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「計画に無かった最後の空襲」小田原空襲の戦跡散策

小田原地区は大規模な絨毯爆撃こそ受けることはなかったが、小規模な空襲は数度あった。
そして関東地方を空襲した米軍機の帰路にあたるために、たびたび予定計画外の空襲(余剰爆弾の投下)を受けることがあった。

8月15日、終戦の日。
米軍は熊谷・伊勢崎・秋田土崎に空襲を実行した。
この3都市が「最後の空襲」として取り上げられるが、計画外の空襲を最後の最後に受けたのが小田原だった・・・

そんな小田原市内に点在する空襲の爪痕を巡ってみたいと思う。

合掌


太平洋戦争の爆弾着弾跡(蓮上院土塁)

戦国時代の小田原北条氏が築いた土塁に、昭和時代の太平洋戦争の傷跡が残る貴重な史跡&戦跡。

太平洋戦争の爆弾着弾跡
 太平洋戦争が終わりに近づくにつれ、日本各地でB29爆撃機などによる空襲が激しくなってきました。
 小田原市でも、昭和20年4月以降終戦まで、たびたび空襲を受けました。
 そして、戦争終結直前の8月13日の午前8時30分ころ、小型機による空襲があり30名の犠牲者を出しました。このとき、新玉小学校(当時新玉国民学校)も攻撃を受け、若い教員1名と用務員2名が犠牲になりました。
 この空襲で投下された爆弾のひとつが、ここ蓮上院土塁に着弾し、土塁が大きく損壊してしまいました。
 戦国時代に小田原北条氏が築いた土塁に、昭和時代の太平洋戦争の傷跡が残る大変貴重な場所です。
  小田原市教育委員会

蓮上院土塁は、天正18年(1590)に小田原北条氏が築いた総構の一部。低地部残る総構の土塁は貴重なものとして、昭和34年に国の史跡に指定されている。

場所

https://goo.gl/maps/uCLkZwaiLx1xDy1EA


旧青橋の橋桁に残る弾痕

青橋は、小田原駅から早川駅方面に約400mほどのところにあった道路橋。並行して走る東海道線と箱根登山鉄道の線路をまたいでいた。旧青橋の橋桁は、横河橋梁製作所の製造。

昭和20年8月、小田原駅を狙った米艦載機の機銃掃射による弾痕が残されいる。
8月の幾日かは明らかではない。
8月3日に、下曽我駅と富士フィルム小田原工場がP‐51マスタングによる空襲あり
8月5日に、国府津駅と下曽我駅、富士フィルム小田原工場に同じくP‐51マスタングによる空襲があった。

戦後、青橋の改修でスクラップにされる予定だったところを、工事を請け負い、この空襲の体験者でもあった田中組の2代目社長が譲り受けて記念碑とした。
田中組が2011年7月、長期不況の影響で民事再生法適用を申請。会社再建のために本社ビルの社有地を売却し、寿町に事務所を移転。3代目社長は「記念碑は社の看板でもあり、先代の遺志は守っていきたい。」として、引き続き保存されている。

場所

https://goo.gl/maps/FdrNzjCDhcaN5tQJ6


小田原空襲の碑の跡

総務省のサイトには、一般戦災死没者の追悼・追悼施設として「小田原空襲の碑」の掲載がある。
ただし、小田原空襲の碑(撤去されました)との記載とともに。

現地に訪れてみたら、たしかに、碑はなくなっていた。。。

総務省サイト

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/virtual/memorialsite/kanagawa_odawara_city001/index.html

在りし日の写真と碑文面を総務省サイトより

小田原空襲の碑
第二次世界大戦最後の空襲
大南勝彦
 その昔 小田原宿は、東海道沿いと甲州街道沿いとに家並みがひろがっていましたが、当家の所は此の両者の交わる地点で、青物町一丁田へと伸びる甲州街道の基点でもありました。
 第二次世界大戦、いわゆる太平洋戦争の最後の日の夜半から早暁にかけ、当地はアメリカ空軍B29爆撃機による焼夷弾爆撃を受けました。
 一九四五年(昭和二十年)八月十四日夜半、B29一機が来襲。まず照明弾が落とされ、旧甲州街道沿いに大量の焼夷弾攻撃を展開、当家は八箇の焼夷弾による直撃を受けましたが、警防団の消火活動で一旦鎮火。しかし十五日午前一時頃炎に包まれました。
 高梨町、青物町、宮小路、一丁田など、焼失家屋は合わせて四〇二戸。罹災者一八四四人。負傷者六五人。死者四八人を数えました。
 日本がポツダム宣言受諾を打電したのは八月十日でしたが、その後も交戦状態は続き、無条件降伏を決定したのは八月十四日、小田原空襲はそのあとに行われたもので、国内の他の数カ所の地域と共に、文字通り第二次世界大戦最後の空襲でした。


前述の「小田原空襲の碑跡」から西に少し移動すると看板があった。
8月15日の小田原空襲を物語る看板。

8月15日の小田原空襲

昭和20年8月15日。正午に「終戦の詔」が発せられる約11時間前。深夜1時か2時頃に、1機のB29が小田原市上空に飛来した。直前に伊勢崎か熊谷を空襲した編隊のうちの1機だった。
このたった1機のB29は小田原上空で焼夷弾(余剰分か?)を投下。マリアナ諸島の基地に帰投する途中での計画外での空襲行為は、文字通りに「無差別爆撃」であり、そして「最後の最後の空襲」であった。

8月15日の小田原空襲
1945(昭和20)年8月15日、まさに敗戦当日、深夜1時か2時頃、小田原市はアメリカ軍の戦略爆撃機B29一機による焼夷弾空襲を受けました。
 小田原空襲の直前には、埼玉県熊谷市と群馬県伊勢崎市が空襲を受けており、その2都市を攻撃した編隊の内の一機が、マリアナ諸島の米軍基地へ帰還する途中に小田原を空襲したものと考えられます。アメリカ軍のその日の作戦任務報告書には、小田原空襲の記載は一切なく、計画されたものではありませんでした。
 しかしながら、アメリカ軍の日本都市空襲の候補地が記された「一八〇都市の表」の96番目に小田原が挙げられており、本格的な小田原市街地への焼夷弾空襲がなされ、壊滅的な被害を受けた可能性がありました。
 8月15日の小田原空襲で被災し炎上した地区は、現在の浜町1・3丁目、本町2・3丁目にまたがり国道1号線をはさんで国際通りの両側にあたります。焼失した家屋は約400軒、死者は本会の調査によれば12名です。
 被災した小清水旅館には、小田原空襲を伝える写真が保存されています。建物がすっかり焼け落ちた古清水旅館の後方に焼き尽くされた小田原の町並みが映っています。当時の館主、清水専吉郎氏が写真屋を呼んで撮影したものです。
 今から62年前にあった小田原空襲を記した説明板を、被災した古清水旅館の敷地に設置することで、戦争の愚かさや悲惨さ、平和の尊さを少しでも語りつぐことができればと思います。
 2007(平成19)年8月15日
  戦時下の小田原地方を記録する会
  古清水旅館 館主 清水伊十良

場所

https://goo.gl/maps/TyfN2h4ihwZP5Qwr8


小田原市慰霊塔

昭和32年(1957)、竣工。慰霊塔の高さは約12m。明治以降の小田原市の戦没者及び戦争犠牲者2858名を慰霊。

小田原市慰霊塔
 太平洋戦争終結以来十有余年 今や我が国は国土の復興も漸く進み 世界平和に寄興すべき国際的な地歩を築くと共に 本市また発展の一途を辿り 市民の福祉は日に月に増進せられつつある この時 殉国の英霊に対する市民の敬慕の情はいよいよ昴まり その総意として英霊の御冥福を祈念し その功績を後世に伝える恒久的慰霊顕彰施設の建設を希うに至った ここにおいて 本市は明治以降の戦役及び太平洋戦争における戦没者並びに戦争犠牲者の慰霊塔建設を企画し 昭和32年5月9日 小田原市戦没者慰霊塔建設委員会を設置 市民の浄財と市費とをもって 昭和32年7月4日起工 同年10月29日その完成を見るに至った 本慰霊塔の表題字は 元小田原市長鈴木英雄氏の揮毫に成るものである われわれは今この聖塔を前にして 永遠の平和を祈念すると共に 郷土の発展と 御遺族の援護とに一層努力することを誓う次第である 願わくば諸霊 永えに鎮まり 御遺族の上に加護を垂れ給わらんことを ここに建設の経緯を記し 後世に遺すことした
 昭和32年10月29日
  小田原市長 鈴木十郎 選書

慰霊塔の隣に石碑があった。

(表面)
明治天皇 御製
世とともに かたり伝へよ 國のため
 命をすてし 人のいさをを
  従二位伯爵 東郷平八郎 謹書
(裏面)
私儀東郷家執事時代閣下より特に揮毫賜りし書を慰霊の為捧ぐ
昭和43年12月吉日建之
小田原市栄町寄贈者 飯田貫一  

場所

https://goo.gl/maps/mDTgN3Rhze1pCCqM9

なお、エリアは広域のために、レンタサイクルが便利。


参考

https://www.townnews.co.jp/0607/2017/08/19/395175.html

https://www.townnews.co.jp/0607/2014/08/09/247580.html

https://www.kanaloco.jp/news/social/entry-43693.html


関連

熊谷空襲

潮音寺の平和観音・特設自動車隊第23中隊(小田原)

小田急足柄駅の近くに鎮座している「潮音寺」。
ここに平和観音があるというので足を運んでみた。


平和観音

平和観音
比島派遣軍特設自動車隊第二十三中隊戦没者英霊 50柱
各戦役戦没者英霊 52柱
潮音寺戦没英霊各位 27柱

平和観音像は比島派遣軍特設自動車隊第二十三中隊戦没者英霊及び各戦役に散華された諸英霊に対し広大無辺なる観世音菩薩のご慈悲を仰ぎ心からなる供養の誠心を捧げると共に再び悲惨な戦争が繰り返されぬよう永遠の世界平和を祈念し建立されたものである。
昭和56年11月22日
比島派遣軍特設自動車隊第二十三中隊
 生存者遺族一同合掌
奉為当山35世天英光重大和尚尚上酬滋恩
 守塔比丘康哉合掌 

第35軍とレイテ島の戦い

比島派遣軍特設自動車隊第二十三中隊は、第35軍直属の部隊。
第35軍は、鈴木宗作陸軍中将を司令官とする。
昭和19年8月4日に編成。第14方面軍隷下。司令官は山下奉文陸軍大将。

第35軍はレイテ島の戦いの主力として奮戦。
制空権制海権を失い、昭和19年12月18日に大本営はレイテ島を放棄。12月22日には第14方面軍より自戦自活を命じられる。第35軍は、レイテ島、ミンダナオ島、ビサヤ諸島などの各地で長期持久作戦を行い、米軍へ抵抗するとともに、飢餓との戦いが行われた。
第35軍直轄部隊参加者10,932人のうち戦死者10,682人、第35軍司令官であった鈴木宗作も昭和20年4月19日にフィリピン戦線で戦死、没後陸軍大将に進級する。

合掌

親を子を
 妻はとよびて
  逝きしとも
静かに眠むる
 平和のいしぶみ

為 平和観音慰霊供養

潮音寺

潮音寺毘沙門天と平和観音 小田原七福神
 この寺は大徳山潮音寺と号し、天文23年(1554)大休宗恵大和尚により開創され聖観世音菩薩をご本尊とする霊場である。
 毘沙門堂には七福神の一つである毘沙門天が安置され特に小田原七福神として広く知られている。
 尊像は総丈1m余り、室町中期の傑作といわれ、勇壮破邪の相を現じている。
 毘沙門天は北方多聞天とも称せられ財宝、智慧、福徳を授け、仏法加護の天王として篤い信仰を集めている。寅の日が縁日であり年頭の初寅の日には大祈祷会が厳修され大勢の善男善女で賑つている。
 「初黄晴れ毘沙門天の破邪心」俳人 石川冬城の句です。
 境内には平和観音像が建立されており、慰霊供養と世界平和を祈念する平和観音祭が行われる。

場所

〒250-0055 神奈川県小田原市久野511 潮音寺

https://goo.gl/maps/zJ5C5NJz66YkDusw7

「陸軍中佐上原重雄戦死の地碑」と「疾風のプロペラ」(小田原)

小田原市沼代。その山中の道路の傍らに、この地で戦死された搭乗員の慰霊碑があった。


上原重雄

鹿児島出身。陸士第52期卒業。
上原重雄は、スマトラ島の「パレンバン航空隊」にて、遠くニューギニア戦線までも遠征し縦横無尽に活躍。
特にB17爆撃機の迎撃で勇戦した「偉勲の戦士」として知られる。
昭和19年にパレンバンから日本本土に戻り、兵庫県の「加古川航空隊」で教育にあたっていたが、昭和20年1月愛甲郡愛川町中津にあった「相模陸軍飛行場(中津飛行場)」を拠点としていた「飛行第22戦隊長(22FR長)」に着任。

ジャンボリー作戦
昭和20年2月16日、米海軍空母機動部隊は関東地方に対して、空母艦載機による本土初空襲を敢行。(ドーリットル空襲を除く、通常の米海軍空母艦載機による本土初空襲)
これは、硫黄島上陸作戦と連動する、日本本土航空戦力の撃滅を目指したものであった。

米海軍の高速空母機動部隊である第58任務部隊が、関東地方周辺の日本軍航空基地及び航空機工場を攻撃。第58任務部隊は大型正規空母11隻・軽空母5隻を基幹とする強力な艦隊であった。
2月16日の空襲では、房総半島から関東上空を目指し、戦闘機部隊は本土上空で空中戦を展開。爆撃隊は中島飛行機太田製作所や小泉製作所を目標としたものであった。
2月17日の空襲では、東京西部の中島飛行機武蔵製作所や多摩立川地区の航空機工場が目標となる。
日本軍航空隊の損失は、少なくとも被撃墜60機・地上撃破60機以上。アメリカ軍の損失は戦闘による航空機損失60機とその他作戦中の損失28機の合計88機。

相模陸軍飛行場(中津飛行場)
第22航空戦隊は最前線から帰還し戦力回復のため中津で錬成している最中であった。
昭和20年2月17日、第22航空戦隊は既に近日中に朝鮮への移駐が決まっており、部隊には迎撃中止命令が発令されていた。しかし着任したばかりの飛行第22戦隊長・上原重雄少佐は、我が物顔に飛行する米軍機の振る舞いに祖国の末路を案じてか、部下をなだめつつも自らは義憤の単機発進を決行。

