「東京都‐23区副都心部(新宿,渋谷,文京,豊島)」カテゴリーアーカイブ

空襲の類焼を防いだ幸國寺の大銀杏(新宿区)

新宿区の幸國寺の大イチョウは加藤清正手植えとも伝わる銘木。
昭和の大空襲で被災しながら北側からの炎を食い止め、南への類焼を防いだと言い伝えが残る戦災樹木。


幸國寺の大銀杏

幸國寺大銀杏記録の碑から
幸國寺大銀杏は東西にあり、共に樹齢五百年の新宿区内最大の銀杏(イチョウ)の木です。
この地が加藤清正公の下屋敷の一つだったことから「清正公お手植えの大銀杏」と言い伝えられ新宿区天然記念物に指定されております。
西側の大銀杏は太平洋戦争の戦災に遭いながらも、北側からの炎に立ち塞がり南側の家屋への類焼を防ぎました。その為に傷みが激しく、大風や着雪により大きな枝がたびたび折れ、辛うじて樹形を維持していました。
平成十年には、突然緑の葉を落としはじめ異常な事態になりました。取り急ぎ専門家に、応急処置をお願いいたしましたが、体力の無い樹木のため徹底的な治療が必要と診断されました。幸い五百年の時間を失う前に、大銀杏とご縁の深い方々が「大銀杏延命施術浄財勧募」を展開し、多くの理解者、協力者と優れた技術に恵まれ危険な状態は回避することができました。
荒んだ時代になってしまった今日、ここに御志納いただいた方々のお名前を記録し、この方々の「やさしさ」が源となって「平和で人と自然が調和のとれた世界」になることを祈念いたします。
http://www.koukokuji.or.jp/about.html

西側の大銀杏

東側の大銀杏

新宿区指定天然記念物

幸國寺

山門は田安徳川家屋敷門と伝わる。

撮影:2025年1月


大和田建樹終焉の地

ちなみに近くの法身寺は、「大和田建樹終焉の地」。
鉄道唱歌の作詞で有名。
大和田建樹は、養生先の法身寺の庫裏で亡くなったという。(墓は青山霊園、生家跡は宇和島市)


関連

「陸軍砲工学校跡地」と「産業遺産情報センター」(新宿区若松)

最近、若松河田駅の近くに行くことが多い。

この記事の追記(標石を追加で見に行ったり)で、再訪していたり。
周辺を調べていたら、陸軍砲工学校の標石もあるというので、再度で訪れてみました。


陸軍砲工学校

明治22年(1889)に設置。
昭和16年(1941)に陸軍科学学校に改組。
似たような校名の陸軍砲兵工科学校(陸軍兵器学校)とは異なる。
陸軍砲工学校では、砲兵科・工兵科将校の専門教育を実施。
昭和16年(1941)に陸軍科学学校に改組。
昭和19年(1944)に閉鎖。

陸軍砲工学校は、現在の総務省第二庁舎や新宿区立余丁町小学校のあるあたりにあった。


陸軍砲工学校の境界標石

国立国際医療研究センター前バス停の近く。総務省第二庁舎の北東の角に残っている境界標石。

「陸軍省所轄地」の上部が見える。

総務省第二庁舎の北側の入口。

統計博物館もあるけど、こちらには立ち寄らず。

国立国際医療研究センター

場所

https://maps.app.goo.gl/tDmxER1fQcDMLBSv7


産業遺産情報センター

予約制の資料館
公式サイトから予約が必要

https://booking.ihic.jp/l/ja-JP

2025年2月の某日に行ってきました。せっかくので。

東側の入口から入ります。

産業遺産情報センター

館内は撮影禁止

世界文化遺産「明治日本の産業革命遺産」を全体的に紹介する施設。
幕末から明治の日本の近代化の発展の様子を、産業革命遺産の観点から展示解説。わかりやすく佳き展示。

8つのエリア、全23資産により構成される「明治日本の産業革命遺産」
【製鉄製鋼】
萩(萩反射炉、大板山たたら製鉄遺跡等)
鹿児島(集成館)
韮山(韮山反射炉)
釜石(橋野鉄鉱山・高炉跡)
八幡(八幡製鐡所)
【造船】
萩(恵美須ヶ鼻造船所跡等)
佐賀(三重津海軍所跡)
鹿児島(集成館)
長崎(小菅修船場等)
長崎(長崎造船所)
(石炭)
長崎(高島炭鉱、端島炭鉱等)
三池(三角西(旧)港)
三池(三池炭鉱、三池港)

音声ガイダンス端末を借りて、資料に接し、そうして1時間ほど、滞在。

ガイドブック

https://www.ihic.jp/l/ja-JP/guidebook

刊行物

https://www.ihic.jp/l/ja-JP/publications

https://www.japansmeijiindustrialrevolution.com/conservation/interpretation.html

ガイドブックや冊子は地味に嬉しい。

場所

https://maps.app.goo.gl/3bVKkGp8VphhfPf69

撮影:2025年2月


若松台の陸軍経理学校跡地散策(新宿区)

終戦時には小平にあった陸軍経理学校。
かつては、牛込区河田町にあり、陸軍士官学校の「市ヶ谷台」に対して、陸軍経理学校は「若松台」と呼称されていた。

そんな若松台の跡地を散策してみました。


陸軍経理学校

陸軍における経理を担当する軍人(経理官)の養成教育、あるいは経理官への上級教育を行っていた陸軍学校。教育に限らず陸軍経理に関する調査と研究なども行っていた。陸軍経理とは会計だけに限らず、監査、被服、糧秣、建築も職務に含まれていた。

明治19年(1886)に陸軍軍吏学舎が設置されたことに始まる。
明治23年(1890)に陸軍軍吏学舎を廃止、陸軍経理学校を開校。
明治33年(1900)に「陸軍経理学校本校」を東京市牛込区河田町に移転。陸軍士官学校の「市谷台」に対して、陸軍経理学校は「若松台」の愛称で呼称されることとなる。
昭和17年(1942)3月、陸軍経理学校は戦争による生徒、学生、幹部候補生等の人員増加のため、東京府北多摩郡小平村に移転。昭和20年8月の敗戦により閉校。

  • 市谷台 市ヶ谷:座間に移転する前の陸軍士官学校(本科・予科)
  • 相武台 座間:陸軍士官学校(陸士)
  • 修武台 所沢:航空士官学校(航士)
  • 振武台 朝霞:陸軍予科士官学校(予士)
  • 若松台 若松:陸軍経理学校
  • 健武台 八王子:東京陸軍幼年学校(東幼)

小平の陸軍経理学校

陸軍経理学校「若松神社」

陸軍経理学校生徒隊慰霊碑

https://maps.app.goo.gl/S4v4fQaUiLFFsACN8


若松台の陸軍経理学校跡地の散策

東京女子医大前に跡地の記念碑がある。
この界隈は、戦前は、成城学校、陸軍振武学校、陸軍経理学校などがあり、戦後は、都営若松アパート、東京韓国学校、東京女子医大学校となってきた。成城学校はいまもある。


陸軍経理学校跡碑(東京女子医大)

陸軍経理学校跡

若松台と称し、明治33年(1900)年から昭和17年(1942)年に、多摩・小平へ移転するまで経理部将校を養成した。

平成22年12月吉日
同窓会 若松会 建之

女子医大通り

東京女子医科大学の創設者は吉岡彌生。昭和5年(1930)に東京女子医科大学病院1号館が建設された。平成28年(2016)に解体。

場所

https://maps.app.goo.gl/S4v4fQaUiLFFsACN8


陸軍経理学校の境界壁跡と境界標石(水野原児童遊園付近)

東京女子医科大学の北側の住宅地に、陸軍経理学校時代の境界壁の残骸が残っている。
再開発もあり、すでに一部は撤去されてしまっている。

下記は2024年5月の様子。

下記は2025年1月の様子。ビルが新築され、煉瓦壁は除去された。

陸軍の境界標とおもわれる標石。

もう一個、あった。こちらも陸軍境界標石と思われる。

ぼちぼち、新築ビルが完成する。

場所はこのあたり

https://maps.app.goo.gl/G7bJe2BJndmCwzv46


陸軍経理学校の境界標石(日生薬局牛込店前)

X(Twitter)のフォロワー『遺構』散歩 カントさん(@6s8U7cYM1hiROXY)から、教えていただきました。

さっそく、見に行ってみましたので追記。

高さに違和感がないのが不思議。なんで飛び出ていないのだろうか。。。

場所

https://maps.app.goo.gl/v2BG1fKqrURcUWa96


若松町の陸軍境界標石(若松河田駅前)

若松河田駅の「若松口」のすぐ近く。

同じく、X(Twitter)のフォロワー『遺構』散歩 カントさん(@6s8U7cYM1hiROXY)から、教えていただきました。

こちらも足を運んでみました。

標石の隣の自販機が目印。

ビルの東側にも標石がある。

今昔マップon the webから抜粋

https://ktgis.net/kjmapw/kjmapw.html?lat=35.700688&lng=139.718118&zoom=17&dataset=tokyo50&age=2&screen=2&scr1tile=k_cj4&scr2tile=k_cj4&scr3tile=k_cj4&scr4tile=k_cj4&mapOpacity=10&overGSItile=no&altitudeOpacity=2

場所的には、経理学校に近いけど、道を挟んだ反対側。なんの境界標か、ちょっと悩ましい。移転してる?

どうやら「牛込憲兵分隊」の陸軍境界標石らしいです。
コメントにて、ご教授頂きました

場所

https://maps.app.goo.gl/Q7h61t6rmKa2PeL16


小笠原伯爵邸
(昭和2年造・東京都選定歴史的建造物)

若松河田駅の近くには「小笠原伯爵邸」がある。東京都選定歴史的建造物。
旧小倉藩の華族小笠原長幹伯爵邸。1927年(昭和2年)建立。
スペイン風邸宅、スパニッシュ様式で鉄筋コンクリート造の地上2階、地下1階建て。
もともとは江戸時代の小笠原小倉藩下屋敷跡。
戦後1948年(昭和23年)に米軍に接収。4年後に東京都に返還。
1975年(昭和50年)まで東京都福祉保健局中央児童相談所として使用されたが、その後は放置。
2000年(平成12年)に東京都生活文化局から民間貸出となり、現在のレストラン「小笠原伯爵邸」としてオープンし、今日に至っている。

小笠原長幹は小笠原宗家30代当主。
信濃小笠原氏は5つの藩に別れた譜代大名であり、信濃小笠原氏のうち府中小笠原氏の流れをくむ旧小倉藩の小笠原宗家は伯爵家。(小笠原伯爵家)
そのほかの小笠原家は子爵家。
府中小笠原氏として、安志小笠原子爵家・千束小笠原子爵家・唐津小笠原子爵家。
松尾小笠原氏として、勝山小笠原子爵家。

ちなみに唐津小笠原子爵家の小笠原長生は海軍中将として著名。

https://senseki-kikou.net/?p=39525

場所

https://maps.app.goo.gl/QjjwQca2TvcARzvF7


若松河田駅

若松町と河田駅の複合地名駅。

場所的には、若松町。
陸軍経理学校は、若松台と呼称されていた。

ちかくには、成城学校もある。
創立当初は陸軍士官学校・陸軍幼年学校への全寮制予備校であった。

※撮影:2024年5月及び2025年1月


関連

陸軍経理学校生徒隊慰霊碑

磯部浅一は、経理学校出身だった。(もちろん小平に移転する前に卒業しているが)

海軍経理学校

「苦しいのは息が止まるまでよ…」山の手大空襲の慰霊観音菩薩(早稲田喜久井町・感通寺)

早稲田大学の早稲田の隣町、喜久井町。
昭和20年5月25日の「山の手空襲」では、早稲田喜久井町の防空壕が被災し300余名が亡くなったという。
合掌。


山の手大空襲

東京は昭和19年以降、100回以上に及ぶ空襲を受けてきた。
昭和20年3月10日に東京下町を襲った空襲では死者は10万人を超え、罹災者も100万人を超えており、1回の空襲としては、世界史上に例を見ない規模として「東京大空襲」と称されれているが、その他にも多くの空襲があった。

昭和20年5月25日、空襲警報発令22時22分。
山の手地域に470機ものB‐29が襲来した空襲では、死者3600余人、罹災者は約56万人、焼失16万6千戸にも及び、国会議事堂周辺や東京駅も被災。皇居も被災し 昭和天皇・香淳皇后は御文庫に避難、皇居内の明治宮殿は、この空襲で焼失。

