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「若宮八幡宮と川崎大師」周辺の戦跡散策

令和元年10月

川崎でちょっとだけ時間が出来たので、京急大師線で川崎大師駅まで足を伸ばしてみました。

若宮八幡宮御本殿
(旧川中島国民学校奉安殿)

若宮八幡宮本殿
旧川中島国民学校奉安殿

昭和12年4月
川崎市立大師尋常小学校より分立独立して「川崎市立川中島尋常小学校」として創立。
昭和16年4月「川崎市立川中島国民学校」と名称変更。(現在の川崎市立川中島小学校)
「奉安殿」の創建年代は不詳。1935年(昭和10年)頃に全国各地の小学校にて奉安殿建設が活発化してきたという。

若宮八幡宮が戦災で焼失してしまい、戦後に「川中島国民小学校」から奉安殿を移設し、若宮八幡宮の本殿として再活用。

奉安殿(御真影奉安殿)

奉安殿とは、戦前において
天皇陛下
皇后陛下
の御真影(お写真)と教育勅語を納めていた建物。
当初は職員室や校長室に奉安所が設けられていたが、被災による危険を防ぐために、金庫型や独立した奉安殿としての建設がはじまった。小型ながらに耐火耐震構造とされてものも多く、威厳を備えた荘厳重厚なデザインの建造物が多い。
戦後、奉安殿は廃止され解体や撤去が行われるが、その頑丈な建造物が戦災で焼失した神社社殿などに再活用もされ、現在に残っている例もある。

若宮八幡宮(川崎)

旧大師河原総鎮守
境内には「かなまら祭」で有名な金山神社がある。
室町期1500年代の創建。
創建以来、川崎大師平間寺の鎮守社。明治の神仏分離で平間寺から独立。

境内社の金山神社

若宮八幡宮から川崎大師へ移動。

祈りと平和の像
(川崎大師 平間寺)

川崎大師境内に、弘法大師1150年遠忌を記念して昭和59年(1984)建立。制作者は円鍔勝三。
中央には富士山の上に降臨した観音をモチーフとした女神が「祈り」、周囲には鹿野苑で楽器を奏でる天女たちが「平和」を表している。

一心祈念 恒久平和
     大本山川崎大師 平間寺
一盌からピースフルネスを
     茶道裏千家淡交会川崎支部
修練 奉仕 友情
     社団法人川崎青年会議所

「祈りと平和」の像に寄す
 茶道裏千家家元勤仕による当山ご供茶式と茶道裏千家淡交会川崎支部、川崎青年会議所、川崎大師平間寺共催の大茶会は、三者の協調に献身的な努力のもとに、大いに地域社会の文化向上に寄与し、ここに、心新たに意義ある20周年を迎えた。
 本年、宗祖弘法大師壱千百五十年御遂忌並びに、当山吉例十年目ごと大開帳奉修の法縁にあたり、大師の鴻恩に報謝の誠を捧げ三者の目的達成、発展を期するとともに、更に祈りに徹してやすらぎに住し、永遠の平和を願う真心を伝承せんがために、ここにこの像を建立する。
 作者は、霊峰冨士の頂上に来迎された観世音菩薩(女神)の天にひろがる大慈悲心と釈尊の初転法輪の聖地・鹿野苑にみなぎる世界永遠の平和の祈りを象徴されている。
 因みに、彫刻家である、文化功労者・日本芸術院会員・圓鍔勝三先生にこの制作を依頼した。
 昭和59年10月7日 
  大本山平間寺貫首
   第四十四世 
   中興第一世 
    大僧正 隆天

「祈りと平和」像賛歌
   貫主 高橋隆元
いまここに
  仰がん祈りの像
いまここに
  讃えん平和の像  
みほとけは
  女神とともに
  神鹿のあそぶ苑に
 平和を奏でて
  人びとを見まもり
 慈悲の
  まなざしを示し給う 
祈りの声は 
 宇宙に広がる 
  朋友よ 幸せに 
  朋友よ 豊かに
平和のハトは
 蒼天に翔ぶ 
  朋友よ 明るく 
  朋友よ 健やかに
   
昭和60年10月7日
 「祈りと平和」の像建立1周年に寄せて

霊木「奇跡の銀杏」
(川崎大師 平間寺)

霊木「奇跡の銀杏」
 この銀杏は、第二次世界大戦の大空襲により幹の大半を焼失。今でも痕跡を樹木の根元に見ることができます。戦後、川崎大師はご信徒の信授により大本堂をはじめ七堂伽藍を復興。
同様にこの銀杏も奇跡的に蘇生、灰燼に帰した川崎大師の歴史を今に伝える古木であります。
「奇跡の銀杏」の樹勢にあやかり、健康長寿、心願成就を祈念ください。 
 平間寺

忠魂碑
(川崎大師 平間寺)

乃木希典書
明治三十七八年戦役(日露戦争)にて戦没した大師河原村出征軍人を祀る。
明治四十二一月建立。

川崎大師 平間寺

平間寺(へいけんじ)は真言宗智山派の大本山。
大治3年(1128)建立。本尊は弘法大師。

川崎大師駅へ。

発祥之地
京浜急行電鉄株式会社

京急「発祥之地」碑

 京浜急行電鉄株式会社は、明治31年2月25日 大師電気鉄道株式会社 として設立され、翌明治32年1月21日、川崎六郷橋~川崎大師間の営業を開始した。
 開業時の資本金は 9万8千円、営業路線は 単線2粁、車輌数は5両で 開業当時の営業報告書には、次の通りに記されている。
 
 全般ノ機械運転上成績好結果ニシテ一日モ運転ヲ中止セシ事ナク即チ 五月丗一日ニ至ル本期間ノ営業日数ハ一百三十一日ナリシ而シテ乗客ハ相応ニ多ク 毎月廿一日ノ如キハ非常ノ雑踏ヲ極メシモ線路ノ単線ナリシト車輌ノ不足ナリシ為メ 充分ニ乗客ヲ運ビ能ハザリシノ感アリ本期間平均一日一哩ノ乗車賃ハ 五拾円九拾銭二厘ニ相当セリ。元来本社ハ関東ニ於ケル電気鉄道ノ嚆矢ニシテ 成績ノ如何ハ将来電気鉄道事業ノ発達ニ重大ナル関係ヲ有セシモノナリ 幸ニシテ今ヤ営業初期ニ於テ相応ナル純益配当ノ報告をナスヲ得 又運転開始以来一人ノ負傷者ヲ生ズルナク毎月廿一日ノ如キ数万ノ老幼群集シ 往来叢ルガ如キ場所ニ於テ乗客ヲ満載シ乍ラ一日弐百五六十回余ノ運転ヲナシテ 過チナカリシハ実ニ本社ノ幸福ニシテ亦以テ電気鉄道ノ市街交通機関ニ適シ 更ニ危害ノ虞レナキヲ表示スルヲ得タルモノナリ

 かくて好調裡に営業を開始した大師電鉄は 同年4月 京浜電気鉄道と改称 昭和23年6月 京浜急行電鉄 となり 逐次事業の拡張を図って今日の隆昌をみるに至った。
 ここに創立70周年に当り
会社設立発起人代表 立川勇次郎 はじめ先人の遺徳を偲び 大師電鉄発祥のこの地 に本記念碑を建立する。
 昭和43年12月21日
  京浜急行電鉄株式会社

以上、川崎大師と若宮八幡宮を近代史・戦跡目線での参拝散策でした。

靖國神社・霊璽奉安祭(令和元年)

令和元年10月17日

靖國神社御創立150周年の節目の祭礼。

霊璽奉安祭

令和元年10月17日19時斎行

年の一度、この霊璽奉安祭にて、お名前が新たに明らかになった御英霊が靖國神社に祀られる。

お名前を書き記した名簿=霊璽簿は 御霊(みたま)の依代であり、この霊璽簿に御霊をお招きし、相殿から御本殿の正床に御奉還申し上げる祭典が霊璽奉安祭。

この霊璽奉安祭でもって、御英霊の御霊は霊璽簿(神霊名簿)から御本殿にお遷りなされ、そののちに、霊璽簿は御本殿後方の霊璽簿奉安殿へと鎮まることになる。

靖國神社の祭礼の中でも最も重き祭礼。

今年(令和元年)は7柱の御英霊がお祀り申し上げられたという。

この日、靖國神社の社頭に到着したのは18時45分でした。

雨上がりの社頭。

斎館では、祭主・祭員の神職の方々に修祓を。

19時
斎館より御社殿へと参進。

19時
御社殿では厳かに霊璽奉安祭が斎行。

國學院大學吹奏楽部とともに斎行される靖國神社の祭礼。

拝神の曲「国の鎮め」奉奏。

「オー」「オオォォォ」 神職による「警蹕」(けいひつ)が境内を木霊する。

國學院大學吹奏楽部による 「山の幸」が奉奏され、そして献饌。

宮司により祝詞が奏上される。

そして、御社殿の明かりが消え・・・

令和元年10月17日19時20分。

闇夜に包まれた聖域の中、
霊璽簿(神霊名簿)から御神体へと御御霊が御遷座なされる。
毎年、この秋の霊璽奉安祭にて明らかになった御英霊が新たに御本殿に祀られる。

長き年月を経て、ようやくに御祭神名が明らかになり、
こうして、新たに靖國の宮に祀られていく
御英霊に、
感謝と、
哀悼を、

246万6千余柱の御英霊に

明かりが戻る・・・

20時20分
祭主・祭員が退出

そして閉門へ。

ありがとうございます

上野公園の戦跡・近代史跡散策

令和元年10月

上野恩賜公園、通称は「上野公園」
「戦争に纏わる史跡」「近代史跡」としての公園散策をしてみた。

時忘れじの塔

東京大空襲の犠牲者を悼む慰霊碑
初代林家三平夫人の海老名香葉子さんらにより平成17年3月9日建立

時忘れじの塔
関東大震災(大正十二年)東京大空襲(昭和二十年)

