令和元年8月
中央線と京王線の中間あたり。位置で言うと、京王線山田駅と中央線八王子駅の間にある「富士森公園」。
ちょっと脚を運んでみました。
目次
大正殿(浅間神社拝殿に流用)
昭和2年(1927)、 大正天皇多摩陵での「大喪の儀」で「祭場殿」として使用された建物。同年に下賜され「富士森公園」に移設。同じ年には「浅川駅(現在のJR高尾駅)」も移設されている。
昭和28年(1953)に、「浅間神社」の拝殿として公園内から富士塚前に移築。現在に至る。
公園入口の「大正殿」標石は昭和4年3月建立。
浅間神社は、慶長年間(1596~1613)に関東代官頭として八王子に陣屋を構えた大久保石見守長安の勧請による。
富士森公園ノ浅間神社
(台町ノ浅間神社)
本務社は八幡八雲神社。
浅間神社縁起
浅間神社は木花咲耶姫を祭神とし、一つに富士浅間様とも言い、駿河国の本宮浅間神社を分社したものです。
慶長年間(1596~1613)、大久保石見守長安が高さ約二丈(約6m)周囲六十間(約109m)余りの塚を築き、頂上に浅間神社を勧請したのが当社の起源です。
この場所は、往古より樹木生い茂れる森にて、藤森と言い、塚も藤塚と書かれていましたが、慶長年間、富士浅間神社創立後は富士森又は富士塚と書くようになりました。
宝永年間(1705頃)、社殿破壊に及び、延享二年(1755)改めて石造りの社を再建したのが本殿で、現在の奥の院石造りの社です。又、天明六年(1787)には石の階段が造られました。当社は元々拝殿がなく、祭典は毎年山上で行ってきました。例祭は八月一日で七月三十一日の宵宮より参拝者で雑踏し、境内には団子を売る商人が軒を並べ、この団子を食べる者は暑気にあたらぬとの言い伝えに、別名『団子祭り』とも呼ばれる様になりました。
この団子祭りの起こりは、明治の中頃社頭に住居して宮守をして居た者が、当社に献じた洗米で団子を作り、希望者へ分与したのが始まりです。
当社の例祭に行う、湯の花の神事は、心身の汚れを祓い清め、すがすがしい精神で氏子一同神へ奉仕する意味です。
当社は子授かり、安産の神として信仰されていますが、この由来は、天照大神の御孫瓊々杵命の皇后である当社の祭神木花咲耶姫命が、一夜にして身ごもったため夫の命より疑いを受けた際、身の潔白を立証するため、産屋に火を放ち、火中で皇子を安産されたと言う古事に起因するものです。
現在の拝殿は昭和二十八年に大正殿(大正天皇のご大葬の時多摩御陵に造られた式典用の建物)を移築し建て直したものです。
昔より古い歴史を持つこの浅間神社は今、台町一丁目、台町二丁目、台町三丁目、台町四丁目及び万町二丁目によりお護りされています。
灯籠
灯籠は「八王子軍人中」の奉納。
明治39年11月建立。
御大典記念植樹
御大典記念植樹は昭和3年11月。
JR高尾駅は、 大正天皇の大喪列車の始発駅として「新宿御苑に設置された仮設駅舎」(新宿御苑宮廷臨時停車場)を 大正天皇 多摩陵 の玄関口である八王子高尾に移築したもの。
八王子市戦没者慰霊塔(忠霊塔)
明治29年に日清戦争の犠牲者のために忠魂碑が富士森公園に建立されたことに始まる。日露戦争の忠魂碑も建立されたが、終戦に際して撤去。
昭和40年に現在の慰霊塔が改めて建立された。
灯籠は「在郷軍人会八王子市聯合分会」。戦前の気配を唯一残している。
碑文
西南の役から太平洋戦争に至る殉国の英霊および戦災殉難の霊をここにまつる
昭和40年10月
八王子市長 植竹 国次
八王子海軍わだつみ会記念樹
昭和41年4月15日
平和の像
富士森公園内に。
八王子市は先の第二次世界大戦において大きな戦禍を被り多くの
尊い人命が犠牲になりました。
このような戦争による悲惨な生活は再び繰り返してはなりません。
よって、非核平和都市宣言十周年にあたり世界の恒久平和を願う
市民の象徴としてここに平和の像を建立します。
平成五年一月
八王子市
右
これは、昭和20年(1945年)8月6日、原子爆弾の被災を受けた広島市役所旧庁舎の前庭の敷石の一部です。
左
これは、昭和20年(1945年)8月9日、原子爆弾の被災を受けた長崎市山里国民学校の校舎の壁の一部です。
忠魂之碑
富士森公園内の浅間神社に。
篇額は元帥陸軍大将 大山巌 書、明治39年11月建立。日露戦争の戦没者を祀る。
石坂昌孝之碑(放庵石坂君碑記)
富士森公園内の浅間神社に。
篇額は 海軍大将 樺山資紀 書。
大正5年建立。
石坂昌孝は明治期の政治家、自由民権運動家。
浅川・大和田橋
この節のみ2017年11月撮影。
八王子空襲の戦跡遺産として掲載しておきます。
焼夷弾・弾痕の保存について
八王子市は太平洋戦争終結の13日前、昭和20年8月2日未明に米空軍のB29爆撃機180機の空襲を受け、約450名が死没、2,000余名が負傷し、旧市街地の約80%の家屋が焼失する被害を受けました。そのとき多くの市民が大和田橋の下に避難し、尊い命が助かりました。
大和田橋の歩道上には、この空襲のとき透過された焼夷弾の跡が17箇所残っています。
車道の部分は過去の補修により弾痕は残っていませんが、現在歩道上に残っている弾痕数から推測すると橋全体では約50戸以上の焼夷弾が投下されたと思われます。建設省相武国道工事事務所では、この大和田橋の補修工事にあたり焼夷弾の弾痕を保存し太平洋戦争の痕跡を永く後世に伝えるものです。
弾痕の保存については、上下歩道上各1箇所は、透明板で覆い、他15ヶ所は色タイルで、その位置を示してあります。
平成9年10月
建設省関東地方建設局
相武国道工事事務所
八王子関連の戦跡は以下も参考に
〆