東京地方では、2番目の被災規模であり「山の手大空襲」と称されている。
なお、3月10日の下町を襲った東京大空襲で襲来したB-29は325機であり、山の手大空襲で襲来したB-29の470機は東京大空襲以上であった。

米軍は、昭和20年5月25日の「山の手大空襲」でもって、東京の市街地はほぼ壊滅したと判断し、この日以降、東京への大規模な空襲は終了した。
まさに、東京に止めを刺した空襲が、この「山の手大空襲」であった。

上記の記事は、原宿表参道。
山の手空襲は、東京の市街地各所に爪痕を残している。

早稲田大学の周辺でも大きな被害があった。


喜久井町観音・喜久井町慰霊園

第二次世界大戦の空襲により喜久井町の防空壕で亡なられた方の供養のために建立。
「日米彼我戦歿之諸英霊・町内戦災殉難之諸精霊・当寺戦死病没之諸英霊・鎮魂供養」

建立縁起
昭和20年5月25日当町ヲ含メテ山手地区ハ米軍ノ空襲ヲ蒙リ悉皆灰燼ニ帰セリ酸鼻ノ状タル死屍累々トシテ巷ニ倒レ残月白骨ヲ照シ遂ニ惨害シテ異物ト為スノ観ナリキ。殊ニ夏目坂台地ヨリ早稲田通リ向ケL字型構築セル地下壕ノ中ニ避難ノ人々ハ爆撃炎上焔ト瓦斯ノタメ犠牲者参百余名ヲコエタリト。親ハ愛児ヲ抱キ、若キハ老タルヲ庇イ、夫ハ妻ヲ助ケント為シタル等、或ハ全身大焼炭化シ、或ハ生ケルガ如ク直立シ、或ハ両手ヲ虚空ニシテ落命セル等、目ヲ蔽イ言ヲ失フ恐怖地獄ノ惨状ナリキ。惨害無残非命ニ倒レシ犠牲ヲ念ストキ人皆歔欷シ或ハ慟哭シ、心折レテ生事ヲ悲シムノミナリ。屍ヲ積ンデ草木腥ク流血ハ瓦礫ヲ染メテ声ナシ、マコトニ国破レテ山河アリ、魂魄招ケドモ再ビ来ラズノ感慨ヲ深カラシム、ココニ春風秋雨メグリテ三十三年ノ歳月ヲ閲ミシ漸クニシテ観世音菩薩一体ヲ造立シ奉ルコトヲ得タリ、願クバ日米彼我戦歿之諸英霊・町内戦災殉難之諸精霊・当寺戦死病没之諸英霊・鎮魂供養ノタメナリ。今ヤ一会ノ大衆ト供ニ梵唄誦経修スル所ノ秘妙五段ノ加持ヲ以テ観世音菩薩御尊像開眼供養ノ法儀ヲ営ナミ、仰而喜久井町観音ト名ケ奉ル者也、造立シ奉ル喜久井町観音、ソノ妙智之力ハ能ク群生ノ苦厄ヲ救イ、十方諸々ノ国土ニ於テ身ヲ現ゼザルナク、克ク生老病死ノ苦ヲ減ジ常ニ苦悩諸厄ニ於テ依怙トナラセ給ハン事ヲ。
 昭和52年5月25日 
  造立願主感通寺二十卋伝灯新間日恵

町慰霊園
「苦しいのは息が止まるまでよ。もう少し我慢するのよ!!」と子供を抱えて震える私の手も肉もやけどでじんじん落ちていきます。 
 成願寺報五五号抜粋
昭和20年5月25日米軍山之手地区空襲の一般庶民の残状だった。
58年余を経て今日それも忘却のかなたに去ろうとしている。後の私達は歴史として伝え継いでいかねばならない務めがあると痛感し平成16年5月25日・当山に於て前大戦で亡くなられた人々の供養の為に慰霊園を作庭し名を刻し永遠に町会員と共に現在も生きて在しますことを顕すものである。
 伝燈二十一卋日良記す

上記のエピソードは、中野の成願寺の住職が記録したエピソード。

https://www.nakanojouganji.jp/backno/schugaku1.htm

さざれ石

さざれ石
第二次世界大戦が終了し戦勝国も敗戦国も、そして人々も戦争は、つくづく懲りたはずなのに、その後も全世界各地で愚かな争いを繰り返しています。
正義の為と称し、民族、宗教その他あらゆる理屈付けのもとに戦い、地獄の様相を現じております。佛様のお説きになる平和で争いのない、互いに尊重しあう浄佛国土は、いつになったら顕われるのでしょうか。
この人類平和の願いが古来より、「さざれ石」に願いを託して永く伝えられてきました。
国歌に詠まれているごとく「千代に八千代」の年月を経て「さざれ石の巌」となり「苔のむす」と云う、団結と繁栄、平和と長壽を象徴した石であります。
特にこの石は「都園」から寄贈を受け、昭和四十五年に開催された大阪万博博覧会での日本館に展示されていたと云うものです。
 感通寺 二十一世 新間 日良
  平成十六年五月二十五日
この石は、学名を石灰質角礫岩 と云います。
石灰岩が雨水に溶解して粘着力の強い乳状体となり、地下に大粒の石、小粒の石を集結して次第に大きくなったものであります。


感通寺

東京都新宿区喜久井町に鎮座する日蓮宗の寺院。
本妙⼭高田感通寺。
松平越後守(越後高田藩)の下屋敷高田御殿跡でもある。

https://www.kantsuji.tokyo/

お寺犬の、すばるちゃん。

切り絵御朱印が人気。

※2024年5月撮影

場所

https://maps.app.goo.gl/TD3Z2qbegsC8mvZh6


喜久井町戦災者供養観音像
(早稲田大学喜久井町キャンパス)

早稲田大学・喜久井町キャンパス(理工学術総合研究所)

戦時中、早稲田大学喜久井キャンパスの研究所地下には防空壕があった。
空襲に際して周辺住民と学生などが避難していた防空壕も被災し300余名が亡くなったという。

戦災者供養観音像建立の由来
 第二次世界大戦の終局も近い昭和二十年五月二十五日(1945年)米軍の東京空襲は、山手地区の多くを焼土と化した。
 理工学研究所も建物のほとんどが焼失し、とりわけ研究所敷地地下に作られた防空壕に避難した学生数名と、近隣の人々あわせて三百余名が火焔と煙に包まれて、悲しくも尊い犠牲となった。
 昭和三十年五月罹災十周年を迎えるにあたりこれらの人々の霊を慰め、永遠の 平和を祈願するため本観音像を建立した。
 昭和五十八年三月  
 観音像製作者 二紀会 永野隆業氏
 早稲田大学理工学研究所

※2020年1月

場所

https://maps.app.goo.gl/s2dL9MxALuiQEPsY9


関連

「連合国民抑留所(敵性外国人抑留所)」であった聖母病院(新宿区中落合)

昭和6年に建造された病院は、空襲をくぐり抜け、連合国民抑留所として活用され終戦を迎えている。
そして、現在、東京都選定歴史的建造物に指定されている。


聖母病院

昭和6年、「国際聖母病院」として開院。
昭和18年、戦時下により「国際」を外して「聖母病院」と改称。
昭和20年4月13日の夜にB29による爆撃を受けるも、類焼を防ぎ無事を保つ。

昭和20年5月27日の山の手空襲で、小石川区関口台(文京区)にあった抑留所=関口台の天主公教会(現在の東京カテドラル聖マリア大聖堂・カトリック関口教会)が全焼し、連合国民抑留者=敵性外国人抑留者(宣教師や修道女など女子36名であったという)は、新宿区の聖母病院に移動。
ジュネーブ条約を準用した「敵国人の身柄保護」は、戦争末期には画餅と化してしまっていたが、それでも敵国人抑留政策は終戦までギリギリの状態で実施されていた。

そして、そのまま聖母病院は、「連合国民抑留所」として終戦を迎える。

東京都選定歴史的建造物
聖母病院
所在地 新宿区中落合2丁目5番1号
設計者 マックス・ヒンデル
建設年 昭和6年(1931)
 昭和6年(1931)にキリスト教の精神に基づき開院した国際病院で、上智大学などを手がけたスイス仁の建築家マックス・ヒンデルにより設計された鉄筋コンクリート造3階建ての建物である。
 うす茶色のタイル張りの外壁と、L字型の建物中央の頂部にある銅板葺き屋根の2つの塔が特徴となってる。縦長の窓が配置されるが、3階部分は上部をアーチ型にして変化をつけている。入隅に局面を用い、軒の小庇や窓台で水平線を強調するなどの点は、当時流行したデザインである。
 建物の全面には新宿区保護樹木のヒマラヤ杉の大木が立ち、壁面の茶色と調和した景観を形づくっている。平成15年(2003)新病棟の改築に伴い、本館の外観を当初に復元した。
 東京都生活文化局


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M606-48
昭和22年(1947年)10月27日、米軍撮影の航空写真。

聖母病院部分を抜粋

L字型の建屋がそのまま残っているのがわかる。

Google EARTHより

※撮影 2023年7月

場所

https://maps.app.goo.gl/P4BSc396NkD6EJBQ6


資料

新宿区立図書館
 > 新宿区内の戦跡紹介 – 東京 より

https://www.library.shinjuku.tokyo.jp/lib/files/libimg1594939155.pdf

戦後、救援物資の直撃で死者がでているのが、やるせない、、、

●聖母病院(中落合 中落合2-5-1)
カトリックの病院である聖母病院ですが、昭和20年4月13日の夜にB29による爆撃を受けました。 病院の前庭や屋上にも焼夷弾が落ちましたが、その時残っていた神父をはじめとする2、3人の男性と看護婦やシスター達だけで懸命の消火をしました。周囲は火の海で、大きな火の粉が空高く舞い上がって病院の構内に降り注いできました。病院の建物へ炎が燃え移らないようにと皆で番をし、一夜が明けて 無事に残った病院を眺めると煙と水に汚れた塔がそびえていたそうです。 終戦後、聖母病院に外国人の抑留者がいたため、米軍の飛行機から救援物資の投下がありました。 ただ残念なことに、この食料投下はパラシュートを付けたドラム缶だったこともあり、直撃して亡くなった人が3名いたのです。
平成15年(2003)新病棟の改築に伴い、本館の外観が当初に復元されました。
 東京都選定歴史的建造物

昭和館デジタルアーカイブ
 > 捕虜収容所と空襲跡(空撮) より

https://search.showakan.go.jp/search/photo/detail.php?id=90076852

https://search.showakan.go.jp/search/photo/detail.php?id=90076853

屋上にある「PW」とは、「Prisoners of War」=「戦争捕虜」のこと。「POW」とも略する。
下記は、上記サイトからの画像引用


東京新聞20240214
 > 3500人が命を失った…戦時中の「捕虜収容所」の実態に迫った事典を出版 市民団体が20年かけ全国調査

https://www.tokyo-np.co.jp/article/309044

下記は、上記サイトからの画像引用

お茶の水女子大学教育・研究成果コレクション
 > 太平洋戦争下の「敵国人」抑留‐日本国内に在住した英米系外国人の抑留について‐小宮まゆみ氏

https://teapot.lib.ocha.ac.jp/record/33986/files/KJ00004470995.pdf


再設置された「近衛歩兵第四聯隊跡碑」「近衛歩兵第六聯隊跡碑」(都立明治公園)

1964年(昭和39年)に開園した「都立明治公園」。新しい国立競技場の建設に伴う再整備で閉鎖のうえで再整備されていたが、2023年10月に一部開園し、2024年1月に全面開園を果たした。
以前より、公園内にあった「記念碑」の扱いが気になっていたが、新設「明治公園」でも再設置されることになり、ようやくに見学できた次第。


青山練兵場跡地

国立競技場や明治神宮外苑のある一体は、もともと「青山練兵場」であった。

大正元年(1912)9月13日、 明治天皇崩御による「大喪の礼」が青山練兵場で執り行われた。
大正15年(1926)に、青山練兵場の葬場殿跡地に、「聖徳記念絵画館」を中心とする「明治神宮外苑」が完成。
大正13年(1924)に完成していた「明治神宮外苑競技場」では、戦時中に「学徒出陣壮行会式典」が行われている。


