「近代建築」カテゴリーアーカイブ

日本鉄道大宮工場「門柱」と「赤煉瓦倉庫」(さいたま市)

「鉄道のまち・大宮」
JR東日本が、公式にサイトを用意しているぐらいに、「鉄道のまち」である。

https://www.jreast.co.jp/omiya/tetsumachi_omiya/

現在も、「鉄道博物館」や「大宮総合車両センター」などを要し、またJR東日本の新幹線の一大ジャンクションでもある。

そんな大宮で、「鉄道のまち」の歴史を散策してみる。


日本鉄道大宮工場

現在の「JR東日本・大宮総合車両センター」は、かつて「日本鉄道大宮工場」であった。
自社工場を保有していなかった「日本鉄道(日本鉄道株式会社)=国鉄の前身」が、上野‐青森間を全通させたことを機に明治27年(1994)に、大宮に工場を設立したことにはじまる。


日本鉄道大宮工場の門柱

「JR東日本・大宮総合車両センター」の敷地内に開設されたフィットネスクラブ(JEXER大宮)の脇に、かつての「日本鉄道大宮工場」時代の門柱が残っている。

現在は、門として機能はしておらず、ブロック塀で埋められており、境界壁としての役目のみとなっている。


日本鉄道大宮工場の赤煉瓦倉庫(旧大宮車両センター倉庫8号)

竣工は明治30年(1897)。往時は、米の貯蔵として使用されていたという。

さいたま市観光国際協会>

https://www.stib.jp/saitama-aruki/area-omiya.php

フィットネスクラブの入り口は2階にあり、すぐ近くで赤レンガ倉庫の2階部分をみることもできる。


RAILWAY GARDEN PROMENADE
(レールウェイガーデンプロムナード)

大宮総合車両センター本所内の施設を見学できる。

休みの日なので、なにもないですね。。。

D51 187号

大宮工場で新製されたD51形の第1号機。

準鉄道記念物
D51187号蒸気機関車
D51形式蒸気機関車は、1936年(昭和11年)に誕生した優秀な大形貨物列車で、1945年(昭和20年)までに民間工場をはじめ、国鉄の8工場でも製造され、合計1,115両製造された。
大宮工場においては、1938年(昭和13年)4月から1942年(昭和17年)3月までに、当時の社会的な要請に応じて31両製造したが、展示されている187号機は、それらのうち第1両目の由緒ある機関車で、1938年(昭和13年)4月12日に着工し、同年8月8日に完成した。
当時の工場職員が寝食を忘れ、心血を注いで製造にあたり、その構成部品の全てを工場独自の力で製作したもので、歴史的にも技術の大宮工場の真価を現したものであり、記念物として先輩の偉業を讃えるとともに、当時の職員の21世紀の国鉄に向かっての自覚を具現する象徴として、保存することになり1971年(昭和46年)10月14日に準鉄道記念物に指定された。

D51187
形式D51

1号
大宮工場
昭和13年製造

※撮影:2023年5月及び2024年2月


関連

松戸駐屯地 創立71周年記念行事・その1(松戸飛行場の戦跡散策)

2023年11月25日(土)。
陸上自衛隊 松戸駐屯地で、創立71周年記念行事が行われ、駐屯地一般開放がありましたので、足を運んで見ました。
本編は、その1として「松戸飛行場跡」の散策を。


逓信省航空局・松戸飛行場(松戸高等航空機乗員養成所)

1940年(昭和15年)6月3日。逓信省航空局松戸飛行場が竣工し、松戸飛行場を使用する中央航空機乗員養成所が開所。民間操縦士や整備員を養成する目的で設立されたが、帝都防空のための飛行場として陸軍が建設当初から関与し、養成所所長も陸軍少将が務めていた。

なお、逓信省松戸中央航空機乗員養成所は、後に高等航空機乗員養成所と改称している。

昭和19年(昭和19年)には陸軍第一〇飛行師団指揮下の「飛行第五十三戦隊」が所沢から移り、首都防衛の任務に当たった。

松飛台(飛行場跡)
戦時中パイロット養成が目的の「松戸飛行場」がここにあった
昭和15年(1940)、この一帯に総面積132万3000㎡、東西・南北1.2kmづつのL字形滑走路を持つ逓信省航空局、松戸飛行場中央航空機乗員養成所が完成しました。飛行場は民間パイロット養成を目的としましたが、軍人が所長ほか要職を占めており緊急時には軍事基地に転用されるものでした。戦時下では帝都防空を担う陸軍飛行場として機能しました。戦後は主要施設が陸上自衛隊に使用されています。付近は1960年代から工業団地として造成されますが、松戸飛行場の名を「松飛台」という地名に残すこととなりました。

松戸市観光協会(https://www.matsudo-kankou.jp/sightseeing/%E6%9D%BE%E9%A3%9B%E5%8F%B0%EF%BC%88%E9%A3%9B%E8%A1%8C%E5%A0%B4%E8%B7%A1%EF%BC%89/

松戸駐屯地

戦後は、警察予備隊・保安隊の補給処を経て昭和29年の陸上自衛隊発足に伴い「陸上自衛隊需品補給処」となる。

現在は、需品学校、需品教導隊、関東補給処松戸支処、第2高射特科群が駐屯している。
松戸駐屯地司令は、陸上自衛隊需品学校長が兼務している。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:892-C2B-153
昭和19年(1944年)9月24日、日本陸軍撮影の航空写真を一部加工。

松戸飛行場を拡大
滑走路地区は逆L字。西は八柱霊園。

本部地区を拡大

大きな格納庫があるのがわかる。


松戸飛行場時代の格納庫

昭和15年(1940)竣工の格納庫。
現在は、陸上自衛隊松戸駐屯地の倉庫として活用されている。

滑走路側(西側)

東側

北側

南側

内部

覗いてみた。


大型倉庫(戦後)

こちらは戦後と思われる格納倉庫。


ハンドサイレン(手動警報機)

なんかあった。手回しのサイレン、ですね。


木造建屋(戦後?移築??)

木造の建屋がいくつかある。この場所は、格納庫と滑走路の間になるので、往時の建屋ではないんですけど、移築なら、往時の可能性もある、、、

格納庫の西側。


松戸飛行場時代の木造建屋(格納庫東側)

格納庫の東側。往時から現存する木造建屋。

4つの建屋のうち、2棟が木造建屋。

こちらは戦後かな。木造建屋と並ぶコンクリの建屋。

こっちはさらに東側。これも戦後。


門柱跡

門柱跡。ちょっと不自然な場所に。往時のものかどうかも??


松戸飛行場時代の木造建屋(線路側)

松戸飛行場跡の木造建屋。線路際の2棟も、往時からの建屋。

すぐ裏を新京成が走る。もともとは鉄道連隊の線路でもある。

正門近く。


松戸飛行場時代の木造建屋(南側)

南側にある木造建屋。これも往時からの建屋。

独特なデザインの門柱。

同じく南側の建屋。

車両整備工場


駐屯地を横切る踏切

南側の踏切近く。今も昔も位置関係は変わっていない。

線路の東側にも大型倉庫がある。ただし、これも戦後かな。

駐屯地の東西を線路が貫いている。もともとは、鉄道連隊の線路。

松戸駐屯地を新京成が走り抜ける。

戦後の倉庫かな?

滑走路跡は、グランドに。

西門

松飛台の住宅地。かつては滑走路が広がっていた。

※撮影:2023年11月

その2へ。


関連

玉音放送を発信した耐弾式送信所「足柄送信所跡」御殿場線の廃トンネル(山北町)

御殿場を散策した帰り道。御殿場線経由で、東京に戻る途中に夕刻に、時間が調整できたので、「谷峨駅」で下車。かねてより気になっていた廃トンネルに赴いてみました。


御殿場線

明治22年(1889年)に東京‐大阪を結ぶ鉄道(のちの東海道本線)として、国府津‐沼津間が開業。
昭和9年(1934年)に丹那トンネルが開通すると東海道本線は、熱海経由に変更され、国府津‐沼津間は、東海道本線の支線「御殿場線」となった。
第2次世界大戦中の昭和19年(1944年)に不要不急路線に指定され、単線化され、レールなどの資材は回収転用され、廃トンネルや橋脚などが残存している。

国際電気通信株式会社

昭和13年(1938年)に日本無線電信株式会社・国際電話株式会社を合併させて創立したのが「国際電気通信株式会社」(KDTK)であった。
国際電気通信株式会社は、対外無線電信電話の設備の建設、保守業務を行い、その設備を政府に供することによる使用料をその収入源とし、電信電話の運用業務は、政府が行っていた「半官半民の企業」であった。
昭和19年、軍、情報局、通信省が必要最小限の送信機を確保するため防空送信所を計画。
耐弾式送信所として足柄送信所、隠蔽式送信所として多摩送信所が建設されることになった。

国際電気通信・多摩送信所(隠蔽送信所)

国際電気通信は、本土空襲に備え戦争末期に2つ送信所を敷設した。
「多摩送信所」「足柄送信所」

東京都南多摩郡堺村相原と横山村寺田にわたる山林内で、三方を尾根に囲まれた一帯に、1945年4月、起伏と樹林を利用した隠蔽送信所として「多摩送信所」が開設された。

多摩送信所ではポツダム宣言を受諾を発信している。


国際電気通信・足柄送信所(耐弾式送信所)
御殿場線・箱根第五隧道(廃トンネル)

国際電気通信の「足柄送信所」は、軍部の要請に基づいて設置された極秘の防空送信所であり耐弾式送信所でもあった。御殿場線の廃トンネルを再活用し、昭和19年11月に竣工という。
20Kw電話送信機を1台、20Kw電信送信機を2台設置。
昭和20年8月15日の正午からの「玉音放送」を発信した極秘の防空送信所が「足柄送信所」であった。

