「鉄道」カテゴリーアーカイブ

鉄道連隊演習線松戸線の散策3(鉄道連隊橋脚・鎌ヶ谷)

鉄道連隊の跡地散策。
この日は、新京成線沿線から離れ、東武野田線(東武アーバンパークライン)の馬込沢駅から20分ほど歩いた場所にある、演習線の橋脚を見学。


新京成電鉄は、陸軍の鉄道聯隊の演習線路をベースとしていた。
日本陸軍解散後に、鉄道聯隊演習線は払い下げられ、京成電鉄は子会社としての新京成電鉄を昭和21年10月に設立。昭和22年12月27日に、新津田沼駅-薬園台駅間が開業した。
陸軍鉄道連隊演習線の規定は、軽便鉄道の戦術的運用目標である路線長45kmの急速構築運用を目的としていたために、45kmの距離を確保することが定められていた。そのため路線敷設演習を兼ねて急曲線が多数混在する線形となっており、新京成電鉄を旅客開業するにあたり、可能な限りは直線化を図ったが、いまなお陸軍演習線時代の名残の曲線が多数残っている。

鉄道連隊演習線松戸線

松戸にあった陸軍工兵学校が構築した、工兵学校-八柱演習場間と、鉄道第二連隊が構築した津田沼-八柱演習場間の路線。
昭和7年(1932年)完成。
習志野線と同様に日常的に物資輸送や兵員輸送も行われ、工兵学校への資材搬入もおこなわれた。


鉄道連隊

以前、以下の記事でも触れていました。

習志野の鉄道聯隊

千葉の鉄道聯隊

鉄道連隊の蒸気機関車


位置関係

米軍撮影国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M504-45
昭和22年(1947年)09月24日、米軍撮影の航空写真

google航空写真でほぼ同位置。演習線の跡を色付け。ポイントが橋脚跡。
新京成の鎌ヶ谷大仏駅は、曲線をショートカットした新設線路で新駅であることがわかる。

拡大。


鎌ヶ谷の鉄道連隊橋脚

史跡 
鉄道連隊橋脚
  所在地 鎌ヶ谷市東道野辺6丁目8番

 この橋脚は、昭和初期に旧日本軍の鉄道大隊が、訓練や物資等の輸送のため、建設した鉄道の一部です。
 近代の戦争では、鉄道は人や物資の輸送のために重要な役割を担っていました。千葉県でも、鉄道大隊から独立した第1鉄道連隊が千葉町(現在の千葉市)に、第2鉄道連隊が津田沼町(現在の新京成新津田沼駅の辺り)に配備され、昭和20年(1945年)第2次世界大戦終了まで活躍しました。
 この橋脚は、第2鉄道連隊が、大戦中、鉄道を敷く訓練として津田沼~松戸間に設けた路線の一部でしたが、終戦後は放置されていたため、この部分を除くほとんどを京成電鉄が買い受けました。その後、昭和21年(1946年)に京成電鉄の出資により新京成電鉄が設立され、当路線の整備を行いました。しかし、この部分は整備から除かれ、この橋脚だけが残りました。現在の新京成電鉄の全線が、整備を終え開通したのは、昭和30年(1955年)のことでした。
  平成11年3月 
  鎌ヶ谷市教育委員会

アカシア児童遊園

児童遊園の中に橋脚が残っている。

西側の1番目。

西側の2番目。

西側の2本。

東側の二本。合計、四本の橋脚が残されている。

端の橋脚は凹型。

桜の季節が気になる枝ぶり。「戦跡と花見」というのは良きポイントですね。
もちろん、桜は戦後の植樹。

今は暗渠となっているが、この四本の橋脚のちょうど中間に川が流れていた。
そのために窪地となっており、鉄道連隊演習線は、この部分に橋を渡した。

地理院地図の標高地形図をみると、凹み具合がわかる。

https://maps.gsi.go.jp/#18/35.747603/140.002915/&base=std&base_grayscale=1&ls=std%7Crelief&blend=1&disp=11&lcd=relief&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1&d=m

Google Mapsでも、道路のアップダウンが分かる。

場所

https://goo.gl/maps/MJrHPkUPMVwzxBqz6


陸軍境界標石(石杭)

公園の西端入口に、境界石もあった。

陸軍

場所

https://goo.gl/maps/oTpYKdmbq3JEzL5PA


出会い

実は、ここで偶然の出会いがありました。

私が橋脚の写真を撮っていると、同じくカメラを持っている御仁が。
「ん?同業者さんか??」と思って、そうこうして、挨拶を交わしてみると。。。

なんと、日本戦跡協会の代表さん!
(戦跡協会さんからすると、なんと、戦跡紀行さん!となったようですが。。。)
この場所で、タイミングよく出会うというのは、かなり奇跡的。
私が、橋脚を見ようかなと考えたのは、この日の移動中の電車の中でしたので、直前まで行き先も確定させていなかったので。

日本戦跡協会さんのサイト
 https://www.sensouiseki.com
日本戦跡協会さんのTwitter
 https://twitter.com/sensouiseki
日本戦跡協会さんのFacebook
 https://www.facebook.com/sensouiseki/

戦跡協会さんのTwitter等で発信される情報は、かなりの頻度で拝見しておりました。日本のみならず海外情報にも明るく、それらの記録は大変に秀逸なもので、まさかここで偶然の極みで御縁が出来るとは思いもよらず。今年(令和4年)の戦跡フィールドワークの幸先は良く、充実したものになりそうです。

このあと、せっかくの御縁なので、 日本戦跡協会さんと一緒に、千葉界隈の戦跡散策を実施。
それらの戦跡探訪記録は、おいおい掲載していきます。。。
ありがとうございました。

ひとまず、本編は以上で〆

※撮影:2022年1月


鉄道連隊演習線松戸線の散策2(新京成電鉄・常磐平駅~五香駅)

新京成電鉄は、陸軍の鉄道聯隊の演習線路をベースとしていた。
日本陸軍解散後に、鉄道聯隊演習線は払い下げられ、京成電鉄は子会社としての新京成電鉄を昭和21年10月に設立。昭和22年12月27日に、新津田沼駅-薬園台駅間が開業した。
陸軍鉄道連隊演習線の規定は、軽便鉄道の戦術的運用目標である路線長45kmの急速構築運用を目的としていたために、45kmの距離を確保することが定められていた。そのため路線敷設演習を兼ねて急曲線が多数混在する線形となっており、新京成電鉄を旅客開業するにあたり、可能な限りは直線化を図ったが、いまなお陸軍演習線時代の名残の曲線が多数残っている。

鉄道連隊演習線松戸線

松戸にあった陸軍工兵学校が構築した、工兵学校-八柱演習場間と、鉄道第二連隊が構築した津田沼-八柱演習場間の路線。
昭和7年(1932年)完成。
習志野線と同様に日常的に物資輸送や兵員輸送も行われ、工兵学校への資材搬入もおこなわれた。

八柱駅界隈はこちら。


鉄道連隊

以前、以下の記事でも触れていました。

習志野の鉄道聯隊

千葉の鉄道聯隊

鉄道連隊の蒸気機関車


位置関係

米軍撮影国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:893-C1-168
昭和19年(1944年)09月27日、日本陸軍撮影の航空写真を一部文字入れ加工。

上記を拡大、文字入れ加工。
オレンジ色は、現在の情報を追記。

常盤平駅と五香駅のあいだの鉄道連隊演習線区間は、北に大迂回をしていたが、新京成ではショートカットされたことがわかる。


常盤平駅

常盤平駅から北に。


「金ヶ作 熊野神社」と「囲いやまの森」の西側

境内地と森の西側を北に向けて歩く。
この道は、当時の鉄道連隊演習線の線路跡になる。

場所

https://goo.gl/maps/QYjKkZvYxQE4Uajy6

急に林となるが、そのまま北上する。ここも演習線の線路跡。


陸軍境界標石(陸軍境界杭)1

開けたところに、石杭がみえる。陥没しているが、これはきっと境界石。


陸軍境界標石(陸軍境界杭)2

そのまま北上すると、「印西道」に交差する。その交差の南側にありました。
はっきりと「陸軍」の刻印がわかる境界石が。

印西道は、さすがに交通量が激しい。

場所

https://goo.gl/maps/VV9AFECwZzjjCsQWA


陸軍境界標石(陸軍境界杭)3

北端部分にもいくつかの境界石があるというが、住宅地となっており、建て替えなどもすすんでおり、きれいになった住宅が多数。おそらく消失したものと思われる。

「千葉鎌ヶ谷松戸線」に面したところに、それっぽい石杭が残っていた。

https://goo.gl/maps/TnajYL8VcfgDRfPQ8

演習線路は、東に伸びて、ヨークマート青葉台店の辺りで南下するが、このあたりは痕跡は残っていない。


「松戸市立金ケ崎小学校」の東

北東側は道も残っていないほどに再開発がすすんでいる。
松戸市立金ケ崎小学校の東側に伸びる道路が、演習線路跡の名残を伝えている。


陸軍境界標石(陸軍境界杭)4

その南端部の突き当りの道 「千葉鎌ヶ谷松戸線」 と合流先に、石杭があった。
上部の一部が欠けているが、これもきっとそうに違いない。

右側の道路が「鉄道連隊演習線跡」。左側が、「千葉鎌ヶ谷松戸線」。
石杭は左の看板の陰にあった。

場所

https://goo.gl/maps/3NZVLZoegnUvCGnT9


五香駅

そのまま道沿いに南下すると、新京成電鉄「五香駅」に到着。
五香たかねちゃんがお迎えしてくれた。

他の境界石があるかもしれないが、再開発も進んでおり、なかなか住宅地の中を探し回るのも大変。

常盤平駅から五香駅まで、5キロで約1時間オーバーの散策でした。

※撮影は2022年1月

本記事は以上で〆


鉄道連隊演習線松戸線の散策1(新京成電鉄・八柱駅)

新京成電鉄は、陸軍の鉄道聯隊の演習線路をベースとしていた。
日本陸軍解散後に、鉄道聯隊演習線は払い下げられ、京成電鉄は子会社としての新京成電鉄を昭和21年10月に設立。昭和22年12月27日に、新津田沼駅-薬園台駅間が開業した。
陸軍鉄道連隊演習線の規定は、軽便鉄道の戦術的運用目標である路線長45kmの急速構築運用を目的としていたために、45kmの距離を確保することが定められていた。そのため路線敷設演習を兼ねて急曲線が多数混在する線形となっており、新京成電鉄を旅客開業するにあたり、可能な限りは直線化を図ったが、いまなお陸軍演習線時代の名残の曲線が多数残っている。


鉄道連隊演習線松戸線

松戸にあった陸軍工兵学校が構築した、工兵学校-八柱演習場間と、鉄道第二連隊が構築した津田沼-八柱演習場間の路線。
昭和7年(1932年)完成。
習志野線と同様に日常的に物資輸送や兵員輸送も行われ、工兵学校への資材搬入もおこなわれた。


鉄道連隊

以前、以下の記事でも触れていました。

習志野の鉄道聯隊

千葉の鉄道聯隊

鉄道連隊の蒸気機関車


位置関係

米軍撮影国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M676-145
昭和22年(1947年)11月28日、米軍撮影の航空写真を一部文字入れ加工。

上記を抜粋。
現在の八柱駅は、集落から外れていた事がわかる。集落は「鮮魚街道」にあった。鉄道連隊の演習線であったことを鑑みれば、逆に集落の近くにあって欲しくはない。

今回の散策は以下のエリア。新京成電鉄「八柱駅」武蔵野線「新八柱駅」界隈を中心に散策しました。


八柱駅周辺散策

八柱駅から西に。住宅地のなかに標石があった。

陸軍境界標石(陸軍境界杭)

摩耗していて判別は難しいが、うっすらと「陸軍」と書いてあるのがわかる。

場所

https://goo.gl/maps/RUKPp931dg1SujtW8


八柱駅

八柱駅の周辺は、境界標石(境界杭)の宝庫。

陸軍境界標石(陸軍境界杭)・踏切

踏切近くに。

はっきりと「陸軍」と判読できる。

場所

https://goo.gl/maps/CwRVng6Vcpqy5MQd8

陸軍境界標石(陸軍境界杭)・駐車場

踏切の近くの駐車場にも「陸軍」があった。

場所

https://goo.gl/maps/fDbcJjAG6Ej9YKDFA


陸軍境界標石(陸軍境界杭)・鮮魚街道踏切近く

線路脇の歩道の真ん中近くに、陸軍の境界杭がそそり立っていた。通行の邪魔にもなる存在であれ、撤去されずに残っているのが嬉しい。

うっすらと陸軍の文字が読める。

けっこうな存在感。

場所

https://goo.gl/maps/zyHtuqBjsZKDQ1Cm9

陸軍境界標石(陸軍境界杭)・線路近く

新京成の線路沿いに、常盤平駅方面に歩く。


森のホール21

かつての演習線は、このあたりから、森のホール21・21世紀の森と広場方向に線路が伸びていた。

ちょっと寄り道します。


松戸市立博物館

陸軍工兵学校の門標が残っている。

陸軍工兵学校

陸軍工兵学校は、松戸駅の近くに。門柱も残っています。


平和の像

21世紀の森と広場の「光と風の広場」の奥まったところに、平和の像があった。
作者は雨宮敬子氏。

私たちの愛する街“松戸” 
緑あふれ、文化の香り高いこの地に
全ての市民と共に
世界の“生きとし生けるもの”の
恒久平和と豊かな未来を念願し
ここに、その象徴として『平和の像』を建立する。 
 平成3年3月 
 松戸市長 宮間 満寿雄

「21世紀の森と広場」には塹壕跡も残っているというが、公園はそこそこ広くて、散策の時間が取れなかったために、それは未訪。


鉄道連隊演習線跡と陸軍境界標石

森のホール21 (松戸市文化会館)から駐車場の脇の歩道を歩く。

ありましたね。

刻印は外側かもしれません。線路跡の歩道からは確認できませんでした。

埋もれてましたが、きっとこれもそうだと思います。

陸軍鉄道連隊の演習線路跡。

場所

https://goo.gl/maps/VdRUgnMcjFGSQc1b9


演習線路跡と新京成線の合流地点

演習線をショートカットするようにカーブを削った新京成線路と合流するあたり。
青面金剛碑がありました。

新京成の線路と、演習線路跡の合流地点。推測ですが。

新京成の標石もありました。

陸軍鉄道連隊の演習線は、この先の常盤平駅で大きく北に大カーブを描くが、新京成線は大カーブを嫌い、ショートカットした短絡線路を構築している。
常盤平駅と五香駅の記事は、別記事にて。

本記事は、ひとまずこれで〆。

※撮影は2021年10月


さらにもう一つの「日本の鉄道発祥の地」品川駅

日本の鉄道は、教科書的に記載すると、1872年10月14日(明治5年9月12日) 新橋駅-横浜駅の開業に始まる。
この10月14日は、今では、「鉄道の日」として記念日にもなっている。

