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笠寺高射砲陣地の砲台跡(名古屋)

尾張四観音のひとつ「笠寺観音」
戦国時代には、織田の人質になっていた竹千代(徳川家康)と今川に捕らえられた信長の兄・織田信広の人質交換の地ともなった名刹。
そんな「笠寺」の東側の高台「見晴台」に戦時中に高射砲陣地が設けられた。
(愛知県名古屋市南区見晴町47)


笠寺高射砲陣地

昭和17年11月、防空第十五聯隊第五中隊「あそ隊」により、陣地構築開始。
当初は、八八式七糎野戦高射砲4門であったが、昭和18年8月の陣地再構築で2門追加となり6門となった。
昭和19(1944)年4月、防空第十五聯隊は高射砲第百二十四聯隊に改編。
昭和19年11月には高射砲第百二十四聯隊第八中隊「いすず隊」も配置され、名古屋南部防衛陣地として機能した。

八八式七センチ野戦高射砲(八八式七糎野戦高射砲)
口径75mm
最大射程13,800m
最大到達高度9,100m

八八式七糎センチ高射砲は、昭和3年(1928)採用の高射砲。
高初速の高射砲で貫通力も戦ったため、高射砲、野砲、戦車砲などの幅広い用途で活用され、戦争末期には、本土防空戦で、各地の防空高射部隊に大量投入された。

戦後は、公園用地に指定。
昭和39(1964)年、見晴台遺跡の発掘調査が開始。
昭和54(1979)年10月11日、見晴台考古資料館が開館している。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M158-A-6-139
1946年06月07日、米軍が撮影した航空写真を参照。

拡大、メモ入り。
笠寺高射砲陣地に、6基の砲座があることがよく分かる。

Google航空写真との照合。
名鉄と国道と笠寺観音と、見晴台と、位置関係がよく分かる。

笠寺高射砲陣地と見晴台の外周道路、今も変わらない。


笠寺高射砲陣地・第ニ分隊砲台(二番砲の砲床)

6基あった砲台のうち、唯一残るのが2番砲の砲床。

高射砲の砲台跡
太平洋戦争中、現在の笠寺公園には高射砲陣地がありました。
ここは高射砲を据えていた砲台跡です。箱状のコンクリートは砲側弾薬庫です。
当時6基あったうちの2基が残っています。
 名古屋市

6基のうち2基の砲台が残る。
それぞれ、2番砲は砲床を残す。6番砲は砲側弾薬庫を残す。

排水溝とボルト穴の跡

鉄筋が残る。

公園の中に、唐突にあるコンクリートの塊。
手前が2番砲塔、奥に6番砲塔のコンクリートも見える。
そのほかの砲座は消失。


笠寺高射砲陣地・第六分隊砲台(六番砲の砲側弾薬庫)

奥には、六番砲の砲側弾薬庫が残っている。
3つのうち、ほぼ全壊の1つと、半壊の1つ、そして完存の1つがある。

砲側弾薬庫のみ。中心にあるべきの砲床は無い。
もしかしたら、埋まっている可能性もある。

1つ目。ほぼ全壊の砲側弾薬庫。下部しか残っていない。

2つめ。半壊の砲側弾薬庫。覆い部分が破壊されている。

鉄筋が顔を出していた。

3つめ。完全に残っている砲側弾薬庫。
弾薬が詰まっていた箇所には、いまは土嚢が(破けているが)詰められている。

良好な形で残存している。

説明案内は、前述と同文。

高射砲の砲台跡
太平洋戦争中、現在の笠寺公園には高射砲陣地がありました。
ここは高射砲を据えていた砲台跡です。箱状のコンクリートは砲側弾薬庫です。
当時6基あったうちの2基が残っています。
 名古屋市

弥生時代と、昭和の戦争の時代が同居している、見晴らし良好な公園。

場所(笠寺公園)

https://goo.gl/maps/SUoe6gxFPtx6QvPJ8


もともとは、この場所は弥生時代からの古代遺跡の場所であった。
資料館もある。

見晴台考古資料館

内部には考古資料だけではなく、高射砲陣地に関する展示もある。
しかし私が訪問したときは資料館の開業時間外(仕事おわりの夕方に訪問したので17時過ぎ)だったので、見学出来ず。残念。。。

https://www.museum.city.nagoya.jp/miharudai/index.html

https://www.city.nagoya.jp/kurashi/category/19-15-2-8-0-0-0-0-0-0.html

弥生の森


見晴台

笠寺高射砲陣地のあった「見晴らし台」を「笠寺観音」の台地から遠望する。


笠寺観音(笠覆寺)

本笠寺駅が最寄り。

※撮影:2023年5月


関連

「伊保原飛行場」名古屋海軍航空隊跡地の戦跡散策(愛知豊田)

愛知県豊田市浄水町。名鉄でいうところの名鉄豊田線浄水駅。
ここにかつて、飛行場があったという。
近くに赴く機会がありましたので、足を運んでみました。


伊保原飛行場

1940年(昭和15年)に、愛知時計電機株式会社伊保工場の試験飛行場として建設され、軍民共用の飛行場として運用された。なお、愛知時計電機のちに飛行機部門は愛知航空機となる。

1941年に、愛知時計電機株式会社伊保工場の西側に「霞ヶ浦海軍航空隊 名古屋分遣隊」が開隊。
1942年(昭和17年)4月1日、名古屋分遣隊は「名古屋海軍航空隊」に改編となる。
名古屋空は艦爆の実用機教程・操縦訓練が追加され、1945年4月には名古屋空にて艦爆による特攻「神風特別攻撃隊 草薙隊」が編成され、沖縄の米軍艦隊へ特攻が実施されている。

戦後は、開拓地として払い下げられ、また愛知少年院や浄水場なども建設されている。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:97I9-C4-85
1945年04月06日、日本陸軍が撮影した航空写真を参照。

一部拡大。

現在の様子。
不思議なもので、なんとなく滑走路のあった場所が浮かび上がってくる。


開豊神社

戦後に入植した人々により、昭和23年に伊勢神宮から分神を受けて、伊保原神社を造営。
昭和44年に「開豊神社」と改称。現在の社殿は平成29年(2017)建立。
隣には、浄水区民会館がある。
名古屋海軍航空隊時代には、まだ無かった神社。ちなみに、この近隣では北西に鎮座している「射穂神社」が古社(延喜式内社)として有名。

社地の東側に石碑が集まっている。


開拓碑

開拓碑

沿革
 この一帯は元名古屋海軍航空隊の飛行場跡で戦後国の緊急食糧増産対策の一環として開拓された土地である。昭和二十一年七月六 人の人達によって開拓事業が始められた。県追進農場で開拓技術を修練し十七人が地区内に居住した。同年伊保原開拓農業協同組合が設立された。この土地は酸性が強く礫の多い粘土質土壌であった。鍬一丁にたよる開墾は遅々として捗らず収入のない歳月が続いて苦闘の連続で多くの人が離農した。屡々挫折感をおぼえ乍らも歯をくいしばって頑張った。組合は設立以来各種事業を完成し二十六年漸く電灯がひかれた。 その後開拓地としての整備も徐々に行なわれて将来に希望を見出した。三十年代に入って営農が軌道にのりかけた矢先に伊勢湾台風に見舞われ大きな被害を受けたが組合員が一丸となって見事に災害復旧をし組合の経済発展を為し遂げて現在に至っている。なお三十三年和田ヶ池三十六年愛知用水の完成により水田十七ヘクタールが開かれたが開拓者にとって素晴しい光明であった。漸次入植し現在組合員数八一戸耕地面積一七〇ヘクタール余漸くして近代的農業地帯を完成し周辺地区と肩を並べるまでに成長した。これは偏に関係当局の暖かいご指導の賜であり心からの謝意を表しつゝ 茲に組合解散の記念を碑する 
 昭和四六年一二月吉日建立之
  伊保原開拓農業協同組合


神風特別攻撃隊 草薙隊之碑

神風特別攻撃隊 草薙隊之碑

名古屋海軍航空基地で錬成した神風特別攻撃隊「草薙隊」は、鹿児島の国分基地に進出。
そして昭和20年4月6日12日の三次にわたり沖縄本島西方泊地の米艦船に突入した。戦死56名。

合掌。

此の地は昭和十七年四月一日開隊昭和二十年九月二日解散せる名古屋海軍航空隊の址なり 
昭和二十年春 当地に於て神風特別攻撃隊草薙隊が編成され 四月五日 十二日の両日各二十機の九九式艦上爆撃機は鹿児島県国分基地に進出 菊水一号二号四号作戦に参加 同月六日十二日の三次にわたり沖縄本島西方泊地の米艦船に突入 未帰還二十八機戦死五十六 
彼らが眠る沖縄の地が祖国復帰の日を迎うるにあたり有志の協力を得て豊田市在住の元海軍軍人本碑を建立し草薙隊ノ忠烈を永く後世に伝へんとするもの也
 昭和47年4月吉日
  豊田海友会

特別攻撃隊 機付整備員 追記碑


特攻花

特攻花 
 沖縄特攻の激しかったころ、九州南方の飛行場のまわりに黄色く咲き乱れていたこの花は、誰言うこともなく特攻花と呼ばれました。特攻花は見ていました。みんな二十前後の元気な若者でした。飛び立つ者の願いと見送る者の祈りを、花は聞いていました。今も、花は聞こうとする人には、聞こえる声でささやいてくれます。「ホラ、プロペラの音が、風の声が」 

慰霊五十年祭の記念に、草薙隊が発進した第二国分十三塚原から種を譲り受けて育てました。和名「おほきんけいぎく」多年生草木です。 
 平成七年四月 草薙隊之碑保存会

「大金鶏菊(オオキンケイギク)」な「特攻花」は、ありませんでしたが、ちいさな黄色い花(たんぽぽ)が咲いていました。


三十二糎砲弾

三景艦砲弾(32糎砲弾)がおいてある。
終戦の詔勅の一節「万世の為に太平を開かん」が砲弾に添えられている。


錨と消火栓

詳細不明。錨は住友重機械工業の寄贈。

消火栓は、海軍の刻印がのこる。移築かと。


五省の碑

五省
無悖至誠乎
無恥言行乎
無缺氣力乎
無憾努力乎
無亘不精乎

左下が不自然に埋められている。
隠さねばならない揮毫者だったのだろうか。

五省とは、海軍兵学校において用いられた五つの訓戒。

十三塚は、室町時代末期のいわれ。これだけは戦争が関係ない。

場所

https://goo.gl/maps/t1EyPQpdsWidkU239


名古屋少年院の向かいにある駐車場の奥の竹藪。

名古屋海軍航空隊の通信壕

竹藪の中に、壕。

旧日本海軍名古屋航空隊 通信壕
 地下戦闘指揮所(通信施設)と考えられる遺構。コンクリート造の3か所部屋で構成され、通路を挟んで2つが並んで位置し、1つが向かい側にある。並んだ2つの部屋は幅4.1m、高さ2.7m、奥行き9.0mと6.6m。天井がアーチ形で、出入り口丈夫に経10cmの孔が弧を描いて開けられている。2つの部屋は連絡孔と鉄管でつながり、機器の配線用と推定される。向かいの部屋は幅5.0m、高さ1.8m、奥行き1.5mで、向かいの部屋に比べると狭い。

配線用の孔は入口上部に。
四角い凹みは屋根の梁か。

配管

隣の部屋と貫通している孔

上部の換気口。

名古屋少年院
かつての名古屋航空隊の中心にあたる。


名古屋海軍航空隊の門柱

片方のみ残っている。

珍しいデザインの門柱。

場所

https://goo.gl/maps/s7MixNC9UPrJh9Dr6


名古屋海軍航空隊(伊保原飛行場)の滑走路跡

浄水町伊保原北交差点から浄水町原山東交差点の先まで、まっすぐに伸びる道路。このあたりの真っ直ぐな区画が当時の滑走路の名残。

まっすぐな飛行場跡に、戦後、愛知県豊田浄水場が建設された。
昭和47年7月から給水を開始。

浄水駅
昭和54年(1979)の開業。

撮影:2023年4月


関連

板垣退助銅像と板垣退助墓所

青梅に赴いたときに、地図を見ていたら「板垣退助の銅像」と記載があり。
気になったので、赴いてみました。
板垣退助の墓所は、品川に何度か足を運んでいたこともありましたので、せっかくなので一緒に掲載。


