Date-SKN のすべての投稿

陸軍通信隊に接収された「浴風会本館」(杉並区)

東京都杉並区高井戸にある社会福祉法人「浴風会」。
歴史的建造物にして、陸軍に接収された歴史を有するというので、足を運んでみた。


浴風会

社会福祉法人。高齢者医療の浴風会病院や老人ホームなどを運営。

大正12年(1923年)9月1日の関東大震災で自活できなくなった高齢者の援護を行うために、御下賜金や義損金を財源として内務大臣の許可を得て財団法人として大正14年に設立。


陸軍中央通信調査部と浴風会

浴風会は、空襲対象となる地図では白塗り(白抜きは爆撃禁止)となっており、米軍爆撃対象から外れていた。それは、医療施設ということが米軍にも認識されていたからだろうか。
結果として、浴風会は爆撃されなかった。

昭和17年(1942)9月1日に浴風園東館上下を「陸軍参謀本部・陸軍中央通信調査部」に貸与したことから、陸軍の接収がはじまる。
昭和19年(1944)3月25日に西館上を同じく貸与し、5月11日には西館下と礼拝堂を貸与。

昭和20年5月25日に、浴風会本館の第二第三病室、つづいて6月29日に第一第四病室を貸与。
こうして、浴風会の大半を、「陸軍中央通信調査部」が接収することになった。

「陸軍中央通信調査部」とは体外的な組織名で、実際に浴風会を接収していた部隊は「陸軍中央特殊情報部(特種情報部)」(略称:特情部)であった。
特情部は暗号解読や通信傍受などの極秘任務の最高機密情報を取り扱っていたことから、部隊名を隠していたという。

陸軍の北多摩陸軍通信所が、昭和18年に陸軍中央特種情報部(特情部)通信隊と改称し、戦局が悪化すると、この特情部は、「浴風園」に疎開したというものであった。

特情部は、昭和20年8月6日に広島に原爆を投下したB‐29がテニアン島を発進した通信や海外放送でポツダム宣言受諾する通信なども傍受していた。
終戦時に、特情部は、浴風会本館3階で、現存する全機密文書の焼却を実施している。

参考:
https://www.yokufu-hp.jp/about/history.html

https://meigaku.repo.nii.ac.jp/record/474/files/shakaifukushi_146_23-65.pdf

北多摩陸軍通信所


皇后陛下行啓記念碑

正門近くに記念碑がある。

皇后陛下行啓記念碑

昭和12年5月24日 行啓
 昭和13年5月
  浴風会建之

建立時は、銀色で行啓の御道筋が描かれていたようだ。

昭和12年5月24日
皇后陛下浴風園行啓園内御道筋畧図
御道筋銀色線


乙女地蔵

横浜分園(昭和18年廃止の分園)にゆかりのある地蔵。

「乙女地蔵」の由来
 この石碑は、浴風会横浜分園(昭和3年から昭和18年まで設置)勤務の主任看護婦若田ナカさんが23歳の若さで病死されたのを惜しみ、有志の手で昭和17年に建立されたものです。
 若田ナカさんは、昭和11年から当分園に勤務され、同僚からは姉のように慕われ、利用者からは天使のように愛され、青春をかけて献身看護にあたられた方です。
 永らく分園の跡地(現神奈川県立栄養短大)にありましたものを、このたび移設いたしました。
 この碑の表面には「聖ナル使命ニ殉セシ乙女ノタメニコノ碑ヲ建ツ」とあります。
  平成15年9月吉祥日
   社会福祉法人 浴風会

聖ナル使命ニ殉セシ乙女ノタメニコノ碑ヲ建ツ
昭和17年9月吉祥日

笠地蔵
こちらはユーモラス。由来は不詳。


浴風会・本館

大正15年(1926年)8月1日竣工。内田祥三の設計による。内田祥三は東京大学安田講堂を始めとした「安田ゴシック」建物が有名。
「東京都選定歴史的建造物」指定。

昭和20年5月に、陸軍に接収されている。

浴風会本館
東京都選定歴史的建造物
 所在地 杉並区高井戸西1-12-1
 設計者 内田祥三・土岐達人
 建築年 大正13年(1926)

浴風会本館は関東大震災後、高齢・障害のある被災者のために建てられたものである。建設当時は、この本館を中心としてほかの建物をほぼ対称に敷地全体に配置した構成となっていた。
鉄筋コンクリート造り、地下1階:地上2階一部3階建て、壁はスクラッチタイルで大きな窓がある。中央の塔が全体を象徴し、塔で垂直線を強調したデザインを用い、翼部は庇等によって水平線を表している。このデザインは、東京大学安田講堂(設計:内田祥三)と共通するもので、この時代の特徴でもある。
 東京都生活文化局
  平成13年3月

内田ゴシック感のある本館。

完全なシンメトリーではなく、中央の塔がずらしてある。


浴風会・礼拝堂

昭和2年(1927)竣工の礼拝堂。
昭和19年には、陸軍に接収されている。


浴風会・庭園

中庭の庭園。シンメトリーなモニメントもある。

小さな池には、本館を模したミニチュアモニメントもある。

※撮影:2023年12月

※場所:

https://maps.app.goo.gl/2sDHytgYNwaQRYht8


杉並関連

東郷の私設副官と称せられた海軍中将「小笠原長生の墓」(世田谷・府中・伊豆長岡)

小笠原長生は、東郷平八郎に傾倒し「東郷の私設副官」「東郷さんの番頭」「お太鼓の小笠原」などと呼称されるほどに東郷平八郎の顕彰活動・聖将化に多大な影響があった人物。

そんな小笠原長生の墓巡り。

  • 幸龍寺(東京世田谷) 小笠原家の江戸の菩提寺・小笠原家累代墓所
  • 東郷寺(東京府中)  開基を東郷平八郎、副開基を小笠原長生とする寺院
  • 近松寺(佐賀唐津)  小笠原家の唐津の菩提寺
  • 宗徳寺(伊豆長岡)  戦後に隠棲した伊豆長岡の古刹

なお、唐津の近松寺は未訪問


小笠原長生

小笠原 長生(おがさわら ながなり)
1867年12月15日(慶応3年11月20日) – 1958年(昭和33年)9月20日)
海軍軍人(海軍中将)、華族(子爵)。幼名は賢之進。佐賀県出身。
階級位階勲等功級は、海軍中将、正二位勲一等功四級子爵。忠知系小笠原家14代目。

江戸幕府老中を務めた小笠原長行の長男。
明治6年(1873年)9月、忠知系小笠原家13代の義祖父長国(肥前唐津藩主)の隠居により家を相続。
明治17年(1884年)9月に海軍兵学校に入学。同年7月、子爵を授けられる。
明治20年(1887年)7月、海軍兵学校(14期)を卒業。成績は45人中35位。なお、同期には鈴木貫太郎らがいる。

明治37年(1904年)1月、軍令部参謀に就任して日露戦争を迎えた。同年7月、海軍中佐。
軍令部参謀として海軍司令長官東郷平八郎の知偶を得て、その才を認められ、明治44年(1911)に、軍令部出仕兼参謀のまま学習院御用掛となった。ときの学習院院長は乃木大将。

明治天皇崩御の際の乃木大将夫婦殉死前後の大将と深くかかわることになり後事を託され、乃木将軍の長生宛の遺言や常用された書籍類が遺品として長生の手元に残された。

大正3年(1914年)4月から大正10年(1921年)3月まで、皇太子裕仁(昭和天皇)の教育を担う東宮御学問所幹事を務める。このときの東宮御学問所総裁は東郷平八郎。元帥東郷平八郎のブレーンとして伝記や読本などによって東郷の神格化に拍車をかけた。

大正3年(1914年)12月に海軍少将。大正7年(1918年)12月、海軍中将に進級し待命。大正8年(1919年)12月に休職し、大正10年(1921年)4月に予備役編入となり宮中顧問官に就任。昭和20年(1945年)11月まで在任した。

昭和22年(1947年)、公職追放の処分を受けて伊豆に閉居。
昭和33年(1958年)、死去。90歳没。


小笠原長生の墓(世田谷の幸龍寺・小笠原家墓所)

小笠原長生の墓が世田谷区にあるというので、足を運んでみたことから、芋づるで小笠原長生の墓を巡ることになるなど。
まず、足を運んだのが、東京都世田谷区北烏山5丁目に鎮座する「幸龍寺」。
旧唐津藩藩主小笠原家累代墓所でもある。
なお、世田谷区には、海軍軍人として、永野修身、小澤治三郎、堀悌吉の墓もあったりする。

旧唐津藩藩主小笠原家累代墓所がある。

小笠原家之墓

ちなみに、 小笠原長生の父・小笠原長行は当初「谷中墓地」に埋葬されていたが、後年、長生によって幸龍寺に改葬された。

鐵櫻院殿無畏長生日来大居士 
小笠原長生公 
正二位勲一等功四級 
昭和33年9月20日

三階菱の家紋

昭和32年12月建之
 小笠原長生

幸龍寺

なお、幸龍寺には、内海好江師匠の墓や長谷川雪旦の墓(唐津藩御用絵師)もある。

場所:

https://maps.app.goo.gl/6U32EmFr6K6nVnNo8

※撮影:2023年12月


小笠原長生墓(東郷寺境内の供養墓)

府中の東郷寺。
東郷寺は東郷平八郎元帥海軍大将を開基とし、副開基を小笠原長生海軍中将とする、身延山久遠寺を総本山とする日蓮宗寺院。山号は「聖将山 東郷寺」東郷没後に東郷家別荘・農園があった当地に昭和14年(1939)に小笠原長生を始めとする海軍関係者が中心となって建立。

境内の西エリア手前。
東郷寺副開基の小笠原長生子爵(海軍中将)を祀る。

小笠原長生の本墓は世田谷区烏山幸龍寺。
ここ東郷寺は供養墓となる。

東郷元帥墓と小笠原墓は並んで建立。
当地にて死してなお東郷の側にいられるというのは小笠原としては本望極まりないことだろう…

東郷寺の様子は下記にて。

ちなみに、東郷と小笠原以外の著名人として、豊田副武、貞閑勝見、河本大作の墓がある。

※撮影:2017年12月


小笠原家の墓(伊豆長岡の宗徳寺)

昭和20年の敗戦とともに、小笠原長生がが勤めていた宮中顧問官の制度は廃止。
昭和22年、小笠原長生は公職追放となり伊豆長岡の地に隠棲。
昭和29年、 昭和天皇は長岡まで行幸され、小笠原に長年の御辛労に感謝の御言葉をかけられた。その4年後、昭和33年秋、卒。92歳であった。

小笠原家墓

鐵櫻院殿無畏長生日来大居士 俗名 長生
 正二位勲一等功四級 慶應3年11月20日生

昭和28年6月3日
 小笠原長生建之

小笠原長生は昭和33年に亡くなっている。
本墓石は、生前に建立したことがわかる。

ここには、小笠原長生子爵とその母、夫人、継夫人、夭折した息子長孝の名前が刻まれている。

三階菱の家紋

墓所の入口、右側の木立に、小笠原家の墓がある。

軍人墓

伊豆長岡の宗徳寺、山門

長岡山

場所

https://maps.app.goo.gl/99GzSFwURE5G5Aqf7

※撮影:2024年8月


関連

長岡空襲の慰霊巡拝と長岡史跡散策

新潟県長岡市。
長岡は、2度の戦災で焼失をしている。戊辰戦争と太平洋戦争。
そして、太平洋戦争では、新潟県下で最大の被害をだしている。
長岡空襲の鎮魂巡礼をさせていただきました。
(ただし、時間の関係があり、すべての慰霊碑を網羅しておりません。)

以下、戦跡と碑石と墓所の散策。


長岡空襲

昭和20年(1945年)8月1日の午後10時30分から翌8月2日の未明午前0時10分の間に、アメリカ軍により行われた空襲。
1時間40分にわたり、新潟県長岡市の中心部市街地を標的に、125機のB-29によって925トン焼夷弾が大量に投下され163,000発あまりの焼夷弾が長岡市に降り注いだ。これにより中心部市街地の約8割が焼失し、長岡市長だった鶴田義隆を含む1,488人の市民が死亡した。罹災戸数は11,986戸にも及ぶ。

総務省>

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/situation/state/shinetsu_02.html


長岡市>

https://www.city.nagaoka.niigata.jp/kurashi/cate12/sensai/kuusyu.html

長岡は、山本五十六の出身地でもあり、長岡空襲の爆撃中心点は、結果として山本五十六の生家の近くの明治公園であった。

以下、関連する史跡を散策。


長岡戦災資料館

資料館がある。まずは、事前情報として、最初に足を運ぶことをお勧めます。
(私は、時間の制約があり、最後に見学でしたが)

https://www.city.nagaoka.niigata.jp/kurashi/cate12/sensai/siryoukan.html

場所

https://maps.app.goo.gl/ewx8wxgYAQT5jyFV6


長岡空襲爆撃中心点の碑(明治公園)

