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岩脇蒸気機関車退避壕・岩脇山列車壕(米原)

鉄道の町「米原」は、滋賀県唯一の新幹線停車駅であり、東海道と北陸道の分岐点でもある。
そんな「米原」に戦争に関連する戦跡が残っているというので、足を運んでみた。


岩脇蒸気機関車退避壕

※岩脇は「いをぎ(いおぎ)」と読む。

太平洋戦争中、米原駅が空襲の対象になることが予想され、機関区の転車台が破壊された時に備えた機関車の方向転換ができる三角線が設置され、列車を空襲から守るための列車壕(蒸気機関車避難壕)も運輸省鉄道総局によって秘密裏に工事着工された。
東側のトンネル(長さ130m)は貫通したが、西側のトンネルは中央部を残して非貫通。上下二段工法で掘られたが穴の大きさも機関車を入れるには不十分な大きさで、線路も敷設できないまま、蒸気機関車避難壕は完成せずに終戦となり工事は中断された。

蒸気機関車退避壕
 ここに存在する二つの洞窟(左側は奥行52m止め、右側は130mで貫通)は、太平洋戦争末期に日本の輸送の大動脈である東海道線及び北陸線の列車を引っ張る蒸気機関車を連合軍の空爆から守るために掘られた防空壕です。
この岩脇山は岩盤が固く、その上当時は物量が乏しく、火薬、スコップ、ツルハシ、トロッコなどの手作業のため難工事であったことがうかがえます。
 しかしながら完成することなく終戦となったが、作業に従事した人達の汗と涙の結晶である防空壕跡が、長い間ごみ捨て場として放置されたままになっていました。
 そこで「岩脇まちづくり委員会」では戦争の悲劇を風化させないために戦争の遺跡として保存するため平成20年10月から平成21年8月にかけて整備したものです。
 平成21年8月
  岩脇まちつくり委員会

戦争が残した2つの洞穴

貫通した退避壕(南側)

立入禁止とあるので、入口までで。

望遠で覗いてみる。

非貫通の退避壕(南側)

こちらは未貫通の退避壕。
柵がないので、中に入れる。
外の熱気と中の冷気で、白く温度の壁ができる。

東海道線がみえる。

非貫通の退避壕(北側)

柵の隙間から。

貫通の退避壕(北側)

同じく柵の隙間から。貫通している。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-R586-5
昭和22年(1947年)11月21日、米軍撮影の航空写真。

岩脇山周辺を拡大。
東海道本線と北陸本線が二股で分かれるポイントでデルタ線が形成されており、退避壕まで線路が造成されていることがわかる。
退避壕のある岩脇山は南北に路盤が貫通して造成が進んでいることもわかる。
未完成の待避線アクセス線路は、のちに東海道本線上り線に流用される。


資料館

まちづくりの一環で作られた資料館。手作り感あふれるこぢんまりとした資料館だが、なかなかに情報量もあって、良い感じに見学できました。

地元の皆様の保存活動が行き届いた戦跡。佳き環境。

熊が迎えてくれました。

出土品
1 爆破する際に火薬の挿入に用いたと思われる
2 大形のかすがい?

岩脇山周辺案内図。
南北が逆になっている地図は位置関係を見失うので勘弁してほしい。

岩屋善光堂
推古天皇時代、本多善光が三尊の仏像を長野にお連れする途中にこの地で休憩し、そのときみた神の夢のお告げにより仏像の分身像を安置。以来、信州長野善光寺の分身として崇拝。

岩脇稲荷神社
創建年代は不詳。第92代天皇の伏見天皇が即位していた正応4年(1291年)の記録が残されている事からそれ以前から鎮座の神社と推定。

退避壕のある岩脇山。

現在の東海道本線上り線。
応じは退避壕までのアクセス路として造成中で終戦を迎えている。

場所

https://maps.app.goo.gl/diYq7d5XTcZrqnJg7

撮影:2024年6月


【展示移設作業中】「日本初の零戦復元機」零式艦上戦闘機52型甲(空自浜松広報館エアパーク)

空自浜松広報館エアパークの展示格納庫にて吊り下げられていた「零戦(ゼロ戦)」が展示場所移設作業のために床下に降ろされ、前部胴体/後部胴体に分割されました。
移設完了までの二度と目にすることがないであろう状態の展示。なぜか(仕事の都合で)運良く浜松にいたので、二度とないチャンスとし、無理やり足を運んできました。

浜松広報館によると、以下の通り、どこかのタイミングで「ご覧いただけなく」なるようだけど、ご覧いただくことが出来ました。

令和6年6月24日から展示格納庫に展示中の零戦を、より間近で見ていただける様、展示資料館2階に移設する作業を行います。
移設作業が完了するまでの間、零戦をご覧いただくことができない旨ご了承ください。

浜松広報館NEWS https://www.mod.go.jp/asdf/airpark/NEWS/20240626.html

以前の様子は下記にして。


零式艦上戦闘機五二型甲 A6M5
43-188号機

日本への里帰り第1号機の零戦。

昭和19年3月、三菱名古屋工場製造機。
所属は、第三四三海軍航空隊(1944年1月に開隊した初代、通称隼部隊)。
昭和19年6月〜7月にかけてのマリアナ諸島攻防戦で、米軍との戦闘や米軍機の空襲などにより壊滅し、7月10日に解隊。
浜松基地浜松広報館に保存されている零戦は、第三四三海軍航空隊の飛行隊長・尾崎伸也大尉(海兵68期)が昭和19年6月19日に米軍と交戦し被弾し不時着し放棄された機体。尾崎伸也大尉は戦死されている。
海兵68期の尾崎伸也大尉の同期には、作家・豊田穣、撃墜王・鴛淵孝、九軍人の広尾彰、海軍中将松永貞市の息子・松永市郎、捕虜第一号となった酒巻和男など。
第三四三海軍航空隊は、昭和19年12月に再編(二代目)される、これが通称「剣部隊」として紫電改を用いて有名となった航空隊。

昭和39年1月に日本に里帰り。

零式艦上戦闘機(零戦)の展示経緯
昭和38年4月  
 本展示機がグアム島で発見される。
昭和38年7月
 グアム島知事から日本への返還が決まる。
昭和39年1月
 米軍C-130輸送機により岐阜基地へ搬送。
 本機の製造元である三菱重工業大江工場にて忠実な復元作業を実施。
昭和39年10月
 我が国で最初の零戦復元機が完成。(その後、全国各地において展示されたため期待の損傷がひどくその管理が必要とされた。)
昭和42年11月
 航空自衛隊の航空機整備のメッカ(航空機の整備学校が所在)である浜松基地に移送されその後浜松基地において展示・管理された。
平成11年4月
 航空自衛隊浜松広報館開設に伴い、当館において展示される。

零戦52型
零戦52型は1943年8月初飛行し、太平洋戦争後半の日本海軍の主力戦闘機として活躍した機体である。この機体には甲、乙、丙の3種の型があり、零戦総生産数約1万機のうち、4種あわせた52型シリーズは約6,000機が生産された。

性能
全幅 11m
全長 9.1m
全高 3.5m
全備重量 2,733kg
エンジン 栄21型 最大出力1,100馬力x1基
最大速度 565km/h
実用上昇限度 11,740m
航続距離 1,920km
乗員 1名
搭載武装 7.7mm固定銃x2門 99式20mm固定銃x2門

以下、移設作業中の展示状態を見学。

撮影:2024年7月


トルコ海軍コルベット艦「クナルアダ」(日本・トルコ外交関係樹立100周年記念)

2024年は、日本・トルコ外交関係樹立100周年。

2024年6月。
日本とトルコの歴史を振り返りつつ、トルコ軍艦を見学してきました。


エルトゥールル号遭難事件

日本とトルコの交流は、1887年の小松宮彰仁親王のオスマン帝国訪問と、翌年のエルトゥールル号の来日から始まった。

1887年、小松宮彰仁親王がヨーロッパ訪問の途中で、オスマン帝国の首都イスタンブールに立ち寄った。それに応える形で1890年、オスマン帝国スルタンであったアブデュル・ハミト2世の使節としてフリゲート艦「エルトゥールル」が日本へ派遣された。
使節は 明治天皇へ親書などを手渡し帰国の途についたが、和歌山県沖で台風に巻き込まれ座礁沈没。
特使オスマン・パシャを含め500名以上の乗組員が死亡した。このとき紀伊半島南端の和歌山串本・大島の住民が救援に駆けつけ69名を救出した。報告を受けた 明治天皇は直ちに神戸港へ医師と看護婦を派遣、救援に全力をあげた。さらに生存者には日本全国から多くの義捐金・弔慰金が寄せられた。
生存者は日本海軍の装甲コルベットの金剛と比叡により、オスマン帝国に丁重に送還された。
「トルコ軍艦遭難事件」とその顛末はトルコ国内で大きく報道され、日本人に対する友好的感情もこの時より醸成された。
現在、和歌山県串本町には遭難事件にまつわるトルコ記念館がある。


日露戦争

1904年から始まった日露戦争に、オスマン帝国国民は大きな関心を寄せた。
これはクリミア戦争(1853年 – 1856年)・露土戦争(1877年 – 1878年)などによるもので、日本・トルコ両国にとってロシア帝国は共通の敵であった。
トルコを苦しめてきたロシア帝国であったが、1905年に日本が日本海海戦でロシアバルチック艦隊に対し決定的な勝利をおさめると、オスマン帝国国内では、日本の快勝を自国の勝利のように歓迎した。


第一次大戦

極東で南下政策を日本によって阻止されたロシア帝国は、オスマン帝国(オスマン・トルコ)に矛先を転じ、ボスボラス海峡とイスタンブールの掌握を目指した。トルコはドイツと接近し、第一次大戦は、同盟国(ドイツ帝国、オスマン帝国、オーストリア・ハンガリー帝国、ブルガリア王国)として、連合国(イギリス、フランス、ロシア、日本)と戦うことになった。
日本は連合国(日英同盟)として、同盟国と戦うことになり、オスマン帝国と日本は交戦国となる。
敗れたオスマン帝国は、1920年セーヴル条約によって広範な領土を失った。


トルコ革命(トルコ独立戦争)

第一次世界大戦で敗戦国となったオスマン帝国は、さらなる列強による国土分割・植民地化の危機にあった。

しかし1922年からアンカラに樹立された大国民議会政府(アンカラ政府)ケマル・アタテュルク(現代トルコの国父・建国の父)らの主導で祖国解放戦争が開始され、祖国解放戦争に勝利、オスマン帝国を打倒して、トルコ共和国が成立。
1923年のローザンヌ条約(フランス・イギリス・イタリア・日本・ギリシャ・ルーマニア・ユーゴスラビア・トルコ)により国境が決定した。


平明丸事件(ツムラ・ユキチ通り)

終戦によってロシアの捕虜となったトルコ兵は1918年に日本側に移管され、その後、日本が捕虜をトルコ本国へ送り届けることとなった。
1921年に捕虜を乗せた輸送船の「平明丸」(司令官・津村諭吉)がトルコ到着直前にギリシャ軍に拿捕された。
これは、ギリシャ政府はトルコ内(小アジア)の領土を獲得しようと侵攻しており戦争状態(希土戦争)であり、トルコ兵捕虜返還によりトルコ側の戦力増強につながることを懸念したためであった。

津村中佐は、ギリシャより捕虜の引き渡しを要求されたが、これを拒否した。そして7カ月近い抑留の末、仲介役のイタリアに捕虜を引き渡し、トルコ兵らを救った。
結果として、トルコ人捕虜の多くは最終的に1922年6月に無事帰国、その後はギリシャの懸念通り直ちに祖国解放戦争に参加し、同年9月にギリシャ軍はトルコから完全撤退することになった。

2020年にイスタンブール市内のある通りが「津村諭吉中佐通り」と改名された。


日本・トルコ国交樹立

トルコ共和国建国の翌年、1924年の8月6日に日本がローザンヌ条約を批准し、同条約が発効したことにより、トルコと日本の間で外交関係が樹立。
その後、1925年にトルコに日本大使館を開設。
中東地域での日本大使館開設はトルコが初めてであり、これは日本政府が当時からトルコをいかに重要視していたかを示している。

1926年に日土協会が発足。
1928年にはトルコ海軍が日本海軍に駆逐艦や潜水艦などの建造を依頼。
1929年に高松宮宣仁親王( 昭和天皇弟宮・日本海軍将校)が、日土協会の総裁に就任。
トルコは、日本の明治維新を手本として、近代化政策をすすめていった。
1930年、日土通商航海条約が結ばれ両国の関係はより強固なものとなった。


第二次世界大戦

第二次世界大戦でトルコが枢軸国側に参加することは無かった。
開戦当初からトルコは中立を宣言し、中立を長らく維持していたがイギリスをはじめとした連合国の圧力により、1945年日本に宣戦布告した。
しかしトルコ国内世論は宣戦布告に反対であり、日本に対しての軍事行動は一切行わなかった。

戦時中に、破棄された国交は、1951年のサンフランシスコ平和条約によって回復。
トルコ政府は日本政府に対して、賠償をはじめとする一切に請求を行わなかった。


日本・トルコ外交関係樹立100周年

1924年から100年。
2024年、日本とトルコは外交関係樹立100周年を迎えた。


トルコ海軍コルベット艦「クナルアダ」

アダ級コルベット「クナルアダ」が、国交樹立100周年を記念して、東京港(東京国際クルーズターミナル)に入港し一般公開されました。


クナルアダ(F514 TCG Kınalıada)
トルコ海軍初の国産大型水上戦闘艦。ステルス艦として設計されている。
排水量2465トン、全長99.56メートル。
イスタンブール海軍工廠で起工され2019年に就役した。

ムスタファ・ケマル・アタテュルクの肖像とともに。
トルコ共和国の元帥、初代大統領
「父なるトルコ人」
「現代トルコの国父(建国の父)」

第一次世界大戦で敗れたオスマン帝国において、トルコ独立戦争とトルコ革命を指導してトルコ共和国を樹立。トルコの近代化を推進し、トルコ大国民議会から「父なるトルコ人」を意味する「アタテュルク」の称号を贈られた。「現代トルコの国父(建国の父)」とも呼ばれる。

トルコ国旗

撮影は後甲板のみで、艦内は撮影禁止。

WELCOM ON BOARD
TCG KINALIADA(F-514)

OUR FRIENDSHIP IS GOLDEN

「TCG」(Turkiye Cumhuriyeti Gemisi)(トルコ共和国艦艇)

上からも。

記念の帽子。トルコ国旗が良い!!


