「近代建築」カテゴリーアーカイブ

「走水低砲台跡」散策(横須賀)

横須賀の走水。
古くは、日本武尊と弟橘媛命の伝説の地「御所ヶ崎」(旗山崎)として知られている当地は、江戸期には「走水番所」が置かれ、そして幕末には「旗山崎台場」が設けられた。
明治19年(1886)には、陸軍によって半円形の低砲台が築かれ「走水低砲台」として跡が残っている。
近年、横須賀では今まで未公開であった砲台跡の整備がすすみ、一般公開・見学ができるようになったので足を運んでみた。


御所ヶ崎

横須賀風物百選

日本武尊 弟橘媛命 伝説の地 御所ヶ崎
古事記・日本書紀によれば日本武尊(やまとたけるのみこと)が東国征伐のおり、走水から上総(千葉)へ船で渡ろうとした時、海が荒れて進めず弟橘媛(おとたちばなひめ)は海神の怒りを静めるために身を投じ荒れ狂う海を鎮めました。
地元伝承によれば武尊がこの地に臨時の御所を設け軍旗を立てたことから御所ヶ崎、旗山崎と呼び弟橘媛は御所ヶ崎先端の「むぐりの鼻」 に次女たちと共に身を投じたと伝わります。港には尊が海を渡るときに乗船したといわれる寺島(御座島)の名があります。
《古東海道》
日本武尊の東征の道は古東海道といわれ足柄峠を越えて相模国に入り三浦半島を横切って衣笠宗源寺・天神坂辺りから安房口神社、小原台・走水から上総へ渡る道順と考えられています。
 大津行政センター市民協働事業・大津深訪くらぶ

走水番所・旗山崎台場跡
天正18年(1590)徳川家康が関東に入封しました。
その後、船手衆である向井一族に明治走水に御船番を置き、向井政良は御船番、走水奉行を務め、後に三崎奉行・向井忠勝が兼任しました。三崎では上り船を、走水では江戸に下る船を検査しました。今も同心町海岸の名があります。
天保14年(1843)川越藩が江戸湾海防のため台場を築いた所で、六挺の大砲を配備し異国船の侵入に備えました。
明治19年(1886)旧陸軍によって築かれた半円形の低砲台が前方の松の木に現在も残されています。
旗山崎の名は日本武尊(やまとたけるのみこと)が上総(千葉)に渡る時海が荒れて進めず臨時の御所を設け軍旗を立てたことに由来します。
 大津行政センター市民協働事業・大津深訪くらぶ


走水低砲台跡

走水低砲台跡
走水低砲台跡とは?
 走水低砲台は、明治18年(1885年)から19年(1886年)に陸軍によって建設された砲台です。27cm可農砲4門を備え、東京湾要塞を構成する砲台の一つとして首都東京を守る任務にあたりました。
 日清、日露戦争とも交戦することはなく、また関東大震災で被害を受けましたが、その後、横須賀重砲兵学校の演習用砲台として復旧し、終戦まで稼働状態にありました。現在も良好な状態でほとんどの遺構が残っています。
 走水周辺は東京湾の内湾が房総半島と近接して最も狭くなる場所に位置し、江戸時代後期には旗山崎台場が築かれ、明治時代には低砲台のほかにも走水高砲台、小原台堡塁、花立台砲台が築かれるなど海防の重要地点でした。走水低砲台が建設された丘を含む岬一帯を示す「御所ヶ崎」や丘の周辺を指す「旗山崎」という地名は、古事記・日本書紀に伝わる日本武尊と妻の弟橘媛の伝説に由来しています。
 横須賀市の歴史、文化、自然を「ルート」でつなぎ、市内全体を大きな「ミュージアム」として楽しむ「よこすかルートミュージアム」のサテライト施設でもあります。

兵舎の左右に弾薬庫がそれぞれ。
弾薬庫の左右に、砲座(第一から第四まで)がそれぞれ。
そして左翼観測所の遺構が残されているようだ。

一般公開は祝日と土日のみ、門扉が開放される。


弾薬庫(左翼)

まずは最初に弾薬庫が見える。
左翼の弾薬庫の奥には第四砲座と第三砲座がある。

走水低砲台の構造
 海岸に突出した海抜約20mの低丘上に4つの砲座が並び、27cm加農砲が設置されていました。
 4つの砲座の中央には地下式の兵舎(掩蔽部)を設け、第一砲座と第二砲座の間に共通の地下式の弾薬庫、第三砲座と第四砲座の間に同じく共通する地下式の弾薬庫が設置されています。

砲弾供給の仕組み
 砲座間の横檣(=防弾用の土塁)の下に設置された弾薬庫からは、左右の揚弾井を使用して地上の砲座に砲弾を供給しました。引き揚げられた砲弾は各砲座の弾室に納められ、射撃に備えました。
 2つの砲座は高塁道で連絡し、その中間には小隊長掩壕が造られ、両側の砲座に指示を出すことができました。

左翼の弾薬庫は、外からの見学のみ。


兵舎(兵員棲息部)

左右の弾薬庫の間には、兵舎がある。中に入れます。

ここに兵隊さんが待機していたのだろうが、収容人数はどのくらいなのだろうか。

左右の砲座と弾薬庫に繋がる道。


弾薬庫(右翼)

右側の弾薬庫。開放されている。

内部は、左右にわかれている。
右側は第一砲座、左側は第二砲座。

揚弾井
弾薬をここから引き揚げる。

弾薬を引き揚げる場所。
揚弾井
揚弾機の金具も残る。


第一砲座

砲座を第一から順番に見ていく。
見学用に見事に整備されている。

中央に、27cm加農砲が置かれていた。

海が見える。


速射加農砲座

9cm速射加農砲のアンカーボルト。4つ残っている。
横須賀陸軍重砲兵学校の演習用として、南門砲台(観音崎・関東大震災で大破除籍)の九糎速射加農砲4門が移設されたという。

1つ目。

東京湾要塞の砲台。
竣工順に32砲台が記載されている。走水低砲台は7番目。


第四砲座

見学用にきれいに整備されている。


左翼観測所

左側の観測所の基礎が残っている。
左翼があるなら右翼もと思いたいが、右翼は消失したのかな、、、。


第三砲座

樹木に覆われているが、第三砲座。


第二砲座

基本的には、同じ作り。

4つの台座と、2つの弾薬庫と、兵舎と、とても綺麗にのこっている、大変貴重な空間。ゆっくりと見学できたということもあり、ここは必見ですね。

撮影:2022年8月


関連

https://www.city.yokosuka.kanagawa.jp/5560/sisetu/hasirimizuteihoudai.html

https://routemuseum.jp/area/c/c01/

https://www.cocoyoko.net/spot/hasirimizuteihoudaiato.html

砲台関連

走水低砲台を演習用砲台として活用していたのが、横須賀重砲兵学校。

横須賀には、重砲聯隊も配備されていた。

観音崎が東京湾要塞の要であった。

走水関連

トーハクで近代建築散策(東京国立博物館)

トーハクの近代建築散策。写真中心で。


150周年

1872年(明治5年)3月10日。
日本で最初の「博覧会」(文部省博物館)として湯島聖堂博覧会が、東京・湯島の湯島聖堂大成殿で開催された。これが日本の「博物館」の始まりであり、東京国立博物館はこの年を創設の年としている。


東京国立博物館本館
旧東京帝室博物館本館)

初代は、1881(明治14)年竣工であったが関東大震災で被災し、現在の本館は、2代目。
現在の本館は「日本趣味を基調とする東洋式」という様式規定による設計案が1929(昭和4)年12月に公募され、渡辺仁による案が選定。
1932年(昭和7年)着工、1937年(昭和12年)に竣工、1938(昭和13)年に開館。
和洋折衷の「帝冠様式(洋風建築(コンクリート建築)に東洋風の屋根)」の代表的建築。
2001(平成13)年に重要文化財に指定されている。

無料観覧日でした。


本館の内部

中の様子も。トーハクは一部を除いて、内部も撮影できるのが良いです。

エントランス。いろいろなドラマでも登場する場所。

便殿(旧貴賓室)
現在の本館が昭和13年に東京帝室博物館の本館として開館したときに貴賓室として造られ、天皇はじめ皇族方がお出でになられたときのご休憩所として使われました。
帝室博物館から国立博物館となった今日では、皇族方だけではなく、国賓や公賓など国の大事なお客様の休憩室として利用されることもありますという。


庭園から本館を

庭園にもいくつか興味深いものがありますので見てみましょう。

詰所、これも趣がある。。。


第二回内国勧業博覧会の碑

庭園内に。

内国勧業博覧会碑

第二回内国勧業博覧会の碑
明治政府は勧業政策の一環として内国勧業博覧会を開催、その第一回から第三回の会場が上野公園だった。明治14年(1881)に開催された第二回内国勧業博覧会では、新築間もないコンド設計の博物館本館(旧本館)が美術館として使われた。


町田石谷君碑

庭園内に。

初代帝国博物館館長に当たる博物局長を務めた町田久成(1838~97)をしのんで明治43年(1911)に建てられた。

町田久成の碑
初代博物局長(博物館長)町田久成の顕彰碑。町田久成は天保9年(1838)薩摩(現在の鹿児島県)に生まれ、慶応元年(1865)にイギリスへ渡った。大英博物館などを訪れた町田は、日本での博物館創設を志し、帰国後日本の博物館の基礎を築いた。


町田久成館長像

庭園を離れ、平成館の近くに、胸像もある。

初代 町田久成館長像

題字の揮毫は、第97代内閣総理大臣であった安倍晋三。平成28年11月建立。

初代館長 町田久成
薩摩藩の名族に生まれ、幕末に藩命を受けて欧州に留学。維新後は文化行政を担い、博物館の初代館長として上野博物館の建設や博覧会開催に尽力した。辞官後、出家して園城寺子院の住職となり、「岩谷」と号した。当館庭園にその事跡を偲んだ「町田岩谷君碑」がある。

 町田久成は、天保9年(1838)薩摩国日置郡石谷領主の町田久長の長男として鹿児島城下に生まれ、町田家29代当主となる。19歳で江戸の昌平黌に学び、文久3年(1863)26歳で大目付にとなった。同年に藩の開成所が創設されると学頭となり、慶応元年(1865)薩摩藩英国留学生を率いて渡英した。帰国後は新政府で外国官判事や外務大丞として外国事務に携わったが、明治3年(1870)に大学大丞に転じて文化財行政に専念した。明治5年、旧湯島聖堂の大成殿で開催した博覧会を機に「文部省博物館」が発足すると、初代館長に就任し、ただちに文化財を恒常的に保管・展示するための本格的な博物館建設の必要性を太政官に建言し、明治15年、上野寛永寺跡地の新たな博物館開館に至るまでその運営に尽力した。その後明治18年に元老院議官となったが、4年後には職を辞し、岡倉天心やフェノロサなどと共に、園城寺法明院住職の桜井敬徳和尚に帰依し、園城寺光浄院の住職として文化財の保護に努めた。
 明治30年9月13日上野の明王院にて逝去。享年60歳。
   平成28年11月吉日
    建立 町田家32代当主 町田忠夫
    題字揮毫 第97代内閣総理大臣 安倍晋三
    政策 文化勲章受賞・日本芸術院会員 中村晋也

安倍さんの揮毫。


森鴎外総長室跡

平成館の前。池から浮き出る森鴎外総長。。。

森鴎外総長室跡
平成館及び前庭の一帯は、明治15年(1882)に博物館が上野に移転してから、展示棟に付属する事務棟の建物が多く建てられました。この付近には底質博物館を統括する総長の居室があり、森林太郎(鴎外)は大正6年(1917)から大正11年に死去するまで、総長としてここで執務しました。
 2012年10月 鴎外誕生150年にあたり
帝室博物館総長森林太郎(鴎外)大正6年12月~大正11年7月


表慶館

1900(明治33)年、皇太子(後の大正天皇)のご成婚を記念して計画され、1909(明治42)年に開館。
東宮御所(現在の迎賓館赤坂離宮)などで知られる宮廷建築家の片山東熊による設計。明治末期の洋風建築を代表する建物として1978(昭和53)年、国の重要文化財に指定。

こんな感じで、トーハクの近代建築散策。

トーハクは、一日過ごしても、すべてを見きれない感じで、毎回、退出時には後ろ髪を引かれています。。。またこよう。

※撮影:2022年7月


上野関連

米海軍横須賀基地フレンドシップデー2022

2022年10月16日、3年ぶりに開催された、米軍横須賀基地のフレンドシップデー。足を運んでみたので、写真中心に記事を掲載。


旧横須賀海軍病院の境界塀

大日本帝国海軍の海軍病院。明治13年開庁。
戦後、米海軍に接収され、横須賀米海軍病院(United States Naval Hospital Yokosuka)として現在も当時の庁舎等が米軍横須賀基地内で病院として機能している。立ち入り制限があるため、今回は「大日本帝国海軍時代からの横須賀海軍病院」の軍用地境界の塀(壁)のみ見学。

