「東京都‐23区都心部(千代田,中央,港)」カテゴリーアーカイブ

明治観音堂(明治座・日本橋浜町)

浜町公園、都営新宿線浜町駅のすぐ近く。もっというと、明治座の目の前。そこに東京大空襲に関係する慰霊堂があった。

明治観音堂

昭和20年3月10日、東京大空襲。
指定避難所であった「明治座」には多くの人びとが避難していたが、界隈で犠牲となった人々を弔うために建立された観音堂。明治座の復興に力を注いだ、新田新作氏(戦後に復興した明治座の社長)の建立。

明治観音堂建立の由来
本堂は昭和二十年三月十日の
戦災に依り死没せる幾多の霊の
冥福を祈る為建立す

昭和二十五年十二月
発願主 新田新作

明治座と戦争
しかし時代は、昭和6年(1931)に満州事変が勃発しており、やがて日中戦争と次第に戦時色が強くなっていきます。第二次世界大戦が開戦し、昭和19年(1944)3月5日にはとうとう全国19か所の「高級興行場歓楽場」に対し、大劇場閉鎖の緊急事態が命じられます。しかし、3月20日には明治座他6劇場が解除になり、興行時間2時間半以内の演劇興行が再開されます。戦時中の厳しい状況の中でも、空襲のさなかにさえ、明治座はほとんど毎月幕を開けていました。
そして昭和20年(1945)3月10日の東京大空襲で、下町一帯は灰燼に帰し、明治座も例外ではなく外側を残し焼失しました。現在でも、明治座の前にはその被害者たちを慰霊した「明治観音堂」という小さな石堂が建っています。この石堂の発願主は力道山の後援者としても知られた新田建設社長の新田新作でした。新田は後始末に奔走します。新田と地元の有志を中心に明治座復旧期成会が結成され、そこから設立された株式会社明治座が松竹から所有権を譲り受け、明治座の着工がはじまりました。

明治座 https://www.meijiza.co.jp/anniversary/war/

観音堂のうしろには、明治座。

すぐ近くには浜町公園。観音堂も浜町公園の通路にあるので、公園内といっても問題ないかもしれない。

浜町公園

戦時中の浜町公園は、高射砲陣地が設置されていた。
そのため、浜町公園には、爆撃対象として狙われ、あたりは灰燼に帰した。

浜町公園のすぐとなりは、隅田川。

場所

https://goo.gl/maps/o1k1K78ZwXJYCRWy7

明治座

https://www.meijiza.co.jp/anniversary/war/

総務省

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/virtual/memorialsite/tokyo_chuo_city001/


位置関係

地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:8921-C2-18_
昭和19年(1944年)11月07日、日本陸軍撮影の航空写真を一部加工。

上記で浜町公園を拡大

こちらは戦後。高射砲陣地があった浜町公園は更地。
明治座の債権も始まっている。明治座は昭和25年(1950)に再建再興している。

ファイル:USA-M451-37
1947年09月08日、米軍撮影を一部加工

現在の様子。GoogleMap航空写真を一部加工。


関連

東京大空襲関連

はじめに

ブルーインパルスと東京パラリンピック2020

2021年8月22日。
東京パラリンピック2020の開会式予行のためにブルーインパルスが再び東京の空をフライトした。

前回、東京オリンピック2020開会式のブルーインパルスのフライトは、明治神宮で観覧。
今日は、パラリンピックに際しての予行フライト。

今回は、東京駅で観覧することとしました。

2021年8月22日・東京パラリンピック予行フライト
東京駅

東京駅の背後を一直線に飛び抜けるブルーインパルス。

14時3分。東京駅。北から南に。

ありがとうの気持ちを込めて拍手でお見送り。


ちなみに。。。

東京駅広場で結婚式の撮影をしている新婚さんがいました。
この時間の、このタイミングを狙っての、撮影は見事としか言いようがないです。
これは一生の思い出になりそうですね。

東京駅前広場。
撮影者が遠巻きに控えることで、自然と空間を開ける配慮が行われていました。


2021年8月24日 東京パラリンピック本番フライト
東京タワー

東京らしいところ、ということで東京タワーで観覧。
あいにくの曇り空。

あえて魚眼で撮影チャレンジ。
しょうしょう撮影には厳しいコンディションで色がうまく出せませんでした。。。

下の写真はトリミングで。

曇天であれ、東京タワーで見るブルーインパルスは、二度とない思い出。
ありがとうございました!


関連

昭和39年(1964)、東京パラリンピック開催。
日本代表選手53名。そのうち傷痍軍人(傷病兵)出身は7名であり、選手宣誓を行った青野選手も戦地で傷つき箱根療養所で療養していた傷痍軍人であった。

東京駅の近代史跡。

76年目の8月15日-靖國神社

靖國神社

雨の靖國神社。


放鳩式 靖國神社・午前10時

昨年に続き、本年の放鳩式も神社関係者のみでの開催。
一般参列者は観覧のみ。

8月15日 午前10時
「日本の声 英霊に感謝する集い」放鳩式
能楽堂前

靖國神社・山口建史宮司
「英霊ありがとう」の気持ちとともに放鳩

雨でピントが大変なことになってしまいました。。。

今年は鳩が舞うには辛い大雨。

「靖國神社白鳩の会」
毎年、呼び掛けをされておりました、講談師の宝井琴調さんは、今年はスケジュールの都合で不在でした。


正式参拝 靖國神社

正式参拝(昇殿参拝)を

御本殿
鎮まる御英霊の御心に
感謝し深く拝する

御英霊に感謝と哀悼を

ありがとうございました

社務所老朽化に伴う改修工事。令和3年8月2日~令和4年12月末日まで、とのことで。
また、境内の様相が変わりそうです。。。

参道


靖國神社・正午

国歌

君が代は
千代に八千代に
さざれ石の
いわおとなりて
苔のむすまで

黙祷

毎年、この場所で、海行かばを。。。

海行かば

海行かば 水漬く屍
山行かば 草生す屍
大君の 辺にこそ死なめ
かへりみはせじ

うみゆかば みづくかばね
やまゆかば くさむすかばね
おほきみの へにこそしなめ
かへりみはせじ

終戦の玉音放送

宮内庁サイト

https://www.kunaicho.go.jp/kunaicho/koho/taisenkankei/syusen/syusen.html

https://www.kunaicho.go.jp/kunaicho/koho/taisenkankei/syusen/pdf/syousyo.pdf

現代語訳

https://www.huffingtonpost.jp/entry/story_jp_6102140fe4b0d1b96e621f96


遊就館

久しぶりに。


麦茶接待所

毎年、ありがとうございます。
今年は雨で冷え込んだということもあり、冷たい麦茶だけではなく温かい麦茶も用意して戴きました。


靖國神社参道

大雨の8月15日。雨の8月15日は何年ぶりだろう。。。


御朱印

久しぶりに戴きました。


知覧茶

あぁ、これは、、、趣深い飲み物、、、

富屋食堂の知覧茶
この知覧茶は、靖國神社外苑休憩所の靖國八千代食堂と知覧富屋食堂との共同企画商品です。
特攻の母と言われた鳥濱トメさんのご遺徳と、
先の大戦で散華された特攻隊員の方々の想いを偲び、
特攻の地、知覧の茶葉を100%使用致しました。


千鳥ヶ淵戦没者墓苑

こちらにも足を運びました。
合掌。

76年目の終戦の日。
「戦没者を追悼し平和を祈念する日」


関連

神田駅西口高架橋に残る機銃掃射弾痕?

神田駅西口から「煉瓦造りの高架橋」を散策してみました。


JR神田駅

大正8年(1919)、中央本線の万世橋駅ー東京駅間の途中駅として開業。
今も活用されている「高架橋」は開業と同じく大正期に建造。高架橋は当時の最新技術であった鉄筋コンクリート造りをベースと赤レンガ装飾を施している。これは、明治後期に新橋駅ー東京駅間の総レンガ積み高架橋と外観を統一するためであった。

JR神田駅西口から南に向けて。
今も残る「赤れんがの高架橋」を丹念にみてみると、ところどころに欠けが見受けられる。これは一説によると「機銃掃射の弾痕」だという。
そう思って、改めて観察してみると確かに「機銃掃射弾痕」に見えてくる。

近隣では、日本橋川に架かる「鎌倉橋」にも機銃掃射弾痕がある。
鎌倉橋は昭和19年11月の空襲であったというが、神田駅の高架橋に残された弾痕はいつのものかは不詳。


神田駅西口高架下に残る機銃掃射弾痕?

神田駅西口を出て、すぐ目の前の高架橋。さっそく弾痕ぽい跡があったけれども、いったんは、ちょっと北側に歩いてみて、順番に見ていきましょう。

第2鍛冶町橋高架橋(北側)

第1鍛冶町橋高架橋(南側)

神田駅西口改札側

新石橋架道橋(北側)

焼け跡?

新石橋架道橋→新石町橋高架橋

神田駅西口改札の道路を挟んだ南側。

新石橋架道橋から新石町橋高架橋の間

新石町橋高架橋(南側)

千代田町橋高架橋(北側)

千代田町橋高架橋


神田駅の周辺に、こんなに機銃掃射弾痕が残っているとは、露知らず、でした。
スキマ時間でも、散策できるスポット。ちょっと気にして歩いてみるのも良い感じです。


関連

煉瓦に対する機銃掃射としては、半田赤レンガ建物(中島飛行機半田製作所・衣糧倉庫)もある。

平河天満宮に残る機銃掃射弾痕

平河天満宮。文明10年(1478)、太田道灌の創建による天満宮。
江戸三大天神の一つとも称される平河天満宮にも戦争の爪痕が残っているというので足を運んでみた。


平河天満宮

菅原道真公を祀る。
江戸平河城城主太田道灌公が、ある日菅原道真公の夢を見た翌朝に、菅原道真公自筆の画像を贈られたこともあり、その夢を霊夢であるとし、文明10年(1478年)に江戸城内の北へ天満宮を建立したことに始まる。
徳川家康の江戸入府と江戸城再整備にあたり、平川門外に遷座。徳川秀次の代に現在地に奉遷され、平河天満宮の遷座したこの地が平河町と呼ばれるようになった。

平河天満宮は、1923年(大正12年)の関東大震災、1945年(昭和20年)の戦災ではほとんどの施設を焼失している。戦後、仮社殿にて祭祀を執り行っていたが、1969年(昭和44年)に本殿が再建されている。


平河天満宮・銅鳥居

弘化元年(1844)12月、奉納された銅鳥居。千代田区最古の鳥居という。千代田区指定文化財。

左右の柱木には丸く銅板が欠損し、内部の石が露出している部分があります。これは戦時中、空襲の際の機銃掃射によるものです。

機銃掃射の弾痕。銅板を丸く削っている。

鳥居の貫の部分など、焦げたような跡が残る。


平河天満宮・石牛

嘉永5年(1852)奉納。常夜燈と同じく菅原道真公の950年遠忌の奉納であった。千代田区指定文化財。
石牛のところどころの欠損など、戦争の爪痕かどうかは定かではない。


平河天満宮・狛犬

享和元年(1801)の奉納。千代田区指定文化財。
平河天満宮は、たびたび火災に見舞われているために、焼けたような痕跡も見受けられるが、これが戦災によるものか関東大震災によるものか、江戸時代の大火によるものかの判別は難しい。
狛犬の頭上にはかつては角もあったが、欠け落ちた(焼け落ちた?)という。


平河天満宮・常夜燈

嘉永5年(1852)奉納。千代田区指定文化財。
かつては2基あり左右一対であったが、昭和20年(1945)の空襲で被災した際に、破損し、1基のみ残る。
奉納された嘉永5年は、石牛と同じく菅原道真公の950年遠忌に当たる年であった。


平河天満宮境内

ご社殿は、1969年(昭和44年)の再建という。

桜の季節の参拝でした。

※撮影2021年3月

瓜生外吉海軍大将之像と瓜生外吉墓(小田原と南青山)

小田原に、海軍大将 瓜生外吉 が晩年に隠棲した邸宅があった。


瓜生外吉(うりゅう そときち)

安政4年1月2日(1857年1月27日) – 昭和12年(1937年)11月11日)
大日本帝国の海軍軍人。海軍大将。加賀藩支藩の大聖寺藩(石川県)の出身。

海軍兵学校は卒業していないがアナポリス海軍兵学校に留学をしており明治海軍有数のアメリカ通。
瓜生外吉夫人の瓜生繁子は三井物産の益田孝の実妹。明治新政府の第一回海外女子留学生(日本初の女子留学生)として渡米し10年間のアメリカ経験あり。三井物産初代社長の益田孝は義理の兄となる。
そして、「東洋のセシル・ローズ」と称された衆議院議員・森恪は女婿(瓜生栄枝・瓜生外吉の三女)となる。