しかし、この新橋駅-横浜駅が正式に開業する前から、日本では鉄道が走っていた。
それが、新橋駅が開業する前に仮営業で走り始めた、品川駅-横浜駅間の区間であった。

つまり、「横浜駅(桜木町駅)」と並んで、「品川駅」は、日本最古の鉄道駅のひとつなのだ。
(新橋駅は、横浜駅、品川駅の次)
そんな品川駅を散策してみることとする。


新橋駅関連

横浜駅関連(現在の桜木町駅)


日本の鉄道前史

1825年(文政8年)、イギリスのストックトン – ダーリントン間で蒸気機関車を用いた貨物鉄道(ストックトン・アンド・ダーリントン鉄道)の運行が開始された。
1830年(文政13年)にはリヴァプール – マンチェスター間に旅客鉄道(リバプール・アンド・マンチェスター鉄道)も開業。

1853年(嘉永6年)、ロシアのエフィム・プチャーチンが長崎に来航。
船の上で蒸気機関車の鉄道模型を日本人に見せ、詳しい解説をおこなった。 蒸気機関車の模型を見学し「口を開いて見ほれていた」佐賀藩士が模型の制作を計画 。1855年(安政2年)には田中久重(からくり儀右衛門)と重臣や藩校の者の手によって、全長約27cmほどのアルコール燃料で動作する模型機関車を完成させている。これが模型とはいえ、日本人がはじめて作った機関車であった。 このとき当時18歳であった佐賀藩士の大隈重信も見学しており、のちの明治政府で熱心な鉄道導入を唱えることとなる。

1858年(安政5年)には、イギリスが中国の鉄道で使用する予定であった762mm軌間の本物の蒸気機関車が長崎へ持ち込まれ、1か月間にわたってデモ走行を実施。
こうして、国内で鉄道敷設の機運が高まってきた。

鉄道開通に向けて

明治維新後の1870年(明治3年)鉄道発祥国イギリスからエドモンド・モレルが建築師長に着任。本格的工事が始まった。
日本側では1871年(明治4年)に井上勝(日本の鉄道の父)が鉄道頭に就任し、鉄道建設に携わった。
東京横浜間の全線29kmのうち、1/3にあたる約10kmが海上線路として建設。
資材を横浜港から供給した関係上、工事は横浜側から始まり、まず1871年夏頃には川崎までの工事が進み、その際に試運転と資材の輸送をかねて運転が行われていたと考えられる。

現横浜から桜木町にかけての左カーブ付近の埋め立ては地元の商人、高島嘉右衛門が工事を請負、土地を管理したので敬意を表して今でも「高島町」と呼ばれている。また、鶴見川、六郷川(多摩川)の橋は最初木造で作られたが木造では傷みが激しく、後に鉄橋に改められ、2代目六郷川橋(初代鉄橋)が愛知明治村に保存されている。

横浜停車場は現桜木町駅付近であったが、これは野毛外人居留地や港に近いという理由から選ばれたと思われる。新橋停車場は現汐留であるが、東京の入口であり、築地外人居留地に近いという理由もあるが、それよりも東京の中心に異様なものが進入するのを嫌った勢力や軍部が用地を提供しなかったという理由もあった。

1871年9月(明治4年8月)には、早くも木戸孝允や大隈重信、後藤象二郎や三条実美らが神奈川(現京浜急行神奈川駅付近と思われる。)-横浜停留場間を試乗。
そして同年11月には大久保利通も試乗。大久保は鉄道反対派であったが「百聞は一見に如かず。愉快に堪えず」と日記に記し一転して鉄道支持派になり、政府首脳の間にも鉄道の利便性が理解され始めた。

1871年11月(明治4年10月)には六郷川橋梁が完成し品川まで運転が開始された。
このころにはすでに時刻表で運転が定期的にくまれており、岩倉具視を団長とする「遣欧米使節団」一行100余名も臨時列車で品川から横浜まで利用している。
この列車は「品川仕立十一ジ二十分出行」であり「於川崎而蒸気行替五分避行」とあり横浜には12時40分に到着。所要1時間20分と、(同区間は仮営業時は40分)随分時間がかかっているのは、工事中ということもあり徐行しながら走ったのであろう。

品川-横浜間仮営業開始

1872年6月12日(明治5年5月7日)から品川-横浜間で仮営業が行われるようになり、陸蒸気の試運転を弁当持参で見物していた庶民も、お金さえはらえば平等に乗れるようになった。このお金さえ払えば身分の隔たりもなく無差別平等に汽車に乗れるということが、まさに新しい社会の到来であった。

仮営業当日は、所要35分で1日2往復。しかし翌日からは6往復となり、7月10日には川崎・神奈川の途中駅が開業し所要40分で運転が行われた。運転本数を増やしても平均乗車率は80%を越しておりかなりの人気であった。

仮営業中の1872年8月15日(明治5年7月12日)には
明治天皇が風波のために座乗する軍艦が品川に入港できなくなり急遽横浜から汽車に乗り品川から宮城に向かうという予定外の事件があった。
また箱根離宮の帰りに 
皇后(のちの昭憲皇太后)が横浜-品川間を利用しているということから、仮営業であっても
天皇・皇后の利用しており、汽車の安全性も認められ、あとはいよいよ本開業をまつばかりであった。

しかし品川-新橋の間には、高輪の台地がせまっており、また陸軍・海軍用地が多いため工事が難航。大隈重信はついには品川-新橋間を築堤し海のなかに線路用地を確保するという荒技をとることとなる。
海岸付近を通る路線のうち田町から品川までの約2.7kmには海軍の用地を避けるため約6.4mの幅の堤を建設して線路を敷設し、これが高輪築堤となる。高輪築堤の工事は1870年に着工し両側は石垣、船が通る箇所4か所には水路が作られた。

新橋-横浜間開業

1872年10月14日(明治5年9月12日) 新橋駅-横浜駅が正式開業。
新橋駅で式典が催され、明治天皇と建設関係者を乗せたお召し列車が横浜まで往復運転を実施した。
正式開業時の列車本数は日9往復、全線所要時間は53分、表定速度は32.8km/h。

開業当時の「1号機関車」は鉄道博物館、「3号機関車」は桜木町駅新南口に保存・展示されている。
また「1号機関車」は『南蛮阿房列車』に代表されるように大の鉄道好きで知られる阿川弘之先生が書いた、絵本「きかんしゃやえもん」のモデルとなった機関車でもある。

正式開業日を記念して、1922年(大正11年)に10月14日は「鉄道記念日」となった。
そして1994年(平成6年)には運輸省により「鉄道の日」と改称された。


品川駅創業記念碑

品川駅の西口・高輪口のロータリーにひっそりと記念碑がある。

 明治五年五月七日
品川駅創業記念碑 
 品川横浜間鉄道開通
  伴睦書

品川駅は、明治5年(1872年)5月7日(新暦6月12日)を開業日としている。
この日に品川・横浜間で仮開業。
品川から北、品川ー新橋間は、高輪築堤の工事などもあり開業が遅れ、品川ー横浜の仮営業から4箇月後の明治5年(1872年)9月12日(新暦10月14日)に、 新橋・横浜間で本営業を開始した。

品川駅創業記念碑
 品川駅では、明治5年(1872年)5月7日(新暦6月12日)をこの開業日にしています。何故かというと、新橋・品川間の工事が遅れたため、この日に品川・横浜間で仮開業したからです。新橋・横浜間で本営業を開始したのは仮営業から4箇月後の明治5年(1872年)9月12日(新暦10月14日)でした。それを記念して、今日では10月14日を「鉄道の日」としています。品川駅は日本で一番古い鉄道の駅といえます。
 この記念碑は鉄道開通80周年及び駅舎改築を記念して、昭和28年(1953年)4月に建之されたもので、揮毫者は衆議院議長をつとめた大野伴睦氏です。記念碑の裏面には仮開業当時の時刻表と運賃が記載されており、当時の様子を偲ぶことができます。
 平成18年(2006年)10月 JR東日本 品川駅 この記念碑は鉄道開通80周年及び駅舎改築を記念して、昭和28年(1953年)4月に建之されたもので、揮毫者は衆議院議長をつとめた大野伴睦氏です。記念碑の裏面には仮開業当時の時刻表と運賃が記載されており、当時の様子を偲ぶことができます。
 平成18年(2006年)10月 JR東日本 品川駅

鉄道列車出発時刻及賃金表
 定     明治五年五月七日

上り             下り
横浜発車 品川到着      品川発車 横浜到着
午前八字 午前八字三十五分  午前九字 午前九字三十五分
午后四字 午后四字三十五分  午后五字 午后五字三十五分

賃金表  
車ノ等級
上等  片道 壹円五拾銭
中等  同  壹円
下等  同  五拾銭

 昭和二十八年四月吉日
 品川駅改築落成祝賀協議会建之

高輪口のロータリーに記念碑はある。


JR品川駅中央改札内

品川駅の中央改札ナウに、ちょっとしたモニュメントがある。

さり気なく、「鉄道発祥の地“品川”」を主張している。

郵便ポスト&0kmポスト(ゼロキロポスト)
 この郵便ポストは,品川駅改良・ecute品川の誕生を記念してJR東日本・東京総合車両センターで製作されました。国鉄時代に活躍した荷物兼郵便車「クモユニ」をイメージした形に,東海道線電車の湘南色で仕上げ,鉄道発祥の地“品川”に相応しい「郵便車型ポスト」といたしました。
 0kmポストは,鉄道の路線の起点を示す標識で,品川駅には山手線と品鶴(ひんかく)線の2線の0kmポストがあります。山手線は一回りしているため,起点があまり知られていませんが,品川から新宿を経由して田端までを指します。
 品鶴線は,品川から西大井を経由して鶴見に至る路線で,当初は貨物線として敷設されましたが,現在では横須賀線への直通電車が走っています。
 生まれ変わった品川駅からの出発が,すばらしいものになりますことを祈念し,品川駅の新しいシンボルとして0kmポストのオブジェを設置しました。どうぞ,末長くご愛顧下さい。
2005年10月1日
高輪郵便局
JR東日本・品川駅
ecute品川

品川駅は、山手線の起点、そして品鶴仙という貨物線の起点とのこと。

※撮影:2021年11月


関連

日本の鉄道の父、井上勝の墓は、品川にある。

もう一つの「日本の鉄道発祥の地」初代横浜駅跡・JR桜木町駅

日本の鉄道は、明治5年(1872)に新橋駅ー横浜駅に開業したことに始まる。
その初代横浜駅は、現在の桜木町駅界隈であった。

鉄道発祥の地として、「新橋駅」とともに、もう一つの拠点であった「桜木町駅」を散策してみる。

JR桜木町新南口(市役所口)に隣接するJR桜木町駅ビル「CIAL桜木町ANNEX(シァル桜木町アネックス)」1階に開設されている「旧横ギャラリー」には、鉄道創業時に使用された蒸気機関車「110形」が展示されている。

桜木町は、日本初の鉄道のもう一つの起点駅。
そう、新橋横浜間の鉄道の横浜駅は、今の桜木町駅界隈であったのだ。


旧横濱鉄道歴史展示(旧横ギャラリー)

若干、窮屈そうな場所に、鉄道創業時に使用された蒸気機関車と展示スペースがあった。
しかし青梅鉄道公園で展示されていた頃に比べて、屋内展示としての絶対の安心感が感じられるのが、とにかく好印象。鉄道発祥の横浜にこうして記念すべき施設ができたことが喜ばしい。

鉄道記念物
110形蒸気機関車
1961(昭和36)年10月14日指定
東日本旅客鉄道株式会社 2020(令和2)年6月建植

110形蒸気機関車(110号)
1871(明治4)年、英国のヨークシャー・エンジン社の製造で、1872(明治5)年の鉄道創業時に「10号機関車」として新橋~横浜間で使用され、後に「3号機関車」と呼ばれた日本で最も古い機関車の一つです。1909(明治42)年、「110号」に名を改められ、1918(大正7)年まで各所で活躍し、廃車後は車体の一部を切開ののち、大宮工場内にあった「鉄道参考品陳列所」で技術者育成の教材として展示されました。1961(昭和36)年には「鉄道記念物」に指定され、翌年から2019(令和元)年まで青梅鉄道公園で保存展示されました。その後、大宮工場にて溶接を使用しない工法で切開箇所を閉腹し、錆の除去や破損箇所の修復を行い、本機の晩年頃の姿を再現しました。(形状が不明な箇所は資料が残る明治初期の形状を参考にしました。) そして、2020(令和2)年、旧横浜停車場であるこの地へ戻りました。

機関車全長:7,214mm
動輪直径:1,245mm
輪軸配置:1‐B‐0
シリンダ直径×行程:299×432mm
機関車重量:運転整備 23.04t 空車 18.85t
購入時価格:2,600ポンド(船賃含む)
使用蒸気圧8.0kg/cm²

鉄道創業時の中等客車(再現)
日本に輸入された客車は、上等車10両、中等車40両、緩急車8両の計58両で、全て英国製でした。外観や車内の構造は上等車、中等車ともにほぼ同じで、両端に出入口を兼ねたオープンデッキがあり、車内は中央通路式となっています。展示の客車は、鉄道開業期にM.モーザーが撮影した、横浜停車場に留置中の車両写真、英国製古典客車図面、車両形式図等の記載寸法を参考に、中等客車として再現しました。木造の客室部、車輪脇の板バネは新造し、本来は金属製である緩衝器は、木地をろくろ挽きで製作。他の国内で入手困難な金属部品は英国から輸入した古物を使用しています。車輪の外観は、創業期に用いられ乗り心地に優れているとされる、木製の「マンセルホイール」をイメージし、その造形を施しました。車内照明(オイルランプ)は、古文献や英国製のものを参考に電気式で再現しています。色彩は、当時の浮世絵、M.モーザー撮影写真のコントラスト、そして昔の英国車両を参考に配色しました。

客車サイズ:全長 7,630mm(緩衝器含む) 全幅 約2,210mm(客室側壁部)
定員:24名

旧横ギャラリーとして、展示資料も豊富。
これは丹念に見ていたら、結構な時間を要しそうだ。

最初の機関車たち

帰ってきた110形機関車
展示の実物機関車は、1872年の鉄道創業時に英国から輸入された蒸気機関車です。この地に荷揚げされて以来、日本各地で活躍し、2020年に再びここけ戻りました。

鉄道創業時の機関車
1871(明治4)年、英国からスエズ運河(1869年開通)を経由し、横浜港に5種10両の機関車が到着しました。これらの車両は、この地に存在した横浜停車場内の作業場で組み立てられました。
1号機関車(150形)
2~5号機関車(160形)
6、7号機関車(A3形)
8、9号機関車(190形)
10号機関車(110形)

明治初期の横濱停車場と街の風景

旧横ギャラリー

受け継がれる鉄道への夢

鉄道開業式典と明治の人々

明治の元勲たちを乗せた式典列車

元は武士!? 官員さんと舎内の様子

謎のステンショ内部を探る

西洋から導入されたモノは?

