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「戦争に負けて外交に勝つ」吉田茂

吉田茂像と吉田茂墓を巡ってみましたので、以下に掲載を。大磯の吉田茂邸は未訪問。


吉田茂

言わずと知れた吉田茂。
1878年〈明治11年〉9月22日 – 1967年〈昭和42年〉10月20日)
日本の外交官、政治家。位階は従一位。勲等は大勲位。
外務大臣(第73・74・75・78・79代)、貴族院議員(勅選議員)、内閣総理大臣(第45・48・49・50・51代)、第一復員大臣(第2代)、第二復員大臣(第2代)、農林大臣(第5代)、衆議院議員(当選7回)、皇學館大学総長(初代)、二松学舎大学舎長(第5代)などを歴任。

戦前は、外交官として陸軍と対立。
吉田茂は親英米派として戦前から開戦回避を図り、開戦後も岳父であった牧野伸顕、元首相の近衛文麿、外務次官時代の上司であった幣原喜重郎や鳩山一郎、西園寺公望秘書の原田熊雄、米内光政らの海軍穏健派とネットワークを構築し、東條内閣倒閣運動や戦争終結工作などを進めていた。

吉田茂は近衛文麿と協議し、「近衛上奏文」を作成。近衛文麿が参内の際に 昭和天皇に戦争の早期終結の訴える上奏を実施。
しかし吉田茂の動きを 「 ヨハンセングループ 」としてマークしていた憲兵隊は、吉田茂の身元にスパイを送り込んでおり、上奏文の写しを入手し「造言飛語罪」として昭和20年4月に吉田茂を逮捕。
ちなみに 「 ヨハンセングループ 」 とは首謀者であった吉田茂の「吉田反戦」(しだはんせん)の意味をもった憲兵隊当局の符丁(暗号)。
しかし、吉田茂の容疑を立証することができず、親交のあった阿南惟幾陸相の裁断により吉田茂は不起訴処分として釈放された。
このときに投獄されたことが、「反軍部」の象徴となり、戦後はGHQの信用を得たきっかけにもなっている。

戦後は東久邇宮内閣・幣原喜重郎内閣で外務大臣に就任。鳩山一郎が公職追放されたあとに、昭和21年5月に、第一次吉田内閣として総理大臣に就任。大日本帝国憲法下での 天皇陛下組閣命令下での最後の首相。選挙を経ていない国会議員(貴族院議員)としも最期の首相であった。
戦後日本の礎を築いた吉田茂は、 和製チャーチルとも称された 。

昭和26年9月8日、吉田茂首相はサンフランシスコ平和条約(日本国との平和条約)を締結。第二次世界大戦・太平洋戦争後に関連して連合国諸国と日本との間に締結された平和条約となり、この条約を批准した連合国は日本国の主権を承認した。そして国際法上、この条約により日本と多くの連合国との間の「戦争状態」が終結した。


吉田茂像

北の丸公園の一角に、吉田茂像が建立されている。北の丸公園の清水門近く。
昭和53年に吉田茂生誕百年を記念して記念事業実行委員会が各界から寄付を募って昭和56年に閣議の了解を得え建立されたものという。

吉田茂像は、東京以外には、高知や大磯にもあるというが未見。

吉田茂

吉田茂像碑文
「昭和の黒幕」と称された、安岡正篤氏が作文なされたのが趣深い。

吉田茂
古来各國史上名相賢宰星羅照映スト雖モ昭和曠古ノ大戦ニ社稷傾覆生民塗炭ノ苦悩ニ方リ萬世ノ為ニ太平ヲ開クノ聖旨ヲ奉シ内外ノ輿望ヲ負ウテ剛明事ニ任シ慷慨敢言英邁洒落能ク人材ヲ舉用シ民心ヲ鼓舞シ以テ復興ノ大義ニ盡瘁セシコト公ノ如キハ實ニ稀代ノ偉勲ト謂フベシ
後人相謀ツテ茲ニ厥ノ像ヲ建テ長ク高風ヲ仰カント欲ス亦善イ哉
昭和五十六年九月
 船越保武 作
 安岡正篤 文
 桑原翠邦 書

木々に囲まれた吉田茂像は、ノンビリとした穏やかな空間の中に佇んでいた。

吉田茂といえば、ステッキですね。

※吉田茂像の撮影は2021年5月


吉田茂之墓
(久保山墓地)

横浜の久保山墓地に眠っている。
昭和42年(1967)10月20日、大磯の自邸で死去。享年90(満89歳没)。
10月31日に戦後初の国葬が執り行われた。
戒名は叡光院殿徹誉明徳素匯大居士。
遺骨は、当所は青山霊園の一角において娘婿の麻生太賀吉らと並んで葬られたが、2011年に神奈川県横浜市の久保山墓地に改葬された。久保山墓地には、吉田家一族の墓もある。

吉田茂之墓

昭和42年10月20日薨

明治42年(1909)に牧野伸顕の長女雪子と結婚。
昭和16年(1941)10月、日米関係が悪化するさなかで、吉田茂夫人の吉田雪子は51歳で死去。

吉田雪子之墓


吉田健三之墓
吉田健一之墓
(久保山墓地)

同じく、横浜の久保山墓地に吉田茂一族の墓がある。吉田茂の墓とはだいぶ離れている。
もっとも吉田茂の墓が久保山に改装されたのが2011年と最近ではあるが。

吉田健三之墓・吉田士子之墓

吉田茂の養父。吉田茂は吉田健三の養子であった。
吉田健三は越前福井藩士であったが、実業家として成功し、横浜有数の富豪であった。
吉田茂の実父、竹内綱とは昵懇の間柄であり、1881年(明治14)に、実子に恵まれなかった吉田健三は、竹内綱の五男の茂を養嗣子とした。
吉田健三は40歳で急死し、吉田茂は11歳で、莫大な遺産とともに吉田家を継いだ。
吉田士子(ことこ)は、吉田健三の儒学者佐藤一斎の孫。吉田茂の養母。

吉田健一之墓

吉田茂の長男。
1912年(明治45年)4月1日 – 1977年(昭和52年)8月3日)
日本の文芸評論家、英文学翻訳家、小説家。
父は吉田茂、母・雪子は牧野伸顕(内大臣)の娘で、大久保利通の曾孫にあたる。吉田健三の養孫。

吉田茂の長男ではあるが、吉田茂の墓とは一緒ではなく、養祖父の吉田健三と一緒の墓地。
吉田健一の母親であった吉田雪子の死去、父の吉田茂が新橋の芸者であった喜代子を事実上の後妻として迎えたことに反発があった、とも。

久保山墓地からは、横浜ランドマークタワーが望める。

吉田健一之墓から、吉田茂之墓の方向を望む。

灯籠から覗くと、この位置に「吉田茂・吉田雪子」の墓がある。
吉田健一の両親の墓。

吉田健三君碑

明治24年建立。

※久保山墓地の撮影は2021年3月


以下は、場所は変わって青山霊園。
※青山霊園の撮影は2021年5月


麻生太賀吉之墓
麻生和子之墓
(青山霊園)

青山霊園にて。
麻生和子は、吉田茂の三女。
麻生太賀吉は、実業家・麻生セメント会長。

麻生太賀吉と麻生和子の長男が、麻生太郎。三女は、寬仁親王妃信子様。

麻生和子は、1951年(昭和26年)9月8日のサンフランシスコ講和条約締結の会議に、総理大臣の父・吉田茂の私設秘書として随行している。そして、1967年(昭和42年)10月20日、吉田茂の死を看取っている。

麻生太賀吉之墓・麻生和子之墓の隣が更地になっている。
久保山墓地に改装される前、青山霊園時代は、この場所に吉田茂之墓があった。


牧野伸顕夫妻之墓
(青山霊園)

同じく青山霊園に牧野伸顕の墓がある。
吉田茂夫人であった吉田雪子は、牧野伸顕の長女、であった。

牧野伸顕から見ると、大久保利通は父、吉田茂は娘婿、寬仁親王妃信子と麻生太郎は曾孫にあたる。
そして、牧野伸顕夫人の牧野峰子は、三島通庸の次女であった。

大久保利通之墓
(青山霊園)

牧野伸顕は大久保利通の次男であった。

三島通庸之墓
(青山霊園)

牧野伸顕夫人の牧野峰子は、三島通庸の次女であった。

明治の偉人は、青山霊園に集中している。青山霊園はまだまだ参拝しきれていないが、それはまた別記事にて。


吉田茂記念資料特別展示場

外務省外交史料館別館は、吉田茂記念資料特別展示場も設けられており、一見の価値あり。
ただし、基本開館は平日のみ、、、

※ 吉田茂記念資料特別展示場の撮影は2015年9月

昭和26年9月8日、サンフランシスコ平和条約で吉田茂全権が読み上げた対日平和条約受諾演説の原稿はまるでトイレットペーパーだと称された。

日米安全保障条約に、吉田茂は同じく昭和26年9月8日調印している。

吉田茂のパスポートは、サンフランシスコ講和会議に首席全権として参加のために発行されたもので、戦後発行第一号のパスポート。

吉田茂のステッキ
昭和40年に米寿祝いとして御下賜された鳩杖。吉田茂遺品として展示されている。

外交史料館別館
開館は、月曜日から金曜日の10時~17時30分。

https://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/honsho/shiryo/archive.html


大磯にも行かねば・・・(まだ行っていないので宿題)

http://www.town.oiso.kanagawa.jp/oisomuseum/index.html


吉田茂関連

「七士之碑」は吉田茂の謹書。
吉田茂は、広田弘毅の外交官時代の同期でもあった。

近衛文麿の荻外荘。戦後の一時期、吉田茂が居住していたこともあった。
吉田茂が首謀であったヨハンセングループは、近衛文麿が昭和20年2月に上奏した「近衛上奏文」にも関わりがあった。

昭和26年10月。
吉田茂内閣直属の「秘密組織」として「海軍再建」を検討した組織がY委員会。

Y委員会での検討がすすみ、結果として1952年(昭和27年)には第3次吉田内閣の下で、より軍事組織に近い海上警備隊(沿岸警備隊)が海上保安庁附属機関として組織。その後まもなく「海上警備隊」として海保より分離され、これが後の「海上自衛隊」となった

特攻観音堂
門標 「世田谷山観音寺」、石碑「世界平和の礎」は、吉田茂の謹書となる。

久保山火葬場では、吉田茂の外交官同期であった広田弘毅を始めとする七士の火葬が行われた。

大應寺のコンクリート代用梵鐘(富士見市)

金属類回収令

昭和18年8月12日勅令第667号
戦局の激化による金属資源不足を補うために、官民所有の金属類回収を行なった勅令。
各地の寺院にあった鐘楼の梵鐘も金属供出の対象となった。

寺院の鐘楼は、梵鐘の重みで建屋のバランスを保つ構造でもあったため、梵鐘を外したままでは鐘楼崩壊の危険性があったため、コンクリートや自然石など何らかの重みを確保できる代替梵鐘が釣り下げられた。

もちろん、コンクリートの梵鐘は叩いても音を出すことはない。

大應寺(大応寺)

水光山不動院大應寺。真言宗智山派。
創建は不詳であるが室町時代には開山している。

鐘楼門は享保4 年(1719)造立。朱色の回廊の見える上層部が鐘撞堂に
なっている鐘楼門。
この鐘楼門に吊り下がる梵鐘が、戦時中に金属供出された際は、コンクリート代替梵鐘が備え付けられていたと思われる。
現在、役目を終えたコンクリート代替梵鐘は、本堂右手に静かにその姿を鎮座させていた。

吊り下げ部から、若干の崩壊が始まっていた。

「鐘楼門」 に吊り下がる、梵鐘。

参道から「鐘楼門」を望む。

「本堂」は平成21年に建て替え。


大應寺の隣には「水宮神社」。
狛蛙で有名。志木市の敷島神社の本務社、でもある。

そして、大應寺の向かいには 「水子貝塚公園」もある。

場所

https://goo.gl/maps/ZFBpk4wfg34a6ahJ6

※撮影は2021年9月


関連

竹製落下タンク(小金井市文化財センター)

