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東京消防庁 高輪消防署 二本榎出張所(昭和8年・東京都選定歴史的建造物)

昭和8年(1933年)に建てられた二本榎出張所(旧高輪消防署)は、平成22年に「東京都選定歴史的建造物」に選定されている。
建築様式としては、第一次世界大戦後に流行した「ドイツ表現派」の建築設計。レトロな外観が特徴的な消防署は、現役で地域の消防活動を担っていた。

東京消防庁高輪消防署二本榎出張所

訪問は2021年11月の某日。受付で見学を申し込む。
消防署員が時間を割いて付き添いで署内の説明をしてくれました。所要はざっと30分くらいだった。
お時間をいただきまして、ありがとうございました。

https://www.tfd.metro.tokyo.lg.jp/hp-takanawa/building/index.html

東京都選定歴史的建造物
Tokyo Metropolitan Government Selected Historical Strictures
東京消防庁 高輪消防署 二本榎出張所
Tokyo Fire Department Takanawa Fire Station Nihonenoki Fire Station Branch
  所在地 港区高輪二丁目6番17号
  設計者 越智 操
  建築年 昭和8年(1933)

 明治41年7月1日、第二消防署二本榎派出所として発足、昭和8年12月28日に現庁舎が竣工した。
 建物は、鉄筋コンクリート造りの地上3階建てで、海抜約25メートルの位置にあり、当時は周囲に高い建物もなく、東京湾を眼下に眺望できた。
 1階の腰壁は御影石(花崗岩)の切り出し積みで、ひさしや窓台は左官洗い出し仕上げとなっている。また、外壁はクリーム色の磁器タイルで覆われ、玄関部分はすべて御影石で造られており、扉は木製となっている。
 3階の円形講堂は8本の梁(はり)が中心に集まり、10個の窓部アーチと一体になった独特の意匠である。
 第一次世界大戦後の近代的なドイツ表現主義 という建築様式で、曲線と曲面をモチーフとした力強く流れるような躍動感のあるデザインを特徴としている。
 3階から上は円筒形の望楼(ぼうろう)となっており、昭和46年まで火災の見張りに使用されていた。
   東京都
   TOKYO METROPOLITAN GOVERNMENT

外観

戦艦三笠をモチーフにしたとも言われている消防署は、戦争の空襲を生き延び、戦後の解体を免れ、昭和初期の「ドイツ表現主義」の意匠を今に伝えている。

曲線美にあふれている造形は、見ていて飽きが来ない。ずっと見ていられる。。。

高輪消防署

かつては高輪消防署の本署でもあった。消防署本署機能は、、1989(昭和59)年、港区白金2丁目に現在の高輪消防署が新たに建てられると移転。古くなった建物は取り壊しの危機もあったが、反対の声多数で、結果として「高輪消防署二本榎出張所」として残ることとなった。

道を挟んで隣は、警視庁高輪警察署。
建設当時、警察署は「三笠」の操舵室を、高輪消防署は「三笠」の船尾をイメージしてデザインされた、ともいう。(警察署は昭和52年に建て替え。)

建物内

3階が資料室になっている。

庁舎について

「東京都選定歴史的建造物」について
 「東京都選定歴史的建造物」は、歴史的な価値の高い建造物のうち、景観上重要なものとして東京都景観条例に基づいて知事が選定します。
 地域の歴史的景観を特徴付けていること、地域のランドマークとしての役割を果たしていること、できるだけ建設当時の状態で保存されていることなどが選定基準となっています。
 市政会館・日比谷公会堂、東京都慰霊堂、両国橋、港区高輪台小学校など99の建造物が選定されています。(2019年現在)

概要
・建設年:1933(昭和8)年
・設計者:越智操(警視庁総監会計科営繕係)
・構造:鉄筋コンクリート3階建
・延べ面積:598㎡
・高さ:約30m(シンボルタワーを含む)
・2010(平成22)年「東京都選定歴史的建造物」に選定

外観
 クリーム色磁器タイル張りの外壁と、円筒形の望楼が特徴の建物です。
 1階の腰壁は御影石(花崗岩)の切り出し積みで、ひさしや窓台は左官洗い出し仕上げ、玄関は御影石に木製の扉がついています。

階段
 階段の床と腰壁は、大理石とセメントを練って固めたものを研磨した研ぎ出し仕上げで、曲線的な空間を持った階段になっています。

円形講堂(3階)
 8本の梁が中心に集まり、10個のアーチと一帯になった独特の意匠です。
 第一次世界大戦後の「ドイツ表現派」というデザインで、曲線や曲面をモチーフにして力強く流れる躍動感ある設計が特徴です。

望楼
 高さは約21mで、庁舎落成時は最長部分に鉄塔がありました。
 昭和60年の改修時に見張所より上部を復元し、頭頂部には東京芸術大学・前野教授の設計で、東京都の「文化デザイン」事業を踏まえたシンボルタワーを設けました。

コーニンス・モールディング
 階段ホールの円柱と壁・天井の間に3段の「コーニス」が見られます。
 2階事務室の天井と壁の間には「モールディング」が施されています。

ガス灯
 アールヌーボー調(花や植物などをモチーフにした曲線的なデザインが特徴)のガス灯は、この庁舎が落成した時に停電時の照明として、車庫、1階食堂、2階事務室、3階講堂に設置されました。

丸太梯子
 大正時代初めに制作されたもので、ポンプ車に積載し、火災現場で留め金をはずして梯子として使用しました。
 見た目が1本の棒であることから「一本梯子」と呼ばれていました。

龍吐水
 江戸時代から使われた消防ポンプで、龍が水を吐くように放水するところからこの名前が付けられました。
 この龍吐水は、1985年(昭和60)年に東禅寺から寄贈されたものです。

水鉄砲
 龍吐水の補助具

半鐘
 火災の発生を知らせるために、江戸時代の火の見櫓や消防署の望楼に設置されたもので、日本榎派出所と高輪消防署の望楼に下げられていたものです。
 望楼は、1973(昭和48)年まで使われていました。

手榴弾消化器
 ガラス球型の消化器で、炎に投げ込みガラス球が割れると中にはいっている薬剤で消化することができます。
 戦時中から昭和30年代に使われていました。

大きな窓が美しい。

八本の梁が中心に集まる円形の天井。

ガス燈
 昭和8年12月、現在の庁舎が完成した時に、停電用の照明として設置されました。

8本の梁と大きな窓が曲線を彩る。美しい、、、

火の見櫓に繋がる階段。

急階段で危険なため、望楼(火の見櫓)の見学はお断りしています。

同行案内してくれた消防署員も、望楼には一度も登ったことがないらしい。。。

屋上

屋上の見学をさせていただきました。

これは、たしかに軍艦みたいだ。艦橋っぽい。

丸窓が可愛い。

3階から1階に戻ります。

車庫

ものすごく貴重な車両がいました。貴重な建物と貴重な車両。これは素晴らしい展示コラボ。

ニッサン180

ニッサン180 消防ポンプ自動車
NISSAN 180 POMPER
車両寸法:全長5,570mm x 全幅2,300mm
出力:80馬力 最高速度:100km/h
放水量:1,700リットル/min

本格的な国産消防ポンプ自動車の第1号といわれています。
昭和16年(1941)年に制作した後、高輪消防署に配置され、昭和20年5月から昭和39年10月までの19年間、チキの安全を守り続けました。
戦時中には、空襲火災の消火活動でも活躍しました。

今と昔と、はしご車の原理はそんな変わっていない。

貴重な見学が出来ました。
お忙しい最中で、見学のためのお時間をいただきまして、ありがとうございました!

場所

https://goo.gl/maps/cxa1MfiUZnhCsFgp9


せっかくだから、近所の近代建築物をあわせて見学。

高輪教会

現在の礼拝堂は1933年(昭和8年)に建設。
「高輪消防署 二本榎出張所」と同じ年の建築ですね。

旧帝国ホテルの設計者として有名なフランク・ロイド・ライトの門下であった教会員の岡見健彦の設計によるもの。日本で最初に建てられたライト式建築の会堂。
2004年(平成16年)に)東京都歴史文化財団の「東京たてもの百選」に選ばれた。


高輪台小学校

関東大震災以に建設された復興小学校の最後期ににあたる校舎。東京都選定歴史的建造物。

東京都選定歴史的建造物
港区立高輪台小学校
(旧東京市立高輪臺尋常小学校)
 所在地 港区高輪2-8-24
 設計者 東京都土木局建築課(鈴木忠雄)
 建築年 昭和10年(1935年)

 都内の公立小学校は、震災復興を機に、耐震・耐火性の高い鉄筋コンクリート造りの校舎に建て替えられるようになった。昭和初期の公立小学校校舎には、装飾性を加味したスタイルと、機能を重視したインターナショナル・スタイル(国際建築様式)と呼ばれる二つの傾向があった。この校舎は、校舎の代表作であり日本の新建築の代表例の一つに数えられ、戦後の小学校建築のデザインに大きく影響を与えた建物である。
 大きな窓は、水平美を強調したすっきりとした明るい外観を呈している。地上3階一部地下1階の建物の内部は、天井が高く、広い窓から明るい陽光が差し込み、児童たちがのびのびと育つにふさわしい環境を創り出している。
 敷地を巧みに生かして配された校舎は、今では地域の象徴的な存在であり、地域の人々にも親しまれ大事にされている。
 東京都生活文化局
  平成9年3月


高輪台には、造形美しい近代建築が三者三様に残っていました。
高輪ゲートウェイ駅も開業し、アクセスもしやすくなりましたので、ちょっとした散歩をおすすめ。

※撮影は2021年11月


関連

高輪ゲートウェイ駅も少しだけ登場。

名古屋城周辺の戦跡と近代建築

本記事は2017年1月と2018年6月に名古屋方面を散策した際の記録をまとめたものになります。
2022年現在とは様相が異なる可能性濃厚ですが、往時の記録としてご参照いただければ幸いです。

なお、このころの散策はムラが多いので見逃し多数ですが、まあ、そのうち再訪するということで。。。


騎兵第三聯隊跡

名古屋市役所の北西角にある石碑。

騎兵第三聯隊跡
 名古屋市長 杉戸清書

騎兵第三聯隊は明治二十五年十一月創設以来昭和三年三月守山に移転する迄此の地に駐留せり
茲に往時を偲び明治百年を記念し之を建つ
 昭和42年4月 騎三会

場所

https://goo.gl/maps/rMq48pch1osUXDyq5


松脂採取跡

名古屋市役所の北側には松並木がある。
松脂採取跡。これも戦争の名残。


加藤忠四郎翁之碑

加藤忠四郎翁之碑
 陸軍大将 宇垣一成書

昭和6年4月建立。撰文は陸軍歩兵大佐津田次郎。
加藤忠四郎翁は第三師団に大きな貢献をし、雑役の元締として60余年奉仕的に勤め名古屋の第三師団では知らないものがいないほどの有名人であったという。


名古屋市役所

名古屋市役所。国重要文化財。
1933年(昭和8年)竣工。
政令指定都市の中では1927年竣工の京都市役所に次いで2番目に古い。
名古屋市役所本庁舎は、 昭和天皇即位の記念事業として建設され、日本趣味を基調とした近世式意匠の建造物として特徴的。いわゆる帝冠様式建物。


愛知県庁

愛知県庁。国重文化財。
愛知県庁本庁舎は1938年(昭和13年)3月完成。
昭和天皇御大典の記念事業の1つとして建設。頂部に名古屋城大天守風の屋根を乗せた帝冠様式。
日本趣味溢れる建造物。

名古屋市役所と愛知県庁。
帝冠様式・国重要文化財コンビ。

巨大な帝冠様式建造物がドーンっと並んでいるさまは圧巻の一言。
この日本趣味丸出しの昭和初期を代表する建造物たちに歴史的重みと風格を感じます。
見ていて飽きませんね。


