「航空隊・航空全般」カテゴリーアーカイブ

無蓋掩体壕と柏飛行場の跡地散策(軍都柏・その6)

軍都柏の戦跡散策、その6。
柏飛行場の名残を探しに。
この日は、柏の葉キャンパス駅で自転車を借りて、飛行場を中心に自転車散策を敢行しました。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-R516-No.2-39
昭和24年(1949年)1月7日、米軍撮影の航空写真を一部加工。

地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-R1585-76
昭和23年(1948年)7月25日、米軍撮影の航空写真を一部加工。


軍都「柏」

軍都柏とも軍郷柏とも称されることになった、千葉県柏市。
柏飛行場をはじめとし、多くの軍事施設が集まる地となっていた。

柏飛行場
昭和12年(1937)6月、近衛師団経理部は東葛飾郡田中村十余二に陸軍の新飛行場を建設する旨を決定。
昭和13年11月に「陸軍柏飛行場」(東部第105部隊)が完成。東京立川から「飛行第五戦隊」が移転してきたことにより、柏飛行場は、帝都防空の航空基地となり、軍都としての歩みもここからはじまった。

昭和20年4月には、ロケット推進戦闘機「秋水」開発のための陸軍の特殊部隊、陸軍航空審査部特兵隊が柏飛行場に進出。柏には、秋水の燃料貯蔵庫なども設けられた。

高射砲部隊
昭和12年10月、「飛行部隊」とは別に、帝都防空のもう一つの主役として「高射砲部隊」が千葉県市川市国府台に高射砲第二連隊が新設。
昭和13年11月に柏飛行場の完成とあわせて、柏(富勢)に「高射砲第二連隊」も移動。帝都防空の一翼を担うとともに、東葛地域の飛行場の防御も担当した。
昭和16年に東京に「高射砲第二連隊」主力が移動。その後、 高射砲第二連隊 の跡地には留守近衛第二師団の歩兵・工兵補充隊が駐留し、昭和20年に東京師管区第二補充隊(東部八三部隊)と同近衛工兵補充隊(東部一四部隊)となった。

その他
昭和12年11月、東京憲兵隊市川分隊柏分遣隊開設

昭和14年2月、第4航空教育隊(東部第102部隊)が開設。飛行機の整備に関する訓練や教育を担当した。
昭和14年4月、陸軍航空廠立川支廠柏分廠も開設され、飛行場に配備されていた飛行機や車両の整備・点検を行う補給機関を担った。
同じ 昭和14年4月には、陸軍柏病院が開設。
昭和20年6月には柏(鎌ヶ谷)に、陸軍藤ヶ谷飛行場が完成している。現在の海自下総航空基地となる。
また、昭和18年11月には、柏陸軍墓地忠霊塔も建設された。

ーーー

ファイル: USA-M29-58
昭和24年(1947年)2月8日、米軍撮影の航空写真を一部加工。

軍都柏の主要軍事施設を記載しておく。


無蓋掩体壕

「こんぶくろ池自然博物公園」の飛び地に無蓋掩体壕が保存されている。

陸軍柏飛行場 柏歴史クラブ
 日中戦争(1937・昭和12年~)の開戦前夜から、帝都・東京の空を守る施設が東京周辺に建設され始めました。東京都心から30キロメートル圏にある柏でも、陸軍による飛行場設置が1937年に決まり、翌年11月頃、完成しました。実戦部隊の飛行第5戦隊が移駐し、飛行機の点検・整備をする航空廠柏分廠も竣工し、柏飛行場は第一線の飛行場となりました。
 滑走路は当所は1本だけでしたが、何度も行われた拡張に伴い、最終的にはコンクリート舗装の1500メートルと未舗装の計2本となり、飛行場面積も約1.8倍となっています。南の地域には、本部・将校集会所・兵舎・弾薬庫などの建物があり、南西には格納庫や気象観測所も設けられました。1942(昭和17)年には、ダンプカーやパワー・シャベルを使用した、機械化による飛行場設営の実験も行われています。
 日本本土への空襲がひんぱんになった1944(昭和19)年夏頃から、飛行場内の戦闘機を爆撃から守るため、場外へ移す誘導路3本(西・北・東)と、その道沿いに掩体壕が造られました。図中の水色の線が誘導路で、赤・茶・緑の馬蹄形で描かれているのが掩体壕です。赤丸で囲んでいるのが、現在地の掩体壕です。

掩体壕 柏歴史クラブ
 掩体壕とは、戦闘機を隠し、爆撃・爆風から守る施設です。掩体壕には有蓋掩体壕と無蓋掩体壕があり、柏飛行場では無蓋掩体壕が造られ、79基あったといいう記録も残っています。コンクリート製で屋根がある有蓋掩体壕は、千葉県内では茂原市や館山市に残っていますが、土手で築かれただけの無蓋掩体壕は風化しやすく、あまり見られなくなりました。
 空襲がひんぱんになる1944(昭和19)年夏頃から誘導路や掩体壕が造られ、この近辺では、朝、飛行場から掩体壕まで戦闘機を運び出し、夕方に戻す兵隊たちの姿が見られたといいます。戦闘機は上空から見えにくいように、木の枝や緑のネットで覆われました。
 2009年の柏歴史クラブによる調査では、柏飛行場関連の掩体壕は、6か所残っていました。しかし、そのうち4基は開発地区にあり、こんぶくろ池自然博物公園内にあった2基が保存されました。現在地にある掩体壕は、土手が低くなっているものの、ほぼ完全な形で、土手の長さは巻尺で測った概数ですが、下図のようになっています。

おおおっっっ!無蓋掩体壕だ!!

始めて見ました。結構興奮。
とはいえ、無蓋掩体壕は、基本的に土塁のため、写真で伝えるのは難しい。。。

パノラマで撮影してみた。クリックで拡大。

実は、冬場にも撮影してみた。以下は、令和元年(2019)12月 の撮影。

動画も撮ってみた。

https://senseki-kikou.net/wp-content/uploads/2019/12/VID_20191226_073731.mp4

場所

https://goo.gl/maps/QUd1Js2iY3Ty5wXj7


柏飛行場滑走路跡

「柏の葉公園通り」 が 滑走路というわけではなく、「柏の葉公園通り」の東側に滑走路があった。
現在の東大柏の葉キャンパス東側、国立がん研究センター東病院や、財務省税関研修所、 科学警察研究所などが滑走路跡と考えるとわかりやすい。
柏飛行場の看板は、柏の葉通りの北端交差点近くにある。

柏飛行場跡地
 第一次世界大戦は、航空機などの兵器の急激な発達をもたらしました。高性能な飛行機の開発の一方で、航空機による攻撃に対処するための施設の整備が必要となりました。
 柏飛行場は、成増・調布(東京)などとともに航空力強化と首都東京を守ることを目的として日本陸軍が設置しました。飛行場に選ばれた東葛郡田中村十余二は、東京の周辺部で畑地が大半を占める、平坦な土地を広く活用できる場所でした。昭和12年6月、近衛師団経理部が新飛行場を建設する旨を決定し、昭和13年11月に完成しました。同月、東京の立川から実戦部隊である飛行第5戦隊(東部105聯隊)が移転し、柏飛行場は首都東京防空の第一線の航空基地となりました。以後、いくつかの飛行戦隊の変遷があり、柏飛行場を基地としてB29をはじめとする米軍機の迎撃にあたりました。
 飛行場は北側が滑走路で、南側に本部・将校集会所・被服庫・兵舎・弾薬庫などの建物がありました。また、格納庫5つと、気象観測用の柏観測所も設けられました。
 終戦後もアメリカ軍の日本における最大の通信所として使用されていましたが、昭和54年に日本に全面返還されました。都市公園、学校、国の研究所などが立地する大規模なまちづくりが進められ、つくばエキスプレス開通に伴う区画整理の中で、掩体壕や秋水の燃料庫など新たな発見もありました。
参考文献:歴史アルバムかしわ-明治から昭和-、柏市史近代編、歴史ガイドかしわ
 令和3年3月31日 柏市教育委員会

柏の葉公園通り


柏通信所跡

柏飛行場は、戦後、米空軍に接収され、柏通信所として利用されてきた。

そんな米軍基地返還後の再開発記念の碑が、柏の葉公園の入口近くに建立されていた。

柏通信所跡地土地区画整理事業
完成記念
千葉県知事 沼田 武

事業の完成にあたって
 この「柏の葉」地区は、明治2年、千葉県で12番目に開拓されたことから、その地名を「十余二」といわれてきました。第二次世界大戦中は、旧日本陸軍の基地として使用され、また、終戦後、一旦農地として払い下げられたのち、再び米軍が接収し「米空軍柏通信所」として使用してきました。
 その後、県民の基地返還に対する熱意が伝わり、昭和54年8月14日全面変換されました。
 この土地区画整理事業は、千葉県が地域の身近な緑を生かし、市民がさわやかに憩う、文化の香り高い街づくりを目指して、昭和59年に着手し、7年余と事業費76億円を要し、このたび完成いたしました。
 この事業に携わった関係権利者、土地区画整理審議会、米空軍柏通信所跡地利用促進協議会及び関係機関の皆様の御協力に深く感謝致します。
 ここに事業の完成を祈念し、碑を建てました。
  平成2年11月吉日 
   千葉県知事 沼田 武

県立柏の葉公園

場所

https://goo.gl/maps/NtWNDecQujvzEyKH8

そのほか、柏飛行場関連の戦跡散策は別記事にて

※撮影:2021年7月


関連

ロケット戦闘機「秋水」地下燃料貯蔵庫の跡地散策(軍都柏・その5)

軍都柏の戦跡散策、その5。
柏飛行場の東側に展開していた「地下燃料貯蔵庫」の名残を探しに。
この日は、柏の葉キャンパス駅で自転車を借りて、飛行場を中心に自転車散策を敢行しました。

柏の戦跡を代表するのが、秋水燃料貯蔵庫、だろう。地上に突き出た通気孔のインパクトがあまりにも大きい。私もかねてから、現地を訪れたくてウズウズしていたが、今回ようやくに足を運ぶことができた。


ロケット局地戦闘機「秋水」

秋水

日本海軍と日本陸軍が共同で開発をすすめたロケット局地戦闘機(十九試局地戦闘機)。ドイツ空軍のメッサーシュミットMe163をベースに試作された。
試製秋水海軍略称はJ8M陸軍キ番号はキ200
「秋水」の呼称は、陸海軍の命名規則に沿っていない例外的命名。

画像出典:https://commons.wikimedia.org/wiki/File:J8M_Shusui_Sword_Stroke_Komet_J8M-10.jpg

高度1万メートル以上を飛来するアメリカ軍のボーイングB-29の邀撃に、日本陸海軍の従来のレシプロ戦闘機では高高度を維持することは極めて困難であった。
ロケット戦闘機は、酸化剤と燃料を全て機体内部に搭載し、酸素を外気に求めない=高高度の希薄な大気に影響されない特性を持つことから、邀撃機としてB-29の飛行高度まで加速度的に達し、1撃から2撃をかけるだけならば、設計上、数分の飛行時間しかない、当時のロケット戦闘機でも「局地的な防衛には十分に有効」との判断が下された。
そこで、ドイツから提供されたMe163Bの(資料を輸送していた潜水艦の撃沈によって不完全となってしまった)設計資料をベースに急ピッチで開発が推進。

この秋水プロジェクトに関しては、陸軍・海軍の枠を超えた、陸海軍民間共同の制作体制が整ったということは、当時の状況からすれば奇跡的なことであった。逆に言うと、陸海軍の意地を張る余裕もないほどにで日本は追い詰められていた状況であった。
機体の製作を海軍・海軍航空技術廠主導で、国産ロケットエンジンの開発を陸軍・陸軍航空技術研究所が主導、製造を三菱重工で実施。陸海民の連携であった。

秋水に搭載されるエンジン「特呂二号」の燃料は、2つの液体を化学反応させるものであった。
 酸化剤:濃度80%の過酸化水素、オキシキノリン・ピロリン酸ソーダ
 混合液:メタノール、水化ヒドラジン、水、銅シアン化カリウム
日本軍では前者を「甲液」、後者を「乙液」と呼称。(ドイツではT液とC液)
甲液の供給する酸素により燃料である乙液を燃焼させるシステムであるが、酸化剤(甲)と燃料(乙)の配合はデリケートなセッティングが要求され、また取り扱いが非常に難しい危険な劇薬でもあった。

昭和20年7月7日に、横須賀海軍航空隊追浜飛行場試製秋水(三菱第201号機)は試飛行するもエンジントラブルで墜落、テストパイロットの海軍三一二航空隊の犬塚豊彦大尉(海軍兵学校七十期)は殉職。

試製秋水生産2号機(三菱第302号機)が陸軍キ200として柏飛行場の飛行第70戦隊へ運搬され試験開始。しかしロケットエンジンが間に合わずに動力飛行を行うことができず、そのまま終戦を迎えた。

試作機製造とあわせて量産の準備も進んでいた秋水は、配備のための燃料タンクの準備も進められた。柏飛行場の地下燃料貯蔵庫も秋水配備のための準備であった。

秋水は、陸海軍共同開発機のため、それぞれに配備計画があった。
陸軍は、柏飛行場の「飛行第七〇戦隊」
海軍は、百里原飛行場の「第三一二海軍航空隊」
陸軍海軍ともに、秋水の実験部隊も兼ねていた。

以下の写真は、筑波海軍航空隊記念館の展示品。
陶器製燃料タンクは左が陸軍、右の錨印が海軍。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-R393-117
昭和22年(1947年)10月23日、米軍撮影の航空写真を一部加工。


軍都「柏」

軍都柏とも軍郷柏とも称されることになった、千葉県柏市。
柏飛行場をはじめとし、多くの軍事施設が集まる地となっていた。

柏飛行場
昭和12年(1937)6月、近衛師団経理部は東葛飾郡田中村十余二に陸軍の新飛行場を建設する旨を決定。
昭和13年11月に「陸軍柏飛行場」(東部第105部隊)が完成。東京立川から「飛行第五戦隊」が移転してきたことにより、柏飛行場は、帝都防空の航空基地となり、軍都としての歩みもここからはじまった。

昭和20年4月には、ロケット推進戦闘機「秋水」開発のための陸軍の特殊部隊、陸軍航空審査部特兵隊が柏飛行場に進出。柏には、秋水の燃料貯蔵庫なども設けられた。

高射砲部隊
昭和12年10月、「飛行部隊」とは別に、帝都防空のもう一つの主役として「高射砲部隊」が千葉県市川市国府台に高射砲第二連隊が新設。
昭和13年11月に柏飛行場の完成とあわせて、柏(富勢)に「高射砲第二連隊」も移動。帝都防空の一翼を担うとともに、東葛地域の飛行場の防御も担当した。
昭和16年に東京に「高射砲第二連隊」主力が移動。その後、 高射砲第二連隊 の跡地には留守近衛第二師団の歩兵・工兵補充隊が駐留し、昭和20年に東京師管区第二補充隊(東部八三部隊)と同近衛工兵補充隊(東部一四部隊)となった。

その他
昭和12年11月、東京憲兵隊市川分隊柏分遣隊開設

昭和14年2月、第4航空教育隊(東部第102部隊)が開設。飛行機の整備に関する訓練や教育を担当した。
昭和14年4月、陸軍航空廠立川支廠柏分廠も開設され、飛行場に配備されていた飛行機や車両の整備・点検を行う補給機関を担った。
同じ 昭和14年4月には、陸軍柏病院が開設。
昭和20年6月には柏(鎌ヶ谷)に、陸軍藤ヶ谷飛行場が完成している。現在の海自下総航空基地となる。
また、昭和18年11月には、柏陸軍墓地忠霊塔も建設された。

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ファイル: USA-M29-58
昭和24年(1947年)2月8日、米軍撮影の航空写真を一部加工。

軍都柏の主要軍事施設を記載しておく。


ロケット戦闘機「秋水」地下燃料貯蔵庫(花野井)

柏警察署花野井交番の奥の住宅地におもむろにあらわれたコンクリート造形物。
コンクリート胴体が地下燃料貯蔵庫。現在は地上に露出しており、出入り口は塞がれている。

場所

https://goo.gl/maps/4Z1VvQqwzzNvRB2J8

「秋水」地下燃料貯蔵庫の出入口(花野井)

北上する。
台地の下には地下燃料庫が隠されている。台地縁辺には燃料庫出入口がいくつか見られる。3箇所は確認できた。

1つ目。

2つ目。むき出してる。近くで見てみたいが私有地のために近寄れず。

3つ目。わかりにくい。。。

「秋水」地下燃料貯蔵庫の通気孔(花野井)

畑に唐突にあらわれるコンクリート筒。連なる砲台のように見えるこの筒が、地下燃料貯蔵庫の通気孔であった。これは貴重な戦跡。地下の貯蔵庫とあわせてぜひとも史跡公園などに整備していただけると良いのだが、現実的にはいまのままの自然な保存が良いのかもしない。後世に残してほしい、いや、後世に残していかねばならない空間。

場所

https://goo.gl/maps/s4fjUhW51Ws5yLvi6


柏飛行場の近くにも、秋水の燃料庫があった。柏飛行場は別記事でまとめるが、先に柏飛行場近くの燃料庫にもあわせて言及しておく。

ロケット戦闘機「秋水」燃料貯蔵庫(正連寺)

こんぶくろ池自然博物公園の南東側(一号近隣公園エリア)内にある、一号丘と二号丘に燃料庫が保存されている(現在は埋没保存のため、燃料庫そのものをみることはできない)

 ※燃料庫2号基が再整備され公開となりました。

陸軍柏飛行場と秋水
 日中戦争(1937・昭和12年~)の開戦前夜から、帝都・東京の空を守る施設が東京周辺に建設され始めました。東京都心から30キロメートル圏にある柏でも、1938(昭和13)年11月頃、陸軍飛行場が完成しました。
 柏飛行場は第一線の飛行場でしたが、神奈川県の厚木飛行場とともに、有人ロケット戦闘機「秋水」の基地に予定されたことが特徴の一つです。秋水は、ドイツで開発されたロケット戦闘機をモデルに、B29迎撃用の新兵器として、陸海軍共同で開発されました。1944(昭和19)年夏から始まった開発は急ピッチで進み、年末には訓練用の軽滑空機「秋草」のパイロット訓練にこぎつけました。しかし、完成前に配線となり、柏飛行場にあった軽滑空機・重滑空機・実機の計4機とも、すべて燃やされてしまいました。
 秋水の燃料庫は柏市内の「飛行場隣接地」と。3~4キロメートル離れた「花野井・大室」に建設されました。まず飛行場東側の隣接地に、1944(昭和19)年末から建設。その地域が柏ゴルフ倶楽部(1961~2001年)となり、コンクリート製だったために、一部がコース小丘に埋められて破壊されず現在に至りました。
 図①内の赤丸が現在地で、2010年に柏歴史クラブが燃料庫5基を発見しました。公園内に保存されているのは、そのうち3基で、秋水の遺構は全国的に見ても少なく、大変貴重な戦争遺跡です。(ただし3号基は本体なし)

秋水燃料庫(1号基)
 柏飛行場東側の隣接地に造られた秋水燃料庫は、航空写真②のようにエル字型をしていました。飛行場隣接地では飛行訓練のため急いで燃料庫を造る必要があり、1944(昭和19)年末から、既製のヒューム管(下水道管)を利用・加工して建設されました。ヒューム管の長さは約2メートルで、9~10個つないだ燃料保管場所が、エル字の長い部分にあたります(柴田一哉氏)。
 この1号基は、戦時中と少し位置が変わって埋まっていました。写真①の「リング状の遺構」は、もともとは「煙突状の遺構」の上にあり、両者はつながっていました。柏ゴルフ倶楽部を造成するときに、コースに設ける丘の高さを調整するため、「リング状の遺構」を移動させたと思われます。
 柏歴史クラブは2010年の調査で、5か所の燃料庫跡を発見しました。そのうち1~3号基は、こんぶくろ自然博物公園内にあったため、柏市で保存してくれることとなり、一旦埋め戻されました。4・5号基は開発地域内にあったため、残念ながら撤去されました。

秋水燃料庫(2号基)
 この2号基は、戦時中の構造がそのまま残っている燃料庫で、柏市により保存、整備したうえで公開される予定です。
 柏飛行場東側の隣接地に造られた秋水燃料庫は、航空写真③のようにエル字型をしていました。柏市には、現在の地の「飛行場隣接地」と、3~4キロメートル離れた「花野井・大室」に燃料庫が建設されました。飛行場隣接地では、飛行訓練のため、急いで燃料庫を造る必要があり、1944(昭和19)年末から、既製のヒューム管(下水道管)を利用・加工して建設されました。ヒューム管の長さは約2メートルで、9~10個つないだ燃料保管場所が、エル字の長い部分にあたります(柴田一哉氏)。そこには写真④のように両側に溝があり、過酸化水素20リットルを入れたガラス瓶(写真⑤)を並べて保管しました。
 また先端部分に、リング状の遺構が出土しました。このリングは、円筒状の消火用貯水槽の底部だったと思われます。その貯水槽とヒューム管は管でつながれ、過酸化水素の流出や火災の場合などに大量の水を流す仕組みでした。

