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海自 下総航空基地開設64周年記念行事・その2

藤ヶ谷陸軍飛行場跡に、現在は海上自衛隊下総航空基地が展開している。
2023年10月21日に、記念行事で一般開放があったので、足を運んでみた。

本記事は、「その2」となります。
「その1」は下記より。


救難飛行艇「US-2」

うおおお、実は、生で初めて見ました。
「US-2」
二式大艇のDNAを受け継ぐ名飛行艇!!

この娘にあえただけで、感無量だったりします。
華麗で優雅な佇まいに惚れ惚れしてます。ずっと、US-2のまわりをぐるぐるとしていても、飽きないです。

US-2
新明和工業が開発した、飛行艇。
その新明和工業の全身は、川西航空機。

2003年に撮影していた、二式大艇を。


輸送機「C-130R」

海自版のC130ですね。薄い青灰単色が、良い装い。


練習機「T-5」展示飛行

練習機ではありが、海上自衛隊では唯一、曲技飛行が可能な機体でもある「T-5」。
下総航空基地での展示飛行では、海自の曲芸飛行隊「ホワイトアローズ」(小月教育航空群第201教育航空隊)が2機編隊で見事な飛行を見せてくれた。


哨戒機「P-3C」

会場では、P-3Cがタッチアンドゴーを延々と披露してくれていた。何回繰り返したか数えても忘れるほどに、延々と。

格納庫にもP-3C


航法訓練練習機「TC-90」

徳島教育航空群第202教育航空隊


陸自輸送ヘリ「CH-47J」(チヌーク)

あら、ここにも出張していました。

内部公開で、さほどに並ばずにはいれたのはラッキー

チヌークの向こうを飛ぶ、P-3C哨戒機。


ミニP-3C演技展示

ちょっとした寸劇。


そのほか

海上自衛隊東京音楽隊

格納庫

下総航空基地は、けっこう穴場かも。そんなに混んでなくて、なんかのんびりできました。

また来ようっと。

撮影:2023年10月21日


関連

海自 下総航空基地開設64周年記念行事・その1

藤ヶ谷陸軍飛行場跡に、現在は海上自衛隊下総航空基地が展開している。
2023年10月21日に、記念行事で一般開放があったので、足を運んでみた。

本記事は、その1となります。
その2は下記にて。

写真は、T-5展示飛行(やっぱりその2にて、、、)


藤ヶ谷陸軍飛行場
(海自下総航空基地)

藤ヶ谷の地名は、現在の柏市藤ケ谷。敷地としては、北の柏市と南の鎌ケ谷市にまたがっている。

もともと当地は、東洋一の規模を誇っていたゴルフ場であった「武蔵カンツリー倶楽部」の「藤ヶ谷コース」であった。ゴルフ場としては、昭和4年(1929年)に開発された。
「武蔵カンツリー倶楽部」 は、隣接する「六実リンクス18ホール」に「鎌ヶ谷コース18ホール」を有し、日本初の36ホールのゴルフ場であった。

「武蔵カンツリー倶楽部」は、昭和19年(1944年)に本土防空のための飛行場化のために、帝国陸軍に土地が接収され陸軍用地となったたことでゴルフ場は閉鎖され解散。

昭和20年4月、「藤ヶ谷陸軍飛行場」が完成。6月に飛行第53戦隊が、松戸陸軍飛行場から移動。
昭和20年8月、終戦により、アメリカ陸軍航空軍の白井基地としてGHQに接収。
その後、海上自衛隊と米軍による日米共同飛行場時代を経て、現在は「海上自衛隊下総航空基地」となっている。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M380-62
昭和22年(1947年)7月24日、米軍撮影の航空写真を一部加工。

現在の様子。GoogleMapより。


管制塔(海自下総航空基地)

まずは管制塔に行ってみます。

下総運航隊

下総運航隊のゆるキャラ。こいつは格納庫にいました。
あと、自転車ベースっぽいミニPも。

タワりん
うまれたところ:しもふさきちたいかんせいとう
うまれたひ:2023.10.20
レーダーのようせい
とくぎ:ミニPかんせい
すきなたべもの」:レーダー波(は)
なやみごと:ミニPかんせいがいうことをきかない
しんちょう:たぶんりんご30こぶん
たいじゅう:ひみつ♡

基地案内とイベントスケジュール

管制塔。8階の展望回廊。もうひとつ上の9階が管制室。

南側

南西

西

西

西

北西

北、筑波山

北東

南東

下総基地歴史ツアー

千葉県柏市にある、ここ海上自衛隊下総航空基地はもともと・・・

ゴルフ場でした!!!

1932年(昭和7年)~1945年(昭和20年)
当時は「武蔵野カントリークラブ藤ヶ谷コース」という名のゴルフ場でした。     

1945年(昭和20年)4月
第二次世界大戦の最中、帝都防衛※のため
(※帝都=東京)
ゴルフ場は急遽
「陸軍藤ヶ谷飛行場」に変わりました。

1945年(昭和20年)9月、第二次世界大戦後に陸軍藤ヶ谷飛行場は、
「米第5空軍基地」となり、
14年の間、アメリカが管理する基地でした。

1959年(昭和34年)10月
基地内の一部に
海上自衛隊の航空機整備の学校として、
「白井術科教育隊」が誕生し、
  ※1961年~現 第産3術科学校
米空軍と基地の共同使用を開始しました。

翌年1960年(昭和35年)6月
基地から米空軍が撤退し、全面返還され、
海上自衛隊の基地として運用する準備が次々に進みました。

1962年(昭和37年)には
滑走路及び管制塔などの建設が終わり、
航空機としての機能を確立していきます。
それまで白井基地という名称でしたが、
新たに「下総基地」という名称に変わりました。

管制塔の大きさ
高さ38メートル。

「戦艦大和」と「下総基地・管制塔」の大きさ比較。

管制塔の見学記念。
最近、はやりの御朱印タイプ。

こちらをいただきました。


第三術科学校史料室

まずは、史料室に。

下総基地史跡MAP

全部、まわりたいけど、、、立ち入り禁止区域にあるし。

雄魂の碑(立入禁止区域)

九一式改二型航空魚雷(立入禁止区域)
見たかった、、、

戦艦比叡の錨(立入禁止区域)
すごく見たかった、、、

これは横須賀にお引越し。
40糎被帽徹甲弾

藤ヶ谷飛行場概説。
かなり詳しくて、わかりやすい。

藤ヶ谷飛行場関連遺構(その1)

これですね。

藤ヶ谷飛行場関連遺構(その2)

これですね。

陸軍飛行第53戦隊の帝都防空戦

第3震天制空隊(特別攻撃隊)

陸軍飛行第53戦隊
二式複座戦闘機(キ45改)「屠龍」
キ46三型改「防空戦闘機(武装司偵)」(百式司令部偵察機に上向き銃装備)

「B29」VS「屠龍」の諸元対比

B‐29夜間迎撃戦概要

B-29に対する前方攻撃(推定)

藤ヶ谷飛行場への連合軍進駐

下総基地に関連する戦闘機、など

南方部隊航空部隊第一空襲部隊、第二空襲部隊に対する連合艦隊司令長官山本五十六の感状。開戦時のフィリピン航空戦。

左上の賞状は、呉鎮守府長官時代の嶋田繁太郎によるもの。

となりの安全啓発室。

海自の事故を踏まえた安全啓発室。

弔いの記録。
繰り返さないよう、安全への啓発へと。


下総厚生センター史料室

史料室が、もうひとつある。

日本海軍関連。
海自創設時は、教科書に日本海軍で使用されていた教育資料を礎としていた。

整備魂

YS-11のコクピット。


野外展示機(海自下総航空基地)

SNB型航空機

SNJ型航空機

V-107A型航空機

B-65型航空機


海自下総航空基地

庁舎

格納庫

そういえば、(敷地外の)どこかが火事だったようです。

飛行機の展示は、「その2」で。

※撮影:2023年10月21日


関連

横浜海上保安部・巡視船「PLH03 さがみ」一般公開(2023年11月)

横浜ハンマーヘッド開業4周年として、横浜ハンマーヘッド9号岸壁で、横浜海上保安部 巡視船「さがみ」の一般公開が実施されましたので、2023年11月3日に行ってみました。

青と白が美しい空間。以下、写真中心で。


PLH03巡視船さがみ

海上保安庁のヘリコプター1機搭載型巡視船。つがる型巡視船の2番船。
1979年10月18日の竣工(2023年時点で船齢は44年)。
旧船名は「おおすみ」。みやこ型巡視船の2番船が「おおすみ」と命名されたことに伴い、2022年2月1日に「さがみ」と改名された。

ハンマーヘッドの向こうにPL31「いず」が停泊。

船橋

休憩室

シコルスキー S-76D
MH912
るりかけす

いただきもの。


産業遺産「ハンマーヘッドクレーン」

1914年(大正3年)に建造されたイギリス製の50tジャイアント・カンチレバークレーン。
日本に3基(他は長崎県長崎市および佐世保市に稼働状態で現存)、世界でも17基しか存在しない貴重な産業遺産。
2007年に近代化産業遺産(経済産業省)に認定。
さらに2018年には土木学会選奨土木遺産にも認定。

