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「日本の鉄道発祥の地」新橋停車場と高輪築堤跡

近代の発展は、鉄道の発展でもあった。

日本の鉄道前史

1825年(文政8年)、イギリスのストックトン – ダーリントン間で蒸気機関車を用いた貨物鉄道(ストックトン・アンド・ダーリントン鉄道)の運行が開始された。
1830年(文政13年)にはリヴァプール – マンチェスター間に旅客鉄道(リバプール・アンド・マンチェスター鉄道)も開業。

1853年(嘉永6年)、ロシアのエフィム・プチャーチンが長崎に来航。
船の上で蒸気機関車の鉄道模型を日本人に見せ、詳しい解説をおこなった。 蒸気機関車の模型を見学し「口を開いて見ほれていた」佐賀藩士が模型の制作を計画 。1855年(安政2年)には田中久重(からくり儀右衛門)と重臣や藩校の者の手によって、全長約27cmほどのアルコール燃料で動作する模型機関車を完成させている。これが模型とはいえ、日本人がはじめて作った機関車であった。 このとき当時18歳であった佐賀藩士の大隈重信も見学しており、のちの明治政府で熱心な鉄道導入を唱えることとなる。

1858年(安政5年)には、イギリスが中国の鉄道で使用する予定であった762mm軌間の本物の蒸気機関車が長崎へ持ち込まれ、1か月間にわたってデモ走行を実施。
こうして、国内で鉄道敷設の機運が高まってきた。

鉄道開通に向けて

明治維新後の1870年(明治3年)鉄道発祥国イギリスからエドモンド・モレルが建築師長に着任。本格的工事が始まった。
日本側では1871年(明治4年)に井上勝(日本の鉄道の父)が鉄道頭に就任し、鉄道建設に携わった。
東京横浜間の全線29kmのうち、1/3にあたる約10kmが海上線路として建設。
資材を横浜港から供給した関係上、工事は横浜側から始まり、まず1871年夏頃には川崎までの工事が進み、その際に試運転と資材の輸送をかねて運転が行われていたと考えられる。

現横浜から桜木町にかけての左カーブ付近の埋め立ては地元の商人、高島嘉右衛門が工事を請負、土地を管理したので敬意を表して今でも「高島町」と呼ばれている。また、鶴見川、六郷川(多摩川)の橋は最初木造で作られたが木造では傷みが激しく、後に鉄橋に改められ、2代目六郷川橋(初代鉄橋)が愛知明治村に保存されている。

横浜停車場は現桜木町駅付近であったが、これは野毛外人居留地や港に近いという理由から選ばれたと思われる。新橋停車場は現汐留であるが、東京の入口であり、築地外人居留地に近いという理由もあるが、それよりも東京の中心に異様なものが進入するのを嫌った勢力や軍部が用地を提供しなかったという理由もあった。

1871年9月(明治4年8月)には、早くも木戸孝允や大隈重信、後藤象二郎や三条実美らが神奈川(現京浜急行神奈川駅付近と思われる。)-横浜停留場間を試乗。
そして同年11月には大久保利通も試乗。大久保は鉄道反対派であったが「百聞は一見に如かず。愉快に堪えず」と日記に記し一転して鉄道支持派になり、政府首脳の間にも鉄道の利便性が理解され始めた。

1871年11月(明治4年10月)には六郷川橋梁が完成し品川まで運転が開始された。
このころにはすでに時刻表で運転が定期的にくまれており、岩倉具視を団長とする「遣欧米使節団」一行100余名も臨時列車で品川から横浜まで利用している。
この列車は「品川仕立十一ジ二十分出行」であり「於川崎而蒸気行替五分避行」とあり横浜には12時40分に到着。所要1時間20分と、(同区間は仮営業時は40分)随分時間がかかっているのは、工事中ということもあり徐行しながら走ったのであろう。

品川-横浜間仮営業開始

1872年6月12日(明治5年5月7日)から品川-横浜間で仮営業が行われるようになり、陸蒸気の試運転を弁当持参で見物していた庶民も、お金さえはらえば平等に乗れるようになった。このお金さえ払えば身分の隔たりもなく無差別平等に汽車に乗れるということが、まさに新しい社会の到来であった。

仮営業当日は、所要35分で1日2往復。しかし翌日からは6往復となり、7月10日には川崎・神奈川の途中駅が開業し所要40分で運転が行われた。運転本数を増やしても平均乗車率は80%を越しておりかなりの人気であった。

仮営業中の1872年8月15日(明治5年7月12日)には
明治天皇が風波のために座乗する軍艦が品川に入港できなくなり急遽横浜から汽車に乗り品川から宮城に向かうという予定外の事件があった。
また箱根離宮の帰りに 
皇后(のちの昭憲皇太后)が横浜-品川間を利用しているということから、仮営業であっても
天皇・皇后の利用しており、汽車の安全性も認められ、あとはいよいよ本開業をまつばかりであった。

しかし品川-新橋の間には、高輪の台地がせまっており、また陸軍・海軍用地が多いため工事が難航。大隈重信はついには品川-新橋間を築堤し海のなかに線路用地を確保するという荒技をとることとなる。
海岸付近を通る路線のうち田町から品川までの約2.7kmには海軍の用地を避けるため約6.4mの幅の堤を建設して線路を敷設し、これが高輪築堤となる。高輪築堤の工事は1870年に着工し両側は石垣、船が通る箇所4か所には水路が作られた。

新橋-横浜間開業

1872年10月14日(明治5年9月12日) 新橋駅-横浜駅が正式開業。
新橋駅で式典が催され、明治天皇と建設関係者を乗せたお召し列車が横浜まで往復運転を実施した。
正式開業時の列車本数は日9往復、全線所要時間は53分、表定速度は32.8km/h。

開業当時の「1号機関車」は鉄道博物館、「3号機関車」は桜木町駅新南口に保存・展示されている。
また「1号機関車」は『南蛮阿房列車』に代表されるように大の鉄道好きで知られる阿川弘之先生が書いた、絵本「きかんしゃやえもん」のモデルとなった機関車でもある。

正式開業日を記念して、1922年(大正11年)に10月14日は「鉄道記念日」となった。
そして1994年(平成6年)には運輸省により「鉄道の日」と改称された。


新橋停車場
鉄道歴史展示室(旧新橋停車場)

旧新橋停車場駅舎の再現に合わせて、2003年(平成15年)4月10日開館。

https://www.ejrcf.or.jp/shinbashi/

駅舎玄関遺構
ここに残されているのは、正面玄関の階段の最下段として使われていた切石です。正面玄関の階段は9段あったことが当時の写真から分かっています。

旧新橋停車場
この建物は、1872(明治5)年10月14日(太陽暦)に開業した日本最初の鉄道ターミナル新橋停車場の駅舎の外観を、当時と同じ位置にできるだけ忠実に再現したものです。新橋停車場駅舎は、アメリカ人R・P・プリジェンスの設計により、1871(明治4)年5月に着工、同年12月に完成し、西洋建築がまだ珍しかった時代の東京で、鉄道開業直後に西洋風に整備された銀座通りに向かって、偉容を誇っていました。1914(大正3)年、新設の東京駅に旅客ターミナルの機能が移り、それまでの烏森駅が新橋の名を引き継いで現在の新橋駅となり、貨物専用駅となった旧駅は汐留駅と改称、物流の大拠点として戦前戦後を通じて東京の経済活動を支えました。文明開化の象徴として親しまれた旧駅舎は、1923(大正12)年9月1日の関東大震災に際して火災のため焼失し、1934(昭和9)年から始まった汐留駅改良工事のため、残存していたプラットホームや構内の諸施設も解体されました。1986(昭和61)年、汐留駅はその使命を終えて廃止され、跡地の再開発工事に先立つ埋蔵文化財発掘調査が1991(平成3)年から行われた結果、旧新橋停車場駅舎とプラットホームなど構内の諸施設の礎石が発掘されました。1996(平成8)年12月10日、駅舎とプラットホームの一部の遺構が史跡「旧新橋停車場跡」として国の指定を受け、この史跡を保護しつつわが国鉄道発祥の往時を偲ぶために、駅舎を再建することになったものです。

プラットホーム構造
プラットホームは「盛土式石積」という構造で作られています。両側面の真下には溝状に地面を掘って基礎石を敷詰め、その上に切石を石垣のように積んで土留め壁が作られ、内側には土が詰められました。基礎石には龍野藩脇坂家・仙台藩伊達家両屋敷の礎石などが使われました。切石は笠石を含めて6段あり、地表には笠石を含めた上3段が出ていました。最下段部分は小口面を揃えて横に並ばせ、2段目から小口面と長手面を交互に並べて積んでいます。ただし、一律的に小口面と長手面が交互になっているわけではなく2・3段目では小口面が続く箇所もあり、4・5段目では長手面が並ぶ箇所もあります。

日本の鉄道発祥の地

0哩(ゼロマイル)標識
1870年4月25日(明治3年3月25日)、測量の起点となる第一杭がこの場所に打ち込まれました。1936(昭和11)年に日本の鉄道発祥の地 として0哩標識と約3mの軌道を復元しました。1958(昭和33)年10月14日、旧国鉄によって「0哩標識は鉄道記念物に指定され、1965(昭和40)年5月12日、「旧新橋横浜間鉄道創設起点跡」として国の指定史跡に認定されました。

創業時の線路
創業当時、枕木やレールの台座(チェアー)は恋しや砂の混じった土を被せられ、レールの頭だけが地上に出ていました。レール断面は上下対象のI型で、双頭レールといいます。この復元軌道の半分は小石を被せて当時に近い状態を再現し、乗ろこの枕木や台座が見えるようにしました。双頭レールは錬鉄製で、1873年イギリスのダーリントンで作られ、官設鉄道で使われた跡、新潟柏崎市の製油所で使われたもので、新日本石油株式会社、新日本石油加工株式会社の両方から寄贈いただきました。

場所

https://goo.gl/maps/1y4XYSvUQ2iYCyw86

旧新橋停車場から新橋駅へ


JR新橋駅

足元で鉄道発祥を物語る。
1号機関車や初代新橋駅の写真などを。


鉄道唱歌の碑

新橋駅の汐留口側に鉄道唱歌の碑が建立されている。

これは、大和田建樹の生誕100周年と鉄道開業85周年に当たる1957年(昭和32年)、大和田の門弟らが結成した同人「待宵舎」が記念碑の建立を発案史建立されたもの。
大和田の生涯を記す碑文は、彼と同郷で鉄道唱歌の全歌詞を暗誦できたという安倍能成が揮毫している。

汽笛一声新橋を  
はや我が汽車は離れたり
愛宕の山に入りのこる
月を旅路の友として

鉄道唱歌の碑
鉄道唱歌の作者大和田建樹先生は安政四年(一八五七)四月廿九日愛媛縣宇和島に生まる
幼少國漢文に親しみ十五歳以後特に國学に志した
明治七年十八歳の秋上京遊学十七年東京大学講師翌年高等師範学校教授廿四年辞任
爾来又官仕せず門を開いて歌文を教え地方に出講し行餘謡曲能舞を嗜む
学は漢洋に亘り著述は辞典註釋詩歌随筆等百五十冊を越えたが丗三年鉄道唱歌東海道山陽九州奥州線磐城線北陸地方關西参宮南海各線の五冊を連刊就中汽笛一聲新橋をの一句に始まる東海道の部は普く卋に流布して津々浦々に歌われ鉄道交通の普及宣傳に絶大の貢献をなした
先生明治四十三年十月一日に歿す享年五十四
今年恰も生誕百年に當って先生の遺弟待宵舎同人の發起により東海道鉄道唱歌にゆかり深い新橋驛構内に碑を建て永く先生を記念する 
昭和三十二年十月 安倍能成

記念碑上部には第1号機関車の模型。

鉄道唱歌は、大和田建樹が作詞をし、多梅稚と上真行が作曲をし、明治33年(1900年)5月10日に第1集東海道篇が発行されたことに始まる。全5集・334番。のちに発見された北海道編を追加し、全6集・374番ともいう。

第1集東海道篇
1.汽笛一声新橋を  はや我が汽車は離れたり
    愛宕の山に入りのこる  月を旅路の友として
2.右は高輪泉岳寺  四十七士の墓どころ
    雪は消えても消えのこる  名は千載の後までも
3.窓より近く品川の  台場も見えて波白く
    海のあなたにうすがすむ  山は上総か房州か
4.梅に名をえし大森の  すぐれば早も川崎の
    大師河原は程ちかし  急げや電気の道すぐに
5.鶴見神奈川あとにして  ゆけば横浜ステーショ
    港をみれば百船の  煙は空をこがすまで

D51機関車の動輪
D51 形機関車は1936年(昭和11年)に誕生した機関車です。10年間で1,115両と、日本のSLでは一形式で最多の両数が製造され、戦前・戦後を通じて全国各地で、主に貨物用として活躍しました。「デゴイチ」などの愛称で親しまれ、蒸気機関車の代名詞にもなり、1975年(昭和50年)のSL最後の運転まで重用され、使命を全うしました。展示されている動輪は、1976年(昭和51年)の総武・横須賀線乗り入れ記念として、北海道の札幌鉄道管理局から譲り受け、鉄道発祥の地である新橋駅 に設置したものです。

鉄道唱歌の碑
1957年(昭和32年)10月4日の鉄道開通85周年記念日に鉄道唱歌 の作詞家、大和田建樹生誕100年を記念して新橋駅に建立されました。鉄道唱歌は、長い間私たちのために働いた鉄道を讃えるだけでなく、明治時代の文学者大和田建樹 自身が実際に汽車に乗ってつぶさに日本国内を旅行した見聞録です。

場所

https://goo.gl/maps/DyqHHBimyQgkW1yHA


新橋SL広場

C11 292号
昭和20年2月11日、日本車輛株式会社製。

戦時型蒸気機関車として、誕生後すぐ山陽本線の姫路機関区に配属となり、中国地方のローカル線、播担線や姫新線などを走行。走行距離は108万3975km。
最初から最後まで一つの機関区にいた珍しい機関車。
昭和47年10月14日に鉄道100年記念して設置。


愛の像

昭和51年 東京新橋ライオンズクラブ 寄贈。
寄贈時より30年間、広場中央に位置した噴水に設置されていましたが、平成18年の広場改修工事に伴い、現在の機関車先頭部へと移動。
愛の像は「平和をモチーフとする母子のブロンズ像」とも呼ばれ、東京新橋ライオンズクラブが20周年事業として、この像を可愛がって頂き、新橋駅に集う人々に温かい愛を育ててもらえる様、願いを込めて寄贈された像。

場所

https://goo.gl/maps/oBGFGKro8Fw7GBrK8


高輪ゲートウェイ駅~おばけトンネル

高輪ゲートウェイ駅から、おばけトンネルへと歩いてみる。いまならば、高輪築堤の跡もちらりと見えるらしいので。

おばけトンネル入口

すでに車は通行止めとなり、歩行者と自転車のみの通行となっていました。(2020年4月12日から車両通行禁止)

高輪築堤

途中、石垣が見えました。

高輪築堤の石垣ですね。一般公開以外でも垣間見れるのは、ちょっと得した気分。
水が溜まっていると、更に「らしく」なる。


高輪橋架道橋下区道
おばけトンネル

仮設通路から、トンネル部分に。

タクシーの行灯が擦られたという、無数の天井こすり跡を残すガード下トンネル。

ガードを抜けると芝浦地区となるが、ここから駅に戻るのは難儀なので、来たガードを戻ることにする。

場所

https://goo.gl/maps/Dwny78v9vxhbL88P7

高輪ゲートウェイ駅からも、高輪築堤の姿を見ることができる。

今回、高輪ゲートウェイ駅は初めて降りました。

※2021年7月撮影


関連

「鉄道紀行文学の御三家」内田百閒・阿川弘之・宮脇俊三の墓

近代化とともに発展してきた鉄道。そんな鉄道を舞台とした旅物語を作家たちが綴り、そして鉄道紀行文学が確立された。

日本の近代を鉄道を介して旅してきた日本を代表する御三家の墓詣でを。

合掌。


内田百閒(うちだ ひゃっけん)

本名は内田榮造。
1889年〈明治22年〉5月29日 – 1971年〈昭和46年〉4月20日。
別号は百鬼園(ひゃっきえん)。

夏目漱石門下生。 東京帝国大学独文科卒。
1916年(大正5年)、陸軍士官学校ドイツ語学教授に任官(陸軍教授高等官八等)
1918年(大正7年)、海軍機関学校英語学教官であった芥川龍之介の推薦により、海軍機関学校のドイツ語学兼務教官嘱託となる。
1920年(大正9年)、法政大学教授(予科独逸語部)に就任。
1923年(大正12年)、陸軍砲工学校附陸軍教授に任官。
しかし、同年に関東大震災に罹災。海軍機関学校も崩壊焼失したため、嘱託教官解任。1925年(大正14年)陸軍士官学校教授を辞任、陸軍砲工学校教授依願免官。
1929年(昭和4年)、法政大学航空研究会会長に就任、航空部長として、学生の操縦による青年日本号訪欧飛行を計画・実現。
1934年(昭和9年)、いわゆる「法政騒動」を機に法政大教授を辞職。
以後、本格的に文筆業に専念。

1922年(大正11年)、処女作品集『冥途』刊行。
1933年(昭和8年)、随筆集『百鬼園随筆』刊行。
1939年(昭和14年)、日本郵船嘱託。
1945年(昭和20年)、東京大空襲により自宅焼失。
1950年(昭和25年)、大阪へ一泊旅行。これをもとに随筆「特別阿房列車」を執筆、以後『阿房列車』としてシリーズ化し戦後の代表作となる。
1952年(昭和27年)、鉄道開業80周年を記念して,東京駅一日駅長に就任。
1957年(昭和32年)、愛猫「ノラ」が失踪。『ノラや』をはじめとする随筆を執筆。
1970年(昭和45年)、最後の百鬼園随筆である「猫が口を利いた」発表。これが絶筆となる。
1971年(昭和46年)4月20日、東京の自宅で老衰により死去、享年81歳。

