「人物史」カテゴリーアーカイブ

南西諸島海軍航空隊「巌部隊」本部陣地壕「寿山海軍壕」(沖縄戦跡慰霊巡拝11)

沖縄戦跡慰霊巡拝の記録「その11」となります。

その10は、下記にて。

2022年10月記録です

みたま安らかに


カテーラムイ(寿山)旧海軍壕

小緑駅の東側にある田原公園に。
海軍小禄飛行場(現在の那覇空港)を防衛するための海軍航空隊「巌部隊」(南西諸島海軍航空隊)の本部陣地が置かれた壕。

カテーラムイ(寿山)旧海軍壕
 海軍航空隊巌部隊の本部陣地壕。日本軍は、この地を寿山と称した。小緑飛行場防衛のため、小緑・豊見城一帯では、海軍少将大田実司令官の指揮下に連合陸戦部隊が編成され、多くの陣地壕が掘られた。その一つが本壕で、1944年8月から12月にかけて住民も動員して突貫工事で完成した。総延長は約350mで、その中に司令室・兵員室・暗号室などが設けられた。
 1945年6月4日、米軍は飛行場のある字鏡水に上陸、戦闘が始まった。6月7日、米軍はここカテーラムイ一帯に激しい攻撃を加え、数日で制圧した。壕内には最大1,000人余の将兵・住民がいた。南部への撤退、避難民、戦死者ともに不明であるが、8月段階でも約50人が壕内にとどまっていたいう。

開口部が2つ見える。

案内板のある開口部。

https://www.rekishi-archive.city.naha.okinawa.jp/spot/154

場所:

https://maps.app.goo.gl/FF7zfmyNRsF8hscn8


撮影:2022年10月


沖縄戦跡慰霊巡拝

「その12」へ

「沖縄県民斯ク戦ヘリ」沖縄方面根拠地隊司令官・大田実海軍中将と「海軍司令部壕」(沖縄戦跡慰霊巡拝10)

沖縄戦跡慰霊巡拝の記録「その10」となります。

その9は、下記にて。

2022年10月記録です

みたま安らかに


大田実(大田實)

最終階級は海軍中将。千葉県長生郡長柄町出身。
大田實生家前(生誕地)には「海軍中将大田実顕彰碑」が建立されている。
海兵41期。同期には草鹿龍之介、木村昌福、田中頼三などがいる。
大田実は海軍の陸戦隊の隊長として上海事変や二・二六事件などで活躍している。
太平洋戦に於いては、ミッドウェー島の上陸部隊の海軍指揮官(陸軍指揮官は一木清直)となるも、ミッドウェー海戦の敗北により上陸作戦は中止となった。
沖縄戦では、海軍先任者として、沖縄根拠地隊司令官として、約一万人の海軍陸戦部隊を指揮。沖縄本島の小緑半島を防衛するも、陸軍の南部撤退により海軍司令部は孤立し、部隊は玉砕。
大田實は豊見城の海軍壕で自決。

沖縄戦に際して、沖縄知事・島田叡とは戦闘の最中でも密接な連絡を取り合い、肝胆相照らす仲であったという。

大田海軍司令が最後に発した電報の冒頭にある「県知事より報告せらるべきも」「本職県知事の依頼を受けたるに非ざれども」の文言を添えたのも、本来民間人の苦労を伝えるのに最も相応しいのは、「県民に関して、殆ど顧みるに暇なかりき」と言った軍人からではなく、最後まで彼ら県民と共にあった島田県知事であるはずであるが、既に沖縄県庁の組織自体に通信能力が無く、やむを得ず大田が、行政官である島田に代わって県民の姿を伝えるという意思から綴られたものであった。

最後の電報は、1945年6月6日午後8時16分に、海軍次官多田武雄宛に発せられた。
玉砕決別電報の常套句であった「天皇陛下万歳」等の言葉はなく、ただただ沖縄県民の敢闘の伝えている電報であった。
 沖縄県民斯ク戦ヘリ
 県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ

1945年6月13日、海軍壕で自決。
死後、海軍中将に特別昇進。満54歳没。

辞世の句
 大君の
  御はたのもとに
   死してこそ
 人と生まれし
  甲斐ぞありけり


海軍戦没者慰霊之塔(海軍壕公園)

「旧海軍司令部壕」は、那覇市の南西、豊見城市の豊見城の小高い丘にある。
海軍戦没者慰霊之塔は、昭和33年(1958)の建立。

海軍戦没者慰霊之塔
野村吉三郎謹書

野村吉三郎は海軍大将・外交官。阿部内閣で外務大臣、第二次近衛内閣で駐米大使に任じられ、真珠湾攻撃まで日米交渉に奔走し戦争回避を模索。
戦後は日本ビクターの社長を経て、海上自衛隊の前身となる海上警備隊の創設に関わる。その後、参議院銀として政界人として活躍した。

旧海軍司令部壕
この壕は太平洋戦争中沖縄方面根拠地隊司令部のあった場所で昭和20年6月13日午前1時戦い利あらず遂に大田実司令官は
 大君の 御はたのもとに 死してこそ
 人と生まれし 甲斐ぞありけり
の辞世の句を残し将兵四千余名と共に壕内で壮烈な最期を遂げ太平洋戦争中最も悲惨を極めた沖縄戦における海軍部隊の組織的戦闘はここで終わった。鋤やつるはしで掘った壕には司令官室作戦室等があった当時の姿をしのび世界の恒久平和を祈念するにふさわしい戦跡でもある。

参加部隊名
沖縄方面根拠地隊
南西諸島航空隊(巌部隊)
第九五一航空隊 沖縄派遣隊(護部隊)
神風特別攻撃隊
佐世保軍需部那覇派遣隊
佐世保運輸部那覇派遣隊
佐世保工廠那覇派遣隊
沖縄海軍地方人事部
第二二六設営隊
第三二一〇設営隊
第三十七魚雷調整班
沖縄島連合陸戦隊
第二十七魚雷艇隊
第二蛟龍隊
第二一空廠派遣隊
震洋隊 第19 第22 第23 第26 第38 第41 第42

参加艦艇
軍艦 大和・矢矧・迅鯨
駆逐艦 磯風・雪風・濱風・初霜・朝霜・霞・冬月・涼月・沼風
潜水艦 伊号第8・伊号第44・伊号第56・伊号第361
    呂号第41・呂号第46・呂号第49・呂号第56・呂号第109
特務艦 杵崎
特設砲艦 長白山丸
敷設艦 廣島・鴎・燕
海防艦 第四十二号
輸送艦 第十八号・第158号
水雷艇 真鶴・友鶴
回天隊 多々良隊・天武隊・振武隊・轟隊・多聞隊・白龍隊
駆潜艇 海威
 昭和33年10月30日
 海軍軍人軍属生存者一同建立

沖縄戦に関係したすべての海軍部隊が明記されている。

南無阿弥陀仏

旧海軍いわお部隊
地域住民
戦没者之碑

特設陸戦隊第二大隊
第一中隊員之慰霊碑

海軍壕のある丘からの景観。はるかに海を望む。


旧海軍司令部壕・展示室

海軍壕公園ビジターセンターから展示室に。

https://kaigungou.ocvb.or.jp

大田実司令の最後の伝文。
沖縄県民に大きな感銘を与えた。

大田司令官の少将旗

旧海軍司令部號見取図
昭和19年8月着工、同年12月完成
第226設営隊(山根部隊3,000名)
司令官室、幕僚室、作戦室、通信室、暗号室、下士官室、信号室、その他

合掌


旧海軍司令部壕

下に


旧海軍司令部壕・信号室

この部屋からモールス信号などにより部隊間の通信を実施していた。


旧海軍司令部壕・作戦室

コンクリート漆喰でかためた当時のままの部屋。

作戦を練る重要な部屋でコンクリート漆喰で固めた当時のままの部屋です

当時の配電用碍子


旧海軍司令部壕・幕僚室

自決の手榴弾の弾痕が残っている。

合掌

みたまやすらかに

司令官室・作戦室に近いこの部屋は幕僚が手榴弾で自決した時の破片のあとがくっきり残っています。当時のままの部屋です。

自決された時の手榴弾の弾痕

なまなましい弾痕が残る。

合掌


旧海軍司令部壕・司令官室

司令官室で大田實と幕僚たちが自刃した。
みたまやすらかに。

大田実少将(当時)外幕僚6名が最期を遂げた当時のままの部屋です。

大田実司令官の辞世の句

 大君の
  御はたのもとに
   死してこそ
 人と生まれし
  甲斐ぞありけり

「大君の錦の御旗のもとに屍をさらしてこそ、日本に人と生まれて来た甲斐があるというものだ。」

この辞世の句は、寺田屋騒動の首謀者とされている幕末の志士・田中河内介(綏猷)の詩。大田実司令が愛唱していた。

大田司令の辞世の句は、フィルム保護がされていた。

神州不滅

神国である日本は不滅である

醜米覆滅

当時、戦闘中に記載された四文字は、かすれてきていた。「醜いアメリカを覆し滅ぼす」
この4文字に対しては、フォルム保護などが行われておらず、で。

観音菩薩様

やすらかに
 鎮まりませと 
  ひたすらに
願ひをこめし
 黄菊白菊

平和祈念
至心合掌

なお、施主に名を連ねている板垣愛子氏は大田司令官の3女。

沖縄県民はこのように戦いました

司令官室
大田司令官は県民の将来を憂い、「沖縄県民かく戦えり」の電文をこの部屋で書きました。

1945年6月6日20時16分
大田實海軍少将は自決する直前、沖縄司令部発、沖縄県民の献身的作戦協力を伝える電文を海軍次官宛に発信。
「沖縄県民斯ク戦ヘリ 県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」と結んだ。


旧海軍司令部壕・医療室


旧海軍司令部壕・発電室

壕掘り作業
この壕はすべて兵士たちの「つるはし」や「くわ」によって掘られた手作りの壕です。


旧海軍司令部壕・下士官室

下士官室
玉砕前この部屋には兵士達がいっぱいで、立ったままで睡眠や休息をとったといわれています。

下士官室復元図
当時の壕内には、国頭方面から運ばれてきた琉球松が、支柱として多数使われていました。


旧海軍司令部壕・出撃の出口

出撃風景(出口付近)
兵士たちのほとんどは武器らしい武器もなくこの出口から出撃、大半が二度と帰ってきませんでした。


旧海軍司令部壕・出口

頒布物

場所:

https://maps.app.goo.gl/jGcbK9fNwVuiDE5ZA


撮影:2022年10月


沖縄戦跡慰霊巡拝

「その11」へ

沖縄県庁最後の地「轟壕」と「沖縄の島守・島田彰沖縄県知事」(沖縄戦跡慰霊巡拝9)

沖縄戦跡慰霊巡拝の記録「その9」となります。

その8は、下記にて。

2022年10月記録です

みたま安らかに


「沖縄の島守」島田叡沖縄県知事

兵庫県神戸市須磨区出身。
1901年(明治34年)12月25日〜1945年(昭和20年)6月26日。
兵庫県立第二神戸中学校時代に第1回全国中等学校優勝野球大会(いわゆる夏の甲子園の第1回大会)に出場、東京帝国大学法学部)は野球部のスター選手でもあった。
野球殿堂博物館に建立された戦没野球人モニュメントも島田叡の名前が刻まれている。

当時、前任者の泉守紀沖縄県知事は頻繁に東京に出張していた。(在任期間の三分の一を出張で沖縄から離れていた)、1944年末から1月も東京に出張しており、そうして1945年1月に出張中にもかかわらず香川県知事に転任する辞令を得ており、米軍上陸直前で、後任の沖縄県知事選出が難航している状況であった。

その、沖縄がまさに激戦地になること必至の状況下の1945年1月、大阪府内政部長から、沖縄県最後の官選知事として、島田叡は死を覚悟で決然と沖縄に赴いた。

1944年10月の「十・十空襲」の被災につづき、住民を巻き込んだ国内唯一の地上戦が始まろうとする直前のことであった。

戦禍の中において県民を守るため、死を賭して尽力。五ヶ月に及ぶ苦難な戦下の沖縄で県政を先導し、献身的にしかも県民の立場で 疎開業務や食糧確保につとめ、多くの県民の命を救い「沖縄の島守」として慕われた。

1945年3月、空襲が始まり、沖縄県庁は、首里の地下壕に移転。以後、沖縄戦の選局の推移に伴い、壕を移転させながら、行政を担っていく。

6月7日ごろに、島田叡知事以下の県庁首脳部が「轟壕」に移動。
6月15日の夜、島田叡知事は県幹部・職員・警察官らを集めて県庁の活動停止を命令。そのため轟豪が「沖縄県庁最後の地」とも言われている。
島田知事と荒井沖縄県警察部長は、翌16日朝、摩文仁の司令部に移動。
6月26日、島田沖縄県知事と、荒井沖縄警察部長は、摩文仁の壕を出たきり消息不明となっており、現在まで遺体は発見されていない。享年43歳。最後まで、沖縄県民とともにあった「沖縄の島守」であった。

1945年7月9日、島田沖縄県知事の殉職の報に際し内務大臣は、行政史上初の内務大臣賞詞を贈り、「其ノ志、其ノ行動、真ニ官吏ノ亀鑑ト謂フベシ」と称えた。内務大臣が一知事に対し賞詞を授与することは、前例がなかった。

墓所は、多摩霊園。


沖縄県庁最後の地「轟壕」

島田叡沖縄県知事がこの地で、沖縄県庁の活動停止を発したことにより、沖縄県庁最後の地とされている。

轟壕
 轟壕は東西方向に伸びる自然洞穴で、地元ではトゥルルチ、またはトゥルルシなどと呼ばれています。
 1945年3月に米軍による空爆や艦砲による攻撃が始まると、真壁村名城の住民が避難しましたが、日本軍の南部撤退で司令部を摩文仁に移した5月末頃から、戦禍に追われた地域外からの住民も避難して来ました。
 6月7日頃に島田叡知事以下の県庁首脳部がこの壕に移動。15日の夜、知事は県幹部を集めて県庁の活動停止を命じており、沖縄県庁最後の地とも言われています。知事は16日朝、摩文仁の司令部に向かいました。同じ頃、銃剣などで武装した日本兵十数人が入り込み、入り口付近を占拠し、軍官民雑居の状態となりました。
 6月18日頃から米軍による、ガソリンや爆薬の入ったドラム缶を落とし込むなどの「馬乗り攻撃」が始まり、死傷者が出ました。手持ちの食糧が尽きた住民のなかには衰弱死する者も出ました。
 6月25日頃、先に米軍の捕虜となった宮城嗣吉さんらが投降呼びかけを再三行ったことから、約500人から600人の避難民は壕を出てきました。

戦没者犠牲者霊供養

合掌

自己責任で。

場所

https://maps.app.goo.gl/RgCtdKnSrNkY79167


島田叡氏顕彰碑

沖縄県最後の官選知事、沖縄戦で殉職した島田叡氏の顕彰碑が、「奥武山公園」に建立されている。
場所は異なるが、島田知事繋がりで掲載。

第27代 沖縄県知事
島田叡氏顕彰碑

《建立の詞》
 1945年1月、島田叡氏は風雲急を告げる沖縄に、大阪府内政部長から第27代県知事として赴任しました。その頃沖縄は、前年の「十・十空襲」の被災につづき、住民を巻き込んだ国内唯一の地上戦が始まろうとする直前でした。それは死を賭した「決断」の着任でした。
 以来、五か月に及ぶ戦時下の沖縄で県政を先導し、献身的にしかも県民の立場で疎開業務や食糧確保につとめ、多くの県民の命を救いました。
 最後の官選知事・島田叡は、沖縄戦で覚悟の最期を遂げ、摩文仁の「島守の塔」に荒井退造警察部長をはじめとする旧県庁殉職職員(469柱)とともに祀られています。沖縄県民からいまも「沖縄の島守」として慕われている所以です。享年43歳(兵庫県神戸市須磨区出身)
 また島田叡は、高校、大学野球でフェアプレーに徹した名選手でもありました。野球をこよなく愛し、すべてに全力を傾けるそのスポーツ精神は、県政の運営にも通底し、つながっていたと思われます。1964年に、故郷・兵庫県の「島田叡氏事跡顕彰会」から沖縄へ「島田杯」が贈られました。そのことが高校球児に甲子園の夢へ育み、大きな励みになりました。
 1972年、「本土復帰」の年に兵庫と沖縄両県は友愛提携を結び、兵庫県民からの寄贈「沖縄。兵庫友愛スポーツセンター」をはじめとするさまざまな交流事業を展開してきました。
 この島田叡知事のご縁でもたらされた兵庫・沖縄両県のこれまでの交流の歴史と絆は、私たち県民の誇りです。島田叡知事の心を表す「友愛の架け橋」は、これまでも、これからも沖縄県民に引き継がれ、次世代を担う若者たちにとって、大きな宝になるものと信じます。
 ここ沖縄県野球の聖地・奥武山にこの碑を建立し、県民のための県政を貫き、県民とともに歩み、沖縄の地に眠る島田叡氏の事蹟を顕彰すると同時に、併せて世界の恒久平和を心から祈念します。
  2015年6月吉日
   島田叡氏事跡顕彰期成会 会長 嘉数昇明
《碑の構想》
祈り(合掌)、命(ぬちどぅ宝)、平和(球、同心円)、希望(両手)、絆(友愛)

《至誠の人・島田叡の素顔》
「座右の銘・愛蔵書」
○「断而敢行鬼神避之」(『史記』李斯列伝より)
“断じて行えば鬼神もこれを避く”
 …意を決して敢然と行えば、鬼神でさえもその勢いを避ける…
○「西郷南洲翁遺訓」「葉隠」
(沖縄赴任に携行した愛蔵書)

「敢然と沖縄に赴任」
○「沖縄も日本の一県である。誰かが行かなければならない。断るわけにはいかんのや、誰か行って死んでくれとは言えない。」
○官尊民卑の時代、同胞意識を持つ知事
 米軍に制海空権を握られ、県外逃避や戦列離脱者が相次ぐ困難の状況下での赴任。
「沖縄の人も同胞じゃないか、同じ人間じゃないか…という気持ちがあった。そう考えていなければ、激戦地になることの必至のあの時期に沖縄にはこない」(元県庁職員の証言)

「極限の沖縄戦のなかで『生きろ!』」
○玉粋・自決という言葉が飛び交う戦場で、「最後は手を上げて(壕を)出るんだぞ…。生きのびて、沖縄再建のために尽くしなさい。」と戒める。

「花も実もある親心」
○「(戦争で)共に死ぬ運命共同体の意識の中で、県民を不憫に思い統制の酒、たばこの増配や村芝居を復活させた。それが島田叡知事の親心です。」(元県庁職員の証言)

《野球人・島田叡の球魂》
「スポーツ・敢闘精神」
○「劣勢としりつつも、なんとかならないかと知恵をしぼり、あくまでも全力を傾けベストを尽くす。これがスポーツ精神だ。叡さんは障害、それを実行した」(三高野球部球友の回想)

