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「立川駐屯地創立50周年記念行事(航空祭)」その1(立川駐屯地史料館と歴史散策)

2023年10月29日、一般公開にあわせて、ひさしぶりに立川駐屯地に足を運びました。
以下では、前回の補完もあわせて、記事を再編していきます。

飛行展示は、「その2」で。

以下は以前の記事
「立川駐屯地」

「立川飛行場」

「立川飛行機(立飛)」


立川陸軍飛行場

大正11年(1922)に帝都防衛構想の陸軍航空部隊の中核拠点として開設。
日中戦争さなかの昭和13年(1938)に立川に駐留していた飛行第五連隊隷下の戦闘中隊は「飛行第五戦隊」に改編され、翌年には柏飛行場に移駐。 そののちは実働部隊は置かれなかった。

大東亜戦争のさなかは、実戦部隊は展開されていなかったが、陸軍航空部隊の研究・開発・製造の一大拠点として機能。また軍用機製造の民間工場もあつまっており、戦争末期にはたびたび空襲に見舞われた。

アメリカ空軍立川基地
戦後、アメリカ軍が立川飛行場を接収。アメリカ軍の飛行場運用は昭和44年まで続き、飛行活動停止後に徐々に基地返還が行われる。
昭和47年に立川駐屯地発足、昭和52年に全ての敷地が全面返還。再開発が行われ、今日に至る。

2013年より始まった立川基地跡地再開発事業により、それまで残存していた旧軍の遺構も解体撤去。残るものは少ない。


立川陸軍航空廠

1933年(昭和8年)、所沢にあった陸軍航空本部補給部所沢支部が立川に移転して陸軍航空本部補給部立川支部となる。1941年(昭和16年)8月、立川陸軍航空廠に改称。
北側には陸軍航空技術研究所、西側には陸軍航空工廠が存在していた。


陸軍航空工廠

1940年(昭和15年)発足。
陸軍唯一の航空機製造施設であり、主に航空機用発動機の製造、航空機の設計・試作・製造を目的としていた。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-R556-No1-16
昭和22年(1947年)11月14日、米軍撮影の航空写真を一部加工。

立川飛行場東側
USA-R556-No1-16
1947年(昭和22)11月14日 米軍撮影
すでに米軍の進駐がはじまっており、建屋の一部も変更はあるが参考として
立川飛行場西側
USA-R556-No1-17
1947年(昭和22年)11月14日 米軍撮影
すでに米軍の進駐がはじまっており、建屋の一部も変更はあるが参考として
再開発の進む現在の様子

立川駐屯地史料館

2019年以来、4年ぶりの再訪です。

展示機MAPと庭園MAPは新しい。
参考にさせていただきます。

CAMP TACHIKAWA 庭園MAP
昭和48年 東部方面航空隊 立川に全面移駐完了
昭和48年に滑走路東側の旧立川駐屯地から現立川駐屯地へと移駐した際、隊員の手によって整備された。移駐にあたり、庭園を整備したほか、旧軍施設や旧立川駐屯地にあった石碑を移設している。

CAMP TACHIKAWA 展示機MAP
航空機としての役目を終え、広報用展示機となった航空機4機種と装甲車

では、MAPに従って散策してみましょう。


【1】八紘一宇

八紘一宇
昭和15年(1940)
 陸軍航空廠本部に建立された。
 アジアが欧米列強の植民地となっている状況を憂い、アジア及び世界が一つの家族のように平和でともに栄えるようにとの願いが。

八紘一宇
陸軍中将 山下奉文 謹書
昭和15年建立

紀元二千六百年記念
陸軍大佐 川崎正寴 謹書

史料館資料より

陸軍航空廠本部
航空廠は、陸軍航空関係の直轄工場です。
写真は、正門から本館を望んだもので、正面の八紘一宇の碑は、マレーの虎と恐れられた山下奉文大将の筆によるもので、現在は史料館東側に展示しています。

史料館にある拓本


【2】行幸記念碑(行幸紀念)

行幸記念碑
昭和8年(1933)
 昭和天皇が初めて行幸されたことを記念して建立された。
 部隊や試験中の航空機を視察されたほか、展覧飛行も行われ、その様子は新聞にも取り上げられた。

行幸紀念
周次郎 謹書

維時昭和八年五月四日  聖駕此地へ幸シ給ヒ親シク陸軍航空ノ威容ヲ臠セラレ當所ノ研究兵器亦  天覧ノ光栄二浴ス乃テ碑ヲ以テ之ヲ不朽二傳フ

周次郎とは、伊藤周次郎陸軍少将のこと。陸軍航空本部技術部長(1932~1935)、昇格後の陸軍航空技術研究所所長(1935~1936)を努めている。
天覧のあった、昭和8年(1933)に、伊藤周次郎が部長を努めていた。

立川駐屯地史料館より。
昭和8年5月4日の 天皇陛下行幸のようすなど。


【3】池

昭和48年(1973)
 隊員の手によって整備された。
 任務に向けて離陸した航空機が無事に帰投するようにとの願いを込めて「ブーメラン」の形を模して設計された。


【4】行啓記念碑

昭和10年11月19日 皇太子殿下の行啓

行啓記念碑
昭和10年(1935)
 皇太子殿下が行啓されたのを記念し、翌年12月に当時の飛行第5連隊長の柴田大佐により建立された。

飛行第5連隊長の柴田信一の最終階級は陸軍中将。陸士24期、陸大33期。
浜松陸軍飛行学校幹事や鉾田陸軍飛行学校長などを歴任した。


【5】行啓記念碑2(皇太子殿下行啓記念碑)

行啓記念碑の2つめ。
昭和16年10月28日 皇太子殿下の2回目の行啓

行啓記念碑
昭和16年(1941)
 再度皇太子殿下が行啓されたことを記念して建立された。
 裏には「陸軍大将土肥原賢二謹書」とあり、当時、航空総監を務めた土肥原大将が書いたことを示している。

土肥原賢二の最終階級は陸軍大将。奉天特務機関長として満州で活躍。欧米では「満蒙のロレンス」と畏怖された。
極東国際軍事裁判では、A級戦犯として処刑された。


【6】飛行第5戦隊記念碑(飛行第五戦隊之碑

飛行第5戦隊記念碑
昭和58年(1983)
 「飛行第5戦隊」の生存者の会により。
 飛行第5戦隊は、大正10年に岐阜県の各務原飛行場で編成され、翌11年に立川に移駐。昭和14年まで立川飛行場に駐屯した。

飛行第五戦隊之碑
開雲 高木秀明謹書


飛行第五戦隊の母隊である航空第五大隊は 大正十年各務原で創設 翌年立川に移駐し 同十四年飛行第五連隊となった
昭和十三年夏飛行第五連隊の戦闘中隊は改編して飛行第五戦隊となり 千葉県柏に移駐した
昭和十六年大東亜戦争の勃発により戦隊は首都防空に任じた 次いで昭和十八年夏南方戦線に進出してジャワ、チモール、ハルマヘタ、比島方面で作戦任務を遂行した
戦局の推移に伴い昭和十九年秋小牧に転進し 同二十年終戦まで中京地区の要塞防空に任じた この間戦隊は武勲を重ねて感状を授与され陸軍戦闘戦隊の華と謳われた
茲に戦隊の歴史を刻し創隊以来国家に殉じた幾多の戦友病没隊員の遺徳を偲びこの碑を建立する
 昭和五十八年五月二十九日
 飛行第五戦隊生存者有志一同

以下は、立川駐屯地の史料館から第五戦隊関連を。

陸軍飛行第5聯隊配置図

ステンドグラス
陸軍飛行第五大隊将校集会所の2階窓に取り付けられていたもの。
大正11年製

オルガン
陸軍飛行第五戦隊の将校集会所にあった

灯籠
立川駐屯地東地区 旧軍通用門門柱

昭和14年まで立川飛行場に駐屯した飛行第五戦隊は柏に移駐となっている。

飛行第五戦隊 その後
千葉県柏で本土防空任務に就いていた飛行第5戦隊は二式複座戦闘機”屠龍”(キ‐45改)を保有していました。昭和18年になると南方戦線を防衛するため、インドネシアのジャワ島マランに展開して船団護衛や要地の防空任務に従事していましたが、、昭和19年7月に名古屋地区の防空任務を命ぜられて本土へ帰還。愛知県の清洲飛行場を拠点として夜間防空に活躍しています。昭和20年7月には五式戦闘機(キ‐100)に徐々に機種改変して対艦攻撃の訓練を行っていました。しかし、本土決戦のため戦力を温存する傾向となり、出撃を延期することが多くなって、8月15日を迎えたのでした。


【7】駐屯地竣工記念碑(竣工記念植樹)

駐屯地竣工記念碑
昭和58年(1983)
 現立川駐屯地移駐の10年後、第5代駐屯地司令の菱田司令の時代に建立された。
 これに合わせて記念樹としてハナミズキが植樹された。


立川駐屯地史料館見学

いくつか目に止まったものをピックアップ。

昭和15年頃の陸軍施設等の配置図。
「立川飛行場」を中心とした、位置関係がわかる。

東側に
陸軍航空技術学校、陸軍病院
立川飛行機(民間)、陸軍獣医資材廠(東立川駐屯地)、立川工作所(民間)。
西側に
陸軍航空技術研究所、陸軍航空廠立川支廠、陸軍気象部立川出張所、陸軍航空工廠、東亜航空機(民間)、千代田航空機(民間)

立川と空襲
 米軍による日本本土空襲が始まったのは、昭和19年11月のこと。同年7月にサイパン島が占領され、ここを基地としたB-29が大挙して来襲するようになった。以来、空襲は激しさを増し、終戦までの10ヶ月足らずにうちに、日本の主要都市のほとんどが爆撃された。
 立川が空襲を受けた理由としては、軍事関連施設が多かったこと、B-29が東京に襲来するときのコースが、サイパン島からまっすぐ富士山めがけて北上し、伊豆諸島上空付近で進路を北東に向け侵入するため、多摩地区が通過コースとなっていたことなどが考えられる。このため立川は、昭和20年2月16日以降、13回の空襲を受けた。なかでも昭和20年4月4日の空襲は激しく、富士見町山中坂ではB-29が落とした250Kg爆弾が命中し、防空壕にいた全員が犠牲となった。立川飛行場にも空襲はあったが、市内の空襲よりも被害は少なかった。これは、終戦後立川飛行場をそのまま使おうと米軍が考えていたから、などと言われている。
 「昭和記念公園は飛行場だった」より抜粋

山中坂の防空壕跡。

昭和初期~昭和15年頃の軍用機

立川は民間航空発祥地

「神風号」昭和12年に立川を離陸して英国へ。

「ニッポン号」の世界一周(昭和14年)

木製プロペラ
日本楽器株式会社(ヤマハ・YAMAHA)