東京都小金井市。小金井市文化財センター。
ここに、落下増槽(落下タンク)が展示してあるというので、足を運んでみた。

館内の展示物撮影は許可制。申請を行う。
 学芸員さん「何を撮影されますか」
 私「戦時下の展示物を、具体的には、増槽を・・・」
 学芸員さん 「わかりました、そんなに珍しいものではないですけど・・・」
 私「いえいえ、珍しいものだと思います。」
 学芸員さん「撮影の用途は?」
 私「研究?でしょうか。趣味で。」
 学芸員さん「SNSとかブログに投稿されます?」
 私「そうですね、ネット上にも写真公開しています。大丈夫ですか?」
 学芸員さん「えぇ。問題ないですね」
話のはやい学芸員さんで助かります。

学芸員さんは、さっそく「増槽」が展示された由来や、小金井にあった陸軍施設「陸軍技術研究所」の解説などをしてくださいました。
「陸軍技術研究所」跡地は、このあと赴こうと思っていましたので、記事は別立てにて。


竹製落下タンク(増槽)

どのような航空機に搭載されていた増槽かは不明。
統一型二型(木製)落下タンク(200リットル)
主に、陸軍戦闘機(隼、飛燕、疾風、五式戦)に装備され、海軍では零戦21型、52型乙の(爆戦型)が装備していた、という。珍しく陸海軍で共用していた落下タンク。

上部には銘板が残っており、名称は「らつかたんく」「竹製」であることがわかる。竹に紙張り。これで航空燃料が漏れずにタンクとして活用できるものなのですね。

落下タンク(増槽)
太平洋戦争当時、戦闘機の機体下部に取り付けられた補助燃料タンク。期待本体内の燃料を温存するために、先に落下タンク内の燃料を使用し、戦闘開始と同時に投棄して身軽になって戦いました。
日本戦闘機の卓越した航続距離を支えた部品ですが、素材は当時の日本の資源不足を反映して、竹製の骨組みに紙張りです。この落下タンクは敗戦直後、調布飛行場から持ち帰り、何らかの容器として使われていたようです。

名稱 らつかたんく
製造番號
製造所

竹製

戦後、調布飛行場に様々の飛行機の部品が転がっていたのだろう。展示されている増槽もそうして回収されてきたものと思われます、と学芸員さん。
飛行機のタイヤをリヤカーなどに転用していた例もありますし。

一矢と和冬が調布飛行場へ行き。飛行機の部分品をはずして来る。計器、コードのようなものを持ってあそんでいる。座席からはずして来たのだそうだ。
 子供ばかりではなく、大人もやっているらしい。座席をそっくり持って来て、椅子にしている家もある。スプリングがきくから具合がいいだろう。
 そういえば。先日、農家が作物を積んで引いてくる車に、ひどく幅のひろい立派なゴムタイヤのついているのを見た。いつものならカタンカタンと音をたてて動く車が、無音ですべっているのを不思議に思ったが、なるほど、あれは飛行機の車輪だったわけだ。
 富永次郎「失われた季節-日本人の記録」より

つまりこういうことですね。

紙が経年劣化で割れ始めていた。

下地が見える。なるほ、竹を編んでいる感がする。


M69焼夷弾

M69焼夷弾も陳列されていた。

M69焼夷弾
太平洋戦争当時、アメリカ軍が木造の多い日本家屋を焼き払うために開発した兵器で、爆風で破壊する爆弾とは異なります。38発のM69焼夷弾を束ねた親弾(E46集束焼夷弾)がB29爆撃機から投下され、空中でバラバラの子弾(M69焼夷弾)に分離して、地上に着弾すると油脂を成分とする焼夷剤が火災を引き起こします。燃えずに落ちた焼夷弾は、風呂の焚き付けに使われることもありました。
この焼夷弾には「焼夷弾」と書かれていますが、のちに書き込んだものと思われます。


小金井市文化財センターには、 「陸軍技術研究所」 関連の展示もある。

陸軍技術研究所境界石杭

陸軍技術研究所境界石杭
昭和15年と17年、矯正買収により現在の小金井市北西部と小平市上水南町3・4丁目に移転してきた陸軍技術研究所は、広大な用地の周囲に石杭を埋めて、その範囲を表示しました。
石杭は全長100cm、「陸軍」と刻んだ上部20cmを地上に出し、残りの80cmの下部は地中に埋めてありました。戦後、技研敷地の払下げと宅地造成にともない大多数が廃棄され、現在残っているのは当館所蔵の石杭と、本町5-31道路脇に残る石杭のみです。

「陸軍技術研究所」に関しては、別記事にて。


浴恩館

小金井文化センターはかつての「浴恩館」であった。

そして「浴恩館」は、昭和3年、京都御所で行われた昭和天皇即位大嘗祭の神職の更衣所の建物であった。

小金井文化センター
文化財センターは、教育者下村 湖人が青年団講習所の所長として講習生と語らい、小説「次郎物語」の構想を練った浴恩館を改修し、博物館施設としたものです。
市内から発見された考古資料・古文書・民具をもとに、小金井市のあゆみや生活について常設展示しています。
この建物は、「浴恩館」と呼ばれ、昭和5年から青年団講習所として使われた由緒のある建物です。
講習所長であった下村 湖人の小説『次郎物語』の舞台としても知られ、空林荘と共に、市史跡に指定されています。

浴恩館のあゆみ
浴恩館は昭和3年、京都御所で行われた昭和天皇即位大嘗祭の神職の更衣所を、財団法人日本青年館が譲り受けて移築したものです。昭和6年から全国の青年団の指導者層が集まり、寝食を共にして人間形成をする講習所として機能しました。
日本青年館の設立理事であり、「青年館の父」とうたわれる田澤たざわ 義鋪よしはるは、昭和8年、故郷佐賀の後輩で無二の友人、下村 湖人を、浴恩館に開かれた青年団講習所の所長として呼び寄せ、実践教育に当たらせました。
しかし、全国から才能ある青年が集まる浴恩館は、軍事教練に格好の場として軍部に目を付けられました。「次郎物語」も雑誌連載中止まで追い込まれた湖人は、昭和12年に講習所所長を辞任、以後、浴恩館は戦時体制に組み込まれます。
戦後、再び青年教育の場、あるいはユースホステルとして復興を果たしますが、時代は高度成長期に突入し、農村社会を支えていた青年団が自然消滅していきます。維持困難におちいった日本青年館は、教育の場として運用することを条件に、昭和48年に小金井市に売却、小金井市は青少年センターとして開館、平成5年には室内を抜本的に改装し、小金井市の郷土資料を展示収蔵する文化財センターとして、新たに開館しました。

小金井市
https://www.city.koganei.lg.jp/kankobunka/bunkazai/bunkazaisenta.html

浴恩館と下村湖人
次郎物語の舞台
 浴恩館は、1928年(昭和3)の大嘗祭で使用された建物を、財団法人日本青年館が譲り受け、京都御所からここに移築し、全国の青年団指導者の講習施設として開設したもので、各種の講習会が開かれました。
 下村湖人(本名虎六郎・前台北高等学校長)は、田沢義鋪(大日本連合青年団常任理事)に招かれ、1933~1937(昭和8~12)まで、専任の青年団講習所長を務めました。
 空林荘は、講習宿舎として田沢が寄贈したもので、湖人はここで講習生と人生を語り、「次郎物語」の構想を練りました。「次郎物語」の構想を練りました。「次郎物語」第五部に登場する友愛塾、空林庵は、浴恩館と空林荘がそれぞれモデルといわれ、物語は、湖人の浴恩館における青年教育への情熱や実践を基に創作されました。

同じ小金井市内にあった陸軍技術研究所跡地散策の記録は別記事にて。

※2021年8月撮影

場所

https://goo.gl/maps/zwceWeap6MQuD2Ac7


関連

一式戦闘機「隼」のタイヤ(檜原村の手打ちそば「深山」)

これは2016年(平成28年)10月22日の撮影記録。

友人からお誘いがありまして、突然に唐突に東京多摩地区唯一の村「檜原村」へと赴くことに。
友人曰く「蕎麦屋に行こう」と。
友人が懇意にしている蕎麦屋さんへと連れられまして・・・。

えっ、蕎麦屋?

なんでも、蕎麦屋に凄いものがあるらしい。


一式戦闘機「隼」車輪

大日本帝國陸軍
中島キ43一式戦闘機「隼」
日本タイヤ株式会社 (現在のブリヂストン)
昭和19年5月製 昭和18年10月製

昭和17年にブリッヂストンタイヤ株式会社から、社名を「日本タイヤ株式会社」に変更。
タイヤからは昭和19年5月製及び昭和18年10月製の刻印が確認できる。

このタイヤは 一式戦闘機・隼二型にものという。

「日本タイヤ」の文字が見える

「なんでも鑑定団」にて証明された「隼の車輪」は、蕎麦屋にて静かにその歴史を物語っていた。

https://www.tv-tokyo.co.jp/kantei/kaiun_db/otakara/20121204/02.html#

エピソード
生まれも育ちも東京都桧原村の高木さん。1年前に脱サラし、今年の春、長年の夢だった蕎麦屋を開いた。また、30年前から、夏は会社員の傍らキャンプ場を経営してきたため、7月から9月は蕎麦屋を休んでキャンプ場の主をしている。
昨年6月、そのキャンプ場で使うためにある物が欲しいと思っていた矢先、偶然通りかかった民家の壁にそれが立てかけてあるのを発見。かなりボロボロだったが、持ち主に頼み込んで1万円で譲ってもらった。しかし、その後、偶然これを見た友人が興奮し「とんでもないお宝だ」と言った。本当に凄いものなのか?

何でも鑑定団 
日本軍の戦闘機のタイヤ https://www.tv-tokyo.co.jp/kantei/kaiun_db/otakara/20121204/02.html

古民家を再活用した蕎麦屋さん。
この雰囲気。 たまらない人には、たまらない雰囲気です。
ヤバイです。 週末は結構な行列にもなる人気店だとか。


手打ち蕎麦「深山」

主役の蕎麦。
本格的な手打ち蕎麦に檜原村特産舞茸御飯に、自家栽培野菜、手作り燻製合鴨など。
そして、店主考案の蕎麦甘味。

料理を語る店主の楽しそうな、それでいてこだわり溢れる姿とともに、味わうひととき。
こんなん、旨いに決まってるじゃないですか!

こちらは、お土産に。
檜原村の男爵いもを使用した、じゃがいもアイス。
バニラの甘さと、じゃがいもの甘さがコラボ。
これもおいしいです。 入っているジャガイモの粒もワンポイント。

以上、「隼の車輪」と蕎麦屋さんのお話でした。

蕎麦焼酎を蕎麦湯で割るという粋な吞みも堪能。

ありがとうございました!!