※撮影:2023年11月


日本で現存する最古の跳上橋「名古屋港跳上橋」

名古屋港に跳ね上げ橋が残っている。
ちょっと見学に行ってみました。


名古屋港跳上橋
(旧1・2号地間運河可動橋)

昭和2年(1927年)に架設された名古屋港跳上橋。
堀川と中川とを連絡する運河の堀川口に架けられた鉄道可動橋。
設計製作は、可動橋の第一人者である山本卯太郎。
国登録有形文化財。
経済産業省認定近代化産業遺産。
土木学会選奨土木遺産。

鉄道廃線後、1987年(昭和62年)より、桁を上げた状態で保存されている。
日本では現存する最古の跳上橋という。

稲荷橋からの遠望。

近づいてみます。

なかなかの光景

小雨が降る中でしたが、足を運んでみたかいがありました。良いものが見れました。

場所

https://maps.app.goo.gl/fAkbpuZmUm9jfKFq6

参照

https://www.city.nagoya.jp/minato/page/0000043966.html

https://www.port-of-nagoya.jp/shokai/kohoshiryo/1001070.html

https://www.pref.aichi.jp/kyoiku/bunka/bunkazainavi/yukei/kenzoubutu/kunitouroku/1039.html

※撮影:2023年3月


「戦前最初で最後の国際的博覧会」名古屋汎太平洋平和博覧会と平和橋

愛知県名古屋市港区にある陸橋。地図を見ていてなんとなく目にとまったところから調べてみたら、興味深い歴史を有していたので足を運んでみました。


名古屋汎太平洋平和博覧会と平和橋

名古屋市が人口100万人を突破し、名古屋開港30周年を迎え、太平洋の平和と発展に寄与することを目的に、昭和12年(1937年)3月15日から78日間にわたって開催されたのが、「名古屋汎太平洋平和博覧会」であった。

平和博覧会は、名古屋市長(大岩勇夫)が中心となり、そして総裁は東久邇宮稔彦王(当時、陸軍中将)が就任した。
陸軍としては軍事拡大を目論んでいるさなかでの「平和を銘打った博覧会」は断固反対の立場であったが、名古屋に縁があり(平和派)皇族の陸軍中将が総裁では、軍も公式には反対できなかったという。

なお、この当時すでに昭和15年(1940)に東京と横浜で紀元2600年を記念した万国博覧会(紀元2600年記念日本万国博覧会・幻の東京万博)が計画されていたことから、それに配慮し「万国」ではなく「汎太平洋」という名称になったともいう。

名古屋汎太平洋平和博覧会
開催目的
 (1)広く内外産業文化の現状を紹介する
 (2)わが国の産業の振興と日本文化の宣伝を行なう
 (3)関係各国民の平和親善と共同の繁栄に資する
会期
 昭和12年3月15日~5月31日(78日間)
会場
 名古屋市南部臨港地帯の15万坪
出展国
 太平洋沿岸諸国および名古屋市との友好国全29カ国
出展物
 産業、社会、科学など
入場料
 大人=60銭
 子供=30銭
 軍人=30銭
入場者数
 約480万人

昭和前期の大規模な博覧会として、会場496.000平方メートルの敷地の中央を南北に貫通して東西会場に分割し、東会場は運河で3分割、会場の道路は大陸橋と地下道で結ばれた。

東会場には国内特設館14館と、海外より満州、中華民国、蘭領印度、ペルシャ、シャム、中南米などが参加した。
国内の保健衛生館で展示されたドイツから購入したプラスチック製の透明人間が人気を呼んだ。

西会場はメインの航空国防館で、非常時日本の威力を誇示し、国民の戦意高揚を図る展示をした。

「名古屋汎太平洋平和博覧会」会場の道路は幅80メートル、そこに噴水、花壇や緑地帯を配し、中央に高さ50メートルの大平和塔が聳え、そこから数条の道路が放射状につくられ、展示館、特設館や付属設備が建てられるという統制のとれた会場づくりであった。入場者は4.808.164人で、外国人も満州の2.819人を含め6.625人が入場した。

参照

https://www.nomurakougei.co.jp/expo/exposition/detail?e_code=1660

https://history.nagoya-cci.or.jp/shouwashoki/h12.html

「平和」を銘打った国際的博覧会ではあったが、博覧会終了の2ヶ月後には盧溝橋事件をきっかけとした「支那事変(日中戦争)」が勃発し、平和は程遠い状況下となってしまった。

名古屋汎太平洋平和博覧会と平和橋
我が国最初の国際的博覧会

 名古屋汎太平洋平和博覧会は、昭和12年、我が国最初の国際的博覧会として注目されました。
 会場は、現在の港北公園周辺50万平方メートルにおよび、国内の各都道府県や外国29か国が参加、会期78日間で総入場者数480万人にのぼる大規模なものでした。

 博覧会名にちなみ、平和の二文字をとって名付けられた平和橋は、港区内で博覧会の跡をとどめる唯一の建造物とされています。
 平成25年、市民に身近な歴史的建造物として「認定地域建造物資産」に認定されました。
  平成26年3月 名古屋市港区役所まちづくり推進室

平和橋
昭和12年港区で、名古屋汎太平洋平和博覧会(日本の産業の振興・文化の発展と高揚・関係国民との平和親善を図ることを目的とする)が開催され、解散期間78日間で、入場者約480万人に達した。
この博覧会のために、約13万円を投入しこの橋が建設された。その名を博覧会の「平和」の二字をとって名付けられ、博覧会の記念として残る唯一のものである。

昭和11年十一月竣工

「ピースあいち」のサイトに、名古屋汎太平洋平和博覧会画報の画像が掲載されている。

https://www.peace-aichi.com/piace_aichi/201809/vol_106-5.html

https://www.peace-aichi.com/piace_aichi/201810/vol_107-5.html

http://www.peace-aichi.com/pdf/20181021_hakurankai1937_2.pdf

※2023年3月撮影


名古屋陸軍墓地(万国戦没者墓地)

名古屋市の平和公園。
戦後、名古屋陸軍墓地は、平和公園墓地に改葬をされた。
名古屋においては、戦後の復興区画整理に際して、陸軍墓地のみではなく、市街地の寺院墓地も総じて新設された平和公園墓地に集約改葬を余儀なくされた。


平和公園

平和公園のご案内
 平和公園は名古屋市の東部に位置し、第二次世界大戦による戦災復興土地区画整理事業の一環として昭和22年5月に「都市計画墓園第1号東保円」として都市計画決定され、市内に点在する279寺の墓地18ha、189,030基の墓碑が集中移転され、墓地と公園が一体化した平和公園が生まれました。(以下略)

平和公園墓地 配置図
寺院ごとに墓地が区画されている。

平和公園バス停のすぐとなりの墓地。
バスは、星ケ丘駅と自由ケ丘駅を結んでいる。


「万国戦没者墓地」が、名古屋陸軍墓地となる。

場所

https://maps.app.goo.gl/cLnfwMSaoNgZVC4L8


名古屋陸軍墓地(万国戦没者墓地)

明治8年の陸軍省の通達により、翌明治9年に、名古屋陸軍墓地が現在の新出来公園に設置された。
戦後、名古屋市は戦災復興土地区画整理事業として市内各所に点在する墓地を移転集約し、墓地公園化を決定。
昭和31年に、陸軍墓地も移設され、万国戦没者墓地が新設された。

萬國英霊塔

昭和25(1950)年1月建立。
名古屋市戦災復興墓地整理委員会。

合掌

日清日露戦争をはじめとする合葬碑が並ぶ。

ドイツ人俘虜の墓地

ドイツ人名古屋俘虜収容所もあった。

ロシア人俘虜の墓地

墓地公園


愛知時計電機株式会社殉職者之墓

熱田大空襲で多大な犠牲者を出した愛知時計電機の殉職者之墓も平和公園墓園内にある。

場所

https://maps.app.goo.gl/wbjoAxgXnJgCyjLJ8


徳川宗春公の墓

尾張徳川家第7代、尾張藩主の徳川宗春公でさえ、改葬されるのが名古屋市戦災復興墓地整理。(もとは、建中寺にあった歴代藩主墓所)。
徳川宗春公の墓は、昭和20年(1945年)に名古屋市が空襲を受けた際、焼夷弾の直撃を受けて、墓石の一部が損傷している。
名古屋藩主代々の墓石は、修復が困難な鵜沼石が用いられており、しばらく損傷した状態であったが2010年に墓碑修復を実施している。

修復前

修復後。焼夷弾の焼け跡はそのまま残っている。

場所

https://maps.app.goo.gl/F1dvMjJJvHGUenvu6


平和公園散策

虹の塔

https://maps.app.goo.gl/gcoLfJFHS323PUvY9

平和堂

第二次世界大戦による多数の犠牲者を追悼し、人類の平和を祈念する趣旨で計画され、戦災復興事業墓地移転記念施設として昭和39年に完成。

https://maps.app.goo.gl/z5oVtdtLuEKZXBcZ6

※撮影:2023年10月


関連

「熱田大空襲の慰霊巡拝」愛知時計電機・愛知航空機(名古屋)