西洋の慣習と鉄道システム

産業革命を見聞したサムライたち

幕末の日本と横濱

鉄道敷設までの道のり

明治の鉄道建設と発展に貢献した人々

最初の客車と明治のお客さま

そして建物の外にも、掲載がある。

モレルさん、ガラスの反射が厳しい。

初代鉄道建築師長
エドモンド モレル

 十河信二書
EDMUND MOREL
1841-1871
1958.5.7 横浜市 鉄道友の会

旧横濱鉄道歴史展示
この地に存在した、日本初の鉄道駅「横濱停車場」の様子と横浜~新橋間を駆け抜けた機関車や客車、そして新たな時代を「鉄道」という文明の利器によって切り拓いた、明治の先人達の活躍を紹介します。

旧横ギャラリー

鉄道創業時に使用された蒸気機関車

展示の110形蒸気機関車について
1871(明治4)年 英国にて製造され、日本に輸入。
1872(明治5)年 鉄道創業時、10号として運用。
1876(明治9)年 機関車の番号を3に改番。
1909(明治42)年 形式称号改正で110形となる。
1923(大正12)年 廃車(諸説あり)後、大宮工場に展示
1961(昭和36)年 鉄道記念物に私邸。
1962(昭和37)年 青梅鉄道公園へ移転。
2020(令和2)年 この地へ移り、屋内展示となる。

英国から輸入された最初の客車

再現された創業時の客車
輸入された客車は、上等車10両(定員18人)、中等車40両(定員22か24人)、荷物緩急車8両の計58両でした。構造は前後にデッキを有する中央通路式で、室内左右にロングシートが配置されていました。開業時に中等客車を改造し、26両を下等客車としました。展示の客車は英国や明治期の資料を元に再現した中等客車です。

この地に存在した日本初の鉄道駅「横濱停車場」

旧横濱停車場と桜木町駅
1872(明治5)年 横濱停車場がこの地に開業。
1915(大正4)年 横浜駅は移転、桜木町駅に戒名。
1923(大正12)年 関東大震災にて初代駅舎消失。
1927(昭和2)年 2代目桜木町駅舎が完成。
1964(昭和39)年 根岸線開通にともない、駅舎を改築。
1989(平成元)年 3代目駅舎は高架下駅となる。

場所

https://goo.gl/maps/gvPFDDa2sAY7toRs9


鉄道創業の地 記念碑

旧横ギャラリーのある建物のすぐ南側に、記念碑がある。

鉄道創業の地 記念碑
 日本で初の鉄道を作るために 明治3年(1870年)に鉄道資材を英国から購入し 横浜港で陸揚げされ建設が始まった。
 その2年後の明治5年(1872年)5月7日、この地に初代横浜駅が建設され、 横浜、 品川間に最初の鉄道が開業した。
 この鉄道創業の地を象徴して昭和42年(1967年)10月13日に記念碑が竣功した。
 その後、昭和63年(1988年)12月に現在の位置に移設され、当初記念碑のあった位置に原標を置いた。

平成26年7月
公益財団法人 横浜観光コンベンション・ビューロー

鉄道創業の地
 我が国の鉄道は、明治5年(1872年)旧暦5月7日、この場所にあった横浜ステイションと品川ステイションの間で開通し、その営業を開始しました。
 わたくしどもは、当時の人の気概と努力をたたえ、このことを後世に伝えるとともに、この伝統が受け継がれて、さらにあすの飛躍をもたらすことを希望するものであります。
   昭和42年10月14日  
            財団法人 横浜市観光協会
             鉄道発祥記念碑建設特別委員会

創業当時の横浜駅

創業時の時刻・運賃表及び乗車に当たっての注意書きも記念碑に刻まれている。

鉄道列車出発時刻及び運賃表

定 明治5年5月7日
上り
 横浜発車 品川到着
 午前8時 午前8時35分
 午後4時 午後5時35分
下り
 品川発車 横浜到着
 午前9時 午前9時35分
 午後5時 午後5時35分

運賃表
車の等級
 上等 片道 1円50銭
 中等 同  1円
 下等 同    50銭

来る五月七日より此表示の時刻に日々横浜並びに品川ステイションより列車出発す乗車せむと欲する者は遅くとも此表示の時刻より十五分前にステイションに来り切手買入其他の手都合を為すべし
 但発車並に着車共必ず此表示の時刻を違はさるやうには請合かねたけれとも可成丈遅滞なきよう取行ふべし
手形は其日限り乗車一度の用たるべし
小児四歳までは無賃其餘十二歳まては半賃金の事
旅客は總て鐡道規則に隋ひ旅行すべし
手形檢査の節は手形を出し改を受又手形収集の節は之を渡すべし旅客自ら携ふ小包みドウランの類は無賃なれとも若し損失あらは自ら負うべし其餘の手廻り荷物は目方三十斤迄は二十五銭三十斤以上六十斤迄は五十銭を拂ひ荷物掛へ引渡請取證書を求め置くべし尤一人に付目方六十斤を限とす
手廻荷物は總て姓名か又は目印を記すべし
旅客中乗車を得ると得さるは車内場所の有無によるべし
犬一疋に付片道賃銭二十五銭を拂ふべし併し旅客車に載するを許さす犬箱或は車長の車にて運送すべし尤首輪首綱口綱を備へて相渡すべし
発車時刻を惰らさるため時限の五分前にステイションの戸を局さすべし
吸煙車の外は煙草を許るさす

旅客車上中下三等の内乗らむと欲する所の賃金を過金取引なきやうに用意致し来るべし
   明治五年 鐡道寮

記念樹
横浜緋桜
モレルの桜
 英国人技師エドモンド・モレル(1841-71)は、明治5年日本で最初の鉄道を桜木町-新橋間に建設するにあたって建築師長として貢献しました。生誕170年の今、その功績を称え縁の地に”モレルの桜”を植樹し記念とします
2011.3.30
 桜木町に桜の木を植える会
 神奈川県淡彩画会
  協賛 横浜郷土研究会
     横浜ペンクラブ
     学校法人横浜学院

場所

https://goo.gl/maps/Z4kZ7zGF2gVYCHSq9


JR桜木町駅

桜木町の駅にも見どころが豊富。
正直、丹念に見ていたら、駅だけでも結構な時間泥棒となる。
桜木町駅は、鉄道発祥の駅として、相当な力の入れ具合を感じられた。

JR桜木町駅

みなとみらい地区の記憶
明治から昭和まで臨海地域は造船と鉄道物流の拠点で、この街のシンボル的存在でした。現在は国際的なビジネスと観光の街として生まれ変わりました。

みなとみらい時層マップ
明治初期から平成までの海岸線の変化を俯瞰しながら、この地区の産業や町並みの発展を「時間を旅する」感覚で観察すると、新たな発見があるかもしれません。

日本の産業を支えた横濱停車場
鉄道開業の翌年、1873(明治6)年9月、横浜~新橋間の鉄道による貨物営業が始まりました。以来、横浜は日本の産業における重要な物流拠点となりました。

鉄道創業の地・桜木町(旧横濱停車場)
日本人と鉄道の出会いは江戸時代の末期でした。明治時代になるとその導入が決定し、1872(明治5)年、横浜と新橋の間で日本初の営業運転が始まりました。

初代横濱駅と発着場の情景
初代横浜駅は新橋駅と同じく、アメリカ人建築家、R・P・ブリジェンスの設計で、この場所から関内駅方面へ120m程の地に位置し、華麗な外観を誇りました。

明治の横濱・鉄道路線案内
明治初期、当時の人々にとって鉄道への関心は高く、多くの錦絵が残されました。開業時の路線は現在でもほぼ同じルートをとりながら、高度に複線化されています。

鉄道旅行のお楽しみ
江戸期の旅は徒歩による信仰と巡礼が目的でした。明治期、鉄道が利用されるようになると、やがて旅の目的は観光や仕事など、多様なものとなりました。

鉄道が発信する文化
鉄道創業時に、早くも横濱停車場の構内で商いをする人たちが現れました。以来、鉄道に関連した数多くの商売や文化が生まれてきました。

追憶の野毛・桜木町駅
庶民の街として親しまれてきた野毛、またその玄関口として街の変遷を見守って来た桜木町駅界隈は、いつの時代も人々の活気ある息吹を感じ取る事ができます。

桜木町にやってきた鉄道車両
鉄道の開業以来、この地には様々な種類の列車がやって来ました。ここでは蒸気から電気機関車までの変遷や鉄道車両の様々な形態を見る事ができます。

 この光景は、明治20年(1887)頃の初代横浜停車場(現桜木町駅)前を撮影したものです。写真中央の噴水塔は、高さ約4.4m、重さ約1.3tの鋳鉄製で、日本初の近代水道創設を記念して設置され、往来する方々に親しまれていました。
 この噴水塔は、現在、横浜市保土ケ谷区の横浜水道記念館に保存されています。
 平成25年10月17日 横浜市水道局

桜木町&みなとみらい地区は、馬車道や赤レンガもあるので、近代史散歩がはかどる街。しかし、それはまだ未探訪なので、おって、で。

※撮影:2021年11月


鉄道関連

横浜関連

博物館動物園駅跡(上野・京成電鉄)

上野公園周辺には、意外と近代建築物が残っている。

国立博物館内には、旧東京帝室博物館本館と表慶館、上野公園内には、国立科学博物館と旧東京音楽学校奏楽堂、そして、帝国図書館、黒田記念館、東京藝術大学などにも戦前の建造物が残っている。

そのなかでも、今回は、京成電鉄の駅舎入口部分の建造物を眺めてみる。

博物館動物園駅跡(京成電鉄株式会社)

昭和8年(1933)の京成本線開通にあわせ、東京帝室博物館・東京科学博物館・上野恩賜公園・東京音楽学校・東京美術学校などの最寄駅「動物園前停留所」として開業。
平成9年(1997)に営業休止され、平成16年(2004)に廃止された。
廃止後も駅舎やホームは現存しており、不定期に一般公開もされている。
平成30年(2018)には、駅舎が鉄道施設としては初めての東京都選定歴史的建造物に選定。

地下ホームの出入り口は2箇所ある。

博物館動物園駅跡・博物館側

中川俊二設計。1931年竣工の駅地上口。
皇室用地であった東京帝室美術館(現在の東京国立博物館)の敷地内に建てられることとなったため、昭和天皇出席の御前会議でデザインが決定されたという。
国会議事堂中央部分のような西洋様式の外観が特徴で、国会議事堂よりも建築時期は古い。

博物館動物園駅跡
京成電鉄株式会社

博物館動物園駅 照明復元事業
 この博物館動物園駅は、1933年(昭和8年)に竣工しました。6灯の壁付照明器具が、3方に開いた出入口を照らしていましたが、第2次世界大戦の金属供出により取外され、永く失われていました。この駅舎と地下駅空間の保存と再生を願い20年間にわたる活動を続けてきた市民グループ、NPO法人〈上野の杜芸術フォーラム〉による企画と募金活動により、2010年、漸く1灯の復元が成りました。
 芸術の中枢機能が集積するこの交差点〈アートクロス上野〉に向けた光を復活させるものです。

照明復元企画・プロデュース:NPO法人 上野の杜芸術フォーラム
代表:森 徹/副代表:熊井千代子
理事:植野糾/臼田浩之/熊井芳隆/溝内公洋/若松久男
復元型デザイン・制作:宗政浩二
復元器具・鋳造:池田東央(池田美術)
照明メカニック:吉原義夫(東芝ライテック)

東京藝術大学から、博物館動物園駅舎を望む。

博物館動物園駅跡・動物園側

昭和42年(1962)から始まった上野動物園大改造計画に基づく工事によって、動物園正門の位置が変更されたことで人の流れが変わり、まもなく閉鎖された。
閉鎖後は東京都美術館の資材倉庫として利用されている。

一般公開のタイミングがあえば、内部も見学したいものです。

※撮影:2021年11月


恩賜上野動物園 旧正門

上野動物園は明治15年(1882)開園。日本最古の動物園。

旧正門は、明治44年建立。
昭和9年頃までは恩賜上野動物園の玄関口として使用されていた表門。
現在は臨時門として使用されることもある。

右奥に、京成電鉄の博物館動物園駅跡が見える。

内側は、 令和元年(2019)11月に撮影していました。
以下は内側の写真。

上野公園周辺の近代建築物は、また別記事にて。


上野関連

東京の北の玄関口「上野駅」

北の玄関口、上野駅。
現在の駅舎は3代目。昭和7年(1932年)に建造された駅舎が、戦争をくぐり抜けて、今もその姿を伝えている。

写真メインで近代建築としての上野駅の記録を。


上野駅

上野駅は、明治16年(1883年)7月28日に日本鉄道の上野-熊谷間開業にともない仮駅舎として開設された。明治18年に正式な駅舎が竣工。
大正12年(1923年)の関東大震災で駅舎は焼失。仮駅舎で営業を再開。そして昭和7年に3代目の駅舎が竣工した。

上野駅三代目駅舎
 関東大震災(1923年・大正12年)にて二代目の駅舎や主要な建物は破壊・焼失してしまいました。同年より仮駅舎にて営業し、その復興に力を注ぎ正面玄関口・広小路口駅舎は1932年(昭和7年)に3代目として完成した駅舎です。
 建設当時は、正面口が2階構造になっており、上層は乗車口で自動車から降りて直接駅に入ることが出来ました。下層は降車口で改札をでて大寒暖で地下へ降り降車口から自動車に乗ることが出来ました。
 乗車客と降車客の動線が分離されれた構造の駅舎でした。

正面玄関口駅舎。
かつての乗車口=2階には、今は車では乗り入れができない。
車は、かつての降車口=1階のみ。

上野駅貴賓室跡地
 1932年(昭和7年)に現在の上野駅舎が完成した際、この場所に貴賓室が造られました。
 以後、天皇陛下および皇族方が東北方面へお出かけになる際には、たびたびこの貴賓室をご使用になられたということです。
 当時の写真を見ると、大理石造りの風格ある入口の様子や、絨毯が敷かれ、暖炉やシャンデリアなどの豪華な調度品が配置された、室内の優雅な雰囲気が見てとれます。

貴賓室入口

正面玄関口。

一階部分から。

正面玄関口

上野駅広小路口。

上野山から


石川啄木の歌碑

上野駅15番ホームには、石川啄木の歌碑がある。

ふるさとの 訛なつかし
 停車場の 人ごみの中に
そを 聴きにゆく
         啄木

「あゝ上野駅」の歌碑

上野広小路口に建立されている碑。建立は2003年。
高度成長期の 1964 (昭和 39) 年に大ヒットした井沢八郎が歌った歌謡曲「あゝ上野駅」に基づく。
C62 23 号機が上野駅 18 番ホームに到着し、集団就職者が下車した情景をレリーフに描く。
「ようこそ東京へ」

