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所沢陸軍飛行学校の戦跡散策(所沢航空記念公園)

所沢には何度も足を運んでいるし、所沢航空記念公園にも何度も通っているのに、ちゃんとまとめていなかったので、本記事にて「陸軍飛行学校」などの戦跡をまとめておきます。

下記の記事とも連動します。


位置関係

国土地理院航空写真
ファイル:892-C2A-107
1944年(昭和19年)9月24日、日本陸軍撮影

一部拡大

現在の様子

今も昔もはっきりと分かる空間。


陸軍航空学校・所沢陸軍整備学校

大正8年、陸軍航空学校が所沢に開設。フォール大佐を長とするフランス航空団が航空教育を指導。
大正10年、陸軍航空学校は、所沢を本校に、千葉の下志津と伊勢の明野に分校を開設。
大正13年、所沢陸軍飛行学校に改称。
昭和8年、少年航空兵教育が追加。
昭和10年、所沢陸軍飛行学校から機関科が分離し、陸軍航空技術学校が開設。
昭和12年、下士官と少年航空兵の整備科を分離し、陸軍航空整備学校が開設され。所沢陸軍飛行学校は廃止。陸軍士官学校分校に転用。
昭和13年、陸軍士官学校分校は、現在の入間基地の地に移転し陸軍航空士官学校として独立。のち「修武台」と命名される。
昭和16年、陸軍航空技術学校は立川に移転。
昭和18年、所沢陸軍整備学校へと名称変更。
昭和19年、所沢陸軍整備学校の敷地内に「少年飛行兵の像」が建立。
昭和20年、所沢陸軍整備学校は陸軍幹部候補生・少年飛行兵の航空整備技術の中心地として機能し終戦を迎える。


改めて、所沢航空記念公園の散策へ。


有刺鉄線支柱

航空公園駅から、西武線に沿って運動場やスポーツ広場を見ながら南下。
台地と低地の境目、台地側に支柱が数本残っている。

樹木に圧迫されたり。

樹木に取り込まれたり。

当時の航空学校の滑走路地区と学校地区の境目。
航空公園スポーツ広場から北側が、当時の滑走路地区となる。


整備工場跡

テニスコートのあるあたりが、整備工場や倉庫のあった場所という。

不自然に階段が残っている。

西武線のすぐ脇。

テニスコート


所沢飛行場前駅跡(所沢御幸町駅跡)

航空公園の敷地から、少し南に。

昭和13年(1938)6月21日「所沢飛行場前駅」が開業。
所沢陸軍飛行場にあった、所沢航空技術学校の要請による開設であった。
昭和15年(1940)12月1日に、軍施設が明らかになる駅名がよろしくないとして、防諜のために「所沢御幸町駅」と改称。
戦後、所沢飛行場跡に駐留していた在日米軍の貨物輸送の兼ね合いで、所沢御幸町駅を北に2キロ移転させることとなった。そうして昭和26年(1951)6月11日に「北所沢駅(現在の新所沢駅)が開設され、「所沢御幸町駅」は廃駅となった。なお、所沢御幸町駅跡は複線化用地に転用され、何も残されていない。

川を越えるガードの袂の築堤上に張りつくようにしてホームと小さな駅舎が設けられた単式ホーム1面1線の棒線駅で、駅舎へは階段が通じていた、という。

このあたりに「所沢御幸町駅」があったという。


正門跡

所沢御幸町駅跡から、北に向かえば、「所沢航空記念公園」は眼の前。
ちかくには、「陸軍東京憲兵隊赤坂憲兵分隊所沢分遺所」や「旭橋・飛行機新道」などもある。
奥に見える野球場のあたりに、「飛行学校本部」があったという。


防空壕跡

所沢航空記念公園には、ところどころ斜地がある。
下記のあたり、防空壕の跡地、といわれている。

いまは、防空壕は埋められている。


飛行船「雄飛号」格納庫跡

雄飛号の格納庫がこのあたりにあった、という。

雄飛号飛行船
青山練兵場で大破した“パルセバル”飛行船を、臨時軍用気球研究会が改装して誕生した飛行船。岩本周平技師が設計主任となって所沢飛行場の格納庫で製作され、1915(大正4)年4月21日に完成、“雄飛号”と命名された。パルセバル飛行船と同じエンジンながら、機体の再設計により速力、上昇力が向上していた。1916(大正5)年1月21日、当時としては画期的な飛行船による東京~大阪往復飛行に出発し、460kmの距離を実飛行時間11時間34分、平均速度40km/hで大阪の城東練兵場まで飛行したが、復路はエンジンの不調と強風のため飛行できず、解体されて鉄道輸送された。その後はほとんど活躍せず、1917(大正6)年7月21日~22日の所沢~仙台間夜間往復飛行を最後に廃船となった。


米軍基地正門(第1ゲート)跡

米軍時代は、日本陸軍時代と異なり、この場所が正門であった。


兵舎跡・校舎跡

所沢航空記念公園の南東エリアに、高台と階段がいくつも残っているエリアがある。
この場所が兵舎と校舎の跡地、である。

基礎っぽい跡も残っている。

自然保護エリアは、当時の倉庫跡、でもある。
この南側に兵舎や校舎があった。


パーキングロット跡(米軍基地跡)

米軍のクラブ駐車場跡。
所沢飛行場跡は、戦後すぐに米軍が進駐し接収された。
米軍所沢通信基地(Tokorozawa Communication Site)として、使用され、返還は昭和46年(1971)6月30日。
その名残が、「英字で残るクラブの駐車場跡地」

CLUB PARKING LOT


荒鷲達の憩いの庭園の跡

少年飛行兵たちの歴史を繋ぐ場所。

荒鷲達の憩いの庭園の跡
 戦時中、飛行訓練を終えた少年飛行兵達の憩いの場所であり、終戦間近の特攻隊員が特攻隊基地に向かう時の憩いの場所ともなっていたところです。現在はコンクリートで固まった池の跡が残っています。
 なお、一説によると特攻隊員の若者達が寄付した浄財によって造られたとも言われています。
 以前は「荒鷲達の憩いの池」の木製の看板が立てられていました。
  2022年3月 
  所沢市・所沢航空資料調査収集する会


建空神社(航空神社)参道跡

なんとなく、このあたりに参道っぽさが残っている。

脇にもなんとなく遺構が。


建空神社(航空神社)跡

少年航空兵像のある場所に「建空神社(航空神社)」があった。


所沢にあった航空神社は、のちに所沢から入間(豊岡)の航空士官学校に移転し、そして戦後は北野天神社に遷座している。

航空発祥の地・ところざわ
航空整備兵の像
 この像は、昭和18年、彫刻家故長沼孝三氏(1908~1993)が第二回大東亜戦争美術展に出品し、翌19年5月21日に、当時この地にあった所沢航空整備学校内に建立されたものです。
 翼を抱き、空を見上げる航空整備兵三人の姿は、当時の少年飛行兵や整備兵のシンボルとされていました。
 戦後、所沢飛行場は米軍基地として接収され、昭和46年の基地返還により、所沢航空公園として整備されました。しかしこの像は痛みがはげしかったため、所沢航空資料調査収集する会では、後世にわたりこの像を保存していこうと、平成9年2月、長沼孝三彫刻館(山形県長井市)の協力をいただき、修復工事を行いました。
 空への夢と希望を抱いたこの像が、市民のやすらぎや平和への祈りを込めた像として永く市民に親しまれていくことを願ってやみません。
 平成10年3月
  所沢市
  所沢航空資料調査収集する会


航空発祥の地

航空発祥の地
この地は明治45年我が国で初めて飛行場が解説され同年4月5日早朝徳川大尉操縦のアンリファルマン機が初飛行に成功しました
それ以来、我が国航空界の発達に貢献した由緒ある「航空発祥の地」であります
 平成12年4月5日
 所沢市
 所沢航空資料調査収集する会

所沢市指定文化財(史跡)
航空発祥の地
 所沢市が日本の航空発祥の地といわれているのは、明治44年(1911年)4月、所沢に日本初の飛行場が開設されたことによります。
 明治42年(1909年)7月、勅令により臨時軍用気球研究会が発足し、航空機に関する研究が開始されました。気球研究会は、設置直後から試験場候補地を検討。栃木県大田原や千葉県下志津なども候補地にあがりましたが、旧所沢町と松井村にまたがる地域に決定されました。気象条件や地形の起伏などが選定の理由であったとされています。
 開設当初、所沢飛行場の敷地面積は約76.3ヘクタール。飛行機格納庫、気象観測所、軽油庫、東西方向に幅約50メートル、長さ約400メートルの滑走路を持つ飛行場でした。
 所沢飛行場での初飛行は、明治44年(1911年)4月5日の早朝に開始されました。まず、徳川好敏大尉がアンリ・ファルマン機で飛揚し、約1分で着陸。続いて、日野熊蔵大尉がライト機で3分30秒の飛行時間を記録しました。
 所沢の住民はもとより、多くの見学者が、飛行を一目見ようと近在各地から集まり、訓練日には桟敷が設けられ、飛翔のたびに歓声が上がったといわれています。
 平成23年3月
 所沢市教育委員会

場所:

https://maps.app.goo.gl/c1JCC1NEf9zF2RjFA


※撮影:2025年8月


関連

日本の航空事始め6・日本初の国産軍用機「会式一号飛行機」

所沢航空記念館に展示してある「会式一号飛行機」。
入り口の天井に吊られているので、見逃しやすい飛行機であった。
せっかくなので、独立した記録として掲載しておきます。

所沢航空発祥記念館は、リニューアル工事中につき休館中です。
再開後は展示形態が異なっていることが予想されます。
再開は、2027年春予定。
https://tam-web.jsf.or.jp


日本の航空事始め

「日本の航空事始め」と題して、航空機の黎明期に注目した記録も、気がつけば「その6」となっておりました。

「その1」はこちら。


会式一号飛行機・会式一号機(日本・1911)

展示してある機体は、会式一号の原寸大レプリカです

所沢で飛んだ日本初の国産軍用機
明治44年、徳川好敏夫前の設計・製作により日本で初めて作られた軍用機。この前年に代々木練兵場で日本での初飛行に成功した“アンリ・ファルマン機”を参考にして、より高い性能を持つ飛行機を作る事を目的として、所沢飛行場格納庫内で製作された。明治44年10月13日所沢飛行場で、徳川大尉みずからの操縦によって初飛行に成功した。主に操縦訓練や字中偵察教育に使われ、同大尉の設計で4号機までが製作された。

空の英雄、徳川大尉の名を日本に広める
“会式一号機”の名称は、同大尉が所属していた「臨時軍用気球研究会」で作られた「1号機」という意味だが、当時の新聞がこの飛行機を“徳川式”と報道したため、一般には“徳川式”と呼ばれた。大正元(明治45)年10月27日、同大尉は初の東京訪問飛行を行うため、“会式一号機”を基に新たに開発した“会式二号機”に乗って所沢飛行場を飛び立ち、代々木練兵場を経て青山~愛宕山~芝公園~品川~日比谷~九段の96.5kmを飛行し、東京市民(当時)の熱狂的な歓迎を受けた。

“アンリ・ファルマン機”からの主な改良点
1.上翼よりも下翼が小さい一葉半とし、翼面積を減らして速力の向上をはかった。
2.異断面を変え、前部の湾曲を深くして揚力の向上をはかった。
3.補助翼を上翼にのみ取り付けた。
4.翼間支柱の断面を前後対称型から流線型に変え、空気抵抗の減少をはかった。
5.発動機とプロペラの位置を高くして、飛行機全体の姿勢を低くした。
6.座席の前に風よけの覆いを取り付けた。
7.各結合部の金具を強化した。
これらの改良によって、“会式一号機”は“アンリファルマン機”にくらべ速力で19km/h、高度で15m上回る記録を出した。


陸軍会式一号機
国 名:日本
用途:実験機
年代:1911年(明治44年)
エンジン:グノーム空冷回転星型7気筒(50馬力)
翼幅:11.00m
全長:11.00m
自重:450kg
全備重量:550kg
最大速度:72km/h
航続時間:3時間
人員:1名

初の国産軍用機一”会式一号”機
所沢飛行場が開設され、頻繫に飛行練習が行われるようになると、4機の飛行機は酷使され、損傷が激しくなってきた。徳川大尉は飛行機の不足を痛感し、1911(明治44)年4月、臨時軍用気球研究会の事業として新しい飛行機の設計を開始した。“アンリ・ファルマン1910年型”複葉機を参考にして設計されたが、機体強度、上昇力、速度などの向上が図られていた。同年7月より所沢飛行場の格納庫内で製作され、10月初頭に日本最初の国産軍用機、“臨時軍用気球研究会式一号”(略して会式一号”)が完成した。10月13日、所沢飛行場で試験飛行が行われ、時速72km/h、最高高度85mという良好な成績で成功した。

なお、この当時、会式一号機が完成するまで、日本国内には「アソリ・ファルマン機」「ハンス・グラーデ機」「ブレリオ機」「ライト機」のわずか4機しか保有していなかった。

“会式一号”機と徳川大尉
“会式一号”機は、徳川大尉の監督指導により製作された。機体材料はすべて国内で調達したが、適当な工作機械がなかったため木材は鋸で加工した。当時の日本の工業水準は低く、製作は試行錯誤であった。多くの困難を克服して完成した”会式一号”機は、設計・製作の両面で徳川大尉の功績が大きかったため、一般には徳川式と呼ばれていた。

次々につくられた “会式機”
“会式一号”機の成功に自信をつけた臨時軍用気球研究会は、次々に新しい飛行機を開発し、1912(明治45)年から1916(大正5)年までの間に、合計6機の“会式機”が誕生した。“会式二~四号”機は徳川大尉の設計で、会式一号”機を改良した飛行機であった。“会式五号”機からは設計が沢田秀中尉となり、続いて六号機、七号機がつくられた。最後に製作された “会式七号小型飛行機(会式七号駆逐機)”は沢田中尉が独自に設計した、日本最初の国産戦闘機であった。

あらためて、復元機(レプリカ)を観察してみる。

日本初の国産軍用機といっても、武装をしているわけではなく、陸軍が作ったというわけでの軍用機。

※撮影:2025年8月


帝都近郊で初実施「大正元年の陸軍特別大演習」関連の記念碑探訪(狭山・所沢・川越)

