「航空隊・航空全般」カテゴリーアーカイブ

館山の海軍戦跡散策・その1

平成28年4月

・館山海軍航空隊跡
  赤山地下壕
  掩体壕
  水上班滑走台跡(米軍上陸の地)
・第二海軍航空廠館山補給工場跡
・安房神社
  館山海軍砲術学校第三期兵科予備学生戦没者慰霊碑
  海軍落下傘部隊慰霊碑
・館山海軍砲術学校跡
  正門跡・戦車橋
  平和祈念塔
  炊事場跡(ボイラー室跡)
  飛行特技訓練プール跡(落下傘部隊訓練プール跡)
  化学兵器実験施設跡
  ヤシの木
・震洋滑走台跡

令和元年房総半島台風(令和元年台風第15号)被災前の記録です

その2は、海自で。

この日(平成28年4月某日)は、突然ではあれど友人と館山へ。
友人車の機動力を活かして、館山に点在する海軍戦跡と神社をいくつか散策。


館山海軍航空隊(館空)

昭和5年(1930)に館山海軍航空隊(館空)開隊。海軍航空隊としては5番目。
横須賀海軍航空隊(横空)の実戦部隊が館山に移動することで「横空」は研究航空隊に特化。
昭和11年に木更津海軍航空隊(木空)が開隊すると、「木空」が外戦作戦任務を担当し、「館空」は内戦作戦部隊となる。
開戦後の1944年(昭和19年)に、東日本の哨戒航空隊を統合した「第九〇三海軍航空隊」が館山を中心に展開され、対潜哨戒機が配備され広大な哨戒区域をカバーする事となる。

洲ノ埼海軍航空隊(洲ノ空)

館山海軍航空隊の隣には、「洲ノ埼海軍航空隊」(洲ノ空)が昭和18年6月1日に開隊。それまで「横空」で行われていた射爆兵器の整備教育を担当する全国でただひとつの兵器整備練習航空隊で、操縦以外の航空機にかかわる専門技術を学ぶ養成機関であった。


位置関係

国土地理院航空写真「USA-M583-25」米軍撮影-1947年10月23日

USA-M583-25を一部加工。クリックして拡大。

上記地図のオレンジ色の箇所を散策。紫色の箇所は次回の宿題。未訪問個所。


赤山地下壕

まずは「赤山地下壕跡」へ。
館山市内の戦跡として一番有名な場所から。

https://www.city.tateyama.chiba.jp/syougaigaku/page001892.html

館山市指定史跡 館山海軍航空隊 
赤山地下壕跡
平成17年1月27日指定
 1930(昭和5)年、海軍5番目の実戦航空部隊として、館山海軍航空隊がつくられました。それから、1945(昭和20)年の終戦までの間、館山市香(こうやつ)から沼(ぬま)にかけての一帯には、航空機の修理部品の補給などをおこなった第2海軍航空廠館山補給工場、食料・衣服・燃料などを補給した横須賀軍需部館山支庫関係の施設や、1943(昭和18)年に兵器整備の練習航空隊として開かれた洲ノ崎海軍航空隊など、さまざまな軍事施設がつくられました。
 東京湾の入り口にあることから、館山市には、海軍の施設だけではなく陸軍の砲台や、教育機関(洲ノ崎海軍航空隊、館山海軍砲術学校)など、いろいろな種類の戦争遺跡が残されています。
 このような場所は、わが国のなかでも例が少ないといわれていますが、この赤山地下壕は、合計した長さが約1.6㎞と全国的にみても大きな地下壕で、館山市を代表する戦争遺跡のひとつです。
 つくられた時期は、はっきりしていませんが、このような大きな地下壕が、1941(昭和16)年の太平洋戦争開戦の前につくられた例はないといわれています。
 その一方で、昭和10年代のはじめに建設が始まったという証言もありますが、当時の軍部が本格的に防空壕をつくり始めたのは、1942(昭和17)年より後であるという歴史的な事実があります。
 全国各地につくられた大規模な地下壕の壕と壕の間の長さは、一般的には10~20m以上(長野市松代大本営の象山壕は25mであるとされていますが、この赤山地下壕は5~10mと狭い上、計画的に掘られたとは考えにくい、そのつくりから見て、終戦がさし迫った1944(昭和19)年より後にけんせつされたのではないかと考えられています。
 アメリカ軍の空襲が激しくなった太平洋戦争の終わりの頃、この赤山地下壕が、館山海軍航空隊の防空壕として使われていたことは内部にある発電所跡や、終戦間際に、この壕の中で実際に館山海軍航空隊の事務を行ったという体験や、病院の施設があったなどの証言から、知ることができます。
 平成15年 館山市・館山市教育委員会

赤山地下壕跡。
豊津ホールの受付で200円を納めて住所氏名を記載。
そしたらヘルメットと懐中電灯をお借りして地下壕に入ることができます。

今ではストリートビューもできるの便利になったものです。

https://www.google.com/maps/@34.9817322,139.841558,3a,75y,248.85h,83.7t/data=!3m4!1e1!3m2!1s4cv31GKv7mIAAAQo8FbG5A!2e0

自力発電所跡
 この一角は、壁面がコンクリートで補強され、コンクリートの土台や、床面の鉄筋が残っています。発電所があったところで、昭和20年2月に、航空隊の正門前の変電所から移転して使用されていたということです。4気筒200馬力のディーゼルエンジンが2台、発電機が2台、変圧器が9個あったそうです。

このクボミは?その1
 変電所電気員の待機所です。右側の浅いクボミには2段式のベットがあったそうで、10人くらいが交代勤務していたとか。空襲で爆弾の振動があると、天井の土がサラサラと落ちてきたそうです。
 壕内には科(職種)ごとの居住区があったらしく、木の棚のベットがあったそうです。

このクボミは?その2
 この縦長のクボミには、電話番が腰掛けて勤務をしていたそうで、中段左右の突起にコードを巻いていたということです。左隣の窪みはトイレで、桶がおいてあったそうです。

この壕はどうのように使われたのだろう
 防衛庁防衛研究所に「館山航空基地次期戦備施設計画位置図」という図面があります。太平洋戦争末期につくられたこの図面をみると、赤山地下壕跡の位置には、「工作科格納庫」「応急治療所」「自力発電所」と記されています。天井が高い壕は、格納庫として使われたのかもしれません。

戦後の赤山地下壕跡
 終戦後は「忘れられた存在」になっていましたが、温度が年中一定していることから、昭和30年前後頃より、キノコ栽培に使われていました。国内の他の戦争遺跡にも、戦後しばらくキノコ栽培に使われた地下壕跡があります。この風呂やボイラー、コンクリートブロックなどは、そのときに設置されたものです。

このクボミは?その3
 この部屋はがんルームとよばれていたという証言があります。少尉クラスの士官たちの部屋だったようです。奥の四角く切った大きなクボミは御真影を安置した奉安殿で、桧の板張りだったそうです。空襲のときに航空隊から御真影を移したということで、少尉クラスの士官の役割でした。

とにかく地層が美しい。
自然の芸術としても、よりいっそうの見応えがある。 現実には戦跡であるが。

安全に見学でき、そして良く整備されていた空間。
戦跡として歴史伝聞物として、このインパクトは極めて貴重。

海軍の街館山の最初の歴史散策として、この地下壕はうってつけの場でした。


掩体壕

赤山地下壕からはすぐ隣に。

サイズは小ぶり。戦闘機用かと。 掩体壕のすぐ隣は畑。日常との同居。 内部が解放され、自由に中に入れる掩体壕は貴重な存在だったり。


第二海軍航空廠館山補給工場跡

海自館山基地の隣にのこる大きな建物。
現在は民間企業が使用している。


米軍上陸の地


昭和20年9月2日降伏文書調印。 翌9月3日午前9時20分、米陸軍第8軍第11軍団第112騎兵連隊戦闘団約3,500人(司令官カニンガム准将)が館山上陸。 この館山が米軍による本土初上陸の地なのだ。

米軍上陸の地
1945(昭和20)年9月2日、東京湾上の戦艦ミズーリの降伏文書調印式によって第二次大戦が終わった。翌3日、カニンガム准将の率いる米陸軍第8軍約3500名が館山海軍航空隊水上半滑走台から上陸した。東京湾の入口である軍都館山は、このとき本土で唯一、4日間の直接軍政が敷かれた。


館山海軍航空隊水上班滑走台跡

館山海軍航空隊水上班滑走台跡。
この場所にて水上機が運用されていた、と。
水上機用スロープ(スリップ)が残っている。

9月3日に館山に上陸した米軍司令官カニンガム准将は「米軍ニヨル館山湾地区ノ占領」指令を発出。外務省が抗議し4日後の9月7日に軍政解除。 これが日本本土唯一の直接軍政となっている。

米軍上陸の地であり館空水上班滑走台跡でもある界隈から、第二海軍航空廠館山補給工場跡を遠望。 降伏文書調印翌日の9月4日。 館山から日本の戦後が始まっていたのを知るのも感慨深い。

スリップ関連では、ほかに・・・


館山の沖ノ島

館山の沖ノ島。沖ノ島公園。
海自館山航空基地の先、なかなか面白いところにある島。 関東大震災で隆起して陸続きになったらしい。

こんな感じで陸続き。 夏場はリア充空間になりそうですねw

島の入り口脇にいきなりなんかありました。
なんかの建物の基礎ですね。
海軍関係かな? 島内には地下壕なども点在しているらしいですが時間の都合で散策割愛。 せっかくなので島の鎮守様を参拝する。

館山の沖ノ島宇賀明神

安房国司源親元が嘉保3年(1096年)勧請の古社。 宇賀は「なが」に通じ「白い蛇」とも。 館山沖ノ島の鎮守様。

ご神木はタブノキ。 島内一の巨木。

館山沖ノ島宇賀明神神社。 社頭から対岸を望む。海上自衛隊 館山航空基地方面。
島を巡るのはまたの機会にして次に。


安房神社

安房神社。
安房国一ノ宮・延喜式内明神大社・旧官幣大社。
社号標は東郷平八郎謹書。
私にとっては平成14年以来の参拝。
新緑が鮮やかな境内に心が踊りつつの参拝。

本社(上の宮) 天太玉命 天比理刀咩命(天太玉命の后)
摂社(下の宮) 天富命(天太玉命の御孫) 天忍日命(天太玉命の御弟)

天富命が神武天皇勅命によって阿波の忌部氏を率いて東国安房・上下総国に渡った事に始まる。

安房国開拓の祖神。 創建年代は神武天皇の頃まで遡る古社。
安房国開拓を進めた天富命は、祖神であり祖父である天太玉命(天太玉命は天照大神の側近)をこの地に祀ったことに始まる。

延喜式神明帳「安房坐社」名神大社。
千葉県内では「香取神宮」に次ぐ神階。

社頭には「日露戦役記念碑」

新緑が鮮やかな境内。
境内が気持ち良すぎて満足してしまい、なんか色々写真を撮るのを忘れてしまったような。

安房神社オリジナル御朱印帳。
黒をベースに御神紋と社号。シンプルなデザインは好みを分けるかも知れませんが、私は好きですね。格好良いと思います。 初穂料は1500円。御朱印代は別。

御神水。 安房神社後方に鎮座する、吾谷山の霊水。

洞窟遺跡とあったので、戦跡か?と早とちりするも、古代遺跡。
安房神社界隈での原始的な人々の営みの記録。 古社たるべき格がここにあった。

安房神社境内には幾つか横穴がある。
ただし、これが信仰的な穴なのか、戦跡的な壕なのかは不詳。

安房神社界隈には布良陣地群が展開されていたという。
周辺も興味深いが、それは宿題。


館山海軍砲術学校第三期兵科予備学生
戦没者慰霊碑

安房神社境内に。
館山海軍砲術学校 第三期兵科予備学生 戦没者慰霊碑
 ※ 館山海軍砲術学校(館砲)に関しては、後述。

昭和45年10月10日建立。
慰霊碑には館山海軍砲術学校の第三期兵科予備学生229名の戦没者の名が記載。

館山海軍砲術学校 第三期兵科予備学生 戦没者慰霊碑
碑文
過ぐる大戦のさ中 当地神戸村地先にあった館山海軍砲術学校へ入校し教育訓練を受けた第三期兵科予備学生は1440名に及び 彼等は全て全国官公私立の大学高専等より志願によって馳せ参じ 選抜されて入校した学徒である
昭和18年10月8日入校式が行われ海軍予備学生を拝命 直ちに日夜の猛訓練が開始された 翌昭和19年1月末基礎教程を終了 一部は他の術科学校へ転属したが大部は2月1日術科教程に入る 術科では陸戦、対空、化兵の各班に分科し それぞれ第一線指揮官としての徹底的専門教育を受けた
同年5月31日術科教程を修了 卒業式が行われ 即日海軍少尉に任官した 戦雲正に急を告げるの秋 太平洋全域から印度洋に亘る前線へ あるいは諸艦艇等へ赴任し 熾烈な戦列に身を投じた
既にこの年の4月緊急な要請で卒業を繰り上げられて先発して行った同期を含めて任官総数は 陸戦班385名 対空班772名 化兵班50名で 総員1207名である
しかして戦勢は日を追って凄絶となり 勇戦奮闘した同期戦友も相次いで倒れて行った あるいは北海に あるいは南冥の果てに ときに戦争と平和を想い ときに戦局の前途を憂えながら 祖国にその青春の総てをかけたのである かくして尊き英霊となった者は実に228名に及ぶのである
われらはこのことを永久に忘れることはできない ここに栄光有る我等同期生一同の冥福を祈念し 永遠の芳名を刻印して 由緒あるこの神社に一碑を建立するものである
 昭和45年10月10日
 館山海軍砲術学校 第三期兵科予備学生 慰霊碑建設委員長 高橋末吉 誌

同期戦没者二二九名に捧ぐ

参道のソメイヨシノ。
安房神社の染井吉野229本は、この慰霊碑建設の際に229名の戦没者に因んで植えられたものという。


海軍落下傘部隊慰霊碑

海軍落下傘部隊慰霊碑
内閣総理大臣田中角栄揮毫

館山は海軍落下傘部隊発祥の地でもある。

正面には、 翼をひろげた鷲と落下傘、そして地球と錨の彫刻。

海軍落下傘部隊慰霊碑
碑誌
太平洋戦争を告ぐる昭和十六年後期我が国最初の海軍落下傘部隊として誕生し、 十八才より四十五才までの精鋭なる将兵二千有余名により編成、任務の特質上、其の訓練は厳正なる軍規の基猛烈にして不撓不屈の落下傘部隊魂は茲に編成された。
第一特別陸戦隊は昭和十七年一月十一日・十二日 セレベス島メナドランゴワン飛行場に十字砲火を浴び戦闘降下を敢行 更に第三特別陸戦隊は、同年二月二十日・二十一日 チモール島クーパンに戦闘降下を敢行共に占領に成功
其の功績の顕著なる事に対し時の連合艦隊司令長官山本五十六大将より感状を授与せらる。 爾後大スンダ、小スンダ列島の島々を制圧、次期作戦準備の為、一旦内地に帰還し、戦争の末期再度灼熱の南洋サイパン、トラック、ナウルの諸島に作戦し、
特にサイパンの戦いは惨烈を極め善戦の甲斐もなく昭和十九年七月十六日全員玉砕す。 我等茲に往事を顧み戦友相謀り志を結集し今は亡き戦友の霊を慰め其の功績を永く讃えんものと当隊発祥の地、ここ舘山に慰霊碑を建立した。
 昭和四十八年十一月十日
 元海軍落下傘部隊隊員一同建立

昭和48年に元海軍落下傘部隊一同によって建てられた慰霊碑。
右に横須賀鎮守府 第一特別陸戦隊43名、
左に横須賀鎮守府 第三特別陸戦隊46名、の戦没者名が記されている。

横一特・横三特(海軍陸戦隊)として、その勇名を歴史に残している。
合掌。

空の神兵

 藍より蒼き 大空に大空に
 忽ち開く 百千の
 真白き薔薇の 花模様
 見よ落下傘 空に降り
 見よ落下傘 空を征く
 見よ落下傘 空を征く
心のなかで奉歌し慰霊する…


館山海軍砲術学校

館山海軍砲術学校跡。
安房神社からはすぐ北隣に展開されていました。

館山海軍砲術学校。
昭和16年(1941)に館山砲術学校(館砲)が新設。
館砲では陸戦隊の操練術や高角砲対空砲の操作術・化学戦術など。一方、従来の横須賀砲術学校(横砲)では、艦載兵装の操作術を担当。
昭和20年4月25日に横須賀砲術学校分校に格下げ。終戦直前の同年7月31日には閉鎖。これは米軍上陸地点想定地近くでの教育訓練は適切ではないため、という。


位置関係

国土地理院航空写真「USA-M583-14」米軍撮影1947年10月23日

「USA-M583-14」一部加工。画像はクリックで拡大可。

館山海軍砲術学校跡
 第二次世界大戦以前は海戦における主な攻撃力は大砲であると考えられ、明治時代以来、旧海軍の砲術教育は神奈川県横須賀で行われていました。
 昭和16(1941)年6月1日、陸上砲術の実地訓練を目的とした館山海軍砲術学校 (館砲)が新設されると、それまでの海軍砲術学校は横須賀海軍砲術学校(横砲)と名称をあらためました。
 「館砲」の特色は、士官候補であった大学出身の海軍予備学生が訓練を受けていたことです。陸戦、対空、化兵(3期以降)の3班にわかれ、陸戦班では、敵前上陸や対戦車戦闘などの訓練が、対空班では、高角砲などの射撃訓練が、化兵班では、毒ガス戦の訓練が行われていました。
 「館砲」で訓練を受けた学生は、海軍予備学生の1期から6期に及び、開校直後は軍医学生が海軍士官としての素養を学ぶ基礎教育の場でもありました。
 昭和19(1944)年10月に入隊した5期予備学生等の約4000名は5ヶ月間の基礎教育を受けたあと、それぞれが術科(各職種)学校に進み、館砲には655名が入校したとされています。
 訓練施設としては広大な平砂浦演習場、東砲台・西砲台の対空訓練砲台、犬石射撃場、飛行特技訓練プールなどがありました。
 昭和20(1945)年4月25日に、館砲は横砲の分校となり、終戦を目前にした同年7月31日には閉鎖されました。その理由はアメリカ軍の本土上陸か想定されていたなか、太平洋岸の平砂浦で教育訓練を行うことが適当ではなくなったためといわれています。  
 平成18年3月 館山市・館山市教育委員会

館山海軍砲術学校と訓練に向う予備学生隊
 真継不二夫氏撮影

 昭和18年10月、この館山海軍砲術学校へ入学した海軍第三期予備学生は1,440名であった。
 かれらは全て全国の官公私立の大学、高等専門学校より馳せ参じ、選抜されて入隊した学徒である。
 昭和18年10月 8日入校式が行われ海軍第三期兵科予備学生を拝命、直ちに日夜の猛訓練が開始された。
 翌昭和19年1月末基礎教程を修了、引続き術科教程に入り、陸戦、対空、化兵の各班に分科し、夫々第一戦指揮官としての専門教育を受けた。同三月末、あるいは五月末術科教程を修了。卒業式が行われ、即日海軍少尉に任官し、戦雲まさに急を告げる太平洋全域からインド洋に亘る前線に赴任し、激烈なる戦列に身を投じたのである。この隊列(写真)の中にも多数の戦没者がいる。
戦没者はフィリピン(比島)、硫黄島を第一として各地域の部隊および艦船(大和9、武蔵6、山城6、長門5、扶桑3、那智3、大鷹・大鳳・熊野・羽黒・葛城各1)における戦没者は次ぎの通りである。
グアム4名、テニアン5名、パラオ1名、
比島方面92名、インド洋方面6名、ビルマ4名、
ビアク2名、ボルネオ10名、セレベス2名、
ラボール3名、南漢島2名、マレー方面1名、
スマトラ1名、舟山島1名、東支那海3名、
モルッカ諸島1名、マリアナ群島1名、黄海3名、
内南洋2名、アンボン1名、ニューギニア1名、
ペリリュー島5名、サイパン方面11名、硫黄島18名、
東シナ海方面13名、台湾方面8名、
沖縄方面8名、南西諸島方面10名、千島2名、内地近辺8名
合計229名。この外基礎教程後他術科へ転出後戦死者若干名、法務死若干名。
 ここに館砲校全景を伝える希少な写真を展示し、「鬼の館砲」といわれた猛訓練を受け、勇敢敢闘の末倒れた万余といわれる将兵・同期生たちの護国の想念を偲び、深き感謝と鎮魂の想いを捧げる次第である。終
 平成年5月27日(1999年海軍記念日)
 館砲3期会有志(以下個人名略)