板垣退助

天保8年4月16日、4月17日(1837年5月20日もしくは5月21日) – 大正8年(1919年)7月16日。
日本の政治家、軍人としては土佐藩陸軍総督。土佐藩士。
従一位勲一等伯爵。
明治維新の元勲、自由民権運動の指導者。

天保8年4月16日、4月17日(1837年5月20日もしくは5月21日) – 大正8年(1919年)7月16日。
日本の政治家、軍人としては土佐藩陸軍総督。土佐藩士。
従一位勲一等伯爵。明治維新の元勲、自由民権運動の指導者。
東アジアで初となる帝国議会を樹立。
「国会を創った男」。
伊藤博文、大隈重信と並ぶ「憲政の三巨人」の一人。(国会議事堂内に3人の銅像もある。)
国防を重視し、近代日本陸軍創設功労者の一人でもある。

岐阜遭難の時に発せられた「板垣死すとも自由は死せず」の言葉は著名。

板垣退助の銅像

全国に、板垣退助の墓は下記の6ヵ所であるが、芝公園は現存していないので、実質は5ヵ所となる。
・国会議事堂
・芝公園(戦時供出で焼失)
・青梅釜の淵公園(昭和36年建立)
・岐阜公園(板垣遭難の岐阜事件にちなむ、戦時供出され、現在は2代目)
・高知城(出身地、戦時供出され、現在は2代目)
・日光東照宮(戊辰戦争で戦禍を回避した縁、戦時供出され、現在は2代目)


板垣退助銅像(青梅)

青梅市の釜の淵公園に。

明治時代に三多摩自由党の有志が、党首板垣退助を対岸の大柳河原に招いて鮎漁を楽しんだという。
それを記念して、昭和36年(1961)5月3日に建立したもの。

板垣死すとも自由は死せず
 大野伴睦書

自由民権確立のため其の生涯を捧げ、今なお憲政の父と仰がるる板垣先生、かつてこの地に遊ぶ。多摩の老政客・岩浪光二郎翁つとに先生を景慕すること厚く、その偉業を顕彰。以て高風を永く後世に伝えんとす。
ここに先生ゆかりの地を卜し、同志協力してこの像成る。
 昭和三十六年五月
  板垣退助先生銅像建設会
   設計作成 松野伍秀

多摩川の上流。風光明媚な景観。

場所

https://goo.gl/maps/2pNjBG2e5sRiU2RS9


板垣退助像(日光)

戊辰戦争に際して、日光に立てこもった大鳥圭介ら旧幕府軍を説得し日光を兵火から守った。
昭和4年の像は、金属供出され、昭和42年に再建。
2023年9月撮影。

神橋の近く


板垣退助像(岐阜)

工事中でしたので、望遠にて。(2023年9月)

明治15年(1882年)4月6日、板垣退助暗殺未遂事件。
岐阜遭難の時に発せられた「板垣死すとも自由は死せず」の言葉は著名。

岐阜城の近く。


板垣退助像(国会議事堂)

あまり興味のなかった2017年の撮影。これは取り直し、しないといけません。。。。

大日本帝国憲法施行五十周年を記念して1940年の建立。北村西望作。


板垣退助墓

高源院飛び地。
わかりやすくいくと品川神社の裏。
むかしから何故に品川神社の裏にあるんだろと思っていたが、もともと高源院という寺院があったんですね。高源院は、品川東海寺の塔頭であったが、関東大震災で被災し、昭和14年に世田谷区に移転している。寺院が世田谷に移転したのちも、板垣退助の墓所はそのまま高源院の飛び地として品川に残されている。
そのため、品川神社とは関係ない。。。

板垣退助の地元の高知県にも墓所はあるけど、こちらは東京の墓所。

邦光院殿賢徳道圓大居士

大正八年七月十六日薨 享年八十三

従一位勲一等伯爵板垣退助之墓

板垣退助の墓は第4正妻・板垣絹子と並んで建てられている。

品川区指定史跡
 板垣退助墓
  所在 北品川三丁目七番十五号 品川神社裏
  指定 昭和五十三年十一月二十に日(第四号)
 板垣退助は、天保八年(一八三七)に土佐(高知県)で生まれた。幕末に藩主山内豊信の側用人となるが、倒幕運動や戊辰戦争(一八六八)に参加して功績をあげた。明治七年(一八七四)に愛国公党を結成し、自由民権運動をおこした。明治十四年(一八八一)には自由党を結成して総裁となり、近代日本の政党の基礎を築いた。翌年、岐阜遊説中に刺客に襲われたとき、「板垣死すとも自由は死せず」と叫んだことばは、当時の若者達を感激させ湧わかせた。明治二十九年(一八九六)から伊藤内閣や大隈内閣の内相をつとめたが、明治三十三年(一九○○)に政界を引退した。大正八年(一九一九)に亡くなり、この地に葬られた。
  平成七年三月三十一日  
    品川区教育委員会

板垣
 死すとも
自由は
 死せず
   自由民主党
    総裁佐藤栄作書

明治100年及び板垣退助50回忌を記念して建立。

https://goo.gl/maps/QBbxsNPNm3wpdvHd7


品川神社

現在、板垣退助の墓は品川神社を経由しないと訪れることができない。
しなし板垣退助の墓所は品川神社の境内ではなく、高源院の飛び地。

品川神社は関係ないけど、絶対の通り道なので、、、

戦跡として。もはや、板垣退助とはなんら関係ないけど。

忠魂碑(品川神社)

この忠魂碑は明治43年4月に品川町在郷軍人会が日清日露戦争における戦没者の慰霊のため乃木大将の揮毫により当時の東海小学校構内に建立された 其の後昭和7年9月に権現山公園(現城南中学校校舎前)に移し 日支事変・大東亜戦争の戦没者をも加えて慰霊を行なってまいりました。
 昭和20年終戦後占領軍の命令により撤去させられましたが 北品川三丁目田島卯之吉氏が引き取られ千葉県南行徳の源心寺に移され慰霊を行なってまいりました。
 この度源心寺及び田島孝作氏のご厚意により終戦50周年記念事業として品川神社に引き取らせて頂き戦没者の追悼慰霊祭を執り行い平和の尊さを後世に伝えて行きたいと存じます
 平成7年7月15日
   宮司 小泉和夫 識

撮影:2022年3月及び2023年1月


関連

伊藤博文公墓所

「八丁八反の飛行場」児玉陸軍飛行場跡地の戦跡散策(埼玉児玉)

埼玉県は、本庄(児玉)・上里にあった陸軍飛行場。
往時を偲ぶものがいくつかあるというので、足を運んでみた。

児玉飛行場のあったあたりは、上里町・本庄市(旧児玉町)・神川町境の八町八反と地元で呼ばれた地域であったために「八町八反の飛行場」と呼称された。ちなみに「八」は末広がりとしての意味であり、実際の面積ではない。


児玉陸軍飛行場

昭和十八年十月、熊谷陸軍飛行学校児玉教育斑として使用開始。
昭和十九年四月、学徒動員の陸軍特別操縦見習士官200名が入校し、児玉教育隊と改称。
昭和十九年十月、児玉基地と改称。第一四四飛行場大隊が配備される。
児玉基地には、第1航空軍の第27飛行団(飛行団長 野中俊雄)が配備。
特別攻撃隊の基地、拠点となって帝都の防衛、硫黄島攻撃等の重要航空作戦の任に当たった。
昭和二十年八月十五日、児玉基地は、映画「日本の一番長い日」(1967年版)にも登場する。(ただし内容はフィクションなので注意が必要。児玉飛行場からは8月15日に特攻出撃が実施していません。)
現在は、大部分が児玉工業団地となっている。

余談だが、児玉飛行場の第27飛行団長であった野中俊雄大佐は、戦後は富士飛行場の跡地に部下とともに入植開墾し、その地を「靖国」としたと伝わっている。

https://www.at-s.com/news/sengo70/senka/vol06.html


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-R465-No1-203
1947年11月3日に米軍が撮影した航空写真を参照。

一部拡大。

いまでも形がはっきりわかる。


児玉飛行場之跡碑

児玉飛行場跡地の北東側に、慰霊碑を設けた区画がある。

児玉飛行場之跡碑

鎮魂

合掌

碑文
第二次世界大戦の苛烈な戦局下、当地に建設された児玉飛行場の生涯は、まさに戦いの歴史であった、即ち陸軍航空特別攻撃隊の出撃基地として、日本々土に来襲する敵軍の勢を砕く古今未曽有の航空作戦に貢献した。児玉飛行場の栄誉は埼玉県はもとより全国に其の名を馳せている。其の建設を胸に秘める児玉郡下市町村住民の血と汗の協力に拠る「八丁八反の飛行場」こそ日本最後の砦として神洲不滅の奇跡を信じ、各種団体から小学校児童に至るまで、困苦欠乏に耐えつゝ工事に奉仕し、昭和十七年春より約一年有半の歳月を経て完成した。昭和十八年十月熊谷陸軍飛行学校児玉教育斑(初代隊長浅井策大尉)として使用開始し、同校の九十五式一型練習機が初めて児玉飛行場に着陸した。先ず、暁部隊の将校、下士官学生十五名に飛行機の操縦技術を施し前線に送った。続いて、昭和十九年四月学徒動員の陸軍特別操縦見習士官二○○名が入校し、児玉教育隊と改称され、三ヶ月の最短期間に操縦教育を終了し陸軍特別攻撃隊要員として第一線に配属された。又同年八月、第一練習飛行隊の編成を見るや全将兵は、児玉郷の山河に別れ南国ジャワ島に移駐した。同年十月児玉基地と改称、第一四四飛行場大隊が配備され、各分科飛行部隊及び、特別攻撃隊の基地、拠点となって帝都の防衛、硫黄島攻撃、或いは太平洋近海を遊弋する敵機動艦隊に対する攻撃等、重要航空作戦の任に当たった。昭和二十年八月十五日大詔を拝し戦局を結ぶ、児玉基地は、映画「日本の一番長い日」によって全国民に伝えられたが、祖国日本の栄光を背負って戦った、児玉飛行場は尊くも又悲しい無限の教訓を残して、その思い出だけを住民、軍関係の記憶に止どめて日本と運命を共にし、三年有余の歴史を閉じた。我が民族の限り無い雄叫は、歴史の試練に苛なまれ乍らも、同年秋、百十余名の開拓団員の入植となり、農耕地にすると同時に一部は工業団地として再生し今日に至る。戦後三十五年を閲し、往時の留魂、姿を偲ぶ何物もなく、追想のみ錯綜し物心共に漠々たるものを覚ゆる時此の縁故ある地に生存する有志の悲願が凝って記念碑建立の声こんこんとして湧くが如く起る。幸にして地元同志の篤志と物心両面の援助と更に碑建設の諸般に亘り住民各位の甚大なる協力を受けたことはまさに天佑神助と信じ共に感謝するところである。茲に熊谷陸軍飛行学校、第一練習飛行隊第一四四飛行場大隊の関係者並びに地元有志の発願により、児玉飛行場を飛び立ち祖国の為に散華された幾多将士を始め教育訓練中殉職した戦友の冥福を永久に祈り、再び戦争を繰返さないことを願いつゝ世界の平和と日本の繁栄を祈念してこの碑を建立する。
 昭和五十五年十一月十五日 児玉飛行場跡記念碑建設委員会

「八丁八反の飛行場」

観世音菩薩

第四教育飛行隊鎮魂碑
児玉飛行場跡に、護国生死を共にと集いたる第四教育飛行隊に在籍の士が、今茲に訓練中、不幸その任に殉ぜし者、或は米機襲来に斃れし者を部隊終焉の地に、永えに眠られん事を願い、この碑を建立する。
部隊は昭和十七年滋賀縣八日市に飛行第三戰隊北方進出の後を享け軽爆撃機操縦者の戰技訓練を主務とした新設部隊であったが、戰局の推移に鑑み、南方補給作戰更に名阪神地区の要地防空戰斗等の戰斗行動に参加、昭和二十年三月部隊はこの地に移駐、戰局漸く悪化するや本然の任務たる教育訓練から特別攻撃隊の養成へと変遷を経て、振武第二九九隊、三○○隊、三○一隊、三○二隊、三○三隊、三○四隊を編成、沖縄特攻作戰の為南下征途に就かしめた。此の間の訓練においても幾多の尊き命が失われたが屍を越え国の護持に訓練は日夜を分かたず続けられた。 
二十年八月に入るや米機の空襲も熾烈を極め対空戰斗においても戰死者が出るに至った。斯くして頽勢の挽回ならざるまゝに終戰の日を迎えたが、青春の血滾る憂国の至情も詔勅の渙発に旬日を出ずして敗戰の處理を完了、茲にこの児玉において部隊の歴史は閉ざされた。短期間乍ら苛酷な情勢下における児玉飛行場での生活の一日一日は終生忘れ得ぬものがあり、更に幽明境を異にした幾多の戰友をこの地に残したまま家郷に戻らねばならなかつたことは断腸の思であつた。離散の日より三十七年を歴し、今漸く兄等の安住と、兄等に心の再開を願える地を、児玉飛行場之跡碑奉賛会の御厚志により得ることが出来、この碑の建立される日を迎え得た。
庶幾兄等観世音菩薩の慈悲に抱かれ永えに此の地に鎮まらんことを。
 昭和五十七年十月十日 合掌
  八日市会 冲之原会 児玉会

