「海軍」カテゴリーアーカイブ

奥沢海軍村跡(世田谷区)

東急線の自由が丘駅と奥沢駅の周辺。高級住宅地エリアであるこの界隈は、かつて「海軍村」であった。


奥沢海軍村

大正12年(1923)に発生した関東大震災後、将校居住地が都心部に集中するのは危険であり、郊外に住んだほうが安全だということもあって、郊外への海軍将校の移住が進んだ。

大正13年、海軍士官の親睦団体「水交社」に事務所を置く「水交住宅組合」の斡旋によって、住宅地として整備された奥沢2丁目界隈。
この地は、北に向かえば「霞が関の海軍省」、南に向かえば横浜を経て「横須賀の軍港」となり、また「目黒の海軍大学校・海軍技術研究所」にも近かったということと、まだ開発が進んでいなかったために土地の価格も手頃であったということもあって、多くの海軍士官たちが居住することとなり、気がつけば海軍将校の邸宅が30軒ほど集まったことから「海軍村」と呼ばれるようになった。

奥沢海軍村跡は、今も当時の面影を残す建物が3軒残っており、ポーチ上の玄関やシュロの古木等が残っている。

海軍村跡

地域風景資産
奥沢海軍村
ゆかりの風景
海軍士官の子孫やその後に住み着いた人々により、緑豊かな町並みが残る。
ポーチ付の玄関やシュロの古木等に、当時の面影を垣間見ることができる。

地域風景遺産
大ケヤキのある散歩道‐けやき道
この界わいは、大正13年に海軍士官の住宅地として開発された。海軍村と呼ばれ、街のみどりは洋風住宅が多くあった当時の面影を感じさせる。

「シュロ」(棕櫚)の古木。

海軍村当時の住宅は3軒残っている。

場所

https://goo.gl/maps/MBhYkPKDDbjX1tvk6


関連

https://www.city.setagaya.lg.jp/mokuji/sumai/005/002/d00038440.html

https://okusawa.garden/%e5%9c%b0%e5%9f%9f%e9%a2%a8%e6%99%af%e8%b3%87%e7%94%a3/

https://okusawa.garden/ht/%e6%b5%b7%e8%bb%8d%e6%9d%91%e4%bd%8f%e5%ae%85%e9%85%8d%e7%bd%ae%e5%9b%b3%ef%bc%88%e6%98%ad%e5%92%8c11%e5%b9%b4%e9%a0%83%ef%bc%89/

「日本初の零戦復元機」零式艦上戦闘機52型甲(空自浜松広報館エアパーク)【浜松2】

航空自衛隊の広報施設である浜松広報館「エアパーク」。
ここには空自の退役機に混じって、零戦が展示されている。

展示場所が移設されます(2024年6月24日~)


零式艦上戦闘機五二型甲 A6M5
43-188号機

日本への里帰り第1号機の零戦。

昭和19年3月、三菱名古屋工場製造機。
所属は、第三四三海軍航空隊(1944年1月に開隊した初代、通称隼部隊)。
昭和19年6月〜7月にかけてのマリアナ諸島攻防戦で、米軍との戦闘や米軍機の空襲などにより壊滅し、7月10日に解隊。
浜松基地浜松広報館に保存されている零戦は、第三四三海軍航空隊の飛行隊長・尾崎伸也大尉(海兵68期)が昭和19年6月19日に米軍と交戦し被弾し不時着し放棄された機体。尾崎伸也大尉は戦死されている。
海兵68期の尾崎伸也大尉の同期には、作家・豊田穣、撃墜王・鴛淵孝、九軍人の広尾彰、海軍中将松永貞市の息子・松永市郎、捕虜第一号となった酒巻和男など。
第三四三海軍航空隊は、昭和19年12月に再編(二代目)される、これが通称「剣部隊」として紫電改を用いて有名となった航空隊。

昭和39年1月に日本に里帰り。

零戦52型
零戦52型は1943年8月初飛行し、太平洋戦争後半の日本海軍の主力戦闘機として活躍した機体である。この機体には甲、乙、丙の3種の型があり、零戦総生産数約1万機のうち、4種あわせた52型シリーズは約6,000機が生産された。

性能
全幅 11m
全長 9.1m
全高 3.5m
全備重量 2,733kg
エンジン 栄21型 最大出力1,100馬力x1基
最大速度 565km/h
実用上昇限度 11,740m
航続距離 1,920km
乗員 1名
搭載武装 7.7mm固定銃x2門 99式20mm固定銃x2門

零式艦上戦闘機(零戦)の展示経緯
昭和38年4月  本展示機がグアム島で発見される。
同   7月  グアム島知事から日本への返還が決まる。
昭和39年1月  米軍C-130輸送機により岐阜基地へ搬送。
       本機の製造元である三菱重工業大江工場にて忠実な復元作業を実施。
同   10月 我が国で最初の零戦復元機が完成。
(その後、全国各地において展示されたため期待の損傷がひどくその管理が必要とされた。)
昭和42年11月 航空自衛隊の航空機整備のメッカ(航空機の整備学校が所在)である浜松基地に移送され
       その後浜松基地におきて展示・管理された。
平成11年4月  航空自衛隊浜松広報館開設に伴い、当館において展示される。

国内で吊り下げ展示されている唯一の零戦。

航空自衛隊浜松広報館

浜松陸軍飛行場

「浜松陸軍飛行場」は、浜松陸軍飛行学校と飛行第7聯隊があった。
現在は、航空自衛隊浜松基地。

広報館とは別に、浜松基地内にある「浜松基地資料館」にも行きたいんですけどねええ。。
基地内には「陸軍爆撃隊発祥之地」碑もある。

空自関係の展示多数。

※撮影は2020年11月


https://www.mod.go.jp/asdf/airpark/


浜松には陸軍の施設が集中していた。戦跡もちらほら残っている。
そんな散策の記録は別途で。

瓜生外吉海軍大将之像と瓜生外吉墓(小田原と南青山)

小田原に、海軍大将 瓜生外吉 が晩年に隠棲した邸宅があった。


瓜生外吉(うりゅう そときち)

安政4年1月2日(1857年1月27日) – 昭和12年(1937年)11月11日)
大日本帝国の海軍軍人。海軍大将。加賀藩支藩の大聖寺藩(石川県)の出身。

海軍兵学校は卒業していないがアナポリス海軍兵学校に留学をしており明治海軍有数のアメリカ通。
瓜生外吉夫人の瓜生繁子は三井物産の益田孝の実妹。明治新政府の第一回海外女子留学生(日本初の女子留学生)として渡米し10年間のアメリカ経験あり。三井物産初代社長の益田孝は義理の兄となる。
そして、「東洋のセシル・ローズ」と称された衆議院議員・森恪は女婿(瓜生栄枝・瓜生外吉の三女)となる。

明治33年(1900)、海軍少将・軍令部第1局長。
明治37年(1904)2月4日、日露戦争開戦。第四戦隊司令官として参加。
開戦直後の明治37年2月9日、瓜生外吉率いる第四戦隊(旗艦・巡洋艦浪速、高千穂、明石、新高に、臨時で装甲巡洋艦浅間と第九艇隊および第十四艇隊の水雷艇8隻)は、仁川のロシア海軍・防護巡洋艦「ヴァリャーグ」と航洋砲艦「コレーエツ」を、日露戦争の口火を切った「仁川沖海戦」で撃破。瓜生外吉率いる第四戦隊が初戦の勝利を飾る。

日露戦争後、佐世保鎮守府長官・横須賀鎮守府長官を歴任。
大正元年(1912年)10月16日、海軍大将に昇級。薩摩出身者以外では2番目の海軍大将であった。
ちなみに、薩摩閥以外での1番目の海軍大将は会津白虎隊出身の出羽重遠(日露戦争では第三戦隊司令官)。出羽重遠は明治時代で唯一の薩摩閥外の海軍大将。とはいっても明治45年(1912)7月9日に海軍大将となっているので、瓜生外吉の3ヶ月前。
大正2年(1913年)、予備役に編入。

瓜生外吉は義兄である三井物産創始者・益田孝の勧めで、海軍退役後の大正2年に、小田原天神山に隠棲の別荘を設けて移り住んだ。
大正11年に体調を悪くし、小田原で療養中に大正12年の関東大震災に遭遇。一度、都内に転地療養し全快。
大正14年以降、再び小田原別邸に移住。
瓜生邸付近の道路が狭隘で、その上石段があるため、自動車の通行が不可能であったため、義兄・益田孝の経済的な援助と、海軍部員の奉仕によって工事が施行され、完成後に「瓜生坂」と呼ばれるようになった。
瓜生外吉は小田原を愛し、地元海軍部員はもとより、地域の人々とも交流が深かったという。(死後に地域の人々により記念の胸像が建立された)
昭和12年11月11日、81歳の天寿を全うした。正二位勲一等旭日桐花大授章が追贈。


瓜生海軍大将之像

作者は、北村四海。大正6年(1917)の作。
瓜生外吉没後、小田原町第十六区民・山角町青年誠友会員により、昭和14年(1939)5月27日、山角天神社の石段中途左に「瓜生海軍大将之像」が東京の瓜生邸から山角天神社へ移築され建立された。

瓜生海軍大将之像

昭和14年5月27日
小田原町第十六区民 
山角町青年誠友会員 建設

瓜生外吉海軍大将之像
Statue of Admiral Baron Sotokichi Uriu, I.J.H.
 瓜生外吉(1857‐1937年)は、米アナポリス海軍兵学校を卒業。
 日露戦争(1904‐1905年)の仁川沖、蔚山沖、日本海の各海戦で活躍し、1912年に海軍大将に昇進しました。
 後年は夫人繁子(日本初の女子留学生)とともに対米民間外交、親善に尽力しました。
 ここから」西に200mほどの高台に別荘を設けた外吉は、誠実な人柄が市民に敬愛され、海を眺めての小田原の生活をこよなく愛しました。

小田原の海を望む。

坂に名を残した人・瓜生外吉(海軍大将・男爵)

山角天神社


瓜生坂

すみません、写真を取りそこねております。
Googleストリートビューのキャプチャを暫定で掲載しておきます。。。

瓜生坂は、海軍を退役後に小田原天神山の別荘に移り住み、入退院を繰り返していた瓜生外吉を車で移動できるようにするため、義兄の益田孝の援助と、交流のあった海軍関係者が奉仕活動で造った坂。

https://www.kanaloco.jp/news/social/entry-110665.html


場所は変わって。。。東京の青山霊園

瓜生外吉の墓

場所は、1種イ22号5側。訪れたときは、ちょうど薔薇の花が賑わっていました。

海軍大将正二位
勲一等功二級男爵
瓜生外吉墓

隣には瓜生夫人の墓も。

従五位 瓜生繁子之墓

瓜生外吉の長男、瓜生武雄は、明治41(1908)年4月30日の松島爆沈事故で殉職している。

海軍少尉従五位瓜生武雄墓

明治41年4月30日軍艦松島
馬公港爆裂之際殉難齒廿三


森恪の墓(もり かく/もり つとむ)

青山霊園には、森恪の墓もありました。瓜生外吉の女婿(瓜生栄枝・瓜生外吉の三女)。
青山霊園内を散策していたら、たまたま見つけましたので参詣。
ちょっと墓地が荒れていました。。。
場所は、1種ロ8号1側。


小田原の瓜生海軍大将之像から、東にちょっと行った所に、対潮閣跡がある。
海軍史としては、秋山真之終焉の地。瓜生外吉とは日露戦争の縁もあり、ここに付記する。

対潮閣(山下亀三郎別邸)《秋山真之終焉の地》

山下亀三郎は、山下汽船(現・商船三井)の創業者。
現在は、邸宅は残っておらず、個人宅・私邸が分割されている。
対潮閣の正面玄関があった場所に、説明の看板がある。

対潮閣(山下亀三郎別邸)跡(秋山真之終焉の地) 
 明治時代から、小田原には、伊藤博文、山縣有朋、益田孝(鈍翁)、田中光顕、北原白秋など多くの政財界人や文人が居を構えたり、訪れたりしていた。
 山下汽船(現・商船三井)の創業者山下亀三郎(1867~1944)の別邸「対潮閣」の正面入口がこの辺りにあった。
 対潮閣には、山下と愛媛の同郷であった海軍中将秋山真之(1868~1918)がたびたび訪れ、山縣の別邸「古稀庵」(現・あいおいニッセイ同和損保小田原研修所)を訪ね「国防論」について相談していたが、患っていた盲腸炎が悪化し、大正7(1918)年2月4日未明に対潮閣内で亡くなった(享年49歳)。

 正面の巨石は、対潮閣にあったもので、梵鐘を抜いた形の空洞があるので「釣鐘石」といわれている。
 左手前の石碑には、田中光顕がこの石を賞して詠んだ和歌が彫られている。

碑文
「うちたたく 人ありてこ曾(そ) よの中に な里(り)もわたらね つりが年(ね)の石 光顕」

田中光顕歌碑

うちたたく 人ありてこ曽 よの中に な里もわたらめ つりが年の石 光顕

 釣鐘石

山下亀三郎別邸の上段は清閑亭。

清閑亭(旧・黒田長成邸)

対潮閣の隣にあるのが清閑亭。
秋山真之も最後のときに、同じように相模灘の小田原の海を眺めていたかもしれない。

瓜生外吉から、神奈川の小田原から東京の青山霊園から、小田原の秋山真之へと、話が散らかりました。


小田原散策で、瓜生外吉と出会って、あまり知ることなかった瓜生提督のことを深堀りできたのが、良き記録となりました。


駆逐艦五月雨戦没者慰霊之碑(小田原)

JR早川駅から見える大きな白い観音様。
「魚藍観音」
小田原市早川の東善院に、駆逐艦五月雨の慰霊碑があるというので足を運んでみた。


駆逐艦五月雨戦没者慰霊之碑

小田原市早川鎮座の東善院、魚藍観音の後方の墓地の最上段に、「駆逐艦五月雨の慰霊碑」はあった。

駆逐艦五月雨慰霊碑がこの地に建立された理由は、五月雨の元乗組員で組織された「五月雨会」のメンバーに小田原出身者がいたことによるという。相模湾を望むこの地から、五月雨の慰霊碑は生まれ故郷(建造ドック)のある浦賀に向け建てられているという。

駆逐艦五月雨戦没者慰霊之碑
昭和57年8月 戦友並ニ遺族 建之

慰霊碑の下部には戦没者の名前が刻まれている。
昭和17年10月14日 10名 (ガダルカナル島の戦い)
昭和18年11月2日  6名 (ブーゲンビル島沖海戦)
昭和19年8月26日  9名 (パラオ・ガルワングル環礁)

駆逐艦五月雨

白露型駆逐艦の6番艦。
浦賀船渠で建造され、昭和12年(1937年)就役。
昭和16年12月8日の太平洋戦争開戦時は、白露型4隻(村雨・五月雨・夕立・春雨)で第2駆逐隊を編成し、第四水雷戦隊(旗艦・那珂)に所属。南方作戦に従事。

昭和17年10月12日夕刻、第2駆逐隊3隻(五月雨・春雨・夕立)は輸送船4隻(吾妻山丸、南海丸、九州丸、佐渡丸)を護衛してラバウルを出撃。
10月14日、栗田健男中将指揮下の第三戦隊(金剛、榛名)によるガ島ヘンダーソン飛行場砲撃は成功するも、輸送船団は14日朝以降米軍機の空襲を受け、五月雨も被害を受け10名の犠牲者を出す。
その後も五月雨は、第三次ソロモン海戦、キスカ島撤退作戦などに参戦。

昭和18年11月2月、第27駆逐隊(時雨・白露・五月雨)はブーゲンビル島沖海戦に参加。五月雨は舵が故障した白露と衝突し、さらに米軍駆逐隊に追撃されて被弾し、6名の犠牲者を出すが、五月雨・白露とも離脱に成功。

昭和19年にはいり五月雨は中部太平洋諸島への船団護衛に従事。
昭和19年8月18日、軽巡鬼怒と第27駆逐隊(時雨・五月雨)で航行中に、五月雨はパラオ近海のガルワングル環礁で座礁。火災も発生し深刻な損傷を受けてしまう。B-24の爆撃に曝される中で、8月26日にアメリカの潜水艦バットフィッシュ (USS Batfish, SS/AGSS-310)が座礁中の五月雨を雷撃。魚雷は五月雨右舷中部に命中し、大破した船体は断裂し9名の犠牲者を出す。五月雨は放棄され五月雨艦長以下生存者は駆逐艦竹に救助された。

五月雨の生まれ故郷「浦賀」を望む。(魚藍大観音とともに)

