「航空隊・航空全般」カテゴリーアーカイブ

救難飛行艇「US-2」地上滑走展示(海自「下総航空基地開設66周年記念行事」その1)

2025年10月11日に「下総航空基地開設66周年記念行事」にて一般開放がありましたので、行ってきました。

関東で、滅多に見れない「US-2」を見れる!となれば、悪天候であっても行くしかない航空祭。年に一度の楽しみなのです。


「US-2」地上滑走・タクシーアウト

悪天候のため、飛行展示は中止となりましたが、代わりに、地上滑走展示がありました。
エンジンを稼働させて、エプロン(駐機場)から誘導路・滑走路に向け地上滑走していくだけですが、それでも、動いている「US-2」が見れるというだけでも大満足!でした。

滑走路を飛ぶ寸前まで滑走したUS-2。
次こそは、飛んでいるところを見たいです。


「US-2」地上滑走・タクシーバック

滑走路・誘導路からエプロンまで戻ってきました。

マーシャラー(グランドハンドリング)の見事な誘導。
まるで、US–2と会話しているかのように。
見惚れてしまいました。

グッド!な感じでエンジン停止。


「US-2」地上展示

なかなかの悪天候でしたが、逆に、人が少ないがゆえにゆっくり見学てきたのはラッキーだったかも、です。

まるで水面にいるかのようで、水たまり感が良い感じ。


「US-2」あれこれ


「P-1」地上滑走・地上展示

「P-1対潜哨戒機」も飛行展示は中止。
地上滑走の展示のみとなった。


そのほかの地上展示など

P-1が下総航空基地では、展示の主役ですね。

哨戒ヘリコプターSH-60K

P-3C対潜哨戒機たち

真ん中にいるのは、「多用機UP-3C」。
P-3Cの試験研究機となり、厚木基地所属。同型番機は、この一機のみ存在という。

悪天候で、人がいなさすぎるのも、また貴重な航空祭。

P-1対潜哨戒機

TC-90練習機

LC-90多用機

陸自からは、「対戦車ヘリAH-1S」

管制塔

格納庫

第2格納庫

第3格納庫

管制塔の隣は消防車庫

管制塔の上から

13時過ぎの様子。

下総航空基地と戦艦大和の対比イメージ


一日群司令任命式(松田実桜さん)

防衛省広報アドバイザー「松田実桜さん(まつだみお・サンミュージック所属)」の「下総航空基地・一日群司令任命式

「下総教育航空群司令」の吉田1等海佐から、松田実桜さんが、一日群司令に任命されました。

式典は第四格納庫、で。

下総航空基地の名物


「その2」は下記にて。

※撮影:2025年10月


関連

以前にも訪れていましたので、下記参照で。


藤ヶ谷陸軍飛行場跡地


「木更津海軍航空隊と第2海軍航空厰」木更津の海軍戦跡散策3

木更津の戦跡散策。
その1とその2は、陸上自衛隊木更津駐屯地を中心に取り上げましたが、「その3」では駐屯地の外を散策してみました。

「その1」は、下記にて。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M50-66
昭和22年(1947年)2月22日、米軍撮影の航空写真を一部加工。

木更津には「木更津海軍航空隊」と「第2海軍航空厰」がありました。

現在の様子(GoogleMap)


巌根駅

袖ヶ浦駅と木更津駅の間に位置する、巌根駅。
開設は、昭和16年11月20日。太平洋戦争開戦の直前。
第2海軍航空厰を開設した大日本帝国海軍の要請に基づく。
現存する駅舎も、昭和16年11月の開業以来の佇まいを残している。

巌根駅


巌根駅・第2海軍航空厰の連絡道路

巌根駅から「第2海軍航空厰」への連絡道路。

連絡道路のつきあたりに「倉庫」がある。この敷地がかつての「第2海軍航空厰」となる。


海軍航空厰

海軍航空厰は、海軍航空隊で使用される軍用機の製造や部材調達・保管や修理などを行っていた工場。

昭和7年4月に「海軍航空厰」として、追浜に設置されたことに始まる。
昭和14年4月に追浜の海軍航空厰は「海軍航空技術厰」に改称。

第1海軍航空厰
昭和16年10月に、海軍航空技術厰霞ヶ浦出張所が、改めて「第1海軍航空厰」として独立。
第2海軍航空厰
第1と同じく、昭和16年10月に木更津に「第2海軍航空厰」が新設。第2海軍航空厰の本厰は「木更津(巌根)」。そのほか館山・八重原・瀬谷などに工場が展開され、昭和19年には松本にも疎開工場が展開された。
第11海軍航空厰
昭和16年11月に、広海軍工廠から航空機部が独立。本厰は広。
第12海軍航空厰
昭和16年10月、第11海軍航空厰分廠を改編。本厰は大分市今津留。
第21海軍航空厰
昭和16年10月、長崎県大村市に開庁。
第31海軍航空厰
昭和17年4月、第11海軍航空厰舞鶴支厰が独立。
第41海軍航空厰
昭和17年4月、第2海軍航空厰大湊支厰が独立。昭和19年10月に、千歳に本厰が移転。
第51海軍航空厰
昭和17年4月、第21海軍航空厰鎮海支厰が独立。


第2海軍航空厰・巌根工場の防音運転場
(現・貸スタジオ)

昭和16年10月開設。
現在は、木更津倉庫株式会社や貸スタジオの敷地となっている。

そこに残る建屋が「防音運転場」。
航空機の発動機の動作確認を行っていた防音施設だったようで。
現在は、防音ということを活かして、現在は、貸スタジオ(ハウススタジオ)となっている。
STUDIO ZERO NOIR (Pilot’s)
下記のサイトに内部写真が掲載されている。

https://studio.powerpage.jp/#!/detail/10784

大体の場所

場所:

https://maps.app.goo.gl/ab8ucVKCLmFi3mnt9


第2海軍航空厰・巌根工場の建屋
(現・貸スタジオ)

空自入り口の左側の三角屋根の建屋は海軍時代のもの。
空自の敷地ではなく、民間の撮影スタジオとなっている。

場所:
https://maps.app.goo.gl/hh2ektFWwp9iBrPp8


第2海軍航空厰跡
(現・航空自衛隊木更津分屯基地)

木更津の空自。
ちなみに、木更津には、陸自と海自と空自と揃っている。

航空自衛隊木更津分屯基地

第4補給処木更津支処
木更津地方警務隊

基地のなかには入れないので、外から外周を歩きながら見学。

なんかいた。

F-104J

T-1B


第2海軍航空厰・海軍木更津飛行場の連絡道路
(海軍道路)

この界隈では、交通量に見合わず格別に広い道路。
まさに、海軍のために設けられた道路。

第2海軍航空厰のあった「空自」から、木更津海軍航空隊のあった「海自」に赴く。「海自」の奥は「陸自」もある。


木更津海軍航空隊(木空)・海軍木更津飛行場

昭和11年(1936)4月1日、木更津海軍航空隊が現在の陸上自衛隊木更津駐屯地の場所に開隊。
木更津海軍航空隊は、鹿屋海軍航空隊と同時に開隊した日本初の陸上攻撃機部隊。
昭和17年(1942)11月1日に、第七〇七海軍航空隊と改称、翌12月1日に第七〇五航空隊(三沢空)に編入。
七〇七空の解散後も木更津飛行場は拠点基地として機能。
昭和20年8月7日には、木更津飛行場において、日本初の純国産ジェット機「橘花」が飛行に成功している。

敗戦直後の1945年8月19日、参謀次長河辺虎四郎中将を筆頭とする降伏全権団は、米軍の指示で木更津海軍飛行場から沖縄県の伊江島まで2機の飛行機=緑十字飛行(1番機一式大型陸上輸送機と2番機一式陸上攻撃機の緑十字機)で向かい、さらに伊江島から米軍機に乗り換えてフィリピンに向っている。

戦後は米軍の駐留を経て1956年(昭和31年)に航空自衛隊木更津基地が間借りする。
1961年(昭和36年)に米軍は立川飛行場に転出し、航空自衛隊が占有するが1968年(昭和43年)に入間基地に転出。
入れ替わりに陸上自衛隊が転入して木更津駐屯地となり、現在に至る。


木更津海軍飛行場の格納庫
(現・海上自衛隊航空補給処)

木更津の海自は、海上自衛隊の航空機が使用する搭載装備品の補給・整備を中心とした後方支援業務を実施している。
ここ木更津が本処。
海自は、千葉県内には「下総航空基地」と「館山航空基地」を有している。

何かのいかりと大きな格納庫

海軍飛行場時代の格納庫

敷地には入れないので、全て敷地外から。

色は、緑系で、手前が濃くて奥が薄め。

裏に回ってみました。

存在感

場所はこのあたり。


海軍時代の施設跡(防空壕・退避壕)
(現・陸上自衛隊木更津駐屯地)

木更津駐屯地の北東から北端の周辺道路を歩いてみる。
海軍時代の建造物が散見しているのがわかる。

こんなかんじで、不自然なコンクリート建造物がある。
1つめ。

2つめ。

3つめ。

4つめ。

なにか新しく建造中。富士山見えてる。

5つめ。
往時っぽい建造物はほかにあるかもしれないけど、周辺を歩いてみるだけでも、かなりの数が目に止まる。


木更津海軍飛行場時代の橋梁

北西端あたりに橋梁跡が残っている。


木更津海軍飛行場時代の掩体壕

北西端あたりに、掩体壕がいくつか残っている。
敷地外からも、垣間見ることができる。

木更津飛行場の北西端は、江川海岸・潮干狩場

東京湾を挟んで、富士山が見えた。

場所:

https://maps.app.goo.gl/vyecfVRcwesDAEZf8


木更津海軍飛行場時代の施設

木更津市中里の交差点(セブンイレブンとかパールショップともえなどがある交差点)の北西部の住宅街に残るコンクリート施設。

だいたいこのあたり


海軍時代の止水栓蓋

木更津駅の北側、房総往還道路に面した商店街の歩道に残っていた。

場所

https://maps.app.goo.gl/uzpYyMVZLNhwcTPm6

古そうな建物も周辺に残っている。
旧金田屋洋品店は、昭和7年の建立。

場所:

https://maps.app.goo.gl/6RLrUgELkNA7c8CFA


※撮影:2024年2月

日本の航空事始め6・日本初の国産軍用機「会式一号飛行機」

所沢航空記念館に展示してある「会式一号飛行機」。
入り口の天井に吊られているので、見逃しやすい飛行機であった。
せっかくなので、独立した記録として掲載しておきます。

所沢航空発祥記念館は、リニューアル工事中につき休館中です。
再開後は展示形態が異なっていることが予想されます。
再開は、2027年春予定。
https://tam-web.jsf.or.jp


日本の航空事始め

「日本の航空事始め」と題して、航空機の黎明期に注目した記録も、気がつけば「その6」となっておりました。

「その1」はこちら。


会式一号飛行機・会式一号機(日本・1911)

展示してある機体は、会式一号の原寸大レプリカです

所沢で飛んだ日本初の国産軍用機
明治44年、徳川好敏夫前の設計・製作により日本で初めて作られた軍用機。この前年に代々木練兵場で日本での初飛行に成功した“アンリ・ファルマン機”を参考にして、より高い性能を持つ飛行機を作る事を目的として、所沢飛行場格納庫内で製作された。明治44年10月13日所沢飛行場で、徳川大尉みずからの操縦によって初飛行に成功した。主に操縦訓練や字中偵察教育に使われ、同大尉の設計で4号機までが製作された。

空の英雄、徳川大尉の名を日本に広める
“会式一号機”の名称は、同大尉が所属していた「臨時軍用気球研究会」で作られた「1号機」という意味だが、当時の新聞がこの飛行機を“徳川式”と報道したため、一般には“徳川式”と呼ばれた。大正元(明治45)年10月27日、同大尉は初の東京訪問飛行を行うため、“会式一号機”を基に新たに開発した“会式二号機”に乗って所沢飛行場を飛び立ち、代々木練兵場を経て青山~愛宕山~芝公園~品川~日比谷~九段の96.5kmを飛行し、東京市民(当時)の熱狂的な歓迎を受けた。

“アンリ・ファルマン機”からの主な改良点
1.上翼よりも下翼が小さい一葉半とし、翼面積を減らして速力の向上をはかった。
2.異断面を変え、前部の湾曲を深くして揚力の向上をはかった。
3.補助翼を上翼にのみ取り付けた。
4.翼間支柱の断面を前後対称型から流線型に変え、空気抵抗の減少をはかった。
5.発動機とプロペラの位置を高くして、飛行機全体の姿勢を低くした。
6.座席の前に風よけの覆いを取り付けた。
7.各結合部の金具を強化した。
これらの改良によって、“会式一号機”は“アンリファルマン機”にくらべ速力で19km/h、高度で15m上回る記録を出した。


陸軍会式一号機
国 名:日本
用途:実験機
年代:1911年(明治44年)
エンジン:グノーム空冷回転星型7気筒(50馬力)
翼幅:11.00m
全長:11.00m
自重:450kg
全備重量:550kg
最大速度:72km/h
航続時間:3時間
人員:1名

