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「まんしゅう地ぞう(まんしゅう地蔵)」と「中国帰国者之墓」(西多摩霊園・あきる野市)

あきる野市にある「西多摩霊園」。
ここに、「中国帰国者之墓」と、ちばてつや氏デザインの「まんしゅう地ぞう(まんしゅう地蔵)」があるというので足を運んでみた。

「まんしゅう母子地蔵」が浅草寺に鎮座しており、どちらも漫画家のちばてつや氏のデザインとなる。


「中国帰国者之墓」と「まんしゅう地蔵(まんしゅう地ぞう)」

「まんしゅう地ぞう(まんしゅう地蔵」は、あきる野市の西多摩霊園にある「中国帰国者之墓」の横に鎮座。
浅草の浅草寺にある「まんしゅう母子地蔵」と同じく、ちばてつや氏がデザイン。

中国帰国者之墓
内閣総理大臣 海部俊樹 書

海部俊樹総理大臣の銘。1990年6月の建立。

合掌

墓碑銘
 1931年9月満洲事変以降、五族共和・王道楽土建設の名のもと多くの日本人が中国東北地方に渡った。特に重要国策として、日本全国から開拓団青少年義勇軍が中ソ国境に送り込まれた。
 しかるに第二次世界大戦末期ソ連軍の侵攻に際し、日本軍の庇護無く、多くの婦女子が、飢え・病・酷寒に苦しんだ。また逃避行の果て家族は離散し異郷に永く放置されたが中国の人々に救われた。
 戦後四十有余年、多くの孤児・夫人達が念願叶い、故国に帰ったが、定着自立の過程で不幸にして他界された御霊を此処に祀る。
 再び過ちが繰り返されぬことを願い永遠に安らかに眠られんことを祈る。
  1990年6月
  中国残留孤児の国勢取得を支援する会
   会長 河合弘之

由来
 望郷の思い久しくようやく帰国した残留孤児・残留夫人は懸命に定着、自立の努力を続けていますが、その過程で新たな問題が発生しました。それは、せっかく祖国に帰りながら不幸にして他界した夫人・孤児あるいはその家族の人達の御霊が眠る墓所がないことです。
 そこでこの墓所を中国残留孤児の国籍所得を支援する会が発案し、孤児支援関係者・厚生省など関係各庁の方々、西多摩霊園、宮川石材株式会社等、そのほか心ある方々の協力によって建立されたものです。衷心よりお礼申し上げます。
 1990年6月
  中国残留孤児の国籍取得を支援する会
   事務局長 千野誠治

「まんしゅう地ぞう」由来
 今日は遠路『まんしゅう地ぞう』さまにお参りされご苦労さまです。
この機会に、お地蔵さま建立の由来について申し上げたいと思います。
 おとなたちが起こした、さきの大戦敗戦の結果、当時の満州で数万の子供たちが亡<なりました。一九四五年八月九日、突然のソ連軍侵攻。守ってくれる筈の日本軍は頼りにならず、ソ連戦車に蹂躙され、暴民の襲撃にさらされながら、人々は一歩でも祖国に近づこうと必死の逃避行を続けました。襲い来る飢、疫病、酷寒そして集団自決、そのなかでおとなたちの手によって死んでいった子供たちもいました。罪のない子供たちが、なぜ虫けらのように死ななければならなかったのでしょうか。
子供たちの魂は日本に帰えれず、花一本供えられることもなく、まだ満洲の荒野で迎えを待っているのではないでしょうか。
 あれから五十年の歳月が過ぎ去りました。ともすれば戦争の惨禍が忘れられ、多くの子供たちの貴い命がその犠牲になったことも消えてしまいそうです。改めてここに、幼い御霊よ安らかなれと祈り、再びあやまちを繰り返さないことを誓い、永遠の平和の願いをこめて『まんしゅう地ぞう』を建立した次第です。お地蔵さまのお慈悲、皆の思いは遠く満洲の地に眠る非運の子供たちに届くことを信じてやみません。
 最後に、和田圭子さんから頂いた短歌を捧げてご冥福をお祈り申し上げます。
 異郷にて はかなくなりし幼児の みたまかへれよ ちちははの手に
 風となり  雲ともなりて  遊べかし  お地蔵さまに  見守られつつ

デザイン ちばてつや 題字 井上翠園
彫刻 和泉成治 石材 宮川八三吉
 一九九五年十一月
  まんしゅう地ぞう建立委員会

中国帰国者支援・交流センター
https://www.kikokusha-center.or.jp/index2.html

https://www.kikokusha-center.or.jp/resource/sankoshiryo/ioriya-notes/photo/zizo.htm

まんしゅう地ぞう(まんしゅう地蔵)は、漫画家のちばてつや氏のデザイン。
ちばてつや氏は、2歳の時に満洲国奉天にわたり、6歳のときに同地で終戦を迎え、多くの困難を経て満洲国から引き揚げを経験している。

まんしゅう地ぞう

「まんしゅう地ぞう」から、西多摩霊園を眺める。


西多摩霊園

東京郊外の大規模霊園。予想以上に広く、そして山を切り拓いた感もあり、アップダウンも激しい。
私は、福生駅からシェアサイクルで赴いたが、同じく福生駅からは無料送迎バスもあるとのことで、バスを使うのものあり。

https://nishitamareien.com/guidance_top/guidance/guidance1

西多摩霊園は、都内最大の民営公園墓地。昭和41年開設。広大な聖域は15万坪(50万平方メートル)を有し、総区画数は約3万区画にも及ぶ。

もちろん、場所がわからなかったので、管理事務所で「中国帰国者之墓」と「まんしゅう地蔵」の場所を尋ねると、受付のお姉さんが教えてくれます。
「案内図のここ(黒線で行き方を記載)を右にいった、第5区の1号の1列、おおきなお地蔵さんがあるので、すぐわかると思いますよ」

親切にありがとうございます。
お陰様で、迷わず、たどり着けました。

https://nishitamareien.com/img/Gardenmap2023.jpg

ちなみに、5区の入口には東海大学の創設者・松前重義博士の顕彰碑「望星塚」がある。

※撮影:2025年5月
※Pentax WG-1000


満洲関連

世界最大級の無線送信施設だった「依佐美送信所」(依佐美送信所記念館・愛知県刈谷市)

完成当初、世界最大級の無線送信施設で、東洋一の長波送信所であった「依佐美送信所」の記念館に足を運んでみました。


依佐美送信所

依佐美送信所は昭和4年(1929)に運用を開始した長波及び短波の無線送信所。
開設当初の対になる受信所は「四日市受信所(海蔵受信所)」(昭和3年竣工、兵庫県の小野受信所開設に伴い昭和13年廃止)であった。
大戦中は、海面下にも届く長波(超長波)の特性を活かして、帝国海軍の潜水艦との交信に活用された。
昭和16年12月2日、瀬戸内海に停泊する連合艦隊旗艦「長門」から有線で東京通信隊に送信された「ニイタカヤマノボレ一二〇八」は、「船橋送信所」から短波と長波で発信され、「依佐美送信所」からは超長波で潜水艦向けに発信されたという。
戦後、米国海軍は依佐美送信所を接収し、潜水艦通信に使用。平成5年(1993)に送信停止され、翌年に日本に返還。
依佐美送信所は昭和4年(1929)に運用を開始した長波及び短波の無線送信所。
開設当初の対になる受信所は「四日市受信所(海蔵受信所)」(昭和3年竣工、兵庫県の小野受信所開設に伴い昭和13年廃止)であった。
大戦中は、海面下にも届く長波(超長波)の特性を活かして、帝国海軍の潜水艦との交信に活用された。
昭和16年12月2日、瀬戸内海に停泊する連合艦隊旗艦「長門」から有線で東京通信隊に送信された「ニイタカヤマノボレ一二〇八」は、「船橋送信所」から短波と長波で発信され、「依佐美送信所」からは超長波で潜水艦向けに発信されたという。
戦後、米国海軍は依佐美送信所を接収し、潜水艦通信に使用。平成5年(1993)に送信停止され、翌年に日本に返還。
鉄塔本体は平成9年(1997)に全8基の解体が完了し、残った局舎なども平成18年(2006)までに解体された。
社宅跡は「フローラルガーデンよさみ」として公園整備がなされ、その一角に依佐美送信所記念館が平成19年(2007)4月に開館している。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-R1078-17
1948年3月3日、米軍撮影の航空写真。

依佐美送信所界隈を拡大。

250m鉄塔(無線鉄塔1号塔)は、こんな感じ。影の長さが、高さをよく表している。


依佐美送信所記念館

詳細は公式サイトにて

https://yosami-radio-ts.sakura.ne.jp

依佐美送信所記念館
 依佐美送信所は昭和4年(1929)に建設された、当時としては世界最大級の無線送信施設で、長波によるヨーロッパへの送信を日本で初めて行いました。これにより当時の外交や通商は飛躍的に向上し、その後短波通信施設も強化され、長・短波ともに日本の国際通信設備としての重要な役割を果たしました。
 第二次世界大戦後の在日米国海軍の接収、平成6年(1994)の日本への返還を経て、その役割を終えた送信所は平成18年に全施設が解体・撤去されました。
 この送信所の産業遺産としての価値を評価し、長波用送信装置および関係資料を保存し後世に伝えていくことを目的として、ここに依佐美送信所記念館を建設し、平成19年4月に開館しました。

依佐美送信所鉄塔
 明治以来我が国の対外通信は、欧米の電信会社の所有する海底電線によらなければならず、このような対外通信施設の不備は、外交上・通商上の不利益を我が国にもたらしました。こうした見地から、無線通信による国際通信の整備が提唱され、大正14年(1925年)3月帝国議会において「日本無線電信株式会社法」が成立し、これに基づく新会社が世界の主要地域と直接無線通信のできる施設を建設することとなり、対欧送信所はここ依佐美(当時愛知県碧海郡依佐美村)に、受信所は四日市郊外(三重県三重郡海蔵村)に設けられることになりました。
 依佐美送信所は大電力の長波送信所として設計され、昭和2年(1927)7月に着工、4年3月に完成しました。送信所にはドイツ製テレフンケン式長波送信装置と高さ250メートルの当時としては東洋一の高さを誇る鉄塔8基に懸架した壮大なアンテナが設置されました。アンテナ電力500キロワットは長波としては世界最大のものでした。
 この8基の鉄塔は2列(間隔500メートル)に4基ずつ(間隔480メートル)設置され、相対する鉄塔間に張られた4本の吊架線に逆L型T6条のアンテナが吊り下げられました、接地には多重接地法が採用され、アンテナの下の全域に埋設されました。
 鉄塔と送信所建設に要した資材の量は7万トン。これを運搬するため三河鉄道小垣江駅から建設地付近まで臨時に専用引込線が敷設されました。
 昭和4年3月全ての工事が完成、4月18日盛大に開所式が行われ、我が国とヨーロッパ間の直通通信が開始されました。これは外交上および通商上の画期的躍進でした。
 第二次世界大戦中、長波の送信施設は専ら日本海軍の運用に委ねられ終戦に至りましたが、昭和25年4月在日米国海軍に接収され、昭和27年7月から運用が再開されました。
 平成6年(1994)8月東西冷戦の終焉により全面返還となり、平成9年3月にアンテナ、鉄塔等の撤去を完了しました。こうして70年にわたって三河平野にそびえ立ち、地元の象徴として親しまれてきた鉄塔もその使命を終え、姿を消しました。
 ここに往時の雄姿を留めるものとして、実物を10分の1の高さ25メートルに短縮し保存します。
  刈谷市