現在地は森の中、立入禁止。丘の中に埋没保存されている。

場所

https://goo.gl/maps/r6WNGkgNh5M3TRGEA

※撮影は2021年7月


関連

浜松三方原の陸軍戦跡散策・その1【浜松3】

「三方原の戦跡」と書いてしまうと、元亀3年(1572)、三方原古戦場での徳川家康と武田信玄の「三方原合戦(三方原の戦い)」の跡地を巡る散策になってしまいそうなので「三方原の陸軍戦跡」ということで。
それもそれで興味があるが、ここでは「浜松の三方原に展開された大日本帝国陸軍関連の戦跡」を巡ってみたいと思う。
この日は、浜松駅近くでレンタサイクルを借りての散策でした。


浜松の陸軍飛行場

浜松には陸軍の飛行場が2つあった。
「三方原飛行場」と「浜松飛行場」。
この2つの飛行場は誘導路で結ばれており、非常に近い関係であった。

「三方原陸軍飛行場」は、三方原教導飛行団と第7航空教育隊
「浜松陸軍飛行場」は、浜松陸軍飛行学校と飛行第7聯隊
なお。浜松陸軍飛行場は、現在は航空自衛隊浜松基地となっている。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M142-A-5No3-21
1946年5月22日、米軍撮影の航空写真を一部加工。


三方原陸軍飛行場跡地散策

半田山トーチカ(半田町のトーチカ)

静岡県浜松市東区半田町に残るトーチカ。

前面部のみのトーチカ。なぜか西を向いている。
防衛を考えると南を向くべきでは?
もっともこのトーチカは再開発で移築されたものともいう。真偽不詳。

西を向いている。三方原飛行場の方向。

トーチカの跡
 太平洋戦争中、この船岡山にはトーチカがいくつか築かれた。戦争が激化したため本土決戦に備えて構築したもので、その名残が今もみられる。幸いにもトーチカは使用されることはなく、平和な時代を迎えた今、当社の新鋭工場が建てられ、活躍しているというのも新しい時代の流れである。
 平成3年4月吉日 株式会社桜井製作所

場所

https://goo.gl/maps/A8GADE4XemhRoYws6


三方原飛行場の掩体壕

三方原飛行場のあったエリアの北側に。
民家の一部に掩体壕が残っている。

場所

https://goo.gl/maps/r5kUfUeSH1dzrada6


東三方神社(赤松の鳥居)

奥山半僧坊への参詣道に鎮座。「赤松の鳥居」は奥山半僧坊への遥拝所でもあった。
昭和16年6月に陸軍よって松の大木や鳥居・石碑などが敵の攻撃目標にあるという理由で撤去。
当地の西側に三方原陸軍飛行場があり、このあたりが「三方原爆撃場」として使用された。
戦後、三方原陸軍飛行場は開拓地として再開発され、昭和39年に鳥居再建された。

これも、三方原陸軍飛行場に連なる戦跡のひとつ。

場所

https://goo.gl/maps/frmi18CWbim7akL4A


三方原教導飛行団の門柱

現在の自衛隊官舎の南側の門柱は、当時の「三方原教導飛行団」の門柱。

三方原教導飛行団は昭和19年4月に浜松飛行学校から独立。
中部第九十七部隊の使用していた三方原飛行場の一角に展開。任務は航空化学戦の実行と教育であった。

場所

https://goo.gl/maps/qYwjCPwcLArLzTqN9


第7航空教育隊の門柱

三方原教導飛行団の門柱のすぐ近くに、第7航空教育隊の門柱もあるというが、調査漏れで未探索。悔しい。
ひとまず、Googleストリートビューでお茶を濁す。
※再訪しないと

場所

https://goo.gl/maps/f8SNeVPHhbtPRuVh7

訪問しました

浜松三方原の陸軍戦跡散策・その2【浜松6】


四勇士の碑跡

四勇士の碑
 昭和12年3月19日、飛行第7聯隊の重爆撃機がこの地に墜落炎上し、搭乗の四勇士が殉職した。
 四勇士は殉職により階級特進で、陸軍少佐寿円正隆、陸軍曹長今泉正夫、陸軍軍曹小川高平、陸軍軍曹岡崎勝、に昇進した。
 この爆撃機が失速、墜落の直前一人の搭乗員が座席を立って、着陸地点を注視していた姿を見た人がいる。非常事態に直面しても沈着、冷静に行動し、民家や学校への被害を避けたことに感激した、地元民の熱意によって、この慰霊碑が建てられました。
 この碑の題字は、航空兵団長陸軍中将、男爵、徳川好敏閣下、撰文飛行第7聯隊長、島田隆一である。
  三方原歴史文化保存会

三方原陸軍飛行場の飛行第7聯隊の重爆撃機の墜落地点に建立された慰霊碑・・・がない。

説明解説板はあれど、慰霊碑がない。
「この碑は・・・」って説明があるのに、ない。

誰かに訪ねたいとおもっても、誰もいない。。。
このときは、撤去された??と思い、諦め。

改めて少ない情報を手がかりに調べてみると、どうやら近くの「三方原神社」に移築されているらしい。
こちらも再訪、ですね。。。

訪問しました

浜松三方原の陸軍戦跡散策・その2【浜松6】

ここに慰霊碑があった。

在りし日のGoogleストリートビュー
情報がなさすぎて、無くなっていることがわからんなかった。。。

墜落現場の場所

https://goo.gl/maps/ANS6EnvZcohCvh4e8

移築場所の三方原神社

https://goo.gl/maps/2ozUBQq6Mug3rhQb8


徳川家康のエピソードで有名な「小豆餅」。ここにも「昭和の戦跡」があった。

第一航測聯隊跡

第一航測連隊(中部百三十部隊・陸軍航空通信隊第130部隊)
航測技術の取得を目的とした教育部隊。
第一航測連隊は、当時最新の航空工学の部隊であった。戦局悪化の昭和20年7月に滋賀県日野町周辺に貨車300両と兵員1500余名が疎開。小豆餅地区の残留部隊300余名は残務や農園作業に従事し終戦を迎えている。

(表面)第一航測聯隊跡
(裏面)有志一同之を建つ 昭和61年9月 

碑誌
第一航測聯隊は、昭和17年4月22日、水戸市郊外にあった第11航空教育隊において、聯隊本部、第一、第ニ中隊および材料廠をもって編成。4月末、三方原演習廠舎に移駐、12月新兵舎の完成とともに、八個中隊の編成を完結し、ここ小豆餅地区に屯し、昭和20年7月、滋賀県日野町周辺に部隊移動、終戦を迎えた。
聯隊の使命は、地一号方向探知機および対空二号無線機をもって、友軍機の、航空基地への帰投誘導や各種作戦任務飛行の航行支援にあたる航測手の、基本教育と錬成訓練をもって本旨とした。

黒松は、当時からの面影を残す。

「小豆餅子供の遊び場」公園内に、第一航測聯隊の碑があった。

場所

https://goo.gl/maps/woQzQ6BQHDSxtx1x7


六所神社

静岡県浜松市東区半田山鎮座。
延喜式神名帳(遠江国・長上郡)「朝日波多加神社」延喜式内論社(小社)。旧村社。
浜松医科大学の東側に鎮座。台地を背にし東面している。

境内には地元の方々によって「日清日露戦役記念碑」「大東亜戦争慰霊碑」「忠魂碑」、そして「平和観音」が建立されている。

平和観音は平成7年11月建立。

場所

https://goo.gl/maps/3W9mvnThiGBJnam68


三方原古戦場跡(犀ヶ崖)

もちろん三方ヶ原なので、「三方ヶ原合戦」の戦跡記念碑も界隈にはある。
正確には、この地は「三方原の戦い」で破れた徳川家康が、浜松城に迫る武田信玄軍に対し、地の利を生かして反撃し一矢報いた「犀ヶ崖の戦い」の戦跡。

https://goo.gl/maps/qYE39EineYpK1Jzt7


三方原エリアは、結果として散策漏れ多数。
また浜松を訪問する機会があるときに再訪したいと思ってます。

※撮影及び散策は、2020年11月


関連

「日本初の零戦復元機」零式艦上戦闘機52型甲(空自浜松広報館エアパーク)【浜松2】

航空自衛隊の広報施設である浜松広報館「エアパーク」。
ここには空自の退役機に混じって、零戦が展示されている。

展示場所が移設されます(2024年6月24日~)


零式艦上戦闘機五二型甲 A6M5
43-188号機

日本への里帰り第1号機の零戦。

昭和19年3月、三菱名古屋工場製造機。
所属は、第三四三海軍航空隊(1944年1月に開隊した初代、通称隼部隊)。
昭和19年6月〜7月にかけてのマリアナ諸島攻防戦で、米軍との戦闘や米軍機の空襲などにより壊滅し、7月10日に解隊。
浜松基地浜松広報館に保存されている零戦は、第三四三海軍航空隊の飛行隊長・尾崎伸也大尉(海兵68期)が昭和19年6月19日に米軍と交戦し被弾し不時着し放棄された機体。尾崎伸也大尉は戦死されている。
海兵68期の尾崎伸也大尉の同期には、作家・豊田穣、撃墜王・鴛淵孝、九軍人の広尾彰、海軍中将松永貞市の息子・松永市郎、捕虜第一号となった酒巻和男など。
第三四三海軍航空隊は、昭和19年12月に再編(二代目)される、これが通称「剣部隊」として紫電改を用いて有名となった航空隊。

昭和39年1月に日本に里帰り。

零戦52型
零戦52型は1943年8月初飛行し、太平洋戦争後半の日本海軍の主力戦闘機として活躍した機体である。この機体には甲、乙、丙の3種の型があり、零戦総生産数約1万機のうち、4種あわせた52型シリーズは約6,000機が生産された。

性能
全幅 11m
全長 9.1m
全高 3.5m
全備重量 2,733kg
エンジン 栄21型 最大出力1,100馬力x1基
最大速度 565km/h
実用上昇限度 11,740m
航続距離 1,920km
乗員 1名
搭載武装 7.7mm固定銃x2門 99式20mm固定銃x2門

零式艦上戦闘機(零戦)の展示経緯
昭和38年4月  本展示機がグアム島で発見される。
同   7月  グアム島知事から日本への返還が決まる。
昭和39年1月  米軍C-130輸送機により岐阜基地へ搬送。
       本機の製造元である三菱重工業大江工場にて忠実な復元作業を実施。
同   10月 我が国で最初の零戦復元機が完成。
(その後、全国各地において展示されたため期待の損傷がひどくその管理が必要とされた。)
昭和42年11月 航空自衛隊の航空機整備のメッカ(航空機の整備学校が所在)である浜松基地に移送され
       その後浜松基地におきて展示・管理された。
平成11年4月  航空自衛隊浜松広報館開設に伴い、当館において展示される。

国内で吊り下げ展示されている唯一の零戦。

航空自衛隊浜松広報館

浜松陸軍飛行場

「浜松陸軍飛行場」は、浜松陸軍飛行学校と飛行第7聯隊があった。
現在は、航空自衛隊浜松基地。

広報館とは別に、浜松基地内にある「浜松基地資料館」にも行きたいんですけどねええ。。
基地内には「陸軍爆撃隊発祥之地」碑もある。

空自関係の展示多数。

※撮影は2020年11月


https://www.mod.go.jp/asdf/airpark/


浜松には陸軍の施設が集中していた。戦跡もちらほら残っている。
そんな散策の記録は別途で。

「陸軍中佐上原重雄戦死の地碑」と「疾風のプロペラ」(小田原)

小田原市沼代。その山中の道路の傍らに、この地で戦死された搭乗員の慰霊碑があった。


上原重雄

鹿児島出身。陸士第52期卒業。
上原重雄は、スマトラ島の「パレンバン航空隊」にて、遠くニューギニア戦線までも遠征し縦横無尽に活躍。
特にB17爆撃機の迎撃で勇戦した「偉勲の戦士」として知られる。
昭和19年にパレンバンから日本本土に戻り、兵庫県の「加古川航空隊」で教育にあたっていたが、昭和20年1月愛甲郡愛川町中津にあった「相模陸軍飛行場(中津飛行場)」を拠点としていた「飛行第22戦隊長(22FR長)」に着任。

ジャンボリー作戦
昭和20年2月16日、米海軍空母機動部隊は関東地方に対して、空母艦載機による本土初空襲を敢行。(ドーリットル空襲を除く、通常の米海軍空母艦載機による本土初空襲)
これは、硫黄島上陸作戦と連動する、日本本土航空戦力の撃滅を目指したものであった。

米海軍の高速空母機動部隊である第58任務部隊が、関東地方周辺の日本軍航空基地及び航空機工場を攻撃。第58任務部隊は大型正規空母11隻・軽空母5隻を基幹とする強力な艦隊であった。
2月16日の空襲では、房総半島から関東上空を目指し、戦闘機部隊は本土上空で空中戦を展開。爆撃隊は中島飛行機太田製作所や小泉製作所を目標としたものであった。
2月17日の空襲では、東京西部の中島飛行機武蔵製作所や多摩立川地区の航空機工場が目標となる。
日本軍航空隊の損失は、少なくとも被撃墜60機・地上撃破60機以上。アメリカ軍の損失は戦闘による航空機損失60機とその他作戦中の損失28機の合計88機。

相模陸軍飛行場(中津飛行場)
第22航空戦隊は最前線から帰還し戦力回復のため中津で錬成している最中であった。
昭和20年2月17日、第22航空戦隊は既に近日中に朝鮮への移駐が決まっており、部隊には迎撃中止命令が発令されていた。しかし着任したばかりの飛行第22戦隊長・上原重雄少佐は、我が物顔に飛行する米軍機の振る舞いに祖国の末路を案じてか、部下をなだめつつも自らは義憤の単機発進を決行。

飛行第22戦隊長・上原重雄少佐は、相模陸軍飛行場(中津飛行場)から離陸し、米軍機を迎撃した。

100機にも及ぶ米軍機に上原重雄少佐は単機捨身で突入するも衆寡敵せず被弾。小田原市沼代上空で炎につつまれ天蓋から身を乗り出して北方の中津飛行場、そして皇居に両手を上げて決別しそのまま機とともに自爆。壮烈な戦死を遂げられた。
(上原重雄少佐は、死後、陸軍中佐に特進)


飛行第22戦隊(隼第18913)
飛行第二二戦隊 (隼第一八九一三部隊) 

飛行第22戦隊は、初の四式戦闘機「疾風」装備部隊であった。
初代戦隊長には陸軍戦闘機隊のエースパイロットであった、岩橋譲三少佐が着任。岩橋譲三少佐は四式戦テストパイロットも務めていた。
岩橋譲三少佐はノモンハン事件以来の古参熟練搭乗員でもあったが、昭和19年9月9日に西安飛行場で戦死。

飛行第22戦隊は、最新鋭の大東亜決決戦機「四式戦 疾風」を要する陸軍屈指の決戦部隊であり、上原重雄少佐は、第四代目の飛行第22戦隊長であった。

「疾風」運用の最初の実戦部隊として活躍した飛行第22戦隊の部隊マークは、湊川の楠木正成にちなむ「菊水紋」であった。

※画像は「ハセガワ 1/48 日本陸軍 中島 キ84-I 四式戦闘機 疾風 プラモデル JT67」
 http://www.hasegawa-model.co.jp/product/jt67/

飛行第二二戦隊 (隼第一八九一三部隊) 略歴
昭和19年3月5日  東京福生(多摩陸軍飛行場)において臨時編成・
昭和19年5月下旬  神奈川中津(中津陸軍飛行場)において教育訓練開始
昭和19年8月17日  中津飛行場を出発し漢口へ
昭和19年8月20日  中国大陸にて桂林作戦に参加
昭和19年10月中旬 内地帰還
昭和19年10月18日 中津飛行場を出発しフィリピンへ移動、レイテ作戦に参加
昭和20年1月28日  戦力を回復するために内地帰還
昭和20年2月20日  福岡第一飛行場に到着   
昭和20年2月21日  中津飛行場に到着
昭和20年3月5日  朝鮮京城金浦第二飛行場に着
昭和20年3月25日  中国徐州飛行場に着 
昭和20年8月2日  朝鮮京城飛行場に着
昭和20年8月15日 朝鮮晋州で終戦

参考:
「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C12122419500、陸軍航空部隊略歴(その1) 付.航空部隊の隷指揮下にあったその他の部隊/分割8(防衛省防衛研究所)」


中島 キ84 四式戦闘機「疾風」

大東亜決戦機として名高い「疾風」。
小山悌技師長を設計主務者とする中島製戦闘機の集大成。
「疾風」は重点生産機に指定され、戦争末期に近い昭和19年配備でありながら日本軍戦闘機としては零戦、一式戦(隼)に次ぐ約3,500機に及んだ。


疾風のプロペラ

四式戦に採用されたプロペラブレードは直径3.05 mの4翅であり、2000馬力戦闘機としては小径のプロペラであった。同時期に誕生した海軍の紫電・紫電改は、直径3.3 m、そして疾風と同じ中島製の海軍の彩雲は直径3.6 mを採用ということからも、疾風のプロペラが小さいことがわかる。一般には、プロペラ直径を大きくすると離陸時と上昇時の効率が向上し、小直径化すると高速飛行時の効率が向上するといわれている。
「疾風」プロペラは、フランスのラチェ式を改造し日本国際航空工業が国産化した電動可変ピッチ機構プロペラ「ペ32型」が採用。

「上原重雄戦死地の慰霊碑」は、疾風プロペラ1枚が用いられている。
これは、上原重雄の愛機「疾風」の残骸を陸軍が回収しに来た際に、「偉勲の戦士」の最後を見届けた農家の1人がプロペラを隠しておき、碑を作ったものだという。


陸軍中佐上原重雄戦死之地碑

合掌

近隣の方々により、今も手厚く維持されている。

陸軍中佐上原重雄戦死の地碑
 昭和20年2月17日、相模湾沖に進行した航空母艦から発進したグラマン戦闘機延べ600機が初めて関東地区を襲った。硫黄島上陸作戦を目前に、米軍の本土の目標に対する超低空からの集団攻撃だった。2日目を迎えた当地は朝から空襲警報下にあった。
 午前10時頃、攻撃を終えて南下してきた暗緑色の大編隊の群に単機捨身で突入した日本軍機があった。衆寡敵せず不運にも本市小竹上空で被弾してしまった。機は相模湾上で反転し、飛行場への帰還に向かったが、後続し南下する敵編隊の挟み撃ちにあい当地上空で炎につつまれ天蓋から身を乗り出して北方の基地、皇居に両手を上げて決別しそのまま機とともに自爆し壮烈な戦死を遂げられた。墜落場所は沼代の山の中腹(やまゆりライン沼代入口付近から山側に入る鉄塔近く)。
 その姿は当地の人々に現在も鮮烈に残っている。戦死した搭乗者は首都防衛飛行第22戦隊長上原重雄中佐(鹿児島出身 享年28歳)であった。
 歴戦の中佐は陸士第52期の卒業でスマトラ島のパレンバン航空隊を拠点として遠くニューギニア戦線までも遠征し縦横無尽に活躍をし、特にB17爆撃機の迎撃には偉勲の戦士と言われている。前年に祖国に帰り兵庫県加古川航空隊で教育にあたっていたが、20年1月愛甲郡愛川町中津にあった第22航空戦隊長として着任した直後であった。
 当日は部隊が朝鮮平壌に移駐が決まり、軍は迎撃中止を命じていたが、我が物顔の敵機の振る舞いに祖国の末路を案じてか、はやる部下隊員を掩体壕になだめおいて、自らは義憤の単機発進をされたものと思われる。
 当地においては故人を偲び、当地区の戦死者として遺影を福泉寺に掲額し遺族会としても懇ろに供養している。
 墓地の記念碑は搭乗機「疾風」のプロペラ4枚のなかの1枚である。永く戦死の地に設置されていたが、平成22年(2011)に現在地に移設された。

(表面)
 故上原重雄墓

(裏面)
 昭和20年2月17日戦死
 昭和28年9月23日建之
 百機ノ敵ニ一機ヲ以テ挑戦
 享年28才
 

(表面)
上原重雄戦死之地

(裏面)
 時 昭和20年2月17日
爆音乃たへて 桜とちりぬるも 
 高きかんばせ 永遠にきへなん

隼 戦闘隊長
 陸軍少佐 行年28才

故人愛キ之プロペラ

出身地
 鹿児島県日置郡
  市来町 湊

昭和28年
 墓ト共ニ建之

林唯四郎
 カキキザム

疾風のプロペラ。ジュラルミンのアルミ合金に刻まれたレクイエム。

プロペラであることがわかる薄さ。なおかつ、墜落時の衝撃でより一層に曲がっている。

案内看板の背面には、地元の人による墜落当時のエピソードが掲げられていたが、残念ながら風雨により劣化しており、全てを読むことが出来ない状態だった。

第22航空戦隊長上原重雄が散った小田原の空。

実際の墜落現場は、慰霊碑がある場所より直線距離で約800mほど西側の山中。
平成22年(2011)に山中で関係者が高齢となり維持や参拝が困難となったことから、山中から沼代の集落近くの道路に移転。

Googleストリートビューにて。中央の鉄塔のあたりが、墜落現場。

墜落現場

https://goo.gl/maps/6d49swavBGKpnnkV9


福泉寺

ちかくの福泉寺には、上原重雄中佐の遺影が保管されているという。

王子神社

「陸軍中佐上原重雄戦死之地碑」へは、王子神社を目標とするとわかりやすい。
王子神社 〒256-0801 神奈川県小田原市沼代506−1

下記写真の鳥居の先の道路がカーブする所に、慰霊碑がある。

「陸軍中佐上原重雄戦死之地碑」の場所

https://goo.gl/maps/9vd8T8yrW3oKfSPT8


公共機関でのアクセス方法

JR二宮駅南口よりバスというのが、一番わかりやすい。
ニ30系統 中井町役場入口行に乗車し、「下中駐在所前」で下車。徒歩約20分。

道中は、のどかな田園地帯を20分ほど歩く感じ。


参考

https://www.townnews.co.jp/0607/2015/05/02/281877.html

https://www.kanaloco.jp/news/social/entry-92679.html

陸軍航空士官学校狭山飛行場跡(陸軍狭山飛行場跡)

埼玉県入間市。
入間市で有名なのが「狭山茶」、隣の狭山市にあるのが「入間基地」。
入間と狭山は地名が交差していてややこしい。

この地にあった飛行場は「狭山飛行場」と呼称され、入間市にあった。

狭山飛行場へのアクセス方法。
西武線入間市駅からバス。
 西側
  三井アウトレットパーク停留所
 南側
  二本木停留所
  入間市博物館ALIT停留所
 北側
  根岸停留所
 などを利用して、あとは歩く感じ。

私は入間市駅からバスに乗って北側の根岸バス停を起点に約8キロ歩いて、三井アウトレットパークバス停から入間市駅に戻るコースでの散策でした。


陸軍航空士官学校狭山飛行場

狭山飛行場は陸軍航空士官学校分教場であった。

陸軍航空士官学校
昭和12年(1937)に陸軍所沢飛行場内に陸軍士官学校の分校として「陸軍士官学校分校」が開校。(現在の入間基地・入間飛行場)
昭和13年5月に「陸軍士官学校分校」が豊岡町(現在の入間市)に移転。
昭和13年12月に、「陸軍航空士官学校」として独立し、昭和16年には行幸された 昭和天皇より「修武台」の名称を賜った。

陸軍航空士官学校の本校は豊岡(入間)、その他に飛行練習をするために狭山・高萩・坂戸・館林の陸軍飛行場が練習地として使用された。

狭山飛行場は、昭和8年(1933)7月に陸軍の要請により飛行場用地としての買収が始まり、昭和9年(1934)年11月には狭山陸軍飛行場、所沢にあった陸軍飛行学校の分飛行場として開設。昭和13年の陸軍航空士官学校発足とともに分教場として利用。
開場当初は120ha、終戦時には約237haもの広大な飛行場であった。狭山飛行場の面積は現在の入間市の約5.3%を占めていた。

終戦後は狭山台土地区画整理事業が行われ、農地開墾、狭山台工業団地、住宅地などが造成。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:892-C2A-97
1944年09月24日、日本陸軍撮影の航空写真を一部文字入れ加工。

上記を拡大。

現在の様子。区画がしっかりわかる。

北東部分を拡大。

「飛行訓練塔?」と「エンジン試験台」の基礎が今も残っている。

これらのポイントを巡ってみる。


時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」

参考までに当時の東京西部と埼玉西部の飛行場の位置関係を記載してみた。


狭山飛行場外周道路・北部

根岸バス停から歩くを開始して、茶畑を縦断。
茶畑の向こうに見える工業団地が、狭山飛行場の跡地。


狭山飛行場・飛行訓練塔基礎?