飛行第22戦隊長・上原重雄少佐は、相模陸軍飛行場(中津飛行場)から離陸し、米軍機を迎撃した。

100機にも及ぶ米軍機に上原重雄少佐は単機捨身で突入するも衆寡敵せず被弾。小田原市沼代上空で炎につつまれ天蓋から身を乗り出して北方の中津飛行場、そして皇居に両手を上げて決別しそのまま機とともに自爆。壮烈な戦死を遂げられた。
(上原重雄少佐は、死後、陸軍中佐に特進)


飛行第22戦隊(隼第18913)
飛行第二二戦隊 (隼第一八九一三部隊) 

飛行第22戦隊は、初の四式戦闘機「疾風」装備部隊であった。
初代戦隊長には陸軍戦闘機隊のエースパイロットであった、岩橋譲三少佐が着任。岩橋譲三少佐は四式戦テストパイロットも務めていた。
岩橋譲三少佐はノモンハン事件以来の古参熟練搭乗員でもあったが、昭和19年9月9日に西安飛行場で戦死。

飛行第22戦隊は、最新鋭の大東亜決決戦機「四式戦 疾風」を要する陸軍屈指の決戦部隊であり、上原重雄少佐は、第四代目の飛行第22戦隊長であった。

「疾風」運用の最初の実戦部隊として活躍した飛行第22戦隊の部隊マークは、湊川の楠木正成にちなむ「菊水紋」であった。

※画像は「ハセガワ 1/48 日本陸軍 中島 キ84-I 四式戦闘機 疾風 プラモデル JT67」
 http://www.hasegawa-model.co.jp/product/jt67/

飛行第二二戦隊 (隼第一八九一三部隊) 略歴
昭和19年3月5日  東京福生(多摩陸軍飛行場)において臨時編成・
昭和19年5月下旬  神奈川中津(中津陸軍飛行場)において教育訓練開始
昭和19年8月17日  中津飛行場を出発し漢口へ
昭和19年8月20日  中国大陸にて桂林作戦に参加
昭和19年10月中旬 内地帰還
昭和19年10月18日 中津飛行場を出発しフィリピンへ移動、レイテ作戦に参加
昭和20年1月28日  戦力を回復するために内地帰還
昭和20年2月20日  福岡第一飛行場に到着   
昭和20年2月21日  中津飛行場に到着
昭和20年3月5日  朝鮮京城金浦第二飛行場に着
昭和20年3月25日  中国徐州飛行場に着 
昭和20年8月2日  朝鮮京城飛行場に着
昭和20年8月15日 朝鮮晋州で終戦

参考:
「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C12122419500、陸軍航空部隊略歴(その1) 付.航空部隊の隷指揮下にあったその他の部隊/分割8(防衛省防衛研究所)」


中島 キ84 四式戦闘機「疾風」

大東亜決戦機として名高い「疾風」。
小山悌技師長を設計主務者とする中島製戦闘機の集大成。
「疾風」は重点生産機に指定され、戦争末期に近い昭和19年配備でありながら日本軍戦闘機としては零戦、一式戦(隼)に次ぐ約3,500機に及んだ。


疾風のプロペラ

四式戦に採用されたプロペラブレードは直径3.05 mの4翅であり、2000馬力戦闘機としては小径のプロペラであった。同時期に誕生した海軍の紫電・紫電改は、直径3.3 m、そして疾風と同じ中島製の海軍の彩雲は直径3.6 mを採用ということからも、疾風のプロペラが小さいことがわかる。一般には、プロペラ直径を大きくすると離陸時と上昇時の効率が向上し、小直径化すると高速飛行時の効率が向上するといわれている。
「疾風」プロペラは、フランスのラチェ式を改造し日本国際航空工業が国産化した電動可変ピッチ機構プロペラ「ペ32型」が採用。

「上原重雄戦死地の慰霊碑」は、疾風プロペラ1枚が用いられている。
これは、上原重雄の愛機「疾風」の残骸を陸軍が回収しに来た際に、「偉勲の戦士」の最後を見届けた農家の1人がプロペラを隠しておき、碑を作ったものだという。


陸軍中佐上原重雄戦死之地碑

合掌

近隣の方々により、今も手厚く維持されている。

陸軍中佐上原重雄戦死の地碑
 昭和20年2月17日、相模湾沖に進行した航空母艦から発進したグラマン戦闘機延べ600機が初めて関東地区を襲った。硫黄島上陸作戦を目前に、米軍の本土の目標に対する超低空からの集団攻撃だった。2日目を迎えた当地は朝から空襲警報下にあった。
 午前10時頃、攻撃を終えて南下してきた暗緑色の大編隊の群に単機捨身で突入した日本軍機があった。衆寡敵せず不運にも本市小竹上空で被弾してしまった。機は相模湾上で反転し、飛行場への帰還に向かったが、後続し南下する敵編隊の挟み撃ちにあい当地上空で炎につつまれ天蓋から身を乗り出して北方の基地、皇居に両手を上げて決別しそのまま機とともに自爆し壮烈な戦死を遂げられた。墜落場所は沼代の山の中腹(やまゆりライン沼代入口付近から山側に入る鉄塔近く)。
 その姿は当地の人々に現在も鮮烈に残っている。戦死した搭乗者は首都防衛飛行第22戦隊長上原重雄中佐(鹿児島出身 享年28歳)であった。
 歴戦の中佐は陸士第52期の卒業でスマトラ島のパレンバン航空隊を拠点として遠くニューギニア戦線までも遠征し縦横無尽に活躍をし、特にB17爆撃機の迎撃には偉勲の戦士と言われている。前年に祖国に帰り兵庫県加古川航空隊で教育にあたっていたが、20年1月愛甲郡愛川町中津にあった第22航空戦隊長として着任した直後であった。
 当日は部隊が朝鮮平壌に移駐が決まり、軍は迎撃中止を命じていたが、我が物顔の敵機の振る舞いに祖国の末路を案じてか、はやる部下隊員を掩体壕になだめおいて、自らは義憤の単機発進をされたものと思われる。
 当地においては故人を偲び、当地区の戦死者として遺影を福泉寺に掲額し遺族会としても懇ろに供養している。
 墓地の記念碑は搭乗機「疾風」のプロペラ4枚のなかの1枚である。永く戦死の地に設置されていたが、平成22年(2011)に現在地に移設された。

(表面)
 故上原重雄墓

(裏面)
 昭和20年2月17日戦死
 昭和28年9月23日建之
 百機ノ敵ニ一機ヲ以テ挑戦
 享年28才
 

(表面)
上原重雄戦死之地

(裏面)
 時 昭和20年2月17日
爆音乃たへて 桜とちりぬるも 
 高きかんばせ 永遠にきへなん

隼 戦闘隊長
 陸軍少佐 行年28才

故人愛キ之プロペラ

出身地
 鹿児島県日置郡
  市来町 湊

昭和28年
 墓ト共ニ建之

林唯四郎
 カキキザム

疾風のプロペラ。ジュラルミンのアルミ合金に刻まれたレクイエム。

プロペラであることがわかる薄さ。なおかつ、墜落時の衝撃でより一層に曲がっている。

案内看板の背面には、地元の人による墜落当時のエピソードが掲げられていたが、残念ながら風雨により劣化しており、全てを読むことが出来ない状態だった。

第22航空戦隊長上原重雄が散った小田原の空。

実際の墜落現場は、慰霊碑がある場所より直線距離で約800mほど西側の山中。
平成22年(2011)に山中で関係者が高齢となり維持や参拝が困難となったことから、山中から沼代の集落近くの道路に移転。

Googleストリートビューにて。中央の鉄塔のあたりが、墜落現場。

墜落現場

https://goo.gl/maps/6d49swavBGKpnnkV9


福泉寺

ちかくの福泉寺には、上原重雄中佐の遺影が保管されているという。

王子神社

「陸軍中佐上原重雄戦死之地碑」へは、王子神社を目標とするとわかりやすい。
王子神社 〒256-0801 神奈川県小田原市沼代506−1

下記写真の鳥居の先の道路がカーブする所に、慰霊碑がある。

「陸軍中佐上原重雄戦死之地碑」の場所

https://goo.gl/maps/9vd8T8yrW3oKfSPT8


公共機関でのアクセス方法

JR二宮駅南口よりバスというのが、一番わかりやすい。
ニ30系統 中井町役場入口行に乗車し、「下中駐在所前」で下車。徒歩約20分。

道中は、のどかな田園地帯を20分ほど歩く感じ。


参考

https://www.townnews.co.jp/0607/2015/05/02/281877.html

https://www.kanaloco.jp/news/social/entry-92679.html

駆逐艦五月雨戦没者慰霊之碑(小田原)

JR早川駅から見える大きな白い観音様。
「魚藍観音」
小田原市早川の東善院に、駆逐艦五月雨の慰霊碑があるというので足を運んでみた。


駆逐艦五月雨戦没者慰霊之碑

小田原市早川鎮座の東善院、魚藍観音の後方の墓地の最上段に、「駆逐艦五月雨の慰霊碑」はあった。

駆逐艦五月雨慰霊碑がこの地に建立された理由は、五月雨の元乗組員で組織された「五月雨会」のメンバーに小田原出身者がいたことによるという。相模湾を望むこの地から、五月雨の慰霊碑は生まれ故郷(建造ドック)のある浦賀に向け建てられているという。

駆逐艦五月雨戦没者慰霊之碑
昭和57年8月 戦友並ニ遺族 建之

慰霊碑の下部には戦没者の名前が刻まれている。
昭和17年10月14日 10名 (ガダルカナル島の戦い)
昭和18年11月2日  6名 (ブーゲンビル島沖海戦)
昭和19年8月26日  9名 (パラオ・ガルワングル環礁)

駆逐艦五月雨

白露型駆逐艦の6番艦。
浦賀船渠で建造され、昭和12年(1937年)就役。
昭和16年12月8日の太平洋戦争開戦時は、白露型4隻(村雨・五月雨・夕立・春雨)で第2駆逐隊を編成し、第四水雷戦隊(旗艦・那珂)に所属。南方作戦に従事。

昭和17年10月12日夕刻、第2駆逐隊3隻(五月雨・春雨・夕立)は輸送船4隻(吾妻山丸、南海丸、九州丸、佐渡丸)を護衛してラバウルを出撃。
10月14日、栗田健男中将指揮下の第三戦隊(金剛、榛名)によるガ島ヘンダーソン飛行場砲撃は成功するも、輸送船団は14日朝以降米軍機の空襲を受け、五月雨も被害を受け10名の犠牲者を出す。
その後も五月雨は、第三次ソロモン海戦、キスカ島撤退作戦などに参戦。

昭和18年11月2月、第27駆逐隊(時雨・白露・五月雨)はブーゲンビル島沖海戦に参加。五月雨は舵が故障した白露と衝突し、さらに米軍駆逐隊に追撃されて被弾し、6名の犠牲者を出すが、五月雨・白露とも離脱に成功。

昭和19年にはいり五月雨は中部太平洋諸島への船団護衛に従事。
昭和19年8月18日、軽巡鬼怒と第27駆逐隊(時雨・五月雨)で航行中に、五月雨はパラオ近海のガルワングル環礁で座礁。火災も発生し深刻な損傷を受けてしまう。B-24の爆撃に曝される中で、8月26日にアメリカの潜水艦バットフィッシュ (USS Batfish, SS/AGSS-310)が座礁中の五月雨を雷撃。魚雷は五月雨右舷中部に命中し、大破した船体は断裂し9名の犠牲者を出す。五月雨は放棄され五月雨艦長以下生存者は駆逐艦竹に救助された。

五月雨の生まれ故郷「浦賀」を望む。(魚藍大観音とともに)

五月雨慰霊碑の高台からは、小田原城も見える。

そして、五月雨慰霊碑の後方を東海道新幹線が走り抜ける。


魚藍大観音

大きな白い観音様は、魚を入れる籠(魚藍)を携えている。籠からは魚の尾びれが飛び出している。なかなか愛くるしい観音様。
昭和57年(1982年)に、海上安全・大漁祈願を目的として建立。
鉄筋コンクリート造りの全身像で総高13m。

魚籃観音
三十三観音の一つ。魚を入れたかごを手にさげている観音。大魚に乗っている像もある。羅刹(らせつ)・毒龍の害を除く功徳があるという。魚籃。

コトバンク 
https://kotobank.jp/word/%E9%AD%9A%E7%B1%83%E8%A6%B3%E9%9F%B3-480000

東善院

神奈川県小田原市早川482鎮座。真言宗東寺派。

JR早川駅からも、魚藍大観音のお姿は見える。


JR早川駅

JRの駅では日本一港に近い駅、らしい。小田原漁港の最寄駅。
1922年(大正11年)12月21日、開業。
1923年(大正12年)9月1日、関東大震災で駅舎倒壊。
現在の駅舎は関東大震災以降に再建されたであろう木造駅舎。昭和初期の佇まいを残す。


場所

https://goo.gl/maps/GrKN9roxnGSLM8C56


関連(五月雨の僚艦たち)

村雨

白露・時雨(第二十七駆逐隊慰霊碑)

佐世保海軍墓地

「45cm四四式二号魚雷」神山神社に残る国産初の魚雷(小田原)

小田原駅から北西に約2キロの地に鎮座している神社に「魚雷」があると聞き、足を運んでみた。
なんでも地元では「久野の爆弾神社」といわれているらしい。


45cm四四式二号魚雷

昭和2年に神山神社に下付された魚雷。
第24代横須賀鎮守府長官・安保清種まで魚雷提供の相談があったという。

日清・日露戦争時の帝国海軍は輸入魚雷に頼っていた。
日露戦争後、明治44年(1911)に国産化にはじめて成功した魚雷が「45cm四四式魚雷」。
この四四式魚雷が帝国海軍の魚雷技術発展の礎となり、世界で唯一実用化に成功した酸素魚雷を生み出すこととなる。

