「海軍」カテゴリーアーカイブ

高座海軍工廠の地下壕と台湾少年工顕彰碑(芹沢公園・座間)

以前、高座海軍工廠跡地散策を行ったときに、芹沢公園にも脚を運んだのが2017年12月だった。
その後に、様相が若干かわったとの噂を聞いたので、4年後の2021年12月に再訪してみました。

前回の記録は以下で。


芹沢公園の地下壕

高座海軍工廠(こうざかいぐんこうしょう)の地下工場跡。
地下壕には、「雷電」のミニチュア模型があった。

雷電

大日本帝国海軍の局地戦闘機(乙戦)「雷電」
零戦を設計した三菱の堀越二郎が陸上基地防空のための戦闘機(十四試局地戦闘機)として設計を手掛けた。
昭和18年(1943年)9月から生産開始となり、生産数は621機。三菱生産のほか、高座海軍工廠でも生産された。

「箱根東京軽石層」の白い地層がよくわかる。

芹沢公園の地下壕は、立ち入りはできないが、柵の隙間から地下壕の様子を伺うことができる。現在、2本の壕内がライトアップされており、そのうちのひとつには、壕内に雷電のミニチュアが置かれている。
ライトアップは、9時~17時のあいだ。

芹沢の地下壕

高座海軍工廠と地下壕

 第2次世界大戦末期の昭和19年、現在の東原と大和市・海老名市の一部にまたがる地域に、本土防衛を遂行するための戦闘機「雷電」を製造する目的で口座海軍工廠が建設されました。
 地上施設と並行して、日々激しさを増してゆく空襲を避け、工員と操業の安全を図るために、下栗原の目久尻川沿いや支流にあたる芹沢川の谷あいの垳面に無数の地下壕をが作られました。地下工場が3カ所と知か物資倉庫が10数か所のほか、地下変電所や救護用ベッドを備えた郷もあったと伝えられています。
 栗原の中丸地区(現在の芹沢公園)には、地下工場として、この地下壕が作られました。地下壕の中には、東西と南北にあみだくじのように地下壕が張り巡らされ、その総延長は1500m程となります。これは、赤土の関東ローム層を人力で掘り抜いたものです。
 現在では、殆どの地下壕は埋められて。当時の姿を知ることはできなくなりました。そこで、埋められていないこの壕を残して、戦争の招いた悲惨さを忘れずに久遠の平和を祈念したいと思います。

箱根東軽石層
 地下壕内の壁には、幅40cmほどの白い地層があります。この地層は「箱根東京軽石層」といい、約66,000年前に起きた箱根火山の最大級の噴火による火山灰で、軽石を主体とし、神奈川県を中心とする南関東一帯に降り積もったものです。白い地層の上の層は、噴火直後に起こった火砕流の堆積物で、高熱の火砕流に巻き込まれて炭化した木片や、大木が倒れた跡と推定されている構造も観察できます。
 この地下壕は火砕流がこの地を通過したことがわかる貴重な場所です。(危険防止のため、一般公開は行っておりません。)
 平成28年11月座間市教育委員会

芹沢公園 園路整備工事は
【特定防衛施設周辺整備調整交付金(一般助成)】
を活用して完成しました。
 防衛省南関東防衛局
 座間市公園緑政課

土砂が堆積したままの地下壕もそのまま残っている。


芹沢公園の地下壕から北エリアに移動。北駐車場・管理棟の近くに新しい顕彰碑が建立されている。
「台湾少年工顕彰碑」
2018年に再整備が行われ、顕彰碑とあせて、地下壕のライトアップも行われるようになった。

台湾少年工顕彰碑

台湾少年工顕彰碑
八千の台湾少年雷電を
   造りし歴史永遠に留めん
    高座日台交流の会 石川公弘
北に対き年の初めの祈りなり
   心の祖国に栄えあれかし
    台湾万葉歌人 元少年工 洪坤山
朝夕にひたすら祈るは台湾の
   平和なること友の身のこと
    元伊勢原高女勤労挺身隊 佐野た香
2018年10月20日
 台湾高座会
 台湾高座会 留日七五周年歓迎大会記念
  石川創一謹書  

台湾少年工顕彰碑の由来
 先の大戦中、航空機生産の労働力不足に直面した日本海軍は、その供給源を向学心に燃えていた台湾の若者に求めました。新鋭戦闘機(雷電)を生産しながら勉学に励めば、旧制工業中学の卒業資格を与え、将来は航空機技師への道を開くとの条件に、多くの台湾台湾少年が応募し、選抜試験を突破した八千四百余名が、海を渡って高座海軍工廠のあったこの地(神奈川県高座郡)にやってきました。
 戦局はすでに下り坂で、彼らが求めた勉学の機会はほとんど無く。その上新設の高座海軍工廠には十分な設備が無かったため、大半が全国各地の航空機工場に派遣され、慣れない寒さやひもじさに耐えながら懸命に働き、非常に高い評価を得ました。しかし米軍機の空襲などで六十名に上る尊い犠牲もありました。
 一九四五年八月一五日の敗戦により、志半ばで帰国した彼らを待っていたのは、四十年の長きにわたる戒厳令下の厳しい生活でしたが、それにも耐え抜き、戒厳令が解除されると直ちに同窓組織・台湾高座会を発足させ、李雪峰氏を会長にして日本との密度の高い交流を重ねてきました。
 二〇一八年は、台湾からの第一陣が日本本土に上陸した日から数えて七五年になります。私たちはこの機に台湾高座会留日七五周年歓迎大会実行委員会を組織し、台湾高座会の戦時下の貢献と戦後における台湾最大の親日団体としての活動に感謝の意を表すため、台湾少年工顕彰碑建立を計画しました。
 なお、台湾高座会の皆さんが今もこの高座の地を「第二の故郷」と呼ぶのは、工廠のあった高座の地の多くの農家のお母さんたちのやさしさに源があるようです。此の顕彰碑は当時の農家のお母さんたちへの感謝の碑でもあります。
 二〇一八年一〇月二〇日(平成三十年十月二十日)
 台湾高座会留日七五周年歓迎大会会長 衆議院議員 甘利明

なお、座間市内に高座海軍工廠があったが、台湾少年工たちは、大和市の宿舎から通っていた。
大和市内には、「台湾亭」と「戦没台湾少年の慰霊碑」がある。

以下も参照に。

高座海軍工廠と台湾少年工
「雷電」を作った海軍の工場

 太平洋戦争末期の昭和18(1943)年、現在の座間市東原一帯に海軍直属の工場が開設されました。この工場は当初は空C廠と呼ばれていましたが、昭和19(1944)年高座海軍工廠として正式に発足しました。
 この工場は約1万人規模の工場で、開設された目的は高度1万メートルを飛行する米軍爆撃機 B 29を迎
え新型戦闘機「雷電」を生産することでした。
 工廠の中心部は、およそ現在の相鉄線さがみ野駅から東中学校までですが、その敷地全体は当時の大和
町、海老名町、綾瀬町にまたがり、組み立て工場のほかに将校宿舎・行員宿舎・倉庫・診療所などを含んで
いました。
 この工場の従業員の約8割は台湾出身の少年工で、そのほかに軍人、学徒動員の学生、勤労女子挺身隊
などが働いていました。戦後、フジヤマのトビウオとして有名になった水泳選手の古橋広之進さんや、作家の
三島由紀夫さんもこの工場に在籍していました 。

台湾から来た少年たち
 高座海軍工廠では戦争末期に不足していた労働力を当時日本の統治下にあった台湾に求めました。台湾で行
われた選抜試験には多くの少年が応募し、国民学校高等科や旧制中学校などを卒業した、十代の優秀な少人
余りが、海軍軍属として海を渡って日本にやってきました。
 少年たちは、昭和18(1943)年から順次、現在の大和市上草柳にあった寄宿舎に入寮し基礎教育を受けた後、
高座海軍工廠をはじめ群馬県の中島飛行機製作所や名古屋の三菱航空機など各地の工場へ派遣されました。
その真面目な働きぶりと高い技術は派遣先の工場でも高く評価されました。
 しかし戦局が厳しくなると労働環境は悪化し、中には空襲で命を落とした少年もありました。大和市上草柳の善
徳寺には、亡くなった少年工60名の慰霊碑が建てられています。
 昭和20年8月に終戦を迎え、少年工たちは台湾へ戻ることになりました。翌年の帰国までの間、戦争直後多少
の混乱はあったものの、少年たちは自治組織を結成し、秩序を守って整然と帰国しました。
 戦後、元少年工たちは戒厳令下の台湾でも懸命に努力して故郷の発展に尽くし、また苦労した戦時を過ごした
この地を訪れ、若き日の思い出にふける人も少なくありません。
 出典:石川公弘著「二つの祖国を生きた少年工」「座間市史」ほか 

芹沢の地下壕
 ここ芹沢公園の芝生広場の地面の下には総延長1.5kmに及ぶ「あみだくじ」状の地下壕があります。この地下壕は、激しさを増す空襲を避けて、高座海軍工廠の部品工場を移すために人力で掘り抜かれたものです。
 また、この地下壕は「箱根東京軽石層」という白い特殊な地層が観察できる場所としても知られています。この地層は、約6万6千年前に起きた箱根火山の大噴火によって、軽石を含む火山灰が降り積もったものです。
 現在は、地下壕の入口部分を見学することができます。
  平成30年10月 座間市教育委員会


高座海軍工廠と地下工場と台湾少年工宿舎の位置関係


座間市役所

2020年6月に、座間市役所で公開が始まった「雷電の部品」

座間市>戦闘機「雷電」部品用展示ケースの寄贈式と展示の開始

https://www.city.zama.kanagawa.jp/www/contents/1592805582887/index.html

ぜひ見たいと思い、脚を伸ばしてみたところ、見当たらないので職員さんに確認してみたところ、2021年12月現在では公開休止中。しばらく相模原市に貸し出していて、戻ってきてからは、展示していないのだとか。

相模原市の展示、、、見に行けばよかった。

https://www.sagami-portal.com/city/scmblog/archives/27576

座間市役所での展示再開の際は、またWEBで告知があるとのことです。

撮影:2021年12月

日本海軍と対支政戦略

支那事変(日華事変)初期の日本海軍の対応などを論じた、某大学史学科での私の卒業論文。
拙いですが、往時のデータがサルベージ出来たので、せっかくなので掲載。
なお、卒論提出時は「日本海軍と対華政戦略」と題していた。(教官から支那表記を止めるように指導があったため)
そのため、論文中表記に関しても、「対支」ではなく「対華」、「支那」ではなく「中華」で記載していたが、Web公開時に、歴史的事実を尊重し、当時の表現に合わせて一部表記の置き換えを行った。しかし多数に表記ゆれが残っている。

なお、注釈は「補注篇」として別紙としていたが、Web公開するにあたり、各章直下に挿入とした。
参考文献は、補記として文末に掲載した。
目次と注釈には文中リンクを貼るのが本来であれば望ましいが、作業リソース不足のために割愛する。


目次

序章  本論文の意義
第一章 これまでの研究について
第二章 海軍の対支認識
 一、海軍の対支認識
 二、満州事変(満洲事変)
 三、一次上海事変                
 四、北海事変                  
第三章 支那事変(日華事変)初期における海軍の対応
 一、北支派兵問題に対する政府対応        
 二、海軍戦略と中支派兵問題           
 三、中支派兵決定後の海軍及び近衛内閣     
第四章 海軍の対支政戦略と近衛内閣        
おわりに
補記1 参考及び引用文献一覧   
補記2 主要官職                  

凡例
一、場合によっては一部不適切と思われる表現がみられるかもしれないが当時の資料の重要性を鑑み、また論文の性格上表現はおおむね資料の記述に基づくものであり他意はない。
二、一部漢字及び語句の相違点がみられるが、これらに対しては置き換え等をせず出典資料の記述に基づくものとする。
三、一部に表記ゆれが発生してる場合もある。(対支=対華、支那=中華民国・中国、満洲=満州など)


序章 本論文の意義

 昭和期の日本海軍は日本陸軍に対して、良識を発言できる最大の勢力であった、とされている。しかし、歴史は海軍自らの手で戦争を推進していく形を形成していく。自ら「政治に関せず」と表していた海軍は、本当に政治に無関心であったのだろうか。また当時の日本を導いていた陸軍、海軍という二つの軍事集団は当然軍事以外の、政治、外交、内政、その他日本の国策のすべてに影響力を持っていた。その中で海軍としてどれだけの力を保持していたか、という点が重要になってくる。

 なかでも当時、日本陸軍が勢力を広げていた満州地方及び華北地方の政戦略に対して日本海軍はどのような意識を持っていたか、また海軍の勢力下にあった華中・華南地方に対してとられた海軍中央部の政戦略はどのようなものであったのか、と言う点を戦争拡大への過程のキーポイントの一つとして考えていきたい。さらに当時の対支政策を考える上で、陸軍・海軍・外務三者による国策決定が多く、軍に次ぐ政策決定集団としての外務省にも目を向け海軍との関わりを探っていきたい。

 「大東亜戦争」という表現は中国大陸の戦闘から始まっている。その発端として陸軍の対支政戦略に対して、海軍は対支政戦略にどのように取り組んでいただろうか、また外務省と海軍の対支政策の共通・相違の関係、と言う点を研究すれば、それが「大東亜戦争」拡大につながる経緯及び原因を知る手がかりになるのではないかと私は考えている。

 そこで最初に昭和海軍の対支認識を概観した上で「支那事変(日華事変)」初期及び「第二次上海事変」の派兵問題を中心に考察していくことで戦争拡大の経緯及び原因を研究していくことが目標となる。

(*)
政戦略…陸海軍の国家戦略的概念を当時は政戦略と表現した。


第一章 これまでの研究について

 この時代を研究する上で注意を要する点に、歴史の証言者がいる、ということがあげられる。その結果、資料の量が膨大になり、旧軍人関係者・外交・政界関係者、民間人を問わず、多くの当事者の手によって書物が書かれており、主にそれらが研究の対象となってくる。

 中でも近代軍事史研究の牽引をなしているものが「防衛庁防衛研究所戦史室」(1)関連であり、それ以外にも論文の数は豊富にある。しかし多くの論文は陸軍が中心であるといわざるをえない。それは当時の軍隊の中心は陸軍であったという事実からすれば当然ではある。さらに海軍の研究では主として対欧米問題が中心であり、中華問題の研究が軽く扱われている。中華問題の研究では海軍よりも陸軍が研究の中心にあり海軍の研究が軽く扱われるという状態であるのが現状であり、総括的なものが全体からすると少ないと言う点があげられる。

 全体からすると少ないとしても私としてはそれでも膨大な研究資料を整理することは為しがたいことであり、すべてに着目することは私の実力からしても到底不可能なことである。そこで海軍と対支認識を研究する上で、まず注目しなければならない「米内光政」(2)について従来の研究を整理したいと思う。

 米内光政についてはこれまでも幾多の研究がされており、その生涯について書かれたものも多い。古くは慶應義塾塾長であった小泉信三氏の「米内光政のこと」に始まり、朝日新聞社副社長や副総理であった緒方竹虎氏による『一軍人の生涯・提督米内光政』。また、海軍関係者では米内海相の秘書官であった海軍大佐実松譲氏の『米内光政』や米内海相・井上次官のもとで終戦のために尽力した海軍少将高木惣吉氏の「回想の米内光政」 (『山本五十六と米内光政』)。予備学生出身の海軍大尉であった阿川弘之氏の『米内光政』や兵学校卒の海軍大尉であった豊田穣氏の『激流の弧舟・提督米内光政の生涯』」。それ以外にも高宮太平氏の『米内光政』や米内光政銅像建設会による「米内光政追想録」・高田万亀子氏による『静かなる楯・米内光政』など米内光政に関しては読むべきものが多い。

 しかしこれらは米内光政の生涯について書かれたものであり、私の課題である初期支那事変における対支認識については断片の記述にとどまっている。

 そこで論文として注目すべきものとして、高田万亀子氏の「日華事変初期における米内光政と海軍」(3)相澤淳氏の「日中戦争の全面化と米内光政」(4)という二論文を海軍の対支政戦略を考える上で着目したいと思う。

 また、初期支那事変を扱ったものとして「支那事変勃発当初における陸海軍の対支戦略」森松俊夫(5)「支那事変初期における政戦両略」今岡豊(6)などがある。またそれ以外の論文等は随時註釈で触れていきたいと思う。


○第一章注釈 

補注 (各章ごとに注釈を追記)
なお、資料添附するにあたっては旧漢字は現代漢字に直すことを前提とはしているが完全な統一はされていない。
参考文献一覧は文末に掲載した。

(1)
公刊戦史として防衛庁防衛研究所戦史室編『戦史叢書』全102巻がある。

(2)
米内光政 海兵29期 海軍大将 日華事変当時の第一次近衛内閣海軍大臣。林・一次近衛・平沼内閣の海相を歴任、昭和15年には予備役入りし総理大臣となる。日華事変の対応や三国同盟問題、戦争回避に尽力する。昭和19年には現役復帰し小磯・鈴木内閣の海相として終戦の為に奔走。戦後も東久邇宮・幣原内閣の海相として海軍の最後を看取る。

※盛岡八幡宮の米内光政像

(3)
「日華事変初期における米内光政と海軍 上海出兵要請と青島作戦中止をめぐって」
高田万亀子 『政治経済史学』251号 1987.3

 本論文では日華事変初期における青島作戦放棄・現地保護放棄という後に何等重大な問題も起こさず平穏に歴史の彼方へ消えた「出来事」を今次大戦を通じてみても希有の存在である、として研究を展開している。この青島作戦は陸海軍の協議がなり、すでに陸軍からは先発部隊が発して海軍部隊の到着を待ち、海軍も軍令部では手続きを終え海軍省の了解さえあれば上陸を開始するという状態での中止であり、普通の作戦中止とは同一視できないものである。

 高田氏は今次大戦中容易にみられなかった大局観に基づく政戦両略の一致があり、海軍ではなお統帥権が独立せず、統制が保たれていた事実があり、そこには米内光政海軍大臣の存在こそ大きく、また天皇意志も働いていた、と分析している。本論文ではこうした青島問題を中心に、上海出兵の経緯も関連させながら当時の海軍と米内海相の措置について考察されている。高田氏は青島と上海の状況を分析し青島作戦の中止は引き揚げ、現地保護の放棄を断行出来たからであり、まだ戦闘は始まっておらず市長もこれまで一応の友好関係にあった人物ということもあり、面子を捨てて、責任をとる覚悟があればまだ引き揚げが出来る余地が残っていた。一方、上海においては中国側からの先制攻撃を受け全面戦争の状態に陥っており米内としては不拡大の不可能を見通していた。最後に高田氏は青島作戦の中止は米内であったから出来たことであった、とするも上海戦と上海派兵要請は米内にとっても最早他に選択肢はなかったとし米内の責任を問うとすれば、それは派兵要請や強硬発言よりも、早期収拾を図れなかった近衛内閣の一員であったことにあるのではないか、と結んでいる。

(4)
「日中戦争の全面化と米内光政」相澤淳 『軍事史学』33 1997.12

 本論文では大山事件発生後の海軍の強硬論への転換は陸軍の拡大派ですら北支限定の強硬論であったことを考えると日中戦争全面化へのターニングポイントであったとし、米内の態度の急転を分析している。

 まず廬溝橋事件以前の海軍の中国への関わりを概観した上で、海軍の対応を米内の中国間を交えて検討している。

 相澤氏は本論文で八月十四日中国空軍の第三艦隊旗艦出雲爆撃(日本の在中国艦隊のシンボルである旗艦出雲への攻撃は日本海軍の威厳とプライドを傷つける十分な攻撃であり、それは路上での突発的な武力衝突とは異なって、中国の中央政権の意図をはっきりと感じさせる攻撃であり、中国からの重大な挑戦である。)に非常な怒りを示していたという状況と米内の「日本を強者とし中国を弱者とする」中国認識のもと蒋介石に反省を促すという膺懲論の選択のもと南京占領発言につながったものであり、米内の中国認識は基本的に国民党蒋介石政権の民族自決・国家統一という動きには肯定的であったが、その動きが日本海軍の利害と真正面から衝突した時には不信感に転ずるものであった、としている。

(5)
『政治経済史学』168号(80.5)

(6)
『軍事史学』10(74.6) 


第二章 海軍の対華認識

 本論にはいる前に簡単に当時の情勢について概観していきたい。しかし、昭和史の概観について書かれたものには優れたものも多く、私としては陸軍を中心とした中国大陸一連の対支政戦略等はそれら優れた書物(1)に譲るとしたい。

 ここでは前提として海軍の対支認識を分析し支那事変に至るまでの大陸情勢を海軍中心の視点から概観することになる。

一.海軍の対支認識

 海軍にはいかなる対華認識があったのだろうか、ということが以下で論ずるにあたって重要な位置付けをもってくる。

 

 日露戦争後の海軍は想定敵国をアメリカに絞った関係から、戦後経営の方向をもっぱら海軍の物的・技術的近代化に求めていた。そのために、海軍指導者らの眼は欧米の先進諸国だけに向けられ、複雑なアジア大陸、とくに中国の内情等については認識が浅く陸軍に情報を仰ぐだけというのが実情であった。(2)

 さらに海軍は第一次大戦の戦争様相の変化に伴う総力戦認識、また大戦後の対米関係の悪化が海軍の大陸資源への関心を高めそれが中国問題に一歩踏み込む契機を与えつつあった。しかしアメリカを第一の仮想敵国とする海軍にとって、中国問題に深入りすることは、なけなしの艦艇を分散する不利があり、また明治以来の大陸非干渉主義が底流に存在していた。(3)

 昭和海軍の指導者の底流にあったとされる明治以来の対華認識としてここで明治41年に海軍大学校教官の職にあった佐藤鉄太郎大佐(4)の『帝国国防史論』(5)を取り上げたい。これには、これからの海軍のとるべき方針が書かれており、とくに海洋国家日本が大陸に進出することの危険性を主張し、海主陸従論が展開されている。

 日本の満蒙経営を批判し海上に利を求めたこの『帝国国防史論』は当然陸軍の反発をかうことになる。ここには当時の陸海軍人の「国防」問題や「作戦」方針についての考え方にかなり基本的な相違があり、ほとんど「水と油」の感じさえ抱かせるもの(6)であり、陸海軍の意見の相違というものが今後も影響を及ぼすことになる。

また、この当時はこのような海洋立国論が多くみられ、これらが「南進論」へと発展していくことになる。(7)

 日本海軍では中国に長く勤務した者や中国情報担当者は「シナ屋」と呼ばれていた。主流の欧米派に比べてシナ屋の人数は圧倒的に少なく、彼等は一段下にみられ、いわゆる出世街道から外れた傍系であった。将官に進級した者もごく限られており、(8)津田静枝中小は、日本の海軍がとかく英米を重視するの余り、支那を軽視するのをしばし慨嘆し「支那と親交を結ばずして対米作戦など出来る筈がない」とよく述べていたという。結局海軍では「支那関係の勤務など、海軍では島流しにされたかのように」考えられていたというのが実情であった。(9)

二.満州事変(満洲事変)

 昭和海軍や米内の対華認識は後ほど検討することにしてここでは昭和期の中国の現状を海軍の対応を中心に概略していきたいと思う。

 

 昭和二年(1927)には「第一次山東出兵」昭和三年には「第二次・三次山東出兵」(10)「張作霖爆死事件」(11)という動きがあり、昭和五年には海軍として「ロンドン軍縮会議」(12)があり、ついには昭和六年九月十八日に「満州事変」(13)を迎える事となる。

満州事変前、六月か七月頃に軍令部一課長近藤信竹大佐(14)が軍令部長谷口尚真大将(15)に

「「陸軍は何かやり出すに違いないから、早く手を打たねばならぬ」と申しあげしところ、部長は「承りおく程度にしよう」と答えられた。…間もなく満州事変が勃発した。」と回想している。その近藤第一課長は「海軍は満州で事を起こすのは不可と考え、つむじを曲げていた。」とも回想している。

 一方で澤本頼雄軍務一課長に(16)いたっては「事変勃発まで知らなかった。」と証言している。(17)

 満州事変当時の海軍次官小林躋造中将(18)は

「我海軍は、多年に亘る満州不穏の情勢よりして警戒はして居たけれども、海軍の伝統として政治に触れない立場から、一に平和的施策に信頼し、特に政府に対し意見を具申した事もない。また海軍としては倫敦軍縮会議の直後であるし、之が善後策に腐心していたので、この時機に、悪くすると大戦に導入する虜のある満州事変の勃発は、好ましからぬ事であった。衝突の起こった地点が、国内遙かな処でもあるし、陸軍に協力する必要も無いので事変勃発に対処する特別の処置は、満州に関する限り採られて居らない。」(19)

と極めて消極的意見が回想されている。

 この考えは『帝国国防史論』以来の伝統的な海軍の大陸政策といえそうである。海軍にとっては「国内遙かな処」であり「支那プロパー(20)にあらずして外地的存在」でしか認識がない満州での事変勃発は迷惑でしかなく、その消極的態度は、陸軍中堅幕僚層の不評をかっていた。(21)

 満州事変当時の参謀本部第二課機密作戦日誌には

「海軍側は本事変に対し熱意なきが如し、特に海相及び海軍次官に於いて然り。」九月二九日

「海相は単に中南支那の事のみに意を注ぎ満蒙問題に関しては何等定見なく且極めて消極的態度を持しあり。」十月九日

「政府の大方針に極めて忠実なることが海軍の鉄則なるが如し」十月十五日(22)

などが記してあり、陸軍としては政府同様に不拡大方針を採る海軍に対して不満が述べられている。

 結局海軍は満州事変に対しては

「海軍は満州事変の際は、海軍の出る幕ではないと冷淡であった。」(23)という立場を貫き通すことになる。

三.第一次上海事変

 しかし昭和七年一月二十八日に上海事変(24)が発生すると状況は大きく変わる。

そのころの上海の様子を当時南京領事館勤務の上村伸一(25)は

「満州事変勃発以来上海在留の日本人は恐ろしく強気になった。長い間排日に悩まされ、辛抱に辛抱を重ねてきたので、満州の爆発とともに堪忍袋の緒が切れたのであろう。」(26)とし、また中華公使である重光葵(27)は

「上海の日本人たちは満州で日本の軍隊がとった強硬な態度によって満州における排日運動を解消し、日本の権益を護ることができたと思っており、同様な強硬手段が上海でも成功すると考えていた。」(28)というように上海をみていた。

 このような状況である上海にやはり事変が起こることになる。戦備が充分でない陸戦隊は苦戦を強いられることになる。(29)

 重光中華公使は

「問題の焦点は要するに陸戦隊及び海軍の力だけでこの混乱している上海の戦争を片づけて、居留民の生命財産の安康を期し得るかどうかにあった。責任をもつ海軍側は軍隊の意地とでもいうか、最後まで自分の手で解決するという無謀な意気込みである。しかし外務省側の館員の意見を総合してみると、それは不可能ということで、この際は陸軍の出兵を見なければ問題を片づけることができぬ。しかし海軍を説得することが困難だという意見であった。(後略)」(30) としている。

 外務・陸・海軍省それぞれに送られた電報により閣議が開かれることになる。 原田熊雄(31)によると

「二月一日大角海軍大臣(32)に呼ばれていったところ、…「上海の陸軍出兵問題は明日二日の閣議に提出し、その時期は陸海軍大臣に一任する筈である。…」というような話があった」(33)としている。

 二月三日には貴族院副議長近衛文麿(34)が大角海相を訪問し、そこで陸軍出兵の再考に対して意見を求めたところ、大角海相は興奮し

「今となりては絶対に陸軍出兵の中止は困難にして、ぐづぐづして居ては尼港事件の二の舞を演ずるの虞あり…」(35)と陸軍の増援を希望している。

 豊田貞次郎軍務局長(36)は

「陸軍の派遣は大角大臣の発案で、われわれは海軍だけでやりたいと申し上げたところ、大臣は、海軍には本来の重要任務がある。手遅れになってから陸軍の増援を求めるのは、事がうるさくなるからと答えられた。」(37)

としている。

 派兵に反対の人物も多く、高橋大蔵大臣(38)は

「財政の点からいっても、また我が国の国際的立場からいっても、この際居留民の引き上げを断行した方がいい。そのためには、よしんば一億万円かかるとしても、兵隊を出すとなれば、到底そんなことでは済まないのだから…」(39) という見解であった。

 結局は

「上海や揚子江の問題となると海軍の縄張りで、依然積極的になる。」(40) ということになる。

 この出兵後日華両軍で死闘が行われたが、諸外国の調停もあり三月三日には停戦声明がだされ、五月五日には停戦協定(41)が成立することになる。

 満州事変以来、陸海軍は膨張し続けた。

「太平洋中の一小島国である日本が世界最大の陸軍国及び海軍国を目標として、勢力を争はんとするのであるから、憐れむべき日本国は、陸海軍勢力のために、南北に引き裂かれんとするわけである。」とは重光葵の意見(42)である。

四.北海事件

 昭和七年以降も北支・中支ともに紛争が続くことになるが、両国共に外交的に接近をしようともしていた。

昭和十年九月には中国側が「三原則」を日本側に提出。一方日本の広田弘毅(43)外相はこれを検討し、回答。いわゆる「広田三原則」を中国側にしめすことになるが、結果的にはこの「三原則」は崩壊することになる。(44)

昭和十一年頃の陸軍の「北支自治工作」以降対日警戒心を強めることになり、中国人の抗日救国の気勢を、著しく高めることになった。(45)

 海軍は従来、華北の事態に対しては比較的冷静な傍観者であり、華北における陸軍の行動に対しては概して批判的であり、外務省と協力して、その行き過ぎを的行動を監視する立場にあった。

 これ以降抗日事件が立て続けに起きるが昭和十一年八月二十三日の成都事件や九月三日の北海事件、十七日の汕頭(さんとう)事件、十九日の漢口事件、二十三日の上海事件がそれぞれ発生した。従来陸軍の対中国政策に冷静であった海軍ではあったが北海事件以降異常な興奮状態に陥ったのは、これらの地域が海軍の警備担当区域であり、陸軍の華北と対抗する意味でその勢力範囲とされていたからである。

 北海事件(46)では調査を行おうとして拒絶された海軍が、強攻策に転じ、海軍は軍艦を派遣。陸軍に出兵を希望する申し出をすることになる。対ソを重視し対華作戦が困難なことを知る陸軍石原部長を中心に出兵反対論が強かったが、これまで穏健な海軍が急に豹変したことが政府・外務省・陸軍を当惑させることとなる。(47)最終的には自然消滅していくが、このとき戦線が開かれてもおかしくない状況ではあった。


○第二章注釈 

第一節

(1)
陸軍を中心とした中国大陸の動きを把握するための概略書として『日中戦争史』秦郁彦著 昭和47年 河出書房新社、『満州事変』『日中戦争』臼井勝美著 昭和61年 中公新書、『戦史叢書86支那事変陸軍作戦1』防衛研究所 昭和50年 朝雲新聞社など。

外交史の概略書として『日本外交史』上村伸一著 昭和46年。

海軍としては『戦史叢書72中国方面海軍作戦』昭和49年、を代表して列記しておく。

(2)
『海軍と日本』 池田清著 昭和56年 中公新書 88頁

(3)
『日本海軍史第三巻』 25頁  

(4)
佐藤鉄太郎 海兵14期 海軍中将 「海主陸従論」を唱えた「帝国国防史論」を著す。軍縮問題で加藤友三郎海相と衝突し大正12年に予備役に編入。

(5)
『帝国国防史論』上下巻 佐藤鉄太郎著 昭和54年(原本M43)原書房

以下順に上巻89貢 下巻119貢 126頁~127頁

「我が帝国の維持すべき方針は近き将来に於いては一に唯征服を大陸に試むるの壮図を避け、天与の好地勢を利用し、海上勢力を拡張し、且之を永遠に維持し得べき所以の道を図り自強の策を講じ、国利の増進を海上権力の暢達に求めて疑ざるにあり。」