館山海軍砲術学校正門跡には往時を偲ぶ記念板がある。
「鬼の館砲」と称された海軍陸戦隊の教育機関。


館山海軍砲術学校
正門跡・戦車橋

正門跡の通りにかかる橋は「戦車橋」と言われている。戦車橋脇の側溝も往時のままのもの。 砲術学校ゆえに「戦車橋」。正門の道はさながら「戦車道」。


館山海軍砲術学校
平和祈念塔

館山海軍砲術学校平和祈念塔。
戦車橋からまっすぐ進んでいくと右手に砲身のようなものが見えてくる。 砲身のような塔。

館山海軍砲術学校跡

舘山海軍砲術学校の沿革
 舘山海軍砲術学校(「舘砲」)は大東亜戦争の開戦直前、風雲急を告げる秋に当たり、阿部孝壮初代校長(後に、第六特別根拠地隊司令官。戦後敗軍の将としての責めに任じ、グァムで慫慂として法務死)を載して、昭和十六年六月一日、当地(千葉県粗郡神戸村、現在は、舘山市佐野地区)に開設された。
  学校用地は、帝国海軍当局の現地調査による当地が最適との報告に基づき決定された。用地問題は安田義達開設委員(初代教頭。後年、横須賀第五特別陸戦隊指令としてブナで壮烈な戦死)の熱誠溢れる説得と、耕地及び山林原野の大半を失うという苦難を克服して、なお誠心誠意の協力を惜しまなかった出口常次村長、錦織寅吉助役を初めとする村民各位の尊い愛国の至情と献身的努力により解決され、急遽、建設の運びとなったものである。
  「舘砲」は、横須賀海軍砲術学校(「横砲」)の陸戦、対空等、陸上関係の砲術部門が分離独立する形で開設された術科学校である。訓練設備として広大な平砂浦演習場並びに東砲及び西砲台の対空訓練砲台を備えていた。後に、化学兵器に関する部門が加えられ、常時、一万数千人の将兵を擁する規模であった。
  戦局の悪化に伴い昭和二十年四月二十五日、「横砲」に併合されて同校の分校となり、終戦直前の昭和二十年七月三十一日、閉鎖、廃校となった。開校から廃校までの存続期間は、僅か四年間に過ぎなかったが、厖大な人員が教育訓練を受けたと推定される。しかし、記録喪失のため詳細は不明である。
 「舘砲」では研究部員が、陸戦、対空、化兵に関する専門技術・教育訓練に関する指導研究に当たった。その術科教育の対象は、兵科将校学生及び術科講習員の他、初級幹部の緊急訓練対策として、第一期兵科予備学生、第二期兵科予備学生、特別第三期兵科予備学生と第三期兵科予備学生、学徒動員の第四期兵科予備学生と第一期兵科予備学生、第五期兵科予備学生及び第二期兵科予備生徒並びに第一下士官候補訓練生及び第二下士官候補訓練生(師範学校卒)が挙げられる。
  更に優秀な下士官兵指導員の練成を目指して、高等科訓練生及び普通科練習生に対する教育訓練にも重点がおかれた。また、若年者の特別志願制度に基づく特年兵の教育訓練も行われ、その第一期及び第二期は、年少のまま実戦にも参加した。なお、台湾・朝鮮半島出身志願兵に対する教育も実施された。
  初期にはメナド落下傘降下で勇名を馳せた横須賀第一特別陸戦隊、中期にはソロモン群島方面で悪戦苦闘を続けていた横須賀第七特別陸戦隊、呉第六陸戦隊、佐世保第六特別陸戦隊、呉第七特別陸戦隊並びに佐世保第七特別陸戦隊、末期には、山岡S特攻部隊等々の部隊編成及び特別訓練も行われ発信基地ともなった。
 この間、前線の各地に向けて多数の防空隊が陸続として派遣されたが、その部隊編成及び特別訓練も行われ、その発進基地ともなった。その隊員の中には、国民兵役から徴集された多数の、年長の補充兵も含まれていた。
 「舘砲」は、開校直後、軍医科学生、薬剤科学生及び歯科医科の普通科学生の基礎教育の場としても利用されており、また、終戦間際の段階では、飛行科士官に対する陸戦指導法の演錬、艦船乗組の機関科・工作科系統の特務士官・準士官に対する防空指導法の演錬等、緊急の切替教育も行われた。
  このように、「舘砲」は、帝国海軍の各種陸上部隊、とりわけ、特別陸戦隊、基地警備隊、特別根拠地隊等の陸戦・対空専門技術に関する教育訓練の中核であったため、その影響する範囲は、広く、且つ、深く、その実戦即応を重視した教育内容は、誠に、多岐多彩なものがあった。
 「舘砲」の特色は帝国海軍の指揮官先頭の伝統による猛特訓を特徴とし、人は、「鬼の舘砲」と呼んだという。ここの教育訓練を受けた戦友は、陸戦、対空の実戦に臨んでは、遺憾なく指導力を発揮した。北は極寒不毛の孤島から南は、炎熱の島に至るまで、悪条件をものともせず、縦横無尽に活躍し、時として、激しい爆撃弾の下、寡兵よく大敵に屈せず、長期持久の戦いを闘い抜き、或は、力尽きて倒れ玉砕された将校各位も多い。その数は、一千数千柱にも及ぶと推定されている。この勇戦奮闘が、今日の日本繁栄の基礎を築いた原動力である。祖国の安泰を願い、同朋への愛に殉じる志こそ、国家の存立及び発展に不可欠なものである。
  祖国愛に殉じたこれら多数の戦士のご遺徳を偲び、切に、そのご冥福を祈りつつ、開校五十周年の記念日に、想い出尽きない舘山海軍砲術学校跡に、地元各位の絶大なるご協力を仰ぎつつ、ここに、多年念願の記念碑を建立し、永世に、太平を開かせ給えと、希うものである。
 平成三年六月一日
 舘山海軍砲術学校跡に記念碑を建立する会

雄魂
元連合艦隊兼横須賀鎮守府参謀 寺崎隆治謹書

平和祈念の塔
 平成3年6月吉日
 館山市長 庄司厚書

過ぎし戦に 玉と砕けし戦友の 英霊安かれと祈り
 永世に 太平を開かせたまえと ひたすら 希う

朽ちていく四一式山砲。
20センチ・ロケット弾(噴進弾)。
戦地より収集された遺品(銃剣)などが塔の周辺に展示してありました。

館山海軍砲術学校時代からの井戸という。

世界各地を示す標識


館山海軍砲術学校
炊事場跡(ボイラー室跡)

館山海軍砲術学校炊事場跡(ボイラー室跡)
赤煉瓦の壁だけが奇跡的に残っている空間。
何というか、存在感に圧倒されてしまった。


館山海軍砲術学校
飛行特技訓練プール跡
(落下傘部隊訓練プール跡)

炊事場跡から高台に移動。
その高台から見えるは、館山海軍砲術学校飛行特技訓練プール跡(落下傘部隊訓練プール跡)
この場所も奇跡的に残っていた。

Google航空写真より抜粋


館山海軍砲術学校
化学兵器実験施設跡

館砲の中心から隔離された場所に朽ちかけた史跡がある。
軍機(軍事機密)であったが、館砲では細菌などの生物兵器や毒ガスなどの化学兵器に関する教育や訓練が行われた海軍唯一の養成機関もあり、教育機関としては陸戦班、対空班、化兵班の三班制であった。

館砲化兵班が何らかの化学兵器実験施設として使用していた建物跡という。
いまは、何を語るでもなく畑の中に風化しつつある歴史遺産。


通りすがりに参拝。

洲崎神社

「洲崎神社」 安房国一宮
(ただし一宮は江戸期以降の主張、安房神社に対する二宮とも。洲崎神社に対する二宮は洲宮神社)
旧社格は県社。 延喜式内論社。
御祭神は天比理乃咩命(天太玉命の后神)

参道石段に圧倒。これは見事な神域。
御手洗山中腹に鎮座している。

神武天皇の御代、安房忌部一族の祖天富命が勅命により四国の忌部族を率いて房総半島を開拓。 忌部族の総祖神天太玉命の后神天比理乃咩命を祀ったことにはじまる古社。

延喜式内社神名帳では、式内大社・后神天比理刀咩命神社。(論社)

治承4年(1180)石橋山の合戦に敗れ房総半島に逃れてきた源頼朝は当社に参詣し源氏の再興を祈願。以後、武家の崇敬が篤い。 ちなみに。 文治3年(1187)に源頼朝が洲崎神社から天比理乃咩命を勧請したのが品川神社の創建由来ともなる。

東京湾海上鎮護神として。 洲崎神社から品川神社へと連なる歴史を辿るのも興味深いものではあり。 更には阿波国から房総へと渡ってきた忌部一族の足跡を辿るのも一興。

洲崎神社。浜鳥居へ。 洲崎神社の旧鎮座地は、この浜であった、と。 浜から現在の鎮座地を望めば、美しい神奈備山。

御神石

洲崎神社。御神石。
なんとも言えない格を帯びている御神石。 長さは2.5メートル。

実は洲崎神社に奉納された神石は二対ある。 ひとつは、この吽形の神石。
もう一つは三浦半島安房口神社の阿形の神石。

洲崎神社の吽形の御神石と対になる御神石。
もう一つの御神石は三浦半島に飛んでいったと伝承。 房総半島から東京湾を挟むように対坐する三浦半島の御神石。 これは忌部一族の海上支配の具現化であろうか。古代の信仰文化圏を夢想する。

こちらは三浦半島の安房口神社(2014年撮影)

三浦半島。安房口神社の阿形の御神石。
安房口神社は三浦半島最古の神社。 館山で三浦半島を感じる。海の目線で見れば隣。まさに安房口。 洲崎神社の文化は深いですね… 実に面白い。

洲崎神社の浜。対岸を眺めつつ洲崎神社を後にする。ここは興味深い信仰文化の宝庫。きっとまた来ることになりそうです。 時間は16時過ぎ。最後に戦跡を一カ所だけ寄り道してみる。


震洋滑走台

洲崎から海岸線沿いを進む。
波左間漁港。

ここの海に不思議な造形物がある。
震洋滑走台。

震洋は、いわゆる特攻兵器。爆薬をつんだモーターボート。
付近には震洋を格納した壕も点在しているという。

訪れた時が満潮だったようで、形は今ひとつ。雰囲気レベルで。

第一特攻戦隊第18突撃隊
波左間「震洋」特攻基地跡


館山駅前のヤシの木

館山駅前のヤシの木は館山砲術学校正面にあったものを戦後に移植したものだとか。 車のなかから撮影したので今ひとつな写りですが、記録として。

googleMapのストリートビューも参照に。

館山は、戦跡の宝庫であり、今回の掲載はそのほんの一部。見逃したところも多いので、いずれかに再訪せねばならない地であれど、今回はいったんこれにて〆。


陸軍航空士官学校高萩飛行場跡(陸軍高萩飛行場跡)

埼玉県坂戸市及び日高市
 東武越生線・一本松駅及び西大家駅
 JR川越線・武蔵高萩駅

陸軍高萩飛行場
(陸軍航空士官学校高萩分教場)

高萩飛行場は、昭和13年12月、陸軍航空士官学校高萩分教場として使用開始された。

陸軍航空士官学校
昭和12年(1937)に陸軍所沢飛行場内に陸軍士官学校の分校として「陸軍士官学校分校」が開校。(現在の入間基地・入間飛行場)
昭和13年5月に「陸軍士官学校分校」が豊岡町(現在の入間市)に移転。
昭和13年12月に、「陸軍航空士官学校」として独立し、昭和16年には行幸された 昭和天皇より「修武台」の名称を賜った。

陸軍航空士官学校の本校は豊岡(入間)、その他に飛行練習をするために狭山・高萩・坂戸・館林の陸軍飛行場が練習地として使用された。

今回の散策は、そのうちの陸軍航空士官学校高萩飛行場にあたる。
高萩飛行場の規模は、東西1700メートル、南北1300メートル、面積は約220ヘクタール。
飛行場設備の主な建物としては、格納庫四庫(内二庫は鉄骨)、本部舎(二階建)、兵舎二棟(二階建)、機材庫、車庫、庶務事務所、講堂、将校下士官用控室、炊事用建物などであった。
陸軍航空士官学校高萩分教場の飛行練習は、主に通称赤トンボと呼ばれていた九五式練習機などを用いて行われた。
昭和20年2月まで、航空士官学校生徒の飛行練習場として活用され、その後、昭和20年4月より中島 キ84 四式戦闘機「疾風」を配備した飛行第一戦隊が展開。首都防衛の一翼を8月の終戦を迎えた。

位置関係

国土地理院:USA-M29-32
1947年02月08日-米軍撮影の航空写真を加工
国土地理院:USA-M29-32
1947年02月08日-米軍撮影の航空写真を加工

飛行第一戦隊納翼の地
(飛行第一戦隊納翼の碑)

東武越生線一本松駅の北に鎮座している「大栄寺」
昭和20年4月から8月の終戦まで、飛行第一戦隊が当寺に兵舎を設けた所縁で、境内に「飛行第一戦隊納翼の碑」が建立されている。

飛行第一戦隊納翼の地
 本隊は、日本陸軍最初の戦闘機隊として、大正・昭和にわたり、幾度か編成を繰返し、古い伝統と輝かしい戦績に飾られている、誇り高い部隊である。
 満州事変・日華事変・及びノモンハン事変では、多くの戦果を収め、昭和16年大東亜戦争の際は、マレー半島に進出し、東南アジア・ビルマ方面の制空に任じ、ガダルカナル島撤収に従事した。
 昭和19年、主力部隊はフィリピン作戦に飛翔し、熟練の飛行士は、わが国の未来を信じて、特攻隊として出撃し、また地上将兵は、異国の山谷で精魂盡きて散華した。
 昭和20年4月、残留部隊と再編し、入間高萩飛行場に於いて四式戦闘機(可動20機)を配備し、帝都防空の任務を遂行した。
 戦闘本部を旧大家村に置き、清水山大栄寺も兵舎に当てられたが、昭和20年8月、終戦を迎えた。
未だ天空をさまよい、平和の礎となった戦友の功績をしのび、御霊を癒し、恒久平和への願いをこめ、納翼の碑を建立する。
 平成12年8月15日
  飛行第一戦隊戦友会

戦隊長
 四至本広之烝 大阪
整備隊長
 壁谷利之 神奈川
(略)
後援 清水寺大栄寺
 高萩の 空に舞いたる 銀翼に
  想いもあらたに 平和噛みしむ
   大栄寺 小住 志村巧人
(略) 

中島 キ84 四式戦闘機「疾風」

元高萩飛行場跡地発見
機体(キの84)炎上融解片

清水山大榮寺

大栄寺から、一本松駅の隣、西大家駅に向けて歩く。
大谷小学校の近くに鎮座している「西光寺」も、飛行第一戦隊が兵舎を展開した場所であるという。

西光寺

JAいるま野サービス北部店のある辺りが、かつての陸軍飛行第一戦隊の本部があった場所という。

そして、西大家駅近くの「国渭地祇神社(森戸神社)」には陸軍第一戦隊の炊事場が設けられたという。

国渭地祇神社(森戸神社)を訪れたのは実は2回目。15年ほど前に「武蔵国延喜式内社」の論社を巡っていたとき(当時のレポート)は、この神社が戦争に関係していたと知る由もなく。
陸軍第一戦隊が炊事場で使用していたと知ったのは、今回の散策のための調査で、でした。

国渭地祇神社(森戸神社)の社号標は大正2年建立。往時を見てきた社号標ですね。

東武越生線西大家駅
昭和11年(1936)開業。

西大家駅から日高川島線を南西に30分ほど歩く。
「醤遊王国」という施設の近くに戦没者慰霊碑が建立されていた。

大東亜戦争戦没者慰霊碑

千手観世音のお堂の隣にある「戦没者之碑」

大東亜戦争戦歿者之碑
元陸軍中将 遠藤三郎書

陸軍第一飛行戦隊の戦死者8名を祀る慰霊碑。1953年建立。
遠藤三郎は、第3飛行団長、陸軍航空士官学校幹事などを経て、昭和17年12月に陸軍中将となり陸軍士官学校第4代校長に就任。その後は陸軍航空本部総務部長、軍需省航空兵器総局長官などを歴任。昭和22年から約1年、戦犯として巣鴨プリズンに収監され、その後は陸軍航空士官学校跡地に入植し農業に従事。その頃に遺族の要望で揮毫に協力したと思われる。

高萩飛行場方面に。

陸軍高萩飛行場跡地(北西端)

「中東京変電所」のあたりが。高萩飛行場の北西端。そこから西端を歩く。

高萩飛行場の中心部へ。

高萩飛行場跡の碑

「旭ヶ丘神社」「旭ヶ丘公会堂」の敷地内に、飛行場を物語る石碑が「建立されていた。

高萩飛行場跡碑
開拓碑
自治会組織法人化と経緯碑

高畑飛行場跡
 日高市長 大沢幸夫書

高萩飛行場は、昭和十三年十二月、陸軍航空士官学校(現在の入間市)の高萩分教場として使用開始された。当時この地は、北海道などからの入植者によって山林が農地として開拓されていたが、日華事変の拡大に伴い軍用地として接収された。
飛行場の規模は、東西一七〇〇メートル、南北一三〇〇メートル、面積は約二二〇ヘクタールで、飛行場設備の主な建物としては、格納庫四庫(内二庫は鉄骨)、本部舎(二階建)、兵舎二棟(二階建)、機材庫、車庫、庶務事務所、講堂、将校下士官用控室、炊事用建物などであった。飛行練習は、主に通称赤トンボと呼ばれていた九五式練習機などを用いて行われた。昭和二十年二月まで、航空士官学校生徒の飛行練習場として、大きな役割を果たした。飛行場としては、同年八月の終戦まで使用された。
 所在地 日高市大字旭ヶ丘全域及び一部森戸新田を含む 

昭和四十四年旭ヶ丘開拓農業協同組合の解散にともない、精算開始。
総会により現状の道路C号線五本と開拓事務所敷地等を共有とすることに決定する。
その後推移を経たが、旭ヶ丘地主会を結成して今日に至る。
ここに開拓地以前の高萩飛行場の碑を建て後世の遺文とするものである。
 平成二十年十月吉日 旭ヶ丘地主会建立

開拓碑
碑文
 昭和二十年終戦を迎えるや、首都衛星基地であった旧陸軍高萩飛行場跡へ十二月一日国の緊急開拓政策のもとに県下でもいち早く高萩開拓団を組織し、鍬入れを行った。
 当地は旧高萩村及び旧高麗川村の一部に亙り、総面積は出耕作地も含め六十余万坪に及び主として復員軍人、引揚者、近隣の二三男の百二十四名で構成し、字を旭ヶ丘と命名した。
 当時世相は混沌とし、農業経験の未知に加えて食糧物資は極度に不足し、更に打続く各種災害等に依り、経営基盤の弱い入植者の生活は困窮を極めた。
然し同士一同克くその苦難に耐え、昭和二十二年より国の助成による住宅の建設も始り、二十三年秋には待望の点灯工事を了え、同年農協法の施行により開拓団を旭ヶ丘開拓農協に改組し、苦難の中にも一歩一歩建設への段階を進め、二十七年国の開拓完成検査に全員合格した。
 更に心の據り処として部落中央に旭ヶ丘神社を建立し、幹線道路も逐次整備を進め、四十年代に入り蔬菜を中心とする営農も漸くその基礎を固めることが出来た。
 昭和四十四年開拓農協を解散し各自一本立ちの農家として再出発出来たのも、一重に各行政当局、各種諸団体、諸先輩の尽力指導の賜であることは勿論、入植者一同の団結と努力の成果であろう。
 茲に当地の足跡を後世に伝えると共に旭ヶ丘の将来の繁栄を希念しこの碑を建てる 
 昭和五十三年十二月一日