狭山飛行場北東部に残る基礎。飛行訓練塔?の基礎、とされている。

場所

https://goo.gl/maps/DtzXiYUwXTyck6cd7


狭山飛行場外周道路・西部

飛行訓練塔基礎から南下し外周道路の西端を南下していく

左が飛行場エリア。

ふりかえってみる。右が飛行場エリア。

次の目的地へ。


狭山飛行場・エンジン試験台基礎

茶畑に向こうに、コンクリートの塊がふたつ見えてくる。
これらはエンジン試験台の基礎、という。

コンクリートの塊のうち、ひとつは廃材や枯れ草に覆われておりよく見えなくなっている。

場所

https://goo.gl/maps/dBy9rSnyFrKA5FDL9


中村屋武蔵工場(中華まんミュージアム)

そのまま南下をしていくと中村屋武蔵工場が見えてくる。
かつて、航空士官学校校舎があり、格納庫などがあった場所。
戦後は、大妻女子大学狭山台キャンパスがあったが、2015年に閉校し、その跡地に中村屋武蔵工場ができた。


狭山飛行場・航空士官学校校舎跡地

学舎の跡
 この場所は、東西およそ1800メートル、南北およそ1390メートルの旧日本陸軍航空士官学校狭山飛行場跡地の西端に位置し、航空士官学校校舎がありました。
 校舎は戦後も遺され。終戦直後の混乱期には寺にあった有隣青年学校生徒の学舎となり、昭和22年4月には元狭山村・宮寺村組合立狭山中学校がここに開校し、新しい教育の場となりました。更に二本木地区の子どもたちの狭山小学校が、校舎の一角に開校しました。
 昭和42年、役目を終えた跡地には大妻女子大学狭山台校が新設され、再び学舎の歴史が積み重ねられてきました。こうして、この地は多くの人びとの懐かしい学舎の跡になったのです。
 弊社は、地域の人びとに親しまれ続けてきた学舎の跡に工場を操業できることを誇りとして、新たな歴史を刻んでまいります。
 平成30年7月
  株式会社 中村屋

場所

https://goo.gl/maps/8kGNTzovqk5zoGuKA


狭山飛行場・陸軍境界石

狭山飛行場外周道路・南部に位置する。ちょうど中村屋工場と交差する場所。電信柱と並ぶように境界石が残されている。

陸軍

狭山飛行場外周道路・南部となる。


入間市博物館「ALIT(アリット)」

狭山飛行場外周道路・南部を歩く。
飛行場の南側に入間市博物館「ALIT(アリット)」がある。常設展示コーナーなどに「狭山飛行場」に関する展示もあるので時間があれば脚を運ぶことをおすすめ。


そのまま狭山飛行場外周道路・南部を東に向けて歩く。

狭山飛行場外周道路・南東部

南東部は外周道路とともに排水溝が暗渠された状態で残っている。

場所

https://goo.gl/maps/pwAcCPHYoZMATSYT7

武蔵工業団地は、狭山飛行場の跡地に開設された工業団地。


狭山開墾記念碑

狭山開墾の碑
狭山飛行場跡地の開墾事業完成の記念碑。
昭和21年(1946)1月に鍬入れ式を行い、翌年の夏には開墾が完成。総入植者542戸のうち、新規入植は15戸で、大部分は地元に還元。

狭山開墾記念碑
碑面裏(一部抜粋)
 秩父の連峰を背景に県の南境に近く蟠る一連の台地此処狭山は古くから茶処としてその名を知られて居る其の一画、元狭山宮寺金子東金子の4箇村に跨る250町歩の地域は昭和8年飛行場の開設を見たが終戦後はこれを農耕地として開拓せらることとなった(以下略)

「昭和8年飛行場の開設」と刻まれている。

場所

https://goo.gl/maps/CCkCLJsoehMFvCUDA


狭山飛行場・無蓋掩体壕跡

ファミリーマート駐車場とフジボウル駐車場の裏の森の中に、無蓋掩体壕の跡が残っている。
無蓋掩体壕は、土塁・土盛りでしかなく、正直言ってよくわからない。ただ森の中に不自然に土塁があるのが、今でもわかる。飛行機を駐機したであろう側まで森を進んでみたが、木々が茂りすぎて写真に撮ってみてもよくわからないものではあったが。

奥に無蓋掩体壕の土塁。

土塁に登ってみた。下は飛行機を駐機したであろうスペース。

場所

https://goo.gl/maps/XY8EMJHZcwCQb7hV8


狭山飛行場の東側に、コストコと三井アウトレットパーク。
ここまでくれば、入間市駅までバスで戻れる。


関連

越谷陸軍飛行場跡地の戦跡散策

埼玉県のシンボルであり、県民の鳥としても親しまれているシラコバト。埼玉県のマスコットキャラクター・コバトンとしても近年では馴染みが深い。
そんなシラコバトの名前を冠した施設「しらこばと水上公園」。当時、この地域は陸軍の飛行場であった。
そんな「しらこばと水上公園」周辺を散策してみようと思う。


越谷飛行場

埼玉県南埼玉郡新和村・荻島村、現在のさいたま市岩槻区と越谷市に存在していた飛行場。

通称「越谷陸軍飛行場」。地元では「新和飛行場」「荻島飛行場」「論田飛行場」とも呼称。
昭和19年7月、建設開始。急造での工事が行われ、昭和20年に竣工するも、ほぼ機能することなく終戦。

戦後、連合軍が進駐。この地域に生息していたシラコバトの多くが乱獲され絶滅にひんした、ともいわれている。

国土地理院航空写真
ファイル:USA-R393-167
昭和22年(1947年)10月23日に米軍撮影。越谷飛行場空撮。

上記を一部拡大。
滑走路・誘導路・排水路区画などがわかる。

現在の様子をgoogle航空写真にて。
今でも、当時の区画を辿ることが可能。


滑走路跡コンクリート
(滑走路で作った記念碑)

越谷陸軍飛行場から約6.5キロ北の地に、東岩槻駅近くの稲荷神社に越谷飛行場で使用された滑走路のコンクリートが転用されていた。

戦後、貴重であったコンクリート。不要となった飛行場で使用されていたコンクリートをはるばる6キロ以上先の地まで運搬。そこには、農地を開拓して見事に完成した証の記念碑を作りたいという熱意が感じられる。

稲荷神社
鎮座:さいたま市岩槻区南平野1-33-5

昭和22年に農地開拓事業完成の記念碑建立のために「新和飛行場」より碑石を運搬して作成した旨が記録されている。

碑文・裏
岡崎大沢両氏ハ昭和二十二年村民一同ニ推シ代表ニ就任スルヤ部落厚生福祉ノタメ本事業ニ着眼シ工事ノ設計工築ヲ担当シ自己ヲ忘レ一意専心事業完成ニ努力ヲセラレ其目的ヲ達成セリ
茲ニ記念碑建設ニ当リ碑石ハ新和飛行場ヨリ運搬使用セル一片ヲ残シ両氏ノ設計耕作ニヨリ碑ノ完成ヲ見タリ
洵ニ両氏ノ業績大ナリ其偉徳ヲ感激シ謝恩ノ一端ヲ抜瀝センガタメ碑ニ刻シ後年ニ傳ヘ讃ヘントス村民一同

https://goo.gl/maps/HbcrzAcYjYatfER99


しらこばと水上公園

埼玉県営都市公園。昭和54年(1979)開園。海無し県埼玉にとっては貴重な海。

https://goo.gl/maps/S7w5nQv2FjjarffF7

以下、散策してみましょう。

しらこばと水上公園まっすぐ南に伸びる道路は、当時の滑走路跡となっている。交通量は多く、近隣には工事業者も多く大型車の往来も多い。


滑走路跡


第一排水路

滑走路跡の道路から、ひとつ西となりの農道に移動。
建物のあるあたりが、当時の滑走路。

そして「第一排水路」。

そこからさらに農地を西に進む。


第二排水路・暗渠排水路(西)

水田の間にある排水路。
多孔型の蓋がされている暗渠となっている。
これは、滑走路に向かう飛行機が排水溝を渡れるように蓋をし、雨水を排水溝に落とすための工夫。
現在も排水路として機能している。

建物の場所が滑走路方面。

ときどき、大きな穴が空いていて要注意。かなり深いらしい。

砂利が多く混じっている。

ぼーっと歩いていると落ちる。落ちたら危険。

コメントを戴きました。

暗渠排水路ですが深さは深いらしく大人が立っても余裕らしいです、昔はウナギが取れたらしいのですが中に入ると簡単に出れなくなってしまい死ぬから絶対に入るなと言われました。
ちなみに暗渠より滑走路側の蓋のない用水路が第一排水路で暗渠の排水路が第二排水路だそうです。

ひろゆき様 よりコメント : 2021年6月17日 1:12 PM


建物基礎跡

格納庫のあったエリア。なんらかの施設の基礎と推定。赤丸の建物。青丸は橋。

飛行場の境目の用水は今も昔も変わらず。

https://goo.gl/maps/XD8H3BZAjc2zPsfKA

水田に囲まれている。

階段もある。

格納庫はあっても飛行機はなかったようで。。。

コメントを戴きました。

飛行場には当時、本物の飛行機はなく木で作った飛行機(ダミーのモックアプ)があっただけだそうです。
一度だけ飛んできた飛行機が事故を起こしたと言っていたのですが、私が大きくなり自分で色々調べた際に一式戦闘機が着陸に失敗し事故を起こした事を知り、祖父の話は本当だったのだと思いました。

ひろゆき様 より : 2021年6月17日 1:12 PM

石橋

石橋も古さを感じる。ただ主要な出入り口ではない農地エリアから飛行場エリアに、安易に橋を架けるのは飛行場側としては警備上のデメリットしかうまれないため、この橋は戦後の農地開拓時に架橋された可能性も高い。掲載している昭和22年の航空写真ではすでに橋が確認できるため、遅くともその頃には架橋されたものと判断できる。

コメントを戴きました。

格納庫跡付近の橋から西に延びる道は飛行場建設当時、軍のトラックが資材運搬に使用したらしいのですが、トラックが道を荒らしてしまい穴だらけにしてしまったらしいのです。
軍も住民への補償という形で道を修繕したのですが、穴に大きな石を入れただけだったらしく、その上をトラック等が走っていると石が水田側に出てきてしまい結局自分たちで石を砕いて道を修繕したらしいです。
ですので橋も飛行場建設当時からあったと思われます。

ひろゆき様 よりコメント : 2021年6月17日 1:12 PM

コメントを戴いた、ひろゆき様のお祖父様は石橋の近くに住んでいたとのことで。
飛行場の外側にあった民家にも兵隊さんが訪ねてきたそうです。

食糧難の話で、終戦間際の正月一人の兵士が餅を食べさせてほしいと訪ねてきたそうです。
ウチにもたくさんあるわけではないので、今日だけという事で餅を食べさせてあげたらしいのですが、翌日から毎日のように兵士が仲間を伴ってやってくるようになってしまい、家の木戸(門)が開けられなくなってしまったと言っていました。

ひろゆき様 よりコメント : 2021年6月17日 1:12 PM

また、ひろゆき様のお父様から聞いたエピソードも頂戴しました。

ここまでが祖父に聞いた話で、こちらは私の父親(戦後生まれ)が子供のころ近所の元憲兵から聞いた話です。
飛行場完成後、倉庫にあった軍の備蓄米を当時の司令が横流しをしていたらしいです、その後その司令は何事もなく移動になり飛行場を去っていったらしいのですが、後任の司令が着任後に米の備蓄数を調べたところ数が合わない事で発覚したのですが、当時その事を咎められたのは新しく来た司令だったそうです。
その司令は結局、その事を苦に首を括ってしまったそうです。

ひろゆき様 よりコメント : 2021年6月17日 1:12 PM

鉄塔基礎跡(1つ目)

前述のなんらかの建物基礎は、もしかしたら変電系の施設だったかもしれない。建物基礎跡を挟んで前後には鉄塔基礎跡と思われるものが一直線に並んでいた。下図の左上は現在の東京電力の施設。公共系の施設は今も昔も同様の使われ方をしているので、当時でも左上の建物は電力系と判断することができる。

コメントを戴きました。

飛行場建設にあたっては朝鮮人も動員したらしく、本文にもある東京電力の施設の近くに宿舎があったそうです。
食糧難ということもあり、食事は真っ黒い握り飯を食べていたそうです。
真っ黒とは?と祖父に尋ねたところ、玄米だそうです。(精米すると量が減ってしまうからだそうです)
祖父は親からあまり朝鮮人には近づくなと言われたそうです。

ひろゆき様 より : 2021年6月17日 1:12 PM

赤丸は鉄塔基礎跡。青丸は現在の鉄塔。
星印は前述の建物基礎跡。

まずは格納庫エリアより南東に残る鉄塔の基礎跡。滑走路に一番近い鉄塔基礎跡。

そんなに大きなものではない。

下部は水田に張られた水で徐々に削られているようだ。


鉄塔基礎跡(2つ目)

こちらは格納庫エリアの北西にある鉄塔基礎跡。水田の中にきれいに残っている。

後ろには現在の鉄塔の姿も見える。


誘導路跡

滑走路に戻る。このあたりが、滑走路の南端。

この南端からは曲線を描いたターニングサークル・誘導路跡の道路が今も残っている。


第二排水路・暗渠排水路(西)

暗渠となった排水路は東側にも一部残っている。

当時の排水路と新しい排水路が合流。新しい排水路は暗渠化されておらず開渠型。

東の排水路は、あたしい排水路と交差する箇所も多く、改良も多いようです。

また西側は水田主体でしたが、東側は畑が多いようです。

畑が多いと土砂も多いため、暗渠の摩耗も進んでしまうような雰囲気。

南側は排水路そのものが、飛行場当時のものを改め新しい開渠型に更新されておりました。

このあたりは排水路・用水路が多い。水っぽい土地。

コメントを戴きました。

この飛行場一帯は元々水田で低湿地帯のため水捌けが悪く飛行場南側に新堀池という排水池を作ったのですがそれだけでは足りず排水ポンプも使用していたらしいです。
しかし、そのポンプの電線が切れていた所に運悪く近所の農家(家まで聞いたのですが忘れました)の牛が引っ掛かり感電死してしまったらしいです。
また低湿地帯のため末田須賀堰を閉める事ができなくなり農家は苦労したそうです。
(この近辺は水門を閉める事により水を貯め用水路に水を分配しているのですが用水路に水を入れると水田とともに飛行場にも水が入ってしまうため、水門を閉めて水を貯めることができなっかった)

ひろゆき様 より : 2021年6月17日 1:12 PM

兵舎跡

飛行場の南東には兵舎があった。

区画は当時も今も変わらない。

さらに拡大してみる。

まわりの住宅とまったく異なる方向を向いている建物。飛行場時代の兵舎と同じ場所で同じ向きに建っている建物。

そこには、時代に取り残された空間が残っていました。

このまま北越谷駅まで歩いていきました。

しらこばと水上公園バス停から北越谷駅まで約8キロの散策でした。


関連

中島航空金属と武蔵野鉄道引込線跡の戦跡散策(東久留米・西東京)

西武線の東久留米駅から西東京方面に向けて、かつて貨物線路が引かれていた。中島飛行機関連の工場に向けての貨物線であった。

中島飛行機田無試運転工場
中島航空金属田無製造所(田無鋳鍛工場)

昭和13年に中島飛行機株式会社荻窪製作所田無鋳鍛工場として発足。その後、独立して中島航空金属株式会社となった。
中島航空金属田無製造所では飛行機エンジンの鋳物部品を製造しており、その製造のために大量の砂を必要としていたために、東久留米駅から中島航空金属田無製造所まで貨物輸送用の引き込み線が作られたという。
また、隣接する中島飛行機田無試運転工場では、すぐ近くにあった中島飛行機武蔵製作所で組み上げたエンジンの試運転などを行っていたという。

中島航空金属(現在の住友重機械工業田無製造所)


位置関係

国土地理院航空写真
ファイル:USA-R360-77
1947年10月24日-米軍撮影

一部加工。クリックで拡大。

GoogleMapで現在の様子を。

わかりやすいので参考までにマークをした自由学園の位置も変わらず。
学校内にも往時の建造物が残っているが、今回はその脇を歩く形となる。


武蔵野鉄道引込線跡

東久留米市指定旧跡 旧跡第4号
武蔵野鉄道引き込み線跡
 学園町1丁目1番から2丁目1番他
 この「たての緑地」は、昭和19年(1944)に武蔵野鉄道(現在の西武池袋線)東久留米駅から旧中島航空金属田無製造所へ敷設された鉄道の引き込み線跡です。
 東久留米から分岐された全長2.84Kmの側線で、正式名称は「東久留米駅構外線」です。当時、西東京市保谷(旧保谷町・田無町)には軍用機エンジンを製造していた中島飛行機武蔵製作所(現武蔵野市)の鋳造部門の工場である中島航空金属田無製造所があり、砂などの原材料や燃料を小型蒸気機関車が引く貨車に乗せて運んでいました。昭和20年8月の終戦によって廃線となり、引き込み線は昭和30年代までその原形を保っていましたが、現在は築堤された道床や切通しなど、その一部を残すのみとなっています。旧跡指定は東久留米市所有部分のみです。
  東久留米市教育委員会

武蔵野鉄道引込線跡の散策

東久留米駅から散策を開始。

しばらくは線路と並走

引き込み線の築堤と送電線。
当時の引き込み線の場所を、今は送電線が走る。

築堤は西武鉄道の所有。

築堤と川。この場所に川を渡る橋梁があった。

https://goo.gl/maps/NhHGNNZ5i6xDNDPq5

両側ともに西武鉄道の管理地。

しばらくすすむと「たての緑地」となる。「緑道」といっても問題ない廃線跡。東久留米市の管轄。

足下に境界石。西武鉄道のシンボルマーク、ですね。

送電線と廃線跡。

東久留米市立南中学校や西武ハイヤー多摩地区配車センターのある笠松坂通り近くで廃線跡は終わり、ひばりが丘団地へと吸収。

そろそろ中島航空金属かなという手前の住宅地、ひばりが丘団地交番の奥の路地

にあった境界石。これはなんだろうな。


中島航空金属株式会社
住友重機械工業株式会社田無製造所

現在、こちらは「住友重機械工業株式会社田無製造所の正門」

そして、こちらは「住友重機械工業株式会社田無製造所の通用門」とのこと。
この門柱は中島航空金属当時からのものであろうか。

https://goo.gl/maps/3GvggRdYMy6xNs4P6


中島飛行機武蔵製作所と中島航空金属を結ぶ軽便鉄道跡

中島航空金属田無製造所から、中島飛行機武蔵製作所までも線路が結ばれていたという。
が、この区間に線路があった時代は短く、その名残をたどるのは既に難しくなっている。

