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東部第102部隊の跡地散策(軍都柏・その4)

軍都柏の戦跡散策、その4。
柏飛行場の南側に展開していた部隊の名残を探しに。
この日は、柏の葉キャンパス駅で自転車を借りて、飛行場を中心に自転車散策を敢行しました。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-R1585-76
昭和23年(1948年)7月25日、米軍撮影の航空写真を一部加工。

柏飛行場の南部に展開していた部隊が、陸軍第4航空教育隊(東部第102部隊)。
拡大してみた。


軍都「柏」

軍都柏とも軍郷柏とも称されることになった、千葉県柏市。
柏飛行場をはじめとし、多くの軍事施設が集まる地となっていた。

柏飛行場
昭和12年(1937)6月、近衛師団経理部は東葛飾郡田中村十余二に陸軍の新飛行場を建設する旨を決定。
昭和13年11月に「陸軍柏飛行場」(東部第105部隊)が完成。東京立川から「飛行第五戦隊」が移転してきたことにより、柏飛行場は、帝都防空の航空基地となり、軍都としての歩みもここからはじまった。

昭和20年4月には、ロケット推進戦闘機「秋水」開発のための陸軍の特殊部隊、陸軍航空審査部特兵隊が柏飛行場に進出。柏には、秋水の燃料貯蔵庫なども設けられた。

高射砲部隊
昭和12年10月、「飛行部隊」とは別に、帝都防空のもう一つの主役として「高射砲部隊」が千葉県市川市国府台に高射砲第二連隊が新設。
昭和13年11月に柏飛行場の完成とあわせて、柏(富勢)に「高射砲第二連隊」も移動。帝都防空の一翼を担うとともに、東葛地域の飛行場の防御も担当した。
昭和16年に東京に「高射砲第二連隊」主力が移動。その後、 高射砲第二連隊 の跡地には留守近衛第二師団の歩兵・工兵補充隊が駐留し、昭和20年に東京師管区第二補充隊(東部八三部隊)と同近衛工兵補充隊(東部一四部隊)となった。

その他
昭和12年11月、東京憲兵隊市川分隊柏分遣隊開設

昭和14年2月、第4航空教育隊(東部第102部隊)が開設。飛行機の整備に関する訓練や教育を担当した。
昭和14年4月、陸軍航空廠立川支廠柏分廠も開設され、飛行場に配備されていた飛行機や車両の整備・点検を行う補給機関を担った。
同じ 昭和14年4月には、陸軍柏病院が開設。
昭和20年6月には柏(鎌ヶ谷)に、陸軍藤ヶ谷飛行場が完成している。現在の海自下総航空基地となる。
また、昭和18年11月には、柏陸軍墓地忠霊塔も建設された。

ファイル: USA-M29-58
昭和24年(1947年)2月8日、米軍撮影の航空写真を一部加工。

軍都柏の主要軍事施設を記載しておく。


陸軍第4航空教育隊(陸軍東部第102部隊)
陸軍第四航空教育隊(陸軍東部第百二部隊)

1938年(昭和13年)に陸軍東部第百五部隊の飛行場として柏飛行場が開設。その2年後の昭和15年に、第四航空教育隊(東部百二部隊)が当地に移駐してきた。
航空兵教育機関として、航空教育隊に入隊すると、基礎訓練が3か月、そのあと、特業教育と称して、機関・武装・通信・写真・自動車・電気・計器などの部門で3か月の教育を受ける。都合半年の教育終了後は、各地の実戦部隊に配置される。


陸軍第4航空教育隊(東部第102部隊)
弾薬庫?

前述の見取り図では「弾薬庫」と記載のある北端のエリア。
このエリアは現在は、柏市浄水センターと工場地帯。その一角に不自然に古びたコンクリート建造物が残っていた。

コンクリート建造物の右側には、煉瓦建造物っぽいものもあった。

一説には、陸軍時代の給水塔の残骸ともいうが真偽不明。防火水槽として利用されている。
東部第102部隊の給水塔は別の場所にあったので、その場合は移築されてきたことになる。

