Date-SKN のすべての投稿

北千住界隈の戦跡散策(足立区)

北千住界隈の戦跡としては、千住神社の防空壕が有名だけれども、それ以外にもいくつか見どころがあるので、以下に紹介をしてみる。


B29無名戦士慰霊碑(慈眼寺)

慈眼寺境内には、空襲で撃墜されたB-29搭乗員戦死者の霊を供養する慰霊碑があった。慰霊碑建立にあたり作家の長谷川伸が相談役として名を列ねている。

無名戦士を弔ふ

昭和20年4月13日夜、第313航空団505爆撃群所属のB29(機体番号42−63517)が足立区花畑町・北加平町に墜落。搭乗員11名全員死亡。

戦後、墜落地にほど近い現在の北加平公園に「B29無名戦士之墓」が建立されるも、道路拡張により撤去。銘碑のみが足立区郷土博物館に保管されている。

慈眼寺の被災銀杏

B29無名戦士慰霊碑近くの銀杏は、戦災を生き抜いた銀杏。今でも焼け焦げた跡を残している。

慈眼寺

新義真言宗寺院。千龍山妙智院慈眼寺。
創建は1314年(正和3年)、行覚によって開山。


位置関係

国土地理院航空写真
ファイル:USA-M402-2-13
1947年08月11日、米軍撮影写真を一部加工。
クリックして拡大。
戦後2年経っていてもまだまだ残っている空襲の爪痕。


千住郵便局電話事務室

現存する数少ない山田守設計の建築物。山田が設計した建物では初期のもので「ドイツ表現主義」建造物。一枚一枚が手焼きの煉瓦によるスクラッチタイルは昭和初期の流行という。
1929年(昭和4年)5月に竣工。逓信省の技師である山田守によって設計された、いわゆる逓信建築の一つ。昭和20年の空襲でも本建物は残ることができた。
現在はNTT千住ビルとしてNTT東日本が管理。


源長寺の被災大欅

千住大橋と北千住の中間あたりに鎮座している源長寺の境内にも被災樹木があった。

大楠
文化年間この地帯に多く見られたが、昭和20年戦火の為最後の一本を焼失。その残りがこの切株である。

源長寺

浄土宗寺院。稲荷山勝林院源長寺。
1610年(慶長15年)、伊奈忠次の開基。


千住神社の防空壕

以前はとくに説明板もなくロープも張っていなかったが、最近に整備をされたようだ。

以前の写真はこちらから

平和の大切さを伝える
防空壕
昭和20年、空襲が激しくなると、東京中に防空壕が作られました。
簡易なものから、強固な地下壕までいろいろあり身体を守ってきました。
平成29年5月 千住神社歴史保存会

八紘一宇の国旗掲揚台(千住神社)

紀元二千六百年記念
 昭和十五年十一月吉日建設
  千住宮元町會

日露戦役紀念碑

乃木希典書。明治39年3月建。

不屈のイチョウ(千住神社)

生命の大切さを伝える
不屈のイチョウ
昭和20年4月10日、空襲により、神社に爆弾が投下され、蔵を残して神社は焼失しました。
このイチョウも燃えましたがコゲ跡を刻み復活して今も、生き続けます。
平成29年5月 千住神社歴史保存会

御神木(千住神社)

御神木
 この銀杏は、先の戦争にて千住宮元町のほぼ全ての建物が焼失した中で、御祭神御守護のもと、焼け残った御神木であります。
 寄り添う樹木は「夫婦銀杏」として親しまれており、縁結び、夫婦円満、家内安全、子宝安産の象徴となっております。
 (足立区指定保存樹)

千住神社

創建は延長4年(926)という古社。
旧社格は郷社。千寿七福神の一神(恵比寿)。

昭和20年(1945)4月13日 空襲で社殿を焼失。
境内の御神木や石鳥居などは戦災を免れて残っている。
そして戦争の記憶を残す防空壕跡も残されている神社。
戦後の昭和33年(1958)9月に社殿が再建。


関連

「日本毛織物工業の父」井上省三と千住製絨所(荒川区)

東京都荒川区。
南千住にかつて被服製造の官営工場があった。
近代化を推し進める明治新政府にとって、軍服や制服といった洋装は輸入に頼っており、その国産化が急がれていた。

明治8年(1875)に千葉県に羊牧場が設けられ羊毛の生産が開始。
旧長州藩士の井上省三が被服製造技術を学ぶためにドイツ留学し、その帰国を待って明治12年(1879)に東京南千住に官営工場「千住製絨所」が完成し、操業開始した。

日本の羊毛工業・毛織物工業は、南千住から始まったのだ。


井上省三(いのうえせいぞう)
「日本毛織物工業の父」
「日本羊毛工業の父」

旧長州藩士。萩藩厚狭毛利氏家臣。奇兵隊隊長として倒幕に活躍。
明治4年(1871)に北白川宮能久親王に随行してドイツのベルリンに留学。兵学から工業に転向し猛職技術を修得。
明治8年に帰国し内務省勧業寮へ配属。その後、再度の欧州留学を行い帰国後の明治12年に官営千住製絨所の初代所長に就任。
明治19年(1886)、病死。享年42歳。

千住製絨所

明治12年に南千住で官営千住製絨所として創業を開始。
初代所長は井上省三。
明治21年(1888)からは陸軍省の管轄となり工場を拡張。陸軍所要の軍服などを生産管理した。陸軍省管轄ではあっても陸軍大臣の認可でもって、他官庁や民間からの製造依頼や研究依頼、技術指導や技術者養成なども行い、国内繊維・被服産業に大いに貢献。

昭和20年、敗戦により操業停止。民間地元企業の大和毛織に売却。しかし大和毛織は業績不振により昭和35年(1960)に操業停止となり閉鎖。こうして千住製絨所以来の被服生産は80余年で幕を引いた。
その後、跡地は大映がオーナーとなっていた大毎オリオンズ(現・千葉ロッテマリーンズ)の本拠地球場「東京スタジアム」などが建設されるが、東京スタジアムは昭和47年に閉鎖され撤去。
現在は、荒川区総合スポーツセンター、警視庁南千住警察署、東京都立荒川工業高等学校、ライフ南千住店などに姿を変えている。


井上省三像(井上省三胸像)

昭和11年(1936)12月14日に井上省三没後50年を記念して、千住製絨所構内に「東京千住製絨所初代所長井上省三胸像」が建設された。

左右には羊の彫刻。
羊毛工業の父、ゆえに。

かつては、もうひとまわり大きな台座であったことが除幕式当時の写真で垣間見ることができる。

参考

https://kiralink.pref.yamaguchi.lg.jp/202002/yamaguchigaku/index.html

井上省三像の隣りにあるモニュメント。特に説明がないので詳細は不明だが、当時の建造物の一部?かもしれない。
薄れかかった文字には以下の記載。

 明治12年(1879)この地に官営の千住製絨所が設立された。
 それまで輸入に頼っていた羊毛製品の国産化を意図して建てられたもので、初代所長 にはドイツで毛織物の技術を学んだ 井上省三(1845〜1886) を迎え、ここに日本の羊毛 工業が始まった。
 昭和20年操業が停止するまでの70年間、大規模な毛織物の製造が行われ日本の羊毛工 業の発展に寄与した。
 地域の人々から「ラシャ場」と呼ばれた赤煉瓦洋風建築のこの工場は、荒川区が近代 工業地帯として発展するきっかけとなった。


井上省三君碑

さらに隣には、井上省三を讃える碑も建立されていた。

井上省三君碑
 この碑は、官営国場千住製絨所初代所長・井上省三の功績を後世に伝えるものである。
 井上省三は、長州(現山口県)出身で、木戸孝允に従って上京、後にドイツに留学し毛織物の技術を修得した。明治十二年(1879)の千住製絨所の開業、日本羊毛工業の発展に尽力したが、明治十九年(1886)に42歳の若さで死去。明治二十一年(1888)に制絨所の職員・職工の有志が、井上省三の偉業をしのびこの碑を建立した。
 上部の題字と撰文は、井上省三と同郷で、交遊のあった、後の外務大臣青木周蔵と東京農林学校(後の東大農学部)教授松野礀による。
  荒川区教育委員会

井上省三君碑の扁額は青木周蔵の書。

https://goo.gl/maps/oZ95YzKkdFdRbAZ59


位置関係

国土交通省国土地理院航空写真
ファイル:8921-C3-35
昭和19年(1944)11月07日、日本陸軍撮影。

上記航空写真を一部加工。クリックで拡大可。

「千住製絨所」の北側、隅田川の対岸には「日本皮革株式会社の工場」があった。現在の「ニッピ」。

現在の様子。GoogleMap航空写真より。


千住製絨所のレンガ壁(都立荒川工業高校)

井上省三の碑からそのまま「若宮八幡通り」を道なりに北上をする。
右手に都立荒川工業高校の壁がみえてくる。この煉瓦壁が、当時の千住製絨所の壁でもあるのだ。

千住製絨所跡
 この付近一帯には、明治十二年(1879)に創業された官営の羊毛工場である千住製絨所があった。
 工場建設用地として強固な基盤を持ち、水利がよいことから、隅田川沿いの北豊島郡千住南組字西耕地(現南千住6-38〜40、45付近)が選定された。敷地面積8300余坪、建坪1769坪の広大なものであった。明治二十一年(1888)に陸軍省管轄となり、事業拡大とともに、現荒川スポーツセンターあたりまで敷地面積が拡張された。
 構内にも生産工場にとどまらず、研究施設や福利施設などが整備され、近代工場の中でも先進的なものであった。
 戦後民間に払い下げられ、昭和三十七年、敷地の一部は野球場「東京スタジアム」となり、人々に親しまれてきた。
 一部残る煉瓦塀が往時を偲ばせる。
  荒川区教育委員会

レンガ壁の途中に不自然なコンクリート。かつてこの場所に出入り口を作ったのであろうか。

この先もかつては壁が続いていた・・・


千住製絨所のレンガ壁(ライフ南千住店)

ライフ南千住店の駐輪場。その駐輪場の出入り口の脇に「レンガ壁」が残されていた。これも当時の千住製絨所の名残。

荒川区登録有形文化財(歴史資料)
旧千住製絨所煉瓦塀
 この煉瓦塀は、明治12年(1879)に創業を開始した官営工場、千住製絨所(せいじゅうしょ)の敷地を取り囲んでいた東側の塀です。塀の長さは北側9.9m、南側8.4mで、正門の袖柱の一部と、塀を保護するために設けられた車止めの一部が残っています。建設年代は、明治44年(1911)から大正3年(1914)頃と推定されます。
 千住製絨所は、ラシャ工場とも呼ばれ、殖産興業、富国強兵政策の一貫として軍服用絨(毛織物)の本格的な国産化のために設けられた施設です。軍服用絨を製造するだけでなく、民間工場に技術を伝授する役割も果たしていました。初代所長はドイツで毛織物の技術を学んだ井上省三です。荒川総合スポーツセンターの西側に井上省三の胸像が保存されています。
 当初の工場は、荒川(現隅田川)沿いに建設されましたが、次第に周辺の田園地帯を取り込んで拡張を重ね、大正時代には、敷地面積は3万2406坪になりました。千住間道を南限とし、現在の荒川総合スポーツセンター、南千住野球場、南千住警察署、都営住宅、都立荒川工業高校、東京都水道局東部第二支所などが旧敷地に該当します。
 千住製絨所の登場は、南千住地域に大きな影響を与えました。明治時代、汐入の二つの紡績工場(南千住8丁目)、石浜神社付近のガス会社(南千住3丁目)など大規模な工場が進出し、また隅田川貨物駅なども設置され、南千住は工業と商業の町へと変貌していきました。内務省、農商務省、陸軍省と所管が代わり、戦後、昭和24年(1949)には、大和毛織株式会社に払い下げられましたが、同36年(1961)に工場が閉鎖され、80年余りの羊毛工場の歴史に幕を閉じました。構内にあった工場の建物等は現存していないため、この煉瓦塀が千住製絨所に関する数少ない建造物であり、歴史的価値の高い文化財です。
 平成22年1月、この煉瓦塀は日本紙通商株式会社より荒川区教育委員会に寄贈され、株式会社ライフコーポレーションのご協力を得て、荒川区の近代化遺産として保存され、地域の歴史を刻んだモニュメントとして新たなスタートを切ることとなりました。保存に当たりご協力いただきました日本紙通商株式会社、株式会社ライフコーポレーションはじめ、関係各位に感謝申し上げます。
  平成22年10月 荒川区教育委員会

三段に飛び出した上部の造形が美しい。

煉瓦塀を保護するために設けられた車止めの一部

正門の袖柱の一部

正門の左側が現存部分とされる。

内側からも美しい造形。

https://goo.gl/maps/3FT5bBLf1vw4HCQa8


その他、荒川区界隈の記事。

八紘一宇碑と千住大橋

千住大橋の南側にひときわ大きな石碑が残されている。
「八紘一宇」の碑。同様の石碑の多くは戦後に撤去されてしまったが、交通の往来激しい千住大橋脇の石碑は、経緯は不詳であるが撤去されずに今日まで残されていた。歴史的経緯として貴重な石碑。

八紘一宇(はっこういちう)

