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駅弁文化は日本と台湾だけ!「台鉄友好協定締結記念ひっぱりだこ飯・臺鐵便當(海味便當)」

神戸の駅弁「ひっぱりだこ飯」。
人気の淡路屋の駅弁。
入手する機会がありましたので、せっかくなので掲載。


臺鐵便當(台鉄弁当)

台鉄弁当(繁体字中国語: 臺鐵便當)とは台湾鉄路管理局(台鉄)が駅および列車内で販売している駅弁。
台湾総督府時代から日本の影響を受け、1895年から1945年の50年間、日本による統治で鉄道網が台湾全土で整備され、駅弁の文化も日本から持ち込まれた歴史がある。
今日の台湾は日本以外、唯一「駅弁」という文化を持っている国。

本場の臺鐵便當(台鉄弁当)は、排骨弁当が最も有名。
台湾で駅弁を食べたいところだけど、ひとまずは、コラボ弁当で満足しておく。

台鉄友好協定締結記念ひっぱりだこ飯

2023年12月に、台湾鉄路管理局との友好協定締結を記念したひっぱりだこ飯がリリース。
台鉄(臺鐵)のロゴをあしらった濃紺色の陶器を使用。
通常のひっぱりだこ飯に、台湾風の魯肉を加え、飯は白飯に、菜の花はごま油和えにするなど、台湾を感じられる仕様のひっぱりだこ飯に仕上げっている。
掛け紙には、おなじみのたこイラストと台鉄のマスコットの熊を描いた特別仕様。

なお、中国語では「海味便當」と。

台鉄友好協定締結記念ひっぱりだこ飯を発売します。
2023年12月8日、弊社と台湾鉄路管理局との間で友好協定締結を記念し、「台鉄友好協定締結記念ひっぱりだこ飯」を発売します。

当該協定締結は、2019 年秋、台鉄主催の「第五回鐵路便當節」に弊店が参加したのがきっかけ。
当社商品「ひっぱりだこ飯」の反響が大きかったため、今後も協力関係を築いていこうと意気投合しましたが、新型コロナウイルスのパンデミックにより頓挫。互いに大きな影響を受けつつも情報交 換は継続。そして、新型コロナが落ち着きを見せた 2023 年 6 月、「第八回鐵路便當節」に参加。改めて「ひっぱりだこ飯」の人気ぶりを確認するとともに、経営やブランドマーケティングなど様々な分野で情報交換・協力関係を築き、一層の「駅弁文化の醸成」に寄与すべく、今回の友好協定を締結することと致しました。

友好協定締結を記念して、日本と台湾、双方で特別仕様の「ひっぱりだこ飯(台湾:海味便當)」を販売します。双方共通で、ひっぱりだこ飯の陶器に台鉄のロゴマークをあしらった濃紺色の陶器を用いて販売します。

日本側は、通常のひっぱりだこ飯に、台湾風の魯肉を加え、飯は白飯に、菜の花はごま油和えにするなど、台湾を感じら れる仕様のひっぱりだこ飯に仕上げています。掛け紙は、双方共通デザイン。おなじみのたこイラストと台鉄のマスコットの熊を描いた特別仕様です。

https://www.awajiya.co.jp/%E5%8F%B0%E9%89%84%E5%8F%8B%E5%A5%BD%E5%8D%94%E5%AE%9A%E7%B7%A0%E7%B5%90%E8%A8%98%E5%BF%B5%E3%81%B2%E3%81%A3%E3%81%B1%E3%82%8A%E3%81%A0%E3%81%93%E9%A3%AF%E3%82%92%E7%99%BA%E5%A3%B2%E3%81%97%E3%81%BE/

ひっぱりだこ飯の「たこ」イラストと、台鉄のマスコットの「熊」

ひっぱりだこ飯に、台湾風の魯肉。たいへん美味でした!

※2024年1月撮影


台湾関連

はじめに

第1空挺団「降下訓練始め」(陸自習志野演習場・2024)

令和6年1月7日、陸自第1空挺団による新春恒例の「降下訓練始め」が実施されましたので、足を運んでみました。

自衛隊で唯一の落下傘部隊である第1空挺団。
不法占拠された離島を、敵国から奪還するとの想定で、約1時間の訓練展示が行われました。


空の神兵

大日本帝国陸軍・海軍の落下傘部隊(空挺部隊・挺進部隊)、落下傘兵(空挺兵・挺進兵)に対する愛称。
海軍は「空挺部隊」
陸軍は「挺進聯隊・挺進集団」
そして、陸自は「空挺団」

太平洋戦争(大東亜戦争)蘭印作戦
1942年(昭和17年)1月11日
海軍の横須賀鎮守府第一特別陸戦隊がセレベス島メナドに対し敵前にて奇襲落下傘降下を敢行。。
1942年(昭和17年)2月14日
陸軍の第1挺進団(挺進第2連隊)がスマトラ島パレンバン(パレンバン空挺作戦)に対し同じく敵前にて奇襲落下傘降下を敢行。
両作戦は成功しオランダ軍他が守備する飛行場(メナド・パレンバン)や、大油田・製油所(ともにパレンバン)を制圧した。
これらの活躍から日本軍落下傘部隊に対し「空の神兵」の愛称が付けられた。

「空の神兵」は、帝国陸軍落下傘部隊(第1挺進集団)の事実上の後身である陸上自衛隊第1空挺団にも継承されている。
習志野の陸自第1空挺団は、昭和27年より研究されれ昭和30年に設立した初代空挺教育隊を起点とし、初代空挺教育隊長を務めた衣笠駿雄元陸軍少佐(初代第一空挺団長)に率いられた第1次研究員20名によって昭和33年に創設された。
この第1次研究員20名こそが太平洋戦争末期に帝国陸軍落下傘部隊において教育途中であった元挺進兵であった。そのため帝国陸軍落下傘部隊の歴史は陸上自衛隊落下傘部隊の歴史とされ、その伝統を堂々と継承している第1空挺団の事実上の隊歌として使用、かつ「降下訓練始め」では歌唱付きの『空の神兵』がそのまま場内で放送されている。


降下訓練始め 準備

一般開放は朝8時30分から。
6時すぎに「新京成・習志野駅」に到着して、6時30分頃に「習志野演習場」に到着。もうすでにいい感じに行列ができていました。

7時半ごろの空模様。まだ雲が残っていますね。

時間通り、8時半に入場開始。

滑走路脇から演習場まで歩く。

8時50分頃、演習場に面した高台の観覧場で、今日の観覧場所を確保。

散水車が演習場内をグルグルしていました。

スタンバイ中の10式戦車と16式機動戦闘車

10時30分すぎに、CH-47チヌークから各国の関係者が到着。
本来は、空挺団・各国指揮官等降下展示を予定していたが、悪天候(強風)のために、着陸からの展開。

今回は、アメリカ、イギリス、カナダ、フランス、ドイツ、オランダ、そしてインドネシアとの合同訓練。

木原稔防衛相もCH-47で登場。桜星5つ旗ですね。


降下訓練始め

10時47分。上空に1機のCH-47が飛来。

「ヘリボーン作戦」

状況開始!

上空1800メートルから、制圧のための潜入降下。

援護として、AH-1S(コブラ)の支援。

約340メートルからの降下。

C-2輸送機

米軍機も参加。米軍機C-130からの降下も実施。

観戦武官というか、参加国に、今回は初でオランダとかインドネシアとかも参加していますが、アメリカ軍機から降下する日本の第1空挺団の降下BGMは、おなじみの「空の神兵」。その伝統には揺らぎがない。

空の神兵
 梅木三郎作詞  高木東六作曲

藍より蒼き大空に大空に 忽ち開く百千の
真白き薔薇の花模様 見よ落下傘空に降り
見よ落下傘空を征く 見よ落下傘空を征く

世紀の花よ落下傘落下傘 その純白に赤き血を
捧げて悔いぬ奇襲隊 この青空も敵の空
この山川も敵の陣 この山川も敵の陣

敵撃摧と舞い降る舞降る まなじり高きつわものの
いずくか見ゆるおさな顔 ああ純白の花負いて
ああ青雲に花負いて ああ青雲に花負いて

讃えよ空の神兵を神兵を 肉弾粉と砕くとも
撃ちてしやまぬ大和魂 我が丈夫は天降る
我が皇軍は天降る 我が皇軍は天降る

足を屈することのないきれいな着地。

降下後にいかに素早く迅速にパラシュートを片付けるかも見どころ。

すぐさま、進撃を展開

航空支援
戦闘ヘリコプターAH-1S(通称「コブラ」
多用途ヘリコプターUH-1J(通称「ハンター」)

輸送ヘリコプターCH-47(通称「チヌーク」

チヌークは、大活躍です!

高機動車と120ミリ迫撃砲の運搬。

火砲での制圧

地上支援

10式戦車と16式機動戦闘車

軽装甲機動車LAV(ラヴ)も。

三度の航空支援

さらには、米軍による空挺支援
ただし、悪天候で降下中止。上空通過のみ。
米軍空挺が中止した中で、普通に空挺を成功させた習志野第一空挺団は、さすが「第一狂ってる団」(褒め言葉

米軍から言わせると、習志野演習場は狭くて、こんな狭い所に空挺降下する陸自の第一空挺団は、頭おかしいそうで。。。

チヌークの襲来。

米国、英国など、同盟国及び同志国の部隊が来援

地上戦を展開し、敵を撃破し離島を奪還したところで、訓練展示は11時45分頃に終了。

状況終了!


降下訓練始め 終了

木原防衛大臣訓示などの式典

ちょっと遠い。
APS-Cの300mmなので、光学450mm換算だけど、それでも遠い。

16式機動戦闘車、砲口の掃除を実施していました。

航空自衛隊第1高射群第1高射隊が装備する地対空誘導弾ペトリオットの発射地区、かな。

なんか古そうな建屋。陸軍時代?かどうかは不詳。

このあたりは、陸軍演習場、射撃場などが設けられていたが、往時の航空写真を見ても建屋は確認できないほどに、なにもない原野の射撃場のため、戦後の建立とは思われるが。(移築などがあるとなんともいえないですけど)

習志野射撃場

滑走路

習志野演習場を出たのは、12時40分すぎ、でした。

習志野駐屯地を横目にみながら、駅まで戻ります。

※2024年1月撮影


関連(習志野)

百里基地航空祭2023・その2

2023年12月17日、茨城県の百里基地航空祭に行ってきましたので、その模様を。

本編は、「その2」となります。歴史的なことは「その1」で。

高機動でフライトをする戦闘機を撮影したのは、ぶっちゃけて初めてレベル。

機材
PENTAX KP (APS-C)
HD PENTAX-DA 55-300mmF4.5-6.3ED PLM WR RE
(焦点距離84.5~460mm相当)


F-2戦闘機

航空自衛隊中部航空方面隊第7航空団第3飛行隊のF-2戦闘機。


F-15J戦闘機

北部航空方面隊第2航空団(千歳基地)所属機。


T-4練習機

基本操縦課程の全てを担う、信頼性・整備性の高い純国産の練習機。

開幕での上空フライトのみでした。


救難活動展示

UH-60J
U-125A
救難活動展示。
百里救難隊。

小美玉の方向で火事があったようで。
奇しくも救難活動と黒煙が、リアリティを増してしまい。。。


その他

米軍の機動飛行は中止。。。

あいまあいまで民間機も共用利用するのが茨城空港。

百里名物らしい、、、没収預かりコーナー。


※撮影:2023年12月

百里基地航空祭2023・その1(百里原海軍航空隊の戦跡散策)