由来(郷社神山神社の魚雷について)
「戦時下の小田原地方を記録する会」の調査によると、神社関係者が戦前旧日本海軍から譲り受けたとみられる。
防衛省防衛研究図書館所蔵の「廃兵器無償下附の件」と題する文章によると、1927年8月1日で同神社の関係者から旧日本海軍の横須賀鎮守府長官迄に魚雷提供の要請があり、同9月に許可が下りる。陸軍大臣にも同様の要請を行い、魚雷、砲弾が送られる。戦後、魚雷1基と砲弾2発は慰霊碑とともに残されたが砲弾は火薬が残存する疑いがあり、2003年に撤去する。
海上自衛隊による魚雷調査結果は、全長5.2メートル直径45センチメートル、明治44年制式と推定された。

 久野氏子の皆様に恒久の平和を願うものです

思った以上に、しっかりとした魚雷。

細部を観察。

ネジ穴が海中の抵抗を考慮し、涙滴型となっている。

内部に木材が使われていました。

当時、最新のテクノロジーで作られたであろう機器が露出。

シャフト部分

横舵と縦舵と推進プロペラ

これは貴重な戦跡、戦争遺産。一見の価値ありです。


魚雷の後方に並んでいる3つの慰霊碑。

忠魂碑

忠魂碑
陸軍大将正三位勲一等功三級男爵 奥保鞏 書

明治三七八年戦役戦没者

日露戦争の慰霊碑。明治39年建立。
日露戦争における戦没者17柱の慰霊顕彰。

二七八役戦歿者碑

陸軍歩兵大佐従五位勲三等功四級 隠岐重筋 書
明治31年3月建立。日清戦争の慰霊碑。
日清戦争における戦没者2柱の慰霊顕彰

忠霊塔

忠霊塔
靖国神社宮司 筑波 藤麿 書

昭和32年3月建立。
大東亜戦争における戦没者110柱の慰霊顕彰。

砲弾が置かれていたであろう場所。


神山神社(こうやま神社)

神奈川県小田原市久野に鎮座。明治社格は郷社。

神山神社
 神山神社の祭神は天照大神、伊弉諾命、伊弉冉命で、第六十六代一条天皇の永延2年(988)に創建されたといわれています。
 かつて神山神社は、久野坊所村山中に在社していましたが、兵火により焼け落ち、その時社殿から御幣が舞い上がり、松田の神山と現在地に落ちた。また、権現再興のために牛に乗せ山道を降りて来た時、現在地にて牛が動かなくなったため、この地を霊地として御魂を移した、などと言い伝えられています。
 応永23年(1416)、上杉禅秀の乱により、それまでの社殿や宝物などが焼失しましたが、大栄永4年(1524)神山権現を信仰した北条氏綱により社殿が改修されました。
 天正18年(1590)、小田原合戦の際に、神主の窪倉中務正広は、戦火を逃れるために神社の宝物類を携えて逃げる途中に亡くなったため、神社はこれまでの繁栄を失ったといわれています。
 小田原合戦前は近隣の村々18箇所の総鎮守でしたが、江戸時代後期には久野・池上・荻窪の3箇所の、そして現在は久野地区及び水之尾地区の一部の総鎮守となっています。例祭日は10月吉日です。

場所

https://goo.gl/maps/d591NSrv74k3NsiX7


関連記事

https://www.kanaloco.jp/news/social/entry-118483.html

https://www.kanaloco.jp/news/social/entry-105900.html

https://www.townnews.co.jp/0607/2014/09/20/252243.html

英連邦兵士たちが眠る日本唯一の墓苑「英連邦戦死者墓地」(横浜)

神奈川県横浜市保土ケ谷区。
この地に、イギリス連邦諸国の戦死者専用墓地がある。
日本の中のイギリス。足を運んでみました。

アクセスはバスで。
保土ヶ谷駅から市営バス「児童遊園地前」バス停を利用するのが便利。

手入れの行き渡り整えられた芝生と草木。ありがたいばかりに神聖で静謐な空間が広がっておりました。
勇者に敵味方なし。自ずと頭をたれて、手を合わせる。


英連邦戦死者墓地

第二次世界大戦後に、現在の横浜市保土ケ谷区に所在していた保土ヶ谷児童遊園地・保土ヶ谷錬成場が接収され、英連邦戦死者墓地が作られたことにはじまる。約3ヘクタールの土地に1800余柱が眠っているという。

英連邦では1917(大正6)年に定められた原則があり、「戦死者の遺体は本国に送還せず、階級差なく現地で埋葬する」という方針のもと、英連邦戦死者墓地委員会が設置され、世界中にある英連邦戦死者の墓地を管理している。

1952年に日本国との平和条約発効によってイギリス連邦占領軍による占領解除されるが、1955年に日本国とイギリス連邦諸国(イギリス、カナダ、オーストラリア、ニュージーランド、南アフリカ共和国、インド、パキスタン)の間に締結された「日本国における英連邦戦死者墓地に関する協定」(1955年9月21日署名、1956年6月22日効力発生)に基づき、「英連邦戦死者墓地」の設置が確認された。
敷地は、日本国政府より英連邦戦死者墓地委員会に対し無償かつ自動更新(30年期限)で使用を許可している。

詳細は「英連邦戦死者墓地委員会(コモンウェルス戦争墓地委員会)」公式サイトにて。

CWGC
Commonwealth War Graves Commission
コモンウェルス戦争墓地委員会

https://www.cwgc.org/visit-us/find-cemeteries-memorials/cemetery-details/49433/YOKOHAMA%20WAR%20CEMETERY/

COMMONWEALTH
WAR GRAVES

COMMONWEALTH WAR
CEMETERY YOKOHAMA

英連邦戦死者墓地

日本政府の厚意によって提供されたこの土地には、英連邦諸国、アメリカ合衆国、オランダ王国の各国民で祖国の為に生命をささげた人々が葬られています。
この墓地の維持管理は英連邦戦死者墓地委員会が英国、カナダ、オーストラリア、ニュージーランド、南アフリカ共和国、インド、パキスタンの諸国に代わって行っています。
参観時間は8:00AM~5:00PM迄となっています。
 英連邦戦死者墓地委員会

VISITORS BOOK
記載室(資料有り)

パンフレットがありましたが、英文でした。。。

1939-1945
この共同墓地の土地は第二次大戦で亡った陸・海・空軍戦没者の永遠の安らいの場所として日本国民から贈られたものです。

1939-1945
THE LAND ON WHICH THIS CEMETERY STANDS IS THE GIFT OF THE JAPAN FOR THE PERPETUAL RESTING PLACE OF THE SAILORS SOLDIERS AND AIEMAN WHO ARE HONOURED HERE

CWGC
Commonwealth War Graves Commission

英連邦戦死者墓地委員会にようこそ
横浜戦死者墓地
Yokohama War Cemetery

ここは日本で唯一の英連邦の墓地です。第二次世界大戦中に亡くなった2000名以上の連合国要員が、ここに埋葬または慰霊されています。大部分はオーストラリア、カナダ、統一インド、ニュージランドおよび英国から英連邦軍に所属していましたが、80名は米国とオランダ軍からでした。

第二次世界大戦(1939年-1945年)中、何万人もの連合国兵士と女性が日本軍の捕虜(POW)になりました。35,000人以上の捕虜が、労働力として日本に連行され、鉱山や造船から農業や軍需品製造まで、さまざまな産業で働かされました。福岡、広島、大阪、名古屋、東京、仙台、函館の7ヵ所には、主要な捕虜収容所が設けられました。収容所の状態は過酷だったので、何千人もの人々が捕虜の身のまま死亡しました。

1945年の日本の降伏後、この墓地は第38オーストラリア戦争墓地ユニットによって始められました。収容所で亡くなった人々の遺骨は埋葬のためにここに運ばれました。

  • 1 戦死者名簿と訪問者の記載室
  • 2 「犠牲の十字架」 ここに埋葬されたキリスト教徒に敬意を表す
  • 3 横浜記念碑 墓石のない20名のインド兵を追悼
  • 4 イギリス兵の墓地
  • 5 オーストラリア兵の墓地
  • 6 インド兵の墓地
  • 7 ニュージランドとカナダ兵のの墓地
  • 8 横浜納骨堂 火葬された335名の英連邦の兵士、オランダ兵およびアメリカ兵を追悼
  • 9 第二次世界大戦後の墓地

1917年5月
 大英帝国死者墓地委員会を設立
1939年9月
 英国、第二次世界大戦に参戦
1941年12月
 日本軍の真珠湾攻撃と東南アジア侵攻
1942年2月
 シンガポールの英連邦軍、日本に降伏
1942年6月
 日本軍、ミッドウェイの戦いで敗北
1944年6月
 日本軍、インドで敗北
1944年6月
 日本への大規模な爆撃開始
1945年3月
 東京大空襲
1945年6月
 日本軍、沖縄で敗北
1945年8月
 原爆投下と日本降伏。第二次世界大戦終了
1945年
 この地での最初の埋葬
1951年
 墓地委員会に墓地の土地を恒久的に貸与
1960年
 英連邦戦死者墓地委員会と名称変更

ジョージ・ヘンリー・ビールについて
ジョージ・ビールは、第二次世界大戦中オーストラリア軍に所属しました。ジョージと彼の兄弟のフレデリックは、1942年2月にシンガポールで捕虜となりました。彼は日本に収容され、製鉄所で強制労働をさせられました。ジョージは、24時間シフトの工場での事故で重傷を負った後、1943年5月28日に死亡しました。彼はオーストラリア区のE区画、A列、墓石3番に埋葬されています。彼の兄弟は戦争を生き抜き、1945年9月に開放されました。

設計と建築
戦前、この地域一帯は横浜市の公園でしたが、1945年に捕虜埋葬のために接収されました。1951年、公式にこの土地は墓地委員会に恒久的に貸与されました、ニュージランドとカナダ両国のための合同区画と共に、英国、統一インド、オーストラリア各軍に所属した人々の埋葬のために独立した区画が設けられました。それぞれの墓には、そこに埋葬された人についての詳細が記載されたブロンズのプレートが付いています。

CWGC
1917年に設立された英連邦戦死者墓地委員会(CWGC)は、第一次世界大戦と第二次世界大戦の間に英国軍と英連邦軍に従軍して戦死した170万人以上の軍人と女性を慰霊しています。CWGCは、世界中の150以上の国と地域で活動しています。CWGCは、第二次世界大戦中に亡くなった24,000人以上の連邦国軍の兵士が慰霊されているシンガポール・メモリアルなど、アジア太平洋地域の何十もの墓地や慰霊碑を管理しています。

こちらは英語版の看板。

日本語と英語と2つの看板が並んでいる。


横浜納骨堂

火葬された335名の英連邦の兵士、オランダ兵およびアメリカ兵を追悼

https://www.cwgc.org/visit-us/find-cemeteries-memorials/cemetery-details/2086701/YOKOHAMA%20CREMATION%20MEMORIAL/

YOKOHAMA CREMATION MEMORIAL

1939-1945
IN THE URN BELOW REST THE ASHES OF 335 SAILORS. SOLDIERS AND AIRMAN OF THE BRITISH COMMONWEALTH. THE KINGDOM OF THE NETHERLANDS AND THE UNITED STATES OF AMERICA WHO DIED AS PRISONERS OF WAR IN JAPAN. THE NAMES OF 284 ARE INSCRIBED ON THESE WALLS. THE IDENTITY OF THEIR 51 COMRADES IS UNKNOWN
THERE BE OF THEM THAT HAVE LEFT A NAME BEHIND THEM THAT THEIR PRAISES MIGHT BE REP ORTED AND SOME THERE BE WHICH HAVE NO MEMORIAL. BUT THEIR RIGHT-EOUSNESS HATH NOT BEEN FORGOTTEN AND THEIR GLORY SHALL NOT BE BLOTTED OUT

(意訳)
1939-1945
下の骨壺には、英国連邦の水兵、兵士、空軍兵士、日本で捕虜として死亡した英国連邦、オランダ王国、米国の兵士など335名の遺灰が納められています。この壁には284名の名前が刻まれています。51人の仲間の身元は不明である。
彼らの中には、その称賛を伝えるために名前を残した者もいれば、記念碑のない者もいるだろう。しかし、彼らの正義は忘れられず、その栄光は消し去られることはない。


イギリス兵の墓地

「犠牲の十字架」 ここに埋葬されたキリスト教徒に敬意を表す


インド兵の墓地

統一インド兵の墓地(イギリス領インド=インド・パキスタン・バングラデッシュ)

「横浜記念碑」
墓石のない20名のインド兵を追悼

1939-1945
IN HONOUR OF THESE OFFICERS AND MEN WHO DIED IN THE SERVICE OF THEIR COUNTRY AND NO KNOWN GRAVE
(意訳)祖国のために亡くなった将校や、決まった墓のない男たちに敬意を表す

INDIAN FORCES
1939-1945

INDIAN
PAKISTAN


第二次世界大戦後の墓地

BRITISH COMMONWEALTH FORCES CEMETERY
(英国連邦軍墓地)


オーストラリア兵の墓地


ニュージランドとカナダ兵の墓地


徽章

墓石には、亡くなられた方々が所属していたであろう、さまざまな部隊の徽章(シンボルマーク)があった。
以下、順不同で。

●英国

●ニュージランド

●カナダ

●統一インド


場所

https://goo.gl/maps/S3Kts5BvwY22X9uRA

参考

https://hamarepo.com/story.php?page_no=1&story_id=358

※撮影は2021年4月

臨時東京第三陸軍病院跡(相模原)

小田急相模原駅から一直線に伸びる道路を1.5キロほど突き当たりまで歩いていくと、「国立相模原病院」にたどり着く。「国立相模原病院」はかつて、「陸軍病院」であった。

軍都相模原
昭和12年(1937)に「陸軍士官学校本科」が、座間・相模原に移転。
その後も続々と陸軍関連施設が展開。
「相模陸軍造兵廠」「陸軍兵器学校」「陸軍機甲整備学校」「陸軍通信学校」「相武台陸軍病院」など。

臨時東京第三陸軍病院
昭和13年4月、野戦病院として、「臨時東京第三陸軍病院」創設。突貫でバラック建物を建てたという短期間設営の病院であったが、規模は大病院以上。陸軍直轄病院。東日本最大の陸軍病院であった。
陸軍病院の開院に合わせて小田急相模原駅が開業。
昭和天皇が、戦地からの傷病兵を見舞うために、行幸された唯一の陸軍病院。敷地内は記念碑が残っている。