日本書紀巻第三
神武天皇即位前紀己未年三月丁卯条の「令」
上則答乾霊授国之徳、下則弘皇孫養正之心。然後、兼六合以開都、掩八紘而為宇、不亦可乎
上は則ち乾霊の国を授けたまいし徳に答え、下は則ち皇孫の正を養うの心を弘め、然る後、六合を兼ねて以て都を開き、八紘を掩いて宇と為さん事、亦可からずや。

もともとは日本書紀の記述「掩八紘而為宇」を略した「八紘為宇」であった。その意味は「八紘(あめのした)をおおひて宇(いえ)となす」、すなわち「天下を一つの家のようにすること」の意であった。

昭和15年8月に、第二次近衛内閣(近衛文麿)が基本国策要綱で大東亜新秩序を掲げた際に「皇国の国是は八紘を一宇とする肇国の大精神に基づく」と述べたこの「八紘一宇」というフレーズが、この昭和15年の紀元二千六百年(神武紀元皇紀2600年)の大流行語となった。
あまりにも「八紘一宇」が」政治イデオロギー的なスローガンとなってしまていたために、戦後はGHQによって「八紘一宇」の用語は使用を禁じられてしまった。

神武天皇を祀る橿原神宮では、八紘一宇を、以下のように記している。

神武天皇の「八紘一宇」の御勅令の真の意味は、天地四方八方の果てにいたるまで、この地球上に生存する全ての民族が、あたかも一軒の家に住むように仲良く暮らすこと、つまり世界平和の理想を掲げたものなのです。昭和天皇が歌に「天地の神にぞいのる朝なぎの海のごとくに波たたぬ世を」とお詠みになっていますが、この御心も「八紘一宇」の精神であります。

橿原神宮 御神徳 http://www.kashiharajingu.or.jp/about/goshintoku.html

http://www.kashiharajingu.or.jp/about/goshintoku.html

八紘一宇の碑

八紘一宇
陸軍大将 林銑十郎書

建立は昭和15年11月10日、愛国婦人会荒川区分会南千住連合分区による。
紀元二千六百年記念行事の一環。
八紘一宇の揮毫は林銑十郎。

林銑十郎といえば、満州事変の際に、関東軍の要請を受けて独断で満州に進軍した朝鮮軍司令官。その後は陸軍大臣となり、内閣総理大臣にもなっている。広田弘毅内閣のあと、宇垣一成が組閣に失敗して内閣が流産した次が林銑十郎内閣であった。林内閣は当時としても異例の短命内閣で終わり、「史上最も無意味な内閣」「何もせんじゅうろう内閣」と呼ばれた。なお米内光政が海軍大臣として初入閣したのは林銑十郎内閣であった。
紀元二千六百年記念行事が行われた昭和15年の林銑十郎は内閣参議(内閣顧問)であった。


余談だが、千住大橋の北側(北千住)の千住神社境内には「八紘一宇の国旗掲揚塔」が残っている。建立は千住大橋のたもとの「八紘一宇の碑」と同じ時期。すなわち昭和15年の紀元二千六百年記念行事としての建立。全国各地でこの時期には同様の記念碑が建立されている。

八紘一宇の国旗掲揚台(千住神社)

紀元二千六百年記念
 昭和十五年十一月吉日建設
  千住宮元町會

北千住の千住神社には防空壕なども残っている。別記事にて。

八紘一宇は、上記の千住神社以外にも各所の神社で見かけることができる。

市谷亀岡八幡宮境内にも

築地の町中にも


位置関係

国土地理院航空写真
ファイル:8921-C3-35
1944年11月07日、陸軍撮影

拡大編集

千住製絨所は別記事にて

千住大橋

竣工は昭和2年(1927)。関東大震災後の震災復興事業として東京都復興局が計画をし石川島造船所が施工。タイドアーチ橋としては日本最古、という。

千住大橋
 文禄三年(一五九四)、徳川家康が江戸に入った後、隅田川に初めて架けた橋。架橋工事は伊奈備前守忠次が奉行を務めたが、工事は困難を極めた。忠次が熊野神社(南千住六丁目)に祈願したところ、工事は成就し、以来橋の造営の度に残材で社殿の修理を行うことが慣例となったと伝えられる。また、この架橋を機に、江戸中期まで行われていた小塚原天王社(現素盞雄神社)天王祭の神事「千住大橋綱引」が始まったという。当初は今より、二〇〇メートル程上流に架けられた。単に「大橋」と呼ばれたが、下流にも架橋されると「千住大橋」と称されるようになったと伝えられている。
 千住大橋は、日光道中初宿、千住宿の南(荒川区)と北(足立区)とを結び、また、江戸の出入口として位置付けられ、多くの旅人が行き交った。旅を愛した松尾芭蕉もここから奥の細道へと旅立ち、真山青果の戯曲「将軍江戸を去る」では、最後の将軍徳川慶喜の水戸への旅立ちの舞台として表現されている。
 現在の鋼橋は、昭和二年(1927)、日本を代表する橋梁技術者増田淳の設計により架け替えられた。ブレースドリブ・タイドアーチ橋の現存する最古の例である。「大橋」のプレートは、四〇〇年にわたる千住大橋の歴史を伝えている。
 荒川区教育委員会

昭和2年12月竣工


千住界隈(南千住・北千住)の戦跡や近代史跡は他にも。

彰義隊の墓(円通寺・荒川区)

彰義隊の墓は上野公園にもある。その上野公園の彰義隊の墓は、上野山内に放置されていた遺体を「円通寺」の住職仏磨らによって茶毘に付され、そうして円通寺に埋葬したことに由縁する。

上野公園の彰義隊の墓は下記より。


彰義隊

慶応4年(1868)
1月
鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍は新政府軍に敗北。
江戸に帰還した渋沢成一郎が「彰義隊」を結成する。
 彰義隊頭取(隊長)   渋沢成一郎
 彰義隊副頭取(副隊長) 天野八郎

3月
西郷隆盛と勝海舟の会談により江戸城無血開城を決定。

4月
徳川慶喜が江戸を離れ水戸に謹慎。慶喜を警護すべく、渋沢成一郎は上野からの撤退を主張するも、天野八郎と意見が対立し、渋沢成一郎は彰義隊を脱退。天野八郎が彰義隊を率いる。(渋沢成一郎は振武軍を結成し、最終的には榎本武揚と合流し函館戦争を戦う)

5月15日
新政府軍は旧幕府軍・彰義隊の武力殲滅を目指し彰義隊に宣戦布告。
午前7時頃に戦闘が始まり、午後5時には新政府軍の勝利戦闘は終わった。

上野戦争で戦死し放置されていた多数の彰義隊士の遺体を当時の円通寺の住職仏麿和尚と寛永寺御用商人三河屋幸三郎・侠客新門辰五郎らが遺骸266体を集めて上野山内にて荼毘に附し円通寺に埋葬した。
現在、上野公園内と円通寺に彰義隊の墓があるゆえんである。

円通寺は明治時代において、旧幕府軍の法要可能な寺院として旧幕臣の信仰を集めることとなった。

彰義隊戦死者の墓

戦死墓

建立時、まだまだ彰義隊という名称を出すのを憚れる時勢であったため「戦死墓」とのみ記載されている。
明治37年5月15日に榎本武揚らの手によって建立。墓碑銘は榎本武揚書。

彰義隊士の墓
 慶応四年(一八六八)五月、寛永寺に集結した彰義隊は新政府との激戦の末、上野の山から敗走した。累々と横たわる隊士の遺体をみた円通寺の仏磨和尚は、官許を得て、寛永寺御用商人三河屋幸三郎とともに遺骸を火葬して円通寺に合葬した。
 これが縁となって、明治四十年、寛永寺の黒門が円通寺に移された。昭和六十年に修復工事が行われている。
荒川区教育委員会

死節之墓

彰義隊の供養に尽力した三河屋幸三郎が向島の別荘にて、鳥羽・伏見、会津、函館、戊辰戦争などで戦死した旧幕臣の戦死者を供養していたが、円通寺に移設し、彰義隊と合わせて供養することとなったという。


こうして円通寺は彰義隊の供養を行った寺であったために旧幕臣関連の信仰が篤く、旧幕臣ゆかりの人々の碑も多く建てられることとなった。

正二位勲一等男爵大鳥圭介君追弔碑

明治44年6月15日没。明治44年7月に有志によって建立。
大鳥圭介は旧幕臣としては歩兵奉行を務める。旧幕府内でフランス陸軍の指導を受けた西洋式軍隊であった「伝習隊」を率いて戊辰戦争に参加。榎本武揚と合流して函館政権の陸軍奉行。
明治維新後は政治家・外交官・教育者など各方面で活躍。明治44年6月15日没。

天野八郎墓

渋沢成一郎が抜けたあと、上野戦争の彰義隊を「頭取(隊長)」として率いたのが天野八郎であった。新政府軍に敗れ再起を図っていたが、囚われの身となり獄中5ヶ月で病死。享年38歳。

俗名 天野八郎

天野君八郎碑

扁額は榎本武揚書

新門辰五郎碑

新門辰五郎は町火消の頭であったが侠客として著名。娘は徳川慶喜の妾。慶喜の警備なども担当する。
彰義隊が戦った上野戦争では、既に71歳であったが寛永寺の防火と鎮火、延焼防止などを勤めるも、大村益次郎率いる申請軍軍の砲火により寛永寺の伽藍は焼失。
上野戦争終了後に円通寺の住職仏麿和尚と寛永寺御用商人三河屋幸三郎・侠客新門辰五郎らが遺骸266体を集めて上野山内にて荼毘に附し円通寺に埋葬した。墓所は豊島区の盛雲寺。

三幸翁之碑

寛永寺御用商人三河屋幸三郎。明治23年建立。

上野戦争終了後に円通寺の住職仏麿和尚と寛永寺御用商人三河屋幸三郎・侠客新門辰五郎らが遺骸266体を集めて上野山内にて荼毘に附し円通寺に埋葬した。

二十三世仏磨大和尚之墓

円通寺23世住職。
上野戦争終了後に円通寺の住職仏麿和尚と寛永寺御用商人三河屋幸三郎・侠客新門辰五郎らが遺骸266体を集めて上野山内にて荼毘に附し円通寺に埋葬した。

土肥庄次郎之碑

碑は榎本武揚書。
旧幕臣。彰義隊に参戦。上野戦争で壊滅後に榎本武揚艦隊に合流。咸臨丸に乗船するも暴風雨にて本隊とはぐれ清水港入港。函館戦争には参加できなかった。以後は幇間として活動し、明治36年死去。

碑は2つに割れてしまっていた。

土肥氏之墓

中田正廣之碑

碑は榎本武揚書。碑文は山岡鉄舟の長男である山岡直記。
旧幕臣。慶応4(1868)年3月に江戸開城に激怒し江戸を離れる。
幕府撤兵隊(上総義軍)に参加し木更津の戦いで戦死。享年33歳。

小芝長之助墓

旧幕臣。将軍家御庭番。蝦夷共和国探索役主任、箱館市中取締頭取格。
土方歳三戦死に際しては遺骸を引き取る役目を担った。
晩年は円通寺の墓守として旧幕臣を見守り続けた。
大正5年死去。享年88歳。

佐久間貞一君記念之松

旧幕臣。彰義隊に参加するも徳川慶喜の水戸蟄居に同行したために上野戦争には参加しなかった。
明治期には財界で活躍し大日本印刷の前身となる秀英舎を創業。
「日本のロバート・オウエン」とも称された。
碑は明治33年5月13日建立。

町野五八君追弔碑

堀覚之助の名で箱館戦争に参戦。大鳥圭介・土方歳三らの下で蝦夷共和国陸軍奉行添役を勤める。大正 5年3月8日に没。碑は 5月に建立。

澤太郎左衛門君記念之松

旧幕臣。蝦夷共和国開拓奉行。
長男は、海軍造兵総監・技術中将の澤鑑之丞。
明治期には海軍教官を勤める。明治31年死去、享年65歳。
日本海軍初の海上砲の操砲訓練を行ったのが澤太郎左衛門という。
また、澤太郎左衛門が輸入発注手配した圧磨機圧輪が板橋火薬製造所で使用され、加賀西公園に「圧磨機圧輪記念碑」として残さている。

相馬翁輔君之碑

彰義隊隊士。一橋相馬家。結城戦争で戦死。
墓所は相馬家の菩提寺・牛込松源寺。

佐野豊三郎君之墓

旧幕臣。彰義隊士。
上野戦争で敗走後、箱館に渡る。
函館市中での借金トラブルから、明治元年12月27日に切腹。
佐野の介錯をした鷹羽玄道らによって明治 29年 6月に建立

松平太郎君之墓

旧幕臣。陸軍奉行並。陸軍総裁であった勝海舟の下で旧幕府軍をまとめる立場であったが、大鳥圭介や榎本武揚と合流。蝦夷共和国副総裁。
明治期は不遇であった。明治42年5月24日死去。享年71歳。

永井尚志君 永井岩之丞君 追弔碑

永井尚志は旧幕臣旗本。京都町奉行。大目付。戊辰戦争では榎本武揚と行動をともにし、蝦夷共和国の箱館奉行。
明治24年7月1日死去、享年76歳。
永井岩之丞は永井尚志の養子。養父とともに函館戦争に参加。明治期は裁判官として活躍。明治40年5月25日死去、享年63歳。三島由紀夫の曾祖父にあたる。