初の国産軍用機一”会式一号”機
所沢飛行場が開設され、頻繫に飛行練習が行われるようになると、4機の飛行機は酷使され、損傷が激しくなってきた。徳川大尉は飛行機の不足を痛感し、1911(明治44)年4月、臨時軍用気球研究会の事業として新しい飛行機の設計を開始した。“アンリ・ファルマン1910年型”複葉機を参考にして設計されたが、機体強度、上昇力、速度などの向上が図られていた。同年7月より所沢飛行場の格納庫内で製作され、10月初頭に日本最初の国産軍用機、“臨時軍用気球研究会式一号”(略して会式一号”)が完成した。10月13日、所沢飛行場で試験飛行が行われ、時速72km/h、最高高度85mという良好な成績で成功した。

なお、この当時、会式一号機が完成するまで、日本国内には「アソリ・ファルマン機」「ハンス・グラーデ機」「ブレリオ機」「ライト機」のわずか4機しか保有していなかった。

“会式一号”機と徳川大尉
“会式一号”機は、徳川大尉の監督指導により製作された。機体材料はすべて国内で調達したが、適当な工作機械がなかったため木材は鋸で加工した。当時の日本の工業水準は低く、製作は試行錯誤であった。多くの困難を克服して完成した”会式一号”機は、設計・製作の両面で徳川大尉の功績が大きかったため、一般には徳川式と呼ばれていた。

次々につくられた “会式機”
“会式一号”機の成功に自信をつけた臨時軍用気球研究会は、次々に新しい飛行機を開発し、1912(明治45)年から1916(大正5)年までの間に、合計6機の“会式機”が誕生した。“会式二~四号”機は徳川大尉の設計で、会式一号”機を改良した飛行機であった。“会式五号”機からは設計が沢田秀中尉となり、続いて六号機、七号機がつくられた。最後に製作された “会式七号小型飛行機(会式七号駆逐機)”は沢田中尉が独自に設計した、日本最初の国産戦闘機であった。

あらためて、復元機(レプリカ)を観察してみる。

日本初の国産軍用機といっても、武装をしているわけではなく、陸軍が作ったというわけでの軍用機。

※撮影:2025年8月


展示終了となる「ニューポール81E2(陸軍甲式一型練習機)」(リニューアル前の最期の展示・所沢航空発祥記念館)

所沢航空記念公園にある、所沢航空発祥記念館が2025年8月末でもって、長期休館、リニューアルを経て再開は2027年3月予定という。
平成5年の開館から30年以上経過したことから、今回の大規模なリニューアル工事を迎えることとなる。

http://tam-web.jsf.or.jp/

https://www.pref.saitama.lg.jp/a1105/news/page/news2025070801.html

リニューアルに伴い、展示を終える展示機もあるので、足を運んでみました。


所沢航空発祥記念館関連の過去記事


長期休館のお知らせ

長期休館のお知らせ
今年9月1日からリニューアル工事のため長期休館となります。
休館期間:2025年9月1日~2027年3月末(予定)
2027年春(予定)、さらに魅力をアップしてリニューアルオープンいたします。この夏、8月末までイベントもりだくさんで開館しております。ぜひご来館ください。
2025年7月吉日 所沢航空発祥記念館


休館前の写真スポット

今回のリニューアルに伴い役目を終える展示物にスポットを当てた写真撮影スポットです。その姿を思い出に残しましょう。
<今回のリニューアルで役目を終える主な展示物・展示機>
航空機(展示機)
・ニューポール81E2 (レプリカ)
・HU-1B(ベル204B)
・ハングライダー
・ウルトラライトプレーン

スペースウォーカーとかベルヌーイの研究室、とかは、特に終わると言われても食指は動かない。。。


ニューポール81E2 (レプリカ)

ニューポール機の展示が終了するのは、非常に残念。
終了に「レプリカ」とあるので、終わるのは「レプリカ」だけであって、もともと展示のきっかけとなった機体残骸はそのまま展示されるとは思われるけど。

展示終了で撤去となったのちに、本機がどうなるのかは2025年8月現在では不詳。。。

ニューポール機の展示は8月末で終了です。
これまでたくさん見学していただいてありがとう。

ニューポール81E2(甲式一型練習機)
1918年(大正7年)、陸軍がフランスから輸入したニューポール81E2練習機。
翌大正8年に来日したフォール大佐のフランス航空団の教材として所沢陸軍航空学校設立以来、活用された練習機。その後、国内でも三菱によって国産化されている。写真の機体はレプリカ機。
埼玉県が発注し、米国にてレプリカを作成、平成4年(1992)9月に完成し亜t。


岩田正夫のニューポール81E2

岩田正夫のニューポール81E2
埼玉県ときがわ町の慈光寺に保存されていた「ニューポール81E2」の残骸。都幾川村出身の民間飛行家であった岩田正夫が、郷土訪問飛行時に機体を破損させたために、そのまま村に寄贈した機体。

慈光寺の”ニューポール81E2”複葉機
ここに展示されている”ニューポール81E2”は、埼玉県比企郡都幾川村出身の民間飛行家、岩田正夫が1926(大正15)年に郷土訪問飛行を行った時のものである。玉川村都幾川の河原へ着陸した際、機体を破損したため、そのまま村へ寄贈され、以後この村にある慈光寺に、およそ70年間保存されていた。機体は腐食のやめエンジンと操縦室周辺、着陸装置などをのこすのみとなったため、往年の姿が残された設計図などを参考にレプリカとして再現された。

埼玉が生んだ民間飛行家、岩田正夫
岩田正夫は1901(明治34)年12月2日、埼玉県比企郡平村(都幾川村)の地主の三男として生まれた。東京府立豊島師範学校を卒業後、陸軍に入ったが、大正ロマンティスズムの影響を受け、北海道、樺太、朝鮮などを放浪、1925(大正14)年大空への飛行を志して日本飛行学校に入学し、三等操縦士となった。その後、代々木で行われた競技大会などで優勝し、1928(昭和3)年には一等飛行機操縦士免許を取得、台北ー立川ー札幌間の航空路を開発、フリーの民間航空家となる。この年、日本電報通信社航空部に入社した岩田は、行方不明になった同僚を捜索中、三重県松阪市吹井の浦海岸で墜落、殉職した。

父の慰霊をかねた郷土訪問飛行
1926(大正15)年8月13日、ちょうど新盆に当たるこの日、2度目の郷土訪問飛行のため、岩田は明覚村付近を流れる都幾川の河原に不時着を装って降りる計画をたてた。立川飛行場を飛び立って、恋人の住む明覚村に飛んできた正夫は、彼女の住む家の上空をハンカチを振りながら低く旋回し、そばの河原に着陸しようとした。しかし、盆の支度のため川に盆棚を洗いにきていた人々が飛行機を見て河原に集まってきたので、危険を避け隣の村の河原に着陸した。翌日、正夫は友人や村人たちのために航海飛行を行った。しかし、正夫の飛行ぶりに興奮した見物人たちが着陸を待ちきれず河原中央に押しかけ、それを避ける為に急上昇した時土手に機体を接触し機体の一部を壊してしまった為、機体を記念として村に寄贈した。

フランスから輸入された”ニューポール81E2”
”ニューポール81E2”は、1918(大正7)年、陸軍がフランスから輸入した練習機で、80式とともに前後の座席に操縦装置がついており、翌年から来日したフランス航空教育団の教材として、所沢陸軍飛行学校設立以来、甲式一型練習機として使用された。その後三菱で国産化され、57機が製作された。エンジンは、”ル・ローンC”空冷式回転星型(9気筒、80馬力)で、プロペラと共にエンジン全体が回転するものであった。機体はエンジンの取付部と操縦室周辺が金属製のフレームで構成され、そのほかの胴体と翼は木製のフレームにドープ油を塗った絹布が張られていた。


HU-1B(ベル204B)

同じく展示が終了するHU−1B
機体番号41547
屋内展示の綺麗な状態での「HU-1B」は本機だけであるが、今回のリニューアルで展示終了となり撤去されるという。


ウルトラライトプレーン・ハングライダー

この2機も、今回のリニューアルで撤去となる。


屋内展示機各種

リニューアル後にどのような展示になるかもあるので、なんとなくリニューアル前の状態を、特に熱意は込めずに気ままに撮影。
機体の細かい説明は省略。


2025夏の特別展(零戦とYS-11)

リニューアル前の最後の企画展。せっかくなので。

2025夏の特別展
時代を翔けた零戦、そしてYS-11
戦時中最も多く生産された国産戦闘機と戦後初めて生産された国産旅客機

YS-11は私の最も印象に残る仕事となった。課長で始めたこのプロジェクトを私は局長の時一八二機で打ち止めにした。今ではいろいろな評価があると思うが、戦時中私の目の前で勇戦したあの零戦の技術を何とか戦後の日本で生かしたいという私なりの気持ちがあって始めた日本初の旅客機だけに、この時は大いに悩みに悩んだ
 YS-11生みの親・赤澤璋一(戦艦比叡元乗組員、元通産官僚)「傘寿の記」平成12年刊より)

赤澤璋一は東京帝大を出て、商工省入省、海軍経理学校を経て、戦艦比叡に主計官として乗組。
主計中尉だった赤澤璋一は、ソロモン海戦で比叡沈没の際に、駆逐艦・雪風に引き上げられ九死に一生を得ている。

堀越二郎

赤澤璋一


過去の企画展ポスター


機体以外の、展示もおそらく大幅なリニューアルで変わることが予想されますので、それはそれで、記録しておきました。
随時、記事を展開時に参照できれば、です。

※2025年8月撮影

河口湖自動車博物館・飛行舘(2025年8月版)

このところ、夏の恒例となりつつある「河口湖自動車博物館・飛行舘」詣で。

正式名称は「河口湖自動車博物館・飛行舘」となりますが、「飛行館」の表記揺れがあります。

今年で、4年連続、です。
彩雲の進捗を中心に。


前回の記録

2022年

2023年

2024年


艦上偵察機 彩雲 11型1290号機

彩雲の説明とは、上記リンクの過去記事を参照でお願いします。
以下、写真メインで。

2025年で胴体の復元が完了。
尾翼のフェアリングが装着され、方向舵のラダーも取り付けられた。


そのほか飛行舘展示品

置き方がちょっと変わりましたね。

靖国のコレ、去年は、なかったです。。。

この大型模型も去年は無かったはず。(大和と赤城と)

銀河のプロペラ(前は表示がなかった)

ちなみに、河口湖駅からレンタサイクル、です。
もう4回目なので、レンタサイクルの行程も慣れたものです。
さすがに初見ではないので、3時間で往路と見学と復路と問題ないです。
(電動は必須です、往路は富士山に向かって上り坂なので)
(自転車で行く人、そんなに居ないと思われ、ですが)
(帰りは下り坂をすごい勢いで漕がずに帰ってこれます、危ないので安全運転で)


河口湖駅

河口湖

今度こそ、温泉?

富士山駅でみた富士山が、この日の一番の富士山でした。
あとは雲隠れで、ほぼ見えませんでした。

※撮影:2025年8月


タイ王国バンコクの戦跡散策その5・立川飛行機「九九式高等練習機」と日本小型「滑空機」(タイ王国空軍博物館)

2025年2月、仕事でタイ王国に赴いていました(人生2回目のタイ王国)。
今回は時間を確保できたので前述の「タイ王国海軍博物館」についで、「タイ王国空軍博物館」に足を運んでみました。

下記の続き


九九式高等練習機(立川飛行機・キ55

タイ王国空軍に残された「九九式高等練習機(キ55)」。
日本には残っていない日本製の航空機。

大日本帝國陸軍の練習機。通称「九九式高練」「九九高練」。
1939年(昭和14年)に立川飛行機が開発し正式採用、立川飛行機と川崎飛行機が製造を担当。
1940年(昭和15年)から新型練習機として陸軍飛行学校に配備。
1943年(昭和18年)までに、立川飛行機で1075機、川崎飛行機で311機の合計1386機が生産された。終戦まで陸軍の高等練習機の主力機。
生産された機体は、日本陸軍の飛行学校で運用されたが、一部は満洲国やタイ王国にも輸出された。
タイ王国空軍は1942年(昭和17年)に本機を導入。24機が運用された。1945年の終戦時には22機が残存し、18機が稼働状態にあり、1951年まで運用されたという。

RTAF Ki-55 Tachikawa
RTAF acquired 24 Ki-55 advanced trainers from Japan in 1942. The aircraft was used to train student pilots at Flying Training School in Nakhon Ratchasima. This one on display is one of the two Ki-55’s left in the world. The other is at air museum in Beijing, China
Commissioned:1942-1950

RTAF(Royal Thai Air Force タイ王国空軍) キ-55 立川
RTAFは、1942年に日本からキ-55高等練習機24機を導入しました。この機体は、ナコーンラーチャシーマーの飛行訓練学校で訓練生のパイロット訓練に使用されました。展示されているこの1機は、世界に残る2機のキ-55のうちの1機です。もう1機は中国の北京航空博物館に所蔵されています。
就役期間:1942年~1950年

九八式四五〇馬力発動機
発動機番号 第10928号
製造年月 昭和17年6月
製造所名 日立航空機株式会社


初級滑空機「鳩」(日本小型飛行機・K-14)

1941(昭和16)年に、大東亜共栄圏の国策に応じて、朝日新聞社がタイ国に(初級)鳩型、(中級)蔦3型、(高級)鳳2型を贈り、そのうち、鳩型と鳶型が展示されている。

滑空機は、日本小型飛行機株式会社の宮原旭技師長の設計。
のちに、日本小型式K-14型(戦後生産の後進となる霧ヶ峰式はとK-14型」につながる。宮原旭は三菱名古屋航空機出身の航空機技術者、貴族院議員、男爵。戦後は自作航空機の普及啓発に努めた。

なお、現地の解説板の「Hato」と「Tobi」のイラストが入れ違っているのは御愛嬌で。「Hato」の解説文の図絵が「Tobi」になっている。

RTAF Nihon Kogata Hato
On 23 June 1941, the Asahi Shinbun Newspaper of Japan presented three Nihon Kogata gliders namely, Tobi, Hato and Ootari(Ootoriの誤字ですね) to Thailand as a goodwill gift for Thai National Day ( Then on 24 June). The Thais named these gliders Liwlom , Lenlom and Longlom respectiveely. The Hato or Lenlom on display is elementary training glider. It repuires a light tow-aircraft to become airborne.