場所

https://goo.gl/maps/x4iQK8ktrMpxLVoB9


陸軍第4航空教育隊(東部第102部隊)
営門門柱

梅林第4公園に、営門門柱が残っていた。本来の営門は西側だが、真逆の東側にある。移築保存する公園の都合、だろう。

旧陸軍第4航空教育隊(東部第102部隊)営門
 この門柱は、昭和15年(1940)2月に開設された旧陸軍第4教育隊(東部102部隊)の営門です。
 同隊は、現在の十余二と高田にまたがる地域に置かれた部隊で、門柱は現在保存されている梅林第4公園から西方にある現在の梅林第3公園付近から移設されたものです。
 同部隊は、入隊すると、初年兵として基礎訓練が3か月、そのあと、特業教育と称して、機関・武装・通信・写真・自動車・電気・計器などの部門で3か月の教育を受けます。それが終了すると、各地の実戦部隊に配置されます。当時の兵員はおよそ3,000人でしたが、終戦時には全部隊で7,000人を超えていたといわれます。
 右上の写真は、右手の門に大きく部隊名が掲げられ、門左手の哨舎(警戒や見張りをする兵が詰めている小屋)に衛兵が直立し、入り口を入った左手に部隊本部の屋根、続いて兵舎が配置されていることがわかります。
 柏市は、かつて「軍都柏」と呼ばれたように、十余二、花野井、大室、根戸、高田、若紫、藤ヶ谷に軍施設がありましたが、現在は本隊の跡地を含め工業団地や住宅地に変わり当時の面影をみることはできません。
 戦時中の様子を今に伝える市内に残された数少ない文化財です。
  平成24年3月31日 柏市教育委員会

場所

https://goo.gl/maps/Ez4eguk22aaEPTGP9


陸軍第4航空教育隊(東部第102部隊)
営門

梅林第三公園の近くの交差点。もともと営門はこの辺りにあった。

場所

https://goo.gl/maps/897YMnxfM7vzhVTYA


「百二」陸軍境界標石

うっすらと、「百二」と刻まれていることがわかる。
前述の営門近くの民家の塀の近くに。側溝の蓋も杭を挟むように置かれていた。

また、同じく営門近くには、陸軍境界石と思われるものが埋没していた。


陸軍境界標石( 陸軍第4航空教育隊・東部第102部隊の入口)

柏飛行場に展開する第105部隊の営門から南にまっすぐ下ったところに標石がある。
住所は、流山市駒木となるが、一緒に掲載。

場所

https://goo.gl/maps/K9MbSbSuZqHz54PV6

この場所から北上すれば、柏飛行場の第105部隊の営門がある。

ファイル: USA-M29-58
昭和24年(1947年)2月8日、米軍撮影の航空写真を一部加工。


おまけ

大東亜戦争記念国旗掲揚台(成願寺)

参道に、戦時中に奉納された掲揚台が残っている。
第102部隊の南西の地。住所は流山市駒木となるが、近隣ということで便宜上、一緒に掲載。

大東亜戦争記念
昭和18年8月吉日

場所

https://goo.gl/maps/j9E7Vj6Ua25WUrSK6

一連の柏飛行場関連の戦跡散策は随時別途掲載。

※撮影は2021年7月


関連

https://senseki-kikou.net/?p=16606

https://senseki-kikou.net/?p=16647

https://senseki-kikou.net/?p=16801

柏陸軍病院の跡地散策(軍都柏・その3)

柏市で陸軍の戦跡をめぐる記事も3つ目。
この日は、柏の葉キャンパス駅で自転車を借りて、飛行場を中心に自転車散策を敢行しました。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル: USA-R393-81
昭和22年(1947年)10月23日、米軍撮影の航空写真を一部加工。

拡大。

更に拡大。

google航空写真にて。
舌状台地の敷地は、今でもはっきりとわかる。


軍都「柏」

軍都柏とも軍郷柏とも称されることになった、千葉県柏市。
柏飛行場をはじめとし、多くの軍事施設が集まる地となっていた。

柏飛行場
昭和12年(1937)6月、近衛師団経理部は東葛飾郡田中村十余二に陸軍の新飛行場を建設する旨を決定。
昭和13年11月に「陸軍柏飛行場」(東部第105部隊)が完成。東京立川から「飛行第五戦隊」が移転してきたことにより、柏飛行場は、帝都防空の航空基地となり、軍都としての歩みもここからはじまった。