手打ちそば 深山(みやま)

サイト

http://soba-miyama.com/


関連

「インド独立運動の父」マハトマ・ガンジー像(杉並区)

杉並区立読書の森公園(杉並区立中央図書館の隣)

杉並区、杉並区日印交流協会、杉並区交流協会が交流を結んできたインドの慈善団体である「ガンジー修養所再建トラスト」(本部:デリー)により寄贈されたもの、という。

インド独立の志士であるチャンドラ・ボースの遺骨の供養を続ける蓮光寺との縁もあり、杉並区とインドは深い関係にある。


マハトマ・ガンディー(ガンジー)

インド独立運動の象徴とされるガンディー。

第2次世界大戦中、インド国外でイギリスに対する独立闘争を続けていた「スバス・チャンドラ・ボース」や「ビハーリー・ボース」、「A.Mナイル」などの独立運動家は、日本の支援を受けてインド国民軍を組織し、インドの外側から軍事的にイギリスに揺さぶりをかけようとした。
しかしインド国内、つまりイギリスの植民地に留まっていたガンディーは、この様な動きに連携することなく、インド国内でイギリスに対する「不服従運動」「非暴力運動」に終始していた。

1945年8月に日本が降伏し、第二次世界大戦が終結。
イギリスは戦勝国となったが、国力は衰退。
イギリス本国から遠く離れている上に独立運動が根強く続けられてきたインドを植民地として支配し続けることが困難な状況であった。

さらには、日本と連携した「チャンドラ・ボース」や「ラース・ビハーリー・ボース」「A.M.ナイル」らが設立した「インド国民軍」の一員として、これを支援した日本軍とともにイギリス軍やアメリカ軍、オーストラリア軍などと戦った多くのインド人将官が、イギリス植民地政府により「反逆罪」として裁判にかけられる事態となり、これに対してガンディーは「インドのために戦った彼らを救わなければならない」と、インド国民へ独立運動の号令を発令。この発令をきっかけに再びインド独立運動が拡大。
イギリスはもはや、この運動を止めることができず、1947年8月15日にデリーにてジャワハルラール・ネルーがヒンドゥー教徒多数派地域の独立を宣言。イギリス国王を元首に戴く英連邦王国であるインド連邦が成立した。その後1950年には共和制に移行し、イギリス連邦内の共和国となった。

1947年8月のインド・パキスタン分離独立に前後して、 宗教理由から分かれたヒンドゥー教徒とムスリム(イスラーム教徒)による宗教暴動の嵐が全土に吹き荒れた。ガンディーは身を挺して両宗教の融和を図るが好転しなかった。ガンディーは戦争相手のパキスタンにも協調しようとする態度から、「ガンディーはムスリムに対して譲歩し過ぎる」としてヒンドゥー原理主義者から敵対視され、「イスラーム教徒の肩を持つ裏切り者」として、1948年1月30日に暗殺される。78歳であった。
最期の言葉は、「おお、神よ」(ヘー ラーム ) 。

ガンディーの葬儀は死去翌日の1月31日、国葬として営まれた。
群衆の見守る中、 彼の亡骸はラージガート火葬場にて荼毘に付され、遺灰はガンジス川や南アフリカの海に撒かれた。

マハトマ・ガンジー
1869年10月2日-1948年1月30日

東京都杉並区にこのガンジー翁の銅像を、2008年11月6日にガンジー・アシュラム(修養所)再建財団創立者・インド国会議員・故ニルマラ・デッシュバンデ女史の遺志により、ガンジー翁の精神に基づいて、世界平和と相互理解が強められることを記念して、贈る。

「7つの大罪」
汗なしに得た財産
良心を忘れた快楽
人格が不在の知識
道徳心を欠いた商売
人間性を尊ばない科学
自己犠牲をともなわない信心
原則なき政治

場所

https://goo.gl/maps/VNi1gW5ajydKKo2D6

元祖国民的キャラクター「のらくろ」田河水泡・のらくろ館(江東区森下文化センター)

のらくろ

戦前の少年たちに絶大な人気を誇った漫画があった。
日本漫画界における国民的キャラクターの元祖、でもあった。

田河水泡
 「のらくろ」

日本漫画界の開拓者である、あの手塚治虫も模範としたのが、田河水泡の「のらくろ」であった。

野良犬の黒(野良の黒犬)であった、「のらくろ」(本名・野良犬黒吉、アニメでは、のら山くろ吉、とも)が、猛犬連隊に入隊し、軍隊の中で成長し出世をしていく物語。

昭和6年(1931)に講談社「少年倶楽部」で連載開始。戦前では異例の10年に渡る連載が行われていたが、昭和16年(1941)に戦時下体制での印刷紙の節約として、打ち切りとなった。戦後は潮書房「丸」で連載が行われ、昭和56年(1981)まで田河水泡による連載が続いた。

戦前「少年倶楽部」連載時
野良の黒犬「のらくろ」(野良犬黒吉)が、大日本帝国陸軍をモチーフとした「猛犬聯隊」に入営。はじめは、二等卒(二等兵)であったが、活躍を重ねる。
伍長の際は、師団長より猛犬聯隊の聯隊旗の図案を任され、猛犬士官学校卒業ととに少尉に昇進。聯隊旗手や駐屯守備隊長などを務める。最終的に大尉に昇進し、第五中隊長となる。「大」「日」「本」の3つの勲章を授与されたが、しかし思うところあり、大尉で退役。(戦時下による連載打ち切り)

猛犬聯隊は、山猿・ゴリラ・象・チンパンジー・かっぱ・蛙・熊・豚などと戦いを繰り広げていた。
なかでも、山猿聯隊とは熾烈な戦いをした「犬猿の仲」。

戦後「丸」連載時
のらくろは、予備役として再招集。中隊長として新兵教育などにあたる。山猿軍との決戦の際に、双軍ともに物資不足のために休戦となり、軍隊は解散。のらくろは元の野良犬とsて戦後社会に復員。
のらいぬは最終的に喫茶店のマスターとして自活できるようになり恋人と結婚し子供も生まれ、「もう野良犬ではない」として、物語が完結。

余談だが、「島耕作」が部長から取締役になったとき、編集長が漫画の中で「タイトルが出世していくマンガなんて『のらくろ』以来ですよ」といった、とか。
のらくろは、のらくろ上等兵→のらくろ伍長→のらくろ軍曹 → のらくろ曹長 → のらくろ小隊長 → のらくろ少尉、と、単行本も出世とともにタイトルが出世していた。


田河水泡・のらくろ館

田河水泡・のらくろ館
漫画「のらくろ」の作者・田河水泡の作品や愛用の品々を展示しています
田河水泡(本名:高見澤仲太郎 1899-1989)は、幼少期から青年期までを江東区で過ごした、本区ゆかりの漫画家です。
昭和6年(1931年)、大日本雄辯會講談社(現・講談社)の雑誌「少年倶楽部」に『のらくろ二等卒』を発表、爆発的な人気を博し、昭和初期を代表する漫画家となりました。
漫画「のらくろ」は、身寄りのない野良犬・のらくろが猛犬連隊という犬の軍隊へ入隊し活躍する物語です。最初は二等卒(二等兵)でしたが、徐々に階級を上げ、最終的には大尉まで昇進します。
自分の境遇にもめげず、明るく楽しく元気よく出世していくその姿を、当時のこども達は愛情を込めて応援しました。
平成10年(1998年)、ご遺族から作品や書斎机などの遺品が本区に寄贈されたことから、田河水泡が生涯愛し、その作品にも大きな影響を及ぼした深川の地に、平成11年(1999年)、「田河水泡・のらくろ館」が開館しました。開館時間 9:00~21:00(まん延防止等重点措置中は20:00まで)
休館日 第1・3月曜日(祝日の場合は開館)及び年末年始
観覧料 無料

江東区森下文化センター https://www.kcf.or.jp/morishita/josetsu/norakuro/

高橋商店街「高橋のらくろード」

「のらくろード」として、のらくろとともにある商店街。


田河水泡・のらくろ館パンフレット

一部のパンフレットは以下からダウンロード可能。

https://www.kcf.or.jp/morishita/josetsu/norakuro/pamphlet_jp.pdf

田河水泡・のらくろ館
「のらくろというのは、実は、兄貴、ありゃ、みんな俺の事を書いたものだ」(義兄・小林秀雄との会話のなかで)「文藝春秋」1959(昭和34)年10月号より

 田河水泡(本名:高見澤仲太郎 1899-1989)は、幼少期から青年期までを江東区で過ごした、本区ゆかりの漫画家です。
 昭和6年(1931年)、大日本雄辯會講談社(現・講談社)の雑誌「少年倶楽部」に「のらくろ二等卒」を発表、爆発的な人気を博し、昭和初期を代表する漫画家となりました。
 漫画「のらくろ」は、身寄りのない野良犬・のらくろが猛犬連隊という犬の軍隊に入隊し活躍する物語です。最初は二等卒(二等兵)でしたが、徐々に階級を上げ、最終的には大尉まで昇進します。
 自分の境遇にもめげず、明るく楽しく元気よく出世していくその姿を、当時のこども達は愛情を込めて応援しました。
 平成10年(1998年)、ご遺族から作品や書斎机などの遺品が本区に寄贈されたことから、田河水泡が生涯愛し、その作品にも大きな影響を及ぼした深川の地に、平成11年(1999年)、「田河水泡・のらくろ館」が開館しました。

のらくろ
本名 野良犬黒吉

ぼくは
こうとう文化親善大使
でもあります、
どうぞよろしく。

Q1「のらくろ」は、どのように誕生したの?

こどもたちに夢をあたえ、励ましたい
この思いがのらくろ誕生の大きな力となりました。のらくろが連載され始めた頃は、まだ日本は貧しく、本が貴重な時代でした。こどもたちは、ひとつの雑誌をみんなで回し読みしていました。そんなこどもたちの前に現れたのが、みんなより少しオッチョコチョイで失敗ばかりするけれども、ひるんだり、落ち込むことなく、明るく前向きに生きる「のらくろ二等兵」でした。このアイデアを思いついたのは、当時の「少年倶楽部」変s入朝加藤謙一でしたが、早くから両親を失って、さみしい幼少期を過ごした水泡は、自分の人生経験を一匹の野良犬に託して、これを見事に表現し、日本における子ども漫画の先駆者的存在となりました。
のらくろがブームになると全国の企業が、CMに登場させたいと思うようになりました。現在のように著作権や商標権が確立されていなかったので、業者に勝手に使用されても、作者の水泡は、多目にみていたようです。

Q2「のらくろ」は、どのくらい人気があったの?

これまで出版された「のらくろ」本、制作された「のらくろ」アニメーション映画・テレビ番組を、ご紹介します。とても人気がありました。
・連載 戦前134本 戦後284本
・付録本(戦前のみ・ゲーム含む)11本
・単行本 戦前10巻/戦後19巻
・復刻版 27冊
・文庫本 19冊 ・ 劇場映画(戦前のみ)9本
・テレビ・アニメ放映(戦後のみ)
1970(昭和45)年10月~1975(昭和50)年3月
1987(昭和62)年10月~1988(昭和63)年10月

※ここまで2021年8月撮影


日本酒「のらくろの故郷」

のらくろの作者 田河水泡さんの育った街 深川

発売元
 のらくろに逢える街 高橋のらくろ~ド
 マスヤ酒店
醸造元
 橘倉酒造(長野県佐久市・きつくら・菊秀)

※2018年1月撮影
このときに友人に連れられて「田河水泡・のらくろ館」を訪れたのが、のらくろ館を知ったきっかけでもありました。


田河水泡の墓(高見澤家墓所)

多磨霊園(24区1種22側)
本名の高見澤家として墓所がある。
高見澤仲太郎(田河水泡)
高見澤潤子(田河水泡の妻、小林秀雄の妹)

のらくろ

2025年9月に参拝をしました。草が。。。

※2025年9月撮影

東京大空襲と下町(墨田区千歳、立川・江東区森下)

東京都墨田区と江東区。
隅田川の東側。北に両国、南に深川がある、このエリアも、東京大空襲に際しては、大きな被害を被った地区であった。


江島杉山神社

江島杉山神社 は、1693年(元禄6年)に創建。盲目の鍼灸師、杉山和一(杉山検校・鍼の管鍼法の創始者)が、江戸幕府5代将軍徳川綱吉の病気を治した功により、当地を受領。あわせて、綱吉は、江島弁財天(現・江島神社)への参詣を続ける杉山に配慮し、弁財天(本所一ツ目弁天社)を当地に勧請することを許可したことに始まる。
明治期に「江島神社」に改称し、その後、境内に杉山和一本人を祀る摂末社として「杉山神社」も創建された。1952年(昭和27年)に両社は合祀して「江島杉山神社」に改称。