第十五輸送飛行中隊発祥の地

第十五輸送飛行中隊
 発祥の地記念碑
  内閣総理大臣 中曽根康弘

第十五輸送飛行中隊戦死者 
  大松少佐  中田少尉  萩野曹長
  国分中尉  若林准尉  小南曹長
  西田准尉  加納准尉  西沢伍長
  山崎准尉  岡辺曹長  武川兵長
  門屋准尉  遠藤曹長  加藤候補生 
   中隊戦友会建之

却火
大東亜戦争末期の昭和二十年五月から七月に遠く太平洋の波頭を超えて来襲した米機動艦隊のグラマン機によって児玉飛行場は爆撃や機銃掃射の攻撃を受けた。
この爆弾は、戦後の昭和三十五年児玉飛行場跡北西隅の地下二メートルから出土した三発である。
犠牲者の冥福を祈り、久遠の平和を祈念する。
 昭和五十五年一月十五日 
  児玉開拓 岩田七郎

児玉飛行場を空襲した焼夷弾の欠片。

場所

https://goo.gl/maps/vxRECE83L5YCmxw28


立野南公民館(兵舎流用)

児玉飛行場にあった兵舎の一部を移築し再利用した公民館。
なお、出入り口は増築したもの。

拓魂
開拓30周年記念之碑
 
埼玉県児玉開拓農業共同組合

碑文
開拓地は太平洋戦争遂行の為航空後方基地として終戦二年前に完成した旧陸軍児玉飛行場跡地である 
戦後緊急食料増産対策として、基地残留部隊員を基幹として復員軍人引揚者開拓者及び周辺町村の次男三男百十六名を以って昭和二十年十月開墾に着手した 
以来三十年困苦に耐え欠乏を忍んでひたむきの努力を重ねて今日に至る 
ここに三十周年を迎へるに当り今は亡き友と共に入植者の足跡を記し子孫の繁栄を祈りこの碑を建立するものである 
 昭和五十二年四月二十日
  児玉開拓農業協同組合

西瓜記念碑

昭和38年建立。
昭和20年10月に、児玉飛行場跡地に入植した開拓農家がスイカの栽培を初め、児玉スイカとして特産品になった。

場所

https://goo.gl/maps/xcSmcLAFzcEGZu5Q6


上部を伐採されたマキの大木

児玉飛行場の北西。

マキの大木。児玉飛行場を離着陸する飛行機の妨げになるということで、上部をばっっさりと切り取られてしまった。
それでも立派に存在感を発揮しているマキの大木。

上里町指定の天然記念物。 樹齢800年という。

マキの大木の向こうを飛ぶ飛行機。

場所:

https://goo.gl/maps/i7XV1d3iA4UMHNzBA


宝蔵寺の被災石灯籠

マキの大木の隣にあるのが宝蔵寺。
機銃掃射の弾痕が残る石灯籠がある。

無数の弾痕。

場所

https://goo.gl/maps/2Y9BoEQvibjJrf7J6


児玉飛行場の滑走路跡(西側)

飛行場滑走路があった西側から、東に向けて歩いてみます。

このあたりが西端。

場所

https://goo.gl/maps/sQhcYm2TLoc6abe38

滑走路跡の道路。

場所

https://goo.gl/maps/aEAJ42jNSePxbTeb7


児玉工業団地造成事業完成記念碑(共栄公園)

共栄公園は、工業団地の真ん中辺りにある。
すなわち、児玉飛行場の真ん中あたり、滑走路のあったあたりともいえる。

児玉工業団地造成事業
完成記念碑

完成記念碑建立の由来
 この工業団地は、児玉郡市広域市町村圏の地域振興と既成市街地の土地利用の純化を図るため、埼玉県企業局が造成したものである。
 昭和四十七年に事業を開始以来三百六十五名の土地所有者をはじめ、本庄市、児玉町、神川村および上里町その他多数の関係者の深い御理解と御協力を得て、十三年の歳月と約百九十六億円の事業費を投じて一〇六・五ヘクタールの団地造成を昭和五十九年十一月に完了したものである。
 この地域は、かつての共和村、七本木村、長幡村、丹荘村の村境に位置し、通称八丁八反と呼ばれていた。第二次世界大戦末期の昭和十九年には、一部集落の移転を行い、陸軍飛行場が建設されたが、戦後は開拓地として入植農民による野菜栽培等の農業振興が図られ、特に西瓜の特産地であった。
 造成以前は、児玉丘陵を南に望み、上毛の山々や秩父連峰を遠望するのどかな農村地帯であったが、時代の要請により自然環境と調和のとれた近代的な工業団地として生れ変わったものである。
 ここに工業団地造成事業の完了に当たり、この地の由来と土地提供者の氏名を彫刻した記念碑を建立し、永く後世にこれを伝えるものである。
 昭和五十九年十一月吉日
  埼玉県企業局

場所

https://goo.gl/maps/fvxcT98mjiWKcCVA7


児玉飛行場の滑走路跡(東側)

東側は、工業団地となるまえに、入植していた開拓民の集落がそのまま住宅地となっている。

歩いていて、不自然に感じたのが、アスファルトの盛り方。
左右が低くなっていて、じつに歩きにくい路肩であった。

ちなみに当時の滑走路は、マカダム工法で造られたために、いまでも掘ると砂利が出てくるという。

場所

https://goo.gl/maps/oEj8QYSWzfGeVC8d7

児玉飛行場の外周。東端。

セブンイレブン本庄共栄店のあるあたりが、飛行場エリアの北東端。

一昔前は、側溝のコンクリート蓋が往時のまま残っていたが、消失した。


児玉飛行場入口跡(推定)

現在のエステー埼玉工場のあたりが、飛行場エリアの入口であったと推定。
ここより北側は、飛行場エリアに付属する施設エリア。

飛行場の入口からまっすぐに伸びる道路。


児玉飛行場正門跡(推定)

嘉美の信号のあるあたり。
児玉飛行場の正門はこのあたりにあったのではと推測。

場所:

https://goo.gl/maps/Hb5MuGArPVBmSTLw6

近くには、嘉美神社がある。
児玉飛行場のある嘉美の鎮守様。

児玉飛行場に付属する施設エリアの北東端。

児玉飛行場跡地は、公共交通機関のアクセスは芳しくない。
すくないバスをうまく利用して、散策を実施。

ちなみに徒歩7キロで2時間15分歩いていたようです。

※撮影:2023年5月


関連

北宇都宮駐屯地開設50周年記念行事(北宇都宮駐屯地一般公開)

北宇都宮駐屯地の一般公開。
雀宮駅から北側に「北宇都宮駐屯地」があって、南側には「宇都宮駐屯地」がある。
北宇都宮駐屯地は、飛行場があるので、ちょっと趣が異なるのだ。


北宇都宮駐屯地

陸上自衛隊航空学校宇都宮校などが駐屯。
1700mの滑走路を持つ宇都宮飛行場があり、官公庁向け航空機を制作するSUBARU宇都宮製作所南工場と、栃木県警警察航空隊との共同使用となっている。

公式

https://www.mod.go.jp/gsdf/kitautunomiya/index.html


中島飛行機宇都宮製作所飛行場
(宇都宮南飛行場)

中島飛行機宇都宮製作所飛行場として開設。
昭和19年1月に、中島飛行機宇都宮製作所が開設。主に四式戦「疾風」を生産。
昭和20年8月、終戦により、中島飛行機宇都宮製作所は解散、富士産業宇都宮工場となり、平和産業に転換。
のちに富士重工業宇都宮製作所となり航空機の生産を開始。現在は、SUBARU宇都宮製作所南工場が滑走路に隣接している。また、中島飛行機宇都宮製作所は、SUBARU 航空宇宙カンパニーとなっている。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M83-A-6-105
ファイル:USA-M83-A-6-93
1946年3月24日に米軍が撮影した航空写真。

北にあるのが、中島飛行機宇都宮製作所。誘導路で滑走路と結ばれている。

中島飛行機宇都宮工場と南飛行場の位置関係、誘導路などは、いまでもわかりやすい。


北宇都宮駐屯地開設50周年記念行事

本部庁舎

若々しき航空戦士たらん

鵬翼無窮

航空自衛隊宇都宮基地としての石碑。

航空安全


航空資料館(北宇都宮駐屯地)

旧軍関係としては、陸軍航空学校の資料など。

宇都宮陸軍飛行学校は昭和15年の開設。宇都宮陸軍飛行場は、この地ではなく、東方の清原にあった。(現在の清原工業団地)

陸軍航空育ての親
近藤兼利 陸軍中将

宇都宮教導飛行師団長、でもあった。(昭和10年)

こっちは戦後。

航空公園には、いくつかの飛行機が展示。

F-86F(旭光)


宇都宮駐屯地滑走路(宇都宮飛行場)

管制塔

側溝
なんの根拠もないけど、往時からの側溝だと良いな、という気持ち。蓋は新しいので、今と昔と位置関係があっているかどうか、です。

第三格納庫と管制塔

第二格納庫と第三格納庫は一緒。

式典のメイン観覧席になってます。

第一格納庫。
戦後かな。中島飛行機時代は、格納庫は航空写真で確認できなかったので。

体育館

側溝

こういうのが気になります。往時かどうかは不明。

車庫

古そうなものはとりあえず撮影してしまいます。


航空行事

航空学校宇都宮校の教官が操るブルーホーネットの一斉離陸。
ヘリコプターの飛行演舞は珍しい。

練習ヘリコプター(TH-480B)

多用途ヘリコプター(UH-1J)

飛行展示

栃木県警察航空隊と栃木県消防防災航空隊も交えての救難飛行展示

ブルーホーネット(練習ヘリコプターTH-480B)の演舞

CH-47地上滑走の搭乗抽選は外れました。
まだ乗ったことはありません、、、

厚生センターでカレーを。

ごく普通の味わい。

※撮影:2023年5月


関連

宇都宮駐屯地創立73周年記念行事(宇都宮駐屯地一般公開その2)

宇都宮駐屯地の一般公開。
最近は、各地の自衛隊駐屯地などに、機会があれば足を運んでいる。
駐屯地内にも、もちろん戦跡や近代史跡が点在しており、そして資料館もあったりで、見どころ満載なのだ。

本編は、その2。いまのどきなものを。
歴史的な話題は「その1」で。


宇都宮駐屯地創立73周年記念行事式典

陸自駐屯地の記念行事の式典。
基本的な流れはどこも同じだけど、駐屯地ごとの個性もあって、それはそれで面白い。

観閲の指揮官は、駐屯地副司令。

東部方面特科連隊第二大隊ほか、観閲。

執行者は、駐屯地司令。東部方面特科連隊第二大隊の大隊長。

巡閲

「ひげの隊長」こと、佐藤正久議員も多忙の中で来場。自衛隊員に激励の言葉を。

観閲行進

訓練展示(模擬戦)

模擬戦

模擬戦終了。

模擬戦参加車両が反転すると、自衛官募集中!アピールに

16式機動戦闘車はいいですね。


その他

厚生センター

体育館

地元の高校生による書道パフォーマンスも有りました。

作新学院高校

国学院栃木高校

ポスター

チラシ

※撮影:2023年5月


関連

宇都宮駐屯地公式

https://www.mod.go.jp/gsdf/utunomiya/utsunomiyahp/

雀宮駅

宇都宮駐屯地創立73周年記念行事(宇都宮駐屯地一般公開その1)