トルコ海軍

トルコ海軍の紹介パンフ。

トルコ共和国海軍は、チャカスがスミュルナを制圧した1081年を創設年としている。

トルコ海軍の歴史(意訳概略)
1081年にCaka Bey(チャカ・ベイ/チャカス)の指揮のもとに、イズミット(Izmir)で最初の艦隊が設立されたことにはじまる。
取るか艦隊は、1090年のKoyun諸島の戦いで輝かしい勝利を収めた。
1538年に、バルバロス・ハイレディン・バシャ(Barbaros Hayreddin Pasa)率いるトルコ艦隊は十字軍とのプレヴェザの海戦で勝利を収め、地中海の絶対的な支配を確立した。(大航海時代、ですね)
トゥルグト・レイス(Turgut Reis)の指揮下で、トルコ艦隊は1560年にジェルバ島近くで再び十字軍を破り、地中海の優位性を強化。
トルコ艦隊は、第一次世界大戦の1915年にチャナッカレ海戦(ガリポリの戦い)で連合国を撤退に追い込んだ。(オスマン帝国の名指揮官ムスタファ・ケマル・アタテュルクが活躍)
チャナッカレ海戦(ガリポリの戦い)の勝利と、のちのムスタファ・ケマル・アタテュルクによるトルコ共和故国の設立により、トルコ海軍は新たな海軍として立ち上がった。
トルコ海軍は、「Türkiye(テュルキエ)」の権利、利益、資産、そして潜在的な脅威を守り、地域の案件保証への取り組みに貢献するために、海上での重要な役割を引き受けることで、任務を遂行し続けている。


ケバブ

やっぱり食べたくなるので。
東京国際クルーズターミナルから、ケバブが食べれる場所を探して、一番近場だったお台場まで足を伸ばして、ケバブラップを。


付記

トルコ海軍フリゲート艦「ゲディズ」(2015年撮影)

1890年に現在の和歌山県串本町沖で座礁、沈没したエルトゥールル号事件の125周年記念事業の一環として来日したときの写真などを付記で。

F495 Gediz(ゲディズ)
ガビヤ級フリゲート艦。
旧・米O・H・ペリー級(オリバー・ハザード・ペリー級ミサイルフリゲート)をベースとしている。
元は、米海軍の「ジョン・A・ムーア」(1981就役)
2000年9月1日に米海軍を退役し、トルコ海軍に移管、艦名はゲティズ (Gediz, F 495) と改められた。

エルトゥールル号事件 125 周年記念として、トルコ海軍TCGゲディズが晴海埠頭に寄港。
海自ホストシップ艦は護衛艦たかなみ。

記念品。
エルトゥールル号の本とキーホルダー。

ホスト艦の「たかなみ」

映画「海難1890」
2015年制作の映画。日本とトルコの友好125周年を記念して制作された。
エルトゥールル号海難事故編とテヘラン邦人救出劇編の二部構成。


「日本の航空事始め・その5」日本の航空機の父・二宮忠八と飛行神社(京都八幡)

「日本の航空事始め」としては、第5弾になります。
今回は、実質「その0」の位置づけ。本格的に飛び立つ前のお話です。

二宮忠八関連ゆかりで、2003年に訪問していた飛行神社を再訪し、写真と記事を追記して掲載で。
以前の記事は下記。


出生の八幡浜にも行きたいですけど、なかなか。。。


日本の航空事始め


飛行神社と二宮忠八

京都府八幡市、石清水八幡宮のお膝元に鎮座している航空関連の神社。

二宮忠八は、愛媛県八幡浜出身。
明治24年4月29日香川県丸亀の歩兵第12聯隊練兵場に於いて、日本人として最初のゴム動力によるカラス型飛行器の飛行に成功させた。
「日本の航空機の父」と称された二宮忠八が大正4年(1915)に航空受難者の霊を慰めるべく創建したことにはじまる。
現在の社殿、拝殿、資料館は平成元年の飛行原理発見100周年を記念して、二宮忠八翁の次男二宮顕次郎によって建てかえられた。

https://www.hikoujinjya.com/

飛行神社
 飛行神社は、日本で初めて動力飛行機を発明した二宮忠八(1866-1936年)によって1915年に創建されました。飛ぶことへ興味を持った忠八は、20代の頃、カラスが滑空する姿に着想を得て固定翼の「カラス型飛行器」を制作し、1891年に飛行を成功させました。また、人が乗れる複葉機モデルの「玉虫型飛行器」を設計しました。その後、八幡の地で試作機の製作を始めましたが、完成前の1903年にライト兄弟が有人飛行を成功させたことを聞き、制作を断念しました。
 本殿中央には、空の神様である饒速日命を祀り、向かって左側は日本薬学会の偉人らを祀る薬光神社、向かってっ右側は航空事故で亡くなられた航空殉難者と航空業界の先覚者を祀る祖霊社で、世界は同じ空の下でつながっているという忠八の信念で、国籍に関係なく全ての犠牲者を祀っています。
 併設の資料館には、忠八が撮影した写真や自筆の資料、本人が晩年に作り残した玉虫型飛行器(模型)をはじめ、発明に関連す品々が展示されています。

航空安全祈願
飛行神社 縁起略記
鎮座 大正4年(1915)3月10日
主座祭神 饒速日命 天津神 古代の飛行神(中央社殿)
  祭神 航空殉難者諸神 (向かって右側社殿)
  祭神 薬祖神(向かって左側社殿)
  別社 常磐稲荷社
 当神社は明治24年(1891)4月29日に世界に誇るゴム動力プロペラ式飛行器の飛翔実験に成功した二宮忠八が、後進の航空殉難者の尊霊を慰めるべく崇め祀つた神社である。
 晩年自ら神職に就き昭和2年(1927)改修して朝夕航空安全祈願の奉仕をしたが、昭和11年(1936)に没した。
 昭和30年(1955)忠八の次男顕次郎が、再興にあたり「空は一つなり」の信条のもとに、あまねく全世界の航空先覚者並びに遭難者の霊を迎え祀り、今日に至っている。
 現在の本殿拝殿及び資料館、集会所は、忠八の飛行原理発見百周年記念に際し、平成元年(1989)に全面改築されたものである。
 平成12年9月
  京都八幡市土井四十四
   宗教法人 飛行神社


飛行神社

御社殿はギリシャ風拝殿。
現在の拝殿は平成元年(1989)建立。

飛行神社 ご本社
第一殿 ご本殿 饒速日命
第二殿 祖霊社 航空殉難者並び航空先覚者
第三殿 薬光神社 薬祖神

第一殿
饒速日命
 饒速日命は、天津神のご指示を受け三十二柱の神様を従えて天磐船という岩で出来た飛行船で地上に天降られた神様で、古代から空の神様、行く先を守る神様として祀られてきました。
 当社には大正4年(1915)に創建者二宮忠八翁が飛行神社創建に当たって磐船神社(大阪府交野市)よりご分霊いただきました。
 交通安全、航空安全、旅行安全などの旅先、移動の安全に深く信仰されております。

第二殿
祖霊社
 航空事故で亡くなられた方、技術革新、指導に当たられ航空業界に多大な影響を与えられた方をお祀りしております。
 二宮忠八翁は空に関わられた全ての御霊と共に航空安全、航空事業の発展を祈る為、この飛行神社を創建しました。
 航空安全はもちろん、忠八翁等の発明者をお祀りしている為、開発発明祈願や、学業成就合格祈願などの信仰も深くございます。
 年次祭(4月29日)に毎年の御霊をこの社殿に合祀しております。

第三殿
薬光神社
 この社殿は薬業界の偉人とされる長井博士や、二宮忠八翁が共に働いた武田長兵衛、田辺五兵衛、塩野義三郎などの薬学会の仲間を薬祖神としてお祀りしております。
 健康長寿、病気平癒、医学界・薬業界の発展を祈念するお社です。
 また、この地には白い蛇がおりました。白蛇はこの社殿創建と同時にいなくなった事から、白蛇はこの御社に籠られたと言われております。
 白蛇は白龍神と言われ金運、開運の神様としてお祀りされております。


二宮忠八と長岡外史

明治26年(1893年)10月には有人飛行を前提にした飛行機「玉虫型飛行器」の縮小模型(翼幅2m)を作成。
日清戦争中の明治27年(1894年)8月19日、大島混成旅団の参謀隷下の衛生兵(二宮忠八)が飛行機の開発に軍の協力を求め、略図を添えて大島義昌旅団長宛に『軍用飛行器(飛行機)考案之儀二付上申』を提出してきた。
参謀であった長岡は人が乗って自在に空中を移動する機械という当時としては奇想天外な研究の意義を理解することができず、「今は戦時である」「外国で成功していないことが日本で出来るはずがない」「成功したとしても戦争には使えない(上申では偵察に使えるとされていた)」と一蹴した。

その後、陸軍を離れた二宮忠八は、飛行機開発をすすめるが、1903年12月17日にライト兄弟による有人動力飛行がすでに行なわれていた事が判明(兄弟らは情報秘匿のため積極的な公表を控えたため、暫くの間世界的にこの偉業が伝わっていなかった)。したのちに、二宮は飛行機の開発をやめてしまう。

日清戦争中の上申時点では二宮忠八の飛行機の着想はライト兄弟に先行しており、結果として長岡ら軍上層部の冷淡な態度が日本人による飛行機の発明の機会を失った一因とされている。

その後白川義則中将と二宮の対談が新聞や雑誌に取り上げられてこの事実が世間に知られることになると、長岡は自らの先見のなさを嘆いて長文の詫び状を送り、二宮に面会して謝罪したという。
長岡外史が二宮忠八に宛てた手紙の写しは、飛行神社に設けられた飛行神社資料館(二宮忠八資料館)に展示がある。


飛行神社社号標(白川義則謹書)

白川義則は、二宮忠八と同じ愛媛県の出身であった。
1919年(大正8年)、陸軍中将(当時)であた白川義則と二宮忠八が懇談した際に、忠八は以前飛行機の上申をしたが却下されたことを告げ、白川が専門家に諮ってみるとその内容は技術的に正しいことがわかった。そして、ようやく軍部は忠八の研究を評価し、大正11年(1922年)、忠八を表彰。
1927年(昭和2年)勲六等に叙せられ、昭和12年度から国定教科書に掲載された。

白川義則は、二宮忠八と縁があり、改築時に社号標を揮毫している。

飛行神社

飛行機発明勲功旌表地鎮座

昭和7年3月改築
 陸軍大将白川義則書


二宮忠八顕彰碑(白川元春謹書)

二宮忠八 1866‐1936
妻 寿世 1873-1929
わが航空界の先覚者二宮忠八翁をたたえる
航空幕僚長 白川元春

男爵陸軍大臣であった白川義則の三男。
陸軍航空士官学校を第51期で卒業し、飛行第90戦隊中隊長として、マレージャワを転戦。
陸軍大学校(第58期)を昭和19年5月に卒業後は、陸軍少佐に進級し南方軍総司令部参謀としてサイゴンで終戦を迎えた。
戦後は、航空自衛隊として、第11代航空幕僚長、第8代統合幕僚会議議長を歴任。最終階級は、統合幕僚会議議長たる空将。

