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「野重八之碑(野戦重砲兵第八聯隊碑)」と「近衛野砲兵聯隊碑」(三宿駐屯地・陸自衛生学校)

桜の開花タイミングとはずれてしまったけど、世田谷区の三宿駐屯地が一般開放(桜並木の通り抜け)を実施していたので、足を運んでみました。


野重八之碑(野戦重砲兵第八聯隊)

野重八之碑
 下野一霍書

野重八とは、野戦重砲兵第8聯隊のこと。
下野一霍は、最終階級は陸軍中将。
1935年(昭和10年)3月、野戦重砲兵第8連隊長

野戦重砲兵第八聯隊は、我が国最初の機械化砲兵として大正11年8月15日創設せられ昭和20年大東亜戦争の終結に至るまでこの地に在り、その間日支事変及び大東亜戦争に際しては独立野戦重砲兵第八聯隊、同第十五聯隊、同第十六聯隊、同第二十聯隊を編成し十糎加農を装備せる、これら諸隊は軍砲兵として各地に転戦し赫々たる武勲を建てたり。ここに、これら諸隊に属せし元将兵一同これを記念して、この碑を建つ。
 昭和47年4月8日
  野重八会有志


近衛野砲兵聯隊の碑

近衛野砲兵聯隊は明治4年(1871年御親兵砲隊として竹橋に設置せられ、同31年(1898年)6月依頼にこの地に駐屯し、日夜皇居の非常号砲勤務に任じた。
この間、北白川宮成久王、成久王御父子二代にわたり、長期間在隊された由緒深い聯隊である。また西南、日清、日露の各戦役、日支事変、大東亜戦争に従って輝かしい勲功をたてた。
ここに縁故者有志相はかって記念碑をたて永く後世に伝える。
なお、この聯隊歌は昭和7年北白川房子内親王の御作によるものである。
 昭和43年12月
  藤江恵輔

藤江恵輔は最終階級は陸軍大将。
鈴木貫太郎の娘を妻とする。
野戦重砲兵第4旅団長を努めていた。
野戦重砲兵第4旅団隷下に、近衛野砲兵聯隊と野戦重砲兵第8聯隊があった。

北白川房子内親王(北白川宮成久王の妃)
「聯隊歌」の碑

 房子内親王
いぬる明治の大御代に
 屯をここに定められ
 忠勇奉公献身の
 心に生くる世田谷乃
あゝ、わが近衛野砲隊
 名誉は高し
  任重し

縁故者


陸自衛生学校として。

仁の碑

「仁」について
 「仁」は歴代校長の掲げられた衛生学校の指導理念であり、その意味するところは端的に申せば他人に対する慈しみの心である。人が二人と書いて「仁」である。一人は自分であり、もう一人は相手の人である。
 相手に対して自分と同等の人格を認め、相手の喜び、痛み、悩み、苦しみ、そして悲しみを自分のものとして受け止める心が「仁」の心であり、衛生科精神として示されている「骨肉の至情」・「挺身奉仕」の精神そのものに他ならない。
 我々衛生科に職を奉する者は、有事・平時を問わず「仁」に裏付けされた衛生科精神の涵養と衛生科技術の修得に努め、「一人でも多く生き残らせる」衛生支援に徹することが肝要である。
 昭和63年10月吉日
  第18代衛生学校長
   陸将補 芳賀 稔

陸上自衛隊 衛生学校


彰古館(医学情報史料室)

軍事医療、医学情報の史料館。事前申込制。
この日は、非公開でした。


三宿駐屯地 桜の通り抜け一般公開

3月23日の訪問。
例年より開花が遅れ、公開日に桜が咲いていない事態となったが、仕方がない。

わずかに咲いている桜を発見。

散策開放エリアは、衛生学校の中心部のみ。

陸上自衛隊 三宿駐屯地
陸上自衛隊 衛生学校

自衛隊中央病院

正門、ちなみに荷物チェックは無しでした。

防衛装備庁次世代装備研究所もある。

自衛隊中央病院

用廃のUH-1H。

東門。


世田谷区立平和資料館

東門の先には、世田谷公園。
かつては、駒沢練兵場であった。
世田谷公園に資料館があるので足を伸ばしてみた。

いろいろ配布資料もあります。

世田谷の戦跡

世田谷区の主な軍事施設跡地図

大正末期の世田谷地域軍事施設所在地

世田谷区とは関係ないけど、興味深かったのが、
「御真影 勅語 運搬箱」

そのほか

※撮影:2024年3月


関連


「桜咲く宮・靖國神社」~靖國櫻(令和6年)

令和6年(2024年)。終戦から79年を迎える年。
今年も靖國神社の桜花を愛でる。
毎年恒例。
御英霊の皆様と、今年も花見と洒落込もう。
「花の都」「桜咲く宮」を楽しもう。

境内に献木された桜たち。
一木一木に込められた戦友・ご遺族の皆様の想いが、花を咲かせる。
靖國の桜花「靖國櫻」には御英霊の御心が宿っている。
感謝を。哀悼を。

ありがとうございます。

以下、写真にて。


2023年4月5日の早朝

2023年の東京の開花宣言は、3月29日であった。
訪れたのは、4月5日の早朝。雨模様だったが、ちょうど満開のタイミング。

散る桜 残る桜も 散る桜
 良寛和尚

奉頌歌「靖國神社の歌」

日の本の 光に映えて
尽忠の 雄魂祀る
宮柱 太く燦たり
  あゝ大君の 御拝し給ふ
  栄光の宮 靖國神社
日の御旗 断乎と守り
その命 国に捧げし
ますらをの 御魂鎮まる
  あゝ国民の 拝み称ふ
  いさをしの宮 靖國神社
報国の 血潮に燃えて
散りませし 大和をみなの
清らけき 御霊安らふ
  あゝ同胞の 感謝は薫る
  桜咲く宮 靖國神社
幸御魂 幸はへまして
千木高く 輝くところ
皇国は 永遠に厳たり
  あゝ一億の 畏み祈る
  国護る宮 靖國神社

奉頌歌「靖國神社の歌」 
昭和16年(1941)3月  
献納:主婦之友社 
作詞:細渕国造 作曲:陸海軍軍楽隊

軍歌「同期の桜」

貴様と俺とは 同期の桜
 同じ兵学校の 庭に咲く
咲いた花なら 散るのは覚悟
 みごと散りましょ 国のため

貴様と俺とは 同期の桜
 同じ兵学校の 庭に咲く
血肉分けたる 仲ではないが
 なぜか気が合うて 別れられぬ

貴様と俺とは 同期の桜
 同じ航空隊の 庭に咲く
仰いだ夕焼け 南の空に
 未だ還らぬ 一番機

貴様と俺とは 同期の桜
 同じ航空隊の 庭に咲く
あれほど誓った その日も待たず
 なぜに死んだか 散ったのか

貴様と俺とは 同期の桜
 離れ離れに 散ろうとも
花の都の 靖国神社
 春の梢に 咲いて会おう


軍歌「同期の桜」
昭和14年


2023年4月5日の夜

夜の参拝も。

※撮影:2024年4月5日


関連

陸軍経理学校「若松神社」(現・上鈴木稲荷神社)と「小平駐屯地」

2024年3月24日に、小平駐屯地一般開放(観桜一般開放)がありましたので、足を運んでみました。


陸軍経理学校

陸軍における経理を担当する軍人(経理官)の養成教育、あるいは経理官への上級教育を行っていた陸軍学校。教育に限らず陸軍経理に関する調査と研究なども行っていた。陸軍経理とは会計だけに限らず、監査、被服、糧秣、建築も職務に含まれていた。

明治19年(1886)に陸軍軍吏学舎が設置されたことに始まる。
明治23年(1890)に陸軍軍吏学舎を廃止、陸軍経理学校を開校。
明治33年(1900)に「陸軍経理学校本校」を東京市牛込区河田町に移転。陸軍士官学校の「市谷台」に対して、陸軍経理学校は「若松台」の愛称で呼称されることとなる。
昭和17年(1942)3月、陸軍経理学校は戦争による生徒、学生、幹部候補生等の人員増加のため、東京府北多摩郡小平村に移転。昭和20年8月の敗戦により閉校。

詳細は、下記にて


小平駐屯地

昭和29年に陸上自衛隊小平駐屯地として開設したことにはじまる。
小平駐屯地は、もともとは陸軍経理学校のあった場所。しかし往時を偲ぶものは駐屯地内には残っていない。
陸軍経理学校の正門は、警察学校側となり、小平駐屯地側は裏側になる。

一般公開で足を運んでみたものの見どころは少なく、小平駐屯地内の「史料館」を拝見できるのがメリットぐらい。ちなみに史料館内部は撮影禁止。

史料館のスタッフに、「警察学校の正門以外で、陸軍経理学校時代の遺構ってないですよね?」ときいてみたところ、スタッフから「小平駐屯地には遺構はないです」「陸軍経理学校の若松神社は、戦後に上鈴木神社の本殿に流用され、本殿と鳥居が陸軍時代のもの」とお伺いできたのは、大収穫。
これは行ってみましょう。
ちなみに「警察学校のプールも陸軍経理学校時代のまま残っている」とのことですが、そこは見学ができないので。。。


陸軍経理学校の校内神社「若松神社」御社殿と石鳥居
(現:上鈴木稲荷神社)

陸軍経理学校の校内神社であった「若松神社」の御本殿と鳥居が流用され現存している。

陸軍経理学校は、もともと若松河田の地にあり「若松台」と呼称されていたことから昭和17年に小平に移転しても「若松台」の名称は継承されてしており、陸軍経理学校の校内神社も「若松神社」と呼称されていた。
石鳥居は、昭和18年(1943年)の造営。本殿社殿も同じ頃と推測。
上鈴木稲荷神社には戦後の昭和24年に払い下げされている。

御由緒

昭和24年に、陸軍経理学校の若松神社から払い下げられたことがわかる。

石鳥居の右側に陸軍の鳥居であった証が刻まれている。

陸軍主計中将 従四位勲二等 迫栄吉 禁書

迫栄吉は、1941年(昭和16年)8月25日に陸軍主計中将に進級し、昭和16年12月1日に「陸軍経理学校長」に就任し、昭和20年4月まで、太平洋戦争のほぼすべての期間を陸軍経理学校長であった。
1945年(昭和20年)4月7日に第1総軍経理部長となり終戦を迎えている。

昭和18年2月建之

木曽周太郎

木曽氏の詳細は不明

上鈴木稲荷神社の拝殿

上鈴木稲荷神社の本殿覆殿
この内部に在る本殿が、陸軍経理学校の若松神社の御社殿。

茅葺きの社殿がわかる。

場所

https://maps.app.goo.gl/qGw8TiKsPu7CTKVYA


小平駐屯地「史料館」

小平駐屯地内。
史料館には、小平になった陸軍経理学校と、中野にあった憲兵学校に関係する史料が展示。なお、内部は撮影禁止。

小平駐屯地の史料館の建屋が古めだったので、スタッフに由来を聞いてみたところ、陸軍時代のものではなく、東立川にあった米軍占領時代の建屋を移設したものだ、とのこと。

2001年に調査学校(情報要員養成)と業務学校(会計、警務などの業務要員養成)が統合してできたのが、「小平学校」。
小平学校は自衛隊の任務遂行の基礎となる警務・会計・人事・法務・システム等の実務全般にわたる幅広い教育を担任する陸上自衛隊唯一の教育機関であり、事務官や海空自衛隊も含めた自衛隊員にとっての「実学の府」。