九三式単軽爆撃機の木製プロペラ
(被包式プロペラ甲型)
川崎造船飛行機工場製、昭和9年

八八式偵察機の木製プロペラ
(刃部包装)
日本楽器(ヤマハ)製、昭和6年

二式射撃標準器甲一号
日本工学工業製(ニコン・NIKON)

板垣征四郎大将の書
杉山元大将の書

陸上自衛隊の引退航空機

陸上自衛隊の現役航空機


野外展示機も見学。

【1】UH-1H

UH-1H
全長:17.4m/全幅:2.85m/巡行速度:215km/h
航行距離:420km/乗員:操縦士2名+兵員11名
UH-1Bの後継として1972年から1991年にかけて133基を導入。現在はUH-1Jに託し全て退役。
陸自ではコールサインから「ハンター」と呼ばれる。「ひよどり」という別名もある。米国では「ヒューイ」(先住民族の名)という愛称も。


【2】OH-6D

OH-6D
全長:9.54m/全幅:1.97m/巡行速度:239km/h
航行距離:460km/乗員:操縦士1名+兵員3名
1969年からOH-1J、1979年からはH-6Dが1997年まで310基を導入、2020年に全て退役。
陸自ではコールサインから「オスカー」と呼ばれる。米国では「カイユース」(先住民族の名)とい愛称も。


【3】LR-1

LR-1
全長:10.13m/全幅:11.95m/巡行速度:460km/h
航行距離:2000km/乗員:操縦士2名+兵員5名
1967年から1984年かけて20基が納入。現在はLR-2に託し2016年に全て退役。
陸自では「LR」コールサインから「レコン」と呼ばれる。


【4】L-19

L‐19
全長:7.62m/全幅:10.97m/巡行速度:160km/h
航行距離:750km/乗員:2名
セスナ社で制作されたセスナ170の軍用機。
1954年に米軍から貸与を受け1986年に全て退役。
「L-19」とそのまま呼ばれている。「そよかぜ」という愛称も。

常設の展示場所には、姿が見えず。。。

イベント限定で、滑走路にお引越ししていました。L-19にとっては、何年ぶりの滑走路だろうか。久しぶりの晴れ舞台でちょっと嬉しそうに見えました。

コクピットになにかいました。
こいつ、前から気になっていたんだけど、なぜにここにいるのだろう。ミニオンズ。

今にも飛び立ちそうな佇まい。


【5】60式装甲車

入り口近くに。
何かが乗っている。

60式装甲車
全長:4.85m/全幅:2.40m/速度:45km/h
行動距離:230km/乗員:4名+兵員6名
1960年に制式化され2006年に全て退役。
戦後米国から提供され、三菱重工業が開発。
「60式」は1960年に制式化されたことを示している。災害派遣でも活躍。


立川黒松

庁舎まえの庭園に。

立川黒松の由来
 立川の発展は 飛行場とともにあり 立川は歴史の中から また立川を語る上でも飛行場を忘れることが出来ない
 過ぎた日の飛行場を懐ひ 飛行場がもつ歴史的背景をおもいおこすときいつも立川飛行場を見守っているのが 此の黒松であり現在もそのさまはみごとである
 当駐屯地は 大正10年陸軍が飛行場の建設を開始し 翌年飛行場の開港とともに陸軍飛行場第5大隊が創隊して 兵舎の間には桜や梅など様々な植木が植樹された
 その中でも ひときわ立派で枝振りの良い此の黒松は 本部隊舎前の植え込みに植樹されたもので 昭和56年現在の立川駐屯地が建設された際に現在地に移植された

八紘一宇に続いて、再び本部庁舎前の写真。

現在の庁舎。

撮影:2023年10月


関連

救難飛行艇「US-2」新明和工業オリジナルグッズ

運良く仕事で防衛省に赴くことがありました。
(私の仕事は防衛産業の会社ではないので、普通は無縁なのですが、本当に運がよく関わることが出来た感じです)

防衛省(市ヶ谷基地)内にある厚生棟内の売店を何気なく見ていたら、思わず釘付けになってしまい、思わず買ってしまったのが「US-2」関連のオリジナルグッズ。

最初、「US‐2」のファイルとストラップだけを買うつもりだったのが、お店の人と盛り上がってしまい、気がつけば追加でいろいろ購入してしまいました。

じつのところ、「飛行艇」大好きマンだったりします。


「US-2」新明和工業オリジナルグッズ

実は、US-2製造元の新明和工業のオリジナルグッズ。
新明和工業の社内販売を想定された製品となり、東日本では防衛省厚生棟1階の売店「森川商店 防衛省市ヶ谷店」でのみ購入可能。

2024年のカレンダーは、もちろん新明和の制作なので「新明和(ShinMaywa)の航空機」のみが掲載というマニアックすぎて素敵なカレンダー。
私が覗いた日が、2024年カレンダーの入荷初日だったそうで、これはラッキー以外のなにものでなく。

ちょっといろいろ買いましたが、他にも買いたいもの多数あったのを我慢しつつ。。。

クリアファイル。美しいです。

人気のアクリルスタンド。
店主曰く、前のモデルが売り切れて、2ヶ月間入荷がなかったそうで、入荷したら「8号機」に変わっていたそうです。7号機から8号機にちょっとした変化をもたせた新明和工業の小技のある製品。そんなエピソード聞かされたら買うしか無いですね。

「US-2」 8号機

ちなみにキーホルダーは「US-2」 7号機。

ShinMaywa 50th FLYING BOAT
新明和工業としての飛行艇50周年記念


Japan Flying Boat History(日本の飛行艇の歴史)

Japan Flying Boat History


日本の飛行艇誕生から100年
 そして、その先へ・・・

海上自衛隊
第71航空隊
〒740‐8555
山口県岩国市三角町2丁目
TEL 0827-22-3181

2007~   US-2
1976~2017 US-1/US-1A
1967~1989 PS-1
1942~1945 二式飛行艇
1926~1938 十五式飛行艇
1920~1926 F-5飛行艇

歴代の代表的な飛行艇。店主さんの快諾で撮影しました。

レシート。
「新明和」と記載してアイテム登録しているのは、店主のこだわり。アクリルスタンドに8号機と記載してあるのも店主のこだわり。

ここは面白いです。店主も面白いです。貴重な話、いっぱい聞けました。

そうそう機会が無いと、防衛省の売店にたどり着くことはできませんが、チャンスがありましたら、是非に。

また来ます、また買いに行きます、行きたいです、、、
(そうそう防衛省に入る用事はありませんけど。。。)


新明和工業

新明和工業 航空機事業部

https://www.shinmaywa.co.jp/products/aircraft/


関連


航空自衛隊 浜松基地 監修「空上げ缶詰」

浜松駅のおみやげコーナーで見つけました。

2020年に発売されていたんですね。知りませんでした。
目に止まった瞬間に、購入しました。。。


空自 空上げ缶詰

焼き鳥缶詰でおなじみのホテイフーズと、航空自衛隊浜松基地のコラボ。

航空自衛隊 浜松基地×ホテイフーズ 『空自からあげ』「うなぎ蒲焼味」&「三ヶ日みかん味」2缶セットで 発売!
株式会社ホテイフーズコーポレーション(静岡市清水区、代表取締役社長:山本達也)は、航空自衛隊浜松基地監修の「空自空上げ うなぎ蒲焼味」と「空自空上げ 三ケ日みかん味」をセットにした「空自空上げ2缶セット」を2月3日(月)より、航空自衛隊 浜松基地の土産売場、および静岡県内の一般土産店等で発売します。
航空自衛隊では、鶏のからあげを「より上を目指す」という意味で「空自空上げ」と呼び、全国各基地の給食やイベント等で、それぞれの地域の特色を活かした空上げを提供し、大変人気を博しています。
今回、弊社が2019 年春に発売し話題となった業界初の「からあげ缶詰」が大変ご好評をいただくなか、同じ静岡県というご縁もあり、実現した浜松基地とのコラボレーション企画です。
パッケージには、航空自衛隊が誇るアクロバット飛行チーム「ブルーインパルス」の機体をデザイン。浜松基地のオリジナル空上げである浜名湖名物のうなぎを使った「うなぎ蒲焼味」と、同じく地元特産の三ヶ日みかんを使った「三ヶ日みかん味」をいつでも気軽に楽しめ、お土産にすることもできる缶詰で再現した商品です。

ホテイフーズ・ニュース
https://www.hoteifoods.co.jp/news/200131/

防衛日報

https://dailydefense.jp/_ct/17366976

航空自衛隊浜松基地

https://www.mod.go.jp/asdf/hamamatsu/

浜松基地グルメ

https://www.mod.go.jp/asdf/hamamatsu/other_gurume/other_gurume.html

からあげ うなぎ蒲焼味
からあげ 三ヶ日みかん味

からあげ缶詰
航空自衛隊浜松基地
空自 空上げ(からあげ)
航空自衛隊では鶏のからあげを「より上を目指す」という意味で「空自空上げ」と呼び、各基地で名物料理となっています。
浜松基地では、浜名湖産うなぎを使った蒲焼味と三ケ日みかんを使った爽やかな味が人気。浜松基地監修のもと、手軽に楽しめる缶詰で再現しました。

三ヶ日みかん味
航空自衛隊では鶏からあげを「空上げ」と呼び、各基地の名物となっております。
三ヶ日みかんを使った爽やかな味わい。

うなぎ蒲焼味
航空自衛隊では鶏からあげを「空上げ」と呼び、各基地の名物となっております。
浜名湖産うなぎと山椒の効いた濃厚な甘辛味。

TVで紹介されたらしいけど、なんのTVだろう。。。

航空自衛隊浜松基地の監修。

まだ、食べてないし、あけてないので、味の感想は、そのうち追記するかも。

ホテイフーズ直販ショップのページ

http://hoteifoods.jp/shopdetail/000000000336/

浜松三方原の陸軍戦跡散策・その2【浜松6】

本記事は、以前の「三方原の陸軍戦跡散策」で、未訪問の箇所を補填した記録となります。

浜松三方原の陸軍戦跡散策【浜松3】の続きとして。

本記事のメインは、前回の訪問時に、移転先がわからなかった「四勇士碑」石碑の確認でした。


浜松の陸軍飛行場

浜松には陸軍の飛行場が2つあった。
「三方原飛行場」と「浜松飛行場」。
この2つの飛行場は誘導路で結ばれており、非常に近い関係であった。

「三方原陸軍飛行場」は、三方原教導飛行団と第7航空教育隊
「浜松陸軍飛行場」は、浜松陸軍飛行学校と飛行第7聯隊
なお。浜松陸軍飛行場は、現在は航空自衛隊浜松基地となっている。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M142-A-5No3-21
1946年5月22日、米軍撮影の航空写真を一部加工。


