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空母「飛龍」と共に散った名将・山口多聞

ミッドウェー海戦で、孤軍奮闘し散った名将、山口多聞海軍中将の墓は、青山霊園にある。


山口多聞(やまぐち たもん)

1892年(明治25年)8月17日 – 1942年(昭和17年)6月5日)
海兵40期次席・海大24期次席
ミッドウェー海戦において空母飛龍沈没時に戦死。49歳であった。
最終階級は海軍中将。

引用:https://commons.wikimedia.org/wiki/File:TamonYamaguchi.jpg



海軍兵学校40期の同期には、福留繁、宇垣纏、大西瀧治郎、醍醐忠重、左近允尚正、寺岡謹平などがいる。海兵40期の主席は、岡新。山口多聞は次席卒業。海軍大学校甲種学生24期も次席卒業。

第二航空戦隊司令官
昭和15年(1940)11月1日、第二航空戦隊司令官に着任。
昭和16年4月10日に第二航空戦隊は第一航空艦隊に編入。通称「南雲機動部隊」。

昭和16年12月8日、開戦。真珠湾攻撃に参戦。大戦果を収める。

第一航空艦隊
第一航空戦隊( 一航戦 )赤城、加賀
司令長官南雲忠一中将、参謀長草鹿龍之介少将、参謀源田実中佐等

第二航空戦隊( 二航戦 )蒼龍、飛龍
司令官山口多聞少将

昭和15年6月5日 ミッドウェー
6月上旬、ミッドウェー作戦に二航戦司令官(旗艦「飛龍」)として参加。
ミッドウェー島基地攻撃中に、敵空母発見の知らせを聞いた山口多聞は、一刻を争うものとして、基地攻撃用で装備を進めていた陸用爆弾のままで、今すぐに攻撃隊を発進させるように南雲司令部に進言した。
「直チニ攻撃隊ヲ発進ノ要アリト認ム」
しかし、第二次攻撃隊発艦準備中、南雲機動部隊はSBDドーントレス急降下爆撃機の奇襲により、空母3隻(赤城、加賀、蒼龍)が大破、炎上。
山口多聞は、次席指揮官の第八戦隊旗艦「利根」(司令官阿部弘毅少将)の命令を待たず、航空戦を敢行を決意。
第八戦隊と機動部隊全艦に対し、山口多聞は発光信号を発する。
「我レ今ヨリ航空戦ノ指揮ヲ執ル」
「飛龍」艦内に山口多聞が通報する。
「飛龍を除く三艦は被害を受け、とくに蒼龍は激しく炎上中である。帝国の栄光のため戦いを続けるのは、一に飛龍にかかっている」
「赤城・加賀・蒼龍は被爆した。本艦は今より全力を挙げ敵空母攻撃に向かう」

友永丈市大尉指揮のもと米空母ヨークタウンを攻撃し航行不能まで追い詰めるなど、飛龍は、ただ一隻で奮戦するも、米軍機の急降下爆撃を受け炎上。
飛龍は懸命の消火活動を行うも、機関部などを損傷し、放棄を決定。

山口多聞司令は総員を飛行甲板に集合され訓示する。
皆が一生懸命努力したけれども、この通り本艦もやられてしまった。力尽きて陛下の艦をここに沈めなければならなくなったことはきわめて残念である。どうかみんなで仇を討ってくれ。ここでお別れする」

一同水盃をかわし皇居を遥拝し聖寿の万歳を唱え軍艦旗と将旗を降納。

「提督の最後」 北蓮蔵画
東京国立近代美術館保管(アメリカ合衆国より無期限貸与)
1943年(昭和18年)山口の最期を描いた戦争画。
画面中央での罐の蓋で水を受けるのが山口多聞、その向かって右奥は飛龍艦長・加来止男で、右手前から参謀が降ろされた軍艦旗を掲げ持って歩み寄る。
引用:https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Renzo_Kita,_Last_Moment_of_Admiral_Yamaguchi.jpg

午後11時50分、軍艦旗降下。
6月6日午前0時15分、総員退去命令。
午前2時10分、巻雲の発射した魚雷2本のうち1本が命中し、沈没。

山口多聞少将と加来止男飛龍艦長は、飛龍と運命を供にした。

山口多聞は昭和17年6月5日付で海軍中将に進級。
10月10日、昭和天皇は侍従の徳川義寛を勅使として差遣し、祭祀料を下賜。
翌日の10月11日、山口の葬儀が青山斎場で執り行われた。


「余の級中最も優秀の人傑を失ふものなり」
宇垣纏「戦藻録」

このとき、連合艦隊の参謀長であり、海軍兵学校の同期でもあった宇垣纏は、日記「戦藻録」に、山口多聞の死について、以下のような記述を残し、最大限の賛美を送っている。

六月六日
 山口少将は剛毅果断にして識見高く、潜水艦勤務を専務としたるが、後、聯合艦隊専任参謀、大学校教官、米国駐在、第二聯合航空隊司令官等を歴任し、現職に在る事二年有半なり。余の級中最も優秀の人傑を失ふものなり。
 けだし蒼龍先に沈み、航空艦隊唯一の空母として奮戦、逆に敵空母二を仕留めるも、飛龍自らもまた刀折れ矢尽きて遂に沈没するに至る。司令官の責任を重んじ、ここに従容として艦と運命を共にせり。その職責に殉ずる崇高の精神、正に至高にしてたとゆる物なし。

宇垣纏「戦藻録」

戦時録音資料

昭和18年4月24日に行われたラジオ資料が残されている。
大本営海軍報道部の海軍大佐・平出英夫報道課長がラジオでおこなったもので、前年の昭和17年6月のミッドウェー海戦で、沈没する空母「飛龍」とともに死を共にした、第二航空戦隊司令官 山口多聞中将と「飛龍」艦長 加来止夫大佐(死後少将)の二人の奮闘ぶりを伝えた記録。

山口と加来の戦死は、この昭和18年4月24日夜に放送された『提督の最期』と題するラジオ番組で日本国民に対して公表された。少々長いが、当時の克明な記録でもあるので、以下に引用する。

精神教育資料 提督の最期(一)
近代戦は科学戦と言われます。従いまして、各種艦船、兵器、機関、装備などが戦闘の勝敗を決する重大な要素であることは申すまでもありません。しかし古来の戦争を見ましても、軍隊、なかんずくこれが上に立つ指揮官の素質と、至誠奉公の精神如何等の要素が、かかる物質的威力を凌駕するものであることは、万古不変の鉄則であります。今や我が将兵は、大御稜威をいただき、卓越せる指揮官の下、全軍一体となって物的優勢を頼みとする敵戦力を、徹底的に撃砕致しております。物的要素は、もとよりいささかも軽く見てはなりませんが、精神的無形の要素が無限の戦力を形成するものであることを、特に明記すべきであります。私はこのたび、北支勇将の御名に浴しました山口多聞中将、加来止男少将の東太平洋における壮烈なる奮戦と、陛下の御船と運命をともにした、鬼神も哭くその最期を申し述べ、我が前線指揮官が敵撃滅の中心となって、いかに戦っているかをしのびたいと存じます。本日は畏くも天皇陛下、靖国神社へ御親拝あそばされたのでありますが、その夜、両提督の最期をお話し申し上げることは、ひとしお感慨深いものがあります。

山口中将は、支那事変にありましては、あるいは艦船部隊、あるいは航空部隊の指揮官として各地に転戦し、その功、抜群だったのでありますが、特に航空部隊指揮官としては重慶空軍の撃滅、並びに敵軍事施設の攻撃に偉功を奏し、軍令部総長の宮殿下よりその功績を嘉尚せられ、御言葉を伝達せらるるの光栄に浴したほか、支那方面艦隊長官より、感状を授与せられております。大東亜戦争におきましては、中将は開戦劈頭のハワイ海戦に参加され、かの赫々たる大戦果の一半は、実に中将の卓越せる兵術、烈々たる実行力の功に帰するというも過言ではありません。

その後、中将は各作戦に参加され、数々の偉勲を立てられたのでありますが、東太平洋方面の作戦におきましては、敢然として敵方に進出、反復猛烈なる攻撃を加え、部下航空部隊の最後の1機に至るまで奮戦し、敵航空母艦、大型巡洋艦、各々1隻を屠り、他の航空母艦1隻に大損害を与え、敵基地に甚大な打撃を与えるという大戦果を挙げられたのであります。

戦争証言アーカイブ 戦時録音資料 https://www2.nhk.or.jp/archives/shogenarchives/sp/movie.cgi?das_id=D0001400264_00000

精神教育資料 提督の最期(二)
また、加来少将は、多年航空関係の要職を歴任され、支那事変におきましても、航空隊指令として各地に転戦、赫々たる武勲を立てられ、大東亜戦争勃発いたしまするや、 山口中将の麾下として、ハワイ海戦に参加以来、各作戦に参加され、東太平洋方面の作戦には、敵の反撃を一手に引き受け、奮戦力闘、遂に矢折れ、弾尽きるや、救援のため来着いたしました駆逐艦に、部下総員を無事移乗せしめました後、山口中将とともに艦上に踏みとどまり、従容として船と運命をともにいたされたのであります。

次に、当時の状況をそば近くともに戦い、その実情を目の当たりにした将士の記憶によって申し述べたいと思います。

昭和17年6月のことであります。東太平洋方面に作戦が実施されまするや、山口中将指揮の我が航空部隊は、整斉と予定の行動に移り、洋上の基地奥深く潜む敵、本艦艦隊のおびき出しを計りながら、次々と艦載機を飛ばしました。この日、層雲は2000メートルの上空を込め、東南東の風強く、同方面特有のうねりは大きく、艦載機の飛び立つのにも困難を感ずるほどでありました。索敵機が進発してから約2時間、航空母艦○(まる)隻を根幹とする敵艦隊の北上を発見す。その快報がもたらされました。時に日本時間の早朝、洋上の時差がありますので、太陽は既に中天に近いころであります。我が軍艦○○(まるまる)は、山口司令官これを直率、加来艦長指揮の下に、既に戦闘配備にあり、将士の意気、また既に敵を呑むの概があります。戦機まさに熟す。我が戦隊は敢然挺身、有力なる基地航空兵力の援護下にある敵航空母艦群、及び飛行機集団と火蓋を切ります。かくて激戦力闘数時間に及び、我が方はついに敵航空母艦高級巡洋艦各1隻を撃沈。他の航空母艦1隻を大破せしめました。そればかりではなく、この日、明け方から粉砕、撃墜し続けてきた敵飛行機は、既に百数十を数えましたが、戦意旺盛な海の勇士たちは、なおも残る敵航空母艦に対して猛襲を続けたのであります。しかし我が方は、夜来敵基地の奥深くに迫って、奮戦十数時間に及び、既に砲身は焼け、飛行機も傷つき、すべての力を出し尽くしたかの感がありました。

戦争証言アーカイブ 戦時録音資料  https://www2.nhk.or.jp/archives/shogenarchives/sp/movie.cgi?das_id=D0001400265_00000

精神教育資料 提督の最期(三)
あくまで敵を撃滅せずんば止まぬ勇士たちは、一面整備、一面激戦。さらに猛攻撃に当たらんとする、ちょうどその時であります。刻々数を増してきた敵急降下爆撃機群は、我が艦上を覆い、めくらめっぽうに投下する魚雷、爆弾のしぶきに艦影は覆い隠されるほどでありました。実にこの日、敵の猛襲は熾烈を極め、払暁以来、我が軍艦○○(まるまる)めがけて突撃を試みた敵機115機。回避した魚雷だけでも26本。爆弾約70発であります。敵の来襲は、早朝より午後にかけて4回に及び、最後の来襲により、敵の数発の爆弾は遂に我が艦橋前方の飛行甲板に命中いたしました。

山口司令官、加来艦長、以下幕僚はその時艦橋にありましたが、ものすごい爆風が四方のガラス窓を打っただけで、概ね無事でありました。だが前部飛行甲板には大小丘のような鉄板の波。大きな爆弾の穴が開けられ、格納庫はすさまじい火炎を噴き出し、別の至近弾による火災もたちまち艦橋をめぐる防弾幕に燃え移って、みるみるその火勢を広げていきます。応急処置の命令は次々に下されました。艦内各要所への注水はもとよりのこと、勇士たちは持ち場、持ち場を守って消火に全力を挙げたのであります。船破るるも軍規乱れず、沈着に機敏に処置が講ぜられました。だが、一波静まれば、一炎またみなぎるありさまです。巨体は勇士たち必死の努力にもかかわらず、漸次全面的に灼熱化し、延々と燃え広がる火勢は夕闇の空を焦がし、海水もために滾るかと思われました。勇士たちはなおも絶望を絶望とせず、豪炎烈火の中になお氷のごとき沈着さをもって鎮火に努めましたが、火勢はいよいよ激しく、たちまち機械室、釜室の上部前面は火の海と化し、舵取り機械の操作も遂に不能に陥りました。

この時、なお艦艇深い部署にあって、阿修羅のごとき操作を続けておりました機械釜部員は、上層鉄板の熱気、四方を巡らす鉄壁の焦熱のうちに最後万歳を唱え、あるいは死すとも敵を撃たでは止まじと絶叫し、相次いで斃るとの知らせが頻々として伝声管をもって艦橋に伝えられるのであります。それよりも早く、救出決死隊の手は猛火と猛煙をおかして機械室と釜室との連絡を図っていたのであります。万策功なく、また救い出しの手も多くに及ばず、船は次第、次第に轟々たる鳴動のうちに左に傾斜して、約19度に瀕していたのであります。

戦争証言アーカイブ 戦時録音資料  https://www2.nhk.or.jp/archives/shogenarchives/sp/movie.cgi?das_id=D0001400266_00000

精神教育資料 提督の最期(四)
誘爆はなおも続き、あまつさえ全艦の火は潮風を合わせて、波頭をなめんばかりであります。この中にあって、船の左舷側には、大胆にも駆逐艦○○(まるまる)がその舷側をぴったりと横付けにしていました。ともに消火に当たり、死傷の戦友を抱えうつなど必死となって協力いたしたのであります。それはちょうど猛火の中に親子相擁し相呼ぶがごときありさまであります。船の将士をして熱涙を震わせたのでありました。この間にあって、なお騒がず、乱れず、数名の将士の歩み謹厳にして、一挙一動、礼儀正しくは何事かと見えました。それは防御甲板下部の奉安室に、鉄壁鉄心を持って奉安し参らせてある御真影を奉遷し奉る姿だったのであります。一員がうやうやしく奉遷箱に移し奉ります。身を以てしかと背に負い、ひとまず前甲板に奉安申し上げ、さらに命によって駆逐艦に移しまいらせたのであります。陛下の見つめたり御船、今ここに御真影の御移乗を了したてまつる。死んだ全員の努力もなお忠誠に足らざるなきかと、忠勇の士、みな恐れ思うて悲憤の涙は抑えんとして抑えがたく、加来艦長は、今や総員退去のやむなしと判断いたしました。その決意を山口司令官に報告いたしました。司令官も、これに同意され、この旨を艦隊司令部に報告せよと命ぜられました。この報告は、いったん付近にあった駆逐艦に、懐中電灯のかすかな光りによって伝えられ、さらに艦隊司令部に伝えられました。時に東太平洋の夜は既に深かったのであります。この時、なおも機械室、釜室にある戦友に対する決死の救出作業は依然として続けられておりましたが、厚い煙に阻まれまして、今は万策、全く尽き果ててしまいました。戦友たちがこもごも、声を限りに熱涙を込めて呼びますが、轟々と渦巻き上る噴煙がその面を打ってくるのみでありました。