「日本が其の軍隊(陸軍)を将来益々増大ならしむるは大征略的戦闘の準備をなすの他に何等の意義を有せざるなり。斯の如き目的を有するにあらずんば軍隊を増大ならしむるは愚の至るなるべし。」

「近き将来の世界的舞台における我が帝国の役割は誠に重大なり。殊に東洋方面においては事の軽重大小に論なく避けんと欲するも能はざるの関係を有せり。…要するに近き将来における、東洋の紛争は支那問題より生せん。…主として此の問題に容喙すへき英米仏独四国は、地理的関係上共に大いなる陸軍を派遣して事に当たるに由なし乃ち此の場合に所する我帝国の態度は極めて簡単なり。我が武力を海上に発揮し、比較的小規模なる陸上武力を大陸に用いるは可なり。」

(6)
『戦史叢書91 大本営海軍部連合艦隊一 開戦まで』 昭和50年 朝雲新聞社108頁  

(7)
『海軍と日本』115頁 

(8)
『海軍と日本』90頁 

(9)
「日中戦争の全面化と米内光政」126頁 

第二節

(10)
田中義一内閣が、中国統一を目指す国民政府軍の北上を阻止する為に、居留民保護を名目に山東省に出兵した事件。昭和2年5月・昭和3年4月・5月の3回行われ、その結果、中国民衆の排日運動が激化した。

(11)
奉天軍閥の張作霖が途中奉天郊外で関東軍による列車爆破により死亡した事件 

(12)
1930年、ロンドンで開かれた海軍補助艦の保有量に関する軍縮会議。参加国は英・米・日・仏・伊であったが仏・伊は協定拒否。英・米・日で協定成立。日本は総トン数で対英米約7割の補助艦を確保したが、この問題をめぐって海軍内は艦隊派と条約派に分裂。

(13)
昭和6年9月18日の柳条溝事件を契機とする関東軍の一連の軍事行動。関東軍参謀石原莞爾中佐の奇跡的な作戦によって開始。当時の若槻内閣は不拡大方針であったが軍は政府方針を無視して拡大。翌年3月に満州国が建国された。満州事変時の海軍の動きについては『國學院大學日本文化研究所紀要』第80輯(H9.9)「満州事変と日本海軍」樋口秀美 に詳しい。

(14)
近藤信竹 海兵35期 海軍大将 満州事変時は軍令部第一課長。日華事変は軍令部第一部長。太平洋戦争開戦時は第二艦隊司令長官から南方部隊総指揮官。 

(15)
谷口尚真 海兵19期 海軍大将 昭和3年12月連合艦隊司令長官。昭和5年6月から軍令部長。

(16)
澤本頼雄 海兵36期 海軍大将 満州事変時の軍務一課長。

(17)
『海軍戦争検討会議記録』 新名丈著 昭和51年 毎日新聞社 118頁

(18)
小林躋造 海兵26期 海軍大将 野村吉三郎の同期。満州事変時の海軍次官。条約派とみなされ昭和11年予備役編入、台湾総督に就任。  

(19)
『小林躋造手記』「政治経済史学138号」所収 野村実  

(20)
プロパー…本来あるさま 

(21)
『海軍と日本』91頁

(22)
『太平洋戦争への道 別巻資料編』 稲葉正夫他編 昭和63年新装版 朝日新聞社
「満州事変機密作戦日誌」 113頁~

(23)
『破滅への道 私の昭和史』 上村伸一著 昭和41年 鹿島研究所出版会 45頁 

第三節

(24)
上海公使館付陸軍武官補佐官田中隆吉少佐が企てた陰謀によって勃発した事件。上海事変については『政治経済史学』333号(94.3)「第一次上海事変の勃発と第一遣外艦隊司令官塩沢幸一少将の判断」影山好一郎 『軍事史学』28号(92.9)「第一次上海事変における第三艦隊の編成と陸軍出兵の決定」影山好一郎 『政治経済史学』318号(92.12)満州・上海事変の対処に関する陸海軍の折衝』影山好一郎 などに詳しい。 

(25)
上村伸一 上海領事・南京領事を努めて昭和9年から外務省東亜局第一部長となる。

(26)
『破滅への道』43頁

(27)
重光葵 上海事変当時の駐華臨時代理公使。天長節遙拝式場にて爆弾により右足を失う。のち外務次官として対華問題に取り組み、張鼓峰事件時の駐ソ、二次世界大戦開戦時の駐英大使。東条・小磯・東久邇宮内閣時の外相。降伏時の日本首席全権。戦後は改進党総裁。鳩山内閣副総理・外相として日ソ共同宣言・国連加盟を果たすなど第一級の外交官。

(28)
『外交回想録』 重光葵著 昭和28年 毎日新聞社 130頁

この機会に上海でも満州と同様に強硬な態度をもって排日運動に一撃を加えて、従来の悪い空気を一掃せしめるべきだ、と考えられていた。

(29)
この間の過程は「戦史叢書 大東亜戦争開戦経緯1」や「日本海軍史第3巻」に詳しい。

(30)
『外交回想録』137頁

「海軍武官の北岡大佐も「自分の口から海軍で処理することは出来ないとは言いにくいが、今日の事態では陸軍の出兵を要求するほかないと思う。」という結論だった。」とし最終的に重光公使は「熟慮の結果、今目前に起ころうとしている悲惨事を救うことがすべての前提であり…日本政府に出兵を求めることは両国の関係を救うことになると結論し…十分な兵力を上海に送ってもらいたいと政府にその日(二月一日)のうちに電報で要請した。」

(31)
原田熊雄 男爵 貴族院議員 元老西園寺公望の私設秘書 

(32)
大角岑生 海兵24期 海軍大将 犬養・斎藤・岡田内閣海相。ロンドン軍縮条約をめぐり艦隊派と条約派の対立を招き、条約派を一掃する「大角人事」を断行する。昭和11年軍事参事官。16年に飛行機事故で殉職。

(33)
『西園寺公と政局』第2巻 原田熊雄述 昭和25年 岩波書店 200頁

以下『原田日記』とする。

(34)
近衛文麿 公爵 五摂家筆頭 3度の首相を務める。戦後戦犯容疑がかかり自殺。

(35)
『木戸幸一日記』上  木戸幸一著 木戸日記研究会 昭和41年 東京大学出版会  135頁

(36)
豊田貞次郎 海兵33期 海軍大三国同盟締結に積極的に動いた海軍次官。16年予備役。二次近衛内閣の商工相、三次近衛内閣の外相・拓相。その後日本製鉄社長、内閣顧問。鈴木内閣の軍需相。戦後は貴族院議員。その半生は「出世の為に海軍を踏み台にした」といわれる。

(37)
『海軍戦争検討会議』122頁

(38)
高橋是清 政治家・財政家。文部省、農商務省、日本銀行に勤め、明治44年日銀総裁。また蔵相、政友会総裁、首相など要職を歴任。昭和11年の2・26事件で暗殺された。

(39)
『原田日記』第二巻 201頁  

(40)
『破滅への道』45頁

(41)
「上海停戦協定」は日華事変時の「大山事件」(第二次上海事変)勃発時に中国側が違反したとされるものであるので、ここに掲載する。

なお協定は英米仏伊四国公使斡旋である。

「上海停戦協定」

第一条

 日本国及中国の当局は既に戦闘中止を命令したるに依り昭和七年五月五日より停戦が確立せらるること合意せらる双方の軍は其の統制の及ぶ限り一切の且有らゆる形式の敵対行為を上海周囲に於て停止すべし停戦に関し疑を生ずるときは右に関する事態は参加友好国の代表者に依り確かめられべし

第二条

 中国軍隊は本協定に依り取扱はるる地域に於ける正常状態の回復後に於て追て取極ある迄其の現駐地点に止まるべし(略)


第三章 支那事変初期における海軍の対応

一.北支派兵問題に対する政府対応

 

 廬溝橋事件(1)当初、陸軍は基本的に不拡大方針であった。一時は現地で協定が結ばれることになるが、その陸軍の統制はとれておらず、参謀本部や関東軍中堅層の勢いを止めることが出来ず、事変は徐々に拡大の方向に向かうことになる。以下その動きを海軍を中心に日を追ってみていきたい。

 

 まずは事件勃発翌八日時点での中央部(2)の動きを把握していきたい。

 七月七日に発生した廬溝橋事件を陸軍中央部が知ったのは八日早朝の電報であった。

陸軍省軍務局の柴山兼四郎課長は「やっかいなことが起こったな」と眉をひそめ、参謀本部の武藤章第三課長は「愉快なことが起こったね」(3)と全く逆の反応を示している。しかし陸軍はこの時点では参謀本部石原莞爾第一部長(3)を中心に非拡大・現地解決方針であった。参謀本部は八日午後に臨命をもって支那駐屯軍司令官に指示をしている。

「事件ノ拡大ヲ防止スル為更ニ進ンテ兵力ヲ行使スルコトヲ避クベシ」(4)

 一方、海軍では中国側の不穏の情勢に対する陸軍の態度から事変の拡大の可能性も考慮し、台湾方面で演習中の第三艦隊に演習中止や警備の強化などを決定し警戒をしている。(5)また、山本五十六海軍次官(6)は「陸軍のやつらは、なにをしでかすか、わかったものではない、油断がならんよ」と陸軍を疑い、米内光政海軍大臣もそれに同感の意を示している。(7)

 外務省では広田弘毅外務大臣・堀内謙介次官・石射猪太郎東亜局長(8)らが「柳条溝の手並みを知っているわれわれにはまたやりやがったであった。」と陸軍の謀略説の可能性を疑っている。

 午前中には中国問題に対する慣例から陸軍の後宮淳軍務局長(9)と海軍の豊田副武軍務局長(10)と石射東亜局長の三者が会同して三省事務当局会議が開かれ事件不拡大方針を申し合わせている。(11)

 近衛文麿総理大臣は風見章書記官長(12)から報告をうけ、杉山元陸相(13)の「わがほうにとってはまったくの偶発事件である」という話を聞くと「まさか、日本陸軍の計画的行動ではなかろうな」と疑いの目を向けている。(14)

 以上のように陸海外三省と総理の勃発時点での反応を記してみたがおおかた事変拡大の可能性を考慮し、また陸軍の行動を疑っていることがわかる。しかし、これら初期の陸軍不信という認識が、後の事変処理を誤ることになっていく。

 

 九日には政府において臨時閣議が開かれている。米内手記によると閣議の模様はこうなっている。(15)(以下「米内手記」を参考)

「昭和十二年七月七日 廬溝橋事件勃発する。

 九日 閣議において陸軍大臣(杉山元)より種々意見を開陳して出兵を提議した。海軍大臣(米内光政)はこれに対し、なるべく事件を拡大せず、すみやかに局地的にこれが解決をはかるべきを主張した。」(16)

 閣議では全閣僚が米内意見に同意したため陸相の意見は見送られることになる。その間現地では善後交渉が開始されることになり日本政府は、外務・陸軍・海軍ともに「不拡大・局地解決」の方針をもって望むことになる。(17)しかし陸軍では出先の朝鮮軍、関東軍や中央の中堅将校などの多くは強硬論であり、一部の慎重派を除き、陸軍全体はなんとなく殺気立っていた。

 当初から不拡大を唱えていた海軍も、陸軍の態度と中国の情勢を考え、万が一に備えて和戦両様の構えをとり、万全の体制を整えるようになる。外務省も同様に派兵は絶対反対の立場にあった。

 

 そして自体は急転した七月十一日日曜日の緊急閣議を迎えることになる。この日の早朝から石原莞爾参謀本部第一部長が突然近衛総理の私邸を訪ね、そこで「本日の閣議で陸軍側の動員案を否決してくれ」と頼み込み近衛を驚かすことになる。(18)同じ頃石射猪太郎東亜局長もまた陸軍省軍務局からの連絡員が「動員案を外務大臣の手で葬ってもらいたい」と外務省にやって来た話を聞き「明らかに陸軍部内の意見不統一の暴露だ。現地でせっかく、解決交渉中というのに、何を血迷っての動員案か、頼まれずとも外務省は大反対に決まっている。」とこの陸軍省や参謀本部の分裂ぶり、無統制にあきれはてている。石射は広田外相に軍務局の連絡員の話をし「動員案を食い止めていただきたい。このさい中国側を刺激することは絶対禁物です」と進言し、広田外相は了承している。(19)

 派兵の為の予算問題を伴うため賀屋興宣大蔵大臣を交えた総理・陸海外の五相は閣議前に会談を開き、そこで米内海相は「今回の事件をもって、第二の満州事変たらしむようなことは、絶対にやらない」と発言。意見の申し合わせを行った。(20)

 この閣議の模様を米内の認識を知るためにも米内手記で過程をみていきたい。(21)

「十一日 五相会議において陸軍大臣は具体案による出兵を協議した。五相会議においては、諸般の情勢を考量し、出兵に同意しなかったが、陸軍大臣は五千五百名の天津軍と平津(北平・天津)地方におけるわが居留民を皆殺しにするに忍びずとして、たって懇請したるにより、渋々ながらこれに同意せり。しかして陸軍大臣は、出兵の声明だけでも、(イ)中国軍の謝罪(ロ)将来の保障 を確保できると思考したようである。

 思うに、…和平の交渉と兵力の行使を同時にするようなことは、この際とるべき方途ではなかるべく、要は和平交渉を促進することを第一義とせねばならない。陸軍大臣は出兵の声明だけをもって問題はただちに解決するものだと考えているようだが、海軍大臣は諸般の情勢を観察するとき、陸軍の出兵は全面的な対中国作戦の動機となろうであろうことを懸念し、再三にわたって和平解決の促進を要望した。

 華中における対日動乱は、華北における禍根の波動にほかならない。…もし今回の廬溝橋事件にたいし誤った認識をもってその解決にあたったならば、事件が拡大することは火をみるより明らかである。そしてその余波は一ないし二ヶ月にして華中に及ぶであろう。海軍大臣のもっとも懸念したのは、実はこの点にあったのである。

 …前述したようなことを考慮し、あくまで事件不拡大・現地解決を強調する。

 なお、動員後も派兵する必要がなくなったならば、ただちにこれを中止させることを希望した。」

 以上のように米内海相は派兵は好ましくない旨を強調し、「陸軍の出兵は全面的な対中国作戦の動機となるであろうことを懸念」していたが、用兵が華北陸上における陸軍用兵に限定されるとあれば、海軍としてはこれ以上反対の理由なしとして渋々ながら派兵に同意している。この対応には海軍の消極性の一面が表れているが、米内海相は杉山陸相から「動員後も派兵の必要がなくなった時は派兵を中止させる」という条件をとりつけることになる。そして居留民保護と自衛に限り派兵するという条件付きのもと動員準備案が可決された。(22)

 広田外相は「条件付きの、万一の為の準備動員案だったから、主義上意義なく可決された」と石射東亜局長に語っているが、石射は「手もなく軍部に一点入れられた感じ」といたく広田に失望している。(23)

 近衛総理も後に回想しているが「蘆溝橋の事件が突発した時はどうであったかといふと、軍部から、北支に反乱が起きた。居留民保護のため派兵する。この程度の報告で、出兵費用の要求をうけたのである。何といふても居留民の生命財産の保護といふ名目であるから、之に対しては一応反対はできない。」というように消極的であり、米内の奮闘(24)が目立つ結果となっている。(25)また、本事件は今後事変とみなすこと、出兵とせず派兵とすることとされた。同日十七時三十分に風見章書記官長が「今次ノ北支事件ハ其性質ヲ鑑ミ事変ト称ス」と発表し、続いて十八時二十四分に近衛総理が「北支派兵ニ関スル政府声明」(26)を発表している。(27)

 しかし同日午後十時頃に陸軍大臣が五相会議において現地停戦協定の成立という報告を行い、そこで海軍大臣は「本日の閣議で決定された出兵はどのように取り扱われるか」を質問したところ、陸相は「中国側が文書によって承諾すれば全員を復員させてよろしい」と答えている。(28)

 以上のように閣議では派兵は決定されたが現地協定成立という報告により、約束通り派兵は取りやめということになった。このまま収まっていれば後の悲劇はなかっただろうが確実に戦争への歯車は回り始めていた。

 近衛総理は先ほどの声明のあと、貴衆両院議員代表、財界有力者及び、新聞、通信関係者代表を首相官邸に集めて、国内世論統一のため、自ら政府の強硬な決意を披瀝し、一般の了解と支援を求めた。その結果翌日の新聞などは「暴支膺徴」論を書き立てて気勢をあげることになるが、近衛総理の側近ではこれまで事件があるごとにいつも後手に廻り、軍部に引きずられることが多かったので、今度こそは先手を打って軍部をたじろかせるほうが事件解決上効果があろうという考えでこのような気勢を示したものであった。(29)

 近衛首相は原田日記の記述では「総理は国論を統一するために、また支那に対してまづ威嚇的に日本の挙国一致を見せるために、各方面から有力者を総理官邸にたびたび呼んで、陸軍の決意あるところ、即ち政府の決意あるところを示して協力を求めたりしてをつた。」という状態であり、一方「殊に海軍の態度は立派で終始総理を授けて、今後事態の大きくならないやうに大いに努力してをり、有田(30)も杉山陸相に会って、心から国家のために忠告をしているやうな状態である。なんにしてもあらゆる意味で日本の非常な危機を、いかにして内部的に纏めて免れるかといふことについて、みんな非常に心配しているのである。」(31)と海軍などの努力を記している。

 この内地師団動員を進んで支持し戦争熱をあおるような近衛総理の行動は風見書記官長の献策からでたものであった。外務省の上村東亜課長は「軍は戦車のようなもので、しかも強力な組織力を持っている。非力な首相が小手先の芸当で強力無比な軍部を操り得るなどと考えること自体がドン・キホーテの亜流である。首相が一歩先んじれば、軍は二歩も三歩も先行する。そして首相にはこれを抑える力はないので、ずるずると引きずられるのが落ちである。」(32) と、見解の甘さを批判し、また官邸の様子を見た石射東亜局長は、近衛首相周辺の動きは政府自ら気勢をあげて、事件拡大の方向に滑り出さんとする気配であり、「冗談ではない、野獣に生肉を投じたのだ」と嘆いている。(33)

 さらに協定成立後も近衛総理の派兵声明はこのままとなり、この事変勃発当初からの誤った認識が中国側を刺激し対日不信をかきたてることになった。

 各新聞は現地停戦協定成立を号外として発行しようとしたが陸軍省新聞班が「その報道は疑いがあるから発行を見合わせるよう」に各社に申し入れ、東京のラジオ局に「現地では、停戦協定が成立したということだが、冀察の従来の態度からみて協定の実行に誠意ありやなしやは疑わしい。おそらく協定は反古同然になるだろう」と放送させた。現地の松井機関長は直ちに参謀本部に抗議の電報を発したところ、軍中央では「ラジオ放送は誤りである。引き続き努力ありたい」と回電があった。これは陸軍省新聞班の強硬派がかってに原稿を書いて放送させたものであったとのちに判明している。(34)

 翌十二日の新聞は声明の撤回もなく、さらに陸軍省新聞班の指導によって、各紙とも第一面に大きく派兵に関する政府声明を掲げ、同じ日に調印された現地停戦協定成立の記事は、ほとんどの新聞が極めて目立たない形で取り上げられ「現地からの通信によると、支那側がわが駐屯軍の要求を全部容認したとの噂があるが…一片の口約束で支那側を承認したならばまたまた煮え湯をのまされるに決まっている。厳重に監視するのみ。」という内容の陸軍当局談話まで掲載されているものもあった。(35)

 国民の「暴支膺徴微熱」も政府の鼓吹によって高まり、国防献金の殺到、国民大会の開催が相次ぎ、産業界の一部も戦争気分を歓迎している。(36)

 また同盟通信社上海支局長の松本重治は十二日の新聞で十一日の閣議決定、内地師団の派兵中止、停戦協定成立などのあわただしい、混沌たる動きを知り、また近衛総理の日本各界への「挙国一致」の訴え、それに応じた各界の安易な姿勢に対して、中国の「反省を促すために派兵し、平和交渉を進める方針」という近衛総理の頭が狂っていないとすれば、私の頭では解らぬことばかりであった、と感想している。松本は自分の頭が狂っているのか、いないのかを冷静に見極める為に中国側の反応を知りたい、ということで蒋介石の側近の一人である斐復恒と会談している。そこで斐は「日本内地からの出兵が中止されたのはいいが、華北の現地は局地解決協定が出来ても、なかなか事態が円く収まるものとは思えない。…内地師団の華北への出兵問題についての東京からのニュースで、華北のみならず全中国の若いものは、今までにないほど激昂しているんだ。近衛首相をはじめ、日本の政治家達や責任の地位にある軍人たちは、この明白かつ重大な事実をしらないのかね。知っていて何もできないのかね。あんまり、日本が中国を甘くみては、お互いの為にはならんことになる。…蒋さんには政戦両略の聡明さがあるが、東京にもそれがあれば、越したことはないのだが、十一日の閣議や出兵中止など、東京には中国の現状の認識も、今後の見通しも、ないとしか思えない。」と松本支局長に語っている。(37)

 このように七月十一日の閣議を中心に状況を確認してきたが、この七月十一日の政府時局認識が内外に与えた政治的影響は大きく、この時点で中国との全面戦争に乗り出したかの感がある。陸軍も基本的には全面的な対支作戦は反対であり、強硬論者も北支を一撃すれば支那は弱いからどうにでもなるという考えであり、海軍は米内海相をはじめ事件不拡大・現地解決の方針、外務省も石射東亜局長を中心に海軍と同様の方針であった。近衛総理、風見書記官長を中心に政府が率先して戦争熱をあおり、これが以後の戦争拡大への道しるべをなしているかの雰囲気がみられる。

 

 中央では七月十一日の派兵声明から二十七日最終的に内地師団の動員が決まるまで停戦協定の細部交渉や派兵などをめぐって陸軍部内にはいわゆる拡大派と不拡大派の対立が激化し、この二週間の間に三回にわたって動員の決定と中止が繰り返されている。(38)

 十三日には参謀本部において交渉事項を破棄して新たに行動をはじめようとするとの聞き込みあり、そこで米内海軍大臣は広田外務大臣にたいして、「陸軍大臣を督励してこのような誤りがないようにしてほしい」と要請し外相が陸相に交渉すると陸相も了解している。(39)

 その日の閣議では陸相は「中国側はわが要求を容れて調印をおわったので事件は表面上には一段落したかのようである。だが全線では時々支那側から発砲があり、南京政府はいよいよ北進開始を決定したという情報もある。我が軍は関東軍を派遣し朝鮮軍に動員を下令したが、内地師団にはまだ動員を下令していない。内地部隊を動員することは、内外の各方面に対して衝撃を与えるだけでなく、中国をしてやむをえず対抗させるようになるだろう、と観測できないこともないので動員はもっと慎重に考慮しなければならない。」

と発言。米内海相や広田外相もこの方針を歓迎している。(40)石原部長を中心とした不拡大派の努力がこの時点では拡大派をかろうじて抑えており、それがこの杉山陸相の発言となったであろうことは推測できる。しかし陸軍大臣の威令が適格であれば、陸軍部外からよけいな注文をだす必要もなかったであろう。米内海相は職責観念が強く、自分から他分野に口を出すことはせず今回は広田外相を挟んで要請しているが、この陸軍の現状には歯がゆいものを感じ、よほど苦心したであろうと思われる。

 同十三日に満州にいた沢田廉三満州国大使館参事官が東京で原田熊雄と会談したところ、「よほどこちらと事情が違って、かへって今まで聞いていたのと逆な方向にあるようにも思へる。…非常に慌て過ぎたといふ風に内地を見てをり、現地では現地だけで局部的に必ず解決できるものと思っている。東京で我々が聞いているのだと、出先が非常に強くて抑へきれないといふけれど、寧ろ参謀本部あたり、或いは陸軍省あたりの若い士官達が喧しいのである。」と原田は感じている。(41)現地では落ち着いているのに、東京が騒がしいという状態であり、これが事変拡大の一因でもあった。

 

 十五・六日は米内手記のクライマックスとなっており、米内の苦心ぶりが手記にあらわれているため、以下抜粋したい。

「七月十五日 夕刻 外務省は直接南京政府との交渉をもあわせ行うことが適当であるとなし、次のような案を立てて海軍省の意見をもとめてきた。

 一、七月十一日、わが軍と中国二十九軍との間で成立した解決条件を、わが政府は承認する。

 二、国民政府にたいして、軍事行動の即時停止を要求する。(略)

 三、国民政府において右二の要求を受諾する場合には、この上の派兵を中止するとともに増派部隊は前記一の条件の履行をまってすみやかに帰還させる。

 四、右の次第を中外に声明する。

 七月十六日 閣議において未だ正式討議の運びにいたらない。」

 この外務省案は石射東亜局長を中心に作成されたもので、後宮・豊田陸海両軍務局長の同意を得て、翌十六日の閣議で承認を受けた後、国民政府と交渉に入る予定であった。米内手記では、この間の過程を詳しく記している。

「同日正午前後、陸軍省軍務局長(後宮淳)は外務省東亜局にて…(現地の)会見の模様について意見をかわした。(先方冀察政権側の希望略42)

 右について意見をかわした結果、大局上から、このさい先方の提案を承認することが適当であるとの意見に一致した。ところが、後宮軍務局長はいったん陸軍省にかえり、しばらくして彼は外務省に電話をかけ、

 「陸軍省においては、すでに方針が決定していた。そこで、さきほどの話合いは、すべて水に流されたし」

と申し入れた。なお、中央軍の即時復帰を期限付き(七月十九日)にて要求してもらいたいといった。」

 実松秘書官はこのころ「陸軍はほんとにこまったものだ」と米内さんの口から何度も耳にしたと回想している。「人にあまりぶつぶつ言ったことのない米内さんが、このころ、五相会議から帰ってくると、「五相会議なんか、駄目だ。五相会議で、折角きめても、外務省と陸軍省の間にやっと話合いがついても、あとから電話がかかってきて、「省に帰ってみたら、参謀本部の連中がみんな憤慨しており、陸軍の方針はすでに決定しているということなので、さきほどの話合いは全部水に流していただきたい」というようじゃあ、どうにもならない」と山本(五十六)次官や近藤(泰一郎)先任副官を捕まえて、珍しくぶつぶつと愚痴を言った。」と実松秘書官は回想している。また米内海相は近藤副官に

「君、揚子江の水は一本の棒ぐいではくいとめられはせんよ」ともいっていた。(43)

 結局、外務省から掲示された対南京交渉案は遂に正式に閣議で話し合われることはなかった。後宮軍務局長が無力であるというよりも、そこには軍務局長の参加なしに決定された方針という陸軍の下克上が表れており米内もその陸軍の無統制ぶりに失望している。いくら米内ががんばっても、陸軍がこのありさまでは「一本の棒」では激流はとめられないよ、と米内も呟かざるをえないだろう。

 十六日の閣議後、内務・海・陸・外務の四大臣が会談しているときに米内海軍大臣は「これは一時も早く解決しなければ駄目だ。期限でもつけて催促したらどうだ。現地の問題は現地で解決するとしても結局根本的に考慮を要すべき時だ」

としきりに発言。米内はこの発言をこの後の近衛首相との会談と翌日の閣議と記録上三度繰り返すことになる。期限付きとはいっても「最後通牒的な内容では困る」ともしきりに言っており、米内はこの後の首相との会談では「時局が速やかに解決しなければ、内地から出す準備の出来る前に局地的に解決しなければ、もし準備が出来てしまえば、陸軍はなかなか局地的にだけでは済まない。口では現地解決と言っているけれども、なかなか済まないで、のっぴきならない状態になりやせんかということを心配している。」と発言し、一時的に派兵は中止されているが、これが派兵されてしまってはどうしようもなくなる、準備が出来たら全面戦争になってしまうという陸軍への不信感・危機感を感じ、派兵準備が出来る前に解決しなければという米内の切実な焦りが感じられる。(44)

 さらにこのときの近衛首相は胃腸障害でいささか不快ということで、十三日以降十八日までの閣議や会議を欠席しており、この重要期に首相抜きで話を進めていかなければならない状態であった。そのためか、首相はこの日、各大臣を個別に私邸に招いている。

 米内手記は、十六日午後九時に近衛総理の私邸を訪問し会談した場面が最後となっている。そこには局地解決をあせり、陸軍をたしなめてほしいと願う米内の姿が垣間見れる。

「首相はいう。

 「将来の問題ではあるが、たとえ今回の問題が解決するにしても、あいついで同様の問題がおこらぬともかぎらない。そこで、今回の問題を解決すると同時に、根本的に対中国問題を解決するような談判をはじめてどうかと思う。…そこで広田外相らをわずらわして、じかに蒋と談判してはどうだろうか。いったい、外務省は問題を事務的にのみ見て、政治的に考えていないように思われる。…あなたは、どう思うか」

 海相は、こう答えた。

 「御意見は、ごもっともである。まず首相から、直接外相に話されたい。海相としては、裏面から外相を説得することがよろしいと思う。いずれにしても、事件はさしあたり局地解決を急がねばならない。そうでなければ、好むと好まざるとにかかわらず、事件は拡大する可能性がある。いったい、首相は陸軍のやり方を、どう考えておられるか。自分(米内)は、すこぶる憂鬱にたえないものがある。きょう陸軍軍務局長の外務省東亜局における行動のごときは、その例証とみるべきである。首相より陸軍大臣にたいし、なんとか注意を喚起するよう、考慮されることを切望してやまない」

 首相は問う。

 「陸軍省軍務局長の行動とは、どういうことか」

 海相は、これについて説明する。

 首相はいう。

 「どうも陸軍のやり方は、こまったものですな」

 海相はいう。

 「外相をわずらわすにしても、先決問題は陸軍の態度をはっきりと一本立てにすることです。そうでなければ、いかに外相らを派遣しても効果は望まれない。この点、首相のじゅうぶんな考慮をわずらしたいと思います」

 午後十時すぎ会談をおわる。

 以上をもって事変拡大の序幕とする。」(45)

 これだけでも米内海相の焦りが手にとるようにわかるだろう。以下高田氏や秦氏も著作において触れている事(46)ではあるが、これまで米内はしきりに事変の早期収拾を訴え、できなければ事変が拡大する可能性は大きいとしていた。また近衛首相に陸軍に注意を喚起して欲しいと訴えているが、それに対し近衛首相は他人事のように「陸軍のやり方は、こまったものですな」と、とても一国の首相のせりふとは思えないことを発している。米内自ら陸軍をたしなめ、蒋介石と談合するよう外相に勧めるという積極的行動をおこせばよい、というのは職責観念に厳しい米内としては越権行為であり、この点米内は消極的といわれるかもしれないが、この時点では危機意識はあっても終戦時の非常な緊迫時とは違い、これが米内としては限界であると思われる。米内は海相としてできるだけのことはしているが、しかし問題なのは近衛総理にあるといえる。海相が外相に外交問題の方針を示唆するのは越権であり、陸相に部内の統制をしっかりしろ、と海相がいえば陸海軍の無用な喧嘩を招くだけである。しかし、首相が内閣の首班として外相に示唆し「こまった」陸軍に注意を喚起することは越権ではなく、むしろ首相の職責である。米内海相としては国務大臣の職責として近衛首相に「先決問題として陸軍の態度をはっきりと一本立てすることに首相のじゅうぶんな考慮をわずらしたい」と進言するのが職責の限界であろうと思われる。米内もこの会見をもって「事変拡大の序幕」として筆を置いている。米内は近衛の首相としての自覚のなさを痛感して手記を記したと思われる。米内から事変拡大を注意されてもそれを理解しなかった近衛首相は事変拡大の大きな責任があるといわざるを得ない。

 

