKhaPobQMPg37


江東馬頭観世音(武州妙安禅寺)

江東区南砂。
当時、界隈では、荷車を引かせる馬=輓馬の業者が集中していた。東京大空襲では、輓馬3,000頭が焼死。また輓馬も軍部によって軍馬としても徴用され、多く戦死している。
昭和28年9月に、愛馬の霊を弔うために、地元の運送業者の手によって馬頭観世音が建立された。

なお、武州妙安禅寺は、東松山市に鎮座する「慈雲山妙安寺」のこと。境内の馬頭観世音は「武州上岡観音」として古くから牛馬と関わる農家から信仰され、関東随一の馬頭観音の霊場とされている。

碑面裏の趣旨書は漢文での記載。

江東馬頭観世音由来之碑
 昭和20年(1945)3月9日夜半の大空襲により江東方面は焦土と化し殉難者は目を覆うばかりの惨状を呈した。また戦局が激しさを加えるに伴い石油が欠乏し国内の輸送は専ら牛馬車のみに大きく依存された。江東地区特に砂町大島亀戸深川一帯は東京都内において当時最も多くの輓馬業者が集中し牛馬の頭数3千有余居りその大半が空襲で厩舎や路上で焼死しさらに戦時中は軍馬として江東方面から多数徴用され大陸や南方において数多くの馬が戦死をとげたのである。
 昭和28年(1953)9月輓馬による運送業者が中心となりこれら愛馬の諸霊を弔い平和祈願をこめてこの地に江東馬頭観世音を建立したものである。
 大空襲後33回忌を迎えるにあたりこの志を継ぐ者が相寄り慰霊の由来を記し、ここに碑を建立して永く世にこれを傳えることになった。
 昭和52年(1977)3月10日 
  江東馬頭観世音講

馬蹄や人参が奉納されている。今でも手厚く崇敬されていることがわかる。

江東馬頭観世音

武州妙安禅寺

となりには「東京トラック同盟協同組合」。
いまも縁がある。

場所

https://goo.gl/maps/xVoRNtDXxWkKXXHP9


殉職者慰霊碑「礎」(小名木川駅跡)

江東区北砂。
旧国鉄小名木川駅跡の「アリオ北砂」
入口にある慰霊碑。


日本国有鉄道総裁
十河信二

時太平洋戦争も䦨(たけなわ)昭和20年3月10日未明米国重爆撃機B29型百数十機の大空襲により江東地帯は壊滅的被害を受け特に当駅は五百数十両の貨車、数千屯の貨物と共に駅施設は烏有に帰す。この日勤務者二十四名中実に十二名が壮烈その職に殉す。
又昭和4年開業以来職に殉せし者四名を数うここに十六名の霊を慰むべく駅員の総意により広く国鉄部内外の協力を得て本碑を建立す。
 昭和37年3月10日

小名木川駅は昭和4年開業の貨物専用駅。
交差点はまだ「小名木川駅前」表示のまま。

場所

https://goo.gl/maps/mBECHTGgdLW1TQ7F6


北砂二丁目公園(小名木川駅跡)

小名木川駅の歴史
 江東地区の工業地帯の輸送需要の増加に対応するため昭和4年3月20日、小名木川河畔14,000平方メートルのドッグを備えた水陸連絡貨物専用駅として、小名木川駅が開業した。
 初め貨物取扱量50万トンの規模であったが、第2次大戦中の昭和18年(1943)には130万トンの貨物取扱量を記録。
(以下略)

小名木川駅は、平成12年(2000)に廃止となっている。
再開発のアリオ北砂は2010年に開業。

場所(北砂二丁目公園)

https://goo.gl/maps/FtFGnd13aLyn53fD6


地蔵尊(羅漢寺)

江東区大島。西大島駅の交差点の北東。
東京大空襲で火の海から逃れた住職が発起人となり、大島町の町会の寄付もあり昭和26年に7回忌として建立。
東京大空襲で焼けた庫裏跡に700名以上の遺体が仮埋葬されており、昭和24年に遺体を火葬し東京都慰霊堂に改葬した際に、分骨した5人遺骨を地蔵下に埋め、開眼供養としたという。

場所

https://goo.gl/maps/vpJ8witZJeaiqFpP7

撮影:2022年1月


関連

東京大空襲関連の一覧

はじめに

東京大空襲と下町(墨田区菊川・立川、江東区森下周辺)

東京大空襲と下町。
菊川・立川地区なども大きな被害を被っている。

慰霊巡拝を。


榎稲荷神社

墨田区立川。
稲荷神社の御神木の榎の大木は空襲によって真っ二つに裂かれた被災樹木。

榎稲荷は天和3年(1682)に菊川の土手に建立され、元禄9年(1696)に菊川という河の名を取り「菊川」という町名になり、溝中が作られたという。

被災した榎。

榎稲荷神社由緒書
(前略)
明治11年11月2日本所区菊川1丁目と称し、大正12年9月1日の関東大震災にて焼失、その後区画整理にて現在地に移転し、昭和7年町名変更にて竪川4丁目となる。
昭和20年3月10日第2次世界大戦の際、東京大空襲にて再度焼失したる(攻略)
※カタカナはひらがなに置き換え、句読点を補完

場所

https://goo.gl/maps/nfn6bw8Ap56sid2E7


堅川地蔵尊

墨田区立川。
昭和21年5月、堅川地蔵尊が、東京大空襲の犠牲者の冥福と恒久平和を願って建立。
竪四会館と同居している。

竪川地蔵尊戦災震災殉難者諸霊位供養之塔

地蔵尊の由来
 大東亜戦争中昭和二十年(西暦一九四五年)三月十日未明、敵空軍爆撃機の焼夷弾による大空襲を受け下町一帯は壊滅状態となり尊い人命を数多く亡くし其の数実に10万人と言います。
 攻撃に参加した敵爆撃機二九八機、投下焼夷弾一七八三t、被災者数100万人、焼失家屋二十七万戸、負傷者数14万人、当、菊川公園に埋めた人4515人に達し当町の住民の中からも多数の焼死者を出し、無人の町に等しくなるも終戦により町に復帰する人も日毎に多くなり、其の生存者の間から犠牲者の冥福と恒久平和を念じて地蔵尊建立の運動が起き、当時この町の住民で菊川小学校で奇跡的に難を免かれ、船橋市に疎開中の石黒善次氏に話が伝わり動詞の浄財により昭和二十一年五月地蔵尊を菊川公園に建立し町に寄贈され昭和四十年四月菊川公園改修のため現在地に移転、今日に至り以来毎年三月十日の戦災記念日には盛大に犠牲者の霊を弔うと共に人が人を愛し世界の国々が平和で人類が何時迄も仲良く幸であることを祈るものである。
  昭和五十九年三月十日 
   立川四丁目町会

戦災者供養

場所

https://goo.gl/maps/DL8oQJBZY2GKC19w6


菊川公園

竪川地蔵尊と榎木稲荷神社の隣。
東京大空襲に際して、避難民で溢れた「菊川国民学校」も火の海に包まれ、学校も路上も遺体で溢れ、隣接する「菊川公園」に4,515名にも及ぶ犠牲者が、菊川公園に仮埋葬された。

場所

https://goo.gl/maps/gRTo6ogmGBZ6Ug5D7


夢違之地蔵尊夢違地蔵尊

墨田区菊川。
約3,000人の犠牲者が菊川橋の周辺であったという。
弥勒寺住職が書かれた縁起には、以下のような惨劇が綴られている。

  まだ春浅き三月九日夜半 雨あられの如く投下された焼夷弾は、いとまなき出火となり立ち向かう術もなく、劫火の中を、親は子を子は親を、呼び合い叫び逃げまどい 或は壕に入り、水面に飛込み、或は公園、校舎に走り、ついに力尽きてその声も消え果て、やがて倒れ重なりまっ黒な焼身と化し、水に入りては沈泥
に骸と果て、翌朝光の中の惨状は眼を覆うばかりであった。生き残れる者僅かにしてそのさまは亡者のようであった。この地の殉難者数約三千余名といわれている。