鉄塔平面図

鉄塔姿図

依佐美記念館の外観。
依佐美送信所には長波の発信機である高周波発電機が残されており、2006年の解体時に、新たに建造した記念館で保存している。記念館外観は、旧送信機室を模したもので、内部には高周波発電機をはじめ、ローディングコイル、制御盤など旧送信所の設備の8割が静態保存されている。

旧送信機室を模している。


記念鉄塔と鉄塔頂上部(無線鉄塔2号塔跡地)

記念館に隣接する高さ25mの記念塔。解体された無線鉄塔の2号塔跡地にあり、1/10スケールで復元されている。(平成11年建設)
また、敷地内には、250mの鉄塔の頂上部がある。

250mの鉄塔の頂上部


フローラルプラザ(公園事務所)

依佐美送信所の建物(送信局舎本館)をモチーフに作られた公園事務所。

「フローラルガーデンよさみ」

樹木の根元も無線鉄塔イメージでかわいい。


依佐美送信所記念館内部

館内には依佐美送信所で使用された送信機器類など関係資料が保存されている。

米国海軍が送信所を使用していた際に送信室の入口に掲示されていた送信室の説明「Explanation」

依佐美送信所の無線鉄塔跡のマップ。
全部巡ると4キロ60分だそうで。

無線鉄塔の位置関係を俯瞰。

依佐美送信所ジオラマ

位置関係がわかりやすい

長波送信局舎

現在のフローラルプラザと依佐美送信所記念館の建物は、本館と送信所を模している。
長波送信局舎の敷地は、現在はソーラーパネル発電所。

長波用大鉄塔

大鉄塔は1996-7年に解体。鉄塔基礎の跡地は刈谷市の所有となり、長波送信局舎構内から移植されたクスノキが2本ずつ植えられている。
8号塔跡地には鉄塔基礎が残る。(今回はそこまでは行けませんでした。。。)

引留鉄塔

戦後の米国海軍のアンテナ改良にとり、引留鉄塔は廃止され、その痕跡は残っていない。

短波送信局舎

短波送信局舎は、長波局舎の南約1キロの場所に、昭和11年(1936)二完成。
戦後は民間企業に買い取られ、現在も企業敷地内に現存していいる。依佐美送信所の建物として唯一の現存建造物。(あとで見に行こう。。。)

臨時鉄道引込線

名鉄の小垣江駅から2.4キロの臨時線路が敷設された。
線路は送信所完成後に撤去され、道路や田畑となっている。

社宅・寮

フローラルガーデンよさみが、社宅の跡地。

コイルハウス

戦後、昭和38年にコイルハウスを建設に性能向上が図られた。

依佐美変電所

現在の中部電力刈谷電力所依佐美変電所として往時と同じく電力を供給している。

製塩所

戦後に余剰電力を用いて不足していた塩を確保するために2年間ほど、声援事業が行われた。

神明橋

依佐美送信所の建造協力のお礼として鉄筋コンクリートの橋が村に提供された。送信所から世界に電波を発信をイメージして四隅に地球儀が設置され「地球橋」とも呼称された。
現在の神明橋は2000年に造営されたもので、往時を模して四隅に地球儀が設けられている。

短波用木柱郡

短波用アンテナは建設費が安い木柱が多様された。高さは最大で60m。

短波用75m鉄塔

昭和12年に短波用75m鉄塔は5基設置された。

短波用85m鉄塔

短波用アンテナは合計で43基設置された。
85mが5基、75mが5基、60m、45m、40m、30mの木柱が70本。
85m鉄塔は昭和13年に設置。
短波用鉄塔や木柱は昭和29年までに全て撤去され痕跡は残っていない。

在日米海軍通信隊による注意と立入禁止の看板

米海軍通信隊の看板

米海軍の紋章盾

主直流機励磁用電動発動機操作盤

主直流機励磁用電動発動機

主誘導電動機

主直流電動機

高周波発電機

送信機操作盤

高周波チョークコイル

鉄塔台座

250mの鉄塔を支えた台座。上部が球体になっているのは鉄塔が強風によって横揺れを受けても荷重を一点でうけ下部台座に力を均等に分散するため。

碍子

鉄塔支線

依佐美送信所本館の玄関ステンドグラス

航空障害灯

配布物、いろいろ


対欧無線通信発祥地

1989年に、電気通信学会などが対欧無線の発祥の地として石碑を建立。

對歐無線通信發祥地
本田静夫書

依佐美送信所は我が国に於ける最初の欧州向け無線通信設備として建設され昭和四年四月十五日に運用を開始してから本日ここに六十周年を迎える
当時の長波送信機は周波数一七四四二ヘルツの回転型高周波発電機で二百五十メートルの鉄塔と七百キロワットの空中線電力は世界最大の規模であった
本送信所は昭和の時代と共に幾多の変遷を経て現在も電気興業依佐美送信所として真空管式送信機により運用されており歴史的学問的に貴重な価値を有するものである
ここに電子情報通信学会の東海支部創立五十周年と依佐美送信所の電波発射六十周年を記念して此の碑を建立する
 平成元年四月十五日
  電子情報通信学会東海支部
   創立五十周年記念事業会代表
    本田静夫

平成20年(2008) には、IEEEマイルストーンに認定されている。
IEEE (The Institute of Electrical and Electronics Engineers, Inc.)は米国に本部を置く世界最大の電気電子技術者の組織。
平成20年11月16日、依佐美送信所が国内9番目に認定された。世界最大の出力でヨーロッパへ国内で初めて送信したことや記念館に設備が保存されている点が評価された。

マイルストーン銘板

https://www.ieice.org/tokai/activity

場所

https://maps.app.goo.gl/RnBJeaVcrY5bpuip7


依佐美送信所・短波送信局舎

現在の小林クリエイト内に往時の建屋が残っている。

https://maps.app.goo.gl/w9iKYuJKmy3WGu8u7

正面の中央が往時の建屋。私が(歩き疲れたということもあり)現地で、正面に回り込むことを怠ったため、Googleストリートビューからキャプチャ。

北側からだと、こんな感じ。正直、よくわからない。

場所(正面)

https://maps.app.goo.gl/aMgkdphyLfurXD4P9

当時の航空写真(1948年)

現在の様子(Goole航空写真)


無線鉄塔1号塔跡地(依佐美クスノキ1号)

無線鉄塔の跡地には、刈谷市の木である「クスノキ」が2本ずつ植えられている。
なお、2号鉄塔跡地が、依佐美送信所記念館となっている。


無線鉄塔4号塔跡地(依佐美クスノキ4号)

短波送信局舎の近くに4号。


無線鉄塔3号塔跡地(依佐美クスノキ3号)

結構、遠くからでもわかるクスノキ。

依佐美送信所記念館は、遠くからでもよく分かる。

ちなみに、野田新町駅から2キロ30分歩いて、「フローラルガーデンよさみ」について、依佐美送信所記念館に1時間くらい滞在して、寄り道しながら4キロ60分ほど歩いて野田新町駅に戻った、とか、そんな感じ。
それなりに歩く覚悟が必要な場所です。(ちょうど良いタイミングでバスがなかった、、、)

※撮影:2025年3月


関連

「修武台・陸軍航空士官学校」修武台記念館(航空自衛隊入間基地)

2025年の冬に。
入間基地内の「修武台記念館」を見学させていただきました。

修武台記念館内は、撮影可能であってもSNS等の写真公開は禁止、また基地移動中も撮影禁止のため、今回のレポートは、記念館内の写真は無しとなります。

写真の公開には制約がありますが、日本で唯一の「桜花」など、写真を撮ることの制約はないので、そこは思う存分に。
敷地外から撮影した写真と、入手したパンフレットの画像を中心に、見学を検討している皆様向けに、そして自らの備忘のために記事を作成します。

修武台記念館と修武台記念碑(基地敷地外から撮影)


陸軍航空士官学校(修武台)

陸軍航空士官学校
昭和12年(1937)に陸軍所沢飛行場内に陸軍士官学校の分校として「陸軍士官学校分校」が開校。(現在の入間基地・入間飛行場)
昭和13年5月に「陸軍士官学校分校」が豊岡町(現在の入間市)に移転。
昭和13年12月に、「陸軍航空士官学校」として独立し、昭和16年には行幸された 昭和天皇より「修武台」の名称を賜った。

陸軍航空士官学校の本校は豊岡(入間)、その他に飛行練習をするために狭山・高萩・坂戸・館林の陸軍飛行場が練習地として使用された。


修武台記念館

入間基地では、隊員の教育訓練(精神教育)及び航空自衛隊の良き伝統の継承を目的に、「修武台記念館」という歴史資料館が運営されています。

修武台記念館見学会応募要領に関しては、下記の公式サイトにてご確認をば。

https://www.mod.go.jp/asdf/iruma/kouhou/public_kinenkan/index.html

私が申し込んだ際は、(あえて人の少なさそうな)平日を狙って申込みをしたので「自由見学方式」と「ツアー見学方式」で合わせて10人もいないくらいの少人数で開催となり、私は自由見学方式を申し込み。ほぼ2階の旧軍関連の資料の観覧と撮影に時間を費やしました。
ツアー見学組は、90分の見学時間を使って無駄なくみっちりと解説を聞きながらの観覧のようでした。
次回は、ツアー見学で話を聞くのもありかなって思いました。

残念だったのは、野外展示の観覧が不可だったこと。
移動バスが、修武台記念館の前に直付けとなり、修武台記念館の外にも移動禁止。外の見学が出来ないのは、警備人員配置の都合だとかで。


修武台記念碑(修武臺記念碑)

昭和16年12月10日 陸軍大将 東條英機 謹書

修武台記念碑(基地敷地外からの撮影)

陸軍航空士官学校航空神社跡を後ろから(基地敷地外からの撮影)

修武台記念館(基地敷地外からの撮影)


航空歴史資料館 修武臺記念館(修武台記念館)

以下、パンフレットを参照にします。
(撮影したデータは公開不可のため)

航空歴史資料館 修武臺記念館

以下、拡大しつつ。

陸軍航空士官学校の航空標識(インシグニア)として使用された意匠

修武台記念館は、航空自衛隊員の教育訓練及び航空自衛隊の伝統の継承を目的として運営されています。
陸軍航空士官学校(航士)
昭和13年(1938年)5月、所沢にあった陸軍士官学校分校が入間川豊岡に移転し、同年12月に陸軍航空士官学校(航士)として創建されました。終戦までに七千名に及ぶ士官候補生らが教育を受けました。
旧陸軍航空士官學校本部長舎
太平洋戦争後の米軍進駐と撤収を経て、航空自衛隊の管理に委ねられ、昭和61年(1986年)から平成17年(2005年)まで旧修武台記念館として運営されました。旧陸軍士官学校本部庁舎の外観を模した修武台記念館は、同庁舎跡地に建設されて平成24年(2012年)に開館しています。