「俊足、強肩、巧打の花形選手」
○旧制第二神戸中学(現・県立兵庫高校)、第三高等学校(現・京都大学教養部) 東京帝国大学(現・東京大学)で野球部レギュラー/主将としてチームを牽引。東大三年時には三高の監督も務めた。精神的野球ではなく、頭とスピードでやる島田式科学野球を実践。常に本塁生還を目指した。
○野球殿堂博物館(東京ドーム)には、戦没野球人の一人としてその名が刻まれている。

「沖縄県高野連に贈られた島田杯」
○「島田さんとスポーツ精神とは生涯を通じて一貫したものである。この機会に…島田杯を沖縄の高校野球連盟に贈呈する」(昭和三九年兵庫県「島田叡氏事跡顕彰会」)
 さらに島田氏のご縁で、千葉県からも島田杯が贈られている。それらの優勝杯は、沖縄県高校野球の隆盛に寄与している。

「球場に島田知事の名前を」
○旧制三高時代の一年後輩で、野球部で二年間一緒だった東大教授/英文学者・中野好夫氏(沖縄資料センター設立者)は生前、沖縄戦で戦死した先輩を偲んでこう要望した。
 「将来、沖縄に野球場が出来るのなら、戦時中に住民のために奔走した故島田叡さんの名を祈念につけてもらえないだろうか」

南東側の碑文。島田の生誕の地・須磨と、終焉の地・糸満市摩文仁を詠んだ詩。「北へ」は沖縄戦では「ひめゆり学徒隊」の引率教官も務めた言語学者・仲宗根政善氏(1907~1995)の詩。「南へ」は島田と同じ神戸二中の後輩で詩人の竹中郁氏(1904~1982)の詩。また碑には母校神戸二中(現・県立兵庫高校)の校庭にあるユーカリの樹と摩文仁の海岸の写真が焼き付けられている。

詩碑《追憶の詩》
北へ(須磨・兵庫県)
 ふるさとの
 いや果てみんと
 摩文仁岳の
 巌に立ちし
 島守のかみ
  (詠人 仲宗根政善)

南へ(摩文仁・沖縄県)
 このグラウンド
 このユーカリプタス
 みな目の底に
 心の中に収めて
 島田叡は沖縄に赴いた
 一九四五年六月下浣
 摩文仁岳近くで
 かれもこれも砕け散った
  (詠人 竹中郁)

島田叡氏を縁とする深い絆
兵庫・沖縄友愛グランド

 沖縄がまさに激戦地になること必至の状況下の1945年1月、沖縄県最後の官選知事として、島田叡(あきら)は死を覚悟で決然と沖縄に赴いた。戦禍の中において県民を守るため、死を賭して尽力し、「沖縄の島守」として慕われる。最後は県民と運命をともにする。享年43歳(兵庫県神戸市須磨区出身)
 その島田叡知事の縁によりもたらされた至誠と信頼。そして尊敬を礎とする兵庫・沖縄の交流の歴史は、1972年「復帰の年」に締結された「兵庫・沖縄友愛提携」を機に一層深まり、数々の交流事業が展開された。
 かつてこの地には、兵庫県民から贈られた「兵庫・沖縄友愛スポーツセンター」があり、多くの若者・県民がスポーツやレクレーションを楽しんだ。
 このグラウンドは、スポーツをこよなく愛した島田叡知事が青少年の嬉戯する姿を思い描き、将来にわたって、なお一層の両県の「絆」が発展することを祈念して「兵庫・沖縄友愛グラウンド」と呼称するとともに、両県の「友愛の証」とする。
  2015年6月吉日  
  島田叡氏事跡顕彰期成会

兵庫・沖縄
友愛グランド

沖縄・兵庫友愛スポーツセンター跡地の碑

レリーフは、沖縄・兵庫両県の県花デイゴとのじぎくを図案化したものです。

 沖縄・兵庫友愛スポーツセンターは、日本復帰後の昭和50年(1975年)6月、兵庫県民から「友愛の証」として沖縄県に贈られた。
 そして、スポーツやレクリエーション活動の拠点として、沖縄県のスポーツの振興に寄与するとともに、兵庫県との友愛の象徴として中心的な役割を果たした。
 沖縄・兵庫両県の友愛の絆が、より深く恒常的なものとなることを祈念し、ここに記念碑を建立する。
 平成21年3月  沖縄県教育委員会

場所:

https://maps.app.goo.gl/ZrXC2YdMirwW6jVf7

撮影:2022年10月


島田叡墓所(多摩霊園)

多摩霊園の11−1−6に、島田彰の墓がある。

合掌

場所

https://maps.app.goo.gl/jqD7D5GueNDJSagy5

※多磨霊園の撮影のみ2025年9月


沖縄戦跡慰霊巡拝

「その10」へ

展示終了となる「ニューポール81E2(陸軍甲式一型練習機)」(リニューアル前の最期の展示・所沢航空発祥記念館)

所沢航空記念公園にある、所沢航空発祥記念館が2025年8月末でもって、長期休館、リニューアルを経て再開は2027年3月予定という。
平成5年の開館から30年以上経過したことから、今回の大規模なリニューアル工事を迎えることとなる。

http://tam-web.jsf.or.jp/

https://www.pref.saitama.lg.jp/a1105/news/page/news2025070801.html

リニューアルに伴い、展示を終える展示機もあるので、足を運んでみました。


所沢航空発祥記念館関連の過去記事


長期休館のお知らせ

長期休館のお知らせ
今年9月1日からリニューアル工事のため長期休館となります。
休館期間:2025年9月1日~2027年3月末(予定)
2027年春(予定)、さらに魅力をアップしてリニューアルオープンいたします。この夏、8月末までイベントもりだくさんで開館しております。ぜひご来館ください。
2025年7月吉日 所沢航空発祥記念館


休館前の写真スポット

今回のリニューアルに伴い役目を終える展示物にスポットを当てた写真撮影スポットです。その姿を思い出に残しましょう。
<今回のリニューアルで役目を終える主な展示物・展示機>
航空機(展示機)
・ニューポール81E2 (レプリカ)
・HU-1B(ベル204B)
・ハングライダー
・ウルトラライトプレーン

スペースウォーカーとかベルヌーイの研究室、とかは、特に終わると言われても食指は動かない。。。


ニューポール81E2 (レプリカ)

ニューポール機の展示が終了するのは、非常に残念。
終了に「レプリカ」とあるので、終わるのは「レプリカ」だけであって、もともと展示のきっかけとなった機体残骸はそのまま展示されるとは思われるけど。

展示終了で撤去となったのちに、本機がどうなるのかは2025年8月現在では不詳。。。

ニューポール機の展示は8月末で終了です。
これまでたくさん見学していただいてありがとう。

ニューポール81E2(甲式一型練習機)
1918年(大正7年)、陸軍がフランスから輸入したニューポール81E2練習機。
翌大正8年に来日したフォール大佐のフランス航空団の教材として所沢陸軍航空学校設立以来、活用された練習機。その後、国内でも三菱によって国産化されている。写真の機体はレプリカ機。
埼玉県が発注し、米国にてレプリカを作成、平成4年(1992)9月に完成し亜t。


岩田正夫のニューポール81E2

岩田正夫のニューポール81E2
埼玉県ときがわ町の慈光寺に保存されていた「ニューポール81E2」の残骸。都幾川村出身の民間飛行家であった岩田正夫が、郷土訪問飛行時に機体を破損させたために、そのまま村に寄贈した機体。

慈光寺の”ニューポール81E2”複葉機
ここに展示されている”ニューポール81E2”は、埼玉県比企郡都幾川村出身の民間飛行家、岩田正夫が1926(大正15)年に郷土訪問飛行を行った時のものである。玉川村都幾川の河原へ着陸した際、機体を破損したため、そのまま村へ寄贈され、以後この村にある慈光寺に、およそ70年間保存されていた。機体は腐食のやめエンジンと操縦室周辺、着陸装置などをのこすのみとなったため、往年の姿が残された設計図などを参考にレプリカとして再現された。

埼玉が生んだ民間飛行家、岩田正夫
岩田正夫は1901(明治34)年12月2日、埼玉県比企郡平村(都幾川村)の地主の三男として生まれた。東京府立豊島師範学校を卒業後、陸軍に入ったが、大正ロマンティスズムの影響を受け、北海道、樺太、朝鮮などを放浪、1925(大正14)年大空への飛行を志して日本飛行学校に入学し、三等操縦士となった。その後、代々木で行われた競技大会などで優勝し、1928(昭和3)年には一等飛行機操縦士免許を取得、台北ー立川ー札幌間の航空路を開発、フリーの民間航空家となる。この年、日本電報通信社航空部に入社した岩田は、行方不明になった同僚を捜索中、三重県松阪市吹井の浦海岸で墜落、殉職した。

父の慰霊をかねた郷土訪問飛行
1926(大正15)年8月13日、ちょうど新盆に当たるこの日、2度目の郷土訪問飛行のため、岩田は明覚村付近を流れる都幾川の河原に不時着を装って降りる計画をたてた。立川飛行場を飛び立って、恋人の住む明覚村に飛んできた正夫は、彼女の住む家の上空をハンカチを振りながら低く旋回し、そばの河原に着陸しようとした。しかし、盆の支度のため川に盆棚を洗いにきていた人々が飛行機を見て河原に集まってきたので、危険を避け隣の村の河原に着陸した。翌日、正夫は友人や村人たちのために航海飛行を行った。しかし、正夫の飛行ぶりに興奮した見物人たちが着陸を待ちきれず河原中央に押しかけ、それを避ける為に急上昇した時土手に機体を接触し機体の一部を壊してしまった為、機体を記念として村に寄贈した。

フランスから輸入された”ニューポール81E2”
”ニューポール81E2”は、1918(大正7)年、陸軍がフランスから輸入した練習機で、80式とともに前後の座席に操縦装置がついており、翌年から来日したフランス航空教育団の教材として、所沢陸軍飛行学校設立以来、甲式一型練習機として使用された。その後三菱で国産化され、57機が製作された。エンジンは、”ル・ローンC”空冷式回転星型(9気筒、80馬力)で、プロペラと共にエンジン全体が回転するものであった。機体はエンジンの取付部と操縦室周辺が金属製のフレームで構成され、そのほかの胴体と翼は木製のフレームにドープ油を塗った絹布が張られていた。


HU-1B(ベル204B)

同じく展示が終了するHU−1B
機体番号41547
屋内展示の綺麗な状態での「HU-1B」は本機だけであるが、今回のリニューアルで展示終了となり撤去されるという。


ウルトラライトプレーン・ハングライダー

この2機も、今回のリニューアルで撤去となる。


屋内展示機各種

リニューアル後にどのような展示になるかもあるので、なんとなくリニューアル前の状態を、特に熱意は込めずに気ままに撮影。
機体の細かい説明は省略。


2025夏の特別展(零戦とYS-11)

リニューアル前の最後の企画展。せっかくなので。

2025夏の特別展
時代を翔けた零戦、そしてYS-11
戦時中最も多く生産された国産戦闘機と戦後初めて生産された国産旅客機

YS-11は私の最も印象に残る仕事となった。課長で始めたこのプロジェクトを私は局長の時一八二機で打ち止めにした。今ではいろいろな評価があると思うが、戦時中私の目の前で勇戦したあの零戦の技術を何とか戦後の日本で生かしたいという私なりの気持ちがあって始めた日本初の旅客機だけに、この時は大いに悩みに悩んだ
 YS-11生みの親・赤澤璋一(戦艦比叡元乗組員、元通産官僚)「傘寿の記」平成12年刊より)

赤澤璋一は東京帝大を出て、商工省入省、海軍経理学校を経て、戦艦比叡に主計官として乗組。
主計中尉だった赤澤璋一は、ソロモン海戦で比叡沈没の際に、駆逐艦・雪風に引き上げられ九死に一生を得ている。

堀越二郎

赤澤璋一


過去の企画展ポスター


機体以外の、展示もおそらく大幅なリニューアルで変わることが予想されますので、それはそれで、記録しておきました。
随時、記事を展開時に参照できれば、です。

※2025年8月撮影

「全員玉砕せるものと認む」アッツ観音(保寿院・山梨)と山崎保代の墓(多磨霊園・東京)

毎年恒例の「河口湖(「河口湖自動車博物館・飛行舘」)」の往復で乗車している「富士急行線(富士山麓電気鉄道富士急行線)」。

そんな富士急行線「赤坂駅」すぐ近くに、「アッツ観音」があるというのを知ったのはつい最近。実は車窓からも見える、ことも知らなかった。
知ったからには、すぐさまに足を運びたくなり、そうして、8月の河口湖行きの復路に参拝をしていきました。


山崎保代(やまざき やすよ)

山崎 保代(やまざき やすよ)
1891年10月17日 – 1943年5月29日
最終階級は陸軍中将。
都留市の四日市場保寿院住職山崎玄洞の二男に生まれた。
太平洋戦争(大東亜戦争)中、山崎保代は北海守備第2地区隊長に任命され、アッツ島の戦いを指揮し17日間の激しい抗戦の後戦死した。

https://www.lib.city.tsuru.yamanashi.jp/contents/history/another/kingendai/yasuyo.htm


アッツ島の戦い

1942年6月7日以来「日本軍」が占領していたアッツ島を、「アメリカ軍」が奪還を目指して始まった戦い。
アメリカとしては、1812年に始まった米英戦争以来、131年ぶりにアメリカ領土を奪還する戦いとなった。
日本軍の守備兵力は2650名に対し、米軍は5倍以上の戦力を投入し、日本守備隊は激戦の末に全滅した。
アッツ島の戦いは、日本国内で初めて「玉砕」という表現で報じられた戦いであった。

昭和17年6月、ミッドウェー作戦(ML作戦)の支援を兼ねたアリューシャン作戦(AL作戦)が決行された。
6月8日、日本軍はアッツ島に上陸し占領。アッツ島を「熱田島」と命名した。なお、アッツ島には米軍は駐留していなかった。
侵攻に際しては、アッツ島は陸軍、キスカ島は海軍の担当であった。

昭和17年8月、キスカ島への守備強化を実施するために、アッツ島は放棄となったが、アメリカ軍の攻撃に際して、10月に方針を変更し、アッツ島の再占領を実施。

昭和18年2月、北太平洋方面の守備を見直し。
 北方軍司令部
  (司令官 樋口季一郎陸軍中将)
 北海守備隊
  (司令官 峯木十一郎陸軍少将 キスカ在)
 キスカ島を担当する第一地区隊
  (歩兵三コ大隊、地区隊長 佐藤政治陸軍大佐)
 アッツ島を担当する第二地区隊
  (歩兵一コ大隊、地区隊長 山崎保代陸軍大佐)

2月11日に山崎保代陸軍大佐が北海守備第2地区隊長に補職された。
3月27日にはアッツ島沖で「アッツ島沖海戦」が発生、日本軍の輸送船団はアッツ行きをやめて幌筵に撤退し、乗船していた山崎大佐もアッツ島に着任できなかった。
山崎大佐は潜水艦に乗り換え、4月18日にアッツ島に上陸。

1943年5月12日、戦艦3隻を擁するアメリカ太平洋艦隊の支援下、第7歩兵師団の15,000名のアメリカ軍が上陸を開始した。

山崎保代北海守備第2地区隊長は、アッツ島の戦いで、2,650名の守備隊を指揮し水際防御ではなく、のちのペリリュー島の戦いや硫黄島の戦いと同じく敵を島の内部や高地に引き込む戦略を採用し陣地を構築。

1943年5月29日、過酷な戦闘が繰り広げられ、17日間の激闘のすえ、最後の突撃にて守備部隊は壊滅し、戦闘で指揮していた山崎保代も戦死し、アッツ島守備隊は玉砕した。

大本営発表(昭和18年5月30日17時付)
アッツ島守備部隊は5月12日以来極めて困難なる状況下に寡兵よく優勢なる敵兵に対し血戦継続中のところ、5月29日夜、敵主力部隊に対し最後の鉄槌を下し皇軍の神髄を発揮せんと決し、全力を挙げて壮烈なる攻撃を敢行せり。
爾後通信は全く途絶、全員玉砕せるものと認む。
傷病者にして攻撃に参加し得ざる者は、之に先立ち悉く自決せり。
我が守備部隊は2500名にして、部隊長は陸軍大佐山崎保世なり。
敵は特種優秀装備の約2万にして5月28日までに与えたる損害6000を下らず。

山崎保代は、死後2階級特進し、陸軍中将に進級している。
享年51歳。

なお、大本営発表として「玉砕」と発表されたのは、「アッツ島の戦い」が最初であるが、以後は「総員壮烈なる戦死」と発表されている。


アッツ観音

戦後全国のアッツ島戦没者遺族と地域の人々によって、勇士の菩提を弔い、かつ、世界平和を願って、昭和29年5月19日、父親の山崎玄洞により生家の保寿院境内に「アッツ観音」が建立される。
1994年(平成6年)には、追悼の石碑も建立される。

部隊の長として遠く不毛に入り
骨を北海の戦野に埋む 
眞の本懐に存じ候えや
護國の神霊として悠久の大義に生く 
快える哉
 山崎大佐

山崎保代は当山十七世玄洞和尚の次男として明治二十四年十月十七日生を享く
長じて陸軍に身を捧し 大東亜戦争北方の要衝アッツ島守備部隊の長として出陣
その折上野甲子氏に碑面の遺書を託した 
昭和十八年五月二十九日 二千六百三十八勇士と共に北海の孤島に於いて 世界平和と祖国の安泰を祈念しつつ玉砕した
その功により陸軍中将に任ぜられる
 平成六年仲秋
  当山二十世洞岳明三敬建

台座は、アッツ島をイメージしているという。

合掌

富士山を背に、アッツ島の方角を向く「アッツ観音」

富士急行線のすぐとなり。


保寿院

曹洞宗
山号は岩生山
都留七福神の大黒天
アッツ観音霊場
アッツ島の守備隊長・山崎保代の生家

車窓からも見えます。

場所:

https://maps.app.goo.gl/E6qfMkZ4jdMD8cu36


山崎保代の墓

多磨霊園の山崎保代の「山崎家之墓」がある。
多磨霊園19地区1種2側

山崎家之墓

従四位勲二等功三級
陸軍中将 山崎保代 
 昭和18年5月29日
  アッツ島・戦死・53歳

だいぶ昔に、多磨霊園の山崎保代の墓に詣でていました。

https://maps.app.goo.gl/SY8QD1FTT9tm2UiS7

※2016年2月撮影


アッツ島玉砕・藤田嗣治(東京国立近代美術館)

東京国立近代美術館に「アッツ島玉砕」(藤田嗣治)が収蔵されている。ちょうど、特別展もやっていたので、作品を見ておきたく、こちらも足を運んでみました。

東京国立近代美術館
2025年夏の特別展
コレクションを中心とした特集 記録をひらく 記憶をつむぐ

https://www.momat.go.jp/exhibitions/563

この特別展にて、「アッツ島玉砕」が掲示されていたので、以下に記録。

「アッツ島玉砕」(藤田嗣治)