近衛師団と近衛聯隊

最精鋭かつ最古参の部隊として天皇と宮城(皇居)を警衛する「禁闕守護」の責を果たし、また儀仗部隊として「鳳輦供奉」の任にもあたった。
昭和18年に従来の近衛師団を「近衛第一師団」「近衛第二師団」とし、昭和19年に「近衛第三師団」を新設。
近衛第一師団
 近衛歩兵第一聯隊 東京 北の丸 皇居警備
 近衛歩兵第二聯隊 東京 北の丸 皇居警備
 近衛歩兵第六聯隊 東京 北青山 大宮御所警備 ※本記事
 近衛歩兵第七聯隊 東京 麻布台
近衛第二師団
 近衛歩兵第三聯隊 東京 赤坂台 スマトラ島に展開
 近衛歩兵第四聯隊 東京 北青山 スマトラ島に展開 ※本記事
 近衛歩兵第五聯隊 東京 麻布台 スマトラ島に展開
近衛第三師団
 近衛歩兵第八聯隊 東京 成東 九十九里浜防御陣地構築 
 近衛歩兵第九聯隊 甲府 成東 九十九里浜防御陣地構築 
 近衛歩兵第十聯隊 佐倉 成東 九十九里浜防御陣地構築  

近衛連隊では、以下の記念碑を確認。

「北の丸」
近衛歩兵第一聯隊(近歩一)
近衛歩兵第二聯隊

「赤坂台(銀杏ヶ丘)」
近衛歩兵第三聯隊
「麻布台」
近衛歩兵第五聯隊
近衛歩兵第七聯隊


近衛歩兵第四聯隊跡碑

明治19年(1886年)第一大隊、翌年に第二大隊が編成。
日清、日露、大東亜戦争に従軍。
大東亜戦争では、マレー作戦、スマトラ平定作戦に参戦。

近衛歩兵第四聯隊跡

近衛歩兵第四聯隊は、明治30年5月24日 明治天皇から軍旗を親授されて創設された。
大東亜戦争後、聯隊出身者からなる錦紫会会員一同相計り相資し遺跡を永久に記念してこの碑をこの地に建立して東京都に寄贈する。
 昭和40年5月 
  錦紫会有志


近衛歩兵第六聯隊跡碑

昭和18年(1943)に青山北の近衛第四聯隊兵営において新設。
近衛第一師団に編入。

近衛歩兵第六聯隊跡

 近衛歩兵第六聯隊は大東亜戦争の戦局急を告げる昭和18年の5月14日臨時編成を下令され同年6月はじめ竹橋において近衛歩兵第一聯隊第三大隊を中心に全国からの選抜将兵を以て編成された。
 聯隊は同年6月28日以降この青山に駐とんし将兵三千、日夜武を練り禁閥守護と首都の防衛に任じつつ大戦に参加しこの地において終戦を迎えた。
 昭和46年2月11日
  元近衛歩兵第六聯隊有志一同


馬頭観世音

馬頭観世音
 昭和庚午年春吉日

昭和庚午は、昭和5年。


東京都立明治公園

2023年10月31日開園。
千駄ヶ谷駅と外苑前駅のほぼ中間地点、国立競技場のすぐ南に広がる公園。外苑西通りに面している。
東京都初のPark-PFI(公園の整備を行う民間の事業者を公募し選定する制度)を活用した公園。

記念碑は、「誇りの杜」にある。

国立競技場

※撮影2024年2月


東郷神社で海軍ゆかりの戦跡散策

元帥海軍大将 東郷平八郎 を祀る東郷神社。
海軍ゆかりの史跡戦跡を求めて、境内を散策してみました。


東郷神社関連の記事

以下も参照で。いろいろ記事が重複しますが。


第一駆逐隊奉納の大燈籠

第一駆逐隊に所属した戦没者を慰霊するために奉納された大灯籠。
東郷神社の参道に。

第一駆逐隊
第一駆逐隊は日露戦争直前の明治三十六年(一九〇三年)我国最初の駆逐隊として編成され 日露戦争に参加ののち 大正九年迄艦隊第一線で活躍後 一旦 解隊された  大正十一年(一九二二年)改めて第一駆逐隊が野風 沼風で編成され 続いて波風 神風が加わり 昭和初期まで 聨合艦隊の新鋭駆逐隊として活躍した その後は主に大湊(むつ市)を基地としてオホーツク海及び千島列島 カムチャッカ半島沿岸の漁業保護に尽力その発展に大きな力となった  大東亜戦争では北はアッツ キスカ方面から南は印度洋ジャワ方面まで幾多の戦闘に参加 野風 沼風は勇戦空しく沈没したものの神風 波風は一部損傷を受けたが最期迄戦い抜き 神風はシンガポールにおいて 波風は瀬戸内海で終戦を迎えた この間渡辺保正司令 山下喜義沼風艦長外五百四十名の方々が国に殉じられた この燈篭は青春を国に捧げ 若くして戦に殉じた勇敢な戦友と 最後まで海上で戦い抜き 戦後の復興に尽力 物故した乗員の霊を慰め 我が国永遠の平和を念願して 駆逐艦神風会が 駆逐艦波風会有志及び司令各艦乗員御遺族ならびに この主旨に賛同の方々の協力をえて建立 奉納したものである
 昭和六十二年六月二十日  
  駆逐艦神風会

第一駆逐隊

駆逐艦
神風 
野風 
波風 
沼風

昭和六十二年六月吉日 
奉納 
第一駆逐隊

昭和六十二年六月吉日 
奉納 
神風会


水交神社鳥居

東郷神社の庭園に移築保存されている。
水交社の後進にあたる水交会の本部は、東郷会館にあった。

水交神社鳥居の由来
この鳥居は、もと築地・海軍用地(現在の東京中央卸売市場)の水交社敷地内にあった水交神社の二代目の鳥居です。 水交神社は、日清戦争に際し、海軍の戦勝を祈願し全国から寄せられた神符・護符を奉安し、また同戦役以後の戦没社員の霊を合祀するため創建された神社で、その初代の鳥居は戦利品の魚雷で作った異形のものであったため、明治四十四年に神明鳥居に建替えられました。 水交神社とその鳥居は、関東大震災の災禍をまぬがれ、昭和三年に水交社が芝区栄町(現在の東京タワー北西隣)に移転した際、同地に遷座されました。その后社殿は昭和二十年三月の東京大空襲で焼失しましたが、この鳥居だけは毀損をまぬかれました。しかし戦後、東京水交社の建物と共に進駐軍に接収され、その後曲折を経て昭和五十六年、同地に新しくビルが建てられることになったので、鳥居は(財)水交会に返還され、同年六月十五日、由縁深い東郷神社へ奉納されたものであります。 この鳥居は、半世紀もの間、変転する日本海軍を見つめつづけ、二度の大災禍にも堪えてきたものであります。そして皇族方や海軍大臣以下多くの武官文官、また水交神社で結婚式を挙げた方など、この鳥居をくぐった人々は数えきれません。
  以上

水交神社鳥居は、築地の水交社にあった明治44年造の二代目鳥居。
昭和3年に水交社とともに芝に移転。
その後は東京水交社とともに進駐軍に接収され、昭和56年に現在の(財)水交会に返還。
同年に東郷神社に奉納された。
この鳥居は日本海軍の栄光と苦難をともに歩んできた往時を知る貴重な鳥居。

水交社

明治四十四年十月建之


東郷元帥を讃える歌の歌碑

東郷元帥を讃える歌
「天地日月のむた大き洋の大きいさをは輝きとほる」
佐佐木 信綱


大正12年に開設された我が国初の公園墓地多磨霊園名誉霊域開設時、最初に葬られたのが東郷元帥。
霊園表門を入って直ぐのところに佐佐木信綱氏の東郷元帥を讃える歌の歌碑が建っていました。
元帥国葬から約1年の間、大森すみ子氏が墓守をしており、師事していた歌人佐佐木信綱氏に染筆を願い、昭和14年に建立したものです。
多磨霊園休憩所大森茶屋の大森和夫氏(大森すみ子氏の御令孫)より令和2年12月東郷神社に奉納されました。

こは東郷元帥を偲ひまつりて
 佐佐木信綱博士の詠せられしを博士に染筆を請ひたるなり
  昭和14年 大森すみ子誌


手水・洗心

洗心
 野村直邦謹書

野村直邦は、海軍大将。東郷内閣末期の海軍大臣(嶋田繁太郎の後任)であったが、就任の翌日に東郷内閣は退陣。後継の小磯内閣では米内光政が海軍大臣となったため、野村は合計6日間のみの海軍大臣であった。

瀬戸海のもづくの
幸のめでたさを祈り
祝ひて水屋捧げむ
 廣島縣 倉橋堀榮助

食糧難に際して、モズクの採取で貢献したという倉橋の堀榮助。


海軍経理学校正門敷石

東郷神社の手水舎の前に移設された旧海軍経理学校の正門敷石。

御水舎の前の敷石は 海軍經理學校正門の敷石として使用されたものであります

海軍經理學校正門敷石
海軍經理學校の沿革
 明治七年十月、芝山内天神谷に設けられた海軍會計學舎は幾度かその名稱を変え明治四十年に海軍經理學校となった。  この間校舎も数度位置を変えて、明治二十一年に築地の松平樂翁公邸の浴恩園跡に移り、更に昭和七年同じ築地の隅田河畔(現在の勝鬨橋右岸)に移築された。  昭和二十年九月、七十一年間の歴史を閉じるまでの同校出身者は一萬名を超え海軍主計科の基幹要員として海軍戦力の一翼を担い輝かしい功績を挙げた。その間諸戦役事変に際會して國に殉じた者も数多く、又軍務を離れても各界各方面で活躍し我が國の興隆發展に多大の貢献そしている。
 昭和五十五年五月  
  浴恩會(海軍經理學校同窓會)


海軍特年兵之碑

海軍特別年少兵(特年兵、14歳からの志願兵)の碑。
昭和46年5月16日、高松宮同妃殿下の御台臨を仰いで除幕式が挙行された。

海軍特年兵之碑

昭和の白虎隊
海軍特年兵の説明が碑の裏側に記されています
是非御覧下さい
 海軍特年会

香淳皇后御歌
 やすらかに
  ねむれとぞ思ふ
 君のため
 いのちささげ志
  ますらをのとも

あゝ特年兵
  作詞 山口純
  作曲 三島秀記
時代はどんなに変わっても
胸にながれる 魂は
いついつまでも 咲き香る
真実の平和を 祈りつゝ
燃えた生命よ あゝ 特年兵

戦争のこわさも その意味も
知らないまゝで 童顔に
お国のため の 合言葉
一ずに抱きしめ 散った花
十四才の あゝ 夢哀し

海軍特年兵
 あゝ十四才 大日本帝国海軍史上 最年少の勇士である 少年兵より更に二才も若く しかも特例に基ずいたものであつたため 特別年少兵 特例年令兵の名があり 特年兵と略称された
 昭和十六年 帝国海軍はその基幹となるべき中堅幹部の養成を目的にこれを創設した
 太平洋戦争の時局下に 純真無垢の児童らが一途な愛国心に燃えて祖国の急に馳せ参じた その数は十七年の一期生三千二百名をはじめ 二期生約一万七千二百名におよんだ 横須賀 呉 佐世保 舞鶴の四鎮守府に配属されて活躍した 戦場での健気な勇戦奮闘ぶりは 昭和の白虎隊と評価された だが反面 幼いだけに犠牲者も多く 五千余名が 南溟に或は北辺の海に短い生命を散らした しかし 特年兵の存在は戦後 歴史から忘れられていたため 長い間 幻の白虎隊という数奇な運命をたどつていた このままでは幼くして散つた還えらぬ友が余りにも可哀想であり その救国の赤誠と犠牲的精神は 日本国民の心に永遠に留め 讃えねばならない 英霊の声に呼び覚まされたかの如く 二十五回目の終戦記念日を迎え
た四十五年 俄に特年兵戦没者慰霊碑建立運動が高まつた 戦火は消えて二十六年の長い歳月の後に 多くの人たちのご協力によつて碑が こゝ東郷神社の聖域に建立されるに至つた そして幻の
特年兵はようやく蘇つた そのうえ 特年兵たちが 国の母と崇めた皇后陛下の御歌を碑に賜わり母と子の対面の象徴として表わしこゝに刻む
 除幕式には 特年兵にもゆかりの深い高松宮両殿下の御台臨を仰ぐ栄誉に浴した また 全国の生存者が亡き友の冥福を祈るため それぞれ各県の石四十七個を持ち寄り 碑の礎に散りばめた
 吾々は 今は還えらぬ幼い戦友の霊を慰め 永遠に安らぎ鎮まらむことを願うと共に 特年兵を顕彰し その真心と功績を後世に伝え 祖国繁栄世界平和を祈願しながら尽力することをこゝに誓う
 昭和四十六年五月十六日
  海軍特年兵生存者一同
  建立委員長小塙清春撰文謹書

