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「日本海軍の生みの親」勝海舟像と勝海舟墓

都内で、勝海舟にまつわる史跡などを散策してみました。

勝海舟銅像(墨田区役所うるおい広場)

勝海舟(勝麟太郎/勝安芳

旧幕臣。政治家。
正二位勲一等伯爵。明治政府の初代海軍卿。(初代海軍大臣は西郷従道)

幼名及び通称は「勝麟太郎」。諱は「勝義邦」。幕末に「安房守」に任官し「勝安房」を名乗っていたことから、明治維新後に改名して「勝安芳」(かつ・やすよし)と名乗る。
号は「勝海舟」。山岡鉄舟、高橋泥舟とともに幕末の三舟と呼ばれる。

幕末
文政6年(1823)に江戸本所にて生まれる。天保9年(1838年)家督相続。
安政6年(1859年)に、赤坂氷川神社の近くに転居。以来、赤坂界隈を拠点に活動をすることとになる。
嘉永6年(1853年)、ペリー艦隊来航。勝海舟は海防意見書を提出すると幕府老中首座阿部正弘の目に止まり異国応接掛附蘭書翻訳御用に任じられることとなる。その後、長崎海軍伝習所に入門。オランダ語ができたことから長崎海軍伝習所教監も兼ね、伝習生とオランダ人教官の連絡役も務めた。足掛け5年を長崎で過ごしたが、船乗りに向かない体質で、頻繁に船酔いに苦しんでいたという。
江戸築地に軍艦操練所が開設されると、勝海舟は長崎から江戸に戻り、軍艦操練所教授方頭取に就任。

咸臨丸での渡米
万延元年(1860年)
幕府は日米修好通商条約の批准書交換のため、遣米使節をアメリカへ派遣する。

遣米使節の正使は新見正興、副使は村垣範正、目付に小栗忠順らが選ばれ、アメリカ海軍のポーハタン号で太平洋を横断し渡米。
この時、護衛と言う名目で軍艦を出すことにし、咸臨丸がアメリカ・サンフランシスコに派遣された。
咸臨丸には軍艦奉行(司令官格)として木村喜毅(木村兵庫頭・木村芥舟)、軍艦操練所教授方頭取(艦長格)として勝海舟が乗船し、米海軍から測量船フェニモア・クーパー号艦長だったジョン・ブルック大尉が同乗し咸臨丸の航海を助けた。通訳のジョン万次郎、木村喜毅の従者として福沢諭吉(福澤諭吉)も咸臨丸に乗り込んだ。
帰国後は蕃書調所頭取助や講武所砲術師範などに就任。

私塾・海軍塾
勝海舟は先行して私塾として「海軍塾」を設立。当初は大阪に設置し、後に神戸に移転している。海軍塾塾頭は坂本龍馬、塾生にはのちの外務大臣となる陸奥宗光や、初代連合艦隊司令長官となり日清戦争に勝利する伊東祐亨などがいた。

神戸海軍操練所
文久2年(1862年)、軍艦操練所頭取を経て軍艦奉行並、そして幕府艦隊を統括する軍艦奉行に就任し、神戸海軍操練所を設立。
しかし、勝海舟は禁門の変の影響で軍艦奉行を罷免となり約2年の蟄居生活を送ることとなる。また、神戸海軍操練所も反幕的な色合いが強かったため慶応元年(1865年)に閉鎖となる。

江戸城無血開城
慶応2年(1866年)5月28日に軍艦奉行に復帰。
慶応4年(明治元年、1868年)戊辰戦争、鳥羽・伏見の戦いで幕府軍が敗北。
徹底抗戦を主張する小栗忠順が罷免され、海軍奉行並を経て「陸軍総裁」に起用。
官軍が駿府城に到達した際に、勝海舟は早期停戦と江戸城の無血開城を主張。

高橋泥舟の推薦により、徳川慶喜から使者として命じられた山岡鉄舟が駿府へ交渉へ赴く前に勝海舟と基本方針を擦り合わせした。勝海舟は山岡鉄舟に東征大総督府東海道先鋒参謀であった西郷隆盛宛の手紙を託す。

慶応4年(明治元年、1868年)、江戸城総攻撃3月15日の直前の3月13日と14日には勝海舟が西郷隆盛と会談。
江戸城開城の手筈と徳川宗家の今後などについての交渉を行う。結果、江戸城下での市街戦という事態は回避され、江戸城無血開城によって江戸の住民150万人の生命と家屋・財産の一切が戦火から救わることとなった。

明治時代
明治維新後も勝海舟は旧幕臣の代表格として外務大丞、兵部大丞、参議、海軍大輔、海軍卿、元老院議官、枢密顧問官などを歴任し、伯爵に叙された。
しかし明治政府への仕官に気が進まず、辞退や短期間での辞職などを繰り返していた。
晩年も赤坂氷川の地で過ごしており、明治32年(1899年)1月19日に脳溢血により意識不明となり死去。享年77歳。
戒名は、大観院殿海舟日安大居士
勝海舟の最期の言葉は、「コレデオシマイ」であったという。


勝海舟寓居・海軍塾(専稱寺)跡(大阪)

大阪。
神戸に海軍操練所ができる前に、勝海舟は大阪で私塾「海軍塾」を開設していた。そして大阪での勝海舟の寓居が「専稱寺」であった。

勝海舟寓居・海軍塾(専稱寺)跡
この付近「淡路町3丁目」はもと「北鍋屋町」といい、専稱寺がありました。
文久3年(1863)勝海舟が住み、坂本龍馬や近藤長次郎らはこの国をまもるための海軍技術を学びました。その後は、塾は神戸(現兵庫県)に移ります。

 専稱寺は寺伝によると、江戸初期に北鍋屋町に開山され、明治33年(1900)には神戸に移転し、現存する浄土真宗本願寺派の寺です。慶応2年(1866)に記載された水帳には、表口11間、裏口20間の広さとあります。北鍋屋町は後に区画整理などで、現在の淡路町2丁目5から6、同三丁目1から2に該当します。
 文久3年(1863)3月朔日(1日)幕臣勝海舟は「(略)此日、旅宿を北溜屋町真正寺にっ定む 坂下(本)、新宮、京師より来る」と「海舟日記」に記しています。文久3年9月9日にも「(略)専修寺旅宿に入る(略)」という記載があり、また。勝の知人である幕臣 杉浦梅潭は、日記の文久4年正月7日条に「勝麟太郎旅宿 北鍋屋町 専正寺」と記しています。
 勝海舟は「日本の海軍 一大共有の海局」を目指し、佐藤与之助を塾頭として、私塾「大阪海軍塾」を専稱寺で開きました。塾生には、坂本龍馬をはじめ、望月亀弥太、高松太郎、千屋寅之助らも加わり、航海術を学びました。
 この頃、行動長次郎は南鍋屋町にある「大和屋弥七」の娘 徳 と結婚し、遺児 百太郎 が生まれます。
 また、勝海舟は、桂小五郎・井上聞多・松本良順・西郷吉之助らが、大阪の旅宿を訪れたと記していて、ここ専稱寺の可能性があります。
  (漢字は原文を使用しています。)
  平成22年9月

記念碑が有るのみ。

場所

https://goo.gl/maps/EvZMwer5TncQvJkQ6


神戸海軍操練所

以下の記事にて別掲載。


洗足池
勝海舟別邸(洗足軒)跡

洗足池には、勝海舟の別邸「洗足軒」があった。
洗足軒跡は、現在は大田区立大森第六中学校となっている。

勝海舟別邸(洗足軒)跡
勝海舟(1823~99)の別邸は戦後まもなく焼失しましたが、茅葺きの農家風の建物でした。
鳥羽・伏見の戦い(1868)で幕府軍が敗れると、徳川慶喜より幕府側の代表として任じられた海舟は、官軍の参謀西郷隆盛(南洲)と会見するため、官軍の本陣が置かれた池上本門寺に赴きました。
その会見により江戸城は平和的に開けわたされ、江戸の町は戦禍を免れたのです。海舟は江戸庶民の大恩人と言えるでしょう。
その際、通り掛かった洗足池の深山の趣のある自然に感嘆し、池畔の茶屋で休息したことが縁となり、農学者津田仙(津田塾大学創始者、梅子の父)の仲立ちで土地を求めました。明治二十四年(1891)自ら洗足軒と名付けた別邸を建築し次のような歌を詠んでいます。
 池のもに 月影清き今宵しも
  うき世の塵の跡だにもなし
晩年海舟は晴耕雨読の生活の中で、かえで、さくら、松、秋の草々などを移し植え次のようにも詠んでいます。
 うゑをかば よしや人こそ訪はずとも
  秋はにしきを織りいだすらむ
明治三十二年(1899年)七十七歳で没しましたが、『富士を見ながら土に入りたい』との思いから、生前より別邸背後の丘に墓所を造りました。
石塔の『海舟』の文字は徳川慶喜の筆と伝えられています。当初は海舟一人の墓所でしたが、後に妻たみも合祀され、大田区の史跡に指定されています。
 平成11年3月
 勝海舟没後百年を記念して
 社団法人 洗足風致協会

勝海舟
勝海舟は、幕末から明治にかけて激動の時代を駆け抜けた。
スクリュー式蒸気軍艦「咸臨丸」で渡米し、海軍の育成に努めるなど、非常に革新的な考えを持った幕臣と言われている。
慶応4年(1868)年に新政府軍が江戸に進軍した際には、薩摩藩邸における西郷隆盛との会見や池上本門寺での交渉を経て、「江戸城無血開城」を実現させたことでも有名である。
池上本門寺での交渉に赴く歳、洗足池付近で休息を取ったと言われる。そのときに洗足池周辺の風景を気に入り「洗足軒」という別荘を現在の大森第六中学校の地に構えた。

洗足軒後は大森第六中学校。

https://goo.gl/maps/PwYX94cybFc2jqCu5


勝海舟記念館(旧・清明文庫)

1899年に勝海舟は死去。勝海舟死去後、使われることのなかった洗足軒の地を、財団法人清明会が譲り受け講堂兼図書館を1928年(昭和3年)に建設。戦後は学習研究社の「鳳凰閣」として使用され、2012年に大田区の所有となる。
2019年に清明文庫東側面に併設する形で増築され「大田区立勝海舟記念館」として再整備された。

1928年(昭和3年)建設。鉄筋コンクリート2階建て。ネオゴシック様式を基調としアール・デコ調の文様などが施されている。
2000年に国登録有形文化財に登録。

清明文庫の建物
 この建物は昭和3(1928)年に竣工し、外観は正面中央部のネオ・ゴシックスタイルの柱型4本が特徴的で、内部はアールデコ調の造作が施されている折衷様式の建築です。
 用途や間取りの改変や破損部の修理が重ねられているますが、内外とも竣工時の意匠や仕様、建具が良好な状態で残っており、昭和初期の建築様式と技術残す貴重な歴史的建造物です。ただ、設計図は残っておらず、設計者も分かっていません。残されている大正13(1914)年当時の図面では、一部は木造の設計でしたが、当時普及が進み始めた鉄筋コンクリート造に変更され、現在に至っています。

旧貴賓室
 この部屋は、かつて、お客様などをお迎えする貴賓室として使われていました。床材は、記念館が整備される前まで、当時の木材が一部残されており、3種の材料を組合わせた寄せ木造りでした。しかし、劣化が進んでいたため、同様の材料を用いて、全面的に再現しています。

寄木床
展示室5(旧貴賓室)の寄木床仕上は、建設当時高級材料であったラワンやオーク材を用いて、美しいパターン貼りで構成されていました。
 既存の床は傷みや破損があったため、建設当時と同じ樹種の新しい材料を使って復原しています。皆様の目の前にあるのは、既存の寄木床の良好な部分を残したものです。


勝海舟胸像

勝海舟胸像
 この胸像は、海舟の晩年の姿を表現したもので、彫刻家・高村光雲の弟子である本山白雲の作品です。
 白雲は、高知県の坂本龍馬像を始め、偉人の銅像を多数制作したことで知られていますが、現存するものは少ないといわれています。本作は、昭和25年(1950)年以来、東京都議会に保管されていたものです。

本山白雲作

https://goo.gl/maps/5RBziFEGZ3qd95Vj6


勝海舟の墓

洗足池公園の一角に勝海舟夫妻の墓がある。
勝海舟の生前の希望で、洗足池のほとりに眠る。

海舟の文字は、徳川慶喜公によるものという。

大田区文化財
勝海舟夫妻の墓
 勝海舟、諱は義邦、初め麟太郎、後に安房または、安芳と改め、海舟と号した。文政6年(1823)江戸に生れる。幕臣として万延元年(1860)咸臨丸で渡米、海軍奉行となり明治元年(1868)江戸開城に尽力する。
維新後は海軍卿、伯爵、枢密顧問官などを歴任し、漢詩、書を好み、高橋泥舟・山岡鉄舟とともに幕末三舟と称せられた。
洗足池やその周辺の風光を愛し、明治32年(1899)没後遺言によりこの地に葬られた。
別荘洗足軒(現在は大森六中)で次の歌をよまれた。
   千束せんぞく村の別墅べっしょに
       楓樹数株を植ゑて
  うゑをかば よしや人こそ訪はずとも
     秋はにしきを 織りいだすらむ
  染めいづる 此の山かげの 紅葉は
     残す心の にしきとも見よ
          (氷川歌集より)
昭和49年2月2日指定
大田区教育委員会

勝海舟先生墓前

手水鉢には、「子爵 榎本武揚」の名も刻まれていた。

https://goo.gl/maps/W5CPMR2Sfv4xH5do9

江戸無血開城顕彰碑

勝海舟墓所のとなりには、江戸無血開城顕彰碑

江戸無血開城顕彰碑
慶應三年十二月 王政古ニ復シ翌明治元年二月大總督熾仁親王 勅ヲ奉シ 錦旗東征セラレ三月十五日ヲ期シテ江戸城ヲ攻メシム城兵決死一戦セントシ兵火将ニ全都ニ及ハントス時ニ勝安芳幕府ノ陸軍總裁タリ時勢ヲ明察シテ幕議ヲ歸一セシメ十四日大總督府参謀西郷隆盛ト高輪ノ薩藩邸ニ會商シテ開城ノ議ヲ決シ四月十一日江戸城ノ授受ヲ了セリ都下八百八街數十萬ノ生霊因テ兵禍ヲ免ガレ江戸ハ東京ト改稱セラレテ 車駕此ニ幸シ爾来 三朝ノ帝都トシテ殷盛比ナシ是レ一二隆盛安芳ノ兩雄互ニ胸襟ヲ披キテ邦家百年ノ大計ヲ定メタルノ賜ナリ今ヤ東亞大有為ノ秋ニ方リ當年兩雄ノ心事高潔ニシテ識見卓抜ナリシヲ追慕シ景仰ノ情切ナリ茲ニ奠都七十年ニ際シ兩雄ノ英績ヲ貞石ニ勒シテ之ヲ顕彰シ永ク後昆ニ傳フ
 昭和十四年四月
 東京市長従三位勲一等小橋一太謹識


洗足池公園

公園の一隅に聖域がある。勝海舟墓所のとなり。

西郷隆盛留魂祠

留魂祠は、明治10年(1877)に戦死した西郷隆盛(南洲)を惜しんで、勝海舟が、西郷隆盛の7回忌に際して明治16年に造立した祠。
先んじて西郷隆盛の漢詩碑を建碑し、留魂祠ともに葛飾区の浄光寺境内にあった。勝海舟没後、勝海舟夫妻墓の隣地にあたる当地へ大正2年に移転したという。

留魂祠
一、祭神 南洲西郷隆盛先生
一、例祭 毎年九月二十四日
由緒
 明治維新の英傑、西郷南洲(隆盛)勝海舟の両先生は、大政奉還後の江戸城の明け渡し交渉によって、江戸の町を戦火より救われ、首都東京の基を築かれたことでも著名ですが勝先生は、晩年、この洗足池畔に洗足軒と呼ぶ別邸を設けられ、南洲先生と日本の将来について歓談されたと伝えられます。南洲先生はその後、明治十(一八七七)年の西南戦役により、故郷鹿児島において子弟三千余と共に逝去されましたが、これを惜しまれた勝先生は、追慕のため南洲先生の漢詩を建碑されさらに明治十六年(一八八三年)、その魂魄を招祠して留魂祠を建立せられました。留魂祠の名は、漢詩「獄中有感」の「願留魂魄護皇城」に由来するものです。
 この留魂祠は、もと東京南葛飾郡大木村上木下川(現、葛飾区東四ツ木一-五-九)の薬妙寺境内にありましたが、勝先生の御遺志により、大正二(一九一三)年、石碑とともに現在の地へ移されました。右隣には勝先生御夫妻の奥津城(御墓所)があり、維新の両雄は、いまなほ相並んで我国の将来を見守っておられるのです。
 南洲会

西郷隆盛留魂詩碑

勝海舟が、西郷隆盛の死をいたみ、詩とその筆跡を遺すために、三回忌にあたる明治12年に自費で建立したもの。裏面には勝海舟が撰文した由来を記している。もとは葛飾区の浄光寺境内にあった。勝海舟没後、勝海舟夫妻墓の隣地にあたる当地へ大正2年に移転したという。

内容は西郷隆盛が沖永良部島の獄中で作った七言律詩。「願留魂魄護る皇城」から留魂詩と称される。

南洲先生建碑記

留魂碑の工事を勝海舟に任された玉屋忠次郎が明治16年(1883)に建立。
留魂碑が明治12年7月27日に彫刻され、谷中の石工郡鶴のもとから浄光寺に建立された経緯が記載されている。

勝海舟追慕碑

大正2年に勝海舟門下生の富田鐵之助が記したもの。留魂碑が建立されて現在地に移設された経緯などが記されれている。

徳富蘇峰詩碑

昭和12年に、有志が建立。
勝海舟門下生であった徳富蘇峰の詩を刻み建立。
勝海舟と西郷隆盛によって江戸庶民の命が救われた偉業を讃え、両雄を偲ぶ内容。

https://goo.gl/maps/KtnmYM2pYCNzRS6R9


勝海舟銅像

場所は変わって、隅田川近く。
墨田区役所となりの広場に、右手を突き出した勝海舟像がある。
木内禮智作。像高2.5m、台座も入れると5.5mとなる。

勝安芳
 勝海舟(通称・麟太郎、名は義邦、のち安房、安芳)は、文政6年(1823年)1月30日、江戸本所亀沢町(両国4丁目)で、父小吉(左衛門太郎惟寅)の実家男谷邸に生まれ、明治32年(1899年)1月19日(発表は21日)、赤坂の氷川邸で逝去されました。
 勝海舟は幕末と明治の激動期に、世界の中の日本の進路を洞察し、卓越した見識と献身的行動で海国日本の基礎を築き、多くの人材を育成しました。西郷隆盛との会談によって江戸城の無血開城をとりきめた海舟は、江戸を戦禍から救い、今日の東京の発展と近代日本の平和的軌道を敷設した英雄であります。
 この海舟像は、「勝海舟の銅像を建てる会」から墨田区にに寄贈されたものであり、ここにその活動にご協力を賜った多くの方々に感謝するとともに、海舟の功績を顕彰して、人びとの夢と勇気、活力と実践の発信源となれば、幸甚と存じます。
  海舟生誕180年
 平成15年(2003年)7月21日(海の日)
 墨田区長 山崎昇

https://goo.gl/maps/TgLkQzqUAB7626a76


勝海舟生誕の地
 (墨田区立両国公園)

同じく墨田区。両国駅の南側。
墨田区立両国公園が勝海舟の生誕の地であった、という。近くには吉良上野介邸跡もある。

勝海舟生誕の地
所在地 墨田区两国四丁目二十五番
 勝海舟は、文政六年(一八二三) 正月三十日、ここにあった男谷精一郎の屋敷で生まれました。父権究(小吉)は男谷忠怒(幕府勘定組頭)の三男で、文化五年(一八〇八)七歳のとき勝元良に養子入りし、文政二年に元良の娘のぶと結婚、男谷邸内に新居を構えました。海舟が男谷邸で生まれたのは、このためだと考えられます。海舟は七歳までの幼少期をこの地で過ごしました。その後は、旗本天野左京の自宅ニ階(現亀沢ニ丁目三番)や代官山ロ鉄五郎の貸家(現亀沢三丁目六番)を転々とし、ようやく落ち着いたのは天保初年、旗本岡野融政の貸地(現緑四丁目二十五番)に転居してからのことでした。海舟は、赤坂に転居する弘化三年(一八四六)までそこで暮らし、島田虎之助(豊前中津藩士)に就いて剣の修行に励む一方、向島の弘福寺に通い参拝していたと伝えられています。
 海舟が海外事情に関心を寄せはじめた時期は分かりませんが、天保十四年(一八四三)二十一歳の時には師匠島田のすすめで蘭学者永井青崖(福岡藩士)に師事し、嘉永三年(一八五O)には「氷解塾」を開いて西洋兵学を教授しはじめました。米国使節マシュー・ペリーが浦賀に来航したのはまさにその頃、嘉永六年六月三日のことでした。海舟は幕府首脳部に独自の海防論を呈し、安政二年(一八五五)正月には目付大久保忠寛の推挙をうけて異国応接掛手附南書翻訳御用となり、翌三年に講武所砲術師範役、同六年に軍艦操練所教授方頭取に就くなど、活躍の場を広げていきました。そして、同七年正月には日米修好通商条約の批准使節に随伴し、軍艦咸臨丸の艦長として太平洋横断に成功しました。また、帰国後も軍艦操練所頭取や軍艦奉行を務めるなど、政局の混迷の中でますます重要な役割を担うようになったのです。慶応四年(一八六八)三月に行なわれた西郷隆盛との会見は、徳川家の存続と徳川慶喜の助命、無血開城を実現に導き、維新期の混乱収拾に力を発揮した海舟の代表的な事となりました。
 海舟は新政府で高官に任ぜられますが、明治八年(一八七五)十一月に元老院議官を辞した後は著述活動や旧幕臣の名誉回復、経済支援に尽力しました。同十九年(一八八六)五月には酬恩義会を創設して将軍家霊廟の保存を図るなど、最期まで旧幕臣としての意識を持ち続けていました。
 明治三十二年(一八九九)一月十九日、海舟はも七十七歳で病没。洗足池呼の墓で静かに眠っています。
  平成二十三年三月
  墨田区教育委員会

勝海舟生誕之地
法務大臣 西郷吉之助書

西郷吉之助は、西郷隆盛の嫡男である西郷寅太郎の三男。西郷隆盛の孫にあたる。第2次佐藤内閣(1968年・昭和43年)の法務大臣。

碑文
勝海舟先生は幼名を麟太郎と稱し文政6年1月晦日この地男谷家邸内に生まる
剣は島田虎之助に師事し蘭學海洋術を學び安政7年咸臨丸艦長として渡米す
明治元年3月13日高輪薩摩邸に於いて西郷隆盛と會談
官軍の江戸進撃を中止させ江戸百萬の庶民を戰禍より救い東京都繁栄の基礎となせり
明治32年1月19日赤坂氷川の自邸に於いて歿す
明治百年を記念しこの碑を建つ
 昭和43年12月吉日  秀魚書
  勝海舟両国顕彰会
  両國1丁目町会
  両國2丁目町会
  両國3丁目町会
  両國4丁目町会有志
  元男谷邸跡

由来碑
(表)
勝海舟は幼名を麟太郎といい 文政6年(1823)1月13日この地 男谷精一郎邸内で生まれた。
剣は島田虎之助に師事し、蘭学海洋術を学び、万延元年(1860)幕府軍艦咸臨丸艦長として、太平洋を横断渡米した。
慶應4年(1868)3月13日 高輪薩摩藩邸において、大総督付参謀西郷隆盛と会談し、江戸城の開城を決定して、官軍の江戸進撃を中止させ、江戸百万の庶民を戦禍から救ったことはあまりにも有名な話である。
明治32年(1899)1月21日、赤坂氷川町(港区内)の自邸で死去 行年77歳であった。
墓は洗足池畔に建立されている。
平成元年10月
墨田区
(幕府講武所剣術師範役 元 男谷邸跡)

(裏)
社団法人 東日本硝子工業会
会長 瀧波榮一郎 之納
両国勝海舟 顕彰会
平成元年10月吉日

勝海舟幕末絵巻
勝海舟の歩みと、様々な出会い

鳶が鷹を生んだ 
 勝海舟誕生
 文政6年 1823年
幕府海軍の礎となる
 長崎海軍伝習所
 安政2年 1855年
勝海舟アメリカへ
 咸臨丸の渡航
 安政7年 1860年
坂本龍馬との出会い
わずか一年の夢の跡
 小梅海軍操練所
 元治元年 1864年
活と西郷で江戸を救う
 江戸城開城
 慶應4年 1868年

https://goo.gl/maps/H8BozMNRXWwBTxR29


勝海舟翁之像

能勢妙見山別院
妙見山妙見堂(東京都墨田区本所4丁目)

勝小吉・勝海舟父子の信仰が篤かった寺院。

勝海舟9才の時大怪我の際妙見大士の御利生により九死に一生を得その後開運出世を祈って大願成就した由縁の妙見堂の開創二百年を迎え海舟翁の偉徳を永く後世に傳へるため地元有志に仍ってこの胸像が建られた。
昭和49年5月12日

https://goo.gl/maps/r7EgAY5NMttE4X1C9

https://www.myoken.org/tokyobetsuin/


勝海舟・坂本龍馬の師弟像
勝安房邸跡
勝海舟終焉ノ地

現在は、港区立特別養護老人ホーム、もとは氷川小学校があった地の一角に、勝海舟と坂本龍馬の師弟像が建立されている。

勝海舟・坂本龍馬の師弟像

東京都指定 旧跡
勝安房邸跡
この地は、幕末から明治にかけて、幕臣として活躍した勝海舟 が明治5年(1872年)の49歳から満76歳で亡くなるまで住んできた屋敷の跡地です。その間、参議・海軍卿、枢密顧問官、伯爵として顕官の生活を送り、傍ら有名な『氷川清話』などを遺しました。その後の屋敷跡は東京市に寄付され、平成5年(1993年)春まで港区立氷川小学校敷地として使用されていました。その後、氷川小学校が廃校となったため、その建物を生かしつつ改修を行い、平成15年から区立特別養護老人ホーム及び子ども中高生プラザとして使用して現在に至っています。施設内には、屋敷跡 の発掘調査で出土した当時の縁の品などが展示されています。
港区

「明日に向かって」
  勝海舟·坂本龍馬の師弟像

 この地は、勝海舟が1872年(明治5年)から1899年(同32年)に77歳で亡くなるまで27年間住んだ屋敷のあった場所です。 海舟は、明治維新後 旧幕臣の代表格として維新政府の要職に在り協力していました。坂本龍馬との係りは海舟が幕府の要職に付いていた頃(海舟37歳~46歳)で、 龍馬 (26歳~31歳)は海舟を師と仰いで禁い緊密な交流があったようです。
 この交流の始まりは、海舟が威臨丸での渡米、帰国後幕府軍艦奉行就任の1862年(文久2年)海舟39歳のとき、龍馬が海舟を斬ろうと面会を申し入れ逆に感化され、 海舟の門人となり身辺警護をかってでたことからと言われております。 当時、日本国の未来を見据え大意を進めるに当って海舟と龍馬とは相反する体制下にありながら、改革を行うことが出来たのは海と繋がっている広い世界を観る目、日本国を取り巻く世界情勢の中で日本のゆくえについて日本人が一体となって事に当らなければならないことを教えたと伝えられています。
 また、海舟は軍艦奉行に就いていた 1864年2月(文久4年)英・仏・米・蘭4ヶ国艦隊の下関砲撃の中止交渉を幕府から命じられ、神戸から九州の豊後街道を通り長崎まで旅をしています。この旅に海舟は自らが主催する「神戸海軍塾」の塾生だった龍馬らを同行させています。重責を担って旅する海舟にとって龍馬に日本国の行く末を教える機会の旅であり、 当時の欧米の植民地政策の過の中にあるこの国の現状をつぶさに語り合い、後の薩長同盟、大政奉還、江戸無血開城へと繋げていったと考えられます。
 海舟、龍馬の生きた19世紀末と21世紀の今をとりまく時代状況は比較にならないくらい違ってきていますが、 彼らの明日を切り開いて行く強い志とエネルギーを、 宇宙船地球丸に乗っているこれからの時代を担う世代に伝えてゆくシンボルとしての銅像でありたいと願っております。
 銅像の細部を見て頂くと、 海も龍馬も視線は、明日に向かって海のかなたに広がる世界を向いています。 また、 海舟の刀の鍔(つば)に下緒(刀のさやを帯に巻くための紐) を絡めて刀をぬけないようにしています。 剣術の達人でありながら、当時の風潮を憂い何事にも対処するに当って刀を絶対に抜かないとの心がまえを表しています。