五月雨慰霊碑の高台からは、小田原城も見える。

そして、五月雨慰霊碑の後方を東海道新幹線が走り抜ける。


魚藍大観音

大きな白い観音様は、魚を入れる籠(魚藍)を携えている。籠からは魚の尾びれが飛び出している。なかなか愛くるしい観音様。
昭和57年(1982年)に、海上安全・大漁祈願を目的として建立。
鉄筋コンクリート造りの全身像で総高13m。

魚籃観音
三十三観音の一つ。魚を入れたかごを手にさげている観音。大魚に乗っている像もある。羅刹(らせつ)・毒龍の害を除く功徳があるという。魚籃。

コトバンク 
https://kotobank.jp/word/%E9%AD%9A%E7%B1%83%E8%A6%B3%E9%9F%B3-480000

東善院

神奈川県小田原市早川482鎮座。真言宗東寺派。

JR早川駅からも、魚藍大観音のお姿は見える。


JR早川駅

JRの駅では日本一港に近い駅、らしい。小田原漁港の最寄駅。
1922年(大正11年)12月21日、開業。
1923年(大正12年)9月1日、関東大震災で駅舎倒壊。
現在の駅舎は関東大震災以降に再建されたであろう木造駅舎。昭和初期の佇まいを残す。


場所

https://goo.gl/maps/GrKN9roxnGSLM8C56


関連(五月雨の僚艦たち)

村雨

白露・時雨(第二十七駆逐隊慰霊碑)

佐世保海軍墓地

「45cm四四式二号魚雷」神山神社に残る国産初の魚雷(小田原)

小田原駅から北西に約2キロの地に鎮座している神社に「魚雷」があると聞き、足を運んでみた。
なんでも地元では「久野の爆弾神社」といわれているらしい。


45cm四四式二号魚雷

昭和2年に神山神社に下付された魚雷。
第24代横須賀鎮守府長官・安保清種まで魚雷提供の相談があったという。

日清・日露戦争時の帝国海軍は輸入魚雷に頼っていた。
日露戦争後、明治44年(1911)に国産化にはじめて成功した魚雷が「45cm四四式魚雷」。
この四四式魚雷が帝国海軍の魚雷技術発展の礎となり、世界で唯一実用化に成功した酸素魚雷を生み出すこととなる。

由来(郷社神山神社の魚雷について)
「戦時下の小田原地方を記録する会」の調査によると、神社関係者が戦前旧日本海軍から譲り受けたとみられる。
防衛省防衛研究図書館所蔵の「廃兵器無償下附の件」と題する文章によると、1927年8月1日で同神社の関係者から旧日本海軍の横須賀鎮守府長官迄に魚雷提供の要請があり、同9月に許可が下りる。陸軍大臣にも同様の要請を行い、魚雷、砲弾が送られる。戦後、魚雷1基と砲弾2発は慰霊碑とともに残されたが砲弾は火薬が残存する疑いがあり、2003年に撤去する。
海上自衛隊による魚雷調査結果は、全長5.2メートル直径45センチメートル、明治44年制式と推定された。

 久野氏子の皆様に恒久の平和を願うものです

思った以上に、しっかりとした魚雷。

細部を観察。

ネジ穴が海中の抵抗を考慮し、涙滴型となっている。

内部に木材が使われていました。

当時、最新のテクノロジーで作られたであろう機器が露出。

シャフト部分

横舵と縦舵と推進プロペラ

これは貴重な戦跡、戦争遺産。一見の価値ありです。


魚雷の後方に並んでいる3つの慰霊碑。

忠魂碑

忠魂碑
陸軍大将正三位勲一等功三級男爵 奥保鞏 書

明治三七八年戦役戦没者

日露戦争の慰霊碑。明治39年建立。
日露戦争における戦没者17柱の慰霊顕彰。

二七八役戦歿者碑

陸軍歩兵大佐従五位勲三等功四級 隠岐重筋 書
明治31年3月建立。日清戦争の慰霊碑。
日清戦争における戦没者2柱の慰霊顕彰

忠霊塔

忠霊塔
靖国神社宮司 筑波 藤麿 書

昭和32年3月建立。
大東亜戦争における戦没者110柱の慰霊顕彰。

砲弾が置かれていたであろう場所。


神山神社(こうやま神社)

神奈川県小田原市久野に鎮座。明治社格は郷社。

神山神社
 神山神社の祭神は天照大神、伊弉諾命、伊弉冉命で、第六十六代一条天皇の永延2年(988)に創建されたといわれています。
 かつて神山神社は、久野坊所村山中に在社していましたが、兵火により焼け落ち、その時社殿から御幣が舞い上がり、松田の神山と現在地に落ちた。また、権現再興のために牛に乗せ山道を降りて来た時、現在地にて牛が動かなくなったため、この地を霊地として御魂を移した、などと言い伝えられています。
 応永23年(1416)、上杉禅秀の乱により、それまでの社殿や宝物などが焼失しましたが、大栄永4年(1524)神山権現を信仰した北条氏綱により社殿が改修されました。
 天正18年(1590)、小田原合戦の際に、神主の窪倉中務正広は、戦火を逃れるために神社の宝物類を携えて逃げる途中に亡くなったため、神社はこれまでの繁栄を失ったといわれています。
 小田原合戦前は近隣の村々18箇所の総鎮守でしたが、江戸時代後期には久野・池上・荻窪の3箇所の、そして現在は久野地区及び水之尾地区の一部の総鎮守となっています。例祭日は10月吉日です。

場所

https://goo.gl/maps/d591NSrv74k3NsiX7


関連記事

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https://www.kanaloco.jp/news/social/entry-105900.html

https://www.townnews.co.jp/0607/2014/09/20/252243.html

海軍艦政本部・大阪倉庫跡

海軍艦政本部は、海軍大臣に隷属し、造艦・造兵・造機に係わる事務を司った海軍省外局のひとつ。
艦本式ボイラーや艦本式タービンなどの開発などで、略称「艦本」は一部では著名。

大阪大正区の南恩加島・木津川の河口付近に、海軍艦政本部の大阪倉庫の遺構があるというので足を運んでみた。


海軍艦政本部大阪倉庫
(現在の木津川倉庫株式会社)

現在の木津川倉庫株式会社の敷地が、当時の海軍艦政本部・大阪倉庫。
当時は海軍資材の倉庫として使用されていた地は、現在は保税倉庫や食糧倉庫として使用されている。木津川倉庫株式会社の創業は昭和27年。
昭和27年4月1日に、木津川倉庫株式会社は国有資産であった海軍艦政本部木津川倉庫を借用して、倉庫業を営む目的で設立されたことにはじまる。同年12月11日に払い下げ。

海軍艦政本部大阪倉庫
正門跡

正門の門柱は当時のまま残されていた。

スクラッチタイルが施されたモダンな意匠を下部に見ることができる。

門柱の上部にもタイルが施されていたが、上部はすべて撤去済。
数年前までは、残っていた。

門札の跡も。

外壁もそのまま残っている。

搬入門周辺はリニューアルされている。
こちらも数年前までは門柱が残っていたが撤去済み。

海軍艦政本部大阪倉庫
外壁

外壁もほぼ当時のまま使用されているが、ところどころに亀裂の補修なども見られる。

北側の搬入口。

海軍艦政本部大阪倉庫
当時の倉庫2棟
(現在の木津川倉庫株式会社)

木津川倉庫株式会社の第1号倉庫と第2号倉庫が、当時の海軍時代からの倉庫。
現在は、低温倉庫として使用されている。
数年前までは4棟あったというが、北側の2棟は取り壊され、現在は南側の2棟のみが残されている。


千本松渡船

すぐ近くの「千本松渡船」も楽しいので、散策時は一緒に巡るのがおすすめ。藤永田造船所跡地を遠望することもできます。

※2021年4月撮影


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-R462-83
1948年11月22日、米軍撮影の航空写真を一部加工。

木津川の河口にはいくつかの造船所が集まっていた。

海軍艦政本部大阪倉庫の4棟の倉庫がわかる。

現在は、南側の2棟を確認できる。敷地は当時のまま。

https://goo.gl/maps/itVoJzXiz3o8fhfx6


関連

「駆逐艦のふるさと」藤永田造船所跡地(大阪)

大阪市内にあった民間の造船所。
日本最古の造船所とも言われ、また多くの駆逐艦を製造し、「西の藤永田、東の浦賀」とも称されていた。

そんな、大日本帝国海軍駆逐艦のふるさとである藤永田造船所跡地を散策してみた。


藤永田造船所

1689年(元禄2年)、大阪堂島船大工町に船小屋「兵庫屋」として創業したことに始まる。
開国後に、西洋式船舶の建造に取り組み、近代的造船所となる。
明治7年(1874)に「藤永田造船所」に社名変更。

大正8年(1919)に海軍指定工場となり、駆逐艦「藤」(樅型駆逐艦13番艦)を受注。
太平洋戦争に際しては、駆逐艦の増産に努め、昭和19年(1944)1月に軍需工場に指定。大阪では、大阪陸軍造兵廠、住友金属工業に次ぐ三番目の従業員規模であった。

藤永田造船所で造られた艦艇

駆逐艦
樅型
  藤(樅型13番艦)
  蕨(樅型20番艦)
  蓼(樅型21番艦)
若竹型
  芙蓉(若竹型7番艦)
  刈萱(若竹型8番艦)
睦月型
  皐月(睦月型5番艦)
  文月(睦月型7番艦)
  夕月(睦月型12番艦)
吹雪型(特型)
  叢雲(吹雪型5番艦)
  白雲(吹雪型8番艦)
  綾波(吹雪型11番艦)
特Ⅱ型
  曙(吹雪型18番艦・特Ⅱ型8番艦)
特Ⅲ型
  電(吹雪型24番艦・特Ⅲ型4番艦)
白露型
  村雨(白露型3番艦)
  江風(白露型9番艦・海風型(改白露型)3番艦)
朝潮型
  満潮(朝潮型3番艦)
  山雲(朝潮型6番艦)
  峯雲(朝潮型8番艦)
陽炎型
  黒潮(陽炎型3番艦)
  夏潮(陽炎型6番艦)
  浦風(陽炎型11番艦)
  谷風(陽炎型14番艦)
  舞風(陽炎型18番艦)
夕雲型
  巻雲(夕雲型2番艦)
  長波(夕雲型4番艦)
  大波(夕雲型7番艦)
  玉波(夕雲型9番艦)
  藤波(夕雲型11番艦)
  朝霜(夕雲型16番艦)
  秋霜(夕雲型18番艦)
松/橘型
  梅(松型3番艦)
  桑(松型5番艦)
  杉(松型7番艦)
  樫(松型10番艦)
  楢(松型12番艦)
  柳(松型14番艦)
  樺(松型31番艦・橘型/改松型)
  桂(未成)
砲艦
  二見・伏見・隅田
千鳥型水雷艇
  真鶴・初雁
第二号型(丁型)海防艦
  第36号・第40号・第48号・第58号(未成)
掃海艇
 第一三号型
  第13号・第15号
 第一九号型
  第38号・第41号

藤永田造船所跡地

現在、跡地には「藤永田造船所跡地」の石碑が残る。
平成11年8月建立。

戦後は、漁船建造から再出発。貨物線やLPG船なども建造。
昭和42年(1967)に三井造船に吸収合併。現在工場敷地は再開発されており、当時の面影を残すものはほとんど残されていない。
グーグルストリートビューでは、2020年7月では三井造船マシナリー・サービス内に往時の建物が残されているのが確認できたが、2021年4月の現地訪問で更地を確認し、往時のすべての建物の消失を確認。

最後まで残されていた建物の記録は、盡忠報國様の「大日本者神國也」ブログに詳しい。

http://shinkokunippon.blog122.fc2.com/blog-entry-1573.html

場所

https://goo.gl/maps/2uJa2CQtNahVjfTA8


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M18-1-144
1948年2月20日、米軍撮影の航空写真を一部加工。

Google航空写真

ファイル:USA-M18-1-144

ファイル:USA-R462-83を一部加工。1948年11月22日、米軍撮影。


藤永田造船所跡地散策

数年前まで、三井造船マシナリー・サービスのあった土地は更地に。

更地になって、新木津川大橋がよく見える。。。

新木津川大橋

徒歩で渡ってみました。
正直言って、徒歩横断はおすすめしません。むちゃくちゃ怖かったです。(高所恐怖症的に)
渡り終えるまでに時間は約30分要しました。

新木津川大橋は1994年に完成。中央部の橋長は495m、それなのに、総延長は2.4km。これは3重ループで高さを稼いだためそのため、橋の高さは水面上50mもある。
アーチ橋として完成時は日本最長であった。

橋を渡った理由は、藤永田造船所跡地を上から見学するため、

ここに、藤永田造船所があった。

藤永田造船所のドック入口跡。この場所だけ凹んでいるのは、今は埋め立てられているがここにドックがあった名残。

橋に近い右側の護岸は往時の名残かもしれない。
左側の護岸は最近補強された模様。

藤永田造船所のドック時代の護岸か?

藤永田造船所跡を、新木津川大橋から。

藤永田造船所のドック入口跡の凹みがわかる。

ちなみに、新木津川大橋を徒歩で横断する場合、この3重ループが目が回りそうで辛い。
ここを二度と歩くことはないだろう。

新木津川大橋から木津川を眺める。
藤永田造船所は木津川の両岸にあった。右側が本社工場。左側が船町工場。

藤永田造船所船町工場があった場所。

新木津川大橋の3重ループの場所も、藤永田造船所船町工場があった場所であった。


新木津川大橋の3重ループの地上入口あたり。
大阪にあった知られざる飛行場の跡地。

木津川飛行場跡

木津川飛行場
 わが国の近代航空技術は大正7年(1918年)頃から急速に開発が進み、あわせて飛行場も必要になってきました。大正11年(1922年)からは空の定期貨物輸送も始まり、大阪から東京、徳島、高松、別府などへの路線が次々と開設されましたが、当時はまだ木津川河口や堺の水上飛行場を利用していました。木津川河口に陸上飛行場が構想されたのは大正12年(1923年)頃からです。昭和2年(1927年)に着工し、昭和4年(1929年)には未完成のまま、東京・大阪・福岡間に1日1往復の定期旅客便が就航しました。しかし、市街地からの交通の便が悪く、地盤不良で雨天時の離着陸も困難であった為、昭和9年(1934年)の八尾空港、昭和14年(1939年)の伊丹空港完成により、その役割を終え、昭和14年(1939年)には閉鎖されました。
 大阪市教育委員会

ちなみに、木津川飛行場をしめす地図にも藤永田造船所の記載があった。

流石に往時を物語るものはない。

滑走路のあった場所、新木津川大橋から望んでみる。

新木津川大橋の3重ループ。圧巻。

工場地帯を歩く人は、いない。


千本松渡船場から、新木津川大橋と藤永田造船所跡地を望む。

藤永田造船所のドックがあった凹みの部分の護岸がわかる。

既に往時を物語るものがほとんど残されていない藤永田造船所跡地。
この地で生まれた多くの駆逐艦たちとともに、想い出の地となっていた。

※2021年4月撮影


関連

海軍大和田通信隊跡地散策(新座市・清瀬市・東久留米市)

埼玉県新座市西堀、東京都清瀬市清戸、東久留米市上の原にかけて、かつて大日本帝国海軍の通信施設があった。
内陸県・海なし県「埼玉」にある、貴重な海軍戦跡。


海軍大和田通信隊

日本海軍の無線電信は、霞が関の海軍省内に設けられていた「東京無線電信所」を中心におこなれていたが、無線は同時交信を行うことから「送信所」と「受信所」を分離設置する必要があった。
 「東京海軍無線電信所」      中央管制と受信
 「東京海軍無線電信所船橋送信所」 送信設備
昭和9年(1934)に、「海軍東京無線電信所」の附属機関として無線傍受を専門とする「海軍東京無線電信所大和田受信所」の設置が決定。
「大和田受信所」は昭和11年に開設され昭和12年(1937)から本格稼働を開始。
また、昭和9年6月には、海軍通信隊令が施行。海軍無線電信所は海軍通信隊となり、「大和田受信所」は、「東京通信隊大和田分遺隊受信所」となっている。
昭和16年(1941)、太平洋戦争開戦時に「東京通信隊」から独立した「大和田通信隊」となり、傍受を掌る通信隊として海外無線の傍受を行い、副受信所では、方位測定を掌る大和田通信隊分遺隊が展開された。
アンテナ群は東西1キロ、南北2キロ以上の広範囲に設置。受信機は主に現在の新座市に置かれていた。
この地域に受信設備が置かれた理由は、武蔵野台地の中心に位置しており、周辺には電波障害の要因となる鉄道。幹線道路・民家なども少ない環境であったためという。