 翌十七日の会議も近衛首相は欠席し外・陸・海・蔵・内相の五相会談が行われている。杉山陸相は七月十九日を限度(47)とした期限付き交渉案を提案。しかしこの陸軍案には「支那側右期限内ニ我カ要求事項ヲ履行セサルトキハ我カ軍ハ現地交渉ヲ打切リ第二十九軍ヲ膺懲ス」(48)という最後通告的内容が含まれていたため、米内海相は「一つ期限をつけて早く解決してもらいたい。ただその期限付解決の内容が最後通牒のようなものでは困る。」とふたたびしきりに発言。(49)討議の結果陸相の案は了承され、要求を実行しない可能性を考慮し次の内地部隊動員を十九日ごろとすることも了承された。ただ、交渉の要件は中央から指示せず、現地軍の裁量に一任されることとなった。また南京の日高信六郎参事官(50)に南京政府に北上中の中央軍を復帰せしめること、現地解決を妨害しないこと、を要求するように指示している。

 山本次官はこれらに対し「纏まらないような、即ち向こうが受け入れることのできないような条件は出さない方がいい。」「責任転嫁されて海軍に対する悪声を放たれては困る…陸軍は実際はこう思うが自分達だけで駄目なら助けることも辞せぬが、腹を割って話せ。海軍は外務省のと少しも変わらず。」と原田熊雄に語っている。(51)

 現地ではすでに指示をうける前から交渉が進んでおり、十七日夜に冀察政権側の宋哲元から支那駐屯軍の提案を承認する回答があり、十九日には調印された。しかしこの調印よりさきに南京の日高参事官に提出された南京政府側の蒋介石公文は、日本側の要求を拒絶したものであった。(52)外務省では、首脳者会議を開いた結果、国民政府の回答内容は日本政府の承服しがたいことであり、国民政府の誠意のくむべきものはないとし「日本側の要望に対する中国側の全面的拒否とみなす」との声明を発表し日支交渉は一応打ち切らねばならぬこととなった。(53)この回答は二日前に廬山談話会で蒋介石が行った「もし不幸にして最後の関頭に立ち至らば、徹底的犠牲、徹底的抗戦に依り、全民族の生命を賭して国家の存続を求むべきなり」という「最後の関頭」演説の趣旨に添うものであり(公表は十九日)重大な決意を示していた。(54)

 このころ馬場内務大臣は「閣内にいかにも政治家が少く、たとへば広田外務大臣の如きはあまりに消極的で、かういふ大事な時に進んでちっとも発言しない。自分のような素人が見てをっても甚だはがゆいそうな感じをもつ。やむを得ず自分が先に立って、何かいわなくちやあならないやうなことになるので、実は困っている。」と発言し、一方近衛首相は、「北支出兵の問題を議するについて推進力になる人物がいない。それでやみを得ず陸海軍、外務三省会議もおのおのが困ってしまっているから事柄を進めるために…馬場内務大臣を一枚加えると、他の大臣から「何のために内務大臣を入れたんだ」というような苦情もでる。殊に外陸両大臣はお互いに遠慮し合って実に困る。」とまことに頼りない様子が原田によって語られている。(55)

 近衛はのちに「陸軍部内の意見といふものは一體何處から生まれて來るものであるかは余も判らず、正體無き統帥の影に内閣もまた操られたのである。」「余が大命を拝した頃は既に満州事変以来陸軍がやった諸々の策動が次第に実を結び、大陸では既に一触即発の状態にあつたらしく、余も支那の問題が武力を用ひる程に深刻化してゐたことも無論判らず組閣後僅か一月を出でずして廬溝橋事件が勃発し支那事変へと発展したのである。當時かゝる事件が勃発することは政府の人は勿論一向に知らず、陸軍の本省も知らず専ら出先の策謀によつたものである。」(56)と語っているが、結局は川辺課長のいう「政治家に本当に戦争を引き受ける気持ちがなければ駄目だと思います。政治家 近衛首相、広田外相等当時は軍に「オベッカ」を使っていた政府であります。何事でも「軍はどうゆう風に思っているか」というて心配する非常に勇気のない政府でありまして、軍に問うては事を決するというやり方で、政治的に全責任を負い戦いも戦わざるも国家大局の着眼からやっていこうというものはなかった事をつくづく思います。広田さんは相当な見識を持った人でありましたけれども、何しろ軍の意向を聞かなければ外務大臣としての仕事が出来ないという状況で、「外相として苦しい立場にあろうけれども、何もかも軍の言うことを聞かんでも正しいと思うことは貴方が強調し実行せられたら如何です」と私は申し上げたことがあります。近衛公爵は、当時は大いに軍の鼻息を窺っているかの如く真に戦争指導の根元を把握してやる大政治家としてのやり方はなかったと思います。」(57)という意見に当時の政府の状況をみることができるだろう。

 

 七月二十日には、これらの動きを鑑み、再び派兵問題が討議されることになった。

 午前の閣議で杉山陸相は「南京政府の回答不誠意なるに鑑み支那側の協定に対する誠意ある実行の監視並びに中央軍に対する準備として速やかに内地より三個師団を出兵したい」と提議した。それに対して米内海相は「南京政府は、中央軍の北上は自衛上やむを得ないと主張している。この際出兵することは南京政府に対して挑戦することにならないか」と発言。閣僚からも現地で細目協定が調印されているのに何故出兵するのか、出兵名文が立ちがたい等の意見が出され、広田外相や近衛首相も動員に反対している。結局は同時に進行している南京での交渉結果の判明をまって態度をきめることとなった。

 午後の閣議前にこの間に起きた中国側の不法射撃や南京の会談の結果が伝わり、その日の夜の閣議において杉山陸相は「中国側には協定を実行する誠意が認められない。居留民の保護、軍自衛のため、動員派兵が必要である。情勢は切迫している」と発言。結果として「動員発令後も事態が好転すればただちに復員するという条件付きで、内地三個師団を北支に派兵する」ことが決定した。(58)

 またこの日の閣議で、海相は陸相に対し「中支にも陸兵を出せるか」とただし陸相は渋ったが出すと返答。これに対し海相は「それならよい」と答え、そこで石射局長は「海相が派兵を支持したそうである。これは約束が違うではないか」と海軍に詰問に来たが豊田軍務局長は「それは考え方がたりぬ。海相のは、全面的作戦になることを警告した言い回しに他ならぬ」と返答したという。(59)米内海相としては陸軍が派兵するなら、中支まで拡大し全面戦争になるぞ、という気持がそこにはあり、常に海軍としては中支への飛火を心配していたことがわかる。

 また外務省の石射局長は上村課長と連名で広田外相に善処を進言したが、派兵決定に失望し「事務当局の進言も嘆願もご採用なく、動員に賛成せられたのは、事務当局不信任に他ならないと思います」と前置きし辞職を願い出てたが、広田外相は「黙れ、閣議の事情も知らぬくせに余計なことをいうな」と一喝したという。(60) 当然、広田外相やまた米内海相にも事情はあっただろうが、こうあっさりと派兵が決まってしまうという結果に、早期収拾を必死に願っていた海軍や外務の努力は陸軍という存在に対して無力でしかないのか、という思いを抱かずにはいられない。

 

 しかし、翌二十一日朝、現地視察に赴いていた中島参謀本部総務部長と柴山軍務課長が帰国。現地で橋本支那駐屯軍参謀長に「不拡大と称し中央は続々と兵力を北支に注いでいるではないか。このような矛盾をやり、なにが不拡大か。これでは不拡大では収まらぬ。」(61)と一喝されてきた両名は「支那駐屯軍は統制が見事に保たれ、むしろ静穏すぎるくらいである。内地師団を必要とする情勢ではない」と報告。その橋本参謀長からも天津の宋哲元が日本の追加条件を呑んで交渉が妥協したと報告。これらを鑑み二十二日の閣議で、再び派兵は保留と正式に決定された。(62)

 現地視察から帰国した柴山大佐は外務省東亜局で上村課長に「どうも驚いたね。現地は全く静かなのに、帰りに朝鮮を通ると、あわただしい空気で、おかしいなと思った。東京に着くと、まるで戦争気分じゃないか。これはまたどうしたことなんだ」と語っている。「この重大事になぜ汽車なんかで帰ってきたのか」上村が反問すると、「飛行機の座席が取れなかった」と柴山大佐は答えている。上村は、軍務課長ともあろう人物が飛行機の座席がとれないはずはない。帰京が遅れたについては言うに言われぬ事情があるのだろう。軍の内部は奇々怪々なことがあるようだ(63)と触れているが、不拡大派の柴山大佐の帰国を遅らすために何者かが手を回した可能性が大きそうである。

 以前原田熊雄も見解していたように、現地はいたって静穏であり、どうも戦争気分で騒がしいのは東京の一部のようである。このような状態で国策が決定されていくわけだから、その判断が狂ってしまうのもやむを得ないといえる。しかし、このような統制がとれていない状態であるがゆえに拡大派が勢力を広げ、まったく無意味な、中国側を挑発するだけの派兵声明をたびたび行ってしまう羽目となってしまていった。

 

 外務石射局長は二十三日の日記に「世の中はだいぶ静かになった」(64)と記し、二十五日に南京では国民政府も現地協定を黙認する意向であることが明らかになり、「もうしめた、次のステップは中日国交の大乗的調整に乗り出すばかりだ。私の胸は爽快になった。」と回想している。

 しかし、二十五日に「郎坊事件」(65)二十六日に「広安門事件」(66)そして二十七日には冀東政府の通州で叛乱が起き、状況は大きく一転することとなる。

現地では、この時点に至りもはや不拡大主義は不可能であり、拡大主義に踏み切ることとなる。東京でも、二十七日の閣議において内地三箇師団の動員が上程され、たいした議論もなく閣議決定となり、同夕動員案が発令された。

 二十八日に海軍は北支派兵に関する「大海令第一号」(67)を伏見宮軍令部総長から「奉勅」として永野連合艦隊司令長官あてに発出している。また二十九日には一度鎮圧した通州で「通州事件」(68)がおき、石射局長は「悪魔は一人ではなく三人連れであった」と嘆くことになる。(69)

 二十七日に支那駐屯軍は一斉攻撃を開始。内地師団が到着するよりもはやく、三十日には永定河以北が平定されている。

 

 「この戦争開始とともに参謀本部の連中は、よく東亜局に現れて、日本の軍事力から見ても無理な話であとは外務省よろしく頼むといったものである。統帥部としてはそれが本音であろう。統帥部には軍事的に収拾する自信が初めからなかったのである。さりとて戦争を始めて直ぐ政治的収拾ができるぐらいなら、戦争にはならなかったはずで、問題はすべて軍内部の統制いかんにかかっていた。外交は魔術ではないから、ごまかしだけで瞞着することはできないのである」と外務省の上村課長は当時の陸軍を記している。(70)

 しかし三十日、 陛下の思し召しによって伺候した近衛首相に対し、「(永定河以北を平定すれば)もうこの辺で外交交渉により問題を解決してはどうか」とお言葉があり、首相は「速やかに時局収拾を図る」旨を奉答している。(71)

 この話が、陸軍にも伝えられ、翌日、陸軍柴山課長から石射局長に正式に外交交渉の申し込みがなされている。(72)

 これより前、事変解決案は幾多かあったが、これまでの陸軍主導の処理案に対して、海軍および外務は対抗意識を燃やしていた。米内海相も斡旋には積極的であり、海軍は全面的に外務省石射局長案に協力することになった。このとき陸軍省柴山課長や参謀本部石原部長と海軍・外務が詳細の検討をはじめ、八月二日に首・陸・海・外相が外交交渉の瀬踏みを了承した。(73)この外交工作を引き受けたのが中国側に知友が多い元外交官の船津辰一郎であり、いわゆる「船津工作」が開始されることとなった。以下「船津工作」については石射の「外交官の一生」や上村の「日本外交史」などに詳しいので、ここでは詳細をさけたい。

 結果としては、この船津工作は出先の川越大使に横取りされる形となっていしまい、海軍からは「陸軍の病気が外務省にもうつったな」と皮肉られる状態であり、このころには上海の方が怪しくなってきた。(74)この交渉中に「北支における日支の衝突は直ちに中支に反映する。」(75)といわれる上海の情勢が爆発寸前であり、ついに八月九日には「大山事件」(76)が勃発し上海出兵・全面戦争へと発展していくことになるが、中支派兵問題と海軍戦略については、次節で分析していきたい。

 

   

二.海軍戦略と中支派兵問題

 

 前節において北支派兵が決定されるまでの政府の過程を分析したが、本節では八月にはいって中支に事変が拡大し全面戦争化していく過程をみていきたい。そこでまず中支派兵問題に関連する事変勃発時からの海軍の対支戦略を簡単に分析したい。

 

 海軍があくまで不拡大であったことは前節で触れており、七月十二日軍令部策定の「対支作戦用兵に関する内示事項(統帥部腹案)」(77)でも原則的に不拡大・居留民保護を本旨としていたが、十六日の現地第三艦隊司令長官長谷川清中将からの意見具申は積極意見であった。(78)出先の長谷川長官は、すでにこの時点で上海の危機を感じており「支那膺懲ヲ作戦ノ単一目的トシ」「支那ノ使命ヲ制スル為ニハ上海及南京ヲ制スルヲ以テ最要トス」と積極的であり「中支作戦の為には陸軍五箇師団と航空部隊の先制攻撃が必要」と早くも派兵の必要性を意見具申している。この時点の中央は絶対不拡大であったが、以後軍令部では不拡大の看板を掲げるが、拡大の可能性も考慮し作戦優先の方針に傾いていくことになる。(79)

(以下、海軍の中南支における行動は出典なき場合「中支出兵の決定」に基づく(80))

 情勢の悪化していた二十四日には上海において特別陸戦隊の宮崎一等水兵が行方不明になるといういわゆる「宮崎水兵事件」がおきる。拉致との情報もあり海軍は警戒態勢をとるが、のちに逃亡の疑いもあるとし二十五日に陸戦隊・中国側双方とも警戒解除した。二十七日に宮崎水兵は投水自殺せんとするところを救助され、翌日南京総領事館に送致され事件は事なきを得た。海軍中央部はこの事件に対し「政府の方針並びに陸軍の内情等を鑑み大袈裟に取り扱わざる如く言論機関を指導」し「外務官警を通し南京政府及び上海市政府工部局に対し排抗日運動を厳重取締まることを要求」というように極めて冷静に対処っしており、事件を騒ぎ立てるようなまねは決してしなかった。この事件が陸軍管轄で起きていたならば事件が拡大する可能性は大いに推測でき、この点海軍の統制はしっかりと取れていたといえる。軍令部作成の「中支出兵の決定」ではこの事件を「当時悪化しつつありし中支の情勢に一時相当の緊張を与へたる本事件は斯くして事なく決着せるが帝国海軍としては体内対外共に面目を失せる観無きに非ざりき」と宮崎水兵事件に関して筆を結んでいる。

 

 事態の悪化に伴い、最も機微とする問題は、揚子江沿岸各地にある居留民の引き上げであった。過早な引揚げは、現地にある邦人の権益・財産の無駄な放棄を強請するばかりではなく、中国側からは、日本敗退の兆しありととられ、あるいは逆に開戦の意図とも解され、いずれにしても、事態をいよいよ危険にするおそれがあった。現地では早期引揚げを要請していたが、政府及び海軍は、北支での総攻撃の始まった七月二十八日に漢口より上流の居留民の引き上げを実行することになる。(81)

 八月二日には在東京中国海軍武官が「中南支方面に事を及ぼすときは海軍の全面的攻撃予報せらる 切に同方面の日本居留民を保護し彼等を引揚げしむること勿れ」と訴えている。しかし居留民の生命に危機がせまれば、保護のため派兵が必要になる。その兼ね合いが難しい所であった。

 漢口総領事代理松平忠久は「日本海軍の存在自体が、事態の危機感を与えるのであって、さもなければ漢口は平安であり…」と発言している。(82)この発言には、いままで中南支における居留民を保護してきた海軍の存在自体が否定されているが、これに関してはのちほど触れたい。

 

 第三艦隊司令長官長谷川中将は八月三.四日と続けて作戦に関する意見具申をし、現地の情勢の悪化を訴えている。(83)

 そのころ中央では海軍省と軍令部に作戦指導に対する意見の相違がみられ、軍令部作成の「中支出兵の決定」では

「当時青島、漢口、上海方面情勢は危機一発の情勢に在り。彼より積極的攻勢に出づることなからんも突発事件発生起せば之を契機に戦闘生起は必然なりしなり。

 海軍としては揚子江流域邦人引揚完了後にあらざれば徹底的作戦は実施せざる立前にて従って局部的事端の発生は局地的以外には及ばざるべからず…」

「軍令部としては右事態の急迫に鑑み全面的戦争避くべからずとなし此の際作戦実施上最も影響ある漢口下流在留邦人引揚を即時実施方主張せるも海軍省外務省に抵抗あり遂に未だ発令せらるるに至らず引揚完了前戦闘開始されんか作戦上極めて不利あり」

「要するに現状は軍令部としては海軍用兵の見地より一歩を進むる要あるに立ち至りしが外務側居留民引揚に対する態度煮え切らざるのみならず海軍省首脳部も亦八月初旬在南京日高代理大使が実行中の外交交渉に望を嘱し、逼迫する実情の存せしにも関らず居留民の漢口引揚にすら同意せざる情態なりき。」

といったように、軍令部は作戦上の強烈な批判を外務省及び海軍省にむけることとなる。

 八月四日には陸軍寺田参謀本部部員が「嘗ての話合ひにては八月四五日頃には居留民引揚げを終り作戦を積極化し得る筈なるに…未だ其の運に至り居らざる様子なり 海軍関係の諸準備の現状承り度し」と尋ね、それに対し軍令部福留繁第一課長は「海軍としては極めて不愉快なる作戦振りなれど政府の不拡大方針に抑制せられ尚手出しを慎み支那の出方を見つつあり…全面作戦開始となれば直に動き得る兵力を動かして大いにやる積もりなり…」とその不満を述べている。

 一方で八月六日頃には現地の松本重治同盟通信上海支局長が散歩中に中国保安隊や正規軍が徐々に上海を包囲していることを感じ取り、中国側の対戦準備の一環ではないかと悟って東京に打電したところ、翌日嶋田軍令部次長から訓電があり「(昨日の電報は)上海内外の情勢を誇大に描いたアラーミングな電報である。海軍は不拡大に徹しているので、松本支局長が、ああいう調子で打電し続けるのは軍の方針に背馳することになる。」という意味が返ってきたという。(84)これらのことから軍令部の嶋田次長はいまだ不拡大方針であったが軍令部全体としては全面戦争にむけて動きだしていたことがわかる。

 しかしその後も情勢悪化が伝えられ、その六日午前には海軍省軍令部間で協議が行われ、第三艦隊に向けて次官次長連名で電報が送られた。

一 爰一両日ハ最モ重要ナル外交上ノ転換時機ニアルニ付此ノ際特ニ麾下竝ニ居留民ヲ引緊メ隠忍自重セシメ事ヲ起ササル様セラレ度

二 漢口居留民ノ引揚ニ関シテハ現地外務官憲トモ充分協議ノ上現地ノ状況ニ応ズル如ク適当に処理セラレ度シ

 この電報により漢口居留民がようやく引き揚げることとなるが、米内海相をはじめ海軍省としては「最も重要なる外交」すなわち船津工作に対する期待が大きく「隠忍自重」を訴えているのがわかる。

 同じ日の午後には「大海令八号」が第三艦隊に発令された。そこでは「居留民の引き揚げ待って艦隊並びに陸戦隊を上海方面に集結」させ作戦準備をとるように命令がだされた。(85)

 

 船津の上海入りは八月八日であり、懸念されていた揚子江沿岸の引き揚げが完了したのが、九日であった。しかし同日夕方「大山事件」が勃発し、上海をとりまく情勢が大きく変化することになる。

 軍令部では解決策を要求し(86)「大山事件」を単なる勃発事件ではなく、昂揚した排日抗日の気勢と日本の武力に対する軽蔑が上海停戦協定の精神を蹂躙したものであり、支那側の不穏な情勢のなせる必然の結果であるとしている。

 また解決策は「現に進行中なる外交交渉を阻礙するやの懸念あるべきも」としているが「断乎として実力行使も敢えて辞せざるの決意を示す事に依り側面的に本外交交渉を支援するの結果ともなるべきものと観察す」(87)と理由付けし強行的になってきた。

 

 軍令部は「大山事件」勃発前の六日に派兵準備を海軍省に申し入れており、海軍省としても居留民保護のための派兵は否定する理由もなく米内海相は翌七日に杉山陸軍大臣に派兵準備を申し入れている。

 その後に「大山事件」が勃発し、軍令部は積極的増兵を直に行い、事態急進するなら陸軍兵力によって処断するしかないと検討していたが、事件翌十日に山本海軍次官及び嶋田軍令部次長は長谷川第三艦隊司令長官に時局指導の次の如く申進している。(88)

「目下外交交渉進行中にして最も慎重を要する時機にてもあり旁旁事態の解決は窮極は武力に依るの外無きに 至るとするも陸軍の派兵には相当の時日を要するのみならず我方より攻撃を開始せざる限り支那側より攻撃せざる中央政府の意向なる旨の特情もある次第なるを考慮し大山中尉射殺事件に対する当面の処置は先づ真相を糾明する等必要なる外交的措置を執ることとし可及的事態を急速破局に導かしめざる様致し度」

 これは大山事件後も「最も慎重を要する時機」であるからと外交交渉に望みをつないでいるのは米内海相以下海軍省側と思われ、一方で「事態の解決は窮極は武力に依る」として一刻も早く派兵したい軍令部との方針が違う妥協の電報であることが推測ができる。

 

 その十日に軍令部は陸軍兵力派遣の件を海軍より提議して閣議に諮することを要求している。近藤軍令部第一部長より動員実施の必要を訴えられたのに対し米内海軍大臣は「動員部隊を内地に止め置くこと可能なりや」と質問。これに対して近藤部長は参謀本部との研究により「前例もあり差支なし」と返答。しかし米内海相は目下進行中の機微なる外交措置に望を嘱し「今明日中に何とか其の成果を期待し得べきを以て閣議に於て今後の情勢に応じ直に要求貫徹を容易ならしむる如く措置し置くべきも今日直に陸軍派兵の件を決定するのは暫く待たれ度し」と派兵実施の返答を保留。軍令部としては今後の事態に応じ「何時にても要求する」こととなり、省部の溝が深まりつつあった。(89)

 

 同じ十日に横井軍令部第一部甲部員が動員遅延に対して意見書を提出している。一部抜粋すると、「(略)帝国として今日執るべき対策は東洋平和の大局的見地よりする公平至純なる外交交渉を促進すると共に支那側に於て遂に反省する処無ければその飽くなき非違不法を糾弾是正する為直ちに断固たる一撃を加へ得るの準備を完成し両々相俟つて速に時局の解決を図るをなし、最近の外交交渉に対しては深くその内容を審にせざるも関係者の善処に信頼する事とし一方戦略的準備完からざる方面を速に充足する事肝要なり(略)支那側の巧妙なる引延し外交手段に翻弄せられ所謂「明日の吉報」のみ鵜首して現地逼迫の情勢に強いて目を蔽はんとするに於ては対策機宜を失し遂に我国が東亜の安定勢力たるの地位は有名無実となり帝国の国威空しく泥土に委し去らんのみ。」(90)と海軍省に対して痛烈な批判が行われている。

 

 翌十一日に軍令部にて嶋田次長以下軍令部幹部が大山事件に対する相会をしている。ここでは「外交交渉とは別に局地的解決を期する」「停戦協定の誠実なる実行」「期限付要求」などと付帯して「陸軍派兵準備を促進する」ことが話し合われたが、海軍省側と協議の結果「現在国的方針は事件不拡大にして上海方面に事を起こすの決意なくして同意出来ざる軍令部案には直に同意し能はず」ということで物別れに終わった。軍令部福留作戦課長は当時の状況を「大山事件に関連し陸軍派兵動員に関する閣議の提議は今日にても開かるる様促進せしが事は高等政策に移り大臣総長にて話進行中なり(中略)我が要求を容れざるべきを以て其の時は陸軍を以て積極的に追払ふ斯くせば名分も立つべしこの為には尚一両日を要すべし」としており、軍令部としては「これに関し現在にては海軍省側に尚はっきりせぬ者あり」と海軍省に痛烈な批判をしている。海軍省の米内海相・山本次官・豊田軍務局長・保科一課長などがおもな派兵反対者であり、彼等は軍令部の派兵要請に応じなかった。

 ここにいたり軍令部は陸軍出兵促進の必要のため、ついに伏見宮軍令部総長が米内海相を「招致」するという非常手段をとることになる。役職としては海相の方が高いが、皇族という絶大な権力をもって大臣を「招致」している。

 要点を抜粋していくと伏見宮総長は「…支那側の態度不遜なり今や陸兵を上海に派遣して治安維持を図るを要する時機に達せり而して陸兵派遣は同時に外交交渉を促進せしむるものと認む 海軍大臣の所信如何」との質問に対して米内海相は「上海方面に於いて支那側の停戦協定蹂躙の確証なし 大山事件は一の事故なり何れも交渉の余地残れり而も目下の処上海方面に大なる変化なし 今打つべき手あるに拘らず直に攻撃するは大義名分立たず今暫く模様を見度し 公言は出来ざれ共停戦区域には正規兵は居らず「トーチカ」塹壕等は防禦の為の準備なり 我が居留民に危害を及ぼすが如き事態に至らば直に出兵すべし但し陸軍の事情は対蘇作戦を考ふる時は青島上海方面に使用し得る兵力は各一箇師団に過ぎず斯くの如きことにては如何ともすべからず…上海方面への陸兵派遣はこの辺のことも充分に考へたる上決行せねばならぬものと思考す」(91)と返答している。高田氏はこの米内発言を上海方面変化なしといいきるのはいささか鈍感すぎるが、状況を冷静に分析しており、攻撃は名分がないと考えていることは、中国側の非がひとり彼のみにあるのではないとみているに違いないとしている。(92)

 その米内もさすがに居留民に危害が及ぶときは出兵やむなしと答えているが、軍令部の計画する兵力展開は認めるが、陸軍の派兵には慎重であるという海相の判断には海軍は部隊の配備が容易でありいつでも派兵撤回ができるが、陸軍は中途変更が容易でないというようなことを踏まえた上で(93)派兵はせずに不拡大堅持という政戦略が米内に働き、その相手がたとえ宮様でも良識な判断と自信のもとに行動していたということがわかる。

 

 十二日になっても海軍省の決意は堅く、この日も「然るに海軍省事務当局は最後迄不拡大方針を堅持し結局海軍省事務局長軍令部第一部長の協議は依然として何等の進展を見ずして夕刻に至れり」と軍令部を嘆かせることになる。また陸軍は動員開始から上海方面に展開を開始するまで二十日を要する、ということを参謀本部から連絡された軍令部は「動員下令と日支衝突同時に始まれば陸戦隊は単独にて約二十日間戦闘を継続するを要する次第なり…ここに於て上海がこの期間孤立するの恐れあり…」と焦りも出始めている。

 

 さらに十二日の午後五時五十分に現地から、中国軍が続々と進出しており万一に備えるため警戒兵を配備し「速ニ陸軍派兵ノ促進緊要ナリト認メラル」という電報(94)が届き状況が緊迫してくることになる。この緊要なる要請を受けて嶋田軍令部次長と米内海相の協議がおこなわれることになる。嶋田次長が米内海相に対して「逼迫せる状況に鑑み最早最後の手段を採らざるべからざること」を申し入れ海相も事態の急変からこれに同意することになる。そこでは「陸軍出兵に関する政府の方針決定の為即夜臨時閣議を要請する」ということなどが話し合われた。

 そして十二日夜に近衛首相・米内海相・杉山陸相・広田外相の四相会議が開催され米内海相より陸軍派兵の方針決定を要求した。「各大臣共事態斯くなる以上何れも異存なく、翌十三日午前九時正式閣議を開き之を決定することとなれり。」となったが、解散後に杉山陸相より米内海相に対して秘書官より「参謀本部は支那側の戦備意外に進捗し当初の計画時とは上海方面著しく状況の変化を来たしたる為出兵に就きては最も慎重に考慮を要する旨通告ありたり」と陸軍としては中南支派兵をしたくない旨を伝えてきている。さらにその日の夜に軍令部員が参謀本部にて打ち合わせをしていると参謀本部石原第一部長が上海に対する陸軍即派に関し否定的陳述をおこない、武藤第三課長も作戦の困難を訴えている。(95)

 現地では十三日午後に戦闘状態となり、上海海軍特別陸戦隊司令官大川内傳七少将は

「全軍戦闘配置に就き警戒を厳にせよ」と下令。「中支出兵の決定」は「茲に中支に於ける日支戦端は開始せらるるに至れり」と筆を置いている。

 

 石原莞爾は日華事変中昭和十四年に回想している(96)がそこで「上海に飛火する可能性は海軍が揚子江に艦隊を持って居る為であります。何となれば此の艦隊は昔支那が弱い時のもので現今の如く軍事的に発展した時には居留民の保護は到底出来ず、一旦緩急あれば揚子江に浮かんでは居れないのであります。(略)だいたい漢口の居留民引揚は有史以来無いことであり若し揚子江沿岸が無事に終わったならば海軍の面子がないことになります。(略)今次の上海出兵は海軍が陸軍を引摺って行ったものと云っても差し支えないと思ふのでありまして、そこに機微なるものがあると私は思ふのであります。」といった発言をしている。これは松平総領事代理の意見に通じるものがあるが、艦隊は任務として居留民の生命財産を保護しているのであって、事実を否定することは海軍の用兵を知らない人間の発言である。また協定がなければ生命の危機が迫っている現状を見捨てるのか、と疑問を感じてしまう。すでに海軍として出来うる限りのことを行ってきており、引くに引けない状態であったことももこれまでみてきた通りである。

 上海に事変が飛び火したころ、米内は「上海から陸軍の派遣を要求して来ているのだが、こういう時に備えて駐屯させている陸戦隊だから、陸軍の派兵は好ましくないと思っている」と半ば独語しながら憂慮に堪えぬようであった(97)と緒方竹虎が回想しているが、十三日に閣議で結局上海への派兵を決定することになる。

 

 十四日の閣議は深夜に及び上海に続き青島方面の増兵も決定する。このときの閣議の様子は「上海派兵をしても不拡大方針を貫けるか」「もはや北支事変は不拡大の時期ではない。全面戦争準備に移るべきだ」「北支事変を日支事変と改称すべき」(98)というような意見が飛び交うことになる。陸軍としては華中方面には出兵したくないため、なお不拡大方針を唱え、広田外相も賀屋蔵相も不拡大を訴える。一方で米内海相は上海の事情を説明したが状況は以下の通りであった。「斯クナル上ハ事態不拡大ハ消滅シ、北支事変ハ日支事変トナリタリトシ三省当局ニテ立案シアリシ政府声明ニ手ヲ入レ可決、外相ハ依然不拡大ノ考ヲ述ヘ声明モ必要ナシト述ヘ、海相之ヲ論駁シ、外相ヨリ国防方針ヲ承リ度ト云ヒ、海相ハ国防方針ハ当面ノ敵ヲ速ニ撃滅スルニ在リト 蔵相ハ経費ノ点ヨリ渋リアリタリ 海相ヨリ陸相ヘ、日支全面作戦トナリシ上ハ南京ヲ打ツガ当然ナリ、兵力行使上ノ事ハアランモ主義トシテ斯クアラズヤト云ヒ、陸相ハ参謀本部ト良ク話スベキモ対蘇ノ考慮モアリ多数兵力ハ用ヒ得ズ」(99)またその時の臨時閣議では近衛首相が原田熊雄に「海軍大臣が非常に興奮して賀屋大蔵大臣を怒鳴りつけ、財政上の説明なんかはほとんどきかなかった。」(100)と語っているほど米内の態度は豹変している。