川越を歩いていたら「御野立の森公園」という公園があって、「おっ」と思い、なんとなく写真を撮っていました。そこから少し調べてみたら、川越と狭山と所沢から色々話題が集まってきたのうえに、以前なんとなく記録していた記念碑なども「大正元年の陸軍特別大演習」の関係として芋蔓式に繋がってきたので、まとめてみましたという記録になります。

今回、記念碑を辿ることで、 大正天皇は下記の行程で、陸軍特別大演習に臨まれたことがわかりました。

大正元年
11月14日-15日 川越
11月16日 狭山
11月17日-19日 所沢


大正元年の陸軍特別大演習(第11回陸軍特別大演習)

大元帥であらせられる 大正天皇が入間川で指揮を執った「陸軍特別大演習」
大正元年(1912年)11月15日〜19日の4日間、実施された。

明治45年/大正元年(1912年)7月30日に 明治天皇の崩御に伴い第123代天皇に即位した 大正天皇として、初めての陸軍特別第演習。
参加総数は4万8700人余り、軍馬は8200頭であったという。

  • 統裁 大元帥 大正天皇
  • 参謀総長 長谷川好道(軍事参議官・陸軍大将)
  • 北軍司令官 大島久直(軍事参議官・陸軍大将)
  • 北軍 第13師団(高田)師団長:長岡外史(陸軍中将)
  • 北軍 第14師団(宇都宮)師団長:山田忠三郎(陸軍中将)
  • 南軍司令官 大島義昌(陸軍大将)
  • 南軍 近衛師団(東京)師団長:閑院宮載仁親王(陸軍中将)
  • 南軍 第1師団(東京)師団長:木越安綱(陸軍中将)

演習は、首都占領を目指す北軍に対し南軍が防衛するという設定で行われた。


特別大演習御野立所記念碑
狭山の御野立所(狭山市立稲荷山公園)

特別大演習御野立所記念碑
宮内大臣伯爵渡邊千秋書

渡辺千秋は、1910年(明治43)から1914年(大正3)の宮内大臣。
この間に、明治天皇の大葬の儀、大正天皇の即位の礼などがあった。

狭山は、「稲荷山」に「16日」。後述する川越と少し異なりますが、基本の文意は同じですね。

3つに割れた痕跡がある。薄い石碑ゆえに、、、か。

思ったよりも薄い石碑。

御野立所から入間川の方向を望む。
記念碑は斜面の先の入間川に面した方向を向いている。
大正天皇が望んだ方向ときっと同じなのだろう。

石碑の周りの石柱柵も往時のものと思われる。

狭山市立中央児童館が目の前にある。

隣には、埼玉県最古のプラネタリウムもある。(昭和52年設置)

場所:

https://maps.app.goo.gl/yjQnD2FmdKGzvbMr6


稲荷山公園(狭山市営稲荷山公園)

大演習からちょうど1年後の11月16日。
大正天皇の行幸を記念した碑の除幕式が行われた。
碑は現在、中央児童館脇の階段を上ってすぐのところにある。
除幕式後の町議会で、稲荷山付近を記念公園にすることが可決された。

「稲荷山公園」の見晴台からの展望

参照:狭山市

https://www.city.sayama.saitama.jp/shisei/shisetsu/bunkashisetsu/hakubutsukan/index.files/4241103-4250114kiti.pdf

場所:

「埼玉県営狭山稲荷山公園」ではなく「狭山市営稲荷山公園」が今回、話題とした公園。
紛らわしいが、西武線の「稲荷山公園」の最寄りは「埼玉県営狭山稲荷山公園」

https://maps.app.goo.gl/qaHxjq2zP9SdgYBm8


大正天皇御駐輦之跡碑
(所沢航空記念公園)

所沢航空記念公営にある記念碑。
大正元年の陸軍特別第演習では、所沢飛行場からの航空機も参加した。
陸軍特別大演習で航空機の参加も、初となる。

大正天皇御駐輦之跡
 大正元年(1912)11月15日から19日にかけて関東地方で10万人の将兵が参加する陸軍特別大演習が行われました。所沢飛行場からはブレリオ機、会式3号機、会式4号機と飛行船パルセバルが初参加しました。この碑は、同年11月17日に大正天皇が所沢飛行場に行幸され、飛行機の飛行を統監されたのを記念して建立されたものです。
 尚、この碑には当時の井上幾太郎大将の直筆による文字が刻まれれており価値ある記念碑と言われています。
 2020年3月
  所沢市
  所沢資料調査収集する会

井上幾太郎大将は、初代陸軍航空部本部長でもあり、航空黎明期において陸軍航空の第一人者。

場所:

https://maps.app.goo.gl/msALrPY9tbwWvHYM6


所澤駐蹕碑・大正天皇行幸記念碑
(所沢神明社)

大正元年(1912年)の陸軍特別大演習。
大正天皇が行幸され駐蹕された。

所澤駐蹕碑
麝香間祇候 正二位勲一等 公爵 徳川家達 篆額
近時飛行機盛行于各國我邦亦設習技場於武州所澤會
今上天皇ト大正元年十一月統監陸軍大演習于近郊置 行在所於川越各地巡監之次以十七日 臨幸所澤習技場此地當南北軍對抗之衝飛行機翔干両軍之上能偵察之頗稱 二日十九日再 臨幸場内大賜酺於文部官僚又州内士民盖
天皇践祚後盛典也郷民以為栄欲建碑 駐蹕之處以表之来嘱銘鳴呼
天皇以武備之不可一日忽之忍 諒闇之憂躬統監之労不負
先皇在天之霊欣慰可知也海内臣民聞之皆欽仰敬崇況新拝観者乎謹繋銘日治兵之野飛行場 大纛臨矣 皇武維揚萬姓欽仰執不期待紹述先緒雄飛四海
 大正二年十一月
  宮内儒員 従三位勲二等 文学博士 三島毅 拝撰
  錦鶏間祗候 従二位勲一等 男爵 野邨素介 謹書

別記事にて。

場所:

https://maps.app.goo.gl/kiqEy1bZw7a1iUHq8


秋田家住宅(所沢)

大正元年 11 月の陸軍特別大演習の際に、伏見宮貞愛親王が宿泊している。
伏見宮貞愛親王は、陸軍大将であったが、大正元年の陸軍特別大演習当時は、内大臣府出仕として即位されたばかりの 大正天皇を補佐していた。

場所:

https://maps.app.goo.gl/qthJ66qa8hHnXAw69


特別大演習御野立所記念碑
川越の御野立所(御野立の森公園)

こちらは、川越にある記念碑。

特別大演習御野立所記念碑
宮内大臣伯爵渡邊千秋書

大正元年十一月 
今上登極之初行陸軍特別大演習於武蔵野其十五日
龍駕臨幸仙波村躬親統督三軍此地實繫當時之 
聖蹤也因鎸以諗後世

大正二年十一月上浣 
 埼玉縣入間郡長從六位勲五等 市川春太郎撰并書

川越は、「仙波村」に「15日」。他は、狭山にある記念碑と同文。
ただ、狭山の薄い記念碑と違って、川越の記念碑は、石碑に厚みがある。

大正天皇は、陸軍特別大演習に際して、記念碑を辿ることで、初日の15日に川越の「仙波村の御野立所」、翌16日に狭山の「稲荷山の御野立所」、そして16日に所沢飛行場に御臨席されたことがわかる。

場所:

https://maps.app.goo.gl/ELG9pHNQDnjqBY8s8


大正元年特別大演習行在所
(川越高校)

大正天皇は、川越高校に宿泊(当時の川越中学校)された。
川越城跡地でもある場所であった。

大正元年11月14日、川越駅に(現・本川越駅)お着きになった天皇は、喪章をつけて白馬に乗られ、町をあげてお迎えする中を大本営(川越中学校の大本営)に入られた。

大正元年特別大演習行在所

学校敷地内にあるため、表からのみ、見学。

川越高校の正門

場所:

https://maps.app.goo.gl/xWT5ZqsQrdS6qu4i8


撮影:2025年9月

展示終了となる「ニューポール81E2(陸軍甲式一型練習機)」(リニューアル前の最期の展示・所沢航空発祥記念館)

所沢航空記念公園にある、所沢航空発祥記念館が2025年8月末でもって、長期休館、リニューアルを経て再開は2027年3月予定という。
平成5年の開館から30年以上経過したことから、今回の大規模なリニューアル工事を迎えることとなる。

http://tam-web.jsf.or.jp/

https://www.pref.saitama.lg.jp/a1105/news/page/news2025070801.html

リニューアルに伴い、展示を終える展示機もあるので、足を運んでみました。


所沢航空発祥記念館関連の過去記事


長期休館のお知らせ

長期休館のお知らせ
今年9月1日からリニューアル工事のため長期休館となります。
休館期間:2025年9月1日~2027年3月末(予定)
2027年春(予定)、さらに魅力をアップしてリニューアルオープンいたします。この夏、8月末までイベントもりだくさんで開館しております。ぜひご来館ください。
2025年7月吉日 所沢航空発祥記念館


休館前の写真スポット

今回のリニューアルに伴い役目を終える展示物にスポットを当てた写真撮影スポットです。その姿を思い出に残しましょう。
<今回のリニューアルで役目を終える主な展示物・展示機>
航空機(展示機)
・ニューポール81E2 (レプリカ)
・HU-1B(ベル204B)
・ハングライダー
・ウルトラライトプレーン

スペースウォーカーとかベルヌーイの研究室、とかは、特に終わると言われても食指は動かない。。。


ニューポール81E2 (レプリカ)

ニューポール機の展示が終了するのは、非常に残念。
終了に「レプリカ」とあるので、終わるのは「レプリカ」だけであって、もともと展示のきっかけとなった機体残骸はそのまま展示されるとは思われるけど。

展示終了で撤去となったのちに、本機がどうなるのかは2025年8月現在では不詳。。。

ニューポール機の展示は8月末で終了です。
これまでたくさん見学していただいてありがとう。

ニューポール81E2(甲式一型練習機)
1918年(大正7年)、陸軍がフランスから輸入したニューポール81E2練習機。
翌大正8年に来日したフォール大佐のフランス航空団の教材として所沢陸軍航空学校設立以来、活用された練習機。その後、国内でも三菱によって国産化されている。写真の機体はレプリカ機。
埼玉県が発注し、米国にてレプリカを作成、平成4年(1992)9月に完成し亜t。


岩田正夫のニューポール81E2

岩田正夫のニューポール81E2
埼玉県ときがわ町の慈光寺に保存されていた「ニューポール81E2」の残骸。都幾川村出身の民間飛行家であった岩田正夫が、郷土訪問飛行時に機体を破損させたために、そのまま村に寄贈した機体。

慈光寺の”ニューポール81E2”複葉機
ここに展示されている”ニューポール81E2”は、埼玉県比企郡都幾川村出身の民間飛行家、岩田正夫が1926(大正15)年に郷土訪問飛行を行った時のものである。玉川村都幾川の河原へ着陸した際、機体を破損したため、そのまま村へ寄贈され、以後この村にある慈光寺に、およそ70年間保存されていた。機体は腐食のやめエンジンと操縦室周辺、着陸装置などをのこすのみとなったため、往年の姿が残された設計図などを参考にレプリカとして再現された。

埼玉が生んだ民間飛行家、岩田正夫
岩田正夫は1901(明治34)年12月2日、埼玉県比企郡平村(都幾川村)の地主の三男として生まれた。東京府立豊島師範学校を卒業後、陸軍に入ったが、大正ロマンティスズムの影響を受け、北海道、樺太、朝鮮などを放浪、1925(大正14)年大空への飛行を志して日本飛行学校に入学し、三等操縦士となった。その後、代々木で行われた競技大会などで優勝し、1928(昭和3)年には一等飛行機操縦士免許を取得、台北ー立川ー札幌間の航空路を開発、フリーの民間航空家となる。この年、日本電報通信社航空部に入社した岩田は、行方不明になった同僚を捜索中、三重県松阪市吹井の浦海岸で墜落、殉職した。

父の慰霊をかねた郷土訪問飛行
1926(大正15)年8月13日、ちょうど新盆に当たるこの日、2度目の郷土訪問飛行のため、岩田は明覚村付近を流れる都幾川の河原に不時着を装って降りる計画をたてた。立川飛行場を飛び立って、恋人の住む明覚村に飛んできた正夫は、彼女の住む家の上空をハンカチを振りながら低く旋回し、そばの河原に着陸しようとした。しかし、盆の支度のため川に盆棚を洗いにきていた人々が飛行機を見て河原に集まってきたので、危険を避け隣の村の河原に着陸した。翌日、正夫は友人や村人たちのために航海飛行を行った。しかし、正夫の飛行ぶりに興奮した見物人たちが着陸を待ちきれず河原中央に押しかけ、それを避ける為に急上昇した時土手に機体を接触し機体の一部を壊してしまった為、機体を記念として村に寄贈した。

フランスから輸入された”ニューポール81E2”
”ニューポール81E2”は、1918(大正7)年、陸軍がフランスから輸入した練習機で、80式とともに前後の座席に操縦装置がついており、翌年から来日したフランス航空教育団の教材として、所沢陸軍飛行学校設立以来、甲式一型練習機として使用された。その後三菱で国産化され、57機が製作された。エンジンは、”ル・ローンC”空冷式回転星型(9気筒、80馬力)で、プロペラと共にエンジン全体が回転するものであった。機体はエンジンの取付部と操縦室周辺が金属製のフレームで構成され、そのほかの胴体と翼は木製のフレームにドープ油を塗った絹布が張られていた。


HU-1B(ベル204B)

同じく展示が終了するHU−1B
機体番号41547
屋内展示の綺麗な状態での「HU-1B」は本機だけであるが、今回のリニューアルで展示終了となり撤去されるという。


ウルトラライトプレーン・ハングライダー

この2機も、今回のリニューアルで撤去となる。


屋内展示機各種

リニューアル後にどのような展示になるかもあるので、なんとなくリニューアル前の状態を、特に熱意は込めずに気ままに撮影。
機体の細かい説明は省略。


2025夏の特別展(零戦とYS-11)

リニューアル前の最後の企画展。せっかくなので。

2025夏の特別展
時代を翔けた零戦、そしてYS-11
戦時中最も多く生産された国産戦闘機と戦後初めて生産された国産旅客機

YS-11は私の最も印象に残る仕事となった。課長で始めたこのプロジェクトを私は局長の時一八二機で打ち止めにした。今ではいろいろな評価があると思うが、戦時中私の目の前で勇戦したあの零戦の技術を何とか戦後の日本で生かしたいという私なりの気持ちがあって始めた日本初の旅客機だけに、この時は大いに悩みに悩んだ
 YS-11生みの親・赤澤璋一(戦艦比叡元乗組員、元通産官僚)「傘寿の記」平成12年刊より)