  東京にも、現在からは想像もできない悲しい歴史があります。今、緑美しい上野の山を行き交う人々に、そのような出来事を
思い起こしてもらうとともに、平和な時代へと時をつなげる心の
目印として、この時計台を寄贈しました。
 建立、寄贈 初代林家三平妻 海老名香葉子
 建立有志一同

海老名香葉子さんのもう一つの慰霊碑
「哀しみの東京大空襲」

http://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/virtual/memorialsite/tokyo_taito_city005/index.html


上野大仏(上野大佛)

もともとは 明暦万治(1655~1660)頃に建立された像高約6メートルの釈迦如来坐像であった。
幕末の上野戦争では辛くも被害を免れたが、明治6年に大仏殿が解体され、そして大正12年(1923)の関東大震災により頭部が落下。大破した頭部、解体撤去した胴体部以下が上野寛永寺に保管され再建を目指すも資金難により頓挫。
昭和15年(1940)に顔面部を除く頭部及び胴体部は、戦時中の金属供出で失われ、現在は顔面部のみがレリーフとして、昭和47年に旧跡の地に安置された。これ以上落ちない合格大仏として現在では信仰を集めている


小松宮彰仁親王銅像

小松宮彰仁親王銅像
台東区上野公園八番
 彰仁親王は伏見宮邦家親王の第八王子。安政五年(一八五八)京都仁和寺に入って純仁法親王と称し、慶応三年(一八六七)勅命により二十二歳で還俗、東伏見宮嘉彰親王と改称した。同四年一月の鳥羽・伏見の戦に、征東大将軍として参戦。ついで会津征討越後口総督となり、戊辰戦争に従軍した。明治十年五月、西南戦争の負傷者救護団体として、博愛社が創立されると、九月その総長に就任した。同十五年には、小松宮彰仁親王と改称。同二十年、博愛社が日本赤十字社と改名すると、総裁として赤十字活動の発展に貢献した。同三十六年一月十八日、五十八歳で没。
 銅像は明治四十五年二月に建てられ、同三月十八日、除幕式が挙行された。作者は文展審査員の大熊氏廣。『下谷區史』は当地に建てた理由について、寛永寺最後の門跡・輪王寺宮公現法親王(のちの北白川官能久親王)の兄宮であったことに因んだのだろうと推察している。
 平成8年7月
 台東区教育委員会


グラント将軍植樹碑

ユリシーズ・シンプソン・グラント
南北戦争時の北軍の将軍
アメリカ史上初の陸軍士官出身の大統領として第18代アメリカ大統領(1869‐1877)に就任。
1872年にアメリカを訪問した岩倉使節団と会見。
大統領職後の1879年7月から9月まで国賓として日本に滞在、アメリカ大統領経験者では初めて日本にきた人物でもある。

「Let us have peace」
将軍の言葉「平和を我等に」の文字を刻む植樹碑。

グラント将軍植樹碑
上野公園八番
 明治十年(一八七七)から同十三年にかけて、グラント将軍は家族同伴で、世界を周遊した。その際、来日。同十二年八月二十五日、ここ上野公園で開催の大歓迎会に臨み、将軍はロウソン檜、夫人は泰山木を記念に植えた。植樹の由来が忘れられるのを憂い、昭和四年八月、この碑を建設。碑は正面に将軍の胸像を刻み、向かって右側に和文、左側に英文で、将軍の略歴・日本滞在中の歓迎の模様、植樹の由来を記している。胸像下部には、英語で、将軍の言葉「平和を我等に」の文字を刻む。
 グラント将軍のフルネームはユリシーズ・シンプソン・グラントという。北軍の義勇軍大佐として、南北戦争に従軍。戦功を重ね、のち総司令官となり、北軍を勝利に導いた。明治二年、アメリカ合衆国大統領に選ばれ、同十年まで二期在任した。いま、将軍植樹の木は大木に成長している。
 平成4年11月
 台東区教育委員会


明治天皇日本美術協會行幸所阯

上野の森美術館

史蹟名勝天然記念物保存法ニ依リ史蹟トシテ昭和16年8月文部大臣指定

昭和18年3月建設


西郷隆盛銅像

西郷像は高村光雲作、犬(ツン)は後藤貞行作
明治22年(1889)の大日本帝国憲法発布に伴う大赦によって西郷の「逆徒」の汚名が説かれたのをきっかけに建設計画が始まり、明治31年(1898)12月18日に西郷隆盛銅像除幕式が行われた。
銅像の高さは370.1cm。頭部が大きく見えるのは足下からの遠近法を考慮したデザインという。

敬天愛人
西郷隆盛と銅像の由来

西郷隆盛は文政10年(1827年)12月7日薩摩藩士として鹿児島加冶屋町に生まれた。通称吉之助、南州はその号である。
若くして、藩主島津斉彬に重用され、幕末内外多難の際、大いに国事に奔走したが、これに関連して奄美大島に流されること2回、元治元年(1864年)許されて京都に上るや、朝廷の意を重んじて一旦は長州を敵としたが、後、木戸孝允と謀って薩長連合を結成し、慶応3年(1867年)ついに王政復古の大業を成就、その後も官軍の参謀として、大功を樹て、明治維新の基礎を確立した。
その間、高橋泥舟、勝海舟、山岡鉄舟等の請を容れて江戸城の無血開城を実現、江戸を戦火から救ったことは余りにも有名である。
その後は故郷に退隠したが、明治4年(1871年)正月、三条実美以下新政府首脳の懇請を受けて状上京、参議に昇任し、廃藩置県その他の近代国家建設のための主動的役割を果した。
然るに、明治6年6月いわゆる征韓論が閣議に上がるや断乎反対して、大使派遣による平和的修好を主張し、その決定を見るに至ったが、後欧米出張から帰国し、内治優先論を固執する岩倉具視、大久保利通等の反対に敗れて辞官帰郷、私学校を興して後進青年の育成に努めた。
明治10年2月当局者の謀に激した私学校生徒に擁せられて西南の役となり、転戦7カ月余、ついに敗れて城山に自刃した。9月24日、享年51才。
そのため一時逆賊とされたが、明治22年2月、明治天皇の特旨により賊名を除かれ、正三位を追贈された。
この銅像はこれに感激した隆盛の旧友、吉井友実が、同志と共に追慕の情を表わすべく建立を計画したものであり、御下賜金のほか有志2万5千人の醵金を得て、明治26年起工、同30年竣工、我が国彫刻界の巨匠高村高雲の作である。
西郷隆盛の偉大な功業は、その心情たる敬天愛人の至誠没我な精神に発した愛と所産であり、日本の代表的偉人として今なお、敬慕される所以は実にここに在るのである。

近くには、かなりの年代を経たと思われる燈籠が残されていた。


西郷像の右手に。

摂政宮関東大震災視察碑

大正12年9月15日 摂政殿下大震災の惨状御視察に際し、畏くも此地より御展望遊され被害の情況を聞召さる。越えて7歳昭和5年3月24日 天皇陛下此に臨御あらせられ親しく街衢の復興を曫はせ給ふ。乃て石を此處に樹て以て 聖恩を不朽に傳へんとす。

