2021年9月、JR東日本と三鷹市との協議で解体撤去されることが決定した。。。
解体時期はまだ決まっていないというが、解体される前に足を運んでみた。
目次
三鷹陸橋(三鷹跨線橋・三鷹跨線人道橋)
昭和4年(1929)、人びとの往来を確保するために中央線と三鷹車両センターを南北に横断する跨線橋が設置された跨線橋。
全長93メートル、幅約3メートル、高さ約5メートル。
太宰治(1909-1948)ゆかりのスポット、でもあった。
三鷹こ線人道橋の今後の取り扱いについて
三鷹市 https://www.city.mitaka.lg.jp/c_service/093/093254.html
作成・発信部署:都市整備部 道路管理課
公開日:2021年9月7日 最終更新日:2021年9月7日
三鷹こ線人道橋(以下「こ線橋」という。)については、旧三鷹電車庫建設に伴い当時の鉄道省が昭和4年に設置し、鉄道省から国鉄を経て東日本旅客鉄道株式会社(以下「JR東日本」という。)が継承、以来JR東日本が維持管理してきました。しかし、こ線橋は鉄道事業施設としてではなく、実質生活道路として利用され、公共的施設として管理されることが相応しいとの見解から、JR東日本から無償譲渡の申し入れがありました。これまでの間、市民の皆様や市議会の思い等から、現状のままで存続する方法がないか模索してきましたが、2021年6月にJR東日本より、こ線橋は建設後長期間経過するとともに、耐震性能が現在の基準を満たしておらず、利用者や鉄道の安全安定輸送に支障をきたすことが想定されること、また、こ線橋の代替施設として堀合地下道があることから、撤去することで進めるとの見解が示されました。市としては、耐震性能に課題のあるこ線橋の譲渡を受けたとしても大規模な改修(耐震補強)及びメンテナンスに多額の費用が必要となること、改修により文化的価値が損なわれる可能性が高いことなどから譲り受けることは困難と判断し、耐震性能が現在の基準を満たしていないこ線橋の存続により、万が一の災害の際に利用者や鉄道の安全安定輸送に支障をきたすことも考えられるため、JR東日本の判断を受け入れることとしました。なお、こ線橋は三鷹ゆかりの文学者で世界的に有名な太宰治が好んだ場所として文化的価値が高く、市民に人気のある施設であることから、今後はJR東日本と連携し、こ線橋の一部を譲り受けて保存や映像・画像等での記録など、記憶と記録を残す取り組みを行っていきます。
北側の一部のみ、再塗装が施されているが、大部分は錆色。
通行される皆様へ
この三鷹こ線人道橋は、JR東日本が管理している橋です。
1929年(昭和4年)に古い設計基準で建設されています。このため、
地震等の災害発生時には通行禁止となりますので
他の道路へ迂回していただくようにお願いします。
迂回の道路につきましては、三鷹駅寄り「堀合地下道」を利用ください。
なお、今後、老朽化等により通行できなくなる場合があります。
ご理解とご協力をお願いします。
東日本旅客鉄道 八王子支社
太宰が生きたまち
三鷹
太宰ゆかりの場所
陸橋(跨線橋)
中央線の上にかかる陸協に友人を案内することもありました。
この陸橋は、1929(昭和4)年に竣工した当時の姿を今も留めています。
三鷹市
跨線橋の様子を記録してみる。
北側は、道路もまたぐように跨線橋が伸びている。
北側の階段部分及び道路の上あたりまで、再塗装が施されており、きれいな緑色であるが、線路側の大部分は錆びるに任せた状態。
南側。
北側よりも緊張感がある石段は、やはり再塗装されていないがゆえに老朽化を感じさせる状態だからだろうか。
石段の所々は、破損している。鉄筋も露出している。
三鷹市が設置した太宰治の案内板は南側に設置されている。
場所
跨線橋と三鷹駅の間には、堀合地下道が設置されている。跨線橋が撤去された場合の代替の南北横断通路。
三鷹は太宰治が居住をしていた街。三鷹を流れる玉川上水に入水自殺をし、墓も三鷹の禅林寺にある。
太宰治の墓
場所
三鷹の禅林寺には、森鴎外の墓もある。また、三鷹事件の慰霊碑もある。
太宰治ゆかりの「さるすべり」
太宰治旧宅に植えられていた「玄関前の百日紅(おさん)」が三鷹市平和通りの井心亭の庭に移植されている。
場所
実は、太宰治の邸宅があった通りには、阿南惟幾陸軍大将宅もあったが、その話は別記事にて。
三鷹には、太宰治ゆかりの場所が多い。跨線橋とあわせ、史跡散策・文学散策をしてみるのも良さそうです。
※撮影は2021年9月