「陸軍」カテゴリーアーカイブ

武蔵村山の戦跡散策(高射砲第七聯隊跡地)

武蔵村山市の南東部は、陸軍関連の戦跡が点在している。
以前に、「東航」(東京陸軍少年飛行兵学校)の戦跡散策を行った。
今回は、ちょっと北側のエリアを散策。


高射砲第七聯隊
東部第七十八部隊
所沢陸軍航空整備学校立川教育隊

多摩地区の軍事施設は、大正11年(1922)に開設された陸軍第五飛行大隊 (後、陸軍飛行第五連隊)が、立川陸軍飛行場に駐屯したことに始まる。

その後、立川陸軍飛行場周辺には、所沢から陸軍航空本部技術部が移転し、立川飛行機が設立された。

昭和7年(1932)には、現在の武蔵村山市内の大南地区に大規模な陸軍飛行第五連隊の射爆場が完成。

昭和13年(1938)には、陸軍飛行第五連隊が千葉県柏(陸軍柏飛行場)に移動し、立川陸軍飛行場には実戦部隊がいなくなった。

昭和13年(1938) 8月 、第五連隊移転により空地 となった射爆場に、「東航」東京陸軍航空学校校舎が完成。武蔵村山の地で少年飛行兵の基礎訓練が開始となった。

昭和15年(1940)には、立川飛行場の付属施設として陸軍多摩飛行場が建設。(現在の横田基地)
同じ年に、東京陸軍航空学校の北に、陸軍東部第七十八部隊(高射砲第七聯隊)が駐屯。陸軍東部第七十八部隊の西隣には、近衛師団司令部直轄の二等陸軍病院として、村山陸軍病院が開設された。

昭和18年3月には陸軍少年飛行兵学校令の公布により、東京陸軍航空学校は東京陸軍少年飛行兵学校へ改称された。
昭和18年10月、戦局悪化の中、陸軍東部第七十八部隊は解隊され、その跡地に所沢陸軍航空整備学校立川教育隊が開設された。


高射砲第七聯隊跡地散策

武蔵村山市の南東に点在する戦跡を散策。
武蔵村山市が制定した歴史散策コースに基づいて散策を開始。

武蔵村山市>歴史散策コース(南東コース)

https://www.city.musashimurayama.lg.jp/kankou/spots/rekishiminzoku/1001937/1012519.html

歴史散策コース(南東コース)地図

https://www.city.musashimurayama.lg.jp/res/projects/default_project/_page/001/012/519/map_nantou.pdf

高射砲第七連隊(東部第七十八部隊)
陣営地土塁

高射砲第七連隊(東部第七十八部隊)陣営地境界の土塁は、陣営地の周囲に築かれ、その断面からは、もともと東南への傾斜地であった敷地を平らにならした状況が確認できます。また、土塁が残るさいかち公園付近には、射撃場や土塁とは別に10メートルほど高い土手に囲まれた火薬庫(弾薬庫)が設置されていました。

土塁が僅かに残っている。

さいかち公園には、火薬庫が設置されていたという。

陸軍用地であったこの場所は、戦後は武蔵村山市立第五小学校の校庭であったが、平成10年(1998年)に閉校となり公園化された。

場所

https://goo.gl/maps/JzWRe3f5QkJ5z9N7A


高射砲第七連隊(東部第七十八部隊)
鉄塔基礎跡

高射砲第七連隊(東部第七十八部隊)陣営地内に設置されていた、4本あった鉄塔の跡地のひとつ。敷地中央に建てられた高さ30メートルの鉄塔4本にはワイヤーが張られ、模型飛行機を吊るして高射砲の照準訓練が行われていました。

雷塚公園

土盛りがある。これが、訓練鉄塔の盛土跡。
公園の奥、なんかそれっぽい土盛がある。

案内の杭がたっていた。無かったらわからないですね。

盛り土の上に、基礎?があった。

場所

https://goo.gl/maps/41yAd62jTqbXvxSU8


高射砲第七連隊(東部第七十八部隊)
正門跡

高射砲第七連隊(東部第七十八部隊)は、昭和14年(1939)に部隊を新設され、翌年には村山村(学園地区)の陣営地へ兵舎や営庭のほか、トラックの運転練習場などが設置されました。
その後、昭和18年(1943)5月に高射砲第七連隊は解体され、この陣営地は同年9月に少年飛行兵短期制度(乙種制度)を行う所沢陸軍航空整備学校立川教育隊の教育訓練施設として転用されました。

村山医療センターの西側、学南通りと大学通りのT字交差点に、高射砲第七連隊(東部第七十八部隊)の正門があった。

場所

https://goo.gl/maps/6NQ6n5NsxAtrSygK6


村山陸軍病院正門跡

昭和16年(1941)4月に近衛師団隷下の病院として開設。外科棟・内科棟・手術棟・伝染病棟が設置され、隣接する高射砲第七連隊(東部第七十八部隊)、所沢陸軍航空整備学校立川教育隊や東京陸軍航空学校(東京陸軍少年飛行兵学校)、そのほか陸軍航空整備学校第二教育隊(立川陸軍航空整備学校(福生市))、東京陸軍少年通信兵学校(東村山市)などの傷病兵を収容しました。

現在の東京経済大学武蔵村山キャンパスのグランドが、かつての村山陸軍病院、であった。

村山陸軍病院の正門のある道路の突き当りが、高射砲第七連隊(東部第七十八部隊)の正門であった。

場所

https://goo.gl/maps/3HwUSBVTkGxWcikG9


江戸街道

江戸と青梅を結んでいた街道。青梅街道とも。当時、陸軍用地として敷地拡大した際に、江戸街道が寸断された、と。

市内を東西に通る江戸街道は、昭和20年(1945)に軍備拡張のため所沢陸軍航空整備学校立川教育隊の敷地を拡張した際に街道の一部が寸断されましが、戦況悪化によって敷地は穀物の栽培地として転用されました。
戦後、拡張された敷地は農地改革で農家へ払い下げられ、昭和42年(1967)にもとの街道筋へと整備されました。

場所

https://goo.gl/maps/LYGXEHQbUfuhGizo7


位置関係

米軍撮影国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-R556-No1-74
昭和22年(1947年)11月14日、米軍撮影の航空写真を一部文字入れ加工。


以下は、東京陸軍航空学校の話題になるので、前述の「東京陸軍少年飛行兵学校跡地散策」 記事を参照に。

東京陸軍航空学校練兵場跡地

東京陸軍航空学校(東京陸軍少年飛行兵学校)は、少年航空兵(少年飛行兵)へ1年間の基礎教育を行う施設で、普通学(国語作文・数学・歴史・理科・図画・英語(後に廃止))と軍事学を学び、教練・体操(フープ体操・マット体操・デンマーク体操)・剣術訓練を行っていました。また練兵場では、エンジンやプロペラといった動力装置が搭載されていない初歩操縦用グライダーを使用した訓練も行われていました。

そのまま南に歩けば、「東航」の地となる。
東航に関しては、以前のレポートでも触れていたので、かんたんに。

場所

https://goo.gl/maps/Tfs62zh915i6vL9S8


東京陸軍航空学校西通用門跡

東京陸軍航空学校は、村山村(大南地区)にあった立川小爆撃場地を転用して昭和13年(1938)に開設され、昭和18年(1943)に「東京陸軍少年飛行兵学校」と改称されました。敷地内には生徒舎や生徒自習室をはじめ、各分野の学科講堂、剣道場、練兵場などが設置され、南にある正門のほか、北に4カ所と東西に1カ所ずつ通用門が設置されていました。終戦後、学校施設の解体に伴い、正門や通用門も同時に解体されましたが、東通用門の門柱は市内にある禅昌寺(西2コース)境内に移設されています。

東航の西側通用門。このさきの住宅地の中に、歴史民俗資料館分館もある。揺籃之地碑や正門跡もある。

場所

https://goo.gl/maps/fkdwRZMpvkXs9nUh6


揺籃之地碑

昭和38年(1963)、東京陸軍航空学校(東京陸軍少年飛行兵学校)跡地の一角に陸軍少年飛行兵戦没者慰霊碑が建てられましたが、平成2年(1990)に周囲の宅地開発によって慰霊碑は禅昌寺へと移されました。同年10月、その跡地へ揺籃之地碑が建てられました。
平成19年(2007)7月に、市内に軍事施設が存在したことを後世へ伝えるため、東航正門跡碑とともに市の旧跡に指定されています。

https://www.city.musashimurayama.lg.jp/kankou/spots/rekishiminzoku/1001937/1012519.html

場所

https://goo.gl/maps/zygSuWbVYrAQzqys8


東航正門跡碑

東京陸軍航空学校(略称:東航。後の東京陸軍少年飛行兵学校)が開校し、第6期生から20期生までの18,000余名の生徒が少年航空兵(少年飛行兵)の基礎教育訓練を受けました。基礎教育訓練を終えた1年後には上級教育(操縦・整備・通信)学校へ進学し、その後陸軍兵士となった生徒の約4,500名が戦争の犠牲となったことを後世へ伝えるため、平成11年(1999)4月に建てられました。

平成19年(2007)7月に、市内に軍事施設が存在したことを後世へ伝えるため、揺籃之地碑とともに市の旧跡に指定されています。

https://www.city.musashimurayama.lg.jp/kankou/spots/rekishiminzoku/1001937/1012519.html

場所

https://goo.gl/maps/TH61x5H28gBeMSVX7

この日は、玉川上水駅から東大和南公園を経由して、そこからぐるっと武蔵村山市を経て、玉川上水駅に戻るコースを歩きました。ざっくり8.5キロで1時間45分。

東大和南公園では、2階部分も見学できるようになった日立航空機立川変電所の見学をしたわけですが、それはまた別記事にて。(以前の見学はこちら

※撮影は2021年12月


関連

椿山荘(山縣有朋邸跡)

山縣有朋は、数カ所に邸宅を持っていた。

本サイトでは、以前に、「山縣有朋邸庭園跡(三番町共用会議所)」を掲載していた。

他にも、山縣有朋は多くの邸宅を有していた。


 椿山荘 東京都文京区
  明治11年
 山縣有朋私邸 東京都千代田区
  明治18年
 無鄰菴 京都府左京区 京都別荘
  明治27~29年
 古稀庵 神奈川県小田原市 小田原別邸
  明治40年 
  70歳の古希を迎えた晩年の別荘

今回は、縁あって「椿山荘」に赴く機会がありましたので、夜でしたが庭園を(さくっと)見学してみました。


椿山荘

この地は、かつては椿が自生する景勝の地で「つばきやま」と呼ばれていた。

明治の元勲で日本軍閥の祖でもある山縣有朋が、明治11年(1878年)に、私財を投じて「つばきやま」を購入し庭、邸宅をつくり、「椿山荘」と命名。
椿山荘には、山県有朋自らが庭園を計画し高低差のある回遊式庭園が造られた。
山縣有朋の名庭園には、京都の無隣庵、小田原の古稀庵、そして、この椿山荘があり、この三園をあわせて「山縣三名園」とも呼称されている。

ホテル椿山荘東京公式サイト
ホテル椿山荘東京の歴史

https://hotel-chinzanso-tokyo.jp/garden/history/

現在のホテル椿山荘東京の庭園は、太平洋戦争で多くが焼失した後に1万本以上の樹木を植栽して新たに生まれ変わったもの。


椿山荘の碑

この碑は、山縣有朋公爵がこの地を気に入り、入手し、椿山荘の造営に着手し始めた当時を振り返り、(明治11年に)椿山荘と命名した際の感慨を刻んだ碑。

椿山荘の碑の内容
「明治10年の西南戦争は既に平定され、国内が平穏となって暇になった日にはしばしば城北の目白に出かけ、その大地におもしろさを感じた・・・」という内容から始まり、「後にここに住む人もこの自然を守り続け、この山水を楽しむような私の望み通りの人物であろうか」と締めくくられているこの碑は、明治30年に創られました。

https://hotel-chinzanso-tokyo.jp/garden/historic_site/

椿山荘の碑
風光明媚なこの地を気に入った山県有朋公は、明治11年(1878年)に土地を入手し、本邸と広大な庭園を造り「椿山荘」と名付けました。明治30年(1897年)に創られた「椿山荘の碑」には、この地と出会い、この地を愛した山縣公の感慨が刻まれています。(総高2m70cm、碑の幅90cm)

椿山荘記

椿山荘主山縣有朋撰


椿山荘庭園

霧というか雲海が凄い。。。
山縣有朋公もびっくりだろう。
この東京雲海の演出はコロナ渦で客足の鈍っていた2020年10月にスタートした新しい演出。

椿山荘の碑には、「後にここに住む人もこの自然を守り続け、この山水を楽しむような私の望み通りの人物であろうか」と最後に刻まれている。

椿山荘の庭園は山縣公の故郷である山口・萩の風景を再現したものであるという。
いま、ホテル椿山荘東京は、山縣有朋が愛した郷里・萩に流れる阿武川にかかる雲海の雲海を再現したかのように、国内最大大規模の霧噴霧で雲海を演出している。

東京雲海

https://hotel-chinzanso-tokyo.jp/unkai_lightup/


実は、椿山荘で会社の忘年会でした。
そうでもないと、椿山荘に行く機会はそうそうありません。

※撮影は2021年12月


立川飛行機「一式双発高等練習機・キ54」(立飛ホールディングス一般公開)

立飛ホールディングスの前身、立川飛行機が制作した飛行機が、里帰りし、一般公開された。
その様子を写真中心に以下に掲載。

写真多めですが、それだけ充実の展示。
ありがたいものを拝見させていただきました。

本記事は2021年公開時のものです。
2022年公開時の模様は下記の記事にて


立川飛行機一式双発高等練習機

一式双発高等練習機
大日本帝国陸軍の練習機。
キ番号は、「キ54」。
略称は、「一式双発高練」「一式双高練」「双発高練」など。
連合軍のコードネームは、「Hickory」(ヒッコリー、クルミの意味)
開発製造は、立川飛行機。
昭和16年(皇紀2601年、1941年)に正式採用。
立川飛行機として、はじめての自社開発全金属製双発機。
傑作機として重宝され総生産機数は、1342機に及ぶ。

国内唯一の「一式双発高等練習機」現存機

飛行第38戦隊所属機。昭和18年(1943年)9月27日、能代飛行場から離陸後にエンジントラブルによって十和田湖に不時着水。乗員4名のうち3名が死亡、1名が生還。
低温淡水の十和田湖底であったために、機体腐食が少なく当時の塗装が残るままで発見され、2012年に引き揚げ。
青森県立三沢航空科学館で展示されていたが、2020年に立飛ホールディングスに譲受された。
また同時に引き上がられた天風型エンジンの1基は製造を担当した東京瓦斯電気工業(日立航空機)の後継企業にあたる日野自動車が復元処理をおこなっている。

一般公開 平成28年 重要航空遺産認定
一式創発高等練習機
11月25日(木)~28日(日)10時~16時

一式創発高等練習機
公開展示 2021.11.25~28
株式会社 立飛ホールディングス

一般公開の趣旨
 一般公開を行う一式双発高等練習機は、立川飛行機(立飛ホールディングスの前身)が制作した機種の一つで、同機は昭和18年(1943年)に青森県の十和田湖に沈んで以来、今から9年前の平成24年9月に69年ぶりに引き揚げられ、青森県立三沢航空科学館に展示されていました。
 同機の雄姿や、かつて立川飛行機を中心とした科学技術の最先端を誇っていた街の歴史を伝えることが弊社の使命であると感じ、令和2年11月に同機を譲受、今回の一般公開に至りました。

一式双発高等練習機(キ五十四)
 昭和14年(1939年)3月、陸軍から多目的双発高等練習機の試作指示があり、立川飛行機にとっては初めて双発、全金属製、引込脚の機体を制作しました。
 操縦訓練だけではなく、航法、通信、射撃、写真撮影など、いわゆる機上作業全般に使用される練習機です。エンジンの信頼性が高く機体の耐久性に優れ、また操縦席からの視界がよく、機内も様々な訓練に対応できる広いスペースが確保されているなど使い勝手に優れている傑作機でした。
・乗員:5~9名
・発動機:空冷式星型9気筒
・全長:11,940mm
・全幅:17,900mm
・全高:3,580mm
・最大速度:376km/h/2,000m
・上昇限度:7,180m
・航続距離:960km~1,300km
・生産期間:昭和15年~昭和20年
・総生産機数:1,342機

青森県十和田湖から引き揚げ
 太平洋戦争の最中であった昭和18年9月27日、秋田県能代飛行場から飛び立って青森県八戸市高舘飛行場に向かった1機の陸軍機が、エンジントラブルで十和田湖に墜落したことがわかっていました。
 青森県立三沢航空科学館 館長 大柳繁造氏を中心とした引き揚げプロジェクトにより、平成24年9月、十和田湖に沈んでいた「一式双発高等練習機」が引き揚げられました。


一式双発高等練習機
「機首部」

操縦席からの視界が良いと好評だった前面部。

機首部

上部の窓は跳ね上がることができた。

胴体は、2つに割れていた。


一式双発高等練習機
「右翼エンジン部」

双発エンジンは、空冷単列星型9気筒。
東京瓦斯電気工業(日立航空機)が開発・製造した航空機用空冷星型エンジン
陸軍名称は「ハ13」、海軍名称は「天風」。陸海軍統合名称は「ハ23」。

一式双発高等練習機に使用されたエンジンは、「日立ハ13甲」 (九八式四五〇馬力発動機)。

主に、陸海軍の中間・高等練習機で使用されたエンジン。
陸軍では、「一式双発高等練習機」、「一式輸送機」、「二式高等練習機」などに採用。
海軍では、「赤とんぼ」と呼称された「九三式中間練習機」や、機上作業練習機「白菊」などにも採用されている。


一式双発高等練習機
「右翼主翼部」

補助翼
補助翼。展示機は補助翼を覆う羽布が失われていることで、フレームがむき出しの状態を観察できる。補助翼前方には操縦系統と繋がる動作機構が見えている。

一式双発高等練習機の翼型について
「キ五十四取扱参考」(立川飛行機株式会社、昭和18年1月)から、一式双発高等練習機の主翼の翼型は次のNACAの5桁シリーズ翼と呼ばれる種類であることが分かる。どのような翼型だろう。
 胴体中心 NACA23016
 翼端   NACA23009
(以下略)


一式双発高等練習機
「胴体外板・右部」

胴体外板
 附図第2「外板厚 胴体」と展示機。鮮やかに残る日章(日の丸)が描かれている胴体外板の薄さを実感していただきたい。日章の辺りは、厚さ0.5~0.7mmの高力アルミニウム合金板mいわゆる「超ジュラルミン」が使用されている。

一式双発高等練習機の金属材料について
「昭和15年 立川一式双発高等練習機(キ-54)飛行機設計附図」では、胴体外板や主翼骨格の補強材に「チ221」「チ222丙」、主翼結合部に「イ201」「イ202」という材料名称を見ることができる。
(以下略)