野砲兵第三聯隊跡
(旧・名城東小公園)

かつてここに公園があり、その公園の中には「野砲兵第三聯隊跡碑」があった・・・という。
2018年現在では公園は閉鎖され再開発中でした。
碑は・・・どうなったのだろうか(不明


第三師団司令部跡の煉瓦塀

二の丸交差点の北西角に煉瓦壁が残る。
レンガはイギリス積み。

場所

https://goo.gl/maps/adTLjZkUhCiKegEk8


名古屋城二の丸

ここにかつて歩兵第六聯隊が展開されていた。


歩兵第六聯隊

二の丸の敷地。

歩兵第六聯隊之由来
抑々明治4年8月、東京鎮台第3分営を名古屋に設置せられたのが起源で、その後明治6年第3分営を名古屋鎮台と改め、歩兵6番大隊と称した。
この年わが国に徴兵令が施行され、翌年3月壮丁を愛知、三重、岐阜の県から徴集し、歩兵第6聯隊を創設し、此の地名古屋城二の丸に兵営を新築し、12月27日軍旗を拝授し衛戌した。
以来精強な軍隊の練成に励み国威の宣揚に尽した。
健軍早々にして明治10年西南の役に初陣し、熊本城の圍を解き本営を護衛し干城の任を尽した。
その後日清戦役に出陣し、九連城海城の戦闘で勇名を挙げ、明治37、8年の日露戦争にては首山堡、沙河、于洪屯の戦闘で武勲を樹てた。
大正7、8年のシベリア派遣、昭和初期における山東派兵及び満洲に加わりて、克く護国の大任を完うせり。
昭和12年支那事変勃発するや上海方面に急派せられ、幾多の辛酸をなめ威武堂々、南京、武漢に転進、次いで応山浙河地区に進駐し警備地の治安確保に任じつつ大東亜戦争に突入し、専ら大陸にありて長沙、常徳、湘桂など累次の会戦に加わりて、東亜新秩序の建設に邁進した。
然れども大勢我に利なく終戦となり、命により武装を解除し国軍は解散するの憂き目に遭い、今や郷土の誇りを継ぐ軍隊なきは誠に遺憾に堪えない。
茲に戦友相計り由縁の地に碑を建て、由来を刻み先人の偉績を顕彰し、併せて殉国の英霊を弔慰し其の功勲を不朽に伝う。
 昭和55年3月10日
  元歩兵第6聯隊戦友生存者有志建之

歩兵第六聯隊之跡
 河辺正三 書

明治4年8月20日創設
昭和20年8月15日解隊
昭和39年軍旗親授90周年記念建立

忠霊

馬魂碑

軍役動物の慰霊のために
昭和55年3月10日 歩六会建之

勅諭下賜五十周年記念碑

昭和7年

場所

https://goo.gl/maps/Sir2v3PCQNZ6ssmJ6


名古屋城

訪れたときは、改修工事中でした。(2018年)


天守礎石

天守礎石
昭和20年(1945年)の名古屋空襲で焼失した旧国宝天守の礎石。
焼け焦げた様子が今も残る。

場所

https://goo.gl/maps/CMx7uidECJteMvib8


乃木倉庫(弾薬庫)

乃木倉庫
 登録有形文化財(平成9年)
 乃木希典が名古屋鎮台に在任していた明治初期に建てられたと伝えられ、だれいうとなく「乃木倉庫」と呼ぶようになった。
 当建物は、煉瓦造平屋建で旧陸軍の弾薬庫であった。昭和20年5月14日の名古屋空襲の際、天守閣、御殿等が消失したが、本丸御殿の障壁画や天井絵類の大半を取りはずしてここに保管していたため被災を免れた。のちに煉瓦の保全のため白亜塗りにした。
 なお、被災を免れた障壁画等は重要文化財に指定されている。
  名古屋市教育委員会

場所

https://goo.gl/maps/XRC3zKxLBwf6RU6c6


戦争に関する資料館
愛知県庁大津橋分室

愛知県庁大津橋分室。建物としては1933年(昭和8年)に竣工。

場所

https://goo.gl/maps/S1DzhcXZjkwXGvh57

名古屋は、再訪して、がっつり歩きたいですね。。。

撮影:2017年1月と2018年6月


関連

愛知縣護國神社
豊橋の戦跡散策

「日独友好の碑」ドイツ人名古屋俘虜収容所跡

愛知県立旭丘高等学校の塀沿いにある記念碑。
この愛知県立旭丘高等学校のある場所は、かつてドイツ人名古屋俘虜収容所の地であった。


ドイツ人俘虜

1914年(大正3年)8月23日に、日本はドイツに宣戦布告。
第一次世界大戦の日独戦争で、中国の青島(チンタオ)や南洋諸島で俘虜になったドイツおよびオーストリア=ハンガリー帝国軍の将兵や在留民間人などは約4700人居たという。
俘虜とは陸軍の用語で、捕虜と同義。

アジアでのドイツ降伏は1914年11月7日。4700名の俘虜は日本本国に輸送され、久留米・東京・名古屋・大阪・姫路・丸亀・松山・福岡・熊本・静岡・徳島・大分の12ヶ所に開設された仮設の俘虜収容所に収容された。
アジアでの戦争は早期集結したが、ヨーロッパ戦役が長期化しているために、長期収容が可能な施設を新規建設し、1915年に久留米・名古屋・千葉習志野・兵庫青野原・広島似島・徳島坂東の6ヶ所の俘虜収容所に統合。
名古屋俘虜収容所は1914年11月11日開設、1920年4月1日閉鎖。
一部の収容所では技術指導なども行われ、後述する敷島製パンはドイツ人俘虜の技術で発展することとなる。

1919年6月28日、ヴェルサイユ条約の締結。
ドイツ人捕虜の本国送還は1919年12月から1920年1月にかけて実施。約170名が日本に残り、技術力を活かして日本で生計を立てた。敷島製パンの技術指導を行ったハインリヒ・フロインドリーブは神戸にベーカリーを開業。ほかにも、バームクーヘンで有名なユーハイム創業者のカール・ユーハイムや、ロースハムのアウグスト・ローマイヤーなども俘虜経験者。


日独友好の碑

日独友好の碑

由緒
 この地には1915年ドイツ人名古屋収容所がおかれここに第一次世界大戦の折に総勢519名の人々が1920年までの5年間生活した
 ここには多くの蔵書を備えた図書館があり日刊新聞も発行され運動場にはフットボールテニス体操などの諸施設がありオーケストラも編成され開放的であった
 名古屋にこれほど多くのドイツ人が在住することは稀有であったため地域住民は彼らに遠来の客として接し先進国ドイツの文化に関心を持ち彼らとの交流が多く見られた
 地域住民は特にドイツ人の勤勉な生活態度に深く感銘を受け優れた職業技能に触れて多くを学びこれを地域の産業振興に役立て音楽やスポーツを通して友好関係を深めた
 ゆえにこの跡地に碑を建立して歴史の事実を後世に伝えることは誠に意義深く国際親善の礎になるものと信ずる。
 2003年3月
  在名古屋ドイツ連邦共和国名誉領事 安倍浩平
  名古屋日独協会会長 石黒伊三雄

愛知県立旭丘高等学校

敷地外から。壁の向こうに、銅像があった。
マラソン校長と称された、「日比野 寛」の銅像。
「日比野 寛」 は、旧制・愛知一中(現在の愛知県立旭丘高等学校)校長時に、日本で最初にマラソンを本格的に教育界に導入したとされている。

場所

https://goo.gl/maps/hLAJHq7ZKmeMY3ES7


敷島製パン

敷島製パンの創業者・盛⽥善平は、第一次世界大戦中のドイツ捕虜収容所(名古屋俘虜収容所)のドイツ兵捕虜の指導をきっかけにパンづくりを開始。
第一次世界大戦終結後、敷島製パンが発足する際に、収容所から開放されたあとも日本に残った元捕虜のハインリヒ・フロインドリーブを技師長として招聘。こうして、ドイツ流製法から敷島製パン(パスコ・PASCO)の製パンは、はじまっている。

創業までのあゆみ[挑戦のはじまり]
敷島製パンが製パンメーカーとして創業するまでには、創業者・盛⽥善平のさまざまな挑戦がありました。

第⼀次世界⼤戦開始の激動の中、善平はついにパンと出会います。

4.パンとの出会い

ある⽇、製粉⼯場の機械の修理にドイツ⼈技師らがやって来た際、「ドイツ⼈俘虜の焼くパンがおいしい」という話を聞いた善平は、さっそく職⼈から学び、パンづくりをはじめました。

特集 1 想いのバトン 創業までのあゆみ https://www.pasconet.co.jp/csr/feature2020/feature_01/01/

敷島製パン(パスコ)とも縁が深い、ドイツ捕虜収容所とは、知りませんでした。

※撮影は2021年11月


関連

名古屋市平和公園の陸軍墓地の一角にドイツ人兵士の墓があるというが未訪問。

※訪問しました

同時期に習志野の俘虜収容所に収容されていたドイツ人の慰霊碑が、船橋市習志野霊園内にある。

静岡にも。

名古屋陸軍造兵廠千種製造所跡(千種公園)

愛知県名古屋市千種区の「千種公園」は、かつては陸軍の工場であった。


名古屋陸軍造兵廠 千種製作所

名古屋陸軍造兵廠千種製作所は、 1919年(大正8年)発足。
第一次世界大戦で新兵器として登場した飛行機の国内生産に取り組むために設置。
熱田製作所で機体を生産し、千種製作所で発動機を生産する分業体制であった。
名古屋には三菱や愛知時計電機などもあり、民間工場も活性化していた。

1923年(大正12年)の関東大震災により、東京砲兵工廠が被害を受けたために、陸軍は小銃などの兵器生産を名古屋と小倉に分散。関東大震災以降に千種製作所は拡大し、小銃・機関銃などの生産も開始。

1945年(昭和20年)3月25日、4月7日、6月26日の3回、米軍B-29の爆撃を受けており、職員だけでも69人以上の犠牲者が出ている。

千種公園

案内地図には、慰霊碑等の記載はない。


名古屋陸軍造兵廠千種製造所慰霊碑

千種公園内の遊歩道脇にある。一見しただけでは、なんの慰霊碑かはわからない。裏の碑文を読めば、「名古屋陸軍造兵廠千種製造所」の慰霊碑であることがわかる。

ここに涙あり
されど
平和は永遠に

 名古屋市長 杉戸清 書

ここは元名古屋陸軍造兵廠千種製作所の所在地であって大正八年開所以来兵器を製造して国家の要請に応え、多大の貢献をした由緒ある地である。
太平洋戦争において全従業員は祖国愛に燃えて職域を固守したのであるが、不幸にして昭和二十年三月以降数度の爆撃を蒙って六十九名の犠牲者を出し、これに戦前の公務による死亡者五名を加えて計七十四名の殉職者を出したことはまことに痛恨の極みである。
 ここに有志相図り旧構内にこの碑を建立して記念としあわせて永遠の平和をこい願うものである。
  昭和43年6月
元名古屋陸軍造兵廠千種製造所関係者有志一同


名古屋陸軍造兵廠千種製作所の外塀跡

ちかくには、名古屋陸軍造兵廠千種製造所の外壁コンクリート塀が移築されている。
爆撃によって、無数の穴が空いている様がよく分かる。

第二大戦の末期、再度の名古屋空襲はこの地にあった名古屋陸軍造兵廠千種製作所に甚大な被害を与えた。この碑はその爆撃による痕跡を残す外塀の一部を移設し戦争の記録として残したものである。
 昭和62年1月