小平駐屯地一般開放

観桜一般開放だったけど、観桜はまだな基地公開。

陸上自衛隊小平駐屯地

陸上自衛隊小平学校

本部庁舎

校風
国の安危を擔うべき身たるの修養
これがため、常に疑問を持ち、想像力を働かせ、与えられた可能性に挑戦する勇気をもって、任務を完遂せよ。

校章は、5枚のカラフルな銀杏。

https://www.mod.go.jp/gsdf/kodaira/song_mark.html

食堂・厚生センター

桜とタイミング合わせるのは、なかなか難しいですよね。。。

公式サイト

https://www.mod.go.jp/gsdf/kodaira/index2.htm

場所

https://maps.app.goo.gl/pmQfWNTnRbAMS3Yg7

撮影:2024年3月


用賀駐屯地・陸軍衛生材料廠跡地散策(世田谷)

東京都世田谷区上用賀にあった陸軍の施設。その跡地を散策してみました。
なお、2回にわたり散策しているために、撮影日によって晴天だったり曇天だったりしています。


陸軍衛生材料廠
(現:陸上自衛隊用賀駐屯地ほか)

近代的な軍隊を維持するために、必要不可欠なのが医療衛生機関。
衛生材料と獣医材料等の制作、購買、補給などを行っていた。
もともと帝国陸軍の衛生材料廠本廠は、白金台にあったが大正12年の関東大震災で被災し、昭和4年に用賀に移転した。
また支廠は各師団司令部に付随して開設されていた。

用賀の陸軍衛生材料廠は、現在の陸上自衛隊用賀駐屯地、国立医薬品食品衛生研究所、駒沢大学附属高校、覆馬場などを含むエリアにあった。
陸軍の衛生機関を継承した陸上自衛隊用賀駐屯地は、旧陸軍衛生材料廠の跡地に位置し、米軍の接収を経て1963年(昭和38年)3月31日に開設。旧軍時代から衛生材料の兵站中枢を担っている。

なお、この地にあった「国立医薬品食品衛生研究所」は川崎に移転しており、用賀支処は2029年(令和11年)度以降に防衛省三宿地区(世田谷区・目黒区)に、東京音楽隊は2024年(令和6年)度に東立川地区(立川市)に、それぞれ移転する予定があるという。

移転後の建屋がどうなるかは不明。解体されるかもしれず、いまのうちに見ておくのが良いかも、です。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M871-132_19480329
昭和23年(1948年)3月29日、米軍撮影の航空写真。

一部加工。


陸上自衛隊・用賀駐屯地

2024年3月23日に、用賀駐屯地一般開放が実施されました。桜見学という名目の一般開放でしたが、桜はまだ咲かず、見学者も皆無な状態でしたが、隊員さんの案内ガイド付きで貴重な建屋を見学できました。
ありがとうございます!
案内をしていただいた隊員さんによると、なんと20年ぶりの一般開放だったとか。格別な集客の広報もされていなく、地元周辺住民との交流をメインとした公開は、シークレット的な状態で、かなり偶然の産物で足を運べた私は、かなりラッキーでした。

関東補給処用賀支処

陸上自衛隊用賀駐屯地


陸軍衛生材料本廠跡碑

陸軍衛生材料本廠跡
 元陸軍薬剤中将 田口文太 書

昭和40年5月建立

揮毫した、田口文太は、日本の陸軍で活躍した薬剤師。
東京第一衛戍病院での勤務を経て、陸軍衛生材料廠廠長、陸軍薬剤総監、田辺製薬株式会社顧問、静岡女子薬学専門学校校長(初代)などを歴任。
1931年(昭和6年)に、陸軍省の外局である陸軍衛生材料廠にて廠長に就任。
1935年(昭和10年)には陸軍薬剤総監に就任し、陸軍全体における薬剤師の最高位を占めた。最終階級は陸軍薬剤中将。


陸軍衛生材料廠・蹄鉄工場

現在、陸上自衛隊用賀駐屯地内にある「陸軍衛生材料廠・蹄鉄工場」は、昭和4年の造営。
用賀駐屯地内で許可を得て撮影。

以下は、敷地外から。
「国立医薬品食品衛生研究所」が解体されたので、敷地外からよく見えるようになった。


陸軍衛生材料廠・倉庫建造物3棟

3棟ならんでいる建造物も、陸軍衛生材料廠時代の建物。
南側2棟は、蹄鉄工場と同じく昭和4年造立。北側の1棟は、それよりも新しいという。
ドイツ人の設計による倉庫建造物は、東西南北にそれぞれ出入り口を設けており、倉庫内の東西には庫内の物流をスムーズにするためにレールが引かれている。

レールの跡がわかる。


国立医薬品食品衛生研究所跡地

国立医薬品食品衛生研究所敷地内にも往時の建物があったらしいが、2022年から解体が始まり、すでに更地。


陸軍衛生材料廠・境界壁

外壁は、陸軍衛生材料廠時代のものという。

上部が波打っている意匠的な境界壁は、ほかではあまり例を見ない。

この部分は民家の壁になっている。デザイン的に切り取ったのかもしれない?


「陸上自衛隊」交差点

交差点の名称が「陸上自衛隊」。そのものズバリ。


陸軍衛生材料廠・周辺散策

昭和薬科大学世田谷校舎跡地

駒澤大学高等学校

海上自衛隊 東京音楽隊

※移転予定

JRA覆馬場(馬事公苑)

最寄りの桜新町は、サザエさんの街ですね。

※撮影:2024年3月


関連

東洋のマタハリ・男装の麗人、満洲国建国に協力した清朝王女「川島芳子」墓と記念室(松本)

信州松本に訪れた際に、川島芳子が松本に縁があったと知り、足を運んでみました。雪が降っていたけれども。。。


川島芳子

川島 芳子(かわしま よしこ)
1906年5月24日 – 1948年3月25日
清朝の皇族・第10代粛親王善耆の第十四王女。
本名は愛新覺羅顯㺭(あいしんかくら けんし)
字は東珍、漢名は金璧輝、俳名は和子、他に芳麿、良輔とも。

父の粛親王は、中国清朝末期の皇族で、清朝で近代化改革を促進したが、辛亥革命時に北京を脱出し、日本陸軍参謀本部の保護を受けて旅順に逃避。そのときに8歳であった愛新覺羅顯㺭(第14王女)は、父の粛親王の顧問だった川島浪速の養女となった。

川島浪速は、信州松本藩士の家に生まれ、中国語を学び1900年の義和団の乱の際は、陸軍通訳官として従軍。
日本軍撤退後は、清国に雇用され中国初の近代的警察官養成学校であった北京警務学堂の総監督に就任し、義兄弟の関係を結ぶほどに粛親王と深い親交があった。

愛新覺羅顯㺭は、川島浪速の幼女となり、川島芳子という日本名で日本で教育を受けることとなった。
1915年に来日した川島芳子は、当初東京赤羽の川島家から豊島師範附属小学校に通学。
卒業後は跡見女学校に進学。
やがて川島浪速の転居にともない長野県松本市の浅間温泉に移住。松本高等女学校(現在の長野県松本蟻ヶ崎高等学校)に聴講生として通学。松本高等女学校へは毎日自宅から馬に乗って通学していたエピソードが残っている。

17歳でピストル自殺未遂事件を起こした後、断髪し男装するようになり、マスコミも取り上げ、「男装の麗人」と呼ばれるようになった。
昭和2年(1927)に、19歳で蒙古族の巴布扎布(パプチャップ)将軍の二男カンジュルジャップと結婚するが3年で離婚。カンジュルジャブは満州国軍の軍人で最終階級は陸軍中将。
離婚後は、上海にわたり、上海駐在武官の田中隆吉少佐と親交を深る。
昭和6年(1931)の満洲事変では、天津から満洲へ愛新覚羅溥儀の皇后である婉容を天津から連れ出すことに協力し、婉容を天津から旅順へ護送する任務を担った。
また、第一次上海事変にも関わったとされている。

昭和8年(1933)、関東軍の熱河省進出のため熱河自警団(熱河民国連合定国軍、安国軍または定国軍とも)が組織され、川島芳子(金璧輝)は総司令に就任し熱河作戦に従事したことをきっかけに、川島芳子は「東洋のマタ・ハリ」、「満洲のジャンヌ・ダルク」などと呼ばれることになった。関東軍も「清王朝の王女が率いる義勇軍」として最大限に有効活用した。
ただ昭和9年(1934)以降は、関東軍と満洲国を巡って軋轢が生まれており、軍部批判も行っており、監視対象となっており、芳子は料亭「東興楼」を経営し女将となり、第一線で話題にあがることも少なくなっていた。

昭和16年(1941)から昭和20年(1945)の太平洋戦争中は、川島芳子は満洲国を出ずに、特に目立った活動はなかった。

昭和20年の日本敗戦後、10月に北平で中国国民党軍に逮捕された川島芳子は、漢奸(中国語で「国賊」「売国奴」の意)として訴追され、1947年10月に死刑判決が下され、1948年3月25日に北平第一監獄の刑場で川島芳子は銃殺刑に処された。41歳であった。
奇しくも、第一次世界大戦でフランス軍によってマタ・ハリが処刑されたのも41歳で、没年が同じ歳であった。

川島芳子の遺骨は、後に信州の養父・川島浪速のもとへ届けられた。1949年に浪速が83歳で死去すると、芳子の遺骨はともに松本市蟻ヶ崎の正麟寺にある川島家の墓に葬られた。

川島芳子 辞世の詩
家あれども帰り得ず
涙あれども語り得ず 
法あれども正しきを得ず 
冤あれども誰にか訴えん


川島芳子の墓(正麟寺)

養父であった川島浪速と一緒に葬られている。

國士 川島浪速墓
    同婦人 福子
    同女 芳子

男装の麗人
 川島芳子さん
 川島芳子さんは、1906(1907) 年、清国 粛親王の第13王女として生まれ、大正3年 9歳のとき、旧松本藩士で当時の満蒙に活躍し国士といわれた故川島浪速翁の養女となり、同翁とともに浅間温泉に居を移し、松本高等女学校(現 蟻ケ崎高校)に入学、馬に乗って通学するなど、お転婆娘といわれ 市民の話題の的となった。
 その後 戦前の中国大陸を舞台に男装の麗人といわれ、満洲国建立のため大活躍をし有名を馳せたが昭和23年2月、42歳の若さでその波乱の生涯をとじました。

男装の麗人
川島芳子さんの墓案内図

最初、適当に墓所を巡っていて迷子になりまして。
正麟寺の奥、松本市営葬祭センターの脇に看板がありまして、見れば、迷うこと無く。

川島家の墓。

合掌

肅忠親王善耆(川島芳子の実父)の書碑が、川島家の墓所に建立されている。

正麟寺

曹洞宗蓬莱山正麟寺
(小笠原長時公菩提寺)
 室町時代中期に草創され、古くは少林寺と号した。天正11年(1583)に長時公の菩提寺となり、長時公の法名正麟に因んで、正麟寺に改められる。
 明治の廃仏毀釈で一時無住となるが、復興し、永平寺直末となる。墓地には「男装の麗人」といわれ、満州国建国に尽力した川島芳子の墓がある。
 平成22年7月
 白板地区史跡研究会

場所:

https://maps.app.goo.gl/jpz4SFLd7f8qmkVB9


長野県松本蟻ヶ崎高等学校
(旧・松本高等女学校)

川島芳子が通った松本高等女学校。現在の長野県松本蟻ヶ崎高等学校。


川島芳子記念室(松本市歴史の里)

松本市歴史の里には、川島芳子記念室がある。

松本市で少女時代を過ごした川島芳子のゆかりの品を展示する川。川島芳子記念室は川島芳子没後50年にあたる1998年に開設。

満洲国陸軍上将の軍服を着用した川島芳子

コレクション展示
川島芳子記念室
中国清朝の皇女として生まれ、のちに松本出身の大陸浪人川島浪速の養女となり、「東洋のマタ・ハリ」「男装の麗人」として知られた川島芳子の関係資料を展示。