親子2代に渡る支援があった。


零式艦上戦闘機の機首部

零式艦上戦闘機の機首部
昭和58年10月下旬、大阪湾漁場において大阪府岸和田の漁師が、底引網操業中の漁網に、機首部がかかり、岸和田漁港に引き揚げられたものです。


何かのプロペラ


ジェット機エンジン(F-104J)


飛行神社の写真あれこれ

ステンドグラスは、「飛行」に縁のある生き物たち。

手水盤は、烏型飛行器と玉虫型飛行器

奉納飛行機が浮かんでいます。

アンネのバラが咲いていました。

撮影:2024年3月


関連

入間基地ランウェイウォーク2024

令和6年(2024)6月1日(土)。
航空自衛隊入間基地で開催された入間基地ランウェイウォーク2024。今年は、「航空自衛隊70周年記念」として制限なしの一般開放が実施されましたので、足を運んでみました。

YS-11やC-1など、いつ見納めになってもおかしくない機体が見れたのがなによりの収穫。


YS-11EB電子測定機

日本航空機製造が製造した双発ターボプロップエンジン方式飛行機。第二次世界大戦後に初めて日本のメーカーが開発した旅客機でもある。
YS11(02-1159号機)は、1970年初飛行。
1996年にYS-11EBとして「スーパーYS」化改造した電子測定機(電子情報収集機)。

レアなツーショット!
YS-11EB電子測定機のうしろには、EC-1電子戦訓練機


YS-11EA電子戦訓練機

YS-11EA 12-1162号機と12-1163号機。
YS-11Eを「スーパーYS」化改造した電子戦訓練機。
航空自衛隊のYS-11としては、一番最後に導入された世代(1971年初飛行)
2機ともにプロペラが外されて保管されている状態。
すでに、事実上用廃ではあるが、2024年度内に、書類上でも正式に用途廃止(用廃)予定という。


EC-1電子戦訓練機

C-1輸送機を改造した機体。一機のみ。
78-1021号機
通称「カモノハシ」
2024年度内の用途廃止(用廃)予定という。


C-1輸送機

18-1031号機、28-1002号機が駐機。
23年末現在で現存6機のみという。
用途廃止(用廃)が迫っている。。。

18-1031号機。最終生産の機体。


C-2輸送機

C-1輸送機の後継。3機が駐機展示されていました。


T-4練習機


CH-47J輸送ヘリコプター


入間基地ランウェイウォーク

滑走路の北から南に、歩こう!!というのが本来のメインイベント。

最北端からスタート。

ざっくり2キロのウォーキング。
なお、滑走路を2キロ歩いて、誘導路を2キロ歩くので、実質4キロのウォーキング。

広い!

すごく気持ちよく歩けました。

滑走路を歩くだけだけど、滑走路は普段は絶対に歩けないので、楽しいw

西武線。
車窓から見ていた滑走路を、逆から見るのが新鮮。

最南端。

誘導路。

コンクリートが白くて綺麗。


入間ターミナル

入間飛行場の入間ターミナル。
基地間を飛ぶ定期便(航空自衛隊各分屯基地間の物資及び、人員の輸送任務)がある。


第3補給処

航空自衛隊第3補給処
「前進」

前進
第3補給処創立15周年ニ当タリ処全隊員ガ先輩の築カレタ輝カシイ伝統ヲ受ケ継ギ更二発展向上ノ努力ヲ重ネル決意ヲ前進ノ二字二表ワシコレヲ建立スル
昭和52年10月1日

北門から入場しました。

10時開門で、10時30分くらいについたら、行列もなく、そして手荷物検査もなく、非常にのんびりと、貴重な航空機の見学などができたのが、なによりのイベント。これは楽しいですね。

※撮影:2024年月

護衛艦「ゆうぎり」(横浜開港祭2024)

横浜の大さん橋で、「ゆうぎり」を見てきました。


ゆうぎり

DD-153 ゆうぎり
あさぎり型護衛艦の3番艦。浦賀造船所にて建造。
竣工は1989年。護衛艦隊第11護衛隊に所属し、定係港は横須賀。

無骨なデザインが、素敵ですね。第2マストが特徴的。

以下、写真メインで。

62口径76mm単装速射砲

ハープーンSSM4連装発射筒

シースパローIBPDMS

ヘリ格納庫

第二マスト

護衛艦印「護守印」

横浜大さん橋から。

このゴテゴテな雰囲気が良いのです。

向こうには大先輩の「氷川丸」

※撮影:2024年6月2日

護衛艦「おおよど」と測量船「拓洋」(東京みなと祭2024)・練習艦「かしま」「しまかぜ」

東京みなと祭で、「おおよど」「拓洋」を見学。
あわせて、ちかくの晴海ふ頭にいた「かしま」「しまかぜ」も見学。


護衛艦「おおよど」

あぶくま型護衛艦の3番艦。
就役は1991年。2027年度までに除籍することになっている。
護衛艦隊第15護衛隊に所属し、定係港は大湊。

以下、写真メインで。

62口径76mm単装速射砲

大淀さん

高性能20mm機関砲

活動写真集

護守印(ほぼ、大淀さんじゃん、、、)


海上保安庁測量船「拓洋」

HL02 拓洋。
1983年竣工。

手書きの船内図

船内神社(船内神棚)
天照皇大神宮(伊勢神宮)、明治神宮、厳島神社

調理室

公室

居室

無人探査機「ごんどう」

スタンプ

台紙は、使用済みの海図を裁断したもの。


東京国際クルーズターミナルから。

ゆりかもめから。


練習艦「かしま」「しまかぜ」

晴海ふ頭に練習艦隊が入港していたので、あわせて見学。

かしま
TV-3508 練習艦
1995年就役

しまかぜ
TV-3521 練習艦
はたかぜ型護衛艦の2番艦。1988年に護衛艦として就役、2021年に練習艦に種別変更。

※撮影:2024年5月

第1師団創立62周年・練馬駐屯地創設73周年記念行事(2024年・練馬駐屯地一般公開)

令和6年(2024年)4月7日。
東京都練馬区にある練馬駐屯地。東京23区内で唯一普通科連隊が所在し第1師団司令部もある首都防衛の要となる実戦部隊の駐屯地。
戦前は、「東京第一陸軍造兵廠練馬倉庫」。

詳細なレポートは、昨年2023年の記事に譲るとして。記念行事と訓練展示を中心に写真多めに掲載していきます。


第1師団創立61周年・練馬駐屯地創設72周年記念行事

第1師団って響きが良いですよね。
昨年は桜が散ってしまっていましたが、今年は桜咲く中での式典。

美しく凛々しく

観閲部隊指揮官の入場。

執行官の入場。

観閲部隊の執行官(頭号師団・第1師団司令官)
兒玉恭幸 陸将

東京都知事
小池百合子


部隊観閲


兒玉恭幸第1師団長(陸将)訓示

兒玉第1師団長
駐屯地行事のテーマ 「戦う?13.2%」の真意を熱弁。
13.2%という、戦う意思のある国民比率が先進国中最低であった日本。しかし武器を持たずとも個々が出来ること、国に貢献し経済を回すことで国を守り、自衛隊とともに国を護る事が出来きる、と。熱弁を。

兒玉第1師団長の訓示。
壇上で話し始めたかと思ったら、話をしながら車に乗り移り、会場を一周しながら熱弁をふるったり。聴き入ってしまう、話の上手さもあり。

師団長式辞(抜粋) 「戦う?13.2%」

https://www.mod.go.jp/gsdf/eae/1d/activity/sonota/sikizi.pdf

 今年の師団祭のテーマは、「戦う?13.2%」。世界価値観調査から引用しました。世界価値観調査の問いの一つに「もし戦争が起こったらあなたは国のために戦いますか?」という問いがあり、戦うと答えた日本人は13.2%で世界79カ国中最低でした。ウクライナが59.6%。ロシアが68.2%。中国が88.6%。最高はベトナムで96.4%であり、日本人の13.2%は、群を抜いて低い数値でした。我が国周辺国は、この数字を見てどのように感じるでしょうか?「侵略しても抵抗しないんじゃないか?」と勘違いするのではないでしょうか?日本が戦争に巻き込まれると日本国内が戦場となり、一般市民の命が失われることが懸念されます。絶対に「抑止」しなければなりません。「抑止」とは他国から戦争を仕掛けられないようにすることです。下手に手を出すと痛い目にあうと分からせるということです。戦争とは国と国との総合力による争いです。第一線で戦う自衛官だけでは、侵略戦争には勝てません。政治や外交、自衛隊の作戦行動を支えるには、国家の財政基盤が維持されなければなりません。そのためには経済活動が重要です。多くの国民が国内にとどまり、ライフラインや食料、エネルギーを維持し、政治・経済・外交活動を支え自衛隊が防衛作戦を遂行していく。すなわち国民一人ひとりにとって戦うとは、自分にできることで国に貢献すること。簡単に言えば「普段の仕事をしっかり続ける事」なのです。

ついで、小池都知事。

訓練展示前の散水。


第一音楽隊 With 石川鈴菜さん

スペシャルゲストで、ミュージカル「Annie」の主演アニーを演じた女優の石川鈴菜さんが登場。 第1師団 第1音楽隊とコラボして、トゥモローを熱唱!!
上手い!
ありがとうございます!

公式動画


第一音楽隊 第一師団らっぱ隊によるドリル演奏


部隊紹介

第1師団隷下の第34普通科連隊(板妻駐屯地)も参加。
陸上自衛隊第三十四普通科連隊は、軍神・橘中佐の静岡歩兵三十四聨隊の部隊番号を引き継ぎ、橘連隊・橘精神を受け継いでいる。

第1師団隷下の部隊紹介が続きます。

第1高射特科大隊(駒門)

第32普通科連隊


訓練展示

状況開始

制圧完了、状況終了

執行官退出


頭号師団慰霊顕彰室

新に設置された頭号師団慰霊顕彰室。史料館の一室に。


練馬駐屯地、あれこれ。

ことしは、石碑の周辺は立入禁止、でした。

撮影:2024年4月


「苦しいのは息が止まるまでよ…」山の手大空襲の慰霊観音菩薩(早稲田喜久井町・感通寺)

早稲田大学の早稲田の隣町、喜久井町。
昭和20年5月25日の「山の手空襲」では、早稲田喜久井町の防空壕が被災し300余名が亡くなったという。
合掌。


山の手大空襲

東京は昭和19年以降、100回以上に及ぶ空襲を受けてきた。
昭和20年3月10日に東京下町を襲った空襲では死者は10万人を超え、罹災者も100万人を超えており、1回の空襲としては、世界史上に例を見ない規模として「東京大空襲」と称されれているが、その他にも多くの空襲があった。

昭和20年5月25日、空襲警報発令22時22分。
山の手地域に470機ものB‐29が襲来した空襲では、死者3600余人、罹災者は約56万人、焼失16万6千戸にも及び、国会議事堂周辺や東京駅も被災。皇居も被災し 昭和天皇・香淳皇后は御文庫に避難、皇居内の明治宮殿は、この空襲で焼失。

東京地方では、2番目の被災規模であり「山の手大空襲」と称されている。
なお、3月10日の下町を襲った東京大空襲で襲来したB-29は325機であり、山の手大空襲で襲来したB-29の470機は東京大空襲以上であった。

米軍は、昭和20年5月25日の「山の手大空襲」でもって、東京の市街地はほぼ壊滅したと判断し、この日以降、東京への大規模な空襲は終了した。
まさに、東京に止めを刺した空襲が、この「山の手大空襲」であった。