RTAF(Royal Thai Air Force タイ王国空軍)
日本小型飛行機 鳩
1941年6月23日、日本の朝日新聞は、タイ建国記念日(その後6月24日)の親善品として、トビ(鳶)、ハト(鳩)、オオトリ(鳳)という3機の日本小型飛行機のグライダーをタイ王国に贈呈した。
タイ人はこれらのグライダーをそれぞれ、「リウロム」、「レンロム」、「ロンロム」と名付けました。
展示されている「ハト(鳩)」または「レンロム」は、初級訓練用グライダーです。 飛行するには軽量の牽引機が必要です。


中級滑空機「鳶」(日本小型飛行機・K-15)

上記と同じく、現地の解説板の「Hato」と「Tobi」のイラストが入れ違っているのは御愛嬌で。「Tobi」の解説文の図絵が「Hato」になっている。

RTAF Nihon Kogata Tobi
On 23 June 1941, the Asahi Shinbun Newspaper of Japan presented three Nihon Kogata gliders namely, Tobi, Hato and Ootari to Thailand as a goodwill gift for Thai National Day ( Then on 24 June). The Thais named these gliders Liwlom , Lenlom and Longlom respectiveely. The Tobi or Liwlom on display is aprimary training glider. It needs a catapult launch for taking off.

1941年6月23日、日本の朝日新聞は、タイ建国記念日(その後6月24日)の親善品として、トビ(鳶)、ハト(鳩)、オオトリ(鳳)という3機の日本小型飛行機のグライダーをタイ王国に贈呈した。
タイ人はこれらのグライダーをそれぞれ、「リウロム」、「レンロム」、「ロンロム」と名付けました。

RTAF(Royal Thai Air Force タイ王国空軍)
日本小型飛行機 鳶
日本の朝日新聞は、タイ建国記念日(その後6月24日)の親善品として、トビ(鳶)、ハト(鳩)、オオトリ(鳳)という3機の日本小型飛行機のグライダーをタイ王国に贈呈した。
タイ人はこれらのグライダーをそれぞれ、「リウロム」、「レンロム」、「ロンロム」と名付けました。
展示されている「トビ(鳶)」または「リウロム」は、初等訓練用のグライダーです。離陸にはカタパルトの発射が必要です。


以下は、日本とは関係ないけど。同じ空間に展示されていたので紹介。

DeHavilland DH-82A Tiger Moth

イギリスのデ・ハビランド社製の練習機。愛称はタイガー・モス。
初飛行は、1931年。
タイガー・モスは、日本では、満州事変の際に鹵獲された元国民革命軍機を、関東軍が輸送・連絡機として使用していたこともある。
タイでは戦後の導入。タイ海軍で運用予定であったが、クーデター騒ぎ(マンハッタン反乱)で、海軍は懲罰として縮小され、海軍航空隊は閉鎖のうえで、航空兵力は全てタイ空軍に移管。

RTAF De Havilland DH-82A Tiger Moth
Royal Thai Navy purchased 30 Tiger Moths from England in 1950. The Navy planned to use this primary trainer in Navy Flying School. However, in 1951 the Navy had to transfer all aircraft to Royal Thai Air Force. There the Tiger Moth was used to train members of Thai Flying Club.
Commissioned: 1951-1961

RTAF デ・ハビランド DH-82A タイガーモス
タイ海軍は1950年にイギリスから30機のタイガーモスを購入しました。海軍はこの初等練習機を海軍飛行学校で運用する予定でした。しかし、1951年に海軍はすべての機体をタイ空軍に移管せざるを得なくなりました。そこでタイガーモスは、タイ・フライング・クラブの隊員の訓練に使用されました。
就役:1951年~1961年


Boeing Model 100E(ボーイング・100E)

タイ王国空軍で最古の航空機。
アメリカで1929年より運用されたアメリカ海軍複葉艦上戦闘機「F4B」の派生型が「P-12」となりアメリカ陸軍陸上戦闘機で運用。
タイ空軍向けのP-12Eの輸出型が「100E」。2機製造のうち1機は、後に日本海軍に試験機としてAXBの名称で移管された。

アメリカ国内以外での海外展示は、タイ・バンコクのみ。

RTAF Boeing Model 100E
RTAF purchased 2 Boeing 100E fighters from USA in 1931. It is an export version of P-12E. At the same time, RTAF acquired 2 Bristol Bulldog fighters from England and 2 Heinkel HD43 fighters from Germany. These aircraft ware under evaluation to find the most suitablle fighter for RTAF. This Boeing 100E on display is the oldest Thai aircraft still exists today.
Commissioned:1931-1941

RTAF ボーイング モデル100E
RTAFは1931年にアメリカからボーイング100E戦闘機2機を購入しました。これはP-12Eの輸出型です。同時に、RTAFはイギリスからブリストル・ブルドッグ戦闘機2機、ドイツからハインケルHD43戦闘機2機を取得しました。これらの航空機は、RTAFに最適な戦闘機を見つけるために評価中でした。展示されているこのボーイング100Eは、現在も残るタイの航空機の中で最古のものです。
就役期間:1931年~1941年


Curtiss Hawk 75N(カーチス・ホーク75N)

1935年にアメリカのカーチス社が開発しアメリカ陸軍などで運用された「P‐36ホーク」。
タイ空軍は、P-36 廉価版の固定脚仕様のホーク75Nを導入。
固定脚のホーク75としては現存唯一の機体。

RTAF Curtiss Hawk 75N
 Hawk 75N is a simplified version of P-36 fighter with fixed landing gear. Twelve Hawk 75N’s were purchased from USA in 1937 to become the first all etal monoplane fighter in RTAF. The aircraft flew in combat during French in RTAF. The aircraft flew in combat during French Indochina Conflict(1940-1941)and World War 2 (1941-1945). This Hawk 75N on display is theee sole surviving fixed landing gear Hawk 75 in the world.
Commissioned:1937-1949

RTAF カーティス ホーク 75N
ホーク 75Nは、固定脚を備えたP-36戦闘機の簡易版です。1937年にアメリカから12機のホーク 75Nが購入され、RTAF初の全金属製単葉戦闘機となりました。この機体は、フランス占領下、フランス領インドシナ紛争(1940~1941年)および第二次世界大戦(1941~1945年)において実戦に投入されました。展示されているこのホーク 75Nは、世界で唯一現存する固定脚式のホーク 75です。
就役:1937~1949年


ちょうど、タイ空軍の88周年の記念式典の準備が行われていたようでして。

タイ王国では国王は神の化身とされ、国民の深い敬愛の対象となっている。

※撮影:2025年2月

タイ空軍博物館、これは、また行きたいです、、、


タイ王国バンコクの戦跡散策その4・泰仏インドシナ紛争と第二次世界大戦機(タイ王国空軍博物館)

2025年2月、仕事でタイ王国に赴いていました(人生2回目のタイ王国)。
今回は時間を確保できたので前述の「タイ王国海軍博物館」についで、「タイ王国空軍博物館」に足を運んでみました。

下記も。


タイ空軍とインドシナ紛争

タイ王国は、フランスに5度に渡り領土を奪われ、タイ政府は国境の調整を何度もフランスに提案してきた。
フランス航空機は、タイ領空を飛行することも多く、タイ政府は領空侵犯に関しても、フランス政府に講義してきたが、フランスは変わらずに偵察機を飛ばし続きてきた。
この蓄積した対立が、のちの「インドシナ紛争」へと発展していくことになる。

1940年11月28日、インドシナ紛争において、サニット飛行隊司令官は、南方からタイ領空に侵入してきたフランス空軍機5機を迎撃するために、「V-93コルセア」「カーティス・ホークⅢ」を派遣。
迎撃対空戦にて、タイ空軍はフランス軍機を1機撃墜し、無傷完勝を収めた。
この戦いは、インドシナ紛争における最初の空中戦にして、タイ王国史上最初の空中戦(ドッグファイト)であった。

1941年1月25日、タイ王国とフランス政府の紛争を日本が仲裁を開始し、3月には調停案に合意となり、タイの要求を仏印側がほぼ受諾するというタイ側の事実上の勝利に終わった。

タイ王国空軍英雄記念碑
フランス領インドシナ紛争
1940-1941
サニット・ヌアンマニー空尉(Sanit Nualmanee)
「タイの領空は誰にも踏みにじまれることはない」


中島飛行機「一式戦闘機・隼(キ43)」残骸

地中に埋められれていた隼の残骸が2013年に発見された。
ドンムアン飛行場に駐留していた大日本帝国陸軍の中島キ43・一式戦闘機「隼」。
タイ空軍では、1943年から1949年にかけて、「13型戦闘機」の名称で24機のキ43‐2b「隼」戦闘機(一式戦闘機二型乙)が運用されていた。

1945年3月15日に墜落したと思われる「隼」のエンジン、プロペラ、ホイールベース。

手前の発動機は、次項目記載の「九七式戦闘機(キ27)」の中島ハ1(寿)。


中島飛行機「九七式戦闘機(キ27)」残骸

「九七式戦闘機(キ27)」の翼部分の残骸
1981年に漁船が「九七式戦闘機(キ27)」残骸を発見した。
南方作戦に参加した帝国陸軍の機体。

タイ空軍では、1942年から1949年まで、12機の九七式戦闘機(キ27)を「12型戦闘機」の名称で運用していた。


ノースアメリカン「P-51D・マスタング」残骸

アメリカ陸軍航空隊第2航空コマンド群所属のノースアメリカン「P-51D・マスタング戦闘機(44‐15302)のアルバート・エイブラハム大尉の機体。
1945年4月9日、ドンムアン飛行場を機銃掃射中に対空砲で撃墜され、エイブラハム大尉は脱出するも、戦争終結まで捕虜となった。


カーチス「ホークⅢ・BF2Cゴスホーク」
Curtiss HawkⅢ(Curtiss BF2C Goshawk)

カーチス社が1934年に開発した複葉機「BF2Cゴスホーク」。
1935年、タイ空軍は、アメリカのカーチス社から、「BF2Cゴスホーク」の海外輸出機「ホークⅢ(HawkⅢ)」を24機発注し、50機の国内生産ライセンスを取得。
「ホークⅢ(HawkⅢ)」は、カーチス社が、アルゼンチン、中国、タイ、トルコ向けに770馬力(R-1820-F53)発動機を搭載したBF2C-1の輸出バージョン。総生産数137台。

「ホークⅢ」は、タイ空軍初の戦闘機。
タイ空軍では、10型戦闘機と愛称され、フランス領インドシナ紛争や第二次世界大戦での主力機であった。
「ホークⅢ(HawkⅢ)」同型機の現存機は、世界で唯一の機体。


ヴォート「V-93S・O2Uコルセア(初代コルセア)」
Vought V-93S/SA Corsair

ヴォートO2Uコルセア
1927年にアメリカ海軍に発注されヴォート社によって開発された。
複葉複座の偵察/観測機。
残存するコルセアは1機だけで、タイ空軍博物館に展示されている「O3U-6」のタイ向け輸出型「V-93S」のみ。
タイ空軍で、タイ・フランス領インドシナ紛争の時に活躍。

日本海軍も「ヴォートAXV1」として、1929年に評価のために大日本帝国海軍航空隊に一機だけ供給されたO2Uがあり、これは後に、九〇式二号水上偵察機となる。


グラマン「ベアキャット」
Grummam F-8F-1/1B Bearcat

タイでは戦後の導入であるが、第二次世界大戦中に開発された、最強のレシプロ艦上戦闘機。米軍では1945年から運用が開始された。

タイ空軍では、1951年より導入され、愛称は15型戦闘機。
最盛期には、ベアキャットを200機以上、保有していた。
タイ空軍最後のピストンエンジン駆動・プロペラ駆動の戦闘機。


