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「陸軍中野学校 ・豊多摩監獄・野方配水塔」中野の戦跡・近代史跡散策

平成29年

・陸軍中野学校
・豊多摩監獄
・野方配水塔

平成29年10月28日。
当初の予定が雨で崩れたために予定変更の散策。

さすがに中野は再開発で見るべきところはすくないけど、ちょっとだけ往時を偲ぶ痕跡を探してみました。

中野駅前

JR中野駅北口。物産展やってました。
この場所がすでに陸軍用地。戦前の「陸軍中野学校」がこのあたりに展開されていました。
何度かの開発を経て、この写真に写っている「中野区役所」と「中野サンプラザ」の地は更なる再開発になるとのことで。

中野駅の北側に「陸軍中野学校」、
その北は「豊多摩刑務所」。

戦後、陸軍中野学校の跡には警察大学校・警視庁警察学校などがあったが2001年に府中に移転。
その後は2008年に東京警察病院がこの地に移転。
また「中野四季の森公園」が整備され、明治大・帝京平成大学などが開設している。

位置関係

以下は、1944/11/07(昭19)陸軍撮影の航空写真(8921-C6-140)

中野区役所の前に、お犬様がおりまして。

陸軍中野学校よりも前の時代。江戸時代。
この地には5代将軍・徳川綱吉公の時代、元禄8年(1695)に作られた「犬屋敷」があったという。この犬像は1991年に寄贈。

中野区役所の前庭に。
中野が歩んできた歴史の一節が記載されておりました。

中野史跡碑」(昭和43年建立)
徳川五代将軍綱吉の犬小屋、八代将軍吉宗が桃園と御立場を設置、明治に中野電信隊・鉄道隊・気球隊が創設、そして陸軍中野学校が整備、戦後のGHQ進駐から警察大学校など…。

中野四季の森公園

平成24年、警察大学校の跡地を活用してできた防災公園。
中野四季の森公園の周囲には「明治大学」「帝京平成大学」「中野セントラルパークサウス」「中野セントラルパークイースト」などが展開されている。

もちろん、この地も戦前は陸軍中野学校跡。

当地には陸軍の鉄道隊・電信隊・気球隊が明治30年(1897)に創設。
のちに鉄道隊と気球隊は千葉に移転。(習志野鉄道聯隊など
当地に残った電信隊が第一電信聯隊と改称し、のちの「陸軍中野学校」へと。 電信をスタートして諜報や防諜・宣伝など秘密戦へと進化。

中野四季の森公園 いまとむかし(一部抜粋)
時は流れ、明治期から第二次世界大戦の終戦までは陸軍関係の施設がありました。陸軍の鉄道隊・電信隊・気球隊兵舎が明治30年(1897年)に創設され、後に交通兵旅団司令部も置かれましたが、やがて鉄道隊・気球隊は千葉県下に移転し、電信隊のみが残り、第一電信連隊と改称しました。その後にできたのが陸軍中野学校でした。この学校は『「謀報謀略の化学化」に対応するための要員養成所』として設けられたと言われています。

陸軍中野学校

スパイ養成学校と言った感じでとにかく後世のイメージは悪いですよね。

陸軍中野学校は、諜報や防諜・宣伝など秘密戦に関する教育や訓練を目的とした大日本帝国陸軍軍学校で情報機関のひとつ。
昭和13年に防諜研究所として創設され、昭和15年には陸軍中野学校と改称。

昭和13年の創設時は東京九段(軍人会館近く)にあった愛国婦人会本部別館にあったが、昭和14年4月に旧電信隊跡地の中野に移転。

昭和19年には静岡浜松天竜に遊撃戦(ゲリラ戦)要員養成の為の「陸軍中野学校二俣分校」が開校。

昭和20年4月、空襲激化に伴い陸軍中野学校は群馬富岡に疎開。松代大本営と東京の中間地が富岡の選定理由という。
そうして疎開先の富岡で終戦。(疎開先は現在の県立富岡高校)

東京警察病院

戦後、陸軍中野学校跡に「警察大学校」「警視庁警察学校」などが開設。それらの警察学校は平成13年(2001年)に府中に移設。
2008年(平成20年)に「東京警察病院」が千代田区富士見から当地に移転し現在に至る。一応、誰でも受診出来るらしい…

陸軍中野学校址碑

東京警察病院敷地内
敷地内の北西角にある「碑」を見学。
極めてわかりにく場所。その歴史を隠すかのようにひっそりと植え込みの中に「陸軍中野学校を物語る碑」があった…

陸軍中野学校址碑
碑裏面

國際情勢の緊迫と列強秘密戦の激化に鑑み軍は昭和十三年七月九段に後方勤務要員養成所を臨設 翌年四月現在地に移設し昭和十五年八月これを陸軍中野学校と改称した
昭和二十年四月群馬県富岡町に移転するまで六星霜、全軍より厳重に審査簡抜せる要員を集め情報勤務教育を施すと共に國軍高度の秘密戦研究に当たった
創設の精神を発揚し負荷の重責を果たすため本校は特に精神の陶冶を重視してその中心として楠公社を建立 学生は夙夜この社頭に魂の修練を重ねた此の碑の立つ所即跡地である

陸軍中野学校 初代幹事 福本亀治 謹書
中野校友会 建立

「陸軍中野学校址碑」を謹書した福本氏は陸軍中野学校の創設メンバーの一人。 (岩畔豪雄中佐・秋草俊中佐・福本亀治中佐の3名が創設委員)
福本亀治氏は二・二六事件当時は東京憲兵隊特高課長で取り調べを担当。のちに中野学校幹事に就任。その後は第六方面軍憲兵隊司令官兼漢口憲兵隊長・少将。

摂政宮殿下行啓記念碑

「陸軍中野学校址碑」の隣には「摂政宮殿下行啓記念碑」
これは大正12年5月28日に当地の「中野陸軍電信隊」を摂政宮殿下(昭和天皇)が行啓されたことを記念。

碑裏には「昭和6年3月」「軍用鳩調査委員事務所職員一同」と記載あり。
中野の電信隊では軍鳩の飼育研究も行われていたのだ。

中野陸軍電信隊と軍用鳩・・・

写真は靖國神社の「鳩魂塔 」

この靖國神社「鳩魂塔」は、伝書鳩の霊を慰める為に昭和4年に中野陸軍電信隊内に建立されたことに始まる。
その後、上野恩賜公園を経て昭和57年に靖國神社に復元奉納。

軍用鳩魂の記憶は、平和を希求する「靖國神社の白鳩」へと受け継がれているのだ。


陸軍中野学校の跡から北北東の方向に歩みをすすめる。

中野区立 平和の森公園

かつての豊多摩刑務所(後の中野刑務所)
1910年に開庁、1975年に廃庁。
1985年に跡地に平和の森公園として部分開園。

中野「平和の森公園」南側。
矯正研修所東京支所と野水再生センターの間の道から垣間見れます。

旧豊多摩刑務所表門
(豊多摩監獄・中野刑務所)

後藤慶二・大正4年(1915)
旧豊多摩刑務所表門は大正時代の建築家であり35歳で急逝した後藤慶二の手による現存する唯一の建築物。 イギリス積。

豊多摩監獄設計者 後藤慶二
大正モダニズム建築の傑作 豊多摩監獄

豊多摩監獄の工事主任及び現場監督として、実質的な設計にあたったのが後藤慶二(明治16年‐大正8年・1883-1919)でした。
完成をみたのは大正4年(1915)、後藤が東京帝国大学卒業後司法省に入り、技師となってまだ6年目のことでした。洋画を学び豊かな芸術的才能を持ち合わせた後藤は、監獄という機能的な建築物の設計において、先進の技術を用いながら、大正モダニズム建築の代表作として評価される芸術的な作品を生み出しのたのです。しかし、彼は惜しくも36歳の若さで夭折しました。
中野刑務所の遺構である旧豊多摩監獄表門は、今日現存する彼の唯一の作品です。( 矯正図書館 展示より)

旧豊多摩刑務所表門から、そのまま道なりに歩いていけば「法務省 矯正研修所東京支所」に。
中野刑務所時代の塀かどうかはわからないけど、古さを感じさせる良き気配。 でもこの先は立入禁止。

矯正研修所東京支所の隣に「CAPIC刑務所作業製品展示ルーム」。
併設された「矯正会館・矯正図書館」ではちょうど矯正図書館開設五十周年特別展示が行われておりました。

「刑務所近代化の歴史とそれを支えた人びと」
まったく予定しておりませんでしたが面白そうなので立ち寄りを。

以下、興味を持った展示内容などを。

豊多摩監獄内の神社「寶樹稲荷社」
元は市ヶ谷の備中松山藩板倉家鎮守社。
明治8年の市ヶ谷監獄建設に伴い市ヶ谷監獄の鎮守社に。
大正4年に市ヶ谷監獄が豊多摩監獄に移転した際に当社も遷座。
平成27年に中野新井の新井天神・北野神社の境内稲荷社に遷座合祀。

清浦奎吾揮毫「刑は刑無きに期す」(昭和8年・複製)・尚書(書経)
清浦奎吾(1850-1942)は内務省警保局長・司法次官・司法大臣等を歴任し日本行刑制度の基礎を築いた。
1900年から1909年までは監獄協会(現在の矯正協会)の会頭・総裁。
1924年に内閣総理大臣就任。

旧豊多摩監獄(中野刑務所)で使用されていた煉瓦。
これは「桜花」が刻印された「小菅監獄製煉瓦」。
豊多摩監獄では「小菅監獄製」の他には「上敷免製」刻印の日本煉瓦製造会社製の2種類があったという。

廃庁嗟惜

惟時、昭和58年3月31日。
此の日、職員41名、在監者なく、天気麗燿なれど寒風強し。 
豊多摩監獄、豊多摩刑務所、中野刑務所と三代70年に亘り、行刑の栄光と苦難の道を一途に歩み来たりしも、今、将に永遠に終焉の帷りを閉じなんとす。
(中略)
孤独なれど粛然として消え去り行く、我が中野刑務所よ。
 静かに眠れ。
  そして、消え去れよ。
   嗚呼
昭和58年3月31日 中野刑務所長 …

矯正図書館企画展にて良き学習を。
刑務所からみる近代史というのは縁がなかったもので。

さて移動。
「平和の森公園」の平和資料展示室に行こうと思ったら…へっ?
「平和資料展示室」は展示終了、展示資料の一部は区役所に…って区役所は散策の最初だったし、区役所に戻るつもりもないのでまたの機会に。。。

北上。西武新宿線を越えて哲学堂公園近くまで歩む。

中野区立 水の塔公園

名前の通り、ここには水の塔=配水塔があります。

野方配水塔

国登録文化財
淀橋浄水場などを手がけ近代上水道の父と称された中島鋭治博士の設計。
着工は昭和2年(1927)、竣工は昭和4年。高さは33.6m、直径は約18mの鉄筋コンクリート造り。
世田谷区喜多見で多摩川から引水。
昭和41年まで稼働。東京近郊都市化のシンボル。

正面には弾痕の跡が残る。
大きくシンボル的であった給水塔も戦禍の歴史を刻んでいた。

野方配水塔
空襲時の弾丸の傷跡が残されている配水塔です。
関東大震災後、都市化による水の需要に応えるため、この地にあった給水場に、配水塔がつくられました。
この配水塔は1966(昭和41)年に配水を止め、その後、災害用給水槽として使われてきました。
中野区

旧野方配水塔(国登録文化財)

野方配水塔は、荒玉水道の給水場につくられた塔でした。荒玉水道は大正12年(1923)の関東大震災後、東京市に隣接した町村の急激な都市化による水の需要に応じるため、当時の豊多摩・北豊島両郡にある13の町々が連合して設立しました。
配水塔は、ドイツで衛生工学を学び、淀橋浄水場をつくった「近代上水道の父」中島鋭治博士(1858~1925)の設計です。
着工は昭和2年(1927)で竣工は同4年です。高さは33.6m、基部の直径約18mの鉄筋コンクリート造りです。
世田谷区の喜多見で多摩川から引水し、60万人の2時間分が貯水可能と言われ昭和41年(1966)まで使われていました。その後、解体計画もありましたが、平成22年(2010)に国登録文化財となり大切に保存されています。
ドーム型の屋根が、地域の特徴ある景観を形づくり、江古田の水道タンク・水の塔・給水塔などと親しまれてきた、東京近郊都市化のシンボルです。
平成26年2月 
中野区教育委員会

正面の「みずのとう幼稚園」側から、水の塔を臨む。
頂点の造形が配水塔にしておくにはもったないくらい美しい。

今回の中野散策編はこれでおしまい。

近藤家ゆかりの日露戦争記念碑(調布)

地元調布の忠魂碑と記念碑を掲載。

調布の布多天神社境内。近藤勇の孫にゆかりがあるのです。

日露戦争記念碑

日露戦争忠魂碑
日露戦争記念碑

近藤勇と新選組のゆかりの地
日露戦争記念碑(中央の碑)の裏には、日露戦争に従軍し、戦病死した近藤勇の孫(近藤勇の娘瓊(たま)と勇五郎の一人息子)近藤久太郎の名がみえる。
近藤久太郎の墓は、祖父近藤勇が眠る龍源寺に一族とともにある。
碑文を書いたのは、近藤勇が甲陽軍鑑を率いて甲府に向かう途中に立ち寄って歓待を受けた上石原宿名主中村勘六の長男で、多摩三筆の一人に数えられた中村克昌である。
平成二七年三月設置 調布市観光協会