碑銘 揮毫 
昭和四十六年五月十六日  
元 海軍大臣 海軍大将 野村直邦敬書

こちらも野村さんの揮毫でした。


東郷蔵

東郷蔵由来
昭和20年5月の戦災に依り麹町三番町の東郷邸も土蔵一棟を残して一切焼失しました。同23年5月麹町区はこの土蔵を東郷神社境内に移築して30数年が経過し損傷も激しくなったので元帥の50年祭に当り従前の蔵の姿を模して少し大きく不燃建物にて新築した記念の蔵です。
 昭和59年5月28日 社務所


潜水艦殉国碑(伊33潜潜望鏡)

太平洋戦争中に亡くなられた全ての潜水艦関係者の英霊を慰霊する。
殉国の碑。
潜水艦横断面を型どった碑の司令塔部分には、伊号33の潜望鏡が取り付けられている。

殉國

潜水艦勇士に捧ぐ
 太平洋戦争中百二十餘隻の潜水艦と共に戰没された一万餘人の乗員諸君 特殊潜航艇及び 回天決死隊諸君 また諸公試 演練に殉難された諸君 諸君の遺骨は海底深く沈んで之を回収 する途がない
しかし それは国難に赴いた諸君の忠誠が そのまま其戰場に在ることを意味する 民族の急 を救うべく戰った犠牲の精神は永えに其処に活きている 
 残された潜水艦関係の吾等は個人と法人と併せて幾千常に諸君の英霊の坐する海底を見 つめている 願わくは日本国民の全部も ありし日の諸君の勇姿と奮戰激闘の光景と護国の 屍となった戰場とを緬想して敬弔の誠を伸ぶると共に 祖国再興の心の糧とすることを祈願し て巳まない
 茲に曽て戰友潜水艦建造関係者外有志一同相計り小碑を東郷神社の靈域に建立して諸君不滅の忠魂に捧ぐ
 昭和三十三年五月二十五日

搭載用 魚雷模型
旧海軍館(平成四年解体)の庭にあったもので実物に似せてあるが寸法は実魚雷より小さい。
実魚雷の寸法
 巡洋艦・駆逐艦用 径61㎝ 長さ8.5m
 潜水艦用 径53㎝ 長さ7.2m
 航空機用 径45㎝ 長さ5.7m

伊33潜はトラック島で事故のため沈没、呉で修理後の昭和19年、伊予灘で訓練中再び沈没。
昭和28年に引き揚げられた。


東郷神社の狛犬(獅子)

東郷神社の狛犬は、獅子(ライオン)でいわゆる狛犬とは違う。
1921(大正10)年、彫刻家 新海 竹太郎 (1868-1927)により東京築地の国立がんセンター(東京築地の海軍大学校の敷地)の所に建っていた「有栖川宮威仁親王の御銅像」の台座の四隅にあったもの。

戦災を免れた後、高松宮殿下から東郷神社に下賜された歴史ある獅子。
ちなみに、1984(昭和59)年、「有栖川宮威仁親王像」本体は福島県の猪苗代湖畔にある有栖川宮威仁親王ゆかりの別荘「天鏡閣」に移設されている。

庭園と潜水艦殉国碑に、4体ある。


東郷神社

東郷神社周辺や東郷会館は2020年頃に大幅にリニューアルした。(東郷会館は2022年再開)

由緒

https://togojinja.or.jp/gosaijin

東郷神社由緒沿革


海の宮

奉斎の趣
神を敬い、祖先を祟び、先覚を敬慕してその霊を祀ることは、わが国古来の美風であります。
東郷神社におきましては、敬神・崇祖の信仰厚い人々と共に、その精神を実践するため、昭和四七年に境内霊社「海の宮」を創建、御斎神として海軍・海事・水産関係者また崇敬者の諸霊を合祀奉斎しております


砲弾

詳細不明。御祭神ゆかりのものだろうか?


東郷神社回廊絵画

御祭神である東郷平八郎命の一生がわかる絵画


御神木

北参道にご神木がある。


水交会

ちかくには、「水交会」がある。

水交会に関しては、下記にて。


※撮影:20210527および20230528

東郷神社例祭(令和5年5月28日)

2023年(令和5年)5月28日。
東郷神社例祭(式年大祭)

御祭神(東郷平八郎命)が、日露戦争で輝かしい功績を残された日で、東郷神社において最も大きな祭典。

118年前の今日、日本海海戦で東郷平八郎の連合艦隊が勝利を確定させた日。


日本海海戦

1905年(明治38年)5月27日
「日本海海戦」
東郷平八郎の旗艦三笠をはじめとする連合艦隊が対馬沖にてバルチック艦隊と海戦が勃発。


海軍記念日(5月27日)

1905年(明治38年)5月27日に行われた日本海海戦を記念して制定。1945年(昭和20年)を最後に、日本の太平洋戦争敗戦により廃止された。


5月28日

1905年(明治38年)5月28日。
ロシア戦艦・バルチック艦隊旗艦「ニコライ1世」の降伏により日本海海戦は終了し日本の勝利が確定した。


東郷神社例祭(式年大祭)

5月28日祭行

足を運んでみました。

東郷神社例大祭
5月28日 11時斎行

強運御守を戴きました。
毎月1日、5/28、5/30、12/22のみの限定頒布です。

世界の海軍史にその名を残した御祭神等郷平八郎命。
多くの苦難や困難を強靭な意思とその強運で乗り越えてきました。
東郷平八郎命には、様々な強運話があります。
左記のような話がありました。
海軍大臣山本権兵衛は、明治天皇に東郷平八郎命を連合艦隊司令長官に推薦した理由として、
「東郷平八郎は、運のいい男です」
と奏上した逸話があります。
御祭神等郷平八郎芽命の強運にあやかった御守です。

強運御守

東郷元帥の強運にあやかりたく。

御朱印も戴きました。

令和5年5月限定の御朱印だそうです。
Z旗ですね!

「皇國ノ興廢此ノ一戰ニ在リ、各員一層奮勵努力セヨ」

東郷神社の戦跡散策は別記事を予定

※2023年5月28日撮影


関連

東京砲兵工廠の煉瓦遺構?(小石川)

文京区の後楽園周辺は、かつて軍需施設であった。
その界隈の散策は以前に以下の記事でまとめた。

戦後は、東京都戦没者霊苑も設置された。

東京都戦没者霊苑

軍需施設は、戦後は、「小石川後楽園」や「東京ドーム」「文京区立礫川公園」「中央大学後楽園キャンパス」などに活用されている。

小石川(住所は春日であるが)に、以前散策したときには見逃した煉瓦遺構があると耳にしたので、足を運んでみました。

2022年12月の写真となりますので、現状は不明です。


煉瓦遺構(小石川税務署裏)

小石川税務署の裏手の後方に、煉瓦構造物があった。
状況からすると、「東京砲兵工廠」の遺構か?
想像では、火薬庫(弾薬庫)のような気配もあるば詳細は不明。

中央大学小石川キャンパスの新設工事で、アーチ状の遺構は中央大側の3分の2が失われているが、税務署側がかろうじて残っていた。

ちなみに「東京砲兵工廠」移転後は、「小石川陸軍工科学校」があり、そして高台の上には、「小石川春日高射砲陣地」もあった。

中央大側と税務署側で明雲を分けた煉瓦遺構。

中央大学小石川キャンパス

税務署側もどうなることやら、、、です。

場所

https://goo.gl/maps/w5CwxsT1A8Zcodv97


牛坂の煉瓦

北野神社(牛天神)の北側の坂「牛坂」。

崖面に煉瓦擁壁の構造物があった。この台地の上に「牛天神」がある。

東京砲兵工廠は小石川水戸藩邸の地に1871年(明4)に操業し関東大震災の影響もあり1935年(昭10)に移転。工廠跡の一部は、陸軍砲兵工科学校となったが、後楽園球場ともなっている。
後楽園球場では煉瓦は邪魔でしか無いので、工廠跡の大量な煉瓦が近隣で再利用されたのかもしれない。


北野神社(牛天神)

北野神社。源頼朝公伝説が残る古社。

裏手の駐車場の壁が、煉瓦積みでした。
いびつな積み方は「ガンタ積」というそうで。

面白い積み方。
上でも書いたけれども、東京砲兵工廠移転後に建設された後楽園球場では不要となった工廠跡の大量な煉瓦が廃材として近隣で再利用されたのではないかという仮説として、不揃いな形が多かったために、ガンタ積みになったのかもしれない。

常泉院の煉瓦壁

一部だけ、煉瓦壁が残っている。

※撮影:2022年12月

善光寺坂のムクノキ(戦災樹木・文京区)

文京区では初の指定天然記念物(文京区指定天然記念物)。
戦災をくぐり抜けたムクノキの巨木に会ってきました。


善光寺坂のムクノキ

伝通院の鎮守であった澤蔵司稲荷の御神木。
第二次世界大戦中の昭和20年(1945)5月25日の空襲で樹木上部が焼けて欠損し、樹幹下部もその空襲によって幹に炭化した部分が見受けられる。

善光寺坂 のムクノキ  
 文京区指定天然記念物
  所在地 小石川3丁目18番(ポケットパーク内)
  指定   平成25年3月1日

 樹高約13m(主幹約5m)、目通り幹周約5mを測る推定樹齢約400年の古木 である。第二次世界大戦中、昭和20年5月の空襲により樹木上部が焼けてしまったが、それ以前の大正時代の調査によると樹高は約23mもあった。
 ムクノキは、ニレ科ムクノキ属の落葉高木である。東アジアに広く分布し、日当たりのよい場所を好む。成長が早く、大木になるものがある。
この場所は江戸時代、伝通院 の境内であった。その後、本樹は伝通院の鎮守であった澤蔵司稲荷 (たくぞうすいなり)の神木 として現在に至っている。
 樹幹上部が戦災により欠損し、下部も幹に炭化した部分が見受けられるが、幹の南側約半分の良好な組織から展開した枝葉によって樹冠が構成されている。枝の伸び、葉の大きさ、葉色ともに良好であり、空襲の被害を受けた樹木とは思えないほどの生育を示している。
 本樹は、戦災をくぐりぬけ、地域住民と長い間生活を共にし、親しまれてきたものであり、貴重な樹木 である。
 平成26年1月
  文京区教育委員会

戦争の爪痕を遺しつつも、力強く立派なに枝を伸ばしている樹木。

善光寺坂。寺町にある坂道。よい風情。

文化庁>文化遺産オンライン

https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/276710

澤蔵司稲荷

https://takuzousuinari.com/mukunoki/

場所

https://goo.gl/maps/jeCkmYaapvT57inY8


澤蔵司稲荷 (たくぞうすいなり)

小石川善光寺

ちかくにある料理学校。
明治15年(1882年)日本で最初の日本で最初の家庭料理の学校として開校した「赤堀割烹教場」以来の伝統を誇る日本最古の料理学校とのことで。

※撮影:2022年12月


関連

5月25日の空襲は、東京にとどめを刺した「山の手空襲」。

東京都戦没者霊苑

礫川公園の奥に東京都戦没者霊苑がある。
以前にも掲載していたが、独立したページとして改めて掲載。


東京都戦没者霊苑

さきの大戦における16万余にのぼる東京都関係戦没者の慰霊と都民の平和への願いをこめて、昭和35年6月に建立。
敷地は、小石川台地にあり、古くは水戸藩上屋敷の一部でした。その後、陸軍砲兵工廠・諸工伝習所敷地となり、戦後は、財団法人東京都慰霊協会が戦没者・戦災者慰霊施設として管理し、昭和28年に戦没者慰霊施設用地として、東京都に寄付されたもの。
現在の戦没者霊苑は、全面改修が施され、昭和63年3月に竣工したもの。

合掌

東京都戦没者霊苑
この霊苑は、先の大戦において尊い犠牲となられた東京都関係の戦没者をお慰めするとともに、平和を願う都民の強い決意を表すため、建立されたものです。


東京都戦没者鎮魂の碑

広場正面に池(水盤)を配置し、池の中に高さ3.36メートルの人工滝がある。滝を背景に、その中心の水面に浮かぶ形で、高さ1.59メートルの門形の白御影石に囲まれた黒御影石の「東京都戦没者鎮魂の碑」があり、鈴木俊一都知事(当時)の書による「鎮魂」の文字が刻まれている。