修武臺の碑

「修武台」の由来
北魏・孝文帝の詔「国家宗文以懐九服修武以寧八荒」を由来とします。
昭和16年(1941年)3月、第54期生卒業式に臨席された昭和天皇が豊岡の航空士官学校の地を「修武臺」と命名されました。同年12月に御命名書の御染筆を刻んだ碑(修武臺の碑)が建立されています。

航空神社跡碑

航空神社跡碑
航空神社は、航空殉職者を慰霊するため所沢飛行学校長だった徳川好敏中将によって建立され、その後士官学校分校とともに所沢から豊岡に奉遷されました。戦後、北野天神社(小手指)に遷宮され例祭が営まれていましたが事情により昭和40年に廃社となりました、。神社跡碑は関係者の尽力により現在の場所に移転しました。殉職者らの霊璽は、令和6年(2024年)より北野天神社に再び遷座されています。

※北野天神社の記録は下記にて

記念館周辺史跡及び記念碑

このあたりも見たかったんです。

航空兵の像

パンフレットの次頁

以下、拡大しつつ。

入口玄関にあるのは「陸軍航空士官学校模型」。
位置関係のイメージ把握を。

2階部分。


陸軍航空と海軍航空の歩みを年表形式で解説。
明治43年の陸軍「臨時軍用気球研究会」、そして大正6年の海軍「臨時潜水艦航空機調査会」から始まった日本陸海軍の航空史。


士官と搭乗員の育成について。


太平洋戦争の航空戦について。
海軍空母機動部隊の航空戦と、島嶼戦における航空戦。そして航空消耗戦へと。
零戦と飛燕
日米の飛行場の違い。


陸軍機と隼戦闘機
屠龍の残存部品展示
隼の残存部品展示
檜與平少佐の義足、空中戦で片足を失いつつも義足で戦闘機に乗り続けたパイロット。


中島エンジンの展示。
鍾馗用「ハ41」零戦用「栄21」
日立航空機(日野自動車)エンジン「(海軍)初風・(陸軍)ハ47型」


海軍特攻兵器
「桜花」
日本に現存する唯一の「桜花」の展示。
これが見たかったのです。ようやく拝見できました。


特攻隊員顕彰室
義烈空挺隊など。

10
入間基地特別展示室
加藤隼戦闘隊と軍神加藤について。

11
ジェット機の登場
ジェットエンジンの進化に関して。橘花。

そういえば、橘花のジェットエンジン「ネ20」には、出会ってました。

ここから1階に移動


12
航空自衛隊の発展

保管庫に移動すると3機の展示。
アンリ・ファルマン機、ここにいましたか。久しぶり。

所沢航空発祥記念館で、以前に会ってました。

修武台記念館 館内案内図

撮影した写真が、掲載できないのはもどかしいですが、是非とも見学して自ら鑑賞してくださいってことですね。必見ですので。


撮影:2025年冬

陸軍航空士官学校の校内神社「修武台航空神社」(所沢・北野天神社)

所沢の北野天神社の境内社「小手指神社・航空神社」は、かつての陸軍航空士官学校の校内神社の御社殿を戦後に遷座したものであった。

深く拝する


陸軍航空士官学校(修武台・航士校)

陸軍航空士官学校
昭和12年(1937)に陸軍所沢飛行場内に陸軍士官学校の分校として「陸軍士官学校分校」が開校。(現在の入間基地・入間飛行場)
昭和13年5月に「陸軍士官学校分校」が豊岡町(現在の入間市)に移転。
昭和13年12月に、「陸軍航空士官学校」として独立し、昭和16年には行幸された 昭和天皇より「修武台」の名称を賜った。

陸軍航空士官学校の本校は豊岡(入間)、その他に飛行練習をするために狭山・高萩・坂戸・館林の陸軍飛行場が練習地として使用された。


航空神社(修武台航空神社)

陸軍航空士官学校の校内神社「航空神社」
航空士官学校の跡地である航空自衛隊入間基地の修武台記念館の前庭には、「航空神社跡碑」がある。

航空神社跡碑
航空神社は、航空殉職者を慰霊するため所沢飛行学校長だった徳川好敏中将によって建立され、その後士官学校分校とともに所沢から豊岡に奉遷されました。戦後、北野天神社(小手指)に遷宮され例祭が営まれていましたが事情により昭和40年に廃社となりました、。神社跡碑は関係者の尽力により現在の場所に移転しました。殉職者らの霊璽は、令和6年(2024年)より北野天神社に再び遷座されています。

※修武台記念館のパンフレットより

北野天神社のサイトには、以下の記載がある。

所沢の航空神社とは

所沢の航空神社は昭和12年に創建された慰霊と航空安全のための神社です。
空の安寧を祈るとともに、所沢市の航空史、戦争の歴史を伝えております。

御祭神
主祭神 天照大御神 神武天皇 明治天皇
配祀 陸軍航空隊の殉職者並びに戦没者4956柱
御社殿
伊勢神宮及び武蔵一宮氷川神社の御用材を以て造営されました。

ご由緒と奉遷
 航空神社は、日本初の公式飛行に成功した徳川好敏(とくがわよしとし)の宿願により、昭和12年、所沢陸軍飛行学校に建立されました。
主祭神として、天照大御神、神武天皇、明治天皇、併せて、航空発展の途上に一命を捧げた航空殉職者と戦争で尊い犠牲となられた4956柱の英霊をおまつりしております。社殿は、伊勢神宮と武蔵一宮氷川神社の御用材より作られています。 大正6年には北野天神社宮司が斎主となり、所沢飛行場(現在の航空公園)で航空殉職者の慰霊祭をしていたことが祝詞より分かっております。 爾来、所沢陸軍飛行学校、陸軍士官学校分校、入間市豊岡(昭和天皇が行幸したことにより修武台と名付けられる)の陸軍航空士官学校の航空神社、及び、所沢陸軍航空整備学校の建空神社の祭祀を司って参りました。 昭和20年9月3日、入間市修武台の陸軍航空士官学校にあった航空神社が、進駐軍の接収を避け、命懸けで当社神域に遷座されました。航空神社の例祭は東久邇宮殿下のご臨席を賜り、音楽隊の吹奏を行い、「航空神社の歌」までできるなど盛大に斎行されました。 しかし、昭和40年11月3日に諸般の事情により奈良の航空自衛隊幹部候補生学校に軍関係の霊位牌や霊名簿が奉安される事となりました。残されたご祭神は相殿する小手指神社の御霊(地元小手指地域の戦没者)とともにお祭りしておりました。 奈良の航空自衛隊幹部候補生学校に奉案された霊位牌と霊名簿は、入間基地の修武台記念館が設立され整備も着々と進んできたのを機に、昭和63年に奈良基地から入間基地の修武台記念館にお移りになられました。 歴史の大波に翻弄された数奇な運命を辿りましたが、令和6年、徳川好敏氏の云う「因縁」、菅原道大氏の云う「奇縁」、また、その御縁を繋げて下さった皆様の力強いご尽力により、御霊が北野天神社内航空神社にお戻りになり、再び例祭を斎行する事となりました。 徳川好敏氏の願いは航空神社の「永久崇祀」です。大切に御霊をお祭りし、歴史を伝えて参りましょう。

航空神社と北野天神社(物部天神社)の繋がり
 北野天神社の正式名称は物部天神社・國渭地祇神社・天満天神社です。物部天神社は延喜式神名帳にも記載される古社(式内社)で、平安時代以前より当地に鎮座しております。 祭神は、古代、武蔵國入間郡の郡司であった 物部氏の祖先神である櫛玉饒速日命をおまつりしております。 饒速日命は『古事記』、『日本書紀』にも登場しますが、特に『先代旧辞本紀』には、 「天磐船に乗りて、大虚空を翔行めぐり…」とあり、 天磐船という空飛ぶ乗り物に乗って、日本に降りてこられたことが伝えられています。この故実より、航空の神としても崇敬されます。 奇しくも、饒速日命が鎮まるこの所沢市に日本初の飛行場が出来まして、また北野天神社の格式が式内社・県社であるため、航空神社の斎主となりました。宮司家は創建された当時から今日にいたるまで祭祀を司り、御霊を大切にお祀りしております。

航空神社のこれから
現在、時代に翻弄され幾度も奉遷された御神霊は北野天神社境内・航空神社に戻られて、静かにお鎮まりになられています。 敗戦直後、進駐軍がやってくる中で軍施設の校内神社を受け入れるという事は、並大抵の事ではなく、命がけの覚悟がいりました。 そういった歴史を踏まえ、先代宮司は「航空神社は静かに、大切にお祀りしなさい。」とよく申しておりました。 その言葉通り、現在まで遺族の方々・神社役員、地域の氏子さんや心を寄せて下さる崇敬者さんと共に、丁寧に祭祀を続けてまいりました。  航空神社は慰霊と航空安全のために創建された神社です。航空神社は所沢市の戦争の歴史を背負っており、所沢市に”二つ”とあってはいけません。  所沢市の航空史において、戦争による悲しく尊い犠牲と当時の人々の深い想いは、伝えていかなくてはならないものです。 かけがえのない歴史が塗り替えられることの無いように、大切にお祀りしましょう。

航空神社の歌
作詞 航空神社奉賛会
作曲 航空音楽隊長 松本秀喜
1, 大空に
命ささげた 人々を
まつる社の 尊さよ
君をたたえて もろともに
心ゆくまで 語りましょう
遠いあの日の 思い出を
2, 玉垣に
翼あこがれ 今も尚
忘れな草が 咲いている
心ゆくまで 歌いましょう
あの喜びも 悲しみも
3, 青空に
君のみ心 うけついで
銀の翼が とんでいる
父を慕って 僕もまた
強く明るく 生きましょう
このみ社の み恵みに
https://kitanotenjin.com/kouku.html

招魂会(おぎたまかい)解散の経緯について
 この神社は、元豊岡の陸軍航空士官学校修武台に国の安泰と戦勝を祈願するため祀られた神社で、北野天神社宮司が毎年厳粛に祭典を行ってまいりましたが、昭和20年の敗戦による混乱をさけるため、急遽当神社に遷座されたものです。
 終戦の混乱より落ち着きを取り戻した昭和30年頃より当学校の校長を始め幹部達十二・三名が寄り寄りに、北野天神社の社務所に集り前途を話し合って、結局慰霊祭を行うことを決め、同時に当所小手指・北中・北打越地区の戦没者を合祀し盛大な祭典を行ったのです。即ち、東久邇宮殿下のご臨席を賜わり、音楽隊の吹奏を行い、それに関する歌まで出来るなどして、毎年4月15日に慰霊祭が営まれました。
 しかし、昭和40年11月3日に元陸軍士官学校の校長等の手により軍関係の御霊のみ碑となって奈良の航空自衛隊幹部候補生学校に分霊される事となりました。そこで残された英霊を祀るため、北野天神社及び六所神社の惣代役員また区長・遺族等が旧公民館に集り招魂会を結成し、その初代会長に川口重雄氏を選出し、従来通り4月15日を例祭とし決め、以来半世紀に亘り、慰霊祭を営んで参りました。当初は大変多くの遺族の方々が参列する程でしたが、時の流れと共に遺族の高齢化・減少も甚だしく、茲に招魂会を解散し、その基金を神社改修に充て、向後は神社境内の摂末社並の祭典を北野天神社の総代役員で執行することとなりました。
  平成二十六年十二月吉日
   北野天神社宮司   栗原彌生子
   同 総代会会長   鈴木正治
   六所神社総代会会長 鹿島敏寿
   招魂会会長     小暮信至