山本五十六生家の山本公園の近くにある明治公園。
ここが、長岡空襲の爆撃中心点であった。

長岡空襲爆撃中心点の碑
米軍は、昭和20(1945)年6月に長岡地域を空撮し、リト・モザイクと呼ばれる精密な航空写真を作成した。そこに爆撃目標範囲となる半径4,000フィート(約1.2km)の円を描き、その円の中心点を狙って爆撃する作戦をとった。その地点がここ明治公園にあたり、長岡空襲における爆撃中心点である。
同年8月1日の長岡空襲では、この作戦に基づき125機の米軍爆撃機B29が大量の焼夷弾を投下した。それにより市街地の8割が焼け野原となり、現在わかっているだけで、1,486人の尊い命が失われた。
長岡空襲の史実を後世に継承し平和の尊さを伝えるため、ここに碑を建立する。
 平成28(2016)年8月1日
  長岡市

長岡のリト・モザイク(米国立公文書館所蔵)
記された円は確率誤差円といい、米軍は円内に着弾する確立を50%と見込んでいた。横軸070縦軸073の交わる位置が爆撃中心点である。
赤い線はB29の侵入経路であり、南西から北東へ飛行した。

明治天皇行在所御遺蹟(明治公園)

明治公園は、明治天皇が巡幸の途中に立ち寄った場所が由来となっている。明治天皇の北陸巡幸は1878年(明治11年)のことであった。

明治11年9月22日
明治天皇行在所御遺蹟
子爵牧野忠篤謹書

牧野忠篤は、旧越後長岡藩牧野家15代、貴族院議員。
忠篤は戊辰戦争で山本義路(帯刀)が戦死し無嗣となった旧長岡藩の家老山本家を、当時海軍勤務であった高野五十六少佐に家督継承させて再興するよう働きかけをして実現させている。

野本互尊胸像(明治公園)

明治公園には、互尊文庫(図書館)がある。
創設者・野本恭八郎(野本互尊翁)

野本互尊(恭八郎)は、教育者として互尊独尊の言葉を残し、山本五十六をはじめ、長岡出身の人物に大きな影響を与え、陽明学者の安岡正篤とも深い親交があった。
また、11月3日を文化の日(旧明治節)とし、富士山を国立公園とする活動も行っていた。

場所:

https://maps.app.goo.gl/ED7dYVrYvGvCgwcr5


戦災殉難者之墓(昌福寺)

長岡空襲に際して、身寄りが分からない遺体は合同で荼毘に付されましたが、遺骨の埋葬場所はなかなか見つからなかった。そうしたなかで、昌福寺が埋葬場所の提供。
1945(昭和20)年9月に遺骨はようやく埋葬された。そして、1947(昭和22)年9月には、市民の寄附により墓碑が建立された。

戦災殉難者之墓

昭和二十年八月一日当市戦災 殉難者市長ほか千百四十名 茲に有志相計り全市民の浄財を以って永く菩提を弔う

合掌

鵜殿春風の墓(昌福寺)

鵜殿団次郎(鵜殿春風)
幕末期の洋学者。蕃書調所教授。諱は長養、号は春風。

鵜殿春風の墓
 長岡藩士の鵜殿団次郎は天保2年(1831)生まれ。春風と号した。
 幼いころ神童とうたわれ、江戸に遊学し、蘭・英の学を修めた。数学・測量学に優れ、幕府の蕃書調所で数学を教授した。
 勝海舟をたすけて、西郷隆盛との交渉の間にたち、江戸開城を成功させた。
 長岡藩開戦後、急いで帰郷したが、病のため、明治元年(1868)38歳で没した。
 著書に「万国奇観」などがある。
 長岡市教育委員会

昌福寺
戊辰戦争では負傷者を手当てする軍病院としても機能した。
戊辰戦争戦後間もない明治2年、米百俵で有名な小林虎三郎が焼失を免れた昌福寺の本堂を借りて学校を開校している。
「長岡国漢学校発祥之地碑」が門前にある。

場所:

https://maps.app.goo.gl/kJC4Gcwmbio2VYPo8


河井継之助の墓(栄凉寺)

河井継之助の墓
 文政10年(1827)1月1日、長岡城下同心町(表町)に生まれた。幼少から文武にいそしみ、主に陽明学を修めた。
 河井家の禄高は、120石であったが、その才腕を認められて長岡藩政を指導し、のちに家老上席、軍事総督となった。
 北越戊辰戦争では、新政府軍との小千谷談判にのぞみ、意見が通らず開戦となった。長岡城攻防戦では、よく奮闘してその名を高めた。長岡城を奪還した際、傷を負、慶応4年(1868)8月16日、会津塩沢で陣没した。
 長岡市教育委員会

河井家の墓は此處
忠良院殿が継之助様であります

墓石がいくつかあるが。

ひときわ、ぼろぼろなのが、河合継之助の墓と思われる墓石。
長岡を荒廃させた張本人として恨む者たちによって、何度も倒された墓石という。

牧野家代々の墓(栄凉寺)

栄凉寺は、長岡藩牧野家の菩提寺でもあった。

二見虎三郎の墓(栄凉寺)

河井継之助が長岡藩の運命を決めた小千谷談判に随行した唯一の長岡藩士。

戦歿者供養塔(栄凉寺)

明治戊辰戦争以降太平洋戦争終了迄の戦歿者を合祀。

合掌

栄凉寺

場所

https://maps.app.goo.gl/s9Ta2dase21kZo8b7

この日は、河井継之助記念館は休館日でした。。。

まあ、長岡はまた来ると思います。

撮影:2023年9月


長岡空襲関連史跡について

長岡市サイトをベースに散策するのをおすすめします。

https://www.city.nagaoka.niigata.jp/kurashi/cate12/sensai/sensai5.html

①模擬原子爆弾投下地点跡地の碑(左近町、永代橋付近)
②柿川戦災殉難地の碑(柳原町、柳原公園)
③戦災殉難者慰霊塔(表町1、平潟公園)
④平和像(本町3、平和の森公園)
⑤長岡空襲爆撃中心点の碑(坂之上町3、明治公園)
⑥戦災殉難者之墓(四郎丸4、昌福寺)

1番から4番まで、まだ巡礼できていません。。。
機会あれば、再訪します。


関連

「聯合艦隊司令長官・山本五十六」由縁の地を巡る(長岡)

長岡に赴く機会があった。
長岡といえば、山本五十六。せっかくなので、山本五十六元帥ゆかりの地を巡ってみる。


山本五十六

新潟県長岡出身。
旧姓は高野(たかの)。
海兵32期、海大甲種14期。第26、27代連合艦隊司令長官。
海軍兵学校では、同期生に堀悌吉、塩沢幸一、嶋田繁太郎、吉田善吾などがいる。

昭和18年4月18日、ソロモン諸島前線視察の際、ブーゲンビル島の上空で戦死(海軍甲事件)。
日本において皇族・華族以外で、国葬を受けた最初の人物。


山本元帥生誕記念公園

山本五十六元帥の生家を復元し、記念公園として整備してある。

山本元帥誕生地

山本五十六は、1884年(明治17年)4月4日、新潟県古志郡長岡本町玉蔵院町(現在の長岡市坂之上町3丁目付近)で、旧越後長岡藩士(120石)・高野貞吉の六男として誕生した。
当時の父親の年齢から「五十六(いそろく)」と命名された。

山本元帥生誕記念公園記
 山本元帥は長岡の生んだ最大の偉人であるばかりでなく、明治・大正・昭和の三代に於ける日本の代表的偉人である。偉人は遠い處にあるのでなく、他にあるのでなく、我の中にある。誰れもの各個の性質の中にそれぞれ偉人の素質に存している。こゝに来り集まる青少年達よ、大人達よ、この人に學び、この人に倣え。然らば則ち亦偉人となることが出来よう。偉人とは自ら謙虚にして堅忍不抜、自らを人の中に置き、人のために、社會のために、國家のために捧げる人である。これが自らを大に生かす所以である。
 元帥は明治十七年四月四日、この地で、舊長岡藩士高野貞吉六男として生れた。時に貞吉五十六歳であった。後年赫々世界歴史上にその偉大さをうたわれた聖将山本元帥その人であった。長岡の歴史、山川、風土が元帥の修養努力と相待って、その人格と地位とを作り上げたのである。
 元帥の学んだ阪之上小學校、長岡中學校もこゝから近い。青少年達よ、この偉人に續け。元帥は自ら處すること嚴に他を處すること寛であった。自らを捧げて他を大ならしめる山本精神はこゝで生れたのである。
 こゝに我が景仰會が元帥の胸像を安置して、その誕生地を記念し、後進子弟の奮起を待つ所以である。
 昭和33年11月3日
 山本元帥景仰會

山本元帥生誕の地
 提督山本五十六は、明治17年(1884)、旧長岡藩士の髙野貞吉の六男に生まれた。
 高野家は代々儒官と槍術指南役をつとめ、質素倹約の生活を家風とした。
 五十六は海軍兵学校にはいり、大正五年、迎えられて旧長岡藩家老・山本家の名跡を継いだ。海軍次官を経て、連合艦隊司令長官。
 昭和18年(一九四三)太平洋戦争において戦死、元帥の称号をうけた。
 生家は戦災で焼失し、後に復元した。
   長岡市教育委員会


山本五十六胸像

山本元帥の胸像。

胸像は、昭和23年、霞ヶ浦の湖底から引き揚げられた胸部をブロンズ像に鋳直したもの。

もとは、山本五十六の戦死後の昭和18年12月に作られ、霞ヶ浦航空隊に設置されたコンクリート製の全身像。
終戦後に、米軍の破壊を案じた土浦海軍航空隊では、山本五十六元帥像の上半身を霞ヶ浦に沈め、下半身を台座近くに埋めたという。上半身はその後引き上げられ、現在は江田島の教育参考館に展示。
この地のブロンズ像は、胸像部分を鋳直復元したもの。

また、現在、陸上自衛隊土浦駐屯地武器学校内の予科練記念館前に建っているものは、戦後の平成16年1月に作った新しいブロンズ像となる。

以下は、土浦駐屯地内「雄翔館」前の山本五十六像。(2023年4月撮影)


山本五十六の生家

山本元帥生誕の地 
 山本元帥は、長岡藩士の髙野貞吉の第六男としてここに生まれ、のちに海軍兵学校にすすみ、少佐のとき長岡藩家老山本家の名跡の絶えるのをおそれ迎えられて山本家を継ぐ。
 大東亜戦に壮烈な戦死を遂げられ元帥府に列し、特に元帥の称号を賜る。ご生家は昭和20年の戦災で焼失したので、これを復元し、ここを山本記念公園と命名した。
   長岡市教育委員会

石膏の山本元帥の胸像。

山本五十六の手紙。
昭和17年に、相馬御風に送ったもの。相馬御風も山本と同じく新潟の出身(糸魚川)

位牌。

大義院殿誠忠長陵大居士

「長陵」は生前の山本が用いていた雅号

常在戦場

越後長岡藩・牧野家に代々伝えられてきた家訓。長岡藩の藩風・藩訓でもあった。

手前の左端に写っているのが、山本五十六であろうか。

山本五十六の手紙

終戦の詔

真珠湾攻撃の電文

手紙

便所

台所

廊下

階段

山本五十六の勉強部屋(二帖部屋)

部屋から、胸像がよく見える。

場所

https://maps.app.goo.gl/FCZ58Kcnn393ncAEA


山本五十六記念館

1999年に開業した山本五十六記念館。

http://yamamoto-isoroku.com/

山本元帥御愛育の名木「唐楓(とうかえで)」
 この楓は、山本五十六が鎌倉在住の頃に自ら買い求め、以後、大切に育てられていたものである。
 昭和14年、海軍次官官舎より青山の自宅に転居する際には、「その楓は、もとから官舎にあったものじゃないから持っていこう」と移しかえたという逸話が残っている。
 南青山の旧山本邸は、都市開発の関係で取り壊されたが、その際に有志により一旦移植され、丹念に生育された後、平成22年秋に山本五十六記念館に寄贈されたものである。

館内は撮影禁止。
下記のサイトで360度パノラマビューできる。

https://360vrpanorama.jp/yamamoto-isoroku/hall.html

見どころは、「一式陸上攻撃機・長官搭乗機の左翼」

昭和59年(1984)2月山本五十六の生誕100年を記念して、山本元帥景仰会は、ブーゲンビル島のジャングルをたずね、搭乗機の残骸を前に慰霊祭を行った。その後、パプアニューギニア政府の厚意により平成元年(1989)、左翼の里帰りが実現。

展示品

山本五十六記念館展示図録を購入しました。

場所

https://maps.app.goo.gl/o2w5Ss1LadW8FNjv5


山本五十六墓所(長岡・長興寺)

山本家の墓所。
長岡の山本家の墓では長岡藩が朝敵であった事から養祖父「山本帯刀」の墓が非常に質素に作られている。山本五十六の墓は、その山本帯刀よりもさらに質素に造られた為、戦死した陸海軍将官中、最も粗末な墓とされている。(多磨霊園の墓はまた別として) 

山本家の墓
 長岡藩家老職山本家は、武田信玄の軍師山本勘助の血脈。代々、藩主牧野氏に仕え、政治、文政に尽くした。
 特に老迂齋精義(ろううさいきよよし)は、名家老と称賛され、歴代の藩主を五十年にわたってよく助けた。幕末、帯刀義路(たてわきよしみち)は、北越戊辰戦争で大隊長として奮戦。会津飯寺で痛恨の死を遂げた。
 山本五十六元帥は、旧長岡藩士高野家から山本家を継いだ。はやくから航空機の重要性を説き、連合艦隊司令長官として、近代戦を指揮したが、昭和十八年四月十八日、南冥に散華した。
 長岡市教育委員会