「総員、飛行甲板に集まれ」「飛行甲板に集合」。ついに最後の命令は発せられました。叫ぶような号笛の伝令。喉も破れて出ぬ声を振り絞りながら、その命令はたちまち全部署に伝えられました。総員の集まりました飛行甲板は、あたかも坂のように傾き、亀裂、凹凸、弾痕で惨憺、目も当てられぬ有様であります。また集合した総員の顔という顔は、終日の奮戦を物語る油と汗で黒くまみれておりましたが、どの目もらんらんと不屈の戦意に燃え輝いて、一人として失望落胆の気配すら伺われません。

戦争証言アーカイブ 戦時録音資料 https://www2.nhk.or.jp/archives/shogenarchives/sp/movie.cgi?das_id=D0001400267_00000

精神教育資料 提督の最期(五)
全員の瞳は、期せずして艦橋に注がれました。艦橋の一方に屹立するは山口司令官、及びその幕僚。左のほうに加来艦長、副長、その他の影濃く、燃えさかる炎と月の光りに、その1つ1つの横顔が染め分けられていました。ああ、我が司令官、我が艦長もまた健在なりしかと、全員の瞳に一瞬、歓喜の色輝くのを見まするのは、なおこの期においても、自己なく生死なく、身命ただ1艦とともに在りの姿でなくてなんでありましょう。各分隊長は直ちに人員点呼を行いまして、上官に伝え、上官は艦長に報告いたします。この報告が終わりますと、加来艦長は山口司令官に敬礼し、ともに艦橋から飛行甲板に降り立ちました。降り立ったその足下に、数個のビスケット箱があります。それは消火に協力した駆逐艦から応急糧食として運び上げてくれたものでありますが、全員、誰一人としてそのビスケッ
トの一片だにも口にしたものはありません。のみならず、その日の暁から、この時まで、司令官以下、総員戦闘配食のにぎりめし1個を形につかんだことがあるだけで、1杯の水すら飲む者はなかったのであります。加来艦長は、そのビスケット箱の上に立ちました。そして粛然、次の如く訓辞されました。

「諸氏、諸氏は乗艦以来、ハワイ空襲その他においても、もちろん今日の攻撃に当たっても、最後まで実によくその職を尽くしてくれた。皇国海軍軍人たるの本分をいかんなからしめてくれた。艦長として、最大の満足を感ずるとともに、実に感謝に堪えない。あらためて礼を言う。ただ、ともに今日の戦いに臨みながら、ともにただ今ここであい見ることのできない幾多戦友の英霊には、多感言い表せないものを覚える。同時に、その尊い赤子を多く失ったこと、陛下を始めたてまつり、一般国民に対し、深くお詫び申し上げる。今時、出撃の際にも各員に申し述べたとおり、戦いはまさにこれからだ。諸氏の同僚はこの海底に神鎮まるも、ここの海上は敵アメリカへの撃滅路として、無数の英魂が万世(よろずよ)かけて我が太平洋を守るであろう。諸氏もどうか一層奮励して、さらにさらに我が海軍に光輝を加えてくれ。敵を撃滅し尽くさずんば止まじの魂を、いよいよ鍛え合ってくれ。切に諸氏の奮闘を祈る。では、ただ今より総員の退去を命ずる。」

戦争証言アーカイブ 戦時録音資料 https://www2.nhk.or.jp/archives/shogenarchives/sp/movie.cgi?das_id=D0001400268_00000

精神教育資料 提督の最期(六)
力強い語尾でありました。艦長に代わって、すぐに山口司令官が台上に立たれました。

「ただ今の艦長の訓辞にすべて尽くされたと思う。私からはもう何も述べることはない。お互いに皇国に生まれてこの会心の一戦にあり、いささか本分を尽くし得た喜びがあるのみだ。皆とともに宮城を遙拝して、天皇陛下万歳を唱え奉りたい。」

司令官の声にも、態度にも、平生と少しも異なるところは見られませんでした。ただ無言不動のうちにも、全将兵の列を貫く強い感激のうねりは、目にも見えるほどでありました。誘爆のものすごい音響の中に、縦横にひらめく猛煙の中に、その轟音も熱風も裂けよとばかり、万歳を奉唱し終わりまするや、加来艦長はさらに大声で令しました。「今から軍艦旗を下ろす。」全員、不動の姿勢に、燃える感情も、峻厳秋霜たる軍旗の前に、烈火も熱風もありません。やがて君が代のラッパ吹奏時に、我が軍艦旗もまた、なお戦場の空にとどまらんと願うか、霊あるもののごとく、赤き月の夜空を寥々の音にひかれて下りてまいりました。将旗もともに降ろされます。仰ぎ見る全員の面は、涙に濡れざるはありません。この時既に総員は、山口司令官、加来艦長の決意が奈辺にあるかを推察していましたので、副長は各科長を集めて、ともに船にとどまりたいと申し出たのであります。

艦長は言下に「いけない。それはいかん。自分は船の責任者として船と運命をともにするの名誉を担うものであるが、ほかの者は許さん。重ねて言う。戦争はまさにこれからだ。諸氏の忠誠に待つ百難の戦場は、果てしなくあろう。諸氏は今日の戦訓をよく将来に生かし、一層強い海軍をつくってくれ。敵米英を完膚なきまでにたたきつぶせ。いよいよ奮戦努力してもらいたい」と、この申し入れを厳然と退け、さらに司令官を省みて申されました。

「司令官、ご退艦ください。これにとどまるは1人、不肖艦長の任にあります」これに対しまして山口司令官は、いやとも言わず、しかりとも答えず、ただにっこり頷いたのみでありましたが、眉の色、態度、既に固く自ら信ずるところを持して他より動かすに由なきを無言に示しておられたのであります。この日、終日艦橋にあって、悠々常に迫るなく、一笑すれば春風を生じ、一礼すれば秋霜の厳たるを思わすの慨は、実に山口司令官の英姿そのものでありました。

戦争証言アーカイブ 戦時録音資料 https://www2.nhk.or.jp/archives/shogenarchives/sp/movie.cgi?das_id=D0001400269_00000

精神教育資料 提督の最期(七)
外は穏和快活でありながら、内は剛毅不屈。武人の死は、なお呱々の声を挙げて世に生まるる日に等しとは、常に語っておられたところでありました。司令官の日常をよく知っておりました加来艦長は、司令官の微笑を仰ぎましては、あえて一度は退艦を勧めましたが、二度と勧める気にはなれなかったのであります。ただ黙然とその傍らに持して立つのみであります。なおまた専任参謀以下幕僚も、皆ともにその周囲にありまして、一歩も動かないでいるのを見ますと、山口司令官は一同に、厳かに「退去を命ずる」と命令されました。この時、船の傾斜はいよいよ加わりまして、もう手を何かに支えなければ、立っていることさえ難しくなっておりました。依然、誘爆は止まず、死期は既に秒間にあるを思わせたのであります。「早く行け、退去しないか」司令官の温容は凜として一喝しました。しかし自身は悠々自若。ただ全員の上に深い瞳を注いでおられます。今はやむなく、総員一斉に挙手の敬礼をいたしました。万感の別辞に代え、駆逐艦2隻に移乗を開始いたしました。第1に負傷せる船員。第2に同乗せる他の船の乗員。以下、順次に秩序整然として、光輝ある海の砦に決別を告げていった。総員が退官し終わるわずかの間を、なお残った幕僚や船の幹部は、短艇用の小さな水樽を囲み、その栓を抜いていました。この水樽も、先にビスケット箱とともに僚艦から消火作業中に贈られたものでありましたが、その水栓は、今初めて抜かれるのであります。あり合わせの石油空き缶の蓋を杯に代え、まず司令官、艦長の前に捧げました。それから次々に飲み交わしては、相別るる人の影を心の内に伏し拝んだのであります。しかし山口司令官と加来艦長とは、一掬の水に終日の渇を潤しますと、もう辺りの嗚咽も涙声も素知らぬように、淡々と語り合っておられました。

「いい月だな、艦長」
「月齢は21ですかな」
「2人で月を愛でながら語るか」
「そのつもりで先ほど、主計長が金庫の措置を聞きに来ましたから、そのままにしておけと命じました」
「そうそう。あの世でも渡し銭がいるからな」。

よそながらこの対話を聞く者は、熱鉄を飲む思いが致したのであります。司令官はつと目を向け直しますと、専任参謀と副長を特に招き寄せて申されました。

「こういう作戦の中だから、君たちの身も明日は計り知れない。ゆえに、特に依頼しておくわけだが、艦隊長官へ伝言を頼む。」

戦争証言アーカイブ 戦時録音資料 https://www2.nhk.or.jp/archives/shogenarchives/sp/movie.cgi?das_id=D0001400270_00000

精神教育資料 提督の最期(八)
それは、急にその姿勢を正し、言葉も厳かに「陛下の御船を損じましたことは、誠に申し訳ありません。しかし、やるだけのことはやりました。ただ敵の残る1艦に最後のとどめを刺す前に、かくなったことは残念に存じます。どうかこの仇をうち晴らしてください。長官の御武運長久をお祈りいたします。以上だ、頼むよ」と言い終わるや、山口司令官は静かに艦橋にその歩みを移されました。加来艦長も、またやや足早に艦橋に上っていきます。「司令官、なんぞお形見をください」。専任参謀は追いすがるように両手を挙げて艦橋を振り仰ぎました。その手の上へ、山口司令官の戦闘帽がふわりと軽く投げられました。副長は、軍艦旗を肌身につけ、専任参謀は将旗と形見の戦闘帽を抱きまして、最後に2人とも遂に船を去ったのであります。軍艦の舷側を離れました後も、2隻の駆逐艦は近くを去らず、逡巡、幾度かめぐり、幾度か短艇を下ろし、あるいは艦上の諸声を合わせて呼び合い、手を挙げ、帽を打ち振るなど、ほとんど子が親を呼ぶにも勝る哀惜の絶叫と衷情を表し続けたのであります。だが司令官と艦長の牢固たる決意の姿にはいささかの揺るぎも見えず、ただ彼方の艦橋に立てる2つの影も、我に答えて手を振っておるのが見えるだけありました。刻々、その2つの影は、神かのごとき崇高さを顕現しておりました。一瞬、艦橋もろとも黒煙に覆われ去ったかと思えば、また次の一瞬、炎々たる炎は神の像のごとく、その影を栄え照らしました。なお振り続けている手の線まで赤々と見えます。やがて驚くべき海面の変化が予想されます。広く大きい海の洞穴が突如として生じるかのごとき、大渦のもたらし来たった潮鳴りであります。それが先か、後か、轟然、一大音響とともに、彼方の軍艦は裂けておりました。たちまち見るその左舷は、急傾斜して洋中に没し、刹那に深く沈みゆく艦橋には、人なく焔なく煙もなく、まさに中天一痕の月落ちて遙深へ神鎮まったかのようにしか思われません。その渦潮を急に避けながらも、2隻の駆逐艦上から、その有様を目撃しておりました全将兵の目には、既に常時の人間、山口司令官、加来艦長の影はなく、2人にして全く1つなる、我が海軍魂。その一閃の神の光りを明らかに、目で見た心地だったのであります。

戦争証言アーカイブ 戦時録音資料 https://www2.nhk.or.jp/archives/shogenarchives/sp/movie.cgi?das_id=D0001400271_00000


山口多聞墓

青山霊園1種ロ8-1
このエリア、青山霊園1種ロ8号(警視庁墓地のとなり)界隈は有名人、著名人のお墓が集中している。ゆくゆくはまとめてみたいとは思ってます。。。

山口多聞の墓に参拝。
日本海軍が誇る名将に合掌。

海軍中将
正四位勲一等功一級
山口多聞墓

裏面
昭和十七年六月五日戦死
 元帥海軍大将永野修身書

山本五十六の詠んだ石碑が建立されている。


佐世保海軍墓地には飛龍の慰霊碑がある。あわせて掲載。

航空母艦 飛龍 戦没者慰霊碑

昭和49年6月5日建立
源田実書

昭和17年6月5日、ミッドウェー海戦。
南雲機動部隊(第一航空艦隊)直下の第二航空艦隊にて山口多聞少将の旗艦として出撃。最後の一艦として奮戦するも飛龍は6月6日午前0時15分総員退去、沈没。山口司令官、加来艦長以下800余名を祀る。

慰霊碑建立の記
航空母艦飛龍(17,300噸)は昭和14年7月横須賀海軍工廠にて竣工、支那事変の際は支那沿岸各地に於いて戦功を樹て昭和16年12月大東亜戦争勃発するや開戦劈頭僚艦と共に真珠湾奇襲に成功し更に「ウエーキ」島、豪州、比島、蘭印、インド洋作戦に武勲を樹て昭和17年6月5日「ミッドウエー」島攻略戦に於いては敵陸上基地を猛攻し赤城加賀蒼龍の三航空母艦被弾後は飛龍只一隻孤軍奮戦敵空母「ヨークタウン」を撃破し、更に攻撃準備中武運拙なく被弾大破し火焔に包まれ必死の消火作業も其の効なく遂に総員退去の止むなきに至り第二航空戦隊司令官山口多聞中将、艦長加来止男少将は従容として艦に止どまり多数の戦没者と運命を共にさる
茲に三十三回忌を期し慰霊碑を建立して航空母艦飛龍の功績を顕彰し併せて英霊の冥福を祈念す
 昭和49年6月5日
 航空母艦飛龍遺族生存者有志一同

在天の 山口司令官
加来艦長はじめ たくさんの戦友たちよ
あの日のことども ともに語りたい
その後のことも 聞いてほしい
だが今日は それもかなわず
とこしえに この聖地に
み霊安らかに 眠れかしと
ただ祈るのみ

佐世保海軍墓地

山口多聞の墓の隣は、高須四郎の墓もある。
広大な青山霊園の中でも、海軍軍人同士が並んでいるのは珍しいので、山口多聞とは直接的には関係しないが、あわせて掲載。

高須四郎

1884年10月27日 – 1944年9月2日
海兵35期。海軍大将。
昭和16年の開戦時は、第一艦隊司令長官。昭和17年に南西方面艦隊司令長官。兼第二南遣艦隊司令長官。昭和18年、兼第十三航空艦隊司令長官。昭和19年3月1日、海軍大将に昇進。
昭和19年4月2日、連合艦隊司令長官古賀峯一大将が行方不明になる事件(海軍乙事件)が起こり、次席指揮官である南西方面艦隊司令長官の高須が一時的に連合艦隊の指揮をとっている。
昭和19年6月18日に軍事参議官に就任し、9月2日に病没。

高須家之墓

(裏面)
昭和19年5月
高須四郎建之

海軍大将 高須四郎
海軍主計少佐 高須一郎(長男・昭和18年7月に南方海域で戦死)
日本大学名誉教授 高須敏行(次男・平成22年1月没)

山口多聞の墓と、高須四郎の墓はご近所さん。


関連

宇垣纏を偲ぶ
大西瀧治郎を偲ぶ
嶋田繁太郎を偲ぶ

「45cm四四式二号魚雷」東雲寺に残る国産第1号魚雷(深谷)