彰義隊八番隊長木下福治郎
彰義隊遊撃隊長鷹羽玄道追悼碑

木下福治郎・鷹羽玄道(上原仙之助)は兄弟。
上野戦争のち、榎本武揚と合流し、函館で彰義隊メンバーを取りまとめる。
木下は明治13年に42歳で没し、弟の鷹羽は明治44年に69歳で没している。
追悼碑は鷹羽が亡くなった年に、娘・登宇によって建立。

樵村丸毛君碑

旧幕臣、彰義隊隊士。丸毛利恒。
上野戦争敗走後は榎本武揚と合流し函館戦争に参加。
明治期は横浜税関などに勤務。明治38年8月6日死去、享年55歳。
扁額は榎本武揚書。

合同舩

彰義隊士八人合同慰霊碑。
山田八郎(遊軍隊組頭のちの十六番隊組頭)
松本義房(第三青隊隊長のち三番態組頭)
大塚嘉久治(第二白隊隊長のち頭取並・大塚霍之丞)
小林一知(旧幕府軍最後の咸臨丸艦長)
西村賢八郎(十八番隊組頭)
前野利正(第一赤隊伍長)
羽山寛一
百井求之助(会計係)

彰義隊後藤鉄次郎追吊碑

旧幕臣、御書院番。
彰義隊に入隊し、慶応 4年 5月 15日の上野戦争にて上野山王台で戦死。
実弟の後藤鉄郎が建立。

旧幕府徳川之臣御書院番
彰義隊後藤鉄次郎追吊碑
戊辰五月十五日於上野山王台戦死

大澤常正の句碑

さがるほど 見あげる人や ふぢの花

大澤常正は彰義隊士の世話人を務めた弁護士。
諸霊追悼のため、明治四十三年5月15日建立。

荒井郁之助君追弔碑

旧幕臣。蝦夷共和国海軍奉行。
明治期には官僚となり、初代中央気象台長。ちなみに二代目が旧幕府軍最後の咸臨丸艦長であった小林一知。
明治42年7月19日死去。享年73歳。

高松凌雲君追弔碑

一橋家の専属医師であったが、慶喜が将軍となると幕府奥詰医師として登用。
榎本武揚に合流し、箱館戦争には医師として参戦。箱館病院院長。
箱館病院院長として敵味方問わず戦傷者を治療。日本ではじめての赤十字活動とされている。
明治新政府の評価も高かったが、新政府の誘いを断り民間の町医者として活動。
大正5年10月12日死去、享年79歳。墓所は谷中墓地。

正二位勲一等子爵榎本公追弔碑

旧幕臣。幕府海軍指揮官。蝦夷共和国総裁。
函館戦争敗北後に明治政府に任官。逓信大臣・文部大臣・外務大臣・農商務大臣を歴任。東京農業大学の前身を創立などもしている。
明治41年10月26日死去、享年72歳。

良馬之碑

扁額は立花種恭(陸奥国下手渡藩主・貴族院議員)
三池立花藩の流れをくむ立花種恭は、旧幕府では外国奉行・老中格の会計総裁などを努めた。

戊辰戦争の際に彰義隊に下された名馬「八重垣」
犠牲になった名馬の霊も祀る。
明治32年建立。

有縁諸霊之碑

彰義隊隊士の霊を祀る。大正9年4月15日建立。


円通寺には、上野戦争での激戦地であった移築された「黒門」の奥に、旧幕臣ゆかりの墓や追悼碑が所狭しと集まっている。


上野の黒門

上野戦争で彰義隊と新政府軍が激戦を繰り広げた黒門が円通寺に移築されている。彰義隊供養のゆかりゆえであった。

荒川区指定 有形文化財・歴史資料
旧上野の黒門
 この黒門は、元、上野山内にあった。寛永寺の八門のうちで表門にあたる。慶応四年(一八六八)五月十五日に旧幕臣の彰義隊と新政府軍が戦った上野戦争では、黒門前でも激しい攻防が繰り広げられた。無数の弾痕が往時の激戦を今に伝えている。戦いの後、埋葬されずにいた多数の彰義隊士の遺体を、当時の円通寺住持だった仏磨和尚と神田旅籠町の商人三河屋幸三郎が火葬した。以来、円通寺は旧幕府方の戦死者供養の拠点となった。その機縁で、黒門が明治四十年(一九〇七)に帝室博物館より円通寺に下賜された。

今も残る黒門には、銃痕が多数残されている。


円通寺

東京都荒川区南千住鎮座。曹洞宗寺院。
伝承によると坂上田村麻呂によって建立という。

八幡太郎義家が供養のために築いた、小塚原の地名のもととなった「四十八首塚」。


磯部浅一墓(二・二六事件)

南千住回向院(小塚原回向院)
慶安4年(1651)に小塚原刑場での刑死者を供養するために建立された南千住の回向院。
安政の大獄で刑死した橋本左内・吉田松陰・頼三樹三郎の墓や、蘭学者杉田玄白・中川淳庵・前野良沢らが刑死者の解剖に立ち合った記念碑(解体新書)などど共に、昭和に歴史を刻んだ人物もこの地に葬られている。

磯部浅一

明治38年1905年(明治38年)4月1日 – (昭和12年(1937年)8月19日
広島陸軍幼年学校、陸軍士官学校(38期)卒業。
陸軍歩兵中尉に進級した後に、昭和7年(1932)6月に経理部への転科を志願し陸軍経理学校に入校。翌年昭和8年5月に陸軍経理学校を卒業し主計に転科。
陸軍二等主計(中尉相当)に任官し、昭和9年8月に陸軍一等主計(大尉相当)に進級。野砲兵第1連隊附となる。

昭和9年11月20日に発覚した「陸軍士官学校事件(十一月事件、十一月二十日事件)」にて、磯部浅一、村中孝次ら皇道派青年将校が逮捕される。
磯部浅一、村中孝次は軍法会議の結果、停職。停職中に「粛軍に関する意見書」を配布し免官。

昭和11年(1936年)の二・二六事件では、磯部浅一は栗原安秀らとともに計画・指揮を担当。磯部浅一は陸軍大臣官邸で統制派の片倉衷を銃撃。(片倉衷は一命を取りとめた。)

二・二六事件後の軍法会議で死刑宣告。磯部と村中の二名は北一輝、西田税の裁判の都合上、昭和11年7月12日に処刑された他の死刑囚とは切り離され、昭和12年8月19日に北、西田、村中とともに銃殺刑に処された。享年33歳であった。

昭和維新を目指した青年将校たちの夢はこうして果てた。

辞世の句
 国民よ 国をおもひて 狂となり 痴となるほどに 国を愛せよ

磯部登美子夫人はその後、結核を病み、昭和16年3月13日に病没した。享年28歳。二人の間に子供はいなかった。

磯部浅一墓

磯部浅一 之墓
妻登美子 

浅一  昭和十二年八月十九日歿
    行年三十三歳
登美子 昭和十六年三月十三日歿
    行年二十八歳

歴史的な良し悪しは、ここでは触れない。
ただただ、真摯に手を合わせる。
合掌

以下、本記事の趣旨とは外れてしまうので、簡単に。

豊国山回向院
(南千住回向院・小塚原回向院)

小塚原刑場

観臓記念碑

解体新書の絵扉をかたどった「観臓記念碑」
もともとは大正11年(1922年)建立。
昭和20年2月25日の空襲で被災したため、昭和34年に解体新書の絵扉部分の浮彫青銅板部分を移設。

境内には歴史上の著名人の墓も多い。

橋本左内墓(橋本景岳墓)

吉田松陰墓(松蔭二十一回猛士墓)

頼三樹三郎墓(鴨崖墓)

鼠小僧の墓
片岡直次郎の墓
高橋お伝の墓
腕の喜三郎の墓

意外なところでは、

カール・ゴッチ墓

プロレスの神様

Never lie , never cheat , never quit. 
技術と精神は常に一緒だ 
決して嘘をつくな 決してごまかすな そして 決して放棄するな

ほかにも当地には、桜田門外の変を決行した元水戸浪士達の総指揮者であった関鉄之介の墓なども。


関連

根岸競馬場跡(横浜競馬場跡)

神奈川県横浜市中区根岸台にあった競馬場。現在は主に根岸森林公園として再整備。日本初の洋式競馬場跡地。

根岸競馬場一等馬見所跡

根岸競馬場(横浜競馬場)

幕末の1866年に横浜の外国人居留地における娯楽施設として根岸台に敷地が用意され「根岸競馬場」として開設。1937年からは「横浜競馬場」に名称を変更。

昭和17年(1942)に戦争に影響により競馬場として休止。
昭和18年に馬場を閉鎖し、帝国海軍が徴用。
昭和20年9月3日、連合軍が接収。
変換後の昭和52年(1977)に横浜市所有の「根岸森林公園」、日本中央競馬会所有の「根岸競馬記念公苑」「馬の博物館」などに再整備された。


位置関係

国土地理院航空写真
ファイル:USA-R498-5
1947年11月05日、米軍撮影。一部加工。

根岸競馬場と根岸飛行場(大日本航空横浜水上飛行場)と。
根岸飛行場は以下で掲載。

周辺は、米軍の接収地と入り混じっている。
根岸住宅地区(X住宅地区)
現在は返還合意の下で跡地利用の調整段階。

https://www.city.yokohama.lg.jp/city-info/seisaku/torikumi/kichi/shisetsu/negisi.html

https://www.city.yokohama.lg.jp/city-info/seisaku/torikumi/kichi/beigun/negisitochi.html


根岸競馬場一等馬見所跡

昭和4年(1929)にアメリカ人建築家J・H・モーガンの設計にて竣工。
2009年に経済産業省によって近代化産業遺産に認定されるも、修復などが施されておらず、廃墟として放置状態。敷地内はフェンスに囲まれており立入禁止。

根岸競馬場観覧席全景
(1930年頃)

モーガン広場
 根岸森林公園は第2次世界大戦までは、競馬場として利用されていました。競馬場には馬場のほかに、一等馬見所・二等馬見所・下見所などの施設がありました。全ての施設は、アメリカ人建築家J・Hモーガン(1877-1937)による設計でした。
 J・Hモーガンは多年にわたり、根岸競馬場の施設を設計しています。設計の過程では、設計案の変更を行っており、主な施設である一等馬見所・二等馬見所は、実際に設計された設計案のほかに別の設計案もありました。
 ここでは、図面と写真で、一等馬見所・二等馬見所の設計過程及び建設された後の建物の様子、当時の競馬場の様子を紹介します。
 現存している建物は、一等馬見所で昭和5年(1930年)に建設されたものです。

建物細部外観を遠望。

スタンド側は米軍敷地になるために、垣間見ることも難しい。。。
スタンドには鉄骨の屋根がついていたが、撤去済み。
Google Earthより。

現状は廃墟となっている近代化産業遺産。
公園の中にそびえ立つ巨大な構造物は見応えありますので、ご興味わきましたら是非に。

国歌「君が代」発祥の地(横浜)

国歌「君ヶ代」発祥の地は横浜だった。
(幻となった初代メロディーとして)


初代「君が代」発祥の地

イギリス公使館護衛隊であった英国陸軍第十聯隊付軍楽長ジョン・ウイリアム・フェントンが、日本に国歌がなく儀礼音楽もないことを遺憾に感じ、作曲を申し出たことに始まる。
薩摩藩砲兵隊長であった大山弥助(のちの大山巌)は、古今和歌集に記載があり、めでたい歌として小唄や長唄・浄瑠璃でも親しまれており、大山巌が愛唱していたという薩摩琵琶歌「蓬莱山」の歌詞の一節でもあったという「君が代」を選び、フェントンが作曲。
横浜の妙香寺は薩摩藩洋楽伝習生(薩摩バンド・サツマバンド)がフェントンのもとで洋楽・吹奏楽の練習に励んだ地でもあり、この地で初代「君が代」(礼式曲君が代)が生まれた。
日本で最初に「君が代」を演奏したのも薩摩藩洋楽伝習生(薩摩バンド・サツマバンド)であった。
そうして、明治3年9月8日に、我が国最初の陸軍観兵式に際して明治天皇の前で初めて演奏された。

フェントン作曲の初代「君が代」は讃美歌風のメロディで日本人には歌いにくいものであったため、明治13年(1880)に雅樂調の改定版「君が代」が制定。

http://myokohji.jp/kimigayo.html


国歌 君が代由緒地

国歌 君が代由緒地
昭和十二年五月 建碑 


國歌君ヶ代発祥之地

名勝史蹟四十五佳選当選記念
国歌君ヶ代発祥之地
横浜貿易新報社

昭和十年十月起

横浜貿易新報社は現在の神奈川新聞。
横浜貿易新報社の45周年にあたる昭和10年に神奈川県下の45名勝史蹟を新聞読者投票で選定したもの。


日本吹奏楽発祥の地

明治2年(1869)に薩摩藩は自藩の洋式化をイギリスに相談。洋式化のひとつが軍楽隊の設立であった。
30名ほどの薩摩藩洋楽伝習生(サツマバンド)はイギリス軍第十聯隊の軍楽長ジョン・ウイリアム・フェントンの指導を妙香寺で受けたことから、日本の吹奏楽が始まったとされる。