明治33年(1900)、海軍少将・軍令部第1局長。
明治37年(1904)2月4日、日露戦争開戦。第四戦隊司令官として参加。
開戦直後の明治37年2月9日、瓜生外吉率いる第四戦隊(旗艦・巡洋艦浪速、高千穂、明石、新高に、臨時で装甲巡洋艦浅間と第九艇隊および第十四艇隊の水雷艇8隻)は、仁川のロシア海軍・防護巡洋艦「ヴァリャーグ」と航洋砲艦「コレーエツ」を、日露戦争の口火を切った「仁川沖海戦」で撃破。瓜生外吉率いる第四戦隊が初戦の勝利を飾る。

日露戦争後、佐世保鎮守府長官・横須賀鎮守府長官を歴任。
大正元年(1912年)10月16日、海軍大将に昇級。薩摩出身者以外では2番目の海軍大将であった。
ちなみに、薩摩閥以外での1番目の海軍大将は会津白虎隊出身の出羽重遠(日露戦争では第三戦隊司令官)。出羽重遠は明治時代で唯一の薩摩閥外の海軍大将。とはいっても明治45年(1912)7月9日に海軍大将となっているので、瓜生外吉の3ヶ月前。
大正2年(1913年)、予備役に編入。

瓜生外吉は義兄である三井物産創始者・益田孝の勧めで、海軍退役後の大正2年に、小田原天神山に隠棲の別荘を設けて移り住んだ。
大正11年に体調を悪くし、小田原で療養中に大正12年の関東大震災に遭遇。一度、都内に転地療養し全快。
大正14年以降、再び小田原別邸に移住。
瓜生邸付近の道路が狭隘で、その上石段があるため、自動車の通行が不可能であったため、義兄・益田孝の経済的な援助と、海軍部員の奉仕によって工事が施行され、完成後に「瓜生坂」と呼ばれるようになった。
瓜生外吉は小田原を愛し、地元海軍部員はもとより、地域の人々とも交流が深かったという。(死後に地域の人々により記念の胸像が建立された)
昭和12年11月11日、81歳の天寿を全うした。正二位勲一等旭日桐花大授章が追贈。


瓜生海軍大将之像

作者は、北村四海。大正6年(1917)の作。
瓜生外吉没後、小田原町第十六区民・山角町青年誠友会員により、昭和14年(1939)5月27日、山角天神社の石段中途左に「瓜生海軍大将之像」が東京の瓜生邸から山角天神社へ移築され建立された。

瓜生海軍大将之像

昭和14年5月27日
小田原町第十六区民 
山角町青年誠友会員 建設

瓜生外吉海軍大将之像
Statue of Admiral Baron Sotokichi Uriu, I.J.H.
 瓜生外吉(1857‐1937年)は、米アナポリス海軍兵学校を卒業。
 日露戦争(1904‐1905年)の仁川沖、蔚山沖、日本海の各海戦で活躍し、1912年に海軍大将に昇進しました。
 後年は夫人繁子(日本初の女子留学生)とともに対米民間外交、親善に尽力しました。
 ここから」西に200mほどの高台に別荘を設けた外吉は、誠実な人柄が市民に敬愛され、海を眺めての小田原の生活をこよなく愛しました。

小田原の海を望む。

坂に名を残した人・瓜生外吉(海軍大将・男爵)

山角天神社


瓜生坂

すみません、写真を取りそこねております。
Googleストリートビューのキャプチャを暫定で掲載しておきます。。。

瓜生坂は、海軍を退役後に小田原天神山の別荘に移り住み、入退院を繰り返していた瓜生外吉を車で移動できるようにするため、義兄の益田孝の援助と、交流のあった海軍関係者が奉仕活動で造った坂。

https://www.kanaloco.jp/news/social/entry-110665.html


場所は変わって。。。東京の青山霊園

瓜生外吉の墓

場所は、1種イ22号5側。訪れたときは、ちょうど薔薇の花が賑わっていました。

海軍大将正二位
勲一等功二級男爵
瓜生外吉墓

隣には瓜生夫人の墓も。

従五位 瓜生繁子之墓

瓜生外吉の長男、瓜生武雄は、明治41(1908)年4月30日の松島爆沈事故で殉職している。

海軍少尉従五位瓜生武雄墓

明治41年4月30日軍艦松島
馬公港爆裂之際殉難齒廿三


森恪の墓(もり かく/もり つとむ)

青山霊園には、森恪の墓もありました。瓜生外吉の女婿(瓜生栄枝・瓜生外吉の三女)。
青山霊園内を散策していたら、たまたま見つけましたので参詣。
ちょっと墓地が荒れていました。。。
場所は、1種ロ8号1側。


小田原の瓜生海軍大将之像から、東にちょっと行った所に、対潮閣跡がある。
海軍史としては、秋山真之終焉の地。瓜生外吉とは日露戦争の縁もあり、ここに付記する。

対潮閣(山下亀三郎別邸)《秋山真之終焉の地》

山下亀三郎は、山下汽船(現・商船三井)の創業者。
現在は、邸宅は残っておらず、個人宅・私邸が分割されている。
対潮閣の正面玄関があった場所に、説明の看板がある。

対潮閣(山下亀三郎別邸)跡(秋山真之終焉の地) 
 明治時代から、小田原には、伊藤博文、山縣有朋、益田孝(鈍翁)、田中光顕、北原白秋など多くの政財界人や文人が居を構えたり、訪れたりしていた。
 山下汽船(現・商船三井)の創業者山下亀三郎(1867~1944)の別邸「対潮閣」の正面入口がこの辺りにあった。
 対潮閣には、山下と愛媛の同郷であった海軍中将秋山真之(1868~1918)がたびたび訪れ、山縣の別邸「古稀庵」(現・あいおいニッセイ同和損保小田原研修所)を訪ね「国防論」について相談していたが、患っていた盲腸炎が悪化し、大正7(1918)年2月4日未明に対潮閣内で亡くなった(享年49歳)。

 正面の巨石は、対潮閣にあったもので、梵鐘を抜いた形の空洞があるので「釣鐘石」といわれている。
 左手前の石碑には、田中光顕がこの石を賞して詠んだ和歌が彫られている。

碑文
「うちたたく 人ありてこ曾(そ) よの中に な里(り)もわたらね つりが年(ね)の石 光顕」

田中光顕歌碑

うちたたく 人ありてこ曽 よの中に な里もわたらめ つりが年の石 光顕

 釣鐘石

山下亀三郎別邸の上段は清閑亭。

清閑亭(旧・黒田長成邸)

対潮閣の隣にあるのが清閑亭。
秋山真之も最後のときに、同じように相模灘の小田原の海を眺めていたかもしれない。

瓜生外吉から、神奈川の小田原から東京の青山霊園から、小田原の秋山真之へと、話が散らかりました。


小田原散策で、瓜生外吉と出会って、あまり知ることなかった瓜生提督のことを深堀りできたのが、良き記録となりました。


「現存最古の地下鉄駅直結の民間建造物」明治屋京橋ビル


明治屋京橋ビル

東京都中央区京橋の「明治屋京橋ビル」
昭和8年(1933)建設。ルネサンス様式の優美な姿が特徴的。
設計者は曾禰中條建築事務所(曾禰達蔵と中條精一郎の共同事務所)

地下鉄の駅と一体化となって建設された民間建造物としては現存する最古の建造物。
地下鉄銀座線京橋駅改札(東京メトロ銀座線京橋駅7番出入口)と直結している。
中央区の有形文化財に指定。

京橋駅

昭和7年(1932年)12月24日、東京地下鉄道三越前駅 – 京橋駅間開業に伴い、終着駅として開業。
京橋駅建設費用の一部を、明治屋が負担している。


京橋駅ホーム


http://www.meidi-ya.co.jp/news/20150831.html

https://www.city.chuo.lg.jp/smph/kusei/syokai/tyuobunkazai/meijiyakyobashi.html


関連

明治屋ビルを設計した曾禰達蔵による建造物

講談社本館

地下鉄の父・早川徳次

兵部大輔大村益次郎卿殉難報國之碑と埋腿骨之地(大阪)

大阪市中央区法円坂の国立病院機構大阪医療センター近くの上町交差点。
ひときわに大きな石碑がある。
当時、この地にあった鈴木町の大阪府医学校病院(大阪府仮病院)に大村益次郎が運び込まれ、そしてこの地で亡くなった。


大村益次郎

文政7年5月3日〈1824年5月30日〉 – 明治2年11月5日〈1869年12月7日〉
幕末期の長州藩の医師、西洋学者、兵学者。「維新の十傑」の一人。
日本陸軍の創設者
村田蔵六、良庵、諱は永敏。あだ名は「火吹き達磨」

周防国の村医の家柄に生まれた村田蔵六は、弘化3年(1846年)、大坂に出て緒方洪庵の適塾で学ぶ。適塾の塾頭まで進む。
嘉永6年(1853年)、宇和島藩で蘭学者として勤務。
安政3年(1856年)4月、宇和島藩主・伊達宗城の参勤にしたがって江戸に出府。
同年11月、宇和島藩御雇の身分のまま幕府の蕃書調所教授方手伝となる。
安政4年(1857年)11月11日、築地の幕府の講武所教授に就任。
万延元年(1860年)、長州藩の要請により江戸在住のまま同藩士となる。
文久3年(1863年)10月、萩へ帰国、長州藩の軍事を掌り、高杉晋作の奇兵隊の指導などを行う。
慶応2年(1866年)、第二次長州征伐に際して、石州石見国方面の実戦指揮を担当し、軍事的才能を遺憾なく発揮し幕府軍を撃破。
明治元年(1868年)、戊辰戦争では有栖川宮東征大総督府補佐として、軍務官判事、江戸府判事を兼任し、江戸を掌握。討伐軍を指揮し、上野山に籠もる彰義隊を撃破。その後も江戸から事実上の新政府軍総司令官として戊辰戦争を指揮し、新政府軍を勝利に導く。

明治2年(1869年)、明治新政府の幹部として軍政改革の音頭を取るも、兵制論争となり、結果として大久保利通派に敗れるも、軍政では大村益次郎に変わるものもなく、新たに設置された兵部省の兵部大輔(次官)に就任。兵部卿(大臣)は仁和寺宮嘉彰親王であったために、実質的には大村益次郎は近代日本の軍制建設を指導する立場となる。

大村益次郎は大阪に大阪城近くに兵部省の兵学寮(士官学校)を設け、造兵廠(大阪砲兵工廠)、宇治に火薬製造所の建設するなどを決め、東京から関西へ軍事拠点を移転させることを決定。

明治2年(1869年)8月、視察のために京阪方面に出張。
9月4日夕刻、益次郎は京都三条木屋町上ルの旅館で会食中、8人の刺客に襲われる。
重傷を負い9月7日に京都の山口藩邸へ移送され、数日間の治療を受けるも、傷口から菌が入り敗血症となる。医療設備の整っていた「大阪府医学校病院」(浪華仮病院・大阪府仮病院)に転院を決め、教え子であった寺内正毅、児玉源太郎らが担架で高瀬川船着き場まで運び、10月2日に大阪府医学校病院(大阪仮病院)に入院。
大阪府医学校病院は院長が緒方惟準(大村益次郎の恩師・適塾緒方洪庵の次男)、オランダ人医師ボードウィンを主席教授とし、楠本イネ(シーボルトの娘)らが看護。蘭医ボードウィンによる左大腿部切断手術をおこない、足を切断するも、翌11月1日に敗血症による高熱を発して容態が悪化し11月5日の夜に死去した。享年46歳。
大村益次郎は「切断した私の足は緒方洪庵先生の墓の傍に埋めるように。」と遺言した。(龍海寺の緒方洪庵の墓の隣に足塚がある)


兵部大輔大村益次郎卿殉難報國之碑

昭和15年11月に大村益次郎が治療を受けた大阪府医学校病院(浪華仮病院・大阪仮病院)、そして亡くなった地に鎮座。
昭和15年(1940)は、1月米内光政内閣、7月に第2次近衛文麿内閣が成立し陸相には東条英機が就任。9月には、日独伊三国同盟条約が締結され、11月には、紀元2600年祝賀行事が行われるという時局であった。
ひときわに大きい、大村益次郎の殉難報國之碑もそんな時局をあらわしていた。