夢違地蔵尊縁起

夢違地蔵尊縁起
 一九二三年(大正十二年)関東大震災に於ける下町の惨禍は遭難死者五万八千名に及びその遺骨を収納し、東京都慰霊堂が建立され、その加護と平安を願い毎年九月一日を記念日と定め 官民あげて法要が営まれているが、この地も焦土と化しその物故者も多いため、毎年その慰霊法要を行うに至った。一九四一年(昭和十六年)太平洋戦争勃発し、戦局利にあらず、殊に一九四五年(昭和二十年)三月九日より十日にかけての米戦略爆撃機B29による東京空襲は最も熾烈を極め僅か数時間で下町を中心に二十七万八千余戸を焼失し無慮七万八千余の殉難者を出した広島 長崎の原爆の戦史に比類する永遠に忘れ得ぬ悲惨な史実である。
 まだ春浅き三月九日夜半 雨あられの如く投下された焼夷弾は、いとまなき出火となり立ち向かう術もなく、劫火の中を、親は子を子は親を、呼び合い叫び逃げまどい 或は壕に入り、水面に飛込み、或は公園、校舎に走り、ついに力尽きてその声も消え果て、やがて倒れ重なりまっ黒な焼身と化し、水に入りては沈泥に骸と果て、翌朝光の中の惨状は眼を覆うばかりであった。生き残れる者僅かにしてそのさまは亡者のようであった。この地の殉難者数約三千余名といわれている。
 この地蔵尊の在わします菊川橋周辺の惨禍は、東京大空襲を語るとき後世まで残るもので霊地として守らねばならない聖域である。而して復興なり一九八三年(昭和五十八年)三月十日、誠心集い浄財を集め仏縁深き弥勒寺住職の教示を得て、これか悪夢の消滅を願い、これを善夢に導き、再びこの悲史をくり返さないようにと、夢違之地蔵尊と命名され開眼法要、殉難者追悼供養を施行した。
 時移り再び多大なる協賛を得て夢違之地蔵尊縁起の史碑建立となり地蔵講が生まれた。願わくば子々孫々への加護と人類の平和を祈念して本日此処に慰霊法要を謹んで行うものである。
                     合掌
  一九八五年三月十日
   弥勒寺第五十七代住職 岩堀真至謹書
    夢違之地蔵尊縁起史碑建立 協賛者一同

夢違之地蔵尊

総務省

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/virtual/memorialsite/tokyo_sumida_city003/index.html

菊川橋の北西にある菊川橋児童遊園 (北側)に地蔵尊はある。

場所

https://goo.gl/maps/EG8bQsf7WcwEwiP66


八百霊地蔵尊(やおだま地蔵尊)

江東区森下5丁目。
この地の戦災犠牲者約800名を慰霊するために、昭和21年に建立。

八百霊地蔵尊
由来記碑
昭和二十年三月十日大東亜戦争による米軍東京大空襲により一朝にして犠牲となった当時の深川高橋五丁目の町民八百余名の霊を慰めるため昭和二十一年生存者町民有志によりこの地蔵尊が建立された
この由来を後世に伝へ併せて恒久の平和を祈るため三十周忌を記念してこの碑を建てた
 昭和四十九年三月十日
  江東区森下五丁目町民有志

猿江橋の北西角地。

総務省

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/virtual/memorialsite/tokyo_koto_city011/index.html

場所

https://goo.gl/maps/aNk1i3Z5Fn4xjnM26

※2022年1月撮影


関連

東京大空襲関連の一覧

はじめに

東京大空襲と下町(江東区白河・平野・三好周辺)

東京大空襲と下町。
清澄白河地区も大きな被害を被っている。
慰霊巡拝を。


白河戦災地蔵尊(延命地蔵尊)

江東区白河。
戦前に、朝鮮から来日し白河町で食堂を開いていた李夫妻。東京大空襲後に、無料宿泊所をつくり、洋裁教習所などうをもうけ、女性や子供の自立支援をおこなっていた。昭和33年に、白川2丁目の延命地蔵尊の右端に、白河町で犠牲となった700余名り追悼地蔵尊を建立。

場所

https://goo.gl/maps/Fs8fv9edhT2q8z2J8


平和祈念慰霊碑(東深川橋脇の慰霊碑)

江東区白河。
上記の白河地蔵尊を建立した李氏が帰国に際し、白河2丁目有志が昭和46年に建立した慰霊碑。

昭和二十年三月九日夜の大空襲により首都東京は一瞬にして火の海と化し我白河二丁目もまた灰燼となる
その夜の焼死者実に七百余名の多きに及ぶ 其惨状は筆舌につくし難い同年八月十五日終戦となる
我々町民は全くの無一物焦土の中より起上り復興の為凡ゆる困苦と闘ひ欠乏に耐えて廿六年今日戦前にもました未曾有の繁栄を遂ぐるに至る顧みて幾多の尊き犠牲者の冥福を祈り今後戦争の絶滅を期すると共に我町会の復興を記念して茲に相計り記念碑を建立する
 昭和四十六年八月十五日  町会長 平谷章 記
  在日五十四年帰国記念為建之

総務省

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/virtual/memorialsite/tokyo_koto_city001/index.html

場所

https://goo.gl/maps/DE719L4aG89GNHLD7


平和地蔵尊・戦災殉難者供養塔(良信院)

江東区三好。
良心院にある平和地蔵尊。

地蔵尊とともに、「戦災殉難者供養塔」もある。
50回忌に建立。

平成6年3月、50回忌供養での建立。

現代的な寺院。

場所

https://goo.gl/maps/TTXtN3RffiMBHYcU6


観音像・戦災殉難有縁無縁各霊供養塔(善徳寺)

江東区三好。
東京大空襲での江東地区の犠牲者を供養する観音像。
昭和32年建立。

昭和20年3月9日夜半より10日未明に至る初の帝都夜間大空襲は全都に多大の被害を与え、江東地帯も一夜にして焼土と化し、多数の犠牲者を出し、私達にとり忘れ得ぬ悲しい出来事となりました。
同年8月15日戦争は終了を告げ爾来十有余年、人々の努力に依り町は以前にもまして復興しましたが、今は再び帰らぬ殉難の方々の永遠の冥福を祈念し、この供養塔を建立致しました。
 昭和32年10月13日
 当山19世 俊道 識

戦災殉難
有縁無縁
各霊位供養塔

場所

https://goo.gl/maps/CwmJTEGNDU36mKye7


平和観音像(成等院)

江東区三好1丁目。
成等院にある紀伊国屋文左衛門の墓域に建立されている。
なお、紀伊国屋文左衛門墓域は、東日本大震災の影響で立入禁止。

三好1丁目
平和観音

平和観音由来
昭和20年3月10日戦災により当町内は全焼し百名近くの方が亡くなられました。本年37回忌に当り、又町内で亡くなられた方々のご冥福を永久に祈り、町内各位の御清栄と国の平和を願って平和観音を造立しました。
 昭和56年3月10日
 三好1丁目町会造立

紀伊国屋文左衛門之碑は昭和33年(1958)建立。

敷地外からなので、わかりにくいが、上記碑の左側に墓石がある。

立ち入り禁止。

場所

https://goo.gl/maps/71UjHnKefubq5XYY9


慰霊碑(浄心寺)

江東区平野2丁目。
関東大震災の慰霊碑と並ぶ、戦災慰霊碑。
東京大空襲で掘割で水死した犠牲者をはじめとする万物供養の慰霊碑。
昭和21年に洲崎弁天町町会が建立し、都営住宅建設に伴い、浄心寺に移転。

昭和20年3月10日の空襲に殉難せる町会内緒霊の為、茲に碑を建て永久に其の英魂を弔う 
 昭和21年3月10日
  東京都深川区州崎弁天町会

※旧仮名遣いを現在仮名遣いに改めました

となりのおおきなモニュメントは、関東大震災慰霊碑。

蔵魄塔・関東大震災殃死者慰霊塔(浄心寺)