西郷像の奥に。

彰義隊の墓

彰義隊の墓(台東区有形文化財)
上野公園一番
 江戸幕府十五代将軍徳川慶喜は大政奉還の後、鳥羽伏見の戦いに敗れて江戸へ戻った。東征軍(官軍)や公家の間では、徳川家の処分が議論されたが、慶喜の一橋家時代の側近達は慶喜の助命を求め、慶応四年(一八六八)二月に同盟を結成、のちに彰義隊と称し、慶喜の水戸退隠後も徳川家霊廟の警護などを目的として上野山(東叡山寛永寺)にたてこもった。
 慶応四年五月十五日朝、大村益次郎指揮の東征軍は上野を総攻撃、彰義隊は同夕刻敗走した。いわゆる上野戦争である。彰義隊士の遺体は上野山内に放置されたが、三ノ輪円通寺(現、荒川区南千住)の住職仏磨らによって当地で茶毘に付された。
 正面の小墓石は、明治二年(一八六九)寛永寺子院の寒松院と護国院の住職が密かに付近の地中に埋納したものだが、後に堀り出された。大墓石は、明治十四年(一八八一)十二月に元彰義隊小川興郷(椙太)らによって造立。彰義隊は明治政府にとって賊軍であるため、改府をはばかって彰義隊の文字はないが、旧幕臣山岡鉄舟の筆になる「戦死之墓」の字を大きく刻む。平成二年に台東区有形文化財として区民文化財台帳に登載された。
 平成8年3月
 台東区教育委員会


そのほか

楠木正成像(皇居外苑)

令和元年9月撮影

楠木正成像

「東京三大銅像」のひとつ。(残りは上野公園の西郷隆盛像、靖國神社の大村益次郎像)
本体の高さは約4メートル、花崗岩の台座を含めると8メートルに及ぶ。

別子銅山開坑200周年事業として住友財閥から宮内庁に献納されたもの。

高村光雲と後藤貞行らの制作による、我が国で初めての分解鋳造法による銅像。
明治29年(1896年)9月、銅像が完成。
明治33年(1900年)台座の完成を待ち、ついに楠木正成像は二重橋外に竣工。

像は台座正面から見ると背を向けているが、これは皇居に背を向けない配慮という。

住友グループ広報委員会>住友の歴史>楠木正成像

 この楠木正成像は、別子銅山開坑200周年事業として住友から宮内庁に献納されものだ。明治22年(1889年)末、当時の住友総理人の広瀬宰平(初代総理事)は、翌年に別子銅山開坑200周年を控え、住友家13代当主住友友忠と相談し、別子銅を用いて銅像を製作し献納することを決めた。
 製作は、岡倉天心が校長を務めていた東京美術学校(現在の東京藝術大学の前身)に依頼。当時、東京美術学校には塑造科はなく、原型は木彫を使用する時代だったため、同校の木彫科教授であった高村光雲が主任となり、指揮をとった。翌年、東京美術学校は後に製作担当者となる3人を次々と教師として採用。高村光雲は頭部を担当し、山田鬼斎と石川光明が身体・甲冑部などを、後藤貞行が馬の製作を担当した。

https://www.sumitomo.gr.jp/history/related/kusunoki/

環境省>皇居外苑>楠木正成像
皇居外苑の南東の一角に、花崗岩の台座に据えられた騎馬姿の武者像が楠木正成の銅像です。この銅像は、別子銅山を開いた住友家が、開山200年の記念として企画し、東京美術学校に依頼し作成し、宮内庁へ献納したもので、高村光雲など東京美術学校の職員らにより当時の技術の粋を集めて作成され、明治33年7月に完成し献納されたものです。

https://www.env.go.jp/garden/kokyogaien/1_intro/his_06.html

 楠木正成(くすのきまさしげ)は鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて後醍醐天皇(ごだいごてんのう:1288年‐1339年)に仕えた武将です。鎌倉幕府を倒し、約150年の武家政権から、朝廷による支配の復活を図りました。
 この銅像は、隠岐(おき)から還幸した後醍醐天皇を兵庫で迎えた楠木正成の勇姿を象ったものです。

自臣祖先友信開伊
予別子山銅坑子
孫継業二百季亡
兄友忠深感国恩
欲用其銅鋳造楠公
正成像献之闕下
家允未果臣継其志
菫工事及功竣謹献
明治三十年一月
従五位臣住友吉左衛門謹識

台座の銘文には、住友家第15代・住友友純(住友家養嗣子、徳大寺実則・西園寺公望の実弟)の銘で、「亡兄友忠、深く国恩を感じ、別子銅を用いて楠木正成像を鋳造し、天皇陛下の御前に献納したい」と記されている。

愛宕山の戦跡散策(青松寺と愛宕神社)

令和元年9月参拝

芝鎮座の「青松寺」の境内には、戦争にまつわる史跡がいくつか残されている。
境内裏手の墓地の一角に。

肉弾三勇士(爆弾三勇士)

「肉弾三勇士」は大阪朝日新聞・東京朝日新聞の呼称。
「爆弾三勇士」は大阪毎日新聞・東京毎日新聞の呼称。
それぞれの新聞社が公募した「肉弾三勇士の歌」「爆弾三勇士の歌」もある。

肉弾三勇士・爆弾三勇士とは、独立工兵第18大隊(久留米)の、
 江下武二(えした たけじ)
 北川丞(きたがわ すすむ)
 作江伊之助(さくえ いのすけ)
の3名の一等兵のことをいう。
3名は戦死後に2階級特進し陸軍伍長となった。

昭和7年(1932年)2月22日
第一次上海事変にて、トーチカと鉄条網とクリークで守られた敵陣へ突入するために、 鉄条網を破壊し突撃路を切り開くために点火した破壊筒を3名で抱えて敵陣に突入。破壊の爆発に巻き込まれて3名は戦死したが鉄条網の破壊には成功。
突撃路を切り開いた英雄として讃えられ「昭和最初の軍神」とされる。

昭和9年。
全国からの寄付金が集まり、貴族院議員・金杉英五郎が委員長となった「肉弾三勇士銅像建設会」によって東京都港区の青松寺に三人が破壊筒を抱えて突撃する様子の銅像「肉弾三勇士の像」(新田藤太郎作)が設置された。
しかし戦後に撤去され、後に切り離された「江下武二の像」の部分のみが新たな台座とともに青松寺に安置されている。「北川丞の像」は長崎県北松浦郡佐々町にある三柱神社に移築。「作江伊之助の像」は所在不明。

肉弾三勇士三霊
肉弾三勇士・江下武二の像

当地には肉弾三勇士の一人、江下武二の像のみが残されている。

肉弾三勇士の三霊に合掌を

碑文
 忠孝の心を存し仁義の事を行い難至って節見はれ累至って行明かなるは我日本帝国臣民の伝統的精神にして其れも善き例を示したるは廟行鎮の役に挺進爆薬筒を抱き肉弾と化して瞬間に能く敵前鉄条網の堅陣を爆破し以て皇軍進出に便ならしめ砕身奉公の誠を致したる作江伊之助・北川丞・江下武二の3士にして其忠烈古今に絶し其壮烈世界を震撼す真に所謂死して護国の鬼となり永く報国の訓を掲けたるものと謂ふへし依て茲に銅像を建て建設して3士の遺骨を其の内に納め以て忠魂を無窮に弔い義烈を万代に顕彰する所以なり
 昭和9年2月22日
  肉弾三勇士銅像建設委員会 

「肉弾三勇士三霊」の隣に。

國體護持 孤忠留魂之碑

いわゆる「宮城事件」に関係する、陸軍・畑中健二少佐らを祀る。
 椎崎二郎中佐(陸軍省軍務局軍務課内政班)
 畑中健二少佐(陸軍省軍務局軍務課内政班)
 古賀秀正少佐(近衛師団参謀)
 上原重太郎大尉(陸軍航空士官学校区隊長)
上記四士の慰霊碑が青松寺に鎮座している。

宮城事件

昭和20年8月14日深夜から8月15日にかけて、宮城(皇居)で一部の陸軍省将校と近衛師団参謀が中心となって起こしたクーデター未遂事件。

日本の降伏を阻止しようと企図した将校達は、8月15日に決起。
午前0時過ぎに玉音放送の録音を終えて宮城を退出しようとしていた下村宏情報局総裁と放送協会職員などの身柄を拘束。
近衛第一師団長森赳中将に面会を強要しクーデターの参加を求めるも決裂し、近衛第一師団長森赳中将と同席していた第二総軍参謀白石通教中佐を殺害。
師団長命令を偽造し近衛歩兵第二連隊を用いて宮城(皇居)を占拠し東部軍管区 にクーデター参加を求めたが、東部軍管区司令部で司令官の田中静壱大将は鎮圧を決定。

昭和20年8月15日
5時半
 陸相官邸で阿南惟幾陸軍大臣が自決。
午前11時過ぎ
 椎崎中佐と畑中少佐は、皇居前広場(二重橋と坂下門の間の芝生)で自決。
正午
 古賀少佐は、玉音放送の放送中に近衛第一師団司令部二階の貴賓室に安置された森師団長の遺骸の前で自決。
 上原大尉は、修武台航空神社前で自決
事件鎮圧の功労者だった田中静壱東部軍管区司令官は8月24日に自決している

碑文
陸軍中佐 椎崎二郎
陸軍少佐 畑中健二
陸軍少佐 古賀秀正
陸軍大尉 上原重太郎

大東亜戦争終結に際し 護るべからざる講和条件即ち国体護持の確認こそ日本国民の果たすべき責務なりとし 上記四士は畑中健二主導のもとに近衛師団の決起を策し 大事去るや従容自決す これ宮城事件なり
その孤忠留魂の至誠は神州護持の真髄といふべく 仰いで茲にこれを継述せんとするものなり
 昭和五十九年秋 有志建之

