「全員玉砕せるものと認む」アッツ観音(保寿院・山梨)と山崎保代の墓(多磨霊園・東京)

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毎年恒例の「河口湖(「河口湖自動車博物館・飛行舘」)」の往復で乗車している「富士急行線(富士山麓電気鉄道富士急行線)」。

そんな富士急行線「赤坂駅」すぐ近くに、「アッツ観音」があるというのを知ったのはつい最近。実は車窓からも見える、ことも知らなかった。
知ったからには、すぐさまに足を運びたくなり、そうして、8月の河口湖行きの復路に参拝をしていきました。


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山崎保代(やまざき やすよ)

山崎 保代(やまざき やすよ)
1891年10月17日 – 1943年5月29日
最終階級は陸軍中将。
都留市の四日市場保寿院住職山崎玄洞の二男に生まれた。
太平洋戦争(大東亜戦争)中、山崎保代は北海守備第2地区隊長に任命され、アッツ島の戦いを指揮し17日間の激しい抗戦の後戦死した。


アッツ島の戦い

1942年6月7日以来「日本軍」が占領していたアッツ島を、「アメリカ軍」が奪還を目指して始まった戦い。
アメリカとしては、1812年に始まった米英戦争以来、131年ぶりにアメリカ領土を奪還する戦いとなった。
日本軍の守備兵力は2650名に対し、米軍は5倍以上の戦力を投入し、日本守備隊は激戦の末に全滅した。
アッツ島の戦いは、日本国内で初めて「玉砕」という表現で報じられた戦いであった。

昭和17年6月、ミッドウェー作戦(ML作戦)の支援を兼ねたアリューシャン作戦(AL作戦)が決行された。
6月8日、日本軍はアッツ島に上陸し占領。アッツ島を「熱田島」と命名した。なお、アッツ島には米軍は駐留していなかった。
侵攻に際しては、アッツ島は陸軍、キスカ島は海軍の担当であった。

昭和17年8月、キスカ島への守備強化を実施するために、アッツ島は放棄となったが、アメリカ軍の攻撃に際して、10月に方針を変更し、アッツ島の再占領を実施。

昭和18年2月、北太平洋方面の守備を見直し。
 北方軍司令部
  (司令官 樋口季一郎陸軍中将)
 北海守備隊
  (司令官 峯木十一郎陸軍少将 キスカ在)
 キスカ島を担当する第一地区隊
  (歩兵三コ大隊、地区隊長 佐藤政治陸軍大佐)
 アッツ島を担当する第二地区隊
  (歩兵一コ大隊、地区隊長 山崎保代陸軍大佐)

2月11日に山崎保代陸軍大佐が北海守備第2地区隊長に補職された。
3月27日にはアッツ島沖で「アッツ島沖海戦」が発生、日本軍の輸送船団はアッツ行きをやめて幌筵に撤退し、乗船していた山崎大佐もアッツ島に着任できなかった。
山崎大佐は潜水艦に乗り換え、4月18日にアッツ島に上陸。

1943年5月12日、戦艦3隻を擁するアメリカ太平洋艦隊の支援下、第7歩兵師団の15,000名のアメリカ軍が上陸を開始した。

山崎保代北海守備第2地区隊長は、アッツ島の戦いで、2,650名の守備隊を指揮し水際防御ではなく、のちのペリリュー島の戦いや硫黄島の戦いと同じく敵を島の内部や高地に引き込む戦略を採用し陣地を構築。

1943年5月29日、過酷な戦闘が繰り広げられ、17日間の激闘のすえ、最後の突撃にて守備部隊は壊滅し、戦闘で指揮していた山崎保代も戦死し、アッツ島守備隊は玉砕した。

大本営発表(昭和18年5月30日17時付)
アッツ島守備部隊は5月12日以来極めて困難なる状況下に寡兵よく優勢なる敵兵に対し血戦継続中のところ、5月29日夜、敵主力部隊に対し最後の鉄槌を下し皇軍の神髄を発揮せんと決し、全力を挙げて壮烈なる攻撃を敢行せり。
爾後通信は全く途絶、全員玉砕せるものと認む。
傷病者にして攻撃に参加し得ざる者は、之に先立ち悉く自決せり。
我が守備部隊は2500名にして、部隊長は陸軍大佐山崎保世なり。
敵は特種優秀装備の約2万にして5月28日までに与えたる損害6000を下らず。