関東大震災では、浄心寺の境内も臨時の火葬場に当てられ、約3,000の遺体が荼毘に付された。
大正12年10月5日に深川区主催で、浄心寺にて大震災横死者追悼大法要が営まれた。
大正14年8月30日、大震災犠牲者の遺灰を納めた供養塔が建立。
(その後、遺灰は東京都慰霊堂に移されている。)
供養塔の作者は、日名子実三。(朝倉文夫門下塾頭)
蔵魄塔と名付けられ、半球ドーム型の白いコンクリート像の墳墓。悲しみに暮れる女性が抱きしめいている姿をモニュメントしている。

ちなみに、石灯籠は、仙台伊達藩六代目藩主の伊達宗村(仙台少将藤原宗村)が享保四年(1719)に奉納したもの。

浄心寺。

場所

https://goo.gl/maps/q1pHQeEqKdf8cVtb6

※撮影2022年1月


関連

東京大空襲関連の一覧

はじめに

軍都佐倉の戦跡散策・その2(佐倉陸軍墓地跡と歴博)

千葉県佐倉市。佐倉市を代表する「佐倉城址」は、佐倉城址公園や国立歴史民俗博物館などとなっているが、戦前は「佐倉聯隊」(歩兵第2聯隊・歩兵第57聯隊)の兵営地であった。

佐倉は、行こう行こうと思って2022年5月に戦跡散策を実施、そこで時間切れや散策漏れなどがいろいろあって2023年1月に再訪。写真が夏だったり冬だったりするのは、そのためです。
特に一日で、佐倉城址の散策と、歴博の見学を一気にやろうとしてはダメです。
歴博だけで、真面目に見学すると、歴史好きなら一日を消費します。

本記事は、「その2」となります。
その2では、佐倉城址以外の話題を軸にします。

その1は、こちらにて


忠霊塔(佐倉陸軍墓地跡)

佐倉市役所の駐車場奥に忠霊塔がある。
この場所が、かつての佐倉陸軍墓地であるという。

忠霊塔
ここには、過去の戦争による戦没者の遺骨・遺品が安置され、一万有余の御霊が祀られております。
 印旛郡市町・八千代市
  遺族会

平和之礎

合掌

佐倉霊園

傷痍軍人 顕彰碑

昭和36年1月 印旛地区傷痍軍人会 建立

佐倉市役所

場所

https://goo.gl/maps/Cw4Pgvb4ZTsaFAJ29


児玉源太郎旧宅跡

往時の土塁と生垣が残る。
佐倉藩の上中級の武家屋敷があつまっていたエリア。

この地には、佐倉連隊長の借家がありました。児玉源太郎(後の大将)は、佐倉歩兵第2連隊長として、1880(明治13年)から1885(明治18)年までこの地に住んでいました。
佐倉において中佐から大佐へ昇進しています。陸軍の演習において、児玉が佐倉歩兵第2連隊長として佐倉の兵を率い、乃木希典(後の大将)率いる東京の第1連隊を奇襲によって破ったというエプソードは大変有名です。江戸時代から続く土塁と生垣は、児玉の借家の時代にも存在しており、往時の面影を今に伝えています。

※児玉源太郎 嘉永5(1852)年~明治39(1906)年
旧陸軍軍人。箱館戦争、佐賀の乱へ従軍後、明治9(1876)年には神風連の乱を鎮圧する。台湾総督を勤める。日露戦争(明治37(1904)年~明治38(1905))全体の戦略を立案した人物である。実際の戦闘指揮だけでなく、戦費の調達、アメリカの仲立による講和の画策、帝政ロシアへの革命工作などを行っている。戦争遂行に己のすべてを注ぎ込んだためか、日露戦争終戦後しばらくして亡くなっている。

場所

https://goo.gl/maps/27BjD7DJKYVvEPat7


成徳書院跡

佐倉市民体育館の近く。かつて佐倉上大手門あったあたり。

佐倉藩校があった。

場所

https://goo.gl/maps/KQ7DYFspwptuLNP29


西村勝三翁像

銅像があるなと思って、近寄ってみましたら「西村勝三さん」でした。
「明治の工業の父」「製靴業の祖」
佐倉でした、そういえば。

以下も参照

西村勝三翁の業績
 この地を下った所には、曽て佐倉藩の士魂を磨いた「成徳書院」の武道場があった。
その武道場を、断乎改造して、製靴の業を教えたのが、西村茂樹(1828~1902)・勝三(1836~1907)の兄弟である。
大塚岩次郎(大塚製靴創始者)もここでその業を習った一人であった。
時に明治4年7月であり、この月には「廃藩置県令」が出されている。
佐倉藩の士族授産行政は、この様にまさに間髪を入れぬ素早さと、先見に富んだ大胆なものであった。
茂樹は当時佐倉藩大参事であり、勝三はその前年3月15日日本初の製靴工場を築地入船町5丁目1番地に建てていた。
 父西村芳郁は、成徳書院の前身「温故堂」の頭取となり、又支藩佐野藩への附家老も勤めた有能の士で、母楽子は、佐倉藩士荒井宗輝の長女であった。
 勝三は初め佐野藩の禄を喰んだが、安政3年(1856)脱藩し、その後武士も捨てて、佐野の豪商正田利右衛門と横浜に出て貿易に従事した。
やがて明治2年(1869)大村益次郎から製靴をすすめられ、弟の綾部平輔と製革製靴事業創始を決意して断髪した。
断髪令に先立つこと2年であり、この決意に感動して、高見順は「日本の靴」を著したほどである。
 勝三翁の創業は「伊勢勝製靴場」といったが、その後「桜組」と改称、更に大同合併して皮革は「日本皮革株式会社」、靴は「日本製靴株式会社」として今日の大をなす源となった。
 翁は又、正田利右衛門から製鉛法の研究を託され、それが耐火煉瓦の研究となり、明治8年「伊勢勝白煉瓦製造所」に結実し、之が後「品川白煉瓦株式会社」となり、今日の盛業を見るに至った。
本碑及び像周辺の煉瓦は、特に寄贈された同社製の耐火煉瓦である。
 翁は又、ガス・ガラス・靴下・洋服等々の事業も手がけ、夫々の業界の先達と仰がれている。
 この様に勝三翁の生涯は、日本工業の創業の苦闘の歴史そのものであった。
 翁の無二の理解者であり、且つ最大の協力者であった渋沢栄一は「西村翁はいつも国益を優先し、自己の利害を顧みず、百難を排して日本の工業を創始した。」と、その士魂商才の面目を絶賛している。

場所

https://goo.gl/maps/kqth9g9kFWquEtSs7


浜野昇と済生病院

佐倉の藩医の出身であった浜野昇。陸軍軍医として西南戦争に従軍したのちに、佐倉で市立病院を開業。第一回衆議院委員選挙で全国唯一の医学士・医師としての初めての衆議院議員であった。

場所

https://goo.gl/maps/DnXxbnnvrTBc2o6g8


国立歴史民俗博物館

言わずとしれた「歴博」。歴史を俯瞰的に見ると充実しすぎて1日あっても足りませんし、見どころ多数ですし、原始宗教としての民俗史として見るべきものも多数ですが、佐倉の連隊、佐倉の陸軍に関する展示もありますので、ここも足を運んでおくべきかと。歴博、やばいですね、好きです。

近現代。
(民俗学のコーナーもありますし、歴史学だって時系列にそった展示は興味深く、全部紹介したいぐらいではありますが、逸脱してしまうので、ここでは、それ以外は省略します。。。)

佐倉兵営

忠霊塔の建設要領
中身が気になります。。。

B29ですね。

横浜の赤レンガの模型も

国産第一号機関車の話。

昭和の街並み再現も。

場所

https://goo.gl/maps/8riCuYwbTwnXv9wf6

佐倉城址に点在する戦跡は「その1」にて。

※撮影:2022年5月及び2023年1月


軍都佐倉の戦跡散策・その1(歩兵第二聯隊佐倉兵営跡地散策)

千葉県佐倉市。佐倉市を代表する「佐倉城址」は、佐倉城址公園や国立歴史民俗博物館などとなっているが、戦前は「佐倉聯隊」(歩兵第2聯隊・歩兵第57聯隊)の兵営地であった。