あゝ上野駅
  作詞 関口義明
 作曲 荒井英一
  歌  井沢八郎

一、どこかに故郷の 香を乗せて
  入る列車の なつかしさ
  上野はおいらの 心の駅だ
  くじけちゃならない 人生が
  あの日ここから 始まった

二、就職列車に ゆられて着いた
  遠いあの夜を 思い出す
  上野はおいらの 心の駅だ
  配達帰りの 自転車を
  止めて聞いてる 国なまり

三、ホームの時計を 見つめていたら
  母の笑顔に なってきた
  上野はおいらの 心の駅だ
  お店の仕事は 辛いけど
  胸にゃでっかい 夢がある

歌碑の由来
高度成長期の昭和30~40年代、金の卵と呼ばれた若者達が地方から就職列車に乗って上野駅に降り立った。戦後、日本経済大繁栄の原動力となったのがこの集団就職者といっても過言ではない。
親もとを離れ、夢と不安を胸に抱きながら必死に生きていた少年、少女達。彼らを支えた心の応援歌『あゝ上野駅』は、昭和 39年に発表され多くの人々に感動と勇気を与え、以後も綿々と唄い継がれている。
この歌の心を末永く大切にしたいとの思いから、また、東京台東区の地域活性化・都市再生プログラムの一環として、ゆかりの此の地に『あゝ上野駅』の歌碑を設立するものである。
 平成15年(2003年)
 歌碑設立委員会・発起人
 総括責任者 深澤 寿一

歌碑はレールの上に乗っていた。

※撮影は2019年1月及び2020年6月


関連

「日本の鉄道発祥の地」新橋停車場と高輪築堤跡

近代の発展は、鉄道の発展でもあった。

日本の鉄道前史

1825年(文政8年)、イギリスのストックトン – ダーリントン間で蒸気機関車を用いた貨物鉄道(ストックトン・アンド・ダーリントン鉄道)の運行が開始された。
1830年(文政13年)にはリヴァプール – マンチェスター間に旅客鉄道(リバプール・アンド・マンチェスター鉄道)も開業。

1853年(嘉永6年)、ロシアのエフィム・プチャーチンが長崎に来航。
船の上で蒸気機関車の鉄道模型を日本人に見せ、詳しい解説をおこなった。 蒸気機関車の模型を見学し「口を開いて見ほれていた」佐賀藩士が模型の制作を計画 。1855年(安政2年)には田中久重(からくり儀右衛門)と重臣や藩校の者の手によって、全長約27cmほどのアルコール燃料で動作する模型機関車を完成させている。これが模型とはいえ、日本人がはじめて作った機関車であった。 このとき当時18歳であった佐賀藩士の大隈重信も見学しており、のちの明治政府で熱心な鉄道導入を唱えることとなる。

1858年(安政5年)には、イギリスが中国の鉄道で使用する予定であった762mm軌間の本物の蒸気機関車が長崎へ持ち込まれ、1か月間にわたってデモ走行を実施。
こうして、国内で鉄道敷設の機運が高まってきた。

鉄道開通に向けて

明治維新後の1870年(明治3年)鉄道発祥国イギリスからエドモンド・モレルが建築師長に着任。本格的工事が始まった。
日本側では1871年(明治4年)に井上勝(日本の鉄道の父)が鉄道頭に就任し、鉄道建設に携わった。
東京横浜間の全線29kmのうち、1/3にあたる約10kmが海上線路として建設。
資材を横浜港から供給した関係上、工事は横浜側から始まり、まず1871年夏頃には川崎までの工事が進み、その際に試運転と資材の輸送をかねて運転が行われていたと考えられる。

現横浜から桜木町にかけての左カーブ付近の埋め立ては地元の商人、高島嘉右衛門が工事を請負、土地を管理したので敬意を表して今でも「高島町」と呼ばれている。また、鶴見川、六郷川(多摩川)の橋は最初木造で作られたが木造では傷みが激しく、後に鉄橋に改められ、2代目六郷川橋(初代鉄橋)が愛知明治村に保存されている。

横浜停車場は現桜木町駅付近であったが、これは野毛外人居留地や港に近いという理由から選ばれたと思われる。新橋停車場は現汐留であるが、東京の入口であり、築地外人居留地に近いという理由もあるが、それよりも東京の中心に異様なものが進入するのを嫌った勢力や軍部が用地を提供しなかったという理由もあった。

1871年9月(明治4年8月)には、早くも木戸孝允や大隈重信、後藤象二郎や三条実美らが神奈川(現京浜急行神奈川駅付近と思われる。)-横浜停留場間を試乗。
そして同年11月には大久保利通も試乗。大久保は鉄道反対派であったが「百聞は一見に如かず。愉快に堪えず」と日記に記し一転して鉄道支持派になり、政府首脳の間にも鉄道の利便性が理解され始めた。

1871年11月(明治4年10月)には六郷川橋梁が完成し品川まで運転が開始された。
このころにはすでに時刻表で運転が定期的にくまれており、岩倉具視を団長とする「遣欧米使節団」一行100余名も臨時列車で品川から横浜まで利用している。
この列車は「品川仕立十一ジ二十分出行」であり「於川崎而蒸気行替五分避行」とあり横浜には12時40分に到着。所要1時間20分と、(同区間は仮営業時は40分)随分時間がかかっているのは、工事中ということもあり徐行しながら走ったのであろう。

品川-横浜間仮営業開始

1872年6月12日(明治5年5月7日)から品川-横浜間で仮営業が行われるようになり、陸蒸気の試運転を弁当持参で見物していた庶民も、お金さえはらえば平等に乗れるようになった。このお金さえ払えば身分の隔たりもなく無差別平等に汽車に乗れるということが、まさに新しい社会の到来であった。

仮営業当日は、所要35分で1日2往復。しかし翌日からは6往復となり、7月10日には川崎・神奈川の途中駅が開業し所要40分で運転が行われた。運転本数を増やしても平均乗車率は80%を越しておりかなりの人気であった。

仮営業中の1872年8月15日(明治5年7月12日)には
明治天皇が風波のために座乗する軍艦が品川に入港できなくなり急遽横浜から汽車に乗り品川から宮城に向かうという予定外の事件があった。
また箱根離宮の帰りに 
皇后(のちの昭憲皇太后)が横浜-品川間を利用しているということから、仮営業であっても
天皇・皇后の利用しており、汽車の安全性も認められ、あとはいよいよ本開業をまつばかりであった。

しかし品川-新橋の間には、高輪の台地がせまっており、また陸軍・海軍用地が多いため工事が難航。大隈重信はついには品川-新橋間を築堤し海のなかに線路用地を確保するという荒技をとることとなる。
海岸付近を通る路線のうち田町から品川までの約2.7kmには海軍の用地を避けるため約6.4mの幅の堤を建設して線路を敷設し、これが高輪築堤となる。高輪築堤の工事は1870年に着工し両側は石垣、船が通る箇所4か所には水路が作られた。

新橋-横浜間開業

1872年10月14日(明治5年9月12日) 新橋駅-横浜駅が正式開業。
新橋駅で式典が催され、明治天皇と建設関係者を乗せたお召し列車が横浜まで往復運転を実施した。
正式開業時の列車本数は日9往復、全線所要時間は53分、表定速度は32.8km/h。

開業当時の「1号機関車」は鉄道博物館、「3号機関車」は桜木町駅新南口に保存・展示されている。
また「1号機関車」は『南蛮阿房列車』に代表されるように大の鉄道好きで知られる阿川弘之先生が書いた、絵本「きかんしゃやえもん」のモデルとなった機関車でもある。

正式開業日を記念して、1922年(大正11年)に10月14日は「鉄道記念日」となった。
そして1994年(平成6年)には運輸省により「鉄道の日」と改称された。


新橋停車場
鉄道歴史展示室(旧新橋停車場)

旧新橋停車場駅舎の再現に合わせて、2003年(平成15年)4月10日開館。

https://www.ejrcf.or.jp/shinbashi/

駅舎玄関遺構
ここに残されているのは、正面玄関の階段の最下段として使われていた切石です。正面玄関の階段は9段あったことが当時の写真から分かっています。

旧新橋停車場
この建物は、1872(明治5)年10月14日(太陽暦)に開業した日本最初の鉄道ターミナル新橋停車場の駅舎の外観を、当時と同じ位置にできるだけ忠実に再現したものです。新橋停車場駅舎は、アメリカ人R・P・プリジェンスの設計により、1871(明治4)年5月に着工、同年12月に完成し、西洋建築がまだ珍しかった時代の東京で、鉄道開業直後に西洋風に整備された銀座通りに向かって、偉容を誇っていました。1914(大正3)年、新設の東京駅に旅客ターミナルの機能が移り、それまでの烏森駅が新橋の名を引き継いで現在の新橋駅となり、貨物専用駅となった旧駅は汐留駅と改称、物流の大拠点として戦前戦後を通じて東京の経済活動を支えました。文明開化の象徴として親しまれた旧駅舎は、1923(大正12)年9月1日の関東大震災に際して火災のため焼失し、1934(昭和9)年から始まった汐留駅改良工事のため、残存していたプラットホームや構内の諸施設も解体されました。1986(昭和61)年、汐留駅はその使命を終えて廃止され、跡地の再開発工事に先立つ埋蔵文化財発掘調査が1991(平成3)年から行われた結果、旧新橋停車場駅舎とプラットホームなど構内の諸施設の礎石が発掘されました。1996(平成8)年12月10日、駅舎とプラットホームの一部の遺構が史跡「旧新橋停車場跡」として国の指定を受け、この史跡を保護しつつわが国鉄道発祥の往時を偲ぶために、駅舎を再建することになったものです。

プラットホーム構造
プラットホームは「盛土式石積」という構造で作られています。両側面の真下には溝状に地面を掘って基礎石を敷詰め、その上に切石を石垣のように積んで土留め壁が作られ、内側には土が詰められました。基礎石には龍野藩脇坂家・仙台藩伊達家両屋敷の礎石などが使われました。切石は笠石を含めて6段あり、地表には笠石を含めた上3段が出ていました。最下段部分は小口面を揃えて横に並ばせ、2段目から小口面と長手面を交互に並べて積んでいます。ただし、一律的に小口面と長手面が交互になっているわけではなく2・3段目では小口面が続く箇所もあり、4・5段目では長手面が並ぶ箇所もあります。

日本の鉄道発祥の地

0哩(ゼロマイル)標識
1870年4月25日(明治3年3月25日)、測量の起点となる第一杭がこの場所に打ち込まれました。1936(昭和11)年に日本の鉄道発祥の地 として0哩標識と約3mの軌道を復元しました。1958(昭和33)年10月14日、旧国鉄によって「0哩標識は鉄道記念物に指定され、1965(昭和40)年5月12日、「旧新橋横浜間鉄道創設起点跡」として国の指定史跡に認定されました。

創業時の線路
創業当時、枕木やレールの台座(チェアー)は恋しや砂の混じった土を被せられ、レールの頭だけが地上に出ていました。レール断面は上下対象のI型で、双頭レールといいます。この復元軌道の半分は小石を被せて当時に近い状態を再現し、乗ろこの枕木や台座が見えるようにしました。双頭レールは錬鉄製で、1873年イギリスのダーリントンで作られ、官設鉄道で使われた跡、新潟柏崎市の製油所で使われたもので、新日本石油株式会社、新日本石油加工株式会社の両方から寄贈いただきました。

場所

https://goo.gl/maps/1y4XYSvUQ2iYCyw86

旧新橋停車場から新橋駅へ


JR新橋駅

足元で鉄道発祥を物語る。
1号機関車や初代新橋駅の写真などを。


鉄道唱歌の碑

新橋駅の汐留口側に鉄道唱歌の碑が建立されている。

これは、大和田建樹の生誕100周年と鉄道開業85周年に当たる1957年(昭和32年)、大和田の門弟らが結成した同人「待宵舎」が記念碑の建立を発案史建立されたもの。
大和田の生涯を記す碑文は、彼と同郷で鉄道唱歌の全歌詞を暗誦できたという安倍能成が揮毫している。

汽笛一声新橋を  
はや我が汽車は離れたり
愛宕の山に入りのこる
月を旅路の友として

鉄道唱歌の碑
鉄道唱歌の作者大和田建樹先生は安政四年(一八五七)四月廿九日愛媛縣宇和島に生まる
幼少國漢文に親しみ十五歳以後特に國学に志した
明治七年十八歳の秋上京遊学十七年東京大学講師翌年高等師範学校教授廿四年辞任
爾来又官仕せず門を開いて歌文を教え地方に出講し行餘謡曲能舞を嗜む
学は漢洋に亘り著述は辞典註釋詩歌随筆等百五十冊を越えたが丗三年鉄道唱歌東海道山陽九州奥州線磐城線北陸地方關西参宮南海各線の五冊を連刊就中汽笛一聲新橋をの一句に始まる東海道の部は普く卋に流布して津々浦々に歌われ鉄道交通の普及宣傳に絶大の貢献をなした
先生明治四十三年十月一日に歿す享年五十四
今年恰も生誕百年に當って先生の遺弟待宵舎同人の發起により東海道鉄道唱歌にゆかり深い新橋驛構内に碑を建て永く先生を記念する 
昭和三十二年十月 安倍能成

記念碑上部には第1号機関車の模型。

鉄道唱歌は、大和田建樹が作詞をし、多梅稚と上真行が作曲をし、明治33年(1900年)5月10日に第1集東海道篇が発行されたことに始まる。全5集・334番。のちに発見された北海道編を追加し、全6集・374番ともいう。

第1集東海道篇
1.汽笛一声新橋を  はや我が汽車は離れたり
    愛宕の山に入りのこる  月を旅路の友として
2.右は高輪泉岳寺  四十七士の墓どころ
    雪は消えても消えのこる  名は千載の後までも
3.窓より近く品川の  台場も見えて波白く
    海のあなたにうすがすむ  山は上総か房州か
4.梅に名をえし大森の  すぐれば早も川崎の
    大師河原は程ちかし  急げや電気の道すぐに
5.鶴見神奈川あとにして  ゆけば横浜ステーショ
    港をみれば百船の  煙は空をこがすまで

D51機関車の動輪
D51 形機関車は1936年(昭和11年)に誕生した機関車です。10年間で1,115両と、日本のSLでは一形式で最多の両数が製造され、戦前・戦後を通じて全国各地で、主に貨物用として活躍しました。「デゴイチ」などの愛称で親しまれ、蒸気機関車の代名詞にもなり、1975年(昭和50年)のSL最後の運転まで重用され、使命を全うしました。展示されている動輪は、1976年(昭和51年)の総武・横須賀線乗り入れ記念として、北海道の札幌鉄道管理局から譲り受け、鉄道発祥の地である新橋駅 に設置したものです。