昭和20年6月9日、名古屋の熱田に集中的に空襲があった。

名古屋大空襲のひとつに数えられる「熱田空襲」。
そのターゲットは愛知時計電機と愛知航空機であった。


熱田空襲

昭和20年6月9日、名古屋市熱田区の愛知時計電機船方工場・愛知航空機(現愛知機械工業)工場周辺に米軍が実施をした空襲。
米軍の爆撃機編隊は通常の爆撃航路とは異なる航路で突如として名古屋を襲撃。日本軍は当初の航路から名古屋の空襲警報を解除しており、不意をつかれたことから被害が広がり、結果、愛知時計電機・愛知航空機工場で働いていた従業員や動員学徒約2万2000名のうち1045名が死亡、重軽傷者約3000名、周辺住民も数十人死亡した。(従業員や周辺住民あわせて約2000人が死亡、重軽傷者約2000名との説もある)
この空襲は、9時30分から40分にかけての約10分間の空襲であったという。

米軍は、「エンパイア作戦」として、複数の重工業地点を同時に襲撃し日本側の迎撃態勢を分散させる作戦を立案し、この6月9日は、兵庫県西宮市の川西航空機の鳴尾製作所、兵庫県明石市の川崎航空機の明石製作所、そして愛知県名古屋市熱田区の愛知時計電機、愛知航空機が爆撃をされたものであった。
そして、2トン爆弾が日本で最初に使われた日でもあった。


愛知時計電機と愛知航空機

もとは、機械式時計メーカーの一つ。現在の愛知時計電機株式会社は時計事業からは撤退しているが、歯車技術を応用して精密計測機器メーカーとなっている。
戦前の同社は、やはり時計製造による技術・資本蓄積によって派生した機械、電機、化学部門などを活かし軍用航空機やエンジン製造に携わっていた。

1893年(明治26年)に「愛知時計製造」として創立。
日露戦争時の1904年(明治37年)に陸海軍から砲弾の信管などを初めて受注。
1912年(明治45年)に「愛知時計電機」に社名を改称。引き続き機雷や魚雷発射管の製造の他、艦砲用の射撃盤(射撃データの機械式計算機)の国産化にも協力し海軍との関係が深かった。
また、航空用エンジンの生産も手がけ、大戦中は水冷エンジン「アツタ」の製造をしている。
大戦中の1943年(昭和18年)には航空機増産のために同社の航空機部門を独立させて「愛知航空機株式会社」(現在の愛知機械工業)を設立。
1944年(昭和19年)12月7日の東南海地震では機体組立の中心工場だった永徳工場の製造用治具が乱れ、以後の航空機生産に大きく影響した。
更に1945年(昭和20年)6月の空襲(熱田空襲)により主力の船方工場が大きな被害を受け、そのまま終戦を迎えた。

「愛知時計製造」及び「愛知航空機」の代表作
・九九式艦上爆撃機
・流星
・流星改
・零式水上偵察機
・瑞雲
・晴嵐
・九八式水上偵察機(夜偵)
・水冷式発動機「アツタ」
など。


慰霊地藏尊(愛知時計電機)

愛知時計電機の正門脇に鎮座する慰霊地蔵尊。

熱田空襲の犠牲者を慰霊。

三界萬靈

合掌

地藏尊建立縁起
過グル第二次世界大戦當時當愛知時計電機株式會社ニハ從業員並ニ動員學徒ヲ併セ二萬二千名就業セリ
時ニ昭和二十年六月九日午前九時三十分ヨリ同四十分ニ至ル約十分間ノ空襲ニヨリ忽チニシテ工場一帯ハ當社関係死者一一四五名重軽傷者三〇〇〇名更ニ地方人死者一〇〇〇名ノ一大修羅場ト化セリ
嗚呼惨シイカナ 茲ニ終戰後五年船方工場再建セラル丶ニ當リ同志相謀リ隨喜ノ寫經ヲ埋藏シ地藏尊一軆ヲ建立シ以テ右殉國諸靈魂ノ冥福ヲ祈ラル各靈位願クハ此ノ功徳ニヨリ佛果菩堤ヲ證得セラレンコトヲ
 昭和二十四年六月九日
  覺王山主
   勅賜襌師瓏仙記

場所

https://maps.app.goo.gl/6v6EeH3WfBR177AaA

愛知時計電機 正門

堀川沿いの新建屋


第二次大戦非戦闘員横死者諸霊之追善菩提

愛知時計電機株式会社本社の北側に。
熱田空襲の犠牲者を祀る。

爲第二次大戰非戰鬪員横死者諸靈之追善菩提

愛知時計電機関係者以外の犠牲者を祀る。
合掌

昭和二十年六月九日此の白鳥橋周邉に於て米軍爆撃により無量数百名の一般人名を失ひよつて将來の平和と安定を祈り被爆死者等の冥福を謹みて祈願するものである
 維時 昭和三十三年八月吉祥日
 發願 廣小路徳風會
 隨喜 一般有志者

場所

https://maps.app.goo.gl/KBidYm8HPBxebhAaA


熱田空襲の被爆堤防

以前の記事から抜粋。

堀川運河。
愛知時計電機のすぐ脇に保存されている戦跡。
そこには、 熱田空襲の爆撃痕を残す堤防が移築保存されている。

この護岸は、昭和八年に築造され、平成四年度から実施した「マイタウン・マイリバー整備事業」による新たな護岸の設置にあたり、撤去したものの一部である。
護岸表面にみられるくぼみは、昭和二十年六月九日のいわゆる「熱田空襲」の爆撃によりできたものである。
 平成八年三月 
  名古屋市

場所:

https://maps.app.goo.gl/V8NdRDpmjEDYfuHj9


殉職者之墓

平和公園墓地に、愛知時計電機株式会社の殉職者のお墓がある。

合掌

殉職者之墓
愛知時計電機株式会社
此の墓は、昭和20年6月9日に熱田大空襲を受け殉職された英霊を祀ったものである。

殉職者之墓

愛知時計電機株式会社

場所:平和公園墓地

https://maps.app.goo.gl/BymDWWKzzd3DxhMu7

撮影:2023年10月


関連

日本初のジェットエンジン「ネ20」(特殊攻撃機「橘花」)

2023年10月に開催された横須賀田浦の海上自衛隊第二術科学校オープンスクール。
企業展示コーナーが解説されており、なんと株式会社IHIのブースで「ネ20」が展示されておりました。


ネ20

日本で始めて実用段階に到達したターボジェットエンジン。
横須賀追浜にあった海軍航空技術廠(空技廠)が中心となって研究開発が行われた。
並行して試作されていた特殊攻撃機「橘花」へ搭載。
「ネ」は燃焼噴射推進器(燃焼ロケット)の頭文字の「ネ」。

空技廠と石川島重工業(現IHI)が軍民一丸となって開発。
1944年7月にドイツからもたらされたBMW 003の図面を基にしているが、図面の大部分と実物エンジンを搭載していた伊号29潜水艦は撃沈しているために、完全なコピーが出来ない状況での開発であった。
1946年6月にネ20は完成し、12基が試作され、4基が地上試験、1基が空中実験に用いられ、残りが橘花の飛行試験に充当。1945年8月までに約50基が量産されていたという。

ネ20は終戦とともに、東側諸国に対する秘密保持のために、連合国によりほとんどが破壊され、現在は3基が現存している。
そのうちの2基は米国にあり、1基が日本でIHIが「IHIそらの未来館」(通常非公開)で保管。


特殊攻撃機「橘花」

大日本帝国海軍が開発したジェット戦闘攻撃機(特殊攻撃機)。
日本初のジェット機。
ジェットエンジンを、空技廠と石川島重工業、機体を中島飛行機が開発製造した。
1945年8月7日に飛行試験を木更津飛行場で実施し初飛行するも、1週間後に終戦を迎えた。

※画像は、Wikipediaより
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Kikka_Orange_Blossom_Kikka-10.jpg


現存する国内唯一の「ネ20」ジェットエンジン

はじめて拝見しました。

企業展示コーナーにて

ネ20
IHIの航空宇宙事業の道をひらいた、日本初のジェットエンジン
第二次世界大戦中、海軍航空技術廠により開発された日本初のジェットエンジンである。”ネ”という呼称は「燃料ロケット」のネをとった。ドイツBMW-003A系の構造を参考に開発され、1945年七月に特殊戦闘機「橘花(きっか)に搭載、1945年8月に現・木更津航空基地で高度600m、12分間の初飛行に成功した。1944年12月、東京石川島造船所(現IHI)は5台の量産試作エンジンを受注し、翌年8月1日に横須賀海軍航空技術廠に納入した。IHIの航空宇宙事業は、ネ20から始まった。

Breakthrough Point
限られた物資の中のジェットエンジン開発
ネ20には、限られた物資を有効に使う技術が活かされていた。たとえば、耐熱材料が手に入らず、タービン部は入手困難なニッケルをマンガンに置き換えた鉄ベースの材料で代替した。化石燃料も枯渇していたため、松根油とアルコールを混合して使用した。

四方八方から見学する。

HISTORICAL TURBINE ENGINE
BUILT IN JAPAN
COURTESY OF
NORTHROP INSTITUTE
OF
TECHNOLOGY
INGLEWOOD CALLFORNIA

日本製の歴史的なタービンエンジン
戦後に、米国に鹵獲されたが、現在は、「永久無償貸与、返還要求なし」としてIHIが保管をしている。

米国の銘板、米国での試験時にとりつけられたものか?