足柄送信所から世界に向けて短波にのせられた玉音放送は、中国大陸や南方諸地域の軍人や在留邦人、南米などの日本人移民に終戦を伝える役割を果たした。

アクセスは、「清水橋」(駿河小山駅方向)から。谷峨駅側からはアクセスできません。。。

清水橋の旧道から右手に折れると、トンネルがあります。

箱根第五隧道(旧上り線)
全長は、275.53m。幅は、3.5メートル、高さは4.5メートル。岩盤が30メートル以上あり、空爆にも充分耐えられる耐弾式送信所であった。

通信機器を置いていた痕跡。
トンネルの中心部分は、床がコンクリート張りとなっている。

保全作業員用の退避所

排水口

両脇は排水溝として機能。

ちなみにライトがないとこんな感じ。

外光が見えてきた。

谷峨駅がわのトンネル開口部。

爆弾防止壁

通信設備を保護するために設けられたL字型の爆弾防止壁。これはなかなかの厚み。

戦後に、でっかい穴が開けられた、、、

御殿場線の本線が見えます。

並行する道路から。

この右側には、冷却池も現存している。(確認漏れ、、、)

新東名の建設工事中。山北ー駿河小山(新秦野IC – 新御殿場IC)は、2027年度の開通予定という。

場所(清水橋)

https://maps.app.goo.gl/BY7wTLeZiYijE1Wn6

谷峨駅。
1907年(明治40年)開設の信号場を前身とし、1947年(昭和22年)7月に駅として開業した。

現在の駅舎は2000年に改築したもの。

鉄道唱歌第1集13番
 いでてはくぐるトン子ルの
 前後は山北・小山驛
 今も忘れぬ鐵橋の
 下ゆく水のおもしろさ

山北駅と駿河小山駅の間に、谷峨駅がある。

※撮影:2023年12月


関連

「予科練生の指定食堂」と「海軍住宅跡」(土浦)

土浦駅周辺を散策してみました。
流れとしては、下記の補足みたいな感じ。


霞ヶ浦海軍航空隊・土浦海軍航空隊

大正11(1922)年に阿見村に開隊した「霞ヶ浦海軍航空隊」によって、土浦駅周辺には飲食店や海軍将校の住宅や繁華街など、海軍航空隊を支える海軍となった。
昭和15年(1940)には、「土浦海軍航空隊」(通称・予科練)も開隊。休日は予科練生たちの外出先として土浦市内の民家は「クラブ」「下宿」として活用され、そして「指定食堂」は予科練生たちへ食を提供し、大いに賑わった。


保立食堂(ほたて)・予科練生の指定食堂

明治2(1869)年創業の食堂。
予科練生の「指定食堂」のひとつ。
丼物が人気で、店の二階は予科練生と家族との面会にも利用されたという。

「上天丼」をいただきました。

海老天と海鮮かきあげの天丼。味噌汁は、あら汁。そして、ぬか漬け。
往時を思い起こしながら食べる天丼。これはありがたい味。

休日は予科練生が食事を楽しみ、家族との面会にも使った店。歴史的にも味わいが深く重い。

場所

https://maps.app.goo.gl/GPijaLCAVtFCiuF26


吾妻庵・予科練生の指定食堂

明治6( 1873)年創業のそば屋。
休日の日中に予科練生が訪れることのできる「指定食堂」であった。

場所

https://maps.app.goo.gl/qWChhKLTgt4UXXfg6


城藤茶店(しろふじのちゃみせ)・海軍住宅跡

昭和11(1936)年、亀城通り開通後に建てられた書院造りの住宅で、海軍士官が借りて住んでいたという。現在は古民家カフェとして活用されている。

場所

https://maps.app.goo.gl/rpLqGuQzgy81F9jk9


桜川橋・海軍道路

桜川橋は大正12(1923)年に架けられた、茨城県初のコンクリート製の橋。
橋は現在の国道125号上にあり、阿見町へと繋がっている。
通称「海軍道路」。霞ヶ浦海軍航空隊の軍用道路として整備された。

場所

https://maps.app.goo.gl/oNUXeX5LGtmDhZEVA

撮影:2023年12月


関連

土浦関連

はじめに

「観武ケ原」盛岡市青山地区の戦跡散策

盛岡市北西部の青山地区。往時は騎兵第三旅団や工兵第八連隊の駐屯地として発展した地域。
陸軍時代の面影を辿りつつ散策をしてみました。

観武ケ原(みたけがはら)

観武ヶ原(みたけがはら)は、現在の岩手県盛岡市の青山・みたけ・月が丘、及び滝沢市滝沢地区にあたる地域に広がっていた原野。後世に観武野(みたけの)とも。
大正天皇が皇太子時代に、練兵場を観閲した折に命名したと言われている。またそれ以前に、岩手山が眼前に見えることから、「御嶽(みたけ)」と呼ばれていたものを改めたという。

今昔マップ on the web


陸軍騎兵第三旅団・覆馬場(覆練兵場)(現・盛岡ふれあい覆馬場プラザ)

煉瓦造の建屋がのこっている。
かつて青山地区に6棟の「覆馬場」があったが、この1棟を残し解体されてしまった。
建築年代は、明治42年(1909年)となる。
陸軍第八師団騎兵第三旅団騎兵第二十三聯隊、騎兵第二十四聯隊が明治42年に編成配備。

盛岡ふれあい覆馬場プラザの施設概要と周辺案内
盛岡ふれあい覆馬場プラザと青山地区の歴史
 青山地区一帯は、藩政時代は荒涼とした原野でした。明治41年に、工兵第八大隊が弘前から移転、明治42年(1909)に、騎兵第三旅団第二十三聯隊、第二十四聯隊が編成配置され、煉瓦造の覆馬場が6棟建設されました。
 当時、南部駒は軍馬として優秀であり、岩手山から続く広い原野は絶好の演習地でした。終戦後の昭和21年には、観武原の開拓とともに、兵舎を応急仮設住宅とし、この年に青山町が誕生しました。
 青山地区一帯には、現在でも盛岡ふれあい覆馬場プラザ(旧覆馬場)をはじめ、近接する森永乳業盛岡工場敷地内には、騎兵第三旅団の兵舎の煉瓦造の門柱等が保存され、また独立行政法人国立病院機構盛岡病院の敷地内には、工兵第8聯隊の兵舎の門柱等が保存されています。
 また、平成18年に開業した青山駅の駅舎や門柱、ショッピングセンターの歩道境等にも煉瓦が使用されており、今日においても、煉瓦文化が根付いている地域となっています。

盛岡ふれあい覆馬場プラザの施設概要
 この建造物は、平成16年に地元住民や有識者、保存を求める団体等からの要望をうけ、平成17年に盛岡市が取得しました。その後、平成18年から平成21年まで、5回の旧覆練兵場活用懇話会を開催して策定した「旧覆練兵場整備基本構想」に基づき、平成23年度、24年度の2個年で整備を進めてきました。
 歴史的な景観を形成するうえで、復元を基本に、屋根等の外観の色彩は建築当時のものとし、外壁の煉瓦については、経年劣化部分を補修のうえ、煉瓦素地のままの外観としました。また、敷地内の桜の樹木も保存し、さらに、閉鎖的にならないよう緑化整備を行うなど、景観に配慮したものです。
 名称を「盛岡ふれあい覆馬場プラザ」とし、平成24年6月1日に、「多目的施設」として開館しました。この建造物は、約100年もの間、青山地区の歴史を見続けてきた建造物である、同地区における歴史的建造物のシンボルとして、また本市における近代化遺産として、次代に継承するものです。

境界柵の残骸かも。

内部を覗いてみる。

場所

https://maps.app.goo.gl/QpYMUoxPCGzWDZ7t9


第八師団工兵第八聯隊・工兵園
(現・国立病院機構盛岡医療センター)

病院内のちいさな庭園。整備されたこの庭園が、工兵の思い出の場所であった。

明治41年に、工兵第8大隊が弘前から移転してきている。

工兵園の由来(碑文)
1,この園庭は明治、大正、昭和に亘りこの地に駐屯した工兵第八聯隊及びその編成部隊の隊員の冥福と勲功を顕彰するため造営し後世の活用を希い、厚生大臣の承認を得て国立盛岡療養所に寄贈したものである。
1,工兵隊は第8師団管下青森、秋田、岩手、山形四県の壮丁を訓練し数々の戦役に従軍して、常に抜群の功績を挙げ国宝師団の名を高からしむると共に、平時災害に際しては身を挺して事に當り、その温厚純朴の気風は市民に深い愛敬を受けていた。
1,部隊の歴史は陸上自衛隊岩手駐屯部隊史料館に、また造園記録は当園管理者に委託し永く保存する。
 昭和44年夏
  工八会

工兵園

工兵第八聯隊碑

工兵営跡

盛岡医療センター内にある。

病院敷地内の為、節度ある見学を。

場所

https://maps.app.goo.gl/XSrLGVZYyi9MJBSS9


騎兵第23連隊跡地
(現・青山児童公園)

いくつか「御手植えの碑」があった。
どうも見逃したものもあるようで。。。 
大正天皇の碑を確認漏れしていることをあとから知りました。。。

閑院宮殿下御手植

大正9年◯月◯日

月日は判読できなかった。

竹田宮殿下御手植

昭和7年5月7日

淳宮殿下御手植

淳宮は、 昭和天皇の弟で、後の秩父宮。

大正5年◯月◯日

月日は判読できなかった。

岩手県営体育館

場所

https://maps.app.goo.gl/qgnHPvLsWL5zEMiv5


騎兵第三旅団第23聯隊跡の門柱
陸軍豫備士官學校跡の碑
(現・森永乳業盛岡工場)