宇都宮駐屯地の一般公開。
最近は、各地の自衛隊駐屯地などに、機会があれば足を運んでいる。
駐屯地内にも、もちろん戦跡や近代史跡が点在しており、そして資料館もあったりで、見どころ満載なのだ。

本編は、「その1」。歴史的なものを中心に。
いまどきな話題は「その2」で。


宇都宮駐屯地

陸上自衛隊の中央即応連隊や東部方面特科連隊第2大隊等が駐屯。
昭和25年(1950年)に、軍需工場であった関東工業跡地に警察予備隊宇都宮官舎が創設したことに始まる。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M83-A-6-71
1946年3月24日に米軍が撮影した航空写真を加工。

拡大

現在の様子(Google航空写真)


宇都宮駐屯地正門
(旧・関東工業雀宮工場正門)

軍需工場であった「関東工業株式会社 雀宮工場」の跡地に現在の宇都宮駐屯地はある。
昭和19年に関東工業雀宮工場は操業を開始している。主に20ミリ機関砲弾薬などを生産。雀宮駅とは専用の引込線路も引かれていた。

関東工業雀宮工場の門柱が、現在も正門門柱として活用されている。

陸上自衛隊 宇都宮駐屯地
中央即応連隊

東部方面特科連隊第2大隊
第307施設隊

宇都宮駐屯地北門
(旧・関東工業株式会社北門)


旧歩兵第59連隊門柱

歩兵五十九聯隊の営門門柱と哨舎(歩哨舎)が移設保存されている。

旧歩兵第59連隊門柱
明治42年5月21日、旧歩兵第59連隊が、習志野より宇都宮宝木(現 若草)へ移駐した際、新兵舎とともに建築された門柱である。
かねてから門柱の移設については、旧軍関係者の強い要望もありこのたび第四施設群の協力で復元された。
 平成2年3月27日

旧歩兵第五十九聯隊営門


38式野砲

38式野砲
諸元
 口径 75mm
 重量 947Kg
 弾量 6,8Kg
 初速 520/秒
 最大射程 10,700m

特性
この野砲は満州事変、支那事変、大東亜戦争等に主力野砲として参加し優秀性を誇った。機動は馬6頭で索引し日本最初の砲身後座式を採用、明治38年制式化された。
※この砲は戦後米軍が富士重工太田工場に進駐戦利品として展示されていたが米軍引揚げ後富士重工社長横田信夫氏の好意により出品されている。

車輪は木材も使われている。


宝の木

宝の木(学名・猿の手柏)
由来
本木は宇都宮第十四師団司令部設置の際に司令部前庭木として移植されたものである。
現宇都宮市宝木町の町名の由来となった花木の種子より育ったものである。


南京占領記念碑

南京占領記念碑
由来
現NHK宇都宮放送局からこの地に移したものである。

南京戦に際して、中支那方面軍の隷下にあたる第10軍に、第114師団(宇都宮)が参戦していた。
第114師団は、宇都宮第14師団からの特設師団。

摩耗していて判別不可能


宇都宮歩兵第五十九連隊記念碑

宇都宮歩兵第59連隊記念碑
由来
現宇都宮共同高等産業技術校からこの地に移したものである。

第59連隊碑。題字は第17代連隊長の萩原直之。
宇都宮歩兵第59連隊長で著名なのは、第6代聯隊長の松尾伝蔵。二・二六事件で岡田圭右首相の身代わり犠牲となっている。


軍道桜植樹記念碑

軍道桜植樹記念碑
由来
旧第十四師団長官舎前 現栃木地方協力本部(合同庁舎)からこの地に移したものである。

明治四十四年建立。
扁額は、宇都宮の第十四師団長を勤めた鮫島重雄(陸軍中将、最終階級は陸軍大将)
宇都宮グランドホテルのあった場所が、宇都宮師団長時代の鮫島重雄の別邸であった。庭園は別邸時代の名残を残していたが、宇都宮グランドホテルの廃業と再開発で名残も失われることとなった。


防衛資料館

宇都宮駐屯地の資料館。

防衛資料館内部は撮影禁止

陸軍第14師団をはじめとする宇都宮駐屯部隊(第51師団や214聯隊など)のコーナーや、栃木にゆかりのある大山巌元帥関連のコーナーなど、見どころは多数。

参考>

https://www.mod.go.jp/gsdf/utunomiya/utsunomiyahp/siryoukann.html

74式戦車、ほか


防衛資料館前庭の記念碑群

自衛隊関係の記念碑も多数。

守死善道

宇都宮駐屯地愛唱歌
宇都宮の防人

作曲は、船村徹氏。

部隊の歴史

盡忠制海

第307施設隊の歩み

第4施設群


本部庁舎

宇都宮の防人
 平成22年4月吉日

宇都宮駐屯地
創立60周年記念

石灯籠


礎(慰霊の碑)


 栃木県知事
  横川信夫謹書

合掌

慰霊の碑建立のことば
 昭和25年警察予備隊として発足以来自衛隊の今日に至るまで我が国の安全と平和のため陸に海に空に旺盛な責任感と不撓不屈の精神をもって任務遂行中旬職された不滅の霊魂に対し深甚なる敬意を捧げ自衛隊の礎としてその偉勲を永久に顕彰する
 昭和47年10月27日
 栃木県自衛隊駐とん部隊代表
  第十二特科連隊長一等陸佐 今西 四
 慰霊の碑建立委員長
 駐とん地業務隊長二等陸佐 谷中 光雄

駐屯地慰霊碑
 移設記念
  平成2年11月2日

そのほか石碑群。

䢖施乃絆

鈴見池

池?

尚武園

園?

伝統讃えて
第104建設大隊廃止
第4施設群創設   記念
 昭和47年8月1日


そのほか

ちょっと古そうなもの。航空写真と照合してみたけど、戦後かな。

なぞの門柱。。。


四季桜

宇都宮に駐留していた第12特科隊のラベル
第12特科隊は2023年3月廃止され、東部方面特科連隊第2大隊に改編された。

四季桜 特別純米酒
宇都宮酒造

※撮影:2023年5月


関連

宇都宮駐屯地公式

https://www.mod.go.jp/gsdf/utunomiya/utsunomiyahp/

雀宮駅

北宇都宮

やっぱりカレーは金曜日だよね(市ヶ谷)

市ヶ谷といえば、防衛省と靖國神社の最寄り駅。
そんな市ヶ谷のカレー屋さん。
店名がおもしろい。わかる人はわかる「金曜カレー」


やっぱりカレーは金曜日だよね

ランチタイムにちょっと足を運んでみました、カレー屋さん。
エンタメ要素が先行しているお店かと思いつつ、食事をしてみれば、これは美味しい。
味わってみれば、「カレー」も「からあげ」も非常に丁寧に作られていることがわかります。

美味しく楽しい。
これは、通ってしまいますね。月替りメニューで出会えるであろう各地の部隊や基地の味わいも、楽しみ!

公式サイト >

https://yapparicurryfriday.com/

市ヶ谷経済新聞 >

https://ichigaya.keizai.biz/headline/3129/

防衛日報デジタル >

https://dailydefense.jp/_ct/17481890

空と海をイメージした店内で、
全国各地の「海自カレー」と「空上げ(からあげ)」を楽しめるお店。
スタッフもとても好感触で良い雰囲気でした。


海上自衛隊「カレー」

2023年6月。
月替りカレーは、厚木航空基地隊の「厚木勝つカレー(金曜おまけの空上げ付き)」
潜水艦のカレー皿が、楽しい!
ご飯は艦首までびっちりでボリューム満点、美味しい!

サラダとデザートは、飛行機(ブルーインパルス)のお皿。
やばい、楽しい。

大人のお子様ランチっぽい楽しさがある。

航空自衛隊「空上げ」

月替り空上げは、「千歳基地オリジナル空自空上げ」。

食べ終わると、ブルーインパルス。

券売機

2023年6月のメニュー

机の下には、ブルーインパルス

メッセージノートは、埋まったら防衛省広報室に送られる、とか。
また、食事代の15円が子ども食堂への寄付されるという、良き試み。

海自カレー
海上自衛官にとってカレーは元気の源。
長い船上生活で曜日感覚を忘れないため、毎週金曜日にカレーを食べる慣習が定着したと言われています。船艇や基地それぞれに工夫を凝らしたレシピがあり、その数はなんと200以上。当店では、そのレシピを参考に月替わりで提供しています。

空自空上げ
「空上げ」は航空自衛隊食堂の人気メニュー。”空自全体で上を目指す”という想いを込めて「空上げ」と呼んでいます。各基地ごとにご当地の調味料や名物の味からインスピレーションを得たものなど、個性のある美味しい空上げがあります。当店では、各基地の空上げを月替わりで提供しています。

陸自飯 ロコモコ丼(北海道 美幌駐屯基地)
「海上自衛隊=カレー」「航空自衛隊=空上げ」が定着しつつある中、陸上自衛隊は全国の駐屯地毎にバラエティに富んだメニューが勢揃いしています。
その中でも人気のハンバーグをロコモコ丼にシました。

オリジナルグッツもある。

語彙力少ないから、美味しいとしか言ってないけど、美味しい。おすすめ!

場所

https://goo.gl/maps/qsCSDCwsKYxkc4pk6


関連

https://tabelog.com/tokyo/A1309/A130904/13258886/

https://www.hotpepper.jp/strJ001269742/

横須賀で最初の民間トンネル「梅田隧道」

近くに赴く機会があったので、足を運んでみました。
まあ、近くというのは「海軍工廠造兵部」散策のためだったんですけどね。


梅田隧道(梅田トンネル)

トンネルの数が日本一ともいわれている横須賀市。
そんな横須賀で、軍用以外のものとして、民間が掘った一番最初のトンネルが「梅田隧道」であった。

明治19年(1886)、船越新田から田浦および浦郷にかけて、海軍水雷営と水雷修理工場が展開され、海岸地域は軍用地となり上陸禁止。
村民たちは船で往来することが出来なくなり、また生業を奪われた漁民は水雷修理工場等の従業員に転じ、いくつかの山路を越えて工場へ通勤するようになった。往来の不便を解消するために山坂を避けて梅田坂に新道を作ることに決め、地元有志の私財でもって、梅田隧道は、明治20年(1887)に素掘りで開通。
トンネルの掘削で出た残土は榎戸の渡船場周辺から日向にかけての埋立てに利用され、またトンネルの開通によって、それまで何時間もかけて山越えして海軍工廠造兵部に通う従業員たちは、往来が大変便利となった。

海軍工廠造兵部は、現在の東芝ライテックのあるあたりが中心。
(海軍工廠造兵部関連散策記事は後日、未作成)

横須賀市>

https://www.city.yokosuka.kanagawa.jp/2744/walk_taura/b10008.html

カナコロ>

https://www.kanaloco.jp/news/life/entry-199035.html

南側の坑門。

梅田隧道

現在は、鉄板で保護されている。

北側の坑門。

梅田隧道


梅田隧道碑(梅田隧道之碑)

大正4年(1915)11月建立。
碑は梅田隧道の北側口から約140mのところにある。
高さ160㎝ほどで、1行35字、18行にわたり田辺新之助による漢文と詩が刻まれている。
扁額は海軍大将樺山資紀。

横須賀市>

https://www.city.yokosuka.kanagawa.jp/2120/g_info/l100004013.html

横須賀市指定市民文化遺産
梅田隧道碑
軍用以外では、本市で最初のトンネルで、近隣町村の有志が多額の費用を出し合い、明治20年3月に完成した。碑は大正4年に建てられた。

梅田隧道碑について
 かつて日向、榎戸地区では大勢の人が漁業で暮しをたててゐましたが、明治十五年、船越に海軍水雷艇基地や修理工場ができて、周辺の港は軍用になつたので、多くの人は生活の手段を奪はれ、軍関係の工場で働くやうになりました。しかし通勤は険しい山坂を超えて行かなければならないので、難渋をきはめました。そこで田川幸蔵、渡辺富太郎らの地元有志は、村の発展と通勤者の便宜を図るため、私財を投じてトンネルを掘る決心をしました。工事は明治十九年五月から始まり、二人の犠牲者を出すといふ難工事の末、二年を経て完成して、梅田隧道と命名されました。
 横須賀市内では民間人が掘つた初のトンネルで、国に頼ることなく、すべて自力でやり遂げ、今でいふボランティア活動の先駆けといつてよいでせう。大正四年、先人たちの努力と功績を後世に伝へるため、この記念碑と建てました。
 題字は海軍大臣などをつとめた樺山資紀、顕彰碑文は逗子開成中学(現在の逗子開成学園)の創立者で、漢学者の田辺新之助が書いたものです。