川島芳子記念室
Memorial Room of Yoshiko Kawashima
 川島芳子は明治40(1907)年、清朝の皇族である粛親王(しゅくしんのう)の、第14王女として北京に生まれ、本名は愛新覚羅顕㺭(あいしんかくら けんし)。同44年、芳子が4歳のとき辛亥革命がおこり 清朝は崩壊、父親と親交のあった、松本出身の大陸浪人川島浪速(なにわ)の養女となり、日本で育ちました。
 芳子は川島の転居に伴い松本高等女学校に入学しますが、学校まで馬で通ったエピソードは有名です。
 20歳で蒙古族の将軍の息子と結婚するも、まもなく離婚。のち清朝の復活を願い、日本軍に協力して、さまざまな謀略工作に関わったといわれ、「東洋のマタハリ」、「男装の麗人」などと、世間の注目を浴びますが、その活動の実際は明らかになっていません。
 戦後 中国国民党政府に逮捕、「漢奸(国賊)」として昭和23(1948)年銃殺刑に処せられました。
 没後50周年にあたる平成10(1988)年、芳子を偲ぶ有志により、松本市歴史の里の前身である「日本司法博物館」(当時)内に、記念室が設けられました。

川島芳子資料室

川島芳子の書

日本人たる前に亜細亜人であらねば成ぬ

肅忠親王善耆(芳子の実父)の書(川島家の墓にある石碑の拓本か?)
川島芳子の書
川島浪速の書

愛馬(太郎)とともに。大正10年。
川島芳子は15歳。
松本高等女学校時代は、愛馬に跨って通学をしていた。

男装の川島芳子

川島浪速と川島芳子

王道
 若宮八幡神社寶前
  昭和丁丑夏日
   愛新覚羅氏第十一世
    肅親王 川島芳子

昭和12年の銘

大正十五年のサンデー毎日
川島芳子(川島芳麿)の記事。

東洋のジャンヌ・ダルク
逆転の美女川島芳子

男装の麗人川島芳子さん
満洲建国の為め東奔西走男子も及ばぬ活躍を続け建国史を採った女丈夫川島芳子さんは養子に擬せられて居る金辟王を伴い末朝した
写真甲子園ホテルに於ける川島芳子さんと金辟王

電送ニュース昭和9年12月19日

男装の麗人

川島芳子の直筆原稿(写し)

父上様 御前に

戒名

芳雲院龍種東珍大姉霊位
 浪速定

芳子の字は東珍であった。
実父の粛親王が養子に出すときに、東洋の珍客として可愛がられるようにとの願いをこめて「東珍」とつけた。

辞世の詩
家あれども帰り得ず
涙あれども語り得ず 
法あれども正しきを得ず 
冤あれども誰にか訴えん
 川島芳子

川島芳子周辺地図。
実は、さきに川島芳子記念室を訪れて、そこで墓所を知って、足を伸ばした次第。

展示・休憩棟の川島芳子記念室がある。


旧松本区裁判所庁舎

「松本市歴史の里」内に。

重要文化財
旧松本区裁判所庁舎
明治41年(1908)、松本城二の丸御殿跡に建立。
明治後期の区裁判所庁舎の典型的な特徴を残す。

https://matsu-haku.com/rekishinosato/shisetsu


大庭駅

川島芳子記念室のある「松本市歴史の里」の最寄り駅は、アルピコ交通上高地線(通称・松本電鉄)大庭駅。

1921年(大正10年)10月2日、筑摩鉄道(後の松本電気鉄道、現在のアルピコ交通)により島々線として松本駅 – 新村駅間6.2 kmが開業。川島芳子が松本にいたときとほぼ同じ頃に開通。


松本城

雪の松本城。せっかく松本にいたので。

帰路の「特急あずさ」

※撮影:2024年3月


満洲関連

「ともちゃん地蔵」満洲難民収容所の悲話を伝承するお地蔵様(六本木)

麻布十番から六本木ヒルズへ抜ける道の途中に、戦争を物語るお地蔵様がいらっしゃいました。

この記事は、六本木の「ともちゃん地蔵」になります。
岩槻の「ともちゃん地蔵」は下記にて。

箱根や浜松にもありますが、まだ未訪問です。。。


ともちゃん地蔵

ともちゃん地蔵は、増田昭一さん(2020年12月に急逝、ドラマ「遠い約束」の原作者)が自身の体験をつづった「満州の星くずと散った子供たちの遺書 新京敷島地区難民収容所の孤児たち」に収められた「ともちゃんのおへそ」という伝承に基づく。
「ともちゃんのおへそ」は、のちに絵本にもなった。

公益財団法人中国残留孤児援護基金 中国帰国者支援・交流センター 

https://www.sien-center.or.jp/

ともちゃんのおへそ

https://www.kikokusha-center.or.jp/kikokusha/shuki/sm/hokuman_top.html

増田昭一の本

http://www.yumekoubou-t.com/raiburari/masudasyouitinohonn.html

~ともちゃんの おへそは お母さんの顔~

ともちゃん地蔵の碑
「お母さんに会いたいときはおへそを見なさい。きっとお母さんに会えるでしょう。」
ともちゃんのお母さんは収容所の死の床でそう言いました。
お母さんのお墓の前で毎日ともちゃんはおへそを眺めました。
そんなともちゃんも厳しい冬が来ると、身体をくの字に曲げておへそを見ながら死んでいきました。
遠い昔、中国の北の街にそんな子供たちがいたことを忘れないでください。
二度とこんな悲しみを子供たちに負わせないでください。
 2001年7月29日
 語りつごう ともちゃんの会
  代表 千野誠治

引き揚げ経験者で中国残留孤児の支援にも尽力した千野誠治さんは2014年に89歳でなくなっている。

ともちゃんの おへそは お母さんの顔

「ギャラリー壁」には千野誠治さんの作品なども展示してある。

ちかくの食堂の看板にも「ともちゃん地蔵」が。
「海南鶏飯(シンガポールチキンライス)」。

増田昭一さんの『満州の星くずと散った子供たちの遺書』を知った、千野誠治さんは「語りつごう、ともちゃんの会」を立ち上げ、絵本「ともちゃんのおへそ」を企画。
「ともちゃん地蔵」を、東京六本木を皮切りに、全国各地に賛同者を得て造立してきたという。
そうして、ともちゃん地蔵は、ここ六本木のほかに、箱根(阿弥陀寺)、岩槻(慈恩寺玄奘塔)、浜松(浜名区根堅)にある。

場所

https://maps.app.goo.gl/mA826kPq8xFJtmfG9

撮影:2024年1月


関連

浅草「まんしゅう母子地蔵」の願主も、千野誠治さん。

西多摩墓苑の「中国帰国者之墓」の建立にも千野誠治さんが関わっている。

東京大空襲と下町(墨田区北部・押上・東向島)

東京大空襲と下町。
錦糸町駅と亀戸駅周辺の社寺にある慰霊碑を巡ってみる。

慰霊巡拝を。


東京大空襲被災の鉄骨と焦木片
(多聞寺)

多聞寺に戦争遺産がいくつかあつめられていた。

東京大空襲で被災した浅草国際劇場の鉄骨
 1945(昭和20)年3月10日未明、アメリカ軍B29爆撃機330機による無差別絨毯爆撃を受け、下町一帯は“炎の夜”と化した。この東京大空襲による下町は壊滅状態に陥り、死者10万人、重傷者11万人、100万人が家を失った。(犠牲者の氏名、正確な人数は現在も不明)
 この元浅草国際劇場の鉄骨(1998年現在、大部分は江戸・東京博物館に展示中)は、東京大空襲を語り継ぐ、数少ない歴史的“証人”である。風船爆弾の工場となっていた浅草国際劇場も直撃団を受け、屋根を支えていた鉄骨は曲がり、ちぎり、天井の大部分が抜け落ち、たくさんの人々が焼死した。目の前の痛ましくひきちぎられた鉄骨に向かって目を閉じてみると、炎の夜の恐怖がよみがえる。
 戦争の実相を伝える“証人たち”に静かに心を傾け、
 不殺生の誓いを新たにしましょう。
  隅田山 多聞寺

戦災の証言者
 パールハーバーから半世紀、終戦から46年目の1991年8月12日、この木は荒川区西日暮里1丁目2番7号(旧、三河島4丁目3420番〜3421番)に新しくビルを建てるための堀削により発見されました。
 東京地域では、1942年4月18日から、1945年8月15日に至るまでに71回の空襲がありました。
 ここに展示されている木は、43回目の1945年4月13日の23時から14日の2時22分にかけての空襲で焼かれた木です。
 当日の投下爆弾は高性能弾81.9t、焼夷弾2037.7tで罹災地域は、西日暮里を含め139ヶ所に及びました。
 戦火で焼け爛れたこの木は、生命の尊さを訴えるとともに、今、平和憲法のもと、再び戦火にまみれる事のない国を作ることを、私たちに求めています。
 1992年10月18日 戦災の木を保存する会

平和観音(多門寺)

平和観音
観自在菩薩の 手に蓮華を執って
一切衆生の身心の中に 本来清浄の理あることを表す
 弘法大師

貪りと瞋りと愚かしさに毒された私たちは、本来の仏さまのいのちに覚め、内なる心の平和と外なる世界の平和を具現し密厳仏国土建設への無尽の願いと誓いをこめて、ここに平和観音を建立し弘法大師御入定千百五十年御遠忌の報恩謝徳の行といたします
 南無大師遍照金剛
  仏紀二千五百五十年春
   墨田山多門寺山主
         檀信徒一同

東京大空襲の犠牲者と平和祈念の観音様。

多門寺。建立は慶長11年(1606年)。
隅田川七福神。

多聞寺山門は、墨田区に残る最古の建造物。
享保3年(1718年)の焼失後に再建。

場所

https://maps.app.goo.gl/BnFRsTa7SBSj82Jx9


戦災クスノキ(第二寺島小学校の戦災樹木)

東武線「東向島駅」近くにある「墨田区立第二寺島小学校」校庭の「くすのき(クスノキ)」。
樹齢400年以上ともいわれる。
墨田区の約7割が焼けた昭和20年3月10日の東京大空襲にも耐えた。

東向島駅の窓から覗くことも可能。

場所

https://maps.app.goo.gl/3op9PZU8J3EXgtjp8


平和地蔵尊戦災者慰霊之碑と戦災殉難者之精霊供養塔(吾嬬西公園)

吾嬬西公園の一角に平和地蔵尊と慰霊碑ある。
この地は、東京大空襲の犠牲者の仮埋葬地でもあった。

戦災殉難者之精霊供養塔

戦災者慰霊之碑
平和地蔵尊
 昭和三九年十月吉日建設 
  世話人一同

場所

吾嬬西公園

https://maps.app.goo.gl/MTipoh6smKvs9m5T6


戦災イチョウ(飛木稲荷神社の戦災樹木)

飛木稲荷神社の境内にひときわに存在感があるイチョウ(公孫樹)も戦災樹木であった。

社名の飛木の由来ともなっている御神木のイチョウは樹齢500~600年といわれ墨田区内随一の大木、区の天然記念物に指定されている。
暴風雨によって飛んできた銀杏の枝がこの地に刺さり、いつしか大樹となったそうで。

”身代り” 飛木の焼けイチョウ
名前の由来
昭和二十年 ( 1945年 ) 三月十日の東京大空襲で、ご神木 ( 神霊が宿っているとされる木 ) は、我が身を焦がし、懸命に災をくい止め、町の延焼を防ぎました。
そして幸いにも多くの人達が助かりました。 
ご神木は、戦災という大きな悲劇を乗り越え、数年を経て緑の芽を吹き出しました。
このようにたくましく生き延びた縁起のイチョウです。 今の世にあって、私達に生きる勇気と希望を与えてくれています。 
きっと焼けイチョウは、大変な戦争があったという事を、これから先も伝えてくれることでしょう。
 平成二十二年六月吉日 
  飛木稲荷神社総代一同

黒く焼け焦げた幹の木が、東京大空襲の焼夷弾の火勢を物語っている。

国威宣揚
 昭和八年四月建之

場所

https://maps.app.goo.gl/uUq7abHLwBxmxuwb7


大東亜戦争殉難者之碑(圓通寺)