「大和田通信隊」での受信実績(傍受実績)として、昭和16年12月8日の真珠湾攻撃成功を伝える電信「トラ・トラ・トラ」(モールス符号「・・―・・ ・・・」トラ連送)「ワレ奇襲ニ成功セリ」を受信。
米海軍が平文で打った「airraid on pearlharbor x this is not drill」(真珠湾が空襲を受けている。これは演習ではない)の電報も受信。
なお、真珠湾攻撃開始時の電信「ニイタカヤマノボレ1208」を送信したのは、「船橋送信所」。
また、終戦時の「ポツダム宣言」を受信したのも「大和田通信隊」。
戦争の最初と最後に「大和田通信隊」が絡んでいたのだ。

海軍予備学生達を主人公とした阿川弘之「暗い波濤」では、「大和田通信隊」の描写もある。阿川弘之自身も海軍予備学生として海軍に入隊し海軍少尉に任官し傍受諜報担当任務に携わっていた、という海軍経験を元に書かれた名作。

現在は、受信設備が置かれていた新座市には、「在日米軍大和田通信所」が引き続きアンテナ群を展開。
清瀬市にあった副受信所の一部は気象庁気象衛星センターとなっている。東久留米市域は東久留米団地として再開発されている。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:C59-C2-41
昭和18年(1943年)06月27日、日本陸軍撮影の航空写真を一部文字入れ加工。

この広大な敷地に、アンテナ群が点在していた。

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:X1-C2-82
19410625S16

「海軍用地」の境界標石が2基残っている。
農道の脇にあり、非常にわかりにくいので、大体の位置は下記を参照で。


海軍大和田通信隊跡地(新座市)
門柱跡

フェンスの向こう側、「在日米軍大和田通信所」管理地内に、一対の門柱が残っている。
米軍がこのような門柱を作るとも思えないため、旧海軍時代の名残と思われる。

場所

https://goo.gl/maps/2mpdJSp5ZrbCcxaJ8


海軍大和田通信隊跡地(清瀬市)
「海軍用地」境界標石

現在の米軍敷地の北西、農道と農地に囲まれた場所に、2基確認できる。

海軍用地

第十七號

周辺に目印はない。。。

1基目の東側の農道に。

海軍用 (海軍用地)

右側のフェンスは米軍敷地。

裏面は摩耗して判別不能。

この界隈は、米軍用地と国有地と農地が入り混じっている。


海軍大和田通信隊跡地(東久留米市)

東久留米上の原。当時を偲ぶものは格別には残されていないが、「海軍大和田通信隊跡」を記録する看板が設立されいる。

東久留米市指定文化財 旧跡第6号
海軍大和田通信隊跡 上の原1丁目、2丁目
 昭和11年 (1936) に埼玉県北足立郡大和田町西堀に開設された旧日本海軍の外国無線傍受専用受信所の中心的な施設で、翌年に「東京通信隊大和田分遣隊」となり、昭和16年(1941)には「大和田通信隊」として独立しました。大和田町の受信施設を中心に、東京都北多摩郡清瀬村下清戸、同久留米村神山に及ぶ本隊、清瀬村中清戸の副受信所の3町村にまたがる広大な面積を有し、久留米村には字神山の平坦地に関連施設やアンテナ群が設置されました。久留米村部分の面積は明確ではありませんが、海軍施設所有地約 1.2 ヘクタール、アンテナ等敷設の海軍占有地約 200 ヘクタール程(現在の上の原一丁目、二丁目内)と推定されます。
 戦後、久留米村の用地の大部分は国有地となり、昭和37年(1962)に日本住宅公団の大規模な「東久留米団地」が建設されました。また、久留米村の通信施設の一部は米軍の「大和田通信所」の基地となり、その後、昭和38年から昭和52年まで運輸省航空交通管制本部として利用されました。現在、旧海軍通信施設としての遺構等は全く存在しませんが、上の原二丁目の南西より「海軍用地」の境界杭が発見されており、この地に旧海軍の施設が存在したことを記憶にとどめるため、戦争遺跡として旧跡に指定しました。なお、旧跡指定は東久留米市域のみです。
 東久留米市教育委員会

東京都東久留米市上の原1丁目6

場所

https://goo.gl/maps/cjNMtdqydHT5yUxL8


在日米軍大和田通信所

海軍大和田通信隊跡地の中心である新座市には、現在も「在日米軍大和田通信所」がある。

こうしてみると、実はフェンスに囲まれたエリア以外も「在日米軍大和田通信所」として米軍区域であることがわかる。周辺の農地や新座市総合運動公園なども米軍区域に含まれている。

周辺には、「防衛施設庁」境界標石が多い。
最初、「海軍用地」境界標石を探していた時に、何度騙されたことか。。。

昔は、界隈には海軍用地境界石が、まだまだ多くあったようだけど、今回、私が見つけられたのは、2基だけでした。。。


海軍無線電信所船橋送信所跡


関連

海軍道路と桜並木(横浜市瀬谷区)

横浜市瀬谷区の通称「海軍道路」
 相模鉄道「瀬谷駅」より北の八王子街道に向けて一直線に伸びる約3キロの直線道路。
見事な桜並木の名所としても有名。

ちょっと散策してみました。

以前の記事も参照で


海軍道路

海軍道路
 第二次世界大戦以前、この付近には、旧日本海軍(横須賀海軍軍需部、第2海軍航空廠)の火薬工場、補給工場、倉庫等が立地していました。当時は、海軍道路沿いに、旧日本軍が整備した引込線が敷設されており、旧日本軍施設と神中鉄道(現相模鉄道)瀬谷駅を結ぶ輸送等の役割を担っていたと考えられています。その後、旧日本海軍施設は「上瀬谷通信施設」として昭和26年3月より米海軍に接収されていましたが、平成27年6月30日、日本に返還されました。
 「海軍道路」は、これらの歴史を踏まえ、横浜市の道路愛称事業(歴史的に由来のある道路や、通称が住民に定着している道路に愛称を付ける事業)により、市道環状4号線のうち瀬谷中学校交差点付近から八王子街道に至る約2,850mについて名づけられた「愛称道路」名として、現在も広く親しまれています。
 平成29年3月(令和2年3月改定) 瀬谷区役所

質問(瀬谷区)海軍道路の概要について
回答
(1)名称の由来
 昭和15年頃、現在の上瀬谷通信施設内にわが国の海軍施設である横須賀海軍資材集結所があり、物資を輸送するために建設された海軍用の道路だったことから、この名称が生まれました。

(2)海軍道路の長さは?
 海軍道路は一般的に、県道瀬谷柏尾線瀬谷中学校前交差点から旧国道16号線(八王子街道)が交差する部分までを指しますので、延長2850メートルです。

(3)桜は何本くらいあるの?
 ソメイヨシノが約300本、ヨウコウサクラが約40本で、合計約340本あります。

(4)桜はいつ植えたの?
 瀬谷中学校側は昭和50〜51年頃に、旧国道16号側は昭和57〜58年頃に植樹しました。

問い合わせ【瀬谷区役所区政推進課広報相談係】(TEL:045-367-5636)

横浜市 https://qa.city.yokohama.lg.jp/search-detail/2999/

海軍道路

海軍道路入口

海軍道路
Kaigun-doro St.

海軍道路本郷橋


海軍道路の桜並木

ゆっくり桜を愛でながら散歩してみました。以下、桜並木の写真を。

道路は花見渋滞、ですね。気持ちはわかります。


鶴間駅からバスに乗って「笹原バス停」下車。
八王子街道の「海軍道路入口」から約1時間30分ほど散策して、相鉄「瀬谷駅」に到着、でした。

撮影は2021年3月27日


場所

神奈川県横浜市瀬谷区瀬谷町 県道 18 号線

https://goo.gl/maps/NdJPvCmjcVd43rmM9


瀬谷界隈の戦跡関連


「海軍道路」関連

海軍兵学校の門標(横浜)

横浜駅から歩いて約10分ほどの場所に、海軍兵学校ゆかりの門標があった。


海軍兵学校の門標

海軍兵学校の門標
 明治初年、勝海舟の書。
 昭和20年、海軍兵学校閉校に際して撤去されたが、後年、鋳造家 柏木宏之氏(同校第74期)が原型通りに復元、同期生の田辺弥寿男氏の手を経て、柳川ビルに寄贈された。
 柳川ビルの竣工にあたり、先輩のご厚意と、建設に協力された、わが第77期クラスの友情を記念してここに設置する。
 昭和62年10月
  海軍兵学校第77期
   柳川荘一郎


海軍兵学校第77期

「柳川ビルクリニック」の院長が柳川荘一郎氏。海軍兵学校第77期。
海軍兵学校第77生徒は、最後の海兵生徒・最後の江田島健児、であった。
(77期の次、海軍兵学校第78期は予科生徒であった)

そして、「柳川ビルクリニック」のサイトには、「錨」がシンボルーマークとして、掲げられていた。

http://www.yanagawa-bc.com/information/#info_peo


場所

神奈川県横浜市西区南幸2-21-5

https://goo.gl/maps/wbcRZN28dv1NxjhNA

秩父御嶽神社の東郷元帥立像と乃木大将立像

埼玉県飯能市。最寄りは西武秩父線吾野駅。
秩父路の途中に、東郷平八郎と乃木希典を祀る神社があった。
「秩父御嶽神社」
ちょうど紅葉の季節に機会がありましたので足を運んでみました。


本記事で触れる「秩父御嶽神社」以外に関しては以下の記事より。


吾野駅

西武鉄道としては、西武池袋線の終点であり、西武秩父線の始発にあたる駅。(飯能駅起点ではないのですね)
昭和4年(1929)に西武池袋線の前身にあたる「武蔵野鉄道」の終着駅として開業。西武秩父線の開業は昭和44年(1969)。現在の駅舎は平成9年建造。

吾野駅にポスターがありました。徒歩20分だそうです。

秩父御岳神社
東郷公園
当駅より徒歩約20分です!

吾野駅前に案内石柱がある。昭和5年12月建立。

御嶽山秩父御嶽神社
元帥伯爵東郷平八郎謹書

御嶽山東郷公園
 長生書

福寿山乃木公園

御嶽山秩父御嶽神社の鎮座している山を福寿山と呼称している。

「長生」とは、海軍中将小笠原長生のこと。東郷平八郎に傾倒し副官的な立場で東郷とともにあった。だいたい東郷さんの関連する場所に足を運ぶと、小笠原長生の名を見ることになる。

小笠原長生(おがさわら ながなり)
東郷平八郎に傾倒し「東郷さんの番頭」「お太鼓の小笠原」などと呼称されるほどに東郷平八郎の顕彰活動・聖将化に多大な影響があった人物。

吾野駅から約20分ほどあるく。高麗川の先に社頭が見えてきた。


秩父御嶽神社

御祭神:
国常立命、大巳貴命、少彦名命、清貫一誠霊神(鴨下清八)、東郷平八郎、乃木希典、他

埼玉県飯能市鎮座。
信州木曾御嶽山を本山と仰ぎ、その御分霊を奉斎する御嶽信仰の神社。
創建は明治27年(1894)。鴨下清八(1861-1955)が創建。鴨下清八は没後に、清貫一誠霊神として祀られている。

御嶽山秩父御嶽神社
元帥伯爵東郷平八郎謹書

東郷公園
長生敬書

御嶽山
元帥伯爵東郷平八郎謹書

村社秩父御嶽神社
昭和戌辰秋 海軍中将子爵小笠原長生敬書

東郷公園

東郷平八郎元帥の銅像建立後、秩父御嶽神社の境内は「東郷公園」と呼ばれている。
公園内には東郷元帥像のほかに乃木希典陸軍大将銅像、日露戦争の遺物(ロシア製大砲、戦艦三笠被弾甲板)、海軍省からの記念品などが点在されている。

御嶽山東郷公園 秩父御嶽神社 御案内
 当山は、御嶽山東郷公園、秩父御嶽神社と謂い明治28年11月故鴨下清八氏の開山によるもので、名将東郷元帥の記念公園を境内にした木曽御嶽山の御分霊を奉斎する霊山である。

御祭神
 國狭槌尊八海山提頭羅神王
  (健康・和楽・長寿の神)
國常立御嶽山座王大権現
  (天福皆来・地福円満の神)
 豊斟渟尊三笠山刀利天
  (福徳開運・必勝の神)

例祭日 毎月1日・9日・15日・18日・27日

 参道入口には、開山者清貫一誠霊神銅像及び講社信仰に貢献せる諸霊神碑霊場があり、それより足を進めると、日露戦争遺物の三笠艦弾痕の甲板や砲弾、布設水雷、野砲、東郷元帥銅像や乃木大将銅像等々がある。東郷元帥銅像は元帥自ら臨席除幕なされた日本唯一のものにして東郷生身銅像とも謂う。傍には元帥お手植えの松が今でもその緑をたたえている。
 境内中腹より、365段の石段を登り途中祈祷殿各末社を経て頂上奥社に達する。
 全山に、楓樹数百本あり11月初中旬の紅葉は特に美しい。
  秩父御嶽神社社務所

かなり広いので境内の位置関係を把握しておかないと迷子になる。


砲弾と布設水雷

林立する門柱も当時からのものと思われる。

砲弾と布設魚雷
右の砲弾は日露戦争日本海開戦の時、ロシア軍バルチック艦隊より発射された主砲の巨弾で、日本海軍はこのために苦戦をしいられました。
左の球型のものは布設水雷と云い、旅順港口に多数布設され、日本海軍の入港を阻止しました。
戦後、日本軍が掃海し、引き揚げたものが」海軍省より下賜されました。

バルチック艦隊主砲 砲弾

旅順港敷設 水雷


紀念公園碑

紀念公園碑
海軍大将東郷平八郎書


門柱

皇国興廃在此一戦
各員一層奮励努力
 平八郎書

昭和3年の御即位記念のに建立された門柱。


東郷元帥銅像

紅葉に囲まれた東郷平八郎銅像。
この銅像は、東郷平八郎が生前に唯一建立をみとめたものという。

鴨下清八氏と親交のあった陸軍中将堀内文次郎も東郷平八郎を説得。
ここに唯一の生前銅像が建立した。

東郷元帥銅像
当山開祖 鴨下清八 氏は、世界の名将と称された東郷元帥の武勲と威徳を後世に伝えるべく、「皇国興廃在此一戦」との名言になぞらえ一戦を一銭とし毎日一銭ずつ蓄える一銭貯金を断行し、元帥の銅像を志しました。
元帥邸をおとずれること80余回。元帥は、我が生前の銅像建立は断じて辞退するとのことでしたが、氏の誠意に打たれ、ついには承諾されました。
氏は大正14年4月17日、元帥の望まれるままの正装したお姿の銅像を建立されました。
除幕式当日には、元帥自ら松崎海軍大臣代理、小笠原長生中将、堀内信水中将等を従えられ、小笠原中将に命じられ除幕されました。他に例のない唯一の生身銅像と称せられる所以です。

階段下に
鴨下清八氏

階段上、左から3番目から
小笠原長生海軍中将
東郷平八郎元帥海軍大将
松崎海軍大臣代理=松崎伊織?(中佐のち中将)。この時の海軍大臣は財部彪
堀内文次郎(堀内信水)陸軍中将
粕谷義三衆議院議長

東郷元帥像

嗚呼名将
 海軍大臣財部彪題


東郷元帥お手植えの松

残念ながら平成11年に枯れてしまったが、継承された松が2代目として育っている。

東郷元帥お手植えの松 大正14年4月17日

平成11年の雪害が原因で、元帥お手植えの松は惜しくも枯れ落ちましたが、近隣在住の信徒の手により実生の発芽に成功し、平成24年3月15日ここに移植、既存種の継承を確認いたしました。
 社務所


弾痕の三笠甲板

日露戦争を決定づけたのは、明治38年5月27日の日本海海戦でした。ロシア軍がウラジオ港に向けて航行させた主力バルチック艦隊を撃滅すべく、東郷司令長官ひきいる連合艦隊は日本海に待機しました。
「敵艦見ゆとの報に接し、連合艦隊は直ちに出動。之を撃滅せんとす。本日天気晴朗なれど波高し」の第一広報に続き「皇国興廃在此一戦 各員一層奮励努力」Z信号ととともに海戦が開始されました。激戦の結果、敵艦38隻のうち逃亡3隻に過ぎず、日本軍が大勝しました。このとき、東郷長官の乗る旗艦三笠は、ロシアン軍の集中砲火をあび、甲板には蜂の巣状の弾痕を残しました。展示のものは、開園時に海軍省より下賜された旗艦三笠の甲板の一部です。