米軍の消防緊急車両が、横須賀海軍病院前を通過。

むだに流し撮りをしてみる。


横須賀鎮守府軍法会議所正門跡

ここには、横須賀鎮守府軍法会議所があった。


横須賀海軍工廠造船部の建屋

横須賀海軍工廠造船部時代の建屋という。

横須賀海軍工廠造機部の建屋

横須賀海軍工廠造機部時代の建屋(組立工場)という。


海軍砲術学校入口

海軍砲術学校は、1907年(明治40年)から1941年(昭和16年)までの名称。1941年に館山砲術学校が開設されると、「横須賀砲術学校」に改名した。

よくみると、トンネルに「海軍砲術学校」とある。

当時からの護岸かも。

地下壕跡、かな。

大日本帝国海軍関係で記録できたのは、ひとまず以上。
ほかにも、日本海軍の電話線マンホールや消火栓などもあるが、今回は記録できなかった。


※2019年に米軍基地内で以下を記録してました。

消火栓


第7艦隊旗艦 ブルーリッジ
USS Blue Ridge, LCC-19

アメリカ海軍の揚陸指揮艦。日本横須賀に拠点を置く第7艦隊の旗艦。
就役は1970年。アメリカ海軍現役艦艇では最古参。


ブルー・リッジ甲板から

ラルフ・ジョンソン
USS Ralph Johnson, DDG-114

原子力空母の修理拠点
米海軍修理バージ YR95、YR96、YR85

小さい船は、かわいい。

見学の大行列、、、

横須賀の軍港を、米軍側から見れるのは貴重。
写真の左手は、吾妻島。米海軍の倉庫がある。

はるか向こうに、住友の横須賀製造所もみえる。

たぶん、旧帝国海軍の建屋も点在しているはず。

謎キャラ登場。


米海軍オレゴン号の錨

In Memory Of A Gallant Ship
USS OREGON
1896-1919

アメリカ海軍インディアナ級戦艦3番艦「オレゴン」(USS Oregon, BB-3)の
1919年の退役後は武装解除され博物館船となっていたが、1941年に海軍はスクラップ艦として再活用しようとしグアムへ曳航。そのままグアムで終戦を迎え、1956年に解体された。


米国船オネイダ号 国際平和記念碑
USS ONEIDA INTERNATIONAL PEACE MEMORIAL

USS ONEIDA INTERNATIONAL PEACE MEMORIAL

The USS Oneida distinguished herself during the American Civil War and fought bravery in the New Orleans,Vicksburg and Mobile Bay Navel Battles.
It during the Mobile Bay Naval Battle where her heroic crew earned 8 Medals of Honor.
During the Meiji Restoration she served the best interests of the United States and the Emperor of Japan by having a part in putting down a Warlord uprising near Osaka.
This is dedicated to the 115 Sailors and Officers of the USS Oneida whose lives were lost in the service of their country.May her legacy continue to inspire all Sailors;past, present and future in the pursuit of freedom and international peace.
“Greater love has no one than this; to lay down one’s life for his friends.”
John 15:13
Memorial maintained by Yokosuka Chief Petty officer’s Mess
Erected 2007

1870年1月24日、米国船オネイダ号は母国アメリカ合衆国に向けて東京湾をあとにしました。船はこの地点から真東に4マイル位のとことでイギリスの貨物船「ボンベイ号」に激突され、その後15分の間に沈んだ。この悲劇の結果は、水兵海兵隊員、そして中国人を含む115人の乗組員の命の損失であった。
そのうち回収された遺体はわずか3体だけであった。この記念碑は東洋と西洋の古代の象徴を組み合わせ、亡くなった人々の思い出に敬意を表し、また過去、現在、未来と、歴史的かつ継続的な日米の協力関係を表すものである。
水兵たちが安らかに眠らんことを。



MASUOKA PARK(増岡公園)

「ミスターネイビー(Mr,Navy)」として、長年にわたり衆議院事務局に勤務していた増岡一郎氏は、日米安全保障の架け橋として、米海軍によって永遠に語り継がれ、記念として、「MASUOKA PARK」が設けられている。

This park is named for the honorable Ichiro Masuoka.
“MR,NAVY” a true friend and selfless supporter of the navy and the united states-japan security relationship.
Because of his peaseverance and dedication. Our sailors and their families enjoy a significantly improved quality of life
He shall live forever in our hearts.


米海軍横須賀基地ヘリポート管制塔

かつてこの場所には、潜水母艦「大鯨」の艦橋を流用した航空管制塔があったという。昭和52年頃までは現存していたというが、現在は撤去されており、新しい管制塔となっている。

沖合に何かいた。。。米海軍。

民間船のようにみえますが、これは米海軍ワトソン級車両貨物輸送艦「ダール」。ワトソン級車両貨物輸送艦は、世界最大のガスタービンエンジン推進艦。

猿島。冬になったら行こうと思う。。。


Yokosuka Friendship Day
ヨコスカフレンドシップデー

ライブ開場

郵便局

MILITARY POST OFFICE, YOKOSUKA JAPAN

マクドナルド

警備艇

アメリカンな焼肉。

あとは、ふらふらとアメリカの空間を堪能。
ネイビーバーガーを食べたけど、写真はいまいち。


三笠公園

モニュメント撤去工事中


買い物。
スタバのエナジードリンク。バニラとモカ。バニラはやばいくらい甘いらしい。力尽きたときに飲もう。。。

※撮影:2022年10月


関連

「第一騎兵旅団兵舎」解体前の最後の一般公開(習志野・東邦大学)

騎兵の街・習志野。
日本陸軍第一騎兵旅団の下に編成された騎兵第十三聯隊および同第十四聯隊が使用していた建物が東邦大学構内に残っていた。
東邦大学にあった第一騎兵旅団兵舎・用材庫は、「現存日本最古の騎兵兵舎」であったが、2022年11月、キャンパス再整備計画の一環として、道路整備の延長線上にあたることから、惜しくも解体されることとなり、解体前の最後の一般公開に足を運んで来ました。

2022年11月下旬・解体予定
(2022年10月30日と11月5日が解体前の最後の一般公開日)
※本写真は2022年10月30日の模様です。

https://www.toho-u.ac.jp/press/2022_index/20221018-1242.html


習志野の騎兵


第一騎兵旅団兵舎(用材庫)

築年月/明治33年(1900年)12月
構 造/木造、切妻造平入、波板鉄板葺、小屋組は木造トラス
大きさ/梁間5 間×桁行10 間
建物用途/騎兵第十三連隊、十四連隊共用の用材庫

東邦大学 https://www.toho-u.ac.jp/press/2014_index/033001.html

https://www.toho-u.ac.jp/press/2014_index/033001.html


東邦大学

大森にあった東邦大学は昭和20年の空襲で焼失。昭和21年に習志野の旧陸軍習志野騎兵聯隊跡地に移転。現在の東邦大学習志野キャンパスとなる。


第一騎兵旅団兵舎・用材庫
「外観」

以下、記録写真を。


「五芒星」の文様のある換気口

陸軍を示す五芒星の文様の鋳鉄製換気口グリル。


第一騎兵旅団兵舎・用材庫
「内部」

柔道場の名残。2013年までは武道場であった。


第一騎兵旅団兵舎・用材庫
「内部」(魚眼)

当時としては珍しい洋風のキングポストトラスの小屋組。


第一騎兵旅団兵舎・用材庫
「外観」(魚眼)


第一騎兵旅団兵舎・用材庫
「出入り口」


騎兵第13聯隊と14聯隊の間の壁とか

当時のものかは不詳。。。
造りが違うのが気になった、感じ。

むしろ、下に落ちている瓦礫が気になる。


騎兵第13聯隊跡

記念碑がいくつか。

騎兵第十三聯隊跡

騎兵第十三聯隊発祥之地
船橋市長大橋和夫書

平成5年4月29日建立

(裏面)
騎兵第十三聯隊概史
 日露の戦雲漸く急を告ぐる秋 日清戦争の経験に基づき宇内の趨勢に鑑み騎兵大部隊の必要性を痛感せる我が陸軍は明治三十二年騎兵第一, 第二旅団の編成に着手 我が騎兵第十三聯隊は騎兵第十四聯隊と共に騎兵第一旅団の兄弟聯隊として此の地習志野原の南隅千葉県津田沼町大久保(現船橋市三山)に創設され明治三十四年十二月十九日軍旗を拝受す
 明治三十七年二月日露の開戦に及び聯隊は我が国騎兵の父と仰がれし秋山好古旅団長指揮の許勇躍出征 五月遼東半島塩大澳に上陸第二軍に属して曲家店、沈旦堡等の戦闘に於いて世界に名だたるコサック騎兵と交戦赫々たる偉功を奏し早くもその名声を中外に宣揚す 奉天大会戦に於いては敵の右翼を包囲せんとする第三軍の迂回運動を庇護して全軍大勝の基を拓き更に長駆奉天北方に進出して敵軍主力の側背に迫り露軍敗退の因をなせり
 降って満洲事変勃発するや昭和七年六月出動 泥濘悪路を克服してその機動力を発揮し馬占山討伐を始め東辺道討伐、乾元鎮の攻略等全満各地の作戦に活躍 八年二月海拉爾に進駐対蘇戦に備えて教育訓練に邁進す 支那事変に於いては昭和十三年八月海拉爾より長駆北支に出動主力を以て歸徳一部を以て寧陵、睢縣に在って新黄河北方地域に於ける掃蕩及び陽動作戦に活躍 十四年二月更に遠く蒙彊の地へ転進主力を以て固陽一部を以て薩拉齋に駐屯 駐蒙軍に属して各種の作戦警備に任ず 特に十四年十二月の包頭戦に於いては集団司令部の危急を救い十五年の二次に亘る五原作戦に於いてはその中核として活躍敵の蠢動を封殺し蒙彊地区の安寧に寄与す この間十四年十月我が騎兵機械化施策の一環として自動車編制に改編され更に十七年十月には戦車第三師団の創設に伴い騎兵第十四聯隊と共に機動歩兵第三聯隊を編成軍旗を奉還 茲に騎兵甲聯隊たる四十余年の栄えある歴史を閉ず 然れどもその輝ける伝統は新しき聯隊に脈々として継承せられ特に十九年五月 太平洋方面の戦況非なる時支那大陸戦線に於いて敢行せられし大陸打通作戦の一環たる洛陽攻略に於けるその活躍は永く青史にその名を止むべし 但惜しむらくは敗戦による皇軍の解体と共に聯隊の栄誉を後世に伝うる術もなかりしに幸い戦後此の地に設立せられし東邦大学より記念碑建設の快諾を得 依って我等戦友有志相諮り此処聯隊発祥の地に碑を建て聯隊歴史の概要を刻し以てその栄誉を永く後世に伝えると共に亡き戦友の霊を慰めんとす
 庶幾くは後人后後我等が微衷を察し祖国の安泰と発展に尽瘁あらん事を

歴代集団長
第1代 宇佐美 興屋  
第2代 蓮沼 蕃  
第3代 笠井 平十郎  
第4代 稲葉 四郎  
第5代 内藤 正一  
第6代 吉田 悳  
第7代 小島 吉蔵  
第8代 馬場 正郎  
第9代 西原 一策

歴代旅団長
第1代 渋谷 在明  
第2代 秋山 好古  
第3代 本多 道純  
第4代 河野 政次郎  
第5代 永沼 秀文  
第6代 稲垣 三郎  
第7代 田村 守衛  
第8代 小畑 豊之助  
第9代 宮内 英熊  
第10代 原田 宗一郎  
第11代 梅崎 延太郎  
第12代 柳川 平助  
第13代 吉岡 豊輔  
第14代 高波 祐治  
第15代 中山 蕃  
第16代 小川 正輔  
第17代 黒谷 正忠 
第18代 野沢 北地  
第19代 大賀 茂  
第20代 片桐 茂  
第21代 栗林 忠道  
第22代 森 茂樹

歴代聯隊長
第1代 田村 久井  
第2代 小池 順  
第3代 永沼 秀文  
第4代 牧野 正臣  
第5代 渡部 為太郎  
第6代 南 次郎  
第7代 高須 一万太郎 
第8代 土屋 篤  
第9代 原田 宗一郎  
第10代 宇佐美 興屋  
第11代 中山 蕃  
第12代 山内 保次  
第13代 星 松尾  
第14代 和田 義雄  
第15代 横田 卓二  
第16代 猪木 近太  
第17代 小原 一明  
第18代 山崎 武四

騎兵十三聯隊と碑について
 本学習志野キャンパスがあるこの地には、かつて騎兵第十三聯隊が置かれていました。
 騎兵第十三聯隊は、日露戦争が風雲急を告げる明治三十四年、騎兵第十四聯隊(隣接する日本大学の地)と共に、騎兵第一旅団の兄弟聯隊として創設されました。
 その後、騎兵連隊は日露戦争において。当時世界最強と謳われたロシアのコサック騎兵を奉天会戦などにおいて退けるという偉業を成し遂げます。これは当時のロシア帝国主義から日本を守った大きな一因になったと言われております。
 騎兵第十三聯隊は、司馬遼太郎氏の傑作「坂の上の雲」に登場する主人公のひとり、秋山好古旅団長が指揮したことでも有名です。
 秋山好古旅団長は後に陸軍大将となり、「日本騎兵の父」と仰がれることとなります。
 
ここには次の碑が残されています。
 一、騎兵第十三聯隊跡碑 (昭和七年)
 二、 軍人勅諭下賜五十周年碑 (昭和七年)
 三、 騎兵第十三聯隊発祥の地碑 (平成五年)
 四、 司馬遼太郎氏文学碑 (平成八年)

 司馬遼太郎氏の文学碑には、司馬氏から騎兵第十三聯隊会会長宛に送られた手紙の一節が、次のように刻まれています。
 「かつて存在せしものは、時代の価値観をこえて保存し、記念すべきものである。それが、文明というものである」

「かつて存在せしものは、
  時代の価値観をこえて保存し、
      記念すべきものである。
 それが、文明というものである」
          司馬遼太郎

(裏面)
司馬遼太郎
我が国騎兵の父と仰がれ騎兵第13聯隊等を指揮した、騎兵旅団長秋山好古は、司馬文学最高傑作の一つ「坂の上の雲」の主人公である
こいねがわくば在天の魂 時にこの故郷ふるさとに訪れ給はむことを
平成八年 騎兵第十三聯隊会

軍人勅諭下賜五十周年碑(昭和7年4月24日建立)