昭和20年12月、戦後、臨時東京第三陸軍病院は、厚生省に移管され、「国立相模原病院」として発足する。

臨時東京第三陸軍病院 行幸記念碑

相模原病院正門右手に。陸軍病院時代を物語る石碑。

行幸記念碑
陸軍省医務局長 三木良英 謹書

(裏面)
行幸 昭和14年3月14日
臨時東京第三陸軍病院

(添碑)

昭和15年5月
 臨時東京第三陸軍病院長
 陸軍軍医少将 押火権太郎 選並書

昭和14年3月14日に、支那事変での傷病将兵を 昭和天皇が見舞うために行幸されたことを記念する碑。
昭和15年に建立された。

行幸記念碑と相模原病院


相模原病院

相模台商店街通り(サウザンロード相模台)

古道「辰街道」(たつ街道)
小田急相模原駅と相模原病院を結ぶ道路。

※2021年4月撮影


関連

「八面九体地蔵」空襲犠牲者供養の地蔵(板橋区)

東京都板橋区大山金井町16-8。東武東上線大山駅徒歩8分。

大山の住宅地の交差点に、お地蔵様が建立されていた。
「八面九体地蔵」
文字通りに、八面あり、それぞれにお地蔵様が掘られている。一面のみは、親子の地蔵様。

昭和20年4月13日「板橋空襲」
この地にあった防空壕に避難していた1人の乳児を含む9人が、直撃弾を受けて犠牲となった。
昭和25年、この地を所有した小川氏が、供養のために建立したのが、「八面九体地蔵」であった。

地元に人々によって祀られており、乳児も含む9体のお地蔵様それぞれに、綺麗な頭巾が乗せられており、前掛けも回されていた。

合掌

空襲犠牲者供養の地蔵
第二次世界大戦中の昭和二十年(一九四五)四月十三日夜、板橋から志村の地域にかけてアメリカ軍による空襲がありました。この空襲は、区内最大の羅災者約四万五千人を出し、板橋駅、区役所、養育院など板橋区の中枢を焼け野原にしました。
 この空襲で、当地の防空壕に避難していた、一人の乳児を含む九人が、爆弾の直撃弾を受け犠牲になったといわれています。
 戦後、当地を購入し、公衆浴場を開業した小川忠雄氏が、先の空襲による被害を知り、供養のために建てたのが、このお地蔵さまです。昭和二十五年(一九五〇)に現在地に建てられました。八面の胴部分に一体ずつの地蔵が刻まれ、そのうちの一体が子供を抱いています。
 昭和四十九年(一九七四)には、覆屋(おおいや)も作られ、現在ではまちの方々によって大切におまもりされています。
 このお地蔵さまは、板橋区における空襲の事実を伝え、後世に戦争の悲惨さと平和の尊さを伝える史跡として、平成七年度、板橋区の記念物に登録されました。
 平成九年二月 
  板橋区教育委員会

小川医院の敷地の角地に建立されている。

場所

https://goo.gl/maps/hGrvHVxWj2SCks1v8


関連

板橋空襲で、甚大な被害を出した「養育院」

板橋区内の空襲犠牲者を祀る「平安地蔵」

板橋区内には都内有数の軍需工場があった。「東京第二陸軍造兵廠板橋製造所」

平和の碑・探照灯基地跡(川崎市麻生区)

神奈川県川崎市麻生区古沢。
小田急線新百合ヶ丘駅から歩いて10分ほどの里山に、かつて「探照灯基地」があったという。

戦争末期、内地防空の為に、「高射第1師団」が編成。
麾下の「高射砲第112聯隊」は世田谷を本部とし東京西部地区、多摩川を挟んで南北に展開していた。
この川崎市麻生区の探照灯基地も、この照空隊陣地の一つであったと思われる。

ちなみに、日本陸軍では「照空灯(照空燈)」と呼称し、陸軍船舶部隊及び日本海軍では「探照灯(探照燈)」と呼称していたので、本来であれば、麻生区古沢での記載は「照空灯基地跡」とするのが正しい。
(現在の自衛隊では「サーチライト」と呼称。

平和の碑 探照灯基地跡

(裏面)
世界第二次大戦により古沢288番地海抜70m地点に探照灯が据えつけられ昭和19年9月20日から昭和20年8月17日まで使用された

(側面)
平成2年6月吉日
 柿生郷土誌古沢編集委員協力者

里山の丘陵の中腹に。
「平和の碑」のとなりにあるのは、「地神塔」嘉永6(1853)年建立。

実際には、石碑のある場所の上、丘陵の高台に「照空基地」があった。

場所

https://goo.gl/maps/9nWHfM21U3f22i5R6

新百合ヶ丘駅から10分ほど歩いた場所に、のどかな里山風景が残っていて、そして戦時中のエピソードがあるというのが驚きであった。

※撮影2021年4月

「現存最古の地下鉄駅直結の民間建造物」明治屋京橋ビル


明治屋京橋ビル

東京都中央区京橋の「明治屋京橋ビル」
昭和8年(1933)建設。ルネサンス様式の優美な姿が特徴的。
設計者は曾禰中條建築事務所(曾禰達蔵と中條精一郎の共同事務所)

地下鉄の駅と一体化となって建設された民間建造物としては現存する最古の建造物。
地下鉄銀座線京橋駅改札(東京メトロ銀座線京橋駅7番出入口)と直結している。
中央区の有形文化財に指定。

京橋駅

昭和7年(1932年)12月24日、東京地下鉄道三越前駅 – 京橋駅間開業に伴い、終着駅として開業。
京橋駅建設費用の一部を、明治屋が負担している。


京橋駅ホーム


http://www.meidi-ya.co.jp/news/20150831.html

https://www.city.chuo.lg.jp/smph/kusei/syokai/tyuobunkazai/meijiyakyobashi.html


関連

明治屋ビルを設計した曾禰達蔵による建造物

講談社本館

地下鉄の父・早川徳次

東京裁判と久保山火葬場(横浜)

東京裁判と殉国七士

巣鴨プリズン
昭和23年(1948年)12月23日、 当時、皇太子であった 上皇陛下の15歳の誕生日であった。

12月23日の尊い「国民の祝い日」であった夜中の午前0時。
巣鴨拘置所(巣鴨プリズン)で極東国際軍事裁判(東京裁判)により「戦犯」として死刑判決が処せられた7名の絞首刑が執行された。

  • 板垣征四郎 陸軍大将・陸相
           <中国侵略・米国に対する平和の罪>
  • 木村兵太郎 陸軍大将・ビルマ方面軍司令官
           <英国に対する戦争開始の罪>
  • 土肥原賢二 陸軍大将・奉天特務機関長
           <中国侵略の罪>
  • 東條英機  陸軍大将・第40代内閣総理大臣
           <真珠湾不法攻撃、米国軍隊と一般人を殺害した罪>
  • 武藤章   陸軍中将・第14方面軍参謀長
           <一部捕虜虐待の罪>
  • 松井石根  陸軍大将・中支那方面軍司令官
           <捕虜及び一般人に対する国際法違反(南京事件)>
  • 広田弘毅  文官・第32代内閣総理大臣
           <近衛内閣外相時に南京事件を止めなかった不作為責任>

横浜・久保山
巣鴨プリズンで処刑された7人の遺体は、横浜の久保山火葬場に運び込まれ、厳重警戒の中で焼却された。
遺族は遺骨遺灰の引き取りを願ったが、GHQはA級戦犯七士が神聖化されることを恐れ拒絶。
そうして、A級戦犯七士の遺骨は米兵によって粉々に砕かれ東京湾に捨てられた。
遺骨灰の殆どは米軍が処理したが、細かい遺骨や遺灰は、久保山火葬場のコンクリ穴に捨てられていた。この僅かな遺骨と遺灰を回収するために、小磯国昭弁護人三文字正平、興禅寺住職市川伊雄、久保山火葬場場長飛田善美は、米兵がクリスマスで浮かれている12月26日の夜中に、必至の覚悟で密かに忍び込み、苦心の末に骨壺一杯分の遺骨灰を集めることに成功した。

熱海・興亜観音
骨壺は密かに久保山火葬場から、すぐ隣に鎮座していた市川住職の興禅寺に運び出され、しばらくは興禅寺に隠されていたが、やはり久保山葬祭場のすぐ近くは危険だということもあり、三文字弁護士や市川住職、七士の遺族の人々が、極秘のうちに相談した結果、翌年昭和24年5月三日に松井石根大将ゆかりの熱海・興亜観音に運ばれることとなった。
三文字正平は、広田弘毅氏の令息、東條未亡人、武藤未亡人らとともに興亜観音住職伊丹忍礼に相談。「知り合いの方の遺骨灰だが時期が来るまで、誰にもわからぬように秘蔵しておいて欲しい」と申し出て、伊丹住職は一見して七士のご遺骨灰であることを直感し、快諾。そうして東亜観音にて遺骨灰は秘匿された。

「七士之碑」建立
密かに興亜観音に運び込まれた七士のご遺灰は10年もの間、秘事として興亜観音の初代住職伊丹忍礼によって護持されてきた。
昭和34年4月一九日、松井大将の無二の親友であった高木陸郎氏(興亜観音奉賛会長)らの発起により、吉田茂元総理の筆になる「七士の碑」が建立された。吉田茂は、広田弘毅の外交官時代の同期でもあった。「七士之碑」建立の際は、81歳と高齢な吉田茂は、興亜観音の山道を籠に乗って登られた。
ご遺灰は、「七士之碑」の碑の下に約3メートルの地下に埋葬されている。
碑文についても種々議論があったが、「知る人ぞ知る「七士之碑」でいいではないか」との結論に落ち着いたという。
そして昭和35年には、遺灰の回収と秘匿に尽力した三文字弁護士の発起により愛知県の三ヶ根山(松井石根の出身地)にある「殉国七士墓」に、「興亜観音」にある骨壷から香盒1ヶ分ほどが分骨埋葬された。


六十烈士忠魂碑(光明寺)

久保山火葬場近くの光明寺には、極東軍事裁判によって巣鴨プリズンで極刑死せられ、久保山火葬場で茶毘に付された、東條英機(陸軍大将)らA級戦犯7人をはじめとする、六十吊の方々の忠魂碑がある。

合掌

顕彰記
この碑は天をも畏れぬ赦し難き 不法な極東国際軍事裁判の結果 巣鴨刑務所で極刑死せられ 当地 久保山で茶毘に付された東條首相 以下六十吊の忠魂碑である (烈士吊は碑裏面に処刑順記載) この殉国烈士の慰霊は日本協会 や有志の方により行われていたが 昭和四十三年当光明寺境内に碑が 建立せられるに及び 日本協会に 次いで昭和五十七年以降は当会が 毎年慰霊祭を挙行している
 平成十年六月 日本郷友連盟神奈川県支部

六十烈士  忠魂碑

別記の諸氏は大東亞戦争おいて盡忠報国の誠を貫きたるに拘らず旧敵國の一方的裁判により巣鴨において極刑を授けられたり 本会は深く之を悼み諸氏を此地に合祀して忠霊を慰めかつ其遺功を後世に伝えんことを冀う

六十烈士元官職吊故氏吊
陸軍中尉 由利敬、陸軍大尉 福原勲、陸軍大尉 平手嘉一、陸軍大尉 満淵正明
陸軍中尉 池上宇一、陸軍大尉 末松一幹、陸軍軍属 本田始、陸軍憲兵中尉 本川貞
陸軍軍属 牟田松吉、陸軍軍曹 武田定、陸軍軍属 髙木芳郎、陸軍大佐 宮沢亥重
陸軍軍曹 穂積正克、海軍上等兵曹 潁川幸生、陸軍大尉 都市野順三郎
陸軍伊長 相原一胤、陸軍大尉 中島祐雄、陸軍軍属 平松貞次
陸軍一等兵 川手晴美、陸軍軍属 木村保、陸軍軍属 吉沢国夫、陸軍曹長 道下正能
陸軍少佐 村上宅治、陸軍大佐 尾屋刢、陸軍大尉 西澤正夫、陸軍准尉 柴野忠雄
首相 東條英機、陸軍大将 土肥原賢二、陸軍大将 松井石根、陸軍大将 板垣征四郎
首相 広田弘毅、陸軍大将 木村兵太郎、陸軍中将 武藤章、陸軍軍医少将 水口安俊
陸軍少将 河根良賢、陸軍大佐 平野庫太郎、陸軍中尉 石﨑英男
陸軍曹長 片岡正雄、陸軍上等兵 斉藤善太郎、陸軍伊長 富岡菊雄
陸軍兵長 伊藤正治、陸軍中佐 田中義成、陸軍主計准尉 小西貞明
海軍中佐 大隈馨、海軍中佐 佐藤勇、陸軍軍属 柳沢章、陸軍軍属 関原政次
陸軍軍属 秋山米作、陸軍軍属 小日向治、陸軍軍属 鈴木賞博、陸軍軍属 牛木榮一
陸軍中将 岡田資、陸軍衛生曹長 青木勇次、海軍大佐 井上乙彦
海軍大尉 井上勝太郎、海軍大尉 幕田稔、海軍少尉 田口泰正、海軍大尉 榎本宗応
海軍一等兵曹 藤中松雄、海軍上等兵曹 成迫忠邦  昇霊順
 昭和四十三年十月建之
  日本協会
  日本郷友連盟神奈川県支部協賛
  日本協会々長 正三位勲一等下村定謹誌
   久保山花塚石材店謹刻

いわゆるA旧戦犯として、処刑された、七士
 首相 東條英機、
 陸軍大将 土肥原賢二、
 陸軍大将 松井石根、
 陸軍大将 板垣征四郎
 首相 広田弘毅、
 陸軍大将 木村兵太郎、
 陸軍中将 武藤章

光明寺


市川伊雄大和尚顕彰碑(興禅寺)

東條英機らA級戦犯7名の遺骨を密かに運び出した市川伊雄大和尚の功績を讃える顕彰碑。
昭和44年9月7日建立。

市川伊雄大和尚顕彰碑
碑文
(和尚の経歴など前略)
大東亜戦争後東京軍事裁判々決により、連合軍の東條元首相外六氏は、久保山火葬場に於て火葬 その遺骨の総てが遺族に還らざるを知り愕然出家の身として黙し難く身の危険をも顧りみず其の遺骨を搬出密かに当寺に安置回向其の冥福を祈る等禅僧としてその気概気風は寔に豪にして高邁の姿に後日世の注目を集めたが大和尚の姿は終始一貫経典の心にあり正義を貫く和尚一代を畢生の念願とした