一式双発高等練習機
「垂直尾翼部」

垂直尾翼
 移送のための胴体から外された垂直尾翼。飛行第三八戦隊の舞台標識(三と八をうまく組み合わせている)が良く見てとれる。巣直安定版先端の黄色く塗装されている部分には、無線アンテナを張る為のリングも残っている。
 が、ここでは安定版や方向舵の構造にも注目したい。「キ五四取扱参考」からは「対象翼断面、付け根で翼弦長の8%、2本桁」と分かるが、胴体との結合部分は胴体から外さなければ絶対に見ることができない部分である。

飛行第38戦隊


一式双発高等練習機
「水平尾翼部」

水平尾翼
 こちらも移送のために胴体から外されている不意丙尾翼。「キ五十四取扱参考」にあるように、本機の水平尾翼は左右一体の一翼型で、「付け根で翼弦長の10%、2本桁」である。本機の昇降舵も左右一体で、胴体に隠れる部分に操縦索と繋がる槓桿やバランス錘がある。


一式双発高等練習機
「尾部」

尾部
 こちらは、水平尾翼を収納する胴体尾部部分で、左右一体型の水平尾翼を格納するため胴体が切り抜かれている。
 機体後端で尾翼という荷重が掛かる部分がこんな空洞なのには驚かされるが、水平尾翼と垂直尾翼が組み合わされことで、強固な構造となる。本機は水平尾翼と垂直尾翼とも胴体にボルト留めなのだが、展示機ではその結合部分はその結合箇所は分かりにくい。

尾部
 こちらは胴体の尾部端に装着される「尾端覆」(カバー)。プレス成型された数枚の外板を小骨と縦通材、リベット付けで組みあげたと思われ、外板の微妙なカーブ具合を実感していただきたい。その先端に「尾灯」も見えているが、その「保護覆」は失われている。


一式双発高等練習機
「胴体外板・左部」

「5541」は、製造番号


一式双発高等練習機
「機首操縦席内部」

通路扉
 実際に見ると「小さすぎる」という印象が強烈な、胴体と機首操縦席を結ぶ通路ドア。下部がややすぼまっており、上部も十分な広さとは言えず、背の高い人はもちろん通常体型の人でもスムーズに通れなかっただろうと推測される。体を横にして出入りしていたのだろうが、冬用飛行服を着たらつっかえる人が少なくなかっただろう。
 失われているが、ここには木製扉が付く。 


一式双発高等練習機
「同乗室内部」

 同乗室内部
  附図に見る甲型の道場室内部と展示機。附図で見えている空気導管)(今風に言えばエアコンダクト)は展示機では外されて別に展示されている。なお、展示機には内装材も残っていることがわかる。


一式双発高等練習機
「操縦装置」

操縦装置
 展示機の操縦装置。2つある「8の字」状の転輪(コントロールホイール)を
・左右に回転させて補助翼を操作し、機体を左右に傾け
・前後に動かして昇降舵を操作し、機首を上下させ
 機首を左右に振るには、ペダルの左右の踏み分けで方向舵を操作する。


一式双発高等練習機
「左翼主翼部」

ノルナ

フラップの操作油管

主翼結合部。
材質は強靭鋼。クロムモリブデン鋼。


一式双発高等練習機
「燃料タンク」

一式双発高等練習機の主燃料タンクは、主翼付け根前部に格納される内蔵タンク。
容量は1つが約300リットル。

燃料タンク
 このタンクには銘板が付いており、昭和17年9月15日製造と分かる。製造番号は「294左(左タンク)」となっており、機体の製造番号と製造年月(5541号機、昭和17年12月)とは異なっている。そのことに加えて陸軍の検印もあることから、燃料タンクは陸軍への単独納入品だった可能性があるが、他機と共用とも考えにくく詳細は掴めなかった。

主翼の内部に燃料タンクを収納するスペースがある。


一式双発高等練習機
「左翼エンジン部」


一式双発高等練習機
「パネル展示」


一式双発高等練習機
「模型」


一式双発高等練習機
「部品展示」

左主脚「オレオ緩衝器」銘板
製造会社:茅場製作所
製造年:昭和16年

立川 キ54
一式双発高等練習機
「第5541号」機体銘板
※発動機操作台に設置されていた。

操縦席計器盤

航空羅針儀:羅針盤(1号)
※操縦席計器盤丈夫に設置されていた。

高度計(97式)
※操縦席計器盤に設置されていた。

大気温度計
製造会社:富士航空計器
※操縦席計器盤に設置されていた。

油圧調整弁(外板)

操縦席で見つかった鉛筆


エンジン(発動機)

特に説明がなかったが、エンジンが展示してあった。


一式戦闘機「隼」搭載
「ハ25型エンジン」

中島飛行機の空冷複列星型14気筒エンジン。
なぜか展示してあった。


トートバック

Tachihi
Since1924
Tachikawa Ki-54

お土産にトートバックをいただきました。ありがとうございます。

あとは、ワックスペーパー(蠟引紙)でつくられたA4ファイルもいただきました。
企画:立飛ストラテージラボ
販売:TAKEOFF-SITE


立飛リアルエステート 南地区5号棟

一式双発高等練習機が展示されたこの建屋は、「立川飛行機」時代からのもの。

以上、一式双発高等練習機の展示レポートでした。
目の前で見られた、往時の息吹。大変貴重な遺産、ありがとうございました。

※撮影:2021年11月


立川関連

陸軍技術研究所の跡地散策(小金井)

小金井と小平のあいだ辺りに、かつて陸軍の研究機関があった。
現在の東京学芸大学のある辺り。
往時を物語るものは多くは残っていないが、ちょっと脚を運んでみました。


陸軍兵器行政本部
陸軍技術研究所

陸軍関係兵器の調査研究を行っていた機関。
昭和17年10月に陸軍兵器機関の整理統合が行われ、「陸軍兵器行政本部」が設置され、陸軍技術本部が廃止された。
陸軍技術本部の隷下にあった研究所は、そのまま陸軍兵器行政本部に属することになった。

  • 第一陸軍技術研究所 小金井 →鉄砲・弾薬・馬具
     現在は小金井市営競技場
  • 第二陸軍技術研究所 小平 →観測・測量・指揮連絡用兵器など
     現在は花小金井一丁目の住宅地
  • 第三陸軍技術研究所 小金井 →爆破用火薬・工兵器材など
     現在は東京学芸大学
  • 第四陸軍技術研究所 相模原 →戦車・装甲車・自動車など
     現在は米軍相模総合補給廠
  • 第五陸軍技術研究所 小平 →通信器材・整備器材・電波兵器など
     現在は東京サレジオ学園
  • 第六陸軍技術研究所 百人町 →化学兵器(毒ガス)など
     現在は東京都健康安全研究センター
  • 第七陸軍技術研究所 百人町 →物理的兵器など
     現在は東京都健康安全研究センター
  • 第八陸軍技術研究所 小金井 →兵器材料・化学工芸など
     現在は東京学芸大学
  • 第九陸軍技術研究所 登戸 →秘密戦・謀略戦用兵器など
     通称は登戸研究所
     現在は明治大学生田キャンパス
  • 第十陸軍技術研究所 姫路 →海運器材など
     現在は姫路市立琴丘高校
  • 多摩陸軍技術研究所 小金井・小平 →電波兵器
     第5・第7・第9の各陸軍技術研究所と
     第4陸軍航空技術研究所の電波兵器研究部門を統合し新設

位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:8921-C6-127
1944年11月07日、陸軍撮影の航空写真を一部加工。

小金井市文化財センター

以下は、小金井市文化財センター展示より

陸軍技術研究所の範囲

陸軍技術研究所跡地

戦争と人々の生活
 日本は、1931年(昭和6)に勃発した満州事変をきっかけに、次第に軍国主義の道を歩みはじめました。1938年(昭和13)に国家総動員法が制定され、地域に国防婦人会や隣組が組織されるなど、戦時体制が強化されていきました。小金井では、1940年(昭和15)と1942年に、陸軍が現在の東京学芸大学を中心とする175haに及ぶ広大な地域を強制的に買収し、陸軍技術研究所が建設されました。太平洋戦争中(1941~1945年)、空襲による大きな被害はありませんでしたが、約150人(昭和18年の街人工16,839人)が出征し、多くの戦死者を出しました。

市登録文化財
陸軍技術研究所境界石杭
昭和15年と17年、矯正買収により現在の小金井市北西部と小平市上水南町3・4丁目に移転してきた陸軍技術研究所は、広大な用地の周囲に石杭を埋めて、その範囲を表示しました。
石杭は全長1000cm、「陸軍」と刻んだ上部20cmを地上に出し、残り80cmの下部は地中に埋めてありました。戦後、技研敷地の払下げと宅地造成にともない大多数が廃棄され、現在残っているのは当館所蔵の石杭と、本町5-31道路脇に残る石杭のみです。

「陸軍」の文字がわかる。

小金井市文化財センターのサイト

https://www.city.koganei.lg.jp/smph/kankobunka/bunkazai/bunkazaisenta.html


陸軍技術研究所の跡地散策

陸軍技術研究所境界石杭(境界標石)

前述に記載のあったとおり、小金井市本町5-31の道路脇に、一つだけ残存している。
摩耗しているが、わずかに「陸軍」と読み取ることができる。

陸軍技術研究所境界石杭
 市登録有形文化財
 登録(追加)平成30年8月

 現在の貫井北町・桜町・本町一帯は、昭和十五年(一九四〇)から昭和十七年にかけて、広大な農地を陸軍技術研究所として陸軍に買収されました。買収用地は万年塀で囲われ、第一(現市営競技場付近)、第二(現市立本町小学校付近)、第三(東京学芸大学構内東部)、第五(現情報通信研究機構付近)、第七(現サレジオ学園付近)、第八(現東京学芸大学中心部)の6つの技術研究所が都心部から移転してきましたが、まもなく終戦を迎えました。戦後は国有地となり、教育機関、国家公務員住宅、都住宅供給公社住宅等ができ、一部は民間に払い下げられ住宅地に変わりました。
 境界石杭は、側面に「陸軍」と刻み、陸軍用地の境界の各所に設置されたものです。小金井市文化財センター所蔵の同様の境界石杭(平成二十三年登録)が全長一メートルであることから、石杭の大半は地下に埋設され、地上に露出しているのは一部とみられます。この境界石杭は戦争遺跡である旧陸軍技術研究所の存在を示す遺物として貴重です。
 平成31年3月
 小金井市教育委員会

道路脇に。

場所

https://goo.gl/maps/RG6n8c8mzRVDfieP7


プール前

この場所には、かつてプールがあった。今はない。
もとを正せば、「陸軍技術研究所テスト用プール」があった。
そこでは、上陸用舟艇や水陸両用戦車のテストなども行われていた。
戦後は、水泳用プールに改造されたが、その後は放置され、現在は再開発され名前のみが往時を伝えている。

四角いプールと丸いプールが見える。(前述の航空写真より)

この近くには、仙川源流の仙川上流端もある。
ただし空堀。


陸軍技術研究所正門付近

東京学芸大学の南側に正門があった。

東京学芸大学の正門。
かつては、陸軍技術研究所の正門があった場所。

正門

正門前の道路。

前述の航空写真から。

周辺を散策してみる。
無造作に残るコンクリート壁の残骸。これは往時のものかどうかは不詳。

これは違う。

このあたりが、陸軍技術研究所当時の敷地の南西端。

特になにもない。。。

少し前までは遺構としては、給水塔なども残っていたというが、再開発により陸軍技術研究所の遺構は失われている。

※撮影は2021年8月


関連

登戸研究所(第九陸軍技術研究所)

相模陸軍造兵廠には第四陸軍技術研究所が置かれていた。

小金井市文化財センター

都立小金井公園
海軍技術研究所

すぐ近くには、陸軍経理学校があった。

陸軍経理学校の跡地散策(小平)

かつて陸軍経理学校が小平市内にあった。わずかに残る痕跡を散策してみる。


陸軍経理学校

陸軍における経理を担当する軍人(経理官)の養成教育、あるいは経理官への上級教育を行っていた陸軍学校。教育に限らず陸軍経理に関する調査と研究なども行っていた。陸軍経理とは会計だけに限らず、監査、被服、糧秣、建築も職務に含まれていた。

明治19年(1886)に陸軍軍吏学舎が設置されたことに始まる。
明治23年(1890)に陸軍軍吏学舎を廃止、陸軍経理学校を開校。
明治33年(1900)に「陸軍経理学校本校」を東京市牛込区河田町に移転。陸軍士官学校の「市谷台」に対して、陸軍経理学校は「若松台」の愛称で呼称されることとなる。
昭和17年(1942)3月、陸軍経理学校は戦争による生徒、学生、幹部候補生等の人員増加のため、東京府北多摩郡小平村に移転。昭和20年8月の敗戦により閉校。

関東管区警察学校の正門は、かつての陸軍経理学校の正門跡。

位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-R556-No1-36
昭和22年(1947)11月14日、米軍撮影の航空写真

陸軍経理学校部分を拡大

グーグル航空写真での同位置。

陸軍経理学校跡は大きく4つに分割された。
北西 陸上自衛隊小平駐屯地
南西 国土交通大学校
南部 関東管区警察学校
東部 小平団地


陸軍経理学校跡地散策

西武鉄道多摩湖線の一橋学園駅の南東が、かつての陸軍経理学校の跡地。
線路と敷地の間にある道路は「国交大通り」。そのまま南下する。

南西の角には、全国建設研修センターがある。
ひときわ大きな桜は「明倫桜」という。

明倫桜

秋月藩の学問所明倫堂跡に残る桜。

明倫桜の下にはレンガ積みがある。

それなりに古そうな感じもあるが、当時のレンガかどうかは不詳。


陸軍境界石(陸軍経理学校)

喜平町みどり公園の入口にたつ陸軍標石。

陸軍境界石
 正面に「陸軍」の二文字が刻まれています。ここには太平洋戦争末期に陸軍経理学校が作られ、その敷地の境界を示すために建てられました。
 もともと現在より5メートルほど南にありましたが、歩道の改修に伴い移設されました。

周辺の歩道には、陸軍境界石と思われる標石が埋もれて点在している。

このあたりの側溝は、当時の境界だろうか?

そろそろ正門が近づいてくる。


陸軍経理学校の正門跡

現在は、関東管区警察学校。
陸軍経理学校時代の門柱が、そのまま活用されている。

陸軍管区警察学校の標識は横に掲げられている。
よくよく見れば、縦位置には埋めたような跡がある。
往時は縦標識で「陸軍経理学校」と掲げられていたことであろう。

そのまま東に歩みをすすめる。

あかしあ通りの銀杏並木

現在は、警察学校と団地の間を縦断する道路「あかしあ通り」。
銀杏並木は経理学校の生徒が卒業記念に植樹したものという。

標石っぽいものが埋もれている。ここから先は小平団地。

陸軍経理学校の南東端から北東端まで歩みをすすめる。
「警察学校北通り」に到達したら、ここからは西に向けて歩く。

陸上自衛隊小平学校
陸上自衛隊小平駐屯地

陸軍経理学校の北西部分は、現在は陸自の施設となっている。

そのまま歩けば、西武線に突き当たる。
陸軍経理学校の跡地を一周歩いた、ことになる。

西武鉄道。
昭和15年に、多摩湖鉄道は武蔵野鉄道へ合併している。

一橋学園駅。
戦前は現在地には開業しておらず、北側に「小平学園駅」が昭和8年に開業していた。
「小平学園駅」と南にあった「一橋大学駅」を統合して「一橋学園駅」が昭和41年に統合し現在の駅名となっている。

だいたい、約3キロ周回の散策、でした。

※撮影は2021年8月


陸軍経理学校の校内神社「若松神社」

若松台の陸軍経理学校


関連

陸軍経理学校生徒隊慰霊碑

磯部浅一は、経理学校出身だった。(もちろん小平に移転する前に卒業しているが)

海軍経理学校

「一死以て大罪を謝し奉る」陸軍大臣・阿南惟幾

終戦時の陸軍大臣・阿南惟幾。多磨霊園に墓所があり、三鷹に邸宅跡がある。
関連する史跡などを徒然に記載していきたいと思う。


阿南 惟幾(あなみ これちか)

1887年(明治20年)2月21日 – 1945年(昭和20年)8月15日
日本帝国陸軍軍人。陸軍大将勲一等功三級。
1945年(昭和20年)4月に鈴木貫太郎内閣の陸軍大臣に就任。終戦直前の陸軍の暴発を抑え、そして終戦の詔が発布される前、8月15日早朝に自決をした。


昭和20年8月9日・御前会議

広島そして長崎と新型爆弾(原子爆弾)が投下され、ポツダム宣言を受諾するしか道がない状況下での御前会議は、昭和20年8月9日に開催された。

これまで陸軍を代表して「一撃講和」、一戦を交えてからの講和を(陸軍へのジェスチャーとしての側面もあったが)主張していた阿南惟幾陸軍大臣も、ここに至って、ポツダム宣言の受諾を受け入れる方向へとなりつつあった。

昭和20年の鈴木貫太郎内閣主要人物
内閣総理大臣:鈴木貫太郎
外部大臣:東郷茂徳
内大臣:木戸幸一
陸軍大臣:阿南惟幾
参謀総長:梅津美治郎
 参謀次長:河辺虎四郎
海軍大臣:米内光政
軍令部総長: 豊田副武
 軍令部次長:大西瀧治郎
内大臣:木戸幸一
枢密院議長 :平沼騏一郎

陸軍の声を代表する阿南惟幾陸軍大臣は、米内光政海軍大臣と激論を戦わせるも、結論が出なかった。そして、ついに鈴木貫太郎首相は、最後の手段として、 昭和天皇のご臨席を仰ぐ御前会議を決断する。
昭和天皇ご臨席のもとに午後11時50分に開始された御前会議。

阿南惟幾陸軍大臣は「本土決戦は必ずしも敗れたというわけではなく、仮に敗れて1億玉砕しても、世界の歴史に日本民族の名をとどめることができるならそれで本懐ではないか」という意見をし、梅津美治郎陸軍参謀総長と豊田副武海軍軍令部総長は阿南の意見に賛同。
東郷茂徳外務大臣は「終戦やむなき」と意見し、米内光政海軍大臣と平沼騏一郎枢密院議長が賛同。
意見が出揃った8月10日深夜2時ごろ、鈴木貫太郎総理大臣は、自らは発言せずに「意見の対立のある以上、甚だ畏れ多いことながら、私が 陛下の思召しをお伺いし、聖慮をもって本会議の決定といたしたいと思います」と 昭和天皇の意見を求めた。終戦反対の強硬派は不意を突かれた形となった。