東京都戦没者霊苑
鎮魂

山本健吉氏撰書による平和への願いを記した文章がある。
山本健吉は、文芸評論家。

碑文
あの苦しい戦いのあと、四十有余年、私たちは身近かに一発の銃声を聞かず、過して来ました。あの日々のことはあたかも一睡の悪夢のように、遠く悲しく谺して来ます。
だが、忘れることができましょうか。かつて東京都の同朋たちの十六萬にも及ぶ人々が、陸に海に空に散華されたことを。 あなた方のその悲しい「死」がなかったら、私たちの今日の「生」もないことを。
そして後から生れて来る者たちの「いのち」のさきわいのために、私たちは何時までもあなた方の前に祈り続けることでしょう。 この奥津城どころは、私たちのこの祈りと誓いの場です。同時に、すべての都民の心の憩いの苑でもありましょう。
この慰霊、招魂の丘に、御こころ永遠に安かれと、茲にこれが辞を作る。
 山本健吉

由来文
 東京都戦没者霊苑は昭和六年の満州事変から日中戦争を経て、昭和二十年(一九四五年)八月の太平洋戦争終結までの東京都関係戦没者約十六万人の霊をまつる。
 敷地は、昭和十五年に忠霊塔建設予定地に選ばれた小石川陸軍工科学校跡地である。
 昭和三十五年、ここに東京都戦没者霊苑が建設されたが、それは歳月の中に老朽した。また、年々齢を加える遺族が、安全に慰霊祭に参加するための配慮も必要となった。
 そこで戦没者の慰霊と平和への願いを新たに、このたび全面改修を行い昭和六十三年(一九八八年)三月に完成した。
 設計は、建築家相田武文、碑文は、芸術院会員、文化勲章受章者山本健吉、碑名の揮毫は東京都知事鈴木俊一による。
 私たち都民はこの霊苑につどい、霊前にぬかずき、改めて戦争とは何であったかを深く考えたい。
 戦没者の御霊にお願い申し上げる。
 お声を風に託して、戦争の実態を私たちに語り聞かせていただきたい。 そして私たちが強い意志と英知をもって、平和を守るという至上の命題にとり組めるよう、お導きいただきたい。
 霊苑が戦没者の御霊と私たちの心の通い路になることを願って、ここに謹んでその由来を記す。
 角田房子

角田房子氏は近現代史をテーマとした題材を多く発表されたノンフィクション作家。


御製(日本遺族会創立30周年記念式典)

侍従長入江相政謹書。
昭和55年11月17日の日本遺族会創立30周年記念式典での御製。

みそとせを 
 へにける今も 
  のこされし 
うからの幸を 
 ただいのるなり


太平洋戦争における地域別戦没者数一覧

東京都遺族連合会
1989年8月15日


御製(民生委員・児童委員顕彰碑)

同じく、侍従長入江相政謹書。

前面の碑に刻まれた御製は、民生委員制度創設50周年を記念する全国社会福祉大会に出席された天皇・皇后両陛下から民生委員に対し多年の労をねぎらう励ましのお言葉を賜ったもの

いそとせも
 へにけるものか
    このうえも
  さちうすき人を
    たすけよといのる

民生委員制度創設50周年を記念して、過去50年にわたり、社会福祉の増進のため活躍した民生委員・児童委員の遺徳をしのび、その業績を顕彰する目的で、昭和42年11月東京都民生委員連合会にとって建設。


東京都戦没者霊苑展示室

訪れたときは休館中でした。
※令和5年3月再開予定

東京都戦没者霊苑

https://www.fukushihoken.metro.tokyo.lg.jp/seikatsu/senso/reien.html

場所

https://goo.gl/maps/cRoupNhXbVMBTkVq7


陸軍砲兵工科学校・工科学校跡
諸工伝習所跡記念碑

隣接地にて以前にも掲載したので詳細は割愛。

礫川公園

東京砲兵工廠跡の公園。
同じく以前にも掲載したので詳細は割愛。

射撃場跡

※撮影:2022年12月


英国輸入の大阪鉄道6号蒸気機関車(明24・西武鉄道3号・昭和鉄道高校)と池袋散策

池袋はなにげに鉄道にゆかりのある街。黎明期の鉄道を軸に、ちょっと散策してみた。


昭和鉄道高等学校に保存されている明治期の蒸気機関車。

西武鉄道3号機関車

1891年に輸入され、「大阪鉄道6号機」として運用。
1900年に大阪鉄道は関西鉄道に買収され、関西鉄道「駒月57号機」となった。
1907年に関西鉄道が国有化された後は、「220形220号機」と改称。
1917年に多摩鉄道に譲渡され、「A1号機」と改称。
1927年に、多摩鉄道は西武鉄道に合併。
1944年に「西武鉄道3号機」と改称。
1956年3月に日本ニッケル鉄道に貸与。
1956年10月に後身の上武鉄道に譲渡され、「上武鉄道8号機」と改称。
1965年に廃車となり西武鉄道に返却。同年に西武鉄道から昭和鉄道高校に寄贈。

西武鉄道3号機関車
1891(明治24)年イギリスのダブス社で製造された車両配置が1B1型のタンク蒸気機関車です。
大阪鉄道が輸入し、1900(明治33)年大阪鉄道が関西鉄道に吸収されたために関西鉄道に移り「駒月」の形式名で活躍しました。
1907(明治40)関西鉄道が国有化され、形式220(No,220)と改称、活躍の場が神戸付近に移りました。
1917(大正6)年に廃車。その後、多摩鉄道(のちに西武鉄道に併合)に譲渡され、A1の番号をつけて使用されましたが、晩年は埼玉県にあった日本ニッケル鉄道でも走り、1965年(昭和40)に廃車という経歴を持っています。
1967(昭和42)年に西武鉄道から寄贈され、ここが安住の地となりました。
機関車重量25.14t、動輪直径が1.219mmの小さな車体ですが、日本の鉄道の歴史を物語る、大変貴重な蒸気機関車です。

敷地外から見学

※撮影は2022年12月

ちなみに2021年は、無限列車になっていました。。。(以下のみ ※撮影は2021年2月)


昭和鉄道高等学校

校名に鉄道がはいる日本で唯一の高校。

帝都高速度交通営団丸ノ内線 モハ500形685号

近代史ではないけど、豊昭学園には、もう1両、保存車両がある。

※2022年12月撮影

場所

https://goo.gl/maps/f2jce3WvmZW9ioih6


明治天皇御野立所跡

昭和40年8月吉日建立。
明治8年12月27日、明治天皇が板橋での近衛兵の演習を天覧された際に、この地で休息されたことを記念している。
これは通りすがりだっったので、なんとなく掲載。

ちょっと摩耗していて読みにくい。。。

※2021年2月撮影

https://goo.gl/maps/penFCYfzyLdMZc6t7


東京鉄道教習所跡・東京鉄道中学跡

メトロポリタンプラザは、芝浦工業大学高等学校跡地を再開発したエリア。

さらに遡ると、明治から太平洋戦争後にかけて存在した鉄道院、鉄道省、運輸通信省鉄道総局、運輸省鉄道総局、日本国有鉄道の職員養成機関があった。

動輪の由来
ここにはかつて東京鉄道教習所があり、広大な敷地に校舎、大講堂、図書館、プール、寄宿舎など立派な施設が完備され、多数の鉄道マンが勉学にいそしんだ場所である。
 当時の所在地 東京府北豊島郡西巣鴨町字池袋
 敷地及び建物 約37000平方米の敷地に校舎、大講堂、寄宿舎など約100棟の建物があった。
 存在した時期 大正13年(1924年)~昭和29年(1954年)
またこの地は鉄道開通50年記念事業の一環として設立認可された財団法人鉄道育英会により設立した東京鉄道中学が東京教習所内に開校し、後に東京育英中学、東京育英中学校、東京育英高等学校、芝浦工業大学高等学校と改称し、昭和57年まで存在していた場所でもある。
 存在した時期 大正13年(1924年)~昭和57年(1982年)
これらの施設は昭和20年4月14日の東京大空襲で一旦焼失した。
なお、この地は成蹊学園発祥の地でもあり、若者と教育に由緒深い土地柄である。

ルミネの入口の脇に。

※2021年3月撮影

場所

https://goo.gl/maps/hSc69bd8vEDokGYFA


池袋関連

自由学園明日館

「日本の航空事始め・その2」グラーデ単葉機と日野熊蔵(所沢航空発祥記念館と代々木公園)

以前に、「日本の航空事始め」として、アンリ・ファルマン機と徳川好敏に触れてました。今回は、「日本の航空事始め・その2」として、グラーデ単葉機と日野熊蔵に関して、記載してみたいと思う。


日本の航空事始め・その1
アンリ・ファルマン機と徳川好敏


所沢航空発祥記念館での特別展「二人の空の開拓者 発明家日野熊蔵と航空人徳川好敏」展示は2022年3月31日で終了しました。

1910年(明治43年)12月。
代々木演習場にて、日本初の飛行に向けて準備を行っていた、アンリファルマン機の徳川好敏と、グラーデ単葉機の日野熊蔵。

実は公式記録の5日前。
明治43年12月19日の「初飛行を目的とした記録会」に先立つ、12月14日の滑走試験中、日野熊蔵陸軍大尉のグラーデ単葉機が飛行に成功し(滑走から誤って離陸?)、これが非公式な日本史上の初飛行ともされている。


グラーデ単葉機

グラーデ単葉機
80%スケール模型
所蔵:航空科学博物館

グラーデ単葉機とアンリ・ファルマン機は、今から110年前の1911(明治44)年4月に開設した所沢飛行場にその翼を並べました。
前年には代々木演習場(現在の代々木公園)において、グラーデ単葉機を日野熊蔵大尉が、アンリ・ファルマン機を徳川好敏大尉がそれぞれ操縦し、日本初飛行を記録しています。

グラーデ単葉機は、アンリ・ファルマン機のような補助翼式ではなく、竹製骨組の主翼をねじることで操縦する「たわみ翼式」です。また、アンリ・ファルマン機はグノーム社のエンジンを載せていたのに対し、グラーデ単葉機は自前のグラーデ社製空冷4気筒エンジンを載せていました。

この80%スケール模型は航空科学博物館(千葉県芝山町)が2010年に同館の企画展「日本の初飛行100年展」のために制作したものです。

操縦席は、エンジンの直下の布張りの椅子。
正直言って、怖い。


日野熊蔵

日野 熊蔵(ひの くまぞう)
1878年6月9日-1946年1月15日陸軍軍人。最終階級は陸軍歩兵中佐。
発明家でもあり、日本航空界黎明期のパイロットの1人でもある。
1910年(明治43年)4月11日、臨時軍用軽気球研究会から徳川好敏大尉とともに操縦技術習得のためフランスのアンリ・ファルマン飛行学校エタンプ校に派遣され5月末に入学。その後7月25日に単身ドイツに移動しヨハネスタール飛行場で操縦技術を学びグラーデ単葉機を購入。
1910年(明治43年)12月14日、代々木錬兵場(現・代々木公園)において滑走試験中の日野熊蔵は飛行に成功し、これが非公式ながら日本史上の初飛行とされる。
1910年(明治43年)12月19日には「公式記録飛行会」が行われ、日野熊蔵・徳川好敏の両名が初飛行に成功した。これが改めて動力機初飛行として公式記録となる。
飛行順番として(華族であり清水徳川家の名門であった)徳川好敏が最初に飛んだために「アンリ・ファルマン機を駆る徳川大尉が日本初飛行」として記録に残ることとなる。

日本初飛行以降、順調に昇進する徳川好敏に対して、日野熊蔵は陸軍上層部と折り合わずに左遷。1918年(大正7年)に陸軍歩兵中佐を最後に陸軍を去り、民間で発明家となる。
1935年(昭和10年)には萱場製作所が実用化を目指したラムジェットエンジン搭載の無尾翼機、「HK-1(HKは日野のイニシャル)」の開発にも参加している。

1945年(昭和20年)、東京大空襲により日野は自宅と共に多くの発明品の資料の全てを焼失。敗戦後の1946年、栄養失調により死去。
1974年(昭和49年)、東京代々木公園に胸像と「日本初飛行の地」の碑が建立。
日野の胸像は1964年(昭和39年)建立の徳川の胸像と並んで設置され、碑文には日野・徳川の両名が日本初飛行の人物として顕彰されている。

日野熊蔵生誕の地、熊本県人吉市に建つ記念碑。人吉は戦跡的にも見どころ豊富で気になる地。いつか訪れたい。。。

日本初飛行
日野熊蔵生誕之地


日本の空のパイオニア
 日野熊蔵は、明治11年(1878)6月9日この地に生まれ、明治43年(1910)12月、東京代々木におけるわが国初の飛行テストに、ドイツ製ハンスグラーデ機を操縦し、フランス製アンリファルマン機に搭乗した徳川好敏氏とともに、日本最初のパイロットとなった。
 以来終生飛行機の研究と開発を続け、昭和21年(1946)67歳で逝去した。