貴重な技術遺産。良いものを拝見できました。

※撮影:2023年10月


関連(東京石川島造船所関連)

関連(中島飛行機関連)

靖國招魂碑(高遠城址公園)と伊那散策

長野県伊那市に行く機会があった。
伊那市の戦跡として著名なのは、別記事に掲載した「陸軍伊那飛行場跡」となるが、それ以外の近代史に関連した史跡などを散策してみた。


伊那市街地の看板建築群

上伊那地区の中心となる伊那の駅。
1912年(明治45年)開業。昭和27(1952)年3月改築。

伊那節と勘太郎の街。
どっちもよく知らないけど、信州を代表する民謡のひとつと、伊那の勘太郎は映画の侠客。

自動改札では無いです。

跨線橋は昭和51年(1976)

伊那北駅。1912年(明治45年)開業。
現在の駅舎は1991年(平成3年)。

伊那の町並み。
伊那市駅と伊那北駅は歩いて15分くらいの距離感。駅間距離は0.9キロ。商店街が連続している。

看板建築が残る。
伊那では大正8年に大火があり、そののちに看板建築が多数建設されたという。
これだけの看板建築が集中している空間は貴重。


伊那ローメン

ローメン誕生の地

戦後10年目の昭和30年8月に、伊那名物のローメンは誕生した。

ローメン誕生の地

まだ戦後の混乱と食料難が尾を引いていた昭和三十年 服部幸雄氏の協力を得て伊藤和弌氏の発案によってこの地にローメンが誕生した 冷蔵庫もない時代 日持ちをよくするため考え出された蒸し麺と 当時は食べる習慣のなかった羊肉を用いたローメンは 味と栄養を求める多くの 人々の支持を受けた やがて「飽食の時代」と言われるようになっても 大陸を思わせるその独特の味の人気は衰えるどころかさらに広がり 伊那市 伊那商工会議所の支援を受け またローメンを支える多くの人たちの努力によって伊那市を代表する味覚へと成長した 誕生から五十年を経て 今なお多くの人々に愛される「伊那の味」として愛好者が全国に広がりつつあるローメンのさらなる発展を祈りつつ ここに誕生の記憶を刻む
 平成十五年十一月二十五日
 伊那市長 小坂樫男 謹書
 寄贈 ローメンを愛する有志の会

ローメン発祥の店「萬里」

萬里 メニュー

伊那の名物ローメンのおいしい食べ方

ローメンのお話し

ローメンの誕生
 東京・横浜で修行をして故郷の伊那市に帰り、天竜川と並行して走る国道153号沿いに小さな店を出した青年(先代社長・伊藤和弌)は、毎日考えていることがありました。それは、まだ冷蔵庫が普及していない時代でしたので、仕入れた麺を翌日まで保存することができなかった事でした。
 試行錯誤していたそんなある日、麺を蒸してみることにしました。これが不思議に独特の風味と歯ごたえのある麺に仕上がり、日持ちもすることが解りました。当時伊那地方では羊毛産業が盛んで羊肉が安く仕入れることが出来たので、地場産のキャベツと共に蒸し煮する事にしました。シンプルな料理ですが、これがお客様に好評で、名前を「炒」チャー、「肉」ロー、「麺」メンと名付けました。後に「チャー」が取れて「ラーメン」と語呂が良い「ローメン」と呼ばれることになり現在に至っております。
「ローメン誕生」それは、昭和30年8月の暑い日でありました。

ローメン。
羊肉とキャベツなどの野菜をを炒め, 蒸した中華太麺を加えたもの。普通のラーメンとも焼きそばとも異なる「ソース味ベースのスープ焼きそば」のような食べ物。

一番人気の記載があった「豚頭」もいただく。


高遠城址公園

高遠駅。JRバスの駅。
かつて高遠電気軌道という鉄道を建設する計画があったが、未成線におわり、バス路線となっている。

土日の本数はかなり少ない。
伊那と高遠の往復は計画性が必要。

高遠城址の方向。

高遠城址公園

桜の季節以外は、静かな城址公園。

高遠城の戦い。織田信忠軍と仁科盛信軍(信玄の五男)。
武田氏の最後を飾る奮戦。

高遠閣

高遠町民の集会場及び観光客の休憩施設として建設された施設。木造2階建、鉄板葺、入母屋造の大規模な建造物。
昭和11年(1936年)

天下第一の桜
昭和9年

新城神社・藤原神社
仁科五郎盛信と藤原鎌足を祀る。

太鼓櫓

高遠城本丸跡

高遠公園碑

中村元恒・元起記念碑

南曲輪


靖國招魂碑(高遠城址)

明治30年(1897)建立。小松宮彰仁親王の揮毫。

靖國招魂碑
発起者 本郡各寺院

合掌

日清戦争1年後の明治30(1897)年1月18日に、明治維新後の戦没者および満蒙開拓人殉職者の慰霊を目的として、上伊那仏教会・上伊那尚武会が中心となり建設された碑。

終戦後、昭和23(1948)年4月ケリー将校が、高遠町役場へやって来た際に黒河内町長と面談した際にマッカーサーの命令として、「高遠城址公園内にある靖国招魂碑と、それに付属する一切の戦争遺産と思われるものを全部撤去」するように命令され、消失の危機を迎える。
慰霊碑を維持してきた高遠町の元軍人関係の人々により結成された高遠町八日会は、独断で裏側に大きな穴を掘って碑を埋める対応を実施。
6年後の昭和28(1953)年、日米講和条約が締結され、土中から招魂碑を掘り起こし、再建した。

忠骨蔵
 この招魂碑脇の忠骨蔵には日露戦争のとき上伊那郡から出征し戦死された256柱の貴い遺骨及び遺品が収められています。
 謹んで諸霊のご冥福をお祈りいたします。
 平成7年4月
 上伊那靖国招魂碑奉賛会 

28センチ榴弾砲を活用した忠骨蔵


撮影:2023年9月

陸軍伊那飛行場の跡地散策(熊谷陸軍飛行学校伊那分教所跡)

長野県伊那市。
のどかな信州の山間にも、戦前は陸軍の飛行場が設けられていた。
往時を物語るものが残されているので足を運んでみた。


旧陸軍 伊那飛行場について

第二格納庫跡に、伊那市によって詳細な案内板がセットされているので、以下に紹介をする。

旧陸軍 伊那飛行場について
旧陸軍伊那飛行場と格納庫

 ここは旧陸軍伊那飛行場の跡地です。
 昭和18年8月、この高台の広大な畑や林を軍が接収し、沢二つを埋め立てる大規模な工事が開始されました。同年11月には上伊那各地の住民に勤労奉仕の命令が出され、さらに翌春には、地元の旧制伊那中学校や上伊那農学校をはじめ南信の旧制中学校、旧制松本高校、長野師範学校などの学徒の勤労動員も行われました。軍や建設会社に所属した朝鮮人労働者にも過酷な作業が課せられました。昭和19(1944)年2月には、米軍の空襲をさけるため、この六道原に、埼玉県の「熊谷陸軍飛行学校」の「伊那分教場」が開設されました。
 伊那飛行場では、少年航空兵や見習士官などが、それぞれ3ヶ月の訓練を受けた後、戦地に配備され、特攻隊員となるものもありました。当時は、その飛行訓練のための赤い複葉飛行機(通称赤トンボ)や単葉飛行機(通称飛燕)などが終日伊那の空を飛び回っていました。そして、4回生まで送り出した後、昭和20年2月からは「各務原航空工廠」に所属し戦闘機作りの工場となりました。
 昭和20年8月の敗戦に伴い、米軍によって陸軍伊那飛行場は廃止されました。

・旧飛行場概要(右記の復元図参照)
伊那市六道原 標高650m~700m
南北約2km~2.5km 東西約0.6km~0.8km 総面積約150ha
・本部・兵舎・飛行機の格納庫・弾薬庫等建築物
・滑走路南北方向(芝植栽) 幅80m 長さ1,300m
・誘導路付掩体壕(飛行機を隠すところ)北の林の中に20ヶ所(航空写真)

旧伊那飛行場復元図


位置関係

案内板より

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-R198-10
1947年09月22日、米軍撮影の航空写真を一部文字入れ加工。
案内板と同じ航空写真ですね。

拡大。

赤いピンが案内板のある第二格納庫跡。


陸軍伊那飛行場跡地の散策。

第二格納庫の基礎が残っている。

建屋がある場所が格納庫の内部にあたる。

鉄筋がむき出し。

奥が滑走路の方向

格納庫の後ろ側。

滑走路あと。

滑走路跡にある「上の原公民館」に開拓碑がある。

開拓碑

昭和21年12月入植ㇱ此ノ地ヲ拓ク

前述の航空写真は昭和22年なので、開拓の1年後でもあり。

上の原公民館

この通りの奥に、本部があった。
何気ない道だけど、この直線が当時のメインストリート。

弾薬庫跡。一つだけ残っている。

弾薬庫跡を物置小屋に活用。個人宅なので、敷地外から。
場所は明記しませんが、前述の陸軍伊那飛行場の地図から、弾薬庫の場所を落とし込めば、だいたいの位置関係はわかるかと。