 政治家としては派兵したくない米内も海軍大臣としては統帥上戦略上派兵しなくては収めることができず、その他の閣僚はその点に理解の差があることがわかる。米内海相としてはすでに戦いは中支に移っているのであって不拡大は事実上消滅しているのであって、こうなった以上速やかに当面の敵を撃滅することが国策であり、戦略的要求が優先されるべきだ、という判断のもとからの主張(101)ではあるが、一方の陸軍から見れば、海軍の豹変は「陸軍が強盗なら海軍は巾着切りだ」「上海出兵は陸軍を引きずってやった」という石原の発言による海軍批判へとつながることになる。(102)また閣議の席上中島鉄相から「いっそのこと、中国軍を徹底的にたたきつけてしまうという方針をとるのがいいのではないか」という意見の陳情もあり、永井逓相は同意したが閣議散会後杉山陸相はそれらの意見に対し「あんな考えを持っているばかもあるから驚く、困ったものだ」と風間書記官長にささやいたという。(103)あくまで陸軍は中支には手出しを出したくなかったということがわかるが、かといって責任を海軍に押しつけるのではなく、そもそもは陸軍から始まった事変対応に問題があり、中支は北支の問題ありきで勃発したものであると私は考えざるを得ない。

 

 

三、中支派兵決定後の海軍及び近衛内閣

 

 前節では中支派兵決定の過程を分析してきた。本節では、八月十三日の実質的戦闘開始以後の海軍と米内光政について分析していきたい。

 

 まずこの間の一連の海軍の動きをいくつかの日記で追ってみる。軍令部勤務の

高松宮殿下の日記を以下抜粋すると、(104)

九日「も早や不拡大方針を捨てねばならぬ事態であらう。まことに残念な事なり。もとより、直ちに作戦行動を上海に開始するのは兵力上不利であらうが、この事件は放置しても又より大きな支那側の不法行為となるであらう。(略)閣議にて、海相より、上海派遣師団の準備を提案するとしても、併し中々やつかひなり。その使ひ方が動きのとれぬものであらう。」

十一日「上海に特陸(呉、佐)第八艦隊、第一水雷艦隊が、十一日入港するのであるが、之が第三艦隊の麾下とされて第三艦隊長官の命令のみで、上海によばれたことは、今回の如き程度の事件には面白くない。しかも、この部隊の上陸、入港による結果が相当大きく支那側に影響し、その上、それによる交戦乃至対抗の結果が、全面戦争を誘致する予想のもとにおいて、特に不適当だと思ふ。 不拡大方針が変化を余儀なくせしめられる様なことを、出先の指揮官に一任しておくのは甚だ無責任なり。海軍内だけの問題としてゞなく、少くとも統帥部としての決定のもとに、いな、政府の決心のもとに行はるべきである。いな、陛下の御前にて決すべき事なり。」

十二日「新聞あたりも今度は「オツパジマラウ」と云う風だし、世間もそうした気持あり。大局の利もさることながら「海軍何してるか、引き上げばかりして、コワガッテゐる、何んのための警備か」と「不人気」になり「頼りないもの」に考へられることはあるだろう。そこが海軍のつらい処であるだろう。」

一六日「海軍も適当なる手段をとるの止む得ざるに至れりと云ってスッカリ気勢をあげて、現配備全力的作戦になったが、その結末は依然明確にならぬ。益々外交々渉の頓坐を来しただけである。尊き犠牲、而も海軍のは復旧し得ざる犠牲多きに関らず、そうしたまことに止むを得ざる次第なりてコマッたことなり」

と海軍の置かれた立場の心境が記されており、米内海相に通じる考えを持っていたことがわかる。

 宇垣一成陸軍大将は日記(105)に「小児の火いぢりが遂に大火事になり相である。海軍も愈々上海で始めた様であるが、今日迄の行動は克く落付いて飽迄不拡大主義を循守し来りし様である。」(十五日)「陸軍が枝葉末節に拘はれて中央は出先に引摺られ、出先は先方から致されて不拡大を内外に高唱しながらも拡大の事実を展開するが如き不始末を演じ居るの際、海軍は自重して不拡大の主義に如何にも忠実循守の態度を堅持し来りしは機宜に適して居る。而して支那が我軍艦や陸戦本部や総領事館に爆撃を加へて交戦意志を明白になしたるや、毅然と立ちて杭州、広徳に一撃加へたり…応戦と決せば疾風迅雷的に的の心臓を衝くの作戦は全く吾人の念願する所なり。海軍当局の勇気と苦心に対しては重ねて国民の一員として敬意と謝意を表する。陸軍海軍の御手並は内外に明白となれり。次の働は霞ヶ関(外務省)の順番なり。好漢健在なりや、為二君国一切に健闘を祈る」(十六日)と陸軍の支那通は海軍を褒め称えているが、これは民間的な意見でもある。

 のちに広田の次の外相として宇垣の下でも働くことになる外務省の「好漢」石射東亜局長の日記では、以下抜粋すると、(106)

「十日 火  昨夜上海で陸戦隊の大山(勇夫)中尉、斉藤水兵がモニュメント路で支那公安隊から殺される。又にぎやかになった。一波未平一波又起。モニュメント路なんて余慶(計)な処へ行ったものだ。

十一日 水 陸戦隊危く居留民危ない。海軍あせる。

十三日 金 上海では今朝九時からとうとう打出した。平和工作も一噸座(頓挫)である。折角居留民や邦商が芽が出そうになると砲煙弾雨にあらされる。長江筋の日本人も禍なる哉。 夕方昨日の通り会合。処理要綱なるものを議す。海軍もだんだん狼になりつつある。

十四日 土 陸戦隊は日本人保護なんかの使命はどこかに吹きとばして今や本腰に喧嘩だ。もう我慢ならぬと海軍の声明。

十九日 木 本日石原完爾の河相情報部長に内話する処によれば、支那軍に徹底的打撃を与える事は到底不可能と私の予見も其通り。日本はソビエットの思う壺に落ち込みつつある。新追加予算、陸海軍合わせて三十億と云ふ。愚かなる日本国民はどんな顔をするだろう。アザ笑うはロシアばかりでは無い、拙者もだ。

二十五日 水 上海派遣軍が防共の聖戦とか国共抗日の南京政府を掃蕩とか馬鹿げた声明をすると云ふのを差しとめて貰ふ。彼等は気が違って居るのだ。無知と功名心は往々同一カテゴリー下に来る。」

と海軍の豹変の具合と政府の対支政策にあきれはてているのが感じられる。以上、日記をもとに当時の雰囲気を簡単に推し量ってみた。

 

 十四日深夜まで続いた閣議の延長である十五日午前一時に「廬溝橋事件に関する政府声明」がだされることになる。

「帝國としては最早隠忍其の限度に達し、支那側の暴戻を膺徴し以て南京政府の反省を促す為、今や断固たる措置をとるのやむなきに至れり。」(107)と七月の時点の声明文よりも強い決意が述べられている。

 同じ頃中国でも十五日に総動員令が発令され、八月十五日をもって事実上の戦争状態に至ることになる。

 

 米内海相は十五日に時局を奏上した際に

天皇から

「従来の海軍の態度、やり方に対しては充分信頼しておった。なおこの上とも感情に走らず、よく大局に着眼して誤りのないようにしてもらいたい。」と御言葉を戴いている。これは信頼できうる軍部大臣を得た思いで発せられた

天皇の言葉であったろうと思われ、米内はこの御言葉に恥じた様子がある。海軍省で米内は「十四日夜の海軍大臣の激した言葉を近衛総理大臣から上聞に達したように思われ、非常に恐懼した」様子であったという。(108)

天皇に「感情に走らず」と御言葉を戴いた米内は十四日は明らかに興奮していたということがわかる。そしてこの時以降「信頼」に答えなければならないと決意したであろうことも推測できる。

 

 以後戦局は支那全土に拡大し、政府も従来の不拡大方針を放棄し、時局は今や戦時情勢にはいった。九月にはいると第七十二回帝国議会(臨時)が招集され、開院式に先立つ九月二日の臨時閣議で施政方針演説を決定した際「北支事変」を「支那事変」に改称することが決定され同日発表された。(109)

 八月十五日以来拡大していた事変は、ここにおいて不拡大・局地解決が破棄され名実共に全面戦争となることになった。(110)


○第三章注釈 

第一節

(1)
昭和12年7月7日22時40分ごろ永定河東岸一帯で夜間演習に従事していた支那駐屯軍の一部に対し、鉄橋を越えた所に位置する竜王廟付近から突然射撃がなされた。この事件の原因となった射撃については真相は明らかになっておらず、偶発説・中国共産党陰謀説・西北軍閥説・馬賊私怨説などがある。

廬溝橋事件については秦郁彦氏が『日中戦争史』や「廬溝橋事件の再検討」『政治経済史学』333・4号(94.3)等で詳細な研究をされている。

  

(2)
「河辺虎四郎回想応答録」414頁 『現代史資料12 日中戦争4』所収 

小林龍夫他編 昭和40年 みすず書房

  

(3)
石原莞爾 陸士21期 陸軍中将 日華事変不拡大派であったため、左遷される。東条陸相とは不和であり、16年予備役入り。東亜連盟を主宰し、一種宗教者の側面も合わせもった怪人物

  

(4)
『戦史叢書支那事変陸軍作戦1』155頁 以下『支那事変陸軍作戦』とする

  

(5)
『戦史叢書中国方面海軍作戦1』240貢 『日中戦争史』193頁 

また第三艦隊は第一次上海事変時に新設された支那派遣艦隊。旗艦出雲は明治33年製で日露戦争時の第二艦隊旗艦をつとめた骨董船であり艦艇は貧弱なものが多かった。他に第一遣外艦隊、第一航空艦隊、上海特別陸戦隊等を指揮下におく。

  

(6)
山本五十六 海兵32期 元帥海軍大将 日華事変当時の海軍次官。のち連合艦隊司令長官として日米開戦を迎え、南方戦線にて戦死。

  

(7)
『近衛内閣』 風見章著 昭和57年(原本26年) 中公文庫 30頁

  

(8)
石射猪太郎 外交官 満州事変時は吉林総領事。支那事変時の東亜局長。駐泰公使・駐蘭、駐伯大使を務め、ビルマ大使時に終戦を迎える。外務省きっての軍部嫌いとして知られる。

  

(9)
後宮淳 陸軍大将 支那事変時の軍務局長。のち師団長、軍司令官、方面軍司令官を歴任。支那派遣軍総参謀長時に終戦を迎える。

  

(10)
豊田副武 海兵33期 海軍大将 日頃から「陸軍にけだものみたいな者がいる」と公言し、陸軍に嫌われる。のちに連合艦隊長官や軍令部総長などの要職を歴任する。

  

(11)
『外交官の一生』 石射猪太郎著 昭和61年(原本21年) 中公文庫 295頁

  

(12)
風見章 政治家 新聞記者辞職後衆議院議員となる。第一次近衛内閣時の内閣書記官長。第二次近衛内閣司法大臣。その後野に下るが、戦後は衆議院議員として日中友好に務める。

  

(13)
杉山元 陸士12期 元帥陸軍大将 「グズ元」「ボケ元」と呼ばれ、操り人形と化していた将軍。戦後いちはやく自害を遂げる。

  

(14)
『近衛内閣』30頁

  

(15)
「米内手記(覚書)」は八月中・下旬頃まとめられたものであろうと高田万亀子氏は推測している。理由として、一、事変は初め北支事変と呼ばれ、九月二日以降は支那事変と正式呼称された。しかし上海戦が始まった八月中・下旬に限っては手記にある日支事変の語を使うのが一般だった。二、上海に事変が拡大し、北支事変が日支事変と呼ばれるようになった時、米内が痛恨の気持で事変拡大に至る経緯を手記にしたとみるのが時期的にもふさわしい。(『静かなる楯・米内光政』)

  

(16)
『海軍大将米内光政覚書』高木惣吉写稿 実松譲編 昭和63年 光人社 

「日支事変拡大の序幕」13頁 以下『米内覚書』とする 

また米内は昭和八年の第三艦隊長官時代に「対支政策について」とする手記を書いておりそこで「支那全土をたたきつけるということは…おそらく不可能のことなるべし」「優者をもって自認する日本が劣弱な支那に対して握手の手をさしのべたところで、それはなにも日本のディグニティ(威厳)を損しプライド(自尊心)をきずつけるものだろうか。いつまでもこわい顔をして支那をにらみつけ、そして支那のほうから接近してくるのを待つということは、いかにも大人気のない仕業であり、むしろ識者の笑いをかうにすぎないものといわねばならない。日本はよろしく、つまらない静観主義をさらりと捨て、大国としての襟度をもって積極的に支那をリードしてやることに務めるべきである。」「陸軍あたりに引きずられて、海軍もそれでよいと思って居るのか。」等の意見が見られる。日華事変時の米内の取り組みを考えるうえで、本来なら論文中に記すべきものだが、見落としていたためあえてこの場に記した。

  

(17)
『日中戦争史』195頁

  

(18)
『広田弘毅』広田弘毅伝記刊行会 平成4年復刻版(昭和41年初版) 葦書房 259頁

  

(19)
『外交官の一生』296頁

  

(20)
『近衛内閣』35頁

  

(21)
『米内覚書』14~15頁

  

(22)
「廬溝橋事件処理に関する閣議決定」昭和十二年七月十一日

今次事件ハ全ク支那側ノ計画的武力抗日ナルコト最早疑ノ余地ナシ 思フニ北支治安ノ快復ハ最モ迅速ヲ要スルモノアルノミナラス支那側カ不法行為ハ勿論排日侮日行為ニ対スル謝罪ヲナシ及今後斯ル行為ナカラシムル為ノ適当ナル保障ヲ得ルノ必要アリ 即チ軍ハ今ヤ予メ関東軍及朝鮮軍ニ於テ準備シアル部隊ヲ以テ急遽支那駐屯軍ヲ増援スルト共ニ内地ヨリモ所要ノ部隊ヲ動員シテ北支ニ急派スルノ要アリ 而シテ東亜ノ和平維持ハ帝国ノ常ニ念願スルトコロナルヲ以テ今後共共面不拡大現地解決ノ方針ヲ堅持シテ平和的折衝ノ望ヲ捨テス 又前記支那側ノ謝罪及保障ヲナサシムル目的ヲ達シタルトキハ速ニ派兵ヲ中止セシムルコト勿論ナリ 

以下表記なきは『日本外交年表並主要文書』下巻 外務省編 昭和四十年 原書房

  

(23)
『外交官の一生』296頁

  

(24)
広田外相も『広田弘毅』260貢によるとこの閣議では米内と同様の発言を行っている。米内や海軍側は資料が豊富にあり、一方広田は戦後何も語らずに戦犯容疑で刑死しているため資料が少ないという不利があるために広田の動きは分からない点が多い。

  

(25)
『平和への努力』近衛文麿著 昭和21年 日本電気通信社 8頁

  

(26)
「北支出兵に関する声明」昭和十二年七月十一日夕刻発表 一部略

相踵ク支那側ノ侮日行為ニ対シ支那駐屯軍ハ隠忍静観中ノ処、従来我ト提携シテ北支ノ治安ニ任シアリシ第二十九軍ノ、七月七日夜半廬溝橋付近ニ於ケル不法射撃ニ端ヲ発シ、該軍ト衝突ノ已ムナキニ至レリ。(中略)我方ハ和平解決ノ望ヲ捨テス事件不拡大ノ方針ニ基キ局地的解決ニ努力シ、一旦第二十九軍側ニ於テ和平的解決ヲ承認シタルニ不拘、突如七月十日夜ニ至リ、彼ハ不法ニモ更ニ我ヲ攻撃シ再ヒ我軍ニ相当ノ死傷ヲ生スルニ至ラシメ、(中略)平和的交渉ニ応スルノ誠意ナク遂ニ北平ニ於ケル交渉ヲ全面的ニ拒否スルニ至レリ。

以上ノ事実ニ鑑ミ今次事件ハ全ク支那側ノ計画的武力抗日ナルコト最早疑ノ余地ナシ。

(中略)支那側カ不法行為ハ勿論排日侮日行為ニ対スル謝罪ヲ為シ及今後斯カル行為ナカラシムル為ノ適当ナル保障ヲナスコトハ東亜ノ平和維持上極メテ緊要ナリ。仍テ政府ハ本日ノ閣議ニ於テ重大決意ヲ為シ、北支派兵ニ関シ政府トシテ執ルヘキ所要ノ措置ヲナス事ニ決セリ。

 然レトモ東亜平和ノ維持ハ帝国ノ常ニ顧念スル所ナルヲ以テ、政府ハ今後共局面不拡大ノ為平和的折衝ノ望ヲ捨テス、支那側ノ速カナル反省ニヨリテ事態ノ円満ナル解決ヲ希望ス。又列強権益ノ保全ニ就テハ十分之ヲ考慮セントスルモノナリ。 

  

「支那側の計画的武力抗日」であることは明確であり、「よって政府は本日の閣議において重大決意をなし、北支出兵に関して執るべき所要の措置をなす」ということで「北支事変」と閣議決定された。

  

(27)
『支那事変陸軍作戦1』165頁

  

(28)
『米内覚書』17頁

  

(29)
『広田弘毅』260頁

  

(30)
有田八郎 外交官 政友会領袖山本悌二郎の弟。 広田・第一次近衛・平沼・米内内閣外相。のちの「三国軍事同盟」締結問題では米内海相、石渡蔵相と共に強硬に反対をする。

  

(31)
『原田日記』第六巻 33~34頁 

  

(32)
『日本外交史』75頁

  

(33)
『外交官の生涯』296頁

  

(34)
『日本外交史』69頁

  

(35)
『日中戦争史』234頁

  

(36)
『太平洋戦争への道 開戦外交史』第4巻 日中戦争下 
日本国際政治学会太平洋戦争原因研究部編 昭和63年新装版 朝日新聞社 11頁

  

(37)
『上海時代』下巻 松本重治著 昭和50年 岩波新書 137~141頁

  

(38)
『太平洋戦争への道』4巻 11頁 

  

(39)
『米内覚書』17頁

  

(40)
『米内覚書』18頁

  

(41)
『原田日記』第六巻 32頁

  

(42)
冀察政権側希望

宋哲元の代わりに副軍長を、馮治安の処罰の代わりに現地大隊長を、永定河左岸の三十七師を保安隊と交代させる代わりに二十八師と交代させることなど。

  

(43)
『米内光政』 実松譲著 昭和41年 光人社 50頁

  

(44)
『原田日記』第六巻 40頁

  

(45)
『米内覚書』 22頁

  

(46)
秦郁彦著『日中戦争史』高田万亀子著『静かなる楯』第四章注(1)(5)参考

  

(47)
支那駐屯軍の戦略展開完了予定日を期限としていた為。

  

(48)
『支那事変陸軍作戦』198頁

  

(49)
『原田日記』第六巻 40頁

  

(50)

川越大使が南京不在のため日高参事官が代理を勤めていた。

  

(51)
『原田日記』別巻 274頁

  

(52)
南京政府回答

 中国政府ハ事件不拡大主義ノ下ニ和平解決ニ努力シツツアリ 中国側ノ軍事行動ハ日本軍ノ平津一帯増兵ニ対スル当然ノ自衛的準備ニ過キス 中国政府ハ事件ノ不拡大ヲ希望スル …  尚地方的性質ヲ有スル故ヲ以テ地方的ニ之ヲ解決ヲ図ラントスルモ如何ナル現地協定モ中央政府ノ承認ヲ得ル事ヲ要ス … 

  

(53)
『支那事変陸軍作戦』204頁

  

(54)
『支那事変陸軍作戦』205頁

  

(55)
『原田日記』第六巻 46頁

  

(56)
『失はれし政治』近衛文麿公の手記 昭和21年 朝日新聞社 9頁

  

(57)
「川辺虎四郎少将回想応答録」『現代史資料12 日中戦争4』416頁所収

  

(58)
『支那事変陸軍作戦』207頁

  

(59)
『高松宮日記』第二巻 高松宮宣仁親王殿下 平成7年 中央公論社 495頁

  

(60)
『外交官の一生』301頁

  

(61)
「盧溝橋事件の勃発」『現代史資料月報 日中戦争4付録』

  

(62)
『支那事変陸軍作戦』209頁

  

(63)
『破滅への道』75頁

  

(64)
『石射猪太郎日記』171頁

  

(65)
郎坊駅の日本の軍用電信線が故障し、日本側が修理中に中国兵から射撃され、日本軍が撃退した事件

  

(66)
広安門から北京に入城しようとした部隊が城壁上の中国軍から射撃された事件

  

(67)
北支派兵の決定(奉勅)

「大海令第一号」

一 帝國ハ北支那ニ派兵シ平津地方ニ於ケル支那軍ヲ膺懲シ同地方主要各地ノ安定ヲ確保スルニ決ス

二 連合艦隊司令長官ハ第二艦隊ヲシテ派遣陸軍ト協力シ北支那方面ニ於ケル帝國臣民ノ保護並ニ権益ノ擁護ニ任ゼシムルト共ニ 第三艦隊ニ協力スベシ

三 連合艦隊司令長官は第二艦隊ヲシテ派遣陸軍ノ輸送ヲ護衛セシムベシ

四 (略)

なお、これは支那事変に関して発出された大海令三百余の最初のものである。

  

(68)
冀東政府の保安隊1500名が叛乱し、通州の守備隊・領事警察・居留民約250名を虐殺した事件

  

(69)
『外交官の一生』303頁

  

(70)
『破滅への道』74頁

  

(71)
『支那事変陸軍作戦』245頁

  

(72)
『外交官の一生』304頁

  

(73)
『支那事変陸軍作戦』245頁

  

(74)
『破滅への道』77頁

  

(75)
『昭和の動乱』173頁

  

(76)
大山事件は巡察中の大山勇夫中尉と斎藤興蔵一等水兵が中国側の保安隊兵士に射殺された偶発事件である。大山事件に関しては影山好一郎氏論文「大山事件の一考察第二次上海事変の導火線の真相と軍令部に与えた影響」『軍事史学』32(3) 1996.12)に詳細な研究がされている。

  

  

第二節

(77)
『現代史資料9巻』8頁

  

(78)
『現代史資料9巻』186頁

  

(79)
『静かなる楯』162頁

  

(80)
『現代史資料12』「中止出兵の決定」軍令部策定 364頁~

  

(81)
『海軍開戦経緯1』207頁

『現代史資料9』「漢口上流居留民引揚ノ指示」187頁

  

(82)
『海軍開戦経緯1』207頁

  

(83)
「中支出兵の決定」371~374頁

  

(84)
『上海時代』(下) 101頁

  

(85)
「中支出兵の決定」375頁~377頁

  

(86)
「中支出兵の決定」367頁

軍令部策定対処方針

要旨 

  大山事件の解決は将来此種事件の根絶を期するを方針とし左記要求事項の充足を目途として交渉するを要す

  而して支那側当事者に於て之が解決実行に対し誠意を示さざるに於ては実力を以て之を強制するも敢て辞せざるの決意あるを要す

要求事項

 一 事件責任者の陳謝及処刑

 二 将来に対する保障

  (一)停戦協定地区間に於ける保安隊員数、装備、駐屯地の制限

  (二)右地区に於ける陣地の防御施設の撤去

  (三)右の実行を監視すべき日支兵団委員会の設置

  (四)排抗日の取締励行 

理由 

一  大山事件は単なる偶発事件に非ず、昂揚せられたる排日抗日の気勢と日本の武力に対する軽侮とに因由して上海停戦協定の精神を蹂躙し停戦区域内に有力なる装備の多数保安隊を駐屯せしめ且各所に陣地を構築し防御施設を施す事に基ける不穏なる情勢の齎せる必然の結果なり

二 (略)

三  右解決方は現に進行中なる外交交渉を阻礙するやの懸念あるべきも右交渉は北支事変解決として日支国交の根本的改善を基調とするものなるを以て短時日の間に之が妥協を期待し得べからざるのみならず右交渉に於て上海方面に於ける将来の保証迄広範囲に亘り我が方の我方の要求を満足すべき妥結を得る事困難なりと認めらる即ち大山事件に対し我方が求めて消極的態度を執る事は却て彼を増長せしめ本交渉を不利ならしむるの虞あり寧ろ大国策として和平の間に解決を望むも其の間に於ける彼の不法不正に対しては断乎として実力行使も敢て辞せざるの決意を示す事に依り側面的に本外交々渉を支援するの結果ともなるべきものと観察す

(略)支那側が誠意を示さざるに対する已むを得ざる手段と為すに於て名分自ら公正且明確なり

  

(87)
「中支出兵の決定」368頁

  

(88)
「中支出兵の決定」380頁

  

(89)
「中支出兵の決定」385頁

  

(90)
「中支出兵の決定」386頁

  

(91)
「中支出兵の決定」387頁

  

(92)
『静かなる楯』170頁

  

(93)
『海軍開戦経緯1』212頁

  

(94)
十二日午後五時五十分 第三艦隊参謀長ヨリ軍令部次長及海軍次官宛

機密第五四八番電

一 上海特陸ノ報告ニ依レバ昨夜来北停車場付近ニ汽車及「トラツク」ニテ八十八師続々到達既ニ一部ハ鉄路ヲ超ヘ「ハスケル」路ニ進出ス

二 (略)

三 此ノ状況ニ対シ万一ニ備フル為本夕到迄ニ虹口地区越界路上ニ警戒兵ヲ配セントス。

四 (略)

五 一方大使館附武官及総領事ハ即刻停戦協定委員又ハ同関係国領事ト連絡シ当地支那官憲ニ正規兵ノ撤退ヲ要求シ同時ニ南京ニ於テハ国民政府ニ要求セシム

六 此ノ際速ニ陸軍派兵ノ促進緊要ナリト認メラル

  

(95)
武藤章は「作戦に関しては尚現地にて十分検討打合され度し」と発言。

石原完爾は「今次事変が斯くなりたる上は已むを得ざる次第なり。又呉淞方面の上陸に対する懸念の如きも事前海軍が爆撃砲撃等に依り決して陸軍単独の無謀なる上陸となるが如きこと無き様海軍に於て充分援助すべし」と近藤信竹少将に要望している。

  

(96)
「石原完爾中将回想応答録」307頁『現代史資料9』所収

  

(97)
『一軍人の生涯』34頁

  

(98)
「日華事変拡大か不拡大か」

  

(99)
『海軍部戦争経緯1』214頁「嶋田繁太郎大将備忘録」

  

(100)
『原田日記』第六巻 68頁 『原田日記』では13日に記述ではあるが状況を考えると14日の可能性の方が無難である。

  

(101)
『海軍開戦経緯1』215頁

  

(102)
『静かなる楯』174頁

  

(103)
『近衛内閣』46頁

  

  

第三節

(104)
『高松宮日記』530頁~541頁

  

(105)
『宇垣一成日記』1167~1168頁

  

(106)
『石射猪太郎日記』178頁~

  

(107)
『日本外交年表並主要文書 下』369頁

「蘆溝橋事件に關する政府聲明」八月十五日午前一時十分発表

帝国夙ニ東亜永遠ノ平和ヲ冀念シ、日支両国ノ親善提携ニ力ヲ致セルコト久シキニ及ヘリ。然ルニ南京政府ハ排日抗日ヲ以テ国論昂場ト政権強化ノ具ニ共シ、自国国力ノ過信ト帝国ノ実力軽視ノ風潮ト相俟テ、更ニ赤化勢力ト苟合シテ反日侮日愈々甚シク以テ帝国ニ敵対セントスルノ気運ヲ醸成セリ。近年幾度カ惹起セル不祥事件何レモ之ニ因セサルナシ。今次事変ノ発端モ亦此ノ如キ気勢カ其ノ爆発点ヲ偶々永定河畔ニ選ヒタルニ過キス、通州ニ於ケル神人共ニ許ササル残虐事件ノ因由亦茲ニ発ス。更ニ中南支ニ於テハ支那側ノ挑戦的行動ニ起因シ帝国臣民ノ生命財産既ニ危殆ニ瀕シ、我居留民ハ多年営々トシテ建設セル安住ノ地ヲ涙ヲ呑ンテ遂ニ一時撤退スルノ已ムナキニ至レリ。

顧ミレハ事変発生以来累々声明シタル如ク、帝国ハ隠忍ニ隠忍ヲ重ネ事件不拡大ヲ方針トシ、努メテ平和的且局地的ニ処理センコトヲ企図シ、平津地方ニ於ケル支那軍累次ノ挑戦及不法行為ニ対シテモ、我カ支那駐屯軍ハ交通線ノ確保及我カ居留民保護ノ為真ニ已ムヲ得サル自衛行動ニ出タルニ過キス。而モ帝国政府ハ夙ニ南京政府ニ対シテ挑戦的言動ノ即時停止ト現地解決ヲ妨害セサル様注意ヲ喚起シタルニモ拘ラス、南京政府ハ我カ勧告ヲ聴カサルノミナラス、却テ益々我方ニ対シ戦備ヲ整ヘ、厳存ノ軍事協定ヲ破リテ顧ミルコトナク、軍ヲ北上セシメテ我カ支那駐屯軍ヲ脅威シ又漢口上海其他ニ於テハ兵ヲ集メテ愈々挑戦的態度ヲ露骨ニシ、上海ニ於テハ遂ニ我ニ向ツテ砲火ヲ開キ帝国軍艦ニ対シテ爆撃ヲ加フルニ至レリ。

此ノ如ク支那側カ帝国ヲ軽侮シ不法暴虐至ラサルナク全支ニ亙ル我カ居留民ノ生命財産危殆ニ陥ルニ及ンテハ、帝国トシテハ最早隠忍其ノ限度ニ達シ、支那側ノ暴戻ヲ膺懲シ以テ南京政府ノ反省ヲ促ス為今ヤ断乎タル措置ヲトルノ已ムナキニ至レリ。

此ノ如キハ東洋平和ヲ念願シ日支ノ共存共栄ヲ翹望スル帝国トシテ衷心ヨリ遺憾トスル所ナリ。然レトモ帝国ノ庶幾スル所ハ日支ノ提携ニ在リ。之カ為支那ニ於ケル拝外抗日運動ヲ根絶シ今次事変発生ノ根因ヲ芟除スルト共ニ日満支三国間ノ融和提携ノ実ヲ挙ケントスルノ外他意ナシ、固ヨリ毫末モ領土的意図ヲ有スルモノニアラス。又支那国民ヲシテ抗日ニ踊ラシメツツアル南京政府及国民党ノ覚醒ヲ促サントスルモ、無辜ノ一般大衆ニ対シテハ何等敵意ヲ有スルモノニアラス且列国権益ノ尊重ニハ最善ノ努力ヲ惜シマサルヘキハ言ヲ俟タサル所ナリ。

  

(108)
『日中戦争史』232頁

同じ頃中国でも十五日の総動員令が発令され、八月十五日をもって宣戦布告なしの事実上の戦争状態に至ることになる。

  

(109)
『静かなる楯』181頁所収「島田文書」

  

(110)
『支那事変陸軍作戦1』305頁


第四章 海軍の対支政戦略と近衛内閣

 

 以上海軍の支那事変・日華事変初期における対応等を分析してきた。

 ここまで分析した上で、海軍にはどのような責任があるのか、という疑問ここで抱かざるをえなくなる。以下私の責任において諸説まとめていくと、秦郁彦氏は「海軍特有の便乗主義がこの局面でかなり露骨に打ち出された」「陸軍は戦面の拡大を嫌って-上海の場合は拡大派をも含め-海軍の出兵要望に容易に応じようとはしなかったが、居留民の全面引揚げと陸戦隊の撤退が実現不可能であるかぎり、けっきょくは海軍の要請に応じるほかなかった。海軍は部内一致して不拡大方針を守ったとはいえ、七月十一日の派兵決定に当って、迫力ある反対をしなかったため、上海へ戦火が拡大するのを防ぎ得なかったのである」(1)と述べ、臼井勝美氏は「軍部の中国認識の誤謬、軍内部の不統一が日中戦争をいたずらに拡大させ収拾を困難にさせたことは事実であるが、戦争遂行の第一義的な責任はあくまでも近衛内閣(軍を含めて)自体にあるといわなければならない」(2)と述べている。また豊田穣氏は「陸軍が華北に派兵したがるのは、支那駐屯軍が可愛いからであり、これに対してほとんど無関係な海軍は不拡大を唱え通してきた。しかし虎の子の上海陸戦隊と第三艦隊が危なくなって来ると、陸軍の派兵を頼むということになる。このあたり、陸海それぞれのに己の田に水を引こうとしていた形跡が明白である。戦史を論ずる人は米内のおおらかな人柄と、その和平尊重を賞揚するが、彼も軍人であり上級幹部である以上、このような望まざる戦闘を推進したことはあったのである。(略)ハト派の海軍といえども上海危しとなれば、文人の本性を現すもので、米内も多分に第一線である第三艦隊に引きずられたものと思われる。」(3)といずれも厳しく批評している。