飛行場跡地のあった旭ヶ丘神社は、かつての高萩飛行場のほぼ中心部。
ここから東に歩いていくと、格納庫などがあったエリアに到達できる。

陸軍高萩飛行場跡地(東端)

ファミリーマートのあるあたりに、当時は格納庫があった。

ゴルフ練習場のあたりにも格納庫があった。

高萩飛行場の東端。

高萩飛行場跡(高萩北公民館)

高萩北公民館の敷地内にも跡地を記す看板があった。
内容はほぼ、旭ヶ丘神社境内にあった碑文と同じ。所在地の範囲が若干違うのは新旧での認識に誤差があった、のかもしれない。

高萩飛行場跡
 所在地 日高市大字旭ヶ丘全域 

 高萩飛行場は、昭和十三年十二月、陸軍航空士官学校(現在の入間市)の高萩分教場として使用開始された。
 当時この地は、北海道などからの入植者によって山林が農地として開拓されていたが、日華事変の拡大に伴い軍用地として接収された。
 飛行場の規模は、東西一七〇〇メートル、南北一三〇〇メートル、面積は約二二〇ヘクタールで、飛行場設備の主な建物としては、格納庫四庫(内二庫は鉄骨)、本部舎(二階建)、兵舎二棟(二階建)、機材庫、車庫、庶務事務所、講堂、将校下士官用控室、炊事用建物などであった。
 飛行練習は、主に通称赤トンボと呼ばれていた九五式練習機などを用いて行われた。
 昭和二十年二月まで、航空士官学校生徒の飛行練習場として、大きな役割を果たした。飛行場としては、同年八月の終戦まで使用された。
 平成八年一月 
 日高市教育委員会

陸軍高萩飛行場跡地(南東端)

「のりたま」の看板が目立つ。丸美屋食品工業(株) 埼玉工場のある場所が高萩飛行場の南東端。

この日の散策は、一本松駅から武蔵高萩駅までを歩くこと約15キロ、約3時間の散策でした。


付記

武蔵高萩駅

以前は、開業以来の瓦葺の地上駅舎が使われており貴賓室もあった。
貴賓室や車寄せは陸軍航空士官学校卒業式に臨席した昭和天皇が利用したが、2005年(平成17年)の改築に伴い旧駅舎は取り壊された。
新駅舎にも緑色の瓦を使用したデザインが踏襲されているほか、駅舎内部に旧駅舎の瓦と車寄せの柱を使って作られた展示コーナーが設けられた。

駅前通りは、陸軍航空士官学校に赴く昭和天皇の御車が走った御幸通りということになる。

昭和天皇行幸記念碑

旧豊岡町の陸軍航空士官学校卒業式に御臨席されたのを記念する石碑。
昭和16年3月28日、昭和17年3月27日、昭和19年3月20日の3回、昭和天皇が行幸されている。
北には、陸軍航空士官学校高萩飛行場(陸軍高萩飛行場)があったが、南には旧豊岡町の陸軍航空士官学校があった。すなわち、現在の入間基地。当時、皇室としては、武蔵高萩駅が、南の陸軍航空士官学校の最寄駅でもあった。


関連

浦和飛行場跡(埼玉第一飛行場跡)

令和2年2月。

荒川横堤(宗岡第二横堤) 昭和6年竣工
飛行場施設は横堤の南側にあった(写真右手)

1938年、首都圏近郊の「浦和飛行場」「調布飛行場」「砂町飛行場(東京市飛行場)」の3つの飛行場建設が承認された。

そのうち、調布飛行場は昭和14年(1939)に建設着手。昭和16年(1941)竣工。
砂町の東京市飛行場は現在の「夢の島公園」のあたり。埋め立て途中での戦時下の物資不足で工事は中断。竣工することはなかった。

浦和飛行場
(埼玉第一飛行場)

昭和14年(1939)に「浦和飛行場」の建設が承認。
この地には、すでに戦時下防空やグライダー育成を目的とした「埼玉第一飛行場」が起工しており、昭和12年(1937)頃にはすでに滑走路が出来上がっていたという。埼玉第一飛行場の設置者は埼玉義勇飛行会で、当時は「秋ヶ瀬飛行場」とも「秋ヶ瀬浦和飛行場」と呼称されていた。
昭和15年(1940)に「浦和飛行場」と名称変更され、拡張工事が始まるも、最終的には完成を見る前に終戦。跡地は放置。
戦後、荒川の直線化工事に伴い、当時の面影は残されていない。

当時と変わらずに残っているのは「荒川横堤」。
浦和飛行場の北側にある「宗岡第二横堤」は昭和4年(1929)着工、昭和6年(1931)竣工。当時は、この宗岡第二横堤の南側に飛行場施設が建設されていた、という。
荒川横堤は、日本では荒川のみの独特な堤防として土木遺産に選定されている。

また、荒川直線化工事の影響は、市境にも残されている。
志木市とさいたま市(旧浦和市)の屈折した市境は荒川が曲線だったときの名残。「浦和飛行場」(埼玉第一飛行場)は「浦和」と言いつつも、浦和側ではなく現在の志木市(当時の宗岡村)側であった。

位置関係

国土地理院航空写真(写真ファイル名:891-C2-66)
1944年9月28日-大日本帝国陸軍撮影

https://mapps.gsi.go.jp/maplibSearch.do#1

上記航空写真を拡大のうえ加工

横堤(宗岡第二横堤)の下流に「飛行場施設」
荒川の曲線の内側に「飛行場」
その下流には「秋ヶ瀬橋」

横堤と秋ヶ瀬橋の間に当時「浦和飛行場」(埼玉第一飛行場)があった。

戦後の航空写真。
あまり変わっていないようだけれども、飛行場跡地が開拓されているのがわかる。

同じく国土地理院航空写真より(写真ファイル名:USA-M675-55)
1947年11月28日-米軍撮影

現在の様子。
GoogleMAPS航空写真を加工。
荒川の直線化により、飛行場のあった場所の大部分が川の中に。
横堤は往時から変わらずに。

志木市とさいたま市(旧浦和市)の市境。荒川の東側に志木市の飛び地が残っている。この飛び地は、往時の飛行場跡地でもあり荒川が曲線であった頃の名残でもある。

浦和飛行場跡
(埼玉第一飛行場跡)

秋ヶ瀬河川敷
実際のところ、当時の遺構は残っていない。

飛行場跡地は、荒川の水の下に。

横堤(宗岡第二横堤)

昭和4年(1929)着工、昭和6年(1931)竣工。
当時は、この宗岡第二横堤の南側に飛行場施設が建設されていた、という。
荒川横堤は、日本では荒川のみの独特な堤防として土木遺産に選定されている。

このあたりに、当時は飛行場施設があったと思われる。

横堤の端。

ちょうど横堤の端には、不正投棄を監視する防犯カメラ。
河川敷には不正投棄が多いとのことで。

横堤の堤防上。

秋ヶ瀬取水堰

現在は、独立行政法人水資源機構の管轄。荒川で最も下流に位置する取水堰。

飛行場があった当時は、この取水堰があった場所が滑走路の中心地点。
今ではここに飛行場があったとは信じられない光景。

宗岡取水口

秋ヶ瀬取水堰

ここに、飛行場があったとは今では信じられない場所。
住宅地や工業団地になった飛行場は多いが、「浦和飛行場」は、まさか川になってしまった場所でした。

陸軍航空士官学校坂戸飛行場跡(陸軍坂戸飛行場跡)

東武東上線「若葉駅」のすぐ北側のエリアにかつて飛行場があった。

もっとも飛行場があった戦前には、まだ若葉駅は開業前(若葉駅は昭和54年開業)で、最寄り駅は「坂戸駅」。坂戸駅(当時は坂戸町駅)は大正5年(1916)開業。

かつて坂戸飛行場があったエリアには「女子栄養大学」「筑波大学附属坂戸高等学校」「山村国際高等学校」「坂戸市役所」、そして住宅地「UR若葉台団地」や「富士見工業団地」へと姿を変えている。

坂戸中学校に残る陸軍坂戸飛行場の弾薬庫跡

陸軍航空士官学校坂戸飛行場
(陸軍坂戸飛行場)

陸軍航空士官学校
昭和12年(1937)に陸軍所沢飛行場内に陸軍士官学校の分校として「陸軍士官学校分校」が開校。(現在の入間基地・入間飛行場)
昭和13年5月に「陸軍士官学校分校」が豊岡町(現在の入間市)に移転。
昭和13年12月に、「陸軍航空士官学校」として独立し、昭和16年には行幸された 昭和天皇より「修武台」の名称を賜った。

陸軍航空士官学校の本校は豊岡(入間)、その他に飛行練習をするために狭山・高萩・坂戸・館林の陸軍飛行場が練習地として使用された。

坂戸飛行場は、昭和15年に建設開始。
坂戸八幡神社の由緒によると「昭和15年2月5日に坂戸飛行場建設のために政府の政策により、社殿の移転を余儀なくされた。」旨が伝承されている。

そして、戦争末期の空襲により兵舎や格納庫などの主要施設は炎上し、そのまま終戦を迎えている。
戦後は開墾地を経て、昭和40年に土地区画整備が行われ、住宅団地119ha・工業団地96haの「住・工セット型団地」として再開発が行われた。

位置関係

USA-M44-A-5VT-12
1946年2月13日に米軍撮影の航空写真(国土地理院より)

USA-M44-A-5VT-12
1946年2月13日に米軍撮影の航空写真より、坂戸飛行場を拡大

USA-M44-A-5VT-12
1946年2月13日に米軍撮影の航空写真より、坂戸飛行場の施設部分を拡大
追記加工あり。

GoogleMapで現在の様子を。

同じく施設部分を拡大。

陸軍航空士官学校坂戸飛行場跡地散策

東武東上線若葉台駅より散策を開始。

まずは、「筑波大学附属坂戸高等学校」の敷地内に残る防火水槽跡を敷地外から見学。

坂戸飛行場の防火水槽

筑波大学附属坂戸高等学校敷地内

ひとつめは、少々わかりにくいですね。
なんとなく円形が察せられたので、多分これかな、と。

坂戸飛行場の防火水槽
ふたつめは、わかりやすいですね。

隣は坂戸中学校。

坂戸飛行場の弾薬庫

坂戸中学校の敷地内に弾薬庫が2棟残されておりました。

旧陸軍坂戸飛行場弾薬庫
 旧陸軍坂戸飛行場の正式名称は、陸軍航空士官学校坂戸飛行場で、昭和16年5月25日に開場したとの記事が、当時の新聞に掲載されています。滑走路は、路面が土で距離も短かかったようです。
 この飛行場の施設として、弾薬庫が建設されました。
 弾薬庫の規模は、幅7.6メートル、奥行5.6メートルの長方形で、入口が向かい合うように二棟作られ、高さは、4.3メートルです。
 入口以外に、内部を確認できる場所は、入口上部と入口の反対側の小さな窓だけです。
 さらに、建物全体が、厚さ約20センチメートルのコンクリート製で、堅牢なつくりです。
 戦後50年以上が経過しましたが、戦争という悲惨な事実をあたらめて認識し、平和の尊さを次の世代へ伝えていくため、この弾薬庫を保存していきます。
 平成12年10月
 坂戸市教育委員会

坂戸飛行場の本部跡地

法務局坂戸出張所のあたりが、陸軍航空士官学校坂戸飛行場の本部があった場所という。

そのすぐ近くに坂戸市役所。

坂戸飛行場の防風林(移植)

市役所駐車場の赤松は、陸軍坂戸飛行場の防風林として植えられていたものを、1971年に坂戸町役場移転に伴い移植されたもの、という。

坂戸飛行場の陸軍標石

陸軍坂戸飛行場に関係する陸軍標石は3箇所あるという。
1ヶ所は西側の「坂戸市役所第3駐車場」に残されており、2ヶ所は東側の民家の陰に残されている。東側は今回は未踏。
西側の坂戸市役所第3駐車場の陸軍標石を見学。

坂戸飛行場の駐機場跡

格納庫前の駐機場(待機所)のアスファルトが駐車場に残されているという。

坂戸市役所公用駐車場

路地裏の民間駐車場

坂戸飛行場の排水池(栄池)

当時も今も変わらぬ場所にある「池」。
当時は坂戸飛行場の排水池であったという。

坂戸の戦跡、まだまだ調べることは多そうです。
今回は飛行場の東側は未踏でしたし。(そこにも標石があるという)

本記事はひとまず〆


関連

陸軍関東松山飛行場跡(唐子飛行場跡)

松山飛行場

今も昔も「松山」という地名は混乱をきたす。
戦国の頃は、この地にも「松山城」があり、武蔵の松山もそれなりの知名度を持っていたが、愛媛松山に対して「東の松山」という位置づけ。

東上鉄道(東武東上線)が大正12年(1923年)に「武州松山駅」を開業。(戦後に東松山駅に改称)
当時は「武州松山駅(東松山駅)の隣の駅は「菅谷駅(現在の武蔵嵐山駅)であり、まだ「森林公園駅」は開業前であった。

その当時は存在していなかった「森林公園駅」の南側に、かつて飛行場があった。

「陸軍松山飛行場(陸軍関東松山飛行場)
通称は、地元名称から「唐子飛行場」(唐子の飛行場)と呼称していたという。

愛媛の松山には、松山海軍航空隊・松山海軍航空基地(源田実の第343海軍航空隊が著名)、そして現在の松山空港があり、海軍と陸軍でそれぞれの松山だった感じですね。

余談ついでに。
台湾は台北飛行場(松山飛行場)が昭和11年(1936)日本統治時代の台湾総督府によって建設されておりますので、戦前のあるタイミングでは3つの松山飛行場があった、というわけですね。

陸軍関東松山飛行場(唐子飛行場)

戦時中、首都防衛のために関東各地に陸軍の飛行場が建設され、この松山飛行場もそのうちの一つ。

昭和17年(1942)
測量と土地買収が開始される。

昭和19年(1944)10月
現在の森林公園の南側の地に、陸軍によって「松山飛行場」建設開始。
同時に松山飛行場建設のために、東武鉄道東上線「武州松山駅(東松山駅)」~「武蔵嵐山駅」間5.3キロを北に迂回させる必要があった。。
迂回工事は松山中学(現在の松山高校)の生徒なども動員され3ヶ月後の昭和20年1月には完了。
西側の旧軌道跡は、飛行機誘導路としてそのまま利用され、そのまま現在も道路として活用されている。

昭和20年8月
飛行場未完成のまま終戦。
滑走路面が固まりきっておらず離着陸にはまだ使用できない状況で、飛来した航空機が不時着を試みたことがあったが、車輪が滑走路にめり込んで転倒してしまったいう。

戦後は「農業地」「東松山工業団地」として再開発。

位置関係

昭和22年に米軍撮影の「関東松山飛行場跡」周辺の航空写真。
比較的にわかりやすい正方形。
国土地理院より)

USA-R356-18
1947年10月24日-米軍撮影

今昔マップ on the webで、飛行場ができる前、昭和14年の地図を以下に参照。一部加工済み。

昭和14年 飛行場建設前
東武東上線は「旧線」

青線は、飛行場建設後に北側に移転された線路。
ポイントは「森林公園駅」と「つきのわ駅」。

赤線は、飛行場区画。
ポイントは区画の四隅。
現在の様子。
昭和14年と照らし合せると違いがわかりやすい。
GoogleMAPを一部加工。
紫ポイントは「開拓記念之碑」石碑

森林公園駅

昭和46年(1971)開業。飛行場当時は当駅はまだ存在していなかった。

東松山工業団地案内板

飛行場跡地は工業団地に。比較的良くある戦後再開発。

森林公園駅の南側、住宅地区画の先が、旧飛行場エリア。

都開拓記念碑

松山開拓都会館に「開拓の石碑」が建立されていた。
開拓の歴史は、この地に「飛行場」があった歴史の記録でもあり。

都開拓記念碑
 旧村の宮前、唐子両村を境して、民地約二00ヘクタールが大東亜戦争に軍用の唐子飛行場となったが終戦とともに、戦後国民の食糧事情が飢餓の状態であったので、開拓による食糧増産が国策となり、唐子飛行場跡地も開拓入植の土地となりこの旧宮前地区には昭和二十五、二十六年にわたり、旧宮前、唐子の人達家族ごと十五戸が入植となった。この地は字名を都と称し、唐子分は新郷と称したとくに、表土をけずられてあるこの都は、黄塵にして荒れ、開拓家族は、石油ランプをたよりに起居し、農具も鍬や万能の、手による作業で、血と汗にまみれ排水工事を施工、困苦の日々の闘いの開拓であった。開拓当初、都開発者は唐子開拓農業協同組合を設立したが旧村がそれぞれに町村合併により東松山市と滑川村とになり、組合も松山開拓農業協同組合と合併した。電灯も入り辛苦の十数年、作物も実りが得られるようになった。この頃より国の経済の動向は農業から工業生産と変化した。市村も将来の発展的計画に基づき県企業局の協力のもとに工業団地として組合にその協力を求められた。血と汗の結晶の土地であるが組合として協力の決がとられた。その後地区内を関越高速道の通過があり全員が協力した。以上のように開拓者一致の協力は、この地域と住民の発展を大きく進展させたことは事実でありかっての苦闘の努力は歴史を綴り不滅に輝き続けてゆくことであろう。都開拓三十周年記念の開拓者建碑にあたり碑文とする。 
 滑川村長小久保正男 
 昭和五十八年四月吉日建之 

大東亜戦争に軍用の唐子飛行場となったが・・・

刻まれる「唐子飛行場」の名称。

石碑の向いている南側が、かつての飛行場区画。

飛行場区画の東側に足を伸ばしてみた。
「東武東上線の旧線」にあたる道路であり、水路との境界地。

この水路は「唐子飛行場」時代から設けられた水路。当時の飛行場排水路であろうと推測。

石碑と水路と。
往時を偲ぶものはさほどには残されていないが、地図には当時の飛行場を忍ばせる区画が残っていた。

軍隊と羊羹

酒保(軍隊での売店)での人気の甘味のひとつであった「羊羹(ようかん)」。
そんな羊羹を以下、つれづれと。

間宮羊羹

海軍将兵に最も愛された艦として有名な特務艦「間宮」

艦隊勤務の海軍将兵に給糧として甘味をもたらしてくれる特務艦。
「間宮」ではアイスクリームやモナカ、ラムネなどの嗜好品を生産しており、なかでも羊羹は一番人気だったとか。

「間宮羊羹」とは

【特務艦 間宮】
 広島県呉市を母港とする艦艇の中で、海軍将兵に「最も愛された、人気のあった艦」と言えば、間違いなく特務艦「間宮」でしょう。
 特務艦とは、他の艦艇の活動を支援することを任務とする艦で、「間宮」は他艦に糧食を供給する給糧艦でした。
 「間宮」は、内地から部隊に糧食を輸送するだけでなく、艦内に食品を製造加工できる設備をも有し、食品の他にモナカや大福、羊羹などの菓子類も製造していました。

【海軍将兵に大人気だった「名物 大型羊羹」】
 昭和17~18年に間宮主計長を務めた角本元海軍中佐の話によると、「と○やの羊羹より大きく!」との命令が申し送らされていたそうです。
 結果、当時「間宮」で製造されていた羊羹は、最低でも2kgはあったと思われます。
 そのサイズの羊羹を「間宮」では1日に2200本製造できる能力があったそうで、まさに「一大製菓工場」と言われていたのは不思議なことではありません。

