「東京都‐23区西部(北,板橋,練馬,中野,杉並,世田谷,品川,目黒,大田)」カテゴリーアーカイブ

軍艦建造技術を活用した日本初の大規模全溶接構造橋梁「田端ふれあい橋・旧田端大橋」(昭和10年建造)

横浜の「瑞穂橋」を調べていたら、溶接橋として日本初は、昭和9年の瑞穂橋であったが、本格的な大規模全溶接橋は、昭和10年の「田端大橋」であったと知り、そうと知ったら、居ても立ってもいられずで、急に現地に赴いてみた次第。


田端ふれあい橋・旧田端大橋

昭和10年(1935年)12月完成。全長135m。
全溶接構造橋としては、日本初にして東洋初であり、完成当時としては世界的な規模の橋梁であった。
設計者は、鉄道技師の稲葉権兵衛(代表作は筑後川昇開橋・田中豊博士の門下生)で、当時の橋梁界を率いていた田中豊博士指導のもとで行われた。
建設は「川崎造船所」(川崎重工の前身)。
軍艦製造技術で培われた溶接が本格的に橋梁建設に導入された歴史的に意義のある建造物。
ちなみに川崎造船所は、勝鬨橋や清洲橋、白鬚橋、永代橋など多くの震災復興橋の建造も手掛けている。

現在の田端大橋は、1987年に架橋。旧田端大橋は取り壊し予定であったが、計画変更で1992年に人道橋に改装された。愛称は「田端ふれあい橋」。
改装後は、主桁を隠し橋面側面ともタイル化粧板などで覆われて、まったくもって歴史的な趣が感じ出せなくなっている。非常な残念なデザイン。
もっとも、歴史的な意義は別として、植栽とタイルで、フレンドリーな感じに生まれ変わっている。

タイル張りには、歴史の趣が感じられない。

橋の上から探して、ようやく橋脚がみえる場所に。
ちなみに、橋脚を見ようとしてもなかなかビューポイントがなく。

親柱

田端大橋

昭和十四年三月成 東京府

田端ふれあい橋の橋上で、歴史を感じられたのは、ここのみ。

旧田端大橋の生い立ち
橋の由来
 旧田端大橋は、昭和十年に架建された突桁式下路版桁三径間ゲルバー式 全溶接橋です。
 当時、この橋は現場継手部も溶接した文字どおりの全溶接橋として東洋では最初で最大級の橋として注目を浴びました。
 この溶接技術は、そのころの造船技術(軍艦建造技術)を生かしたものであり、当時の技術者が遭遇した数々の苦労話がのこされています。
橋の概要
 施工年月日 昭和十年十二月二十七日
 形式    突桁式下路版桁三径間ゲルバー式
 橋長    一三五.〇メートル
 橋梁巾   一三.八〇メートル
 道路幅員  一一.〇〇メートル(当時)
 総鋼重量  約五九一トン(当時)
残存の経緯
 旧田端大橋は、近年の経済発展に伴う自動車交通量の増加と年月の経過による老朽化が進んだため、東京都は昭和六十二年に新田端橋を架建しました。
 新田端橋が開通したことにより、本橋の役目は終り、当初の計画では撤去する予定でありました。しかし歴史的にも学術的にも貴重な橋であり、また地域住民の方から歩行橋として再生利用の要望があることを考え、田端ふれあい橋として生まれ変わることになりました。
  平成四年三月 東京都北区

ふれあい橋について
田端ふれあい橋の概要
 田端ふれあい橋は、駅前広場と公園機能を合わせもった田端のシンボルとなる歩行者専用の橋です。
 この橋は、通勤、通学に利用するだけではなく、散歩道として、または待ち合わせの場所、憩い語らいの場としての快適な歩行空間をつくるとともに、自然の樹木によるやすらぎ、高欄や花壇の自然石による落ち着き、門柱や街灯による時代感を感じさせるものとしました。
田端ふれあい橋の特色
步行部
 花壇の形態を波型の曲線にすることにより平面的なやわらかさを出し、カリオンと二本のしらかしによって立体的なアクセントをつけました。中央の白御影石の部分を通行ゾーン、両側のタイル舗装部分は休憩・たまりゾーンとしています。
植栽
 花壇の縁石には赤御影石を使用しそのその重厚感による落ち着きを出すとととも、座って 話をしたりすることができます。 樹種は四季折々の花や葉が楽しめるように数多くの種類を配しています。
高欄
 木の枝をモチーフしたデザインは花壇の植栽と一体感をなし、快適な歩行空間をつくり出しています。
門柱
 大正時代の洋風赤れんが造りと銅板の屋根により、この橋の入口を表現しています。
カリオン
 文化の香り高い田端の発展を望んで 「希望の鐘」と名づけました。橋の中央に位置し、四種類の音色で時を知らせます。
展望窓
 上野駅側二か所に電車や線路が見える幅四mの大きな展望窓があります。
  平成四年三月
   東京都北区


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:8921-C3-38
1944年11月7日、日本陸軍軍撮影の航空写真を加工。

田端大橋の様子がよくわかる。


田端ふれあい橋・旧田端大橋の主桁・橋脚

下を見れる場所に。

リベットがないです。
素人なので、細かいことはわかりませんが、全溶接橋として、リベットのない形態は、すらっとストレートな様相。美しいですね。

リベットがない!!としか言えない素人ですみません。


田端ふれあい橋・旧田端大橋の路面部分

ここは、歩いても、歴史が感じられないので、さらりと。。。
新幹線の橋梁が目線を遮ります。

門柱

側面には「田端大橋」
ん?旧称で良いの?

現在の田端大橋と、旧田端大橋の間。

高さが違いますね。
旧田端大橋は撤去予定だったので、建造時は高さをあわせるつもりがなかったことがわかります。

なので、両方の橋を横断する場合は、段差が生まれます。

高欄
波打つベンチと植栽。子供が近寄って電車見学ができない仕様。

「華」と銘された金色の裸女像。樹木が後光のようで。意味は不明。

鉄道の街「田端」にちなむ展示物など。
40Kレールとポイントリバー

連結器カバー(東北新幹線200系)

車輪(東北新幹線200系)

希望の鐘。ここにある意図や意味は不明。

静思と銘された女性像。

歴史を感じさせない路面。

新田端大橋と田端ふれあい橋の、JR側の入口。

いつもとはちょっと違う散策もたまにはたのしいもので。

なお、JR西日本ホームからも「田端ふれあい橋」をみることはできますが、やっぱりタイル化粧板に覆われて、残念な感じではある。

※撮影:2024年8月

場所

https://maps.app.goo.gl/mgTye1gbxotTNwUw8


第1師団創立62周年・練馬駐屯地創設73周年記念行事(2024年・練馬駐屯地一般公開)

令和6年(2024年)4月7日。
東京都練馬区にある練馬駐屯地。東京23区内で唯一普通科連隊が所在し第1師団司令部もある首都防衛の要となる実戦部隊の駐屯地。
戦前は、「東京第一陸軍造兵廠練馬倉庫」。

詳細なレポートは、昨年2023年の記事に譲るとして。記念行事と訓練展示を中心に写真多めに掲載していきます。


第1師団創立61周年・練馬駐屯地創設72周年記念行事

第1師団って響きが良いですよね。
昨年は桜が散ってしまっていましたが、今年は桜咲く中での式典。

美しく凛々しく

観閲部隊指揮官の入場。

執行官の入場。

観閲部隊の執行官(頭号師団・第1師団司令官)
兒玉恭幸 陸将

東京都知事
小池百合子


部隊観閲


兒玉恭幸第1師団長(陸将)訓示

兒玉第1師団長
駐屯地行事のテーマ 「戦う?13.2%」の真意を熱弁。
13.2%という、戦う意思のある国民比率が先進国中最低であった日本。しかし武器を持たずとも個々が出来ること、国に貢献し経済を回すことで国を守り、自衛隊とともに国を護る事が出来きる、と。熱弁を。

兒玉第1師団長の訓示。
壇上で話し始めたかと思ったら、話をしながら車に乗り移り、会場を一周しながら熱弁をふるったり。聴き入ってしまう、話の上手さもあり。

師団長式辞(抜粋) 「戦う?13.2%」

https://www.mod.go.jp/gsdf/eae/1d/activity/sonota/sikizi.pdf

 今年の師団祭のテーマは、「戦う?13.2%」。世界価値観調査から引用しました。世界価値観調査の問いの一つに「もし戦争が起こったらあなたは国のために戦いますか?」という問いがあり、戦うと答えた日本人は13.2%で世界79カ国中最低でした。ウクライナが59.6%。ロシアが68.2%。中国が88.6%。最高はベトナムで96.4%であり、日本人の13.2%は、群を抜いて低い数値でした。我が国周辺国は、この数字を見てどのように感じるでしょうか?「侵略しても抵抗しないんじゃないか?」と勘違いするのではないでしょうか?日本が戦争に巻き込まれると日本国内が戦場となり、一般市民の命が失われることが懸念されます。絶対に「抑止」しなければなりません。「抑止」とは他国から戦争を仕掛けられないようにすることです。下手に手を出すと痛い目にあうと分からせるということです。戦争とは国と国との総合力による争いです。第一線で戦う自衛官だけでは、侵略戦争には勝てません。政治や外交、自衛隊の作戦行動を支えるには、国家の財政基盤が維持されなければなりません。そのためには経済活動が重要です。多くの国民が国内にとどまり、ライフラインや食料、エネルギーを維持し、政治・経済・外交活動を支え自衛隊が防衛作戦を遂行していく。すなわち国民一人ひとりにとって戦うとは、自分にできることで国に貢献すること。簡単に言えば「普段の仕事をしっかり続ける事」なのです。

ついで、小池都知事。

訓練展示前の散水。


第一音楽隊 With 石川鈴菜さん

スペシャルゲストで、ミュージカル「Annie」の主演アニーを演じた女優の石川鈴菜さんが登場。 第1師団 第1音楽隊とコラボして、トゥモローを熱唱!!
上手い!
ありがとうございます!