日本吹奏楽発祥の地
 島津忠秀書

碑文
 明治2年(1869年)10月、薩摩藩の青年藩士30余名が当妙香寺に合宿し、英国陸軍第10連隊第1大隊所属軍楽隊の指導者ジョン・ウイリアム・フェントン(John William Fenton)から吹奏楽を学んだ。
 これが日本人による吹奏楽団創立の序であり、吹奏楽活動の諸となった。
 発祥から120年目にあたるこの年、日本吹奏楽が悠久に発展することを祈念し、ここに、吹奏楽界同志に諮りこれを建立、謹んで日蓮宗本牧山妙香寺に献呈するものである。
平成元年(1989年)9月8日建立
 日本吹奏楽発祥の地記念碑建立発起人会
  代表 春日 學

島津忠秀は島津家第31代当主。島津義弘から数えて第14代目。

http://myokohji.jp/brass.html


妙香寺(君が代寺)

弘仁5年(814年)真言宗の開祖弘法大師(空海)の創立。その後、日蓮の教化で日蓮宗に改宗したという。

http://myokohji.jp/index.shtml


場所

元町・中華街駅から徒歩20分ぐらい。

https://goo.gl/maps/tok68fBP9s8qSacr5

ちなみに鹿児島にも「君が代発祥の地」があるとのこと。

http://www.pref.kagoshima.jp/aa02/pr/gaiyou/itiban/hatu/kimigayo.html#:~:text=%E5%85%A5%E6%9D%A5%E7%94%BA%EF%BC%88%E7%8F%BE%EF%BC%9A%E8%96%A9%E6%91%A9,%E5%9C%B0%E3%81%A8%E3%81%84%E3%82%8F%E3%82%8C%E3%81%A6%E3%81%84%E3%81%BE%E3%81%99%E3%80%82


山手公園(日本初の洋式庭園・元妙香寺境内)

明治3年、横浜の外国人居留民のために、山手公園が開園。山手公園の敷地はもともと妙香寺境内であった。
薩摩藩音楽伝習生たちは、妙香寺で西洋音楽を学び、そして裏手の山手公園で演奏会も実施している。

山手公園内の「横浜山手テニス発祥記念館」にも、「君が代」に関連する展示があるので、足を運んでみました。

最初の「君が代」聴いてみませんか
薩摩藩軍楽隊と最初の「君が代」
1870年(明治3年)9月7日にできたばかりの山手公園奏楽堂で 日本初の軍楽隊の演奏会が開かれました。その時、「君が代」が演奏されました。演奏は、1869年10月から横浜山手の妙香寺を宿舎に、英陸軍第一歩兵連隊付軍楽隊長フェントン中尉に洋楽の訓練を受けていた薩摩藩軍楽隊です。
この時の「君が代」は、薩摩藩に昔から伝わっていて、めでたいときに歌う琵琶歌「蓬莱山」から歌詞をとり、フェントンが作曲したと伝えられています。
薩摩藩士たちは、山手公園での演奏会の翌日、越中島で行われた「天覧調練」の場でも演奏し、それが「君が代」の最初の公式演奏だとされています。しかし、フェントンの曲は歌詞と合わないため、後に海軍軍楽隊長中村祐庸が宮内省で新たに改訂作曲し、海軍省傭教師のドイツ人エッケルトが吹奏楽用に編曲しました。1888年(明治21年)に海軍省から「大日本礼式」として各国に公表され、事実上の国歌としての扱いを受けることとなったものです。
妙香寺境内には「国歌君が代由緒地」と「日本吹奏楽発祥の地」二つの碑が建てられています。
(「横浜山手公園物語」p62-63から抜粋要約しました。)

【注】中村祐庸は最初の「君が代」の曲を改訂することを提案しましたが 、 実 際 の 改 訂 作 曲 は 宮 内 省 式 部 職 雅 楽 課 一 等 伶 人 林 廣 守 、 伶奥義好によって1880年(明治13年)に行われました。

フェルトン作曲の最初の「君が代」を聞くことができます。
歌詞は同じであっても現在の「君が代」とは、趣がだいぶ違いますね。

山手公園の「あずまや」

日本最初の洋式公園。
日本のテニス、日本庭球発祥の地。

旧山手68番館

ロングスカートに日よけ帽で、テニスをする西洋貴婦人。

日本庭球発祥之地

SINCE1878

あと、ヒマラヤスギが日本で初めて植えられたのも、山手公園だそうで。

https://www.hama-midorinokyokai.or.jp/park/yamate

場所:

https://maps.app.goo.gl/7JrWHGqnUieHDTdW9

※山手公園の撮影:2026年5月

陸軍航空本廠寄居出張所の跡地散策

かつて東武東上線男衾駅から、軍用線が西に伸びていた。
東武線から分岐した軍用線の先にあったのが「陸軍航空本廠寄居出張所」であった。


陸軍航空本廠寄居出張所
(鉢形航空廠・鉢形兵器廠)

埼玉県大里郡寄居町大字三ケ山にある「三ケ山緑地公園」を中心とした三ケ山地区に「陸軍航空本廠寄居出張所」があった。
昭和16年に「航空本廠寄居出張所」として開設。
昭和17年に「立川陸軍航空廠寄居出張所」、昭和19年に「東京陸軍航空補給廠寄居出張所」と改称。

ふじみ野市にあった「東京第一陸軍造兵廠川越製造所」で製造された航空機用弾薬は上福岡駅から東武東上線の貨物輸送を通じて、当地に運ばれた。


位置関係

国土地理院航空写真
ファイル:USA-R465-No1-26
昭和22年(1947年)11月03日-米軍撮影

拡大して一部加工。

男衾駅と「陸軍航空本廠寄居出張所」の位置関係。
「三ケ山」と言われるだけあって、山に囲まれた立地。
弾薬を保管するに適した場所でもあった。

更に拡大。

遺構としては、「軍用線コンクリート橋」と「工員宿舎」「倉庫」が残されている。


男衾駅

男衾は「おぶすま」と読む。中世鎌倉期の男衾三郎絵詞でも著名。
東武東上線の男衾駅は大正14年開業。
平成28年(2016)に駅舎を改築。残っていた軍用線ホーム跡は消失した。

左側に軍用線の専用線路があった。

砂利道が軍用線の名残。

全然関係ないけど、古い自販機を発見。


軍用線専用コンクリート橋梁

山口製作所と民家の間を流れる塩沢川支流にかかるコンクリート橋。工場と民家に挟まれているために近づくことは不可能。
陸軍航空本廠寄居出張所専用線として残る数少ない遺構。

男衾駅からは徒歩30分ぐらいの場所。

https://goo.gl/maps/kpva6MYSgxYQGyAM6


正門跡

前述のコンクリート橋梁と平行する道路橋。この先のあった陸軍航空本廠寄居出張所の正門はこのあたりにあったという。

陸軍航空本廠寄居出張所から鉢形男衾方面を見る。


陸軍航空本廠寄居出張所の工員宿舎?

2024年2月、解体を確認しました

工員宿舎と見られる木造家屋。現役で使用されている。
正門からすぐ東のエリアには工員宿舎があったという。

※解体を確認


陸軍航空本廠寄居出張所の特殊弾倉庫1

三ヶ山会館、三ヶ山神社の奥にある廃倉庫。
2024年に再訪。

内部


陸軍航空本廠寄居出張所の防火水槽

特殊弾倉庫の周辺には、弾薬庫の万が一に備え、防火水槽が配置されており、いくつかが残っている。

防火水槽1

防火水槽2

防火水槽3

防火水槽4

ちなみに時代が下った戦後の建屋の基礎跡もある。ちょっと紛らわしい。


陸軍航空本廠寄居出張所の特殊弾倉庫2

2024年2月現在、立入禁止となっております

三ヶ山会館の奥の竹林の中に残されたコンクリート倉庫の廃墟。
特殊弾倉庫1よりさらに西に道なりにすすんだ私有地となっており、2024年現在は、ロープが張られて立ち入りができないようになっている。

下記の写真を左に行くと倉庫1、真っ直ぐ行った竹林の左手に倉庫2となっている。

私が以前(2020年)に訪れた時は特に立入禁止には、なっていなかった。
しかし、2024年に再訪した時は、立ち入り禁止になっていました。

竹林に残る倉庫跡

陸軍航空本廠寄居出張所跡

現在は、埼玉県環境整備センター、三ケ山緑地公園、三ケ山体育館などが整備されており、往時を偲ぶべきものは残っていない雰囲気。

三ケ山


鉢形駅

「陸軍航空本廠寄居出張所」は通称「鉢形航空廠(鉢形兵器廠)」とも呼称されている。
貨物線は男衾駅から分岐されていたが、直線距離では実は鉢形駅のほうが近い。ゆえに帰りは楽をして鉢形駅へ。ちなみに寄居駅は鉢形駅の先、荒川を渡らないといけない。

ちなみに、男衾駅からコンクリート橋までは徒歩30分ぐらい。コンクリート橋から鉢形駅までは徒歩20分くらい。

ちょうど東武8000系の昭和40年代リバイバルカラーと遭遇したので、寄居駅にて撮影してみたり。

※2020年8月及び2024年2月


関連

東京第一陸軍造兵廠川越製造所跡地散策(上福岡)

埼玉県ふじみ野市。最寄り駅は東武東上線上福岡駅。
上福岡駅から東の方向に、当時は陸軍の工場(軍需工場)があった。
「陸軍造兵廠福岡工場」、のちの「東京第一陸軍造兵廠川越製造所」の名残を探してみる。

上福岡駅前で、レンタサイクル(シェアサイクル)を借りる。自転車が使えるとだいぶ行動範囲が広がるから、有益に活用を。

東京第一陸軍造兵廠川越製造所の官舎通用門

東京第一陸軍造兵廠川越製造所
(東一造川越)

東京第一陸軍造兵廠は、軍需工場として陸軍が展開した陸軍造兵廠のひとつ。略称は「一造」(東一造とも)

昭和4年に、福岡村の武蔵野台地を「火工廠用地」にすることを決定。この地は明治年代(明治8~9年頃)に「陸軍火薬庫」が設置される予定で買収された土地があった(実際には設置されずに明治40年に払い下げ)という実績と、新河岸川の水運、十条の陸軍造兵廠東京工廠本部から車で1時間、鉄道(東武東上線)の地殻ということも選定理由であったという。
用地買収がすすみ、昭和11年に建設工事が開始され、昭和12年12月25日に開場式が行われた。
当初は東京第一陸軍造兵廠第三製造所の所管であったが、敷地面積は開業時の2倍と拡大し、昭和17年には第三製造所から独立し「東京第一陸軍造兵廠川越製造所」となった。

東京第一陸軍造兵廠川越製造所での生産
第一工場:起爆剤・雷管製造
第二工場:信管・筒尾
第三工場:機関砲弾丸・信号弾・焼夷弾・曳光弾・曳煙弾
また、風船爆弾に用いられた電気雷管・導火索・爆缶・信管なども川越製作所で作られたという。

川越製作所で作られた完成品はトラックや鉄道によって造兵廠本部の十条や滝野川、赤羽の東京陸軍補給廠(東補)などに運ばれたという。また航空弾薬に関しては寄居にあった「陸軍航空本廠寄居出張所」まで東上線貨車を利用して直接輸送された。

昭和19年11月21日には第二工場580号家の航空機用20ミリ機関砲・弾薬筒・焼夷剤(火薬)填実作業室で爆発が起き9名死亡(うち1人は川越中学校生徒)という大事故が発生している。

年代ともに改称されている名称を記載。
 昭和11年09月 陸軍造兵廠東京工廠福岡派出所
 昭和12年11月 陸軍造兵廠東京工廠火具製造所福岡工場
 昭和15年04月 東京第一陸軍造兵廠第三製造所福岡工場
 昭和17年08月 東京第一陸軍造兵廠川越製造所

本来は「造兵廠」であるが、地元では「火工廠」とも呼称。
また、「火具製造所」「第三製造所」「川越製造所」とも。年代ごとの呼称で別れており、本記事でも同じ場所の話をしていても呼称が散らかってしまうかもしれないことを明記しておきます。

以下は余談。
明治38年の「砲兵工廠東京砲兵工廠」が大正12年に「陸軍造兵廠火工廠」となり、昭和11年に「陸軍造兵廠東京工廠(十条)」と「火工廠(板橋)」に別れ、昭和15年に「東京第一陸軍造兵廠」「東京第二陸軍造兵廠」となっている。


位置関係

国土地理院航空写真
ファイル:USA-R524-No1-14
1947年11月08日-米軍撮影

上記航空写真を一部加工。

現在の様子をGoogle航空写真。
当時の区画が綺麗にわかる。

国土地理院航空写真
ファイル:USA-M636-A-No1-64
1947年11月08日-米軍撮影
一部加工

「東京第一陸軍造兵廠川越製造所」の北東には「浅野カーリット埼玉工場」があった。浅野カーリット埼玉工場では「陶器型手榴弾」を製造していた。

浅野カーリット埼玉工場の記事は下記を参照で。


現在の状況

東京第一陸軍造兵廠川越製造所(東一造川越)の跡地の様子。
福岡中央公園、ふじみ野市役所、ふじみ野市上福岡浄水場、ふじみ野市立福岡中学校、ふじみ野市立上福岡図書館、ふじみ野市立上野台小学校、イオンタウンふじみ野、新日本無線川越製作所、日本無線川越事業所、大日本印刷上福岡工場、コンフォール上野台(上野台団地)など、となっている。