写真では絵画ならではの迫力も凄惨も伝わらないが。

戦争画(戦争記録画)の代表作として著名

藤田嗣治
アッツ島玉砕

1943 作戦記録画
1943年5月29日、アリューシャン列島のアッツ島で、アメリカ軍の攻撃により日本の守備隊が全滅した出来事が、敵味方入り乱れる死闘図として描かれています。全滅は「玉砕」という言い方で美化され、国に殉じる行為が軍人の鑑であると報じられたため、藤田の絵は陰惨な図柄であるにもかかわらず、観衆に熱狂的に受け入れられました。同年9月の国民総力決戦美術展に展示された際には、作品の前に賽銭箱が置かれ、脇には藤田自身が直立し、観客が賽銭を入れると藤田がお辞儀をしたというエピソードもあります(野見山暁治「四百字のデッサン」河出書房新社、1978年)。ここで作品は単なる記録を超え、追悼と「仇討ち」の気分を醸成するための機能を果たしました。その気分の醸成には、報道や文学、絵本、歌などのメディア・ミックスがあったことも見逃せません。

https://www.momat.go.jp/collection/x00120

「写真週報」276号
昭和18(1943)年6月16日

アジア歴史資料センターより

https://www.jacar.archives.go.jp/das/meta/A06031087100

https://www.digital.archives.go.jp/das/image/M2006070420550957726

同特別展では、
「アッツ島爆撃」という作品も掲示されていた。

※2025年8月撮影


関連

山崎保代の上官にあたるのが、北方軍司令部(北部軍司令部)の司令官であった樋口季一郎。

富士急行線の目的は、、、

杉野中尉殉難遺蹟の碑(荒川区東尾久)

都電荒川線の熊野前停留所のちかくにある「はっぴーもーる熊野前商店街」
商店街の只中に、異色な空間がある。
そそり立つ石碑には「杉野中尉殉難遺蹟」とあった。


杉野中尉殉難遺蹟

熊野前商店街防災スポットにある石碑。
かつては、稲荷社と飛行機オブジェもあったというが、防災スポットとして整備された際に、それらは無くなり現在のようなすっきりした空間となったようだ。
荒川区のサイトの写真は、再整備前のもの。

https://www.city.arakawa.tokyo.jp/a022/shisetsuannai/jinja/ogu001.html

航空界初期の事故
わが国の初飛行は、明治43年(1910)のことで、徳川好敏大尉が代々木練兵場で高度70メートルで約3,000メートルの距離を飛んでいる。それから7年後にして尊い犠牲が生まれた。
陸軍工兵中尉杉野治義(27歳)が、陸軍野外飛行で下志津から高度500メートルで所沢へ帰航中、突風に襲われて尾久村の水田に墜落したのである。
大正6年(1917)3月25日、午前11時40分のできごとであった。
荒川区教育委員会

杉野治義中尉(陸軍工兵中尉)は大正6年3月25日午前11時45分、千葉の下志津から所沢飛行場へ、フランスから輸入した複葉モーリス・ファルマン2号機で高度500メートルで帰航中、突風に翼を折られ機体がバラバラになって尾久村(当時)の水田に墜落、殉職している。
翌年の大正7年に一周忌に、帝国在郷軍人会尾久村分会によって殉職遺跡碑が建てられた。

航空黎明期の事故であった。

合掌

ちなみに、近くには、「東京初空襲の地」もある。

場所

https://maps.app.goo.gl/6SFF5VkDcpk6d7vo6

撮影:2024年8月


関連

中島知久平と呑龍(太田の戦跡散策2・金山城址と呑龍工場、太田大空襲)

「日本の飛行機王」
東洋一の中島飛行機を創業した中島知久平。
その出生の地・群馬県新田郡尾島町には、中島知久平の立像と旧宅、墓がある。
同じ太田市内には、中島飛行機のDNAを受け継ぐSUBARU(富士重工)工場もあり、そして、太田市の中心部にそびえる金山(太田金山)の金山城址に中島知久平胸像があった。

本編は、その2です。


中島知久平

中島 知久平(なかじま ちくへい)
明治17年(1884年)1月11日 – 昭和24年(1949年)10月29日)65歳没。
海軍軍人(海軍大尉)、のち実業家・政治家。
中島飛行機(のちの富士重工業・SUBARU)創始者。

多くは、下記に記載。


中島知久平先生像(金山城址)

中島知久平先生像

昭和39年の建立。
裏面の顕彰碑文は、元陸軍大将井上幾太郎の撰並書となっている。

撰文の井上幾太郎は、初代陸軍航空部本部長。1933年3月には予備役に編入されるも、長命で、1965年に93歳で没している。

 中島知久平先生ハ、明治17年1月17日群馬県尾島町押切ノ徳望家中島粂吉翁ノ長男トシテ出生ス。同36年、海軍機関学校ヲ経テ海軍大学ニオイテ航空機ノ研究ニ着手、卒業後ハ海軍工廠造兵部ノ飛行機工場長トナリ、海軍機第一号機ヲハジメ各種ノ航空機ヲ創案制作セリ、ソノ後欧米ノ航空界ヲ視察シ民営ノ航空機工業ハ必要性ヲ提唱スルトトモニ、大正6年自ラ海軍ヲ退官シテ郷里群馬県太田町ニ中島飛行機製作所ヲ創立ス。コレワガ国航空機生産会社ノ嚆矢ニシテ、同社ハ後日世界最大規模ヲ有スル中島飛行機株式会社ニ発展シ、約20年間ニ亘リ、陸海軍民各方面ノ要望ニ応エ多数ノ優秀ナル航空機ヲ生産シ、ワガ国航空機工業ノ絶大ナル貢献ヲモタラシタリ。
 先生ハマタ偉大ナル経世ノ抱負ヲ実現スルタメ昭和5年政界ニ入リ鉄道大臣、商工大臣、軍需大臣等ヲ歴任シ、コノ間選ベシテ政友会総裁ニ就任スルナド、ソノ輝シキ業績ハ飛行機王ノ名トトモニ今ナヲ高ク評価セラル。
 昭和24年10月29日、享年66歳ヲモツテ惜シマレツツ逝去ス、ココニ中島飛行機関係者有志ノ発起ニヨリ、事業発祥ノ地ヲ選ビ記念像ヲ建設シ、先生ノ偉業ヲ永ク後世ニ伝エントスルモノナリ。

 昭和39年2月 
  元陸軍大将 井上幾太郎 撰並書

太田市内を見渡す金山の山頂に鎮座。いまも眼下に中島飛行機を受け継ぐSUBARUの工場群を眺望している。

https://maps.app.goo.gl/2K7H2G5PDEtBp6gAA


金山城(日本百名城)

山頂を中心として金山全山にその縄張りが及ぶ金山城跡は昭和9年(1934)に国の史跡指定となっている。天守閣が設けられる時代よりも古い設計で石垣が多用された山城。

標高239mの金山山頂の実城(みじょう)を中心に、四方に延びる尾根上を造成、曲輪とし、これを堀切・土塁などで固く守った戦国時代の山城。
特筆されるのは、石垣や石敷きが多用されていることで、従来、戦国時代の関東の山城に本格的な石垣はないとされた城郭史の定説が金山城跡の発掘調査で覆された。主な曲輪群は実城・西城・北城(坂中・北曲輪)・八王子山ノ砦の4箇所。山麓にも、城主や家臣団の館・屋敷があったと考えられ、根小屋(城下)を形成していたと見られる。

https://www.city.ota.gunma.jp/page/4140.html

新田神社

太田金山山頂に鎮座する神社。明治六年の創建。新田義貞公を祀り「初志貫徹」の神様として崇敬されている。
なお、創建にあたっては、由良系新田家が尽力している。その際に岩松系新田家は排除されたが、のちに岩松系新田家が新田氏嫡流として華族となった。

https://www.ota-kanko.jp/spot/spot02/%E6%96%B0%E7%94%B0%E7%A5%9E%E7%A4%BE/

弾丸があった。

御腰掛石が並んでいる。
 大正天皇  明治25年10月17日
 秩父宮殿下 明治42年11月7日
 昭和天皇  明治42年11月7日
 高松宮殿下 大正4年11月7日
 三笠宮殿下 大正14年10月26日

金山城の石垣。関東地方では珍しい石垣の山城。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-R256-No1-32
昭和22年(1947年)10月30日、米軍撮影の航空写真。

拡大加工。

ファイル:USA-M606-48
昭和22年(1947年)10月27日、米軍撮影の航空写真。

拡大加工。


呑龍

中島知久平(海軍機関大尉)が、生まれ故郷の尾島に、大正6年(1917)5月に「飛行機研究所」を創業。
同年12月に正式に海軍を退官し、民間会社として「飛行機研究所」を尾島から金山南麓の「大光院・呑龍さま」の隣接地に移転。民間会社としての中島飛行機の発祥の地は、すなわち今のSUBARUの発祥の地でもある。

中島飛行機が開発したキ49・100式重爆撃機「呑龍」の愛称は、江戸時代の浄土宗の僧「呑龍」の名前であり、中島知久平の地元の大光院の通称「呑龍さま」から命名された。


中島飛行機呑龍工場

太田金山の南麓には、「中島飛行機呑龍工場」があった。現在の「SUBARU群馬製作所北工場」。

旧中島飛行機(株)呑龍工場と中島知久平
 眼前の工場は大正6年(1917)12月10日、飛行機王中島知久平が尾島から飛行機研究所をここに移し、9名程の同士と創業し、中島飛行機製作所と改める、後の富士重工業(株)群馬製作所の発祥の地である。
 ここで製造された中島の出世機「中島式四型6号機」は、大正8年10月の第1回懸賞郵便飛行競技大会で優勝し中島飛行機の名声を一気に高めた。
 太田市街の東端に新工場が完成してからは、ここは呑龍工場(現北工場)と呼ばれた。
 創業者中島知久平は明治17年(1884)1月17日、尾島町押切で農家の長男として出生。海軍機関学校を卒業し海軍機関大尉まで昇進したが、民間での飛行機製造を志して退役、中島飛行機の創立と経営に当った。
 昭和5年(1930)2月、衆議院議員に当選し政友会総裁、商工政務次官、鉄道大臣(後に商工大臣)などを歴任した。同24年(1949)10月29日、脳溢血で急逝、多摩霊園及び押切の徳性寺に眠る。
行年六十六。
法名は知空院殿久遠成道大居士
 太田市観光協会
 平成21年(2009)3月

右手に呑龍工場と、左手には大光院「呑龍さま」。

呑龍公園

金山からの眺望。呑龍工場と太田工場を望む。


子育呑龍上人の大光院「呑龍さま」

義重山大光院新田寺。浄土宗寺院。
通称「子育て呑龍」「呑龍様」。
東上州三十三観音特別札所、群馬七福神の弁財天。

慶長16年(1611年)3月、徳川家康は徳川一族の繁栄と天下泰平、さらにご先祖の新田義重の追善供養のため菩提寺を建立する計画を立てた。
家康は、芝増上寺の観智国師に相談し、菩提寺建立の適地として太田金山南麓が選ばれた。 そして、観智国師の門弟で四哲の一人といわれる呑龍上人が招聘され創建された。


戦歿者慰霊碑(大光院)

大光院の境内にある戦歿者慰霊碑。

 太田市は西南の役から第二次世界大戦にいたる幾多の戦役により二千余柱の戦没者及び戦災被爆者の尊い犠牲がありました。
 中央の慰霊碑は昭和二十八年に建立され。当時の戦没者が刻まれております。しかし、その後合併した地区等の戦没者及び戦災被爆者は刻まれておりませんので今般英霊にこたえる会及び太田市遺族会のご尽力並びに関係各位のご理解ご協力により、その後合併した地区等を含めた戦没者及び戦災被爆者の慰霊碑2基を建立し、今日の太田市繁栄の礎となられた御霊に対し、尊崇と感謝の意を表するものであります。
 昭和56年3月吉日 
  太田市長 戸澤久夫

慰霊碑(中央)

中央の慰霊碑の裏面

維時昭和28年9月23日太田市出身殉国英霊ニ白ス
諸士等身ヲ君国ニ捧ゲ終ニ異境ノ花ト散ル 
其ノ忠烈ハ永ク責史ヲ◯シ英魂長ヘニ国家ノ柱礎タリ
茲ニ平和回復ハ年ヲ迎へ太田市遺族会並ビニ有志一同碑ヲ建チ衷心諸士ガ英魂ヲ慰ム
希クハ英霊神力ヲ増上シ長ヘニ護国ノ霊威ヲ加ヘンコトエヲ
 鈴木霊海撰
 昭和28年9月23日
  太田市慰霊碑建設委員会建之

皇紀二千六百年記念

昭和15年2月11日 太田各町有志

慈愛の鐘。
もとの鐘は、戦争中に供出。昭和31年に再鋳造。

場所

https://maps.app.goo.gl/Nh7SL6j9Qbqm5Ezz9


中島飛行機太田製作所
(SUBARU 群馬製作所本工場)

中島飛行機太田製作所は、現在のSUBARU群馬製作所本工場。

昭和9年(1934)11月に太田に新しい機体組み立て工場を設け、「太田工場」として稼働。従来から旧太田工場は「呑龍工場」と改称。
昭和12年(1937)に、太田工場を太田製作所に改称。
昭和15年に海軍機専用の組立工場として「小泉製作所」が開設すると太田製作所は陸軍機専用の組み立て工場となる。

中島飛行機が創業以来終戦までに製作した機種は民間機21種、陸軍機40種、海軍機65種の計126種で、総生産機数は2万5935機に及んだ。
工場は分散され、太田工場では陸軍機1万2334機、海軍機3003機、民間機74機の計1万5411機を生産したとされている。

https://maps.app.goo.gl/XcvjyCGiYnFcELiT6


中島飛行機太田製作所付属太田病院
(太田記念病院)

昭和13年に、中島飛行機太田製作所付属太田病院として開設するも昭和20年の終戦とともに病院閉鎖。
昭和21年に旧中島飛行機の八幡寮を改修して富士産業太田健康保険組合病院として、現在の八幡町で、戦争の災禍にあった太田地域住民のために開設。
平成24年に八幡町から現在の大島町に移転している。
現在は、株式会社SUBARUの健康保険組合病院。

https://maps.app.goo.gl/ouZrsiRwQX1CvrVZ8


太田大空襲

中島飛行機を有する太田市は、米軍の攻撃目標となり、終戦まで7回の空襲に見舞われた。
昭和20年2月10日の最初の空襲では、B29が約90機飛来し、午後3時過ぎから爆弾約750発、焼夷弾約200発を投下。
1時間ほどで太田製作所は、工場の東側が壊滅的な被害を受けた。周辺の学校や民家なども巻き込まれ、中島飛行機の工員を中心に死者約160人、けが人約280人、被災者は約2500人にのぼった。
2月10日の空襲のあと、立て続けに2月16日、2月25日も空襲され、中島飛行機の太田製作所、小泉製作所や太田飛行場などが次々と空襲で破壊された。そうして、太田と周辺は終戦間際の8月14日まで計7回の空襲に遭い、計約250人が亡くなったとされている。


太田市戦災被爆者慰霊記念の碑

太田中央公園内に。

太田市戦災被爆者慰霊記念の碑
 太田市長 戸澤久夫書

安らかに
この国の永遠の
平和を祈念して
 建設大臣
  長谷川四郎書

趣意書
 わが太田市は、太平洋戦争の末期、昭和二十年二月十日、二月十六日、二月二十五日、四月四日、七月二十八日、八月十四日と数度にわたって、はげしい空襲に見舞われその度毎に数多くの死傷者が続出したが、現在の太田市在住の遺家族数は、五十五家族、その被爆犠牲者は壱百弐名に及んでいる。
 ところで、戦後における国の援護の実状は、民間の被爆犠牲者には、その処遇も行われないまま、すでに三十有余年の年月を経てきたのである。そのため、本市鳥山に存在する大越福は、昭和四十五年十二月、太田市戦災被爆者遺家族の会を結成し、その会長となって 私財を投じて国会等に対し、強力な陳情活動を続けたのである。時あたかも今年昭和五十二年は、被爆犠牲者の三十三回忌にあたり、市当局並びに市民各層の協力のもと太田市戦災被爆者慰霊祈念の碑の建設となったのである。
 このことは、この国の永遠の平和をこいねがう被爆遺家族のせめてものねがいでもあり、こゝに記してその由来とする所以である。
 昭和五十二年八月十日
  広田良撰文

https://maps.app.goo.gl/gSpNU4H8tDvxPued9


大田駅

ちなみに、市内散策には太田市のレンタサイクルを活用しています。

※撮影:2024年1月

その3に続く。


中島飛行機関連

はじめに

ソメイヨシノの原木候補?「上野公園の小松宮彰仁親王像周辺の桜」

ウソかホントかは不詳ではあるが、上野公園の染井吉野(ソメイヨシノ)が、原木との説がある。


ソメイヨシノの原木候補?

桜は一週間くらいで一斉に咲いて一斉に散るイメージがあるが、これは桜の代表格であるソメイヨシノが、親木から接ぎ木などで増殖したクローンのために、同じように開花するという。
そして、上野公園の小松宮彰仁親王像近くのソメイヨシノが、「第一世代となる親木では?」という発表があり、この場所には4本のソメイヨシノから全国に広まったと考察されている。そして、このうちの1本がソメイヨシノの元祖となる原木に最も近い世代ともされている。

https://news.mynavi.jp/techplus/article/20220325-2302935/

https://www.tokyo-np.co.jp/article/168025

https://corp.fugetsudo-ueno.co.jp/history/detail/id=1224

https://withnews.jp/article/f0150416003qq000000000000000G0010701qq000011854A

ソメイヨシノの原木?