シャム航空機工廠「ポリパトラ」複葉複座軽爆撃機
(Boripatra Bomber Type2)レプリカ

1927年に初飛行したシャム航空機工廠での設計製造された複葉複座軽爆撃機。
タイ王国で設計された最初の航空機。
現在はレプリカが2機、タイ王国空軍空軍博物館で展示してある。
(紹介プレートがない、、、)

意外なことに、タイ王国は自国で航空機設計ができる技術力を有していたのだ。


タイ王国空軍博物館には、大戦機として、「米カーチスSB2Cヘルダイバー」「英フェアリーファイアフライ」「英スーパーマリン・スピットファイア」などもいるというのだが、展示飛行機が多すぎて、見逃していたり、見当たらなかったり、とかで。
うーん、これは再訪しないといけないかもしれません。。。

※撮影:2025年2月

タイ王国バンコクの戦跡散策その3・黎明期のタイ航空機と大東亜戦争タイ空軍の絵画(タイ王国空軍博物館)

2025年2月、仕事でタイ王国に赴いていました(人生2回目のタイ王国)。
今回は時間を確保できたので前述の「タイ王国海軍博物館」についで、「タイ王国空軍博物館」に足を運んでみました。

下記もあります。


タイ王国空軍博物館

バンコク・スカイトレインBTS(BTS Sky Train)のスクムウィット線(Sukhumvit line)「Royal Thai Air Force Museum駅」(タイ王国空軍博物館駅)の直ぐ目の前。
立地としては、ドンムアン国際空港、ならびにドンムアン空軍司令部に隣接した場所となる。

場所:

https://maps.app.goo.gl/8B7F1oqc8y93ofTn7

正面

ラマ5世銅像
タイ三大王のうちの一人、タイの近代化を推進。

銅像の裏。

入口。

F-5Aがお出迎え。

タイ空軍の部隊の所在地かな。


タイ王国の航空黎明期

「航空力は我が国を戦争から守る唯一の盾であり、また平時には輸送にも大きな役割を果たしている。」
ヂャックラボンセ・ブワナート王子(ピサヌローク王子)、のちのラーマ6世
タイ王国空軍の父(ラーマ6世)

ちなみに、ラーマ5世の王子は、それぞれ3軍の父となっている。
海軍の父 
 チュムポーンケートウドムサック親王
  アブハカラ・キアーティヴォンセ王子
空軍の父 
 ピサヌロークプラチャーナート親王 
  チャクラポンプーワナート王子
陸軍の父 
 ナコーンチャイスィースラデート新王 
  チラプラワットワラデート王子

航空黎明期
1903年のライト兄弟から始まった航空機時代

1921年‐1932年まで使用されたタイ王国空軍のパイロット制服

第二次世界大戦


タイ王国の最初の航空機

タイ王国の航空史は、1911年に、サラパトゥム競馬場にベルギーパイロットにおいて展示されたことから始まる。
ヂャックラボンセ・ブワナート王子(ピサヌローク王子)は1912年に3人の将校をフラン氏に派遣。1913年11月2日に、航空技術を習熟した3人の将校は8機の航空機とともに帰国した。
1914年にドンムアンに常設飛行場が完成しタイ王国での航空機運用が開始された。

タイにおける最初の航空機と飛行場

ニューポール単葉機
タイで最初に就役した2種類の航空機のうちの1つ。

プレゲ複葉機
タイで最初に就役した2種類の航空機のうちの1つ。

タイ航空の父 ラーマ6世

タイ国産機(Paribatra)


タイ空軍に関係する絵画

タイ王国での最初の国産機「パリバトラ」(ボリパトラ)
Luang Amphorn Baisal飛行中尉

いろいろなタイ空軍に関係する絵画があった。見ていて楽しい。
言葉がわからないけど、絵なら伝わってくる。

サヤーム王国(タイ王国)陸軍局局長であったヂャックラボンセ・ブワナート王子(ピサヌローク王子)は航空機に多大な関心を示し、1912年2月28日、「タイ王国を飛行機先進国とする」という使命を帯びた3名の将校を航空技術習得のためにフランスに派遣した。
派遣された3名の将校、ルアン・サックサンラヤーウット少佐(スニー・スワンナプラティープ)、ルアン・アーウットシキゴーン大尉(ロン・シンスック)、ティップ・ゲトゥタット中尉は、飛行技術を習得し、1913年11月2日、8機の航空機(ブレゲー4機、ニューポール4機)とともに本国に帰国。
この3名の将校は、今日「タイ空軍の父」と見なされている。

3人の肖像は、すなわち、タイ空軍の黎明期を担った彼らなのだろう。

1914年1月13日、国王陛下隣席での3機の航空展示


唐突に出てきた、お姉様。

この辺りは、日本でもグッとくる万国共有の感性。


日本供給航空機の絵画(大東亜戦争絵画)

1940年、フランス領インドシナ紛争により米国がタイ国へ航空機の供給を停止した。そのためタイ空軍は航空機の供給を日本に切り替え、三菱キ30軽攻撃機「九七式軽爆撃機」(M103「ナゴヤ」)25機と、三菱キ21重爆撃機(キ21-I)「九七式重爆撃機」9機を購入することとなった。

タイ政府は日本軍の通過権を承認し、日本と同盟を結び、タイ王国空軍は1942年-43年にかけて日本軍の進軍を援護した。
三菱 キ21 九七式重爆撃機

インドシナ紛争においてタイ王国空軍は防空において積極的に役割を果たし、タイ王国海軍とタイ王国陸軍の支援を実施。

1942年、タイ王国空軍はキ27b Nate 戦闘機「九七式戦闘機」を12機、日本に発注した。
この機体は7.7mm2挺と55ポンド爆弾4発を搭載していた。

1943年、大東亜戦闘において、12型戦闘機(中島キ27bNate)「九七式戦闘機」は、ランバーン県コーカ飛行場の第16飛行隊に配備され、爆撃機や攻撃機の護衛任務を努め、タイ北部の哨戒任務に努めた。

1943年、タイ王国空軍は、日本から24機の中島キ43Ⅱb「隼」戦闘機を購入。12,7mm機関銃2挺と550ポンド爆弾2発を搭載できる「隼」は、大東亜戦争中のタイ王国空軍で最も高性能な戦闘機であった。

1944年6月5日、アメリカ陸軍航空隊のB-29爆撃機98機はバンコクのマカサン鉄道操車場を攻撃した。タイ空軍は3機の中島キ43「隼」を派遣し、迎撃を試みたが失敗に終わった。

1944年11月27日、バンスー操車場は、アメリカ陸軍航空隊のB-29爆撃機55機による空襲を受けた。たいと日本の中島キ43「隼」戦闘機14機が、巨大なB-29の迎撃を試みた。
隼のパイロットの一人、テルサック飛行中尉は、B-29を攻撃し損傷させたが、反撃により撃墜された。テルサック飛行中尉は、重度の火傷を負いながらも、ベッチャブリー上空で損傷した隼からパラシュートで脱出した。損傷したB-29は基地に帰還する途中で撃墜され行方不明となった。


そのほか展示物

写真をいくつか。。。
展示物は多すぎてお腹いっぱい、取りこぼしも多数。。。


そのほか航空機

写真は順不同

タイ王国で最初のジェット機T-33

F-5

Douglas A-1H Skyraider

いっぱい並んでる。

Fairchild C-123B Provider

中に入れた。

右も左も圧巻の展示。

Cessna A-37B Dragonfly

ファントレーナーFT-400

ヘリコプターも

レーダーも展示?

火器類

こっちにも

左:ノースアメリカン製中間練習機T-28Trojan
右:ピラタス製軽飛行機PC-6

建物を取り囲むように航空機の展示が続く。

Beech C-45F Expeditor

Fairchild Swearingen SA-227AT

食堂と喫茶室とお土産屋さんがある建物。

軍人さんも利用。

ココナッツアイスコーヒーで一休み。テーブルの下に、戦闘機がいました。

いやはや、圧巻ですよ、これはまた期待です。
(スピットファイアとかヘルキャットをみるためにも)

駅チカ。

※撮影:2025年2月


「修武台・陸軍航空士官学校」修武台記念館(航空自衛隊入間基地)

2025年の冬に。
入間基地内の「修武台記念館」を見学させていただきました。

修武台記念館内は、撮影可能であってもSNS等の写真公開は禁止、また基地移動中も撮影禁止のため、今回のレポートは、記念館内の写真は無しとなります。

写真の公開には制約がありますが、日本で唯一の「桜花」など、写真を撮ることの制約はないので、そこは思う存分に。
敷地外から撮影した写真と、入手したパンフレットの画像を中心に、見学を検討している皆様向けに、そして自らの備忘のために記事を作成します。

修武台記念館と修武台記念碑(基地敷地外から撮影)


陸軍航空士官学校(修武台)

陸軍航空士官学校
昭和12年(1937)に陸軍所沢飛行場内に陸軍士官学校の分校として「陸軍士官学校分校」が開校。(現在の入間基地・入間飛行場)
昭和13年5月に「陸軍士官学校分校」が豊岡町(現在の入間市)に移転。
昭和13年12月に、「陸軍航空士官学校」として独立し、昭和16年には行幸された 昭和天皇より「修武台」の名称を賜った。

陸軍航空士官学校の本校は豊岡(入間)、その他に飛行練習をするために狭山・高萩・坂戸・館林の陸軍飛行場が練習地として使用された。


修武台記念館

入間基地では、隊員の教育訓練(精神教育)及び航空自衛隊の良き伝統の継承を目的に、「修武台記念館」という歴史資料館が運営されています。

修武台記念館見学会応募要領に関しては、下記の公式サイトにてご確認をば。

https://www.mod.go.jp/asdf/iruma/kouhou/public_kinenkan/index.html

私が申し込んだ際は、(あえて人の少なさそうな)平日を狙って申込みをしたので「自由見学方式」と「ツアー見学方式」で合わせて10人もいないくらいの少人数で開催となり、私は自由見学方式を申し込み。ほぼ2階の旧軍関連の資料の観覧と撮影に時間を費やしました。
ツアー見学組は、90分の見学時間を使って無駄なくみっちりと解説を聞きながらの観覧のようでした。
次回は、ツアー見学で話を聞くのもありかなって思いました。

残念だったのは、野外展示の観覧が不可だったこと。
移動バスが、修武台記念館の前に直付けとなり、修武台記念館の外にも移動禁止。外の見学が出来ないのは、警備人員配置の都合だとかで。


修武台記念碑(修武臺記念碑)

昭和16年12月10日 陸軍大将 東條英機 謹書

修武台記念碑(基地敷地外からの撮影)

陸軍航空士官学校航空神社跡を後ろから(基地敷地外からの撮影)

修武台記念館(基地敷地外からの撮影)


航空歴史資料館 修武臺記念館(修武台記念館)

以下、パンフレットを参照にします。
(撮影したデータは公開不可のため)

航空歴史資料館 修武臺記念館

以下、拡大しつつ。

陸軍航空士官学校の航空標識(インシグニア)として使用された意匠

修武台記念館は、航空自衛隊員の教育訓練及び航空自衛隊の伝統の継承を目的として運営されています。
陸軍航空士官学校(航士)
昭和13年(1938年)5月、所沢にあった陸軍士官学校分校が入間川豊岡に移転し、同年12月に陸軍航空士官学校(航士)として創建されました。終戦までに七千名に及ぶ士官候補生らが教育を受けました。
旧陸軍航空士官學校本部長舎
太平洋戦争後の米軍進駐と撤収を経て、航空自衛隊の管理に委ねられ、昭和61年(1986年)から平成17年(2005年)まで旧修武台記念館として運営されました。旧陸軍士官学校本部庁舎の外観を模した修武台記念館は、同庁舎跡地に建設されて平成24年(2012年)に開館しています。

修武臺の碑

「修武台」の由来
北魏・孝文帝の詔「国家宗文以懐九服修武以寧八荒」を由来とします。
昭和16年(1941年)3月、第54期生卒業式に臨席された昭和天皇が豊岡の航空士官学校の地を「修武臺」と命名されました。同年12月に御命名書の御染筆を刻んだ碑(修武臺の碑)が建立されています。

航空神社跡碑

航空神社跡碑
航空神社は、航空殉職者を慰霊するため所沢飛行学校長だった徳川好敏中将によって建立され、その後士官学校分校とともに所沢から豊岡に奉遷されました。戦後、北野天神社(小手指)に遷宮され例祭が営まれていましたが事情により昭和40年に廃社となりました、。神社跡碑は関係者の尽力により現在の場所に移転しました。殉職者らの霊璽は、令和6年(2024年)より北野天神社に再び遷座されています。

※北野天神社の記録は下記にて

記念館周辺史跡及び記念碑

このあたりも見たかったんです。

パンフレットの次頁

以下、拡大しつつ。

入口玄関にあるのは「陸軍航空士官学校模型」。
位置関係のイメージ把握を。

2階部分。


陸軍航空と海軍航空の歩みを年表形式で解説。
明治43年の陸軍「臨時軍用気球研究会」、そして大正6年の海軍「臨時潜水艦航空機調査会」から始まった日本陸海軍の航空史。