第23聯隊の門柱、盛岡陸軍予備士官学校の碑などがある。

旧騎兵第三旅団第二十三聯隊

明治41年に、工兵第8大隊が弘前から移転、明治42年(1909)に、騎兵第三旅団第23聯隊、第24聯隊が編成配置されている。

騎兵第三旅団
観武練兵之跡
 飯田貞固謹書

飯田貞固は、最終階級は陸軍中将。昭和8年(1933年)に騎兵第三旅団長を務め満州事変に出動している。

盛岡陸軍豫備士官學校跡

「陸軍予備士官学校」は、昭和13年に「仙台陸軍教導学校」内に「陸軍予備士官学校」を設置したことにはじまる。
「盛岡陸軍予備士官学校」は、「騎兵第三旅団」が昭和10年(1935)に満州に移駐したのち、昭和14年(1939)に騎兵第三旅団兵営跡地に、仙台から移転して創設された。
昭和16年8月に、盛岡から前橋に移動となり、前橋陸軍予備士官学校となっている。

  • 1938年8月 陸軍予備士官学校を設置(仙台陸軍教導学校内)
  • 1939年3月 陸軍予備士官学校を盛岡近郊に移転(騎兵第23連隊跡地)
  • 1939年8月 陸軍予備士官学校を盛岡陸軍予備士官学校と改称
  • 1941年8月 盛岡陸軍予備士官学校を前橋近郊に移転、前橋陸軍予備士官学校と改称
  • 1945年8月 敗戦によりすべての予備士官学校を閉校

建立志
 盛岡陸軍豫備士官學校は、兵制上はじめての陸軍予備士官学校として昭和14年に創設され、改正甲種幹部候補生制度上での第三期生が、同年4月にはじめて入校し、ついで同年11月第四期生、昭和15年12月第五期生が入校し、昭和16年7月、この期の卒業と同時に新設された前橋陸軍豫備士官學校に、その教育が引き継がれた。
 日支事変や、それに続く大東亜戦争では、多くの卒業生を戦場で失った。また生き長らえた私たち同窓生が、戦後の混乱と困難を乗り越えて、国家の債権に多大の貢献を成し得たのも、この校に学び性根を尽くして鍛えられ培われた不撓不屈の精神に因るところが大きい。
 この地に私たちが人生の足跡を残した證として「學校跡」の記念碑を建立した所以である。
 平成5年9月吉日
  盛士校記念碑建立委員会

場所:

https://maps.app.goo.gl/zPUpf7WhuTn47pzp9

「燕飛行隊発祥の地」「大元帥陛下御野立所聖蹟」とかがある「観武ヶ原」の北部(演習場跡地)には訪れる時間がなかった。これは再訪案件です。。。

※撮影:2023年8月


関連

岩手護國神社

榴岡公園の戦跡散策(仙台の戦跡散策その3)

仙台市内の榴岡公園の戦跡を散策してみました。
本編は、「その3」です。


榴岡公園

宮城県仙台市宮城野区。
江戸時代からの桜の名所。
戦前は、歩兵第四聯隊が営所をおいた。
仙台市歴史民俗資料館は、旧陸軍歩兵第四聯隊兵舎。


歩兵第四聯隊

宮城県仙台市の榴岡に営所を設置。仙台鎮台(第2師団)の司令部が仙台城に設置されたことに対して、聯隊が榴ヶ岡に設置されたのは、仙台城が要害の地にあり、広瀬川の氾濫時には、交通途絶し、仙台城から部隊が出動できなくなるために、白に対して広瀬川の対岸に位置し、街道に近い榴ヶ岡に置かれた。
歩兵第四聯隊は、明治8年(1875年)に発足。太陽戦争では、初戦をジャワ島、ついでガダルカナル島での激戦を経て、終戦はビルマで迎えている。


旧第四聯隊兵舎
(仙台市歴史民俗資料館)

陸軍第2師団歩兵第4聯隊の兵舎。
宮城県内最古の洋風木造建築。

宮城県指定有形文化財 令和5年3月24日指定
旧第四連隊兵舎
 明治7年(1874)に造営された兵舎建築で、宮城県内に現存する洋風建築では 最古のもの、瓦葺寄棟造り木造2階建で、漆喰塗りの大壁、建物角にはコーナー ストーン、ガラス入り上下窓、出入り口のポーチには洋風円柱、雲形の彫刻のある 階段等の特徴を持つ、これらは明治6年完成の名古屋第六連隊兵舎と似ている ことから、当時の兵舎建築の基準に則ったものと考えられる。
 終戦まで70年間にわたり旧陸軍の兵舎として使用された後、終戦から昭和31年 までは米軍が駐留、その後昭和50年まで東北管区警察学校等に使用された。 内部はその都度改造されているが、昭和53年文化財に指定された後、明治37年 の状態に復元された。昭和54年(1979)11月3日、仙台市歴史民俗資料館 として開館した。
 なお、同様の兵舎が7棟残されていたが、これ以外の兵舎や本部等の建物は榴岡 公園整備のため昭和52年2月に取り壊された。
 平成27年3月
  仙台市教育委員会

白を基調としたシンプルな美しさがあります。

中に入ってみましょう。

四聯隊コーナーがあります。

大正四年に空撮した歩兵第四聯隊。
中央が榴ヶ岡の歩兵第四聯隊の兵営地。

軍隊生活の再現。

仙台陸軍地方幼年学校
榴ヶ岡の歩兵第四聯隊の東隣に隣接して、仙台陸軍地方幼年学校が設置された。

仙台陸軍地方幼年学校
 日清戦争後の軍備拡張に応じるため、明治29年(1896)5月の条例改正により、陸軍中央幼年学校と陸軍地方幼年学校(東京、仙台、名古屋、大阪、広島、熊本)が設けられた。地方幼年学校の採用生徒は各校50名、年齢は13~15歳、毎月の納金は6円50銭、陸海軍将校の子弟は半額、戦死者の遺児は免除、修学期間は3年だった。明治30年(1897)9月には、榴ヶ岡の歩兵第四聯隊の東側に隣接して、仙台陸軍地方幼年学校が設立された。
 しかし、第一次世界大戦後の軍備縮小で大正13年(1924)には廃校となる。その後、昭和12年(1937)には、仙台幼年学校として復活し、第1期生は第41期生として広島陸軍幼年学校に入校し、昭和13年(1938)には仙台市三神峯に完成した仙台陸軍幼年学校に転校した。昭和20年(1945)8月の配線まで、49期生におよんだ。仙台幼年学校の出身者には、多田駿(第1期生)、板垣征四郎(第2期生)、土肥原賢二(第2期生)、中島鉄蔵(第4期生)、石原莞爾(第6期生)などがいる。

仙台空襲

仙台空襲は、昭和20年7月9日深夜から10日未明にかけて、131機編成のB29爆撃機のうち123機が仙台上空に到達し、約3000mの高度より爆撃を行い、合計1万2961発、911.3トンの焼夷弾と焼夷集束弾が投下された。7月17日・8月9日・10日の小規模な爆撃も含め、1400名近い人々が空襲によって亡くなった。
(以下略)

満洲事変勇士合奏の墓は、常盤台霊苑にある。立ち入りできないけど。
昭和6年に勃発した満洲事変での日本軍の最初の戦死者は、仙台第二師団だった。

仙台と西南戦争

軍都仙台の誕生
仙台と日清戦争
仙台と日露戦争

愛国婦人会と国防婦人会
帝国在郷軍人会

仙台と満洲事変

満洲事変、日中戦争、アジア太平洋戦争

徴兵制と庶民のくらし

対外戦争と歩兵第四聯隊

歩兵第四聯隊全図

榴ヶ岡歩兵営図

招魂社
宮城縣護國神社

ガイドブック 仙台の戦争遺跡 2008
こちら、購入しました。はかどりますね。


歩兵第四聯隊営門跡

榴岡公園の西側。このあたりに営門があったという。


歩兵第四聯隊之碑

至誠無息
歩兵第四聯隊之碑

今村均(仙台出身の陸軍大将)による謹書。

 歩兵第四聯隊は明治八年九月九日重陽の佳節にあたりわが郷土出身者によってここ榴ヶ岡に編成せられてから星霜実に八十有余年父子相継いで護國の大任についた 其間明治十年西南の役を初めとし日清日露の両戰役満州事変昭和十二年日支事変引続き大東亜戰争等幾多の事変戰争に参加し二回に亘り感状を賜はる等抜群の功績は永く記念すべき聯隊であった 然るに昭和二十年終戰に遭い 畏くも 明治大帝より親授された我が軍旗は昭和二十年八月三十一日午後十二時南部佛領印度支那サイゴン市西北方約八十粁ホックモン町のゴム林内で涙を呑んで奉焼した 我等聯隊出身者竝に縁故者有志は今は無き軍旗の榮光
を偲び併せて陣歿せる幾多先輩戰友諸氏の英魂を慰むるためここに思出深き営門前に記念碑を建立し之を後世に伝うるものである
 昭和三十五年九月九日   
  重陽会
  その他有志一同


陸軍省所轄地標柱(境界標柱)


朝鮮戦役記念の碑

明治17年(1884)の甲申事変の開化派(独立党)と守旧派(事大党)が衝突し、京城(ソウル)の日本大使館護衛にあたったのが、歩兵第四聯隊第一中隊であった。
歩兵第四聯隊第一中隊は、事大党側の清国軍及び朝鮮軍と戦闘し死傷者を出している。
朝鮮戦役記念の碑は、軍功を称えて明治18年12月建立。


梅の園碑
(石原莞爾を偲ぶ碑)

石原莞爾は、昭和6年に陸軍中佐として関東軍の作戦主任参謀として、満洲事変を指揮。翌年の昭和7年8月に大佐に任ぜられ、陸軍省兵器本部付で内地に帰還。
昭和7年10月、石原莞爾は、満州問題に関するリットン調査団報告書を受けたジュネーブでの国際連盟総会に、松岡洋祐全権の随員として派遣。そして、この総会で日本は国際連盟脱退を宣言。
翌昭和8年6月に日本に帰国し、8月の異動で第四聯隊長に着任。
石原莞爾が第四聯隊長として在任したのは、昭和8年8月から昭和10年8月までの2年間であったが、出身地である東北の名門の聯隊に着任できたことを喜んでいる。

