「お化け灯籠と陸軍東部62部隊」の戦跡散策(川崎・宮崎台)

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東急田園都市線「宮崎台駅」。今でこそよくある住宅街のこの地に、かつて陸軍部隊が展開されていた。
六本木で編成された東部62部隊(陸軍101聯隊)は、招集兵の訓練と東京近郊に駐留する部隊の演習場として、川崎市宮前区を中心に、川崎市高津区や横浜市青葉区の一部などに進出したという。


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東部62部隊(陸軍歩兵第101聯隊)

昭和15年(1940年)12月、歩兵第1聯隊留守居隊を基幹に歩兵第101聯隊が改編され、近衛歩兵第3聯隊の兵舎に駐屯。(近衛歩兵第3聯隊の兵舎は、現在の赤坂TBS界隈。)
昭和17年(1942年)11月、歩兵第101聯隊は、川崎北部の高台、溝の口界隈に転営。

以下は、川崎市平和館・掲示 より

陸軍東部62部隊と溝の口演習場
 宮前区宮崎から高津区梶ケ谷にかけては「陸軍歩兵101連隊(通称東部62部隊)が敗戦までの3年間所在していた場所です。1942年に東京赤坂から移転し、連隊本部は現在の宮崎中学校におかれました。神奈川県を中心とする招集兵を短期間訓練して数万人も外地へ送り出す軍事施設でした。
 現在でも、部隊と共に赤坂から移された「お化け灯籠」(現 市青少年の家)や、被服廠・馬房の一部が残っています。
 また、陸軍は強制的に農地を買収し、宮前区の約3割と高津区・横浜市青葉区にまたがる約9平方kmもの広大な溝ノ口演習場を設置しました。当時の射撃場は現在の国学院大学たまプラーザキャンパスにあたります。

陸軍東部62部隊跡と溝ノ口演習場の現存している遺跡


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル: USA-M376-26
昭和22年(1947年)7月24日、米軍撮影の航空写真を一部加工。

再開発で、界隈の様相が大きく変わっている。
交通網だけでも、バイパスが南北を縦断し、東急が東西を横断している。


宮崎台駅

東急田園都市線・宮崎台駅。
「電車とバスの博物館」がすぐとなりにある。
開業は昭和41年。陸軍時代にはまだ鉄道は敷かれていなかった。

界隈の鉄道では、昭和2年(1927年)、玉川電気鉄道の溝ノ口線(二子玉川‐溝の口間)が開業。溝の口駅から長津田駅間は、昭和41年(1966)の開業まで待たねばならなかった。


陸軍東部62部隊・陸軍軍用地境界標石1
(宮前区宮崎台・馬絹)

宮崎台の台地の南側、馬絹との境目のあたりにいくつかの陸軍境界標石が残っている。

階段の脇と階段に埋め込まれた、面白い境界標石。

陸軍

ちょうど、ぴったり階段に埋め込まれている。
これは、階段を作った人の心意気に感謝。

場所

宮崎台サニーハイツと宮崎台パークハイツの間の石段。

〒216-0033 神奈川県川崎市宮前区宮崎1丁目13−16 宮崎台サニーハイツ

陸軍東部62部隊・陸軍軍用地境界標石2
(宮前区宮崎台・馬絹)

こちらも石段の脇。こうしてみると宮崎台という台地が分かる。
台地の上が陸軍用地であった、と。

場所

宮崎台ハイツの手前の石段


馬絹ノ稲荷神社

この稲荷神社の界隈にも、境界標があるというが、見つけられませんでした。。。

場所


陸軍東部62部隊・馬房跡

宮前区梶ケ谷。
「虎の門病院分院」から、東京横浜バイパスを南下したエリアの住宅地。ここに、当時「馬房」として使用されていた長屋建物が、戦後に住居に転用された。現在も長屋の一部が数カ所に残っている。