鉄道唱歌の碑
1957年(昭和32年)10月4日の鉄道開通85周年記念日に鉄道唱歌 の作詞家、大和田建樹生誕100年を記念して新橋駅に建立されました。鉄道唱歌は、長い間私たちのために働いた鉄道を讃えるだけでなく、明治時代の文学者大和田建樹 自身が実際に汽車に乗ってつぶさに日本国内を旅行した見聞録です。

場所

https://goo.gl/maps/DyqHHBimyQgkW1yHA


新橋SL広場

C11 292号
昭和20年2月11日、日本車輛株式会社製。

戦時型蒸気機関車として、誕生後すぐ山陽本線の姫路機関区に配属となり、中国地方のローカル線、播担線や姫新線などを走行。走行距離は108万3975km。
最初から最後まで一つの機関区にいた珍しい機関車。
昭和47年10月14日に鉄道100年記念して設置。


愛の像

昭和51年 東京新橋ライオンズクラブ 寄贈。
寄贈時より30年間、広場中央に位置した噴水に設置されていましたが、平成18年の広場改修工事に伴い、現在の機関車先頭部へと移動。
愛の像は「平和をモチーフとする母子のブロンズ像」とも呼ばれ、東京新橋ライオンズクラブが20周年事業として、この像を可愛がって頂き、新橋駅に集う人々に温かい愛を育ててもらえる様、願いを込めて寄贈された像。

場所

https://goo.gl/maps/oBGFGKro8Fw7GBrK8


高輪ゲートウェイ駅~おばけトンネル

高輪ゲートウェイ駅から、おばけトンネルへと歩いてみる。いまならば、高輪築堤の跡もちらりと見えるらしいので。

おばけトンネル入口

すでに車は通行止めとなり、歩行者と自転車のみの通行となっていました。(2020年4月12日から車両通行禁止)

高輪築堤

途中、石垣が見えました。

高輪築堤の石垣ですね。一般公開以外でも垣間見れるのは、ちょっと得した気分。
水が溜まっていると、更に「らしく」なる。


高輪橋架道橋下区道
おばけトンネル

仮設通路から、トンネル部分に。

タクシーの行灯が擦られたという、無数の天井こすり跡を残すガード下トンネル。

ガードを抜けると芝浦地区となるが、ここから駅に戻るのは難儀なので、来たガードを戻ることにする。

場所

https://goo.gl/maps/Dwny78v9vxhbL88P7

高輪ゲートウェイ駅からも、高輪築堤の姿を見ることができる。

今回、高輪ゲートウェイ駅は初めて降りました。

※2021年7月撮影


関連

「鉄道紀行文学の御三家」内田百閒・阿川弘之・宮脇俊三の墓

近代化とともに発展してきた鉄道。そんな鉄道を舞台とした旅物語を作家たちが綴り、そして鉄道紀行文学が確立された。

日本の近代を鉄道を介して旅してきた日本を代表する御三家の墓詣でを。

合掌。


内田百閒(うちだ ひゃっけん)

本名は内田榮造。
1889年〈明治22年〉5月29日 – 1971年〈昭和46年〉4月20日。
別号は百鬼園(ひゃっきえん)。

夏目漱石門下生。 東京帝国大学独文科卒。
1916年(大正5年)、陸軍士官学校ドイツ語学教授に任官(陸軍教授高等官八等)
1918年(大正7年)、海軍機関学校英語学教官であった芥川龍之介の推薦により、海軍機関学校のドイツ語学兼務教官嘱託となる。
1920年(大正9年)、法政大学教授(予科独逸語部)に就任。
1923年(大正12年)、陸軍砲工学校附陸軍教授に任官。
しかし、同年に関東大震災に罹災。海軍機関学校も崩壊焼失したため、嘱託教官解任。1925年(大正14年)陸軍士官学校教授を辞任、陸軍砲工学校教授依願免官。
1929年(昭和4年)、法政大学航空研究会会長に就任、航空部長として、学生の操縦による青年日本号訪欧飛行を計画・実現。
1934年(昭和9年)、いわゆる「法政騒動」を機に法政大教授を辞職。
以後、本格的に文筆業に専念。

1922年(大正11年)、処女作品集『冥途』刊行。
1933年(昭和8年)、随筆集『百鬼園随筆』刊行。
1939年(昭和14年)、日本郵船嘱託。
1945年(昭和20年)、東京大空襲により自宅焼失。
1950年(昭和25年)、大阪へ一泊旅行。これをもとに随筆「特別阿房列車」を執筆、以後『阿房列車』としてシリーズ化し戦後の代表作となる。
1952年(昭和27年)、鉄道開業80周年を記念して,東京駅一日駅長に就任。
1957年(昭和32年)、愛猫「ノラ」が失踪。『ノラや』をはじめとする随筆を執筆。
1970年(昭和45年)、最後の百鬼園随筆である「猫が口を利いた」発表。これが絶筆となる。
1971年(昭和46年)4月20日、東京の自宅で老衰により死去、享年81歳。

代表作
『冥途』1922年2月
『百鬼園随筆』1933年10月
『旅順入城式』1934年2月
『贋作 吾輩は猫である』1950年4月
『阿房列車』1952年6月
『禁客寺』1954年10月
『東京焼盡』1955年4月
『ノラや』1957年12月
『クルやお前か』1963年7月
『日没閉門』1971年4月

映画
『まあだだよ』(1993年、大映、監督:黒澤明、主演:松村達雄)
百閒と法政大学教授当時の教え子の交流を描いた作品。
毎年百閒の誕生日である5月29日に「摩阿陀会(まあだかい)」という誕生パーティーが開かれていた。摩阿陀会の名は、「百閒先生の還暦はもう祝ってやった。それなのにまだ死なないのか」、即ち「まあだかい」に由来する。

阿房列車
『阿房列車』に代表されるように大の鉄道好きの知られ、酒宴では「鉄道唱歌」を熱唱することでも知られていた内田百閒。
全く無目的に、ただひたすら大好きな汽車に乗るためだけの旅を実行、それを『阿房列車』という鉄道紀行シリーズにまとめた。

「なんにも用事はないけれども、汽車に乗って大阪に行つて来ようと思ふ。用事がないのに出かけるのだから三等や二等には乗りたくない。汽車の中では一等が一番いい。これからは一等でなければ乗らないときめた。そうきめても、お金がなくて用事が出来れば止むを得ないから、三等に乗るかも知れない。しかしどっちつかずの曖昧な二等には乗りたくない。…今度は用事はないし、だから一等車で出かけようと思ふ。…行く時は用事はないけれども、向こうに著いたら、著きつ放しと云ふわけには行かないので、必ず帰って来なければならないから…さう云ふ用事のある旅行なら、…三等で帰ってこようと思ふ。」(内田百閒「特別阿房列車」)

大手饅頭
岡山出身の内田百閒は郷里の名物、大手饅頭伊部屋「大手まんぢゅう」をこよなく愛していた。
「私は今でも大手饅頭の夢を見る。つひこなひだの晩も同じ夢を見たばかりである。東京で年を取つた半生の内に何十遍大手饅頭の夢を見たか解らない。」(古里を思ふ)と随筆し、そして大手まんぢゅうになら「押しつぶされてもいい」とまで書いている。

大手饅頭伊部屋
https://www.ohtemanjyu.co.jp/

大手まんぢゅう、たまに食べたくなるです。。。


内田榮造之墓(内田百閒の墓)

内田百閒の墓は、東京都中野区の金剛寺と、岡山県の安住院にある。
今回は中野区金剛寺のお墓を参拝。

内田榮造之墓

本名が刻まれている。

側面には戒名。

覺絃院殿随翁榮道居士
昭和四十六年四月廿日没 行年八十三歳

背面には建立日、そして摩阿陀會。

昭和四十八年四月廿日之建 摩阿陀會

内田百閒の家紋は、「丸に剣片喰」

木蓮や塀の外吹く俄風 百間

内田百閒没2年後の1973年(昭和48年)には、摩阿陀会有志により墓の脇に句碑「木蓮や塀の外吹く俄風」が建立。
この句碑から、忌日の4月20日を木蓮忌とも言われている。

内田百閒の最初の妻は、中学時代の親友であった堀野寛の妹、堀野清子であった。内田百閒40歳の頃(昭和4年・1929年)に家族と別居し合羽坂に転居した際に、佐藤こひと同居。愛人でもあった。
昭和39年(1964)に、妻・清子が72歳で死去。翌年、75歳だった内田百閒は、佐藤こひと入籍している。そうして、内田こひは内田百閒の隣の墓で眠っている。

内田こひ、昭和62年8月5日没 行年80歳。

なお、内田百閒の最初の妻であった清子夫人は、内田百閒の岡山の墓で一緒に眠っている。

場所は金剛寺の奥にある金剛寺墓所。寺院とは離れた場所なので、ちょっとわかりにくい。駅からちょっと遠い。

https://goo.gl/maps/V8vs88FmtjM9tZVp6

サイト内で内田百閒に関連する記事。


夏目漱石の弟子であった内田百閒は、師を敬愛し「贋作」を書いた。
『贋作吾輩は猫である』
阿川弘之は、鉄道好き作家であった内田百閒に敬意を評して、阿房列車を再び走らせた。
『南蛮阿房列車』

阿川弘之

1920(大正9年)12月24日-2015(平成27年)8月3日
94歳没

東京帝国大学文学部国文学科を繰り上げ卒業し、1942年(昭和17年)9月に海軍予備学生として海軍入隊。
1943年(昭和18年)8月に海軍少尉任官、軍令部勤務。大学在学中に中国語の単位を取得していたことから対中国の防諜担当班に配属される。
1944年、海軍中尉に進級し、8月に支那方面艦隊司令部附となる。
1945年8月15日の終戦は中国大陸で迎える。終戦に伴う進級で阿川弘之は海軍大尉となる。いわゆる「ポツダム大尉」。
1946年(昭和21年)2月、復員。

戦後は、志賀直哉に師事して小説家となる。

代表作は、
予備学生の特攻を描いた「雲の墓標」
海軍提督三部作「山本五十六」「米内光政」「井上成美」
海軍のシンボルであった戦艦の姿を描いた「軍艦長門の生涯」
志賀直哉最後の弟子として師匠を伝記した「志賀直哉」
鉄道物として絵本「きかんしゃ やえもん」の原作
内田百閒に薫陶を受けた「南蛮阿房列車」など、
戦記文学・記録文学・紀行文学・随筆など多数の作品を残す。

広島県名誉県民・日本芸術院会員・日本李登輝友の会名誉会長・文化勲章受章。

南蛮阿房列車
鉄道好き作家としても知られる阿川弘之は、内田百閒を敬愛していた。

「お目にかかったことは無いが、内田百閒先生に私は敬愛の念を持っている。理由はいろいろあるけれども、その一つは百閒先生が非常な汽車好きだからで、小説家の中で汽車のことに異常な関心を持っているのは、百閒老先生を除いては、おそらく自分一人だろうという、いわばそういう親愛感である。」(お早く御乗車ねがいます・昭和33年)

「内田百閒先生が最初の阿房列車に筆を染められてから四半世紀の時が経ち、亡くなられてからでもすでに五年になるが、あの衣鉢を継ごうという人が誰もあらわれない。年来私はひそかに心を動かしていたが、我流汽車物語は贋作でないまでも、少しく不遜なような気がして、なかなか実行に移せなかった。
生前、お近づきは得なかったが泉下の百鬼園先生に、貴君、僕も『贋作吾輩は猫である』なる作物がある。二代目阿房列車が運転したければ、運転しても構わないよと言われているような気がしないでもない。」(南蛮阿房列車・昭和52年)


阿川弘之の墓(阿川家之墓)

北鎌倉の浄智寺に阿川弘之は眠る。

阿川家之墓

阿川弘之

場所

https://goo.gl/maps/aCUioiPJdfZsKvVc9

阿川弘之さんのお別れ会(以下のサイトで様子が詳細に記載されている)

http://home.r07.itscom.net/miyazaki/bunya/owakarekai.htm

サイト内で阿川弘之に関連する記事。


内田百閒と阿川弘之が確立した鉄道紀行を文学として高めたのが宮脇俊三であった。
編集者として阿川弘之と親交も深かった。

宮脇俊三

1926年12月9日 – 2003年2月26日。76歳没。
編集者、紀行作家。元中央公論社常務取締役。
阿川弘之の『お早くご乗車願います』担当編集なども務める。

父は宮脇長吉。
宮脇長吉は陸軍航空兵大佐を最後に衆議院議員となる。
1938年の帝国議会では、国家総動員法の委員会審議で横柄な演説をした説明員の佐藤賢了陸軍中佐に対して野次を飛ばし、佐藤に「黙れ!」と怒鳴られるという事件が起きた(黙れ事件)。佐藤賢了は陸軍時代の教え子であった。

宮脇俊三は、1945年(昭和20年)、東京帝国大学理学部地質学科に入学。父である宮脇長吉は軍需工場の経営なども行っており、ちょうど東京から山形に父親と共に鉄道で移動している最中、8月15日正午、米坂線今泉駅前で玉音放送を拝聴する。
戦後、東京大学文学部西洋史学科に入学し、1951年(昭和26年) 東京大学文学部西洋史学科卒業。中央公論社(現在の中央公論新社)に入社。
中央公論では「婦人公論」編集長、また「世界の歴史」シリーズ、「日本の歴史」シリーズ、「中公新書」などにも関わる。
1978年(昭和53年)6月30日 常務取締役編集局長を最後に中央公論社を退社。
1999年(平成11年)気力・体力に限界を感じ、休筆を宣言。
2003年(平成15年)2月26日、肺炎のため没する。享年76。戒名「鉄道院周遊俊妙居士」。宮脇俊三の命日は「周遊忌」と称されている。

代表作
時刻表2万キロ(1978年7月10日)
最長片道切符の旅(1979年10月)
時刻表昭和史(1980年7月)
終着駅は始発駅(1982年8月)
殺意の風景(1985年4月)

時刻表昭和史
「正午直前になると、「しばらく軍管区情報を中断します」との放送があり、つづいて時報が鳴った。私たちは姿勢を正し、頭を垂れた。固唾を呑んでいると、雑音の中から
「君が代」が流れてきた。
天皇の放送がはじまった。雑音がひどく聞き取りにくく、難解であった。けれども、「敵は残虐なる爆弾を使用し」とか「忍び難きを忍び」という生きた言葉は、なまなましく伝わってきた。放送が終っても、人びとは黙ったまま棒のように立っていた。ラジオの前を離れてよいかどうか迷っているようでもあった。目まいがするような真夏の蝉しぐれの正午であった。
時は止まっていたが汽車は走っていた。 
まもなく女子の改札係が坂町行が来ると告げた。父と私は今泉駅のホームに立って、米沢発坂町行の米坂線の列車が入ってくるのを待った。こんなときでも汽車が走るのか、私は信じられない思いがしていた。 
けれども、坂町行109列車は入ってきた。
いつもと同じ蒸気機関車が、動輪の間からホームに蒸気を吹きつけながら、何事もなかったかのように進入してきた。
機関士も助士も、たしかに乗っていて、いつものように助役からタブレットの輪を受けとっていた。機関士たちは天皇の放送を聞かなかったのだろうか。あの放送は全国民が聞かねばならなかったはずだが、と私は思った。
昭和二〇年八月一五日正午という、予告された歴史的時刻を無視して、日本の汽車は時刻表通りに走っていたのである。」 (時刻表昭和史)