石原莞爾氏は昭和八年九月から二ヶ年間この地に歩兵第四連隊長として在任し連隊諸兵の栄養源又非常用として自ら植えられた
この四連隊跡地が仙台市民の公園として開放されたことを祈念してこの碑を建立する
 昭和五十二年三月二十五日
  石原莞爾将軍を偲ぶ会
  建立会一同

歩兵第四連隊長
石原莞爾大佐の日記から
昭和九年三月二十五日日曜(晴)
梅二〇〇本植える

榴岡公園は桜の名所として知られるが、今も石原莞爾なごりの梅園も残っている。


場所

https://maps.app.goo.gl/qB5NDWXWPL62xa78A

※撮影:2023年8月


関連

陸軍通信隊に接収された「浴風会本館」(杉並区)

東京都杉並区高井戸にある社会福祉法人「浴風会」。
歴史的建造物にして、陸軍に接収された歴史を有するというので、足を運んでみた。


浴風会

社会福祉法人。高齢者医療の浴風会病院や老人ホームなどを運営。

大正12年(1923年)9月1日の関東大震災で自活できなくなった高齢者の援護を行うために、御下賜金や義損金を財源として内務大臣の許可を得て財団法人として大正14年に設立。


陸軍中央通信調査部と浴風会

浴風会は、空襲対象となる地図では白塗り(白抜きは爆撃禁止)となっており、米軍爆撃対象から外れていた。それは、医療施設ということが米軍にも認識されていたからだろうか。
結果として、浴風会は爆撃されなかった。

昭和17年(1942)9月1日に浴風園東館上下を「陸軍参謀本部・陸軍中央通信調査部」に貸与したことから、陸軍の接収がはじまる。
昭和19年(1944)3月25日に西館上を同じく貸与し、5月11日には西館下と礼拝堂を貸与。

昭和20年5月25日に、浴風会本館の第二第三病室、つづいて6月29日に第一第四病室を貸与。
こうして、浴風会の大半を、「陸軍中央通信調査部」が接収することになった。

「陸軍中央通信調査部」とは体外的な組織名で、実際に浴風会を接収していた部隊は「陸軍中央特殊情報部(特種情報部)」(略称:特情部)であった。
特情部は暗号解読や通信傍受などの極秘任務の最高機密情報を取り扱っていたことから、部隊名を隠していたという。

陸軍の北多摩陸軍通信所が、昭和18年に陸軍中央特種情報部(特情部)通信隊と改称し、戦局が悪化すると、この特情部は、「浴風園」に疎開したというものであった。

特情部は、昭和20年8月6日に広島に原爆を投下したB‐29がテニアン島を発進した通信や海外放送でポツダム宣言受諾する通信なども傍受していた。
終戦時に、特情部は、浴風会本館3階で、現存する全機密文書の焼却を実施している。

参考:
https://www.yokufu-hp.jp/about/history.html

https://meigaku.repo.nii.ac.jp/record/474/files/shakaifukushi_146_23-65.pdf

北多摩陸軍通信所


皇后陛下行啓記念碑

正門近くに記念碑がある。

皇后陛下行啓記念碑

昭和12年5月24日 行啓
 昭和13年5月
  浴風会建之

建立時は、銀色で行啓の御道筋が描かれていたようだ。

昭和12年5月24日
皇后陛下浴風園行啓園内御道筋畧図
御道筋銀色線


乙女地蔵

横浜分園(昭和18年廃止の分園)にゆかりのある地蔵。

「乙女地蔵」の由来
 この石碑は、浴風会横浜分園(昭和3年から昭和18年まで設置)勤務の主任看護婦若田ナカさんが23歳の若さで病死されたのを惜しみ、有志の手で昭和17年に建立されたものです。
 若田ナカさんは、昭和11年から当分園に勤務され、同僚からは姉のように慕われ、利用者からは天使のように愛され、青春をかけて献身看護にあたられた方です。
 永らく分園の跡地(現神奈川県立栄養短大)にありましたものを、このたび移設いたしました。
 この碑の表面には「聖ナル使命ニ殉セシ乙女ノタメニコノ碑ヲ建ツ」とあります。
  平成15年9月吉祥日
   社会福祉法人 浴風会

聖ナル使命ニ殉セシ乙女ノタメニコノ碑ヲ建ツ
昭和17年9月吉祥日

笠地蔵
こちらはユーモラス。由来は不詳。


浴風会・本館

大正15年(1926年)8月1日竣工。内田祥三の設計による。内田祥三は東京大学安田講堂を始めとした「安田ゴシック」建物が有名。
「東京都選定歴史的建造物」指定。

昭和20年5月に、陸軍に接収されている。

浴風会本館
東京都選定歴史的建造物
 所在地 杉並区高井戸西1-12-1
 設計者 内田祥三・土岐達人
 建築年 大正13年(1926)

浴風会本館は関東大震災後、高齢・障害のある被災者のために建てられたものである。建設当時は、この本館を中心としてほかの建物をほぼ対称に敷地全体に配置した構成となっていた。
鉄筋コンクリート造り、地下1階:地上2階一部3階建て、壁はスクラッチタイルで大きな窓がある。中央の塔が全体を象徴し、塔で垂直線を強調したデザインを用い、翼部は庇等によって水平線を表している。このデザインは、東京大学安田講堂(設計:内田祥三)と共通するもので、この時代の特徴でもある。
 東京都生活文化局
  平成13年3月

内田ゴシック感のある本館。

完全なシンメトリーではなく、中央の塔がずらしてある。


浴風会・礼拝堂

昭和2年(1927)竣工の礼拝堂。
昭和19年には、陸軍に接収されている。


浴風会・庭園

中庭の庭園。シンメトリーなモニメントもある。

小さな池には、本館を模したミニチュアモニメントもある。

※撮影:2023年12月

※場所:

https://maps.app.goo.gl/2sDHytgYNwaQRYht8


杉並関連

日本で現存する最古の跳上橋「名古屋港跳上橋」

名古屋港に跳ね上げ橋が残っている。
ちょっと見学に行ってみました。


名古屋港跳上橋
(旧1・2号地間運河可動橋)

昭和2年(1927年)に架設された名古屋港跳上橋。
堀川と中川とを連絡する運河の堀川口に架けられた鉄道可動橋。
設計製作は、可動橋の第一人者である山本卯太郎。
国登録有形文化財。
経済産業省認定近代化産業遺産。
土木学会選奨土木遺産。

鉄道廃線後、1987年(昭和62年)より、桁を上げた状態で保存されている。
日本では現存する最古の跳上橋という。

稲荷橋からの遠望。

近づいてみます。

なかなかの光景

小雨が降る中でしたが、足を運んでみたかいがありました。良いものが見れました。

場所

https://maps.app.goo.gl/fAkbpuZmUm9jfKFq6

参照

https://www.city.nagoya.jp/minato/page/0000043966.html

https://www.port-of-nagoya.jp/shokai/kohoshiryo/1001070.html

https://www.pref.aichi.jp/kyoiku/bunka/bunkazainavi/yukei/kenzoubutu/kunitouroku/1039.html

※撮影:2023年3月


「戦前最初で最後の国際的博覧会」名古屋汎太平洋平和博覧会と平和橋

愛知県名古屋市港区にある陸橋。地図を見ていてなんとなく目にとまったところから調べてみたら、興味深い歴史を有していたので足を運んでみました。


名古屋汎太平洋平和博覧会と平和橋

名古屋市が人口100万人を突破し、名古屋開港30周年を迎え、太平洋の平和と発展に寄与することを目的に、昭和12年(1937年)3月15日から78日間にわたって開催されたのが、「名古屋汎太平洋平和博覧会」であった。

平和博覧会は、名古屋市長(大岩勇夫)が中心となり、そして総裁は東久邇宮稔彦王(当時、陸軍中将)が就任した。
陸軍としては軍事拡大を目論んでいるさなかでの「平和を銘打った博覧会」は断固反対の立場であったが、名古屋に縁があり(平和派)皇族の陸軍中将が総裁では、軍も公式には反対できなかったという。

なお、この当時すでに昭和15年(1940)に東京と横浜で紀元2600年を記念した万国博覧会(紀元2600年記念日本万国博覧会・幻の東京万博)が計画されていたことから、それに配慮し「万国」ではなく「汎太平洋」という名称になったともいう。

名古屋汎太平洋平和博覧会
開催目的
 (1)広く内外産業文化の現状を紹介する
 (2)わが国の産業の振興と日本文化の宣伝を行なう
 (3)関係各国民の平和親善と共同の繁栄に資する
会期
 昭和12年3月15日~5月31日(78日間)
会場
 名古屋市南部臨港地帯の15万坪
出展国
 太平洋沿岸諸国および名古屋市との友好国全29カ国
出展物
 産業、社会、科学など
入場料
 大人=60銭
 子供=30銭
 軍人=30銭
入場者数
 約480万人

昭和前期の大規模な博覧会として、会場496.000平方メートルの敷地の中央を南北に貫通して東西会場に分割し、東会場は運河で3分割、会場の道路は大陸橋と地下道で結ばれた。

東会場には国内特設館14館と、海外より満州、中華民国、蘭領印度、ペルシャ、シャム、中南米などが参加した。
国内の保健衛生館で展示されたドイツから購入したプラスチック製の透明人間が人気を呼んだ。