 一方で高田万亀子氏は「米内のかねてからの憂慮が現実となっているのが十四日夜である。今まで派兵を抑えに抑えてきた米内が、海軍の責任者として容易ならぬ焦慮を感じていたとしても無理はない」とし「上海戦と上海派兵要請は米内にとっても最早他に選択肢はなかった。米内の責任を問うとすれば、それは派兵要請や強硬発言よりも、早期収拾を図れなかった近衛内閣の一員であったことにあるのではないか」(4)と米内を弁護している。相澤淳氏は「八月十四日中国空軍の第三艦隊旗艦出雲等、またその他居留地に対する先制攻撃という、交渉相手が実力をもって立ち向かってくる状態では敗退か、実力行使による対決しかありえないという状況と「日本を強者とし中国を弱者とする」中国認識のもと蒋介石に反省を促すという膺懲論の選択がなされ、その象徴として首都南京占領という発言につながった」(5)と米内の変化をみている。

 

 最後にここまで述べたことを総括すると、海軍は勢力拡張の為に事変を拡大したわけでもなく、縄張りの中南支の権益拡大をもくろんでいたわけでもないことが理解できる。ここで通説的な「陸軍は悪玉で、海軍は善玉」なる旧態依然とした認識をもちだすわけではないが、あくまでこの件に限っては海軍は善と到底いうことはできないがやむおえなかったと思われる。八月に至り「大山事件」勃発以降の海軍には政戦略としての不拡大の政策はもはや選択肢とはなりえず、泥沼に戦端を開くしか道はなかったと思われる。あの八月の時点でたとえば石原完爾のいう「上海が危険なら居留民を全部引揚げたらよい。損害は一億でも二億でも補償しろ。戦争するより安くつく」(6)といった発言は到底実行に移すことが出来るものではなく、「陸軍は中支不拡大に徹しているのに上海出兵後は全面戦争と化した」等の意見(7)は終戦後の後知恵としかいいようがない。八月の時点では居留民の生命はすでに危機化しており、引き揚げたとしても戦争が避けられた可能性をみいだすことはできない。むしろ、あの時点で海軍が立ち上がらなかった場合の方が最悪の事態を迎えていたであろうと考慮できる。

 また、海軍の上海確保から南京占領後の軍事基地化、海南島占領、北部仏印という一連の海軍南進戦略が米国の石油禁輸となり、致命傷を負った海軍が太平洋戦争へと陸軍を引きずっていった等の意見(8)も基本的には戦後のこじつけ的な解釈であろうと考えられる。もっとも「南進論」については軍令部を中心にその動きがみられるが、少なくとも時の海軍省米内海相以下には海軍・陸軍の縄張りに関係なく、日本国家の為に不拡大方針をとなえ、そして不拡大保持が不可能となった以後は早急に居留民の生命保護の手を打つという、国家を見据えた大局的な政戦略に立っていたと思われる。

 以上、問題は八月の上海にあるのではなく、それ以前の北支における派兵決定の対応にあると考えられる。この七月の時点で現地解決が行われ、事件が収まったならのちの八月以降の事件は違うものとなっていただろう。現に、七月の現地交渉で事件は収まっていたはずである。それを大きく広げたのが近衛内閣及び、陸軍ではなかったか。海軍及び米内海相としてこの「支那事変・日華事変」の責任をあえて問うとするなら、それは選択の道がなかった八月の上海ではなく、選択によっては不拡大・非戦で収まった七月十一日閣議での派兵決定をした近衛内閣の海軍大臣としての責任しかとりようがないのではないか、と考えられる。私としては「海軍はよくがんばったが、陸軍に押し切られた。」という思いが強く感じられる。

 

 海軍大臣就任は昭和十二年二月。就任当時は「米内光政」という名はほとんど知られておらず飾り物の「金魚大臣」と渾名されるほどの認識でしかなかった。そして近衛内閣成立後わずか三十三日後に勃発した「廬溝橋事件」までは海相就任五ヶ月間しかなく、また海軍内部では「ロンドン軍縮会議」以降のいわゆる「艦隊派」が牛耳ってきた陸軍以上の無茶苦茶な状況是正。さらに前年におきた「北海事件」等での対応のまずさと反省のための意識の建て直し。海相として米内がすべきことはたくさんあったなかでの事件勃発。

「海軍では、その職にない場合に政治に関与してはならないというのが昔からの伝統だった。(略)とにかく軍の政治関与は絶対にいかん、それをやると政治は麻痺してしまい、悪くすれば内乱となり、ひいては亡国の因となるというのが海軍の指導者の伝統的信念であった。(事変時の)海軍のとった態度は、何とかして陸軍を脱線させないようにとだましながらレールの上を乗せていく、というのが精々のところだった。(略)もし正面から立ち向かえば、結局は正面衝突、喧嘩になってしまう」(9)という当時の豊田副武軍務局長のいう政治に携わる職である海軍大臣として陸軍をだましつつレールに乗せていたのが米内海相であった。絶対不拡大の信念を閣僚の誰もが持ちながらも、閣議の流れは事変拡大へと導かれていく。そこには米内を含め、時流に対抗する強い力を持ち合わせていなかったからだろうか。

 海軍少将高木惣吉氏の意見をあげておきたい。高木氏は著作でH(元海軍士官)Y(政界人)I(高木氏自身)三者による会談という設定で戦後回想している。H「華北事変を全面的な衝突に広げてしまつたのはどうしたんです。米内海軍大臣の責任重大という気がするんですがネ…」I氏は近衛との七月十六日会談など一連の米内手記の内容などを説明する。(第三章第一節部分参考)Y「いや、あの近衛という責任観念のコレッポチもない男を首班に担いで、それで事変不拡大を考えるなんか虫がよすぎだ!」H「近衛公の責任もそうでしょうが、いまの話を聞いても、米内大将の手際の不味さかげんが想像できますよ。近衛公や広田外相なんて木偶坊を相手にして、ああだ、こうだといつてみたところで、何のタシにもならんのは判りきったことでしょう。」I「米内さんはあの雄弁も、迫力も、政治的炯眼も持ち合わせていなかった。(山本権兵衛に比べて)人を説破したり、会議の空気を逆転させたりする技巧と表現を備えていなかった。だがその代わり、いつでも自分の精魂を傾けて信ずる結論だけを最後まで繰り返したものだ」(10)と回想している。終戦を米内海相とともに導いた高木氏ゆえの意見であり、結局は外務省の石射猪太郎がいう「広田外相は時局に対する定見も政策もなく、全く其日暮し、イクラ策を説いても、それが自分の責任になりそうだとなるとニゲを張る。頭がよくてズルク立ちまわると云うこと以外にメリットを見い出し得ない。それが国士型に見られて居るのは不思議だ。彼(近衛首相)はだんだん箔が剥げて来つつある。門地以外に取柄の無い男である。日本は今度こそ真に非常になってきたのに、コンな男を首相に仰ぐなんて、よくよく廻り合わせが悪いと云ふべきだ。之に従ふ閣僚なるものは何れも弱卒、禍なる哉、日本。」「近衛首相の議会演説原稿を見る。軍部に強いられた案であるに相違無い。支那を膺懲とある。排日抗日をやめさせるには最後迄ブったたかねばならぬとある。彼は日本をどこへ持つて行くと云ふのか。アキレ果てた非常時首相だ彼はダメダ。…彼は中身の無いテンプラであるのだ」(11)というような政治家や陸軍の操り人形である「ボケ元」杉山陸相というような無定見なよりあわせのような内閣が戦争を引き受けたというのが不幸であったといわざるを得ないのだろうか。

 この「日華事変」拡大の責任を米内は重く感じ、それゆえに反省・贖罪の意も働き「日独伊三国同盟」における時流に対する強い意志による頑強な抵抗を米内は行い、最後は「支那事変・日華事変」拡大の責任を背負い、すべてを終わらせるための「終戦」にむけて「最後の海軍大臣」として生命をすり減らして尽力したのではないか。米内は「海軍」という枠ではなく「国家」としての枠で「支那事変・日華事変」拡大の責任を背負い、その「近衛内閣時の事変拡大責任」を背負い続けていたのではないか、と私は最後にそう思わざるをえない。


○第四章注釈 

(1)
『日中戦争史』252頁 『太平洋戦争への道4』22頁

  

(2)
「日中戦争と軍部」86頁

  

(3)
『激流の弧舟』65頁

  

(4)
「日華事変初期における米内光政と海軍」44頁及び『静かなる楯』174頁

  

(5)
「日中戦争全面化と米内光政」137頁

  

(6)
『大東亜戦争回顧録』73頁

  

(7)
『大東亜戦争回顧録』73頁

  

(8)
「帝国海軍の責任」13頁

  

(9)
『最後の帝国海軍』27~29頁

  

(10)
『山本五十六と米内光政』187頁~

(11)
『石射猪太郎日記』182・183・188・191頁


おわりに

 以上でもってすべてを完結させた訳ではあるが、私の実力不足を痛感せざるをえないものとなってしまった。比較的資料収集はうまくいったが、それでも探しきれない資料が山のようにあった。さらに収拾した資料のうち論文に使用できたものは一握りであり、私の資料整理能力不足から、生かしきれていない資料が山のように残ってしまったことが悔やまれる。最後の方は100枚という制限の調整を気にしてしまい、竜頭蛇尾のようなしまりのないものとなってしまったことも悔やまれる。

 

 本来、「米内光政」は私のテーマの一部であったが、全体をしめるものではなかった。しかし執筆を重ねるにつれ、当時の海軍は米内光政海軍大臣を中心に記すべきであり、同様に外務省は石射猪太郎東亜局長、陸軍は石原完爾参謀本部第一部長を中心に記さなければまとまりがつかないということがわかり、いつのまにか「米内光政と支那事変(日華事変)」というような内容に変貌してしまった気がする。

 私は「海軍びいき」な人間であり、また「米内光政びいき」でもある。そのような気持が本来中立でなければならない論文にも表れてしまっていることは否定できない。しかし、その心があったからこそこの論文をまがりなりにも仕上げることができたと思っている。

 

 この場を借りて、毎週のように資料請求をする私に対して、支那事変(日華事変)に関わる様々な分野の本の収拾を担わせてしまった図書館の方々に陳謝するとともに、的確な論文指導を行って下さった〇〇先生に感謝いたします。

 最後に乱筆乱文を御詫びし筆を置きたいと思います。

 

   

                         支那事変より六四年目の極月吉日

初稿 2001年


補記1 参考及び引用文献一覧

  

一、公刊戦史 防衛庁防衛研究所戦史室編 朝雲新聞社

 『戦史叢書100 大本営海軍部 大東亜戦争開戦経緯1』 S54

 『戦史叢書91  大本営海軍部 連合艦隊1 開戦まで』 S50

 『戦史叢書72  中国方面海軍作戦 昭和十三年三月まで』S49

 『戦史叢書86  支那事変陸軍作戦 昭和十三年一月まで』S42

  

二、通史・研究書・研究論文関係

 海軍

 『日本海軍史 第三巻 通史 第四編』財団法人海軍歴史保存会編集発行 H7

 『日本海軍史 第四巻 通史 第五・六編』

 『海軍と日本』 池田清著 S56 中公新書

 『五人の海軍大臣』 吉田俊彦著 S58 文芸春秋社

 「北海事件と蘆溝橋事件 海軍の反応」 角田順
   『現代史資料12』所収 S41 みすず書房

 外交

 『日本外交史』19・20巻 日華事変上下 上村伸一著 S46 鹿島平和研究所

 陸軍

 『日本の参謀本部』大江志乃夫著 S60 中公新書

 中国大陸

 『日中戦争史』 秦郁彦著 S47増補改訂版 河出書房新社

 「日中戦争と軍部」 臼井勝美 
   『大陸侵攻と政治体制 昭和史の軍部と政治2』所収 S59 筑摩書房

 『日中戦争』 臼井勝美著 S43 中公新書

 『満州事変』 臼井勝美著 S49 中公新書

 「満州事変の展開」 島田俊彦 
   『太平洋戦争への道 開戦外交史 第二巻 満州事変』
   日本国際政治学会太平洋戦争原因研究部編 朝日新聞社 S63新装版 所収 

 「日中戦争の軍事的展開」 秦郁彦 
   『太平洋戦争への道 開戦外交史 第四巻 日中戦争 下』所収

 研究論文

  樋口秀実論文

 「日本海軍の大陸政策の一側面 一九〇六~二一年」
   『国史学』147 1992所収

 「第一次上海事変の勃発と第一遣外艦隊司令官塩沢幸一海軍少将の判断」          
   『政治経済史学』333号 1994.3所収

 「日本海軍の対中国政策と民間航空事業」
   『国史学』155 1995.5所収

 「満州事変と海軍」
   『國學院大學日本文化研究所紀要』第80巻 1997.9所収

 「日中関係と日本海軍 昭和十年の中山事件を事例として」
   『軍事史学』33 1997.12所収

 「日中関係と日本海軍1933年~1937年」
   『史学雑誌』108巻4号 1999.4所収 

  影山好一郎論文

 「第一次上海事変における第三艦隊の編成と陸軍出兵の決定」
   『軍事史学』28 1992.9所収

 「満州・上海事変の対応に対する陸海軍の折衝 海軍の対応を中心として」
   『政治経済史学』318号 1992.12所収

 「大山事件の一考察 第二次上海事変の導火線の真相と軍令部に与えた影響」
   『軍事史学』32(3) 1996.12所収 

 「昭和十一年前後の日本海軍の対中強硬姿勢」
   『軍事史学』33 1997.12所収

 「広田三原則の策定をめぐる外務、陸、海軍の確執 海軍の対応を中心として」
   『日本歴史』595号 1997年12月号所収

  その他

 「支那事変初期における政戦両略について」今岡豊 
    『軍事史学』10 1974.6所収

 「支那事変勃発当初における陸海軍の対支戦略」森松俊夫 
    『政治経済史学』168号 1980.5所収

 「日華事変初期における米内光政と海軍 上海出兵要請と青島作戦中止をめぐって」 高田万亀子 
    『政治経済史学』251号 1987.3所収

 「昭和期海軍と政局(1)/(2)-「高木惣吉資料」の紹介と分析を中心として-」 纐纈厚 
    『政治経済史学』344/345 95.2/3所収

 「日中戦争の全面化と米内光政」相澤淳 
    『軍事史学』33 1997.12所収

  

三、日記

 『石射猪太郎日記』 石射猪太郎著 伊藤隆他編 H5 中央公論社

 『西園寺公と政局』2・6巻 別巻 原田熊雄述 S25 岩波書店

 『木戸幸一日記』上巻 木戸幸一著 木戸日記研究会 S41 東京大学出版会

 『宇垣一成日記』第2巻 宇垣一成著 角田順校訂S25 みすず書房

 『高松宮日記』第2巻 高松宮宣仁親王著 H7 中央公論社

  

四、回顧録・手記・記録・覚書など 

海軍関係資料

 「大東亜戦争海軍戦史本紀巻一(中支出兵の決定)」
   『現代史資料12 日中戦争4』所収 S40 みすず書房

 『海軍大将米内光政覚書』 高木惣吉写 実松譲著 S63 光人社

 『海軍戦争検討会議記録』 新名丈著S51 毎日新聞社

 『最後の帝國海軍』豊田副武  柳澤健著 S25 世界の日本社

 「第二次大戦についての小林躋造・嶋田繁太郎手記 参戦をめぐる海軍側の二史料」
 「嶋田大将の「大東亜戦争に至る回顧」を読みて 小林躋造手記」
   『政治経済史学138』所収 野村実著 S52.11

 『明治百年史叢書280・281 帝國國防史論』上・下巻 佐藤鉄太郎著 S54(原本M43) 原書房

 「反古に帰した「帝国国防方針」」『別冊知性』1956年12月号 福留繁著 

 『山本五十六と米内光政』 高木惣吉著 S41新訂 文藝春秋社

外交官・外務省関係史料                  

 『外交官の一生』石射猪太郎著 S61(原本S25) 中央公論社

 『外交回顧録』重光葵著 S28 毎日新聞社

 『昭和の動乱』上巻 重光葵著 S27 中央公論社

 『陰謀・暗殺・軍刀』 森島守人著 S25 岩波書店 

 『破滅への道 私の昭和史』 上村伸一著 S41 鹿島研究所出版会

 『東郷茂徳外交手記 時代の一面』 東郷茂徳著 S42 原書房

 『馬鹿八と人は言う 外交官の回想』 有田八郎著 S34 光和堂

 『昭和の動乱と森島伍郎の生涯』 森島伍郎著 S60 葦書房 

陸軍関係資料

 「満州事変機密作戦日誌」『太平洋戦争への道 開戦外交史 資料編』収録

 「石原莞爾中将回想応答録」『現代史資料9 日中戦争2』所収 S39 みすず書房 

  「川辺虎四郎少将回想応答録」『現代史資料12 日中戦争4』所収 S40みすず書房

 『大東亜戦争回顧録』 佐藤賢了著 S41 徳間書店

 「惑星のころ 松籟莊随想」 宇垣一成著 『改造』1949.6月号 

 『軍務局長武藤章回想録』 武藤章著 上法快男編 S56 芙蓉書房

 『日本軍閥暗闘史』 田中隆吉著   S63(原本S22) 中央公論社 

 「上海事変はこうして起こされた 第一次上海事変の陰謀」 田中隆吉著 
   『別冊知性1956.12号』 

 「日華事変拡大か不拡大か 真の拡大主義者はどこにいたか」 田中新一著 
   『別冊知性1956.12号』 

 『支那事変戦争指導史』 堀場一雄著 S37 時事通信社  

政界関係資料

 『平和への努力』 近衛文麿著 S21 日本電報通信社

 『失はれし政治 近衛文麿公の手記』 近衛文麿著 S21 朝日新聞社 

 『近衛内閣』 風間章著 S57(原本S26) 中央公論社

民間関係資料

 『昭和史への一証言』 松本重治著 S61 毎日新聞社

 『上海時代』 松本重治著 S50 中央公論社

 『海軍の昭和史 提督と新聞記者』 杉本健著 S60 文芸春秋社

 『重臣達の昭和史』下巻 勝田龍夫著 S56 文藝春秋社

その他資料

 『現代史資料7・8・9・12(満州事変・日中戦争1・2・4)』S39~ みすず書房

 『太平洋戦争への道 開戦外交史 別巻資料編』稲葉正夫他編 S63新装版 朝日新聞社 

 『日本海軍史 第八巻 年表 主要文書』海軍歴史保存会 H7

 『明治百年史叢書・1 日本外交年表竝主要文書』下巻 外務省編 S40 原書房

  

五、伝記

 『一軍人の生涯 提督・米内光政』 緒方竹虎著 S58(原本S30) 光和堂 

 『米内光政』 実松譲著 S41 光人社

 『激流の弧舟 提督米内光政の生涯』 豊田穣著 S53 講談社 

 『米内光政』 高宮太平著 S61 時事通信社 

 『静かなる楯・米内光政』 高田万亀子著 H2 原書房 

 『米内光政』上巻 阿川弘之著 S53 新潮社

 『重光葵』 渡邊行男著 H8 中央公論社 

 『近衛文麿』上巻 矢部貞治編 S26 近衛文麿伝記編纂刊行会 非売品

 『近衛文麿』 岡義武著 S47 岩波書店

 『広田弘毅』 広田弘毅伝記刊行会 H4復刻版(S41初版) 葦書房


  

補記2 主要官職

満州事変当時(昭和 六年九月) ~ 
第一次上海事変当時(昭和七年一月)

 満州事変当時(昭和 六年九月)第一次上海事変当時(昭和七年一月)
総理大臣若槻礼次郎犬養毅
外務大臣犬養毅芳沢謙吉
大蔵大臣高橋是清 
海軍大臣大角岑生 
 次官小林躋造左近司政三
  軍務局長豊田貞次郎 
   軍務第一課長澤本頼雄 
軍令部長谷口尚真 
 次長永野修身百武源吾
  一課長近藤信竹小林躋造
連合艦隊司令長官山本英輔 
陸軍大臣南次郎荒木貞夫
 次官杉山元 
  軍務局長小磯国昭 
   軍事課長永田鉄山 
参謀総長金谷範三閑院宮載仁親王
 次長宮治重真崎甚三郎
関東軍司令官本庄繁 

北海事件当時(昭和十一年九月)

総理大臣広田弘毅
外務大臣有田八郎
海軍大臣永野修身
 次官長谷川清
  軍務局長   豊田副武  
   軍務第一課長 保科善四郎  
軍令部総長   伏見宮博恭王  
 次長   嶋田繁太郎
  第一部長   近藤信竹  
   第一課長  福留繁  
連合艦隊司令長官  高橋三吉  
陸軍大臣寺内寿一
 次官  梅津美治郎
参謀総長   閑院宮載仁親王
 次長今井清

軍令部の顔ぶれは日華事変時と代わらず。

北海事件時の強硬意見が中支派兵問題時に尾を引きずっていた可能性も考慮できる。

海軍省は長谷川清次官が支那駐屯第三艦隊長官となり次官には山本五十六(11年12月)が就任。

永野修身海相は連合艦隊長官となり、米内光政連合艦隊長官が入れ替わる形で海相に就任(12年2月)することにより新体制となる。

支那事変・日華事変勃発当時(昭和十二年七月~八月)
第一次近衛内閣

総理大臣近衛文麿
 内閣書記官長風見章
内務大臣馬場鍈一
大蔵大臣賀屋興宜
外務大臣広田弘毅
 外務次官堀内謙介
  東亜局長石射猪太郎
   東亜局第一課長上村伸一
  欧亜局長東郷茂徳
  情報局長河相達夫
海軍大臣米内光政
 海軍次官山本五十六
  軍務局長豊田副武
   軍務第一課長保科善四郎
軍令部総長伏見宮博恭王
 軍令部次長嶋田繁太郎
  第一部長近藤信竹
   第一部第一課長福留繁
連合艦隊司令長官永野修身
 第三艦隊長官長谷川清
陸軍大臣杉山元
 陸軍次官梅津美治郎
  軍務局長後宮淳
   軍務課長柴山兼四郎
   軍事課長田中新一
参謀総長閑院宮載仁親王
 参謀次長今井清 → 多田駿
  第一部長石原完爾
   第一部第二課長河辺虎四郎
   第一部第三課長武藤章
  第二部長本間雅晴
教育総監寺内寿一 → 畑俊六
関東軍司令官植田謙吉
 参謀長東条英機
朝鮮軍司令官小磯国昭
支那駐屯軍司令官田代完一 → 香月清司
 参謀長橋本群

参謀次長今井清は病気療養中の為に実権は序列上石原完爾少将が権限を持つことになる。

また支那駐屯軍司令官田代完一は事件後まもなく病死。

現地交渉は橋本群参謀長を中心に行われることになる。

支那事変に対する陸軍部内拡大派・不拡大派一覧

拡大派
※中佐以下の大部分は拡大派

参謀本部第一部第三課課長・武藤章大佐
参謀本部第二部支那課課長・永津佐美重大佐
陸軍省軍事課課長・田中新一大佐
支那駐屯軍軍司令官・香月清司中将
関東軍軍司令官・植田謙吉大将
参謀長・東条英機中将
朝鮮軍軍司令官・小磯国昭大将

準拡大派

参謀本部第二部部長・本間雅晴少将
陸軍省軍務局局長・後宮淳少将

不拡大派

参謀本部第一部部長・石原完爾少将
参謀本部第一部第二課課長・河辺虎四郎大佐
陸軍省軍務課課長・柴山兼四郎大佐
支那駐屯軍参謀長・橋本群少将

準不拡大派

陸軍省次官・梅津美治郎中将

中立(見解もたず)

陸軍省陸軍大臣・杉山元大将
参謀本部参謀総長・元帥閑院宮載仁親王

本一覧は秦郁彦氏・上村伸一氏の見解を中心にまとめたものである。

以上〆


空母「飛龍」と共に散った名将・山口多聞

ミッドウェー海戦で、孤軍奮闘し散った名将、山口多聞海軍中将の墓は、青山霊園にある。


山口多聞(やまぐち たもん)

1892年(明治25年)8月17日 – 1942年(昭和17年)6月5日)
海兵40期次席・海大24期次席
ミッドウェー海戦において空母飛龍沈没時に戦死。49歳であった。
最終階級は海軍中将。

引用:https://commons.wikimedia.org/wiki/File:TamonYamaguchi.jpg



海軍兵学校40期の同期には、福留繁、宇垣纏、大西瀧治郎、醍醐忠重、左近允尚正、寺岡謹平などがいる。海兵40期の主席は、岡新。山口多聞は次席卒業。海軍大学校甲種学生24期も次席卒業。

第二航空戦隊司令官
昭和15年(1940)11月1日、第二航空戦隊司令官に着任。
昭和16年4月10日に第二航空戦隊は第一航空艦隊に編入。通称「南雲機動部隊」。

昭和16年12月8日、開戦。真珠湾攻撃に参戦。大戦果を収める。

第一航空艦隊
第一航空戦隊( 一航戦 )赤城、加賀
司令長官南雲忠一中将、参謀長草鹿龍之介少将、参謀源田実中佐等

第二航空戦隊( 二航戦 )蒼龍、飛龍
司令官山口多聞少将

昭和15年6月5日 ミッドウェー
6月上旬、ミッドウェー作戦に二航戦司令官(旗艦「飛龍」)として参加。
ミッドウェー島基地攻撃中に、敵空母発見の知らせを聞いた山口多聞は、一刻を争うものとして、基地攻撃用で装備を進めていた陸用爆弾のままで、今すぐに攻撃隊を発進させるように南雲司令部に進言した。
「直チニ攻撃隊ヲ発進ノ要アリト認ム」
しかし、第二次攻撃隊発艦準備中、南雲機動部隊はSBDドーントレス急降下爆撃機の奇襲により、空母3隻(赤城、加賀、蒼龍)が大破、炎上。
山口多聞は、次席指揮官の第八戦隊旗艦「利根」(司令官阿部弘毅少将)の命令を待たず、航空戦を敢行を決意。
第八戦隊と機動部隊全艦に対し、山口多聞は発光信号を発する。
「我レ今ヨリ航空戦ノ指揮ヲ執ル」
「飛龍」艦内に山口多聞が通報する。
「飛龍を除く三艦は被害を受け、とくに蒼龍は激しく炎上中である。帝国の栄光のため戦いを続けるのは、一に飛龍にかかっている」
「赤城・加賀・蒼龍は被爆した。本艦は今より全力を挙げ敵空母攻撃に向かう」

友永丈市大尉指揮のもと米空母ヨークタウンを攻撃し航行不能まで追い詰めるなど、飛龍は、ただ一隻で奮戦するも、米軍機の急降下爆撃を受け炎上。
飛龍は懸命の消火活動を行うも、機関部などを損傷し、放棄を決定。

山口多聞司令は総員を飛行甲板に集合され訓示する。
皆が一生懸命努力したけれども、この通り本艦もやられてしまった。力尽きて陛下の艦をここに沈めなければならなくなったことはきわめて残念である。どうかみんなで仇を討ってくれ。ここでお別れする」

一同水盃をかわし皇居を遥拝し聖寿の万歳を唱え軍艦旗と将旗を降納。

「提督の最後」 北蓮蔵画
東京国立近代美術館保管(アメリカ合衆国より無期限貸与)
1943年(昭和18年)山口の最期を描いた戦争画。
画面中央での罐の蓋で水を受けるのが山口多聞、その向かって右奥は飛龍艦長・加来止男で、右手前から参謀が降ろされた軍艦旗を掲げ持って歩み寄る。
引用:https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Renzo_Kita,_Last_Moment_of_Admiral_Yamaguchi.jpg

午後11時50分、軍艦旗降下。
6月6日午前0時15分、総員退去命令。
午前2時10分、巻雲の発射した魚雷2本のうち1本が命中し、沈没。

山口多聞少将と加来止男飛龍艦長は、飛龍と運命を供にした。

山口多聞は昭和17年6月5日付で海軍中将に進級。
10月10日、昭和天皇は侍従の徳川義寛を勅使として差遣し、祭祀料を下賜。
翌日の10月11日、山口の葬儀が青山斎場で執り行われた。


「余の級中最も優秀の人傑を失ふものなり」
宇垣纏「戦藻録」

このとき、連合艦隊の参謀長であり、海軍兵学校の同期でもあった宇垣纏は、日記「戦藻録」に、山口多聞の死について、以下のような記述を残し、最大限の賛美を送っている。

六月六日
 山口少将は剛毅果断にして識見高く、潜水艦勤務を専務としたるが、後、聯合艦隊専任参謀、大学校教官、米国駐在、第二聯合航空隊司令官等を歴任し、現職に在る事二年有半なり。余の級中最も優秀の人傑を失ふものなり。
 けだし蒼龍先に沈み、航空艦隊唯一の空母として奮戦、逆に敵空母二を仕留めるも、飛龍自らもまた刀折れ矢尽きて遂に沈没するに至る。司令官の責任を重んじ、ここに従容として艦と運命を共にせり。その職責に殉ずる崇高の精神、正に至高にしてたとゆる物なし。

宇垣纏「戦藻録」

戦時録音資料

昭和18年4月24日に行われたラジオ資料が残されている。
大本営海軍報道部の海軍大佐・平出英夫報道課長がラジオでおこなったもので、前年の昭和17年6月のミッドウェー海戦で、沈没する空母「飛龍」とともに死を共にした、第二航空戦隊司令官 山口多聞中将と「飛龍」艦長 加来止夫大佐(死後少将)の二人の奮闘ぶりを伝えた記録。

山口と加来の戦死は、この昭和18年4月24日夜に放送された『提督の最期』と題するラジオ番組で日本国民に対して公表された。少々長いが、当時の克明な記録でもあるので、以下に引用する。

精神教育資料 提督の最期(一)
近代戦は科学戦と言われます。従いまして、各種艦船、兵器、機関、装備などが戦闘の勝敗を決する重大な要素であることは申すまでもありません。しかし古来の戦争を見ましても、軍隊、なかんずくこれが上に立つ指揮官の素質と、至誠奉公の精神如何等の要素が、かかる物質的威力を凌駕するものであることは、万古不変の鉄則であります。今や我が将兵は、大御稜威をいただき、卓越せる指揮官の下、全軍一体となって物的優勢を頼みとする敵戦力を、徹底的に撃砕致しております。物的要素は、もとよりいささかも軽く見てはなりませんが、精神的無形の要素が無限の戦力を形成するものであることを、特に明記すべきであります。私はこのたび、北支勇将の御名に浴しました山口多聞中将、加来止男少将の東太平洋における壮烈なる奮戦と、陛下の御船と運命をともにした、鬼神も哭くその最期を申し述べ、我が前線指揮官が敵撃滅の中心となって、いかに戦っているかをしのびたいと存じます。本日は畏くも天皇陛下、靖国神社へ御親拝あそばされたのでありますが、その夜、両提督の最期をお話し申し上げることは、ひとしお感慨深いものがあります。

山口中将は、支那事変にありましては、あるいは艦船部隊、あるいは航空部隊の指揮官として各地に転戦し、その功、抜群だったのでありますが、特に航空部隊指揮官としては重慶空軍の撃滅、並びに敵軍事施設の攻撃に偉功を奏し、軍令部総長の宮殿下よりその功績を嘉尚せられ、御言葉を伝達せらるるの光栄に浴したほか、支那方面艦隊長官より、感状を授与せられております。大東亜戦争におきましては、中将は開戦劈頭のハワイ海戦に参加され、かの赫々たる大戦果の一半は、実に中将の卓越せる兵術、烈々たる実行力の功に帰するというも過言ではありません。

その後、中将は各作戦に参加され、数々の偉勲を立てられたのでありますが、東太平洋方面の作戦におきましては、敢然として敵方に進出、反復猛烈なる攻撃を加え、部下航空部隊の最後の1機に至るまで奮戦し、敵航空母艦、大型巡洋艦、各々1隻を屠り、他の航空母艦1隻に大損害を与え、敵基地に甚大な打撃を与えるという大戦果を挙げられたのであります。