兵部大輔大村益次郎卿殉難報國之碑

明治兵制ノ創始者兵部大輔大村益次郎卿ハ周防ノ人資性沈毅明敏少壮ニシテ漢籍ヲ廣瀬淡窓ニ蘭学ヲ梅田幽斎及緒方洪庵等ニ学ビ専ラ醫学及兵学ヲ修メ夙ニ皇政維新ノ大業ヲ翼賛シテ東京以北戡定ノ偉勲ヲ樹テ親兵ヲ創設シテ兵馬ノ大権確立ニ資シ徴兵ノ制ヲ布キテ國民皆兵ノ實ヲ擧ゲンコトヲ主張シ兵学寮及兵器弾薬製造所並軍艦碇泊場ノ設立等ニ拮据奔走中明治二年九月四日京都ニ於て刺客ノ難ニ遭ヒ後大阪病院ニ於て右大腿切断ノ手術ヲ受ク病牀二ケ月瀕死ノ中ニ在ツテ尚ホ書ヲ要路ニ致シ陸海兵制ノ整備ト軍事醫療ノ急設トヲ説キ傷處ノ疼痛ニ悩ミツゝ一言モ之ニ及ブ■ク愬フル所皆是レ國家公共ノ大策ニ非サルハ無カリキ不幸経過良好ナラズ遂ニ十一月五日経國ノ雄圖ヲ抱イテ空シク此ノ地ニ薨ス時ニ年四十六本會ハ茲ニ卿ノ高邁ナル識見ト偉大ナル功績トヲ敬慕シ特ニ終焉ノ地ヲ選ビ記念碑ヲ建テ此遺跡ト共ニ其洪勲ヲ長ヘニ後昆ニ傳フト云爾
   昭和十五年十一月 大村卿遺徳顕彰會

※中央部に亀裂が有り、一部の文字が読み取れず

発起人・賛助者にはそうそうたる名前が刻まれていた。
昭和15年当時の軍人・関西財界人など。

また、緒方銈次郎の名も有る。
緒方銈次郎は、大村益次郎の恩師であった緒方洪庵の子・緒方惟準の二男。大村益次郎は緒方惟準が院長を務める、適塾の流れをくむ浪華仮病院・大阪仮病院に担ぎ込まれた。

財界
伊藤忠兵衛(伊藤忠)
鳥井信治郎(サントリー)
種田虎雄(近鉄)
松下幸之助(パナソニック)
鴻池善右衛門(鴻池家)
小林一三(阪急)
江崎利一(江崎グリコ)
野村徳七(野村証券)

陸軍
畑俊六
林銑十郎
東条英機
大島健一
松井石根
松岡洋右
寺内寿一
荒木貞夫
杉山元

海軍
及川古志郎
高橋三吉
末次信正

場所

https://goo.gl/maps/UoLZBv6H6k1Debqy7

現在は、国立病院大阪医療センター。
この地は、のちに元歩兵第三十七連隊が展開されていた。
敷地内には、歩兵第三十七連隊の慰霊碑などもある。


大村益次郎寓居跡「漏月庵」

少し時系列をさかのぼる。
大村益次郎(村田蔵六)は、22歳のころに来阪して「緒方洪庵の適塾」に入門して塾頭まで務める。そのころにこの場所から適塾に通っていたという。

大村益次郎寓居跡
「漏月庵」

 大村益次郎は1825(文政8)年、山口・周防の医者の家に生まれた。蘭学、医学、蘭式兵学に通じ、日本の近代兵制を創始した。
 緒方洪庵に師事し、1849(嘉永2)年からこの家に住んで適塾に通った。初めて構えた居宅を愛し、ひさしのすき間から見える月の美しさに感謝して「漏月庵」と名付けた。
 後、故郷に戻って医者になったが洋楽の知識を認められ、明治新政府の兵部大輔(軍事大臣)となり、日本の兵制をととのえた。1869(明治2)年没。
「漏月庵址」の石碑は1950(昭和25)年まで存在したが、その後不明になり今回改めて建立した。
 令和2年9月吉日
  古川宏太郎建立

場所

https://maps.app.goo.gl/vPs8sqw7kCMfZRp78


大村益次郎埋腿骨之地(足塚)
緒方洪庵墓所

大阪市北区の龍海寺。緒方洪庵の菩提寺。
緒方洪庵の墓は東京文京区の高林寺にもあり、この龍海寺には遺髪が埋葬されている。
適塾で恩師であった緒方洪庵の墓之隣に、大村益次郎は切断した右足を埋めるように遺言した。
埋葬後も、しばらくは秘匿されており、昭和14年(1939)に、「埋腿骨之地」が建立された。

大村兵部大輔埋腿骨之地

裏面は陸軍軍医中将飯島茂による撰文。

緒方洪庵先生之墓
洪庵先生夫人億川氏墓

緒方洪庵の墓の隣に、大村益次郎足塚がある。

場所

https://goo.gl/maps/wqmbK9kYwMZDJQ1f6

靖國地蔵尊

龍海寺境内に。
昭和17年1月14日建立。開戦直後、ですね。


付記

緒方洪庵墓所(東京文京区・高林寺)

緒方洪庵墓(文京区指定史跡)
 洪庵は、江戸時代末期の蘭学者、医学者、教育者。文化7年~文久9年(1810~63)現在の岡山県に生まれ、名は章、後に洪庵と改めた。
 大坂、江戸、長崎で蘭学、医学を学び、天保9年(1838)、大坂に”適々斎塾”(適塾)を開き、診療と研究のかたわら、三千人におよぶ門弟の教育に当たった。この塾から大村益次郎、橋本左内、福沢諭吉などが輩出した。
 洪庵は、幕府の奥医師として江戸に招かれ、翌年、文久3年(1863)に病没した。


付記

大村益次郎像(靖國神社)

明治15年(1882)、大村益次郎の意思を継いで陸軍創設に貢献をした山田顕義らにより、大村益次郎の功績を称えるべく銅像の建立が発議される。
明治26年(1893)、6月、大村益次郎も創建に尽力をしていた東京の靖国神社の境内に大村益次郎の銅像が建立され、除幕式が執行。日本初の西洋式銅像、であった。

この像は、戊辰戦争の際、司令官として江戸城本丸から、彰義隊が立てこもる上野を見つめている姿であるという。

靖國神社の大村益次郎は、上野公園の方向を向いているという。そして上野公園の西郷隆盛と向かい合っている、ともいう。


関連

「明治神宮外苑」と「青山練兵所跡」

明治神宮外苑。

もともと当地は、「青山練兵場」であった。
大正元年(1912)9月13日、  明治天皇崩御による「大喪の礼」が青山練兵場で執り行われた。
大正15年(1926)に、青山練兵場の葬場殿跡地に、「聖徳記念絵画館」を中心とする「明治神宮外苑」が完成。
大正13年(1924)に完成していた「明治神宮外苑競技場」では、戦時中に「学徒出陣壮行会式典」が行われている。

青山練兵場

以下を参照。


御観兵榎

御観兵榎の碑は、東郷平八郎書。大正15年7月、明治神宮奉賛会による。
この場所で、  明治天皇御台臨のもとに、明治22年2月11日の憲法発布観兵式、明治39年4月30日の日露戦役凱旋観兵式などが行われた。
明治天皇の御座所は、常にこの榎の大木の西側に設けられていたという。
現在の榎は2代目。

御観兵榎
伯爵東郷平八郎書

御観兵榎 について
 この外苑の敷地は、もと陸軍の青山練兵場で、明治天皇 の御台臨のもとにしばしば観兵式が行われ、なかでも明治二十三年(一八九〇)二月十一日の憲法発布観兵式や、明治三十九年(一九〇六)四月三十日の日露戦役凱旋観兵式などは、特に盛大でありました。聖徳記念絵画館の壁画「凱旋観兵式」(小林万吾画)にその時の様子が描かれており、当時の盛儀が偲ばれます。明治天皇がご観兵される時は、いつもこの榎の西前方に御座所が設けられたので、この榎 を「御観兵榎」と命名し永く保存しておりましたが、平成七年(一九九五)九月十七日老令(樹令二百余年)の為台風十二号余波の強風により倒木しました。遺木の一部は聖徳記念絵画館内に名木「ひとつばたご」の遺木と共に保存されております。
 平成八年(一九九六)一月、初代御観兵榎の自然実生木(推定樹令六十年)を苑内より移植し、「二代目御観兵榎」として植え継ぎました。
  平成八年一月吉日 明治神宮外苑

「初代 御観兵榎」
 
 にれ科えのき属、樹齢二百余年と推定される。
 幹廻り、二・二メートル 高さ、九メートル 枝張り、十六メートル
碑石 
 石材は伊豫(愛媛県)青石、天然石
題字 
 東郷平八郎 書 
 明治三十八年日本海海戦においてロシアバルチック艦隊を壊滅させた、
 当時の連合艦隊司令長官 東郷神社の祭神

場所

https://goo.gl/maps/neRxNAr38GfSDxot8


陸軍大学校跡

青山練兵場があったころの陸軍大学校は、現在の港区立青山中学校にあった。


明治神宮外苑の記

明治神宮外苑の記
石碑の題字 
  「明治神宮外苑之記」
  明治神宮奉賛会 総裁 閑院宮載仁親王殿下の篆書
撰文  
  明治神宮奉賛会 会長 徳川家達
石材
  東北仙台産の板岩
  高・地表4メートル 幅・1.8メートル 厚・0.36メートル

碑文の大意
 明治45年(1912)7月30日に、明治天皇(第122代の天皇・今の天皇の曽祖父)、大正3年(1914)4月11日には、昭憲皇太后(明治天皇の皇后)がお亡くなりになりました。これを伝え聞いた国民の間から、御二方の御神霊をお祀りして、御遺徳を永遠に追慕し、敬仰申し上げたいという機運が高まり、その真心が実って、大正9年(1920)11月1日、代々木の地に、明治神宮の御創建となったのであります。
 明治の時代は、日本の歴史を通じて、政治・経済・文化・スポーツ等の各方面において、驚くべき躍進を遂げ、近代国家としての基盤が確立されましたが、その原動力となられた天皇の偉大な御事蹟と御聖徳の数々を、永く後世に伝えたいものと、明治人外苑の造営が進められることになりました。
 これがため、明治神宮奉賛会が設けられ、天皇が御在世中、しばしば陸軍観兵式を行わせられ、又、御葬儀がとり行われた旧青山練兵場の現在地に、皇室の御下賜金をはじめとして、ひろく全国民の献金と、真心のこもった労働奉仕により、十余年の年月をかけて、大正15年(1926)10月に、明治神宮外苑は完成しました。
 苑内には、天皇・皇后御二方の御一代の御事蹟を、有名画家が描いた八十枚の大壁画が掲げられている白亜の殿堂、聖徳記念絵画館を中心に、野球場、競技場その他の多くの優れた運動施設が設けられ、御仁徳をお偲びしつつ、青少年の身心鍛錬の場として、或は遊歩を楽しむ人々の憩いの苑として、崇高森厳の気漲る内苑と相俟って造成されたもので、永く後世に残されるものであります。
 外苑造成工事全く成り、奉賛会より明治神宮に奉献するに当り、事情の概要を記し、後の世の人々に伝えるものであります。
  大正15年(1926)10月 
    明治神宮奉賛会 会長徳川家達

明治神宮外苑案内図。
かつて、「明治神宮外苑競技場」として明治神宮外苑に含まれていた競技場は、昭和31年に国立競技場として文部省に移管されたため、現在は明治神宮外苑の敷地には含まれない。

明治神宮外苑
銀杏並木

銀杏並木

手前が高く、奥が低い銀杏が植えられるという、巧みな遠近法が用いられている。
大正15年の明治神宮外苑に先立ち、大正12年(1923)に植樹。


明治神宮外苑
国旗掲揚塔

見事すぎる国旗掲揚塔。

台座には2頭の一角獣が。


日本最古級のアスファルト舗装
聖徳記念館絵画館前通り

近年(令和元年12月)、当時の舗装が保護のために覆われ、当時の舗装は、今ではほんの一角のみが見学できるようになっている。

明治神宮外苑の舗装
 明治神宮外苑の道路の舗装は、東京市(当時)でも大規模で本覚益那加熟アスファルト混合物を用いた舗装であり、1926年(大正15年)1月に完成しました。
 この工事は、我が国においてワービット(Warrenite-Bitulithicの略)工法を採用した最初の工事であったばかりでなく、アスファルトは国産品(秋田県豊川産)を使用し、当時の最新鋭機による機械化施工が行われました。
 この舗装は長い年月の使用に耐え、左図の濃色の箇所(下の写真)が66年間(1992年改良)にわたって車道として使われてきたことは、驚嘆に値します。また、この案内板の前の舗装は当時のまま現存しており、日本における車道用アスファルト舗装としては最古のものです。