近藤久太郎は明治16年(1883)に近藤勇五郎と近藤たまの長男として誕生。 「近藤たま」は新選組局長近藤勇の一人娘。近藤勇五郎は旧姓宮川、近藤勇の甥(勇の兄の子)で、のちに近藤勇の婿養子となっている。

近藤久太郎 は近藤勇直系のただ一人の孫であった。
日露戦争に出征し、明治38年に戦病死。23歳。

記念碑には「現役陸軍騎兵一等卒」と記載あり。

日清戦争忠魂碑(左)

西光寺(西調布)


近藤神社と産湯の井戸

近藤勇は宮川家のうまれで近藤家に養子にでている。
産湯の井戸は宮川家。
人見街道の北側には宮川家の近藤勇産湯の井戸と近藤神社。

近藤勇ゆかりの近藤道場(天然理心流道場)「撥雲館」。
調布飛行場の北側、人見街道に面した地に残る。
調布飛行場建設の為に従来の近藤家は取り壊されて移動しており、撥雲館もあわせて現在の近藤家敷地内に移築。

近藤勇の出生地は調布。市内には近藤勇ゆかりの場所がほかにもあるけれども、それはおいおいで。

大西瀧治郎を偲ぶ

総持寺境内

鶴見駅から鶴見総持寺に足を運んでみた。大西瀧治郎の墓に。

大西瀧治郎

従三位勲二等功三級

海軍中将 大西瀧治郎之墓

合掌

海軍中将。第1航空艦隊司令長官、軍令部次長を歴任。

「敷島の大和心を人問わば朝日に匂ふ山桜花」
神風特別攻撃隊の創設者の一人。

昭和20年8月16日。
遺書を残し割腹自決。享年55歳。

墓裏には

昭和三十八年八月廿三日再建之
大西 淑恵
児玉 誉士夫

とある。
大西 淑恵 は 大西 瀧治郎 の妻。
児玉 誉士夫 は大西と懇意な関係にあり、児玉機関への支援などを大西は積極的に行っていたということもあり、交流が深かった。

遺書の碑

2000年に「遺書の碑」が建立。発起人は元副官であった門司親徳(海軍主計少佐)。命日である8月16日に除幕式が行われた。

遺書

特攻隊の英霊に曰す
善く戦ひたり深謝す
最後の勝利を信じつゝ肉
弾として散花せり然れ
共其の信念は遂に達
成し得ざるに至れり
吾死を以つて旧部下の
英霊と其の遺族に謝せ
んとす
次に一般青壮年に告ぐ
我が死にして軽挙は利
敵行為なるを思ひ
聖旨に副ひ奉り自
重忍苦するの誡とも
ならば幸なり
隠忍するとも日本人た
るの矜持を失う勿れ
諸士は国の宝なり
平時に処し猶お克く
特攻精神を堅持し
日本民族の福祉と世
界人類の和平の為
最善を尽せよ

海軍中将 大西瀧治郎
八月十六日

之でよし百万年の仮寝かな

「 之でよし百万年の仮寝かな 」は辞世の句

海鷲観音

大西 淑恵 婦人によって建立。
「故人は特攻隊に申し訳ないと言い残して自決したのですから、特攻で散華された方々をお祀りする観音様を故人の墓と並べて建立したい」との希望で建てられたもの。

海鷲観音
昭和27年9月彼岸 
施主 大西淑恵

大西瀧治郎君の碑

親友一同による「大西瀧治郎君の碑」がある。

いわく。
今や一身以て一艦を屠る特別攻撃法を敢行するの外救国の途なしと断じ進んでその任に当らんことを申出つ
君中宵沈思幾度か遂に血涙を呑んでその採用止むなきを進言し自ら特攻部隊の指揮官に任したり
朝に空母を沈め夕に戦艦を傷け連日の猛撃に敵陣色を失い恐慌甚だしきものあり
去り乍ら彼我物力の大差は如何ともすべからず遂に刀折れ矢尽き終戦の日を迎うるに到る君即ち我事ここに終れりと従容として古武士の法に遵い敬愛する特攻戦士の跡を追へり ・・・

大西瀧治郎君の碑
大西瀧治郎君は兵庫県芦田の産長して海軍に志し明治四十五年七月優秀の成績を以って兵学校を卒業す人と為り豪宕不屈進んで草創期の航空界に身を投じ険難を意とせす研鑽に精進する事数年その特性を体得するに及び将来我が国防の最大要素たるべきを痛感し海軍航空を急速に発展せしむる事こそ自己に課せられたる使命なりとし益々拮据精励特に要員教育訓練の基礎確立に力を到せり爾来累進して要職を歴任するの間軍政の府に在っては航空優先の施策実現に全力を傾注し熱誠倦むところを知らす又部隊を率いては率先垂範積極的指導に終始し士気の昴揚自ら風を為す大東亜戦争の初期海鷲よく太平洋の全域を掩□無敵の名を肆に到したるその因由素より多々あるへしと雖君等明達径行の士万難を排して精強部隊の育成に汲々として盡瘁したる多年の苦心に負うもの甚た大なるは信じて疑はさるところなり戦局漸く我に利あらす皇國の前途轉た暗□たるの秋果然至誠純忠なる青年将校等今や一身以て一艦を屠る特別攻撃法を敢行するの外救国の途なしと断じ進んでその任に当らんことを申出つ君中宵沈思幾度か遂に血涙を呑んでその採用止むなきを進言し自ら特攻部隊の指揮官に任したり朝に空母を沈め夕に戦艦を傷け連日の猛撃に敵陣色を失い恐慌甚だしきものあり去り乍ら彼我物力の大差は如何ともすべからず遂に刀折れ矢尽き終戦の日を迎うるに到る君即ち我事ここに終れりと従容として古武士の法に遵い敬愛する特攻戦士の跡を追へりその遺書に曰く青壮士諸氏は國の宝なり日本人の矜持を失う事なく民族の福祉と世界人類平和の為め最善を尽せと茲に偉人大西海軍中将が踏み来たりたる大道を追想しその高風を永く後毘に傳へんとす
昭和三十七年三月二十一日 親友一同


鶴見総持寺

大祖堂の裏にひろがる五院墓地(五院右1-1)に大西瀧治郎の墓がある。


宇垣纏墓

大西さんと宇垣さんと。

宇垣纏を偲ぶ

神風特別攻撃隊之魁甲飛十期之碑

児玉誉士夫墓

大西と縁が深かった児玉誉士夫は池上本門寺に墓がある。

そのほか、総持寺関連

満蒙護國神社

平成30年6月参拝

埼玉県・出雲大社朝霞教会 境内社

満蒙護國神社
平成元年四月十五日建立

照清大権現縁起
霊夢に依り昭和十四年五月ソ満国境ノモンハン事変に参戦護国の英霊となられた戦友七千六百拾六名の御霊を靖国神社より分祀 
この地の守護神としてここに祭る

ノモンハンの桜

満蒙護国神社
由緒
昭和14年5月、ソ満(旧・ソ連と満州)国境に勃発して”ノモンハン事変”にて英霊となられた戦友7,616名の御霊をお祀りしています。(先代教会長・渡邉清はこの戦争を経験しました。)

出雲大社朝霞教会

埼玉県朝霞市鎮座。
宗教法人 出雲大社朝霞教会は昭和58年3月に宗祠(出雲大社)よりご分霊をお祀りし、埼玉県内唯一の出雲大社として創建されました。
地域の皆様には、“朝霞の出雲大社”“埼玉の出雲さん”などの愛称で親しまれています。 由緒はサイトより

2019年現在、新社殿造営中。仮社殿となっております。
以下の写真は過去の模様です。

御朱印をいただきました。
あわせて幸福の飴もいただきました。
ありがとうございます。

軍艦「榛名」の後部マスト(後檣)

令和元年6月 兵庫県尼崎市

難波八幡神社の境内に、榛名のマストが残されていると聞き、足を運んでみました。
駅から歩くにはちょっと遠く、私はJR神戸線立花駅からバスで赴きましたが、JR尼崎駅もしくは阪神尼崎駅、阪神塚口駅などからもバスの便はあるようです。

軍艦「榛名」の後部マスト(後檣)

マストには以下の文言がみえる。

國光宣揚 軍艦 榛名

草むらには石碑。

昭和十一年十二月十八日建立
会長 陸軍中将 権藤伝次
西大阪支部長 間口伊之助

戦艦「榛名」は、昭和8年から1年かけた「第二次近代化改装」にて上部構造物の大幅な近代化を行い、その際に後部マスト(後檣)が撤去されている。
その後部マストが昭和11年に、大日本国光宣揚会道場の庭園に国旗掲揚塔として無償下付されたものという。当時の大日本国光宣揚会道場は現在の塚口病院のあたりにあった。戦後、病院建設にあたりマストは難波八幡神社に移設された。

「大日本国光宣揚会」(本部・大阪)の会長であった権藤伝次は、陸軍中将(旧10期)、 歩兵第18連隊長、第36旅団長等などを歴任。

以下、軍艦「榛名」の後部マスト(後檣)の写真を。

難波八幡神社

兵庫県尼崎市東難波町3丁目6-15鎮座
八幡大神を祀る。
仁徳天皇の御世(4世紀)の創建と伝えられる古社「難波祝津の宮跡」 とされる。

大阪城周辺の戦跡散策

平成29年4月

平成29年4月18日。大阪に用事のあった私は午前中の空き時間を利用して大阪城界隈へ。
実に10年ぶりの大阪城公園。
普通に廻っても面白くないので、近代史跡・戦争史跡(戦跡)を中心に散策してみました。 それでは参りましょう。


大阪城の戦跡関連


大阪城公園

JR環状線「大阪城公園駅」に到着したのが午前9時頃のことでした。
この日の散策は大阪城公園駅を起点終点に城の周りをぐるぐると。
真田さんの出迎えで気分が高揚してきますね。

大阪城公園駅から大阪城ホール方面に歩く。
最初に見えてきたのが「大阪砲兵工廠跡」


大阪砲兵工廠跡

昭和34年建立の記念碑。
もとは旧本館付近にあったが、大阪城ホールが建設されたため移築された。

現在の大阪城ホールのある場所(大坂城三の丸米蔵跡地)が「大阪砲兵工廠本館跡地」。 大阪砲兵工廠(大阪陸軍造兵廠)はアジア最大の規模を誇り、陸軍唯一の大口径火砲の製造拠点であったという。

余談ながら。
靖國神社第二鳥居は、1887年(明治20年)に「大阪砲兵工廠」で鋳造されたもの。 靖國神社に4つある鳥居の中で一番古く、また青銅製鳥居として日本一の大きさを誇っている。
写真は靖國神社第二鳥居(大阪砲兵工廠鋳造)


砲兵工廠荷揚げ門(第一荷積場)

大阪城ホールの北側。 「砲兵工廠荷揚げ門」(第一荷積場)
明治4年(1871)に建設されたアーチ荷揚げ門という。
周辺は立入禁止なので回りから眺める感じで。

北外堀を西に向かいます。
「大阪城桃園」がありました。


大阪砲兵工廠化学分析場(化学試験場)

大正8年(1919)竣工。
ネオ・ルネサンス様式、煉瓦造、地上2階・地下1階の建造物。
かつては阪大校舎や自衛隊建物として使用されるも、現在は使用されておらず放置中…。


守衛詰所(もしくは便所)とされる建物

化学分析場(化学試験場)の隣に。
筋鉄門跡附近。
建物は立入禁止。
化学分析場もであるが荒廃が進んでおり先行き不安。


大阪砲兵工廠 表門(正門)跡
明治天皇聖躅碑

碑には砲兵工廠と刻まれている。
筋鉄門跡。
「大阪砲兵工廠」としては左右の石組を残す。


大阪偕行社附属小学校跡

一度、大阪城公園から外に。
外堀と学校に沿って歩く。
この学校は「追手門学院」
学校に古風な門柱があり、戦前の「大阪偕行社附属小学校」名残。

偕行社とは陸軍将校倶楽部(海軍は水交社)。
戦後、大阪偕行社解散後に小学校は「追手門学院」として存続。

大阪偕行社附属小学校は、今は中高等学校。

当時からの壁か。古風な雰囲気を残す。

陸軍標石も残っている。

意味ありげな柱。


通りすがりに目についたのが

大阪府庁舎本館

大正15年(1926)竣工。
現行の都道府県庁舎として最も古いものであると。


その「大阪府庁舎本館」の道を挟んだ隣に。

大阪連隊区庁舎跡

コンクリ壁。 敷地は工事中でした。
コンクリ壁はなんとなく残ってますね。


大阪府庁から大手門の方に向かいます。 見えてきたのが

大阪市大手前配水場高地区ポンプ場

昭和6年(1931)建造とのことで。


大阪城大手門の近くに。
近代史跡じゃないけど、ここには立ち寄らねばと思いました。

生國魂神社お旅所跡

秀吉よりも前の時代。
難波を代表する大社である生國魂神社(式内名神大社・官幣大社)は、かつてこのあたりに鎮座していたという。

さて。そろそろ大阪城へ近寄りましょう。
堀の向こうに大きく見えるのは「教育塔 」。
そちら側へはまたのちほどで参ります。


大阪陸軍兵器補給廠

大手門から城内へと侵入すると右手に「大阪城公園内城内詰所」が見えてくる。
この場所は戦前は「大阪陸軍兵器補給廠」であり、レンガ壁と門柱は、往時を偲びし現存する貴重な遺構。


大阪砲兵工廠製造の水道管

ん?なんかパイプが見えますね。 大坂城天守閣南西側の内堀にかかるパイプ、実はこれは「水道管」 日本で初めて製造された「鋳鉄管」を用いた水道管は「大阪砲兵工廠製造」の水道管なのです。 これも貴重な近代産業遺産。

石山本願寺!