山本家の墓。中央に山本五十六の墓石。左隣りに山本帯刀。

大義院殿誠忠長陵大居士

大正六年五月十九日 越後長岡 山本五十六

五十六 昭和十八年四月十八日於南太平洋戦死享年六十歳
十三 大義院殿誠忠長陵大居士 

最後の山本五十六の墓誌は、長男の山本義正氏が追記したもの。

旧長岡藩家老の山本家墓誌は山本家を相続した山本五十六によって記されています。
平成十六年(2004)十月二十三日の中越地震で崩壊した墓碑の改修にあたり父の戒名を加えて建立しました。
 平成十九年(2007)四月十八日
  山本義正

山本家の家紋は、左三つ巴紋

長興寺

場所

https://maps.app.goo.gl/dwNtciK67PvKwXAs5


山本五十六墓所(多磨霊園)

1943年(昭和18年)4月18日。 連合艦隊司令長官 山本五十六海軍大将戦死の日。 多磨霊園に埋葬。 墓字は山本五十六の国葬葬儀委員長を務めた米内光政による。

※2015年2月撮影

昭和18年6月5日に行われた山本五十六元帥の国葬の列は「水交社本部ビル」から出発し「日比谷公園」で国葬が行われた。葬儀委員長は米内光政。 皇族、華族ではない平民が国葬にされたのは、これが戦前唯一の例という。

山本五十六元師国葬 NHKアーカイブス https://www2.nhk.or.jp/archives/tv60bin/detail/index.cgi?das_id=D0009060058_00000 …


阪之上小学学校(長岡町立阪之上尋常小学校)

山本五十六は、明治23年(1890)4月、長岡町立阪之上尋常小学校)現在の阪之上小学校)に入学している。


新潟県立長岡高等学校(古志郡立長岡尋常中学校)

山本五十六は、明治29年(1896)4月、古志郡立長岡尋常中学校(旧制新潟県立長岡中学校)に入学。
正門は、国の登録有形文化財(建造物)、大正5年(1916)建立なので、山本五十六よりも新しい。


長岡駅

明治31年(1898)に開業。

昭和18年(1943)4月18日、一式陸上攻撃機に搭乗し前線視察中、パプアニューギニア ブーゲンビル島上空で米軍機の攻撃を受け山本五十六は戦死。
およそ一か月間極秘事項として伏せられ、5月20日、堀悌吉により山本家に五十六の訃報が伝えられる。
翌21日午後3時、大本営発表。
国民には新聞やラジオ報道を通じて「元帥府に列せられ国葬を賜う」と知らされた。
6月5日、東京麻布の水交社を出発した葬列は日比谷公園に到着、盛大に国葬は営まられた。
6月7日、長岡駅に到着した山本の遺骨は、多くの市民に見守られ菩提寺長興寺の山本家墓所に納められた。

※撮影:2023年9月


関連

土浦海軍航空隊

霞ヶ浦海軍航空隊

多磨霊園

12月8日

米内光政

井上成美

靖國神社の新春初詣(令和6年)

あけましておめでとうございます。
靖國神社、正月朔日の初詣。

境内の様子などを、徒然に。

清々しい青空

正月朔日の午後。

神門


玉串料改定のお知らせ

あら、こんなところにも値上げの余波が。

新春初詣の正式参拝を。

御本殿には、 明治天皇が明治7(1874)年1月27日に、初めて招魂社をご参拝された際に詠まれた御製が奉書された御宸筆の扁額が掲げられている。

年のはじめに、改めて御本殿の扁額に接する。

我國の為をつくせる人々の
 名もむさし野にとむる玉垣

※2019年特別展にて写しを撮影

御本殿の神鏡(明治10年11月14日の臨時大祭にて御親拝された 明治天皇の幣帛料で制作された。

※2019年特別展にて写しを撮影

国家のために尊い命を捧げられた人々の御霊みたまを慰め、その事績を永く後世に伝えるお社。

感謝と哀悼を。


今年は、設置場所が変わりました。

靖国名物の大絵馬。

令和甲辰

福引きは、安定の入浴剤。

甘酒振舞。
温まります、ありがとうございます。

毎年、いただいている「桜みくじ」

ちなみに、、、、凶でした。
まあ、この瞬間が、どん底ということで。


遊就館

獅子舞

振舞酒


初詣正式参拝の撤饌

撒下神饌はフリーズドライの甘酒。初めて頂戴しました。

御朱印
冬季限定 刺繍入り朱印
美濃和紙に獅子頭と万両の実、社紋を刺繍した朱印

お神酒と祝枡

※撮影:2025年1月1日


関連

「最後の海軍大臣・米内光政」所縁の地を辿る(盛岡・横須賀・東京)


米内光政

1880(明治13)年3月2日~1948(昭和23)年4月20日
海兵29期、海大12期、海軍大将、連合艦隊司令長官(23代)、海軍大臣(19代、24代)、内閣総理大臣(37代)を歴任。
 
支那事変当時の第一次近衛の内閣海軍大臣。
林・一次近衛・平沼内閣の海相を歴任、昭和15年には予備役入りし総理大臣(第37代)となり、支那事変の対応や三国同盟問題、戦争回避に尽力する。
昭和19年には現役復帰し小磯・鈴木内閣の海相として終戦の為に奔走。
戦後も東久邇宮・幣原内閣の海相として日本帝国海軍の最後を看取る。

首相官邸>

https://www.kantei.go.jp/jp/rekidainaikaku/037.html

国立国会図書館>近代日本の肖像

https://www.ndl.go.jp/portrait/datas/218/

盛岡市>

https://www.city.morioka.iwate.jp/kankou/kankou/1037106/1009526/1024995/1025018/1025020.html

ちなみに、学生時代の私は、卒論を「米内光政を中心とした海軍の対支政戦略」で書いていました。


岩手の米内光政

1880年(明治13年)、岩手県盛岡市に、旧盛岡藩士の米内受政の長男として誕生。

2023年8月に、盛岡を散策し、米内光政関連の地を巡ったので、以下に掲載。


米内光政像

盛岡八幡宮の境内に建立されている、米内光政像。
小泉信三による撰文。
小泉信三は、戦時下の慶應義塾大学の塾頭。米内光政と親交が深かった。

米内光政
 米内光政は、明治13年3月、旧盛岡藩士米内受政、母とみの長男として盛岡市下小路(愛宕町)に生まれる。盛岡中学を経て海軍兵学校へ進み、卒業後海軍少尉に任官、日露戦争では海軍中尉として従軍した。後にロシアやポーランドなどヨーロッパに駐在し、その地の実情を直に見聞した。1937(昭和12)年には林内閣のもと海軍大臣に就任し、陸軍の主張する三国同盟に反対した。この反戦主義の姿勢は終戦まで変わらなかった。
 天皇の信頼も厚く、1940(昭和15)年には岩手県出身者としては3人目となる内閣総理大臣に就任。しかし陸軍の反対に遭い半年後に退任した。太平洋戦争末期には小磯内閣のもとで4期目の海軍大臣として入閣、終戦のために尽力する。終戦後も海軍大臣に留任し、海軍省廃省の責任者として日本海軍の最期を見届けた。昭和23年4月20日逝去、享年69歳。

米内光政

米内光政自身の筆跡となる。

米内光政氏は盛岡の人
若くして海軍に入り進んで大将大臣に至り又内閣総理大臣となる
昭和二十年八月太平洋戦争の終局に際し米内海軍大臣が一貫不動平和の 聖断を奉じて克くわが国土と生民をその壊滅寸前に護ったことは永く日本国民の忘れてはならぬところである 
逝去十三年至誠沈勇のこの人今も世にあらばの感を新たにしつつこの文を撰ぶ
 昭和三十五年十月
  後進 小泉信三

場所

https://maps.app.goo.gl/1tDJamLqY4f5ueac7


米内光政首相と畑俊六陸相(米内内閣)

第37代内閣総理大臣・米内光政。
第二次世界大戦が勃発し、ドイツが攻勢を強めている情勢下において、陸軍は日独伊三国同盟締結を推進していく中で、阿部信行内閣の後継として畑俊六を首班として準備を進めていく中で、陸軍からの首班を嫌った、 昭和天皇が海軍の意中の人物として、米内光政を指名。
そうして軍事参議官・予備役海軍大将(米内は組閣に際して自ら現役を退いて予備役となった)の米内光政が、第37代内閣総理大臣に任命。1940年(昭和15年)1月16日から1940年(昭和15年)7月22日までの内閣。

米内内閣の陸相として畑俊六が就任するも、陸軍は米内内閣の組閣とともに倒閣を開始。ドイツのフランス侵攻を開始し降伏に追い込むと、陸軍首脳部は「陸軍の総意」として、畑俊六陸軍大臣が単独で辞表を提出米内は後任大臣を求めたが陸軍が拒絶し、これで米内内閣は、半年で総辞職となってしまった。

米内内閣倒閣の引き金となった畑俊六は、戦後の東京裁判において戦前最期の新英米派内閣であった米内内閣を倒閣させた罪状を問われてA級戦犯として起訴される。
米内光政は、弁護側証人として東京裁判に出廷し、米内内閣倒閣は畑の意思本意ではなく、陸軍組織として動かざるを得なかったことを踏まえ、畑俊六をかばった。
そうして畑俊六は死刑を免れ終身禁固となり、畑俊六は6年の服役後の1954年(昭和29年)に仮釈放となった。
畑俊六は、海軍の責任に関して極めて厳しく罵る回想メモを戦後に残しているが、その中でも米内光政に関しては、東京裁判で畑の弁護側証人として庇ってくれたことに恩義を感じ、米内に対する感謝感動を終生深く忘れることなかったという。

米内光政没後12年の昭和35年(1960年)、盛岡八幡宮の境内に米内光政の銅像が建立され除幕式が執り行われた際、81歳の畑俊六が、人目を避けるように黙々と周囲の草むしりをしていたと伝承されている。
畑俊六は昭和37年(1962年)、福島県棚倉城址に建立された戦没者慰霊碑除幕式中に脳内出血で倒れ82歳で死去している。(棚倉城址には「畑俊六終焉の地」碑もある。行かないと、です)


米内光政墓所

盛岡市の円光寺。

米内光政は、昭和23年4月20日、目黒区富士見台の自宅で68歳1ヵ月の生涯を終えた。
4月24日、自宅で仏式の葬儀と告別式が斎行。
葬儀委員長は、山梨勝之進大将であった。

山梨勝之進は、海兵25期、海大5期、海軍大将。条約派であったために大角人事で予備役となるも、米内光政らの推挙もあって学習院院長に就任。皇太子明仁親王の教育を任せられた。戦後は海軍の最長老の立場にあり、海上自衛隊の創建にも尽力した。山梨は長生きし昭和42年(1967年)90歳で死去。

米内光政墓所
 南部利英書

南部利英は南部家44代当主。
昭和13年(1938)には、岩手出身の陸軍大臣板垣征四郎の就任祝賀会に、同じく岩手出身の海軍大臣米内光政と板垣を左右として、南部利英を中央にした記念撮影なども記録に残っている。

米内光政銅像と同じ文面。書き起こしは省略。

米内光政の墓所。

救国の偉人 米内光政之墓

米内光政墓

天徳院殿仁海光政大居士

昭和23年4月20日歿
 享年69歳

緒方竹虎書

墓石の「米内光政墓」は友人であった緒方竹虎の書。
緒方竹虎は、朝日新聞副社長・主筆を経て、政治家に転身した人物。米内光政と親交があり、「一軍人の生涯 提督・米内光政」の書籍も残している。

米内家の家紋。

丸に違い鷹の羽

九代光政
天徳院殿仁海光政大居士
昭和23年4月20日

円光寺

場所

https://maps.app.goo.gl/3hkM83TkiJYjVXc36


米内光政居住地跡

米内光政が幼少期を過ごした八幡町。

米内光政居住地跡「説明」
米内光政は盛岡の下小路(愛宕町)で生れ幼少時代を八幡町で育ち、盛岡中学校(盛岡一)を経て、海軍兵学校に入り、以来、連合艦隊司令長官、海軍大将、内閣総理大臣、そして海軍大臣とすて終戦を迎えた。人格重厚沈勇、国家百年の計を思い大局を誤らず天皇の信任篤く、終戦内閣の中心閣僚として善処勇断よく祖国の壊滅を未然に護った偉業は、日本国民の永く銘記するところであります。
八幡宮境内に等身大の銅像が建っています。
 平成19年4月20日

突き当りは、銅像が建立された盛岡八幡宮。

場所

https://maps.app.goo.gl/aVCkhkm7jcQCV7GU8


盛岡市立下橋中学校(盛岡高等小学校)

岩手県内で一番長い歴史を持つ学校。
米内光政は、1890年(明治23年)、盛岡高等小学校に入学している。
米内光政のほかに、金田一京助、石川啄木も卒業生。

場所

https://maps.app.goo.gl/Jbymb9nSkWk5VzjY6


盛岡中学校濫觴の地(岩手銀行本店)