※この商品は公益社団法人呉青年会議所、海軍料理研究家の方々の協力により当時レシピにて可能な限り再現したものです。

特務艦間宮戦没者慰霊碑

広島県呉市 海軍墓地

給糧艦「間宮」
就役当時は間宮は世界最大の給糧艦であり、日本海軍としても初の給糧艦であった。補給の要として活躍。艦隊の酒保として非常に人気が高く帝国海軍の中では最も有名な艦の一つ。
昭和19年12月21日、米潜水艦の雷撃により沈没。

間宮羊羹専用 海軍刀

間宮羊羹専用 海軍刀
ようかん和菓子ナイフ
大日本帝國海軍の群島は錆びにくいステンレス刀が多く使われておりました。
この「ようかん和菓子ナイフ」は、ステンレス洋食器の一大産地「新潟県燕市」の職人が一つ一つ手磨きで仕上げた物です。どうぞ安心してお使いください。

「間宮羊羹」とは?
大日本帝國海軍の艦隊勤務者に一番愛されたフネは、大和・武蔵ではなく「給糧艦間宮」。
それは間宮が甘い物を届けてくれるから。アイスクリーム・最中・ラムネ等の嗜好品を艦内で生産していた間宮。その中でも「間宮羊羹」の愛称で親しまれた羊羹が一番人気でした。


江田島羊羹(江田島ようかん)

友人からの戴き物

江田島は美しい広島湾に位置して、東は呉市に北は広島市に相対し、西は名勝安芸の宮島に接した南北に細長い島です。明治廿一年八月海軍兵学校がこの江田島にできました。以来旧海軍のメッカとして若人のあこがれの地でありましたが、昭和廿年八月終戦とともに約六十年の歴史の幕を閉じました。
昭和廿一年一月海上自衛隊第一術科学校が発足し、再び海の男達の修練の場として脚光を浴びることとなりました。
江田島羊かんは古鷹羊かんと共に兵学校時代よりこの海の男の皆様から、常にご愛用を賜り御土産品として絶えず御利用戴いています。


航空携帯糧食 玉羊羹

靖國神社遊就館の売店にて購入

玉羊羹
ゴム製の風船を容器として売られる球状になった羊羹。

支那事変(昭和12年)のころに、戦地の兵隊さんへ送る慰問袋用菓子として、日本陸軍から開発指示により生まれたことに始まるという。

当時は「日の丸羊羹」とも呼称された。

航空携帯糧食 玉羊羹
~航空糧食の特徴~
玉ようかんは、高高度飛行の気圧変化の激しい環境下でも容器が破裂することなく、容易に携帯でき、甘味による疲労回復の糧食として携帯されていました。


大日本帝國海軍の伝統を受け継ぐ海上自衛隊でも。

海軍羊羹 観艦式ようかん

自衛隊観艦式2019 限定の「観艦式ようかん」(さかくら総本家)


海軍羊羹(さかくら総本家)

海軍羊羹とは
明治時代からさかくら総本家の和菓子は海軍御用達品でした。
長期保存できる甘味品を望んでいた海軍からの依頼を受け、開発された羊羹を当時の味のまま再現したものが「海軍羊羹」です。

(海軍羊羹)
やや硬めで仕上げた当時の食感をお楽しみください。

(海軍羊羹 抹茶)
※本品は製造方法をそのままに、白あんと宇治抹茶を使用し現在風に仕上げた羊羹となっております。

海軍御用達品

さかくら総本家の羊羹は横須賀をはじめ、呉、佐世保各鎮守府に納められておりました。
長期保存できる甘味料を望んでいた海軍からの依頼を受け、開発された羊羹を当時のまま再現したものが海軍羊羹です。


巡羊羹(呉・武田製網)

靖國神社遊就館売店にて入手。

一等国の一等品

呉名物

巡羊羹

伝統につちかわれた羊羹を独自の製法により新しい感覚にアレンジして現在にマッチした羊羹に仕上げました。


海上自衛隊 塩ようかん

ポケット羊羹で安定の「かし原」ですね。


「ようかん」は、今も昔も愛される甘味ですね。

中島飛行機吉松地下工場と吉見百穴

令和2年2月訪問

むかし、一度か二度か、足を運んだことがあった吉見百穴。だいぶ昔のことだったので、中島飛行機のことは意識していませんでした。

最近、近代史跡・戦跡などを巡るようになって、そういえば地下工場があったなぁ、と思い出したので、足を運んでみました。


吉見百穴

古墳時代後期(6世紀~7世紀)の横穴墓群。大正12年に国史跡に指定。現在確認されている219基の横穴数は、国内最大規模。

入場料は300円。
支払いをして入場をしようとすると、張り紙が目につきまして。

※入場前に、ご確認ください。
 軍需工場跡は、崩落の危険があるため点検・調査を行っています。
 そのため、当分の間、
洞窟内の立ち入りを禁止しています。

おおお、これは残念。

どうやら、平成30年6月以降、立ち入りができなくなっているようです。

吉見百穴。
横穴がいっぱい。

でも、今回は、別の横穴がメイン。入れないけど。

吉見町

https://yoshimi-kanko.net/kanko/hyakuana/


中島飛行機吉松地下工場

中島飛行機大宮製作所 吉松地下軍需工場

昭和18年(1943)に中島飛行機大宮製作所が新設。中島飛行機武蔵製作所(多摩製作所=海軍機)が製造していた海軍向けエンジン部品生産増産のために開設。

昭和19年に中島飛行機武蔵製作所が空襲を受けたことにより、大宮製作所の生産能力確保のために疎開先の地下工場として吉見に地下工場が建設。

通商の「吉松地下工場」とは、「吉見と松山」を意味しているという。

地下軍需工場跡
 昭和19年~20年に、吉見百穴とその周辺の丘陵地帯に大規模な地下軍需工場が造られました。今でも通行可能な直径3メートル程の開口部を持つ洞窟が地下軍需工場の跡です。地下軍需工場は空襲を避けながら航空機の部品を製造する目的で造られたもので、縦と横の洞窟がそれぞれ交差し碁盤の目のようになっているのが特徴です。
 第二次世界大戦の末期、東京都武蔵野市にあった中島飛行機工場は、地下に移転する計画がありましたが間に合わず、空襲によって生産能力が10分の1に落ち込んだと言われています。そのため、現在のさいたま市にあった中島飛行機工場の移転の必要性が急速に高まり、生活物資の調達に便利で、掘削に適した場所である吉見百穴地域に軍需工場が造られることになりました。
 軍需工場の区域となったのは松山城跡から岩粉坂までの直線距離にして約1300メートル部分で、この工事を「吉松工事」と呼んでいました。軍需工場は大きく分けて「松山城跡下」「百穴下」「百穴の北側」「岩粉山近辺」の4工区あり、それぞれの工区は独立していました。ダイナマイトを使用しての工事は進められましたが、工事に適した凝灰質砂岩は百穴と岩粉山付近にしか分布していません。松山城下には固い岩盤があり落盤が起こりやすく、百穴と岩粉坂の中間は山が低いので掘削に適さず工事は難航し、また、その方法は工事を進めながら同意に設計も行うという作業のため、掘削しては測量し、高低や方向を修正していたと言われています。
 7月頃には機械が搬入されエンジンの部品が製造され始めた様ですが本格的な生産活動に移る前に終戦となりました。この工事に携わったのは全国から集められた3,000~3,500人の朝鮮人労働者で昼夜を通した突貫工事でした。掘削工事に従事した最後の人の帰国に際し、日本と朝鮮との平和を希望して植えられたムクゲの木は現在でもこの地で成長を続けていいます。

軍需工場模式図

地下工場の見学は出来ないけど、入り口から覗き込むことは出来ます。


中島飛行機吉松地下工場
開口部

全て素掘りの地下工場。

横穴の大小。
吉見の百穴、横穴墓と、軍需工場の入り口と。


中島飛行機関連の戦跡


吉見百穴とヒカリゴケと

もう一つの見どころが、ヒカリゴケ。



岩窟ホテル

明治から大正にかけて掘られた「岩窟ホテル・高壮館」という人工洞窟。観光名所ではあったが、現在は閉鎖している。
「岩窟掘っている」が訛って「岩窟ホテル」と呼ばれるようになったという。

吉見百穴の地下一帯に軍需工場が建設される際には、岩窟ホテルもその一部として使用され、また軍需工場側に続く通路が新たに掘られている。


松山城跡
(武州松山城・武蔵松山城)

岩窟ホテルのある山の上には松山城跡がある。
平成20年(2008年)、比企城館跡群として国史跡に指定。

戦国期には武蔵国の要衝として関東諸勢力による争奪戦が展開。扇谷上杉氏、上田氏、難波田氏、太田氏など。
後北条氏時代は上田氏の居城。

武蔵松山城の本曲輪には、かつて神社があったようで、基礎だけが残っていた。


吉見町は、吉見百穴と武蔵松山城、そして軍需工場。

神社的には武蔵国延喜式内社「伊波比神社」「横見神社」「高負彦根神社」などが見どころ。

私のかつての記録によると平成14年に吉見エリアを散策していたようです。
かれこれ18年ぶりの再訪、ということになりますね。

サイト: 神のやしろを想う>比企をめぐる

http://jinja-kikou.net/hiki1.html

東松山駅からバスで往復でした。

陸軍成増飛行場の戦跡散策

令和2年(2020年)2月撮影

かつて東京都練馬区にあった陸軍飛行場。


陸軍成増飛行場

昭和17年(1942)4月18日のドーリットル空襲を期に、帝都防空の飛行場として急遽建設が計画され突貫工事が行われ、昭和18年(1943)12月に陸軍成増飛行場が完成。

陸軍成増飛行場完成と同時に第1航空軍第17飛行団隷下の飛行第47部隊が展開。
昭和19年3月、飛行第47部隊は、第10飛行師団隷下となり、11月には特攻隊(B29に対する空対空の特別攻撃隊)「震天制空隊」が編成される。

戦後は連合国に接収され、グラントハイツ(アメリカ空軍の宿舎)となる。1973年に日本に返還。「光が丘」として再開発された。

住居に再活用された掩体壕

位置関係

現在の都立光が丘公園を中心とした一帯が「成増陸軍飛行場」であった。

国土地理院
C36(8913)-C2-399
陸軍撮影、1944年10月24日
GoogleMapに、おおよその位置関係を追記
国土地理院
USA-R585-No2-1
米軍撮影、1949年03月02日
グラントハイツ

陸軍成増飛行場の掩体壕跡

赤塚新町の住宅地の中に、掩体壕が残っている。

残っている・・・というよりも住居として、掩体壕の上下の空間が巧みに活用されていた。

だいたいの住所は、「板橋区赤塚新町3-29」地区内。
住宅地なので見学は状況をわきまえつつで。

前述の グラントハイツ 周辺を撮影した航空写真、国土地理院USA-R585-No2-1・米軍撮影(1949年03月02日)から位置関係を確認してみる。

都立光が丘公園へ。


都立光が丘公園

陸軍成増飛行場は、戦後グラントハイム(米空軍宿舎)を経て返還後に光ヶ丘団地に隣接する公園となった。

光が丘公園 のあらまし
 都市近郊の農村地帯 であったこの付近一帯は、昭和15年(1940年)紀元2600年 記念事業として、東京府の「東京大緑地計画 」のひとつにあげられました。
 しかし、大平洋戦争 が始まったため、大緑地としては整備されず、昭和20年8月の終戦まで旧陸軍の成増飛行場 として使用され、戦後は、昭和48年9月の全面返還 までの間、米軍の住宅地(グラントハイツとして使用されました。
 昭和47年(グランドハイツ〕 跡地(182ha)の処分により、同49年3月その跡地の三 分の一に当たる 60.7haが都市計画公園として計画に決定されました。
 昭和49年4月から公園造成に着手し、“豊かな自然とスポーツの公園”をテーマに、災害時の広域避難場所としても機能するみどり豊かな、都民に広く親しまれる公園として整備され、同56年12月に34.6haを開園しました。その後、各種の公園施設を整備し、現在60.7haを有する都内でも有数の規模の公園として都民に利用されています。

◎ 開園年月日 昭和56年(1981年)・12月26日
◎ 公園の規模607,675.05m (平成7年6月1日現在) ..
◎所在地 練馬区光が丘四丁目、同二丁目、旭町二丁目 板橋区赤塚新町三丁目
◎主な施設 スポーツ施設のほか、芝生広場、バードサンクチュアリ 、ゲートボール 場、噴水、流れ、光りのアーチ、売店、駐車場など。


屋敷森跡地

昭和18年に成増飛行場が造営されるにあたり、周辺住民は立ち退きを命じられるも、この屋敷森の家は境界の都合で1軒だけ残ることが出来た。
戦後、グラントハイツとなり飛行場の周りの土地も接収されるも、この屋敷森の住宅は宅地であったためにそのまま残ることが出来たという。
光が丘公園として再開発時に、当主が無くなり「屋敷森のまま」保全されることにあったという。

屋敷森の樹木は、成増陸軍飛行場のころから変わらずにそこにあったのだろうか。特攻隊の飛び行く姿を見守っていたのだろうか。


平和祈念碑

平和祈念碑
 この地には 1943年(昭和18年) 帝都(首都)防衛のため成増陸軍飛行場がつくられ 多くの若い生命が空に散っていった。
地元住民にとっても 農地を強制買収され 基地づくりに動員された忘れがたい地である。
 終戦直後の一時期 この広大な地域は米軍キャンプとして接収され 米国第18代大統領グラント将軍にちなみグラントハイツと呼ばれた。
その後 多年にわたる返還運動が実り みどりと太陽の武蔵野台地にコミュニティ「光が丘」が誕生した。
 練馬区は1983年(昭和58年)に『非核都市練馬区宣言』を制定し 「世界の恒久平和は人類共通の願い」であるとして「核兵器の廃絶と軍縮」を強く訴えている。
 本年は戦争終結から50年 歴史の大きな節目の年にあたる。この時にあたり戦中 戦後の歴史の激しい流れを見つめてきたこの地に 区民の総意を込めて平和の祈念碑を建て 練馬地域の多数の戦没者を悼むとともに 空爆による被災者や第二次世界大戦による内外諸国民の多大な犠牲を省りみるものである。
 ここに練馬区民は 戦争の悲惨さと平和の尊さを心に刻み 平和を守る決意を新たにしたい。
 1995年(平成7年)8月15日
 練馬区

平和への祈り
練馬区長 岩波三郎書

平和祈念碑.彫刻
デザイン.制作
彫刻家 田中昭

健やかに
田中昭

都立光が丘公園には、成増陸軍飛行場の面影は残っていない。なんとなくここに滑走があったのか・・・と感慨にふけるのみ。

総務省
練馬区における戦災の状況(東京都)

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/situation/state/kanto_18.html


2023年9月追記

成増陸軍飛行場開設80周年・写真展

郷土史家の山下徹さんの展示と秘話公開がありました(2023年9月)
「成増陸軍飛行場秘蔵写真&今だから語る秘話公開」

http://akatsuka-tokumaru.cocolog-nifty.com/blog/2023/09/post-9876ce.html

https://itabashi.keizai.biz/headline/667/

そこで知った2つの史跡を以下に追記。


飛行場建設で移転した観音立像

丸彫聖観音立像廻国供養塔
練馬区登録有形民俗文化財

成増陸軍飛行場の建設に伴い、飛行場予定地の住民たちは移住を余儀なくされたが、そんな住民の一人(Kさん)は、道端で打ち捨てられそうになっていた観音様を保護し、近隣の神社に預けたという。

江戸時代(享保13年・1728)に66ヶ国巡りを達成した記念碑です。元は光が丘の地域に建てられました。成増(高松)陸軍飛行場建設のため、土支田八幡宮、さらに旭町2丁目にあった稲荷神社に移設されました。その後、保護のため、現在地に移設しました。
 平成27年10月 練馬区教育委員会

上練馬公園にて


吉澤平吉中尉(震天制空隊)の勇魂碑

震天制空隊(震天隊)は空対空の特攻隊。B29に対して体当たり特攻を実施防空した。成増陸軍飛行場にも震天隊が編成され、首都防空の一翼を担っていた。

昭和20年2月10日、B29に対して体当たり散華した吉澤中尉。
震天隊として成増陸軍飛行場にもゆかりがあった。

東部第一〇七部隊飛行第四十七戦隊、震天制空隊近衛鐘馗戦闘隊
吉澤平吉中尉(陸軍航空士官学校第56期)
実は吉澤中尉は特攻隊員ではなかった。しかし部隊から多くの体当たりでの特攻隊員を出した先任将校として、自らもと覚悟を決めていたのかもしれなかった。

吉澤中尉(特進で少佐)の体当たり散華から38年後の昭和58年2月10日の、吉祥寺(武蔵野市)の大法禅寺境内に、勇魂碑が、吉澤中尉の姉達によって建立された。

勇魂 
従六位功四級勲六等 
故陸軍少佐吉澤平吉之碑

感状
 陸軍中尉 吉澤平吉

右者マリアナ基地ヨリスル米空軍ノ数次ニ亙ル帝都来襲ニ際シ其ノ都度勇戦以テB29撃墜ニ機撃破4機ノ赫々タル戦果ヲ収メアリシカ昭和20年2月10日敵B29約90機ノ太田付近空襲ニ方リ勇躍之ヲ下館上空ニ邀撃シ忽チ其ノ1機ヲ撃破セリ敵機攻撃ニ方リ自機亦被弾損傷シタルモ吉澤中尉ハ毫モ之ニ屈スルコトナク勇戦奮闘遂ニ後続敵編隊ノ左外側機ニ對シ敢然躰當リヲ決行之ヲ確実ニ撃墜スルト共ニ自ラ亦壮烈ナル戦死ヲ遂ク
吉澤中尉ハ真摯者実而モ内ニ烈々タル気魄ヲ蔵シ戦技亦卓抜ナリ敵機要地ニ侵襲スルヤ憤然挺身ヲ勇猛果敢毎戦武勲ヲ重ネ遂ニ玉砕以テ要地援護ノ大任ヲ完遂セルモノニシテ其ノ行動真ニ軍人ノ亀鑑ト謂フヘク武功亦抜群ナリ
依テ茲ニ感状ヲ授与シ之ヲ全軍ニ布告ス
  昭和20年2月23日
   防空総司令官 稔彦王

防空総司令官 東久邇宮稔彦王殿下の感状が掲げられている。

辞世
君の為 捧げし命の 重からで 只一筋に 宮居護らむ
大君の 御楯とあらば 何惜しまむ 雲染め散なむ 翼なりせば

戦歴
防衛総司令官東久邇宮稔彦王殿下命名の震天制空隊にて昭和十九年来帝都護持の任務を遂行中 「マリアナ」基地より発進する米空軍の数次に亙る帝都襲来に際し其の都度勇戦B29二機を撃墜四機を撃破せしが 昭和二十年二月十日B29約九十機関東地方襲来に際し下館上空に於て其の一機を撃破せしも 自機又被弾損傷せるも毫も之に屈せず更に勇戦奮闘遂に後続編隊の左外側機に敢然体当りを決行 之を確実に撃墜すると共に梅花に魁けて萬朶の櫻となり雲染む屍は大空に潔散壮烈なる戦死を遂く 昭和二十年二月二十三日東久邇宮稔彦王殿下より上記感状を授与せられ二階級特進畏くも陛下のお耳に達し 同じく仏印の空に散華し兄陸軍大尉吉澤正夫と共に金鵄勲章並に勲六等単光旭日章を賜ふ

略歴
大正11年 9月19日 本籍埼玉県北埼玉郡下忍村大字樋上64番地
(略)
昭和14年12月   陸軍士官学校予科 入学
昭和16年 3月   同校卒業 士官候補生隊付勤務
         飛行第二十九戦隊
昭和16年 6月   陸軍航空士官学校 入校
昭和16年 7月   第二十九独立飛行隊に転属
昭和18年 5月   陸軍航空士官学校を卒業(五十六期)
         任 陸軍少尉 叙正八位
昭和18年 6月   明野陸軍飛行学校 入校
昭和18年11月   同校退校 調布飛行部隊 部隊所沢へ移動
昭和19年     東部第一〇七部隊飛行第四十七戦隊
         震天制空隊近衛鐘馗戦闘隊
昭和19年 8月  陸軍中尉 従七位  
昭和20年 2月10日 群馬県に於て空中戦闘中戦死 2階級特進
         陸軍少佐従六位功四級勲六等を賜う 
         享年二十四才