小松宮彰仁親王銅像

小松宮彰仁親王
1846年2月11日〈弘化3年1月16日〉 – 1903年〈明治36年〉2月18日)
日本の皇族、陸軍軍人。官位は元帥陸軍大将大勲位功二級。伏見宮邦家親王第8王子。
明治維新では、王政復古とともに議定・征討大将軍となり、のち陸軍大将・近衛師団長・参謀総長を歴任し、元帥の称号を授けられた。
日本赤十字社初代名誉総裁でもある。

小松宮彰仁親王銅像
  台東区上野公園八番
 彰仁親王は伏見宮邦家親王第8王子。安政5年(1858)京都仁和寺に入って純仁法親王と称し、慶応3年(1867)勅命により22歳で還俗、東伏見宮嘉彰と改称した。同4年1月の鳥羽・伏見の戦いに、征東大将軍として参戦。ついで会津征討越後口総督になり、戊辰戦争に従軍した。
 明治10年5月、西南戦争の負傷者救護団体として、博愛社が創立されると、9月その総長に就任した。 同15年には、小松宮彰仁親王と改称。同20年、博愛社が日本赤十字社と改名すると、総裁として赤十字活動の発展に貢献した。同36年1月18日、58歳で没。
 銅像は明治45年2月に建てられ、同3月18日、除幕式が挙行された。作者は文展審査員の大熊氏廣。「下谷區史」は当地に建てた理由について、寛永寺最後の門跡・輪王寺宮公現法親王(のちの北白川宮能久親王)の兄宮であったことに因んだのだろうと推察している。
 平成八年7月
  台東区教育委員会


コマツオトメ(小松乙女)

コマツオトメ(小松乙女)
 原木は上野恩賜公園内の小松宮彰仁親王銅像の近くにあり、、エドヒガンの雑種で、西田尚道氏がこの木を新品種とすることを提唱しました。
 小松宮銅像から「小松」の名をとり、また可愛らしく美しいことから「小松乙女」と命名されました。
 上野恩賜公園のシンボルの桜として大切に育てられています。
 東京都東部公園緑地事務所・上野桜守の会

撮影:2017年4月、2024年4月


上野公園関連

伊藤整一提督手植えの「父子桜」(杉並区大宮)

一億総特攻の魁となった「戦艦・大和」と、「司令長官・伊藤整一」
伊藤整一提督が、杉並の自宅の庭に手植えをしたという桜は、樹齢80年を超え、今も見事な桜を咲かしている。


坊ノ岬海戦

昭和20年4月6日、沖縄へ海上特攻として出撃した、世界一の大戦艦「大和」。
「大和」は、米軍機との激しい戦闘を繰り広げ、大和は轟沈した。
大和海上特攻を指揮した司令長官が、伊藤整一であった。

昭和20年4月7日14時23分。
大日本帝国海軍の栄光を担った戦艦「大和」。
象徴でもあった戦艦「大和」
一億総特攻の魁として、坊ノ岬沖に散華した。

第二艦隊旗艦「大和」
第二艦隊司令官・伊藤整一中将
第二水雷戦隊旗艦・軽巡「矢矧」 司令官・古村啓蔵少将
第四十一駆逐隊(冬月、涼月)
第十七駆逐隊(磯風、浜風、雪風)
第二十一駆逐隊(朝霜、初霜、霞)

大和・矢矧・磯風・浜風・朝霜・霞が沈没。 戦死は約4000名。


伊藤整一と伊藤叡

伊藤整一
1890年〈明治23年〉7月26日 – 1945年〈昭和20年〉4月7日
海軍兵学校39期。最終階級は海軍大将。

坊ノ岬海戦に出撃した、大日本帝國海軍 聯合艦隊 第二艦隊の司令長官 伊藤整一海軍大将(出撃時は海軍中将)は、昭和20年4月7日に、旗艦大和と命を共にした。

作戦に際して、第五航空艦隊司令長官であった宇垣纏中将は、出撃中の第二艦隊に対して途中まで護衛戦闘機隊を出撃させたが、その護衛戦闘機隊の中に伊藤整一の長男である伊藤叡(あきら)中尉(兵72期)搭乗の零式艦上戦闘機も含まれており、父親の最期を空から見送った。

そして、伊藤長官の戦死から3週間後、搭乗割の変更を自ら申し出て、沖縄特攻に志願した長男・伊藤叡中尉。
伊藤叡中尉は、神風特別攻撃隊直掩隊として出撃。4月28日、伊江島(いえじま)上空に散花した。21歳であった。


父子桜

伊藤整一第二艦隊司令長官が出撃前に、杉並の自宅に手植えをしたソメイヨシノ。
大空襲を乗り越えて焼け残ったその木の根から珍しいことにひとつの枝が伸びた。その姿はまるで戦死した父と子が桜になって共に立っているかのようで、いつしか父子桜と呼称された。

そして、毎年4月7日になると満開の桜の花を咲かせるという。

杉並の伊藤提督手植えの桜は、伊藤整一出身の福岡県みやま市の地域住民を中心とした「大和さくらの会」によって、全国各地へ「父子桜」の苗木植樹活動が行われれている。

なお、杉並の父子桜は、個人宅敷地内となるために、詳細な場所は割愛させていただきます。
場所は、大宮八幡裏手の高千穂大学の近く、国府道沿い、です。

大宮八幡宮の近く。

※撮影:2024年4月


東洋のマタハリ・男装の麗人、満洲国建国に協力した清朝王女「川島芳子」墓と記念室(松本)

信州松本に訪れた際に、川島芳子が松本に縁があったと知り、足を運んでみました。雪が降っていたけれども。。。


川島芳子

川島 芳子(かわしま よしこ)
1906年5月24日 – 1948年3月25日
清朝の皇族・第10代粛親王善耆の第十四王女。
本名は愛新覺羅顯㺭(あいしんかくら けんし)
字は東珍、漢名は金璧輝、俳名は和子、他に芳麿、良輔とも。

父の粛親王は、中国清朝末期の皇族で、清朝で近代化改革を促進したが、辛亥革命時に北京を脱出し、日本陸軍参謀本部の保護を受けて旅順に逃避。そのときに8歳であった愛新覺羅顯㺭(第14王女)は、父の粛親王の顧問だった川島浪速の養女となった。

川島浪速は、信州松本藩士の家に生まれ、中国語を学び1900年の義和団の乱の際は、陸軍通訳官として従軍。
日本軍撤退後は、清国に雇用され中国初の近代的警察官養成学校であった北京警務学堂の総監督に就任し、義兄弟の関係を結ぶほどに粛親王と深い親交があった。

愛新覺羅顯㺭は、川島浪速の幼女となり、川島芳子という日本名で日本で教育を受けることとなった。
1915年に来日した川島芳子は、当初東京赤羽の川島家から豊島師範附属小学校に通学。
卒業後は跡見女学校に進学。
やがて川島浪速の転居にともない長野県松本市の浅間温泉に移住。松本高等女学校(現在の長野県松本蟻ヶ崎高等学校)に聴講生として通学。松本高等女学校へは毎日自宅から馬に乗って通学していたエピソードが残っている。

17歳でピストル自殺未遂事件を起こした後、断髪し男装するようになり、マスコミも取り上げ、「男装の麗人」と呼ばれるようになった。
昭和2年(1927)に、19歳で蒙古族の巴布扎布(パプチャップ)将軍の二男カンジュルジャップと結婚するが3年で離婚。カンジュルジャブは満州国軍の軍人で最終階級は陸軍中将。
離婚後は、上海にわたり、上海駐在武官の田中隆吉少佐と親交を深る。
昭和6年(1931)の満洲事変では、天津から満洲へ愛新覚羅溥儀の皇后である婉容を天津から連れ出すことに協力し、婉容を天津から旅順へ護送する任務を担った。
また、第一次上海事変にも関わったとされている。

昭和8年(1933)、関東軍の熱河省進出のため熱河自警団(熱河民国連合定国軍、安国軍または定国軍とも)が組織され、川島芳子(金璧輝)は総司令に就任し熱河作戦に従事したことをきっかけに、川島芳子は「東洋のマタ・ハリ」、「満洲のジャンヌ・ダルク」などと呼ばれることになった。関東軍も「清王朝の王女が率いる義勇軍」として最大限に有効活用した。
ただ昭和9年(1934)以降は、関東軍と満洲国を巡って軋轢が生まれており、軍部批判も行っており、監視対象となっており、芳子は料亭「東興楼」を経営し女将となり、第一線で話題にあがることも少なくなっていた。

昭和16年(1941)から昭和20年(1945)の太平洋戦争中は、川島芳子は満洲国を出ずに、特に目立った活動はなかった。

昭和20年の日本敗戦後、10月に北平で中国国民党軍に逮捕された川島芳子は、漢奸(中国語で「国賊」「売国奴」の意)として訴追され、1947年10月に死刑判決が下され、1948年3月25日に北平第一監獄の刑場で川島芳子は銃殺刑に処された。41歳であった。
奇しくも、第一次世界大戦でフランス軍によってマタ・ハリが処刑されたのも41歳で、没年が同じ歳であった。

川島芳子の遺骨は、後に信州の養父・川島浪速のもとへ届けられた。1949年に浪速が83歳で死去すると、芳子の遺骨はともに松本市蟻ヶ崎の正麟寺にある川島家の墓に葬られた。

川島芳子 辞世の詩
家あれども帰り得ず
涙あれども語り得ず 
法あれども正しきを得ず 
冤あれども誰にか訴えん


川島芳子の墓(正麟寺)

養父であった川島浪速と一緒に葬られている。

國士 川島浪速墓
    同婦人 福子
    同女 芳子

男装の麗人
 川島芳子さん
 川島芳子さんは、1906(1907) 年、清国 粛親王の第13王女として生まれ、大正3年 9歳のとき、旧松本藩士で当時の満蒙に活躍し国士といわれた故川島浪速翁の養女となり、同翁とともに浅間温泉に居を移し、松本高等女学校(現 蟻ケ崎高校)に入学、馬に乗って通学するなど、お転婆娘といわれ 市民の話題の的となった。
 その後 戦前の中国大陸を舞台に男装の麗人といわれ、満洲国建立のため大活躍をし有名を馳せたが昭和23年2月、42歳の若さでその波乱の生涯をとじました。

男装の麗人
川島芳子さんの墓案内図

最初、適当に墓所を巡っていて迷子になりまして。
正麟寺の奥、松本市営葬祭センターの脇に看板がありまして、見れば、迷うこと無く。

川島家の墓。

合掌

肅忠親王善耆(川島芳子の実父)の書碑が、川島家の墓所に建立されている。

正麟寺

曹洞宗蓬莱山正麟寺
(小笠原長時公菩提寺)
 室町時代中期に草創され、古くは少林寺と号した。天正11年(1583)に長時公の菩提寺となり、長時公の法名正麟に因んで、正麟寺に改められる。
 明治の廃仏毀釈で一時無住となるが、復興し、永平寺直末となる。墓地には「男装の麗人」といわれ、満州国建国に尽力した川島芳子の墓がある。
 平成22年7月
 白板地区史跡研究会

場所:

https://maps.app.goo.gl/jpz4SFLd7f8qmkVB9


長野県松本蟻ヶ崎高等学校
(旧・松本高等女学校)

川島芳子が通った松本高等女学校。現在の長野県松本蟻ヶ崎高等学校。


川島芳子記念室(松本市歴史の里)

松本市歴史の里には、川島芳子記念室がある。

松本市で少女時代を過ごした川島芳子のゆかりの品を展示する川。川島芳子記念室は川島芳子没後50年にあたる1998年に開設。

満洲国陸軍上将の軍服を着用した川島芳子

コレクション展示
川島芳子記念室
中国清朝の皇女として生まれ、のちに松本出身の大陸浪人川島浪速の養女となり、「東洋のマタ・ハリ」「男装の麗人」として知られた川島芳子の関係資料を展示。

川島芳子記念室
Memorial Room of Yoshiko Kawashima
 川島芳子は明治40(1907)年、清朝の皇族である粛親王(しゅくしんのう)の、第14王女として北京に生まれ、本名は愛新覚羅顕㺭(あいしんかくら けんし)。同44年、芳子が4歳のとき辛亥革命がおこり 清朝は崩壊、父親と親交のあった、松本出身の大陸浪人川島浪速(なにわ)の養女となり、日本で育ちました。
 芳子は川島の転居に伴い松本高等女学校に入学しますが、学校まで馬で通ったエピソードは有名です。
 20歳で蒙古族の将軍の息子と結婚するも、まもなく離婚。のち清朝の復活を願い、日本軍に協力して、さまざまな謀略工作に関わったといわれ、「東洋のマタハリ」、「男装の麗人」などと、世間の注目を浴びますが、その活動の実際は明らかになっていません。
 戦後 中国国民党政府に逮捕、「漢奸(国賊)」として昭和23(1948)年銃殺刑に処せられました。
 没後50周年にあたる平成10(1988)年、芳子を偲ぶ有志により、松本市歴史の里の前身である「日本司法博物館」(当時)内に、記念室が設けられました。

川島芳子資料室

川島芳子の書

日本人たる前に亜細亜人であらねば成ぬ

肅忠親王善耆(芳子の実父)の書(川島家の墓にある石碑の拓本か?)
川島芳子の書
川島浪速の書

愛馬(太郎)とともに。大正10年。
川島芳子は15歳。
松本高等女学校時代は、愛馬に跨って通学をしていた。

男装の川島芳子

川島浪速と川島芳子

王道
 若宮八幡神社寶前
  昭和丁丑夏日
   愛新覚羅氏第十一世
    肅親王 川島芳子

昭和12年の銘

大正十五年のサンデー毎日
川島芳子(川島芳麿)の記事。

東洋のジャンヌ・ダルク
逆転の美女川島芳子

男装の麗人川島芳子さん
満洲建国の為め東奔西走男子も及ばぬ活躍を続け建国史を採った女丈夫川島芳子さんは養子に擬せられて居る金辟王を伴い末朝した
写真甲子園ホテルに於ける川島芳子さんと金辟王

電送ニュース昭和9年12月19日

男装の麗人

川島芳子の直筆原稿(写し)

父上様 御前に

戒名

芳雲院龍種東珍大姉霊位
 浪速定

芳子の字は東珍であった。
実父の粛親王が養子に出すときに、東洋の珍客として可愛がられるようにとの願いをこめて「東珍」とつけた。

辞世の詩
家あれども帰り得ず
涙あれども語り得ず 
法あれども正しきを得ず 
冤あれども誰にか訴えん
 川島芳子

川島芳子周辺地図。
実は、さきに川島芳子記念室を訪れて、そこで墓所を知って、足を伸ばした次第。

展示・休憩棟の川島芳子記念室がある。


旧松本区裁判所庁舎

「松本市歴史の里」内に。

重要文化財
旧松本区裁判所庁舎
明治41年(1908)、松本城二の丸御殿跡に建立。
明治後期の区裁判所庁舎の典型的な特徴を残す。

https://matsu-haku.com/rekishinosato/shisetsu


大庭駅

川島芳子記念室のある「松本市歴史の里」の最寄り駅は、アルピコ交通上高地線(通称・松本電鉄)大庭駅。

1921年(大正10年)10月2日、筑摩鉄道(後の松本電気鉄道、現在のアルピコ交通)により島々線として松本駅 – 新村駅間6.2 kmが開業。川島芳子が松本にいたときとほぼ同じ頃に開通。


松本城

雪の松本城。せっかく松本にいたので。

帰路の「特急あずさ」

※撮影:2024年3月


満洲関連

「昭和の聖将」今村均の墓と輪王寺散策(仙台の戦跡散策・その6)

名将・今村均大将の墓がある輪王寺に足を運びました。
本編は、「その6」です。

仙台市の輪王寺。仙台藩伊達家にゆかりの深い寺院。

境内案内図もわかりやすいですね。墓地を彷徨わなくて済むので助かります。
境内裏手の墓地には、足を運ぶ。


今村 均

今村均
1886年(明治19年)6月28日 – 1968年(昭和43年)10月4日)
陸士19期、陸大27期首席。陸大同期は本間雅晴や東條英機などがいた。最終階級は陸軍大将。
仙台藩士の家柄で仙台出身。
太平洋戦争では、初戦に第16軍司令官として蘭印作戦を指揮した名将。ジャワ軍政では、中央よりとかくの批判を受けるも、独自色を発揮し成果を発揮する。
昭和17年に第8方面軍司令官として、ラバウルに着任。
ラバウルで自給自足体制を確立。米軍は今村によって要塞化したラバウルの状況を知った米軍は、占領を回避し、打撃による無力化に留め、封鎖を実施。ラバウル守備隊は孤立したが、自給自足体制を整えていたために、今村均の陸軍第8方面軍は、草鹿任一の海軍南東方面艦隊とともに終戦までラバウルを維持し続けた。

陸軍大将 今村均 明治19年~昭和43年〔宮城〕
南方進攻作戦の最終段階、蘭印攻略作戦を指揮した昭和の名将
今村は、知、情、意の調和がとれた名将と知られています。開戦前、今村は、陸軍大学校で蘭印の石油資源を含む要域占領を目的とした蘭印攻略作戦準備を統括しましたが、よく部下と意志の疎通を図り、各級指揮官が孤立しても適切な判断ができるよう認識統一に努めていました。そして今村は、第16軍司令官としてその作戦指揮を執り、戦域の広大さ、部隊運用の複雑さがありつつも名将ぶりを発揮しました。また、昭和17年2月11日発令の第16軍命令(下掲史料)からもわかるように、今村は、兵站を特に重視し、各正面毎綿密に準備しました。さらに住民の安全に意を尽くし、住宅地への軍の進入を厳に諫め、占領後は住民の心に寄り添います。第16軍主力は、3月1日、ジャワ本土に上陸、日本軍戦力を過大評価したオランダ軍は、9日に降伏します。占領後、今村は、敵味方の区別なく緩和を主義とする軍政の実行を指示します。今村の軍政は緩すぎると中央で問題となりますが、その意思は揺るぎませんでした。戦後、今村は、ジャワ戦犯裁判で捕虜虐待の責任を追及されますが、責任追及は当然と求刑を甘受します。結局この法廷では無罪となり巣鴨に送還されますが、自ら志願してマヌス島に送られ、29年の刑期終了まで旧部下数百名とともに在監の苦悩を共にします。

防衛研究所 https://www.nids.mod.go.jp/military_archives/siryo/siryo_19.html


今村均の墓

今村均家累代之墓

合掌

墓誌
今村均
 明治19年6月28日 仙台に生まる 陸軍士官学校 陸軍大学校を卒業し 歩兵第四聯隊付 英国駐在武官 等を歴任 第二次世界大戦に際しては 郷土部隊と共にジャワ ラバウル方面の戦闘に参加す
 昭和18年5月 陸軍大将に任ぜらる 昭和43年10月4日歿
勲一等功二級従三位
 享年82歳

今村家の家紋は、浮線蝶紋


輪王寺境内を巡ります。

昭和大戦戦没者慰霊碑

昭和の戦いに 
 国のために倒れ 
  帰らぬ私達を
ふるさとの人は 
 忘れないで下さい

合掌

この碑は、昭和の大戦で戦没した将兵の慰霊の為昭和37年有志が通町公園内に建立した。
然し、仙台市が平成13年に撤去削損、国民は碑に託された将兵360余柱を思い、多くの協力を得て再建した。
 国のため戦死された人々よ
  安らかにお眠りください
    平成14年3月建立

昭和の大戦戦没者慰霊碑
別名 戦没者の声なき声、忘れないでの碑
 昭和6年、満州事変より、大東亜戦争後ソ連抑留の18年間、国の命により戦いに倒れた将兵212万1千名、その多くは遺骨すら故郷に帰へらなかった。
遺族らは父や夫の面影を追い、昭和37年通町公園に慰霊碑を建立、裏面に戦没者名(364柱)を刻み残した。然し、40年後の平成13年、仙台市は公園整備の際撤去、他に転用の為。碑の両面を削除した。
人々は祖国に尽くした戦没者と遺族の進駐を思い、碑石の返却を求め慰霊の為、亡き人の声なき声を碑文とし、日本の永遠の平和と安泰を願い、この地に再建した。
 平成14年3月
  戦没者遺族・妻子孫他
  旧軍・自衛隊市民有志


志賀潔博士の墓

赤痢菌発見の志賀潔博士の墓所


飯沼貞雄の墓

白虎隊士として飯盛山で自刃するも偶然救助されて、唯一蘇生した人物。


輪王寺

伊達家ゆかりの古刹。

※撮影:2023年8月


関連

東郷の私設副官と称せられた海軍中将「小笠原長生の墓」(世田谷・府中・伊豆長岡)