江島杉山神社の被災イチョウ

境内に、黒く焼けただれたイチョウの御神木がある。
東京大空襲を耐え抜いた、イチョウ。

江島杉山神社の神輿庫

イチョウの隣の古そうな神輿庫。これも東京大空襲を耐え抜いた神輿庫。
昭和8年12月建立。

江島杉山神社の岩屋

岩屋は、元禄6年(1693年)に、徳川綱吉の台命によって杉山検校(杉山和一)によって創建。
安政の大地震、大正の関東大震災では被害なかったが、昭和20年3月10日の関東大震災では、天井の石に亀裂が生じ崩落。昭和39年に鉄筋コンクリートにて改修されている。

江島杉山神社

場所

https://goo.gl/maps/CDvm4L5BopZ4DMocA


弥勒寺

万徳山弥勒寺(真言宗豊山派)。本尊は薬師如来で、「川上薬師」とも呼称。
1610年(慶長15年)創建。

弥勒寺の観音聖像

東京大空襲当時の弥勒寺住職岩堀至道師は、一面の焼け野原の焼死体の中で、母を探し回るうちに、野ざらしの遺体の痛ましさに胸を突かれ、私財を投じて廃墟となっていた弥勒寺境内で一ヶ月半にわたり集まってきた御遺体3,500余体を焼却された、という。
弥勒寺境内の観音聖像は、昭和42年に建立。この下には住職が償却した3500体の遺骨灰が納められている。

合掌を。

観音聖像建立由来記
 父を求め母を尋ね子を探し妻を呼ぶ声よりも凄さまじい火炎と爆撃の中で、1945年(昭和20年)3月10日の朝を迎へました。町は焦土と化し人は黒焦げの死体となって数限りなく広がって居りました。
 戦争は恐ろしい大地震火災よりも怖ろしく、被害はその何層倍にも及びました。1時間に十萬の屍体と言ふ、人間の起こした争いの惨酷さ、而してこれを超克して愛と安らぎを求めるには、大慈悲心にすがり佛の叡智を借りること以外にありません。
 この聖像のもとに三千五百体の遺骨を収納し、永代にお慰めすることは生き永らへた人間の務めでもあり仕事でもありましょう。
 多くの記録、悲惨なエピソードは他の戦災記にゆずり、この下町の一角に所在する聖像を仰ぐとき、之は戦災の最も端的な記念碑でもあり、亦人間の心の基準を示すきびしい御姿でもありましょう。
 茲に戦災殉難の御魂をお慰め申上げ、併せて関東大震災に依り倒れた地元の人々の過去霊に対し、恭々しく合掌し冥福を祈るものであります。
  昭和52年(1977)3月10日丗回忌
   弥勒寺五十六世 岩堀至道 敬白
   弥勒寺奉賛会々長 田中牛造
    平成24年(2012)3月10日  
    株式会社ペルストーン工房 寄贈

昭和廿年三月九日夜間大空襲に依り本所深川は全滅廃墟となり死傷する者亦多く、劫火の中に血縁を求めて呼べども自らも倒れ死屍累々と山となす。終戦と供に平和への悲願をこめて茲に観音像をつくり、遺骨三千余体を安置し歳々年々供養の赤心を捧ぐ。願わくば後人の争うことなく福祉の途を開かれんことを
 昭和四十二年三月十日 弥勒寺住職至道識

弥勒寺の観音聖像

弥勒寺の境内には、杉山和一(杉山検校)の墓もあった。
奇しくも江島杉山神社と弥勒寺と、杉山検校つながり。

場所

https://goo.gl/maps/J9xHJq7dVc3fDrxv9


長慶寺

蟠龍山長慶寺(曹洞宗)。1630年(寛永7年)に開山。

長慶寺の殉国国難死萬霊等碑

東京大空襲に際し、長慶寺は石垣を残して全て焼失したという。焼け跡となった長慶寺でも遺体が集められ仮埋葬されたという。
長慶寺に集められた人々を供養するために7回忌(昭和26年)に石碑が建立された。

場所

https://goo.gl/maps/83dncxAWGCPZ98W98


関連

東京大空襲・慰霊

東京第一陸軍造兵廠第三製造所江戸川工場・精工舎南桜井工場の跡地散策(春日部)

埼玉県春日部市。東武野田線「南桜井駅」の北側は、かつて軍需工場であった。
しかし、2021年の夏に、軍需工場時代を物語る門柱が撤去され、往時を偲ぶものは皆無となった。。。

上記の場所に、かつて門柱があった。取り壊し済み。
以下は、Googleストリートビューにて。奥に見える門が、軍需工場時代からの正門であった。


東京第一陸軍造兵廠(東一造)

大日本帝国陸軍の陸軍造兵廠のひとつ。

東京小石川後楽園にあった「東京砲兵工廠」の「銃砲製造所」を明治38年に十条に移転したことにはじまる。そののち、明治41年には「火具製造所」も小石川から十条に移転。

大正12年に、東京砲兵工廠の「銃砲製造所」「火具製造所」が合併。
「陸軍造兵廠火工廠十条兵器製造所」となる。

昭和11年に小石川から東京工廠本部が十条に移転。
「陸軍造兵廠東京工廠」の下に「銃砲製造所」「精器製造所」「火具製造所」が編成される。

昭和15年組織改変
陸軍造兵廠東京第一陸軍造兵廠(略称「東一造」)
  第一製造所(銃砲製造所)
  第二製造所(精器製造所)
  第三製造所(火具製造所)
 
陸軍造兵廠東京第一陸軍造兵廠(東一造の主要施設は以下)
 陸軍造兵廠本部
  第一製造所(銃砲製造所)
   仙台製造所(宮城・第一製造所所管)
  第二製造所(精器製造所)
   大宮製造所・研究所(埼玉・第二製造所から分離)
    大宮製造所池田工場(大阪)
  第三製造所(火具製造所)
   第三製造所滝野川工場 
    技能者養成所
   第三製造所尾久工場 
   第三製造所江戸川工場(埼玉春日部)
   川越製造所(埼玉・第三製造所から分離)
   小杉製造所(富山・第三製造所所管)


東京第一陸軍造兵廠第三製造所江戸川工場
精工舎南桜井工場(服部時計店南桜井工場)

戦時下体制により半官半民であった「精工舎」は、昭和18年夏頃に東京第一陸軍造兵廠から陸軍関係時計信管部門を南桜井村に疎開するよう伝達を受け、昭和19年3月より錦糸町の工場からの疎開を開始。
精工舎南桜井工場(服部時計店南桜井工場)として、昭和19年10月より操業を開始。精工舎南桜井工場では、服部時計店が培ってきた時計生産技術を生かし、高射砲弾丸の頭につけ爆発を誘発する45秒時計信管、55秒時計信管とよばれた時限信管を製造していた。

昭和20年3月から4月にかけて、東京都北区十条の東京第一陸軍造兵廠第三製造所の空襲によって、工場の一部疎開を決定。第三製造所の一部が、先行して南桜井の地で操業していた半官半民の「精工舎南桜井工場」の未使用であった北部の敷地と建物を借用し疎開することとなった。
東京第一陸軍造兵廠第三製造所江戸川工場は、13万4,646平方メートル(約4万800坪)、工場建屋面積は5,000平方メートル、機械509台、従業員数1,291人、であった。

昭和20年5月から7月にかけて、十条の第三製造所から、大小様々な機械を運び工場を移転。昭和20年7月1日より、高射砲用信管部品・組立、一般信管部品・組立、航空信管部品製造、風船爆弾用信管などの製造を開始。しかし操業1ヶ月半後の8月15日に終戦となり工場は閉鎖。短命と終わった。

南側の半官半民の軍需工場であった「服部時計店・精工舎南桜井工場」では、時限式信管を製造し、そして北側の東京第一陸軍造兵廠の「第三製造所江戸川工場」では、瞬発信管を製造。
南北に隣接する両工場を合わせると、敷地面積は51万677平方メートル(約15万5,000坪)であった。

「精工舎南桜井工場」 「 第三製造所江戸川工場」跡地に、キリスト教社会運動家の賀川豊彦の構想のもと工場施設設備が転用され、昭和21年3月28日に「農村時計製作所」が設立。しかし、農村時計は昭和25年10月に事業を停止。
昭和25年11月3日、 農村時計の末期に好評だった「リズム時計」を由来とする新会社「リズム時計工業株式会社」が発足。「リズム時計南桜井工場」は平成9年(1997)年9月に東京都墨田区に移転。
現在は再開発中。なお、この地には朝倉病院事件を起こした精神病院もあった。


位置関係

地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M452-16
昭和22年(1947年)9月8日、米軍撮影の航空写真を一部加工。

上記を拡大。

Google航空写真


東京第一陸軍造兵廠第三製造所江戸川工場・精工舎南桜井工場の跡地

足を運ぶのが、一歩遅かったです。

帝都を歩く」様の2021年5月記事では、残存していた「門柱」は、2021年7月訪問の段階で跡形もなく。

残念・・・

この更地は、かつてここにあった精神病院(朝倉病院)の跡地でもあり、そして時計工場(リズム時計)の跡地でもあり、軍需工場(精工舎)の跡地でもあった。

いまは、かつての歴史をすべて上書きすべく大規模再開発のために造成中。

貯水池、があった。
かつての軍需工場時代では、この近くに給水塔があった。

住宅地。軍需工場の北西端にあたる。

軍需工場の北辺を歩く。
写真の右手が工場エリア。写真の左手が病院・男子寮エリア。

この先は、男子寮エリア。工場エリアとの境目も、いまは普通の住宅地。

この場所が、工場エリアの北端。
春日部市立桜川小学校の北端でもある。

安永6年(1777)建立の五穀成就の仏様。この場所で軍需工場時代も見つめていたことになる。

古そうな建物もあったが、往時のものかは不詳。

春日部市立桜川小学校に何かあった。トンネル?
信管工場ということもあるので、往時の防爆壁等であるば興味深いが不詳。

裏側。

なにかの基礎もあった。

春日部市立桜川小学校は、東京第一陸軍造兵廠第三製造所江戸川工場の圧延工場や組立工場などがあったエリア。

そのまま南下。軍需工場の南東端。


南桜井駅

東武野田線(東武アーバンパークライン)。

1930年(昭和5年)12月9日、永沼臨時停留所として開業。
1931年(昭和6年)7月3日、永沼停留所、常設の停留所化。
1932年(昭和7年)8月、永沼停留所を柏寄りに約400m移転し「南桜井駅」に改称。

1943年(昭和18年)11月6日、精工舎南桜井工場の資材・製品輸送のために、現在の南桜井駅の位置に貨物専用の米島仮停車場(米島駅)を開業。

1945年(昭和20年)9月30日、米島駅休止。
1956年(昭和31年)12月23日、南桜井駅と米島駅を統合、南桜井駅を米島駅の位置に移転し「南桜井駅」として再開業。

かつての軍需工場・時計工場の跡地は、面影を残すことなく商業地区として生まれ変わっていた。

※2021年7月撮影


関連

神奈川県戦没者慰霊堂

京浜急行「上大岡駅」から徒歩10分ほどの高台に、「神奈川県戦没者慰霊堂」がある。

全国47都道府県で唯一「護國神社」が無い県が神奈川県。
(内務大臣指定護國神社として。東京は靖國神社で包括)
もちろん、神奈川県でも護國神社を建立する予定はあり、完成直前まで建築されていたが、昭和20年5月29日の横浜大空襲で、焼失し、ついに完成することなく戦後を迎えることとなった。

そうして、護國神社が建立されなかった神奈川県にとっては、県を代表する慰霊施設が、この「神奈川県戦没者慰霊堂」となる。

なお、神奈川県護國神社建立予定地だった地には「横浜市の慰霊塔」が建立されている。

神奈川縣護國神社跡(横浜市慰霊塔)


神奈川県戦没者慰霊堂

神奈川県戦没者慰霊堂建立の由来
 この慰霊堂は、神奈川県が講和条約締結の記念事業として、県民の寄附による浄財と県費合わせて約1,600万円をもって、昭和28年11月5日に造営したもので、
 明治以来幾多の戦争において戦没した本県出身の旧軍人軍属、一般戦災死者、及び外地戦没者など、58,000余柱の御霊がまつられています。