本部エリア周辺。

兵舎とかもこのあたりに。

本部はこのあたりかな。

真っ直ぐの道。
本部も兵舎も工場も格納庫も、この通りに接続していた。

このあたりに、陸軍伊那飛行場の営門があった、はず。

戦跡としては、第二格納庫の基礎と弾薬一棟を残すだけではあるが、伊那市によって整備されており、価値のあるものでした。

※撮影:2023年9月


関連

市ヶ谷台メモリアルゾーン(防衛省)

市ヶ谷の防衛省。
敷地内に、歴史的なメモリアルゾーンがある。

その様子は、以前にレポートしましたが、細部は見学コースに含まれておらず、で、

また、大本営地下壕が見学コースに含まれて以降は、時間の都合と思われるが、「メモリアルゾーン」への見学が、コースから、そもそも無くなっておりますが、、、

詳細は伏せますが、仕事の都合で、市ヶ谷の防衛省内に立ち入る機会があり、なおかつ時間的な制約もなく、比較的フリーで行動できたので、念願の「メモリアルゾーン」見学を実施することができました。以下、その模様を。


市ヶ谷台メモリアルゾーン

公務による殉職者の慰霊碑、殉職者慰霊碑をはじめ、市ヶ谷地区に点在していた記念碑・慰霊碑を集約整備した慰霊碑地区。

防衛庁本庁庁舎の市ヶ谷移転に伴い、1998(平成10)年、自衛隊員殉職者慰霊碑などを「メモリアルゾーン」として整理したが、地積が狭く儀仗隊を伴った式典などの実施が困難などの問題があり、平成14年度から同地区の整備を開始し、現在の「メモリアルゾーン」となった。

残念ながら、2023年現在、「市ヶ谷台ツアー」のコースには含まれていないので、見学難易度は高い。

場所

https://maps.app.goo.gl/wgxMjv6xSzGdPvfbA


自衛隊殉職者慰霊碑(殉職者慰霊碑)

昭和25年に警察予備隊が創設され、保安隊・警備隊を経て、自衛隊に至るまでの職務に殉じられた1934柱の御霊(霊璽簿・名簿)が祀られている。昭和37年建立。昭和55年に新たに整備。

富士山をかたどった慰霊碑。

現行法では、自衛隊員の殉職者は、靖國神社に合祀はできない。
そのため、公的には、このメモリアルゾーンにある「自衛隊殉職者慰霊碑」での慰霊するほかないという。防衛大臣主催の追悼式は毎年10月に実施されている。

合掌

建碑の辞
 昭和25年警察予備隊が創設され、爾来保安隊、警備隊を経て、今日、自衛隊は創立30周年を迎えたが、この間、隊員はわが国を取りまく諸情勢の変化に対応するとともに、国民の期待と信頼に応えるべく日夜精励し,祖国防衛の責務完遂に努めている。
 しかしながら、陸に海に空に任務遂行の志半ばにして不幸にもその職に殉ぜられた隊員諸君の英魂に思いをいたすとき、痛恨の念を新たにするものである。
 過くる昭和37年5月、この市ヶ谷台上に慰霊顕彰の碑を建立すると思に霊域を整え、その御霊を慰めて来たところであるが、すでに十有八年余の風雪を経た慰霊碑は、落剝甚だしいものがあった。
 たまたま自衛隊創立30周年を迎えるに当たり、ご遺族をはじめ隊員一同から新たに碑の整備を望む声が昂まり、ここに財団法人防衛弘済会事業として、全隊員の参画の下にこれを整備するとともに、さきに建立された碑の碑銘と建碑の辞を副碑としてとどめ、改めて諸君の不滅の英魂に対し、深甚なる哀悼の意を捧げるものである。
  昭和五十五年十月
  国務大臣 防衛庁長官 大村 譲治 

以下は、以前にもらっていたリーフレットの案内文を掲載。

自衛隊殉職者慰霊碑
 昭和25年、警察予備隊が創設され、保安隊・警備隊を経て、今日の自衛隊に至るまで、隊員は、国民の期待と信頼に応えるべく祖国防衛の責務完遂に努めてきた。加えて、国際平和協力活動など自衛隊の任務も多様化し、国際社会の平和と安全にも大きく貢献している。これは、隊員一人一人が自らの使命に、自信と誇りを持ち、全力をもって任務を果たしてきたからにほかならない。
 しかしながら、創設以来、陸に海に空に、訓練演習、災害派遣等に当たり旺盛な責任感で身の危険をも顧みず任務の完遂に努めた幾多の隊員が職務に殉ぜられ、その数は1900を超える。
 これらの御霊は、自衛谷あっては良き上司部下あるいは良き同僚として、また家庭にあっては最愛の伴侶、心温かい親あるいは頼もしい子として敬愛されていた方々であり、防衛省・自衛隊としては、このような掛け替えのない方々を失ったご遺族の心情や御霊のご遺志、ご偉業を片時も忘れることはない。
 自衛隊殉職者慰霊碑は、このような職務に殉ぜられた隊員の功績を永久に顕彰し、深甚なる敬意と哀悼の意を捧げるものである、昭和37年建立された。その後、風化による傷みが著しくなったことからご遺族の要望もあり、防衛弘済会共助事業費と全自衛隊隊員の拠金をもって新たに整備され、昭和55年10月15日に完成した。
 碑銘は鈴木首相の揮毫によるもので、中央の石は黒御影石で、左右の石は無垢白御影石で霊峰富士山を形どっている。前面には、副碑として旧慰霊碑の「池田首相の銘石」と「建碑の辞の碑銘」が一緒に備え付けられた。

 自衛隊殉職者慰霊碑には、歴代防衛大臣等の防衛省幹部の離着任時に欠かさず、また、外国要人からも献花が行われている。

 警察
呼びたい創設以来、職務に殉ぜられた方々の御遺族も御高齢になられたことを考慮し、御遺族が来訪の時には心安らかにご参拝ができるよう、また同僚・後輩諸氏が事故絶滅の誓いを新たにするに、より相合しい場所となるよう慰霊碑を移設し、メモリアルゾーンの整備を行った。


阿南惟幾 陸軍大臣陸軍大将荼毘之碑

敗戦の責任を感じ、三宅坂の官舎に於て自刃された阿南大将の遺体は高等官集会所に安置され、昭和20年8月15日夜、荼毘に付された碑を移設したもの。


杉山元帥・吉本大将 自決之跡の碑

終戦時、第一総軍司令官杉山元元帥(昭和20年9月12日)、軍令部付であった吉本貞一大将(昭和20年9月14日)は、敗戦の責任を感じて市ヶ谷台で自決。この地にあった碑を移設したもの。


赤玉石

阿南大将及び杉山元帥・吉本大将の外囲いが整備された際、寄贈されたものである。

この慰霊碑台座下の敷石は「卵石」と称し、国内はもとより外国からも輸入された化粧石であります。
 杉山・阿南・吉本・晴木・その他各烈士の慰霊碑に参拝の方々は、是非とも、一個を参拝紀念に、形・色合いを選んでお持ち帰り下さい。
 それが先士先人の事迹に思いをはせ後世に語り継ぐべき、よすがになれば幸いであります。
  市ヶ谷台慰霊会


雄健神社跡(陸軍士官学校神社・市ヶ谷台の地主神)

市ヶ谷台の雄健神社。
陸軍士官学校の神社として、雄健(おたけび)神社は、大正5年(1916)に創建され、陸軍士官学校19代校長、与倉喜平中将が「雄健」と選名。
天照大神、大国主命、経津主命、武甕槌之命、明治天皇、大食津神とともに陸軍士官学校出身将兵の戦病歿者の霊を合祀。

昭和16年(1941)、陸軍予科士官学校の移転にともない御神体が御神体は、朝霞に奉遷。
なお、市ヶ谷台の地主神として大食津神は、引き続きこの地に祀られていたが、占領軍の接収を防ぐために、祭神(大食津神神)を靖国神社へ奉遷。
平成14年(2002)に、メモリアル地区整備(記念碑等の集約)に伴い、現位置に移設。

記念碑(雄健神社跡)
沿革
大正5年
 第19代陸軍士官学校長であった余倉中将により天照大神、大国主命、経津主命、武甕槌之男神、明治大神、大食津神、陸軍士官学校戦病歿者英霊を合祀する目的で建立
昭和12年
 陸軍士官学校が陸軍士官学校と陸軍予科士官学校に分離し、陸軍士官学校は座間へ移転
昭和16年
 陸軍予科士官学校の朝霞への移転に伴い祭神(市ヶ谷台の地主である大食津神以外)を朝霞へ奉遷
昭和20年
 終戦後、占領軍の接収を防ぐため、祭神(大食津神神)を靖国神社へ奉遷
昭和35年
 市ヶ谷駐屯地発足の際、歴史的資料の一つとして保存
平成12年
 防衛庁本庁移転に伴い、祈念碑(雄健神社跡)として管理
平成14年
 メモリアル地区整備(記念碑等の集約)に伴い、現位置に移設され、今に至る

雄健神社跡の記
市ヶ谷台の雄健神社は大正五年に創建された
天照大神、大国主命、経津主命、武甕槌之命、明治天皇、大食津神とともに陸軍士官学校出身将兵の戦病歿者の霊を合祀し、日夜生徒の参拝するところであった
昭和十六年陸軍予科士官学校の移転にともない御神体は朝霞に奉遷された
戦後は長野県の大伴神社にお祀りしてあったが、昭和三七年六月靖国神社にお迎えして昇神の儀が執り行われた。
 陸士二十五期建之