この辺りも軽便鉄道の跡、とはいうが。。。

https://goo.gl/maps/cWFvYiur8SWXQfEh6


西武柳沢駅近くの西武鉄道と軽便鉄道の交差ポイント。

https://goo.gl/maps/Scc8EVn74BLZw2r6A

中島航空金属田無製造所の周辺には、中島飛行機の社紋が刻まれた境界石も残っているという。探しに行かねば。。。課題ですね。


少年航空兵像と所沢陸軍整備学校(所沢航空記念公園)

明治44年(1911年)、日本初の飛行場として、所沢飛行場が開設。
以来、昭和20年(1945年)の終戦に至るまで、日本の航空発展の歴史は、所沢とともにあった。

所沢陸軍飛行学校・所沢陸軍整備学校

大正8年、陸軍航空学校が所沢に開設。フォール大佐を長とするフランス航空団が航空教育を指導。
大正10年、陸軍航空学校は、所沢を本校に、千葉の下志津と伊勢の明野に分校を開設。
大正13年、所沢陸軍飛行学校に改称。
昭和8年、少年航空兵教育が追加。
昭和10年、所沢陸軍飛行学校から機関科が分離し、陸軍航空技術学校が開設。
昭和12年、下士官と少年航空兵の整備科を分離し、陸軍航空整備学校が開設され。所沢陸軍飛行学校は廃止。陸軍士官学校分校に転用。
昭和13年、陸軍士官学校分校は、現在の入間基地の地に移転し陸軍航空士官学校として独立。のち「修武台」と命名される。
昭和16年、陸軍航空技術学校は立川に移転。
昭和18年、所沢陸軍整備学校へと名称変更。
昭和19年、所沢陸軍整備学校の敷地内に「少年飛行兵の像」が建立。
昭和20年、所沢陸軍整備学校は陸軍幹部候補生・少年飛行兵の航空整備技術の中心地として機能し終戦を迎える。


少年航空兵像

航空発祥の地・ところざわ
航空整備兵の像
 この像は、昭和18年、彫刻家故長沼孝三氏(1908~1993)が第二回大東亜戦争美術展に出品し、翌19年5月21日に、当時この地にあった所沢航空整備学校内に建立されたものです。
 翼を抱き、空を見上げる航空整備兵三人の姿は、当時の少年飛行兵や整備兵のシンボルとされていました。
 戦後、所沢飛行場は米軍基地として接収され、昭和46年の基地返還により、所沢航空公園として整備されました。しかしこの像は痛みがはげしかったため、所沢航空資料調査収集する会では、後世にわたりこの像を保存していこうと、平成9年2月、長沼孝三彫刻館(山形県長井市)の協力をいただき、修復工事を行いました。
 空への夢と希望を抱いたこの像が、市民のやすらぎや平和への祈りを込めた像として永く市民に親しまれていくことを願ってやみません。
 平成10年3月
  所沢市
  所沢航空資料調査収集する会

翼を抱き空を仰ぐ少年飛行整備兵


位置関係

国土地理院航空写真
ファイル:892-C2A-107
1944年(昭和19年)9月24日、日本陸軍撮影

一部拡大

現在の様子

今も昔もはっきりと分かる空間。


大正天皇御駐輦之跡

大正天皇御駐輦之跡
 大正元年(1912)11月15日から19日にかけて関東地方で10万人の将兵が参加する陸軍特別大演習が行われました。所沢飛行場からはブレリオ機、会式3号機、会式4号機と飛行船パルセバルが初参加しました。この碑は、同年11月17日に大正天皇が所沢飛行場に行幸され、飛行機の飛行を統監されたのを記念して建立されたものです。
 尚、この碑には当時の井上幾太郎の直筆による文字が刻まれれており価値ある記念碑と言われています。
 2020年3月
  所沢市
  所沢資料調査収集する会


フォール大佐胸像

フォール大佐胸像
 日本にとって航空の黎明期であった大正7年(1918)、陸軍の航空本部長であった井上幾太郎大将は、先進国であったフランスに我が国の航空技術全般の指導を要請しました。
 日本からの妖精を受けたフランスは、フォール大佐を団長とする技術者63名の航空教育団を大正8年(1919)1月から大正9年(1920)10月までの間、派遣してくれました。
 この間、フランス航空教育団は、日本各地で陸軍の将校や技術者に学科と飛行訓練を指導しました。
 フォール大佐は、44歳で砲兵連隊長として第一線で活躍しており、フランスの航空部隊の第一人者でした。また、優れた操縦者であり、教育者でもあったので航空教育団の団長として派遣されたと言われています。
 日本でのフォール大佐の功績は大きく、日本の「航空の父」と呼ばれ、昭和3年(1928)4月に所沢飛行学校の校庭だったこの地に胸像が建立されました。
 しかし、胸像部分と正面プレートは、第二次世界大戦中に接収され、取り外されたままになっていましたが、昭和57年(1982)10月、少年飛行会及び所沢航空資料調査収集する会等の協力を得て、石川県金沢市の水野朗氏制作の原型を基に復元し、所沢市が建立したものです。
 なお、現在フォール大佐胸像正面にあるプレートは、フランス航空教育団来日100周年となる平成31年(2019)に、オリジナルの姿に復元したものとして、フランス航空宇宙工業会(GIFAS)から寄贈されたものです。
 2019年3月
 所沢市
 所沢航空資料調査収集する会

この胸像は昭和3年 当時所沢陸軍飛行学校校庭だったこの場所に建立されましたが 戦後取り外されたままとなっていました
この度少飛会有志の御協力により 金沢市の水野朗氏制作の原型を求め復元したものです
 昭和57年10月 所沢市

~記念植樹~
フランス航空教育団来日100周年記念
2019年4月7日(日)、フランス航空教育団来日100周年記念式典の実施にあたり、日仏交流の証、そしてフランスが日本の航空技術の発展に大きく貢献してくれたことをいつでも思い出すことができ、次の100年後も語り継げるよう、桜の木の植樹をしました。
(以下略)

ジャック・P・フォール大佐
フォール大佐の功績を記念して、所沢陸軍飛行学校校庭に設置された胸像の原型


ニューポール81E2(甲式一型練習機)

1918年(大正7年)、陸軍がフランスから輸入したニューポール81E2練習機。
翌大正8年に来日したフォール大佐のフランス航空団の教材として所沢陸軍航空学校設立以来、活用された練習機。その後、国内でも三菱によって国産化されている。写真の機体はレプリカ機。

岩田正夫のニューポール81E2

埼玉県ときがわ町の慈光寺に保存されていた「ニューポール81E2」の残骸。都幾川村出身の民間飛行家であった岩田正夫が、郷土訪問飛行時に機体を破損させたために、そのまま村に寄贈した機体。


所沢航空発祥記念館に関係する記事

日本の航空事始め7・日本初の航空犠牲者「木村・徳田両中尉像」(所沢)

日本初の飛行場、航空発祥の地「所沢」
航空事故も所沢が日本初であった・・・。

東京青山練兵場から所沢飛行場に向けてのフライトで、所沢飛行場を目の前にして墜落してしまったのが、木村中尉と徳田中尉が搭乗したブレリオ機であった。


日本の航空事始め

「日本の航空事始め」と題して、航空機の黎明期に注目した記録。
本記事は、もともと別立てでしたが、改題して、「その7」として再編集しました。

「その1」はこちら。


木村・徳田両中尉像
(木村・徳田両中尉記念塔)

我が国最初の航空犠牲者 
木村・徳田両中尉像

 大正2年(1913年)3月28日、所沢飛行場を離陸した木村鈴四郎砲兵中尉と徳田金一歩兵中尉の搭乗する「ブレリオ機」は青山練兵場に着陸し、貴・衆両議院の観覧及び説明の後、午前11時36分帰航の途につきました。
 ところが、所沢飛行場北東約1500メートルの大字下新井字柿の木台の上空に差し掛かったとき、突風に左の翼を破壊され両中尉は飛行機と共に墜落して殉職し、我が国最初の航空犠牲者となり、国民のすべてが深くその死を悲しみました。
 当時の「やまと新聞」は義捐金を募り、墜落地点に記念塔を建て、両中尉の英姿を銅像として残しました。
 墜落地が交通不便のため訪れる人も少なかったので、当時所沢町のほか六カ村の在郷軍人会が発起人となり、昭和4年3月西武線所沢駅に移設しました。
 その後西部園から航空自衛隊入間基地へ移設されましたが、関係者の協力を得て、昭和55年3月航空発祥の地である現在地に移設したものです。
 所沢市

大正二年三月二十八日、陸軍ノ航空術ヲ兩院議員ノ觀覧ニ供スルニ當リ、陸軍砲兵中尉木村鈴四郎ハ「ブレリオ」式飛行機ヲ操縦シテ所澤ヨリ青山練兵場ニ至リ。
次テ陸軍歩兵中尉徳田金一ヲ載セテ歸航セシニ、偶突風ニ機翼ヲ毀損セラレ、木村中尉ハ其ノ卓絶セル伎倆ヲ施スニ由無ク、徳田中尉ト共ニ此ノ地ニ墜落シテ壮烈ナル最期ヲ遂ケタリ。
惟フニ、飛行機ノ軍國ノ用ヲナスコト多大ナルハ言ヲ俟タス。
其ノ研鑽ノ初ニ於テ一身ヲ犠牲ニ供シタル兩中尉ノ事蹟ハ、之ヲ千載ニ傳ヘテ朽チサルヘシ。
乃チ、有志相謀リ記念塔ヲ建テ、以テ後人ニ貽スト云爾。
 大正三年三月
 建設發起者 やまと新聞社

塔本在松井村村域、両中尉殉職之処。
経癸亥之大震而、荒廃甚殆瀕倒壊。今兹際、同志相謀而修復之、鑑所在僻遠而、有詣者漸稀看守屡絶之、憾移之於此地庶幾長全。
建立之趣旨、云爾。
 昭和四年三月
 発起者 帝国在郷軍人会所沢町外六箇村聯盟分会

場所


木村・徳田両中尉墜落地

所沢航空記念公園の東方が墜落地点であった。

木村 德田 兩中尉殉職之處
所澤陸軍飛行學校長古谷清書
大正二年三月二十八日兩中尉之殉職於此地也
有志者建塔而記念之今茲昭和四年三月之於所澤驛頭別勒碑而傳後人
 発起者 帝國在郷軍人會所澤町外六箇村聯盟分會

所沢市指定文化財(史跡)
木村・徳田両中尉墜落地
 所沢市は日本初の飛行場が開設され、「航空発祥の地」として知られていますが、航空界初の犠牲者が出たのも、この所沢の地でした。
 大正2年(1913)3月28日、陸軍省は航空機の重要性を説くため、貴族院・衆議院議員を対象に青山練兵場で観覧飛行を行いました。その帰路、木村鈴四郎砲兵中尉と徳田金一歩兵中尉の搭乗したブレリオ機は、午前11時59分、所沢飛行場を目前にして突風を受け左翼が折れて墜落、両中尉とも即死でした。事故現場は、旧松井村下新井柿木台(現在の所沢市下新井)にあたります。
 両中尉の所沢での葬儀は、3月31日におこなわれ、会葬者は所沢飛行場から飛行機新道、日吉町を通り所沢駅に行き、停車場踏切南方まで見送ったといいます。事故後、両中尉の記念塔を建てようとする運動がおこり、やまと新聞社が中心となって義金を募集、墜落現場の土地を購入して、両中尉の銅像記念塔が建設されました。除幕式は一周忌にあたる大正3年(1914年)3月28日に挙行されています。
 この記念塔は、昭和4年(1929年)に所沢駅前へ移され、更に何度か移転を繰り返しましたが、昭和56年(1981年)に所沢航空記念公園内に移され、現在に至っております。
 記念塔の移転後、ここ墜落地跡には、根府川石で作られた「木村・徳田両中尉殉職記念碑」が建立されました。
 平成23年3月
 所沢市教育委員会

我が国ではじめての
航空殉職の地
大正2年3月28日正午頃、東京青山練兵場において皇太子をはじめ、貴・衆両院議員の公開飛行を終え、所沢飛行場に帰航中の「ブレリオ」式単葉機が、この上空300メートルにさしかかった時、突風のため左翼が壊れ墜落し搭乗の
木村鈴四郎
徳田金一
両中尉が、殉職を遂げられました。
 所沢市牛沼戦友会 建

所沢市指定文化財史跡
木村・徳田両中尉墜落地

日本最初の航空機事故犠牲者墜落の地

日本初飛行機事故の地

墜落地点

墜落地点

平成25年3月28日建立
殉職100年記念

墜落地点

木村中尉と徳田中尉が墜落死をされた場所。
もともとは、記念塔がこの地に建立されていたが、昭和4年に記念塔は所沢駅前に移転し、当地には新たにこの石碑が建立された。

所沢聖地霊園の駐車場の南側に建立。

航空公園駅前からは3km


所沢航空発祥記念館

所沢航空発祥記念館の展示より、木村・徳田両中尉に関係するものを。

ブレリオXIbis飛行機(フランス·1911)

日本記録を更新した高性能単葉機
明治43年、臨時軍用気球研究会の委員、徳川好敏大尉がフランス留学中に“アンリ·ファルマン機”と共に現地で購入した飛行機。
研究機として最初に購入された4機種中では最も高性能で、滞空、距離、高度の日本記録を次々に更新した。所沢飛行場では主に偵察訓練に用いられていたが、大正2年3月28日に青山練兵場で行われた公開飛行の帰りに空中分解を起こし墜落、搭乗していた木村、徳田両中尉は死亡、日本で初めての航空殉職者となった。

冒険好きの実業家ルイ·ブレリオ
1909(明治42)年7月25日、“ブレリオXI-bis”で英仏海峡初横断に成功したルイ·ブレリオは、当初自動車部品の製造販売を行っていた。彼は事業で得た財産で飛行機を作ることを考え、905年、最初のグライダーの製作をガブリエル·ボアザンに依頼した。その後彼は次々に単葉機を試作、自機で英仏海峡の初横断飛行に成功した。この名声により“ブレリオXI-bis”には100機の注文が寄せられ、航空事業を開始した。その後、彼の会社はドペルデュサン社と合併、第一次大戦の名機スパッドを世に送り出した。

英仏海峡横断機から発達した並列複座の単葉機
“陸軍ブレリオXI-2bis”は、ルイ·ブレリオが英仏海峡初横断に使った“フノリオXI-bis”から発達させ、一回り大きくして複座にした単葉機でーエンジンも高出力になっている。操縦装置はライト機を参考にしたたわみ翼式だが、方向舵と昇降舵が後方にまとめられている形は現代の飛行機に近い。着陸装置もスプリングを用いた緩衝装置を備えるなど、当時としては精巧な作りであった。

ブレリオ機

ブレリオⅪ-2bis単葉機
1911(明治44)年4月13日、徳川大尉の操縦で、滞空時間1時間9分30秒、距離80kmの当時の最大記録を作る。1913(大正2)年3月28日、木村、徳田両中尉搭乗、所沢、東京間野外飛行の帰途、所沢上空で空中破壊、両中尉はわが国最初の犠牲者となる。
 発動機:グノーム空冷式回転星型50馬力
 座席:2
 全備重量:550kg
 最大速度:90km/h
 航続距離:4時間
 全幅:11.00m
 全長:8.80m
 全高:3.40m

出発前のブレリオ機と木村中尉

木村鈴四郎砲兵中尉と徳田金一歩兵中尉

墜落したブレリオ機のハンドル

木村/徳田両中尉 遺品
この遺品は大正3年3月28日午前11時36分、木村徳田両中尉が「ブレリオ」式にて松井地区柿の木台(こぶし団地東北方)に墜落の際、祖父越阪部一(初代の所沢市議会議長)が最初に駆けつけ燃えさかる機体から操縦士の救助にあたったとのことで遺族からお礼の記念として贈られた遺品で戦時中は陸軍航空士官学校に飾られていたものを戦後当家に返還されたものでありまして、この尊き遺品を独り保存するに忍び得ず航空発祥の地所沢市の遺品として長く保存いたしたい次第であります
  (以下略

木村・徳田両中尉の事故の状況

木村・徳田両中尉の事故現場

墜落大破したブレリオ機

木村鈴四郎中尉、徳田金一中尉が日本の航空史に名を残した偉大な実績に感謝を。

合掌


「日本の航空事始め・1」アンリ・ファルマン機と徳川好敏(所沢航空発祥記念館と代々木公園)

所沢航空発祥記念館に展示されている「アンリ・ファルマン機」。
日本で初めての動力飛行を行った飛行機。
徳川好敏とともに初フライトを行ったアンリ・ファルマン機と日本の航空史を簡単にまとめてみました。

所沢航空発祥記念館での「アンリ・ファルマン機」展示は2022年2月27日で終了しました。(航空自衛隊に返却)


日本の航空事始め

日本の航空史上、多くの「初」が溢れている。
以下に事象を箇条書きしてみる。

1877年(明治10年)5月21日
日本初の乗用気球飛行
  海軍兵学校が乗用繋留気球を制作。
  海軍省前の築地海軍練兵場で試験を行い高度110mまで上昇し成功。

1891年(明治24年)4月29日
日本初のプロペラ飛行実験
  二宮忠八による烏型飛行機・ゴム動力が完成。

1909年(明治42年)7月30日
臨時軍用気球研究会が設立
  陸海軍が設置した気球と飛行機の研究会
  委員に田中館愛橘・日野熊蔵・徳川好敏・相原四郎・奈良原三次ら。

1909年(明治42年)12月9日
日本初のグライダー制作
日本初の滑空飛行
  上野不忍池
  フランス海軍士官ル・プリウールがグライダー滑空飛行に成功。
  田中館愛橘(物理学者)・相原四郎海軍大尉がグライダー制作協力。
  (相原は明治44年1月にドイツで搭乗していた飛行船墜落により死去)
  相原四郎は日本人初の航空事故犠牲者となる。。

1910年(明治43年)3月18日
  日野熊蔵陸軍大尉設計の日本初の国産機「日野式1号機」が完成。
  戸山ヶ原で飛行試験を実施するも離陸できず。
   ※戸山ヶ原の射撃場を流用したため滑走距離不足とも。

1910年(明治43)10月
  奈良原三次海軍技師設計の「奈良原式1号飛行機」が完成。
  戸山ヶ原で飛行試験を実施するも地上滑走のみで離陸失敗。
   ※戸山ヶ原の射撃場を流用、馬力不足であったという。

1910年(明治43年)12月14日
日本初の動力飛行(動力滑空・動力跳躍)(非公式記録)
  代々木練兵場
  日野熊蔵大尉(グラーデ単葉機・独機)

1910年(明治43年)12月19日
日本初の公式動力飛行
  代々木練兵場
  徳川好敏陸軍大尉(アンリ・ファルマン・仏
  日野熊蔵陸軍大尉(グラーデ単葉機)
  日本人による(外国機)国内初飛行

1911年(明治44年)4月1日
日本初の航空機専用飛行場
  所沢陸軍飛行場が完成。

1911年(明治44年)4月5日
日本初の飛行場からの飛行
  所沢陸軍飛行場
  徳川好敏大尉が操縦する「アンリ・ファルマン機」飛行。
  高度10m、飛行距離800m、飛行滞空時間1分20秒の試験飛行を実施。

1911年(明治44年)5月5日
日本人による民間国産機での国内初飛行
  所沢陸軍飛行場
  奈良原三次(海軍を退役)が製造・操縦する「奈良原式2号飛行機」初飛行。
  高度約4m、距離約60mの飛行に成功。

1911年(明治44年)10月13日
日本人による軍用国産機での国内初飛行
  所沢陸軍飛行場
  徳川好敏陸軍大尉が設計した「会式一号機」が初飛行。

1912年(明治45年)5月
民間初の飛行場
  稲毛海岸
  奈良原三次が稲毛海岸の干潟を利用した飛行場を開設。

1912年(大正元年)11月2日-5日
日本海軍機の初飛行
  追浜飛行場(横須賀)
  河野三吉、金子養三による海軍機初飛行、観艦式への航空機初参加に成功。

1913年(大正2年)3月28日
日本初の航空機死亡事故
  所沢陸軍飛行場
  木村鈴四郎・徳田金一両中尉が死亡。
   ※別記事にて


地域でまとめると、
代々木
「日本航空発始の地」
「日本初飛行離陸の地」
「日本初飛行の地」
所沢
「航空発祥の地」
「日本初の飛行場」
稲毛
「民間航空発祥の地」
ということに。


アンリ・ファルマン機(原型:1910年型)

日本で、最初に動力飛行を記録した飛行機。

アンリ・ファルマン機
(原型:1910年型)


 当機は1910(明治43)年12月、徳川好敏大尉の操縦により日本で初めての動力飛行を記録したのち、翌1911(明治44)年には日本初の飛行場である「所澤飛行場」(現在の「所沢航空記念公園」)に備えられ、飛行訓練などに活躍しました。