樺山資紀の扁額

梅田隧道之碑

※撮影:2023年4月

場所

https://goo.gl/maps/Djfje3d1bMAyatn8A

https://goo.gl/maps/14RPJkB9tuDt9Qb79


「鐵道院」「高田商會」銘のある鋳鉄柱(雀宮駅・大森駅)

かつて、「乗換跨線橋」に使われていた鋳鉄柱が、大森駅と雀宮駅に残っているというので、足を運んでみました。


雀宮駅下りホームに残る「鐵道院銘の跨線橋鉄柱」

跨線橋の柱に使用されていた鉄柱が、外灯として使用され、そしてモニュメントとして保存されている。

雀宮駅旧こ線橋の柱について
 この柱は、かつて雀宮駅で使用されていた乗換えこ線橋の階段下の門柱で、乗換えこ線橋自体は1984(昭和59)年の駅改良工事に伴い撤去されましたが、その後乗降場の外灯として2009(平成21)年まで再利用されていました。
 この門柱は鋳鉄製で、柱下部の刻印のとおり、合資会社高田商會(現株式会社高田商会)の柳島製作所(現東京都墨田区錦糸4丁目の錦糸公園東側付近)にて1912(明治45)年に製作されたものです。
 わが国の鉄道工場で鋳鉄柱が製造されるのは1882(明治15)年からですが、1907(明治40)年の鉄道国有化を境として民間会社でも製造されるようになりました。
 しかし、大正時代になると古レールや形鋼などの鋼材を利用するようになり、急速に廃れてしまいました。
 合資会社高田商會の銘がある鋳鉄柱は、今のところ全国でも当駅と京浜東北線の大森駅東口に保存されているもののみです。
 そのような時代に製造された鋳鉄柱の一つとして、また当時の鉄道建造物の技術を伝える貴重な柱です。  
 2011年3月  
 東日本旅客鉄道会社 大宮支社

「合資会社高田商會」の銘がある鋳鉄柱は、今のところ全国でも当駅と京浜東北線の大森駅東口に保存されているもののみです。
 ↓
雀宮駅もたまたま足を運んだだけで、この鉄柱の存在は知りませんでした。さらには大森駅にもあるというのであれば、大森にも行かないと、、、です。

鐵道院(鉄道院)

合資会社高田商會柳島製作所
明治45年7月製造


雀宮駅上りホームに残る「鐵道院銘の跨線橋鉄柱」

雀宮駅上りホームにも同じようにありました。
こっちは説明の案内看板がないので、ちょっとわかりにくい。。。

鐵道院(鉄道院)

合資会社高田商會柳島製作所
明治45年7月製造

雀宮駅。
実は雀宮駅には「宇都宮駐屯地」「北宇都宮駐屯地」に赴くために利用しました。その時のレポートはまた後日。。。(記事作成前)


高田商会

もともとは、日本の兵器機械商社。日清日露戦争で急成長した。
鉄柱を製造した明治45年(1912、明治最後の年)は、日露戦争からは7年後。
高田商会は兵器機械などの輸入販売業としては業界トップの地位にあたる。
明治40年(1907年)に合資会社に改組している。
しかし大正7年(1918年)に贈賄事件があり、明治10年に創設者の高田慎蔵が病死、1923年(大正12年)の関東大震災で社屋が倒壊、商品が焼失、為替差損もあり、1925年(大正14年)2月に経営破綻、整理会社となっている。
1925年(大正14年)8月に新会社の株式会社高田商会(第二次)が設立。
戦後の1963年(昭和38年)に日綿実業(双日)に吸収されたものの、同年に旧高田商会関係者により株式会社高田商会(第三次)が設立、機械商社として社名を存続している。


大森駅駅前に残る「鐵道院銘の跨線橋鉄柱」

さて、雀宮駅で、もうひとつは大森駅と知ったので、大森駅にも足を運んできました。
これはかなりさり気なく、「鉄道院」ですね。
そして、なにも説明もありません。。。

鐵道院(鉄道院)

合資会社高田商會柳島製作所
明治45年7月製造

雀宮駅でみたものと同じですね。

大森駅

※撮影:2023年5月


東郷神社で海軍ゆかりの戦跡散策

元帥海軍大将 東郷平八郎 を祀る東郷神社。
海軍ゆかりの史跡戦跡を求めて、境内を散策してみました。


東郷神社関連の記事

以下も参照で。いろいろ記事が重複しますが。


第一駆逐隊奉納の大燈籠

第一駆逐隊に所属した戦没者を慰霊するために奉納された大灯籠。
東郷神社の参道に。

第一駆逐隊
第一駆逐隊は日露戦争直前の明治三十六年(一九〇三年)我国最初の駆逐隊として編成され 日露戦争に参加ののち 大正九年迄艦隊第一線で活躍後 一旦 解隊された  大正十一年(一九二二年)改めて第一駆逐隊が野風 沼風で編成され 続いて波風 神風が加わり 昭和初期まで 聨合艦隊の新鋭駆逐隊として活躍した その後は主に大湊(むつ市)を基地としてオホーツク海及び千島列島 カムチャッカ半島沿岸の漁業保護に尽力その発展に大きな力となった  大東亜戦争では北はアッツ キスカ方面から南は印度洋ジャワ方面まで幾多の戦闘に参加 野風 沼風は勇戦空しく沈没したものの神風 波風は一部損傷を受けたが最期迄戦い抜き 神風はシンガポールにおいて 波風は瀬戸内海で終戦を迎えた この間渡辺保正司令 山下喜義沼風艦長外五百四十名の方々が国に殉じられた この燈篭は青春を国に捧げ 若くして戦に殉じた勇敢な戦友と 最後まで海上で戦い抜き 戦後の復興に尽力 物故した乗員の霊を慰め 我が国永遠の平和を念願して 駆逐艦神風会が 駆逐艦波風会有志及び司令各艦乗員御遺族ならびに この主旨に賛同の方々の協力をえて建立 奉納したものである
 昭和六十二年六月二十日  
  駆逐艦神風会

第一駆逐隊

駆逐艦
神風 
野風 
波風 
沼風

昭和六十二年六月吉日 
奉納 
第一駆逐隊

昭和六十二年六月吉日 
奉納 
神風会


水交神社鳥居

東郷神社の庭園に移築保存されている。
水交社の後進にあたる水交会の本部は、東郷会館にあった。

水交神社鳥居の由来
この鳥居は、もと築地・海軍用地(現在の東京中央卸売市場)の水交社敷地内にあった水交神社の二代目の鳥居です。 水交神社は、日清戦争に際し、海軍の戦勝を祈願し全国から寄せられた神符・護符を奉安し、また同戦役以後の戦没社員の霊を合祀するため創建された神社で、その初代の鳥居は戦利品の魚雷で作った異形のものであったため、明治四十四年に神明鳥居に建替えられました。 水交神社とその鳥居は、関東大震災の災禍をまぬがれ、昭和三年に水交社が芝区栄町(現在の東京タワー北西隣)に移転した際、同地に遷座されました。その后社殿は昭和二十年三月の東京大空襲で焼失しましたが、この鳥居だけは毀損をまぬかれました。しかし戦後、東京水交社の建物と共に進駐軍に接収され、その後曲折を経て昭和五十六年、同地に新しくビルが建てられることになったので、鳥居は(財)水交会に返還され、同年六月十五日、由縁深い東郷神社へ奉納されたものであります。 この鳥居は、半世紀もの間、変転する日本海軍を見つめつづけ、二度の大災禍にも堪えてきたものであります。そして皇族方や海軍大臣以下多くの武官文官、また水交神社で結婚式を挙げた方など、この鳥居をくぐった人々は数えきれません。
  以上

水交神社鳥居は、築地の水交社にあった明治44年造の二代目鳥居。
昭和3年に水交社とともに芝に移転。
その後は東京水交社とともに進駐軍に接収され、昭和56年に現在の(財)水交会に返還。
同年に東郷神社に奉納された。
この鳥居は日本海軍の栄光と苦難をともに歩んできた往時を知る貴重な鳥居。

水交社

明治四十四年十月建之


東郷元帥を讃える歌の歌碑

東郷元帥を讃える歌
「天地日月のむた大き洋の大きいさをは輝きとほる」
佐佐木 信綱


大正12年に開設された我が国初の公園墓地多磨霊園名誉霊域開設時、最初に葬られたのが東郷元帥。
霊園表門を入って直ぐのところに佐佐木信綱氏の東郷元帥を讃える歌の歌碑が建っていました。
元帥国葬から約1年の間、大森すみ子氏が墓守をしており、師事していた歌人佐佐木信綱氏に染筆を願い、昭和14年に建立したものです。
多磨霊園休憩所大森茶屋の大森和夫氏(大森すみ子氏の御令孫)より令和2年12月東郷神社に奉納されました。

こは東郷元帥を偲ひまつりて
 佐佐木信綱博士の詠せられしを博士に染筆を請ひたるなり
  昭和14年 大森すみ子誌


手水・洗心

洗心
 野村直邦謹書

野村直邦は、海軍大将。東郷内閣末期の海軍大臣(嶋田繁太郎の後任)であったが、就任の翌日に東郷内閣は退陣。後継の小磯内閣では米内光政が海軍大臣となったため、野村は合計6日間のみの海軍大臣であった。

瀬戸海のもづくの
幸のめでたさを祈り
祝ひて水屋捧げむ
 廣島縣 倉橋堀榮助

食糧難に際して、モズクの採取で貢献したという倉橋の堀榮助。


海軍経理学校正門敷石

東郷神社の手水舎の前に移設された旧海軍経理学校の正門敷石。

御水舎の前の敷石は 海軍經理學校正門の敷石として使用されたものであります

海軍經理學校正門敷石
海軍經理學校の沿革
 明治七年十月、芝山内天神谷に設けられた海軍會計學舎は幾度かその名稱を変え明治四十年に海軍經理學校となった。  この間校舎も数度位置を変えて、明治二十一年に築地の松平樂翁公邸の浴恩園跡に移り、更に昭和七年同じ築地の隅田河畔(現在の勝鬨橋右岸)に移築された。  昭和二十年九月、七十一年間の歴史を閉じるまでの同校出身者は一萬名を超え海軍主計科の基幹要員として海軍戦力の一翼を担い輝かしい功績を挙げた。その間諸戦役事変に際會して國に殉じた者も数多く、又軍務を離れても各界各方面で活躍し我が國の興隆發展に多大の貢献そしている。
 昭和五十五年五月  
  浴恩會(海軍經理學校同窓會)


海軍特年兵之碑

海軍特別年少兵(特年兵、14歳からの志願兵)の碑。
昭和46年5月16日、高松宮同妃殿下の御台臨を仰いで除幕式が挙行された。

海軍特年兵之碑

昭和の白虎隊
海軍特年兵の説明が碑の裏側に記されています
是非御覧下さい
 海軍特年会

香淳皇后御歌
 やすらかに
  ねむれとぞ思ふ
 君のため
 いのちささげ志
  ますらをのとも

あゝ特年兵
  作詞 山口純
  作曲 三島秀記
時代はどんなに変わっても
胸にながれる 魂は
いついつまでも 咲き香る
真実の平和を 祈りつゝ
燃えた生命よ あゝ 特年兵