公式動画


第一音楽隊 第一師団らっぱ隊によるドリル演奏


部隊紹介

第1師団隷下の第34普通科連隊(板妻駐屯地)も参加。
陸上自衛隊第三十四普通科連隊は、軍神・橘中佐の静岡歩兵三十四聨隊の部隊番号を引き継ぎ、橘連隊・橘精神を受け継いでいる。

第1師団隷下の部隊紹介が続きます。

第1高射特科大隊(駒門)

第32普通科連隊


訓練展示

状況開始

制圧完了、状況終了

執行官退出


頭号師団慰霊顕彰室

新に設置された頭号師団慰霊顕彰室。史料館の一室に。


練馬駐屯地、あれこれ。

ことしは、石碑の周辺は立入禁止、でした。

撮影:2024年4月


移築整備された野砲兵第一聯隊の馬魂碑(世田谷)

世田谷区池尻・三宿・下馬、駅で言うところの「池尻大橋駅」「三軒茶屋駅」の界隈は「駒澤練兵場」があり、そして3つの陸軍砲兵部隊が駐留していた。
すなわち「三軒茶屋は軍都であった」と言っても過言ではない。


軍都「三軒茶屋」

  • 近衛野砲兵聯隊(昭和女子大・三宿中学校)
  • 野戦重砲兵第八聯隊(都営住宅)
  • 野砲兵第一聯隊(都営住宅)

上記の3聯隊のうち、野戦重砲兵第八聯隊と近衛野砲兵聯隊の記念碑は、陸上自衛隊三宿駐屯地内にある。

しかし、野砲兵第一聯隊の記念碑は残されていない。


野砲兵第一聯隊

野砲兵第一聯隊は、昭和11年の二・二六事件ののちに北満移駐を命ぜられ、そして大戦末期にはレイテ作戦に参加しカンギポット山麓に玉砕。
昭和20年に残存兵力はセブ島に転進し、ゲリラ戦を実施し、そこで終戦を迎えている。
日本陸軍最古の砲兵部隊である栄誉ある野砲兵第1聨隊であったが、国内には記念碑が残されていないが、玉砕したレイテ島・リモン峠には野砲兵第1聨隊の慰霊碑があるという。

そんな、野砲兵第1聨隊が駐留していた世田谷の下馬地区に痕跡として残された馬魂碑が、都営住宅下馬アパート再開発でも失われることなく、移築保存されたのは、なにより喜ばしく。
すこしでも、往時を伝承する軌跡が残ったことに感謝する。

以下、移築先の様子。


野砲兵第一聯隊の馬魂碑

5基の石碑が保存されている。

馬魂碑

詳細は不明

馬魂碑

一番大きな「馬魂碑」

碑の裏面に詳細な記述がある。

我部隊保管ノ軍馬ハ我隊将士ノ死生ヲ倶ニスヘキ戦友ニシテ平戦来時攻々黙々内ニ外ニ多大ノ功績ヲ残セシモノ枚挙ニ遑アラス 
其ノ間不幸或ハ敵弾ニ斃レ或ハ不慮ノ危害ヲ蒙リ或ハ又病魔ニ冒サレ遂ニ死ニ至レル其ノ最後ニ想ヒ到レハ憐憫ノ情ニ堪ヘス
茲ニ犠牲馬ノ霊ヲ祀リ其ノ冥福ヲ祈リ将来保管馬愛護ノ精神的自覚ヲ促サレトシテ此ノ碑ヲ建ツ
 昭和14年12月
  野砲兵第一聯隊留守隊長
   陸軍砲兵中佐 正六位勲四等 原捷吉

野砲兵第一聯隊は、昭和11年から北満に移駐しているために、石碑が建立された昭和14年の段階では、留守部隊が軍馬(保管馬)の世話をしていたことがわかる。
愛馬の愛護憐憫に溢れた慰霊の碑。

馬頭観音菩薩

詳細不明

軍馬梨山号
昭和十一年一月二十四日殉職

馬頭観音

整備中の広場。広場の名称も、まだ不詳。

下馬図書館の近く。

案内図は古いまま。

都営住宅下馬アパート16号棟17棟18棟19棟20棟のあった区画には、
「東京都立青鳥特別支援学校三軒茶屋校舎」が新設された。

場所

https://maps.app.goo.gl/uJcX1qhmt93tWPLP6


野砲兵第一聯隊の兵舎跡

唯一現存する野砲兵第一聯隊の兵営。韓国会館となっている。いつまでの残るかの不安があるが、往時を偲ぶ貴重な建屋。

場所

https://maps.app.goo.gl/17zBp2k5PTNn2uwB6


旅団の電信柱

昭和女子大の近く、「旅団」の名前を残す電信柱があった。
管理の都合、往時のままの名称を用いている「旅団線」通信線。

昭和女子大の西門

※撮影:2024年5月


世田谷関連

移築再整備された東京第一陸軍造兵廠滝野川工場の陸軍用地標石(滝野川三丁目公園)

2022年4月に開園した「滝野川三丁目公園」。
東京国税局滝野川第二宿舎(公務員第二宿舎)などがあった国有地の土地利用転換等に合わせ北区が用地を取得し、構造物の解体・更地化ののちに公園として再整備。

実は、なにげに、再整備公園に設置された案内看板に、弊サイトが写真提供を実施しておりましたが、先日にようやく再訪できた次第。

関連記事


陸軍用地の標石(東京第一陸軍造兵廠滝野川工場)

陸軍用地の標石
この標石は陸軍の旧用地を示す目印とする石です。
滝野川三丁目公園の整備にともない、園内へ移設しました。
【東京第一陸軍造兵廠滝野川工場】
滝野川工場は、東京第一陸軍造兵廠第三製造所として、主に火薬・照明弾・発煙筒などの製造を行っていた。

この案内板にある写真、弊サイトにて、素材提供をしました。

以下、依頼主より

(前略)
さて今回ご連絡させていただきましたのは、ホームページに掲載されている陸軍標石についてです。
現在、公務員第二宿舎だった場所を北区役所が国より引き受け、公園として整備工事を行っております。(当社がその施工を担当)
その公園整備工事経過において、歴史ある陸軍標石を保存し、整備する公園の中に再設置を行い、歴史施設説明サインとともに掲示を行う案が出てきております。
つきましては現在ホームページに掲載してある写真の掲載許可とバックアップ等にて可能であればリサイズしていない元の写真データをご提供いただれば助かります。
ただ現在、陸軍標石の保存と歴史施設説明サインの設置は確定しておりますが、盤面デザインによっては写真の掲載がない場合もありますのでその節は、ご容赦ください。
(後略)

公園施工会社様のメールより

その結果、下記の写真となりました。

オリジナルは下記の写真。2016年5月撮影。

オリジナルは下記の写真。2016年5月撮影。

欠けていた標石の当時の写真は下記。2016年5月撮影。
こちらは掲載見送りになりましたが、併せて移築保存していただけました。

そして、移築された標石。

こうして、歴史の伝承として、綺麗に整備され保存されたのは、なにより喜ばしく、ありがたいこと。


滝野川三丁目公園

※撮影:2024年4月

場所

https://maps.app.goo.gl/UJdsUEZjXxixTkVp6


伊藤整一提督手植えの「父子桜」(杉並区大宮)

一億総特攻の魁となった「戦艦・大和」と、「司令長官・伊藤整一」
伊藤整一提督が、杉並の自宅の庭に手植えをしたという桜は、樹齢80年を超え、今も見事な桜を咲かしている。


坊ノ岬海戦

昭和20年4月6日、沖縄へ海上特攻として出撃した、世界一の大戦艦「大和」。
「大和」は、米軍機との激しい戦闘を繰り広げ、大和は轟沈した。
大和海上特攻を指揮した司令長官が、伊藤整一であった。

昭和20年4月7日14時23分。
大日本帝国海軍の栄光を担った戦艦「大和」。
象徴でもあった戦艦「大和」
一億総特攻の魁として、坊ノ岬沖に散華した。

第二艦隊旗艦「大和」
第二艦隊司令官・伊藤整一中将
第二水雷戦隊旗艦・軽巡「矢矧」 司令官・古村啓蔵少将
第四十一駆逐隊(冬月、涼月)
第十七駆逐隊(磯風、浜風、雪風)
第二十一駆逐隊(朝霜、初霜、霞)

大和・矢矧・磯風・浜風・朝霜・霞が沈没。 戦死は約4000名。


伊藤整一と伊藤叡

伊藤整一
1890年〈明治23年〉7月26日 – 1945年〈昭和20年〉4月7日
海軍兵学校39期。最終階級は海軍大将。

坊ノ岬海戦に出撃した、大日本帝國海軍 聯合艦隊 第二艦隊の司令長官 伊藤整一海軍大将(出撃時は海軍中将)は、昭和20年4月7日に、旗艦大和と命を共にした。

作戦に際して、第五航空艦隊司令長官であった宇垣纏中将は、出撃中の第二艦隊に対して途中まで護衛戦闘機隊を出撃させたが、その護衛戦闘機隊の中に伊藤整一の長男である伊藤叡(あきら)中尉(兵72期)搭乗の零式艦上戦闘機も含まれており、父親の最期を空から見送った。

そして、伊藤長官の戦死から3週間後、搭乗割の変更を自ら申し出て、沖縄特攻に志願した長男・伊藤叡中尉。
伊藤叡中尉は、神風特別攻撃隊直掩隊として出撃。4月28日、伊江島(いえじま)上空に散花した。21歳であった。


父子桜

伊藤整一第二艦隊司令長官が出撃前に、杉並の自宅に手植えをしたソメイヨシノ。
大空襲を乗り越えて焼け残ったその木の根から珍しいことにひとつの枝が伸びた。その姿はまるで戦死した父と子が桜になって共に立っているかのようで、いつしか父子桜と呼称された。

そして、毎年4月7日になると満開の桜の花を咲かせるという。

杉並の伊藤提督手植えの桜は、伊藤整一出身の福岡県みやま市の地域住民を中心とした「大和さくらの会」によって、全国各地へ「父子桜」の苗木植樹活動が行われれている。

なお、杉並の父子桜は、個人宅敷地内となるために、詳細な場所は割愛させていただきます。
場所は、大宮八幡裏手の高千穂大学の近く、国府道沿い、です。

大宮八幡宮の近く。

※撮影:2024年4月


「野重八之碑(野戦重砲兵第八聯隊碑)」と「近衛野砲兵聯隊碑」(三宿駐屯地・陸自衛生学校)

桜の開花タイミングとはずれてしまったけど、世田谷区の三宿駐屯地が一般開放(桜並木の通り抜け)を実施していたので、足を運んでみました。


野重八之碑(野戦重砲兵第八聯隊)

野重八之碑
 下野一霍書

野重八とは、野戦重砲兵第8聯隊のこと。
下野一霍は、最終階級は陸軍中将。
1935年(昭和10年)3月、野戦重砲兵第8連隊長

野戦重砲兵第八聯隊は、我が国最初の機械化砲兵として大正11年8月15日創設せられ昭和20年大東亜戦争の終結に至るまでこの地に在り、その間日支事変及び大東亜戦争に際しては独立野戦重砲兵第八聯隊、同第十五聯隊、同第十六聯隊、同第二十聯隊を編成し十糎加農を装備せる、これら諸隊は軍砲兵として各地に転戦し赫々たる武勲を建てたり。ここに、これら諸隊に属せし元将兵一同これを記念して、この碑を建つ。
 昭和47年4月8日
  野重八会有志