碑文
このたび 昭和十六年来 府中市多磨霊園に埋骨されておりました父母兄弟の遺骨を当大法寺の永代納骨堂に奉移して未来永劫にわたり御供養をいただくことになりました 私達の弟二人は純粋に忠君愛国の念に燃え殉じましたが 志ならずして敗戦となり数多くのあらゆる面に罹災されました皆様の筆舌に尽くせぬ御辛苦に思いを馳せ さぞかし無念の涙に咽んだことと思います
然し身は大空に散華いたしましても霊魂は今なお天空に留まって日本国と国民の皆様の御安泰を祈り永遠なる平和への礎となっていることと思います 戦後三十八年を経た今日 新に戦死した弟達が蘇って参りました思いを切実に感じあらためて永遠の平和をひたすらに祈るものでございます
合掌
 昭和五十八年二月十日建立 吉澤富子 吉澤満子

合掌

吉祥寺の大法禅寺


「日本の航空事始め・その3」民間初飛行の奈良原三次(民間航空発祥之地散策・千葉)

令和元年11月

先日、幕張・稲毛方面に赴く機会がありましたので散策をしてみました。


民間航空のパイオニア
奈良原三次

奈良原三次
明治10年(1877年)2月11日~昭和19年(1944年)7月14日
鹿児島出身

東京帝国大学工学部造兵科を卒業して日本海軍少技士として横須賀海軍工廠造兵部に勤務。
新設された臨時軍用気球研究会の委員となり飛行機研究を行う。
明治43年(1910)10月に自ら設計した「奈良原式1号飛行機」を自費で製作するも当初予定されたエンジン(仏製ノーム50馬力)の半分しかない仏製アンザニー25馬力での取り付けを余儀なくされ、戸山ヶ原での飛行試験はエンジン出力不足で地上滑走のみに終わり離陸に失敗。

その2ヶ月後の明治43年12月19日、代々木練兵場において徳川好敏陸軍大尉が国内初飛行に成功。日本人による(外国機)国内初飛行となる。

明治44年に奈良原は海軍を退役し「奈良原式2号飛行機」を製作。
明治44年 (1911) 5月5日、国産機「奈良原式2号飛行機」は、所沢飛行場にて自らの操縦にて高度約4メートル、距離約60メートルの飛行に成功。
これが日本人による民間国産機での国内初飛行となる。

明治45年(1912)5月、千葉県の稲毛海岸に民間初の飛行場を開設。稲毛海岸の干潟を利用した飛行場であった。
ここで奈良原は、一番弟子 白戸栄之助 や二番弟子 伊藤音次郎 らのパイロットを養成。
奈良原式4号機「鳳号」を制作し、日本の民間航空の発展に尽くした。

※以下は所沢航空発祥記念館にて

奈良原式2号複葉機
1911(明治44)年5月5日、所沢飛行場で奈良原三次の操縦によって高度4m、距離約60mを跳び、国産機による最初の飛行記録を作る。その後、最大距離約600m、高度約60mを記録した。奈良原三次は海軍技師として臨時軍用気球研究会に参加していたが、委員会の活動とは別に自作の飛行機を設計、制作した。
 発動機:グノーム空冷式回転星型50馬力
 座席:1
 全備重量:550kg
 全幅:10.00m
 全長:10.00m


民間航空発祥之地 記念碑

京葉線「稲毛海岸駅」北東約700メートル。稲毛公園の南端にひときわ大きな記念碑が建立されている。
この稲毛飛行場の地を飛んだ、奈良原式4号機「鳳号」の全長は9メートル、翼幅も9メートルであり、この記念碑の高さと幅も9メートル。
恩師 奈良原三次 のために、二番弟子の 伊藤音次郎 が建立。

民間航空発祥之地
 笹川良一 書

1912年5月 奈良原三次氏 この海浜に初めて練習飛行場を創設
教官白戸栄之助氏により 飛行士の養成をはじめた
この地がわが民間航空発祥の地である
1971年7月
 伊藤音次郎 記
 航空振興財団

松の由来
 この松は昭和35年日本初飛行50周年を記念して、アメリカ・ノースカロライナ州のホッジス知事から送られた、キティホークの丘(ライト兄弟が世界で初めて動力による飛行に成功した丘)の松の種を我が国、民間航空の草分けで、当地ともゆかりの深い故伊藤音次郎氏が、成田市の自宅で育てたものをこの地に植樹したものであります。
 昭和46年6月 
 千葉市

発祥記念碑の基部には「奈良原式4号機・鳳号」複葉機とその諸元を示すプレートが表示されている。

記念碑

奈良原式4号機「鳳号」
千葉市サイトより

奈良原式4号機「鳳号」復元機は、稲毛民間航空記念館に展示してあったが、現在は閉館中。リニュアルオープンを待ちたいと思います。。。

https://www.chibacity-ta.or.jp/spots/inage-kouku-kinenkan

記念の周辺に、気になるものがいくつかありました。

礎の碑
この碑は明治初期より貝類のり漁場として代々漁業を営み又関東一の汐干狩り海水浴場としてひろく親しまれた稲毛の海でしたが国土開発に協力し埋め立てのため昭和44年6月に解散した記念です。
千葉市稲毛町漁業協同組合

明治45年(1912)5月、千葉県の稲毛海岸に飛行場ができた当時から埋め立てが進むまで、遠浅の海外線がこの地に広がっていた。

蒸気機関車も保存されていました。

NUS7
 この蒸気機関車は昭和28年から昭和43年まで川崎製鉄千葉製鉄所において資材原材料等の運搬に使用されておりました。
 しかしディーゼル機関の発達にともない蒸気機関車は使われなくなり千葉市に寄贈され当公園に置かれたものです。
 昭和52年9月 
 千葉市

道路名は、「つばさ記念ロード」


こじま公園

稲毛海岸駅から記念碑に向かう道路を歩いていたら、バス停が「こじま公園」。
今はなにもないけども、かつてここに「こじま」がいました。
帝国海軍海防艦「志賀」
海上保安庁巡視船「こじま」
1998年に解体・・・

ファイル名:CKT881-C3-6(一部加工)
1988年10月30日・国土地理院撮影
地図空中写真閲覧サービス(国土地理院)

寄り道でした


以下、民間の航空をいくつか。

日本の民間操縦士第一号
白戸栄之助

白戸栄之助
明治19年(1886年)11月12日~昭和11年(1936)3月2日
青森県出身

明治39年(1906年)12月に陸軍交通兵団気球隊に入隊、43年に軍曹で退役。上官だった徳川好敏陸軍大尉の推薦で、奈良原三次のもとで操縦士としての訓練を受ける。

明治45年(1912年)4月、川崎競馬場で開催された、日本で初めて開催された有料民間飛行大会で、白戸栄之助は奈良原式4号機「鳳号」を操縦して「日本の民間操縦士第1号」の名声を得て、続いて5月11日東京の青山練兵場で時の皇太子殿下(大正天皇)、皇孫殿下(昭和天皇)の台臨飛行を行って大成功を納めた。

明治45年5月末には奈良原三次の提案で千葉の稲毛海岸の干潟を利用した飛行場を本拠地として移動し、教官として伊藤音次郎を教育した。
大正5年(1916)、奈良原三次の稲毛飛行場内に「白戸共同飛行練習所」を設立。 翌年に奈良原から独立し「白戸飛行機練習所」を開設。
大正13年(1924年)に門下生が相次いで飛行機事故で殉職したことから航空業界を引退し木工業へ。

白戸工業株式会社

http://www.shirato-web.com/history.html


民間機による初の帝都訪問飛行
伊藤音次郎

伊藤音次郎
明治24年(1891年)6月3日~昭和46年(1971年)12月26日

大阪の恵美須町生まれ。
17歳のときにライト兄弟の飛行写真をみて、飛行機に興味を持ち、奈良原式飛行機発明記事をみて、奈良原三次に手紙を送ったことから奈良原との交流がはじまる。
明治43年(1910年)に上京。奈良原三次に弟子入りし白戸栄之助教官の教えを受け「民間飛行士第2号」となる。

大正2年(1913年)、事情により航空業界から一時引退した奈良原三次の稲毛飛行場の地にて、大正4年(1915年)に伊藤音次郎は奈良原のもとから独立した形で「伊藤飛行機研究所」を設立。

大正5年、大阪の出身地・恵美須町の名をつけた「伊藤式・恵美1号」を制作し、民間機として初めての帝都東京訪問飛行に成功。
大正6年(1917年)、台風と高潮により稲毛海岸の施設(稲毛飛行場と伊藤飛行機研究所)が壊滅したことから、翌年大正7年に津田沼町鷺沼に移転し「伊藤飛行機製作所」(津田沼飛行場・鷺沼飛行場)として拡張する。

大正8年には、開発した日本初の曲芸専用機が連続2回宙返りに成功する。
昭和12年(1937)「伊藤飛行機株式会社」に名称変更。
昭和17年、日本航空工業と合併。
戦後、伊藤音次郎は、GHQの航空禁止令を受けて航空業界から引退。
昭和23年に(1948)に「恵美開拓農業協同組合」を設立し現在の成田市東峰に入植し開墾開拓に携わり農場主となった。
昭和40年代に始まった「成田空港建設予定地」の一部に東峰地区が決定し、現地では伊藤音次郎ただ一人が大歓迎を表明。軌道に乗っていた農業用地をすべて売却。航空業界から身を引いた伊藤音次郎ではあったが数奇な巡り合わせであった。

その後、恩師奈良原三次が築いた稲毛飛行場を記念するために稲毛海岸に「民間航空発祥の地記念碑」建立に尽力し、自ら育てていたライト兄弟ゆかりの貴重な松を植樹している。

昭和46年(1971)、伊藤音次郎は成田空港の開港を見ることなく他界。


旧 伊藤飛行機研究所 滑走路跡

現在の「袖ヶ浦第二児童遊園」に。

旧 伊藤飛行機研究所 滑走路跡
 伊藤飛行機研究所は、大正七年四月一日、鷺沼三丁目の旧千葉街道沿いに、伊藤音次郎氏によって開設されました。
 伊藤氏は、明治四十五年日本初の民間飛行機練習所を稲毛海岸に開いた奈良原男爵の弟子で、大正四年に独立し稲毛海岸に伊藤飛行機研究所を創設しましたが、大正六年九月の台風と高潮で施設が壊滅したため、翌年鷺沼海岸に再開しました。当時この辺は遠浅の海で、潮が引いたあとの干潟は格好の滑走路となり、この干潟を利用して約百五十名の飛行士が養成されました。
 昭和六年、研究所は飛行機製作部門の伊藤飛行機製作所、飛行士養成部門の東亜飛行学校・帝国飛行学校に分かれ、昭和二十年八月、第二次世界大戦終戦とともにすべて解散されました。大正四年の創設以来、製作された飛行機は五十四機、グライダーは十五機種二百余機でした。
 平成十八年三月
 習志野市教育委員会

伊藤音次郎日記(日本航空協会)

http://www.aero.or.jp/isan/archive/Ito_Otojiro_diary/index.htm

日本航空史 明治大正編(日本航空協会)

http://www.aero.or.jp/isan/archive/Japanese_Aviation_Histroy_upto_taisho-era/isan-archive-History_of_Japan_Aeronautic_Meiji-Taisho.htm

ならしの豆知識(習志野市)

https://www.city.narashino.lg.jp/smph/citysales/kanko/mamechishiki.html


山縣飛行士殉空之地

伊藤音次郎の一番弟子であった山縣豊太郎。民間初の曲芸飛行家
大正7年(1918)5月4日に民間初の宙返り飛行に成功。5月10日には連続2回宙返りにも成功し天才飛行士として絶賛された。
しかし大正8年(1919)8月29日、連続3回転宙返りの際に翼が折れて、鷺沼の畑に墜落。享年23歳であった。

山縣飛行士殉空之地
 男爵 奈良原三次 書

紀元二千六百年八月二十九日 
 伊藤音次郎建立

山縣豊太郎君は明治三十二年九月百太郎氏の三男として広島に生まれ資性温健謙譲然も豪毅果断十六歳志を立てて東京に出叔父鳥飼繁三郎氏に寄り身を航空界に投ず
大正四年二月伊藤飛行機研究所創設されるや所長伊藤音次郎氏に師事して飛行機の操縦及び製作を習得し大正六年第一回卒業生首席として飛行士免状を授与せらる
爾来技愈々熟し出藍の誉高く東京大阪間最初の郵便飛行同区間周航の六百三十哩飛行等の競技に優勝し又民間最初の曲技飛行家として其天才的技量を発揮し後輩を指導して多数の優秀な飛行士を養成す
大正九年八月二十九日の曲技飛行中空中分解の為愛機恵美号と共に此の地に玉砕す
我が航空界の第一人者として称賛を受けたる君は航空界に幾多の大功績を残して遂に逝けり享年僅二十三
官民間人今猶ほ惜しまざるはなし
建碑に当って其昔を偲ぶ 嗚呼
 昭和十五年八月二十九日
 男爵 奈良原三次

「山縣飛行士殉空之地」は今も昔も畑の中。
海岸側からはちょとした高台にあった。

伊藤音次郎 の一番弟子であった 山縣豊太郎 を偲びし碑。
事故の21年後、紀元2600年の節目、昭和15年に 伊藤音次郎 によって建立された。揮毫と碑文は、伊藤の恩師 奈良原三次 の書。

合掌

はるかに幕張新都心を望む。当時は海だった場所。


参考

日本初飛行の地
日本航空発始之地記念碑

日本の航空発祥の地


位置関係

今昔マップ On The Web

http://ktgis.net/kjmapw/kjmapw.html?lat=35.646807&lng=140.052355&zoom=14&dataset=kanto&age=1&screen=2&scr1tile=k_cj4&scr2tile=k_cj4&scr3tile=k_cj4&scr4tile=k_cj4&mapOpacity=10&overGSItile=no&altitudeOpacity=2

国道14号が海と陸の境界線。

稲毛飛行場跡

津田沼飛行場・鷺沼飛行場


付記

伊藤音次郎が、昭和12年(1937)に鷺沼の伊藤飛行機製作所の工場敷地内に空難犠牲者を祀る「航空神社」を建立。
戦後、伊藤音次郎が成田東峰に入植した際に、航空神社も移設され「東峰神社」として鎮座。その際に勤労の神として二宮尊徳を祀ったという。

東峰神社は開拓集落の産土神として東峰地区にて崇敬。
伊藤音次郎は成田空港を喜んで迎えたが、空港反対派が東峰神社を拠点として反対活動を行ったことは皮肉でしかなく。

東峰神社=航空神社は2001年に伊藤音次郎の子孫の要請で航空科学博物館の野外展示場に遷座。御神体も遷座しているために、現在の東峰神社は空座という。

伊藤音次郎ゆかりの神社として、航空科学博物館の航空神社と、東峰神社にも赴かねば、です。宿題ですね。

立川駐屯地の戦跡散策(立川防災航空祭)

令和元年11月9日

立川駐屯地の一般公開に合わせて見学をしてきました。
旧軍や戦跡に関することを中心に記載を。

立川の戦跡としては、以下も参照に。


史料館の中庭にいくつかの記念碑が集められている。まずはそこから。

八紘一宇


八紘一宇
陸軍中将 山下奉文 謹書
昭和15年建立


紀元二千六百年記念
陸軍大佐 川崎正寴 謹書

八紘一宇 (立川駐屯地 史料館 より)

※ 昭和15年に、紀元2600年を記念して陸軍航空補給廠本部前に建立されました。
「陸軍航空補給廠」は、昭和9年3月所沢より立川に移転しました。当時立川や近在の人々からは「航空支廠」と呼ばれており、まさに日本陸軍航空補給の総元締でありました。」

※ 長年にわたりアジアが欧米列強の植民地と化している実情を憂い、アジアおよび世界が一つの家族のように一つの傘のもと、いつまでも平和で共に栄えるようにとの願いをこめて、昭和15年に記念して建立されました。そして、八紘一宇の願いどうり、我国によって大東亜戦争がはじまり、数多くのアジアの国々が植民地から開放され、その勢いは、アフリカなど全世界へ広がりました。

※ 字は、陸軍中将 山下 奉文が書いた字です。

行幸紀念

行幸紀念
周次郎 謹書

維時昭和八年五月四日  聖駕此地へ幸シ給ヒ親シク陸軍航空ノ威容ヲ臠セラレ當所ノ研究兵器亦  天覧ノ光栄二浴ス乃テ碑ヲ以テ之ヲ不朽二傳フ

周次郎とは、伊藤周次郎陸軍少将のこと。陸軍航空本部技術部長(1932~1935)、昇格後の陸軍航空技術研究所所長(1935~1936)を努めている。
天覧のあった、昭和8年(1933)に、伊藤周次郎が部長を努めていた。

飛行第五戦隊記念碑

飛行第五戦隊之碑
開雲 高木秀明謹書


飛行第五戦隊の母隊である航空第五大隊は 大正十年各務原で創設 翌年立川に移駐し 同十四年飛行第五連隊となった
昭和十三年夏飛行第五連隊の戦闘中隊は改編して飛行第五戦隊となり 千葉県柏に移駐した
昭和十六年大東亜戦争の勃発により戦隊は首都防空に任じた 次いで昭和十八年夏南方戦線に進出してジャワ、チモール、ハルマヘタ、比島方面で作戦任務を遂行した
戦局の推移に伴い昭和十九年秋小牧に転進し 同二十年終戦まで中京地区の要塞防空に任じた この間戦隊は武勲を重ねて感状を授与され陸軍戦闘戦隊の華と謳われた
茲に戦隊の歴史を刻し創隊以来国家に殉じた幾多の戦友病没隊員の遺徳を偲びこの碑を建立する
 昭和五十八年五月二十九日
 飛行第五戦隊生存者有志一同

行啓記念碑

昭和10年11月19日 皇太子殿下の行啓

皇太子殿下行啓記念碑

昭和16年10月28日

史料館東庭園

移駐当時の隊員が造成。飛んでいった飛行機が無事に帰ってくるようにと、ブーメランの形を模している。

立川駐屯地竣工記念植樹碑

昭和58年5月29日

ちょっと移動しまして「本館」前に。

立川黒松

立川黒松の由来
 立川の発展は 飛行場とともにあり 立川は歴史の中から また立川を語る上でも飛行場を忘れることが出来ない
 過ぎた日の飛行場を懐ひ 飛行場がもつ歴史的背景をおもいおこすときいつも立川飛行場を見守っているのが 此の黒松であり現在もそのさまはみごとである
 当駐屯地は 大正10年陸軍が飛行場の建設を開始し 翌年飛行場の開港とともに陸軍飛行場第5大隊が創隊して 兵舎の間には桜や梅など様々な植木が植樹された
 その中でも ひときわ立派で枝振りの良い此の黒松は 本部隊舎前の植え込みに植樹されたもので 昭和56年現在の立川駐屯地が建設された際に現在地に移植された