四勇士碑

三方原神社の境内に、四勇士碑がありました。

合掌

扁額は、徳川好敏の揮毫

四勇士碑
航空兵団長陸軍中将従四位勲二等功四級男爵徳川好敏題字
維時 昭和十二年三月十九日 故陸軍航空兵少佐従六位勲六等寿圓正隆 故陸軍航空兵曹長勲八等今泉正夫 故陸軍航空軍曹勲八等小川高平 故陸軍航空塀軍曹勲八等岡崎勝ノ四士 九三式重爆撃機第一〇二九号ニ搭乗シ爆撃演習中発動機ニ故障ヲ生シ此処ニ墜落 火ヲ発シ一瞬悉ク其職ニ殉ス 痛恨何ソ堪へン 今ヤ東亜ノ風雲急ニシテ空軍ノ飛躍拡張ヲスルノ秋此精鋭ノ士ヲ失フ国家ノ損失甚大ナリ 然レトモ其壮烈ハ深ク国民ヲ感奮セシメ其沈勇ハ蓋シ武人ノ亀鑑タリ報 天聴ニ達シ 畏クモ進級又ハ叙位叙勲ノ恩命ヲ賜フ 洵ニ餘栄アリト謂フへキナリ 此日壮烈永ク想フク此処ニ痛恨竟ニ忘ルへカラス 因テ村民相計リ碑ヲ建テ以テ之ヲ伝フ
 昭和十二年五月
 飛行第七聯隊長陸軍航空兵大佐
           従五位勲三等 島田隆一撰
           従七位勲六等 中島録平書

四勇士の碑
 昭和12年(1937)3月19日、飛行第7連隊の九三式重爆撃機がエンジン呼称のため失速し、今の三方原南研修会館に墜落して炎上、搭乗していた四人の兵士が殉職した。四人は殉職により二階級特進で、寿円正隆陸軍少佐、今泉正夫陸軍曹長、小川高平陸軍曹長、岡崎勝陸軍軍曹となった。この爆撃機の操縦士は非常事態に直面しても沈着に行動し、墜落の場所を民家や学校を避けていたことが判明した。これに感動した地元民は多くの資金を出し合い、墜落地点へ同年に石碑を建てた。四人は勇敢な行動をとったことから四勇士とされ「四勇士碑」が建立されたのである。篆額は航空兵団長、陸軍中将、男爵の徳川好敏、撰文は島田隆一飛行第七連隊長である。
 なお、この四勇士の碑は、平成29年(2017)に建立地点から三方原神社の境内に移転した。
 三方原歴史文化保存会
 浜松北地域まちづくり協議会
 三方原地区自治会連合会

陸軍士官学校第三十九期航空同期生一同

ちなみに、三方原神社境内には、多くの記念碑があった。

忠魂碑

陸軍大将 田中義一の書

三方原神社

三方原神社 
場所:

https://maps.app.goo.gl/fk8axzTa3QTbNg7WA

四勇士の碑
場所:

https://maps.app.goo.gl/3KQVFpJpZWcZ71BD6


四勇士碑跡地
(九三式重爆撃機墜落の地)

かつての墜落現場に、四勇士碑は建立されていたが、現在は跡地となっている。

四勇士の碑
 昭和12年3月19日、飛行第7聯隊の重爆撃機がこの地に墜落炎上し、搭乗の四勇士が殉職した。
 四勇士は殉職により階級特進で、陸軍少佐寿円正隆、陸軍曹長今泉正夫、陸軍軍曹小川高平、陸軍軍曹岡崎勝、に昇進した。
 この爆撃機が失速、墜落の直前一人の搭乗員が座席を立って、着陸地点を注視していた姿を見た人がいる。非常事態に直面しても沈着、冷静に行動し、民家や学校への被害を避けたことに感激した、地元民の熱意によって、この慰霊碑が建てられました。
 この碑の題字は、航空兵団長陸軍中将、男爵、徳川好敏閣下、撰文飛行第7聯隊長、島田隆一である。
  三方原歴史文化保存会

移転したことが書いていなかったために、前回の訪問時に現地で大混乱をしてしまった。三年ぶりに訪問し、ようやく移転後の石碑に接することが出来た。

四勇士の碑跡地(墜落の地)
場所:

https://maps.app.goo.gl/R9oUC96YH5a6eQCj9


第7航空教育隊の門柱

三方原教導飛行団の門柱のすぐ近くに、第7航空教育隊の門柱もある。こちらも前回、見逃していたので、ようやくの訪問。

場所

https://maps.app.goo.gl/dUfup4WDcu4t1ARt9


三方原教導飛行団の門柱

現在の自衛隊官舎の南側の門柱は、当時の「三方原教導飛行団」の門柱。

三方原教導飛行団は昭和19年4月に浜松飛行学校から独立。
中部第九十七部隊の使用していた三方原飛行場の一角に展開。任務は航空化学戦の実行と教育であった。

場所:

https://maps.app.goo.gl/Vwyoit7uejnJvfMa8

※撮影:2023年11月


関連

浜松

はじめに

木更津駐屯地 創立55周年記念行事「第49回木更津航空祭」その3(飛行展示)

2023年10月1日(日)に開催された木更津駐屯地の記念行事「第49回木更津航空祭」。
普段は立ち入りができない駐屯地内を散策してみました。

海軍戦跡散策などは、「その1」にて。


陸上自衛隊V-22オスプレイ

木更津駐屯地に暫定配備されているオスプレイ。
暫定配備後、今回の航空祭が初の一般公開であった。
なので、もちろん、陸自のオスプレイを見たのは、今回が初めて。

以下、写真メインで。


編隊離陸

あっちこっちで各航空機が離陸

編隊上空通過

大編成での上空通過


訓練展示


地上展示

陸自以外。


その他

※撮影:2023年10月


関連

木更津駐屯地 創立55周年記念行事「第49回木更津航空祭」その2(木更津の海軍戦跡散策2)

2023年10月1日(日)に開催された木更津駐屯地の記念行事「第49回木更津航空祭」。
普段は立ち入りができない駐屯地内を散策してみました。

木更津駐屯地内の記事は「その1」で。

飛行展示などは、「その3」にて。


ここでは、木更津駐屯地外の戦跡を散策します。
木更津駐屯地の正門の脇にある吾妻公園にいくつか残っています。

射撃の的?(木更津市弓道場)

弓道場の的に活用されている台。射撃の的かな?

小さい斜台。

大きな斜台。


水道施設跡1(吾妻公園)

水道施設のあとが残っている。


水道施設跡2(吾妻公園)

覆屋が崩壊した状態で、水槽が残っている。



水道施設跡3(吾妻公園)


軍用兎之霊碑

選擇寺(せんちゃくじ)の境内に。木更津駅に戻る途中で寄り道。

軍用兎之霊

肉は食料、毛皮は兵隊の防寒着に利用するため、飼育された軍用のウサギの霊を弔う碑。

軍用兎の慰霊碑は、はじめてみました。


木更津の近代建築

木更津駐屯地と木更津駅の間に、いくつか近代建築物がありました。

山田眼科医院  
昭和3年(左)と昭和12年(右)

レディースサークル ひまわり(旧金田屋洋品店) 
昭和7年建造。

木更津駅西口。近代建築ではなく、昭和45年の建造。

木更津周辺は戦跡豊富。まだまだ見るべきところが多いのでまた来ます。

※撮影:2023年10月


関連

木更津駐屯地 創立55周年記念行事「第49回木更津航空祭」その1(木更津の海軍戦跡散策1)

2023年10月1日(日)に開催された木更津駐屯地の記念行事「第49回木更津航空祭」。
普段は立ち入りができない駐屯地内を散策してみました。

飛行展示などは、「その3」にて。


木更津海軍航空隊(木空)・海軍木更津飛行場

昭和11年(1936)4月1日、木更津海軍航空隊が現在の陸上自衛隊木更津駐屯地の場所に開隊。
木更津海軍航空隊は、鹿屋海軍航空隊と同時に開隊した日本初の陸上攻撃機部隊。
昭和17年(1942)11月1日に、第七〇七海軍航空隊と改称、翌12月1日に第七〇五航空隊(三沢空)に編入。
七〇七空の解散後も木更津飛行場は拠点基地として機能。
昭和20年8月7日には、木更津飛行場において、日本初の純国産ジェット機「橘花」が飛行に成功している。

敗戦直後の1945年8月19日、参謀次長河辺虎四郎中将を筆頭とする降伏全権団は、米軍の指示で木更津海軍飛行場から沖縄県の伊江島まで2機の飛行機=緑十字飛行(1番機一式大型陸上輸送機と2番機一式陸上攻撃機の緑十字機)で向かい、さらに伊江島から米軍機に乗り換えてフィリピンに向っている。

戦後は米軍の駐留を経て1956年(昭和31年)に航空自衛隊木更津基地が間借りする。
1961年(昭和36年)に米軍は立川飛行場に転出し、航空自衛隊が占有するが1968年(昭和43年)に入間基地に転出。
入れ替わりに陸上自衛隊が転入して木更津駐屯地となり、現在に至る。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M50-66
昭和22年(1947年)2月22日、米軍撮影の航空写真を一部加工。

木更津飛行場界隈を切り出し。

現在の様子(GoogleMap)

さらに拡大。

黄色枠の部分の格納庫と建屋が現存。赤枠の建屋も現存。
緑は、ちょっと形状が違うかな。


木更津駐屯地正門(海軍木更津飛行場正門跡)

海軍時代の正門の門柱が残る。


翔鷺園(海軍防空掩体壕跡)

追悼碑と同時に作られた庭園。海軍時代の防空掩体壕跡でもある。

翔鷺園由来記
 本園は第一ヘリコプター団殉職者追悼之碑建立作業に関連し大堀大野石材店大野留吉氏矢那若草造園間弓三郎氏及び坂井敏武氏等の協力指導により当所にありし旧海軍防空掩体壕に土を盛りまた山梨県八ヶ岳山小淵沢町より石を運び併せて江川久津間地区の買収地より樹木を移し作業日数九十六日延人員1360名に及ぶ全隊員の労力奉仕により茲に庭園を築きたるものにして
昭和48年3月1日追悼之碑序幕と同じくして完成せり
陸上自衛隊第一ヘリコプター団長兼木更津駐屯地司令村岡英夫陸将補これを「翔鷺園」と命名す
永く隊員ならびに市民の思索と憩いの場とならんことを願うものなり


木更津航空神社(木更津神社)

木更津海軍航空隊の隊内神社。
大戦中に航空安全を祈願して建立された航空神社となる。
昭和14年造営。


行幸記念碑

昭和天皇が行幸された記念の碑。
1938年(昭和13年)8月11日に 昭和天皇が行幸された。

揮毫は、戸塚道太郎。
昭和12年に第1海軍聯合航空隊司令官として、木更津海軍航空隊・鹿屋海軍航空隊の九六式陸上攻撃機での上海渡洋爆撃を指揮している。

行幸記念

昭和13年8月11日行幸
 海軍少将正五位勲二等 戸塚道太郎謹書


追悼之碑

木更津駐屯地で殉職なされた隊員を追悼。


荒鷲之碑

昭和16年造。


一式陸上攻撃機(一式陸攻)プロペラ

特に何も説明がないが、一式陸攻のプロペラだという。


航空資料館

内部は撮影禁止。
V-107 (51736 / IIH, KV107II-4A) VIP輸送用の特別仕様機と、旧海軍時代から陸自関係の資料などを展示。

https://sec.mod.go.jp/gsdf/gcc/1hb/sta/index.html


旧海軍時代の格納庫

旧海軍木更津飛行場時代からの格納庫。前述の位置関係の黄枠部分。


海軍消火栓蓋

A格納庫の前に、海軍時代の消火栓蓋が残る。

波に錨


暗渠蓋(排水路の蓋)

もしかして、海軍時代かも。瓦礫が荒いので。


海軍止水栓蓋

海軍時代の止水栓蓋も残る。


海軍時代?の建屋1

おそらく、海軍時代の建屋と推定。前述の位置関係の黄枠部分。


海軍時代?の建屋2

おなじく、海軍時代の建屋と推定。前述の位置関係の黄枠部分。


海軍時代??の建屋3

おなじく、海軍時代の建屋と推定。前述の位置関係の赤枠部分。


講堂

前述の航空写真では形状が適合できなかった建屋。前述の位置関係の緑枠。
海軍時代ではないとしても、古そうなので、もしかして米軍時代?教会?とか???


