「東京都‐23区東部(江東,墨田,台東,荒川,足立,葛飾,江戸川)」カテゴリーアーカイブ

元加賀公園と川南公園(震災復興公園・江東区)

大正12年(1923)の関東大震災ののち、帝都復興院総裁となった後藤新平が中心となって、地震発生時の防火帯設置を目的とした公園の確保が重要視されることとなった。

震災復興三大公園として「隅田公園」「浜町公園」「錦糸公園」が設置。
また、昭和5年(1930)に完成した横綱町公園には震災記念堂と震災記念館が建設された。

東京市公園課長に就任した井下清は、52箇所の東京市立公園を設計。小学校を不燃化・耐震化させた鉄筋コンクリート校舎とし、小公園を併設することにより防火帯と避難設備の役割を担った。
この井下清が設計した小学校とセットとなった小公園が東京市内52箇所に設置され「震災復興52小公園」となる。

戦後の再開発で当時の「震災復興公園」は消滅や縮小などもあり、往時の姿を完全に残すものはない。そんな「震災復興公園」の中で、文京区の町公園は「震災復興公園」の姿を復元している。


元加賀公園

東京都現代美術館(MOT)と木場公園の北側に。

江東区の2つの公園に、開園当初の面影を見ることが出来る。
江東区立元加賀小学校の隣。小学校と小公園。

江東区立 元加賀公園

開園 昭和二年八月三十一日

昭和2年(1927年)開園。

昭和2年開園当時からの壁泉付露床が公園内に残っている。

後方。

水道管はむき出し。


川南公園(せんなん公園)

江東区立川南公園。川南小学校の隣。
川南公園は、関東大震災後に作られた震災復興計画公園のひとつで、昭和6年(1931)に開園。

昭和6年(1931)開園当時からのすべり台が残る。貴重な当時の遺産であるとともに、今も現役の遊具として90年に渡り子どもたちに親しまれている。

2つのレリーフが側面にある。

非常に良き状態で残されている。

「国産第1号の鉄橋・都内最古の鉄橋」旧弾正橋(八幡橋)

富岡八幡宮の東側、かつて八幡堀川という川に架かっていた「八幡橋」。
もともとは中央区宝町付近の楓川に架かっていた「弾正橋」という橋であった。

旧弾正橋(八幡橋)

「東京最古の鉄橋」
「国産鉄の鉄橋として日本最古の鉄橋」

「国重要文化財指定」
「米国土木学会栄誉賞」

明治11年(1878)11月に京橋区の楓川に「弾正橋」として竣工。
大正2年(1912)に新「弾正橋」が架橋され「元弾正橋」と改称。
大正12年(1923)関東大震災後の震災復興計画により廃橋。
昭和4年(1929)5月に現在地に移転し「八幡橋」として架橋。

国指定重要文化財(建造物)
旧弾正橋(八幡橋)
 富岡1-19~富岡2-7 
 昭和52年6月27日指定
 
 八幡橋は、明治十一年東京府の依頼により工部省赤羽製作所が製作した長さ15.2メートル、有効幅員2メートルの単径間アーチ形式の鉄橋である。もと京橋楓川(中央区)にかけられ弾正橋と称したが、大正二年(1913)市区改正事業により新しい弾正橋がかけられたので、元弾正橋と改称した。大正十二年関東大震災の帝都復興計画により、元弾正橋は廃橋となり、東京市は、昭和四年(1929)5月現在地に移して保存し、富岡八幡宮の東隣であるので、八幡橋と称した。アーチを鋳鉄製とし引張材は錬鉄製の鋳錬混合の橋でありかつ独特な構造手法で施工してある。この橋は鋳鉄橋から錬鉄橋にいたる過渡期の鉄橋として近代橋梁技術史上価値の高い橋である。
 江東区教育委員会

橋を渡って、遊歩道に移動してみる。

八幡堀遊歩道

遊歩道はかつて八幡堀側という川であった。

八幡橋(旧弾正橋)
由来
 旧弾正橋は、明治11年(1878)東京府の依頼により工部省赤羽製作所が制作した国産第1号の鉄橋です。昭和4年(1929)現在地に移され八幡橋と改称し、以来人道橋として活躍してきました。昭和52年(1977)近代橋梁技術市場価値の高い橋であることから、国の重要文化財に指定されました。また、アメリカ人技師スクワイアー・ウィップルの特許を基本としたところから、平成元年10月、国内で初めてアメリカ土木学会より「栄誉賞」を受けました。

ピンの接合部に「菊の紋形の花弁装飾」が施されている。

国指定重要文化財 
旧弾正橋(八幡橋)
 富岡1-19~富岡2-7
 昭和52年6月27日指定
 
 八幡橋は、東京市で最初に架けられた鉄橋である。長さ15.2m、幅2m、単径アーチ橋の形式をとる。アーチは鋳鉄製で5本の直材をつなぎ、その他の引張材は錬鉄製の鋳錬混合の橋である。もとは、京橋区(中央区)の楓川(もみじがわ)に架けられていたものである。経緯については「八幡橋新橋来歴」に詳しく記されている。この橋は明治11年(1878)、東京府の依頼により工部省赤羽製作所で製造された。はじめは弾正橋と称していたが、大正年(1913)の市区改正により新しい弾正橋が架けられたため、元弾正橋と改称された。さらに、関東大震災後の帝都復興計画により廃橋となり、昭和4年(1929)、現在地に移設された。富岡八幡宮の東隣りであるため、名称も八幡橋と改められた。現存する鉄橋としては最古に属するものであり、また、菊の紋章のある橋としても有名である。鋳鉄橋から錬鉄橋に至る過渡期の鉄橋として、近代橋梁史上貴重なものであるとともに、独特な構造手法を用いて施工されてあり、技術史の上でも価値の高い橋である。
 江東区教育委員会

記念碑がある。
米国土木学会栄誉賞受賞記念など。

八幡橋鉄構来歴
本橋ノ鉄構ハ東京市最初ノ鉄橋タリシ弾正橋ノ古構ヲ再用セルモノニシテ明治十一年東京府董工ノ下ニ工部省赤羽製作所ニ於テ鋳造セラレシモノナリ
其ノ後大正二年市区改正ニヨリ附近に新ニ弾正橋架設セラレタル結果之ヲ元弾正橋ト改名シ近年ニ及ヘルモノナリシカ帝都復興事業区画整理ニ依リ元弾正橋ハ廃橋トナリタルニ付東京市最古ノ鉄橋ヲ記念センカ為其ノ鉄構ヲ取外シ昭和四年此処ニ新設セラルル八幡橋ニ架設セルモノトス
 東京市

米国土木学会栄誉賞受賞記念

JAPAN HISTORIC CIVIL ENGINEERING LANDMARK

AMERICAN SOCIETYY OF CIVIL ENCINEERS
FOUNDED 1852

“THE HACHI MAN BRIDGE”
THE FIRST BRIDGE BUILT OF IRON MANUFACTURED IN JAPAN

PRESEBTED BY THE JAPAN SECTION, ASCE 1989

(和訳)
日本の歴史的土木ランドマーク
 米国土木学会 (1852年創業)
“ハチマンブリッジ” 日本初の鉄製の橋
米国土木学会 1989年、日本部門発表

 八幡橋は、明治11年(1878)わが国において、最初に日本製の鉄を使って造られた鉄橋で、国の重要文化財や東京の著名橋となっています。
 橋の形(ウイップル形トラス)は、米国人スクワイアー・ウイップル(SQUIRE・WHIPPLE)氏の特許が基本となっています。
 ウイップル形トラス橋の名誉と日本の歴史的土木建造物「八幡橋」の優れた製作技法に対して、平成元年(1989)米国土木学会より「土木学会栄誉賞」が送られました。

人力車のモニュメントにも、八幡橋の解説がある。

八幡橋(旧弾正橋)
八幡橋は、明治11年(1878)に京橋区楓川に架けられ、島田弾正屋敷が近くにあったことから弾正橋と呼ばれていました。
現在の中央区宝町三丁目付近に位置します。弾正橋は、馬場先門から本所・深川を結ぶ主要街路の1つで、文明開化のシンボルとして架橋されましたが、その後関東大震災の復興事業により廃橋となってしまいました。しかし昭和4年(1929)には、その由緒を惜しみ現在地に移設され、八幡橋と名前も改められました。現在では江東区が大切に保存しています。
この東京名所図会(三ツ橋の現況)には、明治34年(1901)頃の弾正橋(左奥)が描かれており、当時の情景が偲ばれます。
弾正橋・白魚橋・真福寺橋とをあわせ三ツ橋と呼び、古くから有名で人々から親しまれていました。

八幡堀遊歩道から八幡橋を望む。

橋下では、猫様がくつろいでおられた。

「みんな(猫)の住みやすいまちに」

八幡堀遊歩道の北に、もうひとつ橋梁があった。

旧新田橋

平成12年(2000)の護岸整備により新田橋は架替えられ、昭和7年に竣工した旧新田橋は、八幡堀遊歩道に移設保存。

旧新田橋
 新田橋は、大横川(旧大島川)に架かり、江東区木場5丁目から木場6丁目を結ぶ、町の人びとの暮らしを支え続けてきた小さな橋の人道橋です。
 大正時代、岐阜県から上京し、木場5丁目に医院の開業をしていた新田清三郎さんが、昭和7年(1932)、不慮の事故で亡くなった夫人の霊を慰める「橋供養」の意味を込めて、近所の多くの人たちと協力して架けられたものです。
 当初、「新船橋」と名付けられたが、町の相談役としても人望が厚く、「木場の赤ひげ先生」的な存在であった新田医師は、亡くなった後も地域の人々から愛され、いつしか「新田橋」と呼ばれるようになりました。
 また、映画やテレビの舞台ともなり、下町の人々の生活や歴史の移り変わり、出会いや別れ、様々な人生模様をこの橋は静かに見守り続けてきました。

現在の新田橋。


弾正橋
弾正橋公園(楓川弾正公園)

八幡橋は、かつては弾正橋として楓川に架けられていた。
中央区の宝町と八丁堀のあいだ、あたり。
現在は、楓川は埋められており、弾正橋も橋があった名残のみが残っている。

弾正橋
 弾正橋は古く江戸寛永年間には既に、楓川上に架かっているのが記されており、北八丁堀に島田弾正少弼屋敷があったのがその名の由来のようである。弾正橋は当時交差した堀川上に真福寺橋、白魚橋と共に三つの橋がコの字状に架けられていたことから、江戸名所図会に「三ツ橋」として紹介されており、江戸における一つの名物であったようである。
 その後たびたび架替えられたが、明治11年に工部省の手により、我が国最初の国産の鉄を使った橋として架替えられた。その時の橋は現在でも江東区富岡一丁目に保存され、昭和52年に国の重要文化財として指定され、平成元年にはアメリカ土木学会の栄誉賞も受ける等どの歴史的貴重さを増している。
 現在の橋は大正15年12月に復興局によって架替えられたもので、従来の弾正橋よりやや北側に位置している。その後昭和39年の東京オリンピックの時に、弾正橋の両側に公園が造成され、平成5年2月に公園と一体化された、くつろぎのある橋として再整備された。尚、公園にあるモニュメントは、明治11年、楓川に架かる弾正橋を象徴化して復元したものである。

橋梁の諸元
形式:ラーメン橋台橋 橋長:33m 有効幅員 23.2m(車道16m、歩道3.6m×2) 建設年次:大正15年12月 復興局施工

公園として整備されている。
モニュメントは、明治11年、楓川に架かる弾正橋を象徴化して復元したものというが、じっくりと見学するのが難しい。「菊の紋形の花弁装飾」も復元。よくできている。やはり、じっくり観察ができない環境が惜しい・・・


都内最古の道路鉄橋 南高橋(旧両国橋)


関連

旧東京市深川食堂(深川東京モダン館)

深川。門前仲町の交差点の近くに東京大空襲をくぐり抜けた建物が残っていた。

現在でも通用するモダンなデザインの建物が昭和7年竣工というのだから、驚きを感じてしまう。

旧東京市深川食堂

昭和6年(1931)に着工、翌7年3月に竣工。関東大震災復興事業として建設された東京市設食堂。

旧東京市深川食堂
江東区登録有形文化財 (建造物) 国登録文化財
門前仲町一-一九-一五
 東京市深川食堂は、東京市が社会事業施策として、大正九年(一九ニ〇)から順次設置した一六カ所の市設食堂 のひとつです。延床面積は一〇六坪。関東大震災の復興事業の一環として、昭和六年(一九三一)に着工、翌七年三月に竣工しました。市設食堂とは低所得者のために安くて栄養のある食事を提供する施設のことです。一一年に閉鎖されましたが、一三年に東京市深川栄養食配給所として活動を再開、東京大空襲で被災しましたが全焼をまぬがれ、戦後部分修復して、東京都の職業斡旋施設となり、三二年には授産機能、三六年には福祉機能が追加されました。五四年に江東区へ移管され、「江東区内職補導所」と改称し、数度の名称変更を経て、平成一八年に閉鎖されるまで利用されました。
 構造は二階建て鉄筋コンクリート、外壁はモルタル下地吹上仕上げ。大震災の教訓を活かし、当時の最先端技術である鉄筋コンクリートが採用されました。デザインの特徴は、明るく開放的な吹き抜け空間になっている階段室と、二階南側のスチール・サッシュ窓にあります。震災復興の近代建築物としての希少性が認められ、平成二〇年に国登録文化財に登録されました。
平成二十一年九月
江東区教育委員会

外観

2階建て鉄筋コンクリート。
スチールサッシュ窓が特徴的。

深川東京モダン館。
街歩きの拠点となっている。

館内

玄関から階段にかけてのモザイクタイルが特徴的。

昭和の生き証人「深川モダン館」
国登録有形文化財(建造物)「旧東京市深川食堂」
 深川東京モダン館は、東京市が社会事業として順次建設をすすめていた市設食堂で、震災復興事業の一環として昭和7年(1932)に建築された東京市深川食堂を改修した建物です。大正12年(1923)に起きた関東大震災は、死者約9万2千人、全壊・焼失約47万戸という未曾有の大災害をもたらしました。震災で住む場所を失った人びとに、安くて栄養のある食事を提供するためには公共の食堂が是非とも必要でした。そのため東京市(1944年に東京都となる)では市内の数カ所に食堂を増設しました。この深川東京モダン館の前身である「深川食堂」は、最後に造られた市設食堂でした。
 深川食堂は震災復興が一段落した後も、社会事業の役割をになう公営食堂などとして運営されてきましたが、第二次世界大戦末期の空襲で建物の内部が焼けてしまいました。戦後は職業安定所や内職補導所、障害者通所授産施設として活用されてきましたが、平成18年(2006)にその役割を終え、解体を含め建物をどうするのかが問題となりました。
 専門家による調査で、この建物は昭和初期の近代建築の姿を今日に伝える貴重な文化遺産であるとの評価を受け、江東区は保存と活用を決めました。また平成20年(2008)には、国登録の有形文化財(建造物)として認定されました。
 昭和の初めに、新鮮な驚きを与えて人々を魅了したモダンスタイルを今日に伝えるこの建物は、また、激動の昭和の歴史の生き証人でもあります。今後は保存され、江東区の観光と文化の拠点「深川東京モダン館」として装いを新たにし再出発します。

建物の概要
●所在地:深川區門前仲町17番地
     (現 江東区門前仲町1-19-15)
●用途:市設食堂(社会事業施設の復興計画)
●工事管理者:東京都社会局/設計 東京市建築課
●敷地面積:敷地298.9㎡、延床面積370.58㎡
●竣工:昭和7年3月下旬
●1階:事務室、調理室、倉庫、嗜好食を売る食堂
 2階:定食室、外従業員寝室
 ※嗜好食=一般市民向け、定食=少額所得者向け

建物の特徴
 深川東京モダン館は、昭和初期に建築された建物の姿を今日に伝える貴重な文化遺産です。昭和初期の1930年代には、建物から装飾を取り去って、できるだけシンプルで単純な形を追求した建築が時代の最先端として登場し世界中に広まりました。「単純なものは美しい」という言葉に象徴されるこの傾向は、建築だけでなく美術や音楽の世界にも見られ「モダニズム」とか「モダンスタイル」と呼ばれました。モダニズムは近代の合理主義精神が形となったものとされています。
近接時期の特徴
・関東大震災復興事業として着工された現存する数少ない建築である。
構造上の特徴
・耐震耐火の性能を満たすべく当時の最先端の技術である鉄筋コンクリート造として建設された。
デザイン、建築材料の特徴
・入口に続く階段空間が2階天井までを全面窓とした吹き抜け空間となっていて明るく開放的である。
・2階の南側の窓がモダンデザインの特徴である水平に連続するスチール・サッシになっている。
※窓枠はすでに位置を変え付け替えられていたため、改修工事により、位置について復元をした
・昭和初期のモダン建築に多く見られる丸窓がある。この6つの丸窓は大通りから真っ直ぐに見え、本建造物を強く印象づける役割を果たしている。

戦前の牛乳瓶
平成20年の建物改修工事時に出土。

改修前の外壁
南満鑛業株式会社製のリソイド仕上げ外壁。

昭和7年の竣工時の面影を伝える床面タイル・壁面タイル。

モザイクタイルが貼られた階段と壁面。竣工当時の面影を残す。

2階は、イベントスペース。


戦災殉難者慰霊碑

近くには門前仲町の町会で建立された「戦災殉難者慰霊碑」があった。(モスバーガーの隣)

戦災殉難者慰霊碑
 平成2年7月吉日
  門前仲町一丁目町会建之


※撮影:202007及び202101


関連

東京大空襲・慰霊

JR両国駅と両国橋散策

両国駅

明治37年(1904)4月5日に、千葉方面に鉄道を展開していた私鉄・総武鉄道によって「両国橋駅」として開業。総武鉄道は千葉県内初の鉄道。
本所駅(錦糸町駅)と両国橋駅(両国駅)の1.5キロは、日本の鉄道として最初の高架区間でもあった。総武鉄道単独では隅田川を渡ることが難しく、両国橋駅が千葉県から都心方面のターミナル駅として機能することとなった。
総武鉄道は明治40年(1907)に買収され国有化。官設鉄道の総武本線となった。

昭和4年(1929)12月30日に増大する輸送量に対応するために、現在の新駅舎が竣工。昭和6年に「両国駅」に改称。
平成28年(2016)11月25日、旧駅舎再改装。

関東の駅百選
「鉄筋2階建ての駅舎で相撲とともに歩んだ下町の代表となる駅」。

※2020年8月撮影

※2021年3月撮影


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:C29C-C1-55
1942年3月18日、日本陸軍撮影の航空写真を一部文字入れ加工。

両国駅の貨物エリアが再開発で、のちに国技館と江戸東京博物館、となった。
震災記念堂(東京都慰霊堂)と復興記念館は戦災をまぬがれた。


両国橋

隅田川にかかる橋。かつては武蔵国と下総国の国境であったことから「両国」と呼称。貞享3年(1686)に国境が変更されて武蔵国内となった。

現在の両国橋は昭和7年(1932)竣工。柱部は両国国技館の屋根を模った飾りを配する。

隅田川にかかる両国橋の西側には神田川と柳橋。両国橋で、神田川と隅田川が合流する。

旧両国橋は、黒島川の南高橋に移築されている。


柳橋

神田川最下流の橋。関東大震災復興事業として昭和4年(1929)竣工。

昭和4年の復興記念碑。


表忠碑

両国橋の東側に鎮座している。

表忠碑
元帥侯爵大山巌書

明治三十七八年役戦病死者
明治四十年一月一日建之

※2018年5月撮影


両国関連

東京大空襲・慰霊

浅草の近代建築散策

浅草界隈の近代建築散策などを。


東武鉄道浅草駅ビル

東武鉄道の浅草駅ビルは昭和6年(1931)竣工。
地上7階・地下1階の建物は、鉄道省の初代建築課長であった建築家久野節が設立した久野建築事務所が設計、清水組により施工。関東初の本格的な百貨店併設ターミナル駅ビルとして開業。関東では唯一のJR.地下鉄以外の他社民鉄と接続していないターミナル駅。
昭和初期のアール・デコ様式の建造物。平成24年に開業時の姿に復元リニューアル。

関東の駅百選「浅草駅」
「昭和6年「浅草雷門駅」として開業、駅の上はデパート」(東武鉄道)

内部も(電車のとこだけだけど)


東京メトロ浅草駅上屋(4番出入口)

昭和2年(1927)竣工。日本初の地下鉄駅のひとつ。戦前の地下鉄関連遺産として近代化産業遺産に認定。
大正6年(1917)に早川徳次が東京軽便地下鉄道を設立。関東大震災によって資金繰りが悪化し、建設区間を短縮。東京一番の繁華街であった浅草と国鉄ターミナルの上野を結ぶ路線の建設に着工し、昭和2年12月30日に、日本初にして東洋初の地下鉄として東京地下鉄道の浅草駅が開業した。

関東の駅百選「浅草駅」
「浅草寺を考慮し、浅草の土地柄に馴染んでいる仏閣デザインの地下鉄の長老駅」(営団地下鉄)


神谷バー

大正10年竣工。国登録有形文化財。
日本最初の「バー」。「電気ブラン」で有名。

明治13年(1880)、神谷伝兵衛が酒屋を開業。明治14年には輸入葡萄酒の販売を開始し、明治15年に「電気ブラン」の製造販売を開始。神谷伝兵衛は輸入葡萄酒を原料に日本人向けに明治18年に「蜂印葡萄酒」、明治19年に「蜂印香竄葡萄酒」(ハチブドー酒)を売り出し成功。日本製ワイン黎明期を支えた。
明治45年(1912)、酒屋を改装し「神谷バー」を開業。
大正10年(1921)、現在の建物を建造。浅草地区で最古の鉄筋コンクリート造の建造物。