戦争のこわさも その意味も
知らないまゝで 童顔に
お国のため の 合言葉
一ずに抱きしめ 散った花
十四才の あゝ 夢哀し

海軍特年兵
 あゝ十四才 大日本帝国海軍史上 最年少の勇士である 少年兵より更に二才も若く しかも特例に基ずいたものであつたため 特別年少兵 特例年令兵の名があり 特年兵と略称された
 昭和十六年 帝国海軍はその基幹となるべき中堅幹部の養成を目的にこれを創設した
 太平洋戦争の時局下に 純真無垢の児童らが一途な愛国心に燃えて祖国の急に馳せ参じた その数は十七年の一期生三千二百名をはじめ 二期生約一万七千二百名におよんだ 横須賀 呉 佐世保 舞鶴の四鎮守府に配属されて活躍した 戦場での健気な勇戦奮闘ぶりは 昭和の白虎隊と評価された だが反面 幼いだけに犠牲者も多く 五千余名が 南溟に或は北辺の海に短い生命を散らした しかし 特年兵の存在は戦後 歴史から忘れられていたため 長い間 幻の白虎隊という数奇な運命をたどつていた このままでは幼くして散つた還えらぬ友が余りにも可哀想であり その救国の赤誠と犠牲的精神は 日本国民の心に永遠に留め 讃えねばならない 英霊の声に呼び覚まされたかの如く 二十五回目の終戦記念日を迎え
た四十五年 俄に特年兵戦没者慰霊碑建立運動が高まつた 戦火は消えて二十六年の長い歳月の後に 多くの人たちのご協力によつて碑が こゝ東郷神社の聖域に建立されるに至つた そして幻の
特年兵はようやく蘇つた そのうえ 特年兵たちが 国の母と崇めた皇后陛下の御歌を碑に賜わり母と子の対面の象徴として表わしこゝに刻む
 除幕式には 特年兵にもゆかりの深い高松宮両殿下の御台臨を仰ぐ栄誉に浴した また 全国の生存者が亡き友の冥福を祈るため それぞれ各県の石四十七個を持ち寄り 碑の礎に散りばめた
 吾々は 今は還えらぬ幼い戦友の霊を慰め 永遠に安らぎ鎮まらむことを願うと共に 特年兵を顕彰し その真心と功績を後世に伝え 祖国繁栄世界平和を祈願しながら尽力することをこゝに誓う
 昭和四十六年五月十六日
  海軍特年兵生存者一同
  建立委員長小塙清春撰文謹書

碑銘 揮毫 
昭和四十六年五月十六日  
元 海軍大臣 海軍大将 野村直邦敬書

こちらも野村さんの揮毫でした。


東郷蔵

東郷蔵由来
昭和20年5月の戦災に依り麹町三番町の東郷邸も土蔵一棟を残して一切焼失しました。同23年5月麹町区はこの土蔵を東郷神社境内に移築して30数年が経過し損傷も激しくなったので元帥の50年祭に当り従前の蔵の姿を模して少し大きく不燃建物にて新築した記念の蔵です。
 昭和59年5月28日 社務所


潜水艦殉国碑(伊33潜潜望鏡)

太平洋戦争中に亡くなられた全ての潜水艦関係者の英霊を慰霊する。
殉国の碑。
潜水艦横断面を型どった碑の司令塔部分には、伊号33の潜望鏡が取り付けられている。

殉國

潜水艦勇士に捧ぐ
 太平洋戦争中百二十餘隻の潜水艦と共に戰没された一万餘人の乗員諸君 特殊潜航艇及び 回天決死隊諸君 また諸公試 演練に殉難された諸君 諸君の遺骨は海底深く沈んで之を回収 する途がない
しかし それは国難に赴いた諸君の忠誠が そのまま其戰場に在ることを意味する 民族の急 を救うべく戰った犠牲の精神は永えに其処に活きている 
 残された潜水艦関係の吾等は個人と法人と併せて幾千常に諸君の英霊の坐する海底を見 つめている 願わくは日本国民の全部も ありし日の諸君の勇姿と奮戰激闘の光景と護国の 屍となった戰場とを緬想して敬弔の誠を伸ぶると共に 祖国再興の心の糧とすることを祈願し て巳まない
 茲に曽て戰友潜水艦建造関係者外有志一同相計り小碑を東郷神社の靈域に建立して諸君不滅の忠魂に捧ぐ
 昭和三十三年五月二十五日

搭載用 魚雷模型
旧海軍館(平成四年解体)の庭にあったもので実物に似せてあるが寸法は実魚雷より小さい。
実魚雷の寸法
 巡洋艦・駆逐艦用 径61㎝ 長さ8.5m
 潜水艦用 径53㎝ 長さ7.2m
 航空機用 径45㎝ 長さ5.7m

伊33潜はトラック島で事故のため沈没、呉で修理後の昭和19年、伊予灘で訓練中再び沈没。
昭和28年に引き揚げられた。


東郷神社の狛犬(獅子)

東郷神社の狛犬は、獅子(ライオン)でいわゆる狛犬とは違う。
1921(大正10)年、彫刻家 新海 竹太郎 (1868-1927)により東京築地の国立がんセンター(東京築地の海軍大学校の敷地)の所に建っていた「有栖川宮威仁親王の御銅像」の台座の四隅にあったもの。

戦災を免れた後、高松宮殿下から東郷神社に下賜された歴史ある獅子。
ちなみに、1984(昭和59)年、「有栖川宮威仁親王像」本体は福島県の猪苗代湖畔にある有栖川宮威仁親王ゆかりの別荘「天鏡閣」に移設されている。

庭園と潜水艦殉国碑に、4体ある。


東郷神社

東郷神社周辺や東郷会館は2020年頃に大幅にリニューアルした。(東郷会館は2022年再開)

由緒

https://togojinja.or.jp/gosaijin

東郷神社由緒沿革


海の宮

奉斎の趣
神を敬い、祖先を祟び、先覚を敬慕してその霊を祀ることは、わが国古来の美風であります。
東郷神社におきましては、敬神・崇祖の信仰厚い人々と共に、その精神を実践するため、昭和四七年に境内霊社「海の宮」を創建、御斎神として海軍・海事・水産関係者また崇敬者の諸霊を合祀奉斎しております


砲弾

詳細不明。御祭神ゆかりのものだろうか?


東郷神社回廊絵画

御祭神である東郷平八郎命の一生がわかる絵画


御神木

北参道にご神木がある。


水交会

ちかくには、「水交会」がある。

水交会に関しては、下記にて。


※撮影:20210527および20230528

東郷神社例祭(令和5年5月28日)

2023年(令和5年)5月28日。
東郷神社例祭(式年大祭)

御祭神(東郷平八郎命)が、日露戦争で輝かしい功績を残された日で、東郷神社において最も大きな祭典。

118年前の今日、日本海海戦で東郷平八郎の連合艦隊が勝利を確定させた日。


日本海海戦

1905年(明治38年)5月27日
「日本海海戦」
東郷平八郎の旗艦三笠をはじめとする連合艦隊が対馬沖にてバルチック艦隊と海戦が勃発。


海軍記念日(5月27日)

1905年(明治38年)5月27日に行われた日本海海戦を記念して制定。1945年(昭和20年)を最後に、日本の太平洋戦争敗戦により廃止された。


5月28日

1905年(明治38年)5月28日。
ロシア戦艦・バルチック艦隊旗艦「ニコライ1世」の降伏により日本海海戦は終了し日本の勝利が確定した。


東郷神社例祭(式年大祭)

5月28日祭行

足を運んでみました。

東郷神社例大祭
5月28日 11時斎行

強運御守を戴きました。
毎月1日、5/28、5/30、12/22のみの限定頒布です。

世界の海軍史にその名を残した御祭神等郷平八郎命。
多くの苦難や困難を強靭な意思とその強運で乗り越えてきました。
東郷平八郎命には、様々な強運話があります。
左記のような話がありました。
海軍大臣山本権兵衛は、明治天皇に東郷平八郎命を連合艦隊司令長官に推薦した理由として、
「東郷平八郎は、運のいい男です」
と奏上した逸話があります。
御祭神等郷平八郎芽命の強運にあやかった御守です。

強運御守

東郷元帥の強運にあやかりたく。

御朱印も戴きました。

令和5年5月限定の御朱印だそうです。
Z旗ですね!

「皇國ノ興廢此ノ一戰ニ在リ、各員一層奮勵努力セヨ」

東郷神社の戦跡散策は別記事を予定

※2023年5月28日撮影


関連

多摩陸軍飛行場(横田基地)の戦跡散策

在日米空軍横田基地
「日米友好祭フレンドシップ・フェスティバル2023」(日米友好祭2023)
第47回目だそうで。
年に一度の横田基地、散策してみましょう。

今回は、消化不良でおわった昨年のリベンジとして再訪してきました。

前回記事はこちら。

一部は、重複しますが。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-R556-No1-80
1947年11月14日に米軍が撮影した航空写真を加工。

下記の黄色が現存。

当時の写真と、Google航空写真との照合。
5つの格納庫を、南側から便宜上で通し番号を振っておく。


多摩陸軍飛行場(福生飛行場・横田飛行場)

昭和15年(1940)、立川陸軍飛行場の付随施設として建設。
同年4月に、陸軍飛行実験部(陸軍航空審査部飛行実験部)が立川から多摩に移転。
大戦末期の本土防空戦時には、飛行実験部戦闘隊を「福生飛行隊」と通称し、第10飛行師団指揮下の臨時の防空飛行部隊として投入され、戦果も上げている。
戦時中の米軍は、従来把握していなかった多摩陸軍飛行場を「横田飛行場」と名付たことから、「横田基地」と呼ばれるようになった。
終戦後は、アメリカ軍に接収され、朝鮮戦争やベトナム戦争でも積極的に活用された。


旧多摩陸軍飛行場格納庫1

米軍横田基地内に残る多摩陸軍飛行場時代からの格納庫。
前述の地図で、一番南側の格納庫。


旧多摩陸軍飛行場格納庫2と3

2つの格納庫が並んでいる。


旧多摩陸軍飛行場格納庫4と5

北側に4番目と5番目の格納庫。近寄ることは出来ないので遠望で。

どうみても格納庫ばっかり撮っている人、になっていますね。


そのほか

丸い屋根の格納庫は戦後の米軍時代もの。

横田名物


横田名物

横田名物のハンバーガーに並んでみました。
ゴールが見えないw

行列のゴールは、「外人バーガー GAIJIN BURGER」

第36空輸飛行隊(イーグル・エアリフター)が焼く、本場モノで間違いない!

GAIJIN BURGER!!ってノリノリになりながら、作っていました!

外人バーガーは、肉厚なハンバーグが3つ。あとはチーズのみ。
ピクルスやマスタード、マヨネーズはセルフで好きなだけ使って良しのスタイル。
これは大満足のハンバーガー
(ちなみに1時間、並びました、、、)

あっ、これも名物。甘いものもほしいですよね。

フライドオレオ。5個買ったらTシャツもらえました。

オレオをフライド、、、カロリー爆弾

Tシャツ。

青くて良いね。2022年の米空軍75周年の記念Tシャツ。


飛行展示

飛行展示は小規模ですね。あくまでおまけな感じ。

空挺展示。

ヘリでの救難展示。

そして、これを待ってました。

CV-22 オスプレイの飛行展示。

飛んでいるところを生で初めてみました。

機動力にびっくりです。

オスプレイのお辞儀。機種をちょっと下げるアクション。

カメラ設定が甘くて、写真が失敗多数でした。
普段は、静態ばかりを撮影しているため、シャッタースピードは遅めが基本のため、動いているもの撮ったのが久しぶりで、設置ミスった、とか。


地上展示

気になったものだけ撮影。

軍事機密の塊ですね。隠してあります。

水上機、いいねえ。

ホンダ

CH‐47J。
横田基地日米友好祭も47回目。

F-2

T-4。青と赤。

青のブルーインパルス
赤のレッドドルフィン

入間基地の飛行点検機 U-680A


おしまい

また来年?