海軍時代のスロープ?

海軍時代にも同じ場所にスロープがある。往時の名残かも。


海軍時代の施設1

防空壕と思われる施設。煙突のように通風孔もある。搭乗員退避壕だろうか。
往時は覆土してあったのだろう。


海軍時代の施設2

これはなんだろう。覆土された施設。燃料施設か。

上記の覆土された施設の隣。変電設備だろうか?

盛土されている。

土塁ですね。


海軍時代の施設3

若干、盛土が残っている防空壕。同じように通風孔もある。


海軍時代の施設4

防空壕。通風孔が2つもある。

こんな感じで、2つの防空壕が並んでいる。

特に立入制限のロープなどはなかったが、これより北には、ちょっと行っては駄目な雰囲気があったので、ここで引き返し。(掩体壕までは赴けず)


そのほか

そのほか木更津駐屯地内の写真。

格納庫に「笑門」
「笑う門には福来る」

給水タンク。海軍時代かどうかは???

陸上自衛隊 第1 ヘリコプター団の庁舎。

はなの舞。

現在の入り口。

木更津周辺は戦跡豊富。まだまだ見るべきところが多いのでまた来ます。

※撮影:2023年10月1日

その2へ


関連

海自 下総航空基地開設64周年記念行事・その2

藤ヶ谷陸軍飛行場跡に、現在は海上自衛隊下総航空基地が展開している。
2023年10月21日に、記念行事で一般開放があったので、足を運んでみた。

本記事は、「その2」となります。
「その1」は下記より。


救難飛行艇「US-2」

うおおお、実は、生で初めて見ました。
「US-2」
二式大艇のDNAを受け継ぐ名飛行艇!!

この娘にあえただけで、感無量だったりします。
華麗で優雅な佇まいに惚れ惚れしてます。ずっと、US-2のまわりをぐるぐるとしていても、飽きないです。

US-2
新明和工業が開発した、飛行艇。
その新明和工業の全身は、川西航空機。

2003年に撮影していた、二式大艇を。


輸送機「C-130R」

海自版のC130ですね。薄い青灰単色が、良い装い。


練習機「T-5」展示飛行

練習機ではありが、海上自衛隊では唯一、曲技飛行が可能な機体でもある「T-5」。
下総航空基地での展示飛行では、海自の曲芸飛行隊「ホワイトアローズ」(小月教育航空群第201教育航空隊)が2機編隊で見事な飛行を見せてくれた。


哨戒機「P-3C」

会場では、P-3Cがタッチアンドゴーを延々と披露してくれていた。何回繰り返したか数えても忘れるほどに、延々と。

格納庫にもP-3C


航法訓練練習機「TC-90」

徳島教育航空群第202教育航空隊


陸自輸送ヘリ「CH-47J」(チヌーク)

あら、ここにも出張していました。

内部公開で、さほどに並ばずにはいれたのはラッキー

チヌークの向こうを飛ぶ、P-3C哨戒機。


ミニP-3C演技展示

ちょっとした寸劇。


そのほか

海上自衛隊東京音楽隊

格納庫

下総航空基地は、けっこう穴場かも。そんなに混んでなくて、なんかのんびりできました。

また来ようっと。

撮影:2023年10月21日


関連

海自 下総航空基地開設64周年記念行事・その1

藤ヶ谷陸軍飛行場跡に、現在は海上自衛隊下総航空基地が展開している。
2023年10月21日に、記念行事で一般開放があったので、足を運んでみた。

本記事は、その1となります。
その2は下記にて。

写真は、T-5展示飛行(やっぱりその2にて、、、)


藤ヶ谷陸軍飛行場
(海自下総航空基地)

藤ヶ谷の地名は、現在の柏市藤ケ谷。敷地としては、北の柏市と南の鎌ケ谷市にまたがっている。

もともと当地は、東洋一の規模を誇っていたゴルフ場であった「武蔵カンツリー倶楽部」の「藤ヶ谷コース」であった。ゴルフ場としては、昭和4年(1929年)に開発された。
「武蔵カンツリー倶楽部」 は、隣接する「六実リンクス18ホール」に「鎌ヶ谷コース18ホール」を有し、日本初の36ホールのゴルフ場であった。

「武蔵カンツリー倶楽部」は、昭和19年(1944年)に本土防空のための飛行場化のために、帝国陸軍に土地が接収され陸軍用地となったたことでゴルフ場は閉鎖され解散。

昭和20年4月、「藤ヶ谷陸軍飛行場」が完成。6月に飛行第53戦隊が、松戸陸軍飛行場から移動。
昭和20年8月、終戦により、アメリカ陸軍航空軍の白井基地としてGHQに接収。
その後、海上自衛隊と米軍による日米共同飛行場時代を経て、現在は「海上自衛隊下総航空基地」となっている。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M380-62
昭和22年(1947年)7月24日、米軍撮影の航空写真を一部加工。

現在の様子。GoogleMapより。


管制塔(海自下総航空基地)

まずは管制塔に行ってみます。

下総運航隊

下総運航隊のゆるキャラ。こいつは格納庫にいました。
あと、自転車ベースっぽいミニPも。

タワりん
うまれたところ:しもふさきちたいかんせいとう
うまれたひ:2023.10.20
レーダーのようせい
とくぎ:ミニPかんせい
すきなたべもの」:レーダー波(は)
なやみごと:ミニPかんせいがいうことをきかない
しんちょう:たぶんりんご30こぶん
たいじゅう:ひみつ♡

基地案内とイベントスケジュール

管制塔。8階の展望回廊。もうひとつ上の9階が管制室。

南側

南西

西

西

西

北西

北、筑波山

北東

南東

下総基地歴史ツアー

千葉県柏市にある、ここ海上自衛隊下総航空基地はもともと・・・

ゴルフ場でした!!!

1932年(昭和7年)~1945年(昭和20年)
当時は「武蔵野カントリークラブ藤ヶ谷コース」という名のゴルフ場でした。     

1945年(昭和20年)4月
第二次世界大戦の最中、帝都防衛※のため
(※帝都=東京)
ゴルフ場は急遽
「陸軍藤ヶ谷飛行場」に変わりました。

1945年(昭和20年)9月、第二次世界大戦後に陸軍藤ヶ谷飛行場は、
「米第5空軍基地」となり、
14年の間、アメリカが管理する基地でした。

1959年(昭和34年)10月
基地内の一部に
海上自衛隊の航空機整備の学校として、
「白井術科教育隊」が誕生し、
  ※1961年~現 第産3術科学校
米空軍と基地の共同使用を開始しました。

翌年1960年(昭和35年)6月
基地から米空軍が撤退し、全面返還され、
海上自衛隊の基地として運用する準備が次々に進みました。

1962年(昭和37年)には
滑走路及び管制塔などの建設が終わり、
航空機としての機能を確立していきます。
それまで白井基地という名称でしたが、
新たに「下総基地」という名称に変わりました。

管制塔の大きさ
高さ38メートル。

「戦艦大和」と「下総基地・管制塔」の大きさ比較。

管制塔の見学記念。
最近、はやりの御朱印タイプ。

こちらをいただきました。


第三術科学校史料室

まずは、史料室に。

下総基地史跡MAP

全部、まわりたいけど、、、立ち入り禁止区域にあるし。

雄魂の碑(立入禁止区域)

九一式改二型航空魚雷(立入禁止区域)
見たかった、、、

戦艦比叡の錨(立入禁止区域)
すごく見たかった、、、

2025年の公開時に、拝見できました!

これは横須賀にお引越し。
40糎被帽徹甲弾

藤ヶ谷飛行場概説。
かなり詳しくて、わかりやすい。

藤ヶ谷飛行場関連遺構(その1)

これですね。

藤ヶ谷飛行場関連遺構(その2)

これですね。

陸軍飛行第53戦隊の帝都防空戦

第3震天制空隊(特別攻撃隊)

陸軍飛行第53戦隊
二式複座戦闘機(キ45改)「屠龍」
キ46三型改「防空戦闘機(武装司偵)」(百式司令部偵察機に上向き銃装備)

「B29」VS「屠龍」の諸元対比

B‐29夜間迎撃戦概要

B-29に対する前方攻撃(推定)

藤ヶ谷飛行場への連合軍進駐

下総基地に関連する戦闘機、など

南方部隊航空部隊第一空襲部隊、第二空襲部隊に対する連合艦隊司令長官山本五十六の感状。開戦時のフィリピン航空戦。

左上の賞状は、呉鎮守府長官時代の嶋田繁太郎によるもの。

となりの安全啓発室。

海自の事故を踏まえた安全啓発室。

弔いの記録。
繰り返さないよう、安全への啓発へと。


下総厚生センター史料室

史料室が、もうひとつある。

日本海軍関連。
海自創設時は、教科書に日本海軍で使用されていた教育資料を礎としていた。

整備魂

YS-11のコクピット。


野外展示機(海自下総航空基地)

SNB型航空機

SNJ型航空機

V-107A型航空機

B-65型航空機


海自下総航空基地

庁舎

格納庫

そういえば、(敷地外の)どこかが火事だったようです。

飛行機の展示は、「その2」で。

※撮影:2023年10月21日


関連

横浜海上保安部・巡視船「PLH03 さがみ」一般公開(2023年11月)

横浜ハンマーヘッド開業4周年として、横浜ハンマーヘッド9号岸壁で、横浜海上保安部 巡視船「さがみ」の一般公開が実施されましたので、2023年11月3日に行ってみました。