市ヶ谷台から相武台に移転した「雄健神社」。
相武台の旧鎮座地(米軍座間キャンプ)には、雄健神社を偲ぶ鳥居が再建されている。


全陸軍航空部隊・陸軍航空本部・陸軍航空総監部碑
(全陸軍航空部隊碑・全陸軍航空奉賛同人会碑

全陸軍航空部隊、陸軍法空本部、陸軍航空総監部における戦没者、殉職者の英霊を祭祀した主碑と、その後方に「鎮」「魂」及び「追碑」の副碑がある。昭和52年この地に建立。

 全陸軍航空部隊戦没者の慰霊顕彰の碑。菅原道大による謹書。

全陸軍航空部隊 陸軍航空本部 陸軍航空総監部碑
 菅原 道大 書

揮毫をした菅原道大は、陸軍航空の第一人者。陸軍特攻の軍司令官でもあった。

全陸軍航空部隊碑

 この碑は陸軍航空を育成管轄した陸軍航空本部、陸軍航空総監部ならびに全陸軍航空部隊を後世に記念し、かつ終戦に際し責を負って自決された航空本部長熊本中将を始め創始以来陸軍航空に在籍し、国の内外において戦歿或は殉職された全英霊の偉勲を偲んで敬虔な追悼の誠を捧げ、もってわれら陸軍航空同人の心のふるさととしてその友誼を深め、永遠に世界の平和と日本の空の安泰を祈念するものである。
   昭和52年3月10日
    建立委員長 川嶋虎之輔 謹書

鎮・魂の副碑について
主碑後方の「鎮」「魂」の副碑には陸軍航空始まって以来の二千百余の部隊名が彫記されております。
 陸軍航空碑奉賛会


九九式十糎山砲

大日本帝国陸軍が1939年(昭和15年)に制式化した口径105mmの山砲。
昭和42年9月から戦史室前に展示されていたものを移設。


砲一碑

野砲兵第1聯隊及び野砲兵第101聯隊の記念碑。昭和44年この地に建立。

野砲兵第一聯隊
野砲兵第百一聯隊

 聯隊は市ヶ谷台国府台世田谷に駐屯 昭和11年北満州に警備に任じた。其間 西南の役 日清日露両戦役に従軍、支那事変には第101聯隊其他を編成して参戦 大東亜戦争には一部をグアム島に派遣 最後はレイテ島に追撃して玉砕 70有余年に亘る栄光の歴史を閉じた
 茲に同志相計り由緒深い此地に碑を建立し 聯隊歴史同志芳名録記念の品々を納めて永く後世に伝える
 昭和44年6月3日
  砲一碑建設有志一同 建立


陸軍士官学校趾

明治7年、明治天皇の御聖旨により学校設立。第31代陸軍士官学校長、山田乙三大将の揮毫(大正5年)による碑を移設した。

陸軍士官学校趾
陸軍大将 山田乙三 書

山田乙三陸軍大将は。最後の関東軍総司令官(兼任で在満州国特命全権大使)であった。


東京陸軍幼年学校之跡

明治30年、明治天皇の御聖旨により学校設立。
戸山ヶ原にあった碑を学校発祥の地市ヶ谷に移設した。

東京陸軍幼年学校之跡
陸軍大将 山田乙三 書


陸軍少佐晴氣誠慰霊碑

晴氣少佐は大本営陸軍部作戦班に勤務中、敗戦となりその責任を感じて、昭和20年8月17日の早朝にこの地で自決。

 少佐は太平洋正面の作戦を担当し戦勢の挽回に精魂を注ぎ万策を盡したが、戦局の赴く所、如何ともし難く遂に終戦に至る。少佐はその責を一身に帰し、此の地で自決した。
 高潔な人格と全戦役を通ずる輝かしい功績とは軍人の鑑である。


大本営陸軍参謀 晴気誠少佐(陸士44期 佐賀県出身)は、前大戦中、サイパン島陥落の責任を痛感し、昭和20年8月17日未明、この地に於いて同期親友の益田兼利少佐を介錯として自決された。
この碑は、参謀本部作戦課有志により、昭和40年8月に建立。更に高柳實氏の奉仕により平成5年8月16日石碑の台座を修復した。


大元帥陛下御立所

大元帥陛下( 昭和天皇)が士官候補生の馬術訓練を御見学された場所。


謎の建造物

これ、謎なんです。通風孔?


戦史室跡の碑

大東亜戦争に関する戦史叢書102巻が編纂された戦史室の跡地に置かれた碑を移設。
戦史叢書は、みんなお世話になりますよね。

この地で大東亜戦争に関する戦史叢書百二巻を編纂し その業績は防衛研修所戦史部に引き継がれた
 昭和五十四年十二月
  有志一同 建立


東京オリンピック支援集団司令部跡の碑

1964年(昭和39年)の東京オリンピックを支援するため自衛隊支援集団が編成され、司令部は当時の22号館が当てられた。司令部跡に置かれた碑を移設。


市ヶ谷駐屯地・基地記念碑

防衛庁市ヶ谷移転に際して、昭和45年当時の市ヶ谷駐屯地・基地及び芝浦分屯地に在駐していた部隊が刻まれている。昭和45年は、、、三島由紀夫、、、


改めて

メモリアルゾーンに深々と拝礼を。

以前に配布のあった、案内リーフレット。

メモリアルゾーン
 自衛隊殉職者慰霊碑、雄健神社跡、市谷台の各所に点在していた記念碑等を移設した市谷台の東側一帯の地域です。

詳細。

ちなみに、私はA棟(防衛中枢機関)とC棟(情報本部)以外の庁舎棟には立ち入り可でした。

なかなか、立ち入る機会がない場所なので、今回は、貴重な記録になりました。

※撮影:2023年

ドン山の大砲(新潟)

新潟県新潟市中央区。
日本海沿いに広がる新潟市内最大規模の海浜公園「西海岸公園」。
その公園に「ドン山」と呼ばれる小高い一角がある。
「ドン山」の名前の由来は、全国各地で作られた午砲台(正午の時報代わりに、空砲を打っていた場所・午砲山)と、そこに据えられていた大砲に由来し、いまもドン山の大砲が復元されている。

ドン山の大砲

ドン山の由来
 時計が現在のように普及していなかった明治、大正時代に、新潟では大砲で空砲をうち、人々に正午を知らせていました。
 これは、明治6年から大正13年までの52年間続きました。
 明治5年以前の新潟の人々は、現在の第四銀行本店のところにあった町内会所の中の和時計をもとに、2時間ごとに打ち鳴らす鐘を聞いて時を知りました。
 時計のなかった当時としては、明け六つの鐘、暮れ六つの鐘などと呼ばれ、人々にとって重要なものでした。
 明治6年、旧暦から新暦に改められたことを契機に、同年6月15日から寄居砂山(現在の旧新潟大学理学部跡)の白御影石を積んで木柵をめぐらした小高い丘の上に、六角形の白い番小屋と車輪のない大砲を据え付け、空砲をうって正午を知らせました。
 この大砲の音は、風向きによっては遠く新発田まで聞こえるほど大きな音であったため、新潟の人々はもちろん近郊の村々でも正午を知ることができ、重宝がられ、ドン山といわれて人々に親しまれていました。
 大正8年、この場所に新潟高等学校が建設されることになり、ドン山はやむなく二葉中学校のこの地に移転し、大正13年の午砲が廃止されるまで続きました。
 砲先は、はじめ市街地の方向に向けられていましたが、打つのドーンとものすごい音がしたため、新しく建てられた二葉中学校の勉強の支障となるということで、大正10年頃、海に向けられました。
 大正13年の新潟新聞によると、明治6年から明治38年まで車輪のない大砲を使用し、明治39年には、八木朋直氏の寄贈による車輪のある大砲に取り替えられ、廃止される大正13年まで使用されたということです。
 廃止後、その保存のため初代大砲は白山公園内に設置され、その後大円寺公園に移設されました。2代目大砲も大円寺公園に存置され、昭和18年頃まで保存されていましたが、両方とも戦争のため其の姿を消してしまいました。
 新潟市公園水辺課
 西土木事務所

大砲について
 このたびのドン山に据えられた大砲の復元は、確かな資料に乏しく、不明な点が多くありました。
 明治・大正時代の新聞・国会図書館・自衛隊武器学校での調査、郷土史家の意見などを参考といたしました。
 その結果、明治42年の雑誌「新潟交友」、大正13年の「新潟新聞」から、ドン山の情景、大砲の大きさ、大砲の打ち方などを把握することができました。
 大砲は、明治初期、陸軍で使用していたもので、前装式(弾薬を砲口から装填する)でり、当時、フランス製の大砲を模して国内で制作したと推測されました。
 さいわい、国立国会図書館で当時の「欧州諸国現用野山砲兵附図」を収集することができました。
 その中から、フランス製の大砲を基本として、ドン山をイメージ復元したものであります。

ドン山から望む日本海。

西海岸公園

場所

https://maps.app.goo.gl/Y9uwBxj7rLrXy7pH9

撮影:2023年10月


関連

新潟縣護國神社

明治時代の面影を残す「日光駅」(大正元年/1912年竣工)