2023年12月17日、茨城県の百里基地航空祭に行ってきましたので、その模様を。

本編は歴史的なところを触れる「その1」となります。
航空祭そのものは「その2」で。


関連


百里原海軍航空隊

百里原海軍航空隊(ひゃくりはら)は、昭和13年に筑波海軍航空隊の補助飛行場が建設されたことに始まる。
昭和14年(1939)12月1日に筑波海軍航空隊百里原分遣隊から独立して開隊。初歩飛行訓練に従事。
昭和17年には予科練の受け入れを開始。
昭和19年(1944年)10月1日、「桜花訓練隊」として「第七二一海軍航空隊」が百里飛行場に開隊。
昭和19年11月7日、七二一空は「神ノ池飛行場」に転出。

昭和20年「第六〇一海軍航空隊」が百里原飛行場に進出。
同年4月には「神風特別攻撃隊・正気隊」が編成され出撃が行われている。
終戦後、飛行場は引揚者の開拓地に転用され破却されるも、首都圏唯一の戦闘機基地として昭和41年に百里基地が開隊している。


百里基地(雄飛園)

百里基地内にある用廃機(用途廃棄機)を保存展示しているエリア。
保存機の記録は多いようだけど、慰霊碑や記念碑の記録がすくないようなので、百里基地航空祭で開放をされていたエリアを散策記録しました。


百里原海軍航空隊記念碑

ここに百里旗海軍航空隊ありき
記念に桜を植え その栄光を伝う 
 昭和51年3月
  百里原海軍航空隊有志

百里原海軍航空隊と特攻について
百里原海軍航空隊は昭和13年、練習機の教育航空隊として発足した。
昭和16年大東亜戦争勃発、昭和18年練習機境域は他基地に移され、実用機の操縦員、偵察員の教育が開始されて昭和20年8月の終戦まで続けられた。
昭和20年3月沖縄戦が始まると、百里空も作戦に参加、教育に使用中の飛行機35機が九州から出撃、85名の隊員が沖縄の海域に散華した。
この記念碑の下に戦死者の名簿が埋めてある。
 平成20年3月
  百里原海軍航空隊有志


雄魂碑(殉職者慰霊碑

基地殉職者を祀っている。
昭和49年4月吉日の建立。


犬魂碑

基地内警備犬慰霊碑


F-4EJ飛行隊発祥の地記念碑

この記念碑は、第301飛行隊が昭和48年10月16日航空自衛隊初のF-4EJ飛行隊として誕生し昭和60年
3月九州に移動するまでの間、この百里基地において活躍したことを記念して建立したものである。

記念碑修復の記
 昭和六十年、部隊移動に先立ち建立されし本記念碑なれど、爾来十数年の風雪に耐え難く、「銘板」等の損傷見るに忍びず、第三〇一飛行隊(百里)出身者より浄財を募り、ここに「銘板」の修復・土手基礎部の造成をみるに至る。
 尚、「銘板」につきては、当初揮毫せりし土屋重正氏に依頼致したものなり。
 平成十三年九月吉日 記念碑修復実行委員会


第206飛行隊記念碑

栄光と共に
昭和40年12月~昭和53年12月
 第206飛行隊


アルゼンチンの碑

「アルゼンチンの碑」
大正十三年(一九二四)六月、アルゼンチン空軍のサンニ大佐とベルトラメ技師の二人が四五〇馬力の単発機を駆使し、アムステルダムから世界一周に飛び立ちました。
 同年十月、約二万キロメートルにも及ぶ人類未踏の大飛行を達成し、土浦の霞ヶ浦に着陸しました。
 その後、航空機の故障によりやむなく世界一周は断念することとなりましたが、二人の偉業を永久に顕彰するため、昭和五十六年十二月、アルゼンチン大統領の訪日に際し、最後の着陸地となった霞ヶ浦に近い百里基地に当記念碑が建立されました。


保存機

向こう側の保存機

こっち側の保存機

あまり興味がなかったようで、撮影ほぼシていませんでした。


百里基地

入り口。茨城空港とは反対側。航空祭の機会がなければ、まずこないですね。

航空祭の様子は、その2で。

2023年12月撮影


秩父宮御殿場御別邸の防空壕跡(秩父宮記念公園)

静岡県御殿場市。
秩父宮記念公園に、秩父宮家に関係する防空壕が残っているというので足を運んで見ました。


秩父宮雍仁親王

秩父宮雍仁親王(ちちぶのみや やすひとしんのう)
1902年〈明治35年〉6月25日 – 1953年〈昭和28年〉1月4日

大正天皇と貞明皇后の第二皇子。
明治天皇の皇孫にあたる。
昭和天皇は兄、長弟に高松宮宣仁親王、次弟に三笠宮崇仁親王がいる。
御称号は淳宮(あつのみや)。
日本陸軍の軍人でもあり、階級は少将。
勲等功級は大勲位功三級。
大正9年(1920)に陸軍士官学校に入校。陸士34期。同期は、同期には西浦進、石井秋穂、堀場一雄、赤松貞雄、西田税、三好達治など。
大正11年(1922)に、20歳で成年式を行い、宮家「秩父宮」を創立。
昭和3年(1928)、陸軍大学校に入校。陸大43期。同期は、森巌、辻政信など。
昭和15年(1940)に肺結核と診断され、戦時中は御殿場別邸で療養生活を余儀なくされる。
昭和27年(1952)、御殿場別邸から鵠沼別邸に移るも、病状が悪化し昭和28年(1953)1月4日に50歳で薨去された。


秩父宮御殿場別邸

もともとは、血盟団事件で暗殺された大蔵大臣井上準之助の元別荘であった。昭和16年(1941年)に秩父宮家が購入して秩父宮御殿場御別邸とされ、戦中戦後の時期をここで過ごした。

秩父宮雍仁親王・勢津子妃が過ごした元別邸を整備、公開した公園が秩父宮記念公園。
静岡県御殿場市の箱根外輪山の麓にあり、勢津子の遺言により御殿場市に寄贈されたのち公園となった。
平成7年(1995年)に遺贈され、平成15年(2003年)春にオープン。敷地面積1万8千坪、標高500mに位置している。


秩父宮同妃両殿下防空壕

秩父宮同妃両殿下防空壕
 当園内には、秩父宮同妃両殿下防空壕、将校の防空壕、民間人用僕空劫(未公開)の3つの防空壕があります。
 平成27年に戦後七十年を迎え、秩父宮同妃両殿下防空壕を一般公開に向けて整備を進めてまいりました。
 当時、皇位継承順位第三位であった殿下の防空壕は特殊掩体壕というかまぼこ型で、遮断層として石を1.5メートルほど積み上げ、その後さらに土を持った構造で強度があるものでした。
 昭和19年11月1日 
  御殿場別邸上空を敵機が通過するようになる。
 昭和20年3月16日
  東海軍により殿下専用の防空壕構築計画をたてる。
 昭和20年4月8日
  構築開始。
 昭和20年5月11日
  掩体セメント作業のため将兵250名を増員。
  その他約140名にて照明燈下のもと作業。
  その間、市内小学生も石積み奉仕作業に加わる。
 昭和20年6月22日
  竣工。
 昭和20年7月30日
  御殿場駅付近に爆弾8個投下により
  殿下は初めて新築防空壕に退避されました。
 病気療養中であった殿下を別邸から担架に乗せたまま防空壕の奥まで入れるカタツムリのような構造となっています。
 入り口は近くに爆弾が落ちても中に弾や飛散物、爆風が直接はいらないように折れ曲がり、厚い板戸がついた設計になっております。
 奥には煙突のような脱出口もついています。
  参考文献「銀のボンボニエール」
      (著者 雍仁親王新王妃勢津子)より

防空壕
 園内には3つの防空壕がある。現在内部公開している「将校防空壕」「両殿下防空壕」、未公開の「民間人防空壕」
 両殿下防空壕は、昭和20年3月造成開始、6月完成。その後7月30日御殿場駅付近での空襲時に退避、8月15日終戦を迎えた。
 当時の図面は「特殊掩体設計図」となっている。「特殊掩体」=「掩体壕」とは、かまぼこ型で大きな強度のある建物。躯体完成後、周りに遮断層として石を1.5m程度積み、その後土を盛った構造。当時地元の生徒が参邸し石積の奉仕をした。
 掩体壕設計図は、入り口から右に曲がり前室、そのまま居室へとまっすぐに入るようになっていたが、実際は入口から右に曲がり前室に入り、前室左側から居室に入るようにジグザクになっている。入口付近に爆弾が落とされても爆風が直接両殿下のいる居室には届かないよう、建設段階で変更したと思われる。

防空壕内部見取り図

石が積まれている。

右に折れる。

前室

居室。
奥には通気口が上に伸びている。

前室から出入り口を見る。

防空壕上部の通気口。

将校防空壕のところに、勢津子妃殿下の手記が抜粋されているので、あわせて記載しておきます。

◎秩父宮勢津子妃殿下が書かれた手記の中には以下のような記述があります。
参考文献:銀のボンボニエール(主婦の友社)
      平成3年6月27日発行
「8月15日」・・・289ページ
 別邸の屋根には迷彩が施され、東海軍部隊の兵隊によって強靭な防空壕も造られました。地下を螺旋状に掘り固めて、ちょうどカタツムリの殻のように奥にはいれるようになっておりました。奥には煙突のような脱出口もついていました。いざというときは宮さまを担架にお乗せしたままずーっと奥まで入れるのです。このほかには宮内省が作った簡素なものもございました。

◎御殿場の空襲についても下記のように書かれています。
「8月15日」・・・289ページ
7月30日、空襲警報が鳴ったと思うと、御殿場駅の方角でドカーンという大きな音がつづけざまに聞こえてきました。私にもそれが爆弾の音だとすぐに分かりました。御殿場駅から東に3キロのこの地もいよいよ危ないと思い、手伝いの者と急ぎ走って帰り、宮さまを皆で囲むようにして初めて防空壕に退避いたしました。後で聞くところによりますと、艦載機数機が御殿場駅構内を機銃掃射し、駅付近に50キロ爆弾を8個投下したということです。

◎両殿下が入られた防空壕は整備し、公開されています。
この防空壕を出て、正面の竹林内にある赤い三角の通気口がある場所


将校防空壕

こちらは秩父宮様の警護にあたったであろう将校用の防空壕。

なお、3つ目の防空壕にあたる宮内省が作ったという民間用防空壕(宮内省職員向けか)は、未公開。

宮様の防空壕は、今ではわかりやすく整備されている。


秩父宮雍仁親王像

昭和天皇より贈られた登山服姿の秩父宮殿下銅像は富士山に向けて設置されている。
昭和3年(1928年)に 昭和天皇の下命により、秩父宮邸御殿(赤坂表町御殿)の造営を記念して、朝倉文夫が制作。
東京赤坂の御本邸より昭和19年(1944年)に、御殿場別邸に移設された。
なお、秩父宮邸・赤坂表町御殿は昭和20年5月25日の空襲(山の手空襲)で本館が全焼している。
この空襲では、皇居内の明治宮殿も焼失している。