昭和20年4月には、ロケット推進戦闘機「秋水」開発のための陸軍の特殊部隊、陸軍航空審査部特兵隊が柏飛行場に進出。柏には、秋水の燃料貯蔵庫なども設けられた。

高射砲部隊
昭和12年10月、「飛行部隊」とは別に、帝都防空のもう一つの主役として「高射砲部隊」が千葉県市川市国府台に高射砲第二連隊が新設。
昭和13年11月に柏飛行場の完成とあわせて、柏(富勢)に「高射砲第二連隊」も移動。帝都防空の一翼を担うとともに、東葛地域の飛行場の防御も担当した。
昭和16年に東京に「高射砲第二連隊」主力が移動。その後、 高射砲第二連隊 の跡地には留守近衛第二師団の歩兵・工兵補充隊が駐留し、昭和20年に東京師管区第二補充隊(東部八三部隊)と同近衛工兵補充隊(東部一四部隊)となった。

その他
昭和12年11月、東京憲兵隊市川分隊柏分遣隊開設

昭和14年2月、第4航空教育隊(東部第102部隊)が開設。飛行機の整備に関する訓練や教育を担当した。
昭和14年4月、陸軍航空廠立川支廠柏分廠も開設され、飛行場に配備されていた飛行機や車両の整備・点検を行う補給機関を担った。
同じ 昭和14年4月には、陸軍柏病院が開設。
昭和20年6月には柏(鎌ヶ谷)に、陸軍藤ヶ谷飛行場が完成している。現在の海自下総航空基地となる。
また、昭和18年11月には、柏陸軍墓地忠霊塔も建設された。

ファイル: USA-M29-58
昭和24年(1947年)2月8日、米軍撮影の航空写真を一部加工。

軍都柏の主要軍事施設を記載しておく。


柏陸軍病院

昭和14年4月に、陸軍柏病院が開設。病院長は佐々倉操軍医中佐。柏に多くの陸軍施設が集まったことから各部隊傷病兵の入院加療のための開院であった。

第二次世界大戦後、陸軍の解体により厚生省へ移管した。
厚生省移管後は、国立療養所柏病院、国立柏病院を経て、松戸市にあった国立療養所松戸病院と1992年に統廃合。組織は国立がんセンター東病院(現・国立研究開発法人国立がん研究センター・柏飛行場跡地)へ移行、施設は柏市へ移譲され、1993年から柏市立柏病院となっている。

山下清の「放浪日記」には、「勤労奉仕で、柏の陸軍病院でネギの皮むきをした」という戦時中の記述があるという。

http://www.kashiwacity-hp.or.jp/hospital/outline.html


陸軍境界標石(柏陸軍病院入口)

柏市立柏病院の入り口交差点にある標石。
風化が進んでいるが、往時からの境界をしめしている。

場所

https://goo.gl/maps/6hmwpSYa1sqHi1Fc7


陸軍境界標石(柏陸軍病院南西端)

もう一つ、南側の道路にも、それっぽい境界標石があった。

場所

https://goo.gl/maps/ZtoZFCFFj9xxPaWn8

その他、柏関連の記事は別途にて。

※撮影は2021年7月


関連

高射砲第二聯隊の跡地散策(軍都柏・その2)


北柏駅から徒歩15分ほど北に歩いた場所に、往時の建物などが残っていた。

2009年(平成21年)に、「柏市消防局西部消防署根戸分署」が建物として役目を終え、解体も検討されていたが、詳細な調査が行われた結果、 陸軍時代の 高射砲第2聯隊の「照空予習室及測遠器訓練所」であることが判明し、柏市によって保存されることとなった建物。

足を運んでみましょう。


軍都「柏」

軍都柏とも軍郷柏とも称されることになった、千葉県柏市。
柏飛行場をはじめとし、多くの軍事施設が集まる地となっていた。

柏飛行場
昭和12年(1937)6月、近衛師団経理部は東葛飾郡田中村十余二に陸軍の新飛行場を建設する旨を決定。
昭和13年11月に「陸軍柏飛行場」(東部第105部隊)が完成。東京立川から「飛行第五戦隊」が移転してきたことにより、柏飛行場は、帝都防空の航空基地となり、軍都としての歩みもここからはじまった。