  当時の工事概要
(1)発注者:明治神宮造営局
(2)施行面積:59,096㎡
(3)施行費用:167,135円
(4)工期:1924年5月~1926年1月
(5)監督者:工学博士・藤井眞透

土木学会選奨土木遺産
 特別区道43-650(霞ヶ丘町1番地先)の車道用アスファルト舗装は国内最古級の「ワービット舗装(ワーレナイト・ビチュリシック工法による舗装の略称)」であり、平成16年度に公益社団法人土木学会選奨土木遺産に認定されました。
 完成から90年以上が経過し路面性状が良くない(ひび割れが生じている)ことから、土木学会及び東京都と協議し、ワービット舗装をインターロッキングブロック舗装(ILB舗装)で覆いました。
 こちらの展示スペースでワービット舗装をご覧いただけます。


聖徳記念絵画館

大正15年(1919)10月22日竣工。国指定重要文化財。
明治神宮による維持管理が行われている。


葬場殿趾(葬場殿趾円壇)

葬場殿址
明治天皇が明治45年(1912)7月30日にお亡くなりになり、その御葬儀が9月13日に全国民の悲しみのうちにこの場所(当時の青山練兵場)で行われました。
ここがその時に御柩車が置かれた葬場殿のあとです。
中央の大木はこのことを記念して植えられた楠の木です。
 明治神宮外苑

明治天皇の御柩車は、青山練兵場仮停車場から、京都桃山に向かわれた。

葬場殿趾


樺太国境画定標石(樺太島日露国境天測標)

日露戦争終結後、明治38年(1905)から昭和20年(1945)までの40年間、樺太島北緯50度以南は、日本の領土だった。日本としては陸地の国境線は以後に有していない。

樺太島を北緯50度で南北に分断し、東のオホーツク海沿岸から西の間宮海峡まで132kmの間に、日露の紋章を刻した「天測境界標」と呼ぶ国境標石4基を設置、さらに平均6kmごとに小標石17基を置き、19か所に木標が建てられた。

明治神宮外苑にある「天測境界標」は第四天測点のレプリカ。
日本側には「菊の紋章」、ロシア側は「双頭の鷲の紋章」が刻まれている。

樺太国境画定標石
 時 明治39年6月~40年10月
 所 樺太日露境界

 明治37、8年の日露戦役の講和条約でカラフトの北緯50度以南は、日本の領土となりました。
その境界を標示するため、日露両国委員は、明治40年9月4基の天測標と17基の小標石を建てて境界を確定しました。
 この境界標石は、外苑創設に際し、明治時代の一つの記念物として、樺太庁が之を模造し外苑に寄贈したものです。当時苑内北方隅の樹間に在りましたが、この度、全国樺太連盟よりの、これが顕彰周知方の篤い要望に応えて、絵画館前の現地に移し整備配置しました。
 日本側の菊の紋章の背面には露国の鷲の紋章が刻んであります。又、聖徳記念絵画館の壁画「樺太国境画定」(安田稔画)には、両国委員が国境標を建設する光景を史実に基づいて描いた絵画が展示されております。
  昭和54年6月2日
    明治神宮外苑

大日本帝国
境界

上に「模造」と刻まれている。

天第四号
明治三十九年

ロシア国側。日本にとっては裏、ロシアにとっては表。


建国記念文庫

「建国記念の日」の祝日の制定を記念して建立。

建国記念の日 二月十一日

建国記念文庫
昭和41年12月9日、建国日制定審議会は2月11日を建国記念の日として答申、即日法律によって発布された。この間、数十万通に及ぶ、記念日制定の希望・意見書が進達されたので、ここに建国記念文庫を建設し、これを保管する事にした。
建設費は総て国民の浄財である。これは、現下の国民が等しく建国を思う情熱の結果であり、千年万年の子々孫々に伝え、以て後日の語り草にしたいのが、記念文庫設立の目的である。
建物は、わが国が建国当時、米穀を以て立国としたことを想い、奄美大島の高倉様式を移築しその屋上にテンパガラスを施行し、ここに書類を保管した。書は、出雲大社の神門の布施杉の材に佐藤大寛が墨書した。
礎石は、坂上田村麻呂将軍の東征により、平和国家が確立された故事に鑑み、奥州厳作山の石垣白河石を以て施工した。
  昭和44年(1969)2月11日
  元建国記念日制定審議会長 菅原通済記

ちなみにこのエリアは夜間は立入禁止、だそうで。
建国記念の日を面白くない人々の襲撃を防ぐため、だとか。


青山練兵所の陸軍境界標石?

青山練兵所の南西付近。それっぽい標石が残っている。
ただし、記載されているであろう文字面が見えないために詳細は不明。

場所

https://goo.gl/maps/CCc8xhEvYAURs5fBA


明治神宮野球場

大正15年(1926)10月に明治神宮外苑に「明治神宮外苑競技場」とともに完成。
改修に次ぐ改修が行われているが、ベースは大正15年に建設された球場が使用されている。
再開発が予定されており、2027年以降に取り壊して、秩父宮ラグビー場と敷地を入れ替えて新球場が建設される予定という。秩父宮ラグビー場は明治神宮外苑第二球場の地に新設。


日本オリンピックミュージアム
MONUMENT AREA

オリンピックシンボルモニュメント、岸記念体育会館から移設した岸清一像、ピエール・ド・クーベルタン像、嘉納治五郎像、1964年東京オリンピック、1972年札幌冬季オリンピック、1998年長野冬季オリンピックの聖火台レプリカなどが設置されている。

「いだてん」な感じですね。

岸清一像

ピエール・ド・クーベルタン像

嘉納治五郎像

オリンピックシンボルモニュメント

1998年長野冬季オリンピック 縮尺1/2

1972年札幌冬季オリンピック 縮尺2/3

1964年東京オリンピック 縮尺3/4


国立競技場

前身は「神宮外苑競技場」。

大正13年(1924)に、明治神宮外苑競技場として開場。
第二次世界大戦中の1943年(昭和18年)10月21日には学徒出陣壮行会会場ともなった。

https://www2.nhk.or.jp/archives/shogenarchives/jpnews/movie.cgi?das_id=D0001300562_00000&seg_number=002

戦後は、明治神宮から文部省に移管され、旧国立競技場(国立霞ヶ丘陸上競技場)は昭和33年(1958)竣工。
そして、2019年に新・国立競技場として生まれ変わった。


学徒出陣壮行の地 記念碑

明治神宮外苑競技場の地から、一時的に移転された学徒出陣壮行の地 記念碑。新国立競技場に戻ってきました。
ただし、新国立競技場には自由に入れないので、これは後ろ姿ですね。。。。
(早く正面から見たい。。。

※訪問しました


近衛歩兵第四連隊跡碑
近衛歩兵第六連隊跡碑

国立競技場の隣、「都立明治公園」に、近衛歩兵第四連隊跡碑・近衛歩兵第六連隊跡碑があるというも、再開発とオリンピック絡みで立ち入りできず。。。

まあ、落ち着いた頃に再訪ですね。。。
なんか悪い予感がするんです、再開発で無くなっていなければよいのですが。。。


「学徒出陣壮行の地 記念碑」と「近衛歩兵第四連隊跡碑」「近衛歩兵第六連隊跡碑」と、確認できなかったものがあったのが心残り。また、再訪をしましょう。

※撮影は2020年8月

「御所トンネル」と「青山練兵場停車場跡」

東京都下を東西に結ぶ中央線。
その中央線の中でも最古のトンネルが「御所トンネル(旧御所トンネル)」。
このトンネルの建設には陸軍も関与しておりました。

鉄道遺産、そして戦跡として、ちょっと観察してみます。


甲武鉄道と陸軍

「中央線」の前身「甲武鉄道」。
甲武鉄道は明治22年(1889)4月に新宿~立川間、8月には、立川~八王子間を開業。
新宿から東京市内への路線延長に関しては、新宿~牛込・飯田橋間を甲州街道沿い(新宿御苑北側)で計画されていたが、明治27年(1894)日清戦争の勃発の影響などもあり陸軍側の強い要請で千駄ヶ谷~信濃町間を経由するルートで延伸が決定。これは「陸軍青山練兵場」(現在の明治神宮外苑)からの軍隊輸送のために必要という側面があった。
陸軍が希望するルートで線路を敷設するためには、 畏れ多くも「赤坂御料地(赤坂離宮・赤坂御用地・赤坂御所・迎賓館」「学習院初等科」の敷地の一部にトンネルを設けざるを得なかったが、そこは軍事優先で陸軍の後押しもあり、明治27年9月17日に新宿~青山軍用停車場が完成。
甲武鉄道はその後も着実に路線を延長し明治27年10月に新宿~牛込(飯田橋)」間、明治28年4月には牛込~飯田町間が開業。
明治28年に新宿~飯田町間を複線化、明治37年(1904)に御茶ノ水まで延伸。また、日本の普通列車としてはじめての電化運転(電車)を開始。
東のターミナルとして万世橋まで延伸が予定されていたが、明治39年(1906)に鉄道国有化法により国有化し、甲武鉄道としての歴史は終了した。(万世橋駅の開業は国有化後の明治45年)


御所トンネル(四ツ谷駅側)
<丸ノ内線四ツ谷駅ホームより>

旧御所トンネル
明治27年(1894)、新宿~牛込(飯田橋)間を延伸するにあたって、陸軍の強い要望により青山練兵場を経由するルートで線路を敷設せざるを得なかった甲武鉄道は、 畏れ多くも「赤坂御料地(赤坂離宮・赤坂御用地・赤坂御所・迎賓館」「学習院初等科」の敷地の一部にトンネルを敷設。(もちろん陸軍が承諾の後押しをしている)
これが、煉瓦造りで造られた全長317mの「旧御所トンネル」

新御所トンネル
大正時代末期に中央本線を複々線化する工事が始まり、旧御所トンエルの西側に3線を通す新しいトンネルが、昭和4年(1929)完成の「新御所トンネル」(鉄筋コンクリート・385m)

現在は、旧御所トンエルを総武線下りのみが利用。新御所トンネルを中央線と総武線上りが利用している。

地下鉄丸の内線・四ツ谷駅。荻窪方面行きホーム後方から、よく観察できます。

旧御所トンネル 317M

こちらは、新御所トンネル。3連です。
同じく、丸ノ内線ホームより。

明治のトンネルと昭和初期のトンネルで、煉瓦造から鉄筋コンクリート造に変化してます。

新御所トンネル 385M


御所トンネル(四ツ谷駅側)
<中央線四ツ谷駅ホームより>

JR中央線の四ツ谷駅からは、新御所トンネルしか見えません。旧御所トンネルは死角。


御所トンネル(信濃町駅側)
<朝日橋より>

御所トンネルの新宿方面(信濃町側)も観察。
新御所トンネルと旧御所トンネル。
信濃町側は旧御所トンネルも鉄筋コンクリートになってますね。新御所トンネルが建造された際に統一されれたのでしょうか。


四ツ谷駅眺望

総武線の先には、迎賓館が見える。

丸の内線は、ギリギリで御所の脇を通過するが、総武線は、ギリギリで御所の敷地を通過している。

旧御所トンネルの四ツ谷口が丸ノ内線車両の先に見える。


位置関係(御所トンネル)

時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」 より (一部加工)

http://ktgis.net/kjmapw/kjmapw.html?lat=35.680682&lng=139.724132&zoom=16&dataset=kanto&age=0&screen=2&scr1tile=k_cj4&scr2tile=k_cj4&scr3tile=k_cj4&scr4tile=k_cj4&mapOpacity=10&overGSItile=no&altitudeOpacity=2

赤坂離宮の敷地の下を・・・。
文字通り、赤坂御所(赤坂離宮)の下を通過する「御所トンネル」です。

Google航空写真(一部加工)

https://goo.gl/maps/ejmv9ZDX8argh34u9


迎賓館前

御所トンネルは、現在は迎賓館前の「新宿区立若葉東公園」の下を通過している。


青山練兵場停車場跡

甲武鉄道(現在の中央線)は、甲州街道ルートを目指していたが、陸軍の強い要請で南回りルート(千駄ヶ谷・信濃町ルート)での線路敷設に変更させられた。その理由は「青山練兵場」に軍用停車場を設置するため。
そしていまでも、青山練兵場に通じていた線路の名残が側線として、残っている。