前述の飛木稲荷神社の隣に鎮座している圓通寺には、慰霊碑がある。

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/virtual/memorialsite/tokyo_sumida_city008/index.html

大東亜戦争殉難者之碑
 昭和二十年三月十日

元吾嬬町西一丁目連合町会長 小野内寿松
               外役員一同
昭和四十三年三月十日建立
              野澤勝治書

境内の仏さまも戦災被害で、焼け焦げてしまった。

場所

https://maps.app.goo.gl/j96Tfk8PAtoQGTVz6


言問小学校

昭和11年(1936)に建てられた現役の近代学校建築。
2023年に校舎と講堂が国の登録文化財に指定された。

https://www.city.sumida.lg.jp/kosodate_kyouiku/tiiki_kyouiku_shien/bunkazai_hogo/bunkazai_itiran/new_shoukai/kototoishou_toushin.html

https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/558065

https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/524334

場所

https://maps.app.goo.gl/De77pRfDpGhongeX8


安全地蔵(とうきょうスカイツリー駅)

とうきょうスカイツリー駅の近くに「安全地蔵」といわれる地蔵があり、平和祈願の地蔵でもあるというのだが、立体化工事の影響で、どこに祀られているのやらで、所在不明。
駅工事が終わったら、再訪してみましょう。

※撮影:2022年4月及び2024年3月


慰霊碑(牛嶋神社)

牛嶋神社境内に、戦没者を慰霊する碑が建立されている。

慰霊碑
 靖国神社宮司 筑波藤麿 書

建碑ノ言葉
元本所区出身過去戦役事変戦災ニ依リ祖国防衛ノ為メ名誉アル戦病死ヲ遂ゲラレタル諸英霊ニ対シ聊カ御霊ヲ慰メンタメ旧本所区在郷軍人の有志並ニ本趣旨ニ賛同セラレタル同士ト共ニ祖国再建発足十周年ノ記念ノ日ヲ選ビ茲ニ慰霊ノ碑ヲ建ツルモノナリ
 昭和30年8月15日

場所

https://maps.app.goo.gl/Wi2DqvSWFBaMvE2s5

※撮影:2020年9月


関連

東京大空襲関連の一覧

はじめに

東京大空襲と下町(墨田区江東橋と江東区亀戸周辺)

東京大空襲と下町。
錦糸町駅と亀戸駅周辺の社寺にある慰霊碑を巡ってみる。

慰霊巡拝を。


慰霊碑・戦災殉職者慰霊碑
(江東寺・江東観世音)

錦糸町駅の南に。
当初、木塔碑があったが17回忌の昭和36年に町内会有志により「慰霊碑」石碑が建立された。

戦災殉難者慰霊碑建設趣旨
この碑は昭和20年3月9日夜半より10日の暁にかけて米機の大空襲に伴う戦禍により愛国純真の人々が劫火のうちに仆れた誠に哀悼に耐えぬものがあり、よっってここに慰霊碑を再建したものである。
この碑を建立した企図は当時の太平警防団々長長谷川秀吉氏外団員と町会有志各位により当所に木塔碑を建立して其の霊を慰めた。
その後塔の老朽甚だしく為に再建の議が起りたまたま元管内の有志諸氏相より其の実現に当り関係各町発起人及び委員各位に相計った結果17回忌を迎うる日を記念し建立の運びになった。
その後更に各町より150名よりなる建設委員によって建碑会を結成し530数氏の賛助協力によって建碑奉献の実現を見るに至ったものである。
 昭和36年3月建碑に当たりて

五徳山 江東寺 江東観世音
昭和15年建立

場所

https://maps.app.goo.gl/1cRAHe4qMw23XFig8


戦災殉難者供養之碑
(普門院)

亀戸駅前に建立されていた慰霊碑が、昭和30年の都市開発計画によって、普門院(普門寺)に移転した。
あわせて仮葬されていた遺骨なども普門寺に納骨され、一部が分骨として東京都慰霊堂にも納骨されたという。

昭和20年3月10日歿
戦災殉難者供養之碑
縁山辯匡書

この碑は昭和貮拾年参月拾日の亀戸地区戦災殉難者供養のため建立せられたものであります
本年三十三回忌を迎えるに当り記念事業として永く後世に傅えるため碑及び周辺の整備改修を行い再び惨禍を繰り返さないことを念願し諸霊位の冥福を祈るものであります
 昭和五拾貮年参月拾日
  亀戸町会連合会

時も忘却も我が泪を乾すまじ
  この碑は昭和二十年三月十日我国で最初の大量の犠牲者を出した大空襲による多くの殉難者を悼むために亀戸駅前の焦土に建てた供養碑であります
  昭和二十九年晩秋都市區割整理に依て奉賛会は普門院の浄域を擇んで移転し平和の礎となつた貴い人々の冥福を永遠に祈るために奉安しました
 昭和三十年三月十日 誌

場所

https://maps.app.goo.gl/Smsc76eyRDssFyiy9


戦災受難者慰霊地蔵尊・戦災受難者之碑
(光明寺)

普門院と光明寺は隣り合っているが、入り口は真逆となっているので、敷地を周回する道路をぐるりと回り込んで参拝。

戦災受難者慰霊地蔵尊

昭和43年3月建立

城東三業組合
戦災受難者之碑
昭和20年3月10日

昭和36年3月10日建立

場所

https://maps.app.goo.gl/sTquP3bR8wLcHmV59


戦災殉難者慰霊之塔・戦災懐古の碑・戦災精霊五十回忌供養塔
(明源寺)

戦災殉難者慰霊塔は、地元の有志が1965年(昭和40年)3月に建立。

その右にある戦災精霊五十回忌供養塔は、1994年(平成6年)3月10日、五十回忌法要とともに戦災供養会一同によって立てられた。

戦災殉難者慰霊之塔
時に昭和二十年三月十日未明空襲における戦災殉難者及び地區内百二十余命の霊を慰めるものなり
昭和四十年三月建立
 発願人 中田武雄

戰災精霊五十回忌供養塔
爆音鳴響米機來 一意護都遇戰災
君死我存今日到 叩頭僅獻慰霊杯
追憶献杯 二十五世 巨宗萬年

暗雲低覆我家偕 満目荒涼累積骸
來襲米機焚萬物 敗兵涙見墨東街
戦災懐古
 昭和四十二年三月
 まん つくり かく

https://maps.app.goo.gl/2yFG2HTBjSbcGvXJ6


日露戦役祈念百度碑
(亀戸香取神社)

これは、東京大空襲とは関係なく。通りかかった亀戸香取神社にて。

https://maps.app.goo.gl/SPEnzWehD3kLgtQV6

※撮影:2023年6月


関連

東京大空襲関連の一覧

はじめに

3月10日の慰霊「東京大空襲」あの日から79年(令和6年・東京都慰霊堂と東京大空襲戦災犠牲者追悼碑)

令和6年(2024)3月10日。
あの日から79年目。
昭和20年(1945)3月10日、東京大空襲。

東京都慰霊堂にて、慰霊鎮魂の合掌を。
今日は、慰霊の日。


東京大空襲

昭和20年(1945)3月10日午前0時過ぎ、爆撃が開始。
罹災者は100万人を超え、死者は10万人を超す規模は、単独の空襲としては世界史上最大の犠牲者となっている。
これが、世にいう、「東京大空襲」(下町大空襲)であった。
慰霊鎮魂の日として、「東京都平和の日」となっている。


東京都慰霊堂

東京都慰霊堂では、毎年、関東大震災の9月1日と東京大空襲の3月10日に、慰霊大法要が執り行なわれている。

都内戦災遭難者 関東大震災遭難者
春季慰霊大法要

午前9時45分。
10時からの法要にあわせて、秋篠宮殿下・同妃殿下がご参列に。

秋篠宮家の公用車は「三菱・ディグニティ(DIGNITY)」
20年以上も愛用されている秋篠宮家の専用車。
(三菱の最高級乗用車であったが生産台数は59台と、日本製乗用車では例題最小生産数で、ある意味で幻の乗用車)

10時25分頃、秋篠宮両殿下が退出。

だいたい11時位に、一般参列が可能になります。

合掌

納骨堂も開扉されていました

三重塔を模した納骨堂

甘酒、ありがとうございます

東京空襲犠牲者を追悼し平和を祈念する碑

内部には霊璽簿が奉納されており、3月10日と9月1日の春秋の法要にあわせて、内部で手を合わせることが可能。

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/virtual/memorialsite/tokyo_sumida_city002/index.html

https://tokyoireikyoukai.or.jp/kuyou/meibo.html


東京水辺ライン(隅田川・水上バス)

「両国リバーセンター」から「浅草二天門」まで水上バスで移動します。
両国12時15分の便が、ちょうどよく。

駒形橋

アサヒビール本社とスカイツリー

東武鉄道

言問橋

水上から言問橋を見るのは、実は、はじめて。

往時を思い起こしながら。

東京大空襲では、浅草(台東区)の人々は「川の向こうに行けば助かる」と考え言問橋を渡ろうとした。
同じく向島・本所深川(墨田区)の人々も「対岸へ」と橋に殺到。
向島本所地区は、すでに火の海であり、住民らは同様に対岸への避難を試みたため、両者が橋の上でぶつかり合い進退窮まる状態となった。そこに焼夷弾が落ち、言問橋の上に猛火が燃え移り、燃え盛る中で逃げるすべもなく、 両岸と橋上とすさまじき猛火の中で、行き場を失った人々が隅田川に飛び込んだとされ、そして多くの人々が焼死したという。
言問橋の親柱は、その時の黒焦げた焼き跡が今も残っている。


東京大空襲戦災犠牲者追悼碑
(戦災により亡くなられた方々の碑)

あゝ
東京大空襲
朋よやすらかに

戦災により亡くなられた方々の碑
台東区浅草七丁目一番
 
 隅田公園のこの一帯は、昭和二十年三月十日の東京大空襲等により亡くなられた数多くの方々を仮埋葬した場所である。
 第二次世界大戦(太平洋戦争)中の空襲により被災した台東区民(当時下谷区民、浅草区民)は多数に及んだ。
 亡くなられた多くの方々の遺体は、区内の公園等に仮埋葬され、戦後だびに付され東京都慰霊堂(墨田区)に納骨された。
 戦後四十年、この不幸な出来事や忌わしい記憶も、年毎に薄れ、平和な繁栄のもとに忘れ去られようとしている。
 いま、本区は、数少ない資料をたどり、区民からの貴重な情報に基づく戦災死者名簿を調製するとともに、この地に碑を建立した。
 昭和六十一年三月 台東区

東京大空襲犠牲者追悼集会

被災79周年
東京大空襲犠牲者追悼集会
 主催 東京大空襲犠牲者追悼・記念資料展実行委員会
 共催 台東区
 後援 台東区教育委員会

実行委員長の挨拶

台東区教育委員の挨拶

日本共産党の小池氏の挨拶

被爆体験者のお話し

毎年のことではあるが、語り継ぐべく、記録を。


東京大空襲関連

2023年

2022年

2021年

そのほか

東京大空襲・慰霊
戦災電柱
東京都戦没者霊苑

駆逐艦「朝霜」「梅」と重巡洋艦「愛宕」戦没者慰霊碑(三島・妙法華寺)

静岡県三島市の山中に静かに鎮座する玉澤妙法華寺(妙法華寺)。
その境内に、軍艦の慰霊碑があるというので、足を運んでみた。


「愛宕」「朝霜」の慰霊碑建立の経緯

昭和19年(1944)10月。
捷一号作戦、レイテ沖海戦。
第二艦隊司令長官栗田健男海軍中将は、重巡洋艦「愛宕」に座乗し、第一遊撃部隊第一部隊(通称:栗田艦隊)は、10月22日にブルネイを出航し、レイテ島に向かった。
翌日10月23日に米国潜水艦が栗田艦隊を発見し、雷撃を実施。栗田艦隊の旗艦「愛宕」に魚雷が命中し、愛宕は20分後に転覆沈没。1197名の乗員のうち、492名が駆逐艦「朝霜」に、221名が「岸波」に救助され、484名が戦死したという。
駆逐艦「朝霜」は、愛宕生存者を救助後に、駆逐艦「長波」とともに、同じく雷撃を受けて応急修理を行っていた重巡洋艦「高雄」の警戒と護衛を実施。「高雄」に留めを刺そうとする米潜水艦による攻撃を断念させた。