昭和20年4月には、ロケット推進戦闘機「秋水」開発のための陸軍の特殊部隊、陸軍航空審査部特兵隊が柏飛行場に進出。柏には、秋水の燃料貯蔵庫なども設けられた。

高射砲部隊
昭和12年10月、「飛行部隊」とは別に、帝都防空のもう一つの主役として「高射砲部隊」が千葉県市川市国府台に高射砲第二連隊が新設。
昭和13年11月に柏飛行場の完成とあわせて、柏(富勢)に「高射砲第二連隊」も移動。帝都防空の一翼を担うとともに、東葛地域の飛行場の防御も担当した。
昭和16年に東京に「高射砲第二連隊」主力が移動。その後、 高射砲第二連隊 の跡地には留守近衛第二師団の歩兵・工兵補充隊が駐留し、昭和20年に東京師管区第二補充隊(東部八三部隊)と同近衛工兵補充隊(東部一四部隊)となった。

その他
昭和12年11月、東京憲兵隊市川分隊柏分遣隊開設

昭和14年2月、第4航空教育隊(東部第102部隊)が開設。飛行機の整備に関する訓練や教育を担当した。
昭和14年4月、陸軍航空廠立川支廠柏分廠も開設され、飛行場に配備されていた飛行機や車両の整備・点検を行う補給機関を担った。
同じ昭和14年4月には、陸軍柏病院が開設。
昭和20年6月には柏(鎌ヶ谷)に、陸軍藤ヶ谷飛行場が完成している。現在の海自下総航空基地となる。
また、昭和18年11月には、柏陸軍墓地忠霊塔も建設された。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル: USA-R393-81
昭和22年(1947年)10月23日、米軍撮影の航空写真を一部加工。

拡大。
陸軍高射砲第二聯隊の北側には柏陸軍病院もあった。

さらに拡大。
陸軍高射砲第二聯隊の建物がわかる。

現在の様子を、Google航空写真にて。

下記は、高野台児童遊園にある営門門柱の解説板から抜粋。


軍都「柏」

ファイル: USA-M29-58
昭和24年(1947年)2月8日、米軍撮影の航空写真を一部加工。

軍都柏の主要軍事施設を記載しておく。


高射砲第二聯隊 ・照空予習室及測遠器訓練所
 (旧柏市消防局西部消防署根戸分署)

高射砲第2連隊の跡地は、現在の富勢中学校及び周辺一帯にあたる。
かつて、 柏市消防局西部消防署根戸分署 として使用されていた建物。

詳細な調査結果があがってくる前、かつては、高射砲第二連隊「馬糧庫」とも呼称されていた。

照空予習室及測遠器訓練所」は高射砲連隊に特有の演習用施設。
同種の建物は、柏と加古川の2か所にのみ現存しており、柏の建物は「起重機装置(エレベーター)の支柱」が残る国内唯一の残存例として大変に貴重な建造物。
建物の内部は「照空予習室」として、使用され、屋上を「測遠器訓練所」として使用。2つの要素を併せ持つ建物であった。


柏市のサイトに詳細情報がアップロードされている。

1 照空予習室及測遠器訓練所(旧西部消防署根戸分署)

https://www.city.kashiwa.lg.jp/bunka/about_kashiwa/culture/digital-archive/3211.html

2 高射砲第2連隊 3DCG(三次元コンピュータグラフィックス)版

https://www.city.kashiwa.lg.jp/bunka/about_kashiwa/culture/digital-archive/3212.html

3『空をつくる建物』~高射砲第二連隊 照空予習室調査報告書~

https://www.city.kashiwa.lg.jp/bunka/about_kashiwa/culture/digital-archive/3214.html

「起重機装置(エレベーター)の支柱」

支柱の存在感がすごい。

屋上で、測遠器訓練、が行われていた。内部は、照空の訓練で使用されていたために、そこから屋上に直接アクセスできるように階段が設けられていた。

照空予習室及測遠器訓練所の東側。
現在は、住宅街と整備されているが、横並びに「修理工場」「油脂庫」などがあり、近年まで土台などが残存していたが消失。

毎年秋に、建物の一般公開もあるという。
ぜひとも、足を運んでみたい。

柏歴史クラブ

http://teganoumi.blog62.fc2.com/blog-category-6.html

場所

https://goo.gl/maps/FE36VSrVwdzikGnW7


高射砲第二聯隊営門門柱と歩哨舎

「高野台児童遊園」に、 高射砲第二聯隊の営門門柱と歩哨舎が移築保存されている。
高野台児童遊園の東側が、営門であった。
高射砲第二聯隊のあとは、東部十四部隊と東部八十三部隊が、当地に駐留。敷地の東側に東部十四部隊、西側に東部八十三部隊が展開していた。