主要諸元(原型)
●型式:1910年型アンリ・ファルマン(複葉複座型)
●エンジン:グノーム50馬力7気筒 星型回転式
●全幅:10.5m(展示機:10.8m)
●全長:12.0m(展示機:10.5m)
●重量:約600Kg
●水平速度:65Km/h
●航続時間:4時間
●製造国:フランス

アンリ・ファルマン機展示について
 このアンリ・ファルマン機は、徳川好敏大尉が操縦技術の取得と飛行機購入のために訪れていたフランスで買い付け、帰国とともに輸入したものです。
 1910(明治43)年12月19日に、わが国最初の動力飛行機による公式記録飛行を代々木練兵場において大尉自身の操縦により行ったのち、日本最初の飛行場である所澤飛行場で、これもまた徳川大尉らによって飛行技術の教育訓練に使用されました。
 第一線を退いたのちは、所沢の陸軍施設内にあった航空参考館(通称:南創庫)に展示・保管されていましたが、1945年、第二次世界大戦終結時にアメリカのライト・パターソン空軍博物館に運ばれ、15年後の1960(昭和35)年5月21日、日米修好100年ならびに日本の航空50年を機に日本へと返還されたものです。
 ときの航空幕僚長源田実氏は、わが国最初の動力飛行を記録したこのアンリ・ファルマン機を、青少年の教育・育成に役立てることを提案され、以来約50年間、東京都千代田区にあった交通博物館に展示されていましたが、2008(平成20)年3月、交通博物館の鉄道博物館へのリニューアルの折に航空自衛隊へと返却され、入間基地修武台記念館に移設・展示・保管されました。
 そしてこのたび、フランス航空教育団来日100周年を記念する事業を契機として、埼玉県が2019(令和元)年7月より航空自衛隊からの貸与を受け、かつこのアンリ・ファルマン機が活躍した地に立地する、所沢航空発祥記念館に展示することとなりました。
 このアンリ・ファルマン機を展示公開することは、わが国の航空発展に尽力した先人の足跡、ならびに日本とフランスの航空分野における深い係わりを、広く知っていただく機会となるとともに、空と空に関する技術や文化に対する興味や関心の喚起に繋がるものと確信します。

アンリ・ファルマン機のグノームエンジン
 当アンリ・ファルマン機に装備されているグノーム・エンジンは、普通のエンジンと全く逆で、クランク軸は回転せずに固定したままでシリンダー全体が回転します。放射状のシリンダーが弾み車のように回転し冷却効果を得ることができるこのタイプのエンジンをロータリー・シリンダー・エンジンといいますが、ピストンが回転するロータリー・エンジンとは全くの別物です。
 当時の航空界に衝撃を与えた画期的なこのエンジンはベストセラーになり、1910年頃のフランス機を中心に普及していきました。その後、飛行機の高速化にともなってシリンダーを回転させなくても冷却が可能となると、ロータリー・シリンダー・エンジンは姿を消していきます。

二人乗りの座席。複座。操縦席は脚が空中に飛びでるようで雰囲気で考えただけでも結構怖い。

ロータリー・シリンダー・エンジン

所沢航空発祥記念館での「アンリ・ファルマン機」展示は2022年2月27日で終了しました。(航空自衛隊に返却)


徳川好敏

御三卿清水徳川家第八代当主。男爵。最終階級は陸軍中将。
黎明期の陸軍航空を主導。
日本国内で初の航空機飛行に成功。

徳川好敏の軍用行李

漢詩「代々木初飛行の感慨」
徳川好敏が1910(明治43)年12月19日、東京・代々木練兵場もおける日本最初の動力飛行に成功した時の感慨を50年後の1960(昭和35)年に漢詩に認め、木村秀政・日本大学教授に贈ったもの。

漢詩読み下し
代々木原頭風凍る
寸時の飛行、是天祐
春秋去来す五十年
当時を偲びて、感慨更に新

飛行するアンリ・ファルマン機


航空発祥の地

航空発祥の地
この地は明治45年我が国で初めて飛行場が解説され同年4月5日早朝徳川大尉操縦のアンリファルマン機が初飛行に成功しました
それ以来、我が国航空界の発達に貢献した由緒ある「航空発祥の地」であります
 平成12年4月5日
 所沢市
 所沢航空資料調査収集する会

所沢市指定文化財(史跡)
航空発祥の地
 所沢市が日本の航空発祥の地といわれているのは、明治44年(1911年)4月、所沢に日本初の飛行場が開設されたことによります。
 明治42年(1909年)7月、勅令により臨時軍用気球研究会が発足し、航空機に関する研究が開始されました。気球研究会は、設置直後から試験場候補地を検討。栃木県大田原や千葉県下志津なども候補地にあがりましたが、旧所沢町と松井村にまたがる地域に決定されました。気象条件や地形の起伏などが選定の理由であったとされています。
 開設当初、所沢飛行場の敷地面積は約76.3ヘクタール。飛行機格納庫、気象観測所、軽油庫、東西方向に幅約50メートル、長さ約400メートルの滑走路を持つ飛行場でした。
 所沢飛行場での初飛行は、明治44年(1911年)4月5日の早朝に開始されました。まず、徳川好敏大尉がアンリ・ファルマン機で飛揚し、約1分で着陸。続いて、日野熊蔵大尉がライト機で3分30秒の飛行時間を記録しました。
 所沢の住民はもとより、多くの見学者が、飛行を一目見ようと近在各地から集まり、訓練日には桟敷が設けられ、飛翔のたびに歓声が上がったといわれています。
 平成23年3月
 所沢市教育委員会


1911年の所沢飛行場

当時、この場所に滑走路があった。

「あっ、飛行機がとんだ!」
この地点はわが国最初の公式飛行場「所沢飛行場」の滑走路にあたります。
この滑走路で1911年(明治44年)4月5日早朝、徳川好敏大尉操縦のアンリ・ファルマン機が初飛行をお行いました。この飛行は公式飛行場における日本最初の快挙であり、以来所沢は「日本の航空発祥の地」といあわれています。
このモニュメントは、その偉業を成し遂げた滑走路を永遠にたたえる意味で作成されました。
 1994年5月
 創立5周年記念
 所沢東ロータリークラブ


会式1号機(日本初の国産軍用機)

臨時軍用気球研究会式1号・徳川式1号機

所沢飛行場が開設され、飛行機が足りなくなってきたことから、1911年(明治44年)4月、臨時軍用気球研究会として新しい飛行機の設計を開始。
徳川好敏を中心としてアンリ・ファルマン機をベースに設計された新型機は7月より所沢飛行場格納庫内で制作され、10月に完成した。
日本最初の国産軍用機であった。
10月13日に所沢飛行場で試験飛行が行われ、時速は72km/h・最高高度は85mで飛行試験は成功した。

所沢航空発祥記念館には、原寸大に復元された「会式1号機」も展示している。
入り口に吊り下げられているので、うっかりしていると見逃す展示。(実際、初見で私は見逃したために再訪しました。)

会式一号飛行機(日本・1911)
所沢で富んだ日本初の国産軍用機
明治44年、徳川好敏大尉の設計・制作により日本で初めて作られた軍用機。この前年に代々木練兵場で日本での初飛行に成功した「アンリ・ファルマン機」を参考にして、より高い性能を持つ飛行機を作ることを目的として、所沢飛行場格納庫内で制作された。明治44年10月13日所沢飛行場で、徳川大尉みずからの操縦によって初飛行に成功した。主に操縦訓練や空中偵察教育に使われ、同大尉の設計で4号機までが生産された。


奈良原式2号複葉機(国産機初飛行)

奈良原式2号複葉機
1911(明治44)年5月5日、所沢飛行場で奈良原三次の操縦によって高度4m、距離約60mを跳び、国産機による最初の飛行記録を作る。その後、最大距離約600m、高度約60mを記録した。奈良原三次は海軍技師として臨時軍用気球研究会に参加していたが、委員会の活動とは別に自作の飛行機を設計、制作した。
 発動機:グノーム空冷式回転星型50馬力
 座席:1
 全備重量:550kg
 全幅:10.00m
 全長:10.00m

国産機の初飛行
奈良原三次と“奈良原式2号機”
日本の初飛行は海外から購入した飛行機によるものであったが、国産の飛行機が初めて日本の空に舞い上がったのは、民間人の手により、ここ所沢で実現された。1911(明治44)年五月5日、海軍造兵中技師であった奈良原三次は、自ら私財を投じて“奈良原式2号機”を制作し、所沢飛行場にて初飛行に成功している。この初飛行の半年前、奈良原は1号機を完成させ東京・戸山ヶ原練兵場で飛行実験をしたが、わずか30cmほど浮き上がっただけで失敗している。この原因は、搭載を予定しフランスに注文したエンジン“ノーム50馬力”に対し、誤って“アンザニ25馬力”が届いたためであった。奈良原は、馬力不足であることを承知で行ったこの実験で、わずか30cmでも浮き上がったという事実で得た自信を旨に、所沢で2号機の飛行に挑み成功、これが国産飛行機の初飛行となった。続いて“奈良原式3号機”“奈良原式4号機”がつくられ、“4号機”は「鳳」号と命名された。翌4月13日に神奈川県川崎競馬場で日本初の有料飛行会を開催し、以後、地方巡回飛行を行った。
(以下略)


二宮忠八(航空思想のパイオニア)


臨時軍用気球研究会

日本での軍用気球の研究は、明治10年の西南戦争がきっかけであった。
明治10年5月21日、海軍兵学校が乗用繋留気球を制作。海軍省前の築地海軍練兵場で試験を行い、高度110mまで上昇し成功。
これが日本最初の気球飛行となる。

日本における航空技術は欧米に比べ遅れていたということから、専門の研究機関の設立が必要であった。
そこで、気球と飛行機の軍事利用のための研究組織として明治42年(1909年)に勅令によって、陸軍大臣と海軍大臣の監督に属する「臨時軍用気球研究会)が設立。

会長
 長岡外史(陸軍中将)
委員
 田中舘愛橘(東京帝国大学教授)
 日野熊蔵(陸軍)
 徳川好敏(陸軍)
 井上幾太郎(陸軍)
 相原四郎(海軍)
 奈良原三次(海軍)
 金子養三(海軍)
 河野三吉(海軍)
 ほか

臨時軍用気球研究会は陸軍主導で運営されていた為に、海軍の意向が反映されにくい状況があった。海軍では明治45年6月に横須賀追浜にて独自研究を開始。翌年には事実上の退会状態であった。
大正8年には陸軍航空部が設立。
大正9年(1920)五月14日、田中義一陸軍大臣と加藤友三郎海軍大臣が協議し、臨時軍用気球研究会は解散となった。

長岡外史(陸軍中将)と田中舘愛橘(東京帝国大学教授)


所沢市内のいたる所に「アンリ・ファルマン機」


所澤神明社

徳川好敏は、明治44年4月、所沢飛行場での初飛行を行う前に所沢神明社にて正式参拝を行ったという。

鳥船神社(所沢航空神社)
 所澤神明社の境内社

https://www.shinmeisha.or.jp/shinmeisha/hikouki.html

https://www.shinmeisha.or.jp/omamori/

所澤神明社 サイトより
所澤神明社 サイトより

境内再整備後の記事


ここまでは所沢を中心とした記事でしたが、以下は場所を変わって代々木公園に。日本の航空を鑑みる上で、所沢とともに重要な歴史が代々木公園にもあります。

代々木練兵場(代々木公園)

戦前の代々木公園は「帝国陸軍代々木練兵場」でした。所沢に日本初の飛行場が整備される前、日本の飛行機は代々木練兵場を利用して飛んでおりました。

日本初飛行の地
日本航空発始之地記念碑

明治43年(1910)12月19日
代々木練兵場において徳川好敏陸軍大尉が飛行に成功。
次いで日野熊蔵陸軍大尉も飛行に成功。

これが日本航空史上「最初の飛行」である。
(ライト兄弟初飛行の7年後)

日本航空発始之地
陸軍大将井上幾太郎書

紀元二千六百年ヲ記念シテ此處ニ此碑ヲ建ツ蓋シ代々木ノ地タル明治四十三年十二月我國最初ノ飛行機ガ國民歓呼ノ裡ニ歴史的搏翼ヲ試ミタル所ニシテ爾来大正ノ末年ニ至ルマテ内外ノ飛行機殆ト皆ココヲ離着陸場トセリ即チ朝日新聞社ノ東西郵便飛行モ關東大震災後一時此地ヲ發着場トシソノ第一回訪欧飛行モ亦此原頭ヨリ壮擧起セリ是レ此地ヲ航空發始ノ所トナス所以三十年進展ノ跡ヲ顧ミテ感慨盡クルナシ今ヤ皇國多事ノ秋志ヲ航空ニ有スル士ノ来リテ此原頭ニ俯仰シ以テ益々報國ノ赤心ヲ鼓勵スルアラバ獨リ建立者ノ本懐ノミニアラサル也
昭和十五年十二月 朝日新聞社

日本初飛行の地
 1910年(明治43年)12月19日, 当時代々木練兵場であったこの地において、徳川好敏陸軍大尉はアンリ・フォルマン式複葉機を操縦して4分間、距離3,000m、高度70mの飛行に成功した。
 継いで日野熊蔵陸軍大尉も、グラーデ式単葉機により1分間、距離1,000m、高度45mの飛行に成功した。これが日本航空史上、最初の飛行である。

日本航空発始之地記念碑
 建立 朝日新聞社
 設計 今井兼次
 彫刻 泉二勝麿

徳川好敏之像
 建立 航空同人会
 彫刻 市橋敏雄

日野熊蔵之像
 建立 航空五〇会
 彫刻 小金丸義久

 東京都 昭和49年12月

日本初飛行離陸之地

徳川好敏之像と日野熊蔵之像

日本航空の父
徳川好敏之像
 井上幾太郎書

誠実 謹厳 航空に生涯を捧げた この人が明治四十三年(一九一〇年)十二月一九日 この地代々木の原でアンリ・ファルマン機を操縦しわが国の初飛行を行い飛行時間四分 飛距離三〇〇〇米 飛行高度七〇米の記録を創造して日本の空に人間飛翔の歴史をつくった 
 昭和三九年四月十七日 
  赤城宗徳 
 像作者 鋳金家 市橋敏雄

至誠
通神
 好敏(花押)

平成17年4月17日
日本航空発始之地顕彰保存会
航空碑奉賛同人会

日野熊蔵之像
 美土路昌一書

限りなき大空
限りある人生
限りなき代々の祖国のため
限りある現世の定命をささぐ

翁は熊本の産 豪放磊落英仏独語に通じ 数理に秀で選ばれて 独逸に飛行機操縦を取得し一九一〇年十二月一九日此地に於いて発動機の不調を克服してグラーデ式を駆り一分間一〇〇〇米の飛行をした不屈の精神は次代の青少年の範とすべきである 
 昭和四一年四月二三日
  松野頼三

飛行機唱歌
  明治44年(1911)6月17日作
   作詞 日野熊蔵   
   作曲 岡野貞一
勇み立つたる推進機の
 響きは高し音高し
時こえて よけれ放てよと
 弓手を挙ぐる一刹那
御國を守るますらをよ
 勲立つる戦場は
かの大空にありと知れ
 かの大空にありと知れ
  平成17年(1942)4月17日
   日本航空発始之地顕彰保存会 
   航空碑奉賛同人会


関連ページ

飛行神社・二宮忠八

日野熊蔵

戸山(戸山ヶ原の射撃場で飛行試験)

代々木(代々木練兵場で初飛行)

稲毛(民間航空発祥の地)

航空神社

日本初の航空犠牲者

九一式戦闘機二型(所沢航空発祥記念館)

所沢航空公園にある「所沢航空発祥記念館」。
ここに日本の航空史上で貴重な機体が展示されているので脚を運んでみた。

九一式戦闘機(二型)

胴体部分の展示。再塗装や修復などは行わず、当時の材質などがわかるように自然体での展示が行われていた。

重要航空遺産
「九一式戦闘機」は航空の歴史を未来に伝える重要な航空遺産です
2008年3月28日
財団法人 日本航空協会

近代化産業遺産
平成20年度 経済産業省

未来に伝えよう!「航空遺産」
過去の技術の変遷や、それを支えた人々の生きた証を伝える「文化財」として、そのままの姿で展示し、未来に継承していきます。

展示されている機体について
 展示されている機体は「九一式戦闘機(二型)」といい、第2次世界大戦中に宮城県加美郡加美町に住む方が購入したものであり、垂直安定板や主翼支柱にある番号および銘板から「九一式戦闘機(二型)」、製造番号「第237号」、製造年月が「昭和8年1月」組立検査・飛行検査が「昭和8年2月」と判明しています。九一式戦闘機は試作段階にここ所沢でテスト飛行を行うなど、当地とも深いゆかりがあります。
 この胴体は、先の購入者が入手して以来、手を加えられずに現在に至っていることが分かっており、戦前の使用当時の状態を保っているわが国の代表的な航空遺産となります。また、長期間屋内に保管されていたため材質の劣化もあまり進行せず保存状態も良好です。一部腐食している箇所もありますが、展示場所の温湿度環境を常に記録監視すると共に、錆の状態についても定期的に状態を確認し、他の箇所についても板厚を計測するなどして、貴重な航空遺産を将来に遺すための処置を実施しています。

当時の状態をそのままに
 一見すると胴体の塗色も一部剥離し、木製羽布張りの垂直尾翼が破損するなど、なぜきれいに直さないのだろうと疑問に思う方もいるかもしれません。しかしながら、あえて美しく直すことはせずに現状を維持したまま展示しています。なぜなら、当時塗られた塗色や書き込まれた製造番号を始め、この機体を制作し使用した人々が関った多くの痕跡がそのまま遺っているからです。技術資料としてだけでなく当時の人々の生きた証を未来に継承する貴重な文化財として、そのままの姿で展示しています。
 1930年代初期の航空機は海外でもオリジナルの状態で残っている例は少なく、特に日本では、戦前の航空機で当時の状態を良く保ったまま保存展示されている例は他にはほとんどありません。

九一式戦闘機とは
 九一式戦闘機は、中島飛行機が設計し1931(昭和6)年に旧日本陸軍に正式採用された最大速力が300km/hを超えるなど日本が欧米先進国の水準に近づいた初の国産戦闘機です。
 わが国の航空技術は、明治後期に諸外国の航空機の模倣から始まり、外国機をライセンス生産しながら生産のノウハウを学ぶと共に生産設備を整え、その後外国から招いた技師の指導のもとで設計・開発を進めることで、自立化を進めました。九一式戦闘機もフランスから招いた技師の指導のもとに設計が始められ、日本人技術者は、原型の設計だけでなく、その後の改良などを通じて、後に純国産機を生む基礎となる設計開発の主砲の多くを学びました。そのような経験を基にして、日本の航空機産業は一式戦闘機「隼」や「零戦」などの世界的水準の戦闘機を世に送り出し、航空に関する一切が禁止されていた戦後は蓄えた技術を自動車や鉄道を始めとする産業全般に広く普及させて、今日の繁栄の基礎を作りました。九一式戦闘機は、日本航空技術が海外の追従殻自立に移る転換期の設計・生産技術の状況を象徴してます。

九一式戦闘機の技術的特徴
 九一式戦闘機は、胴体はアルミニウム合金の金属製応力外皮構造、主翼は高張力鋼薄板の骨格に木製部品、羽布張りという木金混製羽布張り構造で、空力形態はパラソル型の高翼単葉です。
 航空機の構造と形態は、ライト兄弟の「フライヤー」号以来の木製骨格羽布張り構造・複葉形態から、1930年代後半に主流となり現在のジャンボジェット機にまで続くアルミニウム合金を使用した金属製応力外皮構造・低翼単葉形態に進化を遂げてきましたが、本機はその過渡期に試みられた構造・形態のひとつです。
 九一式戦闘機には一型と二型があり、展示機は二型です。一型は300機以上生産される一方で、2型は20機程度の生産に留まったといわれています。一型から二型への主な変更点は、エンジンを外国で設計、日本でライセンス生産したものから、中島飛行機が設計生産を行った国産のエンジンに換装したことです。

反射性の強いガラスのため、撮影は難儀。

垂直尾翼部分やエンジン取付部分などの様子がわかる。

91式戦闘機の脚部

九一式戦闘機模型

陸軍九一式戦闘機
1927(昭和2)年、陸軍は日本の航空機会社に対し国産戦闘機の開発を命じ、中島、三菱、川崎の3社が試作機を制作、翌年6月、所沢飛行場で審査が行われた。結果はいずれの機も不合格に終わったが、中島飛行機のNCパラソル型単葉機は、陸軍の指示によって引き続き研究改良が続けられ、1931(昭和6)年、“陸軍九一式戦闘機”として正式採用された。初めての国産制式戦闘機であるにも関わらず評価が高く、飛行第3連隊の進藤中尉による高度9,000mへの上昇、飛行第5連隊の立川~八丈島長距離洋上往復飛行、所沢飛行学校による日本一周飛行などの好成績を残し、1936(昭和11)年の陸軍大空中分列式には、指揮官の徳川好敏大佐みずから“九一戦”を操縦して先頭に立地、偵察機や爆撃機など一五〇機の大編隊を誘導した。昭和9年に九五式戦闘機が採用されるまで合計四五〇機が生産された。

その他

所沢航空発祥記念館内で旧軍に関係あるものを。

爆撃標準座席(九七式重爆撃機)