昭和20年4月。

坊の岬沖海戦。沖縄水上特攻作戦(天一号作戦)
4月6日。
沖縄特攻部隊として、第二水雷戦隊第21駆逐隊「朝霜」(司令駆逐艦)、僚艦の「初霜」「霞」は、第一航空戦隊戦艦「大和」(第二艦隊旗艦)、第二水雷戦隊旗艦「矢矧」、第17駆逐隊「磯風」「雪風」「浜風」、第41駆逐隊「冬月」「涼月」とともに徳山を出撃。
翌日7日に、朝霜は機関故障を起こし速力低下し艦隊から落伍。応急修理を実施するも復旧せずに、単艦で米軍機と戦闘。孤軍奮闘し『我敵機ト交戦中』『90度方向に敵機30数機を探知す』との無電を発した後、連絡が途絶え消息が途絶えた。朝霜乗組の第21駆逐司令小滝久雄大佐、艦長杉原与四郎中佐以下、327名の将兵は、消息不明となった朝霜と殉じ、全員戦死認定された。

昭和32年
三島市の高橋氏が朝霜で戦士した息子を思い、朝霜戦没者遺族に呼びかけて、戦没者の冥福を供養する為に玉沢の妙法華寺に「駆逐艦朝霜戦没者慰霊碑」を建立。

昭和55年
「駆逐艦朝霜戦没者慰霊碑」碑前での慰霊祭を耳にした、軍艦愛宕元乗組員が、愛宕沈没時に乗組員を救助した朝霜の英霊に感謝し、「駆逐艦朝霜戦没者慰霊碑」碑前にて、軍艦愛宕戦没者三十三回忌法要を愛宕生存者と遺族の有志により施行し、併せて朝霜の英霊に従事に謝しつつ御冥福を祈念した。
その折に、「愛宕戦没者慰霊碑」建立を決定し、妙法華寺の理解を得て、「駆逐艦朝霜戦没者慰霊碑」と並んで建立された。

慰霊碑建立の経緯
 軍艦「愛宕」は、重巡洋艦(壱万屯)で戦時中は第四戦隊の旗艦として活躍し、昭和十九年十月二十三日、比島パラワン島沖の回線で不運にも轟沈せり。乗組員(司令部付を含む)一一九七名のうち戦死者四八四名、その折り救援の駆逐艦「朝霜」が四百九二名同じく「岸波」が二二一名救出せり(戦闘詳報より)駆逐艦朝霜は昭和二十年四月七日沖縄特攻部隊として出撃中、敵機三十余機と交戦、武運拙く第二一駆逐司令小滝久雄大佐、艦長杉原与四郎中佐以下、三二七名の将兵は九州南端沖に護国の鬼と化し、悲惨、艦と共に轟沈。全員戦死せり。駆逐艦朝霜戦没者慰霊碑の建立は三島市中央町高橋実衛氏(錦店)の父晋吾氏が五男通夫氏も朝霜で戦死したので、子を想う親として同憂の全国の朝霜戦没者遺族に呼びかけ、先達となり全国を行脚し、尚私財を投じ戦没者の冥福を供養する為に玉沢の聖地に、昭和三十二年春建立したものである。
 毎年命日には遺族会長小滝国雄氏(故 小滝司令息子)のもと全国より遺族が碑前で慰霊祭を行っておるがその祭事を地元海軍出身者の集いである海軍会員が協賛し、厳粛盛大に行っており、時候的に玉沢は桜花咲き乱れ好時期であり桜花の如く散りし戦没者を想い同じ海軍にありて運よく達者である事を感謝しつつ戦没者のご冥福を祈念し祭事に奉仕しておる三島地方の出身者海軍会であります。
 この事を軍艦愛宕元乗組員が知り愛宕沈没の折り身を悌し救助に活躍した駆逐艦朝霜の英霊の碑前で先年軍艦愛宕戦没者三十三回忌法要を愛宕生存者と遺族の有志により海軍会員多数列席佛式により厳粛に施行し併せて朝霜の英霊に従事に謝しつつ御冥福を祈念した。その折愛宕戦没者慰霊碑建立の議を決し、妙法華寺の御理解を得て駆逐艦朝霜の碑と並びに建立する事が決り愛宕関係者や海軍出身者その他各界の協賛を得て昭和五十五年十月二十三日建立されました。
 敵味方入り乱れての激戦の最中沈没寸前に救助された生存者の感謝が朝霜の英霊に答えるや如く愛宕戦没者の慰霊碑が建立された事は、戦後三十余年を迎え遅ればせながら両艦の偉勲をたたえると共に、慰霊と御供養になることを信ずるものであります。
 願わくば、此の慰霊碑建立によって永年に平和を願い戦争の悲劇を再び繰り返さないよう楯となっていただき祖国日本をお守りくださることを念願してやまない次第です。
 このようにして由緒深い玉沢の妙法華寺境内に大東亜戦の生んだ海軍の遺跡が生現した次第であります。
  昭和五十五年十月二十三日
   三島田方駿東海軍会


駆逐艦朝霜戦没者之碑
(駆逐艦朝霜戦没者慰霊碑)

駆逐艦朝霜戦没者之碑
正二位勲一等 小笠原長生 書

駆逐艦朝霜の戦歴
 駆逐艦朝霜は大東亜戦争中 帝国海軍第二艦隊第二水雷戦隊に所属し、太平洋海域の主要作戦に参加、奮闘した。
 昭和二十年四月六日、戦艦大和ほか九隻で水上特攻隊を編成し、米軍による沖縄侵攻を阻止するため、同地に向け 三田尻沖を出撃し 四月七日正午頃 九州南西方面海域において敵機多数と交戦、奮闘するも力及ばず、旗艦 大和 宛て
「我、敵機 三十機と 交戦中」との電報を最後に 十二時十分頃 同海域に沈没、乗組員全員三百二十九柱は 艦と共に 壮絶な最後を遂げた。
 ここに同艦の赫々たる功績を称え、戦没者諸柱の鎮魂のため、此の碑を建立する。


一、建造
   竣工 昭和十八年十一月二十七日
   場所 藤永田造船所(大阪)
二、要目
   排水量 二、〇七七 屯
   全長 百十七米 全幅一〇・八 米
   吃水 三・七六 米
   主機 蒸気タービン二機二軸
   出力 五二、〇〇〇 馬力
   最高速力 三十五 節
   装備 主砲 十二・七糎 二連 三基
      魚雷 六十一・〇糎 四連 二基
   乗員 約三百名
三、戦歴 (参戦した主要な作戦)
   あ号作戦(マリアナ沖海戦)
   捷一号作戦(レイテ沖海戦)
   多号作戦(オルモック輸送作戦)
   礼号作戦(ミンドロ島沖作戦)
   天一号作戦(沖縄突入作戦)

跋文
「駆逐艦朝霜戦没者之碑」は昭和三十一年 同艦沈没時、艦と運命を共にした乗組員総員の鎮魂のために建立された。
 「駆逐艦朝霜戦没者之碑」の建立にあたっては朝霜会地元世話人 髙橋晋五殿の並々ならぬ御苦労があった。
 三島市玉澤の聖地に立つ此の碑を心の拠りどころとして爾来三十数年に亘って遺族と元乗組員から成る朝霜会は、毎年一回此の地に集い相互に親交を深め励ましあって戦後の荒波を乗り越えてくることができた。
 此の度、北海道亀田郡七飯町の遺族 森本絹子殿は篤志を以て英霊の供養のため本戦歴碑を寄進された。
  平成二年四月七日 
   駆逐艦朝霜会一同

揮毫の小笠原長生さん、、、昭和31年建立の慰霊碑にも揮毫されていました。小笠原長生は昭和33年に90歳で没しているので、戦後は、海軍の大長老といったところ。

大和、、、坊の岬沖海戦。


軍艦愛宕戦没者之碑
(軍艦愛宕戦没者慰霊碑)

軍艦愛宕戦没者之碑
参議院議員 源田実 書

巡洋艦 愛宕
巡洋艦愛宕は、広島県呉海軍工廠に於て昭和7年3月30日竣工し排水量12,400屯、太平洋戦争に当り、マレー沖海戦・マレー比島上陸作戦支援・ミッドウェー海戦・アリューシャン攻略戦・南太平洋海戦・ソロモン沖海戦・ガダルカナル攻防戦・マリアナ沖海戦・比島沖海戦等に参加。昭和19年10月23日比島パラワン島西方東経1177北緯922に於て敵潜水艦の雷撃により乗組員480余名と共に沈没す。
我等九死に一生を得て生存した愛宕乗組員は、共に戦った戦友と愛宕の御霊を慰め、永くその名を後世に留めようと決意し、ここに真心をこめて慰霊碑を建立した。
 昭和55年10月23日
  愛宕慰霊碑建立委員長  芹沢吉作
        副委員長  平山正晴
        副委員長  冨樫雅文
  静岡愛宕会会長     山下三男
  三島田方駿東海軍会会長 星谷庄作
   (略)


駆逐艦梅戦没者慰霊之碑
(駆逐艦梅戦没者慰霊碑)

駆逐艦「梅」の慰霊碑が当地にある由来は不明。

駆逐艦梅戦没者慰霊之碑
艦長 海軍少佐 従六位勲四等 大西快治 書

駆逐艦「梅」
丁型一等駆逐艦第5483号艦として藤永田造船所にて、昭和19年6月竣工した。昭和19年10月のレイテ作戦には参加せず、台湾方面輸送作戦に従事していた。

「パトリナオ輸送作戦」
駆逐艦「梅」は、昭和20年1月31日、ルソン島アパリに集結していたフィリピンからの搭乗員救出(フィリピン撤退)のために、台湾高雄からルソン島に向けて航行中に空襲され沈没。

駆逐艦「梅」艦長・大西快治少佐は、子ノ日航海長、水雷艇鳩艇長、朝凪艦長、梅艦長等を歴任。「梅」沈没後は、横須賀突撃隊特攻隊長。終戦後は「萩」艦長を努めている。

艦歴
昭和一九
(四.二四)  大阪藤永田造船所にて進水
六.二   竣工 第十一水雷戦隊に編入
七.一五  桃と共に第四十三駆逐隊を編成
七.二〇  内海西部にて訓練に従事
八.二〇  第三十一戦隊に編入
一〇.一二 台湾沖航空戦に参加
一〇.二三 多号作戦一〇二師団レイテ西岸オルモック上陸作戦掩護
一一.三  人員機材を台湾に緊急輸送
一一.六  戦艦伊勢 日向 五十鈴 新南郡島進出の為護衛任務に従事
一一.一四 戦艦大和 長門 金剛 内地回航の為護衛任務に従事
一一.二五 単艦にてブルネイ方面に進出
一二.二  南西方面艦隊(マニラ)指揮下に入りマニラに回航
一二.五  多号第八次オルモック輸送作戦に従事
一二.一四 マニラ湾にて敵機動部隊の艦載機と交戦
      艦首へ至近弾を受け揚錨機作動不能となる
一二.一五 修理の為香港に回航
昭和二〇
一.一五  香港々内にて米機動部隊艦載機五〇機と交戦 三機撃墜
一.二九  台湾高雄港にて米機動部隊艦載機と交戦
一.三一  比島アパリ集結中の搭乗員救出の為
パトリナオ輸送作戦実施の為
高雄を出港
     バシー海峡にて敵機約三〇機の来襲を受け之と交戦
     被弾三発後部甲板切断沈没 敵一機撃墜(一八時一〇分)
     戦死者八〇余名 東経一二〇度五〇分 北緯二〇度三〇分
茲にて短命なりと雖も 梅の輝かしい戦績を讃え 勇敢に戦い悠久の大義に就いた戦友の霊を慰むる為「梅」ゆかりの地 三島玉沢木山妙法華寺霊峰富士の万年雪溶けて流るる神霊地に 此の碑を建立す
  昭和六十一年一月三十一日(四十年目命日)
   駆逐艦梅慰霊碑建立委員会