青と白が美しい空間。以下、写真中心で。


PLH03巡視船さがみ

海上保安庁のヘリコプター1機搭載型巡視船。つがる型巡視船の2番船。
1979年10月18日の竣工(2023年時点で船齢は44年)。
旧船名は「おおすみ」。みやこ型巡視船の2番船が「おおすみ」と命名されたことに伴い、2022年2月1日に「さがみ」と改名された。

ハンマーヘッドの向こうにPL31「いず」が停泊。

船橋

休憩室

シコルスキー S-76D
MH912
るりかけす

いただきもの。


産業遺産「ハンマーヘッドクレーン」

1914年(大正3年)に建造されたイギリス製の50tジャイアント・カンチレバークレーン。
日本に3基(他は長崎県長崎市および佐世保市に稼働状態で現存)、世界でも17基しか存在しない貴重な産業遺産。
2007年に近代化産業遺産(経済産業省)に認定。
さらに2018年には土木学会選奨土木遺産にも認定。

※撮影:2023年11月


日本で現存する最古の跳上橋「名古屋港跳上橋」

名古屋港に跳ね上げ橋が残っている。
ちょっと見学に行ってみました。


名古屋港跳上橋
(旧1・2号地間運河可動橋)

昭和2年(1927年)に架設された名古屋港跳上橋。
堀川と中川とを連絡する運河の堀川口に架けられた鉄道可動橋。
設計製作は、可動橋の第一人者である山本卯太郎。
国登録有形文化財。
経済産業省認定近代化産業遺産。
土木学会選奨土木遺産。

鉄道廃線後、1987年(昭和62年)より、桁を上げた状態で保存されている。
日本では現存する最古の跳上橋という。

稲荷橋からの遠望。

近づいてみます。

なかなかの光景

小雨が降る中でしたが、足を運んでみたかいがありました。良いものが見れました。

場所

https://maps.app.goo.gl/fAkbpuZmUm9jfKFq6

参照

https://www.city.nagoya.jp/minato/page/0000043966.html

https://www.port-of-nagoya.jp/shokai/kohoshiryo/1001070.html

https://www.pref.aichi.jp/kyoiku/bunka/bunkazainavi/yukei/kenzoubutu/kunitouroku/1039.html

※撮影:2023年3月


「戦前最初で最後の国際的博覧会」名古屋汎太平洋平和博覧会と平和橋

愛知県名古屋市港区にある陸橋。地図を見ていてなんとなく目にとまったところから調べてみたら、興味深い歴史を有していたので足を運んでみました。


名古屋汎太平洋平和博覧会と平和橋

名古屋市が人口100万人を突破し、名古屋開港30周年を迎え、太平洋の平和と発展に寄与することを目的に、昭和12年(1937年)3月15日から78日間にわたって開催されたのが、「名古屋汎太平洋平和博覧会」であった。

平和博覧会は、名古屋市長(大岩勇夫)が中心となり、そして総裁は東久邇宮稔彦王(当時、陸軍中将)が就任した。
陸軍としては軍事拡大を目論んでいるさなかでの「平和を銘打った博覧会」は断固反対の立場であったが、名古屋に縁があり(平和派)皇族の陸軍中将が総裁では、軍も公式には反対できなかったという。

なお、この当時すでに昭和15年(1940)に東京と横浜で紀元2600年を記念した万国博覧会(紀元2600年記念日本万国博覧会・幻の東京万博)が計画されていたことから、それに配慮し「万国」ではなく「汎太平洋」という名称になったともいう。

名古屋汎太平洋平和博覧会
開催目的
 (1)広く内外産業文化の現状を紹介する
 (2)わが国の産業の振興と日本文化の宣伝を行なう
 (3)関係各国民の平和親善と共同の繁栄に資する
会期
 昭和12年3月15日~5月31日(78日間)
会場
 名古屋市南部臨港地帯の15万坪
出展国
 太平洋沿岸諸国および名古屋市との友好国全29カ国
出展物
 産業、社会、科学など
入場料
 大人=60銭
 子供=30銭
 軍人=30銭
入場者数
 約480万人

昭和前期の大規模な博覧会として、会場496.000平方メートルの敷地の中央を南北に貫通して東西会場に分割し、東会場は運河で3分割、会場の道路は大陸橋と地下道で結ばれた。

東会場には国内特設館14館と、海外より満州、中華民国、蘭領印度、ペルシャ、シャム、中南米などが参加した。
国内の保健衛生館で展示されたドイツから購入したプラスチック製の透明人間が人気を呼んだ。

西会場はメインの航空国防館で、非常時日本の威力を誇示し、国民の戦意高揚を図る展示をした。

「名古屋汎太平洋平和博覧会」会場の道路は幅80メートル、そこに噴水、花壇や緑地帯を配し、中央に高さ50メートルの大平和塔が聳え、そこから数条の道路が放射状につくられ、展示館、特設館や付属設備が建てられるという統制のとれた会場づくりであった。入場者は4.808.164人で、外国人も満州の2.819人を含め6.625人が入場した。

参照

https://www.nomurakougei.co.jp/expo/exposition/detail?e_code=1660

https://history.nagoya-cci.or.jp/shouwashoki/h12.html

「平和」を銘打った国際的博覧会ではあったが、博覧会終了の2ヶ月後には盧溝橋事件をきっかけとした「支那事変(日中戦争)」が勃発し、平和は程遠い状況下となってしまった。

名古屋汎太平洋平和博覧会と平和橋
我が国最初の国際的博覧会

 名古屋汎太平洋平和博覧会は、昭和12年、我が国最初の国際的博覧会として注目されました。
 会場は、現在の港北公園周辺50万平方メートルにおよび、国内の各都道府県や外国29か国が参加、会期78日間で総入場者数480万人にのぼる大規模なものでした。

 博覧会名にちなみ、平和の二文字をとって名付けられた平和橋は、港区内で博覧会の跡をとどめる唯一の建造物とされています。
 平成25年、市民に身近な歴史的建造物として「認定地域建造物資産」に認定されました。
  平成26年3月 名古屋市港区役所まちづくり推進室

平和橋
昭和12年港区で、名古屋汎太平洋平和博覧会(日本の産業の振興・文化の発展と高揚・関係国民との平和親善を図ることを目的とする)が開催され、解散期間78日間で、入場者約480万人に達した。
この博覧会のために、約13万円を投入しこの橋が建設された。その名を博覧会の「平和」の二字をとって名付けられ、博覧会の記念として残る唯一のものである。

昭和11年十一月竣工

「ピースあいち」のサイトに、名古屋汎太平洋平和博覧会画報の画像が掲載されている。

https://www.peace-aichi.com/piace_aichi/201809/vol_106-5.html

https://www.peace-aichi.com/piace_aichi/201810/vol_107-5.html

http://www.peace-aichi.com/pdf/20181021_hakurankai1937_2.pdf

※2023年3月撮影


名古屋陸軍墓地(万国戦没者墓地)

名古屋市の平和公園。
戦後、名古屋陸軍墓地は、平和公園墓地に改葬をされた。
名古屋においては、戦後の復興区画整理に際して、陸軍墓地のみではなく、市街地の寺院墓地も総じて新設された平和公園墓地に集約改葬を余儀なくされた。


平和公園

平和公園のご案内
 平和公園は名古屋市の東部に位置し、第二次世界大戦による戦災復興土地区画整理事業の一環として昭和22年5月に「都市計画墓園第1号東保円」として都市計画決定され、市内に点在する279寺の墓地18ha、189,030基の墓碑が集中移転され、墓地と公園が一体化した平和公園が生まれました。(以下略)

平和公園墓地 配置図
寺院ごとに墓地が区画されている。

平和公園バス停のすぐとなりの墓地。
バスは、星ケ丘駅と自由ケ丘駅を結んでいる。


「万国戦没者墓地」が、名古屋陸軍墓地となる。

場所

https://maps.app.goo.gl/cLnfwMSaoNgZVC4L8


名古屋陸軍墓地(万国戦没者墓地)

明治8年の陸軍省の通達により、翌明治9年に、名古屋陸軍墓地が現在の新出来公園に設置された。
戦後、名古屋市は戦災復興土地区画整理事業として市内各所に点在する墓地を移転集約し、墓地公園化を決定。
昭和31年に、陸軍墓地も移設され、万国戦没者墓地が新設された。

萬國英霊塔

昭和25(1950)年1月建立。
名古屋市戦災復興墓地整理委員会。

合掌

日清日露戦争をはじめとする合葬碑が並ぶ。

ドイツ人俘虜の墓地

ドイツ人名古屋俘虜収容所もあった。

ロシア人俘虜の墓地

墓地公園


愛知時計電機株式会社殉職者之墓

熱田大空襲で多大な犠牲者を出した愛知時計電機の殉職者之墓も平和公園墓園内にある。

場所

https://maps.app.goo.gl/wbjoAxgXnJgCyjLJ8


徳川宗春公の墓

尾張徳川家第7代、尾張藩主の徳川宗春公でさえ、改葬されるのが名古屋市戦災復興墓地整理。(もとは、建中寺にあった歴代藩主墓所)。
徳川宗春公の墓は、昭和20年(1945年)に名古屋市が空襲を受けた際、焼夷弾の直撃を受けて、墓石の一部が損傷している。
名古屋藩主代々の墓石は、修復が困難な鵜沼石が用いられており、しばらく損傷した状態であったが2010年に墓碑修復を実施している。

修復前

修復後。焼夷弾の焼け跡はそのまま残っている。

場所

https://maps.app.goo.gl/F1dvMjJJvHGUenvu6


平和公園散策

虹の塔

https://maps.app.goo.gl/gcoLfJFHS323PUvY9

平和堂

第二次世界大戦による多数の犠牲者を追悼し、人類の平和を祈念する趣旨で計画され、戦災復興事業墓地移転記念施設として昭和39年に完成。

https://maps.app.goo.gl/z5oVtdtLuEKZXBcZ6

※撮影:2023年10月


関連

「熱田大空襲の慰霊巡拝」愛知時計電機・愛知航空機(名古屋)

昭和20年6月9日、名古屋の熱田に集中的に空襲があった。

名古屋大空襲のひとつに数えられる「熱田空襲」。
そのターゲットは愛知時計電機と愛知航空機であった。


熱田空襲

昭和20年6月9日、名古屋市熱田区の愛知時計電機船方工場・愛知航空機(現愛知機械工業)工場周辺に米軍が実施をした空襲。
米軍の爆撃機編隊は通常の爆撃航路とは異なる航路で突如として名古屋を襲撃。日本軍は当初の航路から名古屋の空襲警報を解除しており、不意をつかれたことから被害が広がり、結果、愛知時計電機・愛知航空機工場で働いていた従業員や動員学徒約2万2000名のうち1045名が死亡、重軽傷者約3000名、周辺住民も数十人死亡した。(従業員や周辺住民あわせて約2000人が死亡、重軽傷者約2000名との説もある)
この空襲は、9時30分から40分にかけての約10分間の空襲であったという。