小笠原長生は、東郷平八郎に傾倒し「東郷の私設副官」「東郷さんの番頭」「お太鼓の小笠原」などと呼称されるほどに東郷平八郎の顕彰活動・聖将化に多大な影響があった人物。

そんな小笠原長生の墓巡り。

  • 幸龍寺(東京世田谷) 小笠原家の江戸の菩提寺・小笠原家累代墓所
  • 東郷寺(東京府中)  開基を東郷平八郎、副開基を小笠原長生とする寺院
  • 近松寺(佐賀唐津)  小笠原家の唐津の菩提寺
  • 宗徳寺(伊豆長岡)  戦後に隠棲した伊豆長岡の古刹

なお、唐津の近松寺は未訪問


小笠原長生

小笠原 長生(おがさわら ながなり)
1867年12月15日(慶応3年11月20日) – 1958年(昭和33年)9月20日)
海軍軍人(海軍中将)、華族(子爵)。幼名は賢之進。佐賀県出身。
階級位階勲等功級は、海軍中将、正二位勲一等功四級子爵。忠知系小笠原家14代目。

江戸幕府老中を務めた小笠原長行の長男。
明治6年(1873年)9月、忠知系小笠原家13代の義祖父長国(肥前唐津藩主)の隠居により家を相続。
明治17年(1884年)9月に海軍兵学校に入学。同年7月、子爵を授けられる。
明治20年(1887年)7月、海軍兵学校(14期)を卒業。成績は45人中35位。なお、同期には鈴木貫太郎らがいる。

明治37年(1904年)1月、軍令部参謀に就任して日露戦争を迎えた。同年7月、海軍中佐。
軍令部参謀として海軍司令長官東郷平八郎の知偶を得て、その才を認められ、明治44年(1911)に、軍令部出仕兼参謀のまま学習院御用掛となった。ときの学習院院長は乃木大将。

明治天皇崩御の際の乃木大将夫婦殉死前後の大将と深くかかわることになり後事を託され、乃木将軍の長生宛の遺言や常用された書籍類が遺品として長生の手元に残された。

大正3年(1914年)4月から大正10年(1921年)3月まで、皇太子裕仁(昭和天皇)の教育を担う東宮御学問所幹事を務める。このときの東宮御学問所総裁は東郷平八郎。元帥東郷平八郎のブレーンとして伝記や読本などによって東郷の神格化に拍車をかけた。

大正3年(1914年)12月に海軍少将。大正7年(1918年)12月、海軍中将に進級し待命。大正8年(1919年)12月に休職し、大正10年(1921年)4月に予備役編入となり宮中顧問官に就任。昭和20年(1945年)11月まで在任した。

昭和22年(1947年)、公職追放の処分を受けて伊豆に閉居。
昭和33年(1958年)、死去。90歳没。


小笠原長生の墓(世田谷の幸龍寺・小笠原家墓所)

小笠原長生の墓が世田谷区にあるというので、足を運んでみたことから、芋づるで小笠原長生の墓を巡ることになるなど。
まず、足を運んだのが、東京都世田谷区北烏山5丁目に鎮座する「幸龍寺」。
旧唐津藩藩主小笠原家累代墓所でもある。
なお、世田谷区には、海軍軍人として、永野修身、小澤治三郎、堀悌吉の墓もあったりする。

旧唐津藩藩主小笠原家累代墓所がある。

小笠原家之墓

ちなみに、 小笠原長生の父・小笠原長行は当初「谷中墓地」に埋葬されていたが、後年、長生によって幸龍寺に改葬された。

鐵櫻院殿無畏長生日来大居士 
小笠原長生公 
正二位勲一等功四級 
昭和33年9月20日

三階菱の家紋

昭和32年12月建之
 小笠原長生

幸龍寺

なお、幸龍寺には、内海好江師匠の墓や長谷川雪旦の墓(唐津藩御用絵師)もある。

場所:

https://maps.app.goo.gl/6U32EmFr6K6nVnNo8

※撮影:2023年12月


小笠原長生墓(東郷寺境内の供養墓)

府中の東郷寺。
東郷寺は東郷平八郎元帥海軍大将を開基とし、副開基を小笠原長生海軍中将とする、身延山久遠寺を総本山とする日蓮宗寺院。山号は「聖将山 東郷寺」東郷没後に東郷家別荘・農園があった当地に昭和14年(1939)に小笠原長生を始めとする海軍関係者が中心となって建立。

境内の西エリア手前。
東郷寺副開基の小笠原長生子爵(海軍中将)を祀る。

小笠原長生の本墓は世田谷区烏山幸龍寺。
ここ東郷寺は供養墓となる。

東郷元帥墓と小笠原墓は並んで建立。
当地にて死してなお東郷の側にいられるというのは小笠原としては本望極まりないことだろう…

東郷寺の様子は下記にて。

ちなみに、東郷と小笠原以外の著名人として、豊田副武、貞閑勝見、河本大作の墓がある。

※撮影:2017年12月


小笠原家の墓(伊豆長岡の宗徳寺)

昭和20年の敗戦とともに、小笠原長生がが勤めていた宮中顧問官の制度は廃止。
昭和22年、小笠原長生は公職追放となり伊豆長岡の地に隠棲。
昭和29年、 昭和天皇は長岡まで行幸され、小笠原に長年の御辛労に感謝の御言葉をかけられた。その4年後、昭和33年秋、卒。92歳であった。

小笠原家墓

鐵櫻院殿無畏長生日来大居士 俗名 長生
 正二位勲一等功四級 慶應3年11月20日生

昭和28年6月3日
 小笠原長生建之

小笠原長生は昭和33年に亡くなっている。
本墓石は、生前に建立したことがわかる。

ここには、小笠原長生子爵とその母、夫人、継夫人、夭折した息子長孝の名前が刻まれている。

三階菱の家紋

墓所の入口、右側の木立に、小笠原家の墓がある。

軍人墓

伊豆長岡の宗徳寺、山門

長岡山

場所

https://maps.app.goo.gl/99GzSFwURE5G5Aqf7

※撮影:2024年8月


関連

「聯合艦隊司令長官・山本五十六」由縁の地を巡る(長岡)

長岡に赴く機会があった。
長岡といえば、山本五十六。せっかくなので、山本五十六元帥ゆかりの地を巡ってみる。


山本五十六

新潟県長岡出身。
旧姓は高野(たかの)。
海兵32期、海大甲種14期。第26、27代連合艦隊司令長官。
海軍兵学校では、同期生に堀悌吉、塩沢幸一、嶋田繁太郎、吉田善吾などがいる。

昭和18年4月18日、ソロモン諸島前線視察の際、ブーゲンビル島の上空で戦死(海軍甲事件)。
日本において皇族・華族以外で、国葬を受けた最初の人物。


山本元帥生誕記念公園

山本五十六元帥の生家を復元し、記念公園として整備してある。

山本元帥誕生地

山本五十六は、1884年(明治17年)4月4日、新潟県古志郡長岡本町玉蔵院町(現在の長岡市坂之上町3丁目付近)で、旧越後長岡藩士(120石)・高野貞吉の六男として誕生した。
当時の父親の年齢から「五十六(いそろく)」と命名された。

山本元帥生誕記念公園記
 山本元帥は長岡の生んだ最大の偉人であるばかりでなく、明治・大正・昭和の三代に於ける日本の代表的偉人である。偉人は遠い處にあるのでなく、他にあるのでなく、我の中にある。誰れもの各個の性質の中にそれぞれ偉人の素質に存している。こゝに来り集まる青少年達よ、大人達よ、この人に學び、この人に倣え。然らば則ち亦偉人となることが出来よう。偉人とは自ら謙虚にして堅忍不抜、自らを人の中に置き、人のために、社會のために、國家のために捧げる人である。これが自らを大に生かす所以である。
 元帥は明治十七年四月四日、この地で、舊長岡藩士高野貞吉六男として生れた。時に貞吉五十六歳であった。後年赫々世界歴史上にその偉大さをうたわれた聖将山本元帥その人であった。長岡の歴史、山川、風土が元帥の修養努力と相待って、その人格と地位とを作り上げたのである。
 元帥の学んだ阪之上小學校、長岡中學校もこゝから近い。青少年達よ、この偉人に續け。元帥は自ら處すること嚴に他を處すること寛であった。自らを捧げて他を大ならしめる山本精神はこゝで生れたのである。
 こゝに我が景仰會が元帥の胸像を安置して、その誕生地を記念し、後進子弟の奮起を待つ所以である。
 昭和33年11月3日
 山本元帥景仰會

山本元帥生誕の地
 提督山本五十六は、明治17年(1884)、旧長岡藩士の髙野貞吉の六男に生まれた。
 高野家は代々儒官と槍術指南役をつとめ、質素倹約の生活を家風とした。
 五十六は海軍兵学校にはいり、大正五年、迎えられて旧長岡藩家老・山本家の名跡を継いだ。海軍次官を経て、連合艦隊司令長官。
 昭和18年(一九四三)太平洋戦争において戦死、元帥の称号をうけた。
 生家は戦災で焼失し、後に復元した。
   長岡市教育委員会


山本五十六胸像

山本元帥の胸像。

胸像は、昭和23年、霞ヶ浦の湖底から引き揚げられた胸部をブロンズ像に鋳直したもの。

もとは、山本五十六の戦死後の昭和18年12月に作られ、霞ヶ浦航空隊に設置されたコンクリート製の全身像。
終戦後に、米軍の破壊を案じた土浦海軍航空隊では、山本五十六元帥像の上半身を霞ヶ浦に沈め、下半身を台座近くに埋めたという。上半身はその後引き上げられ、現在は江田島の教育参考館に展示。
この地のブロンズ像は、胸像部分を鋳直復元したもの。

また、現在、陸上自衛隊土浦駐屯地武器学校内の予科練記念館前に建っているものは、戦後の平成16年1月に作った新しいブロンズ像となる。

以下は、土浦駐屯地内「雄翔館」前の山本五十六像。(2023年4月撮影)


山本五十六の生家

山本元帥生誕の地 
 山本元帥は、長岡藩士の髙野貞吉の第六男としてここに生まれ、のちに海軍兵学校にすすみ、少佐のとき長岡藩家老山本家の名跡の絶えるのをおそれ迎えられて山本家を継ぐ。
 大東亜戦に壮烈な戦死を遂げられ元帥府に列し、特に元帥の称号を賜る。ご生家は昭和20年の戦災で焼失したので、これを復元し、ここを山本記念公園と命名した。
   長岡市教育委員会

石膏の山本元帥の胸像。

山本五十六の手紙。
昭和17年に、相馬御風に送ったもの。相馬御風も山本と同じく新潟の出身(糸魚川)

位牌。

大義院殿誠忠長陵大居士

「長陵」は生前の山本が用いていた雅号

常在戦場

越後長岡藩・牧野家に代々伝えられてきた家訓。長岡藩の藩風・藩訓でもあった。

手前の左端に写っているのが、山本五十六であろうか。

山本五十六の手紙

終戦の詔

真珠湾攻撃の電文

手紙

便所

台所

廊下

階段

山本五十六の勉強部屋(二帖部屋)

部屋から、胸像がよく見える。

場所

https://maps.app.goo.gl/FCZ58Kcnn393ncAEA


山本五十六記念館

1999年に開業した山本五十六記念館。

http://yamamoto-isoroku.com/

山本元帥御愛育の名木「唐楓(とうかえで)」
 この楓は、山本五十六が鎌倉在住の頃に自ら買い求め、以後、大切に育てられていたものである。
 昭和14年、海軍次官官舎より青山の自宅に転居する際には、「その楓は、もとから官舎にあったものじゃないから持っていこう」と移しかえたという逸話が残っている。
 南青山の旧山本邸は、都市開発の関係で取り壊されたが、その際に有志により一旦移植され、丹念に生育された後、平成22年秋に山本五十六記念館に寄贈されたものである。

館内は撮影禁止。
下記のサイトで360度パノラマビューできる。

https://360vrpanorama.jp/yamamoto-isoroku/hall.html

見どころは、「一式陸上攻撃機・長官搭乗機の左翼」

昭和59年(1984)2月山本五十六の生誕100年を記念して、山本元帥景仰会は、ブーゲンビル島のジャングルをたずね、搭乗機の残骸を前に慰霊祭を行った。その後、パプアニューギニア政府の厚意により平成元年(1989)、左翼の里帰りが実現。

展示品

山本五十六記念館展示図録を購入しました。

場所

https://maps.app.goo.gl/o2w5Ss1LadW8FNjv5


山本五十六墓所(長岡・長興寺)

山本家の墓所。
長岡の山本家の墓では長岡藩が朝敵であった事から養祖父「山本帯刀」の墓が非常に質素に作られている。山本五十六の墓は、その山本帯刀よりもさらに質素に造られた為、戦死した陸海軍将官中、最も粗末な墓とされている。(多磨霊園の墓はまた別として) 

山本家の墓
 長岡藩家老職山本家は、武田信玄の軍師山本勘助の血脈。代々、藩主牧野氏に仕え、政治、文政に尽くした。
 特に老迂齋精義(ろううさいきよよし)は、名家老と称賛され、歴代の藩主を五十年にわたってよく助けた。幕末、帯刀義路(たてわきよしみち)は、北越戊辰戦争で大隊長として奮戦。会津飯寺で痛恨の死を遂げた。
 山本五十六元帥は、旧長岡藩士高野家から山本家を継いだ。はやくから航空機の重要性を説き、連合艦隊司令長官として、近代戦を指揮したが、昭和十八年四月十八日、南冥に散華した。
 長岡市教育委員会

山本家の墓。中央に山本五十六の墓石。左隣りに山本帯刀。

大義院殿誠忠長陵大居士

大正六年五月十九日 越後長岡 山本五十六

五十六 昭和十八年四月十八日於南太平洋戦死享年六十歳
十三 大義院殿誠忠長陵大居士 

最後の山本五十六の墓誌は、長男の山本義正氏が追記したもの。

旧長岡藩家老の山本家墓誌は山本家を相続した山本五十六によって記されています。
平成十六年(2004)十月二十三日の中越地震で崩壊した墓碑の改修にあたり父の戒名を加えて建立しました。
 平成十九年(2007)四月十八日
  山本義正

山本家の家紋は、左三つ巴紋

長興寺

場所

https://maps.app.goo.gl/dwNtciK67PvKwXAs5


山本五十六墓所(多磨霊園)

1943年(昭和18年)4月18日。 連合艦隊司令長官 山本五十六海軍大将戦死の日。 多磨霊園に埋葬。 墓字は山本五十六の国葬葬儀委員長を務めた米内光政による。

※2015年2月撮影

昭和18年6月5日に行われた山本五十六元帥の国葬の列は「水交社本部ビル」から出発し「日比谷公園」で国葬が行われた。葬儀委員長は米内光政。 皇族、華族ではない平民が国葬にされたのは、これが戦前唯一の例という。

山本五十六元師国葬 NHKアーカイブス https://www2.nhk.or.jp/archives/tv60bin/detail/index.cgi?das_id=D0009060058_00000 …


阪之上小学学校(長岡町立阪之上尋常小学校)

山本五十六は、明治23年(1890)4月、長岡町立阪之上尋常小学校)現在の阪之上小学校)に入学している。


新潟県立長岡高等学校(古志郡立長岡尋常中学校)

山本五十六は、明治29年(1896)4月、古志郡立長岡尋常中学校(旧制新潟県立長岡中学校)に入学。
正門は、国の登録有形文化財(建造物)、大正5年(1916)建立なので、山本五十六よりも新しい。


長岡駅

明治31年(1898)に開業。

昭和18年(1943)4月18日、一式陸上攻撃機に搭乗し前線視察中、パプアニューギニア ブーゲンビル島上空で米軍機の攻撃を受け山本五十六は戦死。
およそ一か月間極秘事項として伏せられ、5月20日、堀悌吉により山本家に五十六の訃報が伝えられる。
翌21日午後3時、大本営発表。
国民には新聞やラジオ報道を通じて「元帥府に列せられ国葬を賜う」と知らされた。
6月5日、東京麻布の水交社を出発した葬列は日比谷公園に到着、盛大に国葬は営まられた。
6月7日、長岡駅に到着した山本の遺骨は、多くの市民に見守られ菩提寺長興寺の山本家墓所に納められた。

※撮影:2023年9月


関連

土浦海軍航空隊

霞ヶ浦海軍航空隊

多磨霊園

12月8日

米内光政

井上成美

「最後の海軍大臣・米内光政」所縁の地を辿る(盛岡・横須賀・東京)


米内光政

1880(明治13)年3月2日~1948(昭和23)年4月20日
海兵29期、海大12期、海軍大将、連合艦隊司令長官(23代)、海軍大臣(19代、24代)、内閣総理大臣(37代)を歴任。
 
支那事変当時の第一次近衛の内閣海軍大臣。
林・一次近衛・平沼内閣の海相を歴任、昭和15年には予備役入りし総理大臣(第37代)となり、支那事変の対応や三国同盟問題、戦争回避に尽力する。
昭和19年には現役復帰し小磯・鈴木内閣の海相として終戦の為に奔走。
戦後も東久邇宮・幣原内閣の海相として日本帝国海軍の最後を看取る。

首相官邸>

https://www.kantei.go.jp/jp/rekidainaikaku/037.html

国立国会図書館>近代日本の肖像

https://www.ndl.go.jp/portrait/datas/218/

盛岡市>

https://www.city.morioka.iwate.jp/kankou/kankou/1037106/1009526/1024995/1025018/1025020.html

ちなみに、学生時代の私は、卒論を「米内光政を中心とした海軍の対支政戦略」で書いていました。


岩手の米内光政

1880年(明治13年)、岩手県盛岡市に、旧盛岡藩士の米内受政の長男として誕生。

2023年8月に、盛岡を散策し、米内光政関連の地を巡ったので、以下に掲載。


米内光政像

盛岡八幡宮の境内に建立されている、米内光政像。
小泉信三による撰文。
小泉信三は、戦時下の慶應義塾大学の塾頭。米内光政と親交が深かった。

米内光政
 米内光政は、明治13年3月、旧盛岡藩士米内受政、母とみの長男として盛岡市下小路(愛宕町)に生まれる。盛岡中学を経て海軍兵学校へ進み、卒業後海軍少尉に任官、日露戦争では海軍中尉として従軍した。後にロシアやポーランドなどヨーロッパに駐在し、その地の実情を直に見聞した。1937(昭和12)年には林内閣のもと海軍大臣に就任し、陸軍の主張する三国同盟に反対した。この反戦主義の姿勢は終戦まで変わらなかった。
 天皇の信頼も厚く、1940(昭和15)年には岩手県出身者としては3人目となる内閣総理大臣に就任。しかし陸軍の反対に遭い半年後に退任した。太平洋戦争末期には小磯内閣のもとで4期目の海軍大臣として入閣、終戦のために尽力する。終戦後も海軍大臣に留任し、海軍省廃省の責任者として日本海軍の最期を見届けた。昭和23年4月20日逝去、享年69歳。