西会場はメインの航空国防館で、非常時日本の威力を誇示し、国民の戦意高揚を図る展示をした。

「名古屋汎太平洋平和博覧会」会場の道路は幅80メートル、そこに噴水、花壇や緑地帯を配し、中央に高さ50メートルの大平和塔が聳え、そこから数条の道路が放射状につくられ、展示館、特設館や付属設備が建てられるという統制のとれた会場づくりであった。入場者は4.808.164人で、外国人も満州の2.819人を含め6.625人が入場した。

参照

https://www.nomurakougei.co.jp/expo/exposition/detail?e_code=1660

https://history.nagoya-cci.or.jp/shouwashoki/h12.html

「平和」を銘打った国際的博覧会ではあったが、博覧会終了の2ヶ月後には盧溝橋事件をきっかけとした「支那事変(日中戦争)」が勃発し、平和は程遠い状況下となってしまった。

名古屋汎太平洋平和博覧会と平和橋
我が国最初の国際的博覧会

 名古屋汎太平洋平和博覧会は、昭和12年、我が国最初の国際的博覧会として注目されました。
 会場は、現在の港北公園周辺50万平方メートルにおよび、国内の各都道府県や外国29か国が参加、会期78日間で総入場者数480万人にのぼる大規模なものでした。

 博覧会名にちなみ、平和の二文字をとって名付けられた平和橋は、港区内で博覧会の跡をとどめる唯一の建造物とされています。
 平成25年、市民に身近な歴史的建造物として「認定地域建造物資産」に認定されました。
  平成26年3月 名古屋市港区役所まちづくり推進室

平和橋
昭和12年港区で、名古屋汎太平洋平和博覧会(日本の産業の振興・文化の発展と高揚・関係国民との平和親善を図ることを目的とする)が開催され、解散期間78日間で、入場者約480万人に達した。
この博覧会のために、約13万円を投入しこの橋が建設された。その名を博覧会の「平和」の二字をとって名付けられ、博覧会の記念として残る唯一のものである。

昭和11年十一月竣工

「ピースあいち」のサイトに、名古屋汎太平洋平和博覧会画報の画像が掲載されている。

https://www.peace-aichi.com/piace_aichi/201809/vol_106-5.html

https://www.peace-aichi.com/piace_aichi/201810/vol_107-5.html

http://www.peace-aichi.com/pdf/20181021_hakurankai1937_2.pdf

※2023年3月撮影


明治時代の面影を残す「日光駅」(大正元年/1912年竣工)

日本有数の観光地である日光の玄関口。
鉄道黎明期のころから、日光に対する観光需要は高く、明治23年(1890)に、日光駅は早くも開業している。


JR日光駅

1912年(大正元年)8月25日に、現在の2代目駅舎が落成。(起工は同年4月9日)。
ネオ・ルネサンス様式のハーフティンバー様式木造洋風建築2階建て建造物。

関東の駅100選。選定理由は「明治時代の面影を残す白亜の木造建築の駅」。

日光駅貴賓室

貴賓室は非公開。

日光駅一等車利用者用待合室

平成元年(1989)に「ホワイトルーム」として再整備。多目的ホールとして活用されている。


日光線

なんとなく、常に混み合っているイメージの日光線。

9月の週末。10時すぎの日光駅。なかなかの賑わい。

※撮影:2023年9月


日光田母沢御用邸の防空壕跡

日光で、何するというわけでもないけど、時間があったので、せっかくなので御用邸に赴いてみた。


日光田母沢御用邸

https://www.park-tochigi.com/tamozawa/

元は皇太子時代の大正天皇の静養所として造営された旧御用邸の建物と庭園を公園として整備し一般公開されている。

明治期以降に数多く造られた御用邸建築のうち、全体がほぼ完存する唯一の例として貴重であり、建造物群は国の重要文化財に指定されている。

御用邸の創設は明治32年(1899年)で、病弱であった皇太子嘉仁親王(後の大正天皇)の夏の静養所として設けられたもの。
大正天皇即位後にも多くの部屋が増築され、東京赤坂東宮御所の江戸期の移築建築もあり、明治・大正の各時代の用途の異なる建築が混在している。


日光田母沢御用邸の防空壕

1944年(昭和19年)7月、東京への大空襲に備え、日光田母沢御用邸が、当時皇太子(学習院初等科5年生)であった第125代天皇明仁の疎開先となった。その時に、防空壕も設営されたものと思われれる。

内部の写真。

水没しているようだ。

防空壕の上部。

この下に防空壕がある。

もうひとつの入り口。
防空壕の入り口は2つあった。


日光田母沢御用邸見学

正門。

入り口。御用邸の車寄せ。

御玉突所

謁見所

御学問所の丸窓

中央の建物は御食堂

2階へ

後日拝所

剣璽の間

御寝室

3階の御展望室は期間限定公開。

御座所

御食堂

御湯殿

庭園から

3階建屋。

なんかのんびりできました、たまにはこういう文化的なものも良いですね。

場所

https://maps.app.goo.gl/dPNqQeTv6zXzxRBE7

※2023年9月撮影


関連

多摩陸軍飛行場(横田基地)の戦跡散策

在日米空軍横田基地
「日米友好祭フレンドシップ・フェスティバル2023」(日米友好祭2023)
第47回目だそうで。
年に一度の横田基地、散策してみましょう。

今回は、消化不良でおわった昨年のリベンジとして再訪してきました。

前回記事はこちら。

一部は、重複しますが。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-R556-No1-80
1947年11月14日に米軍が撮影した航空写真を加工。

下記の黄色が現存。

当時の写真と、Google航空写真との照合。
5つの格納庫を、南側から便宜上で通し番号を振っておく。


多摩陸軍飛行場(福生飛行場・横田飛行場)

昭和15年(1940)、立川陸軍飛行場の付随施設として建設。
同年4月に、陸軍飛行実験部(陸軍航空審査部飛行実験部)が立川から多摩に移転。
大戦末期の本土防空戦時には、飛行実験部戦闘隊を「福生飛行隊」と通称し、第10飛行師団指揮下の臨時の防空飛行部隊として投入され、戦果も上げている。
戦時中の米軍は、従来把握していなかった多摩陸軍飛行場を「横田飛行場」と名付たことから、「横田基地」と呼ばれるようになった。
終戦後は、アメリカ軍に接収され、朝鮮戦争やベトナム戦争でも積極的に活用された。


旧多摩陸軍飛行場格納庫1

米軍横田基地内に残る多摩陸軍飛行場時代からの格納庫。
前述の地図で、一番南側の格納庫。


旧多摩陸軍飛行場格納庫2と3

2つの格納庫が並んでいる。


旧多摩陸軍飛行場格納庫4と5

北側に4番目と5番目の格納庫。近寄ることは出来ないので遠望で。

どうみても格納庫ばっかり撮っている人、になっていますね。


そのほか

丸い屋根の格納庫は戦後の米軍時代もの。

横田名物


横田名物

横田名物のハンバーガーに並んでみました。
ゴールが見えないw

行列のゴールは、「外人バーガー GAIJIN BURGER」

第36空輸飛行隊(イーグル・エアリフター)が焼く、本場モノで間違いない!

GAIJIN BURGER!!ってノリノリになりながら、作っていました!

外人バーガーは、肉厚なハンバーグが3つ。あとはチーズのみ。
ピクルスやマスタード、マヨネーズはセルフで好きなだけ使って良しのスタイル。
これは大満足のハンバーガー
(ちなみに1時間、並びました、、、)

あっ、これも名物。甘いものもほしいですよね。

フライドオレオ。5個買ったらTシャツもらえました。

オレオをフライド、、、カロリー爆弾

Tシャツ。

青くて良いね。2022年の米空軍75周年の記念Tシャツ。


飛行展示

飛行展示は小規模ですね。あくまでおまけな感じ。

空挺展示。

ヘリでの救難展示。

そして、これを待ってました。

CV-22 オスプレイの飛行展示。

飛んでいるところを生で初めてみました。

機動力にびっくりです。

オスプレイのお辞儀。機種をちょっと下げるアクション。

カメラ設定が甘くて、写真が失敗多数でした。
普段は、静態ばかりを撮影しているため、シャッタースピードは遅めが基本のため、動いているもの撮ったのが久しぶりで、設置ミスった、とか。


地上展示

気になったものだけ撮影。

軍事機密の塊ですね。隠してあります。

水上機、いいねえ。

ホンダ

CH‐47J。
横田基地日米友好祭も47回目。

F-2

T-4。青と赤。

青のブルーインパルス
赤のレッドドルフィン

入間基地の飛行点検機 U-680A


おしまい

また来年?