五角柱の碑。
各面に「忠節」「礼儀」「武勇」「信義」「質素」の5つの徳目が彫られている。陸軍大将南次郎書。

稲荷社
騎兵13聯隊なごりの神社、か。

兵舎跡は解体のうえで、道路になるという。。。


騎兵第14聯隊跡

せっかくなので、騎兵第13聯隊のとなりの騎兵第14聯隊にも。
東邦大のとなりの日大へ。日大はちょうど学園祭をやっていました。

こちらも記念碑をいくつか。

となりの兵舎跡が木々の隙間から垣間見ることのできる近さ。それぞれの大学の敷地にあるので、往来はできないけど、記念碑は隣り合ってある。

日大側からみた兵舎跡。

騎兵第十四聯隊発祥之地
竹田恒徳

騎兵第十四聯隊之跡

昭和43年14号館前デ発掘サレタルモノヲ復元
昭和62年10月

明治天皇御製
人ならば
 ほまれのしるし
  授けまし
軍(いくさ)の庭に
 立ちし荒駒(あらこま)

碑誌
騎兵第十四聯隊ハ畏クモ明治天皇ヨリ軍旗ヲ 親授セラレテ明治三十四年十一月創設サレ此 ノ地習志野ニ駐屯シタ
明治三十七年日露戦争ガ勃発スルヤ満州ニ出 征シ沈旦堡ニ於イテ勇戦奮闘シテ克ク騎兵ノ 精華ヲ発揮シタ
戦終ッテ此ノ地ニ帰還シ練武ニ精励シタガ昭 和七年六月満州事変ニ出動シ其ノ後此ノ地ニ ハ戦車第二聯隊ガ駐屯シタ
騎兵第十四聯隊ハ満州ニ於イテ夏季豪雨ニヨ ル泥濘ヲ冒シテ馬占山討伐等ニ従軍シ同年冬 広漠タル厳寒ノ北満ホロンバイルニ進出シ海 拉爾周辺ニ駐留シテ六年に亘リ満ソ国境守備 ノ重責ヲ遂行シタ
昭和十三年六月騎兵集団ニ出動命令ガ下リ其 ノ隷下ニアッタ聯隊ハ海拉爾ヨリ長駆河南省 帰徳淮陽方面ニ進撃次イデ蒙彊地区ニ転戦シ 昭和十七年十二月機甲兵団ノ新設ニ伴ヒ包頭 附近ニ於イテ機動歩兵第三聯隊ニ改編セラレ 戦車第三師団ニ属シテ再ビ河南省ノ鄭州洛陽 周辺一部ハ遠ク湘桂方面ニ作戦シ赫々タル武 勲ヲ挙ゲタ
此ノ兵営跡ハ昭和二十九年日本大学ノ敷地ト ナッタガ大学御当局ヨリ深イ御理解ト温カイ 御厚意ヲ戴キ有志相図リ幾多先輩戦友ノ偉勲 ヲ偲ビツツ此処騎兵第十四聯隊発祥ノ地ニ此 ノ碑ヲ建テ我ガ聯隊ノ事績ヲ永ク伝エヨウト スルモノデアル
 昭和六十一年十月二十六日
  騎兵第十四聯隊会

為聖諭拝戴五十周年並御紋章掲揚記念
昭和7年

戦車第二聯隊の跡
戦車第2聯隊は昭和8年8月千葉陸軍歩兵学校教導隊戦車隊を強化改編して、国軍最初の戦車聯隊として創設され、騎兵第14聯隊駐屯の跡に移駐した。
その練習部は、全国歩兵聯隊から派遣された将校・下士官の教育に専念し、後に陸軍戦車学校に発展した。
昭和12年7月動員下令、聯隊の主力は北支に出動。
保定会戦、黄河以北戡定作戦、徐州会戦等に赫々たる武勲を揚げた。
13年7月、部隊は戦車第8聯隊に改編され、中原会戦、満州、北支警備等の後、17年秋、南海のラバウルへ転進した。
戦車第2聯隊は昭和13年7月留守隊を強化し、此処習志野で再編成された。
16年秋再び動員され、蘭印作戦に参加し各地に善戦した。
分遣された第1中隊はビルマ、第4中隊はガダルカナルに於て悪戦苦闘した。
聯隊は17年秋習志野に帰還した。
この間、習志野で編成した戦車第4大隊は昭和9年奉天に、支那駐屯軍戦車隊は11年天津、戦車第17聯隊は17年綏遠省平地泉、独立戦車第7・第8中隊は19年夏フィリッピンに派遣された。
河野第7中隊はレイテ島に、岩下第8中隊はマニラ飛行場周辺に三度壮烈な出撃戦を展開、戦車魂を発揮して全員華と散った。
戦局緊迫するや、動員令により戦車第2聯隊は昭和19年相模地区に移動、その補充隊は20年4月新たに6個の戦車聯隊を編成し、相共に配備につき本土決戦に備えたが、8月終戦を迎えた。
この度、日本大学当局より理解ある御協力を戴き、有志相図り、幾多戦友の偉勲を偲びつつ、此処戦車第2聯隊駐屯の跡に、この碑を建て聯隊の事蹟を永く伝う。
昭和63年8月1日
戦車第2聯隊会

こちらにも神社。

ちょうど学園祭。


位置関係

近衛師団
 騎兵第1旅団→麾下 騎兵13聯隊 騎兵14聯隊
第1師団
 騎兵第2旅団→麾下 騎兵15聯隊 騎兵16聯隊

習志野陸軍病院→習志野病院
騎兵第13連隊→東邦大学
騎兵第14連隊→日本大学
騎兵第15連隊→東邦中学校高等学校
騎兵第16連隊→大久保住宅

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:8911-C1-1
昭和19年10月16日、日本陸軍撮影の航空写真を加工。

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M737-103_19480118_1
1948年1月18日、米軍撮影の航空写真を加工。

※撮影は2022年10月


関連

「軍都・平塚」海軍火薬廠の跡地散策・その2

平塚市は、海軍火薬廠や海軍工廠科学実験部、そして関連する軍需工場などが集中する一大軍事拠点、「軍都・平塚」であった。そんな平塚の街をざっと散策をしてみる。

本編は、「その2」となります。「その1」はこちらから。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-R227-A-3-13
1946年08月15日、米軍撮影の航空写真。

平塚八幡宮の北側に軍需工場が展開されていた。

第二海軍火薬廠
平塚市役所、平塚博物館、横浜ゴム平塚製造所、パイロットコーポレーション平塚工場、平塚市総合公園、など
第二海軍火薬廠第六工場
三菱ケミカル平塚工場
相模海軍工廠科学実験部
平塚市美術館、不二家平塚工場、平塚合同庁舎、平塚警察署、など
平塚海軍共済病院
平塚共済病院
日本国際航空工業
日産車体湘南工場、ららぽーと湘南平塚など
第二海軍航空廠補給部平塚補給工場
湘南倉庫運送、JT平塚工場跡など
横須賀海軍工廠造機部平塚分工場
平塚競輪場、三興製鋼など
平塚自動車部品製作所(平塚傷兵工場)
平塚金属工業

ファイル:USA-M46-A-7-1-152
1946年02月15日、米軍撮影の航空写真。

ファイル:USA-M64-A-6-13
1946年083月05日、米軍撮影の航空写真。

ファイル:USA-R227-A-3-160
1946年08月15日、米軍撮影の航空写真。

ファイル:USA-M46-A-7-1-104
1946年02月15日、米軍撮影の航空写真。

現在のイメージ範囲。一部推測です。


海軍火薬廠(第二海軍火薬廠

海軍省直属の海軍工廠。
1905年(明治38年)9月 英国アームストロング、ノーベル、ヴィッカースの3社によりイギリス帝国に本社が設立された「日本火薬製造株式会社平塚製造所」を前身とする。
1919年(大正8年)4月 「海軍火薬廠令」に基づき日本海軍により買収され、「海軍火薬廠」発足。
海軍の爆薬・火薬の製造、研究開発拠点となる。
1929年(昭和4年)に爆薬部が舞鶴に移転。
1939年(昭和14年)、海軍火薬本廠に改編。海軍火薬支廠が宮城に増設。
昭和16年(1941年)、東から順番に宮城船岡支廠が「第一海軍火薬廠」、平塚本廠が「第二海軍火薬廠」、舞鶴爆薬部が「第三海軍火薬廠」に改編されている。

昭和20年(1945)8月の終戦とともに火薬廠は廃廠。
火薬廠は戦後は米軍により接収。
昭和25年、横浜ゴム株式会社が、一部敷地の払い下げを受け、現在に至る。

第二海軍火薬廠の各工場
第一工場 各種砲用及びロケット用無煙火薬の製造
第二工場 各種綿薬(硝化綿)の製造 各種混酸の調製
第三工場 各種酸の製造 廃酸の回収 石炭ガスの製造
第四工場 設備の設計、据付及び補修 ユーティリティの管理
第五工場 各種機銃火薬の製造 溶剤の回収
第六工場 無煙火薬の貯蔵 砲用無煙火薬の選別以降の作業
第七工場 ニトログリセリンの製造
     第一工場関係の火薬の配合混餅作業


海軍技術研究所科学研究部
相模海軍工廠科学実験部

昭和5年に、海軍火薬廠用地の一部割愛し海軍技術研究所平塚出張所を開設。科学研究部第二科(化学兵器担当)が平塚に移転をする。
昭和9年に「海軍技術研究所化学研究部」として独立。
昭和17年に寒川に「相模海軍工廠」を新設。化学研究部は改称し、「相模海軍工廠科学実験部」となる。
現在の平塚市交通安全協会や平塚市美術館、平塚警察署や平塚合同庁舎などが、「相模海軍工廠科学実験部」の敷地であった。跡地では旧日本軍の毒ガスの分解生成物として発生する有機ヒ素化合物・ジフェニルアルシン酸が検出されていたりもする。

史跡
海軍技術研究所化学研究部 
相模海軍工廠化学実験部 跡

海軍技術研究所は昭和5年(1930年)この地に科学研究部を設け 多くの市民から「技研」の愛称で親しまれた 昭和18年(1943年)相模海軍工廠化学実験部と改称 終戦と共にその役割を終えた
いま往時を偲び懐旧の思い新たに 先人の鎮魂と世界の平和を祈念し ここに記念碑を建立しその足跡を留める
  平成6年(1994年)春  
  相模記念碑建立委員会建立

平塚市役所公用車駐車場の奥

場所

https://goo.gl/maps/4a3NUQ17SmXUCkve8


相模海軍工廠科学実験部 境界壁

敷地の東側。
「湘南リンテック加工 平塚工場」の東側の壁が、当時の境界塀。

場所

https://goo.gl/maps/Lzb6HuPL2oV6Drk89


日本国際航空工業株式会社 平塚製作所
(日産車体)

昭和12年(1937)に日本航空工業株式会社が設立。
昭和16年に国際航空工業と合併し、社名を日本国際航空工業と改称。
この工場は、陸軍戦闘機「疾風」(四式戦)の三翼自動可変ピッチ・プロペラや大型輸送用グライダー(四式中型輸送滑空機)を製作していた。
戦後は、日産車体株式会社となる。

再開発で、「ららぽーと湘南平塚」もできた。

場所

https://goo.gl/maps/6v8HUfiVJNe3jtbw6


平塚自動車部品製作所・平塚傷兵工場
平塚金属工業)

戦時下、傷痍軍人援護のため、昭和15年(1940)4月に創設された「平塚自動車部品製作所」(トヨタ系列)。
平塚自動車部品製作所は、「平塚傷兵工場」ともいわれ、戦場で傷つき傷害を持つ人々のために創られた日本で唯一の傷痍軍人を従業員とする会社であった。
「戦場で傷ついた勇士達に対し、一時的ではなく永遠に感謝の徴意を表すため、何か意義ある御奉公をさせて頂きたい」という意義のもとでの設立であった。
戦後は「平塚金属工業」として、再生し現在に至っている。

参考

https://hirahaku.jp/hakubutsukan_archive/rekisi/00000045/8.html

https://otani.repo.nii.ac.jp/index.php?action=pages_view_main&active_action=repository_action_common_download&item_id=1179&item_no=1&attribute_id=22&file_no=1&page_id=13&block_id=28

場所

https://goo.gl/maps/4HWEVGJNy3UTFX4x6


第二海軍航空廠補給部平塚補給工場
(湘南倉庫)

航空機のエンジンと航空機用機銃やその部品を製作していた第二海軍航空廠の跡地。
第二海軍航空廠は、空襲により100%破壊され、外壁を残るだけであった。
現在、湘南倉庫の一部外壁は、この第二海軍航空廠の外壁が再利用されている。

https://hirahaku.jp/hakubutsukan_archive/rekisi/00000045/4.html

裏の倉庫も、往時?とおもったけど、違うとのこと。

場所

https://goo.gl/maps/hcCKtqHrzBrV7WZM9


横須賀海軍工廠 造機部 平塚分工場
(三興製鋼)

現在の三興製鋼は、横須賀海軍工廠造機部平塚分工場であった。

なかなか迫力のある工場ですね。

工場の第4ヤードには、今も機銃掃射弾痕が残っているという。
また、「慰霊乃碑」もあるという。

参考

http://www.sankoseiko.co.jp/judan.html

https://hirahaku.jp/hakubutsukan_archive/rekisi/00000045/5.html

平塚競輪場
ちかくには、平塚競輪場もある。これも、横須賀海軍工廠造機部平塚分工場の跡地。

場所

https://goo.gl/maps/KJUYQ3LyzY9EocEA9


陸軍架橋記念碑

1923年(大正12年)9月1日に発生した関東大震災では、相模川にかかる馬入橋が倒壊し、東西の交通が断絶してしまった。そこで、9月17日、豊橋の陸軍第15師団所属工兵大隊と、京都の第16師団所属工兵大隊が急遽派遣され、架橋工事が行われ、橋の全長450メートルの内、平塚側の300メートルを第16師団が、茅ヶ崎側を第15師団が担当し、10月3日に完成。
平塚側を請け負った、第16師団所属工兵大隊を称えるために、建立されたもの。

陸軍架橋記念碑

場所

https://goo.gl/maps/MkTBUAc9ZJAb4qxj8


東海道本線・相模川鉄橋残骸

関東大地震では、馬入橋だけではなく東海道本線の相模川鉄橋も倒壊している。
その橋脚の台座が、今も相模川には残っている。

参考

https://hirahaku.jp/kids/rekishi/rekishi05/index.html

場所

https://goo.gl/maps/3og9f1YPkx7cweUE6


犠牲動物慰霊塔(蓮光寺墓地)