上記の記事は、原宿表参道。
山の手空襲は、東京の市街地各所に爪痕を残している。

早稲田大学の周辺でも大きな被害があった。


喜久井町観音・喜久井町慰霊園

第二次世界大戦の空襲により喜久井町の防空壕で亡なられた方の供養のために建立。
「日米彼我戦歿之諸英霊・町内戦災殉難之諸精霊・当寺戦死病没之諸英霊・鎮魂供養」

建立縁起
昭和20年5月25日当町ヲ含メテ山手地区ハ米軍ノ空襲ヲ蒙リ悉皆灰燼ニ帰セリ酸鼻ノ状タル死屍累々トシテ巷ニ倒レ残月白骨ヲ照シ遂ニ惨害シテ異物ト為スノ観ナリキ。殊ニ夏目坂台地ヨリ早稲田通リ向ケL字型構築セル地下壕ノ中ニ避難ノ人々ハ爆撃炎上焔ト瓦斯ノタメ犠牲者参百余名ヲコエタリト。親ハ愛児ヲ抱キ、若キハ老タルヲ庇イ、夫ハ妻ヲ助ケント為シタル等、或ハ全身大焼炭化シ、或ハ生ケルガ如ク直立シ、或ハ両手ヲ虚空ニシテ落命セル等、目ヲ蔽イ言ヲ失フ恐怖地獄ノ惨状ナリキ。惨害無残非命ニ倒レシ犠牲ヲ念ストキ人皆歔欷シ或ハ慟哭シ、心折レテ生事ヲ悲シムノミナリ。屍ヲ積ンデ草木腥ク流血ハ瓦礫ヲ染メテ声ナシ、マコトニ国破レテ山河アリ、魂魄招ケドモ再ビ来ラズノ感慨ヲ深カラシム、ココニ春風秋雨メグリテ三十三年ノ歳月ヲ閲ミシ漸クニシテ観世音菩薩一体ヲ造立シ奉ルコトヲ得タリ、願クバ日米彼我戦歿之諸英霊・町内戦災殉難之諸精霊・当寺戦死病没之諸英霊・鎮魂供養ノタメナリ。今ヤ一会ノ大衆ト供ニ梵唄誦経修スル所ノ秘妙五段ノ加持ヲ以テ観世音菩薩御尊像開眼供養ノ法儀ヲ営ナミ、仰而喜久井町観音ト名ケ奉ル者也、造立シ奉ル喜久井町観音、ソノ妙智之力ハ能ク群生ノ苦厄ヲ救イ、十方諸々ノ国土ニ於テ身ヲ現ゼザルナク、克ク生老病死ノ苦ヲ減ジ常ニ苦悩諸厄ニ於テ依怙トナラセ給ハン事ヲ。
 昭和52年5月25日 
  造立願主感通寺二十卋伝灯新間日恵

町慰霊園
「苦しいのは息が止まるまでよ。もう少し我慢するのよ!!」と子供を抱えて震える私の手も肉もやけどでじんじん落ちていきます。 
 成願寺報五五号抜粋
昭和20年5月25日米軍山之手地区空襲の一般庶民の残状だった。
58年余を経て今日それも忘却のかなたに去ろうとしている。後の私達は歴史として伝え継いでいかねばならない務めがあると痛感し平成16年5月25日・当山に於て前大戦で亡くなられた人々の供養の為に慰霊園を作庭し名を刻し永遠に町会員と共に現在も生きて在しますことを顕すものである。
 伝燈二十一卋日良記す

上記のエピソードは、中野の成願寺の住職が記録したエピソード。

https://www.nakanojouganji.jp/backno/schugaku1.htm

さざれ石

さざれ石
第二次世界大戦が終了し戦勝国も敗戦国も、そして人々も戦争は、つくづく懲りたはずなのに、その後も全世界各地で愚かな争いを繰り返しています。
正義の為と称し、民族、宗教その他あらゆる理屈付けのもとに戦い、地獄の様相を現じております。佛様のお説きになる平和で争いのない、互いに尊重しあう浄佛国土は、いつになったら顕われるのでしょうか。
この人類平和の願いが古来より、「さざれ石」に願いを託して永く伝えられてきました。
国歌に詠まれているごとく「千代に八千代」の年月を経て「さざれ石の巌」となり「苔のむす」と云う、団結と繁栄、平和と長壽を象徴した石であります。
特にこの石は「都園」から寄贈を受け、昭和四十五年に開催された大阪万博博覧会での日本館に展示されていたと云うものです。
 感通寺 二十一世 新間 日良
  平成十六年五月二十五日
この石は、学名を石灰質角礫岩 と云います。
石灰岩が雨水に溶解して粘着力の強い乳状体となり、地下に大粒の石、小粒の石を集結して次第に大きくなったものであります。


感通寺

東京都新宿区喜久井町に鎮座する日蓮宗の寺院。
本妙⼭高田感通寺。
松平越後守(越後高田藩)の下屋敷高田御殿跡でもある。

https://www.kantsuji.tokyo/

お寺犬の、すばるちゃん。

切り絵御朱印が人気。

※2024年5月撮影

場所

https://maps.app.goo.gl/TD3Z2qbegsC8mvZh6


喜久井町戦災者供養観音像
(早稲田大学喜久井町キャンパス)

早稲田大学・喜久井町キャンパス(理工学術総合研究所)

戦時中、早稲田大学喜久井キャンパスの研究所地下には防空壕があった。
空襲に際して周辺住民と学生などが避難していた防空壕も被災し300余名が亡くなったという。

戦災者供養観音像建立の由来
 第二次世界大戦の終局も近い昭和二十年五月二十五日(1945年)米軍の東京空襲は、山手地区の多くを焼土と化した。
 理工学研究所も建物のほとんどが焼失し、とりわけ研究所敷地地下に作られた防空壕に避難した学生数名と、近隣の人々あわせて三百余名が火焔と煙に包まれて、悲しくも尊い犠牲となった。
 昭和三十年五月罹災十周年を迎えるにあたりこれらの人々の霊を慰め、永遠の 平和を祈願するため本観音像を建立した。
 昭和五十八年三月  
 観音像製作者 二紀会 永野隆業氏
 早稲田大学理工学研究所

※2020年1月

場所

https://maps.app.goo.gl/s2dL9MxALuiQEPsY9


関連

「連合国民抑留所(敵性外国人抑留所)」であった聖母病院(新宿区中落合)

昭和6年に建造された病院は、空襲をくぐり抜け、連合国民抑留所として活用され終戦を迎えている。
そして、現在、東京都選定歴史的建造物に指定されている。


聖母病院

昭和6年、「国際聖母病院」として開院。
昭和18年、戦時下により「国際」を外して「聖母病院」と改称。
昭和20年4月13日の夜にB29による爆撃を受けるも、類焼を防ぎ無事を保つ。

昭和20年5月27日の山の手空襲で、小石川区関口台(文京区)にあった抑留所=関口台の天主公教会(現在の東京カテドラル聖マリア大聖堂・カトリック関口教会)が全焼し、連合国民抑留者=敵性外国人抑留者(宣教師や修道女など女子36名であったという)は、新宿区の聖母病院に移動。
ジュネーブ条約を準用した「敵国人の身柄保護」は、戦争末期には画餅と化してしまっていたが、それでも敵国人抑留政策は終戦までギリギリの状態で実施されていた。

そして、そのまま聖母病院は、「連合国民抑留所」として終戦を迎える。

東京都選定歴史的建造物
聖母病院
所在地 新宿区中落合2丁目5番1号
設計者 マックス・ヒンデル
建設年 昭和6年(1931)
 昭和6年(1931)にキリスト教の精神に基づき開院した国際病院で、上智大学などを手がけたスイス仁の建築家マックス・ヒンデルにより設計された鉄筋コンクリート造3階建ての建物である。
 うす茶色のタイル張りの外壁と、L字型の建物中央の頂部にある銅板葺き屋根の2つの塔が特徴となってる。縦長の窓が配置されるが、3階部分は上部をアーチ型にして変化をつけている。入隅に局面を用い、軒の小庇や窓台で水平線を強調するなどの点は、当時流行したデザインである。
 建物の全面には新宿区保護樹木のヒマラヤ杉の大木が立ち、壁面の茶色と調和した景観を形づくっている。平成15年(2003)新病棟の改築に伴い、本館の外観を当初に復元した。
 東京都生活文化局


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M606-48
昭和22年(1947年)10月27日、米軍撮影の航空写真。

聖母病院部分を抜粋

L字型の建屋がそのまま残っているのがわかる。

Google EARTHより

※撮影 2023年7月

場所

https://maps.app.goo.gl/P4BSc396NkD6EJBQ6


資料

新宿区立図書館
 > 新宿区内の戦跡紹介 – 東京 より

https://www.library.shinjuku.tokyo.jp/lib/files/libimg1594939155.pdf

戦後、救援物資の直撃で死者がでているのが、やるせない、、、

●聖母病院(中落合 中落合2-5-1)
カトリックの病院である聖母病院ですが、昭和20年4月13日の夜にB29による爆撃を受けました。 病院の前庭や屋上にも焼夷弾が落ちましたが、その時残っていた神父をはじめとする2、3人の男性と看護婦やシスター達だけで懸命の消火をしました。周囲は火の海で、大きな火の粉が空高く舞い上がって病院の構内に降り注いできました。病院の建物へ炎が燃え移らないようにと皆で番をし、一夜が明けて 無事に残った病院を眺めると煙と水に汚れた塔がそびえていたそうです。 終戦後、聖母病院に外国人の抑留者がいたため、米軍の飛行機から救援物資の投下がありました。 ただ残念なことに、この食料投下はパラシュートを付けたドラム缶だったこともあり、直撃して亡くなった人が3名いたのです。
平成15年(2003)新病棟の改築に伴い、本館の外観が当初に復元されました。
 東京都選定歴史的建造物

昭和館デジタルアーカイブ
 > 捕虜収容所と空襲跡(空撮) より

https://search.showakan.go.jp/search/photo/detail.php?id=90076852

https://search.showakan.go.jp/search/photo/detail.php?id=90076853

屋上にある「PW」とは、「Prisoners of War」=「戦争捕虜」のこと。「POW」とも略する。
下記は、上記サイトからの画像引用


東京新聞20240214
 > 3500人が命を失った…戦時中の「捕虜収容所」の実態に迫った事典を出版 市民団体が20年かけ全国調査

https://www.tokyo-np.co.jp/article/309044

下記は、上記サイトからの画像引用

お茶の水女子大学教育・研究成果コレクション
 > 太平洋戦争下の「敵国人」抑留‐日本国内に在住した英米系外国人の抑留について‐小宮まゆみ氏

https://teapot.lib.ocha.ac.jp/record/33986/files/KJ00004470995.pdf


移築整備された野砲兵第一聯隊の馬魂碑(世田谷)

世田谷区池尻・三宿・下馬、駅で言うところの「池尻大橋駅」「三軒茶屋駅」の界隈は「駒澤練兵場」があり、そして3つの陸軍砲兵部隊が駐留していた。
すなわち「三軒茶屋は軍都であった」と言っても過言ではない。


軍都「三軒茶屋」

  • 近衛野砲兵聯隊(昭和女子大・三宿中学校)
  • 野戦重砲兵第八聯隊(都営住宅)
  • 野砲兵第一聯隊(都営住宅)

上記の3聯隊のうち、野戦重砲兵第八聯隊と近衛野砲兵聯隊の記念碑は、陸上自衛隊三宿駐屯地内にある。

しかし、野砲兵第一聯隊の記念碑は残されていない。


野砲兵第一聯隊

野砲兵第一聯隊は、昭和11年の二・二六事件ののちに北満移駐を命ぜられ、そして大戦末期にはレイテ作戦に参加しカンギポット山麓に玉砕。
昭和20年に残存兵力はセブ島に転進し、ゲリラ戦を実施し、そこで終戦を迎えている。
日本陸軍最古の砲兵部隊である栄誉ある野砲兵第1聨隊であったが、国内には記念碑が残されていないが、玉砕したレイテ島・リモン峠には野砲兵第1聨隊の慰霊碑があるという。

そんな、野砲兵第1聨隊が駐留していた世田谷の下馬地区に痕跡として残された馬魂碑が、都営住宅下馬アパート再開発でも失われることなく、移築保存されたのは、なにより喜ばしく。
すこしでも、往時を伝承する軌跡が残ったことに感謝する。

以下、移築先の様子。


野砲兵第一聯隊の馬魂碑

5基の石碑が保存されている。

馬魂碑

詳細は不明

馬魂碑

一番大きな「馬魂碑」

碑の裏面に詳細な記述がある。

我部隊保管ノ軍馬ハ我隊将士ノ死生ヲ倶ニスヘキ戦友ニシテ平戦来時攻々黙々内ニ外ニ多大ノ功績ヲ残セシモノ枚挙ニ遑アラス 
其ノ間不幸或ハ敵弾ニ斃レ或ハ不慮ノ危害ヲ蒙リ或ハ又病魔ニ冒サレ遂ニ死ニ至レル其ノ最後ニ想ヒ到レハ憐憫ノ情ニ堪ヘス
茲ニ犠牲馬ノ霊ヲ祀リ其ノ冥福ヲ祈リ将来保管馬愛護ノ精神的自覚ヲ促サレトシテ此ノ碑ヲ建ツ
 昭和14年12月
  野砲兵第一聯隊留守隊長
   陸軍砲兵中佐 正六位勲四等 原捷吉

野砲兵第一聯隊は、昭和11年から北満に移駐しているために、石碑が建立された昭和14年の段階では、留守部隊が軍馬(保管馬)の世話をしていたことがわかる。
愛馬の愛護憐憫に溢れた慰霊の碑。