久保山火葬場(久保山斎場)

神奈川県横浜市西区元久保。

久保山火葬場は昭和20年10月に連合軍に接収。
極東軍事裁判で裁かれた巣鴨プリズン刑死者の火葬が、この久保山火葬場で行われた。

久保山火葬場場長飛田善美は、極東軍事裁判終了後に、巣鴨で処刑され久保山で火葬された60名の遺灰が集められていた場内に供養塔を建立。今も久保山斎場内に残されているという。(火葬場という性質上、無造作に足を運ぶべき場所ではないので敷地内は未確認)


久保山墓地には、広田弘毅と外交官同期であった吉田茂の墓がある。

吉田茂墓

吉田茂墓の詳細に関しては、別記事で。

※本記事の撮影は2021年3月


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難波宮跡公園周辺の戦跡散策(大阪)

大阪城の南側、難波宮跡周辺を散策してみた。
「難波宮跡公園」界隈。


大阪医学校跡 明治天皇聖躅碑
大阪師範学校跡 明治天皇聖躅碑
(国立病院大阪医療センター)

大阪城の南側、中央区の法円坂。明治の初め頃、この地に大阪医学校と大阪師範学校があった。
そして、学校が廃止された後は、陸軍の地、であった。

大阪医学校
大阪医学校の歴史は、適塾までさかのぼる。緒方洪庵が大阪で開いた蘭学・蘭医学の個人塾「適塾」。その緒方洪庵の息子であった緒方惟準が院長として就任したのが明治元年(1869)2月に設立した「大阪府仮病院」(上本町の大福寺を仮地としてスタート)。大阪府仮病院には適塾出身者が多く採用された。
明治2年に「大阪府仮病院」は法円坂に移転し「大阪府医学校病院」(大阪医学校病院)となった。緒方洪庵の弟子であった大村益次郎が運び込まれて、そして絶命したのが、この病院であった。南東角には「大村益次郎卿殉難報国之碑」は建立されている。

「大阪医学校」は明治5年の学制発布により文部省管轄の「第四大学区医学校」と改称。
しかし、改称2ヶ月後の明治5年(1872)10月に大阪の「第四大学区医学校」は廃校となり、「第一大学区医学校」(東大医学部)に医学教育が集中されることとなる。
「大阪医学校」は官立であったために国の方針で廃校となってしまったが、その後に公立医学校として復活。現在の大阪大学医学部へとつながっている。

大阪師範学校(官立大阪師範学校)
明治5年(1872)に廃校となった「大阪医学校」の跡地に、明治6年8月に大阪師範学校(官立大阪師範学校)が開設。明治11年(1878)に学制改革により廃止。大阪府師範学校として、現在の大阪教育大に連なる。

明治天皇聖躅碑
明治天皇は、大阪師範学校を明治10年(1877年)2月に行幸されており、 明治天皇聖躅碑が大正14年5月に建立された。
明治天皇聖躅碑は、所在不明であったが2016年に発掘調査時に発見された。

明治天皇聖躅碑

大阪医学校
大阪師範学校

大阪市青年聨合團

大正14年5月10日建之


国立病院 大阪医療センター
(独立行政法人国立病院機構大阪医療センター)

大阪医学校・大阪師範学校のあと、この地は陸軍の兵営となった。
昭和22年、「旧大阪陸軍病院」の流れをくむ「国立大阪病院」が河内長野から現在地に移転。

大阪医学校があった地は、陸軍の時代を経て、再び医学の地に戻ったこととなる。


歩兵第三十七聯隊(歩兵第37連隊)

「大阪医療センター」の敷地内に陸軍時代の記念碑がある。
歩兵第三十七聯隊に関係する石碑。

歩兵第三十七聯隊(歩兵第37連隊)
明治29年(1896)連隊本部設置
明治31年(1898)3月24日  明治天皇より軍旗拝受
明治37年(1904)日露戦争従軍
昭和12年(1937)南京攻略戦に参加、翌年昭和13年に徐州会戦に参加
昭和15年(1940)漢水作戦に参加
昭和17年(1942)バターン半島攻略戦、コレヒドール島攻略戦に参加
昭和18年(1943)スマトラ島パレンバン警備
昭和20年(1945)タイに転戦、タイ・ビルマ国境で終戦。

歩兵第三十七聯隊
創立100周年 記念碑

碑文
明治三十一年三月二十四日 歩兵第三十七聯隊が創立されて本年を以て100周年に当たるため由緒あるこの地に記念として建立した所以であります。 
 平成十年三月吉日 
  歩三七会建立

歩兵第三十七聯隊跡
昭61年11月 歩三七会 建之

克忠

克忠とは、「より忠に」の意。大正11年5月二五日建立。
上部の「克忠」は、第四師団長・鈴木荘六中将の揮毫
下部の「詩」は、歩兵第三十七聯隊長・井染禄郎大佐の揮毫

(碑面裏)
此碑は元営門築山に在りし物にして終戦後撤去されおりしも北庭園を増築するに当たり37会此を再建せしものなり。

歩兵第三十七聯隊
明治三十六年創設
昭和二十年廃止
 三七会

かつて営門築山にあった灯籠?かもしれない。

大阪医療センターの一角に記念碑が集められていた。


歩兵第八聯隊(歩兵第8連隊)

またも負けたか八連隊(大阪の歩兵第8連隊)、それでは勲章九連隊(くんしょうくれんたい)(京都の歩兵第9連隊)」といわれた大阪の歩兵第八聯隊の兵営地は、現在の難波宮跡公園であった。
その歩兵第八聯隊は、決して弱かったわけではなく多くの勝ち戦もある。語呂の耳障りの良さと大阪人らしい気質とウィットに富んでいたために流布された里謡という側面もありそうだ。

歩兵第八聯隊(歩兵第8連隊)
明治7年(1874)5月、第10大隊と第14大隊を基幹に改編
        10月、萩の乱に第3大隊が従軍
12月、 明治天皇より軍旗拝受
明治10年(1877)西南戦争に従軍
明治27年(1894)日清戦争に従軍
明治37年(1904)日露戦争に従軍
大正3年(1914)第一次世界大戦にて、青島の戦いに参戦
昭和12年(1937)満州転戦
昭和17年(1942)第二次バターン半島攻略戦、コレヒドール島攻略戦に参加
昭和18年(1943)スマトラ島に移動
昭和20年(1945)仏印に転進、明号作戦に参加、その後タイへ転進し終戦

歩兵第八聯隊跡

碑文
歩兵第八聯隊は 明治7年5月14日創設
同年12月18日天皇より軍旗を親授せられ 萩の乱 西南の役 日清戦争 日露戦争 日独戦争 支那事変 大東亜戦争等に参加
七十有余年にわたり 国土の防衛に任じた
碑は 国史に著き摂河泉出身の若人が 練武に励んだ想い出の聯隊跡地を記念し 中馬馨大阪市長の揮毫をいただいて建てたもので この記念碑には 全国歩八関係戦友の魂がこもっている
 昭和50年4月
  歩八会

御臨幸之
 昭和7年11月14日

昭和7年(1932)年11月、奈良と大阪で陸軍特別大演習が行われ、
昭和天皇が大阪城東練兵場において観兵式を御統監になったのを記念して建立された碑。

石垣部分は当時からのもの、という。

排水孔

歩兵第八聯隊兵営の南門門柱。

難波宮跡公園。
大阪城と教育塔を望むことができる。

※撮影は2021年4月


関連

兵部大輔大村益次郎卿殉難報國之碑と埋腿骨之地(大阪)

大阪市中央区法円坂の国立病院機構大阪医療センター近くの上町交差点。
ひときわに大きな石碑がある。
当時、この地にあった鈴木町の大阪府医学校病院(大阪府仮病院)に大村益次郎が運び込まれ、そしてこの地で亡くなった。


大村益次郎

文政7年5月3日〈1824年5月30日〉 – 明治2年11月5日〈1869年12月7日〉
幕末期の長州藩の医師、西洋学者、兵学者。「維新の十傑」の一人。
日本陸軍の創設者
村田蔵六、良庵、諱は永敏。あだ名は「火吹き達磨」

周防国の村医の家柄に生まれた村田蔵六は、弘化3年(1846年)、大坂に出て緒方洪庵の適塾で学ぶ。適塾の塾頭まで進む。
嘉永6年(1853年)、宇和島藩で蘭学者として勤務。
安政3年(1856年)4月、宇和島藩主・伊達宗城の参勤にしたがって江戸に出府。
同年11月、宇和島藩御雇の身分のまま幕府の蕃書調所教授方手伝となる。
安政4年(1857年)11月11日、築地の幕府の講武所教授に就任。
万延元年(1860年)、長州藩の要請により江戸在住のまま同藩士となる。
文久3年(1863年)10月、萩へ帰国、長州藩の軍事を掌り、高杉晋作の奇兵隊の指導などを行う。
慶応2年(1866年)、第二次長州征伐に際して、石州石見国方面の実戦指揮を担当し、軍事的才能を遺憾なく発揮し幕府軍を撃破。
明治元年(1868年)、戊辰戦争では有栖川宮東征大総督府補佐として、軍務官判事、江戸府判事を兼任し、江戸を掌握。討伐軍を指揮し、上野山に籠もる彰義隊を撃破。その後も江戸から事実上の新政府軍総司令官として戊辰戦争を指揮し、新政府軍を勝利に導く。

明治2年(1869年)、明治新政府の幹部として軍政改革の音頭を取るも、兵制論争となり、結果として大久保利通派に敗れるも、軍政では大村益次郎に変わるものもなく、新たに設置された兵部省の兵部大輔(次官)に就任。兵部卿(大臣)は仁和寺宮嘉彰親王であったために、実質的には大村益次郎は近代日本の軍制建設を指導する立場となる。

大村益次郎は大阪に大阪城近くに兵部省の兵学寮(士官学校)を設け、造兵廠(大阪砲兵工廠)、宇治に火薬製造所の建設するなどを決め、東京から関西へ軍事拠点を移転させることを決定。

明治2年(1869年)8月、視察のために京阪方面に出張。
9月4日夕刻、益次郎は京都三条木屋町上ルの旅館で会食中、8人の刺客に襲われる。
重傷を負い9月7日に京都の山口藩邸へ移送され、数日間の治療を受けるも、傷口から菌が入り敗血症となる。医療設備の整っていた「大阪府医学校病院」(浪華仮病院・大阪府仮病院)に転院を決め、教え子であった寺内正毅、児玉源太郎らが担架で高瀬川船着き場まで運び、10月2日に大阪府医学校病院(大阪仮病院)に入院。
大阪府医学校病院は院長が緒方惟準(大村益次郎の恩師・適塾緒方洪庵の次男)、オランダ人医師ボードウィンを主席教授とし、楠本イネ(シーボルトの娘)らが看護。蘭医ボードウィンによる左大腿部切断手術をおこない、足を切断するも、翌11月1日に敗血症による高熱を発して容態が悪化し11月5日の夜に死去した。享年46歳。
大村益次郎は「切断した私の足は緒方洪庵先生の墓の傍に埋めるように。」と遺言した。(龍海寺の緒方洪庵の墓の隣に足塚がある)


兵部大輔大村益次郎卿殉難報國之碑

昭和15年11月に大村益次郎が治療を受けた大阪府医学校病院(浪華仮病院・大阪仮病院)、そして亡くなった地に鎮座。
昭和15年(1940)は、1月米内光政内閣、7月に第2次近衛文麿内閣が成立し陸相には東条英機が就任。9月には、日独伊三国同盟条約が締結され、11月には、紀元2600年祝賀行事が行われるという時局であった。
ひときわに大きい、大村益次郎の殉難報國之碑もそんな時局をあらわしていた。

兵部大輔大村益次郎卿殉難報國之碑

明治兵制ノ創始者兵部大輔大村益次郎卿ハ周防ノ人資性沈毅明敏少壮ニシテ漢籍ヲ廣瀬淡窓ニ蘭学ヲ梅田幽斎及緒方洪庵等ニ学ビ専ラ醫学及兵学ヲ修メ夙ニ皇政維新ノ大業ヲ翼賛シテ東京以北戡定ノ偉勲ヲ樹テ親兵ヲ創設シテ兵馬ノ大権確立ニ資シ徴兵ノ制ヲ布キテ國民皆兵ノ實ヲ擧ゲンコトヲ主張シ兵学寮及兵器弾薬製造所並軍艦碇泊場ノ設立等ニ拮据奔走中明治二年九月四日京都ニ於て刺客ノ難ニ遭ヒ後大阪病院ニ於て右大腿切断ノ手術ヲ受ク病牀二ケ月瀕死ノ中ニ在ツテ尚ホ書ヲ要路ニ致シ陸海兵制ノ整備ト軍事醫療ノ急設トヲ説キ傷處ノ疼痛ニ悩ミツゝ一言モ之ニ及ブ■ク愬フル所皆是レ國家公共ノ大策ニ非サルハ無カリキ不幸経過良好ナラズ遂ニ十一月五日経國ノ雄圖ヲ抱イテ空シク此ノ地ニ薨ス時ニ年四十六本會ハ茲ニ卿ノ高邁ナル識見ト偉大ナル功績トヲ敬慕シ特ニ終焉ノ地ヲ選ビ記念碑ヲ建テ此遺跡ト共ニ其洪勲ヲ長ヘニ後昆ニ傳フト云爾
   昭和十五年十一月 大村卿遺徳顕彰會

※中央部に亀裂が有り、一部の文字が読み取れず

発起人・賛助者にはそうそうたる名前が刻まれていた。
昭和15年当時の軍人・関西財界人など。

また、緒方銈次郎の名も有る。
緒方銈次郎は、大村益次郎の恩師であった緒方洪庵の子・緒方惟準の二男。大村益次郎は緒方惟準が院長を務める、適塾の流れをくむ浪華仮病院・大阪仮病院に担ぎ込まれた。

財界
伊藤忠兵衛(伊藤忠)
鳥井信治郎(サントリー)
種田虎雄(近鉄)
松下幸之助(パナソニック)
鴻池善右衛門(鴻池家)
小林一三(阪急)
江崎利一(江崎グリコ)
野村徳七(野村証券)