左から
一式戦闘機「隼」の主輪
九八式直協偵察機の尾輪
九一式戦闘機のプロペラ軸部

左から
モ式六型飛行機のプロペラ
乙式一型偵察機のプロペラ
甲式一型練習機のプロペラ

川崎ハ-40
三式戦闘機「飛燕」のエンジン
展示の都合、実際の取り付けとは上下逆に展示。。

所沢航空公園と所沢航空発祥記念館のそのほかに関しては別記事にて。

館山の海軍戦跡散策・その1

平成28年4月

・館山海軍航空隊跡
  赤山地下壕
  掩体壕
  水上班滑走台跡(米軍上陸の地)
・第二海軍航空廠館山補給工場跡
・安房神社
  館山海軍砲術学校第三期兵科予備学生戦没者慰霊碑
  海軍落下傘部隊慰霊碑
・館山海軍砲術学校跡
  正門跡・戦車橋
  平和祈念塔
  炊事場跡(ボイラー室跡)
  飛行特技訓練プール跡(落下傘部隊訓練プール跡)
  化学兵器実験施設跡
  ヤシの木
・震洋滑走台跡

令和元年房総半島台風(令和元年台風第15号)被災前の記録です

その2は、海自で。

この日(平成28年4月某日)は、突然ではあれど友人と館山へ。
友人車の機動力を活かして、館山に点在する海軍戦跡と神社をいくつか散策。


館山海軍航空隊(館空)

昭和5年(1930)に館山海軍航空隊(館空)開隊。海軍航空隊としては5番目。
横須賀海軍航空隊(横空)の実戦部隊が館山に移動することで「横空」は研究航空隊に特化。
昭和11年に木更津海軍航空隊(木空)が開隊すると、「木空」が外戦作戦任務を担当し、「館空」は内戦作戦部隊となる。
開戦後の1944年(昭和19年)に、東日本の哨戒航空隊を統合した「第九〇三海軍航空隊」が館山を中心に展開され、対潜哨戒機が配備され広大な哨戒区域をカバーする事となる。

洲ノ埼海軍航空隊(洲ノ空)

館山海軍航空隊の隣には、「洲ノ埼海軍航空隊」(洲ノ空)が昭和18年6月1日に開隊。それまで「横空」で行われていた射爆兵器の整備教育を担当する全国でただひとつの兵器整備練習航空隊で、操縦以外の航空機にかかわる専門技術を学ぶ養成機関であった。


位置関係

国土地理院航空写真「USA-M583-25」米軍撮影-1947年10月23日

USA-M583-25を一部加工。クリックして拡大。

上記地図のオレンジ色の箇所を散策。紫色の箇所は次回の宿題。未訪問個所。


赤山地下壕

まずは「赤山地下壕跡」へ。
館山市内の戦跡として一番有名な場所から。

https://www.city.tateyama.chiba.jp/syougaigaku/page001892.html

館山市指定史跡 館山海軍航空隊 
赤山地下壕跡
平成17年1月27日指定
 1930(昭和5)年、海軍5番目の実戦航空部隊として、館山海軍航空隊がつくられました。それから、1945(昭和20)年の終戦までの間、館山市香(こうやつ)から沼(ぬま)にかけての一帯には、航空機の修理部品の補給などをおこなった第2海軍航空廠館山補給工場、食料・衣服・燃料などを補給した横須賀軍需部館山支庫関係の施設や、1943(昭和18)年に兵器整備の練習航空隊として開かれた洲ノ崎海軍航空隊など、さまざまな軍事施設がつくられました。
 東京湾の入り口にあることから、館山市には、海軍の施設だけではなく陸軍の砲台や、教育機関(洲ノ崎海軍航空隊、館山海軍砲術学校)など、いろいろな種類の戦争遺跡が残されています。
 このような場所は、わが国のなかでも例が少ないといわれていますが、この赤山地下壕は、合計した長さが約1.6㎞と全国的にみても大きな地下壕で、館山市を代表する戦争遺跡のひとつです。
 つくられた時期は、はっきりしていませんが、このような大きな地下壕が、1941(昭和16)年の太平洋戦争開戦の前につくられた例はないといわれています。
 その一方で、昭和10年代のはじめに建設が始まったという証言もありますが、当時の軍部が本格的に防空壕をつくり始めたのは、1942(昭和17)年より後であるという歴史的な事実があります。
 全国各地につくられた大規模な地下壕の壕と壕の間の長さは、一般的には10~20m以上(長野市松代大本営の象山壕は25mであるとされていますが、この赤山地下壕は5~10mと狭い上、計画的に掘られたとは考えにくい、そのつくりから見て、終戦がさし迫った1944(昭和19)年より後にけんせつされたのではないかと考えられています。
 アメリカ軍の空襲が激しくなった太平洋戦争の終わりの頃、この赤山地下壕が、館山海軍航空隊の防空壕として使われていたことは内部にある発電所跡や、終戦間際に、この壕の中で実際に館山海軍航空隊の事務を行ったという体験や、病院の施設があったなどの証言から、知ることができます。
 平成15年 館山市・館山市教育委員会

赤山地下壕跡。
豊津ホールの受付で200円を納めて住所氏名を記載。
そしたらヘルメットと懐中電灯をお借りして地下壕に入ることができます。

今ではストリートビューもできるの便利になったものです。

https://www.google.com/maps/@34.9817322,139.841558,3a,75y,248.85h,83.7t/data=!3m4!1e1!3m2!1s4cv31GKv7mIAAAQo8FbG5A!2e0

自力発電所跡
 この一角は、壁面がコンクリートで補強され、コンクリートの土台や、床面の鉄筋が残っています。発電所があったところで、昭和20年2月に、航空隊の正門前の変電所から移転して使用されていたということです。4気筒200馬力のディーゼルエンジンが2台、発電機が2台、変圧器が9個あったそうです。

このクボミは?その1
 変電所電気員の待機所です。右側の浅いクボミには2段式のベットがあったそうで、10人くらいが交代勤務していたとか。空襲で爆弾の振動があると、天井の土がサラサラと落ちてきたそうです。
 壕内には科(職種)ごとの居住区があったらしく、木の棚のベットがあったそうです。

このクボミは?その2
 この縦長のクボミには、電話番が腰掛けて勤務をしていたそうで、中段左右の突起にコードを巻いていたということです。左隣の窪みはトイレで、桶がおいてあったそうです。

この壕はどうのように使われたのだろう
 防衛庁防衛研究所に「館山航空基地次期戦備施設計画位置図」という図面があります。太平洋戦争末期につくられたこの図面をみると、赤山地下壕跡の位置には、「工作科格納庫」「応急治療所」「自力発電所」と記されています。天井が高い壕は、格納庫として使われたのかもしれません。

戦後の赤山地下壕跡
 終戦後は「忘れられた存在」になっていましたが、温度が年中一定していることから、昭和30年前後頃より、キノコ栽培に使われていました。国内の他の戦争遺跡にも、戦後しばらくキノコ栽培に使われた地下壕跡があります。この風呂やボイラー、コンクリートブロックなどは、そのときに設置されたものです。

このクボミは?その3
 この部屋はがんルームとよばれていたという証言があります。少尉クラスの士官たちの部屋だったようです。奥の四角く切った大きなクボミは御真影を安置した奉安殿で、桧の板張りだったそうです。空襲のときに航空隊から御真影を移したということで、少尉クラスの士官の役割でした。

とにかく地層が美しい。
自然の芸術としても、よりいっそうの見応えがある。 現実には戦跡であるが。

安全に見学でき、そして良く整備されていた空間。
戦跡として歴史伝聞物として、このインパクトは極めて貴重。

海軍の街館山の最初の歴史散策として、この地下壕はうってつけの場でした。


掩体壕

赤山地下壕からはすぐ隣に。

サイズは小ぶり。戦闘機用かと。 掩体壕のすぐ隣は畑。日常との同居。 内部が解放され、自由に中に入れる掩体壕は貴重な存在だったり。


第二海軍航空廠館山補給工場跡

海自館山基地の隣にのこる大きな建物。
現在は民間企業が使用している。


米軍上陸の地


昭和20年9月2日降伏文書調印。 翌9月3日午前9時20分、米陸軍第8軍第11軍団第112騎兵連隊戦闘団約3,500人(司令官カニンガム准将)が館山上陸。 この館山が米軍による本土初上陸の地なのだ。

米軍上陸の地
1945(昭和20)年9月2日、東京湾上の戦艦ミズーリの降伏文書調印式によって第二次大戦が終わった。翌3日、カニンガム准将の率いる米陸軍第8軍約3500名が館山海軍航空隊水上半滑走台から上陸した。東京湾の入口である軍都館山は、このとき本土で唯一、4日間の直接軍政が敷かれた。


館山海軍航空隊水上班滑走台跡

館山海軍航空隊水上班滑走台跡。
この場所にて水上機が運用されていた、と。
水上機用スロープ(スリップ)が残っている。

9月3日に館山に上陸した米軍司令官カニンガム准将は「米軍ニヨル館山湾地区ノ占領」指令を発出。外務省が抗議し4日後の9月7日に軍政解除。 これが日本本土唯一の直接軍政となっている。

米軍上陸の地であり館空水上班滑走台跡でもある界隈から、第二海軍航空廠館山補給工場跡を遠望。 降伏文書調印翌日の9月4日。 館山から日本の戦後が始まっていたのを知るのも感慨深い。

スリップ関連では、ほかに・・・


館山の沖ノ島

館山の沖ノ島。沖ノ島公園。
海自館山航空基地の先、なかなか面白いところにある島。 関東大震災で隆起して陸続きになったらしい。

こんな感じで陸続き。 夏場はリア充空間になりそうですねw

島の入り口脇にいきなりなんかありました。
なんかの建物の基礎ですね。
海軍関係かな? 島内には地下壕なども点在しているらしいですが時間の都合で散策割愛。 せっかくなので島の鎮守様を参拝する。

館山の沖ノ島宇賀明神

安房国司源親元が嘉保3年(1096年)勧請の古社。 宇賀は「なが」に通じ「白い蛇」とも。 館山沖ノ島の鎮守様。

ご神木はタブノキ。 島内一の巨木。

館山沖ノ島宇賀明神神社。 社頭から対岸を望む。海上自衛隊 館山航空基地方面。
島を巡るのはまたの機会にして次に。


安房神社

安房神社。
安房国一ノ宮・延喜式内明神大社・旧官幣大社。
社号標は東郷平八郎謹書。
私にとっては平成14年以来の参拝。
新緑が鮮やかな境内に心が踊りつつの参拝。

本社(上の宮) 天太玉命 天比理刀咩命(天太玉命の后)
摂社(下の宮) 天富命(天太玉命の御孫) 天忍日命(天太玉命の御弟)

天富命が神武天皇勅命によって阿波の忌部氏を率いて東国安房・上下総国に渡った事に始まる。

安房国開拓の祖神。 創建年代は神武天皇の頃まで遡る古社。
安房国開拓を進めた天富命は、祖神であり祖父である天太玉命(天太玉命は天照大神の側近)をこの地に祀ったことに始まる。

延喜式神明帳「安房坐社」名神大社。
千葉県内では「香取神宮」に次ぐ神階。

社頭には「日露戦役記念碑」

新緑が鮮やかな境内。
境内が気持ち良すぎて満足してしまい、なんか色々写真を撮るのを忘れてしまったような。

安房神社オリジナル御朱印帳。
黒をベースに御神紋と社号。シンプルなデザインは好みを分けるかも知れませんが、私は好きですね。格好良いと思います。 初穂料は1500円。御朱印代は別。

御神水。 安房神社後方に鎮座する、吾谷山の霊水。

洞窟遺跡とあったので、戦跡か?と早とちりするも、古代遺跡。
安房神社界隈での原始的な人々の営みの記録。 古社たるべき格がここにあった。

安房神社境内には幾つか横穴がある。
ただし、これが信仰的な穴なのか、戦跡的な壕なのかは不詳。

安房神社界隈には布良陣地群が展開されていたという。
周辺も興味深いが、それは宿題。


館山海軍砲術学校第三期兵科予備学生
戦没者慰霊碑

安房神社境内に。
館山海軍砲術学校 第三期兵科予備学生 戦没者慰霊碑
 ※ 館山海軍砲術学校(館砲)に関しては、後述。

昭和45年10月10日建立。
慰霊碑には館山海軍砲術学校の第三期兵科予備学生229名の戦没者の名が記載。

館山海軍砲術学校 第三期兵科予備学生 戦没者慰霊碑
碑文
過ぐる大戦のさ中 当地神戸村地先にあった館山海軍砲術学校へ入校し教育訓練を受けた第三期兵科予備学生は1440名に及び 彼等は全て全国官公私立の大学高専等より志願によって馳せ参じ 選抜されて入校した学徒である
昭和18年10月8日入校式が行われ海軍予備学生を拝命 直ちに日夜の猛訓練が開始された 翌昭和19年1月末基礎教程を終了 一部は他の術科学校へ転属したが大部は2月1日術科教程に入る 術科では陸戦、対空、化兵の各班に分科し それぞれ第一線指揮官としての徹底的専門教育を受けた
同年5月31日術科教程を修了 卒業式が行われ 即日海軍少尉に任官した 戦雲正に急を告げるの秋 太平洋全域から印度洋に亘る前線へ あるいは諸艦艇等へ赴任し 熾烈な戦列に身を投じた
既にこの年の4月緊急な要請で卒業を繰り上げられて先発して行った同期を含めて任官総数は 陸戦班385名 対空班772名 化兵班50名で 総員1207名である
しかして戦勢は日を追って凄絶となり 勇戦奮闘した同期戦友も相次いで倒れて行った あるいは北海に あるいは南冥の果てに ときに戦争と平和を想い ときに戦局の前途を憂えながら 祖国にその青春の総てをかけたのである かくして尊き英霊となった者は実に228名に及ぶのである
われらはこのことを永久に忘れることはできない ここに栄光有る我等同期生一同の冥福を祈念し 永遠の芳名を刻印して 由緒あるこの神社に一碑を建立するものである
 昭和45年10月10日
 館山海軍砲術学校 第三期兵科予備学生 慰霊碑建設委員長 高橋末吉 誌

同期戦没者二二九名に捧ぐ

参道のソメイヨシノ。
安房神社の染井吉野229本は、この慰霊碑建設の際に229名の戦没者に因んで植えられたものという。


海軍落下傘部隊慰霊碑

海軍落下傘部隊慰霊碑
内閣総理大臣田中角栄揮毫

館山は海軍落下傘部隊発祥の地でもある。

正面には、 翼をひろげた鷲と落下傘、そして地球と錨の彫刻。

海軍落下傘部隊慰霊碑
碑誌
太平洋戦争を告ぐる昭和十六年後期我が国最初の海軍落下傘部隊として誕生し、 十八才より四十五才までの精鋭なる将兵二千有余名により編成、任務の特質上、其の訓練は厳正なる軍規の基猛烈にして不撓不屈の落下傘部隊魂は茲に編成された。
第一特別陸戦隊は昭和十七年一月十一日・十二日 セレベス島メナドランゴワン飛行場に十字砲火を浴び戦闘降下を敢行 更に第三特別陸戦隊は、同年二月二十日・二十一日 チモール島クーパンに戦闘降下を敢行共に占領に成功
其の功績の顕著なる事に対し時の連合艦隊司令長官山本五十六大将より感状を授与せらる。 爾後大スンダ、小スンダ列島の島々を制圧、次期作戦準備の為、一旦内地に帰還し、戦争の末期再度灼熱の南洋サイパン、トラック、ナウルの諸島に作戦し、
特にサイパンの戦いは惨烈を極め善戦の甲斐もなく昭和十九年七月十六日全員玉砕す。 我等茲に往事を顧み戦友相謀り志を結集し今は亡き戦友の霊を慰め其の功績を永く讃えんものと当隊発祥の地、ここ舘山に慰霊碑を建立した。
 昭和四十八年十一月十日
 元海軍落下傘部隊隊員一同建立

昭和48年に元海軍落下傘部隊一同によって建てられた慰霊碑。
右に横須賀鎮守府 第一特別陸戦隊43名、
左に横須賀鎮守府 第三特別陸戦隊46名、の戦没者名が記されている。

横一特・横三特(海軍陸戦隊)として、その勇名を歴史に残している。
合掌。

空の神兵

 藍より蒼き 大空に大空に
 忽ち開く 百千の
 真白き薔薇の 花模様
 見よ落下傘 空に降り
 見よ落下傘 空を征く
 見よ落下傘 空を征く
心のなかで奉歌し慰霊する…


館山海軍砲術学校

館山海軍砲術学校跡。
安房神社からはすぐ北隣に展開されていました。

館山海軍砲術学校。
昭和16年(1941)に館山砲術学校(館砲)が新設。
館砲では陸戦隊の操練術や高角砲対空砲の操作術・化学戦術など。一方、従来の横須賀砲術学校(横砲)では、艦載兵装の操作術を担当。
昭和20年4月25日に横須賀砲術学校分校に格下げ。終戦直前の同年7月31日には閉鎖。これは米軍上陸地点想定地近くでの教育訓練は適切ではないため、という。


位置関係

国土地理院航空写真「USA-M583-14」米軍撮影1947年10月23日

「USA-M583-14」一部加工。画像はクリックで拡大可。

館山海軍砲術学校跡
 第二次世界大戦以前は海戦における主な攻撃力は大砲であると考えられ、明治時代以来、旧海軍の砲術教育は神奈川県横須賀で行われていました。
 昭和16(1941)年6月1日、陸上砲術の実地訓練を目的とした館山海軍砲術学校 (館砲)が新設されると、それまでの海軍砲術学校は横須賀海軍砲術学校(横砲)と名称をあらためました。
 「館砲」の特色は、士官候補であった大学出身の海軍予備学生が訓練を受けていたことです。陸戦、対空、化兵(3期以降)の3班にわかれ、陸戦班では、敵前上陸や対戦車戦闘などの訓練が、対空班では、高角砲などの射撃訓練が、化兵班では、毒ガス戦の訓練が行われていました。
 「館砲」で訓練を受けた学生は、海軍予備学生の1期から6期に及び、開校直後は軍医学生が海軍士官としての素養を学ぶ基礎教育の場でもありました。
 昭和19(1944)年10月に入隊した5期予備学生等の約4000名は5ヶ月間の基礎教育を受けたあと、それぞれが術科(各職種)学校に進み、館砲には655名が入校したとされています。
 訓練施設としては広大な平砂浦演習場、東砲台・西砲台の対空訓練砲台、犬石射撃場、飛行特技訓練プールなどがありました。
 昭和20(1945)年4月25日に、館砲は横砲の分校となり、終戦を目前にした同年7月31日には閉鎖されました。その理由はアメリカ軍の本土上陸か想定されていたなか、太平洋岸の平砂浦で教育訓練を行うことが適当ではなくなったためといわれています。  
 平成18年3月 館山市・館山市教育委員会

館山海軍砲術学校と訓練に向う予備学生隊
 真継不二夫氏撮影

 昭和18年10月、この館山海軍砲術学校へ入学した海軍第三期予備学生は1,440名であった。
 かれらは全て全国の官公私立の大学、高等専門学校より馳せ参じ、選抜されて入隊した学徒である。
 昭和18年10月 8日入校式が行われ海軍第三期兵科予備学生を拝命、直ちに日夜の猛訓練が開始された。
 翌昭和19年1月末基礎教程を修了、引続き術科教程に入り、陸戦、対空、化兵の各班に分科し、夫々第一戦指揮官としての専門教育を受けた。同三月末、あるいは五月末術科教程を修了。卒業式が行われ、即日海軍少尉に任官し、戦雲まさに急を告げる太平洋全域からインド洋に亘る前線に赴任し、激烈なる戦列に身を投じたのである。この隊列(写真)の中にも多数の戦没者がいる。
戦没者はフィリピン(比島)、硫黄島を第一として各地域の部隊および艦船(大和9、武蔵6、山城6、長門5、扶桑3、那智3、大鷹・大鳳・熊野・羽黒・葛城各1)における戦没者は次ぎの通りである。
グアム4名、テニアン5名、パラオ1名、
比島方面92名、インド洋方面6名、ビルマ4名、
ビアク2名、ボルネオ10名、セレベス2名、
ラボール3名、南漢島2名、マレー方面1名、
スマトラ1名、舟山島1名、東支那海3名、
モルッカ諸島1名、マリアナ群島1名、黄海3名、
内南洋2名、アンボン1名、ニューギニア1名、
ペリリュー島5名、サイパン方面11名、硫黄島18名、
東シナ海方面13名、台湾方面8名、
沖縄方面8名、南西諸島方面10名、千島2名、内地近辺8名
合計229名。この外基礎教程後他術科へ転出後戦死者若干名、法務死若干名。
 ここに館砲校全景を伝える希少な写真を展示し、「鬼の館砲」といわれた猛訓練を受け、勇敢敢闘の末倒れた万余といわれる将兵・同期生たちの護国の想念を偲び、深き感謝と鎮魂の想いを捧げる次第である。終
 平成年5月27日(1999年海軍記念日)
 館砲3期会有志(以下個人名略)