近衛野砲兵聯隊の碑

近衛野砲兵聯隊は明治4年(1871年御親兵砲隊として竹橋に設置せられ、同31年(1898年)6月依頼にこの地に駐屯し、日夜皇居の非常号砲勤務に任じた。
この間、北白川宮成久王、成久王御父子二代にわたり、長期間在隊された由緒深い聯隊である。また西南、日清、日露の各戦役、日支事変、大東亜戦争に従って輝かしい勲功をたてた。
ここに縁故者有志相はかって記念碑をたて永く後世に伝える。
なお、この聯隊歌は昭和7年北白川房子内親王の御作によるものである。
 昭和43年12月
  藤江恵輔

藤江恵輔は最終階級は陸軍大将。
鈴木貫太郎の娘を妻とする。
野戦重砲兵第4旅団長を努めていた。
野戦重砲兵第4旅団隷下に、近衛野砲兵聯隊と野戦重砲兵第8聯隊があった。

北白川房子内親王(北白川宮成久王の妃)
「聯隊歌」の碑

 房子内親王
いぬる明治の大御代に
 屯をここに定められ
 忠勇奉公献身の
 心に生くる世田谷乃
あゝ、わが近衛野砲隊
 名誉は高し
  任重し

縁故者


陸自衛生学校として。

仁の碑

「仁」について
 「仁」は歴代校長の掲げられた衛生学校の指導理念であり、その意味するところは端的に申せば他人に対する慈しみの心である。人が二人と書いて「仁」である。一人は自分であり、もう一人は相手の人である。
 相手に対して自分と同等の人格を認め、相手の喜び、痛み、悩み、苦しみ、そして悲しみを自分のものとして受け止める心が「仁」の心であり、衛生科精神として示されている「骨肉の至情」・「挺身奉仕」の精神そのものに他ならない。
 我々衛生科に職を奉する者は、有事・平時を問わず「仁」に裏付けされた衛生科精神の涵養と衛生科技術の修得に努め、「一人でも多く生き残らせる」衛生支援に徹することが肝要である。
 昭和63年10月吉日
  第18代衛生学校長
   陸将補 芳賀 稔

陸上自衛隊 衛生学校


彰古館(医学情報史料室)

軍事医療、医学情報の史料館。事前申込制。
この日は、非公開でした。


三宿駐屯地 桜の通り抜け一般公開

3月23日の訪問。
例年より開花が遅れ、公開日に桜が咲いていない事態となったが、仕方がない。

わずかに咲いている桜を発見。

散策開放エリアは、衛生学校の中心部のみ。

陸上自衛隊 三宿駐屯地
陸上自衛隊 衛生学校

自衛隊中央病院

正門、ちなみに荷物チェックは無しでした。

防衛装備庁次世代装備研究所もある。

自衛隊中央病院

用廃のUH-1H。

東門。


世田谷区立平和資料館

東門の先には、世田谷公園。
かつては、駒沢練兵場であった。
世田谷公園に資料館があるので足を伸ばしてみた。

いろいろ配布資料もあります。

世田谷の戦跡

世田谷区の主な軍事施設跡地図

大正末期の世田谷地域軍事施設所在地

世田谷区とは関係ないけど、興味深かったのが、
「御真影 勅語 運搬箱」

そのほか

※撮影:2024年3月


関連


用賀駐屯地・陸軍衛生材料廠跡地散策(世田谷)

東京都世田谷区上用賀にあった陸軍の施設。その跡地を散策してみました。
なお、2回にわたり散策しているために、撮影日によって晴天だったり曇天だったりしています。


陸軍衛生材料廠
(現:陸上自衛隊用賀駐屯地ほか)

近代的な軍隊を維持するために、必要不可欠なのが医療衛生機関。
衛生材料と獣医材料等の制作、購買、補給などを行っていた。
もともと帝国陸軍の衛生材料廠本廠は、白金台にあったが大正12年の関東大震災で被災し、昭和4年に用賀に移転した。
また支廠は各師団司令部に付随して開設されていた。

用賀の陸軍衛生材料廠は、現在の陸上自衛隊用賀駐屯地、国立医薬品食品衛生研究所、駒沢大学附属高校、覆馬場などを含むエリアにあった。
陸軍の衛生機関を継承した陸上自衛隊用賀駐屯地は、旧陸軍衛生材料廠の跡地に位置し、米軍の接収を経て1963年(昭和38年)3月31日に開設。旧軍時代から衛生材料の兵站中枢を担っている。

なお、この地にあった「国立医薬品食品衛生研究所」は川崎に移転しており、用賀支処は2029年(令和11年)度以降に防衛省三宿地区(世田谷区・目黒区)に、東京音楽隊は2024年(令和6年)度に東立川地区(立川市)に、それぞれ移転する予定があるという。

移転後の建屋がどうなるかは不明。解体されるかもしれず、いまのうちに見ておくのが良いかも、です。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M871-132_19480329
昭和23年(1948年)3月29日、米軍撮影の航空写真。

一部加工。


陸上自衛隊・用賀駐屯地

2024年3月23日に、用賀駐屯地一般開放が実施されました。桜見学という名目の一般開放でしたが、桜はまだ咲かず、見学者も皆無な状態でしたが、隊員さんの案内ガイド付きで貴重な建屋を見学できました。
ありがとうございます!
案内をしていただいた隊員さんによると、なんと20年ぶりの一般開放だったとか。格別な集客の広報もされていなく、地元周辺住民との交流をメインとした公開は、シークレット的な状態で、かなり偶然の産物で足を運べた私は、かなりラッキーでした。

関東補給処用賀支処

陸上自衛隊用賀駐屯地


陸軍衛生材料本廠跡碑

陸軍衛生材料本廠跡
 元陸軍薬剤中将 田口文太 書

昭和40年5月建立

揮毫した、田口文太は、日本の陸軍で活躍した薬剤師。
東京第一衛戍病院での勤務を経て、陸軍衛生材料廠廠長、陸軍薬剤総監、田辺製薬株式会社顧問、静岡女子薬学専門学校校長(初代)などを歴任。
1931年(昭和6年)に、陸軍省の外局である陸軍衛生材料廠にて廠長に就任。
1935年(昭和10年)には陸軍薬剤総監に就任し、陸軍全体における薬剤師の最高位を占めた。最終階級は陸軍薬剤中将。


陸軍衛生材料廠・蹄鉄工場

現在、陸上自衛隊用賀駐屯地内にある「陸軍衛生材料廠・蹄鉄工場」は、昭和4年の造営。
用賀駐屯地内で許可を得て撮影。

以下は、敷地外から。
「国立医薬品食品衛生研究所」が解体されたので、敷地外からよく見えるようになった。


陸軍衛生材料廠・倉庫建造物3棟

3棟ならんでいる建造物も、陸軍衛生材料廠時代の建物。
南側2棟は、蹄鉄工場と同じく昭和4年造立。北側の1棟は、それよりも新しいという。
ドイツ人の設計による倉庫建造物は、東西南北にそれぞれ出入り口を設けており、倉庫内の東西には庫内の物流をスムーズにするためにレールが引かれている。

レールの跡がわかる。


国立医薬品食品衛生研究所跡地

国立医薬品食品衛生研究所敷地内にも往時の建物があったらしいが、2022年から解体が始まり、すでに更地。


陸軍衛生材料廠・境界壁

外壁は、陸軍衛生材料廠時代のものという。

上部が波打っている意匠的な境界壁は、ほかではあまり例を見ない。

この部分は民家の壁になっている。デザイン的に切り取ったのかもしれない?


「陸上自衛隊」交差点

交差点の名称が「陸上自衛隊」。そのものズバリ。


陸軍衛生材料廠・周辺散策

昭和薬科大学世田谷校舎跡地

駒澤大学高等学校

海上自衛隊 東京音楽隊

※移転予定

JRA覆馬場(馬事公苑)

最寄りの桜新町は、サザエさんの街ですね。

※撮影:2024年3月


関連

陸軍通信隊に接収された「浴風会本館」(杉並区)

東京都杉並区高井戸にある社会福祉法人「浴風会」。
歴史的建造物にして、陸軍に接収された歴史を有するというので、足を運んでみた。


浴風会

社会福祉法人。高齢者医療の浴風会病院や老人ホームなどを運営。

大正12年(1923年)9月1日の関東大震災で自活できなくなった高齢者の援護を行うために、御下賜金や義損金を財源として内務大臣の許可を得て財団法人として大正14年に設立。


陸軍中央通信調査部と浴風会

浴風会は、空襲対象となる地図では白塗り(白抜きは爆撃禁止)となっており、米軍爆撃対象から外れていた。それは、医療施設ということが米軍にも認識されていたからだろうか。
結果として、浴風会は爆撃されなかった。

昭和17年(1942)9月1日に浴風園東館上下を「陸軍参謀本部・陸軍中央通信調査部」に貸与したことから、陸軍の接収がはじまる。
昭和19年(1944)3月25日に西館上を同じく貸与し、5月11日には西館下と礼拝堂を貸与。

昭和20年5月25日に、浴風会本館の第二第三病室、つづいて6月29日に第一第四病室を貸与。
こうして、浴風会の大半を、「陸軍中央通信調査部」が接収することになった。

「陸軍中央通信調査部」とは体外的な組織名で、実際に浴風会を接収していた部隊は「陸軍中央特殊情報部(特種情報部)」(略称:特情部)であった。
特情部は暗号解読や通信傍受などの極秘任務の最高機密情報を取り扱っていたことから、部隊名を隠していたという。

陸軍の北多摩陸軍通信所が、昭和18年に陸軍中央特種情報部(特情部)通信隊と改称し、戦局が悪化すると、この特情部は、「浴風園」に疎開したというものであった。

特情部は、昭和20年8月6日に広島に原爆を投下したB‐29がテニアン島を発進した通信や海外放送でポツダム宣言受諾する通信なども傍受していた。
終戦時に、特情部は、浴風会本館3階で、現存する全機密文書の焼却を実施している。