民間戦災傷害者の碑

千種公園内には、もうひとつ戦災に関係する碑があった。

痛みを共有し、継承を
 第二次世界大戦中、戦闘機のゼロ戦を生産するなど大軍需都市だった名古屋市は、60回以上の米軍の空襲を受け、街は焼き尽くされ、市民約8000人が死亡、それに劣らない数の人々が重軽傷を負った。
 死傷した民間人も国が援護すべきという運動は、昭和47年、全国戦災傷害者連絡会(杉山千佐子会長)により、ここ名古屋から始まった。一方、名古屋市は平成22年に「民間戦災傷害者援護見舞金」制度を受け、独自の援護を開始した。
 大戦が終わって70年が過ぎようとしている。壊滅した名古屋の街は市民のたゆまぬ努力によって復興、目覚ましい発展を遂げ、今日では、日本を代表する大都市となった。
 しかし、世界ではいまだに争いが絶えず、惨禍が繰り返されている。
 名古屋市は、市民が再び戦火に巻き込まれることがないようにと願うとともに、空襲で体と心に癒えない傷を負った方々の長年の苦難に思いを寄せ、その痛みの記憶をここに刻む。
 平成26年11月 名古屋市

民間戦災傷害者の碑
 平成26年11月
設置:名古屋市健康福祉局
写真提供:中日新聞社
     戦争と平和の資料館ピースあいち

※撮影は2021年11月

場所

https://goo.gl/maps/LB2xHbeAVBFkGfAo9


関連

座間・陸軍士官学校の戦跡散策3「陸軍士官学校の水道施設」

陸軍士官学校周辺の戦跡散策。その1は、富士山公園の「陸軍士官学校遙拝所方位盤」、その2は「座間公園」でした。 その3では、水道施設を見て歩きます。

陸軍士官学校では、陸軍軍人だけではなく、士官養成のために多くの軍馬も飼育していた。人馬ともに必須となるのが「水」。士官学校のおかれた座間は、多くの谷戸を有し湧水や地下水が豊富にある土地であった。

座間谷戸山公園

座間市役所のすぐ近くにある座間谷戸山公園。陸軍士官学校=キャンプ座間の地からは、南東に位置している。
陸軍士官学校の遥拝所があった富士山公園と谷戸山公園はそれぞれが山地となり、その間の谷を小田急が走っている。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-R355-95
昭和22年(1947年)10月24日、米軍撮影の航空写真

上記を一部拡大、加工。(クリックで拡大可)


座間谷戸山公園
陸軍士官学校の水道施設(配水地)

陸軍士官学校(現在のキャンプ座間)に水道水(地下水)を送るために作られた施設。
谷戸山という不思議な地名にも現れている通り、この界隈は、文字通りに谷戸が多く、人馬ともに必須となる水が豊富に湧く土地でもあった。

陸軍士官学校から、米軍基地に形はかわっても、今も給水施設がこの地にあった。

現在も米軍の管理下。今も昔も自由に立ち入りはできない軍事用地。

WARNING
RESTRICTED AREA
Keep Out
Authorized Personnel Only
警告
許可なき者立ち入り禁止

陸軍時代当時のものと思われる門柱が寝そべっていた。

礫(小石)の交じるコンクリート。

もう1本の門柱は、今も立っていた。

近くには、陸軍境界標石(陸軍境界杭)もある。何故か、黄色くなっている。

手前の防衛施設庁の杭は倒れそう。
おそらくは埋め込んだ深さが違うのだろう。その点、陸軍の境界杭はしっかりしている。

ここにも。埋もれていて見つける難易度が高い。

草を掻きわけた。出てきました。

この左側に上記の2つ境界石を見つけた。この界隈には他にも有るらしいが見つけられなかった。。。

配水地

県立座間谷戸山公園

北入口付近からみた眺望。
左が谷戸山公園の森、右が富士山公園の森。富士山公園には陸軍士官学校の遥拝所がある。
富士山公園の向こう側が、かつての陸軍士官学校。

場所

https://goo.gl/maps/3BEZ69ZML2tbfgRP7


目久尻川・上栗原橋右岸(西側)
陸軍士官学校の水道施設(第1水源地)

座間谷戸山公園から南東側に歩む。陸軍士官学校とは逆の方向に。
目久尻川が作り出した低地に、陸軍士官学校の水源地のひとつがある。「第1水源地」
さらに東側(芹沢公園の西側の谷戸)にある「第2・第3水源地」から送られてきた地下水と合せて北西方向にある前述の座間谷戸山公園内の「配水池」へ送水している、という。
現在は、米軍キャンプ座間の管理下にある。

もちろん立ち入り禁止。

上栗原橋


目久尻川・上栗原橋左岸 (東側)
陸軍士官学校の水道施設(第1水源地)

目久尻川を挟んだ対岸(東側)に八角形の建物がある。陸軍士官学校時代の建物と推測。用途は不詳。
同じく、現在も米軍キャンプ座間の管轄にある。

この界隈をぐるぐると歩いてみましたが、境界標石は見つかりませんでした。

場所

https://goo.gl/maps/ryqZ8wxywgWX2zZQ7


西老場
陸軍士官学校の水道施設(第2・第3水源地)

前述の「第1水源地」から更に東に歩く。栗原中学校の東側に谷戸がある。谷戸の先は、芹沢公園。芹沢公園といえば、高座海軍工廠の地下壕もある。同じエリアに陸軍の水源地もあった、ということになる。

もちろん、立ち入りできない。

航空写真で見てみると、2つの建屋があることが分かる。

場所

https://goo.gl/maps/z6oxvk3h6TcbeSST6

ここまでくると芹沢公園がすぐ近く。高座海軍工廠の地下壕があった場所。せっかくだから足を運ぶのもよいだろう。

※撮影:2021年12月

その4で米軍基地、です。


行程

この日は「陸軍士官学校の戦跡散策その1」「その2」「その3」「高座海軍工廠の地下壕と台湾少年工顕彰碑」の4つを1日で回りました。
距離は約20キロ、6時間30分の散策、でした。。。(下記タイムラインは一部GPSが乱れてます)


座間・相模原関連

座間・陸軍士官学校の戦跡散策2「陸軍士官学校境界石と軍馬功労碑」

陸軍士官学校周辺の戦跡散策。
その1は、富士山公園の「陸軍士官学校遙拝所方位盤」でした。

ここでは、「座間公園」界隈の散策を実施。


座間公園

キャンプ座間の西側に南北に細長く広がる公園が座間公園。公園の途中には座間神社も鎮座している。

入り口は4箇所。
今回のポイントは、「北口」「中央口(南側)」となる。

北から順番に。


座間公園北口
陸軍士官学校境界石(境界杭)

座間公園北口からの公園入口と民家との境界線上に、2つの標石があった。
文字が刻まれている側は民家塀側となるために不明。

「ひとつめ」

「ふたつめ」

座間神社

日本武尊を祀る古社。創建伝説には、飯綱権現の化身が悪疫の際に湧水を使用するようにお告げしたというように、座間は水と縁が深い。

座間神社の裏側は、キャンプ座間の米軍基地。野球場が広がる。


座間神社の北裏
陸軍士官学校境界石(境界杭)

座間神社の裏側、北側の座間公園側に、それっぽい標石があった。だいぶ埋まってますね。。。


軍馬功労碑

陸軍士官学校で飼育されていた数百頭にも及ぶ軍馬の功労を讃える慰霊碑。
士官学校では、馬乗は士官の必須項目であったため、大量に馬を飼育していた。

旧陸軍士官学校軍馬功労碑
陸軍中将 山室宗武 書
昭和14年夏建立

山室宗武は、昭和13年6月から第35代校長と、予備役再招集後の昭和19年8月からの第39代校長を勤めている。


座間神社の南裏
陸軍士官学校境界石(境界杭)

軍馬功労碑の南側、物置小屋の柵ちかくに無造作に横たわっている石杭。。。

あっ、これは陸軍境界標石ですね。

座間公園南側
陸軍境界支柱

公園内に無造作にたつ1本の石柱。どうも当時のものっぽい。

座間公園南側
陸軍士官学校境界石(境界杭)

公園と民家の境界に今も立っている石杭。

ちなみにこは、当時のものではなく、最近の境界石。

防衛施設庁

場所

https://goo.gl/maps/vYEL4vogeCSvCJHN9


相武台1丁目緑地
陸軍士官学校境界石(境界杭)

ちょっと(だいぶ)場所を移動しまして。相武台前駅の北側、相武台病院の裏にある公園に。
ここに、ふたつの石杭が残されていた。おそらく移設だとは思うけれども。

陸士

「陸士」とは、陸軍士官学校のこと。
ちょっとおしゃれなピンク色。子供が色を塗ったのかもしれないですね。。。

裏面には「9」とありました。

もうひとつは、「陸」の一文字。

場所

https://goo.gl/maps/4LUL2EaDtiX2VzjV6

※撮影:2021年12月

次は、陸軍士官学校を支えた水源地の散策。


座間・相模原関連

座間・陸軍士官学校の戦跡散策1「陸軍士官学校遙拝所方位盤」

座間には、陸軍士官学校があった。
陸軍士官学校の土地は、現在の「キャンプ座間」となっている。キャンプ座間にはそうそう立ち入りはできないが、周辺にも「陸軍士官学校」を物語る史跡があるので、ちょっと散策してみた。


陸軍士官学校
「相武台」

小田急「相武台前駅」、JR相模線「相武台下駅」。
座間市と相模原市に地名として使用されている「相武台」は、もともと陸軍に関係のある名称であった。

昭和12年(1937年)、陸軍士官学校が、市ヶ谷台より座間に移転。
昭和12年12月20日に行われた陸軍士官学校卒業式に 昭和天皇が行幸した際に、同校に「相武台」の名称が賜名された。

  • 市谷台 座間に移転する前の陸軍士官学校(本科・予科)
  • 相武台 陸軍士官学校(陸士)
  • 修武台 航空士官学校(航士)
  • 振武台 陸軍予科士官学校(予士)
  • 若松台 陸軍経理学校
  • 健武台 東京陸軍幼年学校

陸軍士官学校が移転したあとの市谷台には、陸軍省や参謀本部などの省部が三宅坂から移転し、陸軍の中枢となった。

市ヶ谷台

振武台

若松台

健武台

昭和16年(1941年)1月1日に、小田急「士官学校前駅」が「相武台前駅」に改称。相模鉄道(JR相模線)の「陸士前駅」も「相武台下駅」に改称。界隈では「通信学校駅」は「相模大野駅」に改称。いずれも防諜上の理由からというが、陸士を象徴する「相武台」を用いた駅名がそのまま戦後も使用されている。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M372-126
昭和22年(1947年)7月9日、米軍撮影の航空写真

一部拡大のうえで加工。


陸軍士官学校遙拝所方位盤

「富士山公園」の頂上にある方位盤。
この山には、かつて浅間神社があったゆえの富士山公園なのかもしれない。

史跡
旧陸軍士官学校遥拝所方位盤
 建立 昭和15年(1940)

由来
 昭和12年(1937)東京からこの地に移転開校した陸軍士官学校の生徒は、毎朝、点呼後に雄健(おたけび)神社に参拝し、続いて遥拝所に赴き宮城(皇居)・明治神宮・伊勢神宮及び各自の原隊や故郷に向かって遥拝するのが日課となっていた。
 この方位盤は、その遥拝するための方位と、国内外・朝鮮半島・中国東北部の主要都市の方位を矢印によって表示したもので校内では最も重要なところとされていた。

位置 旧浅間神社跡(浅間神社は明治42年〈1909)、座間神社に合祀された)
 なお、ここは南地区で北地区の遥拝所もあったが現在はキャンプ座間内に礎石だけが残っている。
  平成18年7月
   座間市教育委員会

東側。
千葉、明治神宮の方向。

北側。
旭川、高田、新京

西側。
京城、広島

方位盤。

毎朝、士官学生たちは、この広場に集まって、各方向に向かって遥拝した。

士官学生が、毎朝に駆け抜けた道。


富士山公園の防空壕

遙拝所方位盤と陸軍士官学校を結ぶ道の途中に、ぽっかりと穴が開口してた。
これは往時の防空壕かもしれない。

遙拝所方位盤と陸軍士官学校を結ぶ道

座間キャンプのフェンスの向こうにも、道がつながっていた。
この先は、かつての陸軍士官学校。今は立ち入りできない。

富士山公園にある、何かの基礎。往時のなにかの遺構かと思いきや。。。
「石の迷路」だそうな。なーんだ、面白くない。

https://www.city.zama.kanagawa.jp/www/contents/1223611954014/index.html


富士山公園

入り口。「富士山公園前」バス停が最寄りではあるが、相武台前駅から歩ける距離。

場所

https://goo.gl/maps/fT7KwhCuHAAamk1G7


キャンプ座間

米軍基地。
一般公開があるときに見学したい。今回は素通り。正門の写真を撮るだけでも守衛に注意されるらしいので写真も取らず。そのまま「行幸道路」(県道町田厚木線)を西に歩む。

※キャンプ座間、行きました!