立川駐屯地史料館

陸軍飛行第五聯隊配置図

ステンドグラス
陸軍飛行第五大隊将校集会所の2階窓に取り付けられていたもの。
大正11年製

灯籠
立川駐屯地東地区 旧軍通用門門柱

国連旗・日章旗・星条旗
米合衆国極東空軍立川基地全面返還式当日に降納された国連旗・日章旗・星条旗 昭和52年11月30日

オルガン
陸軍飛行第五戦隊の将校集会所にあった

昭和初期の蓄音機

杉山元 元帥の書
板垣征四郎 大将の書

二式射撃照準器甲一号
皇紀2602年(昭和17年)正式採用

三菱式双発型輸送機ニッポン号羅針盤
大毎東日新聞社が帝国海軍九六式陸上攻撃機を改造し世界一周を行った機体の羅針盤

そのほか展示など

野外展示

立川防災航空祭
駐屯地の様子など

飛行展示

史料館に籠もっていたので、飛行展示はあまり見れませんでした・・・

スタートダッシュが遅かったので、大型ヘリ搭乗整理券は貰えず・・・でした。そのあたりはまた次回にでも。

鳥濱トメさんの玉子丼・靖國八千代食堂

令和元年10月。

靖國神社御創立150年の節目の年の再整備。
令和元年10月10日に「靖國神社外苑休憩所」に新たにオープンした食堂が「靖國八千代食堂」

名物は「鳥濱トメさんの玉子丼」・・・
いただいてきました。

ほんのりと甘みを感じる、トメさんのやさしさに包まれた味わい。
玉子と玉ねぎ、往時を偲ぶシンプルな、しかし奥深い味。
一口二口と口に運んでいくとともに、なにやら目頭が熱くなってきてしまいました。
心から、ありがたさを感じつつ。美味しさを味わいつつ。

鳥濱トメさんの玉子丼

鹿児島知覧で「富屋食堂」を営んでいた鳥濱トメさん。
「富屋食堂」は陸軍指定食堂となり、多くの特攻隊隊員が食堂の面倒を見たことから「特攻の母」と呼ばれた。
特攻隊員が食した「トメさんの玉子丼」が、再現され、靖國八千代食堂でいただくことができるようになりました。

 名物は、鹿児島県知覧の富屋食堂で「特攻の母」と慕われた鳥濱トメさんの玉子丼。お孫さんの鳥濱明久氏の総監修を経て、当時の味をそのままに再現致しました。鳥濱トメさんの味を受け継ぐ鳥濱明久氏(鹿児島知覧 富屋食堂「ホタル館」館長:鳥濱トメ孫)並びに鳥濱トメ顕彰会の全面協力のもと、明久氏が想いを込めて作った知覧直送の割り下をそのまま使用し、沖縄救出のために「靖國で会おう」と散華された英霊を送り出したトメさんの想いをそのままに再現致しております。

https://www.yasukuni.or.jp/news_detail.html?id=195

知覧より直送する本物の味
特攻の母
鳥濱トメの玉子丼

旧知覧特攻基地の軍指定食堂であった富屋食堂で「特攻の母」と愛された鳥濱トメさんが特攻隊員のみなさんに振舞った玉子丼には一体どれほどの想いが込められていたことでしょう。

当店の玉子丼は、トメさんの味を現代に受け継ぐ富屋食堂「ホタル館」館長、そしてトメさんのお孫さんである鳥濱明久氏が想いを込めて作った割り下を、鹿児島知覧から靖國へ直送いただき、そのまま使用しています。

当時、富屋食堂で使用されていた「お重」なども店内に展示しています。またこの玉子丼の収益の一部は、特攻資料館 富屋食堂「ホタル館」の整備維持などに寄付しています。

鳥濱明久氏(鹿児島知覧 富屋食堂「ホタル館」館長:鳥濱トメ孫)並びに 知覧特攻の母 鳥濱トメ顕彰会の全面協力のもと再現した、玉子丼。

鳥濱トメ プロフィール
明治35年6月、鹿児島県坊津町(現南さつま市)生まれ。大正15年5月、24歳の時に長女の美阿子(鳥濱明久氏母)が誕生。昭和4年、27歳でそれまでの貯えを元手に「富屋食堂」を開業し、翌年次女礼子も誕生します。
昭和17年に「富屋食堂」は陸軍指定食堂となり、昭和20年3月、知覧からも特攻隊の出撃が始まると、富屋に多くの特攻隊員が出入りするようになりました。たくさんの隊員たちからお母さんと慕われ、トメはその出撃を見送り続け、いつしか「特攻の母」と呼ばれるようになりました。戦後、知覧の観音堂建立に尽力し、建立後は欠かさず毎日参拝に通い、平成4年に89歳で大往生を遂げるまで続けた、愛情あふれる形でした。

知覧より直送する本物の味
特攻の母
鳥濱トメの
玉子丼

富屋食堂の三段重
この三段重は
鹿児島知覧にて特攻の母と
呼ばれた「鳥濱トメ」の
経営した富屋食堂で
実際使われていた、お重です。
特攻隊員が食べてたいと言った、
卵丼のお重として使われ、
戦後はうな重等に
昭和50年迄使われました。
 孫 鳥濱トメ

八千代食堂の卵丼
 令和元年10月1日

特攻隊の母と呼ばれた
鳥濱トメが経営した
富屋食堂の再興のご馳走が
卵丼でした
出撃する直前
特攻隊員の食べた卵丼は
孫の私が受け継ぎ現在も
知覧にて、提供している
だし汁を八千代食堂に
送ったものです
 孫 鳥濱明久

例大祭で賑わう境内。ちょうどお昼時、行列ができるほどに盛況でした。
是非に靖國神社御参拝の帰りに味わってほしい、往時の味わいです。

公式サイト
英霊への想い 靖國の未来をつなぐ
靖國八千代食堂

https://yasukuni-yachiyo.com/

公式サイト
特定非営利活動法人
知覧特攻の母鳥濱トメ顕彰会

http://www.torihamatome.jp

特攻観音(世田谷)

かつての靖國神社外苑休憩所


追記(令和3年8月15日)

富屋食堂の知覧茶

富屋食堂の知覧茶
この知覧茶は、靖國神社外苑休憩所の靖國八千代食堂と知覧富屋食堂との共同企画商品です。
特攻の母と言われた鳥濱トメさんのご遺徳と、
先の大戦で散華された特攻隊員の方々の想いを偲び、
特攻の地、知覧の茶葉を100%使用致しました。


一橋大学の近代建築・戦跡散策

令和元年9月撮影

国立の一橋大学。
戦前は「東京商科大学」
日本最初の官立単科大学、日本最初の商科商業大学。

関東大震災により「一ツ橋」の校舎が壊滅的な打撃をうけ、国立地区(国分寺と立川の間)に移転。

昭和19年9月、戦時体制のなかで「東京商科大学」は「東京産業大学」へと名称変更。改称理由は「商が営利主義を示すという理由」で改称させられたという。


一橋大学「兼松講堂」
 中島飛行機(第一軍需廠)
 エンジン工場

昭和2年(1927年)8月竣工。
大学通り西側の国立キャンパス地に建設。
登録有形文化財(建造物)
設計は伊東忠太。ロマネスク風建設。

戦跡として>
昭和19年(1944)3月10日、軍部指示により「中島飛行機株式会社」が「兼松講堂」を貸与されエンジン工場として活用。学生が勤労奉仕を行っている。
昭和20年4月、中島飛行機は「 第一軍需工廠第十一製造廠 」となり、兼松講堂も「 第一軍需工廠 工場」となっている。

文化遺産オンライン>一橋大学兼松講堂

https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/148375/1

中島飛行機に関してはこちらも


一橋大学「本館」
 中島飛行機(第一軍需廠)
 エンジン工場

昭和5年(1920年)12月竣工。
伊東忠太門下の文部省建設課陣によって設計。

兼松講堂と同じく本館の一部も中島飛行機の工場として活用されている。


一橋大学「附属図書館・時計台棟」

昭和5年(1930)6月竣工。
伊東忠太門下の文部省建設課陣によって設計。
戦争中、所蔵の貴重書籍は長野県伊奈町に疎開している。


一橋大学「別館」

昭和7年(1932年)に本科理化学教室として竣工。
竣工時に最先端だった「階段教室」は2015年にリニューアルしている。


一橋大学「職員集会所」

昭和初期竣工の木造建築。


一橋大学「旧門衛所」

昭和6年(1931年)竣工。
登録有形文化財(建造物)

外装はモルタル塗、腰スクラッチタイル矢筈積及び下見板張で、側面に鉄板葺の出窓を設けたフランス瓦葺ハーフティンバーの瀟洒な洋風建築。

文化財オンライン>一橋大学旧門衛所

https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/177986


一橋大学「東本館」
 多摩陸軍技術研究所 電波兵器練習部隊
 (陸軍東部第九二部隊)予科校舎

昭和4年(1929年)11月竣工。
大学通り東側の国立キャンパス地に「商学専門部本館」として建設される。
登録有形文化財(建造物)
伊東忠太門下の文部省建設課陣によって設計。

<戦跡として>
昭和19年2月、陸軍が東京商科大学東校舎を接収。
多摩陸軍技術研究所 電波兵器練習部隊(陸軍東部第九二部隊)予科校舎として使用される。
「多摩陸軍技術研究所」は、「陸軍登戸研究所の電波研究部門」が独立したもの。
「東部第92部隊」は、電波兵器研究と専門将校及び下士官養成の部隊。

陸軍登戸研究所

文化遺産オンライン>一橋大学東本館

https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/114847


一橋大学の銅像(西キャンパス)

矢野二郎先生像

1845年2月21日‐1906年6月17日
昭和6年(1931)5月に建立。

一橋大学の前身である商法講習所・東京商業学校・高等商業学校の草創期の校長を務めた。日本における商業教育の開拓者。
旧幕臣(開国派)、明治新政府外交官、教育者。貴族院議員(勅選議員)。

福田徳三先生レリーフ

1874年12月2日‐1930年5月8日
昭和35年五月に建立。

日本の経済学を開拓した経済学者。


佐野善作先生像

1873年8月29日‐1952年5月1日
昭和37年(1962)11月に建立。

1895年、高等商業学校(一橋大)を卒業。
1920年、東京商科大学(一橋大)の初代学長。
1923年、関東大震災により神田校舎崩壊。
堤康次郎と佐野善作の力によって国立を学園都市として開発し、1929年に校舎移転。


村瀬春雄先生像

1871年5月18日‐1924年4月9日
昭和39年(1964)11月に建立。

日本の海上保険学の祖といわれている。東京高等商業学校(一橋大)教授や帝国海上保険副社長などを歴任。


一橋大学の銅像(東キャンパス)

堀光亀先生像

1876年‐1940年
昭和16年(1941)4月に建立。

日本初の海運学を創設。東京商業学校の商科大学昇格に貢献。


佐野善作私邸跡の「佐野書院」敷地内にある「戦没学友の碑」は別立てしました。


別館の裏に。

紀元二千六百年四月
卒業廿五年記念
四月會


佐野善作と堤康次郎が築き上げた学園都市の中核「一橋大学」。
伊東忠太とその門下による統一された建築群の美しさとともに、戦争をくぐり抜けてきた歴史なども感じながらの近代建築・戦跡散策でした。

宝塚聖天英霊礼拝堂「大光明殿」

令和元年9月参拝

宝塚市に鎮座している寺院。
「宝塚聖天了徳密院」

「ゼロ戦墓地」「零戦墓地」としても著名。
(不本意ながら心霊スポットとしても著名らしい)
噂は聞いており気になっていたところ、ちょうど関西方面に赴く用事がありましたので、これ幸いと脚を運んでみました。

宝塚聖天 英霊礼拝堂
大光明殿

終戦33周年の年、昭和53年8月に「戦没者英霊礼拝堂」として建立。
全国陸海空戦没者260万の英霊を祀る。

合掌

宝塚聖天英霊礼拝堂「大光明殿」建立縁起

 兵庫県宝塚市宝梅町の「宝塚聖天」(真言宗了徳密院)に此の度(昭和53年 )、英霊礼拝堂「大光明殿」が建立されました。此の礼拝堂は(写真)の如く堂上に祖国の勝利を信じ青春を捧げ国に奉じた戦没者の象徴として零式戦闘機(零式戦斗機)が安置されています。何故このような礼拝堂が此の寺に建立されたのか、その縁起を述べて一人でも多くの賛同者が出られることを願います。此の礼拝堂は、宝塚市に住む一人の信者K氏の寄進によって建立されました。K氏は少年の頃、その生れ故郷の山村には特攻隊の飛行訓練場がありました。いよいよ明日は出撃!「鹿屋」に飛立つ前夜の光景が、今でもありありと目の前に浮かぶのであります。「おばちゃん行って来ます!」と云って、K氏の母親の手を両手で握りしめた少年兵の姿!目に一杯涙をためて、K氏の姉と握手して別れて行った少年兵の顔!日の丸の鉢巻をシッカリとしめて操縦席に坐った雄雄しい姿!

 それを見送る家族の人々の涙一杯の顔!あれから三十三年経過しました。然し今尚ハッキリと胸に浮かぶのは、英霊となられた人々の其の時の心の中であります、見送る家族の人々の心の中であります。その心の中が痛い程ハッキリとK氏の胸に映るのであります。此の胸の痛みは、恰度其の同じ年齢と成った我が子の顔を見るにつけ一層切実と成るのであります。現在の世の中は坐っていて世界中の物が食べられます。テレビを見ていればパリの花も、ロンドンの川の流れも目の前に楽しみことが出来ます。然し一体、 これは誰のおかげなのか、私達に代わって国の為にあえて、何の疑いも持たず戦死された方々を忘れてはならない。其の方々の英霊をお祭りしなけれればならない。慰霊せねば罰があたる。家でも国でも同じことではないか。K氏はそんな思いで一杯でした。そんな心境の時に宝塚聖天の住職と出会ったのであります。

 宝塚聖天は、今から50年程前に日下義禅大僧正と宝塚市名士、平塚嘉右ヱ門翁との二人の力に依って開創された寺であります。日下義禅和尚は昭和9年6月15日、弘法大師降誕千五百年記念に陸軍省に爆撃機を献納した人であります。平塚嘉右ヱ門翁は宝塚ホテル宝塚ゴルフ場等を創設して、阪急電鉄創立者小林一三氏と共に宝塚市生みの親として敬愛され、現在宝塚市建立の「平塚嘉右ヱ門翁頌徳碑 」が宝塚聖天境内に建てられています。このような環境ですから、支那事変勃発するや直ちに、宝塚聖天隣接地に広々とした軍人墓地が開設されて堂々たる軍人のお墓がズラリとお祭りされています。

「お母ちゃん!あれ、誰のお墓なの?」
「アレはね、だまされて、戦争して、死んだ人のお墓なのよ!」
 何という言葉でしょう。鉛の煮え湯を呑まされた気がしました。一体全体、今の世の中は、どうなっているのか。第一、これで戦死した人々に対して、すむのか。遺族が聞いたらどんな気がするのか、こんな母親に育てられて日本の国の将来は、一体どうなるのか?唯々茫然とするバカリでした、と住職は嘆息しました。宝塚聖天の住職は、毎月靖國神社に「月参り」しています。靖国社頭の「英霊の遺書」に非常に感銘し、是非宝塚軍人墓地にも此の「英霊遺書」の掲示場を設けて、一人でも多くの人々に読んで頂き度いと念願していました。そんな時にK氏の家に頼まれて「神さん」をお祭りすることに成りました此時、K氏と住職と、二人の胸中は一度に爆発したのであります。そして英霊礼拝堂建立の話が宝塚聖天信徒総代須藤真男氏に相談され、茲に具体化して行ったのであり、須藤真男氏は平塚嘉右ヱ門翁の御令孫であります。

 合掌のその手で築こう世界の平和

 世界の平和は、先づ見えない英霊の慰霊鎮魂が根本であります。
青春を捧げ散っていった戦没者の象徴として、零式戦闘機を堂上に奉安しましょう。
 戦没者260万の英霊をお祭りしましょう。
 護国英霊、日清、日露戦役大東亜戦争の忠魂をお祭りしましょう。
 敵、味方怨親平等供養回向しましょう。
 遺品、遺書、写真、書籍等を出来るだけ、広く、多く永く子孫に伝へて、二度と再びかかる事なきよう世界の平和を誓いましょう。
 英霊の前に黙祷を捧げて、静かに英霊の声に耳を傾けましょう。

賛助団体(アイウエオ順 6月20日現在)
一、 一生会有志
一、  大阪市傷痍軍人会
一、  大阪市傷痍軍人妻の会
一、  金鵄会宝塚支部
一、  甲飛十期会有志
一、  三〇三会
一、  特操会
一、  陸軍特別操縦見習士官有志
一、  独立野砲第二聯隊
一、  三重空甲飛十一期会
一、  陸軍少年飛行兵有志
一、  陸軍少年飛行兵十五期会有志
一、  六親会
一、  その他五団体程度の申し込みがあります。

英霊礼拝堂 堂内

終戦33周年戦没者英霊堂 建立
願主 宝塚遺徳顕彰会
寄進 神戸道雄
設計 株式会社 宮本公務設計事務所
施工 中央建設 株式会社
零戦制作 全日本整備 株式会社
完成 1978年8月

記念樹靖国神社拝桜
昭和53年8月吉日

零式艦上戦闘機

英霊礼拝堂「大光明殿」堂上には、祖国の勝利を信じ青春を捧げ国に奉じた戦没者の象徴として零式戦闘機が安置されている。

カウル部分や20mm機銃なども再現されている。

機体番号は「63-888」
零戦五三型の胴体下に250キロ爆弾を設置した戦闘爆撃機型が零戦六三型。その「63」を意味しているものかどうかは不明。


神風特別攻撃隊之魁
甲飛十期之碑

甲飛十期(予科練・土浦空)は、特攻第一号となった神風特別攻撃隊・敷島隊に2名を出し、その魁となっている。

第一神風特別攻撃隊 敷島隊
昭和19年10月25日
マバラカット基地発 タクロバン沖機動部隊攻撃
零戦
大尉  関 行男  (愛媛・海兵70期) 戦闘301飛行隊
一飛曹 中野 盤雄 (福島・甲飛10期) 戦闘301飛行隊
一飛曹 谷 暢夫  (岐阜・甲飛10期) 戦闘305飛行隊

飛長  永峰 肇  (宮崎・丙飛15期) 戦闘305飛行隊
上飛  大黒 繁男 (愛媛・丙飛17期) 戦闘331飛行隊

 昭和初期、海軍航空戦力の急激な拡充を目指して、甲飛予科練制度が創設され、我々は昭和十七年(十九四二年)四月一日、土浦海軍航空隊に第十期甲種飛行予科練習生として入隊、秋霜烈日の猛訓練に耐え飛行練習生教程を終えて太平洋戦争決戦の大空へ巣立った。昭和十九年十月フィリピン・レイテ湾に米航空母艦三十数隻を含む大機動部隊が殺到、迎え撃つ我が栗田を主力とする連合艦隊とのフィリピン沖海戦は、太平洋戦争中最も熾烈な一大海空戦であった。時に第一航空艦隊司令長官大西滝治郎中将は、この国家存亡の瀬戸際こそ二百五十キロ爆弾を零戦に装着、一機一機肉弾体当り攻撃の他なしと決意し、十月十九日、第二〇一航空隊副長玉井中佐に特攻隊の編成を命じた。命を受けた彼は、かつての教え子甲飛十期の零戦搭乗員より二十四名を選抜し、第一神風特別攻撃隊を編成した。

ああ、これが特別攻撃隊の魁になろうとは

 敷島の大和心を人問わば 
  朝日に匂う山桜花(本居宣長)

 この歌より隊名を敷島、大和、朝日、山桜の四隊とし、直後菊水隊が加えられた。索敵数日、十月二十五日に至り各隊見敵に成功、祖国の安泰を祈り一矢報いる信念に燃え、全機突入多大の戦果を挙げた。若干20歳にも満たない若者がひたすら祖国最後の勝利を信じ、父母を思い故山を偲び、黙々とその任務を完遂して散華し、卒業時1004名の80%が還らぬ人となった。その崇高で至純な行為と精神を後世に伝え、霊を慰め徳を顕彰する為にこの碑を建立する。

飛天光明之珠海

レイテ海の真砂
この海に甲飛十期生が数多く特攻で散華し光明の珠となり輝いている。
甲飛十期會

あなたを忘れない

建記
一、地鎮祭 平成5年11月10日
一、定礎式 平成5年12月10日
一、題文 谷一枝書
一、碑文 甲飛十期會撰
一、タイムカプセル内に
散る桜 残る桜 甲飛十期の記録
 戦死者 名簿
 生存者 名簿
 醵金者 名簿
一、竣工除幕式 平成6年4月1日
甲飛十期會建立