赤澤璋一は東京帝大を出て、商工省入省、海軍経理学校を経て、戦艦比叡に主計官として乗組。
主計中尉だった赤澤璋一は、ソロモン海戦で比叡沈没の際に、駆逐艦・雪風に引き上げられ九死に一生を得ている。

堀越二郎

赤澤璋一


過去の企画展ポスター


機体以外の、展示もおそらく大幅なリニューアルで変わることが予想されますので、それはそれで、記録しておきました。
随時、記事を展開時に参照できれば、です。

※2025年8月撮影

「ともちゃん地蔵」満洲難民収容所の悲話を伝承するお地蔵様(岩槻)

六本木にある「ともちゃん地蔵」に関しては、以前の記事に記載しました。

「ともちゃん地蔵」は、東京「六本木」を皮切りに、全国各地に賛同者を得て造立されてきた。

  • 六本木
  • 岩槻
  • 箱根
  • 浜松

今回は、岩槻の「ともちゃん地蔵」を掲載。


ともちゃん地蔵

ともちゃん地蔵は、増田昭一さん(2020年12月に急逝、ドラマ「遠い約束」の原作者)が自身の体験をつづった「満州の星くずと散った子供たちの遺書 新京敷島地区難民収容所の孤児たち」に収められた「ともちゃんのおへそ」という伝承に基づく。
「ともちゃんのおへそ」は、のちに絵本にもなった。

公益財団法人中国残留孤児援護基金 中国帰国者支援・交流センター 

https://www.sien-center.or.jp

ともちゃんのおへそ

https://www.kikokusha-center.or.jp/kikokusha/shuki/sm/hokuman_top.html

増田昭一の本

http://www.yumekoubou-t.com/raiburari/masudasyouitinohonn.html


岩槻の「ともちゃん地蔵」

岩槻の「ともちゃん地蔵」は、千野誠治さんの活動に賛同して建立されたお地蔵様。
慈恩寺「玄奘三蔵霊骨塔」の裏に鎮座している。

ともちゃんの おへそは お母さんの 顔

ともちゃん地蔵
ともちゃんは 夕方になると 難民収容所の 隅っこの お母さんのお墓の前で 小さな手を合わせます
ズボンをちょっと下げ 上着をまくりあげ おへそを眺めます
「お母さんに会いたいときは おへそを見なさい きっとお母さんの顔が 見えるでしょう」
お母さんは死の床で そう言いました
寒さが収容所を襲うと 弱い者から命を奪われます
ともちゃんも仲間のお兄さん達も 身体をくの字に曲げて おへそを眺めながら 死んでいきました
遠い昔中国の北の街に そんな子供達がいたことを 忘れないでください
二度とこんな悲しみを 子供達に 負わせないでください
 2001年1月25日
  紅梅の会 
   村上米子

合掌

撮影用に、おへそを確認しましたが、実は服を着ていたので、撮影完了後に服を戻しました。


玄奘三蔵霊骨塔

西遊記(孫悟空)で名高い、玄奘三蔵法師の霊骨石塔。
13重で高さは18mあり、慈恩寺が管理。

三蔵法師の遺骨は、宋の時代に長安(現・西安)から南京にもたらされた後、太平天国の乱で行方不明になったが、第2次大戦中に南京を占領していた日本軍が、偶然にも土木作業中に法師の頭骨を納めた石箱を発見(昭和17年)。
頭骨は、当時の南京政府に還付され、昭和19年に南京玄武山に玄奘塔を建立し奉安されるとともに、日本へも分骨された。日本へ渡った頭骨は、当初芝増上寺に安置されましたが、折しもその頃の東京は空襲の被害が広がり、一時埼玉県蕨市の三学院に移され、さらに三蔵法師の建立した大慈恩寺にちなんで命名された慈恩寺に疎開となった。
第2次大戦後、日本仏教界が正式な奉安の地を検討した際に、三蔵法師と縁の深い慈恩寺が奉安に最適の地とされ、昭和25年に13重の花崗岩の石組みによって玄奘塔が造営。
その後、慈恩寺から台湾の玄奘寺(昭和30年)や奈良の薬師寺(昭和56年)へも分骨されている。

場所

https://maps.app.goo.gl/1byCHzxw8RE7pe6k8

石亀がいました

ピザ窯だそうで。

慈恩寺の本堂。玄奘三蔵霊骨塔は飛地のため、少し離れている。

玄奘塔への行き方。

鎮護国家の旗台は昭和17年2月奉納。

忠魂碑
日露戦争と、支那事変・大東亜戦争での犠牲者。

※撮影;2025年5月

場所:

https://maps.app.goo.gl/QdGTBUxTaUEUmdFB9


関連

「修武台・陸軍航空士官学校」修武台記念館(航空自衛隊入間基地)

2025年の冬に。
入間基地内の「修武台記念館」を見学させていただきました。

修武台記念館内は、撮影可能であってもSNS等の写真公開は禁止、また基地移動中も撮影禁止のため、今回のレポートは、記念館内の写真は無しとなります。

写真の公開には制約がありますが、日本で唯一の「桜花」など、写真を撮ることの制約はないので、そこは思う存分に。
敷地外から撮影した写真と、入手したパンフレットの画像を中心に、見学を検討している皆様向けに、そして自らの備忘のために記事を作成します。

修武台記念館と修武台記念碑(基地敷地外から撮影)


陸軍航空士官学校(修武台)

陸軍航空士官学校
昭和12年(1937)に陸軍所沢飛行場内に陸軍士官学校の分校として「陸軍士官学校分校」が開校。(現在の入間基地・入間飛行場)
昭和13年5月に「陸軍士官学校分校」が豊岡町(現在の入間市)に移転。
昭和13年12月に、「陸軍航空士官学校」として独立し、昭和16年には行幸された 昭和天皇より「修武台」の名称を賜った。

陸軍航空士官学校の本校は豊岡(入間)、その他に飛行練習をするために狭山・高萩・坂戸・館林の陸軍飛行場が練習地として使用された。


修武台記念館

入間基地では、隊員の教育訓練(精神教育)及び航空自衛隊の良き伝統の継承を目的に、「修武台記念館」という歴史資料館が運営されています。

修武台記念館見学会応募要領に関しては、下記の公式サイトにてご確認をば。

https://www.mod.go.jp/asdf/iruma/kouhou/public_kinenkan/index.html

私が申し込んだ際は、(あえて人の少なさそうな)平日を狙って申込みをしたので「自由見学方式」と「ツアー見学方式」で合わせて10人もいないくらいの少人数で開催となり、私は自由見学方式を申し込み。ほぼ2階の旧軍関連の資料の観覧と撮影に時間を費やしました。
ツアー見学組は、90分の見学時間を使って無駄なくみっちりと解説を聞きながらの観覧のようでした。
次回は、ツアー見学で話を聞くのもありかなって思いました。

残念だったのは、野外展示の観覧が不可だったこと。
移動バスが、修武台記念館の前に直付けとなり、修武台記念館の外にも移動禁止。外の見学が出来ないのは、警備人員配置の都合だとかで。


修武台記念碑(修武臺記念碑)

昭和16年12月10日 陸軍大将 東條英機 謹書

修武台記念碑(基地敷地外からの撮影)

陸軍航空士官学校航空神社跡を後ろから(基地敷地外からの撮影)

修武台記念館(基地敷地外からの撮影)


航空歴史資料館 修武臺記念館(修武台記念館)

以下、パンフレットを参照にします。
(撮影したデータは公開不可のため)

航空歴史資料館 修武臺記念館

以下、拡大しつつ。

陸軍航空士官学校の航空標識(インシグニア)として使用された意匠

修武台記念館は、航空自衛隊員の教育訓練及び航空自衛隊の伝統の継承を目的として運営されています。
陸軍航空士官学校(航士)
昭和13年(1938年)5月、所沢にあった陸軍士官学校分校が入間川豊岡に移転し、同年12月に陸軍航空士官学校(航士)として創建されました。終戦までに七千名に及ぶ士官候補生らが教育を受けました。
旧陸軍航空士官學校本部長舎
太平洋戦争後の米軍進駐と撤収を経て、航空自衛隊の管理に委ねられ、昭和61年(1986年)から平成17年(2005年)まで旧修武台記念館として運営されました。旧陸軍士官学校本部庁舎の外観を模した修武台記念館は、同庁舎跡地に建設されて平成24年(2012年)に開館しています。

修武臺の碑

「修武台」の由来
北魏・孝文帝の詔「国家宗文以懐九服修武以寧八荒」を由来とします。
昭和16年(1941年)3月、第54期生卒業式に臨席された昭和天皇が豊岡の航空士官学校の地を「修武臺」と命名されました。同年12月に御命名書の御染筆を刻んだ碑(修武臺の碑)が建立されています。

航空神社跡碑

航空神社跡碑
航空神社は、航空殉職者を慰霊するため所沢飛行学校長だった徳川好敏中将によって建立され、その後士官学校分校とともに所沢から豊岡に奉遷されました。戦後、北野天神社(小手指)に遷宮され例祭が営まれていましたが事情により昭和40年に廃社となりました、。神社跡碑は関係者の尽力により現在の場所に移転しました。殉職者らの霊璽は、令和6年(2024年)より北野天神社に再び遷座されています。

※北野天神社の記録は下記にて

記念館周辺史跡及び記念碑

このあたりも見たかったんです。

パンフレットの次頁

以下、拡大しつつ。

入口玄関にあるのは「陸軍航空士官学校模型」。
位置関係のイメージ把握を。

2階部分。


陸軍航空と海軍航空の歩みを年表形式で解説。
明治43年の陸軍「臨時軍用気球研究会」、そして大正6年の海軍「臨時潜水艦航空機調査会」から始まった日本陸海軍の航空史。


士官と搭乗員の育成について。


太平洋戦争の航空戦について。
海軍空母機動部隊の航空戦と、島嶼戦における航空戦。そして航空消耗戦へと。
零戦と飛燕
日米の飛行場の違い。


陸軍機と隼戦闘機
屠龍の残存部品展示
隼の残存部品展示
檜與平少佐の義足、空中戦で片足を失いつつも義足で戦闘機に乗り続けたパイロット。


中島エンジンの展示。
鍾馗用「ハ41」零戦用「栄21」
日立航空機(日野自動車)エンジン「(海軍)初風・(陸軍)ハ47型」


海軍特攻兵器
「桜花」
日本に現存する唯一の「桜花」の展示。
これが見たかったのです。ようやく拝見できました。


特攻隊員顕彰室
義烈空挺隊など。

10
入間基地特別展示室
加藤隼戦闘隊と軍神加藤について。

11
ジェット機の登場
ジェットエンジンの進化に関して。橘花。

そういえば、橘花のジェットエンジン「ネ20」には、出会ってました。

ここから1階に移動


12
航空自衛隊の発展

保管庫に移動すると3機の展示。
アンリ・ファルマン機、ここにいましたか。久しぶり。

所沢航空発祥記念館で、以前に会ってました。

修武台記念館 館内案内図

撮影した写真が、掲載できないのはもどかしいですが、是非とも見学して自ら鑑賞してくださいってことですね。必見ですので。


撮影:2025年冬

陸軍航空士官学校の校内神社「修武台航空神社」(所沢・北野天神社)

所沢の北野天神社の境内社「小手指神社・航空神社」は、かつての陸軍航空士官学校の校内神社の御社殿を戦後に遷座したものであった。

深く拝する


陸軍航空士官学校(修武台・航士校)

陸軍航空士官学校
昭和12年(1937)に陸軍所沢飛行場内に陸軍士官学校の分校として「陸軍士官学校分校」が開校。(現在の入間基地・入間飛行場)
昭和13年5月に「陸軍士官学校分校」が豊岡町(現在の入間市)に移転。
昭和13年12月に、「陸軍航空士官学校」として独立し、昭和16年には行幸された 昭和天皇より「修武台」の名称を賜った。

陸軍航空士官学校の本校は豊岡(入間)、その他に飛行練習をするために狭山・高萩・坂戸・館林の陸軍飛行場が練習地として使用された。


航空神社(修武台航空神社)

陸軍航空士官学校の校内神社「航空神社」
航空士官学校の跡地である航空自衛隊入間基地の修武台記念館の前庭には、「航空神社跡碑」がある。

航空神社跡碑
航空神社は、航空殉職者を慰霊するため所沢飛行学校長だった徳川好敏中将によって建立され、その後士官学校分校とともに所沢から豊岡に奉遷されました。戦後、北野天神社(小手指)に遷宮され例祭が営まれていましたが事情により昭和40年に廃社となりました、。神社跡碑は関係者の尽力により現在の場所に移転しました。殉職者らの霊璽は、令和6年(2024年)より北野天神社に再び遷座されています。

※修武台記念館のパンフレットより

北野天神社のサイトには、以下の記載がある。

所沢の航空神社とは

所沢の航空神社は昭和12年に創建された慰霊と航空安全のための神社です。
空の安寧を祈るとともに、所沢市の航空史、戦争の歴史を伝えております。

御祭神
主祭神 天照大御神 神武天皇 明治天皇
配祀 陸軍航空隊の殉職者並びに戦没者4956柱
御社殿
伊勢神宮及び武蔵一宮氷川神社の御用材を以て造営されました。

