第1師団創立61周年・練馬駐屯地創設72周年記念行事(練馬駐屯地一般公開その1)

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令和5年(2023)4月9日(日曜日)
東京都練馬区にある練馬駐屯地。東京23区内で唯一普通科連隊が所在し第1師団司令部もある首都防衛の要となる実戦部隊の駐屯地。
戦前は、「東京第一陸軍造兵廠練馬倉庫」。

倉庫時代の往時を物語るものはない。。。
しかし、「陸上自衛隊第一師団普通科第一連隊」は、「大日本帝国陸軍第1師団歩兵第1聯隊」の伝統を受け継いでおり、一般公開の機会がありましたので、散策してきました。


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練馬駐屯地

昭和5年(1930)、東京第一陸軍造兵廠練馬倉庫が完成し、陸軍用地となる。
昭和18年(1943)、東武鉄道(東上線)の上板橋駅より陸軍第一造兵廠構内駅(東京第一陸軍造兵廠練馬倉庫・練馬倉庫駅)まで線路もむずばれていた。(のちの啓志線)

戦後、昭和26年に警察予備隊が進駐し練馬駐屯地となり、保安隊を経て、昭和29年(1954)より、陸上自衛隊となる。
第1普通科連隊は、23区内唯一の普通科連隊。


歩兵第一聯隊軍旗

「陸上自衛隊第一師団普通科第一連隊」に、受け継がれている、「旧陸軍第1師団歩兵第1聯隊」の軍旗

歩兵第1聯隊軍旗経緯

主旨:本軍旗は、旧軍の軌跡を後世に残すため、歩一会が第1普通科連隊に管理を強く委託したもの。よって、連隊はこの意向を尊重し、経緯を理解して大切に直接保管しなければならない。

・明治7年 
日比谷操練場において明治天皇より軍旗を親授せられる。
・昭和20年
8月15日停戦に伴い全軍軍旗焼却命令があったが、片岡薫第1師団長が旗竿だけを焼き、御紋章と紫穂は裁断のうえ、多人数でお守り袋に偽装して持ち帰るよう命令した。
終戦に伴い、歩兵第1聯隊軍旗フィリピンセブ島から日本本土帰着
・時期不明
歩兵第1聯隊関係者により構成された後の「歩一会」のそれぞれの聯隊員により継ぎ合わされて3旒(本来1旒としたかった。)となったものの戦後の混乱や交通事情等から各々の考えで乃木神社(安川氏等が保管依頼)、練馬駐屯地資料館及び靖國神社に3箇所に別れて保管された。
・昭和32年
4月28日の築地本願寺での「全国戦没者慰霊大祭」挙行されたおりに歩兵第1聯隊出身者約700名が集結、当日「歩一会」結成を全員一致で決議、事後「歩一会」として活動を開始し、毎年5月の総会及び12月の軍旗祭(乃木神社保管の1旒を借り出し、練馬駐屯地保管の1旒と併せて聯隊機を一つとして飾り、物故した創立以来の亡き戦友の慰霊と会員の親睦の会合)を開催、第1普通科連隊と関係を深めていく。(歩一会は、永代、歩兵1聯隊軍旗を第1普通科連隊に保管してもらいたいとの意向を徐々に強くしていた。
・平成22年
3月、戦史に関心のあった中川師団長OBの寺島氏と懇談したのを契機として歩兵1聯隊軍旗の1本化が語られ、6月14日歩一会の安川氏のご尽力により乃木神社で保管されていた歩兵第1聯隊軍旗が第1普通科連隊室に移管された、なお、歩一会の意向として軍旗を1つにしたいとの意向から靖國神社に保管されている分旗もと調整したものの登記しているため不可能と断られた。
・平成23年
頭号連隊顕彰室新設に伴い、一時的に練馬駐屯地資料館で保管されていた軍旗及び第1普通科連隊室で保管されていた軍旗が1つになり頭号連隊顕彰室で保管展示されることとなった。
・令和3年
平成30年、一時的に練馬駐屯地資料館で展示されることとなったが、70周年を控え、舞台の帰属意識を高めて団結を強化するため、大庭師団長の許可を得て、再び第1普通科連隊が保管することになった。なお、安川氏に確認したところ、平成22年当時、歩一会の総意として第1普通科連隊が軍旗を直接管理することを強く要望している由。