旧制盛岡中学校(現 岩手県立盛岡第一高校)の跡地。
旧制盛岡中学校は,、明治13年(1880)に「公立岩手中学校」としてこの地に設立された。
その後 「岩手県尋常中学校」「岩手県立盛岡中学校」と改称し, 大正6年(1917)に 現在地(盛岡市上田3丁目)に移転した。
戦後 昭和23年(1948)に「岩手県立盛岡第一高等学校」と改称。

米内光政は、1894年(明治27年)、岩手県尋常中学校に入学している。

旧制盛岡中学校の卒業生
海軍では、米内光政(海軍大将・海軍大臣)、八角三郎(海軍中将)、及川古志郎(海軍大将・海軍大臣)、多田武雄(海軍中将)。
陸軍は、板垣征四郎(陸軍大将・陸軍大臣)。
そのほか、郷古潔(三菱重工社長、東條内閣顧問)、文学方面では、金田一京助、野村胡堂、宮沢賢治、石川啄木など、そうそうたる卒業生を排出している。

岩手県立盛岡中学校濫觴の地

盛岡の中学校の
露台の
欄干に最一度 我を倚らしめ
 石川啄木

場所

https://maps.app.goo.gl/1b7NUp95tcsVcBMSA


盛岡市先人記念館

盛岡市の先人記念館。
ここには、金田一京助、新渡戸稲造、そして米内光政のコーナーが個別に設けられており、そのほか盛岡市の先人たちの記録が展示されている。
一見の価値ある記念館。

盛岡市先人記念館

米内光政 1880‐1948
 海軍大臣を経て第37代内閣総理大臣に就任、三国同盟締結阻止を貫きました。
 太平洋戦争末期に海相に復帰、冷静な判断力、的確な洞察力、一方にかたよらない姿勢で、戦争の早期終結に尽力しました。

新渡戸稲造と米内光政と金田一京助と。
館内は、この場所以外は撮影禁止。

盛岡市先人記念館案内図録と、米内光政のピンバッチを入手しました。

米内の特徴をよく捉えたイラスト。

盛岡先人記念館>

https://www.mfca.jp/senjin/yonai/index


横須賀の米内光政

昭和10年12月。
第二艦隊司令長官であった米内光政中将が横須賀鎮守府長官として着任。
このときの参謀長が、のちに重要な局面で度々コンビを結成する井上成美少将であった。

横須賀鎮守府
 長官 米内光政中将
 参謀長 井上成美少将

そして昭和11年2月26日。
米内と井上は、横須賀にて、「二・二六事件」を迎えることになった。

上記写真:横須賀鎮守府司令長官米内光政(中央) 参謀長井上成美(左から2番目)
(「井上成美」井上成美伝記刊行会の巻頭写真より)

米内光政は、二・二六事件で重傷を負った鈴木貫太郎の後任侍従長との声もあったが、横鎮長官職の次職慣例もありその話はお流れ。鈴木の後任侍従長は百武三郎海軍大将。 昭和11年12月に、第23代連合艦隊司令長官へ。(連合艦隊司令長官兼第一艦隊司令長官。)


米内光政と井上成美

井上成美とは、昭和10年の横須賀鎮守府、昭和12年の海軍省、そして昭和19年の終戦に向けての海軍省と、コンビを三度組んでいる。

昭和10年、井上成美は海軍少将に任命。横須賀鎮守府参謀長に就任。横須賀鎮守府長官は米内光政。二・二六事件を対処。

昭和12年、井上成美は海軍省軍務局長に就任。米内光政が海軍大臣、山本五十六が海軍次官。米内光政・山本五十六・井上成美の三人を「海軍省の左派トリオ」「海軍左派三羽烏」などと称した。
米内・山本・井上の海軍省は日独伊三国同盟に反対するも時勢の流れは変えることはできなかった。

昭和19年7月、サイパン失陥により東條内閣は崩壊。予備役であった米内光政が現役に復帰し、小磯内閣副総理格で海軍大臣に就任。米内光政海軍大臣の懇請で井上成美は海軍次官に就任。海軍省人事局の高木惣吉少将を、海軍省出仕とし、米内ー井上ー高木のラインで、終戦のための研究・海軍の終戦工作が行われた。


東京の米内光政

昭和8年に佐世保鎮守府長官、昭和10年に横須賀鎮守府長官を歴任し、昭和11年12月に、連合艦隊司令長官に就任。
しかし艦隊司令としてわずか2か月後の昭和12年2月2日に、広田弘毅内閣のあとを受けた林銑十郎内閣の海軍大臣に就任。
このときの米内は軍政には興味がなく、連合艦隊長官をわずか2ヶ月で退任することを非常に渋ったというが、海軍次官であった山本五十六が前海軍大臣の永野修身、軍令部総長の伏見宮博恭王の同意を得て強く推薦し、米内光政海軍大臣が誕生した。山本五十六は海軍次官を留任し、永野修身は米内光政と入れ替わるように連合艦隊司令長官に就任している。

この昭和12年の海軍大臣就任以降、米内光政は、否が応でも軍政に携わざるを得なくなった。


米内光政と山本五十六

※山本五十六に関しては、別記事の「長岡散策」をまとめました。

日独伊三国同盟に断固反対の立場を貫く、海軍省は、海軍大臣米内光政、海軍次官山本五十六、軍務局長井上成美で「海軍省の左派トリオ」「海軍左派三羽烏」と称されていた。

山本五十六は、昭和10年12月に海軍航空本部長に就任。昭和11年2月の二・二六事件では、横須賀鎮守府長官の米内光政と連携し、岡田啓介首相救出などに尽力し、このときの米内の対応を高く評価し、永野修身が海軍大臣を辞任した際に、後任に米内光政を推薦している。

昭和12年1月に海軍次官に就任。永野修身海軍大臣が山本五十六の手腕を熱望したものであったという。2ヶ月後に、広田弘毅内閣が総辞職し、海軍大臣も永野修身から米内光政に変わった。
山本五十六は、米内光政海軍大臣の下で、海軍次官として、林内閣・第一次近衛内閣・平沼内閣と歴任する。
こうして結果として、米内光政の海軍大臣就任は、永野修身の最大の功績ともなった。

昭和14年8月30日、山本五十六は、海軍次官から連合艦隊司令長官(第26代)に異動となった。
これは、三国同盟に強硬に反対する山本が、三国同盟賛成派勢力や右翼勢力により暗殺される可能性を米内が危惧し、一時的に海軍中央から遠ざけるために発した人事であった。

昭和15年、第二次近衛内閣の海軍大臣及川古志郎、海軍次官豊田貞次郎は、海軍省と軍令部の省部合同会議で総論として三国同盟締結に傾き、9月15日の海軍首脳会議にて調印に賛成の方針が決定し、9月27日、日本は日独伊三国同盟に調印することになった。
奇しくも、及川古志郎は、米内光政の盛岡中学の後輩であった。

山本五十六は、そのまま連合艦隊司令長官を再任し(第27代)、開戦へと歩みをすすめることになる。

海軍甲事件
昭和17年4月18日、前線航空基地の将兵慰労のために前線視察を実施。山本五十六が搭乗した一式陸攻は、米軍機(P-38ライトニング)に補足され、襲撃・撃墜され、山本五十六は戦死した。59歳。

昭和6月5日に日比谷公園で、山本五十六の国葬が行われた。葬儀委員長は米内光政元首相。
皇族・華族以外の者が国葬に付された最初の例であり、かつ戦前唯一の例である。

多磨霊園の墓碑も、米内光政の筆によるものである。


最期の海軍大臣

昭和19年、東條英機内閣が倒れると、米内光政は予備役から現役に復帰し、小磯国昭内閣の海軍大臣(第24代)となった。
軍部大臣現役武官制度により、すでに予備海軍大将となっていた米内が、海軍大臣に就任するためには、現役復帰の必要があり、米内の復帰は、「天皇の特旨」による極めて異例な復活であった。
小磯と米内の2名で組閣大命を受けたことから、米内光政は副総理格として、「小磯・米内連立内閣」とも称された。
米内光政は、当時、海軍兵学校校長をしていた井上成美を中央に呼び寄せ海軍次官に就任させた。

昭和20年、鈴木貫太郎内閣にも海軍大臣として留任。
米内は、連立内閣であった小磯首相が辞職して、副総理格であった自分だけが大臣にとどまるのは道義上問題があるとしたが、井上次官が根回しをし、米内は留任せざるを得ない状況となっていた。

戦後、米内光政は、引き続き東久邇宮内閣・幣原内閣でも海相に留任して帝国海軍の幕引き役を務めた。

昭和20年11月30日。
海軍省最後の日。
幣原内閣において海軍省は廃止され第二復員省となったことから、米内光政は、日本で最後の海軍大臣となった。


米内光政海相と阿南惟幾陸相

阿南陸軍大臣と米内海軍大臣は、気質的な部分でなかなか反りが合わなかったが、終戦するという認識の方向性は一致しており、6月に鈴木首相の発言で国会が混乱した際は、米内海相が辞意を表明したところ、連日口論をしていた阿南陸相が米内に辞意を思いとどまるように説得をしている。
阿南自身も、戦争を終わらせる、国を救う内閣が鈴木内閣であることを理解しており、鈴木内閣を最期まで支えるために米内を説得したともいえる。

昭和20年8月15日、阿南惟幾は自決。
最期に、「米内を斬れ」との言葉をはっしたともいうが、その真意は不詳。

終戦に至る過程で激論を繰り広げてきた、米内海相は、阿南の自決を聞くと「我々は立派な男を失ってしまった」と語った一方で、「私は阿南という人を最後までよくわからなかった」と感想を残している。
阿南の自決直後、米内海相は誰よりも早く阿南の弔問に訪れている。


米内光政と鈴木貫太郎内閣(終戦内閣)

鈴木貫太郎内閣(第42代)は、昭和20年4月7日に成立。
終戦内閣として、戦争を終わらせた内閣。
鈴木貫太郎首相の下、米内光政は海軍大臣(第24代)を留任し、終戦のために尽力をした。


東京の米内光政邸宅跡

都内における米内光政の居住地跡を巡ってみたいと思う。
以下はメモとして。

・赤坂区青山南町
  昭和3年(1928)7月に居住の記録有り
https://jahis.law.nagoya-u.ac.jp/who/docs/who8-24727
・渋谷区竹下町
  昭和15年まで居住(首相就任時に転居)
・麹町区三年町
  昭和15年に国会近くの地の新宅に転居。
  なお、首相時代には、首相官邸には居住せず、
  私邸から国会に赴いていた。
  麹町三年町の私邸は空襲で焼失。
https://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000068037
・芝区白金台三光町 → 港区三田綱町
  仮遇として居住していたという
・目黒区富士見台1545
  終焉の地


麹町区三年町の米内光政私邸跡
(米内光政邸跡の石灯籠)

麹町区三年町。このあたりに、昭和15年の首相時代から昭和20年まで米内光政の邸宅があった。
米内光政の麹町区三年町の私邸は、昭和20年5月の空襲で焼失している。
そのときの空襲は、昭和20年5月25日の「山の手大空襲」と思われる。

麹町区三年町。現在の千代田区霞が関。

石灯籠のあるちいさな公園がある。
このあたりに、かつて米内光政の私邸があった。
東京の米内光政を記録する僅かな痕跡。

石灯籠の歴史
 この石灯籠は、永田町一丁目の岩手県東京事務所の敷地内にあったもので、岩手県のご好意により全国社会福祉協議会にご寄贈いただきました。

 終戦時この敷地は岩手県出身の総理大臣米内光政の邸宅となっていました。

 また、江戸時代は伊勢志摩を起源とする水軍の九鬼長門守の中屋敷跡でした。向かいあってもうひとつ上屋敷がありましたが、その前を通る坂は「茱萸(ぐみ)坂」と呼ばれていました。

 この石灯籠は形状から江戸中期のもので春日灯籠。九鬼家の中屋敷に伝わっていることから九鬼家由来のものであると考えられます。

 平成24年3月17日、永田町一丁目四番地から六本木通りを隔てて新霞が関ビル公開空地に移設いたしました。堂々たる風格でいかにも大名屋敷にふさわしい石灯籠です。
 全国社会福祉協議会

場所:ツツジの庭(新霞が関ビル公開空地)

https://maps.app.goo.gl/3m8dwzrsk1HRv8fTA

赤丸のエリアは推測。

時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」


芝白金三光町(米内光政仮遇の地)

昭和20年5月に、麹町三年町の私邸は空襲で焼失。
仮遇を芝白金界隈に構えていたという。
白金となると流石に何も痕跡はない。

奥は、ザ白金ゲストハウス。元は竹中工務店の福利厚生施設跡地(白金竹友クラブ)。
もとは海軍中将の真木長義男爵邸で、戦後は外務省白金分室(外務大臣公邸)だったこともある場所。

敷地の奥には、旧服部金太郎邸もある。
旧服部金太郎邸(服部ハウス)は、戦後にGHQに接収され、1945年12月から1年間、極東国際軍事裁判(東京裁判)に携わるジョセフ・キーナン首席検事ら10人の検事の住居となったほか、1948年8月からは東京裁判の判決文の翻訳作業が行われた。

米内光政の仮遇の地も、なんだか終戦史が絡んでくる。

時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」

場所

https://maps.app.goo.gl/iXG9Tzxb23wSdkGn8


富士見台(米内光政終焉の地)