ご由緒と奉遷
 航空神社は、日本初の公式飛行に成功した徳川好敏(とくがわよしとし)の宿願により、昭和12年、所沢陸軍飛行学校に建立されました。
主祭神として、天照大御神、神武天皇、明治天皇、併せて、航空発展の途上に一命を捧げた航空殉職者と戦争で尊い犠牲となられた4956柱の英霊をおまつりしております。社殿は、伊勢神宮と武蔵一宮氷川神社の御用材より作られています。 大正6年には北野天神社宮司が斎主となり、所沢飛行場(現在の航空公園)で航空殉職者の慰霊祭をしていたことが祝詞より分かっております。 爾来、所沢陸軍飛行学校、陸軍士官学校分校、入間市豊岡(昭和天皇が行幸したことにより修武台と名付けられる)の陸軍航空士官学校の航空神社、及び、所沢陸軍航空整備学校の建空神社の祭祀を司って参りました。 昭和20年9月3日、入間市修武台の陸軍航空士官学校にあった航空神社が、進駐軍の接収を避け、命懸けで当社神域に遷座されました。航空神社の例祭は東久邇宮殿下のご臨席を賜り、音楽隊の吹奏を行い、「航空神社の歌」までできるなど盛大に斎行されました。 しかし、昭和40年11月3日に諸般の事情により奈良の航空自衛隊幹部候補生学校に軍関係の霊位牌や霊名簿が奉安される事となりました。残されたご祭神は相殿する小手指神社の御霊(地元小手指地域の戦没者)とともにお祭りしておりました。 奈良の航空自衛隊幹部候補生学校に奉案された霊位牌と霊名簿は、入間基地の修武台記念館が設立され整備も着々と進んできたのを機に、昭和63年に奈良基地から入間基地の修武台記念館にお移りになられました。 歴史の大波に翻弄された数奇な運命を辿りましたが、令和6年、徳川好敏氏の云う「因縁」、菅原道大氏の云う「奇縁」、また、その御縁を繋げて下さった皆様の力強いご尽力により、御霊が北野天神社内航空神社にお戻りになり、再び例祭を斎行する事となりました。 徳川好敏氏の願いは航空神社の「永久崇祀」です。大切に御霊をお祭りし、歴史を伝えて参りましょう。

航空神社と北野天神社(物部天神社)の繋がり
 北野天神社の正式名称は物部天神社・國渭地祇神社・天満天神社です。物部天神社は延喜式神名帳にも記載される古社(式内社)で、平安時代以前より当地に鎮座しております。 祭神は、古代、武蔵國入間郡の郡司であった 物部氏の祖先神である櫛玉饒速日命をおまつりしております。 饒速日命は『古事記』、『日本書紀』にも登場しますが、特に『先代旧辞本紀』には、 「天磐船に乗りて、大虚空を翔行めぐり…」とあり、 天磐船という空飛ぶ乗り物に乗って、日本に降りてこられたことが伝えられています。この故実より、航空の神としても崇敬されます。 奇しくも、饒速日命が鎮まるこの所沢市に日本初の飛行場が出来まして、また北野天神社の格式が式内社・県社であるため、航空神社の斎主となりました。宮司家は創建された当時から今日にいたるまで祭祀を司り、御霊を大切にお祀りしております。

航空神社のこれから
現在、時代に翻弄され幾度も奉遷された御神霊は北野天神社境内・航空神社に戻られて、静かにお鎮まりになられています。 敗戦直後、進駐軍がやってくる中で軍施設の校内神社を受け入れるという事は、並大抵の事ではなく、命がけの覚悟がいりました。 そういった歴史を踏まえ、先代宮司は「航空神社は静かに、大切にお祀りしなさい。」とよく申しておりました。 その言葉通り、現在まで遺族の方々・神社役員、地域の氏子さんや心を寄せて下さる崇敬者さんと共に、丁寧に祭祀を続けてまいりました。  航空神社は慰霊と航空安全のために創建された神社です。航空神社は所沢市の戦争の歴史を背負っており、所沢市に”二つ”とあってはいけません。  所沢市の航空史において、戦争による悲しく尊い犠牲と当時の人々の深い想いは、伝えていかなくてはならないものです。 かけがえのない歴史が塗り替えられることの無いように、大切にお祀りしましょう。

航空神社の歌
作詞 航空神社奉賛会
作曲 航空音楽隊長 松本秀喜
1, 大空に
命ささげた 人々を
まつる社の 尊さよ
君をたたえて もろともに
心ゆくまで 語りましょう
遠いあの日の 思い出を
2, 玉垣に
翼あこがれ 今も尚
忘れな草が 咲いている
心ゆくまで 歌いましょう
あの喜びも 悲しみも
3, 青空に
君のみ心 うけついで
銀の翼が とんでいる
父を慕って 僕もまた
強く明るく 生きましょう
このみ社の み恵みに
https://kitanotenjin.com/kouku.html

招魂会(おぎたまかい)解散の経緯について
 この神社は、元豊岡の陸軍航空士官学校修武台に国の安泰と戦勝を祈願するため祀られた神社で、北野天神社宮司が毎年厳粛に祭典を行ってまいりましたが、昭和20年の敗戦による混乱をさけるため、急遽当神社に遷座されたものです。
 終戦の混乱より落ち着きを取り戻した昭和30年頃より当学校の校長を始め幹部達十二・三名が寄り寄りに、北野天神社の社務所に集り前途を話し合って、結局慰霊祭を行うことを決め、同時に当所小手指・北中・北打越地区の戦没者を合祀し盛大な祭典を行ったのです。即ち、東久邇宮殿下のご臨席を賜わり、音楽隊の吹奏を行い、それに関する歌まで出来るなどして、毎年4月15日に慰霊祭が営まれました。
 しかし、昭和40年11月3日に元陸軍士官学校の校長等の手により軍関係の御霊のみ碑となって奈良の航空自衛隊幹部候補生学校に分霊される事となりました。そこで残された英霊を祀るため、北野天神社及び六所神社の惣代役員また区長・遺族等が旧公民館に集り招魂会を結成し、その初代会長に川口重雄氏を選出し、従来通り4月15日を例祭とし決め、以来半世紀に亘り、慰霊祭を営んで参りました。当初は大変多くの遺族の方々が参列する程でしたが、時の流れと共に遺族の高齢化・減少も甚だしく、茲に招魂会を解散し、その基金を神社改修に充て、向後は神社境内の摂末社並の祭典を北野天神社の総代役員で執行することとなりました。
  平成二十六年十二月吉日
   北野天神社宮司   栗原彌生子
   同 総代会会長   鈴木正治
   六所神社総代会会長 鹿島敏寿
   招魂会会長     小暮信至

小手指神社
この社は日清日露の両戦役から終戦に至るまでの戰に参戦し祖国の尊い英霊となられた方々を祀った社です。
毎年4月十五日には(北中北越地区を含む)北野上新井西所沢地区の関係者により厳かに慰霊祭が執行されております。

航空神社
大正6年 北野天神社宮司が祭主となり所沢飛行場(現・航空公園)で航空殉職者の慰霊祭を行いました。
爾来 昭和12年 所沢陸軍飛行学校に航空神社が造営され 陸軍士官学校分校・陸軍航空士官学校(現・航空自衛隊入間基地)の祭典を行って参りました。
昭和20年8月の敗戦により航空神社は米軍の進駐が予期される慌ただしさの中 同年9月3日 当神社神域に遷座され 慰霊祭が厳かに執行されました

航空神社は空の守り神として多くの人々の崇敬を集めて参りました
主祭神のとして天照大御神・神武天皇・明治天皇 併せて陸軍航空隊の御霊四九五六柱をまつります
社殿は伊勢神宮と武蔵一宮氷川神社の御用材より作られました


航空神社(修武台航空神社)参拝

北野天神社の境内に。
小手指神社・航空神社の合社。

参拝。

玉串料 元校長
金阡圓 徳川好敏
昭和廿八年十二月廿日

元航士校長一同

余談だが、昭和28年の1000円は物価価値的には、3万5千円ほど。
徳川好敏は昭和38年に78歳で亡くなっている。

昭和28年の埼玉県知事の玉串料は5千円。一個人の徳川好敏に対して、さすがは県知事ゆえの5倍ですね。

「空の華」は、熊谷ですね。

徳川好敏関連は、下記にて。


境内の石碑

表忠碑(大正11年、東郷平八郎謹書)と忠魂碑(昭和30年、靖国神社宮司・筑波藤麿禁書)
もともとは小手指小学校に建立され、その後は市役所小手指出張所にあったが、昭和52年に北野天神社に移転。


モリス・ファルマン式飛行機

フランスのモリス・ファルマン式飛行機18号を復元中

大正4年5月に河野長敏初代気球隊長が撮影し奉納された「フランスのモリス・ファルマン式飛行機18号の写真」に因む復元

今年は戦後80年の節目にあたります。
航空安全をお祈りするとともに
祖国を守るため、尊い命を捧げられた英霊に
感謝の誠を捧げます。

モリス・ファルマン式飛行機18号


北野天神社参拝

おもえば、平成14年(2002)以来の参拝かもしれない。
23年も前じゃないですか。
当時の私は、武蔵国の延喜式内社を全て回ることをライフワークにしていたので、その一環で、当社にも参拝していたというわけです。

通称「北野天神社」と呼称しているが、正式名は「物部天神社・國渭地祇神社・天満天神社」という。延喜式神名帳に名を連ねる武蔵国の延喜式内社。

式内社・物部天神社:櫛玉饒速日命(クシタマニギハヤヒ命)
式内社・国渭地祗神社:八千矛命(ヤチホコ命=大国主命)
天満神社:菅原道真公
配祀:宗良親王・小手指明神・天穂日命・応神天皇・日本武尊・倉稲魂命

由来:北野天神社(物部天国渭地祇神社)とは物部天神社・国渭地祗神社・天満天神社の総称。
景行天皇40年に日本武尊が東征の折に当地に立ち寄り、櫛玉饒速日命・八千矛命の二柱を祀り、物部天神・国渭地祗神と崇拝したことに始まるといわれている。のち欽明天皇の頃、先に日本武尊が納めた神剣に霊験があったことから天照大神を合祀して「小手指明神」とよんだ。
さらに長徳元年に菅原道真5世の孫である修成が武蔵守になったときに、勅許を得て京都の北野天神を分祀。坂東第1の天満宮としたと伝えられ、この時から当地を「北野」とよぶようになったという。このころはまだ3社は別殿であったが、いつのころからか合殿となり、社名も「北野天神社」となったという。
現在の本殿は安永年間(1770年代)の建築であり、拝殿幣殿は平成6年の建築。

前田利家の大納言梅

征夷大将軍・宗良親王
小手指ヶ原合戦での御在陣の御遺蹟
「君の為世のため何か惜しからむ 捨てて甲斐ある命なりせば」

諸神宮

源頼朝が建久6年(1195)9月に延喜式内総社3132神を勧進。
室町期の再建という社殿は、埼玉県内では、神社建築として、出雲伊波比神社が亨祿元年(1528年)で最古となるが、それを踏まえると小祠といえども、同じ室町期として、かなり貴重な建造物。

以上、北野天神社でした。

※参拝:2025年4月


所沢関連

「振武台」陸軍予科士官学校跡・朝霞駐屯地の観桜一般開放(令和7年)

陸上自衛隊朝霞駐屯地の観桜一般公開。
朝霞駐屯地は、公開の機会が少ない駐屯地のため、観桜のときに狙っていかないと、なかなか散策の機会がない駐屯地なのです。。


朝霞駐屯地

陸上総隊司令部や東部方面総監部のある「朝霞駐屯地」。
戦前は、「東京ゴルフ倶楽部」ゴルフ場を買収して新設された「陸軍予科士官学校」があり、そして戦後は「米軍朝霞キャンプ」もあった場所。

東京ゴルフ倶楽部
昭和7年(1932)5月、東京ゴルフ倶楽部が朝霞コースを開場。
東京ゴルフ倶楽部の痕跡として「びわ湖」がある。これは「東京ゴルフ倶楽部」朝霞コース(膝折ゴルフ場)の三番ショートホールの名残。
昭和15年、東京ゴルフ倶楽部朝霞コースの地が、陸軍省によって買収され、東京ゴルフ倶楽部は狭山に移転。朝霞コースは昭和16年閉鎖。

陸軍予科士官学校
昭和16年(1941)10月1日、陸軍予科士官学校が市ヶ谷から朝霞に移転。
昭和18年(1943)12月9日、 昭和天皇行幸し、「振武台」と命名。

アメリカ陸軍
昭和20年9月(1945)9月、アメリカ陸軍が朝霞地区を接収し、「キャンプ・サウス・ドレイク」(米軍朝霞キャンプ)として進駐。

陸上自衛隊
昭和29年(1954)の警察予備隊時代を経て、昭和35年(1960)3月15日に「朝霞駐屯地」が開設。
主な部隊は以下となる。
陸上総隊司令部
東部方面総監部
第1偵察戦闘大隊、第1施設大隊、第2高射特科群(第335高射中隊)、東部方面システム通信群、東部方面後方支援隊、東部方面衛生隊、 東部方面会計隊、東部方面指揮所訓練支援隊、東部方面情報処理隊、東部方面音楽隊、女性自衛官教育隊、東部方面警務隊、中央情報隊、電子作戦隊、システム通信団(一部)、中央音楽隊、輸送学校、自衛隊体育学校、朝霞駐屯地業務隊

一般開放エリア
南の大泉門側の案内図

北の朝霞門側の案内図
それぞれ進行方向を上としているので、南北が異なる。


関連

陸軍予科士官学校時代の位置関係や、振武臺記念館等は以前の記事を参照に


振武台碑(振武臺碑)

陸軍予科士官学校(陸軍豫科士官學校)
かつて、朝霞の地に旧陸軍の予科士官学校が所在していた。
陸軍士官学校は明治時代から市ヶ谷(東京)あったが、昭和の時代に入り初級将校を多く養成する必要性が生じ、当時の市ヶ谷では手狭となり本科が昭和12年に座間(神奈川)へ、予科は昭和16年10月に朝霞に移転となった。

振武台の名の由来は、昭和天皇が予科士官学校(朝霞)に行幸された際、「将来益々るい、八肱一宇の為をなせ」といった意味から付けられてる。

  • 市谷台 市ヶ谷:座間に移転する前の陸軍士官学校(本科・予科)
  • 相武台 座間:陸軍士官学校(陸士)
  • 修武台 所沢:陸軍航空士官学校(航士)
  • 振武台 朝霞:陸軍予科士官学校(予士)
  • 若松台 若松:陸軍経理学校
  • 健武台 八王子:東京陸軍幼年学校(東幼)

振武臺碑について
昭和18年12月9日、昭和天皇が陸軍予科士官学校に行幸された際、この地に「振武台」の名を賜り、翌年この碑が建立されました。当時の碑記は、長年の風雪に晒され風化していたため、平成12年4月、陸軍予科士官學校卒業生の手によって復元されました。

陸軍大将 山田乙三 による揮毫。
山田乙三陸軍大将は、参謀本部総務部長、陸軍士官学校校長、第12師団長を歴任し、最後の関東軍総司令官(兼任で在満州国特命全権大使)であった。

振武台碑の下には、終戦直後に占領軍の辱めを受けるのを免れるために「雄健神社」の御神体(御神霊・神剣・宝鏡)、そして陸軍予科士官學校扁額と学校本部の菊御紋章が埋められた。
20年後の昭和40年に掘り返され、御神霊は靖国神社に奉安され、扁額と御紋章は、振武臺記念館の2階に保存展示されている。