 日野氏の生誕120年を記念してこの碑を建てる。

 平成10年6月9日 日野熊蔵顕彰会


日野熊蔵之像

以下は、代々木公園にて。

日野熊蔵之像
 美土路昌一書

限りなき大空
限りある人生
限りなき代々の祖国のため
限りある現世の定命をささぐ

翁は熊本の産 豪放磊落英仏独語に通じ 数理に秀で選ばれて 独逸に飛行機操縦を取得し一九一〇年十二月一九日此地に於いて発動機の不調を克服してグラーデ式を駆り一分間一〇〇〇米の飛行をした不屈の精神は次代の青少年の範とすべきである 
 昭和四一年四月二三日
  松野頼三

徳川好敏之像と日野熊蔵之像が代々木公園に並んで建立されている。

日本航空の父
徳川好敏之像
 井上幾太郎書

誠実 謹厳 航空に生涯を捧げた この人が明治四十三年(一九一〇年)十二月一九日 この地代々木の原でアンリ・ファルマン機を操縦しわが国の初飛行を行い飛行時間四分 飛距離三〇〇〇米 飛行高度七〇米の記録を創造して日本の空に人間飛翔の歴史をつくった 
 昭和三九年四月十七日 
  赤城宗徳 
 像作者 鋳金家 市橋敏雄

日本初飛行の地
日本航空発始之地記念碑

日日本航空発始之地
陸軍大将井上幾太郎書

日本初飛行の地
 1910年(明治43年)12月19日, 当時代々木練兵場であったこの地において、徳川好敏陸軍大尉はアンリ・フォルマン式複葉機を操縦して4分間、距離3,000m、高度70mの飛行に成功した。
 継いで日野熊蔵陸軍大尉も、グラーデ式単葉機により1分間、距離1,000m、高度45mの飛行に成功した。これが日本航空史上、最初の飛行である。
日本航空発始之地記念碑
 建立 朝日新聞社
 設計 今井兼次
 彫刻 泉二勝麿
徳川好敏之像
 建立 航空同人会
 彫刻 市橋敏雄
日野熊蔵之像
 建立 航空五〇会
 彫刻 小金丸義久
 東京都 昭和49年12月

碑文
紀元二千六百年ヲ記念シテ此處ニ此碑ヲ建ツ蓋シ代々木ノ地タル明治四十三年十二月我國最初ノ飛行機ガ國民歓呼ノ裡ニ歴史的搏翼ヲ試ミタル所ニシテ爾来大正ノ末年ニ至ルマテ内外ノ飛行機殆ト皆ココヲ離着陸場トセリ即チ朝日新聞社ノ東西郵便飛行モ關東大震災後一時此地ヲ發着場トシソノ第一回訪欧飛行モ亦此原頭ヨリ壮擧起セリ是レ此地ヲ航空發始ノ所トナス所以三十年進展ノ跡ヲ顧ミテ感慨盡クルナシ今ヤ皇國多事ノ秋志ヲ航空ニ有スル士ノ来リテ此原頭ニ俯仰シ以テ益々報國ノ赤心ヲ鼓勵スルアラバ獨リ建立者ノ本懐ノミニアラサル也
昭和十五年十二月 朝日新聞社

日本初飛行離陸之地

場所

https://goo.gl/maps/ZivgUwnzK7cbKwEq8


新宿にも日野熊蔵ゆかりの地がある。

国産飛行機発祥の地

新宿区指定史蹟
国産飛行機発祥の地
所在地 新宿区西五軒町34番地
指定年月日昭和60年12月6日
  明治42~43年(1909~1910)にかけて 日野熊蔵大尉により 最初の国産飛行機 「日野式一号機」が製作された林田商会 (のち日本醸造機株式会社) 跡地である。
 明治時代末期, 飛行機が欧米各国で長足の進歩を遂げているのを見て 日野大尉はその将来性に着目し, 全くの独力で英・米・独・仏の文献を参考に 飛行機用発動機, および飛行機の設計と製作に着手し, 明治43年2月この地で完成した。
 一層式で翼長8メートル, 全長3メートル, 発動機はニ衝程空冷式8馬力を搭載し, 完成まで3ヵ月の期間と約1900円を費やした。
 大尉はこの飛行機に自ら搭乗して外山ヶ原で試験飛行を実施した。
 平成3年11月  東京都新宿区教育委員会

場所

https://goo.gl/maps/aPi4WVLtspFVXpsK7


黎明期の航空機

所沢航空発祥記念館にて。

アンリ・ファルマン1910年型飛行機(フランス)
日本初の公式記録飛行に成功した飛行機
明治43年12月19日、代々木演習場で行われた日本初の公式飛行に、徳川好敏大尉の操縦によって初飛行に成功した飛行機。同大尉が飛行研究のためにフランスに留学した時に購入した。初飛行の後、所沢飛行場で訓練飛行などに使われていたが大正5年頃に引退後、所沢の航空参考館に展示された。第二次大戦後、一時アメリカにわたっていたが、1960(昭和35)年、日米修好100年、日本の航空50年の折に、日本に返還された。

ハンス・グラーデ1910年型飛行機(ドイツ)
アンリ・ファルマンと共に公式記録飛行に参加
臨時軍用気球研究会の日野熊蔵大尉が、飛行機研究のためドイツに留学した時に購入した飛行機。明治43年12月19日に代々木練兵場で行われた公式飛行では、徳川大尉操縦の「アンリ・ファルマン機」と共に、日野大尉の操縦によって初飛行に成功した。その後、所沢飛行場で操縦訓練に使われたが、翌44年4月9日、訓練中に墜落した。乗員は助かったが機体が壊れ、日本初の飛行機墜落事故になった。

ブレリオXI bis飛行機(フランス・1911)
日本記録を更新した高性能単葉機
明治43年、臨時軍用気球研究会の委員、徳川好敏大尉がフランス留学中に「アンリ・ファルマン機」と共に現地で購入した飛行機。研究機として最初に購入された4機種中では最も高性能で、対空、距離、高度の日本記録を次々に更新した。所沢飛行場では主に偵察訓練に用いられていたが、大正2年3月28日に青山練兵場で行われた公開飛行の帰りに空中分解を起こして墜落、登場していた木村、徳田両中尉は脂肪、日本で初めての航空殉職者となった。

ライト飛行機(ドイツ・1910)
ドイツで作られたライト兄弟設計の飛行機
明治43年、日野熊蔵大尉が、ドイツに留学した時に「ハンス・グラーデ機」と共に購入した飛行機。世界で初めて動力飛行に成功したアメリカのライト兄弟によって設計され、ドイツで滑走するためのゴムタイヤを付けて生産された。明治44年3月に日本に到着し、4月に日野大尉によって所沢飛行場で初飛行が行われた。

会式一号飛行機(日本・1911)
所沢で富んだ日本初の国産軍用機
明治44年、徳川好敏大尉の設計・制作により日本で初めて作られた軍用機。この前年に代々木練兵場で日本での初飛行に成功した「アンリ・ファルマン機」を参考にして、より高い性能を持つ飛行機を作ることを目的として、所沢飛行場格納庫内で制作された。明治44年10月13日所沢飛行場で、徳川大尉みずからの操縦によって初飛行に成功した。主に操縦訓練や空中偵察教育に使われ、同大尉の設計で4号機までが生産された。

※撮影:2022年3月


関連

飛行神社・二宮忠八

戸山(戸山ヶ原の射撃場で飛行試験)

代々木(代々木練兵場で初飛行)

稲毛(民間航空発祥の地)

航空神社

日本初の航空犠牲者

椿山荘(山縣有朋邸跡)

山縣有朋は、数カ所に邸宅を持っていた。

本サイトでは、以前に、「山縣有朋邸庭園跡(三番町共用会議所)」を掲載していた。

他にも、山縣有朋は多くの邸宅を有していた。


 椿山荘 東京都文京区
  明治11年
 山縣有朋私邸 東京都千代田区
  明治18年
 無鄰菴 京都府左京区 京都別荘
  明治27~29年
 古稀庵 神奈川県小田原市 小田原別邸
  明治40年 
  70歳の古希を迎えた晩年の別荘

今回は、縁あって「椿山荘」に赴く機会がありましたので、夜でしたが庭園を(さくっと)見学してみました。


椿山荘

この地は、かつては椿が自生する景勝の地で「つばきやま」と呼ばれていた。

明治の元勲で日本軍閥の祖でもある山縣有朋が、明治11年(1878年)に、私財を投じて「つばきやま」を購入し庭、邸宅をつくり、「椿山荘」と命名。
椿山荘には、山県有朋自らが庭園を計画し高低差のある回遊式庭園が造られた。
山縣有朋の名庭園には、京都の無隣庵、小田原の古稀庵、そして、この椿山荘があり、この三園をあわせて「山縣三名園」とも呼称されている。

ホテル椿山荘東京公式サイト
ホテル椿山荘東京の歴史

https://hotel-chinzanso-tokyo.jp/garden/history/

現在のホテル椿山荘東京の庭園は、太平洋戦争で多くが焼失した後に1万本以上の樹木を植栽して新たに生まれ変わったもの。


椿山荘の碑

この碑は、山縣有朋公爵がこの地を気に入り、入手し、椿山荘の造営に着手し始めた当時を振り返り、(明治11年に)椿山荘と命名した際の感慨を刻んだ碑。

椿山荘の碑の内容
「明治10年の西南戦争は既に平定され、国内が平穏となって暇になった日にはしばしば城北の目白に出かけ、その大地におもしろさを感じた・・・」という内容から始まり、「後にここに住む人もこの自然を守り続け、この山水を楽しむような私の望み通りの人物であろうか」と締めくくられているこの碑は、明治30年に創られました。

https://hotel-chinzanso-tokyo.jp/garden/historic_site/

椿山荘の碑
風光明媚なこの地を気に入った山県有朋公は、明治11年(1878年)に土地を入手し、本邸と広大な庭園を造り「椿山荘」と名付けました。明治30年(1897年)に創られた「椿山荘の碑」には、この地と出会い、この地を愛した山縣公の感慨が刻まれています。(総高2m70cm、碑の幅90cm)

椿山荘記

椿山荘主山縣有朋撰


椿山荘庭園

霧というか雲海が凄い。。。
山縣有朋公もびっくりだろう。
この東京雲海の演出はコロナ渦で客足の鈍っていた2020年10月にスタートした新しい演出。

椿山荘の碑には、「後にここに住む人もこの自然を守り続け、この山水を楽しむような私の望み通りの人物であろうか」と最後に刻まれている。

椿山荘の庭園は山縣公の故郷である山口・萩の風景を再現したものであるという。
いま、ホテル椿山荘東京は、山縣有朋が愛した郷里・萩に流れる阿武川にかかる雲海の雲海を再現したかのように、国内最大大規模の霧噴霧で雲海を演出している。

東京雲海

https://hotel-chinzanso-tokyo.jp/unkai_lightup/


実は、椿山荘で会社の忘年会でした。
そうでもないと、椿山荘に行く機会はそうそうありません。

※撮影は2021年12月


巣鴨刑務所の排水口跡(移設保存)と池袋散策

池袋サンシャイン60の界隈には、「巣鴨監獄」(「巣鴨刑務所」「巣鴨拘置所」「巣鴨プリズン」)があった。

かつて、巣鴨刑務所があった台地の下、石垣には排水口があり、水窪川に排水がされていた。

巣鴨プリズンはなくなり、水窪川は暗渠となり、戦後にあった造幣局東京支局もなくなり、そして石垣と排水口のみがひっそりと残されていたが、近年の再開発で、石垣と排水口も消失した………と思っていた。

ところが、
造幣局東京支局跡地に2020年12月に完成した「IKE・SUNPARK(としまみどりの防災公園)」に、なんと排水口跡の石組みが移設保存されておりました。最近、その事実を知ったので、慌てて足を運んでみました。


巣鴨刑務所の石積みの排水口跡

あぁ、消失したと思っていた、石積みの排水口跡が、公園内に保存されていました。
これは嬉しい。本当に嬉しい。
価値が分かる方が居てくれて、本当にありがとうございます!