ここで言う「行幸道路」とは、県道町田厚木線のうちJR横浜線の町田駅から在日米陸軍キャンプ座間までの約7キロの道をいう。昭和天皇が、陸軍士官学校の卒業式に行幸するための道路として作られた。


相模原隧道

陸軍用地を東西に横断するためのトンネル。

隧道諸元
延長・・・60メートル
幅員・・・6.1メートル
高さ・・・5.6メートル
竣工・・・昭和14年(1939年)

昭和14年3月竣工

相模原隧道


市道新戸相武台(新戸隧道)

ちなみに、陸軍士官学校時代からの東西横断道路と隧道はもう一つある。

1937(昭和12)年、旧日本陸軍が地域住民のために陸軍士官学校の敷地を貫く道として整備された市道新戸相武台(新戸隧道)。2020年に拡張工事が行われて、トンネルとしては当時の面影は残っていない。

米軍基地側から東西の貫通道路を望む。。


https://machida.keizai.biz/headline/3086/

https://goo.gl/maps/V8gwBBrexzN54Bzr7

https://goo.gl/maps/VaMC6wJqXW9ZKByS7


相模原隧道を西に抜けると、座間公園や座間神社があります。

座間・陸軍士官学校の戦跡散策2へ。

※撮影:2021年12月


座間・相模原関連

武蔵野陵に拝す(昭和天皇祭の儀・令和4年1月7日)

昭和64年(1989年)1月7日午前6時33分。

国民の祈りの中で、
昭和の天皇陛下は御崩御あそばされた。

即日、
皇太子明仁親王殿下が践祚され、第百二十五代天皇の御位にお就きになられた。
そして、年号は「平成」と改元せられた。


武蔵野陵(むさしののみささぎ)

33年後の令和4年(2022年)1月7日、
昭和天皇が眠る武蔵野陵を参拝いたしました。

昭和を偲びつつ…

陵内には幔幕(青白の浅黄幕・神事での葬祭)が張られ、祭祀の為の仮屋が設けられております。

昭和天皇武蔵野陵

令和4年1月7日。
午前9時30分前に到着。武蔵野陵へ参進する。

午前9時33分。祭員が参進。

このあとは、撮影禁止。

午前9時開門から午前9時30分までは一般参拝可能。
午前9時30分から11時頃までは祭祀のために、立ち入り制限発生の場合あり。
祭祀の間は一般参拝者は御陵向かって右側で待機、でした。

祭祀は、神道式。
 一般参拝停止
 祭員参進
 式部官参進(宮内庁式部職)
 招待者参進
 皇族代表参進 (本年は、 秋篠宮佳子内親王殿下でした。)
 勅使参進
  献饌
  勅使拝礼
  皇族代表拝礼
  招待者拝礼
  撤饌
 勅使退出
 皇族代表退出
 招待者退出
 式部官退出
 祭員退出
 一般参拝再開 
祭礼の全容は把握できていませんが、おそらく上記の流れ。

https://www.fnn.jp/articles/gallery/295317?image=5

https://mainichi.jp/articles/20220107/k00/00m/040/074000c

最初は、一般は15人かな。
最終的には一般も50人くらいまで集まっていたような感じでした。

午前10時45分頃、祭員退出。

前日の雪が残る武蔵野陵。

武蔵野陵墓地(宮内庁多摩陵墓監区事務所所管の陵墓 )

大正天皇 多摩陵
貞明皇后 多摩東陵

昭和天皇 武蔵野陵
香淳皇后 武蔵野東陵

高尾駅

嗚呼 海軍七勇士殉難之碑(船橋)

船橋市の内陸。
かつて、一式陸攻が墜落し若人7名が殉職した地に建立された慰霊碑がある。
行きにくい場所ではあるが、気になるので足を運んでみた。

新京成電鉄「高根公団駅」から「さつき台」行きのバスにのり「梨園」バス停で下車。そこから10分ほど歩くと、「海軍七勇士殉難之碑」慰霊碑がある。
バスは20分に1本ぐらい走っているので、訪問に手間はかかるが、そこまでは難易度は高くなかった。


嗚呼 海軍七勇士殉難之碑
嗚呼 海軍七勇殉難之趾 慰霊碑

この地に、一式陸攻が墜落し、搭乗員だった海軍七勇士が散華なされた。

合掌

(正面)
嗚呼海軍七勇殉難之趾

(右側面)
昭和十八年二月二十七日建立

(裏面)
故 海軍飛行兵曹長  松本博
  海軍一等飛行兵曹 横山彦造
  同        重村惠
  海軍一等整備兵曹 富澤正吉
  海軍二等飛行兵曹 島田茂
  同        高橋利省
  同        飯田輝與

嗚呼 海軍七勇士殉難之碑
 この碑は、太平洋戦争のさなか、昭和17年11月27日の早朝、木更津航空基地から海軍第七〇二航空隊の一式陸上攻撃機(一式陸攻)が訓練飛行に離陸した。機が当地付近上空にさしかかたころ、天候が急変、豪雨、落雷に遭難し墜落、機は飛散した。搭乗していた20歳前後の若き航空兵、下記7名全員が無念にも殉職散華されました。

    記
故 海軍飛行兵曹長  松本博  (京都府)
  海軍一等飛行兵曹 横山彦造 (愛知県)
  同        重村恵  (同)
  海軍一等整備兵曹 富澤正吉 (千葉県)
  海軍二等飛行兵曹 島田茂  (栃木県)
  同        高橋利省 (宮城県)
  同        飯田輝與 (埼玉県)
注 石碑の裏面「階級、氏名」右側側面「昭和十八年二月二十七日建立」とあり

 当時近隣住民の方々が殉職兵士を悼み殉難の碑を建立しましたが、戦中、戦後の混乱の中で永らく樹間に放置され墓参に訪れる人もなく、異境の地で淋しく眠っておられましたが、樹間に埋もれていた碑が、昭和39年たまたまこの地に訪れた葛西氏(松が丘1丁目)により発見されました。その後地主さんの御好意により周辺が整備され、再び白く輝く碑を見ることが出来ました。
 その後、近隣の住民の方々のおりに触れた献花、焼香等が手向けられ、慰霊に努めて来られました。10年前頃からは地元ボランティアによる周辺の整備に当って来られたためにきれいになり、近年は散策に訪れてついでに手を合わせてくださる姿が多くなりました。
 この大穴の地にもこのような戦争の傷跡が残っていることを、記憶にとどめて語り伝えていただければと思います。ここに改めて若くして散華した七勇士に哀悼の意を捧げるとともに、今後も後世のため、この殉難の碑を守り伝え、慰霊に務めるものであります。
 平成26年11月27日
  殉難の碑を守る有志の会

海軍第702航空隊の前身は、海軍第4航空隊。
昭和17年2月10日に、高雄空陸攻隊と千歳空陸攻隊と艦戦隊で編成された航空隊。トラック島で編成。
昭和17年9月にラバウルから木更津に帰還し昭和11月1日に第4航空隊から、第702航空隊に改称。
翌年の昭和18年5月に再びラバウルに進出。米軍の中部ソロモン進攻に対抗。ラバウル周辺で展開された「ろ号作戦」に参加後に解隊。

昭和17年11月27日に墜落した一式陸攻は、9月にラバウルから帰還し、そして11月に新たに第702航空隊となり、再び最前線のラバウルに進出するために、内地木更津で訓練を重ねていたタイミングであった。

一式陸攻のイラストもありました。

一式陸攻K310は、1941年12月10日のマレー沖海戦において、鹿屋航空隊第3中隊分隊長の壱岐春記大尉が機長を務めた機体。巡洋戦艦レパルスに魚雷を命中させた機体のひとつ。
一式陸攻が一番輝き、そして大活躍し、若き一式陸攻搭乗員たちのあこがれであったであろう機体のイラストをレクイエムとして奉納、かもしれない。

この場所に、一式陸攻が墜落した。。。

場所

https://goo.gl/maps/MdcdyZtJnPnsXdas5

※撮影:2022年1月


関連

鉄道連隊演習線松戸線の散策3(鉄道連隊橋脚・鎌ヶ谷)

鉄道連隊の跡地散策。
この日は、新京成線沿線から離れ、東武野田線(東武アーバンパークライン)の馬込沢駅から20分ほど歩いた場所にある、演習線の橋脚を見学。


新京成電鉄は、陸軍の鉄道聯隊の演習線路をベースとしていた。
日本陸軍解散後に、鉄道聯隊演習線は払い下げられ、京成電鉄は子会社としての新京成電鉄を昭和21年10月に設立。昭和22年12月27日に、新津田沼駅-薬園台駅間が開業した。
陸軍鉄道連隊演習線の規定は、軽便鉄道の戦術的運用目標である路線長45kmの急速構築運用を目的としていたために、45kmの距離を確保することが定められていた。そのため路線敷設演習を兼ねて急曲線が多数混在する線形となっており、新京成電鉄を旅客開業するにあたり、可能な限りは直線化を図ったが、いまなお陸軍演習線時代の名残の曲線が多数残っている。

鉄道連隊演習線松戸線

松戸にあった陸軍工兵学校が構築した、工兵学校-八柱演習場間と、鉄道第二連隊が構築した津田沼-八柱演習場間の路線。
昭和7年(1932年)完成。
習志野線と同様に日常的に物資輸送や兵員輸送も行われ、工兵学校への資材搬入もおこなわれた。


鉄道連隊

以前、以下の記事でも触れていました。

習志野の鉄道聯隊

千葉の鉄道聯隊

鉄道連隊の蒸気機関車


位置関係

米軍撮影国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M504-45
昭和22年(1947年)09月24日、米軍撮影の航空写真

google航空写真でほぼ同位置。演習線の跡を色付け。ポイントが橋脚跡。
新京成の鎌ヶ谷大仏駅は、曲線をショートカットした新設線路で新駅であることがわかる。

拡大。


鎌ヶ谷の鉄道連隊橋脚

史跡 
鉄道連隊橋脚
  所在地 鎌ヶ谷市東道野辺6丁目8番

 この橋脚は、昭和初期に旧日本軍の鉄道大隊が、訓練や物資等の輸送のため、建設した鉄道の一部です。
 近代の戦争では、鉄道は人や物資の輸送のために重要な役割を担っていました。千葉県でも、鉄道大隊から独立した第1鉄道連隊が千葉町(現在の千葉市)に、第2鉄道連隊が津田沼町(現在の新京成新津田沼駅の辺り)に配備され、昭和20年(1945年)第2次世界大戦終了まで活躍しました。
 この橋脚は、第2鉄道連隊が、大戦中、鉄道を敷く訓練として津田沼~松戸間に設けた路線の一部でしたが、終戦後は放置されていたため、この部分を除くほとんどを京成電鉄が買い受けました。その後、昭和21年(1946年)に京成電鉄の出資により新京成電鉄が設立され、当路線の整備を行いました。しかし、この部分は整備から除かれ、この橋脚だけが残りました。現在の新京成電鉄の全線が、整備を終え開通したのは、昭和30年(1955年)のことでした。
  平成11年3月 
  鎌ヶ谷市教育委員会