埼玉県深谷市北部。利根川を渡る新上武大橋の近くにある寺院「東雲寺」に魚雷があるというので足を運んでみた。

実は、以前に訪問をしていた、神奈川県小田原市の神社「神山神社」で魚雷を拝見し、その際に色々と調べていたら深谷市にもあることを知り、これは行かねばと思った次第でした。

深谷駅近くで、レンタサイクルを利用し、利根川近くまで北上。
この界隈は、渋沢栄一関連の史跡も豊富。そして利根川を渡れば中島知久平の史跡もある。
自転車を借りて、かなり濃厚な散策ができる地域でもあり。


45cm四四式二号魚雷
44式2号魚雷(明治44年製)

日清・日露戦争時の帝国海軍は輸入魚雷に頼っていた。
日露戦争後、明治44年(1911)に国産化にはじめて成功した魚雷が「45cm四四式魚雷」。
直径450ミリ、全長5,510ミリ

この四四式魚雷が帝国海軍の魚雷技術発展の礎となり、世界で唯一実用化に成功した酸素魚雷を生み出すこととなる。

小田原の神山神社で拝見したのと、ほぼほぼ同じな魚雷。この深谷市の東雲寺に残る魚雷のほうが、多少ではあるが状態がよさそう。弾頭の部分のみが、ちょと違うようだ。

魚雷
 これは、44式2号魚雷(明治44年製)と云い、第1次世界大戦で使用されたと言われる。構造は下図のとおりで、軍艦に魚雷発射管があり、空気圧力200kgで海中に発射すると、自動的にエンジンがかかり、敵艦船に向かって時速50km~60kmで進行する。重量1,000kg位で、敵艦船に命中すると爆薬が炸裂する兵器である。呉海軍工廠で製造国産第1号と思われ「下瀬」の刻印があり国内唯一のものである。

 昭和8年新会出身の海軍軍人の好意で新会村青年団に寄贈され新会国民学校校庭の忠魂碑前に青年団が奉納した。
 昭和25年現在地に移設した。

  平成11年10月調
  21世禅峰宗雄代

 調査協力者
  内田 伝太郎(本郷)
  川崎 春美(全国回天会)
  村岡 武(新戒)

頭部に刻印が残っているのが特徴。

下瀬 
449

「下瀬」とは、下瀬火薬のことだろうか。
日本海軍が日露戦争で勝利をおさめた要因の一つに、下瀬火薬(下瀬爆薬)」があった。

海軍下瀬火薬製造所跡地散策(北区西ヶ原)

頭部の先端、信管があった部分にも、なにやら刻印がある。

45×5/100×150
呉167

「呉」と明確に刻まれている。呉海軍工廠で製造された証。

100の左下に「桜印」もある

スクリューもきれいに残っている。

かなり貴重な一品。よくぞ残していただいたものです。
これからも伝承が続いてくれれば、です。


英霊塔

魚雷と並んで英霊塔がある。
日露戦争で鹵獲されたカノン砲が払い下げられたもの。
帝国在郷軍人会新会村分会から大正9年に陸軍に「十六珊克虜伯砲砲身」が下附願いが出され、翌年東京陸軍兵器支廠が忠魂碑用に払い下げとなっている。

忠霊塔

右柱 西比利亜(シベリア)
左柱 凱旋記念

大正7年(1918)から大正11年(1922)にかけて出兵された「シベリア出兵」に関係する記念碑。

大正10年1月建設

大正十年一月

征清従軍記念碑

征清従軍記念碑

元帥公爵大山巌書

征露記念碑

征露記念碑

元帥公爵大山巌書


東雲寺

的龍山東雲禅寺

東雲寺は、鎌倉期の開基とされる古寺。
東雲寺は男寺とされ、隣の大林寺が女寺とされている。

場所

https://goo.gl/maps/LjgLjfbTkU5UzjqZ8


関連

深谷といえば、渋沢栄一

深谷には軍需工場もあった
利根川を挟んだ対岸の群馬県太田市は、中島知久平

帝国軍艦扶桑征清之役忠死紀念碑(新善光寺)

久保山墓地を散策していた際に、近くの寺院で砲弾を見つけました。
日清戦争での扶桑乗員の慰霊碑。


扶桑(扶桑艦)

初代扶桑。姉妹艦はない。
日本海軍の装甲フリゲート艦(甲鉄艦)、一等軍艦。のちに二等戦艦から二等海防艦に類別された。
日本海軍としては初代。2代目は太平洋戦争で活躍した戦艦扶桑となる。
1875年(明治8年)、明治政府は有力な軍艦の必要性を感じイギリスに発注。1878年(明治11年)竣工。
清国海軍が「定遠」「鎮遠」を所有するまでは、アジア独立国家で唯一の近代的装甲艦、であった。

なお、このときに明治政府はイギリスに3艦の軍艦を発注している。
装甲フリゲート艦の「扶桑」、そして装甲コルベット艦の「金剛」「比叡」。明治海軍の近代艦はこの3隻からはじまったといっても過言ではない。

明治27年(1894)、近代化改装を実施し、帆走装備を廃止。
近代化改装を受けた「扶桑」はすでに旧式艦ではあったが、唯一の甲鉄艦として日清戦争に参戦。
日清戦争では明治27年9月の黄海海戦や、明治28年2月の威海衛攻撃などに参加。
明治30(1898)に「松島」と衝突し沈没。
明治31年、海軍の艦艇等級の見直しにより、二等戦艦に類別。
明治33年、浮揚からの修理を完了。
明治37年(1904)からの日露戦争に参加。旅順攻撃や対馬海峡警備、日本海海戦などに加わっている。
明治38年、二等海防艦。
明治41年、除籍。明治43年、解体。

初代扶桑の初代艦長は、伊東祐亨(のちに伊東祐亨は日清戦争では初代連語艦隊司令長官として活躍)であったことからも、創業期の明治海軍の期待が大きかったことがわかる。


帝国軍艦扶桑征清之役忠死紀念碑

明治29年8月建立。帝国海軍軍艦「扶桑」乗組員犠牲者を祀る。

明治27年(1894)9月17日の「黄海海戦」での4名、及び明治28年2月7日の「威海衛の戦い」での2名の6名の犠牲者を祀る。
慰霊碑に添えられている弾丸は、威海衛百尺崖砲台で使用されていた1886年式鋼鉄榴弾という。

土台となっている石も清国の「威海衛」に由来。
清國威海衛百尺崖砲台入口のアーチ上部の額面石を利用している。

帝國軍艦扶桑征清之役忠死紀念碑 
 明治二十七年九月十七日黄海之役戰死
  廣島縣海軍二等水兵 橋本松太郎
  新瀉縣海軍二等水兵 近藤藤作
  徳嶌縣海軍二等水兵 阪田又吉
  福島縣四等信号兵 木村熊治
 明治二十八年二月七日威海衛之役\\戰死
  岩手縣海軍二等水兵 福原喜次郎
  新瀉縣海軍二等水兵 山川忠太

建設者 明治二十九年八月

一 来歴 西暦千八百八十六年ノ式
一 名稱 鋼鐵榴彈
一 質 鋼鐵
一 彈丸ノ重量 九拾壹貫三百貮拾匁
一 装薬ノ量 貮拾貮貫六百貮拾匁
一 砲口ニ於テ鏆通力ハ鍛鐵板ノ厚二尺壹寸九分
一 彈着 七英里四分ノ三
一 石 壹個
 此石 明治二十八年二月十七日清國威海衛陥落之節百尺崖ノ砲臺入口
(アーチ)ノ上部ニアリシ額面石ニシテ我艦隊ノ砲彈ノ為メ破壊セラレシ石斤

横浜の新善光寺には、日清戦争及び日露戦争で戦没された方々の個人慰霊碑・個人墓も多い。

本堂の向かって右側の壁沿いに慰霊碑などが林立している。

※撮影は2021年3月

場所

https://goo.gl/maps/2Ekh3gc5K63eLKBc7


関連(久保山墓地関連)

すぐちかくは、久保山墓地。

「帝国海軍きっての知性」最後の海軍大将・井上成美

井上成美海軍大将。
日本帝国海軍史上、最後に海軍大将に昇進した軍人は二人いた。
ひとりは、塚原二四三、そしてもうひとりが井上成美、であった。


井上成美(いのうえ・しげよし)

1889年〈明治22年〉12月9日 – 1975年〈昭和50年〉12月15日
日本帝国海軍の海軍大将。

海軍兵学校第37期。
卒業順位は2位であったが、明治43年(1910)に海軍少尉に任命され最先任者(クラスヘッド)となる。
通常は同期生は揃って少尉任官するものであるが、第37期のみは唯一、任官が揃わなかった。37期席順1位の小林万一郎は病気のために任官が遅れ、そのために2番の井上成美がクラスヘッドとなている。
兵37期は、井上成美が大将となったほかは、大川内傳七・ 小沢治三郎・ 草鹿任一などが中将となっている。

昭和4年、海軍大佐に任命。
昭和5年、海軍大学校教官。
昭和7年、海軍軍務局第一課長。
昭和8年、練習戦艦「比叡」艦長に就任。
昭和10年、海軍少将に任命。横須賀鎮守府参謀長に就任。横須賀鎮守府長官は米内光政。二・二六事件を対処。
昭和12年、海軍省軍務局長に就任。米内光政が海軍大臣、山本五十六が海軍次官。米内光政・山本五十六・井上成美の三人を「海軍省の左派トリオ」「海軍左派三羽烏」などと称した。
米内・山本・井上の海軍省は日独伊三国同盟に反対するも時勢の流れは変えることはできなかった。
昭和14年、支那方面艦隊参謀長に就任。海軍中将に任命。支那方面艦隊司令長官は嶋田繁太郎中将。
昭和15年、海軍航空本部長に就任。このときの海軍大臣は及川古志郎。

昭和16年(1941)、第四艦隊司令長官(4F長官)に親補される。トラック「夏島」を拠点とする第四艦隊旗艦は「鹿島」。
昭和16年 12月8日に太平洋戦争が開戦。第四艦隊は第一段作戦において、ウェーク島攻略を担当。第一回の攻撃(12月11日)は、大発動艇の発進に手間取るうちに夜明けとなり、陸上砲台と残存航空部隊の反撃により駆逐艦2隻(疾風、如月)を喪失して失敗。真珠湾攻撃から帰投する途中の南雲機動部隊から分派された(重巡2、空母2(蒼龍・飛竜、駆逐艦2)の協力で、同島上空の制空権を確保しての第二回攻撃(12月23日)を」行い攻略に成功。

昭和17年5月7日、第四艦隊(南洋部隊)はMO作戦を担当し、珊瑚海海戦が発生。空母「祥鳳」を失い、「戦下手」を自認することとなる。
7月、海軍料亭「小松」の支店がトラック島に開業。これは、井上が横須賀で「小松」を経営する山本直枝夫婦に出店を依頼したものであった。(敗戦時にトラック島の小松は消滅し、女子従業員6名が犠牲となり、井上は戦後、小松に謝罪をしている)

昭和17年10月、海軍兵学校長に就任。トラックから内地に帰還。英語教育廃止論を退け、「自国語しか話せない海軍士官などは、世界中どこへ行ったって通用せぬ。」として英語教育を推進。

昭和19年7月、サイパン失陥により東條内閣は崩壊。予備役であった米内光政が現役に復帰し、小磯内閣副総理格で海軍大臣に就任。米内光政海軍大臣の懇請で井上成美は海軍次官に就任。海軍省人事局の高木惣吉少将を、海軍省出仕とし、米内ー井上ー高木のラインで、終戦のための研究・海軍の終戦工作が行われた。

昭和20年5月15日、海軍大将に親任され海軍次官を免じ、軍事参議官に親補された。
昭和20年8月10日、ポツダム宣言を受諾。
井上成美海軍大将は、海軍での最後の仕事として9月10日付けで司令官宇垣纏を失った第五航空艦隊の「査閲」を実施し、各基地において終戦処理を推進し、帝国海軍の有終の美を飾るように説いて回った。
昭和20年10月15日、予備役となり39年間の海軍生活を終えた。満55歳であった。

戦後は、横須賀長井に隠棲し、近所の子供達に、得意の英語を教えるなどして余生を過ごしていたが困窮していた。戦前は海軍料亭として賑わっていた料亭「小松」の山本直枝も、井上の支援を行い、小松従業員に英語指導を依頼するなどして、井上の生活を支えていた。

1975年(昭和50年)12月15日午後5時過ぎに老衰で死去。86歳没。
最期の言葉は、「海が…、江田島へ…」だったという。


井上成美墓

多磨霊園に眠る。場所は21区1種3側。

井上成美
ここに眠る

1889-1975
 井上成美伝記刊行会

合掌

井上家家之墓

昭和13年5月
 井上秀二建之

井上秀二は井上家の長兄。土木技師。
井上家は13人兄弟(12男1女)であり、夭折などもあり事実上の長男が4男の秀二であった。井上成美は11男。

墓誌

父、井上嘉矩や成美の最初の妻であった井上喜久代、最後を看取った二番目の妻である井上富士子、兄である井上秀二などの名が刻まれている。

つまり、井上本家(井上秀二)の墓に、弟の井上成美と二人の妻も一緒に眠っているということになる。

場所

https://goo.gl/maps/wzAtoNUMCSpD2Skj8

※参拝・撮影は2021年9月


井上成美旧宅(井上成美記念館・閉館)

かつての井上成美邸宅は、損傷が激しかったために改装がおこなわれており、井上が住んでいた頃の名残をとどめるのは、暖炉などの一部だけとなっている。
小規模ながら「井上成美記念館」として公開されていたが、東日本大震災の被害により閉館。現在に至る。

閉館中のため、敷地外より遠望。敷地内は立入禁止。

井上記念館は
閉館
しました!