戦争証言アーカイブ 戦時録音資料 https://www2.nhk.or.jp/archives/shogenarchives/sp/movie.cgi?das_id=D0001400264_00000

精神教育資料 提督の最期(二)
また、加来少将は、多年航空関係の要職を歴任され、支那事変におきましても、航空隊指令として各地に転戦、赫々たる武勲を立てられ、大東亜戦争勃発いたしまするや、 山口中将の麾下として、ハワイ海戦に参加以来、各作戦に参加され、東太平洋方面の作戦には、敵の反撃を一手に引き受け、奮戦力闘、遂に矢折れ、弾尽きるや、救援のため来着いたしました駆逐艦に、部下総員を無事移乗せしめました後、山口中将とともに艦上に踏みとどまり、従容として船と運命をともにいたされたのであります。

次に、当時の状況をそば近くともに戦い、その実情を目の当たりにした将士の記憶によって申し述べたいと思います。

昭和17年6月のことであります。東太平洋方面に作戦が実施されまするや、山口中将指揮の我が航空部隊は、整斉と予定の行動に移り、洋上の基地奥深く潜む敵、本艦艦隊のおびき出しを計りながら、次々と艦載機を飛ばしました。この日、層雲は2000メートルの上空を込め、東南東の風強く、同方面特有のうねりは大きく、艦載機の飛び立つのにも困難を感ずるほどでありました。索敵機が進発してから約2時間、航空母艦○(まる)隻を根幹とする敵艦隊の北上を発見す。その快報がもたらされました。時に日本時間の早朝、洋上の時差がありますので、太陽は既に中天に近いころであります。我が軍艦○○(まるまる)は、山口司令官これを直率、加来艦長指揮の下に、既に戦闘配備にあり、将士の意気、また既に敵を呑むの概があります。戦機まさに熟す。我が戦隊は敢然挺身、有力なる基地航空兵力の援護下にある敵航空母艦群、及び飛行機集団と火蓋を切ります。かくて激戦力闘数時間に及び、我が方はついに敵航空母艦高級巡洋艦各1隻を撃沈。他の航空母艦1隻を大破せしめました。そればかりではなく、この日、明け方から粉砕、撃墜し続けてきた敵飛行機は、既に百数十を数えましたが、戦意旺盛な海の勇士たちは、なおも残る敵航空母艦に対して猛襲を続けたのであります。しかし我が方は、夜来敵基地の奥深くに迫って、奮戦十数時間に及び、既に砲身は焼け、飛行機も傷つき、すべての力を出し尽くしたかの感がありました。

戦争証言アーカイブ 戦時録音資料  https://www2.nhk.or.jp/archives/shogenarchives/sp/movie.cgi?das_id=D0001400265_00000

精神教育資料 提督の最期(三)
あくまで敵を撃滅せずんば止まぬ勇士たちは、一面整備、一面激戦。さらに猛攻撃に当たらんとする、ちょうどその時であります。刻々数を増してきた敵急降下爆撃機群は、我が艦上を覆い、めくらめっぽうに投下する魚雷、爆弾のしぶきに艦影は覆い隠されるほどでありました。実にこの日、敵の猛襲は熾烈を極め、払暁以来、我が軍艦○○(まるまる)めがけて突撃を試みた敵機115機。回避した魚雷だけでも26本。爆弾約70発であります。敵の来襲は、早朝より午後にかけて4回に及び、最後の来襲により、敵の数発の爆弾は遂に我が艦橋前方の飛行甲板に命中いたしました。

山口司令官、加来艦長、以下幕僚はその時艦橋にありましたが、ものすごい爆風が四方のガラス窓を打っただけで、概ね無事でありました。だが前部飛行甲板には大小丘のような鉄板の波。大きな爆弾の穴が開けられ、格納庫はすさまじい火炎を噴き出し、別の至近弾による火災もたちまち艦橋をめぐる防弾幕に燃え移って、みるみるその火勢を広げていきます。応急処置の命令は次々に下されました。艦内各要所への注水はもとよりのこと、勇士たちは持ち場、持ち場を守って消火に全力を挙げたのであります。船破るるも軍規乱れず、沈着に機敏に処置が講ぜられました。だが、一波静まれば、一炎またみなぎるありさまです。巨体は勇士たち必死の努力にもかかわらず、漸次全面的に灼熱化し、延々と燃え広がる火勢は夕闇の空を焦がし、海水もために滾るかと思われました。勇士たちはなおも絶望を絶望とせず、豪炎烈火の中になお氷のごとき沈着さをもって鎮火に努めましたが、火勢はいよいよ激しく、たちまち機械室、釜室の上部前面は火の海と化し、舵取り機械の操作も遂に不能に陥りました。

この時、なお艦艇深い部署にあって、阿修羅のごとき操作を続けておりました機械釜部員は、上層鉄板の熱気、四方を巡らす鉄壁の焦熱のうちに最後万歳を唱え、あるいは死すとも敵を撃たでは止まじと絶叫し、相次いで斃るとの知らせが頻々として伝声管をもって艦橋に伝えられるのであります。それよりも早く、救出決死隊の手は猛火と猛煙をおかして機械室と釜室との連絡を図っていたのであります。万策功なく、また救い出しの手も多くに及ばず、船は次第、次第に轟々たる鳴動のうちに左に傾斜して、約19度に瀕していたのであります。

戦争証言アーカイブ 戦時録音資料  https://www2.nhk.or.jp/archives/shogenarchives/sp/movie.cgi?das_id=D0001400266_00000

精神教育資料 提督の最期(四)
誘爆はなおも続き、あまつさえ全艦の火は潮風を合わせて、波頭をなめんばかりであります。この中にあって、船の左舷側には、大胆にも駆逐艦○○(まるまる)がその舷側をぴったりと横付けにしていました。ともに消火に当たり、死傷の戦友を抱えうつなど必死となって協力いたしたのであります。それはちょうど猛火の中に親子相擁し相呼ぶがごときありさまであります。船の将士をして熱涙を震わせたのでありました。この間にあって、なお騒がず、乱れず、数名の将士の歩み謹厳にして、一挙一動、礼儀正しくは何事かと見えました。それは防御甲板下部の奉安室に、鉄壁鉄心を持って奉安し参らせてある御真影を奉遷し奉る姿だったのであります。一員がうやうやしく奉遷箱に移し奉ります。身を以てしかと背に負い、ひとまず前甲板に奉安申し上げ、さらに命によって駆逐艦に移しまいらせたのであります。陛下の見つめたり御船、今ここに御真影の御移乗を了したてまつる。死んだ全員の努力もなお忠誠に足らざるなきかと、忠勇の士、みな恐れ思うて悲憤の涙は抑えんとして抑えがたく、加来艦長は、今や総員退去のやむなしと判断いたしました。その決意を山口司令官に報告いたしました。司令官も、これに同意され、この旨を艦隊司令部に報告せよと命ぜられました。この報告は、いったん付近にあった駆逐艦に、懐中電灯のかすかな光りによって伝えられ、さらに艦隊司令部に伝えられました。時に東太平洋の夜は既に深かったのであります。この時、なおも機械室、釜室にある戦友に対する決死の救出作業は依然として続けられておりましたが、厚い煙に阻まれまして、今は万策、全く尽き果ててしまいました。戦友たちがこもごも、声を限りに熱涙を込めて呼びますが、轟々と渦巻き上る噴煙がその面を打ってくるのみでありました。

「総員、飛行甲板に集まれ」「飛行甲板に集合」。ついに最後の命令は発せられました。叫ぶような号笛の伝令。喉も破れて出ぬ声を振り絞りながら、その命令はたちまち全部署に伝えられました。総員の集まりました飛行甲板は、あたかも坂のように傾き、亀裂、凹凸、弾痕で惨憺、目も当てられぬ有様であります。また集合した総員の顔という顔は、終日の奮戦を物語る油と汗で黒くまみれておりましたが、どの目もらんらんと不屈の戦意に燃え輝いて、一人として失望落胆の気配すら伺われません。

戦争証言アーカイブ 戦時録音資料 https://www2.nhk.or.jp/archives/shogenarchives/sp/movie.cgi?das_id=D0001400267_00000

精神教育資料 提督の最期(五)
全員の瞳は、期せずして艦橋に注がれました。艦橋の一方に屹立するは山口司令官、及びその幕僚。左のほうに加来艦長、副長、その他の影濃く、燃えさかる炎と月の光りに、その1つ1つの横顔が染め分けられていました。ああ、我が司令官、我が艦長もまた健在なりしかと、全員の瞳に一瞬、歓喜の色輝くのを見まするのは、なおこの期においても、自己なく生死なく、身命ただ1艦とともに在りの姿でなくてなんでありましょう。各分隊長は直ちに人員点呼を行いまして、上官に伝え、上官は艦長に報告いたします。この報告が終わりますと、加来艦長は山口司令官に敬礼し、ともに艦橋から飛行甲板に降り立ちました。降り立ったその足下に、数個のビスケット箱があります。それは消火に協力した駆逐艦から応急糧食として運び上げてくれたものでありますが、全員、誰一人としてそのビスケッ
トの一片だにも口にしたものはありません。のみならず、その日の暁から、この時まで、司令官以下、総員戦闘配食のにぎりめし1個を形につかんだことがあるだけで、1杯の水すら飲む者はなかったのであります。加来艦長は、そのビスケット箱の上に立ちました。そして粛然、次の如く訓辞されました。

「諸氏、諸氏は乗艦以来、ハワイ空襲その他においても、もちろん今日の攻撃に当たっても、最後まで実によくその職を尽くしてくれた。皇国海軍軍人たるの本分をいかんなからしめてくれた。艦長として、最大の満足を感ずるとともに、実に感謝に堪えない。あらためて礼を言う。ただ、ともに今日の戦いに臨みながら、ともにただ今ここであい見ることのできない幾多戦友の英霊には、多感言い表せないものを覚える。同時に、その尊い赤子を多く失ったこと、陛下を始めたてまつり、一般国民に対し、深くお詫び申し上げる。今時、出撃の際にも各員に申し述べたとおり、戦いはまさにこれからだ。諸氏の同僚はこの海底に神鎮まるも、ここの海上は敵アメリカへの撃滅路として、無数の英魂が万世(よろずよ)かけて我が太平洋を守るであろう。諸氏もどうか一層奮励して、さらにさらに我が海軍に光輝を加えてくれ。敵を撃滅し尽くさずんば止まじの魂を、いよいよ鍛え合ってくれ。切に諸氏の奮闘を祈る。では、ただ今より総員の退去を命ずる。」

戦争証言アーカイブ 戦時録音資料 https://www2.nhk.or.jp/archives/shogenarchives/sp/movie.cgi?das_id=D0001400268_00000

精神教育資料 提督の最期(六)
力強い語尾でありました。艦長に代わって、すぐに山口司令官が台上に立たれました。

「ただ今の艦長の訓辞にすべて尽くされたと思う。私からはもう何も述べることはない。お互いに皇国に生まれてこの会心の一戦にあり、いささか本分を尽くし得た喜びがあるのみだ。皆とともに宮城を遙拝して、天皇陛下万歳を唱え奉りたい。」

司令官の声にも、態度にも、平生と少しも異なるところは見られませんでした。ただ無言不動のうちにも、全将兵の列を貫く強い感激のうねりは、目にも見えるほどでありました。誘爆のものすごい音響の中に、縦横にひらめく猛煙の中に、その轟音も熱風も裂けよとばかり、万歳を奉唱し終わりまするや、加来艦長はさらに大声で令しました。「今から軍艦旗を下ろす。」全員、不動の姿勢に、燃える感情も、峻厳秋霜たる軍旗の前に、烈火も熱風もありません。やがて君が代のラッパ吹奏時に、我が軍艦旗もまた、なお戦場の空にとどまらんと願うか、霊あるもののごとく、赤き月の夜空を寥々の音にひかれて下りてまいりました。将旗もともに降ろされます。仰ぎ見る全員の面は、涙に濡れざるはありません。この時既に総員は、山口司令官、加来艦長の決意が奈辺にあるかを推察していましたので、副長は各科長を集めて、ともに船にとどまりたいと申し出たのであります。

艦長は言下に「いけない。それはいかん。自分は船の責任者として船と運命をともにするの名誉を担うものであるが、ほかの者は許さん。重ねて言う。戦争はまさにこれからだ。諸氏の忠誠に待つ百難の戦場は、果てしなくあろう。諸氏は今日の戦訓をよく将来に生かし、一層強い海軍をつくってくれ。敵米英を完膚なきまでにたたきつぶせ。いよいよ奮戦努力してもらいたい」と、この申し入れを厳然と退け、さらに司令官を省みて申されました。

「司令官、ご退艦ください。これにとどまるは1人、不肖艦長の任にあります」これに対しまして山口司令官は、いやとも言わず、しかりとも答えず、ただにっこり頷いたのみでありましたが、眉の色、態度、既に固く自ら信ずるところを持して他より動かすに由なきを無言に示しておられたのであります。この日、終日艦橋にあって、悠々常に迫るなく、一笑すれば春風を生じ、一礼すれば秋霜の厳たるを思わすの慨は、実に山口司令官の英姿そのものでありました。

戦争証言アーカイブ 戦時録音資料 https://www2.nhk.or.jp/archives/shogenarchives/sp/movie.cgi?das_id=D0001400269_00000

精神教育資料 提督の最期(七)
外は穏和快活でありながら、内は剛毅不屈。武人の死は、なお呱々の声を挙げて世に生まるる日に等しとは、常に語っておられたところでありました。司令官の日常をよく知っておりました加来艦長は、司令官の微笑を仰ぎましては、あえて一度は退艦を勧めましたが、二度と勧める気にはなれなかったのであります。ただ黙然とその傍らに持して立つのみであります。なおまた専任参謀以下幕僚も、皆ともにその周囲にありまして、一歩も動かないでいるのを見ますと、山口司令官は一同に、厳かに「退去を命ずる」と命令されました。この時、船の傾斜はいよいよ加わりまして、もう手を何かに支えなければ、立っていることさえ難しくなっておりました。依然、誘爆は止まず、死期は既に秒間にあるを思わせたのであります。「早く行け、退去しないか」司令官の温容は凜として一喝しました。しかし自身は悠々自若。ただ全員の上に深い瞳を注いでおられます。今はやむなく、総員一斉に挙手の敬礼をいたしました。万感の別辞に代え、駆逐艦2隻に移乗を開始いたしました。第1に負傷せる船員。第2に同乗せる他の船の乗員。以下、順次に秩序整然として、光輝ある海の砦に決別を告げていった。総員が退官し終わるわずかの間を、なお残った幕僚や船の幹部は、短艇用の小さな水樽を囲み、その栓を抜いていました。この水樽も、先にビスケット箱とともに僚艦から消火作業中に贈られたものでありましたが、その水栓は、今初めて抜かれるのであります。あり合わせの石油空き缶の蓋を杯に代え、まず司令官、艦長の前に捧げました。それから次々に飲み交わしては、相別るる人の影を心の内に伏し拝んだのであります。しかし山口司令官と加来艦長とは、一掬の水に終日の渇を潤しますと、もう辺りの嗚咽も涙声も素知らぬように、淡々と語り合っておられました。

「いい月だな、艦長」
「月齢は21ですかな」
「2人で月を愛でながら語るか」
「そのつもりで先ほど、主計長が金庫の措置を聞きに来ましたから、そのままにしておけと命じました」
「そうそう。あの世でも渡し銭がいるからな」。

よそながらこの対話を聞く者は、熱鉄を飲む思いが致したのであります。司令官はつと目を向け直しますと、専任参謀と副長を特に招き寄せて申されました。

「こういう作戦の中だから、君たちの身も明日は計り知れない。ゆえに、特に依頼しておくわけだが、艦隊長官へ伝言を頼む。」

戦争証言アーカイブ 戦時録音資料 https://www2.nhk.or.jp/archives/shogenarchives/sp/movie.cgi?das_id=D0001400270_00000

精神教育資料 提督の最期(八)
それは、急にその姿勢を正し、言葉も厳かに「陛下の御船を損じましたことは、誠に申し訳ありません。しかし、やるだけのことはやりました。ただ敵の残る1艦に最後のとどめを刺す前に、かくなったことは残念に存じます。どうかこの仇をうち晴らしてください。長官の御武運長久をお祈りいたします。以上だ、頼むよ」と言い終わるや、山口司令官は静かに艦橋にその歩みを移されました。加来艦長も、またやや足早に艦橋に上っていきます。「司令官、なんぞお形見をください」。専任参謀は追いすがるように両手を挙げて艦橋を振り仰ぎました。その手の上へ、山口司令官の戦闘帽がふわりと軽く投げられました。副長は、軍艦旗を肌身につけ、専任参謀は将旗と形見の戦闘帽を抱きまして、最後に2人とも遂に船を去ったのであります。軍艦の舷側を離れました後も、2隻の駆逐艦は近くを去らず、逡巡、幾度かめぐり、幾度か短艇を下ろし、あるいは艦上の諸声を合わせて呼び合い、手を挙げ、帽を打ち振るなど、ほとんど子が親を呼ぶにも勝る哀惜の絶叫と衷情を表し続けたのであります。だが司令官と艦長の牢固たる決意の姿にはいささかの揺るぎも見えず、ただ彼方の艦橋に立てる2つの影も、我に答えて手を振っておるのが見えるだけありました。刻々、その2つの影は、神かのごとき崇高さを顕現しておりました。一瞬、艦橋もろとも黒煙に覆われ去ったかと思えば、また次の一瞬、炎々たる炎は神の像のごとく、その影を栄え照らしました。なお振り続けている手の線まで赤々と見えます。やがて驚くべき海面の変化が予想されます。広く大きい海の洞穴が突如として生じるかのごとき、大渦のもたらし来たった潮鳴りであります。それが先か、後か、轟然、一大音響とともに、彼方の軍艦は裂けておりました。たちまち見るその左舷は、急傾斜して洋中に没し、刹那に深く沈みゆく艦橋には、人なく焔なく煙もなく、まさに中天一痕の月落ちて遙深へ神鎮まったかのようにしか思われません。その渦潮を急に避けながらも、2隻の駆逐艦上から、その有様を目撃しておりました全将兵の目には、既に常時の人間、山口司令官、加来艦長の影はなく、2人にして全く1つなる、我が海軍魂。その一閃の神の光りを明らかに、目で見た心地だったのであります。

戦争証言アーカイブ 戦時録音資料 https://www2.nhk.or.jp/archives/shogenarchives/sp/movie.cgi?das_id=D0001400271_00000


山口多聞墓

青山霊園1種ロ8-1
このエリア、青山霊園1種ロ8号(警視庁墓地のとなり)界隈は有名人、著名人のお墓が集中している。ゆくゆくはまとめてみたいとは思ってます。。。

山口多聞の墓に参拝。
日本海軍が誇る名将に合掌。

海軍中将
正四位勲一等功一級
山口多聞墓

裏面
昭和十七年六月五日戦死
 元帥海軍大将永野修身書

山本五十六の詠んだ石碑が建立されている。


佐世保海軍墓地には飛龍の慰霊碑がある。あわせて掲載。

航空母艦 飛龍 戦没者慰霊碑

昭和49年6月5日建立
源田実書

昭和17年6月5日、ミッドウェー海戦。
南雲機動部隊(第一航空艦隊)直下の第二航空艦隊にて山口多聞少将の旗艦として出撃。最後の一艦として奮戦するも飛龍は6月6日午前0時15分総員退去、沈没。山口司令官、加来艦長以下800余名を祀る。

慰霊碑建立の記
航空母艦飛龍(17,300噸)は昭和14年7月横須賀海軍工廠にて竣工、支那事変の際は支那沿岸各地に於いて戦功を樹て昭和16年12月大東亜戦争勃発するや開戦劈頭僚艦と共に真珠湾奇襲に成功し更に「ウエーキ」島、豪州、比島、蘭印、インド洋作戦に武勲を樹て昭和17年6月5日「ミッドウエー」島攻略戦に於いては敵陸上基地を猛攻し赤城加賀蒼龍の三航空母艦被弾後は飛龍只一隻孤軍奮戦敵空母「ヨークタウン」を撃破し、更に攻撃準備中武運拙なく被弾大破し火焔に包まれ必死の消火作業も其の効なく遂に総員退去の止むなきに至り第二航空戦隊司令官山口多聞中将、艦長加来止男少将は従容として艦に止どまり多数の戦没者と運命を共にさる
茲に三十三回忌を期し慰霊碑を建立して航空母艦飛龍の功績を顕彰し併せて英霊の冥福を祈念す
 昭和49年6月5日
 航空母艦飛龍遺族生存者有志一同

在天の 山口司令官
加来艦長はじめ たくさんの戦友たちよ
あの日のことども ともに語りたい
その後のことも 聞いてほしい
だが今日は それもかなわず
とこしえに この聖地に
み霊安らかに 眠れかしと
ただ祈るのみ

佐世保海軍墓地

山口多聞の墓の隣は、高須四郎の墓もある。
広大な青山霊園の中でも、海軍軍人同士が並んでいるのは珍しいので、山口多聞とは直接的には関係しないが、あわせて掲載。

高須四郎

1884年10月27日 – 1944年9月2日
海兵35期。海軍大将。
昭和16年の開戦時は、第一艦隊司令長官。昭和17年に南西方面艦隊司令長官。兼第二南遣艦隊司令長官。昭和18年、兼第十三航空艦隊司令長官。昭和19年3月1日、海軍大将に昇進。
昭和19年4月2日、連合艦隊司令長官古賀峯一大将が行方不明になる事件(海軍乙事件)が起こり、次席指揮官である南西方面艦隊司令長官の高須が一時的に連合艦隊の指揮をとっている。
昭和19年6月18日に軍事参議官に就任し、9月2日に病没。

高須家之墓

(裏面)
昭和19年5月
高須四郎建之

海軍大将 高須四郎
海軍主計少佐 高須一郎(長男・昭和18年7月に南方海域で戦死)
日本大学名誉教授 高須敏行(次男・平成22年1月没)

山口多聞の墓と、高須四郎の墓はご近所さん。


関連

宇垣纏を偲ぶ
大西瀧治郎を偲ぶ
嶋田繁太郎を偲ぶ

「45cm四四式二号魚雷」東雲寺に残る国産第1号魚雷(深谷)

埼玉県深谷市北部。利根川を渡る新上武大橋の近くにある寺院「東雲寺」に魚雷があるというので足を運んでみた。

実は、以前に訪問をしていた、神奈川県小田原市の神社「神山神社」で魚雷を拝見し、その際に色々と調べていたら深谷市にもあることを知り、これは行かねばと思った次第でした。

深谷駅近くで、レンタサイクルを利用し、利根川近くまで北上。
この界隈は、渋沢栄一関連の史跡も豊富。そして利根川を渡れば中島知久平の史跡もある。
自転車を借りて、かなり濃厚な散策ができる地域でもあり。


45cm四四式二号魚雷
44式2号魚雷(明治44年製)

日清・日露戦争時の帝国海軍は輸入魚雷に頼っていた。
日露戦争後、明治44年(1911)に国産化にはじめて成功した魚雷が「45cm四四式魚雷」。
直径450ミリ、全長5,510ミリ

この四四式魚雷が帝国海軍の魚雷技術発展の礎となり、世界で唯一実用化に成功した酸素魚雷を生み出すこととなる。

小田原の神山神社で拝見したのと、ほぼほぼ同じな魚雷。この深谷市の東雲寺に残る魚雷のほうが、多少ではあるが状態がよさそう。弾頭の部分のみが、ちょと違うようだ。

魚雷
 これは、44式2号魚雷(明治44年製)と云い、第1次世界大戦で使用されたと言われる。構造は下図のとおりで、軍艦に魚雷発射管があり、空気圧力200kgで海中に発射すると、自動的にエンジンがかかり、敵艦船に向かって時速50km~60kmで進行する。重量1,000kg位で、敵艦船に命中すると爆薬が炸裂する兵器である。呉海軍工廠で製造国産第1号と思われ「下瀬」の刻印があり国内唯一のものである。

 昭和8年新会出身の海軍軍人の好意で新会村青年団に寄贈され新会国民学校校庭の忠魂碑前に青年団が奉納した。
 昭和25年現在地に移設した。

  平成11年10月調
  21世禅峰宗雄代

 調査協力者
  内田 伝太郎(本郷)
  川崎 春美(全国回天会)
  村岡 武(新戒)

頭部に刻印が残っているのが特徴。

下瀬 
449

「下瀬」とは、下瀬火薬のことだろうか。
日本海軍が日露戦争で勝利をおさめた要因の一つに、下瀬火薬(下瀬爆薬)」があった。

海軍下瀬火薬製造所跡地散策(北区西ヶ原)

頭部の先端、信管があった部分にも、なにやら刻印がある。

45×5/100×150
呉167

「呉」と明確に刻まれている。呉海軍工廠で製造された証。

100の左下に「桜印」もある

スクリューもきれいに残っている。

かなり貴重な一品。よくぞ残していただいたものです。
これからも伝承が続いてくれれば、です。


英霊塔

魚雷と並んで英霊塔がある。
日露戦争で鹵獲されたカノン砲が払い下げられたもの。
帝国在郷軍人会新会村分会から大正9年に陸軍に「十六珊克虜伯砲砲身」が下附願いが出され、翌年東京陸軍兵器支廠が忠魂碑用に払い下げとなっている。

忠霊塔

右柱 西比利亜(シベリア)
左柱 凱旋記念

大正7年(1918)から大正11年(1922)にかけて出兵された「シベリア出兵」に関係する記念碑。

大正10年1月建設

大正十年一月

征清従軍記念碑

征清従軍記念碑

元帥公爵大山巌書

征露記念碑

征露記念碑

元帥公爵大山巌書


東雲寺

的龍山東雲禅寺

東雲寺は、鎌倉期の開基とされる古寺。
東雲寺は男寺とされ、隣の大林寺が女寺とされている。

場所

https://goo.gl/maps/LjgLjfbTkU5UzjqZ8


関連

深谷といえば、渋沢栄一

深谷には軍需工場もあった
利根川を挟んだ対岸の群馬県太田市は、中島知久平

帝国軍艦扶桑征清之役忠死紀念碑(新善光寺)

久保山墓地を散策していた際に、近くの寺院で砲弾を見つけました。
日清戦争での扶桑乗員の慰霊碑。


扶桑(扶桑艦)

初代扶桑。姉妹艦はない。
日本海軍の装甲フリゲート艦(甲鉄艦)、一等軍艦。のちに二等戦艦から二等海防艦に類別された。
日本海軍としては初代。2代目は太平洋戦争で活躍した戦艦扶桑となる。
1875年(明治8年)、明治政府は有力な軍艦の必要性を感じイギリスに発注。1878年(明治11年)竣工。
清国海軍が「定遠」「鎮遠」を所有するまでは、アジア独立国家で唯一の近代的装甲艦、であった。

なお、このときに明治政府はイギリスに3艦の軍艦を発注している。
装甲フリゲート艦の「扶桑」、そして装甲コルベット艦の「金剛」「比叡」。明治海軍の近代艦はこの3隻からはじまったといっても過言ではない。

明治27年(1894)、近代化改装を実施し、帆走装備を廃止。
近代化改装を受けた「扶桑」はすでに旧式艦ではあったが、唯一の甲鉄艦として日清戦争に参戦。
日清戦争では明治27年9月の黄海海戦や、明治28年2月の威海衛攻撃などに参加。
明治30(1898)に「松島」と衝突し沈没。
明治31年、海軍の艦艇等級の見直しにより、二等戦艦に類別。
明治33年、浮揚からの修理を完了。
明治37年(1904)からの日露戦争に参加。旅順攻撃や対馬海峡警備、日本海海戦などに加わっている。
明治38年、二等海防艦。
明治41年、除籍。明治43年、解体。

初代扶桑の初代艦長は、伊東祐亨(のちに伊東祐亨は日清戦争では初代連語艦隊司令長官として活躍)であったことからも、創業期の明治海軍の期待が大きかったことがわかる。


帝国軍艦扶桑征清之役忠死紀念碑

明治29年8月建立。帝国海軍軍艦「扶桑」乗組員犠牲者を祀る。

明治27年(1894)9月17日の「黄海海戦」での4名、及び明治28年2月7日の「威海衛の戦い」での2名の6名の犠牲者を祀る。
慰霊碑に添えられている弾丸は、威海衛百尺崖砲台で使用されていた1886年式鋼鉄榴弾という。

土台となっている石も清国の「威海衛」に由来。
清國威海衛百尺崖砲台入口のアーチ上部の額面石を利用している。

帝國軍艦扶桑征清之役忠死紀念碑 
 明治二十七年九月十七日黄海之役戰死
  廣島縣海軍二等水兵 橋本松太郎
  新瀉縣海軍二等水兵 近藤藤作
  徳嶌縣海軍二等水兵 阪田又吉
  福島縣四等信号兵 木村熊治
 明治二十八年二月七日威海衛之役\\戰死
  岩手縣海軍二等水兵 福原喜次郎
  新瀉縣海軍二等水兵 山川忠太

建設者 明治二十九年八月

一 来歴 西暦千八百八十六年ノ式
一 名稱 鋼鐵榴彈
一 質 鋼鐵
一 彈丸ノ重量 九拾壹貫三百貮拾匁
一 装薬ノ量 貮拾貮貫六百貮拾匁
一 砲口ニ於テ鏆通力ハ鍛鐵板ノ厚二尺壹寸九分
一 彈着 七英里四分ノ三
一 石 壹個
 此石 明治二十八年二月十七日清國威海衛陥落之節百尺崖ノ砲臺入口
(アーチ)ノ上部ニアリシ額面石ニシテ我艦隊ノ砲彈ノ為メ破壊セラレシ石斤

横浜の新善光寺には、日清戦争及び日露戦争で戦没された方々の個人慰霊碑・個人墓も多い。

本堂の向かって右側の壁沿いに慰霊碑などが林立している。

※撮影は2021年3月

場所

https://goo.gl/maps/2Ekh3gc5K63eLKBc7


関連(久保山墓地関連)

すぐちかくは、久保山墓地。

「帝国海軍きっての知性」最後の海軍大将・井上成美

井上成美海軍大将。
日本帝国海軍史上、最後に海軍大将に昇進した軍人は二人いた。
ひとりは、塚原二四三、そしてもうひとりが井上成美、であった。


井上成美(いのうえ・しげよし)

1889年〈明治22年〉12月9日 – 1975年〈昭和50年〉12月15日
日本帝国海軍の海軍大将。

海軍兵学校第37期。
卒業順位は2位であったが、明治43年(1910)に海軍少尉に任命され最先任者(クラスヘッド)となる。
通常は同期生は揃って少尉任官するものであるが、第37期のみは唯一、任官が揃わなかった。37期席順1位の小林万一郎は病気のために任官が遅れ、そのために2番の井上成美がクラスヘッドとなている。
兵37期は、井上成美が大将となったほかは、大川内傳七・ 小沢治三郎・ 草鹿任一などが中将となっている。

昭和4年、海軍大佐に任命。
昭和5年、海軍大学校教官。
昭和7年、海軍軍務局第一課長。
昭和8年、練習戦艦「比叡」艦長に就任。
昭和10年、海軍少将に任命。横須賀鎮守府参謀長に就任。横須賀鎮守府長官は米内光政。二・二六事件を対処。
昭和12年、海軍省軍務局長に就任。米内光政が海軍大臣、山本五十六が海軍次官。米内光政・山本五十六・井上成美の三人を「海軍省の左派トリオ」「海軍左派三羽烏」などと称した。
米内・山本・井上の海軍省は日独伊三国同盟に反対するも時勢の流れは変えることはできなかった。
昭和14年、支那方面艦隊参謀長に就任。海軍中将に任命。支那方面艦隊司令長官は嶋田繁太郎中将。
昭和15年、海軍航空本部長に就任。このときの海軍大臣は及川古志郎。

昭和16年(1941)、第四艦隊司令長官(4F長官)に親補される。トラック「夏島」を拠点とする第四艦隊旗艦は「鹿島」。
昭和16年 12月8日に太平洋戦争が開戦。第四艦隊は第一段作戦において、ウェーク島攻略を担当。第一回の攻撃(12月11日)は、大発動艇の発進に手間取るうちに夜明けとなり、陸上砲台と残存航空部隊の反撃により駆逐艦2隻(疾風、如月)を喪失して失敗。真珠湾攻撃から帰投する途中の南雲機動部隊から分派された(重巡2、空母2(蒼龍・飛竜、駆逐艦2)の協力で、同島上空の制空権を確保しての第二回攻撃(12月23日)を」行い攻略に成功。

昭和17年5月7日、第四艦隊(南洋部隊)はMO作戦を担当し、珊瑚海海戦が発生。空母「祥鳳」を失い、「戦下手」を自認することとなる。
7月、海軍料亭「小松」の支店がトラック島に開業。これは、井上が横須賀で「小松」を経営する山本直枝夫婦に出店を依頼したものであった。(敗戦時にトラック島の小松は消滅し、女子従業員6名が犠牲となり、井上は戦後、小松に謝罪をしている)

昭和17年10月、海軍兵学校長に就任。トラックから内地に帰還。英語教育廃止論を退け、「自国語しか話せない海軍士官などは、世界中どこへ行ったって通用せぬ。」として英語教育を推進。

昭和19年7月、サイパン失陥により東條内閣は崩壊。予備役であった米内光政が現役に復帰し、小磯内閣副総理格で海軍大臣に就任。米内光政海軍大臣の懇請で井上成美は海軍次官に就任。海軍省人事局の高木惣吉少将を、海軍省出仕とし、米内ー井上ー高木のラインで、終戦のための研究・海軍の終戦工作が行われた。

昭和20年5月15日、海軍大将に親任され海軍次官を免じ、軍事参議官に親補された。
昭和20年8月10日、ポツダム宣言を受諾。
井上成美海軍大将は、海軍での最後の仕事として9月10日付けで司令官宇垣纏を失った第五航空艦隊の「査閲」を実施し、各基地において終戦処理を推進し、帝国海軍の有終の美を飾るように説いて回った。
昭和20年10月15日、予備役となり39年間の海軍生活を終えた。満55歳であった。

戦後は、横須賀長井に隠棲し、近所の子供達に、得意の英語を教えるなどして余生を過ごしていたが困窮していた。戦前は海軍料亭として賑わっていた料亭「小松」の山本直枝も、井上の支援を行い、小松従業員に英語指導を依頼するなどして、井上の生活を支えていた。

1975年(昭和50年)12月15日午後5時過ぎに老衰で死去。86歳没。
最期の言葉は、「海が…、江田島へ…」だったという。


井上成美墓

多磨霊園に眠る。場所は21区1種3側。

井上成美
ここに眠る

1889-1975
 井上成美伝記刊行会

合掌

井上家家之墓

昭和13年5月
 井上秀二建之

井上秀二は井上家の長兄。土木技師。
井上家は13人兄弟(12男1女)であり、夭折などもあり事実上の長男が4男の秀二であった。井上成美は11男。

墓誌

父、井上嘉矩や成美の最初の妻であった井上喜久代、最後を看取った二番目の妻である井上富士子、兄である井上秀二などの名が刻まれている。

つまり、井上本家(井上秀二)の墓に、弟の井上成美と二人の妻も一緒に眠っているということになる。

場所

https://goo.gl/maps/wzAtoNUMCSpD2Skj8

※参拝・撮影は2021年9月


井上成美旧宅(井上成美記念館・閉館)

かつての井上成美邸宅は、損傷が激しかったために改装がおこなわれており、井上が住んでいた頃の名残をとどめるのは、暖炉などの一部だけとなっている。
小規模ながら「井上成美記念館」として公開されていたが、東日本大震災の被害により閉館。現在に至る。

閉館中のため、敷地外より遠望。敷地内は立入禁止。

井上記念館は
閉館
しました!