戦没者追悼
平和祈念碑

終戦50周年記念 平成10年8月15日


中村純一中尉慰霊碑

君黙思不動
至誠廉潔士
祖国ノ難ニ殉ズ
兄等ノ礎ニ
日本ハ在リ
魂魄不滅

陸軍中尉中村純一は学鷲として阪神防衛に参戦
絶望的な戦局に動ぜず眦を決して天翔る
愛機飛燕を駆り凄絶死闘
夏蒼穹に光烈散華す
雲染めて声なし
時 昭和二十年七月九日 
於 大阪星田村 
特操一期 鹿児島二中 東京農大卒 
二十三歳  愛惜尽きず

鹿児島市 弟中村三郎建之
特別操縦見士官有志一同
昭和56年6月28日

中村純一陸軍中尉は特操1期。(特別操縦見習士官・学鷲)
昭和20年7月9日、陸軍・飛行第56戦隊は硫黄島より飛来したP51を迎撃するために伊丹飛行場より出撃。
三式戦「飛燕」で迎撃をした中村純一中尉は空中戦闘で被弾。脱出し落下降下中に敵機の翼で落下傘の紐が切断され、星田村(大阪府交野市)の水田に落下し戦死された。JR学研都市線・星田駅近くに慰霊碑あり。
被弾した飛燕は大阪府交野市星田北に墜落。
平成17年、第二京阪道路建設工事現場で搭乗機「飛燕」の部品(残骸)が発見されている。


宝塚軍人墓地

合掌


宝塚聖天了徳密院

七宝山了徳密院。宝塚の聖天さん。

七宝山了徳密院は大阪浦江福島聖天了徳院の別院として、大正8年、日下義禅大和尚(元真言宗東寺派管長)によって建立。

http://www.ryomitu.com/

神仏習合の寺院、聖天様。

夏空の下での参拝でした。

逆瀬川駅(さかせがわ)からバスでアクセスを。
地図にも「零戦」と記載されている場所。

習志野の戦跡散策(騎兵から空挺へ・習志野駐屯地)

平成29年8月

この日は陸自・習志野駐屯地一般開放日「習志野駐屯地夏祭り」
基地公開日に見学できる施設が「空挺館」
未訪でしたので、是非これは行っておきたい。
ついでに折角だから寄り道しながら駐屯地を目指してみました。

※第一空挺団の降下訓練初め

習志野駐屯地

空挺館 (旧御馬見所)

「空挺館」(明治44年/1911年建立)
こちらが見たかったのです。
このために習志野に脚を運んだのです。
年に何回かの基地公開日にしか入れませんから。

明治44年建立。
もともとは目黒の陸軍騎兵実施学校に明治天皇が天覧あそばされた際の「天覧台」(御馬見所 )として建設。
大正5年(1916)に習志野に騎兵学校が移転に際して当館も移築。

正面入口からは傾斜のゆるやかな帝王階段。

明治天皇が天覧されたという2階のバルコニー。

実は装飾の菊御紋は2種類あり15弁と16弁がある。
これは正規の枚数だけだと天皇陛下以外は御立所に上がれなくなってしまうため他の皇族にも配慮したためという。

明治天皇が天覧されたという2階のバルコニー。
この椅子は津田沼駅で皇族が利用された貴賓室用椅子。

貴賓用椅子
津田沼駅は明治40年9月1日に鉄道省の一駅として営業を開始。旧軍時代は騎兵旅団、騎兵学校などがあり、習志野練兵場の表玄関だったので、皇族がたくさんこの駅を利用されていた。その当時皇族が使用されていた貴賓用椅子である。

習志野原

明治天皇(諱は睦仁)が命名されたという「習志野原」の額も展示。

睦仁
習志野原

習志野之原演習行幸

明治6年4月30日に明治天皇は習志野原にて近衛兵の演習を天覧されている。

帝王の階段とも称された中央階段の装飾。

精鋭無比

中央階段踊り場に掲げられた文字は降下塔にあるものの原本。(平成24年12月取り付け。)
書家青華氏による。お孫さんが第1空挺団に所属していた際に無理を言ってかいてもらったものという。

自衛隊唯一の空挺部隊
空挺精神「精鋭無比」

空の神兵像

立像と座像と

2階部分は旧軍に関する展示。
いくつか注目してみてみましょう。

秋山好古 日本騎兵の父

日露戦争時の騎兵第1旅団長(直下に騎兵第13連隊及び騎兵第14連隊)での活躍は言うまでもなく。あとは「坂の上の雲」を参考に。

騎兵の街・習志野に縁の深き人物であり、第2代騎兵学校長でもあった。

西竹一 騎兵中佐

昭和7年ロサンゼルスオリンピック障害馬術の部で日本人としての初の金メダルを受賞。(今日に至るまで馬術の金メダルは西のみ)
男爵でもあった西は「バロン西」として社交界で愛されるも、硫黄島において戦車26連隊長として参戦し散華。

日本軍空挺部隊と空挺作戦

日本軍には陸軍と海軍とそれぞれに落下傘部隊が展開されておりました。

まず海軍としては日本史上初の落下傘降下作戦を成功させた横須賀特別陸戦隊によるメナド降下作戦(昭和17年1月11日)や続くクーバン降下作戦などの展示あり

日本海軍
横須賀鎮守府第1陸戦隊 メナド降下作戦
横須賀鎮守府第3陸戦隊 クーパン降下作戦

横一特・横三特(海軍陸戦隊)
空挺部隊の慰霊碑は海軍落下傘部隊発祥の地館山の安房神社境内にありますので参考まで

安房神社境内
海軍落下傘部隊慰霊碑 内閣総理大臣田中角栄揮毫

パレンバン空挺作戦 
昭和17年2月14日

陸軍・挺進第2聯隊
南方の石油資源確保のために精油所を空挺攻撃し占領。
陸軍が初めて実施した空挺作戦であり、日本国民が初めて落下傘部隊を知った作戦。
往時の衣装や遺品が展示

血染めのどくろ旗

パレンバン空挺作戦 昭和17年2月14日

陸軍・挺進第2聯隊第1中隊中尾隊の小隊長・長谷部正義少尉が出撃前夜に小隊員39名と共に寄せ書きしたドクロの小隊旗。中央にはドクロと共に「落下傘大明神」と記載。
長谷部少尉は降下占領作戦中に戦死。

レイテ空挺作戦 
昭和19年12月6日~

陸軍第二挺身団「高千穂部隊」
レイテに上陸した米軍に対しての防衛作戦に呼応しレイテ島ブラウェン飛行場に空挺作戦を決行。一時的に飛行場を占領したものの援護なく後退。オルモック救援降下部隊ともどもほとんどの将兵は戦死…

陸軍・義烈空挺隊
義号(沖縄)空挺作戦 
昭和20年5月24日

沖縄本島に上陸した米軍に対し陸海軍特攻機を援護するため、奥山道郎大尉率いる義烈空挺隊(97式重爆撃機12機)に乗り込み読谷・嘉手納飛行場に特攻し強行着陸・飛行場機能停止を目指した作戦。

昭和20年5月24日18時40分。
沖縄を救援するために熊本・健軍飛行場を飛び立った義烈空挺隊12機。
そのうちの1機が読谷北飛行場への強行着陸成功し破壊活動を実施。

挺進殉國
義烈空挺隊 隊長 奥山道郎

義烈空挺隊 隊長 奥山道郎 
遺書
昭和二十年五月二十二日
此の度、義烈空挺隊長を拝命 
御垣の守りとして敵航空基地に突撃致します
絶好の死場所を得た私は日本一の幸福者であります
只々感謝感激の外ありません
幼年学校入校以来十二年
諸上司の御訓誡も今日の為のように思はれます
必成以て御恩の万分の一に報ゆる覚悟であります
拝顔お別れ出来ませんでしたが道郎は喜び勇んで征きます
二十有六年親不孝を深く御詫び致します 
                          道郎
御母上様

配布資料
知っていますか?義烈空挺隊
~昭和20年5月24日夜の話~

配布資料
腹が減っては戦は出来ぬ
~義烈空挺隊「食」の話~

配布資料
神兵を癒やした観音湯
~「堤はつ」さんと義烈空挺隊~

空の神兵

空の神兵
作詞 梅木三郎
作曲 高木東六

藍より蒼き 大空に大空に
忽ち開く 百千の
真白き薔薇の 花模様
見よ落下傘 空に降り
見よ落下傘 空を征く
見よ落下傘 空を征く

空挺館の1階部分は陸自のコーナーでした。
(旧軍関連が2階)

配布資料
遠い神代の物語
~陸上自衛隊「空の神兵」事始め~

配布資料
ようこそ空挺館へ!!
習志野駐屯地広報室


駐屯地内に点在するあれこれを見て回ります。

軍人勅諭下賜五十周年記念碑

手前の砲弾のようなものは
「軍人勅諭下賜五十周年」砲弾型記念碑。
明治十五年軍人勅諭が下賜されて50周年の昭和7年に建立された記念碑。
騎兵学校建立。

軍馬慰霊之碑

軍馬慰霊之碑・秋山好古揮毫

日本騎兵の父と称された秋山好古は日露戦争時の騎兵第1旅団長であり第2代騎兵学校長であった。
この軍馬慰霊碑は秋山が逝去する1ヶ月前に揮毫され、そしてこれが絶筆となった。建立は昭和5年11月。秋山好古大将の亡くなった月であった。

日本騎兵の碑

昭和41年建立
碑文は武藤一彦(元中将・元大分市長)
裏面は秋山久三少将(最後の騎兵学校長)の筆による。

ちょうど「日本騎兵の碑」の向こう側では駐屯地イベントの大人気スポット「お化け屋敷」が展開されておりました。
大盛況。 私はしずしずと駐屯地内の石碑めぐりなどを。

94式37mm速射砲

昭和9年(皇紀2594年・1934年)に帝国陸軍が開発・採用した対戦車砲(速射砲)。
正式名称は九四式三十七粍砲 俗称は九四式三十七粍速射砲

備える防人(ひと)

空の神兵の像

古賀忠雄が昭和17年の大東亜戦争美術展にて朝日新聞社賞を受賞した名作「天降る像」が原型。
昭和19年に三宅坂の陸軍第1航空軍司令部が武蔵野市吉祥寺の成蹊大学に疎開した時に当時の司令官部屋を飾った像をベースにしている。戦後は成蹊大学から偕行社を通じ第1空挺団に寄贈。
本像は昭和46年に復元銅像化。

鎮魂之碑

「礎」の碑 初代空挺団長・衣笠駿雄揮毫
昭和33年に創隊された第1空挺団
陸軍挺進隊より継承する「挺進赴難」の伝統と「精鋭無比」を目標に部隊を練成してきたが、不幸にも志半ばで職に殉じた第1空挺団同僚先輩たち「殉職された御霊のご冥福」を慰霊。
殉職者慰霊之碑

第1空挺団殉職者慰霊之碑が立ち並ぶ空間。

「挺身赴難」「精鋭無比」の精神で志半ばで斃れられた方々に合掌

第1空挺団 本部

第1とはあるけども、第2以下はなく、日本で唯一の空挺部隊。

降下訓練塔

敷地に中央部に聳えるは「降下訓練塔」
空挺降下の訓練に使われる高さ80mをほこる訓練塔。

心字池

昭和3年、習志野に移転する前に、目黒にあった陸軍騎兵実施学校の庭園・階段・門柱などの一部を材料に建設された池。
「心」という字を型どっている。
騎兵学校時代は将校集会所の庭園として親しまれていたという。

駐屯地夏祭り

各部隊の幟がでていて、ちょっと一味違う空間。

習志野駐屯地

このあたりの建物は陸軍時代のものの可能性高し。東門近く。

習志野駐屯地東門。
このレンガの門柱も陸軍時代のものなのかどうか。
古さが漂っていましたが、詳細は不明。

位置関係

習志野駐屯地、また改めて散策したいですね。


習志野に騎兵学校が移転する前は、目黒にありました。

習志野界隈の関連はこちらも

大西瀧治郎を偲ぶ

総持寺境内

鶴見駅から鶴見総持寺に足を運んでみた。大西瀧治郎の墓に。

大西瀧治郎

従三位勲二等功三級

海軍中将 大西瀧治郎之墓

合掌

海軍中将。第1航空艦隊司令長官、軍令部次長を歴任。

「敷島の大和心を人問わば朝日に匂ふ山桜花」
神風特別攻撃隊の創設者の一人。

昭和20年8月16日。
遺書を残し割腹自決。享年55歳。

墓裏には

昭和三十八年八月廿三日再建之
大西 淑恵
児玉 誉士夫

とある。
大西 淑恵 は 大西 瀧治郎 の妻。
児玉 誉士夫 は大西と懇意な関係にあり、児玉機関への支援などを大西は積極的に行っていたということもあり、交流が深かった。

遺書の碑

2000年に「遺書の碑」が建立。発起人は元副官であった門司親徳(海軍主計少佐)。命日である8月16日に除幕式が行われた。

遺書

特攻隊の英霊に曰す
善く戦ひたり深謝す
最後の勝利を信じつゝ肉
弾として散花せり然れ
共其の信念は遂に達
成し得ざるに至れり
吾死を以つて旧部下の
英霊と其の遺族に謝せ
んとす
次に一般青壮年に告ぐ
我が死にして軽挙は利
敵行為なるを思ひ
聖旨に副ひ奉り自
重忍苦するの誡とも
ならば幸なり
隠忍するとも日本人た
るの矜持を失う勿れ
諸士は国の宝なり
平時に処し猶お克く
特攻精神を堅持し
日本民族の福祉と世
界人類の和平の為
最善を尽せよ

海軍中将 大西瀧治郎
八月十六日

之でよし百万年の仮寝かな

「 之でよし百万年の仮寝かな 」は辞世の句

海鷲観音

大西 淑恵 婦人によって建立。
「故人は特攻隊に申し訳ないと言い残して自決したのですから、特攻で散華された方々をお祀りする観音様を故人の墓と並べて建立したい」との希望で建てられたもの。

海鷲観音
昭和27年9月彼岸 
施主 大西淑恵

大西瀧治郎君の碑

親友一同による「大西瀧治郎君の碑」がある。

いわく。
今や一身以て一艦を屠る特別攻撃法を敢行するの外救国の途なしと断じ進んでその任に当らんことを申出つ
君中宵沈思幾度か遂に血涙を呑んでその採用止むなきを進言し自ら特攻部隊の指揮官に任したり
朝に空母を沈め夕に戦艦を傷け連日の猛撃に敵陣色を失い恐慌甚だしきものあり
去り乍ら彼我物力の大差は如何ともすべからず遂に刀折れ矢尽き終戦の日を迎うるに到る君即ち我事ここに終れりと従容として古武士の法に遵い敬愛する特攻戦士の跡を追へり ・・・

大西瀧治郎君の碑
大西瀧治郎君は兵庫県芦田の産長して海軍に志し明治四十五年七月優秀の成績を以って兵学校を卒業す人と為り豪宕不屈進んで草創期の航空界に身を投じ険難を意とせす研鑽に精進する事数年その特性を体得するに及び将来我が国防の最大要素たるべきを痛感し海軍航空を急速に発展せしむる事こそ自己に課せられたる使命なりとし益々拮据精励特に要員教育訓練の基礎確立に力を到せり爾来累進して要職を歴任するの間軍政の府に在っては航空優先の施策実現に全力を傾注し熱誠倦むところを知らす又部隊を率いては率先垂範積極的指導に終始し士気の昴揚自ら風を為す大東亜戦争の初期海鷲よく太平洋の全域を掩□無敵の名を肆に到したるその因由素より多々あるへしと雖君等明達径行の士万難を排して精強部隊の育成に汲々として盡瘁したる多年の苦心に負うもの甚た大なるは信じて疑はさるところなり戦局漸く我に利あらす皇國の前途轉た暗□たるの秋果然至誠純忠なる青年将校等今や一身以て一艦を屠る特別攻撃法を敢行するの外救国の途なしと断じ進んでその任に当らんことを申出つ君中宵沈思幾度か遂に血涙を呑んでその採用止むなきを進言し自ら特攻部隊の指揮官に任したり朝に空母を沈め夕に戦艦を傷け連日の猛撃に敵陣色を失い恐慌甚だしきものあり去り乍ら彼我物力の大差は如何ともすべからず遂に刀折れ矢尽き終戦の日を迎うるに到る君即ち我事ここに終れりと従容として古武士の法に遵い敬愛する特攻戦士の跡を追へりその遺書に曰く青壮士諸氏は國の宝なり日本人の矜持を失う事なく民族の福祉と世界人類平和の為め最善を尽せと茲に偉人大西海軍中将が踏み来たりたる大道を追想しその高風を永く後毘に傳へんとす
昭和三十七年三月二十一日 親友一同


鶴見総持寺

大祖堂の裏にひろがる五院墓地(五院右1-1)に大西瀧治郎の墓がある。


宇垣纏墓

大西さんと宇垣さんと。

宇垣纏を偲ぶ

神風特別攻撃隊之魁甲飛十期之碑

児玉誉士夫墓

大西と縁が深かった児玉誉士夫は池上本門寺に墓がある。

そのほか、総持寺関連

航空神社(新橋・羽田)

平成29年撮影

新橋の航空会館(東京都港区新橋1-18-1) 屋上には「財団法人日本航空協会」(旧「帝国飛行協会」)が管理する航空神社が鎮座。
航空功労者や航空殉職者を祀る。
昭和6年8月1日創建。 現社殿は昭和58年8月25日竣工。

航空会館鎮座の航空神社の参拝可能日時は、月~土曜日の9:00~17 : 00が原則。9階から屋上フロアとなります。

9階には「御守」の頒布スペースもあります。
なお貸会議室が使用されている際は、ちょっと落ち着かない参拝環境になるかもしれません。
(貸会議室901室から屋上の航空神社がよく見えます・・・)

航空神社抄史
1.昭和6年8月1日、帝国飛行協会理事会にて航空神社創設を決議。
2.明治神宮造営残木を拝受。同年9月初起工、11月初竣工、11月7日、帝国飛行協会飛行館屋上に於いて新総裁梨本宮守正王殿下ご参列のもと靖国神社賀茂宮司斎主となり、盛大な鎮座祭執行。
合祀祭神 航空殉難者325柱、霊璽簿作成。
3.昭和19年~昭和27年 神社祭中断。
4.財団法人 日本航空協会発足により昭和28年 航空神社祭復活。
5.昭和38年度崇敬者総代会発足、航空功労者を合祀することとなる。
6.昭和38年7月、 羽田航空神社創建に伴う祭神分霊祭を挙行。
7.昭和49年9月20日 航空神社神霊を靖国神社境内「鎮霊社」に仮奉安のための遷座祭を執行後、仮奉安先の鎮霊社社前で合祀祭および恒例祭挙行。爾後57年まで8年間、鎮霊社社前で例祭挙行。
8.合祀祭神 航空殉難者、航空功労者を含め、霊璽簿総数6367柱。
9.昭和56年9月 靖国神社鎮霊社に於いて航空神社鎮座50年祭挙行。
10.昭和57年以降、航空神社に関する祭事はすべて航空神社奉賛会に移る。航空神社の祭祀を従来の祭神慰霊の神社から航空平安祈願祭の神社へと転換。
11.航空神社奉賛会が主導する募金活動ににより、昭和58年8月航空会館屋上に航空神社新社殿落成。同年8月25日、竣工祭並びに遷座祭挙行。
12.昭和59年度より毎月第一火曜日を月次祭の日(1月の新年祭は仕事始めの日)と定め、従来の9月20日を例大祭の日とし、毎回靖國神社神職の出張奉仕により、毎月航空平安祈願祭を行う、新たな航空神社奉斎方式を定める。
13.平成14年度より、月次祭を1月の新年祭と9月20日例大祭の奉仕とする。