ここが井上成美記念館であった、わずかな証。

今も昔も、井上提督が愛した海を望む高台。窓から見える風景は変わっていないという。

場所

https://goo.gl/maps/SNED1EUuEUTc4jaa6


※撮影は2018年8月

昔の写真が出てきました。以下は2009年の撮影。。。

このときもすでに閉館でしたが。


軍艦鹿島 有終之碑

呉海軍墓地にて。
井上成美は、太平洋戦争開戦時に、第四艦隊司令長官であった。
「鹿島」は、開戦時はトラック泊地で南洋部隊の全作戦を指揮する第四艦隊の旗艦を務める。

関連

※撮影は2017年3月


料亭 小松

全焼する前に来たかった場所でした・・・

海軍料亭「小松」
平成28年(2016)5月16日、火災により全焼。
板塀と看板が残る空間が苦しい…

横須賀の海軍ゆかりの料亭「小松」の母屋から出火、正面左手の奥「松風の間」を残し、木造母屋全焼…
海軍提督の書、あるいは海軍、海自からの記念品は、残念ながらほとんど焼損してしまった。

井上成美は、小松の女将・山本直枝とは親しく、山本直枝は、困窮する戦後の井上成美を支えた一人でもあった。

場所

https://goo.gl/maps/To6CqCJhoyvSnC1V9

※撮影は2018年4月


井上成美
井上成美伝記刊行会

井上成美の伝記。1982年刊行。

題字は、井上成美の筆。

海軍中将時代の井上成美。
自ら進級に反対していたため、海軍大将として独りで撮影された写真は無い。

横須賀鎮守府時代。
鎮守府長官は米内光政。参謀長が井上成美。


井上成美の肉声

海自第2術科学校には井上成美の肉声テープが保管されている。

https://www.mod.go.jp/msdf/twomss/sp/sp_index.html

海自第2術科学校、オープンスクール。


海上自衛隊第2術科学校オープンスクール(2019年)

海自第二術科学校の「井上成美」公開講座が2019年にありました。

「井上成美のしおり」を戴きました。
挟むべき「本」を迷います・・・

偲ぶ
IN LOVING MEMORY OF
May He Rest In God’s Loving Arms
海軍大将 
井上成美
1889年12月9日~1975年12月15日(86歳)

英語教育廃止論を退けた人

明治22年 仙台市に出生
明治42年 海軍兵学校卒業
昭和 2年 イタリア駐在武官
昭和10年 横須賀鎮守府参謀長
昭和12年 海軍省軍務局長
昭和17年 海軍兵学校長
昭和19年 海軍次官
昭和20年 海軍大将、軍事参事官
8月終戦  横須賀市長井の自宅に隠棲後英語塾を始める
昭和50年12月15日 長井の自宅で死去

日本海軍きっての知性といわれた最後の海軍大将。
戦後30年間、清貧を貫いて逝ったこの人の先見性、識見の高さ、事績の正しさは歴史が証明した。
敗戦前夜一億玉砕を避けるべく終戦工作に身命を賭した井上成美だった。
開戦前、米内光政、山本五十六とともに日独伊三国同盟に反対し、無謀な対米戦争回避を主張、戦時下にあっては兵学校長として英語教育廃止論を退ける等、時流に抗して将来を見通す全人教育を目指した。
 阿川弘之

井上成美が艦長を務めた練習戦艦「比叡」


二・二六事件と井上成美

井上成美が横須賀鎮守府参謀長の際に、二・二六事件が勃発。
米内井上コンビが横須賀から陸軍に対抗する。

「二・二六事件と海軍」


小沢治三郎(小澤治三郎)

小沢 治三郎(小澤 治三郎, おざわ じさぶろう)
1886年(明治19年)10月2日 – 1966年(昭和41年)11月9日)
日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。
第31代となる最後の連合艦隊司令長官を務めた。

海軍兵学校37期生。卒業順位は45番。 井上成美と同期。


塚原二四三

塚原 二四三 (つかはら にしぞう)
1887年(明治20年)4月3日 – 1966年(昭和41年)3月6日)
日本の海軍軍人。海兵36期・海大18期。最終階級は海軍大将。
日本海軍で最後に大将に昇進したのが、井上成美と塚原二四三の二人であった。

墓は井上成美と同じく多磨霊園にある。


阿川弘之

「井上成美」
昭和五十年暮、最後の元海軍大将が逝った。帝国海軍きっての知性といわれた井上成美である。彼は、終始無謀な対米戦争に批判的で、兵学校校長時代は英語教育廃止論をしりぞけ、敗戦前夜は一億玉砕を避けるべく終戦工作に身命を賭し、戦後は近所の子供たちに英語を教えながら清貧の生活を貫いた。「山本五十六」「米内光政」に続く、著者のライフワーク海軍提督三部作完結編。

https://books.google.co.jp/books/about/%E4%BA%95%E4%B8%8A%E6%88%90%E7%BE%8E.html?id=TArVCwAAQBAJ&source=kp_book_description&redir_esc=y


「造船の父と造船の神様」赤松則良墓と平賀譲墓

日本海軍の軍艦造船において、「造船の父」と呼ばれた男と、「造船の神」と呼ばれた男がいた。
そんな二人の墓参りをしてみた。


「日本造船の父」(日本造船学の父)
赤松則良(赤松大三郎)

赤松則良(あかまつ のりよし)
天保12年11月1日(1841年12月13日) – 大正9年(1920年)9月23日)
海軍中将、従二位勲一等男爵。

幕末
安政4年(1857年)、長崎海軍伝習所に入所して航海術などを学ぶ。
万延元年(1860年)、日米修好通商条約批准書交換の使節団に随行し、咸臨丸で渡米。
米国海軍のポーハタン号に乗艦した万延元年遣米使節団の正使は新見正興、副使は村垣範正、目付は小栗忠順
同行する咸臨丸司令官は軍艦奉行の木村喜毅(木村芥舟)艦長は勝海舟

文久2年(1862年)、榎本武揚(運用術、砲術、機関学)・上田寅吉(船大工習得)・林研海(西洋医学)らとともにオランダに留学。
文久3年(1863年)4月、オランダ・ロッテルダムに到着。「運用術、砲術、造船学」などを学ぶ。
慶応2年(1866年)、オランダで完成した開陽丸(上田寅吉が開陽丸船匠長)に乗船して榎本武揚らは帰国するも赤松はオランダへ残留、留学を継続する。
慶応3年(1867年)、フランスにてパリ万国博覧会が開催。徳川幕府は将軍慶喜の弟、徳川昭武を名代として派遣し、この一行に日本資本主義の父・渋沢栄一も同行。パリにて、赤松則良と渋沢栄一が交わっている。

慶応4年(1868年)、大政奉還を知り、留学を中止し帰国の途に着き、5月17日、横浜港へ帰着。
戊辰戦争では、榎本武揚に合流を目指すも叶わずに静岡藩に移る。

明治
勝海舟の助言があり、明治政府に出仕。海軍中将にまで昇進。
海軍主船寮長官、海軍兵学校大教授、横須賀造船所長、海軍兵器会議議長、海軍造船会議議長、横須賀鎮守府司令長官などを歴任。

明治8年(1875年)から横須賀造船所所長(後の横須賀海軍工廠)に就任。
1876年(明治9年)、日本国内で初めて西洋技師の手を借りずに4隻の軍艦(清輝・天城・海門・天竜)を設計。
横須賀造船所では、赤松則良とともに西洋造船技術を習得していた上田寅吉が造船技術者として出仕し、横須賀海軍工廠初代工場長ともなっていた。赤松則良の設計のもとで、製図を引いたのが、上田寅吉であった。近代日本の造船技術と海軍の基礎固めに大きく貢献したことから、赤松則良と並び上田寅吉も「日本造船の父」と称されている。なお、赤松は上田を「近代日本造船界の一大恩人」とも賛辞している。

明治20年(1887年)5月24日、男爵を叙爵。貴族院議員も務める。
明治22年(1889年)、新たに開庁した佐世保鎮守府初代司令長官の要職を務める。
明治24年(1891年)、横須賀鎮守府司令長官に就任。
明治26年(1893年)、予備役、明治38年(1905年)10月19日、後備役に編入。
明治42年(1909年)11月1日に退役、大正6年(1917年9月14日)に隠居。

明治13年(1880年)、日本海員掖済会の設立とともに委員長に就任。
明治30年(1897年)、造船協会の設立とともに会長に就任。(現在の日本船舶海洋工学会)

旧赤松家記念館(静岡県磐田市見付)が残っている。これは赤松則良が予備役編入後、隠居所として設けた建物。静岡県指定文化財。


赤松則良墓

赤松則良は、大正9年9月23日に81歳で没している。
墓所は、文京区の吉祥寺。

赤松則良の妻・貞は、オランダ留学に同行した蘭方医であった林研海の妹。その姉は榎本武揚に嫁いでおり、赤松則良と榎本武揚は義兄弟であった。そして、榎本武揚と赤松則良は、同じく文京区の吉祥寺に眠っている。

赤松家之墓

大正元年11月 竣工

墓誌
赤松家先祖代々之霊位
壽仙院殿海家屋南明大居士 初代 大正9年9月23日歿
 従二位勲一等男爵海軍中将 赤松則良 行年81歳
(以下略)

場所
〒113-0021 東京都文京区本駒込3丁目19−17
諏訪山 吉祥寺

https://goo.gl/maps/SrfSwAvEtAEBmhsx8


造船の神様
平賀譲

平賀 譲(ひらが ゆずる)
1878年(明治11年)3月8日 – 1943年(昭和18年)2月17日[1])
海軍造船中将 従三位 勲一等 男爵 工学博士。東京帝大総長。従三位勲一等男爵。
父、平賀百左ヱ門は海軍主計官。兄、平賀徳太郎は海軍少将。

平賀譲は、兄同様に海軍兵学校を目指すも、体格検査で落第。第一高等学校工科に入学。
そして、東京帝国大学工科大学に進学し造船学科を専攻し首席で卒業。
海軍造船学生となり、明治34年に海軍造船中技士(後の海軍造船・造機中尉)となる。
横須賀海軍造船廠を経て呉海軍工廠造船部々員に着任。

明治38年(1905)、イギリス駐在。グリニッジ王立海軍大学造船科修学。
明治42年(1909)、帰国し海軍艦政本部々員、東京帝国大学工科大学講師を務める。
明治45年(1912)、横須賀海軍工廠にて、製図工場長、新造主任。戦艦「山城」、巡洋戦艦「比叡」、二等駆逐艦「樺」を担当し造船工場棟兼任となる。
大正5年(1916)、海軍技術本部第四部に勤務、八八艦隊主力艦の基本計画を担当。
大正7年(1918)、東京帝国大学工科大学教授兼任。

大正9年(1920)、海軍艦政本部再編、海軍艦政本部第四部長に山本開蔵就任に伴い、計画主任に就任。
海軍艦政本部で艦艇設計に従事し、戦艦紀伊型(戦艦陸奥・長門)、重巡洋艦古鷹型、妙高型、軽巡洋艦夕張、川内型、駆逐艦神風型、若竹型を設計。特に妙高型重巡洋艦などの画期的な重武装艦を設計する。

大正12年(1923)、欧州出張。ワシントン条約下の列強建艦状況調査し、翌年帰国。
大正14年(1925)6月、海軍技術研究所造船研究部長に就任。12月に海軍技術研究所所長兼造船研究部長に就任。
大正15年(1926)、海軍造船中将に昇進。
昭和6年(1931)、予備役。
昭和9年(1934)、友鶴事件「臨時艦艇性能調査会」事務嘱託。
昭和10年(1935)、海軍艦政本部の造船業務嘱託。大和設計にも影響を及ぼす。同年に発生した第四艦隊事件の「臨時艦艇性能改善調査委員会」で海軍艦政本部嘱託。
昭和13年(1938)、東京帝国大学十三代総長就任。翌年、「平賀粛学」を断行し教授等13名を追放。また、工学者や技術者を養成するために、平賀譲の発案によって東京帝国大学第二工学部の設置も進めた。平賀譲は興亜工業大学(現・千葉工業大学)の創立を支援している。

昭和18年(1943)2月17日、総長現役のまま64歳にて死去。東京大学医学部に脳保存されている。
昭和18年(1943)2月23日、東京帝国大学の安田講堂に大学葬を挙行され、墓所は多磨霊園にある。


平賀譲墓(平賀譲先生墓

平賀譲の墓は、多磨霊園にある。墓所は23区1種2側。

平賀譲先生墓
(裏面 昭和三十一年十一月建之 平賀譲先生をしのぶ會)

平賀譲先生頌徳碑

場所

https://goo.gl/maps/ysq5ycU3CsRjof5XA


多磨霊園には、牧野茂 の墓もある。せっかくなので付記として。

平賀譲の高弟・戦艦大和の設計主任
牧野茂

牧野 茂(まきの しげる)
1902年(明治35年)8月9日 – 1996年(平成8年)8月30日)
日本海軍技術将校。最終階級は海軍技術大佐。
牧野茂は、師匠であった平賀譲と同じ多磨霊園に眠っている。

1936年(昭和11年)〜1941年(昭和16年) 、呉海軍工廠造船部設計主任。大和設計主任として大和建造に携わる。
1945年(昭和20年) 終戦。海軍技術大佐、海軍艦政本部第4部設計主任。
1955年(昭和30年) 海上保安庁灯台補給船『宗谷』の南極観測船への改造設計に携わる。
1996年(平成8年) 没。享年94歳。

牧野茂墓

牧野

1902.2.9~1996.8.30

1907.4.15~2009.5.13

場所

https://goo.gl/maps/RHvfWPcvbWcJSUrw7

※赤松則良墓は2021年撮影、平賀譲墓と牧野茂墓は2016年撮影。


関連

海軍技術研究所と陸軍目黒火薬製造所跡(目黒区)

JR恵比寿駅と東急中目黒駅、目黒川のほど近くには、かつて陸軍火薬製造所、そして海軍技術研究所があった。


陸軍目黒火薬製造所

幕末に江戸幕府は千駄ヶ谷にあった焔硝蔵(火薬庫)を目黒に移転させ、「目黒砲薬製造所」が設置されたことから、目黒は火薬と密接な関係となる。

明治政府は、旧幕府の「目黒砲薬製造所跡地」に新たに「目黒火薬製造所」を設置。明治18年に操業開始。当初は海軍省の管轄であった。
明治26年、海軍省から陸軍の東京砲兵工廠に移管。
「目黒火薬製造所」は日清戦争・日露戦争での火薬需要とともに発展。

昭和3年(1928)、周辺地域の開発が進むにつれて、都市化された目黒で火薬製造を続けることが危険な状態となったために、火薬製造所を群馬県岩鼻に移転。幕末から続いた目黒での火薬製造の歴史は終焉した。

海軍技術研究所

海軍技術研究所は海軍艦政本部隷下として海軍の先進研究を行っていた機関。
大正12年(1923)に築地で設立。
昭和2年(1927)、築地の研究機関に東京中央市場(築地市場)が建設されることに決まったために、陸軍目黒火薬製造所の跡地に移転を決め、昭和5年(1930)に移転完了。
陸軍目黒火薬製造所から海軍技術研究所へと、目黒のこの地は生まれ変わった。

海軍技術研究所 大水槽

昭和2年(1927)に築地から目黒に移転が決まった海軍技術研究所。
「大水槽」「高速水槽」、ふたつの水槽棟は移転完了の昭和5年に完成。

平賀譲 海軍造船中将

大正時代から昭和初期にかけて海軍艦政本部で艦艇設計に従事した平賀譲は、大正14年から「海軍技術研究所所長」の立場にあり、目黒に海軍技術研究所が移転した際の所長でもあった。平賀譲は昭和6年に退任し予備役となっている。

昭和10年から、海軍艦政本部の造船業務嘱託として戦艦大和の設計に携わる。
海軍技術研究所の大水槽は、戦艦大和の設計の際にも活用された水槽という。

防衛省 目黒地区

海軍技術研究所は昭和20年11月30日、海軍省廃止とともに解体。
占領期間を経て、現在は防衛省目黒地区として活用されている。

  • 防衛省 統合幕僚学校
  • 防衛装備庁 艦艇装備研究所
  • 陸上自衛隊 目黒駐屯地
  • 海上自衛隊幹部学校
  • 航空自衛隊幹部学校

敷地内には、「海軍技術研究所本館」も近年まで残っていたが目黒地区の再整理に伴い、既に解体済み。

そういえば、学生時代に、当時はまだ目黒にあった「防衛研究所史料閲覧室」に卒論のために通ったことを思い出した。防衛研究所史料閲覧室は市ヶ谷に移転。そして目黒地区の北半分は売却された。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M1121-A-39
1948年07月26日、米軍撮影の航空写真を一部加工。