昭和天皇は身を乗り出すと
「それならば私の意見を言おう。私は外務大臣の意見に同意である」
「もちろん忠勇なる軍隊を武装解除し、また、昨日まで忠勤をはげんでくれたものを戦争犯罪人として処罰するのは、情において忍び難いものがある。しかし、今日は忍び難きを忍ばねばならぬときと思う。明治天皇の三国干渉の際のお心持ちをしのび奉り、私は涙をのんで外相案に賛成する」との「ご聖断」を下した。

そうして、聖断が下された御前会議が終了した。

聖断が下されたのちの、阿南惟幾陸軍大臣の切り替えは見事であった。
なおも終戦に反対する陸軍将校を統制し、出来得る限り暴発を防ぐべく尽力をした。

8月12日には、三鷹の私邸に戻り、家族とつかの間の時間を過ごした。
すでに自決を決意していた阿南としては、家族との最期の別れ、でもあった。

8月13日、 聖断があったにも関わらず、最高戦争指導会議は紛糾しており、翌日に再び 聖断を仰ぐことになった。

昭和20年8月14日・御前会議

8月14日午前11時、御前会議開催。
阿南陸軍大臣、梅津参謀総長、豊田軍令部総長は、「このままの条件で受諾するならば、国体の護持はおぼつかなく、是非とも敵側に再照会をすべき」という意見を述べた。阿南らにとって最期に死守すべき事項が「国体護持」(天皇制の継続)であった。
意見を聞いた 昭和天皇は、「私自身はいかになろうと、国民の生命を助けたいと思う。私が国民に呼び掛けることがよければいつでもマイクの前に立つ。内閣は至急に終戦に関する詔書を用意して欲しい」と述べられた。その瞬間、会議は慟哭に包まれ、鈴木貫太郎首相は、至急詔書勅案奉仕の旨を拝承し、繰り返し聖断を煩わしたことを謝罪した。

慟哭する阿南陸相に対して、 昭和天皇は「あなん、あなん、お前の気持ちはよくわかっている。しかし、私には国体を護れる確信がある」とやさしく説いたという。

陸軍省に戻った阿南陸相は、御前会議での 昭和天皇の言葉を伝え「国体護持の問題については、本日も陛下は確証ありと仰せられ、また元帥会議でも朕は確証を有すと述べられている」「御聖断は下ったのだ、この上はただただ大御心のままにすすむほかない。陛下がそう仰せられたのも、全陸軍の忠誠に信をおいておられるからにほかならない」「 陛下はこの阿南に対し、お前の気持ちはよくわかる。苦しかろうが我慢してくれと涙を流して申された。自分としてはもはやこれ以上抗戦を主張できなかった」と説いた。

大東亜戦争終結ノ詔書

昭和20年8月14日午後4時より、終戦の詔書の審議が始まった。
原案では「戦勢日ニ非ニシテ」と記載有る箇所に関して、阿南陸相は、「身命を投げ出して戦ってきた将兵が納得しない」として「戦局必スシモ好転セズ」との穏やかな表現にして欲しいと主張。
対して、米内光政海相は、「陸軍大臣はまだ負けてしまったわけではないと言われるが、ここまで来たら、負けたのと同じだ」「ありのままを国民に知らせた方がよいと思うので、私はまやかしの文を入れないで、原案のままがよいと思う」と反論。
それでも阿南陸相は、交渉を続け、「まだ最後の勝負はついていないので、ここはやはり“戦局必スシモ好転セズ”の方が相応しいと思う」と主張。陸軍将兵の心情を重んじる表現を譲らずに、この点に関しては米内海相が折れて、阿南陸相の修正案に賛同。


これが、陸軍大臣・阿南惟幾の最後の務めであった。

大東亜戦争終結ノ詔書

(全文)
朕深ク世界ノ大勢ト帝國ノ現狀トニ鑑ミ非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ收拾セムト欲シ茲ニ忠良ナル爾臣民ニ告ク

朕ハ帝國政府ヲシテ米英支蘇四國ニ對シ其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨通告セシメタリ

抑ゝ帝國臣民ノ康寧ヲ圖リ萬邦共榮ノ樂ヲ偕ニスルハ皇祖皇宗ノ遺範ニシテ朕ノ拳々措カサル所
曩ニ米英二國ニ宣戰セル所以モ亦實ニ帝國ノ自存ト東亞ノ安定トヲ庻幾スルニ出テ他國ノ主權ヲ排シ領土ヲ侵スカ如キハ固ヨリ朕カ志ニアラス
然ルニ交戰已ニ四歳ヲ閲シ朕カ陸海將兵ノ勇戰朕カ百僚有司ノ勵精朕カ一億衆庻ノ奉公各ゝ最善ヲ盡セルニ拘ラス戰局必スシモ好轉セス
世界ノ大勢亦我ニ利アラス
加之敵ハ新ニ殘虐ナル爆彈ヲ使用シテ頻ニ無辜ヲ殺傷シ慘害ノ及フ所眞ニ測ルヘカラサルニ至ル
而モ尚交戰ヲ繼續セムカ終ニ我カ民族ノ滅亡ヲ招來スルノミナラス延テ人類ノ文明ヲモ破却スヘシ
斯ノ如クムハ朕何ヲ以テカ億兆ノ赤子ヲ保シ皇祖皇宗ノ神靈ニ謝セムヤ
是レ朕カ帝國政府ヲシテ共同宣言ニ應セシムルニ至レル所以ナリ
朕ハ帝國ト共ニ終始東亞ノ解放ニ協力セル諸盟邦ニ對シ遺憾ノ意ヲ表セサルヲ得ス
帝國臣民ニシテ戰陣ニ死シ職域ニ殉シ非命ニ斃レタル者及其ノ遺族ニ想ヲ致セハ五内爲ニ裂ク
且戰傷ヲ負ヒ災禍ヲ蒙リ家業ヲ失ヒタル者ノ厚生ニ至リテハ朕ノ深ク軫念スル所ナリ
惟フニ今後帝國ノ受クヘキ苦難ハ固ヨリ尋常ニアラス
爾臣民ノ衷情モ朕善ク之ヲ知ル
然レトモ朕ハ時運ノ趨ク所堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ以テ萬世ノ爲ニ太平ヲ開カムト欲ス
朕ハ茲ニ國體ヲ護持シ得テ忠良ナル爾臣民ノ赤誠ニ信倚シ常ニ爾臣民ト共ニ在リ
若シ夫レ情ノ激スル所濫ニ事端ヲ滋クシ或ハ同胞排擠互ニ時局ヲ亂リ爲ニ大道ヲ誤リ信義ヲ世界ニ失フカ如キハ朕最モ之ヲ戒ム
宜シク擧國一家子孫相傳ヘ確ク神州ノ不滅ヲ信シ任重クシテ道遠キヲ念ヒ總力ヲ將來ノ建設ニ傾ケ道義ヲ篤クシ志操ヲ鞏クシ誓テ國體ノ精華ヲ發揚シ世界ノ進運ニ後レサラムコトヲ期スヘシ
爾臣民其レ克ク朕カ意ヲ體セヨ

御名御璽
昭和二十年八月十四日
内閣總理大臣鈴木貫太郞

大東亜戦争終結ノ詔書
(読み下し)
朕深く世界の大勢と 帝国の現状とに鑑み 非常の措置を以って時局を収拾せんと欲し ここに忠良なる汝臣民に告ぐ

朕は帝国政府をして 米英支蘇四国に対し その共同宣言を受諾する旨通告せしめたり

そもそも帝国臣民の康寧をはかり 万邦共栄の楽しみを共にするは 皇祖皇宗の遺範にして 朕の拳々措かざる所
さきに米英二国に宣戦せる所以もまた 実に帝国の自存と東亜の安定とを庶幾するに出でて 他国の主権を排し領土を侵すが如きは もとより朕が志にあらず
然るに交戦既に四歳を閲し 朕が陸海将兵の勇戦 朕が百僚有司の励精 朕が一億衆庶の奉公 各々最善を尽くせるに拘らず 戦局必ずしも好転せず
世界の大勢また我に利あらず
しかのみならず 敵は新たに残虐なる爆弾を使用して しきりに無辜を殺傷し 惨害の及ぶところ真に測るべからざるに至る
しかもなお交戦を継続せんか 遂に我が民族の滅亡を招来するのみならず 延べて人類の文明をも破却すべし
かくの如くは 朕何を以ってか 億兆の赤子を保し 皇祖皇宗の神霊に謝せんや
是れ 朕が帝国政府をして共同宣言に応せしむるに至れる所以なり
朕は帝国と共に 終始東亜の解放に協力せる諸盟邦に対し 遺憾の意を表せざるを得ず
帝国臣民にして戦陣に死し 職域に殉し 非命に倒れたる者及び 其の遺族に想いを致せば五内為に裂く
且つ戦傷を負い 災禍を被り 家業を失いたる者の厚生に至りては 朕の深く軫念する所なり
思うに今後帝国の受くべき苦難はもとより尋常にあらず
汝臣民の衷情も朕よく是れを知る
然れども朕は時運の赴く所 堪え難きを堪へ 忍び難きを忍び 以って万世の為に太平を開かんと欲す
朕はここに国体を護持し得て 忠良なる汝臣民の赤誠に信倚し 常に汝臣民と共に在り
もしそれ情の激する所 濫りに事端を滋くし 或いは同胞排せい 互いに時局を乱り 為に大道を誤り 信義を世界に失うか如きは 朕最も之を戒む
宜しく 挙国一家 子孫相伝え かたく神州の不滅を信じ 任重くして道遠きを念い 総力を将来の建設に傾け 道義を篤くし 志操を堅くし 誓って国体の精華を発揚し世界の進運に後れざらんことを期すべし
汝臣民それ克く朕が意を体せよ

御名御璽
昭和二十年八月十四日
内閣総理大臣鈴木貫太郎

以下は、2016年に国立公文書館で公開のあった「終戦の詔書原本」。

「戦局必スシモ好転セズ」 の修正は、阿南の強い要望で修正された。
紙を削って修正されたという箇所がよく分かる。

陸軍大臣として阿南惟幾が公的書類へ署名した最後の文書。

終戦の詔書の審議も無事に終わり閣僚たちが終戦の詔勅への署名する。

阿南惟幾陸相は、閣僚たちに最後の挨拶を取り交わす。

阿南陸相は、東郷外相のそばに歩み寄り、最敬礼で「さきほど保障占領及び軍の武装解除について、連合国側に我が方の希望として申し入れる外務省案を拝見しましたが、あの処置はまことに感謝にたえません。ああいう取り扱いをしていただけるのなら、御前会議であれほど強く言う必要はありませんでした」と謝罪。
東郷外相は「いや、希望として申し入れることは外務省として異存はありません」と答えると、阿南陸相は「いろいろと本当にお世話になりました」とさらに丁重に腰を折って礼をしたので、東郷外相はあわてて「とにかく無事にすべては終わって、本当によかったと思います」と返答している。

次に、総理大臣室を訪れた阿南陸相は、鈴木首相に「終戦についての議が起こりまして以来、自分は陸軍の意志を代表して、これまでいろいろと強硬な意見ばかりを申し上げましたが、総理に対してご迷惑をおかけしたことと想い、ここに謹んでお詫びを申し上げます。総理をお助するつもりが、かえって対立をきたして、閣僚としてはなはだ至りませんでした。自分の真意は一つ、国体を護持せんとするにあったのでありまして、あえて他意あるものではございません。この点はなにとぞご了解いただくよう」と謝罪。同席していた迫水内閣書記官長は、陸軍の暴発を抑えるために心にもない強硬意見を発していた阿南の心情を理解しもらい泣きをしている。

鈴木首相は、阿南陸相の肩に手をやって「阿南さん、あなたの気持ちはわたくしが一番よく知っているつもりです。たいへんでしたね。長い間本当にありがとうございました」「今上陛下はご歴代まれな祭事にご熱心なお方ですから、きっと神明のご加護があると存じます。だから私は日本の前途に対しては決して悲観はしておりません」と答え、阿南は「わたくしもそう信じております」と同意。

阿南陸相が部屋を離れた後に、鈴木首相は迫水に「阿南君は暇乞いに来たんだね」と。最期の覚悟を感じ取っていた。
ちなみに昭和4年に、阿南惟幾が侍従武官に就任した際の、当時の侍従長は鈴木貫太郎であり、その時から阿南は鈴木の懐の深い人格に尊敬の念を抱き、その鈴木への気持ちは終生変わるところがなかった。

自決

8月14日の夜11時すぎに陸軍大臣官邸に戻ってきた阿南陸相。自決の意志は陸軍大臣官邸に帰宅する前から固まっていた。

8月15日深夜1時、阿南の義弟であった竹下正彦中佐が陸軍大臣官邸を訪れた。竹下はクーデター決起(宮城事件)に際して阿南陸相を説得するために、阿南のもとを訪れたが、奇しくも阿南の最期に立ち会うこととなった。

阿南が竹下に「もう暦の上では15日だが、14日は父の命日だから、この日に決めた。15日には玉音放送があり聴くのは忍びない」と遺書の日付を14日とした理由を話した。

会話の最中に銃声が聞こえ始め、宮城事件が勃発。決起した青年将校は近衛師団長森赳中将を殺害。井田正孝中佐が報告のための阿南陸相のもとを訪れると、「そうか。森師団長を斬ったのか、お詫びの意味をこめて私は死ぬよ」と短くもらしただけであったという。

宮城事件に関係する慰霊碑は青松寺にある。
「國體護持 孤忠留魂之碑」


宮城事件が発生しているさなかの、ちょうど同じころの陸軍官邸。
阿南は、竹下と井田を囲んで3人で酒盛りをし、最期の宴を興じ、そして夜明け間近に二人を下がらせた。

阿南は侍従武官時代に昭和天皇から拝領した白いシャツを身につけ、軍服を床の間に置き、昭和18年に戦死した惟晟(次男)の遺影を置いて、ひとり縁側で割腹自決した。

義弟の竹下が阿南の手から短刀を取り介錯。井田は官邸の庭の土の上に正座し、阿南がいる縁側の方を仰ぎ慟哭していた。

「阿南陸相は、5時半、自刃、7時10分、絶命」と記録されている

阿南陸相は、8月15日正午のラジオでの玉音放送を聴取することもなく、ポツダム宣言の最終的な受諾返電の直前の自決となった。

8月15日夜、阿南の遺体は市ヶ谷台で荼毘に付された。

阿南惟幾 遺書

阿南 惟幾 遺書

一死以テ大罪ヲ謝シ奉ル

昭和二十年八月十四日夜
 陸軍大臣 阿南惟幾 花押

神州不滅ヲ確信シヽ

「一死以て大罪を謝し奉る」
阿南惟幾は、この一言の遺書に、 陸軍の責任者として、大東亜戦争責任の「大罪」を一死でもって「謝し奉る」覚悟を記した。

阿南惟幾の遺書(血染めの遺書)は、遺族から靖國神社に奉納され、遊就館にて保存されている。

画像引用:

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E5%8D%97%E6%83%9F%E5%B9%BE#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Anami’s_will.jpg

阿南惟幾 辞世の句

阿南惟幾 辞世の句

大君の
 深き恵に
  浴みし身は
言ひ遺こすへき
 片言もなし

辞世の句は、昭和13年(1938)に、第109師団長として転出するにあたり、 昭和天皇と二人きりで陪食した際に、その感激を詠んだ歌であり、国体護持に最後まで拘った、阿南惟幾の心意でもあった。

死後

8月15日の玉音放送後、終戦に伴う臨時閣議が開催。
閣議に先立ち、空席となった陸軍大臣席を前に、鈴木首相から話があった。
「阿南陸軍大臣は、今暁午前5時に自決されました。反対論を吐露しつつ最後の場面までついて来て、立派に終戦の詔勅に副署してのち、自刃して逝かれた。このことは立派な態度であったと思います」
「実に武人の最期らしく、淡々たるものであります……謹んで、弔意を表する次第であります」との報告があり、阿南の遺書と辞世の句もその場で披露された。

また、阿南陸相がとった最後の手段、自らの自決という行為は全陸軍に衝撃を与え、終戦という事実を強烈に全陸軍に伝えるここととなった。

阿南が最期まで身を挺して護り抜こうとした「国体護持」の象徴である 昭和天皇は、阿南が自決したという知らせを聞くと、「あなんはあなんとしての考え方もあったに違いない。気の毒なことをした……」と漏らされた。

終戦に至る過程で激論を繰り広げてきた、米内海相は、阿南の自決を聞くと「我々は立派な男を失ってしまった」と語った一方で、「私は阿南という人を最後までよくわからなかった」と感想を残している。
阿南の自決直後、米内海相は誰よりも早く阿南の弔問に訪れている。

阿南と陸大同期生であった石原莞爾は、ご聖断による終戦を聞くと、まずは阿南の身を案じて「阿南の気持ちは俺がよく知っている。きっと阿南は死ぬだろう。」と知人に話している。

なお、日本の内閣制度発足後、現職閣僚の自殺はこれが初めてのことであった。


阿南惟幾陸軍大将 御着用の軍服
(冬服)

阿南陸軍大臣の冬服は市ヶ谷台にあり、そして夏服は靖國神社遊就館にある。
以下は市ヶ谷記念館にて。

陸軍大将阿南惟幾荼毘之碑

8月15日の夜に阿南大将の遺体は、自決をした陸軍大臣官邸から、大本営陸軍部・陸軍省・参謀本部のあった陸軍の中枢たる市ヶ谷台に運ばれ、そこで荼毘に付くされた。

市谷台の防衛省メモリアルパーク内に、「陸軍大臣陸軍大将 阿南惟幾 荼毘之跡碑」がある。
(通常非公開)

以下は、市ヶ谷台ツアーでかつて配布のあった「メモリアルゾーンのご案内」パンフレットより


阿南惟幾之墓

多磨霊園に阿南惟幾は眠る。場所は、13区1種25側。

阿南惟幾之墓

合掌

阿南惟幾の辞世の句が碑に刻まれている。

大君の深き恵に
  あみし身は
言ひ遺こすへき
 片言もなし
昭和20年8月14日夜
陸軍大将 惟幾(花押)

故 大将追慕の念已み難く 友人舊部下教へ子親威相集り 卿を同じくする朝倉文夫氏に嘱して 之の碑を建つ 
 昭和二十八年八月十四日

多磨霊園には、阿南惟幾ほか、一族が眠る。

場所

https://goo.gl/maps/mxdhnKMC3VWHcr2r9


阿南惟幾邸宅跡

三鷹市下連雀に、阿南惟幾の私邸があった。現在は、平和通りと呼称されている。

阿南家
長男・阿南惟敬(1921年生まれ、元防衛大学校教授)
次男・阿南惟晟(1923年生まれ、陸軍少尉、1943年〈昭和18年〉戦死)
三男・阿南惟正(1933年生まれ、元新日本製鐵副社長、靖国神社氏子総代)
四男・野間惟道(1937年生まれ、野間家へ養子、野間佐和子の夫、元講談社社長)
五男・阿南惟茂(1941年生まれ、元駐中国大使)
長女・喜美子
次女・聡子(大國昌彦元王子製紙社長の妻)