豊国神社(大阪)

折角なので大阪城内の「豊国神社」に参拝。
京都と名古屋は「とよくに」で大阪は「ほうこく」だそうです。

名古屋の豊国神社さんの御朱印帳に大阪の豊国神社さんの御朱印を頂戴致しました。ありゃ、これは京都にも行かないとダメですかね。

豊臣秀吉公像。

ところでこの日の大阪城界隈は中韓の観光客がぱっと見の体感で8割ほどおられましたが、秀吉公の像で記念撮影している方々もおられましたが、それで国に帰っても大丈夫なのでしょうか。


第四師団司令部庁舎

旧・大阪市立博物館 かつての「第四師団司令部庁舎」
第4師団司令部庁舎として昭和6年(1931)3月に竣工。 市立博物館としては2001年に閉館。2017に複合施設として再開業。

今回は天守閣には登りませんでした。
今思えば登れば上から「第四師団司令部庁舎」がみれたんですね。惜しいことしましたがどのみち時間が無かったと思います。


教育勅語記念碑

売店の裏手に。訪れる人もなくひっそりと碑がございました。
「教育勅語渙発40周年記念」として大阪市内の教育者たちによって建碑されたものです。
昭和6年2月11日竣工。

朕?惟フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇?ムルコト宏遠?ニ德ヲ樹ツルコト深厚ナリ……

歴史を物語る一証人として、記念碑は静かにそこにあった。
記念碑を前にして、しばし教育勅語と対座する空間。

大阪城の天守閣を背にして南下します。


地下壕入口

第四師団司令部庁舎の向かい。内堀に穴が空いてまして。 これは「地下壕入口」とのことで。 よく見るといろいろありますね。


大阪城公園の南外堀に移動。

城南射撃場跡碑

城南射撃場は昭和7年5月に陸軍によって建設。戦後は自衛隊に引き継がれ昭和43年に撤去。大阪城公園として再整備された。
訪れた際は辺り一面が桜花びらの絨毯で、記念碑に腰掛けて記念撮影している方もいたり。

城南射撃場は昭和7年5月陸軍によって建設、戦後は陸上自衛隊に引き継がれて隊員の訓練などに供されていた。昭和43年11月、大阪市の緑化100年運動の一環である大阪城公園の整備推進に協力し撤去された。
昭和44年5月24日 大阪市


南外堀にひときわ大きな塔がある。

教育塔

昭和11年(1936)建立。
教育に関する殉職者・殉難者の慰霊を目的として建設された。

「教育塔」
レリーフは「教育勅語を奉読する校長先生と子供たち」「台風から子どもを守る先生」を描いたものという。元々は教育勅語が発布された10月30日に「教育祭」が行われていたが、2008年から最終日曜となったらしい。

外堀の南からぐるりと東廻りで北上。
ちょっと行程が悪いですね。

改めて北側の山里門から再度大阪城内堀へ。
秀吉公と淀君の自刃の地。


北側の山里郭にある記念碑。

真心 碑

旧中部第三十五航空情報隊
女子防空通信手有志
昭和四十一年十一月吉日

女子防空通信隊宿舎の跡。
昭和20(1945)年6月1日の空襲で焼夷弾により焼失。

北側の山里曲輪や天守台には「機銃掃射跡」や「1トン爆弾による石垣のずれ」もあるというが…天守台のほうは、うっかり忘れていたり、機銃掃射は石垣の上ばかりみていて見逃していたりしたとか。

再訪しています


位置関係

午前9時ちょい前にスタートして11時半に駅に戻りまして。
所要時間はざっと2時間半で8キロの散策。

大阪城には意外と近代の何かが残っていて。
思ったよりは結構楽しい散策ができました。

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M84-1-97
1948年08月31日に米軍が撮影した航空写真を加工。

このエリア、取りこぼしが多いので、再訪すると思います


関連

東京砲兵工廠はこちら

西淡路高射砲陣地跡(解体済)

(西淡路高射砲台・国次高射砲陣地)

平成30年(2018)8月及び令和元年(2019)6月撮影

※解体済み

大阪に出張に行く機会がありまして。
フォロワーさん(盡忠報國さん)情報で、道路新設の為に近々取り壊し予定という高射砲台跡をみてきました。


西淡路高射砲陣地
(西淡路高射砲台・国次高射砲陣地)

大阪市東淀川区

戦後に住居として再利用された高射砲台跡。


位置関係

以下、参考として。
戦後に米軍が撮影した航空写真(1948年02月20日撮影)

ファイル:USA-M18-4-21-2.jpg
地図・空中写真閲覧サービス
及び
Google航空地図を抜粋加工。

北のほうを拡大

現在の様子

3D


高射砲陣地の解体前写真

写真など。

以下は平成30年

以下は令和元年6月、まだ現状維持のままでした。


高射砲陣地の指揮所

指揮所は、2021年春の段階では、まだ残っていた。。。


名古屋熱田の戦跡散策

平成29年1月

・名古屋陸軍造兵廠跡
・熱田神宮被爆鳥居
・堀川被爆護岸堤防

平成29年1月29日昼過ぎ。熱田到着。
過去、熱田神宮には何度か参拝に来たことはあった。しかしかつては熱田神宮と境外社などしか訪れておらず、で。
熱田に戦争関連の史跡が残っているとは露知らず、でした。


神宮東公園

JR熱田駅に東側に、「神宮東公園」という公園がある。
その一番北の方に、案内も特にないけどなにやら記念碑のようなものがあって、それが最初の目的地。


名古屋陸軍造兵廠跡

1904年(明37)東京砲兵工廠熱田兵器製造所として発足。
1923年(大12)名古屋工廠熱田兵器製造所。
1940年(昭15)名古屋陸軍造兵廠熱田製造所。

名古屋陸軍造兵廠シンボルマークは「名古屋城の金鯱」をイメージしたもの。

名古屋陸軍造兵廠跡・碑文

名古屋陸軍造兵廠は明治三十七年陸軍省がこの地に東京砲兵工廠分廠として創設以来昭和二十年八月の終戦まで国家の要請に応えて来た。 第二次大戦末期には本部の外、熱田・高蔵・千草・鳥居松・鷹来・楠・柳津等の製造所を有し、三万五千人が奉職して居た。 私達は多くの殉職者のご冥福と世界平和を祈ります。 碑は名古屋陸軍造兵廠のマークで名古屋城の金の鯱を象ったものである。
 昭和五十四年十一月三日
  名古屋陸軍造兵廠記念碑建立委員会

一大軍需工場であった熱田の地を偲ぶ記念碑。
いまは静かな公園の片隅に佇むこの記念碑に見向きをする人もすくなくはなってしまったが、私のような人がときより訪れるわけで。
往時を偲び、自然と手を合わせてしまう場所でもある・・・

名古屋陸軍造兵廠跡
現在はその敷地の大部分を「中京倉庫」が活用をしている。
倉庫敷地内にはおそらく往時からと思われるレンガ造りの建造物が点在しておりました。

中京倉庫敷地の一番北側。
道路に面してレンガ造りの建物が横たわっております。
これはなかなか見ごたえのある建造物ですね。

歩道橋から俯瞰してレンガ建物を見学することが出来ました。
これは圧巻。

名古屋陸軍造兵廠跡
中京倉庫の敷地内には、よく見るとほかにもレンガ建物が点在してますね。

名鉄とレンガが一緒に見れるポイントに、心がワクワクしてます。


熱田神宮

さて、続いては熱田神宮さんへ。
熱田神宮を境内境外含めじっくり参拝すると半日は余裕で消費してしまいますが、さすがに時間がないので今回はさくっと参ります。
名鉄神宮前駅の入り口から参進。
東門ですね。
・・・というか、熱田神宮宮廳の入り口ですね。

参拝。
すごい人出です・・・さすが熱田さんや。

熱田神宮さんの御朱印・・・いえ熱田神宮さんでは「御神印」と表現しております。
今回は熱田神宮さんの御神印だけを頂戴致しました。
(別宮や境内社・境外社、それぞれ参ればいろいろいただけます)

御神木 大楠
圧巻の存在感です。


熱田神宮 南の鳥居

さて本題。 熱田神宮に訪れたのは参拝したかったというのも勿論ですが、戦災の記憶がここにもあるわけで。

昭和20年6月9日。
米軍爆撃機B29が名古屋市熱田区を空襲。
熱田神宮南側の鳥居には、その時の爆弾の破片で受けた傷とされるものが残っておりました。 破片傷だけで済んでおり類焼を免れたのは奇跡的というしかなく。

さて、熱田神宮の次は、川岸に向かいます。
熱田神宮の川岸といえば、察しの良い方は「七里の渡し」(東海道熱田‐桑名の海路)を思い出すかもしれませんが、今回は七里の渡しのある堀川の対岸のちょっと北側になります。

めざす目標は愛知時計電機のすぐ隣の土手。


愛知時計電機

航空機製造メーカーとして著名であった「愛知航空機」は、まさにこの愛知時計電機から航空分門が分社した会社であり、親会社の「愛知時計電機」もまた戦前は軍需産業を担っていた。

さきほどの熱田神宮の鳥居でも触れた、昭和20年6月9日の熱田空襲の本命目標は、それこそ軍需工場であった「愛知時計電機」や「名古屋陸軍造兵廠」であった。
写真は 「愛知時計電機」 本社建屋(名古屋市まちなみデザイン貢献賞受賞)


熱田空襲 被爆堤防

堀川運河。
愛知時計電機のすぐ脇に保存されている戦跡。
そこには、 熱田空襲の爆撃を喰らった堤防が移築の上で保存されている。

被爆堤防の碑文

この護岸は、昭和八年に築造され、平成四年度から実施した「マイタウン・マイリバー整備事業」による新たな護岸の設置にあたり、撤去したものの一部である。
護岸表面にみられるくぼみは、昭和二十年六月九日のいわゆる「熱田空襲」の爆撃によりできたものである。
 平成八年三月 
  名古屋市

護岸表面にみられるくぼみ。写真では伝えにくいが、見た目以上に深くくぼんでおります。試しに10円玉を置いてみました。爆弾の破片の威力の大きさを感じることが出来ます。

往時を記録する堤防を前にして、空襲で犠牲になった方々のことを思い静かに手を合わせる。

南湖院第一病舎(茅ヶ崎)

令和元年5月撮影

南湖院は神奈川県茅ヶ崎市にあったサナトリウム(結核療養所)
医師・高田畊安 (1861-1945) によって1899年9月に開院。

地名の「南湖」(なんご)によるが、濁音を嫌った高田畊安によって当施設は「なんこいん」と呼称。

全盛期の昭和10年代には敷地5万坪、建坪4500坪、病室は158室。
「東洋一のサナトリウム」と称された。

1945年5月に海軍に全面接収されて解散。
1946年8月、連合国接収。
1952年、在日米軍施設キャンプ茅ヶ崎の一部となる。
1956年、米軍の接収解除。
1979年、畊安の孫にあたる高田準三により有料老人ホームが開設。
2015年12月10日、第一病棟と付随する土地が茅ヶ崎市に寄付され、再整備。


旧南湖院第一病舎

第一病舎は、明治32年(1899年)の竣工以来幾度となく改修を経て現在に至っている。療養地として著名な湘南に残る希少な明治期の結核病棟。
木造・2階建て 延床面積:68.75坪 病室数:10
国登録有形文化財(建造物)に登録。

正面
門柱左右には「南湖院」「高田病院」

南湖院記念 太陽の郷庭園

受付で入場時間を記入して番号札をセルフで持ち出すシステム。

第一病舎

内部は整備が終わってからの公開

高田畊安碑

昭和13年5月
キリスト教を信奉していた高田畊安の独特な宗教観(神武天皇とキリストを同一視)が刻まれている。
1940年及び1942年に独特の宗教観を織り込んだ入院者ガイドブック「南湖院一覧」は「皇室ニ対シ不敬」として発禁処分。
1945年2月1日‐2日には 高田畊安 院長は特高に呼び出され出頭。その1週間後の9日後に 高田畊安 院長は83歳で死去している。

(碑・表)