※撮影:2023年5月


関連

「旧開明尋常小学校奉安庫と機銃掃射の弾痕跡」尼崎の戦跡と近代建築散策・その2(兵庫尼崎)

兵庫県尼崎市。大阪の隣。
先日、関西方面に赴いた際に尼崎を散策。
いくつか戦跡と近代史跡を巡ってみました。

その1は下記にて


奉安庫

明治23年(1890年)10月30日発布された 明治天皇の勅語「教育ニ関スル勅語(教育勅語)」と御真影とを、不敬にあたらないように保管し、そして火災から守るための設備として、校内に奉安庫もしくは奉安殿(奉安所)を設置することが明治24年(1891年)11月文部省訓令第4号によって定められた。

学校校舎内に設ける場合は「奉安庫」、校舎外に独立しさせた場合は「奉安殿」となる。

終戦後、連合国軍総司令部(GHQ)の指令で、奉安庫や奉安殿の撤去、解体が進んだが、当校の奉安庫は解体を免れ、貴重な遺産として現存している。


旧開明尋常小学校の奉安庫跡

平成14年(2002年)に閉校した尼崎市立開明小学校。
現在は「尼崎市役所開明庁舎」として活用されている。

現存する校舎は、室戸台風の災害復興事業として、昭和12年(1937年)に竣工。RC造3階建。
戦前の奉安庫が残っているのが非常に珍しい。

1階の旧校長室には戦前の奉安庫や家具が現存し、現在はメモリアルコーナーとして使用されている。


旧開明尋常小学校

開明尋常小学校は、昭和12年の竣工。
現在は、尼崎市役所開明庁舎として活用されている。

艦船の艦橋のようなデザイン。

尼崎市役所開明庁舎(旧開明尋常小学校校舎)

この建物は室戸台風の災害復興事業として1937年(昭和12)2月に開明尋常小学校校舎として竣工しました。校庭を 囲むようにしてL字型に建つ建物は、整然と並ぶ窓の上部に校舎の端から端につながる庇が取り付けられ、水平性が強調された端正な趣を示しています。建物の南端と西端には意匠が異なる玄関が設けられていますが、特に南玄関から上階に上がる階段室は外部に半円形に張り出し、煙突のように天に突き出した柱とも相まって、まるで艦船の艦橋のようなダイナミックなイメージを受け、外観上の最大の特徴になっています。また1階の旧校長室には戦前の奉安庫が現存しています。


機銃掃射による弾痕が残る塀


学校の塀には、機銃掃射の弾痕が生々しく残っていた。

機銃掃射による弾痕が残る塀
 ここに現地保存している旧尼崎市立開明小学校(元、開明国民学校)校庭の塀には、太平洋戦争末期の米軍機の機銃掃射によると思われる無数の弾痕が残っています。
 尼崎では1945年(昭和20年)3月から8月まで10回にわたり米軍機による空襲があり、当時の尼崎市の報告書によれば死者479人、家屋全焼約1万1000戸、り災者総数約4万2000人という大きな被害を受けています。
 この弾痕がいつの空襲のときのものであるかについては断定できませんが、同年6月1日午前に大阪・尼崎方面を襲った空襲では、開明築でも犠牲者が出ており、学校近隣に所在する病院が全焼するなどの被害を受けています。また、米軍の記録によれば、このときの空襲にはB29爆撃機とともに、P51戦闘機が飛来していることが判明しているので、この塀に残る弾痕は、この時に刻まれた可能性があります。
 戦争の悲惨さ、残酷さを記憶にとどめ、平和な社会の実現を願って弾痕が残るこの塀を保存します。
   平成17年3月

尼崎市サイト

https://www.city.amagasaki.hyogo.jp/manabu/bunkazai_0/1028308/1028313/1028787.html

https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/171572

場所

https://goo.gl/maps/V9VM4JE1EXPDqPvD6

※撮影:2023年4月


関連(尼崎)

鳴尾飛行場と川西航空機鳴尾製作所の戦跡散策(西宮)

兵庫県西宮市の東部。武庫川や鳴尾地区には、戦前、川西飛行機の工場と海軍の飛行場があった。
往時を偲ぶものは少ないが、そんな西宮市の東部を散策してみました。


川西航空機株式会社

現在の新明和工業の前身。
九四式水上偵察機、九七式飛行艇、二式飛行艇、強風、紫電、紫電改などの海軍向けの航空機を製造した。特に水上機と飛行艇には定評を持つメーカー。
傑作機「二式大艇」を生み出したのも川西航空機。
飛行艇のDNAは、帝国海軍の二式大艇から救難飛行艇 US-2(US-1A改)へと受け継がれている。

中島知久平(中島飛行機)に出資していた川西清兵衛は、トラブルから出資を引き上げ、1920年(大正9年)に自社での飛行機メーカーを目指して川西機械製作所を創業。
川西機械製作所飛行機部は、1928年(昭和3年)に川西航空機(現・新明和工業)として独立した。
1930年(昭和5年)鳴尾製作所を開設。帝国海軍と密接な関係となり、海軍も積極的に川西飛行機を後押しし、大型飛行艇メーカーとしての成長をすすめていく。
1938年(昭和13年)、海軍管理工場となる。
1942年(昭和17年)に、甲南製作所(鳴尾製作所分所・現在の新明和工業甲南工場)、姫路製作所が完成。
1943年(昭和18年)、鳴尾製作所に隣接していた鳴尾競馬場と鳴尾ゴルフ倶楽部の土地が接収され、鳴尾飛行場と川西飛行機用地として使用され、従業員輸送と資材輸送のために、阪神国道駅及び国鉄西宮駅と接続する専用鉄道(のちの阪神武庫川線)も建設された。
川西飛行機は、鳴尾・甲南・宝塚・姫路に製作所(工場)を擁していたが、戦争末期には4製作所ともに米軍空襲により壊滅。工場疎開を余儀なくされた。
戦後の企業再建では、母体であった株式会社川西機械製作所は、第二会社として神戸工業を設立し、解散。神戸工業は富士通と合併。引き継いだ部門は、富士通テンを経て、デンソーテンとして、川西器械製作所を継承している。
川西飛行機株式会社は、昭和22年に明和興業と社名変更し、昭和s4年に、自動車部門の明和自動車工業と、汎用機械の新明和興業に分割。明和自動車工業はのちにダイハツ傘下となり吸収。
新明和興業は、昭和35年に「新明和工業株式会社」に社名変更し、海上自衛隊の救難飛行艇をはじめてとした航空機製造を継続している。


二式大艇(二式飛行艇)

川西航空機が製造した当時世界最高の性能を誇った傑作機。
「恐るべき機体」「空飛ぶ戦艦」「全世界の飛行艇に君臨する王者」と別称された名機。連合国コードネームEmily。
二式大艇でもって、飛行艇技術では日本が世界に勝利したと讃えられ数々の勇名を誇る。
川西航空機が生み出した帝国海軍の飛行艇の伝統は、戦後は、新明和工業によって海自PS-1/US-1/US-2へと受け継がれている。

「船の科学館」に在りし日の彼女。2003年撮影。
※現在は鹿児島鹿屋に展示
 (鹿屋にも行きたい、、、、

以下、参照


甲子園口駅

この日の散策は、甲子園口駅からスタート。

まずはJR神戸線に沿って西に歩いてみました。


甲子園SL公園

川西航空機鳴尾製作所への輸送のために、昭和18年に阪神電鉄により武庫川ー洲先駅が開通。昭和19年に武庫大橋ー武庫川駅間が開通。西宮駅からは国有鉄道としての乗り入れも行われた。

甲子園SL公園には、国有鉄道と阪神電鉄武庫川線の貨物を物語る給水塔がモニュメントとして残っていた。

 この給水塔は、昭和19年の戦争末期に蒸気機関車の給水塔として軍需輸送のために阪神電鉄により武庫川線として敷設され、当時の省線(JR線の旧称)との間で相互乗り入れが行われていた。
 この路線は、その後、工業資材などの輸送を行ってきましたが、昭和30年代にその役目を終え廃止されました。
 戦後の社会復興に貢献してきた武庫川線の歴史を残す貴重な資料、また、歴史的かつ地区のシンボルとして補修を施し、モニュメントとして生まれ変わりました。

武庫川線に関しては後述します。

場所

https://goo.gl/maps/48tXzUwvr9mKW63S8


まんぼうトンネル(甲子園口)

JRの線路の下をくぐるトンネル。屈まないと通行できないほどの小ささ。高さは130センチほど。
地図を見て、ちょっと面白そうだったので立ち寄り。

もともとは、明治7年に官設鉄道が開業する際に線路の盛り土の下を
用水路が流れるように作ったトンネルだったという。
西宮には、3つほど通称「まんぼうトンネル」がある。今回はそのうちの一番東側のトンネル。これが一番、間口が小さい。

下記の写真は、わかるかな、自転車を押したおじさんがかがみながら通行中です。

北側の半円トンネルは明治29年の複線工事でレンガで造営され、南側の四角トンネルは大正15年の複々線工事のときに延伸したものという。そのために形状が違うのかな。

場所

https://goo.gl/maps/MsmkJTwyUVNH55SX7


いったん、甲子園口駅まで戻って、そこから南下していきます。

武庫川女子大学 甲子園会館
(旧大阪海軍病院・旧甲子園ホテル)

武庫川女子大学の甲子園会館。
昭和5年(1930年)に甲子園ホテルとして竣工。
その後、昭和19年に帝国海軍が借受し、呉海軍病院大阪分院として開院。昭和20年3月に、大阪海軍病院として独立し、終戦を迎える。
その後、米軍の将校宿舎を経て、昭和40年(1965年)、武庫川学院が譲り受け教育施設として活用されている。

甲子園会館(武庫川女子大学サイト)

https://www.mukogawa-u.ac.jp/~kkcampus/

申請をすれば見学も可能。

流石に女子大なので、私は通りすがりに敷地外からチラ見。
時間がある時に改めて申請して見学したい。

場所

https://goo.gl/maps/46fyrEBYJKmqYbyZ8


明和病院

川西航空機株式会社(現在の新明和工業株式会社)は、福利厚生として、社員用に4つの病院を有していた。
その一つが西宮市鳴尾にあった昭和17年9月に川西航空機株式会社付属病院として創設された「鳴尾病院」。
鳴尾病院は、昭和20年の終戦後に川西龍三社長が戦後の苦難の時期に、地域に恩返しをしたいとして「明和病院」を再出発させた病院。

明和病院 理事長あいさつ

https://www.meiwa-hospital.com/outline/directors-greetings.html

明和病院 概要

https://www.meiwa-hospital.com/outline/profile.html

場所

https://goo.gl/maps/oRdQcrw3UWewGnYY7


鳴尾飛行場

帝国海軍の航空基地。
鳴尾川を挟み、川西航空機鳴尾製作所に隣接しており、川西航空機の試験飛行用飛行場でもあった。
川西航空機鳴尾飛行場の隣には、もともと鳴尾競馬場(旧・阪神競馬場)があったが、1943年(昭和18年)の春競馬終了後に海軍に接収され、鳴尾飛行場として再整備されることになった。
鳴尾飛行場を建設するにあたっって、浜甲子園阪神パーク(遊園地)などの施設も接収している。
かつての旧鳴尾競馬場本館(大スタンド正面玄関貴賓館)は、鳴尾飛行場管制塔として流用されることになり、いまも武庫川女子大学附属中学校・高等学校「芸術館」として現存。