現在、阿南惟幾邸宅跡は、今はふたつの阿南家の邸宅となっていた。

阿南惟茂
阿南惟幾の五男(末っ子)。外交官として活躍し中国大使などを勤めた。

南隣にも阿南家。

阿南惟正
阿南建太

阿南惟正は、阿南惟幾の三男。実業家として新日本製鐵副社長などを勤めた。また、靖國神社氏子総代も勤めていた。2019年3月に86歳で没している。
阿南建太は、阿南惟正の長男。

すぐ近く、おなじ通りに太宰治の邸宅もあった。

太宰治のゆかりの「さるすべり」が花を咲かしていた。

阿南惟幾と太宰治は、ご近所ではあったが、生きていた世界が異なるために、お互いを知っていたかどうかは不詳。。。

場所

https://goo.gl/maps/gRvzeMJPaiAk93pt6


阿南一族の出身地、大分県竹田市の広瀬神社(御祭神:広瀬武夫)には「阿南惟幾顕彰碑」が建立され、「阿南惟幾胸像」も建立されている。未訪問。いつの日か、訪れたい。

以上、阿南惟幾関連の史跡、でした。


関連

竹製落下タンク(小金井市文化財センター)

東京都小金井市。小金井市文化財センター。
ここに、落下増槽(落下タンク)が展示してあるというので、足を運んでみた。

館内の展示物撮影は許可制。申請を行う。
 学芸員さん「何を撮影されますか」
 私「戦時下の展示物を、具体的には、増槽を・・・」
 学芸員さん 「わかりました、そんなに珍しいものではないですけど・・・」
 私「いえいえ、珍しいものだと思います。」
 学芸員さん「撮影の用途は?」
 私「研究?でしょうか。趣味で。」
 学芸員さん「SNSとかブログに投稿されます?」
 私「そうですね、ネット上にも写真公開しています。大丈夫ですか?」
 学芸員さん「えぇ。問題ないですね」
話のはやい学芸員さんで助かります。

学芸員さんは、さっそく「増槽」が展示された由来や、小金井にあった陸軍施設「陸軍技術研究所」の解説などをしてくださいました。
「陸軍技術研究所」跡地は、このあと赴こうと思っていましたので、記事は別立てにて。


竹製落下タンク(増槽)

どのような航空機に搭載されていた増槽かは不明。
統一型二型(木製)落下タンク(200リットル)
主に、陸軍戦闘機(隼、飛燕、疾風、五式戦)に装備され、海軍では零戦21型、52型乙の(爆戦型)が装備していた、という。珍しく陸海軍で共用していた落下タンク。

上部には銘板が残っており、名称は「らつかたんく」「竹製」であることがわかる。竹に紙張り。これで航空燃料が漏れずにタンクとして活用できるものなのですね。

落下タンク(増槽)
太平洋戦争当時、戦闘機の機体下部に取り付けられた補助燃料タンク。期待本体内の燃料を温存するために、先に落下タンク内の燃料を使用し、戦闘開始と同時に投棄して身軽になって戦いました。
日本戦闘機の卓越した航続距離を支えた部品ですが、素材は当時の日本の資源不足を反映して、竹製の骨組みに紙張りです。この落下タンクは敗戦直後、調布飛行場から持ち帰り、何らかの容器として使われていたようです。

名稱 らつかたんく
製造番號
製造所

竹製

戦後、調布飛行場に様々の飛行機の部品が転がっていたのだろう。展示されている増槽もそうして回収されてきたものと思われます、と学芸員さん。
飛行機のタイヤをリヤカーなどに転用していた例もありますし。

一矢と和冬が調布飛行場へ行き。飛行機の部分品をはずして来る。計器、コードのようなものを持ってあそんでいる。座席からはずして来たのだそうだ。
 子供ばかりではなく、大人もやっているらしい。座席をそっくり持って来て、椅子にしている家もある。スプリングがきくから具合がいいだろう。
 そういえば。先日、農家が作物を積んで引いてくる車に、ひどく幅のひろい立派なゴムタイヤのついているのを見た。いつものならカタンカタンと音をたてて動く車が、無音ですべっているのを不思議に思ったが、なるほど、あれは飛行機の車輪だったわけだ。
 富永次郎「失われた季節-日本人の記録」より

つまりこういうことですね。

紙が経年劣化で割れ始めていた。

下地が見える。なるほ、竹を編んでいる感がする。


M69焼夷弾

M69焼夷弾も陳列されていた。

M69焼夷弾
太平洋戦争当時、アメリカ軍が木造の多い日本家屋を焼き払うために開発した兵器で、爆風で破壊する爆弾とは異なります。38発のM69焼夷弾を束ねた親弾(E46集束焼夷弾)がB29爆撃機から投下され、空中でバラバラの子弾(M69焼夷弾)に分離して、地上に着弾すると油脂を成分とする焼夷剤が火災を引き起こします。燃えずに落ちた焼夷弾は、風呂の焚き付けに使われることもありました。
この焼夷弾には「焼夷弾」と書かれていますが、のちに書き込んだものと思われます。


小金井市文化財センターには、 「陸軍技術研究所」 関連の展示もある。

陸軍技術研究所境界石杭

陸軍技術研究所境界石杭
昭和15年と17年、矯正買収により現在の小金井市北西部と小平市上水南町3・4丁目に移転してきた陸軍技術研究所は、広大な用地の周囲に石杭を埋めて、その範囲を表示しました。
石杭は全長100cm、「陸軍」と刻んだ上部20cmを地上に出し、残りの80cmの下部は地中に埋めてありました。戦後、技研敷地の払下げと宅地造成にともない大多数が廃棄され、現在残っているのは当館所蔵の石杭と、本町5-31道路脇に残る石杭のみです。

「陸軍技術研究所」に関しては、別記事にて。


浴恩館

小金井文化センターはかつての「浴恩館」であった。

そして「浴恩館」は、昭和3年、京都御所で行われた昭和天皇即位大嘗祭の神職の更衣所の建物であった。

小金井文化センター
文化財センターは、教育者下村 湖人が青年団講習所の所長として講習生と語らい、小説「次郎物語」の構想を練った浴恩館を改修し、博物館施設としたものです。
市内から発見された考古資料・古文書・民具をもとに、小金井市のあゆみや生活について常設展示しています。
この建物は、「浴恩館」と呼ばれ、昭和5年から青年団講習所として使われた由緒のある建物です。
講習所長であった下村 湖人の小説『次郎物語』の舞台としても知られ、空林荘と共に、市史跡に指定されています。

浴恩館のあゆみ
浴恩館は昭和3年、京都御所で行われた昭和天皇即位大嘗祭の神職の更衣所を、財団法人日本青年館が譲り受けて移築したものです。昭和6年から全国の青年団の指導者層が集まり、寝食を共にして人間形成をする講習所として機能しました。
日本青年館の設立理事であり、「青年館の父」とうたわれる田澤たざわ 義鋪よしはるは、昭和8年、故郷佐賀の後輩で無二の友人、下村 湖人を、浴恩館に開かれた青年団講習所の所長として呼び寄せ、実践教育に当たらせました。
しかし、全国から才能ある青年が集まる浴恩館は、軍事教練に格好の場として軍部に目を付けられました。「次郎物語」も雑誌連載中止まで追い込まれた湖人は、昭和12年に講習所所長を辞任、以後、浴恩館は戦時体制に組み込まれます。
戦後、再び青年教育の場、あるいはユースホステルとして復興を果たしますが、時代は高度成長期に突入し、農村社会を支えていた青年団が自然消滅していきます。維持困難におちいった日本青年館は、教育の場として運用することを条件に、昭和48年に小金井市に売却、小金井市は青少年センターとして開館、平成5年には室内を抜本的に改装し、小金井市の郷土資料を展示収蔵する文化財センターとして、新たに開館しました。

小金井市
https://www.city.koganei.lg.jp/kankobunka/bunkazai/bunkazaisenta.html

浴恩館と下村湖人
次郎物語の舞台
 浴恩館は、1928年(昭和3)の大嘗祭で使用された建物を、財団法人日本青年館が譲り受け、京都御所からここに移築し、全国の青年団指導者の講習施設として開設したもので、各種の講習会が開かれました。
 下村湖人(本名虎六郎・前台北高等学校長)は、田沢義鋪(大日本連合青年団常任理事)に招かれ、1933~1937(昭和8~12)まで、専任の青年団講習所長を務めました。
 空林荘は、講習宿舎として田沢が寄贈したもので、湖人はここで講習生と人生を語り、「次郎物語」の構想を練りました。「次郎物語」の構想を練りました。「次郎物語」第五部に登場する友愛塾、空林庵は、浴恩館と空林荘がそれぞれモデルといわれ、物語は、湖人の浴恩館における青年教育への情熱や実践を基に創作されました。

同じ小金井市内にあった陸軍技術研究所跡地散策の記録は別記事にて。

※2021年8月撮影

場所

https://goo.gl/maps/zwceWeap6MQuD2Ac7


関連

一式戦闘機「隼」のタイヤ(檜原村の手打ちそば「深山」)

これは2016年(平成28年)10月22日の撮影記録。

友人からお誘いがありまして、突然に唐突に東京多摩地区唯一の村「檜原村」へと赴くことに。
友人曰く「蕎麦屋に行こう」と。
友人が懇意にしている蕎麦屋さんへと連れられまして・・・。

えっ、蕎麦屋?

なんでも、蕎麦屋に凄いものがあるらしい。


一式戦闘機「隼」車輪

大日本帝國陸軍
中島キ43一式戦闘機「隼」
日本タイヤ株式会社 (現在のブリヂストン)
昭和19年5月製 昭和18年10月製

昭和17年にブリッヂストンタイヤ株式会社から、社名を「日本タイヤ株式会社」に変更。
タイヤからは昭和19年5月製及び昭和18年10月製の刻印が確認できる。

このタイヤは 一式戦闘機・隼二型にものという。

「日本タイヤ」の文字が見える

「なんでも鑑定団」にて証明された「隼の車輪」は、蕎麦屋にて静かにその歴史を物語っていた。

https://www.tv-tokyo.co.jp/kantei/kaiun_db/otakara/20121204/02.html#

エピソード
生まれも育ちも東京都桧原村の高木さん。1年前に脱サラし、今年の春、長年の夢だった蕎麦屋を開いた。また、30年前から、夏は会社員の傍らキャンプ場を経営してきたため、7月から9月は蕎麦屋を休んでキャンプ場の主をしている。
昨年6月、そのキャンプ場で使うためにある物が欲しいと思っていた矢先、偶然通りかかった民家の壁にそれが立てかけてあるのを発見。かなりボロボロだったが、持ち主に頼み込んで1万円で譲ってもらった。しかし、その後、偶然これを見た友人が興奮し「とんでもないお宝だ」と言った。本当に凄いものなのか?

何でも鑑定団 
日本軍の戦闘機のタイヤ https://www.tv-tokyo.co.jp/kantei/kaiun_db/otakara/20121204/02.html

古民家を再活用した蕎麦屋さん。
この雰囲気。 たまらない人には、たまらない雰囲気です。
ヤバイです。 週末は結構な行列にもなる人気店だとか。


手打ち蕎麦「深山」

主役の蕎麦。
本格的な手打ち蕎麦に檜原村特産舞茸御飯に、自家栽培野菜、手作り燻製合鴨など。
そして、店主考案の蕎麦甘味。

料理を語る店主の楽しそうな、それでいてこだわり溢れる姿とともに、味わうひととき。
こんなん、旨いに決まってるじゃないですか!

こちらは、お土産に。
檜原村の男爵いもを使用した、じゃがいもアイス。
バニラの甘さと、じゃがいもの甘さがコラボ。
これもおいしいです。 入っているジャガイモの粒もワンポイント。

以上、「隼の車輪」と蕎麦屋さんのお話でした。

蕎麦焼酎を蕎麦湯で割るという粋な吞みも堪能。

ありがとうございました!!


手打ちそば 深山(みやま)

サイト

http://soba-miyama.com/


関連

東京第一陸軍造兵廠第三製造所江戸川工場・精工舎南桜井工場の跡地散策(春日部)

埼玉県春日部市。東武野田線「南桜井駅」の北側は、かつて軍需工場であった。
しかし、2021年の夏に、軍需工場時代を物語る門柱が撤去され、往時を偲ぶものは皆無となった。。。

上記の場所に、かつて門柱があった。取り壊し済み。
以下は、Googleストリートビューにて。奥に見える門が、軍需工場時代からの正門であった。


東京第一陸軍造兵廠(東一造)

大日本帝国陸軍の陸軍造兵廠のひとつ。

東京小石川後楽園にあった「東京砲兵工廠」の「銃砲製造所」を明治38年に十条に移転したことにはじまる。そののち、明治41年には「火具製造所」も小石川から十条に移転。

大正12年に、東京砲兵工廠の「銃砲製造所」「火具製造所」が合併。
「陸軍造兵廠火工廠十条兵器製造所」となる。

昭和11年に小石川から東京工廠本部が十条に移転。
「陸軍造兵廠東京工廠」の下に「銃砲製造所」「精器製造所」「火具製造所」が編成される。

昭和15年組織改変
陸軍造兵廠東京第一陸軍造兵廠(略称「東一造」)
  第一製造所(銃砲製造所)
  第二製造所(精器製造所)
  第三製造所(火具製造所)
 
陸軍造兵廠東京第一陸軍造兵廠(東一造の主要施設は以下)
 陸軍造兵廠本部
  第一製造所(銃砲製造所)
   仙台製造所(宮城・第一製造所所管)
  第二製造所(精器製造所)
   大宮製造所・研究所(埼玉・第二製造所から分離)
    大宮製造所池田工場(大阪)
  第三製造所(火具製造所)
   第三製造所滝野川工場 
    技能者養成所
   第三製造所尾久工場 
   第三製造所江戸川工場(埼玉春日部)
   川越製造所(埼玉・第三製造所から分離)
   小杉製造所(富山・第三製造所所管)


東京第一陸軍造兵廠第三製造所江戸川工場
精工舎南桜井工場(服部時計店南桜井工場)

戦時下体制により半官半民であった「精工舎」は、昭和18年夏頃に東京第一陸軍造兵廠から陸軍関係時計信管部門を南桜井村に疎開するよう伝達を受け、昭和19年3月より錦糸町の工場からの疎開を開始。
精工舎南桜井工場(服部時計店南桜井工場)として、昭和19年10月より操業を開始。精工舎南桜井工場では、服部時計店が培ってきた時計生産技術を生かし、高射砲弾丸の頭につけ爆発を誘発する45秒時計信管、55秒時計信管とよばれた時限信管を製造していた。

昭和20年3月から4月にかけて、東京都北区十条の東京第一陸軍造兵廠第三製造所の空襲によって、工場の一部疎開を決定。第三製造所の一部が、先行して南桜井の地で操業していた半官半民の「精工舎南桜井工場」の未使用であった北部の敷地と建物を借用し疎開することとなった。
東京第一陸軍造兵廠第三製造所江戸川工場は、13万4,646平方メートル(約4万800坪)、工場建屋面積は5,000平方メートル、機械509台、従業員数1,291人、であった。

昭和20年5月から7月にかけて、十条の第三製造所から、大小様々な機械を運び工場を移転。昭和20年7月1日より、高射砲用信管部品・組立、一般信管部品・組立、航空信管部品製造、風船爆弾用信管などの製造を開始。しかし操業1ヶ月半後の8月15日に終戦となり工場は閉鎖。短命と終わった。

南側の半官半民の軍需工場であった「服部時計店・精工舎南桜井工場」では、時限式信管を製造し、そして北側の東京第一陸軍造兵廠の「第三製造所江戸川工場」では、瞬発信管を製造。
南北に隣接する両工場を合わせると、敷地面積は51万677平方メートル(約15万5,000坪)であった。

「精工舎南桜井工場」 「 第三製造所江戸川工場」跡地に、キリスト教社会運動家の賀川豊彦の構想のもと工場施設設備が転用され、昭和21年3月28日に「農村時計製作所」が設立。しかし、農村時計は昭和25年10月に事業を停止。
昭和25年11月3日、 農村時計の末期に好評だった「リズム時計」を由来とする新会社「リズム時計工業株式会社」が発足。「リズム時計南桜井工場」は平成9年(1997)年9月に東京都墨田区に移転。
現在は再開発中。なお、この地には朝倉病院事件を起こした精神病院もあった。


位置関係

地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M452-16
昭和22年(1947年)9月8日、米軍撮影の航空写真を一部加工。

上記を拡大。

Google航空写真


東京第一陸軍造兵廠第三製造所江戸川工場・精工舎南桜井工場の跡地

足を運ぶのが、一歩遅かったです。

帝都を歩く」様の2021年5月記事では、残存していた「門柱」は、2021年7月訪問の段階で跡形もなく。

残念・・・

この更地は、かつてここにあった精神病院(朝倉病院)の跡地でもあり、そして時計工場(リズム時計)の跡地でもあり、軍需工場(精工舎)の跡地でもあった。

いまは、かつての歴史をすべて上書きすべく大規模再開発のために造成中。

貯水池、があった。
かつての軍需工場時代では、この近くに給水塔があった。

住宅地。軍需工場の北西端にあたる。

軍需工場の北辺を歩く。
写真の右手が工場エリア。写真の左手が病院・男子寮エリア。

この先は、男子寮エリア。工場エリアとの境目も、いまは普通の住宅地。

この場所が、工場エリアの北端。
春日部市立桜川小学校の北端でもある。

安永6年(1777)建立の五穀成就の仏様。この場所で軍需工場時代も見つめていたことになる。

古そうな建物もあったが、往時のものかは不詳。

春日部市立桜川小学校に何かあった。トンネル?
信管工場ということもあるので、往時の防爆壁等であるば興味深いが不詳。

裏側。

なにかの基礎もあった。

春日部市立桜川小学校は、東京第一陸軍造兵廠第三製造所江戸川工場の圧延工場や組立工場などがあったエリア。

そのまま南下。軍需工場の南東端。


南桜井駅

東武野田線(東武アーバンパークライン)。

1930年(昭和5年)12月9日、永沼臨時停留所として開業。
1931年(昭和6年)7月3日、永沼停留所、常設の停留所化。
1932年(昭和7年)8月、永沼停留所を柏寄りに約400m移転し「南桜井駅」に改称。

1943年(昭和18年)11月6日、精工舎南桜井工場の資材・製品輸送のために、現在の南桜井駅の位置に貨物専用の米島仮停車場(米島駅)を開業。

1945年(昭和20年)9月30日、米島駅休止。
1956年(昭和31年)12月23日、南桜井駅と米島駅を統合、南桜井駅を米島駅の位置に移転し「南桜井駅」として再開業。