旧山口藩出身御親兵死没者合祀之碑

明治22年11月建立

軍馬之碑

工兵第二十三聯隊 戦友之碑

青松寺の右手、愛宕グリーンヒルズフォレストタワーの通り道に。

故市来・吉住両君の記念碑

インドネシアゆかりの記念碑。
日本敗戦後もインドネシアに留まり、独立軍に参加して戦死した市来龍夫氏 、吉住留五郎氏の名前の刻まれたスカルノ・インドネシア大統領の直筆の顕彰碑。この石碑のある青松寺の隣にある老舗料亭「醍醐」は、スカルノ大統領ゆかりの料亭であったという。

昭和20年(1945)8月17日、インドネシアは独立を宣言。それに対しイギリスの支援を受けたオランダ軍が再びインドネシアを支配するべく進駐し。4年間にわたる独立戦争が勃発。
日本軍撤退後もインドネシアに留まり義勇軍・独立派に身を投じた元日本兵の多くがインドネシア独立戦争に協力。
昭和20年8月15日以降の、元日本軍死者は1000人を超え、独立戦争で命を落とした元日本兵はインドネシア各地の英雄墓地に葬られている。生き延びた元日本兵もインドネシア国籍を得て1960年代の日本企業のインドネシア進出が本格化する際には橋渡し役として活躍もされている。

1958年に訪日したスカルノ大統領は、日本へ感謝の意を表すとともに、インドネシア独立戦争において特に活躍した、 市来龍夫氏(アブドルラフマン) 、吉住留五郎(アレフ)氏 に対して感謝の言葉を贈り、それが記念碑として建立された。

市来龍夫君と
 吉住留五郎君へ

独立は一民族の
 ものならず
全人類のものなり

1958年8月15日
 東京にて
  スカルノ

PRESIDEN
REPUBLIK INDONESIA

 市来龍夫君、熊本縣の人、明治三十九年生
 吉住留五郎君、山形縣の人、明治四十四年生
 両君は共に青春志を抱いてジャワに渡航力学よくイ語の蘊蓄を極め、相次いでインドネシアで現地の新聞記者となる。爾来インドネシア民族の独立達成を熱望して蘭印政府より投獄追放の厄に会うも不撓不屈、第二次大戦に乗じて、再びインドネシアに渡り、終戦に際して同志を統合、イ軍に投ずるや共に軍参謀、指揮官となり、激闘、転戦ののち、遂に市来君は一九四九年マラン・ダンペッドの戦場に、吉住君はそれに先立つこと一年ケデリ州セゴンの山中に、インドネシア永遠の礎石となって散す。

青松寺

曹洞宗・萬年山青松寺
太田道灌ゆかり寺院。文明8年(1476)創建。
江戸時代は長州藩・土佐藩・津和野藩などが江戸で藩主や家臣が死去した際の菩提寺として利用した。

青松寺の北隣、愛宕山に現在はNHK放送博物館がある。

NHK放送博物館

NHKの前身のひとつである社団法人東京放送局はこの愛宕山に放送局を置き、1925年から1938年まで、ここからラジオ放送が発信された。
1956年にNHK発祥の地である地に世界初の放送専門博物館が開館。当時の建物は現存しておらず、現在の建物は1968年(昭和43年)に建設されたもの。

NHK放送博物館の隣には、愛宕山の愛宕神社が鎮座している。

殉皇十二烈士女之碑
弔魂碑

いわゆる「愛宕山事件」
昭和20年8月15日の降伏終戦に対して、反対する民間団体「尊攘同志会 」首領・飯島与志雄ら12名が決起。
内大臣木戸幸一邸を襲撃し殺害を試みるも失敗し、抗戦派軍人の呼応を期待し愛宕山に籠城。
警視庁は70余名の警官隊を動員し愛宕山を包囲し投降を呼びかけるも決裂。
8月22日午後6時ごろ、警官隊が発砲し突入。手榴弾で自決を図り10名が死亡。8月27日には残された2婦人が集団自決が行われた場所でピストル自決をしている。

弔魂碑碑文
昭和二十年八月廟議降伏に決するや決起して内府木戸邸を襲ふ
転じて愛宕山に篭り所在の同志と呼応
天日を既墜に回さむとする者 即ち尊攘義軍十烈士
しかれども遂に二十二日午後六時相擁して聖寿万歳とともに手榴弾を擲ち一瞬にして玉砕す 
時俄に黒風暴雨満山を蔽ふ
二十七日払暁 同じき処に座して二夫人亦従容後を遂ふ
忠霊芳魂 永遠に此処に眠る 
遺烈万古尽くる時なからむ
 天なるや 秋のこだまか とこしえに 
 愛宕のやまの 雄たけびのこゑ

愛宕神社

愛宕山鎮座の愛宕神社。天然の山としては東京23区内最高峰。(25.7m)
京都の愛宕神社が総本社。
1603年(慶長8年)、徳川家康の命にて創建。

青松寺と愛宕神社

愛宕山は「爆弾三勇士」「宮城事件」「愛宕山事件」といった慰霊鎮魂の地でもありました。

合掌

「ペルリ提督の像」と「遣米使節記念碑」(芝公園)

令和元年9月撮影

増上寺の向かいの芝公園に。

ペルリ提督の像

マシュー・ペリーの頭像。
Matthew Calbraith Perry(1794年4月10日 – 1858年3月4日)
「蒸気船海軍の父」
1853年に浦賀に入港し、東インド艦隊司令長官として日本開国交渉を行った。
「ペルリ(漢字では彼理)」 と来航当時は表記されていた。

昭和27年(1952)に催された日本開国百年記念祭に際し、ペリーの生誕地・ロードアイランド州ニューポート市から親善のために贈られた像という。


嘉永6年7月(1853年)および安政元年(1854年)に日本の開港のため米国代表として江戸湾を訪れたペルリ提督の出生地でありまた当時日本訪問の出港地である米国ロードアイランド州ニューポート市から親善のしるしに東京都に贈られたものである
米国人フェリックス・ド・ウエルドン作
東京都

その向かい側に。

万延元年遣米使節記念碑

 西暦1860年2月9日(万延元年正月18日)新見豊前守正興一行は日米修好通商条約批准書交換の使命をおびて江戸竹芝より米艦ポーハタンに搭乗、初の使節として米国に赴いた。
副使村垣淡路守範正の詠にいう、
 竹芝の浦波遠くこぎ出でて
  世に珍しき舟出なりけり
 遣米使節渡航より百周年にあたり、日米両国民の友好親善の基礎を築いたその壮途をここに記念するものである。
 1960年6月 日米修好通商百年記念行事運営会

なぜ、芝のこの場所にあるのかは不詳。
開国に揺れる徳川幕府と深い関係にある芝増上寺の門前というのが意味深であった。


関連

護衛艦「いずも」体験航海(令和元年)

令和元年10月4日

先日、護衛艦いずも体験航海(横須賀港~横浜港大さん橋) に参加する機会がありました。

ベイブリッジを通過する「いずも」

「いずも」での体験航海は実は4年ぶり2回目。
前回も今回も、水交会での乗艦でした。

以下、写真メインで。

「いずも」ヴェルニー公園

潜水艦が航行していました。

「いずも」逸見岸壁

「いずも」エレベーター

「いずも」甲板

吉倉桟橋
DD-101 むらさめ 出港

自衛艦旗

「いずも」出港

てるづき乗員の見送り

かわいい

帽振れ

横須賀地方総監部

横須賀港(潜水艦)

横須賀港(吉倉桟橋)

てるづき DD-116 

こんごう DDG-173
いかづち DD-107
はたかぜ DDG-171
はるさめ DD-102

米軍基地

横須賀港 東北防波堤東灯台(赤灯台)

行き違う艦船

あさゆき DD-132

ちょうかい DDG-176

えんしゅう AMS-4305

よこすか (JAMSTEC)

日本郵船 NYK LINE
GRACE BARLERIA グレース バレリア

航行中の自衛艦旗

いずも艦内

いずも艦内神社は別記事にて。

富士山

いずも艦橋

横浜ベイブリッジ通過

日本郵船「氷川丸」

海上保安庁 横浜海上保安部

いず PL-31

奥には先行していた「むらさめ」

あきつしま PLH32

米国陸軍 横浜ノース・ドック

アメリカ海軍音響測定艦エイブル US NAVAL SHIP ABLE

アメリカ海軍高速輸送艦グアム US NAVAL SHIP Guam

横浜・関内

横浜の町並みは海から見ると、より一層美しさを感じる。
中央に神奈川県庁舎。

横浜税関

神奈川県庁

日本郵船歴史博物館

赤レンガ

大さん橋

横須賀水交会部隊研修懇親会

航路

航海時間 3時間
 13時30分 横須賀 海上自衛隊横須賀地方総監部出港
 16時30分 横浜  大さん橋入港
航行距離 約26キロ

写真多めでお送りいたしました。

阿波丸事件殉難者之碑(増上寺)