    勝海舟坂本龍馬の師弟像を建てる会

この銅像の建立にあたっては、 「勝海舟坂本龍馬の師弟像を建てる会」の呼びかけに赤坂をはじめとする全国のみなさまからのご支援ご協力を頂き、彫刻家 山崎和国氏に製作をお願いし2016年9月 (平成28年)完成建立し港区に寄贈しました。

また、戦前からの石碑も建立されていた。

史蹟 
勝安芳邸阯
勝海舟伯終焉ノ地ナリ
昭和五年十二月
東京府

氷川小学校後援会敬建
昭和8年12月
東京市長牛塚虎太郎書

勝海舟は赤坂で3度住居を変えている。
この場所は最後の居住地。明治5年50歳の時から、明治32年77歳で没するまで住んでいた。
今も、勝海舟遺愛の大イチョウが残っている。

氷川小学校
東に千代田の翠微を眺め 
西に芙蓉の麗姿を望む
英傑海舟 住みにしところ 
我らが学舎ぞ厳しく立てる

明治41年4月1日授業開始
明治42年6月27日開校式
平成5年3月31日閉校
 碑建立・氷川小学校卒業生


勝海舟邸跡

勝海舟が赤坂で最初に居住した場所がこの地であった。
幕末の安政6年(1859)から明治元年(1868)まで、日本が激動の時にあった時期に住んでいた旧跡。

勝海舟邸跡の記
 港区赤坂6丁目10番39号の「ソフトタウン赤坂」が建つこの地は、幕末から明治にかけて、幕臣として活躍した勝海舟 が安政6年(1859)から明治元年(1868)まで住んだ旧跡である。
 海舟は終生赤坂の地を愛し、三カ所に住んだが、当初居住中の10年間が最も華々しく活躍した時期に当たる。
 海舟は号で、名は義邦。通称麟太郎、安房守であったから安房と称し、後に安芳と改めた。夫人は民子。
 海舟は文政6年(1823)、本所亀沢町の旗本屋敷=現墨田区両国4丁目の両国公園の地=で、貧しい御家人の子として出生。長じて赤坂溜池の筑前黒田藩邸=のちの福吉町、現赤坂2丁目の赤坂ツインタワービルや衆議院赤坂議員宿舎などの地=に通って蘭学を学び、その縁から新婚23歳で赤坂田町中通り=現赤坂3丁目13番2号のみすじ通り=の借家で所帯を持った。
 36歳からは赤坂本氷川坂下=もとひかわざかした、のちの氷川町=のこの地に住んだ。
 明治元年45歳で、引退の徳川慶喜に従って、ここから静岡市に移ったが、明治5年(1872)再び上京し、満76歳で亡くなるまで赤坂区氷川町4番地=現赤坂6丁目6番14号=に住み、参議・海軍卿、枢密顧問官、伯爵として顕官の生活を送り、傍ら氷川清話などを遺した。この時の屋敷跡は東京市に寄付され、平成5年(1993)春まで区立氷川小学校敷地として使われた。
 当所に住み始めた翌年の安政7年(1860)、幕府海軍の軍艦頭取=咸臨丸 艦長として、上司の軍艦奉行木村攝津守、その従僕福沢諭吉 らを乗せ、正使の外国奉行新見豊前守を乗せた米艦ポーハタン号に先行して渡航、日本の艦船として初めて太平洋横断・往復に成功した。
文久2年(1862)11月、海舟を刺殺しようとして訪れた旧土佐藩士坂本龍馬 らに、世界情勢を説いて決意を変えさせ、逆に熱心な門下生に育てて、明治維新への流れに重要な転機を与えることになったのもこの場所である。
 明治元年3月には、幕府陸軍総裁として、官軍の江戸城総攻撃を前に征討総督府参謀西郷隆盛 と談判を重ね、無血開城を決めて江戸の町を戦火から救った。
 第1回会談は高輪の薩摩藩邸=品川駅前の、のちの高輪南町、現港区高輪3丁目のホテルパシフィックの地=で行われた。第2回については芝田町薩摩藩邸=のち三田四国町、現港区芝5丁目芝税務署辺りの地=または、三田海岸の薩摩藩蔵屋敷(くらやしき=倉庫)の表側にある民家=現港区芝5丁目の三菱自動車ビル周辺=で行われたとの両説がある。いずれも当所居住中のことである。
 明治維新では、明治元年5月、海舟の留守中に一部の官軍兵士がここの勝邸に乱入したが、海舟の妹で佐久間象山未亡人の瑞枝(旧名・順)が家人を励まして一歩も引かずに応対し、危急を救った。
 海舟は終生赤坂の地を愛したが、郊外の風光にも惹かれ、初めは葛飾区東四ツ木1丁目に、次いで洗足池畔の大田区南千束1丁目現大田区立大森第六中学校の地に別邸を設けた。墓は洗足池に面して作られ、自ら建てた西郷隆盛を偲ぶ碑と共に大田区文化財に指定されている。
 平成7年11月吉日
  ソフトタウン赤坂管理自治会
   撰文 伊波 新之助
   協賛 勝海舟顕彰会
   協力 港区郷土資料館

https://goo.gl/maps/9L2yS1B1824GpLbq6


四合稲荷神社(赤坂氷川神社境内社)

赤坂に居住していた勝海舟は赤坂氷川神社とも深い縁にあった。
赤坂氷川神社境内の稲荷神社は勝海舟の命名。

御縁起
①古呂故稲荷(赤坂一ツ木2番地、古呂故天神社境内に鎮座)
②地頭稲荷(氷川神社遷座以前より拠の地に鎮座)
③本氷川稲荷(本氷川神社隣接、別当盛徳寺の地内に鎮座)
④玉川稲荷(赤坂門外の御堀端、現弁慶橋のあたりに鎮座)
 以上、4社を明治31年(1898年)、遷座合祀し、赤坂在住の勝海舟翁により『四合稲荷(しあわせいなり)』と称えられる。
(略)
勝海舟翁筆の「四合稲荷社」という扁額が、現存する。
(略)
以上、境内御由緒より

「志あはせいなりの社」 
勝海舟書の掛け軸の筆跡を用いた幟

勝海舟直筆の扁額
「四合稲荷社」


場所は変わって、港区芝。三田駅の近く。

西郷南洲・勝海舟 会見之地

西郷南洲・勝海舟 会見之地
西郷吉之助書

慶應四年三月十四日
此薩摩邸に於て西郷 勝 両雄会見し江戸開城の円満解決を図り百万の民を戦火より救いたっるは其の功誠に大なり
平和を愛する吾町民深く感銘し以て之を奉賛す
 昭和二十九年四月三日
  本芝町会
 本芝町会十五周年記念建之

田町薩摩邸(勝・西郷会見地)附近沿革案内
この敷地は、明治維新前夜慶応4年3月14日幕府の陸軍総裁 勝海舟が江戸100万市民を悲惨な火から守るため、西郷隆盛と会見し江戸無血開城を取り決めた「勝・西郷会談」の行われた薩摩藩屋敷跡の由緒ある場所です。
この蔵屋敷(現在地)の裏はすぐ海に面した砂浜で当時、薩摩藩国元より船で送られて来る米などは、ここで陸揚げされました。
現在は、鉄道も敷かれ(明治5年)更に埋め立てられて海までは 遠くなりましたが、この附近は最後まで残った江戸時代の海岸線です。 また人情噺で有名な「芝浜の革財布」は、この土地が舞台です。

訪れたときは、ちょうどビルの建て替え工事の真っ最中。
記念碑は一時的に保管されているという。
工事完了は令和5年5月末予定。

https://goo.gl/maps/hqtuibb1UZwU4xTH7


西郷南洲・勝海舟 会見の図

浜松町駅のエスカレータ脇に、西郷隆盛と勝海舟の会見をモチーフしたた壁画があった。

時は慶応4年(1886)3月14日、幕府の軍事取扱勝海舟は薩摩藩蔵屋敷に於て、官軍の大総督参謀西郷南洲と最後の会見を行ない、戦火が招く江戸市民の災厄と諸外国の内政干渉とを絶対に避けるべしと説き、両雄お互いに憂国の誠意にうたれ、ついに江戸総攻撃は中止された。その蔵屋敷跡に現在建っている三菱自動右車ビルの前庭には「会見の地」の碑がある。「当駅正面交差点右折、歩いて2分」


勝海舟邸長屋門

石神井公園近くの三宝寺山門東側の通用門は、勝海舟邸長屋門であったという。
築年は文政年間(1818-29)という。
勝海舟が明治5年に赤坂に戻ってきてから、没するまで過ごした屋敷にあった長屋門と推定。

三宝寺に移設される前は、成増にあった遊園地「兎月園」にこの門はあった。大正13年(1924)に兎月園は開業。昭和18年(1943年)に戦争の影響などもあり閉園。

通用門(長屋門)
 練馬区旭町兎月園にあった勝海舟邸の屋敷門が、所有者の明電舎の事情により、取毀しの処分を受けるに際し、当時の練馬区長須田操氏の斡旋で、当山に移建された。
 昭和35年(1960)11月、新井工務店の手によって解体移建された。

海舟書屋(かいしゅうしょおく)

勝海舟の師匠であった佐久間象山。その佐久間象山の言葉「海舟書屋」から、海舟という号を採用したという。

江戸東京博物館収蔵品より

https://digitalmuseum.rekibun.or.jp/edohaku/app/collection/detail?id=0189204082

https://goo.gl/maps/D6WoYcrSZfqFcVkv8


勝家之墓

勝海舟の父である勝小吉と、、勝海舟の嫡男小鹿は、青山霊園(1種イ4号22側)の勝家之墓に眠る。


勝海舟の長男勝小鹿の娘婿で徳川慶喜の10男であった勝精の墓は谷中霊園にある。

谷中霊園には、徳川慶喜の墓もある。


以上、

都内に残された勝海舟の史跡などの散策記録でした。

コレデオシマイ

※撮影:主に2020年8月から11月にかけて。


そのほかの関連

勝海舟が教授を務めた築地軍艦操練所

初代海軍卿 勝安房

南湖院を設立した高田畊安の妻は勝海舟の孫娘

旧幕臣として勝海舟とは違う道を歩んだ榎本武揚

「最後の幕臣から明治最良の官僚へ」榎本武揚像と榎本武揚墓

都内で、榎本武揚にまつわる史跡などを散策してみました。

墨田区立梅若公園

榎本武揚

1836年10月5日〈天保7年8月25日〉 – 1908年〈明治41年〉10月26日)

旧幕臣、外交官、政治家。海軍中将。
正二位勲一等子爵。

戊辰戦争
榎本武揚は江戸浅草橋近くの生まれ。
昌平坂学問所・長崎海軍伝習所出身。修了後は江戸の築地軍艦操練所教授となる。1861年に幕府よりオランダ留学を命じられ欧州へ。オランダで完成した蒸気軍艦1隻(開陽丸)とともに1866年に帰国。軍艦役・開陽丸乗組頭取(艦長)となる。
1868年(慶応4年)に江戸幕府の海軍副総裁に就任。幕末の動乱の中で徹底抗戦を主張し、榎本派が幕府艦隊を支配。
明治新政府軍による江戸開城に伴う降伏条件のひとつに旧幕府艦隊の引き渡し要求があるも、榎本武揚はそれを拒否。徳川宗家の江戸から駿府への移封が完了するのを待って榎本武揚率いる旧幕府艦隊は江戸を脱出。奥羽越列藩同盟支援のために艦隊を北上させる。
その後、仙台藩降伏に伴い、艦隊は蝦夷地「函館」に。

蝦夷共和国と最後の幕臣
榎本武揚は函館で蝦夷共和国の総帥に就任。選挙による就任は画期的な政策であった。
1869年(明治2年)5月18日、榎本武揚ら旧幕府軍は新政府軍に敵わず降伏。東京で牢獄に収監される。黒田清隆や福沢諭吉が榎本武揚の助命活動を行う。

明治新政府の下で
1872年(明治5年)特赦により出獄。黒田清隆の下で北海道開拓使に任官。
1874年に中露特命全権大使に就任するとともに日本で最初の海軍中将に就任。1875年に樺太・千島交換条約の締結を成功させる。ロシアからの帰国に際してはシベリア横断に成功。
帰国後は、外務大輔、海軍卿、皇居造営事務副総裁を歴任し、1882年(明治15年)には、駐清特命全権公使に就任。李鴻章と度々会談し天津条約締結に貢献する。

1885年(明治18年)、内閣制度発足に伴う第一次伊藤博文内閣で逓信大臣に就任。その後も農商務大臣や文部大臣、外務大臣を歴任。

1908年(明治41年)10月26日、死去。海軍葬が執り行われた。

榎本武揚の海軍軍人・政治家以外の側面としては、電気学会初代会長、東京農業大学のベースとなった徳川育英会育英黌農業科の設立、などにも携わっている。

榎本武揚墓

榎本武揚の墓
 天保7年(1836)~明治41年(1908)、江戸の生まれ。通称、釜次郎。江戸末期の幕臣、政治家。蘭学をはじめ広い学識をもち、オランダ留学後海軍奉行、海軍副総裁となったが、倒幕軍江戸入城にあたり幕府海軍を率いて函館五稜郭で反抗した。その後、時代の変化もあって海軍中将、ロシア駐在特命全権公使、海軍卿、文相、枢密顧問官、外相、農商務省などを歴任、子爵となる。
 東京都文京区教育委員会 

海軍中将子爵榎本武揚墓

元帥海軍大将伯爵伊東祐亨書

天保七年八月二十五日生
明治四十一年十月二十七日薨

榎本家の家紋は「丸に梅鉢紋」というが。

吉祥寺

東京都文京区本駒込三丁目にある曹洞宗の寺院。
室町時代1458年(長禄2年)に太田持資(太田道灌)の開基。
多くの譜代大名・旗本の江戸の菩提寺であったことから、それの墓所が多い。

榎本武揚の墓所も、吉祥寺にある。

https://goo.gl/maps/RNcwAjCEost6tPYU7


榎本武揚一族之墓

榎本武揚夫妻の墓は改装され「吉祥寺」にあるが、榎本一族の墓は「保元寺」(台東区橋場1-4-7)にある。この地は、足利尊氏が新田義興と戦った「石浜の合戦」の地。
榎本武揚は戊辰戦争後に投獄され、出獄後にこの地で謹慎をしていた。

榎本家略史
榎本家は武州豊島郡石浜橋場の郷士で、平家一門の千葉氏の家人である。
江戸時代の祖・榎本与兵衛武明は延享3年(1746)68歳で没し、千葉氏と縁のある石浜郷の古刹保元寺(法源寺とも称した)に葬られた。以来、榎本家の祖霊を祀る。
4代武兵衛武由は一女「とみ」の婿養子に箱田良助を迎える。良助は備後国(広島県)箱田村の郷士の次男で、伊能忠敬が幕府の命で全国を測量する助手となり、後に榎本圓兵衛武規と称し徳川幕府の家人となる。
5代圓兵衛武規の妻「とみ」が文政10年没したため「こと」を迎え武興・武揚兄弟を産み育てていく。
6代榎本勇之助武興の弟が釜次郎武揚である。
武揚は幕府によりオランダに留学し操船と海軍の知識を習得し帰国、徳川幕府の海軍長官となるも北海道五稜郭で敗戦し、刑死を免れ年余にわたり菩提寺謹慎となり保元寺に隠居したが、許されて明治新政府に仕え高位の身分となる。
明治41年10月27日に没し、先に保元寺に埋葬の夫人多津子と両名のみ改葬された。

保元寺

帰命山薬王無量院保元寺
奈良時代の宝亀元年(770年)創建という古寺。

https://goo.gl/maps/ML312fnSwti5Pdjp8


榎本武揚旧居跡

榎本武揚一族之墓があった保元寺の隅田川の対岸、向島言問に榎本武揚邸があった。

榎本武揚旧居跡
 父は将軍側近で天文方として伊能忠敬にも師事した知識人であった。武揚も幼い頃から学才に長け、昌平黌で儒学を、江川太郎左衛門から蘭語、中濱万次郎から英語をそれぞれ学び、恵まれた環境で洋学の素養を身につけた。19歳で箱館奉行の従者として蝦夷地に赴き、樺太探検に参加する。安政3(1856)年には長崎海軍伝習所に学び、蘭学や造船学、航海術などを身につけた。文久2(1862)年に幕府留学生としてオランダに渡って、船舶に関する知識をさらに深める一方、国際法や軍学を修めた。慶応3(1867)年、幕府が発注した軍艦「開陽」に乗艦して帰国、翌4年に海軍副総裁に任ぜられた。
 戊辰戦争では徹底抗戦を唱えたが、五稜郭で降伏、3年間投獄された。この箱館戦争で敵将ながらその非凡の才に感服した黒田清隆の庇護を受け、北海道開拓使に出仕。明治7(1874)に駐露特命全権公使となり、樺太・千島交換条約を締結。海軍卿、駐清公使を経て、文部大臣、外務大臣などを歴任した。
 明治38(1905)年から、73歳で没する同41年までこの地で暮らし、墨堤を馬で毎日散歩する姿が見られたという。

https://goo.gl/maps/YXo4RRcYWqxJTCpT6


銅像榎本武揚像

墨田区立梅若公園に、榎本武揚銅像が建立されている。

墨田区登録有形文化財
銅造榎本武揚像
 所在地  墨田区堤通2丁目6番10号
      墨田区立梅若公園内
 本像は、榎本武揚没後の大正2年(1913)5月に建立されました。銅製で、像高は約3メートルあり、南を向き、大礼服姿で荘重な趣を呈しています。彫刻は、衣服の質感や顔の表情が細かく表現され外形描写に優れています。
 榎本武揚(1836~1908)は、戊辰戦争終盤の箱館戦争で明治新政府軍と戦った旧幕臣として著名な人物です。
 武揚は箱館戦争の中心人物として投獄されましたが、維新後は明治政府に出仕し、文部大臣、外務大臣等、政府の要職を歴任しました。晩年は向島に構えた別荘で過ごし、馬に乗って歩く姿が見られたようです。
 建立にあたっては、大隈重信や大倉喜八郎、渋沢栄一、益田孝など政財界を代表する人物等が協力しました。
 原型作者は藤田文蔵と田中親光であり、鋳造者は平塚駒次郎です。
 この銅像は平成12年12月7日に墨田区登録文化財に登録されました。  
  平成29年3月
  墨田区教育委員会

墨田区登録有形文化財
銅像榎本武揚像

「榎本武揚」
 榎本武揚は天保7年(1836)に幕臣の子として江戸に生まれ育ち、
昌平坂学問所 (昌平黌)で学び、安政3年(1856)幕府が長崎に設けた海軍伝習所に入りました。その後、オランダに留学し、最新の知識や技術を身につけ、慶応2年(1866)幕府注文の軍艦開陽丸を回送し帰国しました。
 武揚帰国後の日本は「大政奉還」「王政復古」という体制変換を迎え、武揚は戊辰戦争の最後の戦いとなった箱館戦争では、五稜郭を中心に明治政府に抵抗しましたが、明治2年 (1869)降伏しました。
 その後、武揚は投獄されましたが傑出した人材として赦免され、明治政府に出仕しました。明治8年(1875)には、海軍中将兼特命全権公使として、樺太(サハリン)・千島交換条約の締結に尽力しました。
 明治18年(1885)伊藤博文が初代内閣総理大臣に任命されると、旧幕臣でありながら逓信大臣に就任以降、文部、外務、農省務大臣などの要職を歴任しました。また、東京農業大学の前身である私立育英黌農業科を創設したほか、化学、電気、気象などの各学会に関わりを持ち、日本の殖産産業を支える役割を積極的に引き受けました。
 晩年は成島柳北邸(現言問小学校)の西側に屋敷を構え、悠々自適の日々を過ごしました。明治41年(1908)10月に73歳でなくなりましたが、墨堤を馬で散歩する姿や、向島百花園で草花を愛でる姿が見られたそうです。

「銅像について」
 本像は青銅製で、高さ約400㎝の台座上に像高300㎝の榎本武揚の立像が乗っています。
 建立は大正2年(1913)5月で、当時の木母寺の境内である当該地に建てられました。白鬚東地区防災拠点建設に伴い木母寺は移転しましたが、本像は当該地に残されました。
 本像の原型作者は田中親光、藤田文蔵、鋳造者は平塚駒次郎であることが台座背面に記されています。また、建設者に大隈重信、大倉喜八郎、渋沢栄一など当時の政財界の代表的人物が名を連ねています。
 原型作者のひとりである藤田文蔵は洋風彫刻界における先覚者として位置づけられ、代表作に陸奥宗光銅像(外務省)や井伊直弼銅像(掃部山公園、太平洋戦争で供出)、狩野芳崖胸像(東京国立博物館)などが知られています。

榎本武揚像の隣にある石碑。昭和12年建立。鈴木貫太郎の書であった。
(二・二六事件は昭和11年)


鈴木貫太郎書
昭和12年4月29日
 向島区青年団
  墨田町二丁目分団

https://goo.gl/maps/gUQVAvbqVQdxaYXUA


東京農業大学は、その創建に榎本武揚が関わっている。

榎本武揚先生像

東京農業大学世田谷キャンパス


旧幕臣としての榎本武揚

正二位勲一等子爵榎本公追弔碑


そのほか榎本武揚は函館にも多くの足跡があるが、今回は都内に限りで、ここまで、で。

駆逐艦 不知火の錨(初代)

日露戦争で活躍した初代不知火の錨が、墨田区立両国小学校に保存してあった。

不知火(東雲型駆逐艦4番艦)

1899年(明治32年)、イギリス・ソーニクロフト社で竣工。イギリスのD級駆逐艦の準同型艦。
1904年(明治37年)、日露戦争では第2艦隊第5駆逐隊に所属。旅順口攻撃や黄海海戦・日本海海戦などに参加。
1925年(大正14年)廃船。

錨の由来
 この錨は日露戦争(1904年~1905年)で活躍した日本海軍の駆逐艦「不知火」のものである。この艦は英国ソーニー・クロフト社製造・起工明治31年・進水32年・326トン・(艦長63,5メートル・5470馬力・30ノット・火砲6門・発射管2基・煙突2基)の構造である。
 錨の裏側にあるアルファベットと1898の刻印は錨の製造年と推定される。
 猶この錨は両国一丁目の鉄鋼業岡田商事(旧岡田菊次郎商会)が軍艦の解体作業で得たのを昭和初年に江東(現両国)小学校に寄贈したものである。
 平成3年
 両国(相生・江東)小学校同窓会


場所


関連

駆逐艦 初霜の錨

近隣

芥川龍之介文学碑

芥川龍之介は、不知火の錨が保存されている、両国小学校の出身

吉良邸跡

忠臣蔵の吉良邸が近所。

勝海舟生誕の地

墨田区立両国公園

勝海舟に関しては別記事でまとめる予定。

海軍水雷学校と海自第2術科学校

令和元年11月・横須賀 JR田浦駅近く。

現在の「海上自衛隊第2術科学校」は、海軍水雷学校の敷地を受け継いでいる。

海軍水雷学校

大日本帝国海軍の水雷術(魚雷・機雷・爆雷)指揮官・技官を養成する教育機関であった。
明治26年(1893)12月2日に水雷術練習所が設置。
明治40年(1907)4月20日に海軍水雷学校に改編。
水雷学校から、海軍通信学校、海軍機雷学校(海軍対潜学校)が派生増設。
昭和20年の終戦までこの地で海軍教育が行われてきた。
歴代校長に著名人が多く、岡田啓介・鈴木貫太郎・南雲忠一・小澤治三郎など。

術科学校

第1術科学校・江田島 機関科を覗く水上艦艇術科教育
第2術科学校・横須賀 機関・電機・情報・外国語等の特殊部門専門教育
第3術科学校・下総  航空機整備員・航空基地員養成機関
第4術科学校・舞鶴  業務管理・経理・補給関係術科教育訓練

海上自衛隊第2術科学校、すなわち「2術校」

http://www.mod.go.jp/msdf/twomss/

機関、電機、応急工作等及び情報、技術、電子計算機、外国語といった特殊な部門の専門教育や、調査研究を主体とする機関

戦前の水雷教育から戦後の特殊専門教育へとつながる、そんな「海自2術校」にて、当時の姿を残すものなどを。



海軍水雷学校 圧縮ポンプ室
 (旧整備科倉庫)

第2術科学校は海軍水雷学校の敷地を受け継いでいます。この建物はS9年に建てられた木造建築で、現存する唯一の帝国海軍水雷学校当時からの建物です。

オープンスクール(一般公開)時に見学

うしろの建屋は、「日立パワーソリューションズ田浦工場」
手前には海保のPM14たかとり(てしお型巡視船)

海上自衛隊第2術科学校のある田浦は、海自と海保の共同使用地。全国でも共同使用地は、ここだけだという。


位置関係

国土地理院航空写真「USA-M46-A-7-2-77」より。
1946年02月15日 米軍撮影

一部加工
ポンプ室のみが現在も残る水雷学校の遺構。

田浦駅北部の海軍軍需部倉庫も数棟が現存している。

拡大


近くにはロ号艦本式ボイラーが展示してあった。(別記事にて掲載)


歴史保存エリア

第2術科学校内に「歴史保存エリア」がある。

海軍水雷学校跡碑

海軍水雷学校跡碑

海軍水雷学校 跡
 明治26年12月2日水雷術練習所が設置されました。明治40年4月20日海軍水雷学校となり、昭和20年の終戦まで教育が行われました。
 昭和50年5月、水雷学校の歴史を後世に残すため、第二術科学校に隣接する関東自動車株式会社本館前に設置されていましたが、関東自動車株式会社の移転により、平成21年、この血に移設されました。

沿革
明治三年十一月四日
 海軍兵学寮に水雷火設置
明治七年九月二十日
 海軍兵学寮にて水雷術伝習開始
明治十二年八月二十三日
 水雷術練習所横須賀に開所
明治十六年二月六日
 水雷術練習所を廃止し水雷局を長浦に設置
明治十九年一月二十九日
 水雷局廃止水雷術練習艦設置(迅鯨)
明治二十年十一月十六日
 水雷術練習工概則制定(水雷術練習生の起源)
明治二十二年十二月二十三日
 水雷術練習艦で下士官、兵に掌水雷兵教育開始
明治二十六年十二月一日
 水雷練習艦を水雷練習所に改める(迅鯨)
明治三十九年十二月一日
 同右を長浦の陸上に移転
明治四十年四月二十日
 海軍水雷学校条例制定
明治四十年四月二十二日
 海軍水雷学校田浦に開校
 電気器具、防御水雷、攻撃水雷、通信術の四科目伝習開始
昭和五年六月一日
 海軍通信学校分離独立
昭和九年五月二十三日
 航空魚雷練習生制度設置
昭和十年七月
 航空兵器術練習生のなかに魚雷爆撃専修の練習生制度設置
昭和十五年六月二十日
 雷撃員制度設置雷撃練習生教育開始
昭和十六年四月一日
 海軍機雷学校分離独立
昭和一九年三月一五日
 海軍対潜学校と改称
昭和二十年七月十五日
 同右を廃止海軍水雷学校久里浜分校となる
昭和十八年六月十七日
 海軍水雷学校魚雷艇訓練規則制定
昭和十九年四月一日
 海軍水雷学校川棚魚雷艇訓練所開始、
 魚雷艇、特攻兵器、震洋艇の教育訓練実施
昭和二十年八月十五日
 終戦閉校

昭和五十八年五月八日
 海軍水雷学校跡碑建設委員会
  委員長 有田雄三
   他八七三名を以って建立
    兼平芳雄謹書

海軍通信教育発祥記念碑

海軍通信教育発祥記念碑

海軍通信教育発祥記念碑
 明治三十六年、この地にあった海軍水雷術練習所で無線電信術教育が開始されたことを記念し、昭和四十五年十一月に建立されました。
 海軍水雷術練習所は、明治四十年、海軍水雷学校になりましたが、通信術の教育所要が増大したため、昭和五年同地の一部に海軍通信学校が海軍水雷学校から分離独立しました。 海軍通信学校は、昭和十四年に現在の陸上自衛隊久里浜駐屯地がある地に移転し、終戦を迎えました。

海軍無線通信教育の沿革
明治三十六年二月
 この地海軍水雷術練習所で無線電信術教育開始
大正七年八月
 海軍水雷学校に通信部設立
昭和五年六月
 この地に海軍通信学校として独立
昭和十四年十一月
 神奈川県久里浜に移転
昭和十七年五月
 横須賀海軍通信学校と改称
昭和十七年五月
 山口県防府に防府海軍通信学校を増設
昭和十九年九月
 神奈川県藤沢に海軍電測学校設立
昭和二十年七月
 各学校教育中止