日本海海戦大捷記念碑

明治天皇御製
くもりなき朝日の旗に
あまてらす 神のみいつを
仰げ國民
 元帥伯爵東郷平八郎謹書

日本海海戦大捷記念碑
海軍中将子爵小笠原長生書


東郷神社

参拝時、東郷神社は改修工事中でした。。。

東郷神社
東郷神社は東郷元帥ご他界(昭和9年5月)の後、昭和10年4月17日に建てられました。
東郷公園創始者鴨下清八氏が元帥の御心を体し、縁も深きこの場所を鎮座地と選び、生前の元帥の功績を讃え、平和の神と仰ぎその御霊をお祀りしました。
日露戦争日本海海戦大勝の日にちなみ、5月27日を例祭日として、毎年、世界の平和と国土の安泰を祈願しています。


ロシア製3インチ野砲と至誠館

ロシア製3インチ野砲(1901年製)と至誠館
明治38年満洲の荒野において、ロシア軍新鋭の野砲のために日本陸軍は難戦苦闘しました。
日本軍の野砲は発射と同時に砲車が後退し命中率を欠きましたが、ロシア軍の野砲は砲身が自動的に後退し、使用も簡易で命中率も優秀でした。
当山の東郷神社に陸軍省から下賜されましたが、大東亜戦争の後、付属部品の盗難被害にあったのが残念です。
野砲が納められている建築物は至誠館と云い、東郷元帥来山のおり、ご休憩されました。

至誠館

大正14年(1925)4月17日の東郷元帥銅像除幕式の際に、東郷平八郎が休憩をした建物。


三笠山神社

日本海海戦の連合艦隊旗艦「三笠」と通じるものがあるが、関係ない。
御嶽信仰に関係する御嶽山の前山である三笠山に由来。
三笠山大神(豊斟淬命)


乃木神社

陸軍大将乃木希典を祀る。


乃木将軍銅像

東郷公園内には、驚いたことに東郷平八郎だけではなく乃木希典の銅像もある。

乃木将軍銅像
乃木将軍は萩出身の陸軍軍人。日露戦争時、難攻不落といわれた旅順の203高地を攻略しました。
質素倹約を旨とし、農将としても名高く、明治天皇の大喪の日の殉死はあまりにも有名です。
「農は国の本なり」との信念にも篤かった当山開祖の鴨下清八氏、将軍に師事するがごとく農業、養蚕業にも力を尽くし、昭和4年11月24日、人々の模範となるよう、この地に将軍の銅像を建立しました。
 乃木希典(のぎ まれすけ) 1849.11.11~1912.9.13

忠魂義魄
陸軍大臣宇垣一成書


秩父御嶽神社御社殿

扁額

秩父御嶽神社
 元帥伯爵東郷平八郎謹書


秩父御嶽神社祈祷殿

扁額が同じく東郷平八郎によるもの。

秩父御嶽神社
 元帥伯爵東郷平八郎謹書


清貫一誠霊神立像

清貫一誠霊神は、鴨下清八氏の神名。


御朱印

社務所で御朱印をいただきました。

いただきませんでしたが、社務所では「東郷煎餅」を頒布しておりました。

社務所の近くには里宮。通常のご祈願は里宮にて対応している感じですね。

飯能の山奥に、これほどに見どころのある神社があるとは知りませんでした。東郷平八郎と乃木希典と、日露戦争の両雄銅像を一度に拝見できる貴重な空間。ぜひとも足を運ぶことをおすすめします。


東郷氏祖先発祥地

明治天皇海軍漕艇天覧玉座阯碑

隅田公園に残る石碑。隅田川左岸の向島にある「隅田公園」はもともと水戸徳川家下屋敷跡であったが、震災復興公園として昭和6年に整備された公園。その隅田川左岸に 明治天皇と帝国海軍に関連する石碑があった。

「明治天皇海軍漕艇天覧玉座阯」の碑

昭和16年(1941)11月3日、明治節の記念日に建立。開戦の前月。
明治天皇は、この地に玉座を設けられ、帝国海軍短艇競漕を天覧された。

明治天皇
海軍漕艇天覧
玉座阯

恭しく惟みるに
明治天皇夙に叡慮を帝國海軍の発達に労し給い明治元年三月親しく大阪に幸して諸艦を天保山に関せられ爾来屢艦船部隊官衛学校等に行幸あらせ給へり殊に海軍短艇競漕の隅田川に行はるるや、玉座は設けて此処に在り親しく 天覧を賜うこと前後四次に及べり、明治十五年には 十一月二十一日、二十六年には六月三日、二十七年には四月二日に臨御あらせられ是の日 
皇后亦行啓せられ、二十九年には十二月十八日を以て親閲あらせ給へり其の間二十五年には六月十九日を以て
皇后竝皇太子の行啓を辱うせり参加の将士斉しく恐懼感激して勇躍技を競い行事最も盛大を極はめり斯の如きは皆是れ宸慮の深きに出で帝國海軍の無上なる光栄にして牢記すべき所なり只恐る。
当年 玉座の聖蹟星移り物替はりて滄桑の変を経或は湮晦に帰せんことを是れ本会が
天皇親臨のこの尊ぶべきの地を永遠に顕彰し奉り 永く聖徳の至大なるを仰がんことを期し帝国海軍及朝野の諸彦と謀りて、昭和十六年の 明治節日をとし一碑を玉座の阯に建つる所以なり乃ち勤みて事の由来を勒し之を不朽に伝ふ。  
 紀元二千六百一年十一月三日
      墨田川聖蹟顕彰會
※片仮名を平仮名に変換しました。

「明治天皇海軍漕艇展覧玉座阯」の碑
 この碑の建つ場所は、明治年間に幾度も明治天皇のレガッタ視察のために玉座をしつらえた場所です。
 現在は堤防が整備されて隅田川の様子があまり見えませんが、かつては土で造った堤防に桜が植えられ、たいへん風情のある光景でした。そうした場で、明治15年(1882)11月21日、明治26年(1893)6月3日、明治27年(1894)4月2日、明治29年(1896)12月18日の4度にわたりレガッタを天覧したのです。
 隅田川のレガッタの歴史のひとつを物語るこの石碑は昭和16年(1941)11月に建碑されました。
  墨田区

戦後の墨田区による解説碑は、 
明治天皇がレガッタ視察としか記載がなく、【海軍】としての説明が抜け落ちている。
なおかつ「明治天皇海軍漕艇天覧玉座阯」であるべきところが、「明治天皇海軍漕艇展覧玉座阯」と記載されており、誤植甚だしい。

隅田川左岸に。


隣には新しい石碑。「隅田川ボート記念碑」

隅田川ボート記念碑「漕」

2016(平成28)年9月3日(土)建立。


日本のボートは ここ隅田川を中心に発展し その隆盛を迎えた
Rowing in Japan was Nurtured here on the Sumida River, which then became its primary venue.

“春は春は桜咲く向島 ヤッコラセー オール持つ手に花が散る・・・・・・”
明治初期から”近代文化の華”として日本のオアズマンはここで猛訓練をしスポーツマンシップを鍛えあげた。
河畔には艇庫が立ち並び、レースには人々が堤や橋上に参集し大声をあげた。往時の面影は全くないが、堤に立つと当時の熱狂的な応援の声がいまもなお聞こえてくる。この国の大いなる発展を象徴するかのように。それを忘れないために、記念碑をこの地に建立する。
 平成28年9月
  隅田川ボート記念碑建設委員会
   会長 半藤一利 撰

近代史に造形の深い作家・半藤一利さんは東大ボート部OBでもある。
しかし、隅田川のボート発祥にまつわる 明治天皇や海軍の件に触れない碑というのが、今どきの碑・・・。

明治天皇海軍漕艇天覧玉座阯の隣

隅田川艇庫址図(向島地区)

隅田川ボート年表
夏目漱石も漕ぎ、福沢諭吉も漕ぎ、レガッタは「春のうららの隅田川」と滝廉太郎の「花」にも歌われ、ボートは隅田川の華であった。全日本選手権、海外との交流試合、大学対抗戦など主要なレガッタが数々開かれ、隅田川は日本のボートの中心地となった。しかし、戦後復興の陰で産業排水などにより、川の汚染が進み、昭和三九年の東京五輪のために戸田ボートコースが整備されたのを契機に隅田川離れが進み、昭和四二年の一橋大学艇庫閉鎖を以って隅田川の艇庫群が姿を消した。最盛時の面影を今に伝えるのは早慶レガッタのみである。(隅田川ボート記念碑建設委員会)
 ※以下略

隅田川ボート年表とある。
明治10年以降の事象が記載されているが、やはり 明治天皇や帝国海軍短艇に関する記述はない。

公益社団法人 日本ボート協会 

https://www.jara.or.jp/report/2016/2016sumida_rowing_monument_unveiling.html


旗竿台(掲揚台・掲揚塔)

昭和16年11月3日に隅田川聖蹟顕彰会によって「明治天皇海軍漕艇天覧玉座阯」の碑が建立された際に、あわせて、駆逐艦「桃」(基準排水量755トン・初代) の前檣が碑の傍らに建てられたという。この旗竿台は、其の名残。桃の前檣旗竿は戦後のある時期に撤去されてしまったという。

昭和16年11月建立
隅田川聖蹟顕彰會
 ※文字は削り取られている

聖徳欽仰
 ※文字は削り取られている
隅田川聖蹟顕彰會幹事海軍中将有馬寛謹書

無残にも文字が削り取られてしまっている旗竿台は、「明治天皇海軍漕艇天覧玉座阯」の碑とともに並んでいたはずであったが、平成の世になり、間に「隅田川ボート記念碑」が 建立され、ちょっと距離ができてしまったような。

この場所は、時代とともに変わりゆく価値観を垣間見ることができる、そんな空間であった。


関連

隅田公園の北側

明治天皇

「北千島開拓の先駆者」郡司成忠大尉の墓と言問団子桟橋

隅田公園の北側、言問団子の近く。
海軍大尉で冒険家であった郡司成忠のゆかりの地。郡司成忠の冒険は隅田川から始まったのだ。


郡司成忠(ぐんじ しげただ)

万延元年11月17日(1860年12月28日) – 大正13年(1924年)8月15日)
海軍大尉、探検家・開拓者。
開拓事業団「報效義会」を結成し、北千島の探検・開発に尽力。
小説家の幸田露伴は弟。文学博士の幸田成友も弟。妹に音楽家の幸田延、安藤幸。

幕臣幸田成延の次男として生まれた成忠は、幼年期に親戚郡司家の養子となる。
明治5年(1872)、海軍兵学寮予科へ入学。海兵6期は斎藤實が同期生であった。その後、海軍大学校甲号学生1期(加藤友三郎が同期)卒業。
ロシア帝国との国境であった千島に興味をいだいた郡司成忠は明治25年(1892)に千島移住趣意書を海軍当局へ提出するも海軍はそれを許可しなかった。
当時、北千島に居住していた千島アイヌは根室県令の命令で色丹島に強制移住となっており、北千島列島は無人であった。
郡司成忠は千島行きを諦めず、海軍大尉を退いて予備役となり、民間人として千島を目指すこととなる。
舟の手配に苦慮した郡司成忠は、横須賀鎮守府で不要になった短艇を払い下げてもらい、無謀な計画の準備をすすめていく。

報效義会
明治26年(1893年)、郡司成忠率いる千島拓殖隊は「報效義会」として志を同じくする元海軍出身者が集っていた。のちに南極探検を行う陸軍出身の白瀬矗は「自分が海軍出身者でないためボート技術に不安があるというなら、陸行と渡し船を使って独自に千島へ渡るので迷惑はかけない」と報效義会への入会を希望し、例外として白瀬も北海道で合流の上で千島を目指すことととなる。
3月14日に、幸田露伴は兄・郡司成忠の送別会を行ない、そして3月20日に隅田川で出発セレモニー開催。出発前から大変な盛り上がりであった。

第一次北千島遠征(第一次拓殖)
明治26年(1893年)3月20日、郡司以下、約40人の報效義会員は5隻のボートで千島へと旅立った。しかし八戸沖で2隻が遭難し19名が死亡。当初の計画を変更し、函館からは他の船に便乗して択捉島に移動。その後、捨子古丹島に9名、そして郡司・白瀬ら7名は占守島に渡り越冬を行った。
占守島の郡司・白瀬らは越冬に成功するも、捨子古丹島の9名は全員死亡。また清国との緊張が高まっていたことから、占守島の郡司ら7名は全員が予備役軍人であったということもあり、いったん占守島を引き揚げ帰国。
最終的に1893年から1895年の報效義会の第一次千島拓殖は31名の死者を出してしまった。

第二次北千島遠征(第二次拓殖)
帰国した郡司成忠は日清戦争に参加。水雷敷設隊の分隊長などで活躍。戦争終了後の明治29年(1896)「第二次報效義会」を結成。第一次報效義会は冒険の面が強かったが、第二次報效義会は拓殖をメインとしており、また事前準備も整え、政府から3年間補助金が出ることも決まった。
明治36年(1903)には占守島の定住者は170人まで順調に拡充していた。

日露戦争
明治37年(1904)日露戦争勃発。郡司成忠は義勇軍を編成しカムチャッカ半島に進軍するもロシアコサック兵に捕まり捕虜となる。郡司成忠が捉えられたため、「第二次報效義会」は占守島からの引き揚げを決定し、事実上の解散となる。

その後
日露戦争終了後に郡司成忠は開放され帰国。明治39年頃に再び報效義会を率いて活動を再開。その後明治42年に、露領沿海州水産組合が組織され組合長に就任。
大正4年(1915)に郡司成忠は陸軍参謀本部第二部からの指令を受けシベリアに赴いている。第一次世界大戦のさなかということもありなんらかのスパイ活動ともされている。
大正13年(1924)8月15日、郡司成忠は63歳で没した。


郡司成忠墓

池上本門寺の五重塔の下、に郡司家・幸田家の墓所がある。

従六位勲五等 郡司成忠墓

先考諱ハ成忠、幸田氏ヨリ出テ郡司家ヲ譲ク。明治二十六年報效義会を起シ、占守島ニ拠リ外国密漁者ヲ攘ヒ、夙ニ北海ノ猟漁探検敢ヘテシ、更ニ邦人拓北ノ機ヲ啓キ、後年魯領沿海州漁業権ヲ我ニ収ムルノ地ヲ為セリ。大正十三年八月十五日没ス。追叙従六位、賜勲五等。享年六十五。
 昭和五年八月十五日 郡司智麿

郡司智麿は郡司成忠の長男(外交官となる)。

露伴幸田成行墓(幸田露伴墓)


隅田公園の北。
言問桟橋から郡司成忠の冒険は始まったのだ。

言問団子桟橋

言問団子と郡司大尉
 江戸後期、向島で植木屋を営んでいた外山佐吉は、文人墨客に手製の団子を振舞う「植佐」という団子屋を開くと、花見客や渡船客の間でも人気となった。
 明治元年、長命寺に逗留していた歌人の花城翁より、在原業平が詠んだ「名にしおはゞ いざ言問はん都島 わが想ふ人はありやなしやと」に因んだ命名の勧めを受けた佐吉は、「言問団子」と名づけ、業平神社を建て、都鳥が飛び交うこの辺りを「言問ヶ岡」と呼んだ。明治11年、佐吉が始めた灯籠流しによりその名は広く知られていった。後に「言問」は、言問橋や言問通りなどの名称で定着したが、ルーツは「言問団子」である。
 また、この裏手にある桟橋からは、明治26年3月20日千島開拓に向かう郡司大尉率いる5艘の端艇が出発している。隅田川両岸はこれを憂国の壮挙と称える群衆で埋まり、花火が打ち上げられ、歓呼の声と楽隊の演奏が響く中での船出であった。この時、大尉の弟、幸田露伴はこれに同乗して横須賀まで見送っている。


郡司成忠の曾孫が運営しているサイト

http://gunjishigetada.jpvlad.com/index.htm


関連

池上本門寺

隅田公園の南側

「敵兵救助の武士道」雷艦長・工藤俊作中佐の墓

埼玉県川口市。
川口市朝日にある真言宗智山派寺院薬林寺に海軍中佐・工藤俊作の墓がある。

工藤俊作

工藤俊作。最終階級は海軍中佐。
1901年(明治34年)1月7日-1979年(昭和54年)1月12日。

1920年(大正9年)、海軍兵学校に入学。海軍兵学校の同期は、大井篤、実松譲、豊田隈雄、小園安名など。
1923年に海軍兵学校を卒業。その時の練習艦隊の一艦であった磐手の艦長が米内光政であった。

海軍少佐として1940年(昭和15年)11月1日に駆逐艦「雷」艦長となり、そのまま太平洋戦争を迎える。

1941年(昭和16年)12月8日、太平洋戦争開戦。工藤艦長の「雷(イカヅチ)」は第六駆逐隊に所属し、僚艦の「電(イナヅマ)」とともに第二遣支艦隊(新見政一中将)に属し、香港の海上封鎖を行った。
その後、戦艦「榛名」を旗艦とする南方部隊本隊東方支援隊に所属し、蘭印作戦等の南方の諸作戦に参加することになる。