馬入の蓮光寺近くにある「蓮光寺墓地」には、動物慰霊塔がある。それも「犠牲動物」の慰霊塔。
すなわち、「海軍技術研究所平塚出張所」(海軍技術研究所化学研究部・相模海軍工廠科学実験部)において使われた実験動物の慰霊塔。

合掌

犠牲動物慰霊塔

海軍技術研究所平塚出張所有志

創建年代は不詳。「海軍技術研究所平塚出張所」時代は、昭和5年から昭和9年となる。

参考

https://hirahaku.jp/hakubutsukan_archive/minzoku/00000063/24.html

場所

https://goo.gl/maps/KgCvNTK2PjsJaQLp9


※撮影は2022年4月及び9月

平塚散策ですが、都合3回実施してしまいました。
1回目は、2022年4月。その時の記事を書き始めて調査不足が発覚して9月に訪問。さらに調査不足が露呈して3回目も実施。3回目にして、レンタサイクルを駆使して、行動範囲を拡大させました。まだ漏れがあるかもしれませんが、いったん掲載をしておきます。


関連

「軍都・平塚」海軍火薬廠の跡地散策・その1

平塚市は、海軍火薬廠や海軍工廠科学実験部、そして関連する軍需工場などが集中する一大軍事拠点、「軍都・平塚」であった。そんな平塚の街をざっと散策をしてみる。

本編は「その1」となります。

かつての横須賀水交社平塚集会所(現在の旧横浜ゴム平塚製造所記念館)。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-R227-A-3-13
1946年08月15日、米軍撮影の航空写真。

平塚八幡宮の北側に軍需工場が展開されていた。

第二海軍火薬廠
平塚市役所、平塚博物館、横浜ゴム平塚製造所、パイロットコーポレーション平塚工場、平塚市総合公園、など
第二海軍火薬廠第六工場
三菱ケミカル平塚工場
相模海軍工廠科学実験部
平塚市美術館、不二家平塚工場、平塚合同庁舎、平塚警察署、など
平塚海軍共済病院
平塚共済病院
日本国際航空工業
日産車体湘南工場、ららぽーと湘南平塚など
第二海軍航空廠補給部平塚補給工場
湘南倉庫運送、JT平塚工場跡など
横須賀海軍工廠造機部平塚分工場
平塚競輪場、三興製鋼など
平塚自動車部品製作所(平塚傷兵工場)
平塚金属工業

ファイル:USA-M46-A-7-1-152
1946年02月15日、米軍撮影の航空写真。

ファイル:USA-M64-A-6-13
1946年083月05日、米軍撮影の航空写真。

ファイル:USA-R227-A-3-160
1946年08月15日、米軍撮影の航空写真。

ファイル:USA-M46-A-7-1-104
1946年02月15日、米軍撮影の航空写真。

現在のイメージ範囲。一部推測です。


海軍火薬廠(第二海軍火薬廠

海軍省直属の海軍工廠。
1905年(明治38年)9月 英国アームストロング、ノーベル、ヴィッカースの3社によりイギリス帝国に本社が設立された「日本火薬製造株式会社平塚製造所」を前身とする。
1919年(大正8年)4月 「海軍火薬廠令」に基づき日本海軍により買収され、「海軍火薬廠」発足。
海軍の爆薬・火薬の製造、研究開発拠点となる。
1929年(昭和4年)に爆薬部が舞鶴に移転。
1939年(昭和14年)、海軍火薬本廠に改編。海軍火薬支廠が宮城に増設。
昭和16年(1941年)、東から順番に宮城船岡支廠が「第一海軍火薬廠」、平塚本廠が「第二海軍火薬廠」、舞鶴爆薬部が「第三海軍火薬廠」に改編されている。

昭和20年(1945)8月の終戦とともに火薬廠は廃廠。
火薬廠は戦後は米軍により接収。
昭和25年、横浜ゴム株式会社が、一部敷地の払い下げを受け、現在に至る。

第二海軍火薬廠の各工場
第一工場 各種砲用及びロケット用無煙火薬の製造
第二工場 各種綿薬(硝化綿)の製造 各種混酸の調製
第三工場 各種酸の製造 廃酸の回収 石炭ガスの製造
第四工場 設備の設計、据付及び補修 ユーティリティの管理
第五工場 各種機銃火薬の製造 溶剤の回収
第六工場 無煙火薬の貯蔵 砲用無煙火薬の選別以降の作業
第七工場 ニトログリセリンの製造
     第一工場関係の火薬の配合混餅作業


平塚大空襲(平塚市博物館

平塚地区には、第二海軍火薬廠のほかにも横須賀海軍工廠造機部平塚分工場、第二海軍航空廠補給部平塚補給工場、日本国際航空工業などの軍需工場が集まっていた。
平塚市は、昭和20(1945)年2月16日以降、艦載機等による空襲を受けていた。
昭和20年7月16日深夜から17日未明にかけて、B29爆撃機133機による大空襲を受け、「平塚空襲」として特に大規模な空襲であった。人的被害は死者328名以上という。

7月16日の平塚空襲で被災を逃れた日本国際航空工業や横須賀海軍工廠平塚分工場など軍需工場は、2週間後の7月30日の空襲で被災した。

以下は平塚市博物館の展示物。

平塚空襲に関する展示など。

平塚市博物館

海軍火薬本廠

火薬廠門柱札
海軍火薬本廠は昭和14年から16年にかけての名称。

中央の筒は、「火薬缶」

相模海軍工廠で作っていた防毒面。

戦争関連は、ほんのすこしだけですが一見の価値あり。

書籍も入手できます。

場所

https://goo.gl/maps/DsUSuBkDv9pdxcRC6


さて、ここからは順不同で、平塚の戦争関連の遺跡(戦跡)を散策していきます。まずは、平塚駅からスタート。

平塚駅と柳の木

平塚駅北口のロータリーにある柳の木。明治20年に平塚駅が開業したことを記念して植樹された柳の木は、現在は3代目という。

平塚駅と柳の木
 明治20年(1887年)7月11日、平塚駅の開業を記念して、駅舎正面に一本の柳の木が植えられた。この木は、大正12年(1923年)に発生した関東大震災や、太平洋戦争の終結年である昭和20年(1945年〉の平塚大空襲による駅舎の全壊にも耐えてきたが、惜しくも、昭和31年(1956年)、歳月とともに枯れてしまった。
 幸いにも、当時の駅員がその柳の枝を挿し木にしており、平塚市の限りなき発展を祈念し、平塚駅開業70週年記念に駅前に栽培され、柳の木は引き継がれてきた。
 平成21年(2009年)の北口駅前広場バリアフリー化工事により、柳の木の移植が必要となったが、老齢化が著しいため、挿し木にして生長させた後、平成22年(2010年)2月にこの地へ植栽した。
平塚市観光協会

脚下には、二代目を引き継いて植樹した当時の平塚市長であった戸川貞雄氏の碑文が摩耗しながらも残っている。作家でもあった戸川貞雄氏の文は短いながらも趣がある。

平塚駅の柳の木 碑文
 明治二十年七月十一日平塚停車場が開驛し驛舎の入口に一本の柳の木が植えられた。それから七十年柳の木はいくたびか受難しつつ世界につらなる平塚の動きをじっとみつめていた。その下を往来した多くの人たちからながくしたしまれてきた柳の老木もとうとう枯れた。しかし昨年の春地に挿されたそのひと枝があらたに芽をつよく吹きはじめた。昭和三十一年七月十一日のこされたたったひと枝の生命をわたくしはここに植えた。生長をかぎりなき生長を市民とともに祈らずにはおれない。
         戸川貞雄文
         田中真門書

場所

https://goo.gl/maps/egwxCbWM9DGtkE947

平塚空襲を経て、復興した平塚市。
フェスタロードと東海道が交わる歩道橋から。


平塚八幡宮

祭神:応神天皇・神功皇后・武内宿禰

旧県社・相模国一国一社八幡宮・相模五之宮ともいう。
仁徳天皇68年、相模地方に地震があり人民の苦難のさまを伝え聞いた仁徳天皇が、国土安穏祈願のために応神天皇を祀るように勅されたのが当社の起源という。
古くは鶴峯山八幡宮と称した。
当社は一国一社の八幡宮としてあつく崇敬され、総社六所神社の「国府祭」にも参加する神社。
明治6年に政府の指示により「八幡神社」と改称。昭和53年に「平塚八幡宮」の旧名に復した。
明治社格では県社。現在は神社本庁別表神社。平塚市総氏神。

仁徳天皇68年、相模地方に地震があり人民の苦難のさまを伝え聞いた仁徳天皇が、国土安穏祈願のために応神天皇を祀るように勅されたのが当社の起源という。
古くは鶴峯山八幡宮と称した。
当社は一国一社の八幡宮としてあつく崇敬され、総社六所神社の国府祭にも参加する神社。
明治6年に政府の指示により「八幡神社」と改称。昭和53年に「平塚八幡宮」の旧名に復した。
明治社格では県社。現在は神社本庁別表神社。平塚市総氏神。

ちょうど参拝時は4月末だったため。国府祭を控えていました。
毎年、五月五日に相模国の一宮から五宮までの五社と総社六所神社の神輿が集う祭事。

場所

https://goo.gl/maps/m2jh6eHZ8jnTtB9C8


忠魂碑と明治三十七八年戦役記念碑(平塚八幡宮)

平塚八幡宮の境内に戦争関連の石碑がある。

忠魂碑
元帥伯爵東郷平八郎書

明治三十七八年戦役記念
 希典書

忠魂碑は「西南戦役」「明治二十七八戦役(日清戦争)」「明治三十三年事変(北清事変)」「明治三十七八年戦役(日露戦争)」にまつわる。
東郷さんと乃木さんの石碑。


八幡山公園

平塚八幡宮が鎮座する八幡山。
公園としては、八幡山の洋館(旧横浜ゴム平塚製造所記念館)、平和の慰霊塔や戦災復興事業完成記念碑、「平和の慰霊塔」や「戦災復興事業完成記念碑」などがある。

場所

https://goo.gl/maps/yS3JeuKB1Ynqk7Sg9


横須賀水交社平塚集会所
旧横浜ゴム平塚製造所記念館(八幡山の洋館)

国登録有形文化財(建造物)。愛称が「八幡山の洋館」

砲用発射無煙火薬
日露戦争当時、日本海軍は爆薬として「下瀬火薬(下瀬爆薬)を用いていたが、発射推進火薬としての砲用発射無煙火薬は、同盟国の英国からの輸入に頼っていた。
日露戦争後に、無煙火薬国産化の必要性が急務となり、その新設火薬製造所建設の地に平塚が選定された。
選定理由として、東海道線を用いた資材輸送の利、軍港横須賀との地の利、相模川等の豊富な水資源、広大な国有の遊休地があったことなどがあげられている。

日本火薬製造株式会社(日本爆発物製造株式会社)
明治38年12月、日本火薬製造株式会社(明治40年日本爆発物製造株式会社と改称)が、日英同盟のもと日本海軍とアームストロング社、チルウォース社、ノーベル社の英国三社の合弁会社として設立。
八幡山の洋館は、その際に英国人支配人の執務室あるいは住居として建設された、という。

海軍火薬廠
大正8年(1919)、日本海軍が全施設を買収し、海軍火薬廠が発足。海軍の爆薬・火薬の製造、研究開発拠点となる。
昭和14年、海軍火薬本廠に改編。
昭和16年、第二海軍火薬廠に改編。
火薬廠の発足後、「八幡山の洋館」建物は横須賀水交社平塚集会所(海軍の将校クラブ)として使用された。

昭和20年(1945)8月の終戦とともに火薬廠は廃廠。
火薬廠は戦後は米軍により接収。
昭和25年、横浜ゴム株式会社が、本建物を含む一部敷地の払い下げを受け、主に応接室や会議室として使用。
平成16年、本建物は横浜ゴム株式会社より平塚市へ無償贈与され、八幡山公園に移築され、現在に至る。

https://hiratsuka-yokan1906.jp/westernhouse/index.html

昭和10年頃の海軍火薬廠正門

昭和5年、南ベランダ前
昭和5年、玄関前

海軍火薬廠時代の応接室。

沿革

第二海軍火薬廠略図。この位置関係情報が、あとあとでかなり重要になりました。

内装。

場所

https://goo.gl/maps/fhFK6JTGgVHd57yY8


煉瓦積基礎の遺構

国の登録有形文化財(建造物)「旧横浜ゴム平塚製造所記念館」
煉瓦積基礎の遺構
 この煉瓦積は、「旧横浜ゴム平塚製造所記念館」を当地に移築する際に基礎を全て鉄筋コンクリート造に改めたため、移築前の旧い煉瓦積基礎(布基礎)の一部分を、その遺構として保存したものです。
 この建物は、海軍火薬廠の前身となる英国法人:日本火薬製造株式会社(The Jpanese Explosives Company Limited)の英国人宿舎の中心的建物で、明治44年に前身建物が火災で焼失した際に再建されました。
 この基礎の元の位置は、塔屋がある棟の正面(南)側西より部で、煉瓦の積み方はイギリス積(English Bond)、厚みは一枚半で15段積です。この基礎は、再建時に新しい間取りに合わせて新規に積まれた部分ですが、建物全体の基礎の6割にあたる部分では、前身建物(明治39年建設)の基礎フーチングをそのまま再利用して、その上に積まれていました。
 使用される煉瓦は、およそ巾10.9cm(0.35尺)、長さ22.1cm(0.73尺)、厚6.0cm(0.20尺)で、一部の煉瓦の平の面には図のような刻印が見られました。
  平成21年4月 平塚市教育委員会