馬頭観音菩薩

詳細不明

軍馬梨山号
昭和十一年一月二十四日殉職

馬頭観音

整備中の広場。広場の名称も、まだ不詳。

下馬図書館の近く。

案内図は古いまま。

都営住宅下馬アパート16号棟17棟18棟19棟20棟のあった区画には、
「東京都立青鳥特別支援学校三軒茶屋校舎」が新設された。

場所

https://maps.app.goo.gl/uJcX1qhmt93tWPLP6


野砲兵第一聯隊の兵舎跡

唯一現存する野砲兵第一聯隊の兵営。韓国会館となっている。いつまでの残るかの不安があるが、往時を偲ぶ貴重な建屋。

場所

https://maps.app.goo.gl/17zBp2k5PTNn2uwB6


旅団の電信柱

昭和女子大の近く、「旅団」の名前を残す電信柱があった。
管理の都合、往時のままの名称を用いている「旅団線」通信線。

昭和女子大の西門

※撮影:2024年5月


世田谷関連

「幻の東武熊谷線」東武橋脚と中島飛行機太田飛行場と小泉製作所(太田大泉の戦跡散策6)

「日本の飛行機王」
東洋一の中島飛行機を創業した中島知久平。
そんな中島知久平ゆかりの太田に点在する戦跡に足を運んでみました。

本編は、その6です。

以下は、行政的には、「太田」ではなくて「大泉」だけど、大枠的には太田として、、、


東武熊谷線

東武熊谷線は、戦時中の軍の要請により、群馬県太田・小泉地区にある中島飛行機工場の工員輸送と資材搬入の便をはかる目的で建設され、熊谷市と太田市を結ぶ鉄道として昭和17年に着工。
東武小泉線との接続を目指した。
線路区間は、群馬県邑楽郡大川村から熊谷駅までの14.2kmとし、昭和18年12月5日に熊谷―妻沼間10.1kmが第一期工事で開通し旅客営業を開始した。
第二期工事として、昭和18年6月1日、利根川橋梁工事施工ならびに線路一部変更認可申請書を東武鉄道は運輸通信大臣に提出し、全線開通を目指して工事を進めていた。
しかし、橋梁工事の最中であった昭和20年8月15日に終戦を迎え、中島飛行機工場への工員・資材輸送のため計画された 東武熊谷線敷設の目的は無くなってしまった。
ただ、利根川治水上直ちに工事を中止することができず、工事中の橋脚の基礎井筒工と、橋台、橋脚を昭和22年7月に完成させ、そして東武熊谷線の工事は中止された。
昭和49年8月20日、東武鉄道は鉄道敷設権を放棄し、昭和53年8月7日、建設省関東地方建設局に、橋脚、橋台、基礎井筒等の構築物撤去工事を委託申請、受理され、昭和54年3月31日全ての利根川河川敷内構築物の撤去が完了。

群馬県側(大泉町)の堤外に、唯一往時の橋脚が残っている。


東武熊谷線の橋脚

東武鉄道熊谷線 橋脚(ピアー)
 昭和14年4月に開通した「仙石河岸線」は、小泉町から仙石河岸に至る貨物専用線でありました。
 翌15年、延長された同線は、太平洋戦争の開戦に伴い、軍は太田及び小泉の中島飛行機工場に従事する工員ならびに資材等の輸送の必要性から、熊谷までの延長を要請するに至りました。
 昭和17年11月、第一期工事として着手された妻沼~熊谷間は、昭和18年11月に竣工、同年12月より旅客輸送のみの営業が開始されましたが、第二期工事であった利根川の架橋工事は、橋脚(ピアー)を完成した段階で終戦を迎えることとなりました。
 戦後、近隣市町村の本線建設促進へのはたらきかえも実らず、残念ながら、昭和51年9月、線路の撤去工事が開始されました。
 この橋脚(ピアー)は、当時の施錠をうかがい知ることのできる近代遺産でもあります。
 「幻の熊谷線」の先にはいったいどのような未来が広がっていたのでしょうか。「永遠の平和」と「町の発展」を強く祈念致します。
 平成28年7月20日 大泉町

太田のつもりで、ここは大泉だったり。

利根川河川敷。

場所

https://maps.app.goo.gl/1BQn37bZft4b16oG7


位置関係

改めて太田大泉の中島飛行機の位置関係を。

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M606-48
昭和22年(1947年)10月27日、米軍撮影の航空写真。

拡大加工。


太田小泉専用道路
(太田製作所~太田飛行場)

いったん、太田製作所まで話を戻しまして。

飛行機運搬専用道路が活用された道路。
中島飛行機太田製作所(SUBARU群馬製作所 本工場)から太田飛行場(SUBARU 群馬製作所 大泉工場)まで伸びる道路。
現在は、公園通りと呼ばれている。

SUBARU群馬製作所本工場の正門

SUBARU群馬製作所 本工場から一直線に伸びる道が、飛行機運搬道路。

太田市運動公園の先が、太田飛行場(SUBARU 群馬製作所 大泉工場)


中島飛行機太田飛行場

太田飛行場は、昭和16年2月に完成。
長さ1300m幅70mの滑走路と整備工場、格納庫があり、中島飛行機太田製作所と小泉製作所とは、飛行機を運ぶ専用道路で結ばれていた。
戦後、飛行場や太田製作所と小泉製作所は進駐軍に接収され、飛行場が日本側に返還されたのは遅く昭和44年であった。

飛行場の名残は特に残っていない。


中島飛行機小泉製作所

中島飛行機が昭和15年(1940)4月に開設した航空機工場。主に海軍機を製造していた。
完成した飛行機はそのまま専用道路を通じて、太田飛行場に運搬可能であった。
九七式艦上攻撃機、零戦、月光、天山、彩雲、銀河などが量産された。生産数は1941年から1945年8月までに約9,000~10,000機であった。
また、局地戦闘機「天雷」、陸上攻撃機「連山」、ジェット戦闘機「橘花」の試作も小泉製作所で行われた。

終戦から1959年(昭和34年)まで米軍が駐屯し、キャンプ・ドルウ(Camp Drew)と呼ばれた。
1959年(昭和34年)の米軍接収解除後は売却されて跡地には、三洋電機が誘致され、現在はパナソニックの工場となっている。

昔は、三洋電機だった。。。


太田小泉専用道路
(太田飛行場~小泉製作所)

太田飛行場(SUBARU 群馬製作所 大泉工場)の南にあった、中島飛行機小泉製作所。現在のパナソニック㈱ 東京製作所。
こちらも同じように専用道路で結ばれていた。


東武小泉線

小泉線の前身は、1917年(大正6年)3月12日に館林 – 小泉町間で営業開始した中原鉄道(ちゅうげんてつどう)小泉線であった。
中原鉄道は、1922年(大正11年)に上州鉄道と改称され、軽便鉄道から地方鉄道となったが、1937年(昭和12年)に東武鉄道に買収された。その結果、中原鉄道小泉線が東武鉄道小泉線となった。

1941年(昭和16年)6月1日に中島飛行機小泉製作所への輸送を行うため、太田 – 東小泉間が開通し小泉信号所が設置。小泉信号所は翌1942年(昭和17年)4月に東小泉駅と改称し、旅客営業を開始している。
1942年(昭和17年)12月1日には、仙石河岸線に西小泉駅が開設され、中島飛行機小泉製作所の玄関駅となった。
さらに軍の要請によって仙石河岸線の新小泉駅から利根川を渡り、埼玉県側の妻沼駅で熊谷線と接続する計画も立てられ一部着手されたものの、第二次世界大戦の終結により工事は中断。戦後には工事再開も検討されたが実現せず、1974年(昭和49年)に免許が取り下げられた。その後、西小泉駅以南の仙石河岸貨物線は1976年(昭和51年)に廃止され(跡地は遊歩道「いずみ緑道」に転用)、熊谷線も1983年(昭和58年)に非電化のまま廃止されている。

いずみ緑道
かつての東武仙石河岸線

西小泉駅
かつての中島飛行機小泉製作所の玄関口

おしゃれなデザイン。2017年の新駅舎。
大泉町の人口の一割がブラジル人のため、ブラジル国旗の黄色や緑を使用したカラーとなっている。

※撮影:2024年1月

太田と大泉の記事はひとまず、本編で〆。


中島飛行機関連

はじめに

イオンモール太田に残る下小林高射砲陣地跡(太田の戦跡散策5)

「日本の飛行機王」
東洋一の中島飛行機を創業した中島知久平。
そんな中島知久平ゆかりの太田市内に点在する戦跡に足を運んでみました。

本編は、その5です。


下小林高射砲陣地

中島飛行機の工場(太田製作所、小泉製作所)が集中する太田市内には、いくつもの高射砲陣地が設置されていた。

高射砲陣地跡
 高射砲は、旧陸軍によって配備された航空機を撃墜するための大砲です。太平洋戦争(第2次世界大戦)当時、太田市域では、由良や古戸などの他、下小林にも高射砲陣地が設置されました。
 平成15年に太田市教育委員会が行った発掘調査では、ここ下小林の高射砲陣地において、6基の砲台が見つかりました。砲台は、直径約4.5mの低い円柱形のコンクリートで造られており、上面には高射砲を固定するための穴があいてました。これら6基の砲台は、約24m間隔で扇形に配置されていたこともわかりました。
 ここに調査で見つかった砲台1基を移設し、保存することにいたしました。今後、歴史教育や平和教育に活用されることを期待します。
 平成15年12月5日 
  イオンモール株式会社

イオンモールの南方の緑地(イオンモール太田 芝生広場)に。

場所

https://maps.app.goo.gl/HnjNoYV9igqyTA8j6

※撮影:2024年1月

その6に続く。


中島飛行機関連

はじめに

熊谷陸軍飛行学校新田分教場・新田飛行場跡(太田の戦跡散策4)

「日本の飛行機王」
東洋一の中島飛行機を創業した中島知久平。
そんな中島知久平ゆかりの太田市内に点在する戦跡に足を運んでみました。

本編は、その4です。


新田飛行場跡(生品飛行場跡)
熊谷陸軍飛行学校新田分教場跡

新田市野倉。
生品のマツの森に1935(昭和10)年、陸軍の飛行場が建設され、昭和13年(1938年)、熊谷陸軍飛行学校新田分教場が開校。
飛行場の大きさは、東西約1850m、南北約1350m、総面積は約249万㎡。
陸軍九五式一型乙練習機が配備され、飛行訓練に活用された。
新田飛行場(生品飛行場)は昭和20年の7月と8月に空襲を受け諸施設が壊滅している。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-R408-No1-90
昭和22年(1947年)10月29日、米軍撮影の航空写真。

拡大

群馬県は、赤城おろしの空っ風が強く吹き荒れる土地のため、赤城おろしは北西風で、飛行機は向かい風の方向に離着陸をするのが普通のため、生品飛行場をはじめ、周辺の飛行場の滑走路は、いずれも南東から北西に向かって造られている。
そのために、戦後開墾後も、周辺の区画から傾いているのがよくわかる。

ピンの場所が今回のポイント。


新田飛行場跡(生品飛行場跡)鎮碇

着陸訓練用のロープを固定したRC造の鎮碇が残る。
少し離れた鉄塔からワイヤでつられた主翼の無い練習機で鎮碇方向へ滑り降り、練習生は操縦桿を引くタイミングや着陸の感覚をつかんだ着陸訓練用の構造物。

場所

https://maps.app.goo.gl/sr1brHn3QFe49Rfc6

飛行場跡地


陸鷲修練之地

敷地の東端に往時を偲ぶ石碑が建立されている。

少年飛行兵操縦教育校
旧陸軍熊谷飛行学校
陸鷲修練之地
新田教育隊跡地

平成7年8月
終戦50周年記念
元少飛 柳文夫書

場所

https://maps.app.goo.gl/oEyceHRpiKzZnQqy5

※撮影:2024年1月

その5に続く。


中島飛行機関連

はじめに

中島飛行機地下工場跡・地下疎開の藪塚工場跡(太田の戦跡散策3)

「日本の飛行機王」
東洋一の中島飛行機を創業した中島知久平。
太田市内には、中島知久平と中島飛行機に関連する史跡が点在しているので足を運んでみました。

本編は、その3です。

現在の八王子霊園と太田双葉カントリークラブのあるエリアには、広大な地下軍需工場があった


旧中島飛行機地下工場跡

昭和20年(1945年)、中島飛行機太田製作所は度重なる空襲で壊滅しており、太田製作所の分散工場の一つとして藪塚工場が疎開工場として掘られたが未完成にて終戦となった。