年間の行事
5月10日 戦没者追悼奉賛行事
8月15日 戦没者追悼式
      神奈川県戦没者追悼式は令和元年度より神奈川県県民ホールへ変更
毎月5日 月次祭
      1・2・3・5・8月を除く

開苑時間
自・9時00分
至・16時30分
閉園日・月曜日
年末年始閉苑日 12月29日~1月3日(大晦日・元旦を除く)

神奈川県戦没者慰霊堂は、昭和27年の対日講和条約の発効を機に、明治以降の戦争における戦没者、戦災死者を追悼するとともに、県民の平和愛好の象徴として建設され、戦没者及び戦災死者5万8千余名の名簿が納められ、遺族の心のよりどころとなっています。慰霊堂は、緑に囲まれた見晴らしのよい台地にあり、桜の名所ともなっています。また近くには、「かながわ平和祈念館」があり、皆様にくつろいでいただくための休憩コーナーや戦没者の遺品展示ホール、ライブラリーなどがあります。

神奈川県>神奈川県戦没者慰霊堂のご案内 https://www.pref.kanagawa.jp/docs/r6w/cnt/f153/p2926.html

神奈川県
 戦没者慰霊堂

神奈川県戦没者慰霊堂
神奈川県知事内山岩太郎書

昭和31年3月31日建立

刻まれている文字の判別が不能の石碑。

顕彰碑

隣に鎮座する「西岸山千手院」が、「神奈川県戦没者慰霊堂」に敷地を提供した。

合掌

神奈川県のシンボルマーク

日差しが眩しい。慰霊堂は東面している。
風光明媚な高台に、しずかに鎮座していた。

右手のビルが上大岡駅方面。

平和への願いをこめて
希望の年・平和植樹
神奈川県戦没者慰霊堂
2001年5月10日 神奈川県

慰霊堂

本堂周辺でスポーツ等の運動・遊戯は、ご遠慮ください。
(ここは戦没者の方の慰霊施設であることにご理解・ご協力ください)
神奈川県生活援護課

場所

https://goo.gl/maps/g1VK7sE3viuADLm4A


かながわ平和祈念館
(神奈川県戦没者慰霊堂附属会館)

神奈川県戦没者慰霊堂のすぐ近くに、資料館がある。
入館は無料。

かながわ平和祈念館
かながわ平和祈念館(神奈川県戦没者慰霊堂附属会館の愛称)は、戦後50年の節目にあたる平成7年に従来の附属会館を建て替え、戦争体験を風化させず次世代に伝えるとともに広く県民に親しまれる施設として整備されたものです。多目的ホールや会議室、遺品展示ホール、ビデオルーム、ライブラリーなどがあります。どうぞお気軽にご利用ください。

神奈川県>かながわ平和祈念館
https://www.pref.kanagawa.jp/docs/r6w/cnt/f153/p2927.html

場所

https://goo.gl/maps/be9qZPevFvQ6Kyk86

※撮影は2021年4月


関連

明治観音堂(明治座・日本橋浜町)

浜町公園、都営新宿線浜町駅のすぐ近く。もっというと、明治座の目の前。そこに東京大空襲に関係する慰霊堂があった。

明治観音堂

昭和20年3月10日、東京大空襲。
指定避難所であった「明治座」には多くの人びとが避難していたが、界隈で犠牲となった人々を弔うために建立された観音堂。明治座の復興に力を注いだ、新田新作氏(戦後に復興した明治座の社長)の建立。

明治観音堂建立の由来
本堂は昭和二十年三月十日の
戦災に依り死没せる幾多の霊の
冥福を祈る為建立す

昭和二十五年十二月
発願主 新田新作

明治座と戦争
しかし時代は、昭和6年(1931)に満州事変が勃発しており、やがて日中戦争と次第に戦時色が強くなっていきます。第二次世界大戦が開戦し、昭和19年(1944)3月5日にはとうとう全国19か所の「高級興行場歓楽場」に対し、大劇場閉鎖の緊急事態が命じられます。しかし、3月20日には明治座他6劇場が解除になり、興行時間2時間半以内の演劇興行が再開されます。戦時中の厳しい状況の中でも、空襲のさなかにさえ、明治座はほとんど毎月幕を開けていました。
そして昭和20年(1945)3月10日の東京大空襲で、下町一帯は灰燼に帰し、明治座も例外ではなく外側を残し焼失しました。現在でも、明治座の前にはその被害者たちを慰霊した「明治観音堂」という小さな石堂が建っています。この石堂の発願主は力道山の後援者としても知られた新田建設社長の新田新作でした。新田は後始末に奔走します。新田と地元の有志を中心に明治座復旧期成会が結成され、そこから設立された株式会社明治座が松竹から所有権を譲り受け、明治座の着工がはじまりました。

明治座 https://www.meijiza.co.jp/anniversary/war/

観音堂のうしろには、明治座。

すぐ近くには浜町公園。観音堂も浜町公園の通路にあるので、公園内といっても問題ないかもしれない。

浜町公園

戦時中の浜町公園は、高射砲陣地が設置されていた。
そのため、浜町公園には、爆撃対象として狙われ、あたりは灰燼に帰した。

浜町公園のすぐとなりは、隅田川。

場所

https://goo.gl/maps/o1k1K78ZwXJYCRWy7

明治座

https://www.meijiza.co.jp/anniversary/war/

総務省

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/virtual/memorialsite/tokyo_chuo_city001/


位置関係

地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:8921-C2-18_
昭和19年(1944年)11月07日、日本陸軍撮影の航空写真を一部加工。

上記で浜町公園を拡大

こちらは戦後。高射砲陣地があった浜町公園は更地。
明治座の債権も始まっている。明治座は昭和25年(1950)に再建再興している。

ファイル:USA-M451-37
1947年09月08日、米軍撮影を一部加工

現在の様子。GoogleMap航空写真を一部加工。


関連

東京大空襲関連

はじめに

台湾から日本へ伝えたい「ありがとう」

2021年7月31日。東京駅の地下にて。

台湾からのメッセージが掲げられていました。


「ありがとう」

台湾から日本へ伝えたい「ありがとう」
今までも、これからも台湾と一緒に


「6月4日・7月8日、ワクチン不足が深刻化していた台湾に日本から送られてきた124万回分・113万回分のワクチンが突然到着しました。私たち台湾人は日本の優しさにとても感動しました。一人でも多くの日本人に感謝の想いを伝えるために、台湾の民間人1046人でお金を出し合い、寄付・企画・実行、全て台湾の民間人で行い、このありがとうメッセージを出しました。」

日本の方へのお願い
下記ハッシュタグを使って、
Twitter・Facebookでこれを見た感想を投稿してほしいです。
海の向こうの台湾から
日本の皆さんの感想を拝見させてください
#台湾からのありがとう

謝謝日本

主催:台湾人有志1046人
企画・協力:台灣向日本人傳達捐贈疫苗的感謝之意PROJECT(台湾人から日本へありがとうを伝えるプロジェクト
風景写真提供:台湾観光局・台湾観光協会

日本人としても、台湾の皆様に、ありがとう!を。

コロナ渦となってから、台湾に訪れる機会がなく、また台湾の皆様が来日することも難しくなっているけれども、遠くない未来で、きっとまた日台交流があたりまえのように、戻ってくることを信じつつ。

台湾、また行きたいです!!

ブルーインパルスと東京パラリンピック2020

2021年8月22日。
東京パラリンピック2020の開会式予行のためにブルーインパルスが再び東京の空をフライトした。

前回、東京オリンピック2020開会式のブルーインパルスのフライトは、明治神宮で観覧。
今日は、パラリンピックに際しての予行フライト。

今回は、東京駅で観覧することとしました。

2021年8月22日・東京パラリンピック予行フライト
東京駅

東京駅の背後を一直線に飛び抜けるブルーインパルス。

14時3分。東京駅。北から南に。

ありがとうの気持ちを込めて拍手でお見送り。


ちなみに。。。

東京駅広場で結婚式の撮影をしている新婚さんがいました。
この時間の、このタイミングを狙っての、撮影は見事としか言いようがないです。
これは一生の思い出になりそうですね。

東京駅前広場。
撮影者が遠巻きに控えることで、自然と空間を開ける配慮が行われていました。


2021年8月24日 東京パラリンピック本番フライト
東京タワー

東京らしいところ、ということで東京タワーで観覧。
あいにくの曇り空。

あえて魚眼で撮影チャレンジ。
しょうしょう撮影には厳しいコンディションで色がうまく出せませんでした。。。

下の写真はトリミングで。

曇天であれ、東京タワーで見るブルーインパルスは、二度とない思い出。
ありがとうございました!


関連

昭和39年(1964)、東京パラリンピック開催。
日本代表選手53名。そのうち傷痍軍人(傷病兵)出身は7名であり、選手宣誓を行った青野選手も戦地で傷つき箱根療養所で療養していた傷痍軍人であった。

東京駅の近代史跡。

76年目の8月15日-靖國神社

靖國神社

雨の靖國神社。


放鳩式 靖國神社・午前10時

昨年に続き、本年の放鳩式も神社関係者のみでの開催。
一般参列者は観覧のみ。

8月15日 午前10時
「日本の声 英霊に感謝する集い」放鳩式
能楽堂前

靖國神社・山口建史宮司
「英霊ありがとう」の気持ちとともに放鳩

雨でピントが大変なことになってしまいました。。。

今年は鳩が舞うには辛い大雨。

「靖國神社白鳩の会」
毎年、呼び掛けをされておりました、講談師の宝井琴調さんは、今年はスケジュールの都合で不在でした。


正式参拝 靖國神社

正式参拝(昇殿参拝)を

御本殿
鎮まる御英霊の御心に
感謝し深く拝する

御英霊に感謝と哀悼を

ありがとうございました

社務所老朽化に伴う改修工事。令和3年8月2日~令和4年12月末日まで、とのことで。
また、境内の様相が変わりそうです。。。

参道


靖國神社・正午

国歌

君が代は
千代に八千代に
さざれ石の
いわおとなりて
苔のむすまで

黙祷

毎年、この場所で、海行かばを。。。

海行かば

海行かば 水漬く屍
山行かば 草生す屍
大君の 辺にこそ死なめ
かへりみはせじ

うみゆかば みづくかばね
やまゆかば くさむすかばね
おほきみの へにこそしなめ
かへりみはせじ

終戦の玉音放送

宮内庁サイト

https://www.kunaicho.go.jp/kunaicho/koho/taisenkankei/syusen/syusen.html

https://www.kunaicho.go.jp/kunaicho/koho/taisenkankei/syusen/pdf/syousyo.pdf

現代語訳

https://www.huffingtonpost.jp/entry/story_jp_6102140fe4b0d1b96e621f96


遊就館

久しぶりに。


麦茶接待所

毎年、ありがとうございます。
今年は雨で冷え込んだということもあり、冷たい麦茶だけではなく温かい麦茶も用意して戴きました。


靖國神社参道

大雨の8月15日。雨の8月15日は何年ぶりだろう。。。


御朱印

久しぶりに戴きました。


知覧茶

あぁ、これは、、、趣深い飲み物、、、

富屋食堂の知覧茶
この知覧茶は、靖國神社外苑休憩所の靖國八千代食堂と知覧富屋食堂との共同企画商品です。
特攻の母と言われた鳥濱トメさんのご遺徳と、
先の大戦で散華された特攻隊員の方々の想いを偲び、
特攻の地、知覧の茶葉を100%使用致しました。


千鳥ヶ淵戦没者墓苑

こちらにも足を運びました。
合掌。

76年目の終戦の日。
「戦没者を追悼し平和を祈念する日」


関連

中道寺のコンクリート代替梵鐘(杉並区)


金属類回収令

昭和18年8月12日勅令第667号
戦局の激化による金属資源不足を補うために、官民所有の金属類回収を行なった勅令。
各地の寺院にあった鐘楼の梵鐘も金属供出の対象となった。