参考:
https://www.yokufu-hp.jp/about/history.html

https://meigaku.repo.nii.ac.jp/record/474/files/shakaifukushi_146_23-65.pdf

北多摩陸軍通信所


皇后陛下行啓記念碑

正門近くに記念碑がある。

皇后陛下行啓記念碑

昭和12年5月24日 行啓
 昭和13年5月
  浴風会建之

建立時は、銀色で行啓の御道筋が描かれていたようだ。

昭和12年5月24日
皇后陛下浴風園行啓園内御道筋畧図
御道筋銀色線


乙女地蔵

横浜分園(昭和18年廃止の分園)にゆかりのある地蔵。

「乙女地蔵」の由来
 この石碑は、浴風会横浜分園(昭和3年から昭和18年まで設置)勤務の主任看護婦若田ナカさんが23歳の若さで病死されたのを惜しみ、有志の手で昭和17年に建立されたものです。
 若田ナカさんは、昭和11年から当分園に勤務され、同僚からは姉のように慕われ、利用者からは天使のように愛され、青春をかけて献身看護にあたられた方です。
 永らく分園の跡地(現神奈川県立栄養短大)にありましたものを、このたび移設いたしました。
 この碑の表面には「聖ナル使命ニ殉セシ乙女ノタメニコノ碑ヲ建ツ」とあります。
  平成15年9月吉祥日
   社会福祉法人 浴風会

聖ナル使命ニ殉セシ乙女ノタメニコノ碑ヲ建ツ
昭和17年9月吉祥日

笠地蔵
こちらはユーモラス。由来は不詳。


浴風会・本館

大正15年(1926年)8月1日竣工。内田祥三の設計による。内田祥三は東京大学安田講堂を始めとした「安田ゴシック」建物が有名。
「東京都選定歴史的建造物」指定。

昭和20年5月に、陸軍に接収されている。

浴風会本館
東京都選定歴史的建造物
 所在地 杉並区高井戸西1-12-1
 設計者 内田祥三・土岐達人
 建築年 大正13年(1926)

浴風会本館は関東大震災後、高齢・障害のある被災者のために建てられたものである。建設当時は、この本館を中心としてほかの建物をほぼ対称に敷地全体に配置した構成となっていた。
鉄筋コンクリート造り、地下1階:地上2階一部3階建て、壁はスクラッチタイルで大きな窓がある。中央の塔が全体を象徴し、塔で垂直線を強調したデザインを用い、翼部は庇等によって水平線を表している。このデザインは、東京大学安田講堂(設計:内田祥三)と共通するもので、この時代の特徴でもある。
 東京都生活文化局
  平成13年3月

内田ゴシック感のある本館。

完全なシンメトリーではなく、中央の塔がずらしてある。


浴風会・礼拝堂

昭和2年(1927)竣工の礼拝堂。
昭和19年には、陸軍に接収されている。


浴風会・庭園

中庭の庭園。シンメトリーなモニメントもある。

小さな池には、本館を模したミニチュアモニメントもある。

※撮影:2023年12月

※場所:

https://maps.app.goo.gl/2sDHytgYNwaQRYht8


杉並関連

東郷の私設副官と称せられた海軍中将「小笠原長生の墓」(世田谷・府中・伊豆長岡)

小笠原長生は、東郷平八郎に傾倒し「東郷の私設副官」「東郷さんの番頭」「お太鼓の小笠原」などと呼称されるほどに東郷平八郎の顕彰活動・聖将化に多大な影響があった人物。

そんな小笠原長生の墓巡り。

  • 幸龍寺(東京世田谷) 小笠原家の江戸の菩提寺・小笠原家累代墓所
  • 東郷寺(東京府中)  開基を東郷平八郎、副開基を小笠原長生とする寺院
  • 近松寺(佐賀唐津)  小笠原家の唐津の菩提寺
  • 宗徳寺(伊豆長岡)  戦後に隠棲した伊豆長岡の古刹

なお、唐津の近松寺は未訪問


小笠原長生

小笠原 長生(おがさわら ながなり)
1867年12月15日(慶応3年11月20日) – 1958年(昭和33年)9月20日)
海軍軍人(海軍中将)、華族(子爵)。幼名は賢之進。佐賀県出身。
階級位階勲等功級は、海軍中将、正二位勲一等功四級子爵。忠知系小笠原家14代目。

江戸幕府老中を務めた小笠原長行の長男。
明治6年(1873年)9月、忠知系小笠原家13代の義祖父長国(肥前唐津藩主)の隠居により家を相続。
明治17年(1884年)9月に海軍兵学校に入学。同年7月、子爵を授けられる。
明治20年(1887年)7月、海軍兵学校(14期)を卒業。成績は45人中35位。なお、同期には鈴木貫太郎らがいる。

明治37年(1904年)1月、軍令部参謀に就任して日露戦争を迎えた。同年7月、海軍中佐。
軍令部参謀として海軍司令長官東郷平八郎の知偶を得て、その才を認められ、明治44年(1911)に、軍令部出仕兼参謀のまま学習院御用掛となった。ときの学習院院長は乃木大将。

明治天皇崩御の際の乃木大将夫婦殉死前後の大将と深くかかわることになり後事を託され、乃木将軍の長生宛の遺言や常用された書籍類が遺品として長生の手元に残された。

大正3年(1914年)4月から大正10年(1921年)3月まで、皇太子裕仁(昭和天皇)の教育を担う東宮御学問所幹事を務める。このときの東宮御学問所総裁は東郷平八郎。元帥東郷平八郎のブレーンとして伝記や読本などによって東郷の神格化に拍車をかけた。

大正3年(1914年)12月に海軍少将。大正7年(1918年)12月、海軍中将に進級し待命。大正8年(1919年)12月に休職し、大正10年(1921年)4月に予備役編入となり宮中顧問官に就任。昭和20年(1945年)11月まで在任した。

昭和22年(1947年)、公職追放の処分を受けて伊豆に閉居。
昭和33年(1958年)、死去。90歳没。


小笠原長生の墓(世田谷の幸龍寺・小笠原家墓所)

小笠原長生の墓が世田谷区にあるというので、足を運んでみたことから、芋づるで小笠原長生の墓を巡ることになるなど。
まず、足を運んだのが、東京都世田谷区北烏山5丁目に鎮座する「幸龍寺」。
旧唐津藩藩主小笠原家累代墓所でもある。
なお、世田谷区には、海軍軍人として、永野修身、小澤治三郎、堀悌吉の墓もあったりする。

旧唐津藩藩主小笠原家累代墓所がある。

小笠原家之墓

ちなみに、 小笠原長生の父・小笠原長行は当初「谷中墓地」に埋葬されていたが、後年、長生によって幸龍寺に改葬された。

鐵櫻院殿無畏長生日来大居士 
小笠原長生公 
正二位勲一等功四級 
昭和33年9月20日

三階菱の家紋

昭和32年12月建之
 小笠原長生

幸龍寺

なお、幸龍寺には、内海好江師匠の墓や長谷川雪旦の墓(唐津藩御用絵師)もある。

場所:

https://maps.app.goo.gl/6U32EmFr6K6nVnNo8

※撮影:2023年12月


小笠原長生墓(東郷寺境内の供養墓)

府中の東郷寺。
東郷寺は東郷平八郎元帥海軍大将を開基とし、副開基を小笠原長生海軍中将とする、身延山久遠寺を総本山とする日蓮宗寺院。山号は「聖将山 東郷寺」東郷没後に東郷家別荘・農園があった当地に昭和14年(1939)に小笠原長生を始めとする海軍関係者が中心となって建立。

境内の西エリア手前。
東郷寺副開基の小笠原長生子爵(海軍中将)を祀る。

小笠原長生の本墓は世田谷区烏山幸龍寺。
ここ東郷寺は供養墓となる。

東郷元帥墓と小笠原墓は並んで建立。
当地にて死してなお東郷の側にいられるというのは小笠原としては本望極まりないことだろう…

東郷寺の様子は下記にて。

ちなみに、東郷と小笠原以外の著名人として、豊田副武、貞閑勝見、河本大作の墓がある。

※撮影:2017年12月


小笠原家の墓(伊豆長岡の宗徳寺)

昭和20年の敗戦とともに、小笠原長生がが勤めていた宮中顧問官の制度は廃止。
昭和22年、小笠原長生は公職追放となり伊豆長岡の地に隠棲。
昭和29年、 昭和天皇は長岡まで行幸され、小笠原に長年の御辛労に感謝の御言葉をかけられた。その4年後、昭和33年秋、卒。92歳であった。

小笠原家墓

鐵櫻院殿無畏長生日来大居士 俗名 長生
 正二位勲一等功四級 慶應3年11月20日生

昭和28年6月3日
 小笠原長生建之

小笠原長生は昭和33年に亡くなっている。
本墓石は、生前に建立したことがわかる。

ここには、小笠原長生子爵とその母、夫人、継夫人、夭折した息子長孝の名前が刻まれている。

三階菱の家紋

墓所の入口、右側の木立に、小笠原家の墓がある。

軍人墓

伊豆長岡の宗徳寺、山門

長岡山

場所

https://maps.app.goo.gl/99GzSFwURE5G5Aqf7

※撮影:2024年8月


関連

「試験艦 あすか」と「浚渫船 海竜」(東京みなと祭)

2023年5月20日。
東京国際クルーズターミナルで、「東京みなと祭」が開催されました。珍しい艦と船の公開がありましたので、ちょっと足を運んでみました。


東京みなと祭

「船の科学館」から「東京国際クルーズターミナル」に生まれ変わった場所ですね。さくさくっと見学を。


海上自衛隊試験艦「あすか」

ASE-6102 あすか

https://www.mod.go.jp/msdf/equipment/ships/ase/asuka/

海上自衛隊の試験艦。試験専用艦。

正面からみると、艦橋の大きさに圧巻される。


東京都港湾局しゅんせつ船「海竜」

ドラグサクション浚渫船海竜

https://www.kouwan.metro.tokyo.lg.jp/pamphlet/kairyu.html

神棚。船内神社。


宗谷

詳しくはこちら

宗谷のまわりも賑わってますね。よかったよかった。。。

※撮影:2023年5月


板垣退助銅像と板垣退助墓所

青梅に赴いたときに、地図を見ていたら「板垣退助の銅像」と記載があり。
気になったので、赴いてみました。
板垣退助の墓所は、品川に何度か足を運んでいたこともありましたので、せっかくなので一緒に掲載。


板垣退助

天保8年4月16日、4月17日(1837年5月20日もしくは5月21日) – 大正8年(1919年)7月16日。
日本の政治家、軍人としては土佐藩陸軍総督。土佐藩士。
従一位勲一等伯爵。
明治維新の元勲、自由民権運動の指導者。