線路と首都高速4号線の間に側線が見える。この側線が当時の青山練兵場停車場の名残。
首都高速4号線の左側が、明治神宮外苑(当時の青山練兵場)。

千駄ヶ谷駅ホームから、側線を望む。
右側の緑の茂みに伸びる側線が「青山練兵場停車場」の名残。

隣の駅、信濃町駅のホームも見える。


位置関係(青山練兵場停車場)

Goo地図-1907年(明治40年)を一部加工

https://map.goo.ne.jp/map/latlon/E139.43.18.149N35.40.38.381/zoom/11/?data=meiji

当時、青山練兵場の北側には「陸軍第一師団輜重兵第一大隊」があった。
青山練兵場と陸軍第一師団輜重兵営との間は、3つの跨線橋があったが、現在は1つのみ残されている。(跨線橋=大番町跨線橋は後述)

明治天皇が崩御された際に、大喪の義は青山練兵場で執り行われた。
葬場殿の後方にあった「青山仮停車場」で、東京の人々は、 明治天皇と最後のお別れを行い、そして 明治天皇のお棺は、京都桃山に鉄路で向かわれた。

また、陸軍第一師団輜重兵営の敷地は大正9年に慶應大学に売却され、現在は慶應義塾大学病院となっている。
当時の名残として「陸軍境界石」が残されている。

青山練兵場の北側にあった輜重兵営は、世田谷に移転している。

そして、青山練兵場は、代々木練兵場に移転している。

ちなみに都内の練兵場としては、日比谷→青山→代々木と移転している。


大番町跨線橋(大番町通跨線道路橋)

前述の青山練兵場停車場跡を上から撮影したのが、「大番町跨線橋」。
青山練兵場と陸軍第一師団輜重兵営の間には、3つの跨線橋があったが、現在は一つのみ残されている。

この橋の正式な名称は、「大番町通跨線道路橋」というのかもしれない。

しかし交差点では「無名橋」と記載。

青山練兵場とともにあった跨線橋が、当時を物語る戦跡。
いまでは「無名な橋」とされているが、今も昔も南北を往来する貴重な橋として名前は知られずとも活用されていた。

※本記事の撮影は、2020年8月及び2021年3月


明治神宮外苑

青山練兵場の跡地、明治神宮外苑など。

花の都の靖國櫻(戦後76年)

静静と花見を。

靖國神社の御英霊と共に愛でる。
桜花で祭り、そして祀る。


散る桜 残る桜も 散る桜

良寛和尚

奉頌歌「靖國神社の歌」

日の本の 光に映えて
尽忠の 雄魂祀る
宮柱 太く燦たり
  あゝ大君の 御拝し給ふ
  栄光の宮 靖國神社

日の御旗 断乎と守り
その命 国に捧げし
ますらをの 御魂鎮まる
  あゝ国民の 拝み称ふ
  いさをしの宮 靖國神社

報国の 血潮に燃えて
散りませし 大和をみなの
清らけき 御霊安らふ
  あゝ同胞の 感謝は薫る
  桜咲く宮 靖國神社

幸御魂 幸はへまして
千木高く 輝くところ
皇国は 永遠に厳たり
  あゝ一億の 畏み祈る
  国護る宮 靖國神社

奉頌歌「靖國神社の歌」 昭和16年(1941)03月  
献納:主婦之友社 作詞:細渕国造 作曲:陸海軍軍楽隊

軍歌「同期の桜」

貴様と俺とは 同期の桜
同じ兵学校の 庭に咲く
咲いた花なら 散るのは覚悟
みごと散りましょ 国のため

貴様と俺とは 同期の桜
同じ兵学校の 庭に咲く
血肉分けたる 仲ではないが
なぜか気が合うて 別れられぬ

貴様と俺とは 同期の桜
同じ航空隊の 庭に咲く
仰いだ夕焼け 南の空に
未だ還らぬ 一番機

貴様と俺とは 同期の桜
同じ航空隊の 庭に咲く
あれほど誓った その日も待たず
なぜに死んだか 散ったのか

貴様と俺とは 同期の桜
離れ離れに 散ろうとも
花の都の 靖国神社
春の梢に 咲いて会おう

同期の桜

靖國神社の桜

写真を。

令和3年(2021年)
東京の桜開花基準木である靖國神社のソメイヨシノ開花宣言は、3月14日午後であった。
これは、令和2年(2020年)に並んで観測史上最も早い開花であった。
(平年より早い開花は9年連続)

撮影は令和3年3月23日-26日



大本営地下壕と市ヶ谷記念館(防衛省・市ヶ谷台ツアー)

市ヶ谷台ツアーに参加してきました。
「大本営地下壕跡」を中心に掲載していきます。

以前に「市ヶ谷ツアー」に参加したときとは、コースも大きく変更されてますね。
特に大きな変更点は「メモリアルゾーン」への見学が無くなったこと。

以前の「市ヶ谷ツアー」のレポートは以下も参照に。
※大講堂の展示資料の多くは重複するので、以前のレポートに譲ります。

ちなみに、かなり特殊ですが、運良く、メモリアルゾーンの見学もしました。ここは、一般向け見学ツアーには含まれておりません。


市ヶ谷台ツアー

大本営地下壕跡

今回、「市ヶ谷台ツアー」に参加した最大の理由は、もちろん「大本営地下壕跡」の見学のため。

補修工事後の2020年8月から「市ヶ谷台ツアー」の午後の見学コースとして一般公開を開始。
防衛省市ヶ谷地区を見学できる「市ヶ谷台ツアー」は事前予約・定員制。大本営地下壕跡が見学できる午後の部は参加定員も少ない。開催は平日のみ。土日祝は無しのために、平日に時間を捻出しない限り参加できないので、人によっては参加条件の難易度が高い。

防衛省・自衛隊>市ヶ谷地区(市ヶ谷台ツアー)の御案内

https://www.mod.go.jp/j/press/ichigaya/index.html


儀仗広場の石灯籠(地下壕の通気筒)

儀仗広場の奥に見える石灯籠。
実は、大本営地下壕の通気筒。地上部は石灯籠によりカモフラージされている。
石灯籠は2基設置されているが、儀仗広場から見えるのは、1基のみ。

ちなみにこの日は、外国からの来賓があった。そのため、日本国旗は中央ではなく右側に。
一度掲げた国旗は、揚げ直しは出来ないため、この日はこのまま右側で掲揚。

中央に掲揚でない日本国旗を見るのは、レアかもしれない。

地下壕に入る前に、ヘルメットが支給されます。


大本営地下壕

この地下壕は、第二次世界大戦中に市ヶ谷台に置かれた陸軍中枢機関の防空壕として建設されました。
平成28年5月の観光立国推進閣僚会議において「観光ビジョンの実現に向けたアクション・プログラム2016」が決定されたことを受け、将来的な保存・公開が検討され、構造物の調査が行われました。
その後、耐震補強や老朽化防止対策が施され、公開されることとなりました。

江戸城周辺の要衝
市ヶ谷台は海抜31.4m、江戸城の西北に位置し、江戸城周辺における最も高台の要衝の地であり、明暦2年、尾張徳川家第2代光友公が上屋敷を築いた。明治時代には陸軍士官学校が開校した。

陸軍中枢機関の移転
昭和12年に士官学校本科が神奈川県座間へ、昭和16年に予科士官学校が埼玉県朝霞へ移転し、代わって大本営陸軍部、陸軍省、参謀本部等の陸軍中枢機関がこの地に移転した。地下壕は、大本営陸軍部等が入る建物(旧陸軍士官学校本部)地下に建設された。

終戦
当時の軍人の記録によれば、昭和20年8月10日、阿南惟幾陸軍大臣が将校らをこの地下壕に集め、8月9日の御前会議においてポツダム宣言受諾を決断した昭和天皇の聖断を伝えたとされている、戦後は、GHQ(連合国最高司令官総司令部)が使用した後、昭和34年に返還された。

地下壕は南北に3本、東西に2本、南側には出入り口が6扉設けられ、北側は階段で建物とつながっていた。

大本営・大本営陸軍部
大本営は、戦時または事変に際して設置された、天皇を補佐する最高の統帥機関。明治26年5月の「戦時大本営条例」により、制度化され、日清戦争及び日露戦争において設置された。その後、日中戦争の拡大にともない、昭和12年11月20日設置され、太平洋戦争を通じて存続し、昭和20年9月13日に廃止された。この期間の大本営の構成は軍人に限定され、首相や分館が除かれたため、大本営とは別に、大本営政府連絡会議、のちに最高戦争指導会議などの政府との協議体が設けられた。

大本営陸軍部は、参謀本部とほぼ同一の組織である大本営陸軍部幕僚(大本営陸軍参謀部及び陸軍副官部)と、兵站総監部や大本営陸軍報道部等からなる大本営陸軍部諸機関より構成されていた。また、軍政に関する事務を処理するため必要な人員として陸軍省から陸軍大臣、同次官、人事局長、軍務局長など10数名が加わった。昭和12年の設置以降、戦線の拡大にともない逐時機構を拡大し、昭和20年5月には定数が1792名となっていた。

終戦間際の地下壕
終戦時に陸軍省軍務局軍務課内政班長を勤めていた竹下正彦中佐の記した「機密終戦日誌」によれば、1945(昭和20)年8月10日、阿南惟幾陸軍大臣が陸軍省幹部をこの地下壕に集め、8月9日の御前会議においてポツダム宣言受諾を決断した昭和天皇の聖断を伝えたとされている。


昭和二十年八月十日
一、昨夜二十三時ヨリ開カレタル御前会議ハ本朝三時過終了引キ続キ閣議アリ
二、九時三十分ヨリ地下防空壕ニ於テ陸軍省高級部員以上ノ集合ヲ命ゼラレ大臣ヨリ昨日ノ御前会議ノ模様ニ付左記要旨ノ説明アリ

左記
昨夜十一時ヨリ本朝三時ニ亘リ御前会議開催セラレ皇室ノ保全ヲ条件トシテ「ポツダム」宣言内容ノ大部ヲ受諾スルコトニ 御聖断アラセラレタリ
(略)
 「機密終戦日誌」より引用

市ヶ谷台の歴史
江戸時代
・1656年3月 尾張徳川家第2代光友が第4代将軍家綱から市ヶ谷台に5万坪を拝領
・1657ね1月 明暦の大火を機に尾張徳川家が上屋敷を設置
明治・大正時代
・1868年3月 江戸城開場に際して官軍の砲兵陣地を設置
・1871年   西郷隆盛率いる御親兵が駐屯
・1974年12月 陸軍士官学校開校
・1923年9月 関東大震災によって校舎の大部分が消失
昭和時代
・1937年6月 陸軍士官学校本部庁舎竣工
・1937年8月 陸軍予科士官学校創設、陸軍士官学校が座間へ移転
・1941年12月 太平洋戦争開戦
       陸軍予科士官学校が朝霞へ移転
       大本営陸軍部、陸軍省、参謀本部などが三宅坂から移転
・1945年8月 終戦
・1945年12月 第一復員省設置
・1946年5月 連合国軍進駐、極東軍事裁判開廷
・1947年   米極東軍司令部、国連軍司令部、米国将校宿舎等として使用
・1959年   連合国軍から返還
・1960年1月 陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地開設

大本営地下壕
地下壕は南北に3本、東西に2本の壕が交差した構造となっている。3か所の出入り口には、堅固な鉄扉が取り付けられ、内部には大臣室、通信室、炊事場、浴槽等の設備を備えていた。また、通気筒が2か所あり、地上部は日本庭園に石灯籠を配置しカモフラージュした。
全体:幅48m x 奥行52m
通路:幅4.6m x 高さ4m
構造:鉄筋コンクリート構造
面積:1342.21平方m

地下壕の通気孔。
この通気孔は直線ではなく、内部で折り曲がった上で地上の石灯籠とつながっている。直線ではないのは、万が一の爆撃が直撃する恐れもあり、また光を漏らさないための工夫であった。

当時の壁面を一部残している。鉄骨で構築されているのがわかる。
この箇所以外の壁は保存補強で上塗りされている。

米軍占領時代に記載。

No Smoking

陸軍大臣室ちかくの通風孔。

東西を結ぶ地下壕。

柱の奥が「陸軍大臣執務室」(手前)や「通信所」(その奥)跡。
左側の通路は「食堂室跡」へつながる。

「陸軍大臣執務室」(手前)や「通信所」(その奥)跡

南北の地下壕。奥には庁舎につながっていた階段がある。

便所跡
(大便器跡)