かつての軍需工場・時計工場の跡地は、面影を残すことなく商業地区として生まれ変わっていた。

※2021年7月撮影


関連

陸軍柏飛行場関連の戦跡散策(軍都柏・その7)

軍都柏の戦跡散策、その7。
柏飛行場の名残を探しに。
この日は、柏の葉キャンパス駅で自転車を借りて、飛行場を中心に自転車散策を敢行しました。

本記事は、流山市内の戦跡も含みますが、便宜上「柏飛行場・軍都柏」として一緒に掲載します。


位置関係

地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-R1585-76
昭和23年(1948年)7月25日、米軍撮影の航空写真を一部加工。


軍都「柏」

軍都柏とも軍郷柏とも称されることになった、千葉県柏市。
柏飛行場をはじめとし、多くの軍事施設が集まる地となっていた。

柏飛行場
昭和12年(1937)6月、近衛師団経理部は東葛飾郡田中村十余二に陸軍の新飛行場を建設する旨を決定。
昭和13年11月に「陸軍柏飛行場」(東部第105部隊)が完成。東京立川から「飛行第五戦隊」が移転してきたことにより、柏飛行場は、帝都防空の航空基地となり、軍都としての歩みもここからはじまった。

昭和20年4月には、ロケット推進戦闘機「秋水」開発のための陸軍の特殊部隊、陸軍航空審査部特兵隊が柏飛行場に進出。柏には、秋水の燃料貯蔵庫なども設けられた。

高射砲部隊
昭和12年10月、「飛行部隊」とは別に、帝都防空のもう一つの主役として「高射砲部隊」が千葉県市川市国府台に高射砲第二連隊が新設。
昭和13年11月に柏飛行場の完成とあわせて、柏(富勢)に「高射砲第二連隊」も移動。帝都防空の一翼を担うとともに、東葛地域の飛行場の防御も担当した。
昭和16年に東京に「高射砲第二連隊」主力が移動。その後、 高射砲第二連隊 の跡地には留守近衛第二師団の歩兵・工兵補充隊が駐留し、昭和20年に東京師管区第二補充隊(東部八三部隊)と同近衛工兵補充隊(東部一四部隊)となった。

その他
昭和12年11月、東京憲兵隊市川分隊柏分遣隊開設

昭和14年2月、第4航空教育隊(東部第102部隊)が開設。飛行機の整備に関する訓練や教育を担当した。
昭和14年4月、陸軍航空廠立川支廠柏分廠も開設され、飛行場に配備されていた飛行機や車両の整備・点検を行う補給機関を担った。
同じ 昭和14年4月には、陸軍柏病院が開設。
昭和20年6月には柏(鎌ヶ谷)に、陸軍藤ヶ谷飛行場が完成している。現在の海自下総航空基地となる。
また、昭和18年11月には、柏陸軍墓地忠霊塔も建設された。

ーーー

ファイル: USA-M29-58
昭和24年(1947年)2月8日、米軍撮影の航空写真を一部加工。

軍都柏の主要軍事施設を記載しておく。


旧陸軍東部第105部隊の営門

高田原交差点、柏警察署高田原交番の隣、航空自衛隊 柏送信所の入り口に、往時と同じように営門門柱が残っている。
この場所から北側には柏飛行場「陸軍東部第105部隊」が展開。また、この営門より南に下れば、「陸軍東部102部隊」 が展開していた。

旧陸軍東部第105部隊の営門
 この門柱は、昭和13年(1938)11月に開設された柏飛行場の兵営施設の営門(旧陸軍東部第105部隊営門)で、建設当時の位置のまま残されています。
 右の写真は、施設正面を撮影したもので、営門や衛兵の姿、本部建物など戦争当時の状況を伺うことができる貴重なものです。
 柏飛行場は、現在の県立柏の葉公園を含む柏の葉、中十余二の地区にありました。昭和初期、中国との関係悪化から、「国土防空」特に「帝都防空」のため飛行場建設を急ぐ必要がありました。そこで昭和12年(1937)6月、陸軍の近衛師団経理部が新設飛行場予定地を旧東葛飾郡田中村十余二に計画し、地元の誘致運動もあり、同年9月に旧田中村、八木村(現流山市)にまたがる約145万平方メートルの用地を買収し、同13年1月に起工式が行われ、同11月に1,500mの滑走路1本を有する飛行場が完成しました。合わせて同13年に東京立川から陸軍飛行第五戦隊が移転し、同17~18年(1942~1943)に兵員は700人を超えるまでになり、松戸、成増、調布などとともに同19年(1944)末から激しくなったB-29爆撃機に空襲に対し防空戦闘にあたりました。戦争末期の同20年1月には我が国発のロケット戦闘機「秋水」の基地となりましたが、テスト飛行で終わり、終戦を迎えます。
 戦後、米軍に接収され、同30年(1955)に「米空軍柏通信所」、トムリンソン通信基地が建設されましたが、返還交渉を経て、同54年(1979)に日本に全面返還となり現在に至ります。
 戦時中の様子を今に伝える市内に残された数少ない文化財です。
  平成24年3月31日 柏市教育委員会

場所

https://goo.gl/maps/j7tqHGqCidbGFem59


航空自衛隊 柏送信所

陸軍東部第105部隊の営門から奥に進めば、今は空自の柏送信所。
この場所は、東部第105部隊の中心的な位置に当たる。

場所

https://goo.gl/maps/vJYobndngLKLThKu6


旧陸軍東部第105部隊の弾薬庫
(柏飛行場弾薬庫)

前述の東部第105部隊営門門柱より東に少し移動。
中華料理屋の駐車場から、往時のコンクリート建造物を垣間見ることができる。
現在は、社会福祉法人千葉県厚生事業団「ひかり隣保館」の敷地。

2棟のうち、西側は屋根の部分がなくなっている。。。

東側は屋根も健在。

入り口側は、私有地のため確認不可。

場所

https://goo.gl/maps/xFeehEVyZMQ6U51DA


柏飛行場西側の境界土塁跡

住所は千葉県流山市駒木台。このあたりは、柏市と流山市の境界あたり。
柏の葉公園の南西、柏の葉第2水辺公園あたりから、外周は境界土塁を見ることができる。

陸軍柏飛行場時代から境界としては同じ区割り。

https://goo.gl/maps/u7N74JnwXq2G41We8


陸軍航空廠立川支廠柏分廠
ガス庫及び部品庫

昭和13年11月に「陸軍柏飛行場」(東部第105部隊)が完成し、翌年昭和14年4月、陸軍航空廠立川支廠柏分廠も開設され、飛行場に配備されていた飛行機や車両の整備・点検を行う補給機関を担った。
東部第105部隊の西側に陸軍航空廠立川支廠柏分廠が隣接していた。

こちらも住所は、流山市駒木台ではあるが、便宜上「軍都柏」にまとめる。

「ガス庫」とされる建物。扉も往時のまま。

「部品庫」とされる建物。

雑品庫

右の扉側は雑品庫とあった。

圧搾空気室

そして、左の扉は、圧搾空気室とあった。
右から読ませる札は、往時からのものか?

2つの建物は、背中あわせで建てられていた。

場所

https://goo.gl/maps/XYtN8ugpfG7Lit9R8


法栄寺の平和観音像
陸軍航空審査部特兵隊(秋水実験部隊)本部跡

流山市駒木台に鎮座する法栄寺。
昭和20年の戦争末期、陸軍は柏飛行場にロケット戦闘機「秋水」の実験隊を配備。
秋水の実験部隊であった「陸軍航空審査部特兵隊」の本部が置かれ、荒蒔義次少佐(特兵隊隊長)や木村秀政(東大教授・秋水開発に関与)、秋水搭乗パイロットなどは、法栄寺を宿舎としていた。

現在、法栄寺境内には、「平和観音像」が建立されている。

平和観世音

昭和24年11月20日、法栄寺住職によって建立。戦没者の法名と俗名を台座に刻んでいる。

法栄寺からまっすぐにのびる道路の突き当りは、「流山市駒木台福祉会館」がある。この場所に当時は、「柏航空観測所」があったというが、今は面影は残っていない。

場所(法栄寺)

https://goo.gl/maps/oWAfgbRtVF3RJ9RC8


場所は変わって、慰霊碑を掲載

長覚寺若紫観音堂の軍馬慰霊碑

柏飛行場は関係ないが、戦跡として。
陸軍第102部隊と、花野井の秋水地下燃料貯蔵庫の中間あたりに鎮座する長覚寺。
その観音堂の参道に、馬頭観音とともに、軍馬慰霊碑が建立されていた。

柏は鎌倉時代には、広大な牧場地帯でもあり、戦時中は陸軍の牧場もあった。
そして、昭和3年(1928)には、柏競馬場が開設された。柏競馬場は、「日本一の競馬場」「東洋一の近代競馬場」とも呼称された、前述の航空写真でも中央下部に競馬場の姿をみることができる。
柏競馬場は戦時中は軍需工場として使用され、戦後に再開するも、1952年に船橋競馬場に移転され廃止されている。現在の豊四季団地界隈。

柏は、軍馬とも縁が深い街であったのだ。

軍馬慰霊碑
とつ国に征きてかへらぬいくさ馬
 もの言ぬこそいさを尊し

復員(中支)三十三年記念として昭和54年に建立されている。

江戸後期や明治の「馬頭観音」とともに並ぶ「軍馬慰霊碑」。

場所

https://goo.gl/maps/CEoajSDS6ezvnGzbA


軍都柏の戦跡散策。
陸軍柏飛行場を中心に、往時を偲ぶ戦跡が、再開発で消えたものもありましたが、それでもまだまだ豊富に残っていました。後世に伝承すべき貴重な戦跡として、今残っているものは、この先も引き続き残して戴きたく。

本記事でもって、一連のシリーズ「軍都柏」はいったん締めです。
また何か、ありましたら追記します。


関連

無蓋掩体壕と柏飛行場の跡地散策(軍都柏・その6)

軍都柏の戦跡散策、その6。
柏飛行場の名残を探しに。
この日は、柏の葉キャンパス駅で自転車を借りて、飛行場を中心に自転車散策を敢行しました。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-R516-No.2-39
昭和24年(1949年)1月7日、米軍撮影の航空写真を一部加工。

地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-R1585-76
昭和23年(1948年)7月25日、米軍撮影の航空写真を一部加工。


軍都「柏」

軍都柏とも軍郷柏とも称されることになった、千葉県柏市。
柏飛行場をはじめとし、多くの軍事施設が集まる地となっていた。

柏飛行場
昭和12年(1937)6月、近衛師団経理部は東葛飾郡田中村十余二に陸軍の新飛行場を建設する旨を決定。
昭和13年11月に「陸軍柏飛行場」(東部第105部隊)が完成。東京立川から「飛行第五戦隊」が移転してきたことにより、柏飛行場は、帝都防空の航空基地となり、軍都としての歩みもここからはじまった。

昭和20年4月には、ロケット推進戦闘機「秋水」開発のための陸軍の特殊部隊、陸軍航空審査部特兵隊が柏飛行場に進出。柏には、秋水の燃料貯蔵庫なども設けられた。

高射砲部隊
昭和12年10月、「飛行部隊」とは別に、帝都防空のもう一つの主役として「高射砲部隊」が千葉県市川市国府台に高射砲第二連隊が新設。
昭和13年11月に柏飛行場の完成とあわせて、柏(富勢)に「高射砲第二連隊」も移動。帝都防空の一翼を担うとともに、東葛地域の飛行場の防御も担当した。
昭和16年に東京に「高射砲第二連隊」主力が移動。その後、 高射砲第二連隊 の跡地には留守近衛第二師団の歩兵・工兵補充隊が駐留し、昭和20年に東京師管区第二補充隊(東部八三部隊)と同近衛工兵補充隊(東部一四部隊)となった。

その他
昭和12年11月、東京憲兵隊市川分隊柏分遣隊開設

昭和14年2月、第4航空教育隊(東部第102部隊)が開設。飛行機の整備に関する訓練や教育を担当した。
昭和14年4月、陸軍航空廠立川支廠柏分廠も開設され、飛行場に配備されていた飛行機や車両の整備・点検を行う補給機関を担った。
同じ 昭和14年4月には、陸軍柏病院が開設。
昭和20年6月には柏(鎌ヶ谷)に、陸軍藤ヶ谷飛行場が完成している。現在の海自下総航空基地となる。
また、昭和18年11月には、柏陸軍墓地忠霊塔も建設された。

ーーー

ファイル: USA-M29-58
昭和24年(1947年)2月8日、米軍撮影の航空写真を一部加工。

軍都柏の主要軍事施設を記載しておく。


無蓋掩体壕

「こんぶくろ池自然博物公園」の飛び地に無蓋掩体壕が保存されている。

陸軍柏飛行場 柏歴史クラブ
 日中戦争(1937・昭和12年~)の開戦前夜から、帝都・東京の空を守る施設が東京周辺に建設され始めました。東京都心から30キロメートル圏にある柏でも、陸軍による飛行場設置が1937年に決まり、翌年11月頃、完成しました。実戦部隊の飛行第5戦隊が移駐し、飛行機の点検・整備をする航空廠柏分廠も竣工し、柏飛行場は第一線の飛行場となりました。
 滑走路は当所は1本だけでしたが、何度も行われた拡張に伴い、最終的にはコンクリート舗装の1500メートルと未舗装の計2本となり、飛行場面積も約1.8倍となっています。南の地域には、本部・将校集会所・兵舎・弾薬庫などの建物があり、南西には格納庫や気象観測所も設けられました。1942(昭和17)年には、ダンプカーやパワー・シャベルを使用した、機械化による飛行場設営の実験も行われています。
 日本本土への空襲がひんぱんになった1944(昭和19)年夏頃から、飛行場内の戦闘機を爆撃から守るため、場外へ移す誘導路3本(西・北・東)と、その道沿いに掩体壕が造られました。図中の水色の線が誘導路で、赤・茶・緑の馬蹄形で描かれているのが掩体壕です。赤丸で囲んでいるのが、現在地の掩体壕です。

掩体壕 柏歴史クラブ
 掩体壕とは、戦闘機を隠し、爆撃・爆風から守る施設です。掩体壕には有蓋掩体壕と無蓋掩体壕があり、柏飛行場では無蓋掩体壕が造られ、79基あったといいう記録も残っています。コンクリート製で屋根がある有蓋掩体壕は、千葉県内では茂原市や館山市に残っていますが、土手で築かれただけの無蓋掩体壕は風化しやすく、あまり見られなくなりました。
 空襲がひんぱんになる1944(昭和19)年夏頃から誘導路や掩体壕が造られ、この近辺では、朝、飛行場から掩体壕まで戦闘機を運び出し、夕方に戻す兵隊たちの姿が見られたといいます。戦闘機は上空から見えにくいように、木の枝や緑のネットで覆われました。
 2009年の柏歴史クラブによる調査では、柏飛行場関連の掩体壕は、6か所残っていました。しかし、そのうち4基は開発地区にあり、こんぶくろ池自然博物公園内にあった2基が保存されました。現在地にある掩体壕は、土手が低くなっているものの、ほぼ完全な形で、土手の長さは巻尺で測った概数ですが、下図のようになっています。

おおおっっっ!無蓋掩体壕だ!!

始めて見ました。結構興奮。
とはいえ、無蓋掩体壕は、基本的に土塁のため、写真で伝えるのは難しい。。。

パノラマで撮影してみた。クリックで拡大。

実は、冬場にも撮影してみた。以下は、令和元年(2019)12月 の撮影。

動画も撮ってみた。

https://senseki-kikou.net/wp-content/uploads/2019/12/VID_20191226_073731.mp4

場所

https://goo.gl/maps/QUd1Js2iY3Ty5wXj7


柏飛行場滑走路跡

「柏の葉公園通り」 が 滑走路というわけではなく、「柏の葉公園通り」の東側に滑走路があった。
現在の東大柏の葉キャンパス東側、国立がん研究センター東病院や、財務省税関研修所、 科学警察研究所などが滑走路跡と考えるとわかりやすい。
柏飛行場の看板は、柏の葉通りの北端交差点近くにある。

柏飛行場跡地
 第一次世界大戦は、航空機などの兵器の急激な発達をもたらしました。高性能な飛行機の開発の一方で、航空機による攻撃に対処するための施設の整備が必要となりました。
 柏飛行場は、成増・調布(東京)などとともに航空力強化と首都東京を守ることを目的として日本陸軍が設置しました。飛行場に選ばれた東葛郡田中村十余二は、東京の周辺部で畑地が大半を占める、平坦な土地を広く活用できる場所でした。昭和12年6月、近衛師団経理部が新飛行場を建設する旨を決定し、昭和13年11月に完成しました。同月、東京の立川から実戦部隊である飛行第5戦隊(東部105聯隊)が移転し、柏飛行場は首都東京防空の第一線の航空基地となりました。以後、いくつかの飛行戦隊の変遷があり、柏飛行場を基地としてB29をはじめとする米軍機の迎撃にあたりました。
 飛行場は北側が滑走路で、南側に本部・将校集会所・被服庫・兵舎・弾薬庫などの建物がありました。また、格納庫5つと、気象観測用の柏観測所も設けられました。
 終戦後もアメリカ軍の日本における最大の通信所として使用されていましたが、昭和54年に日本に全面返還されました。都市公園、学校、国の研究所などが立地する大規模なまちづくりが進められ、つくばエキスプレス開通に伴う区画整理の中で、掩体壕や秋水の燃料庫など新たな発見もありました。
参考文献:歴史アルバムかしわ-明治から昭和-、柏市史近代編、歴史ガイドかしわ
 令和3年3月31日 柏市教育委員会

柏の葉公園通り


柏通信所跡

柏飛行場は、戦後、米空軍に接収され、柏通信所として利用されてきた。

そんな米軍基地返還後の再開発記念の碑が、柏の葉公園の入口近くに建立されていた。

柏通信所跡地土地区画整理事業
完成記念
千葉県知事 沼田 武

事業の完成にあたって
 この「柏の葉」地区は、明治2年、千葉県で12番目に開拓されたことから、その地名を「十余二」といわれてきました。第二次世界大戦中は、旧日本陸軍の基地として使用され、また、終戦後、一旦農地として払い下げられたのち、再び米軍が接収し「米空軍柏通信所」として使用してきました。
 その後、県民の基地返還に対する熱意が伝わり、昭和54年8月14日全面変換されました。
 この土地区画整理事業は、千葉県が地域の身近な緑を生かし、市民がさわやかに憩う、文化の香り高い街づくりを目指して、昭和59年に着手し、7年余と事業費76億円を要し、このたび完成いたしました。
 この事業に携わった関係権利者、土地区画整理審議会、米空軍柏通信所跡地利用促進協議会及び関係機関の皆様の御協力に深く感謝致します。
 ここに事業の完成を祈念し、碑を建てました。
  平成2年11月吉日 
   千葉県知事 沼田 武