平和慰霊塔

平塚八幡山公園にある、慰霊塔。

平和慰霊塔

平和慰霊塔の記
本市は明治以来幾たびかの戦争において尊い生命を捧げられた犠牲者のみ霊を慰めその冥福を祈るために昭和三十八年一月平塚市戦没者慰霊施設建設準備委員會を設けここに市民の浄財と市費をもってこの慰霊塔を造立した
ねがわくは諸霊この塔にあつまり給いて市民に誠意に應え永く世界の平和を護持されんことを祈る
 昭和四十年晩秋 
  平塚市長 加藤一太郎謹書

寄贈 平塚市遺族會 
会長 宮川惣次郎 
副会長 根岸勘次郎 副会長 安村惠三

合祀碑

 戦災による殉難の諸霊を平和慰霊塔に合祀し
 つつしみて短歌三首を捧ぐ

米軍の 空襲の日に 被弾して 
 倒れし市民(とも)の 霊(たま)を弔う
この塔に あわせまつりし 悲しみの 
 市民のみ霊よ 永久にやすかれ
戦いは 地獄なりけり つぎの世に 
 このかなしみを またあらしめじ
   平塚市長加藤一太郎

昭和四十七年十月十二日

水流れて滄海に帰す

翔和四十四年十月 平塚市遺族會婦人部

平和慰霊塔と八幡山の洋館

場所

https://goo.gl/maps/z84PCdzzxwX8EwQL9


平塚戦災復興事業完成記念碑

八幡山公園の西端にある。

平塚戦災復興事業完成記念

神奈川県知事 内山岩田郎書

平塚市は昭和20年7月16日の空襲により市の中心部と工業地帯を含む 314ヘクタールが被災しました。
この壊滅的な打撃を受けた平塚市を再建するため昭和21年9月県市をあげて 平塚都市計画事業土地区画整理事業に着手以来、復興の意欲に燃える市民各位を中心に関係者協力一致、 多くの苦難を克服し、21年の歳月と総工費11億円を費やして、ここから南に展開する新しい平塚市が誕生いたしました。昭和42年3月記

場所

https://goo.gl/maps/iwtepkcfnMGarKPi8


第二海軍火薬廠正門門柱

現在の横浜ゴム株式会社平塚製造所の正門は、当時の第二海軍火薬廠の正門跡。

なお、横浜ゴム敷地内には、正門門柱のほかには、奉安殿・地下壕入口・貨車引込線・鉄筋コンクリート建屋など一部現存しているというが通常非公開。
コロナ禍以前は、「Think Ecoひらつか」で公開もあった。

https://www.y-yokohama.com/thinkeco/Historic_site_tour/

場所

https://goo.gl/maps/TvkFrk3FNvE9epUx7


海軍火薬廠の跡

横浜ゴムの南の公道側に、跡地碑がある。

海軍火薬廠の跡
 岸本肇書
ここを正面に 四十余万坪の地は海軍火薬廠の跡である
同廠は明治三十八年日本政府と英国アームストロング  ノーベル チルウォースの三会社との契約により設立された日本爆発物製造製造株式会社 を 大正八年海軍省が買収したものであって 爾来昭和二十年まで日本海軍の火薬 技術の中心として 数多い功績を残すと共に 平塚市の発展と文化に多大の貢献をしたところ である
ここにその事績を偲びこの碑を建てる
  昭和四十九年秋日   
  海軍火薬廠跡の碑建立の会  
   水島英耀書

場所

https://goo.gl/maps/Yvd665TffPn9PG7J7


横浜ゴム株式会社平塚製造所東門

東門の門柱も雰囲気がある。
当時からのものかは不詳。

場所

https://goo.gl/maps/51W6uRv5TKsYRd3KA


平塚海軍共済病院(平塚共済病院)

海軍火薬廠の職域病院として、横須賀海軍共済組合病院平塚診療所が1919年(大正8年)に開院したことにはじまる。
現在の平塚共済病院。
平塚海軍共済病院本館が、旧外来棟として現存している。

平塚海軍共済病院本館
昭和7年 (1932)竣工。

防火水槽
平塚海軍共済病院本館の手前に、防火水槽も残っている。

白鷺塚と白秋歌碑
近くには、北原白秋の白鷺の和歌碑もある。

白鷺塚

平塚市長 戸川貞雄

北原白秋
白鷺の 白鷺の
飛べば夕日の高麗寺 
月になるやら 風じゃやら

平塚海軍共済病院軍用地境界柵
軍用地境界柵が東側の境界に残る。

平塚海軍共済病院通用門跡

平塚共済病院

平塚海軍共済病院軍用地境界壁
軍用地境界壁も残る。駐車場の隅。

平塚海軍共済病院軍用地境界柵
軍用地境界柵が駐車場にも残っていた。

煙突
神奈川県立平塚盲学校の敷地内にある煙突。
当時からの雰囲気を感じる煙突であるが、「解体」とのこと。。。

2022年9月再訪時したら、解体進行中でした。。。

場所

https://goo.gl/maps/2YukTJFrQiNmdYyCA


第二海軍火薬廠 寄宿舎正門跡
(県立ろう学校)

現在の県立ろう学校の西側の壁。この飛び出た柱が、火薬廠寄宿舎の正門門柱であったという。

場所

https://goo.gl/maps/y22EDTFQzoz9GpK47


中原御林(平塚市総合公園)

徳川家康が鷹狩の折に宿泊所としていた中原御殿があった場所。
このあたりも海軍火薬廠の用地でした。

場所

https://goo.gl/maps/LHYGTqmdUFyk8i5o8


鷺塚(平塚市総合公園)

海軍火薬廠の敷地内になっていた松林。そこには多くのシラサギやゴイサギが生息していたが、昭和13年の暴風雨で多くの鳥たちが亡くなってしまったという。そこで海軍火薬廠の従業員が慰霊の塚を建立したという。

昭和13年8月31日夜半暴風にて9月1日払暁に至り大暴風雨のため惨死せる白鷺及び五位鷺五百数十羽の霊を弔うものなり
昭和14年二月建之 火薬部第一工場

往時はコンクリート製の鷺塚であったが、市制50周年を記念し、総合公園再整備事業にて、鷺塚も御影石で復元したという。

場所

https://goo.gl/maps/KCZ6bi8agWRNuKZHA


第二海軍火薬廠 第二工場 綿薬精製場
(富士チタン工業)

現在の富士チタン工業。
第二海軍火薬廠の建物が、最もよく残されている場所。
綿薬精製場の建物がほぼ完全に残されている。

参考

https://hirahaku.jp/hakubutsukan_archive/rekisi/00000045/2.html

場所

https://goo.gl/maps/axC81PmYSG6LEkUh9


第二海軍火薬廠 第一工場 実験場
(パイロット蒔絵工房NAMIKI)

現在はパイロット蒔絵工房NAMIKIは、海軍火薬廠の建物。
第九実験場であったという煉瓦建造物。

見学は事前申し込み、平日のみ。。。

https://www.pilot.co.jp/service/koubou_namiki/

場所

https://goo.gl/maps/QhrJjVAmdBJXuqF77


第二海軍火薬廠 第七工場
(クミアイ油脂)

北側に位置する第七工場。クミアイ油脂敷地内の建屋も、往時のものと思われる佇まい。

場所

https://goo.gl/maps/3EqPatKjsKkSmpEb8


第二海軍火薬廠 境界塀
(北西部)

北西部の高橋工業所の前に、境界塀が残っている。

場所

https://goo.gl/maps/aGbCgt3qvroY53mQ9


第二海軍火薬廠 第六工場 砲台跡
(松が丘公民館・殉国碑)

松が丘公民館の敷地がかつての第六工場の砲台跡であった。
いまは、「殉国碑」が建立されている。(昭和31年建立)

場所

https://goo.gl/maps/aGbCgt3qvroY53mQ9


第二海軍火薬廠 境界塀
(北東部)

北東部の外郭にあたる場所。このあたりも往時の境界塀と思われる。色は白く塗られているが。

場所

https://goo.gl/maps/NDGGrmmo5WjsZyp78


第二海軍火薬廠引込線跡

駅から伸びていた引込線のあと。なんとなく線形が追える。

場所

https://goo.gl/maps/GfbmxQJx1XAoz6h67


※撮影は2022年4月及び9月

つづきは、「その2」にて。


関連

JR根府川駅に残る機銃掃射弾痕(小田原市)

昭和20年。小田原周辺は度々の空襲に見舞われていた。

小田原地方の空襲

界隈では、二宮駅が8月5日にアメリカ軍戦闘機P‐51の機銃掃射を受けていた。

この日、襲来したP-51戦闘機の編隊は、各地の鉄道駅や列車を襲撃し続けている。二宮駅や小田原駅・下曽我駅・国府津駅などに機銃掃射を加えながら、丹沢山地を抜け内陸部へと飛行を続け、八王子・浅川の上空に到達し、走っていた列車に機銃掃射を行った。

また、小田原でも、7月から8月にかけて、いくどとなく空襲を受けていた。東京への空襲の進入路や退出路のひとつであった、からのようだ。

今回、訪問した根府川駅に残る機銃掃射弾痕が、いつの空襲かは定かではないが、昭和20年7月末頃、とされている。


JR根府川駅に残る機銃掃射弾痕

昭和20年7月末から、小田原地方は連日、米軍艦載機の空襲を受けていた。低空で飛び交う艦載機(主にP‐51マスタングか)からの機銃掃射は、人々を恐怖のどん底へと引き落としていた。
JR根府川駅の上りホームには、その機銃掃射の弾痕が多く残っている。

以下、見つけたものを、仮で番号を振りつつ、掲載。
見逃しや機銃掃射弾痕ではないものもあるかもしれませんがご了承いただければ幸いです。

【1】
階段からホームに降りたすぐ近くの屋根の柱の上部に大きく抉られた機銃掃射の弾痕がある。抉られた柱をのちに後ろに当て板をして補強しているものと見られる

【2】

屋根の下の柱には、いくつも抉られたあとがある。

【3】

【4】

【5】

【6】

【7】

【8】

【9】

屋根を支える柱も。手前の柱は綺麗なために、のちの補強か。

【10】

着弾の衝撃で凹んだと思われるコンクリート壁。

【11】
階段の壁にも穴が。

内側。

【12】
階段を支えるコンクリートが削られている。

【13】

階段の壁が、えぐられている。

【14】

弾痕の穴を木片で埋めているようだ。

【15】

【16】

【17】
【18】

【19】

【20】

【21】

【22】

【23】

【24】

これは違うかもしれないけど、削れているので、、、

【25】

【26】

【27】
【28】
階段を支える鉄筋部分。

【29】

まだまだあるかもしれませんが、ざっくりでも29箇所を見ることができました。


根府川駅旅客上家1号

昭和8年8月11日の建物財産標を確認できました。

風光明媚。


関東大震災殉難碑(根府川駅列車転落事故)

大正12年(1923年)9月1日。
東京発真鶴行普通第109列車が、根府川駅のホームに入線しかけたところで、関東大震災によって引き起こされた地滑りによる土石流に遭遇。根府川駅の駅舎やホームなどの構造物もろとも海側に脱線転覆して最後部の客車2両を残して全てが海中に没してしまった。
この事故に遭遇した列車の乗員乗客と根府川駅にいた乗客及び駅勤務職員のうち、112人が死亡している。
関東地震が原因となって引き起こされた最悪の被害を出した列車事故であった。

昭和48年(1973年)に根府川駅の改札口横に、鉄道関係者によって慰霊碑が建立されている。

関東大震災殉難碑

昭和四拾八年九月壱日 根府川駅職員一同

合掌


根府川駅(根府川駅旅客上家3号)

根府川駅旅客上家3号(駅本屋)は、大正13年10月5日と建物財産標に記載があるのが確認できる。。大正12年9月1日の関東大震災で駅舎を消失し、その翌年に再建された駅舎となる。

関東の駅百選認定駅

小田原ふるさとの原風景百選


根府川の高射砲陣地跡

根府川公民館には高射砲陣地が設けられていた。
高射砲部隊の所属していた元兵士が、1988年に、この地に陣地があったことを詠んだ句碑を建立している。

訪いくれば
 要塞たりし
丘高く
 公民館の白き
 映えおり
  正夫

高射砲陣地跡からは、海を望める。

※撮影:2022年8月


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M46-A-7-1-199
1946年2月15日、米軍撮影の航空写真。

拡大。根府川駅と高射砲陣地跡。


参考

小田原市のリーフレット「伝えておきたい小田原の戦争と平和」

https://www.city.odawara.kanagawa.jp/municipality/peace/peace/ki-20170149.html


関連(鉄道と機銃掃射)

「陸軍重砲兵学校」跡地散策・その2(横須賀)

馬掘小学校・中学校の東の坂道を進む。馬掘自然教育園へ向かう。往時から残る道。

本記事はその2となります。その1はこちらから。


境界塀

馬掘中学校に残る不自然な境界塀。往時からの塀かもしれないし、関係ない塀かもしれない。参考まで。

馬掘中学校。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M46-A-7-2-122
昭和21年(1946年)2月15日、米軍撮影の航空写真。

一部拡大の上、加工。
当時は、重砲兵学校のすぐ先が海岸線であったた。現在は海岸線が埋め立てられていることが分かる。


馬堀自然教育園

馬堀自然教育園
 昭和34年、市の博物館付属施設として開園しました。戦前は旧陸軍重砲兵学校の弾薬庫などがあった場所で面積は38600平方メートルあります。
 園内はタブノキ、スダジイ、オオシマザクラなどが茂る自然林で約250種の植物が生育し様々な鳥類がやってきます。池や水路ではホタルやトンボ、メダカなど水生生物が保護・育成され、学習棟には園内の地質・動植物を紹介した展示室があります。
 園内には旧陸軍の弾丸庫や火薬庫、御稜威神社の鳥居や記念碑が現在も残されており近代化遺産としても貴重な所です。
 この緑地は小原台台地から観音崎公園につながる自然観察ルートになっています。
  大津行政センター市民協働事業・大津探訪くらぶ

横須賀市自然博物館付属
馬掘自然教育園

横須賀市自然・人文博物館付属
馬掘自然教育園

駐車場はないのでご注意を。

歴史遺産の宝庫!馬掘自然教育園
園内にある旧陸軍重砲兵学校の遺構


陸軍重砲兵学校

明治22年(1989)。要塞砲兵幹部練習所が市川市の国府台に創設。
明治29年(1896)に、陸軍要塞砲兵射撃学校と改称。翌年明治30年に横須賀馬堀の新校舎に移転。明治41年(1908)に陸軍重砲兵射撃学校と改称し、大正11年(1922)に、陸軍重砲兵学校と改称した。


馬掘自然教育園に残る陸軍重砲兵学校跡地散策

散策を。

コンクリート擁壁

火薬庫1

火薬庫は2棟残っている。それぞれ形状は異なる。

水路の遺構?