陸軍
畑俊六
林銑十郎
東条英機
大島健一
松井石根
松岡洋右
寺内寿一
荒木貞夫
杉山元

海軍
及川古志郎
高橋三吉
末次信正

場所

https://goo.gl/maps/UoLZBv6H6k1Debqy7

現在は、国立病院大阪医療センター。
この地は、のちに元歩兵第三十七連隊が展開されていた。
敷地内には、歩兵第三十七連隊の慰霊碑などもある。


大村益次郎寓居跡「漏月庵」

少し時系列をさかのぼる。
大村益次郎(村田蔵六)は、22歳のころに来阪して「緒方洪庵の適塾」に入門して塾頭まで務める。そのころにこの場所から適塾に通っていたという。

大村益次郎寓居跡
「漏月庵」

 大村益次郎は1825(文政8)年、山口・周防の医者の家に生まれた。蘭学、医学、蘭式兵学に通じ、日本の近代兵制を創始した。
 緒方洪庵に師事し、1849(嘉永2)年からこの家に住んで適塾に通った。初めて構えた居宅を愛し、ひさしのすき間から見える月の美しさに感謝して「漏月庵」と名付けた。
 後、故郷に戻って医者になったが洋楽の知識を認められ、明治新政府の兵部大輔(軍事大臣)となり、日本の兵制をととのえた。1869(明治2)年没。
「漏月庵址」の石碑は1950(昭和25)年まで存在したが、その後不明になり今回改めて建立した。
 令和2年9月吉日
  古川宏太郎建立

場所

https://maps.app.goo.gl/vPs8sqw7kCMfZRp78


大村益次郎埋腿骨之地(足塚)
緒方洪庵墓所

大阪市北区の龍海寺。緒方洪庵の菩提寺。
緒方洪庵の墓は東京文京区の高林寺にもあり、この龍海寺には遺髪が埋葬されている。
適塾で恩師であった緒方洪庵の墓之隣に、大村益次郎は切断した右足を埋めるように遺言した。
埋葬後も、しばらくは秘匿されており、昭和14年(1939)に、「埋腿骨之地」が建立された。

大村兵部大輔埋腿骨之地

裏面は陸軍軍医中将飯島茂による撰文。

緒方洪庵先生之墓
洪庵先生夫人億川氏墓

緒方洪庵の墓の隣に、大村益次郎足塚がある。

場所

https://goo.gl/maps/wqmbK9kYwMZDJQ1f6

靖國地蔵尊

龍海寺境内に。
昭和17年1月14日建立。開戦直後、ですね。


付記

緒方洪庵墓所(東京文京区・高林寺)

緒方洪庵墓(文京区指定史跡)
 洪庵は、江戸時代末期の蘭学者、医学者、教育者。文化7年~文久9年(1810~63)現在の岡山県に生まれ、名は章、後に洪庵と改めた。
 大坂、江戸、長崎で蘭学、医学を学び、天保9年(1838)、大坂に”適々斎塾”(適塾)を開き、診療と研究のかたわら、三千人におよぶ門弟の教育に当たった。この塾から大村益次郎、橋本左内、福沢諭吉などが輩出した。
 洪庵は、幕府の奥医師として江戸に招かれ、翌年、文久3年(1863)に病没した。


付記

大村益次郎像(靖國神社)

明治15年(1882)、大村益次郎の意思を継いで陸軍創設に貢献をした山田顕義らにより、大村益次郎の功績を称えるべく銅像の建立が発議される。
明治26年(1893)、6月、大村益次郎も創建に尽力をしていた東京の靖国神社の境内に大村益次郎の銅像が建立され、除幕式が執行。日本初の西洋式銅像、であった。

この像は、戊辰戦争の際、司令官として江戸城本丸から、彰義隊が立てこもる上野を見つめている姿であるという。

靖國神社の大村益次郎は、上野公園の方向を向いているという。そして上野公園の西郷隆盛と向かい合っている、ともいう。


関連

大阪大空襲 京橋駅爆撃被災者慰霊碑(大阪京橋)

1945年8月14日、約150機のB29による大阪空襲にて、国鉄京橋駅では甚大な被害が発生した。
そのため「京橋空襲」とも呼称されている。

往時の犠牲者の慰霊碑がJR京橋駅南口に建立されているので、参拝を。

合掌


大阪大空襲

大阪市では昭和20年(1945)3月から8月にかけて、8回もの大規模な空襲があり、1万人以上の一般市民が犠牲になったと言われている。

昭和20年(1945年)
第1回大阪大空襲 3月13日
第2回大阪大空襲 6月1日
第3回大阪大空襲 6月7日
第4回大阪大空襲 6月15日
第5回大阪大空襲 6月26日
第6回大阪大空襲 7月10日 (堺大空襲)
第7回大阪大空襲 7月24日
第8回大阪大空襲 8月14日 (京橋空襲)

京橋空襲(京橋駅空襲)

これまで7回の空襲を大阪に対して行っていた米軍ではあったが、大阪最大の軍需工場であった大阪陸軍造兵廠への爆撃は失敗に終わっていた。
昭和20年8月14日、米軍は約150機のB29でもって「大阪陸軍造兵廠」を狙い、約700個に及ぶ1トン爆弾を集中投下。大阪陸軍造兵廠は壊滅した。
この爆撃によって、大阪陸軍造兵廠(大阪城)の北東に位置する国鉄京橋駅周辺にも1トン爆弾が4発落下し、駅にいた乗客などに直撃し身元判明車210名以上、身元不明者600名以上の犠牲者を出した。


大阪大空襲 京橋駅爆撃被災者慰霊碑

大阪大空襲
京橋駅爆撃被災者慰霊碑
 太平洋戦争終戦前日の昭和20年8月14日、大阪は最後の大空襲を受けた。B29戦略爆撃機は特に大阪城内の大阪陸軍造兵廠に対し、集中攻撃を加えたが、その際、流れ弾の1トン爆弾が4発、京橋駅に落ちた。うち1発が多数の乗客が避難していた片町線ホームに高架上の城東線(現、環状線)を、突き抜けて落ちたため、まさに断末魔の叫びが飛び交う生き地獄そのものであったという。判明している被爆犠牲者は210名であるが、他に無縁仏となったみ霊は数え切れなく、500名とも、600名とも言われている。       
 当時、地獄のような惨状を目撃した大東市の森本栄一郎氏があまりの悲惨さに胸を痛め、その霊を弔おうと昭和22年8月14日、自費で建立された慰霊碑である。

納経塔
 戦後、被爆犠牲者を弔う法要が毎年8月慰霊碑の前で鴫野・妙見閣寺によって行われているが、37回忌を機に写経による供養をと、遺族及び当時駅での体験者、大阪大空襲の体験を語る会々員他多数の市民からの基金、協力を得て建立した納経塔である。

釈迦牟尼仏尊像と平和祈念像
 この惨事を後世に伝えるため、昭和59年に釈迦牟尼仏尊像が建立された。これは大阪城東ライオンズクラブが結成20周年事業として寄贈したものである。

 空襲被災者慰霊祭世話人会
 大阪市城東区役所
 JR西日本京橋駅

(正面) 南無阿彌陀佛
(側面) 昭和20年8月14日受難者供養之為
(背面) 昭和22年8月14日 森本栄一郎建之

釈迦牟尼仏尊像

納経塔

JR京橋駅前の平和祈念像

平和よ永遠なれ


関連

海軍艦政本部・大阪倉庫跡

海軍艦政本部は、海軍大臣に隷属し、造艦・造兵・造機に係わる事務を司った海軍省外局のひとつ。
艦本式ボイラーや艦本式タービンなどの開発などで、略称「艦本」は一部では著名。

大阪大正区の南恩加島・木津川の河口付近に、海軍艦政本部の大阪倉庫の遺構があるというので足を運んでみた。


海軍艦政本部大阪倉庫
(現在の木津川倉庫株式会社)

現在の木津川倉庫株式会社の敷地が、当時の海軍艦政本部・大阪倉庫。
当時は海軍資材の倉庫として使用されていた地は、現在は保税倉庫や食糧倉庫として使用されている。木津川倉庫株式会社の創業は昭和27年。
昭和27年4月1日に、木津川倉庫株式会社は国有資産であった海軍艦政本部木津川倉庫を借用して、倉庫業を営む目的で設立されたことにはじまる。同年12月11日に払い下げ。

海軍艦政本部大阪倉庫
正門跡

正門の門柱は当時のまま残されていた。

スクラッチタイルが施されたモダンな意匠を下部に見ることができる。

門柱の上部にもタイルが施されていたが、上部はすべて撤去済。
数年前までは、残っていた。

門札の跡も。

外壁もそのまま残っている。

搬入門周辺はリニューアルされている。
こちらも数年前までは門柱が残っていたが撤去済み。

海軍艦政本部大阪倉庫
外壁

外壁もほぼ当時のまま使用されているが、ところどころに亀裂の補修なども見られる。

北側の搬入口。

海軍艦政本部大阪倉庫
当時の倉庫2棟
(現在の木津川倉庫株式会社)

木津川倉庫株式会社の第1号倉庫と第2号倉庫が、当時の海軍時代からの倉庫。
現在は、低温倉庫として使用されている。
数年前までは4棟あったというが、北側の2棟は取り壊され、現在は南側の2棟のみが残されている。


千本松渡船

すぐ近くの「千本松渡船」も楽しいので、散策時は一緒に巡るのがおすすめ。藤永田造船所跡地を遠望することもできます。

※2021年4月撮影


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-R462-83
1948年11月22日、米軍撮影の航空写真を一部加工。

木津川の河口にはいくつかの造船所が集まっていた。

海軍艦政本部大阪倉庫の4棟の倉庫がわかる。

現在は、南側の2棟を確認できる。敷地は当時のまま。

https://goo.gl/maps/itVoJzXiz3o8fhfx6


関連

「駆逐艦のふるさと」藤永田造船所跡地(大阪)

大阪市内にあった民間の造船所。
日本最古の造船所とも言われ、また多くの駆逐艦を製造し、「西の藤永田、東の浦賀」とも称されていた。

そんな、大日本帝国海軍駆逐艦のふるさとである藤永田造船所跡地を散策してみた。


藤永田造船所

1689年(元禄2年)、大阪堂島船大工町に船小屋「兵庫屋」として創業したことに始まる。
開国後に、西洋式船舶の建造に取り組み、近代的造船所となる。
明治7年(1874)に「藤永田造船所」に社名変更。

大正8年(1919)に海軍指定工場となり、駆逐艦「藤」(樅型駆逐艦13番艦)を受注。
太平洋戦争に際しては、駆逐艦の増産に努め、昭和19年(1944)1月に軍需工場に指定。大阪では、大阪陸軍造兵廠、住友金属工業に次ぐ三番目の従業員規模であった。

藤永田造船所で造られた艦艇

駆逐艦
樅型
  藤(樅型13番艦)
  蕨(樅型20番艦)
  蓼(樅型21番艦)
若竹型
  芙蓉(若竹型7番艦)
  刈萱(若竹型8番艦)
睦月型
  皐月(睦月型5番艦)
  文月(睦月型7番艦)
  夕月(睦月型12番艦)
吹雪型(特型)
  叢雲(吹雪型5番艦)
  白雲(吹雪型8番艦)
  綾波(吹雪型11番艦)
特Ⅱ型
  曙(吹雪型18番艦・特Ⅱ型8番艦)
特Ⅲ型
  電(吹雪型24番艦・特Ⅲ型4番艦)
白露型
  村雨(白露型3番艦)
  江風(白露型9番艦・海風型(改白露型)3番艦)
朝潮型
  満潮(朝潮型3番艦)
  山雲(朝潮型6番艦)
  峯雲(朝潮型8番艦)
陽炎型
  黒潮(陽炎型3番艦)
  夏潮(陽炎型6番艦)
  浦風(陽炎型11番艦)
  谷風(陽炎型14番艦)
  舞風(陽炎型18番艦)
夕雲型
  巻雲(夕雲型2番艦)
  長波(夕雲型4番艦)
  大波(夕雲型7番艦)
  玉波(夕雲型9番艦)
  藤波(夕雲型11番艦)
  朝霜(夕雲型16番艦)
  秋霜(夕雲型18番艦)
松/橘型
  梅(松型3番艦)
  桑(松型5番艦)
  杉(松型7番艦)
  樫(松型10番艦)
  楢(松型12番艦)
  柳(松型14番艦)
  樺(松型31番艦・橘型/改松型)
  桂(未成)
砲艦
  二見・伏見・隅田
千鳥型水雷艇
  真鶴・初雁
第二号型(丁型)海防艦
  第36号・第40号・第48号・第58号(未成)
掃海艇
 第一三号型
  第13号・第15号
 第一九号型
  第38号・第41号

藤永田造船所跡地

現在、跡地には「藤永田造船所跡地」の石碑が残る。
平成11年8月建立。

戦後は、漁船建造から再出発。貨物線やLPG船なども建造。
昭和42年(1967)に三井造船に吸収合併。現在工場敷地は再開発されており、当時の面影を残すものはほとんど残されていない。
グーグルストリートビューでは、2020年7月では三井造船マシナリー・サービス内に往時の建物が残されているのが確認できたが、2021年4月の現地訪問で更地を確認し、往時のすべての建物の消失を確認。

最後まで残されていた建物の記録は、盡忠報國様の「大日本者神國也」ブログに詳しい。

http://shinkokunippon.blog122.fc2.com/blog-entry-1573.html

場所

https://goo.gl/maps/2uJa2CQtNahVjfTA8


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M18-1-144
1948年2月20日、米軍撮影の航空写真を一部加工。

Google航空写真

ファイル:USA-M18-1-144

ファイル:USA-R462-83を一部加工。1948年11月22日、米軍撮影。


藤永田造船所跡地散策

数年前まで、三井造船マシナリー・サービスのあった土地は更地に。

更地になって、新木津川大橋がよく見える。。。

新木津川大橋

徒歩で渡ってみました。
正直言って、徒歩横断はおすすめしません。むちゃくちゃ怖かったです。(高所恐怖症的に)
渡り終えるまでに時間は約30分要しました。

新木津川大橋は1994年に完成。中央部の橋長は495m、それなのに、総延長は2.4km。これは3重ループで高さを稼いだためそのため、橋の高さは水面上50mもある。
アーチ橋として完成時は日本最長であった。

橋を渡った理由は、藤永田造船所跡地を上から見学するため、

ここに、藤永田造船所があった。

藤永田造船所のドック入口跡。この場所だけ凹んでいるのは、今は埋め立てられているがここにドックがあった名残。

橋に近い右側の護岸は往時の名残かもしれない。
左側の護岸は最近補強された模様。

藤永田造船所のドック時代の護岸か?