電氣ブラン(電気ブランデー)

神谷伝兵衛が明治26年(1893)頃に、輸入ブランデーにワインやジン・ベルモットなどをブレンドした「電気ブラン(電気ブランデー)」を発表。
電気が珍しかった明治の頃、目新しいものは「電気◯◯」と呼ばれ、この新しいハイカラなブランデーベースのカクテルも流行りに乗ったお酒となる。
ビリリとした味わいも電気のイメージにぴったりだったとか。

久しぶりに飲みたくなりました。。。(今度、買ってこよう)

ハチブドー酒も神谷バーと神谷伝兵衛ゆかりのお酒。


ライオンビル
(旧井阪屋本店河合ビル )

昭和10年(1935)竣工。国登録有形文化財。
鉄筋コンクリート造三階地下一階建。
現在は、撮影スタジオ 「LION BUILDING(ライオンビル)」として活用されてる。

https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/398545


浅草地下街

現存する日本最古の地下街。昭和30年(1955)1月の開業。

浅草地下街は戦前ではないけど、昭和情緒が色濃く残る貴重な空間。


浅草を広義に捉えた場合は、まだまだ近代建築が点在しているようだけど、指し急ぎは浅草寺周辺の散策でした。
界隈の近代建築を記録しましたら、追記していきます。

※2020年9月撮影ほか


浅草寺

「京浜工業地帯の父」浅野財閥・浅野総一郎像と墓

たまたま清洲橋の近くで浅野総一郎銅像を見つけたということもあり、浅野総一郎のことを調べていたら、鶴見の大本山総持寺に墓もあるとのことなので、これを機会に関連する近場に脚を運んでみた。

浅野総一郎(淺野總一郎)

1848年4月13日(嘉永元年3月10日) – 1930年(昭和5年)11月9日)

越中氷見の生まれ。明治4年(1871年)、23歳の時に上京。夏はお茶の水の冷たい名水に砂糖を入れた水売り、冬は本郷赤門でおでん屋をして資金を蓄え、横浜で贈呈用の竹の皮を販売し、薪炭商に転向。
明治6年、薪炭商のつながりから横浜ガス局より、石炭からガスを製造したあとに廃棄されていたコークスを安価で買取。セメント製造の燃料として、コークスを官営深川セメント製造所に納めることで利益を得た。
明治17年には、官営深川セメント製造所が浅野総一郎に払い下げされ、これが浅野セメントの基礎となる。払い下げ時には渋沢栄一のサポートもあった。
明治29年(1896)に欧米視察に赴いた浅野総一郎は、帰国後に東京から横浜にかけて日本初の臨海工業地帯の建設を計画。
浅野総一郎の計画に理解を示した安田善次郎(安田財閥)も支援。浅野と安田は富山出身の同郷でもあった。
浅野総一郎と安田善次郎は「浅野はエンジン、安田は石炭(燃料)」と呼ばれるほどの名コンビであった。

大正2年(1913)から昭和3年(1928)にかけて約15年をかけて、横浜鶴見から川崎にかけての埋立が完成。いわゆる「浅野埋立」は京浜工業地帯の元となった。現在のJR鶴見線沿線が浅野総一郎が埋め立てした「浅野埋立」の地。
昭和5年、欧米視察中の6月26日にベルリンで発病。8月2日に帰国して大磯別邸で療養していたが11月9日に死去。
墓は横浜市鶴見区の大本山総持寺。
法名は積功院殿偉業総成大居士。

浅野総一郎の銅像は以下に建立されている。

  • 浅野学園(浅野総一郎が創設した学校)
  • アサノコンクリート深川工場(旧官営深川セメント製造所)
  • 東亜建設工業技術研究開発センター(浅野埋立)
  • 氷見市(浅野総一郎出生地)
  • 渋川市(浅野総一郎が設立した佐久発電所)
  • 砺波市(浅野総一郎が設立した庄内小牧ダム)

日本におけるセメント産業を軌道に乗せた浅野総一郎は「セメント王」と呼ばれ、京浜工業地帯のもとになった浅野埋立によって「京浜工業地帯の父」「日本の臨海工業地帯開発の父」とも呼ばれている。
また、台湾高雄港築港にも尽力し高雄市の発展にも寄与している。


浅野総一郎銅像
(アサノコンクリート深川工場)

明治5年(1872)、セメント国産化を目指して、大蔵省所管の深川摂綿篤製造所が着工。目的を果たせぬまま明治7年(1874)に工部省に移管。明治8年(1875)5月19日に官営深川セメント製造所が日本初の国産セメント製造に成功。5月19日がセメントの一なった。
明治17年(1884)に官営深川セメント製造所は浅野総一郎に売却。浅野財閥の基礎となる浅野セメントの工場となり、そして現在はアサノコンクリート深川工場(太平洋セメント)として今も存続している。

浅野セメント(現太平洋セメント株式会社)の創設者
初代社長 浅野総一郎翁 像

淺野總一郎翁像

本邦セメント工業発祥之地
此地ハ元仙台藩ノ蔵屋敷跡ニシテ明治五年大蔵省土木寮ニ於テ始メテセメント製造所ヲ建設セリ 
同七年工部省ノ所管トナリ深川製作寮出張所ト改メラレ技師宇都宮三郎氏ニ依リ湿式焼成法ヲ採用シ初メテ外国品ニ劣ラザル製品ヲ得タリ 
明治十年一月深川工作分局ト改称サレ工場ノ拡張相次テ行ハレ同十六年四月逐ニ初代浅野惣一郎ノ経営ニ移リ浅野工場ト称スルニ至ル 
明治三十一年ニ月浅野セメント合資会社創立ト共ニ本社工場トナリ同三十六年十一月本邦最初ノ回転窯ヲ設置シ事業愈盛大トナレリ 
大正元年十月組織ヲ改メ株式会社トナリ東京工場ト改称シ今日ニ改フ
蓋シ此地ハ本邦セメント工業創生ノ地ニシテ同時ニ又当社発祥ノ地タリ仍而茲ニ其然ル所以ヲ録シ之ヲ記念ス
 昭和十二年七月八日
          浅野セメント株式会社
            社長 浅野総一郎

セメント工業発祥の地碑
当地は日本で初めてのセメント工場があった場所です。明治8年(1875)、工部省が本格的なセメントの製造に成功しました。上図手前の隅田川、右側の仙台堀などの泥土を原料の一部として使い、試行錯誤の末、外国品と遜色のない国産のセメントを作り上げました。明治16年(1883)、当社創業者のひとりである浅野総一郎が払い下げを受け、その後民間のセメント工場として発展を遂げました。
 平成16年(2004)5月 
 太平洋セメント株式会社

本邦セメント工業発祥之地

明治27年に製造されたコンクリートブロック
明治22~23年(1889~1896)に行われた横浜港築港工事で、その防波堤基礎用として明治27年(1894)に製造して海中に沈設され、昭和6年(1931)同港改築に際し引上げられたコンクリートブロックである。このコンクリートはアサノ普通ボルトラントセメントを使用したもので、配合はセメント:砂:(砂利と小割栗石)が1:2.8:5.2(容積比)水セメント比は40%程度と推定される。37年間海中にあっても損傷は認められず、優れたコンクリートであったことを証明している。
江東区登録文化財

浅野総一郎の家紋「扇」をモチーフにした、アサノコンクリートのシンボルマーク、社章。

思ったよりも小さな銅像。
ストリートビューで見るとその小ささがわかる。

https://goo.gl/maps/X7oce4kwdMNg8HP47


浅野總一郎翁銅像
(浅野学園)

浅野財閥の創始者・浅野総一郎が大正9年(1920)に「淺野綜合中學校」を設立。
大正13年(1924)5月に、浅野総一郎翁の初代銅像が完成。
昭和18年に、浅野総一郎翁の初代銅像が戦時供出。
昭和33年11月に浅野総一郎翁の銅像を再建。

浅野総一郎翁

大正13年5月18日 建立
昭和18年5月2日 供出
昭和33年11月23日 再建
 浅野總一郎翁銅像再建期成會

寄贈 總一郎翁銅像修復
現總一郎翁銅像は1958年に再建された。作者は横浜市掃部山公園井伊直弼像作者の慶寺丹長である。
銅像の高さは4.94メートル、重さは2.3トンである。
浅野学園創立100周年を記念して修復した。
 2020年3月
  浅野学園同窓会
  浅野学園PTA

地洋丸の鎖
台座の鎖は、總一郎が設立した東洋汽船の「地洋丸」のものと伝えられている。
地洋丸は、造船史上わが国初の蒸気タービンで、1万総トン超の大型豪華客船であった。
1908(明治41)年、サンフランシスコ線に就航。1916年(大正5)年、香港沖で濃霧のために坐礁し、解撒となった。

寿像頌徳文
嗚呼是レ明治大正ノ聖代ニ於ケル大日本帝国実業界ノ巨人浅野総一郎翁ノ寿像也(略)
 大正13年5月18日 徳富蘇峰撰

再建のことば
昭和5年11月9日翁は永眠 昭和18年5月2日大戦の国策に応じ寿像も遂に供出の止むなきに至った  
爾来、十有余年を経て今日再建の期熟し同志一万数千の冀願(きがん)結集し翁の像復元再建の事成った   
 昭和33年11月23日 
  浅野総一郎翁銅像再建期成会 大島撫山

像の後ろの壁面には浅野総一郎が関わった企業が列記されていた。
そうそうたる会社が並んでおり、浅野総一郎と浅野財閥の歴史を垣間見る事ができる。

浅野總一郎翁関係事業
(昭和33年12月調)

セメント事業
浅野セメント株式会社 明治16年4月創立
 (日本セメント株式会社に改名)
東亜セメント株式会社 明治40年1月創立
 (浅野セメント株式会社に併合)
浅野スレート株式会社 大正4年2月創立
第一セメント株式会社
 (旧浅野セメント株式会社川崎工場)
会津鑛業株式会社 大正9年6月設立
日本石膏株式会社 明治45年3月設立
 (会津鑛業株式会社に併合)
日本カーリット株式会社 大正9年7月創立
旭コンクリート工業株式会社 大正12年11月創立
大阪石綿工業株式会社 大正14年8月創立
 (浅野スレート株式会社に併合)
日本ヒューム管株式会社 大正14年10月創立

製鉄造船事業
浅野合資会社製鉄所 大正6年9月創立
 (現在 日本鋼管株式会社鶴見製鉄所)
日本銑鉄株式会社 大正6年9月創立
 (旧小倉製鋼株式会社に併合)
株式会社大島製鋼所 大正6年11月創立
 (日曹製鋼株式会社に併合)
中央製鉄株式会社 大正6年11月創立(解散)
小倉製鋼株式会社 大正7年12月創立
 (住友金属工業株式会社に整合)
日本鋳造株式会社 大正9年9月創立
東京シャリング株式会社 大正15年9月創立
 (現在 東都製鋼株式会社及び東京シャリング株式会社)
株式会社浅野造船所 大正5年4月創立
 (現在 日本鋼管株式会社鶴見造船所)
株式会社浅野造船所船渠部 大正12年4月創立
 (現在 日本鋼管株式会社浅野船渠)

海運陸運部門
東洋汽船株式会社 明治29年6月創立
日之出汽船株式会社 大正元年11月創立
国際汽船株式会社 大正8年7月創立
 (大阪商船株式会社に併合)
関東運輸株式会社 大正9年7月創立
青梅電気鉄道株式会社 明治26年12月創立
 (国有鉄道に譲渡)
小倉鉄道株式会社 明治40年6月創立
 (国有鉄道に譲渡)
南部鉄道株式会社 大正10年3月創立
 (国有鉄道に譲渡)
鶴見臨港鉄道株式会社 大正13年7月創立
 (国有鉄道に譲渡)
留萠鉄道株式会社 昭和3年6月創立
 (国有鉄道に譲渡)
三岐鉄道株式会社 昭和3年9月創立

埋築地所事業
鶴見埋築株式会社 大正3年3月創立
 (東京湾埋立株式会社に併合更に東亜港湾工業株式会社に改名)

京浜運河株式会社 大正6年9月創立
 (旧東京湾埋立株式会社に併合)
台湾地所建物株式会社 明治43年6月創立(解散)

石油事業
宝田石油株式会社 明治35年6月創立
 (旧日本石油株式会社に併合)
南北石油株式会社 明治38年創立
 (旧宝田石油株式会社に併合)
東亜石油株式会社 明治39年8月創立
 (旧南北石油株式会社に併合)

鑛山事業
磐城炭鑛株式会社 明治16年創立
 (現在 常磐炭鑛株式会社)
茨城探炭株式会社 明治34年9月創立
 (旧磐城炭鑛株式会社に併合)
石狩石炭株式会社 明治39年4月創立
 (北海道炭礦汽舩株式会社に譲渡)
大日本鑛業株式会社 大正4年11月創立
日支炭礦汽舩株式会社 大正6年10月創立(解散)
朝鮮鉄山株式会社 大正6年10月創立(解散)
浅野雨龍炭礦株式会社 昭和4年9月創立
 (古河鉱業株式会社に譲渡)

貿易事業
浅野物産株式会社 大正7年4月創立

電気事業
沖電気株式会社 大正元年8月創立
庄川水力電気株式会社 大正8年9月創立
 (関西電力株式会社に譲渡)
関東水力電気株式会社 大正8年10月創立
 (東京電力株式会社に譲渡)

文化事業
浅野綜合中学校 大正9年1月創立
 (浅野学園に改名)

銀行業
 株式会社日本昼夜銀行 大正5年5月創立
 (旧安田銀行に併合)

其他の事業
東京瓦斯株式会社 明治18年10月創立
大日本人造肥料株式会社 明治20年2月創立
 (日産化学鉱業株式会社に改名)
東京製鋼株式会社 明治20年3月設立
札幌麦酒株式会社 明治21年創立
 (日本麦酒株式会社に改名)
株式会社帝国ホテル 明治23年6月創立
浅野石材工業株式会社 明治38年9月創立(解散)
神奈川コークス株式会社 大正8年4月創立
 (東京瓦斯株式会社に併合)
鶴見木工株式会社 大正9年8月創立(解散)
伏木板紙株式会社 大正12年9月創立
 (中越パルプ株式会社に併合)

富山県氷見市
1848
誕生
富山県氷見市薮田に誕生。父泰順は總一郎を抱え上げて「眉尻が下がり、長者どんになる面構えだ。福々しい子だ。」と喜んだ。

富山県氷見市
1862
15歳
初めて起業。縮織という織物の生産と販売で一旗挙げて初陣を飾ろうとしたが、すぐに資金難に陥り、3ヶ月で廃業。

日本海
1867
20歳
日本で初めて株式会社に相当する産物会社を創設。日本海側一帯に販路を拡げて「總一郎」の名が知れ渡るも、急拡大して失敗。

文京区本郷
1871
24歳
上京。本郷赤門前下宿屋の一間を借りる。
お茶の水の清水に砂糖を入れて冷水「ひゃっこい」を売る商売を始める。

横浜市中区住吉町
20代後半
冷水売りを店じまいして横浜に移る。食品包装用の竹の皮販売が軌道に乗る。サクと結婚し、新居を構えるも全焼して全財産を失う。しかし、すぐにコークスの再燃料化に成功し再挙。渋沢栄一に認められる。渋沢は總一郎の生涯に多大な影響を与えた。

江東区清澄
1883
36歳
渋沢栄一らの助言で官営のセメント工場を借り受け、セメント製造を開始。製造設備を増設し、赤字会社を見事に黒字化させる。

東京・福島
30代後半~40代後半
事業家として本格的に動き出す。磐城炭礦社、東京瓦斯会社、札幌麦酒会社、帝国ホテルなどの創立に参画する。

サンフランシスコ
1896
49歳
海外輸送に強い関心のあった總一郎のは東洋汽船会社を設立。日本で初めてサンフランシスコ航路就航を米国側に承諾させる。

サンフランシスコ
50歳代
東洋汽船会社の外国航路を拡大。香港とサンフランシスコ間の定期航路を行うも、日露戦争に全船徴用され、営業停止となる。しかし、その翌年、日本初の大型豪華客船を建造。この時の大型新機軸の豪華客船建造は日本の造船技術に大きな影響を与える。

東京湾
1908
61歳
政治経済の中心地近くに工業地帯を建設すべく、インフラ整備のため安田善次郎の支援を得て東京湾埋立・築港計画を申請。

東京三田
1909
62歳
東京都港区三田に日本建築の粋を結集した「紫雲閣」を建築。東洋汽船の外国人船客をもてなす民間外交の舞台となる。

東京湾
1913
66歳
東京湾埋立工事を開始。完成は15年後。安善町にその名をとどめている安田善次郎の資金援助があればこそ実現したといえる。

横浜市鶴見区末広町
1916年
69歳
自らが造船すべく埋立地に造船所を建設。隣接地には製鉄所を建設し、造船用鋼材確保のため厚板圧延設備を完成させる。

群馬県渋川市
70歳代
工業インフラとしての電力事業にも進出。富山県に庄川水力電気会社を創立。群馬県には妻の名をとり佐久発電所を建設した。

南武線
1920
73歳
京浜工業地帯への工業用原料輸送のため南武線を敷設。鶴見線、青梅線、五日市線等の鉄道敷設にも尽力。産業の発展に寄与。

浅野学園
1920
73歳
未来の人材育成のため、ここ打越の丘に宿願の淺野綜合中学校を創立。校訓の「九転十起」は總一郎の生きざまを想像させる。

總一郎銅像
1924
77歳
喜寿を祝って有志が寿像を建立。土佐桂浜の龍馬像作者の本山白雲佐久。埋立計画書を手にして、今も京浜工業地帯を見守っている。

東京湾
1928
81歳
東京湾埋立工事が完了。港湾が整備されて巨船が横付けできるようになり、京浜工業地帯は日本の中核コンビナートとなる。

横浜総持寺
1930
永眠
享年82。鶴見の総持寺に眠る。

銅像山の頂上に鎮座。

浅野総一郎翁銅像の見学は、浅野学園の守衛に申し出れは可能。

https://g.page/asanogakuen?share


浅野学園の防空壕跡

浅野総一郎とは直接には関係ないけれども、浅野学園に防空壕跡が残されているので、この機会に掲載。
都合、4つ穴を塞いだあとが見える。

戦争遺跡・防空壕
 大平洋戦争中、本校の“銅像山”には、本校(浅野綜合中学)生徒や地域の人々がアメリカ軍による空襲から逃れたり日本鋼管株式会社等の機密資料を保管したりするために日本軍や本校生徒の勤労作業によって数個の防空壕が作られた。
 ここは、その場所の一部である。当時、生徒たちの防空演習では、学年別防空壕への避難訓練も行われていた。
 1945(昭和20)年5月29日の横浜大空襲では、防空壕内に待避した大勢の人たちは、火と黒煙が渦巻く横浜市内の惨状、そして焼夷弾が火を噴き焼け落ちる学園の校舎を涙して眺めていたという。
 今日に伝わる”戦争遺跡”として後世に残すものである。
  浅野学園
  2004(平成16)年8月

https://goo.gl/maps/L6efqYc2q9DQwhp59


浅野総一郎墓(総持寺)

横浜市鶴見区の大本山總持寺。
境内の奥に広大な敷地を有しているのが浅野家の墓。

浅野総一郎は昭和5年11月9日に死去。
法名は積功院殿偉業総成大居士。

墓所は昭和7年に完成。
浅野総一郎夫妻墓として墓地全体の整備設計を伊東忠太が行っている。

浅野セメントのマークが両扉に描かれていた。

積功院殿偉業総成大居士           

浅野家の墓は、総持寺で一番広い区画。
「中央ハ 6」

近くの著名人としては、
清浦奎吾墓「中央ニ1-27」
小野光賢墓と小野光景墓「中央ハ2」

浅野家墓地の敷地内には娘婿の白石家の墓もあった。


鶴見線浅野駅

鶴見線は浅野総一郎が埋め立てした「浅野埋立」の地を走る路線。
駅の名前にも面影を残す。

  • 浅野駅:浅野総一郎 浅野財閥 鶴見臨港鉄道創設者
  • 鶴見小野駅:小野重行 地主 浅野造船所を誘致
  • 安善駅:安田善次郎 安田財閥
  • 武蔵白石駅:白石元治郎 浅野総一郎娘婿 日本鋼管社長
  • 大川駅:大川平三郎 大川財閥 日本の製紙王
  • 扇町駅:浅野総一郎の家紋「扇」

浅野総一郎の同郷富山の先輩、安田善次郎、そして浅野財閥関連企業の経営に携わってきた大川平三郎。娘婿として浅野総一郎後の浅野財閥を長老格として支えた白石元治郎。浅野財閥の臨海地区開発に協力した小野重行。そして浅野家家紋に因む扇駅。
鶴見線は浅野総一郎とともにある路線。