代表作
『冥途』1922年2月
『百鬼園随筆』1933年10月
『旅順入城式』1934年2月
『贋作 吾輩は猫である』1950年4月
『阿房列車』1952年6月
『禁客寺』1954年10月
『東京焼盡』1955年4月
『ノラや』1957年12月
『クルやお前か』1963年7月
『日没閉門』1971年4月

映画
『まあだだよ』(1993年、大映、監督:黒澤明、主演:松村達雄)
百閒と法政大学教授当時の教え子の交流を描いた作品。
毎年百閒の誕生日である5月29日に「摩阿陀会(まあだかい)」という誕生パーティーが開かれていた。摩阿陀会の名は、「百閒先生の還暦はもう祝ってやった。それなのにまだ死なないのか」、即ち「まあだかい」に由来する。

阿房列車
『阿房列車』に代表されるように大の鉄道好きの知られ、酒宴では「鉄道唱歌」を熱唱することでも知られていた内田百閒。
全く無目的に、ただひたすら大好きな汽車に乗るためだけの旅を実行、それを『阿房列車』という鉄道紀行シリーズにまとめた。

「なんにも用事はないけれども、汽車に乗って大阪に行つて来ようと思ふ。用事がないのに出かけるのだから三等や二等には乗りたくない。汽車の中では一等が一番いい。これからは一等でなければ乗らないときめた。そうきめても、お金がなくて用事が出来れば止むを得ないから、三等に乗るかも知れない。しかしどっちつかずの曖昧な二等には乗りたくない。…今度は用事はないし、だから一等車で出かけようと思ふ。…行く時は用事はないけれども、向こうに著いたら、著きつ放しと云ふわけには行かないので、必ず帰って来なければならないから…さう云ふ用事のある旅行なら、…三等で帰ってこようと思ふ。」(内田百閒「特別阿房列車」)

大手饅頭
岡山出身の内田百閒は郷里の名物、大手饅頭伊部屋「大手まんぢゅう」をこよなく愛していた。
「私は今でも大手饅頭の夢を見る。つひこなひだの晩も同じ夢を見たばかりである。東京で年を取つた半生の内に何十遍大手饅頭の夢を見たか解らない。」(古里を思ふ)と随筆し、そして大手まんぢゅうになら「押しつぶされてもいい」とまで書いている。

大手饅頭伊部屋
https://www.ohtemanjyu.co.jp/

大手まんぢゅう、たまに食べたくなるです。。。


内田榮造之墓(内田百閒の墓)

内田百閒の墓は、東京都中野区の金剛寺と、岡山県の安住院にある。
今回は中野区金剛寺のお墓を参拝。

内田榮造之墓

本名が刻まれている。

側面には戒名。

覺絃院殿随翁榮道居士
昭和四十六年四月廿日没 行年八十三歳

背面には建立日、そして摩阿陀會。

昭和四十八年四月廿日之建 摩阿陀會

内田百閒の家紋は、「丸に剣片喰」

木蓮や塀の外吹く俄風 百間

内田百閒没2年後の1973年(昭和48年)には、摩阿陀会有志により墓の脇に句碑「木蓮や塀の外吹く俄風」が建立。
この句碑から、忌日の4月20日を木蓮忌とも言われている。

内田百閒の最初の妻は、中学時代の親友であった堀野寛の妹、堀野清子であった。内田百閒40歳の頃(昭和4年・1929年)に家族と別居し合羽坂に転居した際に、佐藤こひと同居。愛人でもあった。
昭和39年(1964)に、妻・清子が72歳で死去。翌年、75歳だった内田百閒は、佐藤こひと入籍している。そうして、内田こひは内田百閒の隣の墓で眠っている。

内田こひ、昭和62年8月5日没 行年80歳。

なお、内田百閒の最初の妻であった清子夫人は、内田百閒の岡山の墓で一緒に眠っている。

場所は金剛寺の奥にある金剛寺墓所。寺院とは離れた場所なので、ちょっとわかりにくい。駅からちょっと遠い。

https://goo.gl/maps/V8vs88FmtjM9tZVp6

サイト内で内田百閒に関連する記事。


夏目漱石の弟子であった内田百閒は、師を敬愛し「贋作」を書いた。
『贋作吾輩は猫である』
阿川弘之は、鉄道好き作家であった内田百閒に敬意を評して、阿房列車を再び走らせた。
『南蛮阿房列車』

阿川弘之

1920(大正9年)12月24日-2015(平成27年)8月3日
94歳没

東京帝国大学文学部国文学科を繰り上げ卒業し、1942年(昭和17年)9月に海軍予備学生として海軍入隊。
1943年(昭和18年)8月に海軍少尉任官、軍令部勤務。大学在学中に中国語の単位を取得していたことから対中国の防諜担当班に配属される。
1944年、海軍中尉に進級し、8月に支那方面艦隊司令部附となる。
1945年8月15日の終戦は中国大陸で迎える。終戦に伴う進級で阿川弘之は海軍大尉となる。いわゆる「ポツダム大尉」。
1946年(昭和21年)2月、復員。

戦後は、志賀直哉に師事して小説家となる。

代表作は、
予備学生の特攻を描いた「雲の墓標」
海軍提督三部作「山本五十六」「米内光政」「井上成美」
海軍のシンボルであった戦艦の姿を描いた「軍艦長門の生涯」
志賀直哉最後の弟子として師匠を伝記した「志賀直哉」
鉄道物として絵本「きかんしゃ やえもん」の原作
内田百閒に薫陶を受けた「南蛮阿房列車」など、
戦記文学・記録文学・紀行文学・随筆など多数の作品を残す。

広島県名誉県民・日本芸術院会員・日本李登輝友の会名誉会長・文化勲章受章。

南蛮阿房列車
鉄道好き作家としても知られる阿川弘之は、内田百閒を敬愛していた。

「お目にかかったことは無いが、内田百閒先生に私は敬愛の念を持っている。理由はいろいろあるけれども、その一つは百閒先生が非常な汽車好きだからで、小説家の中で汽車のことに異常な関心を持っているのは、百閒老先生を除いては、おそらく自分一人だろうという、いわばそういう親愛感である。」(お早く御乗車ねがいます・昭和33年)

「内田百閒先生が最初の阿房列車に筆を染められてから四半世紀の時が経ち、亡くなられてからでもすでに五年になるが、あの衣鉢を継ごうという人が誰もあらわれない。年来私はひそかに心を動かしていたが、我流汽車物語は贋作でないまでも、少しく不遜なような気がして、なかなか実行に移せなかった。
生前、お近づきは得なかったが泉下の百鬼園先生に、貴君、僕も『贋作吾輩は猫である』なる作物がある。二代目阿房列車が運転したければ、運転しても構わないよと言われているような気がしないでもない。」(南蛮阿房列車・昭和52年)


阿川弘之の墓(阿川家之墓)

北鎌倉の浄智寺に阿川弘之は眠る。

阿川家之墓

阿川弘之

場所

https://goo.gl/maps/aCUioiPJdfZsKvVc9

阿川弘之さんのお別れ会(以下のサイトで様子が詳細に記載されている)

http://home.r07.itscom.net/miyazaki/bunya/owakarekai.htm

サイト内で阿川弘之に関連する記事。


内田百閒と阿川弘之が確立した鉄道紀行を文学として高めたのが宮脇俊三であった。
編集者として阿川弘之と親交も深かった。

宮脇俊三

1926年12月9日 – 2003年2月26日。76歳没。
編集者、紀行作家。元中央公論社常務取締役。
阿川弘之の『お早くご乗車願います』担当編集なども務める。

父は宮脇長吉。
宮脇長吉は陸軍航空兵大佐を最後に衆議院議員となる。
1938年の帝国議会では、国家総動員法の委員会審議で横柄な演説をした説明員の佐藤賢了陸軍中佐に対して野次を飛ばし、佐藤に「黙れ!」と怒鳴られるという事件が起きた(黙れ事件)。佐藤賢了は陸軍時代の教え子であった。

宮脇俊三は、1945年(昭和20年)、東京帝国大学理学部地質学科に入学。父である宮脇長吉は軍需工場の経営なども行っており、ちょうど東京から山形に父親と共に鉄道で移動している最中、8月15日正午、米坂線今泉駅前で玉音放送を拝聴する。
戦後、東京大学文学部西洋史学科に入学し、1951年(昭和26年) 東京大学文学部西洋史学科卒業。中央公論社(現在の中央公論新社)に入社。
中央公論では「婦人公論」編集長、また「世界の歴史」シリーズ、「日本の歴史」シリーズ、「中公新書」などにも関わる。
1978年(昭和53年)6月30日 常務取締役編集局長を最後に中央公論社を退社。
1999年(平成11年)気力・体力に限界を感じ、休筆を宣言。
2003年(平成15年)2月26日、肺炎のため没する。享年76。戒名「鉄道院周遊俊妙居士」。宮脇俊三の命日は「周遊忌」と称されている。

代表作
時刻表2万キロ(1978年7月10日)
最長片道切符の旅(1979年10月)
時刻表昭和史(1980年7月)
終着駅は始発駅(1982年8月)
殺意の風景(1985年4月)

時刻表昭和史
「正午直前になると、「しばらく軍管区情報を中断します」との放送があり、つづいて時報が鳴った。私たちは姿勢を正し、頭を垂れた。固唾を呑んでいると、雑音の中から
「君が代」が流れてきた。
天皇の放送がはじまった。雑音がひどく聞き取りにくく、難解であった。けれども、「敵は残虐なる爆弾を使用し」とか「忍び難きを忍び」という生きた言葉は、なまなましく伝わってきた。放送が終っても、人びとは黙ったまま棒のように立っていた。ラジオの前を離れてよいかどうか迷っているようでもあった。目まいがするような真夏の蝉しぐれの正午であった。
時は止まっていたが汽車は走っていた。 
まもなく女子の改札係が坂町行が来ると告げた。父と私は今泉駅のホームに立って、米沢発坂町行の米坂線の列車が入ってくるのを待った。こんなときでも汽車が走るのか、私は信じられない思いがしていた。 
けれども、坂町行109列車は入ってきた。
いつもと同じ蒸気機関車が、動輪の間からホームに蒸気を吹きつけながら、何事もなかったかのように進入してきた。
機関士も助士も、たしかに乗っていて、いつものように助役からタブレットの輪を受けとっていた。機関士たちは天皇の放送を聞かなかったのだろうか。あの放送は全国民が聞かねばならなかったはずだが、と私は思った。
昭和二〇年八月一五日正午という、予告された歴史的時刻を無視して、日本の汽車は時刻表通りに走っていたのである。」 (時刻表昭和史)


宮脇俊三の墓(宮脇家の墓)

青山霊園に眠る。
父親である宮脇長吉も同じ墓。

宮脇家之墓

鉄道院周遊俊妙居士
平成15年2月26日去
宮脇俊三 76歳

宮脇俊三が愛していた「大井川鉄道の関の沢鉄橋」が刻まれた記念碑

終着駅は始発駅

 宮脇俊三
  鉄道院周遊俊妙居士

場所は、青山霊園1種ロ7号15側2番 

https://goo.gl/maps/rDViBcS6jTRwAt6T6


関連

空母「飛龍」と共に散った名将・山口多聞

ミッドウェー海戦で、孤軍奮闘し散った名将、山口多聞海軍中将の墓は、青山霊園にある。


山口多聞(やまぐち たもん)

1892年(明治25年)8月17日 – 1942年(昭和17年)6月5日)
海兵40期次席・海大24期次席
ミッドウェー海戦において空母飛龍沈没時に戦死。49歳であった。
最終階級は海軍中将。

引用:https://commons.wikimedia.org/wiki/File:TamonYamaguchi.jpg



海軍兵学校40期の同期には、福留繁、宇垣纏、大西瀧治郎、醍醐忠重、左近允尚正、寺岡謹平などがいる。海兵40期の主席は、岡新。山口多聞は次席卒業。海軍大学校甲種学生24期も次席卒業。

第二航空戦隊司令官
昭和15年(1940)11月1日、第二航空戦隊司令官に着任。
昭和16年4月10日に第二航空戦隊は第一航空艦隊に編入。通称「南雲機動部隊」。

昭和16年12月8日、開戦。真珠湾攻撃に参戦。大戦果を収める。

第一航空艦隊
第一航空戦隊( 一航戦 )赤城、加賀
司令長官南雲忠一中将、参謀長草鹿龍之介少将、参謀源田実中佐等

第二航空戦隊( 二航戦 )蒼龍、飛龍
司令官山口多聞少将

昭和15年6月5日 ミッドウェー
6月上旬、ミッドウェー作戦に二航戦司令官(旗艦「飛龍」)として参加。
ミッドウェー島基地攻撃中に、敵空母発見の知らせを聞いた山口多聞は、一刻を争うものとして、基地攻撃用で装備を進めていた陸用爆弾のままで、今すぐに攻撃隊を発進させるように南雲司令部に進言した。
「直チニ攻撃隊ヲ発進ノ要アリト認ム」
しかし、第二次攻撃隊発艦準備中、南雲機動部隊はSBDドーントレス急降下爆撃機の奇襲により、空母3隻(赤城、加賀、蒼龍)が大破、炎上。
山口多聞は、次席指揮官の第八戦隊旗艦「利根」(司令官阿部弘毅少将)の命令を待たず、航空戦を敢行を決意。
第八戦隊と機動部隊全艦に対し、山口多聞は発光信号を発する。
「我レ今ヨリ航空戦ノ指揮ヲ執ル」
「飛龍」艦内に山口多聞が通報する。
「飛龍を除く三艦は被害を受け、とくに蒼龍は激しく炎上中である。帝国の栄光のため戦いを続けるのは、一に飛龍にかかっている」
「赤城・加賀・蒼龍は被爆した。本艦は今より全力を挙げ敵空母攻撃に向かう」

友永丈市大尉指揮のもと米空母ヨークタウンを攻撃し航行不能まで追い詰めるなど、飛龍は、ただ一隻で奮戦するも、米軍機の急降下爆撃を受け炎上。
飛龍は懸命の消火活動を行うも、機関部などを損傷し、放棄を決定。

山口多聞司令は総員を飛行甲板に集合され訓示する。
皆が一生懸命努力したけれども、この通り本艦もやられてしまった。力尽きて陛下の艦をここに沈めなければならなくなったことはきわめて残念である。どうかみんなで仇を討ってくれ。ここでお別れする」

一同水盃をかわし皇居を遥拝し聖寿の万歳を唱え軍艦旗と将旗を降納。

「提督の最後」 北蓮蔵画
東京国立近代美術館保管(アメリカ合衆国より無期限貸与)
1943年(昭和18年)山口の最期を描いた戦争画。
画面中央での罐の蓋で水を受けるのが山口多聞、その向かって右奥は飛龍艦長・加来止男で、右手前から参謀が降ろされた軍艦旗を掲げ持って歩み寄る。
引用:https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Renzo_Kita,_Last_Moment_of_Admiral_Yamaguchi.jpg

午後11時50分、軍艦旗降下。
6月6日午前0時15分、総員退去命令。
午前2時10分、巻雲の発射した魚雷2本のうち1本が命中し、沈没。

山口多聞少将と加来止男飛龍艦長は、飛龍と運命を供にした。

山口多聞は昭和17年6月5日付で海軍中将に進級。
10月10日、昭和天皇は侍従の徳川義寛を勅使として差遣し、祭祀料を下賜。
翌日の10月11日、山口の葬儀が青山斎場で執り行われた。


「余の級中最も優秀の人傑を失ふものなり」
宇垣纏「戦藻録」

このとき、連合艦隊の参謀長であり、海軍兵学校の同期でもあった宇垣纏は、日記「戦藻録」に、山口多聞の死について、以下のような記述を残し、最大限の賛美を送っている。

六月六日
 山口少将は剛毅果断にして識見高く、潜水艦勤務を専務としたるが、後、聯合艦隊専任参謀、大学校教官、米国駐在、第二聯合航空隊司令官等を歴任し、現職に在る事二年有半なり。余の級中最も優秀の人傑を失ふものなり。
 けだし蒼龍先に沈み、航空艦隊唯一の空母として奮戦、逆に敵空母二を仕留めるも、飛龍自らもまた刀折れ矢尽きて遂に沈没するに至る。司令官の責任を重んじ、ここに従容として艦と運命を共にせり。その職責に殉ずる崇高の精神、正に至高にしてたとゆる物なし。

宇垣纏「戦藻録」

戦時録音資料

昭和18年4月24日に行われたラジオ資料が残されている。
大本営海軍報道部の海軍大佐・平出英夫報道課長がラジオでおこなったもので、前年の昭和17年6月のミッドウェー海戦で、沈没する空母「飛龍」とともに死を共にした、第二航空戦隊司令官 山口多聞中将と「飛龍」艦長 加来止夫大佐(死後少将)の二人の奮闘ぶりを伝えた記録。

山口と加来の戦死は、この昭和18年4月24日夜に放送された『提督の最期』と題するラジオ番組で日本国民に対して公表された。少々長いが、当時の克明な記録でもあるので、以下に引用する。

精神教育資料 提督の最期(一)
近代戦は科学戦と言われます。従いまして、各種艦船、兵器、機関、装備などが戦闘の勝敗を決する重大な要素であることは申すまでもありません。しかし古来の戦争を見ましても、軍隊、なかんずくこれが上に立つ指揮官の素質と、至誠奉公の精神如何等の要素が、かかる物質的威力を凌駕するものであることは、万古不変の鉄則であります。今や我が将兵は、大御稜威をいただき、卓越せる指揮官の下、全軍一体となって物的優勢を頼みとする敵戦力を、徹底的に撃砕致しております。物的要素は、もとよりいささかも軽く見てはなりませんが、精神的無形の要素が無限の戦力を形成するものであることを、特に明記すべきであります。私はこのたび、北支勇将の御名に浴しました山口多聞中将、加来止男少将の東太平洋における壮烈なる奮戦と、陛下の御船と運命をともにした、鬼神も哭くその最期を申し述べ、我が前線指揮官が敵撃滅の中心となって、いかに戦っているかをしのびたいと存じます。本日は畏くも天皇陛下、靖国神社へ御親拝あそばされたのでありますが、その夜、両提督の最期をお話し申し上げることは、ひとしお感慨深いものがあります。