佐倉は、行こう行こうと思って2022年5月に戦跡散策を実施、そこで時間切れや散策漏れなどがいろいろあって2023年1月に再訪。写真が夏だったり冬だったりするのは、そのためです。
特に一日で、佐倉城址の散策と、歴博の見学を一気にやろうとしてはダメです。
歴博だけで、真面目に見学すると、歴史好きなら一日を消費します。

本記事は、「その1」となります。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-R1828-72
1948年9月26日、米軍撮影の航空写真を加工。

上記から佐倉城址界隈を切り抜きし、画像を回転。
本丸を上にしてみる。

下図は佐倉連隊跡関連位置図。
上記の航空写真と位置合わせ。

みてのとおり、「佐倉連隊跡関連位置図」という便利な案内看板が随所にあります。戦跡散策も快適ですね。


佐倉連隊案内図

これは、歴博の入口正面、愛宕坂の下に。

明治7年、日本最初の軍隊歩兵第二連隊が佐倉に駐屯し、多くの部隊が編成・訓練され、西南戦争、日清・日露戦争にこの地から出生されました。明治42年には、第二連隊にかわって歩兵第五七連隊が移転し、昭和19年のフィリピン戦で多くの命が失われ、壊滅しました。


佐倉兵営跡の碑

散策順は、番号順ではなく。
なぜなら、佐倉城の大手門から、入城したので、番号順に散策するのが困難だったのです。番号は、歴博からの順路、ですね。

佐倉兵営跡の碑
佐倉市城址公園自由広場の南側にある。昭和41年に建立、現在地に移ったのは歴博建設後。題字は連隊長をつとめた今村均陸軍大将の書。

今村均は、陸士19期、陸大27期首席。最終階級は陸軍大将。
1932年4月、佐倉の歩兵第57連隊長を拝命している。
開戦時は、蘭印作戦を指揮。
昭和17年意向は、ラバウルの第八方面軍司令官として陸軍を統率し、海軍の草鹿任一中将以下の南東方面艦隊と共に、終戦まで孤立する中でラバウルを維持している。

佐倉兵営跡
 元聯隊長 今村均謹書

歴代聯隊長名(23代目まで)が、裏面に刻まれています。
今村均は、第17代聯隊長。

歩兵第二聯隊長佐倉兵営全図
「佐倉兵営跡の記念碑」は昭和41年に旧佐倉57連隊本部跡付近に設置されたものです。
国立歴史民俗博物館が明治100年記念事業として建設されるにあたり昭和51年5月ここに移設しました。

皇紀二千六百年奉祝記念

桜 壱百本
躑躅 参拾本

明治天皇御駐蹕記念碑
 陸軍大臣 林銑十郎 敬書

背面は、削られていました。。。

 こゝは、旧佐倉城二乃丸の入口で連隊になってからは、この前後に連隊本部及び兵舎十数棟があった。佐倉城は土井利勝が、徳川家康の命により、元和3年(1617年)完成以後延享3年(1746年)以来堀田氏の所領したものであるが、明治6年ごろ(1813年)建造物はすべて取りこわされた。同7年歩兵第2連隊がおかれた。後、明治42年第1師団歩兵第57連隊となり、以来昭和20年(1945年)8月15日まで、千葉県一円を徴兵区と定められ、名実共に房総健児練武乃地であった。
 この間、西南、日清、日露、欧洲大戦、関東大震災、日支事変、大東亜戦争と数多く乃国難におもむき常に師団最強の部隊として郷土の信頼にこたえた。
 本連隊乃主力は、昭和11年乃2.26事件以来満洲に移駐し、同19年7月まで、孫呉において、ソ満国境の警備に当たったが、同年11月フィリッピン乃レイテ島に転進し、宮内連隊長の下、物量を誇る米軍と50日にわたり激戦し玉砕した。こ乃内第3大隊はグアム島において奮戦した。
 別に第57連隊を母胎として動員編成された歩兵第157連隊は、昭和12年9月より福井部隊(後に南部、赤松)として上海に上陸、大場鎮、杭州、廬山、修水、南昌、高安、江南の中支戦線において活躍し、又別に歩兵第212連隊は、山口(信)部隊として昭和14年4月より中国山東省、山西省において房総健児の勇名を輝かせた。
 このたび連隊関係有志相語らい、軍旗の下に祖国乃ため散華せられた方ゝ乃御めい福を祈り兵営跡が永久の平和公園としてよみがえる事を祈念し佐倉連隊乃いわれを伝えるものである。
 昭和41年10月吉祥日

皇太子殿下御野立所

明治44年5月21日

大将5年5月21日建設

ちかくに空堀

場所

https://goo.gl/maps/JCHfCL8VCDuxjxj19


車道の碑

車道の碑
大正9年建立。兵営と大手門とを直通させる新道の完成記念碑。連隊への物資搬入のため、佐倉城時代の不便を解消しました。

第1師団経理部員の名前が刻まれていた。
大正9年8月の銘あり。

場所

https://goo.gl/maps/JzzfBtg1UqF4wJEy7


旧佐倉連隊脂油庫

旧佐倉連隊脂油庫
旧陸軍(歩兵第五十七連隊等通称佐倉連隊)が小銃、機関銃等の手入れ用の油を保管していた倉庫です。
この倉庫は、昭和9(1934)年発行の「営内配置図」においてその存在を確認することができます。昭和20(1945)年の終戦まで使用されていたと推定されます。
佐倉連隊のうち歩兵第57連隊は、その一部が昭和19(1944)年8月にグアム島にて壊滅(玉砕)しました。また主隊は、同年11月のフィリピンレイテ戦でその大部分を失い、セブ島にて終戦を迎えました。
佐倉連隊の戦争遺構として大変貴重です。
※油脂庫ともいいますが、、「営内配置図」においては『脂油庫』と記載されております。

場所

https://goo.gl/maps/hWzbZwHMVHTx4TdW9


弾薬庫の跡

弾薬庫の跡
姥が池西側坂道を登った奥の窪地にあった。万一の爆発に備えた土手や建物に使われたコンクリートの一部が残されています。

場所

https://goo.gl/maps/UK2ru9Xboejt5RTo6


姥が池

佐倉城址に古くある池。伝説も多く残っている。


訓練用の12階段

訓練用の12階段
兵士が高所からの飛び下り訓練に使用したコンクリート製の階段。木製の飛び下り台と違い、壊すのが大変なため、戦後も残ったと考えられます。

場所

https://goo.gl/maps/uYanydKxvTkJ4Uyx9


軍犬・軍馬の墓

軍犬・軍馬の墓
軍曹安藤一能が建てた軍犬房号之墓(昭和7年)、近衛歩兵第五連隊第二機銃隊が建てた軍馬北盤之墓(昭和18年)が並んで立つ。連隊の敷地内には、犬舎・鳩舎・厩舎がありました。

場所

https://goo.gl/maps/DHHZSfCMVinQWkLE6


佐倉陸軍病院跡

佐倉陸軍病院跡
創設は明治7年。佐倉屯営病室・佐倉営所病院・佐倉衛戍病院・佐倉陸軍病院と名称が変遷した。昭和40年代までテラスを配した洋風病棟が残っていました。

場所

https://goo.gl/maps/eZ3zguDiqA1ijDf27


東京鎮台佐倉営所病院跡の碑
(東京鎮台佐倉営所病院記念碑)

明治・大正・昭和・平成の
 四世に亘る
  佐倉醫のこころ 
   茲に遺す 
    仁の心を腎に

病院・療養所の変遷
明治 7年 5月 
 東京鎮台佐倉営所病院として創設される
明治20年11月
 佐倉衛戍病院となる
昭和11年11月
 佐倉陸軍病院となる
昭和20年 8月
 軍事保護院佐倉病院となる
昭和20年12月
 国立佐倉病院となる
昭和25年 4月
 国立療養所佐倉病院となる
昭和28年 4月
 国立佐倉療養所となる
昭和52年 4月
 腎不全対策の基幹施設 
 腎移植センターとして機能付与される
昭和54年 4月
 国立佐倉病院となる
 江原台に移転する
平成16年 3月
 国立病院・療養所再編計画により
 国立千葉東病院に経営統合される