歩兵第一聯隊軍旗記
歩兵第一聯隊軍旗は、明治7年12月19日日比谷操練場特設式場において、親しく臨御せられたる 明治天皇より 初代聯隊長 長谷川好道中佐に親授せられたるものなり。
爾来、日清・日露両役をはじめ、日支事変、大東亜戦争等、累次の国難に當り、常に陣頭に立ち誉高き武勲の象徴なりしが、昭和20年8月15日、フィリピン セブ島 アンガラン河畔において、聯隊とその運命を倶にす。
奉焼に際し、御紋章・紫房・鐓・旗竿覆金属片及び残灰を招聘に分ち、ひそかに故国に奉持して奉還せんとす。然るに時に利なく戦争は敗北に終る。幸に任に當れる将兵身を以て軍旗の残片を奉持し辛苦を重ねてそれぞれ故国に皈還するを得たり。
時巳に国家の諸制度革り軍旗を奉還するに由なく、しかもその所在久しく不明なりしが、最近に至り判明せるを以て、宮内庁保管分を中心に可能の限り復元して、在りし日の軍旗を偲ばんとす。
 昭和47年12月19日
  平野斗作撰文
尚軍旗残片の一部は靖國神社及び乃木神社に奉安しあり

練馬駐屯地資料館で預かっていた歩兵第一聯隊軍旗

乃木神社で預かっていた歩兵第一聯隊軍旗


練馬駐屯地内の慰霊碑

慰霊碑エリアは、西門近くに集められている。

合掌

歩兵第1連隊の追悼碑である「明治二十七・八年の役 陣歿者追悼の碑」と「忠勇八士の碑」が練馬駐屯地内にある。
これは、戦後、神奈川県溝の口にあった歩兵第1聯隊留守担当部隊跡に放置されていたものを、1965年(昭和40年)にこれを見かねた歩兵第1連隊を母体とする「歩1会」が第1普通科連隊に要請し、練馬駐屯地へ両石碑を移設したものである。

歩兵第一聯隊の留守部隊が、歩兵第101聯隊として改編され、そして東部62部隊として川崎宮崎台に駐留していた。
宮崎台の戦跡は以下。

東急田園都市線「宮崎台駅」。今でこそよくある住宅街のこの地に、かつて陸軍部隊が展開されていた。六本木で編成された東部62部隊(陸軍101聯...

明治三十七・八年之役陣歿者追悼碑 忠勇八士の碑 由来

 この両碑は、旧陸軍第一師団歩兵第一聯隊の営庭にありました。同聯隊は明治6年5月、赤坂区桧町(現在の防衛庁所在地)に創設され、昭和11年5月満州へ移駐、昭和19年10月から比島レイテ島作戦に参戦中終戦となり74年の歴史を閉じました。
 終戦と共にこの両碑は神奈川県溝ノ口の歩一留守業務担当部隊跡の畑地に放置されており、聯隊の戦友会である歩一会はこれを見るに忍びず、第一普通科連隊御当局(森山高士一佐)に、頭号部隊の誼をもつて両碑の同隊構内への移設を懇請致しましたところ、ご承諾を得て一切の作業力御提供のもとに完了し昭和40年12月26日落成式を挙行することが出来ました。殉国勇士の慰霊碑が安住の地を得ましたことはえに連隊御当局の御厚志の賜であり深く感謝の意を表するものであります。
 ここに由来を記して後年に留める次第であります。
  昭和59年12月19日
   歩一会
    会長 横田 洋