山口中将は、支那事変にありましては、あるいは艦船部隊、あるいは航空部隊の指揮官として各地に転戦し、その功、抜群だったのでありますが、特に航空部隊指揮官としては重慶空軍の撃滅、並びに敵軍事施設の攻撃に偉功を奏し、軍令部総長の宮殿下よりその功績を嘉尚せられ、御言葉を伝達せらるるの光栄に浴したほか、支那方面艦隊長官より、感状を授与せられております。大東亜戦争におきましては、中将は開戦劈頭のハワイ海戦に参加され、かの赫々たる大戦果の一半は、実に中将の卓越せる兵術、烈々たる実行力の功に帰するというも過言ではありません。

その後、中将は各作戦に参加され、数々の偉勲を立てられたのでありますが、東太平洋方面の作戦におきましては、敢然として敵方に進出、反復猛烈なる攻撃を加え、部下航空部隊の最後の1機に至るまで奮戦し、敵航空母艦、大型巡洋艦、各々1隻を屠り、他の航空母艦1隻に大損害を与え、敵基地に甚大な打撃を与えるという大戦果を挙げられたのであります。

戦争証言アーカイブ 戦時録音資料 https://www2.nhk.or.jp/archives/shogenarchives/sp/movie.cgi?das_id=D0001400264_00000

精神教育資料 提督の最期(二)
また、加来少将は、多年航空関係の要職を歴任され、支那事変におきましても、航空隊指令として各地に転戦、赫々たる武勲を立てられ、大東亜戦争勃発いたしまするや、 山口中将の麾下として、ハワイ海戦に参加以来、各作戦に参加され、東太平洋方面の作戦には、敵の反撃を一手に引き受け、奮戦力闘、遂に矢折れ、弾尽きるや、救援のため来着いたしました駆逐艦に、部下総員を無事移乗せしめました後、山口中将とともに艦上に踏みとどまり、従容として船と運命をともにいたされたのであります。

次に、当時の状況をそば近くともに戦い、その実情を目の当たりにした将士の記憶によって申し述べたいと思います。

昭和17年6月のことであります。東太平洋方面に作戦が実施されまするや、山口中将指揮の我が航空部隊は、整斉と予定の行動に移り、洋上の基地奥深く潜む敵、本艦艦隊のおびき出しを計りながら、次々と艦載機を飛ばしました。この日、層雲は2000メートルの上空を込め、東南東の風強く、同方面特有のうねりは大きく、艦載機の飛び立つのにも困難を感ずるほどでありました。索敵機が進発してから約2時間、航空母艦○(まる)隻を根幹とする敵艦隊の北上を発見す。その快報がもたらされました。時に日本時間の早朝、洋上の時差がありますので、太陽は既に中天に近いころであります。我が軍艦○○(まるまる)は、山口司令官これを直率、加来艦長指揮の下に、既に戦闘配備にあり、将士の意気、また既に敵を呑むの概があります。戦機まさに熟す。我が戦隊は敢然挺身、有力なる基地航空兵力の援護下にある敵航空母艦群、及び飛行機集団と火蓋を切ります。かくて激戦力闘数時間に及び、我が方はついに敵航空母艦高級巡洋艦各1隻を撃沈。他の航空母艦1隻を大破せしめました。そればかりではなく、この日、明け方から粉砕、撃墜し続けてきた敵飛行機は、既に百数十を数えましたが、戦意旺盛な海の勇士たちは、なおも残る敵航空母艦に対して猛襲を続けたのであります。しかし我が方は、夜来敵基地の奥深くに迫って、奮戦十数時間に及び、既に砲身は焼け、飛行機も傷つき、すべての力を出し尽くしたかの感がありました。

戦争証言アーカイブ 戦時録音資料  https://www2.nhk.or.jp/archives/shogenarchives/sp/movie.cgi?das_id=D0001400265_00000

精神教育資料 提督の最期(三)
あくまで敵を撃滅せずんば止まぬ勇士たちは、一面整備、一面激戦。さらに猛攻撃に当たらんとする、ちょうどその時であります。刻々数を増してきた敵急降下爆撃機群は、我が艦上を覆い、めくらめっぽうに投下する魚雷、爆弾のしぶきに艦影は覆い隠されるほどでありました。実にこの日、敵の猛襲は熾烈を極め、払暁以来、我が軍艦○○(まるまる)めがけて突撃を試みた敵機115機。回避した魚雷だけでも26本。爆弾約70発であります。敵の来襲は、早朝より午後にかけて4回に及び、最後の来襲により、敵の数発の爆弾は遂に我が艦橋前方の飛行甲板に命中いたしました。

山口司令官、加来艦長、以下幕僚はその時艦橋にありましたが、ものすごい爆風が四方のガラス窓を打っただけで、概ね無事でありました。だが前部飛行甲板には大小丘のような鉄板の波。大きな爆弾の穴が開けられ、格納庫はすさまじい火炎を噴き出し、別の至近弾による火災もたちまち艦橋をめぐる防弾幕に燃え移って、みるみるその火勢を広げていきます。応急処置の命令は次々に下されました。艦内各要所への注水はもとよりのこと、勇士たちは持ち場、持ち場を守って消火に全力を挙げたのであります。船破るるも軍規乱れず、沈着に機敏に処置が講ぜられました。だが、一波静まれば、一炎またみなぎるありさまです。巨体は勇士たち必死の努力にもかかわらず、漸次全面的に灼熱化し、延々と燃え広がる火勢は夕闇の空を焦がし、海水もために滾るかと思われました。勇士たちはなおも絶望を絶望とせず、豪炎烈火の中になお氷のごとき沈着さをもって鎮火に努めましたが、火勢はいよいよ激しく、たちまち機械室、釜室の上部前面は火の海と化し、舵取り機械の操作も遂に不能に陥りました。

この時、なお艦艇深い部署にあって、阿修羅のごとき操作を続けておりました機械釜部員は、上層鉄板の熱気、四方を巡らす鉄壁の焦熱のうちに最後万歳を唱え、あるいは死すとも敵を撃たでは止まじと絶叫し、相次いで斃るとの知らせが頻々として伝声管をもって艦橋に伝えられるのであります。それよりも早く、救出決死隊の手は猛火と猛煙をおかして機械室と釜室との連絡を図っていたのであります。万策功なく、また救い出しの手も多くに及ばず、船は次第、次第に轟々たる鳴動のうちに左に傾斜して、約19度に瀕していたのであります。

戦争証言アーカイブ 戦時録音資料  https://www2.nhk.or.jp/archives/shogenarchives/sp/movie.cgi?das_id=D0001400266_00000

精神教育資料 提督の最期(四)
誘爆はなおも続き、あまつさえ全艦の火は潮風を合わせて、波頭をなめんばかりであります。この中にあって、船の左舷側には、大胆にも駆逐艦○○(まるまる)がその舷側をぴったりと横付けにしていました。ともに消火に当たり、死傷の戦友を抱えうつなど必死となって協力いたしたのであります。それはちょうど猛火の中に親子相擁し相呼ぶがごときありさまであります。船の将士をして熱涙を震わせたのでありました。この間にあって、なお騒がず、乱れず、数名の将士の歩み謹厳にして、一挙一動、礼儀正しくは何事かと見えました。それは防御甲板下部の奉安室に、鉄壁鉄心を持って奉安し参らせてある御真影を奉遷し奉る姿だったのであります。一員がうやうやしく奉遷箱に移し奉ります。身を以てしかと背に負い、ひとまず前甲板に奉安申し上げ、さらに命によって駆逐艦に移しまいらせたのであります。陛下の見つめたり御船、今ここに御真影の御移乗を了したてまつる。死んだ全員の努力もなお忠誠に足らざるなきかと、忠勇の士、みな恐れ思うて悲憤の涙は抑えんとして抑えがたく、加来艦長は、今や総員退去のやむなしと判断いたしました。その決意を山口司令官に報告いたしました。司令官も、これに同意され、この旨を艦隊司令部に報告せよと命ぜられました。この報告は、いったん付近にあった駆逐艦に、懐中電灯のかすかな光りによって伝えられ、さらに艦隊司令部に伝えられました。時に東太平洋の夜は既に深かったのであります。この時、なおも機械室、釜室にある戦友に対する決死の救出作業は依然として続けられておりましたが、厚い煙に阻まれまして、今は万策、全く尽き果ててしまいました。戦友たちがこもごも、声を限りに熱涙を込めて呼びますが、轟々と渦巻き上る噴煙がその面を打ってくるのみでありました。

「総員、飛行甲板に集まれ」「飛行甲板に集合」。ついに最後の命令は発せられました。叫ぶような号笛の伝令。喉も破れて出ぬ声を振り絞りながら、その命令はたちまち全部署に伝えられました。総員の集まりました飛行甲板は、あたかも坂のように傾き、亀裂、凹凸、弾痕で惨憺、目も当てられぬ有様であります。また集合した総員の顔という顔は、終日の奮戦を物語る油と汗で黒くまみれておりましたが、どの目もらんらんと不屈の戦意に燃え輝いて、一人として失望落胆の気配すら伺われません。

戦争証言アーカイブ 戦時録音資料 https://www2.nhk.or.jp/archives/shogenarchives/sp/movie.cgi?das_id=D0001400267_00000

精神教育資料 提督の最期(五)
全員の瞳は、期せずして艦橋に注がれました。艦橋の一方に屹立するは山口司令官、及びその幕僚。左のほうに加来艦長、副長、その他の影濃く、燃えさかる炎と月の光りに、その1つ1つの横顔が染め分けられていました。ああ、我が司令官、我が艦長もまた健在なりしかと、全員の瞳に一瞬、歓喜の色輝くのを見まするのは、なおこの期においても、自己なく生死なく、身命ただ1艦とともに在りの姿でなくてなんでありましょう。各分隊長は直ちに人員点呼を行いまして、上官に伝え、上官は艦長に報告いたします。この報告が終わりますと、加来艦長は山口司令官に敬礼し、ともに艦橋から飛行甲板に降り立ちました。降り立ったその足下に、数個のビスケット箱があります。それは消火に協力した駆逐艦から応急糧食として運び上げてくれたものでありますが、全員、誰一人としてそのビスケッ
トの一片だにも口にしたものはありません。のみならず、その日の暁から、この時まで、司令官以下、総員戦闘配食のにぎりめし1個を形につかんだことがあるだけで、1杯の水すら飲む者はなかったのであります。加来艦長は、そのビスケット箱の上に立ちました。そして粛然、次の如く訓辞されました。

「諸氏、諸氏は乗艦以来、ハワイ空襲その他においても、もちろん今日の攻撃に当たっても、最後まで実によくその職を尽くしてくれた。皇国海軍軍人たるの本分をいかんなからしめてくれた。艦長として、最大の満足を感ずるとともに、実に感謝に堪えない。あらためて礼を言う。ただ、ともに今日の戦いに臨みながら、ともにただ今ここであい見ることのできない幾多戦友の英霊には、多感言い表せないものを覚える。同時に、その尊い赤子を多く失ったこと、陛下を始めたてまつり、一般国民に対し、深くお詫び申し上げる。今時、出撃の際にも各員に申し述べたとおり、戦いはまさにこれからだ。諸氏の同僚はこの海底に神鎮まるも、ここの海上は敵アメリカへの撃滅路として、無数の英魂が万世(よろずよ)かけて我が太平洋を守るであろう。諸氏もどうか一層奮励して、さらにさらに我が海軍に光輝を加えてくれ。敵を撃滅し尽くさずんば止まじの魂を、いよいよ鍛え合ってくれ。切に諸氏の奮闘を祈る。では、ただ今より総員の退去を命ずる。」

戦争証言アーカイブ 戦時録音資料 https://www2.nhk.or.jp/archives/shogenarchives/sp/movie.cgi?das_id=D0001400268_00000

精神教育資料 提督の最期(六)
力強い語尾でありました。艦長に代わって、すぐに山口司令官が台上に立たれました。

「ただ今の艦長の訓辞にすべて尽くされたと思う。私からはもう何も述べることはない。お互いに皇国に生まれてこの会心の一戦にあり、いささか本分を尽くし得た喜びがあるのみだ。皆とともに宮城を遙拝して、天皇陛下万歳を唱え奉りたい。」

司令官の声にも、態度にも、平生と少しも異なるところは見られませんでした。ただ無言不動のうちにも、全将兵の列を貫く強い感激のうねりは、目にも見えるほどでありました。誘爆のものすごい音響の中に、縦横にひらめく猛煙の中に、その轟音も熱風も裂けよとばかり、万歳を奉唱し終わりまするや、加来艦長はさらに大声で令しました。「今から軍艦旗を下ろす。」全員、不動の姿勢に、燃える感情も、峻厳秋霜たる軍旗の前に、烈火も熱風もありません。やがて君が代のラッパ吹奏時に、我が軍艦旗もまた、なお戦場の空にとどまらんと願うか、霊あるもののごとく、赤き月の夜空を寥々の音にひかれて下りてまいりました。将旗もともに降ろされます。仰ぎ見る全員の面は、涙に濡れざるはありません。この時既に総員は、山口司令官、加来艦長の決意が奈辺にあるかを推察していましたので、副長は各科長を集めて、ともに船にとどまりたいと申し出たのであります。

艦長は言下に「いけない。それはいかん。自分は船の責任者として船と運命をともにするの名誉を担うものであるが、ほかの者は許さん。重ねて言う。戦争はまさにこれからだ。諸氏の忠誠に待つ百難の戦場は、果てしなくあろう。諸氏は今日の戦訓をよく将来に生かし、一層強い海軍をつくってくれ。敵米英を完膚なきまでにたたきつぶせ。いよいよ奮戦努力してもらいたい」と、この申し入れを厳然と退け、さらに司令官を省みて申されました。

「司令官、ご退艦ください。これにとどまるは1人、不肖艦長の任にあります」これに対しまして山口司令官は、いやとも言わず、しかりとも答えず、ただにっこり頷いたのみでありましたが、眉の色、態度、既に固く自ら信ずるところを持して他より動かすに由なきを無言に示しておられたのであります。この日、終日艦橋にあって、悠々常に迫るなく、一笑すれば春風を生じ、一礼すれば秋霜の厳たるを思わすの慨は、実に山口司令官の英姿そのものでありました。

戦争証言アーカイブ 戦時録音資料 https://www2.nhk.or.jp/archives/shogenarchives/sp/movie.cgi?das_id=D0001400269_00000

精神教育資料 提督の最期(七)
外は穏和快活でありながら、内は剛毅不屈。武人の死は、なお呱々の声を挙げて世に生まるる日に等しとは、常に語っておられたところでありました。司令官の日常をよく知っておりました加来艦長は、司令官の微笑を仰ぎましては、あえて一度は退艦を勧めましたが、二度と勧める気にはなれなかったのであります。ただ黙然とその傍らに持して立つのみであります。なおまた専任参謀以下幕僚も、皆ともにその周囲にありまして、一歩も動かないでいるのを見ますと、山口司令官は一同に、厳かに「退去を命ずる」と命令されました。この時、船の傾斜はいよいよ加わりまして、もう手を何かに支えなければ、立っていることさえ難しくなっておりました。依然、誘爆は止まず、死期は既に秒間にあるを思わせたのであります。「早く行け、退去しないか」司令官の温容は凜として一喝しました。しかし自身は悠々自若。ただ全員の上に深い瞳を注いでおられます。今はやむなく、総員一斉に挙手の敬礼をいたしました。万感の別辞に代え、駆逐艦2隻に移乗を開始いたしました。第1に負傷せる船員。第2に同乗せる他の船の乗員。以下、順次に秩序整然として、光輝ある海の砦に決別を告げていった。総員が退官し終わるわずかの間を、なお残った幕僚や船の幹部は、短艇用の小さな水樽を囲み、その栓を抜いていました。この水樽も、先にビスケット箱とともに僚艦から消火作業中に贈られたものでありましたが、その水栓は、今初めて抜かれるのであります。あり合わせの石油空き缶の蓋を杯に代え、まず司令官、艦長の前に捧げました。それから次々に飲み交わしては、相別るる人の影を心の内に伏し拝んだのであります。しかし山口司令官と加来艦長とは、一掬の水に終日の渇を潤しますと、もう辺りの嗚咽も涙声も素知らぬように、淡々と語り合っておられました。

「いい月だな、艦長」
「月齢は21ですかな」
「2人で月を愛でながら語るか」
「そのつもりで先ほど、主計長が金庫の措置を聞きに来ましたから、そのままにしておけと命じました」
「そうそう。あの世でも渡し銭がいるからな」。

よそながらこの対話を聞く者は、熱鉄を飲む思いが致したのであります。司令官はつと目を向け直しますと、専任参謀と副長を特に招き寄せて申されました。

「こういう作戦の中だから、君たちの身も明日は計り知れない。ゆえに、特に依頼しておくわけだが、艦隊長官へ伝言を頼む。」

戦争証言アーカイブ 戦時録音資料 https://www2.nhk.or.jp/archives/shogenarchives/sp/movie.cgi?das_id=D0001400270_00000