士官と搭乗員の育成について。


太平洋戦争の航空戦について。
海軍空母機動部隊の航空戦と、島嶼戦における航空戦。そして航空消耗戦へと。
零戦と飛燕
日米の飛行場の違い。


陸軍機と隼戦闘機
屠龍の残存部品展示
隼の残存部品展示
檜與平少佐の義足、空中戦で片足を失いつつも義足で戦闘機に乗り続けたパイロット。


中島エンジンの展示。
鍾馗用「ハ41」零戦用「栄21」
日立航空機(日野自動車)エンジン「(海軍)初風・(陸軍)ハ47型」


海軍特攻兵器
「桜花」
日本に現存する唯一の「桜花」の展示。
これが見たかったのです。ようやく拝見できました。


特攻隊員顕彰室
義烈空挺隊など。

10
入間基地特別展示室
加藤隼戦闘隊と軍神加藤について。

11
ジェット機の登場
ジェットエンジンの進化に関して。橘花。

そういえば、橘花のジェットエンジン「ネ20」には、出会ってました。

ここから1階に移動


12
航空自衛隊の発展

保管庫に移動すると3機の展示。
アンリ・ファルマン機、ここにいましたか。久しぶり。

所沢航空発祥記念館で、以前に会ってました。

修武台記念館 館内案内図

撮影した写真が、掲載できないのはもどかしいですが、是非とも見学して自ら鑑賞してくださいってことですね。必見ですので。


撮影:2025年冬

陸軍航空士官学校の校内神社「修武台航空神社」(所沢・北野天神社)

所沢の北野天神社の境内社「小手指神社・航空神社」は、かつての陸軍航空士官学校の校内神社の御社殿を戦後に遷座したものであった。

深く拝する


陸軍航空士官学校(修武台・航士校)

陸軍航空士官学校
昭和12年(1937)に陸軍所沢飛行場内に陸軍士官学校の分校として「陸軍士官学校分校」が開校。(現在の入間基地・入間飛行場)
昭和13年5月に「陸軍士官学校分校」が豊岡町(現在の入間市)に移転。
昭和13年12月に、「陸軍航空士官学校」として独立し、昭和16年には行幸された 昭和天皇より「修武台」の名称を賜った。

陸軍航空士官学校の本校は豊岡(入間)、その他に飛行練習をするために狭山・高萩・坂戸・館林の陸軍飛行場が練習地として使用された。


航空神社(修武台航空神社)

陸軍航空士官学校の校内神社「航空神社」
航空士官学校の跡地である航空自衛隊入間基地の修武台記念館の前庭には、「航空神社跡碑」がある。

航空神社跡碑
航空神社は、航空殉職者を慰霊するため所沢飛行学校長だった徳川好敏中将によって建立され、その後士官学校分校とともに所沢から豊岡に奉遷されました。戦後、北野天神社(小手指)に遷宮され例祭が営まれていましたが事情により昭和40年に廃社となりました、。神社跡碑は関係者の尽力により現在の場所に移転しました。殉職者らの霊璽は、令和6年(2024年)より北野天神社に再び遷座されています。

※修武台記念館のパンフレットより

北野天神社のサイトには、以下の記載がある。

所沢の航空神社とは

所沢の航空神社は昭和12年に創建された慰霊と航空安全のための神社です。
空の安寧を祈るとともに、所沢市の航空史、戦争の歴史を伝えております。

御祭神
主祭神 天照大御神 神武天皇 明治天皇
配祀 陸軍航空隊の殉職者並びに戦没者4956柱
御社殿
伊勢神宮及び武蔵一宮氷川神社の御用材を以て造営されました。

ご由緒と奉遷
 航空神社は、日本初の公式飛行に成功した徳川好敏(とくがわよしとし)の宿願により、昭和12年、所沢陸軍飛行学校に建立されました。
主祭神として、天照大御神、神武天皇、明治天皇、併せて、航空発展の途上に一命を捧げた航空殉職者と戦争で尊い犠牲となられた4956柱の英霊をおまつりしております。社殿は、伊勢神宮と武蔵一宮氷川神社の御用材より作られています。 大正6年には北野天神社宮司が斎主となり、所沢飛行場(現在の航空公園)で航空殉職者の慰霊祭をしていたことが祝詞より分かっております。 爾来、所沢陸軍飛行学校、陸軍士官学校分校、入間市豊岡(昭和天皇が行幸したことにより修武台と名付けられる)の陸軍航空士官学校の航空神社、及び、所沢陸軍航空整備学校の建空神社の祭祀を司って参りました。 昭和20年9月3日、入間市修武台の陸軍航空士官学校にあった航空神社が、進駐軍の接収を避け、命懸けで当社神域に遷座されました。航空神社の例祭は東久邇宮殿下のご臨席を賜り、音楽隊の吹奏を行い、「航空神社の歌」までできるなど盛大に斎行されました。 しかし、昭和40年11月3日に諸般の事情により奈良の航空自衛隊幹部候補生学校に軍関係の霊位牌や霊名簿が奉安される事となりました。残されたご祭神は相殿する小手指神社の御霊(地元小手指地域の戦没者)とともにお祭りしておりました。 奈良の航空自衛隊幹部候補生学校に奉案された霊位牌と霊名簿は、入間基地の修武台記念館が設立され整備も着々と進んできたのを機に、昭和63年に奈良基地から入間基地の修武台記念館にお移りになられました。 歴史の大波に翻弄された数奇な運命を辿りましたが、令和6年、徳川好敏氏の云う「因縁」、菅原道大氏の云う「奇縁」、また、その御縁を繋げて下さった皆様の力強いご尽力により、御霊が北野天神社内航空神社にお戻りになり、再び例祭を斎行する事となりました。 徳川好敏氏の願いは航空神社の「永久崇祀」です。大切に御霊をお祭りし、歴史を伝えて参りましょう。

航空神社と北野天神社(物部天神社)の繋がり
 北野天神社の正式名称は物部天神社・國渭地祇神社・天満天神社です。物部天神社は延喜式神名帳にも記載される古社(式内社)で、平安時代以前より当地に鎮座しております。 祭神は、古代、武蔵國入間郡の郡司であった 物部氏の祖先神である櫛玉饒速日命をおまつりしております。 饒速日命は『古事記』、『日本書紀』にも登場しますが、特に『先代旧辞本紀』には、 「天磐船に乗りて、大虚空を翔行めぐり…」とあり、 天磐船という空飛ぶ乗り物に乗って、日本に降りてこられたことが伝えられています。この故実より、航空の神としても崇敬されます。 奇しくも、饒速日命が鎮まるこの所沢市に日本初の飛行場が出来まして、また北野天神社の格式が式内社・県社であるため、航空神社の斎主となりました。宮司家は創建された当時から今日にいたるまで祭祀を司り、御霊を大切にお祀りしております。

航空神社のこれから
現在、時代に翻弄され幾度も奉遷された御神霊は北野天神社境内・航空神社に戻られて、静かにお鎮まりになられています。 敗戦直後、進駐軍がやってくる中で軍施設の校内神社を受け入れるという事は、並大抵の事ではなく、命がけの覚悟がいりました。 そういった歴史を踏まえ、先代宮司は「航空神社は静かに、大切にお祀りしなさい。」とよく申しておりました。 その言葉通り、現在まで遺族の方々・神社役員、地域の氏子さんや心を寄せて下さる崇敬者さんと共に、丁寧に祭祀を続けてまいりました。  航空神社は慰霊と航空安全のために創建された神社です。航空神社は所沢市の戦争の歴史を背負っており、所沢市に”二つ”とあってはいけません。  所沢市の航空史において、戦争による悲しく尊い犠牲と当時の人々の深い想いは、伝えていかなくてはならないものです。 かけがえのない歴史が塗り替えられることの無いように、大切にお祀りしましょう。

航空神社の歌
作詞 航空神社奉賛会
作曲 航空音楽隊長 松本秀喜
1, 大空に
命ささげた 人々を
まつる社の 尊さよ
君をたたえて もろともに
心ゆくまで 語りましょう
遠いあの日の 思い出を
2, 玉垣に
翼あこがれ 今も尚
忘れな草が 咲いている
心ゆくまで 歌いましょう
あの喜びも 悲しみも
3, 青空に
君のみ心 うけついで
銀の翼が とんでいる
父を慕って 僕もまた
強く明るく 生きましょう
このみ社の み恵みに
https://kitanotenjin.com/kouku.html

招魂会(おぎたまかい)解散の経緯について
 この神社は、元豊岡の陸軍航空士官学校修武台に国の安泰と戦勝を祈願するため祀られた神社で、北野天神社宮司が毎年厳粛に祭典を行ってまいりましたが、昭和20年の敗戦による混乱をさけるため、急遽当神社に遷座されたものです。
 終戦の混乱より落ち着きを取り戻した昭和30年頃より当学校の校長を始め幹部達十二・三名が寄り寄りに、北野天神社の社務所に集り前途を話し合って、結局慰霊祭を行うことを決め、同時に当所小手指・北中・北打越地区の戦没者を合祀し盛大な祭典を行ったのです。即ち、東久邇宮殿下のご臨席を賜わり、音楽隊の吹奏を行い、それに関する歌まで出来るなどして、毎年4月15日に慰霊祭が営まれました。
 しかし、昭和40年11月3日に元陸軍士官学校の校長等の手により軍関係の御霊のみ碑となって奈良の航空自衛隊幹部候補生学校に分霊される事となりました。そこで残された英霊を祀るため、北野天神社及び六所神社の惣代役員また区長・遺族等が旧公民館に集り招魂会を結成し、その初代会長に川口重雄氏を選出し、従来通り4月15日を例祭とし決め、以来半世紀に亘り、慰霊祭を営んで参りました。当初は大変多くの遺族の方々が参列する程でしたが、時の流れと共に遺族の高齢化・減少も甚だしく、茲に招魂会を解散し、その基金を神社改修に充て、向後は神社境内の摂末社並の祭典を北野天神社の総代役員で執行することとなりました。
  平成二十六年十二月吉日
   北野天神社宮司   栗原彌生子
   同 総代会会長   鈴木正治
   六所神社総代会会長 鹿島敏寿
   招魂会会長     小暮信至

小手指神社
この社は日清日露の両戦役から終戦に至るまでの戰に参戦し祖国の尊い英霊となられた方々を祀った社です。
毎年4月十五日には(北中北越地区を含む)北野上新井西所沢地区の関係者により厳かに慰霊祭が執行されております。

航空神社
大正6年 北野天神社宮司が祭主となり所沢飛行場(現・航空公園)で航空殉職者の慰霊祭を行いました。
爾来 昭和12年 所沢陸軍飛行学校に航空神社が造営され 陸軍士官学校分校・陸軍航空士官学校(現・航空自衛隊入間基地)の祭典を行って参りました。
昭和20年8月の敗戦により航空神社は米軍の進駐が予期される慌ただしさの中 同年9月3日 当神社神域に遷座され 慰霊祭が厳かに執行されました

航空神社は空の守り神として多くの人々の崇敬を集めて参りました
主祭神のとして天照大御神・神武天皇・明治天皇 併せて陸軍航空隊の御霊四九五六柱をまつります
社殿は伊勢神宮と武蔵一宮氷川神社の御用材より作られました


航空神社(修武台航空神社)参拝

北野天神社の境内に。
小手指神社・航空神社の合社。

参拝。

玉串料 元校長
金阡圓 徳川好敏
昭和廿八年十二月廿日

元航士校長一同

余談だが、昭和28年の1000円は物価価値的には、3万5千円ほど。
徳川好敏は昭和38年に78歳で亡くなっている。

昭和28年の埼玉県知事の玉串料は5千円。一個人の徳川好敏に対して、さすがは県知事ゆえの5倍ですね。

「空の華」は、熊谷ですね。

徳川好敏関連は、下記にて。


境内の石碑

表忠碑(大正11年、東郷平八郎謹書)と忠魂碑(昭和30年、靖国神社宮司・筑波藤麿禁書)
もともとは小手指小学校に建立され、その後は市役所小手指出張所にあったが、昭和52年に北野天神社に移転。


モリス・ファルマン式飛行機

フランスのモリス・ファルマン式飛行機18号を復元中

大正4年5月に河野長敏初代気球隊長が撮影し奉納された「フランスのモリス・ファルマン式飛行機18号の写真」に因む復元

今年は戦後80年の節目にあたります。
航空安全をお祈りするとともに
祖国を守るため、尊い命を捧げられた英霊に
感謝の誠を捧げます。

モリス・ファルマン式飛行機18号


北野天神社参拝

おもえば、平成14年(2002)以来の参拝かもしれない。
23年も前じゃないですか。
当時の私は、武蔵国の延喜式内社を全て回ることをライフワークにしていたので、その一環で、当社にも参拝していたというわけです。