イエサヤ豫言
第九章五及六
神武天皇及皇國に關はる聖書の豫言一兒は吾等の為に生れたり 一男子は吾らに賜ひたり 其の肩上に統治の政權は降さる 其の名は神智神武恒久の父平安の主と稱へらるダビデの王位の上に統治の政權は増し加はり 又其の王國の上に平和幸福は窮りなし 彼は正義と公道を以て之を立て且つ強め今よりして永遠に至る全能の主の執心は斯の事を成就したまふへし  
南湖院長醫學博士 高田畊安 謹譯  
昭和十三年五月 岡田起作 謹書

(碑・裏)
高田畊安 曽孫 増田守正 同竹子 二男 高田畊安 
勝 海舟 孫  疋田正善 同孝子 長女 同 輝子

高田畊安の妻は勝海舟の孫娘であった。

旧院長室棟

いつの建設かは不明


太陽の郷 南湖院の歴史

https://www.taiyonosato.co.jp/nankoin/

茅ヶ崎市‐指定文化財

http://www.city.chigasaki.kanagawa.jp/bunka_rekishi/shiteibunkazai/1029671.html

広島護國神社と戦跡散策

平成29年(2017年)

廣島護國神社

3月3日夕刻。この日は広島中心部に宿を取っていた。
宿に向かう途中、広島護國神社に立ち寄り。
実は3回目の参拝。とはいっても10年ぶり。
その10年前は、一部で有名な例の「万灯みたままつり」の参拝でした。それはそれで懐かしい思い出…

広電に揺られて紙屋町経由で社頭に到着したのは15時30分のこと。
現在の鎮座地は「広島城跡」内。
戦後の遷座。

広島護国神社

明治元年12月、戊辰戦争において陣没された七十八柱を「水草霊社」に奉祀されたのが創建。

以来、大東亜戦争に至るまでに戦没された御英霊約九万二千余柱(勤労奉仕中に原爆の犠牲となられた動員学徒、女子挺身隊等約一万柱を含む)の御神霊をお祀りしている。

昭和9年、御社殿の老朽化に伴い、創建の二葉の地より西練兵場(旧市民球場の辺り)西端に新社殿を造営し遷座。
昭和14年に広島護国神社と改称。
昭和20年8月6日、至近距離上空で原子爆弾が炸裂し御社殿すべてを焼失。

写真は旧鎮座地の旧市民球場かいわい。

これは完全に余談。
映画「この世界の片隅に」にて
昭和16年12月に護國神社参道で、すずさんとすみちゃんが貝を売っていた参道は現在の護國神社の地ではなく、被爆前の旧鎮座地(=現在の原爆ドームの向かいの旧市民球場界隈)。

画像は「この世界の片隅に」ロケ地マップ及び絵コンテ集より

被爆後、同地に小祠にて再建。
昭和31年秋に現在の広島城跡に新社殿が造営され遷座。
平成5年4月、本殿拝殿などが竣功し、平成21年6月に社務所などが再整備され、現在に至る。

深く拝する。

感謝と哀悼を。

御由緒

9万2000余柱を奉斎。
そのうち1万柱は、地域・職域・義勇隊・動員学徒・女子挺身隊などの公務原爆関係の御祭神。

社号標は陸軍中将田部正壮。幕末から日清日露戦争の頃の軍人。広島出身。退役後は広島市長も務めている。

双鯉の像
昇鯉の像

狛鯉…ここは確かに広島ですね。

完全に逆光シルエットになってしまいましたが、護國神社らしい力強い狛犬もちゃんとおります。

英霊にささぐ

英霊にささぐ

父慕い
母の育み
幾春秋
深き恵みに
われはこたえん

昭和53年10月吉日 広島市遺族会青年部

神馬像

御朱印を戴きました。
桜柄の靖國神社御朱印帳に各地の護國神社の御朱印を戴く事に。

広島護國神社にはオリジナル御朱印帳が三種類ございました。
凄く悩みましたが戴くのは自粛。 錦鯉の御朱印帳! 巫女さんの御朱印帳!

やはり、広島護國神社といえば「万灯みたままつりの巫女おどり」が有名です。
護國のみたま祭。 御霊を慰める為の華やかなみこ踊りの祭礼。

かなり昔の平成16年(2004)に「万灯みたままつりの巫女おどり」を見学しておりまして。100人位の巫女さんが踊るのですが。
以下はそのときの写真。

まあ、そのはなしは良いかな。戻ります。

護國神社周辺の散策に向かいましょう。


中国軍管区司令部 防空作戦室跡

広島護國神社の向かって左側に。
中国軍管区司令部防空作戦室跡が残っている。
が、工事……

中国軍管区司令部 防空作戦室跡(爆心から約700メートル)
広島城とその周辺には、多くの軍事施設(中国軍管区司令部など)があり、ここには半地下式の防空作戦室が設けられていた。ここでは、多くの軍人、軍属に混じって、学徒動員された比治山高等女学校の女学生たちも働いていた。原爆で、市内の電信電話は破壊されたが、かろうじて残ったここの軍事専用電話を使って、女学生が広島の壊滅を通信した。これが、広島の原爆被災の第一報と言われている。

中国軍管区司令部防空作戦室跡。
入れなかったので覗いてみた。

中国軍管区司令部 地下通信室跡

中国軍管区司令部原爆慰霊碑

慰霊碑にて頭を垂れる。
(慰霊碑の撮影をするのを忘れておりました。そういう時もあります……

慰霊碑や中国軍管区司令部のあった場所のすぐ裏は堀があり、そして広島城二の丸跡が。

広島大本営跡

広島護國神社から天守閣のある方へ。
ここに広島大本営の基礎石が残っている。

日清戦争当時、広島城内にあった第五師団司令部建物が 明治天皇の行在所となり大本営が明治27年(1894)9月15日から翌年4月27日まで設けられた。 建物は原爆により倒壊。

基礎石のみが残る空間。

標柱は残るも上部を埋め固められている。

昭憲皇太后御座所跡

こちらは昭憲皇太后の御座所跡。
大本営跡の向かって左側に独立した基礎。

近代化の歩みのなかで、日清戦争当時、 明治天皇と皇后が前線近くの広島まで遷座され指揮を執られたといことだけでも、国を挙げての大決戦であったことを窺い知ることが出来る。

広島城

昭和20年の原爆によってすべてを建築物の焼失。
昭和33年に鉄筋コンクリートにて五層天守が再建。
今回は時間都合により天守閣は外から眺めるのみで…。

広島城趾をあとにして、外堀に沿って歩みを進める。

池田勇人像

逆光のなか、誰の像かなと近づいてみたら、池田勇人でした。
広島出身でしたか。
このポージングはインパクト大です。

歩兵第十一連隊跡

広島城の外堀に。
ひっそりと往時を偲ぶ空間がありました。

歩兵第十一連隊入口正門の門柱跡。
原爆被災するも残存。

門柱の由来
この石柱は歩兵第十一聯隊入口正門として建っていた門柱で長年月にわたり入隊訓練帰還と幾多の年代的過程を静かに見守って来た歴史の商人とも言える記念すべき門柱であります。しかも原爆被災の中で残存し得た当時を偲ぶ唯一の遺跡でもあります。幸い篤志家の手により広島市立福木保育園に保存されていたもので今般譲りうけゆかりの地に移転建立し歴史の証とするものであります。
昭和五十九年九月吉日 歩十一会

歩兵第十一聨隊略歴
一、明治八年五月広島の地に創設。同年九月九日聨隊旗受領
二、明治九年十月萩の乱に出動
三、明治十年西南の役に出動
四、明治二十七年日清戦争に出動、朝鮮、中国北部各地を転戦。同二十八年七月復員
五、明治三十三年北清事変に出動
六、明治三十七年四月日露戦争に出動、南満州(現中国東北部)の各地を転戦し、同三十八年十二月復員
七、大正八年七月シベリアに出兵。
八、昭和十二年七月二十七日中戦争に出動、中国全土を転戦
九、昭和十六年十二月八日太平洋戦争勃発、マレー作戦に参加し、のち南太平洋諸島を転戦中、昭和二十年八月十五日終戦となる。同年八月二十六日シンガポールにおいて軍旗を焼く。創設以来七十二年の歴史を閉じ解隊する。
十、この間、特に、昭和十二年日中戦争以降、歩兵第十一聨隊を母体とする藤部隊、槍部隊、開部隊、望部隊、西部第二部隊等を創設、各々克く健闘した。  
ここに、聨隊跡碑を建立し往時を偲ぶ縁とする。  
昭和五十五年七月建立
平成六年八月改刻 歩十一会


どうしても広島護國神社となると「万灯みたま祭」の印象が脳裏を離れないもので。
当時、戴いた団扇を。

護国の祈り

 春は微笑む 広島ざくら
  秋は冴えざえ 城の月
 平和を祈り 偲ぶは誰ぞ
  涙うるむ 大鳥居

 人のこころに 大本営の
  遠い明治を 語る風
 戦雲晴れて 社にねむる
  わが父わが子 わが友よ

 明治大正 昭和の御代の
  歴史映した 大田川
 九万余柱 勲は朽ちず
  いまは御国の 守り神
 
 世界平和を 求めて散りし
  人のいのちの 尊さよ
 護國の庭の 玉砂利踏んで
  御霊に平和 ただ祈る

山梨縣護國神社と戦跡散策

平成29年9月

甲府
・山梨縣護國神社
・陸軍歩兵第四十九聯隊(甲府聯隊)
・陸軍歩兵第四十九聯隊糧秣庫跡(赤レンガ)

平成29年9月3日。
護國神社巡りは長野と山梨に。
この日は無謀にも松本市と甲府市をハシゴし「長野縣護國神社」と「山梨縣護國神社」を参拝。
あわせて戦跡として「松本歩兵聯隊」と「甲府歩兵聯隊」名残の糧秣庫跡(赤レンガ)も散策してきました。
こちらは山梨編。

14時すぎ。松本から甲府に移動して甲府駅からバス。
「護国神社入口」バス停で下車。
北に向かえば武田神社、東に向かえば護國神社。
約10分ほど歩けば護國神社に到着。地図を見ていると武田家臣団の屋敷跡が点在していてそれはそれでワクワクする…。

山梨縣護國神社

狛犬台座には韮崎市軍恩連盟の碑銘。(平成4年建立)

慰霊のことば
私達は嘗て共に戦い祖国のためにその命を捧げ平和と繁栄の礎となられた英霊に感謝と慰霊の誠を捧げ安らかに神鎮りますことを祈願いたします
平成4年5月吉日 韮崎市軍恩連盟

社号標は松本三良謹書(甲州市勝沼ぶどう園「宮光園」)

実はワインと戦争の関係は深い。ワインに含まれる酒石酸を元にしたロッシェル塩がソナー(対潜音波探信儀)の材料となっていたのだ。
「ブドウは兵器だ」のスローガンを元に、戦うためのワイン造りを強いられた時代…

以下は参考として

戦時中のワイン造りの奨励 国税庁

https://www.nta.go.jp/about/organization/ntc/sozei/quiz/1212/index.htm

器造るための醸造 産経ニュース

https://www.sankei.com/region/news/150812/rgn1508120025-n1.html

戦争とワイン 宮光園 Wikipedia

https://ja.wikipedia.org/wiki/%e5%ae%ae%e5%85%89%e5%9c%92#.E6.88.A6.E4.BA.89.E3.81.A8.E3.83.AF.E3.82.A4.E3.83.B3

山梨縣護國神社

西南戦争以来の山梨県関係の戦没軍人軍属の戦死者を祀る。
西南戦争 50柱
日清戦争 568柱
日露戦争 449柱
台湾討伐 55柱
満州上海事変 73柱
支那満洲事変 1784柱
大東亜戦争 22071柱
御祭神計25,050柱(平成28年10月5日現在)

明治12年(1879)招魂社として太田町(現・遊亀公園)に建立
昭和17年(1942)に現在地に遷座
昭和19年(1944)山梨縣護國神社に改称
戦後の一時期は、山梨宮に改称していた
(現在は境内社の社号・後述)

感謝の念と哀悼の誠と。
参拝をする。

「御朱印」と「御守」を頂戴いたしました。

「海軍軍艦旗」と海軍シンボル「桜に錨」が刺繍された御守。
これは前々から頂戴したかったのです。
他にも陸軍迷彩カラーの御守や、陸軍四式戦闘機「疾風」が富士山と桜を背景に飛翔する絵馬など、意匠的な授与品が多数。

山梨縣護國神社 招魂斎庭

山梨縣護國神社では、山梨県出身の西南戦争から大東亜戦争に至るまでの殉国の御霊25050柱を祀るとともに摂社山梨宮において殉職された山梨県出身の自衛官の御霊(11柱)を奉祀している。

参拝の道標

ここは平和の杜です。
このお社は護國神社と言います。
明治十二年十二月招魂社として甲府市太田町に創建され昭和十九年山梨県民の総意により護國神社と改称しこの地に御遷座されました。
日本の平和と美しい山河や家族を護るために戦争で尊い生命を捧げられた山梨県出身の約二万五千人余りの方々を、神様としてお祀りしてあります。
私たちが平和で豊かな生活を送ることが出来るのはこの人達の尊い生命の犠牲のお陰です。
 「ありがとうございます」
と感謝の心をもってお参りしましょう。
これからも平和であるとともにご参拝により常識や道徳心を高め勤勉努力して、健康と強い心を養い自らを護り家族を護ることをお祈りしましょう。
山梨縣護國神社