宮脇俊三の墓(宮脇家の墓)

青山霊園に眠る。
父親である宮脇長吉も同じ墓。

宮脇家之墓

鉄道院周遊俊妙居士
平成15年2月26日去
宮脇俊三 76歳

宮脇俊三が愛していた「大井川鉄道の関の沢鉄橋」が刻まれた記念碑

終着駅は始発駅

 宮脇俊三
  鉄道院周遊俊妙居士

場所は、青山霊園1種ロ7号15側2番 

https://goo.gl/maps/rDViBcS6jTRwAt6T6


関連

太宰治ゆかりの三鷹陸橋(三鷹こ線人道橋)

2021年9月、JR東日本と三鷹市との協議で解体撤去されることが決定した。。。
解体時期はまだ決まっていないというが、解体される前に足を運んでみた。


三鷹陸橋(三鷹跨線橋・三鷹跨線人道橋)

昭和4年(1929)、人びとの往来を確保するために中央線と三鷹車両センターを南北に横断する跨線橋が設置された跨線橋。
全長93メートル、幅約3メートル、高さ約5メートル。
太宰治(1909-1948)ゆかりのスポット、でもあった。

三鷹こ線人道橋の今後の取り扱いについて
      作成・発信部署:都市整備部 道路管理課
      公開日:2021年9月7日 最終更新日:2021年9月7日

 三鷹こ線人道橋(以下「こ線橋」という。)については、旧三鷹電車庫建設に伴い当時の鉄道省が昭和4年に設置し、鉄道省から国鉄を経て東日本旅客鉄道株式会社(以下「JR東日本」という。)が継承、以来JR東日本が維持管理してきました。しかし、こ線橋は鉄道事業施設としてではなく、実質生活道路として利用され、公共的施設として管理されることが相応しいとの見解から、JR東日本から無償譲渡の申し入れがありました。これまでの間、市民の皆様や市議会の思い等から、現状のままで存続する方法がないか模索してきましたが、2021年6月にJR東日本より、こ線橋は建設後長期間経過するとともに、耐震性能が現在の基準を満たしておらず、利用者や鉄道の安全安定輸送に支障をきたすことが想定されること、また、こ線橋の代替施設として堀合地下道があることから、撤去することで進めるとの見解が示されました。市としては、耐震性能に課題のあるこ線橋の譲渡を受けたとしても大規模な改修(耐震補強)及びメンテナンスに多額の費用が必要となること、改修により文化的価値が損なわれる可能性が高いことなどから譲り受けることは困難と判断し、耐震性能が現在の基準を満たしていないこ線橋の存続により、万が一の災害の際に利用者や鉄道の安全安定輸送に支障をきたすことも考えられるため、JR東日本の判断を受け入れることとしました。なお、こ線橋は三鷹ゆかりの文学者で世界的に有名な太宰治が好んだ場所として文化的価値が高く、市民に人気のある施設であることから、今後はJR東日本と連携し、こ線橋の一部を譲り受けて保存や映像・画像等での記録など、記憶と記録を残す取り組みを行っていきます。

三鷹市 https://www.city.mitaka.lg.jp/c_service/093/093254.html

北側の一部のみ、再塗装が施されているが、大部分は錆色。

通行される皆様へ
この三鷹こ線人道橋は、JR東日本が管理している橋です。
1929年(昭和4年)に古い設計基準で建設されています。このため、
地震等の災害発生時には通行禁止となりますので
他の道路へ迂回していただくようにお願いします。

迂回の道路につきましては、三鷹駅寄り「堀合地下道」を利用ください。
なお、今後、老朽化等により通行できなくなる場合があります。
ご理解とご協力をお願いします。
 東日本旅客鉄道 八王子支社

太宰が生きたまち
三鷹

太宰ゆかりの場所
陸橋(跨線橋)

中央線の上にかかる陸協に友人を案内することもありました。
この陸橋は、1929(昭和4)年に竣工した当時の姿を今も留めています。
 三鷹市

跨線橋の様子を記録してみる。

北側は、道路もまたぐように跨線橋が伸びている。
北側の階段部分及び道路の上あたりまで、再塗装が施されており、きれいな緑色であるが、線路側の大部分は錆びるに任せた状態。

南側。
北側よりも緊張感がある石段は、やはり再塗装されていないがゆえに老朽化を感じさせる状態だからだろうか。

石段の所々は、破損している。鉄筋も露出している。

三鷹市が設置した太宰治の案内板は南側に設置されている。

場所

https://goo.gl/maps/pGhCg8Xatikdmg6f8

跨線橋と三鷹駅の間には、堀合地下道が設置されている。跨線橋が撤去された場合の代替の南北横断通路。


三鷹は太宰治が居住をしていた街。三鷹を流れる玉川上水に入水自殺をし、墓も三鷹の禅林寺にある。

太宰治の墓

場所

https://goo.gl/maps/8chNdhXqFSzBCM5j6

三鷹の禅林寺には、森鴎外の墓もある。また、三鷹事件の慰霊碑もある。


太宰治ゆかりの「さるすべり」

太宰治旧宅に植えられていた「玄関前の百日紅(おさん)」が三鷹市平和通りの井心亭の庭に移植されている。

場所

https://goo.gl/maps/8r7zStkTxoAjb7Yw9

実は、太宰治の邸宅があった通りには、阿南惟幾陸軍大将宅もあったが、その話は別記事にて。

三鷹には、太宰治ゆかりの場所が多い。跨線橋とあわせ、史跡散策・文学散策をしてみるのも良さそうです。

※撮影は2021年9月

日本初の田園都市・田園調布の玄関口「旧田園調布駅舎」

「田園調布」
日本を代表する高級住宅街は、渋沢栄一の理想とした田園都市でもあった。


田園調布

田園調布は、1918年(大正7年)に渋沢栄一らによって立ち上げられた『理想的な住宅地「田園都市」の開発』を目的とする田園都市株式会社により主に開発され、1923年(大正12年)8月から分譲された地域であった。

渋沢栄一はイギリスで提唱された田園都市構想を理想とし模範的な住宅街を開発。
田園調布駅前広場を中心に放射状に延びる街路は、当時のヨーロッパの都市に見られた特徴をそのまま取り入れたものであった。渋沢栄一の四男であった渋沢秀雄が、日本の田園都市建設の参考とするために、大正8年(1919)に欧州11カ国を視察し住宅事情を学び、帰国後に田園都市株式会社に取締役として入社。
「田園調布」開発へとつながった。

田園調布の由来
この広場を中心とする凡そ八十万平米の地域は、明治文化の先駆者渋沢栄一翁が、我国将来の国民生活の改善の為に、当時漸く英米に現われ始めた「田園都市」に着目して都会と田園との長所を兼ねた模範的住宅を実現させようと念願して、既にあらゆる公的関係から退かれた後であるにも関らず自ら老躯を運んで親しく土地を選定された所であります。
 その目的の為に大正七年、田園都市株式会社が創設されて、翁の理想に共感する人々に土地の分譲を行ない、我国最初の近代的大計画都市が実現しました。そして居住者による社団法人が生まれました。
 この都市全体を一つの公園のように明るく美しいものにする為、建築その他に関し色々な申し合せを固く守り殊に道路との境界には一切土塀板塀などを設けず、花壇か生け垣の低いものの程度にすることなどを、厳格に実行しました。その協力の結果、この明るい住宅地と楽しい散策地が生まれたのであります。
 大正十一年には同社の姉妹会社として目黒蒲田電鉄が創立され大正二年三月、当時荏原郡調布村であった当地に調布という駅が設けられ間もなく田園調布という駅名に改められました。その後この地区が東京市に編入された際、町名改正がおこなせれて当都市のみならず周辺の町村をもひろく含めて田園調布と呼ぶこととなりました。その折当会の地域は頭初の田園都市の約三分の二となり、他の三分の一は、世田谷区玉川田園調布となりました。
 ここに明るく住む方々も、ここを来し訪れる方々も、渋沢翁が永くここに栄えてゆくようにこの田園都市を愛護して下さるようお願い致します。
 昭和三十四年秋
 社団法人 田園調布会 会長 矢野一郎

田園調布駅前、放射状の起点となる西口広場に由来を記した石碑が建立されている。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:C50-C2-29
昭和16年(1941年)4月2日、日本陸軍撮影の航空写真を一部加工。

上記写真を加工。

現在の様子。GoogleMap航空写真

田園調布駅から西側には、同心円状のエトワール型(パリの凱旋門周辺と同型)の道路と街路樹、広場、公園が設けられている。


旧田園調布駅舎

1923年(大正12年)3月11日
 目黒蒲田電鉄の開通と同時に開業。開業当時の駅名は「調布駅」であった。
1926年(大正15年)1月1日
 駅名を「田園調布駅」に改称。
1990年(平成2年)9月4日
 田園調布駅地下化のため、旧駅舎解体。
2000年(平成12年)1月15日
 旧駅舎を田園調布駅のシンボルとして復元(駅舎としては使用せず)。

旧田園調布駅舎設計者は神宮外苑の絵画館や上高地帝国ホテル、伊豆の川奈ホテルなどを設計した矢部金太郎。
特徴的な屋根の形はマンサード・ルーフという欧州中世紀の民家がモデルになっているという。

田園調布を造成した田園都市会社は、東急電鉄目蒲線前身である目黒蒲田電鉄の母体会社でもあった。

※撮影2021年5月


関連

板橋の田園調布

田園調布の南側は多摩川

「田園調布」と「調布」は、ちょっと違う。。。

渋沢栄一関係

はじめに

新河岸川橋梁に残る弾痕修復の名残?(北区)

鉄道と軍隊は、切っても切れない重要な関係にあった。
そのため日本の動脈である鉄道は、戦時中は幾多の危険を伴っていた。

新河岸川に架かる「新河岸橋梁」も、戦争をくぐり抜けた鉄道鉄橋の一つであった。

軍都・赤羽

東京と埼玉をの間に横たわっている荒川・新河岸川。
東北本線は赤羽と川口で南北に横断する。

荒川・新河岸川の南側は、陸軍の拠点として工兵部隊が展開されている「軍都・赤羽」であった。

赤羽台の戦跡散策

位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:893-C1-191
昭和19年(1944年)9月27日、日本陸軍撮影の航空写真を一部加工。

画像右上に鉄道橋が「2本」架かっているのがわかる。(現在の鉄道橋は「3本」)


新河岸川橋梁

東京都北区赤羽と埼玉県川口市舟戸町の間で、新河岸川に架かる「新河岸川橋梁」と荒川に架かる「荒川橋梁」が連なっている。
明治16年(1883)に初代橋梁が仮設として建設され、明治18年に初代橋梁が完成。
関東大震災後に2代目橋梁が企画され、貨客分離で2本目も増設された。

現在は3本の鉄道橋が並んでいる。
上流 貨物線 昭和2年(1927) → 東北貨物線・湘南新宿ライン
中央 列車線 昭和3年(1928) → 宇都宮線・高崎線。上野東京ライン
下流 電車線 昭和43年(1968)→ 京浜東北線

上流側から。
手前の2本は戦前の架橋。奥の1本(京浜東北線)は戦後の追加架橋。

平成25年(2013)11月17日(日)、上記写真の右側の護岸工事中に不発弾が見つかっている。

新河岸川整備事業(新河岸川護岸工事現場)では、新河岸川橋梁の間近にて不発弾(2,000ポンド爆弾/1トン爆弾)も見つかっていることから、米軍も戦略的に、この東京都埼、そして東北を結ぶ大動脈であった鉄道橋・新河岸橋梁をターゲットしていたこともわかる。

http://www.ukima.info/newslog/episolgo/form2/130724.pdf

上記PDFより不発弾発見場所

https://www.ktr.mlit.go.jp/arage/arage00271.html


新河岸川橋梁(貨物線)

新河岸川橋梁(貨物線)は、3つの橋のうち、一番古く昭和2年(1927)竣工。上流に位置している。

その新河岸橋梁の埼玉側(北側)に、戦争の爪痕があるというので足を運んでみました。

トラス橋の「端柱・橋門構」をみると、左右で異なっている。
北側から見て、左は「リベット結合」、右は板が追加され「溶接結合」がされていることがわかる。

この左右で異なっている理由が(真偽は不詳ではあるが)
「米軍機によるロケット弾により被弾損傷したものを修復した名残である」、とされている。

確定できるソース(原拠)に辿りついていないため、本記事の表題は「?」としました。

たしかに、右側と左側が異なっている。
端柱・橋門構の右側は補強修復されていることがわかる。

オリジナルの端柱はリベットのみ。

修復された端柱はオリジナルのリベットと、一部に板を追加された溶接となっている。

左 貨物線 昭和2年(1927) → 東北貨物線・湘南新宿ライン
中 列車線 昭和3年(1928) → 宇都宮線・高崎線。上野東京ライン
右 電車線 昭和43年(1968)→ 京浜東北線


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鶴見線大川支線第五橋梁に残る機銃掃射弾痕

JR鶴見線の大川支線。白河運河にかかる第五橋梁には、米戦闘機による機銃掃射の弾痕が今も残されている。

鶴見線国道駅にも機銃掃射の弾痕が残っているが、鶴見線大川支線の弾痕が同じ頃かどうかは不詳。


昭和17年4月18日、ドーリットル空襲において横浜・川崎地区でも初空襲を受けて以来、横浜は大小30回にも及ぶ空襲を受けてきたという。

昭和19年12月25日、B-29 による横浜地区、初空襲。

https://www.city.yokohama.lg.jp/city-info/yokohamashi/gaiyo/shishiryo/showa/digital-archives/daikushu/ks-nenpyou3.html

昭和20年4月4日、B-29 による川崎地区、初空襲。
そして4月15日にB-29爆撃機200機を超す編隊にて川崎を空襲。
「川崎大空襲」での死者は700人から1500人といわれている。

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/situation/state/kanto_22.html

昭和20年(1945)5月29日昼間、アメリカ軍はB-29爆撃機517機、P-51戦闘機101機という大編隊でもって横浜を空襲。約8000人から10000人という死者をだした。この「横浜大空襲」では、京急平沼駅が壊滅、神奈川県護國神社は焼失、している。

鶴見線大川支線は大正15年(1926)3月に鶴見臨海鉄道貨物線として開業。
大川支線の大川は、日本初の製紙技師としていくつもの製紙会社を興し、「製紙王」と呼ばれた大川平三郎に因んでいる。