上の池。これは旧軍とは関係ないのかもしれないが。

火薬庫2

ふたつめの火薬庫。

火薬庫の後ろには巨大な壁がある。

防爆壁

火薬庫が万が一に爆発した際に被害を防ぐ爆風防護壁。

水路

水源地施設

水源地。今も水が湧いている。

寄り添う大木

ムクノキとシラカシ。馬掘自然教育園に残る大木。

古井戸

正方形の枠が設けられた井戸。

御稜威神社跡

陸軍重砲兵学校内神社として設けられた御稜威神社。
創建は昭和14年(1939)という。

御稜威神社跡。台座。

「稜威神社之記」記念碑

稜威神社之記 
陸軍重砲兵學校創立セラレテヨリ茲ニ五十年稜威ノ下幾多先輩ノ赤誠ニ依リ今日ノ隆昌ヲ見タリ我等亦愈之カ發展ヲ希ヒ先輩有志ノ協力ヲ得校内ニ聖域ヲ卜シテ神殿ヲ造營シ伊勢大神宮明治神宮及香取鹿島兩宮ヲ奉祀シテ禮拜ノ儀典ヲ継承シ絶エス神前ニ忠誠ヲ誓ヒ益ゝ盡忠報國ノ志ヲ鞏ウセンコトヲ期ス 
 昭和十四年三月二十七日

(裏面)
准士官下士官兵 判任文官雇庸傭人

狛犬台座跡?

参道跡

御稜威神社鳥居

御稜威神社社号標

(表)
御稜威神社
(裏)
陸軍重砲兵学校長 太田勝海

石段の一部が欠けていた。

防空壕跡

防空壕を塞いだであろう箇所がいくつかあった。

園内を1時間ぐらい散策。
陸軍火薬庫であったがゆえに、立ち入りが制限され、それゆえに、戦後は自然教育園として活用されてきた空間。自然教育とあわせて歴史教育もできるという貴重な場所。敷地内はアップダウンもあり、足元は湿り気もあるため、しっかりとした靴での散策を推奨。

場所

https://goo.gl/maps/TQKy7qBbsp8ELvQS8

公式

https://www.museum.yokosuka.kanagawa.jp/exinfo/mabori-map/educationgarden

https://www.city.yokosuka.kanagawa.jp/8161/sisetu/fc00000383.html

※撮影:2022年5月


関連

「横須賀重砲聯隊」跡地散策

横須賀には「陸軍重砲兵学校」があった。そして横須賀には「要塞」があった。横須賀に残る重砲聯隊の名残を散策してみる。
汐入駅からの衣笠駅を結んでいるバスで、坂本坂上バス停下車。


横須賀重砲聯隊

明治24年(1891年)11月に、要塞砲兵第一聯隊が、横須賀に創設されたことに始まる。
明治27年、日清戦争に参戦。
明治29年、東京湾要塞砲兵聯隊と改称。
明治37年、日露戦争に参戦し旅順二〇三高地攻略戦で活躍。
明治40年、重砲兵第一聯隊第二聯隊に改編。
大正9年12月に、「横須賀重砲兵聯隊」と改称。
以来、終戦まで東京湾要塞重砲兵聯隊として首都を防衛。
横須賀重砲兵連隊は第1師団に所属し、有事の際は東京湾要塞司令部の指揮下にあった。


横須賀重砲兵連隊営門

横須賀重砲兵連隊の正門。
明治40年(1907)10月26日に竣工。連なって残る約16mの塀は、明治24年(1891)に出来上がったものと推定。
門柱は58cm角で、高さは3.24m、塀の高さは1.8m。
横須賀に残る数少ない明治建造物で、現在は桜小学校、坂本中学校の門として使用されている。

横須賀市指定市民文化資産
旧横須賀重砲兵連隊営門
連隊の正門で、明治40年10月に竣工した。これに連なる塀は、明治24年に完成したものと推定される。本市に残る数少ない明治建造物である。

公式

https://www.city.yokosuka.kanagawa.jp/2120/g_info/l100004017.html

場所

https://goo.gl/maps/64ukQw8YBMzfWuJAA


横須賀重砲兵聯隊跡記念碑

桜小学校の校庭南側の鎮座。道路を挟んだ反対側は坂本公園。道路側からも記念碑を伺うことは可能。

現在は、桜小学校の校庭南側に2つの記念碑が並んで建立されている。
小学校の校庭内になるためにご注意下さい。私は校庭開放日に見学をさせていただきました。

横須賀重砲兵聯隊跡記念碑
誠心山之碑
ふたつの碑がある。

記念碑
横須賀重砲兵聯隊跡

嗚呼横重
鎌倉山の星月夜
衣笠城址の蝉時雨
山河に残る英雄の
感化は如何で浅からん
桜花の春の競技会
紅葉の秋の裾野原

一 明治二十四年十一月要塞砲兵第一聯隊当地に創設
一 明治二十七年日清戦争に参戦
一 明治二十九年五月東京湾要塞砲兵聯隊と改稱
一 明治三十七年日露戦争に参戦二十八榴を以て旅順二〇三高地攻略戦に偉勲を樹つ
一 明治四十年十月重砲兵第一第二聯隊に改編
一 大正三年一部を以て日独戦争に参戦
一 大正八年十二月芸豫重砲兵大隊当隊に編入
一 大正九年九月深山重砲兵連隊より第三大隊転入 同年十二月横須賀重砲兵聯隊と改稱
一 昭和十三年第三大隊満州国阿城に転営
一 自昭和十二年至昭和二十年支那事変及大東亜戦争に於て各種野戦部隊を編成派遣し且つ東京湾
   要塞重砲兵聯隊を編成し首都を防衛す
一 昭和二十年八月十五日終戦
  
昭和四十六年四月
 横須賀重砲兵聯隊遺跡保存会建之
  施工 田中石材工業

誠心山之碑

陸軍重砲兵聯隊の敷地内にあった人口の丘「誠心山」があった。大正14年12月に、「誠心山」由来を刻んだ碑が建立された。

誠心山之碑の扁額は上原勇作の揮毫。

誠心山之碑

横須賀市立桜小学校

※撮影:2022年8月


関連

旧長井駅舎(解体済)と長井の近代建築散策(山形県長井市)

以前の出張で、山形県長井市に脚を運んでいた際に、記録していた写真を掲載します。
撮影は2018年。偶然にも旧長井駅の解体前の思い出の記録にもなった。

訪れたのは、2018年8月の早朝。
この一瞬、奇しくも虹が出ていました。


旧長井駅舎(解体済)

長井駅は、山形鉄道が国鉄長井軽便線だった1914年に開業。
2代目の駅舎は、昭和11年(1936年)に改築されたもので、貴重な昭和戦前期の木造駅舎として2002年には「東北の駅100選」に選定されたが、令和元年(2019年)7月に解体された。

令和3年に市役所と駅舎が一体化した現在の3代目の「長井駅」が完成。

東北の駅百選

駅舎内。

駅舎の裏側。

ホームへ。

貨物ホーム跡。

鮎貝りんごちゃん。

ガラス越しに。

もう見れない駅舎。。。

解体済み。。。


旧小池医院

昭和6年に建てられた産婦人科医院。
八角形の塔と北方ヨーロッパの木造建築の技法ティンバー様式が象徴的。

場所

https://goo.gl/maps/HFuFxsmSqxDERuAE6


旧桑島眼科医院(桑島記念館)

昭和2(1927)年に建てられた木造2階建ての西洋建築の建物。
一見するとコンクリート造にように見えるけど木造。

場所

https://goo.gl/maps/opwLYvxbEc4fh7WB6

撮影:2018年8月


関連

https://senseki-kikou.net/?p=23240

米沢の近代史跡散策・その2

山形県米沢市に赴く機会があったので、米沢城周辺を散策してみました。
米沢城周辺の散策は、その1にて。


九里学園高等学校 (九里裁縫女学校)

竣工は、昭和10年 (1935)。国登録有形文化財。

九里学園高等学校
大正建築の意匠を持つ九里学園高等学校の木造校舎は昭和10年に建築され、平成9年に登録有形文化財として指定を受けた。創立は明治34年、創立者の九里とみは近代和裁の父渡辺辰五郎(現、家政大学の校祖)に学び、北里柴三郎・福沢諭吉の影響を受けて、男尊女卑の時代に女子自立の教育を行った。

場所

https://goo.gl/maps/9s1SxeVyvkJbfcv98


米織会館 (米沢織物同業組合本館)

竣工は、大正11年 (1922)。

米織会館
この建物は米沢織物組合の事務所として大正11年(1922年)に建築されました。大正14年にはのちの昭和天皇が同組合に行啓遊ばされ、米沢織及び人造絹糸を御熟覧されました。現在も米沢織の施設として利用され、販売も行っています。

場所

https://goo.gl/maps/TLbGntXBrNCPM2Qt6


ホテルおとわ本館 (音羽屋旅館)

創業は明治31年(1898年)。竣工は、昭和12年(1937)。国登録有形文化財。

場所

https://goo.gl/maps/BcS4NkgPAoE6nHoc8


米沢駅

現在の駅舎は、平成5年(1993年)完成。

米沢駅の駅名由来
 米沢という地名は、アイヌ語で「湯の川」という意味の「ユナイ」が転訛したものといわれています。他にも、米のとぎ汁のような白い水が出る「米井」、火山灰を意味する「よな」に由来するといった説のほか「米を産する沢地」と解釈する人もいます。
 吾妻連邦、飯豊山に抱かれ、清流・最上川が流れる米沢市は米沢の味A(APPLE/りんご)B(BEEF/米沢牛)、C(CARP/鯉)を代表とする食の宝庫でもあり、また「米沢十湯」と総称される秘湯を含めた十ヶ所の温泉が点在し「いやし」や「やすらぎ」を求めて多くの観光客が訪れています。
 江戸時代には、名称・上杉謙信とする米沢藩上杉家の城下町でした。上杉氏第十代・(ようざん)鷹山公は、困窮した藩財政を立て直した名君として知られ、内村鑑三の著書「代表的日本人」と新渡戸稲造の著書「武士道」で共に英文で紹介され、日本人としてアメリカで名を挙げました。彼の行った改革は封建時代において類を見ない、現代の民主主義思想にも通じ、その指導力と経営力は現在でも各界で注目されています。鷹山公の「為せば成る為さねばならぬ何事も 成らぬは人の為さぬなりけり」という三十一文字は有名です。
 この地名の由来を受けて、明治三十二年(一八九九)五月十五日奥羽本線の福島~米沢間開通の時、米沢駅が開業しました。

米沢は乗り換えで利用しました。
あまり時間がなかったので、代表的な建造物の見学のみでしたが。。。

撮影:2022年5月

米沢の近代史跡散策・その1

山形県米沢市に赴く機会があったので、米沢城周辺を散策してみました。


招魂碑

米沢城址、上杉神社の境内の上杉謙信祠堂(御堂)跡に建立されている招魂碑。

招魂碑
 この招魂碑は、慶応4年(1866)に始まった戊辰戦争で、主に新潟方面で西軍と激戦の末に戦死した米沢藩士280余名と、明治10年(1877)におこった西南戦争の戦死者52名を慰霊するために、明治11年4月に建てられました。その後、日清・日露戦争で戦死した将兵の霊も合祀されています。この場所は、米沢城本丸の東南隅にあたり、藩祖上杉謙信公の遺骸を安置した御堂があったところです。毎年2月に開催される雪灯篭祭は、この地で執り行われます。
 碑は、凝灰岩で高さ約3.4メートル、総高約5.8メートル。碑銘は、戊辰戦争に従軍して参謀を務めた齊藤篤信(後の山形県師範学校初代校長)が、稲穂の芯を束ねた特製の大筆で書いたものです。
 米沢市
 米沢観光協会

上杉謙信祠堂(御堂)跡

松が岬公園の南東の高台にある謙信公御堂跡(米沢城本丸南東)。ここは米沢城下で一番高い場所。


傷痍之碑

上杉神社境内社の春日神社敷地内に建立。

恒久平和祈念
傷痍之碑
米澤市傷痍軍人会
米澤市傷痍軍人妻之会

傷痍之碑
趣意書
 ああ 過ぎしいくさの日日を憶えは痛ましくも悲しく万感胸に迫る
 時まさに風雲急を告げ青春の血を燃やし国難に殉せんと祖国遥かに陸海空の戦陣に召されるや護国の大任に就き戦傷病を負い戦列を去ったわれら傷痍軍人は、昭和20年8月15日痛恨と慟哭の裡に終戦を迎えた
 国破れて山河あり 傷痍の身に生命の灯を点し帰郷したわれらは、以来耐え難き苦悩と心身の障害を克服 祖国再建 平和布求の決意も新たに再起し妻とともに相寄り相扶な生活を刻み心魂を傾け生きてきた生きざまを省みるとき 恒久平和 祖国郷土の発展 家運繁栄を衷心より記念して止まず 願わくはこの熱き思いを込めたわれらの志を永く伝えるべく 四季美しく神鎮まる城址の丘に傷痍の碑を建立 協賛会員一同の名を刻み 鎮魂のため 上杉神霊の加護を祈願奉納するものである
 昭和57年5月1日
  米澤市傷痍軍人会、
  米澤市傷痍軍人妻之会