便所跡
(小便器跡)

南側の出入り口につながる扉跡。

分厚さがわかる。

出入り口には鉄扉があった。

重厚なコンクリートで覆われた出入り口。

陸軍中枢の大本営地下壕。絶対に何があっても護られる重厚な地下壕。
貴重な見学となりました。

以下、地下壕以外の見学記録も。


市ヶ谷台ツアー

防衛省庁舎 D棟 E棟

防衛省庁舎 A棟 D棟

bぼうえいしょう防衛省防衛省t庁舎庁舎

防衛省庁舎B棟 陸海空各自衛隊の通信部隊が使用する通信局舎


市ヶ谷記念館

陸軍士官学校本部として建設された建物の象徴的な部分を移設・復元。


市ヶ谷記念館
大講堂

昭和9年に陸軍士官学校の大講堂として造られた。
昭和21年5月から同23年11月までの間、極東国際軍事裁判(東京裁判)の法定として使われた。

玉座

玉座に集まるように設計された壁面

玉座からみて、扉を小さく見せる工夫。
2階のせり出しをギリギリまで下げている。

よく見ると斜面。
扉を小さく見せ、2階部分を高く見せないための工夫。

玉座の陛下の目線から、2階を上に感じさせない構造となる。


極東国際軍事裁判・証言台(復元)

極東国際軍事裁判の証言台をイメージ。実際に置かれた場所に設置。
大講堂は「陸軍士官学校」時代を再現しているが、ここは「東京裁判」な空間。


極東国際軍事裁判・裁判官出身国国旗(復元)

こちらの大講堂が極東国際軍事裁判の法定として使用された際に裁判官席の後方に設置された裁判官の出身国の国旗(1946年当時)を再現したものです。

インド、オランダ王国、カナダ、グレートブリテン及び北アイルランド連合王国(イギリス)、アメリカ合衆国、オーストラリア連邦、中華民国、ソビエト社会主義共和国連邦、フランス共和国、ニュージーランド、フィリピン


大講堂の床も復元にあたって当時の材質を忠実に利用。

矢印の場所は、復元するために位置情報をマーキングしていたシールの跡。
きれいな板は新しく用意した板。それ以外は当時からの板を再利用。


旧陸軍士官学校長室
旧陸軍大臣室
旧陸上自衛隊東部方面総監執務室

士官学校時代は、士官学校校長室。
昭和16年以降は、陸軍大臣室。
戦後は陸上自衛隊東部方面総監執務室であった。

陸上自衛隊東部方面総監執務室時代に、三島由紀夫が扉につけた刀傷が3箇所残っている。
以前はマークはなかったが、いつのまにかわかりやすい表示に進化。

陸上自衛隊時代の旧1号館の復元模型。

バルコニー。三島由紀夫が演説した場所。

大本営陸軍部
陸軍士官学校

表札


旧便殿の間

士官学校時代、 陛下の休憩所として使用された。
戦後は、陸上自衛隊幹部学校長室として使用。

通常の扉は中からは引く扉であるが、 陛下が中から引くことを想定しておらず、外から引く扉となっている。

当時は冷房がなかった時代。地下からの冷気を部屋に取り込むために冷却ダクトが備えられている。

昭和9年の特別大演習の集合写真。


陸軍士官学校歴代校長

2代校長 中将 大山巌
3代校長 中将 谷干城

9代 14代 校長 中将 寺内正毅

20代校長 中将 白川義則 (上海事変)
21代校長 中将 鈴木孝雄 (鈴木貫太郎の弟)

23代校長 中将 南次郎 (満州事変の陸軍大臣)
25代校長 中将 真崎甚三郎 (皇道派 二・二六事件)

陸軍予科士官学校歴代校長

初代予科校長 少将 甘粕重太郎 (甘粕正彦の従兄弟)
2代予科校長 中将 牛島満 (沖縄戦)
3代予科校長 中将 牟田口廉也 (ジンギスカン)


警察予備隊本部
警察予備隊で使用していた看板
昭和25年に国家地方警察本部から分かれ警察予備隊本部が越中島に設置された。

防衛庁
元防衛帳南門で使用していた看板
昭和45年 中曽根元総理揮毫

市ヶ谷記念館のシンボル
「大時計」「桜」

「大時計」
「1号館」の大時計として、平成9年の解体まで波瀾万丈の時を刻んだ。

「桜」
陸上自衛隊東武方面総監部等が使用した「1号館」のシンボルとして、長い間人々に親しまれた。



市ヶ谷記念館の西隣りに。(以前のツアーの際は見学コースに含まれておりませんでした)

スディルマン・インドネシア共和国初代国軍司令官

スディルマン・インドネシア共和国
初代国軍司令官

 本銅像は、プルノモ・インドネシア共和国国防大臣より防衛省に対し、日・インドネシアの友好親善及び日・インドネシア防衛協力・交流の今後の発展の象徴として寄贈されたものである。
 本銅像のスディルマン・インドネシア共和国初代国軍司令官とは、オランダとの独立戦争の指導者であり、インドネシアの国民的英雄である。1916年生まれ。師範学校を出て教師になったが、独立戦争のため、軍に参加。日本軍政の時、日本軍の軍事訓練を受け大団長(大隊長)を務めた経験もあり、1945年、最年少で将軍になる。インドネシア政府は業績をたたえ、記念碑を建立。彼の名は、首都ジャカルタをはじめ国内主要都市の最も繁華な通りの名前につけられ、大学の名前にもなっている。


同じく市ヶ谷記念館の西隣りに。

旧歩兵第一連隊営門

旧歩兵第一連隊営門の由来
 防衛庁が所在した檜町地区は、江戸時代には毛利藩中屋敷があったが、明治4年12月に国有地となり、明治6年5月、日本陸軍の名誉ある頭号歩兵連隊として創設された東京鎮台歩兵第一連隊が駐屯することとなった。爾来、同連隊には34代にわたる連隊長が在職したが、その中でも乃木希典は第2代歩兵第一連隊長(明治11年~15年)であり、彼の住居は今も旧防衛庁の近隣に現存し、昔日の姿を残している。
 大正12年の関東大震災に伴い損傷を受けた連隊本部は取り壊され、連隊はしばらくの間バラックを使用していたが、昭和4年8月に連隊本部の建物(旧防衛庁庁舎20号館)及び営門(本展示物)が竣工した。
 その後、幾多の昭和の激動を経た連隊本部は、その営門と共に昭和20年5月25日の東京大空襲による焼失を免れ、終戦を迎えた。
 戦後、昭和21年から米軍が駐屯したが、旧20号館は営門とともに残置された。昭和34年の米軍移駐に伴い、昭和35年、それまで霞が関に所在していた防衛庁は桧町に移転し、旧20号館は防衛庁の庁舎として使用されるとともに営門は檜町の象徴として保存された。
 昭和53年4月、老築化が進んでいた既設の塀は建て替えられたが、営門は敷地内に引き続き保存されることになった。
 平成12年、防衛庁本町庁舎の市ヶ谷地区への移転完了に伴い、檜町地区の既存建物は旧20号館を含め逐次解体されたが、昭和35年に霞が関から檜町地区に移転して以来、防衛庁・自衛隊を見守ってきた営門は、檜町地区における唯一の歴史的建造物として、ここ市ヶ谷地区に移設された。
 この旧歩兵第一連隊本部の営門は、檜町地区勤務経験者にとって王子を偲ばせるものになるとともに、21世紀を担う若い自衛隊隊員とこの市ヶ谷の地に繰り広げられる諸々の出来事を、これからも見守り続けていくことであろう。
 平成15年7月


戴き物

防衛省 市ヶ谷台ツアー 来場記念品
防衛大臣のメッセージカードとポストカード

是非、足を運んでみてください。


関連

市ヶ谷水管橋

都内最古の道路鉄橋「南高橋」(中央区)

昭和7年(1932)に架橋された「南高橋」。
もともとは明治37年(1904)に架橋された「両国橋」中央部を移築改良したもの。(「旧両国橋」)

現存する道路橋としては「都内最古の鉄橋」
都内に残る鋼鉄トラス橋としては「2番目に古い橋梁」。(最古は八幡橋(人道橋))
車両通行可能な鋼鉄トラス橋としては「全国で6番目に古い橋梁」

中央区民文化財
南高橋 (みなみたかばし)
  所在地 中央区 新川2丁目/湊1丁目(亀島川)
 創架年代は 昭和6年(1931)に起工 同7年月3日に竣工
現在の南高橋の地には江戸時代には木橋は架橋されておらず、亀島川上流に高橋があったのみでした。大正12年(1923)の関東大震災ののち、街路の大規模な区画整備が行われた時に当時の本湊町と対岸の越前堀1丁目との間の亀島川に新しく橋を架けることになりました。
 東京市は、多くの橋を改架したため、予算も乏しくなりました。そのため明治37年(1904)に改架され、大震災で損害を受けた隅田川の両国橋の3連トラスの中央部分を補強し、橋幅を狭めて南高橋として架設したのです。
 都内において、珍しくも明治37年のトラス橋の一部が現在に残ることとなり、その意味でも近代の土木遺産として貴重です。都内に残る鋼鉄トラス橋としては江東区に移転した八幡橋(旧弾正橋)についで2番目に古く、車両通行可能な鋼鉄トラス橋としては全国で6番目に古い橋梁になります。区民有形文化財に登録されています。
  平成14年3月
   中央区教育委員会

南高橋
 この橋は、亀島川の河口に位置し、関東大震災の復興事業の1つとして、昭和7年(1932)に架けられました。橋の主要部は、明治37年(1904)に架けられた旧両国橋の材料を利用して作られたもので、都内に現存する鉄橋のうち道路橋としては、最も古い橋です。
 また構造上の特徴は、トラスの1部材の端に丸い環のついた”アイバー”が用いられており、全体はピントラス橋とも呼ばれています。このため明治期の技術を今に伝える貴重なものとして、中央区民文化財に登録されています。
 平成28年(2016年)に、土木学会選奨土木遺産として認定されました。

「歌舞伎座前より乗合自動車に乗り鉄砲洲稲荷の前にて車より降り、南高橋をわたり越前堀なる物揚波止場に至り石に腰かけてて名月を観る。石川島の工場には燈火煌々と輝き業務繁栄の様子なり。水上には逗州大島行の汽船二三艘泛びたり。波止場の上には月を見て打語らう男女二三人あり。岸につなぎたる荷船には頻に浪花節をかたる船頭の声す。」
 (昭和9年7月・永井荷風「断腸亭日乗」より)

橋梁の諸元
型   式 : 下路式単純プラットトラス橋
橋   長 : 63.1m
有効幅員:11.0m(車道6.0m 歩道2.5m×2)
着   工 : 昭和6年1月
竣   工 : 昭和7年3月
総 工 費 : 76,600円
施 工 者 : 東京市
  平成28年11月 中央区

土木学会選奨土木遺産
2016
南高橋

南高橋をあっちこっちから観察。

上流から撮影

すぐ南側は、黒島川水門


場所

https://goo.gl/maps/crShkFe7FupLPaYQ7


都内最古の鉄橋 八幡橋

両国橋

鎌倉橋の機銃掃射弾痕(千代田区)

鎌倉橋

日本橋川に架かるコンクリート橋。
関東大震災の復興橋の一つで、昭和4年(1929)4月25日の架橋、長さ30.1m、幅22.0mのコンクリ-ト橋。
名前の由来は、江戸城を築くときに鎌倉から石材をここの河岸(内神田寄り)に陸揚げしたので、この河岸を鎌倉河岸と呼んだことによるという。
鎌倉橋の真上は首都高速の神田橋ジャンクション。

この鎌倉橋には弾痕や焼け焦げた跡が残っている。

まちの記憶
1944年 昭和19年
日本本土市街地への空襲が始まる
鎌倉橋欄干には、1944年11月の米軍による爆撃と機銃掃射の際に受けた銃弾の跡が大小30個ほどあり、戦争の恐ろしさを今に伝えている。

https://www.city.chiyoda.lg.jp/koho/bunka/bunka/chome/kioku/kushu.html

場所

https://goo.gl/maps/SVZvKm1uDtGF5xq96


「日本最初の銀行」渋沢栄一と兜町【渋沢栄一4】

兜町には、渋沢栄一が設立した「日本最初の銀行」、そして渋沢栄一が発起人を努めた「日本最初の証券」、そして隣の茅場町には同じく渋沢栄一が関係した「日本最初の電力発電」があった。