小手指神社
この社は日清日露の両戦役から終戦に至るまでの戰に参戦し祖国の尊い英霊となられた方々を祀った社です。
毎年4月十五日には(北中北越地区を含む)北野上新井西所沢地区の関係者により厳かに慰霊祭が執行されております。

航空神社
大正6年 北野天神社宮司が祭主となり所沢飛行場(現・航空公園)で航空殉職者の慰霊祭を行いました。
爾来 昭和12年 所沢陸軍飛行学校に航空神社が造営され 陸軍士官学校分校・陸軍航空士官学校(現・航空自衛隊入間基地)の祭典を行って参りました。
昭和20年8月の敗戦により航空神社は米軍の進駐が予期される慌ただしさの中 同年9月3日 当神社神域に遷座され 慰霊祭が厳かに執行されました

航空神社は空の守り神として多くの人々の崇敬を集めて参りました
主祭神のとして天照大御神・神武天皇・明治天皇 併せて陸軍航空隊の御霊四九五六柱をまつります
社殿は伊勢神宮と武蔵一宮氷川神社の御用材より作られました


航空神社(修武台航空神社)参拝

北野天神社の境内に。
小手指神社・航空神社の合社。

参拝。

玉串料 元校長
金阡圓 徳川好敏
昭和廿八年十二月廿日

元航士校長一同

余談だが、昭和28年の1000円は物価価値的には、3万5千円ほど。
徳川好敏は昭和38年に78歳で亡くなっている。

昭和28年の埼玉県知事の玉串料は5千円。一個人の徳川好敏に対して、さすがは県知事ゆえの5倍ですね。

「空の華」は、熊谷ですね。

徳川好敏関連は、下記にて。


境内の石碑

表忠碑(大正11年、東郷平八郎謹書)と忠魂碑(昭和30年、靖国神社宮司・筑波藤麿禁書)
もともとは小手指小学校に建立され、その後は市役所小手指出張所にあったが、昭和52年に北野天神社に移転。


モリス・ファルマン式飛行機

フランスのモリス・ファルマン式飛行機18号を復元中

大正4年5月に河野長敏初代気球隊長が撮影し奉納された「フランスのモリス・ファルマン式飛行機18号の写真」に因む復元

今年は戦後80年の節目にあたります。
航空安全をお祈りするとともに
祖国を守るため、尊い命を捧げられた英霊に
感謝の誠を捧げます。

モリス・ファルマン式飛行機18号


北野天神社参拝

おもえば、平成14年(2002)以来の参拝かもしれない。
23年も前じゃないですか。
当時の私は、武蔵国の延喜式内社を全て回ることをライフワークにしていたので、その一環で、当社にも参拝していたというわけです。

通称「北野天神社」と呼称しているが、正式名は「物部天神社・國渭地祇神社・天満天神社」という。延喜式神名帳に名を連ねる武蔵国の延喜式内社。

式内社・物部天神社:櫛玉饒速日命(クシタマニギハヤヒ命)
式内社・国渭地祗神社:八千矛命(ヤチホコ命=大国主命)
天満神社:菅原道真公
配祀:宗良親王・小手指明神・天穂日命・応神天皇・日本武尊・倉稲魂命

由来:北野天神社(物部天国渭地祇神社)とは物部天神社・国渭地祗神社・天満天神社の総称。
景行天皇40年に日本武尊が東征の折に当地に立ち寄り、櫛玉饒速日命・八千矛命の二柱を祀り、物部天神・国渭地祗神と崇拝したことに始まるといわれている。のち欽明天皇の頃、先に日本武尊が納めた神剣に霊験があったことから天照大神を合祀して「小手指明神」とよんだ。
さらに長徳元年に菅原道真5世の孫である修成が武蔵守になったときに、勅許を得て京都の北野天神を分祀。坂東第1の天満宮としたと伝えられ、この時から当地を「北野」とよぶようになったという。このころはまだ3社は別殿であったが、いつのころからか合殿となり、社名も「北野天神社」となったという。
現在の本殿は安永年間(1770年代)の建築であり、拝殿幣殿は平成6年の建築。

前田利家の大納言梅

征夷大将軍・宗良親王
小手指ヶ原合戦での御在陣の御遺蹟
「君の為世のため何か惜しからむ 捨てて甲斐ある命なりせば」

諸神宮

源頼朝が建久6年(1195)9月に延喜式内総社3132神を勧進。
室町期の再建という社殿は、埼玉県内では、神社建築として、出雲伊波比神社が亨祿元年(1528年)で最古となるが、それを踏まえると小祠といえども、同じ室町期として、かなり貴重な建造物。

以上、北野天神社でした。

※参拝:2025年4月


所沢関連

「振武台」陸軍予科士官学校跡・朝霞駐屯地の観桜一般開放(令和7年)

陸上自衛隊朝霞駐屯地の観桜一般公開。
朝霞駐屯地は、公開の機会が少ない駐屯地のため、観桜のときに狙っていかないと、なかなか散策の機会がない駐屯地なのです。。


朝霞駐屯地

陸上総隊司令部や東部方面総監部のある「朝霞駐屯地」。
戦前は、「東京ゴルフ倶楽部」ゴルフ場を買収して新設された「陸軍予科士官学校」があり、そして戦後は「米軍朝霞キャンプ」もあった場所。

東京ゴルフ倶楽部
昭和7年(1932)5月、東京ゴルフ倶楽部が朝霞コースを開場。
東京ゴルフ倶楽部の痕跡として「びわ湖」がある。これは「東京ゴルフ倶楽部」朝霞コース(膝折ゴルフ場)の三番ショートホールの名残。
昭和15年、東京ゴルフ倶楽部朝霞コースの地が、陸軍省によって買収され、東京ゴルフ倶楽部は狭山に移転。朝霞コースは昭和16年閉鎖。

陸軍予科士官学校
昭和16年(1941)10月1日、陸軍予科士官学校が市ヶ谷から朝霞に移転。
昭和18年(1943)12月9日、 昭和天皇行幸し、「振武台」と命名。

アメリカ陸軍
昭和20年9月(1945)9月、アメリカ陸軍が朝霞地区を接収し、「キャンプ・サウス・ドレイク」(米軍朝霞キャンプ)として進駐。

陸上自衛隊
昭和29年(1954)の警察予備隊時代を経て、昭和35年(1960)3月15日に「朝霞駐屯地」が開設。
主な部隊は以下となる。
陸上総隊司令部
東部方面総監部
第1偵察戦闘大隊、第1施設大隊、第2高射特科群(第335高射中隊)、東部方面システム通信群、東部方面後方支援隊、東部方面衛生隊、 東部方面会計隊、東部方面指揮所訓練支援隊、東部方面情報処理隊、東部方面音楽隊、女性自衛官教育隊、東部方面警務隊、中央情報隊、電子作戦隊、システム通信団(一部)、中央音楽隊、輸送学校、自衛隊体育学校、朝霞駐屯地業務隊

一般開放エリア
南の大泉門側の案内図

北の朝霞門側の案内図
それぞれ進行方向を上としているので、南北が異なる。


関連

陸軍予科士官学校時代の位置関係や、振武臺記念館等は以前の記事を参照に


振武台碑(振武臺碑)

陸軍予科士官学校(陸軍豫科士官學校)
かつて、朝霞の地に旧陸軍の予科士官学校が所在していた。
陸軍士官学校は明治時代から市ヶ谷(東京)あったが、昭和の時代に入り初級将校を多く養成する必要性が生じ、当時の市ヶ谷では手狭となり本科が昭和12年に座間(神奈川)へ、予科は昭和16年10月に朝霞に移転となった。

振武台の名の由来は、昭和天皇が予科士官学校(朝霞)に行幸された際、「将来益々るい、八肱一宇の為をなせ」といった意味から付けられてる。

  • 市谷台 市ヶ谷:座間に移転する前の陸軍士官学校(本科・予科)
  • 相武台 座間:陸軍士官学校(陸士)
  • 修武台 所沢:陸軍航空士官学校(航士)
  • 振武台 朝霞:陸軍予科士官学校(予士)
  • 若松台 若松:陸軍経理学校
  • 健武台 八王子:東京陸軍幼年学校(東幼)

振武臺碑について
昭和18年12月9日、昭和天皇が陸軍予科士官学校に行幸された際、この地に「振武台」の名を賜り、翌年この碑が建立されました。当時の碑記は、長年の風雪に晒され風化していたため、平成12年4月、陸軍予科士官學校卒業生の手によって復元されました。

陸軍大将 山田乙三 による揮毫。
山田乙三陸軍大将は、参謀本部総務部長、陸軍士官学校校長、第12師団長を歴任し、最後の関東軍総司令官(兼任で在満州国特命全権大使)であった。

振武台碑の下には、終戦直後に占領軍の辱めを受けるのを免れるために「雄健神社」の御神体(御神霊・神剣・宝鏡)、そして陸軍予科士官學校扁額と学校本部の菊御紋章が埋められた。
20年後の昭和40年に掘り返され、御神霊は靖国神社に奉安され、扁額と御紋章は、振武臺記念館の2階に保存展示されている。

陸上自衛隊広報センター サイトより

振武台碑は、大泉門(朝霞駐屯地正門)を入ったすぐ左手にある。


雄健神社跡(おたけびじんじゃ)

雄健神社跡地は立入禁止。陸軍予科士官学校本部と正門の間にある。

振武臺記念館には、20分の1に再現した雄健神社がある。

陸上自衛隊広報センター サイトより

もともとは市ヶ谷にあった。
昭和16年(1941)、陸軍予科士官学校の移転にともない御神体は、朝霞に奉遷。


陸軍予科士官学校本部跡(東部方面総監部庁舎)

陸軍予科士官学校本部跡地は、現在は東部方面総監部の庁舎となっている。

本部前の桜。このあたりのロータリー感は往時のまま。
右手に、雄健神社があった。

東部方面総監部の紋章


琵琶湖の桜

往時を物語る遺構。

琵琶湖について
 昭和5年、東京ゴルフ倶楽部ゴルフ場が、土地問題等で駒沢からこの地に移転し、同年工事が開始され昭和7年から10年間運用され、東京ゴルフ倶楽部というすばらしいゴルフ場がありました。この琵琶湖(人造湖)は、当時3番池越えのショートホールで、唯一の遺構です。名前の由来は、滋賀県にある琵琶湖と形が似ているということで名付けられました。
参考:
 元々は、膝折ゴルフ場と呼ばれていましたが、「膝を折る」とは、縁起が悪いと言うことで、東京ゴルフ倶楽部名誉会長である「朝香宮殿下」の御名に因んで同音異字の「朝霞」に決定し、同時に朝香町が誕生しました。

観桜を愛でる、なかなか佳きかな。


埼玉県殉職隊員之碑

埼玉県殉職隊員之碑
防衛庁長官 中曽根康弘書

主碑は、昭和45年の建立。
副碑には、埼玉県殉職隊員芳名が刻まれている。
80余名のご芳名。

合掌


環状交差点(ロータリー交差点)

陸軍時代から、位置関係が変わってない環状交差点(ロータリー交差点)。


中庭(朝霞クラブ)

現在の酒保というかPXというか、朝霞クラブな居酒屋に、なんとなく庭園(中庭)があるけど、往時からの酒保庭園(中庭)かどうかは不詳。


UH-1H

41722号、用途廃棄機で訓練用に使用


朝霞駐屯地での観桜

迷彩は溶け込みますね。

どうやら、犬小屋?