館山海軍砲術学校正門跡には往時を偲ぶ記念板がある。
「鬼の館砲」と称された海軍陸戦隊の教育機関。


館山海軍砲術学校
正門跡・戦車橋

正門跡の通りにかかる橋は「戦車橋」と言われている。戦車橋脇の側溝も往時のままのもの。 砲術学校ゆえに「戦車橋」。正門の道はさながら「戦車道」。


館山海軍砲術学校
平和祈念塔

館山海軍砲術学校平和祈念塔。
戦車橋からまっすぐ進んでいくと右手に砲身のようなものが見えてくる。 砲身のような塔。

館山海軍砲術学校跡

舘山海軍砲術学校の沿革
 舘山海軍砲術学校(「舘砲」)は大東亜戦争の開戦直前、風雲急を告げる秋に当たり、阿部孝壮初代校長(後に、第六特別根拠地隊司令官。戦後敗軍の将としての責めに任じ、グァムで慫慂として法務死)を載して、昭和十六年六月一日、当地(千葉県粗郡神戸村、現在は、舘山市佐野地区)に開設された。
  学校用地は、帝国海軍当局の現地調査による当地が最適との報告に基づき決定された。用地問題は安田義達開設委員(初代教頭。後年、横須賀第五特別陸戦隊指令としてブナで壮烈な戦死)の熱誠溢れる説得と、耕地及び山林原野の大半を失うという苦難を克服して、なお誠心誠意の協力を惜しまなかった出口常次村長、錦織寅吉助役を初めとする村民各位の尊い愛国の至情と献身的努力により解決され、急遽、建設の運びとなったものである。
  「舘砲」は、横須賀海軍砲術学校(「横砲」)の陸戦、対空等、陸上関係の砲術部門が分離独立する形で開設された術科学校である。訓練設備として広大な平砂浦演習場並びに東砲及び西砲台の対空訓練砲台を備えていた。後に、化学兵器に関する部門が加えられ、常時、一万数千人の将兵を擁する規模であった。
  戦局の悪化に伴い昭和二十年四月二十五日、「横砲」に併合されて同校の分校となり、終戦直前の昭和二十年七月三十一日、閉鎖、廃校となった。開校から廃校までの存続期間は、僅か四年間に過ぎなかったが、厖大な人員が教育訓練を受けたと推定される。しかし、記録喪失のため詳細は不明である。
 「舘砲」では研究部員が、陸戦、対空、化兵に関する専門技術・教育訓練に関する指導研究に当たった。その術科教育の対象は、兵科将校学生及び術科講習員の他、初級幹部の緊急訓練対策として、第一期兵科予備学生、第二期兵科予備学生、特別第三期兵科予備学生と第三期兵科予備学生、学徒動員の第四期兵科予備学生と第一期兵科予備学生、第五期兵科予備学生及び第二期兵科予備生徒並びに第一下士官候補訓練生及び第二下士官候補訓練生(師範学校卒)が挙げられる。
  更に優秀な下士官兵指導員の練成を目指して、高等科訓練生及び普通科練習生に対する教育訓練にも重点がおかれた。また、若年者の特別志願制度に基づく特年兵の教育訓練も行われ、その第一期及び第二期は、年少のまま実戦にも参加した。なお、台湾・朝鮮半島出身志願兵に対する教育も実施された。
  初期にはメナド落下傘降下で勇名を馳せた横須賀第一特別陸戦隊、中期にはソロモン群島方面で悪戦苦闘を続けていた横須賀第七特別陸戦隊、呉第六陸戦隊、佐世保第六特別陸戦隊、呉第七特別陸戦隊並びに佐世保第七特別陸戦隊、末期には、山岡S特攻部隊等々の部隊編成及び特別訓練も行われ発信基地ともなった。
 この間、前線の各地に向けて多数の防空隊が陸続として派遣されたが、その部隊編成及び特別訓練も行われ、その発進基地ともなった。その隊員の中には、国民兵役から徴集された多数の、年長の補充兵も含まれていた。
 「舘砲」は、開校直後、軍医科学生、薬剤科学生及び歯科医科の普通科学生の基礎教育の場としても利用されており、また、終戦間際の段階では、飛行科士官に対する陸戦指導法の演錬、艦船乗組の機関科・工作科系統の特務士官・準士官に対する防空指導法の演錬等、緊急の切替教育も行われた。
  このように、「舘砲」は、帝国海軍の各種陸上部隊、とりわけ、特別陸戦隊、基地警備隊、特別根拠地隊等の陸戦・対空専門技術に関する教育訓練の中核であったため、その影響する範囲は、広く、且つ、深く、その実戦即応を重視した教育内容は、誠に、多岐多彩なものがあった。
 「舘砲」の特色は帝国海軍の指揮官先頭の伝統による猛特訓を特徴とし、人は、「鬼の舘砲」と呼んだという。ここの教育訓練を受けた戦友は、陸戦、対空の実戦に臨んでは、遺憾なく指導力を発揮した。北は極寒不毛の孤島から南は、炎熱の島に至るまで、悪条件をものともせず、縦横無尽に活躍し、時として、激しい爆撃弾の下、寡兵よく大敵に屈せず、長期持久の戦いを闘い抜き、或は、力尽きて倒れ玉砕された将校各位も多い。その数は、一千数千柱にも及ぶと推定されている。この勇戦奮闘が、今日の日本繁栄の基礎を築いた原動力である。祖国の安泰を願い、同朋への愛に殉じる志こそ、国家の存立及び発展に不可欠なものである。
  祖国愛に殉じたこれら多数の戦士のご遺徳を偲び、切に、そのご冥福を祈りつつ、開校五十周年の記念日に、想い出尽きない舘山海軍砲術学校跡に、地元各位の絶大なるご協力を仰ぎつつ、ここに、多年念願の記念碑を建立し、永世に、太平を開かせ給えと、希うものである。
 平成三年六月一日
 舘山海軍砲術学校跡に記念碑を建立する会

雄魂
元連合艦隊兼横須賀鎮守府参謀 寺崎隆治謹書

平和祈念の塔
 平成3年6月吉日
 館山市長 庄司厚書

過ぎし戦に 玉と砕けし戦友の 英霊安かれと祈り
 永世に 太平を開かせたまえと ひたすら 希う

朽ちていく四一式山砲。
20センチ・ロケット弾(噴進弾)。
戦地より収集された遺品(銃剣)などが塔の周辺に展示してありました。

館山海軍砲術学校時代からの井戸という。

世界各地を示す標識


館山海軍砲術学校
炊事場跡(ボイラー室跡)

館山海軍砲術学校炊事場跡(ボイラー室跡)
赤煉瓦の壁だけが奇跡的に残っている空間。
何というか、存在感に圧倒されてしまった。


館山海軍砲術学校
飛行特技訓練プール跡
(落下傘部隊訓練プール跡)

炊事場跡から高台に移動。
その高台から見えるは、館山海軍砲術学校飛行特技訓練プール跡(落下傘部隊訓練プール跡)
この場所も奇跡的に残っていた。

Google航空写真より抜粋


館山海軍砲術学校
化学兵器実験施設跡

館砲の中心から隔離された場所に朽ちかけた史跡がある。
軍機(軍事機密)であったが、館砲では細菌などの生物兵器や毒ガスなどの化学兵器に関する教育や訓練が行われた海軍唯一の養成機関もあり、教育機関としては陸戦班、対空班、化兵班の三班制であった。

館砲化兵班が何らかの化学兵器実験施設として使用していた建物跡という。
いまは、何を語るでもなく畑の中に風化しつつある歴史遺産。


通りすがりに参拝。

洲崎神社

「洲崎神社」 安房国一宮
(ただし一宮は江戸期以降の主張、安房神社に対する二宮とも。洲崎神社に対する二宮は洲宮神社)
旧社格は県社。 延喜式内論社。
御祭神は天比理乃咩命(天太玉命の后神)

参道石段に圧倒。これは見事な神域。
御手洗山中腹に鎮座している。

神武天皇の御代、安房忌部一族の祖天富命が勅命により四国の忌部族を率いて房総半島を開拓。 忌部族の総祖神天太玉命の后神天比理乃咩命を祀ったことにはじまる古社。

延喜式内社神名帳では、式内大社・后神天比理刀咩命神社。(論社)

治承4年(1180)石橋山の合戦に敗れ房総半島に逃れてきた源頼朝は当社に参詣し源氏の再興を祈願。以後、武家の崇敬が篤い。 ちなみに。 文治3年(1187)に源頼朝が洲崎神社から天比理乃咩命を勧請したのが品川神社の創建由来ともなる。

東京湾海上鎮護神として。 洲崎神社から品川神社へと連なる歴史を辿るのも興味深いものではあり。 更には阿波国から房総へと渡ってきた忌部一族の足跡を辿るのも一興。

洲崎神社。浜鳥居へ。 洲崎神社の旧鎮座地は、この浜であった、と。 浜から現在の鎮座地を望めば、美しい神奈備山。

御神石

洲崎神社。御神石。
なんとも言えない格を帯びている御神石。 長さは2.5メートル。

実は洲崎神社に奉納された神石は二対ある。 ひとつは、この吽形の神石。
もう一つは三浦半島安房口神社の阿形の神石。

洲崎神社の吽形の御神石と対になる御神石。
もう一つの御神石は三浦半島に飛んでいったと伝承。 房総半島から東京湾を挟むように対坐する三浦半島の御神石。 これは忌部一族の海上支配の具現化であろうか。古代の信仰文化圏を夢想する。

こちらは三浦半島の安房口神社(2014年撮影)

三浦半島。安房口神社の阿形の御神石。
安房口神社は三浦半島最古の神社。 館山で三浦半島を感じる。海の目線で見れば隣。まさに安房口。 洲崎神社の文化は深いですね… 実に面白い。

洲崎神社の浜。対岸を眺めつつ洲崎神社を後にする。ここは興味深い信仰文化の宝庫。きっとまた来ることになりそうです。 時間は16時過ぎ。最後に戦跡を一カ所だけ寄り道してみる。


震洋滑走台

洲崎から海岸線沿いを進む。
波左間漁港。

ここの海に不思議な造形物がある。
震洋滑走台。

震洋は、いわゆる特攻兵器。爆薬をつんだモーターボート。
付近には震洋を格納した壕も点在しているという。

訪れた時が満潮だったようで、形は今ひとつ。雰囲気レベルで。

第一特攻戦隊第18突撃隊
波左間「震洋」特攻基地跡


館山駅前のヤシの木

館山駅前のヤシの木は館山砲術学校正面にあったものを戦後に移植したものだとか。 車のなかから撮影したので今ひとつな写りですが、記録として。

googleMapのストリートビューも参照に。

館山は、戦跡の宝庫であり、今回の掲載はそのほんの一部。見逃したところも多いので、いずれかに再訪せねばならない地であれど、今回はいったんこれにて〆。


陸軍航空士官学校高萩飛行場跡(陸軍高萩飛行場跡)

埼玉県坂戸市及び日高市
 東武越生線・一本松駅及び西大家駅
 JR川越線・武蔵高萩駅

陸軍高萩飛行場
(陸軍航空士官学校高萩分教場)

高萩飛行場は、昭和13年12月、陸軍航空士官学校高萩分教場として使用開始された。

陸軍航空士官学校
昭和12年(1937)に陸軍所沢飛行場内に陸軍士官学校の分校として「陸軍士官学校分校」が開校。(現在の入間基地・入間飛行場)
昭和13年5月に「陸軍士官学校分校」が豊岡町(現在の入間市)に移転。
昭和13年12月に、「陸軍航空士官学校」として独立し、昭和16年には行幸された 昭和天皇より「修武台」の名称を賜った。

陸軍航空士官学校の本校は豊岡(入間)、その他に飛行練習をするために狭山・高萩・坂戸・館林の陸軍飛行場が練習地として使用された。

今回の散策は、そのうちの陸軍航空士官学校高萩飛行場にあたる。
高萩飛行場の規模は、東西1700メートル、南北1300メートル、面積は約220ヘクタール。
飛行場設備の主な建物としては、格納庫四庫(内二庫は鉄骨)、本部舎(二階建)、兵舎二棟(二階建)、機材庫、車庫、庶務事務所、講堂、将校下士官用控室、炊事用建物などであった。
陸軍航空士官学校高萩分教場の飛行練習は、主に通称赤トンボと呼ばれていた九五式練習機などを用いて行われた。
昭和20年2月まで、航空士官学校生徒の飛行練習場として活用され、その後、昭和20年4月より中島 キ84 四式戦闘機「疾風」を配備した飛行第一戦隊が展開。首都防衛の一翼を8月の終戦を迎えた。

位置関係

国土地理院:USA-M29-32
1947年02月08日-米軍撮影の航空写真を加工
国土地理院:USA-M29-32
1947年02月08日-米軍撮影の航空写真を加工

飛行第一戦隊納翼の地
(飛行第一戦隊納翼の碑)

東武越生線一本松駅の北に鎮座している「大栄寺」
昭和20年4月から8月の終戦まで、飛行第一戦隊が当寺に兵舎を設けた所縁で、境内に「飛行第一戦隊納翼の碑」が建立されている。

飛行第一戦隊納翼の地
 本隊は、日本陸軍最初の戦闘機隊として、大正・昭和にわたり、幾度か編成を繰返し、古い伝統と輝かしい戦績に飾られている、誇り高い部隊である。
 満州事変・日華事変・及びノモンハン事変では、多くの戦果を収め、昭和16年大東亜戦争の際は、マレー半島に進出し、東南アジア・ビルマ方面の制空に任じ、ガダルカナル島撤収に従事した。
 昭和19年、主力部隊はフィリピン作戦に飛翔し、熟練の飛行士は、わが国の未来を信じて、特攻隊として出撃し、また地上将兵は、異国の山谷で精魂盡きて散華した。
 昭和20年4月、残留部隊と再編し、入間高萩飛行場に於いて四式戦闘機(可動20機)を配備し、帝都防空の任務を遂行した。
 戦闘本部を旧大家村に置き、清水山大栄寺も兵舎に当てられたが、昭和20年8月、終戦を迎えた。
未だ天空をさまよい、平和の礎となった戦友の功績をしのび、御霊を癒し、恒久平和への願いをこめ、納翼の碑を建立する。
 平成12年8月15日
  飛行第一戦隊戦友会

戦隊長
 四至本広之烝 大阪
整備隊長
 壁谷利之 神奈川
(略)
後援 清水寺大栄寺
 高萩の 空に舞いたる 銀翼に
  想いもあらたに 平和噛みしむ
   大栄寺 小住 志村巧人
(略) 

中島 キ84 四式戦闘機「疾風」

元高萩飛行場跡地発見
機体(キの84)炎上融解片

清水山大榮寺

大栄寺から、一本松駅の隣、西大家駅に向けて歩く。
大谷小学校の近くに鎮座している「西光寺」も、飛行第一戦隊が兵舎を展開した場所であるという。

西光寺

JAいるま野サービス北部店のある辺りが、かつての陸軍飛行第一戦隊の本部があった場所という。

そして、西大家駅近くの「国渭地祇神社(森戸神社)」には陸軍第一戦隊の炊事場が設けられたという。

国渭地祇神社(森戸神社)を訪れたのは実は2回目。15年ほど前に「武蔵国延喜式内社」の論社を巡っていたとき(当時のレポート)は、この神社が戦争に関係していたと知る由もなく。
陸軍第一戦隊が炊事場で使用していたと知ったのは、今回の散策のための調査で、でした。

国渭地祇神社(森戸神社)の社号標は大正2年建立。往時を見てきた社号標ですね。

東武越生線西大家駅
昭和11年(1936)開業。

西大家駅から日高川島線を南西に30分ほど歩く。
「醤遊王国」という施設の近くに戦没者慰霊碑が建立されていた。

大東亜戦争戦没者慰霊碑

千手観世音のお堂の隣にある「戦没者之碑」

大東亜戦争戦歿者之碑
元陸軍中将 遠藤三郎書

陸軍第一飛行戦隊の戦死者8名を祀る慰霊碑。1953年建立。
遠藤三郎は、第3飛行団長、陸軍航空士官学校幹事などを経て、昭和17年12月に陸軍中将となり陸軍士官学校第4代校長に就任。その後は陸軍航空本部総務部長、軍需省航空兵器総局長官などを歴任。昭和22年から約1年、戦犯として巣鴨プリズンに収監され、その後は陸軍航空士官学校跡地に入植し農業に従事。その頃に遺族の要望で揮毫に協力したと思われる。

高萩飛行場方面に。

陸軍高萩飛行場跡地(北西端)

「中東京変電所」のあたりが。高萩飛行場の北西端。そこから西端を歩く。

高萩飛行場の中心部へ。

高萩飛行場跡の碑

「旭ヶ丘神社」「旭ヶ丘公会堂」の敷地内に、飛行場を物語る石碑が「建立されていた。

高萩飛行場跡碑
開拓碑
自治会組織法人化と経緯碑

高畑飛行場跡
 日高市長 大沢幸夫書

高萩飛行場は、昭和十三年十二月、陸軍航空士官学校(現在の入間市)の高萩分教場として使用開始された。当時この地は、北海道などからの入植者によって山林が農地として開拓されていたが、日華事変の拡大に伴い軍用地として接収された。
飛行場の規模は、東西一七〇〇メートル、南北一三〇〇メートル、面積は約二二〇ヘクタールで、飛行場設備の主な建物としては、格納庫四庫(内二庫は鉄骨)、本部舎(二階建)、兵舎二棟(二階建)、機材庫、車庫、庶務事務所、講堂、将校下士官用控室、炊事用建物などであった。飛行練習は、主に通称赤トンボと呼ばれていた九五式練習機などを用いて行われた。昭和二十年二月まで、航空士官学校生徒の飛行練習場として、大きな役割を果たした。飛行場としては、同年八月の終戦まで使用された。
 所在地 日高市大字旭ヶ丘全域及び一部森戸新田を含む 

昭和四十四年旭ヶ丘開拓農業協同組合の解散にともない、精算開始。
総会により現状の道路C号線五本と開拓事務所敷地等を共有とすることに決定する。
その後推移を経たが、旭ヶ丘地主会を結成して今日に至る。
ここに開拓地以前の高萩飛行場の碑を建て後世の遺文とするものである。
 平成二十年十月吉日 旭ヶ丘地主会建立

開拓碑
碑文
 昭和二十年終戦を迎えるや、首都衛星基地であった旧陸軍高萩飛行場跡へ十二月一日国の緊急開拓政策のもとに県下でもいち早く高萩開拓団を組織し、鍬入れを行った。
 当地は旧高萩村及び旧高麗川村の一部に亙り、総面積は出耕作地も含め六十余万坪に及び主として復員軍人、引揚者、近隣の二三男の百二十四名で構成し、字を旭ヶ丘と命名した。
 当時世相は混沌とし、農業経験の未知に加えて食糧物資は極度に不足し、更に打続く各種災害等に依り、経営基盤の弱い入植者の生活は困窮を極めた。
然し同士一同克くその苦難に耐え、昭和二十二年より国の助成による住宅の建設も始り、二十三年秋には待望の点灯工事を了え、同年農協法の施行により開拓団を旭ヶ丘開拓農協に改組し、苦難の中にも一歩一歩建設への段階を進め、二十七年国の開拓完成検査に全員合格した。
 更に心の據り処として部落中央に旭ヶ丘神社を建立し、幹線道路も逐次整備を進め、四十年代に入り蔬菜を中心とする営農も漸くその基礎を固めることが出来た。
 昭和四十四年開拓農協を解散し各自一本立ちの農家として再出発出来たのも、一重に各行政当局、各種諸団体、諸先輩の尽力指導の賜であることは勿論、入植者一同の団結と努力の成果であろう。
 茲に当地の足跡を後世に伝えると共に旭ヶ丘の将来の繁栄を希念しこの碑を建てる 
 昭和五十三年十二月一日

飛行場跡地のあった旭ヶ丘神社は、かつての高萩飛行場のほぼ中心部。
ここから東に歩いていくと、格納庫などがあったエリアに到達できる。

陸軍高萩飛行場跡地(東端)

ファミリーマートのあるあたりに、当時は格納庫があった。

ゴルフ練習場のあたりにも格納庫があった。

高萩飛行場の東端。

高萩飛行場跡(高萩北公民館)

高萩北公民館の敷地内にも跡地を記す看板があった。
内容はほぼ、旭ヶ丘神社境内にあった碑文と同じ。所在地の範囲が若干違うのは新旧での認識に誤差があった、のかもしれない。

高萩飛行場跡
 所在地 日高市大字旭ヶ丘全域 

 高萩飛行場は、昭和十三年十二月、陸軍航空士官学校(現在の入間市)の高萩分教場として使用開始された。
 当時この地は、北海道などからの入植者によって山林が農地として開拓されていたが、日華事変の拡大に伴い軍用地として接収された。
 飛行場の規模は、東西一七〇〇メートル、南北一三〇〇メートル、面積は約二二〇ヘクタールで、飛行場設備の主な建物としては、格納庫四庫(内二庫は鉄骨)、本部舎(二階建)、兵舎二棟(二階建)、機材庫、車庫、庶務事務所、講堂、将校下士官用控室、炊事用建物などであった。
 飛行練習は、主に通称赤トンボと呼ばれていた九五式練習機などを用いて行われた。
 昭和二十年二月まで、航空士官学校生徒の飛行練習場として、大きな役割を果たした。飛行場としては、同年八月の終戦まで使用された。
 平成八年一月 
 日高市教育委員会

陸軍高萩飛行場跡地(南東端)