大水槽の北西には「海軍技術研究所本館」

航空写真には残っている「海軍技術研究所本館」は近年取り壊された。

恵比寿ガーデンプレイスタワーの最上階の展望スペースから、遠望できました。

※2023年9月撮影


海軍技術研究所跡地散策

現在は、艦艇装備研究所。
もちろん立入禁止のため、外周から。

大水槽は2つ並んでいる。

大水槽の隣の小屋も当時からのものと思われる。

大水槽

防衛装備庁
艦艇装備研究所

新しい正門。

統合幕僚学校
陸上自衛隊教育訓練研究本部
海上自衛隊幹部学校
航空自衛隊幹部学校

かつての正門。北側は敷地売却された。

場所

https://goo.gl/maps/KiQ2iLaT8hL9kMrB7


東京海軍共済総合病院(東京共済病院)

海軍技術研究所の隣りにあったのが東京海軍共済総合病院。現在の東京共済病院。
昭和5年(1930)9月、東京海軍共済組合病院として開設したことにはじまる。

場所

https://goo.gl/maps/YKvvYeC1uadZ9ptk6


陸軍目黒火薬製造所跡地散策

海軍技術研究所の前身は、陸軍目黒火薬製造所であった。

当時をものがたるものとして、陸軍標石(陸軍境界標石)が2基残っている。

小さな階段の途中に標石があった。
撤去をせずに、このまま階段を作るという心意気が素晴らしい。

もうひとつは、駐車場の片隅に。

陸軍用地
238

場所(この周辺)

https://goo.gl/maps/kBpa3yFqfy5zb5ZZA


奥沢海軍村跡(世田谷区)

東急線の自由が丘駅と奥沢駅の周辺。高級住宅地エリアであるこの界隈は、かつて「海軍村」であった。


奥沢海軍村

大正12年(1923)に発生した関東大震災後、将校居住地が都心部に集中するのは危険であり、郊外に住んだほうが安全だということもあって、郊外への海軍将校の移住が進んだ。

大正13年、海軍士官の親睦団体「水交社」に事務所を置く「水交住宅組合」の斡旋によって、住宅地として整備された奥沢2丁目界隈。
この地は、北に向かえば「霞が関の海軍省」、南に向かえば横浜を経て「横須賀の軍港」となり、また「目黒の海軍大学校・海軍技術研究所」にも近かったということと、まだ開発が進んでいなかったために土地の価格も手頃であったということもあって、多くの海軍士官たちが居住することとなり、気がつけば海軍将校の邸宅が30軒ほど集まったことから「海軍村」と呼ばれるようになった。

奥沢海軍村跡は、今も当時の面影を残す建物が3軒残っており、ポーチ上の玄関やシュロの古木等が残っている。

海軍村跡

地域風景資産
奥沢海軍村
ゆかりの風景
海軍士官の子孫やその後に住み着いた人々により、緑豊かな町並みが残る。
ポーチ付の玄関やシュロの古木等に、当時の面影を垣間見ることができる。

地域風景遺産
大ケヤキのある散歩道‐けやき道
この界わいは、大正13年に海軍士官の住宅地として開発された。海軍村と呼ばれ、街のみどりは洋風住宅が多くあった当時の面影を感じさせる。

「シュロ」(棕櫚)の古木。

海軍村当時の住宅は3軒残っている。

場所

https://goo.gl/maps/MBhYkPKDDbjX1tvk6


関連

https://www.city.setagaya.lg.jp/mokuji/sumai/005/002/d00038440.html

https://okusawa.garden/%e5%9c%b0%e5%9f%9f%e9%a2%a8%e6%99%af%e8%b3%87%e7%94%a3/

https://okusawa.garden/ht/%e6%b5%b7%e8%bb%8d%e6%9d%91%e4%bd%8f%e5%ae%85%e9%85%8d%e7%bd%ae%e5%9b%b3%ef%bc%88%e6%98%ad%e5%92%8c11%e5%b9%b4%e9%a0%83%ef%bc%89/

「日本初の零戦復元機」零式艦上戦闘機52型甲(空自浜松広報館エアパーク)【浜松2】

航空自衛隊の広報施設である浜松広報館「エアパーク」。
ここには空自の退役機に混じって、零戦が展示されている。

展示場所が移設されます(2024年6月24日~)


零式艦上戦闘機五二型甲 A6M5
43-188号機

日本への里帰り第1号機の零戦。

昭和19年3月、三菱名古屋工場製造機。
所属は、第三四三海軍航空隊(1944年1月に開隊した初代、通称隼部隊)。
昭和19年6月〜7月にかけてのマリアナ諸島攻防戦で、米軍との戦闘や米軍機の空襲などにより壊滅し、7月10日に解隊。
浜松基地浜松広報館に保存されている零戦は、第三四三海軍航空隊の飛行隊長・尾崎伸也大尉(海兵68期)が昭和19年6月19日に米軍と交戦し被弾し不時着し放棄された機体。尾崎伸也大尉は戦死されている。
海兵68期の尾崎伸也大尉の同期には、作家・豊田穣、撃墜王・鴛淵孝、九軍人の広尾彰、海軍中将松永貞市の息子・松永市郎、捕虜第一号となった酒巻和男など。
第三四三海軍航空隊は、昭和19年12月に再編(二代目)される、これが通称「剣部隊」として紫電改を用いて有名となった航空隊。

昭和39年1月に日本に里帰り。

零戦52型
零戦52型は1943年8月初飛行し、太平洋戦争後半の日本海軍の主力戦闘機として活躍した機体である。この機体には甲、乙、丙の3種の型があり、零戦総生産数約1万機のうち、4種あわせた52型シリーズは約6,000機が生産された。

性能
全幅 11m
全長 9.1m
全高 3.5m
全備重量 2,733kg
エンジン 栄21型 最大出力1,100馬力x1基
最大速度 565km/h
実用上昇限度 11,740m
航続距離 1,920km
乗員 1名
搭載武装 7.7mm固定銃x2門 99式20mm固定銃x2門

零式艦上戦闘機(零戦)の展示経緯
昭和38年4月  本展示機がグアム島で発見される。
同   7月  グアム島知事から日本への返還が決まる。
昭和39年1月  米軍C-130輸送機により岐阜基地へ搬送。
       本機の製造元である三菱重工業大江工場にて忠実な復元作業を実施。
同   10月 我が国で最初の零戦復元機が完成。
(その後、全国各地において展示されたため期待の損傷がひどくその管理が必要とされた。)
昭和42年11月 航空自衛隊の航空機整備のメッカ(航空機の整備学校が所在)である浜松基地に移送され
       その後浜松基地におきて展示・管理された。
平成11年4月  航空自衛隊浜松広報館開設に伴い、当館において展示される。

国内で吊り下げ展示されている唯一の零戦。

航空自衛隊浜松広報館

浜松陸軍飛行場

「浜松陸軍飛行場」は、浜松陸軍飛行学校と飛行第7聯隊があった。
現在は、航空自衛隊浜松基地。

広報館とは別に、浜松基地内にある「浜松基地資料館」にも行きたいんですけどねええ。。
基地内には「陸軍爆撃隊発祥之地」碑もある。

空自関係の展示多数。

※撮影は2020年11月


https://www.mod.go.jp/asdf/airpark/


浜松には陸軍の施設が集中していた。戦跡もちらほら残っている。
そんな散策の記録は別途で。

瓜生外吉海軍大将之像と瓜生外吉墓(小田原と南青山)

小田原に、海軍大将 瓜生外吉 が晩年に隠棲した邸宅があった。


瓜生外吉(うりゅう そときち)

安政4年1月2日(1857年1月27日) – 昭和12年(1937年)11月11日)
大日本帝国の海軍軍人。海軍大将。加賀藩支藩の大聖寺藩(石川県)の出身。

海軍兵学校は卒業していないがアナポリス海軍兵学校に留学をしており明治海軍有数のアメリカ通。
瓜生外吉夫人の瓜生繁子は三井物産の益田孝の実妹。明治新政府の第一回海外女子留学生(日本初の女子留学生)として渡米し10年間のアメリカ経験あり。三井物産初代社長の益田孝は義理の兄となる。
そして、「東洋のセシル・ローズ」と称された衆議院議員・森恪は女婿(瓜生栄枝・瓜生外吉の三女)となる。

明治33年(1900)、海軍少将・軍令部第1局長。
明治37年(1904)2月4日、日露戦争開戦。第四戦隊司令官として参加。
開戦直後の明治37年2月9日、瓜生外吉率いる第四戦隊(旗艦・巡洋艦浪速、高千穂、明石、新高に、臨時で装甲巡洋艦浅間と第九艇隊および第十四艇隊の水雷艇8隻)は、仁川のロシア海軍・防護巡洋艦「ヴァリャーグ」と航洋砲艦「コレーエツ」を、日露戦争の口火を切った「仁川沖海戦」で撃破。瓜生外吉率いる第四戦隊が初戦の勝利を飾る。

日露戦争後、佐世保鎮守府長官・横須賀鎮守府長官を歴任。
大正元年(1912年)10月16日、海軍大将に昇級。薩摩出身者以外では2番目の海軍大将であった。
ちなみに、薩摩閥以外での1番目の海軍大将は会津白虎隊出身の出羽重遠(日露戦争では第三戦隊司令官)。出羽重遠は明治時代で唯一の薩摩閥外の海軍大将。とはいっても明治45年(1912)7月9日に海軍大将となっているので、瓜生外吉の3ヶ月前。
大正2年(1913年)、予備役に編入。

瓜生外吉は義兄である三井物産創始者・益田孝の勧めで、海軍退役後の大正2年に、小田原天神山に隠棲の別荘を設けて移り住んだ。
大正11年に体調を悪くし、小田原で療養中に大正12年の関東大震災に遭遇。一度、都内に転地療養し全快。
大正14年以降、再び小田原別邸に移住。
瓜生邸付近の道路が狭隘で、その上石段があるため、自動車の通行が不可能であったため、義兄・益田孝の経済的な援助と、海軍部員の奉仕によって工事が施行され、完成後に「瓜生坂」と呼ばれるようになった。
瓜生外吉は小田原を愛し、地元海軍部員はもとより、地域の人々とも交流が深かったという。(死後に地域の人々により記念の胸像が建立された)
昭和12年11月11日、81歳の天寿を全うした。正二位勲一等旭日桐花大授章が追贈。


瓜生海軍大将之像

作者は、北村四海。大正6年(1917)の作。
瓜生外吉没後、小田原町第十六区民・山角町青年誠友会員により、昭和14年(1939)5月27日、山角天神社の石段中途左に「瓜生海軍大将之像」が東京の瓜生邸から山角天神社へ移築され建立された。

瓜生海軍大将之像

昭和14年5月27日
小田原町第十六区民 
山角町青年誠友会員 建設

瓜生外吉海軍大将之像
Statue of Admiral Baron Sotokichi Uriu, I.J.H.
 瓜生外吉(1857‐1937年)は、米アナポリス海軍兵学校を卒業。
 日露戦争(1904‐1905年)の仁川沖、蔚山沖、日本海の各海戦で活躍し、1912年に海軍大将に昇進しました。
 後年は夫人繁子(日本初の女子留学生)とともに対米民間外交、親善に尽力しました。
 ここから」西に200mほどの高台に別荘を設けた外吉は、誠実な人柄が市民に敬愛され、海を眺めての小田原の生活をこよなく愛しました。

小田原の海を望む。

坂に名を残した人・瓜生外吉(海軍大将・男爵)

山角天神社


瓜生坂

すみません、写真を取りそこねております。
Googleストリートビューのキャプチャを暫定で掲載しておきます。。。

瓜生坂は、海軍を退役後に小田原天神山の別荘に移り住み、入退院を繰り返していた瓜生外吉を車で移動できるようにするため、義兄の益田孝の援助と、交流のあった海軍関係者が奉仕活動で造った坂。

https://www.kanaloco.jp/news/social/entry-110665.html


場所は変わって。。。東京の青山霊園

瓜生外吉の墓

場所は、1種イ22号5側。訪れたときは、ちょうど薔薇の花が賑わっていました。

海軍大将正二位
勲一等功二級男爵
瓜生外吉墓

隣には瓜生夫人の墓も。

従五位 瓜生繁子之墓

瓜生外吉の長男、瓜生武雄は、明治41(1908)年4月30日の松島爆沈事故で殉職している。

海軍少尉従五位瓜生武雄墓

明治41年4月30日軍艦松島
馬公港爆裂之際殉難齒廿三


森恪の墓(もり かく/もり つとむ)

青山霊園には、森恪の墓もありました。瓜生外吉の女婿(瓜生栄枝・瓜生外吉の三女)。
青山霊園内を散策していたら、たまたま見つけましたので参詣。
ちょっと墓地が荒れていました。。。
場所は、1種ロ8号1側。


小田原の瓜生海軍大将之像から、東にちょっと行った所に、対潮閣跡がある。
海軍史としては、秋山真之終焉の地。瓜生外吉とは日露戦争の縁もあり、ここに付記する。

対潮閣(山下亀三郎別邸)《秋山真之終焉の地》

山下亀三郎は、山下汽船(現・商船三井)の創業者。
現在は、邸宅は残っておらず、個人宅・私邸が分割されている。
対潮閣の正面玄関があった場所に、説明の看板がある。

対潮閣(山下亀三郎別邸)跡(秋山真之終焉の地) 
 明治時代から、小田原には、伊藤博文、山縣有朋、益田孝(鈍翁)、田中光顕、北原白秋など多くの政財界人や文人が居を構えたり、訪れたりしていた。
 山下汽船(現・商船三井)の創業者山下亀三郎(1867~1944)の別邸「対潮閣」の正面入口がこの辺りにあった。
 対潮閣には、山下と愛媛の同郷であった海軍中将秋山真之(1868~1918)がたびたび訪れ、山縣の別邸「古稀庵」(現・あいおいニッセイ同和損保小田原研修所)を訪ね「国防論」について相談していたが、患っていた盲腸炎が悪化し、大正7(1918)年2月4日未明に対潮閣内で亡くなった(享年49歳)。

 正面の巨石は、対潮閣にあったもので、梵鐘を抜いた形の空洞があるので「釣鐘石」といわれている。
 左手前の石碑には、田中光顕がこの石を賞して詠んだ和歌が彫られている。

碑文
「うちたたく 人ありてこ曾(そ) よの中に な里(り)もわたらね つりが年(ね)の石 光顕」

田中光顕歌碑

うちたたく 人ありてこ曽 よの中に な里もわたらめ つりが年の石 光顕

 釣鐘石

山下亀三郎別邸の上段は清閑亭。

清閑亭(旧・黒田長成邸)

対潮閣の隣にあるのが清閑亭。
秋山真之も最後のときに、同じように相模灘の小田原の海を眺めていたかもしれない。

瓜生外吉から、神奈川の小田原から東京の青山霊園から、小田原の秋山真之へと、話が散らかりました。


小田原散策で、瓜生外吉と出会って、あまり知ることなかった瓜生提督のことを深堀りできたのが、良き記録となりました。


駆逐艦五月雨戦没者慰霊之碑(小田原)