米軍は、「エンパイア作戦」として、複数の重工業地点を同時に襲撃し日本側の迎撃態勢を分散させる作戦を立案し、この6月9日は、兵庫県西宮市の川西航空機の鳴尾製作所、兵庫県明石市の川崎航空機の明石製作所、そして愛知県名古屋市熱田区の愛知時計電機、愛知航空機が爆撃をされたものであった。
そして、2トン爆弾が日本で最初に使われた日でもあった。


愛知時計電機と愛知航空機

もとは、機械式時計メーカーの一つ。現在の愛知時計電機株式会社は時計事業からは撤退しているが、歯車技術を応用して精密計測機器メーカーとなっている。
戦前の同社は、やはり時計製造による技術・資本蓄積によって派生した機械、電機、化学部門などを活かし軍用航空機やエンジン製造に携わっていた。

1893年(明治26年)に「愛知時計製造」として創立。
日露戦争時の1904年(明治37年)に陸海軍から砲弾の信管などを初めて受注。
1912年(明治45年)に「愛知時計電機」に社名を改称。引き続き機雷や魚雷発射管の製造の他、艦砲用の射撃盤(射撃データの機械式計算機)の国産化にも協力し海軍との関係が深かった。
また、航空用エンジンの生産も手がけ、大戦中は水冷エンジン「アツタ」の製造をしている。
大戦中の1943年(昭和18年)には航空機増産のために同社の航空機部門を独立させて「愛知航空機株式会社」(現在の愛知機械工業)を設立。
1944年(昭和19年)12月7日の東南海地震では機体組立の中心工場だった永徳工場の製造用治具が乱れ、以後の航空機生産に大きく影響した。
更に1945年(昭和20年)6月の空襲(熱田空襲)により主力の船方工場が大きな被害を受け、そのまま終戦を迎えた。

「愛知時計製造」及び「愛知航空機」の代表作
・九九式艦上爆撃機
・流星
・流星改
・零式水上偵察機
・瑞雲
・晴嵐
・九八式水上偵察機(夜偵)
・水冷式発動機「アツタ」
など。


慰霊地藏尊(愛知時計電機)

愛知時計電機の正門脇に鎮座する慰霊地蔵尊。

熱田空襲の犠牲者を慰霊。

三界萬靈

合掌

地藏尊建立縁起
過グル第二次世界大戦當時當愛知時計電機株式會社ニハ從業員並ニ動員學徒ヲ併セ二萬二千名就業セリ
時ニ昭和二十年六月九日午前九時三十分ヨリ同四十分ニ至ル約十分間ノ空襲ニヨリ忽チニシテ工場一帯ハ當社関係死者一一四五名重軽傷者三〇〇〇名更ニ地方人死者一〇〇〇名ノ一大修羅場ト化セリ
嗚呼惨シイカナ 茲ニ終戰後五年船方工場再建セラル丶ニ當リ同志相謀リ隨喜ノ寫經ヲ埋藏シ地藏尊一軆ヲ建立シ以テ右殉國諸靈魂ノ冥福ヲ祈ラル各靈位願クハ此ノ功徳ニヨリ佛果菩堤ヲ證得セラレンコトヲ
 昭和二十四年六月九日
  覺王山主
   勅賜襌師瓏仙記

場所

https://maps.app.goo.gl/6v6EeH3WfBR177AaA

愛知時計電機 正門

堀川沿いの新建屋


第二次大戦非戦闘員横死者諸霊之追善菩提

愛知時計電機株式会社本社の北側に。
熱田空襲の犠牲者を祀る。

爲第二次大戰非戰鬪員横死者諸靈之追善菩提

愛知時計電機関係者以外の犠牲者を祀る。
合掌

昭和二十年六月九日此の白鳥橋周邉に於て米軍爆撃により無量数百名の一般人名を失ひよつて将來の平和と安定を祈り被爆死者等の冥福を謹みて祈願するものである
 維時 昭和三十三年八月吉祥日
 發願 廣小路徳風會
 隨喜 一般有志者

場所

https://maps.app.goo.gl/KBidYm8HPBxebhAaA


熱田空襲の被爆堤防

以前の記事から抜粋。

堀川運河。
愛知時計電機のすぐ脇に保存されている戦跡。
そこには、 熱田空襲の爆撃痕を残す堤防が移築保存されている。

この護岸は、昭和八年に築造され、平成四年度から実施した「マイタウン・マイリバー整備事業」による新たな護岸の設置にあたり、撤去したものの一部である。
護岸表面にみられるくぼみは、昭和二十年六月九日のいわゆる「熱田空襲」の爆撃によりできたものである。
 平成八年三月 
  名古屋市

場所:

https://maps.app.goo.gl/V8NdRDpmjEDYfuHj9


殉職者之墓

平和公園墓地に、愛知時計電機株式会社の殉職者のお墓がある。

合掌

殉職者之墓
愛知時計電機株式会社
此の墓は、昭和20年6月9日に熱田大空襲を受け殉職された英霊を祀ったものである。

殉職者之墓

愛知時計電機株式会社

場所:平和公園墓地

https://maps.app.goo.gl/BymDWWKzzd3DxhMu7

撮影:2023年10月


関連

日本初のジェットエンジン「ネ20」(特殊攻撃機「橘花」)

2023年10月に開催された横須賀田浦の海上自衛隊第二術科学校オープンスクール。
企業展示コーナーが解説されており、なんと株式会社IHIのブースで「ネ20」が展示されておりました。


ネ20

日本で始めて実用段階に到達したターボジェットエンジン。
横須賀追浜にあった海軍航空技術廠(空技廠)が中心となって研究開発が行われた。
並行して試作されていた特殊攻撃機「橘花」へ搭載。
「ネ」は燃焼噴射推進器(燃焼ロケット)の頭文字の「ネ」。

空技廠と石川島重工業(現IHI)が軍民一丸となって開発。
1944年7月にドイツからもたらされたBMW 003の図面を基にしているが、図面の大部分と実物エンジンを搭載していた伊号29潜水艦は撃沈しているために、完全なコピーが出来ない状況での開発であった。
1946年6月にネ20は完成し、12基が試作され、4基が地上試験、1基が空中実験に用いられ、残りが橘花の飛行試験に充当。1945年8月までに約50基が量産されていたという。

ネ20は終戦とともに、東側諸国に対する秘密保持のために、連合国によりほとんどが破壊され、現在は3基が現存している。
そのうちの2基は米国にあり、1基が日本でIHIが「IHIそらの未来館」(通常非公開)で保管。


特殊攻撃機「橘花」

大日本帝国海軍が開発したジェット戦闘攻撃機(特殊攻撃機)。
日本初のジェット機。
ジェットエンジンを、空技廠と石川島重工業、機体を中島飛行機が開発製造した。
1945年8月7日に飛行試験を木更津飛行場で実施し初飛行するも、1週間後に終戦を迎えた。

※画像は、Wikipediaより
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Kikka_Orange_Blossom_Kikka-10.jpg


現存する国内唯一の「ネ20」ジェットエンジン

はじめて拝見しました。

企業展示コーナーにて

ネ20
IHIの航空宇宙事業の道をひらいた、日本初のジェットエンジン
第二次世界大戦中、海軍航空技術廠により開発された日本初のジェットエンジンである。”ネ”という呼称は「燃料ロケット」のネをとった。ドイツBMW-003A系の構造を参考に開発され、1945年七月に特殊戦闘機「橘花(きっか)に搭載、1945年8月に現・木更津航空基地で高度600m、12分間の初飛行に成功した。1944年12月、東京石川島造船所(現IHI)は5台の量産試作エンジンを受注し、翌年8月1日に横須賀海軍航空技術廠に納入した。IHIの航空宇宙事業は、ネ20から始まった。

Breakthrough Point
限られた物資の中のジェットエンジン開発
ネ20には、限られた物資を有効に使う技術が活かされていた。たとえば、耐熱材料が手に入らず、タービン部は入手困難なニッケルをマンガンに置き換えた鉄ベースの材料で代替した。化石燃料も枯渇していたため、松根油とアルコールを混合して使用した。

四方八方から見学する。

HISTORICAL TURBINE ENGINE
BUILT IN JAPAN
COURTESY OF
NORTHROP INSTITUTE
OF
TECHNOLOGY
INGLEWOOD CALLFORNIA

日本製の歴史的なタービンエンジン
戦後に、米国に鹵獲されたが、現在は、「永久無償貸与、返還要求なし」としてIHIが保管をしている。

米国の銘板、米国での試験時にとりつけられたものか?

貴重な技術遺産。良いものを拝見できました。

※撮影:2023年10月


関連(東京石川島造船所関連)

関連(中島飛行機関連)

靖國招魂碑(高遠城址公園)と伊那散策

長野県伊那市に行く機会があった。
伊那市の戦跡として著名なのは、別記事に掲載した「陸軍伊那飛行場跡」となるが、それ以外の近代史に関連した史跡などを散策してみた。


伊那市街地の看板建築群

上伊那地区の中心となる伊那の駅。
1912年(明治45年)開業。昭和27(1952)年3月改築。

伊那節と勘太郎の街。
どっちもよく知らないけど、信州を代表する民謡のひとつと、伊那の勘太郎は映画の侠客。

自動改札では無いです。

跨線橋は昭和51年(1976)

伊那北駅。1912年(明治45年)開業。
現在の駅舎は1991年(平成3年)。

伊那の町並み。
伊那市駅と伊那北駅は歩いて15分くらいの距離感。駅間距離は0.9キロ。商店街が連続している。

看板建築が残る。
伊那では大正8年に大火があり、そののちに看板建築が多数建設されたという。
これだけの看板建築が集中している空間は貴重。


伊那ローメン

ローメン誕生の地

戦後10年目の昭和30年8月に、伊那名物のローメンは誕生した。

ローメン誕生の地

まだ戦後の混乱と食料難が尾を引いていた昭和三十年 服部幸雄氏の協力を得て伊藤和弌氏の発案によってこの地にローメンが誕生した 冷蔵庫もない時代 日持ちをよくするため考え出された蒸し麺と 当時は食べる習慣のなかった羊肉を用いたローメンは 味と栄養を求める多くの 人々の支持を受けた やがて「飽食の時代」と言われるようになっても 大陸を思わせるその独特の味の人気は衰えるどころかさらに広がり 伊那市 伊那商工会議所の支援を受け またローメンを支える多くの人たちの努力によって伊那市を代表する味覚へと成長した 誕生から五十年を経て 今なお多くの人々に愛される「伊那の味」として愛好者が全国に広がりつつあるローメンのさらなる発展を祈りつつ ここに誕生の記憶を刻む
 平成十五年十一月二十五日
 伊那市長 小坂樫男 謹書
 寄贈 ローメンを愛する有志の会