ここが井上成美記念館であった、わずかな証。

今も昔も、井上提督が愛した海を望む高台。窓から見える風景は変わっていないという。

場所

https://goo.gl/maps/SNED1EUuEUTc4jaa6


※撮影は2018年8月

昔の写真が出てきました。以下は2009年の撮影。。。

このときもすでに閉館でしたが。


軍艦鹿島 有終之碑

呉海軍墓地にて。
井上成美は、太平洋戦争開戦時に、第四艦隊司令長官であった。
「鹿島」は、開戦時はトラック泊地で南洋部隊の全作戦を指揮する第四艦隊の旗艦を務める。

関連

※撮影は2017年3月


料亭 小松

全焼する前に来たかった場所でした・・・

海軍料亭「小松」
平成28年(2016)5月16日、火災により全焼。
板塀と看板が残る空間が苦しい…

横須賀の海軍ゆかりの料亭「小松」の母屋から出火、正面左手の奥「松風の間」を残し、木造母屋全焼…
海軍提督の書、あるいは海軍、海自からの記念品は、残念ながらほとんど焼損してしまった。

井上成美は、小松の女将・山本直枝とは親しく、山本直枝は、困窮する戦後の井上成美を支えた一人でもあった。

場所

https://goo.gl/maps/To6CqCJhoyvSnC1V9

※撮影は2018年4月


井上成美
井上成美伝記刊行会

井上成美の伝記。1982年刊行。

題字は、井上成美の筆。

海軍中将時代の井上成美。
自ら進級に反対していたため、海軍大将として独りで撮影された写真は無い。

横須賀鎮守府時代。
鎮守府長官は米内光政。参謀長が井上成美。


井上成美の肉声

海自第2術科学校には井上成美の肉声テープが保管されている。

https://www.mod.go.jp/msdf/twomss/sp/sp_index.html

海自第2術科学校、オープンスクール。


海上自衛隊第2術科学校オープンスクール(2019年)

海自第二術科学校の「井上成美」公開講座が2019年にありました。

「井上成美のしおり」を戴きました。
挟むべき「本」を迷います・・・

偲ぶ
IN LOVING MEMORY OF
May He Rest In God’s Loving Arms
海軍大将 
井上成美
1889年12月9日~1975年12月15日(86歳)

英語教育廃止論を退けた人

明治22年 仙台市に出生
明治42年 海軍兵学校卒業
昭和 2年 イタリア駐在武官
昭和10年 横須賀鎮守府参謀長
昭和12年 海軍省軍務局長
昭和17年 海軍兵学校長
昭和19年 海軍次官
昭和20年 海軍大将、軍事参事官
8月終戦  横須賀市長井の自宅に隠棲後英語塾を始める
昭和50年12月15日 長井の自宅で死去

日本海軍きっての知性といわれた最後の海軍大将。
戦後30年間、清貧を貫いて逝ったこの人の先見性、識見の高さ、事績の正しさは歴史が証明した。
敗戦前夜一億玉砕を避けるべく終戦工作に身命を賭した井上成美だった。
開戦前、米内光政、山本五十六とともに日独伊三国同盟に反対し、無謀な対米戦争回避を主張、戦時下にあっては兵学校長として英語教育廃止論を退ける等、時流に抗して将来を見通す全人教育を目指した。
 阿川弘之

井上成美が艦長を務めた練習戦艦「比叡」


二・二六事件と井上成美

井上成美が横須賀鎮守府参謀長の際に、二・二六事件が勃発。
米内井上コンビが横須賀から陸軍に対抗する。

「二・二六事件と海軍」


小沢治三郎(小澤治三郎)

小沢 治三郎(小澤 治三郎, おざわ じさぶろう)
1886年(明治19年)10月2日 – 1966年(昭和41年)11月9日)
日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。
第31代となる最後の連合艦隊司令長官を務めた。

海軍兵学校37期生。卒業順位は45番。 井上成美と同期。


塚原二四三

塚原 二四三 (つかはら にしぞう)
1887年(明治20年)4月3日 – 1966年(昭和41年)3月6日)
日本の海軍軍人。海兵36期・海大18期。最終階級は海軍大将。
日本海軍で最後に大将に昇進したのが、井上成美と塚原二四三の二人であった。

墓は井上成美と同じく多磨霊園にある。


阿川弘之

「井上成美」
昭和五十年暮、最後の元海軍大将が逝った。帝国海軍きっての知性といわれた井上成美である。彼は、終始無謀な対米戦争に批判的で、兵学校校長時代は英語教育廃止論をしりぞけ、敗戦前夜は一億玉砕を避けるべく終戦工作に身命を賭し、戦後は近所の子供たちに英語を教えながら清貧の生活を貫いた。「山本五十六」「米内光政」に続く、著者のライフワーク海軍提督三部作完結編。

https://books.google.co.jp/books/about/%E4%BA%95%E4%B8%8A%E6%88%90%E7%BE%8E.html?id=TArVCwAAQBAJ&source=kp_book_description&redir_esc=y


「造船の父と造船の神様」赤松則良墓と平賀譲墓

日本海軍の軍艦造船において、「造船の父」と呼ばれた男と、「造船の神」と呼ばれた男がいた。
そんな二人の墓参りをしてみた。


「日本造船の父」(日本造船学の父)
赤松則良(赤松大三郎)

赤松則良(あかまつ のりよし)
天保12年11月1日(1841年12月13日) – 大正9年(1920年)9月23日)
海軍中将、従二位勲一等男爵。

幕末
安政4年(1857年)、長崎海軍伝習所に入所して航海術などを学ぶ。
万延元年(1860年)、日米修好通商条約批准書交換の使節団に随行し、咸臨丸で渡米。
米国海軍のポーハタン号に乗艦した万延元年遣米使節団の正使は新見正興、副使は村垣範正、目付は小栗忠順
同行する咸臨丸司令官は軍艦奉行の木村喜毅(木村芥舟)艦長は勝海舟

文久2年(1862年)、榎本武揚(運用術、砲術、機関学)・上田寅吉(船大工習得)・林研海(西洋医学)らとともにオランダに留学。
文久3年(1863年)4月、オランダ・ロッテルダムに到着。「運用術、砲術、造船学」などを学ぶ。
慶応2年(1866年)、オランダで完成した開陽丸(上田寅吉が開陽丸船匠長)に乗船して榎本武揚らは帰国するも赤松はオランダへ残留、留学を継続する。
慶応3年(1867年)、フランスにてパリ万国博覧会が開催。徳川幕府は将軍慶喜の弟、徳川昭武を名代として派遣し、この一行に日本資本主義の父・渋沢栄一も同行。パリにて、赤松則良と渋沢栄一が交わっている。

慶応4年(1868年)、大政奉還を知り、留学を中止し帰国の途に着き、5月17日、横浜港へ帰着。
戊辰戦争では、榎本武揚に合流を目指すも叶わずに静岡藩に移る。

明治
勝海舟の助言があり、明治政府に出仕。海軍中将にまで昇進。
海軍主船寮長官、海軍兵学校大教授、横須賀造船所長、海軍兵器会議議長、海軍造船会議議長、横須賀鎮守府司令長官などを歴任。

明治8年(1875年)から横須賀造船所所長(後の横須賀海軍工廠)に就任。
1876年(明治9年)、日本国内で初めて西洋技師の手を借りずに4隻の軍艦(清輝・天城・海門・天竜)を設計。
横須賀造船所では、赤松則良とともに西洋造船技術を習得していた上田寅吉が造船技術者として出仕し、横須賀海軍工廠初代工場長ともなっていた。赤松則良の設計のもとで、製図を引いたのが、上田寅吉であった。近代日本の造船技術と海軍の基礎固めに大きく貢献したことから、赤松則良と並び上田寅吉も「日本造船の父」と称されている。なお、赤松は上田を「近代日本造船界の一大恩人」とも賛辞している。

明治20年(1887年)5月24日、男爵を叙爵。貴族院議員も務める。
明治22年(1889年)、新たに開庁した佐世保鎮守府初代司令長官の要職を務める。
明治24年(1891年)、横須賀鎮守府司令長官に就任。
明治26年(1893年)、予備役、明治38年(1905年)10月19日、後備役に編入。
明治42年(1909年)11月1日に退役、大正6年(1917年9月14日)に隠居。

明治13年(1880年)、日本海員掖済会の設立とともに委員長に就任。
明治30年(1897年)、造船協会の設立とともに会長に就任。(現在の日本船舶海洋工学会)

旧赤松家記念館(静岡県磐田市見付)が残っている。これは赤松則良が予備役編入後、隠居所として設けた建物。静岡県指定文化財。


赤松則良墓

赤松則良は、大正9年9月23日に81歳で没している。
墓所は、文京区の吉祥寺。

赤松則良の妻・貞は、オランダ留学に同行した蘭方医であった林研海の妹。その姉は榎本武揚に嫁いでおり、赤松則良と榎本武揚は義兄弟であった。そして、榎本武揚と赤松則良は、同じく文京区の吉祥寺に眠っている。

赤松家之墓

大正元年11月 竣工

墓誌
赤松家先祖代々之霊位
壽仙院殿海家屋南明大居士 初代 大正9年9月23日歿
 従二位勲一等男爵海軍中将 赤松則良 行年81歳
(以下略)

場所
〒113-0021 東京都文京区本駒込3丁目19−17
諏訪山 吉祥寺

https://goo.gl/maps/SrfSwAvEtAEBmhsx8


造船の神様
平賀譲

平賀 譲(ひらが ゆずる)
1878年(明治11年)3月8日 – 1943年(昭和18年)2月17日[1])
海軍造船中将 従三位 勲一等 男爵 工学博士。東京帝大総長。従三位勲一等男爵。
父、平賀百左ヱ門は海軍主計官。兄、平賀徳太郎は海軍少将。

平賀譲は、兄同様に海軍兵学校を目指すも、体格検査で落第。第一高等学校工科に入学。
そして、東京帝国大学工科大学に進学し造船学科を専攻し首席で卒業。
海軍造船学生となり、明治34年に海軍造船中技士(後の海軍造船・造機中尉)となる。
横須賀海軍造船廠を経て呉海軍工廠造船部々員に着任。

明治38年(1905)、イギリス駐在。グリニッジ王立海軍大学造船科修学。
明治42年(1909)、帰国し海軍艦政本部々員、東京帝国大学工科大学講師を務める。
明治45年(1912)、横須賀海軍工廠にて、製図工場長、新造主任。戦艦「山城」、巡洋戦艦「比叡」、二等駆逐艦「樺」を担当し造船工場棟兼任となる。
大正5年(1916)、海軍技術本部第四部に勤務、八八艦隊主力艦の基本計画を担当。
大正7年(1918)、東京帝国大学工科大学教授兼任。

大正9年(1920)、海軍艦政本部再編、海軍艦政本部第四部長に山本開蔵就任に伴い、計画主任に就任。
海軍艦政本部で艦艇設計に従事し、戦艦紀伊型(戦艦陸奥・長門)、重巡洋艦古鷹型、妙高型、軽巡洋艦夕張、川内型、駆逐艦神風型、若竹型を設計。特に妙高型重巡洋艦などの画期的な重武装艦を設計する。

大正12年(1923)、欧州出張。ワシントン条約下の列強建艦状況調査し、翌年帰国。
大正14年(1925)6月、海軍技術研究所造船研究部長に就任。12月に海軍技術研究所所長兼造船研究部長に就任。
大正15年(1926)、海軍造船中将に昇進。
昭和6年(1931)、予備役。
昭和9年(1934)、友鶴事件「臨時艦艇性能調査会」事務嘱託。
昭和10年(1935)、海軍艦政本部の造船業務嘱託。大和設計にも影響を及ぼす。同年に発生した第四艦隊事件の「臨時艦艇性能改善調査委員会」で海軍艦政本部嘱託。
昭和13年(1938)、東京帝国大学十三代総長就任。翌年、「平賀粛学」を断行し教授等13名を追放。また、工学者や技術者を養成するために、平賀譲の発案によって東京帝国大学第二工学部の設置も進めた。平賀譲は興亜工業大学(現・千葉工業大学)の創立を支援している。

昭和18年(1943)2月17日、総長現役のまま64歳にて死去。東京大学医学部に脳保存されている。
昭和18年(1943)2月23日、東京帝国大学の安田講堂に大学葬を挙行され、墓所は多磨霊園にある。


平賀譲墓(平賀譲先生墓

平賀譲の墓は、多磨霊園にある。墓所は23区1種2側。

平賀譲先生墓
(裏面 昭和三十一年十一月建之 平賀譲先生をしのぶ會)

平賀譲先生頌徳碑

場所

https://goo.gl/maps/ysq5ycU3CsRjof5XA


多磨霊園には、牧野茂 の墓もある。せっかくなので付記として。

平賀譲の高弟・戦艦大和の設計主任
牧野茂

牧野 茂(まきの しげる)
1902年(明治35年)8月9日 – 1996年(平成8年)8月30日)
日本海軍技術将校。最終階級は海軍技術大佐。
牧野茂は、師匠であった平賀譲と同じ多磨霊園に眠っている。

1936年(昭和11年)〜1941年(昭和16年) 、呉海軍工廠造船部設計主任。大和設計主任として大和建造に携わる。
1945年(昭和20年) 終戦。海軍技術大佐、海軍艦政本部第4部設計主任。
1955年(昭和30年) 海上保安庁灯台補給船『宗谷』の南極観測船への改造設計に携わる。
1996年(平成8年) 没。享年94歳。

牧野茂墓

牧野

1902.2.9~1996.8.30

1907.4.15~2009.5.13

場所

https://goo.gl/maps/RHvfWPcvbWcJSUrw7

※赤松則良墓は2021年撮影、平賀譲墓と牧野茂墓は2016年撮影。


関連

海軍技術研究所と陸軍目黒火薬製造所跡(目黒区)

JR恵比寿駅と東急中目黒駅、目黒川のほど近くには、かつて陸軍火薬製造所、そして海軍技術研究所があった。


陸軍目黒火薬製造所

幕末に江戸幕府は千駄ヶ谷にあった焔硝蔵(火薬庫)を目黒に移転させ、「目黒砲薬製造所」が設置されたことから、目黒は火薬と密接な関係となる。

明治政府は、旧幕府の「目黒砲薬製造所跡地」に新たに「目黒火薬製造所」を設置。明治18年に操業開始。当初は海軍省の管轄であった。
明治26年、海軍省から陸軍の東京砲兵工廠に移管。
「目黒火薬製造所」は日清戦争・日露戦争での火薬需要とともに発展。

昭和3年(1928)、周辺地域の開発が進むにつれて、都市化された目黒で火薬製造を続けることが危険な状態となったために、火薬製造所を群馬県岩鼻に移転。幕末から続いた目黒での火薬製造の歴史は終焉した。

海軍技術研究所

海軍技術研究所は海軍艦政本部隷下として海軍の先進研究を行っていた機関。
大正12年(1923)に築地で設立。
昭和2年(1927)、築地の研究機関に東京中央市場(築地市場)が建設されることに決まったために、陸軍目黒火薬製造所の跡地に移転を決め、昭和5年(1930)に移転完了。
陸軍目黒火薬製造所から海軍技術研究所へと、目黒のこの地は生まれ変わった。

海軍技術研究所 大水槽

昭和2年(1927)に築地から目黒に移転が決まった海軍技術研究所。
「大水槽」「高速水槽」、ふたつの水槽棟は移転完了の昭和5年に完成。

平賀譲 海軍造船中将

大正時代から昭和初期にかけて海軍艦政本部で艦艇設計に従事した平賀譲は、大正14年から「海軍技術研究所所長」の立場にあり、目黒に海軍技術研究所が移転した際の所長でもあった。平賀譲は昭和6年に退任し予備役となっている。

昭和10年から、海軍艦政本部の造船業務嘱託として戦艦大和の設計に携わる。
海軍技術研究所の大水槽は、戦艦大和の設計の際にも活用された水槽という。

防衛省 目黒地区

海軍技術研究所は昭和20年11月30日、海軍省廃止とともに解体。
占領期間を経て、現在は防衛省目黒地区として活用されている。

  • 防衛省 統合幕僚学校
  • 防衛装備庁 艦艇装備研究所
  • 陸上自衛隊 目黒駐屯地
  • 海上自衛隊幹部学校
  • 航空自衛隊幹部学校

敷地内には、「海軍技術研究所本館」も近年まで残っていたが目黒地区の再整理に伴い、既に解体済み。

そういえば、学生時代に、当時はまだ目黒にあった「防衛研究所史料閲覧室」に卒論のために通ったことを思い出した。防衛研究所史料閲覧室は市ヶ谷に移転。そして目黒地区の北半分は売却された。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M1121-A-39
1948年07月26日、米軍撮影の航空写真を一部加工。

大水槽の北西には「海軍技術研究所本館」

航空写真には残っている「海軍技術研究所本館」は近年取り壊された。

恵比寿ガーデンプレイスタワーの最上階の展望スペースから、遠望できました。

※2023年9月撮影


海軍技術研究所跡地散策

現在は、艦艇装備研究所。
もちろん立入禁止のため、外周から。

大水槽は2つ並んでいる。

大水槽の隣の小屋も当時からのものと思われる。

大水槽

防衛装備庁
艦艇装備研究所

新しい正門。

統合幕僚学校
陸上自衛隊教育訓練研究本部
海上自衛隊幹部学校
航空自衛隊幹部学校

かつての正門。北側は敷地売却された。

場所

https://goo.gl/maps/KiQ2iLaT8hL9kMrB7


東京海軍共済総合病院(東京共済病院)

海軍技術研究所の隣りにあったのが東京海軍共済総合病院。現在の東京共済病院。
昭和5年(1930)9月、東京海軍共済組合病院として開設したことにはじまる。

場所

https://goo.gl/maps/YKvvYeC1uadZ9ptk6


陸軍目黒火薬製造所跡地散策

海軍技術研究所の前身は、陸軍目黒火薬製造所であった。

当時をものがたるものとして、陸軍標石(陸軍境界標石)が2基残っている。

小さな階段の途中に標石があった。
撤去をせずに、このまま階段を作るという心意気が素晴らしい。

もうひとつは、駐車場の片隅に。

陸軍用地
238

場所(この周辺)

https://goo.gl/maps/kBpa3yFqfy5zb5ZZA


奥沢海軍村跡(世田谷区)

東急線の自由が丘駅と奥沢駅の周辺。高級住宅地エリアであるこの界隈は、かつて「海軍村」であった。


奥沢海軍村

大正12年(1923)に発生した関東大震災後、将校居住地が都心部に集中するのは危険であり、郊外に住んだほうが安全だということもあって、郊外への海軍将校の移住が進んだ。

大正13年、海軍士官の親睦団体「水交社」に事務所を置く「水交住宅組合」の斡旋によって、住宅地として整備された奥沢2丁目界隈。
この地は、北に向かえば「霞が関の海軍省」、南に向かえば横浜を経て「横須賀の軍港」となり、また「目黒の海軍大学校・海軍技術研究所」にも近かったということと、まだ開発が進んでいなかったために土地の価格も手頃であったということもあって、多くの海軍士官たちが居住することとなり、気がつけば海軍将校の邸宅が30軒ほど集まったことから「海軍村」と呼ばれるようになった。

奥沢海軍村跡は、今も当時の面影を残す建物が3軒残っており、ポーチ上の玄関やシュロの古木等が残っている。

海軍村跡

地域風景資産
奥沢海軍村
ゆかりの風景
海軍士官の子孫やその後に住み着いた人々により、緑豊かな町並みが残る。
ポーチ付の玄関やシュロの古木等に、当時の面影を垣間見ることができる。

地域風景遺産
大ケヤキのある散歩道‐けやき道
この界わいは、大正13年に海軍士官の住宅地として開発された。海軍村と呼ばれ、街のみどりは洋風住宅が多くあった当時の面影を感じさせる。

「シュロ」(棕櫚)の古木。

海軍村当時の住宅は3軒残っている。

場所

https://goo.gl/maps/MBhYkPKDDbjX1tvk6


関連

https://www.city.setagaya.lg.jp/mokuji/sumai/005/002/d00038440.html

https://okusawa.garden/%e5%9c%b0%e5%9f%9f%e9%a2%a8%e6%99%af%e8%b3%87%e7%94%a3/

https://okusawa.garden/ht/%e6%b5%b7%e8%bb%8d%e6%9d%91%e4%bd%8f%e5%ae%85%e9%85%8d%e7%bd%ae%e5%9b%b3%ef%bc%88%e6%98%ad%e5%92%8c11%e5%b9%b4%e9%a0%83%ef%bc%89/

「日本初の零戦復元機」零式艦上戦闘機52型甲(空自浜松広報館エアパーク)【浜松2】

航空自衛隊の広報施設である浜松広報館「エアパーク」。
ここには空自の退役機に混じって、零戦が展示されている。

展示場所が移設されます(2024年6月24日~)


零式艦上戦闘機五二型甲 A6M5
43-188号機

日本への里帰り第1号機の零戦。

昭和19年3月、三菱名古屋工場製造機。
所属は、第三四三海軍航空隊(1944年1月に開隊した初代、通称隼部隊)。
昭和19年6月〜7月にかけてのマリアナ諸島攻防戦で、米軍との戦闘や米軍機の空襲などにより壊滅し、7月10日に解隊。
浜松基地浜松広報館に保存されている零戦は、第三四三海軍航空隊の飛行隊長・尾崎伸也大尉(海兵68期)が昭和19年6月19日に米軍と交戦し被弾し不時着し放棄された機体。尾崎伸也大尉は戦死されている。
海兵68期の尾崎伸也大尉の同期には、作家・豊田穣、撃墜王・鴛淵孝、九軍人の広尾彰、海軍中将松永貞市の息子・松永市郎、捕虜第一号となった酒巻和男など。
第三四三海軍航空隊は、昭和19年12月に再編(二代目)される、これが通称「剣部隊」として紫電改を用いて有名となった航空隊。

昭和39年1月に日本に里帰り。

零戦52型
零戦52型は1943年8月初飛行し、太平洋戦争後半の日本海軍の主力戦闘機として活躍した機体である。この機体には甲、乙、丙の3種の型があり、零戦総生産数約1万機のうち、4種あわせた52型シリーズは約6,000機が生産された。

性能
全幅 11m
全長 9.1m
全高 3.5m
全備重量 2,733kg
エンジン 栄21型 最大出力1,100馬力x1基
最大速度 565km/h
実用上昇限度 11,740m
航続距離 1,920km
乗員 1名
搭載武装 7.7mm固定銃x2門 99式20mm固定銃x2門

零式艦上戦闘機(零戦)の展示経緯
昭和38年4月  本展示機がグアム島で発見される。
同   7月  グアム島知事から日本への返還が決まる。
昭和39年1月  米軍C-130輸送機により岐阜基地へ搬送。
       本機の製造元である三菱重工業大江工場にて忠実な復元作業を実施。
同   10月 我が国で最初の零戦復元機が完成。
(その後、全国各地において展示されたため期待の損傷がひどくその管理が必要とされた。)
昭和42年11月 航空自衛隊の航空機整備のメッカ(航空機の整備学校が所在)である浜松基地に移送され
       その後浜松基地におきて展示・管理された。
平成11年4月  航空自衛隊浜松広報館開設に伴い、当館において展示される。

国内で吊り下げ展示されている唯一の零戦。

航空自衛隊浜松広報館

浜松陸軍飛行場

「浜松陸軍飛行場」は、浜松陸軍飛行学校と飛行第7聯隊があった。
現在は、航空自衛隊浜松基地。

広報館とは別に、浜松基地内にある「浜松基地資料館」にも行きたいんですけどねええ。。
基地内には「陸軍爆撃隊発祥之地」碑もある。

空自関係の展示多数。

※撮影は2020年11月


https://www.mod.go.jp/asdf/airpark/


浜松には陸軍の施設が集中していた。戦跡もちらほら残っている。
そんな散策の記録は別途で。

瓜生外吉海軍大将之像と瓜生外吉墓(小田原と南青山)

小田原に、海軍大将 瓜生外吉 が晩年に隠棲した邸宅があった。


瓜生外吉(うりゅう そときち)

安政4年1月2日(1857年1月27日) – 昭和12年(1937年)11月11日)
大日本帝国の海軍軍人。海軍大将。加賀藩支藩の大聖寺藩(石川県)の出身。

海軍兵学校は卒業していないがアナポリス海軍兵学校に留学をしており明治海軍有数のアメリカ通。
瓜生外吉夫人の瓜生繁子は三井物産の益田孝の実妹。明治新政府の第一回海外女子留学生(日本初の女子留学生)として渡米し10年間のアメリカ経験あり。三井物産初代社長の益田孝は義理の兄となる。
そして、「東洋のセシル・ローズ」と称された衆議院議員・森恪は女婿(瓜生栄枝・瓜生外吉の三女)となる。

明治33年(1900)、海軍少将・軍令部第1局長。
明治37年(1904)2月4日、日露戦争開戦。第四戦隊司令官として参加。
開戦直後の明治37年2月9日、瓜生外吉率いる第四戦隊(旗艦・巡洋艦浪速、高千穂、明石、新高に、臨時で装甲巡洋艦浅間と第九艇隊および第十四艇隊の水雷艇8隻)は、仁川のロシア海軍・防護巡洋艦「ヴァリャーグ」と航洋砲艦「コレーエツ」を、日露戦争の口火を切った「仁川沖海戦」で撃破。瓜生外吉率いる第四戦隊が初戦の勝利を飾る。

日露戦争後、佐世保鎮守府長官・横須賀鎮守府長官を歴任。
大正元年(1912年)10月16日、海軍大将に昇級。薩摩出身者以外では2番目の海軍大将であった。
ちなみに、薩摩閥以外での1番目の海軍大将は会津白虎隊出身の出羽重遠(日露戦争では第三戦隊司令官)。出羽重遠は明治時代で唯一の薩摩閥外の海軍大将。とはいっても明治45年(1912)7月9日に海軍大将となっているので、瓜生外吉の3ヶ月前。
大正2年(1913年)、予備役に編入。

瓜生外吉は義兄である三井物産創始者・益田孝の勧めで、海軍退役後の大正2年に、小田原天神山に隠棲の別荘を設けて移り住んだ。
大正11年に体調を悪くし、小田原で療養中に大正12年の関東大震災に遭遇。一度、都内に転地療養し全快。
大正14年以降、再び小田原別邸に移住。
瓜生邸付近の道路が狭隘で、その上石段があるため、自動車の通行が不可能であったため、義兄・益田孝の経済的な援助と、海軍部員の奉仕によって工事が施行され、完成後に「瓜生坂」と呼ばれるようになった。
瓜生外吉は小田原を愛し、地元海軍部員はもとより、地域の人々とも交流が深かったという。(死後に地域の人々により記念の胸像が建立された)
昭和12年11月11日、81歳の天寿を全うした。正二位勲一等旭日桐花大授章が追贈。


瓜生海軍大将之像

作者は、北村四海。大正6年(1917)の作。
瓜生外吉没後、小田原町第十六区民・山角町青年誠友会員により、昭和14年(1939)5月27日、山角天神社の石段中途左に「瓜生海軍大将之像」が東京の瓜生邸から山角天神社へ移築され建立された。

瓜生海軍大将之像

昭和14年5月27日
小田原町第十六区民 
山角町青年誠友会員 建設

瓜生外吉海軍大将之像
Statue of Admiral Baron Sotokichi Uriu, I.J.H.
 瓜生外吉(1857‐1937年)は、米アナポリス海軍兵学校を卒業。
 日露戦争(1904‐1905年)の仁川沖、蔚山沖、日本海の各海戦で活躍し、1912年に海軍大将に昇進しました。
 後年は夫人繁子(日本初の女子留学生)とともに対米民間外交、親善に尽力しました。
 ここから」西に200mほどの高台に別荘を設けた外吉は、誠実な人柄が市民に敬愛され、海を眺めての小田原の生活をこよなく愛しました。

小田原の海を望む。

坂に名を残した人・瓜生外吉(海軍大将・男爵)