戦後は、武庫川女子大学付属中学校・高等学校や浜甲団地、浜甲子園運動公園などに再開発されている。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M18-4-44
1948年2月20日、米軍撮影の航空写真を加工。

拡大。滑走路は、米軍の資材置き場として活用されている。
左上には、甲子園球場(1924年完成)。
滑走路から鳴尾川を挟んだ右側が、川西航空機鳴尾製作所。


旧鳴尾飛行場管制塔
旧鳴尾競馬場本館(貴賓館)

竣工は昭和10年(1935年)。もともとは、競馬場のスタンドだった。

現在の武庫川女子大学附属中学校・高等学校「芸術館」。
かつての旧鳴尾競馬場本館(大スタンド正面玄関貴賓館)は、鳴尾飛行場管制塔として流用されることになり、いまも武庫川女子大学附属中学校・高等学校「芸術館」として使用されている。

武庫川女子大学

https://www.mukogawa-u.ac.jp/~okazaki/designworks/mwu-jhs/index.html

日経新聞

https://www.nikkei.com/article/DGXLASIK17H01_Y5A510C1AA1P00/

管制塔として使用された最上部。

いまでは、そんなに高くは無いが、往時は一際高い建物として管制塔の役目を果たしたのだろう。

X字を描く滑走路のちょうど真ん中に、管制塔がある。

場所

https://goo.gl/maps/4biu4yYk7hkefKk2A


鳴尾飛行場跡

内陸部は、再開発で跡形もない。
浜甲子園運動公園の向こうの団地群は、武庫川団地。川西航空機鳴尾製作所があった場所。

海側。
当時、鳴尾飛行場の滑走路は海上に面していた。
しかし、海際は、「浜甲子園阪神パーク(遊園地)」の残骸もあり、排水溝の跡もあり、なにがなにやらよくわからない残骸にあふれている。鳴尾飛行場の滑走路の残骸もあるのだろう。

残骸があつまる。
きっと、鳴尾飛行場滑走路の残骸もある、、、はず。

甲子園浜

沖合に見える岩礁が鳴尾飛行場時代の海岸線(防波堤)という。

鳴尾飛行場時代の防波堤

鳴尾飛行場の滑走路の残骸。

滑走路東南に位置するところに、瓦礫があつまっている。

場所

https://goo.gl/maps/wSd5Gb2fxQr6sTty9


鳴尾川

鳴尾川の西が鳴尾飛行場、東が川西航空機鳴尾製作所であった。
写真の左側にみえる武庫川団地が川西航空機鳴尾製作所の跡地。


武庫川団地

このあたり一帯は、戦前は川西航空機鳴尾製作所であった。
往時を偲ぶものはなく。

阪神電車がいました。

阪神電車の赤胴車。

自販機も特別仕様。

キレイに保存されている車両。良いですね。

場所

https://goo.gl/maps/nxgZiR4tCNq2ez739


阪神電鉄武庫川線

冒頭の「甲子園SL公園」でも触れたが、阪神電鉄武庫川線の前身は、川西航空機鳴尾製作所への輸送のために、昭和18年に阪神電鉄により武庫川駅ー洲先駅が開通したことにはじまる。
昭和19年には、武庫大橋駅ー武庫川駅間が開通。西宮駅からは国有鉄道としての乗り入れも行われた。
終戦後に旅客営業中止。昭和23年に武庫川駅ー洲先駅間での運行が再開。
昭和33年に西ノ宮駅ー洲先駅間の貨物線は休止され、45年に貨物廃止、昭和60年に休止中の武庫大橋ー武庫川間が廃止。
その1年前に昭和59年に現在の「武庫川団地前駅」まで南側は路線が延伸された。

西宮市

https://archives.nishi.or.jp/04_entry.php?mkey=14039

武庫川団地前駅

武庫川駅

武庫川駅の引込線は、かつての線路跡。

武庫川線の引込線は途中でおわり、線路も剥がされて、線路跡のみがのこる。

武庫川橋の北側からは、住宅地として、線路跡が活用されている。

場所(武庫川橋)

https://goo.gl/maps/2JYjCqWgCDVgimni7

鳴尾・武庫川の散策は、9時スタートで、12時終了。ざっくり3時間で10キロ(電車利用部分は除く)の散策でした。

※撮影:2023年4月


関連

尼崎の戦跡と近代建築散策・その1(兵庫)

兵庫県尼崎市。大阪の隣。
先日、関西方面に赴いた際に尼崎を散策。
いくつか戦跡と近代史跡を巡ってみました。

その2は下記にて


橘公園の高射砲台座

尼崎市役所に隣接する橘公園。
この公園に、高射砲陣地の台座(砲座)が残っている。

関西方面の防空は高射第3師団(司令部は大阪市立美術館に設置)が担当。

尼崎は大阪に隣接する地の利もあり、戦前から工業都市として発展。尼崎市内には最大規模の軍需工場「住友金属工業プロペラ製造所」もあったが、昭和20年6月15日の第4回大阪空襲で壊滅している。

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/situation/state/kinki_09.html

橘公園の高射砲台座(砲座)は2基残っている。

1基は、花時計の奥にあるライオン像の台座。

2期目は、ベンチと水道の横になんとなくある不自然な円柱。
柱上には、砲床も残っている。

公園には特に、高射砲台座を示す由来看板などはない。

尼崎公園

https://amagasaki-park.com/plant1

場所

https://goo.gl/maps/gyW2GnWDgsSawPug8


高射砲台座の位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M18-4-15
1948年2月20日、米軍撮影の航空写真を加工。

該当部分を拡大。
黄色が橘公園の部分。赤色は住宅地となり、遺構は特に残っていない。
黄色部分の陣地は、残っている台座(砲座)の高さがあることからもわかるが、土塁でもって丘のように盛り上がっていたことがわかる。
中央の黒い部分は「溜池」。1962年に尼崎市役所が建設されるまえは、この地は「池」であった。


昭和大典記念時計塔

昭和天皇の即位の礼を記念して、昭和3年・1928年11月に建立されたもの。

大阪の陸軍第四師団長・林弥三吉中将の揮毫

帝国在郷軍人会

場所

https://goo.gl/maps/WjWHnRRty18nfzk2A


旧尼崎警察署

大正15年(1926)11月30日竣工の旧尼崎警察署。
兵庫県内において完全な形で残る戦前期の警察署庁舎としては唯一のもの。

昭和45年(1970)3月31日、尼崎中央警察署は新築庁舎に転出し、敷地と建物は尼崎市の管理となった。
尼崎市立城内児童館として約20年活用されたが、阪神淡路大震災で被災。安全性を考慮し閉鎖され、現在に至る。

レファレンス協同データベース

https://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000289653

場所

https://goo.gl/maps/9ApJyJf7S92Yh3Qq7

旧警察署の隣の敷地に、なにやら石碑。
昭和16年建立の紀元2600年記念での青山幸利公顕彰碑のようでした。尼崎藩2代目藩主。初代は、青山幸成。

陸軍大将・本庄繁の扁額謹書。

本庄繁は、兵庫出身であったので、その縁から、かも。


尼崎市立歴史博物館(旧尼崎高等女学校)

昭和13年(1938)に竣工した尼崎高等女学校校舎。
その後、城内中学校となったが、平成17年に中学校は移転統合。
空き校舎を活用し、平成21年(2020)に尼崎市立歴史博物館としてリニューアル。

博物館の見学も今度しないと、、、

場所

https://goo.gl/maps/TLA1VDmGHDh8PzqXA


阪神電鉄旧尼崎発電所

明治34年(1901年)竣工の煉瓦造りの尼崎火力発電所。
発電所としては大正8年4月6日に休止。
現在は資材倉庫として活用。

阪神電車の車窓から、尼崎城と煉瓦建造物を一緒に楽しみ事ができる。

ホームからも。

公道から見学。

尼崎城が小さく見える。

赤が先状側からも。

ちなみに城址公園は、西三の丸に当たる場所で2018年の外観復元天守。本丸は、尼崎市立明城小学校の場所となる。

場所

https://goo.gl/maps/LMvZdr9kcwX4hG8Z7

※撮影:2023年4月


関連(尼崎)

明治生命館(GHQ接収・米極東空軍司令部)

明治生命館を見学していましたので、掲載。
かつて、アメリカ極東空軍司令部として接収されたこともある建造物。

公式サイト

https://www.meijiyasuda.co.jp/profile/meiji-seimeikan/

一般公開もありますので、見学してきました。


明治生命館(外観)

昭和9年(1934)3月31日竣工。
昭和20年8月、終戦後に連合国軍が進駐を開始。連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)は、日比谷の第一生命館を接収するとともに、明治生命館に対しても米極東空軍司令部(FEAF)として使用するために接収した。
接収期間中、2階の会議室では、米・英・中・ソの4カ国代表による「対日理事会(ACJ)が開催され、昭和21年(1946)4月5日、その第一回には連合国軍総司令官D.マッカーサーが演説を行っている。対日理事会は、隔週ごとに開催され、サンフランシスコ講和条約が発行され、GHQが廃止された昭和27年(1952)まで164回にも及んでいる。昭和31年に返還。

昭和建造物としては、昭和の建造物として初めて、平成9年に「明治生命保険相互会社本社本館」として重要文化財指定。

設計は「様式建築の名手」岡田信一郎・捷五郎(兄弟)、構造設計は内藤多仲、施工は竹中工務店。5階分のコリント式列柱が並ぶ古典主義様式に則ったデザイン。

明治生命館
重要文化財
竣工 1934年(昭和9年)
指定 1997年(平成9年)


明治生命館(内部)