秩父宮記念公園

公式サイト

https://www.chichibunomiya.jp/

秩父宮記念公園は、昭和16年9月から約10年間、秩父宮両殿下が実際にお住まいになられていたご別邸を、秩父宮妃勢津子殿下が平成7年8月にお亡くなりになられた際のご遺言により御殿場市に御遺贈いただき、園内を整備し平成15年4月に開園した公園です。敷地面積は約1万8千坪(東京ドームの約1.5倍)、標高約500メートルにある庭園は、両殿下が愛された山野草を始め四季折々の花々を楽しむことができます。

秩父宮記念公園公式サイト

記念館(御遺品展示室)

記念館(母屋)
もともとは、大蔵大臣井上準之助の別荘であった。
享保8年(1723年)に建築されたものを、昭和2年(1928年)に移築。

井上準之助は、第二次山本権兵衛内閣、浜口雄幸内閣、第二次若槻禮次郎内閣の大蔵大臣。昭和7年(1932年)2月9日に血盟団事件によって暗殺される。

書斎、応接間、食堂として使用された部屋

秩父宮農場「宮さまの農事試験場」

三峰窯
秩父宮は陶芸を好まれた

御殿場からみる富士山。

※撮影:2023年12月


関連

玉音放送を発信した耐弾式送信所「足柄送信所跡」御殿場線の廃トンネル(山北町)

御殿場を散策した帰り道。御殿場線経由で、東京に戻る途中に夕刻に、時間が調整できたので、「谷峨駅」で下車。かねてより気になっていた廃トンネルに赴いてみました。


御殿場線

明治22年(1889年)に東京‐大阪を結ぶ鉄道(のちの東海道本線)として、国府津‐沼津間が開業。
昭和9年(1934年)に丹那トンネルが開通すると東海道本線は、熱海経由に変更され、国府津‐沼津間は、東海道本線の支線「御殿場線」となった。
第2次世界大戦中の昭和19年(1944年)に不要不急路線に指定され、単線化され、レールなどの資材は回収転用され、廃トンネルや橋脚などが残存している。

国際電気通信株式会社

昭和13年(1938年)に日本無線電信株式会社・国際電話株式会社を合併させて創立したのが「国際電気通信株式会社」(KDTK)であった。
国際電気通信株式会社は、対外無線電信電話の設備の建設、保守業務を行い、その設備を政府に供することによる使用料をその収入源とし、電信電話の運用業務は、政府が行っていた「半官半民の企業」であった。
昭和19年、軍、情報局、通信省が必要最小限の送信機を確保するため防空送信所を計画。
耐弾式送信所として足柄送信所、隠蔽式送信所として多摩送信所が建設されることになった。

国際電気通信・多摩送信所(隠蔽送信所)

国際電気通信は、本土空襲に備え戦争末期に2つ送信所を敷設した。
「多摩送信所」「足柄送信所」

東京都南多摩郡堺村相原と横山村寺田にわたる山林内で、三方を尾根に囲まれた一帯に、1945年4月、起伏と樹林を利用した隠蔽送信所として「多摩送信所」が開設された。

多摩送信所ではポツダム宣言を受諾を発信している。


国際電気通信・足柄送信所(耐弾式送信所)
御殿場線・箱根第五隧道(廃トンネル)

国際電気通信の「足柄送信所」は、軍部の要請に基づいて設置された極秘の防空送信所であり耐弾式送信所でもあった。御殿場線の廃トンネルを再活用し、昭和19年11月に竣工という。
20Kw電話送信機を1台、20Kw電信送信機を2台設置。
昭和20年8月15日の正午からの「玉音放送」を発信した極秘の防空送信所が「足柄送信所」であった。

足柄送信所から世界に向けて短波にのせられた玉音放送は、中国大陸や南方諸地域の軍人や在留邦人、南米などの日本人移民に終戦を伝える役割を果たした。

アクセスは、「清水橋」(駿河小山駅方向)から。谷峨駅側からはアクセスできません。。。

清水橋の旧道から右手に折れると、トンネルがあります。

箱根第五隧道(旧上り線)
全長は、275.53m。幅は、3.5メートル、高さは4.5メートル。岩盤が30メートル以上あり、空爆にも充分耐えられる耐弾式送信所であった。

通信機器を置いていた痕跡。
トンネルの中心部分は、床がコンクリート張りとなっている。

保全作業員用の退避所

排水口

両脇は排水溝として機能。

ちなみにライトがないとこんな感じ。

外光が見えてきた。

谷峨駅がわのトンネル開口部。

爆弾防止壁

通信設備を保護するために設けられたL字型の爆弾防止壁。これはなかなかの厚み。

戦後に、でっかい穴が開けられた、、、

御殿場線の本線が見えます。

並行する道路から。

この右側には、冷却池も現存している。(確認漏れ、、、)

新東名の建設工事中。山北ー駿河小山(新秦野IC – 新御殿場IC)は、2027年度の開通予定という。

場所(清水橋)

https://maps.app.goo.gl/BY7wTLeZiYijE1Wn6

谷峨駅。
1907年(明治40年)開設の信号場を前身とし、1947年(昭和22年)7月に駅として開業した。

現在の駅舎は2000年に改築したもの。

鉄道唱歌第1集13番
 いでてはくぐるトン子ルの
 前後は山北・小山驛
 今も忘れぬ鐵橋の
 下ゆく水のおもしろさ

山北駅と駿河小山駅の間に、谷峨駅がある。

※撮影:2023年12月


関連

「予科練生の指定食堂」と「海軍住宅跡」(土浦)

土浦駅周辺を散策してみました。
流れとしては、下記の補足みたいな感じ。


霞ヶ浦海軍航空隊・土浦海軍航空隊

大正11(1922)年に阿見村に開隊した「霞ヶ浦海軍航空隊」によって、土浦駅周辺には飲食店や海軍将校の住宅や繁華街など、海軍航空隊を支える海軍となった。
昭和15年(1940)には、「土浦海軍航空隊」(通称・予科練)も開隊。休日は予科練生たちの外出先として土浦市内の民家は「クラブ」「下宿」として活用され、そして「指定食堂」は予科練生たちへ食を提供し、大いに賑わった。


保立食堂(ほたて)・予科練生の指定食堂

明治2(1869)年創業の食堂。
予科練生の「指定食堂」のひとつ。
丼物が人気で、店の二階は予科練生と家族との面会にも利用されたという。

「上天丼」をいただきました。

海老天と海鮮かきあげの天丼。味噌汁は、あら汁。そして、ぬか漬け。
往時を思い起こしながら食べる天丼。これはありがたい味。

休日は予科練生が食事を楽しみ、家族との面会にも使った店。歴史的にも味わいが深く重い。

場所

https://maps.app.goo.gl/GPijaLCAVtFCiuF26


吾妻庵・予科練生の指定食堂

明治6( 1873)年創業のそば屋。
休日の日中に予科練生が訪れることのできる「指定食堂」であった。

場所

https://maps.app.goo.gl/qWChhKLTgt4UXXfg6


城藤茶店(しろふじのちゃみせ)・海軍住宅跡

昭和11(1936)年、亀城通り開通後に建てられた書院造りの住宅で、海軍士官が借りて住んでいたという。現在は古民家カフェとして活用されている。

場所

https://maps.app.goo.gl/rpLqGuQzgy81F9jk9


桜川橋・海軍道路

桜川橋は大正12(1923)年に架けられた、茨城県初のコンクリート製の橋。
橋は現在の国道125号上にあり、阿見町へと繋がっている。
通称「海軍道路」。霞ヶ浦海軍航空隊の軍用道路として整備された。

場所

https://maps.app.goo.gl/oNUXeX5LGtmDhZEVA

撮影:2023年12月


関連

土浦関連

はじめに

「観武ケ原」盛岡市青山地区の戦跡散策

盛岡市北西部の青山地区。往時は騎兵第三旅団や工兵第八連隊の駐屯地として発展した地域。
陸軍時代の面影を辿りつつ散策をしてみました。

観武ケ原(みたけがはら)

観武ヶ原(みたけがはら)は、現在の岩手県盛岡市の青山・みたけ・月が丘、及び滝沢市滝沢地区にあたる地域に広がっていた原野。後世に観武野(みたけの)とも。
大正天皇が皇太子時代に、練兵場を観閲した折に命名したと言われている。またそれ以前に、岩手山が眼前に見えることから、「御嶽(みたけ)」と呼ばれていたものを改めたという。

今昔マップ on the web


陸軍騎兵第三旅団・覆馬場(覆練兵場)(現・盛岡ふれあい覆馬場プラザ)

煉瓦造の建屋がのこっている。
かつて青山地区に6棟の「覆馬場」があったが、この1棟を残し解体されてしまった。
建築年代は、明治42年(1909年)となる。
陸軍第八師団騎兵第三旅団騎兵第二十三聯隊、騎兵第二十四聯隊が明治42年に編成配備。

盛岡ふれあい覆馬場プラザの施設概要と周辺案内
盛岡ふれあい覆馬場プラザと青山地区の歴史
 青山地区一帯は、藩政時代は荒涼とした原野でした。明治41年に、工兵第八大隊が弘前から移転、明治42年(1909)に、騎兵第三旅団第二十三聯隊、第二十四聯隊が編成配置され、煉瓦造の覆馬場が6棟建設されました。
 当時、南部駒は軍馬として優秀であり、岩手山から続く広い原野は絶好の演習地でした。終戦後の昭和21年には、観武原の開拓とともに、兵舎を応急仮設住宅とし、この年に青山町が誕生しました。
 青山地区一帯には、現在でも盛岡ふれあい覆馬場プラザ(旧覆馬場)をはじめ、近接する森永乳業盛岡工場敷地内には、騎兵第三旅団の兵舎の煉瓦造の門柱等が保存され、また独立行政法人国立病院機構盛岡病院の敷地内には、工兵第8聯隊の兵舎の門柱等が保存されています。
 また、平成18年に開業した青山駅の駅舎や門柱、ショッピングセンターの歩道境等にも煉瓦が使用されており、今日においても、煉瓦文化が根付いている地域となっています。

盛岡ふれあい覆馬場プラザの施設概要
 この建造物は、平成16年に地元住民や有識者、保存を求める団体等からの要望をうけ、平成17年に盛岡市が取得しました。その後、平成18年から平成21年まで、5回の旧覆練兵場活用懇話会を開催して策定した「旧覆練兵場整備基本構想」に基づき、平成23年度、24年度の2個年で整備を進めてきました。
 歴史的な景観を形成するうえで、復元を基本に、屋根等の外観の色彩は建築当時のものとし、外壁の煉瓦については、経年劣化部分を補修のうえ、煉瓦素地のままの外観としました。また、敷地内の桜の樹木も保存し、さらに、閉鎖的にならないよう緑化整備を行うなど、景観に配慮したものです。
 名称を「盛岡ふれあい覆馬場プラザ」とし、平成24年6月1日に、「多目的施設」として開館しました。この建造物は、約100年もの間、青山地区の歴史を見続けてきた建造物である、同地区における歴史的建造物のシンボルとして、また本市における近代化遺産として、次代に継承するものです。

境界柵の残骸かも。

内部を覗いてみる。

場所

https://maps.app.goo.gl/QpYMUoxPCGzWDZ7t9


第八師団工兵第八聯隊・工兵園
(現・国立病院機構盛岡医療センター)