米内光政の終焉の地。
環七通りの拡張に伴い、往時の面影は残っていないが、だいたい現在の目黒区南3丁目あたりに、米内光政の最後の私邸があった。

昭和23年(1948)4月20日。
米内光政は目黒区富士見台の自宅で68歳1ヵ月の生涯を終えた。
偶然にも臨終には、親交のあった緒方竹虎が立ち会っていた。(緒方竹虎は盛岡の墓石の揮毫にも携わっている)

昭和23年(1948)4月24日。
富士見台の自宅で、葬儀と告別式が行われた。
葬儀委員長は、山梨勝之進海軍大将。海軍の最長老であった。

戒名「天徳院殿仁海 光政大居士」

富士見台という地名は行政区分としては消えているが、公園やバス停に名前を残している。

赤丸のエリアが推測。

時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」

場所

https://maps.app.goo.gl/iXG9Tzxb23wSdkGn8

以上、米内光政の足跡を辿る所縁の地の散策記録でした。


※撮影:2023年8月

明治天皇銀婚式記念「可美真手命像」(浜離宮恩賜庭園)


可美真手命(うましまでのみこと)

可美真手命(日本書紀)、宇摩志麻遅命(古事記)
邇芸速日命(天津神)が那賀須泥毘古(大和地方の豪族)の妹である登美夜毘売を娶って生んだ子が、可美真手命。
神武天皇の東征に際して、那賀須泥毘古を殺し、神武天皇に帰属。
可美真手命は、穂積臣、物部連などの祖にあたる。
御祭神としては、物部神社、石上神宮などに祀られている。


可美真手命像

可美真手命像
明治27(1894)年、明治天皇の銀婚式を記念して陸軍省が行った検証募集に当選した作品で、佐野昭氏が制作、鈴木長吉氏が鋳造したと言われています。

明治天皇の銀婚式記念。
明治27年3月9日に催された大婚二十五年祝典。
日本で初めて明治天皇が銀婚式の祝賀を行ったことが契機になり、金婚式の折返しにあたる銀婚式を日本に広めた式典ともなった。
ちなみに、同じ年の明治27年7月25日から、日清戦争が勃発している。

フツノミタマを抱える可美真手命

神武天皇の東征に従った可美真手命は、末裔となる物部氏が武門の家柄となり、近代においては、軍神として崇敬された。

可美真手命像は、太平洋戦時の金属供出を逃れ、今も変わらずに勇姿を伝えている。


浜離宮(浜離宮恩賜庭園)

この地は、江戸時代に埋め立てがすすみ、将軍家の鷹狩場として活用されていた。
三代将軍徳川家光の三男綱重が賜邸され、屋敷が築かれた。
その後、徳川将軍家浜御殿として、活用され、11代徳川家斉の時代には、鴨場も設けられた。
幕末には、浜御殿は海軍所となり、御殿奉行を廃止され海軍奉行となったが、15代将軍慶喜は、江戸城と浜御殿には一度も入ること無く、明治を迎えることになった。

明治期の浜御殿は、東京府の管理となり軍事的利用から貴賓接待場に変化していた。
明治3年に宮内省の管轄となり「浜離宮」となった。
明治7年(1872年)1月28日、敷地内にあった外国貴賓用の施設「延遼館」(日本で最初の西欧式の石造建築)を外務省所管とし、敷地21,765坪を宮内省所管とした。

昭和19年(1944年)11月29日、浜離宮にサイレンが鳴り響き、上空をB29が編隊で通過した。園内には防空壕が造られ、高射砲も備えられていたが、一帯は火の海となり、浜離宮は日に包まれ、歴史的建物は全て焼失。稲荷と宮内省官舎だった現在の芳梅亭だけが生き残ったという。

鴨がいますね。

鴨場も復元されてる。

鴨塚

鷹場も

稲荷神社(稲生神社)

三百年の松。

延遼館の跡。

※撮影:2022年12月


関連

武器学校・土浦駐屯地開設71周年記念行事・その2(74式戦車&203mm自走榴弾砲引退セレモニー) 

2023年11月12日。
武器学校・土浦駐屯地開設71周年記念行事が開催されましたので、足を運んでみました。

本記事は、その2となります。その1は下記より。


74式戦車引退セレモニー

今年度(令和5年度)で引退する74式戦車の引退セレモニー
ナナヨンの最後。

車体を前後左右に傾けるデモ。
サスペンションによる車体傾斜。

上下姿勢。

砲塔を固定して、車体回転。

空砲射撃

後輩の入場。
90式戦車と10式戦車が74式戦車を見送ります。

空砲射撃で74式戦車を見送り

応える74式戦車の最後の空砲射撃

74式戦車のラストラン。

お疲れ様!74式戦車


203mm自走榴弾砲引退セレモニー

ナナヨンと同じく、令和5年度で引退をする203mm自走榴弾砲の引退セレモニー。
99式自走155mm榴弾砲を引き連れての入場。

203mm自走榴弾と99式自走155mm榴弾砲。

203mmは、陸自の最大口径でもあった。

203mm自走榴弾の空砲射撃は、無し、でした。(音の問題らしい)

かわりに、155mmが手向けの空砲を打ちます。

そして、後方に控えていた155mm榴弾砲。

99式自走155mm榴弾砲の空砲射撃

155mm榴弾砲 FH70の空砲射撃

203mm自走榴弾砲の引退を見送ります。

もう一度、155mm榴弾砲 FH70の空砲射撃。珍しくバッチリ撮影できた。。。

お疲れ様!
203mm自走榴弾砲のラストラン。


静態展示コーナー

ナナヨン!

203mm自走榴弾砲

砲身に混じってるクレーン、、、

※撮影:2023年11月


関連

武器学校・土浦駐屯地開設71周年記念行事・その1(記念式典と装備アトラクション)

2023年11月12日。
武器学校・土浦駐屯地開設71周年記念行事が開催されましたので、足を運んでみました。

本記事は、その1です。


土浦駐屯地関連

以前の記事を参照で


武器学校・土浦駐屯地開設71周年記念行事

この日は、あいにくの空模様でした。

記念式典

10時から記念式典。
隊員がグランドに集います。

なかなかの迷彩っぷり。

土浦駐屯地が所管する自治体旗の集合。

観閲の指揮官が登場。

陸上自衛隊武器学校長兼ねて土浦駐屯地司令
陸将補 星指 𠮷見

国旗に対して敬礼

巡礼

来賓挨拶。
ヒゲの隊長こと、佐藤正久参議院議員(最終階級は1等陸佐)ですね。

ちょっと雨が、、、

撤収

施設学校音楽隊の演奏

装備アトラクション

装備アトラクションの開始ラッパ

武器学校が保有する装備が、順々に行進してきます。


88式地対艦誘導弾

03式中距離地対空誘導弾

93式近距離地対空誘導弾

11式短距離地対空誘導弾

87式自走高射機関砲

機関砲砲塔がぐるぐるまわります

96式装輪装甲車

16式機動戦闘車

52口径105mmライフル砲の砲塔をぐるぐると。

高機動車&120mm迫撃砲RT

19式装輪自走155mmりゅう弾砲

きました。
最大口径の203mm自走榴弾砲。今年度で引退。

99式自走155mm榴弾砲

そして、3世代の戦車が並んで、やってきました。

74式戦車

砲塔回転

74式戦車の後ろ

90式戦車と10式戦車

90式戦車

10式戦車

90式戦車の後ろ

10式戦車の後ろ

水陸両用車

回収車

78式戦車回収車

90式戦車回収車と11式装軌車回収車

装備アトラクション展示はここまで。

74式戦車と203mm自走榴弾砲の引退セレモニーは、その2で。


※撮影:2023年11月

土浦海軍航空隊と霞ヶ浦海軍航空隊の慰霊巡拝(土浦・阿見)

阿見と土浦で、霞ヶ浦海軍航空隊と土浦海軍航空隊関連の慰霊碑を巡拝しました。
以下、徒然に。


阿見空襲(阿見大空襲)

昭和20年6月10日。
当時予科練生の訓練が行われていた土浦海軍航空隊とその周辺地区が、米軍のB29爆撃機による大規模な空襲を受け、予科練習生や近隣住民など370人を超える方が犠牲となった。

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/situation/state/kanto_02.html


霞ヶ浦湖畔の海軍航空隊

土浦海軍航空隊

霞ヶ浦海軍航空隊


被爆跡記念之碑(青宿壕跡予科練戦没碑)

阿見青宿ノ鹿島神社境内。

昭和20年6月10日の空襲で、神社西側の防空壕に避難中の土浦海軍航空隊の予科練教官11名と予科練習生281名が戦死した。
犠牲者は後述する法泉寺周辺で荼毘に付された。

合掌

第二次世界対戦 被爆跡記念之碑
海軍中将 寺岡謹平書

碑文
 太平洋戦争の末期、当時前線すでに戦力乏しく国内各地は空襲をうけ、物資食糧困窮のなかに、情勢は国民すべてを捲き込む悲愴な「本土決戦」へとかたむいていた。
 時に昭和二十年六月十日。教育訓練施設である土浦海軍航空隊に敵機群が来襲、折から本土防衛の水上特攻要員編成中の飛行予科練習生を中心とする隊員ら二百八十一名が、隊内外で戦死、同時に、当青宿部落を中心に阿見町民家も銃爆撃をうけ、民家多数が焼失又は爆破され住民六名が犠牲になるなど多大の戦災を被った。
 傷恨の跡は、各地に点在するが、いまこれをすべて明らかに留めるところは少ない。
 そして 世は日につれて変わって行く—
 
この場所は、「命を捨てて同胞を護らん」と
愛国の心に燃えて結集した十七・八歳を主体とする”予科練”たちの一部が、武器持たぬ身に血をたぎらせながらやむなく待避した壕の跡であり、不運にも直撃弾二発をうけ、多数が生埋めとなった悲傷の地である。

 ここにこの地の人達が集い、慰霊をおこなってきた戦友・遺族らの意志を継いで、指標を建てる。
 春に先がけて散った若桜たちの、憂国同胞愛の清明な心をとどめる「聖なる地」を顕彰し、ともに悠久の平和を希うことこそ、次の世代に伝える、この地の人達の郷土愛のあかしとおもうからである。
 昭和55年6月10日
  青宿壕跡予科練戦没碑建立委員会撰文

海軍中将 寺岡謹平の謹書。

阿見町名所百選
青宿の鹿島神社
 最新は武甕槌命、島状台地上にある。社殿の西側に2基の円墳(1号墳と2号墳)、東側にやや大型の円墳(3号墳)があり、1号墳は乱掘にあり直刀や勾玉が出土している。3号墳は削平されて原型は定かではない。
 神社西側に戦時中防空壕があり、昭和20年6月10日の空襲で入口に爆弾が投下され、避難中の予科練の教官11名と予科練習生281名が戦死、その他119名重傷の惨事が起こった。いま境内に慰霊の碑が立っている。
 阿見町教育委員会

青宿の鹿島神社

神社の西側。古墳?

西側から、土浦海軍航空隊と霞ヶ浦の方向を望む

台地を生かした防空壕であったことがわかる。

阿見町名所百選(44 青宿の鹿島神社)

https://www.town.ami.lg.jp/0000000816.html

場所

https://maps.app.goo.gl/RaR5XejvMNFSsq6EA


元土浦海軍航空隊戦没者之碑(法泉寺)

法泉寺(土浦市)の境内。
昭和20年6月10日の空襲で戦死された土浦・霞ヶ浦海軍航空隊関係者と町民の方を慰霊する碑が集まっている。
『元土浦海軍航空隊戦没者之碑』『戦死者氏名之碑』
『霞ヶ浦海軍航空隊戦没者慰霊碑』
『十三重供養塔』
『阿見町戦災被爆者供養塔』

合掌

元土浦海軍航空隊戦没者之碑は、昭和26年6月10日に建立された土浦海軍航空隊関係者の戦没者慰霊碑。
前述の青宿の鹿島神社にあった防空壕の犠牲者は、この地で荼毘に付された。

墓誌
 太平洋戦争も終末に近づいた昭和20年6月10日、土浦海軍航空隊にB29爆撃機を含む艦載機群の攻撃をうけ、折しも本土防衛の水上特攻要員編成中の第14期甲種飛行予科練習生・錬成中の同第15・16期生、後輩の訓練に当たっていた第13期生及び教官・教員ほか退院ら281名が、隊内及び周辺で散華した。
 当時、海軍適正部(現土浦第三高等学校)の庭で荼毘に附された遺骨はそれぞれ遺族に引渡されたが、法泉寺第52世住職大僧正山岡英明和尚はその残骨を慈しんでこの地に葬り独り回向を続けること10数年、漸く平和よみがえる昭和36年6月第17回忌法要に際し、土浦市・阿見町はじめ広く各地有志の協力を得て墓碑を建立するに至った。以後、戦死者多数を出した14期生同窓一四桜会はじめ各期の戦友らが集い、遺族と共に供養を行っている。
 時流れて三〇年、七生報国・悠久の大義に殉じた若き命の冥福を祈り、ここに悲傷の日を迎えるにあたり墓所の縁起を記す。
  昭和50年6月
   元土浦海軍航空隊戦没者法要委員会

戦死者氏名


十三重供養塔(法泉寺)