   昭和四十五年十一月 
    海軍通信同窓有志建立

海軍上等兵曹上崎辰次郎之碑

海軍上等兵曹上崎辰次郎之碑
海軍中将従三位功三級男爵伊藤雋吉君題碑

「上崎上等兵曹之碑」の由来
 上崎上等兵曹は青森県上北郡の人旧会津藩士であり、万延元年(1880年)岩代国若松城下で出生した
 十四歳で海軍に入り水雷術を専攻した
 征藩の役 西南の役に従軍し 明治二十二年上等兵曹に任ぜされ 二十七年勲七等に叙せられ瑞宝章を賜った
 明治二十七年日清戦争が起こるや第六号水雷艇に乗り戦地に赴く 艇長は海軍大尉鈴木貫太郎(後に大将 終戦の時の内閣総理大臣)であった
  明治二十八年二月四日夜 わが水雷艇隊は威海衛の夜襲を決行 第六号水雷艇もこの中にあって港内に突入 はげしい敵弾をうけながら敵艦鎮遠に近迫まさに水雷を射出して敵艦を粉砕しようとしたところ はからずも厚い氷が発射管を閉鎖し水雷が出なかった 上崎上等兵曹はこの責任を感じ 敵降伏後の三月十四日 従容として艇内において自刃した ときに三十六歳であった  鈴木艇長をはじめ艇員はその忠誠を永久に伝えるために横須賀竜本寺にこの碑を建てた  昭和三年田浦(田浦交番隣)に移してあったものを昭和四十三年五月十八日 第2術科学校に移したものである

(台座)
建碑及遺族慰問
資金義捐者
 海軍将校以下有志
  一千十五名
 通常有志
  七名
発起人 
 海軍大尉鈴木貫太郎
  外 三十七名
永代施餓鬼料
 金貳拾圓

碑面裏の撰文は上崎の乗艇である第六号艇長が読んだ弔辞を漢文に直したもの
第六号艇長は鈴木貫太郎海軍大尉、のちの海軍大将、内閣総理大臣

発起人にも海軍大尉鈴木貫太郎の名が刻まれている。

上等兵上崎辰次郎君碑
君諱辰次郎上崎氏青森県上北郡人旧会津藩士也萬延元年十二月生于岩代国若松城下年十四入海軍酷苦励精技術大進
明治七年航台湾従征藩役十年西南之役起君乃乗軍艦討賊兵十三年任下士官十九年新造軍艦浪速於英国成君被撰為回
航委員至英国乗之而帰廿二年叙勲八等無何任上等兵曹廿七年叙勲七等賜瑞宝章是歳征清役起時君在第六号水雷艇慨
然決意曰吾欲誓死以報国恩十月航戦地従常備艦隊占領花園口十一月略大連湾攻旅順口屡々有功廿八年二月我軍攻威
海衛敵艦隊拠劉公島以水雷及防材鎖港恃険要而防戦数日不能遽抜同月三日夜第六号水雷艇乗月明迫港口敵知之砲撃
甚烈而君自苦冒弾雨而破防材通航路以是翌夜水雷艇隊得進入港内襲撃敵艦隊轟沈定遠等二艦此夜第六号水雷艇亦在
隊中冒砲撃而迫近鎮遠飛弾如雨注中艇者六十餘弾将射出水雷粉砕敵艦何計巌水閉管妨碍発射自是君憤慨不巳更期大
功自慰十二日敵艦隊力屈遂乞降三月和議再起清使李鴻章発天津君時在威海衛港聞之而知戦機既去亦不可為遺憾不自
禁以此月十四日従容自刃艇内歳丗六艇員火化之帰葬横須賀龍本寺君為人沈毅義胆処事綜密克耐艱楚常尚節義至誠奉
公服軍務廿有二年於茲励精如一日威海之襲撃不奏効因巌冬結氷所致於君何有然哀心不能自安負責謝過以死矣可勝歎
惜哉頃者故旧捐金樹碑余甞長第六号水雷艇懐旧殊切乃為君叙其事為之銘曰
至誠奉公 孰若其忠 偉績将奏 孰妬其功 憤慨難禁 視天夢々 
鬼哭神泣 烈士致躬 大書深刻 其碑穹隆 嗚呼崎氏 英名無窮
 海軍大尉正七位勲六等功五級 鈴木貫太郎選

海上自衛隊発祥乃碑

海上自衛隊発祥乃地

海上自衛隊発祥乃碑
 昭和27年4月」26日、海上自衛隊の前身である海上警備隊がこの地で創設されました。創設に際し戦後の海軍再建を検討したY委員会において全国数箇所の候補地の中から、地元と米軍の了承が得られた唯一の場所が、ここ田浦の地だったのです。
 なお、戦後当地は旧軍港市転換法により民間企業等が使用していましたが、その会社が旧軍との関係が深く、海上自衛隊が使用することを快諾されたこともこの地に決定した理由となりました。

国旗掲揚旗竿基部

国旗掲揚旗竿基部
海上自衛隊創設当時にこの地に建てられたものであり、海上自衛隊の歴史を残すものである。

第2術科学校開校20周年記念機関

「350馬力蒸気往復機関」
海自が昭和27年発足時から昭和32年まで「えい船4号」として使用した旧帝国海軍雑役船の主機械。同船除籍後に教材として活用。創立20周年に際して記念機関として永く保存されている。


海軍機関術参考資料室
海上自衛隊創設史料室

ひとまず別記事を参照でお願いします。。。


そのほか

横穴の壕。消火栓もみえる。

このあたりも当時からかもしれない

海上自衛隊第2術科学校と俗世界の境界。これも当時から。

また来ます


関連

館山の海軍戦跡散策・その1

平成28年4月

・館山海軍航空隊跡
  赤山地下壕
  掩体壕
  水上班滑走台跡(米軍上陸の地)
・第二海軍航空廠館山補給工場跡
・安房神社
  館山海軍砲術学校第三期兵科予備学生戦没者慰霊碑
  海軍落下傘部隊慰霊碑
・館山海軍砲術学校跡
  正門跡・戦車橋
  平和祈念塔
  炊事場跡(ボイラー室跡)
  飛行特技訓練プール跡(落下傘部隊訓練プール跡)
  化学兵器実験施設跡
  ヤシの木
・震洋滑走台跡

令和元年房総半島台風(令和元年台風第15号)被災前の記録です

その2は、海自で。

この日(平成28年4月某日)は、突然ではあれど友人と館山へ。
友人車の機動力を活かして、館山に点在する海軍戦跡と神社をいくつか散策。


館山海軍航空隊(館空)

昭和5年(1930)に館山海軍航空隊(館空)開隊。海軍航空隊としては5番目。
横須賀海軍航空隊(横空)の実戦部隊が館山に移動することで「横空」は研究航空隊に特化。
昭和11年に木更津海軍航空隊(木空)が開隊すると、「木空」が外戦作戦任務を担当し、「館空」は内戦作戦部隊となる。
開戦後の1944年(昭和19年)に、東日本の哨戒航空隊を統合した「第九〇三海軍航空隊」が館山を中心に展開され、対潜哨戒機が配備され広大な哨戒区域をカバーする事となる。

洲ノ埼海軍航空隊(洲ノ空)

館山海軍航空隊の隣には、「洲ノ埼海軍航空隊」(洲ノ空)が昭和18年6月1日に開隊。それまで「横空」で行われていた射爆兵器の整備教育を担当する全国でただひとつの兵器整備練習航空隊で、操縦以外の航空機にかかわる専門技術を学ぶ養成機関であった。


位置関係

国土地理院航空写真「USA-M583-25」米軍撮影-1947年10月23日

USA-M583-25を一部加工。クリックして拡大。

上記地図のオレンジ色の箇所を散策。紫色の箇所は次回の宿題。未訪問個所。


赤山地下壕

まずは「赤山地下壕跡」へ。
館山市内の戦跡として一番有名な場所から。

https://www.city.tateyama.chiba.jp/syougaigaku/page001892.html

館山市指定史跡 館山海軍航空隊 
赤山地下壕跡
平成17年1月27日指定
 1930(昭和5)年、海軍5番目の実戦航空部隊として、館山海軍航空隊がつくられました。それから、1945(昭和20)年の終戦までの間、館山市香(こうやつ)から沼(ぬま)にかけての一帯には、航空機の修理部品の補給などをおこなった第2海軍航空廠館山補給工場、食料・衣服・燃料などを補給した横須賀軍需部館山支庫関係の施設や、1943(昭和18)年に兵器整備の練習航空隊として開かれた洲ノ崎海軍航空隊など、さまざまな軍事施設がつくられました。
 東京湾の入り口にあることから、館山市には、海軍の施設だけではなく陸軍の砲台や、教育機関(洲ノ崎海軍航空隊、館山海軍砲術学校)など、いろいろな種類の戦争遺跡が残されています。
 このような場所は、わが国のなかでも例が少ないといわれていますが、この赤山地下壕は、合計した長さが約1.6㎞と全国的にみても大きな地下壕で、館山市を代表する戦争遺跡のひとつです。
 つくられた時期は、はっきりしていませんが、このような大きな地下壕が、1941(昭和16)年の太平洋戦争開戦の前につくられた例はないといわれています。
 その一方で、昭和10年代のはじめに建設が始まったという証言もありますが、当時の軍部が本格的に防空壕をつくり始めたのは、1942(昭和17)年より後であるという歴史的な事実があります。
 全国各地につくられた大規模な地下壕の壕と壕の間の長さは、一般的には10~20m以上(長野市松代大本営の象山壕は25mであるとされていますが、この赤山地下壕は5~10mと狭い上、計画的に掘られたとは考えにくい、そのつくりから見て、終戦がさし迫った1944(昭和19)年より後にけんせつされたのではないかと考えられています。
 アメリカ軍の空襲が激しくなった太平洋戦争の終わりの頃、この赤山地下壕が、館山海軍航空隊の防空壕として使われていたことは内部にある発電所跡や、終戦間際に、この壕の中で実際に館山海軍航空隊の事務を行ったという体験や、病院の施設があったなどの証言から、知ることができます。
 平成15年 館山市・館山市教育委員会

赤山地下壕跡。
豊津ホールの受付で200円を納めて住所氏名を記載。
そしたらヘルメットと懐中電灯をお借りして地下壕に入ることができます。

今ではストリートビューもできるの便利になったものです。

https://www.google.com/maps/@34.9817322,139.841558,3a,75y,248.85h,83.7t/data=!3m4!1e1!3m2!1s4cv31GKv7mIAAAQo8FbG5A!2e0

自力発電所跡
 この一角は、壁面がコンクリートで補強され、コンクリートの土台や、床面の鉄筋が残っています。発電所があったところで、昭和20年2月に、航空隊の正門前の変電所から移転して使用されていたということです。4気筒200馬力のディーゼルエンジンが2台、発電機が2台、変圧器が9個あったそうです。

このクボミは?その1
 変電所電気員の待機所です。右側の浅いクボミには2段式のベットがあったそうで、10人くらいが交代勤務していたとか。空襲で爆弾の振動があると、天井の土がサラサラと落ちてきたそうです。
 壕内には科(職種)ごとの居住区があったらしく、木の棚のベットがあったそうです。

このクボミは?その2
 この縦長のクボミには、電話番が腰掛けて勤務をしていたそうで、中段左右の突起にコードを巻いていたということです。左隣の窪みはトイレで、桶がおいてあったそうです。

この壕はどうのように使われたのだろう
 防衛庁防衛研究所に「館山航空基地次期戦備施設計画位置図」という図面があります。太平洋戦争末期につくられたこの図面をみると、赤山地下壕跡の位置には、「工作科格納庫」「応急治療所」「自力発電所」と記されています。天井が高い壕は、格納庫として使われたのかもしれません。

戦後の赤山地下壕跡
 終戦後は「忘れられた存在」になっていましたが、温度が年中一定していることから、昭和30年前後頃より、キノコ栽培に使われていました。国内の他の戦争遺跡にも、戦後しばらくキノコ栽培に使われた地下壕跡があります。この風呂やボイラー、コンクリートブロックなどは、そのときに設置されたものです。

このクボミは?その3
 この部屋はがんルームとよばれていたという証言があります。少尉クラスの士官たちの部屋だったようです。奥の四角く切った大きなクボミは御真影を安置した奉安殿で、桧の板張りだったそうです。空襲のときに航空隊から御真影を移したということで、少尉クラスの士官の役割でした。

とにかく地層が美しい。
自然の芸術としても、よりいっそうの見応えがある。 現実には戦跡であるが。

安全に見学でき、そして良く整備されていた空間。
戦跡として歴史伝聞物として、このインパクトは極めて貴重。

海軍の街館山の最初の歴史散策として、この地下壕はうってつけの場でした。


掩体壕

赤山地下壕からはすぐ隣に。

サイズは小ぶり。戦闘機用かと。 掩体壕のすぐ隣は畑。日常との同居。 内部が解放され、自由に中に入れる掩体壕は貴重な存在だったり。


第二海軍航空廠館山補給工場跡

海自館山基地の隣にのこる大きな建物。
現在は民間企業が使用している。


米軍上陸の地


昭和20年9月2日降伏文書調印。 翌9月3日午前9時20分、米陸軍第8軍第11軍団第112騎兵連隊戦闘団約3,500人(司令官カニンガム准将)が館山上陸。 この館山が米軍による本土初上陸の地なのだ。

米軍上陸の地
1945(昭和20)年9月2日、東京湾上の戦艦ミズーリの降伏文書調印式によって第二次大戦が終わった。翌3日、カニンガム准将の率いる米陸軍第8軍約3500名が館山海軍航空隊水上半滑走台から上陸した。東京湾の入口である軍都館山は、このとき本土で唯一、4日間の直接軍政が敷かれた。


館山海軍航空隊水上班滑走台跡

館山海軍航空隊水上班滑走台跡。
この場所にて水上機が運用されていた、と。
水上機用スロープ(スリップ)が残っている。

9月3日に館山に上陸した米軍司令官カニンガム准将は「米軍ニヨル館山湾地区ノ占領」指令を発出。外務省が抗議し4日後の9月7日に軍政解除。 これが日本本土唯一の直接軍政となっている。

米軍上陸の地であり館空水上班滑走台跡でもある界隈から、第二海軍航空廠館山補給工場跡を遠望。 降伏文書調印翌日の9月4日。 館山から日本の戦後が始まっていたのを知るのも感慨深い。

スリップ関連では、ほかに・・・


館山の沖ノ島

館山の沖ノ島。沖ノ島公園。
海自館山航空基地の先、なかなか面白いところにある島。 関東大震災で隆起して陸続きになったらしい。

こんな感じで陸続き。 夏場はリア充空間になりそうですねw

島の入り口脇にいきなりなんかありました。
なんかの建物の基礎ですね。
海軍関係かな? 島内には地下壕なども点在しているらしいですが時間の都合で散策割愛。 せっかくなので島の鎮守様を参拝する。

館山の沖ノ島宇賀明神

安房国司源親元が嘉保3年(1096年)勧請の古社。 宇賀は「なが」に通じ「白い蛇」とも。 館山沖ノ島の鎮守様。

ご神木はタブノキ。 島内一の巨木。

館山沖ノ島宇賀明神神社。 社頭から対岸を望む。海上自衛隊 館山航空基地方面。
島を巡るのはまたの機会にして次に。


安房神社

安房神社。
安房国一ノ宮・延喜式内明神大社・旧官幣大社。
社号標は東郷平八郎謹書。
私にとっては平成14年以来の参拝。
新緑が鮮やかな境内に心が踊りつつの参拝。

本社(上の宮) 天太玉命 天比理刀咩命(天太玉命の后)
摂社(下の宮) 天富命(天太玉命の御孫) 天忍日命(天太玉命の御弟)

天富命が神武天皇勅命によって阿波の忌部氏を率いて東国安房・上下総国に渡った事に始まる。

安房国開拓の祖神。 創建年代は神武天皇の頃まで遡る古社。
安房国開拓を進めた天富命は、祖神であり祖父である天太玉命(天太玉命は天照大神の側近)をこの地に祀ったことに始まる。

延喜式神明帳「安房坐社」名神大社。
千葉県内では「香取神宮」に次ぐ神階。

社頭には「日露戦役記念碑」

新緑が鮮やかな境内。
境内が気持ち良すぎて満足してしまい、なんか色々写真を撮るのを忘れてしまったような。

安房神社オリジナル御朱印帳。
黒をベースに御神紋と社号。シンプルなデザインは好みを分けるかも知れませんが、私は好きですね。格好良いと思います。 初穂料は1500円。御朱印代は別。

御神水。 安房神社後方に鎮座する、吾谷山の霊水。

洞窟遺跡とあったので、戦跡か?と早とちりするも、古代遺跡。
安房神社界隈での原始的な人々の営みの記録。 古社たるべき格がここにあった。

安房神社境内には幾つか横穴がある。
ただし、これが信仰的な穴なのか、戦跡的な壕なのかは不詳。

安房神社界隈には布良陣地群が展開されていたという。
周辺も興味深いが、それは宿題。


館山海軍砲術学校第三期兵科予備学生
戦没者慰霊碑

安房神社境内に。
館山海軍砲術学校 第三期兵科予備学生 戦没者慰霊碑
 ※ 館山海軍砲術学校(館砲)に関しては、後述。

昭和45年10月10日建立。
慰霊碑には館山海軍砲術学校の第三期兵科予備学生229名の戦没者の名が記載。

館山海軍砲術学校 第三期兵科予備学生 戦没者慰霊碑
碑文
過ぐる大戦のさ中 当地神戸村地先にあった館山海軍砲術学校へ入校し教育訓練を受けた第三期兵科予備学生は1440名に及び 彼等は全て全国官公私立の大学高専等より志願によって馳せ参じ 選抜されて入校した学徒である
昭和18年10月8日入校式が行われ海軍予備学生を拝命 直ちに日夜の猛訓練が開始された 翌昭和19年1月末基礎教程を終了 一部は他の術科学校へ転属したが大部は2月1日術科教程に入る 術科では陸戦、対空、化兵の各班に分科し それぞれ第一線指揮官としての徹底的専門教育を受けた
同年5月31日術科教程を修了 卒業式が行われ 即日海軍少尉に任官した 戦雲正に急を告げるの秋 太平洋全域から印度洋に亘る前線へ あるいは諸艦艇等へ赴任し 熾烈な戦列に身を投じた
既にこの年の4月緊急な要請で卒業を繰り上げられて先発して行った同期を含めて任官総数は 陸戦班385名 対空班772名 化兵班50名で 総員1207名である
しかして戦勢は日を追って凄絶となり 勇戦奮闘した同期戦友も相次いで倒れて行った あるいは北海に あるいは南冥の果てに ときに戦争と平和を想い ときに戦局の前途を憂えながら 祖国にその青春の総てをかけたのである かくして尊き英霊となった者は実に228名に及ぶのである
われらはこのことを永久に忘れることはできない ここに栄光有る我等同期生一同の冥福を祈念し 永遠の芳名を刻印して 由緒あるこの神社に一碑を建立するものである
 昭和45年10月10日
 館山海軍砲術学校 第三期兵科予備学生 慰霊碑建設委員長 高橋末吉 誌

同期戦没者二二九名に捧ぐ

参道のソメイヨシノ。
安房神社の染井吉野229本は、この慰霊碑建設の際に229名の戦没者に因んで植えられたものという。


海軍落下傘部隊慰霊碑

海軍落下傘部隊慰霊碑
内閣総理大臣田中角栄揮毫

館山は海軍落下傘部隊発祥の地でもある。

正面には、 翼をひろげた鷲と落下傘、そして地球と錨の彫刻。

海軍落下傘部隊慰霊碑
碑誌
太平洋戦争を告ぐる昭和十六年後期我が国最初の海軍落下傘部隊として誕生し、 十八才より四十五才までの精鋭なる将兵二千有余名により編成、任務の特質上、其の訓練は厳正なる軍規の基猛烈にして不撓不屈の落下傘部隊魂は茲に編成された。
第一特別陸戦隊は昭和十七年一月十一日・十二日 セレベス島メナドランゴワン飛行場に十字砲火を浴び戦闘降下を敢行 更に第三特別陸戦隊は、同年二月二十日・二十一日 チモール島クーパンに戦闘降下を敢行共に占領に成功
其の功績の顕著なる事に対し時の連合艦隊司令長官山本五十六大将より感状を授与せらる。 爾後大スンダ、小スンダ列島の島々を制圧、次期作戦準備の為、一旦内地に帰還し、戦争の末期再度灼熱の南洋サイパン、トラック、ナウルの諸島に作戦し、
特にサイパンの戦いは惨烈を極め善戦の甲斐もなく昭和十九年七月十六日全員玉砕す。 我等茲に往事を顧み戦友相謀り志を結集し今は亡き戦友の霊を慰め其の功績を永く讃えんものと当隊発祥の地、ここ舘山に慰霊碑を建立した。
 昭和四十八年十一月十日
 元海軍落下傘部隊隊員一同建立

昭和48年に元海軍落下傘部隊一同によって建てられた慰霊碑。
右に横須賀鎮守府 第一特別陸戦隊43名、
左に横須賀鎮守府 第三特別陸戦隊46名、の戦没者名が記されている。

横一特・横三特(海軍陸戦隊)として、その勇名を歴史に残している。
合掌。

空の神兵

 藍より蒼き 大空に大空に
 忽ち開く 百千の
 真白き薔薇の 花模様
 見よ落下傘 空に降り
 見よ落下傘 空を征く
 見よ落下傘 空を征く
心のなかで奉歌し慰霊する…


館山海軍砲術学校

館山海軍砲術学校跡。
安房神社からはすぐ北隣に展開されていました。

館山海軍砲術学校。
昭和16年(1941)に館山砲術学校(館砲)が新設。
館砲では陸戦隊の操練術や高角砲対空砲の操作術・化学戦術など。一方、従来の横須賀砲術学校(横砲)では、艦載兵装の操作術を担当。
昭和20年4月25日に横須賀砲術学校分校に格下げ。終戦直前の同年7月31日には閉鎖。これは米軍上陸地点想定地近くでの教育訓練は適切ではないため、という。


位置関係

国土地理院航空写真「USA-M583-14」米軍撮影1947年10月23日

「USA-M583-14」一部加工。画像はクリックで拡大可。

館山海軍砲術学校跡
 第二次世界大戦以前は海戦における主な攻撃力は大砲であると考えられ、明治時代以来、旧海軍の砲術教育は神奈川県横須賀で行われていました。
 昭和16(1941)年6月1日、陸上砲術の実地訓練を目的とした館山海軍砲術学校 (館砲)が新設されると、それまでの海軍砲術学校は横須賀海軍砲術学校(横砲)と名称をあらためました。
 「館砲」の特色は、士官候補であった大学出身の海軍予備学生が訓練を受けていたことです。陸戦、対空、化兵(3期以降)の3班にわかれ、陸戦班では、敵前上陸や対戦車戦闘などの訓練が、対空班では、高角砲などの射撃訓練が、化兵班では、毒ガス戦の訓練が行われていました。
 「館砲」で訓練を受けた学生は、海軍予備学生の1期から6期に及び、開校直後は軍医学生が海軍士官としての素養を学ぶ基礎教育の場でもありました。
 昭和19(1944)年10月に入隊した5期予備学生等の約4000名は5ヶ月間の基礎教育を受けたあと、それぞれが術科(各職種)学校に進み、館砲には655名が入校したとされています。
 訓練施設としては広大な平砂浦演習場、東砲台・西砲台の対空訓練砲台、犬石射撃場、飛行特技訓練プールなどがありました。
 昭和20(1945)年4月25日に、館砲は横砲の分校となり、終戦を目前にした同年7月31日には閉鎖されました。その理由はアメリカ軍の本土上陸か想定されていたなか、太平洋岸の平砂浦で教育訓練を行うことが適当ではなくなったためといわれています。  
 平成18年3月 館山市・館山市教育委員会

館山海軍砲術学校と訓練に向う予備学生隊
 真継不二夫氏撮影

 昭和18年10月、この館山海軍砲術学校へ入学した海軍第三期予備学生は1,440名であった。
 かれらは全て全国の官公私立の大学、高等専門学校より馳せ参じ、選抜されて入隊した学徒である。
 昭和18年10月 8日入校式が行われ海軍第三期兵科予備学生を拝命、直ちに日夜の猛訓練が開始された。
 翌昭和19年1月末基礎教程を修了、引続き術科教程に入り、陸戦、対空、化兵の各班に分科し、夫々第一戦指揮官としての専門教育を受けた。同三月末、あるいは五月末術科教程を修了。卒業式が行われ、即日海軍少尉に任官し、戦雲まさに急を告げる太平洋全域からインド洋に亘る前線に赴任し、激烈なる戦列に身を投じたのである。この隊列(写真)の中にも多数の戦没者がいる。
戦没者はフィリピン(比島)、硫黄島を第一として各地域の部隊および艦船(大和9、武蔵6、山城6、長門5、扶桑3、那智3、大鷹・大鳳・熊野・羽黒・葛城各1)における戦没者は次ぎの通りである。
グアム4名、テニアン5名、パラオ1名、
比島方面92名、インド洋方面6名、ビルマ4名、
ビアク2名、ボルネオ10名、セレベス2名、
ラボール3名、南漢島2名、マレー方面1名、
スマトラ1名、舟山島1名、東支那海3名、
モルッカ諸島1名、マリアナ群島1名、黄海3名、
内南洋2名、アンボン1名、ニューギニア1名、
ペリリュー島5名、サイパン方面11名、硫黄島18名、
東シナ海方面13名、台湾方面8名、
沖縄方面8名、南西諸島方面10名、千島2名、内地近辺8名
合計229名。この外基礎教程後他術科へ転出後戦死者若干名、法務死若干名。
 ここに館砲校全景を伝える希少な写真を展示し、「鬼の館砲」といわれた猛訓練を受け、勇敢敢闘の末倒れた万余といわれる将兵・同期生たちの護国の想念を偲び、深き感謝と鎮魂の想いを捧げる次第である。終
 平成年5月27日(1999年海軍記念日)
 館砲3期会有志(以下個人名略)

館山海軍砲術学校正門跡には往時を偲ぶ記念板がある。
「鬼の館砲」と称された海軍陸戦隊の教育機関。


館山海軍砲術学校
正門跡・戦車橋

正門跡の通りにかかる橋は「戦車橋」と言われている。戦車橋脇の側溝も往時のままのもの。 砲術学校ゆえに「戦車橋」。正門の道はさながら「戦車道」。


館山海軍砲術学校
平和祈念塔

館山海軍砲術学校平和祈念塔。
戦車橋からまっすぐ進んでいくと右手に砲身のようなものが見えてくる。 砲身のような塔。

館山海軍砲術学校跡

舘山海軍砲術学校の沿革
 舘山海軍砲術学校(「舘砲」)は大東亜戦争の開戦直前、風雲急を告げる秋に当たり、阿部孝壮初代校長(後に、第六特別根拠地隊司令官。戦後敗軍の将としての責めに任じ、グァムで慫慂として法務死)を載して、昭和十六年六月一日、当地(千葉県粗郡神戸村、現在は、舘山市佐野地区)に開設された。
  学校用地は、帝国海軍当局の現地調査による当地が最適との報告に基づき決定された。用地問題は安田義達開設委員(初代教頭。後年、横須賀第五特別陸戦隊指令としてブナで壮烈な戦死)の熱誠溢れる説得と、耕地及び山林原野の大半を失うという苦難を克服して、なお誠心誠意の協力を惜しまなかった出口常次村長、錦織寅吉助役を初めとする村民各位の尊い愛国の至情と献身的努力により解決され、急遽、建設の運びとなったものである。
  「舘砲」は、横須賀海軍砲術学校(「横砲」)の陸戦、対空等、陸上関係の砲術部門が分離独立する形で開設された術科学校である。訓練設備として広大な平砂浦演習場並びに東砲及び西砲台の対空訓練砲台を備えていた。後に、化学兵器に関する部門が加えられ、常時、一万数千人の将兵を擁する規模であった。
  戦局の悪化に伴い昭和二十年四月二十五日、「横砲」に併合されて同校の分校となり、終戦直前の昭和二十年七月三十一日、閉鎖、廃校となった。開校から廃校までの存続期間は、僅か四年間に過ぎなかったが、厖大な人員が教育訓練を受けたと推定される。しかし、記録喪失のため詳細は不明である。
 「舘砲」では研究部員が、陸戦、対空、化兵に関する専門技術・教育訓練に関する指導研究に当たった。その術科教育の対象は、兵科将校学生及び術科講習員の他、初級幹部の緊急訓練対策として、第一期兵科予備学生、第二期兵科予備学生、特別第三期兵科予備学生と第三期兵科予備学生、学徒動員の第四期兵科予備学生と第一期兵科予備学生、第五期兵科予備学生及び第二期兵科予備生徒並びに第一下士官候補訓練生及び第二下士官候補訓練生(師範学校卒)が挙げられる。
  更に優秀な下士官兵指導員の練成を目指して、高等科訓練生及び普通科練習生に対する教育訓練にも重点がおかれた。また、若年者の特別志願制度に基づく特年兵の教育訓練も行われ、その第一期及び第二期は、年少のまま実戦にも参加した。なお、台湾・朝鮮半島出身志願兵に対する教育も実施された。
  初期にはメナド落下傘降下で勇名を馳せた横須賀第一特別陸戦隊、中期にはソロモン群島方面で悪戦苦闘を続けていた横須賀第七特別陸戦隊、呉第六陸戦隊、佐世保第六特別陸戦隊、呉第七特別陸戦隊並びに佐世保第七特別陸戦隊、末期には、山岡S特攻部隊等々の部隊編成及び特別訓練も行われ発信基地ともなった。
 この間、前線の各地に向けて多数の防空隊が陸続として派遣されたが、その部隊編成及び特別訓練も行われ、その発進基地ともなった。その隊員の中には、国民兵役から徴集された多数の、年長の補充兵も含まれていた。
 「舘砲」は、開校直後、軍医科学生、薬剤科学生及び歯科医科の普通科学生の基礎教育の場としても利用されており、また、終戦間際の段階では、飛行科士官に対する陸戦指導法の演錬、艦船乗組の機関科・工作科系統の特務士官・準士官に対する防空指導法の演錬等、緊急の切替教育も行われた。
  このように、「舘砲」は、帝国海軍の各種陸上部隊、とりわけ、特別陸戦隊、基地警備隊、特別根拠地隊等の陸戦・対空専門技術に関する教育訓練の中核であったため、その影響する範囲は、広く、且つ、深く、その実戦即応を重視した教育内容は、誠に、多岐多彩なものがあった。
 「舘砲」の特色は帝国海軍の指揮官先頭の伝統による猛特訓を特徴とし、人は、「鬼の舘砲」と呼んだという。ここの教育訓練を受けた戦友は、陸戦、対空の実戦に臨んでは、遺憾なく指導力を発揮した。北は極寒不毛の孤島から南は、炎熱の島に至るまで、悪条件をものともせず、縦横無尽に活躍し、時として、激しい爆撃弾の下、寡兵よく大敵に屈せず、長期持久の戦いを闘い抜き、或は、力尽きて倒れ玉砕された将校各位も多い。その数は、一千数千柱にも及ぶと推定されている。この勇戦奮闘が、今日の日本繁栄の基礎を築いた原動力である。祖国の安泰を願い、同朋への愛に殉じる志こそ、国家の存立及び発展に不可欠なものである。
  祖国愛に殉じたこれら多数の戦士のご遺徳を偲び、切に、そのご冥福を祈りつつ、開校五十周年の記念日に、想い出尽きない舘山海軍砲術学校跡に、地元各位の絶大なるご協力を仰ぎつつ、ここに、多年念願の記念碑を建立し、永世に、太平を開かせ給えと、希うものである。
 平成三年六月一日
 舘山海軍砲術学校跡に記念碑を建立する会