昭和6年
チャールズ.A.リンドバーグ来日に際して帝国飛行協会(日本航空協会の前身)・飛行館に招待し白色有功章を授与。

昭和4年竣工の「旧・飛行館」建物基礎。

旧「飛行館」建物基礎木材
昭和4年6月竣工の旧「飛行館」建物基礎は長さ25m位、年輪50年程の米松の杭を先端にして地中に打ち込み埋設した。その間隔は半径50cm~80cmに1本と云ういわゆるベタ基礎で建物を支えていた。
航空会館建設に伴い、引き抜きを行ったが、数多く埋設されてあったため、除去には予想外の工期を要してしまった。除去した本数は800本。現建物の基礎工事に差し障りのない部分はそのままとなっているので、全体の数はいまだ不明のままである。
近隣の建物では東電旧館(現・東新ビル)、物産館(現・日比谷セントラルビル)の基礎も木柱であったが、いずれも旧「飛行館」よりは小ぶりであった。

昭和14年 日伊親善飛行記念品
イタリア首相ムッソリーニより贈られた記念品。

昭和14年 日伊親善飛行記念品
戦前のわが国航空技術水準の象徴として、軍官民の技術力を集結し開発した長距離機「三菱双発輸送機」”大和号”は、性能試験を兼ね昭和14年12月、東京‐ローマ両首都間往復29611粁を飛翔し日伊親善飛行に成功、その目的を果たした。
この彫刻は、当時のイタリア・ムッソリーニ首相から、大日本航空株式会社に贈られた記念品である。同社の終戦解散により、今日まで国際航業株式会社に保存されて来たが、歴史的記念品として当協会において保管することとなったものである。
昭和59年7月
 財団法人 日本航空協会

羽田航空神社

新橋「航空神社」の御分霊。
昭和38年(1963)7月11日に奉斎。 羽田空港第一ターミナルのJAL到着ロビーに鎮座している。 例大祭は5月20日。

ここ東京国際空港は昭和6年東京飛行場として発足以来紆余曲折を経て今日我国空の表玄関として運輸交通の発展のため重要な使命を果しております。
予てより我国航空界に携る人々の間において航空に最も縁の深いこの羽田の地に航空界発展の礎となられた諸々の御霊をお祀し今後の航空界の躍進と航空安全輸送の御加護を祈念したいとの気運があり、この度東京国際空港ターミナルビル増改築工事を機縁として空港全域を見守るに最も相応しいこの場所を神域と定め昭和38年7月11日財団法人日本航空協会の航空神社より御分霊を勧請し奉斎申し上げて羽田航空神社を建立致した次第であります
なお毎年5月20日を例大祭日と定め祭事を執り行います 
敬白

新橋と羽田の航空神社

http://www.aero.or.jp/jinjya/jinjya.html

飛行神社(京都府八幡市)

平成15年(2003年)撮影

2024年に再訪し、下記で記事を刷新しました


飛行神社

京都府八幡市、石清水八幡宮のお膝元に鎮座している航空関連の神社。
「日本の航空機の父」と称された二宮忠八が大正4年(1915)に航空受難者の霊を慰めるべく創建したことにはじまる。

航空安全祈願
飛行神社 縁起略記

鎮座 大正4年(1915)3月10日

主座祭神 饒速日命 天津神 古代の飛行神(中央社殿)
  祭神 航空殉難者諸神 (向かって右側社殿)
  祭神 薬祖神(向かって左側社殿)
  別社 常磐稲荷社

 当神社は明治24年(1891)4月29日に世界に誇るゴム動力プロペラ式飛行器の飛翔実験に成功した二宮忠八が、後進の航空殉難者の尊霊を慰めるべく崇め祀つた神社である。
 晩年自ら神職に就き昭和2年(1927)改修して朝夕航空安全祈願の奉仕をしたが、昭和11年(1936)に没した。
 昭和30年(1955)忠八の次男顕次郎が、再興にあたり「空は一つなり」の信条のもとに、あまねく全世界の航空先覚者並びに遭難者の霊を迎え祀り、今日に至っている。
 現在の本殿拝殿及び資料館、集会所は、忠八の飛行原理発見百周年記念に際し、平成元年(1989)に全面改築されたものである。
 平成12年9月
  京都八幡市土井四十四
   宗教法人 飛行神社         

零式艦上戦闘機の機首部

昭和58年10月下旬、大阪湾漁場において大阪府岸和田の漁師が、底引網操業中の漁網に、機首部がかかり、岸和田漁港に引き揚げられたものです。

15年以上前の参拝記録でした。再訪したいですね。

横須賀海軍航空隊と予科練誕生の地散策

平成28年6月撮影

位置関係

野島(掩体壕)
夏島(掩体壕・地下壕)
貝山(海軍航空発祥之地記念碑・甲種予科練鎮魂之碑・予科練誕生之碑)
位置関係。
日産工場が滑走路界隈。

USA-M46-A-7-2-50
1946年(昭21)02月15日‐米軍撮影写真を加工

現在の様子 Google航空写真

野島

シーサイドライン野島公園駅。野島後方には夏島が見える。

この夏島周辺が「横須賀海軍航空隊」(横空・追浜空)の展開されていた地区。
野島には横空の掩体壕があるのだ。 案内地図に記載ないけど。

遠くに見えるのが夏島。手前に滑走路が広がっており、野島とは橋で繋がれていた。現在、橋はない。

野島

野球場の右奥にフェンスと穴が。これが「野島掩体壕跡」。 この「野島の掩体壕」は野島山の東西を貫通し全長は260m。海軍小型機100機を格納する計画で、現存掩体壕の中でも国内最大規模とされている。

野島の掩体壕

 野島掩体壕は、横須賀市夏島町にあった旧横須賀海軍航空隊の戦闘機を空襲から守る施設として建設されました。
 この掩体壕は、標高約55メートルの野島山の東西をトンネル状に貫通しており、長さは約260メートル、両側に出入口があります。
 出入口の部分は、幅約20メートル、高さ約7メートルで、トンネル状にコンクリートが打設されており、中央部は、幅約10メートル、高さ8メートルで、素掘りの状態です。
 作業に当たった横須賀海軍の「第三〇〇設営隊戦時日誌」には、太平洋戦争末期の1945年(昭和20年)3月15日から6月30日までの掘削工事が進められていた記録が残されており、同時に掘削されていた夏島掩体壕とあわせて、海軍の小型機約い100機を格納する計画でしたが、終戦で実際に使用されることはありませんでした。
 通常の掩体壕は、戦闘機1機を格納する程度の大きさが一般的で、この野島掩体壕は、現存する掩体壕の中でも国内で最大規模と言われています。
 第三〇〇設営隊は、横須賀海軍施設部第一部隊を改編した部隊で、海軍の将兵に技術者を加えた精鋭部隊でした。日吉台(横浜市港北区)の旧日本海軍連合艦隊司令部地下壕や松代大本営地下壕(長野県松代町)などの建設にも加わっていました。
 平成22年3月 横浜市

野島掩体壕跡
正直、大きすぎて今まで見てきた「掩体壕」の概念では測りきれない。 だって通常の掩体壕は航空機1機ですよ。野島と夏島の掩体壕で100機ってねえ。 ちなみに出入口部分は幅約20m、高さ7m。

貫通しているので反対側にまわってみましょう。今度は海側から開口部を見てみます。

野島公園。
さて、野島の頂上に向かってみます。掩体壕が東西に横断してトンネルのように掘られた野島山の頂上には展望台が設けられています。

野島公園。
野島山の頂上より、夏島方面を望む。
横須賀海軍航空隊(横空)・追浜海軍航空隊の滑走路などは、この方面に展開していた。

野島から夏島を望む。夏島には貝塚もあり古代から人々の営みがあったことがわかる。
いまは工場地帯、ちょっと前は海軍航空隊基地・・・そう考えると変遷が感慨深く。

野島稲荷神社

野島稲荷神社。 野島総鎮守。

海軍よりも古くからの社。良い感じの稲荷様でしたのでちょっと見ていきましょう。
野島山南側鎮座。伏見稲荷系統。

安貞元年1227に阿波守長島維忠発願により子の修理佐頼勝が造立。
万治年間(1658~1660)野島浦南端に紀州大納言徳川頼宣公の別邸があり、これを塩風呂御殿と称した。 稲荷神社はちょうど塩風呂御殿の東北の方向にありそのため鬼門の守り神として頼宣公の篤い尊信を受け社殿造営にも力を尽くしたとされている。

手水に狐様がいらっしゃいます。 この手水舎の雰囲気、好きですねえ。

石段両脇にも狐様。これは良い稲荷様。

境内社は船玉社、他。船の守り神、航海往来の守り神。緑に覆われた岩山が垂直に切り立つ。

海軍航空基地近くの鎮守様。 往時の軍人たちもきっと参拝したであろうことを夢想しつつ拝するひととき。

伊藤博文金沢別邸

野島には「旧伊藤博文金沢別邸」がある。明治31年(1898)に建設された茅葺寄棟屋根の田舎風海浜別荘建築、とのことで。 東京からもほど近く、富岡金沢の地は明治期に海浜別荘地として人気だったそうで。

野島の「旧伊藤博文金沢別邸」。建物の老朽化が激しかったことから平成21年に復元修復工事が行われている。
野島も貝塚があり、古代から脈々と人々が営んでおり、こうして色々な歴史が交差しているのも興味深い。

貝山へ向かいます。
バスは磯子駅か追浜駅か田浦駅か。どれでも良さそう。
だいたい15分から20分に1本程度の輸送密度。

貝山緑地

現在は工場エリア。
この貝山緑地と夏島貝塚のみが異質な空間。

貝山緑地・夏島貝塚。
この西側、現在は日産の工場エリアには「横須賀海軍航空隊」「海軍航空技術廠」「追浜飛行場」「追浜海軍航空隊」が展開され「海軍航空発祥の地」となる。
ただし、今回の探訪は貝山緑地だけ。夏島は未訪問。

予科練誕生之地記念碑 甲飛鎮魂之碑 入口

このあたりは貝山地下壕も展開されていた。※非公開

追濱神社社号標

入口脇には「追濱神社」社号標が残る。
横須賀海軍航空隊・追浜海軍航空隊・追浜飛行場での犠牲者を祀る追濱神社がこの地にあった。

現在は追浜雷神社境内の「濱空神社」(横浜海軍航空隊神社)ともども祀られている。

横須賀海軍航空隊

もともとこの地は横須賀海軍航空隊の地。

追浜海軍航空隊が正式に制度上で展開される以前から、この部隊は追浜飛行場・追浜海軍航空隊と呼称しており、横空(横須賀海軍航空隊)と追浜空(追浜海軍航空隊)は同じ意味を持つ場合もある。 ややこしい。

「整備科航空予備学生」が昭和13年以降に横須賀海軍航空隊で展開。
その教育は追浜飛行場で実施。

開戦に伴い横空は遠距離哨戒任務に就き教育任務をする余裕がなくなった為、整備科航空予備学生教育は、独立した追浜空に機体整備、洲ノ埼空は兵器整備と分散。

横須賀海軍航空隊・横空
 ↓分遺
追浜海軍航空隊・追浜空
相模野海軍航空隊

横浜海軍航空隊・浜空

館山海軍航空隊・館空
↓分遺
洲ノ埼海軍航空隊・洲ノ埼空

予科練

海軍予科練習生は昭和5年に横須賀海軍航空隊に第一期生が入隊したことにはじまる。
昭和12年に甲種飛行予科練習生(甲飛)制度が創設され、従来の制度は乙種飛行予科練習生(乙飛)と改められた。

昭和14年3月1日に横空から霞ヶ浦海軍航空隊に予科練は移設。

予科練1期生から10期生までは横空。
11期生以降は霞空、そして13期以降は土浦空そのほかで大量採用となる。

予科練誕生之地

海軍予科練習生制度のはじまり。
霞ヶ浦湖畔にうつるまで、この横須賀追浜飛行場の地で若き海鷲たちは育っていったのだ。

予科練誕生之地

光る海 明るい太陽の下 大空をこよなく愛し国を想うひとすじの少年たちが溌剌としてここに溢れていた
昭和5年6月1日 横須賀海軍航空隊内の一隅に海軍少年航空兵の教育機関として横須賀海軍航空隊予科練習部が誕生し やがて予科練と愛称されるようになった
志願者の年齢は15歳から17歳 修業年限は3ヶ年 俊秀なる大空の有志は英才の早期教育に俟つとの観点に立ってこの制度は創設され全国5900余名の志願者から厳選された79名が第一期生としてここに入隊した
土浦 三重 鹿児島などのちには19を数えるに至った予科連航空隊の萌芽である
時局の進展につれて海に臨み山を負うこの地は狭小となって昭和14年3月霞ヶ浦湖畔に移り翌年独立して土浦海軍航空隊となった
予科練の歴史15年3ヶ月のうち実に8年9ヵ月はここ追浜の地で教育活動が行われたのである
そこで目指したものは鉄石の訓練をものともせず乾いた砂が水を吸いこむようにあらゆるものを純粋に受け入れて自らを育てていった 予科練を巣立った若人たちは飛行練習生教程 実用機練成教育と研鑚を重ねてたくましい若鷲と育ち太平洋戦争に於ては名実共に我が航空戦力の中核となり水陸の基地から航空母艦から戦艦巡洋艦或は潜水艦から飛び立ち相携えて無敵の空威を発揮したが戦局利あらず敵の我が本土に迫るや特別攻撃隊員となり名をも命をも惜しまず一機一艦必殺の体当たりを決行し何のためらいもなく無限の未来を秘めた蕾の花の生涯を祖国防衛の為に捧げてくれたのである
顧みれば少年たちは戦いを求めてこの地に集まったのではなく制空護国の一途の念いからであった
予科練誕生以来既に五十一星霜 若人たちの至純の赤心が祖国の安寧と世界平和の礎となることを祈念して旧学び舎の丘の上にこの碑を建つ

昭和56年6月1日
此の地に学んだ生存者一同
撰文 倉町秋次
書  鈴木忠正



予科練誕生之地

予科練とは海軍飛行予科練習生の略称にして海軍少年航空兵とも別称す。
昭和5年6月1日第一期生入隊以来、昭和14年2月第十期霞ヶ浦に移るまで、全国より運ばれたる少年此の地に集い学び此の地を巣立ちて日夜猛訓練の中に技倆を磨き、やがて日支事変勃発するや中国の空に第二次世界大戦においては南海の空にと、唯々国の為同胞の為にと信じて各地に
勇戦敢斗嚇々たる武勲を残してその大多数が大空に散華す。
我々不思議に命永らえたる生存者一同 、今は亡き同窓の英霊を偲びて、
思い出の此の地追浜神社跡に建碑す。
即ち予科練誕生之碑也。

昭和56年6月1日 
 予科練一期生より十期生まで生存者一同

貝山緑地「予科練誕生之地」の反対側。

海軍甲種飛行予科練習生 鎮魂之碑

桜に錨。
若き海鷲の飛び立つよすがを偲び。
敬意を。感謝と哀悼を。

頭を下げ、黙する。

海軍甲種飛行予科練習生
鎮魂之碑

碑文
昭和12年国際関係が悪化し国防が最重要視される頃、海軍では航空機の発達と共に、今までの大艦巨砲主義から航空機へと思考を変え、航空機搭乗員養成を急務とした。
高度な飛行技術と強靭な肉体を求められる搭乗員は、心身共に優秀な青少年を求めた。
ここに、甲飛即ち海軍甲種飛行予科練習生制度が誕生した。
昭和12年9月1日全国の中等学校から厳選された250名が第一期性として横須賀海軍航空隊に入隊した。
以後太平洋戦争の激化に伴い以後太平洋戦争の激化に伴い最終の第16期生まで13万9720名もの青少年たちが、国を護るために各地の航空隊の門をくぐった。
しかし、戦局の悪化により大空の果て、海原のそこに散った甲飛の御霊は、実に6778柱にのぼる。
その中の一人は次の歌を残して散華した。
血潮もて 茜と染むる 悔ゆるなし
 雲を墓標の 空の御楯は
私たちは国家危急の折、救国の大義に殉じられた多くの同窓の御霊の冥福を祈念するとともに、甲飛の歴史の伝承と我が国の永遠の平和を念願して私たちは国家危急の折、救国の大義に殉じられた多くの同窓の御霊の冥福を祈念するとともに、甲飛の歴史の伝承と我が国の永遠の平和を念願して、ここ甲飛発祥の地横須賀に、この碑を建立する。
平成9年11月2日 
甲飛生存者有志
遺族一般賛同者有志

「鎮魂之碑」の隣に移動してきた記念碑がある。

海軍航空発祥之地 記念碑

こちらは戦前(昭和12年)に作られた記念碑のため、より一層に格調高い。

海軍航空発祥之地 記念碑

明治四十五年 始メテ海軍航空術研究委員会組織セラレ 十月地ヲ追浜ニ卜シ 東西二百米 南北六百米ノ地積ヲ画シ 其ノ一隅ニ格納庫壱棟ヲ建設ス 即チ此ノ地ナリ
十一月二日 海軍大尉河野三吉 カーチス式水上機ヲ操縦シテ飛行ス 同六日 海軍大尉金子養三モ亦 ファルマン式水上機ヲ操縦シテ飛行ス
是実ニ帝国海軍飛行ノ嚆矢ナリ 今茲ニ 碑ヲ当時ノ格納庫ノ跡ニ建テ 以テ記念ト為スト言フ
昭和十二年十一月三日
横須賀海軍航空隊

海軍航空発祥之地 記念碑 案内  
 右に夏島 左に野島を望見し、海に向かって延びていた滑走路をほうふつさせるこの台地は、もと横須賀海軍航空隊の一部であり、ここには同隊の殉職者を祭った 追浜神社や気象観測所があった。
 1912年、 同隊において実施された「日本海軍の初飛行」を記念して、当初の碑は1937年、この台地の下、最古の飛行機格納庫跡に建てられたが、戦後破壊された。
 この碑は1956年、海空会によって再建されたものであるが、周辺の敷地一帯が国より株式会社ナブコに払い下げられたため、周辺の敷地一帯が国より株式会社ナブコに払い下げられたため、工場内に保存されることになった。
 戦後50年目の1995年、この碑は関係者により、公共の場所である現在地に移設復元された。

貝山緑地を登る。
頂上の展望台に行ってみましょう。

由来はわからないが、あんずが遊歩道の両脇に植えられおり、たわわに実を蓄えていた。 ※勝手な収穫は禁止されております。。。

貝山緑地頂上の展望台。
夏島方面は…樹木で視界が。追浜飛行場はこの方向に展開されておりました。

ハイカラな建物は横須賀市リサイクルプラザ・アイクル。
沖には海自の海洋観測艦「わかさ」が見えました。

貝山緑地。このあたりは海軍の砲台の跡地という。

地下壕もゴロゴロしているが非公開なので、見える範囲で往時を偲ぶ。 また周辺では海軍時代の建物が現在も民間にて使用されているが今回は時間都合で立ち寄らず。

追浜の雷神社

追浜の雷神社。 (いかづち神社・かみなり神社)

御祭神は火雷命 創建は承平元年(931)と伝承。
天正9年(1581)に現在地に遷座。

御神木を見上げれば、これは黄葉の季節に再訪したくなるほどに見事な銀杏。
朱色を軸にしたバランスが美しい。
良き空間。

先述したように追浜は横須賀海軍航空隊・海軍航空技術廠の地。

いわずもがなで海軍との縁も深い。
奉納された絵馬は海軍に関係する話題も多い。
(著作権的な観点からモザイク処理しました)

浜空神社

境内には「浜空神社(濱空神社)」が鎮座。

浜空とは横浜海軍航空隊。
横須賀海軍航空隊・追浜海軍航空隊の展開されていた当地に、わけあって浜空神社が遷座。

昭和13年に浜空犠牲者を祀る鳥船神社として横浜富岡に創建。
昭和56年に鳥船神社跡地に浜空神社を再建。
平成20年に維持困難となり追浜空関係者の尽力により遷座。追浜空犠牲者を合祀。

浜空に関しては、「 横浜海軍航空隊(浜空)と飛行艇の名残散策 」にて記載あり。

この界隈は、夏島と海軍航空技術廠の残存建物などが未訪問。
はやいところ訪れないと。
宿題です。