米内光政

米内光政自身の筆跡となる。

米内光政氏は盛岡の人
若くして海軍に入り進んで大将大臣に至り又内閣総理大臣となる
昭和二十年八月太平洋戦争の終局に際し米内海軍大臣が一貫不動平和の 聖断を奉じて克くわが国土と生民をその壊滅寸前に護ったことは永く日本国民の忘れてはならぬところである 
逝去十三年至誠沈勇のこの人今も世にあらばの感を新たにしつつこの文を撰ぶ
 昭和三十五年十月
  後進 小泉信三

場所

https://maps.app.goo.gl/1tDJamLqY4f5ueac7


米内光政首相と畑俊六陸相(米内内閣)

第37代内閣総理大臣・米内光政。
第二次世界大戦が勃発し、ドイツが攻勢を強めている情勢下において、陸軍は日独伊三国同盟締結を推進していく中で、阿部信行内閣の後継として畑俊六を首班として準備を進めていく中で、陸軍からの首班を嫌った、 昭和天皇が海軍の意中の人物として、米内光政を指名。
そうして軍事参議官・予備役海軍大将(米内は組閣に際して自ら現役を退いて予備役となった)の米内光政が、第37代内閣総理大臣に任命。1940年(昭和15年)1月16日から1940年(昭和15年)7月22日までの内閣。

米内内閣の陸相として畑俊六が就任するも、陸軍は米内内閣の組閣とともに倒閣を開始。ドイツのフランス侵攻を開始し降伏に追い込むと、陸軍首脳部は「陸軍の総意」として、畑俊六陸軍大臣が単独で辞表を提出米内は後任大臣を求めたが陸軍が拒絶し、これで米内内閣は、半年で総辞職となってしまった。

米内内閣倒閣の引き金となった畑俊六は、戦後の東京裁判において戦前最期の新英米派内閣であった米内内閣を倒閣させた罪状を問われてA級戦犯として起訴される。
米内光政は、弁護側証人として東京裁判に出廷し、米内内閣倒閣は畑の意思本意ではなく、陸軍組織として動かざるを得なかったことを踏まえ、畑俊六をかばった。
そうして畑俊六は死刑を免れ終身禁固となり、畑俊六は6年の服役後の1954年(昭和29年)に仮釈放となった。
畑俊六は、海軍の責任に関して極めて厳しく罵る回想メモを戦後に残しているが、その中でも米内光政に関しては、東京裁判で畑の弁護側証人として庇ってくれたことに恩義を感じ、米内に対する感謝感動を終生深く忘れることなかったという。

米内光政没後12年の昭和35年(1960年)、盛岡八幡宮の境内に米内光政の銅像が建立され除幕式が執り行われた際、81歳の畑俊六が、人目を避けるように黙々と周囲の草むしりをしていたと伝承されている。
畑俊六は昭和37年(1962年)、福島県棚倉城址に建立された戦没者慰霊碑除幕式中に脳内出血で倒れ82歳で死去している。(棚倉城址には「畑俊六終焉の地」碑もある。行かないと、です)


米内光政墓所

盛岡市の円光寺。

米内光政は、昭和23年4月20日、目黒区富士見台の自宅で68歳1ヵ月の生涯を終えた。
4月24日、自宅で仏式の葬儀と告別式が斎行。
葬儀委員長は、山梨勝之進大将であった。

山梨勝之進は、海兵25期、海大5期、海軍大将。条約派であったために大角人事で予備役となるも、米内光政らの推挙もあって学習院院長に就任。皇太子明仁親王の教育を任せられた。戦後は海軍の最長老の立場にあり、海上自衛隊の創建にも尽力した。山梨は長生きし昭和42年(1967年)90歳で死去。

米内光政墓所
 南部利英書

南部利英は南部家44代当主。
昭和13年(1938)には、岩手出身の陸軍大臣板垣征四郎の就任祝賀会に、同じく岩手出身の海軍大臣米内光政と板垣を左右として、南部利英を中央にした記念撮影なども記録に残っている。

米内光政銅像と同じ文面。書き起こしは省略。

米内光政の墓所。

救国の偉人 米内光政之墓

米内光政墓

天徳院殿仁海光政大居士

昭和23年4月20日歿
 享年69歳

緒方竹虎書

墓石の「米内光政墓」は友人であった緒方竹虎の書。
緒方竹虎は、朝日新聞副社長・主筆を経て、政治家に転身した人物。米内光政と親交があり、「一軍人の生涯 提督・米内光政」の書籍も残している。

米内家の家紋。

丸に違い鷹の羽

九代光政
天徳院殿仁海光政大居士
昭和23年4月20日

円光寺

場所

https://maps.app.goo.gl/3hkM83TkiJYjVXc36


米内光政居住地跡

米内光政が幼少期を過ごした八幡町。

米内光政居住地跡「説明」
米内光政は盛岡の下小路(愛宕町)で生れ幼少時代を八幡町で育ち、盛岡中学校(盛岡一)を経て、海軍兵学校に入り、以来、連合艦隊司令長官、海軍大将、内閣総理大臣、そして海軍大臣とすて終戦を迎えた。人格重厚沈勇、国家百年の計を思い大局を誤らず天皇の信任篤く、終戦内閣の中心閣僚として善処勇断よく祖国の壊滅を未然に護った偉業は、日本国民の永く銘記するところであります。
八幡宮境内に等身大の銅像が建っています。
 平成19年4月20日

突き当りは、銅像が建立された盛岡八幡宮。

場所

https://maps.app.goo.gl/aVCkhkm7jcQCV7GU8


盛岡市立下橋中学校(盛岡高等小学校)

岩手県内で一番長い歴史を持つ学校。
米内光政は、1890年(明治23年)、盛岡高等小学校に入学している。
米内光政のほかに、金田一京助、石川啄木も卒業生。

場所

https://maps.app.goo.gl/Jbymb9nSkWk5VzjY6


盛岡中学校濫觴の地(岩手銀行本店)

旧制盛岡中学校(現 岩手県立盛岡第一高校)の跡地。
旧制盛岡中学校は,、明治13年(1880)に「公立岩手中学校」としてこの地に設立された。
その後 「岩手県尋常中学校」「岩手県立盛岡中学校」と改称し, 大正6年(1917)に 現在地(盛岡市上田3丁目)に移転した。
戦後 昭和23年(1948)に「岩手県立盛岡第一高等学校」と改称。

米内光政は、1894年(明治27年)、岩手県尋常中学校に入学している。

旧制盛岡中学校の卒業生
海軍では、米内光政(海軍大将・海軍大臣)、八角三郎(海軍中将)、及川古志郎(海軍大将・海軍大臣)、多田武雄(海軍中将)。
陸軍は、板垣征四郎(陸軍大将・陸軍大臣)。
そのほか、郷古潔(三菱重工社長、東條内閣顧問)、文学方面では、金田一京助、野村胡堂、宮沢賢治、石川啄木など、そうそうたる卒業生を排出している。

岩手県立盛岡中学校濫觴の地

盛岡の中学校の
露台の
欄干に最一度 我を倚らしめ
 石川啄木

場所

https://maps.app.goo.gl/1b7NUp95tcsVcBMSA


盛岡市先人記念館

盛岡市の先人記念館。
ここには、金田一京助、新渡戸稲造、そして米内光政のコーナーが個別に設けられており、そのほか盛岡市の先人たちの記録が展示されている。
一見の価値ある記念館。

盛岡市先人記念館

米内光政 1880‐1948
 海軍大臣を経て第37代内閣総理大臣に就任、三国同盟締結阻止を貫きました。
 太平洋戦争末期に海相に復帰、冷静な判断力、的確な洞察力、一方にかたよらない姿勢で、戦争の早期終結に尽力しました。

新渡戸稲造と米内光政と金田一京助と。
館内は、この場所以外は撮影禁止。

盛岡市先人記念館案内図録と、米内光政のピンバッチを入手しました。

米内の特徴をよく捉えたイラスト。

盛岡先人記念館>

https://www.mfca.jp/senjin/yonai/index


横須賀の米内光政

昭和10年12月。
第二艦隊司令長官であった米内光政中将が横須賀鎮守府長官として着任。
このときの参謀長が、のちに重要な局面で度々コンビを結成する井上成美少将であった。

横須賀鎮守府
 長官 米内光政中将
 参謀長 井上成美少将

そして昭和11年2月26日。
米内と井上は、横須賀にて、「二・二六事件」を迎えることになった。

上記写真:横須賀鎮守府司令長官米内光政(中央) 参謀長井上成美(左から2番目)
(「井上成美」井上成美伝記刊行会の巻頭写真より)

米内光政は、二・二六事件で重傷を負った鈴木貫太郎の後任侍従長との声もあったが、横鎮長官職の次職慣例もありその話はお流れ。鈴木の後任侍従長は百武三郎海軍大将。 昭和11年12月に、第23代連合艦隊司令長官へ。(連合艦隊司令長官兼第一艦隊司令長官。)


米内光政と井上成美

井上成美とは、昭和10年の横須賀鎮守府、昭和12年の海軍省、そして昭和19年の終戦に向けての海軍省と、コンビを三度組んでいる。

昭和10年、井上成美は海軍少将に任命。横須賀鎮守府参謀長に就任。横須賀鎮守府長官は米内光政。二・二六事件を対処。

昭和12年、井上成美は海軍省軍務局長に就任。米内光政が海軍大臣、山本五十六が海軍次官。米内光政・山本五十六・井上成美の三人を「海軍省の左派トリオ」「海軍左派三羽烏」などと称した。
米内・山本・井上の海軍省は日独伊三国同盟に反対するも時勢の流れは変えることはできなかった。

昭和19年7月、サイパン失陥により東條内閣は崩壊。予備役であった米内光政が現役に復帰し、小磯内閣副総理格で海軍大臣に就任。米内光政海軍大臣の懇請で井上成美は海軍次官に就任。海軍省人事局の高木惣吉少将を、海軍省出仕とし、米内ー井上ー高木のラインで、終戦のための研究・海軍の終戦工作が行われた。


東京の米内光政

昭和8年に佐世保鎮守府長官、昭和10年に横須賀鎮守府長官を歴任し、昭和11年12月に、連合艦隊司令長官に就任。
しかし艦隊司令としてわずか2か月後の昭和12年2月2日に、広田弘毅内閣のあとを受けた林銑十郎内閣の海軍大臣に就任。
このときの米内は軍政には興味がなく、連合艦隊長官をわずか2ヶ月で退任することを非常に渋ったというが、海軍次官であった山本五十六が前海軍大臣の永野修身、軍令部総長の伏見宮博恭王の同意を得て強く推薦し、米内光政海軍大臣が誕生した。山本五十六は海軍次官を留任し、永野修身は米内光政と入れ替わるように連合艦隊司令長官に就任している。

この昭和12年の海軍大臣就任以降、米内光政は、否が応でも軍政に携わざるを得なくなった。


米内光政と山本五十六

※山本五十六に関しては、別記事の「長岡散策」をまとめました。

日独伊三国同盟に断固反対の立場を貫く、海軍省は、海軍大臣米内光政、海軍次官山本五十六、軍務局長井上成美で「海軍省の左派トリオ」「海軍左派三羽烏」と称されていた。

山本五十六は、昭和10年12月に海軍航空本部長に就任。昭和11年2月の二・二六事件では、横須賀鎮守府長官の米内光政と連携し、岡田啓介首相救出などに尽力し、このときの米内の対応を高く評価し、永野修身が海軍大臣を辞任した際に、後任に米内光政を推薦している。

昭和12年1月に海軍次官に就任。永野修身海軍大臣が山本五十六の手腕を熱望したものであったという。2ヶ月後に、広田弘毅内閣が総辞職し、海軍大臣も永野修身から米内光政に変わった。
山本五十六は、米内光政海軍大臣の下で、海軍次官として、林内閣・第一次近衛内閣・平沼内閣と歴任する。
こうして結果として、米内光政の海軍大臣就任は、永野修身の最大の功績ともなった。

昭和14年8月30日、山本五十六は、海軍次官から連合艦隊司令長官(第26代)に異動となった。
これは、三国同盟に強硬に反対する山本が、三国同盟賛成派勢力や右翼勢力により暗殺される可能性を米内が危惧し、一時的に海軍中央から遠ざけるために発した人事であった。

昭和15年、第二次近衛内閣の海軍大臣及川古志郎、海軍次官豊田貞次郎は、海軍省と軍令部の省部合同会議で総論として三国同盟締結に傾き、9月15日の海軍首脳会議にて調印に賛成の方針が決定し、9月27日、日本は日独伊三国同盟に調印することになった。
奇しくも、及川古志郎は、米内光政の盛岡中学の後輩であった。

山本五十六は、そのまま連合艦隊司令長官を再任し(第27代)、開戦へと歩みをすすめることになる。

海軍甲事件
昭和17年4月18日、前線航空基地の将兵慰労のために前線視察を実施。山本五十六が搭乗した一式陸攻は、米軍機(P-38ライトニング)に補足され、襲撃・撃墜され、山本五十六は戦死した。59歳。

昭和6月5日に日比谷公園で、山本五十六の国葬が行われた。葬儀委員長は米内光政元首相。
皇族・華族以外の者が国葬に付された最初の例であり、かつ戦前唯一の例である。

多磨霊園の墓碑も、米内光政の筆によるものである。


最期の海軍大臣

昭和19年、東條英機内閣が倒れると、米内光政は予備役から現役に復帰し、小磯国昭内閣の海軍大臣(第24代)となった。
軍部大臣現役武官制度により、すでに予備海軍大将となっていた米内が、海軍大臣に就任するためには、現役復帰の必要があり、米内の復帰は、「天皇の特旨」による極めて異例な復活であった。
小磯と米内の2名で組閣大命を受けたことから、米内光政は副総理格として、「小磯・米内連立内閣」とも称された。
米内光政は、当時、海軍兵学校校長をしていた井上成美を中央に呼び寄せ海軍次官に就任させた。

昭和20年、鈴木貫太郎内閣にも海軍大臣として留任。
米内は、連立内閣であった小磯首相が辞職して、副総理格であった自分だけが大臣にとどまるのは道義上問題があるとしたが、井上次官が根回しをし、米内は留任せざるを得ない状況となっていた。

戦後、米内光政は、引き続き東久邇宮内閣・幣原内閣でも海相に留任して帝国海軍の幕引き役を務めた。

昭和20年11月30日。
海軍省最後の日。
幣原内閣において海軍省は廃止され第二復員省となったことから、米内光政は、日本で最後の海軍大臣となった。


米内光政海相と阿南惟幾陸相

阿南陸軍大臣と米内海軍大臣は、気質的な部分でなかなか反りが合わなかったが、終戦するという認識の方向性は一致しており、6月に鈴木首相の発言で国会が混乱した際は、米内海相が辞意を表明したところ、連日口論をしていた阿南陸相が米内に辞意を思いとどまるように説得をしている。
阿南自身も、戦争を終わらせる、国を救う内閣が鈴木内閣であることを理解しており、鈴木内閣を最期まで支えるために米内を説得したともいえる。

昭和20年8月15日、阿南惟幾は自決。
最期に、「米内を斬れ」との言葉をはっしたともいうが、その真意は不詳。

終戦に至る過程で激論を繰り広げてきた、米内海相は、阿南の自決を聞くと「我々は立派な男を失ってしまった」と語った一方で、「私は阿南という人を最後までよくわからなかった」と感想を残している。
阿南の自決直後、米内海相は誰よりも早く阿南の弔問に訪れている。


米内光政と鈴木貫太郎内閣(終戦内閣)

鈴木貫太郎内閣(第42代)は、昭和20年4月7日に成立。
終戦内閣として、戦争を終わらせた内閣。
鈴木貫太郎首相の下、米内光政は海軍大臣(第24代)を留任し、終戦のために尽力をした。


東京の米内光政邸宅跡

都内における米内光政の居住地跡を巡ってみたいと思う。
以下はメモとして。

・赤坂区青山南町
  昭和3年(1928)7月に居住の記録有り
https://jahis.law.nagoya-u.ac.jp/who/docs/who8-24727
・渋谷区竹下町
  昭和15年まで居住(首相就任時に転居)
・麹町区三年町
  昭和15年に国会近くの地の新宅に転居。
  なお、首相時代には、首相官邸には居住せず、
  私邸から国会に赴いていた。
  麹町三年町の私邸は空襲で焼失。
https://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000068037
・芝区白金台三光町 → 港区三田綱町
  仮遇として居住していたという
・目黒区富士見台1545
  終焉の地


麹町区三年町の米内光政私邸跡
(米内光政邸跡の石灯籠)

麹町区三年町。このあたりに、昭和15年の首相時代から昭和20年まで米内光政の邸宅があった。
米内光政の麹町区三年町の私邸は、昭和20年5月の空襲で焼失している。
そのときの空襲は、昭和20年5月25日の「山の手大空襲」と思われる。

麹町区三年町。現在の千代田区霞が関。

石灯籠のあるちいさな公園がある。
このあたりに、かつて米内光政の私邸があった。
東京の米内光政を記録する僅かな痕跡。

石灯籠の歴史
 この石灯籠は、永田町一丁目の岩手県東京事務所の敷地内にあったもので、岩手県のご好意により全国社会福祉協議会にご寄贈いただきました。

 終戦時この敷地は岩手県出身の総理大臣米内光政の邸宅となっていました。

 また、江戸時代は伊勢志摩を起源とする水軍の九鬼長門守の中屋敷跡でした。向かいあってもうひとつ上屋敷がありましたが、その前を通る坂は「茱萸(ぐみ)坂」と呼ばれていました。

 この石灯籠は形状から江戸中期のもので春日灯籠。九鬼家の中屋敷に伝わっていることから九鬼家由来のものであると考えられます。

 平成24年3月17日、永田町一丁目四番地から六本木通りを隔てて新霞が関ビル公開空地に移設いたしました。堂々たる風格でいかにも大名屋敷にふさわしい石灯籠です。
 全国社会福祉協議会

場所:ツツジの庭(新霞が関ビル公開空地)

https://maps.app.goo.gl/3m8dwzrsk1HRv8fTA

赤丸のエリアは推測。

時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」


芝白金三光町(米内光政仮遇の地)

昭和20年5月に、麹町三年町の私邸は空襲で焼失。
仮遇を芝白金界隈に構えていたという。
白金となると流石に何も痕跡はない。

奥は、ザ白金ゲストハウス。元は竹中工務店の福利厚生施設跡地(白金竹友クラブ)。
もとは海軍中将の真木長義男爵邸で、戦後は外務省白金分室(外務大臣公邸)だったこともある場所。

敷地の奥には、旧服部金太郎邸もある。
旧服部金太郎邸(服部ハウス)は、戦後にGHQに接収され、1945年12月から1年間、極東国際軍事裁判(東京裁判)に携わるジョセフ・キーナン首席検事ら10人の検事の住居となったほか、1948年8月からは東京裁判の判決文の翻訳作業が行われた。

米内光政の仮遇の地も、なんだか終戦史が絡んでくる。

時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」

場所

https://maps.app.goo.gl/iXG9Tzxb23wSdkGn8


富士見台(米内光政終焉の地)

