「三島野戦重砲兵聯隊」三島の戦跡散策・その1

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静岡県三島市。
町おこしで軍隊の誘致を実施し、陸軍の街となった「軍都・三島」。
現在も、往時を物語るものが残っていると聞き、散策してみました。

本編は「その1」となります。
「その2」はこちらから。

静岡県三島市。町おこしで軍隊の誘致を実施し、陸軍の街となった「軍都・三島」。現在も、往時を物語るものが残っていると聞き、散策してみました。...

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位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-R440-27
1948年11月12日、米軍撮影の航空写真。


軍都・三島

明治22年(1889)に東海道線が国府津駅から静岡駅まで開通(現在の御殿場線)した際は、東海道の宿場町であった三島には駅が開設されなかった。
鉄道が開通しなかったことにより街が寂れ、そうして町おこしとして軍隊の誘致活動が始まり、大正8年(1919)に野戦重砲兵第一旅団・第二聯隊が横須賀から三島に移転。三島衛戌(えいじゅ)病院(国立病院機構静岡医療センター)も開設。
翌年、大正9年に第三聯隊も三島に移転。
昭和9年(1934)には丹那トンネル開通に伴い、東海道線のルートも変更され、現在の三島駅も開業している。

野戦重砲兵第二聯隊及び第三聯隊をもって野戦重砲兵第一旅団となる。
こうして、三島に聯隊が来て、鉄道も来たことで活気を取り戻し道路も整備された。
現在の日大通りは、大学、高校、中学校、小学校と並んでいるが、このころは十間道路と呼ばれ、道の両側には桜と銀杏が植えられたという。現在は、銀杏だけが残って見事なイチョウ並木となっている。

また、現在の国立遺伝学研究所のある一帯には、中島飛行機株式会社三島製作所が進出していた。


野戦重砲兵第二聯隊跡(三島市立北中学校)

野戦重砲兵第二聯隊の正門門柱と歩哨舎、記念碑などがある。

野戦重砲兵第二聯隊跡
従四位 木下 滋 謹書

木下 滋 は、陸士22期。最終階位が陸軍大佐(陸軍砲兵大佐)。昭和11年に野戦重砲兵第二聯隊長。昭和12年に予備役となるも、招集され昭和20年に重砲兵第13聯隊長となり終戦を迎えている。

略歴
明治23年要塞砲兵大隊として神奈川県浦賀に創設爾来野戦重砲兵第二聯隊と改称、大正8年10月三島に移転、大正天皇、今上陛下の行幸を仰ぎ日清、日露、日独戦役、上海事変、支那事変m大東亜戦争等に参加
昭和20年8月終戦、聯隊の跡を永く残すため此の地に記念碑を建つ
 昭和47年10月1日
 野戦重砲兵第二聯隊
  関係者有志一同

公孫樹碑

大正八年巳未の春三島野戦重砲兵旅団当地に新設さる当時市民挙げて之を歓迎す 人馬絡繹として殷賑を加え新明の地ここに軍容を重ぬ 今の街道を以て然りとなす 当時在郷軍人会相計つて 之が新設を永久に記念すべく公孫樹を植う 爾来四十有八年今や天空を摩さんとす 既往の兵舎は学舎と化し軍歌嘶馬は攻学の和声と変せしも公孫樹は語らず天中を指す 嗚呼 市民朝夕この銀杏並樹の美観に酔う ここに公孫樹並樹記念の碑を建立す 蓋し八万市民の心肺に通う企挙なるを疑わす
 昭和42年11月3日
 (略)

場所(三島北中学校)


野戦重砲兵第三聯隊跡(三島市立北幼稚園)

野戦重砲兵第三聯隊も同じく、正門門柱と歩哨舎、記念碑がある。

野戦重砲兵第三聯隊兵営址

野戦重砲兵第三聯隊は当初紀州深山の地に誕生し大正9年11月5日此の地に転営す 終始15糎榴弾砲を装備とし初は輓馬後に自動車を以て牽引せり 尓来星霜40年 訓練に実戦に常に軍の骨幹たるの重責を果し昭和20年ビルマ及チモールに於て解隊す 此の間死生相許したる戦友実に3万を越ゆべし その士どもの夢の跡 東西四百米南北凡そ七百米に亘る兵営の址 歳と共に面影を失うに至るを嘆き残存有志相図って茲に碑を刻し以て永く記念とするもの也
 昭和四十年3月10日
 元野戦重砲兵第3聯隊出身 愛鷹会員有志一同
 撰文並書 元大隊長 本田森造

場所(三島市立北幼稚園)


野戦重砲兵第三聯隊の通用門跡(三島市立北小学校)

三島市立北小学校の北側には、通用門が残っている。

こちらにも、歩哨舎が残っている。

歩哨舎の窓は塞がれている

門扉。
なんて書いてあるのだろうか。

公孫樹並木に、3つの門跡と歩哨舎跡が集中して残っているのは、なかなかに貴重な空間。

場所(三島市立北小学校)


日大三島校舎

文教エリアの中心にかまえる日大。
かつての野戦重砲兵第二聯隊の跡地。


野戦重砲兵第二聯隊の境界塀の支柱(日大三島校舎最北端)

日大三島校舎の最北端に、往時の境界の支柱が残っている。

場所


野戦重砲兵第二聯隊の将校集会所

日大三島校舎11号館の奥にある建屋。
コの字型の平屋。
大学構内への部外者立ち入りができないために敷地外より見学。
シンプルだけどモダンなデザイン。

立ち入りできれば正面玄関も見ることができるが、立ち入りできないので、敷地外から側面のみ。

場所

※撮影:2023年6月

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