ローメン発祥の店「萬里」

萬里 メニュー

伊那の名物ローメンのおいしい食べ方

ローメンのお話し

ローメンの誕生
 東京・横浜で修行をして故郷の伊那市に帰り、天竜川と並行して走る国道153号沿いに小さな店を出した青年(先代社長・伊藤和弌)は、毎日考えていることがありました。それは、まだ冷蔵庫が普及していない時代でしたので、仕入れた麺を翌日まで保存することができなかった事でした。
 試行錯誤していたそんなある日、麺を蒸してみることにしました。これが不思議に独特の風味と歯ごたえのある麺に仕上がり、日持ちもすることが解りました。当時伊那地方では羊毛産業が盛んで羊肉が安く仕入れることが出来たので、地場産のキャベツと共に蒸し煮する事にしました。シンプルな料理ですが、これがお客様に好評で、名前を「炒」チャー、「肉」ロー、「麺」メンと名付けました。後に「チャー」が取れて「ラーメン」と語呂が良い「ローメン」と呼ばれることになり現在に至っております。
「ローメン誕生」それは、昭和30年8月の暑い日でありました。

ローメン。
羊肉とキャベツなどの野菜をを炒め, 蒸した中華太麺を加えたもの。普通のラーメンとも焼きそばとも異なる「ソース味ベースのスープ焼きそば」のような食べ物。

一番人気の記載があった「豚頭」もいただく。


高遠城址公園

高遠駅。JRバスの駅。
かつて高遠電気軌道という鉄道を建設する計画があったが、未成線におわり、バス路線となっている。

土日の本数はかなり少ない。
伊那と高遠の往復は計画性が必要。

高遠城址の方向。

高遠城址公園

桜の季節以外は、静かな城址公園。

高遠城の戦い。織田信忠軍と仁科盛信軍(信玄の五男)。
武田氏の最後を飾る奮戦。

高遠閣

高遠町民の集会場及び観光客の休憩施設として建設された施設。木造2階建、鉄板葺、入母屋造の大規模な建造物。
昭和11年(1936年)

天下第一の桜
昭和9年

新城神社・藤原神社
仁科五郎盛信と藤原鎌足を祀る。

太鼓櫓

高遠城本丸跡

高遠公園碑

中村元恒・元起記念碑

南曲輪


靖國招魂碑(高遠城址)

明治30年(1897)建立。小松宮彰仁親王の揮毫。

靖國招魂碑
発起者 本郡各寺院

合掌

日清戦争1年後の明治30(1897)年1月18日に、明治維新後の戦没者および満蒙開拓人殉職者の慰霊を目的として、上伊那仏教会・上伊那尚武会が中心となり建設された碑。

終戦後、昭和23(1948)年4月ケリー将校が、高遠町役場へやって来た際に黒河内町長と面談した際にマッカーサーの命令として、「高遠城址公園内にある靖国招魂碑と、それに付属する一切の戦争遺産と思われるものを全部撤去」するように命令され、消失の危機を迎える。
慰霊碑を維持してきた高遠町の元軍人関係の人々により結成された高遠町八日会は、独断で裏側に大きな穴を掘って碑を埋める対応を実施。
6年後の昭和28(1953)年、日米講和条約が締結され、土中から招魂碑を掘り起こし、再建した。

忠骨蔵
 この招魂碑脇の忠骨蔵には日露戦争のとき上伊那郡から出征し戦死された256柱の貴い遺骨及び遺品が収められています。
 謹んで諸霊のご冥福をお祈りいたします。
 平成7年4月
 上伊那靖国招魂碑奉賛会 

28センチ榴弾砲を活用した忠骨蔵


撮影:2023年9月

陸軍伊那飛行場の跡地散策(熊谷陸軍飛行学校伊那分教所跡)

長野県伊那市。
のどかな信州の山間にも、戦前は陸軍の飛行場が設けられていた。
往時を物語るものが残されているので足を運んでみた。


旧陸軍 伊那飛行場について

第二格納庫跡に、伊那市によって詳細な案内板がセットされているので、以下に紹介をする。

旧陸軍 伊那飛行場について
旧陸軍伊那飛行場と格納庫

 ここは旧陸軍伊那飛行場の跡地です。
 昭和18年8月、この高台の広大な畑や林を軍が接収し、沢二つを埋め立てる大規模な工事が開始されました。同年11月には上伊那各地の住民に勤労奉仕の命令が出され、さらに翌春には、地元の旧制伊那中学校や上伊那農学校をはじめ南信の旧制中学校、旧制松本高校、長野師範学校などの学徒の勤労動員も行われました。軍や建設会社に所属した朝鮮人労働者にも過酷な作業が課せられました。昭和19(1944)年2月には、米軍の空襲をさけるため、この六道原に、埼玉県の「熊谷陸軍飛行学校」の「伊那分教場」が開設されました。
 伊那飛行場では、少年航空兵や見習士官などが、それぞれ3ヶ月の訓練を受けた後、戦地に配備され、特攻隊員となるものもありました。当時は、その飛行訓練のための赤い複葉飛行機(通称赤トンボ)や単葉飛行機(通称飛燕)などが終日伊那の空を飛び回っていました。そして、4回生まで送り出した後、昭和20年2月からは「各務原航空工廠」に所属し戦闘機作りの工場となりました。
 昭和20年8月の敗戦に伴い、米軍によって陸軍伊那飛行場は廃止されました。

・旧飛行場概要(右記の復元図参照)
伊那市六道原 標高650m~700m
南北約2km~2.5km 東西約0.6km~0.8km 総面積約150ha
・本部・兵舎・飛行機の格納庫・弾薬庫等建築物
・滑走路南北方向(芝植栽) 幅80m 長さ1,300m
・誘導路付掩体壕(飛行機を隠すところ)北の林の中に20ヶ所(航空写真)

旧伊那飛行場復元図


位置関係

案内板より

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-R198-10
1947年09月22日、米軍撮影の航空写真を一部文字入れ加工。
案内板と同じ航空写真ですね。

拡大。

赤いピンが案内板のある第二格納庫跡。


陸軍伊那飛行場跡地の散策。

第二格納庫の基礎が残っている。

建屋がある場所が格納庫の内部にあたる。

鉄筋がむき出し。

奥が滑走路の方向

格納庫の後ろ側。

滑走路あと。

滑走路跡にある「上の原公民館」に開拓碑がある。

開拓碑

昭和21年12月入植ㇱ此ノ地ヲ拓ク

前述の航空写真は昭和22年なので、開拓の1年後でもあり。

上の原公民館

この通りの奥に、本部があった。
何気ない道だけど、この直線が当時のメインストリート。

弾薬庫跡。一つだけ残っている。

弾薬庫跡を物置小屋に活用。個人宅なので、敷地外から。
場所は明記しませんが、前述の陸軍伊那飛行場の地図から、弾薬庫の場所を落とし込めば、だいたいの位置関係はわかるかと。

本部エリア周辺。

兵舎とかもこのあたりに。

本部はこのあたりかな。

真っ直ぐの道。
本部も兵舎も工場も格納庫も、この通りに接続していた。

このあたりに、陸軍伊那飛行場の営門があった、はず。

戦跡としては、第二格納庫の基礎と弾薬一棟を残すだけではあるが、伊那市によって整備されており、価値のあるものでした。

※撮影:2023年9月


関連

市ヶ谷台メモリアルゾーン(防衛省)

市ヶ谷の防衛省。
敷地内に、歴史的なメモリアルゾーンがある。

その様子は、以前にレポートしましたが、細部は見学コースに含まれておらず、で、

また、大本営地下壕が見学コースに含まれて以降は、時間の都合と思われるが、「メモリアルゾーン」への見学が、コースから、そもそも無くなっておりますが、、、

詳細は伏せますが、仕事の都合で、市ヶ谷の防衛省内に立ち入る機会があり、なおかつ時間的な制約もなく、比較的フリーで行動できたので、念願の「メモリアルゾーン」見学を実施することができました。以下、その模様を。


市ヶ谷台メモリアルゾーン

公務による殉職者の慰霊碑、殉職者慰霊碑をはじめ、市ヶ谷地区に点在していた記念碑・慰霊碑を集約整備した慰霊碑地区。

防衛庁本庁庁舎の市ヶ谷移転に伴い、1998(平成10)年、自衛隊員殉職者慰霊碑などを「メモリアルゾーン」として整理したが、地積が狭く儀仗隊を伴った式典などの実施が困難などの問題があり、平成14年度から同地区の整備を開始し、現在の「メモリアルゾーン」となった。

残念ながら、2023年現在、「市ヶ谷台ツアー」のコースには含まれていないので、見学難易度は高い。

場所

https://maps.app.goo.gl/wgxMjv6xSzGdPvfbA


自衛隊殉職者慰霊碑(殉職者慰霊碑)

昭和25年に警察予備隊が創設され、保安隊・警備隊を経て、自衛隊に至るまでの職務に殉じられた1934柱の御霊(霊璽簿・名簿)が祀られている。昭和37年建立。昭和55年に新たに整備。

富士山をかたどった慰霊碑。

現行法では、自衛隊員の殉職者は、靖國神社に合祀はできない。
そのため、公的には、このメモリアルゾーンにある「自衛隊殉職者慰霊碑」での慰霊するほかないという。防衛大臣主催の追悼式は毎年10月に実施されている。

合掌

建碑の辞
 昭和25年警察予備隊が創設され、爾来保安隊、警備隊を経て、今日、自衛隊は創立30周年を迎えたが、この間、隊員はわが国を取りまく諸情勢の変化に対応するとともに、国民の期待と信頼に応えるべく日夜精励し,祖国防衛の責務完遂に努めている。
 しかしながら、陸に海に空に任務遂行の志半ばにして不幸にもその職に殉ぜられた隊員諸君の英魂に思いをいたすとき、痛恨の念を新たにするものである。
 過くる昭和37年5月、この市ヶ谷台上に慰霊顕彰の碑を建立すると思に霊域を整え、その御霊を慰めて来たところであるが、すでに十有八年余の風雪を経た慰霊碑は、落剝甚だしいものがあった。
 たまたま自衛隊創立30周年を迎えるに当たり、ご遺族をはじめ隊員一同から新たに碑の整備を望む声が昂まり、ここに財団法人防衛弘済会事業として、全隊員の参画の下にこれを整備するとともに、さきに建立された碑の碑銘と建碑の辞を副碑としてとどめ、改めて諸君の不滅の英魂に対し、深甚なる哀悼の意を捧げるものである。
  昭和五十五年十月
  国務大臣 防衛庁長官 大村 譲治 