雄魂
元連合艦隊兼横須賀鎮守府参謀 寺崎隆治謹書

平和祈念の塔
 平成3年6月吉日
 館山市長 庄司厚書

過ぎし戦に 玉と砕けし戦友の 英霊安かれと祈り
 永世に 太平を開かせたまえと ひたすら 希う

朽ちていく四一式山砲。
20センチ・ロケット弾(噴進弾)。
戦地より収集された遺品(銃剣)などが塔の周辺に展示してありました。

館山海軍砲術学校時代からの井戸という。

世界各地を示す標識


館山海軍砲術学校
炊事場跡(ボイラー室跡)

館山海軍砲術学校炊事場跡(ボイラー室跡)
赤煉瓦の壁だけが奇跡的に残っている空間。
何というか、存在感に圧倒されてしまった。


館山海軍砲術学校
飛行特技訓練プール跡
(落下傘部隊訓練プール跡)

炊事場跡から高台に移動。
その高台から見えるは、館山海軍砲術学校飛行特技訓練プール跡(落下傘部隊訓練プール跡)
この場所も奇跡的に残っていた。

Google航空写真より抜粋


館山海軍砲術学校
化学兵器実験施設跡

館砲の中心から隔離された場所に朽ちかけた史跡がある。
軍機(軍事機密)であったが、館砲では細菌などの生物兵器や毒ガスなどの化学兵器に関する教育や訓練が行われた海軍唯一の養成機関もあり、教育機関としては陸戦班、対空班、化兵班の三班制であった。

館砲化兵班が何らかの化学兵器実験施設として使用していた建物跡という。
いまは、何を語るでもなく畑の中に風化しつつある歴史遺産。


通りすがりに参拝。

洲崎神社

「洲崎神社」 安房国一宮
(ただし一宮は江戸期以降の主張、安房神社に対する二宮とも。洲崎神社に対する二宮は洲宮神社)
旧社格は県社。 延喜式内論社。
御祭神は天比理乃咩命(天太玉命の后神)

参道石段に圧倒。これは見事な神域。
御手洗山中腹に鎮座している。

神武天皇の御代、安房忌部一族の祖天富命が勅命により四国の忌部族を率いて房総半島を開拓。 忌部族の総祖神天太玉命の后神天比理乃咩命を祀ったことにはじまる古社。

延喜式内社神名帳では、式内大社・后神天比理刀咩命神社。(論社)

治承4年(1180)石橋山の合戦に敗れ房総半島に逃れてきた源頼朝は当社に参詣し源氏の再興を祈願。以後、武家の崇敬が篤い。 ちなみに。 文治3年(1187)に源頼朝が洲崎神社から天比理乃咩命を勧請したのが品川神社の創建由来ともなる。

東京湾海上鎮護神として。 洲崎神社から品川神社へと連なる歴史を辿るのも興味深いものではあり。 更には阿波国から房総へと渡ってきた忌部一族の足跡を辿るのも一興。

洲崎神社。浜鳥居へ。 洲崎神社の旧鎮座地は、この浜であった、と。 浜から現在の鎮座地を望めば、美しい神奈備山。

御神石

洲崎神社。御神石。
なんとも言えない格を帯びている御神石。 長さは2.5メートル。

実は洲崎神社に奉納された神石は二対ある。 ひとつは、この吽形の神石。
もう一つは三浦半島安房口神社の阿形の神石。

洲崎神社の吽形の御神石と対になる御神石。
もう一つの御神石は三浦半島に飛んでいったと伝承。 房総半島から東京湾を挟むように対坐する三浦半島の御神石。 これは忌部一族の海上支配の具現化であろうか。古代の信仰文化圏を夢想する。

こちらは三浦半島の安房口神社(2014年撮影)

三浦半島。安房口神社の阿形の御神石。
安房口神社は三浦半島最古の神社。 館山で三浦半島を感じる。海の目線で見れば隣。まさに安房口。 洲崎神社の文化は深いですね… 実に面白い。

洲崎神社の浜。対岸を眺めつつ洲崎神社を後にする。ここは興味深い信仰文化の宝庫。きっとまた来ることになりそうです。 時間は16時過ぎ。最後に戦跡を一カ所だけ寄り道してみる。


震洋滑走台

洲崎から海岸線沿いを進む。
波左間漁港。

ここの海に不思議な造形物がある。
震洋滑走台。

震洋は、いわゆる特攻兵器。爆薬をつんだモーターボート。
付近には震洋を格納した壕も点在しているという。

訪れた時が満潮だったようで、形は今ひとつ。雰囲気レベルで。

第一特攻戦隊第18突撃隊
波左間「震洋」特攻基地跡


館山駅前のヤシの木

館山駅前のヤシの木は館山砲術学校正面にあったものを戦後に移植したものだとか。 車のなかから撮影したので今ひとつな写りですが、記録として。

googleMapのストリートビューも参照に。

館山は、戦跡の宝庫であり、今回の掲載はそのほんの一部。見逃したところも多いので、いずれかに再訪せねばならない地であれど、今回はいったんこれにて〆。


日本海軍大東亜戦争戦没者殉国者慰霊碑(龍口寺)

令和元年(2019年)11月撮影

神奈川県藤沢市片瀬鎮座の龍口寺。
日蓮が処刑されそうになった地。

ちょうど江ノ島の入口に位置しており、門前には江ノ島電鉄(江ノ電)が走る。

そんな龍口寺の境内に、人知れず大東亜戦争の海軍慰霊碑がある。

日本海軍大東亜戦争戦没者殉国者慰霊碑

日本海軍戦没者47万3千余柱と殉国者200余柱の英霊を慰霊する。
昭和62年4月8日建立。

日本海軍大東亞戰争戰没者殉国者 
南無妙法蓮華経 慰霊碑 

 龍口十三世 日宣(花押)

維時 昭和六十二年四月吉日 
 海交会 
  龍口寺大本願人
   秦野秀雄 建之

追悼の辞
大東亜戦争日本海軍戦没者四十七万三千余名殉国者二百余名の 
 御英霊に捧ぐ 
祖国日本の繁栄と同朋の幸福を念じつ 悠久の大義に殉じた 
御英霊に感謝申し上げ御冥福を祈る
 施主 元海軍一等兵曹 秦野秀雄 
  奉賛者 
   元法務大臣 秦野章 
   元参議院議員 藤井裕久
   衆議院議員 田中慶秋 
   立正山光妙寺 柴山宣哲

主要慰霊行事 
一 中部太平洋ソロモン方面慰霊祭施行 海交会 
   昭和五十六年十一月十二日より十二月一日まで
一 タラワ ナウル グアム マショロ島慰霊祭施行 
   昭和五十八年十一月二十二日より十二月一日まで
    熊野原妙光寺 田中栄海 
    亀井野法泉寺 酒井光雄 
    愛国歌手 渡辺はま子
一 南太平洋方面慰霊祭施行 
   昭和五十九年十一月二十八日より十二月九日まで
一 フィリッピン 台湾 沖縄方面慰霊祭施行 
   昭和六一年十一月二十六日より十二月十日まで
 
世話人 
 海交会 元海軍中尉 山北林
 謹書 元海軍少尉 米本八百重

(碑面裏)
昭和六十二年四月八日建之
 (以下奉賛者名は略)


地下壕(陸軍抵抗拠点陣地)

龍口寺境内に残されている、陸軍抵抗拠点陣地は戦跡として著名。
陸軍歩兵第401聯隊のよる米軍上陸による水際の防衛陣地。
実際には使われることなく終戦を迎えているが、境内には地下壕の開口部が数箇所残されている。

今回は、地下壕が目的ではなかったので、この話題はここまで。
関係者以外進入禁止エリアですし。

龍口寺や界隈の地下壕に関しては、ネット上に情報が散見しておりますので、ご参照をば。

龍口寺(りゅうこうじ)

神奈川県藤沢市片瀬鎮座。
文永8年(1271)9月12日に日蓮宗の開祖日蓮が、この地にあった龍口刑場で処刑されそうになったことに、関連する寺院。

明治43年(1910)建立の五重塔。

天保3年(1832)建立の本堂。

昭和45年(1970)竣工の仏舎利塔。

龍口刑場跡

山門前には、江ノ電。

鎌倉江ノ島界隈は戦跡が多いけれども、巡りきれておりません・・・

関連

軍隊と羊羹

酒保(軍隊での売店)での人気の甘味のひとつであった「羊羹(ようかん)」。
そんな羊羹を以下、つれづれと。

間宮羊羹

海軍将兵に最も愛された艦として有名な特務艦「間宮」

艦隊勤務の海軍将兵に給糧として甘味をもたらしてくれる特務艦。
「間宮」ではアイスクリームやモナカ、ラムネなどの嗜好品を生産しており、なかでも羊羹は一番人気だったとか。

「間宮羊羹」とは

【特務艦 間宮】
 広島県呉市を母港とする艦艇の中で、海軍将兵に「最も愛された、人気のあった艦」と言えば、間違いなく特務艦「間宮」でしょう。
 特務艦とは、他の艦艇の活動を支援することを任務とする艦で、「間宮」は他艦に糧食を供給する給糧艦でした。
 「間宮」は、内地から部隊に糧食を輸送するだけでなく、艦内に食品を製造加工できる設備をも有し、食品の他にモナカや大福、羊羹などの菓子類も製造していました。

【海軍将兵に大人気だった「名物 大型羊羹」】
 昭和17~18年に間宮主計長を務めた角本元海軍中佐の話によると、「と○やの羊羹より大きく!」との命令が申し送らされていたそうです。
 結果、当時「間宮」で製造されていた羊羹は、最低でも2kgはあったと思われます。
 そのサイズの羊羹を「間宮」では1日に2200本製造できる能力があったそうで、まさに「一大製菓工場」と言われていたのは不思議なことではありません。

※この商品は公益社団法人呉青年会議所、海軍料理研究家の方々の協力により当時レシピにて可能な限り再現したものです。

特務艦間宮戦没者慰霊碑

広島県呉市 海軍墓地

給糧艦「間宮」
就役当時は間宮は世界最大の給糧艦であり、日本海軍としても初の給糧艦であった。補給の要として活躍。艦隊の酒保として非常に人気が高く帝国海軍の中では最も有名な艦の一つ。
昭和19年12月21日、米潜水艦の雷撃により沈没。

間宮羊羹専用 海軍刀

間宮羊羹専用 海軍刀
ようかん和菓子ナイフ
大日本帝國海軍の群島は錆びにくいステンレス刀が多く使われておりました。
この「ようかん和菓子ナイフ」は、ステンレス洋食器の一大産地「新潟県燕市」の職人が一つ一つ手磨きで仕上げた物です。どうぞ安心してお使いください。

「間宮羊羹」とは?
大日本帝國海軍の艦隊勤務者に一番愛されたフネは、大和・武蔵ではなく「給糧艦間宮」。
それは間宮が甘い物を届けてくれるから。アイスクリーム・最中・ラムネ等の嗜好品を艦内で生産していた間宮。その中でも「間宮羊羹」の愛称で親しまれた羊羹が一番人気でした。


江田島羊羹(江田島ようかん)

友人からの戴き物

江田島は美しい広島湾に位置して、東は呉市に北は広島市に相対し、西は名勝安芸の宮島に接した南北に細長い島です。明治廿一年八月海軍兵学校がこの江田島にできました。以来旧海軍のメッカとして若人のあこがれの地でありましたが、昭和廿年八月終戦とともに約六十年の歴史の幕を閉じました。
昭和廿一年一月海上自衛隊第一術科学校が発足し、再び海の男達の修練の場として脚光を浴びることとなりました。
江田島羊かんは古鷹羊かんと共に兵学校時代よりこの海の男の皆様から、常にご愛用を賜り御土産品として絶えず御利用戴いています。


航空携帯糧食 玉羊羹

靖國神社遊就館の売店にて購入

玉羊羹
ゴム製の風船を容器として売られる球状になった羊羹。

支那事変(昭和12年)のころに、戦地の兵隊さんへ送る慰問袋用菓子として、日本陸軍から開発指示により生まれたことに始まるという。

当時は「日の丸羊羹」とも呼称された。

航空携帯糧食 玉羊羹
~航空糧食の特徴~
玉ようかんは、高高度飛行の気圧変化の激しい環境下でも容器が破裂することなく、容易に携帯でき、甘味による疲労回復の糧食として携帯されていました。


大日本帝國海軍の伝統を受け継ぐ海上自衛隊でも。

海軍羊羹 観艦式ようかん

自衛隊観艦式2019 限定の「観艦式ようかん」(さかくら総本家)


海軍羊羹(さかくら総本家)

海軍羊羹とは
明治時代からさかくら総本家の和菓子は海軍御用達品でした。
長期保存できる甘味品を望んでいた海軍からの依頼を受け、開発された羊羹を当時の味のまま再現したものが「海軍羊羹」です。

(海軍羊羹)
やや硬めで仕上げた当時の食感をお楽しみください。

(海軍羊羹 抹茶)
※本品は製造方法をそのままに、白あんと宇治抹茶を使用し現在風に仕上げた羊羹となっております。

海軍御用達品

さかくら総本家の羊羹は横須賀をはじめ、呉、佐世保各鎮守府に納められておりました。
長期保存できる甘味料を望んでいた海軍からの依頼を受け、開発された羊羹を当時のまま再現したものが海軍羊羹です。


巡羊羹(呉・武田製網)

靖國神社遊就館売店にて入手。

一等国の一等品

呉名物

巡羊羹

伝統につちかわれた羊羹を独自の製法により新しい感覚にアレンジして現在にマッチした羊羹に仕上げました。


海上自衛隊 塩ようかん

ポケット羊羹で安定の「かし原」ですね。


「ようかん」は、今も昔も愛される甘味ですね。

東郷氏祖先発祥地

海老名駅から綾瀬市役所方面に向かうバスに揺られて、城山公園バス停で下車。

この地にあった「城山城」が、「東郷平八郎の祖先発祥の地」であったという。早川城址の物見塚の上に記念碑が建立されている。

東郷氏祖先発跡地

東郷氏祖先発跡地
 元帥伯爵東郷平八郎書之

相模高座の郡早川郷は往古渋谷庄司重国の領地にして其子光重孫重直実重の住地なり
光重承久の乱に戦功あり薩摩国薩摩郡の数郷に封せられたり
光重は長男重直と共に早川に在城し次男早川次郎実重三男吉岡三郎重保四男大谷四郎重茂五男曹同五郎坊定心下男落合六郎重貞は宝治二年の春薩州の封地に下向せり而して実重は川内川の上域東郷の地を領し姓を東郷と改む
元亀元年東郷の一族島津氏に帰服するに至る迄三百十有余年間其子孫東郷地方に割拠し渋谷党と称し雄を北薩に振へり爾来東郷の姓を冒す者概ね其後裔なり昭和六年有志相謀り東郷氏の祖先発跡の旧地を卜し早川の城山物見塚に碑を建て以て後昆に伝ふと云爾
 昭和六年 月
  海軍中将正四位勳一刀功四級東郷吉太郎撰並書

物見塚と東郷氏祖先発祥地碑
 早川城本郭の西側に位置するこの塚は、物見塚と呼ばれています。南北21m、東西23m、高さ約2mの塚です。発掘調査の結果, 表土直下に宝永火山灰(1707年、富士山の噴火による火山灰)が見られることから江戸時代初期以前に築かれていることは明らかです。また、塚の作り方が土塁と同 様の版築(黒土と赤土を交互に敷きつめて突き固めたもの) であることから、城郭の関連遺構のひとつであり、外敵の侵入を見張るため築かれた塚であると思われます。
 物見塚の上には、昭和7年に祖先発祥地東郷会により建てられた「東郷氏祖先発祥地碑」があります。この碑は日露戦争で有名な旧海軍元帥である東郷平八郎の先祖の地であることを記念して建てられたものです。東郷家は、早川城主であったと伝えられる渋谷氏の末裔の一つでした。
 綾瀬市

早川城址
東郷元帥祖先発祥地

県下名勝史蹟四十五佳撰当選記念 横浜貿易新報社

城山公園

早川城跡
 早川城跡は、地元では古くから「城山(じょうやま)」と呼ばれ、鎌倉時代の御家人渋谷氏の城と伝えられています。しかし、文献資料がないことから、その実態は明らかではありませんでした。
 そこで、綾瀬市教育委員会では平成元年度から平成六年度にかけて、早川城跡の学術調査を行ないました。
 発掘調査によって、堀切・土塁・物見塚・曲輪等、多くの城郭関連遺構が発見され、県内でも有数な保存状態の良好な中世城郭であることが明らかとなりました。また、城郭が構築される以前には、縄文時代や古代の集落が営まれていたことも明らかとなりました。

渋谷氏と早川城跡
 渋谷氏は平安の末期、綾瀬市域を中心に渋谷荘(吉田荘)という荘園を支配し、勢力をもった武士でした。『吾妻鏡』によると、平治の乱(1159年)に敗れて奥州に落ち延びていく源氏の重臣佐々木秀義を渋谷重国が保護したとの記事があることから、この頃までには綾瀬市域一帯を支配下に置いたものと思われます。
 鎌倉時代になると、渋谷重国は源頼朝の家臣である御家人となり、その子高重が後をつぎました。高重は早川次郎と名乗り、早川に拠点を置いて一族を統率していたものと思われます。1213年の和田合戦では高重は和田義盛に組したため高重はじめ多くの一族が討たれましたが、1247年、宝治合戦の後、その軍功により薩摩国入来院ほかに所領を得、地頭となり、その際多くの一族が移っていきました。しかし、室町時代の初め頃までは綾瀬市域に渋谷氏の支配が続いたと思われ、その一族が早川城を築城したものと考えられます。

堀切と土塁
 鎌倉時代に築城されたと推定される早川城跡は、天守閣を持つ江戸時代の城と異なり、自然の地形を巧みに利用し、堀切と土塁を周囲に巡らした「砦」的な要素の強い城郭であることが発掘調査によって明らかとなりました。堀切とは外敵の進入を防ぐため、城の周囲に巡らされた堀のことです。
 堀切の内側には、堀切を掘った土を利用して、土塁と呼ばれる高い土手を築き、さらに堅固な防御施設を作り上げています。早川城の場合、東西及び南側は急峻な崖に囲まれ、自然の要害となっています。しかし、北側は平坦なため、幅約11メートル、深さ5メートル以上という大規模な堀切と土塁を築いて敵の侵入を阻んでいます。
 早川城は、有事の際に周囲に暮らす武士たちが集結して、外敵の進入に備える防御施設として、また、領民に対しては、権力を誇示するシンボルとしてそれぞれ機能していたものと思われます。

見事な堀切と土塁が残る。

西側は低地の湿地帯となっている。天然の要塞。現在は湿生園として整備されている。

薩摩の東郷平八郎の東郷氏が、まさか渋谷氏の流れを踏んでいるとは、此の地に足を運ぶまで知りませんでした。
良い知的散策が出来ました。


鳴尾八幡神社慰霊塔(戦艦安芸の砲身?)

令和元年12月参拝

西宮市に所用があった。隙間の時間を利用して阪神電車「甲子園」駅に。そこから歩いて10分ほどのところに「鳴尾八幡神社」という神社が鎮座。
まずは御社殿にて参拝をし、参道脇に建立されていた「慰霊塔」に拝する。

鳴尾八幡神社慰霊塔
 戦艦・安芸の砲身

鳴尾村関係の戦没者500余名を祀る慰霊塔。
この慰霊塔に使用されている砲身、伝聞では「戦艦安芸の砲身」と伝わっている。砲身の先には鷲が翼を拡げていた。

合掌

木々が茂っていて後ろには回り込みができなかったので境内地の外から慰霊塔の背面を。

慰霊塔の台座背面には獅子頭があった。

戦艦 安芸

姉妹艦「薩摩」とともに日本国内で建造された最初の戦艦。準弩級戦艦。

1907年進水、1911年(明治44年)竣工。
日本の戦艦として初めてカーチス式タービン機関を搭載。薩摩と違いタービン機関を搭載した安芸は姉妹艦とされる薩摩と違い初期の弩級戦艦に匹敵する速力(20ノット)を誇った戦術的価値の高い戦艦であった。
ワシントン海軍軍縮条約により薩摩・安芸ともに廃棄が決まる。1923年(大正12年)9月20日除籍。研究射撃の標的艦に指定される。
1924年(大正13年)、戦艦「扶桑」に曳航された「安芸」は、新鋭の長門型戦艦「長門」「陸奥」による射撃により沈没。

両舷の副砲として、
戦艦「薩摩」は、40口径12cm砲 に対し
戦艦「安芸」は、40口径15.2cm砲 を配備していた。

この慰霊塔に使用されているのは、一説には「12cm砲の砲身」という。ところが戦艦「安芸」には12cm砲は搭載されていなかったので、この慰霊碑の砲身が「12cm」なのか「15.2cm」なのかの真偽は不詳。

鳴尾八幡神社

兵庫県西宮市鎮座。鳴尾地区の総鎮守。旧村社。
創立年代不詳なれど、創立は文安時代(1444~1449)とされる。

社号標は昭和3年5月建立。

旧横浜船渠ドックと帆船日本丸

2019年11月撮影

横浜みなとみらいに用事があった早朝に。周辺を散策してみました。


帆船日本丸

国重要文化財
初代日本丸は川崎造船所(神戸)にて進水し昭和5年(1930)竣工、昭和59年(1984)引退後に現在地にて保存。
航海練習船として活躍。「太平洋の白鳥」「海の貴婦人」と呼称。

太平洋戦争中の昭和18年(1943)には帆装が外されてディーゼル機関での輸送任務などに従事。戦後は復員船としても活躍。

日本丸について
 昭和2年練習帆船霧島丸999総トンが千葉県銚子沖で暴風のため沈没、乗務員及び学生全員が船と運命を共にしました。この惨事を切っ掛けに昭和3年の国の予算において、大型練習帆船2隻の建造費182万円、1隻あたり91万円が認められました。当時我が国の一般会計予算は、軍事費、国債費をのぞくと8億7千万円程度にすぎず、2隻の建造費のしめる割合は2/1000に及ぶ巨額でした。建造は神戸の川崎造船所が当たりました。
 昭和5年、田中隆三文部大臣は日本の海の王者にふさわしい船にしたいとの期待から1月27日に進水した第1号船を「日本丸」、2月14日に進水した第二船を「海王丸」と命名しました。 日本丸は昭和5年3月31日竣工し、同年横浜からカロリン諸島のポナペ島へ初遠洋航海に出帆しました。 昭和18年には第二次世界大戦激化のため残念ながら帆装を撤去し、戦争中の緊急物資輸送や戦後の引揚者25,423人の輸送などにも従事しました。 その後昭和27年に帆装を復旧し、現在の姿に戻ることができました。 建造以来昭和59年9月16日の退役までの半世紀余のあいだに地球45.5周に相当する約183万キロメートルを航海し、約11,500人の海の男を育てました。また、主機関ディーゼルエンジンの稼働年数54年半は舶用機関として現在最長記録です。 退役後の誘致運動は全国10都市に及び、その中で保存、公開、活用の計画に優れていた横浜市に払い下げが決まり、公開のための整備をした後、昭和60年4月28日より、ここで公開されています。

帆船日本丸のメインマスト

帆船日本丸のメインマスト用トップ・ゲルンマスト
日本丸の4本のマストの下から約5分の3は鋼製ですが、残りの上部約5分の2はトップ・ゲルンマストといい、檜材が使われています。
このトップ・ゲルンマストは、日本丸のメインマストで使用されていたものです。1952(昭和27)年の帆装復帰工事の時、三重県北牟婁郡長島町産の樹齢約200年と推定される檜の一本材を自然乾燥後、加工して取り付けられました。以来、約40年間使用されてきましたが、根元部分の腐食がはげしくなったため、1990(平成2年)11月から翌年3月にかけて行われた定期検査工事で、吉野産檜のマスト材に取り替えました。
 ※展示にあたり、腐食防止のためマスト表面はプラスチック加工しました。

帆船日本丸のスクリュー・プロペラ

帆船日本丸のスクリュー・プロペラ
帆船日本丸はディーゼル主機関を右舷と左舷に備えています。このプロペラは左舷機用の予備プロペラです。回転方向は右舷・左舷、互いに外回りで前進力を出します。

https://www.nippon-maru.or.jp/nipponmaru/


横浜船渠株式会社

イギリス人技師・パーマーのアドバイスを受けて、渋沢栄一と横浜財界人らによって「横浜船渠」(横濱船渠)が明治22年(1889)に設立され、3基のドック(うち2基は遺構保存)が建設された。

横浜船渠では日本郵船「氷川丸」や「秩父丸(のちの鎌倉丸)」を建造、また海軍艦艇の建造にも携わっている。
昭和10年(1935)に三菱重工業と合併し、「三菱重工業横浜船渠」と呼称。昭和18年(1943)には「三菱重工業横浜造船所」と名称変更し、横浜船渠の名称は消失。造船所は昭和58年(1983)に本牧・金沢地区に移転し閉鎖。再開発が行われた。

横浜船渠第5号船台では「空母・龍驤」「軽巡洋艦・那珂」「氷川丸・秩父丸」などを建造。「龍驤」は進水までは横浜船渠で行い、空母艤装工事は横須賀海軍工廠で実施。

横浜船渠で建造された主な艦船
日本郵船
 氷川丸・日枝丸
 秩父丸(鎌倉丸)
大日本帝国海軍
 軽巡洋艦 那珂
 練習巡洋艦 香取・鹿島・香椎
 航空母艦 龍驤(船体まで)・山汐丸
 駆逐艦 白雪(吹雪型)
など