浅野総一郎の名を残す浅野駅に脚を運んでみた。

「浅野総一郎の浅野駅」隣は、同郷の先輩「安田善次郎の安善駅」。


浅野総一郎翁の銅像は、浅野埋立の地にもある。

1914年(大正3年)に鶴見・川崎地区の埋立工事のために鶴見埋築株式会社を創立。その後進は、東亜建設工業株式会社。現在の東亜建設工業技術研究センター。
会社構内となるために見学には許可が必要。
今回は、未訪問。安善駅近く。

https://www.toa-const.co.jp/trdc/origin/

https://www.toa-const.co.jp/company/introduction/course/hop.html

https://tourist-map.mapion.co.jp/b/tm_tsurumi/info/tsurumi084/


以上、浅野総一郎にまつわる、東京横浜界隈の散策でした。
富山氷見なども機会がありましたら関連する地に脚を運んでみたいいですね。


関連

浅野総一郎が設立した「浅野カーリット」。
浅野カーリット埼玉工場の跡地。

横浜船渠会社は浅野総一郎や渋沢栄一が設立に関与。

浅野総一郎ゆかりの鶴見線、国道駅、大川支線

総持寺の浅野総一郎墓地は伊東忠太が設計。
伊東忠太は浅野邸「紫雲閣」の設計も行っている。
伊東忠太自身も総持寺に眠る。

横浜の基礎を築いた小野光賢は、浅野総一郎と同じ総持寺に眠る。

特攻の創設者の一人、大西瀧治郎も総持寺に眠る。

大西瀧治郎を偲ぶ

明治天皇海軍漕艇天覧玉座阯碑

隅田公園に残る石碑。隅田川左岸の向島にある「隅田公園」はもともと水戸徳川家下屋敷跡であったが、震災復興公園として昭和6年に整備された公園。その隅田川左岸に 明治天皇と帝国海軍に関連する石碑があった。

「明治天皇海軍漕艇天覧玉座阯」の碑

昭和16年(1941)11月3日、明治節の記念日に建立。開戦の前月。
明治天皇は、この地に玉座を設けられ、帝国海軍短艇競漕を天覧された。

明治天皇
海軍漕艇天覧
玉座阯

恭しく惟みるに
明治天皇夙に叡慮を帝國海軍の発達に労し給い明治元年三月親しく大阪に幸して諸艦を天保山に関せられ爾来屢艦船部隊官衛学校等に行幸あらせ給へり殊に海軍短艇競漕の隅田川に行はるるや、玉座は設けて此処に在り親しく 天覧を賜うこと前後四次に及べり、明治十五年には 十一月二十一日、二十六年には六月三日、二十七年には四月二日に臨御あらせられ是の日 
皇后亦行啓せられ、二十九年には十二月十八日を以て親閲あらせ給へり其の間二十五年には六月十九日を以て
皇后竝皇太子の行啓を辱うせり参加の将士斉しく恐懼感激して勇躍技を競い行事最も盛大を極はめり斯の如きは皆是れ宸慮の深きに出で帝國海軍の無上なる光栄にして牢記すべき所なり只恐る。
当年 玉座の聖蹟星移り物替はりて滄桑の変を経或は湮晦に帰せんことを是れ本会が
天皇親臨のこの尊ぶべきの地を永遠に顕彰し奉り 永く聖徳の至大なるを仰がんことを期し帝国海軍及朝野の諸彦と謀りて、昭和十六年の 明治節日をとし一碑を玉座の阯に建つる所以なり乃ち勤みて事の由来を勒し之を不朽に伝ふ。  
 紀元二千六百一年十一月三日
      墨田川聖蹟顕彰會
※片仮名を平仮名に変換しました。

「明治天皇海軍漕艇展覧玉座阯」の碑
 この碑の建つ場所は、明治年間に幾度も明治天皇のレガッタ視察のために玉座をしつらえた場所です。
 現在は堤防が整備されて隅田川の様子があまり見えませんが、かつては土で造った堤防に桜が植えられ、たいへん風情のある光景でした。そうした場で、明治15年(1882)11月21日、明治26年(1893)6月3日、明治27年(1894)4月2日、明治29年(1896)12月18日の4度にわたりレガッタを天覧したのです。
 隅田川のレガッタの歴史のひとつを物語るこの石碑は昭和16年(1941)11月に建碑されました。
  墨田区

戦後の墨田区による解説碑は、 
明治天皇がレガッタ視察としか記載がなく、【海軍】としての説明が抜け落ちている。
なおかつ「明治天皇海軍漕艇天覧玉座阯」であるべきところが、「明治天皇海軍漕艇展覧玉座阯」と記載されており、誤植甚だしい。

隅田川左岸に。


隣には新しい石碑。「隅田川ボート記念碑」

隅田川ボート記念碑「漕」

2016(平成28)年9月3日(土)建立。


日本のボートは ここ隅田川を中心に発展し その隆盛を迎えた
Rowing in Japan was Nurtured here on the Sumida River, which then became its primary venue.

“春は春は桜咲く向島 ヤッコラセー オール持つ手に花が散る・・・・・・”
明治初期から”近代文化の華”として日本のオアズマンはここで猛訓練をしスポーツマンシップを鍛えあげた。
河畔には艇庫が立ち並び、レースには人々が堤や橋上に参集し大声をあげた。往時の面影は全くないが、堤に立つと当時の熱狂的な応援の声がいまもなお聞こえてくる。この国の大いなる発展を象徴するかのように。それを忘れないために、記念碑をこの地に建立する。
 平成28年9月
  隅田川ボート記念碑建設委員会
   会長 半藤一利 撰

近代史に造形の深い作家・半藤一利さんは東大ボート部OBでもある。
しかし、隅田川のボート発祥にまつわる 明治天皇や海軍の件に触れない碑というのが、今どきの碑・・・。

明治天皇海軍漕艇天覧玉座阯の隣

隅田川艇庫址図(向島地区)

隅田川ボート年表
夏目漱石も漕ぎ、福沢諭吉も漕ぎ、レガッタは「春のうららの隅田川」と滝廉太郎の「花」にも歌われ、ボートは隅田川の華であった。全日本選手権、海外との交流試合、大学対抗戦など主要なレガッタが数々開かれ、隅田川は日本のボートの中心地となった。しかし、戦後復興の陰で産業排水などにより、川の汚染が進み、昭和三九年の東京五輪のために戸田ボートコースが整備されたのを契機に隅田川離れが進み、昭和四二年の一橋大学艇庫閉鎖を以って隅田川の艇庫群が姿を消した。最盛時の面影を今に伝えるのは早慶レガッタのみである。(隅田川ボート記念碑建設委員会)
 ※以下略

隅田川ボート年表とある。
明治10年以降の事象が記載されているが、やはり 明治天皇や帝国海軍短艇に関する記述はない。

公益社団法人 日本ボート協会 

https://www.jara.or.jp/report/2016/2016sumida_rowing_monument_unveiling.html


旗竿台(掲揚台・掲揚塔)

昭和16年11月3日に隅田川聖蹟顕彰会によって「明治天皇海軍漕艇天覧玉座阯」の碑が建立された際に、あわせて、駆逐艦「桃」(基準排水量755トン・初代) の前檣が碑の傍らに建てられたという。この旗竿台は、其の名残。桃の前檣旗竿は戦後のある時期に撤去されてしまったという。

昭和16年11月建立
隅田川聖蹟顕彰會
 ※文字は削り取られている

聖徳欽仰
 ※文字は削り取られている
隅田川聖蹟顕彰會幹事海軍中将有馬寛謹書

無残にも文字が削り取られてしまっている旗竿台は、「明治天皇海軍漕艇天覧玉座阯」の碑とともに並んでいたはずであったが、平成の世になり、間に「隅田川ボート記念碑」が 建立され、ちょっと距離ができてしまったような。

この場所は、時代とともに変わりゆく価値観を垣間見ることができる、そんな空間であった。


関連

隅田公園の北側

明治天皇

「北千島開拓の先駆者」郡司成忠大尉の墓と言問団子桟橋

隅田公園の北側、言問団子の近く。
海軍大尉で冒険家であった郡司成忠のゆかりの地。郡司成忠の冒険は隅田川から始まったのだ。


郡司成忠(ぐんじ しげただ)

万延元年11月17日(1860年12月28日) – 大正13年(1924年)8月15日)
海軍大尉、探検家・開拓者。
開拓事業団「報效義会」を結成し、北千島の探検・開発に尽力。
小説家の幸田露伴は弟。文学博士の幸田成友も弟。妹に音楽家の幸田延、安藤幸。

幕臣幸田成延の次男として生まれた成忠は、幼年期に親戚郡司家の養子となる。
明治5年(1872)、海軍兵学寮予科へ入学。海兵6期は斎藤實が同期生であった。その後、海軍大学校甲号学生1期(加藤友三郎が同期)卒業。
ロシア帝国との国境であった千島に興味をいだいた郡司成忠は明治25年(1892)に千島移住趣意書を海軍当局へ提出するも海軍はそれを許可しなかった。
当時、北千島に居住していた千島アイヌは根室県令の命令で色丹島に強制移住となっており、北千島列島は無人であった。
郡司成忠は千島行きを諦めず、海軍大尉を退いて予備役となり、民間人として千島を目指すこととなる。
舟の手配に苦慮した郡司成忠は、横須賀鎮守府で不要になった短艇を払い下げてもらい、無謀な計画の準備をすすめていく。

報效義会
明治26年(1893年)、郡司成忠率いる千島拓殖隊は「報效義会」として志を同じくする元海軍出身者が集っていた。のちに南極探検を行う陸軍出身の白瀬矗は「自分が海軍出身者でないためボート技術に不安があるというなら、陸行と渡し船を使って独自に千島へ渡るので迷惑はかけない」と報效義会への入会を希望し、例外として白瀬も北海道で合流の上で千島を目指すことととなる。
3月14日に、幸田露伴は兄・郡司成忠の送別会を行ない、そして3月20日に隅田川で出発セレモニー開催。出発前から大変な盛り上がりであった。

第一次北千島遠征(第一次拓殖)
明治26年(1893年)3月20日、郡司以下、約40人の報效義会員は5隻のボートで千島へと旅立った。しかし八戸沖で2隻が遭難し19名が死亡。当初の計画を変更し、函館からは他の船に便乗して択捉島に移動。その後、捨子古丹島に9名、そして郡司・白瀬ら7名は占守島に渡り越冬を行った。
占守島の郡司・白瀬らは越冬に成功するも、捨子古丹島の9名は全員死亡。また清国との緊張が高まっていたことから、占守島の郡司ら7名は全員が予備役軍人であったということもあり、いったん占守島を引き揚げ帰国。
最終的に1893年から1895年の報效義会の第一次千島拓殖は31名の死者を出してしまった。

第二次北千島遠征(第二次拓殖)
帰国した郡司成忠は日清戦争に参加。水雷敷設隊の分隊長などで活躍。戦争終了後の明治29年(1896)「第二次報效義会」を結成。第一次報效義会は冒険の面が強かったが、第二次報效義会は拓殖をメインとしており、また事前準備も整え、政府から3年間補助金が出ることも決まった。
明治36年(1903)には占守島の定住者は170人まで順調に拡充していた。

日露戦争
明治37年(1904)日露戦争勃発。郡司成忠は義勇軍を編成しカムチャッカ半島に進軍するもロシアコサック兵に捕まり捕虜となる。郡司成忠が捉えられたため、「第二次報效義会」は占守島からの引き揚げを決定し、事実上の解散となる。

その後
日露戦争終了後に郡司成忠は開放され帰国。明治39年頃に再び報效義会を率いて活動を再開。その後明治42年に、露領沿海州水産組合が組織され組合長に就任。
大正4年(1915)に郡司成忠は陸軍参謀本部第二部からの指令を受けシベリアに赴いている。第一次世界大戦のさなかということもありなんらかのスパイ活動ともされている。
大正13年(1924)8月15日、郡司成忠は63歳で没した。


郡司成忠墓

池上本門寺の五重塔の下、に郡司家・幸田家の墓所がある。

従六位勲五等 郡司成忠墓

先考諱ハ成忠、幸田氏ヨリ出テ郡司家ヲ譲ク。明治二十六年報效義会を起シ、占守島ニ拠リ外国密漁者ヲ攘ヒ、夙ニ北海ノ猟漁探検敢ヘテシ、更ニ邦人拓北ノ機ヲ啓キ、後年魯領沿海州漁業権ヲ我ニ収ムルノ地ヲ為セリ。大正十三年八月十五日没ス。追叙従六位、賜勲五等。享年六十五。
 昭和五年八月十五日 郡司智麿

郡司智麿は郡司成忠の長男(外交官となる)。

露伴幸田成行墓(幸田露伴墓)


隅田公園の北。
言問桟橋から郡司成忠の冒険は始まったのだ。

言問団子桟橋

言問団子と郡司大尉
 江戸後期、向島で植木屋を営んでいた外山佐吉は、文人墨客に手製の団子を振舞う「植佐」という団子屋を開くと、花見客や渡船客の間でも人気となった。
 明治元年、長命寺に逗留していた歌人の花城翁より、在原業平が詠んだ「名にしおはゞ いざ言問はん都島 わが想ふ人はありやなしやと」に因んだ命名の勧めを受けた佐吉は、「言問団子」と名づけ、業平神社を建て、都鳥が飛び交うこの辺りを「言問ヶ岡」と呼んだ。明治11年、佐吉が始めた灯籠流しによりその名は広く知られていった。後に「言問」は、言問橋や言問通りなどの名称で定着したが、ルーツは「言問団子」である。
 また、この裏手にある桟橋からは、明治26年3月20日千島開拓に向かう郡司大尉率いる5艘の端艇が出発している。隅田川両岸はこれを憂国の壮挙と称える群衆で埋まり、花火が打ち上げられ、歓呼の声と楽隊の演奏が響く中での船出であった。この時、大尉の弟、幸田露伴はこれに同乗して横須賀まで見送っている。


郡司成忠の曾孫が運営しているサイト

http://gunjishigetada.jpvlad.com/index.htm


関連

池上本門寺

隅田公園の南側

東京大空襲と下町(墨田区本所)

墨田区の本所と呼ばれる地域は、かつては東京市本所区であった。
江戸・東京の下町であり、江戸の東端、でもあった。
大正12年(1923年)の関東大震災では本所区の9割を焼失し、約4万8000人と言われる死者を出し、昭和20年(1945年)の東京大空襲でも甚大な被害を受けた地域。

本所地域には多くの慰霊碑があり、まだ網羅しきれていないが、いくつかを此処に掲載していきます。


墨田電話局慰霊碑

NTT石原ビルの敷地に建立された慰霊碑。
東京大空襲のさなか、最後まで電話交換の職務を遂行した殉職者を慰霊。
空襲で周囲が火災に包まれていても職場を放棄せずに、重要な通信設備を守り抜いた10代から20代の電話交換手の若い女性たち(女子交換手)28名と男子職員3名を慰霊している。

電話交換手の悲劇は、樺太の真岡郵便電信局のみならず、東京でもあったのだ・・・。

慰霊
 昭和三十三年三月十日建立

吉川英治の碑文が添えられている。

「昭和二十年三月九日夜半における大戦の大空襲下に、国を愛する清純と自らの使命の為、ブレストも身に離たず、劫火のうちに相擁して斃れた主事以下の男職員三名、ならびに女子交換手二十八名が、その崇高な殉職の死を、永遠となした跡である」

「可憐なる処女らや、ほか諸霊にたいし、痛惜の悼みを新にそそがずにいられない」

「ふとここに佇む折りもあらば、また何とぞ一顧の歴史と、寸時の祈念とを惜しませ給うな」

碑文
春秋の歩み文化の進展は その早さその恩恵に馴るゝ侭
つい吾人をして 過去の尊いものをも忘れしむる
こゝ百尺の浄地ハ 大正十二年九月一日関東大震災
殉職者二名と また過ぐる昭和二十年三月九日夜半
における大戦の大空襲下に 国を愛する清純と自
らの使命の為 ブレストも身に離たず 劫火のうち
に相擁して仆れた主事以下の男職員三名 ならびに
女子交換手二十八名が その崇高な殉職の死を 永遠と
なした跡である
当時の墨田分局 いま復興を一新して その竣工の慶を
茲に見るの日 想いをまた春草の下に垂れて かっての
可憐なる処女らや ほか諸霊にたいし 痛惜の
悼みを新にそゝがずにいられない
人々よ 日常機縁の間に ふとここに佇む折もあ
らば また何とぞ 一顧の歴史と 寸時の祈念
とを惜しませ給うな
         吉川英治 謹選

吉川英治の名が見える。

由来
 この慰霊碑は昭和二十年三月十日未明の
大空襲により当地一帯が焼け野原と化した際、
電話局も全焼し前夜から勤務していた十五歳
を最年少とする電話交換手二十八名及び男子
職員三名が最後まで職場を守り殉職された。
職員の霊と、関東大震災において殉職された
男子職員二名の霊を慰めるとともに、二度と
このような悲劇の起こらないことを祈願して
昭和三十三年三月十日に建立されました。
 慰霊碑手前には吉川英治氏の自筆による
碑文があります。
   昭和五十九年三月十日
         墨田電話局

墨田電話局で生き残った元職員の富澤さんの言葉も刻まれている。

平和の尊さを
おろそかにしてはなりません
そして
世界の平和こそが
最大 最高の幸に
つながる事を
 平成13年2月10日没
 墨田電話局
 富澤きみ 92歳

殉職者御芳名

https://goo.gl/maps/9isxR2btxnoVZbGE8


戦災殉難諸精霊供養之碑
大震火災遭難者追悼之碑
 (能勢妙見山別院)

墨田電話局のあったNTT石原ビルから北東に3分ほど歩むと、「能勢妙見山別院」が鎮座している。
能勢妙見山別院は勝海舟の崇敬寺院であり、一度、本サイトでも勝海舟関連として取り上げたが、今回は別の話題でとり上げる。
能勢妙見山別院境内には、戦災殉難者の慰霊碑も建立されているのだ。

大震火災遭難者追悼之碑
昭和6年3月1日 東京市長永田秀次郎書

戦災殉難諸精霊供養之碑
昭和36年3月10日 東京都知事 東龍太郎

境内には勝海舟の胸像もある。

https://goo.gl/maps/mXxGbSm6LmoAE6p19


本所警察署の慰霊碑

本所警察署。ここには2つの慰霊碑がある。
「本所原庭警察署殉職警察官碑」と「大震火災相生警察署員殉職の碑」。
関東大震災で最大の犠牲を出した旧陸軍被服廠跡・横綱町公園は本所警察署の管轄であった。関東大震災と東京大空襲で殉職した警察官を慰霊している。

本所原庭警察署殉職警察官碑
 この碑は大正12年の関東大震災の業火の中で積極果敢多くの人々の救出誘導にあたり遂に尊い殉職をされた当時の本所原庭警察署和多警部補以下15名の勲功をたたえ翌年同署員によって現在の墨田区東駒形2丁目1番に所在した同署庁舎前に建立され以来制度改正により厩橋警察署となりさらに四署統合により本所警察署となった今日に至るまで連綿として警察精神の在るべき姿を教え諭してきた。
 このたび旧庁舎が取り壊しの運びとなったことからこの碑をこの地に移しあわせて明治13年凶悪犯人逮捕にあたって殉職された当時の第六方面第三分署永山巡査をはじめ昭和20年3月の東京大空襲の際の殉職者など29柱の御霊を合祀しその遺勲を後世に伝えようとの気運が盛りあがり管内有志の方々および署員の浄財によってここに本所原庭警察署殉職警察官碑を移設しその由来碑を建立したものである。
 殉職者氏名
  永山三月 水谷正助 楢崎善三郎 
  塗茂宗正 丸子善四郎 福澤一恵
  須川榮次郎 小野寺清志 岩元榮 
  溝永徳雄 山浦功 吉並雄太郎
  武次権太夫 小林庀伝治 刑部安治 
  川原一男 小野里幸三郎 白峯武雄
  榊原義夫 武井輝夫 佐原健次 
  高島四六 田中靖 花上市太郎
  寺島久俊 吉田良平 野澤昭三郎 
  石井孝治 小山寅之助
   昭和59年(1984)11月20日
    警視庁本所警察署 有志一同
    警視庁本所警察署管内 有志一同

大震火災相生警察署員殉職の碑
 この碑は大正12年9月1日の関東大震災においてここ本所一帯をなめつくした猛火の中で避難する人々を身を挺して救出せんとして多くの人々と共に尊い殉職をされた警視庁相生警察署山内署長以下34名の崇高にして警察精神の権化ともいうべき活動を後世に伝えるため昭和8年9月1日当本所警察署東南角に建立され現在に至るまで幾多署員にその行動の尊さを教え示してきたものであるがこれら殉職者の尊い教訓はただ単に署員の鑑のみとするものでなく広く墨田区民の方々に地震風水害等自然災害の猛威とこれら災害から身を護るにはいつにかかって平素の心構えと普段の準備がいかに大切な事柄であるかということを伝えもって防災意識高揚の一助とすることに役立つならば殉職者の霊にいささかなりとも報ゆることが出来るものとこの位置に移設したものである。
 さらに殉職碑を移設するに当って当本所警察署の前身である両国(旧相生)言問(旧向島)厩橋(旧原庭)太平四警察署の署員にして昭和20年3月10日この地における空襲において幼い子供を猛火からかばいつつ尊い殉職をされた両国警察署川原巡査ほか13名の戦災による殉職者も合祀するとともにこれら警察署管内に居住され戦災によって亡くなられた方々の霊を慰めこれら殉職殉難された多くの御霊の永く安らかならんことを心から祈るため管内有志の方々および署員の浄財によってここに大震火災相生警察署員殉職之碑を移設しその由来碑を建立したものである。
  昭和51年(1976)9月1日
 警視庁本所警察署
  大震火災相生警察署員殉職之碑
  移設同由来碑建立 有志一同
 大震火災相生警察署員殉職之碑
  移設同由来碑建立 有志一同

https://goo.gl/maps/XVHtroXgQf8utsKV6

関東大震災の慰霊碑と東京大空襲の慰霊碑が重なってしまうのが、墨田区の近代史でもあり。
合掌しながら歩む鎮魂の散策でもあり。


関連

東京大空襲・慰霊

「最後の将軍と幕末の三舟」徳川慶喜墓と三舟墓

先日、勝海舟にまつわる史跡を巡り、勝海舟墓に参拝したら、ふと幕末三舟の残りの二人、山岡鉄舟と高橋泥舟の墓はどこにあるか気になって探してみたところ、徳川慶喜の墓所とあわせて上野界隈に集中していることがわかったので、あわせて足を運んでみました。