記念碑の建立に際して
 この地には、かつて病院が存在しておりました。当時の建物は、国立歴史民俗博物館の建設に伴いすべて解体され、元の敷地に残る樹木にのみ往時を偲ぶことができます。
 この病院は、戦前戦後の百年余りにわたり、国策や社会動向と密接不離に変転し続ける舞台となり、その軌跡は今も多くの人々の記憶に刻まれています。
 私たちは、佐倉城跡に連綿と息づいた病院の歴史を将来に語り継ぐ為、多くの方々のご支援をいただき記念碑を建立致しました。
 平成19年3月
  東京鎮台佐倉営所病院記念碑建立事業実行委員会建之

病院時代の往時を偲びし樹木。

場所

https://goo.gl/maps/E5uXPwtkyDFJxkFC9


佐倉城の礎石(兵舎の礎石)

あたりまえですが佐倉城の史跡もあります。

佐倉上の礎石
 昭和59、60年(1984、1985)国立歴史民俗博物館の研究棟を建設するために、同敷地を発掘調査し、旧陸軍の営所跡を検出した。
 兵舎跡の基礎には、大量の石が詰めてあったが、主柱の建つ位置には佐倉城の礎石を埋め込んでいた。
 佐倉上は、江戸時代初期の元和年間(1610年代)に土井利勝がこの地に築いた城である。明治時代初期(1873)に同じ場所に陸軍の営所をおく際に、佐倉城の建物は取り壊し、その基礎を兵舎の基礎に転用したのである。

場所

https://goo.gl/maps/w2tKMjtfpZgwpCad8


兵士が文字を彫り込んだモッコク

兵士が文字を彫り込んだモッコク
本丸跡にある県指定天然記念物。幹に「昭和十八年十月」「砲隊」といった落書きが掘られています。

あっ、わかりますね。

「昭十八年十月」「砲隊」って、いまでも刻んだ跡が残っています。

場所

https://goo.gl/maps/xoxBfQqQYisVqYsx6


佐倉城天守跡

場所:

https://goo.gl/maps/kEgemPL2LBB3X9g59


土塁

場所

https://goo.gl/maps/C9Coo6mMyDkNE1Gn7


兵営の便所跡

兵営の便所跡
雨天休憩所近くに土台のみが残る。江原新田では連隊と契約し、下肥・馬糞の払い下げを受け、汚物掃除を担当していました。

これは、良い感じに、残ってますね。

往時は、なかったであろう樹木も、戦後七十年以上ともなれば、コンクリートを破壊する根力でもって、存在感をアピール。

樹木の力って凄いなを実感。。

ここは、良いですね。写真を撮り続けてしまいます。

場所

https://goo.gl/maps/d2jRzP7Dkivfnp9L8


佐倉城馬出跡

場所

https://goo.gl/maps/hoabJzFtnN9LMrZz8


椎木曲輪(侍屋敷)【兵舎跡】

椎木曲輪(侍屋敷)
 歴博があるのは「椎木曲輪」と呼ばれる侍屋敷地区で、連隊時代は兵舎がありまいsた。歴博駐車場も侍屋敷の跡で、外側には「杉坂」と呼ばれる坂や秋葉神社がありました。


円勝寺跡・愛宕神社跡

円勝寺跡・愛宕神社跡
 円勝寺は城内にあった真言宗の寺院でしたが、明治の廃仏毀釈で消滅しました。奥には愛宕神社があり、田町の氏神でもありましたが、連隊建設後は立ち入りが禁止されたため、移転しました。

場所

https://goo.gl/maps/8x6kXFbi4VvpUCw39


衛兵所跡

衛兵所跡
 ここに常に衛兵が立ち、連隊に出入りする者を監視していました。

場所

https://goo.gl/maps/rRdXy23TxMVGNmBd6


田町門跡・愛宕坂

田町門跡・愛宕坂
 成田街道に沿った城下町の一部「田町」から城内への門で、門の裏手に番所がありました。現在歴博のある場所は椎木曲輪と呼ばれ武家屋敷がありました。田町から現ザウ歴博のある椎木曲輪へ上がる坂は、愛宕神社の下にあるため「愛宕坂」と呼ばれていました。現在の歴博入口は連隊建設の際にまっすぐに出入りできるよう変更されたものです。

歴博正面

佐倉連隊跡&佐倉城址&歴博、これは面白い良いですよ。戦跡散策の入門編としてもおすすめ。

※撮影:2022年5月及び2023年1月


関連

第二連隊は、水戸に。。。

佐倉界隈

第1師団創立61周年・練馬駐屯地創設72周年記念行事(2023年・練馬駐屯地一般公開その2)

令和5年(2023)4月9日(日曜日)
東京都練馬区にある練馬駐屯地。東京23区内で唯一普通科連隊が所在し第1師団司令部もある首都防衛の要となる実戦部隊の駐屯地。
戦前は、「東京第一陸軍造兵廠練馬倉庫」。

陸自第一師団普通科第一連隊の前身にあたる「大日本帝国陸軍第一師団第一歩兵聯隊」に関する関係は「その1」にて。

練馬駐屯地で記念行事があり、一般公開でしたので、行ってみました。
本記事は「その2」となります。写真中心です。


第1師団創立61周年・練馬駐屯地創設72周年記念行事

午前9時開門。8時30分くらいに到着。入場列は出来ていたが、びっくりするほどには混んでいないのが、良かったですね。
そんなに大規模なイベントでもないので、周辺順民の方々とあとは、知る人ぞ知るという感じで集まっている感じ。

陸上自衛隊 練馬駐屯地

第一師団司令部
第一普通科連隊
第一後方支援連隊

頭号師団

石原慎太郎東京都知事の揮毫
平成24年に、第1師団創立50周年を記念して作成。

頭号とは、第一のことを意味しており、「頭号師団」は、文字通りに「第一師団」となる。
大日本帝国陸軍に倣って、頭号師団は、師団司令部を東京に置く師団に付されている。

頭号師団
第一師団司令部

自衛隊東京地方協力本部のゆるキャラ。
トウチ君。
東地本の、トウチですね。

会場配置図


記念式典

営庭

記念式典を見学することにします。

第一普通科連隊

観閲部隊の執行官(頭号師団・第1師団の師団長)臨場前の訓練展示。

観閲部隊の執行官(頭号師団・第1師団司令官)
兒玉恭幸 陸将

国歌斉唱
第1師団第1音楽隊 三等陸曹 綾 愛佳

82式指揮通信車

そういえば、
東京都知事 小池百合子氏も観閲に来ておりました。

第1師団管轄下の都県章旗。
東京、神奈川、埼玉、静岡、山梨、千葉、茨城。

東京都

茨城県

埼玉県

千葉県

神奈川県

山梨県

静岡県

第1師団第一音楽隊

部隊紹介

第34普通科連隊は静岡県御殿場市市の板妻駐屯地。

陸上自衛隊板妻駐屯地のマスコットキャラ
軽装甲機動戦士イタヅマン

部隊紹介とデモが続きますが、覚えきれないし、写真では伝わらないですね。こういうときは動画が良いです。私は動画が撮りませんが。。。

部隊紹介を兼ねた展示が続く。

87式偵察警戒車

油断していると、射撃もあったり。

大きな音がします。ご注意ください!