ファイル:897-C8-107
1944年10月14日-陸軍撮影
上記を拡大

横浜船渠会社と横浜市
 横浜は開港から明治期にかけて、生糸、茶、船来品などを取り扱う外国貿易により発展しました。明治5(1872)年には日本初の鉄道開業により内陸への貨客輸送が増大すると、これを契機に横浜における外国貿易はさらに活発となり、横浜港はますます重要な港となりました。出入りする船舶は界面を埋めるほどに増加し、船舶を修理するドックが必要とされるようになりました。そこで地元横浜正金銀行頭取の原六郎をはじめ、原善三郎、茂木惣兵衛、大谷嘉兵衛や浅野総一郎、東京の渋沢栄一、益田孝ら名士33名が協力して横浜船渠(せんきょ)会社(後の三菱重工業横浜造船所)を設立、本格的なドックを築造し、明治29(1896)年より船舶修理業が開始されました。明治後期には潮入りドック(明治41(1908)年完成)、第三号ドック(明治43(1910)年完成の増設により、横浜船渠会社は高い修理能力をもつ大工場へと発展しました。
 横浜船渠会社の設立が神奈川県から認可されたのは明治24(1891)年ですが、その2年前の明治22(1889)年、市制施行により横浜市が誕生しました。横浜船渠会社は横浜の発展を支えた地元実業家が設立に大きく関わったこともあり、横浜市と横浜船渠会社は発展を共にした兄弟のような関係とも言われています。それは横浜市の徽章「ハマーマーク」にドックの「D」を加えた、通称「ハマディー」と呼ばれる社章を横浜船渠会社が使用したことにも象徴されています。横浜船渠会社は横浜の金d内工業を支えるとともに、「ハマのドック」の愛称でその後長きにわたって横浜市民に親しまれる存在となっていきました。

旧横浜船渠株式会社第一号船渠(ドック)
「日本丸メモリアルパーク」

国指定重要文化財。
横浜船渠、のちの三菱重工業横浜造船所。
明治31年12月竣工、昭和58年(1983)までドックとして活用。
現在は「日本丸」係留保存ドックとして横浜市が保存管理を行っている。

国指定重要文化財
旧横浜船渠株式会社第一号船渠(ドック)

 第一号ドックは、隣接する第二号ドック(現在ドックヤードガーデン)と同様、安政6年(1859)の横浜開港以来進められていた港湾施設の拡充整備に伴い、横浜船渠株式会社が船の修繕用に建設したものです。
 横浜港修築第一期工事を構想した英国人技師H.S.パーマーが、明治22年(1889)に作成した計画案に基づき、海軍技師恒川柳作が設計し、明治31年12月に竣工しました、建設当初は総長約168mでしたが、横浜港に入港する船舶の大型化に伴い、大正6年(1917)5月から7年8月にかけてドックの渠頭部を内陸方向に延長し、総長204mとなりました。横浜船渠株式会社は、昭和10年(1935)三菱重工業株式会社と合併し、三菱重工業横浜船渠(後、同横浜造船所)となりました。昭和58年(1983)同横浜造船所移転に伴い、第一号ドック及びその周囲地は横浜市の所有となり、昭和60年からは日本丸メモリアルパーク内で帆船日本丸を係留するドックとして保存活用されています。
 この旧横浜船渠株式会社第一号ドックは、建設当時、最大規模を有した明治期の代表的乾船渠(ドライドック)の一つで、大正期に築造された躯体延長部分も土木技術の時代的特徴をよく示し、ドライドック築造技術を知るうえで価値が高く、また、官民の強調により実現した横浜港修築第一期工事の最後を飾る土木構造物で、近代横浜の都市形成史上も重要です。

ドッグゲート(扉船)

ドックゲート(扉船)について
このゲートは、ドック開設以来使われてきた先代に代わって、昭和32年に造られたものを日本丸保存のために昭和59年9月に改修したものです。
また、構造的には船と同じ形態をとっていて日本丸を出し入れするときは扉船内の水を排出して浮上させ移動できるようにつくられています。
さらに、修理の難しさや潮汐の影響を考えて鉄板を厚くしたり、左右対称にし両面を使えるように工夫しています。

旧横浜船渠株式会社第一号船渠(ドック)
「ドックヤードガーデン」

横浜ランドマークタワーに隣接する。
明治30年(1897)竣工。「日本に現存する最古の旧商用船用石造ドック」として国の重要文化財に指定される。

横浜船渠株式会社
ドック用排水ポンプ・カバー

横浜船渠株式会社
第一号・第二号ドック用排水ポンプ・カバー

1896年 アレン社製(イギリス)

横浜船渠株式会社が第一号と第二号の2基のドック内の水を排水するために、創業期(1899年開業)にイギリスから購入しました。修理を重ねながら約85年にわたってドックの排水機能を担ってきました。当初は蒸気機関で運転されました。そのためポンプと一緒にボイラー(蒸気を発生させる装置)も導入し、その購入金額は37,114円29銭でした。ポンプは第一号ドッグと第二号ドッグの間の海寄り(渠口部)に造られた地下ポンプ室に2基設置されていました。横浜船渠株式会社の修繕部門を象徴する設備です。第一号ドックの付属として、2000(平成12)年12月4日国の重要文化財に指定されました。
 三菱重工業株式会社横浜製作所 寄贈

横浜船渠株式会社
エアー・コンプレッサー

横浜船渠株式会社
エアー・コンプレッサー

1918年 ニューマチック・ツール社(アメリカ)製
このエアー・コンプレッサー(空気圧縮機)は、横浜船渠(後の三菱重工業(株)横浜造船所)が造船事業に進出する際にアメリカから購入したものです。造船所構内のほぼ中央にあった動力室に4基設置され、1983(昭和58)年に造船所がここから移転するまでの約65年間使われました。リベット・ハンマーをはじめ、所内各工場のさまざまな機械の動力となる圧縮空気をこのコンプレッサーから送りました。横浜船渠の造船部門を象徴する設備として保存・展示します。
 三菱重工業株式会社横浜製作所 寄贈


横浜みなと博物館

輪投げ
1953-60(昭和28-35)年
シアトル航路貨客船氷川丸で使われていた。戦前から客船で行われていたデッキ上の遊具のひとつ

原油タンカー麻里布丸の舵輪
1959(昭和34)年
麻里布丸は1959(昭和34)年建造の原油タンカー(載荷重量48,657トン)。1979(昭和54)年、船体は本牧ふ頭D突堤の護岸建設に使われた。この舵輪は護岸工事完成記念として、施工した三菱重工業横浜造船所から横浜市に寄贈された。

ドイツ・ハンブルク港

この錨は、姉妹港提携10周年を記念してドイツ・ハンブルク港から贈られました。およそ100年前まで実際に使われていました。
 2003年3月

カナダ・バンクーバー港

 このトーテムポールは、カナダ・バンクーバー港から横浜港との姉妹港10周年を記念し両港の友好の印として寄贈されたものです。
 製作者はバンクーバー島に住むコーストサリッシュ族の彫刻家フランシス・ホーン氏で、カナダインディアンの神話にもとづき、上からフクロウ、熊、カエルが彫り込まれています。
 平成3年4月22日

中国・大連港

天女散花
この石像は、横浜港と大連港の友好港提携5周年を記念して、大連港より寄贈されたものです。
 1995年9月

中国・上海港

上海港-横浜港
友好港5周年紀念
 1988年9月

上海・横浜友好港10周年記念
1983-1993
上海港務局贈

港一号橋梁

港一号橋梁は明治40年(1907)製という。

汽車道から先は、また今度。

この日は、これで時間切れ。
赤レンガ地区などはまた別に機会に。


関連

ロ号艦本式罐(ボイラ)

令和元年11月・横須賀・海上自衛隊第2術科学校

ロ号艦本式ボイラー

昭和15年に舞鶴工廠が製造したボイラー。現在は水管がむき出しの状態で残されている。急設網艦「初鷹」型に使用されたボイラーとほぼ同型という。

ロ号艦本式罐(ボイラー)
 艦本式罐(ボイラ)とは「(日本)海軍部が制化したボイラ」です。初期の「イ号」とこれを改良した「ロ号」、小型化した「ハ号」「ホ号」があります。「ロ号罐」は「3胴水管ボイラ」と呼ばれるタイプです。
 2術校の艦本式ボイラでは、水ドラムと蒸気ドラムをつなぐ「水管」(水が熱せられて蒸気になる管)がむき出しになっていますが、本来はケーシングに覆われています。

強化型艦本式缶

ん?
これは回避+10

第2術科学校のロ号艦本式罐(ボイラ)
 本校は昭和30年4月に訓練用ボイラとしてロ号艦本式罐を取得しましたが、それは昭和15年舞鶴工廠が製造して、そのまま未使用で終戦を迎え、その後、野外に10年間も放置してあったものであったため、使用できるのは胴体のみで缶管や付属品は新替えが必要な状態でした。
 唯一、使用できるとされた胴体(蒸気ドラム・水ドラム)も内部の腐食が多くワイヤブラシで内面を磨き、点食箇所を肉盛溶接してグラインダで仕上げました。
 こうして使用可能になったロ号艦本式ボイラは昭和46年9月まで1号ボイラとして学生教育に使用されました。(「海上自衛隊第2術科学校15年のあゆみ」)

 その後、この旧1号ボイラがどうなったのか記録には残っていませんが、水管の挿脱法の実習に使用されていた、この艦本式ボイラが旧1号ボイラだと思われます。
 それでは、第2術科学校のロ号艦本式ボイラは、どうして昭和15年から未使用のママ放置されていたのでしょうか・・・?

 この2術校の艦本式ボイラの蒸気ドラムの直径は約1200mmであり、戦艦長門等に搭載されていたものとほぼ同じです。ところが蒸気ドラムの胴長は約2600mmと、半分程度です。
 ロ号艦本式ボイラの大きさは艦の大小には関係なく、駆逐艦でも航空母艦より大型のものを搭載していました。(もちろん数は大きく異なり、航空母艦蒼龍は8缶、戦艦大和は12缶ですが、駆逐艦は3缶程度です。)例えば駆逐艦秋月では図面から蒸気ドラムの胴長は4m以上あることが判ります。

 蒸気ドラムの胴長が短い=奥行が小さいということですが、このことは、この艦本式ボイラが「重油専焼缶」でなく、右表の戦艦伊勢の改装前のボイラのように、投炭能力の制約(燃料の石炭を投げ込むのに奥行きが長いと奥まで届かない)から奥行が大きくできない「石炭・重油混焼缶」の可能性が高いと考えられます。
 昭和15年頃に建造された鑑定で「艦本式ロ号ボイラ(混焼缶)」のものを調べてみると、「急設網艦 初鷹型」がありました。この艦のボイラの蒸気ドラム胴長を図面から割り出すと約2600mm!ほぼ2術校のロ号艦本式ボイラと一致しました。(言い伝えでは「この艦本式ボイラは駆逐艦のボイラ」という話もありましたが、駆逐艦のロ号缶はもっと大きいことから都市伝説だったようです・・・)

 「急設網艦 初鷹型」は昭和14年~16年で「初鷹」「蒼鷹」「若鷹」の3艦が建造され、後にもう1艦を建造する計画(⑤計画)がありましたが、戦局の悪化により建造中止となっています。もしかすると、この艦に搭載予定で製造された混焼缶でしたが、建造が中止となり、他の艦に使用したくても、その頃は大型艦や駆逐艦はロ号缶(重油専焼缶)、海防艦丁型のような小型艦にはホ号缶が使用されていたので、搭載する艦艇もなく、終戦まで未使用だったのでは・・・と推測しましたが、銘板も来歴簿もないので確かめるすべはありません。何か由来についてご存知の方は2術科まで御教示をお願いします。

※この推測だと「ボイラは概ね艦船建造の工廠及び民間造船所で各自建造船用の艦本式ボイラを製造した」という記述(「昭和造船史(第1巻)」日本造船学会編1977年 原書房)に対して、駆逐艦を建造していた舞鶴工廠が、民間造船所が建造していた急設網艦のボイラを製造したことになるところが矛盾するのですが・・・(^^;) 教育1部長 青島1佐

ボイラ管脱装管実習装置

そのほかの第2術科学校の記事は別に記載します。


関連

阿川弘之を偲ぶ(阿川弘之墓)

令和元年11月参拝
鎌倉・浄智寺

阿川弘之墓(阿川家之墓)

海自第2術科学校にて「井上成美 海軍大将」に関する講話と初公開の肉声テープを拝聴した帰路に。

「井上成美」といえば、で、
海軍提督三部作(山本五十六・米内光政・井上成美)を描いた阿川先生のことをふと思い出し、北鎌倉の浄智寺の墓前に参拝させていただきました。

阿川弘之

1920(大正9年)12月24日-2015(平成27年)8月3日
94歳没

東京帝国大学文学部国文学科を繰り上げ卒業し、1942年(昭和17年)9月に海軍予備学生として海軍入隊。
1943年(昭和18年)8月に海軍少尉任官、軍令部勤務。大学在学中に中国語の単位を取得していたことから対中国の防諜担当班に配属される。
1944年、海軍中尉に進級し、8月に支那方面艦隊司令部附となる。
1945年8月15日の終戦は中国大陸で迎える。終戦に伴う進級で阿川弘之は海軍大尉となる。いわゆる「ポツダム大尉」。
1946年(昭和21年)2月、復員。

戦後は、志賀直哉に師事して小説家となる。

代表作は、
予備学生の特攻を描いた「雲の墓標」
海軍提督三部作「山本五十六」「米内光政」「井上成美」
海軍のシンボルであった戦艦の姿を描いた「軍艦長門の生涯」
志賀直哉最後の弟子として師匠を伝記した「志賀直哉」
鉄道物として絵本「きかんしゃ やえもん」の原作
内田百閒に薫陶を受けた「南蛮阿房列車」など、
戦記文学・記録文学・紀行文学・随筆など多数の作品を残す。

広島県名誉県民・日本芸術院会員・日本李登輝友の会名誉会長・文化勲章受章。

紅葉が深まりつつ有る浄智寺の境内で。
観光客の雑踏が届かない墓苑の高台に鎮座する阿川先生の墓前に、静かに拝する。
合掌

阿川先生!また、参りますね

軍艦長門

軍艦長門の碑
ありし日の
連合艦隊旗艦長門の
姿をここに留めて
昭和激動の時代を
偲ぶよすがとする
撰文 阿川弘之 / 書 新見政一 (海軍中将)

山本五十六

雲の墓標ゆかりの百里原

井上成美

米内さんの本の写真も撮らないと・・・(あとで

海軍大佐 野島新之丞 邸(国立市)

令和元年9月撮影

海軍大佐 野島新之丞

野島新之丞は三重県出身・海兵30
正五位勲三等功五級
昭和28年9月2日に死去、墓所は多磨霊園

海軍兵学校第30期(海兵30期)
明治35年12月14日卒業(187名)
30期の同期(クラスメイト)は
 海軍大将 百武源吾
 海軍中将 今村信次郎・重岡信治郎・濱野英次郎・松山茂
 海軍少将 金子養三・鹿江三郎・館明次郎・ 常盤盛衛・森田登 
等々がいる。

前後のクラスでいうと、
29期 海軍大将   高橋三吉・藤田尚徳・米内光政
31期 海軍大将   及川古志郎・加藤隆義・長谷川清
32期 海軍大将元帥 山本五十六
   海軍大将   塩沢幸一・嶋田繁太郎・吉田善吾
等々の世代。


なお、ネット上では「赤城の艦長であった野島新之丞」とあちらこちらで紹介されている。
「軍艦赤城」「戦艦赤城」という記載も含め諸々に疑問符が浮かんだので経歴や艦長歴などを調べてみたところ、初代「赤城」(砲艦)及び、巡洋戦艦から空母に改装された2代目「赤城」いずれも野島新之丞が艦長であったという経歴が見つけられなかった。
参考までにgoogle検索「赤城 野島新之丞」リンクを張っておきます。

野島新之丞 の艦長経歴として確認できたものは以下。

(1)
春雨型駆逐艦5番艦「有明」(初代「有明」)
駆逐艦長
野島新之丞 海軍大尉 1909年12月1日-1910年12月13日

(2)
山彦型駆逐艦1番艦「山彦」
 元ロシア駆逐艦 レシーテリヌイ(Решительный)
駆逐艦長 (兼任 砲術学校兼水雷学校教官)
野島新之丞 海軍大尉 1911年12月1日 – 1912年7月5日

(3)
敷波型駆逐艦1番艦「敷波」(初代「敷波」)
 元ロシア水雷巡洋艦 ガイダマーク(Гайдамак)
駆逐艦長
野島新之丞 海軍大尉 1912年7月5日 – 1913年4月1日

1913年12月1日 海軍少佐
1918年12月1日 海軍中佐
1922年12月1日 海軍大佐
1923年4月1日  予備役

なお、砲艦「赤城」(初代)の除籍は1911年。空母「赤城」の進水は1925年。
野島新之丞 は砲艦赤城の除籍時は海軍大尉であり駆逐艦長。
そして(巡洋) 戦艦 =空母「赤城」の進水前には予備役(引退)となっている。

赤城艦長説の出どころは不明・・・

前置きが長くなりました。

旧野島家住宅
(現ル・ヴァン・ド・ヴェール)

文化財分類種別 市登録有形文化財・建造物
所在地 国立市中1-16-35
公開状況 公開
所有者・管理者 個人(ル・ヴァン・ド・ヴェール)
登録日 平成30年4月1日

概要
旧野島家住宅は、昭和2(1927)年頃、元海軍大佐野島新之丞・喜美夫妻が国立駅近くに建てた住宅です。建てられた当時は、煙突やバルコニー等を備えたモダンな印象を与える洋館で、開発初期の国立大学町を象徴する先進的近代洋風住宅のひとつでした。
また、個人住宅にとどまらず、昭和6(1931)年頃からは国立のキリスト教関係者の集会所、昭和13(1938)年頃には国立町会の事務所が置かれ、地域の拠点施設になっていました。
昭和56(1981)年には外観をほぼ保ったまま再生され、現在はレストラン「ル・ヴァン・ド・ヴェール(緑の風)」として親しまれています。
国立の開発史を伝える貴重な建造物であり、国立の人々に長く親しまれてきた地域の文化財です。

国立市> 市登録有形・建造物(7)  より http://www.city.kunitachi.tokyo.jp/soshiki/Dept08/Div03/Sec01/gyomu/0061/0062/0067/0071/1463551215518.html#a10

ん?
廃墟にみえます・・・

お客様各位
平素は格別のご愛顧を賜り、厚く御礼申し上げます。

このたび「ル・ヴァン・ド・ヴェール」の建物は
国立市登録有形文化財(建造物)になりました。

昭和2年の建設から80年以上経ち老朽化が進み
文化財の名に恥じぬよう修理することにいたしました。

今後共、国立の洋館をお楽しみ頂けますように
2018年2月1日から、しばらくお休みを頂きます。

お客様には大変ご迷惑をおかけいたしますが
リニューアルオープンにご期待下さいますようお願い申し上げます。

裏側にまわってみました。

2018年の休業以来、放置されている雰囲気が・・・
早い修復修理を期待しております・・・

佐世保海軍墓地

平成28年(2016)7月撮影

佐世保市の「東公園」(「東山公園」)
「佐世保東山海軍墓地」「佐世保旧海軍墓地」「東山旧海軍墓地」

平成28年7月。
実は嫁さんが旧佐世保海軍墓地を詣でておりました。(私は未訪問です。)
以下、嫁さん撮影写真をベースに、佐世保ゆかりの海軍艦艇の慰霊碑を展開をしてみようと思います。

※現地(佐世保海軍墓地)の写真は、嫁写真を拝借です。
※私自身は佐世保海軍墓地は未訪。
※文責は私にあります。

佐世保海軍墓地

明治22年(1889)7月1日佐世保鎮守府開庁とともに区画整備がはじまり、明治25年10月2日から軍人軍属の埋葬がはじまったという。
終戦後は、佐世保市の所管となり墓地を中心とした「東公園」として再整備。 現在は合葬碑62基・個人碑437基、そして御英霊約17万6千余を祀っている。

佐世保旧海軍墓地案内図
 この墓地は、天神山の北麓、東山町に位置し、敷地面積は約2万8000平方メートル(8.763坪)あります。終戦までは旧海軍の所有地でしたが、終戦後は、種々の経緯を経て佐世保市有地となっています。
 各墓碑は、主として旧佐世保鎮守府管下の九州・四国・沖縄各県の出身者のもので、明治25年の初埋葬以来、国難に殉じた旧海軍の軍人・軍属の英霊約17万余柱を祀った墓地となっています。また、域内には各艦船ごとの慰霊碑や東郷平八郎元帥像なども建立されています。

著名なる英霊碑
日清戦争の勇敢なる水兵 三浦 虎次郎
旅順港閉塞隊 江戸丸指揮官 高柳 直夫
美しき天然の作曲者 田中 穂積
旅順港閉塞隊の勇士 杉野兵曹長
赤城艦長 坂元 八郎太
明治陸軍一等卒 箱山 善之助
ドイツ水兵三等機関兵 シュミット

慰霊殿(礼拝殿)

昭和46年3月8日建立

東郷平八郎元帥像

墓園入口から拡がる慰霊祭式場の広場、その奥には「慰霊殿」、そして広場に面して「東郷平八郎像」。

東郷平八郎は明治32年に佐世保鎮守府司令長官。
明治38年に連合艦隊司令長官として日露戦争バルチック艦隊に勝利。
凱旋時に旗艦三笠は佐世保港内で発生した爆発事故で一度沈没している。

戦没者を追悼し平和を祈願する
佐世保東山海軍墓地保存会

 東郷平八郎元帥は、明治16年、第二丁卯の艦長として佐世保港の調査測量に来港され、佐世保開港に大きく寄与されるとともに、明治32年には、第7代佐世保鎮守府司令長官として佐世保港の整備充実に力を尽くされました。又その後明治38年には連合艦隊司令長官として勤務する等、極めて当市に縁の深い武人であり、その人格、識見は、国内のみならず、広く世界に「アドミラルトーゴー」として名声を広め、尊敬されている歴史上の人物でもあります。
 戦後40数年、日本の平和と繁栄は、ようやく安定し、わが佐世保市も観光立市を目指してその貴能はますます充実しているところであります。
 「みなと佐世保」の象徴として同氏の遺徳を偲び、国民教育のシンボルとして銅像を建立いたしました。
 平成5年5月
 東郷平八郎元帥銅像建立期成会
 会長 中村克介

海の防人之碑

礼拝殿の隣に。
海軍から海自に至る海に殉じた御霊を慰霊顕彰した碑としては、戦後初めての碑という。
平成15年5月17日建立

碑文
この碑は、明治22年日本海軍佐世保鎮守府開設以来、崇高な使命に殉じられた日本海軍将兵軍属の御霊を、そして昭和28年海上警備隊佐世保地方隊発足以来、志半ばにして職に殉じられた海上自衛隊隊員の御霊を、共にお慰めしその功績を称えるため、佐世保市制百周年並びに海上自衛隊創設50周年の平成14年に発起、海軍の英霊が眠るこの地に建立するものであります。
 平成15年5月17日

佐世保総監 谷川清登 海将揮毫
(海軍時代は雷航海長・嵐水雷長・横須賀航空隊教官で終戦・海軍少佐)

隣の錨は「護衛艦ちくご主錨」平成8年4月除籍。

錨台座の赤レンガは明治40年台に帝国海軍が建設した佐世保倉島倉庫に使われていた壁材の一部を使用という。

錨の由来
この錨は護衛艦「ちくご」の主錨です。
護衛艦「ちくご」は、ちくご型護衛艦として 三井玉野造船所で建造され、昭和45年7月就役、平成8年4月除籍されるまでの間、主として「みくま・いわせ」と共に佐世保を母港とした当時の第34護衛隊の一艦として活躍しました。
なお、台座の赤レンガは海上自衛隊佐世保基地業務隊のL字型倉庫(明治41~44年頃日本海軍が建築)に使われていた壁材の一部であります。
海上防衛顕彰碑建立委員会

大東亜戦争戦役者慰霊塔

昭和32年5月13日建立

戦後、忠魂碑建立に制限がかかるなかで遺骨を旧海軍墓地で埋葬して欲しいという申し出などが多く昭和24年に納骨所建設。
昭和31年に慰霊塔建立が決まり昭和32年竣工。
納骨所約4万余柱の遺骨分骨や13万余柱の戦没者芳名録が慰霊塔塔内に格納されている。

この塔は佐世保鎮守府所属ならびに同府関係海軍軍人軍属にして、日華事変及び大東亜戦争において戦没した13万余柱の英霊を慰め、その功を顕彰せんとするものである。
これらの軍人軍属はこの地において海軍の教育訓練をうけ、夙に有数の精兵練達者の域に達していたものであるが、事変戦争に際しては、身を挺して救国の難に赴き、南溟朔北の空に地に戦って散華した。
戦い終わって十余年往時を追想してその面影を偲べば、哀惜の情ことに切々たるものがある。
仍って、われら九州四国の海軍復員者ならびに有志は、縁深きこの地を卜として一塔を建て、戦没者の遺骨と芳名録とを安置収納して永く後世に伝えんとするものである。
 昭和32年5月
 大東亜戦争戦没者慰霊塔建立期成会

東公園休憩所

墓地管理人さんとのおはなし。
ちょうどこの日(平成28年7月6日)、佐世保海軍墓地に居た墓地管理人さんのお父様が空母「加賀」乗組の生き残りの方であったという。
「加賀」沈没後は「榛名」乗艦しガダルカナル島・ヘンダーソン基地艦砲射撃作戦にも参戦したという。その後は海防艦などの乗組をへて終戦。
そして御子息は、今は「加賀」や「榛名」の慰霊碑を見守る管理人さんとして聖域を守っていらっしゃった。

個人墓

左右に軍人軍属の個人墓が立ち並んでいる。
砲弾は定遠のものという。

今回撮影データはないが、ここ佐世保には旅順閉塞隊勇士の杉野兵曹長や日清戦争での勇敢なる水兵(三浦虎次郎)などの墓もある。


艦船慰霊碑

戦艦 金剛 戦没者慰霊碑

昭和47年11月21日建立
金剛型戦艦1番艦「金剛」

捷一号作戦・レイテ作戦(サマール沖海戦)後の昭和19年11月21日、修理のため内地へ回航中、台湾北方海面において敵潜水艦(シーライオン)の魚雷攻撃により沈没。
生存者は約250名。
艦と運命を共にした第三戦隊司令官鈴木義尾中将、艦長島崎利雄少将以下1250名を祀る。

戦艦 榛名 戦没者慰霊碑

昭和56年11月8日建立
金剛型戦艦3番艦「榛名」

各作戦を戦い抜いた武勲艦「榛名」。
昭和20年に呉鎮部隊警備艦となり呉工廠に係留。3月19日の米軍艦載機攻撃で被弾、6月22日にも被弾。江田島小用沖に転錨したが7月24日28日の呉大空襲で大破着底。
榛名乗組の戦死者135名を祀る。

建立の記
忠誠を誓い熾烈なる愛情を捧げた国家そしてこの象徴こそ我等が戦艦榛名であった
平時にありては海上兵力主力の一艦として重きをなし 昭和16年12月大戦開始と共に佛印及びボルネオの上陸支援作戦を緒戦として 南支那海遠くは印度洋を制圧 更にその高速を利して急遽中部太平洋ミッドウェー海戦と息つく暇なき連戦であった
そして南太平洋 就中ソロモン群島要衝を巡る彼我の攻防は今次戦局の帰趨を決するとして凄絶を極めた
10月半ば第3戦隊榛名、金剛は敵拠点ガダルカナル島挺身攻撃の命下る
暗夜漆黒の海ソロモンの島を縫って目的地に近接 ガ島飛行場に対し榛名は実に36糎主砲483発、副砲21発の砲弾を浴びせ三斉射目にして天をも焦す大爆発誘爆を起し 一面火の海と化せしむる大任を全うした
戦況次第に緊迫の度を深め南太平洋海戦・ア号作戦と南北半球を往復すること幾度か その神出鬼没の行動と沈着果敢な奮戦は大いに敵を震撼せしめたのである
昭和19年10月 日本海軍がその命運をかけた捷一号作戦の令下るや 直ちにブルネイの基地を出撃した我等主力は比島ミンドロ島北方より海峡を東進する
制空権既になく敵大編隊の波状攻撃実に十数回に及ぶ
一艦又一艦が消える
被弾し戦列を離れる艦が続出漸くにして比島東方海上に到達すると同時に敵艦隊と遭遇忽ち対空対水上の死闘が繰り広げられた
その間 空母1を撃沈
榛名又凄まじい闘魂を漲らせ言語に絶する苦闘の3日間を戦い抜いたのである
内地に帰投した榛名は間もなく第2艦隊より除かれ錨地を小用沖に移し本土防衛に任じたるも執拗なる敵機大小延240機の来襲により 昭和20年7月28日午後5時過ぎ 遂に被爆着底す
秀麗榛名の山にあやかり天運を恵与された榛名 曽ては御召艦の栄を担いよく勇戦奮闘 日本海軍の誇りを全うした光栄あるその30年の歴史を閉じたのである
来るべきの日を既に直感しながら後に続くを渇望し雄々しくも海に散華せし榛名桜
そして互いに愛国の至情に燃え艦と共に戦い生存せし我等
その運命の深遠を追憶し遥に港を望むこの台地に碑を建て 永劫の鎮魂顕彰の場として心からなる慰霊の誠を捧ぐ