精神教育資料 提督の最期(八)
それは、急にその姿勢を正し、言葉も厳かに「陛下の御船を損じましたことは、誠に申し訳ありません。しかし、やるだけのことはやりました。ただ敵の残る1艦に最後のとどめを刺す前に、かくなったことは残念に存じます。どうかこの仇をうち晴らしてください。長官の御武運長久をお祈りいたします。以上だ、頼むよ」と言い終わるや、山口司令官は静かに艦橋にその歩みを移されました。加来艦長も、またやや足早に艦橋に上っていきます。「司令官、なんぞお形見をください」。専任参謀は追いすがるように両手を挙げて艦橋を振り仰ぎました。その手の上へ、山口司令官の戦闘帽がふわりと軽く投げられました。副長は、軍艦旗を肌身につけ、専任参謀は将旗と形見の戦闘帽を抱きまして、最後に2人とも遂に船を去ったのであります。軍艦の舷側を離れました後も、2隻の駆逐艦は近くを去らず、逡巡、幾度かめぐり、幾度か短艇を下ろし、あるいは艦上の諸声を合わせて呼び合い、手を挙げ、帽を打ち振るなど、ほとんど子が親を呼ぶにも勝る哀惜の絶叫と衷情を表し続けたのであります。だが司令官と艦長の牢固たる決意の姿にはいささかの揺るぎも見えず、ただ彼方の艦橋に立てる2つの影も、我に答えて手を振っておるのが見えるだけありました。刻々、その2つの影は、神かのごとき崇高さを顕現しておりました。一瞬、艦橋もろとも黒煙に覆われ去ったかと思えば、また次の一瞬、炎々たる炎は神の像のごとく、その影を栄え照らしました。なお振り続けている手の線まで赤々と見えます。やがて驚くべき海面の変化が予想されます。広く大きい海の洞穴が突如として生じるかのごとき、大渦のもたらし来たった潮鳴りであります。それが先か、後か、轟然、一大音響とともに、彼方の軍艦は裂けておりました。たちまち見るその左舷は、急傾斜して洋中に没し、刹那に深く沈みゆく艦橋には、人なく焔なく煙もなく、まさに中天一痕の月落ちて遙深へ神鎮まったかのようにしか思われません。その渦潮を急に避けながらも、2隻の駆逐艦上から、その有様を目撃しておりました全将兵の目には、既に常時の人間、山口司令官、加来艦長の影はなく、2人にして全く1つなる、我が海軍魂。その一閃の神の光りを明らかに、目で見た心地だったのであります。

戦争証言アーカイブ 戦時録音資料 https://www2.nhk.or.jp/archives/shogenarchives/sp/movie.cgi?das_id=D0001400271_00000


山口多聞墓

青山霊園1種ロ8-1
このエリア、青山霊園1種ロ8号(警視庁墓地のとなり)界隈は有名人、著名人のお墓が集中している。ゆくゆくはまとめてみたいとは思ってます。。。

山口多聞の墓に参拝。
日本海軍が誇る名将に合掌。

海軍中将
正四位勲一等功一級
山口多聞墓

裏面
昭和十七年六月五日戦死
 元帥海軍大将永野修身書

山本五十六の詠んだ石碑が建立されている。


佐世保海軍墓地には飛龍の慰霊碑がある。あわせて掲載。

航空母艦 飛龍 戦没者慰霊碑

昭和49年6月5日建立
源田実書

昭和17年6月5日、ミッドウェー海戦。
南雲機動部隊(第一航空艦隊)直下の第二航空艦隊にて山口多聞少将の旗艦として出撃。最後の一艦として奮戦するも飛龍は6月6日午前0時15分総員退去、沈没。山口司令官、加来艦長以下800余名を祀る。

慰霊碑建立の記
航空母艦飛龍(17,300噸)は昭和14年7月横須賀海軍工廠にて竣工、支那事変の際は支那沿岸各地に於いて戦功を樹て昭和16年12月大東亜戦争勃発するや開戦劈頭僚艦と共に真珠湾奇襲に成功し更に「ウエーキ」島、豪州、比島、蘭印、インド洋作戦に武勲を樹て昭和17年6月5日「ミッドウエー」島攻略戦に於いては敵陸上基地を猛攻し赤城加賀蒼龍の三航空母艦被弾後は飛龍只一隻孤軍奮戦敵空母「ヨークタウン」を撃破し、更に攻撃準備中武運拙なく被弾大破し火焔に包まれ必死の消火作業も其の効なく遂に総員退去の止むなきに至り第二航空戦隊司令官山口多聞中将、艦長加来止男少将は従容として艦に止どまり多数の戦没者と運命を共にさる
茲に三十三回忌を期し慰霊碑を建立して航空母艦飛龍の功績を顕彰し併せて英霊の冥福を祈念す
 昭和49年6月5日
 航空母艦飛龍遺族生存者有志一同

在天の 山口司令官
加来艦長はじめ たくさんの戦友たちよ
あの日のことども ともに語りたい
その後のことも 聞いてほしい
だが今日は それもかなわず
とこしえに この聖地に
み霊安らかに 眠れかしと
ただ祈るのみ

佐世保海軍墓地

山口多聞の墓の隣は、高須四郎の墓もある。
広大な青山霊園の中でも、海軍軍人同士が並んでいるのは珍しいので、山口多聞とは直接的には関係しないが、あわせて掲載。

高須四郎

1884年10月27日 – 1944年9月2日
海兵35期。海軍大将。
昭和16年の開戦時は、第一艦隊司令長官。昭和17年に南西方面艦隊司令長官。兼第二南遣艦隊司令長官。昭和18年、兼第十三航空艦隊司令長官。昭和19年3月1日、海軍大将に昇進。
昭和19年4月2日、連合艦隊司令長官古賀峯一大将が行方不明になる事件(海軍乙事件)が起こり、次席指揮官である南西方面艦隊司令長官の高須が一時的に連合艦隊の指揮をとっている。
昭和19年6月18日に軍事参議官に就任し、9月2日に病没。

高須家之墓

(裏面)
昭和19年5月
高須四郎建之

海軍大将 高須四郎
海軍主計少佐 高須一郎(長男・昭和18年7月に南方海域で戦死)
日本大学名誉教授 高須敏行(次男・平成22年1月没)

山口多聞の墓と、高須四郎の墓はご近所さん。


関連

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「戦争に負けて外交に勝つ」吉田茂

吉田茂像と吉田茂墓を巡ってみましたので、以下に掲載を。大磯の吉田茂邸は未訪問。


吉田茂

言わずと知れた吉田茂。
1878年〈明治11年〉9月22日 – 1967年〈昭和42年〉10月20日)
日本の外交官、政治家。位階は従一位。勲等は大勲位。
外務大臣(第73・74・75・78・79代)、貴族院議員(勅選議員)、内閣総理大臣(第45・48・49・50・51代)、第一復員大臣(第2代)、第二復員大臣(第2代)、農林大臣(第5代)、衆議院議員(当選7回)、皇學館大学総長(初代)、二松学舎大学舎長(第5代)などを歴任。

戦前は、外交官として陸軍と対立。
吉田茂は親英米派として戦前から開戦回避を図り、開戦後も岳父であった牧野伸顕、元首相の近衛文麿、外務次官時代の上司であった幣原喜重郎や鳩山一郎、西園寺公望秘書の原田熊雄、米内光政らの海軍穏健派とネットワークを構築し、東條内閣倒閣運動や戦争終結工作などを進めていた。

吉田茂は近衛文麿と協議し、「近衛上奏文」を作成。近衛文麿が参内の際に 昭和天皇に戦争の早期終結の訴える上奏を実施。
しかし吉田茂の動きを 「 ヨハンセングループ 」としてマークしていた憲兵隊は、吉田茂の身元にスパイを送り込んでおり、上奏文の写しを入手し「造言飛語罪」として昭和20年4月に吉田茂を逮捕。
ちなみに 「 ヨハンセングループ 」 とは首謀者であった吉田茂の「吉田反戦」(しだはんせん)の意味をもった憲兵隊当局の符丁(暗号)。
しかし、吉田茂の容疑を立証することができず、親交のあった阿南惟幾陸相の裁断により吉田茂は不起訴処分として釈放された。
このときに投獄されたことが、「反軍部」の象徴となり、戦後はGHQの信用を得たきっかけにもなっている。

戦後は東久邇宮内閣・幣原喜重郎内閣で外務大臣に就任。鳩山一郎が公職追放されたあとに、昭和21年5月に、第一次吉田内閣として総理大臣に就任。大日本帝国憲法下での 天皇陛下組閣命令下での最後の首相。選挙を経ていない国会議員(貴族院議員)としも最期の首相であった。
戦後日本の礎を築いた吉田茂は、 和製チャーチルとも称された 。

昭和26年9月8日、吉田茂首相はサンフランシスコ平和条約(日本国との平和条約)を締結。第二次世界大戦・太平洋戦争後に関連して連合国諸国と日本との間に締結された平和条約となり、この条約を批准した連合国は日本国の主権を承認した。そして国際法上、この条約により日本と多くの連合国との間の「戦争状態」が終結した。


吉田茂像

北の丸公園の一角に、吉田茂像が建立されている。北の丸公園の清水門近く。
昭和53年に吉田茂生誕百年を記念して記念事業実行委員会が各界から寄付を募って昭和56年に閣議の了解を得え建立されたものという。

吉田茂像は、東京以外には、高知や大磯にもあるというが未見。

吉田茂

吉田茂像碑文
「昭和の黒幕」と称された、安岡正篤氏が作文なされたのが趣深い。

吉田茂
古来各國史上名相賢宰星羅照映スト雖モ昭和曠古ノ大戦ニ社稷傾覆生民塗炭ノ苦悩ニ方リ萬世ノ為ニ太平ヲ開クノ聖旨ヲ奉シ内外ノ輿望ヲ負ウテ剛明事ニ任シ慷慨敢言英邁洒落能ク人材ヲ舉用シ民心ヲ鼓舞シ以テ復興ノ大義ニ盡瘁セシコト公ノ如キハ實ニ稀代ノ偉勲ト謂フベシ
後人相謀ツテ茲ニ厥ノ像ヲ建テ長ク高風ヲ仰カント欲ス亦善イ哉
昭和五十六年九月
 船越保武 作
 安岡正篤 文
 桑原翠邦 書

木々に囲まれた吉田茂像は、ノンビリとした穏やかな空間の中に佇んでいた。

吉田茂といえば、ステッキですね。

※吉田茂像の撮影は2021年5月


吉田茂之墓
(久保山墓地)

横浜の久保山墓地に眠っている。
昭和42年(1967)10月20日、大磯の自邸で死去。享年90(満89歳没)。
10月31日に戦後初の国葬が執り行われた。
戒名は叡光院殿徹誉明徳素匯大居士。
遺骨は、当所は青山霊園の一角において娘婿の麻生太賀吉らと並んで葬られたが、2011年に神奈川県横浜市の久保山墓地に改葬された。久保山墓地には、吉田家一族の墓もある。

吉田茂之墓

昭和42年10月20日薨

明治42年(1909)に牧野伸顕の長女雪子と結婚。
昭和16年(1941)10月、日米関係が悪化するさなかで、吉田茂夫人の吉田雪子は51歳で死去。

吉田雪子之墓


吉田健三之墓
吉田健一之墓
(久保山墓地)

同じく、横浜の久保山墓地に吉田茂一族の墓がある。吉田茂の墓とはだいぶ離れている。
もっとも吉田茂の墓が久保山に改装されたのが2011年と最近ではあるが。

吉田健三之墓・吉田士子之墓

吉田茂の養父。吉田茂は吉田健三の養子であった。
吉田健三は越前福井藩士であったが、実業家として成功し、横浜有数の富豪であった。
吉田茂の実父、竹内綱とは昵懇の間柄であり、1881年(明治14)に、実子に恵まれなかった吉田健三は、竹内綱の五男の茂を養嗣子とした。
吉田健三は40歳で急死し、吉田茂は11歳で、莫大な遺産とともに吉田家を継いだ。
吉田士子(ことこ)は、吉田健三の儒学者佐藤一斎の孫。吉田茂の養母。

吉田健一之墓

吉田茂の長男。
1912年(明治45年)4月1日 – 1977年(昭和52年)8月3日)
日本の文芸評論家、英文学翻訳家、小説家。
父は吉田茂、母・雪子は牧野伸顕(内大臣)の娘で、大久保利通の曾孫にあたる。吉田健三の養孫。

吉田茂の長男ではあるが、吉田茂の墓とは一緒ではなく、養祖父の吉田健三と一緒の墓地。
吉田健一の母親であった吉田雪子の死去、父の吉田茂が新橋の芸者であった喜代子を事実上の後妻として迎えたことに反発があった、とも。

久保山墓地からは、横浜ランドマークタワーが望める。

吉田健一之墓から、吉田茂之墓の方向を望む。

灯籠から覗くと、この位置に「吉田茂・吉田雪子」の墓がある。
吉田健一の両親の墓。

吉田健三君碑

明治24年建立。

※久保山墓地の撮影は2021年3月


以下は、場所は変わって青山霊園。
※青山霊園の撮影は2021年5月


麻生太賀吉之墓
麻生和子之墓
(青山霊園)

青山霊園にて。
麻生和子は、吉田茂の三女。
麻生太賀吉は、実業家・麻生セメント会長。

麻生太賀吉と麻生和子の長男が、麻生太郎。三女は、寬仁親王妃信子様。

麻生和子は、1951年(昭和26年)9月8日のサンフランシスコ講和条約締結の会議に、総理大臣の父・吉田茂の私設秘書として随行している。そして、1967年(昭和42年)10月20日、吉田茂の死を看取っている。

麻生太賀吉之墓・麻生和子之墓の隣が更地になっている。
久保山墓地に改装される前、青山霊園時代は、この場所に吉田茂之墓があった。


牧野伸顕夫妻之墓
(青山霊園)

同じく青山霊園に牧野伸顕の墓がある。
吉田茂夫人であった吉田雪子は、牧野伸顕の長女、であった。

牧野伸顕から見ると、大久保利通は父、吉田茂は娘婿、寬仁親王妃信子と麻生太郎は曾孫にあたる。
そして、牧野伸顕夫人の牧野峰子は、三島通庸の次女であった。

大久保利通之墓
(青山霊園)

牧野伸顕は大久保利通の次男であった。

三島通庸之墓
(青山霊園)

牧野伸顕夫人の牧野峰子は、三島通庸の次女であった。

明治の偉人は、青山霊園に集中している。青山霊園はまだまだ参拝しきれていないが、それはまた別記事にて。


吉田茂記念資料特別展示場

外務省外交史料館別館は、吉田茂記念資料特別展示場も設けられており、一見の価値あり。
ただし、基本開館は平日のみ、、、

※ 吉田茂記念資料特別展示場の撮影は2015年9月

昭和26年9月8日、サンフランシスコ平和条約で吉田茂全権が読み上げた対日平和条約受諾演説の原稿はまるでトイレットペーパーだと称された。

日米安全保障条約に、吉田茂は同じく昭和26年9月8日調印している。

吉田茂のパスポートは、サンフランシスコ講和会議に首席全権として参加のために発行されたもので、戦後発行第一号のパスポート。

吉田茂のステッキ
昭和40年に米寿祝いとして御下賜された鳩杖。吉田茂遺品として展示されている。

外交史料館別館
開館は、月曜日から金曜日の10時~17時30分。

https://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/honsho/shiryo/archive.html


大磯にも行かねば・・・(まだ行っていないので宿題)

http://www.town.oiso.kanagawa.jp/oisomuseum/index.html


吉田茂関連

「七士之碑」は吉田茂の謹書。
吉田茂は、広田弘毅の外交官時代の同期でもあった。

近衛文麿の荻外荘。戦後の一時期、吉田茂が居住していたこともあった。
吉田茂が首謀であったヨハンセングループは、近衛文麿が昭和20年2月に上奏した「近衛上奏文」にも関わりがあった。

昭和26年10月。
吉田茂内閣直属の「秘密組織」として「海軍再建」を検討した組織がY委員会。

Y委員会での検討がすすみ、結果として1952年(昭和27年)には第3次吉田内閣の下で、より軍事組織に近い海上警備隊(沿岸警備隊)が海上保安庁附属機関として組織。その後まもなく「海上警備隊」として海保より分離され、これが後の「海上自衛隊」となった

特攻観音堂
門標 「世田谷山観音寺」、石碑「世界平和の礎」は、吉田茂の謹書となる。

久保山火葬場では、吉田茂の外交官同期であった広田弘毅を始めとする七士の火葬が行われた。

明治観音堂(明治座・日本橋浜町)

浜町公園、都営新宿線浜町駅のすぐ近く。もっというと、明治座の目の前。そこに東京大空襲に関係する慰霊堂があった。

明治観音堂

昭和20年3月10日、東京大空襲。
指定避難所であった「明治座」には多くの人びとが避難していたが、界隈で犠牲となった人々を弔うために建立された観音堂。明治座の復興に力を注いだ、新田新作氏(戦後に復興した明治座の社長)の建立。

明治観音堂建立の由来
本堂は昭和二十年三月十日の
戦災に依り死没せる幾多の霊の
冥福を祈る為建立す

昭和二十五年十二月
発願主 新田新作

明治座と戦争
しかし時代は、昭和6年(1931)に満州事変が勃発しており、やがて日中戦争と次第に戦時色が強くなっていきます。第二次世界大戦が開戦し、昭和19年(1944)3月5日にはとうとう全国19か所の「高級興行場歓楽場」に対し、大劇場閉鎖の緊急事態が命じられます。しかし、3月20日には明治座他6劇場が解除になり、興行時間2時間半以内の演劇興行が再開されます。戦時中の厳しい状況の中でも、空襲のさなかにさえ、明治座はほとんど毎月幕を開けていました。
そして昭和20年(1945)3月10日の東京大空襲で、下町一帯は灰燼に帰し、明治座も例外ではなく外側を残し焼失しました。現在でも、明治座の前にはその被害者たちを慰霊した「明治観音堂」という小さな石堂が建っています。この石堂の発願主は力道山の後援者としても知られた新田建設社長の新田新作でした。新田は後始末に奔走します。新田と地元の有志を中心に明治座復旧期成会が結成され、そこから設立された株式会社明治座が松竹から所有権を譲り受け、明治座の着工がはじまりました。

明治座 https://www.meijiza.co.jp/anniversary/war/

観音堂のうしろには、明治座。

すぐ近くには浜町公園。観音堂も浜町公園の通路にあるので、公園内といっても問題ないかもしれない。

浜町公園

戦時中の浜町公園は、高射砲陣地が設置されていた。
そのため、浜町公園には、爆撃対象として狙われ、あたりは灰燼に帰した。

浜町公園のすぐとなりは、隅田川。

場所

https://goo.gl/maps/o1k1K78ZwXJYCRWy7

明治座

https://www.meijiza.co.jp/anniversary/war/

総務省

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/virtual/memorialsite/tokyo_chuo_city001/


位置関係

地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:8921-C2-18_
昭和19年(1944年)11月07日、日本陸軍撮影の航空写真を一部加工。

上記で浜町公園を拡大

こちらは戦後。高射砲陣地があった浜町公園は更地。
明治座の債権も始まっている。明治座は昭和25年(1950)に再建再興している。

ファイル:USA-M451-37
1947年09月08日、米軍撮影を一部加工

現在の様子。GoogleMap航空写真を一部加工。


関連

東京大空襲関連

はじめに

ブルーインパルスと東京パラリンピック2020

2021年8月22日。
東京パラリンピック2020の開会式予行のためにブルーインパルスが再び東京の空をフライトした。

前回、東京オリンピック2020開会式のブルーインパルスのフライトは、明治神宮で観覧。
今日は、パラリンピックに際しての予行フライト。

今回は、東京駅で観覧することとしました。

2021年8月22日・東京パラリンピック予行フライト
東京駅

東京駅の背後を一直線に飛び抜けるブルーインパルス。

14時3分。東京駅。北から南に。

ありがとうの気持ちを込めて拍手でお見送り。


ちなみに。。。

東京駅広場で結婚式の撮影をしている新婚さんがいました。
この時間の、このタイミングを狙っての、撮影は見事としか言いようがないです。
これは一生の思い出になりそうですね。

東京駅前広場。
撮影者が遠巻きに控えることで、自然と空間を開ける配慮が行われていました。


2021年8月24日 東京パラリンピック本番フライト
東京タワー

東京らしいところ、ということで東京タワーで観覧。
あいにくの曇り空。

あえて魚眼で撮影チャレンジ。
しょうしょう撮影には厳しいコンディションで色がうまく出せませんでした。。。

下の写真はトリミングで。

曇天であれ、東京タワーで見るブルーインパルスは、二度とない思い出。
ありがとうございました!