病院内のちいさな庭園。整備されたこの庭園が、工兵の思い出の場所であった。

明治41年に、工兵第8大隊が弘前から移転してきている。

工兵園の由来(碑文)
1,この園庭は明治、大正、昭和に亘りこの地に駐屯した工兵第八聯隊及びその編成部隊の隊員の冥福と勲功を顕彰するため造営し後世の活用を希い、厚生大臣の承認を得て国立盛岡療養所に寄贈したものである。
1,工兵隊は第8師団管下青森、秋田、岩手、山形四県の壮丁を訓練し数々の戦役に従軍して、常に抜群の功績を挙げ国宝師団の名を高からしむると共に、平時災害に際しては身を挺して事に當り、その温厚純朴の気風は市民に深い愛敬を受けていた。
1,部隊の歴史は陸上自衛隊岩手駐屯部隊史料館に、また造園記録は当園管理者に委託し永く保存する。
 昭和44年夏
  工八会

工兵園

工兵第八聯隊碑

工兵営跡

盛岡医療センター内にある。

病院敷地内の為、節度ある見学を。

場所

https://maps.app.goo.gl/XSrLGVZYyi9MJBSS9


騎兵第23連隊跡地
(現・青山児童公園)

いくつか「御手植えの碑」があった。
どうも見逃したものもあるようで。。。 
大正天皇の碑を確認漏れしていることをあとから知りました。。。

閑院宮殿下御手植

大正9年◯月◯日

月日は判読できなかった。

竹田宮殿下御手植

昭和7年5月7日

淳宮殿下御手植

淳宮は、 昭和天皇の弟で、後の秩父宮。

大正5年◯月◯日

月日は判読できなかった。

岩手県営体育館

場所

https://maps.app.goo.gl/qgnHPvLsWL5zEMiv5


騎兵第三旅団第23聯隊跡の門柱
陸軍豫備士官學校跡の碑
(現・森永乳業盛岡工場)

第23聯隊の門柱、盛岡陸軍予備士官学校の碑などがある。

旧騎兵第三旅団第二十三聯隊

明治41年に、工兵第8大隊が弘前から移転、明治42年(1909)に、騎兵第三旅団第23聯隊、第24聯隊が編成配置されている。

騎兵第三旅団
観武練兵之跡
 飯田貞固謹書

飯田貞固は、最終階級は陸軍中将。昭和8年(1933年)に騎兵第三旅団長を務め満州事変に出動している。

盛岡陸軍豫備士官學校跡

「陸軍予備士官学校」は、昭和13年に「仙台陸軍教導学校」内に「陸軍予備士官学校」を設置したことにはじまる。
「盛岡陸軍予備士官学校」は、「騎兵第三旅団」が昭和10年(1935)に満州に移駐したのち、昭和14年(1939)に騎兵第三旅団兵営跡地に、仙台から移転して創設された。
昭和16年8月に、盛岡から前橋に移動となり、前橋陸軍予備士官学校となっている。

  • 1938年8月 陸軍予備士官学校を設置(仙台陸軍教導学校内)
  • 1939年3月 陸軍予備士官学校を盛岡近郊に移転(騎兵第23連隊跡地)
  • 1939年8月 陸軍予備士官学校を盛岡陸軍予備士官学校と改称
  • 1941年8月 盛岡陸軍予備士官学校を前橋近郊に移転、前橋陸軍予備士官学校と改称
  • 1945年8月 敗戦によりすべての予備士官学校を閉校

建立志
 盛岡陸軍豫備士官學校は、兵制上はじめての陸軍予備士官学校として昭和14年に創設され、改正甲種幹部候補生制度上での第三期生が、同年4月にはじめて入校し、ついで同年11月第四期生、昭和15年12月第五期生が入校し、昭和16年7月、この期の卒業と同時に新設された前橋陸軍豫備士官學校に、その教育が引き継がれた。
 日支事変や、それに続く大東亜戦争では、多くの卒業生を戦場で失った。また生き長らえた私たち同窓生が、戦後の混乱と困難を乗り越えて、国家の債権に多大の貢献を成し得たのも、この校に学び性根を尽くして鍛えられ培われた不撓不屈の精神に因るところが大きい。
 この地に私たちが人生の足跡を残した證として「學校跡」の記念碑を建立した所以である。
 平成5年9月吉日
  盛士校記念碑建立委員会

場所:

https://maps.app.goo.gl/zPUpf7WhuTn47pzp9

「燕飛行隊発祥の地」「大元帥陛下御野立所聖蹟」とかがある「観武ヶ原」の北部(演習場跡地)には訪れる時間がなかった。これは再訪案件です。。。

※撮影:2023年8月


関連

岩手護國神社

盛岡陸軍墓地にあった忠霊塔(久昌寺・移設)

盛岡にあった陸軍墓地関連の散策。


盛岡陸軍墓地にあった忠霊塔(久昌寺)

久昌寺の記載によると以下の説明がある。

放光塔(忠霊塔)
元陸軍墓地にあった忠霊塔を二十二世義雄和尚が、戦争殉難者供養のためにこの地に移設したものと伝えられています。

久昌寺 http://www.kyushoji.com/history.html

久昌寺の放光塔(忠霊塔)

昭和9年10月建之

久昌寺の山門。昭和8年に建立。

場所:

https://maps.app.goo.gl/1jceTVuYxsXDacjK7


盛岡陸軍墓地跡(盛岡市高松2丁目)

当所は、岩手県滝沢市穴口にある「穴口公葬地」に陸軍墓地があった。その後、盛岡市高松にあった元岩手県庁舎第二分庁舎の地に移転している。
現在、元岩手県庁舎第二分庁舎は解体されており、更地となっている。ここは特に遺構は残っていない。
※滝沢市の跡地には境界標が残っているという。

更地。格別になにかは残されていない。

場所:

https://maps.app.goo.gl/WfdQEZvRBx68UHiu7

撮影:2023年8月


関連

岩手護國神社

岩手護國神社

岩手県盛岡市。盛岡八幡宮と並んで、岩手護國神社が鎮座している。
立ち寄る機会がありましたので、参拝してきました。

御英霊に感謝を。


岩手護國神社

岩手県ゆかりの殉国の御英霊を祀る。
約3万5800余柱。
岩手縣護國神社ではなく岩手護國神社。「県(縣)」がつかない社号は珍しい。
明治2年(1869年)11月2日創建。
明治39年(1906年)、岩手護國神社は岩手郡東中野村茶畑から盛岡八幡宮の境内に移設されている。

https://morioka8man.jp/gokoku/

岩手護國神社
御祭神
岩手県ゆかりの殉国の御英霊
御由緒
当神社は、明治天皇の畏き思し召しのより、明治新政の夜明け勤王の大儀を固守し国事に殉ぜられた郷土の勤王の志士 目時隆之進命・中島源蔵命の二柱の御霊を祀る為明治二年十一月二日岩手郡東中野村茶畑の地に時の盛岡蕃知事南部利恭により創建されました。
その後、西南戦争、日清日露の両戦役、そして大東亜戦争等幾多の事変戦役で、我が国の平和と繁栄を念じつつ尊い生命を御国に捧げられた、岩手県ゆかりの御英霊三万五千七百余柱がお祀りされています。
 明治十四年、当時の内丸公園地に遷座されましたが、明治三十九年にはその社地を県社八幡宮の境内に求め遷座されました。更に、昭和十四年には境内地を拡張して、神明造様式による新たな大社殿が造営され、現在に至っております。
天皇皇后両陛下(昭和天皇)には、昭和45年10月13日、本県で開催された国民体育大会御臨場の行幸啓の砌り、畏くも当神社に幣饌料を御奉納の上、御親拝あらせられました。

岩手護國神社
御祭神
殉国の御英霊
(令和4年現在)
三万五千七百八十五柱
相殿一柱

広々とした境内

左の燈籠には「照闇(しょうあん)」
右の燈籠には「揚輝(ようき)」

昭和10年4月建立

照明燈
愛国婦人会解散記念として昭和18年3月31日に石灯籠、参道敷石、階段を奉納。

岩手護國神社

社号額

参拝

岩手護國神社御朱印
盛岡八幡宮で頒布しております。

東北3県、福島・宮城・岩手の護國神社の御朱印。


鎮魂
歩兵第三十一連隊戦歿者将兵一同之霊

鎮魂
南部ルソン島マニラ東・西地区 
 昭和20年1月~9月
振武集団第8師団
歩兵第三十一連隊戦歿者将兵一同之霊
 歩兵第三十一連隊岩手会

建立趣旨
 日本民族の繁栄と郷土の幸福を一途に遠くは日露戦争より太平洋戦争に到るまで散華された数多くの郷土出身戦死者の事蹟を永久に忘却してはならない。終戦五十周年にあたり御霊の奉安と恒久平和を祈念し関係諸団体と相謀り多くの御賛同と尊いご芳志により鎮魂の碑を護国の社に建立した次第であります。
 平成七年九月吉日
  歩三一岩手会


ビアク支隊戦歿者顕彰碑

ビアク支隊戦歿者顕彰碑
 内閣総理大臣 大平正芳 書

ビアク支隊戦史
 ビアク支隊は太平洋戦争のさなか北支山西省よりニューギニア、サルミ地区に派遣された第36師団(雪部隊)の中、ビアク島に分遣された歩兵第222連隊(雪3523部隊即ち葛目部隊)とその配属諸隊により構成された11,267名の混成部隊であり、葛目部隊と少数の海軍部隊の他は、飛行場設定隊、開拓勤務隊等の軍属を主とする非戦闘部隊であった。
その基幹を成す葛目部隊(3,815名)は、岩手県人を主体とし、青森・秋田・山形出身の東北健児並びに全国各県より選ばれた精鋭部隊であった。
 昭和14年3月雪部隊創建以来、幾多の輝かしい戦績を北支の山野に残して、戦雲急を告げる南海の要衝ビアク島に急遽派遣されるに至ったのは、戦局の頽勢いよいよ深まりつつあった昭和昭和18年の暮れのことであり、ガダルカナルに勝利を収めたマッカーサー麾下の連合軍が余勢を駆ってまさに怒涛の如くニューギニア北岸を西進北上中の時であった。
この優勢な連合軍の進攻正面に敢然と立ち向かったのが即ちビアク支隊である。
まる1ヶ月に亘る間断なき爆撃の後、連合軍は突如昭和19年5月27日の早暁約40隻の艦船と空を蔽う戦爆連合の大編隊支援の下に、水陸両用戦車を先頭に夥しい上陸用舟艇を連ねて雲霞の如くビアク島南岸に殺到した。 満を持して待機せる我が軍はこれを水際に邀撃し、随所に悽惨な白兵戦が展開され、ここに濃密なビアク攻防戦の幕が切って落とされたのであった。 以来制海権・制空権ともに無きビアク支隊が寡兵よく衆敵に抗し、用兵の妙を発揮して3万の敵大軍を小島の一隅に釘付けにして絶え間なき攻撃を敢行し、二度三度敵を海中に追い落としてその第一の目標とする飛行場の使用を許さなかった。  これがため、遂に敵将は戦闘のさなかに更迭されるに至りビアク支隊の目覚ましい勇戦敢闘は全軍の模範と謳われて度々感状を授与されたである。 しかし、戦力の消耗甚だしく、しかも援軍は続かず、遂に連日連夜の死闘に刀折れ矢尽きて部隊としての組織的戦闘は継続不能となり支隊長陸軍中将葛目直幸は、支隊本部の西洞窟脱出に当り軍旗を奉焼し、7月2日天水山に於て引責自決したのであった。
 同年7月25日「ビアク支隊は玉砕することなく極力ビアク島に健在し、現地自活を徹底しつつ次期攻勢を準備すべし」との持久命令を受け、生き残った将兵は「次期攻勢」を固く信じて、後日の再会を誓い、それぞれ生きんがための糧を求めて痩躯に鞭打ち、あてどなき密林に分散したのである。 しかしながら、生き残った者のすべては既に体力消尽し、熱帯病の患者たるか或は負傷者たるか、いずれも健全な者とては無く、執拗な敵の進撃と厳しい自然との闘いに、その殆んどがあたかも大地に吸われる水の如く戦場の土に帰したのであった。
かくして戦後生きて祖国の土を踏んだ者は、捜索隊により救出された者並びに戦中現地住民又は連合軍により救出収容された者、或は島外に分遣されて、ヌンホル島その他の地区に於て万死に一生を得た者、合わせて520名を数えるのみであった。
 戦後すでに34年、今や我が国が世界にその繁栄を誇り、平和と自由を謳歌出来るのも、前線に銃後に今次大戦の幾多数知れぬ尊い犠牲の上に築かれたものであることを忘れてはならない。
その一典型として、酷寒の北支に、はた又炎熱と瘴癘の南溟の孤島に精強なるが故に常に祖国防衛の最前線に身を挺して遂に護国の神と化したビアク支隊戦没諸氏の崇高な殉国の史実を記憶されんことを切に希うものである。
 これ、この度御遺族の御支援を忝うし、共に砲火を潜り、共に草の根をかじって辛くも生き残った戦友一同心から平和の尊さを思い、悲惨な過ちを二度と繰り返さざることを祈念し茲に碑を建立する所以である。
 ビアク島その名忘れそみちのくの
  ますらたけおの聖き奥津城
      昭和54年5月27日
         ビアク戦友会