日本有数の観光地である日光の玄関口。
鉄道黎明期のころから、日光に対する観光需要は高く、明治23年(1890)に、日光駅は早くも開業している。


JR日光駅

1912年(大正元年)8月25日に、現在の2代目駅舎が落成。(起工は同年4月9日)。
ネオ・ルネサンス様式のハーフティンバー様式木造洋風建築2階建て建造物。

関東の駅100選。選定理由は「明治時代の面影を残す白亜の木造建築の駅」。

日光駅貴賓室

貴賓室は非公開。

日光駅一等車利用者用待合室

平成元年(1989)に「ホワイトルーム」として再整備。多目的ホールとして活用されている。


日光線

なんとなく、常に混み合っているイメージの日光線。

9月の週末。10時すぎの日光駅。なかなかの賑わい。

※撮影:2023年9月


日光田母沢御用邸の防空壕跡

日光で、何するというわけでもないけど、時間があったので、せっかくなので御用邸に赴いてみた。


日光田母沢御用邸

https://www.park-tochigi.com/tamozawa/

元は皇太子時代の大正天皇の静養所として造営された旧御用邸の建物と庭園を公園として整備し一般公開されている。

明治期以降に数多く造られた御用邸建築のうち、全体がほぼ完存する唯一の例として貴重であり、建造物群は国の重要文化財に指定されている。

御用邸の創設は明治32年(1899年)で、病弱であった皇太子嘉仁親王(後の大正天皇)の夏の静養所として設けられたもの。
大正天皇即位後にも多くの部屋が増築され、東京赤坂東宮御所の江戸期の移築建築もあり、明治・大正の各時代の用途の異なる建築が混在している。


日光田母沢御用邸の防空壕

1944年(昭和19年)7月、東京への大空襲に備え、日光田母沢御用邸が、当時皇太子(学習院初等科5年生)であった第125代天皇明仁の疎開先となった。その時に、防空壕も設営されたものと思われれる。

内部の写真。

水没しているようだ。

防空壕の上部。

この下に防空壕がある。

もうひとつの入り口。
防空壕の入り口は2つあった。


日光田母沢御用邸見学

正門。

入り口。御用邸の車寄せ。

御玉突所

謁見所

御学問所の丸窓

中央の建物は御食堂

2階へ

後日拝所

剣璽の間

御寝室

3階の御展望室は期間限定公開。

御座所

御食堂

御湯殿

庭園から

3階建屋。

なんかのんびりできました、たまにはこういう文化的なものも良いですね。

場所

https://maps.app.goo.gl/dPNqQeTv6zXzxRBE7

※2023年9月撮影


関連

烏山防空監視哨

那須烏山市。
烏山城に連なる南の筑紫山の山頂に、防空監視の戦跡があったので足を運んでみました。


烏山防空監視哨

筑紫山の山頂に、コンクリートの円筒がある。

筑紫山についての看板。

烏山防空監視哨の案内は、山の麓にある。(山頂には無い)

那須烏山市の近代化遺産
烏山防空監視哨
分類:軍事/監視哨
所在地:那須烏山市筑紫山頂
建造年:不明(昭和16年以降)
構造形式:コンクリート造
昭和16年12月に「防空監視隊令」が公布され(勅令1136号)、これを基に「栃木県防空計画」が選定されました。この計画では、県内に3ヶ所の監視隊本部と防空監視哨43ヶ所・補助監視哨4ヶ所の設置が定められ、監視隊本部の一つ宇都宮監視隊本部には19ヶ所の監視哨が配置され、烏山は6番目に位置していました。烏山防空哨は、当初毘沙門山頂にあった従来の監視用施設を供用し、その後、筑紫山頂にコンクリートで建造されたものと思われます。ラッパ型円筒形で外径4.25m・内径2.76m・高さ1.5m、地元那珂川産の川砂・川砂利が使用され、また表面はセメントペーストで成形されています。このような戦争遺産は、平和学習の教材として評価・関心が高まっており、烏山防空監視哨はその先導的施設として貴重な遺産といれるでしょう。

豆知識
■哨員の構成と仕事
監視哨は哨長1名、副哨長3名および哨員24名で構成され、8名1組の3班で概ね3日交代で勤務していました。哨員の仕事は飛来する敵機の監視で、目視・聴覚で判別して本部に通報することでした。
■現存する防空監視哨
現在、各地にいくつかの防空監視哨が確認されており、その構造・形状も多様です。栃木県では設置されたとされる47ヶ所のうち烏山と粟野の2ヶ所が現存・確認されており、どちらもラッパ型円筒形をしています。

土木学会の選奨土木遺産の認定書。
栃木県の防空関連施設群として、掩体壕3基と監視哨2基が認定されている。

防空監視哨を見学。

内部にベンチのようなものがある。

はしごもあるので、内部に入ることもできる。

けっこう、怖い。内部にはいるのは、やめておく。

場所

https://maps.app.goo.gl/6xRkJi6jeBSk8Jvz9

筑紫山、遠望。

那須烏山市 烏山庁舎のとなりにある「八雲神社」から登山できる。

案内看板がある。

となりの空き地には、「彰徳碑」がある。

削られている。

筑紫山の登山道。

毘沙門天が祀られている。

八雲神社から、だいたい15分くらいで山頂に到着できる。

ちなみに、JR烏山駅からは、八雲神社まで、15分くらい。
わたしは、「どうくつ酒蔵」から歩いたんので、八雲神社まで20分くらい。けっこう歩きまくりました。


JR烏山線

烏山線、初めて乗りました。

烏山線は、蓄電池駆動電車が運用されている。
JRグループ初の「蓄電池動車」。リチウムイオン電池でウドいている電車。

烏山駅で、急速充電中。

地下工場跡を再利用した「どうくつ酒蔵」(東京動力機械製造地下工場跡・島崎酒造どうくつ酒蔵・烏山)

栃木県那須烏山市。
ここに、地下工場(地下壕)を再利用した酒蔵があるというので、足を運んでみた。


東京動力機械製造地下工場

第2次世界大戦末期に戦車を製造するために建造された地下工場跡。
昭和19年11月に民間企業であった東京動力機械製造株式会社の疎開が決定。戦車を製造していた軍需工場でもあった。
疎開先の烏山の山裾に半地下式工場が建造され、隣接して地下工場も造営。
半地下式工場では、終戦までに約20台の戦車が製造されたと言われている。しかし、この地下工場では戦車を製造することなく終戦を迎えている。
地下工場は、高さ幅ともに3.5mの3本の坑道とそれを結ぶ5本の横坑で構成され、総延長は600m。
人力だけで素掘りされた隧道群。

「東京動力機械製造株式会社地下工場跡」として土木学会選奨土木遺産に認定されている。
選奨理由「戦車製造の軍需工場として人力だけで建造された総延長600mの素掘り隧道群で、意匠・技術力を超越した迫力が感受される土木遺産である。」
また、那須烏山市の近代化遺産にも認定されている。


島崎酒造どうくつ酒蔵

「東力士」で知られる島崎酒造。
戦後に、東京動力機械製造地下工場を酒蔵として活用。通称「どうくつ酒蔵」。
2011年に、旧地下工場跡の洞窟を酒蔵化している。

https://azumarikishi.co.jp/tour/

場所

https://maps.app.goo.gl/AGRbgAH85ZRSxG7Q8


東京動力機械製造地下工場跡(どうくつ酒蔵)散策

土日祝日が開放日。

入口。

受付時に音声ガイドのタブレットが手渡されました。
なかなかハイテクですね。

音声自動ガイド。

まだまだ暑い9月の訪問でしたが、中は一気に温度が下がりました。
日本酒を貯蔵するのに最適されています。

どうくつ施設について
歴史
第二次大戦末期、1944~45年頃、戦車を製造するために作られた地下工場跡地です。
当時、400人程度の人の手が掘削作業にあたり、約1年半という短い期間で地下施設を完成させました。

どうくつの大きさ
約12,000㎡の山一つの地下に
縦穴 100m 3本
横穴  60m 5本
トンネル横幅 3~4.5m
トンネル高さ 3.5m~4m
トンネル延べ 600m

形状
上から眺めると格子状ですが、真横から見ると、3本の縦穴は入り口から奥の突き当りの非常口まで貫通しており、すべて上り勾配がついています。これは暖かい空気は上に上るといった現象を利用してどうくつ掘削作業、施設稼働時の酸欠の危険を防ぐ空気循環の考慮だと言われています。

どうくつ内温度
どうくつ内の温度は年間を通じ平均10℃前後、冬場は5℃、夏場は15℃前後になっており、お酒の熟成には最適の温度環境になっております。

周辺減光してますね、、、洞窟内なので撮影が難しい。。。

つきあたりに、観光地でよくある顔出しパネルが、、、

洞窟内では、テレビや映画の撮影や、音楽コンサート、イベントなども開催。

温度は、18℃くらいで、湿度は65%くらい。

オーナーズボトルの貯蔵。5年から20年ものあいだ、寝かせるという。

外が見える。

下に降りる階段がある。

下は、売店。日本酒が買える。

どうくつから外に出る。
温湿度差でカメラのレンズが一気に曇る。。。

土木学会選奨土木遺産

土木学会の認定証

烏山市の近代化遺産

https://www.city.nasukarasuyama.lg.jp/data/doc/1610777525_doc_6_0.pdf

どうくつの酒場で購入しました。
「東力士純米吟醸 どうくつ熟成酒」

外で、サイダーとアイスも。
「東力士サイダー」「東力士吟醸酒アイスクリーム」

パンフレット

東力士ステッカー

どうくつ酒場から見えていた開口部。

どうくつ酒場のある山。

ちなみに、烏山線の滝駅から歩きました。電車の本数が少なくて調整必要。
どうくつ酒蔵のあとは、歩いて神長トンネルを抜けて烏山の筑紫山の防空監視哨(別記事で記載します)に行きましたが、この2つを歩いていくのは修行ですね。