JR早川駅から見える大きな白い観音様。
「魚藍観音」
小田原市早川の東善院に、駆逐艦五月雨の慰霊碑があるというので足を運んでみた。


駆逐艦五月雨戦没者慰霊之碑

小田原市早川鎮座の東善院、魚藍観音の後方の墓地の最上段に、「駆逐艦五月雨の慰霊碑」はあった。

駆逐艦五月雨慰霊碑がこの地に建立された理由は、五月雨の元乗組員で組織された「五月雨会」のメンバーに小田原出身者がいたことによるという。相模湾を望むこの地から、五月雨の慰霊碑は生まれ故郷(建造ドック)のある浦賀に向け建てられているという。

駆逐艦五月雨戦没者慰霊之碑
昭和57年8月 戦友並ニ遺族 建之

慰霊碑の下部には戦没者の名前が刻まれている。
昭和17年10月14日 10名 (ガダルカナル島の戦い)
昭和18年11月2日  6名 (ブーゲンビル島沖海戦)
昭和19年8月26日  9名 (パラオ・ガルワングル環礁)

駆逐艦五月雨

白露型駆逐艦の6番艦。
浦賀船渠で建造され、昭和12年(1937年)就役。
昭和16年12月8日の太平洋戦争開戦時は、白露型4隻(村雨・五月雨・夕立・春雨)で第2駆逐隊を編成し、第四水雷戦隊(旗艦・那珂)に所属。南方作戦に従事。

昭和17年10月12日夕刻、第2駆逐隊3隻(五月雨・春雨・夕立)は輸送船4隻(吾妻山丸、南海丸、九州丸、佐渡丸)を護衛してラバウルを出撃。
10月14日、栗田健男中将指揮下の第三戦隊(金剛、榛名)によるガ島ヘンダーソン飛行場砲撃は成功するも、輸送船団は14日朝以降米軍機の空襲を受け、五月雨も被害を受け10名の犠牲者を出す。
その後も五月雨は、第三次ソロモン海戦、キスカ島撤退作戦などに参戦。

昭和18年11月2月、第27駆逐隊(時雨・白露・五月雨)はブーゲンビル島沖海戦に参加。五月雨は舵が故障した白露と衝突し、さらに米軍駆逐隊に追撃されて被弾し、6名の犠牲者を出すが、五月雨・白露とも離脱に成功。

昭和19年にはいり五月雨は中部太平洋諸島への船団護衛に従事。
昭和19年8月18日、軽巡鬼怒と第27駆逐隊(時雨・五月雨)で航行中に、五月雨はパラオ近海のガルワングル環礁で座礁。火災も発生し深刻な損傷を受けてしまう。B-24の爆撃に曝される中で、8月26日にアメリカの潜水艦バットフィッシュ (USS Batfish, SS/AGSS-310)が座礁中の五月雨を雷撃。魚雷は五月雨右舷中部に命中し、大破した船体は断裂し9名の犠牲者を出す。五月雨は放棄され五月雨艦長以下生存者は駆逐艦竹に救助された。

五月雨の生まれ故郷「浦賀」を望む。(魚藍大観音とともに)

五月雨慰霊碑の高台からは、小田原城も見える。

そして、五月雨慰霊碑の後方を東海道新幹線が走り抜ける。


魚藍大観音

大きな白い観音様は、魚を入れる籠(魚藍)を携えている。籠からは魚の尾びれが飛び出している。なかなか愛くるしい観音様。
昭和57年(1982年)に、海上安全・大漁祈願を目的として建立。
鉄筋コンクリート造りの全身像で総高13m。

魚籃観音
三十三観音の一つ。魚を入れたかごを手にさげている観音。大魚に乗っている像もある。羅刹(らせつ)・毒龍の害を除く功徳があるという。魚籃。

コトバンク 
https://kotobank.jp/word/%E9%AD%9A%E7%B1%83%E8%A6%B3%E9%9F%B3-480000

東善院

神奈川県小田原市早川482鎮座。真言宗東寺派。

JR早川駅からも、魚藍大観音のお姿は見える。


JR早川駅

JRの駅では日本一港に近い駅、らしい。小田原漁港の最寄駅。
1922年(大正11年)12月21日、開業。
1923年(大正12年)9月1日、関東大震災で駅舎倒壊。
現在の駅舎は関東大震災以降に再建されたであろう木造駅舎。昭和初期の佇まいを残す。


場所

https://goo.gl/maps/GrKN9roxnGSLM8C56


関連(五月雨の僚艦たち)

村雨

白露・時雨(第二十七駆逐隊慰霊碑)

佐世保海軍墓地

「45cm四四式二号魚雷」神山神社に残る国産初の魚雷(小田原)

小田原駅から北西に約2キロの地に鎮座している神社に「魚雷」があると聞き、足を運んでみた。
なんでも地元では「久野の爆弾神社」といわれているらしい。


45cm四四式二号魚雷

昭和2年に神山神社に下付された魚雷。
第24代横須賀鎮守府長官・安保清種まで魚雷提供の相談があったという。

日清・日露戦争時の帝国海軍は輸入魚雷に頼っていた。
日露戦争後、明治44年(1911)に国産化にはじめて成功した魚雷が「45cm四四式魚雷」。
この四四式魚雷が帝国海軍の魚雷技術発展の礎となり、世界で唯一実用化に成功した酸素魚雷を生み出すこととなる。

由来(郷社神山神社の魚雷について)
「戦時下の小田原地方を記録する会」の調査によると、神社関係者が戦前旧日本海軍から譲り受けたとみられる。
防衛省防衛研究図書館所蔵の「廃兵器無償下附の件」と題する文章によると、1927年8月1日で同神社の関係者から旧日本海軍の横須賀鎮守府長官迄に魚雷提供の要請があり、同9月に許可が下りる。陸軍大臣にも同様の要請を行い、魚雷、砲弾が送られる。戦後、魚雷1基と砲弾2発は慰霊碑とともに残されたが砲弾は火薬が残存する疑いがあり、2003年に撤去する。
海上自衛隊による魚雷調査結果は、全長5.2メートル直径45センチメートル、明治44年制式と推定された。

 久野氏子の皆様に恒久の平和を願うものです

思った以上に、しっかりとした魚雷。

細部を観察。

ネジ穴が海中の抵抗を考慮し、涙滴型となっている。

内部に木材が使われていました。

当時、最新のテクノロジーで作られたであろう機器が露出。

シャフト部分

横舵と縦舵と推進プロペラ

これは貴重な戦跡、戦争遺産。一見の価値ありです。


魚雷の後方に並んでいる3つの慰霊碑。

忠魂碑

忠魂碑
陸軍大将正三位勲一等功三級男爵 奥保鞏 書

明治三七八年戦役戦没者

日露戦争の慰霊碑。明治39年建立。
日露戦争における戦没者17柱の慰霊顕彰。

二七八役戦歿者碑

陸軍歩兵大佐従五位勲三等功四級 隠岐重筋 書
明治31年3月建立。日清戦争の慰霊碑。
日清戦争における戦没者2柱の慰霊顕彰

忠霊塔

忠霊塔
靖国神社宮司 筑波 藤麿 書

昭和32年3月建立。
大東亜戦争における戦没者110柱の慰霊顕彰。

砲弾が置かれていたであろう場所。


神山神社(こうやま神社)

神奈川県小田原市久野に鎮座。明治社格は郷社。

神山神社
 神山神社の祭神は天照大神、伊弉諾命、伊弉冉命で、第六十六代一条天皇の永延2年(988)に創建されたといわれています。
 かつて神山神社は、久野坊所村山中に在社していましたが、兵火により焼け落ち、その時社殿から御幣が舞い上がり、松田の神山と現在地に落ちた。また、権現再興のために牛に乗せ山道を降りて来た時、現在地にて牛が動かなくなったため、この地を霊地として御魂を移した、などと言い伝えられています。
 応永23年(1416)、上杉禅秀の乱により、それまでの社殿や宝物などが焼失しましたが、大栄永4年(1524)神山権現を信仰した北条氏綱により社殿が改修されました。
 天正18年(1590)、小田原合戦の際に、神主の窪倉中務正広は、戦火を逃れるために神社の宝物類を携えて逃げる途中に亡くなったため、神社はこれまでの繁栄を失ったといわれています。
 小田原合戦前は近隣の村々18箇所の総鎮守でしたが、江戸時代後期には久野・池上・荻窪の3箇所の、そして現在は久野地区及び水之尾地区の一部の総鎮守となっています。例祭日は10月吉日です。

場所

https://goo.gl/maps/d591NSrv74k3NsiX7


関連記事

https://www.kanaloco.jp/news/social/entry-118483.html

https://www.kanaloco.jp/news/social/entry-105900.html

https://www.townnews.co.jp/0607/2014/09/20/252243.html

海軍艦政本部・大阪倉庫跡

海軍艦政本部は、海軍大臣に隷属し、造艦・造兵・造機に係わる事務を司った海軍省外局のひとつ。
艦本式ボイラーや艦本式タービンなどの開発などで、略称「艦本」は一部では著名。

大阪大正区の南恩加島・木津川の河口付近に、海軍艦政本部の大阪倉庫の遺構があるというので足を運んでみた。


海軍艦政本部大阪倉庫
(現在の木津川倉庫株式会社)

現在の木津川倉庫株式会社の敷地が、当時の海軍艦政本部・大阪倉庫。
当時は海軍資材の倉庫として使用されていた地は、現在は保税倉庫や食糧倉庫として使用されている。木津川倉庫株式会社の創業は昭和27年。
昭和27年4月1日に、木津川倉庫株式会社は国有資産であった海軍艦政本部木津川倉庫を借用して、倉庫業を営む目的で設立されたことにはじまる。同年12月11日に払い下げ。

海軍艦政本部大阪倉庫
正門跡

正門の門柱は当時のまま残されていた。

スクラッチタイルが施されたモダンな意匠を下部に見ることができる。

門柱の上部にもタイルが施されていたが、上部はすべて撤去済。
数年前までは、残っていた。

門札の跡も。

外壁もそのまま残っている。

搬入門周辺はリニューアルされている。
こちらも数年前までは門柱が残っていたが撤去済み。

海軍艦政本部大阪倉庫
外壁

外壁もほぼ当時のまま使用されているが、ところどころに亀裂の補修なども見られる。

北側の搬入口。

海軍艦政本部大阪倉庫
当時の倉庫2棟
(現在の木津川倉庫株式会社)

木津川倉庫株式会社の第1号倉庫と第2号倉庫が、当時の海軍時代からの倉庫。
現在は、低温倉庫として使用されている。
数年前までは4棟あったというが、北側の2棟は取り壊され、現在は南側の2棟のみが残されている。


千本松渡船

すぐ近くの「千本松渡船」も楽しいので、散策時は一緒に巡るのがおすすめ。藤永田造船所跡地を遠望することもできます。

※2021年4月撮影


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-R462-83
1948年11月22日、米軍撮影の航空写真を一部加工。

木津川の河口にはいくつかの造船所が集まっていた。

海軍艦政本部大阪倉庫の4棟の倉庫がわかる。

現在は、南側の2棟を確認できる。敷地は当時のまま。

https://goo.gl/maps/itVoJzXiz3o8fhfx6


関連

「駆逐艦のふるさと」藤永田造船所跡地(大阪)

大阪市内にあった民間の造船所。
日本最古の造船所とも言われ、また多くの駆逐艦を製造し、「西の藤永田、東の浦賀」とも称されていた。

そんな、大日本帝国海軍駆逐艦のふるさとである藤永田造船所跡地を散策してみた。


藤永田造船所

1689年(元禄2年)、大阪堂島船大工町に船小屋「兵庫屋」として創業したことに始まる。
開国後に、西洋式船舶の建造に取り組み、近代的造船所となる。
明治7年(1874)に「藤永田造船所」に社名変更。

大正8年(1919)に海軍指定工場となり、駆逐艦「藤」(樅型駆逐艦13番艦)を受注。
太平洋戦争に際しては、駆逐艦の増産に努め、昭和19年(1944)1月に軍需工場に指定。大阪では、大阪陸軍造兵廠、住友金属工業に次ぐ三番目の従業員規模であった。

藤永田造船所で造られた艦艇

駆逐艦
樅型
  藤(樅型13番艦)
  蕨(樅型20番艦)
  蓼(樅型21番艦)
若竹型
  芙蓉(若竹型7番艦)
  刈萱(若竹型8番艦)
睦月型
  皐月(睦月型5番艦)
  文月(睦月型7番艦)
  夕月(睦月型12番艦)
吹雪型(特型)
  叢雲(吹雪型5番艦)
  白雲(吹雪型8番艦)
  綾波(吹雪型11番艦)
特Ⅱ型
  曙(吹雪型18番艦・特Ⅱ型8番艦)
特Ⅲ型
  電(吹雪型24番艦・特Ⅲ型4番艦)
白露型
  村雨(白露型3番艦)
  江風(白露型9番艦・海風型(改白露型)3番艦)
朝潮型
  満潮(朝潮型3番艦)
  山雲(朝潮型6番艦)
  峯雲(朝潮型8番艦)
陽炎型
  黒潮(陽炎型3番艦)
  夏潮(陽炎型6番艦)
  浦風(陽炎型11番艦)
  谷風(陽炎型14番艦)
  舞風(陽炎型18番艦)
夕雲型
  巻雲(夕雲型2番艦)
  長波(夕雲型4番艦)
  大波(夕雲型7番艦)
  玉波(夕雲型9番艦)
  藤波(夕雲型11番艦)
  朝霜(夕雲型16番艦)
  秋霜(夕雲型18番艦)
松/橘型
  梅(松型3番艦)
  桑(松型5番艦)
  杉(松型7番艦)
  樫(松型10番艦)
  楢(松型12番艦)
  柳(松型14番艦)
  樺(松型31番艦・橘型/改松型)
  桂(未成)
砲艦
  二見・伏見・隅田
千鳥型水雷艇
  真鶴・初雁
第二号型(丁型)海防艦
  第36号・第40号・第48号・第58号(未成)
掃海艇
 第一三号型
  第13号・第15号
 第一九号型
  第38号・第41号

藤永田造船所跡地

現在、跡地には「藤永田造船所跡地」の石碑が残る。
平成11年8月建立。

戦後は、漁船建造から再出発。貨物線やLPG船なども建造。
昭和42年(1967)に三井造船に吸収合併。現在工場敷地は再開発されており、当時の面影を残すものはほとんど残されていない。
グーグルストリートビューでは、2020年7月では三井造船マシナリー・サービス内に往時の建物が残されているのが確認できたが、2021年4月の現地訪問で更地を確認し、往時のすべての建物の消失を確認。

最後まで残されていた建物の記録は、盡忠報國様の「大日本者神國也」ブログに詳しい。

http://shinkokunippon.blog122.fc2.com/blog-entry-1573.html

場所

https://goo.gl/maps/2uJa2CQtNahVjfTA8


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M18-1-144
1948年2月20日、米軍撮影の航空写真を一部加工。

Google航空写真

ファイル:USA-M18-1-144

ファイル:USA-R462-83を一部加工。1948年11月22日、米軍撮影。


藤永田造船所跡地散策

数年前まで、三井造船マシナリー・サービスのあった土地は更地に。

更地になって、新木津川大橋がよく見える。。。

新木津川大橋

徒歩で渡ってみました。
正直言って、徒歩横断はおすすめしません。むちゃくちゃ怖かったです。(高所恐怖症的に)
渡り終えるまでに時間は約30分要しました。

新木津川大橋は1994年に完成。中央部の橋長は495m、それなのに、総延長は2.4km。これは3重ループで高さを稼いだためそのため、橋の高さは水面上50mもある。
アーチ橋として完成時は日本最長であった。

橋を渡った理由は、藤永田造船所跡地を上から見学するため、

ここに、藤永田造船所があった。

藤永田造船所のドック入口跡。この場所だけ凹んでいるのは、今は埋め立てられているがここにドックがあった名残。

橋に近い右側の護岸は往時の名残かもしれない。
左側の護岸は最近補強された模様。

藤永田造船所のドック時代の護岸か?