スラバヤ沖海戦

1942年3月1日。スラバヤ沖海戦。
インドネシア・スラバヤ沖で、アメリカ・イギリス・オランダ・オーストラリア連合海軍(ABDA艦隊)と日本海軍が会敵し、日本海軍が勝利。

戦闘終了後、第三艦隊司令長官の高橋伊望中将の主隊附属であった第六駆逐隊小隊「雷」は救助活動を開始。
前日の戦で沈没したイギリス海軍の「エンカウンター」乗員などの漂流者を発見した工藤艦長は「おい、助けてやれよ」と一言発して救助を指示。
敵潜水艦などからの攻撃を受ける危険を冒しながらも3時間に亘り行われた救護活動の結果、「雷」は乗組員に倍する422名を救助した。(雷の乗員は約219名)

工藤は救助した英士官に英語で「諸君は果敢に戦われた。今、諸君は大日本帝国海軍の大切な賓客である。私はイギリス海軍を尊敬するが、日本に戦いを挑む貴国政府は実におろかである」とスピーチしたという。

工藤俊作は、1942年8月13日に駆逐艦「雷」艦長から駆逐艦「響」艦長に就任。11月に海軍中佐に昇進。その後、12月に地上勤務となるも1944年11月から体調を崩し、1945年3月15日に待命となり、そのまま終戦を迎える。

戦後

戦後の工藤俊作は故郷の山形で過ごしていたが、妻の姪の開業した医院で事務仕事を行うために埼玉県川口に移住。そのまま1979年に胃癌で没している。

工藤俊作は戦後はサイレントネイビーを貫き、雷艦長での敵兵救助のエピソードなども語らず、知る人も少なかった。

フォール卿

「雷」に救助されたエンカウンター砲術士官であったサムエル・フォール元海軍中尉(フォール卿)は、戦後は外交官として活躍し、戦時中の恩人であった工藤艦長の消息を探し続けていた。
フォール卿が工藤艦長を探し当てた時にはすでに工藤俊作は他界しており、せめて工藤の墓参りと遺族への感謝を伝えようと来日を調整。
2008年に「海軍中佐工藤俊作顕彰会」の招きを受けたフォール卿は、既に89歳という高齢で心臓病も患っていたが、駐日イギリス大使館附海軍武官や護衛艦「いかづち」乗員らの付き添いのもと来日し薬林寺へと足を運ばれた。
そうして工藤艦長に66年越しに感謝の思いを伝え、長年の希望であった工藤艦長の墓参りが実現した。

フォール卿は「ジャワ海で24時間も漂流していた私たちを小さな駆逐艦で救助し、丁重にもてなしてくれた恩はこれまで忘れたことがない。工藤艦長の墓前で最大の謝意をささげることができ、感動でいっぱいだ。今も工藤艦長が雷でスピーチしている姿を思い浮かべることができる。勇敢な武士道の精神を体現している人だった」と語っている。


工藤俊作の墓

先祖代々之墓

工藤家の墓とも記載がなく、工藤俊作の墓かどうかわかりにくいお墓。
墓石の横手に、「工藤俊作」と名が記されており、それを拝見してようやく「工藤俊作の墓」であることを知ることができる。
まさに「サイレントネイビー」たるに相応しい、海軍軍人の墓であった。

厳徳俊誉信士
昭和54年1月4日
俗名 工藤俊作 行年77歳

合掌


薬林寺

真言宗智山派瑠璃山薬林寺。
開基は室町時代、開山は当山第一世法印宥淳和尚で、寛正元年(1460年)五月とされている古寺。

https://goo.gl/maps/r2nhKUVVtykP4ZkTA


川口

川口の戦跡散策。

川口の鋳物師・増田安次郎に関連して。

「日本海軍の生みの親」勝海舟像と勝海舟墓

都内で、勝海舟にまつわる史跡などを散策してみました。

勝海舟銅像(墨田区役所うるおい広場)

勝海舟(勝麟太郎/勝安芳

旧幕臣。政治家。
正二位勲一等伯爵。明治政府の初代海軍卿。(初代海軍大臣は西郷従道)

幼名及び通称は「勝麟太郎」。諱は「勝義邦」。幕末に「安房守」に任官し「勝安房」を名乗っていたことから、明治維新後に改名して「勝安芳」(かつ・やすよし)と名乗る。
号は「勝海舟」。山岡鉄舟、高橋泥舟とともに幕末の三舟と呼ばれる。

幕末
文政6年(1823)に江戸本所にて生まれる。天保9年(1838年)家督相続。
安政6年(1859年)に、赤坂氷川神社の近くに転居。以来、赤坂界隈を拠点に活動をすることとになる。
嘉永6年(1853年)、ペリー艦隊来航。勝海舟は海防意見書を提出すると幕府老中首座阿部正弘の目に止まり異国応接掛附蘭書翻訳御用に任じられることとなる。その後、長崎海軍伝習所に入門。オランダ語ができたことから長崎海軍伝習所教監も兼ね、伝習生とオランダ人教官の連絡役も務めた。足掛け5年を長崎で過ごしたが、船乗りに向かない体質で、頻繁に船酔いに苦しんでいたという。
江戸築地に軍艦操練所が開設されると、勝海舟は長崎から江戸に戻り、軍艦操練所教授方頭取に就任。

咸臨丸での渡米
万延元年(1860年)
幕府は日米修好通商条約の批准書交換のため、遣米使節をアメリカへ派遣する。

遣米使節の正使は新見正興、副使は村垣範正、目付に小栗忠順らが選ばれ、アメリカ海軍のポーハタン号で太平洋を横断し渡米。
この時、護衛と言う名目で軍艦を出すことにし、咸臨丸がアメリカ・サンフランシスコに派遣された。
咸臨丸には軍艦奉行(司令官格)として木村喜毅(木村兵庫頭・木村芥舟)、軍艦操練所教授方頭取(艦長格)として勝海舟が乗船し、米海軍から測量船フェニモア・クーパー号艦長だったジョン・ブルック大尉が同乗し咸臨丸の航海を助けた。通訳のジョン万次郎、木村喜毅の従者として福沢諭吉(福澤諭吉)も咸臨丸に乗り込んだ。
帰国後は蕃書調所頭取助や講武所砲術師範などに就任。

私塾・海軍塾
勝海舟は先行して私塾として「海軍塾」を設立。当初は大阪に設置し、後に神戸に移転している。海軍塾塾頭は坂本龍馬、塾生にはのちの外務大臣となる陸奥宗光や、初代連合艦隊司令長官となり日清戦争に勝利する伊東祐亨などがいた。

神戸海軍操練所
文久2年(1862年)、軍艦操練所頭取を経て軍艦奉行並、そして幕府艦隊を統括する軍艦奉行に就任し、神戸海軍操練所を設立。
しかし、勝海舟は禁門の変の影響で軍艦奉行を罷免となり約2年の蟄居生活を送ることとなる。また、神戸海軍操練所も反幕的な色合いが強かったため慶応元年(1865年)に閉鎖となる。

江戸城無血開城
慶応2年(1866年)5月28日に軍艦奉行に復帰。
慶応4年(明治元年、1868年)戊辰戦争、鳥羽・伏見の戦いで幕府軍が敗北。
徹底抗戦を主張する小栗忠順が罷免され、海軍奉行並を経て「陸軍総裁」に起用。
官軍が駿府城に到達した際に、勝海舟は早期停戦と江戸城の無血開城を主張。

高橋泥舟の推薦により、徳川慶喜から使者として命じられた山岡鉄舟が駿府へ交渉へ赴く前に勝海舟と基本方針を擦り合わせした。勝海舟は山岡鉄舟に東征大総督府東海道先鋒参謀であった西郷隆盛宛の手紙を託す。

慶応4年(明治元年、1868年)、江戸城総攻撃3月15日の直前の3月13日と14日には勝海舟が西郷隆盛と会談。
江戸城開城の手筈と徳川宗家の今後などについての交渉を行う。結果、江戸城下での市街戦という事態は回避され、江戸城無血開城によって江戸の住民150万人の生命と家屋・財産の一切が戦火から救わることとなった。

明治時代
明治維新後も勝海舟は旧幕臣の代表格として外務大丞、兵部大丞、参議、海軍大輔、海軍卿、元老院議官、枢密顧問官などを歴任し、伯爵に叙された。
しかし明治政府への仕官に気が進まず、辞退や短期間での辞職などを繰り返していた。
晩年も赤坂氷川の地で過ごしており、明治32年(1899年)1月19日に脳溢血により意識不明となり死去。享年77歳。
戒名は、大観院殿海舟日安大居士
勝海舟の最期の言葉は、「コレデオシマイ」であったという。


勝海舟寓居・海軍塾(専稱寺)跡(大阪)

大阪。
神戸に海軍操練所ができる前に、勝海舟は大阪で私塾「海軍塾」を開設していた。そして大阪での勝海舟の寓居が「専稱寺」であった。

勝海舟寓居・海軍塾(専稱寺)跡
この付近「淡路町3丁目」はもと「北鍋屋町」といい、専稱寺がありました。
文久3年(1863)勝海舟が住み、坂本龍馬や近藤長次郎らはこの国をまもるための海軍技術を学びました。その後は、塾は神戸(現兵庫県)に移ります。

 専稱寺は寺伝によると、江戸初期に北鍋屋町に開山され、明治33年(1900)には神戸に移転し、現存する浄土真宗本願寺派の寺です。慶応2年(1866)に記載された水帳には、表口11間、裏口20間の広さとあります。北鍋屋町は後に区画整理などで、現在の淡路町2丁目5から6、同三丁目1から2に該当します。
 文久3年(1863)3月朔日(1日)幕臣勝海舟は「(略)此日、旅宿を北溜屋町真正寺にっ定む 坂下(本)、新宮、京師より来る」と「海舟日記」に記しています。文久3年9月9日にも「(略)専修寺旅宿に入る(略)」という記載があり、また。勝の知人である幕臣 杉浦梅潭は、日記の文久4年正月7日条に「勝麟太郎旅宿 北鍋屋町 専正寺」と記しています。
 勝海舟は「日本の海軍 一大共有の海局」を目指し、佐藤与之助を塾頭として、私塾「大阪海軍塾」を専稱寺で開きました。塾生には、坂本龍馬をはじめ、望月亀弥太、高松太郎、千屋寅之助らも加わり、航海術を学びました。
 この頃、行動長次郎は南鍋屋町にある「大和屋弥七」の娘 徳 と結婚し、遺児 百太郎 が生まれます。
 また、勝海舟は、桂小五郎・井上聞多・松本良順・西郷吉之助らが、大阪の旅宿を訪れたと記していて、ここ専稱寺の可能性があります。
  (漢字は原文を使用しています。)
  平成22年9月

記念碑が有るのみ。

場所

https://goo.gl/maps/EvZMwer5TncQvJkQ6


神戸海軍操練所

以下の記事にて別掲載。


洗足池
勝海舟別邸(洗足軒)跡

洗足池には、勝海舟の別邸「洗足軒」があった。
洗足軒跡は、現在は大田区立大森第六中学校となっている。

勝海舟別邸(洗足軒)跡
勝海舟(1823~99)の別邸は戦後まもなく焼失しましたが、茅葺きの農家風の建物でした。
鳥羽・伏見の戦い(1868)で幕府軍が敗れると、徳川慶喜より幕府側の代表として任じられた海舟は、官軍の参謀西郷隆盛(南洲)と会見するため、官軍の本陣が置かれた池上本門寺に赴きました。
その会見により江戸城は平和的に開けわたされ、江戸の町は戦禍を免れたのです。海舟は江戸庶民の大恩人と言えるでしょう。
その際、通り掛かった洗足池の深山の趣のある自然に感嘆し、池畔の茶屋で休息したことが縁となり、農学者津田仙(津田塾大学創始者、梅子の父)の仲立ちで土地を求めました。明治二十四年(1891)自ら洗足軒と名付けた別邸を建築し次のような歌を詠んでいます。
 池のもに 月影清き今宵しも
  うき世の塵の跡だにもなし
晩年海舟は晴耕雨読の生活の中で、かえで、さくら、松、秋の草々などを移し植え次のようにも詠んでいます。
 うゑをかば よしや人こそ訪はずとも
  秋はにしきを織りいだすらむ
明治三十二年(1899年)七十七歳で没しましたが、『富士を見ながら土に入りたい』との思いから、生前より別邸背後の丘に墓所を造りました。
石塔の『海舟』の文字は徳川慶喜の筆と伝えられています。当初は海舟一人の墓所でしたが、後に妻たみも合祀され、大田区の史跡に指定されています。
 平成11年3月
 勝海舟没後百年を記念して
 社団法人 洗足風致協会

勝海舟
勝海舟は、幕末から明治にかけて激動の時代を駆け抜けた。
スクリュー式蒸気軍艦「咸臨丸」で渡米し、海軍の育成に努めるなど、非常に革新的な考えを持った幕臣と言われている。
慶応4年(1868)年に新政府軍が江戸に進軍した際には、薩摩藩邸における西郷隆盛との会見や池上本門寺での交渉を経て、「江戸城無血開城」を実現させたことでも有名である。
池上本門寺での交渉に赴く歳、洗足池付近で休息を取ったと言われる。そのときに洗足池周辺の風景を気に入り「洗足軒」という別荘を現在の大森第六中学校の地に構えた。

洗足軒後は大森第六中学校。

https://goo.gl/maps/PwYX94cybFc2jqCu5


勝海舟記念館(旧・清明文庫)

1899年に勝海舟は死去。勝海舟死去後、使われることのなかった洗足軒の地を、財団法人清明会が譲り受け講堂兼図書館を1928年(昭和3年)に建設。戦後は学習研究社の「鳳凰閣」として使用され、2012年に大田区の所有となる。
2019年に清明文庫東側面に併設する形で増築され「大田区立勝海舟記念館」として再整備された。

1928年(昭和3年)建設。鉄筋コンクリート2階建て。ネオゴシック様式を基調としアール・デコ調の文様などが施されている。
2000年に国登録有形文化財に登録。

清明文庫の建物
 この建物は昭和3(1928)年に竣工し、外観は正面中央部のネオ・ゴシックスタイルの柱型4本が特徴的で、内部はアールデコ調の造作が施されている折衷様式の建築です。
 用途や間取りの改変や破損部の修理が重ねられているますが、内外とも竣工時の意匠や仕様、建具が良好な状態で残っており、昭和初期の建築様式と技術残す貴重な歴史的建造物です。ただ、設計図は残っておらず、設計者も分かっていません。残されている大正13(1914)年当時の図面では、一部は木造の設計でしたが、当時普及が進み始めた鉄筋コンクリート造に変更され、現在に至っています。

旧貴賓室
 この部屋は、かつて、お客様などをお迎えする貴賓室として使われていました。床材は、記念館が整備される前まで、当時の木材が一部残されており、3種の材料を組合わせた寄せ木造りでした。しかし、劣化が進んでいたため、同様の材料を用いて、全面的に再現しています。

寄木床
展示室5(旧貴賓室)の寄木床仕上は、建設当時高級材料であったラワンやオーク材を用いて、美しいパターン貼りで構成されていました。
 既存の床は傷みや破損があったため、建設当時と同じ樹種の新しい材料を使って復原しています。皆様の目の前にあるのは、既存の寄木床の良好な部分を残したものです。


勝海舟胸像

勝海舟胸像
 この胸像は、海舟の晩年の姿を表現したもので、彫刻家・高村光雲の弟子である本山白雲の作品です。
 白雲は、高知県の坂本龍馬像を始め、偉人の銅像を多数制作したことで知られていますが、現存するものは少ないといわれています。本作は、昭和25年(1950)年以来、東京都議会に保管されていたものです。

本山白雲作

https://goo.gl/maps/5RBziFEGZ3qd95Vj6


勝海舟の墓

洗足池公園の一角に勝海舟夫妻の墓がある。
勝海舟の生前の希望で、洗足池のほとりに眠る。

海舟の文字は、徳川慶喜公によるものという。

大田区文化財
勝海舟夫妻の墓
 勝海舟、諱は義邦、初め麟太郎、後に安房または、安芳と改め、海舟と号した。文政6年(1823)江戸に生れる。幕臣として万延元年(1860)咸臨丸で渡米、海軍奉行となり明治元年(1868)江戸開城に尽力する。
維新後は海軍卿、伯爵、枢密顧問官などを歴任し、漢詩、書を好み、高橋泥舟・山岡鉄舟とともに幕末三舟と称せられた。
洗足池やその周辺の風光を愛し、明治32年(1899)没後遺言によりこの地に葬られた。
別荘洗足軒(現在は大森六中)で次の歌をよまれた。
   千束せんぞく村の別墅べっしょに
       楓樹数株を植ゑて
  うゑをかば よしや人こそ訪はずとも
     秋はにしきを 織りいだすらむ
  染めいづる 此の山かげの 紅葉は
     残す心の にしきとも見よ
          (氷川歌集より)
昭和49年2月2日指定
大田区教育委員会

