座間には、陸軍士官学校があった。
陸軍士官学校の土地は、現在の「キャンプ座間」となっている。キャンプ座間にはそうそう立ち入りはできないが、周辺にも「陸軍士官学校」を物語る史跡があるので、ちょっと散策してみた。
目次
陸軍士官学校
「相武台」
小田急「相武台前駅」、JR相模線「相武台下駅」。
座間市と相模原市に地名として使用されている「相武台」は、もともと陸軍に関係のある名称であった。
昭和12年(1937年)、陸軍士官学校が、市ヶ谷台より座間に移転。
昭和12年12月20日に行われた陸軍士官学校卒業式に 昭和天皇が行幸した際に、同校に「相武台」の名称が賜名された。
- 市谷台 座間に移転する前の陸軍士官学校(本科・予科)
- 相武台 陸軍士官学校(陸士)
- 修武台 航空士官学校(航士)
- 振武台 陸軍予科士官学校(予士)
- 若松台 陸軍経理学校
- 健武台 東京陸軍幼年学校
陸軍士官学校が移転したあとの市谷台には、陸軍省や参謀本部などの省部が三宅坂から移転し、陸軍の中枢となった。
市ヶ谷台
振武台
若松台
健武台
昭和16年(1941年)1月1日に、小田急「士官学校前駅」が「相武台前駅」に改称。相模鉄道(JR相模線)の「陸士前駅」も「相武台下駅」に改称。界隈では「通信学校駅」は「相模大野駅」に改称。いずれも防諜上の理由からというが、陸士を象徴する「相武台」を用いた駅名がそのまま戦後も使用されている。
位置関係
国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M372-126
昭和22年(1947年)7月9日、米軍撮影の航空写真
一部拡大のうえで加工。
陸軍士官学校遙拝所方位盤
「富士山公園」の頂上にある方位盤。
この山には、かつて浅間神社があったゆえの富士山公園なのかもしれない。
史跡
旧陸軍士官学校遥拝所方位盤
建立 昭和15年(1940)
由来
昭和12年(1937)東京からこの地に移転開校した陸軍士官学校の生徒は、毎朝、点呼後に雄健(おたけび)神社に参拝し、続いて遥拝所に赴き宮城(皇居)・明治神宮・伊勢神宮及び各自の原隊や故郷に向かって遥拝するのが日課となっていた。
この方位盤は、その遥拝するための方位と、国内外・朝鮮半島・中国東北部の主要都市の方位を矢印によって表示したもので校内では最も重要なところとされていた。
位置 旧浅間神社跡(浅間神社は明治42年〈1909)、座間神社に合祀された)
なお、ここは南地区で北地区の遥拝所もあったが現在はキャンプ座間内に礎石だけが残っている。
平成18年7月
座間市教育委員会
北側。
旭川、高田、新京
西側。
京城、広島
方位盤。
毎朝、士官学生たちは、この広場に集まって、各方向に向かって遥拝した。
士官学生が、毎朝に駆け抜けた道。
富士山公園の防空壕
遙拝所方位盤と陸軍士官学校を結ぶ道の途中に、ぽっかりと穴が開口してた。
これは往時の防空壕かもしれない。
遙拝所方位盤と陸軍士官学校を結ぶ道
座間キャンプのフェンスの向こうにも、道がつながっていた。
この先は、かつての陸軍士官学校。今は立ち入りできない。
富士山公園にある、何かの基礎。往時のなにかの遺構かと思いきや。。。
「石の迷路」だそうな。なーんだ、面白くない。
富士山公園
入り口。「富士山公園前」バス停が最寄りではあるが、相武台前駅から歩ける距離。
場所
キャンプ座間
米軍基地。
一般公開があるときに見学したい。今回は素通り。正門の写真を撮るだけでも守衛に注意されるらしいので写真も取らず。そのまま「行幸道路」(県道町田厚木線)を西に歩む。
※キャンプ座間、行きました!
ここで言う「行幸道路」とは、県道町田厚木線のうちJR横浜線の町田駅から在日米陸軍キャンプ座間までの約7キロの道をいう。昭和天皇が、陸軍士官学校の卒業式に行幸するための道路として作られた。
相模原隧道
陸軍用地を東西に横断するためのトンネル。
隧道諸元
延長・・・60メートル
幅員・・・6.1メートル
高さ・・・5.6メートル
竣工・・・昭和14年(1939年)
昭和14年3月竣工
相模原隧道
市道新戸相武台(新戸隧道)
ちなみに、陸軍士官学校時代からの東西横断道路と隧道はもう一つある。
1937(昭和12)年、旧日本陸軍が地域住民のために陸軍士官学校の敷地を貫く道として整備された市道新戸相武台(新戸隧道)。2020年に拡張工事が行われて、トンネルとしては当時の面影は残っていない。
米軍基地側から東西の貫通道路を望む。。
https://machida.keizai.biz/headline/3086/
相模原隧道を西に抜けると、座間公園や座間神社があります。
座間・陸軍士官学校の戦跡散策2へ。
※撮影:2021年12月