米内光政の終焉の地。
環七通りの拡張に伴い、往時の面影は残っていないが、だいたい現在の目黒区南3丁目あたりに、米内光政の最後の私邸があった。

昭和23年(1948)4月20日。
米内光政は目黒区富士見台の自宅で68歳1ヵ月の生涯を終えた。
偶然にも臨終には、親交のあった緒方竹虎が立ち会っていた。(緒方竹虎は盛岡の墓石の揮毫にも携わっている)

昭和23年(1948)4月24日。
富士見台の自宅で、葬儀と告別式が行われた。
葬儀委員長は、山梨勝之進海軍大将。海軍の最長老であった。

戒名「天徳院殿仁海 光政大居士」

富士見台という地名は行政区分としては消えているが、公園やバス停に名前を残している。

赤丸のエリアが推測。

時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」

場所

https://maps.app.goo.gl/iXG9Tzxb23wSdkGn8

以上、米内光政の足跡を辿る所縁の地の散策記録でした。


※撮影:2023年8月

「ユダヤ人難民と北海道を救った将軍・樋口季一郎陸軍中将」顕彰碑と墓所(神奈川)

「ユダヤ人救出」「キスカ撤退」「占守の戦い」3つの奇跡を成し遂げた樋口季一郎陸軍中将。

ユダヤ人難民救出と言えば、「命のビザ」を発行した外交官・杉原千畝が有名であり、ユダヤ民族に貢献した人を記したエルサレムの「ゴールデンブック」には、杉原千畝と樋口季一郎の2名の日本人の名前が記されている。

しかし、樋口季一郎の知名度は杉原千畝と比べ、圧倒的に低いが、樋口季一郎は、杉原千畝の「命のビザ」の発行の2年前に「ヒグチ・ルート」と呼ばれた脱出ルートを手配しユダヤ難民の救出を実施している。

神奈川県に、そんな樋口季一郎に関連するモニュメントがあるので、足を運んでみた。


樋口季一郎之碑

鎌倉市山ノ内の円覚寺の塔頭・龍隠庵に、2023年5月21日に建立された顕彰碑。
建立されたばかり。

樋口季一郎碑

八風吹不動

日本国民に誇り伝えたい
陸軍中将樋口季一郎の功績

救国
昭和20年8月18日、終戦後にも拘わらず北海道占領を目論み占守島に進行したソ連軍を、第五方面軍司令官として撃破し、日本国の分断を未然に阻止した。
キスカ島救出作戦
昭和十八年、米軍に包囲されたキスカ島の日本軍将兵約五千人の救出を、北方軍司令官として大本営に意見具申し、同年七月、作戦は奇跡的に成功した。
ユダヤ難民の救済
昭和十三年三月、ナチスドイツの迫害を逃れオトポール駅(シベリア鉄道)に到達したユダヤ難民を、ハルピン特務機関長として救済した。この脱出路は「ヒグチ・ルート」と呼ばれ、その後も、多くの人命が救われた。

円覚寺龍隠庵の太田周文住職による、八風吹不動とは「八風(はっぷう) 吹けども 動ぜず」と読む禅語。

https://rarea.events/event/190387

円覚寺龍隠庵への参道

円覚寺


樋口季一郎

樋口季一郎(ひぐちきいちろう)
1888年〈明治21年〉8月20日 – 1970年〈昭和45年〉10月11日)
最終階級は陸軍中将。兵庫県淡路島出身。
陸士21期、陸大30期。
歩兵第41連隊長、第3師団参謀長、ハルピン特務機関長、第9師団長等を経て、第5方面軍司令官兼北部軍管区司令官を務める。

「3つの功績」(3つの奇跡)。
1.ハルピン陸軍特務機関長であった樋口は、ドイツによるユダヤ人迫害を逃れたユダヤ避難民に満洲国通過を認め、「ヒグチ・ルート」と呼ばれた脱出路を用いて、亡命の手助けを実施(オトポール事件)

2.北部軍司令官として、北東太平洋の陸軍を指揮。大戦中は麾下の部隊がアッツ島の戦いで玉砕するも、キスカ島撤退作戦を成功させる。

3.ソ連対日参戦に対する徹底抗戦(樺太の戦い、占守島の戦いなど)を行い、8月15日以降も防衛戦を指揮しソ連軍の北海道上陸を阻止。北海道の赤化分断を挫くことに成功した。

戦後は隠棲し昭和45年(1970)老衰のために82歳で死去。


樋口季一郎の墓

神奈川県中郡大磯町東小磯の妙大寺。
ここに樋口季一郎の樋口家の墓がある。
樋口季一郎は居住地を転々としており、大磯にも住んでいた時期があった。

樋口季一郎の墓。

樋口家の墓としか、記載はない。

樋口季一郎の戒名は「真如院殿伯堂日季居士」
右から4番目。

墓碑は、1971(昭和46)年10月に樋口季一郎の長男の樋口季隆氏が樋口季一郎の死去に際して建立したもの。


ーーーーー

余談だが、妙大寺には、ほかにも著名人の墓がある。樋口季一郎の墓の隣は、福田恆存の墓。福田恆存(ふくだつねあり)の「私の國語教室」は昔、読んでいました。正字正仮名(歴史的仮名遣い)を学ぼうと思ったときもありましたので。

そして、ひときわに目立つのが、大磯の発展に寄与した松本順の墓。松本順に関しては、別記事を書く予定はある、、、

妙大寺


樋口季一郎の顕彰

神奈川以外にも、全国に樋口季一郎を顕彰するモニュメントがある。
機会があれば、足を運んでみたい。

  • 大垣城丸の内公園
    イスラエル大使館が樋口季一郎を顕彰し寄贈したオリーブの木がある。樋口季一郎は大垣に本籍を置いていた時期があった。(大垣の樋口家に養子となった)
  • 北海道石狩市「樋口季一郎記念館」
  • 兵庫県淡路市・伊弉諾神宮「樋口季一郎中将銅像」
    樋口季一郎は現在の南あわじ市出身。

大垣市「オリーブの苗木」

大垣出身の会社の後輩が帰省した際に、大垣市の丸の内公園にある「オリーブの苗木」の写真を撮ってきてくれました。
自分で行って撮影するまでのあいだは、後輩の写真を使用させていただきます。
ありがとうございます。

苗木No3,4
 平成21年12月8日に杉原千畝と同様にユダヤ人を支援した樋口季一郎が、大垣市に30年間籍を置いていたことを知った当時の「イスラエル駐日大使」から大垣市に寄贈されました。

※2024年6月に大垣に訪問したので、写真を追加。

場所

https://goo.gl/maps/VvcQj6zv7BuGfx787
※この項目のみ2023年8月撮影および2024年6月


大恩人(令和5年の「みたままつり」)

日本画家 佐藤宏三 氏 が、令和五年(2023)の靖國神社みたままつりに奉納した雪洞、なんと樋口季一郎陸軍中将でした。

制作過程の詳細が、公式サイトに掲載されております。

https://kozo-sato.art/mitama_festival_bonbori_2023/

ありがとうございます。
※撮影:2023年7月


関連

早稲田大学に、「命のビザ(杉原ビザ)」を発行した杉浦千畝のレリーフがある。

板垣退助銅像と板垣退助墓所

青梅に赴いたときに、地図を見ていたら「板垣退助の銅像」と記載があり。
気になったので、赴いてみました。
板垣退助の墓所は、品川に何度か足を運んでいたこともありましたので、せっかくなので一緒に掲載。


板垣退助

天保8年4月16日、4月17日(1837年5月20日もしくは5月21日) – 大正8年(1919年)7月16日。
日本の政治家、軍人としては土佐藩陸軍総督。土佐藩士。
従一位勲一等伯爵。
明治維新の元勲、自由民権運動の指導者。

天保8年4月16日、4月17日(1837年5月20日もしくは5月21日) – 大正8年(1919年)7月16日。
日本の政治家、軍人としては土佐藩陸軍総督。土佐藩士。
従一位勲一等伯爵。明治維新の元勲、自由民権運動の指導者。
東アジアで初となる帝国議会を樹立。
「国会を創った男」。
伊藤博文、大隈重信と並ぶ「憲政の三巨人」の一人。(国会議事堂内に3人の銅像もある。)
国防を重視し、近代日本陸軍創設功労者の一人でもある。

岐阜遭難の時に発せられた「板垣死すとも自由は死せず」の言葉は著名。

板垣退助の銅像

全国に、板垣退助の墓は下記の6ヵ所であるが、芝公園は現存していないので、実質は5ヵ所となる。
・国会議事堂
・芝公園(戦時供出で焼失)
・青梅釜の淵公園(昭和36年建立)
・岐阜公園(板垣遭難の岐阜事件にちなむ、戦時供出され、現在は2代目)
・高知城(出身地、戦時供出され、現在は2代目)
・日光東照宮(戊辰戦争で戦禍を回避した縁、戦時供出され、現在は2代目)


板垣退助銅像(青梅)

青梅市の釜の淵公園に。

明治時代に三多摩自由党の有志が、党首板垣退助を対岸の大柳河原に招いて鮎漁を楽しんだという。
それを記念して、昭和36年(1961)5月3日に建立したもの。

板垣死すとも自由は死せず
 大野伴睦書

自由民権確立のため其の生涯を捧げ、今なお憲政の父と仰がるる板垣先生、かつてこの地に遊ぶ。多摩の老政客・岩浪光二郎翁つとに先生を景慕すること厚く、その偉業を顕彰。以て高風を永く後世に伝えんとす。
ここに先生ゆかりの地を卜し、同志協力してこの像成る。
 昭和三十六年五月
  板垣退助先生銅像建設会
   設計作成 松野伍秀

多摩川の上流。風光明媚な景観。

場所

https://goo.gl/maps/2pNjBG2e5sRiU2RS9


板垣退助像(日光)

戊辰戦争に際して、日光に立てこもった大鳥圭介ら旧幕府軍を説得し日光を兵火から守った。
昭和4年の像は、金属供出され、昭和42年に再建。
2023年9月撮影。

神橋の近く


板垣退助像(岐阜)

工事中でしたので、望遠にて。(2023年9月)

明治15年(1882年)4月6日、板垣退助暗殺未遂事件。
岐阜遭難の時に発せられた「板垣死すとも自由は死せず」の言葉は著名。

岐阜城の近く。


板垣退助像(国会議事堂)

あまり興味のなかった2017年の撮影。これは取り直し、しないといけません。。。。

大日本帝国憲法施行五十周年を記念して1940年の建立。北村西望作。


板垣退助墓

高源院飛び地。
わかりやすくいくと品川神社の裏。
むかしから何故に品川神社の裏にあるんだろと思っていたが、もともと高源院という寺院があったんですね。高源院は、品川東海寺の塔頭であったが、関東大震災で被災し、昭和14年に世田谷区に移転している。寺院が世田谷に移転したのちも、板垣退助の墓所はそのまま高源院の飛び地として品川に残されている。
そのため、品川神社とは関係ない。。。

板垣退助の地元の高知県にも墓所はあるけど、こちらは東京の墓所。

邦光院殿賢徳道圓大居士

大正八年七月十六日薨 享年八十三

従一位勲一等伯爵板垣退助之墓

板垣退助の墓は第4正妻・板垣絹子と並んで建てられている。

品川区指定史跡
 板垣退助墓
  所在 北品川三丁目七番十五号 品川神社裏
  指定 昭和五十三年十一月二十に日(第四号)
 板垣退助は、天保八年(一八三七)に土佐(高知県)で生まれた。幕末に藩主山内豊信の側用人となるが、倒幕運動や戊辰戦争(一八六八)に参加して功績をあげた。明治七年(一八七四)に愛国公党を結成し、自由民権運動をおこした。明治十四年(一八八一)には自由党を結成して総裁となり、近代日本の政党の基礎を築いた。翌年、岐阜遊説中に刺客に襲われたとき、「板垣死すとも自由は死せず」と叫んだことばは、当時の若者達を感激させ湧わかせた。明治二十九年(一八九六)から伊藤内閣や大隈内閣の内相をつとめたが、明治三十三年(一九○○)に政界を引退した。大正八年(一九一九)に亡くなり、この地に葬られた。
  平成七年三月三十一日  
    品川区教育委員会

板垣
 死すとも
自由は
 死せず
   自由民主党
    総裁佐藤栄作書

明治100年及び板垣退助50回忌を記念して建立。

https://goo.gl/maps/QBbxsNPNm3wpdvHd7


品川神社

現在、板垣退助の墓は品川神社を経由しないと訪れることができない。
しなし板垣退助の墓所は品川神社の境内ではなく、高源院の飛び地。

品川神社は関係ないけど、絶対の通り道なので、、、

戦跡として。もはや、板垣退助とはなんら関係ないけど。

忠魂碑(品川神社)

この忠魂碑は明治43年4月に品川町在郷軍人会が日清日露戦争における戦没者の慰霊のため乃木大将の揮毫により当時の東海小学校構内に建立された 其の後昭和7年9月に権現山公園(現城南中学校校舎前)に移し 日支事変・大東亜戦争の戦没者をも加えて慰霊を行なってまいりました。
 昭和20年終戦後占領軍の命令により撤去させられましたが 北品川三丁目田島卯之吉氏が引き取られ千葉県南行徳の源心寺に移され慰霊を行なってまいりました。
 この度源心寺及び田島孝作氏のご厚意により終戦50周年記念事業として品川神社に引き取らせて頂き戦没者の追悼慰霊祭を執り行い平和の尊さを後世に伝えて行きたいと存じます
 平成7年7月15日
   宮司 小泉和夫 識

撮影:2022年3月及び2023年1月


関連

伊藤博文公墓所

「平和外交を尽力し続けた隻脚の名外交官」(重光葵記念館・湯河原)

湯河原駅からバスに揺られて終点の奥湯河原バス停から、数分歩いたところに、私設の記念館があった。

重光葵記念館

「重光葵記念館」
「昭和の動乱」を第一線の外交官として活躍し、終戦時には日本全権として降伏文書に調印。日本の戦争を幕引きし、そして戦後日本を国際連合加盟のために尽力した外交官「重光葵」が、その最後を過ごした別荘(保養所)のあった場所。
そこに、重光葵の次男、重光篤氏が、2000年に開設したのが、「重光葵記念館」。

重光葵記念館

http://contra99.ojiji.net/index.html

産経新聞記事

https://www.sankei.com/article/20140810-3GXA64WRCVKTHJLLLQD27R7QFA/

神奈川新聞記事

https://www.kanaloco.jp/news/life/entry-19643.html

開館の日時は要注意。

金曜日 1200-1700
土曜日 1000-1700
日曜日 1000-1300

記念館内は撮影禁止。

展示品の一部は、サイトでも確認できる。

http://contra99.ojiji.net/tenjihin/index.htm

重光葵が、ここ一番の大事なときに使用した義足「恩賜の義足」(皇太后(大正天皇の貞明皇后)より賜った)も展示してある。また、重光葵の写真や手記などとともに昭和の動乱期の事象が時系列で展示。重光葵の書斎や、外交官時代の旅行鞄などもある。そして、重光葵に関する動画を視聴させていただくこともできた。ありがとうございます。

邸宅は、重光葵の頃からは、さすがに建て替えられています。


以下、多くを「平和への努力 重光葵の生涯」(重光葵記念館発行)を参照する。

重光 葵 (しげみつ まもる)

葵と書いて「まもる」(あおい ではない)

重光葵 
1887年〈明治20年〉7月29日 – 1957年〈昭和32年〉1月26日)
上海事変当時の駐華臨時代理公使。上海での天長節遙拝式場にて爆弾により右足を失う。
のち外務次官として対華問題に取り組み、張鼓峰事件時の駐ソ大使、そして二次世界大戦開戦時の駐英大使。
東条・小磯・東久邇宮内閣時の外相。降伏時の日本首席全権。戦後は改進党総裁。
鳩山一郎内閣副総理・外相として日ソ共同宣言・国連加盟を果たすなど、「昭和の動乱」を駆け抜けた第一級の外交官であった。

駐華公使での上海天長節爆弾事件
昭和7年1月28日に上海事変(第一次上海事変)が勃発。
なんとか停戦協定をまとめ、あとは調印を残すだけとなった、昭和7年4月29日、上海での天長節祝賀式典において、朝鮮テロリスト尹奉吉の爆弾攻撃に遭い重傷を負う(上海天長節爆弾事件)。なお、参列者は、爆弾が投げつけられた際も逃げることなく微動だもしなかった。これは「国歌君が代」斉唱中であったということもあった。
即死
 上海居留民団行政委員会会長 医師河端貞次
重傷
 上海派遣軍司令官 白川義則大将(翌月5月26日に死亡)
 第9師団長 植田謙吉中将(足指切断)
 第3艦隊司令長官 野村吉三郎海軍中将(右眼を失明)
 在上海公使 重光葵(右脚を失う)
 在上海総領事 村井倉松

この事件の7日後の5月5日、重光葵は、右脚切断手術の直前に上海停戦協定の署名を果たす。右脚切断の大手術のあとは、別府温泉で静養するも、昭和8年5月には外務次官に就任している。昭和11年の2・26事件の際も外務次官の要職にあった。岡田圭右内閣辞職後に、外部大臣であった広田弘毅が首相に任命されたのを期に、重光葵は、ソビエト駐在大使に任命となった。

写真参照元

駐ソ大使での張鼓峰事件
重光葵が駐ソ大使としてシベリア鉄道経由でモスクワに着いた日が昭和11年(1936)11月25日であった。奇しくもこの日に「日独防共協定」が調印。日本とドイツが共産主義インターナショナル(コミンテルン)に共同で対抗するとあっては、ソビエトはまったく歓迎できない空気感のもとでの重光の着任であった。
昭和13年(1938)7月29日、張鼓峰事件が勃発。ソビエトのリトヴィノフ外相との折衝で停戦協定は成立したが、このときに重光葵はソ連に睨まれ、のちの東京裁判で、ソ連側から張鼓峰事件の責任者として戦犯指名されることにもなってしまう。

駐英大使での日独伊三国同盟
張鼓峰事件ののち昭和13年10月に駐英大使として、モスクワを離れロンドンに着任。支那事変拡大の影響もあり、日英関係も悪化していた。
昭和14年(1939)9月1日、ドイツはポーランドに侵攻、英仏はドイツに宣戦布告し、第二次世界大戦が勃発。1940年5月にはチェンバレン内閣の海相であったチャーチルが首相に就任し、英国では挙国一致内閣が成立となった。
日本では、陸軍主導でドイツへの接近が強まり、日独伊三国同盟が駐独大使の大島浩中将によって進められていた。
昭和15年(1940)9月、欧州の情勢をつぶさに報告し、日独伊三国同盟の危険性を指摘し警笛を鳴らしていた重光葵駐英大使の声も虚しく、第二次近衛内閣は、東條英機陸相、松岡洋右外相のもとに、日独伊三国同盟を締してしまう。
駐英大使として、英国チャーチル首相と親交を深めていた重光葵であったが、イギリスでの外交は完全に手詰まりとなり、昭和16年(1941)6月に英国を離れ、アメリカ経由で7月20日日に鎌倉丸で日本へ帰国した。