アカシア児童遊園

児童遊園の中に橋脚が残っている。

西側の1番目。

西側の2番目。

西側の2本。

東側の二本。合計、四本の橋脚が残されている。

端の橋脚は凹型。

桜の季節が気になる枝ぶり。「戦跡と花見」というのは良きポイントですね。
もちろん、桜は戦後の植樹。

今は暗渠となっているが、この四本の橋脚のちょうど中間に川が流れていた。
そのために窪地となっており、鉄道連隊演習線は、この部分に橋を渡した。

地理院地図の標高地形図をみると、凹み具合がわかる。

https://maps.gsi.go.jp/#18/35.747603/140.002915/&base=std&base_grayscale=1&ls=std%7Crelief&blend=1&disp=11&lcd=relief&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1&d=m

Google Mapsでも、道路のアップダウンが分かる。

場所

https://goo.gl/maps/MJrHPkUPMVwzxBqz6


陸軍境界標石(石杭)

公園の西端入口に、境界石もあった。

陸軍

場所

https://goo.gl/maps/oTpYKdmbq3JEzL5PA


出会い

実は、ここで偶然の出会いがありました。

私が橋脚の写真を撮っていると、同じくカメラを持っている御仁が。
「ん?同業者さんか??」と思って、そうこうして、挨拶を交わしてみると。。。

なんと、日本戦跡協会の代表さん!
(戦跡協会さんからすると、なんと、戦跡紀行さん!となったようですが。。。)
この場所で、タイミングよく出会うというのは、かなり奇跡的。
私が、橋脚を見ようかなと考えたのは、この日の移動中の電車の中でしたので、直前まで行き先も確定させていなかったので。

日本戦跡協会さんのサイト
 https://www.sensouiseki.com
日本戦跡協会さんのTwitter
 https://twitter.com/sensouiseki
日本戦跡協会さんのFacebook
 https://www.facebook.com/sensouiseki/

戦跡協会さんのTwitter等で発信される情報は、かなりの頻度で拝見しておりました。日本のみならず海外情報にも明るく、それらの記録は大変に秀逸なもので、まさかここで偶然の極みで御縁が出来るとは思いもよらず。今年(令和4年)の戦跡フィールドワークの幸先は良く、充実したものになりそうです。

このあと、せっかくの御縁なので、 日本戦跡協会さんと一緒に、千葉界隈の戦跡散策を実施。
それらの戦跡探訪記録は、おいおい掲載していきます。。。
ありがとうございました。

ひとまず、本編は以上で〆

※撮影:2022年1月


鉄道連隊演習線松戸線の散策2(新京成電鉄・常磐平駅~五香駅)

新京成電鉄は、陸軍の鉄道聯隊の演習線路をベースとしていた。
日本陸軍解散後に、鉄道聯隊演習線は払い下げられ、京成電鉄は子会社としての新京成電鉄を昭和21年10月に設立。昭和22年12月27日に、新津田沼駅-薬園台駅間が開業した。
陸軍鉄道連隊演習線の規定は、軽便鉄道の戦術的運用目標である路線長45kmの急速構築運用を目的としていたために、45kmの距離を確保することが定められていた。そのため路線敷設演習を兼ねて急曲線が多数混在する線形となっており、新京成電鉄を旅客開業するにあたり、可能な限りは直線化を図ったが、いまなお陸軍演習線時代の名残の曲線が多数残っている。

鉄道連隊演習線松戸線

松戸にあった陸軍工兵学校が構築した、工兵学校-八柱演習場間と、鉄道第二連隊が構築した津田沼-八柱演習場間の路線。
昭和7年(1932年)完成。
習志野線と同様に日常的に物資輸送や兵員輸送も行われ、工兵学校への資材搬入もおこなわれた。

八柱駅界隈はこちら。


鉄道連隊

以前、以下の記事でも触れていました。

習志野の鉄道聯隊

千葉の鉄道聯隊

鉄道連隊の蒸気機関車


位置関係

米軍撮影国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:893-C1-168
昭和19年(1944年)09月27日、日本陸軍撮影の航空写真を一部文字入れ加工。

上記を拡大、文字入れ加工。
オレンジ色は、現在の情報を追記。

常盤平駅と五香駅のあいだの鉄道連隊演習線区間は、北に大迂回をしていたが、新京成ではショートカットされたことがわかる。


常盤平駅

常盤平駅から北に。


「金ヶ作 熊野神社」と「囲いやまの森」の西側

境内地と森の西側を北に向けて歩く。
この道は、当時の鉄道連隊演習線の線路跡になる。

場所

https://goo.gl/maps/QYjKkZvYxQE4Uajy6

急に林となるが、そのまま北上する。ここも演習線の線路跡。


陸軍境界標石(陸軍境界杭)1

開けたところに、石杭がみえる。陥没しているが、これはきっと境界石。


陸軍境界標石(陸軍境界杭)2

そのまま北上すると、「印西道」に交差する。その交差の南側にありました。
はっきりと「陸軍」の刻印がわかる境界石が。

印西道は、さすがに交通量が激しい。

場所

https://goo.gl/maps/VV9AFECwZzjjCsQWA


陸軍境界標石(陸軍境界杭)3

北端部分にもいくつかの境界石があるというが、住宅地となっており、建て替えなどもすすんでおり、きれいになった住宅が多数。おそらく消失したものと思われる。

「千葉鎌ヶ谷松戸線」に面したところに、それっぽい石杭が残っていた。

https://goo.gl/maps/TnajYL8VcfgDRfPQ8

演習線路は、東に伸びて、ヨークマート青葉台店の辺りで南下するが、このあたりは痕跡は残っていない。


「松戸市立金ケ崎小学校」の東

北東側は道も残っていないほどに再開発がすすんでいる。
松戸市立金ケ崎小学校の東側に伸びる道路が、演習線路跡の名残を伝えている。


陸軍境界標石(陸軍境界杭)4

その南端部の突き当りの道 「千葉鎌ヶ谷松戸線」 と合流先に、石杭があった。
上部の一部が欠けているが、これもきっとそうに違いない。

右側の道路が「鉄道連隊演習線跡」。左側が、「千葉鎌ヶ谷松戸線」。
石杭は左の看板の陰にあった。

場所

https://goo.gl/maps/3NZVLZoegnUvCGnT9


五香駅

そのまま道沿いに南下すると、新京成電鉄「五香駅」に到着。
五香たかねちゃんがお迎えしてくれた。

他の境界石があるかもしれないが、再開発も進んでおり、なかなか住宅地の中を探し回るのも大変。

常盤平駅から五香駅まで、5キロで約1時間オーバーの散策でした。

※撮影は2022年1月

本記事は以上で〆


鉄道連隊演習線松戸線の散策1(新京成電鉄・八柱駅)

新京成電鉄は、陸軍の鉄道聯隊の演習線路をベースとしていた。
日本陸軍解散後に、鉄道聯隊演習線は払い下げられ、京成電鉄は子会社としての新京成電鉄を昭和21年10月に設立。昭和22年12月27日に、新津田沼駅-薬園台駅間が開業した。
陸軍鉄道連隊演習線の規定は、軽便鉄道の戦術的運用目標である路線長45kmの急速構築運用を目的としていたために、45kmの距離を確保することが定められていた。そのため路線敷設演習を兼ねて急曲線が多数混在する線形となっており、新京成電鉄を旅客開業するにあたり、可能な限りは直線化を図ったが、いまなお陸軍演習線時代の名残の曲線が多数残っている。


鉄道連隊演習線松戸線

松戸にあった陸軍工兵学校が構築した、工兵学校-八柱演習場間と、鉄道第二連隊が構築した津田沼-八柱演習場間の路線。
昭和7年(1932年)完成。
習志野線と同様に日常的に物資輸送や兵員輸送も行われ、工兵学校への資材搬入もおこなわれた。


鉄道連隊

以前、以下の記事でも触れていました。

習志野の鉄道聯隊

千葉の鉄道聯隊

鉄道連隊の蒸気機関車


位置関係

米軍撮影国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M676-145
昭和22年(1947年)11月28日、米軍撮影の航空写真を一部文字入れ加工。

上記を抜粋。
現在の八柱駅は、集落から外れていた事がわかる。集落は「鮮魚街道」にあった。鉄道連隊の演習線であったことを鑑みれば、逆に集落の近くにあって欲しくはない。

今回の散策は以下のエリア。新京成電鉄「八柱駅」武蔵野線「新八柱駅」界隈を中心に散策しました。


八柱駅周辺散策

八柱駅から西に。住宅地のなかに標石があった。

陸軍境界標石(陸軍境界杭)

摩耗していて判別は難しいが、うっすらと「陸軍」と書いてあるのがわかる。

場所

https://goo.gl/maps/RUKPp931dg1SujtW8


八柱駅

八柱駅の周辺は、境界標石(境界杭)の宝庫。

陸軍境界標石(陸軍境界杭)・踏切

踏切近くに。

はっきりと「陸軍」と判読できる。

場所

https://goo.gl/maps/CwRVng6Vcpqy5MQd8

陸軍境界標石(陸軍境界杭)・駐車場

踏切の近くの駐車場にも「陸軍」があった。

場所

https://goo.gl/maps/fDbcJjAG6Ej9YKDFA


陸軍境界標石(陸軍境界杭)・鮮魚街道踏切近く

線路脇の歩道の真ん中近くに、陸軍の境界杭がそそり立っていた。通行の邪魔にもなる存在であれ、撤去されずに残っているのが嬉しい。

うっすらと陸軍の文字が読める。

けっこうな存在感。

場所

https://goo.gl/maps/zyHtuqBjsZKDQ1Cm9

陸軍境界標石(陸軍境界杭)・線路近く

新京成の線路沿いに、常盤平駅方面に歩く。


森のホール21

かつての演習線は、このあたりから、森のホール21・21世紀の森と広場方向に線路が伸びていた。

ちょっと寄り道します。


松戸市立博物館

陸軍工兵学校の門標が残っている。

陸軍工兵学校

陸軍工兵学校は、松戸駅の近くに。門柱も残っています。


平和の像

21世紀の森と広場の「光と風の広場」の奥まったところに、平和の像があった。
作者は雨宮敬子氏。

私たちの愛する街“松戸” 
緑あふれ、文化の香り高いこの地に
全ての市民と共に
世界の“生きとし生けるもの”の
恒久平和と豊かな未来を念願し
ここに、その象徴として『平和の像』を建立する。 
 平成3年3月 
 松戸市長 宮間 満寿雄

「21世紀の森と広場」には塹壕跡も残っているというが、公園はそこそこ広くて、散策の時間が取れなかったために、それは未訪。


鉄道連隊演習線跡と陸軍境界標石

森のホール21 (松戸市文化会館)から駐車場の脇の歩道を歩く。

ありましたね。

刻印は外側かもしれません。線路跡の歩道からは確認できませんでした。

埋もれてましたが、きっとこれもそうだと思います。

陸軍鉄道連隊の演習線路跡。

場所

https://goo.gl/maps/VdRUgnMcjFGSQc1b9


演習線路跡と新京成線の合流地点

演習線をショートカットするようにカーブを削った新京成線路と合流するあたり。
青面金剛碑がありました。

新京成の線路と、演習線路跡の合流地点。推測ですが。

新京成の標石もありました。

陸軍鉄道連隊の演習線は、この先の常盤平駅で大きく北に大カーブを描くが、新京成線は大カーブを嫌い、ショートカットした短絡線路を構築している。
常盤平駅と五香駅の記事は、別記事にて。

本記事は、ひとまずこれで〆。

※撮影は2021年10月


旧日立航空機立川工場変電所(補修完了後の再訪)