天保8年4月16日、4月17日(1837年5月20日もしくは5月21日) – 大正8年(1919年)7月16日。
日本の政治家、軍人としては土佐藩陸軍総督。土佐藩士。
従一位勲一等伯爵。明治維新の元勲、自由民権運動の指導者。
東アジアで初となる帝国議会を樹立。
「国会を創った男」。
伊藤博文、大隈重信と並ぶ「憲政の三巨人」の一人。(国会議事堂内に3人の銅像もある。)
国防を重視し、近代日本陸軍創設功労者の一人でもある。

岐阜遭難の時に発せられた「板垣死すとも自由は死せず」の言葉は著名。

板垣退助の銅像

全国に、板垣退助の墓は下記の6ヵ所であるが、芝公園は現存していないので、実質は5ヵ所となる。
・国会議事堂
・芝公園(戦時供出で焼失)
・青梅釜の淵公園(昭和36年建立)
・岐阜公園(板垣遭難の岐阜事件にちなむ、戦時供出され、現在は2代目)
・高知城(出身地、戦時供出され、現在は2代目)
・日光東照宮(戊辰戦争で戦禍を回避した縁、戦時供出され、現在は2代目)


板垣退助銅像(青梅)

青梅市の釜の淵公園に。

明治時代に三多摩自由党の有志が、党首板垣退助を対岸の大柳河原に招いて鮎漁を楽しんだという。
それを記念して、昭和36年(1961)5月3日に建立したもの。

板垣死すとも自由は死せず
 大野伴睦書

自由民権確立のため其の生涯を捧げ、今なお憲政の父と仰がるる板垣先生、かつてこの地に遊ぶ。多摩の老政客・岩浪光二郎翁つとに先生を景慕すること厚く、その偉業を顕彰。以て高風を永く後世に伝えんとす。
ここに先生ゆかりの地を卜し、同志協力してこの像成る。
 昭和三十六年五月
  板垣退助先生銅像建設会
   設計作成 松野伍秀

多摩川の上流。風光明媚な景観。

場所

https://goo.gl/maps/2pNjBG2e5sRiU2RS9


板垣退助像(日光)

戊辰戦争に際して、日光に立てこもった大鳥圭介ら旧幕府軍を説得し日光を兵火から守った。
昭和4年の像は、金属供出され、昭和42年に再建。
2023年9月撮影。

神橋の近く


板垣退助像(岐阜)

工事中でしたので、望遠にて。(2023年9月)

明治15年(1882年)4月6日、板垣退助暗殺未遂事件。
岐阜遭難の時に発せられた「板垣死すとも自由は死せず」の言葉は著名。

岐阜城の近く。


板垣退助像(国会議事堂)

あまり興味のなかった2017年の撮影。これは取り直し、しないといけません。。。。

大日本帝国憲法施行五十周年を記念して1940年の建立。北村西望作。


板垣退助墓

高源院飛び地。
わかりやすくいくと品川神社の裏。
むかしから何故に品川神社の裏にあるんだろと思っていたが、もともと高源院という寺院があったんですね。高源院は、品川東海寺の塔頭であったが、関東大震災で被災し、昭和14年に世田谷区に移転している。寺院が世田谷に移転したのちも、板垣退助の墓所はそのまま高源院の飛び地として品川に残されている。
そのため、品川神社とは関係ない。。。

板垣退助の地元の高知県にも墓所はあるけど、こちらは東京の墓所。

邦光院殿賢徳道圓大居士

大正八年七月十六日薨 享年八十三

従一位勲一等伯爵板垣退助之墓

板垣退助の墓は第4正妻・板垣絹子と並んで建てられている。

品川区指定史跡
 板垣退助墓
  所在 北品川三丁目七番十五号 品川神社裏
  指定 昭和五十三年十一月二十に日(第四号)
 板垣退助は、天保八年(一八三七)に土佐(高知県)で生まれた。幕末に藩主山内豊信の側用人となるが、倒幕運動や戊辰戦争(一八六八)に参加して功績をあげた。明治七年(一八七四)に愛国公党を結成し、自由民権運動をおこした。明治十四年(一八八一)には自由党を結成して総裁となり、近代日本の政党の基礎を築いた。翌年、岐阜遊説中に刺客に襲われたとき、「板垣死すとも自由は死せず」と叫んだことばは、当時の若者達を感激させ湧わかせた。明治二十九年(一八九六)から伊藤内閣や大隈内閣の内相をつとめたが、明治三十三年(一九○○)に政界を引退した。大正八年(一九一九)に亡くなり、この地に葬られた。
  平成七年三月三十一日  
    品川区教育委員会

板垣
 死すとも
自由は
 死せず
   自由民主党
    総裁佐藤栄作書

明治100年及び板垣退助50回忌を記念して建立。

https://goo.gl/maps/QBbxsNPNm3wpdvHd7


品川神社

現在、板垣退助の墓は品川神社を経由しないと訪れることができない。
しなし板垣退助の墓所は品川神社の境内ではなく、高源院の飛び地。

品川神社は関係ないけど、絶対の通り道なので、、、

戦跡として。もはや、板垣退助とはなんら関係ないけど。

忠魂碑(品川神社)

この忠魂碑は明治43年4月に品川町在郷軍人会が日清日露戦争における戦没者の慰霊のため乃木大将の揮毫により当時の東海小学校構内に建立された 其の後昭和7年9月に権現山公園(現城南中学校校舎前)に移し 日支事変・大東亜戦争の戦没者をも加えて慰霊を行なってまいりました。
 昭和20年終戦後占領軍の命令により撤去させられましたが 北品川三丁目田島卯之吉氏が引き取られ千葉県南行徳の源心寺に移され慰霊を行なってまいりました。
 この度源心寺及び田島孝作氏のご厚意により終戦50周年記念事業として品川神社に引き取らせて頂き戦没者の追悼慰霊祭を執り行い平和の尊さを後世に伝えて行きたいと存じます
 平成7年7月15日
   宮司 小泉和夫 識

撮影:2022年3月及び2023年1月


関連

伊藤博文公墓所

「鐵道院」「高田商會」銘のある鋳鉄柱(雀宮駅・大森駅)

かつて、「乗換跨線橋」に使われていた鋳鉄柱が、大森駅と雀宮駅に残っているというので、足を運んでみました。


雀宮駅下りホームに残る「鐵道院銘の跨線橋鉄柱」

跨線橋の柱に使用されていた鉄柱が、外灯として使用され、そしてモニュメントとして保存されている。

雀宮駅旧こ線橋の柱について
 この柱は、かつて雀宮駅で使用されていた乗換えこ線橋の階段下の門柱で、乗換えこ線橋自体は1984(昭和59)年の駅改良工事に伴い撤去されましたが、その後乗降場の外灯として2009(平成21)年まで再利用されていました。
 この門柱は鋳鉄製で、柱下部の刻印のとおり、合資会社高田商會(現株式会社高田商会)の柳島製作所(現東京都墨田区錦糸4丁目の錦糸公園東側付近)にて1912(明治45)年に製作されたものです。
 わが国の鉄道工場で鋳鉄柱が製造されるのは1882(明治15)年からですが、1907(明治40)年の鉄道国有化を境として民間会社でも製造されるようになりました。
 しかし、大正時代になると古レールや形鋼などの鋼材を利用するようになり、急速に廃れてしまいました。
 合資会社高田商會の銘がある鋳鉄柱は、今のところ全国でも当駅と京浜東北線の大森駅東口に保存されているもののみです。
 そのような時代に製造された鋳鉄柱の一つとして、また当時の鉄道建造物の技術を伝える貴重な柱です。  
 2011年3月  
 東日本旅客鉄道会社 大宮支社

「合資会社高田商會」の銘がある鋳鉄柱は、今のところ全国でも当駅と京浜東北線の大森駅東口に保存されているもののみです。
 ↓
雀宮駅もたまたま足を運んだだけで、この鉄柱の存在は知りませんでした。さらには大森駅にもあるというのであれば、大森にも行かないと、、、です。

鐵道院(鉄道院)

合資会社高田商會柳島製作所
明治45年7月製造


雀宮駅上りホームに残る「鐵道院銘の跨線橋鉄柱」

雀宮駅上りホームにも同じようにありました。
こっちは説明の案内看板がないので、ちょっとわかりにくい。。。

鐵道院(鉄道院)

合資会社高田商會柳島製作所
明治45年7月製造

雀宮駅。
実は雀宮駅には「宇都宮駐屯地」「北宇都宮駐屯地」に赴くために利用しました。その時のレポートはまた後日。。。(記事作成前)


高田商会

もともとは、日本の兵器機械商社。日清日露戦争で急成長した。
鉄柱を製造した明治45年(1912、明治最後の年)は、日露戦争からは7年後。
高田商会は兵器機械などの輸入販売業としては業界トップの地位にあたる。
明治40年(1907年)に合資会社に改組している。
しかし大正7年(1918年)に贈賄事件があり、明治10年に創設者の高田慎蔵が病死、1923年(大正12年)の関東大震災で社屋が倒壊、商品が焼失、為替差損もあり、1925年(大正14年)2月に経営破綻、整理会社となっている。
1925年(大正14年)8月に新会社の株式会社高田商会(第二次)が設立。
戦後の1963年(昭和38年)に日綿実業(双日)に吸収されたものの、同年に旧高田商会関係者により株式会社高田商会(第三次)が設立、機械商社として社名を存続している。


大森駅駅前に残る「鐵道院銘の跨線橋鉄柱」

さて、雀宮駅で、もうひとつは大森駅と知ったので、大森駅にも足を運んできました。
これはかなりさり気なく、「鉄道院」ですね。
そして、なにも説明もありません。。。

鐵道院(鉄道院)

合資会社高田商會柳島製作所
明治45年7月製造

雀宮駅でみたものと同じですね。

大森駅

※撮影:2023年5月


第1師団創立61周年・練馬駐屯地創設72周年記念行事(2023年・練馬駐屯地一般公開その2)

令和5年(2023)4月9日(日曜日)
東京都練馬区にある練馬駐屯地。東京23区内で唯一普通科連隊が所在し第1師団司令部もある首都防衛の要となる実戦部隊の駐屯地。
戦前は、「東京第一陸軍造兵廠練馬倉庫」。

陸自第一師団普通科第一連隊の前身にあたる「大日本帝国陸軍第一師団第一歩兵聯隊」に関する関係は「その1」にて。

練馬駐屯地で記念行事があり、一般公開でしたので、行ってみました。
本記事は「その2」となります。写真中心です。


第1師団創立61周年・練馬駐屯地創設72周年記念行事

午前9時開門。8時30分くらいに到着。入場列は出来ていたが、びっくりするほどには混んでいないのが、良かったですね。
そんなに大規模なイベントでもないので、周辺順民の方々とあとは、知る人ぞ知るという感じで集まっている感じ。