山角天神社


瓜生坂

すみません、写真を取りそこねております。
Googleストリートビューのキャプチャを暫定で掲載しておきます。。。

瓜生坂は、海軍を退役後に小田原天神山の別荘に移り住み、入退院を繰り返していた瓜生外吉を車で移動できるようにするため、義兄の益田孝の援助と、交流のあった海軍関係者が奉仕活動で造った坂。

https://www.kanaloco.jp/news/social/entry-110665.html


場所は変わって。。。東京の青山霊園

瓜生外吉の墓

場所は、1種イ22号5側。訪れたときは、ちょうど薔薇の花が賑わっていました。

海軍大将正二位
勲一等功二級男爵
瓜生外吉墓

隣には瓜生夫人の墓も。

従五位 瓜生繁子之墓

瓜生外吉の長男、瓜生武雄は、明治41(1908)年4月30日の松島爆沈事故で殉職している。

海軍少尉従五位瓜生武雄墓

明治41年4月30日軍艦松島
馬公港爆裂之際殉難齒廿三


森恪の墓(もり かく/もり つとむ)

青山霊園には、森恪の墓もありました。瓜生外吉の女婿(瓜生栄枝・瓜生外吉の三女)。
青山霊園内を散策していたら、たまたま見つけましたので参詣。
ちょっと墓地が荒れていました。。。
場所は、1種ロ8号1側。


小田原の瓜生海軍大将之像から、東にちょっと行った所に、対潮閣跡がある。
海軍史としては、秋山真之終焉の地。瓜生外吉とは日露戦争の縁もあり、ここに付記する。

対潮閣(山下亀三郎別邸)《秋山真之終焉の地》

山下亀三郎は、山下汽船(現・商船三井)の創業者。
現在は、邸宅は残っておらず、個人宅・私邸が分割されている。
対潮閣の正面玄関があった場所に、説明の看板がある。

対潮閣(山下亀三郎別邸)跡(秋山真之終焉の地) 
 明治時代から、小田原には、伊藤博文、山縣有朋、益田孝(鈍翁)、田中光顕、北原白秋など多くの政財界人や文人が居を構えたり、訪れたりしていた。
 山下汽船(現・商船三井)の創業者山下亀三郎(1867~1944)の別邸「対潮閣」の正面入口がこの辺りにあった。
 対潮閣には、山下と愛媛の同郷であった海軍中将秋山真之(1868~1918)がたびたび訪れ、山縣の別邸「古稀庵」(現・あいおいニッセイ同和損保小田原研修所)を訪ね「国防論」について相談していたが、患っていた盲腸炎が悪化し、大正7(1918)年2月4日未明に対潮閣内で亡くなった(享年49歳)。

 正面の巨石は、対潮閣にあったもので、梵鐘を抜いた形の空洞があるので「釣鐘石」といわれている。
 左手前の石碑には、田中光顕がこの石を賞して詠んだ和歌が彫られている。

碑文
「うちたたく 人ありてこ曾(そ) よの中に な里(り)もわたらね つりが年(ね)の石 光顕」

田中光顕歌碑

うちたたく 人ありてこ曽 よの中に な里もわたらめ つりが年の石 光顕

 釣鐘石

山下亀三郎別邸の上段は清閑亭。

清閑亭(旧・黒田長成邸)

対潮閣の隣にあるのが清閑亭。
秋山真之も最後のときに、同じように相模灘の小田原の海を眺めていたかもしれない。

瓜生外吉から、神奈川の小田原から東京の青山霊園から、小田原の秋山真之へと、話が散らかりました。


小田原散策で、瓜生外吉と出会って、あまり知ることなかった瓜生提督のことを深堀りできたのが、良き記録となりました。


駆逐艦五月雨戦没者慰霊之碑(小田原)

JR早川駅から見える大きな白い観音様。
「魚藍観音」
小田原市早川の東善院に、駆逐艦五月雨の慰霊碑があるというので足を運んでみた。


駆逐艦五月雨戦没者慰霊之碑

小田原市早川鎮座の東善院、魚藍観音の後方の墓地の最上段に、「駆逐艦五月雨の慰霊碑」はあった。

駆逐艦五月雨慰霊碑がこの地に建立された理由は、五月雨の元乗組員で組織された「五月雨会」のメンバーに小田原出身者がいたことによるという。相模湾を望むこの地から、五月雨の慰霊碑は生まれ故郷(建造ドック)のある浦賀に向け建てられているという。

駆逐艦五月雨戦没者慰霊之碑
昭和57年8月 戦友並ニ遺族 建之

慰霊碑の下部には戦没者の名前が刻まれている。
昭和17年10月14日 10名 (ガダルカナル島の戦い)
昭和18年11月2日  6名 (ブーゲンビル島沖海戦)
昭和19年8月26日  9名 (パラオ・ガルワングル環礁)

駆逐艦五月雨

白露型駆逐艦の6番艦。
浦賀船渠で建造され、昭和12年(1937年)就役。
昭和16年12月8日の太平洋戦争開戦時は、白露型4隻(村雨・五月雨・夕立・春雨)で第2駆逐隊を編成し、第四水雷戦隊(旗艦・那珂)に所属。南方作戦に従事。

昭和17年10月12日夕刻、第2駆逐隊3隻(五月雨・春雨・夕立)は輸送船4隻(吾妻山丸、南海丸、九州丸、佐渡丸)を護衛してラバウルを出撃。
10月14日、栗田健男中将指揮下の第三戦隊(金剛、榛名)によるガ島ヘンダーソン飛行場砲撃は成功するも、輸送船団は14日朝以降米軍機の空襲を受け、五月雨も被害を受け10名の犠牲者を出す。
その後も五月雨は、第三次ソロモン海戦、キスカ島撤退作戦などに参戦。

昭和18年11月2月、第27駆逐隊(時雨・白露・五月雨)はブーゲンビル島沖海戦に参加。五月雨は舵が故障した白露と衝突し、さらに米軍駆逐隊に追撃されて被弾し、6名の犠牲者を出すが、五月雨・白露とも離脱に成功。

昭和19年にはいり五月雨は中部太平洋諸島への船団護衛に従事。
昭和19年8月18日、軽巡鬼怒と第27駆逐隊(時雨・五月雨)で航行中に、五月雨はパラオ近海のガルワングル環礁で座礁。火災も発生し深刻な損傷を受けてしまう。B-24の爆撃に曝される中で、8月26日にアメリカの潜水艦バットフィッシュ (USS Batfish, SS/AGSS-310)が座礁中の五月雨を雷撃。魚雷は五月雨右舷中部に命中し、大破した船体は断裂し9名の犠牲者を出す。五月雨は放棄され五月雨艦長以下生存者は駆逐艦竹に救助された。

五月雨の生まれ故郷「浦賀」を望む。(魚藍大観音とともに)

五月雨慰霊碑の高台からは、小田原城も見える。

そして、五月雨慰霊碑の後方を東海道新幹線が走り抜ける。


魚藍大観音

大きな白い観音様は、魚を入れる籠(魚藍)を携えている。籠からは魚の尾びれが飛び出している。なかなか愛くるしい観音様。
昭和57年(1982年)に、海上安全・大漁祈願を目的として建立。
鉄筋コンクリート造りの全身像で総高13m。

魚籃観音
三十三観音の一つ。魚を入れたかごを手にさげている観音。大魚に乗っている像もある。羅刹(らせつ)・毒龍の害を除く功徳があるという。魚籃。

コトバンク 
https://kotobank.jp/word/%E9%AD%9A%E7%B1%83%E8%A6%B3%E9%9F%B3-480000

東善院

神奈川県小田原市早川482鎮座。真言宗東寺派。

JR早川駅からも、魚藍大観音のお姿は見える。


JR早川駅

JRの駅では日本一港に近い駅、らしい。小田原漁港の最寄駅。
1922年(大正11年)12月21日、開業。
1923年(大正12年)9月1日、関東大震災で駅舎倒壊。
現在の駅舎は関東大震災以降に再建されたであろう木造駅舎。昭和初期の佇まいを残す。


場所

https://goo.gl/maps/GrKN9roxnGSLM8C56


関連(五月雨の僚艦たち)

村雨

白露・時雨(第二十七駆逐隊慰霊碑)

佐世保海軍墓地

「45cm四四式二号魚雷」神山神社に残る国産初の魚雷(小田原)

小田原駅から北西に約2キロの地に鎮座している神社に「魚雷」があると聞き、足を運んでみた。
なんでも地元では「久野の爆弾神社」といわれているらしい。


45cm四四式二号魚雷

昭和2年に神山神社に下付された魚雷。
第24代横須賀鎮守府長官・安保清種まで魚雷提供の相談があったという。

日清・日露戦争時の帝国海軍は輸入魚雷に頼っていた。
日露戦争後、明治44年(1911)に国産化にはじめて成功した魚雷が「45cm四四式魚雷」。
この四四式魚雷が帝国海軍の魚雷技術発展の礎となり、世界で唯一実用化に成功した酸素魚雷を生み出すこととなる。

由来(郷社神山神社の魚雷について)
「戦時下の小田原地方を記録する会」の調査によると、神社関係者が戦前旧日本海軍から譲り受けたとみられる。
防衛省防衛研究図書館所蔵の「廃兵器無償下附の件」と題する文章によると、1927年8月1日で同神社の関係者から旧日本海軍の横須賀鎮守府長官迄に魚雷提供の要請があり、同9月に許可が下りる。陸軍大臣にも同様の要請を行い、魚雷、砲弾が送られる。戦後、魚雷1基と砲弾2発は慰霊碑とともに残されたが砲弾は火薬が残存する疑いがあり、2003年に撤去する。
海上自衛隊による魚雷調査結果は、全長5.2メートル直径45センチメートル、明治44年制式と推定された。

 久野氏子の皆様に恒久の平和を願うものです

思った以上に、しっかりとした魚雷。

細部を観察。

ネジ穴が海中の抵抗を考慮し、涙滴型となっている。

内部に木材が使われていました。

当時、最新のテクノロジーで作られたであろう機器が露出。

シャフト部分

横舵と縦舵と推進プロペラ

これは貴重な戦跡、戦争遺産。一見の価値ありです。


魚雷の後方に並んでいる3つの慰霊碑。

忠魂碑

忠魂碑
陸軍大将正三位勲一等功三級男爵 奥保鞏 書

明治三七八年戦役戦没者

日露戦争の慰霊碑。明治39年建立。
日露戦争における戦没者17柱の慰霊顕彰。

二七八役戦歿者碑

陸軍歩兵大佐従五位勲三等功四級 隠岐重筋 書
明治31年3月建立。日清戦争の慰霊碑。
日清戦争における戦没者2柱の慰霊顕彰

忠霊塔

忠霊塔
靖国神社宮司 筑波 藤麿 書

昭和32年3月建立。
大東亜戦争における戦没者110柱の慰霊顕彰。

砲弾が置かれていたであろう場所。


神山神社(こうやま神社)

神奈川県小田原市久野に鎮座。明治社格は郷社。

神山神社
 神山神社の祭神は天照大神、伊弉諾命、伊弉冉命で、第六十六代一条天皇の永延2年(988)に創建されたといわれています。
 かつて神山神社は、久野坊所村山中に在社していましたが、兵火により焼け落ち、その時社殿から御幣が舞い上がり、松田の神山と現在地に落ちた。また、権現再興のために牛に乗せ山道を降りて来た時、現在地にて牛が動かなくなったため、この地を霊地として御魂を移した、などと言い伝えられています。
 応永23年(1416)、上杉禅秀の乱により、それまでの社殿や宝物などが焼失しましたが、大栄永4年(1524)神山権現を信仰した北条氏綱により社殿が改修されました。
 天正18年(1590)、小田原合戦の際に、神主の窪倉中務正広は、戦火を逃れるために神社の宝物類を携えて逃げる途中に亡くなったため、神社はこれまでの繁栄を失ったといわれています。
 小田原合戦前は近隣の村々18箇所の総鎮守でしたが、江戸時代後期には久野・池上・荻窪の3箇所の、そして現在は久野地区及び水之尾地区の一部の総鎮守となっています。例祭日は10月吉日です。

場所

https://goo.gl/maps/d591NSrv74k3NsiX7


関連記事

https://www.kanaloco.jp/news/social/entry-118483.html

https://www.kanaloco.jp/news/social/entry-105900.html

https://www.townnews.co.jp/0607/2014/09/20/252243.html

海軍艦政本部・大阪倉庫跡

海軍艦政本部は、海軍大臣に隷属し、造艦・造兵・造機に係わる事務を司った海軍省外局のひとつ。
艦本式ボイラーや艦本式タービンなどの開発などで、略称「艦本」は一部では著名。

大阪大正区の南恩加島・木津川の河口付近に、海軍艦政本部の大阪倉庫の遺構があるというので足を運んでみた。


海軍艦政本部大阪倉庫
(現在の木津川倉庫株式会社)

現在の木津川倉庫株式会社の敷地が、当時の海軍艦政本部・大阪倉庫。
当時は海軍資材の倉庫として使用されていた地は、現在は保税倉庫や食糧倉庫として使用されている。木津川倉庫株式会社の創業は昭和27年。
昭和27年4月1日に、木津川倉庫株式会社は国有資産であった海軍艦政本部木津川倉庫を借用して、倉庫業を営む目的で設立されたことにはじまる。同年12月11日に払い下げ。

海軍艦政本部大阪倉庫
正門跡

正門の門柱は当時のまま残されていた。

スクラッチタイルが施されたモダンな意匠を下部に見ることができる。

門柱の上部にもタイルが施されていたが、上部はすべて撤去済。
数年前までは、残っていた。

門札の跡も。

外壁もそのまま残っている。

搬入門周辺はリニューアルされている。
こちらも数年前までは門柱が残っていたが撤去済み。

海軍艦政本部大阪倉庫
外壁

外壁もほぼ当時のまま使用されているが、ところどころに亀裂の補修なども見られる。

北側の搬入口。

海軍艦政本部大阪倉庫
当時の倉庫2棟
(現在の木津川倉庫株式会社)

木津川倉庫株式会社の第1号倉庫と第2号倉庫が、当時の海軍時代からの倉庫。
現在は、低温倉庫として使用されている。
数年前までは4棟あったというが、北側の2棟は取り壊され、現在は南側の2棟のみが残されている。


千本松渡船

すぐ近くの「千本松渡船」も楽しいので、散策時は一緒に巡るのがおすすめ。藤永田造船所跡地を遠望することもできます。

※2021年4月撮影


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-R462-83
1948年11月22日、米軍撮影の航空写真を一部加工。

木津川の河口にはいくつかの造船所が集まっていた。

海軍艦政本部大阪倉庫の4棟の倉庫がわかる。

現在は、南側の2棟を確認できる。敷地は当時のまま。

https://goo.gl/maps/itVoJzXiz3o8fhfx6


関連

「駆逐艦のふるさと」藤永田造船所跡地(大阪)

大阪市内にあった民間の造船所。
日本最古の造船所とも言われ、また多くの駆逐艦を製造し、「西の藤永田、東の浦賀」とも称されていた。

そんな、大日本帝国海軍駆逐艦のふるさとである藤永田造船所跡地を散策してみた。


藤永田造船所

1689年(元禄2年)、大阪堂島船大工町に船小屋「兵庫屋」として創業したことに始まる。
開国後に、西洋式船舶の建造に取り組み、近代的造船所となる。
明治7年(1874)に「藤永田造船所」に社名変更。

大正8年(1919)に海軍指定工場となり、駆逐艦「藤」(樅型駆逐艦13番艦)を受注。
太平洋戦争に際しては、駆逐艦の増産に努め、昭和19年(1944)1月に軍需工場に指定。大阪では、大阪陸軍造兵廠、住友金属工業に次ぐ三番目の従業員規模であった。

藤永田造船所で造られた艦艇

駆逐艦
樅型
  藤(樅型13番艦)
  蕨(樅型20番艦)
  蓼(樅型21番艦)
若竹型
  芙蓉(若竹型7番艦)
  刈萱(若竹型8番艦)
睦月型
  皐月(睦月型5番艦)
  文月(睦月型7番艦)
  夕月(睦月型12番艦)
吹雪型(特型)
  叢雲(吹雪型5番艦)
  白雲(吹雪型8番艦)
  綾波(吹雪型11番艦)
特Ⅱ型
  曙(吹雪型18番艦・特Ⅱ型8番艦)
特Ⅲ型
  電(吹雪型24番艦・特Ⅲ型4番艦)
白露型
  村雨(白露型3番艦)
  江風(白露型9番艦・海風型(改白露型)3番艦)
朝潮型
  満潮(朝潮型3番艦)
  山雲(朝潮型6番艦)
  峯雲(朝潮型8番艦)
陽炎型
  黒潮(陽炎型3番艦)
  夏潮(陽炎型6番艦)
  浦風(陽炎型11番艦)
  谷風(陽炎型14番艦)
  舞風(陽炎型18番艦)
夕雲型
  巻雲(夕雲型2番艦)
  長波(夕雲型4番艦)
  大波(夕雲型7番艦)
  玉波(夕雲型9番艦)
  藤波(夕雲型11番艦)
  朝霜(夕雲型16番艦)
  秋霜(夕雲型18番艦)
松/橘型
  梅(松型3番艦)
  桑(松型5番艦)
  杉(松型7番艦)
  樫(松型10番艦)
  楢(松型12番艦)
  柳(松型14番艦)
  樺(松型31番艦・橘型/改松型)
  桂(未成)
砲艦
  二見・伏見・隅田
千鳥型水雷艇
  真鶴・初雁
第二号型(丁型)海防艦
  第36号・第40号・第48号・第58号(未成)
掃海艇
 第一三号型
  第13号・第15号
 第一九号型
  第38号・第41号

藤永田造船所跡地

現在、跡地には「藤永田造船所跡地」の石碑が残る。
平成11年8月建立。

戦後は、漁船建造から再出発。貨物線やLPG船なども建造。
昭和42年(1967)に三井造船に吸収合併。現在工場敷地は再開発されており、当時の面影を残すものはほとんど残されていない。
グーグルストリートビューでは、2020年7月では三井造船マシナリー・サービス内に往時の建物が残されているのが確認できたが、2021年4月の現地訪問で更地を確認し、往時のすべての建物の消失を確認。

最後まで残されていた建物の記録は、盡忠報國様の「大日本者神國也」ブログに詳しい。

http://shinkokunippon.blog122.fc2.com/blog-entry-1573.html

場所

https://goo.gl/maps/2uJa2CQtNahVjfTA8


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M18-1-144
1948年2月20日、米軍撮影の航空写真を一部加工。

Google航空写真

ファイル:USA-M18-1-144

ファイル:USA-R462-83を一部加工。1948年11月22日、米軍撮影。


藤永田造船所跡地散策

数年前まで、三井造船マシナリー・サービスのあった土地は更地に。

更地になって、新木津川大橋がよく見える。。。

新木津川大橋

徒歩で渡ってみました。
正直言って、徒歩横断はおすすめしません。むちゃくちゃ怖かったです。(高所恐怖症的に)
渡り終えるまでに時間は約30分要しました。

新木津川大橋は1994年に完成。中央部の橋長は495m、それなのに、総延長は2.4km。これは3重ループで高さを稼いだためそのため、橋の高さは水面上50mもある。
アーチ橋として完成時は日本最長であった。

橋を渡った理由は、藤永田造船所跡地を上から見学するため、

ここに、藤永田造船所があった。

藤永田造船所のドック入口跡。この場所だけ凹んでいるのは、今は埋め立てられているがここにドックがあった名残。

橋に近い右側の護岸は往時の名残かもしれない。
左側の護岸は最近補強された模様。

藤永田造船所のドック時代の護岸か?

藤永田造船所跡を、新木津川大橋から。

藤永田造船所のドック入口跡の凹みがわかる。

ちなみに、新木津川大橋を徒歩で横断する場合、この3重ループが目が回りそうで辛い。
ここを二度と歩くことはないだろう。

新木津川大橋から木津川を眺める。
藤永田造船所は木津川の両岸にあった。右側が本社工場。左側が船町工場。

藤永田造船所船町工場があった場所。

新木津川大橋の3重ループの場所も、藤永田造船所船町工場があった場所であった。


新木津川大橋の3重ループの地上入口あたり。
大阪にあった知られざる飛行場の跡地。

木津川飛行場跡

木津川飛行場
 わが国の近代航空技術は大正7年(1918年)頃から急速に開発が進み、あわせて飛行場も必要になってきました。大正11年(1922年)からは空の定期貨物輸送も始まり、大阪から東京、徳島、高松、別府などへの路線が次々と開設されましたが、当時はまだ木津川河口や堺の水上飛行場を利用していました。木津川河口に陸上飛行場が構想されたのは大正12年(1923年)頃からです。昭和2年(1927年)に着工し、昭和4年(1929年)には未完成のまま、東京・大阪・福岡間に1日1往復の定期旅客便が就航しました。しかし、市街地からの交通の便が悪く、地盤不良で雨天時の離着陸も困難であった為、昭和9年(1934年)の八尾空港、昭和14年(1939年)の伊丹空港完成により、その役割を終え、昭和14年(1939年)には閉鎖されました。
 大阪市教育委員会

ちなみに、木津川飛行場をしめす地図にも藤永田造船所の記載があった。

流石に往時を物語るものはない。

滑走路のあった場所、新木津川大橋から望んでみる。

新木津川大橋の3重ループ。圧巻。

工場地帯を歩く人は、いない。


千本松渡船場から、新木津川大橋と藤永田造船所跡地を望む。

藤永田造船所のドックがあった凹みの部分の護岸がわかる。

既に往時を物語るものがほとんど残されていない藤永田造船所跡地。
この地で生まれた多くの駆逐艦たちとともに、想い出の地となっていた。

※2021年4月撮影


関連

海軍大和田通信隊跡地散策(新座市・清瀬市・東久留米市)

埼玉県新座市西堀、東京都清瀬市清戸、東久留米市上の原にかけて、かつて大日本帝国海軍の通信施設があった。
内陸県・海なし県「埼玉」にある、貴重な海軍戦跡。


海軍大和田通信隊

日本海軍の無線電信は、霞が関の海軍省内に設けられていた「東京無線電信所」を中心におこなれていたが、無線は同時交信を行うことから「送信所」と「受信所」を分離設置する必要があった。
 「東京海軍無線電信所」      中央管制と受信
 「東京海軍無線電信所船橋送信所」 送信設備
昭和9年(1934)に、「海軍東京無線電信所」の附属機関として無線傍受を専門とする「海軍東京無線電信所大和田受信所」の設置が決定。
「大和田受信所」は昭和11年に開設され昭和12年(1937)から本格稼働を開始。
また、昭和9年6月には、海軍通信隊令が施行。海軍無線電信所は海軍通信隊となり、「大和田受信所」は、「東京通信隊大和田分遺隊受信所」となっている。
昭和16年(1941)、太平洋戦争開戦時に「東京通信隊」から独立した「大和田通信隊」となり、傍受を掌る通信隊として海外無線の傍受を行い、副受信所では、方位測定を掌る大和田通信隊分遺隊が展開された。
アンテナ群は東西1キロ、南北2キロ以上の広範囲に設置。受信機は主に現在の新座市に置かれていた。
この地域に受信設備が置かれた理由は、武蔵野台地の中心に位置しており、周辺には電波障害の要因となる鉄道。幹線道路・民家なども少ない環境であったためという。

「大和田通信隊」での受信実績(傍受実績)として、昭和16年12月8日の真珠湾攻撃成功を伝える電信「トラ・トラ・トラ」(モールス符号「・・―・・ ・・・」トラ連送)「ワレ奇襲ニ成功セリ」を受信。
米海軍が平文で打った「airraid on pearlharbor x this is not drill」(真珠湾が空襲を受けている。これは演習ではない)の電報も受信。
なお、真珠湾攻撃開始時の電信「ニイタカヤマノボレ1208」を送信したのは、「船橋送信所」。
また、終戦時の「ポツダム宣言」を受信したのも「大和田通信隊」。
戦争の最初と最後に「大和田通信隊」が絡んでいたのだ。

海軍予備学生達を主人公とした阿川弘之「暗い波濤」では、「大和田通信隊」の描写もある。阿川弘之自身も海軍予備学生として海軍に入隊し海軍少尉に任官し傍受諜報担当任務に携わっていた、という海軍経験を元に書かれた名作。

現在は、受信設備が置かれていた新座市には、「在日米軍大和田通信所」が引き続きアンテナ群を展開。
清瀬市にあった副受信所の一部は気象庁気象衛星センターとなっている。東久留米市域は東久留米団地として再開発されている。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:C59-C2-41
昭和18年(1943年)06月27日、日本陸軍撮影の航空写真を一部文字入れ加工。

この広大な敷地に、アンテナ群が点在していた。

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:X1-C2-82
19410625S16

「海軍用地」の境界標石が2基残っている。
農道の脇にあり、非常にわかりにくいので、大体の位置は下記を参照で。


海軍大和田通信隊跡地(新座市)
門柱跡

フェンスの向こう側、「在日米軍大和田通信所」管理地内に、一対の門柱が残っている。
米軍がこのような門柱を作るとも思えないため、旧海軍時代の名残と思われる。

場所

https://goo.gl/maps/2mpdJSp5ZrbCcxaJ8


海軍大和田通信隊跡地(清瀬市)
「海軍用地」境界標石

現在の米軍敷地の北西、農道と農地に囲まれた場所に、2基確認できる。

海軍用地

第十七號

周辺に目印はない。。。

1基目の東側の農道に。

海軍用 (海軍用地)

右側のフェンスは米軍敷地。

裏面は摩耗して判別不能。

この界隈は、米軍用地と国有地と農地が入り混じっている。


海軍大和田通信隊跡地(東久留米市)

東久留米上の原。当時を偲ぶものは格別には残されていないが、「海軍大和田通信隊跡」を記録する看板が設立されいる。

東久留米市指定文化財 旧跡第6号
海軍大和田通信隊跡 上の原1丁目、2丁目
 昭和11年 (1936) に埼玉県北足立郡大和田町西堀に開設された旧日本海軍の外国無線傍受専用受信所の中心的な施設で、翌年に「東京通信隊大和田分遣隊」となり、昭和16年(1941)には「大和田通信隊」として独立しました。大和田町の受信施設を中心に、東京都北多摩郡清瀬村下清戸、同久留米村神山に及ぶ本隊、清瀬村中清戸の副受信所の3町村にまたがる広大な面積を有し、久留米村には字神山の平坦地に関連施設やアンテナ群が設置されました。久留米村部分の面積は明確ではありませんが、海軍施設所有地約 1.2 ヘクタール、アンテナ等敷設の海軍占有地約 200 ヘクタール程(現在の上の原一丁目、二丁目内)と推定されます。
 戦後、久留米村の用地の大部分は国有地となり、昭和37年(1962)に日本住宅公団の大規模な「東久留米団地」が建設されました。また、久留米村の通信施設の一部は米軍の「大和田通信所」の基地となり、その後、昭和38年から昭和52年まで運輸省航空交通管制本部として利用されました。現在、旧海軍通信施設としての遺構等は全く存在しませんが、上の原二丁目の南西より「海軍用地」の境界杭が発見されており、この地に旧海軍の施設が存在したことを記憶にとどめるため、戦争遺跡として旧跡に指定しました。なお、旧跡指定は東久留米市域のみです。
 東久留米市教育委員会

東京都東久留米市上の原1丁目6

場所

https://goo.gl/maps/cjNMtdqydHT5yUxL8


在日米軍大和田通信所

海軍大和田通信隊跡地の中心である新座市には、現在も「在日米軍大和田通信所」がある。

こうしてみると、実はフェンスに囲まれたエリア以外も「在日米軍大和田通信所」として米軍区域であることがわかる。周辺の農地や新座市総合運動公園なども米軍区域に含まれている。

周辺には、「防衛施設庁」境界標石が多い。
最初、「海軍用地」境界標石を探していた時に、何度騙されたことか。。。

昔は、界隈には海軍用地境界石が、まだまだ多くあったようだけど、今回、私が見つけられたのは、2基だけでした。。。


海軍無線電信所船橋送信所跡


関連

海軍道路と桜並木(横浜市瀬谷区)

横浜市瀬谷区の通称「海軍道路」
 相模鉄道「瀬谷駅」より北の八王子街道に向けて一直線に伸びる約3キロの直線道路。
見事な桜並木の名所としても有名。

ちょっと散策してみました。

以前の記事も参照で


海軍道路

海軍道路
 第二次世界大戦以前、この付近には、旧日本海軍(横須賀海軍軍需部、第2海軍航空廠)の火薬工場、補給工場、倉庫等が立地していました。当時は、海軍道路沿いに、旧日本軍が整備した引込線が敷設されており、旧日本軍施設と神中鉄道(現相模鉄道)瀬谷駅を結ぶ輸送等の役割を担っていたと考えられています。その後、旧日本海軍施設は「上瀬谷通信施設」として昭和26年3月より米海軍に接収されていましたが、平成27年6月30日、日本に返還されました。
 「海軍道路」は、これらの歴史を踏まえ、横浜市の道路愛称事業(歴史的に由来のある道路や、通称が住民に定着している道路に愛称を付ける事業)により、市道環状4号線のうち瀬谷中学校交差点付近から八王子街道に至る約2,850mについて名づけられた「愛称道路」名として、現在も広く親しまれています。
 平成29年3月(令和2年3月改定) 瀬谷区役所

質問(瀬谷区)海軍道路の概要について
回答
(1)名称の由来
 昭和15年頃、現在の上瀬谷通信施設内にわが国の海軍施設である横須賀海軍資材集結所があり、物資を輸送するために建設された海軍用の道路だったことから、この名称が生まれました。

(2)海軍道路の長さは?
 海軍道路は一般的に、県道瀬谷柏尾線瀬谷中学校前交差点から旧国道16号線(八王子街道)が交差する部分までを指しますので、延長2850メートルです。

(3)桜は何本くらいあるの?
 ソメイヨシノが約300本、ヨウコウサクラが約40本で、合計約340本あります。

(4)桜はいつ植えたの?
 瀬谷中学校側は昭和50〜51年頃に、旧国道16号側は昭和57〜58年頃に植樹しました。

問い合わせ【瀬谷区役所区政推進課広報相談係】(TEL:045-367-5636)

横浜市 https://qa.city.yokohama.lg.jp/search-detail/2999/

海軍道路

海軍道路入口

海軍道路
Kaigun-doro St.

海軍道路本郷橋


海軍道路の桜並木

ゆっくり桜を愛でながら散歩してみました。以下、桜並木の写真を。

道路は花見渋滞、ですね。気持ちはわかります。


鶴間駅からバスに乗って「笹原バス停」下車。
八王子街道の「海軍道路入口」から約1時間30分ほど散策して、相鉄「瀬谷駅」に到着、でした。

撮影は2021年3月27日


場所

神奈川県横浜市瀬谷区瀬谷町 県道 18 号線

https://goo.gl/maps/NdJPvCmjcVd43rmM9


瀬谷界隈の戦跡関連


「海軍道路」関連

海軍兵学校の門標(横浜)

横浜駅から歩いて約10分ほどの場所に、海軍兵学校ゆかりの門標があった。


海軍兵学校の門標

海軍兵学校の門標
 明治初年、勝海舟の書。
 昭和20年、海軍兵学校閉校に際して撤去されたが、後年、鋳造家 柏木宏之氏(同校第74期)が原型通りに復元、同期生の田辺弥寿男氏の手を経て、柳川ビルに寄贈された。
 柳川ビルの竣工にあたり、先輩のご厚意と、建設に協力された、わが第77期クラスの友情を記念してここに設置する。
 昭和62年10月
  海軍兵学校第77期
   柳川荘一郎


海軍兵学校第77期

「柳川ビルクリニック」の院長が柳川荘一郎氏。海軍兵学校第77期。
海軍兵学校第77生徒は、最後の海兵生徒・最後の江田島健児、であった。
(77期の次、海軍兵学校第78期は予科生徒であった)

そして、「柳川ビルクリニック」のサイトには、「錨」がシンボルーマークとして、掲げられていた。

http://www.yanagawa-bc.com/information/#info_peo


場所

神奈川県横浜市西区南幸2-21-5

https://goo.gl/maps/wbcRZN28dv1NxjhNA