幕末の三舟

幕臣であった勝海舟・山岡鉄舟・高橋泥舟の3名を「幕末の三舟」と通称。

幕末の混乱期の中、鳥羽・伏見の戦いで形勢不利とみた徳川慶喜は、江戸に退却。新政府軍の東征に対して、徳川慶喜は徹底抗戦はせずに恭順を主張し勝海舟に事態収拾を一任。

戦後処理の全権を任された勝海舟は、官軍の西郷隆盛との交渉役に高橋泥舟を推薦。高橋泥舟の誠実剛毅な人格を見込んでのことであった。しかし高橋泥舟は徳川慶喜の信任篤く、また江戸城から寛永寺への謹慎し恭順の意を表している徳川慶喜の護衛という大任もあり主君の傍を離れることができなかった。
高橋泥舟は代わりに義弟にあたる山岡鉄舟を推薦。

山岡鉄舟は徳川慶喜直々に新政府軍との交渉役の使者に命じられ、駿府に赴く前に勝海舟と面談。このときが勝海舟と山岡鉄舟の初対面であった。
勝海舟は山岡鉄舟の人柄を認め西郷隆盛あての書を山岡鉄舟に託した。

慶応4年(1868)3月9日、駿府で西郷隆盛と面談した山岡鉄舟は、勝海舟の手紙を渡し、徳川慶喜の意向を調停に取り計らうように嘆願。
徳川慶喜の身の安全を保証させる交渉に成功し、勝海舟と西郷隆盛の江戸無血開城の最終会談の根回しを、山岡鉄舟が見事に成し遂げている。

その後に3月13日14日の勝海舟と西郷隆盛の会談にも山岡鉄舟は立ち会いをしており、徳川慶喜自ら「官軍に対し第一番に行ったのはそなただ。一番槍は鉄舟である。」と山岡鉄舟を褒め称えている。


徳川慶喜墓

大正2年(1913)11月22日没。享年77歳。

明治維新後は駿府改め静岡に居住。政治的野心は一切なく、写真や狩猟、投網、囲碁、謡曲などの趣味に没頭。明治30年に東京・巣鴨に移住。明治34年に小石川(文京区春日)に転居し、そこが終焉の地となった。
明治35年に公爵に叙せられ、徳川宗家とは別家として徳川慶喜家を興す。あわせて貴族院議員に就任。35年ぶりに政治に関わることとなる。
明治43年に家督と貴族院議員を七男・慶久に譲り隠居。
大正2年11月22日午前4時10分、死去。

徳川慶喜の墓は谷中墓地(谷中霊園)にある。徳川歴代の墓地がある寛永寺・増上寺ではなく、徳川慶喜のみが谷中墓地区画に祀られている理由のひとつが神式墓所であるためという。歴代の徳川将軍墓所は仏式。明治天皇に感謝の意を表するために神式での葬儀を遺言したとされる。
向かって右側に徳川慶喜墓、左手に正室である徳川美賀子墓。後方には側室の墓も祀られている。

従一位勲一等徳川慶喜之墓

東京都指定史跡
徳川慶喜墓
 徳川慶喜(1837-1913)は、水戸藩主徳川斉昭の第7子で、初めは一橋徳川家を継いで、後見職として徳川家茂を補佐しました。慶応2年(1866)、第15代将軍職を継ぎましたが、翌年、大政を奉還し慶応4年(1868)正月に鳥羽伏見の戦いを起こして敗れ、江戸城を明け渡しました。復活することはなく、慶喜は江戸幕府のみならず、武家政権最後の征夷大将軍となりました。
 駿府に隠棲し、余生を過ごしますが、明治31年(1898)には大政奉還以来30年ぶりに明治天皇の謁見しています。明治35年(1902)には公爵を授爵。徳川宗家とは別に「徳川慶喜家」の創設を許され、貴族院議員にも就任しています。大正2年(1913)11月22日に77歳で没しました。
 お墓は、間口3、6メートル。奥行き4、9メートルの切石土留を囲らした土壇の中央奥に径1、7メートル、高さ0、72メートルの玉石畳の基壇を築き、その上には葺石円墳状を成しています。
 平成22年3月 建設
  東京都教育委員会

徳川慶喜公事蹟顕彰碑
従一位勲一等公爵徳川慶喜公ハ水戸藩主徳川斉昭卿ノ第7子トシテ天保八年九月二十九日生レ弘化四年一橋徳川家を相續シ慶應二年征夷大将軍ノ宣下を蒙ル
時恰モ幕末維新ノ動乱ニ會シ内ニハ尊王攘夷ノ論ノ大イニ沸騰スルアリ
外ニハ歐米列強ノ競ウテ隙ヲ窺フアリ
内憂外患天下騒然タルニ方リ公ハ世界ノ大勢ヲ洞察シ國情ノ趣クトコロヲ看破シ二百六十五年ノ幕府政権ヲ朝廷ニ奉還シテ天皇親政ノ大本ヲ復原シ以テ日本近代國家發展ノ端緒ヲ啓ク
コレ實ニ公ノ叡智英斷ノ致ストコロニシテソノ功績赫灼トシテ萬世ヲ照ラストイフベシ
維新ノ後公ハ野ニ下リテ閑雲野鶴ヲ楽シマレシガ天恩優渥篤ク勲功ヲ嘉賞アラセラレ特ニ一家ヲ創立シテ榮爵ヲ賜ハル
大正二年十一月二十二日薨去セラル
壽七十七
茲ニ明治百年祭ニアタリ公ノ偉徳ヲ追慕シ碑ヲ建テテ謹ミテ顕彰ノ誠意ヲ捧グ
 昭和四十三年十一月
  徳川慶喜公事蹟顕彰會


勝精墓(かつ くわし)

勝海舟の長男勝小鹿の娘婿で徳川慶喜の10男であった勝精の墓も近くにある。それこそ徳川慶喜墓の向かいにある。
勝海舟の嫡男であった勝小鹿が早世したために、小鹿の娘である伊代子(勝海舟の孫)の婿となる。勝海舟が養父となり、勝精として勝家を相続。墓は養父である勝海舟の近くではなく、実父の徳川慶喜の近くに。

従三位伯爵 勝精
室    伊代子 墓

昭和7年7月10日 薨去

勝精の墓の右斜め前には、実父である徳川慶喜の墓所がある。

https://goo.gl/maps/fa7EMRuhbrsD7gXJ6


山岡鉄舟墓

明治21年(1888)7月19日没。享年53歳。戒名は「全生庵殿鉄舟高歩大居士」

明治維新後の山岡鉄舟は、徳川家達(徳川宗家第16代)に従い、駿府に下る。
明治4年の廃藩置県を機に明治政府に10年の約束で出仕。明治5年より侍従として明治天皇に仕える。
明治15年に徳川家宗家の徳川家達より徳川家存続の功績を褒賞し徳川家家宝の名刀が鉄舟に与えられた。(勝海舟には名刀等は与えられていない)
約束通り10年で明治政府から下野した鉄舟は明治16年(1883)、維新に殉じた人々の菩提を弔うために「普門山全生庵」を建立。
明治21年(1883)7月19日9時15分、皇居に向かって結跏趺坐の姿で絶命。胃癌であったという。
「鉄舟のいない世の中は、生きるに値しない。」として多くの殉死者があった。

東京都指定旧跡 
山岡鉄舟墓 
  所在地:台東区谷中5丁目4番7号 全生庵墓地
  指定:昭和28年11月3日
 江戸開城の功労者で宮内省御用掛を務めた鉄舟は、天保7年(1836)6月10日幕臣小野朝右衛門の5男として江戸本所に生まれた。通称は鉄太郎、諱は高歩(たかゆき)、字は礦野(こうや)、猛虎、鉄舟、一楽斎は号である。父の飛騨郡代在任中、高山で井上清虎に一刀流を学んだ。嘉永5年(1852)江戸に戻り槍術の師山岡静山の婿養子となって山岡家を嗣いだ。幕末の動乱の仲で東征軍の東下に対し、駿府で西郷隆盛と会見し、勝海舟と協力して江戸無血開城を実現させた。
 明治維新後は天皇の側近として宮内大書記官や宮内少輔などを歴任した。公務の傍ら剣術道場を開き、明治13年(1880)には無刀流を創始した。書家としても優れ、また明治16年(1883)臨済宗普門山全生庵の開基となった。開山は松尾越叟である。明治21年(1888)7月19日53歳で死去した。
 山岡家墓所には、基壇上にある有蓋角塔の正面に「全生庵殿鉄舟高歩大居士」とある。墓所の周囲には、鉄門といわれる石坂周造、千葉立造、松岡萬(つもる)、村上政忠の墓がある。
  平成13年3月31日 設置
   東京都教育委員会

全生庵殿鉄舟高歩大居士

明治21年7月19日薨
従三位勲二等子爵山岡鉄太郎

山岡鉄舟の墓は本堂から直線。

山岡鐵舟居士之賛碑
鐵舟と交流のあった実業家平沼専蔵によって明治二十三年に建てられた碑で、上部に有栖川宮熾仁親王の篆書体で「山岡鐡舟居士之賛」と題され、碑文には浄土宗初代管長の鵜飼徹定による詩文が、勝海舟の書によって刻まれている。
 剣は一刀流を極めて無刀流を開き、禅は天竜寺滴水和尚に受け、書は弘法大師入木道の伝統を継いだ、剣・禅・書の大家である鐵舟を讃える碑であり、その才質の比類なきことを伝え、国を思う心の深いことを記す。鐵舟が在家の仏教者であったことから維摩居士に比されている字句も見える

有栖川宮熾仁親王の篆書体で「山岡鐡舟居士之賛」
碑文は浄土宗初代管長の鵜飼徹定による詩文を勝海舟の書で刻んでいる。

全生庵

明治13年(1880)、山岡鉄舟が明治維新に殉じた人々の菩提を弔うために創建を発願。富山高岡の国泰寺から越叟義格(松尾義格)を開山に招聘して1883年(明治16年)に創建。

国事殉難志士墓
大正3年7月19日建之

谷中大観音
北村西望作。

境内には、山岡鉄舟の弟子であった初代・三遊亭円朝の墓もある。

東京都指定旧跡 
三遊亭円朝墓 
  指定昭和28年11月3日
 初代三遊亭円朝は、通称出淵次郎吉といい、天保10年(1839)4月1日音曲師橘屋円太郎(出淵長蔵)の長男として江戸湯島切通町に生まれた。2代目三遊亭円生の門人となり、安政2年(1855)16歳で真打ちとなる。芝居噺で人気を博し「真景累ヶ淵」や「怪談牡丹燈籠」「塩原多助一代記」などを創作した。本業の話芸以外にも點茶、華道、聞香、和歌、俳句、書画など和敬清寂の道に精通していた。建築、作庭にも秀で、自らの設計監督によって内藤新宿では、数寄屋造の家屋や茶室、更に新宿御苑を借景とした百坪余りの枯山水の平庭を完成させた実績もある。また、臨済禅の修行においても、山岡鉄舟や由利滴水の指導の下に参禅し、難しい公安を喝破して居士号を授けられた。さらに書画古美術に対する鑑識眼は極めて高く、毎年円朝忌を中心に円朝の収集した幽霊画が公開されている。明治33年(1900)8月11日62歳で死去した。墓石には山岡鉄舟の筆により「三遊亭円朝無舌居士」とある。
 平成13年3月31日 設置
  東京都教育委員会

山岡鉄舟の筆による「三遊亭円朝無舌居士」

https://goo.gl/maps/wFu459xxcHKf7GeW9


高橋泥舟墓

明治36年(1903)2月13日没。享年69歳。
旗本・山本正業の次男。母方の高橋家の養子に出る。
槍の名家であった長兄・山本静山が27歳で早世すると、山岡家に残る妹の英子の婿養子として門人の小野鉄太郎を迎える。これがのちの山岡鉄舟。高橋泥舟の義理の弟となる。
明治維新後は徳川家が静岡に移住するとそれに従い地方奉行を務める。廃藩置県後は職を辞して東京に隠棲。

高橋泥舟墓
 台東区谷中6丁目1番26号 大雄寺
 高橋泥舟は幕末期の幕臣、槍術家。名は政晃。通称謙三郎。のち精一。泥舟と号した。山岡鉄舟の義兄にあたる。天保6年(1835)2月17日、山岡正業の次男として生まれ高橋包承の養子となる。剣術の名人として世に称賛され、21歳で幕府講武所教授、25歳のとき同師範役となり、従5位下伊勢守に叙任された。
 佐幕、倒幕で騒然としていた文久2年(1862)12月、幕府は江戸で浪士を徴集し、翌3年2月京都へ送った。泥舟は浪士取扱となったが、浪士が尊攘派志士と提携したため任を解かれた。同年12月師範役に復職し、慶応3年(1867)遊撃隊頭取となる。
 翌4年1月「鳥羽伏見の戦い」のあと、主戦論が多数を占めていた中で、泥舟は徳川家の恭順を説き、15代将軍徳川慶喜が恭順の姿勢を示して寛永寺子院の大慈院に移り、ついで水戸に転居した際には、遊撃隊を率いて警護にあたった。廃藩置県後は、要職を退き、隠棲し書を楽しんだという。明治36年2月13日没。
 勝海舟、山岡鐵舟とともに幕末の三舟といわれる。
  平成16年3月
   台東区教育委員会

クスの大木の下に立つ高橋泥舟墓

大雄寺
台東区谷中鎮座。
境内には「養育院義葬之冡」もある。

https://goo.gl/maps/SH16pv8p2dPiJ3k57


勝海舟墓

勝海舟墓は別記事にて

https://goo.gl/maps/oi88Ddnf1gYSCWr89


以上、徳川慶喜と幕末の三舟、勝海舟・山岡鉄舟/高橋泥舟の墓散策でした。

「日本海軍の生みの親」勝海舟像と勝海舟墓

都内で、勝海舟にまつわる史跡などを散策してみました。

勝海舟銅像(墨田区役所うるおい広場)

勝海舟(勝麟太郎/勝安芳

旧幕臣。政治家。
正二位勲一等伯爵。明治政府の初代海軍卿。(初代海軍大臣は西郷従道)

幼名及び通称は「勝麟太郎」。諱は「勝義邦」。幕末に「安房守」に任官し「勝安房」を名乗っていたことから、明治維新後に改名して「勝安芳」(かつ・やすよし)と名乗る。
号は「勝海舟」。山岡鉄舟、高橋泥舟とともに幕末の三舟と呼ばれる。

幕末
文政6年(1823)に江戸本所にて生まれる。天保9年(1838年)家督相続。
安政6年(1859年)に、赤坂氷川神社の近くに転居。以来、赤坂界隈を拠点に活動をすることとになる。
嘉永6年(1853年)、ペリー艦隊来航。勝海舟は海防意見書を提出すると幕府老中首座阿部正弘の目に止まり異国応接掛附蘭書翻訳御用に任じられることとなる。その後、長崎海軍伝習所に入門。オランダ語ができたことから長崎海軍伝習所教監も兼ね、伝習生とオランダ人教官の連絡役も務めた。足掛け5年を長崎で過ごしたが、船乗りに向かない体質で、頻繁に船酔いに苦しんでいたという。
江戸築地に軍艦操練所が開設されると、勝海舟は長崎から江戸に戻り、軍艦操練所教授方頭取に就任。

咸臨丸での渡米
万延元年(1860年)
幕府は日米修好通商条約の批准書交換のため、遣米使節をアメリカへ派遣する。

遣米使節の正使は新見正興、副使は村垣範正、目付に小栗忠順らが選ばれ、アメリカ海軍のポーハタン号で太平洋を横断し渡米。
この時、護衛と言う名目で軍艦を出すことにし、咸臨丸がアメリカ・サンフランシスコに派遣された。
咸臨丸には軍艦奉行(司令官格)として木村喜毅(木村兵庫頭・木村芥舟)、軍艦操練所教授方頭取(艦長格)として勝海舟が乗船し、米海軍から測量船フェニモア・クーパー号艦長だったジョン・ブルック大尉が同乗し咸臨丸の航海を助けた。通訳のジョン万次郎、木村喜毅の従者として福沢諭吉(福澤諭吉)も咸臨丸に乗り込んだ。
帰国後は蕃書調所頭取助や講武所砲術師範などに就任。

私塾・海軍塾
勝海舟は先行して私塾として「海軍塾」を設立。当初は大阪に設置し、後に神戸に移転している。海軍塾塾頭は坂本龍馬、塾生にはのちの外務大臣となる陸奥宗光や、初代連合艦隊司令長官となり日清戦争に勝利する伊東祐亨などがいた。

神戸海軍操練所
文久2年(1862年)、軍艦操練所頭取を経て軍艦奉行並、そして幕府艦隊を統括する軍艦奉行に就任し、神戸海軍操練所を設立。
しかし、勝海舟は禁門の変の影響で軍艦奉行を罷免となり約2年の蟄居生活を送ることとなる。また、神戸海軍操練所も反幕的な色合いが強かったため慶応元年(1865年)に閉鎖となる。

江戸城無血開城
慶応2年(1866年)5月28日に軍艦奉行に復帰。
慶応4年(明治元年、1868年)戊辰戦争、鳥羽・伏見の戦いで幕府軍が敗北。
徹底抗戦を主張する小栗忠順が罷免され、海軍奉行並を経て「陸軍総裁」に起用。
官軍が駿府城に到達した際に、勝海舟は早期停戦と江戸城の無血開城を主張。

高橋泥舟の推薦により、徳川慶喜から使者として命じられた山岡鉄舟が駿府へ交渉へ赴く前に勝海舟と基本方針を擦り合わせした。勝海舟は山岡鉄舟に東征大総督府東海道先鋒参謀であった西郷隆盛宛の手紙を託す。

慶応4年(明治元年、1868年)、江戸城総攻撃3月15日の直前の3月13日と14日には勝海舟が西郷隆盛と会談。
江戸城開城の手筈と徳川宗家の今後などについての交渉を行う。結果、江戸城下での市街戦という事態は回避され、江戸城無血開城によって江戸の住民150万人の生命と家屋・財産の一切が戦火から救わることとなった。

明治時代
明治維新後も勝海舟は旧幕臣の代表格として外務大丞、兵部大丞、参議、海軍大輔、海軍卿、元老院議官、枢密顧問官などを歴任し、伯爵に叙された。
しかし明治政府への仕官に気が進まず、辞退や短期間での辞職などを繰り返していた。
晩年も赤坂氷川の地で過ごしており、明治32年(1899年)1月19日に脳溢血により意識不明となり死去。享年77歳。
戒名は、大観院殿海舟日安大居士
勝海舟の最期の言葉は、「コレデオシマイ」であったという。


勝海舟寓居・海軍塾(専稱寺)跡(大阪)

大阪。
神戸に海軍操練所ができる前に、勝海舟は大阪で私塾「海軍塾」を開設していた。そして大阪での勝海舟の寓居が「専稱寺」であった。

勝海舟寓居・海軍塾(専稱寺)跡
この付近「淡路町3丁目」はもと「北鍋屋町」といい、専稱寺がありました。
文久3年(1863)勝海舟が住み、坂本龍馬や近藤長次郎らはこの国をまもるための海軍技術を学びました。その後は、塾は神戸(現兵庫県)に移ります。

 専稱寺は寺伝によると、江戸初期に北鍋屋町に開山され、明治33年(1900)には神戸に移転し、現存する浄土真宗本願寺派の寺です。慶応2年(1866)に記載された水帳には、表口11間、裏口20間の広さとあります。北鍋屋町は後に区画整理などで、現在の淡路町2丁目5から6、同三丁目1から2に該当します。
 文久3年(1863)3月朔日(1日)幕臣勝海舟は「(略)此日、旅宿を北溜屋町真正寺にっ定む 坂下(本)、新宮、京師より来る」と「海舟日記」に記しています。文久3年9月9日にも「(略)専修寺旅宿に入る(略)」という記載があり、また。勝の知人である幕臣 杉浦梅潭は、日記の文久4年正月7日条に「勝麟太郎旅宿 北鍋屋町 専正寺」と記しています。
 勝海舟は「日本の海軍 一大共有の海局」を目指し、佐藤与之助を塾頭として、私塾「大阪海軍塾」を専稱寺で開きました。塾生には、坂本龍馬をはじめ、望月亀弥太、高松太郎、千屋寅之助らも加わり、航海術を学びました。
 この頃、行動長次郎は南鍋屋町にある「大和屋弥七」の娘 徳 と結婚し、遺児 百太郎 が生まれます。
 また、勝海舟は、桂小五郎・井上聞多・松本良順・西郷吉之助らが、大阪の旅宿を訪れたと記していて、ここ専稱寺の可能性があります。
  (漢字は原文を使用しています。)
  平成22年9月