県立柏の葉公園

場所

https://goo.gl/maps/NtWNDecQujvzEyKH8

そのほか、柏飛行場関連の戦跡散策は別記事にて

※撮影:2021年7月


関連

ロケット戦闘機「秋水」地下燃料貯蔵庫の跡地散策(軍都柏・その5)

軍都柏の戦跡散策、その5。
柏飛行場の東側に展開していた「地下燃料貯蔵庫」の名残を探しに。
この日は、柏の葉キャンパス駅で自転車を借りて、飛行場を中心に自転車散策を敢行しました。

柏の戦跡を代表するのが、秋水燃料貯蔵庫、だろう。地上に突き出た通気孔のインパクトがあまりにも大きい。私もかねてから、現地を訪れたくてウズウズしていたが、今回ようやくに足を運ぶことができた。


ロケット局地戦闘機「秋水」

秋水

日本海軍と日本陸軍が共同で開発をすすめたロケット局地戦闘機(十九試局地戦闘機)。ドイツ空軍のメッサーシュミットMe163をベースに試作された。
試製秋水海軍略称はJ8M陸軍キ番号はキ200
「秋水」の呼称は、陸海軍の命名規則に沿っていない例外的命名。

画像出典:https://commons.wikimedia.org/wiki/File:J8M_Shusui_Sword_Stroke_Komet_J8M-10.jpg

高度1万メートル以上を飛来するアメリカ軍のボーイングB-29の邀撃に、日本陸海軍の従来のレシプロ戦闘機では高高度を維持することは極めて困難であった。
ロケット戦闘機は、酸化剤と燃料を全て機体内部に搭載し、酸素を外気に求めない=高高度の希薄な大気に影響されない特性を持つことから、邀撃機としてB-29の飛行高度まで加速度的に達し、1撃から2撃をかけるだけならば、設計上、数分の飛行時間しかない、当時のロケット戦闘機でも「局地的な防衛には十分に有効」との判断が下された。
そこで、ドイツから提供されたMe163Bの(資料を輸送していた潜水艦の撃沈によって不完全となってしまった)設計資料をベースに急ピッチで開発が推進。

この秋水プロジェクトに関しては、陸軍・海軍の枠を超えた、陸海軍民間共同の制作体制が整ったということは、当時の状況からすれば奇跡的なことであった。逆に言うと、陸海軍の意地を張る余裕もないほどにで日本は追い詰められていた状況であった。
機体の製作を海軍・海軍航空技術廠主導で、国産ロケットエンジンの開発を陸軍・陸軍航空技術研究所が主導、製造を三菱重工で実施。陸海民の連携であった。

秋水に搭載されるエンジン「特呂二号」の燃料は、2つの液体を化学反応させるものであった。
 酸化剤:濃度80%の過酸化水素、オキシキノリン・ピロリン酸ソーダ
 混合液:メタノール、水化ヒドラジン、水、銅シアン化カリウム
日本軍では前者を「甲液」、後者を「乙液」と呼称。(ドイツではT液とC液)
甲液の供給する酸素により燃料である乙液を燃焼させるシステムであるが、酸化剤(甲)と燃料(乙)の配合はデリケートなセッティングが要求され、また取り扱いが非常に難しい危険な劇薬でもあった。

昭和20年7月7日に、横須賀海軍航空隊追浜飛行場試製秋水(三菱第201号機)は試飛行するもエンジントラブルで墜落、テストパイロットの海軍三一二航空隊の犬塚豊彦大尉(海軍兵学校七十期)は殉職。

試製秋水生産2号機(三菱第302号機)が陸軍キ200として柏飛行場の飛行第70戦隊へ運搬され試験開始。しかしロケットエンジンが間に合わずに動力飛行を行うことができず、そのまま終戦を迎えた。

試作機製造とあわせて量産の準備も進んでいた秋水は、配備のための燃料タンクの準備も進められた。柏飛行場の地下燃料貯蔵庫も秋水配備のための準備であった。

秋水は、陸海軍共同開発機のため、それぞれに配備計画があった。
陸軍は、柏飛行場の「飛行第七〇戦隊」
海軍は、百里原飛行場の「第三一二海軍航空隊」
陸軍海軍ともに、秋水の実験部隊も兼ねていた。

以下の写真は、筑波海軍航空隊記念館の展示品。
陶器製燃料タンクは左が陸軍、右の錨印が海軍。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-R393-117
昭和22年(1947年)10月23日、米軍撮影の航空写真を一部加工。


軍都「柏」

軍都柏とも軍郷柏とも称されることになった、千葉県柏市。
柏飛行場をはじめとし、多くの軍事施設が集まる地となっていた。

柏飛行場
昭和12年(1937)6月、近衛師団経理部は東葛飾郡田中村十余二に陸軍の新飛行場を建設する旨を決定。
昭和13年11月に「陸軍柏飛行場」(東部第105部隊)が完成。東京立川から「飛行第五戦隊」が移転してきたことにより、柏飛行場は、帝都防空の航空基地となり、軍都としての歩みもここからはじまった。

昭和20年4月には、ロケット推進戦闘機「秋水」開発のための陸軍の特殊部隊、陸軍航空審査部特兵隊が柏飛行場に進出。柏には、秋水の燃料貯蔵庫なども設けられた。

高射砲部隊
昭和12年10月、「飛行部隊」とは別に、帝都防空のもう一つの主役として「高射砲部隊」が千葉県市川市国府台に高射砲第二連隊が新設。
昭和13年11月に柏飛行場の完成とあわせて、柏(富勢)に「高射砲第二連隊」も移動。帝都防空の一翼を担うとともに、東葛地域の飛行場の防御も担当した。
昭和16年に東京に「高射砲第二連隊」主力が移動。その後、 高射砲第二連隊 の跡地には留守近衛第二師団の歩兵・工兵補充隊が駐留し、昭和20年に東京師管区第二補充隊(東部八三部隊)と同近衛工兵補充隊(東部一四部隊)となった。

その他
昭和12年11月、東京憲兵隊市川分隊柏分遣隊開設

昭和14年2月、第4航空教育隊(東部第102部隊)が開設。飛行機の整備に関する訓練や教育を担当した。
昭和14年4月、陸軍航空廠立川支廠柏分廠も開設され、飛行場に配備されていた飛行機や車両の整備・点検を行う補給機関を担った。
同じ 昭和14年4月には、陸軍柏病院が開設。
昭和20年6月には柏(鎌ヶ谷)に、陸軍藤ヶ谷飛行場が完成している。現在の海自下総航空基地となる。
また、昭和18年11月には、柏陸軍墓地忠霊塔も建設された。

ーーー

ファイル: USA-M29-58
昭和24年(1947年)2月8日、米軍撮影の航空写真を一部加工。

軍都柏の主要軍事施設を記載しておく。


ロケット戦闘機「秋水」地下燃料貯蔵庫(花野井)

柏警察署花野井交番の奥の住宅地におもむろにあらわれたコンクリート造形物。
コンクリート胴体が地下燃料貯蔵庫。現在は地上に露出しており、出入り口は塞がれている。

場所

https://goo.gl/maps/4Z1VvQqwzzNvRB2J8

「秋水」地下燃料貯蔵庫の出入口(花野井)

北上する。
台地の下には地下燃料庫が隠されている。台地縁辺には燃料庫出入口がいくつか見られる。3箇所は確認できた。

1つ目。

2つ目。むき出してる。近くで見てみたいが私有地のために近寄れず。

3つ目。わかりにくい。。。

「秋水」地下燃料貯蔵庫の通気孔(花野井)

畑に唐突にあらわれるコンクリート筒。連なる砲台のように見えるこの筒が、地下燃料貯蔵庫の通気孔であった。これは貴重な戦跡。地下の貯蔵庫とあわせてぜひとも史跡公園などに整備していただけると良いのだが、現実的にはいまのままの自然な保存が良いのかもしない。後世に残してほしい、いや、後世に残していかねばならない空間。

場所

https://goo.gl/maps/s4fjUhW51Ws5yLvi6


柏飛行場の近くにも、秋水の燃料庫があった。柏飛行場は別記事でまとめるが、先に柏飛行場近くの燃料庫にもあわせて言及しておく。

ロケット戦闘機「秋水」燃料貯蔵庫(正連寺)

こんぶくろ池自然博物公園の南東側(一号近隣公園エリア)内にある、一号丘と二号丘に燃料庫が保存されている(現在は埋没保存のため、燃料庫そのものをみることはできない)

陸軍柏飛行場と秋水
 日中戦争(1937・昭和12年~)の開戦前夜から、帝都・東京の空を守る施設が東京周辺に建設され始めました。東京都心から30キロメートル圏にある柏でも、1938(昭和13)年11月頃、陸軍飛行場が完成しました。
 柏飛行場は第一線の飛行場でしたが、神奈川県の厚木飛行場とともに、有人ロケット戦闘機「秋水」の基地に予定されたことが特徴の一つです。秋水は、ドイツで開発されたロケット戦闘機をモデルに、B29迎撃用の新兵器として、陸海軍共同で開発されました。1944(昭和19)年夏から始まった開発は急ピッチで進み、年末には訓練用の軽滑空機「秋草」のパイロット訓練にこぎつけました。しかし、完成前に配線となり、柏飛行場にあった軽滑空機・重滑空機・実機の計4機とも、すべて燃やされてしまいました。
 秋水の燃料庫は柏市内の「飛行場隣接地」と。3~4キロメートル離れた「花野井・大室」に建設されました。まず飛行場東側の隣接地に、1944(昭和19)年末から建設。その地域が柏ゴルフ倶楽部(1961~2001年)となり、コンクリート製だったために、一部がコース小丘に埋められて破壊されず現在に至りました。
 図①内の赤丸が現在地で、2010年に柏歴史クラブが燃料庫5基を発見しました。公園内に保存されているのは、そのうち3基で、秋水の遺構は全国的に見ても少なく、大変貴重な戦争遺跡です。(ただし3号基は本体なし)

秋水燃料庫(1号基)
 柏飛行場東側の隣接地に造られた秋水燃料庫は、航空写真②のようにエル字型をしていました。飛行場隣接地では飛行訓練のため急いで燃料庫を造る必要があり、1944(昭和19)年末から、既製のヒューム管(下水道管)を利用・加工して建設されました。ヒューム管の長さは約2メートルで、9~10個つないだ燃料保管場所が、エル字の長い部分にあたります(柴田一哉氏)。
 この1号基は、戦時中と少し位置が変わって埋まっていました。写真①の「リング状の遺構」は、もともとは「煙突状の遺構」の上にあり、両者はつながっていました。柏ゴルフ倶楽部を造成するときに、コースに設ける丘の高さを調整するため、「リング状の遺構」を移動させたと思われます。
 柏歴史クラブは2010年の調査で、5か所の燃料庫跡を発見しました。そのうち1~3号基は、こんぶくろ自然博物公園内にあったため、柏市で保存してくれることとなり、一旦埋め戻されました。4・5号基は開発地域内にあったため、残念ながら撤去されました。

秋水燃料庫(2号基)
 この2号基は、戦時中の構造がそのまま残っている燃料庫で、柏市により保存、整備したうえで公開される予定です。
 柏飛行場東側の隣接地に造られた秋水燃料庫は、航空写真③のようにエル字型をしていました。柏市には、現在の地の「飛行場隣接地」と、3~4キロメートル離れた「花野井・大室」に燃料庫が建設されました。飛行場隣接地では、飛行訓練のため、急いで燃料庫を造る必要があり、1944(昭和19)年末から、既製のヒューム管(下水道管)を利用・加工して建設されました。ヒューム管の長さは約2メートルで、9~10個つないだ燃料保管場所が、エル字の長い部分にあたります(柴田一哉氏)。そこには写真④のように両側に店があり、過酸化水素20リットルを入れたガラス瓶(写真⑤)を並べて保管しました。
 また先端部分に、リング状の遺構が出土しました。このリングは、円筒状の消火用貯水槽の底部だったと思われます。その貯水槽とヒューム管は管でつながれ、過酸化水素の流出や火災の場合などに大量の水を流す仕組みでした。

現在地は森の中、立入禁止。丘の中に埋没保存されている。

場所

https://goo.gl/maps/r6WNGkgNh5M3TRGEA

柏飛行場の記事等は、別途。

※撮影は2021年7月


関連

東部第102部隊の跡地散策(軍都柏・その4)

軍都柏の戦跡散策、その4。
柏飛行場の南側に展開していた部隊の名残を探しに。
この日は、柏の葉キャンパス駅で自転車を借りて、飛行場を中心に自転車散策を敢行しました。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-R1585-76
昭和23年(1948年)7月25日、米軍撮影の航空写真を一部加工。

柏飛行場の南部に展開していた部隊が、陸軍第4航空教育隊(東部第102部隊)。
拡大してみた。


軍都「柏」

軍都柏とも軍郷柏とも称されることになった、千葉県柏市。
柏飛行場をはじめとし、多くの軍事施設が集まる地となっていた。

柏飛行場
昭和12年(1937)6月、近衛師団経理部は東葛飾郡田中村十余二に陸軍の新飛行場を建設する旨を決定。
昭和13年11月に「陸軍柏飛行場」(東部第105部隊)が完成。東京立川から「飛行第五戦隊」が移転してきたことにより、柏飛行場は、帝都防空の航空基地となり、軍都としての歩みもここからはじまった。

昭和20年4月には、ロケット推進戦闘機「秋水」開発のための陸軍の特殊部隊、陸軍航空審査部特兵隊が柏飛行場に進出。柏には、秋水の燃料貯蔵庫なども設けられた。

高射砲部隊
昭和12年10月、「飛行部隊」とは別に、帝都防空のもう一つの主役として「高射砲部隊」が千葉県市川市国府台に高射砲第二連隊が新設。
昭和13年11月に柏飛行場の完成とあわせて、柏(富勢)に「高射砲第二連隊」も移動。帝都防空の一翼を担うとともに、東葛地域の飛行場の防御も担当した。
昭和16年に東京に「高射砲第二連隊」主力が移動。その後、 高射砲第二連隊 の跡地には留守近衛第二師団の歩兵・工兵補充隊が駐留し、昭和20年に東京師管区第二補充隊(東部八三部隊)と同近衛工兵補充隊(東部一四部隊)となった。

その他
昭和12年11月、東京憲兵隊市川分隊柏分遣隊開設

昭和14年2月、第4航空教育隊(東部第102部隊)が開設。飛行機の整備に関する訓練や教育を担当した。
昭和14年4月、陸軍航空廠立川支廠柏分廠も開設され、飛行場に配備されていた飛行機や車両の整備・点検を行う補給機関を担った。
同じ 昭和14年4月には、陸軍柏病院が開設。
昭和20年6月には柏(鎌ヶ谷)に、陸軍藤ヶ谷飛行場が完成している。現在の海自下総航空基地となる。
また、昭和18年11月には、柏陸軍墓地忠霊塔も建設された。

ファイル: USA-M29-58
昭和24年(1947年)2月8日、米軍撮影の航空写真を一部加工。

軍都柏の主要軍事施設を記載しておく。


陸軍第4航空教育隊(陸軍東部第102部隊)
陸軍第四航空教育隊(陸軍東部第百二部隊)

1938年(昭和13年)に陸軍東部第百五部隊の飛行場として柏飛行場が開設。その2年後の昭和15年に、第四航空教育隊(東部百二部隊)が当地に移駐してきた。
航空兵教育機関として、航空教育隊に入隊すると、基礎訓練が3か月、そのあと、特業教育と称して、機関・武装・通信・写真・自動車・電気・計器などの部門で3か月の教育を受ける。都合半年の教育終了後は、各地の実戦部隊に配置される。


陸軍第4航空教育隊(東部第102部隊)
弾薬庫?

前述の見取り図では「弾薬庫」と記載のある北端のエリア。
このエリアは現在は、柏市浄水センターと工場地帯。その一角に不自然に古びたコンクリート建造物が残っていた。

コンクリート建造物の右側には、煉瓦建造物っぽいものもあった。

一説には、陸軍時代の給水塔の残骸ともいうが真偽不明。防火水槽として利用されている。
東部第102部隊の給水塔は別の場所にあったので、その場合は移築されてきたことになる。

場所

https://goo.gl/maps/x4iQK8ktrMpxLVoB9


陸軍第4航空教育隊(東部第102部隊)
営門門柱

梅林第4公園に、営門門柱が残っていた。本来の営門は西側だが、真逆の東側にある。移築保存する公園の都合、だろう。

旧陸軍第4航空教育隊(東部第102部隊)営門
 この門柱は、昭和15年(1940)2月に開設された旧陸軍第4教育隊(東部102部隊)の営門です。
 同隊は、現在の十余二と高田にまたがる地域に置かれた部隊で、門柱は現在保存されている梅林第4公園から西方にある現在の梅林第3公園付近から移設されたものです。
 同部隊は、入隊すると、初年兵として基礎訓練が3か月、そのあと、特業教育と称して、機関・武装・通信・写真・自動車・電気・計器などの部門で3か月の教育を受けます。それが終了すると、各地の実戦部隊に配置されます。当時の兵員はおよそ3,000人でしたが、終戦時には全部隊で7,000人を超えていたといわれます。
 右上の写真は、右手の門に大きく部隊名が掲げられ、門左手の哨舎(警戒や見張りをする兵が詰めている小屋)に衛兵が直立し、入り口を入った左手に部隊本部の屋根、続いて兵舎が配置されていることがわかります。
 柏市は、かつて「軍都柏」と呼ばれたように、十余二、花野井、大室、根戸、高田、若紫、藤ヶ谷に軍施設がありましたが、現在は本隊の跡地を含め工業団地や住宅地に変わり当時の面影をみることはできません。
 戦時中の様子を今に伝える市内に残された数少ない文化財です。
  平成24年3月31日 柏市教育委員会

場所

https://goo.gl/maps/Ez4eguk22aaEPTGP9


陸軍第4航空教育隊(東部第102部隊)
営門

梅林第三公園の近くの交差点。もともと営門はこの辺りにあった。

場所

https://goo.gl/maps/897YMnxfM7vzhVTYA


「百二」陸軍境界標石

うっすらと、「百二」と刻まれていることがわかる。
前述の営門近くの民家の塀の近くに。側溝の蓋も杭を挟むように置かれていた。

また、同じく営門近くには、陸軍境界石と思われるものが埋没していた。


陸軍境界標石( 陸軍第4航空教育隊・東部第102部隊の入口)

柏飛行場に展開する第105部隊の営門から南にまっすぐ下ったところに標石がある。
住所は、流山市駒木となるが、一緒に掲載。

場所

https://goo.gl/maps/K9MbSbSuZqHz54PV6

この場所から北上すれば、柏飛行場の第105部隊の営門がある。

ファイル: USA-M29-58
昭和24年(1947年)2月8日、米軍撮影の航空写真を一部加工。


おまけ

大東亜戦争記念国旗掲揚台(成願寺)