石積みのモニュメントについて
このアーチ状の石積みは、本公園の敷地の隣接道路(都市計画道路補助第176号線および特別区道41-340)を支えていた石垣の一部で、周辺道路整備で撤去した際に保存し、公園内に復元したものです。
かつてこの地には巣鴨刑務所があり、関東大震災で被害を受けその後縮小され、昭和14年、縮小により空地となった土地の一部に造幣局が移転してきました。この地には長らく貨幣の製造工場や博物館がありましたが、それらの機能は平成28年にさいたま市に移転し、その跡地に豊島区からの要請を受けたUR都市機構が本公園を整備しました。
そうした歴史から、かつてこの石積みは巣鴨刑務所の排水口として、この周辺を流れていた水窪川(現・暗渠)につながっていたのではないかと考えられています。石垣の石は他にもこの公園で再利用していますので探してみてください。

サンシャイン60に「巣鴨プリズン」があった。

公園内で再利用された石垣の名残の石?

石積みの排水口があった場所は、公園の南西。階段を降りたところ。
マンホールの先、にあった。

石積みの排水口があった頃の写真。
※以下の3枚は2017年撮影

近くには、撤去された石垣の残骸と思われれる石が集められていた。
これも公園内で再利用されると良いのだが。

豊島区立としまみどりの防災公園
(IKE・SUNPARK イケ・サンパーク)

非常に開放的な公園。最近の池袋の新しい公園は開放的なデザインが施された空間が多い。

https://ikesunpark.jp/

公園内には、IKEBUSも走ってくる。


せっかくだから、近隣の公園も「戦跡」として紹介していく。

豊島区立 東池袋中央公園
巣鴨プリズン跡

巣鴨プリズンの跡地。歴史を背負った公園は、ほかの公園と比べてどことなく重厚な空間。
心休まる公園ではないかもしれない。

永久平和を願って

永久平和を願って
碑裏文
第二次世界大戦後、東京市谷において極東国際軍事裁判所が課した刑及び他の連合国戦争犯罪法廷が課した一部の刑が、この地で執行された。 戦争による悲劇を再びくりかえさないため、この地を前述の遺跡とし、この碑を建立する。
昭和五十五年六月

以下、巣鴨プリズン関係。

東池袋中央公園から見上げるサンシャイン60は、いつでも墓標のように感じてしまう。

歴史の重みとリンクして、公園としての空気も重い気がする。。。

※ここまでは撮影2021年11月


豊島区立南池袋公園
豊島区空襲犠牲者哀悼の碑

豊島区空襲犠牲者哀悼の碑(南池袋公園)

恒久の平和を願って
―豊島区空襲犠牲者哀悼の碑―

  昭和20年4月13日深夜から翌14日未明にかけて東京西北部一帯を襲った空襲は、豊島区の大半を焦土と化し、甚大な被害と深い悲しみをもたらしました。
  死者778人、負傷者2,523人、焼失家屋34,000戸にのぼる被害により罹災者の数は161,661人と、実に当時の人口の約7割に及びました。
  この空襲によって無念のうちに尊い命を失った数多くの犠牲者が、当時、「根津山」と呼ばれた、ここ南池袋公園の一角において埋葬されました。
  先の戦争を通じて空襲の犠牲者となった豊島区民の冥福を祈るとともに、この悲惨な事実を永く後世に伝え、二度と再び戦争による悲劇を繰り返さぬように、この碑を建立します。
 平成7年8月 豊島区

根津山の防空壕
 昭和20年4月13日の空襲では、南池袋公園に隣接する、当時根津山と云った林の中に造られた巨大な防空壕に避難者が殺到した。

南池袋公園も非常に開放的な公園。往時は、この地に空襲の犠牲者が埋葬された。
今は人々の憩いの場。

※撮影は2021年2月


豊島区立池袋西口公園
平和の像

池袋駅西口バスターミナルに隣接。東武側。メトロポリタン側。
ここに豊島区の「平和の像」が建立されている。

平和の像

平成2年に、世界恒久平和への願いを込めて、池袋西口公園に、「平和の像」が設置された。
作者は竹内不忘。

裸婦像の掲げた左手と足元には、平和の象徴である鳩が。

非核都市宣言
 世界の恒久平和は、人類共通の願いである。しかし、核軍拡競争は激化の一途をたどっている。われわれは、人類唯一の被爆国民として、平和憲法の精神に沿って核兵器の全面禁止と軍縮の推進について積極的な役割を果すべきである。
 よって、豊島区及び豊島区民は、わが日本の国是である「非核三原則(造らず、持たず、持ち込ませず)」が無視され、われわれの海や大地に核兵器が持ち込まれることを懸念し、わが豊島区の区域内にいかなる国の、いかなる核兵器も配備・貯蔵はもとより、飛来、通過することをも拒否する。
 豊島区及び豊島区民は、さらに他の自治体とも協力し、核兵器完全禁止・軍縮、全世界の非核武装化にむけて努力する。
 右 宣言する。
 昭和57年7月2日
  東京都豊島区

※撮影は2021年3月


「造船の父と造船の神様」赤松則良墓と平賀譲墓

日本海軍の軍艦造船において、「造船の父」と呼ばれた男と、「造船の神」と呼ばれた男がいた。
そんな二人の墓参りをしてみた。


「日本造船の父」(日本造船学の父)
赤松則良(赤松大三郎)

赤松則良(あかまつ のりよし)
天保12年11月1日(1841年12月13日) – 大正9年(1920年)9月23日)
海軍中将、従二位勲一等男爵。

幕末
安政4年(1857年)、長崎海軍伝習所に入所して航海術などを学ぶ。
万延元年(1860年)、日米修好通商条約批准書交換の使節団に随行し、咸臨丸で渡米。
米国海軍のポーハタン号に乗艦した万延元年遣米使節団の正使は新見正興、副使は村垣範正、目付は小栗忠順
同行する咸臨丸司令官は軍艦奉行の木村喜毅(木村芥舟)艦長は勝海舟

文久2年(1862年)、榎本武揚(運用術、砲術、機関学)・上田寅吉(船大工習得)・林研海(西洋医学)らとともにオランダに留学。
文久3年(1863年)4月、オランダ・ロッテルダムに到着。「運用術、砲術、造船学」などを学ぶ。
慶応2年(1866年)、オランダで完成した開陽丸(上田寅吉が開陽丸船匠長)に乗船して榎本武揚らは帰国するも赤松はオランダへ残留、留学を継続する。
慶応3年(1867年)、フランスにてパリ万国博覧会が開催。徳川幕府は将軍慶喜の弟、徳川昭武を名代として派遣し、この一行に日本資本主義の父・渋沢栄一も同行。パリにて、赤松則良と渋沢栄一が交わっている。

慶応4年(1868年)、大政奉還を知り、留学を中止し帰国の途に着き、5月17日、横浜港へ帰着。
戊辰戦争では、榎本武揚に合流を目指すも叶わずに静岡藩に移る。

明治
勝海舟の助言があり、明治政府に出仕。海軍中将にまで昇進。
海軍主船寮長官、海軍兵学校大教授、横須賀造船所長、海軍兵器会議議長、海軍造船会議議長、横須賀鎮守府司令長官などを歴任。

明治8年(1875年)から横須賀造船所所長(後の横須賀海軍工廠)に就任。
1876年(明治9年)、日本国内で初めて西洋技師の手を借りずに4隻の軍艦(清輝・天城・海門・天竜)を設計。
横須賀造船所では、赤松則良とともに西洋造船技術を習得していた上田寅吉が造船技術者として出仕し、横須賀海軍工廠初代工場長ともなっていた。赤松則良の設計のもとで、製図を引いたのが、上田寅吉であった。近代日本の造船技術と海軍の基礎固めに大きく貢献したことから、赤松則良と並び上田寅吉も「日本造船の父」と称されている。なお、赤松は上田を「近代日本造船界の一大恩人」とも賛辞している。

明治20年(1887年)5月24日、男爵を叙爵。貴族院議員も務める。
明治22年(1889年)、新たに開庁した佐世保鎮守府初代司令長官の要職を務める。
明治24年(1891年)、横須賀鎮守府司令長官に就任。
明治26年(1893年)、予備役、明治38年(1905年)10月19日、後備役に編入。
明治42年(1909年)11月1日に退役、大正6年(1917年9月14日)に隠居。

明治13年(1880年)、日本海員掖済会の設立とともに委員長に就任。
明治30年(1897年)、造船協会の設立とともに会長に就任。(現在の日本船舶海洋工学会)

旧赤松家記念館(静岡県磐田市見付)が残っている。これは赤松則良が予備役編入後、隠居所として設けた建物。静岡県指定文化財。


赤松則良墓

赤松則良は、大正9年9月23日に81歳で没している。
墓所は、文京区の吉祥寺。

赤松則良の妻・貞は、オランダ留学に同行した蘭方医であった林研海の妹。その姉は榎本武揚に嫁いでおり、赤松則良と榎本武揚は義兄弟であった。そして、榎本武揚と赤松則良は、同じく文京区の吉祥寺に眠っている。

赤松家之墓

大正元年11月 竣工

墓誌
赤松家先祖代々之霊位
壽仙院殿海家屋南明大居士 初代 大正9年9月23日歿
 従二位勲一等男爵海軍中将 赤松則良 行年81歳
(以下略)

場所
〒113-0021 東京都文京区本駒込3丁目19−17
諏訪山 吉祥寺

https://goo.gl/maps/SrfSwAvEtAEBmhsx8


造船の神様
平賀譲

平賀 譲(ひらが ゆずる)
1878年(明治11年)3月8日 – 1943年(昭和18年)2月17日[1])
海軍造船中将 従三位 勲一等 男爵 工学博士。東京帝大総長。従三位勲一等男爵。
父、平賀百左ヱ門は海軍主計官。兄、平賀徳太郎は海軍少将。

平賀譲は、兄同様に海軍兵学校を目指すも、体格検査で落第。第一高等学校工科に入学。
そして、東京帝国大学工科大学に進学し造船学科を専攻し首席で卒業。
海軍造船学生となり、明治34年に海軍造船中技士(後の海軍造船・造機中尉)となる。
横須賀海軍造船廠を経て呉海軍工廠造船部々員に着任。

明治38年(1905)、イギリス駐在。グリニッジ王立海軍大学造船科修学。
明治42年(1909)、帰国し海軍艦政本部々員、東京帝国大学工科大学講師を務める。
明治45年(1912)、横須賀海軍工廠にて、製図工場長、新造主任。戦艦「山城」、巡洋戦艦「比叡」、二等駆逐艦「樺」を担当し造船工場棟兼任となる。
大正5年(1916)、海軍技術本部第四部に勤務、八八艦隊主力艦の基本計画を担当。
大正7年(1918)、東京帝国大学工科大学教授兼任。

大正9年(1920)、海軍艦政本部再編、海軍艦政本部第四部長に山本開蔵就任に伴い、計画主任に就任。
海軍艦政本部で艦艇設計に従事し、戦艦紀伊型(戦艦陸奥・長門)、重巡洋艦古鷹型、妙高型、軽巡洋艦夕張、川内型、駆逐艦神風型、若竹型を設計。特に妙高型重巡洋艦などの画期的な重武装艦を設計する。

大正12年(1923)、欧州出張。ワシントン条約下の列強建艦状況調査し、翌年帰国。
大正14年(1925)6月、海軍技術研究所造船研究部長に就任。12月に海軍技術研究所所長兼造船研究部長に就任。
大正15年(1926)、海軍造船中将に昇進。
昭和6年(1931)、予備役。
昭和9年(1934)、友鶴事件「臨時艦艇性能調査会」事務嘱託。
昭和10年(1935)、海軍艦政本部の造船業務嘱託。大和設計にも影響を及ぼす。同年に発生した第四艦隊事件の「臨時艦艇性能改善調査委員会」で海軍艦政本部嘱託。
昭和13年(1938)、東京帝国大学十三代総長就任。翌年、「平賀粛学」を断行し教授等13名を追放。また、工学者や技術者を養成するために、平賀譲の発案によって東京帝国大学第二工学部の設置も進めた。平賀譲は興亜工業大学(現・千葉工業大学)の創立を支援している。

昭和18年(1943)2月17日、総長現役のまま64歳にて死去。東京大学医学部に脳保存されている。
昭和18年(1943)2月23日、東京帝国大学の安田講堂に大学葬を挙行され、墓所は多磨霊園にある。


平賀譲墓(平賀譲先生墓

平賀譲の墓は、多磨霊園にある。墓所は23区1種2側。

平賀譲先生墓
(裏面 昭和三十一年十一月建之 平賀譲先生をしのぶ會)

平賀譲先生頌徳碑

場所

https://goo.gl/maps/ysq5ycU3CsRjof5XA


多磨霊園には、牧野茂 の墓もある。せっかくなので付記として。

平賀譲の高弟・戦艦大和の設計主任
牧野茂

牧野 茂(まきの しげる)
1902年(明治35年)8月9日 – 1996年(平成8年)8月30日)
日本海軍技術将校。最終階級は海軍技術大佐。
牧野茂は、師匠であった平賀譲と同じ多磨霊園に眠っている。