記念碑が有るのみ。

場所

https://goo.gl/maps/EvZMwer5TncQvJkQ6


神戸海軍操練所

以下の記事にて別掲載。


洗足池
勝海舟別邸(洗足軒)跡

洗足池には、勝海舟の別邸「洗足軒」があった。
洗足軒跡は、現在は大田区立大森第六中学校となっている。

勝海舟別邸(洗足軒)跡
勝海舟(1823~99)の別邸は戦後まもなく焼失しましたが、茅葺きの農家風の建物でした。
鳥羽・伏見の戦い(1868)で幕府軍が敗れると、徳川慶喜より幕府側の代表として任じられた海舟は、官軍の参謀西郷隆盛(南洲)と会見するため、官軍の本陣が置かれた池上本門寺に赴きました。
その会見により江戸城は平和的に開けわたされ、江戸の町は戦禍を免れたのです。海舟は江戸庶民の大恩人と言えるでしょう。
その際、通り掛かった洗足池の深山の趣のある自然に感嘆し、池畔の茶屋で休息したことが縁となり、農学者津田仙(津田塾大学創始者、梅子の父)の仲立ちで土地を求めました。明治二十四年(1891)自ら洗足軒と名付けた別邸を建築し次のような歌を詠んでいます。
 池のもに 月影清き今宵しも
  うき世の塵の跡だにもなし
晩年海舟は晴耕雨読の生活の中で、かえで、さくら、松、秋の草々などを移し植え次のようにも詠んでいます。
 うゑをかば よしや人こそ訪はずとも
  秋はにしきを織りいだすらむ
明治三十二年(1899年)七十七歳で没しましたが、『富士を見ながら土に入りたい』との思いから、生前より別邸背後の丘に墓所を造りました。
石塔の『海舟』の文字は徳川慶喜の筆と伝えられています。当初は海舟一人の墓所でしたが、後に妻たみも合祀され、大田区の史跡に指定されています。
 平成11年3月
 勝海舟没後百年を記念して
 社団法人 洗足風致協会

勝海舟
勝海舟は、幕末から明治にかけて激動の時代を駆け抜けた。
スクリュー式蒸気軍艦「咸臨丸」で渡米し、海軍の育成に努めるなど、非常に革新的な考えを持った幕臣と言われている。
慶応4年(1868)年に新政府軍が江戸に進軍した際には、薩摩藩邸における西郷隆盛との会見や池上本門寺での交渉を経て、「江戸城無血開城」を実現させたことでも有名である。
池上本門寺での交渉に赴く歳、洗足池付近で休息を取ったと言われる。そのときに洗足池周辺の風景を気に入り「洗足軒」という別荘を現在の大森第六中学校の地に構えた。

洗足軒後は大森第六中学校。

https://goo.gl/maps/PwYX94cybFc2jqCu5


勝海舟記念館(旧・清明文庫)

1899年に勝海舟は死去。勝海舟死去後、使われることのなかった洗足軒の地を、財団法人清明会が譲り受け講堂兼図書館を1928年(昭和3年)に建設。戦後は学習研究社の「鳳凰閣」として使用され、2012年に大田区の所有となる。
2019年に清明文庫東側面に併設する形で増築され「大田区立勝海舟記念館」として再整備された。

1928年(昭和3年)建設。鉄筋コンクリート2階建て。ネオゴシック様式を基調としアール・デコ調の文様などが施されている。
2000年に国登録有形文化財に登録。

清明文庫の建物
 この建物は昭和3(1928)年に竣工し、外観は正面中央部のネオ・ゴシックスタイルの柱型4本が特徴的で、内部はアールデコ調の造作が施されている折衷様式の建築です。
 用途や間取りの改変や破損部の修理が重ねられているますが、内外とも竣工時の意匠や仕様、建具が良好な状態で残っており、昭和初期の建築様式と技術残す貴重な歴史的建造物です。ただ、設計図は残っておらず、設計者も分かっていません。残されている大正13(1914)年当時の図面では、一部は木造の設計でしたが、当時普及が進み始めた鉄筋コンクリート造に変更され、現在に至っています。

旧貴賓室
 この部屋は、かつて、お客様などをお迎えする貴賓室として使われていました。床材は、記念館が整備される前まで、当時の木材が一部残されており、3種の材料を組合わせた寄せ木造りでした。しかし、劣化が進んでいたため、同様の材料を用いて、全面的に再現しています。

寄木床
展示室5(旧貴賓室)の寄木床仕上は、建設当時高級材料であったラワンやオーク材を用いて、美しいパターン貼りで構成されていました。
 既存の床は傷みや破損があったため、建設当時と同じ樹種の新しい材料を使って復原しています。皆様の目の前にあるのは、既存の寄木床の良好な部分を残したものです。


勝海舟胸像

勝海舟胸像
 この胸像は、海舟の晩年の姿を表現したもので、彫刻家・高村光雲の弟子である本山白雲の作品です。
 白雲は、高知県の坂本龍馬像を始め、偉人の銅像を多数制作したことで知られていますが、現存するものは少ないといわれています。本作は、昭和25年(1950)年以来、東京都議会に保管されていたものです。

本山白雲作

https://goo.gl/maps/5RBziFEGZ3qd95Vj6


勝海舟の墓

洗足池公園の一角に勝海舟夫妻の墓がある。
勝海舟の生前の希望で、洗足池のほとりに眠る。

海舟の文字は、徳川慶喜公によるものという。

大田区文化財
勝海舟夫妻の墓
 勝海舟、諱は義邦、初め麟太郎、後に安房または、安芳と改め、海舟と号した。文政6年(1823)江戸に生れる。幕臣として万延元年(1860)咸臨丸で渡米、海軍奉行となり明治元年(1868)江戸開城に尽力する。
維新後は海軍卿、伯爵、枢密顧問官などを歴任し、漢詩、書を好み、高橋泥舟・山岡鉄舟とともに幕末三舟と称せられた。
洗足池やその周辺の風光を愛し、明治32年(1899)没後遺言によりこの地に葬られた。
別荘洗足軒(現在は大森六中)で次の歌をよまれた。
   千束せんぞく村の別墅べっしょに
       楓樹数株を植ゑて
  うゑをかば よしや人こそ訪はずとも
     秋はにしきを 織りいだすらむ
  染めいづる 此の山かげの 紅葉は
     残す心の にしきとも見よ
          (氷川歌集より)
昭和49年2月2日指定
大田区教育委員会

勝海舟先生墓前

手水鉢には、「子爵 榎本武揚」の名も刻まれていた。

https://goo.gl/maps/W5CPMR2Sfv4xH5do9

江戸無血開城顕彰碑

勝海舟墓所のとなりには、江戸無血開城顕彰碑

江戸無血開城顕彰碑
慶應三年十二月 王政古ニ復シ翌明治元年二月大總督熾仁親王 勅ヲ奉シ 錦旗東征セラレ三月十五日ヲ期シテ江戸城ヲ攻メシム城兵決死一戦セントシ兵火将ニ全都ニ及ハントス時ニ勝安芳幕府ノ陸軍總裁タリ時勢ヲ明察シテ幕議ヲ歸一セシメ十四日大總督府参謀西郷隆盛ト高輪ノ薩藩邸ニ會商シテ開城ノ議ヲ決シ四月十一日江戸城ノ授受ヲ了セリ都下八百八街數十萬ノ生霊因テ兵禍ヲ免ガレ江戸ハ東京ト改稱セラレテ 車駕此ニ幸シ爾来 三朝ノ帝都トシテ殷盛比ナシ是レ一二隆盛安芳ノ兩雄互ニ胸襟ヲ披キテ邦家百年ノ大計ヲ定メタルノ賜ナリ今ヤ東亞大有為ノ秋ニ方リ當年兩雄ノ心事高潔ニシテ識見卓抜ナリシヲ追慕シ景仰ノ情切ナリ茲ニ奠都七十年ニ際シ兩雄ノ英績ヲ貞石ニ勒シテ之ヲ顕彰シ永ク後昆ニ傳フ
 昭和十四年四月
 東京市長従三位勲一等小橋一太謹識


洗足池公園

公園の一隅に聖域がある。勝海舟墓所のとなり。

西郷隆盛留魂祠

留魂祠は、明治10年(1877)に戦死した西郷隆盛(南洲)を惜しんで、勝海舟が、西郷隆盛の7回忌に際して明治16年に造立した祠。
先んじて西郷隆盛の漢詩碑を建碑し、留魂祠ともに葛飾区の浄光寺境内にあった。勝海舟没後、勝海舟夫妻墓の隣地にあたる当地へ大正2年に移転したという。

留魂祠
一、祭神 南洲西郷隆盛先生
一、例祭 毎年九月二十四日
由緒
 明治維新の英傑、西郷南洲(隆盛)勝海舟の両先生は、大政奉還後の江戸城の明け渡し交渉によって、江戸の町を戦火より救われ、首都東京の基を築かれたことでも著名ですが勝先生は、晩年、この洗足池畔に洗足軒と呼ぶ別邸を設けられ、南洲先生と日本の将来について歓談されたと伝えられます。南洲先生はその後、明治十(一八七七)年の西南戦役により、故郷鹿児島において子弟三千余と共に逝去されましたが、これを惜しまれた勝先生は、追慕のため南洲先生の漢詩を建碑されさらに明治十六年(一八八三年)、その魂魄を招祠して留魂祠を建立せられました。留魂祠の名は、漢詩「獄中有感」の「願留魂魄護皇城」に由来するものです。
 この留魂祠は、もと東京南葛飾郡大木村上木下川(現、葛飾区東四ツ木一-五-九)の薬妙寺境内にありましたが、勝先生の御遺志により、大正二(一九一三)年、石碑とともに現在の地へ移されました。右隣には勝先生御夫妻の奥津城(御墓所)があり、維新の両雄は、いまなほ相並んで我国の将来を見守っておられるのです。
 南洲会

西郷隆盛留魂詩碑

勝海舟が、西郷隆盛の死をいたみ、詩とその筆跡を遺すために、三回忌にあたる明治12年に自費で建立したもの。裏面には勝海舟が撰文した由来を記している。もとは葛飾区の浄光寺境内にあった。勝海舟没後、勝海舟夫妻墓の隣地にあたる当地へ大正2年に移転したという。

内容は西郷隆盛が沖永良部島の獄中で作った七言律詩。「願留魂魄護る皇城」から留魂詩と称される。

南洲先生建碑記

留魂碑の工事を勝海舟に任された玉屋忠次郎が明治16年(1883)に建立。
留魂碑が明治12年7月27日に彫刻され、谷中の石工郡鶴のもとから浄光寺に建立された経緯が記載されている。

勝海舟追慕碑

大正2年に勝海舟門下生の富田鐵之助が記したもの。留魂碑が建立されて現在地に移設された経緯などが記されれている。

徳富蘇峰詩碑

昭和12年に、有志が建立。
勝海舟門下生であった徳富蘇峰の詩を刻み建立。
勝海舟と西郷隆盛によって江戸庶民の命が救われた偉業を讃え、両雄を偲ぶ内容。

https://goo.gl/maps/KtnmYM2pYCNzRS6R9


勝海舟銅像

場所は変わって、隅田川近く。
墨田区役所となりの広場に、右手を突き出した勝海舟像がある。
木内禮智作。像高2.5m、台座も入れると5.5mとなる。

勝安芳
 勝海舟(通称・麟太郎、名は義邦、のち安房、安芳)は、文政6年(1823年)1月30日、江戸本所亀沢町(両国4丁目)で、父小吉(左衛門太郎惟寅)の実家男谷邸に生まれ、明治32年(1899年)1月19日(発表は21日)、赤坂の氷川邸で逝去されました。
 勝海舟は幕末と明治の激動期に、世界の中の日本の進路を洞察し、卓越した見識と献身的行動で海国日本の基礎を築き、多くの人材を育成しました。西郷隆盛との会談によって江戸城の無血開城をとりきめた海舟は、江戸を戦禍から救い、今日の東京の発展と近代日本の平和的軌道を敷設した英雄であります。
 この海舟像は、「勝海舟の銅像を建てる会」から墨田区にに寄贈されたものであり、ここにその活動にご協力を賜った多くの方々に感謝するとともに、海舟の功績を顕彰して、人びとの夢と勇気、活力と実践の発信源となれば、幸甚と存じます。
  海舟生誕180年
 平成15年(2003年)7月21日(海の日)
 墨田区長 山崎昇

https://goo.gl/maps/TgLkQzqUAB7626a76


勝海舟生誕の地
 (墨田区立両国公園)

同じく墨田区。両国駅の南側。
墨田区立両国公園が勝海舟の生誕の地であった、という。近くには吉良上野介邸跡もある。

勝海舟生誕の地
所在地 墨田区两国四丁目二十五番
 勝海舟は、文政六年(一八二三) 正月三十日、ここにあった男谷精一郎の屋敷で生まれました。父権究(小吉)は男谷忠怒(幕府勘定組頭)の三男で、文化五年(一八〇八)七歳のとき勝元良に養子入りし、文政二年に元良の娘のぶと結婚、男谷邸内に新居を構えました。海舟が男谷邸で生まれたのは、このためだと考えられます。海舟は七歳までの幼少期をこの地で過ごしました。その後は、旗本天野左京の自宅ニ階(現亀沢ニ丁目三番)や代官山ロ鉄五郎の貸家(現亀沢三丁目六番)を転々とし、ようやく落ち着いたのは天保初年、旗本岡野融政の貸地(現緑四丁目二十五番)に転居してからのことでした。海舟は、赤坂に転居する弘化三年(一八四六)までそこで暮らし、島田虎之助(豊前中津藩士)に就いて剣の修行に励む一方、向島の弘福寺に通い参拝していたと伝えられています。
 海舟が海外事情に関心を寄せはじめた時期は分かりませんが、天保十四年(一八四三)二十一歳の時には師匠島田のすすめで蘭学者永井青崖(福岡藩士)に師事し、嘉永三年(一八五O)には「氷解塾」を開いて西洋兵学を教授しはじめました。米国使節マシュー・ペリーが浦賀に来航したのはまさにその頃、嘉永六年六月三日のことでした。海舟は幕府首脳部に独自の海防論を呈し、安政二年(一八五五)正月には目付大久保忠寛の推挙をうけて異国応接掛手附南書翻訳御用となり、翌三年に講武所砲術師範役、同六年に軍艦操練所教授方頭取に就くなど、活躍の場を広げていきました。そして、同七年正月には日米修好通商条約の批准使節に随伴し、軍艦咸臨丸の艦長として太平洋横断に成功しました。また、帰国後も軍艦操練所頭取や軍艦奉行を務めるなど、政局の混迷の中でますます重要な役割を担うようになったのです。慶応四年(一八六八)三月に行なわれた西郷隆盛との会見は、徳川家の存続と徳川慶喜の助命、無血開城を実現に導き、維新期の混乱収拾に力を発揮した海舟の代表的な事となりました。
 海舟は新政府で高官に任ぜられますが、明治八年(一八七五)十一月に元老院議官を辞した後は著述活動や旧幕臣の名誉回復、経済支援に尽力しました。同十九年(一八八六)五月には酬恩義会を創設して将軍家霊廟の保存を図るなど、最期まで旧幕臣としての意識を持ち続けていました。
 明治三十二年(一八九九)一月十九日、海舟はも七十七歳で病没。洗足池呼の墓で静かに眠っています。
  平成二十三年三月
  墨田区教育委員会

勝海舟生誕之地
法務大臣 西郷吉之助書

西郷吉之助は、西郷隆盛の嫡男である西郷寅太郎の三男。西郷隆盛の孫にあたる。第2次佐藤内閣(1968年・昭和43年)の法務大臣。

碑文
勝海舟先生は幼名を麟太郎と稱し文政6年1月晦日この地男谷家邸内に生まる
剣は島田虎之助に師事し蘭學海洋術を學び安政7年咸臨丸艦長として渡米す
明治元年3月13日高輪薩摩邸に於いて西郷隆盛と會談
官軍の江戸進撃を中止させ江戸百萬の庶民を戰禍より救い東京都繁栄の基礎となせり
明治32年1月19日赤坂氷川の自邸に於いて歿す
明治百年を記念しこの碑を建つ
 昭和43年12月吉日  秀魚書
  勝海舟両国顕彰会
  両國1丁目町会
  両國2丁目町会
  両國3丁目町会
  両國4丁目町会有志
  元男谷邸跡

由来碑
(表)
勝海舟は幼名を麟太郎といい 文政6年(1823)1月13日この地 男谷精一郎邸内で生まれた。
剣は島田虎之助に師事し、蘭学海洋術を学び、万延元年(1860)幕府軍艦咸臨丸艦長として、太平洋を横断渡米した。
慶應4年(1868)3月13日 高輪薩摩藩邸において、大総督付参謀西郷隆盛と会談し、江戸城の開城を決定して、官軍の江戸進撃を中止させ、江戸百万の庶民を戦禍から救ったことはあまりにも有名な話である。
明治32年(1899)1月21日、赤坂氷川町(港区内)の自邸で死去 行年77歳であった。
墓は洗足池畔に建立されている。
平成元年10月
墨田区
(幕府講武所剣術師範役 元 男谷邸跡)

(裏)
社団法人 東日本硝子工業会
会長 瀧波榮一郎 之納
両国勝海舟 顕彰会
平成元年10月吉日

勝海舟幕末絵巻
勝海舟の歩みと、様々な出会い

鳶が鷹を生んだ 
 勝海舟誕生
 文政6年 1823年
幕府海軍の礎となる
 長崎海軍伝習所
 安政2年 1855年
勝海舟アメリカへ
 咸臨丸の渡航
 安政7年 1860年
坂本龍馬との出会い
わずか一年の夢の跡
 小梅海軍操練所
 元治元年 1864年
活と西郷で江戸を救う
 江戸城開城
 慶應4年 1868年

https://goo.gl/maps/H8BozMNRXWwBTxR29


勝海舟翁之像

能勢妙見山別院
妙見山妙見堂(東京都墨田区本所4丁目)

勝小吉・勝海舟父子の信仰が篤かった寺院。

勝海舟9才の時大怪我の際妙見大士の御利生により九死に一生を得その後開運出世を祈って大願成就した由縁の妙見堂の開創二百年を迎え海舟翁の偉徳を永く後世に傳へるため地元有志に仍ってこの胸像が建られた。
昭和49年5月12日

https://goo.gl/maps/r7EgAY5NMttE4X1C9

https://www.myoken.org/tokyobetsuin/


勝海舟・坂本龍馬の師弟像
勝安房邸跡
勝海舟終焉ノ地

現在は、港区立特別養護老人ホーム、もとは氷川小学校があった地の一角に、勝海舟と坂本龍馬の師弟像が建立されている。

勝海舟・坂本龍馬の師弟像

東京都指定 旧跡
勝安房邸跡
この地は、幕末から明治にかけて、幕臣として活躍した勝海舟 が明治5年(1872年)の49歳から満76歳で亡くなるまで住んできた屋敷の跡地です。その間、参議・海軍卿、枢密顧問官、伯爵として顕官の生活を送り、傍ら有名な『氷川清話』などを遺しました。その後の屋敷跡は東京市に寄付され、平成5年(1993年)春まで港区立氷川小学校敷地として使用されていました。その後、氷川小学校が廃校となったため、その建物を生かしつつ改修を行い、平成15年から区立特別養護老人ホーム及び子ども中高生プラザとして使用して現在に至っています。施設内には、屋敷跡 の発掘調査で出土した当時の縁の品などが展示されています。
港区

「明日に向かって」
  勝海舟·坂本龍馬の師弟像

 この地は、勝海舟が1872年(明治5年)から1899年(同32年)に77歳で亡くなるまで27年間住んだ屋敷のあった場所です。 海舟は、明治維新後 旧幕臣の代表格として維新政府の要職に在り協力していました。坂本龍馬との係りは海舟が幕府の要職に付いていた頃(海舟37歳~46歳)で、 龍馬 (26歳~31歳)は海舟を師と仰いで禁い緊密な交流があったようです。
 この交流の始まりは、海舟が威臨丸での渡米、帰国後幕府軍艦奉行就任の1862年(文久2年)海舟39歳のとき、龍馬が海舟を斬ろうと面会を申し入れ逆に感化され、 海舟の門人となり身辺警護をかってでたことからと言われております。 当時、日本国の未来を見据え大意を進めるに当って海舟と龍馬とは相反する体制下にありながら、改革を行うことが出来たのは海と繋がっている広い世界を観る目、日本国を取り巻く世界情勢の中で日本のゆくえについて日本人が一体となって事に当らなければならないことを教えたと伝えられています。
 また、海舟は軍艦奉行に就いていた 1864年2月(文久4年)英・仏・米・蘭4ヶ国艦隊の下関砲撃の中止交渉を幕府から命じられ、神戸から九州の豊後街道を通り長崎まで旅をしています。この旅に海舟は自らが主催する「神戸海軍塾」の塾生だった龍馬らを同行させています。重責を担って旅する海舟にとって龍馬に日本国の行く末を教える機会の旅であり、 当時の欧米の植民地政策の過の中にあるこの国の現状をつぶさに語り合い、後の薩長同盟、大政奉還、江戸無血開城へと繋げていったと考えられます。
 海舟、龍馬の生きた19世紀末と21世紀の今をとりまく時代状況は比較にならないくらい違ってきていますが、 彼らの明日を切り開いて行く強い志とエネルギーを、 宇宙船地球丸に乗っているこれからの時代を担う世代に伝えてゆくシンボルとしての銅像でありたいと願っております。
 銅像の細部を見て頂くと、 海も龍馬も視線は、明日に向かって海のかなたに広がる世界を向いています。 また、 海舟の刀の鍔(つば)に下緒(刀のさやを帯に巻くための紐) を絡めて刀をぬけないようにしています。 剣術の達人でありながら、当時の風潮を憂い何事にも対処するに当って刀を絶対に抜かないとの心がまえを表しています。

    勝海舟坂本龍馬の師弟像を建てる会

この銅像の建立にあたっては、 「勝海舟坂本龍馬の師弟像を建てる会」の呼びかけに赤坂をはじめとする全国のみなさまからのご支援ご協力を頂き、彫刻家 山崎和国氏に製作をお願いし2016年9月 (平成28年)完成建立し港区に寄贈しました。