英魂 とこしえにこの聖地に眠れ 合掌

 昭和56年11月8日
 戦艦榛名生存者有志一同
        遺族一同

戦艦 霧島 戦没者慰霊碑

昭和56年11月8日建立
金剛型戦艦4番艦「霧島」
霧島神宮宮司小久保光雄謹書

昭和17年11月14日、第三次ソロモン海戦にて米戦艦ワシントンのレーダー射撃により航行不能となる。 救難手段を講じるも効果なく11月15日午前1時25分沈没。
艦と運命を共にした将兵は212名であった。

碑文
巡洋戦艦霧島は明治42年3月17日長崎三菱造船所に於て起工
大正4年4月19日進水
第一次第二次の大改装を経て沈没時その主なる要目次の如し
全長219.61米常備状態に於ける屯数36601屯最大速力30.5ノット航続距離18ノットにて1万浬乗員1430名兵装主砲36糎砲8門副砲15糎砲14門その他高角砲機銃及水偵3機搭載す
昭和5年10月26日神戸沖特別大演習観艦式には御召艦の光栄に浴し大東亜戦争中旗艦比叡と共に作戦に従へり
(艦長山口次平大佐後少将)
昭和17年11月12日ガダルカナル飛行場砲撃の為ルンガ沖に突入せり
此の時比叡は敵の集中砲火を受け舵機故障航行不能となりたる処更に米軍機の雷爆撃を受け13日1305サボ島沖に自沈す
明けて14日第2艦隊に合同の命を受け霧島は長官近藤信竹中将の指揮下に入り旗艦愛宕を先頭に高雄長良川内他駆逐艦6隻と共に再度ガダルカナル飛行場砲撃を企図し突入せんとしたるもその南西方向を西航する米戦艦ワシントン及サウスダコダの2隻を発見之と交戦初弾よくサウスダコダをして戦列を離脱せしむるの損害を與え之を撃破するも霧島も又ワシントンの16吋砲弾6発5吋砲弾40発の集中砲火を受け舵機故障大破航行不能に陥り艦長岩渕三次大佐(後中将マニラにて散華)は総員退去を命じキングストン弁を開いてサボ島の265度11浬の地点に自らその栄光の生涯を閉ず
時に昭和17年11月15日0130噫
茲に艦と共に散華せる英霊を顕彰してその勲を永久に欽仰するものなり
 昭和55年11月14日
  霧島乗組生存者一同
       有志一同

航空母艦 飛龍 戦没者慰霊碑

昭和49年6月5日建立
源田実書

昭和17年6月5日、ミッドウェー海戦。
南雲機動部隊(第一航空艦隊)直下の第二航空艦隊にて山口多聞少将の旗艦として出撃。最後の一艦として奮戦するも飛龍は6月6日午前0時15分総員退去、沈没。山口司令官、加来艦長以下800余名を祀る。

慰霊碑建立の記
航空母艦飛龍(17,300噸)は昭和14年7月横須賀海軍工廠にて竣工、支那事変の際は支那沿岸各地に於いて戦功を樹て昭和16年12月大東亜戦争勃発するや開戦劈頭僚艦と共に真珠湾奇襲に成功し更に「ウエーキ」島、豪州、比島、蘭印、インド洋作戦に武勲を樹て昭和17年6月5日「ミッドウエー」島攻略戦に於いては敵陸上基地を猛攻し赤城加賀蒼龍の三航空母艦被弾後は飛龍只一隻孤軍奮戦敵空母「ヨークタウン」を撃破し、更に攻撃準備中武運拙なく被弾大破し火焔に包まれ必死の消火作業も其の効なく遂に総員退去の止むなきに至り第二航空戦隊司令官山口多聞中将、艦長加来止男少将は従容として艦に止どまり多数の戦没者と運命を共にさる
茲に三十三回忌を期し慰霊碑を建立して航空母艦飛龍の功績を顕彰し併せて英霊の冥福を祈念す
 昭和49年6月5日
 航空母艦飛龍遺族生存者有志一同

在天の 山口司令官
加来艦長はじめ たくさんの戦友たちよ
あの日のことども ともに語りたい
その後のことも 聞いてほしい
だが今日は それもかなわず
とこしえに この聖地に
み霊安らかに 眠れかしと
ただ祈るのみ

※附記
「飛龍」艦上攻撃機隊飛行隊長として、ミッドウェー空襲隊隊長を努めた友永丈市中佐の生誕地碑が大分県別府市にあります。

海軍中佐 友永丈市 誕生地

別府市野口中町
場所→ https://goo.gl/maps/vGkw8azgPQKxDS4a8
墓所も別府市内にあるようですが未訪問。
なお、この写真も嫁提供(私は未訪問)

航空母艦 加賀 戦没者慰霊碑

昭和50年6月5日建立

南雲忠一海軍中将を司令長官とした「第一航空艦隊」。
第一航空戦隊(赤城・加賀)と第二航空戦隊(飛龍・蒼龍)で編制。

昭和17年6月5日、ミッドウェー海戦で赤城、飛龍、蒼龍とともに没する。
岡田次作艦長以下800余命の戦死者を祀る。

碑文
泪く時になく
 笑ふ時に笑ふ
そんな立派な
 戦友だった
御国のため
 身を投し
  もう笑う事も
   泪く事も
出来なくなった
 戦友の御霊を
  少しでも
   安らかにと
こゝに碑を建てる
 安らかに遠久に
   ねむれかし

慰霊碑建立の記
航空母艦加賀は大正9年7月19日神戸川崎造船所にて戦艦として起工
進水後は横須賀工廠にて航空母艦に改装
昭和3年3月31日竣工し昭和9年6月25日から約1年の歳月をかけ近代的最新鋭空母に大改装した
昭和12、3年支那事変に際しては支那沿岸各地に於て幾多の戦功を樹て 昭和16年12月大東亜戦争勃発するや開戦劈頭長躯真珠湾を奇襲し敵に壊滅的打撃を与え更に印度洋蘭印ラボールと数次の作戦に参加数々の戦果を収めた
昭和17年6月5日「ミッドウエー」島攻略戦に於ては敵陸上基地を猛攻し反復攻撃のため準備中敵機の集中攻撃を受け艦を挙げての必死の防戦にも拘わらず敵艦上爆撃機の急襲により武運拙く被弾誘爆火災を起し全艦火に包まれ遂に総員退去の止むなきに至り同日16 25頃ガソリン庫に引火し大爆発を起し沈没
岡田次作艦長以下多数の戦没者は艦と運命を倶にされた
茲に慰霊碑を建立し航空母艦加賀の数々の功績を顕彰し併せて英霊の冥福を祈念する
 昭和50年6月5日
 航空母艦加賀遺族生存者有志一同

航空母艦 瑞鳳 戦没者慰霊碑

昭和53年3月10日建立

昭和19年10月24日。
レイテ沖海戦・エンガノ岬沖海戦にて小澤機動部隊(第三艦隊・小澤治三郎海軍中将)の空母として出撃。
千歳・瑞鶴が沈むなかで奮戦するも午後3時27分奮戦虚しく沈没。
戦死者216名を祀る。

おとうさん、お兄さん、愛しい吾子達よ、永遠に安らかに

建碑の詞
あれから星霜30有余年!!
想いおこせばあの大東亜戦争で赫々の武勲に輝く空母瑞鳳とその「瑞鳳」と共に散華された7百余名の戦友は今だにレイテ湾沖に瞑りその収骨は絶望で戦友は永遠に還らぬ人となりました。
私達「瑞鳳」生存者一同相計り英霊の瞑りの安らかなことを願い懐かしい母港「佐世保」を一望できる此処東山の景勝の地に慰霊の碑を建立いたしました。
数多の遺族が、かけがえのない肉親の遺影を偲び時には私達が訪れて戦友を弔い香華を手向ける静かな心の里としたいとおもいます。
今祖国日本は平和で世界有数の経済大国といわれていますこれも偏にあなた方諸勇士の犠牲でなくてなんでありましょう。
英霊よこの聖地から祖國日本の益々の繁栄と御遺族の御多幸をお護りください。
こゝに空母「瑞鳳」と共に殉じた諸勇士の輝かしい武勲とその殉国の精神を後世に伝え又今後の戦争再発防止と祖国日本の永遠の平和を祈りながら「瑞鳳」と共に殉じた戦友よ祖国の地にこころやすらかにお瞑りください。
 昭和53年3月20日
 瑞鳳生存者一同

航空母艦 大鷹 戦没者慰霊碑

昭和59年10月16日建立

日本郵船春日丸を改装した特設空母。
昭和19年8月18日夜、ヒ71船団護衛中にルソン島西方で米潜水艦(ラッシャー)雷撃により撃沈。給油艦「速吸」や海防艦「松輪」「日振」「佐渡」も沈没。
大鷹沈没時に運命をともにした477名を含む戦没者484名を祀る。

碑文
軍艦大鷹は日本郵船欧州航路の貨客船として昭和15年9月19日三菱重工業長崎造船所にて進水しその後佐世保海軍工廠において改装、16年9月5日佐世保鎮守府所管の特設航空母艦春日丸として軍艦旗を掲揚し、排水量20000屯速力21ノット搭載飛行機27機12センチ単装高角砲6門25ミリ連装機銃48門を装備し乗組定員747名なり。
17年7月1日連合艦隊に同年8月31日軍艦籍に編入され航空母艦大鷹と命名せらる。
太平洋戦争の当初、飛行機の発着艦訓練に当り以後トラック、クエゼリン、ルオット、ラバウル、ウルシー、タロア、マニラ、スラバヤ等南方基地への零式艦上戦闘機輸送を主任務とし、17年8月には戦艦大和、駆逐艦曙あけぼの、潮うしお、漣さざなみと共に作戦主隊となり18年5月にはシンガポールへの船団護衛に従事し、その行動は前後17回に及び南西太平洋の全域にわたり数百機の零戦を輸送したるは特筆すべきことにして赫々たる戦果を収めたりと言うべし。
されども戦局は次第にわれに利あらず、マニラにおもむくヒ71船団14隻を護衛航行中フィリピン群島ルソン島北西部ボヘヤドール岬沖40海里にてアメリカ潜水艦ラッシャーの魚雷攻撃を受け、19年8月18日22時48分北緯18度10分東経120度22分、濛雨の南支那海に艦首を直上にして沈没す。
就航以来3年余その行動力と武運の久しきを誇りし大鷹は被雷後僅か20分にて忠勇なる将士数百名とともに1400メートルの深海にその艦歴を閉じたり。
ああ痛恨の極み悲壮これに過ぐるものなし。
従前17年9月28日トラック島南水道南方40海里にて3柱、18年9月24日父島北東200海里にて4柱、いずれもアメリカ潜水艦の魚雷攻撃による戦没者あり、その終焉の際第931航空隊員を含め戦没せられしは477柱、本艦乗員にて國に殉ぜられしはあわせて484柱なり。
護国の英霊に慰霊の誠を捧げその功績を永く後世に伝えんことはつとに各々心にあるところなりしも世情人心不安定にして思うにまかせず、ようやく一昨年元乗組、生存者、遺族をもって空母大鷹会を組織し英霊ゆかりの佐世保旧海軍墓地に軍艦大鷹慰霊碑を建立するに至れり。
すでに戦後39年を閲せしことわれら慙愧ざんきに堪えざるもあやに尊き英魂の各位、冀こいねがわくはこの地に神霊として鎮まり、時あれば天を翔かけりて祖国日本をみそなわせ給わんことを。
 昭和59年10月16日
 空母 大鷹会

航空母艦 雲龍 戦没者慰霊碑

昭和62年12月19日建立

昭和19年12月19日。内地よりフィリピン方面に軍需物資・陸軍兵員輸送及び桜花30機輸送従事中に米潜(レッドフィッシュ)に雷撃され沈没。
艦長小西要人少将以下乗組員1240名及び便乗していた第634海軍航空隊・陸軍滑空歩兵聯隊など約3000名の犠牲者を祀る。

碑文
 航空母艦雲龍(174,840噸)は太平洋戦争愈々苛烈を極める中、昭和19年8月6日横須賀海軍工廠にて竣工し海軍機動部隊の主力である第一航空戦隊に編入された。
 竣工するや否や海軍少将小西要人艦長のもと千5百余名の乗員一致団結祖国と民族の為身を鴻毛の軽きにおき日夜ひたすらに出撃に向けての訓練に励み昭和19年12月17日マニラ方面緊急輸送作戦に呉軍港を出撃東支那海大陸沿岸を一路激戦地のマニラに向かった。
 12月19日1637時及び1651時敵潜水艦の雷撃を受け勇戦空しく海底深く沈んだ。
 小西艦長はじめ乗組員将兵、便乗中の第634海軍航空隊将兵、陸軍滑空歩兵第1連隊将兵、比島方面へ赴任中の海軍将兵を含み3千名の多数が艦と運命を共にされ生存者は僅に142名であった。
童顔の15歳の少年兵も 学徒出陣の少尉もいた。
 父、母に、兄弟姉妹に、最愛の妻や子にも別れを告げることもなく嵐の海にのまれてしまった。
 あれから43年、今日のこの平和な繁栄は英霊の方々の尊き犠牲により築かれた。
 このたびやっと遺族、生存者相つどい御魂らを慰め再び戦争の悲劇を繰り返さないことを希ってここ佐世保の海軍墓地に慰霊の碑を建立する。

 御霊よ 安らかに 鎮まり給え   合掌

昭和62年12月19日
 航空母艦雲龍戦没者慰霊碑建設委員長 森野 廣
 元 雲龍航海士

※附記

航空母艦 千歳 慰霊碑

  • 「千歳」の慰霊碑は福岡県久留米市の水天宮境内にある。
  • 佐世保海軍墓地には案内標が建立。千歳は佐世保を母港としていた。
  • こちらの写真は平成16年に私の撮影。この頃の私は神社散策メインで慰霊碑はあまり撮影していなかったのが悔やまれます。

昭和19年10月25日、千歳はエンガノ岬沖海戦にて小澤機動部隊として出撃し沈没。艦長岸良幸大佐以下468名が艦と運命をともにした。

水天宮境内(福岡県久留米市)

碑文
いつよりの千歳かわかぬ千歳川 
 始めも果もなき名なりけり

 昭和十三年就役以来、日支事変・太平洋戦争と幾多の戦闘海戦に出撃。赫赫たる戦果を挙げた軍艦千歳は、フィリピン沖海戦に於て勇戦奮闘するも衆寡敵せず。遂にフィリピン・エンガノ岬東方に艦長以下数百の将兵と共にその勇姿を没した。
 時に昭和十九年十月二十五日午前九時三十七分

 軍艦千歳は筑後川(別名千歳川)の名を取って命名されたものであり、艦内神社に水天宮を奉祀してありました

軍艦千歳郷土会に就いて
軍艦千歳が呉海軍工廠で竣工、就役間もない昭和13年10月久留米を中心とした筑後地方一帯より、一千九百余名の有志の方々で軍艦千歳会を発足させ(会長 石橋徳次郎氏 当時久留米市長)その頃珍しかった蓄音機、レコード絵葉書及び軍艦旗など多数献納されております。この度の千歳慰霊碑建設に当っては生存者及び遺族の方々は申す迄もなく、軍艦千歳の事を全く知らない多くの方から又筑後川遥か上流の方々からも暖い御協力を賜り見事な慰霊碑が出来ました。軍艦千歳は6ヶ年の短い生涯でありましたが、他の艦に見られない一般の方々の祝福を受けた幸せの艦であったと思います。艦長、副長機関長など幹部の方々は殆んど戦死いたしました。もし艦長存命ならば皆様に対し、どんなに御礼の言葉を述べた事でありましょう。
 昭和53年10月25日 軍艦千歳慰霊碑建設委員会

300年前は筑後川を千歳川と呼んでいたそうであります
いつよりの千年かわかぬ千歳川 始めも果もなき名なりけり

軍艦 羽黒 戦没者慰霊碑

昭和46年5月16日建立
防衛庁長官 中曽根康弘謹書
妙高型重巡洋艦4番艦「羽黒」

昭和20年5月16日、マラッカ海峡にて英国駆逐隊と遭遇し沈没。
司令官橋本信太郎中将、艦長杉浦嘉十少将以下800余名が戦没。
慰霊碑前には平成17年にペナン沖で引揚げられた羽黒舷窓枠が奉納されている。

軍艦羽黒
昭和4年三菱長崎造船所に於て当時最新鋭重巡として進水
帝国海軍の精鋭として常に我が国海上防衛の第一線に在り
大東亜戦争勃発するや比島攻略戦に従事
以来スラバヤ沖海戦珊瑚海々戦第二次ソロモン海戦ブーゲンビル島沖海戦等主要海戦に従事し赫々たる武勲を樹たり
然れども昭和20年5月16日このとき日本艦隊既に影なく羽黒は駆逐艦神風を従へ陸海の将兵が孤立するアンダマン諸島に輸送作戦中戦艦を含む30余隻の英国機動部隊と交戦
緒戦克く駆逐艦を轟沈し志気いよいよ旺んなるも羽黒も又雷撃を受け操艦意の如くならず勇戦奮斗1時間有余
衆寡敵せず遂にその勇姿を橋本第5戦隊司令官杉浦艦長以下8百余名の将兵とともに波高き印度洋に没せり
時将に午前3時35分

併記
戦後交戦せし英国司令官をして日本海軍の精華なりと称賛せしめたりと謂う

軍艦羽黒舷窓枠
西暦2006年3月 福島県いわき市 堀 龍一 氏ら世界的ダイバーグループによって、マラッカ海峡ペナン島南西48浬 水深64mに 戦没している軍艦羽黒 艦橋前方左舷側上甲板より、60年振りに引き揚げられたものです。
(素材真鍮・内径31cm・重さ約9kg)
軍艦羽黒会

軍艦 那智 戦没者慰霊碑

昭和46年11月5日建立
妙高型重巡洋艦2番艦「那智」

沈没時の鹿岡艦長以下850名の犠牲者を含む乗組戦没者1000余名を祀る。 昭和19年10月、レイテ沖海戦にて第五艦隊(志摩艦隊)旗艦として参戦。スリガオ海峡にて先行する西村艦隊の敗退を受け撤退。11月5日に米軍120機の波状空襲にて沈没。

忠魂
軍艦 那智 佐世保鎮守府所属一等巡洋艦
大正13年11月26日呉海軍工廠において起工、昭和3年11月26日竣工
帝國海軍技術の粋を結集せる当時世界第一の威力を誇る重巡洋艦として誕生し、爾来我が国海上防衛の第一線部隊に在り。
大東亜戦争勃発するや緒戦、比島、蘭印攻略作戦、スラバヤ沖海戦に参加、以後西太平洋に戦闘行動を続け、アッツ沖海戦、レイテ作戦等に第5艦隊旗艦として活躍、何れも大なる戦果を挙げたり。
昭和19年11月5日比島方面作戦中、米機動部隊艦載機120機以上の集中攻撃を受け、克く敵機多数を撃墜、勇戦激闘8時間余の末、那智もまた被害続出、満身創痍となり操艦、応急意の如くならず、遂に戦雲高きマニラ湾にその勇姿を没せり。
時に午後3時40分。
このとき艦と運命を共にするもの艦長以下将兵800余名。
開戦以来累次の戦闘に戦死せる乗員を併せ、英霊約1000名。
その勇戦は壮烈無双にして、その武勲は赫々たり。

軍艦 足柄 戦没者鎮魂之碑

昭和47年6月8日建立
妙高型重巡洋艦3番艦「足柄」

緒戦以来の同艦戦死者300余名を祀る。
レイテ沖海戦は志摩艦隊所属で参加。
昭和20年6月8日にシンガポールに向け航行中に米潜水艦(トレンリャント)の雷撃により沈没。
※カメラ不調により撮影失敗
※画像は公式サイトより( http://kaigunbochi.jp/publics/index/61/

建碑の詞
太平洋戦争が終って20数年 世情もようやく平和に慣れて あの悲惨な戦いも忘れ去られようとしている今日 私達は 軍艦足柄と共に南溟の果てに散華した3百有余の戦友を思うとき 断腸の念を禁じ得ません
軍艦足柄は 昭和4年神戸川崎重工において 世界注視の最新鋭巡洋艦として進水
昭和12年5月英国皇帝ジョージ6世の戴冠式には 秩父宮殿下のお召艦として参加した
日中戦争が勃発するや 中国方面派遣艦隊の一翼をになって海の護りにつき 太平洋戦争の緒戦におけるスラバヤ沖海戦には 僚艦妙高那智等と共に 英国重巡エクゼター及び駆逐艦2隻を撃沈した
続く蘭印作戦では支援艦隊の旗艦として南海に活躍し その後北方警備の任を果たし 昭和19年10月25日 捷1号作戦における志摩艦隊の2番艦として スリガオ海峡よりレイテ湾に突入
同年12月24日ミンドロ島サンホセ沖海戦では 決死の突撃を敢行して数多くの敵商船団に痛撃を加えたが その攻撃中我が艦の対空砲火で撃墜された敵機によって火災を起こし数多くの戦友を失った
昭和20年6月8日未明 第2回陸軍輸送作戦においてジャカルタ港を出港
厳重警戒航行中敵潜水艦の雷撃に遭い 急ぎ応戦避退したが 浅海と減軸運転中のため 遂に敵魚雷4本をうけ 3百余名の戦友と共にその勇姿をジャカルタ沖に没した
時に6月8日正午 ああ悲しあの勇壮な足柄の艦影も あの元気な戦友の英姿も 今は遂に帰らぬものとなった
今ここに母港を一望する景勝のこの地を選び 英霊が帰り集う霊場と定め またの遺族が我が子 我が夫を偲ぶよすがの地とし 又私達が時に訪れて戦友を弔い 平和達成への誓いを新たにする馬ともし 軍艦足柄と共に殉じた諸勇士の輝かしい武勲と その殉国の精神を後世に伝え且又戦没諸子の霊を供養して平和の礎とするために 我等足柄生存者一同相はかってこの碑を建てるものであります
 昭和47年6月8日建之
 軍艦足柄生存者一同

軍艦 妙高 戦没者慰霊碑

昭和48年9月15日建立
妙高型重巡洋艦1番艦「妙高」

戦没者90余名を祀る。 レイテ沖海戦では栗田艦隊所属で参加。米軍機猛攻で戦線離脱しブルネイに退避。その後シンガポールに入港し応急修理後を施して内地に向かう途中に米潜水艦雷撃で大破。そのままシンガポールで終戦。海没処分。

建碑のことば
軍艦妙高は昭和4年 最新鋭の重巡洋艦として世界注視の中に横須賀海軍工廠で建造
その秀れた性能とシャープな艦型は まさに日本刀の鋭さと美しさであった
国運を賭けた大東亜戦争が起こると比島作戦を始め スラバヤ 珊瑚海 ミッドウェー アリュウシャン ソロモン サイパン等々の大海戦に参加し スラバヤ沖海戦では英重巡エクゼター及び駆逐艦2隻を屠る赫々たる戦果をあげた
だがマララグ湾では米軍機の爆撃によって40余名が戦死傷し シブヤン海及びサイゴン沖では米軍機米軍潜水艦の雷撃をうけて多数の戦死者を出した
昭和20年終戦をむかえ連合軍の命によってマラッカ海峡で注水しその勇姿を永久に海底に没したのである
時に昭和21年7月14日
以来28有余年これらのことも今や既に国民の脳裏から消えようとしている
ここにおいて我々は妙高の輝やかしい武勲を伝え国に殉じた70余名の戦友の霊を慰さめ かつは祖国日本の永久平和を祈念するため ここにこの碑を建てるものである
艦よ 英霊よ 静かに眠れかし

 昭和48年9月15日
  軍艦妙高生存者一同
  各界有志一同

碑歌
泣くにあらず 悲しむにあらず
若き日の命捧げし 君よ 武人の鑑なる
今平和甦る日に 過ぎし戦場の惨烈を想い
水漬く屍の君を憶ふ
潮騒と倶に 尽くることなし

軍艦 鳥海・藤波 慰霊碑

平成10年12月建立
高雄型重巡洋艦4番艦「鳥海」
夕雲型駆逐艦11番艦「藤波」

重巡洋艦「鳥海」駆逐艦「藤波」はともにレイテ沖海戦に参戦。 レイテ沖海戦において鳥海は当初、第四戦隊(愛宕・摩耶・高雄・鳥海)に編成。
が、愛宕・摩耶が沈没し高雄が大破し鳥海は第五戦隊に編入。サマール沖海戦において鳥海は舵故障により戦列離脱。
昭和19年10月25日。米軍艦載機が戦列を離れた鳥海を攻撃し鳥海は被弾し航行不能状態に陥る。そこで警戒にあたっていた第32駆逐隊の藤波が鳥海救助を命じられ鳥海乗組員を収容し、航行不能となった鳥海を雷撃処分している。
「鳥海」乗組員を救助した「藤波」は栗田艦隊から別れ、別航行中にさらに米軍機の空襲を受け轟沈。
戦没者は鳥海乗組員830名、藤波乗組員130名。藤波・鳥海ともに一人の生存者もいなかったという。
慰霊碑は遺族により平成10年に建立。
以後は護衛艦「ちょうかい」が毎年慰霊祭を行っている。

時経るも 消えゆる嘆きの あらなくに 「鳥海」「藤波」 ここに慰霊す

銘碑
大東亜戦争において巡洋艦「鳥海」は昭和19年10月25日比島レイテ沖海戦において戦没しました
その生存者を駆逐艦「藤波」が収容して 反転中その藤波も昭和19年10月27日比島シブヤン海において戦没しました
それで「鳥海」「藤波」の生存者は一人もなしという最後でした
それから50数年の歳月が流れておりますが このままでは 尊い生命を犠牲にされた殉国の英霊に対し申し訳ないと遺族数名が立ちあがり ここに慰霊碑建立がなされましたことを誠に感激します
 平成10年12月吉日建立 鳥海 藤波 遺族有志
 発起人 内田美津代

軍艦 矢矧 戦没者慰霊碑

昭和44年4月13日建立
阿賀野型軽巡洋艦3番艦「矢矧」

昭和20年4月7日、大和護衛の第二水雷戦隊旗艦として活躍し大和とともに轟沈。
艦と運命をともにした内野副長以下446名及び他海戦の戦死者などを含む486柱の英霊を祀る。

※カメラ不調により撮影失敗
※画像は公式サイトより( http://kaigunbochi.jp/publics/index/64/

いしぶみ
みたまら いま ここにねむる
おんみら 軍艦矢矧 のつわものとして
マリアナ海戦 フィリピン沖海戦に散じ
はたまた国家の存亡をかけし沖縄特攻作戦に
戦艦大和 らとともに徳之島西方に没す
この日 昭和20年4月7日なりき
戦敗れ 苦難の道をあるくこと二十有五年
いま 世は太平
このたび ようやく機熟して
戦没者の霊をなぐさめ かつは
再び戦争の悲劇をくりかえさざることをね希い
母なる港をのぞむ東山の聖地に
慰霊の碑をつくりたり
みたまらよ
とわに 安らかに眠れかし
  ゆきしふね
    かえらぬおかに
         はなふぶき
 昭和44年4月7日
 矢矧会有志一同

軍艦 矢矧
昭和18年12月末佐世保海軍工廠において最新鋭巡洋艦として完工しマリアナ海戦フィリピン沖海戦など数次の海戦に参加す
昭和20年4月6日片道燃料をつんで徳山沖を抜錨し翌4月7日鹿児島西方海上において米空母艦隊の艦上機群と遭遇しその連続攻撃をうけ勇戦奮闘もむなしく徳之島西方海上において大和その他とともに爆沈す

併記
海上自衛隊の御援助により
沖縄および徳之島より石各々1個を運び
つわもののみたまやすらかれと念じつつ安置す

軍艦 阿武隈 慰霊碑

昭和57年10月24日建立
長良型軽巡洋艦6番艦「阿武隈」

碑題字は清水芳人謹書。海軍少佐。阿武隈沈没時の副長兼砲術長。(その後は大和第十分隊長として大和特攻に出撃し生還)

阿武隈は昭和19年10月25日、志摩艦隊としてスリガオ海峡海戦に参戦、翌26日に空襲により沈没。
戦死者262名を祀る。

慰霊のことば
軍艦阿武隈(5千5百噸級軽巡洋艦)は大正14年5月浦賀ドックにて竣工し数度の改装を行い昭和16年12月8日大東亜戦争開戦時第1水雷戦隊旗艦としてハワイ作戦に参加
同17年ビスマルク諸島、ポートダーウィン、ジャワ、インド洋作戦
同18年アリューシャン方面作戦、アッツ島沖海戦、キスカ撤収作戦等に活躍
同19年10月25日比島沖海戦に第2遊撃部隊としてスリガオ海峡突入時交戦被雷
翌26日 B24 30機の猛爆を受け勇戦奮闘空しく遂にミンダナオ海に多くの戦友と共に勇姿を没す。(時刻午後零時42分位置北緯9度9分東経121度54分ダピタンの西北西約180粁)
38年後旧乗組員有志相諮り母港佐世保市東公園旧海軍墓地に参集
軍艦阿武隈の輝く戦歴を記念すると共に祖國の難に赴き名誉の戦死を遂げ今日の日本の繁栄の礎となりし戦友を永く顕彰せんと欲しその芳名を刻み慰霊碑を茲に建立す