※撮影:2023年5月


関連

「旧開明尋常小学校奉安庫と機銃掃射の弾痕跡」尼崎の戦跡と近代建築散策・その2(兵庫尼崎)

兵庫県尼崎市。大阪の隣。
先日、関西方面に赴いた際に尼崎を散策。
いくつか戦跡と近代史跡を巡ってみました。

その1は下記にて


奉安庫

明治23年(1890年)10月30日発布された 明治天皇の勅語「教育ニ関スル勅語(教育勅語)」と御真影とを、不敬にあたらないように保管し、そして火災から守るための設備として、校内に奉安庫もしくは奉安殿(奉安所)を設置することが明治24年(1891年)11月文部省訓令第4号によって定められた。

学校校舎内に設ける場合は「奉安庫」、校舎外に独立しさせた場合は「奉安殿」となる。

終戦後、連合国軍総司令部(GHQ)の指令で、奉安庫や奉安殿の撤去、解体が進んだが、当校の奉安庫は解体を免れ、貴重な遺産として現存している。


旧開明尋常小学校の奉安庫跡

平成14年(2002年)に閉校した尼崎市立開明小学校。
現在は「尼崎市役所開明庁舎」として活用されている。

現存する校舎は、室戸台風の災害復興事業として、昭和12年(1937年)に竣工。RC造3階建。
戦前の奉安庫が残っているのが非常に珍しい。

1階の旧校長室には戦前の奉安庫や家具が現存し、現在はメモリアルコーナーとして使用されている。


旧開明尋常小学校

開明尋常小学校は、昭和12年の竣工。
現在は、尼崎市役所開明庁舎として活用されている。

艦船の艦橋のようなデザイン。

尼崎市役所開明庁舎(旧開明尋常小学校校舎)

この建物は室戸台風の災害復興事業として1937年(昭和12)2月に開明尋常小学校校舎として竣工しました。校庭を 囲むようにしてL字型に建つ建物は、整然と並ぶ窓の上部に校舎の端から端につながる庇が取り付けられ、水平性が強調された端正な趣を示しています。建物の南端と西端には意匠が異なる玄関が設けられていますが、特に南玄関から上階に上がる階段室は外部に半円形に張り出し、煙突のように天に突き出した柱とも相まって、まるで艦船の艦橋のようなダイナミックなイメージを受け、外観上の最大の特徴になっています。また1階の旧校長室には戦前の奉安庫が現存しています。


機銃掃射による弾痕が残る塀


学校の塀には、機銃掃射の弾痕が生々しく残っていた。

機銃掃射による弾痕が残る塀
 ここに現地保存している旧尼崎市立開明小学校(元、開明国民学校)校庭の塀には、太平洋戦争末期の米軍機の機銃掃射によると思われる無数の弾痕が残っています。
 尼崎では1945年(昭和20年)3月から8月まで10回にわたり米軍機による空襲があり、当時の尼崎市の報告書によれば死者479人、家屋全焼約1万1000戸、り災者総数約4万2000人という大きな被害を受けています。
 この弾痕がいつの空襲のときのものであるかについては断定できませんが、同年6月1日午前に大阪・尼崎方面を襲った空襲では、開明築でも犠牲者が出ており、学校近隣に所在する病院が全焼するなどの被害を受けています。また、米軍の記録によれば、このときの空襲にはB29爆撃機とともに、P51戦闘機が飛来していることが判明しているので、この塀に残る弾痕は、この時に刻まれた可能性があります。
 戦争の悲惨さ、残酷さを記憶にとどめ、平和な社会の実現を願って弾痕が残るこの塀を保存します。
   平成17年3月

尼崎市サイト

https://www.city.amagasaki.hyogo.jp/manabu/bunkazai_0/1028308/1028313/1028787.html

https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/171572

場所

https://goo.gl/maps/V9VM4JE1EXPDqPvD6

※撮影:2023年4月


関連(尼崎)

鳴尾飛行場と川西航空機鳴尾製作所の戦跡散策(西宮)

兵庫県西宮市の東部。武庫川や鳴尾地区には、戦前、川西飛行機の工場と海軍の飛行場があった。
往時を偲ぶものは少ないが、そんな西宮市の東部を散策してみました。


川西航空機株式会社

現在の新明和工業の前身。
九四式水上偵察機、九七式飛行艇、二式飛行艇、強風、紫電、紫電改などの海軍向けの航空機を製造した。特に水上機と飛行艇には定評を持つメーカー。
傑作機「二式大艇」を生み出したのも川西航空機。
飛行艇のDNAは、帝国海軍の二式大艇から救難飛行艇 US-2(US-1A改)へと受け継がれている。

中島知久平(中島飛行機)に出資していた川西清兵衛は、トラブルから出資を引き上げ、1920年(大正9年)に自社での飛行機メーカーを目指して川西機械製作所を創業。
川西機械製作所飛行機部は、1928年(昭和3年)に川西航空機(現・新明和工業)として独立した。
1930年(昭和5年)鳴尾製作所を開設。帝国海軍と密接な関係となり、海軍も積極的に川西飛行機を後押しし、大型飛行艇メーカーとしての成長をすすめていく。
1938年(昭和13年)、海軍管理工場となる。
1942年(昭和17年)に、甲南製作所(鳴尾製作所分所・現在の新明和工業甲南工場)、姫路製作所が完成。
1943年(昭和18年)、鳴尾製作所に隣接していた鳴尾競馬場と鳴尾ゴルフ倶楽部の土地が接収され、鳴尾飛行場と川西飛行機用地として使用され、従業員輸送と資材輸送のために、阪神国道駅及び国鉄西宮駅と接続する専用鉄道(のちの阪神武庫川線)も建設された。
川西飛行機は、鳴尾・甲南・宝塚・姫路に製作所(工場)を擁していたが、戦争末期には4製作所ともに米軍空襲により壊滅。工場疎開を余儀なくされた。
戦後の企業再建では、母体であった株式会社川西機械製作所は、第二会社として神戸工業を設立し、解散。神戸工業は富士通と合併。引き継いだ部門は、富士通テンを経て、デンソーテンとして、川西器械製作所を継承している。
川西飛行機株式会社は、昭和22年に明和興業と社名変更し、昭和s4年に、自動車部門の明和自動車工業と、汎用機械の新明和興業に分割。明和自動車工業はのちにダイハツ傘下となり吸収。
新明和興業は、昭和35年に「新明和工業株式会社」に社名変更し、海上自衛隊の救難飛行艇をはじめてとした航空機製造を継続している。


二式大艇(二式飛行艇)

川西航空機が製造した当時世界最高の性能を誇った傑作機。
「恐るべき機体」「空飛ぶ戦艦」「全世界の飛行艇に君臨する王者」と別称された名機。連合国コードネームEmily。
二式大艇でもって、飛行艇技術では日本が世界に勝利したと讃えられ数々の勇名を誇る。
川西航空機が生み出した帝国海軍の飛行艇の伝統は、戦後は、新明和工業によって海自PS-1/US-1/US-2へと受け継がれている。

「船の科学館」に在りし日の彼女。2003年撮影。
※現在は鹿児島鹿屋に展示
 (鹿屋にも行きたい、、、、

以下、参照


甲子園口駅

この日の散策は、甲子園口駅からスタート。

まずはJR神戸線に沿って西に歩いてみました。


甲子園SL公園

川西航空機鳴尾製作所への輸送のために、昭和18年に阪神電鉄により武庫川ー洲先駅が開通。昭和19年に武庫大橋ー武庫川駅間が開通。西宮駅からは国有鉄道としての乗り入れも行われた。

甲子園SL公園には、国有鉄道と阪神電鉄武庫川線の貨物を物語る給水塔がモニュメントとして残っていた。

 この給水塔は、昭和19年の戦争末期に蒸気機関車の給水塔として軍需輸送のために阪神電鉄により武庫川線として敷設され、当時の省線(JR線の旧称)との間で相互乗り入れが行われていた。
 この路線は、その後、工業資材などの輸送を行ってきましたが、昭和30年代にその役目を終え廃止されました。
 戦後の社会復興に貢献してきた武庫川線の歴史を残す貴重な資料、また、歴史的かつ地区のシンボルとして補修を施し、モニュメントとして生まれ変わりました。

武庫川線に関しては後述します。

場所

https://goo.gl/maps/48tXzUwvr9mKW63S8


まんぼうトンネル(甲子園口)

JRの線路の下をくぐるトンネル。屈まないと通行できないほどの小ささ。高さは130センチほど。
地図を見て、ちょっと面白そうだったので立ち寄り。

もともとは、明治7年に官設鉄道が開業する際に線路の盛り土の下を
用水路が流れるように作ったトンネルだったという。
西宮には、3つほど通称「まんぼうトンネル」がある。今回はそのうちの一番東側のトンネル。これが一番、間口が小さい。

下記の写真は、わかるかな、自転車を押したおじさんがかがみながら通行中です。

北側の半円トンネルは明治29年の複線工事でレンガで造営され、南側の四角トンネルは大正15年の複々線工事のときに延伸したものという。そのために形状が違うのかな。

場所

https://goo.gl/maps/MsmkJTwyUVNH55SX7


いったん、甲子園口駅まで戻って、そこから南下していきます。

武庫川女子大学 甲子園会館
(旧大阪海軍病院・旧甲子園ホテル)

武庫川女子大学の甲子園会館。
昭和5年(1930年)に甲子園ホテルとして竣工。
その後、昭和19年に帝国海軍が借受し、呉海軍病院大阪分院として開院。昭和20年3月に、大阪海軍病院として独立し、終戦を迎える。
その後、米軍の将校宿舎を経て、昭和40年(1965年)、武庫川学院が譲り受け教育施設として活用されている。

甲子園会館(武庫川女子大学サイト)

https://www.mukogawa-u.ac.jp/~kkcampus/

申請をすれば見学も可能。

流石に女子大なので、私は通りすがりに敷地外からチラ見。
時間がある時に改めて申請して見学したい。

場所

https://goo.gl/maps/46fyrEBYJKmqYbyZ8


明和病院

川西航空機株式会社(現在の新明和工業株式会社)は、福利厚生として、社員用に4つの病院を有していた。
その一つが西宮市鳴尾にあった昭和17年9月に川西航空機株式会社付属病院として創設された「鳴尾病院」。
鳴尾病院は、昭和20年の終戦後に川西龍三社長が戦後の苦難の時期に、地域に恩返しをしたいとして「明和病院」を再出発させた病院。

明和病院 理事長あいさつ

https://www.meiwa-hospital.com/outline/directors-greetings.html

明和病院 概要

https://www.meiwa-hospital.com/outline/profile.html

場所

https://goo.gl/maps/oRdQcrw3UWewGnYY7


鳴尾飛行場

帝国海軍の航空基地。
鳴尾川を挟み、川西航空機鳴尾製作所に隣接しており、川西航空機の試験飛行用飛行場でもあった。
川西航空機鳴尾飛行場の隣には、もともと鳴尾競馬場(旧・阪神競馬場)があったが、1943年(昭和18年)の春競馬終了後に海軍に接収され、鳴尾飛行場として再整備されることになった。
鳴尾飛行場を建設するにあたっって、浜甲子園阪神パーク(遊園地)などの施設も接収している。
かつての旧鳴尾競馬場本館(大スタンド正面玄関貴賓館)は、鳴尾飛行場管制塔として流用されることになり、いまも武庫川女子大学附属中学校・高等学校「芸術館」として現存。

戦後は、武庫川女子大学付属中学校・高等学校や浜甲団地、浜甲子園運動公園などに再開発されている。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M18-4-44
1948年2月20日、米軍撮影の航空写真を加工。

拡大。滑走路は、米軍の資材置き場として活用されている。
左上には、甲子園球場(1924年完成)。
滑走路から鳴尾川を挟んだ右側が、川西航空機鳴尾製作所。


旧鳴尾飛行場管制塔
旧鳴尾競馬場本館(貴賓館)

竣工は昭和10年(1935年)。もともとは、競馬場のスタンドだった。

現在の武庫川女子大学附属中学校・高等学校「芸術館」。
かつての旧鳴尾競馬場本館(大スタンド正面玄関貴賓館)は、鳴尾飛行場管制塔として流用されることになり、いまも武庫川女子大学附属中学校・高等学校「芸術館」として使用されている。

武庫川女子大学

https://www.mukogawa-u.ac.jp/~okazaki/designworks/mwu-jhs/index.html

日経新聞

https://www.nikkei.com/article/DGXLASIK17H01_Y5A510C1AA1P00/

管制塔として使用された最上部。

いまでは、そんなに高くは無いが、往時は一際高い建物として管制塔の役目を果たしたのだろう。

X字を描く滑走路のちょうど真ん中に、管制塔がある。

場所

https://goo.gl/maps/4biu4yYk7hkefKk2A


鳴尾飛行場跡

内陸部は、再開発で跡形もない。
浜甲子園運動公園の向こうの団地群は、武庫川団地。川西航空機鳴尾製作所があった場所。

海側。
当時、鳴尾飛行場の滑走路は海上に面していた。
しかし、海際は、「浜甲子園阪神パーク(遊園地)」の残骸もあり、排水溝の跡もあり、なにがなにやらよくわからない残骸にあふれている。鳴尾飛行場の滑走路の残骸もあるのだろう。