陸上自衛隊広報センター サイトより

振武台碑は、大泉門(朝霞駐屯地正門)を入ったすぐ左手にある。


雄健神社跡(おたけびじんじゃ)

雄健神社跡地は立入禁止。陸軍予科士官学校本部と正門の間にある。

振武臺記念館には、20分の1に再現した雄健神社がある。

陸上自衛隊広報センター サイトより

もともとは市ヶ谷にあった。
昭和16年(1941)、陸軍予科士官学校の移転にともない御神体は、朝霞に奉遷。


陸軍予科士官学校本部跡(東部方面総監部庁舎)

陸軍予科士官学校本部跡地は、現在は東部方面総監部の庁舎となっている。

本部前の桜。このあたりのロータリー感は往時のまま。
右手に、雄健神社があった。

東部方面総監部の紋章


琵琶湖の桜

往時を物語る遺構。

琵琶湖について
 昭和5年、東京ゴルフ倶楽部ゴルフ場が、土地問題等で駒沢からこの地に移転し、同年工事が開始され昭和7年から10年間運用され、東京ゴルフ倶楽部というすばらしいゴルフ場がありました。この琵琶湖(人造湖)は、当時3番池越えのショートホールで、唯一の遺構です。名前の由来は、滋賀県にある琵琶湖と形が似ているということで名付けられました。
参考:
 元々は、膝折ゴルフ場と呼ばれていましたが、「膝を折る」とは、縁起が悪いと言うことで、東京ゴルフ倶楽部名誉会長である「朝香宮殿下」の御名に因んで同音異字の「朝霞」に決定し、同時に朝香町が誕生しました。

観桜を愛でる、なかなか佳きかな。


埼玉県殉職隊員之碑

埼玉県殉職隊員之碑
防衛庁長官 中曽根康弘書

主碑は、昭和45年の建立。
副碑には、埼玉県殉職隊員芳名が刻まれている。
80余名のご芳名。

合掌


環状交差点(ロータリー交差点)

陸軍時代から、位置関係が変わってない環状交差点(ロータリー交差点)。


中庭(朝霞クラブ)

現在の酒保というかPXというか、朝霞クラブな居酒屋に、なんとなく庭園(中庭)があるけど、往時からの酒保庭園(中庭)かどうかは不詳。


UH-1H

41722号、用途廃棄機で訓練用に使用


朝霞駐屯地での観桜

迷彩は溶け込みますね。

どうやら、犬小屋?

小砂子(ちいさご)

陸自らしい観桜を愛でる。

なんか来た。

資材運搬車(キャリアダンプ)、小さくて可愛い。。。
ベースは、諸岡の民生用キャリアダンプ

小型消防車。ダイハツ・ハイゼットがベース

警衛隊


朝霞厚生センター(コンビニ)

酒保ですね。

それっぽいものを買いました。

グランドのキッチンカーで、以下を。

観桜の定番


振武臺記念館の桜

門柱


振武臺記念館

陸上自衛隊広報センターから。

振武臺記念館の開放もあったので、見学。

りっくんランド
(陸上自衛隊広報センター)


CH-47J導入1号機

昭和61年(1986)から導入の始まったCH-47Jの1号機。
CH47Jは、52901号機から52934までの34機が導入され、35号機からは改良型のCH-47JAとなった。
朝霞駐屯地の南西に留置されており、敷地外から見学が可能。


撮影:2025年3月30日

旧陸軍航空士官学校の格納庫跡(入間基地)

2024年11月の入間基地航空祭に際して、旧陸軍航空士官学校時代の倉庫が5棟残っているというので、航空機はそこそこに倉庫の見学をしてきました。

もっとも、2024年の航空祭は、C-1ばかり見ていましたけど。


陸軍航空士官学校

陸軍航空士官学校
昭和12年(1937)に陸軍所沢飛行場内に陸軍士官学校の分校として「陸軍士官学校分校」が開校。(現在の入間基地・入間飛行場)
昭和13年5月に「陸軍士官学校分校」が豊岡町(現在の入間市)に移転。
昭和13年12月に、「陸軍航空士官学校」として独立し、昭和16年には行幸された 昭和天皇より「修武台」の名称を賜った。

陸軍航空士官学校の本校は豊岡(入間)、その他に飛行練習をするために狭山・高萩・坂戸・館林の陸軍飛行場が練習地として使用された。

狭山飛行場

高萩飛行場

坂戸飛行場

館林飛行場関連は未訪問。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:891-C2-92
1944年9月28日、米軍撮影の航空写真

かつての陸軍航空士官学校時代の様子がわかる。

残存の格納庫部分を拡大

現在の様子

当時の写真と照合し、赤枠部分が残存と推測できる。


陸軍航空士官学校時代の北側建屋3棟の現況

2024年11月3日現在の様子。
北側には、3棟が残存している。

北側から。

南側から。
当時は、こちら側が駐機エリア。

西側の側面。


陸軍航空士官学校時代の西側建屋2棟の現況

西側には2棟、残存している。

現在も航空自衛隊入間基地の倉庫として活用されている。


修武台記念館・陸軍航空士官学校航空神社跡・修武台命名記念碑

そこにあるのはわかっているけど、見学は、いつになったらできるのかな、と。
申し込めばよいのですけど。

敷地外の柵の外から。

※2024年11月撮影


関連

「C-1 FOREVER」C-1よ永遠なれ(入間基地一般開放2025年3月)

2025年(令和7年)3月にて、C-1/EC-1は全機引退となる。
その引退前に入間基地一般開放にて、最後の晴舞台、最後の雄姿を魅せてくれた。

これは、行く以外の選択肢は無いでしょ、です。


キュージョンと402飛行隊

入間基地救助犬「キュージョン」と、C-1所属の402飛行隊の部隊旗がお出迎え。
救助とジョンソン(空自入間基地になる前の米軍ジョンソン空軍基地)なキュージョンは、パイロットに憧れている救助犬だとか。

402飛行隊は、航空自衛隊航空支援集団第2輸送航空隊隷下の輸送機部隊。入間基地に所属し、輸送機にC-2、多用途支援機にU-4を運用している。C-1も運用していた。


C-1(28‐1002号機/試作2号機/フィニックス特別塗装)

フィニックス(不死鳥)
永遠に飛び続ける思いを込めて。

第2輸送航空隊(2nd TAG)

C-1 FOREVER


EC-1(78-1021号機/電子線訓練機/カモノハシ)

カモノハシ!

最後のツーショット、、、


展示場所移動

フェニックスとカモノハシの移動。

あっ、C-2が来ました。

世代交代

C-1とC-2の最後のツーショットと思うと、なんか込み上げてくるものがあり。。。

このタイミングは粋な演出。

C-2を見送り。


EC-1カモノハシ地上滑走

カモノハシの地上滑走

放水のフィナーレ


C-1フェニックス地上滑走

同じく、放水のお出迎え

お疲れ様

パイロット


ターミナルから

入間基地ターミナルからの2機

投稿写真で描かれたEC-1

そして、C-1も。

よくみると、ひとつひとつの写真が。これはすごい力作!

段ボールすごい。。。


C-1地上展示(08-10030号機)

なにげに、C-1の機内をちゃんと見るのは初めてだったかも。


C-1地上展示(18-1031号機)

2024年11月3日の入間基地航空祭で、ラストフライトをした31号機。
もう飛べないけど、まだその姿をみることができました。


YS-11地上展示(02-1159号機/スーパーYS-11)

まさか、YS-11より先に、C-1が全機引退とは、誰が予想しただろうか。。。
エンジンを換装しプロペラ3枚に変更したスーパーYS-11はまだ、空自で運用されているという奇跡。

YS-11EB(159号機)

YS-EA(162号機)も。


こうやって、C-1最期の姿を眺めるだけで、感慨深くなります。
高校生のとき、初めて行った航空祭で、C-1の高機動に魅了されて以来、好きな機体でした。

ありがとうございました!!
お疲れ様でした!!

※撮影:2025年3月


関連

入間基地航空祭「C1 031号機ラストフライト」(2024年11月)

2024年11月、入間基地航空祭。
日本が誇る中型輸送機「C-1」の全機退役を控えて、最後のC-1揃い踏みな航空ショーが開催された。
体調はいまいちでしたが、なんとか観覧に。


C-1(試作1号機XC-1/空中試験母機/001号機/銀ちゃん)

岐阜基地所属

試作1号機と2号機、光景のC-2の揃い踏み


C-1展示飛行

C-1とC-2の編隊飛行


C-1 31号機ラストフライト

C-1量産の最終号機31号機のラストフライト。
僚機30号機とともに、最後の飛行。

31号機の着陸。

放水アーチでのお出迎え

LAST FLIGHT
C-1 18-1031

空自70周年


ブルーインパルス

毎度おなじみってことで。

※撮影:2024年11月


関連

入間基地ランウェイウォーク2024

令和6年(2024)6月1日(土)。
航空自衛隊入間基地で開催された入間基地ランウェイウォーク2024。今年は、「航空自衛隊70周年記念」として制限なしの一般開放が実施されましたので、足を運んでみました。

YS-11やC-1など、いつ見納めになってもおかしくない機体が見れたのがなによりの収穫。


YS-11EB電子測定機

日本航空機製造が製造した双発ターボプロップエンジン方式飛行機。第二次世界大戦後に初めて日本のメーカーが開発した旅客機でもある。
YS11(02-1159号機)は、1970年初飛行。
1996年にYS-11EBとして「スーパーYS」化改造した電子測定機(電子情報収集機)。

レアなツーショット!
YS-11EB電子測定機のうしろには、EC-1電子戦訓練機


YS-11EA電子戦訓練機

YS-11EA 12-1162号機と12-1163号機。
YS-11Eを「スーパーYS」化改造した電子戦訓練機。
航空自衛隊のYS-11としては、一番最後に導入された世代(1971年初飛行)
2機ともにプロペラが外されて保管されている状態。
すでに、事実上用廃ではあるが、2024年度内に、書類上でも正式に用途廃止(用廃)予定という。


EC-1電子戦訓練機

C-1輸送機を改造した機体。一機のみ。
78-1021号機
通称「カモノハシ」
2024年度内の用途廃止(用廃)予定という。


C-1輸送機

18-1031号機、28-1002号機が駐機。
23年末現在で現存6機のみという。
用途廃止(用廃)が迫っている。。。

18-1031号機。最終生産の機体。


C-2輸送機

C-1輸送機の後継。3機が駐機展示されていました。


T-4練習機


CH-47J輸送ヘリコプター


入間基地ランウェイウォーク

滑走路の北から南に、歩こう!!というのが本来のメインイベント。

最北端からスタート。

ざっくり2キロのウォーキング。
なお、滑走路を2キロ歩いて、誘導路を2キロ歩くので、実質4キロのウォーキング。

広い!

すごく気持ちよく歩けました。

滑走路を歩くだけだけど、滑走路は普段は絶対に歩けないので、楽しいw

西武線。
車窓から見ていた滑走路を、逆から見るのが新鮮。

最南端。

誘導路。

コンクリートが白くて綺麗。


入間ターミナル

入間飛行場の入間ターミナル。
基地間を飛ぶ定期便(航空自衛隊各分屯基地間の物資及び、人員の輸送任務)がある。


第3補給処

航空自衛隊第3補給処
「前進」

前進
第3補給処創立15周年ニ当タリ処全隊員ガ先輩の築カレタ輝カシイ伝統ヲ受ケ継ギ更二発展向上ノ努力ヲ重ネル決意ヲ前進ノ二字二表ワシコレヲ建立スル
昭和52年10月1日

北門から入場しました。

10時開門で、10時30分くらいについたら、行列もなく、そして手荷物検査もなく、非常にのんびりと、貴重な航空機の見学などができたのが、なによりのイベント。これは楽しいですね。

※撮影:2024年月

日本鉄道大宮工場「門柱」と「赤煉瓦倉庫」(さいたま市)

「鉄道のまち・大宮」
JR東日本が、公式にサイトを用意しているぐらいに、「鉄道のまち」である。

https://www.jreast.co.jp/omiya/tetsumachi_omiya/

現在も、「鉄道博物館」や「大宮総合車両センター」などを要し、またJR東日本の新幹線の一大ジャンクションでもある。

そんな大宮で、「鉄道のまち」の歴史を散策してみる。


日本鉄道大宮工場

現在の「JR東日本・大宮総合車両センター」は、かつて「日本鉄道大宮工場」であった。
自社工場を保有していなかった「日本鉄道(日本鉄道株式会社)=国鉄の前身」が、上野‐青森間を全通させたことを機に明治27年(1994)に、大宮に工場を設立したことにはじまる。


日本鉄道大宮工場の門柱

「JR東日本・大宮総合車両センター」の敷地内に開設されたフィットネスクラブ(JEXER大宮)の脇に、かつての「日本鉄道大宮工場」時代の門柱が残っている。

現在は、門として機能はしておらず、ブロック塀で埋められており、境界壁としての役目のみとなっている。


日本鉄道大宮工場の赤煉瓦倉庫(旧大宮車両センター倉庫8号)

竣工は明治30年(1897)。往時は、米の貯蔵として使用されていたという。

さいたま市観光国際協会>

https://www.stib.jp/saitama-aruki/area-omiya.php

フィットネスクラブの入り口は2階にあり、すぐ近くで赤レンガ倉庫の2階部分をみることもできる。


RAILWAY GARDEN PROMENADE
(レールウェイガーデンプロムナード)

大宮総合車両センター本所内の施設を見学できる。

休みの日なので、なにもないですね。。。

D51 187号

大宮工場で新製されたD51形の第1号機。

準鉄道記念物
D51187号蒸気機関車
D51形式蒸気機関車は、1936年(昭和11年)に誕生した優秀な大形貨物列車で、1945年(昭和20年)までに民間工場をはじめ、国鉄の8工場でも製造され、合計1,115両製造された。
大宮工場においては、1938年(昭和13年)4月から1942年(昭和17年)3月までに、当時の社会的な要請に応じて31両製造したが、展示されている187号機は、それらのうち第1両目の由緒ある機関車で、1938年(昭和13年)4月12日に着工し、同年8月8日に完成した。
当時の工場職員が寝食を忘れ、心血を注いで製造にあたり、その構成部品の全てを工場独自の力で製作したもので、歴史的にも技術の大宮工場の真価を現したものであり、記念物として先輩の偉業を讃えるとともに、当時の職員の21世紀の国鉄に向かっての自覚を具現する象徴として、保存することになり1971年(昭和46年)10月14日に準鉄道記念物に指定された。