鶴見線大川支線第五橋梁

機銃掃射の弾痕は、橋の南側の西向きに集中している。

南1枚目。

南2枚目。

南3枚目。

南4枚目。

ここだけ東側。

全体

全体

集中的に機銃掃射されたのがわかる。

鉄柱は昭和18年。

なんかいた。なんか座礁して廃船っぽい佇まい。
ANNIVERSARY CRUISE 海賊船アニバーサルクルーズ号らしい。。。

場所

https://goo.gl/maps/goRXZrNQKPkM5m846

鶴見線といえば。


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「ガラスのうさぎ像」二宮駅に残る機銃掃射弾痕(二宮町)

JR二宮駅南口のロータリーに「少女の像」が立っている。
ガラスのうさぎを手にした、少女の像は、戦争にまつわるエピソードがあった。

ガラスのうさぎ像

この像は太平洋戦争中、二宮町に縁故疎開していた童話作家高木敏子氏の体験記である『ガラスのうさぎ』をモチーフとして建てられたものである。
『ガラスのうさぎ』には終戦間近、父親が二宮駅で米軍機の機銃掃射を受けて死亡したために、ひとり取り残された少女と、少女に温かく接する町民の心情が描かれて童話。1977 年に金の星社から出版。ドラマ化や映画も作られ他作品。

ガラスのうさぎ像
設 置 1981 年(昭和 56 年)
製作者 圓鍔勝三氏(芸術院会員 昭和 55 年度神奈川文化賞受賞)

ガラスのうさぎ像
 太平洋戦争終結直前の昭和二十年八月五日
 ここ(国鉄)二宮駅周辺は艦載式P51 の機銃掃射を受け 幾人かの尊い生命がその犠牲と
なりました
 この時 目の前で父を失った十二歳の少女が その悲しみを乗り越え けなげに生き抜く姿を描いた戦争体験記「ガラスのうさぎ」は 国民の心に深い感動を呼び起こし 戦争の悲惨さを強く印象づけました
 この像は私たち二宮町民が 平和の尊さを後世に伝えるために また少女を優しく励ました人たちの友情をたたえるために 多くのご協力をいただき 建てたものです
 少女が胸に抱えているのは 父の形見となったガラスのうさぎです

 ここに平和と友情よ 永遠に

 昭和五十六年八月五日
 「ガラスのうさぎ」像を二宮駅に建てる会

このクスノキは、樹齢108年の大クスノキが腐朽したため新たに植栽された2代目のシンボルツリーです。
ガラスのうさぎ像とともに、クスノキも平和を見守っています。 二宮町


二宮駅

昭和20年8月5日。
二宮駅とその周辺は、アメリカ軍戦闘機P‐51の機銃掃射を受け、5 名の方が亡くなった。
『ガラスのうさぎ』の著書高木敏子氏の父親が亡くなったのもこの時であった。
P-51戦闘機は、十数機ほどが相模湾より侵入二宮上空で、ちょうど二宮駅に集まっていた乗客目掛けて、無差別に機銃掃射を行い、二宮駅及び周辺が被害を受けた。
終戦、10日前のことであった。

二宮駅の東側・大磯よりのホーム。
一部、屋根の形が異なり、ホームの両側に柱が立っている上家がある。
この部分が大正14年の建屋であり、梁の一部に、機銃掃射の銃撃痕が残っている。

建物財産標

旅客上家4号
大14年 月 日

上家の梁に幾多の銃撃痕が残されている。


機銃掃射の悲劇

二宮駅が機銃掃射を受けたのが、8月5日。
この日、襲来したP-51戦闘機の編隊は、各地の鉄道駅や列車を襲撃し続けている。
彼らにとって、一般市民が集っていても、それは軍事施設しか見えていなかった。

彼らは二宮駅や小田原駅・下曽我駅・国府津駅などに機銃掃射を加えながら、丹沢山地を抜け内陸部へと飛行を続けた。

そして、彼らは、八王子・浅川の上空に到達し、走っていた列車に機銃掃射を行った。

湯の花トンネル列車銃撃空襲

昭和20年8月5日
新宿発長野行419列車が浅川駅(現在の高尾駅)を出発し、湯の花(猪の鼻)トンネルに差し掛かった時、硫黄島から飛来したP‐51マスタングの銃撃を受け、52人が死亡、133名が重軽傷を負った。
列車への銃撃空襲としては日本最大級の被害であった。


参考

http://www.asahi.com/area/kanagawa/articles/MTW20120807150280001.html

http://www.town.ninomiya.kanagawa.jp/gyosei_jigyosha/gyosei/shokai/1471339461480.html


関連

「現存最古の地下鉄駅直結の民間建造物」明治屋京橋ビル


明治屋京橋ビル

東京都中央区京橋の「明治屋京橋ビル」
昭和8年(1933)建設。ルネサンス様式の優美な姿が特徴的。
設計者は曾禰中條建築事務所(曾禰達蔵と中條精一郎の共同事務所)

地下鉄の駅と一体化となって建設された民間建造物としては現存する最古の建造物。
地下鉄銀座線京橋駅改札(東京メトロ銀座線京橋駅7番出入口)と直結している。
中央区の有形文化財に指定。

京橋駅

昭和7年(1932年)12月24日、東京地下鉄道三越前駅 – 京橋駅間開業に伴い、終着駅として開業。
京橋駅建設費用の一部を、明治屋が負担している。


京橋駅ホーム


http://www.meidi-ya.co.jp/news/20150831.html

https://www.city.chuo.lg.jp/smph/kusei/syokai/tyuobunkazai/meijiyakyobashi.html


関連

明治屋ビルを設計した曾禰達蔵による建造物

講談社本館

地下鉄の父・早川徳次

板橋の田園調布「ときわ台駅」周辺散策

東京都板橋区常盤台。東武東上線「ときわ台駅」。
東急の「田園調布」、小田急の「成城学園」などの鉄道会社主体の住宅地造成ブームの中で、東武鉄道が手掛けた最初の本格的な住宅地開発が「ときわ台駅」であった。

そんな、開発当初の昭和の雰囲気を感じつつ散策してみました。


常盤台(ときわ台)

東上鉄道
大正3年に東上鉄道として開通した際は、「ときわ台駅」はまだ未開業であった。大正9年(1920)に東上鉄道は東武鉄道と対等合併し、「東武鉄道東上本線」となった。

西板線
合併後の東武鉄道は伊勢崎線などの本線系統と東上鉄道系統との接続を予定し、「西板線」の建設を計画。これは西新井駅と上板橋駅を結ぶ計画であった。しかし関東大震災の影響などもあり頓挫。西板線は、東武大師線として一部が開業。

前野飛行場
西板線の車両基地・操車場予定地として東武鉄道が買収していた用地は、昭和4年(1929)に前野飛行場(板橋飛行場・遠藤飛行場)として、退役軍人の遠藤辰五郎に貸し出され、東京市内などの遊覧飛行が行われていたが、東武鉄道が西板線計画を撤退し、常盤台住宅地として分譲をすることを決め、昭和8年頃に前野飛行場を廃止。

武蔵常盤駅
常盤台住宅地の分譲地への最寄り駅として、昭和10年(1935)10月20日、武蔵常盤駅として開業。
昭和11年より13年にかけて、「常盤台住宅地」として分譲開始。

常盤台住宅地「板橋の田園調布」
駅前ロータリーから放射状に道路が伸びており、大田区田園調布の町並みと比較されることが多い。
そのため「板橋の田園調布」などとも呼称される。
常盤台住宅地分譲の際、東武鉄道が当時の内務省都市計画課職員小宮賢一の設計を採用。地域を一周する並木道(プロムナード)、袋小路(クルドサック)、道路に沿った緑道(ロードベイ)を配置する設計を行い、日本では先駆的な事例となった。

ときわ台駅
昭和26年に武蔵常盤駅から、ときわ台駅に改称。


ときわ台駅

平成30年(2018)に、北口駅舎のリニューアル工事が完了し、昭和20年の開業時の姿で復元。
開業当時からある青色スペイン瓦の三角屋根や、その下に配された縦長の三連窓、大谷石の表面に幾何学的模様を凹凸で表現した壁面や大谷石貼りの柱脚などを残しつつ、開業当初の塗装色で塗り直しなどを行い、改札上部の欄間のデザインなども再現。

特徴的な三連窓。

昭和10年の開業当時から残る大谷石の壁面・柱脚。


ときわ台駅ギャラリースペース
武蔵常盤小径

常盤台住宅地に関連した11枚のパネルが提示してある。


1935(昭和10)年10月20日、ときわ台駅は「武蔵常盤駅」として産声を上げました。以来、80余年にわたり、地域の発展、そして、時代の浮沈みを感じながら、町のシンボルとして皆さまに愛され続けてまいりました。

このたび、駅舎のリニューアルを記念し、11面のパネルから成るギャラリースペースを設けました。特徴的な青瓦と大谷石、幾何学的意匠の目立つ「ときわ台駅」は、今後も地域のシンボルであり続けます。

なお、パネル製作にあたり、板橋区教育委員会、常盤台の景観を守る会、東武博物館より、貴重な資料を提供いただきましたことに感謝いたします。

平成30年5月
東武鉄道株式会社

常盤台住宅
常盤台住宅は、東武東上線で池袋から5つ目「ときわ台」駅の北側に広がる2万3千余坪の面積を持つ住宅地で、現在の常盤台1丁目、2丁目に当ります。東武鉄道株式会社によって昭和11年度から分譲されました。

街づくり
常盤台アーバンデザインの最大の特徴は、地区内を一周できる環状のプロムナード(散歩道)です。日本では珍しい曲線を多用した街路で、5か所に設けられたクルドサック(袋路)や、プロムナード沿いの3か所にロードベイも用意されました。 

常盤台住宅地建築内規
大正期から昭和戦前期までに開発された郊外住宅地の中には、住環境の保全対策を講じていたものが多くあります。常盤台住宅地にも住環境保全を謳った規制が存在しました。開発主体である東武鉄道が定めた「常盤台住宅地建築内規」です。昭和13年4月には成文化されています、以下にそれを要約します。
 (略)

常盤台住宅販売
(略)

思ひ出の建物

思ひ出の景色

思ひ出の駅

帝都幼稚園
帝都幼稚園付門柱 常盤台1丁目6番
板橋区登録有形文化財(建造物) 登録年月日 平成25年(2013)3月27日

 帝都幼稚園は、昭和11年(1936)に、常盤台住宅地の分譲開始に合わせ、元東京府豊島師範学校教諭で、音楽家であった山本正夫が、帝都学園女学校を開いたことに始まります。

 その後、昭和17年に財団法人帝都学園高等女学校の認可を受けましたが、同21年に起きた漏電事故により校舎の3分の2を焼失し、同26年に高等学校は廃止となりました(なお、その跡地には現在区立常盤台小学校が建っています)。その後は、帝都幼稚園として再出発し、現在にいたります。

 建物調査の結果、現在園舎として使われている建物は、昭和21年の焼失を免れた設立当時の「家事割烹室」や「教育棟」などの建物を移築したものと考えられます。

 当園は、薄緑色に塗装された南京下見の外壁や、セメント瓦による勾配の緩い寄棟造や切妻造の屋根に直線的で幅の狭い破風板が施されているなどの特徴が認められます。また、教室空間を大きくとるために、洋小屋構造などの洋風建築の意匠や構造が採用されるなど、昭和初期の時代性を顕著に現わす近代建築となっています。

 なお、幼稚園正門の門柱は、昭和32年に卒園生一同が寄贈したものですが、当時、南常盤台に住居をかまえていた童画家、武井武雄がその設計に当たっています。 

 帝都幼稚園の園舎は、移築をしているものの、昭和戦前当時の最先端の開発がなされた常盤台住宅地における草創期の姿をとどめる数少ない現存している建造物であり、区の近代の歴史を明らかにする上でも重要な建造物となっています。

※現在も幼稚園として使われており、内部への立ち入り・見学はできません。

おさんぽマップ
(略)

斯波家住宅
常盤台・斯波家住宅 常盤台2丁目13番
板橋区登録有形文化財(建造物) 登録年月日 平成20年(2008)3月27日

 東武東上線ときわ台駅北側の常盤台1丁目・2丁目一帯は、東武鉄道が田園都市づくりをめざし開発された住宅地です。昭和8~13年かけて駅の開発を含めた26万4千平方mに及ぶ区画整理事業がすすめられ、「常盤台住宅地」と呼ばれています。

 近年、建物の老朽化や生活様式の変化にともなう建て替え、相続による土地の細分化等によって開発当初の建物が大変少なくなっています。

 当住宅は、平成16年に、昭和13年(1938)の建築当初の形が維持できなくなる状況となりましたが、当時の所有者は建造物の文化財的価値の重要性を鑑み、建物二階部分と北側一部分を曳家として保存しました。

 当住宅は、建設当初と比較すると、規模は40%に縮小され、位置も同敷地内において移動していま す。しかし、広縁を含む四部屋と屋根は、昭和戦前当時の最先端の開発がなされた常盤台住宅における草創期の姿をとどめており、現存している数少ない建造物となっています。区の近代の歴史を明らかにする上でも大変重要です。

※現在も住居として使われており、内部への立ち入り・見学はできません


帝都幼稚園

昭和11年(1936)の建物が今も使われている幼稚園。

帝都幼稚園付門柱
 帝都幼稚園は、昭和11年(1936)に、常盤台住宅地の分譲開始に合わせて、元東京府豊島師範学校教諭で、音楽家であった山本正夫が、帝都学園女学校を開きました。
 その後、昭和17年に財団法人帝都学園高等女学校の認可を受けましたが、同21年に起きた漏電事故により校舎の3分の2を焼失し、同26年に高等学校は廃止となりました(なお、その跡地には現在区立常盤台小学校が建っています)。その後は、帝都幼稚園として再出発し、現在にいたります。
 建物調査によれば、現在の建物は、昭和21年の焼失を免れた設立当時の「家事割烹室」や「教育棟」などの建物を移築し、使用しているものと考えられます。
 当園は、薄緑色に塗装された南京下見の外壁や、セメント瓦による勾配の緩い寄棟造や切妻造の屋根に直線的で幅の狭い破風板、教室空間を大きくとるために採用された洋小屋構造などの、洋風建築の意匠や構造を取り入れた、昭和初期の時代性を顕著に現わす近代建築です。
 また、幼稚園正門の門柱は、昭和32年に卒園生一同が寄贈したものですが、当時、南常盤台に住居をかまえていた童画家、武井武雄がその設計に当たったものです。
 帝都幼稚園の園舎は、移築をしているものの、昭和戦前当時の最先端の開発がなされた常盤台住宅地における草創期の姿をとどめる数少ない現存している建造物です、また、区の近代の歴史を明らかにする上でも重要な建造物です。平成24年度に登録文化財となりました。 ※内部の見学は不可
  平成26年2月 
   板橋区教育委員会