陸上自衛隊 練馬駐屯地

第一師団司令部
第一普通科連隊
第一後方支援連隊

頭号師団

石原慎太郎東京都知事の揮毫
平成24年に、第1師団創立50周年を記念して作成。

頭号とは、第一のことを意味しており、「頭号師団」は、文字通りに「第一師団」となる。
大日本帝国陸軍に倣って、頭号師団は、師団司令部を東京に置く師団に付されている。

頭号師団
第一師団司令部

自衛隊東京地方協力本部のゆるキャラ。
トウチ君。
東地本の、トウチですね。

会場配置図


記念式典

営庭

記念式典を見学することにします。

第一普通科連隊

観閲部隊の執行官(頭号師団・第1師団の師団長)臨場前の訓練展示。

観閲部隊の執行官(頭号師団・第1師団司令官)
兒玉恭幸 陸将

国歌斉唱
第1師団第1音楽隊 三等陸曹 綾 愛佳

82式指揮通信車

そういえば、
東京都知事 小池百合子氏も観閲に来ておりました。

第1師団管轄下の都県章旗。
東京、神奈川、埼玉、静岡、山梨、千葉、茨城。

東京都

茨城県

埼玉県

千葉県

神奈川県

山梨県

静岡県

第1師団第一音楽隊

部隊紹介

第34普通科連隊は静岡県御殿場市市の板妻駐屯地。

陸上自衛隊板妻駐屯地のマスコットキャラ
軽装甲機動戦士イタヅマン

部隊紹介とデモが続きますが、覚えきれないし、写真では伝わらないですね。こういうときは動画が良いです。私は動画が撮りませんが。。。

部隊紹介を兼ねた展示が続く。

87式偵察警戒車

油断していると、射撃もあったり。

大きな音がします。ご注意ください!

奥には、16式機動戦闘車

鉄条網の設置

負傷者救出

ヘリ降下。UH-1H/J

部隊紹介展示終了。

観閲式執行者退出。

練馬駐屯地散策

16式機動戦闘車は、けっこう好き。

87式偵察警戒車のデモ展示。
砲塔がぐるぐる回ってました。

155mm榴弾砲 FH70

これって、自走もできるんですね。なかなか見る機会がないので新鮮。射撃準備までの展開をデモしてくれました。

軽装甲機動車の乗車体験もあり、会場内をぐるぐる走行。
略称をLAV(Light Armoured Vehicle)、愛称を「ライトアーマー」
「ラヴ」ですね。

大型トラックの乗車体験会も。
でも、乗るなら、トラックよりも軽装甲機動車のほうが楽しそうだ。

営庭でも乗車体験。こっちは、高機動車、ですね。

撮影:2023年4月


第1師団創立61周年・練馬駐屯地創設72周年記念行事(2023年・練馬駐屯地一般公開その1)

令和5年(2023)4月9日(日曜日)
東京都練馬区にある練馬駐屯地。東京23区内で唯一普通科連隊が所在し第1師団司令部もある首都防衛の要となる実戦部隊の駐屯地。
戦前は、「東京第一陸軍造兵廠練馬倉庫」。

倉庫時代の往時を物語るものはない。。。
しかし、「陸上自衛隊第一師団普通科第一連隊」は、「大日本帝国陸軍第1師団歩兵第1聯隊」の伝統を受け継いでおり、一般公開の機会がありましたので、散策してきました。


練馬駐屯地

昭和5年(1930)、東京第一陸軍造兵廠練馬倉庫が完成し、陸軍用地となる。
昭和18年(1943)、東武鉄道(東上線)の上板橋駅より陸軍第一造兵廠構内駅(東京第一陸軍造兵廠練馬倉庫・練馬倉庫駅)まで線路もむずばれていた。(のちの啓志線)

戦後、昭和26年に警察予備隊が進駐し練馬駐屯地となり、保安隊を経て、昭和29年(1954)より、陸上自衛隊となる。
第1普通科連隊は、23区内唯一の普通科連隊。


歩兵第一聯隊軍旗

「陸上自衛隊第一師団普通科第一連隊」に、受け継がれている、「旧陸軍第1師団歩兵第1聯隊」の軍旗

歩兵第1聯隊軍旗経緯

主旨:本軍旗は、旧軍の軌跡を後世に残すため、歩一会が第1普通科連隊に管理を強く委託したもの。よって、連隊はこの意向を尊重し、経緯を理解して大切に直接保管しなければならない。

・明治7年 
日比谷操練場において明治天皇より軍旗を親授せられる。
・昭和20年
8月15日停戦に伴い全軍軍旗焼却命令があったが、片岡薫第1師団長が旗竿だけを焼き、御紋章と紫穂は裁断のうえ、多人数でお守り袋に偽装して持ち帰るよう命令した。
終戦に伴い、歩兵第1聯隊軍旗フィリピンセブ島から日本本土帰着
・時期不明
歩兵第1聯隊関係者により構成された後の「歩一会」のそれぞれの聯隊員により継ぎ合わされて3旒(本来1旒としたかった。)となったものの戦後の混乱や交通事情等から各々の考えで乃木神社(安川氏等が保管依頼)、練馬駐屯地資料館及び靖國神社に3箇所に別れて保管された。
・昭和32年
4月28日の築地本願寺での「全国戦没者慰霊大祭」挙行されたおりに歩兵第1聯隊出身者約700名が集結、当日「歩一会」結成を全員一致で決議、事後「歩一会」として活動を開始し、毎年5月の総会及び12月の軍旗祭(乃木神社保管の1旒を借り出し、練馬駐屯地保管の1旒と併せて聯隊機を一つとして飾り、物故した創立以来の亡き戦友の慰霊と会員の親睦の会合)を開催、第1普通科連隊と関係を深めていく。(歩一会は、永代、歩兵1聯隊軍旗を第1普通科連隊に保管してもらいたいとの意向を徐々に強くしていた。
・平成22年
3月、戦史に関心のあった中川師団長OBの寺島氏と懇談したのを契機として歩兵1聯隊軍旗の1本化が語られ、6月14日歩一会の安川氏のご尽力により乃木神社で保管されていた歩兵第1聯隊軍旗が第1普通科連隊室に移管された、なお、歩一会の意向として軍旗を1つにしたいとの意向から靖國神社に保管されている分旗もと調整したものの登記しているため不可能と断られた。
・平成23年
頭号連隊顕彰室新設に伴い、一時的に練馬駐屯地資料館で保管されていた軍旗及び第1普通科連隊室で保管されていた軍旗が1つになり頭号連隊顕彰室で保管展示されることとなった。
・令和3年
平成30年、一時的に練馬駐屯地資料館で展示されることとなったが、70周年を控え、舞台の帰属意識を高めて団結を強化するため、大庭師団長の許可を得て、再び第1普通科連隊が保管することになった。なお、安川氏に確認したところ、平成22年当時、歩一会の総意として第1普通科連隊が軍旗を直接管理することを強く要望している由。

歩兵第一聯隊軍旗記
歩兵第一聯隊軍旗は、明治7年12月19日日比谷操練場特設式場において、親しく臨御せられたる 明治天皇より 初代聯隊長 長谷川好道中佐に親授せられたるものなり。
爾来、日清・日露両役をはじめ、日支事変、大東亜戦争等、累次の国難に當り、常に陣頭に立ち誉高き武勲の象徴なりしが、昭和20年8月15日、フィリピン セブ島 アンガラン河畔において、聯隊とその運命を倶にす。
奉焼に際し、御紋章・紫房・鐓・旗竿覆金属片及び残灰を招聘に分ち、ひそかに故国に奉持して奉還せんとす。然るに時に利なく戦争は敗北に終る。幸に任に當れる将兵身を以て軍旗の残片を奉持し辛苦を重ねてそれぞれ故国に皈還するを得たり。
時巳に国家の諸制度革り軍旗を奉還するに由なく、しかもその所在久しく不明なりしが、最近に至り判明せるを以て、宮内庁保管分を中心に可能の限り復元して、在りし日の軍旗を偲ばんとす。
 昭和47年12月19日
  平野斗作撰文
尚軍旗残片の一部は靖國神社及び乃木神社に奉安しあり

練馬駐屯地資料館で預かっていた歩兵第一聯隊軍旗

乃木神社で預かっていた歩兵第一聯隊軍旗


練馬駐屯地内の慰霊碑

慰霊碑エリアは、西門近くに集められている。

合掌

歩兵第1連隊の追悼碑である「明治二十七・八年の役 陣歿者追悼の碑」と「忠勇八士の碑」が練馬駐屯地内にある。
これは、戦後、神奈川県溝の口にあった歩兵第1聯隊留守担当部隊跡に放置されていたものを、1965年(昭和40年)にこれを見かねた歩兵第1連隊を母体とする「歩1会」が第1普通科連隊に要請し、練馬駐屯地へ両石碑を移設したものである。

歩兵第一聯隊の留守部隊が、歩兵第101聯隊として改編され、そして東部62部隊として川崎宮崎台に駐留していた。
宮崎台の戦跡は以下。

明治三十七・八年之役陣歿者追悼碑 忠勇八士の碑 由来

 この両碑は、旧陸軍第一師団歩兵第一聯隊の営庭にありました。同聯隊は明治6年5月、赤坂区桧町(現在の防衛庁所在地)に創設され、昭和11年5月満州へ移駐、昭和19年10月から比島レイテ島作戦に参戦中終戦となり74年の歴史を閉じました。
 終戦と共にこの両碑は神奈川県溝ノ口の歩一留守業務担当部隊跡の畑地に放置されており、聯隊の戦友会である歩一会はこれを見るに忍びず、第一普通科連隊御当局(森山高士一佐)に、頭号部隊の誼をもつて両碑の同隊構内への移設を懇請致しましたところ、ご承諾を得て一切の作業力御提供のもとに完了し昭和40年12月26日落成式を挙行することが出来ました。殉国勇士の慰霊碑が安住の地を得ましたことはえに連隊御当局の御厚志の賜であり深く感謝の意を表するものであります。
 ここに由来を記して後年に留める次第であります。
  昭和59年12月19日
   歩一会
    会長 横田 洋