この塔は、平成6年6月5日、土浦海軍航空隊戦没者の50回忌に際して建立された。


霞ヶ浦海軍航空隊戦没者慰霊碑(法泉寺)

霞ヶ浦海軍航空隊戦没者慰霊碑は、昭和50年6月に建立。
昭和20年6月10日の阿見空襲で戦死した24名の方々の氏名が刻まれている。


阿見町戦災被爆者供養塔(法泉寺)

平成28年6月建立。


土浦海軍航空隊適性部跡(海軍航空要員研究所)跡地

現在、茨城県立土浦第三高等学校の敷地となっている海軍航空要員研究所跡地。
海軍航空要員研究所(適性部)では、飛行兵の採用試験や適性検査が行われていた。

霞ヶ浦を望む高台。

場所(法泉寺)

https://maps.app.goo.gl/fjWhJUSD3myijdgs6


霞ヶ浦海軍航空隊航空殉職者慰霊塔(神龍寺)

土浦市文京町の神龍寺。
ここに海軍時代に建立された慰霊碑がある。

霞ヶ浦海軍航空隊航空殉職者の慰霊塔は、昭和10(1935)年に建てられ、殉職者41人の名が刻まれています。 
神龍寺の参道近くには霞ヶ浦海軍航空隊に副長として赴任中だった山本五十六が住んでおり、住職の秋元梅峯と交友があったという。
神龍寺24代住職・秋元梅峯は、霞ヶ浦海軍航空隊と親交が深く、慰霊塔建立の10年前の大正14年(1925年)には私財を投じて航空戦死者を慰める趣旨の花火会を霞ヶ浦湖畔の埋立地において行ったことが「土浦全国花火競技大会」の始まりでもあった。

霞ヶ浦航空隊
航空殉職者

航空殉職者

犠牲者の名前が刻まれている

石造念仏車。(念仏車、後生車、輪廻塔)
戦争関連の慰霊塔で、念仏車を備えているのは珍しいと思います。

隣は、消防の慰霊塔。

神龍寺

場所

https://maps.app.goo.gl/m4MfFoxtRFLXhRGXA


忠魂碑(亀城公園)

大正11(1922)年、陸軍大臣山梨半造の揮毫により建立。大正9
(1920)年におこった尼港事件の犠牲者を弔うため、土浦町の青年会の働きかけが建立のきっかけになったといわれている。

ちなみに水戸にある「尼港殉難者記念碑」も同じく陸軍大臣山梨半造の揮毫

忠魂
陸軍大臣山梨半造


土浦城跡(亀城公園)

太鼓櫓門が現存し、東西二か所の櫓は復元。
続日本100名城に選定。


原脩次郎銅像(亀城公園)

原脩次郎(1871~1934)は茨城県初の国務大臣。
昭和10(1935)年に立像が建てられましたが戦中に金属回収に伴い供出。戦後、胸像が復元された。

亀城公園内のミニ動物園には、ニホンザル(日本猿)がいました。

土浦は、まだまだ訪れたいところがありますので、また再訪します。

※撮影:2023年11月


「立川駐屯地創立50周年記念行事(航空祭)」その2(飛行展示)

2023年10月29日、一般公開にあわせて、ひさしぶりに立川駐屯地に足を運びました。

こちらでは飛行展示の模様などを掲載。

歴史っぽいことは、「その1」で。

UH-2

立川駐屯地での「UH-2」は初お披露目。
2022年に量産開始。スバル「ベル 412EPX」を自衛隊用に改良した機種。


UH-2とUH1Jの比較展示

多用途ヘリとして、UH-1Jと、新鋭のUH-2の比較展示が行われました。

UH-2

UH-1J

横からのUH-2

横からのUH-1J

後ろからのUH-2

後ろからのUH-1J

UH-2


編隊上空通過

圧巻ですね。


編隊着陸


災害救助活動展示

準備

準備完了(倒壊家屋を想定)

災害発生。まずはヘリによる上空偵察。

白バイによる地上からの現状確認。

パトカー出動。

救助犬も出動。

SRT出動。スペシャルレスキューチーム。警視庁災害対策課特殊救助隊

自衛隊災害救助とDMAT(災害派遣医療チーム Disaster Medical Assistance Team)出動。

上空からの救助を実施。
陸自と消防と警察のヘリがそれぞれ出動。

全開は、見ていて怖いものがある。

一斉に降下を開始。3つの組織のヘリが足並み揃えるのは、立川ならではの光景かも。

救助活動

そして、消火活動

流石に消火活動は、消防ヘリが最適化されている。


立川駐屯地(そのほか)

ちょうど50周年。

格納庫群。

管制塔

貴賓室

駐屯地内から立川駅行きのシャトルバス。
行き先案内板が、航空祭仕様でヘリ表示。

※撮影:2023年10月


関連

「立川駐屯地創立50周年記念行事(航空祭)」その1(立川駐屯地史料館と歴史散策)

2023年10月29日、一般公開にあわせて、ひさしぶりに立川駐屯地に足を運びました。
以下では、前回の補完もあわせて、記事を再編していきます。

飛行展示は、「その2」で。

以下は以前の記事
「立川駐屯地」

「立川飛行場」

「立川飛行機(立飛)」


立川陸軍飛行場

大正11年(1922)に帝都防衛構想の陸軍航空部隊の中核拠点として開設。
日中戦争さなかの昭和13年(1938)に立川に駐留していた飛行第五連隊隷下の戦闘中隊は「飛行第五戦隊」に改編され、翌年には柏飛行場に移駐。 そののちは実働部隊は置かれなかった。

大東亜戦争のさなかは、実戦部隊は展開されていなかったが、陸軍航空部隊の研究・開発・製造の一大拠点として機能。また軍用機製造の民間工場もあつまっており、戦争末期にはたびたび空襲に見舞われた。

アメリカ空軍立川基地
戦後、アメリカ軍が立川飛行場を接収。アメリカ軍の飛行場運用は昭和44年まで続き、飛行活動停止後に徐々に基地返還が行われる。
昭和47年に立川駐屯地発足、昭和52年に全ての敷地が全面返還。再開発が行われ、今日に至る。

2013年より始まった立川基地跡地再開発事業により、それまで残存していた旧軍の遺構も解体撤去。残るものは少ない。


立川陸軍航空廠

1933年(昭和8年)、所沢にあった陸軍航空本部補給部所沢支部が立川に移転して陸軍航空本部補給部立川支部となる。1941年(昭和16年)8月、立川陸軍航空廠に改称。
北側には陸軍航空技術研究所、西側には陸軍航空工廠が存在していた。


陸軍航空工廠

1940年(昭和15年)発足。
陸軍唯一の航空機製造施設であり、主に航空機用発動機の製造、航空機の設計・試作・製造を目的としていた。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-R556-No1-16
昭和22年(1947年)11月14日、米軍撮影の航空写真を一部加工。

立川飛行場東側
USA-R556-No1-16
1947年(昭和22)11月14日 米軍撮影
すでに米軍の進駐がはじまっており、建屋の一部も変更はあるが参考として
立川飛行場西側
USA-R556-No1-17
1947年(昭和22年)11月14日 米軍撮影
すでに米軍の進駐がはじまっており、建屋の一部も変更はあるが参考として
再開発の進む現在の様子

立川駐屯地史料館

2019年以来、4年ぶりの再訪です。

展示機MAPと庭園MAPは新しい。
参考にさせていただきます。

CAMP TACHIKAWA 庭園MAP
昭和48年 東部方面航空隊 立川に全面移駐完了
昭和48年に滑走路東側の旧立川駐屯地から現立川駐屯地へと移駐した際、隊員の手によって整備された。移駐にあたり、庭園を整備したほか、旧軍施設や旧立川駐屯地にあった石碑を移設している。

CAMP TACHIKAWA 展示機MAP
航空機としての役目を終え、広報用展示機となった航空機4機種と装甲車

では、MAPに従って散策してみましょう。


【1】八紘一宇

八紘一宇
昭和15年(1940)
 陸軍航空廠本部に建立された。
 アジアが欧米列強の植民地となっている状況を憂い、アジア及び世界が一つの家族のように平和でともに栄えるようにとの願いが。

八紘一宇
陸軍中将 山下奉文 謹書
昭和15年建立

紀元二千六百年記念
陸軍大佐 川崎正寴 謹書

史料館資料より

陸軍航空廠本部
航空廠は、陸軍航空関係の直轄工場です。
写真は、正門から本館を望んだもので、正面の八紘一宇の碑は、マレーの虎と恐れられた山下奉文大将の筆によるもので、現在は史料館東側に展示しています。

史料館にある拓本


【2】行幸記念碑(行幸紀念)

行幸記念碑
昭和8年(1933)
 昭和天皇が初めて行幸されたことを記念して建立された。
 部隊や試験中の航空機を視察されたほか、展覧飛行も行われ、その様子は新聞にも取り上げられた。

行幸紀念
周次郎 謹書

維時昭和八年五月四日  聖駕此地へ幸シ給ヒ親シク陸軍航空ノ威容ヲ臠セラレ當所ノ研究兵器亦  天覧ノ光栄二浴ス乃テ碑ヲ以テ之ヲ不朽二傳フ

周次郎とは、伊藤周次郎陸軍少将のこと。陸軍航空本部技術部長(1932~1935)、昇格後の陸軍航空技術研究所所長(1935~1936)を努めている。
天覧のあった、昭和8年(1933)に、伊藤周次郎が部長を努めていた。

立川駐屯地史料館より。
昭和8年5月4日の 天皇陛下行幸のようすなど。


【3】池

昭和48年(1973)
 隊員の手によって整備された。
 任務に向けて離陸した航空機が無事に帰投するようにとの願いを込めて「ブーメラン」の形を模して設計された。


【4】行啓記念碑

昭和10年11月19日 皇太子殿下の行啓

行啓記念碑
昭和10年(1935)
 皇太子殿下が行啓されたのを記念し、翌年12月に当時の飛行第5連隊長の柴田大佐により建立された。

飛行第5連隊長の柴田信一の最終階級は陸軍中将。陸士24期、陸大33期。
浜松陸軍飛行学校幹事や鉾田陸軍飛行学校長などを歴任した。


【5】行啓記念碑2(皇太子殿下行啓記念碑)

行啓記念碑の2つめ。
昭和16年10月28日 皇太子殿下の2回目の行啓

行啓記念碑
昭和16年(1941)
 再度皇太子殿下が行啓されたことを記念して建立された。
 裏には「陸軍大将土肥原賢二謹書」とあり、当時、航空総監を務めた土肥原大将が書いたことを示している。

土肥原賢二の最終階級は陸軍大将。奉天特務機関長として満州で活躍。欧米では「満蒙のロレンス」と畏怖された。
極東国際軍事裁判では、A級戦犯として処刑された。


【6】飛行第5戦隊記念碑(飛行第五戦隊之碑

飛行第5戦隊記念碑
昭和58年(1983)
 「飛行第5戦隊」の生存者の会により。
 飛行第5戦隊は、大正10年に岐阜県の各務原飛行場で編成され、翌11年に立川に移駐。昭和14年まで立川飛行場に駐屯した。

飛行第五戦隊之碑
開雲 高木秀明謹書


飛行第五戦隊の母隊である航空第五大隊は 大正十年各務原で創設 翌年立川に移駐し 同十四年飛行第五連隊となった
昭和十三年夏飛行第五連隊の戦闘中隊は改編して飛行第五戦隊となり 千葉県柏に移駐した
昭和十六年大東亜戦争の勃発により戦隊は首都防空に任じた 次いで昭和十八年夏南方戦線に進出してジャワ、チモール、ハルマヘタ、比島方面で作戦任務を遂行した
戦局の推移に伴い昭和十九年秋小牧に転進し 同二十年終戦まで中京地区の要塞防空に任じた この間戦隊は武勲を重ねて感状を授与され陸軍戦闘戦隊の華と謳われた
茲に戦隊の歴史を刻し創隊以来国家に殉じた幾多の戦友病没隊員の遺徳を偲びこの碑を建立する
 昭和五十八年五月二十九日
 飛行第五戦隊生存者有志一同

以下は、立川駐屯地の史料館から第五戦隊関連を。

陸軍飛行第5聯隊配置図

ステンドグラス
陸軍飛行第五大隊将校集会所の2階窓に取り付けられていたもの。
大正11年製

オルガン
陸軍飛行第五戦隊の将校集会所にあった

灯籠
立川駐屯地東地区 旧軍通用門門柱

昭和14年まで立川飛行場に駐屯した飛行第五戦隊は柏に移駐となっている。

飛行第五戦隊 その後
千葉県柏で本土防空任務に就いていた飛行第5戦隊は二式複座戦闘機”屠龍”(キ‐45改)を保有していました。昭和18年になると南方戦線を防衛するため、インドネシアのジャワ島マランに展開して船団護衛や要地の防空任務に従事していましたが、、昭和19年7月に名古屋地区の防空任務を命ぜられて本土へ帰還。愛知県の清洲飛行場を拠点として夜間防空に活躍しています。昭和20年7月には五式戦闘機(キ‐100)に徐々に機種改変して対艦攻撃の訓練を行っていました。しかし、本土決戦のため戦力を温存する傾向となり、出撃を延期することが多くなって、8月15日を迎えたのでした。