英霊よ軍艦阿武隈よ
     安らかに眠り給え

 昭和57年10月24日
  軍艦阿武隈戦友会
  会長 元副長 清水芳人
  他 会員有志

駆逐艦 杉 戦没者慰霊碑

昭和54年3月10日建立
戦時急造の松型駆逐艦7番艦「杉」

昭和19年8月竣工。護衛輸送作戦に従事。終戦を呉で迎える。復員輸送に従事したのち昭和22年に賠償艦として中華民国に引き渡され「恵陽」と改称。国共内戦で座礁し1951年に解体。
戦死者43名の霊を祀る。

建碑の詞
あれから星霜三十有余年の才月も容赦なく過ぎ去ろうとする今駆逐艦杉生存者一同相計りあの大東亜戦争末期かの過酷な余りにも厳しい悪條件下のレイテ沖海戦を始め幾多の戦いにも只々ひたすらに祖国日本の為に散華された戦没者の英霊よ永遠に安かれと願い懐かしい母港が一望出来る此地佐世保東山旧海軍墓地に慰霊碑建立しました
慰霊碑に瞑する時あの童顔の中にも逞しい姿、かけがえのない青春おも、いといもせず殉じた戦友の思影が脳裏の底に髣髴します
遺族に変り戦友を偲び折り見て私達が此処を訪づれ戦友を吊い香華する中に亦得がたいものがあろうかと思います
且つ動静の場としたいものです
今日祖国日本も平和の一言につきます経済的にも一驚する発展を遂げました
而し片時も忘れてならない心すべき事は極限の中にも動ぜず殉じた戦友の代償でなくてなんでありましょう
駆逐艦「杉」の名に恥じない諸勇士の不滅なる武勲を永久に後世に伝へ祖国日本の真の平和を吾々の手で「シッカリ」守り二度と繰り返してならない戦争の悲惨を固く心に誓い其の平和の永久ならん事を祈り乍ら駆逐艦杉戦没者戦友よ祖国の土に安らかに瞑って下さい
 昭和54年3月10日
 駆逐艦杉生存者一同建立

戦友よ皆さん永遠に安かれ

駆逐艦 若葉 戦没者慰霊碑

昭和55年10月24日建立
初春型駆逐艦3番艦「若葉」
二ノ方兼文海軍少佐謹書(若葉最後の艦長)

昭和9年10月竣工。
レイテ沖海戦では志摩艦隊に属し輸送任務に従事。志摩艦隊本体に合流するために航海中の10月24日空襲にて沈没。
戦没者93名を祀る。

建碑の言葉
駆逐艦若葉は昭和9年佐世保海軍工廠に於て進水す
第21駆逐隊(若葉 初春 初霜 子ノ日)の司令艦なり
排水量1700トン速力34ノット12.7糎砲4門61糎魚雷発射管6門機銃多数搭載の新鋭艦にして支那事変及大東亜戦争始まるやダバオ方面に出撃マカッサル、バリ島攻略作戦に参加す
17年北方に転じアッツ島攻略作戦に参加
アリューシャン方面に行動す
18年奇蹟と称されたキスカ撤収作戦に参加し、陸軍部隊を収容す
19年10月米軍比島に上陸の報に接し10月15日呉軍港を出撃
同23日マニラを出港レイテ湾突入の志摩艦隊と合流すべく追尾中24日0800米海軍空母「フランクリン」の艦上機「グラマン」20機の攻撃を受け補機室付近に爆弾命中して機銃掃射を受け戦死戦傷者続出す
艦腹の破孔よりの浸水はげしく吸い込まれる如くに海中に没す
時に0900なり
此の海面をスルー海と称す
加えて沈没直後艦内の火薬の大爆発のために漂流中の乗員多数水中爆傷を受く
後僚艦初春、初霜の救助を受く
二ノ方艦長の進言により効なき突入を中止し後日を期しマニラに入港す
戦死者を火葬に付し戦傷者は海軍病院に入院す
一部の乗員転勤者は帰還し得たるも、ほとんどが上陸米軍と交戦戦死す
沈没後36年を経て此所に乗員及遺族の方方の協力を得て戦没者ゆかりの此の地に慰霊碑を建立し、招魂の式典を行ない多年の念願を果すを得たり
在天の英霊来たりて肉親と語られん事祈るものなり
 昭和55年10月24日
 第21駆逐隊 駆逐艦若葉戦友会

第六十一駆逐隊
駆逐艦 秋月 慰霊之碑

昭和56年10月24日建立
秋月型駆逐艦1番艦「秋月」
緒方友兄大佐謹書(秋月最後の艦長)

昭和17年6月竣工。昭和19年10月25日、レイテ沖海戦(エンガノ岬沖海戦)では小澤艦隊に所属し対空戦闘に従事。米機空襲により二つに折れ沈没。
戦没者208名を祀る。

碑文
駆逐艦秋月は昭和17年6月11日秋月型防空駆逐艦第1号艦として舞鶴海軍工廠で竣工
総排水量3800トン特殊性能10糎高角砲8門3連装25粍機銃5基4連魚雷発射管1基更に全甲板に単装機銃を配し最新鋭の防空駆逐艦として誕生す
秋月は竣工間もなくアリューシャンに向け出撃
北方作戦に参加後マカッサル、カビエン、ラバウル、トラック島等南太平洋方面作戦に従事
ガ島攻防戦から「あ号」「捷1号」作戦まで機動部隊附属の防空駆逐艦として活躍転戦亦連戦
敵味方が共に瞠目する輝しい戦果と武勲を挙げ駆逐艦秋月の名声轟かせり
然し度び重なる戦斗で損傷も著しく昭和17年10月25日ガ島沖の戦で11名昭和18年1月19日ソロモン方面にて14名の尊い命を失う
併して昭和19年10月25日「捷1号」作戦中比島沖の航空戦で秋月は身を捨て旗艦瑞鶴始め空母の援護射撃中被爆遂に命運盡きて沈没せり
秋月の命は短くもその功績は偉大なり
ガ島から比島沖までの長い戦斗で最後の勝利と栄光とを信じて散華して逝った乗員数208名の多数に上る
茲に生き残りし我等一同尊き御霊に対して祖国日本の復興は成り平和と繁栄が続いている旨を告げ願くは心安らかに御冥福あらんことを心から祈ってこの碑を建てゝ祭る
 秋月会

第六十一駆逐隊
駆逐艦 初月 慰霊之碑

昭和59年10月20日建立
秋月型駆逐艦4番艦「初月」
緒方友兄大佐謹書(僚艦秋月艦長)

第61駆逐隊司令天野重大佐・艦長橋本金松中佐以下355名の霊を祀る。昭和19年10月25日レイテ沖海戦(エンガノ岬沖海戦)において小澤艦隊に属し撤退戦で奮戦し撃沈。

碑文
駆逐艦 初月 は防空駆逐艦として昭和17年12月29日舞鶴海軍工廠にて竣工、直ちに第61駆逐隊に配属され以来「い号作戦」に行動し「マリアナ沖海戦」では旗艦「大鳳」を護衛して奮戦した。
戦局急を告げる昭和19年10月25日「レイテ沖海戦」に於ては旗艦「瑞鶴」を直衛し4次に亙る延べ5百余機の米艦載機と交戦、多大の戦果を挙げるも「瑞鶴」の沈没を見るや身を挺してその乗員の救助作業中突如襲い来つた15隻の米艦隊の重囲に陥るも孤艦奮斗2時間有余、為に我が艦隊は遠く北方に戦場から離脱するを得た。
而し我が初月は遂に力盡き同日午後8時57分エンガノ岬の沖深く無念を胸に愛する者への萬感の思いをこめて最後の水中爆発と共にその英姿を没した。
全員戦死の為その凄絶なる最後を語る者無きも戦後米国の戦史が発表されるに及びその勇戦奮斗が明白となった。
米海軍にさえ高く称賛されるその奮戦は永く子子孫孫に語り継がれよう。
茲に駆逐艦 初月 の栄誉を顕彰し英霊の冥福を祈らんと遺族及び元乗組員 生存者の有志相寄り謹んで此の碑を建立する。
 昭和59年10月20日
 委員長 阪口雄三 謹書

鎮魂歌
魂きはる
 生命をかけて
  國鎮る
わが初月の
 御霊安かれ
  初月乗組員生存者代表
  有澤貞彦謹書

駆逐艦 涼月・冬月・柳 慰霊碑の案内標

上記3艦の慰霊碑は北九州市若松区の高塔山に鎮座。
その案内標が佐世保海軍墓地にある。

秋月型駆逐艦3番艦「涼月」8番艦「冬月」
桃型駆逐艦4番艦「柳」

涼月・冬月は大和特攻作戦に参加し2艦ともに佐世保に帰還。(涼月は大破後進帰還)
尚、涼月・冬月・柳は「軍艦堤防」として北九州の地で防波堤になっている。

駆逐艦 涼月・冬月・柳三艦の慰霊碑は左記の地に建立して有ります
北九州市若松区高塔山中腹忠霊塔東側
 涼月会

※附記

軍艦堤防(軍艦防波堤)

北九州市若松区
秋月型防空駆逐艦3番艦「涼月」8番艦「冬月」 桃型駆逐艦4番艦「柳」(初代) この3艦は今も「軍艦防波堤」として北九州市若松港の防波堤として国土を護っている・・・

駆逐艦 初霜 慰霊碑

昭和58年10月8日建立
酒匂雅三少佐謹書(初霜最後の艦長)
初春型駆逐艦4番艦「初霜」

戦没者26名を祀る。 大和の沖縄特攻に直衛艦として参加するも奇跡的に損傷を受けず佐世保に帰還。昭和20年7月30日宮津港において対空戦闘回避中に機雷触雷し大破着底し終戦を迎えた。

碑文
駆逐艦初霜は昭和9年9月27日浦賀造船所にて竣工、直ちに聯合艦隊に編入就役す。
昭和16年12月第1艦隊、第1水雷戦隊、第21駆逐隊に属し、同年12月8日太平洋戦争勃発するや、南にマカッサル、バリ島の攻略作戦に参加し、続いて北にアッツ、キスカの攻略撤収作戦に勇戦す。
更には艦艇、船団護衛の任を帯び南海に走駆し、その大任を全うせしこと再度ならず。
いよいよ戦局急を告ぐるや、昭和19年6月マリアナ沖海戦、レイテ島作戦に参加し、その武勲赫々たり。
就中昭和20年4月6日戦艦大和を基幹として第2艦隊、第2水雷戦隊として、沖縄洋上特攻作戦に決然として出撃し、その眞価を発揮するも、戦運われに利あらず、大和他沈没損傷し、雄図空しく佐世保に回航す。
その後第17駆逐隊に編入され、宮津湾にて港湾警備に従事中、同年7月30日米軍機の来襲をうけ、対空戦斗中触雷、艦体切断し、獅子ヶ崎に擱座す。
あに歴史変転の悲運の命と云んや。
ゆめ予測だにせざりし終戦を目前にして、歴戦の武運を誇りし初霜の雄姿は無残に潰え、さらに幾多戦友の屍を重ねたるは、誠に痛恨の極みである。
茲に駆逐艦初霜の栄光を後世に伝え、且つは亡き戦友の英魂の冥福を祈り、今世のわれら戦友一同の安心立命の定礎として、謹んでこの碑を建立する。
 昭和58年10月8日
 駆逐艦初霜戦友会一同

※附記:初霜の錨

駆逐艦 初霜の錨

駆逐艦 蓮 戦没者之碑

平成8年10月建立
樅型駆逐艦17番艦「蓮」

大正11年(1922)竣工。
昭和12年、支那事変勃発に際しては揚子江流域の輸送・揚陸支援・警備活動などに従事。
昭和16年、大東亜戦争開戦時は支那方面艦隊・上海方面隊として活躍。
青島にて終戦。
支那事変の犠牲者3名、大東亜戦争の犠牲者19名を含む戦病死者計23名を祀る。

鎮魂
駆逐艦蓮は、二等駆逐艦樅型の一艦として、大正11年7月31日浦賀船渠において竣工、聯合艦隊水雷戦隊、舞鶴及び鎮海要港部警備駆逐艦として活躍した後、昭和9年から南支方面の警備に当たった。
昭和12年支那事変勃発するや、第3艦隊第11戦隊に属し、揚子江流域における海陸軍部隊の輸送・揚陸支援、水路啓開・交通保護等に任じ、15年以降は中支沿岸の海上封鎖作戦に従事し、赫々たる武勲を立てたが、この間戦友3名が尊い犠牲となった。
昭和16年12月大東亜戦争起こるや、支那方面艦隊上海方面部隊の一艦として開戦劈頭8日未明、黄浦江上において英国砲艦「ペテレル」を撃沈、以後18年6月までの約1年半は、中支沿岸の海上封鎖、対潜哨戒掃討、船団護衛等に従事した。
同年7月以降終戦までの約2年間は、専ら南支中支次いで北支方面の船団護衛に奮闘した。
この間、護衛回数はおよそ百回、護衛した船舶は優に2百隻を越え、作戦の多くは任を全うした。
しかしながら、護衛作戦中及び香港における対空戦闘において、19名の戦友が勇戦敢闘、惜しくも散華した。
また無念にも、輸送船数隻を敵の雷撃及び爆撃で失った。
今なお痛恨の極みである。
我ら生き残った戦友は、常々卿ら護国の英霊を追慕し、感謝報恩の念切なるものがあったが、このたび相計り、卿らの御霊を慰め功績を称え、これを後世に伝え残すため、謹んでここにこの碑を建てる。
御霊よ、願わくば永遠に安らかに。
 平成8年10月
 駆逐艦蓮戦友会会員一同

第二十二駆逐隊慰霊碑
 皐月・文月・水無月・長月

昭和63年10月建立
飯野忠男皐月艦長、磯部慶二水無月艦長以下300有余名の英霊を祀る。
睦月型12隻は全て佐世保を本籍としていたが全艦戦没。 第二十二駆逐隊はフィリピン・マレー・ジャワ作戦に従事。ソロモン・ガ島撤退作戦にも参加。

「長月」睦月型駆逐艦8番艦
昭和18年7月4日、コロンバンガラ島緊急輸送を行った第三水雷戦隊(含む第二二駆逐隊)は米艦隊と遭遇(クラ湾海戦・クラ湾夜戦)。
長月は戦闘により座礁、僚艦皐月が復旧を試みるも失敗。
7月6日爆撃により放棄。

「文月」睦月型駆逐艦7番艦
昭和19年1月30日のラバウル空襲で損傷した文月は修理の為にトラックに回航。 修理中の2月17日にトラック島空襲により爆撃され浸水。
翌昭和19年2月18日に沈没。

「水無月」睦月型駆逐艦6番艦
水無月はジャワ攻略戦以降22駆の3艦とは別に船団護衛に従事。
昭和18年以降はソロモン諸島輸送作戦に参加。
昭和19年6月6日、ダバオ南東セルベス海で米潜水艦雷撃で沈没。磯部慶二艦長以下乗員全員戦死。

「皐月」睦月型駆逐艦5番艦
22駆が昭和19年8月20日で解隊され第三〇駆逐隊に編入。
昭和19年9月21日、マニラ湾にて米空母艦載機の攻撃を受け沈没。戦死者52名。なお皐月生存者はマニラ地上戦に巻き込まれずに帰国できている。

第22駆逐隊慰霊顕彰碑文
第22駆逐隊(皐月 文月 水無月 長月)は大正の末より昭和の始めにかけて建造された睦月型12隻中の4艦で 上海及び支那の両事変に参加
大東亜戦争開戦時は比島部隊として アパリ リンガエン湾の上陸作戦に参加し 続いてマレー半島 ジャワ島方面に作戦行動した
昭和17年4月以降は第一海上護衛隊に編入され 18年1月まで南西方面から西南太平洋に及ぶ広範な海域の船団護衛に従事したが ガダルカナル争奪を巡る死闘に参加すべく 第22駆逐隊は第8艦隊に編入され 18年2月の3次に及ぶ「ガ」島撤収作戦に参加 1万数千名に及ぶ将兵を救出した
その後各艦ソロモン海域を中心にニューギニア方面など広大な海域の護衛 並に 補給作戦に東奔西走して席暖まる暇なく 敵の優勢な航空兵力や電波兵器に多大の苦労と危険を強いられるにいたった
「長月」は18年7月6日コロンバンガラ島へ兵力強行輸送の途次 クラ湾夜戦で座礁 翌朝敵機の爆撃で破砕された
「文月」はラバウルで敵機と交戦損傷してトラックに回航修理中 19年2月17日の大空襲で直撃弾至近弾を受け浸水翌18日沈没
「水無月」は19年6月「あ」号作戦時 中部太平洋艦隊の第30駆逐隊に編入され 西南太平洋方面で護衛作戦中 19年6月6日セレベス海に於いて敵潜水艦の攻撃を受け沈没全員戦死
「皐月」は19年1月カビエン輸送作戦時 敵機と交戦損傷の為内地に回航修理後 連合艦隊直属となり 南西太平洋海域の船団護衛に従事中 19年9月21日マニラ湾に於いて敵機動部隊の空襲を受け沈没
かくて第22駆逐隊はここにすべてその勇姿を南海に没した
この間 飯野忠男皐月艦長 磯部慶二水無月艦長以下3百有余の戦友が護国の鬼と化した
この碑は青春を国に捧げ若くして戦いに殉じたこれ等勇敢なる戦友の御霊を慰めんがため遺族並びに生き残りの戦友相はかり併せて我が国永遠の平和を祈願して奉納したものである
 昭和63年10月
 元長月艦長 二ノ方 兼文
 第22駆逐隊遺族生存者一同

第二十四駆逐隊慰霊碑
 江風・海風・山風・涼風

平成元年建立
江風・海風・山風・涼風 四艦長以下800有余柱の英霊を祀る。 第二十四駆逐隊は大東亜戦争初戦においては、フィリピン攻略・蘭印作戦、ミッドウェー海戦などに参加。

「山風」白露型駆逐艦8番艦(海風型駆逐艦/改白露型2番艦)
ミッドウェー作戦では主力部隊随伴タンカーを護衛。
昭和17年6月23日、タンカー護衛の為に分離行中に房総半島沖で敵潜の雷撃により沈没。白露型最初の喪失艦。 浜中脩一艦長以下280余名が戦死。

「江風」白露型駆逐艦9番艦。海風型駆逐艦/改白露型3番艦)
昭和18年8月6日、第三水雷戦隊旗艦川内以下駆逐艦4隻(萩風・嵐・江風・時雨)がラバウル出撃。コロンバンガラ島強行輸送中にベラ湾において敵艦隊と交戦し江風は轟沈。柳瀬善雄艦長以下169名戦死。

「涼風」白露型駆逐艦10番艦(海風型4番艦)
トラックを最前線としていた24駆の涼風はブラウン諸島に向かう輸送船護衛の為に出撃。
昭和19年1月25日にポナペ島北東で米潜水艦の雷撃を受け沈没。山下正男艦長以下231名が戦死。

「海風」白露型7番艦(海風型/改白露型1番艦)
昭和19年1月、涼風とともにトラックを拠点として活動。米潜水艦に襲撃された伊良湖救難を涼風とともに行う。その数日後に涼風沈没。
海風は昭和19年2月1日にトラック泊地南水道で米潜の襲撃を受け沈没。

第24駆逐隊戦没者慰霊顕彰碑文
第24駆逐隊(江風 海風 山風 涼風)は白露型駆逐艦として昭和12年建造され 水雷戦隊の新鋭駆逐隊として支那事変に活躍
大東亜戦争においては当初比島部隊の一隊として レガスピー タラカン バリックパパン ジャワ島攻略作戦に従事
赫々たる戦果をあげ 昭和17年6月に行われたミッドウェイ作戦には主力部隊として参加した
同年6月23日山風が輸送船団護衛の為分離行動中 房総半島沖において敵潜水艦と交戦中その雷撃により沈没
当隊にとって最初の犠牲となった
同年8月ガダルカナル島に敵来襲するや 南東方面部隊の増援部隊としてガダルカナル島争奪をめぐる死闘に従事
各艦20回におよぶ強行輸送 第二次 第三次ソロモン海戦 南太平洋海戦 ルンガ沖夜戦に活躍したが 優勢な敵兵力とレーダーを始めとする電波兵器には抗し難く我が軍はガダルカナル撤収の止むなきに至り 昭和18年2月他の駆逐艦20隻とともに3回に及ぶ撤収輸送により 1万数千人の将兵を救出した
続いて同年8月コロンバンガラ島増強輸送作戦中 クラ湾において敵艦隊と遭遇
雷撃により敵巡洋艦を撃沈したが 江風は同月6日敵艦隊と交戦中 ベララベラ島沖において沈没した
物量を誇る敵の攻勢が益々増強された19年 涼風は1月25日輸送船護衛中 ポナペ島沖において 海風はトラック島南方海面での作戦行動中の2月1日 いずれも敵潜水艦の雷撃により沈没
就役以来常に第一線において勇戦奮闘した第24駆逐隊はその一生を閉じたのである
この間浜中脩一山風艦長 柳瀬善雄江風艦長 山下正男涼風艦長外8百有余名の戦友が護国の鬼と化した
この碑は青春を国に捧げ 若くして戦いに殉じた勇敢な戦友の御霊を慰め併せて我が国の永遠の平和を祈願するため遺族並びに生き残りの戦友相い計り建立したものである
 平成元年 秋
  建立発起人代表 伊藤治義
  第24駆逐隊 遺族生存者一同

第二十七駆逐隊慰霊碑
 有明・夕暮・白露・時雨

平成4年9月27日建立
加茂喜代之夕暮艦長、川橋秋史有明艦長、松田九郎白露艦長を始め 400数余柱の英霊を祀る。

「有明」初春型駆逐艦5番艦
昭和18年7月27日、有明と三日月でラバウルからニューブリテン島ツルブへの輸送作戦中にB-25爆撃機の爆撃により「有明」は沈没、「三日月」は座礁放棄。

「夕暮」初春型駆逐艦6番艦
昭和18年7月20日、コロンバンガラ島近海において夜間空襲(ニュージョージア島の戦い)によって、「夕暮」と「清波」が撃沈。

「白露」白露型駆逐艦1番艦
昭和19年6月15日、ダバオを出港した輸送船団(タンカー3隻)を第27駆(白露・時雨)および浜風・響・秋霜で護衛し小澤機動部隊本体と合流する途中で、米潜水艦雷撃回避中に白露はタンカー「清洋丸」と衝突。白露は爆雷誘爆により沈没。

「時雨」白露型駆逐艦2番艦
「呉の雪風、佐世保の時雨」と称された歴戦の幸運艦。
昭和20年1月24日、輸送船団(ヒ87船団)護衛中にマレー半島コタバル近海で米潜水艦の雷撃によって沈没。

慰霊之詞
我が有明 夕暮 白露 時雨の4艦は昭和10年より翌年にかけ竣工
第9駆逐隊を編成したが同13年の改編以後第27駆逐隊となった。
支那事変に続き大東亜戦争に従事
開戦初頭は艦艇及び船団の護衛並に対潜哨戒の任に就いたが 有明 夕暮は一時期別行動してインド洋方面作戦に参加した
戦域の拡大に伴い南太平洋海域へ進撃し昭和17年5月珊瑚海々海戦 同年6月ミッドウェー海戦に従事
同年8月ガダルカナル島攻防戦開始されるや「ガ」島への緊急増援の為にラバウル ショートランド基地より敵の攻撃反撃しつつ各艦十数回の緊急輸送を行い 第3次ソロモン海戦その他の海戦にて敢闘した
「ガ」島攻防戦後もソロモン海域及び東部ニューギニア方面への緊急輸送や内地とカロリン諸島並に比島方面等への艦艇船団の護衛にと 時には敵の攻撃により被害をだしながらも果敢なる行動で任務を遂行したが夕暮は同18年7月20日コロンバンガラ輸送作戦中チョイセル島沖に於て有明も同月27日ツルブ輸送作戦中いづれも敵機群と交戦被爆沈没した
白露と時雨はブーゲンビル島沖海戦同19年に入ってビアク島増援作戦に参加敢闘した
同年6月マリアナ諸島周辺への敵進攻の兆に迎撃作戦行動中の白露は同月15日夜敵潜水艦の雷跡回避時護衛中のタンカーと触衝沈没した
時雨はマリアナ沖海戦 比島沖海戦及び輸送作戦にと最後まで勇戦敢闘したが 同20年1月24日マレー半島東岸沖でタンカー護衛中敵潜水艦と交戦雷撃を受け沈没した
斯して就役以来水雷戦隊の精鋭として活躍した我が第27駆逐隊は戦争の終結を待たず 戦火の裡で全艦滅失し此の間 加茂喜代之夕暮 川橋秋史有明 松田九郎白露の各艦長を始め4百数十余名の尊い殉難者を出したのである
大東亜共栄圏樹立の国是を信じ愛国の至情に燃えつつ散華された多くの戦士の鎮魂と勲を後世に伝えるべくこの碑を建立する

英霊よ 安らかに

 平成4年9月27日
  第27駆逐隊乗員遺族並に戦友有志一同

佐世保鎮守府潜水艦合同慰霊碑

昭和60年10月20日建立
内閣総理大臣 中曽根康弘 謹書

大東亜戦争期間中、佐世保を本籍とした潜水艦は52隻。そのうち32隻を喪失し、戦公死した乗組員は総計で2591名。

佐鎮潜水艦勇士に捧ぐ
さきの大東亜戦争、昭和16年12月8日開戦より、20年8月15日終戦まで、3年8ヶ月の間大命一下、帝国海軍は、広大な諸海域において、寧日なく激烈な戦斗行動に従事した
戦前、戦中を通じ、佐世保鎮守府潜水艦は、見敵必勝の旨を体して勇戦奮斗したが、沈没したもの32隻、戦公死者2591名の多きに達した、痛惜の極みである今、終戦40周年の好機に際会し佐世保潜水艦乗員の残存者有志一同相図り、関係遺族及び他の多数有志者の協賛を賜わり、旧海軍墓地聖域に合同慰霊碑を建立することを得た
茲に、謹しんで、英霊を慰め、旧帝国海軍潜水艦の栄光を讃えて、無限の哀悼の微衷を捧げ、併せて日本国将来の安泰と繁栄を祈念する
 昭和60年10月20日
 佐世保鎮守府潜水艦合同慰霊碑
 建立委員会会長 高津信彦

喪失潜水艦名
伊10潜 伊13潜 伊60潜 伊61潜 伊63潜 伊67潜 伊164潜 伊165潜 伊166潜 伊177潜 伊178潜 伊179潜 伊180潜 伊181潜 伊182潜 伊183潜 伊184潜 伊185潜 伊368潜 伊370潜 伊371潜 呂33潜 呂34潜 呂61潜 呂65潜 呂66潜 呂106潜 呂107潜 呂108潜 呂109潜 呂110潜 呂111潜 伊372潜

潜望鏡

嗚呼 伊號第十潜水艦

昭和57年4月18日建立
中島清次艦長以下113名の霊を祀る

伊9型潜水艦・巡潜甲型の2番艦
昭和16年10月31日竣工(川重神戸)
昭和19年7月4日、サイパン島附近で撃沈される。伊10号潜水艦の撃沈隻数(14隻)、トン数(81,553トン)ともに第一位の戦果を誇る。

碑文
南十字星輝く南海に青春をかけて祖国のため戦い散華した伊号第十潜水艦将兵のみ霊にこの慰霊碑を捧げその勲を永久に讃える
 昭和57年4月18日 建之

伊号第10潜水艦戦歴
昭和16年神戸川崎重工において竣工
同年11月横須賀出撃以来南太平洋・東太平洋・印度洋・中部太平洋等各海域に転戦
9回の作戦行動に従事し20万海里余を走破、抜群の戦果をおさめたが昭和19年7月サイパン島東方において壮烈な最後を遂げた。

主要戦果
敵船撃沈破17隻余 敵要地飛行偵察及び潜航偵察十余回 訪独潜水艦伊号第8潜水艦に対する支援補給 印度洋作戦において映画「轟沈」の主役艦として活躍
 昭和62年9月21日

伊号第百八十五潜水艦之碑

昭和57年4月18日建立
栢原司令、荒井艦長以下95名の霊を祀る

伊百七十六型潜水艦・海大七型10番艦
昭和18年5月23日横須賀工廠で竣工
昭和19年6月22日、あ号作戦に連動する散開線展開中に、米駆逐艦の攻撃を受け沈没。
第二二潜水隊司令 栢原 保親 少将 、艦長 荒井淳大尉 以下95名戦死。 栢原保親 少将は伊10潜水艦艦長時代に商船9隻 撃沈する戦果を揚げていた。