永代供養料碑

昭和63年、3団体の寄進。

三島田方駿東海軍会
駆逐艦梅戦友会
静岡県愛宕戦友会


忠魂碑

忠魂碑
陸軍大将 鈴木荘六書

昭和8年建立。
鈴木荘六は、定年退役後に第4代帝国在郷軍人会長であったことから、揮毫された忠魂碑も多い。


日露役戦死病没英霊菩提塔


忠霊殿

にゃあ


玉澤妙法華寺(妙法華寺)

静岡県三島市玉沢にある、日蓮宗の本山(由緒寺院)。
山号は経王山。

1284年(弘安7年)、日蓮の弟子日昭は風間信昭の帰依を受け、鎌倉浜土の玉沢(現鎌倉市材木座)に法華堂を建立したことにはじまる。
1538年(天文7年)戦乱により、越後村田(現新潟県長岡市村田)の妙法寺に避難。
1594年(文禄3年)戦乱により、伊豆加殿(現静岡県伊豆市)の妙国寺に避難。
その後、15代日産の時、1621年(元和7年)に大木沢(現在地)に移転し、日産、日達、日亮の3代に渡り再建された。大木沢は妙法華寺創建の地名をとって玉沢と改称された。

最寄りのバス停は「玉沢」
1時間に1本あるときもあれば、2時間に1本のときもあるので、バスで赴く時は、時間配分は要注意。

私は9時15分に到着して、帰りは11時5分のバスでしたので、約2時間ほどの持ち時間でした。。。

場所:

https://maps.app.goo.gl/Ndi3Ae2UrL4ohjB78

撮影:2023年12月


関連

朝霜と梅は、藤永田造船所で生まれた

「鐵道院」「浦賀船渠」銘のある「鶴田駅の跨線橋」(明治44年造・JR日光線)

JR日光線の鶴田駅。
ここの跨線橋が、「完成当初から同じ場所で現役として使用されている最古の跨線橋」というので足を運んでみた。


(2021年時点)完成当時から同じ場所で使用されていた現役最古の跨線橋だった「半田駅」

かつて愛知県半田市のJR武豊線の半田駅にあった跨線橋が完成当初から同じ場所で現役として使用されていた最古の跨線橋建造物(明治43年築)であった。
しかし、2021年6月に役目を終えて撤去。半田駅は高架化され、かつての跨線橋は駅前公園に移築保存されることになった。

そうして半田駅の次に、同じ条件で古い跨線橋であったJR日光線の鶴田駅が、日本最古の跨線橋として、昇格した、ということになる。

ちなみに「移設された跨線橋」を含めると、1890年(明治23年)製のJR山陰本線の「大田市駅の跨線橋」が日本最古となる。

半田駅。2017年の半田散策のときに記録していましたね。
現在は撤去済み。


「鶴田駅」の跨線橋

改めて、完成当時から同じ場所で使用されている現役として、日本最古の跨線橋となる「鶴田駅の跨線橋」を見学。
明治44年(1911年)造の跨線橋。

駅ホーム側。

浦賀船渠株式会社製造

明治四十四年 鐵道院

駅舎(駅本屋)側。同じですね。

明治四十四年 鐵道院

浦賀船渠株式会社製造

浦賀船渠株式会社と、まさか鉄道駅の跨線橋で出会えるとは!です。

近代化遺産 に指定されています。

JR日光線。新型車両に置き換わっていますね。

鶴田駅
2014年に新造された駅舎。

※撮影:2024年1月


関連

鐵道院

浦賀船渠

日本鉄道大宮工場「門柱」と「赤煉瓦倉庫」(さいたま市)

「鉄道のまち・大宮」
JR東日本が、公式にサイトを用意しているぐらいに、「鉄道のまち」である。

https://www.jreast.co.jp/omiya/tetsumachi_omiya/

現在も、「鉄道博物館」や「大宮総合車両センター」などを要し、またJR東日本の新幹線の一大ジャンクションでもある。

そんな大宮で、「鉄道のまち」の歴史を散策してみる。


日本鉄道大宮工場

現在の「JR東日本・大宮総合車両センター」は、かつて「日本鉄道大宮工場」であった。
自社工場を保有していなかった「日本鉄道(日本鉄道株式会社)=国鉄の前身」が、上野‐青森間を全通させたことを機に明治27年(1994)に、大宮に工場を設立したことにはじまる。


日本鉄道大宮工場の門柱

「JR東日本・大宮総合車両センター」の敷地内に開設されたフィットネスクラブ(JEXER大宮)の脇に、かつての「日本鉄道大宮工場」時代の門柱が残っている。

現在は、門として機能はしておらず、ブロック塀で埋められており、境界壁としての役目のみとなっている。


日本鉄道大宮工場の赤煉瓦倉庫(旧大宮車両センター倉庫8号)

竣工は明治30年(1897)。往時は、米の貯蔵として使用されていたという。

さいたま市観光国際協会>

https://www.stib.jp/saitama-aruki/area-omiya.php

フィットネスクラブの入り口は2階にあり、すぐ近くで赤レンガ倉庫の2階部分をみることもできる。


RAILWAY GARDEN PROMENADE
(レールウェイガーデンプロムナード)

大宮総合車両センター本所内の施設を見学できる。

休みの日なので、なにもないですね。。。

D51 187号

大宮工場で新製されたD51形の第1号機。

準鉄道記念物
D51187号蒸気機関車
D51形式蒸気機関車は、1936年(昭和11年)に誕生した優秀な大形貨物列車で、1945年(昭和20年)までに民間工場をはじめ、国鉄の8工場でも製造され、合計1,115両製造された。
大宮工場においては、1938年(昭和13年)4月から1942年(昭和17年)3月までに、当時の社会的な要請に応じて31両製造したが、展示されている187号機は、それらのうち第1両目の由緒ある機関車で、1938年(昭和13年)4月12日に着工し、同年8月8日に完成した。
当時の工場職員が寝食を忘れ、心血を注いで製造にあたり、その構成部品の全てを工場独自の力で製作したもので、歴史的にも技術の大宮工場の真価を現したものであり、記念物として先輩の偉業を讃えるとともに、当時の職員の21世紀の国鉄に向かっての自覚を具現する象徴として、保存することになり1971年(昭和46年)10月14日に準鉄道記念物に指定された。

D51187
形式D51

1号
大宮工場
昭和13年製造

※撮影:2023年5月及び2024年2月


関連

「日本の航空事始め・その4」徳川好敏が初飛行祈願をした「所澤神明社」(鳥船神社/所沢航空神社)

「日本の航空事始め」としては、第4弾になります。
このシリーズは、実は自分でも良くまとめてあるかと思っていますが、今回は「その1」の追記みたいなものです。

2021年6月に本殿の東側から西側に遷座し、新たな装いになっておりましたので、再訪した次第。


鳥船神社(所澤航空神社)

初飛行の快挙から百年を迎えたのを記念して、2011(平成23)年10月に創建。

2021年6月に覆社内を設けた新境内地に遷座した「鳥船神社」。
所沢神明社内の摂末社がすべて境内の西側に集まったかたちとなっている。

https://www.shinmeisha.or.jp/info/%e9%b3%a5%e8%88%b9%e7%a5%9e%e7%a4%be%e5%be%a1%e9%81%b7%e5%ba%a7%e3%81%ab%e3%81%a4%e3%81%84%e3%81%a6/

御由緒

鳥船神社(別称:所澤航空神社)
御祭神 鳥之石楠船神(天鳥船神)
例祭 4月5日(日本初動力飛行の日)
 御祭神の鳥之石楠船神は、伊邪那岐神・伊邪那美神の御子神で、別名を天鳥船神と申し上げます。高天原と豊葦原中国(日本)との間を鳥のように通う丈夫な船に坐し、大国主神の国譲りに際して建御雷神に副えて遣わされ、また、天孫降臨に先立つ邇芸早日命の天降りの際にも御乗船になったと伝えられています。このような御事蹟により、近代以降は航空の神とすても崇敬されています。
当社は、この所沢の地に我が国初の飛行場が造られ、徳川好敏大尉による初飛行という快挙が成し遂げられた明治44年から100年を迎えたのを記念して、平成23年10月に創建されました。
 我が国航空発祥のちに鎮り坐す、航空安全・交通安全の神社、八百萬の神々が鳥船に乗って降臨される神社、人々の願いを鳥船に乗せて高天原にお伝え下さる神社です。
(願を込めた「折鶴」や「紙飛行機」をお供えください。)

https://www.shinmeisha.or.jp/shinmeisha/hikouki.html

鳥船神社
別称 所澤航空神社
奉納
元所沢飛行学校教官
 陸軍航空中佐 衣川悦司
  長男 倉片幹人

社号標のうしろに隠されている標柱。。。

陸軍用地

文字面は社号標と背中合わせ。鳥船神社社殿に向いている。
これは、意識しないと全く気が付かない。

サルムソン2(仏名)で使用していたプロペラ(②で実用)
日本名
①陸軍サ式2型偵察機(大正8年)
②陸軍乙式1型偵察機(大正10年)

磐飛行機

願を込めて奉納された折鶴や紙飛行機

鳥船神社と招魂社と、摂末社が並んで鎮座。近年とりおこなわれた境内再整備、ですね。


招魂社

いわゆる指定外護國神社。所沢出身の戦争犠牲者を祀っている。

旧社地から遷座。
社号標と鳥居と基礎がまだ残っている。


所澤駐蹕碑(大正天皇行幸記念碑)

大正元年(1912年)の陸軍特別大演習。
所沢・川越付近でおこなわれた陸軍の特別大演習では、北軍と南軍に分かれ、あわせて約10万人という大規模で実施され、 大正天皇が行幸され駐蹕された。
所沢飛行場は前年の明治44年(1911年)4月に開設し、同年4月5日に、徳川好敏大尉が操縦する「アンリ・ファルマン機」が所沢飛行場で初飛行している。

所澤駐蹕碑
麝香間祇候 正二位勲一等 公爵 徳川家達 篆額
近時飛行機盛行于各國我邦亦設習技場於武州所澤會
今上天皇ト大正元年十一月統監陸軍大演習于近郊置 行在所於川越各地巡監之次以十七日 臨幸所澤習技場此地當南北軍對抗之衝飛行機翔干両軍之上能偵察之頗稱 二日十九日再 臨幸場内大賜酺於文部官僚又州内士民盖
天皇践祚後盛典也郷民以為栄欲建碑 駐蹕之處以表之来嘱銘鳴呼
天皇以武備之不可一日忽之忍 諒闇之憂躬統監之労不負
先皇在天之霊欣慰可知也海内臣民聞之皆欽仰敬崇況新拝観者乎謹繋銘日治兵之野飛行場 大纛臨矣 皇武維揚萬姓欽仰執不期待紹述先緒雄飛四海
 大正二年十一月
  宮内儒員 従三位勲二等 文学博士 三島毅 拝撰
  錦鶏間祗候 従二位勲一等 男爵 野邨素介 謹書


所澤神明社

御祭神
天照大御神(あまてらすおおみかみ)
倉稲魂大神(うかのみたまのみこと)
大物主大神(おおものぬしのおおかみ)