奥には、16式機動戦闘車

鉄条網の設置

負傷者救出

ヘリ降下。UH-1H/J

部隊紹介展示終了。

観閲式執行者退出。

練馬駐屯地散策

16式機動戦闘車は、けっこう好き。

87式偵察警戒車のデモ展示。
砲塔がぐるぐる回ってました。

155mm榴弾砲 FH70

これって、自走もできるんですね。なかなか見る機会がないので新鮮。射撃準備までの展開をデモしてくれました。

軽装甲機動車の乗車体験もあり、会場内をぐるぐる走行。
略称をLAV(Light Armoured Vehicle)、愛称を「ライトアーマー」
「ラヴ」ですね。

大型トラックの乗車体験会も。
でも、乗るなら、トラックよりも軽装甲機動車のほうが楽しそうだ。

営庭でも乗車体験。こっちは、高機動車、ですね。

撮影:2023年4月


第1師団創立61周年・練馬駐屯地創設72周年記念行事(2023年・練馬駐屯地一般公開その1)

令和5年(2023)4月9日(日曜日)
東京都練馬区にある練馬駐屯地。東京23区内で唯一普通科連隊が所在し第1師団司令部もある首都防衛の要となる実戦部隊の駐屯地。
戦前は、「東京第一陸軍造兵廠練馬倉庫」。

倉庫時代の往時を物語るものはない。。。
しかし、「陸上自衛隊第一師団普通科第一連隊」は、「大日本帝国陸軍第1師団歩兵第1聯隊」の伝統を受け継いでおり、一般公開の機会がありましたので、散策してきました。


練馬駐屯地

昭和5年(1930)、東京第一陸軍造兵廠練馬倉庫が完成し、陸軍用地となる。
昭和18年(1943)、東武鉄道(東上線)の上板橋駅より陸軍第一造兵廠構内駅(東京第一陸軍造兵廠練馬倉庫・練馬倉庫駅)まで線路もむずばれていた。(のちの啓志線)

戦後、昭和26年に警察予備隊が進駐し練馬駐屯地となり、保安隊を経て、昭和29年(1954)より、陸上自衛隊となる。
第1普通科連隊は、23区内唯一の普通科連隊。


歩兵第一聯隊軍旗

「陸上自衛隊第一師団普通科第一連隊」に、受け継がれている、「旧陸軍第1師団歩兵第1聯隊」の軍旗

歩兵第1聯隊軍旗経緯

主旨:本軍旗は、旧軍の軌跡を後世に残すため、歩一会が第1普通科連隊に管理を強く委託したもの。よって、連隊はこの意向を尊重し、経緯を理解して大切に直接保管しなければならない。

・明治7年 
日比谷操練場において明治天皇より軍旗を親授せられる。
・昭和20年
8月15日停戦に伴い全軍軍旗焼却命令があったが、片岡薫第1師団長が旗竿だけを焼き、御紋章と紫穂は裁断のうえ、多人数でお守り袋に偽装して持ち帰るよう命令した。
終戦に伴い、歩兵第1聯隊軍旗フィリピンセブ島から日本本土帰着
・時期不明
歩兵第1聯隊関係者により構成された後の「歩一会」のそれぞれの聯隊員により継ぎ合わされて3旒(本来1旒としたかった。)となったものの戦後の混乱や交通事情等から各々の考えで乃木神社(安川氏等が保管依頼)、練馬駐屯地資料館及び靖國神社に3箇所に別れて保管された。
・昭和32年
4月28日の築地本願寺での「全国戦没者慰霊大祭」挙行されたおりに歩兵第1聯隊出身者約700名が集結、当日「歩一会」結成を全員一致で決議、事後「歩一会」として活動を開始し、毎年5月の総会及び12月の軍旗祭(乃木神社保管の1旒を借り出し、練馬駐屯地保管の1旒と併せて聯隊機を一つとして飾り、物故した創立以来の亡き戦友の慰霊と会員の親睦の会合)を開催、第1普通科連隊と関係を深めていく。(歩一会は、永代、歩兵1聯隊軍旗を第1普通科連隊に保管してもらいたいとの意向を徐々に強くしていた。
・平成22年
3月、戦史に関心のあった中川師団長OBの寺島氏と懇談したのを契機として歩兵1聯隊軍旗の1本化が語られ、6月14日歩一会の安川氏のご尽力により乃木神社で保管されていた歩兵第1聯隊軍旗が第1普通科連隊室に移管された、なお、歩一会の意向として軍旗を1つにしたいとの意向から靖國神社に保管されている分旗もと調整したものの登記しているため不可能と断られた。
・平成23年
頭号連隊顕彰室新設に伴い、一時的に練馬駐屯地資料館で保管されていた軍旗及び第1普通科連隊室で保管されていた軍旗が1つになり頭号連隊顕彰室で保管展示されることとなった。
・令和3年
平成30年、一時的に練馬駐屯地資料館で展示されることとなったが、70周年を控え、舞台の帰属意識を高めて団結を強化するため、大庭師団長の許可を得て、再び第1普通科連隊が保管することになった。なお、安川氏に確認したところ、平成22年当時、歩一会の総意として第1普通科連隊が軍旗を直接管理することを強く要望している由。

歩兵第一聯隊軍旗記
歩兵第一聯隊軍旗は、明治7年12月19日日比谷操練場特設式場において、親しく臨御せられたる 明治天皇より 初代聯隊長 長谷川好道中佐に親授せられたるものなり。
爾来、日清・日露両役をはじめ、日支事変、大東亜戦争等、累次の国難に當り、常に陣頭に立ち誉高き武勲の象徴なりしが、昭和20年8月15日、フィリピン セブ島 アンガラン河畔において、聯隊とその運命を倶にす。
奉焼に際し、御紋章・紫房・鐓・旗竿覆金属片及び残灰を招聘に分ち、ひそかに故国に奉持して奉還せんとす。然るに時に利なく戦争は敗北に終る。幸に任に當れる将兵身を以て軍旗の残片を奉持し辛苦を重ねてそれぞれ故国に皈還するを得たり。
時巳に国家の諸制度革り軍旗を奉還するに由なく、しかもその所在久しく不明なりしが、最近に至り判明せるを以て、宮内庁保管分を中心に可能の限り復元して、在りし日の軍旗を偲ばんとす。
 昭和47年12月19日
  平野斗作撰文
尚軍旗残片の一部は靖國神社及び乃木神社に奉安しあり

練馬駐屯地資料館で預かっていた歩兵第一聯隊軍旗

乃木神社で預かっていた歩兵第一聯隊軍旗


練馬駐屯地内の慰霊碑

慰霊碑エリアは、西門近くに集められている。

合掌

歩兵第1連隊の追悼碑である「明治二十七・八年の役 陣歿者追悼の碑」と「忠勇八士の碑」が練馬駐屯地内にある。
これは、戦後、神奈川県溝の口にあった歩兵第1聯隊留守担当部隊跡に放置されていたものを、1965年(昭和40年)にこれを見かねた歩兵第1連隊を母体とする「歩1会」が第1普通科連隊に要請し、練馬駐屯地へ両石碑を移設したものである。

歩兵第一聯隊の留守部隊が、歩兵第101聯隊として改編され、そして東部62部隊として川崎宮崎台に駐留していた。
宮崎台の戦跡は以下。

明治三十七・八年之役陣歿者追悼碑 忠勇八士の碑 由来

 この両碑は、旧陸軍第一師団歩兵第一聯隊の営庭にありました。同聯隊は明治6年5月、赤坂区桧町(現在の防衛庁所在地)に創設され、昭和11年5月満州へ移駐、昭和19年10月から比島レイテ島作戦に参戦中終戦となり74年の歴史を閉じました。
 終戦と共にこの両碑は神奈川県溝ノ口の歩一留守業務担当部隊跡の畑地に放置されており、聯隊の戦友会である歩一会はこれを見るに忍びず、第一普通科連隊御当局(森山高士一佐)に、頭号部隊の誼をもつて両碑の同隊構内への移設を懇請致しましたところ、ご承諾を得て一切の作業力御提供のもとに完了し昭和40年12月26日落成式を挙行することが出来ました。殉国勇士の慰霊碑が安住の地を得ましたことはえに連隊御当局の御厚志の賜であり深く感謝の意を表するものであります。
 ここに由来を記して後年に留める次第であります。
  昭和59年12月19日
   歩一会
    会長 横田 洋