また、戦前からの石碑も建立されていた。

史蹟 
勝安芳邸阯
勝海舟伯終焉ノ地ナリ
昭和五年十二月
東京府

氷川小学校後援会敬建
昭和8年12月
東京市長牛塚虎太郎書

勝海舟は赤坂で3度住居を変えている。
この場所は最後の居住地。明治5年50歳の時から、明治32年77歳で没するまで住んでいた。
今も、勝海舟遺愛の大イチョウが残っている。

氷川小学校
東に千代田の翠微を眺め 
西に芙蓉の麗姿を望む
英傑海舟 住みにしところ 
我らが学舎ぞ厳しく立てる

明治41年4月1日授業開始
明治42年6月27日開校式
平成5年3月31日閉校
 碑建立・氷川小学校卒業生


勝海舟邸跡

勝海舟が赤坂で最初に居住した場所がこの地であった。
幕末の安政6年(1859)から明治元年(1868)まで、日本が激動の時にあった時期に住んでいた旧跡。

勝海舟邸跡の記
 港区赤坂6丁目10番39号の「ソフトタウン赤坂」が建つこの地は、幕末から明治にかけて、幕臣として活躍した勝海舟 が安政6年(1859)から明治元年(1868)まで住んだ旧跡である。
 海舟は終生赤坂の地を愛し、三カ所に住んだが、当初居住中の10年間が最も華々しく活躍した時期に当たる。
 海舟は号で、名は義邦。通称麟太郎、安房守であったから安房と称し、後に安芳と改めた。夫人は民子。
 海舟は文政6年(1823)、本所亀沢町の旗本屋敷=現墨田区両国4丁目の両国公園の地=で、貧しい御家人の子として出生。長じて赤坂溜池の筑前黒田藩邸=のちの福吉町、現赤坂2丁目の赤坂ツインタワービルや衆議院赤坂議員宿舎などの地=に通って蘭学を学び、その縁から新婚23歳で赤坂田町中通り=現赤坂3丁目13番2号のみすじ通り=の借家で所帯を持った。
 36歳からは赤坂本氷川坂下=もとひかわざかした、のちの氷川町=のこの地に住んだ。
 明治元年45歳で、引退の徳川慶喜に従って、ここから静岡市に移ったが、明治5年(1872)再び上京し、満76歳で亡くなるまで赤坂区氷川町4番地=現赤坂6丁目6番14号=に住み、参議・海軍卿、枢密顧問官、伯爵として顕官の生活を送り、傍ら氷川清話などを遺した。この時の屋敷跡は東京市に寄付され、平成5年(1993)春まで区立氷川小学校敷地として使われた。
 当所に住み始めた翌年の安政7年(1860)、幕府海軍の軍艦頭取=咸臨丸 艦長として、上司の軍艦奉行木村攝津守、その従僕福沢諭吉 らを乗せ、正使の外国奉行新見豊前守を乗せた米艦ポーハタン号に先行して渡航、日本の艦船として初めて太平洋横断・往復に成功した。
文久2年(1862)11月、海舟を刺殺しようとして訪れた旧土佐藩士坂本龍馬 らに、世界情勢を説いて決意を変えさせ、逆に熱心な門下生に育てて、明治維新への流れに重要な転機を与えることになったのもこの場所である。
 明治元年3月には、幕府陸軍総裁として、官軍の江戸城総攻撃を前に征討総督府参謀西郷隆盛 と談判を重ね、無血開城を決めて江戸の町を戦火から救った。
 第1回会談は高輪の薩摩藩邸=品川駅前の、のちの高輪南町、現港区高輪3丁目のホテルパシフィックの地=で行われた。第2回については芝田町薩摩藩邸=のち三田四国町、現港区芝5丁目芝税務署辺りの地=または、三田海岸の薩摩藩蔵屋敷(くらやしき=倉庫)の表側にある民家=現港区芝5丁目の三菱自動車ビル周辺=で行われたとの両説がある。いずれも当所居住中のことである。
 明治維新では、明治元年5月、海舟の留守中に一部の官軍兵士がここの勝邸に乱入したが、海舟の妹で佐久間象山未亡人の瑞枝(旧名・順)が家人を励まして一歩も引かずに応対し、危急を救った。
 海舟は終生赤坂の地を愛したが、郊外の風光にも惹かれ、初めは葛飾区東四ツ木1丁目に、次いで洗足池畔の大田区南千束1丁目現大田区立大森第六中学校の地に別邸を設けた。墓は洗足池に面して作られ、自ら建てた西郷隆盛を偲ぶ碑と共に大田区文化財に指定されている。
 平成7年11月吉日
  ソフトタウン赤坂管理自治会
   撰文 伊波 新之助
   協賛 勝海舟顕彰会
   協力 港区郷土資料館

https://goo.gl/maps/9L2yS1B1824GpLbq6


四合稲荷神社(赤坂氷川神社境内社)

赤坂に居住していた勝海舟は赤坂氷川神社とも深い縁にあった。
赤坂氷川神社境内の稲荷神社は勝海舟の命名。

御縁起
①古呂故稲荷(赤坂一ツ木2番地、古呂故天神社境内に鎮座)
②地頭稲荷(氷川神社遷座以前より拠の地に鎮座)
③本氷川稲荷(本氷川神社隣接、別当盛徳寺の地内に鎮座)
④玉川稲荷(赤坂門外の御堀端、現弁慶橋のあたりに鎮座)
 以上、4社を明治31年(1898年)、遷座合祀し、赤坂在住の勝海舟翁により『四合稲荷(しあわせいなり)』と称えられる。
(略)
勝海舟翁筆の「四合稲荷社」という扁額が、現存する。
(略)
以上、境内御由緒より

「志あはせいなりの社」 
勝海舟書の掛け軸の筆跡を用いた幟

勝海舟直筆の扁額
「四合稲荷社」


場所は変わって、港区芝。三田駅の近く。

西郷南洲・勝海舟 会見之地

西郷南洲・勝海舟 会見之地
西郷吉之助書

慶應四年三月十四日
此薩摩邸に於て西郷 勝 両雄会見し江戸開城の円満解決を図り百万の民を戦火より救いたっるは其の功誠に大なり
平和を愛する吾町民深く感銘し以て之を奉賛す
 昭和二十九年四月三日
  本芝町会
 本芝町会十五周年記念建之

田町薩摩邸(勝・西郷会見地)附近沿革案内
この敷地は、明治維新前夜慶応4年3月14日幕府の陸軍総裁 勝海舟が江戸100万市民を悲惨な火から守るため、西郷隆盛と会見し江戸無血開城を取り決めた「勝・西郷会談」の行われた薩摩藩屋敷跡の由緒ある場所です。
この蔵屋敷(現在地)の裏はすぐ海に面した砂浜で当時、薩摩藩国元より船で送られて来る米などは、ここで陸揚げされました。
現在は、鉄道も敷かれ(明治5年)更に埋め立てられて海までは 遠くなりましたが、この附近は最後まで残った江戸時代の海岸線です。 また人情噺で有名な「芝浜の革財布」は、この土地が舞台です。

訪れたときは、ちょうどビルの建て替え工事の真っ最中。
記念碑は一時的に保管されているという。
工事完了は令和5年5月末予定。

https://goo.gl/maps/hqtuibb1UZwU4xTH7


西郷南洲・勝海舟 会見の図

浜松町駅のエスカレータ脇に、西郷隆盛と勝海舟の会見をモチーフしたた壁画があった。

時は慶応4年(1886)3月14日、幕府の軍事取扱勝海舟は薩摩藩蔵屋敷に於て、官軍の大総督参謀西郷南洲と最後の会見を行ない、戦火が招く江戸市民の災厄と諸外国の内政干渉とを絶対に避けるべしと説き、両雄お互いに憂国の誠意にうたれ、ついに江戸総攻撃は中止された。その蔵屋敷跡に現在建っている三菱自動右車ビルの前庭には「会見の地」の碑がある。「当駅正面交差点右折、歩いて2分」


勝海舟邸長屋門

石神井公園近くの三宝寺山門東側の通用門は、勝海舟邸長屋門であったという。
築年は文政年間(1818-29)という。
勝海舟が明治5年に赤坂に戻ってきてから、没するまで過ごした屋敷にあった長屋門と推定。

三宝寺に移設される前は、成増にあった遊園地「兎月園」にこの門はあった。大正13年(1924)に兎月園は開業。昭和18年(1943年)に戦争の影響などもあり閉園。

通用門(長屋門)
 練馬区旭町兎月園にあった勝海舟邸の屋敷門が、所有者の明電舎の事情により、取毀しの処分を受けるに際し、当時の練馬区長須田操氏の斡旋で、当山に移建された。
 昭和35年(1960)11月、新井工務店の手によって解体移建された。

海舟書屋(かいしゅうしょおく)

勝海舟の師匠であった佐久間象山。その佐久間象山の言葉「海舟書屋」から、海舟という号を採用したという。

江戸東京博物館収蔵品より

https://digitalmuseum.rekibun.or.jp/edohaku/app/collection/detail?id=0189204082

https://goo.gl/maps/D6WoYcrSZfqFcVkv8


勝家之墓

勝海舟の父である勝小吉と、、勝海舟の嫡男小鹿は、青山霊園(1種イ4号22側)の勝家之墓に眠る。


勝海舟の長男勝小鹿の娘婿で徳川慶喜の10男であった勝精の墓は谷中霊園にある。

谷中霊園には、徳川慶喜の墓もある。


以上、

都内に残された勝海舟の史跡などの散策記録でした。

コレデオシマイ

※撮影:主に2020年8月から11月にかけて。


そのほかの関連

勝海舟が教授を務めた築地軍艦操練所

初代海軍卿 勝安房

南湖院を設立した高田畊安の妻は勝海舟の孫娘

旧幕臣として勝海舟とは違う道を歩んだ榎本武揚

「最後の幕臣から明治最良の官僚へ」榎本武揚像と榎本武揚墓

都内で、榎本武揚にまつわる史跡などを散策してみました。

墨田区立梅若公園

榎本武揚

1836年10月5日〈天保7年8月25日〉 – 1908年〈明治41年〉10月26日)

旧幕臣、外交官、政治家。海軍中将。
正二位勲一等子爵。

戊辰戦争
榎本武揚は江戸浅草橋近くの生まれ。
昌平坂学問所・長崎海軍伝習所出身。修了後は江戸の築地軍艦操練所教授となる。1861年に幕府よりオランダ留学を命じられ欧州へ。オランダで完成した蒸気軍艦1隻(開陽丸)とともに1866年に帰国。軍艦役・開陽丸乗組頭取(艦長)となる。
1868年(慶応4年)に江戸幕府の海軍副総裁に就任。幕末の動乱の中で徹底抗戦を主張し、榎本派が幕府艦隊を支配。
明治新政府軍による江戸開城に伴う降伏条件のひとつに旧幕府艦隊の引き渡し要求があるも、榎本武揚はそれを拒否。徳川宗家の江戸から駿府への移封が完了するのを待って榎本武揚率いる旧幕府艦隊は江戸を脱出。奥羽越列藩同盟支援のために艦隊を北上させる。
その後、仙台藩降伏に伴い、艦隊は蝦夷地「函館」に。

蝦夷共和国と最後の幕臣
榎本武揚は函館で蝦夷共和国の総帥に就任。選挙による就任は画期的な政策であった。
1869年(明治2年)5月18日、榎本武揚ら旧幕府軍は新政府軍に敵わず降伏。東京で牢獄に収監される。黒田清隆や福沢諭吉が榎本武揚の助命活動を行う。

明治新政府の下で
1872年(明治5年)特赦により出獄。黒田清隆の下で北海道開拓使に任官。
1874年に中露特命全権大使に就任するとともに日本で最初の海軍中将に就任。1875年に樺太・千島交換条約の締結を成功させる。ロシアからの帰国に際してはシベリア横断に成功。
帰国後は、外務大輔、海軍卿、皇居造営事務副総裁を歴任し、1882年(明治15年)には、駐清特命全権公使に就任。李鴻章と度々会談し天津条約締結に貢献する。

1885年(明治18年)、内閣制度発足に伴う第一次伊藤博文内閣で逓信大臣に就任。その後も農商務大臣や文部大臣、外務大臣を歴任。

1908年(明治41年)10月26日、死去。海軍葬が執り行われた。

榎本武揚の海軍軍人・政治家以外の側面としては、電気学会初代会長、東京農業大学のベースとなった徳川育英会育英黌農業科の設立、などにも携わっている。

榎本武揚墓

榎本武揚の墓
 天保7年(1836)~明治41年(1908)、江戸の生まれ。通称、釜次郎。江戸末期の幕臣、政治家。蘭学をはじめ広い学識をもち、オランダ留学後海軍奉行、海軍副総裁となったが、倒幕軍江戸入城にあたり幕府海軍を率いて函館五稜郭で反抗した。その後、時代の変化もあって海軍中将、ロシア駐在特命全権公使、海軍卿、文相、枢密顧問官、外相、農商務省などを歴任、子爵となる。
 東京都文京区教育委員会 

海軍中将子爵榎本武揚墓

元帥海軍大将伯爵伊東祐亨書

天保七年八月二十五日生
明治四十一年十月二十七日薨

榎本家の家紋は「丸に梅鉢紋」というが。

吉祥寺

東京都文京区本駒込三丁目にある曹洞宗の寺院。
室町時代1458年(長禄2年)に太田持資(太田道灌)の開基。
多くの譜代大名・旗本の江戸の菩提寺であったことから、それの墓所が多い。

榎本武揚の墓所も、吉祥寺にある。

https://goo.gl/maps/RNcwAjCEost6tPYU7


榎本武揚一族之墓

榎本武揚夫妻の墓は改装され「吉祥寺」にあるが、榎本一族の墓は「保元寺」(台東区橋場1-4-7)にある。この地は、足利尊氏が新田義興と戦った「石浜の合戦」の地。
榎本武揚は戊辰戦争後に投獄され、出獄後にこの地で謹慎をしていた。

榎本家略史
榎本家は武州豊島郡石浜橋場の郷士で、平家一門の千葉氏の家人である。
江戸時代の祖・榎本与兵衛武明は延享3年(1746)68歳で没し、千葉氏と縁のある石浜郷の古刹保元寺(法源寺とも称した)に葬られた。以来、榎本家の祖霊を祀る。
4代武兵衛武由は一女「とみ」の婿養子に箱田良助を迎える。良助は備後国(広島県)箱田村の郷士の次男で、伊能忠敬が幕府の命で全国を測量する助手となり、後に榎本圓兵衛武規と称し徳川幕府の家人となる。
5代圓兵衛武規の妻「とみ」が文政10年没したため「こと」を迎え武興・武揚兄弟を産み育てていく。
6代榎本勇之助武興の弟が釜次郎武揚である。
武揚は幕府によりオランダに留学し操船と海軍の知識を習得し帰国、徳川幕府の海軍長官となるも北海道五稜郭で敗戦し、刑死を免れ年余にわたり菩提寺謹慎となり保元寺に隠居したが、許されて明治新政府に仕え高位の身分となる。
明治41年10月27日に没し、先に保元寺に埋葬の夫人多津子と両名のみ改葬された。

保元寺

帰命山薬王無量院保元寺
奈良時代の宝亀元年(770年)創建という古寺。

https://goo.gl/maps/ML312fnSwti5Pdjp8


榎本武揚旧居跡

榎本武揚一族之墓があった保元寺の隅田川の対岸、向島言問に榎本武揚邸があった。

榎本武揚旧居跡
 父は将軍側近で天文方として伊能忠敬にも師事した知識人であった。武揚も幼い頃から学才に長け、昌平黌で儒学を、江川太郎左衛門から蘭語、中濱万次郎から英語をそれぞれ学び、恵まれた環境で洋学の素養を身につけた。19歳で箱館奉行の従者として蝦夷地に赴き、樺太探検に参加する。安政3(1856)年には長崎海軍伝習所に学び、蘭学や造船学、航海術などを身につけた。文久2(1862)年に幕府留学生としてオランダに渡って、船舶に関する知識をさらに深める一方、国際法や軍学を修めた。慶応3(1867)年、幕府が発注した軍艦「開陽」に乗艦して帰国、翌4年に海軍副総裁に任ぜられた。
 戊辰戦争では徹底抗戦を唱えたが、五稜郭で降伏、3年間投獄された。この箱館戦争で敵将ながらその非凡の才に感服した黒田清隆の庇護を受け、北海道開拓使に出仕。明治7(1874)に駐露特命全権公使となり、樺太・千島交換条約を締結。海軍卿、駐清公使を経て、文部大臣、外務大臣などを歴任した。
 明治38(1905)年から、73歳で没する同41年までこの地で暮らし、墨堤を馬で毎日散歩する姿が見られたという。

https://goo.gl/maps/YXo4RRcYWqxJTCpT6


銅像榎本武揚像

墨田区立梅若公園に、榎本武揚銅像が建立されている。

墨田区登録有形文化財
銅造榎本武揚像
 所在地  墨田区堤通2丁目6番10号
      墨田区立梅若公園内
 本像は、榎本武揚没後の大正2年(1913)5月に建立されました。銅製で、像高は約3メートルあり、南を向き、大礼服姿で荘重な趣を呈しています。彫刻は、衣服の質感や顔の表情が細かく表現され外形描写に優れています。
 榎本武揚(1836~1908)は、戊辰戦争終盤の箱館戦争で明治新政府軍と戦った旧幕臣として著名な人物です。
 武揚は箱館戦争の中心人物として投獄されましたが、維新後は明治政府に出仕し、文部大臣、外務大臣等、政府の要職を歴任しました。晩年は向島に構えた別荘で過ごし、馬に乗って歩く姿が見られたようです。
 建立にあたっては、大隈重信や大倉喜八郎、渋沢栄一、益田孝など政財界を代表する人物等が協力しました。
 原型作者は藤田文蔵と田中親光であり、鋳造者は平塚駒次郎です。
 この銅像は平成12年12月7日に墨田区登録文化財に登録されました。  
  平成29年3月
  墨田区教育委員会

墨田区登録有形文化財
銅像榎本武揚像

「榎本武揚」
 榎本武揚は天保7年(1836)に幕臣の子として江戸に生まれ育ち、
昌平坂学問所 (昌平黌)で学び、安政3年(1856)幕府が長崎に設けた海軍伝習所に入りました。その後、オランダに留学し、最新の知識や技術を身につけ、慶応2年(1866)幕府注文の軍艦開陽丸を回送し帰国しました。
 武揚帰国後の日本は「大政奉還」「王政復古」という体制変換を迎え、武揚は戊辰戦争の最後の戦いとなった箱館戦争では、五稜郭を中心に明治政府に抵抗しましたが、明治2年 (1869)降伏しました。
 その後、武揚は投獄されましたが傑出した人材として赦免され、明治政府に出仕しました。明治8年(1875)には、海軍中将兼特命全権公使として、樺太(サハリン)・千島交換条約の締結に尽力しました。
 明治18年(1885)伊藤博文が初代内閣総理大臣に任命されると、旧幕臣でありながら逓信大臣に就任以降、文部、外務、農省務大臣などの要職を歴任しました。また、東京農業大学の前身である私立育英黌農業科を創設したほか、化学、電気、気象などの各学会に関わりを持ち、日本の殖産産業を支える役割を積極的に引き受けました。
 晩年は成島柳北邸(現言問小学校)の西側に屋敷を構え、悠々自適の日々を過ごしました。明治41年(1908)10月に73歳でなくなりましたが、墨堤を馬で散歩する姿や、向島百花園で草花を愛でる姿が見られたそうです。

「銅像について」
 本像は青銅製で、高さ約400㎝の台座上に像高300㎝の榎本武揚の立像が乗っています。
 建立は大正2年(1913)5月で、当時の木母寺の境内である当該地に建てられました。白鬚東地区防災拠点建設に伴い木母寺は移転しましたが、本像は当該地に残されました。
 本像の原型作者は田中親光、藤田文蔵、鋳造者は平塚駒次郎であることが台座背面に記されています。また、建設者に大隈重信、大倉喜八郎、渋沢栄一など当時の政財界の代表的人物が名を連ねています。
 原型作者のひとりである藤田文蔵は洋風彫刻界における先覚者として位置づけられ、代表作に陸奥宗光銅像(外務省)や井伊直弼銅像(掃部山公園、太平洋戦争で供出)、狩野芳崖胸像(東京国立博物館)などが知られています。

榎本武揚像の隣にある石碑。昭和12年建立。鈴木貫太郎の書であった。
(二・二六事件は昭和11年)


鈴木貫太郎書
昭和12年4月29日
 向島区青年団
  墨田町二丁目分団

https://goo.gl/maps/gUQVAvbqVQdxaYXUA


東京農業大学は、その創建に榎本武揚が関わっている。

榎本武揚先生像

東京農業大学世田谷キャンパス


旧幕臣としての榎本武揚

正二位勲一等子爵榎本公追弔碑


そのほか榎本武揚は函館にも多くの足跡があるが、今回は都内に限りで、ここまで、で。

まんしゅう母子地蔵と浅草寺の戦跡散策

浅草寺境内を戦跡を中心に散策してみました。


まんしゅう母子地蔵(母子地蔵

母子地蔵建立の由来
第二次世界大戦末期、ソ連参戦で混乱状態となった中国東北部(満州)で逃避行の末、命を落とした日本人は二十万人を超えると云われています。
酷寒の曠野を逃げ惑う母子が生き別れとなったり飢えや疫病に苦しみながら亡くなるなど、その悲劇は数知れません。
犠牲となられた母子の霊を慰め、また、いまだ再会のかなわない親と子の心のよりどころとして、二度と戦 争という過ちを繰り返さない事を祈念しつつ、ここに母子地蔵を建立いたしました。
 一九九七年四月十二日
   願主   千野誠治
   デザイン ちばてつや
   文字   森田拳次
 まんしゅう地蔵建立委員会
 まんしゅう地蔵建立応援団 
 中国残留孤児援護基金