D51187
形式D51

1号
大宮工場
昭和13年製造

※撮影:2023年5月及び2024年2月


関連

「日本の航空事始め・その4」徳川好敏が初飛行祈願をした「所澤神明社」(鳥船神社/所沢航空神社)

「日本の航空事始め」としては、第4弾になります。
このシリーズは、実は自分でも良くまとめてあるかと思っていますが、今回は「その1」の追記みたいなものです。

2021年6月に本殿の東側から西側に遷座し、新たな装いになっておりましたので、再訪した次第。


鳥船神社(所澤航空神社)

初飛行の快挙から百年を迎えたのを記念して、2011(平成23)年10月に創建。

2021年6月に覆社内を設けた新境内地に遷座した「鳥船神社」。
所沢神明社内の摂末社がすべて境内の西側に集まったかたちとなっている。

https://www.shinmeisha.or.jp/info/%e9%b3%a5%e8%88%b9%e7%a5%9e%e7%a4%be%e5%be%a1%e9%81%b7%e5%ba%a7%e3%81%ab%e3%81%a4%e3%81%84%e3%81%a6/

御由緒

鳥船神社(別称:所澤航空神社)
御祭神 鳥之石楠船神(天鳥船神)
例祭 4月5日(日本初動力飛行の日)
 御祭神の鳥之石楠船神は、伊邪那岐神・伊邪那美神の御子神で、別名を天鳥船神と申し上げます。高天原と豊葦原中国(日本)との間を鳥のように通う丈夫な船に坐し、大国主神の国譲りに際して建御雷神に副えて遣わされ、また、天孫降臨に先立つ邇芸早日命の天降りの際にも御乗船になったと伝えられています。このような御事蹟により、近代以降は航空の神とすても崇敬されています。
当社は、この所沢の地に我が国初の飛行場が造られ、徳川好敏大尉による初飛行という快挙が成し遂げられた明治44年から100年を迎えたのを記念して、平成23年10月に創建されました。
 我が国航空発祥のちに鎮り坐す、航空安全・交通安全の神社、八百萬の神々が鳥船に乗って降臨される神社、人々の願いを鳥船に乗せて高天原にお伝え下さる神社です。
(願を込めた「折鶴」や「紙飛行機」をお供えください。)

https://www.shinmeisha.or.jp/shinmeisha/hikouki.html

鳥船神社
別称 所澤航空神社
奉納
元所沢飛行学校教官
 陸軍航空中佐 衣川悦司
  長男 倉片幹人

社号標のうしろに隠されている標柱。。。

陸軍用地

文字面は社号標と背中合わせ。鳥船神社社殿に向いている。
これは、意識しないと全く気が付かない。

サルムソン2(仏名)で使用していたプロペラ(②で実用)
日本名
①陸軍サ式2型偵察機(大正8年)
②陸軍乙式1型偵察機(大正10年)

磐飛行機

願を込めて奉納された折鶴や紙飛行機

鳥船神社と招魂社と、摂末社が並んで鎮座。近年とりおこなわれた境内再整備、ですね。


招魂社

いわゆる指定外護國神社。所沢出身の戦争犠牲者を祀っている。

旧社地から遷座。
社号標と鳥居と基礎がまだ残っている。


所澤駐蹕碑(大正天皇行幸記念碑)

大正元年(1912年)の陸軍特別大演習。
所沢・川越付近でおこなわれた陸軍の特別大演習では、北軍と南軍に分かれ、あわせて約10万人という大規模で実施され、 大正天皇が行幸され駐蹕された。
所沢飛行場は前年の明治44年(1911年)4月に開設し、同年4月5日に、徳川好敏大尉が操縦する「アンリ・ファルマン機」が所沢飛行場で初飛行している。

所澤駐蹕碑
麝香間祇候 正二位勲一等 公爵 徳川家達 篆額
近時飛行機盛行于各國我邦亦設習技場於武州所澤會
今上天皇ト大正元年十一月統監陸軍大演習于近郊置 行在所於川越各地巡監之次以十七日 臨幸所澤習技場此地當南北軍對抗之衝飛行機翔干両軍之上能偵察之頗稱 二日十九日再 臨幸場内大賜酺於文部官僚又州内士民盖
天皇践祚後盛典也郷民以為栄欲建碑 駐蹕之處以表之来嘱銘鳴呼
天皇以武備之不可一日忽之忍 諒闇之憂躬統監之労不負
先皇在天之霊欣慰可知也海内臣民聞之皆欽仰敬崇況新拝観者乎謹繋銘日治兵之野飛行場 大纛臨矣 皇武維揚萬姓欽仰執不期待紹述先緒雄飛四海
 大正二年十一月
  宮内儒員 従三位勲二等 文学博士 三島毅 拝撰
  錦鶏間祗候 従二位勲一等 男爵 野邨素介 謹書


所澤神明社

御祭神
天照大御神(あまてらすおおみかみ)
倉稲魂大神(うかのみたまのみこと)
大物主大神(おおものぬしのおおかみ)

日本武尊が東国平定の折にこの付近で休憩をした際に、天照大御神に祈りを捧げたという伝説にちなむ。
明治44年(1911年)4月に日本最初の飛行場として開設された所沢飛行場において、その初飛行のパイロットとなった徳川好敏が前日に関係者数名とともに正式参詣したことから、今日では特に飛行機と空の安全に関する祈願として崇敬をあつめている。

青島(山東省)・西伯利亜(シベリア)の出征記念の外垣

御朱印など。

https://www.shinmeisha.or.jp/omamori/

鳥船神社の御朱印は3ヶ月毎にデザインがかわっている。

所澤神明社サイトより

御朱印帳は、アンリ・ファルマン機をいデザイン

所澤神明社サイトより

こちらは明治天皇の行在所。駅までの道で目に止まったので。

明治天皇行在所跡

明治16年4月の近衛諸隊春季小演習での行在所が設けられた斎藤家。

※撮影:2024年2月


所沢関連

軍艦「三笠」のスクリューの一片と補助舵輪(川口市)

埼玉県川口市に、なぜか「戦艦三笠」に関係するものが残っているというので、足を運んでみた。

そこには、遠目でもわかる状態で、三笠のスクリューが住宅地に忽然と陳列してあった。


三笠

日露戦争の日本海海戦での第日本帝国海軍の連合艦隊旗艦を務めた。
世界三大記念艦のひとつ。

三笠は、敷島型戦艦の4番艦。イギリスのヴィッカース社で建造され1902年(明治35年)竣工。

昭和20年の終戦後、三笠はソ連の圧力で解体処分されそうになるが、米軍の調整により解体は免れるも、戦後の荒廃で金属やチーク材などは盗まれ、そして米軍によってダンスホールや水族館などの娯楽施設が艦上に開設された。


軍艦「三笠」のスクリューの一片と補助舵輪

軍艦「三笠」のスクリューの一片と補助舵輪
 明治38年5月27日は日本連合艦隊がロシアのバルチック艦隊に大勝した日である。其の時の旗艦「三笠」の栄誉をたたえ横須賀に記念艦とし此のスクリューの一片と補助舵輪は共に保存されてありました。
 昭和20年8月15日終戦後進駐軍より三笠艦を解体せよとの命令に従い惜しくも東郷元帥が指揮をした司令塔Z旗を掲揚したマスト等の解体作業が進められた其の折此の三笠艦のスクリューの一片と補助舵輪は私石井が幸いにして入手した次第であります。
 此のスクリューはイギリスのストーンブロンズ社が鋳造したもので奇しくも石井を英訳するとストーンであり而も同じ特殊ブロンズの鋳造会社であるが故に栄光に奇縁を添えた三笠艦のスクリューの一片と補助舵輪は石井家の宝として保存するものであり恂寿
 昭和59年10月吉日
  ストーンブロンズ株式会社
  石井次郎 記述 書

STONE’S BRONZE
LONDON 1899

なお、「三笠」は、保存のため陸地と固定されているため、スクリュー含め艦底部分は埋められている。

補助舵輪

ちなみに下記は、今の三笠についている艦橋の舵輪。(意識せずに撮影してました)
かなり大きさが違う。
補助舵輪は、どこに設置されていたのだろうか。
この大きさを設置しようとすれば、艦内では、それなりのスペースを必要とする。

まちかどスポット賞 川口市 1988

大砲のような鋳造品。

場所

https://maps.app.goo.gl/TiYs772Fy3HHTb89A

撮影:2024年2月


三笠関連

川口関連

意外と川口には、いくつか戦跡関連の話題が集まっている。

大宮駐屯地創立66周年記念行事(大宮駐屯地一般公開)

埼玉県の大宮駐屯地。埼玉県さいたま市北区日進町。
かつては、陸軍の光学レンズ工場などがあった場所。現在は「陸上自衛隊化学学校」や「第32普通科連隊」などが展開している。

一般公開があったので、足を運んでみました。


東京第一陸軍造兵廠(東一造)

大日本帝国陸軍の陸軍造兵廠のひとつ。

東京小石川後楽園にあった「東京砲兵工廠」の「銃砲製造所」を明治38年に十条に移転したことにはじまる。そののち、明治41年には「火具製造所」も小石川から十条に移転。

大正12年に、東京砲兵工廠の「銃砲製造所」「火具製造所」が合併。
「陸軍造兵廠火工廠十条兵器製造所」となる。

昭和11年に小石川から東京工廠本部が十条に移転。
「陸軍造兵廠東京工廠」の下に「銃砲製造所」「精器製造所」「火具製造所」が編成される。


東京第一陸軍造兵廠 大宮製造所

昭和8年(1933年)、東京・小石川にあった東京第一陸軍造兵廠(東一造)の製造部門が十条に移転。
陸軍は昭和14年(1939年)、この陸軍造兵廠を拡張するため光学レンズの製造、組立などを行う光学工場を「大宮」に移転することを決定。

昭和15年組織改変
陸軍造兵廠東京第一陸軍造兵廠(略称「東一造」)
  第一製造所(銃砲製造所)
  第二製造所(精器製造所)
  第三製造所(火具製造所)
 
陸軍造兵廠東京第一陸軍造兵廠(東一造の主要施設は以下)
 陸軍造兵廠本部
  第一製造所(銃砲製造所)
   仙台製造所(宮城・第一製造所所管)
  第二製造所(精器製造所)
   大宮製造所・研究所(埼玉・第二製造所から分離)
    大宮製造所池田工場(大阪)
  第三製造所(火具製造所)
   第三製造所滝野川工場 
    技能者養成所
   第三製造所尾久工場 
   第三製造所江戸川工場(埼玉春日部)
   川越製造所(埼玉・第三製造所から分離)
   小杉製造所(富山・第三製造所所管)

東京第一陸軍造兵廠 大宮製造所
昭和16年(1941年)4月、一部の施設が完成。操業開始。
昭和18年(1943年)4月、陸軍東京造兵廠大宮製造所が完成。本格的な稼働を開始。
大宮製造所工場は光学レンズの製造、組立を行う第一工場、機械、レンズの製造、組立を行う第二工場、算定具、測遠器を製造する第三工場、生産に必要な工具を製造する第四工場と次々に建設
された。出来上がった光学レンズの用途については、主に機関銃や狙撃銃用の光学照準器などに組み込まれた。

戦後は米軍キャンプが置かれてたが、昭和32年(1957年)から陸上自衛隊が駐留している。


位置関係

地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M46-A-7-3-80
昭和21年(1946年)2月15日、米軍撮影の航空写真を一部加工。

拡大

Google航空写真


大宮駐屯地

大宮駐屯地創立66周年記念行事
一般開放
令和5年6月4日(日)10時~14時30分

大宮駅からバスで赴きました。

大宮駐屯地は、昭和32年開設。
駐屯地司令は、陸上自衛隊化学学校長が兼務。
陸上自衛隊化学学校、中央特殊武器防護隊、第32普通科連隊などが駐屯している。

正門

北門

案内看板

駐屯地案内図


駐屯地史料館(大宮駐屯地)

各地の駐屯地の史料館を見学するのが楽しみ。普段、見ること出来ないので、これが一番の目標でもあったりする。

文化祭な雰囲気の展示コーナー。
しかし展示物そのものは、本物の重みがある。。


旧陸軍資料コーナー・大宮駐屯地コーナー
(駐屯地史料館)

駐屯地史料館 全般配置図

旧軍のコーナー

陸軍兵器行政本部 東京第一造兵廠大宮製造所の地図。

初代所長に長山少将(陸士13期、工学博士)が就任。
従業員6000命の多くを数えた。
軍属4400名の半分が女子がしめ、動員学徒1600名の中には、大宮高女、久喜高女、浦和実践の乙女たちも含まれていたという。

埼玉県内の軍事施設など。思えば、ほとんど赴いている。。。

北から名称を列記してみる。

あれ、上記に記載のない、軍需施設もあるなああ、、、

米軍進駐後にドル支弁財産として作られたときの教会の鐘。地中からの掘り出し。

米軍の進駐と大宮
 埼玉県内への米軍の進駐は、昭和20年9月8日の朝霞、大和(現、和光市)に始まり、以後県北の熊谷、本庄を初め各地に行われた。大宮では、9月27日に中島飛行機製作所大宮工場(現、ステラタウン(宮原町))、翌10月8日(一説には3日)に陸軍造兵廠大宮製造所(現、大宮駐屯地)、10月12日には、片倉工業大宮工場(現、コクーンシティ(さいたま新都心))などに相次いで進駐が行われた。
 昭和20年11月1日(一説には10月15日)に、片倉工業大宮工場にいわゆる「埼玉軍政部」がおかれ、埼玉県の占領統治の中心となったが、翌3月6日には浦和市内の旧陸軍司令部跡、更に6月1日には県庁隣の埼玉会館別館へと移った。
 大宮市域での進駐軍は、昭和21年3月の埼玉軍政部移転後も旧陸軍造兵廠大宮大宮製作所はキャンプ・キングとして残ったが、その後撤退し、昭和32年10月15日に大宮駐屯地が新設された。(出典「大宮市史4」)