福岡中央公園

ふじみ野市役所

イオンタウンふじみ野

新日本無線株式会社川越製作所

新日本無線株式会社川越製作所

日本無線株式会社川越事業所

日本無線硝子株式会社

大日本印刷株式会社上福岡工場

上福岡浄水場


軍用道路

国鉄川越線が昭和15年に開通したことにより、東京第一陸軍造兵廠本部の「十条」と鉄道貨物の輸送が可能になったということもあり、南古谷駅から東京第一陸軍造兵廠川越製造所乾門にかけての約2キロを昭和16年4月に直線道路を軍用道路として整備。
これにより、東上線上福岡駅から東京第一陸軍造兵廠川越製造所を経て国鉄南古谷駅までの直線的な軍用道路が完成した。

南古谷駅に通じる軍用道路の名残。

東京第一陸軍造兵廠川越製造所の乾門付近(現在の大日本印刷川越株式会社上福岡工場正門付近)


東京第一陸軍造兵廠川越製造所の官舎通用門跡

東京第一陸軍造兵廠川越製造所の官舎通用門(官舎門)は、工場敷地の北東に位置している。

官舎は、造兵廠の敷地内(北東)と敷地外(南)の2ヶ所にあり、工場構内は、甲号官設官舎2棟であったという。この工場構内の官舎には、工場長と医務室軍医が入居していたという。

現在、門の向こうは大日本印刷株式会社上福岡工場の敷地となっている。

https://goo.gl/maps/4eL4bL8frpMmjuFF9


東京第一陸軍造兵廠川越製造所の境界壁

敷地の北部を中心に工廠時代の境界壁が現役で使用されている。

このあたりに「東門」があったという。壁の向かいの緑フェンスの先は新河岸川。東門跡は壁の雰囲気が変わっているあたりかもしれない。
新河岸川には荷揚門と排水口があったという。


造兵廠川越製造所引込線用地の陸軍標石

造兵廠の南門付近から東武鉄道に向けて敷設予定であった引込線は完成せず。境界石のみが残る。

https://goo.gl/maps/kxDzFJrGDHdwZuPj9

陸軍用地
四七


造兵廠川越製造所南端の陸軍標石

「東一造川越」の南に残っている境界石。現在は「桜通り」という道路。向かいは、福岡中央公園の東端にあたる。

電信柱と民家の間で少々窮屈。

https://goo.gl/maps/44PrjdDkfFWCy4Cx6

(表)陸軍用地
(裏)四六九

昭和17年に工場規模が拡大された後の境界を示している。


造兵廠川越製造所正門の陸軍標石

現在の上福岡公民館の敷地内に残されている境界石。

(表)陸軍用地
(裏)六

(表)
紀元二千六百年記念
植桜樹 貳百本
(裏)
帝國在郷軍人會
東京第一陸軍造兵廠福岡分會
昭和十五年十二月建之


ふじみ野市立上福岡歴史民俗資料館

ここには、「東京第一陸軍造兵廠川越製造所」に関連する展示や貴重な資料があるので、是非とも足を運ぶことをおすすめ。

「石灯籠」も東京第一陸軍造兵廠川越製造所に関連するものという。

造兵廠川越製造所の陸軍標石
(上福岡歴史民俗資料館所蔵)

(表)陸軍用地
(裏)三四

「承役地標石」と「防火水槽の口縁部分」と「陸軍標石」
いずれも「東京第一陸軍造兵廠川越製造所」に関連する展示物。

(表)陸軍用地
(裏)一三

造兵廠川越製造所の承役地境界石
(上福岡歴史民俗資料館所蔵)

実は「承役地」境界石というものを、初めてみました。
敷地外で、陸軍が地役権を設定していた土地があったのですね。

承役地(しょうえきち)
 「承役地」の標石は、もとの所在場所については不明ですが、陸軍造兵廠の用地に関連する貴重な資料の一つです。
 「承役地」とは、地役権(自分の土地を使いやすくするため、他人の土地を利用できる権利)が設定されている場合、利用される側の土地をいいます。
 昭和12年2月に地元の農家と造兵廠との間で、敷地の外にあった農家の土地を、造兵廠が利用できる「承役地」として地役権を設定したという記録があります。残念ながら目的や範囲など、詳しいことはわかりませんが、承役地にも、工場の拡大とともに敷地の一部になっていきました。

ふじみ野市立上福岡歴史民俗資料館資料

陸軍造兵廠川越製造所
(通称「火工廠」)

 上福岡の中央にあたる地域、上野台団地から上野台小学校、福岡中学校や大日本印刷までの敷地には、昭和12(1937)年から太平洋戦争の終戦の昭和20年まで陸軍造兵廠川越製造所と呼ばれた陸軍の弾薬工場がありました。
 当初は「火工廠」と呼ばれ、東京十条にあった陸軍工廠本部の施設拡張のために移転先として福岡村が選ばれ、昭和4年から5年にかけて用地買収が進められました。そのときの面積は約7万6千坪(約25万1千平方メートル)でした。
 建設工事は昭和11年11月に開始され、翌年12月に開場式を迎えました。操業開始後も規模は拡大され、終戦時までには約16万5千坪(約55万平方メートル)になりました。建物の総数は大小合わせて最大で600棟以上、働いていた人たちも含めて最大で数千人にも及んだと言われています。
操業開始によって、多くの人々が福岡村に徒歩・自転車、そしてえ東武東上線で通勤していました。また「官舎」「営団」「徴用工舎」と呼ばれる従業員専用の住宅・宿舎も周辺に建てられ、昭和初期には2千人だった福岡村の人口は終戦時には7千人を超えていました。

造兵廠の施設
造兵廠は、下の4つの区域に分かれていました。
第1工場
一番北側にあたる区域で、火薬や雷管を製造していた雷汞爆粉乾燥室・雷管填実室・黄燐填実室・窒化鉛製造室など。爆発事故が起こる危険性が高い施設が集中しています。
そのために事故発生時に外の建物への延焼/誘爆を避けるためにこれらの建物の周囲には高いコンクリート製の堀や土塁が設けられました。
第2工場
造兵廠中央部で、最も広い面積を占めています。この区域には高さ27mの給水塔の他に、高いコンクリート堀で囲まれた多くの弾薬填実室(火薬を手動プレス機で詰める作業を行う建物)や土塁に囲まれた倉庫があり、第1工場同様に爆発事故の危険性が高かった区域です。
第3工場
一番南の区域で、コンクリート塀で囲まれた各種組立工場、倉庫が建てられていました。20ミリ機関砲弾・12.7ミリ機関銃弾・照明弾・信号弾などの組立工程を行っていたので、危険度は第1・第2工場に比べて低く、従業員も最も多かったとされています。
工場内管理・厚生施設
造兵廠の事務・管理を担当していた部署の施設で、道路に面した正門・乾門付近に建てられていた庶公務事務所、会計事務所、消防夫事務所、会食所(食堂)、共栄会売店、医務室、青年訓練所などがありました。

東京第一陸軍造兵廠川越製造所
 昭和12(1937)年から昭和20(1945)年まで、大日本印刷・市役所・上野台小学校・上野台団地・福岡中学校のあたりには、戦争でつかう鉄砲の弾や爆弾の部品などをつくる「造兵廠(火工廠)」という工場がありました。
 工場の面積は55万平方メートル(東京ドームの約12個分)と広く、多い時で8000人ほど働いていました。戦争がひどくなると、中学生・高校生ぐらいの子ども達も工場で働きました。

前述した「浅野カーリット埼玉工場」とも連動する陶製手榴弾

陶製手榴弾(瀬戸産)

陶製地雷

号家札(262号家:分配室)
日本無線株式会社内にて収集

比例コンパス
ピンセット(火薬をあつかう)


造兵廠官舎の陸軍用地標石(陸軍標石)
官舎公園

造兵廠の南側に建設された宿舎。
「官舎」と呼称されていたが、正式名称は「福岡第一宿舎」。
昭和17年に、2軒長屋(平屋)が60軒ほど建設されていたという。
当時、官舎があった場所は、現在は「官舎公園」と呼ばれ、ひっそりと「陸軍用地」陸軍標石が残されていた。

https://goo.gl/maps/zKzn7DnRsXNTBnzx5

(表)陸軍用地
(裏)七


本記事の参考文献

3点とも「ふじみ野市立上福岡歴史民俗資料館」にて入手。非常に有益な資料。

旧陸軍の施設
-特に造兵廠の福岡工場(川越製造所)を中心に-
 上福岡市歴史民俗資料館(平成4年)

市史調査報告書第15集
旧陸軍造兵廠 福岡工場(川越製造所)
 上福岡市教育委員会(平成10年)

第22回特別展
東京第一陸軍造兵廠の軌跡
 ~埼玉と東京を中心に~
 ふじみ野市立上福岡歴史民俗資料館(平成19年)

https://www.city.fujimino.saitama.jp/soshikiichiran/kamifukuokarekishiminzokushiryokan/gakugeikakari/2550.html

https://www.city.fujimino.saitama.jp/soshikiichiran/kamifukuokarekishiminzokushiryokan/gakugeikakari/1172.html

旧陸軍造兵廠展示解説リーフレット ふじみ野市教育委員会
陸軍造兵廠川越製造所(通称「火工廠」)

https://www.city.fujimino.saitama.jp/material/files/group/46/kakousyo4-1.pdf

造兵廠の施設

https://www.city.fujimino.saitama.jp/material/files/group/46/kakousyou3.pdf

造兵廠で製造されていたもの

https://www.city.fujimino.saitama.jp/material/files/group/46/kakousyoA4-2.pdf


東京第一陸軍造兵廠跡地散策・その3(十条編)

東京第一陸軍造兵廠跡地をめぐる散策。ここでは北部の十条地区を巡ってみたいと思います。
工廠神社として祀られていた「四本木稲荷神社」や南部の「滝野川・王子地区」は別記事でまとめました。

北区 …東京第一陸軍造兵廠
板橋区…東京第二陸軍造兵廠


東京第一陸軍造兵廠(東一造)

大日本帝国陸軍の陸軍造兵廠のひとつ。

東京小石川後楽園にあった「東京砲兵工廠」の「銃砲製造所」を明治38年に十条に移転したことにはじまる。そののち、明治41年には「火具製造所」も小石川から十条に移転。

大正12年に、東京砲兵工廠の「銃砲製造所」「火具製造所」が合併。
「陸軍造兵廠火工廠十条兵器製造所」となる。

昭和11年に小石川から東京工廠本部が十条に移転。
「陸軍造兵廠東京工廠」の下に「銃砲製造所」「精器製造所」「火具製造所」が編成される。

昭和15年組織改変
陸軍造兵廠東京第一陸軍造兵廠(略称「東一造」)
  第一製造所(銃砲製造所)
  第二製造所(精器製造所)
  第三製造所(火具製造所)
 
陸軍造兵廠東京第一陸軍造兵廠(東一造の主要施設は以下)
 陸軍造兵廠本部
  第一製造所(銃砲製造所)
   仙台製造所(宮城・第一製造所所管)
  第二製造所(精器製造所)
   大宮製造所・研究所(埼玉・第二製造所から分離)
    大宮製造所池田工場(大阪)
  第三製造所(火具製造所)
   第三製造所滝野川工場 
    技能者養成所
   第三製造所尾久工場 
   第三製造所江戸川工場(埼玉春日部)
   川越製造所(埼玉・第三製造所から分離)
   小杉製造所(富山・第三製造所所管)

昭和20年5月25日の空襲で一部焼失。戦後に進駐してきた米軍によって当地には東京兵器補給廠が展開。焼け残った昭和5年竣工の本部事務所は米軍東京兵器補給廠の保安司令部として使用される。昭和46年に返還され、昭和56年からは北区文化センターとして現存。
また倉庫の一部が北区中央図書館に活用。その他にも「東一造」を偲ぶ戦跡がいくつか残されている。

東京第一陸軍造兵廠第一製造所(旧陸上自衛隊十条駐屯地275号棟)の赤レンガ倉庫

位置関係

国土地理院航空写真
ファイル:USA-M402-2-82
1947年08月11日-米軍撮影

上記を一部加工。(クリックで拡大。)
赤丸が本記事の対象エリア。


東京第一陸軍造兵廠 275号棟
(北区中央図書館)

大正8年(1919)竣工の赤レンガ倉庫(275号棟)を北区中央図書館として2008年より再活用。


工廠神社跡地

「北区中央図書館」の北側は「いなりプレーパーク」
かつて「東京第一陸軍造兵廠の工廠神社」、「十条の四本木稲荷神社」が鎮座していた場所。

詳細は別記事にて


東京第一陸軍造兵廠 275号棟
(十条駐屯地)