像のデザインは、ちばてつや氏
題字と碑文は、森田拳次氏

満洲の赤い夕陽色の幟旗に囲まれた「まんしゅう母子地蔵」

雨の日の「母子地蔵」

雨が降ると、満洲の赤い夕陽色の幟旗はより濃厚となっていた。

以下は、新宿の「平和祈念展示資料館」戦後75年企画「ちばてつや×森田拳次 漫画家からのメッセージ」企画展より。
(令和2年8月12日~11月15日)

https://www.heiwakinen.go.jp/kikaku/20200720-1000/

母子地蔵 エスキース(複製)ちばてつや

母子地蔵
日本有数の観光地である東京の浅草寺の一角、仲見世を抜けた先、宝蔵門(仁王門)を正面に見て右手側に、「母子地蔵」と呼ばれる小さな親子像があります。
 その母子3人が寄り添った姿には、引き上げの際に死に別れた母子の霊を慰めるとともに、残留婦人や残留孤児となって生き別れた母子の心の拠り所となるように、との願いが込められています。像の建立にあたっては、「中国残留孤児の国籍取得を支援する会」の元事務局長の千野誠治氏(故人)が発起人・願主、ちば氏が像のデザイン、森田氏が題字・碑文をそれぞれ担当しました。また、森田市の呼びかけで、引き揚げ漫画家14名による色紙販売が行われ、資金調達の一助とされました。
 多くの母子が離れ離れとなる場面を目の当たりにし、自身が残留孤児になってもおかしくはなかった、ちば・森田両氏のひとかたならぬ思いが、この像の建立につながったのです。毎年4月には、両氏を中心とした「日本漫画家事務局 八月十五日の会」による法要が営まれています。
 森田拳次

「まんしゅう地蔵(まんしゅう地ぞう)」はあきる野市の西多摩霊園にある「中国帰国者之墓」の横にも鎮座(1995年)。同じく、ちばてつや氏がデザイン。

https://www.kikokusha-center.or.jp/resource/sankoshiryo/ioriya-notes/photo/zizo.htm

https://search.ameba.jp/search/entry/%E6%AF%8D%E5%AD%90%E5%9C%B0%E8%94%B5.html?aid=chibatetsu

https://ameblo.jp/chibatetsu/entry-12264010862.html


母子地蔵の裏側に。

戦災者供養 平和地蔵尊

平和地蔵尊由来記
第二次世界大戦はその規模においても、その被害においてもまことに甚大であった。ことに昭和二十年三月十日の大空襲には、この附近一帯は横死者の屍が累として山をなし、その血潮は川となって流れた。その惨状はこの世の姿ではない。これ等の戦争犠牲者の霊を慰めることこそ、世界平和建設の基となるものである。ここに平和地蔵尊を祭り、その悲願を祈るため、昭和二十四年四月ここに安置された次第である。
 昭和24年4月
  龍郷 定雄 建立

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/virtual/memorialsite/tokyo_taito_city003/index.html

龍郷 定雄 翁


旧五重塔跡

現在の五重塔の反対側。浅草神社側に。

旧五重塔跡
 五重塔とは、仏舎利(釈迦の遺骨)を奉安する仏塔の一つで、古くから寺院に建立されてきた。
 この場所は、江戸時代の慶安元年(一六四八)、徳川家光 によって再建された旧国宝の五重塔(木造・高さ三十三メートル)が建立されていた場所で、現在の五重塔とは反対側に位置していた。
 浅草の五重塔は、天慶五年(九四二)平公雅により創建され、その後いく度か炎上するもその都度再建されている。
 江戸時代、家光再建の五重塔は、上野の寛永寺・谷中の天王寺・芝の増上寺の塔とともに「江戸四塔」として親しまれていた。
 また、歌川広重・歌川国芳 などの浮世絵の格好の画題としても全国にしられ、朱塗り・碧瓦(へきがわら)(未申にあたる裏鬼門の方角の第三層には、羊角猿面の鬼瓦が葺かれる)の美しい姿を見せていたが、昭和二十年(一九四五)の戦災で惜しくも焼失した。
 金龍寺 浅草寺


旧仁王門基礎石

旧仁王門基礎石
 慶安二年徳川家光 公により再建落慶した旧仁王門(国宝指定・現宝蔵門と同規模)が、三百年間浅草寺山門として江戸・明治・大正・昭和と時代の変遷を見つめ、文学、絵画、芸能など往時の文化にたびたび登場してまいりましたが、残念ながら昭和二十年(一九四五)三月十日の東京大空襲 により本堂・五重塔(家光公建立・国宝)と共に炎上焼失いたしました。
 その後、現本堂に続き昭和三十九年(一九六四)四月一日仁王門を宝蔵門 と改めて同跡地に再建されました。
 この三つの大石は宝蔵門再建に際して旧仁王門の跡地より昭和三十七年二月六日に掘り出された礎石です。旧仁王門には十八本の大木柱があり、それぞれに基礎石がありましたが、戦火に遭いひび割れ割れ破損し、原型をとどめる大礎石三個を選び保存しました。
 石材は「本小松石」で上端の仕上げ面は約一・二m角、柱受けのホゾ穴があり、最大幅は約一・四m角、高さ約一m。この礎石の下部と周囲は十~十五cm径の玉石と粘土で突き固められていました。
 江戸の人々の息吹を感じると共に、平和を祈る記念碑として受継ぎたいと存じます。
 浅草寺


平和の時計

平和を祈る時計。五重塔を上回る九重塔の平和の時計。
浅草ライオンズクラブ建立。


水吹きイチョウ

銀杏の木が火災の際に水を吹き出すことで消火に役立ったとされ「水吹きイチョウ」「霧吹きイチョウ」の伝承を残し、多くの寺社で銀杏が植えられていた。これは銀杏の葉には多くの水分が踏まれていることによるものという。
浅草寺にも多くのイチョウが植えられており、関東大震災、そして東京大空襲でも、樹肌を焼かれながらも防火に活躍した。


浅草寺の神木「いちょう」

浅草寺の神木・いちょう
 浅草寺本堂東南に位置するこのいちょう は、源頼朝公が浅草寺参拝の折、挿した枝から発芽したと伝えられる。
 昭和五年に当時の文部省より天然記念物 に指定されたが、昭和二十年三月十日の戦災で大半を焼失した。今は天然記念物の指定は取り消されたが、あの戦災をくぐり抜けた神木として、今も多くの人々に慕われている。
 金龍山 浅草寺

今も残る痛ましい焦げ跡。東京大空襲の爪痕。


浅草大平和塔

浅草寺淡島堂の境内に。

建立当時はこの5倍ほどのそびえていたが、いつしか改修されて小さくなった。2016年頃の写真では「大平和塔」であったが、今では「大」とは言い難い規模。(改修時期や理由などは確認し忘れました。)

かつての姿を、参考までに総務省サイト内の写真を以下に。

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/virtual/memorialsite/tokyo_taito_city004/index.html

東京大空襲後の浅草

浅草駅や神谷バー、仲見世、厩橋や吾妻橋などが確認できる。

みたまよ
 とこしえに
  安らかに
われら守らん
 世界の和

 湯川秀樹

建設趣意書
 思い出づる調べも哀し昭和二十年三月九日の夜、B29百五十機の大空襲により浅草一帯は火の海となる。地をなめるようにして這う火焔と秒速三十米をこす烈風にあふられ、親は子を呼び、子は親を求むれど、なすすべもなし。おののき叫び逃げまどい、悪夢の如き夜が去れば……眼にうつるものは一面の焦土にて、 一木一草の生づるもなく、あわれ身を焼かれ路傍に臥す無辜の犠牲者は一万余柱を数う。
 当時その凄惨な状況は一片の新聞だに報道されることなく、敗戦後に生まれた子供達は戦争の惨禍を知るよしもない。いたましく悲しい夜もいつしか歴史の一駒として消えて行くであろう。
 よって我々はここに当時を偲び、不幸散華された御霊の安らけく鎮まりまさんことを祈り、二度とあやまちを繰返すことなく永遠に世界の平和を守らんことを誓い、浅草観音の浄域にこの碑を建立する。
  以て瞑せられよ。
  昭和三十八年八月十五日
   浅草大平和塔維持会


浅草寺淡島堂の境内に。

戦没供養地蔵尊

戰災靈供羪
地蔵大菩薩
浅草寺恭順拜書

昭和二十年三月十日

建 立 旧浅草藝妓屋組合
後 援 淺草三業會
建立日 昭和三十七年三月十日


浅草寺淡島堂の境内に。

天水桶

天水桶
 太平洋戦争が激しくなってきた、昭和十八年(一九四三)十一月十八日、浅草寺僧侶らによって夜儀が執り行われ、この天水桶内にご本尊の観音様をお厨子ごと奉安し、本堂の地中深くに埋めたため、ご本尊さまは戦火を逃れたという。
 戦後の昭和二十二年(一九四七)三月七日、ご本尊さまは再び地中より掘り上げられ、その無事が確認された。
 明和七年(一七七〇)造立。
  金龍山 浅草寺


浅草寺

以上、浅草寺境内の戦跡散策でした。

東京大空襲・慰霊

北千住界隈の戦跡散策(足立区)

北千住界隈の戦跡としては、千住神社の防空壕が有名だけれども、それ以外にもいくつか見どころがあるので、以下に紹介をしてみる。


B29無名戦士慰霊碑(慈眼寺)

慈眼寺境内には、空襲で撃墜されたB-29搭乗員戦死者の霊を供養する慰霊碑があった。慰霊碑建立にあたり作家の長谷川伸が相談役として名を列ねている。

無名戦士を弔ふ

昭和20年4月13日夜、第313航空団505爆撃群所属のB29(機体番号42−63517)が足立区花畑町・北加平町に墜落。搭乗員11名全員死亡。

戦後、墜落地にほど近い現在の北加平公園に「B29無名戦士之墓」が建立されるも、道路拡張により撤去。銘碑のみが足立区郷土博物館に保管されている。

慈眼寺の被災銀杏

B29無名戦士慰霊碑近くの銀杏は、戦災を生き抜いた銀杏。今でも焼け焦げた跡を残している。

慈眼寺

新義真言宗寺院。千龍山妙智院慈眼寺。
創建は1314年(正和3年)、行覚によって開山。


位置関係

国土地理院航空写真
ファイル:USA-M402-2-13
1947年08月11日、米軍撮影写真を一部加工。
クリックして拡大。
戦後2年経っていてもまだまだ残っている空襲の爪痕。


千住郵便局電話事務室

現存する数少ない山田守設計の建築物。山田が設計した建物では初期のもので「ドイツ表現主義」建造物。一枚一枚が手焼きの煉瓦によるスクラッチタイルは昭和初期の流行という。
1929年(昭和4年)5月に竣工。逓信省の技師である山田守によって設計された、いわゆる逓信建築の一つ。昭和20年の空襲でも本建物は残ることができた。
現在はNTT千住ビルとしてNTT東日本が管理。


源長寺の被災大欅

千住大橋と北千住の中間あたりに鎮座している源長寺の境内にも被災樹木があった。

大楠
文化年間この地帯に多く見られたが、昭和20年戦火の為最後の一本を焼失。その残りがこの切株である。

源長寺

浄土宗寺院。稲荷山勝林院源長寺。
1610年(慶長15年)、伊奈忠次の開基。


千住神社の防空壕

以前はとくに説明板もなくロープも張っていなかったが、最近に整備をされたようだ。

以前の写真はこちらから

平和の大切さを伝える
防空壕
昭和20年、空襲が激しくなると、東京中に防空壕が作られました。
簡易なものから、強固な地下壕までいろいろあり身体を守ってきました。
平成29年5月 千住神社歴史保存会

八紘一宇の国旗掲揚台(千住神社)

紀元二千六百年記念
 昭和十五年十一月吉日建設
  千住宮元町會

日露戦役紀念碑

乃木希典書。明治39年3月建。

不屈のイチョウ(千住神社)

生命の大切さを伝える
不屈のイチョウ
昭和20年4月10日、空襲により、神社に爆弾が投下され、蔵を残して神社は焼失しました。
このイチョウも燃えましたがコゲ跡を刻み復活して今も、生き続けます。
平成29年5月 千住神社歴史保存会

御神木(千住神社)

御神木
 この銀杏は、先の戦争にて千住宮元町のほぼ全ての建物が焼失した中で、御祭神御守護のもと、焼け残った御神木であります。
 寄り添う樹木は「夫婦銀杏」として親しまれており、縁結び、夫婦円満、家内安全、子宝安産の象徴となっております。
 (足立区指定保存樹)

千住神社

創建は延長4年(926)という古社。
旧社格は郷社。千寿七福神の一神(恵比寿)。

昭和20年(1945)4月13日 空襲で社殿を焼失。
境内の御神木や石鳥居などは戦災を免れて残っている。
そして戦争の記憶を残す防空壕跡も残されている神社。
戦後の昭和33年(1958)9月に社殿が再建。


関連

「日本毛織物工業の父」井上省三と千住製絨所(荒川区)

東京都荒川区。
南千住にかつて被服製造の官営工場があった。
近代化を推し進める明治新政府にとって、軍服や制服といった洋装は輸入に頼っており、その国産化が急がれていた。

明治8年(1875)に千葉県に羊牧場が設けられ羊毛の生産が開始。
旧長州藩士の井上省三が被服製造技術を学ぶためにドイツ留学し、その帰国を待って明治12年(1879)に東京南千住に官営工場「千住製絨所」が完成し、操業開始した。

日本の羊毛工業・毛織物工業は、南千住から始まったのだ。


井上省三(いのうえせいぞう)
「日本毛織物工業の父」
「日本羊毛工業の父」

旧長州藩士。萩藩厚狭毛利氏家臣。奇兵隊隊長として倒幕に活躍。
明治4年(1871)に北白川宮能久親王に随行してドイツのベルリンに留学。兵学から工業に転向し猛職技術を修得。
明治8年に帰国し内務省勧業寮へ配属。その後、再度の欧州留学を行い帰国後の明治12年に官営千住製絨所の初代所長に就任。
明治19年(1886)、病死。享年42歳。

千住製絨所

明治12年に南千住で官営千住製絨所として創業を開始。
初代所長は井上省三。
明治21年(1888)からは陸軍省の管轄となり工場を拡張。陸軍所要の軍服などを生産管理した。陸軍省管轄ではあっても陸軍大臣の認可でもって、他官庁や民間からの製造依頼や研究依頼、技術指導や技術者養成なども行い、国内繊維・被服産業に大いに貢献。

昭和20年、敗戦により操業停止。民間地元企業の大和毛織に売却。しかし大和毛織は業績不振により昭和35年(1960)に操業停止となり閉鎖。こうして千住製絨所以来の被服生産は80余年で幕を引いた。
その後、跡地は大映がオーナーとなっていた大毎オリオンズ(現・千葉ロッテマリーンズ)の本拠地球場「東京スタジアム」などが建設されるが、東京スタジアムは昭和47年に閉鎖され撤去。
現在は、荒川区総合スポーツセンター、警視庁南千住警察署、東京都立荒川工業高等学校、ライフ南千住店などに姿を変えている。


井上省三像(井上省三胸像)

昭和11年(1936)12月14日に井上省三没後50年を記念して、千住製絨所構内に「東京千住製絨所初代所長井上省三胸像」が建設された。

左右には羊の彫刻。
羊毛工業の父、ゆえに。

かつては、もうひとまわり大きな台座であったことが除幕式当時の写真で垣間見ることができる。

参考

https://kiralink.pref.yamaguchi.lg.jp/202002/yamaguchigaku/index.html

井上省三像の隣りにあるモニュメント。特に説明がないので詳細は不明だが、当時の建造物の一部?かもしれない。
薄れかかった文字には以下の記載。

 明治12年(1879)この地に官営の千住製絨所が設立された。
 それまで輸入に頼っていた羊毛製品の国産化を意図して建てられたもので、初代所長 にはドイツで毛織物の技術を学んだ 井上省三(1845〜1886) を迎え、ここに日本の羊毛 工業が始まった。
 昭和20年操業が停止するまでの70年間、大規模な毛織物の製造が行われ日本の羊毛工 業の発展に寄与した。
 地域の人々から「ラシャ場」と呼ばれた赤煉瓦洋風建築のこの工場は、荒川区が近代 工業地帯として発展するきっかけとなった。


井上省三君碑

さらに隣には、井上省三を讃える碑も建立されていた。

井上省三君碑
 この碑は、官営国場千住製絨所初代所長・井上省三の功績を後世に伝えるものである。
 井上省三は、長州(現山口県)出身で、木戸孝允に従って上京、後にドイツに留学し毛織物の技術を修得した。明治十二年(1879)の千住製絨所の開業、日本羊毛工業の発展に尽力したが、明治十九年(1886)に42歳の若さで死去。明治二十一年(1888)に制絨所の職員・職工の有志が、井上省三の偉業をしのびこの碑を建立した。
 上部の題字と撰文は、井上省三と同郷で、交遊のあった、後の外務大臣青木周蔵と東京農林学校(後の東大農学部)教授松野礀による。
  荒川区教育委員会

井上省三君碑の扁額は青木周蔵の書。

https://goo.gl/maps/oZ95YzKkdFdRbAZ59


位置関係

国土交通省国土地理院航空写真
ファイル:8921-C3-35
昭和19年(1944)11月07日、日本陸軍撮影。

上記航空写真を一部加工。クリックで拡大可。

「千住製絨所」の北側、隅田川の対岸には「日本皮革株式会社の工場」があった。現在の「ニッピ」。

現在の様子。GoogleMap航空写真より。


千住製絨所のレンガ壁(都立荒川工業高校)

井上省三の碑からそのまま「若宮八幡通り」を道なりに北上をする。
右手に都立荒川工業高校の壁がみえてくる。この煉瓦壁が、当時の千住製絨所の壁でもあるのだ。

千住製絨所跡
 この付近一帯には、明治十二年(1879)に創業された官営の羊毛工場である千住製絨所があった。
 工場建設用地として強固な基盤を持ち、水利がよいことから、隅田川沿いの北豊島郡千住南組字西耕地(現南千住6-38〜40、45付近)が選定された。敷地面積8300余坪、建坪1769坪の広大なものであった。明治二十一年(1888)に陸軍省管轄となり、事業拡大とともに、現荒川スポーツセンターあたりまで敷地面積が拡張された。
 構内にも生産工場にとどまらず、研究施設や福利施設などが整備され、近代工場の中でも先進的なものであった。
 戦後民間に払い下げられ、昭和三十七年、敷地の一部は野球場「東京スタジアム」となり、人々に親しまれてきた。
 一部残る煉瓦塀が往時を偲ばせる。
  荒川区教育委員会

レンガ壁の途中に不自然なコンクリート。かつてこの場所に出入り口を作ったのであろうか。

この先もかつては壁が続いていた・・・


千住製絨所のレンガ壁(ライフ南千住店)

ライフ南千住店の駐輪場。その駐輪場の出入り口の脇に「レンガ壁」が残されていた。これも当時の千住製絨所の名残。

荒川区登録有形文化財(歴史資料)
旧千住製絨所煉瓦塀
 この煉瓦塀は、明治12年(1879)に創業を開始した官営工場、千住製絨所(せいじゅうしょ)の敷地を取り囲んでいた東側の塀です。塀の長さは北側9.9m、南側8.4mで、正門の袖柱の一部と、塀を保護するために設けられた車止めの一部が残っています。建設年代は、明治44年(1911)から大正3年(1914)頃と推定されます。
 千住製絨所は、ラシャ工場とも呼ばれ、殖産興業、富国強兵政策の一貫として軍服用絨(毛織物)の本格的な国産化のために設けられた施設です。軍服用絨を製造するだけでなく、民間工場に技術を伝授する役割も果たしていました。初代所長はドイツで毛織物の技術を学んだ井上省三です。荒川総合スポーツセンターの西側に井上省三の胸像が保存されています。
 当初の工場は、荒川(現隅田川)沿いに建設されましたが、次第に周辺の田園地帯を取り込んで拡張を重ね、大正時代には、敷地面積は3万2406坪になりました。千住間道を南限とし、現在の荒川総合スポーツセンター、南千住野球場、南千住警察署、都営住宅、都立荒川工業高校、東京都水道局東部第二支所などが旧敷地に該当します。
 千住製絨所の登場は、南千住地域に大きな影響を与えました。明治時代、汐入の二つの紡績工場(南千住8丁目)、石浜神社付近のガス会社(南千住3丁目)など大規模な工場が進出し、また隅田川貨物駅なども設置され、南千住は工業と商業の町へと変貌していきました。内務省、農商務省、陸軍省と所管が代わり、戦後、昭和24年(1949)には、大和毛織株式会社に払い下げられましたが、同36年(1961)に工場が閉鎖され、80年余りの羊毛工場の歴史に幕を閉じました。構内にあった工場の建物等は現存していないため、この煉瓦塀が千住製絨所に関する数少ない建造物であり、歴史的価値の高い文化財です。
 平成22年1月、この煉瓦塀は日本紙通商株式会社より荒川区教育委員会に寄贈され、株式会社ライフコーポレーションのご協力を得て、荒川区の近代化遺産として保存され、地域の歴史を刻んだモニュメントとして新たなスタートを切ることとなりました。保存に当たりご協力いただきました日本紙通商株式会社、株式会社ライフコーポレーションはじめ、関係各位に感謝申し上げます。
  平成22年10月 荒川区教育委員会