関係者の方より「馬房跡の長屋」を切り離した際の写真を頂戴しました。
ご提供ありがとうございます。


ーーー
戦後、この長い馬房跡に人々が寄り合い早い者勝ちというような感じで土地を取り合ったようです。
なので広さはマチマチみたいです。
時代が変わり、代もかわり当時から住んでいる方もだいぶ居なくなりました。
(下記の写真は、)長屋を切り離した際に撮影したものです。工事中で乱雑に板が貼り付けてありますが、馬房の形跡がよくわかるかと思います。
ーーー

以下は、現在の通りの様子。
この通りの右手側に馬房の長屋があった。いまも一部の建屋にその痕跡をみることができる。
 ※建屋の写真は割愛。

場所

神奈川県川崎市高津区梶ケ谷4丁目の住宅地。

※界隈は、住宅地ですので、配慮の上でお願いいたします。


虎の門病院分院・宮崎中学校

陸軍東部62部隊の兵舎や酒保があったあたりが、虎の門病院分院。
陸軍東部62部隊本部があったあたりは、川崎市立宮崎中学校となっている。


陸軍東部62部隊・将校集会所跡

陸軍東部62部隊の将校集会所があったあたりは、現在は「川崎市青少年の家」となっている。庭園に将校集会所時代の石灯籠が残されている。

陸軍東部62部隊・将校集会所庭園
お化け灯籠

川崎市地域文化財
お化け灯籠
 この灯籠は、1941年(昭和16年)まで、元日本陸軍東部62部隊の将校集会所の庭にありました。(部隊の場所は、現在の東京都港区六本木)そのころ、灯籠が夜になると六本木辺りに出るという噂が立ちました。
 1942年に、部隊は灯籠も一緒に連れて、現在の青少年の家を中心としたこの場所に移しました。その時、この噂を消す願いを込めて、動かないように足の部分を埋めたとも、また足を切って移したとも言われ、本当のことははっきりしていません。
 今では化けて出るかどうか定かではありませんが、「お化け灯籠」と呼ばれ、この青少年の家の庭で、平和を願い、青少年の健やかな成長を見守っています。

けっこう、おおきな灯籠。

下はどうなっているのだろう。埋められているのか、切られているのか。。。

場所


宮崎大塚古墳(高射砲陣地跡?)

高さ4.7メートルの方墳、という。頂上部には、「馬絹大塚供養塔」が建立されている。
陸軍東部62部隊が駐留していた当時は、高射砲陣地がおかれていた、とも伝承されている。

場所

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陸軍東部62部隊・ 被服廠の建屋跡

陸軍東部62部隊の被服廠は、川崎市宮前生活環境事業所の界隈にあった。
川崎市宮前生活環境事業所から東の住宅街の一角に、「被服廠の建物の一部」とされている木造建造物が残存している。

現在は、物置小屋として使用されているようだ。

場所

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陸軍東部62部隊・門柱跡?

被服廠跡ちかくにあるレンガの残骸。
往時の門柱跡?もしくは、なにかの基礎かもしれない。 

今は駐車場の角。

奥に 川崎市宮前生活環境事業所 が見える。

川崎市宮前生活環境事業所が、陸軍東部62部隊の被服廠跡。

場所

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長坂(陸軍用地迂回路)

長坂
国道246号線梶ヶ谷付近の坂は、かつて「長坂」と呼ばれていた。この坂道は、現在の「青少年の家」周辺が陸軍に接収され、迂回路としてつくられたものですが、「長坂」という名が残りました。
 平成12年2月1日制定
  宮前区

場所


陸軍東部62部隊・弾薬庫跡?