電気時計

電気時計
重錘巻上式 昭和16年12月制 東京雄工社
 時計は、重錘巻上式であり、巻上方法には「手動」及び「100V交流電源」の2つであるが、現在は交流電源で動かしています。
 手動式で動かす場合は1週間に1回手動巻上を実施します。自動巻上式は内蔵機械により自動的動作により6時間毎に自然に重錘を巻上げます。
 この時計は、造兵廠として駐屯地が建設された時に設置されたもので、駐屯地の中央時計です。
 この時計を中心に各建築子時計が設置されていました。
 施設再配置事業により施設解体のため、業務隊管理課が取り外し、整備したものである。
  平成8年9月18日

旧陸軍資料コーナー

沖縄・硫黄島遺品

中央の肖像写真は、東京第一陸軍造兵廠長 杉浦辰雄(陸軍中将)。
1940年から1945年の終戦まで、一貫して造兵廠長であった。

陶器製の陸軍手榴弾。
大宮製造所とも近い、川越製造所に縁がある。

98式衛生濾水器丙 小隊用


CBRNコーナー(駐屯地史料館)

CBRN(シーバーン)とは、化学(Chemical)、生物(Biological)、放射性物質(Radiological)、核(Nuclear)のことを示している。
大宮駐屯地は、中央特殊武器防護隊や陸自化学学校の拠点となっていることから、特徴的な展示となっている。

駄馬用の防毒マスク。これははじめてみた。貴重。
馬用化学防護衣(ゴム製)
97式馬防毒被(前被・駄馬用)
94式防毒脚絆(左右)
97式馬防毒被(中被)
97式馬防毒被(後被)


記念碑

特に戦前の旧軍関係の記念碑はなく、戦後の自衛隊関連の記念碑が点在。

融和団結
平成19年5月20日
大宮駐屯地創立50周年記念

通信補給処創立30周年記念碑(昭和56年)

大宮駐屯地創立20周年記念碑


大宮駐屯地創立66周年記念行事

記念行事は駐屯地毎に色合いが違っていて、いくつかを見ていくと、だんだんと差分が面白くなってくる。
大宮駐屯地はこじんまりとした感じで、のんびり見学できた。

観閲行進

中央特殊武器防護隊の新型液体散布車。泥濘にハマって立ち往生。観閲行進列から外れ、行進終了後に、後進離脱となりました。

太鼓演舞

ドリルパフォーマンス

ラッパ演舞

格闘武術演舞

模擬戦
科学テロを想定したデモンストレーション

ドローン偵察

偵察オートバイ

狙撃手

みんな大好き、ラヴ
軽装甲機動車 Light Armored Vehicle:LAV(ラヴ

テロリスト、、、

制圧完了

模擬戦は、小規模だったけど、いつみても楽しめますね。


大宮駐屯地散策

中央特殊武器防護隊(陸上総隊直轄)

大宮駐屯地業務隊(東部方面隊隷下)

第32普通科連隊(第1師団隷下)

第32普通科連隊

全国諸兵の模範
三十二普連

近衛兵の精神
近衛兵は常に輦下を護衛し千軍万馬の中を整正独歩するの胆勇を有し又平常にありては信義を旨とし先進を敬い後進を善導し以って全国諸兵の模範たるを期すべし

第32普通科連隊は、近衛連隊といわれている。
中央のナイトのマークは 天皇陛下をお護りする近衛兵を表し、近衛の精神を受け継ぐ32普連隊員を表しているという。
そして下部の紋章は、皇居の二重橋を模ったものという。

陸軍時代(東一造 大宮製造所)の痕跡は特に残っていなかったが、なかなかに探訪できた大宮駐屯地。

自衛隊の皆様に敬意と感謝を表し、本記事は〆

※撮影:2023年6月


造兵廠関連

「八丁八反の飛行場」児玉陸軍飛行場跡地の戦跡散策(埼玉児玉)

埼玉県は、本庄(児玉)・上里にあった陸軍飛行場。
往時を偲ぶものがいくつかあるというので、足を運んでみた。

児玉飛行場のあったあたりは、上里町・本庄市(旧児玉町)・神川町境の八町八反と地元で呼ばれた地域であったために「八町八反の飛行場」と呼称された。ちなみに「八」は末広がりとしての意味であり、実際の面積ではない。


児玉陸軍飛行場

昭和十八年十月、熊谷陸軍飛行学校児玉教育斑として使用開始。
昭和十九年四月、学徒動員の陸軍特別操縦見習士官200名が入校し、児玉教育隊と改称。
昭和十九年十月、児玉基地と改称。第一四四飛行場大隊が配備される。
児玉基地には、第1航空軍の第27飛行団(飛行団長 野中俊雄)が配備。
特別攻撃隊の基地、拠点となって帝都の防衛、硫黄島攻撃等の重要航空作戦の任に当たった。
昭和二十年八月十五日、児玉基地は、映画「日本の一番長い日」(1967年版)にも登場する。(ただし内容はフィクションなので注意が必要。児玉飛行場からは8月15日に特攻出撃が実施していません。)
現在は、大部分が児玉工業団地となっている。

余談だが、児玉飛行場の第27飛行団長であった野中俊雄大佐は、戦後は富士飛行場の跡地に部下とともに入植開墾し、その地を「靖国」としたと伝わっている。

https://www.at-s.com/news/sengo70/senka/vol06.html


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-R465-No1-203
1947年11月3日に米軍が撮影した航空写真を参照。

一部拡大。

いまでも形がはっきりわかる。


児玉飛行場之跡碑

児玉飛行場跡地の北東側に、慰霊碑を設けた区画がある。

児玉飛行場之跡碑

鎮魂

合掌

碑文
第二次世界大戦の苛烈な戦局下、当地に建設された児玉飛行場の生涯は、まさに戦いの歴史であった、即ち陸軍航空特別攻撃隊の出撃基地として、日本々土に来襲する敵軍の勢を砕く古今未曽有の航空作戦に貢献した。児玉飛行場の栄誉は埼玉県はもとより全国に其の名を馳せている。其の建設を胸に秘める児玉郡下市町村住民の血と汗の協力に拠る「八丁八反の飛行場」こそ日本最後の砦として神洲不滅の奇跡を信じ、各種団体から小学校児童に至るまで、困苦欠乏に耐えつゝ工事に奉仕し、昭和十七年春より約一年有半の歳月を経て完成した。昭和十八年十月熊谷陸軍飛行学校児玉教育斑(初代隊長浅井策大尉)として使用開始し、同校の九十五式一型練習機が初めて児玉飛行場に着陸した。先ず、暁部隊の将校、下士官学生十五名に飛行機の操縦技術を施し前線に送った。続いて、昭和十九年四月学徒動員の陸軍特別操縦見習士官二○○名が入校し、児玉教育隊と改称され、三ヶ月の最短期間に操縦教育を終了し陸軍特別攻撃隊要員として第一線に配属された。又同年八月、第一練習飛行隊の編成を見るや全将兵は、児玉郷の山河に別れ南国ジャワ島に移駐した。同年十月児玉基地と改称、第一四四飛行場大隊が配備され、各分科飛行部隊及び、特別攻撃隊の基地、拠点となって帝都の防衛、硫黄島攻撃、或いは太平洋近海を遊弋する敵機動艦隊に対する攻撃等、重要航空作戦の任に当たった。昭和二十年八月十五日大詔を拝し戦局を結ぶ、児玉基地は、映画「日本の一番長い日」によって全国民に伝えられたが、祖国日本の栄光を背負って戦った、児玉飛行場は尊くも又悲しい無限の教訓を残して、その思い出だけを住民、軍関係の記憶に止どめて日本と運命を共にし、三年有余の歴史を閉じた。我が民族の限り無い雄叫は、歴史の試練に苛なまれ乍らも、同年秋、百十余名の開拓団員の入植となり、農耕地にすると同時に一部は工業団地として再生し今日に至る。戦後三十五年を閲し、往時の留魂、姿を偲ぶ何物もなく、追想のみ錯綜し物心共に漠々たるものを覚ゆる時此の縁故ある地に生存する有志の悲願が凝って記念碑建立の声こんこんとして湧くが如く起る。幸にして地元同志の篤志と物心両面の援助と更に碑建設の諸般に亘り住民各位の甚大なる協力を受けたことはまさに天佑神助と信じ共に感謝するところである。茲に熊谷陸軍飛行学校、第一練習飛行隊第一四四飛行場大隊の関係者並びに地元有志の発願により、児玉飛行場を飛び立ち祖国の為に散華された幾多将士を始め教育訓練中殉職した戦友の冥福を永久に祈り、再び戦争を繰返さないことを願いつゝ世界の平和と日本の繁栄を祈念してこの碑を建立する。
 昭和五十五年十一月十五日 児玉飛行場跡記念碑建設委員会

「八丁八反の飛行場」

観世音菩薩

第四教育飛行隊鎮魂碑
児玉飛行場跡に、護国生死を共にと集いたる第四教育飛行隊に在籍の士が、今茲に訓練中、不幸その任に殉ぜし者、或は米機襲来に斃れし者を部隊終焉の地に、永えに眠られん事を願い、この碑を建立する。
部隊は昭和十七年滋賀縣八日市に飛行第三戰隊北方進出の後を享け軽爆撃機操縦者の戰技訓練を主務とした新設部隊であったが、戰局の推移に鑑み、南方補給作戰更に名阪神地区の要地防空戰斗等の戰斗行動に参加、昭和二十年三月部隊はこの地に移駐、戰局漸く悪化するや本然の任務たる教育訓練から特別攻撃隊の養成へと変遷を経て、振武第二九九隊、三○○隊、三○一隊、三○二隊、三○三隊、三○四隊を編成、沖縄特攻作戰の為南下征途に就かしめた。此の間の訓練においても幾多の尊き命が失われたが屍を越え国の護持に訓練は日夜を分かたず続けられた。 
二十年八月に入るや米機の空襲も熾烈を極め対空戰斗においても戰死者が出るに至った。斯くして頽勢の挽回ならざるまゝに終戰の日を迎えたが、青春の血滾る憂国の至情も詔勅の渙発に旬日を出ずして敗戰の處理を完了、茲にこの児玉において部隊の歴史は閉ざされた。短期間乍ら苛酷な情勢下における児玉飛行場での生活の一日一日は終生忘れ得ぬものがあり、更に幽明境を異にした幾多の戰友をこの地に残したまま家郷に戻らねばならなかつたことは断腸の思であつた。離散の日より三十七年を歴し、今漸く兄等の安住と、兄等に心の再開を願える地を、児玉飛行場之跡碑奉賛会の御厚志により得ることが出来、この碑の建立される日を迎え得た。
庶幾兄等観世音菩薩の慈悲に抱かれ永えに此の地に鎮まらんことを。
 昭和五十七年十月十日 合掌
  八日市会 冲之原会 児玉会

第十五輸送飛行中隊発祥の地

第十五輸送飛行中隊
 発祥の地記念碑
  内閣総理大臣 中曽根康弘

第十五輸送飛行中隊戦死者 
  大松少佐  中田少尉  萩野曹長
  国分中尉  若林准尉  小南曹長
  西田准尉  加納准尉  西沢伍長
  山崎准尉  岡辺曹長  武川兵長
  門屋准尉  遠藤曹長  加藤候補生 
   中隊戦友会建之

却火
大東亜戦争末期の昭和二十年五月から七月に遠く太平洋の波頭を超えて来襲した米機動艦隊のグラマン機によって児玉飛行場は爆撃や機銃掃射の攻撃を受けた。
この爆弾は、戦後の昭和三十五年児玉飛行場跡北西隅の地下二メートルから出土した三発である。
犠牲者の冥福を祈り、久遠の平和を祈念する。
 昭和五十五年一月十五日 
  児玉開拓 岩田七郎

児玉飛行場を空襲した焼夷弾の欠片。

場所

https://goo.gl/maps/vxRECE83L5YCmxw28


立野南公民館(兵舎流用)

児玉飛行場にあった兵舎の一部を移築し再利用した公民館。
なお、出入り口は増築したもの。

拓魂
開拓30周年記念之碑
 
埼玉県児玉開拓農業共同組合

碑文
開拓地は太平洋戦争遂行の為航空後方基地として終戦二年前に完成した旧陸軍児玉飛行場跡地である 
戦後緊急食料増産対策として、基地残留部隊員を基幹として復員軍人引揚者開拓者及び周辺町村の次男三男百十六名を以って昭和二十年十月開墾に着手した 
以来三十年困苦に耐え欠乏を忍んでひたむきの努力を重ねて今日に至る 
ここに三十周年を迎へるに当り今は亡き友と共に入植者の足跡を記し子孫の繁栄を祈りこの碑を建立するものである 
 昭和五十二年四月二十日
  児玉開拓農業協同組合

西瓜記念碑

昭和38年建立。
昭和20年10月に、児玉飛行場跡地に入植した開拓農家がスイカの栽培を初め、児玉スイカとして特産品になった。

場所

https://goo.gl/maps/xcSmcLAFzcEGZu5Q6


上部を伐採されたマキの大木

児玉飛行場の北西。

マキの大木。児玉飛行場を離着陸する飛行機の妨げになるということで、上部をばっっさりと切り取られてしまった。
それでも立派に存在感を発揮しているマキの大木。

上里町指定の天然記念物。 樹齢800年という。

マキの大木の向こうを飛ぶ飛行機。

場所:

https://goo.gl/maps/i7XV1d3iA4UMHNzBA


宝蔵寺の被災石灯籠

マキの大木の隣にあるのが宝蔵寺。
機銃掃射の弾痕が残る石灯籠がある。

無数の弾痕。

場所

https://goo.gl/maps/2Y9BoEQvibjJrf7J6


児玉飛行場の滑走路跡(西側)

飛行場滑走路があった西側から、東に向けて歩いてみます。

このあたりが西端。

場所

https://goo.gl/maps/sQhcYm2TLoc6abe38

滑走路跡の道路。

場所

https://goo.gl/maps/aEAJ42jNSePxbTeb7


児玉工業団地造成事業完成記念碑(共栄公園)