以下は、以前にもらっていたリーフレットの案内文を掲載。

自衛隊殉職者慰霊碑
 昭和25年、警察予備隊が創設され、保安隊・警備隊を経て、今日の自衛隊に至るまで、隊員は、国民の期待と信頼に応えるべく祖国防衛の責務完遂に努めてきた。加えて、国際平和協力活動など自衛隊の任務も多様化し、国際社会の平和と安全にも大きく貢献している。これは、隊員一人一人が自らの使命に、自信と誇りを持ち、全力をもって任務を果たしてきたからにほかならない。
 しかしながら、創設以来、陸に海に空に、訓練演習、災害派遣等に当たり旺盛な責任感で身の危険をも顧みず任務の完遂に努めた幾多の隊員が職務に殉ぜられ、その数は1900を超える。
 これらの御霊は、自衛谷あっては良き上司部下あるいは良き同僚として、また家庭にあっては最愛の伴侶、心温かい親あるいは頼もしい子として敬愛されていた方々であり、防衛省・自衛隊としては、このような掛け替えのない方々を失ったご遺族の心情や御霊のご遺志、ご偉業を片時も忘れることはない。
 自衛隊殉職者慰霊碑は、このような職務に殉ぜられた隊員の功績を永久に顕彰し、深甚なる敬意と哀悼の意を捧げるものである、昭和37年建立された。その後、風化による傷みが著しくなったことからご遺族の要望もあり、防衛弘済会共助事業費と全自衛隊隊員の拠金をもって新たに整備され、昭和55年10月15日に完成した。
 碑銘は鈴木首相の揮毫によるもので、中央の石は黒御影石で、左右の石は無垢白御影石で霊峰富士山を形どっている。前面には、副碑として旧慰霊碑の「池田首相の銘石」と「建碑の辞の碑銘」が一緒に備え付けられた。

 自衛隊殉職者慰霊碑には、歴代防衛大臣等の防衛省幹部の離着任時に欠かさず、また、外国要人からも献花が行われている。

 警察
呼びたい創設以来、職務に殉ぜられた方々の御遺族も御高齢になられたことを考慮し、御遺族が来訪の時には心安らかにご参拝ができるよう、また同僚・後輩諸氏が事故絶滅の誓いを新たにするに、より相合しい場所となるよう慰霊碑を移設し、メモリアルゾーンの整備を行った。


阿南惟幾 陸軍大臣陸軍大将荼毘之碑

敗戦の責任を感じ、三宅坂の官舎に於て自刃された阿南大将の遺体は高等官集会所に安置され、昭和20年8月15日夜、荼毘に付された碑を移設したもの。


杉山元帥・吉本大将 自決之跡の碑

終戦時、第一総軍司令官杉山元元帥(昭和20年9月12日)、軍令部付であった吉本貞一大将(昭和20年9月14日)は、敗戦の責任を感じて市ヶ谷台で自決。この地にあった碑を移設したもの。


赤玉石

阿南大将及び杉山元帥・吉本大将の外囲いが整備された際、寄贈されたものである。

この慰霊碑台座下の敷石は「卵石」と称し、国内はもとより外国からも輸入された化粧石であります。
 杉山・阿南・吉本・晴木・その他各烈士の慰霊碑に参拝の方々は、是非とも、一個を参拝紀念に、形・色合いを選んでお持ち帰り下さい。
 それが先士先人の事迹に思いをはせ後世に語り継ぐべき、よすがになれば幸いであります。
  市ヶ谷台慰霊会


雄健神社跡(陸軍士官学校神社・市ヶ谷台の地主神)

市ヶ谷台の雄健神社。
陸軍士官学校の神社として、雄健(おたけび)神社は、大正5年(1916)に創建され、陸軍士官学校19代校長、与倉喜平中将が「雄健」と選名。
天照大神、大国主命、経津主命、武甕槌之命、明治天皇、大食津神とともに陸軍士官学校出身将兵の戦病歿者の霊を合祀。

昭和16年(1941)、陸軍予科士官学校の移転にともない御神体が御神体は、朝霞に奉遷。
なお、市ヶ谷台の地主神として大食津神は、引き続きこの地に祀られていたが、占領軍の接収を防ぐために、祭神(大食津神神)を靖国神社へ奉遷。
平成14年(2002)に、メモリアル地区整備(記念碑等の集約)に伴い、現位置に移設。

記念碑(雄健神社跡)
沿革
大正5年
 第19代陸軍士官学校長であった余倉中将により天照大神、大国主命、経津主命、武甕槌之男神、明治大神、大食津神、陸軍士官学校戦病歿者英霊を合祀する目的で建立
昭和12年
 陸軍士官学校が陸軍士官学校と陸軍予科士官学校に分離し、陸軍士官学校は座間へ移転
昭和16年
 陸軍予科士官学校の朝霞への移転に伴い祭神(市ヶ谷台の地主である大食津神以外)を朝霞へ奉遷
昭和20年
 終戦後、占領軍の接収を防ぐため、祭神(大食津神神)を靖国神社へ奉遷
昭和35年
 市ヶ谷駐屯地発足の際、歴史的資料の一つとして保存
平成12年
 防衛庁本庁移転に伴い、祈念碑(雄健神社跡)として管理
平成14年
 メモリアル地区整備(記念碑等の集約)に伴い、現位置に移設され、今に至る

雄健神社跡の記
市ヶ谷台の雄健神社は大正五年に創建された
天照大神、大国主命、経津主命、武甕槌之命、明治天皇、大食津神とともに陸軍士官学校出身将兵の戦病歿者の霊を合祀し、日夜生徒の参拝するところであった
昭和十六年陸軍予科士官学校の移転にともない御神体は朝霞に奉遷された
戦後は長野県の大伴神社にお祀りしてあったが、昭和三七年六月靖国神社にお迎えして昇神の儀が執り行われた。
 陸士二十五期建之

市ヶ谷台から相武台に移転した「雄健神社」。
相武台の旧鎮座地(米軍座間キャンプ)には、雄健神社を偲ぶ鳥居が再建されている。


全陸軍航空部隊・陸軍航空本部・陸軍航空総監部碑
(全陸軍航空部隊碑・全陸軍航空奉賛同人会碑

全陸軍航空部隊、陸軍法空本部、陸軍航空総監部における戦没者、殉職者の英霊を祭祀した主碑と、その後方に「鎮」「魂」及び「追碑」の副碑がある。昭和52年この地に建立。

 全陸軍航空部隊戦没者の慰霊顕彰の碑。菅原道大による謹書。

全陸軍航空部隊 陸軍航空本部 陸軍航空総監部碑
 菅原 道大 書

揮毫をした菅原道大は、陸軍航空の第一人者。陸軍特攻の軍司令官でもあった。

全陸軍航空部隊碑

 この碑は陸軍航空を育成管轄した陸軍航空本部、陸軍航空総監部ならびに全陸軍航空部隊を後世に記念し、かつ終戦に際し責を負って自決された航空本部長熊本中将を始め創始以来陸軍航空に在籍し、国の内外において戦歿或は殉職された全英霊の偉勲を偲んで敬虔な追悼の誠を捧げ、もってわれら陸軍航空同人の心のふるさととしてその友誼を深め、永遠に世界の平和と日本の空の安泰を祈念するものである。
   昭和52年3月10日
    建立委員長 川嶋虎之輔 謹書

鎮・魂の副碑について
主碑後方の「鎮」「魂」の副碑には陸軍航空始まって以来の二千百余の部隊名が彫記されております。
 陸軍航空碑奉賛会


九九式十糎山砲

大日本帝国陸軍が1939年(昭和15年)に制式化した口径105mmの山砲。
昭和42年9月から戦史室前に展示されていたものを移設。


砲一碑

野砲兵第1聯隊及び野砲兵第101聯隊の記念碑。昭和44年この地に建立。

野砲兵第一聯隊
野砲兵第百一聯隊

 聯隊は市ヶ谷台国府台世田谷に駐屯 昭和11年北満州に警備に任じた。其間 西南の役 日清日露両戦役に従軍、支那事変には第101聯隊其他を編成して参戦 大東亜戦争には一部をグアム島に派遣 最後はレイテ島に追撃して玉砕 70有余年に亘る栄光の歴史を閉じた
 茲に同志相計り由緒深い此地に碑を建立し 聯隊歴史同志芳名録記念の品々を納めて永く後世に伝える
 昭和44年6月3日
  砲一碑建設有志一同 建立


陸軍士官学校趾

明治7年、明治天皇の御聖旨により学校設立。第31代陸軍士官学校長、山田乙三大将の揮毫(大正5年)による碑を移設した。

陸軍士官学校趾
陸軍大将 山田乙三 書

山田乙三陸軍大将は。最後の関東軍総司令官(兼任で在満州国特命全権大使)であった。


東京陸軍幼年学校之跡

明治30年、明治天皇の御聖旨により学校設立。
戸山ヶ原にあった碑を学校発祥の地市ヶ谷に移設した。

東京陸軍幼年学校之跡
陸軍大将 山田乙三 書


陸軍少佐晴氣誠慰霊碑

晴氣少佐は大本営陸軍部作戦班に勤務中、敗戦となりその責任を感じて、昭和20年8月17日の早朝にこの地で自決。

 少佐は太平洋正面の作戦を担当し戦勢の挽回に精魂を注ぎ万策を盡したが、戦局の赴く所、如何ともし難く遂に終戦に至る。少佐はその責を一身に帰し、此の地で自決した。
 高潔な人格と全戦役を通ずる輝かしい功績とは軍人の鑑である。


大本営陸軍参謀 晴気誠少佐(陸士44期 佐賀県出身)は、前大戦中、サイパン島陥落の責任を痛感し、昭和20年8月17日未明、この地に於いて同期親友の益田兼利少佐を介錯として自決された。
この碑は、参謀本部作戦課有志により、昭和40年8月に建立。更に高柳實氏の奉仕により平成5年8月16日石碑の台座を修復した。


大元帥陛下御立所

大元帥陛下( 昭和天皇)が士官候補生の馬術訓練を御見学された場所。


謎の建造物

これ、謎なんです。通風孔?


戦史室跡の碑

大東亜戦争に関する戦史叢書102巻が編纂された戦史室の跡地に置かれた碑を移設。
戦史叢書は、みんなお世話になりますよね。

この地で大東亜戦争に関する戦史叢書百二巻を編纂し その業績は防衛研修所戦史部に引き継がれた
 昭和五十四年十二月
  有志一同 建立


東京オリンピック支援集団司令部跡の碑

1964年(昭和39年)の東京オリンピックを支援するため自衛隊支援集団が編成され、司令部は当時の22号館が当てられた。司令部跡に置かれた碑を移設。


市ヶ谷駐屯地・基地記念碑

防衛庁市ヶ谷移転に際して、昭和45年当時の市ヶ谷駐屯地・基地及び芝浦分屯地に在駐していた部隊が刻まれている。昭和45年は、、、三島由紀夫、、、


改めて

メモリアルゾーンに深々と拝礼を。

以前に配布のあった、案内リーフレット。

メモリアルゾーン
 自衛隊殉職者慰霊碑、雄健神社跡、市谷台の各所に点在していた記念碑等を移設した市谷台の東側一帯の地域です。

詳細。

ちなみに、私はA棟(防衛中枢機関)とC棟(情報本部)以外の庁舎棟には立ち入り可でした。

なかなか、立ち入る機会がない場所なので、今回は、貴重な記録になりました。

※撮影:2023年