戦没者(英霊)とは、”地球よりも重い”といわれる、一つしかない生命を、祖国日本と国民のために捧げた方々なのです。
英霊にこたえる会山梨県本部

今日の日本の平和と繁栄は、これを願って犠牲となられた多くの戦没者(英霊)のお陰であることを、忘れてはなりません。
英霊にこたえる会山梨県本部

山梨縣護國神社 
摂社 山梨宮

昭和二十一年社名を山梨宮と改称した時に合祀した 一世の亀鑑、師表と仰がれた民間人八柱が合祀。昭和二十七年境内に摂社山梨宮を創建。
 加賀美光章命(国学)
 志村天目命(心学)
 長田円右衛門命(御岳新道開削者)
 徳島兵右衛門命(徳島堰開削者)
 関戸左近命(義民大総代)
 金子重右衛門命(太桝事件主唱者)
 三沢重右衛門命(太桝事件主唱者)
 くり女命(節婦)

摂社「山梨宮」

殉職自衛隊員顕彰之碑
国防忠魂

自衛隊殉職者の霊に捧ぐ
平成14年建立

戦没者納骨堂

昭和20年、岩窪に陸軍墓地の建設が始まるも完成を見ないまま終戦。
陸海軍も解体され納骨堂は当時の大蔵省に移管。
昭和38年に甲府市に払い下げられ県の管理となる。
昭和51年に現在地に移築。
戦没者分骨5325柱、霊璽簿24915柱を奉安。

岩窪の地に陸軍墓地が予定されており、一部は納骨されていた。
山梨縣護國神社内に納骨堂が移設された際に改葬という。

現在は甲府市つつじが崎霊園となっている。
霊園内には甲府空襲慰霊碑や将校個人墓3基あるという。
(時間の都合で入口のみ写真撮影。霊園内は未調査)

慰戦没戦友之霊

昭和33年建立・四九会有志
甲府歩兵第49連隊(通称「甲府連隊」)
昭和17年に一部部隊をグアム島に展開。
昭和19年にフィリピンのレイテ島・セブ島に主力を展開。レイテ島守備部隊はその大部分が壊滅している。

愛の燈

日本赤十字社看護婦同友会山梨県支部・1973年建立

第二次世界大戦に際し赤十字の旗の下に勇躍応召し、大陸の荒野にて傷病者の救護活動に献身し、愛と奉仕の使命に殉ぜられた日本赤十字社山梨県支部救護看護婦の方々の遺徳をしのび、そのみたまのとこしえに安かれと祈ってこの碑を建立しました
平和のいしずえとして尊い命をささげられた私どもの同僚がこよなき誇りを抱きつつかかげた愛のともしびの偉大さをしのび、これを後世に永く伝えんとするものであります
1973年12月1日
日本赤十字社看護婦同友会山梨県支部

傷病軍人之碑

昭和五十六年建立・山梨県傷痍軍人会

我等は祖国の危急に際し、わが身を顧みることなく国難に赴き、苛烈を極めた戦火の中に多くの戦友を失い、自らは傷痍の身となって終戦を迎えた。
昭和二十七年同志相諮り、山梨県傷痍軍人会を結成、更に昭和三十五年妻の会の結成をみ、相寄り相扶け、傷痍を克服し、平和の願いをこめて、祖国の再建興隆につとめてきた。傷痍の身を顧み、あれを思い、これを思うとき、傷痍軍人の事跡をとどめるものは何ひとつないばかりか、永久の国の平安を希求する我等の心情を、後世に伝えるよすがとてもないことに思い至り、昭和五十四年八月十五日傷痍軍人の碑建立の議を起こし、心をひとつにする会員の善意を結集し、妻の会の協力のもと、戦没英霊の祀られるこの地に、平和の礎として完成をみるに至った。
 昭和五十六年四月十三日
  山梨県傷痍軍人会

豫科練の碑

平成7年建立

昭和五年六月一日、横須賀海軍航空隊へ第一期飛行豫科練習生七十九名が入隊した。以来昭和二十年八月十五日太平洋戦争終結まで、実に十五万人に及ぶ青少年が、国の防衛ならんと大空を目指して巣立って征った。山梨県からも多くの若人が、横須賀・土浦・三重・人吉・岡崎・奈良海軍航空隊をはじめ、全国十三の豫科練航空隊へ入隊し、自ら求めて日夜を分たぬ鉄石の猛訓練に耐え、心身を鍛え抜いたのである。
昭和十二年七月七日、日支日支事変が勃発するや、渡洋爆撃をはじめ各戦線に於て豫科練の初陣を飾った。やがて昭和十六年一二月八日、太平洋戦争開戦時には海軍航空隊の中堅搭乗員として、北は千島の果てより、南はソロモン諸島、西は印度洋へと、国家民族の為一命を捧げて国防の任に当たったのである。
昭和一九年十月には一機一艦を撃沈するの、特攻出撃は空のみならず、海では人間魚雷「回天」「震洋」「伏竜」隊員として豫科練の同窓生は、全作戦に参加し若い命を桜花の散るごとく、護國の神となって散華した。
生還した吾々は、昭和三十九年一月二十六日、県内在住の同窓有志に呼びかけ、豫科練雄飛会山梨県人会を結成以来、亡き友の慰霊を護國神社に於て続けてきた。
太平洋戦争終結五十周年に当たり、会員及び有志の浄財におり、ここ護國神社境内に「豫科練の碑」を建立し、県出身戦没同窓生の慰霊をその偉勲を永く後世に伝えるとともに、我国の安泰と世界の恒久平和を祈念し、この碑を建立するものである。
 平成七年八月十五日
    豫科練雄飛会山梨県人会

永久に語り継がなむ
 豫科練の
昭和の御代の
 武勲のあと

  平成七年八月十五日
   北巨摩郡大泉村 吟詠 十八期 小池 嘉昭

衣第三〇四一部隊 慰霊の碑

昭和63年10月建立
昭和17年4月に甲府東部六三部隊に於て編成。北支那方面派遣。終戦時にソ連軍の捕虜となり将兵全員がシベリア抑留。犠牲は330余名。
慰霊碑の全面には「シベリアの土」が奉納。

衣三〇四一部隊は、大東亜戦争勃発後の昭和十七年四月 甲府東部六三部隊に於て編成され北支那方面の治安維持、民生安定の警備に当たるために派遣されて、数多くの作戦に参加した。
この間、戦死・戦傷病死者多数の犠牲者を出した。
昭和二十年七月、北朝鮮咸與地区に移駐直後終戦となり、同時にソ連軍の捕虜となって、将兵全員がシベリア抑留の身となった。
抑留将兵は体力の限界に耐え、零下四十度余の酷寒と、飢えと、重労働のなか、さらに悪疫の流行によって悲しくも斃れた戦友の数は、全将兵一千名中、実に三三〇余名の多きに達した。
これら戦友の鎮魂と永久の平和を平和を祈念し、現存する元衣三〇四一部隊戦友一同の名においてこの慰霊碑を建立す。
 昭和六十三年十月六日

満蒙開拓青少年義勇隊之碑

昭和50年8月15日建立

拓友(とも)よ 安らかに 
眠れ 友よ帰らぬ友よ
君の大陸に残した足跡は深く大きくしるされている
われらはその足あとをしっかり踏みしめて前進する
友よ逝きて帰らぬわが友よ
静かに安らかにここにねむれ

満蒙同胞殉難慰霊碑

昭和36年3月建立

朔北の 満蒙の地に 逝きて帰らぬ 同胞を憶う

昭和二十年八月祖国の運命に殉じた満蒙開拓団・満蒙開拓青少年義勇隊・満州報告濃勤労奉仕隊・満蒙在留同胞の霊一九三六柱を此の處に祀る

ソビエト不法侵攻の尊き犠牲…

故満鐵本家義勇隊之慰霊碑

昭和50年4月8日建立
第七次満蒙開拓青少年義勇軍満鉄李家訓練所

あぁ、ソビエト…

二井義勇隊の碑

平成5年8月15日建立

昭和18年6月、満蒙開拓青少年義勇軍として山梨中隊を編成。 旧満州国北安省除海村二井屯の満鉄二井訓練所に入所。
終戦時に隊員は四散し、四十余名が大陸の土と化した…

硫黄島戦没者慰霊碑

碑面は「硫黄島」を型どっておりました。
昭和20年2月19日 ~ 3月26日 硫黄島の戦い

硫黄島戦没者慰霊碑
鎮魂の詩碑(平成7年建立)
詩碑は元横須賀海軍鎮守府昭和十一年会所属の篠原勤氏によるもの。

軍神若林東一顕彰碑

平成19年建立

若林東一中尉は第38師団歩兵第228聯隊第10中隊長。
若林中隊はガダルカナル島で戦いにて補給途絶えつつも陣地死守を敢行する。
「後ニ続ク者ヲ信ズ」の一言を残して昭和18年1月14日戦死。
ガ島52日分の日記を残す。

山梨県海軍戦没者 慰霊碑

山形県海交会は太平洋戦争終結五十周年にあたり祖国の繁栄と不滅を念じて祖国の英霊となられた、県内海軍戦没者四千七百二名の純真な気持ちを永久に顕彰するため、山梨県護国神社の聖域に慰霊碑を建立し、後世までの遺徳を偲び、感謝を誠を捧げるものである
 平成七年十一月三日
  山梨県海交会会長 塩川 光男

鎮魂 鵄三〇六三部隊戦没者鎮魂之碑

平成8年建立。鵄三〇六三部隊の慰霊碑。
昭和十八年四月に甲府にて編成。
おもに中国大陸の南京・上海に展開。
(第61師団歩兵149聯隊鵄3063部隊)

父の像

平成7年4月5日建立

殉国の戦士の遺児は、亡き父への思慕と誇りとを胸に 母と共に強くたくましく生きてきた 戦争の悲惨さ、平和の尊さを後世に伝えたいとの願いを込め 終戦50周年を機に、ここに父の像を建立する

気がつけば1時間半近くを境内で過ごしていたようで。
慰霊碑が多いとおのずと滞在時間も増えます。
佳き参拝が出来ました。護國神社をあとにします。

「山梨縣護國神社」の隣にあるのは「山梨県神社庁」


余事ながら
「山梨縣護國神社」の鎮座地 は、戦国時代は「甘利備前守虎泰の屋敷跡」
甘利虎泰は武田二十四将、信虎時代の武田四天王の一人。

江戸時代は「龍華山永慶寺跡」(柳沢吉保の菩提寺)という。
なお寺院は柳沢家の所領替え(甲府から大和郡山)に際して移築。

余事ながら
山梨縣護國神社の近くには「武田信玄公御墓所」(武田信玄火葬塚)もあります。
せっかくなので脚を伸ばしてみました。
周辺は「護国神社風致地区」として整備されているようです。

余事ながら
「武田信玄公御墓所」の向かいに「川尻塚」もありました。
甲斐国で武田遺臣に討たれた川尻秀隆の首塚ですから、扱いも、まあお察しです…
武田関連はキリがないのでこのぐらいで。次は甲府聯隊関連を。

陸軍歩兵第四十九聯隊(甲府聯隊)

まずは甲府連隊跡関連の地図を。
地図の記載場所は罠でした。
これのお陰で現地で「迷子」になりましたので、正しい場所と補足を画像で添付。

現在の「山梨県福祉プラザ」の駐車場。
その片隅に跡碑が残っている。

旧歩兵第四十九聯隊 営門跡

甲府聯隊の営門跡。昭和60年7月建立

歩兵第四十九聯隊跡碑

昭和44年4月20日建立

明治38年に習志野にて編成。
明治42年に甲府の現在地に新兵舎移転。
昭和19年12月20日、レイテ島に於いて聯隊の主力が玉砕。
昭和20年8月、聯隊残部隊はセブ島にて終戦解隊。

歩兵第四十九聯隊跡碑
堀内一雄・筆

堀内氏は帝国陸軍歩兵少佐、満州国陸軍少将。山梨県出身。 戦後は富士山麓電気鉄道(富士急)社長を経て衆議院議員などを歴任。 子息は堀内光雄氏。

聯隊歌七節
 新に兵営なりしかば こゝに衛戍の命受けて  
  移りし年は翌春の 弥生半を過ぐる頃   
   峡中の地に武夫の 清き花をば植えにけり
明治百年記念 四九會

歩兵第四十九聯隊跡碑は市営団地(市営むつみ荘)に面した道路側に鎮座。

その場所から山梨大学小学校・中学校方面を覗いてみれば。建屋の向こうに赤レンガが見えます。そちらに行ってみましょう。

歩兵第四十九聯隊糧秣庫跡
(山梨大学赤レンガ館)

山梨大学教育学部附属中学校の入口が開放してあり、赤レンガを間近で見学することができます。 行ってみましょう。

歩兵第四十九聯隊糧秣庫跡(山梨大学赤レンガ館)

建設は明治41年頃。明治42年(1904)に歩兵第四十九聯隊(甲府聯隊)の糧秣庫(食料庫)として使用開始。 オランダ積み構造で甲府煉瓦製造の赤煉瓦を使用。 山梨県最大規模の煉瓦造建築物。