小砂子(ちいさご)

陸自らしい観桜を愛でる。

なんか来た。

資材運搬車(キャリアダンプ)、小さくて可愛い。。。
ベースは、諸岡の民生用キャリアダンプ

小型消防車。ダイハツ・ハイゼットがベース

警衛隊


朝霞厚生センター(コンビニ)

酒保ですね。

それっぽいものを買いました。

グランドのキッチンカーで、以下を。

観桜の定番


振武臺記念館の桜

門柱


振武臺記念館

陸上自衛隊広報センターから。

振武臺記念館の開放もあったので、見学。

りっくんランド
(陸上自衛隊広報センター)


CH-47J導入1号機

昭和61年(1986)から導入の始まったCH-47Jの1号機。
CH47Jは、52901号機から52934までの34機が導入され、35号機からは改良型のCH-47JAとなった。
朝霞駐屯地の南西に留置されており、敷地外から見学が可能。


撮影:2025年3月30日

日米親善よこすかスプリングフェスタ 2025(米海軍横須賀基地)

久しぶりに米軍基地に行って、見たいものをサクッと見てきました。

始発で地元駅を出発し、7時過ぎに横須賀中央駅に到着。そこから、「三笠ウォンブルゲート」に到着。1時間程度の待ちで8時にはゲート前に列が圧縮され、そして8時半にはゲートを通過できました。ほぼほぼ全員が艦船公開に方向に向かっていく中で、私はとりあえず門柱をパシャパシャと。


旧海軍工機学校の門柱

神奈川歯科大学側から、海軍工機学校の門柱を見たことはあったけど、米軍側から見たのは初めて。

神奈川歯科大側のレポートは下記にて。

米軍側から、海軍工機学校の門柱を。
「三笠ウォンブルゲート」からの入場時に見学できます。


旧海軍工機学校の境界壁

海軍工機学校の境界壁も。

これは裏門の門柱かな?


旧横須賀海軍病院の門柱

みちなりに進むと、横須賀海軍病院の門柱が見え得てきます。
その奥の建屋は、横須賀海軍病院の建屋。

横須賀海軍病院

門柱に表記がそのまま残っています。

旧横須賀海軍病院の建屋。


旧横須賀海軍病院の境界壁

旧横須賀海軍病院時代からの境界壁が現存しています。


旧横須賀海軍病院の西側の防空壕跡

コンクリで塞いだ横穴が多数、見受けられます。

防空壕群の上は、邸宅のようなものが整備されている。


旧横須賀鎮守府軍法会議所の正門跡

三笠公園ゲートから来ると突き当り、三笠ウォンブルゲートから来ると左手に見えてくる独特の形状をした門柱が、横須賀鎮守府軍法会議所の正門跡。

旧横須賀鎮守府軍法会議所の北側の防空壕

比較的に大きな開口の防空壕跡。


海軍砲術学校の入口

海軍砲術学校は、1907年(明治40年)から1941年(昭和16年)までの名称。1941年に館山砲術学校が開設されると、「横須賀砲術学校」に改名した。
このトンネルが、海軍砲術学校の正門に相当する入口であった。

望遠レンズを持ってこなかったので、トリミング拡大で。
今度は望遠を持ってこよう。。。


旧海軍の消火栓蓋

ひさしぶりに、消火栓蓋と再開。


SABERHAWKS(セイバーホークス)

第77ヘリコプター海洋打撃飛行隊
愛称は「セイバーホークス」
厚木海軍基地所属。
MH-60R


米軍基地っぽいもの

とりあえず、ステーキを。

エナジードリンクばかり買ってしまいました。
配布用とか。
日本未上陸のモンエナ、とか。

ゲータレードも。

メガモンエナは710ml(日本は355ml)
やばい

iPhone12と並べてみた(大きさ比較)


記念艦「三笠」

米軍側から海を挟んで三笠を見れると、その軍艦当たる雄姿に接することができる。
三笠公園からだと、陸地に接しているので、やはり海側から、ですね。

スプリングフィスティバル

艦船見学は途中まで近寄りましたが、まあいいかなってことで、スルーしました。

※撮影:2025年3月


横須賀関連

はじめに

愛知県庁食堂と名古屋市役所食堂

先日、愛知県庁の近くで仕事があったので、せっかくなので「名古屋めし」を「役所めし」で味わうことにした。

結構久しぶりに、愛知県庁と名古屋市役所に足を運んだ次第。


愛知県庁食堂

愛知県庁。国重文化財。
愛知県庁本庁舎は1938年(昭和13年)3月完成。
昭和天皇御大典の記念事業の1つとして建設。頂部に名古屋城大天守風の屋根を乗せた帝冠様式。
日本趣味溢れる建造物。

令和8年1月30日まで
愛知県庁本庁舎屋根改修工事中

入口

5階に。

貴賓室がある。

食堂・喫茶室がある。

和定食を。

11時過ぎ。ランチタイムラッシュ前の食堂は空いていました。

国重要文化財の名古屋市役所をオカズに食するランチは贅沢の極み。

まどから、名古屋市役所を眺めることができます。

愛知県庁の内側。5回の窓より。

5階エントランス。

階段も重厚な感じ。

1階

なかなか楽しかった「愛知県庁めし」
歴史的な建物のなかで、歴史的な建物を眺めながら食べる「文化財めし」は最高の贅沢です。

愛知県庁本庁舎屋根改修工事は令和8年1月30日まで。


名古屋市役所

名古屋市役所。国重要文化財。
1933年(昭和8年)竣工。
政令指定都市の中では1927年竣工の京都市役所に次いで2番目に古い。
名古屋市役所本庁舎は、 昭和天皇即位の記念事業として建設され、日本趣味を基調とした近世式意匠の建造物として特徴的。いわゆる帝冠様式建物。

せっかくなので、隣の名古屋市役所にも行きたくなりました。

1階エントランス

地階

食堂がありました。

名古屋市役所本庁舎食堂は、すべてのランチに、サラダとスープとライスバー(白米と中華粥)が食べ放題。。。

さすがにお腹いっぱい(さっき愛知県庁で和定食を食べたばかり)なので、軽めに肉うどんをチョイスしサラダを盛りまして。
良い感じにお腹いっぱい。

ちょうど食べ終わった頃合いが、12時。食堂が職員で賑わってきましたので、ボチボチ退散。

1階。

帰りは、新幹線ホームで「みそきしめん(卵入り)」を食べて、久しぶりの名古屋出張は〆

※撮影2025年3月


関連

はじめに

タイ王国バンコクの戦跡散策その2・戦前の日本が建造した唯一の輸出潜水艦の艦橋が残る「タイ王国海軍博物館」

2025年2月、仕事でタイ王国に赴いていました(人生2回目のタイ王国)
今回は時間を確保できたので「タイ王国海軍博物館(タイ海軍博物館)」に足を運んでみました。

BTS(BTS Sky Train)のスクムウィット線(Sukhumvit line)タイ王立海軍兵学校駅(Royal Thai Naval Academy)の東側。Bangkokバンコクの中心部からは少し距離がありますが、BTSで一本で来れるので楽チン。

とはいえ、まだまだバンコクでの一人旅は慣れていないけど。

本編は「タイの戦跡散策その1」の続きになります。

まずは、目に飛び込んでくるのが潜水艦の艦橋(セイル部分)。この潜水艦は日本製!なのです。

タイ海軍博物館。
タイ海軍にまつわる貴重な品が5,000点以上保管されている博物館。
入館は無料。
私が訪問したときは、守衛に「I want to visit the museum」でパスポートを提示して、OKでした。ちなみに受付のタイ海軍水兵さんは、英語は今ひとつ(私もですけど)だったので、スマホでタイ語翻訳を使いながら、会話などを。


マッチャーヌ級潜水艦(มัจฉานุ)

タイ海軍の近代化
1933年、タイ王国は近代海軍を創設。大日本帝国がタイ王国の近代海軍化に向けて協力をすることになった。
後に「タイ海軍の父」と言われるチュムポーンケートウドムサック親王(アブハカラ・キアーティヴォンセ王子)は、近代化海軍整備計画として、日本に軍艦の建造を発注した。
そんななかで、川崎重工業で作られた「トンブリ」級海防艦や、浦賀造船所で作られた「メクロン」などとともに、「マッチャーヌ級潜水艦」も発注された。
(戦前の日本から、タイ王国には、2000トン級のトンブリ級海防戦艦2隻、1400トン級のメクロン級スループ艦2隻、マッチャーヌ級潜水艦4隻が輸出された)

タイ海軍初の潜水艦
4隻が建造されタイ王国へ1938年(昭和13年)に輸出された。
戦前戦後を含めて、日本で建造され日本以外で運用された唯一の潜水艦。つまり、日本が建造した唯一の輸出潜水艦であった。
1937年から1938年にかけて、三菱重工業神戸造船所でマッチャーヌ級潜水艦(三菱型潜水艦)として4隻が竣工。当時の日本製潜水艦(ハ号クラスに準じる設計と性能であった。

マッチャーヌ級潜水艦は、乗員29名、基準排水量は水上375トン(水中430トン)、全長51 メートル。
推進機関としてディーゼルエンジン 2 基が搭載されており、水上では約15.7ノット(時速約 28 キロメートル)、水中では約 8.1ノット(時速約 15 キロメートル)の速力を出すことができた。兵装は、45cm魚雷発射管を艦首に4 門(8発)、8cm高角砲 1 門を備えていた。

マッチャーヌ級潜水艦1番艦2番艦は1936年5月6日起工、同年12月24日進水、1937年9月4日に竣工引渡された。この日はタイ海軍では「潜水艦の日」に制定されている。
続けて、3番艦4番艦も竣工し、マッチャーヌ級潜水艦4隻は1938年6月に、日本で訓練を受けたタイ海軍の訓練生らによって、神戸を出港し、3週間かけて、台湾とフィリピンを経由し、バンコクに到着し。7月19日にタイ海軍に就役した。

1940年の仏領インドシナとの国境紛争に際しては、哨戒任務に従事。
1945年のバンコク空襲では、搭載発電機を用いて市街に電力供給を実施。

バンコク空襲
タイ王国は日本の同盟国として英米に宣戦布告をしており、1942年から1945年までバンコク中心部のトンブリ地区では大規模空襲が34回あったとされ、日本の敗戦濃厚になってきた1944年1月から45年1月までの1年間はタイ王国全土でおよそ250回の空襲があったという。

戦後
マッチャーヌ級潜水艦4隻は、結果として大きな戦闘に従事することなく、終戦を迎えている。
日本の敗戦により、日本製潜水艦の保守部材供給に難があることや、1951年のタイ海軍クーデーター(マンハッタンの反乱)失敗に巻き込まれ、1951年に4隻ともに体液となり、解体された。

そのうち、1番艦「マッチャーヌ」の艦橋と単装砲がタイ海軍博物館に展示されている。

マッチャーヌ潜水艦の艦橋

8cm高角砲

そのほかの野外展示物。

アルバトス飛行艇
タイ海軍クーデターの失敗後、航空戦力を保有できなくなったタイ海軍が解禁後に導入した飛行艇。1968年に米空軍より中古導入。

野外展示


タイ王国海軍博物館
(NAVAL MUSEUM 海軍博物館)