十条駐屯地内の開放された広場に、モニュメントとして残された変圧所の煉瓦が残されておりました。

 この煉瓦は小菅集治監や北区の煉瓦工場などで焼成され、明治38年この地に建設された東京砲兵工廠銃砲製造所に使用されたものの一部を保存したものです。

十条駐屯地の赤煉瓦造建築物
 現在の十条駐屯地の敷地は、約116,000㎡(約35,000坪)ですが、この地域一帯を明治38年(1905)に陸軍が購入して、東京砲兵工廠銃砲製造所を建設した当時は、約330,000㎡(約100,000坪)の広さでした。幾多の変遷ののち第2次世界大戦時は、東京第一陸軍造兵廠として、これらの施設は当初から、一貫して小口径の弾薬を製造する所でした、当時の敷地には、明治後期から大正に建設された大規模な赤煉瓦建築物が50棟以上あったことが確認されています。戦後は、米陸軍東京兵器補給廠として使用されましたが、昭和34年(1959)自衛隊に移管され、約39年間陸上自衛隊武器補給処十条支処及び諸隊が所在する駐屯地でした。自衛隊に移管された頃は、赤煉瓦建物22棟と鋼製耐震煙突2基が残っていました。これらに使用された赤煉瓦は、全国の大規模な煉瓦工場のほか、地元の荒川、隅田川流域の中小の煉瓦工場で製造されたものです。これらの赤煉瓦は、新庁舎建設のため平成5年(1993)から遂次解体されましたが、解体された赤煉瓦の一部が正門、新庁舎のエントランス等に利用されています。

煉瓦造254号建物
 このモニュメントは、大正7年(1918)変圧所として建設された「煉瓦造」平屋建ての建築物254号建物の一部を利用し作られたものです。建築物の規模は、桁行(東西)方向が36.04mで10スパン、梁間(南北)方向が14.20mで4スパン軒高が5.85mであり、屋根は4寸5部後輩のスレート葺き(昭和40年代に長尺カラー鉄板葺きに改修)でした。小屋組は、木造のクイーンポストトラス、外壁の煉瓦の積み方はオランダ積みであり、腰部は焼き過ぎ煉瓦、その上部は一枚半積みでした。北面には切妻の破風があり、白の碍子が埋め込まれ(南側には茶の碍子)受電施設の痕跡を残していました。大正期に建設された煉瓦の建築物の小屋組は、ほとんどが鉄骨造りでありましたが、この建物が木造の小屋組としているのは、変圧所という建物の機能から、通電性の高い鉄骨材料をあえて採用しなかったためと考えられます。


ちんちん山のトンネル跡
(東京陸軍第一造兵廠軍用鉄道)

中央図書館から東に赴いたところにある「北区ちんちん山児童公園」。この公園にモニュメントとして、東京陸軍第一造兵廠の軍用鉄道軽便線(ちんちん電車)のトンネル跡が残されている。

三つ丸の上に丸が重なったシンボルマークは、「一造」を管轄していた「東京砲兵工廠」のマーク。

産業考古学探索路
王子周辺にはかつて、20世紀初頭の殖産興業を支えた工場が数多く存在していました。
「産業考古学探索路」は、区民のみなさんや北区を訪れたみなさんに当時の工場や関連施設の跡地をめぐりながら、当時のこの地域が担っていた役割と雰囲気を実感していただくために整備したものです。

ちんちん山のトンネル
 明治時代から昭和にかけて、北区とその周辺には、陸軍の関連施設が数多く点在していました。その当時、これらの施設は、物資や人間を運搬するための軍用鉄道と呼ばれる専用軌道で結ばれていました。
 この辺りでは、板橋、十条の火薬製造工場と王子の火薬製造工場を結ぶ軍用電車が、チンチンと鐘の音を鳴らしながら、盛土の上を走っていたそうです。そのため、付近の住民は、この盛土を俗に「ちんちん山」という愛称で呼んでいました。
 かつて、この場所には、ちんちん山の下をくぐる石積みのトンネルがありました。
 このトンネルの上部には、3個のだんごを三角形の形に並べ、その上に、もう一つだんごを乗せたような珍しいマーク(当時の東京砲兵工廠のマーク)が刻まれていました。現在、このマークを含め、トンネルの石積みの一部が園内でモニュメントとして使われています。

十条駐屯地

現在の十条駐屯地の正門は、「東京第一陸軍造兵廠(一造)」の裏門跡にあたる。

十条駐屯地内で取り壊した「東京第一陸軍造兵廠(一造)」の煉瓦倉庫の煉瓦を再利用して正門と壁を作成。

十条駐屯地

陸上自衛隊 補給統制本部
海上自衛隊 補給本部
航空自衛隊 補給本部
航空自衛隊 第二補給処十条支処
北関東防衛局 装備部

北区十条富士見中学校

十条駐屯地と北区十条富士見中学校の壁は「東京第一陸軍造兵廠(一造)」ゆかりの煉瓦を使用した煉瓦壁で整っている。
レンガストリートの様相。

このベンチの壁の仕上げ材の一部には、平成21年度に、旧十条中学校の校舎を解体した時に出土したレンガを使用しています。

レンガ造のモルタル塗り。最近補強されたようだ。

煉瓦(れんが)塀の由来
十条台1丁目一帯には旧陸軍の東京砲兵工廠銃砲製造所が所在していました。この製造所は、日露戦争の行われていた明治38年、小銃弾薬の増産を図るために現在の東京ドーム周辺から移転してきた工場施設で、約10万坪の敷地に煉瓦造の工場等が建てられていました。
本校とJR埼京線の境界に現存する煉瓦塀は、その製造所の西側の敷地境界にあたり、煉瓦に残されている刻印から、葛飾区の金町煉瓦製造所の煉瓦が使われていることが判りました。

埼京線から見えるコンクリウートの壁。これが実は陸軍時代のレンガ壁だったのだ。

このあとは板橋方面の「東京第二陸軍造兵廠(二造)」に向かったが、それはまた改めて掲載予定。


東京第一陸軍造兵廠・一造に関連するそのほかは、別記事にて。


関連

東京第一陸軍造兵廠(一造)が十条に来る前に拠点だったのが小石川

北区西が丘

北区赤羽台

赤羽台の戦跡散策

東京第一陸軍造兵廠跡地散策・その2(滝野川・王子編)

※撮影は2016年~2020年

東京第一陸軍造兵廠跡地をめぐる散策。ここでは南側の「滝野川・王子地区」を巡ってみたいと思います。
工廠神社として祀られていた「四本木稲荷神社」や北部の「十条地区」は別記事でまとめました。

北区 …東京第一陸軍造兵廠
板橋区…東京第二陸軍造兵廠


東京第一陸軍造兵廠(東一造)

大日本帝国陸軍の陸軍造兵廠のひとつ。

東京小石川後楽園にあった「東京砲兵工廠」の「銃砲製造所」を明治38年に十条に移転したことにはじまる。そののち、明治41年には「火具製造所」も小石川から十条に移転。

大正12年に、東京砲兵工廠の「銃砲製造所」「火具製造所」が合併。
「陸軍造兵廠火工廠十条兵器製造所」となる。

昭和11年に小石川から東京工廠本部が十条に移転。
「陸軍造兵廠東京工廠」の下に「銃砲製造所」「精器製造所」「火具製造所」が編成される。

昭和15年組織改変
陸軍造兵廠東京第一陸軍造兵廠(略称「東一造」)
  第一製造所(銃砲製造所)
  第二製造所(精器製造所)
  第三製造所(火具製造所)
 
陸軍造兵廠東京第一陸軍造兵廠(東一造の主要施設は以下)
 陸軍造兵廠本部
  第一製造所(銃砲製造所)
   仙台製造所(宮城・第一製造所所管)
  第二製造所(精器製造所)
   大宮製造所・研究所(埼玉・第二製造所から分離)
    大宮製造所池田工場(大阪)
  第三製造所(火具製造所)
   第三製造所滝野川工場 
    技能者養成所
   第三製造所尾久工場 
   第三製造所江戸川工場(埼玉春日部)
   川越製造所(埼玉・第三製造所から分離)
   小杉製造所(富山・第三製造所所管)

昭和20年5月25日の空襲で一部焼失。戦後に進駐してきた米軍によって当地には東京兵器補給廠が展開。焼け残った昭和5年竣工の本部事務所は米軍東京兵器補給廠の保安司令部として使用される。昭和46年に返還され、昭和56年からは北区文化センターとして現存。
また倉庫の一部が北区中央図書館に活用。その他にも「東一造」を偲ぶ戦跡がいくつか残されている。


東京第一陸軍造兵廠本部(北区中央公園文化センター)

位置関係

国土地理院航空写真
ファイル:USA-M402-2-82
1947年08月11日-米軍撮影

上記を一部加工。(クリックで拡大。)


東京第一陸軍造兵廠第三製造所滝野川工場の陸軍用地標石(陸軍標石)

西巣鴨駅からスタートして十条方面に北上。
滝野川方面を目指す。
少し歩けば、見逃しがちな脚下に標石が3つありました。
陸軍用地標石。(陸軍標石)

公務員第二宿舎のあった場所にそった通り沿い。

公務員第二宿舎は廃止され、現在は「滝野川三丁目公園」として整備されました。

弊サイトの写真を案内看板に提供しました。

半世紀以上も前の戦争時代の境界石が、こうして未だに道端に残っている不思議さ。ここが陸軍の土地であったことを感じさせる歴史遺産。
身近に戦争の歴史を感じるものが、こうして脚下に残っている。

このあたりが、「東京第一陸軍造兵廠滝野川工場」別名を滝野川雷汞所(らいこうじょ)とされたエリア。

https://goo.gl/maps/ao3iM3XWTJ7pBvRv5


四本木稲荷神社

このまま道なりに北上をしていくと「四本木稲荷神社」に到着。
東京第一陸軍造兵廠第三製造所滝野川工場の工廠神社。
別記事にて。


憲兵詰所遺構?

突き当たりを左に向かい石神井川を渡ると、周囲とは異色の古びたコンクリの建物が民家の目の前にドンッと鎮座している。
真偽は不明だが、このコンクリートの建屋は「憲兵詰所」遺構とされている。
ここだけがどうして残っているのかは謎だが、今となっては残ってくれたのはありがたい。

ちょうど、十条の東京第一陸軍造兵廠と、滝野川の分工場を結ぶ道沿いにあたるため、この界隈で憲兵が詰めていてもおかしくない位置関係。

https://www.google.com/maps/embed?pb=!1m18!1m12!1m3!1d809.4920018137907!2d139.7268281292461!3d35.751591098761104!2m3!1f0!2f0!3f0!3m2!1i1024!2i768!4f13.1!3m3!1m2!1s0x6018939c4274f387%3A0xe65e608c9c169a03!2z5oay5YW144Gu6Kmw5omA!5e0!3m2!1sja!2sjp!4v1599875682650!5m2!1sja!2sjp


東京第一陸軍造兵廠本部
(北区中央公園文化センター)

憲兵詰所の北側には「北区中央公園」
木々の合間から、歴史を感じさせる良い雰囲気の建物が見えてくる。

「北区中央公園」(東京都北区十条台)
現在は「北区中央公園文化センター」
戦前は「東京第一陸軍造兵廠本部」であった建屋は昭和5年( 1930年)の建設。
元は茶色であったが戦後の米軍接収時代に白色に塗装という。

休館日でした。。。

周辺にあった台座。往時のものか?どうか。。。

裏手へ。 中央屋上へあがる階段が、なかなか美しい。

東京砲兵工廠銃包製造所のボイラー(部品)と鋼製耐震煙突銘板
 明治38年(1905)、現在の十条台1丁目一帯に「東京砲兵工廠銃包製造所」が開設されました。日露戦争を機に弾薬(銃包)の増産が必要となったことから、小石川地区(現後楽園周辺)より当地に移転・拡張されたものです。敷地内には銃包を製造するための煉瓦造の工場棟が多数建設されました。銃包製造所では、製造に必要な工作機械の動力として、英国バブコック&ウイルコックス社製のWIF型蒸気ボイラーが導入され、ボイラーの煙突には、東京芝浦製作所製の鋼製耐震煙突が使われました。この煙突は、煉瓦造の煙突の周りに鉄板を巻き、耐震性を高めたものです。
 ここに展示されている部品は、ボイラーのドラム・水管の一部・鉄製の扉、および、鋼製耐震煙突の銘板で、十条の自衛隊の施設建替の際に解体・保存したものです。銘板には銃包製造所開設年にあたる「明治三十八年九月竣工」の年代が入っており、これらは、銃包製造所の歴史を伝えるとともに、日本の近代産業遺産としても貴重な資料です。
平成27年3月 東京都北区教育委員会

東京芝浦製作所
明治38年9月竣工

ボイラー展示の隣の半円状の建物内に古墳時代の横穴式石室が空間丸ごと移築保存されているのは、なかなかのカオス。

赤羽台第3号古墳石室

皇后陛下行啓記念

皇后陛下行啓記念
東京第一陸軍造兵廠長 杉浦辰雄 謹書

杉浦辰雄中将(陸士25期)
昭和12年(1937)に、東京工廠火具製造所長
昭和14年(1939)に、東京工廠長
昭和15年(1940)に、東京第一陸軍造兵廠長 
そのまま終戦を迎える。 

【消失】
東京第一陸軍造兵廠の陸軍用地標石(陸軍標石)

都営王子アパートの道に陸軍用地標石(陸軍標石)がありました。
都営王子アパートがなくなるとともに消失してしまったようです。。。

以下はGoogleストリートビューにて。
2018年5月には「標石」を確認することができます。

そして2019年5月。無くなりました。。。。


東京第一陸軍造兵廠・一造に関連するそのほかは、別記事にて。


関連

東京第一陸軍造兵廠(一造)が十条に来る前に拠点だったのが小石川

北区西が丘

北区赤羽台

赤羽台の戦跡散策

東京第一陸軍造兵廠跡地散策・その1(四本木稲荷神社)<再開発前の記録>

東京都北区は軍都であった。

赤羽には「工兵隊」(近衛工兵大隊・第1師団第一工兵大隊)、
西が丘には「兵器補給廠」と「射撃場」、
そして南の十条及び滝野川には「造兵廠」(東京第一陸軍造兵廠・東一造)、
があった。