山崎保代は、死後2階級特進し、陸軍中将に進級している。
享年51歳。

なお、大本営発表として「玉砕」と発表されたのは、「アッツ島の戦い」が最初であるが、以後は「総員壮烈なる戦死」と発表されている。


アッツ観音

戦後全国のアッツ島戦没者遺族と地域の人々によって、勇士の菩提を弔い、かつ、世界平和を願って、昭和29年5月19日、父親の山崎玄洞により生家の保寿院境内に「アッツ観音」が建立される。
1994年(平成6年)には、追悼の石碑も建立される。

部隊の長として遠く不毛に入り
骨を北海の戦野に埋む 
眞の本懐に存じ候えや
護國の神霊として悠久の大義に生く 
快える哉
 山崎大佐

山崎保代は当山十七世玄洞和尚の次男として明治二十四年十月十七日生を享く
長じて陸軍に身を捧し 大東亜戦争北方の要衝アッツ島守備部隊の長として出陣
その折上野甲子氏に碑面の遺書を託した 
昭和十八年五月二十九日 二千六百三十八勇士と共に北海の孤島に於いて 世界平和と祖国の安泰を祈念しつつ玉砕した
その功により陸軍中将に任ぜられる
 平成六年仲秋
  当山二十世洞岳明三敬建

台座は、アッツ島をイメージしているという。

合掌

富士山を背に、アッツ島の方角を向く「アッツ観音」

富士急行線のすぐとなり。


保寿院

曹洞宗
山号は岩生山
都留七福神の大黒天
アッツ観音霊場
アッツ島の守備隊長・山崎保代の生家

車窓からも見えます。

場所:


山崎保代の墓

多磨霊園の山崎保代の「山崎家之墓」がある。
多磨霊園19地区1種2側

山崎家之墓

従四位勲二等功三級
陸軍中将 山崎保代 
 昭和18年5月29日
  アッツ島・戦死・53歳

だいぶ昔に、多磨霊園の山崎保代の墓に詣でていました。

※2016年2月撮影


アッツ島玉砕・藤田嗣治(東京国立近代美術館)

東京国立近代美術館に「アッツ島玉砕」(藤田嗣治)が収蔵されている。ちょうど、特別展もやっていたので、作品を見ておきたく、こちらも足を運んでみました。

東京国立近代美術館
2025年夏の特別展
コレクションを中心とした特集 記録をひらく 記憶をつむぐ

「昭和100年」、「戦後80年」という節目の年となる今年、美術を手がかりとして、1930年代から1970年代の時代と文化を振り返る展覧会を開催します。絵画や写真や映画といった視覚的な表現が果たした「記録」という役割と、そ

この特別展にて、「アッツ島玉砕」が掲示されていたので、以下に記録。

「アッツ島玉砕」(藤田嗣治)

写真では絵画ならではの迫力も凄惨も伝わらないが。

戦争画(戦争記録画)の代表作として著名

藤田嗣治
アッツ島玉砕

1943 作戦記録画
1943年5月29日、アリューシャン列島のアッツ島で、アメリカ軍の攻撃により日本の守備隊が全滅した出来事が、敵味方入り乱れる死闘図として描かれています。全滅は「玉砕」という言い方で美化され、国に殉じる行為が軍人の鑑であると報じられたため、藤田の絵は陰惨な図柄であるにもかかわらず、観衆に熱狂的に受け入れられました。同年9月の国民総力決戦美術展に展示された際には、作品の前に賽銭箱が置かれ、脇には藤田自身が直立し、観客が賽銭を入れると藤田がお辞儀をしたというエピソードもあります(野見山暁治「四百字のデッサン」河出書房新社、1978年)。ここで作品は単なる記録を超え、追悼と「仇討ち」の気分を醸成するための機能を果たしました。その気分の醸成には、報道や文学、絵本、歌などのメディア・ミックスがあったことも見逃せません。

「写真週報」276号
昭和18(1943)年6月16日

アジア歴史資料センターより

アジア歴史資料センターは、近現代(1860年代から1945年前後)の日本とアジア近隣諸国との関係に関わる歴史資料(目録・画像)をインターネット上で提供する電子資料センター(データベース)であり、国立公文書館で運営されています。

同特別展では、
「アッツ島爆撃」という作品も掲示されていた。

※2025年8月撮影


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