聯隊解隊後に跡地は山梨大学附属小学校・中学校用地となり中学校校舎として使用。
平成10年に大雪で破損したのを機に保存のための耐震工事などが行われ平成14年に改修完了。
文化庁・登録有形文化財

夕日に照らされる赤煉瓦を眺めつつ散策は終わり。
時間は17時。あとはのんびりと甲府駅に戻るだけに。

長野縣護國神社と戦跡散策

平成29年9月

松本
・長野縣護國神社
・陸軍歩兵第五十聯隊(松本聯隊)
・陸軍歩兵第五十聯隊糧秣庫跡(赤レンガ)

平成29年9月3日。
護國神社巡りは長野と山梨に。
この日は無謀にも松本市と甲府市をハシゴし「長野縣護國神社」と「山梨縣護國神社」を参拝。
あわせて戦跡として「松本歩兵聯隊」と「甲府歩兵聯隊」名残の糧秣庫跡(赤レンガ)も散策してきました。
こちらは長野松本編。

松本には魅力的な神社も史跡も多い。
が(過去に何度か訪れているので)、今回は誘惑を断ち切り長野縣護國神社のみに立ち寄ることを決意。
0935に松本駅に到着し、松本城・信州大学方面に向かうバスに乗り込んで、長野縣護國神社の社頭に到着したのは10時過ぎだった。

長野縣護國神社

信濃国総守護。長野県出身の明治戊辰の役以来大東亜戦争に殉ぜられた御英霊を祀る。
昭和13年、陸軍歩兵第50連隊(松本聯隊)に隣接する現在地に長野県招魂社として鎮座。
昭和14年、長野縣護國神社と改称。(内務大臣指定護國神社) 終戦後の一時期は美須々之宮とも呼称。

大鳥居をくぐり参進する。
参道の脇にひときわに大きな碑が目に飛び込んでくる。
いつもは慰霊碑には御社殿参拝後に巡拝するのだが、この碑の存在感に私の脚は自然と吸い寄せられてしまった。

南十字星の下に散華せる
「嗚呼戦友」

杉山茂謹書(元陸軍大佐・元陸将)

南十字星の下に散華せる
「嗚呼戦友」

大東亜戦争に日本を遠く遥か南溟の彼方ニューギニア島及其の周辺に祖国防衛のため挺身し、
 海行かば水漬く屍 山行かば草むす屍
と散りし友の歩んだ途は惨烈悲壮筆舌に尽くし難し
 嗚呼 友の霊何処にぞ
戦終り時移りて此処に三十年 今ぞ群霊懐かしの故郷信州に帰りてこの地に鎮まり新しき日本の礎となる
吾等亡き友の昔日を偲び
 御霊よ 久遠に安かれ 
と信濃の国各地の不変の石にこの祈願を刻し、やがては同じ石下に吾等も魂魄を鎮め共に昔を語らんことを期して、此処にこれを建てる
長野県ニューギニア会
昭和49年7月28日

晴れ渡る夏空の下で、 拝する。

御英霊に感謝と哀悼の誠を捧げる。
そして
御英霊の御加護のもと、祖国の平和と繁栄を祈念する。

ありがとうございます。

社頭には「終戦の詔勅」が現代語訳とあわせて掲示されておりました。

御朱印を頂戴いたしました。 ありがとうございます。

護國神社のイメージに反して当て紙が可愛らしい。
なお、オリジナル御朱印帳は3種類あることを確認いたしました。 (「御神紋柄」青と桃の2色と「日の丸モチーフ表装」の3種類)


長野県ブーゲンビル会 献木

ブーゲンビル島。
1943年4月。山本五十六大将搭乗機が、この島の上空で撃墜され戦死する事件が起こる(海軍甲事件)。
同年11月には同島にアメリカ軍が上陸し、ブーゲンビル島の戦いとして終戦まで同島では戦闘が続いた。

平和の像

1995年(平成7)8月15日
松本深志ライオンズクラブ建立 平和の象徴「鳩」と子どもたちの像。

あゝ特攻 特攻勇士之像

大東亜戦争の末期、特別攻撃隊が編成され、祖国の平和と繁栄を祈り、愛おしい父母妻子家族と別れ、一機一艇をもって敵艦に体当たりして、勇戦敢闘し散華されました。 長野県出身者は、陸海軍合せ百六十余名の若者が特攻隊員として戦死されております。
松本市内には、出撃を待つ多くの特攻隊員が滞在し、陸軍松本飛行場から前線へと飛び立って行きました。又、当時浅間温泉に疎開していた東京世田谷の学童達と温かい交流もありました。 国家存亡の危機に敢然と立ち向かわれ、今日の平和な日本の礎となられた諸英霊の崇高なる精神を永く県民の心に刻み、後世に伝えるため、終戦七十周年を期しここに建立いたしました。

平成27年10月10日
長野県特攻勇士之像建立委員会

國の為 誠の道を一筋に
 進み行くこそ大和魂
  秋山白厳 詠

シベリア抑留慰霊碑

相澤英之書
1945年8月の終戦は、ポツダム宣言の受諾によるが、同宣言9項を無視したソ連の蛮行により、日本軍将兵ら60万余がシベリア各地へ強制連行され、飢餓、酷寒、過酷労働の三重苦に苛まれ、犠牲者6万余に及ぶ悲劇的な大惨事となった。
人道に悖るかかる暴挙の風化を忍べず、忘却させてはならない残酷史として後世に伝え、犠牲者の冥福と恒久平和を祈念し、本慰霊碑を建立する。
2005年8月9日
シベリア抑留慰霊碑建立委員会

シベリア抑留慰霊碑

「異国の丘」
今日も暮れゆく 異国の丘に
友よつらかろ せつなかろ
我慢だ待ってろ 嵐が過ぎりゃ
帰る日もくる 春が来る

シベリア抑留の大地で「凍てつく岩石を掘る」シーンと「伐採作業」シーンが碑に描かれておりました・・・。

拓友之碑

満蒙開拓青少年義勇軍・佐藤中隊碑(佐藤剛吉中隊長)
昭和44年建立

拓友之碑

満蒙開拓青少年義勇軍第7次斉藤中隊碑(斉藤義男中隊長)
昭和51年建立

満蒙開拓青少年義勇軍。14~15才の少年達が満蒙の広野に開拓の意気高く大陸に渡るも昭和20年8月満蒙国境を打ち破ったソ連軍の捕虜となり過酷な重労働で多くは異国の土となった…

砲魂

佛印派遣討4237部隊第4中隊
昭和61年建立

旧歩兵第五十聯隊跡碑

昭和33年建立
松本歩兵第五十聯隊
通称「松本聯隊」

大戦当初は満州・華北方面に展開されていた。 昭和19年3月テニアン島守備部隊となり、同年8月2日にテニアン島にて玉砕…

松本聯隊の跡地には小さな社が鎮座していました。

北に長野縣護國神社。南に松本聯隊。
現在、松本聯隊の跡地は文教地区として「信州大学」や「長野県松本美須々ヶ丘高校」などが展開。
信州大学の校内に往時ゆかりの建物が残っているので行ってみましょう。

信州大学・松本キャンパス

キャンパスマップの32番に「旧松本歩兵第五十連隊糧秣庫」って書いてありますね。分かりやすくて助かります。
ただこのキャンパスマップは「北が下」なのがちょっと不親切。

松本歩兵第五十聯隊糧秣庫跡
(信州大学松本キャンパス)

登録有形文化財。
明治40年に松本に第五十聯隊の衛戍地が決定し、翌年に聯隊が展開。
この糧秣庫の建設年代は明治41年(1907)ごろと推定。
外壁レンガはイギリス積み。
正面入口には…門柱がかなり短縮カット状態で保存。

旧松本歩兵第五十連隊糧秣庫

現在の信州大学松本キャンパスには、もともと松本歩兵第五十連隊の施設があった。
第五十連隊は日露戦争中の明治38年(1905)に編成され、明治40年(1907)に松本を衛戍地(えいじゅち)とすることが決まり、その翌年に現地に入った。
糧秣庫の建築年代は定かでないが、第五十連隊が衛戍地に入った明治41年(1908)頃であろう。
建物は梁間9.09m(約5間)、桁行36.32m(約20間)で、煉瓦造平屋建、切妻桟瓦葺屋根である。
外壁の煉瓦はイギリス積みになっている。
小屋組は、洋小屋組、キングポストトラス構造で、陸梁が1間おきに架けられ、建物の北側には廊下が通っている。
出入り口には2種類の大きさがあり、西面には大きな出入り口が1つ、北面には、西側から大きな出入り口、小さな出入り口、大きな出入り口の3つがある。
外壁には、北・南・東面に2種類の大きさのアーチ形の窓が連続して取り付けられており、北面には出窓がある。
現在の第五十連隊糧秣庫に残る痕跡から、当初の姿や改修の過程を見ると次のようになる。
・かつて、北面の外壁には大小4つの出入り口があった。
・当初の間取りは3ヵ所の煉瓦の内壁で4部屋に仕切られていた。
・それぞれの部屋の北西の外壁には、2つの窓と1つの出入り口が設けられていた。
・4部屋に仕切られていたとき、一番西側の部屋だけに床が張られていた。
・出窓は大きな窓を改修して取り付けられた。
第五十連隊糧秣庫は、用途の移り変わりによって内部の改修が行われてきたが、外部への改修は少なく、建設当初の姿をよく残している。この建物は戦争の記憶を現代に伝えるだけでなく、本学によって教育的にも利用され、時代を通してさまざまな人々の活動の場となってきた。

内装はいろいろ弄ったそうだけど外観は往時の姿を残しているという。
周辺は建物に囲まれているので空間はなかなか撮りにくい。

入口のところに転がってました。
保存?
「陸軍用地」境界石


松本市「 旧松本歩兵第五十連隊糧秣庫 」

https://www.city.matsumoto.nagano.jp/smph/miryoku/bunkazai/takara/kuni/touroku/50rentai.html

松本市戦争遺跡建立事業

https://www.city.matsumoto.nagano.jp/shisei/heiwa_suisin/heiwa_tutaeru/rinewal_sensou_iseki.html

松本市内に残る戦争遺跡など

https://www.city.matsumoto.nagano.jp/shisei/heiwa_suisin/heiwa_tutaeru/rinewal_sensou_iseki.files/itizu003.pdf

信州大学サイト
「旧松本歩兵第五十連隊糧秣庫」登録有形文化財登録証等伝達式

http://www.shinshu-u.ac.jp/topics/archive_data/2012/09/post-487.html

外務省外交史料館別館(吉田茂記念資料特別展示場)

平成27年

この年(平成27年・2015年)は戦後70年目の節目でした。

昭和20年9月2日。
第二次世界大戦での日本の降伏調印。日本帝国政府代表として重光葵外相、大本営代表として梅津美治郎陸軍参謀総長が東京湾の戦艦ミズーリ号艦上で連合国に対する降伏文書(ポツダム宣言)に調印し、第二次世界大戦が終結。

この節目を記念して、「降伏文書原本特別公開 」が行われましたので足を運んでみました。

外務省外交史料館 戦後70年企画「降伏文書」「指令第一号」原本特別展示


外交史料館入口。
普段は平日のみ開館で、なかなか行く機会がない場所なのだ。
外務省飯倉公館敷地内に併設。

以下、目についたものを記録。

日本の対外的条約はここから始まります。

日米和親条約

日米修好通商条約

樺太千島交換条約

蝋缶。
蝋缶のなかには国璽が押されて保管されている。
条約批准書に蝋缶をつけるのは西洋様式。

第1回日英同盟協約

日清講和条約調印書

日露講和条約調印書

日露講和条約批准書

第一次大戦
パリ講和会議各国記念サイン

ワシントン海軍軍縮条約

ロンドン海軍軍縮条約

ワシントン海軍軍縮条約破棄通告

日独防共協定

日独伊三国同盟条約調印書

日ソ中立条約調印書

日米交渉日本側最終案
「甲案」「乙案」

それに対し、アメリカはハルノートで回答し、決裂…… 日米交渉の矢面に立つは野村大使。

降伏文書

そして、戦争は終わる。 ミズーリ号での降伏文書調印。

大日本帝国政府代表として重光葵外相、大本営代表として梅津美治郎陸軍参謀総長 この署名に深く込めらた重みに想いをはせる。

司令第一号

降伏文書と共に発行された連合国による司令第一号。
最初の命令。

重光葵書簡

降伏文書調印前日に、重光葵外務大臣より寺崎英成氏に宛てられた書簡。
調印式に臨む重光外相の胸の内。

対日平和条約認証謄本
サンフランシスコ平和条約

昭和26年9月8日調印。翌年4月発行。
日本は独立を回復する。

吉田茂全権が読み上げた対日平和条約受諾演説の原稿はまるでトイレットペーパーだと称された。

旧・日米安全保障条約

昭和26年9月8日調印。 吉田茂。

新・日米安全保障条約

昭和35年1月19日調印。 岸信介。

日本国と大韓民国との間の基本関係に関する条約

昭和40年6月22日調印。
この条約により、日本と韓国は国交正常化……
その後の日韓関係を規定……………

吉田茂のパスポート

サンフランシスコ講和会議に首席全権として参加のために発行。
戦後発行第一号のパスポート。
ステッキは昭和40年に米寿祝いとして御下賜された鳩杖。吉田茂遺品。

明治17年天長節晩餐会メニュー

明治26年天長節鹿鳴館夜会舞踏会メモ帳。

ほかにも見どころたくさんですが、平日のみの公開というのがなかなか敷居が高く。
また機会あれば見学したいですね。

航空神社(新橋・羽田)