2017年に訪れた際は、1階のみの公開で、2階部分は非公開エリア、でした。
2020年に改修工事が行われ、問題となっていた耐震補強や老朽化による雨漏りの補修を実施。
2021年10月に、2階部分も一般公開される運びとなった。そのため、改めて脚を運んでみた次第。

前回の様子はこちら。

旧日立航空機立川工場変電所

戦災建造物 東大和市指定文化財
旧日立航空機立川工場変電所

公開日:毎週水曜日・日曜日
公開時間:午前10時30分~午後4時
入場料:無料
 東大和市立郷土博物館

市指定文化財
旧日立航空機立川工場変電所見学入口

東大和市文化財 
史跡・戦災建造物
旧日立航空機株式会社立川工場変電所

 この建物は、昭和13(1938)年に建設された航空機のエンジンを製造していた軍需工場、東京瓦斯電気工業株式会社(翌年、日立航空機株式会社立川工場<立川発動機製作所>に改名)の変電所です。
 北隣にあった設備で受電した66000ボルトの電気を33000ボルトに変電して工場内に供給する重要な役目を果たしていました。外壁に残る無数の穴は、太平洋戦争の時、アメリカの小型戦闘機による機銃掃射やB-29爆撃機の爆弾が炸裂してできたものです。
 工場地域への攻撃は3回ありました。最初は昭和20(1945)年2月17日、グラマンF6F戦闘機など50機編隊による銃・爆撃。2回目は4月19日、P51ムスタング戦闘機数機によるもの。3回目は4月24日、B29の101機編隊による爆弾の投下で、あわせて110余名に及ぶ死者を出し、さらに多くの負傷者を出しました。
 この変電所は、経営会社がかわった戦後もほとんど修理の手を加えぬまま、平成5(1993)年12月まで工場に電気を送り続けていました。
 都立公園として整備されるにあたり、一旦は取り壊される運命にありましたが、貴重な戦災建造物を保存し次代に伝えたいという市民の活動や、元従業員の方々の熱意がひとつの運動となり、保存へと実を結んだのです。保存にあたっては、最後の所有者であった小松ゼノア株式会社や東京都建設局の多大なご理解とご協力をいただきました。そして、東大和市は平成7(1995)年10月1日にこの建物を東大和市文化財(史跡)として指定し、末永く保存、公開するために修復工事を施しました。
 戦後、戦争の傷跡を残す建物は次々に取り壊され、戦争に対する私たちの記憶もうすらいできています。この建物から、戦争の悲惨さと平和の尊さを改めて受けとめていただきたいと願うものです。
  平成8(1996)年3月 東大和市教育委員会

変電所
関係者以外立入禁

昭和13年(1938)竣工。
航空機エンジン製造していた日立航空機立川工場(立川発動機製作所)変電所。
昭和20年2月17日にF6Fヘルキャット戦闘機、4月19日にP-51ムスタング戦闘機らによる機銃掃射を受けた痕が残る。戦後も変電所機能は失われていなかった為そのまま使用され平成5年まで活躍。公園整備されるあたり取壊しを回避し保存された。

機銃掃射の銃撃痕が壁一面に残る。

内階段に残る銃撃痕
 内階段には、木製の手すりや階段面、階段の裏側と、いたるところに多くの機銃掃射の銃撃痕が残されています。
 手すりにある2ヶ所の傷痕のうち、上方のものはすぐ横のコンクリートにも傷が残っています。窓から飛び込んできた弾丸には、手すりを傷つけたあとも、コンクリートを破壊する威力があったことを物語っています。
 令和2(2020)~3年の工事で、内階段を保護し弾痕もみえるようにした上で、階段に負荷がかからない構造のガラス階段と手すりを設置しました。

保存のため、弾痕が残る木製の手すりには触れないようお願いいたします。

手すりをえぐり、コンクリートをも破壊した機銃掃射の銃撃痕を間近で見ることができる。

コンクリートの階段も破壊された。

従来のコンクリートの階段は、新たに設置されたガラス階段で補強され、2階への見学が可能となった。

2階部分は初めて見学。

木製の小屋は仮眠室。

変電の設備が残っている。

変電所について
 変電所は、昭和13(1938)年に建てられ、戦後も富士自動車(株)や小松ゼノア(株)などで、設備を更新しながら平成5年(1938)年まで使われていました。
 2階には受変電設備のほか、24時間体制に対応するための仮眠スペースがありました。
 野外に主変圧器や遮断器(スイッチ)などの主要設備、屋内に受電・配電設備などの監視・制御装置を、この変電所では配置していました。
 八ツ沢発電所(現:山梨県上野原市)で発電された電力は、府中変電所を経て、この変電所に供給されていました。66kV・2回戦で送られてきた電力を、この変電所で3.3kVに変電して、工場内の各施設に供給していました。

配電盤について
 前面パネルに、「第1パネル」「第2パネル」「第1~9号高圧配電盤」と記されています。バンクとは主変圧器のことで、野外に2台設置されていました。この変電所では、主変圧器で受けた電力を、9個の配線で各工場に供給していました。配電盤には、電力の流れが分かるように矢印が表示されています。
 向かって一番左側の低圧配電盤は、変電所が建設された当時のものです。脇に「昭和14年製」と記載があります。
 この低圧配電盤には、複数の銃撃痕が残されています。空襲の際に、南側の窓から、金属でできた盤を貫通する威力で、銃弾が飛び込んできたことがわかります。

貫通した銃撃痕が2箇所。

配電盤の後方の壁にも銃撃痕。

受変電設備の配置(電力の流れ)

特別高圧受電盤

油入遮断器

木製のアナログ式の計測器。一番左の絶縁抵抗測定機は昭和13年製。

変電所の計測器類

外階段
 この建物は、もともと1階が倉庫、2階が事務所として使用されており、変電所稼働当時、従業員は外階段から出入りしていました。
 外階段やテラスにも数多くの銃撃痕が残っています。外階段保護のため、現在は立ち入りを制限しています。
 外階段保護のため、ここから外にはでられません。

このさきは、1階部分の展示をメインに。

製造していたエンジン
 工場では、陸軍用の航空機のエンジンを製造していました。会社全体の製造状況のうち、陸軍用のエンジンは表のとおりです。

エンジン種類 製造台数 製造期間
ハ‐12      895    昭 8~19
ハ‐13     3,116    昭10~18
ハ‐13甲    7,086    昭12~20
ハ‐26      758    昭19~20
ハ‐42      77    昭 8~18
ハ‐112      47    昭19~20
昭和14年以前は大盛り工場で製造された分を含みます。
 出典:「小松ゼノア社報 創業80周年記念号」平成2年

ハ‐13甲エンジンを使用した代表機種
95式練習機
昭和10年(1935)年に実用化され、長く使用された機種です。鮮やかなだいだい色の塗装から「赤とんぼ」と呼ばれました。

九五式一型練習機乙型
エンジン:ハ-13日立九五式350馬力空冷星型9気筒

米軍500ポンド爆弾(226.7kg)実物大模型
東大和市内でも過去にいく度か戦時中の不発弾処理が行われました。
そのすべてが500ポンド爆弾でした。
B-29爆撃機から落とされた大型爆弾は、東日本では500ポンド爆弾、西日本では1000ポンド爆弾が中心だったとも言われています。

蓄電池室
 室内にある蓄電池は、非常用とうよう電源として使われていました。停電時には、2階の直流電源装置に電力を供給し、変電所の設備が停止することないようにしていたのです。
 鉛蓄電池を使用していたので、安全対策として、壁には耐酸性能のある塗料が塗られ、野外への換気も行われれています。(塗装の詳しい成分をご存じでしたらお知らせください。)
 蓄電池室内の壁面にも、2か所の銃撃痕が残されています。1か所は貫通していませんが、外壁に当たった機銃掃射の弾丸(12.7mm弾)の衝撃で壁の内側もすり鉢状にえぐられたのだと思われます。
 外壁の銃撃痕は、外階段沿いに見ることができます。

東洋陶器の洗面台
 変電所の1階と2階に残る洗面台は東洋陶器(現在のTOTO)製のもので、全面に鷲のトレードマークがあります。
 このマークが使われたのは、昭和7年(1932)から昭和36年(1961)までで、戦時中は「敵性語」である「CO LTD.」を「KAISHA」にかえた時期もありました。
 TOTOミュージアム(北九州市)への問い合わせの結果、洗面台の形式は「L-92」で、これも戦前・戦後を通じて生産されており、残念ながら変電所建設当初からあるものか、戦後新たに設置されたものかは特定できませんでした。

こちらは1階の洗面台。

こっちは2階の洗面台。


旧日立航空機株式会社 
立川発動機製作所
太平洋戦争戦災犠牲者 慰霊碑

111名の方々が亡くなられた。合掌。

旧日立航空機株式会社 立川発動機製作所
太平洋戦争
戦災犠牲者
慰霊碑
  戦災犠牲者慰霊碑建立委員会
  平成七年四月吉祥日建之

慰霊碑建立の由来
  旧日立航空機立川発動機製作所戦災犠牲者の慰霊碑は、一九九四年( 平成六年) 夏、元同社々員小川準一氏(九十四才)の提唱により、コマツゼノア立川OB会がその推進母体となり、戦後五十周年を期して建立する運動を開始し、五十年忌にあたる翌一九九五年(平成七年)四月二十三日に除幕式ならびに慰霊祭を執り行うにいたったものである

昭和20(1945)年の空襲
 戦争末期になると、軍需工場が集まる多摩地域は、多くの空襲を受けました。当工場も、計3回の攻撃を受け工場の8割が破壊され、従業員やその家族、勤労動員された学生など100人を超える方が亡くなられました。

2月17日(土)10:30すぎ(諸説あり)
グラマンF6FやカーチスSB2Cなど50機以上による爆撃と機銃掃射
(略)

4月19日(木)10:00ごろ
P-51マスタング数機による機銃掃射
(略)

4月24日(火)9:00ごろ
B29の101機編隊による1800発余りの爆弾投下
(略)

日立航空機株式会社立川工場空襲死没者一覧
2月17日 78名死亡
(個人名略)
4月19日 5名死亡
(個人名略)
4月24日 28名死亡
(個人名略)
以上 111名

遷座の由来
 旧日立航空機株式会社(現在の小松ゼノア(株)の前身)は、太平洋戦争中、航空機のエンジンを製造していた軍需工場であったため、数回にわたり米軍機の空襲を受け、多くの従業員がその犠牲となりました。
 この慰霊碑は、元従業員の方々が戦後50年を節目に、多くの市民やそのゆかりのある方々からの寄付により、小松ゼノア(株)の構内の一隅に建立されたものです。(平成7年4月23日除幕式)
 その後、平成12年に同会社が移転することとなり、この慰霊碑をこの場所に移設したものです。
 東大和市では、慰霊碑を被爆工場に近いこの地に移設し、戦災建造物の変電所とともにまちの歴史の証しとして、また、恒久平和を願い保存することとしました。
 平成12年8月 
  東大和市

防護壁

防護壁
 旧所在 東大和市桜が丘2丁目

 昭和13(1938)年、東京瓦斯電気工業株式会社の工場が建設され(翌年日立航空機株式会社と改名)、その施設のひとつとして変電所とその北側に受電施設が建設されました。この防護壁は高圧電流を取り入れる受電施設の東西にあり、外部との分離をするためのものです。
 昭和20(1945)年、3回の爆撃を受けたあとも、変電所とともに長く工場内にあった防護壁は、変電所が稼働を止め、公園の中に保存されることになったときに、受電施設ととともに解体されてしまいましたが、爆撃跡を残す一部を切り取りこの地に保存し、長く変電所とともにあった壁の記憶を残していくこととしました。
 東大和市教育委員会