明治二十七・八年之役陣歿者追悼碑

明治二十七・八年の日清戦争で殉職した126名を追悼

明治二十七八年之役陣歿者追悼碑
 陸軍中将従三位勲一等功三級子爵 山地元治 書

忠勇八士の碑

歩兵第1連隊による富士演習の日射病で殉職した8名を慰霊。

生気放光

扁額は、陸軍大臣陸軍中将の 荒木 貞夫 の謹書

忠勇八士之碑

忠勇八士之碑は、陸軍歩兵大佐 渡 久雄 の謹書

渡 久雄 は、1932年(昭和7年)8月から33年7月まで、第26代目の歩兵第一聯隊長であった。ちなみに前後で、24代は東條英機、27代目は本間雅晴、29代目は牛島満であった。

(8柱 指名略)
右者昭和8年7月2日富士裾野ニ於ケル歩兵第一旅団諸兵連合演習ニ参加シ苦熱ヲ冒シテ任務ニ邁進シ遂ニ軍旗ノ下ニ斃ル茲ニ遺烈ヲ後世ニ傳へテ鑑ト為ス
 昭和8年7月30日建之
  歩兵第一聯隊将兵一同

馬魂

軍馬慰霊碑

殉職隊員 留魂の碑

陸上自衛隊殉職隊員を追悼する慰霊碑

そのほか石碑

戦後の陸自関係の記念碑など。


広報史料館

基地公開日の楽しみの一つが、各駐屯地にある史料館の見学。

安倍さんの国葬儀の写真も掲載されていました。

レイテ島遺品

乃木希典大将の遺品

乃木希典は、陸自第一普通科連隊の前身である「歩兵第一聯隊」の2代目聯隊長であった。

乃木希典が使用した湯呑み

水師営でステッセル将軍と会見したした際に、使用された湯呑み。これは、歴史の一幕を物語る貴重なもの。

歴代の第一師団長と、歩兵第一聯隊長

三十八年式歩兵銃

よね山丸の遺留品
日露戦争の第二次旅順港閉塞作戦で閉塞隊輸送船として出撃。

この手の史料館によくある、軍服コーナーだなと思ったら、、、
由緒のある軍服が混じってまして、びっくり。

陸軍大将 山下奉文 外套

陸軍大将 東條英機 国民服

99式短小銃と38式歩兵銃

啓志線の車輪

啓志線の車輪・線路
昭和十八年、上板橋~東京第一陸軍造兵廠練馬倉庫(練馬駐屯地間)が開通した。
当時は、現在の練馬駐屯地内練風館付近に積み下ろしの駅が存在しており、戦後は光が丘に米軍が進駐し、住宅(グランドハイツ)として利用されたのを機に啓志線は、光が丘まで延長、気動車も運行し、昭和34年に廃止された。
展示してあるこの車輪と線路は、当時練馬駐屯地内で入れ替え作業をしていたトロッコに使用されていたもので、グランドハイツ延長とともに撤去された。
軌道の幅は、60mmで、一般的には軽便鉄道の幅と同じで、急なカーブにも対応できた。隊舎改修の際、練馬駐屯地において偶然発見され展示された。


歩哨舎・連隊門哨所
(警察予備隊普通科第一連隊)

練馬駐屯地の外、西門にある歩哨舎。警察予備隊時代から約20年間は、この場所が正門であった。
一瞬、戦前からの歩哨舎に勘違いしたが、これは昭和26年竣工の先gのの歩哨舎。

連隊門哨所のいわれ
 第一普通科連隊の前身「警察予備隊普通科第一連隊」は、昭和26年9月28日に久里浜駐屯地から練馬駐屯地に移駐した。
 この哨所は、移駐から約2ヶ月後の昭和26年11月15日に竣工して以来、昭和46年11月にこの連隊門(西門)が閉門するまでの約20年間、駐屯地警備に使用された。

歩哨舎を冊得していたら、西門からは、星2つの車が続々と3台続けて出発して行きました。
陸将補クラスかな。

陸自関連の練馬駐屯地の写真は、「その2」にて

※撮影:2023年4月


関連

歩兵第一聯隊碑(歩一の跡碑)は、港区立桧町公園にある。

東京第一陸軍造兵廠の本廠は十条にあった。

都内現存唯一のラジオ塔「聖蹟公園とラジオ塔」(品川)

戦前の日本。まだまだ一般家庭にラジオが普及していなかった時代。
ラジオ普及を目的として、公共空間に設置された公衆ラジオ。ラジオ受信機を塔の内部に収納する。「公衆用聴取施設」として各地にラジオ等が建設された。


聖蹟公園のラジオ塔

品川聖蹟公園のラジオ塔は、公園の開園と同じ年の昭和13年(1938年)に建設された。現在は聖蹟の記念碑とともに並んでいる。
公園内の看板には「灯籠」としか記載されておらず、これが歴史的な意義のある「ラジオ塔」であることが明記されていないのが残念。

寄贈
日の丸奉仕團


品川聖蹟公園

情報量が多い公園。
江戸時代は、東海道品川宿本陣。明治には 明治天皇の行在所となり、昭和には聖蹟公園と。

品川区指定史跡
東海道品川宿本陣跡
 品川宿は、江戸四宿の一つで、東海道五十三次の第一番目の宿駅として発達した。ここはその本陣跡であり、 品川三宿の中央に位置していた。 東海道を行き来する参勤交代の諸大名や、公家・門跡などの宿泊・休息所として大いににぎわったところである。明治五年(1872)の宿駅制度廃止後は、警視庁病院などに利用された。
 現在、跡地は公園となり、明治元年(1868)に明治天皇の行幸の際の行在所となったことに因み、聖蹟公園と命名されている。
 平成14年3月28日
  品川区教育委員会

聖蹟公園の石碑案内
聖蹟公園由来の碑
昭和13年(1938年)聖蹟公園として整備開園するに当たり、その由来を記して東京市が建てたものである。
灯籠
聖徳の碑
東京市品川聖蹟公園開設までの明治天皇品川聖蹟保存会の活動について記録した碑。
御聖徳の碑
明治天皇の行在所になった品川宿本陣跡が昭和十三年(1938年)に東京市の公園となったのを機に設置された碑である。
旗台
石井鐵太郎氏胸像
常に住民の福祉増進と社会福祉の向上に尽くし、昭和五十年に社会福祉国労を検証し名誉区民となった。
夜明けの像
昭和二十四年に二宮尊徳像が建立さられたが、昭和四十二年に石井鉄太郎によって、現在の子どもたちが親しみやすい像ということであらためて新聞少年の像が贈られた。

「灯籠」としか記載されていない「ラジオ塔」。
ちょっと寂しい。

東京市
品川聖蹟公園
昭和13年11月開園

聖蹟公園由来の碑

昭和13年に東京市によって建立された「聖蹟公園由来の碑」。摩耗していて判読不能。。。

御聖徳の碑

昭和13年11月15日建立。聖蹟公園の開園に際し、 明治天皇の御聖徳を記念する碑。

御聖徳の碑

御聖蹟

ボール遊びの弊害かもしれないが、激しく摩耗しており、判別不能。畏れ多いことではある。

旗台

のちに両サイドが増設されたのか、寄贈〇〇、読めなくなっている。

石井鐵太郎氏胸像

品川区名誉区民第一号、という。

夜明けの像

聖蹟公園。
江戸の品川宿から明治の行在所、昭和のラジオ塔まで、地味に歴史が詰まった公園。面白い。

品川区立聖蹟公園

品川宿本陣跡

もちろん本陣跡ゆえに、東海道に面している。

場所

https://goo.gl/maps/q1jUwoM7U1QtX12x7


関連

六郷水門(昭和6年・大田区)

多摩川の下流域を散策していた際に出会った史跡。

六郷水門

昭和6年(1931年)竣工の六郷水門。
2021年(令和3年)に、土木学会推奨土木遺産となる。

六郷水門
名称
 六郷水門
所在地
 東京都大田区
竣工年
 1931(昭和6)年 
選奨年
 2021年 令和3年度
選奨理由 
 六郷水門は、今もなお水門としての機能を保ち、多摩川改修工事や六郷用水の記憶を物語る地域のシンボルとなっており、貴重な土木遺産です。

土木学会推奨土木遺産 https://committees.jsce.or.jp/heritage/node/1160

以下、写真多めで。

六郷水門
昭和6年3月竣工

「郷」の字を「ロ」の字が囲むデザインは、地元である旧六郷町の町章を用いたもの。

六郷排水機場

レンガ造の六郷排水機場。
昭和18年(1943)に生活排水を機械的に排出させるために設置された。

雑色運河

今は公園に組み込まれた船溜まり。

堤内地の舟だまりは、かつては舟運にも利用され、雑色運河と呼ばれたころの雰囲気を残す。

大田区立南六郷緑地

トイレが「六郷水門」の形を模していた。なかなか粋ですね。

※撮影は2021年11月


関連

羽田の赤レンガの堤防(レンガ胸壁)

羽田の平和大鳥居から多摩川を上流に向けて歩いていくと、昔の堤防跡が残っている。
それも赤レンガで造られた堤防。
弁天橋から大師橋の約1.6kmほどの距離に、とぎれとぎれながもレンガの堤防が残っている。

赤レンガの堤防(赤煉瓦の堤防)

かつての多摩川は暴れ川であった。

大正6年(1917年)9月に内務省によって「多摩川改修計画」が立案。
河川改修工事は大正7年度着工、昭和8年度完了(工期16ヵ年)
1632mの築堤は、 イギリス積み工法による鉄筋レンガの胸壁(赤レンガの堤防)となった。

昭和20年4月15日に、東京都大田区のほぼ全域が対象となった城南大空襲の際には、赤レンガ堤の外側で火災を避け避難所とすることができた。
赤レンガ堤防は、多摩川の水害だけではなく、空襲による戦災からも多くの人々の生命財産を守った。

平和大鳥居から弁天橋を渡って多摩川沿いに歩けば、「赤レンガの堤防」の案内地図があります。

赤レンガの堤防と五十間鼻
 羽田のレンガ堤防は、洪水対策として大正から昭和初期にかけて行なわれた多摩川改修工事で建設された。自然堤防上、道路面から腰高ほどのレンガ堤防を建設したのは、堤内外を日常的に往来する羽田猟師町の土地柄への配慮であった。イギリス積み工法による堤防は「赤レンガの堤防」と親しまれ、羽田の原風景ともいえる。そのレンガ堤防の突端、多摩川と海老取川の合流地点には、長さ50間(約90m)の石積みの沈床があり「五十間鼻」と呼ばれる。新防潮堤が完成し隠れてしまったが、今も昔も初日の出の絶景スポットである。