共栄公園は、工業団地の真ん中辺りにある。
すなわち、児玉飛行場の真ん中あたり、滑走路のあったあたりともいえる。

児玉工業団地造成事業
完成記念碑

完成記念碑建立の由来
 この工業団地は、児玉郡市広域市町村圏の地域振興と既成市街地の土地利用の純化を図るため、埼玉県企業局が造成したものである。
 昭和四十七年に事業を開始以来三百六十五名の土地所有者をはじめ、本庄市、児玉町、神川村および上里町その他多数の関係者の深い御理解と御協力を得て、十三年の歳月と約百九十六億円の事業費を投じて一〇六・五ヘクタールの団地造成を昭和五十九年十一月に完了したものである。
 この地域は、かつての共和村、七本木村、長幡村、丹荘村の村境に位置し、通称八丁八反と呼ばれていた。第二次世界大戦末期の昭和十九年には、一部集落の移転を行い、陸軍飛行場が建設されたが、戦後は開拓地として入植農民による野菜栽培等の農業振興が図られ、特に西瓜の特産地であった。
 造成以前は、児玉丘陵を南に望み、上毛の山々や秩父連峰を遠望するのどかな農村地帯であったが、時代の要請により自然環境と調和のとれた近代的な工業団地として生れ変わったものである。
 ここに工業団地造成事業の完了に当たり、この地の由来と土地提供者の氏名を彫刻した記念碑を建立し、永く後世にこれを伝えるものである。
 昭和五十九年十一月吉日
  埼玉県企業局

場所

https://goo.gl/maps/fvxcT98mjiWKcCVA7


児玉飛行場の滑走路跡(東側)

東側は、工業団地となるまえに、入植していた開拓民の集落がそのまま住宅地となっている。

歩いていて、不自然に感じたのが、アスファルトの盛り方。
左右が低くなっていて、じつに歩きにくい路肩であった。

ちなみに当時の滑走路は、マカダム工法で造られたために、いまでも掘ると砂利が出てくるという。

場所

https://goo.gl/maps/oEj8QYSWzfGeVC8d7

児玉飛行場の外周。東端。

セブンイレブン本庄共栄店のあるあたりが、飛行場エリアの北東端。

一昔前は、側溝のコンクリート蓋が往時のまま残っていたが、消失した。


児玉飛行場入口跡(推定)

現在のエステー埼玉工場のあたりが、飛行場エリアの入口であったと推定。
ここより北側は、飛行場エリアに付属する施設エリア。

飛行場の入口からまっすぐに伸びる道路。


児玉飛行場正門跡(推定)

嘉美の信号のあるあたり。
児玉飛行場の正門はこのあたりにあったのではと推測。

場所:

https://goo.gl/maps/Hb5MuGArPVBmSTLw6

近くには、嘉美神社がある。
児玉飛行場のある嘉美の鎮守様。

児玉飛行場に付属する施設エリアの北東端。

児玉飛行場跡地は、公共交通機関のアクセスは芳しくない。
すくないバスをうまく利用して、散策を実施。

ちなみに徒歩7キロで2時間15分歩いていたようです。

※撮影:2023年5月


関連

「空自・熊谷基地さくら祭」熊谷陸軍飛行学校跡地散策

令和5年(2023年)4月2日。
熊谷市の航空自衛隊熊谷基地(航空自衛隊第4術科学校)にて、「令和5年度 熊谷基地さくら祭」が開催されましたので、足を運んでみました。
かつての熊谷陸軍飛行学校跡地、です。


熊谷陸軍飛行学校
(三尻飛行場・熊谷飛行場・稜威ケ原飛行場)

昭和9年、所沢陸軍飛行学校が開設。
翌年の昭和10年(1935年)12月に、操縦分科の生徒教育のために、熊谷陸軍飛行学校が開設。
主として飛行機操縦に従事する航空兵科下士官となる生徒、少年飛行兵、あるいは将校、下士官の操縦学生などに対し、飛行機操縦の基本教育を行った。
昭和12年に所沢陸軍飛行学校が廃止され、操縦学生は本格的に、熊谷陸軍飛行学校で教育されることとなった。
昭和13年10月に昭和天皇行幸。
熊谷陸軍飛行学校は昭和20年2月に第52航空師団の一部に改編のため閉鎖。

熊谷陸軍飛行学校の跡地は1945年九月に進駐したアメリカ陸軍第43師団によって接収され米軍キャンプ「U.S.ARMY CAMP WHITTINGTON」として使用。昭和33年(1958)返還され、同年8月より「航空自衛隊熊谷基地」となっている。

熊谷陸軍飛行学校に関しては、航空自衛隊熊谷基地の記事も参照で。

https://www.mod.go.jp/asdf/kumagaya/Base_tour.html


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-R465-No1-78
1947年11月3日、米軍撮影の航空写真を加工。

庁舎や格納庫のあったエリアを拡大。

黄丸が陛下行幸の御野立所があった「御稜威ヶ原の碑」
赤丸が「給水塔」

GoogleMapで現在の航空写真と照合。
格納庫の位置関係もよく分かる。


御稜威ヶ原の碑(みいづがはら)

昭和13年10月10日(月)
天皇陛下が熊谷陸軍飛行学校に行幸され教育状況を御覧になられた。
学校長である江橋陸軍中将は、この日を記念して、この地を「御稜威ケ原(みいづがはら)」と命名して、記念碑を中央格納庫と第二格納庫の間の中央道路の真中(御野立所となった場所)に設置した。

御稜威ヶ原
 昭和13年10月10日
 御臨幸記念
 
  さしつけに
   仰ぎまつれる
大御稜威 
 伝えてはげめ 
  空の益良雄

熊谷陸軍飛行学校長陸軍中将
従四位勲二等功五級 江橋英二郎 選書

中央道路の真ん中に。

御稜威ヶ原の碑
昭和13年10月
昭和天皇の行幸を記念し、御野立所となった場所に建立

昭和初期まで、現在の基地及びその一帯は赤松・くぬぎ等の樹木が生い茂る森林であったが、昭和10年2月に突如として陸軍の飛行場が建設されることとなり、その秋までに森林は伐採され飛行場に変わった。飛行場としての工事も完了に近い昭和13年10月10日天皇陛下が行幸され、平の訓練状況や高等飛行などを観閲された。時の熊谷陸軍飛行学校長江橋英二郎中将は、この感激を後世に伝えようと「さしつけに 仰ぎまつれる 大御稜威 伝えてはげめ空の益良雄」と歌い、当時の飛行場を「御稜威ヶ原」と名付けた。行幸の際、御野立所となった地点に建てられた江橋中将自筆のこの碑は、今なお当時を偲ぶよすがとなっている。

現代略:直接に見申し上げた天皇陛下の御威光を、皆に伝えては空の勇者たちよ


方位盤

当時のものと思われる方位盤。

かすれていて、細かくは不明であるが、方位盤とおもわれる。


荒鷲之碑

昭和50年5月、航空自衛隊熊谷基地内に、荒鷲の慰霊碑が建立された。揮毫は、菅原道大。

荒鷲之碑
菅原道大書

昭和50年5月建立

由来
昭和十年この地に熊谷陸軍飛行学校が誕生した。爾来、万を数える若鷲が巣立っていった。戦いの場は遠く洋の南北に拡がり勇士は荒鷲となり愛機と共に生死し昭和二十年歴史を閉じた。散華した荒鷲の霊を慰め勲を顕彰し事実を後世に永く伝える為、残りし者、相集って、この碑を建てる。
 昭和50年5月5日

由来碑
昭和33年8月航空自衛隊熊谷基地発足以来任務遂行中殉職され基地発展の礎となった自衛隊員を慰霊するため「荒鷲の碑」を奉祀し永くその栄誉を伝承するものである

平成12年4月8日
航空自衛隊熊谷基地司令 空将補 原充男

熊谷陸軍飛行学校
荒鷲之碑奉賛会
平成11年3月建之

揮毫をした菅原道大は、陸軍航空の第一人者。陸軍特攻の軍司令官でもあった。

菅原道大は、陸軍中将。
大正14年(1925年)に菅原は陸軍航空科へ転科し航空少佐として飛行第6聯隊に着任。
昭和6年(1931年)、「下志津陸軍飛行学校教官
昭和14年12月に、「下志津陸軍飛行学校長」
昭和16年(1941年)、開戦時は第3飛行集団長。マレー作戦の航空作戦を指揮。
昭和17年7月、新設された第3航空軍司令官に着任。ビルマ航空戦を指揮。
昭和18年5月、内地に帰還し陸軍航空士官学校長に着任。
昭和19年3月、航空総監部次長。7月には、航空総監兼航空本部長を拝命。12月、第6航空軍司令官。沖縄方面の航空作戦の責任者として、海軍の戦艦大和の菊水作戦の支援や、指揮下の義烈空挺隊の義号作戦の指揮を執ることとなる。
昭和20年8月15日、終戦。
海軍の九州方面の航空責任者であった宇垣纏が沖縄に特攻出撃する中で、陸軍の九州方面の航空責任者であった菅原のもとにも部下たちが最後の特攻出撃を申し出る中で、「陛下の終戦玉音を拝聴した後は、余は一人の兵士も殺すわけにはゆかぬ。皆、おとなしく帰れ」と部下を諭している。
海軍側の宇垣纏中将、大西瀧治郎中将が亡き後、陸軍側の責任者とて、自決することを断念し、特攻隊員の顕彰、慰霊、遺族への弔問を行うことを決意。
「特攻平和観音奉賛会」を設立し、「特攻平和観音像」「知覧特攻平和観音像」「知覧特攻観音堂」を建立している。

関連では、熊谷陸軍飛行学校のほか、下志津陸軍飛行学校、水戸陸軍飛行学校の跡地に、菅原道大の碑がある。


給水塔

推測の域を出ないが、かもし出す雰囲気からして往時のものと思われる給水塔。前述の位置関係の航空写真でも照合したが、場所も適合している。近寄れないので望遠で。

給水塔の手前は、「基地補給倉庫」。


格納庫跡

かまぼこ型の格納庫のような建屋がある。手前は「武道場」、そして格納庫型の「基地体育館」と「基地補給倉庫」。位置関係は、熊谷陸軍飛行学校時代と同じ場所。
ここだけ切り取ると飛行場な雰囲気。


教育参考館

熊谷陸軍飛行学校や航空自衛隊航空生徒隊の資料を展示。


熊谷陸軍飛行学校本部庁舎の玄関扉

本部庁舎で実際に使用されていた玄関扉が、移設保存されている。

 この扉は、昭和10年12月陸軍熊谷飛行学校開校以来、本部庁舎玄関で使用していました。
 平成14年11月、庁舎取り壊しに伴い、約67年の歴史の一部を保存するため、当施設に移設し保存しました。


熊谷陸軍飛行学校本部庁舎の中央階段

おなじく、熊谷陸軍飛行学校本部庁舎の中央階段の一部が移設保存されている。

 この階段は、昭和10年12月陸軍熊谷飛行学校開校以来、本部庁舎の中央階段として使用していました。
 平成14年11月、庁舎取り壊しに伴い、約67年の歴史の一部を保存するために、当場所に下側3段部分を移設し保存しました。
 基地司令室が2階にあったため、赤絨毯が敷かれていました。
 昭和13年10月昭和天皇が行幸された際、この階段を登られた由緒ある階段です。
 木材:ケヤキ材使用


熊谷陸軍飛行学校本部庁舎の一部

とくに説明はなかったが、取り壊しの旧庁舎の一部かと。


熊谷基地展示エリア

旧軍資料

通信機材など。

戦争末期のドラム缶。竹製、、、ですね。

図書館戦争コーナー?


公募空士第1期生入隊20周年記念

歴代航空幕僚長の名前もある。

この寄せ書きは、公募空士第1期生の20周年を祝って書かれたものです。
寄せ書きには、歴代の航空幕僚長「源田実元空将」「白河春元元空将」「角田義隆元空将」の名前があります。

源田実
帝国海軍では、海兵52期を卒業し最終階級は海軍大佐、航空参謀を経て、松山の第343海軍航空隊司令で終戦を迎える。
空自では初代航空総隊司令、第3代航空幕僚長、ブルーインパルス創設、航空自衛隊育ての親。また、参議院議員を4期24年努めている。

白川元春
白川義則の三男。白川義則は、上海天長節爆弾事件で死去。
白川元春は陸士51期、陸大58期卒。最終階級は陸軍少佐。
航空自衛隊では第11台航空幕僚長

角田義隆
帝国海軍では海軍機関学校卒。最終階級は海軍大尉。
航空自衛隊では、第12代航空幕僚長。
海軍機関学校出身者が大将(幕僚長たる将)に相当する地位まで昇進したのは、帝国海軍・自衛隊を通じて角田が唯一の事例となる。


生徒隊展示エリア

航空自衛隊生徒隊の展示エリア。2006年に募集が停止され、2011年に生徒隊は廃止となっている。
虚空自衛隊航空教育隊生徒隊で採用時は、3等空士となり4年間の教育修了後は3等空曹として、通信、レーダー操作及び整備などに補職されたという。


航空自衛隊生徒隊創立50周年記念モニュメント

負けじ魂

流れも清き大利根の
 岸辺に緑の色染めし
練武の庭に都度至る
 若人の任いや重し
  誇りに満てり
   航空生徒隊

このモニュメントは生徒隊創立50周年記念を機に教育環境整備の一環として、第8航空団からF-1垂直尾翼を譲り受け、表面は生徒隊歌詩を裏面は第8航空団(築城)第6飛行隊のマーク等を遺して、第4術科学校の支援を得て建立したものである。
なお、表面のデザインは生徒隊生活4年間で培った「負けじ魂」に代表される不撓不屈の精神を持って巣立っていく生徒の翼をイメージしてデザインしたものである。
 平成17年5月吉日


熊谷基地 友縁の酒「空の華」

基地内の売店にて購入(熊谷基地厚生棟ミニストップ熊谷基地店)

空の華
ソラノハナ 
勲業赫々 輝萬國
埼玉縣大里郡三ヶ尻
権田酒造店吟醸

赤とんぼ

空の華
 昭和10年、熊谷陸軍飛行学校が当地に創立されたことを記念して発売した「空の華」を平成14年秋、約60年ぶりに復刻させて頂きました。
 熊谷の研究所で開発された酵母で醸し、熊谷の水と大気の中で育んだ熊谷基地の地酒です。
 上質の旨味を湛えた柔らかな香味、冷やしても温めても美味しくお召し上がり頂けます。


熊谷基地さくら祭

令和5年(2023)は、4月2日の公開でした。

以下は、さくら祭の写真を。

熊谷基地庁舎。平成15年(2003)新設。

桜並木が気持ち良い。

桜とトラック

熊谷基地には、「第1移動通信隊」が所在している。

御稜威フィールド

現在、航空自衛隊熊谷基地には、滑走路はない。
運動場にヘリが着陸することは可能。

草刈り機。パイロット座乗。

来年もおいでをお待ちしています

なかなか楽しめました熊谷基地。
熊谷陸軍飛行学校の名残もあり、興味ある方はこれは必見ですね。

※2023年4月撮影


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