被爆アオギリ二世
2011年植樹。

給水塔

給水塔
 旧所在 東大和市桜ケ丘2丁目

 変電所の西方約230メートルのところにあった給水塔は、高さが約25メートルあり、工場内のほぼ全ての水をまかなっていました。太平洋戦争中の昭和20年(1945)、三回にわたる米軍機の空襲を受けましたが、戦後もずっと工場内に水を送り続け、工場の移転により、操業も停止するまで、給水塔も働き続けました。
 戦争中に施された迷彩が、長い年月の間に色が薄れ、濃淡がやっとわかる程度になってしまった給水塔は、変電所同様戦災建造物として歴史的価値が高いものですが、老朽化に伴う維持管理や用地取得などの問題から、平成13年(2001)3月やむなく取り壊されることになりました。その際、爆撃の痕跡を顕著に残す部分を切り取り、ここに保存することにしました。
 東大和市教育委員会


位置関係

米軍撮影1947年(昭22年) 11月14日 を編集


玉川上水駅

多摩モノレールにも、旧日立航空機株式会社変電所(戦災建造物)として、掲載があります。

※撮影は2021年12月


関連

靖國神社の新春初詣(令和4年)

令和4年(2022年)正月元日。
靖國神社に初詣。

新春初詣の正式参拝を。

御本殿には、 明治天皇が明治7(1874)年1月27日に初めて招魂社をご参拝された際に詠まれた御製が奉書された御宸筆の扁額が掲げられている。
年のはじめに、改めて御本殿の扁額に接する。

我國の為をつくせる人々の名もむさし野にとむる玉かき

国家のために尊い命を捧げられた人々の御霊みたまを慰め、その事績を永く後世に伝えるお社。

感謝と哀悼を。

靖國神社で正月の光景を。

令和壬寅

ご参拝の後は甘酒をどうぞ

甘酒を戴きました。

雑煮&古代ちまきセットも戴きました。

毎年恒例の「全国奉納絵馬展」

毎年恒例の「献酒」全国奉納酒造業者の酒銘柄。

社務所は、建て替え工事開始。。。

新春恒例 振舞い酒

戴きました。

多くの参拝者で賑わう、新春初詣の靖國神社。

おみくじを引きました。
中吉、でした。

新春初詣の正式参拝のおさががりと、
お神酒と祝枡、御朱印をいただきました。

神菓は、新宿中村屋の月餅。靖国紋と虎柄と。

靖國神社の御神菓

お神酒と祝枡。

裏面。

靖國神社の御神酒

太平洋戦争開戦から80年。
1942年に起きた戦いは、今年2022年で、すべからく80年の節目となります。

六郷水門(昭和6年・大田区)

多摩川の下流域を散策していた際に出会った史跡。

六郷水門

昭和6年(1931年)竣工の六郷水門。
2021年(令和3年)に、土木学会推奨土木遺産となる。

六郷水門
名称
 六郷水門
所在地
 東京都大田区
竣工年
 1931(昭和6)年 
選奨年
 2021年 令和3年度
選奨理由 
 六郷水門は、今もなお水門としての機能を保ち、多摩川改修工事や六郷用水の記憶を物語る地域のシンボルとなっており、貴重な土木遺産です。

土木学会推奨土木遺産 https://committees.jsce.or.jp/heritage/node/1160

以下、写真多めで。

六郷水門
昭和6年3月竣工

「郷」の字を「ロ」の字が囲むデザインは、地元である旧六郷町の町章を用いたもの。

六郷排水機場

レンガ造の六郷排水機場。
昭和18年(1943)に生活排水を機械的に排出させるために設置された。

雑色運河

今は公園に組み込まれた船溜まり。

堤内地の舟だまりは、かつては舟運にも利用され、雑色運河と呼ばれたころの雰囲気を残す。

大田区立南六郷緑地

トイレが「六郷水門」の形を模していた。なかなか粋ですね。

※撮影は2021年11月


関連

羽田の赤レンガの堤防(レンガ胸壁)

羽田の平和大鳥居から多摩川を上流に向けて歩いていくと、昔の堤防跡が残っている。
それも赤レンガで造られた堤防。
弁天橋から大師橋の約1.6kmほどの距離に、とぎれとぎれながもレンガの堤防が残っている。

赤レンガの堤防(赤煉瓦の堤防)

かつての多摩川は暴れ川であった。

大正6年(1917年)9月に内務省によって「多摩川改修計画」が立案。
河川改修工事は大正7年度着工、昭和8年度完了(工期16ヵ年)
1632mの築堤は、 イギリス積み工法による鉄筋レンガの胸壁(赤レンガの堤防)となった。

昭和20年4月15日に、東京都大田区のほぼ全域が対象となった城南大空襲の際には、赤レンガ堤の外側で火災を避け避難所とすることができた。
赤レンガ堤防は、多摩川の水害だけではなく、空襲による戦災からも多くの人々の生命財産を守った。

平和大鳥居から弁天橋を渡って多摩川沿いに歩けば、「赤レンガの堤防」の案内地図があります。

赤レンガの堤防と五十間鼻
 羽田のレンガ堤防は、洪水対策として大正から昭和初期にかけて行なわれた多摩川改修工事で建設された。自然堤防上、道路面から腰高ほどのレンガ堤防を建設したのは、堤内外を日常的に往来する羽田猟師町の土地柄への配慮であった。イギリス積み工法による堤防は「赤レンガの堤防」と親しまれ、羽田の原風景ともいえる。そのレンガ堤防の突端、多摩川と海老取川の合流地点には、長さ50間(約90m)の石積みの沈床があり「五十間鼻」と呼ばれる。新防潮堤が完成し隠れてしまったが、今も昔も初日の出の絶景スポットである。

現在の堤防は左側。右の道路に行けば、旧堤防が残っています。

多摩川弁財天は旧堤防の内側に鎮座。

住宅地に連なる煉瓦造りの堤防。これはなかなか圧巻。

ところどころに石段も残っています。

利便性の都合で、ところどころは切断。

防潮板を嵌めたであろう凹み。

陸閘。
当時の出入口のまま、今も出入口で使用している箇所もあります。

住宅を新築しても、赤レンガ堤防を切断しつつも残せるところはわずかでも残していた。

大田漁業協同組合がありました。

断面図。

上部は砂利まじりのコンクリ。鉄筋も見える。

うねり具合が見事で美しすぎる。

曲線美。

ここの防潮板は、だいぶ厚め。二重ですね。

境界杭。

レンガ堤防を撤去した跡。

首都高(横羽線)が見えてきました。
この部分は、レンガをコンクリで塗り固めていますね。

首都高をくぐった先にも、レンガ堤防が伸びています。

羽田の渡しの石碑がありました。

羽田の渡し
 古くから, 羽田漁師町(大田区)と 上殿町(川崎市)を渡る「羽田の渡し」が 存在していたという (現在の大師橋下流, 羽田3丁目で 旧城南造船所東側あたり)。
 この渡しは, 小島六左衛門組が営んでいたので, 「六左衛門の渡し」 とも呼ばれていた。
 渡し場付近の川幅は 約40間(約80m)ぐらいで, 「オーイ」と呼ぶと 対岸まで聞こえたという。
 その昔, 徳川家康が狩りに来た帰りに, お供の者と別れて 一人でこの渡し場に来たところ, 船頭は 家康とは知らずに 馬のアブミを取った という伝説が伝わっている。
 ここで使われた渡し船は, 20~30人の人々が乗れる かなり大きなもので, この船を利用して 魚介類, 農産物, 衣料品など, 生活に必要な品々が 羽田と川崎の間を 行き来していた。
 江戸の末には, 穴守稲荷と川崎大師参詣へ行き交う多くの人々が, のどかで野梅の多かった 大森から糀谷, 羽田を通り 羽田の渡しを利用するため, 対岸の川崎宿では 商売に差しつかえるので, この渡しの通行を禁止してほしいと 公儀に願い出るほどの賑わいをみせていたという。
 また, 明治後期から昭和初期にかけて, 川遊びする船も往来していた。
 物資の交流だけでなく, 人々の生活, 文化の交流など 大きな貢献をしてきた羽田の渡しは, 時代の変化とともに多くの人々に利用されたが, 昭和14年に大師橋が開通したことにより廃止された。
 大田区

赤レンガ堤防の一部も保存されていました。

羽田レンガ堤(レンガ胸壁)の沿革

1 度重なる水害に苦しめられた羽田地区
 羽田は多摩川河口の砂州の上にあったことから、たびたび水害が発生しました。天正17年(1589年)から安政6年(1859年)の間に62回の大洪水があったことが記録されています。明治以降の水害は、明治11年(1878年)、17年(1884年)、40年(1907年)、43年(1910年)の洪水は甚大な被害をもたらしました。

2 羽田レンガ堤の建設
 「水利水運の利便性を高めかつまた洪水及び水害を防ぐ」ことを目的として、大正6年(1917年)9月に内務省によって「多摩川改修計画」が立案されました。堤の整備を含む大規模な河川改修工事は大正7年度着工、昭和8年度完了(工期16ヵ年)しました。
 「多摩川改修工事概要」(内務省東京土木出張所、昭和10年10月発行)には、「羽田地先1632mの築堤の区間は、初め旧堤を拡張する計画であったが、土地の状況を考慮して、工法を変更。旧堤表法肩に鉄筋レンガの胸壁(赤レンガの堤防)を築き、所々に陸閘(りくこう)を設け、堤上は道路に利用することとして、河川住民及び一般の利便を増進させた。」と記されています。また人が堤防をまたぐ為の階段も設けられました。

3 羽田レンガ堤と人々の暮らし
 レンガ堤の外の川側は堤外とか堤外地といわれ、桟橋、造船所、生簀、材木置き場、作業所があり、船大工、魚問屋、鍛冶屋などがなどが住んでおり、船宿や筏宿もありました。昭和20年(1945年)9月21日に進駐軍が鈴木新田(現羽田空港)の住民に48時間以内の強制退去を命じたため、堤外地に移り出てここで生活する人もいました。
 レンガ堤の完成以来、住民は大きな洪水被害も無く安心した生活を過ごすことができました。そして昭和20年4月15日の米軍空襲の際には、赤レンガ堤の外側で火災を避け避難所とすることができました。赤レンガ堤は水害から、そして戦災から多くの人々の生命財産を守りました。
 昭和48年(1973年)、高潮防潮堤として新たに外堤防が完成し、レンガ堤は洪水を防ぐ堤防としての役割を終えましたが、この地域のかつての水防の姿や人々の暮らしの歴史を物語る近代の遺構として姿を留めています。

出典:羽田レンガ堤調査報告書(大田区教育委員会 平成23年3月より)』

旧大師橋の親柱もあった。

場所

https://goo.gl/maps/W2MFCASaB7a3dYm78

羽田第二水門の内側は、赤レンガ堤防が「堤防としてわかりやすく」残っています。

多摩川側は、レンガがそそり立っています。

場所

https://goo.gl/maps/SdjLL1ihuZjkg757A

大師橋をくぐり、歩みをすすめます。この先もレンガ堤防が残っていますね。

羽田神社は、中央の杜。

ここが、レンガ堤防の残っている部分のラスト。

本羽田公園にたどり着きました。

本羽田公園の先には、赤レンガはありませんでした。

1.6キロの赤レンガ散策。なかなか良きものを見ることができました。

※撮影:2021年11月


関連

羽田の平和大鳥居(旧穴守稲荷神社大鳥居)

羽田空港の伝説として、よく語れるのが「羽田の大鳥居」。
羽田の平和大鳥居から、赤レンガ堤防を経由して、六郷水門まで多摩川沿いを散策してみました。

平和大鳥居(旧穴守稲荷神社大鳥居)

昭和4年(1929年)10月建立。
昭和6年(1931年)に民間飛行場として羽田飛行場(東京飛行場)が開業。
昭和20年(1945年)8月15日の終戦後、羽田飛行場を接収したGHQによって穴守稲荷神社は強制遷座を余儀なくされた。
残された穴守稲荷の社殿等はGHQによって破壊。羽田飛行場の駐車場近くに残された大鳥居も撤去対象となるが、作業員が怪我をしたり、責任者が病死したりという怪奇現象により撤去叶わずにそのまま残されることになった。