藤永田造船所跡を、新木津川大橋から。

藤永田造船所のドック入口跡の凹みがわかる。

ちなみに、新木津川大橋を徒歩で横断する場合、この3重ループが目が回りそうで辛い。
ここを二度と歩くことはないだろう。

新木津川大橋から木津川を眺める。
藤永田造船所は木津川の両岸にあった。右側が本社工場。左側が船町工場。

藤永田造船所船町工場があった場所。

新木津川大橋の3重ループの場所も、藤永田造船所船町工場があった場所であった。


新木津川大橋の3重ループの地上入口あたり。
大阪にあった知られざる飛行場の跡地。

木津川飛行場跡

木津川飛行場
 わが国の近代航空技術は大正7年(1918年)頃から急速に開発が進み、あわせて飛行場も必要になってきました。大正11年(1922年)からは空の定期貨物輸送も始まり、大阪から東京、徳島、高松、別府などへの路線が次々と開設されましたが、当時はまだ木津川河口や堺の水上飛行場を利用していました。木津川河口に陸上飛行場が構想されたのは大正12年(1923年)頃からです。昭和2年(1927年)に着工し、昭和4年(1929年)には未完成のまま、東京・大阪・福岡間に1日1往復の定期旅客便が就航しました。しかし、市街地からの交通の便が悪く、地盤不良で雨天時の離着陸も困難であった為、昭和9年(1934年)の八尾空港、昭和14年(1939年)の伊丹空港完成により、その役割を終え、昭和14年(1939年)には閉鎖されました。
 大阪市教育委員会

ちなみに、木津川飛行場をしめす地図にも藤永田造船所の記載があった。

流石に往時を物語るものはない。

滑走路のあった場所、新木津川大橋から望んでみる。

新木津川大橋の3重ループ。圧巻。

工場地帯を歩く人は、いない。


千本松渡船場から、新木津川大橋と藤永田造船所跡地を望む。

藤永田造船所のドックがあった凹みの部分の護岸がわかる。

既に往時を物語るものがほとんど残されていない藤永田造船所跡地。
この地で生まれた多くの駆逐艦たちとともに、想い出の地となっていた。

※2021年4月撮影


関連

板橋の田園調布「ときわ台駅」周辺散策

東京都板橋区常盤台。東武東上線「ときわ台駅」。
東急の「田園調布」、小田急の「成城学園」などの鉄道会社主体の住宅地造成ブームの中で、東武鉄道が手掛けた最初の本格的な住宅地開発が「ときわ台駅」であった。

そんな、開発当初の昭和の雰囲気を感じつつ散策してみました。


常盤台(ときわ台)

東上鉄道
大正3年に東上鉄道として開通した際は、「ときわ台駅」はまだ未開業であった。大正9年(1920)に東上鉄道は東武鉄道と対等合併し、「東武鉄道東上本線」となった。

西板線
合併後の東武鉄道は伊勢崎線などの本線系統と東上鉄道系統との接続を予定し、「西板線」の建設を計画。これは西新井駅と上板橋駅を結ぶ計画であった。しかし関東大震災の影響などもあり頓挫。西板線は、東武大師線として一部が開業。

前野飛行場
西板線の車両基地・操車場予定地として東武鉄道が買収していた用地は、昭和4年(1929)に前野飛行場(板橋飛行場・遠藤飛行場)として、退役軍人の遠藤辰五郎に貸し出され、東京市内などの遊覧飛行が行われていたが、東武鉄道が西板線計画を撤退し、常盤台住宅地として分譲をすることを決め、昭和8年頃に前野飛行場を廃止。

武蔵常盤駅
常盤台住宅地の分譲地への最寄り駅として、昭和10年(1935)10月20日、武蔵常盤駅として開業。
昭和11年より13年にかけて、「常盤台住宅地」として分譲開始。

常盤台住宅地「板橋の田園調布」
駅前ロータリーから放射状に道路が伸びており、大田区田園調布の町並みと比較されることが多い。
そのため「板橋の田園調布」などとも呼称される。
常盤台住宅地分譲の際、東武鉄道が当時の内務省都市計画課職員小宮賢一の設計を採用。地域を一周する並木道(プロムナード)、袋小路(クルドサック)、道路に沿った緑道(ロードベイ)を配置する設計を行い、日本では先駆的な事例となった。

ときわ台駅
昭和26年に武蔵常盤駅から、ときわ台駅に改称。


ときわ台駅

平成30年(2018)に、北口駅舎のリニューアル工事が完了し、昭和20年の開業時の姿で復元。
開業当時からある青色スペイン瓦の三角屋根や、その下に配された縦長の三連窓、大谷石の表面に幾何学的模様を凹凸で表現した壁面や大谷石貼りの柱脚などを残しつつ、開業当初の塗装色で塗り直しなどを行い、改札上部の欄間のデザインなども再現。

特徴的な三連窓。

昭和10年の開業当時から残る大谷石の壁面・柱脚。


ときわ台駅ギャラリースペース
武蔵常盤小径

常盤台住宅地に関連した11枚のパネルが提示してある。


1935(昭和10)年10月20日、ときわ台駅は「武蔵常盤駅」として産声を上げました。以来、80余年にわたり、地域の発展、そして、時代の浮沈みを感じながら、町のシンボルとして皆さまに愛され続けてまいりました。

このたび、駅舎のリニューアルを記念し、11面のパネルから成るギャラリースペースを設けました。特徴的な青瓦と大谷石、幾何学的意匠の目立つ「ときわ台駅」は、今後も地域のシンボルであり続けます。

なお、パネル製作にあたり、板橋区教育委員会、常盤台の景観を守る会、東武博物館より、貴重な資料を提供いただきましたことに感謝いたします。

平成30年5月
東武鉄道株式会社

常盤台住宅
常盤台住宅は、東武東上線で池袋から5つ目「ときわ台」駅の北側に広がる2万3千余坪の面積を持つ住宅地で、現在の常盤台1丁目、2丁目に当ります。東武鉄道株式会社によって昭和11年度から分譲されました。

街づくり
常盤台アーバンデザインの最大の特徴は、地区内を一周できる環状のプロムナード(散歩道)です。日本では珍しい曲線を多用した街路で、5か所に設けられたクルドサック(袋路)や、プロムナード沿いの3か所にロードベイも用意されました。 

常盤台住宅地建築内規
大正期から昭和戦前期までに開発された郊外住宅地の中には、住環境の保全対策を講じていたものが多くあります。常盤台住宅地にも住環境保全を謳った規制が存在しました。開発主体である東武鉄道が定めた「常盤台住宅地建築内規」です。昭和13年4月には成文化されています、以下にそれを要約します。
 (略)

常盤台住宅販売
(略)

思ひ出の建物

思ひ出の景色

思ひ出の駅

帝都幼稚園
帝都幼稚園付門柱 常盤台1丁目6番
板橋区登録有形文化財(建造物) 登録年月日 平成25年(2013)3月27日

 帝都幼稚園は、昭和11年(1936)に、常盤台住宅地の分譲開始に合わせ、元東京府豊島師範学校教諭で、音楽家であった山本正夫が、帝都学園女学校を開いたことに始まります。

 その後、昭和17年に財団法人帝都学園高等女学校の認可を受けましたが、同21年に起きた漏電事故により校舎の3分の2を焼失し、同26年に高等学校は廃止となりました(なお、その跡地には現在区立常盤台小学校が建っています)。その後は、帝都幼稚園として再出発し、現在にいたります。

 建物調査の結果、現在園舎として使われている建物は、昭和21年の焼失を免れた設立当時の「家事割烹室」や「教育棟」などの建物を移築したものと考えられます。

 当園は、薄緑色に塗装された南京下見の外壁や、セメント瓦による勾配の緩い寄棟造や切妻造の屋根に直線的で幅の狭い破風板が施されているなどの特徴が認められます。また、教室空間を大きくとるために、洋小屋構造などの洋風建築の意匠や構造が採用されるなど、昭和初期の時代性を顕著に現わす近代建築となっています。

 なお、幼稚園正門の門柱は、昭和32年に卒園生一同が寄贈したものですが、当時、南常盤台に住居をかまえていた童画家、武井武雄がその設計に当たっています。 

 帝都幼稚園の園舎は、移築をしているものの、昭和戦前当時の最先端の開発がなされた常盤台住宅地における草創期の姿をとどめる数少ない現存している建造物であり、区の近代の歴史を明らかにする上でも重要な建造物となっています。

※現在も幼稚園として使われており、内部への立ち入り・見学はできません。

おさんぽマップ
(略)

斯波家住宅
常盤台・斯波家住宅 常盤台2丁目13番
板橋区登録有形文化財(建造物) 登録年月日 平成20年(2008)3月27日

 東武東上線ときわ台駅北側の常盤台1丁目・2丁目一帯は、東武鉄道が田園都市づくりをめざし開発された住宅地です。昭和8~13年かけて駅の開発を含めた26万4千平方mに及ぶ区画整理事業がすすめられ、「常盤台住宅地」と呼ばれています。

 近年、建物の老朽化や生活様式の変化にともなう建て替え、相続による土地の細分化等によって開発当初の建物が大変少なくなっています。

 当住宅は、平成16年に、昭和13年(1938)の建築当初の形が維持できなくなる状況となりましたが、当時の所有者は建造物の文化財的価値の重要性を鑑み、建物二階部分と北側一部分を曳家として保存しました。

 当住宅は、建設当初と比較すると、規模は40%に縮小され、位置も同敷地内において移動していま す。しかし、広縁を含む四部屋と屋根は、昭和戦前当時の最先端の開発がなされた常盤台住宅における草創期の姿をとどめており、現存している数少ない建造物となっています。区の近代の歴史を明らかにする上でも大変重要です。

※現在も住居として使われており、内部への立ち入り・見学はできません


帝都幼稚園

昭和11年(1936)の建物が今も使われている幼稚園。

帝都幼稚園付門柱
 帝都幼稚園は、昭和11年(1936)に、常盤台住宅地の分譲開始に合わせて、元東京府豊島師範学校教諭で、音楽家であった山本正夫が、帝都学園女学校を開きました。
 その後、昭和17年に財団法人帝都学園高等女学校の認可を受けましたが、同21年に起きた漏電事故により校舎の3分の2を焼失し、同26年に高等学校は廃止となりました(なお、その跡地には現在区立常盤台小学校が建っています)。その後は、帝都幼稚園として再出発し、現在にいたります。
 建物調査によれば、現在の建物は、昭和21年の焼失を免れた設立当時の「家事割烹室」や「教育棟」などの建物を移築し、使用しているものと考えられます。
 当園は、薄緑色に塗装された南京下見の外壁や、セメント瓦による勾配の緩い寄棟造や切妻造の屋根に直線的で幅の狭い破風板、教室空間を大きくとるために採用された洋小屋構造などの、洋風建築の意匠や構造を取り入れた、昭和初期の時代性を顕著に現わす近代建築です。
 また、幼稚園正門の門柱は、昭和32年に卒園生一同が寄贈したものですが、当時、南常盤台に住居をかまえていた童画家、武井武雄がその設計に当たったものです。
 帝都幼稚園の園舎は、移築をしているものの、昭和戦前当時の最先端の開発がなされた常盤台住宅地における草創期の姿をとどめる数少ない現存している建造物です、また、区の近代の歴史を明らかにする上でも重要な建造物です。平成24年度に登録文化財となりました。 ※内部の見学は不可
  平成26年2月 
   板橋区教育委員会

正門門柱

昭和11年の建造物

帝都幼稚園という、名称に歴史と尊厳を感じさせる。

場所

https://goo.gl/maps/tAJnAkUN97fQmxGZ8


閉館した板橋区立中央図書館。

板橋区立中央図書館旧館は、1970年に開館。2021年度に解体。
旧館は2020年12月20日閉館。新館は板橋区平和公園内に新築され2021年3月28日開館。

曲線を描くプロムナード。


常盤台・斯波家住宅

板橋区登録有形文化財
常盤台・斯波家住宅

木造二階建・近代和風建築
所在地 常盤台2丁目13番
登録年月日 平成20年3月27日
所有者 (略)

 ときわ台駅北側の常盤台1丁目・2丁目一帯は、東武鉄道が田園都市づくりをめざし、昭和8~13年に駅の開発を含めた26万4千平方mに及ぶ区画整理により造った街で、住宅地は「常盤台住宅地」と呼ばれています。
 しかし近年、建物の老朽化・生活様式の変化に伴う建替えや、相続による土地の細分化等で建築当初の建物が大変少なくなってきました。
 この住宅も、平成16年に建築当初の形を維持できなくなる事態が生じましたが、現所有者は建築物の価値の重要性を鑑み、建物の二階部分と北側一部分とを曳家して保存しました。  
 建築当初と比較すると規模は縮小され、位置も同敷地内にて移動していますが、広縁を含む四部屋が屋根を含めて建設当初のまま残っており、「常盤台住宅」の歴史を伝える上で重要な建造物です。
 平成21年3月
  板橋区教育委員会
  ※現在も居住していますので、内部への立ち入りはできません。

場所

https://goo.gl/maps/o9hYsm4x19ay43297


常盤台の南に空襲の慰霊碑があるので足を伸ばしてみる。
マンションのの間に鎮座。

平安地蔵

昭和20年6月10日の板橋区内で最大の死者(死者269名)を出した空襲の犠牲者「戦災死没者之霊」を祀る。昭和二十三年六月十日建之。

平安地蔵尊
平安地蔵尊由来
 この地は、大東亜戰争末期の昭和二十年六月十日午前八時半頃、米爆撃機参拾数機の編隊により數百発の爆彈を投下され一瞬にして修羅の巷と化し死者貮百八拾余名を出せり
 ここに戰災死没者永遠の冥福を祈るため地元有志發起人となり昭和二十三年六月十日平安地蔵尊を建立する