「のりたま」の看板が目立つ。丸美屋食品工業(株) 埼玉工場のある場所が高萩飛行場の南東端。

この日の散策は、一本松駅から武蔵高萩駅までを歩くこと約15キロ、約3時間の散策でした。


付記

武蔵高萩駅

以前は、開業以来の瓦葺の地上駅舎が使われており貴賓室もあった。
貴賓室や車寄せは陸軍航空士官学校卒業式に臨席した昭和天皇が利用したが、2005年(平成17年)の改築に伴い旧駅舎は取り壊された。
新駅舎にも緑色の瓦を使用したデザインが踏襲されているほか、駅舎内部に旧駅舎の瓦と車寄せの柱を使って作られた展示コーナーが設けられた。

駅前通りは、陸軍航空士官学校に赴く昭和天皇の御車が走った御幸通りということになる。

昭和天皇行幸記念碑

旧豊岡町の陸軍航空士官学校卒業式に御臨席されたのを記念する石碑。
昭和16年3月28日、昭和17年3月27日、昭和19年3月20日の3回、昭和天皇が行幸されている。
北には、陸軍航空士官学校高萩飛行場(陸軍高萩飛行場)があったが、南には旧豊岡町の陸軍航空士官学校があった。すなわち、現在の入間基地。当時、皇室としては、武蔵高萩駅が、南の陸軍航空士官学校の最寄駅でもあった。


関連

浦和飛行場跡(埼玉第一飛行場跡)

令和2年2月。

荒川横堤(宗岡第二横堤) 昭和6年竣工
飛行場施設は横堤の南側にあった(写真右手)

1938年、首都圏近郊の「浦和飛行場」「調布飛行場」「砂町飛行場(東京市飛行場)」の3つの飛行場建設が承認された。

そのうち、調布飛行場は昭和14年(1939)に建設着手。昭和16年(1941)竣工。
砂町の東京市飛行場は現在の「夢の島公園」のあたり。埋め立て途中での戦時下の物資不足で工事は中断。竣工することはなかった。

浦和飛行場
(埼玉第一飛行場)

昭和14年(1939)に「浦和飛行場」の建設が承認。
この地には、すでに戦時下防空やグライダー育成を目的とした「埼玉第一飛行場」が起工しており、昭和12年(1937)頃にはすでに滑走路が出来上がっていたという。埼玉第一飛行場の設置者は埼玉義勇飛行会で、当時は「秋ヶ瀬飛行場」とも「秋ヶ瀬浦和飛行場」と呼称されていた。
昭和15年(1940)に「浦和飛行場」と名称変更され、拡張工事が始まるも、最終的には完成を見る前に終戦。跡地は放置。
戦後、荒川の直線化工事に伴い、当時の面影は残されていない。

当時と変わらずに残っているのは「荒川横堤」。
浦和飛行場の北側にある「宗岡第二横堤」は昭和4年(1929)着工、昭和6年(1931)竣工。当時は、この宗岡第二横堤の南側に飛行場施設が建設されていた、という。
荒川横堤は、日本では荒川のみの独特な堤防として土木遺産に選定されている。

また、荒川直線化工事の影響は、市境にも残されている。
志木市とさいたま市(旧浦和市)の屈折した市境は荒川が曲線だったときの名残。「浦和飛行場」(埼玉第一飛行場)は「浦和」と言いつつも、浦和側ではなく現在の志木市(当時の宗岡村)側であった。

位置関係

国土地理院航空写真(写真ファイル名:891-C2-66)
1944年9月28日-大日本帝国陸軍撮影

https://mapps.gsi.go.jp/maplibSearch.do#1

上記航空写真を拡大のうえ加工

横堤(宗岡第二横堤)の下流に「飛行場施設」
荒川の曲線の内側に「飛行場」
その下流には「秋ヶ瀬橋」

横堤と秋ヶ瀬橋の間に当時「浦和飛行場」(埼玉第一飛行場)があった。

戦後の航空写真。
あまり変わっていないようだけれども、飛行場跡地が開拓されているのがわかる。

同じく国土地理院航空写真より(写真ファイル名:USA-M675-55)
1947年11月28日-米軍撮影

現在の様子。
GoogleMAPS航空写真を加工。
荒川の直線化により、飛行場のあった場所の大部分が川の中に。
横堤は往時から変わらずに。

志木市とさいたま市(旧浦和市)の市境。荒川の東側に志木市の飛び地が残っている。この飛び地は、往時の飛行場跡地でもあり荒川が曲線であった頃の名残でもある。

浦和飛行場跡
(埼玉第一飛行場跡)

秋ヶ瀬河川敷
実際のところ、当時の遺構は残っていない。

飛行場跡地は、荒川の水の下に。

横堤(宗岡第二横堤)

昭和4年(1929)着工、昭和6年(1931)竣工。
当時は、この宗岡第二横堤の南側に飛行場施設が建設されていた、という。
荒川横堤は、日本では荒川のみの独特な堤防として土木遺産に選定されている。

このあたりに、当時は飛行場施設があったと思われる。

横堤の端。

ちょうど横堤の端には、不正投棄を監視する防犯カメラ。
河川敷には不正投棄が多いとのことで。

横堤の堤防上。

秋ヶ瀬取水堰

現在は、独立行政法人水資源機構の管轄。荒川で最も下流に位置する取水堰。

飛行場があった当時は、この取水堰があった場所が滑走路の中心地点。
今ではここに飛行場があったとは信じられない光景。

宗岡取水口

秋ヶ瀬取水堰

ここに、飛行場があったとは今では信じられない場所。
住宅地や工業団地になった飛行場は多いが、「浦和飛行場」は、まさか川になってしまった場所でした。

陸軍航空士官学校坂戸飛行場跡(陸軍坂戸飛行場跡)

東武東上線「若葉駅」のすぐ北側のエリアにかつて飛行場があった。

もっとも飛行場があった戦前には、まだ若葉駅は開業前(若葉駅は昭和54年開業)で、最寄り駅は「坂戸駅」。坂戸駅(当時は坂戸町駅)は大正5年(1916)開業。

かつて坂戸飛行場があったエリアには「女子栄養大学」「筑波大学附属坂戸高等学校」「山村国際高等学校」「坂戸市役所」、そして住宅地「UR若葉台団地」や「富士見工業団地」へと姿を変えている。

坂戸中学校に残る陸軍坂戸飛行場の弾薬庫跡

陸軍航空士官学校坂戸飛行場
(陸軍坂戸飛行場)

陸軍航空士官学校
昭和12年(1937)に陸軍所沢飛行場内に陸軍士官学校の分校として「陸軍士官学校分校」が開校。(現在の入間基地・入間飛行場)
昭和13年5月に「陸軍士官学校分校」が豊岡町(現在の入間市)に移転。
昭和13年12月に、「陸軍航空士官学校」として独立し、昭和16年には行幸された 昭和天皇より「修武台」の名称を賜った。

陸軍航空士官学校の本校は豊岡(入間)、その他に飛行練習をするために狭山・高萩・坂戸・館林の陸軍飛行場が練習地として使用された。

坂戸飛行場は、昭和15年に建設開始。
坂戸八幡神社の由緒によると「昭和15年2月5日に坂戸飛行場建設のために政府の政策により、社殿の移転を余儀なくされた。」旨が伝承されている。

そして、戦争末期の空襲により兵舎や格納庫などの主要施設は炎上し、そのまま終戦を迎えている。
戦後は開墾地を経て、昭和40年に土地区画整備が行われ、住宅団地119ha・工業団地96haの「住・工セット型団地」として再開発が行われた。

位置関係

USA-M44-A-5VT-12
1946年2月13日に米軍撮影の航空写真(国土地理院より)

USA-M44-A-5VT-12
1946年2月13日に米軍撮影の航空写真より、坂戸飛行場を拡大

USA-M44-A-5VT-12
1946年2月13日に米軍撮影の航空写真より、坂戸飛行場の施設部分を拡大
追記加工あり。

GoogleMapで現在の様子を。

同じく施設部分を拡大。

陸軍航空士官学校坂戸飛行場跡地散策

東武東上線若葉台駅より散策を開始。

まずは、「筑波大学附属坂戸高等学校」の敷地内に残る防火水槽跡を敷地外から見学。

坂戸飛行場の防火水槽

筑波大学附属坂戸高等学校敷地内

ひとつめは、少々わかりにくいですね。
なんとなく円形が察せられたので、多分これかな、と。

坂戸飛行場の防火水槽
ふたつめは、わかりやすいですね。

隣は坂戸中学校。

坂戸飛行場の弾薬庫

坂戸中学校の敷地内に弾薬庫が2棟残されておりました。

旧陸軍坂戸飛行場弾薬庫
 旧陸軍坂戸飛行場の正式名称は、陸軍航空士官学校坂戸飛行場で、昭和16年5月25日に開場したとの記事が、当時の新聞に掲載されています。滑走路は、路面が土で距離も短かかったようです。
 この飛行場の施設として、弾薬庫が建設されました。
 弾薬庫の規模は、幅7.6メートル、奥行5.6メートルの長方形で、入口が向かい合うように二棟作られ、高さは、4.3メートルです。
 入口以外に、内部を確認できる場所は、入口上部と入口の反対側の小さな窓だけです。
 さらに、建物全体が、厚さ約20センチメートルのコンクリート製で、堅牢なつくりです。
 戦後50年以上が経過しましたが、戦争という悲惨な事実をあたらめて認識し、平和の尊さを次の世代へ伝えていくため、この弾薬庫を保存していきます。
 平成12年10月
 坂戸市教育委員会

坂戸飛行場の本部跡地

法務局坂戸出張所のあたりが、陸軍航空士官学校坂戸飛行場の本部があった場所という。

そのすぐ近くに坂戸市役所。

坂戸飛行場の防風林(移植)

市役所駐車場の赤松は、陸軍坂戸飛行場の防風林として植えられていたものを、1971年に坂戸町役場移転に伴い移植されたもの、という。

坂戸飛行場の陸軍標石

陸軍坂戸飛行場に関係する陸軍標石は3箇所あるという。
1ヶ所は西側の「坂戸市役所第3駐車場」に残されており、2ヶ所は東側の民家の陰に残されている。東側は今回は未踏。
西側の坂戸市役所第3駐車場の陸軍標石を見学。

坂戸飛行場の駐機場跡

格納庫前の駐機場(待機所)のアスファルトが駐車場に残されているという。

坂戸市役所公用駐車場

路地裏の民間駐車場

坂戸飛行場の排水池(栄池)

当時も今も変わらぬ場所にある「池」。
当時は坂戸飛行場の排水池であったという。

坂戸の戦跡、まだまだ調べることは多そうです。
今回は飛行場の東側は未踏でしたし。(そこにも標石があるという)

本記事はひとまず〆


関連

陸軍関東松山飛行場跡(唐子飛行場跡)

松山飛行場

今も昔も「松山」という地名は混乱をきたす。
戦国の頃は、この地にも「松山城」があり、武蔵の松山もそれなりの知名度を持っていたが、愛媛松山に対して「東の松山」という位置づけ。

東上鉄道(東武東上線)が大正12年(1923年)に「武州松山駅」を開業。(戦後に東松山駅に改称)
当時は「武州松山駅(東松山駅)の隣の駅は「菅谷駅(現在の武蔵嵐山駅)であり、まだ「森林公園駅」は開業前であった。

その当時は存在していなかった「森林公園駅」の南側に、かつて飛行場があった。

「陸軍松山飛行場(陸軍関東松山飛行場)
通称は、地元名称から「唐子飛行場」(唐子の飛行場)と呼称していたという。

愛媛の松山には、松山海軍航空隊・松山海軍航空基地(源田実の第343海軍航空隊が著名)、そして現在の松山空港があり、海軍と陸軍でそれぞれの松山だった感じですね。

余談ついでに。
台湾は台北飛行場(松山飛行場)が昭和11年(1936)日本統治時代の台湾総督府によって建設されておりますので、戦前のあるタイミングでは3つの松山飛行場があった、というわけですね。

陸軍関東松山飛行場(唐子飛行場)

戦時中、首都防衛のために関東各地に陸軍の飛行場が建設され、この松山飛行場もそのうちの一つ。

昭和17年(1942)
測量と土地買収が開始される。

昭和19年(1944)10月
現在の森林公園の南側の地に、陸軍によって「松山飛行場」建設開始。
同時に松山飛行場建設のために、東武鉄道東上線「武州松山駅(東松山駅)」~「武蔵嵐山駅」間5.3キロを北に迂回させる必要があった。。
迂回工事は松山中学(現在の松山高校)の生徒なども動員され3ヶ月後の昭和20年1月には完了。
西側の旧軌道跡は、飛行機誘導路としてそのまま利用され、そのまま現在も道路として活用されている。

昭和20年8月
飛行場未完成のまま終戦。
滑走路面が固まりきっておらず離着陸にはまだ使用できない状況で、飛来した航空機が不時着を試みたことがあったが、車輪が滑走路にめり込んで転倒してしまったいう。

戦後は「農業地」「東松山工業団地」として再開発。

位置関係

昭和22年に米軍撮影の「関東松山飛行場跡」周辺の航空写真。
比較的にわかりやすい正方形。
国土地理院より)

USA-R356-18
1947年10月24日-米軍撮影

今昔マップ on the webで、飛行場ができる前、昭和14年の地図を以下に参照。一部加工済み。

昭和14年 飛行場建設前
東武東上線は「旧線」

青線は、飛行場建設後に北側に移転された線路。
ポイントは「森林公園駅」と「つきのわ駅」。

赤線は、飛行場区画。
ポイントは区画の四隅。
現在の様子。
昭和14年と照らし合せると違いがわかりやすい。
GoogleMAPを一部加工。
紫ポイントは「開拓記念之碑」石碑

森林公園駅

昭和46年(1971)開業。飛行場当時は当駅はまだ存在していなかった。

東松山工業団地案内板

飛行場跡地は工業団地に。比較的良くある戦後再開発。

森林公園駅の南側、住宅地区画の先が、旧飛行場エリア。

都開拓記念碑

松山開拓都会館に「開拓の石碑」が建立されていた。
開拓の歴史は、この地に「飛行場」があった歴史の記録でもあり。

都開拓記念碑
 旧村の宮前、唐子両村を境して、民地約二00ヘクタールが大東亜戦争に軍用の唐子飛行場となったが終戦とともに、戦後国民の食糧事情が飢餓の状態であったので、開拓による食糧増産が国策となり、唐子飛行場跡地も開拓入植の土地となりこの旧宮前地区には昭和二十五、二十六年にわたり、旧宮前、唐子の人達家族ごと十五戸が入植となった。この地は字名を都と称し、唐子分は新郷と称したとくに、表土をけずられてあるこの都は、黄塵にして荒れ、開拓家族は、石油ランプをたよりに起居し、農具も鍬や万能の、手による作業で、血と汗にまみれ排水工事を施工、困苦の日々の闘いの開拓であった。開拓当初、都開発者は唐子開拓農業協同組合を設立したが旧村がそれぞれに町村合併により東松山市と滑川村とになり、組合も松山開拓農業協同組合と合併した。電灯も入り辛苦の十数年、作物も実りが得られるようになった。この頃より国の経済の動向は農業から工業生産と変化した。市村も将来の発展的計画に基づき県企業局の協力のもとに工業団地として組合にその協力を求められた。血と汗の結晶の土地であるが組合として協力の決がとられた。その後地区内を関越高速道の通過があり全員が協力した。以上のように開拓者一致の協力は、この地域と住民の発展を大きく進展させたことは事実でありかっての苦闘の努力は歴史を綴り不滅に輝き続けてゆくことであろう。都開拓三十周年記念の開拓者建碑にあたり碑文とする。 
 滑川村長小久保正男 
 昭和五十八年四月吉日建之 

大東亜戦争に軍用の唐子飛行場となったが・・・

刻まれる「唐子飛行場」の名称。

石碑の向いている南側が、かつての飛行場区画。

飛行場区画の東側に足を伸ばしてみた。
「東武東上線の旧線」にあたる道路であり、水路との境界地。

この水路は「唐子飛行場」時代から設けられた水路。当時の飛行場排水路であろうと推測。

石碑と水路と。
往時を偲ぶものはさほどには残されていないが、地図には当時の飛行場を忍ばせる区画が残っていた。

軍隊と羊羹

酒保(軍隊での売店)での人気の甘味のひとつであった「羊羹(ようかん)」。
そんな羊羹を以下、つれづれと。

間宮羊羹

海軍将兵に最も愛された艦として有名な特務艦「間宮」

艦隊勤務の海軍将兵に給糧として甘味をもたらしてくれる特務艦。
「間宮」ではアイスクリームやモナカ、ラムネなどの嗜好品を生産しており、なかでも羊羹は一番人気だったとか。

「間宮羊羹」とは

【特務艦 間宮】
 広島県呉市を母港とする艦艇の中で、海軍将兵に「最も愛された、人気のあった艦」と言えば、間違いなく特務艦「間宮」でしょう。
 特務艦とは、他の艦艇の活動を支援することを任務とする艦で、「間宮」は他艦に糧食を供給する給糧艦でした。
 「間宮」は、内地から部隊に糧食を輸送するだけでなく、艦内に食品を製造加工できる設備をも有し、食品の他にモナカや大福、羊羹などの菓子類も製造していました。

【海軍将兵に大人気だった「名物 大型羊羹」】
 昭和17~18年に間宮主計長を務めた角本元海軍中佐の話によると、「と○やの羊羹より大きく!」との命令が申し送らされていたそうです。
 結果、当時「間宮」で製造されていた羊羹は、最低でも2kgはあったと思われます。
 そのサイズの羊羹を「間宮」では1日に2200本製造できる能力があったそうで、まさに「一大製菓工場」と言われていたのは不思議なことではありません。

※この商品は公益社団法人呉青年会議所、海軍料理研究家の方々の協力により当時レシピにて可能な限り再現したものです。

特務艦間宮戦没者慰霊碑

広島県呉市 海軍墓地

給糧艦「間宮」
就役当時は間宮は世界最大の給糧艦であり、日本海軍としても初の給糧艦であった。補給の要として活躍。艦隊の酒保として非常に人気が高く帝国海軍の中では最も有名な艦の一つ。
昭和19年12月21日、米潜水艦の雷撃により沈没。

間宮羊羹専用 海軍刀

間宮羊羹専用 海軍刀
ようかん和菓子ナイフ
大日本帝國海軍の群島は錆びにくいステンレス刀が多く使われておりました。
この「ようかん和菓子ナイフ」は、ステンレス洋食器の一大産地「新潟県燕市」の職人が一つ一つ手磨きで仕上げた物です。どうぞ安心してお使いください。

「間宮羊羹」とは?
大日本帝國海軍の艦隊勤務者に一番愛されたフネは、大和・武蔵ではなく「給糧艦間宮」。
それは間宮が甘い物を届けてくれるから。アイスクリーム・最中・ラムネ等の嗜好品を艦内で生産していた間宮。その中でも「間宮羊羹」の愛称で親しまれた羊羹が一番人気でした。


江田島羊羹(江田島ようかん)

友人からの戴き物

江田島は美しい広島湾に位置して、東は呉市に北は広島市に相対し、西は名勝安芸の宮島に接した南北に細長い島です。明治廿一年八月海軍兵学校がこの江田島にできました。以来旧海軍のメッカとして若人のあこがれの地でありましたが、昭和廿年八月終戦とともに約六十年の歴史の幕を閉じました。
昭和廿一年一月海上自衛隊第一術科学校が発足し、再び海の男達の修練の場として脚光を浴びることとなりました。
江田島羊かんは古鷹羊かんと共に兵学校時代よりこの海の男の皆様から、常にご愛用を賜り御土産品として絶えず御利用戴いています。


航空携帯糧食 玉羊羹

靖國神社遊就館の売店にて購入

玉羊羹
ゴム製の風船を容器として売られる球状になった羊羹。

支那事変(昭和12年)のころに、戦地の兵隊さんへ送る慰問袋用菓子として、日本陸軍から開発指示により生まれたことに始まるという。

当時は「日の丸羊羹」とも呼称された。

航空携帯糧食 玉羊羹
~航空糧食の特徴~
玉ようかんは、高高度飛行の気圧変化の激しい環境下でも容器が破裂することなく、容易に携帯でき、甘味による疲労回復の糧食として携帯されていました。


大日本帝國海軍の伝統を受け継ぐ海上自衛隊でも。

海軍羊羹 観艦式ようかん

自衛隊観艦式2019 限定の「観艦式ようかん」(さかくら総本家)


海軍羊羹(さかくら総本家)

海軍羊羹とは
明治時代からさかくら総本家の和菓子は海軍御用達品でした。
長期保存できる甘味品を望んでいた海軍からの依頼を受け、開発された羊羹を当時の味のまま再現したものが「海軍羊羹」です。

(海軍羊羹)
やや硬めで仕上げた当時の食感をお楽しみください。

(海軍羊羹 抹茶)
※本品は製造方法をそのままに、白あんと宇治抹茶を使用し現在風に仕上げた羊羹となっております。

海軍御用達品

さかくら総本家の羊羹は横須賀をはじめ、呉、佐世保各鎮守府に納められておりました。
長期保存できる甘味料を望んでいた海軍からの依頼を受け、開発された羊羹を当時のまま再現したものが海軍羊羹です。


巡羊羹(呉・武田製網)

靖國神社遊就館売店にて入手。

一等国の一等品

呉名物

巡羊羹

伝統につちかわれた羊羹を独自の製法により新しい感覚にアレンジして現在にマッチした羊羹に仕上げました。


海上自衛隊 塩ようかん

ポケット羊羹で安定の「かし原」ですね。


「ようかん」は、今も昔も愛される甘味ですね。