旧中島飛行機地下工場跡
  所在地 太田市大字西長岡地内
 このトンネルは、太平洋戦争の最中、昭和20年(1945年)に中島飛行機太田製作所の分散工場の一つ(藪塚工場)として掘られたものですが、完成を待たずに終戦を迎えました。(注1)
 終戦後、米国戦略爆撃調査団による調査が行われましたが、調査に訪れた日(1945年11月13日)には、すでに全ての入り口で崩落が始まっており、かろうじて崩れ落ちた土砂ごしに、地下道の中を覗くことができたといいます。
 この地下工場の掘削は、昭和20年1月から始まり、1500人(注2)が十時間交替で働いたといわれます。4月末からは、中国から強制的に連行され、それまで長野県木曽谷の発電所建設工事現場で強制労働させられていた280人の中国人も動員されましたが、過酷な労働と栄養失調のために、昭和20年5月から終戦後の11月までの七ヶ月間に、50人の中国人が無残な死を遂げました。
 昭和20年11月1日には、死亡者の慰霊祭が行われ、木曽谷から捧持してきていた遺骨も一緒に長岡寺の墓地に埋葬され、小さな石碑が建てられました。石碑には85名の殉難烈士の氏名と、帰国することが出来た中国人の追悼の言葉が刻まれています。また、昭和28年(1953)8月には遺骨の発掘慰霊祭が行われ、遺骨は中国へ奉送されました。この遺骨は、天津市にある抗日殉難烈士の墓に収められています。
 この説明板は、昭和47年(1972)に、日中友好協会群馬県連合会の手によって立てられた「トンネルの由来」を記した説明板が老朽化したため、戦後50周年を記念し、平和への願いをこめて、立て替えられたものです。
 (この説明板の文章は、「米国戦略爆撃調査団報告書」(太田市史 資料編 近現代)及び日中友好協会群馬県連合会発行の「トンネルは訴える」を参考に作成しました。)

(注1)
終戦の時点で、幅13フィート(約4m)、高さ11フィート(約3.4m)の地下道30本が掘りぬかれ、木材の支柱が立てられていたといいます。これは、計画されていた範囲の1/2に相当します。
(注2)
この数字は、米国戦略爆撃調査団の報告によるものです。他の資料によると、280人の中国人のほか、2000人を越える朝鮮人や数百人の日本人も工事に携わっており、あわせると3000人以上にもなります。
 平成8年(1996)3月31日
  太田市教育委員会

かなり広大な地下工場

イノシシよけの柵があったが、施錠は無し。

開口部からは、大量の水が流れ出ている。
立入禁止の札があるので、望遠で観察。

柵が設けられている。

近くにはイノシシの捕獲罠があった。

地下工場の方向。

場所

https://maps.app.goo.gl/onkpjWbN75hJzfbY6


強戸地区忠霊塔

強戸地区の戦没者慰霊碑。平成7年8月15日建立。

忠霊塔

強戸地区戦没者鎮魂之碑

強戸地区忠霊塔
 今より127年前、戊辰戦争(1867)に始まる明治維新の富国強兵論は、皇軍として国軍を組織し、国民皆兵、徴兵令により強化され、以来、西南の役(1877)の内戦より、力を海外に向け日清(1894‐5)日露(1904‐5)第一次世界大戦(1914)シベリア(1919)満洲(1931)日中(1937‐8)事変より世界の大国を相手として第二次世界大戦(1941‐5)にと限りなく拡大し内外共に甚大な犠牲を出し、遂に昭和20年8月15日無条件降伏し終戦となった。
 新田郡強戸村では昭和18年に強戸村国民学校(現小学校)校庭西方の小丘に忠霊塔を建立し、全ての英霊の遺骨を分骨し村葬にて丁重に祭った。その数220柱(人)なり。
 然し昭和23年連合軍(GHQ)司令により、国旗国歌と共に校内設置を禁じられたため、同年10月大字寺井639番地聖王寺境内に移転され、以来強戸地区遺族会と聖王寺により守護され、又婦人会では春秋彼岸に清掃慰霊を続けてきた。その間半世紀、当時の基礎工事も悪く、白樹の陰下で、地盤沈下により塔も傾き強戸保育園庭との共有地の為、事故等危惧されていたところである。
折しも今年が、終戦50周年に当りこれを記念し、戦没者追悼と、戦争の悲劇を二度と繰り返すことなき様、心をこめて後世に伝え「平和の塔」として残すべく地区内で運動が展開され、地区挙げての移転改築事業となり、実行委員会の設立、太田市当局の協力、区民自主活動による募金等すべて順調に進行し、総予算800有余万円、建設用地もここ太田市西長岡んの八王子山公園内厩寮景勝地に設置されることに決定し、ここに完成を見るに至った。
 本事業計画以来2ヶ年以上、その間遺族会を中心に「英霊にこたえる会」「軍恩連盟」「傷痍軍人会」「区長会」をはじめ、社会教育ボランティア団体等から寄せられた厚いご協力に対し、甚大なる感謝を捧げたい。
 本工事は本年早々より着工され、前塔解体後は、碑中心の「忠霊塔」の銘板は当時の物を利用し、他の石材等は外装や敷石等は全て活用し、前塔内に安置されていた各柱(人)の骨壺は合体し、本塔下部に安置埋葬した。
 本日ここに忠霊塔の移転改築の完成と強戸地区挙げての追悼並びに平和祈念式に当り、不幸なる戦争の悲劇を肌で知っている人達がこの事業を起こし、戦争を知らない人達に現在の豊かなる日本国の礎となり、若い生命を捧げた「みたま」に感謝を忘れてはならないことを銘記して、後世に伝えるものとする。 合掌
 維時平成7年8月15日樹之
 強戸地区忠霊塔移転改築実行委員会
  (個人名略)

場所

https://maps.app.goo.gl/EJijSDNn49taZb7W7

※撮影:2024年1月

その4に続く。


中島飛行機関連

はじめに

中島知久平と呑龍(太田の戦跡散策2・金山城址と呑龍工場、太田大空襲)

「日本の飛行機王」
東洋一の中島飛行機を創業した中島知久平。
その出生の地・群馬県新田郡尾島町には、中島知久平の立像と旧宅、墓がある。
同じ太田市内には、中島飛行機のDNAを受け継ぐSUBARU(富士重工)工場もあり、そして、太田市の中心部にそびえる金山(太田金山)の金山城址に中島知久平胸像があった。

本編は、その2です。


中島知久平

中島 知久平(なかじま ちくへい)
明治17年(1884年)1月11日 – 昭和24年(1949年)10月29日)65歳没。
海軍軍人(海軍大尉)、のち実業家・政治家。
中島飛行機(のちの富士重工業・SUBARU)創始者。

多くは、下記に記載。


中島知久平先生像(金山城址)

中島知久平先生像

昭和39年の建立。
裏面の顕彰碑文は、元陸軍大将井上幾太郎の撰並書となっている。

撰文の井上幾太郎は、初代陸軍航空部本部長。1933年3月には予備役に編入されるも、長命で、1965年に93歳で没している。

 中島知久平先生ハ、明治17年1月17日群馬県尾島町押切ノ徳望家中島粂吉翁ノ長男トシテ出生ス。同36年、海軍機関学校ヲ経テ海軍大学ニオイテ航空機ノ研究ニ着手、卒業後ハ海軍工廠造兵部ノ飛行機工場長トナリ、海軍機第一号機ヲハジメ各種ノ航空機ヲ創案制作セリ、ソノ後欧米ノ航空界ヲ視察シ民営ノ航空機工業ハ必要性ヲ提唱スルトトモニ、大正6年自ラ海軍ヲ退官シテ郷里群馬県太田町ニ中島飛行機製作所ヲ創立ス。コレワガ国航空機生産会社ノ嚆矢ニシテ、同社ハ後日世界最大規模ヲ有スル中島飛行機株式会社ニ発展シ、約20年間ニ亘リ、陸海軍民各方面ノ要望ニ応エ多数ノ優秀ナル航空機ヲ生産シ、ワガ国航空機工業ノ絶大ナル貢献ヲモタラシタリ。
 先生ハマタ偉大ナル経世ノ抱負ヲ実現スルタメ昭和5年政界ニ入リ鉄道大臣、商工大臣、軍需大臣等ヲ歴任シ、コノ間選ベシテ政友会総裁ニ就任スルナド、ソノ輝シキ業績ハ飛行機王ノ名トトモニ今ナヲ高ク評価セラル。
 昭和24年10月29日、享年66歳ヲモツテ惜シマレツツ逝去ス、ココニ中島飛行機関係者有志ノ発起ニヨリ、事業発祥ノ地ヲ選ビ記念像ヲ建設シ、先生ノ偉業ヲ永ク後世ニ伝エントスルモノナリ。

 昭和39年2月 
  元陸軍大将 井上幾太郎 撰並書

太田市内を見渡す金山の山頂に鎮座。いまも眼下に中島飛行機を受け継ぐSUBARUの工場群を眺望している。

https://maps.app.goo.gl/2K7H2G5PDEtBp6gAA


金山城(日本百名城)

山頂を中心として金山全山にその縄張りが及ぶ金山城跡は昭和9年(1934)に国の史跡指定となっている。天守閣が設けられる時代よりも古い設計で石垣が多用された山城。

標高239mの金山山頂の実城(みじょう)を中心に、四方に延びる尾根上を造成、曲輪とし、これを堀切・土塁などで固く守った戦国時代の山城。
特筆されるのは、石垣や石敷きが多用されていることで、従来、戦国時代の関東の山城に本格的な石垣はないとされた城郭史の定説が金山城跡の発掘調査で覆された。主な曲輪群は実城・西城・北城(坂中・北曲輪)・八王子山ノ砦の4箇所。山麓にも、城主や家臣団の館・屋敷があったと考えられ、根小屋(城下)を形成していたと見られる。

https://www.city.ota.gunma.jp/page/4140.html

新田神社

太田金山山頂に鎮座する神社。明治六年の創建。新田義貞公を祀り「初志貫徹」の神様として崇敬されている。
なお、創建にあたっては、由良系新田家が尽力している。その際に岩松系新田家は排除されたが、のちに岩松系新田家が新田氏嫡流として華族となった。

https://www.ota-kanko.jp/spot/spot02/%E6%96%B0%E7%94%B0%E7%A5%9E%E7%A4%BE/

弾丸があった。

御腰掛石が並んでいる。
 大正天皇  明治25年10月17日
 秩父宮殿下 明治42年11月7日
 昭和天皇  明治42年11月7日
 高松宮殿下 大正4年11月7日
 三笠宮殿下 大正14年10月26日

金山城の石垣。関東地方では珍しい石垣の山城。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-R256-No1-32
昭和22年(1947年)10月30日、米軍撮影の航空写真。

拡大加工。

ファイル:USA-M606-48
昭和22年(1947年)10月27日、米軍撮影の航空写真。

拡大加工。


呑龍

中島知久平(海軍機関大尉)が、生まれ故郷の尾島に、大正6年(1917)5月に「飛行機研究所」を創業。
同年12月に正式に海軍を退官し、民間会社として「飛行機研究所」を尾島から金山南麓の「大光院・呑龍さま」の隣接地に移転。民間会社としての中島飛行機の発祥の地は、すなわち今のSUBARUの発祥の地でもある。

中島飛行機が開発したキ49・100式重爆撃機「呑龍」の愛称は、江戸時代の浄土宗の僧「呑龍」の名前であり、中島知久平の地元の大光院の通称「呑龍さま」から命名された。


中島飛行機呑龍工場

太田金山の南麓には、「中島飛行機呑龍工場」があった。現在の「SUBARU群馬製作所北工場」。

旧中島飛行機(株)呑龍工場と中島知久平
 眼前の工場は大正6年(1917)12月10日、飛行機王中島知久平が尾島から飛行機研究所をここに移し、9名程の同士と創業し、中島飛行機製作所と改める、後の富士重工業(株)群馬製作所の発祥の地である。
 ここで製造された中島の出世機「中島式四型6号機」は、大正8年10月の第1回懸賞郵便飛行競技大会で優勝し中島飛行機の名声を一気に高めた。
 太田市街の東端に新工場が完成してからは、ここは呑龍工場(現北工場)と呼ばれた。
 創業者中島知久平は明治17年(1884)1月17日、尾島町押切で農家の長男として出生。海軍機関学校を卒業し海軍機関大尉まで昇進したが、民間での飛行機製造を志して退役、中島飛行機の創立と経営に当った。
 昭和5年(1930)2月、衆議院議員に当選し政友会総裁、商工政務次官、鉄道大臣(後に商工大臣)などを歴任した。同24年(1949)10月29日、脳溢血で急逝、多摩霊園及び押切の徳性寺に眠る。
行年六十六。
法名は知空院殿久遠成道大居士
 太田市観光協会
 平成21年(2009)3月

右手に呑龍工場と、左手には大光院「呑龍さま」。

呑龍公園

金山からの眺望。呑龍工場と太田工場を望む。


子育呑龍上人の大光院「呑龍さま」

義重山大光院新田寺。浄土宗寺院。
通称「子育て呑龍」「呑龍様」。
東上州三十三観音特別札所、群馬七福神の弁財天。

慶長16年(1611年)3月、徳川家康は徳川一族の繁栄と天下泰平、さらにご先祖の新田義重の追善供養のため菩提寺を建立する計画を立てた。
家康は、芝増上寺の観智国師に相談し、菩提寺建立の適地として太田金山南麓が選ばれた。 そして、観智国師の門弟で四哲の一人といわれる呑龍上人が招聘され創建された。