通称「北野天神社」と呼称しているが、正式名は「物部天神社・國渭地祇神社・天満天神社」という。延喜式神名帳に名を連ねる武蔵国の延喜式内社。

式内社・物部天神社:櫛玉饒速日命(クシタマニギハヤヒ命)
式内社・国渭地祗神社:八千矛命(ヤチホコ命=大国主命)
天満神社:菅原道真公
配祀:宗良親王・小手指明神・天穂日命・応神天皇・日本武尊・倉稲魂命

由来:北野天神社(物部天国渭地祇神社)とは物部天神社・国渭地祗神社・天満天神社の総称。
景行天皇40年に日本武尊が東征の折に当地に立ち寄り、櫛玉饒速日命・八千矛命の二柱を祀り、物部天神・国渭地祗神と崇拝したことに始まるといわれている。のち欽明天皇の頃、先に日本武尊が納めた神剣に霊験があったことから天照大神を合祀して「小手指明神」とよんだ。
さらに長徳元年に菅原道真5世の孫である修成が武蔵守になったときに、勅許を得て京都の北野天神を分祀。坂東第1の天満宮としたと伝えられ、この時から当地を「北野」とよぶようになったという。このころはまだ3社は別殿であったが、いつのころからか合殿となり、社名も「北野天神社」となったという。
現在の本殿は安永年間(1770年代)の建築であり、拝殿幣殿は平成6年の建築。

前田利家の大納言梅

征夷大将軍・宗良親王
小手指ヶ原合戦での御在陣の御遺蹟
「君の為世のため何か惜しからむ 捨てて甲斐ある命なりせば」

諸神宮

源頼朝が建久6年(1195)9月に延喜式内総社3132神を勧進。
室町期の再建という社殿は、埼玉県内では、神社建築として、出雲伊波比神社が亨祿元年(1528年)で最古となるが、それを踏まえると小祠といえども、同じ室町期として、かなり貴重な建造物。

以上、北野天神社でした。

※参拝:2025年4月


所沢関連

旧陸軍航空士官学校の格納庫跡(入間基地)

2024年11月の入間基地航空祭に際して、旧陸軍航空士官学校時代の倉庫が5棟残っているというので、航空機はそこそこに倉庫の見学をしてきました。

もっとも、2024年の航空祭は、C-1ばかり見ていましたけど。


陸軍航空士官学校

陸軍航空士官学校
昭和12年(1937)に陸軍所沢飛行場内に陸軍士官学校の分校として「陸軍士官学校分校」が開校。(現在の入間基地・入間飛行場)
昭和13年5月に「陸軍士官学校分校」が豊岡町(現在の入間市)に移転。
昭和13年12月に、「陸軍航空士官学校」として独立し、昭和16年には行幸された 昭和天皇より「修武台」の名称を賜った。

陸軍航空士官学校の本校は豊岡(入間)、その他に飛行練習をするために狭山・高萩・坂戸・館林の陸軍飛行場が練習地として使用された。

狭山飛行場

高萩飛行場

坂戸飛行場

館林飛行場関連は未訪問。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:891-C2-92
1944年9月28日、米軍撮影の航空写真

かつての陸軍航空士官学校時代の様子がわかる。

残存の格納庫部分を拡大

現在の様子

当時の写真と照合し、赤枠部分が残存と推測できる。


陸軍航空士官学校時代の北側建屋3棟の現況

2024年11月3日現在の様子。
北側には、3棟が残存している。

北側から。

南側から。
当時は、こちら側が駐機エリア。

西側の側面。


陸軍航空士官学校時代の西側建屋2棟の現況

西側には2棟、残存している。

現在も航空自衛隊入間基地の倉庫として活用されている。


修武台記念館・陸軍航空士官学校航空神社跡・修武台命名記念碑

そこにあるのはわかっているけど、見学は、いつになったらできるのかな、と。
申し込めばよいのですけど。

敷地外の柵の外から。

※2024年11月撮影


関連

第1空挺団「降下訓練始め」(陸自習志野演習場・2025)

令和7年1月12日。

陸自第1空挺団による新春恒例の「降下訓練始め」が実施されましたので、足を運んでみました。


空の神兵

大日本帝国陸軍・海軍の落下傘部隊(空挺部隊・挺進部隊)、落下傘兵(空挺兵・挺進兵)に対する愛称。
海軍は「空挺部隊」
陸軍は「挺進聯隊・挺進集団」
そして、陸自は「空挺団」

太平洋戦争(大東亜戦争)蘭印作戦
1942年(昭和17年)1月11日
海軍の横須賀鎮守府第一特別陸戦隊がセレベス島メナドに対し敵前にて奇襲落下傘降下を敢行。。
1942年(昭和17年)2月14日
陸軍の第1挺進団(挺進第2連隊)がスマトラ島パレンバン(パレンバン空挺作戦)に対し同じく敵前にて奇襲落下傘降下を敢行。
両作戦は成功しオランダ軍他が守備する飛行場(メナド・パレンバン)や、大油田・製油所(ともにパレンバン)を制圧した。
これらの活躍から日本軍落下傘部隊に対し「空の神兵」の愛称が付けられた。

「空の神兵」は、帝国陸軍落下傘部隊(第1挺進集団)の事実上の後身である陸上自衛隊第1空挺団にも継承されている。
習志野の陸自第1空挺団は、昭和27年より研究されれ昭和30年に設立した初代空挺教育隊を起点とし、初代空挺教育隊長を務めた衣笠駿雄元陸軍少佐(初代第一空挺団長)に率いられた第1次研究員20名によって昭和33年に創設された。
この第1次研究員20名こそが太平洋戦争末期に帝国陸軍落下傘部隊において教育途中であった元挺進兵であった。そのため帝国陸軍落下傘部隊の歴史は陸上自衛隊落下傘部隊の歴史とされ、その伝統を堂々と継承している第1空挺団の事実上の隊歌として使用、かつ「降下訓練始め」では歌唱付きの『空の神兵』がそのまま場内で放送されている。


降下訓練始め 準備

入口から、見学場所まで、まいどまいど、それなりの距離があるんですよね。

高台に陣取り。

アメリカの偉い人が乗っているヘリ。(あまり詳しくないので)

指揮官の降下

防衛大臣、いらっしゃいました。

続々と降下!!

米軍機

真白き薔薇の花模様

空の神兵
 梅木三郎作詞  高木東六作曲

藍より蒼き大空に大空に 忽ち開く百千の
真白き薔薇の花模様 見よ落下傘空に降り
見よ落下傘空を征く 見よ落下傘空を征く

世紀の花よ落下傘落下傘 その純白に赤き血を
捧げて悔いぬ奇襲隊 この青空も敵の空
この山川も敵の陣 この山川も敵の陣

敵撃摧と舞い降る舞降る まなじり高きつわものの
いずくか見ゆるおさな顔 ああ純白の花負いて
ああ青雲に花負いて ああ青雲に花負いて

讃えよ空の神兵を神兵を 肉弾粉と砕くとも
撃ちてしやまぬ大和魂 我が丈夫は天降る
我が皇軍は天降る 我が皇軍は天降る


降下訓練始め

地上展開

AH-1Sコブラの航空支援

白兵戦

迫撃砲陣地展開

テェッ

地上支援戦力投入

10式戦車と16式機動戦闘車

今回は、体調が今ひとつというのと、カメラの不調もあり、電池不足もあり、で、最後は半端な観戦になってしまいました。

難しいことは機にせずに、鑑賞していて楽しいのが空挺「降下訓練初め」

※2025年1月撮影


関連

陸軍清洲飛行場(甚目寺飛行場)跡地散策(愛知)

愛知県に出張の折、時間ができたので、名古屋から足を伸ばして、名鉄大里駅に。ここから、清須飛行場跡地を目指してみる。



位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:97L24-C1-7
1945年4月22日、帝国陸軍撮影の航空写真を加工。

清須飛行場部分を拡大

現在の様子。戦後の農地開拓のまま、かつての清須飛行場の用地が残っている。


清須飛行場(甚目寺飛行場)

太平洋戦争末期の1944年(昭和19年)10月、海部郡甚目寺町と西春日井郡清洲町にまたがる約200ヘクタールの農地に建設された。正式名称は清洲飛行場だが、飛行場の大部分が甚目寺町にあったため、地元では甚目寺飛行場と呼ばれていた。
終戦時には、飛行第5戦隊が所在し、中京地区の防衛任務にあたりつつ、来たるべき本土決戦に向けて戦力を温存していた。


清須飛行場の建屋

清須飛行場にあった建屋を戦後に移築して倉庫に転用したという。

https://www.asahi.com/articles/ASNDV7RSVND4OIPE02F.html

記事より、転載

 横井さんら地元住民によると、終戦直後から1947(昭和22)年ごろにかけて、飛行場に放置されていた建物群や備品は次々と持ち去られた。横井さんの父親は飛行場跡を開拓して田畑に戻す組合の役員を務めていたといい、「使える物は何でも使う時代だったから住民が引き取ったようだ。集落総出で大八車に積んでここまで運び、組み立てたと聞いた」。
 横井さんも自宅に軍用機の燃料タンクと座席を保管している。飛行場の建設時には勤労奉仕で土運びに駆り出された経験を持つ。
 倉庫は後に、板張りの壁をトタンに変えたり、屋根をスレートにふき替えたりしたが、柱などの部材は当時のままという。昭和30年代にはボヤ騒ぎにも見舞われたが、令和に至るまで残った。宮崎亮一さん(81)は「しっかりした建物だったので補修で済んで、壊さずに使い続けることができた」と振り返る。

場所:

https://maps.app.goo.gl/3swzrukcTCfKqiN5A

バス停は「増田(ました)」

増田長盛の出生の地、という。
ましたながもり

場所

https://maps.app.goo.gl/UosXAJcWK7YjNdvDA


清須飛行場跡地

広がる農地は、戦後の開拓。この広大な農地がそのまま清須飛行場の跡地となる。


清須飛行場の作戦室跡

宅地の奥に、作戦室跡が残っていた。
頑丈なコンクリート建屋は、これを撤去するのも大変な労力を割くことが容易に想像され、それが撤去を諦めて残ったとも言えそうだ。

場所

https://maps.app.goo.gl/UosXAJcWK7YjNdvDA

飛行場エリア=農地開拓エリアの外周となり、周辺は宅地造営が進むも、作戦室跡地だけは取り残されている模様。

南に進む。

高架道路は、名古屋第二環状自動車道。
清須飛行場跡を北東から南西にかけて斜めに横断している。


元飛行場開拓記念碑

あま市甚目寺公民館の敷地内に開拓記念碑がある。
清須飛行場の南端近く。

元飛行場
開拓記念碑

元飛行場開拓記念碑文
太平洋戦争の砌(みぎり)国土防衛のため建設された飛行場が終戦と共に廃棄された。
元来この地は農民の至宝で五穀豊壌の沃野であった。
戦後国力は極度に疲弊し農家と雖も食料に事欠く時であったから関係町村民は挙ってこの地に開拓の意欲を燃やし主食の甘薯馬鈴薯の作付けをしたが大半は雑草の茂る荒蕪地として放置されてあった。
時の甚目寺町長・近藤寿治氏は大いに之を憂い昔日の美田に復帰せむと払下げの請願書を関係官庁に提出しあらゆる困難を押して運動された結果、昭和二十三年十月十八日遂に氏の至誠が認められ入植の許可が下付された。
宿願のかなった農民は一致団結して工事に勉励した。
理事長・山田善吉氏の人格と手腕は衆望を集めて事業の推進に精励せられた。
又、関係農民のたゆまざる努力により灌漑排水共に整備せる理想の開拓地が十有余年の星霜を経て完成し、黄金波打つ豊穣の沃野が限りなく展開されて穀倉地帯の名にふさわしい美田が復興した。
今回清浄の地を選んで開拓記念碑の建設されることは山田善吉氏を始め尽力された人々の頌徳碑でもある。
茲に功労者各位の氏名を列記して永久にその功績を讃えます。
 里人が こころ合わせて 拓きたる
    飛行場の跡  白鷺群れる

場所:

https://maps.app.goo.gl/xAj1YJR68yNThp4BA

あま市甚目寺公民館

※撮影:2024年6月


関連

愛知縣護國神社

河口湖自動車博物館・飛行舘(2024年8月版)

このところ、夏の恒例となりつつある「河口湖自動車博物館・飛行舘」詣で。
今年で、3年連続、です。

2025年の記事はこちらです


前回の記録

2022年

2023年


艦上偵察機 彩雲 11型1290号機

エンジン部が機首に!