平成29年撮影

新橋の航空会館(東京都港区新橋1-18-1) 屋上には「財団法人日本航空協会」(旧「帝国飛行協会」)が管理する航空神社が鎮座。
航空功労者や航空殉職者を祀る。
昭和6年8月1日創建。 現社殿は昭和58年8月25日竣工。

航空会館鎮座の航空神社の参拝可能日時は、月~土曜日の9:00~17 : 00が原則。9階から屋上フロアとなります。

9階には「御守」の頒布スペースもあります。
なお貸会議室が使用されている際は、ちょっと落ち着かない参拝環境になるかもしれません。
(貸会議室901室から屋上の航空神社がよく見えます・・・)

航空神社抄史
1.昭和6年8月1日、帝国飛行協会理事会にて航空神社創設を決議。
2.明治神宮造営残木を拝受。同年9月初起工、11月初竣工、11月7日、帝国飛行協会飛行館屋上に於いて新総裁梨本宮守正王殿下ご参列のもと靖国神社賀茂宮司斎主となり、盛大な鎮座祭執行。
合祀祭神 航空殉難者325柱、霊璽簿作成。
3.昭和19年~昭和27年 神社祭中断。
4.財団法人 日本航空協会発足により昭和28年 航空神社祭復活。
5.昭和38年度崇敬者総代会発足、航空功労者を合祀することとなる。
6.昭和38年7月、 羽田航空神社創建に伴う祭神分霊祭を挙行。
7.昭和49年9月20日 航空神社神霊を靖国神社境内「鎮霊社」に仮奉安のための遷座祭を執行後、仮奉安先の鎮霊社社前で合祀祭および恒例祭挙行。爾後57年まで8年間、鎮霊社社前で例祭挙行。
8.合祀祭神 航空殉難者、航空功労者を含め、霊璽簿総数6367柱。
9.昭和56年9月 靖国神社鎮霊社に於いて航空神社鎮座50年祭挙行。
10.昭和57年以降、航空神社に関する祭事はすべて航空神社奉賛会に移る。航空神社の祭祀を従来の祭神慰霊の神社から航空平安祈願祭の神社へと転換。
11.航空神社奉賛会が主導する募金活動ににより、昭和58年8月航空会館屋上に航空神社新社殿落成。同年8月25日、竣工祭並びに遷座祭挙行。
12.昭和59年度より毎月第一火曜日を月次祭の日(1月の新年祭は仕事始めの日)と定め、従来の9月20日を例大祭の日とし、毎回靖國神社神職の出張奉仕により、毎月航空平安祈願祭を行う、新たな航空神社奉斎方式を定める。
13.平成14年度より、月次祭を1月の新年祭と9月20日例大祭の奉仕とする。

昭和6年
チャールズ.A.リンドバーグ来日に際して帝国飛行協会(日本航空協会の前身)・飛行館に招待し白色有功章を授与。

昭和4年竣工の「旧・飛行館」建物基礎。

旧「飛行館」建物基礎木材
昭和4年6月竣工の旧「飛行館」建物基礎は長さ25m位、年輪50年程の米松の杭を先端にして地中に打ち込み埋設した。その間隔は半径50cm~80cmに1本と云ういわゆるベタ基礎で建物を支えていた。
航空会館建設に伴い、引き抜きを行ったが、数多く埋設されてあったため、除去には予想外の工期を要してしまった。除去した本数は800本。現建物の基礎工事に差し障りのない部分はそのままとなっているので、全体の数はいまだ不明のままである。
近隣の建物では東電旧館(現・東新ビル)、物産館(現・日比谷セントラルビル)の基礎も木柱であったが、いずれも旧「飛行館」よりは小ぶりであった。

昭和14年 日伊親善飛行記念品
イタリア首相ムッソリーニより贈られた記念品。

昭和14年 日伊親善飛行記念品
戦前のわが国航空技術水準の象徴として、軍官民の技術力を集結し開発した長距離機「三菱双発輸送機」”大和号”は、性能試験を兼ね昭和14年12月、東京‐ローマ両首都間往復29611粁を飛翔し日伊親善飛行に成功、その目的を果たした。
この彫刻は、当時のイタリア・ムッソリーニ首相から、大日本航空株式会社に贈られた記念品である。同社の終戦解散により、今日まで国際航業株式会社に保存されて来たが、歴史的記念品として当協会において保管することとなったものである。
昭和59年7月
 財団法人 日本航空協会

羽田航空神社

新橋「航空神社」の御分霊。
昭和38年(1963)7月11日に奉斎。 羽田空港第一ターミナルのJAL到着ロビーに鎮座している。 例大祭は5月20日。

ここ東京国際空港は昭和6年東京飛行場として発足以来紆余曲折を経て今日我国空の表玄関として運輸交通の発展のため重要な使命を果しております。
予てより我国航空界に携る人々の間において航空に最も縁の深いこの羽田の地に航空界発展の礎となられた諸々の御霊をお祀し今後の航空界の躍進と航空安全輸送の御加護を祈念したいとの気運があり、この度東京国際空港ターミナルビル増改築工事を機縁として空港全域を見守るに最も相応しいこの場所を神域と定め昭和38年7月11日財団法人日本航空協会の航空神社より御分霊を勧請し奉斎申し上げて羽田航空神社を建立致した次第であります
なお毎年5月20日を例大祭日と定め祭事を執り行います 
敬白

新橋と羽田の航空神社

http://www.aero.or.jp/jinjya/jinjya.html

飛行神社(京都府八幡市)

平成15年(2003年)撮影

2024年に再訪し、下記で記事を刷新しました


飛行神社

京都府八幡市、石清水八幡宮のお膝元に鎮座している航空関連の神社。
「日本の航空機の父」と称された二宮忠八が大正4年(1915)に航空受難者の霊を慰めるべく創建したことにはじまる。

航空安全祈願
飛行神社 縁起略記

鎮座 大正4年(1915)3月10日

主座祭神 饒速日命 天津神 古代の飛行神(中央社殿)
  祭神 航空殉難者諸神 (向かって右側社殿)
  祭神 薬祖神(向かって左側社殿)
  別社 常磐稲荷社

 当神社は明治24年(1891)4月29日に世界に誇るゴム動力プロペラ式飛行器の飛翔実験に成功した二宮忠八が、後進の航空殉難者の尊霊を慰めるべく崇め祀つた神社である。
 晩年自ら神職に就き昭和2年(1927)改修して朝夕航空安全祈願の奉仕をしたが、昭和11年(1936)に没した。
 昭和30年(1955)忠八の次男顕次郎が、再興にあたり「空は一つなり」の信条のもとに、あまねく全世界の航空先覚者並びに遭難者の霊を迎え祀り、今日に至っている。
 現在の本殿拝殿及び資料館、集会所は、忠八の飛行原理発見百周年記念に際し、平成元年(1989)に全面改築されたものである。
 平成12年9月
  京都八幡市土井四十四
   宗教法人 飛行神社         

零式艦上戦闘機の機首部

昭和58年10月下旬、大阪湾漁場において大阪府岸和田の漁師が、底引網操業中の漁網に、機首部がかかり、岸和田漁港に引き揚げられたものです。

15年以上前の参拝記録でした。再訪したいですね。

船橋西部の戦跡散策

平成29年撮影

船橋妙典駅から新船橋駅までの散策。

スタート地点は「船橋妙典駅」 。
中山競馬の最寄り駅。 競馬場と無線塔跡と工場跡と。
格別にめぼしいものは残っていないけど歩いてみました。

中山競馬場

船橋妙典駅から中山競馬場の裏手の方を目指す。

中山競馬場は昭和3年に開業。
性質上、軍部との繋がりも深く協力体制にあったが、戦時中の昭和19年に中山競馬場は封鎖され陸軍が接収。中山競馬場敷地内には陸軍軍医学校中山出張所などが展開された。

中山競馬場の裏手に「馬頭観音」が林立しているエリアがある。

https://goo.gl/maps/7sbqHVQFGSdPfW2E6


中山競馬場の馬頭観音

戦時中、陸軍軍医学校中山出張所を中心としてこの中山の地では「破傷風の血清ワクチン」を製造する為に全国から競走馬や軍馬などが集められ、馬から血を抜いて血清を作っていたという。
ここにある馬頭観音の中には、それらの馬霊もあるだろうか。

合掌

ここには江戸期から明治大正昭和までの馬頭観音(馬頭観世音)がある。

中央の3基。
左が大正9年、中央が明治38年、そして右が昭和49年建立。
周辺の小型馬頭観音は江戸期から昭和までの幅広い年代の建立。

写真を見ての通り、中山競馬場の敷地内のようでいて外部からアクセスできるようにポッカリとくぼんでいる。

競馬場の表側には「競走馬たちの馬頭観音」があるというが(未訪問)、裏手にもこうしてひっそりと人間の犠牲となった馬たちの霊を祀る場所が残っていた。


馬頭観音のある場所から競馬場の縁に沿って南下。 熊野神社とありましたのでちょっと立ち寄りしてみました。

船橋市古作の熊野神社

鎌倉期の創建と伝わる。
昭和50年に不審火で消失。昭和52年再建。
境内地のすぐ裏手が「中山競馬場」

船橋市古作の熊野神社。

「一億一心」の石柱掲揚台
紀元二千六百年記念(1940年・昭和15年)建立
当時のスローガンの一つ。


位置関係

地図を見るとワクワクする。

中山競馬場の「楕円」
行田公園を中心とした「円」
新船橋駅となりの「四角」
実は円形は「送信所跡」で、四角は「工場跡」なのです。
どちらも海軍に関係した場所でした。

USA-M871-93
1948年03月29日‐米軍撮影

船橋無線塔記念碑
(海軍無線電信所船橋送信所跡)

円形の中にある行田公園。
その中心にあるのが
「船橋無線塔記念碑」(海軍無線電信所船橋送信所跡)
送信所は大正4年(1915年)完成。

ニイタカヤマノボレ一二〇八

昭和16年12月1日。柱島の連合艦隊旗艦「長門」から発信された電文は呉鎮守府を通じ海軍省を経て、12月2日に船橋送信所から無線にて南雲機動部隊を初めとする全艦隊に伝達された。 (コメントいただき文面修正しました)

船橋無線塔記念碑
碑文
ここ下総台地の一角にかつて無線塔が聳えていた。
大正4年(1915)に船橋海軍無線電信所が創設された。
大正5年にはハワイ中継でアメリカのウイルソン大統領と日本の大正天皇とで電波の交信があった。
広く平和的にも利用されたのでフナバシの地名がはじめて世界地図に書きこまれた。
大正12年(1923)の関東大震災の時には救援電波を出して多くの人を助けた。
昭和16年(1941)の頃には長短波用の大アンテナ群が完成し、太平洋戦争開幕を告げる「ニイタカヤマノボレ一二〇八」の電波もここから出た。
船橋のシンボルとして市民に親しまれていたが昭和46年(1971)5月解体され栄光の歴史を閉じた。

USA-M871-93
1948年03月29日‐米軍撮影

赤い丸の部分に約200メートルの 無線塔 が6基。
これが 「ニイタカヤマノボレ一二〇八」 を発した「 長短波用の大アンテナ群 」

この記念碑以外には往時を物語るものは残っておらず。
あとは道路の円形の雰囲気をなんとなく楽しむぐらい。

この船橋の地から「ニイタカヤマノボレ一二〇八」の無線が発せられ、日本の運命が決せられたと思うと感慨深い歴史の重みを感じてしまう。

※こおり様よりコメントを戴きまして修正アップデートしました。

この界隈には、具体的には行田東東小学校や周辺の畑に「海軍標石」が残っているという。
が、このご時世ですので学校内は未確認。畑内も未確認。時間があまりなかったので。


日本建鐵船橋製作所跡

「船橋無線塔記念碑」のある行田公園から南東の方向、新船橋駅の近くの四角いエリアが「日本建鐵船橋製作所」跡地。 この地には日本建鐵(日本建鉄)工場跡地が残るのみ。 (コメントいただき文面修正しました)

「日本建鐵船橋製作所」跡地
現在は三菱電機管理地とイオン船橋を始めとする商業エリアとなっている。
(日本建鐵は三菱の完全子会社となり会社清算済)

「日本建鐵船橋製作所」跡地
三菱の下請けということで往時は三菱系の航空機部品も制作。

具体的には海軍局地戦闘機「雷電」部品を製造していたという。
バス停の名前は「日本建鉄前」であれど、既に工場撤退しているのでバス停名も変更される未来は近そうです・・・

東武野田線新船橋駅から直結する 日本建鐵船橋製作所・工場敷地は「イオン船橋」
こうして徐々に往時の雰囲気がなくなっていく痕跡を辿りつつの戦跡探訪。

船橋妙典駅から新船橋駅まで。
今回の歩行距離は約5キロ、所要時間は約75分ほどでした。


平和の塔(東京都調布市)