入口に、退役軍人さんかな、受付がありまして、そこに記帳を求められます。記帳後に、私がそれなりに大きなリュックを背負っていたので、ロッカーにいれることをおすすめされました。(タイ語だけどなんとなく、ジェスチャーで理解)
そして、左側の部屋から見るようにと、案内をしてくれました。(タイ語だけど、なんとなく理解)

犬が当たり前のようにくつろいでいるのが、タイ王国クオリティー


タイ海軍歴史部門(タイ海軍博物館)

タイ海軍の歴史を中心とした部屋。
歴史学科海軍教育部


HTMS Phra Ruang(プラ・ルアン)
เรือหลวงพระร่วง

タイ海軍がイギリスから導入した最初の近代的な駆逐艦。
タイ海軍プラ・ルワン(Phra Ruang)
旧名(英国海軍):ラディアント(Radiant)

HTMS Phra Ruang(プラ・ルアン)のガルーダ艦首

「HTMS Phra Ruang(プラ・ルアン)/เรือหลวงพระร่วง
模型

船首像

タイ海軍の駆逐艦「HTMS Phra Ruang(プラ・ルアン)/เรือหลวงพระร่วง」(英海軍:レディアント/Radiant)は、1916年に進水し第一次世界大戦時にイギリス海軍(R級駆逐艦)で運用された後に、タイ海軍に1920年の売却された駆逐艦。本艦の購入資金を捻出するために国王ラーマ6世やその他の上流階級の人物が個人的に寄付を行ったことは、タイ王国において軍艦購入のため寄付が行われた最初の例でもあった。
タイ海軍提督アブハカラ・キアーティヴォンセ王子が直々にイギリスへ本艦の購入交渉に向かい、売却後のイギリスからタイ王国への回航の際にはキアーティヴォンセ提督が自ら本艦の指揮を執った。
第二次世界大戦、そしてその後もタイ王国海軍で運用。練習艦として活用され1957年に退役。海軍から除籍後も訓練用の艦体として活用され2000年頃以降に解体され、その後に船鐘やガルーダ船首像などの一部が保存されている。

以下は、タイ王国王が本艦を購入するに至るまでの王室の寄付などのエピソードが記載されている。

タイ王国海軍「HTMS Phra Ruang(プラ・ルアン)」としての活躍のエピソードなど。

1929年7月25日
プラチャーティポック国王(ラーマ7世)のシンガポール・ジャワ・バリ島への王宮訪問に同行

1940年
フランス領インドシナ紛争、大東亜戦争では、
ルアン・シントゥソンクラームチャイ 少将の指揮下で部隊編成され、HTMS Phra Ruang(プラ・ルアン)は第三艦隊に所属。

1959年6月19日
退役


「タイ王国海軍の父」タイ海軍とアブハカラ・キアーティヴォンセ王子の歴史

タイ海軍の歩みなど。

「タイ海軍の父」
海軍創設に尽力したチュムポン王子(チュムポーンケートウドムサック親王/アブハカラ・キアーティヴォンセ王子・Abhakara Kiartivongse)
ラマ5世の28番目の王子であった、タイ王国海軍の創設者、タイ海軍の父のエピソードなど。


Abhakara Kiartivongse祭壇(タイ海軍の父の祭壇)

タイ海軍の父
Abhakara Kiartivongse(アブハカラ・キアーティヴォンセ)の祭壇。

祭壇の絨毯は土足禁止。

神獣
象と鹿と鳥と魚と蛇と縁起の良い5つの動物が合成された神獣。


武器室(タイ海軍博物館)

火器が展示してある部屋

見る人が見れば、楽しいのかもしれないけど、火器関係は知識不足なので、さくっと。


2階へ

祭壇がありました。


タークシン王の祭壇

トンブリー王朝のタークシン王に関するコーナー。

伝記も。タイ語だけど。


タイ海軍の歴代制服とか

なぜかウミガメ

なぜか、アジアゴールデンキャット


奥の建屋に移動。

ガルーダ船首像がお出迎え。

タイ海軍のかつての軍艦模型

軍艦模型

いろいろ、じっくり見ていたら時間がなくなる。。。


HTMS Maeklong/メクロン(メークロン)模型

タイ王国が自国の沿岸警備のために日本の浦賀造船所に発注した軍艦。
1937年竣工、1995年退役。


B-24のプロペラ

1944年5月7日にタイ海軍艦が撃墜したB-24のプロペラ。


HTMS SAMUI サムイ(大東亜戦争)

大東亜戦争で活躍したタイ海軍(HTMS SAMUI サムイ)のエピソード。
電力燃料不足に陥ったタイは、シンガポールとタイのあいだの燃料輸送を、HTMSサムイに委ねる。
HTMSサムイはタイへの燃料輸送を17回成功させたが、1945年3月の18回目で力尽き、潜水艦シーラインの雷撃で沈没。艦長以下31人が死亡し、17人が生存した。

サムイ号の模型(タイ海軍のタンカー)


コーチャン島沖海戦


フランス領インドシナ紛争の一環として、1941年1月17日に起きたタイ海軍とフランス海軍の戦い。
フランス軍の圧勝であった。

HTMS Thonburi トンブリ
タイ王国海軍の海防戦艦(砲艦)
神戸の川崎造船所で建造された。起工は1936年1月12日、進水は1938年8月5日。1938年8月5日に就役。
1941年1月17日のコーチャン島沖海戦で横転擱座。さらには友軍のタイ空軍の誤爆にあうなど、タイ海空軍の練度の低さが露見してしまった。
横転擱座したトンブリは、サルベージには成功したが損傷が激しく、係留状態での練習艦として利用し、1959年6月19日に除籍され、1967年に解体された。
艦橋の一部と主砲塔がタイ海軍兵学校で記念保存されている。(今回は未訪問でしたが)

タイ海軍博物館には、フランス艦の砲撃を受けたHTMSトンブリの船尾装甲も展示されている。

トンブリの模型

チャン島の戦い


HTMS Chakri Naruebet(チャクリ・ナルエベト)模型

タイ海軍の航空母艦(軽空母・ヘリ空母)。1994年7月12日に起工、1996年1月20日に進水し1997年8月10日に就役。


そのほか

タイ語なのでよくわからないけど、(スマホでGoogleレンズを活用しつつ)ふらふらと眺めてみる。


野外展示

魚雷!!


絵画

HTMS Thonburiトンブリ、
フランス海軍との海戦。(コーチャン島沖海戦)
タイ海軍大佐が描いた油絵、1996年にタイ王国海軍に寄贈。

HTMS SONGKLA ソンクラ
同じくフランス海軍との海戦。(コーチャン島沖海戦)
タイ海軍大佐が描いた油絵、1996年にタイ王国海軍に寄贈。


Royal Thai Naval Academy(タイ海軍兵学校駅)

タイ海軍兵学校駅から。

見ての通り、ほとんど人がいない博物館。
ゆっくり見学して、それでも11時30分から13時くらいまで、1時間半くらいの所要でしたが、その気になれば(きちんと翻訳をしながら見学するのであれば)半日いても良い感じ。
今度は、向かいにあるタイ海軍士官学校(トンブリの見学)にも行きたいですね。(次のバンコク行きはいつだろ?)

※撮影:2025年2月


ラヨーン

ちなみに、仕事はバンコクから3時間くらい南のラヨーンのリゾートホテルでのAPACなミーティング参加、でした。

リゾートっぽい

仕事?ノマド感・・・

キーボード沼の終着点。
HHKB Professional Hybrid Type-S SnowWhite

タイの戦跡とは関係ないですが、タイのリゾートっぽい感じってことで。


3月10日の慰霊「東京大空襲」あの日から80年(令和7年・東京都慰霊堂)

令和7年(2025)3月10日。
あの日から80年目。

昭和20年(1945)3月10日、東京大空襲。

東京都慰霊堂にて、慰霊鎮魂の合掌を。
今日は、慰霊の日。


東京大空襲

昭和20年(1945)3月10日午前0時過ぎ、爆撃が開始。
罹災者は100万人を超え、死者は10万人を超す規模は、単独の空襲としては世界史上最大の犠牲者となっている。
これが、世にいう、「東京大空襲」(下町大空襲)であった。
慰霊鎮魂の日として、「東京都平和の日」となっている。


東京都慰霊堂

東京都慰霊堂では、毎年、関東大震災の9月1日と東京大空襲の3月10日に、慰霊大法要が執り行なわれている。

都内戦災遭難者 関東大震災遭難者
春季慰霊大法要

今年は、80周年。
いつもよりマスコミが多いような感じ。

いつもより警備も厳重な感じ。

午前9時50分ごろ。
10時からの法要にあわせて、秋篠宮殿下・同妃殿下がご参列に。

篠宮家の公用車
「三菱・ディグニティ(DIGNITY)」
20年以上も愛用されている秋篠宮家の専用車。
三菱の最高級乗用車であったが生産台数は59台と、日本製乗用車では歴代最小生産数で、ある意味で幻の乗用車でもある。

10時45分頃、秋篠宮両殿下が退出。

今年は例年よりも式典が長かった様子。

中に入れたのは11時20分頃。

合掌

納骨堂でも合掌を

今回は午後から仕事(午前中を有給)としたために、これにて撤収しました。

※撮影:2025年3月10日


関連

東京大空襲・慰霊
戦災電柱
東京都戦没者霊苑

空襲の類焼を防いだ幸國寺の大銀杏(新宿区)

新宿区の幸國寺の大イチョウは加藤清正手植えとも伝わる銘木。
昭和の大空襲で被災しながら北側からの炎を食い止め、南への類焼を防いだと言い伝えが残る戦災樹木。


幸國寺の大銀杏

幸國寺大銀杏記録の碑から
幸國寺大銀杏は東西にあり、共に樹齢五百年の新宿区内最大の銀杏(イチョウ)の木です。
この地が加藤清正公の下屋敷の一つだったことから「清正公お手植えの大銀杏」と言い伝えられ新宿区天然記念物に指定されております。
西側の大銀杏は太平洋戦争の戦災に遭いながらも、北側からの炎に立ち塞がり南側の家屋への類焼を防ぎました。その為に傷みが激しく、大風や着雪により大きな枝がたびたび折れ、辛うじて樹形を維持していました。
平成十年には、突然緑の葉を落としはじめ異常な事態になりました。取り急ぎ専門家に、応急処置をお願いいたしましたが、体力の無い樹木のため徹底的な治療が必要と診断されました。幸い五百年の時間を失う前に、大銀杏とご縁の深い方々が「大銀杏延命施術浄財勧募」を展開し、多くの理解者、協力者と優れた技術に恵まれ危険な状態は回避することができました。
荒んだ時代になってしまった今日、ここに御志納いただいた方々のお名前を記録し、この方々の「やさしさ」が源となって「平和で人と自然が調和のとれた世界」になることを祈念いたします。
http://www.koukokuji.or.jp/about.html