中島飛行機が開発。大日本帝国海軍の艦上偵察機。
実用化した海軍機の中で、彩雲は海軍最速機として陸上偵察機としても活用され、米軍機の追跡を振り切った際に「我ニ追イツクグラマン無シ」の名言も残っている。

1944年に愛知の半田製作所にて量産が開始。半田1号機は1944年6月に完成。終戦までに463機生産(半田では427機)されたという。

河口湖自動車博物館・飛行舘とアメリカ国立航空宇宙博物館(非公開)にのみ現存。
河口湖自動車博物館・飛行舘では、現在進行系にて、彩雲の復元作業に着手している。

艦上偵察機 彩雲 11型1290号機
C6N1 (英語名 MYRT)
本機は、昭和17年春から開発が始まり、昭和19年春には、わずか2年という短期間で試作1号機を完成させている。
日米戦争、最後の切り札として造られた、レシプロエンジン機で、1945年の敗戦までに463機が製造された傑作機である。
2,000馬力を誇る、星型18気筒の中島製”誉(ホマレ)”エンジンを搭載しており、戦後米国のテストでは、時速約700km/hを記録。現在でも量産レシプロエンジン機の最高速記録を保持している。
米軍機グラマンを振り切った時の「我ニ追イツク敵機無シ」というパイロットの無線連絡は有名な話だ。戦後、戦闘機はジェットエンジンに変わったが、彩雲のために考案された多くの新技術は、それらの戦闘機にも採用されている。
世界的に見ても、彩雲は日本が持つ技術力の結晶であったのだ。

本機は、2000年頃にトラック春島のジャングルで発見された。
55年もの間、熱帯湿原のなかで放置されていたため、朽ち果てていたが、ほぼ完全な状態を保っていた。
現在、世界中で米国スミソニアン博物館と河口湖飛行舘の2機が現存するのみで、非常に重要な技術遺産である。
飛行舘でじゃ2020年9月より、本機の復元作業を開始している。

艦上偵察機 彩雲 11型1290号機
Nakajima C6N1 MYRT
この彩雲は、最高速度654Km/h、最大航続距離5,000kmを誇る、日本海軍の高速偵察機である。
設計は、中島飛行機小泉製作所の山本良造、福田安雄、2名の技師にゆるものだ。太平洋戦争の開戦により、日本海軍は急遽、優れた偵察機が必要になり、昭和17年1月、中島飛行機に開発指示が下った。
要求された最高速度630km/hを実現させるためには、2,000馬力級のエンジンが必要であったが、当時そのような高出力エンジンは存在しなかった。山本、福田両技師は、1,000馬力級の星型エンジン2基を串刺にして、同軸でプロペラを駆動させることで要求を満足させようと考えていたが、幸いにも開発中であった、1,800馬力エンジンの実用化に目処がついたため、このエンジン”誉(ほまれ)”を搭載することで開発が進められた。エンジン出力の不足分は機体の設計技術により補うことで対応した。
彩雲には様々な新技術が採用された。それらの技術は現在の航空機にも使われている。今なお、傑作機として名を残している由縁であろう。

昭和18年4月26日に小泉製作所で量産試作機が完成。
翌年の昭和19年4月には愛知県の半田製作所にて、本格的な量産が開始され、終戦までに463機もの彩雲が生産されている。
現在は、河口湖飛行館とアメリカの博物館の”2機のみ”が現存するが、アメリカにある機体は未公開で、未だ復元が開始されていないため、ここに展示されている彩雲が、世界で初公開となる。

艦上偵察機 彩雲
太平洋戦争の終わり頃に、最新の技術を取り入れ、中島飛行機で開発され造られた、高速で飛べる偵察機である。
強力なエンジンにより、時速654kmのスピードで飛行できた。
現在でも量産プロペラ飛行機の最高速度の記録を持っている。
てんじされている機体は、ミクロネシアのジャングルに隠されていたもので、2000年頃に発見された。
その後、河口湖飛行館に運ばれ、現在修復が行われている。
政界で、この彩雲を見ることができるのは、ここ河口湖飛行館だけなのである。

写真多めに。

ホマレ

誉11型(彩雲用エンジン)
中島飛行機と日本海軍航空技術廠発動機部が開発した航空機用空冷式レシプロエンジン。
1942年(昭和17年)9月に生産が始まり、銀河、彩雲、疾風や紫電改など第二次世界大戦後期の航空機にメーカーや機種を問わず幅広く搭載された。

彩雲 操縦席
復元機に装着されていたオリジナル」操縦席で、裏側には当時の塗装も残ている。
体がすっぽり収まるバケット形状で、素材は超ジュラルミン製である。
左右にある金具には肘掛けが取り付けられ、長時間飛行でもパイロットが疲れないように配慮されていた。
背面にある2本のパイプは座席の昇降用。

今回は、彩雲の写真のみで!


無戸室浅間神社 ( 船津胎内神社 )

ちかくなので、ちょっと寄り道。これはただの観光ですね。
この日の富士山は雲隠れ。

船津胎内樹型

入口が社殿内に。

前の日は雨だったので、ちょっとぬかるみが。。。

これはなかなか過酷。。。

母の胎内

父の胎内

出口!

そういえば。まだ河口湖の温泉に足を運んでいなかったです。

なんかJRの駅っぽい、富士急河口湖駅。

※2024年8月


中島飛行機大谷地下工場跡(軍都宇都宮の戦跡散策1)

大谷石の地下採掘場も、戦時中は軍需工場であった。
JR宇都宮駅からバスで約30分。せっかくなので気になっていた大谷石資料館に足を運んでみました。


大谷資料館

栃木県宇都宮市大谷町にある、大谷石採石場跡に関する博物館。
大谷資料館の地下採掘場跡は、1919年(大正8年)から1986年(昭和61年)までの約70年をかけて、 大谷石を掘り出して出来た巨大な地下空間となり、2万平方メートル(140m×150m)にもおよび、野球場が一つ入ってしまう大きさである。
戦争中は地下の秘密工場として、戦後は政府米の貯蔵庫として利用されてきた。
1943年:陸軍の糧秣廠・被服廠の地下秘密倉庫として使用。
1945年:中島飛行機(富士重工業・SUBARU)の四式戦闘機製造のため地下軍需工場として使用。
1969年:年平均気温が8度前後であるため、政府米(古々米)の保管庫として利用。
1979年:大谷資料館がオープン。地下採掘場が一般公開。

http://www.oya909.co.jp/

http://www.oya909.co.jp/contents/%E5%A4%A7%E8%B0%B7%E7%9F%B3%E5%9C%B0%E4%B8%8B%E6%8E%A1%E6%8E%98%E5%A0%B4%E8%B7%A1/


大谷地下工場について

大谷資料館の場所の地下は「中島飛行機宇都宮製作所城山工場」であった。
また南西部の地下には「中島飛行機武蔵製作所大谷工場」もあった。

大谷地下工場について
 太平洋戦争時の大谷地下工場、今では知る人も少なくなりましたが、1945年3月ごろ、この大谷地区には、日毎に激しくなる米軍機の爆撃を避けるため、工場の疎開が行われ、展示図の中島飛行機(株)(現富士重工)宇都宮製作所城山工場(機体)と、図面南西図に位置する戸室山を中心とした同武蔵製作所大谷工場(発動機)の二工場が飛行機の地下生産を開始しました。当時、この二工場には、正規従業員・徴用工・女子挺身隊員・通年動員による旧制中学校3年以上の男女学生・坑内工事関係者・関係軍人合計約15,000名の人達が勤務していたと言われています。
 これらの方達の中には、大谷で唯一公開されている当資料館坑内を訪れ、当時の思い出などを話して帰られる方もあります。ここは城山工場に属し、治工具・熱処理部門の工場になっていました。
 地元である宇都宮製作所は、1943年10月ごろから既にその準備に入っていましたが、外来の武蔵製作所は1944年11月からでした。
 大谷では、明治末期ごろから、坑内掘りが行われていて、多くの地下坑があり、軟石のため、拡張が容易なことから、工場の疎開先に選定されたわけです。既設坑の整備と共に坑の新設、各坑との連絡通路造成のためにダイナマイトの発破作業による隧道(トンネル)の掘削が、文字通り、日夜突貫工事で行われ、展示図(城山工場)の様な大地下工場群ができたのです。青図は白抜き部分、拡大図ではピンク染色部分が隧道です。
 最近大谷では、採掘跡(廃坑)が問題視されていますが、戦後の復興期、これらの隧道を利用して、盛んに採掘が行われたため、廃坑問題の一因ともなっています。
 しかし、廃坑になった所は採掘に伴う廃土石の捨て場として、埋め戻されることが多いため採掘跡全部が空洞になっているわけではありません。

空襲を避け、長期戦に備えるため、日本でも有数の地下工場群として、計画され、実施中だった城山工場(河内郡城山村大谷)の極秘配置図です。米軍も、この地下工場には全く気付かず、接収に当たり、その規模の大きさに驚いたそうです。

昭和17年 1942
 入江侍従、大谷石採掘場視察
昭和19年 1944
 陸軍糧秣廠・被服廠、大谷石採掘場を地下倉庫に使用
昭和20年 1945
 中島飛行機工場を地下工場に移転
 採掘場は地下工場となる

ここに展示されたパネル写真は、終戦当時進駐軍関係者により撮影された大谷地下工場の数少ない写真です。

1 発破作業により開坑された工場(または倉庫)の入口

2 カムフラージュされた望楼

3 当時最新の工作機械

4 中島飛行機製作の戦闘機「疾風」(通称ハチヨン)の星型エンジンケース

5 工場接収時、日本側の説明を受ける、米国調査団。
  中島飛行機夏処理工場付近(当大谷資料館地下採掘場)

キ‐84 四式戦闘機「疾風」
 キ‐84、四式戦闘機「疾風」)以後キ84)は中島飛行機が開発・生産を行った重戦闘機で、速度、運動性、武装と防御、航続距離など最もバランスに優れ、昭和19年(1944年)4月の制式採用後、陸軍は「大東亜決戦機」と称して、最も重要な航空機として位置づけ、大戦における運命を託した。日本国民の総力を注いで送り出されたキ‐84は終戦迄の短い期間におよそ3,500機が生産され大陸戦線、ビルマ戦線、フィリピン戦線、および本土防空戦において活躍。戦局の悪化に伴う部品の品質低下により、充分な性能が発揮できず、苦戦を強いられたが、よく敢闘し、多くの敵戦闘機やB-29を撃墜、あるいは特攻機として出撃、御盾となり南溟に散った。千フォ、連合国は、接収したキ‐84に再整備を施し、飛行テストを実施したところ、秘められた性能を発揮。P‐51を上回る最高速度を記録。その性能に驚愕し、日本戦闘機の最高傑作と消化した。


地下軍事工場跡(大谷資料館)

地下軍事工場跡
この地下空間は戦時中、陸軍の地下倉庫として、また、中島飛行機の戦闘機「疾風」の機体工場として利用されました。
当時、他の地下工場や外につながるたくさんの隧道(トンネル)が掘られ現在もこの奥に残っています。

地下工場の隧道

広大な地下空間
この地下坑内は、大正8年(1919)から昭和61年(1986)に渡り採掘が行われ、下図のような構造になりました。
広さは、約20,000㎡(間口150mx奥行140m)、深さは地下約30mで、野球場がひとつ入る大きさがあります。
この空間の容積は、約300,000㎥で、約1,000万本の石が切り出され日本全国に出荷されました。

芸術的な地下空間美でもある。

教会エリアは通常非公開とのことで。

圧巻の空間。

いろいろ凄まじい、、、

政府米を預かったときに取り付けられた鉄扉。
採掘場と倉庫の仕切りで、大形トラックが出入りしたという。

石の華
大谷石に含まれる塩分が冬の乾燥時期に結晶として吹き出たもの。
夏場は消滅するという。

なかなか楽しい地下空間でした

外に出ました。

外の景観もなかなか圧巻。

坑口に自販機

場所

https://maps.app.goo.gl/BzL8iqm7W1suWECH8


平和観音(大谷公園)

公園に移動しまして。

天狗の投岩

平和観音

平和観音
 大谷寺の南側に高くそびえる平和観音は、身丈26.93メートル(88尺8寸8分)の高さで、第二次世界大戦による戦没者の霊を弔い、世界平和を祈念するために、大谷観音の御前立として彫刻されたものです。
 戦後間もない昭和23年9月より、当時の大谷観光協会と地元の人々の熱心な後援のもとに、大谷石の採石場であった壁面を利用し、南側の岩肌に観音像を刻みました。東京芸術大学教授・飛田朝次郎氏が彫刻を手がけ、その指導のもと、大谷町の大工・上野浪造氏らが制作にあたりました。6年の歳月を費やした結果、昭和29年12月に完成しました。
 昭和31年には、日光輪王寺門跡菅原大僧正により開眼供養が行われ、それ以降大谷の顔としてそびえ立っています。

平和観音の隣は見晴台になってました。

場所

あいかわらず、見事な石の造形があっちこっちに、です。


慰霊之塔(大谷公園)

大谷の城山村地区戦没者390余名の慰霊顕彰碑

慰霊之塔

撰文
我が日本は開国と共に世界の文化を吸収して近代国家に発展したが幾多の戦乱に遭い遂に太平洋戦争に突入して許多の多くの尊い生命が祖国進展の為に捧げられた 明治大正昭和の三代に亘り我が家郷を出て、故国の悲運に殉じたる者実に三百九十余名の多きに及んで居る 其の愛国の情を祖国再建の礎石たらんことを確信して茲に慰霊之塔を建立し霊を慰むると共に世界永遠の平和を祈念して人類理想具現の道標とせんとする者である
 城山村長 安納 基 謹書
  昭和29年10月 建立