【7】駐屯地竣工記念碑(竣工記念植樹)

駐屯地竣工記念碑
昭和58年(1983)
 現立川駐屯地移駐の10年後、第5代駐屯地司令の菱田司令の時代に建立された。
 これに合わせて記念樹としてハナミズキが植樹された。


立川駐屯地史料館見学

いくつか目に止まったものをピックアップ。

昭和15年頃の陸軍施設等の配置図。
「立川飛行場」を中心とした、位置関係がわかる。

東側に
陸軍航空技術学校、陸軍病院
立川飛行機(民間)、陸軍獣医資材廠(東立川駐屯地)、立川工作所(民間)。
西側に
陸軍航空技術研究所、陸軍航空廠立川支廠、陸軍気象部立川出張所、陸軍航空工廠、東亜航空機(民間)、千代田航空機(民間)

立川と空襲
 米軍による日本本土空襲が始まったのは、昭和19年11月のこと。同年7月にサイパン島が占領され、ここを基地としたB-29が大挙して来襲するようになった。以来、空襲は激しさを増し、終戦までの10ヶ月足らずにうちに、日本の主要都市のほとんどが爆撃された。
 立川が空襲を受けた理由としては、軍事関連施設が多かったこと、B-29が東京に襲来するときのコースが、サイパン島からまっすぐ富士山めがけて北上し、伊豆諸島上空付近で進路を北東に向け侵入するため、多摩地区が通過コースとなっていたことなどが考えられる。このため立川は、昭和20年2月16日以降、13回の空襲を受けた。なかでも昭和20年4月4日の空襲は激しく、富士見町山中坂ではB-29が落とした250Kg爆弾が命中し、防空壕にいた全員が犠牲となった。立川飛行場にも空襲はあったが、市内の空襲よりも被害は少なかった。これは、終戦後立川飛行場をそのまま使おうと米軍が考えていたから、などと言われている。
 「昭和記念公園は飛行場だった」より抜粋

山中坂の防空壕跡。

昭和初期~昭和15年頃の軍用機

立川は民間航空発祥地

「神風号」昭和12年に立川を離陸して英国へ。

「ニッポン号」の世界一周(昭和14年)

木製プロペラ
日本楽器株式会社(ヤマハ・YAMAHA)

九三式単軽爆撃機の木製プロペラ
(被包式プロペラ甲型)
川崎造船飛行機工場製、昭和9年

八八式偵察機の木製プロペラ
(刃部包装)
日本楽器(ヤマハ)製、昭和6年

二式射撃標準器甲一号
日本工学工業製(ニコン・NIKON)

板垣征四郎大将の書
杉山元大将の書

陸上自衛隊の引退航空機

陸上自衛隊の現役航空機


野外展示機も見学。

【1】UH-1H

UH-1H
全長:17.4m/全幅:2.85m/巡行速度:215km/h
航行距離:420km/乗員:操縦士2名+兵員11名
UH-1Bの後継として1972年から1991年にかけて133基を導入。現在はUH-1Jに託し全て退役。
陸自ではコールサインから「ハンター」と呼ばれる。「ひよどり」という別名もある。米国では「ヒューイ」(先住民族の名)という愛称も。


【2】OH-6D

OH-6D
全長:9.54m/全幅:1.97m/巡行速度:239km/h
航行距離:460km/乗員:操縦士1名+兵員3名
1969年からOH-1J、1979年からはH-6Dが1997年まで310基を導入、2020年に全て退役。
陸自ではコールサインから「オスカー」と呼ばれる。米国では「カイユース」(先住民族の名)とい愛称も。


【3】LR-1

LR-1
全長:10.13m/全幅:11.95m/巡行速度:460km/h
航行距離:2000km/乗員:操縦士2名+兵員5名
1967年から1984年かけて20基が納入。現在はLR-2に託し2016年に全て退役。
陸自では「LR」コールサインから「レコン」と呼ばれる。


【4】L-19

L‐19
全長:7.62m/全幅:10.97m/巡行速度:160km/h
航行距離:750km/乗員:2名
セスナ社で制作されたセスナ170の軍用機。
1954年に米軍から貸与を受け1986年に全て退役。
「L-19」とそのまま呼ばれている。「そよかぜ」という愛称も。

常設の展示場所には、姿が見えず。。。

イベント限定で、滑走路にお引越ししていました。L-19にとっては、何年ぶりの滑走路だろうか。久しぶりの晴れ舞台でちょっと嬉しそうに見えました。

コクピットになにかいました。
こいつ、前から気になっていたんだけど、なぜにここにいるのだろう。ミニオンズ。

今にも飛び立ちそうな佇まい。


【5】60式装甲車

入り口近くに。
何かが乗っている。

60式装甲車
全長:4.85m/全幅:2.40m/速度:45km/h
行動距離:230km/乗員:4名+兵員6名
1960年に制式化され2006年に全て退役。
戦後米国から提供され、三菱重工業が開発。
「60式」は1960年に制式化されたことを示している。災害派遣でも活躍。


立川黒松

庁舎まえの庭園に。

立川黒松の由来
 立川の発展は 飛行場とともにあり 立川は歴史の中から また立川を語る上でも飛行場を忘れることが出来ない
 過ぎた日の飛行場を懐ひ 飛行場がもつ歴史的背景をおもいおこすときいつも立川飛行場を見守っているのが 此の黒松であり現在もそのさまはみごとである
 当駐屯地は 大正10年陸軍が飛行場の建設を開始し 翌年飛行場の開港とともに陸軍飛行場第5大隊が創隊して 兵舎の間には桜や梅など様々な植木が植樹された
 その中でも ひときわ立派で枝振りの良い此の黒松は 本部隊舎前の植え込みに植樹されたもので 昭和56年現在の立川駐屯地が建設された際に現在地に移植された

八紘一宇に続いて、再び本部庁舎前の写真。

現在の庁舎。

撮影:2023年10月


関連

救難飛行艇「US-2」新明和工業オリジナルグッズ

運良く仕事で防衛省に赴くことがありました。
(私の仕事は防衛産業の会社ではないので、普通は無縁なのですが、本当に運がよく関わることが出来た感じです)

防衛省(市ヶ谷基地)内にある厚生棟内の売店を何気なく見ていたら、思わず釘付けになってしまい、思わず買ってしまったのが「US-2」関連のオリジナルグッズ。

最初、「US‐2」のファイルとストラップだけを買うつもりだったのが、お店の人と盛り上がってしまい、気がつけば追加でいろいろ購入してしまいました。

じつのところ、「飛行艇」大好きマンだったりします。


「US-2」新明和工業オリジナルグッズ

実は、US-2製造元の新明和工業のオリジナルグッズ。
新明和工業の社内販売を想定された製品となり、東日本では防衛省厚生棟1階の売店「森川商店 防衛省市ヶ谷店」でのみ購入可能。

2024年のカレンダーは、もちろん新明和の制作なので「新明和(ShinMaywa)の航空機」のみが掲載というマニアックすぎて素敵なカレンダー。
私が覗いた日が、2024年カレンダーの入荷初日だったそうで、これはラッキー以外のなにものでなく。

ちょっといろいろ買いましたが、他にも書いたもの多数あったのを我慢しつつ。。。

クリアファイル。美しいです。

人気のアクリルスタンド。
店主曰く、前のモデルが売り切れて、2ヶ月間入荷がなかったそうで、入荷したら「8号機」に変わっていたそうです。7号機から8号機にちょっとした変化をもたせた新明和工業の小技のある製品。そんなエピソード聞かされたら買うしか無いですね。

「US-2」 8号機

ちなみにキーホルダーは「US-2」 7号機。

ShinMaywa 50th FLYING BOAT
新明和工業としての飛行艇50周年記念


Japan Flying Boat History(日本の飛行艇の歴史)

Japan Flying Boat History


日本の飛行艇誕生から100年
 そして、その先へ・・・

海上自衛隊
第71航空隊
〒740‐8555
山口県岩国市三角町2丁目
TEL 0827-22-3181

2007~   US-2
1976~2017 US-1/US-1A
1967~1989 PS-1
1942~1945 二式飛行艇
1926~1938 十五式飛行艇
1920~1926 F-5飛行艇

歴代の代表的な飛行艇。店主さんの快諾で撮影しました。

レシート。
「新明和」と記載してアイテム登録しているのは、店主のこだわり。アクリルスタンドに8号機と記載してあるのも店主のこだわり。

ここは面白いです。店主も面白いです。貴重な話、いっぱい聞けました。

そうそう機会が無いと、防衛省の売店にたどり着くことはできませんが、チャンスがありましたら、是非に。

また来ます、また買いに行きます、行きたいです、、、
(そうそう防衛省に入る用事はありませんけど。。。)


新明和工業

新明和工業 航空機事業部

https://www.shinmaywa.co.jp/products/aircraft/


関連


航空自衛隊 浜松基地 監修「空上げ缶詰」

浜松駅のおみやげコーナーで見つけました。

2020年に発売されていたんですね。知りませんでした。
目に止まった瞬間に、購入しました。。。


空自 空上げ缶詰

焼き鳥缶詰でおなじみのホテイフーズと、航空自衛隊浜松基地のコラボ。

航空自衛隊 浜松基地×ホテイフーズ 『空自からあげ』「うなぎ蒲焼味」&「三ヶ日みかん味」2缶セットで 発売!
株式会社ホテイフーズコーポレーション(静岡市清水区、代表取締役社長:山本達也)は、航空自衛隊浜松基地監修の「空自空上げ うなぎ蒲焼味」と「空自空上げ 三ケ日みかん味」をセットにした「空自空上げ2缶セット」を2月3日(月)より、航空自衛隊 浜松基地の土産売場、および静岡県内の一般土産店等で発売します。
航空自衛隊では、鶏のからあげを「より上を目指す」という意味で「空自空上げ」と呼び、全国各基地の給食やイベント等で、それぞれの地域の特色を活かした空上げを提供し、大変人気を博しています。
今回、弊社が2019 年春に発売し話題となった業界初の「からあげ缶詰」が大変ご好評をいただくなか、同じ静岡県というご縁もあり、実現した浜松基地とのコラボレーション企画です。
パッケージには、航空自衛隊が誇るアクロバット飛行チーム「ブルーインパルス」の機体をデザイン。浜松基地のオリジナル空上げである浜名湖名物のうなぎを使った「うなぎ蒲焼味」と、同じく地元特産の三ヶ日みかんを使った「三ヶ日みかん味」をいつでも気軽に楽しめ、お土産にすることもできる缶詰で再現した商品です。

ホテイフーズ・ニュース
https://www.hoteifoods.co.jp/news/200131/

防衛日報

https://dailydefense.jp/_ct/17366976

航空自衛隊浜松基地

https://www.mod.go.jp/asdf/hamamatsu/

浜松基地グルメ

https://www.mod.go.jp/asdf/hamamatsu/other_gurume/other_gurume.html

からあげ うなぎ蒲焼味
からあげ 三ヶ日みかん味

からあげ缶詰
航空自衛隊浜松基地
空自 空上げ(からあげ)
航空自衛隊では鶏のからあげを「より上を目指す」という意味で「空自空上げ」と呼び、各基地で名物料理となっています。
浜松基地では、浜名湖産うなぎを使った蒲焼味と三ケ日みかんを使った爽やかな味が人気。浜松基地監修のもと、手軽に楽しめる缶詰で再現しました。

三ヶ日みかん味
航空自衛隊では鶏からあげを「空上げ」と呼び、各基地の名物となっております。
三ヶ日みかんを使った爽やかな味わい。

うなぎ蒲焼味
航空自衛隊では鶏からあげを「空上げ」と呼び、各基地の名物となっております。
浜名湖産うなぎと山椒の効いた濃厚な甘辛味。

TVで紹介されたらしいけど、なんのTVだろう。。。

航空自衛隊浜松基地の監修。

まだ、食べてないし、あけてないので、味の感想は、そのうち追記するかも。

ホテイフーズ直販ショップのページ

http://hoteifoods.jp/shopdetail/000000000336/

浜松三方原の陸軍戦跡散策・その2【浜松6】

本記事は、以前の「三方原の陸軍戦跡散策」で、未訪問の箇所を補填した記録となります。

浜松三方原の陸軍戦跡散策【浜松3】の続きとして。

本記事のメインは、前回の訪問時に、移転先がわからなかった「四勇士碑」石碑の確認でした。


浜松の陸軍飛行場

浜松には陸軍の飛行場が2つあった。
「三方原飛行場」と「浜松飛行場」。
この2つの飛行場は誘導路で結ばれており、非常に近い関係であった。

「三方原陸軍飛行場」は、三方原教導飛行団と第7航空教育隊
「浜松陸軍飛行場」は、浜松陸軍飛行学校と飛行第7聯隊
なお。浜松陸軍飛行場は、現在は航空自衛隊浜松基地となっている。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M142-A-5No3-21
1946年5月22日、米軍撮影の航空写真を一部加工。