今回は東京第一陸軍造兵廠(東一造)の工廠神社を中心に。
その他の東京第一陸軍造兵廠関連記事は、また別記事にて。

2026年6月追記
四本木稲荷神社は、再開発により2026年7月16日に遷座。2026年9月以降に社殿を解体し、マンションを建設予定。約3年後の2029年頃に、社地を縮小し神社は再建予定。敷地内に残る歴史的価値を有する奉納物(東一造関連)等は、教育委員会で保存予定。
※詳細はコメント欄を参照

北区サイト
https://www.city.kita.lg.jp/city-information/pr/1011994/1026069/1026070.html
四本木(よもとぎ)稲荷神社(滝野川3丁目)が本年9月以降に解体となることから、敷地内の歴史的価値を有する奉納物等の移設及び測量を行うなど、文化財の保存に係る経費を計上する。

※撮影は2020年9月及び2026年6月


さよなら よもとぎ

2026年6月、四本木稲荷神社さんが、再開発で遷座するという話を聞いて<コメント欄・jjw様ありがとうございます。>、久しぶりに足を運んでみました。
以下、ざっくり状況。
国有地の借用を受けていたが2026年に払い下げとなった。敷地内にマンションを建設することになった。神社は敷地の一隅に再建する。だいぶ小さくなる予定。歴史的な奉納物の一部は北区が保存をする。樹木は伐採される。など。
踏まえて、「さよなら よもとぎ」の項目を過去記事に追記しました。

「さよなら」のぼりが出ていました。

さよなら よもとぎ
7月16日より しばらく移転します
永いあいだ ありがとうございました
四本木稲荷を守る会

さよなら よもとぎ
7月16日より 
しばらく移転します
永いあいだ 
ありがとうございました

関係各位様
 この度、神道大教四本木稲荷神社様より、7月16日に遷座されるとのお申し出がありました。約3年後に戻られるとのことです。
 約8年間にわたり維持管理につとめ、皆様に親しまれる神社となり、皆様のご支援があってと感謝致します、ありがとうございました。
 令和8年6月1日 
 よもとぎ稲荷を守る会 


東京第一陸軍造兵廠(東一造)

大日本帝国陸軍の陸軍造兵廠のひとつ。

東京小石川後楽園にあった「東京砲兵工廠」の「銃砲製造所」を明治38年に十条に移転したことにはじまる。そののち、明治41年には「火具製造所」も小石川から十条に移転。

大正12年に、東京砲兵工廠の「銃砲製造所」「火具製造所」が合併。
「陸軍造兵廠火工廠十条兵器製造所」となる。

昭和11年に小石川から東京工廠本部が十条に移転。
「陸軍造兵廠東京工廠」の下に「銃砲製造所」「精器製造所」「火具製造所」が編成される。

昭和15年組織改変
陸軍造兵廠東京第一陸軍造兵廠(略称「東一造」)
  第一製造所(銃砲製造所)
  第二製造所(精器製造所)
  第三製造所(火具製造所)
 
陸軍造兵廠東京第一陸軍造兵廠(東一造の主要施設は以下)
 陸軍造兵廠本部
  第一製造所(銃砲製造所)
   仙台製造所(宮城・第一製造所所管)
  第二製造所(精器製造所)
   大宮製造所・研究所(埼玉・第二製造所から分離)
    大宮製造所池田工場(大阪)
  第三製造所(火具製造所)
   第三製造所滝野川工場 
    技能者養成所
   第三製造所尾久工場 
   第三製造所江戸川工場(埼玉春日部)
   川越製造所(埼玉・第三製造所から分離)
   小杉製造所(富山・第三製造所所管)

昭和20年5月25日の空襲で一部焼失。戦後に進駐してきた米軍によって当地には東京兵器補給廠が展開。焼け残った昭和5年竣工の本部事務所は米軍東京兵器補給廠の保安司令部として使用される。昭和46年に返還され、昭和56年からは北区文化センターとして現存。
また倉庫の一部が北区中央図書館に活用。その他にも「東一造」を偲ぶ戦跡がいくつか残されているが、この節では「四本木稲荷神社」を解説。その他は別途で。東昭和20年5月25日の空襲で一部焼失。戦後に進駐してきた米軍によって当地には東京兵器補給廠が展開。焼け残った昭和5年竣工の本部事務所は米軍東京兵器補給廠の保安司令部として使用される。昭和46年に返還され、昭和56年からは北区文化センターとして現存。
また倉庫の一部が北区中央図書館に活用。その他にも「東一造」を偲ぶ戦跡がいくつか残されているが、この節では「四本木稲荷神社」を解説。その他は別途で。


位置関係

国土地理院航空写真
ファイル:USA-M402-2-82
1947年08月11日-米軍撮影

上記を一部加工。(クリックで拡大。)

東京第一陸軍造兵廠の北東に「十条の四本木稲荷神社」が鎮座。
そして南には「滝野川の四本木稲荷神社」が鎮座。

戦後に「北の四本木稲荷神社」は廃止。
鳥居などの建造物が「南の四本木稲荷神社」に移されて、今日に至る。

GoogleMapにて

北の四本木稲荷神社は、稲荷公園と呼ばれていたが、再開発により「北区中央公園」(旧稲荷公園)となっている。

「滝野川の四本木稲荷神社」の場所

「十条の四本木稲荷神社」があった場所
旧稲荷公園、現在は「北区中央公園いなりプレーパーク」


四本木稲荷神社境内地図

当社境内の旧陸軍関連の遺跡
よもとぎ稲荷を守る会

四本木稲荷神社御由緒

神道大教四本木稲荷神社
 当社の祭神は「神道大教院」の奉斎する主神の」御分霊、並びに「四本木、世基衹(よもとぎ)大神」です。昭和29年6月に宗教法人登記をされており、敷地は国有地です。
 「王子町誌」(昭和2年、王子町刊)に拠れば、当地周辺が明治38年に陸軍の雷汞場(「らいこうば」、銃弾火薬の製造工場、後に造兵廠滝野川工場となる)となる前より有った無名の小祠が源となります。
 一方、その北方の下十條村七軒町(現・十条台、十条駐屯地正門付近)に、四種類の樹木(サワラ、杉、樅、椎)に囲まれた王子稲荷神社分社の四本木稲荷(しほんぎいなり)が古くからありました。明治38年にその一帯が陸軍砲兵工廠(主に銃砲や銃弾製造、後に「造兵廠」となる)が設けられたため、陸軍が管理する営内(構内神社)となりました。この時、分社の御霊は王子稲荷神社境内に移されたものの、四本木の名称と祠は残されたようです。
 その後の第一次世界大戦をきっかけとする施設増強により敷地の北東角付近(現・稲荷公園の場所)に移転されました。当社敷地内にある多数の鳥居や灯籠、天水桶、手水鉢に刻まれた「火工廠」「火具製造所」「信管工場」「圧延工場」「銃砲製造所」「精器工場」等の文字は、その部門名です。毎年、4月には招魂祭と神社祭礼が周辺の方々も参加され盛大に執ち行われていました。(高木助一郎日記より)
 当社については王子町誌に「小祠を改修し、結構を改め、且つ当時の銃砲製造所長先導となって十條構内四本木稲荷神社から神霊遷しの式を行い、爾来四本木稲荷神社と称するので、祭典も十條構内の神社と共通に行うことになっている」とあり、造兵廠構内には南北(十條・滝野川)2つの四本木稲荷が有ったことになります。
 戦後、両社は陸軍の管轄を離れ周辺地域の方々により祀られましたが、十条の四本木稲荷が廃せられることになり、社殿、鳥居や灯籠、天水桶、手水鉢、狛犬等が梶田譲園氏により当社へ移転されました。滝野川は神道大教を祀る神社となり、四本木の四を世、本を基、木を衹と移し変え、四本木の名称を冠して世基衹大神を祀られていくことになりました。
 平成8年に新たに柵が設けられ、令和元年に当社の包括団体である宗教法人神道大教の本局により運営されることとなりました。
 なお、南東の古びた小祠は、現在の正殿、拝殿が移転される以前より有ったとされ、北東の朱色の小祠は、王子警察署裏の位置にあり廃社されるのをここへ移転されたと言われてます。
 よもとぎ稲荷を守る会


四本木稲荷神社

境内には北に鎮座していた「十条の四本木稲荷神社」から移されたものが多数残されている。陸軍造兵廠(一造)ゆかりの戦跡。

石鳥居(東京第一陸軍造兵廠奉納)

昭和12年4月建立

2026年

狛狐(東京第一陸軍造兵廠奉納)

2026年訪問時は狛犬の覆いが解放されていました

お狐様
昭和10年4月建之 信管工場一同

2026年

石灯籠(東京第一陸軍造兵廠奉納)

石灯籠
大正6年4月建之 火具製造所一同

石灯籠
昭和10年2月 精器工場関係者一同

手水鉢(東京第一陸軍造兵廠奉納)

手水鉢は境内に2つある。

手水鉢
明治43年4月 銃砲火具職工一同

2026年訪問時は、様相が変わっていた。

手水鉢
明治43年4月 銃砲火具職工一同

石鳥居

御社殿

2026年

鉄製天水桶(東京第一陸軍造兵廠奉納)

昭和10年4月吉日 
 圧延工場従業員一同

2026年

忠魂碑(東京第一陸軍造兵廠奉納)

忠魂碑
大正6年4月建之
 火具製造所一同

碑は圧磨機圧輪を断裂して本体と台座に転用したものという。

境内社石鳥居(東京第一陸軍造兵廠奉納)

石鳥居
昭和7年3月建之

南東の小祠は、現在の御社殿が鎮座する前からの祠という。

大正9年12月の石灯篭

四本木稲荷神社摂社

境内社灯籠(東京第一陸軍造兵廠奉納)

石灯籠
大正9年12月 精器工場外関係者一同

南の鳥居(東京第一陸軍造兵廠奉納)

石鳥居
大正13年2月 陸軍造兵廠火工廠

2026年

清水稲荷

北東の境内社は、かつては王子警察署の裏手(王子の陸軍火薬工場)に鎮座していたが、廃社されることとなったために遷座という。

2026年

昭和6年9月に王子火薬製造所従業員の寄付により社祠を造営したことがわかる。

陸軍造兵廠時代に関係してそうな破片も。

もともとは古墳跡という。

御神木

さよなら よもとぎ。。。


旧稲荷公園(十条の四本木稲荷神社跡)

かつての稲荷公園は「北区中央公園いなりプレーパーク」として再整備。
東京第一陸軍造兵廠275号棟(北区中央図書館)の北側。

公園内には慰霊碑が残されていた。

殉職慰霊碑

殉職慰霊碑
 陸軍造兵廠東京工廠長 杉本春吉 書

陸軍造兵廠東京工廠職員殉職者を祀る。

碑裏面の碑文等が全て消されていた・・・


関連

東京第一陸軍造兵廠・一造に関連するそのほかは、別記事にて。

東京第一陸軍造兵廠(一造)が十条に来る前に拠点だったのが小石川

北区西が丘

北区赤羽台

赤羽台の戦跡散策

駆逐艦 不知火の錨(初代)

日露戦争で活躍した初代不知火の錨が、墨田区立両国小学校に保存してあった。

不知火(東雲型駆逐艦4番艦)

1899年(明治32年)、イギリス・ソーニクロフト社で竣工。イギリスのD級駆逐艦の準同型艦。
1904年(明治37年)、日露戦争では第2艦隊第5駆逐隊に所属。旅順口攻撃や黄海海戦・日本海海戦などに参加。
1925年(大正14年)廃船。

錨の由来
 この錨は日露戦争(1904年~1905年)で活躍した日本海軍の駆逐艦「不知火」のものである。この艦は英国ソーニー・クロフト社製造・起工明治31年・進水32年・326トン・(艦長63,5メートル・5470馬力・30ノット・火砲6門・発射管2基・煙突2基)の構造である。
 錨の裏側にあるアルファベットと1898の刻印は錨の製造年と推定される。
 猶この錨は両国一丁目の鉄鋼業岡田商事(旧岡田菊次郎商会)が軍艦の解体作業で得たのを昭和初年に江東(現両国)小学校に寄贈したものである。
 平成3年
 両国(相生・江東)小学校同窓会


場所


関連

駆逐艦 初霜の錨

近隣

芥川龍之介文学碑

芥川龍之介は、不知火の錨が保存されている、両国小学校の出身

吉良邸跡

忠臣蔵の吉良邸が近所。

勝海舟生誕の地

墨田区立両国公園

勝海舟に関しては別記事でまとめる予定。

氷川八幡神社・白子国民学校奉安殿(和光)

埼玉県和光市下新倉鎮座

氷川八幡神社境内・琴平神社稲荷神社
(白子国民学校奉安殿)

氷川八幡神社の旧本殿と社務所は昭和20年5月の戦災にて焼失。
戦後に、白子国民学校(白子小学校)の奉安殿を移築して氷川八幡神社の本殿として奉斎。
平成8年に本殿・幣拝殿を新築した際に、琴平神社・稲荷神社として再移築。
平成9年10月に、銅板に葺き替え。