西南太平洋図

戦歿者遺骨奉安殿


天皇陛下 皇后陛下 御親拝記念碑

昭和45年10月本県で開催された第25回国民体育大会秋季大会にご臨場のため両陛下が行幸啓の御砌り同月13日午前10時2分畏くも当岩手護國神社へ聖籠を進められ幣饌料を御奉納のうえ御親拝あらせられたことは千載一遇の栄誉であった
以ってここに無上の光栄を後世に伝えるためこの碑を建てたものである。
 昭和46年10月13日
  岩手護國神社宮司 北田喜七郎敬白


平和の塔


岩手県戦没者遺品館

残念ながら閉館中でした。


明治天皇像(盛岡八幡宮)

御聖像奉建之詞
謹んで顧うに 明治御維新の大業は洵に今日日本国進展の基礎である
明治天皇御歳16歳にして御即位あそばされ御在位46年常に御躬を以て衆に先んじ聖明親しく国運拓開の萬機を総攬せらる ご聖徳は赫々として日月の如く御聖訓は昭々として萬世を照させ給う 恪も明治9年7月7日東北巡幸の砌り畏くも
天皇親しく岩手県産馬御台覧の地盛岡八幡宮の境内に御聖像を奉建して永く御聖徳を景仰し奉らんことを希い奉ります
                       謹白再拝
昭和50年9月10日
 明治大帝聖像奉賛協会 会長 榊原孝

明治大帝聖像

明治天皇産馬展覧聖阯


盛岡八幡宮

旧社格は県社。現在は神社本庁の別表神社。
盛岡総鎮守。
創建は、康平5年(1062年)、源頼義の安倍氏討伐に際して、岩清水八幡宮を当地に勧請したことにはじまる。

※撮影:2023年8月


関連

「昭和の聖将」今村均の墓と輪王寺散策(仙台の戦跡散策・その6)

名将・今村均大将の墓がある輪王寺に足を運びました。
本編は、「その6」です。

仙台市の輪王寺。仙台藩伊達家にゆかりの深い寺院。

境内案内図もわかりやすいですね。墓地を彷徨わなくて済むので助かります。
境内裏手の墓地には、足を運ぶ。


今村 均

今村均
1886年(明治19年)6月28日 – 1968年(昭和43年)10月4日)
陸士19期、陸大27期首席。陸大同期は本間雅晴や東條英機などがいた。最終階級は陸軍大将。
仙台藩士の家柄で仙台出身。
太平洋戦争では、初戦に第16軍司令官として蘭印作戦を指揮した名将。ジャワ軍政では、中央よりとかくの批判を受けるも、独自色を発揮し成果を発揮する。
昭和17年に第8方面軍司令官として、ラバウルに着任。
ラバウルで自給自足体制を確立。米軍は今村によって要塞化したラバウルの状況を知った米軍は、占領を回避し、打撃による無力化に留め、封鎖を実施。ラバウル守備隊は孤立したが、自給自足体制を整えていたために、今村均の陸軍第8方面軍は、草鹿任一の海軍南東方面艦隊とともに終戦までラバウルを維持し続けた。

陸軍大将 今村均 明治19年~昭和43年〔宮城〕
南方進攻作戦の最終段階、蘭印攻略作戦を指揮した昭和の名将
今村は、知、情、意の調和がとれた名将と知られています。開戦前、今村は、陸軍大学校で蘭印の石油資源を含む要域占領を目的とした蘭印攻略作戦準備を統括しましたが、よく部下と意志の疎通を図り、各級指揮官が孤立しても適切な判断ができるよう認識統一に努めていました。そして今村は、第16軍司令官としてその作戦指揮を執り、戦域の広大さ、部隊運用の複雑さがありつつも名将ぶりを発揮しました。また、昭和17年2月11日発令の第16軍命令(下掲史料)からもわかるように、今村は、兵站を特に重視し、各正面毎綿密に準備しました。さらに住民の安全に意を尽くし、住宅地への軍の進入を厳に諫め、占領後は住民の心に寄り添います。第16軍主力は、3月1日、ジャワ本土に上陸、日本軍戦力を過大評価したオランダ軍は、9日に降伏します。占領後、今村は、敵味方の区別なく緩和を主義とする軍政の実行を指示します。今村の軍政は緩すぎると中央で問題となりますが、その意思は揺るぎませんでした。戦後、今村は、ジャワ戦犯裁判で捕虜虐待の責任を追及されますが、責任追及は当然と求刑を甘受します。結局この法廷では無罪となり巣鴨に送還されますが、自ら志願してマヌス島に送られ、29年の刑期終了まで旧部下数百名とともに在監の苦悩を共にします。

防衛研究所 https://www.nids.mod.go.jp/military_archives/siryo/siryo_19.html


今村均の墓

今村均家累代之墓

合掌

墓誌
今村均
 明治19年6月28日 仙台に生まる 陸軍士官学校 陸軍大学校を卒業し 歩兵第四聯隊付 英国駐在武官 等を歴任 第二次世界大戦に際しては 郷土部隊と共にジャワ ラバウル方面の戦闘に参加す
 昭和18年5月 陸軍大将に任ぜらる 昭和43年10月4日歿
勲一等功二級従三位
 享年82歳

今村家の家紋は、浮線蝶紋


輪王寺境内を巡ります。

昭和大戦戦没者慰霊碑

昭和の戦いに 
 国のために倒れ 
  帰らぬ私達を
ふるさとの人は 
 忘れないで下さい

合掌

この碑は、昭和の大戦で戦没した将兵の慰霊の為昭和37年有志が通町公園内に建立した。
然し、仙台市が平成13年に撤去削損、国民は碑に託された将兵360余柱を思い、多くの協力を得て再建した。
 国のため戦死された人々よ
  安らかにお眠りください
    平成14年3月建立

昭和の大戦戦没者慰霊碑
別名 戦没者の声なき声、忘れないでの碑
 昭和6年、満州事変より、大東亜戦争後ソ連抑留の18年間、国の命により戦いに倒れた将兵212万1千名、その多くは遺骨すら故郷に帰へらなかった。
遺族らは父や夫の面影を追い、昭和37年通町公園に慰霊碑を建立、裏面に戦没者名(364柱)を刻み残した。然し、40年後の平成13年、仙台市は公園整備の際撤去、他に転用の為。碑の両面を削除した。
人々は祖国に尽くした戦没者と遺族の進駐を思い、碑石の返却を求め慰霊の為、亡き人の声なき声を碑文とし、日本の永遠の平和と安泰を願い、この地に再建した。
 平成14年3月
  戦没者遺族・妻子孫他
  旧軍・自衛隊市民有志


志賀潔博士の墓

赤痢菌発見の志賀潔博士の墓所


飯沼貞雄の墓

白虎隊士として飯盛山で自刃するも偶然救助されて、唯一蘇生した人物。


輪王寺

伊達家ゆかりの古刹。

※撮影:2023年8月


関連

仙台陸軍墓地・常盤台霊苑(仙台の戦跡散策・その5)

仙台陸軍墓地のあった場所を巡ってみました。
本編は、「その5」です。


仙台陸軍墓地(常盤台霊苑)

歩兵第四聯隊が駐留した仙台。往時の陸軍墓地は、「特話題霊苑」として宮城県によって管理されている。
宮城県が、昭和28年に国から譲渡を受け、戦没者慰霊の合葬碑等を建立し、慰霊祭等を行っている。
現在は、一般非公開となっており施錠され、敷地内に立ち入ることができない。

常盤台霊苑

入れないと知ってはいたが、訪れてみた。
入口で、手を合わせ黙祷をする。

常盤台霊苑の由来
 ここ常盤台霊苑はもとの陸軍墓地であり明治年間平時に病没した第二師団将兵軍属の墓であった。後に日露戦争及び満洲事変における戦歿勇士合葬の墓をそれぞれこの地に建立したのは当時世界列強の包囲と抑圧に耐えて我が民族の独立と生存を守り抜いた国民的心意気の発露であった。
 昭和20年8月大東亜戦争の配線と共に人身極度に混迷し為にこの聖域は荒廃してこの戦争に斃れた勇士の遺品は仮の堂中に納められたまま永くその所に安んずることができなかった。
 サンフランシスコ平和条約成り我が国独立の快復と共に県民の総意は再びここに大東亜戦争勇士合葬の墓を建立し聖域を補修し昭和28年11月これを完成したのである。
天主台の護國神社が戦没者英霊の神域であればここはその墓域である。
 その名も常盤台霊苑と改め不滅の遺芳を偲びつつ毎年毎月の祭を絶やすことはない。
 日本民族無窮の生命は古来敬神崇祖の伝統に輝く
ここに霊苑の由来を碑に刻んで永く後世に伝える所以である
  昭和44年3月
   文 島貫常行

文責の島貫常行は、宮城県出身の陸軍大佐(砲兵・士候39 陸大47優等)ルーマニア駐在武官などを務めた。

標柱

陸軍墓地

占用期間が記されていた。どうやら5年更新のようです。

占用期間
自 昭和13年10月1日
至 同 18年9月30日

閉門。立入禁止。
脇の隙間から入れそうだけど、もちろん入らない。
門前で拝礼する。


常盤台霊苑の後方

敷地の後方から、見渡せる高台があった。
多くの陸軍墓地に足を運んだが、立入を制限しているだけあって、霊域として見事な空間を保っていた。

左:満州事変戦没勇士合葬之墓
中央:明治三十七・八年役戦死病没者合葬之墓
右:大東亜戦争戦没勇士合葬之墓

宮城県

https://www.pref.miyagi.jp/soshiki/syahuku/shisetsu.html

場所

https://maps.app.goo.gl/gtzcAmj8n64y5SrH7

撮影:2023年8月


関連

宮城野の戦跡散策(仙台の戦跡散策・その4)