戦歿者慰霊碑(大光院)

大光院の境内にある戦歿者慰霊碑。

 太田市は西南の役から第二次世界大戦にいたる幾多の戦役により二千余柱の戦没者及び戦災被爆者の尊い犠牲がありました。
 中央の慰霊碑は昭和二十八年に建立され。当時の戦没者が刻まれております。しかし、その後合併した地区等の戦没者及び戦災被爆者は刻まれておりませんので今般英霊にこたえる会及び太田市遺族会のご尽力並びに関係各位のご理解ご協力により、その後合併した地区等を含めた戦没者及び戦災被爆者の慰霊碑2基を建立し、今日の太田市繁栄の礎となられた御霊に対し、尊崇と感謝の意を表するものであります。
 昭和56年3月吉日 
  太田市長 戸澤久夫

慰霊碑(中央)

中央の慰霊碑の裏面

維時昭和28年9月23日太田市出身殉国英霊ニ白ス
諸士等身ヲ君国ニ捧ゲ終ニ異境ノ花ト散ル 
其ノ忠烈ハ永ク責史ヲ◯シ英魂長ヘニ国家ノ柱礎タリ
茲ニ平和回復ハ年ヲ迎へ太田市遺族会並ビニ有志一同碑ヲ建チ衷心諸士ガ英魂ヲ慰ム
希クハ英霊神力ヲ増上シ長ヘニ護国ノ霊威ヲ加ヘンコトエヲ
 鈴木霊海撰
 昭和28年9月23日
  太田市慰霊碑建設委員会建之

皇紀二千六百年記念

昭和15年2月11日 太田各町有志

慈愛の鐘。
もとの鐘は、戦争中に供出。昭和31年に再鋳造。

場所

https://maps.app.goo.gl/Nh7SL6j9Qbqm5Ezz9


中島飛行機太田製作所
(SUBARU 群馬製作所本工場)

中島飛行機太田製作所は、現在のSUBARU群馬製作所本工場。

昭和9年(1934)11月に太田に新しい機体組み立て工場を設け、「太田工場」として稼働。従来から旧太田工場は「呑龍工場」と改称。
昭和12年(1937)に、太田工場を太田製作所に改称。
昭和15年に海軍機専用の組立工場として「小泉製作所」が開設すると太田製作所は陸軍機専用の組み立て工場となる。

中島飛行機が創業以来終戦までに製作した機種は民間機21種、陸軍機40種、海軍機65種の計126種で、総生産機数は2万5935機に及んだ。
工場は分散され、太田工場では陸軍機1万2334機、海軍機3003機、民間機74機の計1万5411機を生産したとされている。

https://maps.app.goo.gl/XcvjyCGiYnFcELiT6


中島飛行機太田製作所付属太田病院
(太田記念病院)

昭和13年に、中島飛行機太田製作所付属太田病院として開設するも昭和20年の終戦とともに病院閉鎖。
昭和21年に旧中島飛行機の八幡寮を改修して富士産業太田健康保険組合病院として、現在の八幡町で、戦争の災禍にあった太田地域住民のために開設。
平成24年に八幡町から現在の大島町に移転している。
現在は、株式会社SUBARUの健康保険組合病院。

https://maps.app.goo.gl/ouZrsiRwQX1CvrVZ8


太田大空襲

中島飛行機を有する太田市は、米軍の攻撃目標となり、終戦まで7回の空襲に見舞われた。
昭和20年2月10日の最初の空襲では、B29が約90機飛来し、午後3時過ぎから爆弾約750発、焼夷弾約200発を投下。
1時間ほどで太田製作所は、工場の東側が壊滅的な被害を受けた。周辺の学校や民家なども巻き込まれ、中島飛行機の工員を中心に死者約160人、けが人約280人、被災者は約2500人にのぼった。
2月10日の空襲のあと、立て続けに2月16日、2月25日も空襲され、中島飛行機の太田製作所、小泉製作所や太田飛行場などが次々と空襲で破壊された。そうして、太田と周辺は終戦間際の8月14日まで計7回の空襲に遭い、計約250人が亡くなったとされている。


太田市戦災被爆者慰霊記念の碑

太田中央公園内に。

太田市戦災被爆者慰霊記念の碑
 太田市長 戸澤久夫書

安らかに
この国の永遠の
平和を祈念して
 建設大臣
  長谷川四郎書

趣意書
 わが太田市は、太平洋戦争の末期、昭和二十年二月十日、二月十六日、二月二十五日、四月四日、七月二十八日、八月十四日と数度にわたって、はげしい空襲に見舞われその度毎に数多くの死傷者が続出したが、現在の太田市在住の遺家族数は、五十五家族、その被爆犠牲者は壱百弐名に及んでいる。
 ところで、戦後における国の援護の実状は、民間の被爆犠牲者には、その処遇も行われないまま、すでに三十有余年の年月を経てきたのである。そのため、本市鳥山に存在する大越福は、昭和四十五年十二月、太田市戦災被爆者遺家族の会を結成し、その会長となって 私財を投じて国会等に対し、強力な陳情活動を続けたのである。時あたかも今年昭和五十二年は、被爆犠牲者の三十三回忌にあたり、市当局並びに市民各層の協力のもと太田市戦災被爆者慰霊祈念の碑の建設となったのである。
 このことは、この国の永遠の平和をこいねがう被爆遺家族のせめてものねがいでもあり、こゝに記してその由来とする所以である。
 昭和五十二年八月十日
  広田良撰文

https://maps.app.goo.gl/gSpNU4H8tDvxPued9


大田駅

ちなみに、市内散策には太田市のレンタサイクルを活用しています。

※撮影:2024年1月

その3に続く。


中島飛行機関連

はじめに

座間・陸軍士官学校の戦跡散策4「相武台碑と大講堂・雄健神社跡」(在日米陸軍キャンプ座間)

ようやく「キャンプ座間」に立ち入る機会がありました。
2023年8月「日米親善盆踊りフェスティバル2023」
花火や盆踊りでフレンドシップなイベント。米軍基地が一般開放されますので、散策してきました。

2024年4月の「キャンプ座間 桜祭り / CAMP ZAMA CHERRY BLOSSOM FESTIVAL」で再訪し、記事を大幅に補完しました。

「座間・陸軍士官学校の戦跡散策」シリーズとしては、「その4」となります。
米軍基地以外の関連する散策は以下より。


相武台(相武臺)

座間には、陸軍士官学校があった。
陸軍士官学校の土地は、現在の「キャンプ座間」となっている。

小田急「相武台前駅」、JR相模線「相武台下駅」。
座間市と相模原市に地名として使用されている「相武台」は、もともと陸軍に関係のある名称であった。

昭和12年(1937年)、陸軍士官学校が、市ヶ谷台より座間に移転。
昭和12年12月20日に行われた陸軍士官学校卒業式に 昭和天皇が行幸した際に、同校に「相武台」の名称が賜名された。

  • 市谷台 座間に移転する前の陸軍士官学校(本科・予科)
  • 相武台 陸軍士官学校(陸士)
  • 修武台 航空士官学校(航士)
  • 振武台 陸軍予科士官学校(予士)
  • 若松台 陸軍経理学校
  • 健武台 東京陸軍幼年学校

陸軍士官学校が移転したあとの市谷台には、陸軍省や参謀本部なのでの省部が三宅坂から移転し、陸軍の中枢となった。

相武台(相武臺)

記念碑の揮毫は、陸軍大臣・杉山元大将。
昭和20年の終戦時には、相武台碑は地中に埋められたが、2年後の昭和22年に米軍第8軍司令官ロバート・L・アイケルバーガー中将の命令で掘り出され、現状に復された。

相武台碑
昭和12年12月20日天皇陛下御命名
昭和14年建立

昭和十二年陸軍士官學校󠄁此ノ地ニ移ル冬󠄀十二月二十日 
天皇陛下卒業式ニ行幸アラセラレ親シク生徒ノ演習󠄁ヲ臠ハセ給ヒ陸軍大臣ヲ召シ本校󠄁所󠄁在地名ヲ特ニ相武臺ト賜フ大臣ハ恐懼感激シ益󠄁々練󠄀武養󠄁材ノ實ヲ擧ケ 聖󠄁旨ニ副ヒ奉ランコトヲ奉答セリ 
謹󠄀ミテ按スルニ相模國ハ古ク佐賀牟ト訓シ古事記日本武尊󠄁東征ノ條ニ相模國ニ作ル臺ハ其ノ形󠄁勝󠄁ヲ占メ相模原ヲ控󠄁ヘ最モ武ヲ練󠄀リ銳ヲ養󠄁フニ適󠄁ス乃チ武ヲ相ル意󠄁ヲ寓シ給ヒタルモノト拜ス茲ニ御命名書ノ相武臺ノ三字ヲ廊󠄁大シテ碑ニ題シ緣由ヲ背ニ記スト云爾
 昭和十五年八月二十日 
  陸軍大臣 三位勲一等功五級 杉山 元 書


陸軍士官学校関連記念碑(相武台碑周辺)

相武台碑の周辺には、陸士関連の記念碑が多い。
卒業順に掲載。

なお、下記の資料を参照

https://www.usarj.army.mil/Portals/33/about/history/Monuments_and_Markers_v4_202101.pdf


陸士50期卒業記念

旧陸軍士官学校第50期生卒業記念碑
昭和12年12月20日卒業

陸士50期は、陸軍士官学校が座間に移設してから初の卒業組となる。
昭和9年4月入学、昭和12年12月卒業。相武台は3ヶ月しか過ごしていないクラス。466名卒業のうち、175名が戦死している。

陸士51期卒業記念

旧陸軍士官学校第51期生卒業記念碑
昭和13年12月22日卒業

昭和10年4月入学、昭和13年12月卒業。506名卒業のうち176名戦死。

陸士52期卒業記念

旧陸軍士官学校第52期生卒業記念碑
昭和14年9月7日卒業

昭和11年4月入学、昭和14年9月卒業。635名卒業のうち245名戦死。
52期が在学中に、予科と本科の課程が戦時体制に改定され、訓練期間も48ヶ月から36ヶ月に短縮となっている。

陸士53期卒業記念

こちらは大講堂脇に建立

旧陸軍士官学校第53期生卒業記念碑
昭和15年2月27日卒業

昭和12年4月入学、昭和15年2月卒業。日中戦争勃発により定員が増員。1710名の卒業のうち800名が戦士している。

陸士54期卒業記念

場所は相武台碑から、外れて、体育館の脇の駐車場に。

奮忠
旧陸軍士官学校第54期生卒業記念碑
昭和15年9月卒業

第54期は、昭和12年12月入学、昭和15年9月卒業。2186名の卒業のうち、891名が戦死。

※上記2枚は2024年4月撮影

陸士55期卒業記念

相武台碑の周辺に戻ります。


旧陸軍士官学校第55期生卒業記念碑
昭和16年7月18日卒業

昭和49年に建立。
昭和13年12月入学、昭和16年7月卒業。2349名の卒業のうち、953名が戦死あるいは捕虜収容所で亡くなっている。

第1期将校学生卒業記念

境界西角。

旧陸軍士官学校第1期将校学生卒業記念碑
昭和16年7月卒業

第1期将校学生は、昭和15年10月入学、昭和16年7月卒業。51名の卒業。

陸軍士官学校第21期少尉候補者卒業記念

旧陸軍士官学校第21期少尉候補者卒業記念碑
昭和16年9月30日卒業

昭和15年12月に入学し昭和16年9月に卒業。卒業生267名。卒業3か月後に下士官から少尉に任官した。

第2期将校学生卒業記念

旧陸軍士官学校第2期将校学生卒業記念碑
昭和17年9月17日卒業

第2期将校学生は、昭和16年11月入学、昭和17年9月17日卒業。90名の卒業。

陸軍士官学校第22期少尉候補者卒業記念

旧陸軍士官学校第22期少尉候補者卒業記念碑
昭和17年9月17日卒業

第22期少尉候補者は、昭和16年11月入学、昭和17年9月17日に卒業。481名卒業。

陸士56期卒業記念

旧陸軍士官学校第56期生卒業記念碑
昭和17年12月17日卒業

第56期生は、昭和14年12月入学、昭和17年12月卒業。
地上兵科1672名、航空兵科627名の卒業。地上兵科257名が航空兵科操縦士に転出し、操縦士884名のうち545名が特攻で戦死。
56期生合計では2299名のうち1071名が戦死。戦死者を一番出した期となっている。