銀行としては四代目の建物。

銀行発祥の地

銀行発祥の地
この地は明治6年6月11日(1873年)わが国最初の銀行である第一国立銀行が創立されたところであります
 昭和38年6月建立

第一国立銀行

明治5年(1872)、国立銀行条例が制定。
明治6年(1873)に渋沢栄一によって創設された日本最初の銀行。民間資本民間経営の銀行であったが、国立銀行条例により発券機能等を有していた。
明治15年(1882)、日本銀行条例により国立の日本銀行が設立。国立銀行条例による営業免許期間終了に伴い、明治29年(1896)に一般銀行に改組し「第一銀行」となる。
昭和18年(1943)、太平洋戦争戦時下の国策により三井銀行と合併し「帝国銀行」となるが、戦後の昭和23年(1948)には再度分割し「第一銀行」として再建。
昭和46年(1971)に日本勧業銀行と合併し「第一勧業銀行」。そして第一勧業銀行は、現在の「みずほ銀行」の流れにつながる。

第一国立銀行(第一銀行)」は、日本最初の銀行として、統一金融機関コード「0001」を保有。この0001も「みずほ銀行」が継承をしている。

また、「第一国立銀行」は日本最初の株式会社でもあり、東京株式取引所創設時より上場している。

第一国立銀行が創業した地には、「みずほ銀行兜町支店」がある。

「みずほ銀行兜町支店」の壁面には、「兜町歴史地図」と「渋沢栄一と建物の歴史」が掲載されていた。
(以下、クリックで拡大可)

銀行発祥の地
渋沢栄一翁
渋沢栄一翁は幕末の慶応3(1867)年に渡欧し、最先端の経済制度や科学技術を学びました。帰国後はその知識を活かし、明治政府において新生日本の基盤となる制度作りに力を発揮しました。その後実業界に転じ、生涯を通じて約500にものぼる株式会社の設立・育成を行うとともに、学校や病院など約600の社会・公共事業の育成・推進にも力を注ぎ、近代日本社会・経済の基礎作りに大きな貢献をしました。
中でも、渋沢翁が中心となって明治6(1873)年にこの場所に開業した「第一国立銀行」は、日本最初の近代的な銀行として有名です。この地周辺にはその後日本で最初の株式取引所(現東京証券取引所)や数多くの会社が次々と設立され、兜町は日本経済の中心地として発展していきました。

初代建物(第一国立銀行)
日本最初の近代的な銀行である「第一国立銀行」(現みずほ銀行)は、明治6(1873)年にこの場所で誕生しましたが、その本店として使用されたのが明治5(1872)年に竣工した写真の建物です。
日本初となる銀行建築を請け負った清水組(現清水建設)二代清水喜助は、外国人の手を借りず、設計施工すべてを自分達で手掛けました。木骨石造、ベランダ、日本屋根、塔を組み合わせた和洋折衷の建物は、擬洋風建築の最高峰といわれ錦絵にも度々描かれた東京の名所でした。

設計者 二代目清水喜助(1815-1881)
文化12(1815)年富山生まれ。
生地井波は宮大工輩出の地として知られ、幼少期から社寺建築に親しむ環境の中で育ち、大工となりました。近郷出身の清水組創始者初代清水喜助を頼り江戸に出て、幕末には横浜開港に伴う幕府御用の工事を手がけて事業を大きく発展させ、近代建設業の基礎を整えました。
本建物の他、我が国初の大規模和洋折衷建築と言われる築地の外国人旅館(通称築地ホテル)など彼の作った建物は、明治初期に全国各地に建設された擬洋風建築に大きな影響を与えました。

二代目建物
国立銀行制度の終了に伴い、明治29(1896)年第一国立銀行は株式会社第一銀行となりましたが、その本店の二代目建物として明治35(1902)年に竣工したのが写真の建物です。
後に東京駅舎で有名となる辰野金吾の設計によるもので、外壁は石造ですが鉄棒で補強し、床は耐火構造、シャッター、消火栓等、当時としては最新の防災設備を備えていました。
大正12(1923)年の関東大震災では、地域全体に広がった火災により大きな被害を受けましたが、建物自体は堅牢な作りで崩壊を免れ、その後も使われ続けました。

設計者 辰野金吾(1854-1919)
嘉永7(1854)年佐賀生まれ。
明治6(1873)年工学部工学寮(後の工部大学校、現在の東京大学工学部)に第一回生として入学。同校造家学科を首席で卒業後、官費留学生として英国に留学しました。帰国後は工部大学校の教授に就任し、後には帝国大学工科大学学長や建築学会会長などの要職に就きました。
建物の重圧で堅牢なイメージから「辰野堅固」とも言われたという彼の作品には、日本銀行本店や東京駅駅舎など、現在でも重要文化財などに指定されて残っているものが多数あります。

三代目建物
二代目建物は、昭和5(1930)年に第一銀行本店が当地から丸の内に移転した後も、同行の兜町支店として使われていましたが、その役割は昭和11(1936)年に三代目となる写真の建物に引継がれました。鉄骨鉄筋コンクリート造の建物は、銀行・証券会社の立ち並ぶ兜町の中でもひと際目立つ堂々とした風格を備えていました。 その後昭和51(1976)年に、第一国立銀行以来四代目となる現在の建物が建てられ、現在もみずほ銀行の兜町支店として百数十年に亘る歴史を繋いでいます。

設計者 西村好時(1886-1961)
明治19(1886)年横浜生まれ。
明治45(1912)年東京帝国大学建築学科を卒業後、曽根・中条事務所を経て清水組に入社。後に第一銀行に転出し、同行の丸の内本店をはじめ数多くの銀行建物にその設計・実務手腕をふるいました。
意匠のみならず最新設備にも精通した「銀行建築のエキスパート」として知られ、後の施設計画学にも大きな足跡を残しています。

兜町ビルの歴史
-銀行発祥の地-
https://www.seiwa-building.co.jp/bank-birthplace/building.html

清和綜合建物

https://goo.gl/maps/xXYbW6yqnTCprPnf8

「銀行発祥の地」の突き当りに「日証館」がある。
当時、渋沢栄一邸は、日証館の地にあった。

証券会社のビルが林立する。

フィリップ証券の建物は昭和10年。

山二証券のビルは昭和11年という。


兜神社

明治11年(1878)、渋沢栄一らが発起人となり、東京株式取引所(現・東京証券取引所)が設立。東京株式取引所設立とともに関係者によって創建された。

御祭神:倉稲魂命
明治十一年ここ兜町に東京株式取引所(東京証券取引所の前身)が設けられるに当たり、同年五月取引所関係者一同の信仰の象徴および鎮守として兜神社を造営した。
御社殿に奉安してある「倉稲魂命」の御神号は時の太政大臣三條實美公の揮毫になるものである。
当社は御鎮座後一度換地が行われたが、昭和二年(1927年)再度換地を行ない、兜橋々畔の現在地約六十二坪(役205平方米)を卜して同年六月御遷座を行ない、鉄筋コンクリート造りの社殿を造営した。
昭和四十四年(1969年)五月高速道路の建設に伴い御影石造りの鳥居を残して旧社殿を解体し、同四十六年(1971年)三月現在の鉄筋コンクリート・一間社流造・向拝付きの社殿を造営した。
屋根は銅板葺とし玉垣・参道敷石などは御影石をもちいた。

兜神社の由来となった兜岩。
鎧岩は、前九年の役(1051~1062)のころ、源義家が東征の際に、この岩に兜を掛けて戦勝祈願したことに由来という。
「兜町」の町名由来でもある。

https://goo.gl/maps/LHcqmpgpSyarKKxQA

兜神社の隣は、日証館

日証館

明治21年(1888)に、辰野金吾が設計した渋沢栄一邸がこの地に完成。明治34年(1901)に渋沢栄一は飛鳥山に移り住んだ後は、渋沢事務所としても使用。
大正12年(1923)に渋沢事務所は関東大震災で全焼。
渋沢事務所・渋沢邸跡地に昭和3年(1928)に、「日証館」が建設された。当時の姿を活かしながらリノベーションされ現在も多くの証券会社が入居するビルとして活用されている。

https://goo.gl/maps/XvkmKS2TUEGkEfur5

左手には、東京証券取引所。右手には日証館

東京証券取引所(証券取引発祥の地)

明治11年(1878)6月1日。
東京株式取引所が創立し兜町にあった第一国立銀行の所有を購入して営業開始。渋沢栄一も東京株式取引所発起人に名前を連ねていた。
7月15日、日本初の上場株式として東京株式取引所の売買が開始。
9月、渋沢栄一の第一国立銀行(現みずほ銀行・旧第一勧業銀行)株式が上場。第一国立銀行は日本最初の株式会社であった。

昭和18年(1943)6月、戦時統制機関改編。日本証券取引所に統合。
日本証券取引所は、戦後にGHQにより活動禁止となり昭和22年に解散。
昭和24年(1949)、東京証券取引所設立。

日本橋兜町の歴史・史跡

https://www.heiwa-net.co.jp/urban_development/history.html

平和不動産株式会社

https://goo.gl/maps/kE62zxJp7cReEA5C8


以下は、渋沢栄一とは、あまり関係ない史跡。
発祥の地でしたので、興味深く。

郵便発祥の地

日本橋郵便局が、日本の郵便発祥の地、であったという。
この界隈は、銀行と証券と郵便が始まったエリアでもあったのだ。

郵便発祥の地
ここは、明治4年3月1日(1871年4月20日)
わが国に新式郵便制度が発足したとき駅逓司と東京の郵便役所が置かれたところです。

前島密先生
郵便発祥の地

前島密の胸像は昭和12年、会田富康の作。

前島男爵ノ命ニ依リ密翁之像ヲ補綴改鋳ス
昭和十二年三月 會田富康

多羅葉(たらよう)
はがきの木


「葉書」の由来は、この木から・・・
 肉厚の葉の裏側をとがったもので書きつけると、茶色に変色してくっきり文字が浮あがります。
 古代インドで手紙や文章を書くのに用いた多羅葉の葉になぞらえてその名がつけられました。
 この木は、郵便局のシンボルツリーとして植えられています。

https://goo.gl/maps/etp4NX6xUnBoD9686


電燈供給発祥の地

茅場町のビジネスホテルの手前に、記念碑があった。
この地から、日本で最初の電力送電が行われたのだ。

東京電燈株式会社設立を出願した渋沢栄一・大倉喜八郎らの手によって、明治16年に設立。
明治20年(1887)に日本橋茅場町から第二電燈局が小規模火力発電で電気の送電(架空配電による最初の電燈供給)を開始。

電燈供給発祥の地
 明治20年(西暦1887年) 11月21日東京電燈会社がこの地にわが国初の発電所を建設し、 同月29日から付近の日本郵船会社、今村銀行、東京郵便局などのお客様に電燈の供給を開始いたしました。
 これが、わが国における配電線による最初の電燈供給でありまして、その発電設備は直立汽缶と、30 馬力の横置汽機を据付け、20キロワットエジソン式直流発電機1台を運転したもので、配電方式は電圧 210ボルト直流三線式でありました。

電気ゆかりの地を訪ねて
日本初の配電線による電灯供給
第2電燈局

http://kandenkyo.jp/pdf/yukari%20vol6.pdf

日本電気協会 関東電気協会

https://goo.gl/maps/9MHb5c8PB2TkCy9V8


海運橋親柱

第一国立銀行の脇には楓川という川が流れており、海運橋が掛けられていたが、現在は埋め立てられている。当時の名残の親橋が近くに残されている。

海運橋親柱
所在地 中央区日本橋一ー二十先
 日本橋兜町三先
 海運橋は、楓川が日本橋川に合流する入り口に架けてあった橋です。江戸時代初期には高橋と呼ばれ、橋の東詰に御船手頭向井将監忠勝の屋敷が置かれたので、将監橋とか海賊橋と呼ばれていました。御船手頭は幕府の海軍で、海賊衆ともいっていたためです。
 橋は、明治維新になり、海運橋と改称され、同八年に、長さ八間(約十五メートル)、幅六間(約十一メートル)のアーチ型の石橋に架け替えられました。文明開化期の海運橋周辺は、東京の金融の中心として繁栄し、橋詰にあった洋風建築の第一国立銀行とともに、東京の新名所となりました。
 石橋は、関東大震災で破損し、昭和二年鉄橋に架け替えられました。このとき、二基の石橋の親柱が記念として残されました。鉄橋は、楓川の埋立てによって、昭和三十七年撤去されましたが、この親柱は、近代橋梁の遺構として、中央区民文化財に登録されています。
 平成六年三月
  中央区教育委員会