勝海舟先生墓前

手水鉢には、「子爵 榎本武揚」の名も刻まれていた。

https://goo.gl/maps/W5CPMR2Sfv4xH5do9

江戸無血開城顕彰碑

勝海舟墓所のとなりには、江戸無血開城顕彰碑

江戸無血開城顕彰碑
慶應三年十二月 王政古ニ復シ翌明治元年二月大總督熾仁親王 勅ヲ奉シ 錦旗東征セラレ三月十五日ヲ期シテ江戸城ヲ攻メシム城兵決死一戦セントシ兵火将ニ全都ニ及ハントス時ニ勝安芳幕府ノ陸軍總裁タリ時勢ヲ明察シテ幕議ヲ歸一セシメ十四日大總督府参謀西郷隆盛ト高輪ノ薩藩邸ニ會商シテ開城ノ議ヲ決シ四月十一日江戸城ノ授受ヲ了セリ都下八百八街數十萬ノ生霊因テ兵禍ヲ免ガレ江戸ハ東京ト改稱セラレテ 車駕此ニ幸シ爾来 三朝ノ帝都トシテ殷盛比ナシ是レ一二隆盛安芳ノ兩雄互ニ胸襟ヲ披キテ邦家百年ノ大計ヲ定メタルノ賜ナリ今ヤ東亞大有為ノ秋ニ方リ當年兩雄ノ心事高潔ニシテ識見卓抜ナリシヲ追慕シ景仰ノ情切ナリ茲ニ奠都七十年ニ際シ兩雄ノ英績ヲ貞石ニ勒シテ之ヲ顕彰シ永ク後昆ニ傳フ
 昭和十四年四月
 東京市長従三位勲一等小橋一太謹識


洗足池公園

公園の一隅に聖域がある。勝海舟墓所のとなり。

西郷隆盛留魂祠

留魂祠は、明治10年(1877)に戦死した西郷隆盛(南洲)を惜しんで、勝海舟が、西郷隆盛の7回忌に際して明治16年に造立した祠。
先んじて西郷隆盛の漢詩碑を建碑し、留魂祠ともに葛飾区の浄光寺境内にあった。勝海舟没後、勝海舟夫妻墓の隣地にあたる当地へ大正2年に移転したという。

留魂祠
一、祭神 南洲西郷隆盛先生
一、例祭 毎年九月二十四日
由緒
 明治維新の英傑、西郷南洲(隆盛)勝海舟の両先生は、大政奉還後の江戸城の明け渡し交渉によって、江戸の町を戦火より救われ、首都東京の基を築かれたことでも著名ですが勝先生は、晩年、この洗足池畔に洗足軒と呼ぶ別邸を設けられ、南洲先生と日本の将来について歓談されたと伝えられます。南洲先生はその後、明治十(一八七七)年の西南戦役により、故郷鹿児島において子弟三千余と共に逝去されましたが、これを惜しまれた勝先生は、追慕のため南洲先生の漢詩を建碑されさらに明治十六年(一八八三年)、その魂魄を招祠して留魂祠を建立せられました。留魂祠の名は、漢詩「獄中有感」の「願留魂魄護皇城」に由来するものです。
 この留魂祠は、もと東京南葛飾郡大木村上木下川(現、葛飾区東四ツ木一-五-九)の薬妙寺境内にありましたが、勝先生の御遺志により、大正二(一九一三)年、石碑とともに現在の地へ移されました。右隣には勝先生御夫妻の奥津城(御墓所)があり、維新の両雄は、いまなほ相並んで我国の将来を見守っておられるのです。
 南洲会

西郷隆盛留魂詩碑

勝海舟が、西郷隆盛の死をいたみ、詩とその筆跡を遺すために、三回忌にあたる明治12年に自費で建立したもの。裏面には勝海舟が撰文した由来を記している。もとは葛飾区の浄光寺境内にあった。勝海舟没後、勝海舟夫妻墓の隣地にあたる当地へ大正2年に移転したという。

内容は西郷隆盛が沖永良部島の獄中で作った七言律詩。「願留魂魄護る皇城」から留魂詩と称される。

南洲先生建碑記

留魂碑の工事を勝海舟に任された玉屋忠次郎が明治16年(1883)に建立。
留魂碑が明治12年7月27日に彫刻され、谷中の石工郡鶴のもとから浄光寺に建立された経緯が記載されている。

勝海舟追慕碑

大正2年に勝海舟門下生の富田鐵之助が記したもの。留魂碑が建立されて現在地に移設された経緯などが記されれている。

徳富蘇峰詩碑

昭和12年に、有志が建立。
勝海舟門下生であった徳富蘇峰の詩を刻み建立。
勝海舟と西郷隆盛によって江戸庶民の命が救われた偉業を讃え、両雄を偲ぶ内容。

https://goo.gl/maps/KtnmYM2pYCNzRS6R9


勝海舟銅像

場所は変わって、隅田川近く。
墨田区役所となりの広場に、右手を突き出した勝海舟像がある。
木内禮智作。像高2.5m、台座も入れると5.5mとなる。

勝安芳
 勝海舟(通称・麟太郎、名は義邦、のち安房、安芳)は、文政6年(1823年)1月30日、江戸本所亀沢町(両国4丁目)で、父小吉(左衛門太郎惟寅)の実家男谷邸に生まれ、明治32年(1899年)1月19日(発表は21日)、赤坂の氷川邸で逝去されました。
 勝海舟は幕末と明治の激動期に、世界の中の日本の進路を洞察し、卓越した見識と献身的行動で海国日本の基礎を築き、多くの人材を育成しました。西郷隆盛との会談によって江戸城の無血開城をとりきめた海舟は、江戸を戦禍から救い、今日の東京の発展と近代日本の平和的軌道を敷設した英雄であります。
 この海舟像は、「勝海舟の銅像を建てる会」から墨田区にに寄贈されたものであり、ここにその活動にご協力を賜った多くの方々に感謝するとともに、海舟の功績を顕彰して、人びとの夢と勇気、活力と実践の発信源となれば、幸甚と存じます。
  海舟生誕180年
 平成15年(2003年)7月21日(海の日)
 墨田区長 山崎昇

https://goo.gl/maps/TgLkQzqUAB7626a76


勝海舟生誕の地
 (墨田区立両国公園)

同じく墨田区。両国駅の南側。
墨田区立両国公園が勝海舟の生誕の地であった、という。近くには吉良上野介邸跡もある。

勝海舟生誕の地
所在地 墨田区两国四丁目二十五番
 勝海舟は、文政六年(一八二三) 正月三十日、ここにあった男谷精一郎の屋敷で生まれました。父権究(小吉)は男谷忠怒(幕府勘定組頭)の三男で、文化五年(一八〇八)七歳のとき勝元良に養子入りし、文政二年に元良の娘のぶと結婚、男谷邸内に新居を構えました。海舟が男谷邸で生まれたのは、このためだと考えられます。海舟は七歳までの幼少期をこの地で過ごしました。その後は、旗本天野左京の自宅ニ階(現亀沢ニ丁目三番)や代官山ロ鉄五郎の貸家(現亀沢三丁目六番)を転々とし、ようやく落ち着いたのは天保初年、旗本岡野融政の貸地(現緑四丁目二十五番)に転居してからのことでした。海舟は、赤坂に転居する弘化三年(一八四六)までそこで暮らし、島田虎之助(豊前中津藩士)に就いて剣の修行に励む一方、向島の弘福寺に通い参拝していたと伝えられています。
 海舟が海外事情に関心を寄せはじめた時期は分かりませんが、天保十四年(一八四三)二十一歳の時には師匠島田のすすめで蘭学者永井青崖(福岡藩士)に師事し、嘉永三年(一八五O)には「氷解塾」を開いて西洋兵学を教授しはじめました。米国使節マシュー・ペリーが浦賀に来航したのはまさにその頃、嘉永六年六月三日のことでした。海舟は幕府首脳部に独自の海防論を呈し、安政二年(一八五五)正月には目付大久保忠寛の推挙をうけて異国応接掛手附南書翻訳御用となり、翌三年に講武所砲術師範役、同六年に軍艦操練所教授方頭取に就くなど、活躍の場を広げていきました。そして、同七年正月には日米修好通商条約の批准使節に随伴し、軍艦咸臨丸の艦長として太平洋横断に成功しました。また、帰国後も軍艦操練所頭取や軍艦奉行を務めるなど、政局の混迷の中でますます重要な役割を担うようになったのです。慶応四年(一八六八)三月に行なわれた西郷隆盛との会見は、徳川家の存続と徳川慶喜の助命、無血開城を実現に導き、維新期の混乱収拾に力を発揮した海舟の代表的な事となりました。
 海舟は新政府で高官に任ぜられますが、明治八年(一八七五)十一月に元老院議官を辞した後は著述活動や旧幕臣の名誉回復、経済支援に尽力しました。同十九年(一八八六)五月には酬恩義会を創設して将軍家霊廟の保存を図るなど、最期まで旧幕臣としての意識を持ち続けていました。
 明治三十二年(一八九九)一月十九日、海舟はも七十七歳で病没。洗足池呼の墓で静かに眠っています。
  平成二十三年三月
  墨田区教育委員会

勝海舟生誕之地
法務大臣 西郷吉之助書

西郷吉之助は、西郷隆盛の嫡男である西郷寅太郎の三男。西郷隆盛の孫にあたる。第2次佐藤内閣(1968年・昭和43年)の法務大臣。

碑文
勝海舟先生は幼名を麟太郎と稱し文政6年1月晦日この地男谷家邸内に生まる
剣は島田虎之助に師事し蘭學海洋術を學び安政7年咸臨丸艦長として渡米す
明治元年3月13日高輪薩摩邸に於いて西郷隆盛と會談
官軍の江戸進撃を中止させ江戸百萬の庶民を戰禍より救い東京都繁栄の基礎となせり
明治32年1月19日赤坂氷川の自邸に於いて歿す
明治百年を記念しこの碑を建つ
 昭和43年12月吉日  秀魚書
  勝海舟両国顕彰会
  両國1丁目町会
  両國2丁目町会
  両國3丁目町会
  両國4丁目町会有志
  元男谷邸跡

由来碑
(表)
勝海舟は幼名を麟太郎といい 文政6年(1823)1月13日この地 男谷精一郎邸内で生まれた。
剣は島田虎之助に師事し、蘭学海洋術を学び、万延元年(1860)幕府軍艦咸臨丸艦長として、太平洋を横断渡米した。
慶應4年(1868)3月13日 高輪薩摩藩邸において、大総督付参謀西郷隆盛と会談し、江戸城の開城を決定して、官軍の江戸進撃を中止させ、江戸百万の庶民を戦禍から救ったことはあまりにも有名な話である。
明治32年(1899)1月21日、赤坂氷川町(港区内)の自邸で死去 行年77歳であった。
墓は洗足池畔に建立されている。
平成元年10月
墨田区
(幕府講武所剣術師範役 元 男谷邸跡)

(裏)
社団法人 東日本硝子工業会
会長 瀧波榮一郎 之納
両国勝海舟 顕彰会
平成元年10月吉日

勝海舟幕末絵巻
勝海舟の歩みと、様々な出会い

鳶が鷹を生んだ 
 勝海舟誕生
 文政6年 1823年
幕府海軍の礎となる
 長崎海軍伝習所
 安政2年 1855年
勝海舟アメリカへ
 咸臨丸の渡航
 安政7年 1860年
坂本龍馬との出会い
わずか一年の夢の跡
 小梅海軍操練所
 元治元年 1864年
活と西郷で江戸を救う
 江戸城開城
 慶應4年 1868年

https://goo.gl/maps/H8BozMNRXWwBTxR29


勝海舟翁之像

能勢妙見山別院
妙見山妙見堂(東京都墨田区本所4丁目)

勝小吉・勝海舟父子の信仰が篤かった寺院。

勝海舟9才の時大怪我の際妙見大士の御利生により九死に一生を得その後開運出世を祈って大願成就した由縁の妙見堂の開創二百年を迎え海舟翁の偉徳を永く後世に傳へるため地元有志に仍ってこの胸像が建られた。
昭和49年5月12日

https://goo.gl/maps/r7EgAY5NMttE4X1C9

https://www.myoken.org/tokyobetsuin/


勝海舟・坂本龍馬の師弟像
勝安房邸跡
勝海舟終焉ノ地

現在は、港区立特別養護老人ホーム、もとは氷川小学校があった地の一角に、勝海舟と坂本龍馬の師弟像が建立されている。

勝海舟・坂本龍馬の師弟像

東京都指定 旧跡
勝安房邸跡
この地は、幕末から明治にかけて、幕臣として活躍した勝海舟 が明治5年(1872年)の49歳から満76歳で亡くなるまで住んできた屋敷の跡地です。その間、参議・海軍卿、枢密顧問官、伯爵として顕官の生活を送り、傍ら有名な『氷川清話』などを遺しました。その後の屋敷跡は東京市に寄付され、平成5年(1993年)春まで港区立氷川小学校敷地として使用されていました。その後、氷川小学校が廃校となったため、その建物を生かしつつ改修を行い、平成15年から区立特別養護老人ホーム及び子ども中高生プラザとして使用して現在に至っています。施設内には、屋敷跡 の発掘調査で出土した当時の縁の品などが展示されています。
港区

「明日に向かって」
  勝海舟·坂本龍馬の師弟像

 この地は、勝海舟が1872年(明治5年)から1899年(同32年)に77歳で亡くなるまで27年間住んだ屋敷のあった場所です。 海舟は、明治維新後 旧幕臣の代表格として維新政府の要職に在り協力していました。坂本龍馬との係りは海舟が幕府の要職に付いていた頃(海舟37歳~46歳)で、 龍馬 (26歳~31歳)は海舟を師と仰いで禁い緊密な交流があったようです。
 この交流の始まりは、海舟が威臨丸での渡米、帰国後幕府軍艦奉行就任の1862年(文久2年)海舟39歳のとき、龍馬が海舟を斬ろうと面会を申し入れ逆に感化され、 海舟の門人となり身辺警護をかってでたことからと言われております。 当時、日本国の未来を見据え大意を進めるに当って海舟と龍馬とは相反する体制下にありながら、改革を行うことが出来たのは海と繋がっている広い世界を観る目、日本国を取り巻く世界情勢の中で日本のゆくえについて日本人が一体となって事に当らなければならないことを教えたと伝えられています。
 また、海舟は軍艦奉行に就いていた 1864年2月(文久4年)英・仏・米・蘭4ヶ国艦隊の下関砲撃の中止交渉を幕府から命じられ、神戸から九州の豊後街道を通り長崎まで旅をしています。この旅に海舟は自らが主催する「神戸海軍塾」の塾生だった龍馬らを同行させています。重責を担って旅する海舟にとって龍馬に日本国の行く末を教える機会の旅であり、 当時の欧米の植民地政策の過の中にあるこの国の現状をつぶさに語り合い、後の薩長同盟、大政奉還、江戸無血開城へと繋げていったと考えられます。
 海舟、龍馬の生きた19世紀末と21世紀の今をとりまく時代状況は比較にならないくらい違ってきていますが、 彼らの明日を切り開いて行く強い志とエネルギーを、 宇宙船地球丸に乗っているこれからの時代を担う世代に伝えてゆくシンボルとしての銅像でありたいと願っております。
 銅像の細部を見て頂くと、 海も龍馬も視線は、明日に向かって海のかなたに広がる世界を向いています。 また、 海舟の刀の鍔(つば)に下緒(刀のさやを帯に巻くための紐) を絡めて刀をぬけないようにしています。 剣術の達人でありながら、当時の風潮を憂い何事にも対処するに当って刀を絶対に抜かないとの心がまえを表しています。

    勝海舟坂本龍馬の師弟像を建てる会

この銅像の建立にあたっては、 「勝海舟坂本龍馬の師弟像を建てる会」の呼びかけに赤坂をはじめとする全国のみなさまからのご支援ご協力を頂き、彫刻家 山崎和国氏に製作をお願いし2016年9月 (平成28年)完成建立し港区に寄贈しました。

また、戦前からの石碑も建立されていた。

史蹟 
勝安芳邸阯
勝海舟伯終焉ノ地ナリ
昭和五年十二月
東京府

氷川小学校後援会敬建
昭和8年12月
東京市長牛塚虎太郎書

勝海舟は赤坂で3度住居を変えている。
この場所は最後の居住地。明治5年50歳の時から、明治32年77歳で没するまで住んでいた。
今も、勝海舟遺愛の大イチョウが残っている。