令和元年9月参拝

阿波丸事件殉難者之碑

芝の増上寺境内に建立。

日本郵船が所有していた貨客船「阿波丸」は、三池丸級貨客船3番船として建造され、もともとは豪州航路向けであったが、開戦後の1943年3月5日竣工となり、海外航路に就役することもなく陸軍徴傭船となる。

阿波丸
 総トン数 11,249トン
 全長 154.97メートル
 最大速力 20.8 ノット

昭和20年、残存する輸送船のなかで程度がよく優秀だった阿波丸は「緑十字船」となる。
日米間の協定で「赤十字船」(病院船)に準じた保護が約束され「緑十字」の識別マークが描かれ、アメリカ軍は阿波丸の航路情報を各部隊に通知し、攻撃しない約束がされていたはずの船であった。

阿波丸事件
昭和20年4月1日、シンガポールから日本に向けて航行中であった貨客船「阿波丸」がアメリカ海軍潜水艦クイーンフィッシュに雷撃により撃沈。
2000人以上の乗客のほとんどが死亡した事件。
阿波丸事件(wikipedia)

合掌

緑十字船「阿波丸」
File:Awa Maru 11249gt.JPG
https://en.wikipedia.org/wiki/File:Awa_Maru_11249gt.JPG より

碑文
 阿波丸は第二次世界大戦も終りに近い昭和20年4月1日夜半台湾海峡で米国潜水艦クイン・フィッシュ号に不法撃沈された。同船は連合国側の要請に応じ日本軍占領の南方諸地域に抑留されている捕虜および民間人に對する救恤品の輸送に当っていた。国際法でその安全が保障されていたにもかかわらず、この悪魔のような所業により遭難者の数は2千有余名、世界史上最大の海難事故となった。
 加害者に対する責任の追求や賠償交渉も進まないうち、同年8月わが国は無條件降伏し、軍政下の日本政府はなぜか事件の真相を究明せず、米国に対する賠償請求権を国会の決議として放棄した。いまや平和の時代となり、経済は復興したが戦争の悲惨と虚しさは私たちの胸を去らず、帰らぬ人のことを思ひ続け悲しみを抱いて三十餘年、事件の謎は今なほ解けず、船体の引揚げ遺骨の拾集も実行に移されないままである。
 三十三回忌に当り、悲憂を文に記し世に訴へるとともに、法要の心とするものである。
 昭和52年4月1日 
 阿波丸事件犠牲者 遺族一同

納骨
 犠牲者等の遺骨は中国の手により引揚げられ、日本政府派遣の遺骨受領訪中団に引渡された。阿波丸遺族会代表はこれに参加し、かつ分骨をうけ、納骨供養を営んだ。遺骨の拾集は遺族の三十五年の永きに渉る悲願であり、これが実現に尽力された中国の関係者に対し、衷心より感謝をおくる。
 昭和54年 7月5日 納骨
 昭和55年 4月1日 納骨
 昭和56年5月29日 納骨
  阿波丸遺族会


昭和52年10月1日
青木一男著

この慰霊碑は犠牲者の遺族をはじめ、故人がもと所属していた団体及先輩知人、知己並びに親戚等の、多大の協力を仰ぎ完成したものである。

芝の増上寺

殉職救護員慰霊碑と看護婦立像(日本赤十字社)

令和元年9月撮影

港区芝大門の日本赤十字社本社前庭に。

慰霊碑には明治27年の日清戦争から第二次世界大戦において戦時救護に服し、殉職した1317人と、関東大震災や集中豪雨災害などの際の救護による殉職救護員9人の合計1326人の名簿と各人の功績を収録した「遺芳録」が納められている。

合掌

殉職救護員慰霊碑
 この慰霊碑及び救護看護婦立像は、日本赤十字社創立以来、戦地或いは災害の現場において救護活動に従事し、このため殉職された救護員の方々の御霊の安らかならんことを願い、創立百周年行事の一環として昭和52年に建立されたものです。
 立像は、元東京芸術大学教授 菊池一雄氏 の彫塑によるものです。
  日本赤十字社

http://www.jrc.or.jp/activity/international/news/140815_002057.html

日本水準原点標庫(参謀本部陸地測量部跡)

令和元年9月撮影

かつて陸軍参謀本部があった地。
この場所に残されている「大日本帝国」を物語る遺構。


日本水準原点標庫

「日本水準原点標庫」は、日本水準原点を保護するための建物。
明治24年5月に、大日本帝国陸軍参謀本部陸地測量部の庭園であった現在地に設置された。
現在も使用されている公的建造物において「大日本帝国」号を残している希有な建造物としても貴重。
東京都指定有形文化財(建造物)

「日本水準原点をご存じですか?」

(東京都千代田区永田町1-1-2 国会前庭北地区憲政記念館構内)

 この石造りの建物の中には、国内の高さの基準となる日本水準原点が設置されています。
 土地の高さ(標高)は平均海面を0mとして、そこからの高さで表しますが、実用的には地上のどこかに標高の基準となる点を表示しておく必要 があります。
 このため、1891年(明治24年)に陸地測量部では、この地に標高の基準となる点(水準原点)を造りました。当時、隅田川河口の霊岸島で行われていた潮位観測(6年間の平均値)と、霊岸島からこの地までの高さの観測(水準測量)結果を用いて、建物内部の水晶板目盛りの0表示の高さを、東京湾平均海面上24.500mとしました。
 その後、1923年(大正12年)の関東大震災により地殻変動が生じたため、地震による影響のなかった地域からの水準測量データや油壺の験潮データを用い、原点が86mm沈下したことを確認し、原点数値を1928年 (昭和3年)3月に24.4140mと改定しました。
 さらに、2011年(平成23年)3月に発生した東北地方太平洋沖地震による地殻変動で24mm沈下したため、2011年(平成23年)10月に原点数値を 24.3900mに改定しました。

https://www.gsi.go.jp/common/000198165.pdf

東京都制定有形文化財(建造物)
日本水準原点標庫
 日本全国の統一された標高決定のための基準として、明治24年(1891)5月に水準原点が創設されたが、この建物はその水準原点標を保護するために建築されたものである。設計者は工部大学校第1期生の佐立七次郎(1856~1922)。建物は石造で平屋建。建築面積は14.93㎡で、軒高3.75m、総高4.3m。正面のプロポーションは柱廊とその上部のエンターブラチュア(帯状部)とペディメント(三角妻壁)のレリーフ装飾で特徴づけられる。
 日本水準原点標庫は石造による小規模な作品であるが、ローマ風神殿建築に倣い、トスカーナ式オーダー(配列形式)をもつ本格的な模範建築で、明治期の数少ない近代洋風建築として建築史上貴重である。
 平成9年(1997)3月31日建設  
 東京都教育委員会

日本水準原点
 日本水準原点は、我が国の土地の標高を測定する基準となる店である。明治24年(1891)5月にこの場所に設置した。
 日本水準原点の位置は、この建物の中にある台石に取り付けた水晶板の目盛りの零線の中心である。その標高は明治6年から12年までの東京湾の潮位観測による平均海面から測定したもので、24.500メートルと定めた。
 その後、大正12年(1923年)の関東地震による地殻変動に伴いその標高を24.4140メートルに改正したが、平成23年(2011年)3月11日の東北地方太平洋沖地震による地殻変動に伴い24ミリメートル沈下したため、新たに24.3900メートルに改正した。
 平成23年10月21日
 国土地理院

「大日本帝國」銘

菊の御紋ととにも「大日本帝国」と刻まれている。

大日本帝国

菊の御紋

大日本

帝国

「水準原点」

扉の中に「日本水準原点」がある。
年に一度、 測量の日(6月3日)近くに一般公開(開扉)されている。


日本国の原点標高は神奈川県三浦市の国土地理院油壷験潮場の験潮(検潮)と、定期的に行われる原点水準測量によって点検されている。

潮位を測る「油壺験潮場」はこちら


「日本経緯度原点」は麻布台にある。


電子基準点「東京千代田」
 この電子基準点は、我が国の準天頂衛星システムや米国のGPSなどの衛星測位システムの信号を常時受信し、地球上の正確な三次元位置を計測・モニタリングする施設である。国土地理院は全国に電子基準点網を構築して、土地の測量や地図の調整に必要な位置の基準を提供するとともに、国土の地殻変動をモニタリングしている。また、受信した信号は高精度なリアルタイム位置情報サービスにも利用されている。
 電子基準点「東京千代田」は、日本の基準となる日本水準点(明治24年(1891)設置)の近傍にあり、その標高を常時モニタリングする役割も担っている。
 平成30年3月
 国土地理院