関連

昭和39年(1964)、東京パラリンピック開催。
日本代表選手53名。そのうち傷痍軍人(傷病兵)出身は7名であり、選手宣誓を行った青野選手も戦地で傷つき箱根療養所で療養していた傷痍軍人であった。

東京駅の近代史跡。

76年目の8月15日-靖國神社

靖國神社

雨の靖國神社。


放鳩式 靖國神社・午前10時

昨年に続き、本年の放鳩式も神社関係者のみでの開催。
一般参列者は観覧のみ。

8月15日 午前10時
「日本の声 英霊に感謝する集い」放鳩式
能楽堂前

靖國神社・山口建史宮司
「英霊ありがとう」の気持ちとともに放鳩

雨でピントが大変なことになってしまいました。。。

今年は鳩が舞うには辛い大雨。

「靖國神社白鳩の会」
毎年、呼び掛けをされておりました、講談師の宝井琴調さんは、今年はスケジュールの都合で不在でした。


正式参拝 靖國神社

正式参拝(昇殿参拝)を

御本殿
鎮まる御英霊の御心に
感謝し深く拝する

御英霊に感謝と哀悼を

ありがとうございました

社務所老朽化に伴う改修工事。令和3年8月2日~令和4年12月末日まで、とのことで。
また、境内の様相が変わりそうです。。。

参道


靖國神社・正午

国歌

君が代は
千代に八千代に
さざれ石の
いわおとなりて
苔のむすまで

黙祷

毎年、この場所で、海行かばを。。。

海行かば

海行かば 水漬く屍
山行かば 草生す屍
大君の 辺にこそ死なめ
かへりみはせじ

うみゆかば みづくかばね
やまゆかば くさむすかばね
おほきみの へにこそしなめ
かへりみはせじ

終戦の玉音放送

宮内庁サイト

https://www.kunaicho.go.jp/kunaicho/koho/taisenkankei/syusen/syusen.html

https://www.kunaicho.go.jp/kunaicho/koho/taisenkankei/syusen/pdf/syousyo.pdf

現代語訳

https://www.huffingtonpost.jp/entry/story_jp_6102140fe4b0d1b96e621f96


遊就館

久しぶりに。


麦茶接待所

毎年、ありがとうございます。
今年は雨で冷え込んだということもあり、冷たい麦茶だけではなく温かい麦茶も用意して戴きました。


靖國神社参道

大雨の8月15日。雨の8月15日は何年ぶりだろう。。。


御朱印

久しぶりに戴きました。


知覧茶

あぁ、これは、、、趣深い飲み物、、、

富屋食堂の知覧茶
この知覧茶は、靖國神社外苑休憩所の靖國八千代食堂と知覧富屋食堂との共同企画商品です。
特攻の母と言われた鳥濱トメさんのご遺徳と、
先の大戦で散華された特攻隊員の方々の想いを偲び、
特攻の地、知覧の茶葉を100%使用致しました。


千鳥ヶ淵戦没者墓苑

こちらにも足を運びました。
合掌。

76年目の終戦の日。
「戦没者を追悼し平和を祈念する日」


関連

神田駅西口高架橋に残る機銃掃射弾痕?

神田駅西口から「煉瓦造りの高架橋」を散策してみました。


JR神田駅

大正8年(1919)、中央本線の万世橋駅ー東京駅間の途中駅として開業。
今も活用されている「高架橋」は開業と同じく大正期に建造。高架橋は当時の最新技術であった鉄筋コンクリート造りをベースと赤レンガ装飾を施している。これは、明治後期に新橋駅ー東京駅間の総レンガ積み高架橋と外観を統一するためであった。

JR神田駅西口から南に向けて。
今も残る「赤れんがの高架橋」を丹念にみてみると、ところどころに欠けが見受けられる。これは一説によると「機銃掃射の弾痕」だという。
そう思って、改めて観察してみると確かに「機銃掃射弾痕」に見えてくる。

近隣では、日本橋川に架かる「鎌倉橋」にも機銃掃射弾痕がある。
鎌倉橋は昭和19年11月の空襲であったというが、神田駅の高架橋に残された弾痕はいつのものかは不詳。


神田駅西口高架下に残る機銃掃射弾痕?

神田駅西口を出て、すぐ目の前の高架橋。さっそく弾痕ぽい跡があったけれども、いったんは、ちょっと北側に歩いてみて、順番に見ていきましょう。

第2鍛冶町橋高架橋(北側)

第1鍛冶町橋高架橋(南側)

神田駅西口改札側

新石橋架道橋(北側)

焼け跡?

新石橋架道橋→新石町橋高架橋

神田駅西口改札の道路を挟んだ南側。

新石橋架道橋から新石町橋高架橋の間

新石町橋高架橋(南側)

千代田町橋高架橋(北側)

千代田町橋高架橋


神田駅の周辺に、こんなに機銃掃射弾痕が残っているとは、露知らず、でした。
スキマ時間でも、散策できるスポット。ちょっと気にして歩いてみるのも良い感じです。


関連

煉瓦に対する機銃掃射としては、半田赤レンガ建物(中島飛行機半田製作所・衣糧倉庫)もある。

平河天満宮に残る機銃掃射弾痕

平河天満宮。文明10年(1478)、太田道灌の創建による天満宮。
江戸三大天神の一つとも称される平河天満宮にも戦争の爪痕が残っているというので足を運んでみた。


平河天満宮

菅原道真公を祀る。
江戸平河城城主太田道灌公が、ある日菅原道真公の夢を見た翌朝に、菅原道真公自筆の画像を贈られたこともあり、その夢を霊夢であるとし、文明10年(1478年)に江戸城内の北へ天満宮を建立したことに始まる。
徳川家康の江戸入府と江戸城再整備にあたり、平川門外に遷座。徳川秀次の代に現在地に奉遷され、平河天満宮の遷座したこの地が平河町と呼ばれるようになった。

平河天満宮は、1923年(大正12年)の関東大震災、1945年(昭和20年)の戦災ではほとんどの施設を焼失している。戦後、仮社殿にて祭祀を執り行っていたが、1969年(昭和44年)に本殿が再建されている。


平河天満宮・銅鳥居

弘化元年(1844)12月、奉納された銅鳥居。千代田区最古の鳥居という。千代田区指定文化財。

左右の柱木には丸く銅板が欠損し、内部の石が露出している部分があります。これは戦時中、空襲の際の機銃掃射によるものです。

機銃掃射の弾痕。銅板を丸く削っている。

鳥居の貫の部分など、焦げたような跡が残る。


平河天満宮・石牛

嘉永5年(1852)奉納。常夜燈と同じく菅原道真公の950年遠忌の奉納であった。千代田区指定文化財。
石牛のところどころの欠損など、戦争の爪痕かどうかは定かではない。


平河天満宮・狛犬

享和元年(1801)の奉納。千代田区指定文化財。
平河天満宮は、たびたび火災に見舞われているために、焼けたような痕跡も見受けられるが、これが戦災によるものか関東大震災によるものか、江戸時代の大火によるものかの判別は難しい。
狛犬の頭上にはかつては角もあったが、欠け落ちた(焼け落ちた?)という。


平河天満宮・常夜燈

嘉永5年(1852)奉納。千代田区指定文化財。
かつては2基あり左右一対であったが、昭和20年(1945)の空襲で被災した際に、破損し、1基のみ残る。
奉納された嘉永5年は、石牛と同じく菅原道真公の950年遠忌に当たる年であった。


平河天満宮境内

ご社殿は、1969年(昭和44年)の再建という。

桜の季節の参拝でした。

※撮影2021年3月

瓜生外吉海軍大将之像と瓜生外吉墓(小田原と南青山)

小田原に、海軍大将 瓜生外吉 が晩年に隠棲した邸宅があった。


瓜生外吉(うりゅう そときち)

安政4年1月2日(1857年1月27日) – 昭和12年(1937年)11月11日)
大日本帝国の海軍軍人。海軍大将。加賀藩支藩の大聖寺藩(石川県)の出身。

海軍兵学校は卒業していないがアナポリス海軍兵学校に留学をしており明治海軍有数のアメリカ通。
瓜生外吉夫人の瓜生繁子は三井物産の益田孝の実妹。明治新政府の第一回海外女子留学生(日本初の女子留学生)として渡米し10年間のアメリカ経験あり。三井物産初代社長の益田孝は義理の兄となる。
そして、「東洋のセシル・ローズ」と称された衆議院議員・森恪は女婿(瓜生栄枝・瓜生外吉の三女)となる。

明治33年(1900)、海軍少将・軍令部第1局長。
明治37年(1904)2月4日、日露戦争開戦。第四戦隊司令官として参加。
開戦直後の明治37年2月9日、瓜生外吉率いる第四戦隊(旗艦・巡洋艦浪速、高千穂、明石、新高に、臨時で装甲巡洋艦浅間と第九艇隊および第十四艇隊の水雷艇8隻)は、仁川のロシア海軍・防護巡洋艦「ヴァリャーグ」と航洋砲艦「コレーエツ」を、日露戦争の口火を切った「仁川沖海戦」で撃破。瓜生外吉率いる第四戦隊が初戦の勝利を飾る。

日露戦争後、佐世保鎮守府長官・横須賀鎮守府長官を歴任。
大正元年(1912年)10月16日、海軍大将に昇級。薩摩出身者以外では2番目の海軍大将であった。
ちなみに、薩摩閥以外での1番目の海軍大将は会津白虎隊出身の出羽重遠(日露戦争では第三戦隊司令官)。出羽重遠は明治時代で唯一の薩摩閥外の海軍大将。とはいっても明治45年(1912)7月9日に海軍大将となっているので、瓜生外吉の3ヶ月前。
大正2年(1913年)、予備役に編入。

瓜生外吉は義兄である三井物産創始者・益田孝の勧めで、海軍退役後の大正2年に、小田原天神山に隠棲の別荘を設けて移り住んだ。
大正11年に体調を悪くし、小田原で療養中に大正12年の関東大震災に遭遇。一度、都内に転地療養し全快。
大正14年以降、再び小田原別邸に移住。
瓜生邸付近の道路が狭隘で、その上石段があるため、自動車の通行が不可能であったため、義兄・益田孝の経済的な援助と、海軍部員の奉仕によって工事が施行され、完成後に「瓜生坂」と呼ばれるようになった。
瓜生外吉は小田原を愛し、地元海軍部員はもとより、地域の人々とも交流が深かったという。(死後に地域の人々により記念の胸像が建立された)
昭和12年11月11日、81歳の天寿を全うした。正二位勲一等旭日桐花大授章が追贈。


瓜生海軍大将之像

作者は、北村四海。大正6年(1917)の作。
瓜生外吉没後、小田原町第十六区民・山角町青年誠友会員により、昭和14年(1939)5月27日、山角天神社の石段中途左に「瓜生海軍大将之像」が東京の瓜生邸から山角天神社へ移築され建立された。

瓜生海軍大将之像

昭和14年5月27日
小田原町第十六区民 
山角町青年誠友会員 建設

瓜生外吉海軍大将之像
Statue of Admiral Baron Sotokichi Uriu, I.J.H.
 瓜生外吉(1857‐1937年)は、米アナポリス海軍兵学校を卒業。
 日露戦争(1904‐1905年)の仁川沖、蔚山沖、日本海の各海戦で活躍し、1912年に海軍大将に昇進しました。
 後年は夫人繁子(日本初の女子留学生)とともに対米民間外交、親善に尽力しました。
 ここから」西に200mほどの高台に別荘を設けた外吉は、誠実な人柄が市民に敬愛され、海を眺めての小田原の生活をこよなく愛しました。

小田原の海を望む。

坂に名を残した人・瓜生外吉(海軍大将・男爵)

山角天神社


瓜生坂

すみません、写真を取りそこねております。
Googleストリートビューのキャプチャを暫定で掲載しておきます。。。

瓜生坂は、海軍を退役後に小田原天神山の別荘に移り住み、入退院を繰り返していた瓜生外吉を車で移動できるようにするため、義兄の益田孝の援助と、交流のあった海軍関係者が奉仕活動で造った坂。

https://www.kanaloco.jp/news/social/entry-110665.html


場所は変わって。。。東京の青山霊園

瓜生外吉の墓

場所は、1種イ22号5側。訪れたときは、ちょうど薔薇の花が賑わっていました。

海軍大将正二位
勲一等功二級男爵
瓜生外吉墓

隣には瓜生夫人の墓も。

従五位 瓜生繁子之墓

瓜生外吉の長男、瓜生武雄は、明治41(1908)年4月30日の松島爆沈事故で殉職している。

海軍少尉従五位瓜生武雄墓

明治41年4月30日軍艦松島
馬公港爆裂之際殉難齒廿三


森恪の墓(もり かく/もり つとむ)

青山霊園には、森恪の墓もありました。瓜生外吉の女婿(瓜生栄枝・瓜生外吉の三女)。
青山霊園内を散策していたら、たまたま見つけましたので参詣。
ちょっと墓地が荒れていました。。。
場所は、1種ロ8号1側。


小田原の瓜生海軍大将之像から、東にちょっと行った所に、対潮閣跡がある。
海軍史としては、秋山真之終焉の地。瓜生外吉とは日露戦争の縁もあり、ここに付記する。

対潮閣(山下亀三郎別邸)《秋山真之終焉の地》

山下亀三郎は、山下汽船(現・商船三井)の創業者。
現在は、邸宅は残っておらず、個人宅・私邸が分割されている。
対潮閣の正面玄関があった場所に、説明の看板がある。

対潮閣(山下亀三郎別邸)跡(秋山真之終焉の地) 
 明治時代から、小田原には、伊藤博文、山縣有朋、益田孝(鈍翁)、田中光顕、北原白秋など多くの政財界人や文人が居を構えたり、訪れたりしていた。
 山下汽船(現・商船三井)の創業者山下亀三郎(1867~1944)の別邸「対潮閣」の正面入口がこの辺りにあった。
 対潮閣には、山下と愛媛の同郷であった海軍中将秋山真之(1868~1918)がたびたび訪れ、山縣の別邸「古稀庵」(現・あいおいニッセイ同和損保小田原研修所)を訪ね「国防論」について相談していたが、患っていた盲腸炎が悪化し、大正7(1918)年2月4日未明に対潮閣内で亡くなった(享年49歳)。

 正面の巨石は、対潮閣にあったもので、梵鐘を抜いた形の空洞があるので「釣鐘石」といわれている。
 左手前の石碑には、田中光顕がこの石を賞して詠んだ和歌が彫られている。

碑文
「うちたたく 人ありてこ曾(そ) よの中に な里(り)もわたらね つりが年(ね)の石 光顕」

田中光顕歌碑

うちたたく 人ありてこ曽 よの中に な里もわたらめ つりが年の石 光顕

 釣鐘石

山下亀三郎別邸の上段は清閑亭。

清閑亭(旧・黒田長成邸)

対潮閣の隣にあるのが清閑亭。
秋山真之も最後のときに、同じように相模灘の小田原の海を眺めていたかもしれない。

瓜生外吉から、神奈川の小田原から東京の青山霊園から、小田原の秋山真之へと、話が散らかりました。


小田原散策で、瓜生外吉と出会って、あまり知ることなかった瓜生提督のことを深堀りできたのが、良き記録となりました。


「現存最古の地下鉄駅直結の民間建造物」明治屋京橋ビル


明治屋京橋ビル

東京都中央区京橋の「明治屋京橋ビル」
昭和8年(1933)建設。ルネサンス様式の優美な姿が特徴的。
設計者は曾禰中條建築事務所(曾禰達蔵と中條精一郎の共同事務所)

地下鉄の駅と一体化となって建設された民間建造物としては現存する最古の建造物。
地下鉄銀座線京橋駅改札(東京メトロ銀座線京橋駅7番出入口)と直結している。
中央区の有形文化財に指定。