残骸があつまる。
きっと、鳴尾飛行場滑走路の残骸もある、、、はず。

甲子園浜

沖合に見える岩礁が鳴尾飛行場時代の海岸線(防波堤)という。

鳴尾飛行場時代の防波堤

鳴尾飛行場の滑走路の残骸。

滑走路東南に位置するところに、瓦礫があつまっている。

場所

https://goo.gl/maps/wSd5Gb2fxQr6sTty9


鳴尾川

鳴尾川の西が鳴尾飛行場、東が川西航空機鳴尾製作所であった。
写真の左側にみえる武庫川団地が川西航空機鳴尾製作所の跡地。


武庫川団地

このあたり一帯は、戦前は川西航空機鳴尾製作所であった。
往時を偲ぶものはなく。

阪神電車がいました。

阪神電車の赤胴車。

自販機も特別仕様。

キレイに保存されている車両。良いですね。

場所

https://goo.gl/maps/nxgZiR4tCNq2ez739


阪神電鉄武庫川線

冒頭の「甲子園SL公園」でも触れたが、阪神電鉄武庫川線の前身は、川西航空機鳴尾製作所への輸送のために、昭和18年に阪神電鉄により武庫川駅ー洲先駅が開通したことにはじまる。
昭和19年には、武庫大橋駅ー武庫川駅間が開通。西宮駅からは国有鉄道としての乗り入れも行われた。
終戦後に旅客営業中止。昭和23年に武庫川駅ー洲先駅間での運行が再開。
昭和33年に西ノ宮駅ー洲先駅間の貨物線は休止され、45年に貨物廃止、昭和60年に休止中の武庫大橋ー武庫川間が廃止。
その1年前に昭和59年に現在の「武庫川団地前駅」まで南側は路線が延伸された。

西宮市

https://archives.nishi.or.jp/04_entry.php?mkey=14039

武庫川団地前駅

武庫川駅

武庫川駅の引込線は、かつての線路跡。

武庫川線の引込線は途中でおわり、線路も剥がされて、線路跡のみがのこる。

武庫川橋の北側からは、住宅地として、線路跡が活用されている。

場所(武庫川橋)

https://goo.gl/maps/2JYjCqWgCDVgimni7

鳴尾・武庫川の散策は、9時スタートで、12時終了。ざっくり3時間で10キロ(電車利用部分は除く)の散策でした。

※撮影:2023年4月


関連

尼崎の戦跡と近代建築散策・その1(兵庫)

兵庫県尼崎市。大阪の隣。
先日、関西方面に赴いた際に尼崎を散策。
いくつか戦跡と近代史跡を巡ってみました。

その2は下記にて


橘公園の高射砲台座

尼崎市役所に隣接する橘公園。
この公園に、高射砲陣地の台座(砲座)が残っている。

関西方面の防空は高射第3師団(司令部は大阪市立美術館に設置)が担当。

尼崎は大阪に隣接する地の利もあり、戦前から工業都市として発展。尼崎市内には最大規模の軍需工場「住友金属工業プロペラ製造所」もあったが、昭和20年6月15日の第4回大阪空襲で壊滅している。

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/situation/state/kinki_09.html

橘公園の高射砲台座(砲座)は2基残っている。

1基は、花時計の奥にあるライオン像の台座。

2期目は、ベンチと水道の横になんとなくある不自然な円柱。
柱上には、砲床も残っている。

公園には特に、高射砲台座を示す由来看板などはない。

尼崎公園

https://amagasaki-park.com/plant1

場所

https://goo.gl/maps/gyW2GnWDgsSawPug8


高射砲台座の位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M18-4-15
1948年2月20日、米軍撮影の航空写真を加工。

該当部分を拡大。
黄色が橘公園の部分。赤色は住宅地となり、遺構は特に残っていない。
黄色部分の陣地は、残っている台座(砲座)の高さがあることからもわかるが、土塁でもって丘のように盛り上がっていたことがわかる。
中央の黒い部分は「溜池」。1962年に尼崎市役所が建設されるまえは、この地は「池」であった。


昭和大典記念時計塔

昭和天皇の即位の礼を記念して、昭和3年・1928年11月に建立されたもの。

大阪の陸軍第四師団長・林弥三吉中将の揮毫

帝国在郷軍人会

場所

https://goo.gl/maps/WjWHnRRty18nfzk2A


旧尼崎警察署

大正15年(1926)11月30日竣工の旧尼崎警察署。
兵庫県内において完全な形で残る戦前期の警察署庁舎としては唯一のもの。

昭和45年(1970)3月31日、尼崎中央警察署は新築庁舎に転出し、敷地と建物は尼崎市の管理となった。
尼崎市立城内児童館として約20年活用されたが、阪神淡路大震災で被災。安全性を考慮し閉鎖され、現在に至る。

レファレンス協同データベース

https://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000289653

場所

https://goo.gl/maps/9ApJyJf7S92Yh3Qq7

旧警察署の隣の敷地に、なにやら石碑。
昭和16年建立の紀元2600年記念での青山幸利公顕彰碑のようでした。尼崎藩2代目藩主。初代は、青山幸成。

陸軍大将・本庄繁の扁額謹書。

本庄繁は、兵庫出身であったので、その縁から、かも。


尼崎市立歴史博物館(旧尼崎高等女学校)

昭和13年(1938)に竣工した尼崎高等女学校校舎。
その後、城内中学校となったが、平成17年に中学校は移転統合。
空き校舎を活用し、平成21年(2020)に尼崎市立歴史博物館としてリニューアル。

博物館の見学も今度しないと、、、

場所

https://goo.gl/maps/TLA1VDmGHDh8PzqXA


阪神電鉄旧尼崎発電所

明治34年(1901年)竣工の煉瓦造りの尼崎火力発電所。
発電所としては大正8年4月6日に休止。
現在は資材倉庫として活用。

阪神電車の車窓から、尼崎城と煉瓦建造物を一緒に楽しみ事ができる。

ホームからも。

公道から見学。

尼崎城が小さく見える。

赤が先状側からも。

ちなみに城址公園は、西三の丸に当たる場所で2018年の外観復元天守。本丸は、尼崎市立明城小学校の場所となる。

場所

https://goo.gl/maps/LMvZdr9kcwX4hG8Z7

※撮影:2023年4月


関連(尼崎)

軍艦「橋立」のキャプスタン(素戔嗚神社・尼崎)

関西方面に行く機会があったので、気になっていた場所に足を運んでみました。


軍艦「橋立」

大日本帝国海軍の防護巡洋艦「橋立」。
艦名は名勝「天橋立」に由来する。
排水量4,210トンで、三景艦のうち唯一の国産艦(横須賀造船部で建艦)であった。

清国が保有していた戦艦「鎮遠」「定遠」に対抗する軍艦として、計画されたのが松島型防護巡洋艦。いわゆる「三景艦」(松島・厳島・橋立)であった。

1885年に清国北洋艦隊が就役させた「定遠」「鎮遠」
定遠級戦艦2隻は、基準排水量7,220t、主砲30.5cm連装砲を2基4門、舷側装甲最大厚305mmという、当時の列強海軍が東アジアに配備していた大型艦を凌駕する、アジア最強の戦艦であった。
日本海軍は定遠級戦艦に対抗するために、より口径の大きい32cm(38口径)単装砲を装備する軍艦を建造。「松島」は後部甲板に主砲を配備し、「厳島」と「橋立」の2隻は前部甲板に主砲を配備した。当時の日本海軍の艦艇では32cm砲を取り扱いするには困難を極めたが、一番艦の「松島」は日清戦争では連合艦隊の旗艦を務めた。
「橋立」は、日清戦争開戦直前の明治27年(1894年)6月26日竣工。同年の8月1日に日清戦争開戦。
連合艦隊に所属し、松島・厳島・橋立の三景艦として、清国北洋艦隊の鎮遠・定遠を撃破し、日清戦争の勝利に貢献した。

明治37年(1904 )の日露戦争では、三景艦の松島・厳島・橋立と、拿捕艦であった鎮遠を交えた第三艦隊第五戦隊の旗艦を橋立が務めている。

大正11年には横須賀海兵団の練習船として使用され、大正14年に廃船となり、大正15年(1926)に解体となっている。

軍艦「橋立」のキャプスタン

兵庫県尼崎市の素戔嗚神社。
境内に、軍艦「橋立」のキャプスタンが奉納されている。
キャプスタン(capstan)は、垂直軸回転式のウインチのことをいう。

明治廿七八年日清戦役旗艦橋立表上甲板ノCAPSTANロクロナリ昭和元年赤井氏が其艦ヲ拂下ゲ之ヲ本神社ニ献納 紀元二千六百年 赤井常吉

要約すると
明治27年~明治28年の日清戦役(日清戦争)旗艦(旗艦じゃない)の「橋立」の表上甲板のCAPSTAN「ロクロ」。
解体の翌年、昭和元年(1926)に払い下げされ、素戔嗚神社に献納された、という。

キャプスタンのことを「轆轤(ろくろ)」と表現しているのは面白い。たしかん「ろくろ」だ。

緑の四角は、塞いだ蓋。
ここに、キャプスタンバー(横棒)をさして、人力で回転させた。

明治40年頃、横須賀軍港の「橋立」
wikipedia参照写真

以下は参考まで。キャプスタンの例。

「明治丸」
これは橋立と近いメージですね。回転させるためのキャプスタンバー(横棒)があると、イメージがわかりやすい。これで人力で回します。

記念館「三笠」
橋立の5年後に竣工した三笠。すでに機械化されてますね。 

護衛艦「しらぬい」
いまどきのキャプスタン


素盞嗚神社(西素盞嗚神社)

兵庫県尼崎市大庄西町鎮座。
永禄年間の創建という。

兵庫県神社庁

https://www.hyogo-jinjacho.com/data/6304065.html

武庫川の上にある「阪神武庫川駅ホーム」
「素盞嗚神社」は阪神武庫川駅の北、尼崎側の東にある。

場所

https://goo.gl/maps/TfECLbvZAEXRepdR9

※撮影:2023年4月


関連

兵庫県には海軍艦艇関連の奉納神社が多いような。

東京砲兵工廠の煉瓦遺構?(小石川)

文京区の後楽園周辺は、かつて軍需施設であった。
その界隈の散策は以前に以下の記事でまとめた。

戦後は、東京都戦没者霊苑も設置された。

東京都戦没者霊苑

軍需施設は、戦後は、「小石川後楽園」や「東京ドーム」「文京区立礫川公園」「中央大学後楽園キャンパス」などに活用されている。

小石川(住所は春日であるが)に、以前散策したときには見逃した煉瓦遺構があると耳にしたので、足を運んでみました。

2022年12月の写真となりますので、現状は不明です。


煉瓦遺構(小石川税務署裏)

小石川税務署の裏手の後方に、煉瓦構造物があった。
状況からすると、「東京砲兵工廠」の遺構か?
想像では、火薬庫(弾薬庫)のような気配もあるば詳細は不明。

中央大学小石川キャンパスの新設工事で、アーチ状の遺構は中央大側の3分の2が失われているが、税務署側がかろうじて残っていた。

ちなみに「東京砲兵工廠」移転後は、「小石川陸軍工科学校」があり、そして高台の上には、「小石川春日高射砲陣地」もあった。

中央大側と税務署側で明雲を分けた煉瓦遺構。

中央大学小石川キャンパス

税務署側もどうなることやら、、、です。

場所

https://goo.gl/maps/w5CwxsT1A8Zcodv97


牛坂の煉瓦

北野神社(牛天神)の北側の坂「牛坂」。

崖面に煉瓦擁壁の構造物があった。この台地の上に「牛天神」がある。

東京砲兵工廠は小石川水戸藩邸の地に1871年(明4)に操業し関東大震災の影響もあり1935年(昭10)に移転。工廠跡の一部は、陸軍砲兵工科学校となったが、後楽園球場ともなっている。
後楽園球場では煉瓦は邪魔でしか無いので、工廠跡の大量な煉瓦が近隣で再利用されたのかもしれない。


北野神社(牛天神)

北野神社。源頼朝公伝説が残る古社。

裏手の駐車場の壁が、煉瓦積みでした。
いびつな積み方は「ガンタ積」というそうで。

面白い積み方。
上でも書いたけれども、東京砲兵工廠移転後に建設された後楽園球場では不要となった工廠跡の大量な煉瓦が廃材として近隣で再利用されたのではないかという仮説として、不揃いな形が多かったために、ガンタ積みになったのかもしれない。

常泉院の煉瓦壁

一部だけ、煉瓦壁が残っている。

※撮影:2022年12月