周辺には「一等水準点」が設置されている。

甲・乙・丙・丁・戊

「丁」のみが地上に設置。それ以外は地中にある。


場所

東京都千代田区永田町1丁目1番2
国会前庭洋式庭園内(国会前庭北地区、憲政記念館構内)。
北緯 35度40分37.9899秒、東経 139度44分52.2492秒

今昔マップにて位置関係を参照。

https://goo.gl/maps/Y71sUphehx7hGimW8

寺内正毅像台座跡と三宅坂

令和元年9月

現在の三宅坂小公園 (東京都千代田区隼町4)
最高裁判所付近にある三宅坂交差点の三角エリアの公園

立派な台座の上には 「3人の裸婦像」銅像が建っている。
アンバランスな台座と銅像。
それもそのはず。
もともとこの台座は「陸軍元帥」のためのものであった。


寺内正毅像台座跡
 現・広告記念像(平和の群像)

大正12年(1923年)5月建立。
ここには北村西望作「寺内元帥騎馬像(寺内正毅像) 」があった。
しかし、戦時下体制の昭和18年(1943年)の金属供出により撤去され鋳潰される。

戦後、1950年に 株式会社日本電報通信社 が創立50周年を記念して3人の裸婦像を設置。
3人の裸婦は、それぞれ愛情・理知・平和を表現しているという。この像をきっかけに全国各地で「平和の象徴=裸婦、平和祈念の像=裸婦像」の図式ができあがったとされている。

なお、台座は「寺内正毅像」時代から「裸婦像」に変わった際に、半分ほどの高さに削られている。威風堂々とした軍人騎馬像を見上げる時代は終わり、裸婦像が平和を訴える時代へと変遷したのだ。

 広告がわが国仁平和産業と産業文化の発展に貢献した事績は極めて大きい。わが社は昭和25年(1950)7月1日その創立50年を自祝し過去半世紀を回顧してこれを記念するに当り、平和を象徴する広告記念像を建設して東京都民に贈り、広告先覚者の芳名を記録してその功労を永久に偲ぶこととした。
 西暦1950年 
 株式会社 日本電報通信社

(略)

     建設者 株式会社日本電報通信社
            社長 吉田秀雄
     制作者 菊池一雄
     鋳造者 伊藤忠雄
     施工者 松井建設株式会社


寺内正毅

1852年2月24日‐1919年11月3日
銅像は寺内正毅没4年後に建立

長州出身
元帥陸軍大将
第7代陸軍大臣、第18代内閣総理大臣、第19代大蔵大臣、初代朝鮮総督などを歴任。「ビリケン宰相」の異名を持つ。
日露戦争時(第一次桂内閣)の陸軍大臣。(児玉源太郎の後任)


北村西望作品 > 寺内正毅元帥騎馬像

http://hiharada.web.fc2.com/40/4081.html


三宅坂

江戸時代には三河国田原藩・三宅家の上屋敷があったことから「三宅坂」と呼称されてきた。
この三宅坂に沿って三宅家があり。そして現在の国会前庭や憲政記念館のあるあたりには彦根藩井伊家上屋敷があった。

明治期に井伊家・三宅家の屋敷用地は新政府の手に移り、そして陸軍中枢の「陸軍参謀本部」「陸軍省」などが置かれる。

いつしか「三宅坂」といえば「陸軍参謀本部」を指す代名詞となっていたが、開戦の昭和16年(1941年)12月に、陸軍省・参謀本部・教育総監部・陸軍航空総監部が三宅坂から市ヶ谷台に移転している。

寺内正毅像のあった場所は、田原藩上屋敷跡にして渡辺崋山誕生の地。
寺内正毅像の後方は「 陸軍航空本部 」があったという。現在は最高裁判所。

奥に国会議事堂が見える。
三宅坂の交差点

場所

今昔マップにて位置関係を。

青線で囲った場所が「寺内正毅像」のあった場所。

一橋大学の近代建築・戦跡散策

令和元年9月撮影

国立の一橋大学。
戦前は「東京商科大学」
日本最初の官立単科大学、日本最初の商科商業大学。

関東大震災により「一ツ橋」の校舎が壊滅的な打撃をうけ、国立地区(国分寺と立川の間)に移転。

昭和19年9月、戦時体制のなかで「東京商科大学」は「東京産業大学」へと名称変更。改称理由は「商が営利主義を示すという理由」で改称させられたという。


一橋大学「兼松講堂」
 中島飛行機(第一軍需廠)
 エンジン工場

昭和2年(1927年)8月竣工。
大学通り西側の国立キャンパス地に建設。
登録有形文化財(建造物)
設計は伊東忠太。ロマネスク風建設。

戦跡として>
昭和19年(1944)3月10日、軍部指示により「中島飛行機株式会社」が「兼松講堂」を貸与されエンジン工場として活用。学生が勤労奉仕を行っている。
昭和20年4月、中島飛行機は「 第一軍需工廠第十一製造廠 」となり、兼松講堂も「 第一軍需工廠 工場」となっている。

文化遺産オンライン>一橋大学兼松講堂

https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/148375/1

中島飛行機に関してはこちらも


一橋大学「本館」
 中島飛行機(第一軍需廠)
 エンジン工場

昭和5年(1920年)12月竣工。
伊東忠太門下の文部省建設課陣によって設計。

兼松講堂と同じく本館の一部も中島飛行機の工場として活用されている。


一橋大学「附属図書館・時計台棟」

昭和5年(1930)6月竣工。
伊東忠太門下の文部省建設課陣によって設計。
戦争中、所蔵の貴重書籍は長野県伊奈町に疎開している。


一橋大学「別館」

昭和7年(1932年)に本科理化学教室として竣工。
竣工時に最先端だった「階段教室」は2015年にリニューアルしている。


一橋大学「職員集会所」

昭和初期竣工の木造建築。


一橋大学「旧門衛所」

昭和6年(1931年)竣工。
登録有形文化財(建造物)

外装はモルタル塗、腰スクラッチタイル矢筈積及び下見板張で、側面に鉄板葺の出窓を設けたフランス瓦葺ハーフティンバーの瀟洒な洋風建築。

文化財オンライン>一橋大学旧門衛所

https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/177986


一橋大学「東本館」
 多摩陸軍技術研究所 電波兵器練習部隊
 (陸軍東部第九二部隊)予科校舎

昭和4年(1929年)11月竣工。
大学通り東側の国立キャンパス地に「商学専門部本館」として建設される。
登録有形文化財(建造物)
伊東忠太門下の文部省建設課陣によって設計。

<戦跡として>
昭和19年2月、陸軍が東京商科大学東校舎を接収。
多摩陸軍技術研究所 電波兵器練習部隊(陸軍東部第九二部隊)予科校舎として使用される。
「多摩陸軍技術研究所」は、「陸軍登戸研究所の電波研究部門」が独立したもの。
「東部第92部隊」は、電波兵器研究と専門将校及び下士官養成の部隊。

陸軍登戸研究所

文化遺産オンライン>一橋大学東本館

https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/114847


一橋大学の銅像(西キャンパス)

矢野二郎先生像

1845年2月21日‐1906年6月17日
昭和6年(1931)5月に建立。

一橋大学の前身である商法講習所・東京商業学校・高等商業学校の草創期の校長を務めた。日本における商業教育の開拓者。
旧幕臣(開国派)、明治新政府外交官、教育者。貴族院議員(勅選議員)。

福田徳三先生レリーフ

1874年12月2日‐1930年5月8日
昭和35年五月に建立。

日本の経済学を開拓した経済学者。


佐野善作先生像

1873年8月29日‐1952年5月1日
昭和37年(1962)11月に建立。

1895年、高等商業学校(一橋大)を卒業。
1920年、東京商科大学(一橋大)の初代学長。
1923年、関東大震災により神田校舎崩壊。
堤康次郎と佐野善作の力によって国立を学園都市として開発し、1929年に校舎移転。


村瀬春雄先生像

1871年5月18日‐1924年4月9日
昭和39年(1964)11月に建立。

日本の海上保険学の祖といわれている。東京高等商業学校(一橋大)教授や帝国海上保険副社長などを歴任。


一橋大学の銅像(東キャンパス)

堀光亀先生像

1876年‐1940年
昭和16年(1941)4月に建立。

日本初の海運学を創設。東京商業学校の商科大学昇格に貢献。


佐野善作私邸跡の「佐野書院」敷地内にある「戦没学友の碑」は別立てしました。


別館の裏に。

紀元二千六百年四月
卒業廿五年記念
四月會


佐野善作と堤康次郎が築き上げた学園都市の中核「一橋大学」。
伊東忠太とその門下による統一された建築群の美しさとともに、戦争をくぐり抜けてきた歴史なども感じながらの近代建築・戦跡散策でした。

戦没学友の碑(一橋大学)