※撮影:2023年9月


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M561-104
1947年11月17日、米軍撮影の航空写真。

該当部分を拡大。

現在の位置関係。


関連

零式艦上戦闘機と九六式陸上攻撃機のプロペラを祀る「零戦堂」(日光今市)

JR今市駅のちかくに、プロペラを祀るお堂があるという。
けっこう気になっていたので、行ってみることにした。


零戦堂

なんでも日光名産の「けっこう漬」の創始者は、かつて日本海軍に所属していたらしく、戦後にお店の敷地内にお堂を立てて、往時の同僚を慰霊したことにはじまるという。
創業者の福田義雄は、予科練、土浦海軍航空隊を経て鹿島海軍航空隊へ入隊し、特攻隊に志願。戦友が沖縄の海に散華するなかで、生還。
戦後は国鉄の機関車乗りを経て、地元の老舗醤油会社で営業をし、雜貨店を足がかりに、近隣農家で栽培された野菜を漬物にして販売することを決断。
故事にいう「日光を見ずしてけっこうと云うなかれ」から、社名は「けっこう漬本舗」となったという。

https://kekkozuke.co.jp/about

九六陸攻のプロペラは、マーシャル諸島のメジロ島沖合で現地人によって引き揚げられた。昭和61年に気仙沼の漁船によって日本に帰還し、ここに鎮座、多数の弾痕がある。
零戦のプロペラは、昭和57年に横浜沖で底引き網にかかり、柴漁港に引き揚げられたものを、ここに鎮座。

鎮魂
前席のプロペラ。太平洋戦争の激戦地マーシャル諸島のメジロ島沖合より原住民により引上げられた旧海軍九六式陸上攻撃機プロペラ。宮城県気仙沼市第一一〇卓昌丸石崎漁労長により昭和六十一年七月二十日この社に鎮座、無数の弾痕あり。
後席のプロペラ。零戦(零式艦上戦闘機)。横浜市金沢区柴町二四二綱元宍倉弥一氏の底引網により昭和五十七年六月二十一日午后一時横浜沖合にて収納される。海中にあること三十七、八年祖国の繁栄と幸せを願い信じて、太平洋戦争に散華した若鷲の魂が、このプロペラに宿されて、今ここに同じ人類の戦いのはかなくむなしさを呼びかけている。
 昭和六十三年十一月吉日
  日光けっこう漬本舗代表 福田義雄建之

鎮魂由緒書とは異なり、現在は、以下の鎮座配置となっている。
手前は、零式艦上戦闘機のプロペラ
奥は、九六式陸上攻撃機のプロペラ 

零戦堂

プロペラの依代として、勇士を祀る慰霊のお堂。

無数の弾痕。九六式陸攻のプロペラ。

手前は、零戦のプロペラ。

五省
五省は昭和7年、当時の海軍兵学校長 松下 元 少将が創始したもの。

一、至誠に 悖る なかりしか
一、言行に 恥づる なかりしか
一、氣力に 缺くる なかりしか
一、努力に 憾み なかりしか
一、不精に 亘る なかりしか

お堂のとなり。
これはなんだろう。。。


けっこう漬今市インター店(日光けっこう漬の直売店)

https://kekkozuke.co.jp/store/inter

零戦道は、日光けっこう漬の直売店の敷地内にある。
手打ちそばも名物らしい。

残念ながら、私は朝8時前に訪問のため、お店は開店前。

帰路に宇都宮駅内の売店で売っていたので、買いました!!
たまり醤油にワイン、ハチミツを加えたタレで漬け込んだお漬物。
これは美味しいですね!!お酒のおともになりました。

場所

https://maps.app.goo.gl/VxDkyFDUG1skPetq5

※撮影:2023年9月


関連

大型探照灯用反射鏡(ニコンミュージアム)

品川のニコンミュージアムに、大型探照灯用の反射鏡があるというので、見学してみました。

なお、ニコンミュージアムは、2024年に予定されているニコン新本社ビル(東京都品川区西大井)への移転に伴い、2024年3月1日(金)から長期休館を予定していますので、ご注意を。

ニコンミュージアム

https://www.jp.nikon.com/company/corporate/museum/


日本光学工業株式会社

1914年から勃発してた第一次世界大戦を踏まえ、1917年に軍部は、日本の光学機器の結集を画策。
そうして、1917年6月に光学兵器の国産化を目的として、測距儀修理を担っていた東京計器製作所光学部・岩城硝子製造所の探照灯用反射鏡部門、双眼鏡を開発製造してた藤井レンズ製造所を統合し、三菱の岩崎小彌太の個人出資により「日本光學工業株式會社(日本光学工業株式会社)」を設立。

1930年代以降は陸軍造兵廠東京工廠(東京第一陸軍造兵廠)・東京光学機械(現・トプコン)・高千穂光学工業(現・オリンパス)・東京芝浦電気(現・東芝)・富岡光学器械製作所(トミコン、ヤシカ、京セラオプテック、現・京セラ)・榎本光学精機(フジノン、現・富士フイルム)などとともに主に日本軍の光学兵器を開発・製造する。

陸軍系の企業である東京光学機械(のちのトプコン)と、海軍系の日本光学工業(ニコン)は、軍需光学機器製造の双璧として「陸のトーコー・海のニッコー」とも謳われるようになった。


大型探照灯用反射鏡(96式150センチ探照灯用反射鏡)

1939年(昭和14年)は、皇紀2596年。
その2596年に採用されたのが、日本海軍の「96式150センチ探照灯」であった。
展示は日本光学工業株式会社で製造された大型探照灯用反射鏡。

日本海軍が海上や陸上で索敵用に用いていた大型探照灯の反射鏡は、直径150cm(有効照射距離8,000m)、直径110cm(有効照射距離6,000m)、直径90cm(有効照射距離4,000m)の3種類があった。

大型探照灯用反射鏡
1939(昭和14)年に製造された探照灯(サーチライト)の凹面鏡で、船舶、陸上施設などに搭載され、捜索作業などに用いられた。
直径1.5メートルと、当時の国産としては最大径のもので、塩害を避けるためガラスの裏側に銀がメッキされている。
探照灯は、焦点位置に光源を置くと反射光は平行光線となって遠くまで届き、この大型探照灯では8,000メートル先まで届いたといわれる。現存する同型の反射鏡は数枚しかない。

大型探照灯用反射鏡。つまり、サーチライトの反射鏡。直径1.5mの超大型な鏡。

当然、鏡なので、真正面からだと撮影者=私が映り込むので、映り込み防止で撮影するのはなかなか難しい。

私が映らないように立ち位置は調整。

後ろ側。

戦前に軍事利用された貴重なミラーは、ニッコーを物語る歴史の証言者。


ニコンミュージアムあれこれ

せっかくなので、いろいろ見学してみる。

原点としての光学
ニコンにおける光学ガラス製造の歴史は、会社設立の翌年、1918(大正7)年にはじまる。
光学機器の国産化にとって光学ガラスの自製化は欠かせないものであった。
以降、現在にいたるまで、ニコンは「原点としての光学ガラス」の製造技術を追求してきている。
現在でも光学ガラスを製造できる企業は世界に数社しかない。光学ガラスという素材からの一貫生産は総合精密・光学メーカー「ニコン」の原点であり、同時に大きな特徴となっている。

NIKKOR誕生とニコンカメラの道のり

Nikon Model Ⅰ
ニコン初の小型カメラ。1948年。Nikonのブランドが初めて採用された記念すべきカメラ。

歴代のカメラがズラリ。
ニコンの歴史が揃っている。


ニコンようかん

毎度おなじみの「ニコンようかん」を。正確には、ニコン一口ようかん。
ちなみに、ニコンでは商品工場は持っていない。
1973年にニコン従業員向けに発売されたものが紀元。発案の栃木ニコンと同じ大田原市に所在する和菓子店である株式会社本宮によるもので、本宮が開発・製造を担当し、ニコンへ供給するOEM商品となる。

紙袋もおしゃれ。


ちなみに、、、

ごめんなさい。
そういえば、ニコン製品持っていませんでした、、、

実は、私はペンタックス(PENTAX)一筋のペンタキシアン(PENTAXIAN)です、、、
デジタル一眼は「*istD」「K10D」「K-5 IIs」「KP」が歴代の使用機種。。。

2023年現在の、私の戦跡散策は、基本として「HD PENTAX-DA 16-85mmF3.5-5.6ED DC WR」と「PENTAX KP」。これで戦跡で撮影しています。35mm換算24.5-130mmとなるので、広角から望遠前一本で使い勝手よろし。

上記のカメラを持ったヤツを、あっちこっちの戦跡で見かけたら、きっと私です。。。。。

※撮影:2023年9月