藤永田造船所跡を、新木津川大橋から。

藤永田造船所のドック入口跡の凹みがわかる。

ちなみに、新木津川大橋を徒歩で横断する場合、この3重ループが目が回りそうで辛い。
ここを二度と歩くことはないだろう。

新木津川大橋から木津川を眺める。
藤永田造船所は木津川の両岸にあった。右側が本社工場。左側が船町工場。

藤永田造船所船町工場があった場所。

新木津川大橋の3重ループの場所も、藤永田造船所船町工場があった場所であった。


新木津川大橋の3重ループの地上入口あたり。
大阪にあった知られざる飛行場の跡地。

木津川飛行場跡

木津川飛行場
 わが国の近代航空技術は大正7年(1918年)頃から急速に開発が進み、あわせて飛行場も必要になってきました。大正11年(1922年)からは空の定期貨物輸送も始まり、大阪から東京、徳島、高松、別府などへの路線が次々と開設されましたが、当時はまだ木津川河口や堺の水上飛行場を利用していました。木津川河口に陸上飛行場が構想されたのは大正12年(1923年)頃からです。昭和2年(1927年)に着工し、昭和4年(1929年)には未完成のまま、東京・大阪・福岡間に1日1往復の定期旅客便が就航しました。しかし、市街地からの交通の便が悪く、地盤不良で雨天時の離着陸も困難であった為、昭和9年(1934年)の八尾空港、昭和14年(1939年)の伊丹空港完成により、その役割を終え、昭和14年(1939年)には閉鎖されました。
 大阪市教育委員会

ちなみに、木津川飛行場をしめす地図にも藤永田造船所の記載があった。

流石に往時を物語るものはない。

滑走路のあった場所、新木津川大橋から望んでみる。

新木津川大橋の3重ループ。圧巻。

工場地帯を歩く人は、いない。


千本松渡船場から、新木津川大橋と藤永田造船所跡地を望む。

藤永田造船所のドックがあった凹みの部分の護岸がわかる。

既に往時を物語るものがほとんど残されていない藤永田造船所跡地。
この地で生まれた多くの駆逐艦たちとともに、想い出の地となっていた。

※2021年4月撮影


関連

海軍大和田通信隊跡地散策(新座市・清瀬市・東久留米市)

埼玉県新座市西堀、東京都清瀬市清戸、東久留米市上の原にかけて、かつて大日本帝国海軍の通信施設があった。
内陸県・海なし県「埼玉」にある、貴重な海軍戦跡。


海軍大和田通信隊

日本海軍の無線電信は、霞が関の海軍省内に設けられていた「東京無線電信所」を中心におこなれていたが、無線は同時交信を行うことから「送信所」と「受信所」を分離設置する必要があった。
 「東京海軍無線電信所」      中央管制と受信
 「東京海軍無線電信所船橋送信所」 送信設備
昭和9年(1934)に、「海軍東京無線電信所」の附属機関として無線傍受を専門とする「海軍東京無線電信所大和田受信所」の設置が決定。
「大和田受信所」は昭和11年に開設され昭和12年(1937)から本格稼働を開始。
また、昭和9年6月には、海軍通信隊令が施行。海軍無線電信所は海軍通信隊となり、「大和田受信所」は、「東京通信隊大和田分遺隊受信所」となっている。
昭和16年(1941)、太平洋戦争開戦時に「東京通信隊」から独立した「大和田通信隊」となり、傍受を掌る通信隊として海外無線の傍受を行い、副受信所では、方位測定を掌る大和田通信隊分遺隊が展開された。
アンテナ群は東西1キロ、南北2キロ以上の広範囲に設置。受信機は主に現在の新座市に置かれていた。
この地域に受信設備が置かれた理由は、武蔵野台地の中心に位置しており、周辺には電波障害の要因となる鉄道。幹線道路・民家なども少ない環境であったためという。

「大和田通信隊」での受信実績(傍受実績)として、昭和16年12月8日の真珠湾攻撃成功を伝える電信「トラ・トラ・トラ」(モールス符号「・・―・・ ・・・」トラ連送)「ワレ奇襲ニ成功セリ」を受信。
米海軍が平文で打った「airraid on pearlharbor x this is not drill」(真珠湾が空襲を受けている。これは演習ではない)の電報も受信。
なお、真珠湾攻撃開始時の電信「ニイタカヤマノボレ1208」を送信したのは、「船橋送信所」。
また、終戦時の「ポツダム宣言」を受信したのも「大和田通信隊」。
戦争の最初と最後に「大和田通信隊」が絡んでいたのだ。

海軍予備学生達を主人公とした阿川弘之「暗い波濤」では、「大和田通信隊」の描写もある。阿川弘之自身も海軍予備学生として海軍に入隊し海軍少尉に任官し傍受諜報担当任務に携わっていた、という海軍経験を元に書かれた名作。

現在は、受信設備が置かれていた新座市には、「在日米軍大和田通信所」が引き続きアンテナ群を展開。
清瀬市にあった副受信所の一部は気象庁気象衛星センターとなっている。東久留米市域は東久留米団地として再開発されている。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:C59-C2-41
昭和18年(1943年)06月27日、日本陸軍撮影の航空写真を一部文字入れ加工。

この広大な敷地に、アンテナ群が点在していた。

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:X1-C2-82
19410625S16

「海軍用地」の境界標石が2基残っている。
農道の脇にあり、非常にわかりにくいので、大体の位置は下記を参照で。


海軍大和田通信隊跡地(新座市)
門柱跡

フェンスの向こう側、「在日米軍大和田通信所」管理地内に、一対の門柱が残っている。
米軍がこのような門柱を作るとも思えないため、旧海軍時代の名残と思われる。

場所

https://goo.gl/maps/2mpdJSp5ZrbCcxaJ8


海軍大和田通信隊跡地(清瀬市)
「海軍用地」境界標石

現在の米軍敷地の北西、農道と農地に囲まれた場所に、2基確認できる。

海軍用地

第十七號

周辺に目印はない。。。

1基目の東側の農道に。

海軍用 (海軍用地)

右側のフェンスは米軍敷地。

裏面は摩耗して判別不能。

この界隈は、米軍用地と国有地と農地が入り混じっている。


海軍大和田通信隊跡地(東久留米市)

東久留米上の原。当時を偲ぶものは格別には残されていないが、「海軍大和田通信隊跡」を記録する看板が設立されいる。

東久留米市指定文化財 旧跡第6号
海軍大和田通信隊跡 上の原1丁目、2丁目
 昭和11年 (1936) に埼玉県北足立郡大和田町西堀に開設された旧日本海軍の外国無線傍受専用受信所の中心的な施設で、翌年に「東京通信隊大和田分遣隊」となり、昭和16年(1941)には「大和田通信隊」として独立しました。大和田町の受信施設を中心に、東京都北多摩郡清瀬村下清戸、同久留米村神山に及ぶ本隊、清瀬村中清戸の副受信所の3町村にまたがる広大な面積を有し、久留米村には字神山の平坦地に関連施設やアンテナ群が設置されました。久留米村部分の面積は明確ではありませんが、海軍施設所有地約 1.2 ヘクタール、アンテナ等敷設の海軍占有地約 200 ヘクタール程(現在の上の原一丁目、二丁目内)と推定されます。
 戦後、久留米村の用地の大部分は国有地となり、昭和37年(1962)に日本住宅公団の大規模な「東久留米団地」が建設されました。また、久留米村の通信施設の一部は米軍の「大和田通信所」の基地となり、その後、昭和38年から昭和52年まで運輸省航空交通管制本部として利用されました。現在、旧海軍通信施設としての遺構等は全く存在しませんが、上の原二丁目の南西より「海軍用地」の境界杭が発見されており、この地に旧海軍の施設が存在したことを記憶にとどめるため、戦争遺跡として旧跡に指定しました。なお、旧跡指定は東久留米市域のみです。
 東久留米市教育委員会

東京都東久留米市上の原1丁目6

場所

https://goo.gl/maps/cjNMtdqydHT5yUxL8


在日米軍大和田通信所

海軍大和田通信隊跡地の中心である新座市には、現在も「在日米軍大和田通信所」がある。

こうしてみると、実はフェンスに囲まれたエリア以外も「在日米軍大和田通信所」として米軍区域であることがわかる。周辺の農地や新座市総合運動公園なども米軍区域に含まれている。

周辺には、「防衛施設庁」境界標石が多い。
最初、「海軍用地」境界標石を探していた時に、何度騙されたことか。。。

昔は、界隈には海軍用地境界石が、まだまだ多くあったようだけど、今回、私が見つけられたのは、2基だけでした。。。


海軍無線電信所船橋送信所跡


関連

海軍道路と桜並木(横浜市瀬谷区)

横浜市瀬谷区の通称「海軍道路」
 相模鉄道「瀬谷駅」より北の八王子街道に向けて一直線に伸びる約3キロの直線道路。
見事な桜並木の名所としても有名。

ちょっと散策してみました。

以前の記事も参照で


海軍道路

海軍道路
 第二次世界大戦以前、この付近には、旧日本海軍(横須賀海軍軍需部、第2海軍航空廠)の火薬工場、補給工場、倉庫等が立地していました。当時は、海軍道路沿いに、旧日本軍が整備した引込線が敷設されており、旧日本軍施設と神中鉄道(現相模鉄道)瀬谷駅を結ぶ輸送等の役割を担っていたと考えられています。その後、旧日本海軍施設は「上瀬谷通信施設」として昭和26年3月より米海軍に接収されていましたが、平成27年6月30日、日本に返還されました。
 「海軍道路」は、これらの歴史を踏まえ、横浜市の道路愛称事業(歴史的に由来のある道路や、通称が住民に定着している道路に愛称を付ける事業)により、市道環状4号線のうち瀬谷中学校交差点付近から八王子街道に至る約2,850mについて名づけられた「愛称道路」名として、現在も広く親しまれています。
 平成29年3月(令和2年3月改定) 瀬谷区役所

質問(瀬谷区)海軍道路の概要について
回答
(1)名称の由来
 昭和15年頃、現在の上瀬谷通信施設内にわが国の海軍施設である横須賀海軍資材集結所があり、物資を輸送するために建設された海軍用の道路だったことから、この名称が生まれました。

(2)海軍道路の長さは?
 海軍道路は一般的に、県道瀬谷柏尾線瀬谷中学校前交差点から旧国道16号線(八王子街道)が交差する部分までを指しますので、延長2850メートルです。

(3)桜は何本くらいあるの?
 ソメイヨシノが約300本、ヨウコウサクラが約40本で、合計約340本あります。

(4)桜はいつ植えたの?
 瀬谷中学校側は昭和50〜51年頃に、旧国道16号側は昭和57〜58年頃に植樹しました。

問い合わせ【瀬谷区役所区政推進課広報相談係】(TEL:045-367-5636)

横浜市 https://qa.city.yokohama.lg.jp/search-detail/2999/

海軍道路

海軍道路入口

海軍道路
Kaigun-doro St.

海軍道路本郷橋


海軍道路の桜並木

ゆっくり桜を愛でながら散歩してみました。以下、桜並木の写真を。

道路は花見渋滞、ですね。気持ちはわかります。


鶴間駅からバスに乗って「笹原バス停」下車。
八王子街道の「海軍道路入口」から約1時間30分ほど散策して、相鉄「瀬谷駅」に到着、でした。

撮影は2021年3月27日


場所

神奈川県横浜市瀬谷区瀬谷町 県道 18 号線

https://goo.gl/maps/NdJPvCmjcVd43rmM9


瀬谷界隈の戦跡関連


「海軍道路」関連

海軍兵学校の門標(横浜)

横浜駅から歩いて約10分ほどの場所に、海軍兵学校ゆかりの門標があった。


海軍兵学校の門標

海軍兵学校の門標
 明治初年、勝海舟の書。
 昭和20年、海軍兵学校閉校に際して撤去されたが、後年、鋳造家 柏木宏之氏(同校第74期)が原型通りに復元、同期生の田辺弥寿男氏の手を経て、柳川ビルに寄贈された。
 柳川ビルの竣工にあたり、先輩のご厚意と、建設に協力された、わが第77期クラスの友情を記念してここに設置する。
 昭和62年10月
  海軍兵学校第77期
   柳川荘一郎


海軍兵学校第77期

「柳川ビルクリニック」の院長が柳川荘一郎氏。海軍兵学校第77期。
海軍兵学校第77生徒は、最後の海兵生徒・最後の江田島健児、であった。
(77期の次、海軍兵学校第78期は予科生徒であった)

そして、「柳川ビルクリニック」のサイトには、「錨」がシンボルーマークとして、掲げられていた。

http://www.yanagawa-bc.com/information/#info_peo


場所

神奈川県横浜市西区南幸2-21-5

https://goo.gl/maps/wbcRZN28dv1NxjhNA

秩父御嶽神社の東郷元帥立像と乃木大将立像

埼玉県飯能市。最寄りは西武秩父線吾野駅。
秩父路の途中に、東郷平八郎と乃木希典を祀る神社があった。
「秩父御嶽神社」
ちょうど紅葉の季節に機会がありましたので足を運んでみました。


本記事で触れる「秩父御嶽神社」以外に関しては以下の記事より。


吾野駅

西武鉄道としては、西武池袋線の終点であり、西武秩父線の始発にあたる駅。(飯能駅起点ではないのですね)
昭和4年(1929)に西武池袋線の前身にあたる「武蔵野鉄道」の終着駅として開業。西武秩父線の開業は昭和44年(1969)。現在の駅舎は平成9年建造。

吾野駅にポスターがありました。徒歩20分だそうです。

秩父御岳神社
東郷公園
当駅より徒歩約20分です!