三段に飛び出した上部の造形が美しい。

煉瓦塀を保護するために設けられた車止めの一部

正門の袖柱の一部

正門の左側が現存部分とされる。

内側からも美しい造形。

https://goo.gl/maps/3FT5bBLf1vw4HCQa8


その他、荒川区界隈の記事。

八紘一宇碑と千住大橋

千住大橋の南側にひときわ大きな石碑が残されている。
「八紘一宇」の碑。同様の石碑の多くは戦後に撤去されてしまったが、交通の往来激しい千住大橋脇の石碑は、経緯は不詳であるが撤去されずに今日まで残されていた。歴史的経緯として貴重な石碑。

八紘一宇(はっこういちう)

日本書紀巻第三
神武天皇即位前紀己未年三月丁卯条の「令」
上則答乾霊授国之徳、下則弘皇孫養正之心。然後、兼六合以開都、掩八紘而為宇、不亦可乎
上は則ち乾霊の国を授けたまいし徳に答え、下は則ち皇孫の正を養うの心を弘め、然る後、六合を兼ねて以て都を開き、八紘を掩いて宇と為さん事、亦可からずや。

もともとは日本書紀の記述「掩八紘而為宇」を略した「八紘為宇」であった。その意味は「八紘(あめのした)をおおひて宇(いえ)となす」、すなわち「天下を一つの家のようにすること」の意であった。

昭和15年8月に、第二次近衛内閣(近衛文麿)が基本国策要綱で大東亜新秩序を掲げた際に「皇国の国是は八紘を一宇とする肇国の大精神に基づく」と述べたこの「八紘一宇」というフレーズが、この昭和15年の紀元二千六百年(神武紀元皇紀2600年)の大流行語となった。
あまりにも「八紘一宇」が」政治イデオロギー的なスローガンとなってしまていたために、戦後はGHQによって「八紘一宇」の用語は使用を禁じられてしまった。

神武天皇を祀る橿原神宮では、八紘一宇を、以下のように記している。

神武天皇の「八紘一宇」の御勅令の真の意味は、天地四方八方の果てにいたるまで、この地球上に生存する全ての民族が、あたかも一軒の家に住むように仲良く暮らすこと、つまり世界平和の理想を掲げたものなのです。昭和天皇が歌に「天地の神にぞいのる朝なぎの海のごとくに波たたぬ世を」とお詠みになっていますが、この御心も「八紘一宇」の精神であります。

橿原神宮 御神徳 http://www.kashiharajingu.or.jp/about/goshintoku.html

http://www.kashiharajingu.or.jp/about/goshintoku.html

八紘一宇の碑

八紘一宇
陸軍大将 林銑十郎書

建立は昭和15年11月10日、愛国婦人会荒川区分会南千住連合分区による。
紀元二千六百年記念行事の一環。
八紘一宇の揮毫は林銑十郎。

林銑十郎といえば、満州事変の際に、関東軍の要請を受けて独断で満州に進軍した朝鮮軍司令官。その後は陸軍大臣となり、内閣総理大臣にもなっている。広田弘毅内閣のあと、宇垣一成が組閣に失敗して内閣が流産した次が林銑十郎内閣であった。林内閣は当時としても異例の短命内閣で終わり、「史上最も無意味な内閣」「何もせんじゅうろう内閣」と呼ばれた。なお米内光政が海軍大臣として初入閣したのは林銑十郎内閣であった。
紀元二千六百年記念行事が行われた昭和15年の林銑十郎は内閣参議(内閣顧問)であった。


余談だが、千住大橋の北側(北千住)の千住神社境内には「八紘一宇の国旗掲揚塔」が残っている。建立は千住大橋のたもとの「八紘一宇の碑」と同じ時期。すなわち昭和15年の紀元二千六百年記念行事としての建立。全国各地でこの時期には同様の記念碑が建立されている。

八紘一宇の国旗掲揚台(千住神社)

紀元二千六百年記念
 昭和十五年十一月吉日建設
  千住宮元町會

北千住の千住神社には防空壕なども残っている。別記事にて。

八紘一宇は、上記の千住神社以外にも各所の神社で見かけることができる。

市谷亀岡八幡宮境内にも

築地の町中にも


位置関係

国土地理院航空写真
ファイル:8921-C3-35
1944年11月07日、陸軍撮影

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千住製絨所は別記事にて

千住大橋

竣工は昭和2年(1927)。関東大震災後の震災復興事業として東京都復興局が計画をし石川島造船所が施工。タイドアーチ橋としては日本最古、という。

千住大橋
 文禄三年(一五九四)、徳川家康が江戸に入った後、隅田川に初めて架けた橋。架橋工事は伊奈備前守忠次が奉行を務めたが、工事は困難を極めた。忠次が熊野神社(南千住六丁目)に祈願したところ、工事は成就し、以来橋の造営の度に残材で社殿の修理を行うことが慣例となったと伝えられる。また、この架橋を機に、江戸中期まで行われていた小塚原天王社(現素盞雄神社)天王祭の神事「千住大橋綱引」が始まったという。当初は今より、二〇〇メートル程上流に架けられた。単に「大橋」と呼ばれたが、下流にも架橋されると「千住大橋」と称されるようになったと伝えられている。
 千住大橋は、日光道中初宿、千住宿の南(荒川区)と北(足立区)とを結び、また、江戸の出入口として位置付けられ、多くの旅人が行き交った。旅を愛した松尾芭蕉もここから奥の細道へと旅立ち、真山青果の戯曲「将軍江戸を去る」では、最後の将軍徳川慶喜の水戸への旅立ちの舞台として表現されている。
 現在の鋼橋は、昭和二年(1927)、日本を代表する橋梁技術者増田淳の設計により架け替えられた。ブレースドリブ・タイドアーチ橋の現存する最古の例である。「大橋」のプレートは、四〇〇年にわたる千住大橋の歴史を伝えている。
 荒川区教育委員会

昭和2年12月竣工


千住界隈(南千住・北千住)の戦跡や近代史跡は他にも。

彰義隊の墓(円通寺・荒川区)

彰義隊の墓は上野公園にもある。その上野公園の彰義隊の墓は、上野山内に放置されていた遺体を「円通寺」の住職仏磨らによって茶毘に付され、そうして円通寺に埋葬したことに由縁する。

上野公園の彰義隊の墓は下記より。


彰義隊

慶応4年(1868)
1月
鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍は新政府軍に敗北。
江戸に帰還した渋沢成一郎が「彰義隊」を結成する。
 彰義隊頭取(隊長)   渋沢成一郎
 彰義隊副頭取(副隊長) 天野八郎

3月
西郷隆盛と勝海舟の会談により江戸城無血開城を決定。

4月
徳川慶喜が江戸を離れ水戸に謹慎。慶喜を警護すべく、渋沢成一郎は上野からの撤退を主張するも、天野八郎と意見が対立し、渋沢成一郎は彰義隊を脱退。天野八郎が彰義隊を率いる。(渋沢成一郎は振武軍を結成し、最終的には榎本武揚と合流し函館戦争を戦う)

5月15日
新政府軍は旧幕府軍・彰義隊の武力殲滅を目指し彰義隊に宣戦布告。
午前7時頃に戦闘が始まり、午後5時には新政府軍の勝利戦闘は終わった。

上野戦争で戦死し放置されていた多数の彰義隊士の遺体を当時の円通寺の住職仏麿和尚と寛永寺御用商人三河屋幸三郎・侠客新門辰五郎らが遺骸266体を集めて上野山内にて荼毘に附し円通寺に埋葬した。
現在、上野公園内と円通寺に彰義隊の墓があるゆえんである。

円通寺は明治時代において、旧幕府軍の法要可能な寺院として旧幕臣の信仰を集めることとなった。

彰義隊戦死者の墓

戦死墓

建立時、まだまだ彰義隊という名称を出すのを憚れる時勢であったため「戦死墓」とのみ記載されている。
明治37年5月15日に榎本武揚らの手によって建立。墓碑銘は榎本武揚書。

彰義隊士の墓
 慶応四年(一八六八)五月、寛永寺に集結した彰義隊は新政府との激戦の末、上野の山から敗走した。累々と横たわる隊士の遺体をみた円通寺の仏磨和尚は、官許を得て、寛永寺御用商人三河屋幸三郎とともに遺骸を火葬して円通寺に合葬した。
 これが縁となって、明治四十年、寛永寺の黒門が円通寺に移された。昭和六十年に修復工事が行われている。
荒川区教育委員会

死節之墓

彰義隊の供養に尽力した三河屋幸三郎が向島の別荘にて、鳥羽・伏見、会津、函館、戊辰戦争などで戦死した旧幕臣の戦死者を供養していたが、円通寺に移設し、彰義隊と合わせて供養することとなったという。


こうして円通寺は彰義隊の供養を行った寺であったために旧幕臣関連の信仰が篤く、旧幕臣ゆかりの人々の碑も多く建てられることとなった。

正二位勲一等男爵大鳥圭介君追弔碑

明治44年6月15日没。明治44年7月に有志によって建立。
大鳥圭介は旧幕臣としては歩兵奉行を務める。旧幕府内でフランス陸軍の指導を受けた西洋式軍隊であった「伝習隊」を率いて戊辰戦争に参加。榎本武揚と合流して函館政権の陸軍奉行。
明治維新後は政治家・外交官・教育者など各方面で活躍。明治44年6月15日没。

天野八郎墓

渋沢成一郎が抜けたあと、上野戦争の彰義隊を「頭取(隊長)」として率いたのが天野八郎であった。新政府軍に敗れ再起を図っていたが、囚われの身となり獄中5ヶ月で病死。享年38歳。

俗名 天野八郎

天野君八郎碑

扁額は榎本武揚書

新門辰五郎碑

新門辰五郎は町火消の頭であったが侠客として著名。娘は徳川慶喜の妾。慶喜の警備なども担当する。
彰義隊が戦った上野戦争では、既に71歳であったが寛永寺の防火と鎮火、延焼防止などを勤めるも、大村益次郎率いる申請軍軍の砲火により寛永寺の伽藍は焼失。
上野戦争終了後に円通寺の住職仏麿和尚と寛永寺御用商人三河屋幸三郎・侠客新門辰五郎らが遺骸266体を集めて上野山内にて荼毘に附し円通寺に埋葬した。墓所は豊島区の盛雲寺。

三幸翁之碑

寛永寺御用商人三河屋幸三郎。明治23年建立。

上野戦争終了後に円通寺の住職仏麿和尚と寛永寺御用商人三河屋幸三郎・侠客新門辰五郎らが遺骸266体を集めて上野山内にて荼毘に附し円通寺に埋葬した。

二十三世仏磨大和尚之墓

円通寺23世住職。
上野戦争終了後に円通寺の住職仏麿和尚と寛永寺御用商人三河屋幸三郎・侠客新門辰五郎らが遺骸266体を集めて上野山内にて荼毘に附し円通寺に埋葬した。

土肥庄次郎之碑

碑は榎本武揚書。
旧幕臣。彰義隊に参戦。上野戦争で壊滅後に榎本武揚艦隊に合流。咸臨丸に乗船するも暴風雨にて本隊とはぐれ清水港入港。函館戦争には参加できなかった。以後は幇間として活動し、明治36年死去。

碑は2つに割れてしまっていた。

土肥氏之墓

中田正廣之碑

碑は榎本武揚書。碑文は山岡鉄舟の長男である山岡直記。
旧幕臣。慶応4(1868)年3月に江戸開城に激怒し江戸を離れる。
幕府撤兵隊(上総義軍)に参加し木更津の戦いで戦死。享年33歳。

小芝長之助墓

旧幕臣。将軍家御庭番。蝦夷共和国探索役主任、箱館市中取締頭取格。
土方歳三戦死に際しては遺骸を引き取る役目を担った。
晩年は円通寺の墓守として旧幕臣を見守り続けた。
大正5年死去。享年88歳。

佐久間貞一君記念之松

旧幕臣。彰義隊に参加するも徳川慶喜の水戸蟄居に同行したために上野戦争には参加しなかった。
明治期には財界で活躍し大日本印刷の前身となる秀英舎を創業。
「日本のロバート・オウエン」とも称された。
碑は明治33年5月13日建立。

町野五八君追弔碑

堀覚之助の名で箱館戦争に参戦。大鳥圭介・土方歳三らの下で蝦夷共和国陸軍奉行添役を勤める。大正 5年3月8日に没。碑は 5月に建立。

澤太郎左衛門君記念之松

旧幕臣。蝦夷共和国開拓奉行。
長男は、海軍造兵総監・技術中将の澤鑑之丞。
明治期には海軍教官を勤める。明治31年死去、享年65歳。
日本海軍初の海上砲の操砲訓練を行ったのが澤太郎左衛門という。
また、澤太郎左衛門が輸入発注手配した圧磨機圧輪が板橋火薬製造所で使用され、加賀西公園に「圧磨機圧輪記念碑」として残さている。

相馬翁輔君之碑

彰義隊隊士。一橋相馬家。結城戦争で戦死。
墓所は相馬家の菩提寺・牛込松源寺。

佐野豊三郎君之墓

旧幕臣。彰義隊士。
上野戦争で敗走後、箱館に渡る。
函館市中での借金トラブルから、明治元年12月27日に切腹。
佐野の介錯をした鷹羽玄道らによって明治 29年 6月に建立

松平太郎君之墓

旧幕臣。陸軍奉行並。陸軍総裁であった勝海舟の下で旧幕府軍をまとめる立場であったが、大鳥圭介や榎本武揚と合流。蝦夷共和国副総裁。
明治期は不遇であった。明治42年5月24日死去。享年71歳。

永井尚志君 永井岩之丞君 追弔碑

永井尚志は旧幕臣旗本。京都町奉行。大目付。戊辰戦争では榎本武揚と行動をともにし、蝦夷共和国の箱館奉行。
明治24年7月1日死去、享年76歳。
永井岩之丞は永井尚志の養子。養父とともに函館戦争に参加。明治期は裁判官として活躍。明治40年5月25日死去、享年63歳。三島由紀夫の曾祖父にあたる。

彰義隊八番隊長木下福治郎
彰義隊遊撃隊長鷹羽玄道追悼碑

木下福治郎・鷹羽玄道(上原仙之助)は兄弟。
上野戦争のち、榎本武揚と合流し、函館で彰義隊メンバーを取りまとめる。
木下は明治13年に42歳で没し、弟の鷹羽は明治44年に69歳で没している。
追悼碑は鷹羽が亡くなった年に、娘・登宇によって建立。

樵村丸毛君碑

旧幕臣、彰義隊隊士。丸毛利恒。
上野戦争敗走後は榎本武揚と合流し函館戦争に参加。
明治期は横浜税関などに勤務。明治38年8月6日死去、享年55歳。
扁額は榎本武揚書。

合同舩

彰義隊士八人合同慰霊碑。
山田八郎(遊軍隊組頭のちの十六番隊組頭)
松本義房(第三青隊隊長のち三番態組頭)
大塚嘉久治(第二白隊隊長のち頭取並・大塚霍之丞)
小林一知(旧幕府軍最後の咸臨丸艦長)
西村賢八郎(十八番隊組頭)
前野利正(第一赤隊伍長)
羽山寛一
百井求之助(会計係)

彰義隊後藤鉄次郎追吊碑

旧幕臣、御書院番。
彰義隊に入隊し、慶応 4年 5月 15日の上野戦争にて上野山王台で戦死。
実弟の後藤鉄郎が建立。

旧幕府徳川之臣御書院番
彰義隊後藤鉄次郎追吊碑
戊辰五月十五日於上野山王台戦死

大澤常正の句碑

さがるほど 見あげる人や ふぢの花

大澤常正は彰義隊士の世話人を務めた弁護士。
諸霊追悼のため、明治四十三年5月15日建立。

荒井郁之助君追弔碑

旧幕臣。蝦夷共和国海軍奉行。
明治期には官僚となり、初代中央気象台長。ちなみに二代目が旧幕府軍最後の咸臨丸艦長であった小林一知。
明治42年7月19日死去。享年73歳。

高松凌雲君追弔碑

一橋家の専属医師であったが、慶喜が将軍となると幕府奥詰医師として登用。
榎本武揚に合流し、箱館戦争には医師として参戦。箱館病院院長。
箱館病院院長として敵味方問わず戦傷者を治療。日本ではじめての赤十字活動とされている。
明治新政府の評価も高かったが、新政府の誘いを断り民間の町医者として活動。
大正5年10月12日死去、享年79歳。墓所は谷中墓地。

正二位勲一等子爵榎本公追弔碑

旧幕臣。幕府海軍指揮官。蝦夷共和国総裁。
函館戦争敗北後に明治政府に任官。逓信大臣・文部大臣・外務大臣・農商務大臣を歴任。東京農業大学の前身を創立などもしている。
明治41年10月26日死去、享年72歳。

良馬之碑

扁額は立花種恭(陸奥国下手渡藩主・貴族院議員)
三池立花藩の流れをくむ立花種恭は、旧幕府では外国奉行・老中格の会計総裁などを努めた。

戊辰戦争の際に彰義隊に下された名馬「八重垣」
犠牲になった名馬の霊も祀る。
明治32年建立。

有縁諸霊之碑

彰義隊隊士の霊を祀る。大正9年4月15日建立。


円通寺には、上野戦争での激戦地であった移築された「黒門」の奥に、旧幕臣ゆかりの墓や追悼碑が所狭しと集まっている。


上野の黒門

上野戦争で彰義隊と新政府軍が激戦を繰り広げた黒門が円通寺に移築されている。彰義隊供養のゆかりゆえであった。

荒川区指定 有形文化財・歴史資料
旧上野の黒門
 この黒門は、元、上野山内にあった。寛永寺の八門のうちで表門にあたる。慶応四年(一八六八)五月十五日に旧幕臣の彰義隊と新政府軍が戦った上野戦争では、黒門前でも激しい攻防が繰り広げられた。無数の弾痕が往時の激戦を今に伝えている。戦いの後、埋葬されずにいた多数の彰義隊士の遺体を、当時の円通寺住持だった仏磨和尚と神田旅籠町の商人三河屋幸三郎が火葬した。以来、円通寺は旧幕府方の戦死者供養の拠点となった。その機縁で、黒門が明治四十年(一九〇七)に帝室博物館より円通寺に下賜された。

今も残る黒門には、銃痕が多数残されている。


円通寺

東京都荒川区南千住鎮座。曹洞宗寺院。
伝承によると坂上田村麻呂によって建立という。

八幡太郎義家が供養のために築いた、小塚原の地名のもととなった「四十八首塚」。


磯部浅一墓(二・二六事件)

南千住回向院(小塚原回向院)
慶安4年(1651)に小塚原刑場での刑死者を供養するために建立された南千住の回向院。
安政の大獄で刑死した橋本左内・吉田松陰・頼三樹三郎の墓や、蘭学者杉田玄白・中川淳庵・前野良沢らが刑死者の解剖に立ち合った記念碑(解体新書)などど共に、昭和に歴史を刻んだ人物もこの地に葬られている。

磯部浅一

明治38年1905年(明治38年)4月1日 – (昭和12年(1937年)8月19日
広島陸軍幼年学校、陸軍士官学校(38期)卒業。
陸軍歩兵中尉に進級した後に、昭和7年(1932)6月に経理部への転科を志願し陸軍経理学校に入校。翌年昭和8年5月に陸軍経理学校を卒業し主計に転科。
陸軍二等主計(中尉相当)に任官し、昭和9年8月に陸軍一等主計(大尉相当)に進級。野砲兵第1連隊附となる。

昭和9年11月20日に発覚した「陸軍士官学校事件(十一月事件、十一月二十日事件)」にて、磯部浅一、村中孝次ら皇道派青年将校が逮捕される。
磯部浅一、村中孝次は軍法会議の結果、停職。停職中に「粛軍に関する意見書」を配布し免官。

昭和11年(1936年)の二・二六事件では、磯部浅一は栗原安秀らとともに計画・指揮を担当。磯部浅一は陸軍大臣官邸で統制派の片倉衷を銃撃。(片倉衷は一命を取りとめた。)

二・二六事件後の軍法会議で死刑宣告。磯部と村中の二名は北一輝、西田税の裁判の都合上、昭和11年7月12日に処刑された他の死刑囚とは切り離され、昭和12年8月19日に北、西田、村中とともに銃殺刑に処された。享年33歳であった。

昭和維新を目指した青年将校たちの夢はこうして果てた。

辞世の句
 国民よ 国をおもひて 狂となり 痴となるほどに 国を愛せよ

磯部登美子夫人はその後、結核を病み、昭和16年3月13日に病没した。享年28歳。二人の間に子供はいなかった。

磯部浅一墓

磯部浅一 之墓
妻登美子 

浅一  昭和十二年八月十九日歿
    行年三十三歳
登美子 昭和十六年三月十三日歿
    行年二十八歳

歴史的な良し悪しは、ここでは触れない。
ただただ、真摯に手を合わせる。
合掌

以下、本記事の趣旨とは外れてしまうので、簡単に。

豊国山回向院
(南千住回向院・小塚原回向院)

小塚原刑場

観臓記念碑

解体新書の絵扉をかたどった「観臓記念碑」
もともとは大正11年(1922年)建立。
昭和20年2月25日の空襲で被災したため、昭和34年に解体新書の絵扉部分の浮彫青銅板部分を移設。

境内には歴史上の著名人の墓も多い。

橋本左内墓(橋本景岳墓)

吉田松陰墓(松蔭二十一回猛士墓)

頼三樹三郎墓(鴨崖墓)

鼠小僧の墓
片岡直次郎の墓
高橋お伝の墓
腕の喜三郎の墓

意外なところでは、

カール・ゴッチ墓

プロレスの神様

Never lie , never cheat , never quit. 
技術と精神は常に一緒だ 
決して嘘をつくな 決してごまかすな そして 決して放棄するな

ほかにも当地には、桜田門外の変を決行した元水戸浪士達の総指揮者であった関鉄之介の墓なども。


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