氷川小学校
東に千代田の翠微を眺め 
西に芙蓉の麗姿を望む
英傑海舟 住みにしところ 
我らが学舎ぞ厳しく立てる

明治41年4月1日授業開始
明治42年6月27日開校式
平成5年3月31日閉校
 碑建立・氷川小学校卒業生


勝海舟邸跡

勝海舟が赤坂で最初に居住した場所がこの地であった。
幕末の安政6年(1859)から明治元年(1868)まで、日本が激動の時にあった時期に住んでいた旧跡。

勝海舟邸跡の記
 港区赤坂6丁目10番39号の「ソフトタウン赤坂」が建つこの地は、幕末から明治にかけて、幕臣として活躍した勝海舟 が安政6年(1859)から明治元年(1868)まで住んだ旧跡である。
 海舟は終生赤坂の地を愛し、三カ所に住んだが、当初居住中の10年間が最も華々しく活躍した時期に当たる。
 海舟は号で、名は義邦。通称麟太郎、安房守であったから安房と称し、後に安芳と改めた。夫人は民子。
 海舟は文政6年(1823)、本所亀沢町の旗本屋敷=現墨田区両国4丁目の両国公園の地=で、貧しい御家人の子として出生。長じて赤坂溜池の筑前黒田藩邸=のちの福吉町、現赤坂2丁目の赤坂ツインタワービルや衆議院赤坂議員宿舎などの地=に通って蘭学を学び、その縁から新婚23歳で赤坂田町中通り=現赤坂3丁目13番2号のみすじ通り=の借家で所帯を持った。
 36歳からは赤坂本氷川坂下=もとひかわざかした、のちの氷川町=のこの地に住んだ。
 明治元年45歳で、引退の徳川慶喜に従って、ここから静岡市に移ったが、明治5年(1872)再び上京し、満76歳で亡くなるまで赤坂区氷川町4番地=現赤坂6丁目6番14号=に住み、参議・海軍卿、枢密顧問官、伯爵として顕官の生活を送り、傍ら氷川清話などを遺した。この時の屋敷跡は東京市に寄付され、平成5年(1993)春まで区立氷川小学校敷地として使われた。
 当所に住み始めた翌年の安政7年(1860)、幕府海軍の軍艦頭取=咸臨丸 艦長として、上司の軍艦奉行木村攝津守、その従僕福沢諭吉 らを乗せ、正使の外国奉行新見豊前守を乗せた米艦ポーハタン号に先行して渡航、日本の艦船として初めて太平洋横断・往復に成功した。
文久2年(1862)11月、海舟を刺殺しようとして訪れた旧土佐藩士坂本龍馬 らに、世界情勢を説いて決意を変えさせ、逆に熱心な門下生に育てて、明治維新への流れに重要な転機を与えることになったのもこの場所である。
 明治元年3月には、幕府陸軍総裁として、官軍の江戸城総攻撃を前に征討総督府参謀西郷隆盛 と談判を重ね、無血開城を決めて江戸の町を戦火から救った。
 第1回会談は高輪の薩摩藩邸=品川駅前の、のちの高輪南町、現港区高輪3丁目のホテルパシフィックの地=で行われた。第2回については芝田町薩摩藩邸=のち三田四国町、現港区芝5丁目芝税務署辺りの地=または、三田海岸の薩摩藩蔵屋敷(くらやしき=倉庫)の表側にある民家=現港区芝5丁目の三菱自動車ビル周辺=で行われたとの両説がある。いずれも当所居住中のことである。
 明治維新では、明治元年5月、海舟の留守中に一部の官軍兵士がここの勝邸に乱入したが、海舟の妹で佐久間象山未亡人の瑞枝(旧名・順)が家人を励まして一歩も引かずに応対し、危急を救った。
 海舟は終生赤坂の地を愛したが、郊外の風光にも惹かれ、初めは葛飾区東四ツ木1丁目に、次いで洗足池畔の大田区南千束1丁目現大田区立大森第六中学校の地に別邸を設けた。墓は洗足池に面して作られ、自ら建てた西郷隆盛を偲ぶ碑と共に大田区文化財に指定されている。
 平成7年11月吉日
  ソフトタウン赤坂管理自治会
   撰文 伊波 新之助
   協賛 勝海舟顕彰会
   協力 港区郷土資料館

https://goo.gl/maps/9L2yS1B1824GpLbq6


四合稲荷神社(赤坂氷川神社境内社)

赤坂に居住していた勝海舟は赤坂氷川神社とも深い縁にあった。
赤坂氷川神社境内の稲荷神社は勝海舟の命名。

御縁起
①古呂故稲荷(赤坂一ツ木2番地、古呂故天神社境内に鎮座)
②地頭稲荷(氷川神社遷座以前より拠の地に鎮座)
③本氷川稲荷(本氷川神社隣接、別当盛徳寺の地内に鎮座)
④玉川稲荷(赤坂門外の御堀端、現弁慶橋のあたりに鎮座)
 以上、4社を明治31年(1898年)、遷座合祀し、赤坂在住の勝海舟翁により『四合稲荷(しあわせいなり)』と称えられる。
(略)
勝海舟翁筆の「四合稲荷社」という扁額が、現存する。
(略)
以上、境内御由緒より

「志あはせいなりの社」 
勝海舟書の掛け軸の筆跡を用いた幟

勝海舟直筆の扁額
「四合稲荷社」


場所は変わって、港区芝。三田駅の近く。

西郷南洲・勝海舟 会見之地

西郷南洲・勝海舟 会見之地
西郷吉之助書

慶應四年三月十四日
此薩摩邸に於て西郷 勝 両雄会見し江戸開城の円満解決を図り百万の民を戦火より救いたっるは其の功誠に大なり
平和を愛する吾町民深く感銘し以て之を奉賛す
 昭和二十九年四月三日
  本芝町会
 本芝町会十五周年記念建之

田町薩摩邸(勝・西郷会見地)附近沿革案内
この敷地は、明治維新前夜慶応4年3月14日幕府の陸軍総裁 勝海舟が江戸100万市民を悲惨な火から守るため、西郷隆盛と会見し江戸無血開城を取り決めた「勝・西郷会談」の行われた薩摩藩屋敷跡の由緒ある場所です。
この蔵屋敷(現在地)の裏はすぐ海に面した砂浜で当時、薩摩藩国元より船で送られて来る米などは、ここで陸揚げされました。
現在は、鉄道も敷かれ(明治5年)更に埋め立てられて海までは 遠くなりましたが、この附近は最後まで残った江戸時代の海岸線です。 また人情噺で有名な「芝浜の革財布」は、この土地が舞台です。

訪れたときは、ちょうどビルの建て替え工事の真っ最中。
記念碑は一時的に保管されているという。
工事完了は令和5年5月末予定。

https://goo.gl/maps/hqtuibb1UZwU4xTH7


西郷南洲・勝海舟 会見の図

浜松町駅のエスカレータ脇に、西郷隆盛と勝海舟の会見をモチーフしたた壁画があった。

時は慶応4年(1886)3月14日、幕府の軍事取扱勝海舟は薩摩藩蔵屋敷に於て、官軍の大総督参謀西郷南洲と最後の会見を行ない、戦火が招く江戸市民の災厄と諸外国の内政干渉とを絶対に避けるべしと説き、両雄お互いに憂国の誠意にうたれ、ついに江戸総攻撃は中止された。その蔵屋敷跡に現在建っている三菱自動右車ビルの前庭には「会見の地」の碑がある。「当駅正面交差点右折、歩いて2分」


勝海舟邸長屋門

石神井公園近くの三宝寺山門東側の通用門は、勝海舟邸長屋門であったという。
築年は文政年間(1818-29)という。
勝海舟が明治5年に赤坂に戻ってきてから、没するまで過ごした屋敷にあった長屋門と推定。

三宝寺に移設される前は、成増にあった遊園地「兎月園」にこの門はあった。大正13年(1924)に兎月園は開業。昭和18年(1943年)に戦争の影響などもあり閉園。

通用門(長屋門)
 練馬区旭町兎月園にあった勝海舟邸の屋敷門が、所有者の明電舎の事情により、取毀しの処分を受けるに際し、当時の練馬区長須田操氏の斡旋で、当山に移建された。
 昭和35年(1960)11月、新井工務店の手によって解体移建された。

海舟書屋(かいしゅうしょおく)

勝海舟の師匠であった佐久間象山。その佐久間象山の言葉「海舟書屋」から、海舟という号を採用したという。

江戸東京博物館収蔵品より

https://digitalmuseum.rekibun.or.jp/edohaku/app/collection/detail?id=0189204082

https://goo.gl/maps/D6WoYcrSZfqFcVkv8


勝家之墓

勝海舟の父である勝小吉と、、勝海舟の嫡男小鹿は、青山霊園(1種イ4号22側)の勝家之墓に眠る。


勝海舟の長男勝小鹿の娘婿で徳川慶喜の10男であった勝精の墓は谷中霊園にある。

谷中霊園には、徳川慶喜の墓もある。


以上、

都内に残された勝海舟の史跡などの散策記録でした。

コレデオシマイ

※撮影:主に2020年8月から11月にかけて。


そのほかの関連

勝海舟が教授を務めた築地軍艦操練所

初代海軍卿 勝安房

南湖院を設立した高田畊安の妻は勝海舟の孫娘

旧幕臣として勝海舟とは違う道を歩んだ榎本武揚

「最後の幕臣から明治最良の官僚へ」榎本武揚像と榎本武揚墓

都内で、榎本武揚にまつわる史跡などを散策してみました。

墨田区立梅若公園

榎本武揚

1836年10月5日〈天保7年8月25日〉 – 1908年〈明治41年〉10月26日)

旧幕臣、外交官、政治家。海軍中将。
正二位勲一等子爵。

戊辰戦争
榎本武揚は江戸浅草橋近くの生まれ。
昌平坂学問所・長崎海軍伝習所出身。修了後は江戸の築地軍艦操練所教授となる。1861年に幕府よりオランダ留学を命じられ欧州へ。オランダで完成した蒸気軍艦1隻(開陽丸)とともに1866年に帰国。軍艦役・開陽丸乗組頭取(艦長)となる。
1868年(慶応4年)に江戸幕府の海軍副総裁に就任。幕末の動乱の中で徹底抗戦を主張し、榎本派が幕府艦隊を支配。
明治新政府軍による江戸開城に伴う降伏条件のひとつに旧幕府艦隊の引き渡し要求があるも、榎本武揚はそれを拒否。徳川宗家の江戸から駿府への移封が完了するのを待って榎本武揚率いる旧幕府艦隊は江戸を脱出。奥羽越列藩同盟支援のために艦隊を北上させる。
その後、仙台藩降伏に伴い、艦隊は蝦夷地「函館」に。

蝦夷共和国と最後の幕臣
榎本武揚は函館で蝦夷共和国の総帥に就任。選挙による就任は画期的な政策であった。
1869年(明治2年)5月18日、榎本武揚ら旧幕府軍は新政府軍に敵わず降伏。東京で牢獄に収監される。黒田清隆や福沢諭吉が榎本武揚の助命活動を行う。

明治新政府の下で
1872年(明治5年)特赦により出獄。黒田清隆の下で北海道開拓使に任官。
1874年に中露特命全権大使に就任するとともに日本で最初の海軍中将に就任。1875年に樺太・千島交換条約の締結を成功させる。ロシアからの帰国に際してはシベリア横断に成功。
帰国後は、外務大輔、海軍卿、皇居造営事務副総裁を歴任し、1882年(明治15年)には、駐清特命全権公使に就任。李鴻章と度々会談し天津条約締結に貢献する。

1885年(明治18年)、内閣制度発足に伴う第一次伊藤博文内閣で逓信大臣に就任。その後も農商務大臣や文部大臣、外務大臣を歴任。

1908年(明治41年)10月26日、死去。海軍葬が執り行われた。

榎本武揚の海軍軍人・政治家以外の側面としては、電気学会初代会長、東京農業大学のベースとなった徳川育英会育英黌農業科の設立、などにも携わっている。

榎本武揚墓

榎本武揚の墓
 天保7年(1836)~明治41年(1908)、江戸の生まれ。通称、釜次郎。江戸末期の幕臣、政治家。蘭学をはじめ広い学識をもち、オランダ留学後海軍奉行、海軍副総裁となったが、倒幕軍江戸入城にあたり幕府海軍を率いて函館五稜郭で反抗した。その後、時代の変化もあって海軍中将、ロシア駐在特命全権公使、海軍卿、文相、枢密顧問官、外相、農商務省などを歴任、子爵となる。
 東京都文京区教育委員会 

海軍中将子爵榎本武揚墓

元帥海軍大将伯爵伊東祐亨書

天保七年八月二十五日生
明治四十一年十月二十七日薨

榎本家の家紋は「丸に梅鉢紋」というが。

吉祥寺

東京都文京区本駒込三丁目にある曹洞宗の寺院。
室町時代1458年(長禄2年)に太田持資(太田道灌)の開基。
多くの譜代大名・旗本の江戸の菩提寺であったことから、それの墓所が多い。

榎本武揚の墓所も、吉祥寺にある。

https://goo.gl/maps/RNcwAjCEost6tPYU7


榎本武揚一族之墓

榎本武揚夫妻の墓は改装され「吉祥寺」にあるが、榎本一族の墓は「保元寺」(台東区橋場1-4-7)にある。この地は、足利尊氏が新田義興と戦った「石浜の合戦」の地。
榎本武揚は戊辰戦争後に投獄され、出獄後にこの地で謹慎をしていた。

榎本家略史
榎本家は武州豊島郡石浜橋場の郷士で、平家一門の千葉氏の家人である。
江戸時代の祖・榎本与兵衛武明は延享3年(1746)68歳で没し、千葉氏と縁のある石浜郷の古刹保元寺(法源寺とも称した)に葬られた。以来、榎本家の祖霊を祀る。
4代武兵衛武由は一女「とみ」の婿養子に箱田良助を迎える。良助は備後国(広島県)箱田村の郷士の次男で、伊能忠敬が幕府の命で全国を測量する助手となり、後に榎本圓兵衛武規と称し徳川幕府の家人となる。
5代圓兵衛武規の妻「とみ」が文政10年没したため「こと」を迎え武興・武揚兄弟を産み育てていく。
6代榎本勇之助武興の弟が釜次郎武揚である。
武揚は幕府によりオランダに留学し操船と海軍の知識を習得し帰国、徳川幕府の海軍長官となるも北海道五稜郭で敗戦し、刑死を免れ年余にわたり菩提寺謹慎となり保元寺に隠居したが、許されて明治新政府に仕え高位の身分となる。
明治41年10月27日に没し、先に保元寺に埋葬の夫人多津子と両名のみ改葬された。

保元寺

帰命山薬王無量院保元寺
奈良時代の宝亀元年(770年)創建という古寺。

https://goo.gl/maps/ML312fnSwti5Pdjp8


榎本武揚旧居跡

榎本武揚一族之墓があった保元寺の隅田川の対岸、向島言問に榎本武揚邸があった。

榎本武揚旧居跡
 父は将軍側近で天文方として伊能忠敬にも師事した知識人であった。武揚も幼い頃から学才に長け、昌平黌で儒学を、江川太郎左衛門から蘭語、中濱万次郎から英語をそれぞれ学び、恵まれた環境で洋学の素養を身につけた。19歳で箱館奉行の従者として蝦夷地に赴き、樺太探検に参加する。安政3(1856)年には長崎海軍伝習所に学び、蘭学や造船学、航海術などを身につけた。文久2(1862)年に幕府留学生としてオランダに渡って、船舶に関する知識をさらに深める一方、国際法や軍学を修めた。慶応3(1867)年、幕府が発注した軍艦「開陽」に乗艦して帰国、翌4年に海軍副総裁に任ぜられた。
 戊辰戦争では徹底抗戦を唱えたが、五稜郭で降伏、3年間投獄された。この箱館戦争で敵将ながらその非凡の才に感服した黒田清隆の庇護を受け、北海道開拓使に出仕。明治7(1874)に駐露特命全権公使となり、樺太・千島交換条約を締結。海軍卿、駐清公使を経て、文部大臣、外務大臣などを歴任した。
 明治38(1905)年から、73歳で没する同41年までこの地で暮らし、墨堤を馬で毎日散歩する姿が見られたという。

https://goo.gl/maps/YXo4RRcYWqxJTCpT6


銅像榎本武揚像

墨田区立梅若公園に、榎本武揚銅像が建立されている。

墨田区登録有形文化財
銅造榎本武揚像
 所在地  墨田区堤通2丁目6番10号
      墨田区立梅若公園内
 本像は、榎本武揚没後の大正2年(1913)5月に建立されました。銅製で、像高は約3メートルあり、南を向き、大礼服姿で荘重な趣を呈しています。彫刻は、衣服の質感や顔の表情が細かく表現され外形描写に優れています。
 榎本武揚(1836~1908)は、戊辰戦争終盤の箱館戦争で明治新政府軍と戦った旧幕臣として著名な人物です。
 武揚は箱館戦争の中心人物として投獄されましたが、維新後は明治政府に出仕し、文部大臣、外務大臣等、政府の要職を歴任しました。晩年は向島に構えた別荘で過ごし、馬に乗って歩く姿が見られたようです。
 建立にあたっては、大隈重信や大倉喜八郎、渋沢栄一、益田孝など政財界を代表する人物等が協力しました。
 原型作者は藤田文蔵と田中親光であり、鋳造者は平塚駒次郎です。
 この銅像は平成12年12月7日に墨田区登録文化財に登録されました。  
  平成29年3月
  墨田区教育委員会