参道に、戦時中に奉納された掲揚台が残っている。
第102部隊の南西の地。住所は流山市駒木となるが、近隣ということで便宜上、一緒に掲載。

大東亜戦争記念
昭和18年8月吉日

場所

https://goo.gl/maps/j9E7Vj6Ua25WUrSK6

一連の柏飛行場関連の戦跡散策は随時別途掲載。

※撮影は2021年7月


関連

https://senseki-kikou.net/?p=16606

https://senseki-kikou.net/?p=16647

https://senseki-kikou.net/?p=16801

柏陸軍病院の跡地散策(軍都柏・その3)

柏市で陸軍の戦跡をめぐる記事も3つ目。
この日は、柏の葉キャンパス駅で自転車を借りて、飛行場を中心に自転車散策を敢行しました。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル: USA-R393-81
昭和22年(1947年)10月23日、米軍撮影の航空写真を一部加工。

拡大。

更に拡大。

google航空写真にて。
舌状台地の敷地は、今でもはっきりとわかる。


軍都「柏」

軍都柏とも軍郷柏とも称されることになった、千葉県柏市。
柏飛行場をはじめとし、多くの軍事施設が集まる地となっていた。

柏飛行場
昭和12年(1937)6月、近衛師団経理部は東葛飾郡田中村十余二に陸軍の新飛行場を建設する旨を決定。
昭和13年11月に「陸軍柏飛行場」(東部第105部隊)が完成。東京立川から「飛行第五戦隊」が移転してきたことにより、柏飛行場は、帝都防空の航空基地となり、軍都としての歩みもここからはじまった。

昭和20年4月には、ロケット推進戦闘機「秋水」開発のための陸軍の特殊部隊、陸軍航空審査部特兵隊が柏飛行場に進出。柏には、秋水の燃料貯蔵庫なども設けられた。

高射砲部隊
昭和12年10月、「飛行部隊」とは別に、帝都防空のもう一つの主役として「高射砲部隊」が千葉県市川市国府台に高射砲第二連隊が新設。
昭和13年11月に柏飛行場の完成とあわせて、柏(富勢)に「高射砲第二連隊」も移動。帝都防空の一翼を担うとともに、東葛地域の飛行場の防御も担当した。
昭和16年に東京に「高射砲第二連隊」主力が移動。その後、 高射砲第二連隊 の跡地には留守近衛第二師団の歩兵・工兵補充隊が駐留し、昭和20年に東京師管区第二補充隊(東部八三部隊)と同近衛工兵補充隊(東部一四部隊)となった。

その他
昭和12年11月、東京憲兵隊市川分隊柏分遣隊開設

昭和14年2月、第4航空教育隊(東部第102部隊)が開設。飛行機の整備に関する訓練や教育を担当した。
昭和14年4月、陸軍航空廠立川支廠柏分廠も開設され、飛行場に配備されていた飛行機や車両の整備・点検を行う補給機関を担った。
同じ 昭和14年4月には、陸軍柏病院が開設。
昭和20年6月には柏(鎌ヶ谷)に、陸軍藤ヶ谷飛行場が完成している。現在の海自下総航空基地となる。
また、昭和18年11月には、柏陸軍墓地忠霊塔も建設された。

ファイル: USA-M29-58
昭和24年(1947年)2月8日、米軍撮影の航空写真を一部加工。

軍都柏の主要軍事施設を記載しておく。


柏陸軍病院

昭和14年4月に、陸軍柏病院が開設。病院長は佐々倉操軍医中佐。柏に多くの陸軍施設が集まったことから各部隊傷病兵の入院加療のための開院であった。

第二次世界大戦後、陸軍の解体により厚生省へ移管した。
厚生省移管後は、国立療養所柏病院、国立柏病院を経て、松戸市にあった国立療養所松戸病院と1992年に統廃合。組織は国立がんセンター東病院(現・国立研究開発法人国立がん研究センター・柏飛行場跡地)へ移行、施設は柏市へ移譲され、1993年から柏市立柏病院となっている。

山下清の「放浪日記」には、「勤労奉仕で、柏の陸軍病院でネギの皮むきをした」という戦時中の記述があるという。

http://www.kashiwacity-hp.or.jp/hospital/outline.html


陸軍境界標石(柏陸軍病院入口)

柏市立柏病院の入り口交差点にある標石。
風化が進んでいるが、往時からの境界をしめしている。

場所

https://goo.gl/maps/6hmwpSYa1sqHi1Fc7


陸軍境界標石(柏陸軍病院南西端)

もう一つ、南側の道路にも、それっぽい境界標石があった。

場所

https://goo.gl/maps/ZtoZFCFFj9xxPaWn8

その他、柏関連の記事は別途にて。

※撮影は2021年7月


関連

高射砲第二聯隊の跡地散策(軍都柏・その2)


北柏駅から徒歩15分ほど北に歩いた場所に、往時の建物などが残っていた。

2009年(平成21年)に、「柏市消防局西部消防署根戸分署」が建物として役目を終え、解体も検討されていたが、詳細な調査が行われた結果、 陸軍時代の 高射砲第2聯隊の「照空予習室及測遠器訓練所」であることが判明し、柏市によって保存されることとなった建物。

足を運んでみましょう。


軍都「柏」

軍都柏とも軍郷柏とも称されることになった、千葉県柏市。
柏飛行場をはじめとし、多くの軍事施設が集まる地となっていた。

柏飛行場
昭和12年(1937)6月、近衛師団経理部は東葛飾郡田中村十余二に陸軍の新飛行場を建設する旨を決定。
昭和13年11月に「陸軍柏飛行場」(東部第105部隊)が完成。東京立川から「飛行第五戦隊」が移転してきたことにより、柏飛行場は、帝都防空の航空基地となり、軍都としての歩みもここからはじまった。

昭和20年4月には、ロケット推進戦闘機「秋水」開発のための陸軍の特殊部隊、陸軍航空審査部特兵隊が柏飛行場に進出。柏には、秋水の燃料貯蔵庫なども設けられた。

高射砲部隊
昭和12年10月、「飛行部隊」とは別に、帝都防空のもう一つの主役として「高射砲部隊」が千葉県市川市国府台に高射砲第二連隊が新設。
昭和13年11月に柏飛行場の完成とあわせて、柏(富勢)に「高射砲第二連隊」も移動。帝都防空の一翼を担うとともに、東葛地域の飛行場の防御も担当した。
昭和16年に東京に「高射砲第二連隊」主力が移動。その後、 高射砲第二連隊 の跡地には留守近衛第二師団の歩兵・工兵補充隊が駐留し、昭和20年に東京師管区第二補充隊(東部八三部隊)と同近衛工兵補充隊(東部一四部隊)となった。

その他
昭和12年11月、東京憲兵隊市川分隊柏分遣隊開設

昭和14年2月、第4航空教育隊(東部第102部隊)が開設。飛行機の整備に関する訓練や教育を担当した。
昭和14年4月、陸軍航空廠立川支廠柏分廠も開設され、飛行場に配備されていた飛行機や車両の整備・点検を行う補給機関を担った。
同じ昭和14年4月には、陸軍柏病院が開設。
昭和20年6月には柏(鎌ヶ谷)に、陸軍藤ヶ谷飛行場が完成している。現在の海自下総航空基地となる。
また、昭和18年11月には、柏陸軍墓地忠霊塔も建設された。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル: USA-R393-81
昭和22年(1947年)10月23日、米軍撮影の航空写真を一部加工。

拡大。
陸軍高射砲第二聯隊の北側には柏陸軍病院もあった。

さらに拡大。
陸軍高射砲第二聯隊の建物がわかる。

現在の様子を、Google航空写真にて。

下記は、高野台児童遊園にある営門門柱の解説板から抜粋。


軍都「柏」

ファイル: USA-M29-58
昭和24年(1947年)2月8日、米軍撮影の航空写真を一部加工。

軍都柏の主要軍事施設を記載しておく。


高射砲第二聯隊 ・照空予習室及測遠器訓練所
 (旧柏市消防局西部消防署根戸分署)

高射砲第2連隊の跡地は、現在の富勢中学校及び周辺一帯にあたる。
かつて、 柏市消防局西部消防署根戸分署 として使用されていた建物。

詳細な調査結果があがってくる前、かつては、高射砲第二連隊「馬糧庫」とも呼称されていた。

照空予習室及測遠器訓練所」は高射砲連隊に特有の演習用施設。
同種の建物は、柏と加古川の2か所にのみ現存しており、柏の建物は「起重機装置(エレベーター)の支柱」が残る国内唯一の残存例として大変に貴重な建造物。
建物の内部は「照空予習室」として、使用され、屋上を「測遠器訓練所」として使用。2つの要素を併せ持つ建物であった。


柏市のサイトに詳細情報がアップロードされている。

1 照空予習室及測遠器訓練所(旧西部消防署根戸分署)

https://www.city.kashiwa.lg.jp/bunka/about_kashiwa/culture/digital-archive/3211.html

2 高射砲第2連隊 3DCG(三次元コンピュータグラフィックス)版

https://www.city.kashiwa.lg.jp/bunka/about_kashiwa/culture/digital-archive/3212.html

3『空をつくる建物』~高射砲第二連隊 照空予習室調査報告書~

https://www.city.kashiwa.lg.jp/bunka/about_kashiwa/culture/digital-archive/3214.html

「起重機装置(エレベーター)の支柱」

支柱の存在感がすごい。

屋上で、測遠器訓練、が行われていた。内部は、照空の訓練で使用されていたために、そこから屋上に直接アクセスできるように階段が設けられていた。

照空予習室及測遠器訓練所の東側。
現在は、住宅街と整備されているが、横並びに「修理工場」「油脂庫」などがあり、近年まで土台などが残存していたが消失。

毎年秋に、建物の一般公開もあるという。
ぜひとも、足を運んでみたい。

柏歴史クラブ

http://teganoumi.blog62.fc2.com/blog-category-6.html

場所

https://goo.gl/maps/FE36VSrVwdzikGnW7


高射砲第二聯隊営門門柱と歩哨舎

「高野台児童遊園」に、 高射砲第二聯隊の営門門柱と歩哨舎が移築保存されている。
高野台児童遊園の東側が、営門であった。
高射砲第二聯隊のあとは、東部十四部隊と東部八十三部隊が、当地に駐留。敷地の東側に東部十四部隊、西側に東部八十三部隊が展開していた。

旧高射砲第二連隊営門
 ここにある門柱は東方約60mの所にあったものを移設したものです。
 高射砲第二連隊は、昭和13年に市川市国府台から富勢村根戸字高野台に移転してきました。隊は昭和16年に主力が東京方面に移り、同18年に廃されるまで続き、その後東部十四部隊と東部八十三部隊が進駐しました。
 敷地は現在、市営住宅、富勢中学校、公的施設として利用されています。
 柏市はかつて「軍都柏」と呼ばれ、十余二、花野井、大室、高田、若紫には軍事施設があり、緑ヶ丘には軍需工場がありました。
 これらのものは姿を変えてしまい、当時の面影をみることは困難になっています。
 本市に軍事施設があった残り少ない証拠として、また、二度と再び戦争の惨禍を繰り返すことのないように祈念して、営門を移設して永く保存し、「恒久平和」を求め続けるものです。
 柏市教育委員会

コンクリート造の歩哨舎。

場所

https://goo.gl/maps/qV5yu6P7q9oKA9SLA


コンクリート造形物?(敷地東部)

高野台児童公園から北上してみる。
足元に不自然に固められたコンクリートの造形物があった。
往時のものかは不詳


土塁と境界標石?(敷地北東端)

高射砲第二聯隊の敷地の北東端。
境界標石と思われる石柱と、往時からのものかは不詳であれど、土塁があった。

摩耗しているが、なんとなく「陸軍」と書いてあるような気がしてくる。

土塁?

場所

https://goo.gl/maps/LzbVXezDjv9FoC779


敷地南東端

南東端部分は特に何も残っていなかった。


敷地南部

用水路があった。当時からの水路(排水路)かは不詳。ただ経験則的には、当時からの排水路であってもおかしくないものを感じた。

写真左側の木々が、かつての陸軍用地

水路の右側が高台が陸軍用地であった、

場所

https://goo.gl/maps/M5GTBvQkZ8PubMTA7


陸軍境界標石(敷地南部)

敷地南側の通路に沿って、陸軍用地の境界杭(境界石)が点在していました。

こちらは、はっきりと「陸軍」と刻まれているのがわかります。

場所

https://goo.gl/maps/adXSKGnRxcL4yhVt5


土塁?(敷地南端)

土塁がめぐらされている。
高台が、陸軍用地。

右側の坂道を登っていくと、高野台(富勢)。
かつての高射砲第二聯隊の地。

場所

https://goo.gl/maps/BviqerzvjNUo8Kb26

ちなみにこの日は、柏駅スタートで柏公園(柏陸軍墓地)を経由してからの、高野台(高射砲第二聯隊)散策で、ゴールは北柏駅、でした。約6.5キロで約2時間の散策。

以上、高射砲第二聯隊の跡地散策でした。

※撮影は2021年7月。


関連

柏陸軍墓地跡散策(軍都柏・その1)

柏駅から柏公園へと足を運んでみる。徒歩では約20分といったところ。
かつて、陸軍墓地として造営が進むも、実際には陸軍墓地として使用されることなく終戦となり、戦後は「柏公園」となった。その柏公園内に、現在は慰霊碑「忠霊之碑」が建立されている。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル: USA-R522-25
昭和24年(1949年)1月10日、米軍撮影の航空写真を一部加工。

柏陸軍墓地予定地。旧水戸街道から東に参道が伸びる。舌状台地の様子もわかる。

現在の様子。GoogleMap航空写真。

軍都「柏」

軍都柏とも軍郷柏とも称されることになった、千葉県柏市。
柏飛行場をはじめとし、多くの軍事施設が集まる地となっていた。

柏飛行場
昭和12年(1937)6月、近衛師団経理部は東葛飾郡田中村十余二に陸軍の新飛行場を建設する旨を決定。
昭和13年11月に「陸軍柏飛行場」(東部第105部隊)が完成。東京立川から「飛行第五戦隊」が移転してきたことにより、柏飛行場は、帝都防空の航空基地となり、軍都としての歩みもここからはじまった。

昭和20年4月には、ロケット推進戦闘機「秋水」開発のための陸軍の特殊部隊、陸軍航空審査部特兵隊が柏飛行場に進出。柏には、秋水の燃料貯蔵庫なども設けられた。

高射砲部隊
昭和12年10月、「飛行部隊」とは別に、帝都防空のもう一つの主役として「高射砲部隊」が千葉県市川市国府台に高射砲第二連隊が新設。
昭和13年11月に柏飛行場の完成とあわせて、柏(富勢)に「高射砲第二連隊」も移動。帝都防空の一翼を担うとともに、東葛地域の飛行場の防御も担当した。
昭和16年に東京に「高射砲第二連隊」主力が移動。その後、 高射砲第二連隊 の跡地には留守近衛第二師団の歩兵・工兵補充隊が駐留し、昭和20年に東京師管区第二補充隊(東部八三部隊)と同近衛工兵補充隊(東部一四部隊)となった。

その他
昭和12年11月、東京憲兵隊市川分隊柏分遣隊開設

昭和14年2月、第4航空教育隊(東部第102部隊)が開設。飛行機の整備に関する訓練や教育を担当した。
昭和14年4月、陸軍航空廠立川支廠柏分廠も開設され、飛行場に配備されていた飛行機や車両の整備・点検を行う補給機関を担った。
同じ昭和14年4月には、陸軍柏病院が開設。
昭和20年6月には柏(鎌ヶ谷)に、陸軍藤ヶ谷飛行場が完成している。現在の海自下総航空基地となる。
また、昭和18年11月には、柏陸軍墓地忠霊塔も建設された。

ーーー

ファイル: USA-M29-58
昭和24年(1947年)2月8日、米軍撮影の航空写真を一部加工。


柏陸軍墓地の門柱
(柏公園の門柱)

現在の「柏公園入口」信号に残る門柱。
柏陸軍墓地の参道ともなる道路の両脇に設けられた門柱。旧水戸街道に面している。

柏公園入口交差点


境界標石?