春日神社は、上杉鷹山公が学問・武芸に励むことや、行動や賞罰に不正の無いこと等を誓った誓詞を奉納した神社。


慰霊の碑

松が岬公園内。

ふるさとの父母想い 
 妻や子の 
やすらかなれと
 祈りつつ
平和を願い
 散りし魂

戦後50年の節目の年に当り、あらためて、あの太平洋戦争を顧みながら、世界の恒久平和と、御霊の永遠の安寧を願うとともに、あの痛ましい悲惨な戦争体験を風化させることなく、戦争を二度と起こさない証として、ここに慰霊碑を建立する
  平成7年9月
   米沢市遺族連合会  
   米沢市遺族共励会
     婦人部
     青壮年部


建国記念の日碑

松が岬公園内。

上杉鷹山が米沢に迎え入れられた際に、義父の上杉重定は、歓迎の意を表して米沢城大手門前広場の前を流
れる御入水川(上水道)に架かる橋を、新しく石橋に架け替えた。上杉鷹山は、この新しい橋に気が付き、下馬をして橋の前で頭を下げて徒歩で橋を渡ったという。人々は鷹山の人柄に触れ、この石橋を「いただき橋」と名づけました。のちにこの石橋が割れてしまうが、その石で「建国記念の日」碑を建てて、形を変えつつ鷹山の人柄を伝承している。

建国記念の日
2月11日


以下、近代史に限らずで、米沢城址・松が岬公園の散策を。

従三位上杉曦山公之碑

第12代上杉斉憲公。
正面の題字は、陸軍大将兼参謀総長で書道に優れた有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみやたるひとしんのう)の筆。
裏面の斉憲の経歴は勝安房(かつあわ)(勝海舟)の撰文。


稽照殿(上杉神社宝物殿)

稽照殿は、大正8年の米沢大火による大正12年の上杉神社再建に際し、宝物殿として創設。
設計は米沢市出身の建築家・伊東忠太。
平成10年に登録有形文化財に認定。


赤穂事件殉難追悼碑

吉良上野介の正室は、米沢藩主の娘であり、赤穂浪士が実際に討ち入りの時には、吉良上野介の実子(上杉綱憲)が上杉家に養子入りして藩主となっていた。


上杉神社

松が岬公園(米沢城址)に位置し、上杉謙信を祀る。旧社格は別格官幣社。
現在に残る社殿は、大正12年に竣工。設計は米沢出身の伊東忠太によるもの。


米沢城

伊達政宗公生誕の地

伊達政宗は永禄10年(1567)、米沢城で生誕している。

上杉鷹山公之像(上杉神社参道)

天地人
上杉景勝公と直江兼続公主従像

上杉謙信公


逸三之像

日本で初めて人造絹糸(レーヨン)製造に成功した科学者・実業家。帝国人造絹糸(現・帝人の前身)共同設立者。


明治天皇行在所遺趾

明治天皇が明治14年9月に東北地方を巡幸した際、米沢に宿泊した場所(行在所)。当時新築の南置賜郡役所がこの地にあった。
南置賜郡役所は大正8年の米沢大火で類焼。大正10年に 明治天皇ゆかりの遺蹟があったことを記念して石碑が建立された。


米沢牛の恩人
チャールズ・ヘンリー・ダラス碑

1842年(天保13)、英国の首都ロンドン市で生まれる。1862年頃(文久2)、鉱物商として中国大陸に渡り、1865年(慶応元)に初来日した。
明治4年10月、米沢興譲館洋学舎で教鞭をとり、明治8年に任期を終え横浜の居留地に戻る折り、お土産として米沢の牛を持ち帰ったとされている。その米沢肉をイギリス人仲間に食べさせたところ、その食味の良さに驚き大好評であったといわれ、米沢牛が有名となった。


上杉鷹山公之像(松が岬第2公園)


草木塔

石碑草木塔。草木の魂を供養する碑。


松岬神社

松岬神社(まつがさきじんじゃ)。
上杉鷹山、上杉景勝、直江兼続、細井平洲、竹俣当綱、莅戸善政を祀る。
上杉謙信の祠堂を改めた上杉神社に合祀された米沢藩中興の大名・上杉鷹山は、明治35年(1902年)に上杉神社が別格官幣社に列せられるに際し、米沢城二の丸世子御殿跡に設けた摂社「松岬神社」に遷座された。
旧社格は県社。上杉神社摂社。

上杉景勝公

松が岬公園

場所

https://goo.gl/maps/Cv3Xb6aPnNzMLBDG7

撮影:2022年5月


関連

米沢出身の建築家・伊東忠太

【解体済】鉄道第一聯隊炊事棟跡(千葉市中央区椿森)

千葉県千葉市中央区椿森。鉄道第一聯隊がこの地に展開されていた。

以下は解体前の記録です


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M504-168
昭和22年(1947年)9月24日、米軍撮影の航空写真。

千葉駅周辺の軍事施設跡など。

鉄道第一聯隊は、度重なる空襲で壊滅していた。
そんな中で「炊事棟」が残っているのがわかる。


千葉空襲

1.空襲等の概況
 千葉市は、明治末期から太平洋戦争中にかけて、千葉聯隊区司令部、千葉陸軍病院、 鉄道第一聯隊、千葉陸軍兵器補給廠、気球聯隊、陸軍歩兵学校、千葉陸軍戦車学校、千葉陸軍高射学校、陸軍市下志津飛行学校などの軍事施設が設置され、蘇我地先の埋立地(現川崎製鉄千葉製鉄所付近)には、軍需工場の日立航空機千葉工場が設置され、「軍郷千葉市」と呼ばれていた。
 太平洋戦争中、千葉市への空襲は数度あったが、米軍が千葉市を目標にした空襲は、昭和20(1945)年6月10日と7月7日(七夕空襲)の2回であった。この空襲で中心市街地の約7割(約231ha)が焼け野原となりました。この2度にわたる空襲により死傷者は1,595人、被災戸数8,904戸、被災者4万1,212人に及んだ。(千葉戦災復興誌より)
(参考:昭和20(1945)年12月末の人口は、9万5,903人)

千葉市における戦災の状況(千葉県)https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/situation/state/kanto_07.html

昭和20(1945)年7月7日の七夕空襲で、鉄道第一聯隊(椿森)、気球聯隊、歩兵学校(作草部町)、千葉陸軍高射学校(小仲台)などが被災している。

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/situation/state/kanto_07.html


陸軍鉄道第一聯隊炊事棟跡

昭和20(1945)年7月7日の七夕空襲で、鉄道第一聯隊が被災した中で、焼け残った炊事棟。一階部分が煉瓦であることがわかる。戦後に建屋を譲り受けた民間業者が二階部分を増設し寮として活用されているという。

イギリス積み。

表側からは、煉瓦の雰囲気が全く残っていない。

椿森ハイム。横壁に煉瓦が残っている。

建築計画のお知らせ、がありました。
解体されて、新しくマンションが立つようです。
工事着工は2023年予定。。。

見学はお早めに。。。

場所

https://goo.gl/maps/cLPxmUmg8XnkXL1x6

撮影:2022年8月


解体後

2023年8月、近隣を散策。解体を確認しました。


関連

貴重な明治期の煉瓦建築「鉄道聯隊材料廠」(千葉経済大学)

千葉県内に残る鉄道連隊の戦跡。千葉や習志野、津田沼界隈に多く残っている。
当サイト内でもいくつか掲載をしてきていた。

内部公開の記事は下記にて

今回は、千葉経済大学の構内に残る、貴重な煉瓦建造物を見学(外観のみ)。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M504-168
昭和22年(1947年)9月24日、米軍撮影の航空写真。

千葉駅周辺の軍事施設跡など。

市内に点在している案内看板より。

上記の米軍航空写真から該当部分を拡大。


鉄道聯隊関連の記事

千葉の鉄道聯隊(鉄道聯隊作業場など)

習志野の鉄道聯隊

新京成電鉄沿線の鉄道聯隊

鉄道聯隊の蒸気機関車


鉄道聯隊材料廠煉瓦建築

千葉経済大学。北側の駐車場側から、建物の全貌がよく観察できる。

千葉県指定有形文化財
 旧鉄道聯隊材料廠煉瓦建築
 この煉瓦建築は、明治41年、鉄道聯隊材料廠の機関車の修理工場として建築されたもので、その後昭和20年旧日本国有鉄道が大蔵省から借り受けて、レール等の修理工場として使用、昭和60年から千葉経済学園の所有となったものである。
 千葉県内に数少い明治年間創建の大規模な煉瓦建築の一つであり、特に内部の東西方向に二列に連なった十連の雄大なアーチ構造は、全国的にも他に比類がなく、この建物の主な特色となっている。
 従って、我が国明治期の煉瓦建造構造を知る上で極めて重要であり、近代建築史及び煉瓦建築の歴史を考える上でも貴重な建物である。
 右の理由により、千葉県指定有形文化財として指定をうけたものである。
  一、指定年月日 平成元年3月10日
  一、構造 煉瓦造アーチ構造、木造小屋組
  一、面積 695.6平方メートル
     千葉経済学園

千葉県指定有形文化財
旧鉄道聯隊材料廠煉瓦建築
  所在地 千葉県稲毛区轟町3-59-6
  所在者 学校法人 千葉経済学園
  指定日 1989(平成元)年3月10日
 この建物は1908(明治41)年、旧鉄道連隊の材料廠※として建築された。大正時代には旧陸軍の兵器庫としても利用されていたが、戦後は大蔵省、国鉄と引き継がれ、1985年(昭和60)年に千葉経済学園の所有となり現在に至る。
 主要部分は、54.4m×7.3mと細長い長方形で、煉瓦の積み方は、段ごとに小口面と長平面とが交互に現れるイギリス積と呼ばれる技法を用いている。
 県内では数少ない明治時代の大規模な煉瓦建築であり、10連の雄大なアーチ構造は、全国的にも類例がない。我が国の近代建築史における初期煉瓦建築の構造を知る上で、極めて重要かつ貴重な建築である。
 ※廠:壁の仕切りがない、広い建物のこと。向上、倉庫。 

案内板から、内部写真を拡大。

西側。

上部の左側にヒビが確認できる。

建物の南側。
軌道が確認できる。

建物の東側。

ガラスから建屋を除いてみた。

素晴らしい煉瓦建築。
関東大震災を耐えた明治期の煉瓦建築は、極めて貴重なものではあるが、2011年の東日本大震災以降は、危険のために内部立入禁止となっている。

場所

https://goo.gl/maps/r6PaD71pAyPvxUh98

※撮影:2022年6月


参考

https://www.pref.chiba.lg.jp/kyouiku/bunkazai/bunkazai/p111-042.html

https://www.city.chiba.jp/kyoiku/shogaigakushu/bunkazai/kyutetsudorentai.html


関連

戦前日本第四位の航空機メーカー「立川飛行機」の跡地散策(立川立飛)

戦前日本の航空機メーカーのトップスリーは、中島・三菱・川崎。この大手三社に続く四番手が「立川飛行機」。
戦後、航空機産業の道は閉ざされ、航空機メーカー各社は、それぞれの道を歩むことになる。そんな中で、立川飛行機は、今も色濃く立川の街に溶け込んでいくことになる。
そんな立川飛行機の名残を立川に散策してみる。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-R556-No1-15
昭和22年(1947年)11月14日、米軍撮影の航空写真。

立川飛行場周辺

わかりやすく、区画が残っている。

南地区。

ほとんどの建屋が、位置が変わらずに今も使用されているような感じで残っている。
これはすごい。。。

西地区。こちらも一部の建屋が位置も変わらずに、今も使用されている。


立川飛行機関連


立川の飛行機メーカー関連

中島飛行機

日立航空機

昭和飛行機


立川飛行機

石川島飛行機
1924年(大正13年)、石川島飛行機製作所(石川島飛行機)が設立。これは東京石川島造船所(現在のIHI)が中心となって出資設立されたものであった。
1930年(昭和5年)、立川陸軍飛行場のある立川に移転。
1934年(昭和9年)、陸軍の依頼で中等練習機を開発。陸軍主力中等(初等)練習機「九五式一型練習機」として正式採用され、「赤とんぼ」として親しまれた。

立川飛行機の戦前
1936年(昭和11年)、陸軍省の要請により、工場所在地の地名を取り込んで「立川飛行機」と改称。中堅航空機メーカーとして、
ロッキードよりL-14 スーパーエレクトラのライセンス生産権を購入して「ロ式輸送機」として生産し、また「九八式直協偵察機」・「九九式高等練習機」・「一式双発高等練習機」等の開発・生産を行いつつ、中島飛行機が開発した一式戦闘機「隼」の大規模な移管生産を行っていた。
一式戦「隼」二型(キ43-II)は約1000機、三型(キ43-III)は約1500機が立川飛行機で量産されている。
昭和19年、軍需会社指定。
昭和20年三月及び4月の大空襲で立川飛行機立川工場の施設大破。

「新立川飛行機株式会社」
敗戦後、工場は進駐軍によって接収。1949年には立川飛行機株式会社の出資によって第二会社である「タチヒ工業株式会社(立飛工業株式会社)を設立。
1952年には、戦後国産第一号機となる「R-52型軽飛行機(練習機)」を開発。
立飛工業株式会社は、「新立川航空機株式会社」と改称し、「R-53型軽飛行機」「R-HM型軽飛行機」も開発。日本の航空機開発は戦後の断絶があったことから時代遅れな技術であり、量産には至らなかった。