墨田区登録有形文化財
銅像榎本武揚像

「榎本武揚」
 榎本武揚は天保7年(1836)に幕臣の子として江戸に生まれ育ち、
昌平坂学問所 (昌平黌)で学び、安政3年(1856)幕府が長崎に設けた海軍伝習所に入りました。その後、オランダに留学し、最新の知識や技術を身につけ、慶応2年(1866)幕府注文の軍艦開陽丸を回送し帰国しました。
 武揚帰国後の日本は「大政奉還」「王政復古」という体制変換を迎え、武揚は戊辰戦争の最後の戦いとなった箱館戦争では、五稜郭を中心に明治政府に抵抗しましたが、明治2年 (1869)降伏しました。
 その後、武揚は投獄されましたが傑出した人材として赦免され、明治政府に出仕しました。明治8年(1875)には、海軍中将兼特命全権公使として、樺太(サハリン)・千島交換条約の締結に尽力しました。
 明治18年(1885)伊藤博文が初代内閣総理大臣に任命されると、旧幕臣でありながら逓信大臣に就任以降、文部、外務、農省務大臣などの要職を歴任しました。また、東京農業大学の前身である私立育英黌農業科を創設したほか、化学、電気、気象などの各学会に関わりを持ち、日本の殖産産業を支える役割を積極的に引き受けました。
 晩年は成島柳北邸(現言問小学校)の西側に屋敷を構え、悠々自適の日々を過ごしました。明治41年(1908)10月に73歳でなくなりましたが、墨堤を馬で散歩する姿や、向島百花園で草花を愛でる姿が見られたそうです。

「銅像について」
 本像は青銅製で、高さ約400㎝の台座上に像高300㎝の榎本武揚の立像が乗っています。
 建立は大正2年(1913)5月で、当時の木母寺の境内である当該地に建てられました。白鬚東地区防災拠点建設に伴い木母寺は移転しましたが、本像は当該地に残されました。
 本像の原型作者は田中親光、藤田文蔵、鋳造者は平塚駒次郎であることが台座背面に記されています。また、建設者に大隈重信、大倉喜八郎、渋沢栄一など当時の政財界の代表的人物が名を連ねています。
 原型作者のひとりである藤田文蔵は洋風彫刻界における先覚者として位置づけられ、代表作に陸奥宗光銅像(外務省)や井伊直弼銅像(掃部山公園、太平洋戦争で供出)、狩野芳崖胸像(東京国立博物館)などが知られています。

榎本武揚像の隣にある石碑。昭和12年建立。鈴木貫太郎の書であった。
(二・二六事件は昭和11年)


鈴木貫太郎書
昭和12年4月29日
 向島区青年団
  墨田町二丁目分団

https://goo.gl/maps/gUQVAvbqVQdxaYXUA


東京農業大学は、その創建に榎本武揚が関わっている。

榎本武揚先生像

東京農業大学世田谷キャンパス


旧幕臣としての榎本武揚

正二位勲一等子爵榎本公追弔碑


そのほか榎本武揚は函館にも多くの足跡があるが、今回は都内に限りで、ここまで、で。

駆逐艦 不知火の錨(初代)

日露戦争で活躍した初代不知火の錨が、墨田区立両国小学校に保存してあった。

不知火(東雲型駆逐艦4番艦)

1899年(明治32年)、イギリス・ソーニクロフト社で竣工。イギリスのD級駆逐艦の準同型艦。
1904年(明治37年)、日露戦争では第2艦隊第5駆逐隊に所属。旅順口攻撃や黄海海戦・日本海海戦などに参加。
1925年(大正14年)廃船。

錨の由来
 この錨は日露戦争(1904年~1905年)で活躍した日本海軍の駆逐艦「不知火」のものである。この艦は英国ソーニー・クロフト社製造・起工明治31年・進水32年・326トン・(艦長63,5メートル・5470馬力・30ノット・火砲6門・発射管2基・煙突2基)の構造である。
 錨の裏側にあるアルファベットと1898の刻印は錨の製造年と推定される。
 猶この錨は両国一丁目の鉄鋼業岡田商事(旧岡田菊次郎商会)が軍艦の解体作業で得たのを昭和初年に江東(現両国)小学校に寄贈したものである。
 平成3年
 両国(相生・江東)小学校同窓会


場所


関連

駆逐艦 初霜の錨

近隣

芥川龍之介文学碑

芥川龍之介は、不知火の錨が保存されている、両国小学校の出身

吉良邸跡

忠臣蔵の吉良邸が近所。

勝海舟生誕の地

墨田区立両国公園

勝海舟に関しては別記事でまとめる予定。

海軍水雷学校と海自第2術科学校

令和元年11月・横須賀 JR田浦駅近く。

現在の「海上自衛隊第2術科学校」は、海軍水雷学校の敷地を受け継いでいる。

海軍水雷学校

大日本帝国海軍の水雷術(魚雷・機雷・爆雷)指揮官・技官を養成する教育機関であった。
明治26年(1893)12月2日に水雷術練習所が設置。
明治40年(1907)4月20日に海軍水雷学校に改編。
水雷学校から、海軍通信学校、海軍機雷学校(海軍対潜学校)が派生増設。
昭和20年の終戦までこの地で海軍教育が行われてきた。
歴代校長に著名人が多く、岡田啓介・鈴木貫太郎・南雲忠一・小澤治三郎など。

術科学校

第1術科学校・江田島 機関科を覗く水上艦艇術科教育
第2術科学校・横須賀 機関・電機・情報・外国語等の特殊部門専門教育
第3術科学校・下総  航空機整備員・航空基地員養成機関
第4術科学校・舞鶴  業務管理・経理・補給関係術科教育訓練

海上自衛隊第2術科学校、すなわち「2術校」

http://www.mod.go.jp/msdf/twomss/

機関、電機、応急工作等及び情報、技術、電子計算機、外国語といった特殊な部門の専門教育や、調査研究を主体とする機関

戦前の水雷教育から戦後の特殊専門教育へとつながる、そんな「海自2術校」にて、当時の姿を残すものなどを。



海軍水雷学校 圧縮ポンプ室
 (旧整備科倉庫)

第2術科学校は海軍水雷学校の敷地を受け継いでいます。この建物はS9年に建てられた木造建築で、現存する唯一の帝国海軍水雷学校当時からの建物です。

オープンスクール(一般公開)時に見学

うしろの建屋は、「日立パワーソリューションズ田浦工場」
手前には海保のPM14たかとり(てしお型巡視船)

海上自衛隊第2術科学校のある田浦は、海自と海保の共同使用地。全国でも共同使用地は、ここだけだという。


位置関係

国土地理院航空写真「USA-M46-A-7-2-77」より。
1946年02月15日 米軍撮影

一部加工
ポンプ室のみが現在も残る水雷学校の遺構。

田浦駅北部の海軍軍需部倉庫も数棟が現存している。

拡大


近くにはロ号艦本式ボイラーが展示してあった。(別記事にて掲載)


歴史保存エリア

第2術科学校内に「歴史保存エリア」がある。

海軍水雷学校跡碑

海軍水雷学校跡碑

海軍水雷学校 跡
 明治26年12月2日水雷術練習所が設置されました。明治40年4月20日海軍水雷学校となり、昭和20年の終戦まで教育が行われました。
 昭和50年5月、水雷学校の歴史を後世に残すため、第二術科学校に隣接する関東自動車株式会社本館前に設置されていましたが、関東自動車株式会社の移転により、平成21年、この血に移設されました。

沿革
明治三年十一月四日
 海軍兵学寮に水雷火設置
明治七年九月二十日
 海軍兵学寮にて水雷術伝習開始
明治十二年八月二十三日
 水雷術練習所横須賀に開所
明治十六年二月六日
 水雷術練習所を廃止し水雷局を長浦に設置
明治十九年一月二十九日
 水雷局廃止水雷術練習艦設置(迅鯨)
明治二十年十一月十六日
 水雷術練習工概則制定(水雷術練習生の起源)
明治二十二年十二月二十三日
 水雷術練習艦で下士官、兵に掌水雷兵教育開始
明治二十六年十二月一日
 水雷練習艦を水雷練習所に改める(迅鯨)
明治三十九年十二月一日
 同右を長浦の陸上に移転
明治四十年四月二十日
 海軍水雷学校条例制定
明治四十年四月二十二日
 海軍水雷学校田浦に開校
 電気器具、防御水雷、攻撃水雷、通信術の四科目伝習開始
昭和五年六月一日
 海軍通信学校分離独立
昭和九年五月二十三日
 航空魚雷練習生制度設置
昭和十年七月
 航空兵器術練習生のなかに魚雷爆撃専修の練習生制度設置
昭和十五年六月二十日
 雷撃員制度設置雷撃練習生教育開始
昭和十六年四月一日
 海軍機雷学校分離独立
昭和一九年三月一五日
 海軍対潜学校と改称
昭和二十年七月十五日
 同右を廃止海軍水雷学校久里浜分校となる
昭和十八年六月十七日
 海軍水雷学校魚雷艇訓練規則制定
昭和十九年四月一日
 海軍水雷学校川棚魚雷艇訓練所開始、
 魚雷艇、特攻兵器、震洋艇の教育訓練実施
昭和二十年八月十五日
 終戦閉校

昭和五十八年五月八日
 海軍水雷学校跡碑建設委員会
  委員長 有田雄三
   他八七三名を以って建立
    兼平芳雄謹書

海軍通信教育発祥記念碑

海軍通信教育発祥記念碑

海軍通信教育発祥記念碑
 明治三十六年、この地にあった海軍水雷術練習所で無線電信術教育が開始されたことを記念し、昭和四十五年十一月に建立されました。
 海軍水雷術練習所は、明治四十年、海軍水雷学校になりましたが、通信術の教育所要が増大したため、昭和五年同地の一部に海軍通信学校が海軍水雷学校から分離独立しました。 海軍通信学校は、昭和十四年に現在の陸上自衛隊久里浜駐屯地がある地に移転し、終戦を迎えました。

海軍無線通信教育の沿革
明治三十六年二月
 この地海軍水雷術練習所で無線電信術教育開始
大正七年八月
 海軍水雷学校に通信部設立
昭和五年六月
 この地に海軍通信学校として独立
昭和十四年十一月
 神奈川県久里浜に移転
昭和十七年五月
 横須賀海軍通信学校と改称
昭和十七年五月
 山口県防府に防府海軍通信学校を増設
昭和十九年九月
 神奈川県藤沢に海軍電測学校設立
昭和二十年七月
 各学校教育中止

   昭和四十五年十一月 
    海軍通信同窓有志建立

海軍上等兵曹上崎辰次郎之碑

海軍上等兵曹上崎辰次郎之碑
海軍中将従三位功三級男爵伊藤雋吉君題碑

「上崎上等兵曹之碑」の由来
 上崎上等兵曹は青森県上北郡の人旧会津藩士であり、万延元年(1880年)岩代国若松城下で出生した
 十四歳で海軍に入り水雷術を専攻した
 征藩の役 西南の役に従軍し 明治二十二年上等兵曹に任ぜされ 二十七年勲七等に叙せられ瑞宝章を賜った
 明治二十七年日清戦争が起こるや第六号水雷艇に乗り戦地に赴く 艇長は海軍大尉鈴木貫太郎(後に大将 終戦の時の内閣総理大臣)であった
  明治二十八年二月四日夜 わが水雷艇隊は威海衛の夜襲を決行 第六号水雷艇もこの中にあって港内に突入 はげしい敵弾をうけながら敵艦鎮遠に近迫まさに水雷を射出して敵艦を粉砕しようとしたところ はからずも厚い氷が発射管を閉鎖し水雷が出なかった 上崎上等兵曹はこの責任を感じ 敵降伏後の三月十四日 従容として艇内において自刃した ときに三十六歳であった  鈴木艇長をはじめ艇員はその忠誠を永久に伝えるために横須賀竜本寺にこの碑を建てた  昭和三年田浦(田浦交番隣)に移してあったものを昭和四十三年五月十八日 第2術科学校に移したものである

(台座)
建碑及遺族慰問
資金義捐者
 海軍将校以下有志
  一千十五名
 通常有志
  七名
発起人 
 海軍大尉鈴木貫太郎
  外 三十七名
永代施餓鬼料
 金貳拾圓

碑面裏の撰文は上崎の乗艇である第六号艇長が読んだ弔辞を漢文に直したもの
第六号艇長は鈴木貫太郎海軍大尉、のちの海軍大将、内閣総理大臣

発起人にも海軍大尉鈴木貫太郎の名が刻まれている。

上等兵上崎辰次郎君碑
君諱辰次郎上崎氏青森県上北郡人旧会津藩士也萬延元年十二月生于岩代国若松城下年十四入海軍酷苦励精技術大進
明治七年航台湾従征藩役十年西南之役起君乃乗軍艦討賊兵十三年任下士官十九年新造軍艦浪速於英国成君被撰為回
航委員至英国乗之而帰廿二年叙勲八等無何任上等兵曹廿七年叙勲七等賜瑞宝章是歳征清役起時君在第六号水雷艇慨
然決意曰吾欲誓死以報国恩十月航戦地従常備艦隊占領花園口十一月略大連湾攻旅順口屡々有功廿八年二月我軍攻威
海衛敵艦隊拠劉公島以水雷及防材鎖港恃険要而防戦数日不能遽抜同月三日夜第六号水雷艇乗月明迫港口敵知之砲撃
甚烈而君自苦冒弾雨而破防材通航路以是翌夜水雷艇隊得進入港内襲撃敵艦隊轟沈定遠等二艦此夜第六号水雷艇亦在
隊中冒砲撃而迫近鎮遠飛弾如雨注中艇者六十餘弾将射出水雷粉砕敵艦何計巌水閉管妨碍発射自是君憤慨不巳更期大
功自慰十二日敵艦隊力屈遂乞降三月和議再起清使李鴻章発天津君時在威海衛港聞之而知戦機既去亦不可為遺憾不自
禁以此月十四日従容自刃艇内歳丗六艇員火化之帰葬横須賀龍本寺君為人沈毅義胆処事綜密克耐艱楚常尚節義至誠奉
公服軍務廿有二年於茲励精如一日威海之襲撃不奏効因巌冬結氷所致於君何有然哀心不能自安負責謝過以死矣可勝歎
惜哉頃者故旧捐金樹碑余甞長第六号水雷艇懐旧殊切乃為君叙其事為之銘曰
至誠奉公 孰若其忠 偉績将奏 孰妬其功 憤慨難禁 視天夢々 
鬼哭神泣 烈士致躬 大書深刻 其碑穹隆 嗚呼崎氏 英名無窮
 海軍大尉正七位勲六等功五級 鈴木貫太郎選

海上自衛隊発祥乃碑

海上自衛隊発祥乃地

海上自衛隊発祥乃碑
 昭和27年4月」26日、海上自衛隊の前身である海上警備隊がこの地で創設されました。創設に際し戦後の海軍再建を検討したY委員会において全国数箇所の候補地の中から、地元と米軍の了承が得られた唯一の場所が、ここ田浦の地だったのです。
 なお、戦後当地は旧軍港市転換法により民間企業等が使用していましたが、その会社が旧軍との関係が深く、海上自衛隊が使用することを快諾されたこともこの地に決定した理由となりました。

国旗掲揚旗竿基部

国旗掲揚旗竿基部
海上自衛隊創設当時にこの地に建てられたものであり、海上自衛隊の歴史を残すものである。

第2術科学校開校20周年記念機関

「350馬力蒸気往復機関」
海自が昭和27年発足時から昭和32年まで「えい船4号」として使用した旧帝国海軍雑役船の主機械。同船除籍後に教材として活用。創立20周年に際して記念機関として永く保存されている。


海軍機関術参考資料室
海上自衛隊創設史料室

ひとまず別記事を参照でお願いします。。。


そのほか

横穴の壕。消火栓もみえる。

このあたりも当時からかもしれない

海上自衛隊第2術科学校と俗世界の境界。これも当時から。

また来ます


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