明治二十七・八年之役陣歿者追悼碑

明治二十七・八年の日清戦争で殉職した126名を追悼

明治二十七八年之役陣歿者追悼碑
 陸軍中将従三位勲一等功三級子爵 山地元治 書

忠勇八士の碑

歩兵第1連隊による富士演習の日射病で殉職した8名を慰霊。

生気放光

扁額は、陸軍大臣陸軍中将の 荒木 貞夫 の謹書

忠勇八士之碑

忠勇八士之碑は、陸軍歩兵大佐 渡 久雄 の謹書

渡 久雄 は、1932年(昭和7年)8月から33年7月まで、第26代目の歩兵第一聯隊長であった。ちなみに前後で、24代は東條英機、27代目は本間雅晴、29代目は牛島満であった。

(8柱 指名略)
右者昭和8年7月2日富士裾野ニ於ケル歩兵第一旅団諸兵連合演習ニ参加シ苦熱ヲ冒シテ任務ニ邁進シ遂ニ軍旗ノ下ニ斃ル茲ニ遺烈ヲ後世ニ傳へテ鑑ト為ス
 昭和8年7月30日建之
  歩兵第一聯隊将兵一同

馬魂

軍馬慰霊碑

殉職隊員 留魂の碑

陸上自衛隊殉職隊員を追悼する慰霊碑

そのほか石碑

戦後の陸自関係の記念碑など。


広報史料館

基地公開日の楽しみの一つが、各駐屯地にある史料館の見学。

安倍さんの国葬儀の写真も掲載されていました。

レイテ島遺品

乃木希典大将の遺品

乃木希典は、陸自第一普通科連隊の前身である「歩兵第一聯隊」の2代目聯隊長であった。

乃木希典が使用した湯呑み

水師営でステッセル将軍と会見したした際に、使用された湯呑み。これは、歴史の一幕を物語る貴重なもの。

歴代の第一師団長と、歩兵第一聯隊長

三十八年式歩兵銃

よね山丸の遺留品
日露戦争の第二次旅順港閉塞作戦で閉塞隊輸送船として出撃。

この手の史料館によくある、軍服コーナーだなと思ったら、、、
由緒のある軍服が混じってまして、びっくり。

陸軍大将 山下奉文 外套

陸軍大将 東條英機 国民服

99式短小銃と38式歩兵銃

啓志線の車輪

啓志線の車輪・線路
昭和十八年、上板橋~東京第一陸軍造兵廠練馬倉庫(練馬駐屯地間)が開通した。
当時は、現在の練馬駐屯地内練風館付近に積み下ろしの駅が存在しており、戦後は光が丘に米軍が進駐し、住宅(グランドハイツ)として利用されたのを機に啓志線は、光が丘まで延長、気動車も運行し、昭和34年に廃止された。
展示してあるこの車輪と線路は、当時練馬駐屯地内で入れ替え作業をしていたトロッコに使用されていたもので、グランドハイツ延長とともに撤去された。
軌道の幅は、60mmで、一般的には軽便鉄道の幅と同じで、急なカーブにも対応できた。隊舎改修の際、練馬駐屯地において偶然発見され展示された。


歩哨舎・連隊門哨所
(警察予備隊普通科第一連隊)

練馬駐屯地の外、西門にある歩哨舎。警察予備隊時代から約20年間は、この場所が正門であった。
一瞬、戦前からの歩哨舎に勘違いしたが、これは昭和26年竣工の先gのの歩哨舎。

連隊門哨所のいわれ
 第一普通科連隊の前身「警察予備隊普通科第一連隊」は、昭和26年9月28日に久里浜駐屯地から練馬駐屯地に移駐した。
 この哨所は、移駐から約2ヶ月後の昭和26年11月15日に竣工して以来、昭和46年11月にこの連隊門(西門)が閉門するまでの約20年間、駐屯地警備に使用された。

歩哨舎を冊得していたら、西門からは、星2つの車が続々と3台続けて出発して行きました。
陸将補クラスかな。

陸自関連の練馬駐屯地の写真は、「その2」にて

※撮影:2023年4月


関連

歩兵第一聯隊碑(歩一の跡碑)は、港区立桧町公園にある。

東京第一陸軍造兵廠の本廠は十条にあった。

「空自・熊谷基地さくら祭」熊谷陸軍飛行学校跡地散策

令和5年(2023年)4月2日。
熊谷市の航空自衛隊熊谷基地(航空自衛隊第4術科学校)にて、「令和5年度 熊谷基地さくら祭」が開催されましたので、足を運んでみました。
かつての熊谷陸軍飛行学校跡地、です。


熊谷陸軍飛行学校
(三尻飛行場・熊谷飛行場・稜威ケ原飛行場)

昭和9年、所沢陸軍飛行学校が開設。
翌年の昭和10年(1935年)12月に、操縦分科の生徒教育のために、熊谷陸軍飛行学校が開設。
主として飛行機操縦に従事する航空兵科下士官となる生徒、少年飛行兵、あるいは将校、下士官の操縦学生などに対し、飛行機操縦の基本教育を行った。
昭和12年に所沢陸軍飛行学校が廃止され、操縦学生は本格的に、熊谷陸軍飛行学校で教育されることとなった。
昭和13年10月に昭和天皇行幸。
熊谷陸軍飛行学校は昭和20年2月に第52航空師団の一部に改編のため閉鎖。

熊谷陸軍飛行学校の跡地は1945年九月に進駐したアメリカ陸軍第43師団によって接収され米軍キャンプ「U.S.ARMY CAMP WHITTINGTON」として使用。昭和33年(1958)返還され、同年8月より「航空自衛隊熊谷基地」となっている。

熊谷陸軍飛行学校に関しては、航空自衛隊熊谷基地の記事も参照で。

https://www.mod.go.jp/asdf/kumagaya/Base_tour.html


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-R465-No1-78
1947年11月3日、米軍撮影の航空写真を加工。

庁舎や格納庫のあったエリアを拡大。

黄丸が陛下行幸の御野立所があった「御稜威ヶ原の碑」
赤丸が「給水塔」

GoogleMapで現在の航空写真と照合。
格納庫の位置関係もよく分かる。


御稜威ヶ原の碑(みいづがはら)

昭和13年10月10日(月)
天皇陛下が熊谷陸軍飛行学校に行幸され教育状況を御覧になられた。
学校長である江橋陸軍中将は、この日を記念して、この地を「御稜威ケ原(みいづがはら)」と命名して、記念碑を中央格納庫と第二格納庫の間の中央道路の真中(御野立所となった場所)に設置した。

御稜威ヶ原
 昭和13年10月10日
 御臨幸記念
 
  さしつけに
   仰ぎまつれる
大御稜威 
 伝えてはげめ 
  空の益良雄

熊谷陸軍飛行学校長陸軍中将
従四位勲二等功五級 江橋英二郎 選書

中央道路の真ん中に。

御稜威ヶ原の碑
昭和13年10月
昭和天皇の行幸を記念し、御野立所となった場所に建立

昭和初期まで、現在の基地及びその一帯は赤松・くぬぎ等の樹木が生い茂る森林であったが、昭和10年2月に突如として陸軍の飛行場が建設されることとなり、その秋までに森林は伐採され飛行場に変わった。飛行場としての工事も完了に近い昭和13年10月10日天皇陛下が行幸され、平の訓練状況や高等飛行などを観閲された。時の熊谷陸軍飛行学校長江橋英二郎中将は、この感激を後世に伝えようと「さしつけに 仰ぎまつれる 大御稜威 伝えてはげめ空の益良雄」と歌い、当時の飛行場を「御稜威ヶ原」と名付けた。行幸の際、御野立所となった地点に建てられた江橋中将自筆のこの碑は、今なお当時を偲ぶよすがとなっている。

現代略:直接に見申し上げた天皇陛下の御威光を、皆に伝えては空の勇者たちよ


方位盤

当時のものと思われる方位盤。

かすれていて、細かくは不明であるが、方位盤とおもわれる。


荒鷲之碑

昭和50年5月、航空自衛隊熊谷基地内に、荒鷲の慰霊碑が建立された。揮毫は、菅原道大。

荒鷲之碑
菅原道大書

昭和50年5月建立

由来
昭和十年この地に熊谷陸軍飛行学校が誕生した。爾来、万を数える若鷲が巣立っていった。戦いの場は遠く洋の南北に拡がり勇士は荒鷲となり愛機と共に生死し昭和二十年歴史を閉じた。散華した荒鷲の霊を慰め勲を顕彰し事実を後世に永く伝える為、残りし者、相集って、この碑を建てる。
 昭和50年5月5日