京橋駅

昭和7年(1932年)12月24日、東京地下鉄道三越前駅 – 京橋駅間開業に伴い、終着駅として開業。
京橋駅建設費用の一部を、明治屋が負担している。


京橋駅ホーム


http://www.meidi-ya.co.jp/news/20150831.html

https://www.city.chuo.lg.jp/smph/kusei/syokai/tyuobunkazai/meijiyakyobashi.html


関連

明治屋ビルを設計した曾禰達蔵による建造物

講談社本館

地下鉄の父・早川徳次

兵部大輔大村益次郎卿殉難報國之碑と埋腿骨之地(大阪)

大阪市中央区法円坂の国立病院機構大阪医療センター近くの上町交差点。
ひときわに大きな石碑がある。
当時、この地にあった鈴木町の大阪府医学校病院(大阪府仮病院)に大村益次郎が運び込まれ、そしてこの地で亡くなった。


大村益次郎

文政7年5月3日〈1824年5月30日〉 – 明治2年11月5日〈1869年12月7日〉
幕末期の長州藩の医師、西洋学者、兵学者。「維新の十傑」の一人。
日本陸軍の創設者
村田蔵六、良庵、諱は永敏。あだ名は「火吹き達磨」

周防国の村医の家柄に生まれた村田蔵六は、弘化3年(1846年)、大坂に出て緒方洪庵の適塾で学ぶ。適塾の塾頭まで進む。
嘉永6年(1853年)、宇和島藩で蘭学者として勤務。
安政3年(1856年)4月、宇和島藩主・伊達宗城の参勤にしたがって江戸に出府。
同年11月、宇和島藩御雇の身分のまま幕府の蕃書調所教授方手伝となる。
安政4年(1857年)11月11日、築地の幕府の講武所教授に就任。
万延元年(1860年)、長州藩の要請により江戸在住のまま同藩士となる。
文久3年(1863年)10月、萩へ帰国、長州藩の軍事を掌り、高杉晋作の奇兵隊の指導などを行う。
慶応2年(1866年)、第二次長州征伐に際して、石州石見国方面の実戦指揮を担当し、軍事的才能を遺憾なく発揮し幕府軍を撃破。
明治元年(1868年)、戊辰戦争では有栖川宮東征大総督府補佐として、軍務官判事、江戸府判事を兼任し、江戸を掌握。討伐軍を指揮し、上野山に籠もる彰義隊を撃破。その後も江戸から事実上の新政府軍総司令官として戊辰戦争を指揮し、新政府軍を勝利に導く。

明治2年(1869年)、明治新政府の幹部として軍政改革の音頭を取るも、兵制論争となり、結果として大久保利通派に敗れるも、軍政では大村益次郎に変わるものもなく、新たに設置された兵部省の兵部大輔(次官)に就任。兵部卿(大臣)は仁和寺宮嘉彰親王であったために、実質的には大村益次郎は近代日本の軍制建設を指導する立場となる。

大村益次郎は大阪に大阪城近くに兵部省の兵学寮(士官学校)を設け、造兵廠(大阪砲兵工廠)、宇治に火薬製造所の建設するなどを決め、東京から関西へ軍事拠点を移転させることを決定。

明治2年(1869年)8月、視察のために京阪方面に出張。
9月4日夕刻、益次郎は京都三条木屋町上ルの旅館で会食中、8人の刺客に襲われる。
重傷を負い9月7日に京都の山口藩邸へ移送され、数日間の治療を受けるも、傷口から菌が入り敗血症となる。医療設備の整っていた「大阪府医学校病院」(浪華仮病院・大阪府仮病院)に転院を決め、教え子であった寺内正毅、児玉源太郎らが担架で高瀬川船着き場まで運び、10月2日に大阪府医学校病院(大阪仮病院)に入院。
大阪府医学校病院は院長が緒方惟準(大村益次郎の恩師・適塾緒方洪庵の次男)、オランダ人医師ボードウィンを主席教授とし、楠本イネ(シーボルトの娘)らが看護。蘭医ボードウィンによる左大腿部切断手術をおこない、足を切断するも、翌11月1日に敗血症による高熱を発して容態が悪化し11月5日の夜に死去した。享年46歳。
大村益次郎は「切断した私の足は緒方洪庵先生の墓の傍に埋めるように。」と遺言した。(龍海寺の緒方洪庵の墓の隣に足塚がある)


兵部大輔大村益次郎卿殉難報國之碑

昭和15年11月に大村益次郎が治療を受けた大阪府医学校病院(浪華仮病院・大阪仮病院)、そして亡くなった地に鎮座。
昭和15年(1940)は、1月米内光政内閣、7月に第2次近衛文麿内閣が成立し陸相には東条英機が就任。9月には、日独伊三国同盟条約が締結され、11月には、紀元2600年祝賀行事が行われるという時局であった。
ひときわに大きい、大村益次郎の殉難報國之碑もそんな時局をあらわしていた。

兵部大輔大村益次郎卿殉難報國之碑

明治兵制ノ創始者兵部大輔大村益次郎卿ハ周防ノ人資性沈毅明敏少壮ニシテ漢籍ヲ廣瀬淡窓ニ蘭学ヲ梅田幽斎及緒方洪庵等ニ学ビ専ラ醫学及兵学ヲ修メ夙ニ皇政維新ノ大業ヲ翼賛シテ東京以北戡定ノ偉勲ヲ樹テ親兵ヲ創設シテ兵馬ノ大権確立ニ資シ徴兵ノ制ヲ布キテ國民皆兵ノ實ヲ擧ゲンコトヲ主張シ兵学寮及兵器弾薬製造所並軍艦碇泊場ノ設立等ニ拮据奔走中明治二年九月四日京都ニ於て刺客ノ難ニ遭ヒ後大阪病院ニ於て右大腿切断ノ手術ヲ受ク病牀二ケ月瀕死ノ中ニ在ツテ尚ホ書ヲ要路ニ致シ陸海兵制ノ整備ト軍事醫療ノ急設トヲ説キ傷處ノ疼痛ニ悩ミツゝ一言モ之ニ及ブ■ク愬フル所皆是レ國家公共ノ大策ニ非サルハ無カリキ不幸経過良好ナラズ遂ニ十一月五日経國ノ雄圖ヲ抱イテ空シク此ノ地ニ薨ス時ニ年四十六本會ハ茲ニ卿ノ高邁ナル識見ト偉大ナル功績トヲ敬慕シ特ニ終焉ノ地ヲ選ビ記念碑ヲ建テ此遺跡ト共ニ其洪勲ヲ長ヘニ後昆ニ傳フト云爾
   昭和十五年十一月 大村卿遺徳顕彰會

※中央部に亀裂が有り、一部の文字が読み取れず

発起人・賛助者にはそうそうたる名前が刻まれていた。
昭和15年当時の軍人・関西財界人など。

また、緒方銈次郎の名も有る。
緒方銈次郎は、大村益次郎の恩師であった緒方洪庵の子・緒方惟準の二男。大村益次郎は緒方惟準が院長を務める、適塾の流れをくむ浪華仮病院・大阪仮病院に担ぎ込まれた。

財界
伊藤忠兵衛(伊藤忠)
鳥井信治郎(サントリー)
種田虎雄(近鉄)
松下幸之助(パナソニック)
鴻池善右衛門(鴻池家)
小林一三(阪急)
江崎利一(江崎グリコ)
野村徳七(野村証券)

陸軍
畑俊六
林銑十郎
東条英機
大島健一
松井石根
松岡洋右
寺内寿一
荒木貞夫
杉山元

海軍
及川古志郎
高橋三吉
末次信正

場所

https://goo.gl/maps/UoLZBv6H6k1Debqy7

現在は、国立病院大阪医療センター。
この地は、のちに元歩兵第三十七連隊が展開されていた。
敷地内には、歩兵第三十七連隊の慰霊碑などもある。


大村益次郎寓居跡「漏月庵」

少し時系列をさかのぼる。
大村益次郎(村田蔵六)は、22歳のころに来阪して「緒方洪庵の適塾」に入門して塾頭まで務める。そのころにこの場所から適塾に通っていたという。

大村益次郎寓居跡
「漏月庵」

 大村益次郎は1825(文政8)年、山口・周防の医者の家に生まれた。蘭学、医学、蘭式兵学に通じ、日本の近代兵制を創始した。
 緒方洪庵に師事し、1849(嘉永2)年からこの家に住んで適塾に通った。初めて構えた居宅を愛し、ひさしのすき間から見える月の美しさに感謝して「漏月庵」と名付けた。
 後、故郷に戻って医者になったが洋楽の知識を認められ、明治新政府の兵部大輔(軍事大臣)となり、日本の兵制をととのえた。1869(明治2)年没。
「漏月庵址」の石碑は1950(昭和25)年まで存在したが、その後不明になり今回改めて建立した。
 令和2年9月吉日
  古川宏太郎建立

場所

https://maps.app.goo.gl/vPs8sqw7kCMfZRp78


大村益次郎埋腿骨之地(足塚)
緒方洪庵墓所

大阪市北区の龍海寺。緒方洪庵の菩提寺。
緒方洪庵の墓は東京文京区の高林寺にもあり、この龍海寺には遺髪が埋葬されている。
適塾で恩師であった緒方洪庵の墓之隣に、大村益次郎は切断した右足を埋めるように遺言した。
埋葬後も、しばらくは秘匿されており、昭和14年(1939)に、「埋腿骨之地」が建立された。

大村兵部大輔埋腿骨之地

裏面は陸軍軍医中将飯島茂による撰文。

緒方洪庵先生之墓
洪庵先生夫人億川氏墓

緒方洪庵の墓の隣に、大村益次郎足塚がある。

場所

https://goo.gl/maps/wqmbK9kYwMZDJQ1f6

靖國地蔵尊

龍海寺境内に。
昭和17年1月14日建立。開戦直後、ですね。


付記

緒方洪庵墓所(東京文京区・高林寺)

緒方洪庵墓(文京区指定史跡)
 洪庵は、江戸時代末期の蘭学者、医学者、教育者。文化7年~文久9年(1810~63)現在の岡山県に生まれ、名は章、後に洪庵と改めた。
 大坂、江戸、長崎で蘭学、医学を学び、天保9年(1838)、大坂に”適々斎塾”(適塾)を開き、診療と研究のかたわら、三千人におよぶ門弟の教育に当たった。この塾から大村益次郎、橋本左内、福沢諭吉などが輩出した。
 洪庵は、幕府の奥医師として江戸に招かれ、翌年、文久3年(1863)に病没した。


付記

大村益次郎像(靖國神社)

明治15年(1882)、大村益次郎の意思を継いで陸軍創設に貢献をした山田顕義らにより、大村益次郎の功績を称えるべく銅像の建立が発議される。
明治26年(1893)、6月、大村益次郎も創建に尽力をしていた東京の靖国神社の境内に大村益次郎の銅像が建立され、除幕式が執行。日本初の西洋式銅像、であった。

この像は、戊辰戦争の際、司令官として江戸城本丸から、彰義隊が立てこもる上野を見つめている姿であるという。

靖國神社の大村益次郎は、上野公園の方向を向いているという。そして上野公園の西郷隆盛と向かい合っている、ともいう。


関連

「明治神宮外苑」と「青山練兵所跡」

明治神宮外苑。

もともと当地は、「青山練兵場」であった。
大正元年(1912)9月13日、  明治天皇崩御による「大喪の礼」が青山練兵場で執り行われた。
大正15年(1926)に、青山練兵場の葬場殿跡地に、「聖徳記念絵画館」を中心とする「明治神宮外苑」が完成。
大正13年(1924)に完成していた「明治神宮外苑競技場」では、戦時中に「学徒出陣壮行会式典」が行われている。

青山練兵場

以下を参照。


御観兵榎

御観兵榎の碑は、東郷平八郎書。大正15年7月、明治神宮奉賛会による。
この場所で、  明治天皇御台臨のもとに、明治22年2月11日の憲法発布観兵式、明治39年4月30日の日露戦役凱旋観兵式などが行われた。
明治天皇の御座所は、常にこの榎の大木の西側に設けられていたという。
現在の榎は2代目。

御観兵榎
伯爵東郷平八郎書

御観兵榎 について
 この外苑の敷地は、もと陸軍の青山練兵場で、明治天皇 の御台臨のもとにしばしば観兵式が行われ、なかでも明治二十三年(一八九〇)二月十一日の憲法発布観兵式や、明治三十九年(一九〇六)四月三十日の日露戦役凱旋観兵式などは、特に盛大でありました。聖徳記念絵画館の壁画「凱旋観兵式」(小林万吾画)にその時の様子が描かれており、当時の盛儀が偲ばれます。明治天皇がご観兵される時は、いつもこの榎の西前方に御座所が設けられたので、この榎 を「御観兵榎」と命名し永く保存しておりましたが、平成七年(一九九五)九月十七日老令(樹令二百余年)の為台風十二号余波の強風により倒木しました。遺木の一部は聖徳記念絵画館内に名木「ひとつばたご」の遺木と共に保存されております。
 平成八年(一九九六)一月、初代御観兵榎の自然実生木(推定樹令六十年)を苑内より移植し、「二代目御観兵榎」として植え継ぎました。
  平成八年一月吉日 明治神宮外苑

「初代 御観兵榎」
 
 にれ科えのき属、樹齢二百余年と推定される。
 幹廻り、二・二メートル 高さ、九メートル 枝張り、十六メートル
碑石 
 石材は伊豫(愛媛県)青石、天然石
題字 
 東郷平八郎 書 
 明治三十八年日本海海戦においてロシアバルチック艦隊を壊滅させた、
 当時の連合艦隊司令長官 東郷神社の祭神

場所

https://goo.gl/maps/neRxNAr38GfSDxot8


陸軍大学校跡

青山練兵場があったころの陸軍大学校は、現在の港区立青山中学校にあった。


明治神宮外苑の記

明治神宮外苑の記
石碑の題字 
  「明治神宮外苑之記」
  明治神宮奉賛会 総裁 閑院宮載仁親王殿下の篆書
撰文  
  明治神宮奉賛会 会長 徳川家達
石材
  東北仙台産の板岩
  高・地表4メートル 幅・1.8メートル 厚・0.36メートル

碑文の大意
 明治45年(1912)7月30日に、明治天皇(第122代の天皇・今の天皇の曽祖父)、大正3年(1914)4月11日には、昭憲皇太后(明治天皇の皇后)がお亡くなりになりました。これを伝え聞いた国民の間から、御二方の御神霊をお祀りして、御遺徳を永遠に追慕し、敬仰申し上げたいという機運が高まり、その真心が実って、大正9年(1920)11月1日、代々木の地に、明治神宮の御創建となったのであります。
 明治の時代は、日本の歴史を通じて、政治・経済・文化・スポーツ等の各方面において、驚くべき躍進を遂げ、近代国家としての基盤が確立されましたが、その原動力となられた天皇の偉大な御事蹟と御聖徳の数々を、永く後世に伝えたいものと、明治人外苑の造営が進められることになりました。
 これがため、明治神宮奉賛会が設けられ、天皇が御在世中、しばしば陸軍観兵式を行わせられ、又、御葬儀がとり行われた旧青山練兵場の現在地に、皇室の御下賜金をはじめとして、ひろく全国民の献金と、真心のこもった労働奉仕により、十余年の年月をかけて、大正15年(1926)10月に、明治神宮外苑は完成しました。
 苑内には、天皇・皇后御二方の御一代の御事蹟を、有名画家が描いた八十枚の大壁画が掲げられている白亜の殿堂、聖徳記念絵画館を中心に、野球場、競技場その他の多くの優れた運動施設が設けられ、御仁徳をお偲びしつつ、青少年の身心鍛錬の場として、或は遊歩を楽しむ人々の憩いの苑として、崇高森厳の気漲る内苑と相俟って造成されたもので、永く後世に残されるものであります。
 外苑造成工事全く成り、奉賛会より明治神宮に奉献するに当り、事情の概要を記し、後の世の人々に伝えるものであります。
  大正15年(1926)10月 
    明治神宮奉賛会 会長徳川家達

明治神宮外苑案内図。
かつて、「明治神宮外苑競技場」として明治神宮外苑に含まれていた競技場は、昭和31年に国立競技場として文部省に移管されたため、現在は明治神宮外苑の敷地には含まれない。

明治神宮外苑
銀杏並木

銀杏並木

手前が高く、奥が低い銀杏が植えられるという、巧みな遠近法が用いられている。
大正15年の明治神宮外苑に先立ち、大正12年(1923)に植樹。


明治神宮外苑
国旗掲揚塔

見事すぎる国旗掲揚塔。

台座には2頭の一角獣が。


日本最古級のアスファルト舗装
聖徳記念館絵画館前通り

近年(令和元年12月)、当時の舗装が保護のために覆われ、当時の舗装は、今ではほんの一角のみが見学できるようになっている。

明治神宮外苑の舗装
 明治神宮外苑の道路の舗装は、東京市(当時)でも大規模で本覚益那加熟アスファルト混合物を用いた舗装であり、1926年(大正15年)1月に完成しました。
 この工事は、我が国においてワービット(Warrenite-Bitulithicの略)工法を採用した最初の工事であったばかりでなく、アスファルトは国産品(秋田県豊川産)を使用し、当時の最新鋭機による機械化施工が行われました。
 この舗装は長い年月の使用に耐え、左図の濃色の箇所(下の写真)が66年間(1992年改良)にわたって車道として使われてきたことは、驚嘆に値します。また、この案内板の前の舗装は当時のまま現存しており、日本における車道用アスファルト舗装としては最古のものです。

  当時の工事概要
(1)発注者:明治神宮造営局
(2)施行面積:59,096㎡
(3)施行費用:167,135円
(4)工期:1924年5月~1926年1月
(5)監督者:工学博士・藤井眞透

土木学会選奨土木遺産
 特別区道43-650(霞ヶ丘町1番地先)の車道用アスファルト舗装は国内最古級の「ワービット舗装(ワーレナイト・ビチュリシック工法による舗装の略称)」であり、平成16年度に公益社団法人土木学会選奨土木遺産に認定されました。
 完成から90年以上が経過し路面性状が良くない(ひび割れが生じている)ことから、土木学会及び東京都と協議し、ワービット舗装をインターロッキングブロック舗装(ILB舗装)で覆いました。
 こちらの展示スペースでワービット舗装をご覧いただけます。