東京都調布市
昭和48年建立/調布市役所前中庭

平和の塔
この「平和の塔」は、かつて数次にわたる戦争、戦災、引き揚げ、原爆被爆などの惨禍の中で亡くなった方々の霊をまつり、平和への誓いをこめて、多くの市民及び市民団体の協力のもとに、昭和48年に建立されました。
中央の球体は諸霊の安らぎと平和を表し、三本の柱は永遠と荘厳、そして平和を守る市民一人一人の願いを象徴しています。
調布市

夜間にはライトアップも。
中央の球体に照らされた光は、背後に翼を拡げたかのような姿をあらわす。 一層の厳粛さあふれる空間に。

地元ということもありますので、敬意を表して掲載。

相模原界隈の戦跡散策

平成30年9月及び10月

平成30年9月。相模原界隈を散策してみました。
横浜線矢部駅から淵野辺駅までの散策と京王相模原線多摩境駅からの散策を。
軍都・相模原のほんの一部ですが、散策した様子を以下に。

位置関係

国土地理院・空中写真閲覧サービスより

昭和19年10月15日に陸軍が撮影した相模原界隈の空中写真
Google航空写真

当時は相模原駅と淵野辺駅間の矢部駅はまだ開業しておらず相模陸軍造兵廠への引き込み線があるレベル。

1948年(昭和23年)4月12日に米軍が撮影した航空写真を加工
1948年(昭和23年)4月12日に米軍撮影

相模原駅から北側にはどどーんと在日米軍相模総合補給廠が展開。
旧陸軍の相模陸軍造兵廠跡は今もそのまま在日米軍。
ゆえに相模原駅からは車窓以外は見るべきものがあまりなく。

基地内にある相模神社は相模陸軍造兵廠時代に建立されたもの。
また敷地内に残された建屋の多くも陸軍造兵廠時代のものという。

相模陸軍造兵廠跡と相模神社

この一節だけ別日に訪れました。たまたま基地内の公開がありましたので。

SHRINE PARK (神社公園)

SHRINE PARK HISTORY (神社公園の歴史)

この公園は1936年(昭和11年)に建設され、神道における武道の神、鹿島と香取を祭った神社を持つ。神社は早稲田大学教授の田辺泰博士により設計されたが、公園自体はコーネル大学卒業生のトーノ教授によって設計された。
本公園は1942年(昭和17年)に奉納され開園した。園内には、当時ここで働いていた日本人従業員の出身地から集められた様々な草花、低木、岩石や樹木が配置されている。

献燈

Sagami Fountain(相模の泉)
御手洗

凄い勢いで水が溢れ出しておりました。 アメリカンナイズな御手水。

Sagami Fountain(相模の泉)

これは御手洗(みたらし)と呼ばれ、通常は神社の本殿に通じる参道脇に置かれている。
参拝者は神社の神にお参りする前にここで手を洗い、口をすすいで身を清める。

Taiko Bridge (太鼓橋)

太鼓橋は、その高く丸い弧と水面に映る姿が作り出す円形が太鼓を彷彿させることからその名がついた。。 円形が満月のように見えることから、英語ではMoon Bridge とも呼ばれる。

SHRINE PARK (神社公園)
旧・相模陸軍造兵廠
Sagami Shrine「相模神社」

Sagami Shrine (相模神社)

相模神社は、昭和17年に当時の相模陸軍造兵廠で働いていた日本人従業員の献金によって建造された。
日本神話において天皇の祖先とされる神道武人の神、鹿島と香取を祭っている。
造兵廠の従業員達は、製造した兵器が両神の加護を受け、戦線において神威を発揮することを願った。

千木が残念な状態でした。
神紋は「左三つ巴」と「五七桐」。 鹿島神と香取神の御神紋。

Sagami Shrine「相模神社」
神社公園内の樹木は、相模陸軍造兵廠で働く工員と同じく全国から集められたものという。
そんな歴史を刻みし場も不思議なもので、いまでは米軍基地の中・・・
逆に米軍基地内だからこそ残った空間でもあり。

かつての境内地は、今では「BBQ」な場所。
アメリカンナイズな空間。

SHRINE PARK (神社公園)
旧・相模陸軍造兵廠

公園の隣はヘリポート。
さらにその向こうには鳥居が見えます。
ゲートとしてのカッコよさも神道文化の習合。

旧・相模陸軍造兵廠
敷地内の建物のほとんどは相模陸軍造兵廠時代の名残らしく。
私はこのときは「神社公園」に多くの時間を費やしてしまったために、建造物の追跡までやりきれませんでしたのでそのあたりは課題。

何気ない階段、ぜったいお前ら当時からのものだろ?

最近は米軍基地内も厳しくなっているようで、一般公開時でも上記のような散策は難しいかもしれません。そのときのルールに従って見学を。昔は開放されていた場所でも、次回は開放されていないかもしれませんし。

それでは、基地の外へ。

矢部駅

この日は矢部駅から散策スタート。
「在日米軍相模総合補給廠」方面を望む。かつての「相模陸軍造兵廠」
このあたりに引き込み線が広がっていた。

矢部駅は戦後に進駐した在日米軍が相模総合補給廠へ赴く際に臨時停車して乗降が始まったために昭和25年に相模仮乗降場開業。昭和32年に矢部駅へと昇格という。

矢部駅から「在日米軍相模総合補給廠」方面に歩いてみる。
すぐにゲートで行き止まり。
あまり長居するものでもないので駅前に戻る。

矢部駅前の公園(上矢部公園)の北側に記念碑がある。
子どもたちが元気よく遊ぶ空間。そんな公園の片隅に。

相模陸軍造兵廠跡

第三代廠長 原乙未生 書 (原乙未生 陸軍中将)

碑面裏には沿革が記載されていた。

昭和12年3月  陸軍東京工廠相模兵器製造所設立
昭和13年6月  戦車・牽引車・砲弾の生産を開始
昭和15年6月  相模陸軍造兵廠に昇格
昭和16年4月  横浜線相模原駅開設
昭和20年8月  終戦により閉鎖  
第四代土岐鉾治廠長、従業員約3万人

そのまま北上。
在日米軍相模総合補給廠(旧相模陸軍造兵廠跡)の脇を。
廃線跡。

廃線跡
草に埋もれし鉄路の先は米軍のフェンス。

相模陸軍造兵廠・陸軍用地境界石

これはちょっと可愛い。
フェンスが標石を避けるように張られています。
保存する意思が明白に感じられる空間。

このあたりは防衛省の宿舎もあるエリア。
防衛庁時代の標石もありました。
こちらもフェンスが調整されてますね。

在日米軍相模総合補給廠(旧相模陸軍造兵廠跡)

なんか一部に廃墟のような倉庫建屋が広がってますが・・・ 端の方の倉庫は既に積極的には使っていないのかもしれません。
そういえば以前に火事もありました・・・


陸軍兵器学校の弾薬庫

相模陸軍造兵廠跡を離れて東に。
こちらには「陸軍兵器学校」が展開。 その北端、現在の民間工場の敷地内に「陸軍兵器学校の弾薬庫」とされるものが残っているという。敷地外より見学。

陸軍兵器学校跡地を歩く。
現在の「防衛省 防衛装備庁 陸上装備研究所」

相模原市立大野北中や大野北小、そして麻布大学も「陸軍兵器学校」の跡地。

麻布大学の南側、かつて「陸軍兵器学校」の正門があった場所。
この陸軍兵器学校正門があった場所近くに「記念碑」が残っている。

相模原市立博物館にて掲示の写真
陸軍兵器学校正面(昭和10年代撮影)

陸軍工科学校・陸軍兵器学校跡碑

第四十一代校長 永野叢人書 昭和52年12月吉日 工華会建之

本校は明治5年諸工傳習所の名で小石川後楽園の地に創設、その後幾変遷を経て陸軍砲兵工科學校 陸軍工科學校となり昭和14年その18、19期生の時生徒数の増加に伴い小石川本校及び板橋分校より當地新校舎に移轉21期に及んだ。
昭和15年陸軍兵器學校と改称、生徒は1期となり學生 幹部候補生 練習諸隊も併設され、83萬5千平方米の敷地に7千人以上の人員を収容したが昭和20年8月67期生の卒業を待たずに兵器技術教育73年に亘る歴史の幕を閉じた。

そういえば小石川でも記念碑を拝見してました。
「陸軍砲兵工科学校・工科学校跡・諸工伝習所跡記念碑」
昭和13年(1938)、小石川から相模原に陸軍兵器学校が移転してました。

淵野辺の陸軍兵器学校跡(麻布大学)の地から次の目的地に移動をする。
淵野辺駅の南東、青山大学相模原キャンパスの横浜線を挟んだ南側にとある神社が鎮座している。

「新田稲荷神社」(しんでん稲荷神社)
文政元年(1818)創建の淵野辺新田地域の鎮守様
今回は境内社に注目。

新田稲荷神社・境内社
「細戈神社」(くわしほこ神社)

陸軍兵器学校内に鎮座していた神社。
昭和20年終戦後に陸軍兵器学校から新田稲荷神社境内に遷座。
社号の「細戈」は日本書紀巻三・神武紀に書かれた「細戈千足国」(くわしほこちたるくに)=立派な武器が多くある国の意。
社号標は昭和16年7月13日建立

細戈神社由来
細戈神社は天照大神・武甕槌命・経津主命を祭神とし、社名は伊弉諾尊が日本を細戈千足国と讃えられし語に拠る。
もと陸軍兵器学校々庭にあり、その精神的支柱として仰がれていたが、昭和20年新田稲荷神社氏子の好意によってこの地に遷り生産向上の神として鎮座してきた。
しかるに社殿は長年の風雪に損われ現状のまま存置することは不可能となった。
依て稲荷神社氏子並びに旧工科学校及兵器学校同窓会工華会は協力してその改修に当った。
工成るに及び工華会は記念の建碑を企て撰文を需めた。
ここに由来を記した所以である。
今や産業計画拡充に伴って科学技術の振興を一層重すべき直面している。
願わくは細戈の神霊益々神徳の 顕著ならんことを

昭和50年4月6日 工華会建立
 工華会=陸軍工科学校及び陸軍兵器学校同窓会

新田稲荷神社
境内社・今熊神社
境内の丘は「呼ばわり山」と呼称され、迷子や行方不明者が出た際に鐘や太鼓を叩いて呼ばわると必ず現れると信仰された。
最近では、小惑星探査機「はやぶさ」リーダーを務めていた川口淳一郎JAXA教授が「発見祈願」に毎夜訪れて、そしてはやぶさが見つかった逸話も。

そんなJAXA相模原キャンパス(宇宙航空研究開発機構・宇宙科学研究所)は新田稲荷神社の南西、淵野辺公園の近くにある。
JAXAや相模原市立博物館、淵野辺公園のある一帯は、かつての「陸軍機甲整備学校」の跡地。

「陸軍機甲整備学校」(陸軍自動車学校)は、もともとは世田谷(東京農業大学近く)にあったが、昭和18年に相模原の当地に移転。
移転前の世田谷にあった陸軍機甲整備学校(東農大) は下記に。

世田谷の方にはいろいろ残っていましたが、相模原の方は・・・見つける体力的余裕があまりありませんでした(疲労が溜まっていた)

淵野辺公園を眺めながら、休憩がてらに相模原市立博物館に行ってみることに。

相模原市立博物館
(陸軍機甲整備学校跡)

近代史関連の展示を。

常設展示・軍都計画と相模原

http://sagamiharacitymuseum.jp/tenji_shisetsu/josetsu/josetsu5/

「陸軍用地境界杭」
こちらは前述の陸軍兵器学校・敷地境界用杭として使用されたもの。 ところで私は「境界石」とか呼んでましたがコレの正式名称ってなんだろうな…。

相模原の軍関連施設の分布
今回は相模原駅~淵野辺駅界隈でしたが、このエリアには相武台の陸軍士官学校(キャンプ座間・座間駐屯地)なども宿題なんですよね。
あと陸軍通信学校(相模女子大学)

相模陸軍造兵廠開庁記念湯呑
相模兵器製造所が昭和15年に相模陸軍造兵廠に昇格したことを記念

榴散弾弾薬箱(陸軍兵器学校で使用)

大型空気入れ(相模陸軍造兵廠で使用)

乗馬用鞍(陸軍士官学校で使用)

常設コーナーは一区画だけですがご興味ございましたら是非に。


相模原市立博物館をあとにして、淵野辺駅へ。
淵野辺駅から橋本駅経由で多摩境駅に移動します。
この日の最終目的地へ。

京王多摩境駅から徒歩5分ほど歩くと、「都立小山内裏公園」に到着。
この公園から東に伸びる尾根緑道は通称「戦車道路」と呼称されている。

「戦車道路」(尾根緑道)

戦車道・・・ かつて、相模陸軍造兵廠で製造された戦車の走行テスト用道路であった。 (全長約8キロメートル)
それゆえの「戦車道路」 この道を完成したばかりのチハ車(九七式中型戦車)などが試験走行したという。

靖國神社遊就館のチハ

かつて戦車が走った道は今では尾根を望む散策路として、往時の伝承を残しつつ、往事を知る人知らない人それぞれありつつ憩いの空間として活用。
見晴台からかつて相模陸軍造兵廠があった方向を遠望しつつ。