柏公園入口交差点から参道にはいったすぐのところに。
境界標石っぽい石があった。削れて摩耗しているが、きっと往時の名残。

そのまま参道を歩む。


「陸軍」標石

柏公園の近く。参道脇に。
「陸軍」と刻まれていることがわかる境界標石。
この地が、柏陸軍墓地の造成地であったことを物語る史跡。


柏公園

電話機があった。

電話機のすべり台と、受話器のベンチ。

プッシュホン形すべり台
千葉県の加入電話150万台公衆電話3万台突破記念
昭和56年3月・寄贈電電公社/柏電報電話局


柏公園 忠霊之碑

公園の奥にそびえ立つ「忠霊之碑」。
柏陸軍墓地の由緒を受け継ぐ、慰霊顕彰の碑。

柏公園 忠霊之碑
 この地に柏陸軍墓地忠霊塔が建設されたのは、太平洋戦争の最中、昭和18年11月のことでした。戦争が長期化する中で、戦没者を祀るための施設として建設されましたが、終戦に至るまで遺骨が納められることはありませんでした。戦後、この地は、大蔵省(現在の財務省)から柏市が借り受け現在のような柏公園として整備されました。
 我が国は終戦時の混乱を経て、復興の道を力強く歩み、経済の発展と国民生活の安定を実現してきましたが、忠霊塔は歳月の経過とともに、破損状態もひどくなり見る影もなくなりました。終戦から十年余を過ぎた昭和31年、柏市でも忠霊碑建設の意欲が高まり、議会の承認を受け、鈴木悦三市長を会長とした柏市慰霊碑建設奉賛会が設立され、市民からも多くの寄付を受け、建設が進められました。
 そして、昭和33年7月、戦没者を弔い、そして祖国再興を誓い、永遠の平和への悲願を籠めて現在の忠霊塔の姿に改新築されました。
 建設当初、この碑には、明治、大正、昭和を通じた柏市の戦没者803柱が祀られましたが、今では、その後判明したシベリア等の抑留死者、あるいは平成17年に柏市と合併した旧沼南町の戦没者などを含む合計1023柱が祀られています。
 また、市内にはその他に慰霊碑が30か所あり、忠霊之碑はそれらを代表する碑にもなっています。
 昭和から平成、そして令和へと時代が流れても、今日の日本を築いてきた多くの先人達に想いを致し、我が国及び世界の平和を改めて祈念する心の拠り所として、この忠霊之碑はあります。
 令和元年12月
  柏市

入り口は封鎖されている。

ちなみに忠霊の碑の後方はブルーシートでテントが構築され、居住されている方がいたために近寄らず。。。

柏公園内には、「聖徳太子の碑」もあった。
明治26年建立、陸軍墓地造成よりも古い碑。もっとも最初からこの地にあったか、移転されてきたものかは不詳。


関連

陸軍墓地関連

陸軍工兵学校跡地散策(松戸)

千葉県松戸市。
松戸駅のすぐ東側の高台に、かつて陸軍の学校があった。そんな駅チカ戦跡散策を実施してみる。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M860-194
昭和23年(1948年)3月29日、米軍撮影の航空写真を一部加工。

上記、航空写真を一部拡大。
「松戸工兵学校」のあった台地は、かつて「相模台城」と呼ばれていた城跡でもあり。
この地は、城跡=競馬場跡=陸軍工兵学校跡、でもあった。

Google航空写真で現在の様子を。
松戸駅のすぐ東側。松戸中央公園・聖徳大学・松戸市立第一中学校を中心に、往時の境界線を今でも感じることができる。


陸軍工兵学校(松戸)

大正8年(1919)、相模台にあった松戸競馬場の跡地に開校。
日本陸軍が創設した工兵教育・下士官教育・甲種幹部候補生教育の為の学校であり、工兵用兵器資材の研究試験なども行われた。
日本陸軍では、騎兵・砲兵。歩兵などの学校はすでにあったが、松戸に設置された、工兵学校は、日本陸軍唯一の工兵学校であった。
現在の松戸中央公園・聖徳大学・松戸市立第一中学校・相模台公園・法務局松戸支局・松戸簡易裁判所・松戸市立相模台小学校などのある高台が、そのまま松戸工兵学校であった。


松戸駅から松戸中央公園へ

あとあと歩いてみて気がついたことではあったが、松戸駅前にそびえ立つ「イトーヨーカドー」の後ろが、陸軍工兵学校の地であり、イトーヨーカードーの店内を抜けて行くのが目的地への最短ルート。もっともそれは味気なさすぎるので、外周から赴くが。

聖徳大学に向けて歩く。陸軍工兵学校の敷地は今は聖徳大学となっている。

聖徳大学

ついつい「しょうとく」と読みたくなるが、「せいとく」が正しい読み方。
女子一貫教育を行なっている。大学院と通信教育課程のみ男女共学というが、基本は女子大のイメージ。
聖徳家政学院として昭和8年(1933年)に創立。陸軍工兵学校のあとにこの地に展開していた千葉大学工学部が転出(昭和39年)したのちの昭和40年(1965年)に千葉県松戸市に聖徳学園短期大学を開設。


「陸軍」境界標石(陸軍工兵学校・西部)

イトーヨーカドーから高台を右手に北上をする。
さっそくありました。境界石。
下は埋もれていますが、はっきりと「陸軍」と読むことができます。

場所

https://goo.gl/maps/1WQDpTG9ghKBgb1KA


「陸軍用地」境界標石(聖徳大学入口)

この細い路地を「女子大」の入り口とするのもどうかと思うが、ここを進むと「聖徳大学」に赴くことができる。
陸軍工兵学校の戦跡散策としても、ここが重要なポイント。

「陸軍用」と見ることができる境界標石。「地」は埋もれてますね。

場所

https://goo.gl/maps/PkFLe3j9fr5KgdAc9


聖徳大学石段小路

石段を登っていきます。絶対、女子大の入り口ではないだろ、この雰囲気は。

「松戸市」の標石

このあたりは、どうだろう。

埋もれているし、摩耗しているからなんともいえないけど、もしかしたら、陸軍の標石かもしれない。


「陸軍用地」境界標石(陸軍松戸工兵学校・北部)

石段を登りきった突き当りに、「陸軍用地」境界標石と「コンクリート造の倉庫」がみえる。
ここの「陸軍用地」は、立派に存在感を放っていた。

上部に矢印が刻まれている。これは、矢印の範囲で陸軍の敷地を示していると思われる。
この場所でいうと内側の90度が陸軍敷地外で、外側の180度は陸軍敷地内、か?

場所

https://goo.gl/maps/UjLcgG6FgDCtM7zAA


陸軍工兵学校の倉庫跡

陸軍工兵学校の倉庫、とされるコンクリート造の建物が残されている。
この先にある旧公務員住宅(相模台住宅)は閉鎖済み。このあたりも近いうちに再開発されるのだろうか。この先はどうなるかわからないが、少なくとも1945年に廃止されてから、75年以上たっているが2021年7月現在では、残っている。
陸軍工兵学校の軽油保管庫(軽油庫)とされている。
扉の上位部の穴から煙突が出ていたと思われ、気化したガスを抜くための穴であったことが予想できる。

場所

https://goo.gl/maps/sHfnSUexbUVooxDT8


松戸中央公園

そのまま歩むと、イトーヨーカドーの裏、聖徳大学の入口、に到着する。
その先は、松戸中央公園。公園内には、いくつか往時を物語るものが残っている。

陸軍工兵学校跡

記念碑がある。ここに陸軍工兵学校があった証。

宮原國雄
明治7年(1874)7月15日、広島県福山市生まれ。
昭和46年(1971)8月26日に享年97歳で没。
軍歴は、陸軍中将。陸軍士官学校を卒業し、陸軍砲工学校に入校。工兵畑を進む。
明治35年(1902)に陸軍工兵大尉となり、英国チャタム陸軍工兵学校に入校。日露戦争勃発のために帰国し第三軍工兵部副官として、旅順要塞攻撃や奉天会戦などに参戦。
大正6年(1917)、 陸軍工兵大佐となり陸軍省軍務局工兵課長に就任していた宮原國雄が工兵学校設立を進言したことにより、大正8年に工兵学校が設立したきっかけとなったとされている。 その後も、大正14年(1925)、佐世保要塞司令官、大正15年(1926)に陸軍中将となり、陸軍砲工学校校長などを歴任している。
宮原國雄は、昭和2年(1927)に予備役編入となっているが、その後も昭和46年まで余生を全うした。

陸軍工兵学校跡
 元陸軍中将 宮原國雄謹書

陸軍工兵学校は主として工兵が技術を研究練磨しその成果を全国各工兵隊の将兵に普及する使命をもって大正八年十二月一日景勝の地ここ相模台上に創立せられ逐年その実績を挙げ大正十五年十月二十八日摂政宮殿下の台臨を始めとして幾多の栄誉に浴せしが昭和二十年戦争の終局とともに光輝ある二十七年の歴史を閉じたり。いま台上往年の面影を留めずよって縁故者あい謀り記念碑を建立して後世に遺す。 
 昭和四十二年四月 
 工友会


陸軍工兵学校の跡地には、千葉大学工学部が進出していた。
千葉大学工学部が千葉市に移転した後に、聖徳大学がこの地に展開し、現在に至る。

千葉大学工学部跡

千葉大学工学部跡
 ここは昭和20年10月から同39年7月まで、旧制東京工業専門学校とそれに引き続く千葉大学工学部、同工業短期大学部があった場所です。
 両校の前身である東京高等工芸学校は大正10年、東京芝浦に創立されました。戦時下の昭和19年3月東京工業専門学校と解消され、同20年5月戦災による焼失のため、旧陸軍工兵学校のあった当所に移転してきました。
 昭和24年学制改革により新たに千葉大学として発足し、同39年千葉市に移転するまでの19年間、この地で多くの人材を輩出してきました。
 本年、創立80周年を記念し、ここに沿革を記します。
  平成13年12月吉日 
   千葉大学工学部
   千葉大学工学同窓会

松戸中央公園。
陸軍工兵学校の前は、松戸競馬場であったというが流石にその面影は残っていない。


旧陸軍工兵学校正門門柱
旧陸軍工兵学校歩哨哨舎

松戸中央公園の正門は、往時は陸軍工兵学校の正門であった。
往時と今と、門柱などがかわらずに、入り口の役目を果たしている。

松戸市 市指定有形文化財
○松戸中央公園正門門柱
 (旧陸軍工兵学校正門門柱)
○旧陸軍工兵学校歩哨哨舎

旧陸軍は、工兵のより高度な技術研修のため、相模台にあった松戸競馬場(船橋市・中山競馬場の前身)跡地に大正8年(1919)工兵学校を開校し、昭和20年8月まで存続させました。
煉瓦造の正門は、大正9年に造られたもので、市内に残る数少ない煉瓦建造物です。警備のための歩哨哨舎は、竣工当時木造でしたが、昭和2年から昭和10年頃にコンクリート造にしたものです。
正門は、門柱頂部の門灯と門扉がなくなっていますが、現存する門柱4基と歩哨哨舎が当時の様子を伝えています。
 平成21年6月18日
  松戸市教育委員会

門扉のレール跡もくっきりと残っている。

門灯と門扉はなくなっているが、堂々たる風格。

門柱の隣には、歩哨舎。

関東近郊で、気楽に立ち入りできる歩哨舎は貴重。

場所

https://goo.gl/maps/ZNYG7xCPgTUcXwv68


「陸軍用地」境界標石(陸軍工兵学校・西部)

正門跡から坂を下る。
かつて工兵学生たちが、訓練を終えて最後に駆け上がっていた急勾配の坂は、「地獄坂」と呼称されている。
そんな「地獄坂」は、今も昔も変わらぬ場所に。
その坂の途中に、境界石があった。

くっきりと残る「陸軍用地」境界標石。

場所

https://goo.gl/maps/ZNYG7xCPgTUcXwv68


相模台公園

地獄坂の南側の高台にある「相模台公園」。
この南側の高台には、「馬場」や「校南作業場」や「相模台練兵場」などがあった。

場所

https://goo.gl/maps/65UW1XQdjGb4GNCn7


相模台公園の片隅に、ひっそりと忠魂碑があった。
合掌。

松戸市忠魂碑

忠魂碑
総理大臣 吉田茂謹書

松戸市忠魂碑
 この碑は明治維新以降、日清日露、第1次世界大戦、満州事変、支那事変、大東亜戦争、その他に於て、国のため一命を捧げた本市出身の将兵、当時千二百二十柱を合祀せる、松戸市戦没者慰霊の碑であります。
 本市社会福祉協議会と建設特別委員会の合同により、昭和三十一年三月末、この地に建設されたものであります。
 その費用の内には当時大関「松登」が全盛時代の頃であり本市に於いて大相撲を開催し、その利益金を寄附されたという話も聞いております。
 遺族会では、毎年春彼岸、お盆、秋彼岸とお正月に各支会の役員により聖僧都参拝をし、市の追悼式当日には、常任委員会全員の参拝を実施しております。
 現在は、転入御家族の増加に伴い、千八百余柱の御霊をお慰めする鎮魂の碑として市内全域から高く崇められておるものであります。
 先の大戦から既に七十年が経ち関係syが徐々に少なくなってきている時期にあたり国家国民のために命を捧げられた先人に感謝の念をもってその御心を体し後世に傳えると共に我が国の平和と発展を祈念しここに忠魂碑の謂れを明らかにするものであります。
註記
 昭和三十年八月五日までに、大東亜戦争のため海外に居た日本軍将兵は母国へ帰国した。
 然し、ソ連は満州に居た日本軍将兵約六十万人を強制的にシベリヤへ抑留し、日本へ帰国させずに苛酷な労働を強いた。このため約六万人が病に倒れ、彼の地で亡くなった。
 その中には松戸市出身の将兵十余人がおり、この松戸市忠魂碑の御霊千二百二十柱の中に含まれている。
 平成二十七年八月吉日
   松戸市社会福祉協議会 松戸市遺族会 東葛偕行会


「陸軍用地」(陸軍工兵学校・南西部)
相模台公園

相模台公園の中にも「陸軍用地」境界標石があった。公園の中=相模台の高台となるため、正直いって公園の中にあることがイマイチ理解できないが、移転してきた?

相模台城の郭があったっぽい公園。

相模台城と第一次国府台合戦

「相模台城」は、戦跡としても著名。もちろん近代陸軍ではなく、中世の戦跡として。

天文7年(1538)に勃発した「第一次国府台合戦」。
房総の豪族であった真里谷氏や里見氏に擁立された小弓公方・足利義明は古河公方や千葉氏と対立していた。関東で勢力を広げていた後北条氏・北条氏綱は、扇谷上杉氏の本拠地であった河越城をい攻略。古河公方・足利晴氏は、小弓公方・足利義明や扇谷上杉氏との対抗で、北条氏綱と同名を結ぶことで、小弓公方・ 足利義明と北条氏綱が激化。
国府台北側の相模台で戦闘が始まるも、 足利義明の弟・基頼や息子・義純の討ち死に報が入り、足利義明が逆上して北条軍目がけて自ら突撃を図り戦死。
そんな複雑怪奇な足利公方の古戦場でもあり・・・。

よくわからない構造物もある。

松戸工兵学校時代の何か?かどうかはわからない。


境界標石?(陸軍工兵学校・南部)

相模台公園から南端の道路を歩く。
境界石っぽい、それっぽい、なにかをいくつか見つけることができた。

場所

https://goo.gl/maps/S414513DxbkdscL1A


陸軍工兵学校・南東部
相模台城土塁?

そのまま南端部を歩くと、松戸拘置支所の南側にたどり着く。
この土塁は、中世の相模台城の名残か、それとも陸軍工兵学校名残か。。。

境界石っぽいものもあった。

場所

https://goo.gl/maps/8xiiEP5DvKue2yWcA


「陸軍」境界標石(陸軍松戸工兵学校・東部)

東側の道を北上していたら、ありました。
「陸軍」と刻まれた境界石。

場所

https://goo.gl/maps/dkJhyBkL2aJNXFDc8


松戸工兵学校・北東部

このあたりが、敷地の北東部。それっぽい何かはありませんでした。


松戸工兵学校・北部

北側の岩瀬住吉公園内に土地区画整理竣工記念碑があった。
記念碑の竣工は皇紀2600年(昭和15年)。

松戸工兵学校の北部は、すでに戦前の段階で区画整理されていたことがわかる。
確かに冒頭の航空写真をみれば宅地となっていることがわかる。

場所

https://goo.gl/maps/BQtJU2cHZphsc4mt7

高台の向こうには、聖徳大学。

そうして、陸軍松戸工兵学校のあった地を一周して、最初の場所に戻ってきました。

松戸の陸軍工兵学校の跡地。駅チカ感覚で散策してみましたが、往時を物語る戦跡が豊富でした。これは良いですね。特に門柱と歩哨舎が残っているのが、すばらしい。
このまま戦跡を伝承する土地として、残していってほしいものです。


散策ログ

1時間45分で約4.5キロ、でした。

※2021年6月撮影


関連

工兵つながりとして。

赤羽台の戦跡散策

「東京陸軍刑務所跡」渋谷界隈の戦跡散策

若者で賑わう街「渋谷」。
この街には、かつて「陸軍の刑務所」があった。
そして、この地で「二・二六事件」に関与した若者たち、青年将校たちが処刑された。


東京陸軍刑務所の陸軍標石1

渋谷のハチ公口から渋谷マークシティ方面にあゆむ。
繁華街のまっただなか。

パチンコ屋の細道をいくと、「陸軍用地」境界標石と「景品交換所」と「ガールズバー」と「居酒屋」があった。

「ガールズバー」は閉店してしまっているが、陸軍用地境界標石は今も変わらずに残っている。
それにしても、人の目も気になり、写真が撮りにくい場所。
景品交換所に向かう人々の往来が途絶えない。

陸軍用地

このあたりは憲兵隊が駐留していたという。

よくぞ残ってくれた、という感じ。

場所

https://goo.gl/maps/LMQDrntfWdzPgSmz9


東京陸軍刑務所の陸軍標石2

渋谷の街を北上する。
東急ハンズ渋谷店の裏、渋谷区清掃事務所宇田川分室に、同じように陸軍標石があった。

陸軍用地

この場所より北側に、東京陸軍刑務所があった。
現在の「NHK放送センター」「渋谷区役所」「渋谷区立神南小学校」などは、当時の陸軍刑務所の敷地内であった。この標石は、も都の場所からは、数メートル移転しているというが、いまはフェンスの向こうできっちりと保存されているので安心。

東急ハンズ渋谷店の裏側。

場所

https://goo.gl/maps/uFkgxMvXV4EFjFXy6


二・二六事件慰霊碑
東京陸軍刑務所跡

東京陸軍刑務所跡にたつ慰霊碑。
観音像は昭和40年2月26日建立 。
昭和11年7月12日、二・二六事件首謀者に対する刑が、この地で執行された。

関連記事は以下も参照。

この場所の撮影は2021年2月26日。

二・二六事件慰霊碑
碑文
昭和十一年二月二十六日未明、東京衛戍の歩兵第1第3聯隊を主体とする千五百余の兵力が、かねて昭和維新断行を企圖していた、野中四郎大尉等青年将校に率いられて蹶起した。
當時東京は晩冬にしては異例の大雪であった。
蹶起部隊は積雪を蹴って重臣を襲撃し総理大臣官邸・陸軍省・警視廳等を占據した。 齋藤内大臣・高橋大蔵大臣・渡邊教育総監は此の襲撃に遭って斃れ、鈴木侍従長は重傷を負い岡田総理大臣・牧野前内大臣は危く難を免れた。
此の間、重臣警備の任に當たっていた警察官のうち五名が殉職した。
蹶起部隊に對する處置は四日間に穏便説得工作から紆余曲折して強硬武力鎮壓に變轉したが二月二十九日、軍隊相撃は避けられ事件は無血裡に終結した。
世に是を二・二六事件という。
昭和維新の企圖壊れて首謀者中、野中、河野両大尉は自決、香田、安藤大尉以下十九名は軍法會議の判決により東京陸軍刑務所に於て刑死した。
此の地は其の陸軍刑務所跡の一隅であり、刑死した十九名と是に先立つ永田事件の相澤三郎中佐が刑死した處刑場跡の一角である。
此の因縁の地を選び刑死した二十名と自決二名に加え重臣警察官其の他事件関係犠牲者一切の霊を合せ慰め、且つは事件の意義を永く記念すべく廣く有志の浄財を集め事件三十年記念の日を期して慰霊像建立を發願し、今ここに其の竣工をみた。
謹んで諸霊の冥福を祈る。
 昭和四十年二月二十六日
 佛心會代表 河野司 誌

碑銘にある佛心會代表の河野司氏は、河野壽陸軍大尉の実兄。
河野壽陸軍大尉は二・二六事件に参加。
河野隊を率いて湯河原で牧野伸顕侍従長(伯爵)を襲撃。その際に負傷し、後に自決。

この慰霊碑の脇にある「赤レンガ壁」は東京陸軍刑務所の名残を残しているもの(残存壁)、とされている。

合掌


位置関係

時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」
 1/50000東京西南部
 明治45年縮図
 リスト番号:76-7-1

「衛戍監獄」の記載がわかる。のちの「東京陸軍刑務所」。
「南豊島御料地」は、のちの明治印宮、「練兵場」は「代々木公園」となる。


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