聖徳記念絵画館

大正15年(1919)10月22日竣工。国指定重要文化財。
明治神宮による維持管理が行われている。


葬場殿趾(葬場殿趾円壇)

葬場殿址
明治天皇が明治45年(1912)7月30日にお亡くなりになり、その御葬儀が9月13日に全国民の悲しみのうちにこの場所(当時の青山練兵場)で行われました。
ここがその時に御柩車が置かれた葬場殿のあとです。
中央の大木はこのことを記念して植えられた楠の木です。
 明治神宮外苑

明治天皇の御柩車は、青山練兵場仮停車場から、京都桃山に向かわれた。

葬場殿趾


樺太国境画定標石(樺太島日露国境天測標)

日露戦争終結後、明治38年(1905)から昭和20年(1945)までの40年間、樺太島北緯50度以南は、日本の領土だった。日本としては陸地の国境線は以後に有していない。

樺太島を北緯50度で南北に分断し、東のオホーツク海沿岸から西の間宮海峡まで132kmの間に、日露の紋章を刻した「天測境界標」と呼ぶ国境標石4基を設置、さらに平均6kmごとに小標石17基を置き、19か所に木標が建てられた。

明治神宮外苑にある「天測境界標」は第四天測点のレプリカ。
日本側には「菊の紋章」、ロシア側は「双頭の鷲の紋章」が刻まれている。

樺太国境画定標石
 時 明治39年6月~40年10月
 所 樺太日露境界

 明治37、8年の日露戦役の講和条約でカラフトの北緯50度以南は、日本の領土となりました。
その境界を標示するため、日露両国委員は、明治40年9月4基の天測標と17基の小標石を建てて境界を確定しました。
 この境界標石は、外苑創設に際し、明治時代の一つの記念物として、樺太庁が之を模造し外苑に寄贈したものです。当時苑内北方隅の樹間に在りましたが、この度、全国樺太連盟よりの、これが顕彰周知方の篤い要望に応えて、絵画館前の現地に移し整備配置しました。
 日本側の菊の紋章の背面には露国の鷲の紋章が刻んであります。又、聖徳記念絵画館の壁画「樺太国境画定」(安田稔画)には、両国委員が国境標を建設する光景を史実に基づいて描いた絵画が展示されております。
  昭和54年6月2日
    明治神宮外苑

大日本帝国
境界

上に「模造」と刻まれている。

天第四号
明治三十九年

ロシア国側。日本にとっては裏、ロシアにとっては表。


建国記念文庫

「建国記念の日」の祝日の制定を記念して建立。

建国記念の日 二月十一日

建国記念文庫
昭和41年12月9日、建国日制定審議会は2月11日を建国記念の日として答申、即日法律によって発布された。この間、数十万通に及ぶ、記念日制定の希望・意見書が進達されたので、ここに建国記念文庫を建設し、これを保管する事にした。
建設費は総て国民の浄財である。これは、現下の国民が等しく建国を思う情熱の結果であり、千年万年の子々孫々に伝え、以て後日の語り草にしたいのが、記念文庫設立の目的である。
建物は、わが国が建国当時、米穀を以て立国としたことを想い、奄美大島の高倉様式を移築しその屋上にテンパガラスを施行し、ここに書類を保管した。書は、出雲大社の神門の布施杉の材に佐藤大寛が墨書した。
礎石は、坂上田村麻呂将軍の東征により、平和国家が確立された故事に鑑み、奥州厳作山の石垣白河石を以て施工した。
  昭和44年(1969)2月11日
  元建国記念日制定審議会長 菅原通済記

ちなみにこのエリアは夜間は立入禁止、だそうで。
建国記念の日を面白くない人々の襲撃を防ぐため、だとか。


青山練兵所の陸軍境界標石?

青山練兵所の南西付近。それっぽい標石が残っている。
ただし、記載されているであろう文字面が見えないために詳細は不明。

場所

https://goo.gl/maps/CCc8xhEvYAURs5fBA


明治神宮野球場

大正15年(1926)10月に明治神宮外苑に「明治神宮外苑競技場」とともに完成。
改修に次ぐ改修が行われているが、ベースは大正15年に建設された球場が使用されている。
再開発が予定されており、2027年以降に取り壊して、秩父宮ラグビー場と敷地を入れ替えて新球場が建設される予定という。秩父宮ラグビー場は明治神宮外苑第二球場の地に新設。


日本オリンピックミュージアム
MONUMENT AREA

オリンピックシンボルモニュメント、岸記念体育会館から移設した岸清一像、ピエール・ド・クーベルタン像、嘉納治五郎像、1964年東京オリンピック、1972年札幌冬季オリンピック、1998年長野冬季オリンピックの聖火台レプリカなどが設置されている。

「いだてん」な感じですね。

岸清一像

ピエール・ド・クーベルタン像

嘉納治五郎像

オリンピックシンボルモニュメント

1998年長野冬季オリンピック 縮尺1/2

1972年札幌冬季オリンピック 縮尺2/3

1964年東京オリンピック 縮尺3/4


国立競技場

前身は「神宮外苑競技場」。

大正13年(1924)に、明治神宮外苑競技場として開場。
第二次世界大戦中の1943年(昭和18年)10月21日には学徒出陣壮行会会場ともなった。

https://www2.nhk.or.jp/archives/shogenarchives/jpnews/movie.cgi?das_id=D0001300562_00000&seg_number=002

戦後は、明治神宮から文部省に移管され、旧国立競技場(国立霞ヶ丘陸上競技場)は昭和33年(1958)竣工。
そして、2019年に新・国立競技場として生まれ変わった。


学徒出陣壮行の地 記念碑

明治神宮外苑競技場の地から、一時的に移転された学徒出陣壮行の地 記念碑。新国立競技場に戻ってきました。
ただし、新国立競技場には自由に入れないので、これは後ろ姿ですね。。。。
(早く正面から見たい。。。

※訪問しました


近衛歩兵第四連隊跡碑
近衛歩兵第六連隊跡碑

国立競技場の隣、「都立明治公園」に、近衛歩兵第四連隊跡碑・近衛歩兵第六連隊跡碑があるというも、再開発とオリンピック絡みで立ち入りできず。。。

まあ、落ち着いた頃に再訪ですね。。。
なんか悪い予感がするんです、再開発で無くなっていなければよいのですが。。。


「学徒出陣壮行の地 記念碑」と「近衛歩兵第四連隊跡碑」「近衛歩兵第六連隊跡碑」と、確認できなかったものがあったのが心残り。また、再訪をしましょう。

※撮影は2020年8月

「御所トンネル」と「青山練兵場停車場跡」

東京都下を東西に結ぶ中央線。
その中央線の中でも最古のトンネルが「御所トンネル(旧御所トンネル)」。
このトンネルの建設には陸軍も関与しておりました。

鉄道遺産、そして戦跡として、ちょっと観察してみます。


甲武鉄道と陸軍

「中央線」の前身「甲武鉄道」。
甲武鉄道は明治22年(1889)4月に新宿~立川間、8月には、立川~八王子間を開業。
新宿から東京市内への路線延長に関しては、新宿~牛込・飯田橋間を甲州街道沿い(新宿御苑北側)で計画されていたが、明治27年(1894)日清戦争の勃発の影響などもあり陸軍側の強い要請で千駄ヶ谷~信濃町間を経由するルートで延伸が決定。これは「陸軍青山練兵場」(現在の明治神宮外苑)からの軍隊輸送のために必要という側面があった。
陸軍が希望するルートで線路を敷設するためには、 畏れ多くも「赤坂御料地(赤坂離宮・赤坂御用地・赤坂御所・迎賓館」「学習院初等科」の敷地の一部にトンネルを設けざるを得なかったが、そこは軍事優先で陸軍の後押しもあり、明治27年9月17日に新宿~青山軍用停車場が完成。
甲武鉄道はその後も着実に路線を延長し明治27年10月に新宿~牛込(飯田橋)」間、明治28年4月には牛込~飯田町間が開業。
明治28年に新宿~飯田町間を複線化、明治37年(1904)に御茶ノ水まで延伸。また、日本の普通列車としてはじめての電化運転(電車)を開始。
東のターミナルとして万世橋まで延伸が予定されていたが、明治39年(1906)に鉄道国有化法により国有化し、甲武鉄道としての歴史は終了した。(万世橋駅の開業は国有化後の明治45年)


御所トンネル(四ツ谷駅側)
<丸ノ内線四ツ谷駅ホームより>

旧御所トンネル
明治27年(1894)、新宿~牛込(飯田橋)間を延伸するにあたって、陸軍の強い要望により青山練兵場を経由するルートで線路を敷設せざるを得なかった甲武鉄道は、 畏れ多くも「赤坂御料地(赤坂離宮・赤坂御用地・赤坂御所・迎賓館」「学習院初等科」の敷地の一部にトンネルを敷設。(もちろん陸軍が承諾の後押しをしている)
これが、煉瓦造りで造られた全長317mの「旧御所トンネル」

新御所トンネル
大正時代末期に中央本線を複々線化する工事が始まり、旧御所トンエルの西側に3線を通す新しいトンネルが、昭和4年(1929)完成の「新御所トンネル」(鉄筋コンクリート・385m)

現在は、旧御所トンエルを総武線下りのみが利用。新御所トンネルを中央線と総武線上りが利用している。

地下鉄丸の内線・四ツ谷駅。荻窪方面行きホーム後方から、よく観察できます。

旧御所トンネル 317M

こちらは、新御所トンネル。3連です。
同じく、丸ノ内線ホームより。

明治のトンネルと昭和初期のトンネルで、煉瓦造から鉄筋コンクリート造に変化してます。

新御所トンネル 385M


御所トンネル(四ツ谷駅側)
<中央線四ツ谷駅ホームより>

JR中央線の四ツ谷駅からは、新御所トンネルしか見えません。旧御所トンネルは死角。


御所トンネル(信濃町駅側)
<朝日橋より>

御所トンネルの新宿方面(信濃町側)も観察。
新御所トンネルと旧御所トンネル。
信濃町側は旧御所トンネルも鉄筋コンクリートになってますね。新御所トンネルが建造された際に統一されれたのでしょうか。


四ツ谷駅眺望

総武線の先には、迎賓館が見える。

丸の内線は、ギリギリで御所の脇を通過するが、総武線は、ギリギリで御所の敷地を通過している。

旧御所トンネルの四ツ谷口が丸ノ内線車両の先に見える。


位置関係(御所トンネル)

時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」 より (一部加工)

http://ktgis.net/kjmapw/kjmapw.html?lat=35.680682&lng=139.724132&zoom=16&dataset=kanto&age=0&screen=2&scr1tile=k_cj4&scr2tile=k_cj4&scr3tile=k_cj4&scr4tile=k_cj4&mapOpacity=10&overGSItile=no&altitudeOpacity=2

赤坂離宮の敷地の下を・・・。
文字通り、赤坂御所(赤坂離宮)の下を通過する「御所トンネル」です。

Google航空写真(一部加工)

https://goo.gl/maps/ejmv9ZDX8argh34u9


迎賓館前

御所トンネルは、現在は迎賓館前の「新宿区立若葉東公園」の下を通過している。


青山練兵場停車場跡

甲武鉄道(現在の中央線)は、甲州街道ルートを目指していたが、陸軍の強い要請で南回りルート(千駄ヶ谷・信濃町ルート)での線路敷設に変更させられた。その理由は「青山練兵場」に軍用停車場を設置するため。
そしていまでも、青山練兵場に通じていた線路の名残が側線として、残っている。

線路と首都高速4号線の間に側線が見える。この側線が当時の青山練兵場停車場の名残。
首都高速4号線の左側が、明治神宮外苑(当時の青山練兵場)。

千駄ヶ谷駅ホームから、側線を望む。
右側の緑の茂みに伸びる側線が「青山練兵場停車場」の名残。

隣の駅、信濃町駅のホームも見える。


位置関係(青山練兵場停車場)

Goo地図-1907年(明治40年)を一部加工

https://map.goo.ne.jp/map/latlon/E139.43.18.149N35.40.38.381/zoom/11/?data=meiji

当時、青山練兵場の北側には「陸軍第一師団輜重兵第一大隊」があった。
青山練兵場と陸軍第一師団輜重兵営との間は、3つの跨線橋があったが、現在は1つのみ残されている。(跨線橋=大番町跨線橋は後述)

明治天皇が崩御された際に、大喪の義は青山練兵場で執り行われた。
葬場殿の後方にあった「青山仮停車場」で、東京の人々は、 明治天皇と最後のお別れを行い、そして 明治天皇のお棺は、京都桃山に鉄路で向かわれた。

また、陸軍第一師団輜重兵営の敷地は大正9年に慶應大学に売却され、現在は慶應義塾大学病院となっている。
当時の名残として「陸軍境界石」が残されている。

青山練兵場の北側にあった輜重兵営は、世田谷に移転している。

そして、青山練兵場は、代々木練兵場に移転している。

ちなみに都内の練兵場としては、日比谷→青山→代々木と移転している。


大番町跨線橋(大番町通跨線道路橋)

前述の青山練兵場停車場跡を上から撮影したのが、「大番町跨線橋」。
青山練兵場と陸軍第一師団輜重兵営の間には、3つの跨線橋があったが、現在は一つのみ残されている。

この橋の正式な名称は、「大番町通跨線道路橋」というのかもしれない。

しかし交差点では「無名橋」と記載。

青山練兵場とともにあった跨線橋が、当時を物語る戦跡。
いまでは「無名な橋」とされているが、今も昔も南北を往来する貴重な橋として名前は知られずとも活用されていた。

※本記事の撮影は、2020年8月及び2021年3月


明治神宮外苑

青山練兵場の跡地、明治神宮外苑など。

花の都の靖國櫻(戦後76年)

静静と花見を。

靖國神社の御英霊と共に愛でる。
桜花で祭り、そして祀る。


散る桜 残る桜も 散る桜

良寛和尚

奉頌歌「靖國神社の歌」

日の本の 光に映えて
尽忠の 雄魂祀る
宮柱 太く燦たり
  あゝ大君の 御拝し給ふ
  栄光の宮 靖國神社

日の御旗 断乎と守り
その命 国に捧げし
ますらをの 御魂鎮まる
  あゝ国民の 拝み称ふ
  いさをしの宮 靖國神社

報国の 血潮に燃えて
散りませし 大和をみなの
清らけき 御霊安らふ
  あゝ同胞の 感謝は薫る
  桜咲く宮 靖國神社

幸御魂 幸はへまして
千木高く 輝くところ
皇国は 永遠に厳たり
  あゝ一億の 畏み祈る
  国護る宮 靖國神社

奉頌歌「靖國神社の歌」 昭和16年(1941)03月  
献納:主婦之友社 作詞:細渕国造 作曲:陸海軍軍楽隊

軍歌「同期の桜」

貴様と俺とは 同期の桜
同じ兵学校の 庭に咲く
咲いた花なら 散るのは覚悟
みごと散りましょ 国のため

貴様と俺とは 同期の桜
同じ兵学校の 庭に咲く
血肉分けたる 仲ではないが
なぜか気が合うて 別れられぬ

貴様と俺とは 同期の桜
同じ航空隊の 庭に咲く
仰いだ夕焼け 南の空に
未だ還らぬ 一番機

貴様と俺とは 同期の桜
同じ航空隊の 庭に咲く
あれほど誓った その日も待たず
なぜに死んだか 散ったのか

貴様と俺とは 同期の桜
離れ離れに 散ろうとも
花の都の 靖国神社
春の梢に 咲いて会おう

同期の桜

靖國神社の桜

写真を。

令和3年(2021年)
東京の桜開花基準木である靖國神社のソメイヨシノ開花宣言は、3月14日午後であった。
これは、令和2年(2020年)に並んで観測史上最も早い開花であった。
(平年より早い開花は9年連続)

撮影は令和3年3月23日-26日



大本営地下壕と市ヶ谷記念館(防衛省・市ヶ谷台ツアー)

市ヶ谷台ツアーに参加してきました。
「大本営地下壕跡」を中心に掲載していきます。

以前に「市ヶ谷ツアー」に参加したときとは、コースも大きく変更されてますね。
特に大きな変更点は「メモリアルゾーン」への見学が無くなったこと。

以前の「市ヶ谷ツアー」のレポートは以下も参照に。
※大講堂の展示資料の多くは重複するので、以前のレポートに譲ります。

ちなみに、かなり特殊ですが、運良く、メモリアルゾーンの見学もしました。ここは、一般向け見学ツアーには含まれておりません。


市ヶ谷台ツアー

大本営地下壕跡

今回、「市ヶ谷台ツアー」に参加した最大の理由は、もちろん「大本営地下壕跡」の見学のため。

補修工事後の2020年8月から「市ヶ谷台ツアー」の午後の見学コースとして一般公開を開始。
防衛省市ヶ谷地区を見学できる「市ヶ谷台ツアー」は事前予約・定員制。大本営地下壕跡が見学できる午後の部は参加定員も少ない。開催は平日のみ。土日祝は無しのために、平日に時間を捻出しない限り参加できないので、人によっては参加条件の難易度が高い。

防衛省・自衛隊>市ヶ谷地区(市ヶ谷台ツアー)の御案内

https://www.mod.go.jp/j/press/ichigaya/index.html


儀仗広場の石灯籠(地下壕の通気筒)

儀仗広場の奥に見える石灯籠。
実は、大本営地下壕の通気筒。地上部は石灯籠によりカモフラージされている。
石灯籠は2基設置されているが、儀仗広場から見えるのは、1基のみ。

ちなみにこの日は、外国からの来賓があった。そのため、日本国旗は中央ではなく右側に。
一度掲げた国旗は、揚げ直しは出来ないため、この日はこのまま右側で掲揚。

中央に掲揚でない日本国旗を見るのは、レアかもしれない。

地下壕に入る前に、ヘルメットが支給されます。


大本営地下壕

この地下壕は、第二次世界大戦中に市ヶ谷台に置かれた陸軍中枢機関の防空壕として建設されました。
平成28年5月の観光立国推進閣僚会議において「観光ビジョンの実現に向けたアクション・プログラム2016」が決定されたことを受け、将来的な保存・公開が検討され、構造物の調査が行われました。
その後、耐震補強や老朽化防止対策が施され、公開されることとなりました。