西側の大銀杏

東側の大銀杏

新宿区指定天然記念物

幸國寺

山門は田安徳川家屋敷門と伝わる。

撮影:2025年1月


大和田建樹終焉の地

ちなみに近くの法身寺は、「大和田建樹終焉の地」。
鉄道唱歌の作詞で有名。
大和田建樹は、養生先の法身寺の庫裏で亡くなったという。(墓は青山霊園、生家跡は宇和島市)


新宿の戦災樹木


関連

旧陸軍航空士官学校の格納庫跡(入間基地)

2024年11月の入間基地航空祭に際して、旧陸軍航空士官学校時代の倉庫が5棟残っているというので、航空機はそこそこに倉庫の見学をしてきました。

もっとも、2024年の航空祭は、C-1ばかり見ていましたけど。


陸軍航空士官学校

陸軍航空士官学校
昭和12年(1937)に陸軍所沢飛行場内に陸軍士官学校の分校として「陸軍士官学校分校」が開校。(現在の入間基地・入間飛行場)
昭和13年5月に「陸軍士官学校分校」が豊岡町(現在の入間市)に移転。
昭和13年12月に、「陸軍航空士官学校」として独立し、昭和16年には行幸された 昭和天皇より「修武台」の名称を賜った。

陸軍航空士官学校の本校は豊岡(入間)、その他に飛行練習をするために狭山・高萩・坂戸・館林の陸軍飛行場が練習地として使用された。

狭山飛行場

高萩飛行場

坂戸飛行場

館林飛行場関連は未訪問。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:891-C2-92
1944年9月28日、米軍撮影の航空写真

かつての陸軍航空士官学校時代の様子がわかる。

残存の格納庫部分を拡大

現在の様子

当時の写真と照合し、赤枠部分が残存と推測できる。


陸軍航空士官学校時代の北側建屋3棟の現況

2024年11月3日現在の様子。
北側には、3棟が残存している。

北側から。

南側から。
当時は、こちら側が駐機エリア。

西側の側面。


陸軍航空士官学校時代の西側建屋2棟の現況

西側には2棟、残存している。

現在も航空自衛隊入間基地の倉庫として活用されている。


修武台記念館・陸軍航空士官学校航空神社跡・修武台命名記念碑

そこにあるのはわかっているけど、見学は、いつになったらできるのかな、と。
申し込めばよいのですけど。

敷地外の柵の外から。

※2024年11月撮影


関連

「C-1 FOREVER」C-1よ永遠なれ(入間基地一般開放2025年3月)

2025年(令和7年)3月にて、C-1/EC-1は全機引退となる。
その引退前に入間基地一般開放にて、最後の晴舞台、最後の雄姿を魅せてくれた。

これは、行く以外の選択肢は無いでしょ、です。


キュージョンと402飛行隊

入間基地救助犬「キュージョン」と、C-1所属の402飛行隊の部隊旗がお出迎え。
救助とジョンソン(空自入間基地になる前の米軍ジョンソン空軍基地)なキュージョンは、パイロットに憧れている救助犬だとか。

402飛行隊は、航空自衛隊航空支援集団第2輸送航空隊隷下の輸送機部隊。入間基地に所属し、輸送機にC-2、多用途支援機にU-4を運用している。C-1も運用していた。


C-1(28‐1002号機/試作2号機/フィニックス特別塗装)

フィニックス(不死鳥)
永遠に飛び続ける思いを込めて。

第2輸送航空隊(2nd TAG)

C-1 FOREVER


EC-1(78-1021号機/電子線訓練機/カモノハシ)

カモノハシ!

最後のツーショット、、、


展示場所移動

フェニックスとカモノハシの移動。

あっ、C-2が来ました。

世代交代

C-1とC-2の最後のツーショットと思うと、なんか込み上げてくるものがあり。。。

このタイミングは粋な演出。

C-2を見送り。


EC-1カモノハシ地上滑走

カモノハシの地上滑走

放水のフィナーレ


C-1フェニックス地上滑走

同じく、放水のお出迎え

お疲れ様

パイロット


ターミナルから

入間基地ターミナルからの2機

投稿写真で描かれたEC-1

そして、C-1も。

よくみると、ひとつひとつの写真が。これはすごい力作!

段ボールすごい。。。


C-1地上展示(08-10030号機)

なにげに、C-1の機内をちゃんと見るのは初めてだったかも。


C-1地上展示(18-1031号機)

2024年11月3日の入間基地航空祭で、ラストフライトをした31号機。
もう飛べないけど、まだその姿をみることができました。


YS-11地上展示(02-1159号機/スーパーYS-11)

まさか、YS-11より先に、C-1が全機引退とは、誰が予想しただろうか。。。
エンジンを換装しプロペラ3枚に変更したスーパーYS-11はまだ、空自で運用されているという奇跡。

YS-11EB(159号機)

YS-EA(162号機)も。


こうやって、C-1最期の姿を眺めるだけで、感慨深くなります。
高校生のとき、初めて行った航空祭で、C-1の高機動に魅了されて以来、好きな機体でした。

ありがとうございました!!
お疲れ様でした!!

※撮影:2025年3月


関連

入間基地航空祭「C1 031号機ラストフライト」(2024年11月)

2024年11月、入間基地航空祭。
日本が誇る中型輸送機「C-1」の全機退役を控えて、最後のC-1揃い踏みな航空ショーが開催された。
体調はいまいちでしたが、なんとか観覧に。


C-1(試作1号機XC-1/空中試験母機/001号機/銀ちゃん)

岐阜基地所属

試作1号機と2号機、光景のC-2の揃い踏み


C-1展示飛行

C-1とC-2の編隊飛行


C-1 31号機ラストフライト

C-1量産の最終号機31号機のラストフライト。
僚機30号機とともに、最後の飛行。

31号機の着陸。

放水アーチでのお出迎え

LAST FLIGHT
C-1 18-1031

空自70周年


ブルーインパルス

毎度おなじみってことで。

※撮影:2024年11月


関連

荒川区の疎開道路(消防道路・尾久の原防災通り)

先日の博多散策で疎開道路のことを調べていたら、東京にも名残があったので、せっかくなので足を運んでみました。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:B29-C3-64
1936年6月11日、帝国陸軍撮影の航空写真
昭和11年、まだ戦争前の航空写真。

ファイル:8921-C3-37
1944年11月07日、帝国陸軍撮影の航空写真。
いくつかの道路が拡張されているのがわかる。

拡大。1936年。

拡大。1944年11月7日。
ちょうど1944年11月24日にB29爆撃機が東京を初空襲する、その直前の航空写真。
赤線で挟んだ道路が、疎開道路となる。

現在の様子。


荒川区の疎開道路(消防道路・尾久の原防災通り)

「尾久の原防災通り」は、第二次世界大戦中に、空襲による延焼防止を目的として、建物を疎開させ、敷設・拡幅された疎開跡地。
戦後に、通称「疎開通り」と呼称された。
東尾久6-17先から東尾久1-1先明治通りまでの区道、約1360メートル。
昭和48年に「消防道路」と呼称され、平成24年に荒川区によって再整備後、公式な愛称が「尾久の原防災通り」となっている。

いまでは、普通の、歩道がちょっと広めの生活道路の様相。
戦争ゆかりの疎開道路を物語るものはない。

地味だけど、何もないけど、古地図と、通りの名称から、往時を偲んでみた。

場所:
https://maps.app.goo.gl/8p8bfZRkXjj31tgs9

撮影:2025年1月


「陸軍砲工学校跡地」と「産業遺産情報センター」(新宿区若松)

最近、若松河田駅の近くに行くことが多い。

この記事の追記(標石を追加で見に行ったり)で、再訪していたり。
周辺を調べていたら、陸軍砲工学校の標石もあるというので、再度で訪れてみました。


陸軍砲工学校

明治22年(1889)に設置。
昭和16年(1941)に陸軍科学学校に改組。
似たような校名の陸軍砲兵工科学校(陸軍兵器学校)とは異なる。
陸軍砲工学校では、砲兵科・工兵科将校の専門教育を実施。
昭和16年(1941)に陸軍科学学校に改組。
昭和19年(1944)に閉鎖。

陸軍砲工学校は、現在の総務省第二庁舎や新宿区立余丁町小学校のあるあたりにあった。


陸軍砲工学校の境界標石

国立国際医療研究センター前バス停の近く。総務省第二庁舎の北東の角に残っている境界標石。

「陸軍省所轄地」の上部が見える。

総務省第二庁舎の北側の入口。

統計博物館もあるけど、こちらには立ち寄らず。

国立国際医療研究センター

場所

https://maps.app.goo.gl/tDmxER1fQcDMLBSv7


産業遺産情報センター

予約制の資料館
公式サイトから予約が必要

https://booking.ihic.jp/l/ja-JP

2025年2月の某日に行ってきました。せっかくので。

東側の入口から入ります。

産業遺産情報センター

館内は撮影禁止

世界文化遺産「明治日本の産業革命遺産」を全体的に紹介する施設。
幕末から明治の日本の近代化の発展の様子を、産業革命遺産の観点から展示解説。わかりやすく佳き展示。

8つのエリア、全23資産により構成される「明治日本の産業革命遺産」
【製鉄製鋼】
萩(萩反射炉、大板山たたら製鉄遺跡等)
鹿児島(集成館)
韮山(韮山反射炉)
釜石(橋野鉄鉱山・高炉跡)
八幡(八幡製鐡所)
【造船】
萩(恵美須ヶ鼻造船所跡等)
佐賀(三重津海軍所跡)
鹿児島(集成館)
長崎(小菅修船場等)
長崎(長崎造船所)
(石炭)
長崎(高島炭鉱、端島炭鉱等)
三池(三角西(旧)港)
三池(三池炭鉱、三池港)

音声ガイダンス端末を借りて、資料に接し、そうして1時間ほど、滞在。

ガイドブック

https://www.ihic.jp/l/ja-JP/guidebook

刊行物

https://www.ihic.jp/l/ja-JP/publications

https://www.japansmeijiindustrialrevolution.com/conservation/interpretation.html

ガイドブックや冊子は地味に嬉しい。

場所

https://maps.app.goo.gl/3bVKkGp8VphhfPf69

撮影:2025年2月


若松台の陸軍経理学校跡地散策(新宿区)

終戦時には小平にあった陸軍経理学校。
かつては、牛込区河田町にあり、陸軍士官学校の「市ヶ谷台」に対して、陸軍経理学校は「若松台」と呼称されていた。

そんな若松台の跡地を散策してみました。


陸軍経理学校

陸軍における経理を担当する軍人(経理官)の養成教育、あるいは経理官への上級教育を行っていた陸軍学校。教育に限らず陸軍経理に関する調査と研究なども行っていた。陸軍経理とは会計だけに限らず、監査、被服、糧秣、建築も職務に含まれていた。

明治19年(1886)に陸軍軍吏学舎が設置されたことに始まる。
明治23年(1890)に陸軍軍吏学舎を廃止、陸軍経理学校を開校。
明治33年(1900)に「陸軍経理学校本校」を東京市牛込区河田町に移転。陸軍士官学校の「市谷台」に対して、陸軍経理学校は「若松台」の愛称で呼称されることとなる。
昭和17年(1942)3月、陸軍経理学校は戦争による生徒、学生、幹部候補生等の人員増加のため、東京府北多摩郡小平村に移転。昭和20年8月の敗戦により閉校。