令和元年9月参拝・国立市

一橋大学「佐野書院」。
ここに2000年に建立された慰霊碑がある。

佐野書院は東京商科大学初代学長佐野善作氏が私邸を大学に寄付したことにはじまる建物。現在の建物は平成6年改築。

訪れたときは施錠されておりましたので、敷地外より遥拝させていただきました。


戦没学友の碑

第二次大戦戦没学友800余名を偲びて

還らざる学友よ 
君たちの志は
ここ国立に 
永遠に生き続ける

平成12年(2000年)4月建立
800余名の一橋大学(旧・東京商科大)戦没学友を祀る。

合掌

一橋大学佐野書院

https://goo.gl/maps/rcvKkSVWxfCtPPT88

一橋大学の近代建築群は別の記事にて。

海軍大佐 野島新之丞 邸(国立市)

令和元年9月撮影

海軍大佐 野島新之丞

野島新之丞は三重県出身・海兵30
正五位勲三等功五級
昭和28年9月2日に死去、墓所は多磨霊園

海軍兵学校第30期(海兵30期)
明治35年12月14日卒業(187名)
30期の同期(クラスメイト)は
 海軍大将 百武源吾
 海軍中将 今村信次郎・重岡信治郎・濱野英次郎・松山茂
 海軍少将 金子養三・鹿江三郎・館明次郎・ 常盤盛衛・森田登 
等々がいる。

前後のクラスでいうと、
29期 海軍大将   高橋三吉・藤田尚徳・米内光政
31期 海軍大将   及川古志郎・加藤隆義・長谷川清
32期 海軍大将元帥 山本五十六
   海軍大将   塩沢幸一・嶋田繁太郎・吉田善吾
等々の世代。


なお、ネット上では「赤城の艦長であった野島新之丞」とあちらこちらで紹介されている。
「軍艦赤城」「戦艦赤城」という記載も含め諸々に疑問符が浮かんだので経歴や艦長歴などを調べてみたところ、初代「赤城」(砲艦)及び、巡洋戦艦から空母に改装された2代目「赤城」いずれも野島新之丞が艦長であったという経歴が見つけられなかった。
参考までにgoogle検索「赤城 野島新之丞」リンクを張っておきます。

野島新之丞 の艦長経歴として確認できたものは以下。

(1)
春雨型駆逐艦5番艦「有明」(初代「有明」)
駆逐艦長
野島新之丞 海軍大尉 1909年12月1日-1910年12月13日

(2)
山彦型駆逐艦1番艦「山彦」
 元ロシア駆逐艦 レシーテリヌイ(Решительный)
駆逐艦長 (兼任 砲術学校兼水雷学校教官)
野島新之丞 海軍大尉 1911年12月1日 – 1912年7月5日

(3)
敷波型駆逐艦1番艦「敷波」(初代「敷波」)
 元ロシア水雷巡洋艦 ガイダマーク(Гайдамак)
駆逐艦長
野島新之丞 海軍大尉 1912年7月5日 – 1913年4月1日

1913年12月1日 海軍少佐
1918年12月1日 海軍中佐
1922年12月1日 海軍大佐
1923年4月1日  予備役

なお、砲艦「赤城」(初代)の除籍は1911年。空母「赤城」の進水は1925年。
野島新之丞 は砲艦赤城の除籍時は海軍大尉であり駆逐艦長。
そして(巡洋) 戦艦 =空母「赤城」の進水前には予備役(引退)となっている。

赤城艦長説の出どころは不明・・・

前置きが長くなりました。

旧野島家住宅
(現ル・ヴァン・ド・ヴェール)

文化財分類種別 市登録有形文化財・建造物
所在地 国立市中1-16-35
公開状況 公開
所有者・管理者 個人(ル・ヴァン・ド・ヴェール)
登録日 平成30年4月1日

概要
旧野島家住宅は、昭和2(1927)年頃、元海軍大佐野島新之丞・喜美夫妻が国立駅近くに建てた住宅です。建てられた当時は、煙突やバルコニー等を備えたモダンな印象を与える洋館で、開発初期の国立大学町を象徴する先進的近代洋風住宅のひとつでした。
また、個人住宅にとどまらず、昭和6(1931)年頃からは国立のキリスト教関係者の集会所、昭和13(1938)年頃には国立町会の事務所が置かれ、地域の拠点施設になっていました。
昭和56(1981)年には外観をほぼ保ったまま再生され、現在はレストラン「ル・ヴァン・ド・ヴェール(緑の風)」として親しまれています。
国立の開発史を伝える貴重な建造物であり、国立の人々に長く親しまれてきた地域の文化財です。

国立市> 市登録有形・建造物(7)  より http://www.city.kunitachi.tokyo.jp/soshiki/Dept08/Div03/Sec01/gyomu/0061/0062/0067/0071/1463551215518.html#a10

ん?
廃墟にみえます・・・

お客様各位
平素は格別のご愛顧を賜り、厚く御礼申し上げます。

このたび「ル・ヴァン・ド・ヴェール」の建物は
国立市登録有形文化財(建造物)になりました。

昭和2年の建設から80年以上経ち老朽化が進み
文化財の名に恥じぬよう修理することにいたしました。

今後共、国立の洋館をお楽しみ頂けますように
2018年2月1日から、しばらくお休みを頂きます。

お客様には大変ご迷惑をおかけいたしますが
リニューアルオープンにご期待下さいますようお願い申し上げます。

裏側にまわってみました。

2018年の休業以来、放置されている雰囲気が・・・
早い修復修理を期待しております・・・

国立駅前の国旗掲揚塔

令和元年9月撮影・国立市

JR国立駅南口。
訪れたときは、赤い三角屋根で有名だった 「旧国立駅舎」( 大正15年(1926年)建造 )再建工事中でした。(工事完了は2020年4月予定、再訪しないと。)

で、本題。
今回の目的は南口ロータリーに残る「国旗掲揚塔」を見学してきました。

場所

国土地理院USA-M449-154を加工。
米軍1946年09月08日撮影航空写真と、Google Mapより現在の航空写真を比べる。

今も昔も変わっていない道路区画の美しさ。
この国立を開発した西武グループ・堤康次郎の「箱根土地株式会社」(現在のプリンスホテル)と、この地に移転してきた東京商科大学(現在の一橋大学)の初代学長・佐野善作の作り上げた町並み。

南口ロータリーの中央円に、国旗掲揚塔が残っている。

車がひっきりなしに走っている国立駅前南口ロータリーで、交通量の隙間を狙って、えいやっと「緑の島」まで駆け寄ります。

国旗掲揚塔

国威宣揚
陸軍大将 宇垣一成 書

紀元二千六百年記念

國立町會
谷保村青年團國立支部

国旗掲揚塔
 この国旗掲揚塔は、昭和15年(1940)に紀元二千六百年を記念して、当時の国立町会と谷保村青年団国立支部により建てられたものです。正面にある「国威宣揚」の題字は、陸軍大将の宇垣一成の筆によります。
 国威宣揚は、大日本帝国が大東亜共栄圏をつくりアジアの盟主として君臨するために、国威を宣揚するという意で掲げられた標語です。昭和12年(1937)に始まった日中戦争を背景に、村全体が戦争風潮に沸き立っていた時代の状況を物語る歴史資料です。
 国立市では、わたしたちが二度と戦争の過ちを犯さぬように、平和を願う気持ちからこの銘板を設置するものです。
 平成13年3月
 国立市教育委員会

後ろ側

国立駅前の桜並木

昭和8年(1933)、皇太子の御誕生を記念して植樹されたのが、国立駅前の大学通りの桜並木の由来。

旧・国立駅舎

国立市指定有形文化財「旧国立駅舎」
大正15年(1926)の国立駅開業からの駅舎。平成18年(2006)に中央線高架工事の為に解体。
現在は国立市によって、ほぼ元の場所に解体時に保管していた当時の部材を再利用して再建工事中。
令和2年(2020)4月に国立市の情報発信スペースとして再活用される予定。

http://www.city.kunitachi.tokyo.jp/machi/town/1557712696090.html

興亜神社(亜細亜大学)

令和元年九月参拝・武蔵野市

友人より「亜細亜大学に興亜神社という神社があって・・・」と貴重な情報を耳にしたので、足を運んでみました。

興亜専門学校から亜細亜大学へ

昭和16年(1941)に設立された旧制専門学校。亜細亜大学の前身。

昭和16年4月財団法人興亜協会が創設。
同時に協会付属の専門学校として「興亜専門学校」が現在地に設立。
「大東亜共栄圏」建設のための有為な人材を養成する目的として開校。

終戦後の昭和20年9月25日に開かれた興亜協会理事会で「財団法人興亜協会」は「財団法人日本経済専門学校」となり「興亜専門学校」は「日本経済専門学校」と改称。
興亜専門学校大陸科と南洋科は廃止され、内地科を拡充した経済科が設置。その後、亜細亜大学へと変遷する。