東急田園都市線の作延トンネル西出口付近がかつての弾薬庫であった。
トンネルは弾薬庫の転用?ともいうが定かではない。
作延トンネルの上部には、今は虎の門病院分院・宮崎中学校などがある。
往時は、このトンネルのうえに、部隊本部があった。

場所


陸軍東部62部隊・陸軍軍用地境界標石3
(高津区向ケ丘)

宮崎台駅の北側。しばられ松(聖社)の境内に保存されている。

陸軍

しばられ松

しばられ松、聖社の由来
昔、上作延南の原に聖松という大きな曲がり松がありました。
相模の国の或る六部(六十六部の経典を寺々に修める修行僧)が、諸国巡礼の折、この地で百日咳に苦しみ亡くなったという。
又、一説には、この地で穴の中にて鉦をたたき、念仏を唱え修行をしていたが、「この鉦の音が止んだら死んだと思ってくれ」と言い残し入定したといわれる。
その跡に植えたのが、この聖松であるいう(←「あるいう」って書いてあるけど、「あるという」のまちがいでしょうねたぶん)。松の樹勢は、高さ五メートル根廻り三メートル余りある大木となり、枝葉は相模の方向を向き生い繁っていた。明治二十年ごろ落雷にあい、焼け落ちて今日の姿となったが、残る枝ぶりは今も往年の面影をとどめている。近郷の人々は、子供が百日咳にかかると素縄を左に編んで、聖松に縛り願をかけ、病が治ると、右縄を編み幹に縛り直して願ほどきをしたと、言われる。
その由に、この松を別名「しばられの松」という。
社殿がある。又、このしばられ松は古くより稲毛領の七本松の一つとされ、百合ヶ丘の「「弘法の松」、久地の「綱下げの松」などと共によく知られた松である。
稲毛三郎重松が鎌倉に赴く途中、馬の鞍を掛けた「鞍掛けの松」とも言われている。
民俗信仰の対象としても江戸時代、大変崇められ、親しまれたと言われている。平成十二年、聖社を新築建立したのを記念してその縁起由来の伝聞を要約してここに記す。

慰霊碑
忠魂碑

しばられ松(聖社)の境内に、2つの慰霊碑がある。

慰霊碑は、日支事変、大東亜戦争における戦没者の慰霊顕彰。
忠魂碑は、西南の役から日清日露戦役における戦没者の慰霊顕彰。

碑文
 昭和の初期をふりかえって見れば日支事変、又大東亜戦争と、中期は二十年八月終戦、すべての物資の不足等で国全体がもっとも貧窮な時を迎えました。
 又此の戦争により入営や召集により北は大陸の果に南の海に島々に又空地とお国の為とは云え多くの方々が祖国をあとにして戦禍により散っていった。誠にお気の毒に耐えません。
 私達も此のような戦争は二度とあってはならない。いつまでもいつまでも平和な日本であってほしいとただただ祈り願うものであります。
 我が上作延に於ても戦没された方は日支事変で二名、大東亜戦争にて十二名の方が亡なっています。
 そして昭和三十九年東京オリンピック大会が過ぎる頃より経済の急成長により安定した克つてない平和な日本となりました。
 戦後五十年になろうとする今日、戦没者皆様の遺影に感謝申し上げここに慰霊碑を建立して衷心より哀悼の意を表し冥福をお祈りし其の名を後世まで伝え遺族の方々の心よりの慰めとして毎年慰霊祭の出来る事を願い度い。
  平成5年12月5日建立
   上作延戦没者慰霊碑建立委員会建立

場所


川崎市平和館

川崎市平和館には、東部62部隊の境界標石が展示してある。

陸軍軍用地境界標
近隣の家の庭に埋まっていたものを、陸軍東部62部隊の研究をしている関係で譲り受けた。東部62部隊・溝口演習場の境界を示すために使われていた境界標。
 川崎市平和館所蔵

陸軍軍用地境界標(宮前区馬絹で使用)
 軍用地の境界には、長さ1m余の御影石が30cm程度頭を出して埋められていました。「陸軍」という文字が刻まれています。都市開発の影響でほとんどが抜かれてしまいましたが、当時のまま埋まっているもの、別の場所に移されたものが約50本、宮前区・高津区に残っています。

撮影:2022年1月及び2月


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