由来碑
昭和33年8月航空自衛隊熊谷基地発足以来任務遂行中殉職され基地発展の礎となった自衛隊員を慰霊するため「荒鷲の碑」を奉祀し永くその栄誉を伝承するものである

平成12年4月8日
航空自衛隊熊谷基地司令 空将補 原充男

熊谷陸軍飛行学校
荒鷲之碑奉賛会
平成11年3月建之

揮毫をした菅原道大は、陸軍航空の第一人者。陸軍特攻の軍司令官でもあった。

菅原道大は、陸軍中将。
大正14年(1925年)に菅原は陸軍航空科へ転科し航空少佐として飛行第6聯隊に着任。
昭和6年(1931年)、「下志津陸軍飛行学校教官
昭和14年12月に、「下志津陸軍飛行学校長」
昭和16年(1941年)、開戦時は第3飛行集団長。マレー作戦の航空作戦を指揮。
昭和17年7月、新設された第3航空軍司令官に着任。ビルマ航空戦を指揮。
昭和18年5月、内地に帰還し陸軍航空士官学校長に着任。
昭和19年3月、航空総監部次長。7月には、航空総監兼航空本部長を拝命。12月、第6航空軍司令官。沖縄方面の航空作戦の責任者として、海軍の戦艦大和の菊水作戦の支援や、指揮下の義烈空挺隊の義号作戦の指揮を執ることとなる。
昭和20年8月15日、終戦。
海軍の九州方面の航空責任者であった宇垣纏が沖縄に特攻出撃する中で、陸軍の九州方面の航空責任者であった菅原のもとにも部下たちが最後の特攻出撃を申し出る中で、「陛下の終戦玉音を拝聴した後は、余は一人の兵士も殺すわけにはゆかぬ。皆、おとなしく帰れ」と部下を諭している。
海軍側の宇垣纏中将、大西瀧治郎中将が亡き後、陸軍側の責任者とて、自決することを断念し、特攻隊員の顕彰、慰霊、遺族への弔問を行うことを決意。
「特攻平和観音奉賛会」を設立し、「特攻平和観音像」「知覧特攻平和観音像」「知覧特攻観音堂」を建立している。

関連では、熊谷陸軍飛行学校のほか、下志津陸軍飛行学校、水戸陸軍飛行学校の跡地に、菅原道大の碑がある。


給水塔

推測の域を出ないが、かもし出す雰囲気からして往時のものと思われる給水塔。前述の位置関係の航空写真でも照合したが、場所も適合している。近寄れないので望遠で。

給水塔の手前は、「基地補給倉庫」。


格納庫跡

かまぼこ型の格納庫のような建屋がある。手前は「武道場」、そして格納庫型の「基地体育館」と「基地補給倉庫」。位置関係は、熊谷陸軍飛行学校時代と同じ場所。
ここだけ切り取ると飛行場な雰囲気。


教育参考館

熊谷陸軍飛行学校や航空自衛隊航空生徒隊の資料を展示。


熊谷陸軍飛行学校本部庁舎の玄関扉

本部庁舎で実際に使用されていた玄関扉が、移設保存されている。

 この扉は、昭和10年12月陸軍熊谷飛行学校開校以来、本部庁舎玄関で使用していました。
 平成14年11月、庁舎取り壊しに伴い、約67年の歴史の一部を保存するため、当施設に移設し保存しました。


熊谷陸軍飛行学校本部庁舎の中央階段

おなじく、熊谷陸軍飛行学校本部庁舎の中央階段の一部が移設保存されている。

 この階段は、昭和10年12月陸軍熊谷飛行学校開校以来、本部庁舎の中央階段として使用していました。
 平成14年11月、庁舎取り壊しに伴い、約67年の歴史の一部を保存するために、当場所に下側3段部分を移設し保存しました。
 基地司令室が2階にあったため、赤絨毯が敷かれていました。
 昭和13年10月昭和天皇が行幸された際、この階段を登られた由緒ある階段です。
 木材:ケヤキ材使用


熊谷陸軍飛行学校本部庁舎の一部

とくに説明はなかったが、取り壊しの旧庁舎の一部かと。


熊谷基地展示エリア

旧軍資料

通信機材など。

戦争末期のドラム缶。竹製、、、ですね。

図書館戦争コーナー?


公募空士第1期生入隊20周年記念

歴代航空幕僚長の名前もある。

この寄せ書きは、公募空士第1期生の20周年を祝って書かれたものです。
寄せ書きには、歴代の航空幕僚長「源田実元空将」「白河春元元空将」「角田義隆元空将」の名前があります。

源田実
帝国海軍では、海兵52期を卒業し最終階級は海軍大佐、航空参謀を経て、松山の第343海軍航空隊司令で終戦を迎える。
空自では初代航空総隊司令、第3代航空幕僚長、ブルーインパルス創設、航空自衛隊育ての親。また、参議院議員を4期24年努めている。

白川元春
白川義則の三男。白川義則は、上海天長節爆弾事件で死去。
白川元春は陸士51期、陸大58期卒。最終階級は陸軍少佐。
航空自衛隊では第11台航空幕僚長

角田義隆
帝国海軍では海軍機関学校卒。最終階級は海軍大尉。
航空自衛隊では、第12代航空幕僚長。
海軍機関学校出身者が大将(幕僚長たる将)に相当する地位まで昇進したのは、帝国海軍・自衛隊を通じて角田が唯一の事例となる。


生徒隊展示エリア

航空自衛隊生徒隊の展示エリア。2006年に募集が停止され、2011年に生徒隊は廃止となっている。
虚空自衛隊航空教育隊生徒隊で採用時は、3等空士となり4年間の教育修了後は3等空曹として、通信、レーダー操作及び整備などに補職されたという。


航空自衛隊生徒隊創立50周年記念モニュメント

負けじ魂

流れも清き大利根の
 岸辺に緑の色染めし
練武の庭に都度至る
 若人の任いや重し
  誇りに満てり
   航空生徒隊

このモニュメントは生徒隊創立50周年記念を機に教育環境整備の一環として、第8航空団からF-1垂直尾翼を譲り受け、表面は生徒隊歌詩を裏面は第8航空団(築城)第6飛行隊のマーク等を遺して、第4術科学校の支援を得て建立したものである。
なお、表面のデザインは生徒隊生活4年間で培った「負けじ魂」に代表される不撓不屈の精神を持って巣立っていく生徒の翼をイメージしてデザインしたものである。
 平成17年5月吉日


熊谷基地 友縁の酒「空の華」

基地内の売店にて購入(熊谷基地厚生棟ミニストップ熊谷基地店)

空の華
ソラノハナ 
勲業赫々 輝萬國
埼玉縣大里郡三ヶ尻
権田酒造店吟醸

赤とんぼ

空の華
 昭和10年、熊谷陸軍飛行学校が当地に創立されたことを記念して発売した「空の華」を平成14年秋、約60年ぶりに復刻させて頂きました。
 熊谷の研究所で開発された酵母で醸し、熊谷の水と大気の中で育んだ熊谷基地の地酒です。
 上質の旨味を湛えた柔らかな香味、冷やしても温めても美味しくお召し上がり頂けます。


熊谷基地さくら祭

令和5年(2023)は、4月2日の公開でした。

以下は、さくら祭の写真を。

熊谷基地庁舎。平成15年(2003)新設。

桜並木が気持ち良い。

桜とトラック

熊谷基地には、「第1移動通信隊」が所在している。

御稜威フィールド

現在、航空自衛隊熊谷基地には、滑走路はない。
運動場にヘリが着陸することは可能。

草刈り機。パイロット座乗。

来年もおいでをお待ちしています

なかなか楽しめました熊谷基地。
熊谷陸軍飛行学校の名残もあり、興味ある方はこれは必見ですね。

※2023年4月撮影


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