奉安殿(御真影奉安殿)

奉安殿とは、戦前において
天皇陛下
皇后陛下
の御真影(お写真)と教育勅語を納めていた建物。
当初は職員室や校長室に奉安所が設けられていたが、被災による危険を防ぐために、金庫型や独立した奉安殿としての建設がはじまった。小型ながらに耐火耐震構造とされてものも多く、威厳を備えた荘厳重厚なデザインの建造物が多い。
戦後、奉安殿は廃止され解体や撤去が行われるが、その頑丈な建造物が戦災で焼失した神社社殿などに再活用もされ、現在に残っている例もある。


日露戦役記念碑

日露戦役記念碑
陸軍大将子爵長谷川好道書


氷川八幡神社

祭神:建速須佐之男尊・誉田別尊
第73代堀河天皇の寛治5年(1091)に八幡宮として創建。
文禄3年(1594)に氷川神社を合祀。
明治社格では村社列格。


関連

平沼駅跡(京浜急行電鉄・横浜)

京急の横浜駅と戸部駅のあいだにかつて、平沼駅という駅があった。駅としての実働は実に12年半であった。

そして、横浜大空襲で残存施設は壊滅・・・。

平沼駅跡

昭和6年(1931)12月26日に、京浜電気鉄道(現在の京浜電気鉄道・京急)の「平沼駅」として開業。昭和17年に合併により東京急行電鉄(大東急)の駅となる。
昭和18年(1943)6月30日、営業休止。昭和19年11月20日に廃止。
昭和20年5月29日の横浜大空襲により被災。駅残存施設が壊滅的な被害を受ける。

今も残る駅ホームに通じる階段。
そして横浜大空襲の被害を感じさせる黒ずんだ煤の気配を残すコンクリート。

半円状のアーチ。

平沼商店街
かつて、平沼駅の入口はこのあたりにあったという。

この高架の上にホームが残る。

当時の造形物、タイルがわずかに残されていた。

ホームへ通じる階段

訪れた時は、剥離剥落対策工事が施されている最中であった。

最近、架道橋は新しくなったようだ。

車窓から

京急の車窓から「平沼駅跡」の様子を観察。
電車ではあっという間に通り過ぎてしまう。


位置関係

国土地理院航空写真
ファイル:897-C8-108
昭和19年(1944)10月14日、日本陸軍撮影

横浜大空襲前の航空写真

上記を一部加工

現在の様子
google航空写真


余談だが、近くには二代目横浜駅の遺構があった。

二代目横浜駅

二代目横浜駅
二代目横浜駅は大正四年八月十五日に開業され、大正十二年九月一日関東大震災のため焼失した。
わずか八年という短命で、半ば「幻の駅」といわれている。この以降は駅舎の基礎部分にあたる。
また、横浜共同電燈会社裏高島発電所の第二海水引入口の遺構もあり、二つの歴史上貴重な遺構が重なった珍しい遺構である。

横浜市認定歴史的建造物
二代目横浜駅基礎等遺構
第二代横浜駅舎基礎遺構および横浜共同電燈会社高島発電所遺構
建築年 駅舎:1914(大正3)年 発電所:1907(明治40)年ころ
設計者 駅舎:鉄道院 発電所:横浜共同電燈会社
2006 横浜市

ガラスの下が、「横浜共同電燈会社裏高島発電所の第二海水引入口の遺構」というが、ガラスが曇っていて、よくわからない・・・


横浜駅から平沼駅跡に赴く途中に2つほど橋を渡る。それらの橋も歴史的な価値あるもの。そして横浜大空襲をくぐり抜けた橋でもあった。

万里橋

養和4年2月竣工

浅山橋

昭和3年2月竣工


関連

横浜の見どころは豊富にあるが、いったん〆

田無平和観音・戦災者慰霊塔(西東京)

平和観音は総持寺に鎮座、記念碑は田無駅前に建立。

田無(西東京市)は、「中島航空金属田無製造所」があり、そして「中島飛行機武蔵工場」にも近く、多摩地区でも特に空襲被害が大きい地区であった。

戦災者慰霊塔
 昭和二十年四月十二日祈念

昭和三十二年四月十二日建立
 戦災者慰霊塔建設会

平和観音
 太平洋戦争末期の1945年4月12日、米軍機B29の爆撃により田無駅前において五十数名の罪なき人々が一瞬にして爆死し、その他多数の人々が被災者となった。更にこの年の8月15日の終戦までに田無全域において百数十の尊い命が爆撃の犠牲となった。
 1957年4月12日、被災地居住の歯科医海老沢太一氏が中心となり被災者遺族及び篤志家により金物店主下田武主氏がその所有地を無償提供され駅前の爆心地に観音像の戦災者慰霊塔が建立された。爾来、霊を同所で慰めてきたが、アスタビル建設のため、1992年移転せざるを得なくなり、総持寺のご好意によりこの地を安住の地と定める事となり移住した。
 田無駅前被災の中心地には「田無平和の日」条例制定記念として記念碑を設け、この慰霊塔はこの地で平和のシンボルとして子孫が平和を享受出来るよう祈願する。
 1999年4月12日

田無山 総持寺
別名は、田無不動尊
真言宗智山派の寺院


田無戦災記念碑

平和観音はもともと田無駅前に建立されていた。
この田無駅前は被災中心地であったという。

田無戦災記念碑
 太平洋戦争末期の昭和20年4月12日、B29爆撃機の空襲により市内各所で130余名という多数の犠牲者をだしました。駅前周辺だけで死者が50余名 破壊家屋は50軒に達したといわれております。
 その後、被災者遺族及び篤志家により戦災者慰霊のため、この地に観音像の戦災者慰霊塔が建立されました。
 以来、その霊を多くの方々が慰めてきましたが田無駅北口再開発事業のため、その慰霊塔は田無山総持寺の一角に移りました。
 よって 戦争による田無の被災中心がこの地であることを末永く伝え、恒久の平和を願いこの碑を設けるものです。
 平成八年(1996)三月 
  田無市


関連

浄牧院の爆弾型石塔(東久留米)

東久留米市大門町鎮座。
曹洞宗寺院 神護山 浄牧院

東久留米の南には「中島航空金属田無製造所」や「中島飛行機武蔵製作所」などの軍需工場があり、北多摩地区は度重なる空襲被害を受けていた。

東久留米市に鎮座する浄牧院の境内にも爆弾が落下してきたという。

爆弾型石塔(爆弾落下点)

爆弾落下点
第二次世界大戦末期西暦1944年(昭和19年)11月24日、アメリカ空軍爆撃機の空襲の際に投下された爆弾が本堂前庭に落下し直径約5米・深さ約2米の穴が生じ飛び散った土砂は本堂裏の竹林に至った。爆弾の着下した穴に植えたヒマラヤ杉が開創560年本堂工事のため伐採されたので此の地点に爆弾型石塔を建立して後世に伝えることとなった。
 維時平成16年5月23日 当院丗貳世猷孝 記載

御本堂の目前に爆弾が落下してきたという。
現在の御本堂は平成17年建立。

神護山 浄牧院

位置関係


少年航空兵像と所沢陸軍整備学校(所沢航空記念公園)

明治44年(1911年)、日本初の飛行場として、所沢飛行場が開設。
以来、昭和20年(1945年)の終戦に至るまで、日本の航空発展の歴史は、所沢とともにあった。

所沢陸軍飛行学校・所沢陸軍整備学校

大正8年、陸軍航空学校が所沢に開設。フォール大佐を長とするフランス航空団が航空教育を指導。
大正10年、陸軍航空学校は、所沢を本校に、千葉の下志津と伊勢の明野に分校を開設。
大正13年、所沢陸軍飛行学校に改称。
昭和8年、少年航空兵教育が追加。
昭和10年、所沢陸軍飛行学校から機関科が分離し、陸軍航空技術学校が開設。
昭和12年、下士官と少年航空兵の整備科を分離し、陸軍航空整備学校が開設され。所沢陸軍飛行学校は廃止。陸軍士官学校分校に転用。
昭和13年、陸軍士官学校分校は、現在の入間基地の地に移転し陸軍航空士官学校として独立。のち「修武台」と命名される。
昭和16年、陸軍航空技術学校は立川に移転。
昭和18年、所沢陸軍整備学校へと名称変更。
昭和19年、所沢陸軍整備学校の敷地内に「少年飛行兵の像」が建立。
昭和20年、所沢陸軍整備学校は陸軍幹部候補生・少年飛行兵の航空整備技術の中心地として機能し終戦を迎える。


少年航空兵像

航空発祥の地・ところざわ
航空整備兵の像
 この像は、昭和18年、彫刻家故長沼孝三氏(1908~1993)が第二回大東亜戦争美術展に出品し、翌19年5月21日に、当時この地にあった所沢航空整備学校内に建立されたものです。
 翼を抱き、空を見上げる航空整備兵三人の姿は、当時の少年飛行兵や整備兵のシンボルとされていました。
 戦後、所沢飛行場は米軍基地として接収され、昭和46年の基地返還により、所沢航空公園として整備されました。しかしこの像は痛みがはげしかったため、所沢航空資料調査収集する会では、後世にわたりこの像を保存していこうと、平成9年2月、長沼孝三彫刻館(山形県長井市)の協力をいただき、修復工事を行いました。
 空への夢と希望を抱いたこの像が、市民のやすらぎや平和への祈りを込めた像として永く市民に親しまれていくことを願ってやみません。
 平成10年3月
  所沢市
  所沢航空資料調査収集する会

翼を抱き空を仰ぐ少年飛行整備兵


位置関係

国土地理院航空写真
ファイル:892-C2A-107
1944年(昭和19年)9月24日、日本陸軍撮影

一部拡大

現在の様子

今も昔もはっきりと分かる空間。


大正天皇御駐輦之跡

大正天皇御駐輦之跡
 大正元年(1912)11月15日から19日にかけて関東地方で10万人の将兵が参加する陸軍特別大演習が行われました。所沢飛行場からはブレリオ機、会式3号機、会式4号機と飛行船パルセバルが初参加しました。この碑は、同年11月17日に大正天皇が所沢飛行場に行幸され、飛行機の飛行を統監されたのを記念して建立されたものです。
 尚、この碑には当時の井上幾太郎の直筆による文字が刻まれれており価値ある記念碑と言われています。
 2020年3月
  所沢市
  所沢資料調査収集する会


フォール大佐胸像

フォール大佐胸像
 日本にとって航空の黎明期であった大正7年(1918)、陸軍の航空本部長であった井上幾太郎大将は、先進国であったフランスに我が国の航空技術全般の指導を要請しました。
 日本からの妖精を受けたフランスは、フォール大佐を団長とする技術者63名の航空教育団を大正8年(1919)1月から大正9年(1920)10月までの間、派遣してくれました。
 この間、フランス航空教育団は、日本各地で陸軍の将校や技術者に学科と飛行訓練を指導しました。
 フォール大佐は、44歳で砲兵連隊長として第一線で活躍しており、フランスの航空部隊の第一人者でした。また、優れた操縦者であり、教育者でもあったので航空教育団の団長として派遣されたと言われています。
 日本でのフォール大佐の功績は大きく、日本の「航空の父」と呼ばれ、昭和3年(1928)4月に所沢飛行学校の校庭だったこの地に胸像が建立されました。
 しかし、胸像部分と正面プレートは、第二次世界大戦中に接収され、取り外されたままになっていましたが、昭和57年(1982)10月、少年飛行会及び所沢航空資料調査収集する会等の協力を得て、石川県金沢市の水野朗氏制作の原型を基に復元し、所沢市が建立したものです。
 なお、現在フォール大佐胸像正面にあるプレートは、フランス航空教育団来日100周年となる平成31年(2019)に、オリジナルの姿に復元したものとして、フランス航空宇宙工業会(GIFAS)から寄贈されたものです。
 2019年3月
 所沢市
 所沢航空資料調査収集する会

この胸像は昭和3年 当時所沢陸軍飛行学校校庭だったこの場所に建立されましたが 戦後取り外されたままとなっていました
この度少飛会有志の御協力により 金沢市の水野朗氏制作の原型を求め復元したものです
 昭和57年10月 所沢市

~記念植樹~
フランス航空教育団来日100周年記念
2019年4月7日(日)、フランス航空教育団来日100周年記念式典の実施にあたり、日仏交流の証、そしてフランスが日本の航空技術の発展に大きく貢献してくれたことをいつでも思い出すことができ、次の100年後も語り継げるよう、桜の木の植樹をしました。
(以下略)

ジャック・P・フォール大佐
フォール大佐の功績を記念して、所沢陸軍飛行学校校庭に設置された胸像の原型


ニューポール81E2(甲式一型練習機)

1918年(大正7年)、陸軍がフランスから輸入したニューポール81E2練習機。
翌大正8年に来日したフォール大佐のフランス航空団の教材として所沢陸軍航空学校設立以来、活用された練習機。その後、国内でも三菱によって国産化されている。写真の機体はレプリカ機。

岩田正夫のニューポール81E2

埼玉県ときがわ町の慈光寺に保存されていた「ニューポール81E2」の残骸。都幾川村出身の民間飛行家であった岩田正夫が、郷土訪問飛行時に機体を破損させたために、そのまま村に寄贈した機体。


所沢航空発祥記念館に関係する記事