寺院の鐘楼は、梵鐘の重みで建屋のバランスを保つ構造でもあったため、梵鐘を外したままでは鐘楼崩壊の危険性があったため、コンクリートや自然石など何らかの重みを確保できる代替梵鐘が釣り下げられた。

もちろん、コンクリートの梵鐘は叩いても音を出すことはない。


中道寺

東京都杉並区荻窪にある日蓮宗の寺院。
山門は、安永2年(1773年)建立。鐘楼を兼ねた鐘楼門に存在感がある。この山門の梵鐘が金属供出された際は、コンクリート代替梵鐘が備え付けられていた。
役目を終えた、コンクリート代替梵鐘は、とくにアピールするわけでもなく、静かに境内参道の片隅にその姿を鎮座させていた。

場所

https://goo.gl/maps/YgYzoej2EiLDsZ5d6


関連

金属供出関連

焼夷弾の花立(杉並区)


荻窪駅と井萩駅の中間あたり。
住所でいうと、杉並区清水2丁目15番7号。
住宅地に鎮まる小祠で、意外な花立があった。


焼夷弾の花立

このカタチ、この六角形、既視感あります。
M69焼夷弾、ですね。

なんでも、この界隈を空襲された際に、落ちた焼夷弾を再利用しているとのことで。

お賽銭箱の左右の花立てが、焼夷弾。。。

民間信仰石塔
 ここに建立されている石塔は、向かって右が宝永5年(1708)銘笠付角柱庚申塔(帝釈天)、左が安永10年(1781)銘角柱型廻国供養塔です。かつてはここより北西約100メートルの現NTT井草ビル北西角(旧称馬場下道の路地角)に造立されていましたが、大正から昭和初めに行われた土地区画整理の際に当地に移されました。
 庚申塔は、庚申の夜に体内にいる三(さん)尸(し)の虫が、その人の悪業を天帝に告げ、寿命を縮めるという道教の説から、人々が集まって夜を明かす庚申待を行った講中が、供養のために建てたものです。この塔は、青面金剛や三猿が彫刻された庚申塔で、「奉造立帝釈天王講中」と刻まれています。一般に庚申信仰では青面金剛が主尊とされますが、日蓮宗では帝釈天を庚申信仰の対象としています。この塔からも、日蓮宗での帝釈天信仰と庚申信仰の結びつきがわかります。また、青面金剛は六臂のものが一般的ですが、これは八臂の青面金剛で区内でも珍しいものです。
 廻国供養塔は、西国33観音などの霊場巡拝を遂げたことを記念して建てたものといわれます。西国33観音に加え、江戸時代には坂東33観音、秩父34観音が設けられ、100観音巡拝の観音信仰が盛んになりました。この塔も100ヶ所を巡拝したことを記念して建てたものと思われます。塔上部の8字の梵字は、聖観音真言をあらわしています。真言とは、口で唱えると仏と一体となれると考えられている、仏の教えを表現する梵語です。
 なお、花立にはこの辺りに落ちた焼夷弾の残骸を使用しています。
  平成19年7月
   杉並区教育委員会

場所

https://goo.gl/maps/pF8dWFmnz8RmTu2y5


M69焼夷弾

このカタチ。同じですね。
下の写真は、「小金井市文化財センター」にて展示されているM69焼夷弾。

燃えずに落ちた焼夷弾は、風呂の焚き付けにつかわれた、と。それなら「花立」に使用しても違和感なし?

M69焼夷弾
太平洋戦争当時、アメリカ軍が木造の多い日本家屋を焼き払うために開発した兵器で、爆風で破壊する爆弾とは異なります。38発のM69焼夷弾を束ねた親弾(E46集束焼夷弾)がB29爆撃機から投下され、空中でバラバラの子弾(M69焼夷弾)に分離して、地上に着弾すると油脂を成分とする焼夷剤が火災を引き起こします。燃えずに落ちた焼夷弾は、風呂の焚き付けに使われることもありました。
この焼夷弾には「焼夷弾」と書かれていますが、のちに書き込んだものと思われます。

こちらのM69焼夷弾は、「江戸川区小松川さくらホール・江戸川区平和祈念展示室」展示品。

下は、「東京大空襲・戦災資料センター」展示品。

E46集束焼夷弾(模型)
1945年3月10日の空襲で主に使われた焼夷弾。中にM69油脂焼夷弾を38本納めており、空中で尾翼部分にある信管が作動してバラバラになって落ちてくる。

M69油脂焼夷弾 AN-M69
1945年3月10日の空襲で主に使われた焼夷弾。尾の部分にストリーマーと呼ばれる4本のリボンがついており、空中姿勢を安定させる。
着火すると、ふたのようなストリーマーの部分は吹き飛んで外れ、筒の内部から粘着性の燃焼剤が飛び出して発火する。


関連

陸軍柏飛行場関連の戦跡散策(軍都柏・その7)

軍都柏の戦跡散策、その7。
柏飛行場の名残を探しに。
この日は、柏の葉キャンパス駅で自転車を借りて、飛行場を中心に自転車散策を敢行しました。

本記事は、流山市内の戦跡も含みますが、便宜上「柏飛行場・軍都柏」として一緒に掲載します。


位置関係

地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-R1585-76
昭和23年(1948年)7月25日、米軍撮影の航空写真を一部加工。


軍都「柏」

軍都柏とも軍郷柏とも称されることになった、千葉県柏市。
柏飛行場をはじめとし、多くの軍事施設が集まる地となっていた。

柏飛行場
昭和12年(1937)6月、近衛師団経理部は東葛飾郡田中村十余二に陸軍の新飛行場を建設する旨を決定。
昭和13年11月に「陸軍柏飛行場」(東部第105部隊)が完成。東京立川から「飛行第五戦隊」が移転してきたことにより、柏飛行場は、帝都防空の航空基地となり、軍都としての歩みもここからはじまった。

昭和20年4月には、ロケット推進戦闘機「秋水」開発のための陸軍の特殊部隊、陸軍航空審査部特兵隊が柏飛行場に進出。柏には、秋水の燃料貯蔵庫なども設けられた。

高射砲部隊
昭和12年10月、「飛行部隊」とは別に、帝都防空のもう一つの主役として「高射砲部隊」が千葉県市川市国府台に高射砲第二連隊が新設。
昭和13年11月に柏飛行場の完成とあわせて、柏(富勢)に「高射砲第二連隊」も移動。帝都防空の一翼を担うとともに、東葛地域の飛行場の防御も担当した。
昭和16年に東京に「高射砲第二連隊」主力が移動。その後、 高射砲第二連隊 の跡地には留守近衛第二師団の歩兵・工兵補充隊が駐留し、昭和20年に東京師管区第二補充隊(東部八三部隊)と同近衛工兵補充隊(東部一四部隊)となった。

その他
昭和12年11月、東京憲兵隊市川分隊柏分遣隊開設

昭和14年2月、第4航空教育隊(東部第102部隊)が開設。飛行機の整備に関する訓練や教育を担当した。
昭和14年4月、陸軍航空廠立川支廠柏分廠も開設され、飛行場に配備されていた飛行機や車両の整備・点検を行う補給機関を担った。
同じ 昭和14年4月には、陸軍柏病院が開設。
昭和20年6月には柏(鎌ヶ谷)に、陸軍藤ヶ谷飛行場が完成している。現在の海自下総航空基地となる。
また、昭和18年11月には、柏陸軍墓地忠霊塔も建設された。

ーーー

ファイル: USA-M29-58
昭和24年(1947年)2月8日、米軍撮影の航空写真を一部加工。

軍都柏の主要軍事施設を記載しておく。


旧陸軍東部第105部隊の営門

高田原交差点、柏警察署高田原交番の隣、航空自衛隊 柏送信所の入り口に、往時と同じように営門門柱が残っている。
この場所から北側には柏飛行場「陸軍東部第105部隊」が展開。また、この営門より南に下れば、「陸軍東部102部隊」 が展開していた。

旧陸軍東部第105部隊の営門
 この門柱は、昭和13年(1938)11月に開設された柏飛行場の兵営施設の営門(旧陸軍東部第105部隊営門)で、建設当時の位置のまま残されています。
 右の写真は、施設正面を撮影したもので、営門や衛兵の姿、本部建物など戦争当時の状況を伺うことができる貴重なものです。
 柏飛行場は、現在の県立柏の葉公園を含む柏の葉、中十余二の地区にありました。昭和初期、中国との関係悪化から、「国土防空」特に「帝都防空」のため飛行場建設を急ぐ必要がありました。そこで昭和12年(1937)6月、陸軍の近衛師団経理部が新設飛行場予定地を旧東葛飾郡田中村十余二に計画し、地元の誘致運動もあり、同年9月に旧田中村、八木村(現流山市)にまたがる約145万平方メートルの用地を買収し、同13年1月に起工式が行われ、同11月に1,500mの滑走路1本を有する飛行場が完成しました。合わせて同13年に東京立川から陸軍飛行第五戦隊が移転し、同17~18年(1942~1943)に兵員は700人を超えるまでになり、松戸、成増、調布などとともに同19年(1944)末から激しくなったB-29爆撃機に空襲に対し防空戦闘にあたりました。戦争末期の同20年1月には我が国発のロケット戦闘機「秋水」の基地となりましたが、テスト飛行で終わり、終戦を迎えます。
 戦後、米軍に接収され、同30年(1955)に「米空軍柏通信所」、トムリンソン通信基地が建設されましたが、返還交渉を経て、同54年(1979)に日本に全面返還となり現在に至ります。
 戦時中の様子を今に伝える市内に残された数少ない文化財です。
  平成24年3月31日 柏市教育委員会

場所

https://goo.gl/maps/j7tqHGqCidbGFem59


航空自衛隊 柏送信所

陸軍東部第105部隊の営門から奥に進めば、今は空自の柏送信所。
この場所は、東部第105部隊の中心的な位置に当たる。

場所

https://goo.gl/maps/vJYobndngLKLThKu6


旧陸軍東部第105部隊の弾薬庫
(柏飛行場弾薬庫)

前述の東部第105部隊営門門柱より東に少し移動。
中華料理屋の駐車場から、往時のコンクリート建造物を垣間見ることができる。
現在は、社会福祉法人千葉県厚生事業団「ひかり隣保館」の敷地。

2棟のうち、西側は屋根の部分がなくなっている。。。

東側は屋根も健在。

入り口側は、私有地のため確認不可。

場所

https://goo.gl/maps/xFeehEVyZMQ6U51DA


柏飛行場西側の境界土塁跡

住所は千葉県流山市駒木台。このあたりは、柏市と流山市の境界あたり。
柏の葉公園の南西、柏の葉第2水辺公園あたりから、外周は境界土塁を見ることができる。

陸軍柏飛行場時代から境界としては同じ区割り。

https://goo.gl/maps/u7N74JnwXq2G41We8


陸軍航空廠立川支廠柏分廠
ガス庫及び部品庫

昭和13年11月に「陸軍柏飛行場」(東部第105部隊)が完成し、翌年昭和14年4月、陸軍航空廠立川支廠柏分廠も開設され、飛行場に配備されていた飛行機や車両の整備・点検を行う補給機関を担った。
東部第105部隊の西側に陸軍航空廠立川支廠柏分廠が隣接していた。

こちらも住所は、流山市駒木台ではあるが、便宜上「軍都柏」にまとめる。

「ガス庫」とされる建物。扉も往時のまま。

「部品庫」とされる建物。

雑品庫

右の扉側は雑品庫とあった。

圧搾空気室

そして、左の扉は、圧搾空気室とあった。
右から読ませる札は、往時からのものか?