江戸城周辺の要衝
市ヶ谷台は海抜31.4m、江戸城の西北に位置し、江戸城周辺における最も高台の要衝の地であり、明暦2年、尾張徳川家第2代光友公が上屋敷を築いた。明治時代には陸軍士官学校が開校した。

陸軍中枢機関の移転
昭和12年に士官学校本科が神奈川県座間へ、昭和16年に予科士官学校が埼玉県朝霞へ移転し、代わって大本営陸軍部、陸軍省、参謀本部等の陸軍中枢機関がこの地に移転した。地下壕は、大本営陸軍部等が入る建物(旧陸軍士官学校本部)地下に建設された。

終戦
当時の軍人の記録によれば、昭和20年8月10日、阿南惟幾陸軍大臣が将校らをこの地下壕に集め、8月9日の御前会議においてポツダム宣言受諾を決断した昭和天皇の聖断を伝えたとされている、戦後は、GHQ(連合国最高司令官総司令部)が使用した後、昭和34年に返還された。

地下壕は南北に3本、東西に2本、南側には出入り口が6扉設けられ、北側は階段で建物とつながっていた。

大本営・大本営陸軍部
大本営は、戦時または事変に際して設置された、天皇を補佐する最高の統帥機関。明治26年5月の「戦時大本営条例」により、制度化され、日清戦争及び日露戦争において設置された。その後、日中戦争の拡大にともない、昭和12年11月20日設置され、太平洋戦争を通じて存続し、昭和20年9月13日に廃止された。この期間の大本営の構成は軍人に限定され、首相や分館が除かれたため、大本営とは別に、大本営政府連絡会議、のちに最高戦争指導会議などの政府との協議体が設けられた。

大本営陸軍部は、参謀本部とほぼ同一の組織である大本営陸軍部幕僚(大本営陸軍参謀部及び陸軍副官部)と、兵站総監部や大本営陸軍報道部等からなる大本営陸軍部諸機関より構成されていた。また、軍政に関する事務を処理するため必要な人員として陸軍省から陸軍大臣、同次官、人事局長、軍務局長など10数名が加わった。昭和12年の設置以降、戦線の拡大にともない逐時機構を拡大し、昭和20年5月には定数が1792名となっていた。

終戦間際の地下壕
終戦時に陸軍省軍務局軍務課内政班長を勤めていた竹下正彦中佐の記した「機密終戦日誌」によれば、1945(昭和20)年8月10日、阿南惟幾陸軍大臣が陸軍省幹部をこの地下壕に集め、8月9日の御前会議においてポツダム宣言受諾を決断した昭和天皇の聖断を伝えたとされている。


昭和二十年八月十日
一、昨夜二十三時ヨリ開カレタル御前会議ハ本朝三時過終了引キ続キ閣議アリ
二、九時三十分ヨリ地下防空壕ニ於テ陸軍省高級部員以上ノ集合ヲ命ゼラレ大臣ヨリ昨日ノ御前会議ノ模様ニ付左記要旨ノ説明アリ

左記
昨夜十一時ヨリ本朝三時ニ亘リ御前会議開催セラレ皇室ノ保全ヲ条件トシテ「ポツダム」宣言内容ノ大部ヲ受諾スルコトニ 御聖断アラセラレタリ
(略)
 「機密終戦日誌」より引用

市ヶ谷台の歴史
江戸時代
・1656年3月 尾張徳川家第2代光友が第4代将軍家綱から市ヶ谷台に5万坪を拝領
・1657ね1月 明暦の大火を機に尾張徳川家が上屋敷を設置
明治・大正時代
・1868年3月 江戸城開場に際して官軍の砲兵陣地を設置
・1871年   西郷隆盛率いる御親兵が駐屯
・1974年12月 陸軍士官学校開校
・1923年9月 関東大震災によって校舎の大部分が消失
昭和時代
・1937年6月 陸軍士官学校本部庁舎竣工
・1937年8月 陸軍予科士官学校創設、陸軍士官学校が座間へ移転
・1941年12月 太平洋戦争開戦
       陸軍予科士官学校が朝霞へ移転
       大本営陸軍部、陸軍省、参謀本部などが三宅坂から移転
・1945年8月 終戦
・1945年12月 第一復員省設置
・1946年5月 連合国軍進駐、極東軍事裁判開廷
・1947年   米極東軍司令部、国連軍司令部、米国将校宿舎等として使用
・1959年   連合国軍から返還
・1960年1月 陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地開設

大本営地下壕
地下壕は南北に3本、東西に2本の壕が交差した構造となっている。3か所の出入り口には、堅固な鉄扉が取り付けられ、内部には大臣室、通信室、炊事場、浴槽等の設備を備えていた。また、通気筒が2か所あり、地上部は日本庭園に石灯籠を配置しカモフラージュした。
全体:幅48m x 奥行52m
通路:幅4.6m x 高さ4m
構造:鉄筋コンクリート構造
面積:1342.21平方m

地下壕の通気孔。
この通気孔は直線ではなく、内部で折り曲がった上で地上の石灯籠とつながっている。直線ではないのは、万が一の爆撃が直撃する恐れもあり、また光を漏らさないための工夫であった。

当時の壁面を一部残している。鉄骨で構築されているのがわかる。
この箇所以外の壁は保存補強で上塗りされている。

米軍占領時代に記載。

No Smoking

陸軍大臣室ちかくの通風孔。

東西を結ぶ地下壕。

柱の奥が「陸軍大臣執務室」(手前)や「通信所」(その奥)跡。
左側の通路は「食堂室跡」へつながる。

「陸軍大臣執務室」(手前)や「通信所」(その奥)跡

南北の地下壕。奥には庁舎につながっていた階段がある。

便所跡
(大便器跡)

便所跡
(小便器跡)

南側の出入り口につながる扉跡。

分厚さがわかる。

出入り口には鉄扉があった。

重厚なコンクリートで覆われた出入り口。

陸軍中枢の大本営地下壕。絶対に何があっても護られる重厚な地下壕。
貴重な見学となりました。

以下、地下壕以外の見学記録も。


市ヶ谷台ツアー

防衛省庁舎 D棟 E棟

防衛省庁舎 A棟 D棟

bぼうえいしょう防衛省防衛省t庁舎庁舎

防衛省庁舎B棟 陸海空各自衛隊の通信部隊が使用する通信局舎


市ヶ谷記念館

陸軍士官学校本部として建設された建物の象徴的な部分を移設・復元。


市ヶ谷記念館
大講堂

昭和9年に陸軍士官学校の大講堂として造られた。
昭和21年5月から同23年11月までの間、極東国際軍事裁判(東京裁判)の法定として使われた。

玉座

玉座に集まるように設計された壁面

玉座からみて、扉を小さく見せる工夫。
2階のせり出しをギリギリまで下げている。

よく見ると斜面。
扉を小さく見せ、2階部分を高く見せないための工夫。

玉座の陛下の目線から、2階を上に感じさせない構造となる。


極東国際軍事裁判・証言台(復元)

極東国際軍事裁判の証言台をイメージ。実際に置かれた場所に設置。
大講堂は「陸軍士官学校」時代を再現しているが、ここは「東京裁判」な空間。


極東国際軍事裁判・裁判官出身国国旗(復元)

こちらの大講堂が極東国際軍事裁判の法定として使用された際に裁判官席の後方に設置された裁判官の出身国の国旗(1946年当時)を再現したものです。

インド、オランダ王国、カナダ、グレートブリテン及び北アイルランド連合王国(イギリス)、アメリカ合衆国、オーストラリア連邦、中華民国、ソビエト社会主義共和国連邦、フランス共和国、ニュージーランド、フィリピン


大講堂の床も復元にあたって当時の材質を忠実に利用。

矢印の場所は、復元するために位置情報をマーキングしていたシールの跡。
きれいな板は新しく用意した板。それ以外は当時からの板を再利用。


旧陸軍士官学校長室
旧陸軍大臣室
旧陸上自衛隊東部方面総監執務室

士官学校時代は、士官学校校長室。
昭和16年以降は、陸軍大臣室。
戦後は陸上自衛隊東部方面総監執務室であった。

陸上自衛隊東部方面総監執務室時代に、三島由紀夫が扉につけた刀傷が3箇所残っている。
以前はマークはなかったが、いつのまにかわかりやすい表示に進化。

陸上自衛隊時代の旧1号館の復元模型。

バルコニー。三島由紀夫が演説した場所。

大本営陸軍部
陸軍士官学校

表札


旧便殿の間

士官学校時代、 陛下の休憩所として使用された。
戦後は、陸上自衛隊幹部学校長室として使用。

通常の扉は中からは引く扉であるが、 陛下が中から引くことを想定しておらず、外から引く扉となっている。

当時は冷房がなかった時代。地下からの冷気を部屋に取り込むために冷却ダクトが備えられている。

昭和9年の特別大演習の集合写真。


陸軍士官学校歴代校長

2代校長 中将 大山巌
3代校長 中将 谷干城

9代 14代 校長 中将 寺内正毅

20代校長 中将 白川義則 (上海事変)
21代校長 中将 鈴木孝雄 (鈴木貫太郎の弟)

23代校長 中将 南次郎 (満州事変の陸軍大臣)
25代校長 中将 真崎甚三郎 (皇道派 二・二六事件)

陸軍予科士官学校歴代校長

初代予科校長 少将 甘粕重太郎 (甘粕正彦の従兄弟)
2代予科校長 中将 牛島満 (沖縄戦)
3代予科校長 中将 牟田口廉也 (ジンギスカン)


警察予備隊本部
警察予備隊で使用していた看板
昭和25年に国家地方警察本部から分かれ警察予備隊本部が越中島に設置された。

防衛庁
元防衛帳南門で使用していた看板
昭和45年 中曽根元総理揮毫

市ヶ谷記念館のシンボル
「大時計」「桜」

「大時計」
「1号館」の大時計として、平成9年の解体まで波瀾万丈の時を刻んだ。

「桜」
陸上自衛隊東武方面総監部等が使用した「1号館」のシンボルとして、長い間人々に親しまれた。



市ヶ谷記念館の西隣りに。(以前のツアーの際は見学コースに含まれておりませんでした)

スディルマン・インドネシア共和国初代国軍司令官

スディルマン・インドネシア共和国
初代国軍司令官

 本銅像は、プルノモ・インドネシア共和国国防大臣より防衛省に対し、日・インドネシアの友好親善及び日・インドネシア防衛協力・交流の今後の発展の象徴として寄贈されたものである。
 本銅像のスディルマン・インドネシア共和国初代国軍司令官とは、オランダとの独立戦争の指導者であり、インドネシアの国民的英雄である。1916年生まれ。師範学校を出て教師になったが、独立戦争のため、軍に参加。日本軍政の時、日本軍の軍事訓練を受け大団長(大隊長)を務めた経験もあり、1945年、最年少で将軍になる。インドネシア政府は業績をたたえ、記念碑を建立。彼の名は、首都ジャカルタをはじめ国内主要都市の最も繁華な通りの名前につけられ、大学の名前にもなっている。


同じく市ヶ谷記念館の西隣りに。

旧歩兵第一連隊営門

旧歩兵第一連隊営門の由来
 防衛庁が所在した檜町地区は、江戸時代には毛利藩中屋敷があったが、明治4年12月に国有地となり、明治6年5月、日本陸軍の名誉ある頭号歩兵連隊として創設された東京鎮台歩兵第一連隊が駐屯することとなった。爾来、同連隊には34代にわたる連隊長が在職したが、その中でも乃木希典は第2代歩兵第一連隊長(明治11年~15年)であり、彼の住居は今も旧防衛庁の近隣に現存し、昔日の姿を残している。
 大正12年の関東大震災に伴い損傷を受けた連隊本部は取り壊され、連隊はしばらくの間バラックを使用していたが、昭和4年8月に連隊本部の建物(旧防衛庁庁舎20号館)及び営門(本展示物)が竣工した。
 その後、幾多の昭和の激動を経た連隊本部は、その営門と共に昭和20年5月25日の東京大空襲による焼失を免れ、終戦を迎えた。
 戦後、昭和21年から米軍が駐屯したが、旧20号館は営門とともに残置された。昭和34年の米軍移駐に伴い、昭和35年、それまで霞が関に所在していた防衛庁は桧町に移転し、旧20号館は防衛庁の庁舎として使用されるとともに営門は檜町の象徴として保存された。
 昭和53年4月、老築化が進んでいた既設の塀は建て替えられたが、営門は敷地内に引き続き保存されることになった。
 平成12年、防衛庁本町庁舎の市ヶ谷地区への移転完了に伴い、檜町地区の既存建物は旧20号館を含め逐次解体されたが、昭和35年に霞が関から檜町地区に移転して以来、防衛庁・自衛隊を見守ってきた営門は、檜町地区における唯一の歴史的建造物として、ここ市ヶ谷地区に移設された。
 この旧歩兵第一連隊本部の営門は、檜町地区勤務経験者にとって王子を偲ばせるものになるとともに、21世紀を担う若い自衛隊隊員とこの市ヶ谷の地に繰り広げられる諸々の出来事を、これからも見守り続けていくことであろう。
 平成15年7月


戴き物

防衛省 市ヶ谷台ツアー 来場記念品
防衛大臣のメッセージカードとポストカード

是非、足を運んでみてください。


関連

市ヶ谷水管橋

都内最古の道路鉄橋「南高橋」(中央区)

昭和7年(1932)に架橋された「南高橋」。
もともとは明治37年(1904)に架橋された「両国橋」中央部を移築改良したもの。(「旧両国橋」)

現存する道路橋としては「都内最古の鉄橋」
都内に残る鋼鉄トラス橋としては「2番目に古い橋梁」。(最古は八幡橋(人道橋))
車両通行可能な鋼鉄トラス橋としては「全国で6番目に古い橋梁」

中央区民文化財
南高橋 (みなみたかばし)
  所在地 中央区 新川2丁目/湊1丁目(亀島川)
 創架年代は 昭和6年(1931)に起工 同7年月3日に竣工
現在の南高橋の地には江戸時代には木橋は架橋されておらず、亀島川上流に高橋があったのみでした。大正12年(1923)の関東大震災ののち、街路の大規模な区画整備が行われた時に当時の本湊町と対岸の越前堀1丁目との間の亀島川に新しく橋を架けることになりました。
 東京市は、多くの橋を改架したため、予算も乏しくなりました。そのため明治37年(1904)に改架され、大震災で損害を受けた隅田川の両国橋の3連トラスの中央部分を補強し、橋幅を狭めて南高橋として架設したのです。
 都内において、珍しくも明治37年のトラス橋の一部が現在に残ることとなり、その意味でも近代の土木遺産として貴重です。都内に残る鋼鉄トラス橋としては江東区に移転した八幡橋(旧弾正橋)についで2番目に古く、車両通行可能な鋼鉄トラス橋としては全国で6番目に古い橋梁になります。区民有形文化財に登録されています。
  平成14年3月
   中央区教育委員会

南高橋
 この橋は、亀島川の河口に位置し、関東大震災の復興事業の1つとして、昭和7年(1932)に架けられました。橋の主要部は、明治37年(1904)に架けられた旧両国橋の材料を利用して作られたもので、都内に現存する鉄橋のうち道路橋としては、最も古い橋です。
 また構造上の特徴は、トラスの1部材の端に丸い環のついた”アイバー”が用いられており、全体はピントラス橋とも呼ばれています。このため明治期の技術を今に伝える貴重なものとして、中央区民文化財に登録されています。
 平成28年(2016年)に、土木学会選奨土木遺産として認定されました。

「歌舞伎座前より乗合自動車に乗り鉄砲洲稲荷の前にて車より降り、南高橋をわたり越前堀なる物揚波止場に至り石に腰かけてて名月を観る。石川島の工場には燈火煌々と輝き業務繁栄の様子なり。水上には逗州大島行の汽船二三艘泛びたり。波止場の上には月を見て打語らう男女二三人あり。岸につなぎたる荷船には頻に浪花節をかたる船頭の声す。」
 (昭和9年7月・永井荷風「断腸亭日乗」より)

橋梁の諸元
型   式 : 下路式単純プラットトラス橋
橋   長 : 63.1m
有効幅員:11.0m(車道6.0m 歩道2.5m×2)
着   工 : 昭和6年1月
竣   工 : 昭和7年3月
総 工 費 : 76,600円
施 工 者 : 東京市
  平成28年11月 中央区

土木学会選奨土木遺産
2016
南高橋

南高橋をあっちこっちから観察。

上流から撮影

すぐ南側は、黒島川水門


場所

https://goo.gl/maps/crShkFe7FupLPaYQ7


都内最古の鉄橋 八幡橋

両国橋

鎌倉橋の機銃掃射弾痕(千代田区)

鎌倉橋

日本橋川に架かるコンクリート橋。
関東大震災の復興橋の一つで、昭和4年(1929)4月25日の架橋、長さ30.1m、幅22.0mのコンクリ-ト橋。
名前の由来は、江戸城を築くときに鎌倉から石材をここの河岸(内神田寄り)に陸揚げしたので、この河岸を鎌倉河岸と呼んだことによるという。
鎌倉橋の真上は首都高速の神田橋ジャンクション。

この鎌倉橋には弾痕や焼け焦げた跡が残っている。

まちの記憶
1944年 昭和19年
日本本土市街地への空襲が始まる
鎌倉橋欄干には、1944年11月の米軍による爆撃と機銃掃射の際に受けた銃弾の跡が大小30個ほどあり、戦争の恐ろしさを今に伝えている。

https://www.city.chiyoda.lg.jp/koho/bunka/bunka/chome/kioku/kushu.html

場所

https://goo.gl/maps/SVZvKm1uDtGF5xq96