吾野駅前に案内石柱がある。昭和5年12月建立。

御嶽山秩父御嶽神社
元帥伯爵東郷平八郎謹書

御嶽山東郷公園
 長生書

福寿山乃木公園

御嶽山秩父御嶽神社の鎮座している山を福寿山と呼称している。

「長生」とは、海軍中将小笠原長生のこと。東郷平八郎に傾倒し副官的な立場で東郷とともにあった。だいたい東郷さんの関連する場所に足を運ぶと、小笠原長生の名を見ることになる。

小笠原長生(おがさわら ながなり)
東郷平八郎に傾倒し「東郷さんの番頭」「お太鼓の小笠原」などと呼称されるほどに東郷平八郎の顕彰活動・聖将化に多大な影響があった人物。

吾野駅から約20分ほどあるく。高麗川の先に社頭が見えてきた。


秩父御嶽神社

御祭神:
国常立命、大巳貴命、少彦名命、清貫一誠霊神(鴨下清八)、東郷平八郎、乃木希典、他

埼玉県飯能市鎮座。
信州木曾御嶽山を本山と仰ぎ、その御分霊を奉斎する御嶽信仰の神社。
創建は明治27年(1894)。鴨下清八(1861-1955)が創建。鴨下清八は没後に、清貫一誠霊神として祀られている。

御嶽山秩父御嶽神社
元帥伯爵東郷平八郎謹書

東郷公園
長生敬書

御嶽山
元帥伯爵東郷平八郎謹書

村社秩父御嶽神社
昭和戌辰秋 海軍中将子爵小笠原長生敬書

東郷公園

東郷平八郎元帥の銅像建立後、秩父御嶽神社の境内は「東郷公園」と呼ばれている。
公園内には東郷元帥像のほかに乃木希典陸軍大将銅像、日露戦争の遺物(ロシア製大砲、戦艦三笠被弾甲板)、海軍省からの記念品などが点在されている。

御嶽山東郷公園 秩父御嶽神社 御案内
 当山は、御嶽山東郷公園、秩父御嶽神社と謂い明治28年11月故鴨下清八氏の開山によるもので、名将東郷元帥の記念公園を境内にした木曽御嶽山の御分霊を奉斎する霊山である。

御祭神
 國狭槌尊八海山提頭羅神王
  (健康・和楽・長寿の神)
國常立御嶽山座王大権現
  (天福皆来・地福円満の神)
 豊斟渟尊三笠山刀利天
  (福徳開運・必勝の神)

例祭日 毎月1日・9日・15日・18日・27日

 参道入口には、開山者清貫一誠霊神銅像及び講社信仰に貢献せる諸霊神碑霊場があり、それより足を進めると、日露戦争遺物の三笠艦弾痕の甲板や砲弾、布設水雷、野砲、東郷元帥銅像や乃木大将銅像等々がある。東郷元帥銅像は元帥自ら臨席除幕なされた日本唯一のものにして東郷生身銅像とも謂う。傍には元帥お手植えの松が今でもその緑をたたえている。
 境内中腹より、365段の石段を登り途中祈祷殿各末社を経て頂上奥社に達する。
 全山に、楓樹数百本あり11月初中旬の紅葉は特に美しい。
  秩父御嶽神社社務所

かなり広いので境内の位置関係を把握しておかないと迷子になる。


砲弾と布設水雷

林立する門柱も当時からのものと思われる。

砲弾と布設魚雷
右の砲弾は日露戦争日本海開戦の時、ロシア軍バルチック艦隊より発射された主砲の巨弾で、日本海軍はこのために苦戦をしいられました。
左の球型のものは布設水雷と云い、旅順港口に多数布設され、日本海軍の入港を阻止しました。
戦後、日本軍が掃海し、引き揚げたものが」海軍省より下賜されました。

バルチック艦隊主砲 砲弾

旅順港敷設 水雷


紀念公園碑

紀念公園碑
海軍大将東郷平八郎書


門柱

皇国興廃在此一戦
各員一層奮励努力
 平八郎書

昭和3年の御即位記念のに建立された門柱。


東郷元帥銅像

紅葉に囲まれた東郷平八郎銅像。
この銅像は、東郷平八郎が生前に唯一建立をみとめたものという。

鴨下清八氏と親交のあった陸軍中将堀内文次郎も東郷平八郎を説得。
ここに唯一の生前銅像が建立した。

東郷元帥銅像
当山開祖 鴨下清八 氏は、世界の名将と称された東郷元帥の武勲と威徳を後世に伝えるべく、「皇国興廃在此一戦」との名言になぞらえ一戦を一銭とし毎日一銭ずつ蓄える一銭貯金を断行し、元帥の銅像を志しました。
元帥邸をおとずれること80余回。元帥は、我が生前の銅像建立は断じて辞退するとのことでしたが、氏の誠意に打たれ、ついには承諾されました。
氏は大正14年4月17日、元帥の望まれるままの正装したお姿の銅像を建立されました。
除幕式当日には、元帥自ら松崎海軍大臣代理、小笠原長生中将、堀内信水中将等を従えられ、小笠原中将に命じられ除幕されました。他に例のない唯一の生身銅像と称せられる所以です。

階段下に
鴨下清八氏

階段上、左から3番目から
小笠原長生海軍中将
東郷平八郎元帥海軍大将
松崎海軍大臣代理=松崎伊織?(中佐のち中将)。この時の海軍大臣は財部彪
堀内文次郎(堀内信水)陸軍中将
粕谷義三衆議院議長

東郷元帥像

嗚呼名将
 海軍大臣財部彪題


東郷元帥お手植えの松

残念ながら平成11年に枯れてしまったが、継承された松が2代目として育っている。

東郷元帥お手植えの松 大正14年4月17日

平成11年の雪害が原因で、元帥お手植えの松は惜しくも枯れ落ちましたが、近隣在住の信徒の手により実生の発芽に成功し、平成24年3月15日ここに移植、既存種の継承を確認いたしました。
 社務所


弾痕の三笠甲板

日露戦争を決定づけたのは、明治38年5月27日の日本海海戦でした。ロシア軍がウラジオ港に向けて航行させた主力バルチック艦隊を撃滅すべく、東郷司令長官ひきいる連合艦隊は日本海に待機しました。
「敵艦見ゆとの報に接し、連合艦隊は直ちに出動。之を撃滅せんとす。本日天気晴朗なれど波高し」の第一広報に続き「皇国興廃在此一戦 各員一層奮励努力」Z信号ととともに海戦が開始されました。激戦の結果、敵艦38隻のうち逃亡3隻に過ぎず、日本軍が大勝しました。このとき、東郷長官の乗る旗艦三笠は、ロシアン軍の集中砲火をあび、甲板には蜂の巣状の弾痕を残しました。展示のものは、開園時に海軍省より下賜された旗艦三笠の甲板の一部です。


日本海海戦大捷記念碑

明治天皇御製
くもりなき朝日の旗に
あまてらす 神のみいつを
仰げ國民
 元帥伯爵東郷平八郎謹書

日本海海戦大捷記念碑
海軍中将子爵小笠原長生書


東郷神社

参拝時、東郷神社は改修工事中でした。。。

東郷神社
東郷神社は東郷元帥ご他界(昭和9年5月)の後、昭和10年4月17日に建てられました。
東郷公園創始者鴨下清八氏が元帥の御心を体し、縁も深きこの場所を鎮座地と選び、生前の元帥の功績を讃え、平和の神と仰ぎその御霊をお祀りしました。
日露戦争日本海海戦大勝の日にちなみ、5月27日を例祭日として、毎年、世界の平和と国土の安泰を祈願しています。


ロシア製3インチ野砲と至誠館

ロシア製3インチ野砲(1901年製)と至誠館
明治38年満洲の荒野において、ロシア軍新鋭の野砲のために日本陸軍は難戦苦闘しました。
日本軍の野砲は発射と同時に砲車が後退し命中率を欠きましたが、ロシア軍の野砲は砲身が自動的に後退し、使用も簡易で命中率も優秀でした。
当山の東郷神社に陸軍省から下賜されましたが、大東亜戦争の後、付属部品の盗難被害にあったのが残念です。
野砲が納められている建築物は至誠館と云い、東郷元帥来山のおり、ご休憩されました。

至誠館

大正14年(1925)4月17日の東郷元帥銅像除幕式の際に、東郷平八郎が休憩をした建物。


三笠山神社

日本海海戦の連合艦隊旗艦「三笠」と通じるものがあるが、関係ない。
御嶽信仰に関係する御嶽山の前山である三笠山に由来。
三笠山大神(豊斟淬命)


乃木神社

陸軍大将乃木希典を祀る。


乃木将軍銅像

東郷公園内には、驚いたことに東郷平八郎だけではなく乃木希典の銅像もある。

乃木将軍銅像
乃木将軍は萩出身の陸軍軍人。日露戦争時、難攻不落といわれた旅順の203高地を攻略しました。
質素倹約を旨とし、農将としても名高く、明治天皇の大喪の日の殉死はあまりにも有名です。
「農は国の本なり」との信念にも篤かった当山開祖の鴨下清八氏、将軍に師事するがごとく農業、養蚕業にも力を尽くし、昭和4年11月24日、人々の模範となるよう、この地に将軍の銅像を建立しました。
 乃木希典(のぎ まれすけ) 1849.11.11~1912.9.13

忠魂義魄
陸軍大臣宇垣一成書


秩父御嶽神社御社殿

扁額

秩父御嶽神社
 元帥伯爵東郷平八郎謹書


秩父御嶽神社祈祷殿

扁額が同じく東郷平八郎によるもの。

秩父御嶽神社
 元帥伯爵東郷平八郎謹書


清貫一誠霊神立像

清貫一誠霊神は、鴨下清八氏の神名。


御朱印

社務所で御朱印をいただきました。

いただきませんでしたが、社務所では「東郷煎餅」を頒布しておりました。

社務所の近くには里宮。通常のご祈願は里宮にて対応している感じですね。

飯能の山奥に、これほどに見どころのある神社があるとは知りませんでした。東郷平八郎と乃木希典と、日露戦争の両雄銅像を一度に拝見できる貴重な空間。ぜひとも足を運ぶことをおすすめします。


東郷氏祖先発祥地

明治天皇海軍漕艇天覧玉座阯碑

隅田公園に残る石碑。隅田川左岸の向島にある「隅田公園」はもともと水戸徳川家下屋敷跡であったが、震災復興公園として昭和6年に整備された公園。その隅田川左岸に 明治天皇と帝国海軍に関連する石碑があった。

「明治天皇海軍漕艇天覧玉座阯」の碑

昭和16年(1941)11月3日、明治節の記念日に建立。開戦の前月。
明治天皇は、この地に玉座を設けられ、帝国海軍短艇競漕を天覧された。

明治天皇
海軍漕艇天覧
玉座阯

恭しく惟みるに
明治天皇夙に叡慮を帝國海軍の発達に労し給い明治元年三月親しく大阪に幸して諸艦を天保山に関せられ爾来屢艦船部隊官衛学校等に行幸あらせ給へり殊に海軍短艇競漕の隅田川に行はるるや、玉座は設けて此処に在り親しく 天覧を賜うこと前後四次に及べり、明治十五年には 十一月二十一日、二十六年には六月三日、二十七年には四月二日に臨御あらせられ是の日 
皇后亦行啓せられ、二十九年には十二月十八日を以て親閲あらせ給へり其の間二十五年には六月十九日を以て
皇后竝皇太子の行啓を辱うせり参加の将士斉しく恐懼感激して勇躍技を競い行事最も盛大を極はめり斯の如きは皆是れ宸慮の深きに出で帝國海軍の無上なる光栄にして牢記すべき所なり只恐る。
当年 玉座の聖蹟星移り物替はりて滄桑の変を経或は湮晦に帰せんことを是れ本会が
天皇親臨のこの尊ぶべきの地を永遠に顕彰し奉り 永く聖徳の至大なるを仰がんことを期し帝国海軍及朝野の諸彦と謀りて、昭和十六年の 明治節日をとし一碑を玉座の阯に建つる所以なり乃ち勤みて事の由来を勒し之を不朽に伝ふ。  
 紀元二千六百一年十一月三日
      墨田川聖蹟顕彰會
※片仮名を平仮名に変換しました。

「明治天皇海軍漕艇展覧玉座阯」の碑
 この碑の建つ場所は、明治年間に幾度も明治天皇のレガッタ視察のために玉座をしつらえた場所です。
 現在は堤防が整備されて隅田川の様子があまり見えませんが、かつては土で造った堤防に桜が植えられ、たいへん風情のある光景でした。そうした場で、明治15年(1882)11月21日、明治26年(1893)6月3日、明治27年(1894)4月2日、明治29年(1896)12月18日の4度にわたりレガッタを天覧したのです。
 隅田川のレガッタの歴史のひとつを物語るこの石碑は昭和16年(1941)11月に建碑されました。
  墨田区

戦後の墨田区による解説碑は、 
明治天皇がレガッタ視察としか記載がなく、【海軍】としての説明が抜け落ちている。
なおかつ「明治天皇海軍漕艇天覧玉座阯」であるべきところが、「明治天皇海軍漕艇展覧玉座阯」と記載されており、誤植甚だしい。

隅田川左岸に。


隣には新しい石碑。「隅田川ボート記念碑」

隅田川ボート記念碑「漕」

2016(平成28)年9月3日(土)建立。


日本のボートは ここ隅田川を中心に発展し その隆盛を迎えた
Rowing in Japan was Nurtured here on the Sumida River, which then became its primary venue.

“春は春は桜咲く向島 ヤッコラセー オール持つ手に花が散る・・・・・・”
明治初期から”近代文化の華”として日本のオアズマンはここで猛訓練をしスポーツマンシップを鍛えあげた。
河畔には艇庫が立ち並び、レースには人々が堤や橋上に参集し大声をあげた。往時の面影は全くないが、堤に立つと当時の熱狂的な応援の声がいまもなお聞こえてくる。この国の大いなる発展を象徴するかのように。それを忘れないために、記念碑をこの地に建立する。
 平成28年9月
  隅田川ボート記念碑建設委員会
   会長 半藤一利 撰

近代史に造形の深い作家・半藤一利さんは東大ボート部OBでもある。
しかし、隅田川のボート発祥にまつわる 明治天皇や海軍の件に触れない碑というのが、今どきの碑・・・。

明治天皇海軍漕艇天覧玉座阯の隣

隅田川艇庫址図(向島地区)

隅田川ボート年表
夏目漱石も漕ぎ、福沢諭吉も漕ぎ、レガッタは「春のうららの隅田川」と滝廉太郎の「花」にも歌われ、ボートは隅田川の華であった。全日本選手権、海外との交流試合、大学対抗戦など主要なレガッタが数々開かれ、隅田川は日本のボートの中心地となった。しかし、戦後復興の陰で産業排水などにより、川の汚染が進み、昭和三九年の東京五輪のために戸田ボートコースが整備されたのを契機に隅田川離れが進み、昭和四二年の一橋大学艇庫閉鎖を以って隅田川の艇庫群が姿を消した。最盛時の面影を今に伝えるのは早慶レガッタのみである。(隅田川ボート記念碑建設委員会)
 ※以下略

隅田川ボート年表とある。
明治10年以降の事象が記載されているが、やはり 明治天皇や帝国海軍短艇に関する記述はない。

公益社団法人 日本ボート協会 

https://www.jara.or.jp/report/2016/2016sumida_rowing_monument_unveiling.html


旗竿台(掲揚台・掲揚塔)

昭和16年11月3日に隅田川聖蹟顕彰会によって「明治天皇海軍漕艇天覧玉座阯」の碑が建立された際に、あわせて、駆逐艦「桃」(基準排水量755トン・初代) の前檣が碑の傍らに建てられたという。この旗竿台は、其の名残。桃の前檣旗竿は戦後のある時期に撤去されてしまったという。

昭和16年11月建立
隅田川聖蹟顕彰會
 ※文字は削り取られている

聖徳欽仰
 ※文字は削り取られている
隅田川聖蹟顕彰會幹事海軍中将有馬寛謹書

無残にも文字が削り取られてしまっている旗竿台は、「明治天皇海軍漕艇天覧玉座阯」の碑とともに並んでいたはずであったが、平成の世になり、間に「隅田川ボート記念碑」が 建立され、ちょっと距離ができてしまったような。

この場所は、時代とともに変わりゆく価値観を垣間見ることができる、そんな空間であった。


関連

隅田公園の北側

明治天皇