 この大鳥居は、穴守稲荷神社がまだ羽田穴守町にあった昭和初期に、その参道に寄付により建立されたと伝えられています。
 その後、終戦とともに進駐した米軍により、羽田穴守町、羽田鈴木町、羽田江戸見町の地域一帯に居住していた人々は強制退去され、建物は全て取り壊されました。
 しかしながら、この大鳥居だけは取り壊しを免れて羽田の地に残され、往時を物語る唯一の建造物となりました。
 米軍から、施設が日本に返還された昭和27年7月、東京国際空港として再出発した後も、この大鳥居は旅客ターミナルビル前面の駐車場の一隅に残され、羽田空港の大鳥居として航空旅客や空港に働く人々に親しまれました。また、歳月を重ね風雪に耐えた大鳥居は、進駐軍に強制退去された元住民の方々の「心のふるさと」として往時を偲ぶ象徴なりました。
 昭和59年に着手された東京国際空港沖合展開事業により、滑走路や旅客ターミナルビル等の空港施設が沖合地区に移設され、大鳥居も新B滑走路の整備の障害となることから、撤去を余儀なくされることとなりました。
 しかしながら、元住民だった多くの方々から大鳥居を残してほしいとの声が日増しに強まり、平成11年2月、国と空港関係企業の協力の下で、この地に移設されたものです。
 ここに関係各位に謝意を表するとともに、この大鳥居が地域と空港の共生のシンボルとして末永く親しまれることを念願する次第です。

羽田空港に残された穴守稲荷神社のかつての大鳥居。
現在は穴守稲荷神社の管理ではなく、国土交通省管理となっている。
扁額もかつては「穴守神社」であったが、現在は「平和」と掲げられている。

場所

https://goo.gl/maps/REBV1d1cLjazVNQY9


五十間鼻無縁仏堂

海老取川の対岸に五十間鼻という場所がある。そこに無縁仏が祀られている。
多摩川の下流となり、多くの水難者がこの地に流れ着いたという。

なかでも東京大空襲の犠牲者の多くもこの地に漂着している。
目と鼻の先の羽田飛行場は米軍に接収され、対岸には、犠牲者の無縁仏堂が祀られていた。

合掌

五十間鼻無縁仏堂の由来
創建年代は、不明でありますが、多摩川、又、関東大震災、先の第二次世界大戦の、昭和二十年三月十日の東京大空襲の折には、かなりの数の水難者が漂着致しました。
その方々を、お祀りしていると言われております。
元は、多摩川河口寄りの川の中に、角塔婆が一本立っているだけで有りましたが 初代 漁業組合長 故 伊東久義氏が管理し毎年お盆には、盆棚を作り、有縁無縁の御霊供養を
していました。昭和五十三年護岸工事に伴い、現在地に移転しました。
その後荒廃著しく、仲七町会 小峰守之氏 故 伊東米次郎氏 大東町会 故 伊東秀雄氏 が、私財を持ち寄り復興致しました。
又、平成十六年に、村石工業、北浦工業、羽田葬祭スミヤ、中山美装、中山機設、の協力により新たに、ブロック塀、角塔婆、桟橋、などを修理、増設、現在に至ります。
又、新年の水難祈願として、初日の出と共に、羽田本町 日蓮宗 長照寺 住職 並びに信者の方々が、水難者への供養を、毎年行っています。
  合掌
  堂守謹書

海老取川の両岸に。
左に平和大鳥居、右に五十間鼻無縁仏堂。

場所

https://goo.gl/maps/hAL8P6bqYdZy7qpNA


穴守稲荷神社

遷座した穴守稲荷神社。2014年4月撮影の写真を掲載しておきます。
2020年に改修工事が行われたために、この姿を見ることはもうできない。。。

当時は、神社参拝と御朱印を目的としておりました。。。

場所

https://goo.gl/maps/fihEKsezAFg4PC7T9

※穴守稲荷神社の写真のみ2014年


ねずみ島

多摩川の河口にあるちいさな島。かつて梨の果樹園であった場所が、多摩川の河川改修工事で川幅を広げた際に、取り残され島になった、と。

場所

https://goo.gl/maps/48Bv9e8phuVKhdSE9


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出陣学徒壮行の地(学徒出陣・国立競技場)

国立競技場。
もとは、大正13年(1924年)に明治神宮外苑競技場として完成した競技場。
昭和18年(1943年)10月21日には明治神宮外苑競技場で文部省学校報国団本部の主催による「出陣学徒壮行会」が行われ、強い雨の中で出陣学徒25000人が競技場内を行進した。

戦後、「明治神宮外苑競技場」は解体され、昭和33年に「国立競技場(国立霞ヶ丘陸上競技場)」が完成。旧国立競技場は2015年に解体され、2019年には新たな国立競技場が完成した。

「出陣学徒壮行の地」の碑(出陣学徒壮行碑)

「出陣学徒壮行碑」は。国立競技場建設中は、一時的に秩父宮ラグビー場敷地内にあったが、国立競技場完成とともに戻ってきた。現在は、千駄ヶ谷門の近くにある。

東京オリンピックが終わり、ようやく国立競技場周辺に近寄れるようになったので、脚を運んでみた。

出陣学徒壮行の地

次世代への伝言―出陣学徒壮行碑に寄せてー
  昭和18年(1943)10月2日、勅令により在学徴集延期臨時特例が交付され、全国の大学、高等学校、専門学校の文科系学生・生徒の徴兵猶予が停止された。この非常措置により同年12月、約10万の学徒がペンを捨てて剣を執り、戦場へ赴くことになった。世にいう「学徒出陣」である。
 全国各地で行われた出陣行事と並んで、この年12月21日、ここ元・明治神宮外苑競技場においては、文部省主催の下に東京周辺77校が参加して「出陣学徒壮行会」が挙行された。折からの秋雨をついて分列行進する出陣学徒、スタンドを埋めつくした後輩、女子学生。征く者と送る者が一体となって、しばしあたりは感動に包まれ、ラジオ、新聞、ニュース映画はこぞってこの実況を報道した。翌19年にはさらに徴兵適齢の引き下げにより、残った文科系男子および女子学生も、軍隊にあるいは戦時生産に動員され、学園から人影が絶えた。  
 時流れて半世紀。今、学徒出陣50周年を迎えるに当たり、学業半ばにして陸に海に空に、征って還らなかった友の胸中を思い、生き残った我ら一同ここに「出陣学徒壮行の地」由来を記して、次代を担う内外の若き世代にこの歴史的事実を伝え、永遠の平和を祈念するものである。 
 平成5年(1993)10月21日
  出陣50周年を記念して   
   出陣学徒有志

生等、もとより生還を期せず

NHK放送史
出陣学徒壮行会

https://www2.nhk.or.jp/archives/tv60bin/detail/index.cgi?das_id=D0009060059_00000

〈東條内閣総理大臣〉
「御国の若人たる諸君が勇躍学窓より、征途に就き、祖先の遺風を昂揚し、仇なす敵を撃滅をして皇運を扶翼し奉るの日は今日(こんにち)来たのであります。大東亜十億の民を、道義に基づいてその本然の姿に復帰せしむるために壮途に上るの日は今日(こんにち)来たのであります。私は衷心より諸君のこの門出を御祝い申し上げる次第であります。もとよリ、敵米英におきましても、諸君と同じく幾多の若き学徒が戦場に立っておるのであります。諸君は彼等と戦場に相対(あいたい)し、気魄(きはく)においても戦闘力においても必ずや彼等を圧倒すべきことを私は深く信じて疑わんのであります。」

〈学生(東京帝国大学文学部・江橋慎四郎〉
「学徒出陣の勅令、公布せらる。予(か)ねて愛国の衷情を僅かに学園の内外にのみ、迸(ほとば)しめ得たりし生(せい)らは、ここに優渥(ゆうあく)なる聖旨を奉体して、勇躍軍務に従うを得るに至れるなり。豈(あに)、感奮興起せざらんや。生ら今や、見敵必殺の銃剣をひっ提げ、積年忍苦の精進研鑚を挙げて悉(ことごと)くこの光栄ある重任に捧げ、挺身以て頑敵を撃滅せん。生らもとより生還を期せず。誓って皇恩の万一に報い奉り、必ず各位の御期待に背かざらんとす。決意の一端を開陳し、以て答辞となす。昭和18年10月21日、出陣学徒代表。」

〈東條内閣総理大臣〉
「諸君のめでたき征途にのぼれるところの第一歩にあたります。諸君とともに聖寿の万歳を心の底から三唱いたしたいと思います。天皇陛下、万歳、万歳、万歳。」

「万歳、万歳、万歳。」

NHKアーカイブス
日本ニュース第177号 1943年(昭和18年)10月27日
[2]学徒出陣

https://www2.nhk.or.jp/archives/shogenarchives/jpnews/movie.cgi?das_id=D0001300562_00000

1943年(昭和18年)10月21日に開催された神宮外苑での学徒出陣壮行会では、東京帝国大学文学部の江橋慎四郎氏が答辞を読んだ。

明治神宮外苑は学徒が多年武を練り、技を競ひ、皇国学徒の志気を発揚し来れる聖域なり。
本日、この思ひ出多き地に於て、近く入隊の栄を担ひ、戦線に赴くべき生等の為、斯くも厳粛盛大なる壮行会を開催せられ、内閣総理大臣閣下、文部大臣閣下よりは、懇切なる御訓示を忝くし、在学学徒代表より熱誠溢るる壮行の辞を恵与せられたるは、誠に無上の光栄にして、生等の面目、これに過ぐる事なく、衷心感激措く能はざるところなり。
惟(おも)ふに大東亜戦争宣せられてより、是に二星霜、大御稜威の下、皇軍将士の善謀勇戦は、よく宿敵米英の勢力を東亜の天地より撃攘払拭し、その東亜侵略の拠点は悉く、我が手中に帰し、大東亜共栄圏の建設はこの確乎として磐石の如き基礎の上に着々として進捗せり。
然れども、暴虐飽くなき敵米英は今やその厖大なる物資と生産力とを擁し、あらゆる科学力を動員し、我に対して必死の反抗を試み、決戦相次ぐ戦局の様相は、日を追って熾烈の度を加へ、事態益々重大なるものあり。
時なる哉、学徒出陣の勅令公布せらる。
予ねて愛国の衷情を僅かに学園の内外にのみ迸しめ得たりし生等は、是に優渥なる聖旨を奉体して、勇躍軍務に従ふを得るに至れるなり。
豈に感奮興起せざらんや。
生等今や、見敵必殺の銃剣をひっ提げ、積年忍苦の精進研鑚を挙げて、悉くこの光栄ある重任に獻げ、挺身以て頑敵を撃滅せん。
生等もとより生還を帰せず。
在学学徒諸兄、また遠からずして生等に続き出陣の上は、屍を乗り越え乗り越え、邁往敢闘、以て大東亜戦争を完遂し、上宸襟を安んじ奉り、皇国を富岳の寿きに置かざるべからず。
斯くの如きは皇国学徒の本願とするところ、生等の断じて行する信条なり。
生等謹んで宣戦の大詔を奉戴し、益々必勝の信念に透徹し、愈々不撓不屈の闘魂を磨礪し、強靭なる体躯を堅持して、決戦場裡に挺身し、誓つて皇恩の万一に報ひ奉り、必ず各位の御期待に背かざらんとす。
決意の一端を開陳し、以て答辞となす。
昭和十八年十月二十一日。

学徒出陣壮行会 答辞

国立競技場千駄ヶ谷門の近くに、学徒出陣の歴史を刻む碑がある。

合掌。

二度とあってはならない、繰り返してはいけない歴史。

※撮影は2021年12月


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