榴岡公園周辺の宮城野地区の戦跡を巡ってみました。
本編は、「その4」です。


仙台陸軍地方幼年学校阯

仙台市立宮城野中学校の敷地内にいくつかの記念碑が建立されている。
敷地外から見学。

仙台陸軍地方幼年学校阯

第一期生 多田駿書

昭和14年建立。

多田 駿
1882年(明治15年)2月24日 – 1948年(昭和23年)12月18日)
陸士15期・陸大25期。最終階級は陸軍大将。宮城県仙台市出身。
支那事変のトラウトマン和平工作の中心人物。

こちらは、1939年(昭和14年)4月1日に、再生した仙台陸軍地方幼年学校の記念碑。
再興した幼年学校は、太白区三神峯であったので、この記念碑は移設。
太白区三神峯時代の仙台陸軍地方幼年学校の記念碑も、宮城野区五輪時代の敷地に移設されたので、ちょっとややこしい。

なお、三神峯公園にも「雄大剛健」幼年学校の碑が建立されているが、未訪問。

以下は、仙台市歴史民俗資料館より。

仙台陸軍地方幼年学校
 日清戦争後の軍備拡張に応じるため、明治29年(1896)5月の条例改正により、陸軍中央幼年学校と陸軍地方幼年学校(東京、仙台、名古屋、大阪、広島、熊本)が設けられた。地方幼年学校の採用生徒は各校50名、年齢は13~15歳、毎月の納金は6円50銭、陸海軍将校の子弟は半額、戦死者の遺児は免除、修学期間は3年だった。明治30年(1897)9月には、榴ヶ岡の歩兵第四聯隊の東側に隣接して、仙台陸軍地方幼年学校が設立された。
 しかし、第一次世界大戦後の軍備縮小で大正13年(1924)には廃校となる。その後、昭和12年(1937)には、仙台幼年学校として復活し、第1期生は第41期生として広島陸軍幼年学校に入校し、昭和13年(1938)には仙台市三神峯に完成した仙台陸軍幼年学校に転校した。昭和20年(1945)8月の配線まで、49期生におよんだ。仙台幼年学校の出身者には、多田駿(第1期生)、板垣征四郎(第2期生)、土肥原賢二(第2期生)、中島鉄蔵(第4期生)、石原莞爾(第6期生)などがいる。

いくつかの石碑があつまっている。

仙台陸軍地方幼年学校記念碑

1924年(大正13年)3月。軍縮により地方幼年学校が廃止となったことにより、設置された記念碑。
当地=宮城野区五輪時代の仙台陸軍地方幼年学校。

明治42年建立の「皇太子殿下手植えの松」碑と
「明治天皇 昭憲皇太后 御大葬遥拝之地」碑

場所

https://maps.app.goo.gl/e7w3xHqJFx5xMqBWA


宮城野原練兵場跡
(宮城野原公園総合運動場)

いまは楽天イーグルスの本拠地、ですね。
この地は、かつて練兵場でした。


明治天皇 大正天皇 御野立所跡

正門入口のすぐ脇に、記念碑がありました。

明治天皇 大正天皇 御野立所跡

第二師団在仙各部隊、将校下士卒等一同によって、昭和2年(1927) 建立
練兵場の北端にあり、戦後に撤去されていたものを昭和44年(1969)に再建したもの

場所

https://maps.app.goo.gl/ktSKDqDnsgMp63N59


騎兵 捜索 第二聯隊之跡

明治40年(1907)に第2師団編成改正があり、宮城野練兵場の南端に山砲兵第1大隊が設置。大正14年の軍縮によって、山砲兵第1聯隊は新潟高田に移転。
跡地には、騎兵第二聯隊が移転。騎兵第二聯隊は昭和15年(1940)に乗馬中隊と軽装甲車中隊編成となり、太平洋戦争中は、捜索第二聯隊と称された。

東海道
騎兵 捜索 第二聯隊之跡

東街道
 東街道は「あずま」への道で白河から多賀城までの道であった。
 この街道は仙台市では、鈎取から木ノ下の西、宮城野原を経て多賀城に、向かっていた。

騎兵捜索第二聯隊之跡
大正14年 川内からこの地に移駐

宮城野の 萩喰いさかる 軍馬かな
 虚子

場所

https://maps.app.goo.gl/ZZcvEZb5typb17tw7

※撮影:2023年8月


関連

榴岡公園の戦跡散策(仙台の戦跡散策その3)

仙台市内の榴岡公園の戦跡を散策してみました。
本編は、「その3」です。


榴岡公園

宮城県仙台市宮城野区。
江戸時代からの桜の名所。
戦前は、歩兵第四聯隊が営所をおいた。
仙台市歴史民俗資料館は、旧陸軍歩兵第四聯隊兵舎。


歩兵第四聯隊

宮城県仙台市の榴岡に営所を設置。仙台鎮台(第2師団)の司令部が仙台城に設置されたことに対して、聯隊が榴ヶ岡に設置されたのは、仙台城が要害の地にあり、広瀬川の氾濫時には、交通途絶し、仙台城から部隊が出動できなくなるために、白に対して広瀬川の対岸に位置し、街道に近い榴ヶ岡に置かれた。
歩兵第四聯隊は、明治8年(1875年)に発足。太陽戦争では、初戦をジャワ島、ついでガダルカナル島での激戦を経て、終戦はビルマで迎えている。


旧第四聯隊兵舎
(仙台市歴史民俗資料館)

陸軍第2師団歩兵第4聯隊の兵舎。
宮城県内最古の洋風木造建築。

宮城県指定有形文化財 令和5年3月24日指定
旧第四連隊兵舎
 明治7年(1874)に造営された兵舎建築で、宮城県内に現存する洋風建築では 最古のもの、瓦葺寄棟造り木造2階建で、漆喰塗りの大壁、建物角にはコーナー ストーン、ガラス入り上下窓、出入り口のポーチには洋風円柱、雲形の彫刻のある 階段等の特徴を持つ、これらは明治6年完成の名古屋第六連隊兵舎と似ている ことから、当時の兵舎建築の基準に則ったものと考えられる。
 終戦まで70年間にわたり旧陸軍の兵舎として使用された後、終戦から昭和31年 までは米軍が駐留、その後昭和50年まで東北管区警察学校等に使用された。 内部はその都度改造されているが、昭和53年文化財に指定された後、明治37年 の状態に復元された。昭和54年(1979)11月3日、仙台市歴史民俗資料館 として開館した。
 なお、同様の兵舎が7棟残されていたが、これ以外の兵舎や本部等の建物は榴岡 公園整備のため昭和52年2月に取り壊された。
 平成27年3月
  仙台市教育委員会

白を基調としたシンプルな美しさがあります。

中に入ってみましょう。

四聯隊コーナーがあります。

大正四年に空撮した歩兵第四聯隊。
中央が榴ヶ岡の歩兵第四聯隊の兵営地。

軍隊生活の再現。

仙台陸軍地方幼年学校
榴ヶ岡の歩兵第四聯隊の東隣に隣接して、仙台陸軍地方幼年学校が設置された。

仙台陸軍地方幼年学校
 日清戦争後の軍備拡張に応じるため、明治29年(1896)5月の条例改正により、陸軍中央幼年学校と陸軍地方幼年学校(東京、仙台、名古屋、大阪、広島、熊本)が設けられた。地方幼年学校の採用生徒は各校50名、年齢は13~15歳、毎月の納金は6円50銭、陸海軍将校の子弟は半額、戦死者の遺児は免除、修学期間は3年だった。明治30年(1897)9月には、榴ヶ岡の歩兵第四聯隊の東側に隣接して、仙台陸軍地方幼年学校が設立された。
 しかし、第一次世界大戦後の軍備縮小で大正13年(1924)には廃校となる。その後、昭和12年(1937)には、仙台幼年学校として復活し、第1期生は第41期生として広島陸軍幼年学校に入校し、昭和13年(1938)には仙台市三神峯に完成した仙台陸軍幼年学校に転校した。昭和20年(1945)8月の配線まで、49期生におよんだ。仙台幼年学校の出身者には、多田駿(第1期生)、板垣征四郎(第2期生)、土肥原賢二(第2期生)、中島鉄蔵(第4期生)、石原莞爾(第6期生)などがいる。

仙台空襲

仙台空襲は、昭和20年7月9日深夜から10日未明にかけて、131機編成のB29爆撃機のうち123機が仙台上空に到達し、約3000mの高度より爆撃を行い、合計1万2961発、911.3トンの焼夷弾と焼夷集束弾が投下された。7月17日・8月9日・10日の小規模な爆撃も含め、1400名近い人々が空襲によって亡くなった。
(以下略)

満洲事変勇士合奏の墓は、常盤台霊苑にある。立ち入りできないけど。
昭和6年に勃発した満洲事変での日本軍の最初の戦死者は、仙台第二師団だった。

仙台と西南戦争

軍都仙台の誕生
仙台と日清戦争
仙台と日露戦争

愛国婦人会と国防婦人会
帝国在郷軍人会

仙台と満洲事変

満洲事変、日中戦争、アジア太平洋戦争

徴兵制と庶民のくらし

対外戦争と歩兵第四聯隊

歩兵第四聯隊全図

榴ヶ岡歩兵営図

招魂社
宮城縣護國神社

ガイドブック 仙台の戦争遺跡 2008
こちら、購入しました。はかどりますね。


歩兵第四聯隊営門跡

榴岡公園の西側。このあたりに営門があったという。


歩兵第四聯隊之碑

至誠無息
歩兵第四聯隊之碑

今村均(仙台出身の陸軍大将)による謹書。

 歩兵第四聯隊は明治八年九月九日重陽の佳節にあたりわが郷土出身者によってここ榴ヶ岡に編成せられてから星霜実に八十有余年父子相継いで護國の大任についた 其間明治十年西南の役を初めとし日清日露の両戰役満州事変昭和十二年日支事変引続き大東亜戰争等幾多の事変戰争に参加し二回に亘り感状を賜はる等抜群の功績は永く記念すべき聯隊であった 然るに昭和二十年終戰に遭い 畏くも 明治大帝より親授された我が軍旗は昭和二十年八月三十一日午後十二時南部佛領印度支那サイゴン市西北方約八十粁ホックモン町のゴム林内で涙を呑んで奉焼した 我等聯隊出身者竝に縁故者有志は今は無き軍旗の榮光
を偲び併せて陣歿せる幾多先輩戰友諸氏の英魂を慰むるためここに思出深き営門前に記念碑を建立し之を後世に伝うるものである
 昭和三十五年九月九日   
  重陽会
  その他有志一同


陸軍省所轄地標柱(境界標柱)


朝鮮戦役記念の碑

明治17年(1884)の甲申事変の開化派(独立党)と守旧派(事大党)が衝突し、京城(ソウル)の日本大使館護衛にあたったのが、歩兵第四聯隊第一中隊であった。
歩兵第四聯隊第一中隊は、事大党側の清国軍及び朝鮮軍と戦闘し死傷者を出している。
朝鮮戦役記念の碑は、軍功を称えて明治18年12月建立。


梅の園碑
(石原莞爾を偲ぶ碑)