海運橋
紀元2535年=明治8年=1875年

楓川は埋め立てられ、その楓川の上を首都高速が走っている。
海運橋は、この方向に首都高の下に架かっていた。

https://goo.gl/maps/QpgZigvtBggSUSV7A


渋沢栄一関連

渋沢栄一像と日本銀行【渋沢栄一3】

日本橋界隈の渋沢栄一関連を散策してみる。

常盤橋公園(常磐橋)

常盤橋公園は、江戸城の城門の一つ常盤橋門があったところ。

昭和8年(1933)に財団法人渋沢青淵翁記念会(現在の渋沢栄一記念財団)によって復旧整備が行われた公園。令和3年現在、工事のため閉鎖中。2021年度中に一部を暫定開放予定。

明治10年(1877年)に再建された2連アーチ石橋が残る。経年劣化と東日本大震災による被害のために全面的な修復工事が行われている。

公園の名前は、「常盤橋公園」
石橋は「常磐橋」
下流には「常盤橋」
上流には「新常盤橋」
磐と盤がややこしい。


渋沢栄一像(常盤橋公園)

工事中の常盤橋公園のなかで、渋沢栄一像の一角のみ開放されている。

渋沢栄一像は、日本で初めて設立された銀行「第一国立銀行」(日本銀行ではなく)の方向を向いているという。

青淵澁澤榮一

 青淵澁澤榮一翁は、天保十一年埼玉縣の農家に生まれたが時勢に激して志士となり、後轉じて幕臣となって、慶應三年歐州に赴き、民主主義自由主義を知る機會を得た。
 歸朝後大蔵省に仕官して諸制度の改革に當ったが、明治六年退官し、同年創立された第一國立銀行の頭取となり、爾来産業経濟の指導者成りに任じ開與した會社五百、常に道徳経濟合一主義を唱えて終生之を實錢し我が國運の發展に偉大な貢獻をした。
 また、東京市養育院等社會事業の助成、一橋大學・日本女子大學等實業及び女子教育の育成、協調會等による勞資の協調、日華日米親善等世界平和の促進、道徳風教振作のために九十二歳の高齢に達するまで盡力し、昭和六年十一月十一日に逝去した。
 翁の没後、財界有力者によりその遺徳顯彰の目的で設立された澁澤青淵翁記念會が、昭和八年此処に銅像を建立したが、第二次世界大戦中金属供出のために撤去された。
 然るにこのたび、銅像再建の聲が盛り上がり各界の有志によって、再び朝倉丈夫氏に製作を委託しこの位置にこの銅像を建て、東京都に寄附したのである。
  昭和三十年十一月 澁澤青淵記念財團龍門社

昭和8年11月11日
財團法人澁澤青淵翁記念會建之

場所

https://goo.gl/maps/2SjJoNKm8PrTUNbX6


常盤橋

日本場川に架かる橋。上流は石橋の常磐橋。左手には渋沢栄一像、右手には日本銀行本館。

常盤橋
昭和元年11月完成

渋沢栄一像

日本銀行本館

日本橋川の上流には石橋二連の「常磐橋」

渋沢栄一・渋沢敬三と日本銀行

明治5年(1872)、国立銀行条例が制定。
明治9年(1876)、国立銀行条例全面改正。不換紙幣の発行を認めたことが一因となって、インフレが進行する。
明治14年(1881)、大蔵卿松方正義は不換紙幣の整理と中央銀行の創立をめざす建議を三条太政大臣宛に提出。大蔵卿松方正義により日本銀行創設へ。
明治15年(1882)、日本銀行条例により日本銀行が設立。第一国立銀行頭取であった渋沢栄一は割引手形審査のための日本銀行割引委員に就任。

渋沢栄一は、明治6年(1873)に日本最初の銀行「第一国立銀行」を創設。民間資本の民間経営の株式会社であったが、国立銀行条例による発券機能等を有していた。

渋沢栄一の孫である渋沢敬三は、昭和17年(1942)に日本銀行副総裁、そして昭和19年(1944)には第16代日本銀行総裁に就任している。就任は昭和19年3月18日であり、戦前最後の日本銀行総裁であった。幣原喜重郎内閣の大蔵大臣就任のために、昭和20年10月9日に日本銀行総裁を辞任している。

日本銀行本店本館

ベルギー国立銀行を参考に明治29年(1896)2月竣工。設計は辰野金吾。
明治24年(1891)に発生した濃尾地震の教訓から、高橋是清の指示で建物上部を軽量化し耐震性を高めており、2階3階は煉瓦造石貼り建築。
1974年2月5日に国の重要文化財に指定。

日本銀行本店別館

辰野金吾の弟子・長野宇平治の設計。昭和13年(1938)竣工。なお、長野宇平治は日本銀行本店別館の完成前の昭和12年に死去している。

本館の隣に別館が増築されている。

場所

https://goo.gl/maps/e93utY2d91aThXtw5


日本銀行創業の地

ちなみに、「日本銀行創業の地」は中央区日本橋箱崎にある。隅田川と日本橋川が合流する箱崎の地で創業し14年後に現在地に移転した、とのことで。
現在の日本IBM本社近く。

日本銀行創業の地
 明治十五年十月十日日本銀行はこの地で開業した
 明治二十九年四月日本橋本石町の現在地に移転した
 創業百周年を記念してこの碑を建てる
      昭和五十七年十月
         日本銀行総裁  前川春雄

場所

https://goo.gl/maps/ncwXnUADuhVYrJy6A


渋沢栄一関連記事

和泉町ポンプ所(千代田区・2023年解体)

2023年5月16日から解体工事となり消失しました


東京都下水道局「和泉町ポンプ所」

大正11年竣工の鉄筋コンクリート2階建ての建造物。
大正11年(1922)8月に稼働開始。現存する日本初のポンプ場のひとつ(だった)。
大正11年3月に運用開始となった三河島処理場(旧三河島汚水処分場喞筒場施設)とともに整備された。
関東大震災と東京大空襲の猛火をくぐり抜け、今日まで約100年近く現役の施設(だった)。近隣の汚水をポンプで吸揚し、三河島の水再生センター(三河島汚水処分場)に送水をしていた。
なお、数年前までは、古い煉瓦壁が道路沿いに残っていたが2018年以降に撤去されている。

大正11年竣工。翌年大正12年9月1日には、関東大震災が発生。周辺が焼け野原になる中で、この神田和泉町・神田佐久間町周辺は、周辺住民の消火活動により防火に成功。押し寄せる猛火を、前年に竣工したばかりの和泉町ポンプ場の水などを活用して、延焼防止に役立てたという。
旧神田区では関東大震災で94%が焦土となる中で、神田和泉町周辺の1630戸は奇跡的に焼け残った。
昭和14年には、和泉町ポンプ所は「関東大震災 町内協力防火守護の地」として顕彰されている。

https://www.gesui.metro.tokyo.lg.jp/business/kanko/newstokyo/240/5/index.html

東京都下水道局ではペーパークラフトも用意されている。

https://www.gesui.metro.tokyo.lg.jp/living/kids/corner/paper/index.html

※解体となり、上記のリンクはすべて削除された模様。。。


2021年1月訪問時の写真

※クリックで拡大可

場所は秋葉原駅のほど近く。

https://goo.gl/maps/gUAR1EumivajZYWU8


解体前の2023年4月再訪

解体ときいて、直前に再訪して記録写真を。

解体工事のお知らせ
この建築物を、下記の通り解体します。
解体工事の名称:旧和泉町ポンプ所解体工事
工期:令和5年5月16日から令和5年9月29日まで

以前(2021年)に門扉に掲げてあった「神田和泉町思い出マップ」は既に撤去されていた。。。

いろいろと思うところはあるが、ポンプ場は役目を終えて、いまは解体を待つ状態であった。

※追加撮影:2023年4月


関連(近隣の史跡)

法務省旧本館(旧司法省庁舎)

「中央合同庁舎第6号館赤れんが棟」、とも呼称。
明治期に造られた官庁集中計画建造物で唯一現存する建物。
国重要文化財指定(外観のみ指定、内装は除く)

1895年(明治28年)、旧司法省庁舎として竣工。
ドイツ・ネオバロック様式。歴史主義建築。

1923年(大正12年)の関東大震災をほぼ無傷で乗り切るも、1945年(昭和20年)の東京大空襲にて内装と屋根を焼失。
1950年に法務府庁舎・法務省本館として再利用。
1994年の改修工事で文化財として創建時の外観に戻され、現在は法務総合研究所・法務図書館として利用されている。
1995年には「法務史料展示室」が開設され、平日のみ一般公開されている。

重要文化財 法務省旧本館
 この建物は、明治政府が招聘したドイツ人建築家ヘルマン・エンデとヴィルヘルム・ベックマンの設計により実施設計・工事監理には河合浩蔵が参画し、1895年(明治28年)に旧司法省庁舎として完成した。
 その後、1923年(大正12年)の関東大震災では、れんが壁が鉄材で補強されていたため、ほとんど被害を受けなかったが、1945年(昭和20年)の東京大空襲により、れんが壁を残して焼失した。そのため、屋根を天然スレートから瓦にするなどの改修工事が行われ、1950年(昭和25年)法務省本館として利用されるようになった。
 中央合同庁舎第6号館の整備に伴い、村松貞次郎、堀内正昭両氏の監修のもと建設大臣官房官庁営繕部により、1994年(平成6年)外観が創建時の姿に復原され、法務総合研究所及び法務図書館として活用されることとなった。
 本格的なドイツ・ネオバロック様式の外観に特徴があり、都市の景観上貴重で歴史的価値が高いため、1994年(平成6年)12月27日に重要文化財の指定を受けた。
 平成7年5月

法務史料展示室
メッセージギャラリーのご案内


公開日 月曜日から金曜日まで/入場無料(土曜日・日曜日・祝日などはお休み)
公開時間 午前10時から午後6時まで(入室は午後5時30分まで)

重要文化財(建造物)
法務省旧本館
(指定:平6.12.27)
 明治政府は、最大の外構課題であった不平等条約改正交渉に先立ち、近代国家としての体制を整えるため、明治19年(1886)から官庁集中計画に着手しました。計画立案には当時のドイツ建築界を代表するヘルマン・エンデとヴェルヘルム・ベックマンを招聘し、司法省の庁舎として企画されました。工事監理はベルリン工科大学に留学経験のある河合浩蔵が務め、明治21年(1888)に着工し、明治28年(1895)12月に竣工しました。東京大空襲で煉瓦造の躯体と防火床の一部を除いてほぼ全焼しました。平成3年から6年にかけて行われた保存改修工事により創建当時の姿に復元しました。建物は、1階を低く抑え、2・3階を高くした3階建で、屋根はスレート葺、外壁は赤煉瓦を基調に柱や窓周りに白い石材を用いています。
 明治の官庁集中計画による建物で現存する唯一のものであり、本格的なドイツ・ネオバロック様式を用いた外観に特徴があります。


位置関係など

国土地理院公開の航空写真より
ファイル:USA-M871-58
1948年03月29日-米軍撮影。

司法省の建物が外壁を残して焼失している姿がよく分かる。
海軍省や参謀本部なども同様に外壁を残すのみ。


法務省旧本館

正門の守衛さんに、見学したい旨を申し出ると、見学可能。その際に見学に際しての諸注意が守衛さんより説明がある。

  • 写真撮影は決められたエリアのみ可能。
  • 館内は撮影禁止
  • 飲食禁止
  • 歩く場所
  • 館内は業務中のために静粛に

以下、外観を決められたエリアから撮影。正面向かって右側のエリアからのみ撮影可能。

史料展示室とメッセージギャラリーにて、日本の法務史と旧司法省本館の歴史が学べるので、平日限定公開だけど、興味ございましたら足を運んでみるのをおすすめします。結構面白いです。


法務史料展示室・メッセージギャラリー

http://www.moj.go.jp/housei/tosho-tenji/housei06_00004.html

法務史料展示室・メッセージギャラリーご利用案内(見学・アクセス)

  • 月曜日から金曜日まで(土曜日,日曜日,祝日等はお休み)
  • 午前10時から午後6時まで(入室は午後5時30分まで)
  • 無 料

http://www.moj.go.jp/housei/tosho-tenji/housei06_00009.html


関連