明治二十七・八年之役陣歿者追悼碑

明治二十七・八年の日清戦争で殉職した126名を追悼

明治二十七八年之役陣歿者追悼碑
 陸軍中将従三位勲一等功三級子爵 山地元治 書

忠勇八士の碑

歩兵第1連隊による富士演習の日射病で殉職した8名を慰霊。

生気放光

扁額は、陸軍大臣陸軍中将の 荒木 貞夫 の謹書

忠勇八士之碑

忠勇八士之碑は、陸軍歩兵大佐 渡 久雄 の謹書

渡 久雄 は、1932年(昭和7年)8月から33年7月まで、第26代目の歩兵第一聯隊長であった。ちなみに前後で、24代は東條英機、27代目は本間雅晴、29代目は牛島満であった。

(8柱 指名略)
右者昭和8年7月2日富士裾野ニ於ケル歩兵第一旅団諸兵連合演習ニ参加シ苦熱ヲ冒シテ任務ニ邁進シ遂ニ軍旗ノ下ニ斃ル茲ニ遺烈ヲ後世ニ傳へテ鑑ト為ス
 昭和8年7月30日建之
  歩兵第一聯隊将兵一同

馬魂

軍馬慰霊碑

殉職隊員 留魂の碑

陸上自衛隊殉職隊員を追悼する慰霊碑

そのほか石碑

戦後の陸自関係の記念碑など。


広報史料館

基地公開日の楽しみの一つが、各駐屯地にある史料館の見学。

安倍さんの国葬儀の写真も掲載されていました。

レイテ島遺品

乃木希典大将の遺品

乃木希典は、陸自第一普通科連隊の前身である「歩兵第一聯隊」の2代目聯隊長であった。

歴代の第一師団長と、歩兵第一聯隊長

三十八年式歩兵銃

よね山丸の遺留品
日露戦争の第二次旅順港閉塞作戦で閉塞隊輸送船として出撃。

この手の史料館によくある、軍服コーナーだなと思ったら、、、
由緒のある軍服が混じってまして、びっくり。

陸軍大将 山下奉文 外套

陸軍大将 東條英機 国民服

99式短小銃と38式歩兵銃

啓志線の車輪

啓志線の車輪・線路
昭和十八年、上板橋~東京第一陸軍造兵廠練馬倉庫(練馬駐屯地間)が開通した。
当時は、現在の練馬駐屯地内練風館付近に積み下ろしの駅が存在しており、戦後は光が丘に米軍が進駐し、住宅(グランドハイツ)として利用されたのを機に啓志線は、光が丘まで延長、気動車も運行し、昭和34年に廃止された。
展示してあるこの車輪と線路は、当時練馬駐屯地内で入れ替え作業をしていたトロッコに使用されていたもので、グランドハイツ延長とともに撤去された。
軌道の幅は、60mmで、一般的には軽便鉄道の幅と同じで、急なカーブにも対応できた。隊舎改修の際、練馬駐屯地において偶然発見され展示された。


歩哨舎・連隊門哨所
(警察予備隊普通科第一連隊)

練馬駐屯地の外、西門にある歩哨舎。警察予備隊時代から約20年間は、この場所が正門であった。
一瞬、戦前からの歩哨舎に勘違いしたが、これは昭和26年竣工の先gのの歩哨舎。

連隊門哨所のいわれ
 第一普通科連隊の前身「警察予備隊普通科第一連隊」は、昭和26年9月28日に久里浜駐屯地から練馬駐屯地に移駐した。
 この哨所は、移駐から約2ヶ月後の昭和26年11月15日に竣工して以来、昭和46年11月にこの連隊門(西門)が閉門するまでの約20年間、駐屯地警備に使用された。

歩哨舎を冊得していたら、西門からは、星2つの車が続々と3台続けて出発して行きました。
陸将補クラスかな。

陸自関連の練馬駐屯地の写真は、「その2」にて

※撮影:2023年4月

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