「たま電気自動車」から「プリンス自動車」
1947年、飛行機の開発を禁じられた立川飛行機の元従業員ら約200名が「東京電気自動車(たま電気自動車)」を設立。世界初の量産された電気自動車を生み出す。当時はガソリン流通に制限がある一方で、多くの工場が空襲被災し電気が余っている情勢であり、電気自動車が最適な選択肢であったが、1950年の朝鮮戦争勃発で鉛が高騰し、電気自動車の製造を終了させている。
その後、立川飛行機の流れをくむ「たま自動車」は、「プリンス自動工業(プリンス自動車)」となり、中島飛行機系の「富士精密工業」と合併。
1966年、「プリンス自動車工業」は、日産自動車に吸収合併となる。

「立川飛行機」本家の戦後
本家の立川飛行機は、戦後の1955年に「立飛企業株式会社」に改称。主力事業は不動産賃貸となる。
2012年、「株式会社立飛ホールディングス」を設立。現在に至る。


立川飛行機の給水塔(南地区)

昭和13年(1938年)建築。立川飛行機時代の名残。以前は周辺に建屋があったが、2022年6月現在は、給水塔の周りの建屋が解体されており、全景をよく見ることができる。
4階建ての建屋で、上部は給水槽となっている。

多摩モノレールの高松駅から給水塔を観察。

高松駅を降り、地上から。給水塔の脇に、記念碑がある。

立飛企業株式会社発祥之地碑

昭和45年11月建立。
統治が米軍に接収されていたため、記念碑設置当初は、別の場所(新立川ビル)に建立されていたが、その後に米軍から土地返還され、平成17年に本来の地に記念碑が移設されている。

南地区の敷地をぐるっと回ってみる。

建屋が解体され、いまなら給水塔がよく見える。

場所

https://goo.gl/maps/XvWqCiQEBKDsnb658


立川飛行機(南地区)

南地区の建屋。立川飛行機時代の戦前建造建造物の様相を残す。

南地区を外周から建屋観察。

のこぎり屋根、ですね。

だいたい、戦前からの建屋。。。

立川飛行機南地区の入り口。

一周して、多摩モノレール高松駅に戻ってきました。


多摩モノレールから見る立川飛行機(南地区)

モノレールからみる工場敷地。
上から全体的に見ることができるので、おすすめ。


多摩モノレール高松駅から立川飛行機(南地区)

ホームからも。

場所

https://goo.gl/maps/ZmHYRTidxqPu7QbFA


立川飛行機(西地区)

多摩モノレール立飛駅。
立飛駅の東側は再開発されて、「ららぽーと立川立飛」。西側には「アリーナ立川立飛」や「TACHIHI BEACH」などもある。
文字通りに立飛の街。立川飛行機の街。

こちらにも「給水塔」が残っているが工場敷地なので望遠で。
立川飛行機の給水塔(立飛の給水塔)。

場所

https://goo.gl/maps/ZZ7ypiaHBHHZf5Fg6

給水塔の手前にある管理事務所も、往時からの建屋だろう。

西地区は近寄れなかったので、望遠で。

工場のノコギリ屋根が見える。


多摩モノレールから見る立川飛行機(西地区)

同じく、モノレール車中から観察。


多摩モノレール立飛駅から立川飛行機(西地区)

ホームから、西地区を観察。

立川飛行機の名残を散策してみましたが、思っている以上に当時の建屋が残っていることを実感しました。
しかし、南地区の給水塔の近くにあった建屋は解体されており、今後も解体が増えていく可能性も否定できません。給水塔は残してくれるかとは思いますが、それ以外の建屋に関しては見れる間に、早めに見に行ったほうがよいかもしれません。

※撮影:2022年6月

機銃掃射弾痕が残る黒門町架道橋(JR大阪環状線玉造駅)

JR大阪環状線玉造駅のすぐ隣の鉄橋。ここに無数の穴が開いている。
この無数の穴は、機銃掃射の弾痕、という。

中央の柱に残る、強烈な痕跡。H鋼の2枚を貫通した弾痕に、すさまじい威力を感じるとともに、恐怖と悲劇も思い起こさせるものがある。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M84-1-97
1948年08月31日に米軍が撮影した航空写真を加工。

大阪城には陸軍第四師団司令部が置かれ、そして大阪城の西側、森ノ宮駅の北側には「軍需工場」(大阪砲兵工廠・大阪陸軍造兵廠)が展開されていた。

大阪陸軍造兵廠は、空襲により、80%を焼失している。
このエリアが重要な軍事拠点であり、逆に言うと、米軍からすれば重要攻撃拠点であったことがわかる。


黒門町架道橋(橋脚)

道路の真ん中にある、黒門町架道橋の橋脚部分。
大きくえぐられた穴がある。なかなかに衝撃的な穴である。

機銃弾痕は、東側から西側に銃弾が飛んだことを予想させる痕跡を残していた。

東側。

交通量が多いため、なかなかじっくりと写真を撮ることも難しいため、グーグルストリートビューの画像を借ります。

https://goo.gl/maps/vj9pm79fqNTXqn8v5

東側。

機銃痕をマークしてみた。

実は、ひとつ謎がある。

銃痕が下から上って、どういうことでしょうか?

国土地理院の地図で高低差を見てみると、大阪城南部の高低差がわかってきます。

https://maps.gsi.go.jp/#15/34.674529/135.533202/&base=std&ls=std%2C0.72%7Cslopemap%7Chillshademap%2C0.23%7Crelief%2C0.59&blend=101&disp=1111&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1&d=m

それこそ大阪城のの東側は低地、南の高台には「真田丸」もありました。
この高低差は、今も昔も変わりません。

つまり、米軍の戦闘機(P-51 マスタング)は、あり得ないほどの超低空飛行で長堀通り上を飛行し、地表スレスレの位置から、黒門町架道橋を機銃掃射したことが予想されます。
長堀通りの高低差に合わせて超低空飛行での機銃掃射であれば、「黒門町架道橋」の部分が下から上ということも理解はできます。行為そのものに理解出来るかはまた別ですが。

https://www.google.com/maps/place/%E7%8E%89%E9%80%A0/@34.6742724,135.5364859,30a,35y,276.45h,79.32t/data=!3m1!1e3!4m5!3m4!1s0x6000e0b04f5c6103:0x48697e6491d73e8!8m2!3d34.673469!4d135.532835


黒門町架道橋(橋桁)

橋桁部分にも無数の機銃掃射痕跡がありました。

位置関係

https://goo.gl/maps/iFTn7Rb3jkfckGAo9


東成警察署 中道本通警ら連絡所

玉造駅からほど近いので、脚を運んでみた。
建設は、昭和12年(1937年)。暗越奈良街道の細い道に面している。
この界隈は、ほぼ空襲で焼失したなかで、残った戦前の建造物。
「警ら連絡所」は、警察官は常駐せず、主にパトロール中に立ち寄る、といういうもので、どうやら大阪のみで使用されている名称のようで。

場所

https://goo.gl/maps/xMDE5tJeF7WuS3W6A

※撮影:2022年7月


関連

高射第3師団司令部があった大阪市立美術館

天王寺公園の大阪市立美術館。
戦時中は、高射砲第3師団司令部が置かれていた。


大阪市立美術館

大阪市立美術館は、大阪市天王寺区の天王寺公園内にある美術館。
東京府、京都市に次いで日本で三番目に設立された公立美術館。

当地には1914年(大正3年)に住友家本邸が建てられたが、後に住友家から美術館建設を目的に日本庭園「慶沢園」とともに敷地を寄贈され、1936年(昭和11年)に旧本邸跡地に開館。
建造は1936年(昭和11年)4月、鉄骨鉄筋コンクリート構造。

太平洋戦争突入後の1942年(昭和17年)には陸軍が接収。戦争末期には高射第3師団司令部が置かれた。

1945年(昭和20年)から1947年(昭和22年)までは占領軍が接収している。

耐震補強及び設備の全面更新のため、2022年(令和4年)10月から2024年度(令和6年度)までの予定で休館


高射第3師団司令部

昭和20年(1945年)4月、主として阪神地区を主とする政治、軍事、軍需の中枢を防衛するため編成された。
第15方面軍(第15方面軍司令部は大阪城内、旧大阪市立博物館)に属していた。


大阪市立美術館の写真など

以下、周辺の写真など

訪れたときは、閉館中だったので中に入れず、残念。。。

この建屋も歴史ありそう。

裏に佇む門柱。

手前の門柱。

夕方のスキマ時間にちょっと軽い気持ちで予備知識無しで足を運んだら、大きさにびっくりしました。。。

※撮影:2022年7月

場所

https://goo.gl/maps/ytbRuo7oNfEEE9pB8


関連

鶴舞公園に残る戦跡(名古屋)

名古屋市昭和区の鶴舞公園。
名古屋初の都市公園として明治42年に誕生した鶴舞公園にも、戦争に関連する歴史が残されている。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M550-1-72_19471013
1947年10月13日に米軍が撮影した航空写真を加工。

鶴舞公園周辺を拡大。


鶴舞公園

住居表示やJR駅名は「つるまい」ではあるが、公園の名前は「つるま」。
1909年(明治42年)に開設された名古屋市が設置した初の公園。
名古屋大空襲で複数の建造物を焼失している。


「鶴舞公園」扁額

明治42年の開園当時に内閣総理大臣であった陸軍大将桂太郎の扁額。当初の青銅板は、戦時下の金属回収で供出。コンクリート代用品に変えられたが、昭和41年に復元。当初は公園の正門ゲートを兼ねていたJR中央線ガードに掲げられていたが現在は正面花壇に設置されている。


陸軍高射第二師団司令部
(名古屋市公会堂)

大正13年(1924)1月の摂政宮(昭和天皇)御成婚記念事業として計画され、昭和5年(1930)9月30日建立。
外観は茶系の落ち着いた色調で整え、最上階の円形アーチ窓や隅部の丸み等、ロマネスク的表現とする。初期の鉄骨鉄筋コンクリート造建築。

昭和16年(1941年)8月に「名古屋防空隊本部」が名古屋市公会堂に開設される。
「名古屋高射砲隊司令部」を経て、昭和20年(1945年)5月には、第13方面軍隷下となる「陸軍高射第二師団」となり、引き続き「名古屋公会堂」に司令部を設置。名古屋地区の防衛にあたった。

戦後は進駐軍に接収。米空軍の専用施設としての10年を経て、名古屋市に昭和31年に返還され、再び公会堂として復活。


高射第二師団司令部の門柱

高射第二師団司令部の門柱が一対、残されている。


吉田山の高射砲台陣地跡

鶴舞公園野球場の周辺に、高射砲陣地(4門)が展開されていた。台座の跡が3箇所残っている。

1つ目

2つ目

3つ目

野球場

吉田山は、もともと元名古屋区長吉田禄在の所有地であった。


八幡山古墳の高射砲台陣地跡

八幡山古墳
国の史跡に指定(昭和6年)されている県下最大の円墳。高さ10メートル、直径82メートル、まわりは堀になっています。
大正8年、公園敷地に編入された当時は老松がうっそうとしていましたが、戦争中、高射砲陣地設営のため伐採されてしまいました。戦後再び緑化され、昭和57年から緑地保全地区(平成16年の法改正に伴い、特別緑地保全地区に名称変更)されています。

立ち入りは禁止。


名古屋大学医学部附属病院門及び外塀
(旧愛知県立医学専門学校正門及び外塀)

旧愛知県立医学専門学校正門及び外塀
大正3年(1914年)建立。
名古屋大学鶴舞キャンパス敷地の南辺にあり、道路を挟んで鶴舞公園に面する。門柱は花崗岩の方柱で、中央2本が当初のものである。塀は当初の煉瓦造に昭和5年(1930)にスクラッチタイルとテラコッタで改修し仕上げたもので、当時のデザイン傾向が窺える。

名大病院


鶴舞公園のそのほか

鶴舞公園内は、ほかにも近代史跡が多く残っているが、私は大部分を見逃してしまっていた。。。


噴水塔

明治43年、鶴舞公園を会場として、第10回関西府県連合共進会が開かれた。会場の正面広場を飾ったのがこの噴水塔であった。
設計は鈴木禎次工学士、ローマ様式の大理石柱に岩組みという和洋折衷式。
地下鉄3号線工事のため一時撤去されたが、昭和52年復元された。


奏楽堂

明治43年、鶴舞公園を会場として第10回関西府県連合共進会が開催された際に、中心的施設として各種の演奏会が催された。
イタリアルネサンス風の建物で、細部にはアールヌーボーのデザインが施されている。設計者は噴水塔と同じ鈴木禎次工学士。
昭和9年に老朽化のうえ室戸台風で大被害を受けたので取り壊され、昭和11年から平成7年まではデザインの異なる奏楽堂が建てられていたが、平成9年に築造当時の姿に復元された。


近代史の目線では、以下も興味深かったが、見逃し。
2022年9月に再訪しました。

青年団令旨碑壇

名古屋市連合青年団が昭和5年に建設した記念碑壇。青年のスポーツ精神を高揚する令旨が掲げられています。陸上競技場は、大正2年に大運動場として発足しました。昭和7年には施設も充実し、乙種認定を受けましたが、戦後の接収時代に荒れてしまいました。現在は認定外の陸上競技場として、各種のスポーツ、行事に利用されています。


普選壇

普通選挙法(大正14年施行)を記念した野外劇壇。中日新聞社の前身名古屋新聞社が解題20周年(大正15年)を記念して昭和3年に建造しました。壁面には普通選挙の基本精神「五箇条の御誓文」とその英訳、および建設の趣旨とが掲げられています。この青銅板は戦争で失われましたが昭和42年に復元されました。昭和61年に市指定文化財に指定されました。


加藤高明伯銅像跡

昭和3年、愛知県出身の内閣総理大臣であった加藤高明氏を顕彰し、銅像建設会により同氏の銅像が建立されました。同氏の銅像は、昭和19年に戦時物資の不足を理由に供出され、現在は台座だけが残されています。


鶴舞公園は広いので、全部をまわろうとすると結構な時間が必要。結局、6月の訪問ではすべてをまわりきれず、見逃しもあり、機会があったので9月に再訪をした次第でした。

※撮影:2022年6月 再訪9月


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