平らけく 安ら希く
  世越は 護り座す
 地蔵菩薩の
   誓ひうれしき

伊藤康安撰 長谷川耕南拜書

平安地蔵
 昭和二十年(一九四五)六月十日、午前七時五十五分より約二時間にわたり、この付近一帯はB29による空襲をうけました。『帝都防空本部情報』の記録によると、死者二六九名、重傷者八六名、建物の全壊二六〇戸、投下爆弾(二五〇キログラム級)一一六個、罹災者二、四六七人羅災世帯四九八世帯とあります。区内では最大の死者を出した空襲といわれ、実際にはこの数字より多い被害があったようです。
 戦後、亡くなった人々の供養と再びこの悲劇を繰り返すまいという誓いのもとに昭和二十三年六月十日、地元有志の人々が浄財を集め、おとな、子どもを表す大小の地蔵を造立、平安地蔵と命名しました。太平洋戦争を語る区内では数少ない史跡の一つです。
 平成七年度、板橋区の記念物に登録されました。
  平成九年三月 板橋区教育委員会

場所

https://goo.gl/maps/SCDofGz5KnhB6jqL7

※本記事の撮影は2021年2月


板橋区関連

「明治神宮外苑」と「青山練兵所跡」

明治神宮外苑。

もともと当地は、「青山練兵場」であった。
大正元年(1912)9月13日、  明治天皇崩御による「大喪の礼」が青山練兵場で執り行われた。
大正15年(1926)に、青山練兵場の葬場殿跡地に、「聖徳記念絵画館」を中心とする「明治神宮外苑」が完成。
大正13年(1924)に完成していた「明治神宮外苑競技場」では、戦時中に「学徒出陣壮行会式典」が行われている。

青山練兵場

以下を参照。


御観兵榎

御観兵榎の碑は、東郷平八郎書。大正15年7月、明治神宮奉賛会による。
この場所で、  明治天皇御台臨のもとに、明治22年2月11日の憲法発布観兵式、明治39年4月30日の日露戦役凱旋観兵式などが行われた。
明治天皇の御座所は、常にこの榎の大木の西側に設けられていたという。
現在の榎は2代目。

御観兵榎
伯爵東郷平八郎書

御観兵榎 について
 この外苑の敷地は、もと陸軍の青山練兵場で、明治天皇 の御台臨のもとにしばしば観兵式が行われ、なかでも明治二十三年(一八九〇)二月十一日の憲法発布観兵式や、明治三十九年(一九〇六)四月三十日の日露戦役凱旋観兵式などは、特に盛大でありました。聖徳記念絵画館の壁画「凱旋観兵式」(小林万吾画)にその時の様子が描かれており、当時の盛儀が偲ばれます。明治天皇がご観兵される時は、いつもこの榎の西前方に御座所が設けられたので、この榎 を「御観兵榎」と命名し永く保存しておりましたが、平成七年(一九九五)九月十七日老令(樹令二百余年)の為台風十二号余波の強風により倒木しました。遺木の一部は聖徳記念絵画館内に名木「ひとつばたご」の遺木と共に保存されております。
 平成八年(一九九六)一月、初代御観兵榎の自然実生木(推定樹令六十年)を苑内より移植し、「二代目御観兵榎」として植え継ぎました。
  平成八年一月吉日 明治神宮外苑

「初代 御観兵榎」
 
 にれ科えのき属、樹齢二百余年と推定される。
 幹廻り、二・二メートル 高さ、九メートル 枝張り、十六メートル
碑石 
 石材は伊豫(愛媛県)青石、天然石
題字 
 東郷平八郎 書 
 明治三十八年日本海海戦においてロシアバルチック艦隊を壊滅させた、
 当時の連合艦隊司令長官 東郷神社の祭神

場所

https://goo.gl/maps/neRxNAr38GfSDxot8


陸軍大学校跡

青山練兵場があったころの陸軍大学校は、現在の港区立青山中学校にあった。


明治神宮外苑の記

明治神宮外苑の記
石碑の題字 
  「明治神宮外苑之記」
  明治神宮奉賛会 総裁 閑院宮載仁親王殿下の篆書
撰文  
  明治神宮奉賛会 会長 徳川家達
石材
  東北仙台産の板岩
  高・地表4メートル 幅・1.8メートル 厚・0.36メートル

碑文の大意
 明治45年(1912)7月30日に、明治天皇(第122代の天皇・今の天皇の曽祖父)、大正3年(1914)4月11日には、昭憲皇太后(明治天皇の皇后)がお亡くなりになりました。これを伝え聞いた国民の間から、御二方の御神霊をお祀りして、御遺徳を永遠に追慕し、敬仰申し上げたいという機運が高まり、その真心が実って、大正9年(1920)11月1日、代々木の地に、明治神宮の御創建となったのであります。
 明治の時代は、日本の歴史を通じて、政治・経済・文化・スポーツ等の各方面において、驚くべき躍進を遂げ、近代国家としての基盤が確立されましたが、その原動力となられた天皇の偉大な御事蹟と御聖徳の数々を、永く後世に伝えたいものと、明治人外苑の造営が進められることになりました。
 これがため、明治神宮奉賛会が設けられ、天皇が御在世中、しばしば陸軍観兵式を行わせられ、又、御葬儀がとり行われた旧青山練兵場の現在地に、皇室の御下賜金をはじめとして、ひろく全国民の献金と、真心のこもった労働奉仕により、十余年の年月をかけて、大正15年(1926)10月に、明治神宮外苑は完成しました。
 苑内には、天皇・皇后御二方の御一代の御事蹟を、有名画家が描いた八十枚の大壁画が掲げられている白亜の殿堂、聖徳記念絵画館を中心に、野球場、競技場その他の多くの優れた運動施設が設けられ、御仁徳をお偲びしつつ、青少年の身心鍛錬の場として、或は遊歩を楽しむ人々の憩いの苑として、崇高森厳の気漲る内苑と相俟って造成されたもので、永く後世に残されるものであります。
 外苑造成工事全く成り、奉賛会より明治神宮に奉献するに当り、事情の概要を記し、後の世の人々に伝えるものであります。
  大正15年(1926)10月 
    明治神宮奉賛会 会長徳川家達

明治神宮外苑案内図。
かつて、「明治神宮外苑競技場」として明治神宮外苑に含まれていた競技場は、昭和31年に国立競技場として文部省に移管されたため、現在は明治神宮外苑の敷地には含まれない。

明治神宮外苑
銀杏並木

銀杏並木

手前が高く、奥が低い銀杏が植えられるという、巧みな遠近法が用いられている。
大正15年の明治神宮外苑に先立ち、大正12年(1923)に植樹。


明治神宮外苑
国旗掲揚塔

見事すぎる国旗掲揚塔。

台座には2頭の一角獣が。


日本最古級のアスファルト舗装
聖徳記念館絵画館前通り

近年(令和元年12月)、当時の舗装が保護のために覆われ、当時の舗装は、今ではほんの一角のみが見学できるようになっている。

明治神宮外苑の舗装
 明治神宮外苑の道路の舗装は、東京市(当時)でも大規模で本覚益那加熟アスファルト混合物を用いた舗装であり、1926年(大正15年)1月に完成しました。
 この工事は、我が国においてワービット(Warrenite-Bitulithicの略)工法を採用した最初の工事であったばかりでなく、アスファルトは国産品(秋田県豊川産)を使用し、当時の最新鋭機による機械化施工が行われました。
 この舗装は長い年月の使用に耐え、左図の濃色の箇所(下の写真)が66年間(1992年改良)にわたって車道として使われてきたことは、驚嘆に値します。また、この案内板の前の舗装は当時のまま現存しており、日本における車道用アスファルト舗装としては最古のものです。

  当時の工事概要
(1)発注者:明治神宮造営局
(2)施行面積:59,096㎡
(3)施行費用:167,135円
(4)工期:1924年5月~1926年1月
(5)監督者:工学博士・藤井眞透

土木学会選奨土木遺産
 特別区道43-650(霞ヶ丘町1番地先)の車道用アスファルト舗装は国内最古級の「ワービット舗装(ワーレナイト・ビチュリシック工法による舗装の略称)」であり、平成16年度に公益社団法人土木学会選奨土木遺産に認定されました。
 完成から90年以上が経過し路面性状が良くない(ひび割れが生じている)ことから、土木学会及び東京都と協議し、ワービット舗装をインターロッキングブロック舗装(ILB舗装)で覆いました。
 こちらの展示スペースでワービット舗装をご覧いただけます。


聖徳記念絵画館

大正15年(1919)10月22日竣工。国指定重要文化財。
明治神宮による維持管理が行われている。


葬場殿趾(葬場殿趾円壇)

葬場殿址
明治天皇が明治45年(1912)7月30日にお亡くなりになり、その御葬儀が9月13日に全国民の悲しみのうちにこの場所(当時の青山練兵場)で行われました。
ここがその時に御柩車が置かれた葬場殿のあとです。
中央の大木はこのことを記念して植えられた楠の木です。
 明治神宮外苑

明治天皇の御柩車は、青山練兵場仮停車場から、京都桃山に向かわれた。

葬場殿趾


樺太国境画定標石(樺太島日露国境天測標)

日露戦争終結後、明治38年(1905)から昭和20年(1945)までの40年間、樺太島北緯50度以南は、日本の領土だった。日本としては陸地の国境線は以後に有していない。

樺太島を北緯50度で南北に分断し、東のオホーツク海沿岸から西の間宮海峡まで132kmの間に、日露の紋章を刻した「天測境界標」と呼ぶ国境標石4基を設置、さらに平均6kmごとに小標石17基を置き、19か所に木標が建てられた。

明治神宮外苑にある「天測境界標」は第四天測点のレプリカ。
日本側には「菊の紋章」、ロシア側は「双頭の鷲の紋章」が刻まれている。

樺太国境画定標石
 時 明治39年6月~40年10月
 所 樺太日露境界

 明治37、8年の日露戦役の講和条約でカラフトの北緯50度以南は、日本の領土となりました。
その境界を標示するため、日露両国委員は、明治40年9月4基の天測標と17基の小標石を建てて境界を確定しました。
 この境界標石は、外苑創設に際し、明治時代の一つの記念物として、樺太庁が之を模造し外苑に寄贈したものです。当時苑内北方隅の樹間に在りましたが、この度、全国樺太連盟よりの、これが顕彰周知方の篤い要望に応えて、絵画館前の現地に移し整備配置しました。
 日本側の菊の紋章の背面には露国の鷲の紋章が刻んであります。又、聖徳記念絵画館の壁画「樺太国境画定」(安田稔画)には、両国委員が国境標を建設する光景を史実に基づいて描いた絵画が展示されております。
  昭和54年6月2日
    明治神宮外苑

大日本帝国
境界

上に「模造」と刻まれている。

天第四号
明治三十九年

ロシア国側。日本にとっては裏、ロシアにとっては表。


建国記念文庫

「建国記念の日」の祝日の制定を記念して建立。

建国記念の日 二月十一日

建国記念文庫
昭和41年12月9日、建国日制定審議会は2月11日を建国記念の日として答申、即日法律によって発布された。この間、数十万通に及ぶ、記念日制定の希望・意見書が進達されたので、ここに建国記念文庫を建設し、これを保管する事にした。
建設費は総て国民の浄財である。これは、現下の国民が等しく建国を思う情熱の結果であり、千年万年の子々孫々に伝え、以て後日の語り草にしたいのが、記念文庫設立の目的である。
建物は、わが国が建国当時、米穀を以て立国としたことを想い、奄美大島の高倉様式を移築しその屋上にテンパガラスを施行し、ここに書類を保管した。書は、出雲大社の神門の布施杉の材に佐藤大寛が墨書した。
礎石は、坂上田村麻呂将軍の東征により、平和国家が確立された故事に鑑み、奥州厳作山の石垣白河石を以て施工した。
  昭和44年(1969)2月11日
  元建国記念日制定審議会長 菅原通済記

ちなみにこのエリアは夜間は立入禁止、だそうで。
建国記念の日を面白くない人々の襲撃を防ぐため、だとか。


青山練兵所の陸軍境界標石?

青山練兵所の南西付近。それっぽい標石が残っている。
ただし、記載されているであろう文字面が見えないために詳細は不明。

場所

https://goo.gl/maps/CCc8xhEvYAURs5fBA


明治神宮野球場

大正15年(1926)10月に明治神宮外苑に「明治神宮外苑競技場」とともに完成。
改修に次ぐ改修が行われているが、ベースは大正15年に建設された球場が使用されている。
再開発が予定されており、2027年以降に取り壊して、秩父宮ラグビー場と敷地を入れ替えて新球場が建設される予定という。秩父宮ラグビー場は明治神宮外苑第二球場の地に新設。


日本オリンピックミュージアム
MONUMENT AREA

オリンピックシンボルモニュメント、岸記念体育会館から移設した岸清一像、ピエール・ド・クーベルタン像、嘉納治五郎像、1964年東京オリンピック、1972年札幌冬季オリンピック、1998年長野冬季オリンピックの聖火台レプリカなどが設置されている。

「いだてん」な感じですね。

岸清一像

ピエール・ド・クーベルタン像

嘉納治五郎像

オリンピックシンボルモニュメント

1998年長野冬季オリンピック 縮尺1/2

1972年札幌冬季オリンピック 縮尺2/3

1964年東京オリンピック 縮尺3/4


国立競技場

前身は「神宮外苑競技場」。

大正13年(1924)に、明治神宮外苑競技場として開場。
第二次世界大戦中の1943年(昭和18年)10月21日には学徒出陣壮行会会場ともなった。

https://www2.nhk.or.jp/archives/shogenarchives/jpnews/movie.cgi?das_id=D0001300562_00000&seg_number=002

戦後は、明治神宮から文部省に移管され、旧国立競技場(国立霞ヶ丘陸上競技場)は昭和33年(1958)竣工。
そして、2019年に新・国立競技場として生まれ変わった。


学徒出陣壮行の地 記念碑

明治神宮外苑競技場の地から、一時的に移転された学徒出陣壮行の地 記念碑。新国立競技場に戻ってきました。
ただし、新国立競技場には自由に入れないので、これは後ろ姿ですね。。。。
(早く正面から見たい。。。

※訪問しました


近衛歩兵第四連隊跡碑
近衛歩兵第六連隊跡碑

国立競技場の隣、「都立明治公園」に、近衛歩兵第四連隊跡碑・近衛歩兵第六連隊跡碑があるというも、再開発とオリンピック絡みで立ち入りできず。。。

まあ、落ち着いた頃に再訪ですね。。。
なんか悪い予感がするんです、再開発で無くなっていなければよいのですが。。。


「学徒出陣壮行の地 記念碑」と「近衛歩兵第四連隊跡碑」「近衛歩兵第六連隊跡碑」と、確認できなかったものがあったのが心残り。また、再訪をしましょう。

※撮影は2020年8月