外務大臣での大東亜憲章(大東亜共同宣言)
昭和16年(1941)12月8日、太平洋戦争開戦。
日本に帰国していた重光葵は、昭和16年12月19日に駐英大使を被免となり、駐華大使として南京に赴任。
重光葵は、米国ルーズベルト大統領と英国チャーチル首相の大西洋憲章を意識した大東亜憲章の構想を練り、大東亜憲章のもとにアジア各国の共同機関「大東亜機構」を作り、協力体制を確立する計画であった。
昭和18年4月に、日本に帰国し上京した重光葵は「大東亜憲章」を東条首相に進言。その夜に首相官邸より呼び出しがあり、谷外相が辞表を出したということで、重光葵は外務大臣に就任。
重光外相は東条首相の大東亜省設置には反対をするも、自らの大東亜憲章構想に奔走し、昭和18年(1943)11月、大東亜共同宣言として、実現し、大東亜会議が開催となった。
大東亜共同宣言の内容は、軍部からの異論を抑えるために、重光外相が、直接に東条首相に提出しており、「1.大東亞各國ハ協同シテ大東亞ノ安定ヲ確保シ道󠄁義ニ基ク共存共榮ノ秩序ヲ建設ス」に始まる5条は、大東亜各国の自主独立、民族の創造性、文化高揚、経済発展を謳ったものであり、重光外相には、和平や戦後構想にむけて、長年欧米諸国の植民地として搾取されていた各国の独立構想が織り込まれていたものであった。
昭和19年7月19日、東條内閣は戦局の悪化と重臣による倒閣運動により総辞職。小磯国昭内閣が成立。東條英機の後任は難航し、陸軍大将を専任順に選考するも、寺内寿一、畑俊六は断られ、3番手の小磯国昭陸軍大将に落ち着く。しかし小磯は政界に疎く政治基盤もないために指導力不足が懸念されたため、総理経験者の米内光政海軍大将を副総理格として起用し、重光葵は引き続き外相に就任した。

終戦工作
小磯内閣が、中国国民党政府との和平工作(繆斌工作)に失敗したため、内閣総辞職すると、重光葵も外相を辞任。
三番町の自宅は5月25日の空襲で焼失していたために、日光の別荘に疎開。
昭和20年8月に、木戸内大臣より外務省を通じて、東京に来るように依頼があり、8月8日に上京。木戸内大臣や近衛元首相たち重臣たちと終戦に向けての工作に奔走することになる。

日本全権での降伏文書調印
「不名誉の終着点ではなく、再生の出発点」

鈴木貫太郎内閣は昭和20年(1945)8月15日に終戦を決定し、総辞職。後継は、軍部の暴走を抑えるための宮様内閣として東久邇宮稔彦王内閣となった。
重光葵は、3度めの外務大臣に就任。終戦処理を担う外務大臣となった。

降伏文書調印式の日本全権は、天皇及び日本政府を代表して重光葵外相、大本営を代表して梅津美治郎参謀総長。
昭和20年9月2日、重光葵全権が早朝に詠んだ心境。
 ながらへて甲斐ある今日はしも
  しこの御楯と吾ならましを
上海の爆弾事件で失っていた命を永らえて、今日は 天皇の御楯として調印式へと向かう重光は、終戦反対の国家主義者にいつおそわれてもおかしくないなか、東京湾のミズーリ号に乗艦するするために横浜に向かった。

ミズーリ号艦上での調印式。

写真参照元

外務省外交史料館別館で展示されている降伏文書(原本特別公開)


調印の心境を、重光は以下のように詠んでいる。
 願わくは御国の末の栄え行き
  我が名さけすむ人の多きを

「降伏文書に調印した自分のような恥ずべき外相が蔑まれるような、栄えある日本になってほしい」との意を込めた、志の高い名外交官による屈辱的でもあり歴史的でもあった大きな一幕であった。

軍政施行中止要望
調印式が終わって、帰郷した重光全権は、東久邇宮首相に報告をしたのちに、参内して 天皇にも委細を奏上。その夜に。外務省からの通報で、GHQは、占領下においても日本の主権を認めるとしたポツダム宣言を反故にし、行政・司法・立法の三権を奪い軍政を敷き、軍票を使用させ、公用語も英語にする方針であることがわかった。
重光外相は翌日朝に、再び横浜赴き、旧横浜税関のGHQ総司令部でマッカーサーと面談。「占領軍による軍政は日本の主権を認めたポツダム宣言を逸脱する」「 天皇は、受諾したポツダム宣言を忠実に履行する決意がある。日本国民の崇敬する天皇の指令する日本政府を通じて、占領政策を実行するのが一番の方法だ」と軍政布告の取り下げを要求し、その結果、占領政策は日本政府を通した間接統治となった。
昭和20年10月5日、東久邇宮内閣は総辞職。元外相の幣原喜重郎内閣が成立。重光葵も外相を離れ日光から鎌倉に転居。

A級戦犯
昭和21年(1946)4月13日に来日したソ連代表検事セルゲイ・A・ゴルンスキーが、ジョセフ・キーナン主席検事に対して、東條内閣・小磯内閣の外務大臣であった重光葵をA級戦犯にするように強硬に要求。GHQは、重光を戦犯起訴するつもりはなかったが、ソ連の揺さぶりに屈する形で要求を容認せざるを得ず、重光葵は昭和21年4月29日の起訴当日に逮捕起訴され、巣鴨プリズンに連行となった。奇しくも天長節の4月29日は、重光が右脚を失った日でもあった。
2年半を要した軍事裁判は、昭和23年11月12日に判決が言い渡され、東條英機以下7名が絞首刑となる。この中には文官として元首相で重光にとっては外務省の先輩に当たる広田弘毅も含まれていた。東郷茂徳元外相は禁錮20年、そして重光葵は禁錮7年と一番軽く、その他は終身刑であった。
重光は、A級戦犯の中では最も軽い禁錮7年ではあったが、日本だけではなくアメリカでも重光は無罪と予想されてたなかでの有罪判決は、ソ連に対する政治的な妥協があったとも批評されている。
重光は、4年7ヶ月の服役後で、昭和25年(1950)11月21日に巣鴨拘置所を仮出所(減刑保釈)。昭和27年(1952)に講和条約(サンフランシスコ平和条約)の発行後に恩赦により刑の執行を終了となった。

改進党総裁
吉田茂の自由党に対抗する第二の保守として、昭和27年6月、改進党の元首相芦田均(重光の外務省時代の同僚)の要請があり、重光は改進党総裁に就任。
昭和28年には、自由党の吉田茂と鳩山一郎が分裂。
昭和28年11月24日に、鳩山一郎を総裁とし、重光葵を副総裁、幹事長を岸信介とする「日本民主党」が設立し、吉田茂内閣不信任案を提出。第5次吉田内閣は総辞職となり、鳩山一郎内閣が成立。重光葵は、4回目の外務大臣、そして副総理となった。

国連加盟と「東西の架け橋」
鳩山内閣では、「日ソ交渉」と「国際連盟への加盟」が大きな課題であった。
重光外相は、昭和31年(1956)7月に全権としてモスクワでソ連との交渉を行うが領土問題で交渉は難航。重光葵は対ソ強硬論であったが、鳩山一郎は日ソ国交回復を最優先する方針であった。
10月に鳩山一郎首相によって「領土問題は棚上げ」しての「日ソ共同宣言」が調印。日ソ国交回復が実現した。(なお、日ソないし日露での平和条約は現在においても未締結。)

昭和31年(1956)12月18日、これまではソ連の反対で加盟できなかったが、共同宣言締結によってソ連の支援を得られることにより、国連総会は、加盟国の全会一致で、日本の国連加盟を承認した。
重光葵外相は、12月18日の総会の、加盟の謝辞とともに、有名な演説を行った。
 わが国の今日の政治、経済、文化の実質は、過去一世紀にわたる欧米及びアジア両文明の融合の産物であつて、日本はある意味において東西のかけ橋となり得るのであります。このような地位にある日本は、その大きな責任を充分自覚しておるのであります。
 私は本総会において、日本が国際連合の崇高な目的に対し誠実に奉仕する決意を有することを再び表明して、私の演説を終ります。
これが、後世にのこる有名な「東西の架け橋」演説となる。

外務省サイト

https://www.mofa.go.jp/mofaj/press/enzetsu/18/esm_1218.html

終焉
昭和31年12月23日、第三次鳩山一郎内閣が総辞職。石橋湛山内閣が成立。重光も辞任し、後任の外相は岸信介となる。
日本に帰国した重光は、昭和32年の正月を郷里の大分県国東で過ごした。
帰京して、湯河原の別荘で静養をしていたが1月26日夜半に、狭心症の発作を起こし急逝した。69歳だった。

 霧は晴れ 国連の塔は輝きて
  高くかかげし 日の丸の旗 

日本の国連加盟が承認され、本部前に初めて日の丸が掲揚された様を詠んだ句が辞世となった。
重光は、国連演説の後、加瀬俊一初代国連大使に「ありがとう。もう思い残すことはない」と言い残し、そのわずか一ヶ月後にこの世を去ってしまった。

墓は大分県国東市安岐町にある。安岐町には、重光葵元外務大臣の遺徳を偲び、後世にその功績を伝えるために建立された「山渓偉人館」もある。また、杵築市には重光邸「無迹庵」も残っている。
葵(あおい)は中国では向日葵(ひまわり)を意味し、「向陽」と号していた。
地元の大分県国東市安岐町では遺徳を偲び命日に「向陽祭」が執り行われている。

「志四海」
「四海を志す。志が全世界を覆う。志を全世界に及ぼす。」という意味。重光が常に胸に留めていたこの言葉は、今も重光葵記念館や母校の大分県立杵築高等学校に残されている。


機会あれば、大分の重光関連の土地にも訪れたいものです。
※撮影:2023年2月


関連(湯河原)


関連(昭和外交)


浦賀ドックのきっかけとなった「中島三郎助招魂碑」と横須賀最古の公園「浦賀園」(愛宕山公園)

「浦賀ドック」の浦賀船渠が創立したきっかけが、浦賀奉行所の与力であった中島三郎助。その慰霊碑がある愛宕山に行ってみる。


愛宕山公園

横須賀で一番古い公園という。

愛宕山公園
 明治24年(1891)に開園したしないで一番古い公園で、「浦賀園」と呼ばれていました。
 浦賀奉行所与力・中島三郎助の招魂碑が建立され篆額の題字は榎本武揚によって書かれました。開園に出席した人たちの提唱よって浦賀船渠㈱が創設された話は有名です。
 咸臨丸出航の碑には乗組員全員の名が刻まれています。
 与謝野鉄幹・晶子の歌碑は、浦賀を訪れた時に詠んだものです。
 江戸時代には鐘撞堂があり、町中に時刻を知らせていました。
  浦賀行政センター市民協働事業・浦賀探訪くらぶ

浦賀園の入口。

えーっと。道がない。
夏場に来ては駄目なところでした。

強行突破しました。。。

夏以外に訪れることをおすすめします。。。

ヤブを抜けた先の開けた場所に記念碑がありました。


咸臨丸出航の碑

市制施行70周年記念
横須賀風物百選
咸臨丸出航の碑
 嘉永6年(1853)6月3日、米国水師提督ペリーが、黒船四隻を率いて、浦賀湾沖に現れました。我が国との貿易を進めることが目的でした。当時、我が国は、長崎を外国への門戸としておりました。それが、江戸近くに現れたから大変です。「泰平の眠りをさます上喜撰たった四はいで夜も寝られず」当時流行した狂歌が、世情の一端をよく物語っています。
 7年後の安政7年(1860)幕府は、日米修好通商条約批准書交換のため、米軍艦ポーハタン号で新見豊前守正興を代表とする、使節団をワシントンへ送ることにしました。幕府は万が一の事故に備えて、軍艦奉行・木村攝津守喜毅を指揮者に、勝麟太郎以下、九十有余名の、日本人乗組員で、運航する、咸臨丸を従わせることにしました。
 1月13日、日本人の力で、初めて太平洋横断の壮途につくため、咸臨丸は品川沖で錨を上げました。途中、横浜で難破した、米測量船クーパー号の選任11名を乗せ、16日夕刻、浦賀に入港しました。それから2日間、食糧や燃料その他の航海準備作業が行われました。意気天をつく若者たちを乗せた、咸臨丸は、1月19日午後3時30分、浦賀港を出帆しました。不安に満ちた初めての経験と、荒天の中を39日間かけて、咸臨丸は無事サンフランシスコに入港しました。米国での大任を果した咸臨丸が、故国の浦賀に帰港したのは、家々の空高く鯉のぼりの舞う、万延元年(1860)5月5日でした。
 この碑は、日米修好通商百年記念行事の一環として、咸臨丸・太平洋横断の壮挙を永く後世に伝えるため、サンフランシスコに建てられた「咸臨丸入港の碑」と向い合うように、ゆかりの深い、この地に建てられたものです。
 なお、この愛宕山公園は、明治26年開園で、市内最古の公園です。また、彼方に建つ、招魂碑の主・中島三郎助は、咸臨丸修理の任にあたったことがあります。

咸臨丸出航の碑

日米修好通商百年を記念して昭和三十五年に建立。
碑は船型、材質は花崗岩。

裏面には乗組員の名が刻まれている。
軍艦奉行 木村摂津守喜毅
教授方頭取 勝麟太郎
通弁役 中浜万次郎
奉行従者 福沢諭吉、ほか


愛宕山公園

広場にたどり着くも、とにかく草がひどい。
何度も記載するが、夏はやめときましょう。


中島三郎助の招魂碑

横須賀市指定 市民文化資産
中島三郎助招魂碑
明治24年、彼を追慕する浦賀の有志によって建てられたもので、篆額は、当時の外務大臣・榎本武揚の筆である。愛宕山公園は、この碑の建立の際に整備された。

榎本武揚の篆額

中島君招魂碑

浦賀コミュニティセンター分館(浦賀郷土資料館)に拓本がある。

浦賀奉行所与力
中島三郎助生誕200年祭
令和3年(2021年)1月25日
中島三郎助と遊ぶ会

中島三郎助の生涯
 中島三郎助は、幕臣であることを貫き通して49年の生涯を終えた。その中島が見習うべき人物としたのは、鎌倉時代に源頼朝に生涯を捧げた三浦大介義明であった。
 文政4年(1821年)21月25日に浦賀で生まれ、三郎助で8代目となる奉行所の与力の家系であった。

  天保6年(1835年)閏7月、15才で奉行所の与力見習いとして出仕した。見習いに出仕するまでに槍術・剣術ともに当時砲術三派であった田付流・荻野流・集最流をすでに学んでおり、後に西洋式の高島流まで含めてすんべて免許皆伝となっている。
 この砲術の腕前は、天保8年(1837年)6月に浦賀沖に来航したアメリカ商船・モリソン号に観音崎台場から砲撃を加え、打払っている。この時の功績で、浦賀奉行・大田資統から太刀を拝領した。
 また、この年岡田定十郎の娘・すず(15才)と結婚している。

 嘉永2年(1849年)6月、父の跡を継ぎ与力となった。翌年7月には館浦にあった「玉薬製造所」の責任者を勤めていたが、足軽役の者の過失から製造所と隣接の船蔵が焼失す、その責任から謹慎処分を受けた。

 嘉永6年(1853年)6月、アメリカ東インド艦隊のペリーが率いる2隻の蒸気軍艦と2隻の帆走軍艦が来航すると、応接掛として最初に黒船に乗り込み交渉した。もっとも中島の関心は最新鋭の蒸気軍艦には装備されていると思われる炸裂弾を発射できる大砲を検分することにあった。
 ペリー来航後、幕府に提出した上申書には、今は海外諸国の知見を養うことが大事であると述べており、力の差を見せつけられた中島ならではの提言であろう。

 幕府も軍艦の必要性を実感し、浦賀奉行所へ軍艦建造を申し付けた。この軍艦・鳳凰丸は日本人の手による最初の洋式軍艦であり、その中心人物となったのが三郎助であった。しかも9ヶ月というスピードで翌年5月に完成させている。
 こうした三郎助の活躍は広く知れ渡り、長州藩の桂小五郎(後の木戸孝允)が三郎助のところに弟子入りしている。三郎助は幕府が長崎に開いた海軍伝習所へ派遣され、オランダ人から造船や洋式砲台の建設などを習得した。

 安政5年(1858年)長崎から戻った三郎助は、幕府海軍の草創期に活躍し、多くの後輩を指導している。
 また和歌や俳句を通じて、浦賀周辺の人々とも交流をもっていた。
 戊辰戦争が始まると榎本武揚らとともに北海道にわたり、ここに新しい国(中島のなかでは新徳川幕府)づくりに親子で参加したが、新政府軍の攻撃を受け、函館五稜郭近くで1869年5月15日桓太郎・英次郎ともに戦死した。
 
 明治23年(1890年)5月、名誉が回復され、浦賀の人々の手によって「招魂碑」が建てられた。その除幕式で中島の意思を継ぐ造船所の建設が提案されて、浦賀船渠が発足した。

中島三郎助
 明治2年(1869)5月、旧幕府軍と新政府軍の最後の戦いが函館郊外の五稜郭近くで行われた。この戦いで浦賀奉行所与力・中島三郎助親子は戦死した。三郎助の二十三回忌にあたり、彼の功績と名誉を浦賀の町に末永く残すことを目的に、彼とともに激動の明治維新期を生きた友人、知人たちによって建てられたのが真向かいにある中島三郎助招魂碑である。碑の篆額(題辞)は三郎助と公私ともに親交があり五稜郭で共に戦った榎本武揚が記し、激動の時代を象徴するような彼の人生を表したのは当時の外務官僚の田辺太一である。また、この碑の除幕式の日、初代の中央気象台長であった荒井郁之助の発案で、三郎助の意思を継いだ近代造船所を浦賀の地で開業することが決定した。

招魂碑建碑由来碑

同じく、浦賀コミュニティセンター分館(浦賀郷土資料館)に拓本がある。

浦賀コミュニティセンター分館(浦賀郷土資料館)

浦賀ドックや浦賀の歴史を、調べようとすると、この中島三郎助にたどりつく。いままで知るよしもなかったことをこうして新たに知れるのが楽しい。


与謝野夫妻歌碑

良さの夫妻の歌碑もあった。

黒船を怖れし世などなきごとし 
 浦賀に見るはすべて黒船
               寛
春寒し造船所こそ悲しけれ 
 浦賀の町に黒き鞘懸く
               晶子

昭和10年3月3日に与謝野夫妻が観音崎・浦賀・久里浜を訪れている。与謝野寛は同年3月26日に亡くなっているため、生涯最後の歌のひとつといわれている。

愛宕山から海を望む。
夏はやめといたほうが良いですね。(大事なことなので何度も書きます)


関連

https://www.city.yokosuka.kanagawa.jp/2752/uraga_walk/nisi7.html

https://www.city.yokosuka.kanagawa.jp/2120/g_info/l100004024.html

https://www.city.yokosuka.kanagawa.jp/2120/g_info/l100004001.html

https://routemuseum.jp/theme/g05/

https://www.city.yokosuka.kanagawa.jp/2752/tokubetuten/4.html