日本武尊が東国平定の折にこの付近で休憩をした際に、天照大御神に祈りを捧げたという伝説にちなむ。
明治44年(1911年)4月に日本最初の飛行場として開設された所沢飛行場において、その初飛行のパイロットとなった徳川好敏が前日に関係者数名とともに正式参詣したことから、今日では特に飛行機と空の安全に関する祈願として崇敬をあつめている。

青島(山東省)・西伯利亜(シベリア)の出征記念の外垣

御朱印など。

https://www.shinmeisha.or.jp/omamori/

鳥船神社の御朱印は3ヶ月毎にデザインがかわっている。

所澤神明社サイトより

御朱印帳は、アンリ・ファルマン機をいデザイン

所澤神明社サイトより

こちらは明治天皇の行在所。駅までの道で目に止まったので。

明治天皇行在所跡

明治16年4月の近衛諸隊春季小演習での行在所が設けられた斎藤家。

※撮影:2024年2月


所沢関連

軍艦「三笠」のスクリューの一片と補助舵輪(川口市)

埼玉県川口市に、なぜか「戦艦三笠」に関係するものが残っているというので、足を運んでみた。

そこには、遠目でもわかる状態で、三笠のスクリューが住宅地に忽然と陳列してあった。


三笠

日露戦争の日本海海戦での第日本帝国海軍の連合艦隊旗艦を務めた。
世界三大記念艦のひとつ。

三笠は、敷島型戦艦の4番艦。イギリスのヴィッカース社で建造され1902年(明治35年)竣工。

昭和20年の終戦後、三笠はソ連の圧力で解体処分されそうになるが、米軍の調整により解体は免れるも、戦後の荒廃で金属やチーク材などは盗まれ、そして米軍によってダンスホールや水族館などの娯楽施設が艦上に開設された。


軍艦「三笠」のスクリューの一片と補助舵輪

軍艦「三笠」のスクリューの一片と補助舵輪
 明治38年5月27日は日本連合艦隊がロシアのバルチック艦隊に大勝した日である。其の時の旗艦「三笠」の栄誉をたたえ横須賀に記念艦とし此のスクリューの一片と補助舵輪は共に保存されてありました。
 昭和20年8月15日終戦後進駐軍より三笠艦を解体せよとの命令に従い惜しくも東郷元帥が指揮をした司令塔Z旗を掲揚したマスト等の解体作業が進められた其の折此の三笠艦のスクリューの一片と補助舵輪は私石井が幸いにして入手した次第であります。
 此のスクリューはイギリスのストーンブロンズ社が鋳造したもので奇しくも石井を英訳するとストーンであり而も同じ特殊ブロンズの鋳造会社であるが故に栄光に奇縁を添えた三笠艦のスクリューの一片と補助舵輪は石井家の宝として保存するものであり恂寿
 昭和59年10月吉日
  ストーンブロンズ株式会社
  石井次郎 記述 書

STONE’S BRONZE
LONDON 1899

なお、「三笠」は、保存のため陸地と固定されているため、スクリュー含め艦底部分は埋められている。

補助舵輪

ちなみに下記は、今の三笠についている艦橋の舵輪。(意識せずに撮影してました)
かなり大きさが違う。
補助舵輪は、どこに設置されていたのだろうか。
この大きさを設置しようとすれば、艦内では、それなりのスペースを必要とする。

まちかどスポット賞 川口市 1988

大砲のような鋳造品。

場所

https://maps.app.goo.gl/TiYs772Fy3HHTb89A

撮影:2024年2月


三笠関連

川口関連

意外と川口には、いくつか戦跡関連の話題が集まっている。

三菱重工「横浜造船所跡」と「三菱みなとみらい技術館」

横浜の「みなとみらい」は、かつては、三菱の横浜造船所であった。
往時の物語るものが、「三菱重工横浜ビル・三菱みなとみらい技術館」の片隅にある。


横浜造船所関連

日本丸の第一号船渠と、ドックヤードガーデンの第二号船渠

横浜造船所で造艦された「山汐丸」


三菱重工業株式会社 横浜造船所跡

三菱重工業横浜船渠として、旧海軍では練習巡洋艦「香取」「鹿島」「香椎」、陸軍護衛空母「山汐丸」、測量艦「筑紫」などを造艦した。
なお、三菱と合併前の「横浜船渠」時代では、軽巡洋艦「那珂」駆逐艦「吹雪」航空母艦「龍驤」などを手掛けている。

三菱重工業株式会社 横浜造船所跡
横浜造船所は明治24年(1891) 有限責任横浜船渠会社として発足、昭和10年(1935) 三菱重工業株式会社と合併し 三菱重工・横浜造船所となった。
横浜港出入り船舶の修理から始め、その後新造船、鉄橋、原動機、環境装置に事業を広げ、横浜市と共に発展してきた。
昭和58年(1983)「みなとみらい21」計画に沿い、この創立の地から本牧と金沢へ工場を移転し横浜事業所としてその事業を継続している 
 平成6年3月 

この記念碑の石材は、横浜造船所二号ドック(現ドックヤードガーデン)の底部に使われていたものです。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:897-C8-107
昭和19年(1944年)10月14日、日本陸軍撮影の航空写真を一部加工。

日本丸の第一号船渠と、ドックヤードガーデンの第二号船渠で位置関係を把握できる。


三菱重工横浜ビル・三菱みなとみらい技術館

三菱みなとみらい技術館が併設されている三菱重工横浜ビル。
三菱の技術を垣間見える施設。


三菱みなとみらい技術館見学1

せっかくだから見学します。

この台座に使われている石は明治30年完成の2号ドック(現ドックヤードガーデン)の石材の一部である。

三菱グループのはなし。

三菱の歴史。

岩崎彌太郎

1929 客船「浅間丸」建造
1939 零式艦上戦闘機制作

1931 日本初の国産戦車「八九式中戦車」制作
1942 世界最大の戦艦「武蔵」建造

空の夢が宇宙へと続く、挑戦のあゆみ

1923 Type10 Carrier Fighter (一〇式艦上戦闘機)
1927 Mitsubishi MC-1(三菱 MC-1)
1937 KAMIKAZE (神風号・雁型通信連絡機)

1939 Mitsubishi A6M Zero 零式艦上戦闘機


三菱みなとみらい技術館見学2(模型)

三菱が創り上げてきた乗り物たちの模型がありました。
ここで、私の時間はガッツリと持っていかれてしまい。

The History of Vehicles 乗物の歴史

実は模型コーナーは、出口の目の前にあった。
出口前で、私は、模型コーナーをもちろんスルーできずに吸い寄せられてしまいました。

飛行機関連は、すべて縮尺1/25で作成。

以下、飛行機模型を。。。

艦上戦闘機一〇式二号(海軍)
1921年(大正10年)
海軍として日本初の空母搭載用戦闘機で三菱内燃機(現:三菱重工)が開発・製造した。英国製エンジンを三菱が製造、骨組みは木製でボディーは布張り、複葉機(主翼が上下二枚)だが、当時の戦闘機としては充分な仕様であった。一号機は乗員2名だが、当機二号機は前後に一人ずつ搭乗し練習機としても使用した。

艦上雷撃機一〇式(海軍)
1922(大正11年)
雷撃機とは、戦闘機から水上艦へ魚雷攻撃するもので爆弾を投下するより命中率が高い。
本機は日本軍で唯一の三葉機(主翼が三枚)で運動性能は良好であったが単座(一人乗り)のため攻撃の正確性に欠け20機の生産で終了となった。

艦上攻撃機一三式二号(海軍)
1924(大正13年)
英国人の設計で三菱重工が製造、まだこの時代もボディーは布張りだが骨組みは鋼管になった。複座で前座の操縦席と後座の銃座に分割、よって攻撃性が高まった。一三式全種で400機以上生産。

練習機 己式一型(陸軍)
1924(大正13年)
フランス アンリオ社から3機購入試用し以後ライセンス生産となった、エンジンは気筒自体がプロペラと一緒に回転、操縦の容易性に定評で初歩練習機としても活躍した。

神風号(司令部偵察機九七式一型の改造機)
1937(昭和12年)
朝日新聞社は英国ジョージ6世の戴冠式に向け陸軍の九七式司令部偵察機の試作機を高速通信機に改造し、1937(昭和12年)4月、操縦士、機関士の2名で立川飛行場を離陸、途中11ヶ所を経由して4日後にロンドンに着陸しました。全行程1万5357kmを94時間、実飛行51時間で都市間連絡飛行の新記録をたて、当時の国民はこの大記録に熱狂しました。 

水上観測機 零式(海軍)
1936(昭和11年)
観測機の役割は戦艦同士の砲撃で命中率を高めるために着弾位置を上空から観測し誤差の週製情報を戦艦に伝えること。艦上から見渡せない敵艦の向こう側の着弾位置など正確に計測可能。偵察機としての役割も果たせます。従って攻撃力は低くても運動性能を重視し当時の技術では複葉機(主翼が2枚)が充分な成果を発揮した。

ひなづる(旅客輸送機)
1936(昭和11年)
英国エアスピード社製エンボイ機のライセンス生産で11機製造した。骨組みは木製で胴体は合板、翼は布張りで、乗員1名、乗客6名。後にこの旅客輸送機「ひなづる」は日本海軍が徴発し「エンボイ」と呼称を変え輸送機として使用した。

陸上攻撃機一式一一型(海軍)
1940(昭和15年)
従来の攻撃機と同等な空気抵抗で胴体径を増すことに成功した、それにより爆弾、魚雷を機内内部に収納でき、高速飛行と俊敏な機動力で敵機をかわすことができた、2400機を生産。

一式陸上攻撃機、ですね。

艦上戦闘機  零式五二型(海軍)
1939(昭和14年)
零戦の制作機数は日本機中最大の10,430機、当52型は主翼の折畳式を廃して短め、先端部を円形にしたこと更にエンジン排気はエンジンカバーの外周に沿って円形に分割したのが特徴、それにより空気整流と推進増加で最高時速が従来型より20km増強、急降下速度も米機に匹敵した。

艦上攻撃機九七式二号(海軍)
1936(昭和11年)
当機二号は、三菱重工製、一号、三号は中島飛行機がそれぞれ開発、製造を担当した。
二号は固定脚のため振動が少ないという利点があった、乗員3名で魚雷を1基搭載している。

零戦52型と、97艦攻2型

艦上戦闘機 九六式二号二型(海軍)
1937(昭和12年)
空中戦を重視し軽量、高速、運動性能を追求した設計、3回の改良を重ね当機は特に視認性を上げるために風防を開閉式にした。高速性、運動性能には主翼を熱くして主翼後方に設けたスプリットフラップ(下げ翼)を設けた。外国機の模倣から脱却した機であり、後に零戦へと継承される。

重爆撃機 九七式二型(陸軍)
1937(昭和12年)
機体は三菱重工製だがエンジンは中島飛行機製で九三式の後継機である。武装・防弾を強化しているが、高速性も確保しており制空権争いに実力を発揮した。生産数は2千機を超えている。

襲撃機 九十九式(陸軍)
1939(昭和14年)
襲撃機とは、爆撃機と異なり高度100m程度の超低空飛行で森陰から敵地を急襲するのに適したもの、そのため本模型は迷彩柄で武装している。戦闘機ほどの俊敏性はないが偵察機としての任務も可能。

司令部偵察機一〇〇式三型(陸軍)
1939(昭和14年)
高度6000mで最大時速630kmは「零戦」より早く敵機も振り切る速度である、機首からキャノピー(操縦席の風防)までを一体型にした流線型と1500馬力の双発エンジンで高度高速の偵察を可能にした。

陸上攻撃機 九十六式二一型(海軍)
1935(昭和10年)
主脚引込式や頭のないリベット(沈頭鋲)で空気抵抗を低減、可変ピッチプロペラで速度に応じた羽の角度を調整して燃費向上、など長距離攻撃機としての技術力を駆使している。
また、派生機として「ニッポン号」がある。(別途模型展示しています)