1936年(昭和11年)〜1941年(昭和16年) 、呉海軍工廠造船部設計主任。大和設計主任として大和建造に携わる。
1945年(昭和20年) 終戦。海軍技術大佐、海軍艦政本部第4部設計主任。
1955年(昭和30年) 海上保安庁灯台補給船『宗谷』の南極観測船への改造設計に携わる。
1996年(平成8年) 没。享年94歳。

牧野茂墓

牧野

1902.2.9~1996.8.30

1907.4.15~2009.5.13

場所

https://goo.gl/maps/RHvfWPcvbWcJSUrw7

※赤松則良墓は2021年撮影、平賀譲墓と牧野茂墓は2016年撮影。


関連

「東京陸軍刑務所跡」渋谷界隈の戦跡散策

若者で賑わう街「渋谷」。
この街には、かつて「陸軍の刑務所」があった。
そして、この地で「二・二六事件」に関与した若者たち、青年将校たちが処刑された。


東京陸軍刑務所の陸軍標石1

渋谷のハチ公口から渋谷マークシティ方面にあゆむ。
繁華街のまっただなか。

パチンコ屋の細道をいくと、「陸軍用地」境界標石と「景品交換所」と「ガールズバー」と「居酒屋」があった。

「ガールズバー」は閉店してしまっているが、陸軍用地境界標石は今も変わらずに残っている。
それにしても、人の目も気になり、写真が撮りにくい場所。
景品交換所に向かう人々の往来が途絶えない。

陸軍用地

このあたりは憲兵隊が駐留していたという。

よくぞ残ってくれた、という感じ。

場所

https://goo.gl/maps/LMQDrntfWdzPgSmz9


東京陸軍刑務所の陸軍標石2

渋谷の街を北上する。
東急ハンズ渋谷店の裏、渋谷区清掃事務所宇田川分室に、同じように陸軍標石があった。

陸軍用地

この場所より北側に、東京陸軍刑務所があった。
現在の「NHK放送センター」「渋谷区役所」「渋谷区立神南小学校」などは、当時の陸軍刑務所の敷地内であった。この標石は、も都の場所からは、数メートル移転しているというが、いまはフェンスの向こうできっちりと保存されているので安心。

東急ハンズ渋谷店の裏側。

場所

https://goo.gl/maps/uFkgxMvXV4EFjFXy6


二・二六事件慰霊碑
東京陸軍刑務所跡

東京陸軍刑務所跡にたつ慰霊碑。
観音像は昭和40年2月26日建立 。
昭和11年7月12日、二・二六事件首謀者に対する刑が、この地で執行された。

関連記事は以下も参照。

この場所の撮影は2021年2月26日。

二・二六事件慰霊碑
碑文
昭和十一年二月二十六日未明、東京衛戍の歩兵第1第3聯隊を主体とする千五百余の兵力が、かねて昭和維新断行を企圖していた、野中四郎大尉等青年将校に率いられて蹶起した。
當時東京は晩冬にしては異例の大雪であった。
蹶起部隊は積雪を蹴って重臣を襲撃し総理大臣官邸・陸軍省・警視廳等を占據した。 齋藤内大臣・高橋大蔵大臣・渡邊教育総監は此の襲撃に遭って斃れ、鈴木侍従長は重傷を負い岡田総理大臣・牧野前内大臣は危く難を免れた。
此の間、重臣警備の任に當たっていた警察官のうち五名が殉職した。
蹶起部隊に對する處置は四日間に穏便説得工作から紆余曲折して強硬武力鎮壓に變轉したが二月二十九日、軍隊相撃は避けられ事件は無血裡に終結した。
世に是を二・二六事件という。
昭和維新の企圖壊れて首謀者中、野中、河野両大尉は自決、香田、安藤大尉以下十九名は軍法會議の判決により東京陸軍刑務所に於て刑死した。
此の地は其の陸軍刑務所跡の一隅であり、刑死した十九名と是に先立つ永田事件の相澤三郎中佐が刑死した處刑場跡の一角である。
此の因縁の地を選び刑死した二十名と自決二名に加え重臣警察官其の他事件関係犠牲者一切の霊を合せ慰め、且つは事件の意義を永く記念すべく廣く有志の浄財を集め事件三十年記念の日を期して慰霊像建立を發願し、今ここに其の竣工をみた。
謹んで諸霊の冥福を祈る。
 昭和四十年二月二十六日
 佛心會代表 河野司 誌

碑銘にある佛心會代表の河野司氏は、河野壽陸軍大尉の実兄。
河野壽陸軍大尉は二・二六事件に参加。
河野隊を率いて湯河原で牧野伸顕侍従長(伯爵)を襲撃。その際に負傷し、後に自決。

この慰霊碑の脇にある「赤レンガ壁」は東京陸軍刑務所の名残を残しているもの(残存壁)、とされている。

合掌


位置関係

時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」
 1/50000東京西南部
 明治45年縮図
 リスト番号:76-7-1

「衛戍監獄」の記載がわかる。のちの「東京陸軍刑務所」。
「南豊島御料地」は、のちの明治印宮、「練兵場」は「代々木公園」となる。


関連

もう一つの東京大空襲「山の手大空襲」表参道の戦跡散策

若者たちが集う街、表参道。
表参道の交差点には1対の石灯籠があり、そこから明治神宮にかけてケヤキ並木となっている。
明治神宮とともに整備された参道。

昭和20年5月25日「山の手空襲」
表参道の石灯籠は、山の手空襲の爪痕を今も残していた。


山の手大空襲

東京は昭和19年以降、100回以上に及ぶ空襲を受けてきた。
昭和20年3月10日に東京下町を襲った空襲では死者は10万人を超え、罹災者も100万人を超えており、1回の空襲としては、世界史上に例を見ない規模として「東京大空襲」と称されれているが、その他にも多くの空襲があった。

昭和20年5月25日、空襲警報発令22時22分。
山の手地域に470機ものB‐29が襲来した空襲では、死者3600余人、罹災者は約56万人、焼失16万6千戸にも及び、国会議事堂周辺や東京駅も被災。皇居も被災し 昭和天皇・香淳皇后は御文庫に避難、皇居内の明治宮殿は、この空襲で焼失。

東京地方では、2番目の被災規模であり「山の手大空襲」と称されている。
なお、3月10日の下町を襲った東京大空襲で襲来したB-29は325機であり、山の手大空襲で襲来したB-29の470機は東京大空襲以上であった。

米軍は、昭和20年5月25日の「山の手大空襲」でもって、東京の市街地はほぼ壊滅したと判断し、この日以降、東京への大規模な空襲は終了した。
まさに、東京に止めを刺した空襲が、この「山の手大空襲」であった。


和をのぞむ(「山の手空襲」追悼碑)

表参道交差点、現在の「みずほ銀行青山支店」、当時は「安田銀行青山支店」の手前に慰霊碑がある。
山の手大空襲に際して、多くの人々が、火から逃れようとして堅牢であった銀行の建物前に集い、そしてそのままこの場所で斃れ、そして、この銀行のそばには多くの遺体が積み上げられていたという。
この、みずほ銀行青山支店のすぐ近くに、「山の手空襲」追悼碑が建立された。

和をのぞむ
  太平洋戦争の末期、昭和二十年五月、山の手地域に大空襲があり、赤坂・青山地域の大半が焦土と化しました。
  表参道では、ケヤキが燃え、青山通りの交差点付近は、火と熱風により逃げ場を失った多くの人々が亡くなりました。
  戦災により亡くなった人々を慰霊するとともに、心から戦争のない世界の平和を祈ります。
  港区政六十周年にあたり、この地に平和を願う記念碑を建立します。
  平成十九年一月
  港区赤坂地区総合支所
  区政六十周年記念事業実行委員会


表参道・ケヤキ並木

表参道は、明治神宮の参道として、昭和9年(1920)に開通。
表参道のシンボルであるけやき並木は、昭和10年に植樹。
しかし、山の手大空襲で、201本のうち13本のみを残して全焼。現在のケヤキのほとんどは戦後に植え替えられた。
ケヤキの幹の太さで、戦前の植樹か戦後の植樹かが分かるらしい・・・。


表参道・石灯籠

表参道の二基の大灯籠。山の手大空襲の生き証人。
台座の一部が欠けているのは、焼夷弾が着弾した痕、ともいう。
そして、石灯籠の台座は黒ずんでいる。これは、山の手大空襲の犠牲者の血と脂が黒く滲みこんだものといわれている。

合掌


表参道・山陽堂書店

明治24年(1891年)創業。
昭和6年(1931年)御幸通り造成のために現在地に移転。地上3階地下1階の鉄筋鉄骨コンクリートビル建立。建物の地下には井戸が掘られていたことが、後々、功を奏することとなった。

昭和20年5月25日、山の手大空襲。青山の表参道交差点周辺は火の川となる中で、好運にも山陽堂書店ビルは鉄筋鉄骨コンクリートと地下室の井戸水に助けられ、多くの避難民の命を救った。
この界隈では、鉄筋コンクリート建ての「同潤会青山アパート」 と」「山陽堂書店ビル」、そして青山霊園に避難して助かった人々がいた。

昭和38年(1963年)東京オリンピックのため青山通り道路拡幅で山陽堂書店ビルは頑丈であったために壊すのではなく3分の1に建物を削り現在の姿となった。


善光寺(青山善光寺)

南命山善光寺。信州・善光寺の東京宿院。東京都港区北青山3-5-17鎮座。
善光寺は、永禄元年(1558)谷中に創建、宝永2年(1705)当地へ移転。

毎年、山の手大空襲のあった5月25日に、青山善光寺本堂にて「山の手大空襲慰霊法要」が執り行われている。

陸軍経理学校生徒隊慰霊碑

青山善光寺の境内に建立されている慰霊碑。
帝国陸軍のシンボル、金色の五芒星が輝いている。

陸軍経理学校生徒隊1500余名のうち戦死された方々を慰霊鎮魂。
昭和十二年八月に初代区隊長が戦死し、その法要を善光寺で行なった縁により慰霊碑が建立された。

陸軍経理学校生徒隊慰霊碑
碑誌
陸軍經理學校生徒隊ハ昭和十一年ヨリ終戦迄陸軍經理部ノ中核タル将校訓育ノ揺籃タリ
ココニ志魂ヲ育クマレタル健兒一千五百餘名ハ先ノ大東亜戦争ニ際シ勇戰奮闘克クソノ精華ヲ發揚セルモ戰局ノ推移ニ伴イ全戰域ニ亙リ數多散華殉難ノ士ヲ出スニ至リタルハ痛惜ニ堪エズ
コレガ供養ノ為昭和十二年八月初代區隊長戰死ノ法要ヲ當善光寺ニテ執行以來戰後モ毎歳新タナル物故者ノ合祀ヲ重ネ慰霊法要会ヲ嚴修シ連綿今日ニ及ベリ
此ノ間住職心譽觀導上人ヲハジメ當山ノ囘向終始懇篤ナルハ洵ニ感激ニ堪エザルトコロナリ
曽ツテ同ジ武窓ニ行住坐臥苦樂ヲ共ニセシ我等今日幽明ヲ異ニスルモヤガテハ彼岸ニ於テ同坐團樂ヲ希ウノ情切ナルモノアリ
茲ニ第四十三囘法要会ニ際シ一同ノ総意ニヨリ因縁深キ當寺寶前ニ靈璽簿ヲ奉安スルト共ニ慰霊碑ヲ建立シ全会員及ビソノ家族ニ至ルマデノ心ノ縁タラシメントスルモノナリ
 昭和五十四年五月二十日
 陸軍經理學校生徒隊  十誠会 会員一同

戦災殉難者諸精霊供養塔

戦後、山の手大空襲の犠牲者の法要が、表参道のみずほ銀行の前で行われていたという。
昭和41年に、山の手大空襲の犠牲者が多かった土地の土を持ち帰り、善光寺境内に「供養塔」を建立し、現在は、毎年5月25日13時より、「山の手大空襲慰霊法要」が執り行われている。

戦災殉難者諸精霊供養塔
昭和二十年五月二十五日 為大東亜戦争青山周辺戦災殉難者
昭和四十一年五月二十五日  有志一同建立

後世を担う若人たちで賑わう街、表参道。
「山の手大空襲」の歴史は、静かに伝承されていた。

改めて、
慰霊鎮魂の合掌を。

※撮影2021年4月-6月


関連

東京大空襲・慰霊