以上、大谷関連の戦跡散策、でした。

場所

https://maps.app.goo.gl/5yzScbRZP6wbFQXT9

撮影:2024年1月


中島飛行機関連

はじめに

陸軍富士飛行場跡地散策(富士市)

以前に、陸軍児玉飛行場のことを調べていたら、富士飛行場の話題が出てきて、そのときから気になっていた場所。
ようやく、足を運ぶチャンスが訪れましたので、散策してみました。


陸軍富士飛行場

「富士飛行場」
国道一号線の「道の駅富士」が、飛行場のほぼ中心に位置している。
戦争末期の1944年6月に工事着工。
1944年10月に「明野陸軍飛行学校天竜分教所富士分教場」が開設している。
明野陸軍飛行学校(三重)の下部組織として「天竜分教所」があり、さらに下部組織として「富士分教場」という位置づけ。
ややこしいのは、「飛行学校の富士文教場」とは別に、「陸軍重砲兵学校富士分教場(=陸上自衛隊駒門駐屯地)」というのもあって、それは御殿場なので、まったく別地域。


野中俊雄大佐

昭和20年7月18日に、児玉飛行場の第27飛行団長(第6航空軍隷下・司令官は菅原道大中将)に就任した野中俊雄大佐(士候36 陸大専科7)。
児玉飛行場の飛行団長としても終戦間際を描いた映画「日本のいちばん長い日」に出てくる。

野中俊雄大佐は、戦後は富士飛行場の跡地に、第27飛行団の部下とともに入植開墾。そして開墾した地を「靖国」と名付けたという。
なお、野中俊雄は、1902年(明治35年)生まれ、1993年(平成5年)に92歳で亡くなっている。


靖国町

静岡県富士市五貫島。
住所としては呼称されていないが、この富士南地区の町内会に「靖国町」がある。

戦禍の果て
跡刻む靖国町 進む風化
幻の富士飛行場(下)
 富士市の富士南地区にあった富士飛行場は、1945(昭和20)年8月の終戦で1年足らずの役目を終えた。70年を経て、跡地には民家や事業所などが立ち並び、飛行場の面影はほとんど消え去った。ただ、地名としてその跡を刻む場所がある。
 現在の同市五貫島付近に位置する一つの町内を地元の人は「靖国町」と呼んでいる。この地は終戦後に入植した旧軍人が住み、名付けた。入植者の中心は、埼玉県の児玉飛行場を拠点としていた「第27飛行団」に所属していた人たちだった。飛行団長だった野中俊雄大佐=当時(42)、大分県出身=が、帰る場所のない部下らとこの地を訪れた。他からも軍人らが集まり、滑走路として使われていた土地で農業をしながら新たな生活を始める決意をした12世帯が「靖国町」の始まりだった。

静岡新聞 連載企画 「轍」 ~しずおか戦後70年~
https://www.at-s.com/news/sengo70/senka/vol06.html


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M142-A-5No2-144
1946年05月22日に米軍が撮影した航空写真を参照。

富士飛行場部分を抜粋、すでに入植がおこなわれている。

現在の様子。国道1号線と東海道新幹線が横断している。
旧国道1号線は、だいぶ北側(東海道本線より北側)を通っていた。


陸軍富士飛行場跡地散策

戦跡としては何も残っていない。
国道1号の交差点名に「靖国」とある。これが戦後に入植した野中俊雄大佐たちの残した地名の名残。

場所

https://maps.app.goo.gl/bwpJhMZryeEti7D27

町内会として「靖国町」がある。

靖国公会堂

靖国地下道

地域に根づいた地名として。ここに確かに「靖国」が伝承されていた。

場所

https://maps.app.goo.gl/RbvSeLXN4mPCedBe6


開拓記念碑

富士南まちづくりセンター敷地内南西角に。

開拓記念碑
この辺りは、昭和19年(1944年)から陸軍富士飛行場用地として使用されていました。戦後、開
拓事業として元の土地提供者が中心となって入植し、10年余の歳月をかけ、その努力により元の緑の田畑に復旧しました。
 この碑は、開拓事業10周年を記念して、元富士開拓農業協同組合が建立。令和2年(2020年)、現在地に移設されました。

https://www.city.fuji.shizuoka.jp/shisei/c1401/rn2ola000002sc7b.html

富士南地区の歴史
 富士南地区は、『ききょうのさと』と呼ばれています。江戸時代、富士川の氾濫によって富士南地区一帯に築かれた堤防が「帰郷堤」と呼ばれたことから名付けられました。この堤防を造った勘定奉行土岐摂津守の家紋が「桔梗」だったこと、堤防ができてから人々が安心して故郷に帰ってきたことが「帰郷堤」の由来とされています。
 また、第二次大戦中、陸軍富士飛行場の建設により立ち退かされた住民が、戦後、再びその地に帰郷したことも、住民の「ききょう」という言葉への思いを強めています。
 戦後、開拓事業10周年を記念して、元富士開拓農業協同組合が建立した開拓記念碑が、現在は富士南まちづくりセンター駐車場に移設されています。
 現在の富士南地区にあたる区域は、昭和41年の2市1町の合併による新制「富士市」の誕生、昭和47年の「線引き」による市街化区域への区分などにより急速に宅地化が進み、昭和53年に開校した富士南小学校の校区と同一です。昭和56年の富士南公民館の開設に合わせ、富士駅南地区の一部及び田子浦地区の一部をもって組織されました。

https://www.city.fuji.shizuoka.jp/machi/c0605/rn2ola0000043ki1.html

開拓記念

富士飛行場跡地は、碁盤の目できれいに整備されている。
下記の写真は、南北に連なる道路。かつての滑走路も同様に南北に伸びていた。

場所

https://maps.app.goo.gl/RGfoozzpqZHBxMew8


道の駅「富士」

「道の駅富士」は、静岡県で最初に誕生した道の駅。
陸軍富士飛行場のちょうど真ん中あたりに位置している。

「桜えびひつまぶし」をいただきました。美味。
これは、桜えびシーズンになったら、がっつり食べに行きたいですね。

国道1号線
富士飛行場のあった方向を望む。

富士川の河口

富士山は雲がかかっていました。

ちなみに、富士川の対岸の新蒲原駅からシェアサイクルを活用。移動は20分前後なので、そこまで苦ではなく。
何気にクロスバイク系は、疲れてくると足を後ろに振り上げるのも大変で。
走り出したら楽なんですけど。

新蒲原駅前。桜えび漁船。

ちなみに、戦跡としては、「富士飛行場燃料庫地下壕」も残存している。
富士飛行場の建設に併せて、航空燃料の油を保管する倉庫として岩本山西麓に掘った地下壕。
今回は未訪問でしたが、機会あれば、で。

※撮影:2024年8月


杉野中尉殉難遺蹟の碑(荒川区東尾久)

都電荒川線の熊野前停留所のちかくにある「はっぴーもーる熊野前商店街」
商店街の只中に、異色な空間がある。
そそり立つ石碑には「杉野中尉殉難遺蹟」とあった。


杉野中尉殉難遺蹟

熊野前商店街防災スポットにある石碑。
かつては、稲荷社と飛行機オブジェもあったというが、防災スポットとして整備された際に、それらは無くなり現在のようなすっきりした空間となったようだ。
荒川区のサイトの写真は、再整備前のもの。

https://www.city.arakawa.tokyo.jp/a022/shisetsuannai/jinja/ogu001.html

航空界初期の事故
わが国の初飛行は、明治43年(1910)のことで、徳川好敏大尉が代々木練兵場で高度70メートルで約3,000メートルの距離を飛んでいる。それから7年後にして尊い犠牲が生まれた。
陸軍工兵中尉杉野治義(27歳)が、陸軍野外飛行で下志津から高度500メートルで所沢へ帰航中、突風に襲われて尾久村の水田に墜落したのである。
大正6年(1917)3月25日、午前11時40分のできごとであった。
荒川区教育委員会

杉野治義中尉(陸軍工兵中尉)は大正6年3月25日午前11時45分、千葉の下志津から所沢飛行場へ、フランスから輸入した複葉モーリス・ファルマン2号機で高度500メートルで帰航中、突風に翼を折られ機体がバラバラになって尾久村(当時)の水田に墜落、殉職している。
翌年の大正7年に一周忌に、帝国在郷軍人会尾久村分会によって殉職遺跡碑が建てられた。

航空黎明期の事故であった。

合掌

ちなみに、近くには、「東京初空襲の地」もある。

場所

https://maps.app.goo.gl/6SFF5VkDcpk6d7vo6

撮影:2024年8月


関連

「海自館山航空基地ヘリコプターフェスティバル2024」(その2・教育史料館ほか)

2024年7月21日。
今年も館山に。ヘリコプターフェスティバルに。

その1はこちら。

歴史的なことは、昨年の記事で。


海自館山航空基地「教育史料館」

昨年は、1階のみ見学だった気がします。
今年は、2階も見学可能。旧軍関係は、2階に集積されていました。

2階も展示やってます。

はちろくさんの地味なアピール。

おお。冒頭から「海軍」の文字列。嬉しいです。

海軍指定工場

館山海軍航空隊御用達

歴代司令

館山航空隊の歴代司令
初代司令 大佐 堤政夫 
2代司令 大佐 近藤英治郎
3代司令 大佐 堀江六郎
4代司令 大佐 松永壽雄
5代司令 大佐 別府明朋
6代司令 大佐 戸塚道太郎
7代司令 大佐 大野一郎
8代司令 大佐 別府明朋
9代司令 大佐 竹中龍造
10代司令 大佐 大森来雄
11代司令 中佐 藤松達次
12代司令 大佐 菊池朝三
13代司令 大佐 安藤栄城
14代司令 大佐 山縣駿二
15代司令 大佐 藤田元成
16代司令 大佐 高橋農夫吉
17代司令 大佐 中村健夫
18代司令 大佐 鬼塚武二

日本海軍戦闘機の原点
10式艦上戦闘機

溟四躍蛟龍
解説
「龍蛟四溟二躍ル」
蛟は想像上の動物で龍の一種
龍蛟は天に昇る龍
四溟は四方の海
海軍の飛行機が天に昇る龍のように
飛び交う様子を表わす 
 山本五十六書

館山海軍砲術学校

館山海軍航空隊

吊床

戦艦陸奥の鋼材、陸奥鉄

零戦52型用エンジン電動スターター(セルスタータ)

真珠湾攻撃時の南雲機動部隊の陣形模型

2階はマストですね。


館山の戦争遺跡

これはこれは。。。

再調査したくなりますね。

館山航空基地の周辺

海自館山航空基地の中にある記念碑

海軍落下傘部隊発祥の地
 太平洋戦争の海軍落下傘部隊は、館山海軍航空隊で落下傘訓練を行い、昭和16年11月から戦闘に参加し、多くの戦死者が出た。
 戦後、戦死した隊員遺族の有志が平和を願い建立された。

海軍航空写真分隊記念の碑
 海軍における航空写真術科は、当初霞ヶ浦、横須賀両航空隊において教育を実施したが、昭和18年6月に開隊された洲崎海軍航空隊に移行された。
 この地で学んだ人達にとっての心の拠り所として建立された。

海軍航空再興の地
 昭和28年8月12日に、ベル型ヘリコプターが廃部されて操縦訓練が開始された。戦後8年にわたる空白期間から脱して、昭和28年9月16日、保安庁館山航空隊が解説し、海上航空再興の第一歩を記したことを記念して建立された。

悠久の碑
 昭和28年8月12日、この地に海上自衛隊館山基地が開設されて以来、当基地勤務中、惜しくもその職に殉じた尊い御霊を慰め、永久にその功績を顕彰するために建立された。

海軍中攻隊の碑
 日本海軍航空戦史に不滅の光彩を放つ96式中型陸上攻撃機(通称「中攻」)は、昭和10年館山海軍航空隊に配備され、心血を注いだ研究開発と部隊訓練が昼夜を分かたず行われ、当時、世界最高水準をいくものであった。日中戦争では世界初の「渡洋爆撃」を果たした。
 館山海友会と海上自衛隊を中心とする後輩有志により建立された。

以下は、基地の外。

1階は、前回見学したので、省略。


基地内バスツアー

先着順。15名x6回の90人。
立ち入れ禁止エリアに入れるチャンス。

号令台を、いつもと反対側から。

おお!

疾走するバス車内から「海軍中攻隊の碑」を確認!!
記念碑フリークもいるんですよ、次回は見学させてくださいよ!!

消火訓練用のヘリ模型

滑走路エリアに。

滑走路の奥に。

普段は絶対に入れない滑走路エリアをマイクロバスで見学。


館山航空基地内散策

このあたりが古そうな建屋。
館山航空基地は、ほぼ建屋が新築されたので、往時のものは残っていないというが。

ん?
これ、往時の防空壕だったりする?

庁舎

号令台

保存機があった場所。
ここにあった保存機はすべて撤去解体された、とのことで。。。


館山海軍航空隊時代の境界壁

意匠的な造形の壁は往時からのもの。

※撮影:2024年7月


館山関連

はじめに