特務艦 佐多 戦没者慰霊碑

昭和63年3月31日建立

大正10年2月竣工の給油艦。竣工から昭和12年まで海外重油輸送に従事。昭和13年より潜水艦救難艦として活躍。「伊63」「伊61」の引き揚げに従事。
大東亜戦争時は輸送任務に従事。
昭和19年3月31日、パラオ大空襲により沈没。

軍艦 若鷹 戦没者慰霊碑

平成2年5月1日建立
戦死者17名を祀る

急設防潜網敷設艦「若鷹」は昭和16年1月30日竣工。
初鷹型敷設艦3番艦。

大戦中は輸送船団の護衛に従事。西部ニューギニアを防衛。スラバヤにて終戦。引き揚げ輸送艦となり、昭和21年7月に英国に賠償艦として引き渡された。

第百三十一号輸送艦
第一黒潮 戦没者慰霊碑

昭和59年7月建立
戦没者30名の霊を祀る

二等輸送船(SB艇)は69隻が建造された。そのうち20隻が佐世保を本籍とした。そのうち16隻が戦没し、1隻が大破放棄された。
第131号輸送艦は昭和19年10月末よりオルモック輸送作戦(多号作戦)に従事。マニラに向けて帰港中にB-24爆撃機の爆撃を受け航行不能となり曳航され帰港。修理のうえ昭和20年2月10日をもって「第一黒潮」と改名して交通船に区分。
昭和20年7月27日、マラッカ海峡において米潜水艦の雷撃を受け沈没。


<戦前>

軍艦 松島 殉難者之碑

松島は日清戦争時の連合艦隊旗艦であった。
日清戦争後に橋立・厳島・松島の三景艦揃って遠洋練習航海に参加。
明治41年4月30日、台湾馬公要港停泊中に火薬庫が爆発し瞬時に沈没。殉難者は艦長・副長以下221名。少尉候補生は57名中33名が殉職。

軍艦 初瀬 戦死下士卒之碑

明治37年5月15日、日露戦争において旅順口封鎖作戦行動中、戦艦八島とともに老鉄山付近海面で機雷に触れて爆沈。
戦死下士官兵458名を祀る。

第二特務艦隊 戦没者之碑

第一次世界大戦において、日本海軍が地中海に派遣した艦隊の一つ。地中海で連合国軍とともに船団護衛作戦に従事した。
第二特務艦隊は巡洋艦「明石」を旗艦とし駆逐艦8隻で編成され大正6年4月から地中海に派遣。途中で旗艦は「出雲」にかわり、駆逐艦15隻まで増やされた。
第二特務艦隊が地中海で船団護衛をした回数は348回、護衛した艦船数は軍艦21隻、運送船767隻、護衛した連合国人員は75万人に達し、対潜戦闘回数は36回に及んだ。日本海軍において対潜戦闘はこの第二特務艦隊が初めての経験であり、尊い犠牲者も出た。
駆逐艦「榊」は大正6年6月11日の護衛作戦行動中、ドイツ潜水艦の攻撃を受け、沈没は免がれたものの大破し艦長上原中佐以下59名が戦死。
碑は戦死者(病死者も含む)73名を祀る。
なお、同艦隊の慰霊碑はマルタ島にも建立されている。

特務艦 志自岐 殉難者碑

わが国最初の重油輸送艦(給油艦)
大正8年(1919)8月15日、ボルネオ島からの帰途台風に遭い、種子島南方・源三郎礁付近で座礁沈没した。遭難者111名を祀る。

伊號第六十三潜水艦殉難者之碑

伊63潜水艦は昭和3年12月竣工。
昭和14年2月2日未明に豊後水道で浮上漂泊中に僚艦伊60と衝突し沈没。殉職者は先任将校中島大尉以下81名。

第七十号潜水艦殉難海軍々人碑

海軍殉職者43名を祀る。

第七十号潜水艦
大正十二年八月二十一日、竣工引き渡し直前の公試運転の際に淡路島鍛屋沖で事故沈没。軍人四十三名、海軍職工3名、川崎造船所職員42名の計88名が艦と運命をともにしている。


護衛艦せんだい転籍記念植樹

第二十九駆逐隊
駆逐艦夕凪会植樹

長崎県出身
海軍甲種飛行予科練習生戦没者
鎮魂の櫻

平成17年12月8日
長崎縣甲飛會

父子桜

九州甲飛16期 長崎大会記念

昭和55年3月植樹


感謝と哀悼を・・・

この記事では、全ては網羅できておりませんが、その雰囲気と往時のよすがだけでも感じていただければ幸いです。

そのほかは公式サイトをご参照でお願い致します。「慰霊碑リスト」に詳しく掲載されております。
「一般社団法人佐世保海軍墓地保存会」様

http://kaigunbochi.jp/

また本記事は
「社団法人 佐世保東山海軍墓地保存会」様が作成した
「佐世保東山海軍墓地 墓碑誌」を参照に作成させていただきました。


油壺周辺の戦跡散策・その3

令和元年8月31日~9月1日

油壺に泊まる機会がありましたので、チャンスとばかりに周辺を散策。

「その3」では油壺湾の南側に位置する諸磯湾方面に向かってみます。

  • その1 東大三崎臨海実験所と特攻戦隊司令部、新井城址
  • その2 油壺験潮場、震洋桟橋と油壺地下格納壕、胴網狙撃用洞窟陣地
  • その3 油壺公園、諸磯湾の海龍格納壕と隧道 など

場所

https://goo.gl/maps/F2abH8HFhUZboxeY8

昭和21年(1946)02月15日-米軍撮影写真を一部加工
USA-M46-A-7-2-235
Google航空写真

油壺湾を経て諸磯湾に向かう道をくだっていきます。

油壺公園

石碑がありました。

この小網代をスタートして
われらは進んだ、永遠のレースへ
吹きつのる風、おしよせる波
最期まで、力を尽くしてたたかった
あの水平線のかなたは、われらのしとね
海を愛する人々よ、忘れないでくれ
海のきびしさ、海のやさしさ、
そして、海を愛するこのわれわれを

海の安全を祈って
初島・利島ヨットレース 遭難の碑
 昭和37年11月3日夜、相模湾で行われたヨットレースで思いがけないことが起こりました。参加した43隻の大型ヨットのうち慶応義塾大学の「ミヤ号」(乗組員4人)と早稲田大学の「早風号」(乗組員6人)が、突然の暴風のために行方不明になり、さらにほかの艇に乗っていた慶應義塾大学の一人も波にさらわれてしまいました。
 家族の人や両大学の友人や関係者、海上保安庁、自衛隊、そして、各地の漁協や消防署まで、大勢の人々の創作活動が続けられましたが、ヨットは発見されませんでした・・・
 元慶應義塾大学教授 村井実著
 小学校5年教科書「ヨットのそうなん」より抜粋


「油壺公園」
谷戸といってよい谷間の平地。このあたりには兵舎があつまり、周辺には海龍格納壕が多数残されているというが、ちょっと緑が多すぎて夏はわからないですね。リベンジが必要。

油壺湾の南、諸磯湾に向かいます。

諸磯湾

海龍格納壕

道路脇に壕がふたつ残されていました

そのまま道なりに西に進んでいきます。

基地連絡用隧道(東西)

海軍が掘ったというトンネル。2本並んだ隧道。真ん中で隣の隧道に接続。H型。隧道の真ん中で隣の隧道へと移動ができる。現在は一本のみ使用。

トンネルを抜けると、小さな造船所。この先は立入禁止。
ここにも海龍格納壕が幾つか残っているという噂。

基地連絡用隧道(南北)


おまけ

今回の記事「その1」「その2」「その3」は時系列はバラバラで掲載でした。令和元年8月31日から9月1日の二日間を利用して周辺を散策。

油壺に、会社で契約しているリゾートマンションがありまして、そこを拠点に散策。ベース基地としてこれはとても有益ですね。
嫁さんに気に入ってもらえたので、また利用したいと思います。

二日目はレンタサイクルを借りました。三浦半島はアップダウンが多くて、これも有益でした。

三崎には古い建物も多く残っていますが、今回は回りきれず。次回散策時まで残っていることを祈りつつ。

油壺周辺の戦跡散策・その2

令和元年8月31日~9月1日

油壺に泊まる機会がありましたので、チャンスとばかりに周辺を散策。

その1」では、海軍が本部として接収した東大実験所を掲載しました。それ以外にも海軍にまつわる戦跡が点在しておりますので、ちょっとみていきましょう。

  • その1 東大三崎臨海実験所と特攻戦隊司令部、新井城址
  • その2 油壺験潮場、震洋桟橋と油壺地下格納壕、胴網狙撃用洞窟陣地
  • その3 油壺公園、諸磯湾の海龍格納壕と隧道 など
震洋桟橋

場所

https://goo.gl/maps/F2abH8HFhUZboxeY8

昭和21年(1946)02月15日-米軍撮影写真を一部加工
USA-M46-A-7-2-235
Google航空写真

油壷バス停から東に赴いたところに「油壷験潮場入口」(国土交通省国土地理院)がありますので、ここから海面に降りていきます。

途中、基準水準点があります。
油壺の基準水準点は昭和5年(1930)設置。
標高は16.6905m

エメラルドグリーンな海面が見えてきました。


油壷験潮場

明治27年(1894)竣工

油壷験潮場
この建物の中には、海面の上がり下がりを自動的に精密に記録する験潮儀が設置されています。この記録は高さの基準をきめたり土地の変動を調べるために非常に大切な資料となります。 国土地理院

油壷験潮場(旧建屋) 明治27年(1894)竣工
(公社)土木学会において、「我が国の初期の測量技術を今に伝え、日本の標高の基準である「日本水準原点」の管理に重要な役割を果たしてきた貴重な施設」との評価を受け、平成30年度の土木学会推奨土木遺産に認定されました。
 平成30年11月 国土地理院


霊岸島水位観測所

日本水準原点


油壷験潮場の左側に、桟橋が残っています。

震洋桟橋

水上特攻艇「震洋」の接岸用の桟橋跡。係留用の杭(ボラード)も残っている。

満潮時に撮影(令和元年8月31日)

水位は刻々と変わります。海側を巡る際は潮の満ち引きにご注意を。

こちらは干潮時に撮影(令和元年9月1日)
水位がだいぶ違います。

水上特攻艇「震洋」

※靖國神社遊就館大ホールには復元された震洋が奉納されている。

震洋は船首内に250キロ炸薬を搭載し敵艦への体当たり攻撃を目的とした特攻艇 各型合せて6200隻が量産され4000隻が配備。震洋隊戦没者は2500余名という。

原寸模型 震洋一型
1/10模型 震洋五型

震洋桟橋から東に歩みをすすめる。

人工物が残る。

近づいてみる。

干潮時もしくは冬季であれば緑も少なく、もう少し先すすめるようだけど。今回は東側はここまで。このさきにはもう一つの震洋桟橋もある。
また今度の干潮のときにでも訪れましょう。(このときの干潮時は東大実験所の方をメインとしましたので)


験潮場から西に。看板のすぐ後ろに洞穴がありました。
奥行きはさほどには深くなく中はY字に分岐。

海岸に沿って歩いてみましょう。

係留用の杭が大量に残る。

震洋格納庫(格納壕)

震洋の格納庫といわれている洞穴。奥が一段高くなっていた。

さらに東に歩みをすすめる。

験潮場で位置関係を把握。

最大干潮を狙ってきたので、容易に歩けます。
潮が満ちていたら、無理ですね。

謎の人工物。

神奈川県のマーク

海龍格納壕 ?

謎の人工物

さらに東に脚をすすめる。
今回は海岸線沿いをあるく。内陸に進めば別の壕があるというが、夏場は草木の繁りが邪魔をする。

神奈川県のマーク多い

東大の実験所が見えてきました。

東大の実験所に関しては「その1」で。

ウニ

荒井浜海岸

このまま歩みをすすめていけば、「荒井浜海水浴場」に到着。人の賑わいが安心感。途中で潮が上がったら、逃げ場がなくなるので、時間を気にしながら歩きました。
この日は、午前10時に験潮場をスタートして最大干潮の11時に東大実験所周辺に到着。 荒井浜海水浴場 に到着したのは11時45分。

火照った体をかき氷で冷やす。


胴網海岸

油壺の北側にある胴網海岸、小網代湾。こちらにも戦跡があるので脚を運んでみた。

その1」でも触れた三浦道寸の墓から下った先に広がる海岸。右手に洞穴がみえる。近づいてみよう。

胴網海岸の地下壕

二つの入口がある。地下壕を前提とした格好ではなかったので、入り口のみを観察。次回訪れるときは足元をきっちりした靴で来よう・・・
詳細不明。

狙撃用洞窟陣地

遊歩道の脇に開口。
油壺マリンパークの資材置き場と可していた。

胴網海岸には油壺マリンパークの海水ポンプなどが設置。

こちらも穴。

戦跡を観ながら海と花を愛でる。

「諸磯湾」そのほかは「その3」で

いったん〆

油壺周辺の戦跡散策・その1

令和元年8月31日~9月1日

油壺に泊まる機会がありましたので、チャンスとばかりに周辺を散策。

今回は以下の3部構成。

  • その1 東大三崎臨海実験所と特攻戦隊司令部、新井城址
  • その2 油壺験潮場、震洋桟橋と油壺地下格納壕、胴網狙撃用洞窟陣地
  • その3 油壺公園、諸磯湾の海龍格納壕と隧道 など

東京大学三崎臨海実験所
旧本館
旧水族・標本館 

2019年度に取り壊されることが決定

旧本館(日本海洋生物百周年記念館)は昭和11年(1936年)
旧水族・標本館は昭和7年(1932)

設計は2つの建物ともに内田祥三。
「内田ゴシック」といわれるデザインパターンの建物を数多く設計。代表作は東京大学大講堂(安田講堂)をはじめとし東大構内に多数が残されている。

昭和20年2月、大日本帝国海軍が本実験所を接収。
特殊潜航艇基地の本部として活用された。

横須賀鎮守府所属
第一特攻戦隊第十一突撃隊
  特殊潜航艇「海龍」
   第1海龍隊・第2海龍隊・第3海龍隊(36隻)
  水上特攻艇「震洋」
   第27震洋隊・第51震洋隊・第56震洋隊(100隻)
  特殊潜航艇「回天」
   第14回天隊(6隻) ただし未展開


関連記事

東京大学大学院理学系研究科附属臨海実験所
= 日本海洋生物学百周年記念館 棟下式 =
 海洋生物学に大きく貢献してきた日本海洋生物学百周年記念館(通称:記念館)が2019年度に取り壊されることが決定しました。3月30日(土)には、記念館に馴染みの深い100名近くの方が参列し棟下式が開催されました。

http://www.mmbs.s.u-tokyo.ac.jp/jp/news/20190330muneoroshiki.html

東京大学大学院理学系研究科附属臨海実験所
= 記念館の利用中止について =
 当実験所の日本海洋生物学百周年記念館(以下、記念館)は、東京大学施設部の調査により、耐震性に問題がある危険建物と判定されました。これに伴い、記念館の外来利用を全面的に中止いたします。

http://www.mmbs.s.u-tokyo.ac.jp/jp/news/160629-1.html

東大三崎臨海実験所
安全優先で解体決定
安全確保や構造上補修が困難であることなどから、大学は解体の方針を固め、新築する総合研究棟へ機能移転するとした。
旧水族・標本棟(425平方メートル)は1932年、旧本館(1021平方メートル)は1936年に建設され、いずれも築80年超。同大施設企画課によると、海に隣接する2棟は、塩害と経年劣化により柱や梁、壁面などに亀裂が入り、随所でコンクリートが爆裂。自重や地震の揺れに耐えられないほど構造躯体が劣化しているという。また、建物内部の鉄骨も腐食が進行。やせ細っているものや端部が欠損している箇所も多く確認され、「鉄筋コンクリート造の構造上、新材に交換ができず補修が困難」と施設写真を交えて説明。「本来の使用目的を維持させた状態で構造の安全性・耐久性の確保が難しいため、取り壊しを決定した」と述べた。

https://www.townnews.co.jp/0502/2018/08/03/443367.html

場所

https://goo.gl/maps/F2abH8HFhUZboxeY8

昭和21年(1946)02月15日-米軍撮影写真を一部加工
USA-M46-A-7-2-235
Google航空写真
三崎臨海実験所 周辺

東京大学三崎臨海実験所
旧本館(海側より)

昭和11年(1936年)

最大干潮時に海岸側よりアクセスしております。満潮時は海岸からのアクセスは困難を極めます。
潮の満ち引きによっては、危険な状態になりますので自己責任でお願い致します。

曲線美あふれる海側の建物

東大が使用している桟橋は、当時の航空写真のころから位置関係が変わっていない。周辺に残る地下壕も再利用。

旧本館手前の海岸には煉瓦片が散乱していた。

謎の人工物

東京大学三崎臨海実験所
旧本館(陸側より)

昭和11年(1936年)

東京大学三崎臨海実験所
旧水族・標本館

昭和7年(1932)

砂浜側から

ガラス模様もオシャレ

衛兵の詰所?

門柱

年代は不詳


新井城址

東京大学三崎臨海実験所の地は、相模三浦一族の最後の地でもあった。
北条早雲最大のライバルであった三浦道寸。

以下は土地の歴史として付記。

新井城址
 三浦一族滅亡の地である新井城は、面積約128ヘクタールの自然をそのまま利用した要害でした。
 相模湾に突出したこの一帯は、小網代湾と油壺湾にはさまれて、三方が海に面した断崖であり、陸地は、北方約3キロメートルの大手の引橋で、この橋を切って落せばどこからも攻めこまれないようになっていました。
 引橋は後に地名になりましたが、ここで伊勢新九郎(北条早雲)勢は、橋を引かれて渡ることが出来ず、三浦勢に時を稼がれています。
 現在は、関東大地震による隆起で、往時の面影はうすらいでいますが、当時としては大軍をもってしても攻めがたく、わずかの手兵で三年間籠城することができました。三浦一族の奮闘もさることながら、城としても、守りにすぐれた構えであったといえます。
 室町期の居館としての新井城の遺構は、本丸を中心にめぐらされている空堀に往時を偲ぶことができます。
 三浦市

油壺湾
 油壺の名のいわれは、永正十三年(1516年)、新井城(今の油壺一帯)を最後の居城として立て篭もった三浦一族が北条早雲の大軍を相手に、三年間にわたって奮戦しましたが、空しくついに全滅し、一族の将・三浦道寸義同(どうすん・よしあつ)をはじめその子・荒次郎義意(よしおき)は自刃、他の将兵も討死、または油壺湾へ投身したと伝えられ、そのため湾一面が血汐で染まり、まるで油を流したような状態になったので、後世「油壺」といわれるようになりました。
 北条五代記には、三浦一族全滅の模様を次のように記しています。
「今も七月十一日には毎年新井の城に雲霧おおいて日の光も定かならず。丑寅の方と未申の方より雷(いなずま)かがやき出て両方光入乱れ、風猛火を吹き上げ、光のなかに異形異類の物有りて干戈(かんか)をみたし、虚空に兵馬馳け散り乱れ、天地をひびかし戦う有様、おそろしきと言うばかりなり云々」
 三浦市

油壺マリンパークの北側に、新井城碑がある。

新井城碑

三浦義意の墓

三浦道寸の子

その先には三浦一族最期の当主、三浦道寸の墓

三浦道寸の墓

引橋

油壺は他にも見どころがありますが、続きは「その2」で。

本編はいったん〆

旅順港閉塞作戦・小池幸三郎を偲ぶ(日露戦争の戦跡散策・埼玉川口)

令和元年8月散策

2019年の8月某日、この日は埼玉県川口市に足を運ぶ機会があった。
せっかくなので、川口市内に残る戦跡を散策してみる。

川口市総鎮守「川口神社」
境内に「川口護國神社」が鎮まっており、その傍らに水兵姿の凛々しく躍動感あふれる胸像が鎮座してた。

小池幸三郎像(日露戦争)
軍帽のペンネント(兵用軍帽前章)は、乗艦「大日本軍艦高千穂」

小池幸三郎

小池幸三郎は明治13年(1880)7月15日、現在の川口市に産まれる。
明治33年(1900)、徴兵年齢に達した20歳の小池幸三郎は横須賀海兵団に入団。
明治35年(1902)に軍艦「高千穂」の乗組員となる。
明治37年(1904)2月10日、日露戦争が勃発する。
同年3月27日、連合艦隊は第二回旅順港閉塞作戦を実施。小池幸三郎は閉塞隊に志願し、広瀬武夫指揮する福井丸に乗組し敢然と作戦に従事。
閉塞船福井丸沈没後、カッターボートにて帰還途中に、小池幸三郎は被弾し戦死を遂げる。享年二十五歳。

小池幸三郎の葬儀は川口市内の善光寺で斎行。(墓所も善光寺)

日露戦争戦勝30周年を記念して昭和11年(1936)に川口市公会堂(現在の川口市立中央公民館)前に小池幸三郎像が設置。

平成7年5月27日に川口市海交会によって、川口神社境内「川口護國神社」に小池幸三郎銅像を移転。

海軍一等機関兵小池幸三郎を偲ぶ

海軍一等機関兵小池幸三郎を偲ぶ
君は小池武平氏の次子。
明治13年7月15日、川口町268番地に生る。
明治33年12月横須賀海兵団に入り、同35年6月軍艦高千穂の乗組員となる。
日露の戦役起るや直ちに旅順の攻略に従い、決死旅順港口第二次閉塞隊に志願し、広瀬武夫海軍中佐指揮の福井丸に乗船して、猛砲火の下に港口水道に突入したが、黄金山の西海岸半鏈に達した時、ついに敵駆逐艦の魚雷をうけた。
よって自ら爆沈して任務を完遂し、広瀬中佐・杉野兵曹長と共に帰らず、英魂とこしえに靖国の霊となる。
実に明治37年5月23日夜である。

忠勇義烈

旅順港閉塞作戦

第二回目の旅順閉塞作戦において広瀬武夫指揮下で使用された「福井丸」。
福井丸は旅順港閉塞作戦に際して、閉塞船として自沈用の爆薬やセメントなどを積み込み出港。
旅順港にて爆薬に点火し、乗組員はボートで退避。
その際に杉野孫七上等兵曹が福井丸にて行方不明となり、広瀬武夫少佐が船内を三度捜索したが見つからず。
 ※ このときのエピソードが唱歌「広瀬中佐」の題材となる。

1.轟く砲音(つつおと)、飛来る弾丸(だんがん)。
  荒波洗ふ デッキの上に、
  闇を貫く 中佐の叫び。
  「杉野は何処(いずこ)、杉野は居ずや」。

2,船内隈なく 尋ぬる三度(みたび)、
  呼べど答へず、さがせど見へず、
  船は次第に 波間に沈み、
  敵弾いよいよあたりに繁し。

3.今はとボートに 移れる中佐、
  飛来る弾丸(たま)に 忽ち失せて、
  旅順港外 恨みぞ深き、
  軍神廣瀬と その名残れど

文部省唱歌「広瀬中佐」

広瀬少佐は退却時に艇上にて砲弾の直撃を受けて戦死。
この際に菅波政次二等信号兵と小池幸三郎二等機関兵も戦死している。

第二回旅順口閉塞作戦での戦死者は4名。
 広瀬武夫 少佐(没後、中佐)
 杉野孫七 上等兵曹「朝日」乗組(没後、兵曹長)
 小池幸三郎 二等機関兵 「朝日」乗組(没後、一等機関兵)
 菅波政次 二等信号兵曹 「高千穂」乗組(没後、一等信号兵曹)
いずれ福井丸に乗り込んでいた。

NHK大河ドラマ「坂の上の雲」

NHK大河ドラマ「坂の上の雲」でも、小池幸三郎 二等機関兵の戦死シーンが描かれている。

旅順港閉塞作戦を記念した小池像。

つい最近まで、川口市にこのような素晴らしい像があるとは知りませんでしたし、大河ドラマ「坂の上の雲」で観ていた小池幸三郎の戦死シーンのことも失念してしまっていたことが申し訳なく。
小池の地元である川口市では、いまも胸像がこうして損なうこともなく後世に伝承され慰霊顕彰されおりました。
この素晴らしい躍動感あふれる胸像、変わらずに伝承されていくことを祈念。

ちかくの善光寺には「小池幸三郎のお墓」があるというのであわせて脚を運んでみました。


善光寺(埼玉県川口市)にある小池幸三郎之墓

海軍一等機関兵勲八等功七級
小池幸三郎之墓

川口市舟戸町にある真言宗智山派寺院善光寺

海軍一等機関兵勲八等功七級小池幸三郎之墓
香炉台 桜に錨

小池幸三郎の勇姿に

合掌

感謝と哀悼を


小池幸三郎像のある川口神社の境内には川口護國神社が鎮座している。

川口護國神社

平和の神 
川口護國神社

【御祭神】
国家公共につくした人の神霊
【御祭日】
四月第二土曜日
【御由緒】
川口護國神社は、昭和二十三年四月、時の川口市長の指導により市役所神殿の譲渡を受け、西南戦争から大東亜戦争に至る各戦役にて戦没せられた川口市出身全英霊を奉斎するお社として、川口神社境内に設立を見たものである。
爾来毎年四月あるいは五月に、川口市遺族会が主体となり例大祭を斎行してきた。平成十五年からは市民有志が主催し、遺族のほか市内各界代表者の参列を得て川口市民平和祈願祭を奉行してゐる。

御製
國がため あまた逝きしを 悼みつつ 
 平らけき世を 願ひあゆまむ

わが郷土から出征して尊い一命を国に捧げ、平和と繁栄の礎となられた英霊に感謝し、また平和への努力を誓うため、全市民こぞって参拝すべき神社である。

川口神社

埼玉県川口市金山町鎮座。川口市総鎮守。明治社格は県社。

国威宣揚台
大東亜戦争戦勝祈願の大鳥居

日露戦争ゆかりの橋が近くに保存されているというので脚を運んでみた。

凱旋橋(川口市指定文化財)

明治39年(1906)1月に日露戦争出征兵士の凱旋を祝し架設された。

凱旋橋
明治39年1月架設
片側の欄干のみが残されている。

川口市指定記念物 史跡
凱旋橋跡付凱旋橋之碑
平成21年6月24日指定

 日露戦争終結の翌年の明治39年(1906)5月13日に挙行された川口町(当時)出身兵士の凱旋祝賀会に際し、凱旋パレードの通過点として当時ここを流れていた錫杖寺杁用水に架設された石像アーチ型の凱旋橋の遺構です。橋は同年1月に、たもとに建立された凱旋橋之碑とともに竣工し、2月18日には開通式が行われました。由来などを記した凱旋橋之碑は、現在、川口神社境内に移設されています。
 川口の鋳物業は、日露戦争(1904~1905)を契機として砲弾や機械部品などの製造が盛んになり、工場数も倍増し大量受注大量生産体制が確立しました。これが戦時体制下での鋳物生産体制に組み込まれたことにより、技術の進展と相まって飛躍的に近代化が図られるようになったのです。
 この凱旋橋跡は、江戸時代にあっては日光御成街道川口宿の北の玄関口に位置し、続く近代には本市を代表する地場産業である鋳物業発展のエポックとなった日露戦争とこれにかかわった人々の記憶を留めている貴重な歴史遺産です。
川口市教育委員会

場所

https://goo.gl/maps/nb9T8cnksdZ4LhAMA

川口市立文化財センター

http://www.kawaguchi-bunkazai.jp/center/bunkazai/CulturalProps/bunkazai_131.html

川口神社の境内には、「凱旋橋之碑」が移設保存されている。

凱旋橋之碑 (川口市指定文化財)

川口神社境内。凱旋橋の由来が記載されている。

近衛師団長陸軍中将 浅田信興 題額
浅田信興(1851‐1927)は武蔵国川越藩出身。
日露戦争時は近衛歩兵第一旅団長として出征し、戦中の明治37年(1904)9月に陸軍中将に進級し近衛師団長に新補。最終階級は陸軍大将、男爵。

日露戦争に際して川口町からの応召従軍者は74名。
凱旋橋之碑には、海軍一等機関兵 小池幸三郎 をはじめ、生きて凱旋が叶わなかった川口出身の戦死者三士のことを讃えている。

川口には何度も脚を運んだことがあり、川口神社も過去に参拝をしたことがあったが、かつての私はさほどに戦史に興味を抱いていなかったということもあり、小池幸三郎像を気にすることもなく、凱旋橋の存在も知らなかった。

いま、改めて興味をもって訪れてみれば、その極めて貴重な存在に感じ入ることでき、戦後の破壊等を免れて、こうして今日まで残ったことの意義深さを知ることができた。これは後世に伝承し続けなければならない史跡。
良き見聞ができたことに感謝。
今回は時間がなかったので訪れませんでしたが、川口には海軍史的に興味深いエピソードもった艦長のお墓もあるので、また来ることになりそうです。


高島秋帆と馴染みのあった川口の鋳物師・増田安二郎の復元18インチカノン砲は、こちらにて掲載。