ニッポン号(輸送機)
1939(昭和14年)
海軍の九六式二一型攻撃機(別途模型展示しています)を長距離輸送機に改造した双発機。海外親善を目的とした改造機で兵器を取り外し大容量の燃料タンクを増設、割ピン1本、ナット1個も交換することなく世界一周を成功させた純国産機。

MC-20(旅客輸送機)
1939(昭和14年)
軍用輸送機の民間転用機で三菱重工が開発・製造、大日本航空のほか満州航空、中華航空でも運行、国内企業の社有機としても使用され、軍用機と合わせ500機以上生産された。乗員4名、乗客11名。

局地戦闘機【雷電】(海軍)
1942(昭和17年)
上昇力と速度向上のため大馬力エンジンを搭載、そのため機首から胴体中央まで大型化され空力特性に苦労したが中高速では零戦よりも横転性能が向上した、数多くの改良がなされたが総生産は600機程度であった。

重爆撃機【飛龍】(陸軍)
1942(昭和17年)
航続距離3800kmは当時日本軍機でトップクラス、高度6000から600km/hで急降下し超低空飛行も可能。機首と2つのキャノピー(風防)は防弾ガラスで急降下爆撃に威力を発揮した、また陸軍でありながら雷撃(魚雷発射)可能は珍しい。

キ‐83 遠距離戦闘機 試作(陸軍)
1944(昭和19年)
敵地奥まで進行できるよう遠距離戦闘機の開発となった、単発から双発エンジン、単座から複座(操縦席と後部座席の二座)仕様、最大速度650km/hだが、のちに米軍が接収し米軍仕様のハイオクタン価燃料で762km/hを記録した。これは米軍機の記録759Km/hを上回るものであった。

艦上戦闘機十七試【烈風】(海軍)
1944(昭和19年)
第二次世界大戦において戦闘機は日々敵国との開発競争に追われ抜きつ抜かれつの連続であった。三菱重工が開発した「零戦」も破竹の勢いで脅威を与えたが、やがてヘルキャット、コルセアの登場で劣勢になっていく、そこで三菱は次機種となる「雷電」の開発に着手、並びに「零戦」の改修型開発で多忙を極め後継機種の開発に大幅な遅れを取った、やがて「烈風」が誕生したが、量産前に終戦となったため試作機で終える事となった。

局地戦闘機【試作秋水】(陸海軍共同試作機)
1945(昭和20年)
陸軍、海軍、民間(三菱重工)共同開発の初のロケットエンジン試作機、B29の高度1万メートルに対抗するためドイツのメッサーシュミットを基に開発され試作機を7機まで製造したが、戦況の悪化で中断となった。尾翼無し、主翼のみが特徴的。

重爆撃機 九三式二型(陸軍)
1933(昭和8年)
陸軍からの要請を受け開発、全金属双発の重爆撃機は国内初であった、当初はロールスロイス社のエンジンで試作機を製作、後に三菱重工製エンジンを搭載した。機首と後方に旋回銃座が取り付けられており乗員は4名。

ここからは、戦後かな。

シコルスキーHSS-2Bヘリコプター
1964(昭和39年)

三菱重工にてノックダウン生産。エンジンも三菱重工製。

シコルスキーS-55Cヘリコプター
1953(昭和28年)

三菱が国内でノックダウン生産。

YS-11A ターボプロップ輸送機
1962(昭和37年)

三菱重工は最終組立を担当した。

MU-300(ダイヤモンド-1】ビジネスジェット機
1978(昭和53年)

三菱アメリカ・インダストリー社と共同開発。

ジェット戦闘機F-104 (航空自衛隊)
米国ロッキード社(1954年)

1962年(昭和37年)から三菱重工がライセンス生産。
F104Jは230機製造。スリムな機体形状から三菱鉛筆といわれたが、三菱グループとは無縁の会社。

ジェット戦闘機F-86F(航空自衛隊)
米国 ノースアメリカン社(1947年)

1956年(昭和31年)から300機をライセンス生産。
初代ブルーインパルスとしても活躍。1964年の東京オリンピック開会式で5色の五輪を描いた。

高等練習機T-2(航空自衛隊)
1971(昭和46年)

国産航空機として初の超音速機(マッハ1.6)
2代目ブルーインパルスとしても活躍。

ジェット戦闘機F-4E(航空自衛隊)
米国 マクダネル・エアクラフト社(1958年)

1968年(昭和43年)にF-$EJを三菱重工がライセンス生産。

三菱の艦船。

上:浅間丸 貨客船 1929(昭和4年)長崎造船所
下:鎌倉丸 貨客船 1930(昭和5年)横浜造船所
姉妹船にあたるが、搭載エンジンの違いから煙突の本数が異なっている。
両船とも日本郵船所有。

あるぜんちな丸 貨客船 1939(昭和14年) 長崎造船所
※のちに空母「海鷹」に改装。

戦艦「武蔵」

武蔵 戦艦 
1942(昭和17年)長崎造船所
全長263m 乗組員:3,300名
1937(昭和12年)海軍より三菱重工が正式発注を受けた長崎造船所として5隻目の大型戦艦、前年に大和が就役しており同級の姉妹艦だが、大和の弱点を改善し副砲塔周辺の防御力を強化した。巨大船でありながら船台建造であった(大和はドック建造)
3つのギネス世界記録に認定されている。
①世界最大の戦艦(総トン数)
②最大の艦砲を搭載した軍艦
③世界一被弾火薬量の多い軍艦

隼鷹 航空母艦
1942(昭和17年)長崎造船所
全長219.32m 乗組員:1187名
飛行甲板にエレベーター2基、零戦ほか53機搭載可能、40口径連装高角砲6基、蒸気タービン4基、推進スクリュー2軸、日本最大の豪華客船の建造中に空母に改造された。そのため母港は呉である。
太平洋戦争で生き延びたが商船への復帰は無く、1947(昭和22年)に佐世保で解体された。

伊19 一等潜水艦
1941(昭和16年)神戸造船所
第日本帝国海軍の一等潜水艦は伊(い)号、二等を呂(ろ)、続いて波(は)号、ホランド級と分類されている。
本艦は伊号の19番艦で、潜航深度100m、魚雷発射管6門、小型水上偵察機1機、ディーゼルエンジン2基を搭載。偵察機は主翼を後方に折り畳み、艦橋前方の格納筒に収納、飛行時は海上に浮上し、格納筒から引き出して主翼を広げた後、カタパルトで押し出す。
数々の太平洋線で活躍したが、1943(昭和18年)爆雷により撃沈された。

あまつかぜ 対空ミサイル護衛艦
1965(昭和40年)長崎造船所

蒸気機関車、ディーゼル機関車、電気機関車など。
三菱は機関車にも関わり合ったんですね。

なかなか見応えのあるのある展示館。もっともほぼ模型コーナーに釘付けだったけど、三菱目線でみてみるのも面白いかな。

※撮影:2023年12月


松戸飛行場の掩体壕基礎跡(松飛台)

2023年11月25日(土)。
陸上自衛隊 松戸駐屯地で、創立71周年記念行事が行われ、駐屯地一般開放がありましたので、足を運んで見ました。

せっかく松戸駐屯地に来ていたので、そのまま帰るのももったいないということで、さらに足を伸ばしてみました。

松戸駐屯地内の松戸飛行場の戦跡に関しては下記も。


松飛台

地名ともなっている「松飛台」は、旧陸軍が監督した逓信省航空局中央乗員養成所の飛行場の滑走路が所在した台地(松戸飛行場の台地)に由来する。
格納庫等があった東が松戸駐屯地、誘導路があった西が八柱霊園の一部に当たっている。

松飛台(飛行場跡)
戦時中パイロット養成が目的の「松戸飛行場」がここにあった
昭和15年(1940)、この一帯に総面積132万3000㎡、東西・南北1.2kmづつのL字形滑走路を持つ逓信省航空局、松戸飛行場中央航空機乗員養成所が完成しました。飛行場は民間パイロット養成を目的としましたが、軍人が所長ほか要職を占めており緊急時には軍事基地に転用されるものでした。戦時下では帝都防空を担う陸軍飛行場として機能しました。戦後は主要施設が陸上自衛隊に使用されています。付近は1960年代から工業団地として造成されますが、松戸飛行場の名を「松飛台」という地名に残すこととなりました。

松戸市観光協会(https://www.matsudo-kankou.jp/sightseeing/%E6%9D%BE%E9%A3%9B%E5%8F%B0%EF%BC%88%E9%A3%9B%E8%A1%8C%E5%A0%B4%E8%B7%A1%EF%BC%89/

松戸飛行場の掩体壕基礎跡

松戸飛行場の西側の空き地に、掩体壕の基礎といわれるコンクリート片が残存している。

礫レキの混じり具合から、たしかにこれは往時ですね。

空き地。ドラックストアとクリーニングの隣。

場所:松飛台入口バス停ちかく

https://maps.app.goo.gl/3VQf8jqvLauo5MJf8

界隈は、「松飛台」を冠する名称多し。

松飛台工業団地

松飛台商店会

松飛台公園

松飛台駅

松戸飛行場の名前を伝える「松飛台」は地名として根付いていますね。

※撮影:2023年11月


関連

松戸駐屯地 創立71周年記念行事・その3(訓練展示)

2023年11月25日(土)。
陸上自衛隊 松戸駐屯地で、創立71周年記念行事が行われ、駐屯地一般開放がありましたので、足を運んで見ました。
本編は、その3として「訓練展示」を。

その1は、下記より


記念式典

記念式典。
駐屯地は変われど、基本的な流れはどこも同じ。

入場

部隊観閲

松戸駐屯地司令は、陸上自衛隊需品学校長が兼務。

退出


音楽演奏


訓練展示

状況開始!

需品学校なので、災害救助をテーマにした訓練展示です。
交戦的なもはありません。

まずは、ヘリによる偵察から。

二輪車による偵察

軽装甲機動車LAV

災害派遣、出動
松戸市消防局、鎌ケ谷消防本部の合同

ヘリによる救難活動

需品教導隊による災害派遣の支援展開

給水や炊事、風呂の展開など。


松戸駐屯地あれこれ

厚生センター

心の古里

野草園

毒草地域

飯ごう炊事用炊事壕

飯ごう炊さん体験場って書くと、ちょっと楽しそう
(実際は訓練、、、)

需品学校

関東補給処松戸支処

第二校舎特科群

松戸駐屯地正門

南口

西口

※撮影:2023年11月


関連

松戸駐屯地 創立71周年記念行事・その2(記念碑群と広報展示室)

2023年11月25日(土)。
陸上自衛隊 松戸駐屯地で、創立71周年記念行事が行われ、駐屯地一般開放がありましたので、足を運んで見ました。

本編は、その2として「記念碑と展示室」の散策を。

その1は、下記にて。


松戸駐屯地の記念碑群

一箇所に集められた記念碑。ちょと洒落た庭園のような。。。

そして、結構摩耗している。。。

 皇紀2601年秋

闘魂

第4期機関生徒
昭和19年9月25日卒業記念

第1期操縦生徒卒業紀念

昭和16年3月卒業記念 

育翼雄飛

第2期機関生徒
昭和18年2月27日

雄鵬

第1期普通科操縦生徒  
昭和19年9月25日

表が、よめない、、、

第1期普通科整備生徒  
昭和20年3月24日卒業記念

これだけ、新しい。


広報展示室

駐屯地の展示室は、かならずチェックですね。

陸軍特別攻撃隊を募る檄文

第五十三戦隊長

航空写真

階級章

旧軍コーナー

岡村寧次大将の正装

岡村寧次大将の三式軍装
なぜに、ここに岡村寧次大将なのだろう。(戦争末期の支那派遣軍総司令官)

秩父宮の幼年学校時の御着用軍服

明治天皇の御使用手袋と
昭和天皇の御使用手拭い

需品学校ならでは、の展示室。

部隊の在るところ需品あり

※撮影:2023年11月

その3へ。


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