往時の雰囲気を残すエレベーターで2階に。

受付をすまして、まずは資料・展示室。


資料・展示室


手すり

手すり
回廊に巡らされている手すりはブロンズ製です。
この手すりは戦時中に金属回収されましたが、昭和31年の改修工事の際に当初と同じ形式に復元されました。


吸塵バルブ

吸塵バルブ
当時としても珍しい真空掃除機設備が設置されていました。各階では壁の吸塵バルブにホースをつなげ、吸引清掃していました。吸い寄せられたゴミは館内に張り巡らせた配管を通り、地下二階の米国製バキュームポンプとダクトタンクへと運ばれました。


会議室(対日理事会)

古典主義様式が取り入れられた会議室。

戦後、明治生命館は米極東空軍司令部(FEAF)として使用するために連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)に接収された。
接収期間中、2階の会議室では、米・英・中・ソの4カ国代表による「対日理事会(ACJ)が開催されている。


控室(食堂控室)

料理用昇降機(小型エレベーター)が設置されており、地下にある厨房から料理が2階まで運ばれた。


食堂


象徴的なデザイン。吹き抜け部分にはイオニア式を貴重とする26本の角柱。回廊内側は、トスカナ式。イタリア産大理石。


回廊

1階部分は、静嘉堂展示室のエレアのみでならず、店舗営業室(ほけんショップ丸の内)としても、現在も活用されている。

消火栓格納


メールシュート

メールシュート
郵便物を各階から直接投函することができる、米国カットラー社製メールシュートが、館内各階二ヵ所に設置されていました。
一階北玄関と東玄関には、各階のメールシュートから投函された郵便物が集積される集合郵便箱が設置されていました。


天井

天井
天井は漆喰と石膏で作られています。吹き抜けの中央部に設置されたトップライト(天窓)の南・西・北側を取り囲む天井には八角形と小さな正方形のくぼみがあり、八角形の中には石膏で造られたロゼット(丸い花飾り)が施されています。


執務室


執務室隣接応接室


階段


応接室


健康相談室

健康相談室は昭和13年(1938)に創設された健康増進施設であり、現在のように健康診断が一般的ではなかった頃に、生命保険会社もよる社会貢献の一環として発足しました。当時としては最新のドイツ製の心電図計(エレクトロ・カルヂオグラム)が導入されていました。

2階を一周して見学終了。

これは良いですね。いいものを見学させて頂きました。
見学できることがあまり周知されていないのか、ほどんど独占状態での見学。ゆっくり楽しめました。


明治生命館「講堂」(東京建築祭2025)

2025年5月、「東京建築祭2025」にて、通常は非公開の明治生命館7階の「講堂」が一般公開されましたので、足を運んでみました。

以下、写真は2025年5月撮影。


第一生命館

明治生命館と同じく連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)が接収したのが、日比谷の第一生命館。マッカーサー記念室など一部が残っているというが通常非公開。


第一生命日比谷ファースト展示資料(東京建築祭2025)

第一生命日比谷ファーストビルの1階公開エリアにて、東京建物祭2025に際して、関連資料の展示がありましたので、足を運んでみました。

以下、写真は、2025年5月。

マッカーサー執務室(保存・非公開)

資料展示コーナー(保存・非公開)

貴賓室(保存・非公開)


第一生命館


マッカーサー記念室と保存諸室

この部分が一番興味あるので、拡大しつつ紹介

GHQによる接収
 昭和20年8月15日、昭和天皇によるポツダム宣言受諾の詔書により、第二次世界大戦は終わりを告げた。同年8月30日には、連合国総司令官ダグラス・マッカーサーが厚着飛行場に降り立ち、連合国総司令部(GHQ)による戦後処理が始まることとなった。
 第一生命館がGHQによって、建物の地上部分すべて接収されることになった。9月10日に日本政府より正式の接収命令が通知され、9月15日の正午をもって明け渡しの期限とするまことにあわただしいものであった。建物が戦前に陸軍からの要請で、屋上スラブ厚40cm、1階床スラブ厚60cmの耐爆対弾構造であったこと、また冷暖房装置が整っていたことなどが接収の理由であったと考えられる。隣接する農林中央金庫有楽町ビルも同様に急な接収が行われた。
民主化の象徴として
 第一生命館は昭和27年7月に、農林中央金庫有楽町ビルは昭和31年2月に接収が解除され両社に返還された。
 しかし、この建物が財閥解体、農地改革、新憲法の草案などの諸政策の発信源として、戦後の民主化の象徴と認められていたことも事実である。第一生命館の返還受領式の挨拶の中で、矢野社長は次のように述べている。
「・・・第一に、この家が日本および日本人の為に、延いては更にまた世界の為に最も有効に役立つお努めをしたいということが何より欣ばしいことであります。又之は会社にとっても名誉と考えるものであります。
 第二に6年10ヶ月の長い間このビルに関して私dも何等不愉快な出来事を経験せず、終始気持ちのよい思い出のみを持ったことを喜ぶものであります。
 このビルをめぐっての美わしい話は沢山あるのであります。之は要するに所有者である第一生命と使用者であるGHQの間に頭から絶対的な強力と理解があったことによるものであると思います。(中略)・・・第一ビルが永らく歴史的な建物として人々の心に残るものである丈に、日本の為、世界の為によかったことだと思って居ります」(「」内は第一生命八十五年史より引用)

復旧・保存されたマッカーサー執務室
 本館6階には、旧第一生命館の歴史の舞台となった貴賓室、大小会議室およびマッカーサー執務室があった。これらのうちマッカーサー執務室と貴賓室は、現状を完全保存し、記念室として残すことになった。

イメージ保存の手法
 大小会議室とそれにまつわるホワイエと廊下は、要所に旧建物のデザイン要素を取り込みながら、床、壁、天井を新たに作り直してイメージ保存を行っている。(以下略)

あとは、写真共有で。


外堀から

※撮影:2023年1月


関連

東京大空襲の焼夷弾痕?を残す「永代橋」

隅田川にかかる永代橋は、関東大震災で壊滅した下町復興のために架橋されたシンボルブリッジであり、「帝都の門」とも称せられていた。

そんな永代橋に東京大空襲の痕跡が残っていると聞いたので、改めて足を運んでみた。


永代橋

隅田川の最下流に架かる「帝都の門」として大正15年12月20日竣工。
現存最古のタイドアーチ橋かつ日本で最初に径間長100 mを超えた橋。

2000年(平成12年)に清洲橋と共に土木学会の「第一回土木学会選奨土木遺産」に選定。
2007年(平成19年)6月18日、永代橋は都道府県の道路橋として初めて同じ隅田川に架かる勝鬨橋・清洲橋と共に国の重要文化財(建造物)に指定。

永代橋に用いられた重厚な鋼材は、もともと軍艦用の高級鋼材であった。
ワシントン軍縮会議によって戦艦の保有数に制限が生じ戦艦建造中止となったため、もともと戦艦用に確保していた鋼材を、永代橋に流用したものであるという。


永代橋に残る弾痕?

ちょうど真ん中あたり。アーチになっている橋梁の一部に凹みがある。
この凹みは、昭和20年3月10日の東京大空襲で焼夷弾が直撃した跡ではないかとされている。

たしかに凹んでいますね。

角度を変えて。

ぱっと見だとわからないですね、よく見ないと。

拡大。

梁の反対側にも、衝撃がわずかに残っている。

ワシントン軍縮会議で廃艦となった戦艦用の高級鋼材を用いたという永代橋。
焼夷弾が着弾しても耐え、先の東日本大震災でも影響がなかったほどの頑丈度を誇る。

いわれなければ気が付かない、焼夷弾弾痕の跡。

※撮影:2023年3月


参照

https://www.tokyo-np.co.jp/article/147492

https://minamisuna1.com/161/


東京大空襲関連

はじめに

宮内庁庁舎(旧宮内省省舎・昭和10年/1935年竣工)

年に数回、宮内庁庁舎を見る機会がある。
具体的には、新年一般参賀と 天皇誕生日一般参賀の帰路に見る機会がある。誕生日の日は午後から記帳もあり、その時にも見ることができるので、2023年2月23日の 天皇誕生日一般参賀午後の記帳に足を運んできた。(一般参賀は抽選となり気楽にいけなくなってしまった、、、)

宮内庁庁舎

かつての旧宮内省庁舎。現在は宮内庁舎として使用。
昭和10年(1935)に竣工。
戦前の宮内省は、1官房2職8寮2局13外局と京都事務所を持ち、職員6200余人を擁する巨大組織であったが、戦後は、分離独立などをして機構を縮小した。
昭和22年(1947)に宮内府となった際は、1官房3職4寮と京都事務所で、職員も1500人弱となっている。

昭和24年(1949)、宮内省は廃止され、総理府外局の宮内庁となる。
昭和27年(1952)3月に宮内庁庁舎の3階が改装され、昭和43年の新宮殿落成までの間、仮宮殿として使用されていた。
昭和27年11月10日の立太子の礼の際には、宮内庁正面玄関上のバルコニーにて、一般参賀があった。

平成13年(2001)に内閣府により、宮内庁の組織改正があり、1官房5職2部と京都事務所の体制となっている。

天皇誕生日一般参賀の記帳

以下は、2017年01月02日の撮影。

残念ながら、中に入る機会はない。。。

富士見櫓

江戸城遺構として残る唯一の三重櫓。1659(万治2)年の再建。

旧枢密院庁舎(皇宮警察本部)

大正10年(1921)に完成した枢密院庁舎。非公開。木々の隙間から建屋がほんの少しだけ垣間見ました。。。裏側、、、こちらも非公開のために近くで見るすべがない。。。

しょうじき、見れたと言えないレベルですが。。。


大手門

昭和20年4月の空襲で焼失。鯱は焼け残った。

大手門。昭和42年復元。

※2023年2月撮影


関連