第3期特別将校学生卒業記念

「三紀会」
旧陸軍士官学校第3期将校学生卒業記念碑
昭和18年11月15日卒業

第3期特別将校養成課程で、昭和18年1月入学、昭和18年11月修了した予備役将校学生。118名のうち69名が戦死。

陸士57期卒業記念植樹

旧陸軍士官学校第57期生記念植樹
昭和19年4月卒業

第57期は、昭和16年4月入学、19年4月卒業。
航空兵科卒業生400名のうち74名が戦死、地上兵科卒業生1150名のうち299名が戦死。
昭和58年5月22日建立。後述するが57期は卒業記念碑は建立せず、雄健神社の近くに桜を植樹している。そしてこちらは戦後の記念植樹。

陸士60期在校記念

「和」
旧陸軍士官学校第60期生記念碑

第60期生は、昭和19年3月から昭和20年8月まで在校。陸軍最後の士官候補生であった。第60期生は疎開先の長野で終戦を迎えている。
「和」記念碑は昭和57年に建立。

陸士58期までは卒業したが、59期と60期は在校での終戦。

陸軍士官学校第4期将校学生卒業記念

旧陸軍士官学校第4期将校学生卒業記念植樹碑

第4期将校学生は、昭和18年に卒業。50周年の平成5年に植樹を記念して建立。


雄健神社跡

陸軍士官学校の神社「雄健神社」。

雄健神社跡
昭和12年9月陸軍士官学校は、東京市ヶ谷台よりこの地相武台に移転し、翌13年6月に雄健神社が建立され、左記の御祭神と共に同校出身戦死者 殉職者が合祀された。
 天照大神 鹿島大神 大国主大神
 靖国大神 香取大神 明治天皇
在校生は朝な夕な社殿に額づいて心を正し、崇高な使命に殉じた先輩の意志を継ぎ立派な将校になることを願い、文部の道に励んだ。
 終戦の年、御祭神は長野県北佐久郡望月の里にある、大伴神社に遷座しお祀りして来たが、昭和31年6月 靖国神社に於て 昇神の儀を執り行い、その歴史を閉じた。
 往時の純真にして崇高なる精神をはぐくんだこの地を史跡として末永く保存するため有志相集い、在日米陸軍本州駐屯部隊並びに陸上自衛隊第三施設群のご協力を得てここに鳥居を再建した。
 昭和60年12月吉日
  財団法人 偕行社内
   相武台鳥居再建委員会

陸軍士官学校は昭和20年に佐久市望月など川西地域に疎開しており、雄健神社も、郷土の名社であった大伴神社に遷座していた。

市ヶ谷台の雄健神社


方位石(陸軍士官学校遙拝所方位盤)

長さ2.7m、幅2.3m、高さ60cmの巨石。
もともとはチャベルヒルのある場所にあったが、平成26年に現在地に移築。
円形状のくぼみに、かつては大理石の方位盤が埋められ、盤面には皇居や明治神宮、伊勢皇大神宮、陸軍司令部所在地の地名や方角などが刻まれていた。
陸軍士官候補生は毎朝、方位石にて皇居に遥拝し、明治神宮や伊勢皇大神宮の大祭時には国家安泰を祈念した。

いまは、鳥居の手間にあるので、手水石のような佇まい。

以下は、南地区の富士山公園内にある「方位石」(陸軍士官学校遙拝所方位盤)を参照まで。

なお、さらに奥に進むことができたが、米軍基地内でどこまで侵入してよいのかがわからず、進むのはためておきました。(以前、別の基地で「Keep out」表示がない場所で米軍の警備員に呼び止められた苦い思い出もあるので。)

DO NOT ENTER FOR AUTHORIZED PERSONNEL USE ONLY
Only for use by trained Soldiers under supervision Refer to TRADOC TP 385-1
関係者以外立ち入り禁止
監督下の訓練を受けた兵士のみ使用可能 TRADOC TP 385-1 参照

うん。ひとまず、戻りましょう。。。

雄健神社跡の観桜が良かったですね。


陸軍士官学校関連記念碑(雄健神社跡周辺)

雄健神社の鳥居周辺にも、記念碑が散在している。

陸士57期卒業記念

旧陸軍士官学校第57期生
昭和19年4月20日卒業
卒業記念碑を建立せず同期一同血書して名を連ねこの地に埋めた

陸士57期(昭和16年4月~昭和19年4月)
400名の航空兵科転科者は74名が戦死。1,150名の地上兵科卒業生のうち299名がビルマ・フィリピン・ニューギニアなどの東南アジアで戦死している。

陸士57期の血書の桜。
由縁を知るとさらに趣が深まる桜。ありがとうございます。

陸士58期卒業記念

七生報国

旧陸軍士官学校第58期生
卒業記念碑
昭和20年6月17日卒業

士官学校最後の卒業生となった第58期生(昭和17年4月~昭和20年6月)。
2,395名の学生が本科生となったころには、本土空襲も頻繁になっており、昭和20年4月には相武台も空襲を受け、校内で初めて実戦に参加した士官候補生でもあった。卒業後は、すでに制空権も制海権も失われていたために外地の戦闘部隊に合流することもできず、その結果、他の期生と比べると戦死者は少なく90名が戦死したにとどまっている。

陸士59期在校記念

在校記念碑
陸士第59期生
昭和20年8月30日修業

第59期生(昭和18年4月~昭和20年8月)は、卒業記念ではではなく、在校記念での石碑となる。
合計2,850名の士官候補生のうち1,250名は本科地上兵科生で、終戦を長野県で迎えている。(陸軍士官学校の疎開)
同期の豊岡航空学校の本科生の一部は実戦技能訓練を満洲で実施していたために約100名の候補生は、終戦時にソ連の捕虜となりシベリア収容所に連行され、多くの候補生がシベリアで死亡し、生存者も帰国まで4年の月日を要している。

第22期生任官30周年記念碑

第22期(明治41年12月~明治43年5月)の卒業生が将校任官30周年記念として昭和15年に建立。
市ヶ谷台時代の卒業生たちは、本科が相武台に移転したあとも、自分たちの母校として記念碑を建立したことがわかる。

第24期生任官30周年記念碑

旧陸軍士官学校第24期生
卒業30周年記念碑
明治45年5月27日卒業

第24期(明治43年12月~明治45年5月)の卒業生の帝国陸軍将校任官30周年記念で昭和17年に建立。


陸軍士官学校大講堂(Kizuna Hall)

昭和12年(1937年)、陸軍士官学校が、市ヶ谷台より座間に移転。
おそらくは、その際に造営されたと推測。
米軍進駐後は映画館としても使われた。
現在は「Kizuna Hall」として活用されている。


天皇陛下用防空壕

陸軍士官学校大講堂の裏手に防空壕の入口がある。
大きな入口は裏手の右側にあり、小さな入口は裏手にあたる。
昭和17年に造られた 天皇陛下用の防空壕。

壕内には約17mの曲がりくねった通路があり、広さが30平方mの部屋に通じているという。鉄筋コンクリート造の防空壕の壁の厚さは70cmで天井の厚さは1.7m。
昭和12年から昭和20年まで、士官学校では9回の卒業式があり、そのうちの7回に 天皇兵陛下がご臨席になられた。しかし、防空壕は一度もご利用にはならなかった。ちなみに、51期はご病気、58期は首都圏空襲で欠席であった。

なお、出入り口は2箇所ある。

旧陸軍士官学校
天皇陛下行幸時の防空壕
昭和18年建設(未使用)

「Kizuna Hall」の後ろにも。もう一つの入口。

Authorized Persons Only
権限のある人のみ、だそうで。


陸軍マンホール

陸軍士官学校大講堂の周辺に、2つ残存。
中央に、陸軍のシンボルマーク「五芒」がある。

1つ目は、大講堂の北側。

2つ目。大講堂の正面。


陸軍士官学校生徒集会所

Camp Zama Express Main Store の東側。米軍のSUDCC(Substance Use Disorder Clinical Care)として使用されていた建物。
かつての「陸軍士官学校生徒集会所」
取り壊されるという話もあったが、2023年8月の段階では現存している。

2024年4月、解体を確認

2024年4月、解体を確認。
以下の写真は、解体後。


陸軍士官学校皇族舎(皇室宿泊施設)跡

かつてこの場所に、陸軍士官学校皇族舎があったが、現在は、振武臺記念館として、陸軍予科士官学校のあった朝霞に移築保存されている。

日米友好親善碑

以下は、2024年4月撮影

この場所から、南に歩けば、雄健神社跡。


陸軍制水弁

陸軍士官学校時代の制水弁。
陸軍のシンボルマーク「五芒」もある。


ノルマンディー上陸作戦40周年記念碑

ノルマンディー上陸作戦40周年記念碑

桜の季節


キャンプ座間/座間駐屯地

キャンプ座間は、在日米陸軍司令部、米陸軍第1軍団前方司令部などが置かれ、在日米陸軍の中枢部として機能している。

座間駐屯地には、陸上総隊司令部日米共同部が展開。

中央の第1ゲートからも、ちらりと見える鳥居。

桜の季節

平和
日米友好碑

グランドの北側に。

陸上自衛隊ー在日米陸軍
座間キャンプ共同使用開放記念碑

ここは陸自っぽい。

陸自ですね。


給水がありがたい。。。

鳥居、、、

消防署

野外ステージ

芝生

野球場が盆踊り会場

出店のメインストリート

大人気なファーストフード行列。

ローストチキン

生ビール

暑すぎたので、かき氷

暑すぎて、かなりの疲労困憊だったということもあり、
いくつか確認漏れを自覚しているので、リベンジします。。。

2024年に再訪して、各記事に写真追加済

※撮影:2023年8月 2024年4月


米軍関連

ソメイヨシノの原木候補?「上野公園の小松宮彰仁親王像周辺の桜」

ウソかホントかは不詳ではあるが、上野公園の染井吉野(ソメイヨシノ)が、原木との説がある。


ソメイヨシノの原木候補?

桜は一週間くらいで一斉に咲いて一斉に散るイメージがあるが、これは桜の代表格であるソメイヨシノが、親木から接ぎ木などで増殖したクローンのために、同じように開花するという。
そして、上野公園の小松宮彰仁親王像近くのソメイヨシノが、「第一世代となる親木では?」という発表があり、この場所には4本のソメイヨシノから全国に広まったと考察されている。そして、このうちの1本がソメイヨシノの元祖となる原木に最も近い世代ともされている。

https://news.mynavi.jp/techplus/article/20220325-2302935/

https://www.tokyo-np.co.jp/article/168025

https://corp.fugetsudo-ueno.co.jp/history/detail/id=1224

https://withnews.jp/article/f0150416003qq000000000000000G0010701qq000011854A

ソメイヨシノの原木?


小松宮彰仁親王銅像

小松宮彰仁親王
1846年2月11日〈弘化3年1月16日〉 – 1903年〈明治36年〉2月18日)
日本の皇族、陸軍軍人。官位は元帥陸軍大将大勲位功二級。伏見宮邦家親王第8王子。
明治維新では、王政復古とともに議定・征討大将軍となり、のち陸軍大将・近衛師団長・参謀総長を歴任し、元帥の称号を授けられた。
日本赤十字社初代名誉総裁でもある。

小松宮彰仁親王銅像
  台東区上野公園八番
 彰仁親王は伏見宮邦家親王第8王子。安政5年(1858)京都仁和寺に入って純仁法親王と称し、慶応3年(1867)勅命により22歳で還俗、東伏見宮嘉彰と改称した。同4年1月の鳥羽・伏見の戦いに、征東大将軍として参戦。ついで会津征討越後口総督になり、戊辰戦争に従軍した。
 明治10年5月、西南戦争の負傷者救護団体として、博愛社が創立されると、9月その総長に就任した。 同15年には、小松宮彰仁親王と改称。同20年、博愛社が日本赤十字社と改名すると、総裁として赤十字活動の発展に貢献した。同36年1月18日、58歳で没。
 銅像は明治45年2月に建てられ、同3月18日、除幕式が挙行された。作者は文展審査員の大熊氏廣。「下谷區史」は当地に建てた理由について、寛永寺最後の門跡・輪王寺宮公現法親王(のちの北白川宮能久親王)の兄宮であったことに因んだのだろうと推察している。
 平成八年7月
  台東区教育委員会


コマツオトメ(小松乙女)

コマツオトメ(小松乙女)
 原木は上野恩賜公園内の小松宮彰仁親王銅像の近くにあり、、エドヒガンの雑種で、西田尚道氏がこの木を新品種とすることを提唱しました。
 小松宮銅像から「小松」の名をとり、また可愛らしく美しいことから「小松乙女」と命名されました。
 上野恩賜公園のシンボルの桜として大切に育てられています。
 東京都東部公園緑地事務所・上野桜守の会

撮影:2017年4月、2024年4月


上野公園関連