四勇士碑

三方原神社の境内に、四勇士碑がありました。

合掌

扁額は、徳川好敏の揮毫

四勇士碑
航空兵団長陸軍中将従四位勲二等功四級男爵徳川好敏題字
維時 昭和十二年三月十九日 故陸軍航空兵少佐従六位勲六等寿圓正隆 故陸軍航空兵曹長勲八等今泉正夫 故陸軍航空軍曹勲八等小川高平 故陸軍航空塀軍曹勲八等岡崎勝ノ四士 九三式重爆撃機第一〇二九号ニ搭乗シ爆撃演習中発動機ニ故障ヲ生シ此処ニ墜落 火ヲ発シ一瞬悉ク其職ニ殉ス 痛恨何ソ堪へン 今ヤ東亜ノ風雲急ニシテ空軍ノ飛躍拡張ヲスルノ秋此精鋭ノ士ヲ失フ国家ノ損失甚大ナリ 然レトモ其壮烈ハ深ク国民ヲ感奮セシメ其沈勇ハ蓋シ武人ノ亀鑑タリ報 天聴ニ達シ 畏クモ進級又ハ叙位叙勲ノ恩命ヲ賜フ 洵ニ餘栄アリト謂フへキナリ 此日壮烈永ク想フク此処ニ痛恨竟ニ忘ルへカラス 因テ村民相計リ碑ヲ建テ以テ之ヲ伝フ
 昭和十二年五月
 飛行第七聯隊長陸軍航空兵大佐
           従五位勲三等 島田隆一撰
           従七位勲六等 中島録平書

四勇士の碑
 昭和12年(1937)3月19日、飛行第7連隊の九三式重爆撃機がエンジン呼称のため失速し、今の三方原南研修会館に墜落して炎上、搭乗していた四人の兵士が殉職した。四人は殉職により二階級特進で、寿円正隆陸軍少佐、今泉正夫陸軍曹長、小川高平陸軍曹長、岡崎勝陸軍軍曹となった。この爆撃機の操縦士は非常事態に直面しても沈着に行動し、墜落の場所を民家や学校を避けていたことが判明した。これに感動した地元民は多くの資金を出し合い、墜落地点へ同年に石碑を建てた。四人は勇敢な行動をとったことから四勇士とされ「四勇士碑」が建立されたのである。篆額は航空兵団長、陸軍中将、男爵の徳川好敏、撰文は島田隆一飛行第七連隊長である。
 なお、この四勇士の碑は、平成29年(2017)に建立地点から三方原神社の境内に移転した。
 三方原歴史文化保存会
 浜松北地域まちづくり協議会
 三方原地区自治会連合会

陸軍士官学校第三十九期航空同期生一同

ちなみに、三方原神社境内には、多くの記念碑があった。

忠魂碑

陸軍大将 田中義一の書

三方原神社

三方原神社 
場所:

https://maps.app.goo.gl/fk8axzTa3QTbNg7WA

四勇士の碑
場所:

https://maps.app.goo.gl/3KQVFpJpZWcZ71BD6


四勇士碑跡地
(九三式重爆撃機墜落の地)

かつての墜落現場に、四勇士碑は建立されていたが、現在は跡地となっている。

四勇士の碑
 昭和12年3月19日、飛行第7聯隊の重爆撃機がこの地に墜落炎上し、搭乗の四勇士が殉職した。
 四勇士は殉職により階級特進で、陸軍少佐寿円正隆、陸軍曹長今泉正夫、陸軍軍曹小川高平、陸軍軍曹岡崎勝、に昇進した。
 この爆撃機が失速、墜落の直前一人の搭乗員が座席を立って、着陸地点を注視していた姿を見た人がいる。非常事態に直面しても沈着、冷静に行動し、民家や学校への被害を避けたことに感激した、地元民の熱意によって、この慰霊碑が建てられました。
 この碑の題字は、航空兵団長陸軍中将、男爵、徳川好敏閣下、撰文飛行第7聯隊長、島田隆一である。
  三方原歴史文化保存会

移転したことが書いていなかったために、前回の訪問時に現地で大混乱をしてしまった。三年ぶりに訪問し、ようやく移転後の石碑に接することが出来た。

四勇士の碑跡地(墜落の地)
場所:

https://maps.app.goo.gl/R9oUC96YH5a6eQCj9


第7航空教育隊の門柱

三方原教導飛行団の門柱のすぐ近くに、第7航空教育隊の門柱もある。こちらも前回、見逃していたので、ようやくの訪問。

場所

https://maps.app.goo.gl/dUfup4WDcu4t1ARt9


三方原教導飛行団の門柱

現在の自衛隊官舎の南側の門柱は、当時の「三方原教導飛行団」の門柱。

三方原教導飛行団は昭和19年4月に浜松飛行学校から独立。
中部第九十七部隊の使用していた三方原飛行場の一角に展開。任務は航空化学戦の実行と教育であった。

場所:

https://maps.app.goo.gl/Vwyoit7uejnJvfMa8

※撮影:2023年11月


関連

浜松

はじめに

木更津駐屯地 創立55周年記念行事「第49回木更津航空祭」その3(飛行展示)

2023年10月1日(日)に開催された木更津駐屯地の記念行事「第49回木更津航空祭」。
普段は立ち入りができない駐屯地内を散策してみました。

海軍戦跡散策などは、「その1」にて。


陸上自衛隊V-22オスプレイ

木更津駐屯地に暫定配備されているオスプレイ。
暫定配備後、今回の航空祭が初の一般公開であった。
なので、もちろん、陸自のオスプレイを見たのは、今回が初めて。

以下、写真メインで。


編隊離陸

あっちこっちで各航空機が離陸

編隊上空通過

大編成での上空通過


訓練展示


地上展示

陸自以外。


その他

※撮影:2023年10月


関連

木更津駐屯地 創立55周年記念行事「第49回木更津航空祭」その2(木更津の海軍戦跡散策2)

2023年10月1日(日)に開催された木更津駐屯地の記念行事「第49回木更津航空祭」。
普段は立ち入りができない駐屯地内を散策してみました。

木更津駐屯地内の記事は「その1」で。

飛行展示などは、「その3」にて。


ここでは、木更津駐屯地外の戦跡を散策します。
木更津駐屯地の正門の脇にある吾妻公園にいくつか残っています。

射撃の的?(木更津市弓道場)

弓道場の的に活用されている台。射撃の的かな?

小さい斜台。

大きな斜台。


水道施設跡1(吾妻公園)

水道施設のあとが残っている。


水道施設跡2(吾妻公園)

覆屋が崩壊した状態で、水槽が残っている。



水道施設跡3(吾妻公園)


軍用兎之霊碑

選擇寺(せんちゃくじ)の境内に。木更津駅に戻る途中で寄り道。

軍用兎之霊

肉は食料、毛皮は兵隊の防寒着に利用するため、飼育された軍用のウサギの霊を弔う碑。

軍用兎の慰霊碑は、はじめてみました。


木更津の近代建築

木更津駐屯地と木更津駅の間に、いくつか近代建築物がありました。

山田眼科医院  
昭和3年(左)と昭和12年(右)

レディースサークル ひまわり(旧金田屋洋品店) 
昭和7年建造。

木更津駅西口。近代建築ではなく、昭和45年の建造。

木更津周辺は戦跡豊富。まだまだ見るべきところが多いのでまた来ます。

※撮影:2023年10月


関連

木更津駐屯地 創立55周年記念行事「第49回木更津航空祭」その1(木更津の海軍戦跡散策1)

2023年10月1日(日)に開催された木更津駐屯地の記念行事「第49回木更津航空祭」。
普段は立ち入りができない駐屯地内を散策してみました。

飛行展示などは、「その3」にて。


木更津海軍航空隊(木空)・海軍木更津飛行場

昭和11年(1936)4月1日、木更津海軍航空隊が現在の陸上自衛隊木更津駐屯地の場所に開隊。
木更津海軍航空隊は、鹿屋海軍航空隊と同時に開隊した日本初の陸上攻撃機部隊。
昭和17年(1942)11月1日に、第七〇七海軍航空隊と改称、翌12月1日に第七〇五航空隊(三沢空)に編入。
七〇七空の解散後も木更津飛行場は拠点基地として機能。
昭和20年8月7日には、木更津飛行場において、日本初の純国産ジェット機「橘花」が飛行に成功している。

敗戦直後の1945年8月19日、参謀次長河辺虎四郎中将を筆頭とする降伏全権団は、米軍の指示で木更津海軍飛行場から沖縄県の伊江島まで2機の飛行機=緑十字飛行(1番機一式大型陸上輸送機と2番機一式陸上攻撃機の緑十字機)で向かい、さらに伊江島から米軍機に乗り換えてフィリピンに向っている。

戦後は米軍の駐留を経て1956年(昭和31年)に航空自衛隊木更津基地が間借りする。
1961年(昭和36年)に米軍は立川飛行場に転出し、航空自衛隊が占有するが1968年(昭和43年)に入間基地に転出。
入れ替わりに陸上自衛隊が転入して木更津駐屯地となり、現在に至る。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M50-66
昭和22年(1947年)2月22日、米軍撮影の航空写真を一部加工。

木更津飛行場界隈を切り出し。

現在の様子(GoogleMap)

さらに拡大。

黄色枠の部分の格納庫と建屋が現存。赤枠の建屋も現存。
緑は、ちょっと形状が違うかな。


木更津駐屯地正門(海軍木更津飛行場正門跡)

海軍時代の正門の門柱が残る。


翔鷺園(海軍防空掩体壕跡)

追悼碑と同時に作られた庭園。海軍時代の防空掩体壕跡でもある。

翔鷺園由来記
 本園は第一ヘリコプター団殉職者追悼之碑建立作業に関連し大堀大野石材店大野留吉氏矢那若草造園間弓三郎氏及び坂井敏武氏等の協力指導により当所にありし旧海軍防空掩体壕に土を盛りまた山梨県八ヶ岳山小淵沢町より石を運び併せて江川久津間地区の買収地より樹木を移し作業日数九十六日延人員1360名に及ぶ全隊員の労力奉仕により茲に庭園を築きたるものにして
昭和48年3月1日追悼之碑序幕と同じくして完成せり
陸上自衛隊第一ヘリコプター団長兼木更津駐屯地司令村岡英夫陸将補これを「翔鷺園」と命名す
永く隊員ならびに市民の思索と憩いの場とならんことを願うものなり


木更津航空神社(木更津神社)

木更津海軍航空隊の隊内神社。
大戦中に航空安全を祈願して建立された航空神社となる。
昭和14年造営。


行幸記念碑

昭和天皇が行幸された記念の碑。
1938年(昭和13年)8月11日に 昭和天皇が行幸された。

揮毫は、戸塚道太郎。
昭和12年に第1海軍聯合航空隊司令官として、木更津海軍航空隊・鹿屋海軍航空隊の九六式陸上攻撃機での上海渡洋爆撃を指揮している。

行幸記念

昭和13年8月11日行幸
 海軍少将正五位勲二等 戸塚道太郎謹書


追悼之碑

木更津駐屯地で殉職なされた隊員を追悼。


荒鷲之碑

昭和16年造。


一式陸上攻撃機(一式陸攻)プロペラ

特に何も説明がないが、一式陸攻のプロペラだという。


航空資料館

内部は撮影禁止。
V-107 (51736 / IIH, KV107II-4A) VIP輸送用の特別仕様機と、旧海軍時代から陸自関係の資料などを展示。

https://sec.mod.go.jp/gsdf/gcc/1hb/sta/index.html


旧海軍時代の格納庫

旧海軍木更津飛行場時代からの格納庫。前述の位置関係の黄枠部分。


海軍消火栓蓋

A格納庫の前に、海軍時代の消火栓蓋が残る。

波に錨


暗渠蓋(排水路の蓋)

もしかして、海軍時代かも。瓦礫が荒いので。


海軍止水栓蓋

海軍時代の止水栓蓋も残る。


海軍時代?の建屋1

おそらく、海軍時代の建屋と推定。前述の位置関係の黄枠部分。


海軍時代?の建屋2

おなじく、海軍時代の建屋と推定。前述の位置関係の黄枠部分。


海軍時代??の建屋3

おなじく、海軍時代の建屋と推定。前述の位置関係の赤枠部分。


講堂

前述の航空写真では形状が適合できなかった建屋。前述の位置関係の緑枠。
海軍時代ではないとしても、古そうなので、もしかして米軍時代?教会?とか???


海軍時代のスロープ?

海軍時代にも同じ場所にスロープがある。往時の名残かも。


海軍時代の施設1

防空壕と思われる施設。煙突のように通風孔もある。搭乗員退避壕だろうか。
往時は覆土してあったのだろう。


海軍時代の施設2

これはなんだろう。覆土された施設。燃料施設か。

上記の覆土された施設の隣。変電設備だろうか?

盛土されている。

土塁ですね。


海軍時代の施設3

若干、盛土が残っている防空壕。同じように通風孔もある。


海軍時代の施設4

防空壕。通風孔が2つもある。

こんな感じで、2つの防空壕が並んでいる。

特に立入制限のロープなどはなかったが、これより北には、ちょっと行っては駄目な雰囲気があったので、ここで引き返し。(掩体壕までは赴けず)


そのほか

そのほか木更津駐屯地内の写真。

格納庫に「笑門」
「笑う門には福来る」

給水タンク。海軍時代かどうかは???

陸上自衛隊 第1 ヘリコプター団の庁舎。

はなの舞。

現在の入り口。

木更津周辺は戦跡豊富。まだまだ見るべきところが多いのでまた来ます。

※撮影:2023年10月1日

その2へ


関連