正門門柱

昭和11年の建造物

帝都幼稚園という、名称に歴史と尊厳を感じさせる。

場所

https://goo.gl/maps/tAJnAkUN97fQmxGZ8


閉館した板橋区立中央図書館。

板橋区立中央図書館旧館は、1970年に開館。2021年度に解体。
旧館は2020年12月20日閉館。新館は板橋区平和公園内に新築され2021年3月28日開館。

曲線を描くプロムナード。


常盤台・斯波家住宅

板橋区登録有形文化財
常盤台・斯波家住宅

木造二階建・近代和風建築
所在地 常盤台2丁目13番
登録年月日 平成20年3月27日
所有者 (略)

 ときわ台駅北側の常盤台1丁目・2丁目一帯は、東武鉄道が田園都市づくりをめざし、昭和8~13年に駅の開発を含めた26万4千平方mに及ぶ区画整理により造った街で、住宅地は「常盤台住宅地」と呼ばれています。
 しかし近年、建物の老朽化・生活様式の変化に伴う建替えや、相続による土地の細分化等で建築当初の建物が大変少なくなってきました。
 この住宅も、平成16年に建築当初の形を維持できなくなる事態が生じましたが、現所有者は建築物の価値の重要性を鑑み、建物の二階部分と北側一部分とを曳家して保存しました。  
 建築当初と比較すると規模は縮小され、位置も同敷地内にて移動していますが、広縁を含む四部屋が屋根を含めて建設当初のまま残っており、「常盤台住宅」の歴史を伝える上で重要な建造物です。
 平成21年3月
  板橋区教育委員会
  ※現在も居住していますので、内部への立ち入りはできません。

場所

https://goo.gl/maps/o9hYsm4x19ay43297


常盤台の南に空襲の慰霊碑があるので足を伸ばしてみる。
マンションのの間に鎮座。

平安地蔵

昭和20年6月10日の板橋区内で最大の死者(死者269名)を出した空襲の犠牲者「戦災死没者之霊」を祀る。昭和二十三年六月十日建之。

平安地蔵尊
平安地蔵尊由来
 この地は、大東亜戰争末期の昭和二十年六月十日午前八時半頃、米爆撃機参拾数機の編隊により數百発の爆彈を投下され一瞬にして修羅の巷と化し死者貮百八拾余名を出せり
 ここに戰災死没者永遠の冥福を祈るため地元有志發起人となり昭和二十三年六月十日平安地蔵尊を建立する

平らけく 安ら希く
  世越は 護り座す
 地蔵菩薩の
   誓ひうれしき

伊藤康安撰 長谷川耕南拜書

平安地蔵
 昭和二十年(一九四五)六月十日、午前七時五十五分より約二時間にわたり、この付近一帯はB29による空襲をうけました。『帝都防空本部情報』の記録によると、死者二六九名、重傷者八六名、建物の全壊二六〇戸、投下爆弾(二五〇キログラム級)一一六個、罹災者二、四六七人羅災世帯四九八世帯とあります。区内では最大の死者を出した空襲といわれ、実際にはこの数字より多い被害があったようです。
 戦後、亡くなった人々の供養と再びこの悲劇を繰り返すまいという誓いのもとに昭和二十三年六月十日、地元有志の人々が浄財を集め、おとな、子どもを表す大小の地蔵を造立、平安地蔵と命名しました。太平洋戦争を語る区内では数少ない史跡の一つです。
 平成七年度、板橋区の記念物に登録されました。
  平成九年三月 板橋区教育委員会

場所

https://goo.gl/maps/SCDofGz5KnhB6jqL7

※本記事の撮影は2021年2月


板橋区関連

「御所トンネル」と「青山練兵場停車場跡」

東京都下を東西に結ぶ中央線。
その中央線の中でも最古のトンネルが「御所トンネル(旧御所トンネル)」。
このトンネルの建設には陸軍も関与しておりました。

鉄道遺産、そして戦跡として、ちょっと観察してみます。


甲武鉄道と陸軍

「中央線」の前身「甲武鉄道」。
甲武鉄道は明治22年(1889)4月に新宿~立川間、8月には、立川~八王子間を開業。
新宿から東京市内への路線延長に関しては、新宿~牛込・飯田橋間を甲州街道沿い(新宿御苑北側)で計画されていたが、明治27年(1894)日清戦争の勃発の影響などもあり陸軍側の強い要請で千駄ヶ谷~信濃町間を経由するルートで延伸が決定。これは「陸軍青山練兵場」(現在の明治神宮外苑)からの軍隊輸送のために必要という側面があった。
陸軍が希望するルートで線路を敷設するためには、 畏れ多くも「赤坂御料地(赤坂離宮・赤坂御用地・赤坂御所・迎賓館」「学習院初等科」の敷地の一部にトンネルを設けざるを得なかったが、そこは軍事優先で陸軍の後押しもあり、明治27年9月17日に新宿~青山軍用停車場が完成。
甲武鉄道はその後も着実に路線を延長し明治27年10月に新宿~牛込(飯田橋)」間、明治28年4月には牛込~飯田町間が開業。
明治28年に新宿~飯田町間を複線化、明治37年(1904)に御茶ノ水まで延伸。また、日本の普通列車としてはじめての電化運転(電車)を開始。
東のターミナルとして万世橋まで延伸が予定されていたが、明治39年(1906)に鉄道国有化法により国有化し、甲武鉄道としての歴史は終了した。(万世橋駅の開業は国有化後の明治45年)


御所トンネル(四ツ谷駅側)
<丸ノ内線四ツ谷駅ホームより>

旧御所トンネル
明治27年(1894)、新宿~牛込(飯田橋)間を延伸するにあたって、陸軍の強い要望により青山練兵場を経由するルートで線路を敷設せざるを得なかった甲武鉄道は、 畏れ多くも「赤坂御料地(赤坂離宮・赤坂御用地・赤坂御所・迎賓館」「学習院初等科」の敷地の一部にトンネルを敷設。(もちろん陸軍が承諾の後押しをしている)
これが、煉瓦造りで造られた全長317mの「旧御所トンネル」

新御所トンネル
大正時代末期に中央本線を複々線化する工事が始まり、旧御所トンエルの西側に3線を通す新しいトンネルが、昭和4年(1929)完成の「新御所トンネル」(鉄筋コンクリート・385m)

現在は、旧御所トンエルを総武線下りのみが利用。新御所トンネルを中央線と総武線上りが利用している。

地下鉄丸の内線・四ツ谷駅。荻窪方面行きホーム後方から、よく観察できます。

旧御所トンネル 317M

こちらは、新御所トンネル。3連です。
同じく、丸ノ内線ホームより。

明治のトンネルと昭和初期のトンネルで、煉瓦造から鉄筋コンクリート造に変化してます。

新御所トンネル 385M


御所トンネル(四ツ谷駅側)
<中央線四ツ谷駅ホームより>

JR中央線の四ツ谷駅からは、新御所トンネルしか見えません。旧御所トンネルは死角。


御所トンネル(信濃町駅側)
<朝日橋より>

御所トンネルの新宿方面(信濃町側)も観察。
新御所トンネルと旧御所トンネル。
信濃町側は旧御所トンネルも鉄筋コンクリートになってますね。新御所トンネルが建造された際に統一されれたのでしょうか。


四ツ谷駅眺望

総武線の先には、迎賓館が見える。

丸の内線は、ギリギリで御所の脇を通過するが、総武線は、ギリギリで御所の敷地を通過している。

旧御所トンネルの四ツ谷口が丸ノ内線車両の先に見える。


位置関係(御所トンネル)

時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」 より (一部加工)

http://ktgis.net/kjmapw/kjmapw.html?lat=35.680682&lng=139.724132&zoom=16&dataset=kanto&age=0&screen=2&scr1tile=k_cj4&scr2tile=k_cj4&scr3tile=k_cj4&scr4tile=k_cj4&mapOpacity=10&overGSItile=no&altitudeOpacity=2

赤坂離宮の敷地の下を・・・。
文字通り、赤坂御所(赤坂離宮)の下を通過する「御所トンネル」です。

Google航空写真(一部加工)

https://goo.gl/maps/ejmv9ZDX8argh34u9


迎賓館前

御所トンネルは、現在は迎賓館前の「新宿区立若葉東公園」の下を通過している。


青山練兵場停車場跡

甲武鉄道(現在の中央線)は、甲州街道ルートを目指していたが、陸軍の強い要請で南回りルート(千駄ヶ谷・信濃町ルート)での線路敷設に変更させられた。その理由は「青山練兵場」に軍用停車場を設置するため。
そしていまでも、青山練兵場に通じていた線路の名残が側線として、残っている。

線路と首都高速4号線の間に側線が見える。この側線が当時の青山練兵場停車場の名残。
首都高速4号線の左側が、明治神宮外苑(当時の青山練兵場)。

千駄ヶ谷駅ホームから、側線を望む。
右側の緑の茂みに伸びる側線が「青山練兵場停車場」の名残。

隣の駅、信濃町駅のホームも見える。


位置関係(青山練兵場停車場)

Goo地図-1907年(明治40年)を一部加工

https://map.goo.ne.jp/map/latlon/E139.43.18.149N35.40.38.381/zoom/11/?data=meiji

当時、青山練兵場の北側には「陸軍第一師団輜重兵第一大隊」があった。
青山練兵場と陸軍第一師団輜重兵営との間は、3つの跨線橋があったが、現在は1つのみ残されている。(跨線橋=大番町跨線橋は後述)

明治天皇が崩御された際に、大喪の義は青山練兵場で執り行われた。
葬場殿の後方にあった「青山仮停車場」で、東京の人々は、 明治天皇と最後のお別れを行い、そして 明治天皇のお棺は、京都桃山に鉄路で向かわれた。

また、陸軍第一師団輜重兵営の敷地は大正9年に慶應大学に売却され、現在は慶應義塾大学病院となっている。
当時の名残として「陸軍境界石」が残されている。

青山練兵場の北側にあった輜重兵営は、世田谷に移転している。

そして、青山練兵場は、代々木練兵場に移転している。

ちなみに都内の練兵場としては、日比谷→青山→代々木と移転している。


大番町跨線橋(大番町通跨線道路橋)

前述の青山練兵場停車場跡を上から撮影したのが、「大番町跨線橋」。
青山練兵場と陸軍第一師団輜重兵営の間には、3つの跨線橋があったが、現在は一つのみ残されている。

この橋の正式な名称は、「大番町通跨線道路橋」というのかもしれない。

しかし交差点では「無名橋」と記載。

青山練兵場とともにあった跨線橋が、当時を物語る戦跡。
いまでは「無名な橋」とされているが、今も昔も南北を往来する貴重な橋として名前は知られずとも活用されていた。

※本記事の撮影は、2020年8月及び2021年3月


明治神宮外苑

青山練兵場の跡地、明治神宮外苑など。

東京都港湾局専用線の廃線跡(晴海・豊洲)

戦後に敷設され、昭和を支えるも、昭和の幕引きとともに全廃となった貨物線。
時代区分としては、近代から現代の間ではあるが、産業遺産として、以下に記録しておく。


東京都港湾局専用線「深川線」「晴海線」

豊洲地区・東雲地区は大正12年(1923)に発生した関東大震災の瓦礫処理で埋め立てられたことにはじまる。
昭和12年(1937)に豊かな埋立地となることをねがい「豊洲」と命名。

晴海地区は明治中期から昭和初期にかけて東京湾澪浚工事で発生した海底の土砂を投下した埋立地。
昭和4年(1929)月島4号地(東京湾埋立4号地)として埋立が完了。昭和12年に「晴海」と命名。
昭和15年(1940)に開催予定だった東京オリンピックと同時開催予定だった紀元2600年記念日本万国博覧会の開催地として整備されるも日中戦争(当時の呼称は支那事変)のため中止される。

東京湾の中心であった芝浦埠頭は、戦中は陸軍が軍需用に利用していた。そして戦後は、芝浦や晴海が進駐軍により接収。
芝浦埠頭に変わる港として、戦争前より建設が進んでいた豊洲埠頭の工事が昭和24年(1949)より急ピッチで再開され、昭和25年に豊洲埠頭の運用が開始。昭和28年(1953)に越中島駅から豊洲埠頭まで2590mの「深川線」が開業。越中島までの貨物駅は国鉄の運用。越中島から南は東京都の専用線であった。
晴海地区の米軍接収が解除されると晴海埠頭まで専用線は延伸され、昭和32年に「晴海線」が開業。
東京港の臨海鉄道は、再開発により順次廃止され、昭和61年(1986)1月13日に「深川線」が廃線。平成元年(1989)2月10日に、東京都港湾局専用線として最後まで残っていた「晴海線」も廃線となり、全廃。


晴海橋梁・春海鉄道橋
東京都港湾局専用線(晴海線)

昭和32年(1957)11月26日、完成。
国内初の下路式ローゼ桁の鉄道橋という。
晴海運河に架かる東京都港湾局専用線(晴海線)橋梁。
晴海線は平成元年(1989)2月10日に廃止となったが、撤去を免れ、当時の遺構として現存。
今後は人道橋や公園などの活用が検討されているが、老朽化の修繕が必要であり、未定。

並行する「春海橋」から観察が可能。晴海橋梁そのものは立入禁止。

晴海橋梁
設計 日本国有鉄道東京工事局
施行 オリエンタルコンクリートKK
竣工 昭和32年11月26日

橋桁製作は石川島重工業。
当所は国鉄による運行がされていたが、昭和33年以降は東京都に移管。

東京都立春海橋公園

晴海と春海の使い分けがわかりません。

立入禁止、です。

水上バス「ヒミコ」が通過。ヒミコは松本零士デザインで2004年就航。

場所

https://goo.gl/maps/7wBx5H87rMMqrqnX7


晴海から春海橋を渡って豊洲へ。
廃線跡を活用した遊歩道がところどころに展開されている。
レールが埋め込まれていたり、線路を模していたり、している。


豊洲橋梁跡・橋脚

豊洲運河を渡る深川線「豊洲橋梁」の橋跡のみが残されている。平成12年(2000)に撤去。

場所

https://goo.gl/maps/GeGuBxKbsfaGntSE7


塩浜

廃線跡が駐車場となっている。

越中島の方に向かうと、線路跡が残された空間がある。

場所

https://goo.gl/maps/Mc8ky1vtxSK2fsbP8

取り残された空間がある。

場所

https://goo.gl/maps/cd7a6b23dr8EoSdo6

都有地

越中島側

越中島貨物駅から伸びている線路はここでおしまい。

東京都港湾局専用線跡の方向

上記の写真の逆側、この先は、越中島貨物駅につながる。

再開発に取り残された空間が点在している廃線跡。
東京23区内で気楽に楽しめる廃線跡散策、でした。

※撮影は2020年10月