石原莞爾は、昭和6年に陸軍中佐として関東軍の作戦主任参謀として、満洲事変を指揮。翌年の昭和7年8月に大佐に任ぜられ、陸軍省兵器本部付で内地に帰還。
昭和7年10月、石原莞爾は、満州問題に関するリットン調査団報告書を受けたジュネーブでの国際連盟総会に、松岡洋祐全権の随員として派遣。そして、この総会で日本は国際連盟脱退を宣言。
翌昭和8年6月に日本に帰国し、8月の異動で第四聯隊長に着任。
石原莞爾が第四聯隊長として在任したのは、昭和8年8月から昭和10年8月までの2年間であったが、出身地である東北の名門の聯隊に着任できたことを喜んでいる。

石原莞爾氏は昭和八年九月から二ヶ年間この地に歩兵第四連隊長として在任し連隊諸兵の栄養源又非常用として自ら植えられた
この四連隊跡地が仙台市民の公園として開放されたことを祈念してこの碑を建立する
 昭和五十二年三月二十五日
  石原莞爾将軍を偲ぶ会
  建立会一同

歩兵第四連隊長
石原莞爾大佐の日記から
昭和九年三月二十五日日曜(晴)
梅二〇〇本植える

榴岡公園は桜の名所として知られるが、今も石原莞爾なごりの梅園も残っている。


場所

https://maps.app.goo.gl/qB5NDWXWPL62xa78A

※撮影:2023年8月


関連

仙台城址周辺の戦跡散策(仙台の戦跡散策その2)

仙台城周辺の戦跡を巡ってみました。
本編は、「その2」です。


野砲兵第二聯隊之跡
(第二師団野砲兵第二聯隊)

仙台城の北にある国際センター駅のさらに北側。
宮城県美術館の東側道路の植え込みの陰に、ひっそりと跡地の石碑があった。

野砲兵第二聯隊之跡

昭和58年の建立。

明治11年(1878)に砲兵第2大隊が榴ヶ岡に創設され、後に山砲兵第2大隊となり、明治16年(1883)に川内に移転、明治17年に野砲兵第2聯隊となった。

これはわかりにくい。。。

場所

https://maps.app.goo.gl/ftq371WNTHgudYye8


親兵淵
(第二師団野砲兵第二聯隊)

親兵淵
ここの淵は「親兵淵」と呼ばれ、対岸の崖の上に駐屯していた旧陸軍野砲第二聯隊の親兵さんがこの淵で泳いだり、洗濯したちしていたことから名付けられたものです。

場所

https://maps.app.goo.gl/BNCdAXDrtBLPJgtA7

広瀬川

左側に高台に、野砲第二聯隊が駐留していた。


軍馬軍用動物彰忠塔

昭和15年(1940)の紀元二千六百年奉祝行事を記念して、軍馬や伝書鳩や警戒犬などの軍用動物の慰霊のために建立。

軍馬軍用動物彰忠塔

参加聖戦
 日清戰役
 日露戰役
 西伯利亞事變
 満洲事變
 支那事變

場所

https://maps.app.goo.gl/sHJhsudzFKbHh1S8A


満洲事変軍馬戦歿之碑

満洲事変軍馬戦歿之碑

昭和六年九月十八日以降無言ノ戰士トシテ満洲事変變ニ参加セシ第二師團下諸部隊戰病死馬八十七頭ノ霊ヲ合祀ス
 昭和八年十二月
  正六位勲六等四竃仁邇書

四竃仁邇(雅号は静堂)は、仙台の裁縫教育の先駆者であり、音楽教育の先駆者でもある。

2つの軍馬関連の慰霊碑

場所

https://maps.app.goo.gl/VhJEBPpknEA5BSXP7


家畜慰霊碑

昭和30年建立

場所

https://maps.app.goo.gl/Cf587NmoUbGEtm918


工兵隊の跡
(第二師団工兵第二聯隊)

明治15年(1882)に工兵第二中隊が創設。
明治22年(1889)に工兵第二大隊となり、明治30年(1897)に旧駐留地の亀岡から仙台大橋通に移転。
昭和11年(1936)6月1日に、工兵第二聯隊に改編された。

工兵隊の跡

場所

https://maps.app.goo.gl/9HDZ3H2DP8e94Xi66


フリーメイソンの石碑(米軍仙台ロッジ跡?)

仙台城大手門の入り口近くに「フリーメイソン」らしき石がある。

諸説あるが、仙台城(青葉城)には、戦後に進駐軍が駐留しており、米軍「フリーメイソン」の「仙台ロッジ」があったということから、「フリーメイソン仙台ロッジの礎石」であるという説が濃厚とのことで。

場所

https://maps.app.goo.gl/XyiCrwpzpT8NRrH66


松川大将之碑

仙台出身である松川敏胤の記念碑。
仙台城唯一の復元建築物である大手門隅櫓のちかくにある。

松川敏胤は、軍事参議官・朝鮮軍司令官・東京衛戍総督や第10・第16師団長を歴任し、階級は陸軍大将従二位勲一等功二級に至る。陸士旧5期、日露戦争時は満州軍作戦参謀であった。

松川大将之碑

題額は閑院宮載仁親王

発起人はそうそうたる面々が名をつられている。

松川将軍薨シテ追慕措ク能ハス我等集リテコノ碑ヲ建ツ
協力者ハ陸軍大学兵学教官当時ノ学生旧部下其ノ恩顧ヲ受ケタル者ニシテ題額ハ畏クモ 閑院宮載仁親王殿下ノ御深筆ナリ 
友田宣剛文ヲ撰シ四竃仁邇之ヲ書ス
 昭和4(1929)年4月30日
発起人
 河合操 田中義一 田中國重 奈良武次 武藤信義 大庭二郎 尾野實信 山梨半造 町田経宇 福田雅太郎 白川義則 森岡守成 鈴木荘六(イロハ順)

場所

https://maps.app.goo.gl/3v6g3MQCLUnLribBA

大手門隅櫓のすぐちかく。


御大典記念樹

三の丸跡に。

御大典記念樹

これは別の石碑

大正14年10月竣功

なにが竣功したのは不詳。。。


林子平の碑

江戸時代後期の経世論家、元仙台藩士。
高山彦九郎、蒲生君平と並ぶ「「寛政の三奇人」の一人。


魯迅の像と魯迅の碑

魯迅は中国の小説家、翻訳家、思想家。
魯迅と仙台とは、1904年、仙台医学専門学校(現・東北大学医学部)の最初の中国人留学生として入学した縁がある。


仙台市地下鉄の国際センター駅を拠点に南北を散策しました。

※撮影:2023年8月


関連

宮城縣護國神社(仙台の戦跡散策その1)

宮城県仙台市。仙台を代表する観光地でもある青葉城址(仙台城址)に宮城縣護國神社が鎮座している。そのため、青葉城址の観光客も自然の流れで参拝するために、非常に賑わっている護國神社。
立ち寄る機会がありましたので、参拝してきました。

御英霊に感謝を。

本編は、仙台の戦跡散策の「その1」です。


宮城縣護國神社

青葉山の仙台城(青葉城)本丸跡に創建。
明治維新以降の諸事変、戦役における宮城県出身戦歿者をはじめ、元第二師団管区(福島、新潟、山形の一部)戦歿の御祭神五万六千余柱を御祀りしている。

国際センター駅から歩いていったので、途中の見どころを押さえつつ。
仙台城址の石垣。

宮城縣護國神社

社号標は、鈴木孝雄謹書。
鈴木孝雄は陸軍大将。終戦時の内閣総理大臣の鈴木貫太郎の弟。

由緒
 明治維新から大東亜戦争に至るまで、幾多の戦役で尊い生命を御国に捧げられた 郷土出身者の み霊を祀る。
 明治37年8月27日仙台城(青葉城)本丸阯に招魂社として創建され、昭和14年内務大臣指定護國神社となり、昭和20年7月仙台大空襲の戦火により神社施設を全焼したが、戦後現在の姿に復興した。
現在 御祭神5万6千余柱をお祀りしている。
 (神社本庁包括別表神社)

御本殿
 御本殿は、日本民族の祖神と尊ばれている 伊勢神宮の 外宮「風宮」の旧御正殿で、昭和28年の第59回神宮式年遷宮に際し、戦災で消失した当社の御復興にあたり、神宮の特別の思召しを以って昭和30年東北に初めてさずけられた極めて尊い御殿である。
建築様式は、唯一神明造(「掘立式で棟の左右を棟持柱で支える」で伊勢神宮よりそっくりそのまま御移築したものであるが、お屋根のみ建物を永く保存するために萱葺を銅板葺に改めてある。

宮城縣護國神社 由緒

https://gokokujinja.org/yuisho/yuisho.html

御英霊に感謝を。哀悼を。

朱塗りの護國神社。

参拝

御朱印を頂戴しました


英霊顕彰館(宮城縣護國神社境内)

平成16年、宮城縣護國神社創立百周年を迎え、この創立百周年のよき年を契機として、英霊の遺徳を正しい歴史に沿って展示し、永く後世に伝えるべく「英霊顕彰館」を開館した。

英霊顕彰館 サイト

https://gokokujinja.org/eirei/eirei.html

概要
 護国神社は、平成16年、創立百周年を迎えました。
 この創立百周年のよき年を契機として、英霊の遺徳を正しい歴史に沿って展示し、永く後世に伝えるべく「英霊顕彰館」を開館いたしました。
 「明治維新・戊辰戦争→日清戦争→日露戦争→第一次世界大戦→満州事変→支那事変→大東亜戦争→終戦・戦後→アジアの独立」と戦史を追いながら、それぞれの戦役・事変で散華された我が郷土の英霊について遺影・遺書・遺品等を中心に展示しております。

館内は遺影・遺書・遺品等を中心に展示。

歩兵第四聯隊の軍旗

大日本帝国陸軍第二師団歩兵第四聯隊。
終戦時に仏領インドシナ・サイゴン西北約80キロのホクモンのゴム林内で奉焼された。

復元した軍旗には、数多くの亡き歩兵第四聯隊の御英霊の魂が宿っている。

乃木大将
「古道照顔色」

明治維新

日清戦争
日露戦争

第一次世界大戦
上海事変・満州事変

ノモンハン事件・支那事変

大東亜戦争

特攻

終戦

利根

飛龍

雪風

矢矧

大和

巡潜乙型
秋津洲
北上

宮城縣護國神社の歴史

随想録
陣中有情
ガダルカナル島での日記
陸軍大尉 安田憲一命は、ガ島で戦士した。

戦時日誌

硫黄島収集遺留品

仙台空襲

三浦襄命(仙台市出身)
バリ島にて自決
「独立を約束できず謝罪のため人柱となる。屍を越えて独立を獲得せえよ」とバリ島民に告げ、自決。同島民には今なお『バリ島の父』として記憶される。

さくら陶板(靖國神社ご創立150年記念事業)

ビルマの竪琴

改めてゆっくりと観覧したと思います。
ありがとうございました。


鎮魂の泉(宮城縣護國神社境内)