2つの建物は、背中あわせで建てられていた。

場所

https://goo.gl/maps/XYtN8ugpfG7Lit9R8


法栄寺の平和観音像
陸軍航空審査部特兵隊(秋水実験部隊)本部跡

流山市駒木台に鎮座する法栄寺。
昭和20年の戦争末期、陸軍は柏飛行場にロケット戦闘機「秋水」の実験隊を配備。
秋水の実験部隊であった「陸軍航空審査部特兵隊」の本部が置かれ、荒蒔義次少佐(特兵隊隊長)や木村秀政(東大教授・秋水開発に関与)、秋水搭乗パイロットなどは、法栄寺を宿舎としていた。

現在、法栄寺境内には、「平和観音像」が建立されている。

平和観世音

昭和24年11月20日、法栄寺住職によって建立。戦没者の法名と俗名を台座に刻んでいる。

法栄寺からまっすぐにのびる道路の突き当りは、「流山市駒木台福祉会館」がある。この場所に当時は、「柏航空観測所」があったというが、今は面影は残っていない。

場所(法栄寺)

https://goo.gl/maps/oWAfgbRtVF3RJ9RC8


場所は変わって、慰霊碑を掲載

長覚寺若紫観音堂の軍馬慰霊碑

柏飛行場は関係ないが、戦跡として。
陸軍第102部隊と、花野井の秋水地下燃料貯蔵庫の中間あたりに鎮座する長覚寺。
その観音堂の参道に、馬頭観音とともに、軍馬慰霊碑が建立されていた。

柏は鎌倉時代には、広大な牧場地帯でもあり、戦時中は陸軍の牧場もあった。
そして、昭和3年(1928)には、柏競馬場が開設された。柏競馬場は、「日本一の競馬場」「東洋一の近代競馬場」とも呼称された、前述の航空写真でも中央下部に競馬場の姿をみることができる。
柏競馬場は戦時中は軍需工場として使用され、戦後に再開するも、1952年に船橋競馬場に移転され廃止されている。現在の豊四季団地界隈。

柏は、軍馬とも縁が深い街であったのだ。

軍馬慰霊碑
とつ国に征きてかへらぬいくさ馬
 もの言ぬこそいさを尊し

復員(中支)三十三年記念として昭和54年に建立されている。

江戸後期や明治の「馬頭観音」とともに並ぶ「軍馬慰霊碑」。

場所

https://goo.gl/maps/CEoajSDS6ezvnGzbA


軍都柏の戦跡散策。
陸軍柏飛行場を中心に、往時を偲ぶ戦跡が、再開発で消えたものもありましたが、それでもまだまだ豊富に残っていました。後世に伝承すべき貴重な戦跡として、今残っているものは、この先も引き続き残して戴きたく。

本記事でもって、一連のシリーズ「軍都柏」はいったん締めです。
また何か、ありましたら追記します。


関連

無蓋掩体壕と柏飛行場の跡地散策(軍都柏・その6)

軍都柏の戦跡散策、その6。
柏飛行場の名残を探しに。
この日は、柏の葉キャンパス駅で自転車を借りて、飛行場を中心に自転車散策を敢行しました。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-R516-No.2-39
昭和24年(1949年)1月7日、米軍撮影の航空写真を一部加工。

地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-R1585-76
昭和23年(1948年)7月25日、米軍撮影の航空写真を一部加工。


軍都「柏」

軍都柏とも軍郷柏とも称されることになった、千葉県柏市。
柏飛行場をはじめとし、多くの軍事施設が集まる地となっていた。

柏飛行場
昭和12年(1937)6月、近衛師団経理部は東葛飾郡田中村十余二に陸軍の新飛行場を建設する旨を決定。
昭和13年11月に「陸軍柏飛行場」(東部第105部隊)が完成。東京立川から「飛行第五戦隊」が移転してきたことにより、柏飛行場は、帝都防空の航空基地となり、軍都としての歩みもここからはじまった。

昭和20年4月には、ロケット推進戦闘機「秋水」開発のための陸軍の特殊部隊、陸軍航空審査部特兵隊が柏飛行場に進出。柏には、秋水の燃料貯蔵庫なども設けられた。

高射砲部隊
昭和12年10月、「飛行部隊」とは別に、帝都防空のもう一つの主役として「高射砲部隊」が千葉県市川市国府台に高射砲第二連隊が新設。
昭和13年11月に柏飛行場の完成とあわせて、柏(富勢)に「高射砲第二連隊」も移動。帝都防空の一翼を担うとともに、東葛地域の飛行場の防御も担当した。
昭和16年に東京に「高射砲第二連隊」主力が移動。その後、 高射砲第二連隊 の跡地には留守近衛第二師団の歩兵・工兵補充隊が駐留し、昭和20年に東京師管区第二補充隊(東部八三部隊)と同近衛工兵補充隊(東部一四部隊)となった。

その他
昭和12年11月、東京憲兵隊市川分隊柏分遣隊開設

昭和14年2月、第4航空教育隊(東部第102部隊)が開設。飛行機の整備に関する訓練や教育を担当した。
昭和14年4月、陸軍航空廠立川支廠柏分廠も開設され、飛行場に配備されていた飛行機や車両の整備・点検を行う補給機関を担った。
同じ 昭和14年4月には、陸軍柏病院が開設。
昭和20年6月には柏(鎌ヶ谷)に、陸軍藤ヶ谷飛行場が完成している。現在の海自下総航空基地となる。
また、昭和18年11月には、柏陸軍墓地忠霊塔も建設された。

ーーー

ファイル: USA-M29-58
昭和24年(1947年)2月8日、米軍撮影の航空写真を一部加工。

軍都柏の主要軍事施設を記載しておく。


無蓋掩体壕

「こんぶくろ池自然博物公園」の飛び地に無蓋掩体壕が保存されている。

陸軍柏飛行場 柏歴史クラブ
 日中戦争(1937・昭和12年~)の開戦前夜から、帝都・東京の空を守る施設が東京周辺に建設され始めました。東京都心から30キロメートル圏にある柏でも、陸軍による飛行場設置が1937年に決まり、翌年11月頃、完成しました。実戦部隊の飛行第5戦隊が移駐し、飛行機の点検・整備をする航空廠柏分廠も竣工し、柏飛行場は第一線の飛行場となりました。
 滑走路は当所は1本だけでしたが、何度も行われた拡張に伴い、最終的にはコンクリート舗装の1500メートルと未舗装の計2本となり、飛行場面積も約1.8倍となっています。南の地域には、本部・将校集会所・兵舎・弾薬庫などの建物があり、南西には格納庫や気象観測所も設けられました。1942(昭和17)年には、ダンプカーやパワー・シャベルを使用した、機械化による飛行場設営の実験も行われています。
 日本本土への空襲がひんぱんになった1944(昭和19)年夏頃から、飛行場内の戦闘機を爆撃から守るため、場外へ移す誘導路3本(西・北・東)と、その道沿いに掩体壕が造られました。図中の水色の線が誘導路で、赤・茶・緑の馬蹄形で描かれているのが掩体壕です。赤丸で囲んでいるのが、現在地の掩体壕です。

掩体壕 柏歴史クラブ
 掩体壕とは、戦闘機を隠し、爆撃・爆風から守る施設です。掩体壕には有蓋掩体壕と無蓋掩体壕があり、柏飛行場では無蓋掩体壕が造られ、79基あったといいう記録も残っています。コンクリート製で屋根がある有蓋掩体壕は、千葉県内では茂原市や館山市に残っていますが、土手で築かれただけの無蓋掩体壕は風化しやすく、あまり見られなくなりました。
 空襲がひんぱんになる1944(昭和19)年夏頃から誘導路や掩体壕が造られ、この近辺では、朝、飛行場から掩体壕まで戦闘機を運び出し、夕方に戻す兵隊たちの姿が見られたといいます。戦闘機は上空から見えにくいように、木の枝や緑のネットで覆われました。
 2009年の柏歴史クラブによる調査では、柏飛行場関連の掩体壕は、6か所残っていました。しかし、そのうち4基は開発地区にあり、こんぶくろ池自然博物公園内にあった2基が保存されました。現在地にある掩体壕は、土手が低くなっているものの、ほぼ完全な形で、土手の長さは巻尺で測った概数ですが、下図のようになっています。

おおおっっっ!無蓋掩体壕だ!!

始めて見ました。結構興奮。
とはいえ、無蓋掩体壕は、基本的に土塁のため、写真で伝えるのは難しい。。。

パノラマで撮影してみた。クリックで拡大。

実は、冬場にも撮影してみた。以下は、令和元年(2019)12月 の撮影。

動画も撮ってみた。

https://senseki-kikou.net/wp-content/uploads/2019/12/VID_20191226_073731.mp4

場所

https://goo.gl/maps/QUd1Js2iY3Ty5wXj7


柏飛行場滑走路跡

「柏の葉公園通り」 が 滑走路というわけではなく、「柏の葉公園通り」の東側に滑走路があった。
現在の東大柏の葉キャンパス東側、国立がん研究センター東病院や、財務省税関研修所、 科学警察研究所などが滑走路跡と考えるとわかりやすい。
柏飛行場の看板は、柏の葉通りの北端交差点近くにある。

柏飛行場跡地
 第一次世界大戦は、航空機などの兵器の急激な発達をもたらしました。高性能な飛行機の開発の一方で、航空機による攻撃に対処するための施設の整備が必要となりました。
 柏飛行場は、成増・調布(東京)などとともに航空力強化と首都東京を守ることを目的として日本陸軍が設置しました。飛行場に選ばれた東葛郡田中村十余二は、東京の周辺部で畑地が大半を占める、平坦な土地を広く活用できる場所でした。昭和12年6月、近衛師団経理部が新飛行場を建設する旨を決定し、昭和13年11月に完成しました。同月、東京の立川から実戦部隊である飛行第5戦隊(東部105聯隊)が移転し、柏飛行場は首都東京防空の第一線の航空基地となりました。以後、いくつかの飛行戦隊の変遷があり、柏飛行場を基地としてB29をはじめとする米軍機の迎撃にあたりました。
 飛行場は北側が滑走路で、南側に本部・将校集会所・被服庫・兵舎・弾薬庫などの建物がありました。また、格納庫5つと、気象観測用の柏観測所も設けられました。
 終戦後もアメリカ軍の日本における最大の通信所として使用されていましたが、昭和54年に日本に全面返還されました。都市公園、学校、国の研究所などが立地する大規模なまちづくりが進められ、つくばエキスプレス開通に伴う区画整理の中で、掩体壕や秋水の燃料庫など新たな発見もありました。
参考文献:歴史アルバムかしわ-明治から昭和-、柏市史近代編、歴史ガイドかしわ
 令和3年3月31日 柏市教育委員会

柏の葉公園通り


柏通信所跡

柏飛行場は、戦後、米空軍に接収され、柏通信所として利用されてきた。

そんな米軍基地返還後の再開発記念の碑が、柏の葉公園の入口近くに建立されていた。

柏通信所跡地土地区画整理事業
完成記念
千葉県知事 沼田 武

事業の完成にあたって
 この「柏の葉」地区は、明治2年、千葉県で12番目に開拓されたことから、その地名を「十余二」といわれてきました。第二次世界大戦中は、旧日本陸軍の基地として使用され、また、終戦後、一旦農地として払い下げられたのち、再び米軍が接収し「米空軍柏通信所」として使用してきました。
 その後、県民の基地返還に対する熱意が伝わり、昭和54年8月14日全面変換されました。
 この土地区画整理事業は、千葉県が地域の身近な緑を生かし、市民がさわやかに憩う、文化の香り高い街づくりを目指して、昭和59年に着手し、7年余と事業費76億円を要し、このたび完成いたしました。
 この事業に携わった関係権利者、土地区画整理審議会、米空軍柏通信所跡地利用促進協議会及び関係機関の皆様の御協力に深く感謝致します。
 ここに事業の完成を祈念し、碑を建てました。
  平成2年11月吉日 
   千葉県知事 沼田 武

県立柏の葉公園

場所

https://goo.gl/maps/NtWNDecQujvzEyKH8

そのほか、柏飛行場関連の戦跡散策は別記事にて

※撮影:2021年7月


関連

ロケット戦闘機「秋水」地下燃料貯蔵庫の跡地散策(軍都柏・その5)