  • 市谷台 市ヶ谷:座間に移転する前の陸軍士官学校(本科・予科)
  • 相武台 座間:陸軍士官学校(陸士)
  • 修武台 所沢:航空士官学校(航士)
  • 振武台 朝霞:陸軍予科士官学校(予士)
  • 若松台 若松:陸軍経理学校
  • 健武台 八王子:東京陸軍幼年学校(東幼)

小平の陸軍経理学校

陸軍経理学校「若松神社」

陸軍経理学校生徒隊慰霊碑

https://maps.app.goo.gl/S4v4fQaUiLFFsACN8


若松台の陸軍経理学校跡地の散策

東京女子医大前に跡地の記念碑がある。
この界隈は、戦前は、成城学校、陸軍振武学校、陸軍経理学校などがあり、戦後は、都営若松アパート、東京韓国学校、東京女子医大学校となってきた。成城学校はいまもある。


陸軍経理学校跡碑(東京女子医大)

陸軍経理学校跡

若松台と称し、明治33年(1900)年から昭和17年(1942)年に、多摩・小平へ移転するまで経理部将校を養成した。

平成22年12月吉日
同窓会 若松会 建之

女子医大通り

東京女子医科大学の創設者は吉岡彌生。昭和5年(1930)に東京女子医科大学病院1号館が建設された。平成28年(2016)に解体。

場所

https://maps.app.goo.gl/S4v4fQaUiLFFsACN8


陸軍経理学校の境界壁跡と境界標石(水野原児童遊園付近)

東京女子医科大学の北側の住宅地に、陸軍経理学校時代の境界壁の残骸が残っている。
再開発もあり、すでに一部は撤去されてしまっている。

下記は2024年5月の様子。

下記は2025年1月の様子。ビルが新築され、煉瓦壁は除去された。

陸軍の境界標とおもわれる標石。

もう一個、あった。こちらも陸軍境界標石と思われる。

ぼちぼち、新築ビルが完成する。

場所はこのあたり

https://maps.app.goo.gl/G7bJe2BJndmCwzv46


陸軍経理学校の境界標石(日生薬局牛込店前)

X(Twitter)のフォロワー『遺構』散歩 カントさん(@6s8U7cYM1hiROXY)から、教えていただきました。

さっそく、見に行ってみましたので追記。

高さに違和感がないのが不思議。なんで飛び出ていないのだろうか。。。

場所

https://maps.app.goo.gl/v2BG1fKqrURcUWa96


若松町の陸軍境界標石(若松河田駅前)

若松河田駅の「若松口」のすぐ近く。

同じく、X(Twitter)のフォロワー『遺構』散歩 カントさん(@6s8U7cYM1hiROXY)から、教えていただきました。

こちらも足を運んでみました。

標石の隣の自販機が目印。

ビルの東側にも標石がある。

今昔マップon the webから抜粋

https://ktgis.net/kjmapw/kjmapw.html?lat=35.700688&lng=139.718118&zoom=17&dataset=tokyo50&age=2&screen=2&scr1tile=k_cj4&scr2tile=k_cj4&scr3tile=k_cj4&scr4tile=k_cj4&mapOpacity=10&overGSItile=no&altitudeOpacity=2

場所的には、経理学校に近いけど、道を挟んだ反対側。なんの境界標か、ちょっと悩ましい。移転してる?

どうやら「牛込憲兵分隊」の陸軍境界標石らしいです。
コメントにて、ご教授頂きました

場所

https://maps.app.goo.gl/Q7h61t6rmKa2PeL16


小笠原伯爵邸
(昭和2年造・東京都選定歴史的建造物)

若松河田駅の近くには「小笠原伯爵邸」がある。東京都選定歴史的建造物。
旧小倉藩の華族小笠原長幹伯爵邸。1927年(昭和2年)建立。
スペイン風邸宅、スパニッシュ様式で鉄筋コンクリート造の地上2階、地下1階建て。
もともとは江戸時代の小笠原小倉藩下屋敷跡。
戦後1948年(昭和23年)に米軍に接収。4年後に東京都に返還。
1975年(昭和50年)まで東京都福祉保健局中央児童相談所として使用されたが、その後は放置。
2000年(平成12年)に東京都生活文化局から民間貸出となり、現在のレストラン「小笠原伯爵邸」としてオープンし、今日に至っている。

小笠原長幹は小笠原宗家30代当主。
信濃小笠原氏は5つの藩に別れた譜代大名であり、信濃小笠原氏のうち府中小笠原氏の流れをくむ旧小倉藩の小笠原宗家は伯爵家。(小笠原伯爵家)
そのほかの小笠原家は子爵家。
府中小笠原氏として、安志小笠原子爵家・千束小笠原子爵家・唐津小笠原子爵家。
松尾小笠原氏として、勝山小笠原子爵家。

ちなみに唐津小笠原子爵家の小笠原長生は海軍中将として著名。

https://senseki-kikou.net/?p=39525

場所

https://maps.app.goo.gl/QjjwQca2TvcARzvF7


若松河田駅

若松町と河田駅の複合地名駅。

場所的には、若松町。
陸軍経理学校は、若松台と呼称されていた。

ちかくには、成城学校もある。
創立当初は陸軍士官学校・陸軍幼年学校への全寮制予備校であった。

※撮影:2024年5月及び2025年1月


関連

陸軍経理学校生徒隊慰霊碑

磯部浅一は、経理学校出身だった。(もちろん小平に移転する前に卒業しているが)

海軍経理学校

第1空挺団「降下訓練始め」(陸自習志野演習場・2025)

令和7年1月12日。

陸自第1空挺団による新春恒例の「降下訓練始め」が実施されましたので、足を運んでみました。


空の神兵

大日本帝国陸軍・海軍の落下傘部隊(空挺部隊・挺進部隊)、落下傘兵(空挺兵・挺進兵)に対する愛称。
海軍は「空挺部隊」
陸軍は「挺進聯隊・挺進集団」
そして、陸自は「空挺団」

太平洋戦争(大東亜戦争)蘭印作戦
1942年(昭和17年)1月11日
海軍の横須賀鎮守府第一特別陸戦隊がセレベス島メナドに対し敵前にて奇襲落下傘降下を敢行。。
1942年(昭和17年)2月14日
陸軍の第1挺進団(挺進第2連隊)がスマトラ島パレンバン(パレンバン空挺作戦)に対し同じく敵前にて奇襲落下傘降下を敢行。
両作戦は成功しオランダ軍他が守備する飛行場(メナド・パレンバン)や、大油田・製油所(ともにパレンバン)を制圧した。
これらの活躍から日本軍落下傘部隊に対し「空の神兵」の愛称が付けられた。

「空の神兵」は、帝国陸軍落下傘部隊(第1挺進集団)の事実上の後身である陸上自衛隊第1空挺団にも継承されている。
習志野の陸自第1空挺団は、昭和27年より研究されれ昭和30年に設立した初代空挺教育隊を起点とし、初代空挺教育隊長を務めた衣笠駿雄元陸軍少佐(初代第一空挺団長)に率いられた第1次研究員20名によって昭和33年に創設された。
この第1次研究員20名こそが太平洋戦争末期に帝国陸軍落下傘部隊において教育途中であった元挺進兵であった。そのため帝国陸軍落下傘部隊の歴史は陸上自衛隊落下傘部隊の歴史とされ、その伝統を堂々と継承している第1空挺団の事実上の隊歌として使用、かつ「降下訓練始め」では歌唱付きの『空の神兵』がそのまま場内で放送されている。


降下訓練始め 準備

入口から、見学場所まで、まいどまいど、それなりの距離があるんですよね。

高台に陣取り。

アメリカの偉い人が乗っているヘリ。(あまり詳しくないので)

指揮官の降下

防衛大臣、いらっしゃいました。

続々と降下!!

米軍機

真白き薔薇の花模様

空の神兵
 梅木三郎作詞  高木東六作曲

藍より蒼き大空に大空に 忽ち開く百千の
真白き薔薇の花模様 見よ落下傘空に降り
見よ落下傘空を征く 見よ落下傘空を征く

世紀の花よ落下傘落下傘 その純白に赤き血を
捧げて悔いぬ奇襲隊 この青空も敵の空
この山川も敵の陣 この山川も敵の陣

敵撃摧と舞い降る舞降る まなじり高きつわものの
いずくか見ゆるおさな顔 ああ純白の花負いて
ああ青雲に花負いて ああ青雲に花負いて

讃えよ空の神兵を神兵を 肉弾粉と砕くとも
撃ちてしやまぬ大和魂 我が丈夫は天降る
我が皇軍は天降る 我が皇軍は天降る


降下訓練始め

地上展開

AH-1Sコブラの航空支援

白兵戦

迫撃砲陣地展開

テェッ

地上支援戦力投入

10式戦車と16式機動戦闘車

今回は、体調が今ひとつというのと、カメラの不調もあり、電池不足もあり、で、最後は半端な観戦になってしまいました。

難しいことは機にせずに、鑑賞していて楽しいのが空挺「降下訓練初め」

※2025年1月撮影


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「昭和天皇祭(山陵に奉幣の儀)」36年目の昭和天皇武蔵野陵に拝する(令和7年1月7日)

昭和64年(1989年)1月7日午前6時33分。
国民の祈りの中で、
昭和の天皇陛下は御崩御あそばされた。

あの日から、36年。

今年も、 昭和天皇 武蔵野陵(しょうわてんのう むさしののみささぎ)へ参拝をいたしました。

昭和から平成、そして令和へと、時代は移り変わるも、決して忘れてはいけない昭和の記録を伝承し、そして歴史として、後世に紡いでいくために。

昭和天皇 武蔵野陵(むさしののみささぎ)

昭和天皇 武蔵野陵 
昭和六十四年一月七日午前六時三十三分崩御 平成元年二月二十四日斂葬

陵内には幔幕(青白の浅黄幕・神事での葬祭)が張られ、祭祀の為の仮屋が設けられております。

拝礼


昭和天皇祭(山陵に奉幣の儀)

祭礼に関する撮影は一切禁止、です。
午前9時半頃より、一般参拝が停止され、祭員参進が始まります。
午前10時より、「山陵に奉幣の儀」が奉祭されます。
おわるのは、午前10時30分から11時の間くらい。
祭員が退出次第で、一般参拝が再開されます。

祭祀は、神道式。

  • 祭員参進
  • 式部官参進(宮内庁式部職)
  • 招待者参進
  • 皇族代表参進 (本年は、 秋篠宮佳子内親王殿下)
  • 勅使参進
  • 献饌(奏楽)
  • 勅使拝礼(奉幣)
  • 皇族代表拝礼
  • 招待者拝礼
  • 撤饌(奏楽)
  • 勅使退出
  • 皇族代表退出
  • 招待者退出
  • 式部官退出
  • 祭員退出

祭礼の全容は把握できていませんが、おそらく上記の流れ。

祭員退出のあたりで、写真撮影禁止ではなくなったり。

毎年、見かける人がいました、、、

今年も、佳子内親王殿下が参列、でした。

今年は10時30分頃には一通りが終わった感じで。


香淳皇后 武蔵野東陵(むさしののひがしのみささぎ)


大正天皇 多摩陵(たまのみささぎ)


貞明皇后 多摩東陵(たまのひがしのみささぎ)


武蔵陵墓地・武蔵陵墓地

この先は、お察しください。。。

木漏れ日

撮影:2025年1月


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