亜細亜大学武蔵野キャンパス
体育館と8号館の裏にひっそりと佇む神社があった。

興亜神社

興亜専門学校(亜細亜大学)の戦没者97柱を祀る。
毎年11月3日に例祭が斎行されている。
例祭は同じ武蔵野市内の杵築大社の神職が御奉仕されている。

神社敷地は施錠されておりましたので、敷地外より遥拝。
施錠が日曜日だからか、普段からなのかは不詳。
敷地外より撮影。

戦没校友銘
97柱の御名と戦没地が記銘されている…

合掌


せっかくなので亜細亜大学構内を散策すると、なにやら銅像が目にとまる。

太田耕造初代学長胸像

太田耕造先生 岸信介 書
自助協力 大田耕造 書

大田耕造
1889年(明治22年)12月15日-1981年(昭和56年)11月26日
亜細亜大学の創立者のひとり。

東京帝国大学法学部英法科卒業の弁護士として活躍。
一方で平沼騏一郎主宰の国本社に参加し幹事を務める。
五・一五事件、血盟団事件にて被告弁護士。
1939年(昭和14年)1月発足の平沼騏一郎内閣では首相秘書官を務め同年4月には内閣書記官長(現在の官房長官相当)に就任。平沼内閣総辞職直前に貴族院勅選議員に勅任。公職追放される1945年まで貴族院議員。
1941年(昭和16年)興亜専門学校設立に関与。
1945年(昭和20年)鈴木貫太郎内閣では文部大臣を務める。
戦後は戦犯容疑を問われ巣鴨プリズンに勾留されるも不起訴出所。
その後は興亜専門学校の後進である亜細亜大学学長として活躍。
墓所は多磨霊園。


興亜神社
(亜細亜大学サイトより例祭の様子など)
例祭では、「海ゆかば」「第一学生歌」を献歌として斉唱しているという。

https://www.asia-u.ac.jp/information/campusmap/#anchor80

https://www.asia-u.ac.jp/asu_news/2018/11/6187/

鐵道聯隊E形蒸気機関車

令和元年9月撮影

日本陸軍の鐵道聯隊(鉄道連隊)で活躍した蒸気機関車(SL)が「新江古田駅」の近くに保存してある、と聞きまして、足を運んでみました。

E形蒸気機関車
元日本陸軍 鐵道聯隊 E18

1921年に日本陸軍の鐵道聯隊にて使用する野戦軽便鉄道用機関車として陸軍省にて発注。
1921年にE1号からE25両の25両、1925年にE101号からE106号の6両の合計31両が発注され、ドイツのコッペル社(O&K社)にて製造された。

展示されている「E18」は1921年製造。

鐵道聯隊のシンボルマーク
E18

日本陸軍鐵道聯隊で活躍した蒸気機関車。

戦後は、西武鉄道に引き取られ西武安比奈線にて「安比奈のコッペル」「コッペルのE」として活躍するも、安比奈線は休止線となり、いつしか放置廃車体へと。


その後、ユネスコ村で保存されるも閉園。
1990年のユネスコ村閉園後は、鉄道出版社の手で現在地に保存。

元日本陸軍 鐵道聯隊 E18
1921(大正10)年 
ドイツ オーレンシュタイン・ウント・コッペル社製造
全長5.8m 全幅1.8m 重量約12t

 千葉市と習志野市にあった鐵道聯隊は戦地での迅速な物資補給を行うために設けられた。日本では1896年に鐵道大隊として発足し、日露戦争後に鐵道聯隊となった。素早く戦地で輸送力の大きな鉄道を輸送、敷設、撤去するために、600mmゲージの機関車とレールと枕木を組み上げたハシゴ状のものを使用する軍用軽便鉄道が導入された。
 この機関車はドイツのコッペル社から1921年に輸入された25両のうちの1両である。急カーブを通過させるために動力はすべての車輪に伝達されるが、最前部と最後部のそれぞれ2輪はカーブに沿って首を振る構造になっている。
 太平洋戦争が終結した1945年をこの機関車は千葉市の兵器補給廠で迎え、その後西武鉄道に引き取られて、1947年から入間川の砂利採取線(現在の川越市安比奈)で同型のE16、E103とともに使用された。活躍は1950年代で終了したが、その後も廃車体として河原に放置されていた。
 1960年代末に河原から西部所沢工場に移され、さらに玉川上水の西武運輸の倉庫に移動、1971年から所沢市のユネスコ村でE103とともに保存、展示された。
 1993年、「大恐竜探検館」建設のために展示場所を失って、この場所に移動、2007年に建物建て替え工事が始まるまで保存された。
 その後、静岡県の大井川鐵道に依頼して外観の修復を行い、2012年8月、東京ビックサイトで開催されたJAMコンベンションでの3日間の展示を経て、ここに戻ってきた。
 なお僚機E103は北海道丸瀬布での保存の後、2002年ドイツに里帰りして動態復元工事中である。


「E18号」の僚機であった「E103号」は、現在はドイツに里帰りし「 フランクフルト軽便鉄道博物館 」にて動態保存されている。

フランクフルト軽便鉄道博物館
E103号

ドイツに里帰りしたE103号。
復元の様子などがPDFにて写真確認することが出来ます。

https://feldbahn-ffm.de/

https://feldbahn-ffm.de/index.php/e103/

https://feldbahn-ffm.de/wp-content/uploads/2019/03/ffm_projekt_e103.pdf


場所(江古田)

「とれいん」を出版する 株式会社エリエイ出版部 の社屋前にて展示されている。

http://www.eriei.co.jp/

https://goo.gl/maps/EUtW7nfEWLocthdT7

建物の名前は
 FELDBAHNHAUS SHIN-EGOTA
 フェルトバーンハウス新江古田
フェルトバーンとはドイツ語で「軽便鉄道」を意味している。

新江古田駅徒歩5分


付記

鐵道聯隊の仲間、そして西武鉄道でも仲間だった車輌。
鐵道聯隊「E形」後継機にあたる「K2形」

日本陸軍鐵道聯隊では「E形」蒸気機関車を改良した国産「K1形」を経て国産「K2形機関車」を1942年より量産している。「K2形蒸気機関車」は鐵道聯隊ゆかりの習志野市に保存されている。

鐵道聯隊「K2形」機関車134号

K2形機関車134号
 この蒸気機関車は、かつてここ津田沼に本部を置いていた陸軍第2連隊が使用していたもので、現在の新京成線敷地内にあった陸軍演習線での機関車として活躍したものです。
 この度、西武鉄道㈱ユネスコ村に保存してあったものを譲り受け、鉄道連隊ゆかりの、この津田沼一丁目公園に設置したものです。
 平成6年3月

習志野市「津田沼一丁目公園」 (JR津田沼駅・京成新津田沼駅もより)


関連

習志野の鐵道聯隊

千葉の鐵道聯隊

明治天皇荻窪御小休所と西郊ロッヂング(荻窪)

平成30年9月撮影

荻窪駅から東に歩く。駅から3分ほどの地に唐突に和風建築が見えてきた。

明治天皇荻窪御小休所

明治天皇荻窪御小休所
昭和11年11月建設
史蹟名勝天然記念物保存法ニ依リ史蹟トシテ昭和九年十一月文部大臣指定

明治1 6年4月1 6日、飯能の近衛師団演習御統監のために名馬金華山号で演習地に向かう途上に御小休された聖蹟。
明治天皇聖蹟として昭和9年に文部省より史跡指定されたが、敗戦後に史跡解除。文化財としての再申請は行われていない。

武家長屋門

当地の名主中田家が鷹狩に際して第11代将軍徳川家斉を迎えていたという長屋門。青梅街道旧道に位置していたが、昭和62年のビル建築にあたり現在地に移築。

格別な説明はないけど、こちらが「御小休所」の建屋。 かつては茅葺きであったという。名主中田家の離れ。

史蹟境界標石

史蹟
指定區域境界
文部省・東京市

文部省・東京市連名の史蹟境界石。
初めて目にしました。
さきほどの碑の建設時期と一緒であるなら昭和11年でしょうか。
3つありました。

さらに東に歩くと、レトロな建物が。

西郊ロッヂング・旅館西郊本館

「本館」は昭和6年(1931)建設。
「新館」は昭和13年(1938)建築。

現在、本館は「旅館西郊(せいこう)」として営業。新館「西郊ロッヂング」は当所は下宿であったが、2001年に改装して現在は賃貸住宅として活用されている。

2009年11月
「旅館西郊本館」及び「西郊ロッヂング」は国の登録有形文化財に登録された。

参考

https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/173182

https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/145141

場所

明治天皇荻窪御小休所

https://goo.gl/maps/QiacJC4f5SXAzNzj6

明治天皇荻窪御小休所の後ろのビル(藤澤ビル)にはアメックス(アメリカン・エキスプレス)の日本オフィスがある。ビル建設に当たり、現在の御小休所と長屋門は移築が行われたという。

https://goo.gl/maps/3GL1SKnKz6JGKh4Y9