軍都柏の戦跡散策、その5。
柏飛行場の東側に展開していた「地下燃料貯蔵庫」の名残を探しに。
この日は、柏の葉キャンパス駅で自転車を借りて、飛行場を中心に自転車散策を敢行しました。

柏の戦跡を代表するのが、秋水燃料貯蔵庫、だろう。地上に突き出た通気孔のインパクトがあまりにも大きい。私もかねてから、現地を訪れたくてウズウズしていたが、今回ようやくに足を運ぶことができた。


ロケット局地戦闘機「秋水」

秋水

日本海軍と日本陸軍が共同で開発をすすめたロケット局地戦闘機(十九試局地戦闘機)。ドイツ空軍のメッサーシュミットMe163をベースに試作された。
試製秋水海軍略称はJ8M陸軍キ番号はキ200
「秋水」の呼称は、陸海軍の命名規則に沿っていない例外的命名。

画像出典:https://commons.wikimedia.org/wiki/File:J8M_Shusui_Sword_Stroke_Komet_J8M-10.jpg

高度1万メートル以上を飛来するアメリカ軍のボーイングB-29の邀撃に、日本陸海軍の従来のレシプロ戦闘機では高高度を維持することは極めて困難であった。
ロケット戦闘機は、酸化剤と燃料を全て機体内部に搭載し、酸素を外気に求めない=高高度の希薄な大気に影響されない特性を持つことから、邀撃機としてB-29の飛行高度まで加速度的に達し、1撃から2撃をかけるだけならば、設計上、数分の飛行時間しかない、当時のロケット戦闘機でも「局地的な防衛には十分に有効」との判断が下された。
そこで、ドイツから提供されたMe163Bの(資料を輸送していた潜水艦の撃沈によって不完全となってしまった)設計資料をベースに急ピッチで開発が推進。

この秋水プロジェクトに関しては、陸軍・海軍の枠を超えた、陸海軍民間共同の制作体制が整ったということは、当時の状況からすれば奇跡的なことであった。逆に言うと、陸海軍の意地を張る余裕もないほどにで日本は追い詰められていた状況であった。
機体の製作を海軍・海軍航空技術廠主導で、国産ロケットエンジンの開発を陸軍・陸軍航空技術研究所が主導、製造を三菱重工で実施。陸海民の連携であった。

秋水に搭載されるエンジン「特呂二号」の燃料は、2つの液体を化学反応させるものであった。
 酸化剤:濃度80%の過酸化水素、オキシキノリン・ピロリン酸ソーダ
 混合液:メタノール、水化ヒドラジン、水、銅シアン化カリウム
日本軍では前者を「甲液」、後者を「乙液」と呼称。(ドイツではT液とC液)
甲液の供給する酸素により燃料である乙液を燃焼させるシステムであるが、酸化剤(甲)と燃料(乙)の配合はデリケートなセッティングが要求され、また取り扱いが非常に難しい危険な劇薬でもあった。

昭和20年7月7日に、横須賀海軍航空隊追浜飛行場試製秋水(三菱第201号機)は試飛行するもエンジントラブルで墜落、テストパイロットの海軍三一二航空隊の犬塚豊彦大尉(海軍兵学校七十期)は殉職。

試製秋水生産2号機(三菱第302号機)が陸軍キ200として柏飛行場の飛行第70戦隊へ運搬され試験開始。しかしロケットエンジンが間に合わずに動力飛行を行うことができず、そのまま終戦を迎えた。

試作機製造とあわせて量産の準備も進んでいた秋水は、配備のための燃料タンクの準備も進められた。柏飛行場の地下燃料貯蔵庫も秋水配備のための準備であった。

秋水は、陸海軍共同開発機のため、それぞれに配備計画があった。
陸軍は、柏飛行場の「飛行第七〇戦隊」
海軍は、百里原飛行場の「第三一二海軍航空隊」
陸軍海軍ともに、秋水の実験部隊も兼ねていた。

以下の写真は、筑波海軍航空隊記念館の展示品。
陶器製燃料タンクは左が陸軍、右の錨印が海軍。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-R393-117
昭和22年(1947年)10月23日、米軍撮影の航空写真を一部加工。


軍都「柏」

軍都柏とも軍郷柏とも称されることになった、千葉県柏市。
柏飛行場をはじめとし、多くの軍事施設が集まる地となっていた。

柏飛行場
昭和12年(1937)6月、近衛師団経理部は東葛飾郡田中村十余二に陸軍の新飛行場を建設する旨を決定。
昭和13年11月に「陸軍柏飛行場」(東部第105部隊)が完成。東京立川から「飛行第五戦隊」が移転してきたことにより、柏飛行場は、帝都防空の航空基地となり、軍都としての歩みもここからはじまった。

昭和20年4月には、ロケット推進戦闘機「秋水」開発のための陸軍の特殊部隊、陸軍航空審査部特兵隊が柏飛行場に進出。柏には、秋水の燃料貯蔵庫なども設けられた。

高射砲部隊
昭和12年10月、「飛行部隊」とは別に、帝都防空のもう一つの主役として「高射砲部隊」が千葉県市川市国府台に高射砲第二連隊が新設。
昭和13年11月に柏飛行場の完成とあわせて、柏(富勢)に「高射砲第二連隊」も移動。帝都防空の一翼を担うとともに、東葛地域の飛行場の防御も担当した。
昭和16年に東京に「高射砲第二連隊」主力が移動。その後、 高射砲第二連隊 の跡地には留守近衛第二師団の歩兵・工兵補充隊が駐留し、昭和20年に東京師管区第二補充隊(東部八三部隊)と同近衛工兵補充隊(東部一四部隊)となった。

その他
昭和12年11月、東京憲兵隊市川分隊柏分遣隊開設

昭和14年2月、第4航空教育隊(東部第102部隊)が開設。飛行機の整備に関する訓練や教育を担当した。
昭和14年4月、陸軍航空廠立川支廠柏分廠も開設され、飛行場に配備されていた飛行機や車両の整備・点検を行う補給機関を担った。
同じ 昭和14年4月には、陸軍柏病院が開設。
昭和20年6月には柏(鎌ヶ谷)に、陸軍藤ヶ谷飛行場が完成している。現在の海自下総航空基地となる。
また、昭和18年11月には、柏陸軍墓地忠霊塔も建設された。

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ファイル: USA-M29-58
昭和24年(1947年)2月8日、米軍撮影の航空写真を一部加工。

軍都柏の主要軍事施設を記載しておく。


ロケット戦闘機「秋水」地下燃料貯蔵庫(花野井)

柏警察署花野井交番の奥の住宅地におもむろにあらわれたコンクリート造形物。
コンクリート胴体が地下燃料貯蔵庫。現在は地上に露出しており、出入り口は塞がれている。

場所

https://goo.gl/maps/4Z1VvQqwzzNvRB2J8

「秋水」地下燃料貯蔵庫の出入口(花野井)

北上する。
台地の下には地下燃料庫が隠されている。台地縁辺には燃料庫出入口がいくつか見られる。3箇所は確認できた。

1つ目。

2つ目。むき出してる。近くで見てみたいが私有地のために近寄れず。

3つ目。わかりにくい。。。

「秋水」地下燃料貯蔵庫の通気孔(花野井)

畑に唐突にあらわれるコンクリート筒。連なる砲台のように見えるこの筒が、地下燃料貯蔵庫の通気孔であった。これは貴重な戦跡。地下の貯蔵庫とあわせてぜひとも史跡公園などに整備していただけると良いのだが、現実的にはいまのままの自然な保存が良いのかもしない。後世に残してほしい、いや、後世に残していかねばならない空間。

場所

https://goo.gl/maps/s4fjUhW51Ws5yLvi6


柏飛行場の近くにも、秋水の燃料庫があった。柏飛行場は別記事でまとめるが、先に柏飛行場近くの燃料庫にもあわせて言及しておく。

ロケット戦闘機「秋水」燃料貯蔵庫(正連寺)

こんぶくろ池自然博物公園の南東側(一号近隣公園エリア)内にある、一号丘と二号丘に燃料庫が保存されている(現在は埋没保存のため、燃料庫そのものをみることはできない)

 ※燃料庫2号基が再整備され公開となりました。

陸軍柏飛行場と秋水
 日中戦争(1937・昭和12年~)の開戦前夜から、帝都・東京の空を守る施設が東京周辺に建設され始めました。東京都心から30キロメートル圏にある柏でも、1938(昭和13)年11月頃、陸軍飛行場が完成しました。
 柏飛行場は第一線の飛行場でしたが、神奈川県の厚木飛行場とともに、有人ロケット戦闘機「秋水」の基地に予定されたことが特徴の一つです。秋水は、ドイツで開発されたロケット戦闘機をモデルに、B29迎撃用の新兵器として、陸海軍共同で開発されました。1944(昭和19)年夏から始まった開発は急ピッチで進み、年末には訓練用の軽滑空機「秋草」のパイロット訓練にこぎつけました。しかし、完成前に配線となり、柏飛行場にあった軽滑空機・重滑空機・実機の計4機とも、すべて燃やされてしまいました。
 秋水の燃料庫は柏市内の「飛行場隣接地」と。3~4キロメートル離れた「花野井・大室」に建設されました。まず飛行場東側の隣接地に、1944(昭和19)年末から建設。その地域が柏ゴルフ倶楽部(1961~2001年)となり、コンクリート製だったために、一部がコース小丘に埋められて破壊されず現在に至りました。
 図①内の赤丸が現在地で、2010年に柏歴史クラブが燃料庫5基を発見しました。公園内に保存されているのは、そのうち3基で、秋水の遺構は全国的に見ても少なく、大変貴重な戦争遺跡です。(ただし3号基は本体なし)

秋水燃料庫(1号基)
 柏飛行場東側の隣接地に造られた秋水燃料庫は、航空写真②のようにエル字型をしていました。飛行場隣接地では飛行訓練のため急いで燃料庫を造る必要があり、1944(昭和19)年末から、既製のヒューム管(下水道管)を利用・加工して建設されました。ヒューム管の長さは約2メートルで、9~10個つないだ燃料保管場所が、エル字の長い部分にあたります(柴田一哉氏)。
 この1号基は、戦時中と少し位置が変わって埋まっていました。写真①の「リング状の遺構」は、もともとは「煙突状の遺構」の上にあり、両者はつながっていました。柏ゴルフ倶楽部を造成するときに、コースに設ける丘の高さを調整するため、「リング状の遺構」を移動させたと思われます。
 柏歴史クラブは2010年の調査で、5か所の燃料庫跡を発見しました。そのうち1~3号基は、こんぶくろ自然博物公園内にあったため、柏市で保存してくれることとなり、一旦埋め戻されました。4・5号基は開発地域内にあったため、残念ながら撤去されました。

秋水燃料庫(2号基)
 この2号基は、戦時中の構造がそのまま残っている燃料庫で、柏市により保存、整備したうえで公開される予定です。
 柏飛行場東側の隣接地に造られた秋水燃料庫は、航空写真③のようにエル字型をしていました。柏市には、現在の地の「飛行場隣接地」と、3~4キロメートル離れた「花野井・大室」に燃料庫が建設されました。飛行場隣接地では、飛行訓練のため、急いで燃料庫を造る必要があり、1944(昭和19)年末から、既製のヒューム管(下水道管)を利用・加工して建設されました。ヒューム管の長さは約2メートルで、9~10個つないだ燃料保管場所が、エル字の長い部分にあたります(柴田一哉氏)。そこには写真④のように両側に溝があり、過酸化水素20リットルを入れたガラス瓶(写真⑤)を並べて保管しました。
 また先端部分に、リング状の遺構が出土しました。このリングは、円筒状の消火用貯水槽の底部だったと思われます。その貯水槽とヒューム管は管でつながれ、過酸化水素の流出や火災の場合などに大量の水を流す仕組みでした。

現在地は森の中、立入禁止。丘の中に埋没保存されている。

場所

https://goo.gl/maps/r6WNGkgNh5M3TRGEA

※撮影は2021年7月


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