御製

鎮魂の泉

「鎮魂の泉」
 この「泉」は、我国の今日の平和と繁栄を念じつつ遥かなる異国の戦場で力の限り尽され、ついに一滴の水も飲めず散華された郷土出身56,000余柱の御祭神に、青葉城本丸下百八十㍍の地中より汲み上げた水を、四六時中捧げ御霊が永久に鎮られますように作成した。
 石組は、「宮城の山河」をモチーフにし、武運長久を祈願された産土(うぶすな)神社より奉納された石、及び激戦地ガダルカナル島、ビルマ、硫黄島、グァム、サイパン、宜昌(中国)、占守島(中千島)等、御祭神ゆかりの戦跡の石、砂、サンゴ礁等を用いて大東亜戦争終結五十周年を記念し建立した
 平成七年八月一五日


浦安宮(宮城縣護國神社境内)

別宮浦安宮。
左宮には天照大御神・豊受媛大神・級長津比古神・級長戸辺神、右宮には当地に屋敷神として古くから祀られている白水稲荷大神と伊達政宗公がまつられている。


昭忠碑(宮城縣護國神社管理)

仙台城(青葉城)本丸跡に建つ昭忠碑(宮城縣護國神社管理)。
明治35(1902)年、仙台にある第二師団関係の戦没者を弔慰する目的で建立された。
東日本震災により高さおよそ15mの石塔上部に設置されたブロンズ製の鵄(とび)が落下・破損する被害を蒙った。
鵄本体旧状通りに戻した場合、大地震が発生した際には再び高所より落下する恐れがあるため、安全性を考慮して塔の下に設置復元を実施。

鵄は、東京美術学校(現在の東京藝術大学)が依嘱を受けて同校内で制作・鋳造したもの。

昭忠
元帥大勲位功二級彰仁親王書

小松宮彰仁親王

明治34年8月起工
明治35年7月竣工

東日本大震災の記憶~昭忠碑(しょうちゅうひ)~
設置年
 明治35年(1902)(明治33年制作委嘱 明治34年着工)
設置目的
 西南戦争・日清戦争等戦没者慰霊碑
所在地
 仙台市青葉区川内 青葉山公園仙台城本丸跡
所有者
 宮城縣護國神社
「昭忠」揮毫
 小松宮彰仁親王(1846~1903)
 (昭忠とは、忠義を明らかにするという意)
全体の高さ
 約20m
鵄の材質
 とび ブロンズ製
鵄の重量
 4,689トン(修復後の内部構造材を含む総重量)
鵄の制作
 宮城県昭忠会(陸軍第二師団関係者で組織され、会長は宮城県知事)が東京美術学校(現在の東京藝術大学)に制作委嘱
 川邊正夫(岡山県生まれ1874~1918)全体構想立案
 沼田一雅(福井県生まれ1873~1954)鵄原型製作
 桜岡三四郎(茨城県生まれ1870~1919)鵄の鋳造
 津田信夫(千葉県生まれ1875~1946)鵄の鋳造

 昭忠碑の塔上に設置された鵄は、戦前の金属供出を免れた明治30年代制作のブロンズ彫刻作品として希少であり、仏像を除くブロンズ彫刻として東北地方で最も古い時期に設置された重要な作品です。
 平成23年3月11日の東日本大震災により、鵄が塔上から落下し、大きく破損しました。
 破損した鵄は、平成25年2月、文化財レスキュー事業により、石段前に仮設置され、平成26年5月から文化庁補助事業として、保存修復事業が開始されました。平成27年7月、修復のため東京のアトリエに運ばれましたが、平成28年10月、修復作業が完了し、石塔の安全性を考慮し、塔の上ではなく、基壇上に設置されました。


伊達政宗公騎馬像

昭忠碑とおなじく、東日本大震災で被災した伊達政宗公騎馬像。2023年3月に修復が完了し、旧来の姿を取り戻している。

政宗の騎馬像は、昭和10(1935)年5月、藩祖公没後三百年祭を記念し、宮城県青年団が寄付を呼びかけて建立されたもの。
第二次世界大戦中の金属供出令によって消失するが、昭和39(1964)年9月に復元鋳造。

本丸跡からの眺望

仙台の戦跡散策、つづいては、仙台城址周辺の散策へ。

※2023年8月撮影


関連

福島縣護國神社

福島県福島市。信夫山のふもとに福島縣護國神社が鎮座している。
立ち寄る機会がありましたので、参拝してきました。

御英霊に感謝を。


福島縣護國神社

福島県下の英霊6万9千余柱を祀る。

福島縣護國神社
御祭神 御英霊
御神徳 平和・繁栄

由緒
 当神社は明治12年10月4日、県内三ヶ所(相馬・三春・若松)の招魂場の御霊を合祀し、信夫山の地に招魂社として創建されました。
 現在の社殿は昭和12年に造営され、戊辰の役から大東亜戦に至るまで、国家平安のための御英霊6万9千余柱をおまつりしてあります。
 明治の初めから指定官祭福島招魂社となり、戦時中官祭福島県護國神社となりました。この間皇室より数々の御参拝を賜り、幣帛料・幣饌料を捧げられた由緒深い神社であります。
 近年におきましては平成7年9月天皇陛下より幣帛料を、同年10月天皇・皇后両陛下より幣饌料が捧げられました。
 平成8年7月には神社本庁の別表神社に加列され現在に至って居ります。

福島縣護國神社サイト

https://gokoku559.info/

大鳥居

日の丸が美しい。

社頭

晴天の日の丸

ちょうど8月の訪問は、英霊感謝のみたままつり。

献燈は、福島県海軍甲種飛行予科練習生出身者の会による。

狛犬

奉納 皇紀二千六百年紀念

郡山地方専売局管内
煙草小売人組合連合会

社頭の鳥居

みたままつり

境内は、みたたまつりの黄色い提灯で彩られ。

拝殿

深く拝する。
御英霊に感謝と哀悼を。

さざれ石


悠久平和の碑

歩兵第29聯隊戦没者4,300余柱の慰霊顕彰

悠久平和の碑

碑文
 私達はかっての大東亜戦争において幾多の辛苦を乗り越えて、ジャワ島、ガダルカナル島、ニューブリテン島ラバウル、フィリッピン島、マレー半島更にはビルマ、中国雲南省、佛領印度支那に勇戦奮闘し、その間多くの戦友が身命を祖国の為に捧げられました。
 髀肉の嘆を託ちつつも、命永らえた私達が終生、断じて忘れ得ない英霊の偉大なる功績を偲び、戦場に散華された若き身命を惜しむとともに、その霊安かれと念ずるよすがとして、ここに悠久平和の碑を建立するものであります。
 あの戦争の凄惨と苦難を身を以て体験した私たちこそ、子々孫々に至るまで人類社会の太平を念願するものであります。
 願わくば殉国の四千三百五十八人の英霊よ、この平和への道を御照覧あられんことを。 
  平成二年四月二十三日 
   会津若松 歩兵第二十九聯隊会  
    略称 勇第一三〇三部隊
     会長 遠藤 正弥


福島県送出満蒙軍開拓青少年義勇軍 
慰霊の碑

福島県から進出した満蒙開拓青少年義勇軍の慰霊顕彰

時の国策に殉じた 少年達の霊 ここに眠る
国の礎たらんことを自覚し 身を挺して 散華したあなたたち満蒙開拓青少年義勇軍
 我等義勇軍ハ 天祖ノ宏謨ヲ奉ジ 心ヲ一ニシテ追伸シ
 身ヲ満州建国 聖業ニ捧ゲ 神明二誓ッテ 
 天皇陛下ノ大御心ニ副イ奉ランコトヲ期ス
この綱領を胸に 祖国の安泰と五族協和 王道楽土の建設を夢見て旅立った   同志の御魂よ
 いま 護国の神域に相寄り 安らかに鎮まらんことを
   昭和五十三年九月彼岸    
    福島県拓友連絡協議会会員一同


殉職救護員慰霊碑

福島県赤十字泉寺救護員戦没者32柱の慰霊顕彰

 この碑は、支那事変から大東亜戦争にかけて日本赤十字社福島支部所属戦時救護員として応召し、若い尊い命を捧げた殉難教護員三十二名のみたまを慰めるために建立しました。
 戦時救護のため、陸軍に配属され、黄塵まきあげる大陸や灼熱の南方地域に派遣され、あるいは怒涛さかまく海上輸送の任務について、戦傷者の救護に献身し、不幸にも病魔にたおれ爆撃に散華した清く凛々しい姿をしのび、思い新たなものがあります。
 私達は深い祈りの心をこめて、その徳をしたい永久に師表と仰ぐ資とするものであります。
  昭和四十二年十月三十日
   日本赤十字社看護婦同方会福島県支部


招魂碑(信夫山招魂社碑)

信夫山招魂社の由来を記載。
扁額は、有栖川宮熾仁親王による。


大燈籠

大日本国防婦人会福島地方本部解散紀念の献燈。
昭和17年2月16日。

昭和17年に、第日本国防婦人会(国婦)や愛国婦人会(愛婦)、大日本連合婦人会(連婦)などは、全て新設された大日本婦人会に統合されている。


御朱印

御朱印を頂戴しました。

靖國神社の「さくら陶板」


信夫山天満宮

護国神社に、きちんとした境内社があるのは珍しい。
昭和63年、大宰府天満宮より御分霊を拝戴した、東北の大宰府天満宮。


黒沼神社

護國神社は別法人の神社。
神社としての由緒は、黒沼神社のほうが古く、延喜式内社(平安時代の延喜式に記載のある古社)として、式内社・黒沼神社の論社の一つ。

※撮影:2023年8月


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中島飛行機信夫山地下工場跡(福島)

福島県の信夫山。標高275メートル。
福島市のシンボルとしてそそり立つ信夫山は、古くから山岳信仰の場でもあり、今も福島県護国神社や出羽三山の分社、黒沼神社や岩谷観音を始めとした多くの寺社がある。

戦前、この信夫山に中島飛行機の地下工場があったというので、足を運んでみた。


中島飛行機信夫山地下工場(中島飛行機フ工場

中島飛行機武蔵製作所のエンジン製造工場を分散疎開させることとなり、疎開工場として福島県福島市の信夫山も候補となった。信夫山には、江戸時代前から金鉱山として有名で、いくつかの坑道があったというのも、地下工場と親和性が高かった。

通称は「フ工場」。
昭和20年3月、信夫山の羽山西側に中島飛行機エンジン組立の地下工場が切削がされたが、完成前に終戦を迎えている。
現在、開口部はコンクリートで塞がれている。

中島飛行機・信夫山地下工場跡

暑い夏の日でしたが、隙間からは冷気を感じることが出来ました。

開口部前に平らな道がある。人為的に作られた道は、往時のトロッコ道かもしれない。

西端。

福島交通飯坂線を見下ろせた。

地下工場開口部の前の道。

場所はこのあたりから、山道に入ると開口部へのアクセスできる。

https://maps.app.goo.gl/MN2pm3wfSDyrjtew7

山裾をはしる福島交通飯坂線。

この山に地下工場があった。

ちょうど、山の西側を電車が走る。

福島県立美術館から「羽山」を望む。羽山の左側が地下工場のあった台地。
住所は「西平山」


曽根田駅

福島交通飯坂線の駅。
1942年(昭和17年)の開業当時の姿を伝えている駅舎。

福島駅から望む信夫山。

東北新幹線は信夫山の西側をトンネルで通過し、東北本線は、西側の山裾を避けるように北上している。

ちなみに福島は、古関裕而のまち。

古関裕而記念館もあるけど、時間の都合で行きませんでした。
 露営の歌
 暁に祈る
 若鷲の歌

※撮影:2023年8月


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