現在の堤防は左側。右の道路に行けば、旧堤防が残っています。

多摩川弁財天は旧堤防の内側に鎮座。

住宅地に連なる煉瓦造りの堤防。これはなかなか圧巻。

ところどころに石段も残っています。

利便性の都合で、ところどころは切断。

防潮板を嵌めたであろう凹み。

陸閘。
当時の出入口のまま、今も出入口で使用している箇所もあります。

住宅を新築しても、赤レンガ堤防を切断しつつも残せるところはわずかでも残していた。

大田漁業協同組合がありました。

断面図。

上部は砂利まじりのコンクリ。鉄筋も見える。

うねり具合が見事で美しすぎる。

曲線美。

ここの防潮板は、だいぶ厚め。二重ですね。

境界杭。

レンガ堤防を撤去した跡。

首都高(横羽線)が見えてきました。
この部分は、レンガをコンクリで塗り固めていますね。

首都高をくぐった先にも、レンガ堤防が伸びています。

羽田の渡しの石碑がありました。

羽田の渡し
 古くから, 羽田漁師町(大田区)と 上殿町(川崎市)を渡る「羽田の渡し」が 存在していたという (現在の大師橋下流, 羽田3丁目で 旧城南造船所東側あたり)。
 この渡しは, 小島六左衛門組が営んでいたので, 「六左衛門の渡し」 とも呼ばれていた。
 渡し場付近の川幅は 約40間(約80m)ぐらいで, 「オーイ」と呼ぶと 対岸まで聞こえたという。
 その昔, 徳川家康が狩りに来た帰りに, お供の者と別れて 一人でこの渡し場に来たところ, 船頭は 家康とは知らずに 馬のアブミを取った という伝説が伝わっている。
 ここで使われた渡し船は, 20~30人の人々が乗れる かなり大きなもので, この船を利用して 魚介類, 農産物, 衣料品など, 生活に必要な品々が 羽田と川崎の間を 行き来していた。
 江戸の末には, 穴守稲荷と川崎大師参詣へ行き交う多くの人々が, のどかで野梅の多かった 大森から糀谷, 羽田を通り 羽田の渡しを利用するため, 対岸の川崎宿では 商売に差しつかえるので, この渡しの通行を禁止してほしいと 公儀に願い出るほどの賑わいをみせていたという。
 また, 明治後期から昭和初期にかけて, 川遊びする船も往来していた。
 物資の交流だけでなく, 人々の生活, 文化の交流など 大きな貢献をしてきた羽田の渡しは, 時代の変化とともに多くの人々に利用されたが, 昭和14年に大師橋が開通したことにより廃止された。
 大田区

赤レンガ堤防の一部も保存されていました。

羽田レンガ堤(レンガ胸壁)の沿革

1 度重なる水害に苦しめられた羽田地区
 羽田は多摩川河口の砂州の上にあったことから、たびたび水害が発生しました。天正17年(1589年)から安政6年(1859年)の間に62回の大洪水があったことが記録されています。明治以降の水害は、明治11年(1878年)、17年(1884年)、40年(1907年)、43年(1910年)の洪水は甚大な被害をもたらしました。

2 羽田レンガ堤の建設
 「水利水運の利便性を高めかつまた洪水及び水害を防ぐ」ことを目的として、大正6年(1917年)9月に内務省によって「多摩川改修計画」が立案されました。堤の整備を含む大規模な河川改修工事は大正7年度着工、昭和8年度完了(工期16ヵ年)しました。
 「多摩川改修工事概要」(内務省東京土木出張所、昭和10年10月発行)には、「羽田地先1632mの築堤の区間は、初め旧堤を拡張する計画であったが、土地の状況を考慮して、工法を変更。旧堤表法肩に鉄筋レンガの胸壁(赤レンガの堤防)を築き、所々に陸閘(りくこう)を設け、堤上は道路に利用することとして、河川住民及び一般の利便を増進させた。」と記されています。また人が堤防をまたぐ為の階段も設けられました。

3 羽田レンガ堤と人々の暮らし
 レンガ堤の外の川側は堤外とか堤外地といわれ、桟橋、造船所、生簀、材木置き場、作業所があり、船大工、魚問屋、鍛冶屋などがなどが住んでおり、船宿や筏宿もありました。昭和20年(1945年)9月21日に進駐軍が鈴木新田(現羽田空港)の住民に48時間以内の強制退去を命じたため、堤外地に移り出てここで生活する人もいました。
 レンガ堤の完成以来、住民は大きな洪水被害も無く安心した生活を過ごすことができました。そして昭和20年4月15日の米軍空襲の際には、赤レンガ堤の外側で火災を避け避難所とすることができました。赤レンガ堤は水害から、そして戦災から多くの人々の生命財産を守りました。
 昭和48年(1973年)、高潮防潮堤として新たに外堤防が完成し、レンガ堤は洪水を防ぐ堤防としての役割を終えましたが、この地域のかつての水防の姿や人々の暮らしの歴史を物語る近代の遺構として姿を留めています。

出典:羽田レンガ堤調査報告書(大田区教育委員会 平成23年3月より)』

旧大師橋の親柱もあった。

場所

https://goo.gl/maps/W2MFCASaB7a3dYm78

羽田第二水門の内側は、赤レンガ堤防が「堤防としてわかりやすく」残っています。

多摩川側は、レンガがそそり立っています。

場所

https://goo.gl/maps/SdjLL1ihuZjkg757A

大師橋をくぐり、歩みをすすめます。この先もレンガ堤防が残っていますね。

羽田神社は、中央の杜。

ここが、レンガ堤防の残っている部分のラスト。

本羽田公園にたどり着きました。

本羽田公園の先には、赤レンガはありませんでした。

1.6キロの赤レンガ散策。なかなか良きものを見ることができました。

※撮影:2021年11月


関連

羽田の平和大鳥居(旧穴守稲荷神社大鳥居)

羽田空港の伝説として、よく語れるのが「羽田の大鳥居」。
羽田の平和大鳥居から、赤レンガ堤防を経由して、六郷水門まで多摩川沿いを散策してみました。

平和大鳥居(旧穴守稲荷神社大鳥居)

昭和4年(1929年)10月建立。
昭和6年(1931年)に民間飛行場として羽田飛行場(東京飛行場)が開業。
昭和20年(1945年)8月15日の終戦後、羽田飛行場を接収したGHQによって穴守稲荷神社は強制遷座を余儀なくされた。
残された穴守稲荷の社殿等はGHQによって破壊。羽田飛行場の駐車場近くに残された大鳥居も撤去対象となるが、作業員が怪我をしたり、責任者が病死したりという怪奇現象により撤去叶わずにそのまま残されることになった。

 この大鳥居は、穴守稲荷神社がまだ羽田穴守町にあった昭和初期に、その参道に寄付により建立されたと伝えられています。
 その後、終戦とともに進駐した米軍により、羽田穴守町、羽田鈴木町、羽田江戸見町の地域一帯に居住していた人々は強制退去され、建物は全て取り壊されました。
 しかしながら、この大鳥居だけは取り壊しを免れて羽田の地に残され、往時を物語る唯一の建造物となりました。
 米軍から、施設が日本に返還された昭和27年7月、東京国際空港として再出発した後も、この大鳥居は旅客ターミナルビル前面の駐車場の一隅に残され、羽田空港の大鳥居として航空旅客や空港に働く人々に親しまれました。また、歳月を重ね風雪に耐えた大鳥居は、進駐軍に強制退去された元住民の方々の「心のふるさと」として往時を偲ぶ象徴なりました。
 昭和59年に着手された東京国際空港沖合展開事業により、滑走路や旅客ターミナルビル等の空港施設が沖合地区に移設され、大鳥居も新B滑走路の整備の障害となることから、撤去を余儀なくされることとなりました。
 しかしながら、元住民だった多くの方々から大鳥居を残してほしいとの声が日増しに強まり、平成11年2月、国と空港関係企業の協力の下で、この地に移設されたものです。
 ここに関係各位に謝意を表するとともに、この大鳥居が地域と空港の共生のシンボルとして末永く親しまれることを念願する次第です。

羽田空港に残された穴守稲荷神社のかつての大鳥居。
現在は穴守稲荷神社の管理ではなく、国土交通省管理となっている。
扁額もかつては「穴守神社」であったが、現在は「平和」と掲げられている。

場所

https://goo.gl/maps/REBV1d1cLjazVNQY9


五十間鼻無縁仏堂

海老取川の対岸に五十間鼻という場所がある。そこに無縁仏が祀られている。
多摩川の下流となり、多くの水難者がこの地に流れ着いたという。

なかでも東京大空襲の犠牲者の多くもこの地に漂着している。
目と鼻の先の羽田飛行場は米軍に接収され、対岸には、犠牲者の無縁仏堂が祀られていた。

合掌

五十間鼻無縁仏堂の由来
創建年代は、不明でありますが、多摩川、又、関東大震災、先の第二次世界大戦の、昭和二十年三月十日の東京大空襲の折には、かなりの数の水難者が漂着致しました。
その方々を、お祀りしていると言われております。
元は、多摩川河口寄りの川の中に、角塔婆が一本立っているだけで有りましたが 初代 漁業組合長 故 伊東久義氏が管理し毎年お盆には、盆棚を作り、有縁無縁の御霊供養を
していました。昭和五十三年護岸工事に伴い、現在地に移転しました。
その後荒廃著しく、仲七町会 小峰守之氏 故 伊東米次郎氏 大東町会 故 伊東秀雄氏 が、私財を持ち寄り復興致しました。
又、平成十六年に、村石工業、北浦工業、羽田葬祭スミヤ、中山美装、中山機設、の協力により新たに、ブロック塀、角塔婆、桟橋、などを修理、増設、現在に至ります。
又、新年の水難祈願として、初日の出と共に、羽田本町 日蓮宗 長照寺 住職 並びに信者の方々が、水難者への供養を、毎年行っています。
  合掌
  堂守謹書

海老取川の両岸に。
左に平和大鳥居、右に五十間鼻無縁仏堂。

場所

https://goo.gl/maps/hAL8P6bqYdZy7qpNA


穴守稲荷神社

遷座した穴守稲荷神社。2014年4月撮影の写真を掲載しておきます。
2020年に改修工事が行われたために、この姿を見ることはもうできない。。。

当時は、神社参拝と御朱印を目的としておりました。。。

場所

https://goo.gl/maps/fihEKsezAFg4PC7T9

※穴守稲荷神社の写真のみ2014年


ねずみ島

多摩川の河口にあるちいさな島。かつて梨の果樹園であった場所が、多摩川の河川改修工事で川幅を広げた際に、取り残され島になった、と。

場所

https://goo.gl/maps/48Bv9e8phuVKhdSE9


関連