旧高射砲第二連隊営門
 ここにある門柱は東方約60mの所にあったものを移設したものです。
 高射砲第二連隊は、昭和13年に市川市国府台から富勢村根戸字高野台に移転してきました。隊は昭和16年に主力が東京方面に移り、同18年に廃されるまで続き、その後東部十四部隊と東部八十三部隊が進駐しました。
 敷地は現在、市営住宅、富勢中学校、公的施設として利用されています。
 柏市はかつて「軍都柏」と呼ばれ、十余二、花野井、大室、高田、若紫には軍事施設があり、緑ヶ丘には軍需工場がありました。
 これらのものは姿を変えてしまい、当時の面影をみることは困難になっています。
 本市に軍事施設があった残り少ない証拠として、また、二度と再び戦争の惨禍を繰り返すことのないように祈念して、営門を移設して永く保存し、「恒久平和」を求め続けるものです。
 柏市教育委員会

コンクリート造の歩哨舎。

場所

https://goo.gl/maps/qV5yu6P7q9oKA9SLA


コンクリート造形物?(敷地東部)

高野台児童公園から北上してみる。
足元に不自然に固められたコンクリートの造形物があった。
往時のものかは不詳


土塁と境界標石?(敷地北東端)

高射砲第二聯隊の敷地の北東端。
境界標石と思われる石柱と、往時からのものかは不詳であれど、土塁があった。

摩耗しているが、なんとなく「陸軍」と書いてあるような気がしてくる。

土塁?

場所

https://goo.gl/maps/LzbVXezDjv9FoC779


敷地南東端

南東端部分は特に何も残っていなかった。


敷地南部

用水路があった。当時からの水路(排水路)かは不詳。ただ経験則的には、当時からの排水路であってもおかしくないものを感じた。

写真左側の木々が、かつての陸軍用地

水路の右側が高台が陸軍用地であった、

場所

https://goo.gl/maps/M5GTBvQkZ8PubMTA7


陸軍境界標石(敷地南部)

敷地南側の通路に沿って、陸軍用地の境界杭(境界石)が点在していました。

こちらは、はっきりと「陸軍」と刻まれているのがわかります。

場所

https://goo.gl/maps/adXSKGnRxcL4yhVt5


土塁?(敷地南端)

土塁がめぐらされている。
高台が、陸軍用地。

右側の坂道を登っていくと、高野台(富勢)。
かつての高射砲第二聯隊の地。

場所

https://goo.gl/maps/BviqerzvjNUo8Kb26

ちなみにこの日は、柏駅スタートで柏公園(柏陸軍墓地)を経由してからの、高野台(高射砲第二聯隊)散策で、ゴールは北柏駅、でした。約6.5キロで約2時間の散策。

以上、高射砲第二聯隊の跡地散策でした。

※撮影は2021年7月。


関連

柏陸軍墓地跡散策(軍都柏・その1)

柏駅から柏公園へと足を運んでみる。徒歩では約20分といったところ。
かつて、陸軍墓地として造営が進むも、実際には陸軍墓地として使用されることなく終戦となり、戦後は「柏公園」となった。その柏公園内に、現在は慰霊碑「忠霊之碑」が建立されている。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル: USA-R522-25
昭和24年(1949年)1月10日、米軍撮影の航空写真を一部加工。

柏陸軍墓地予定地。旧水戸街道から東に参道が伸びる。舌状台地の様子もわかる。

現在の様子。GoogleMap航空写真。

軍都「柏」

軍都柏とも軍郷柏とも称されることになった、千葉県柏市。
柏飛行場をはじめとし、多くの軍事施設が集まる地となっていた。

柏飛行場
昭和12年(1937)6月、近衛師団経理部は東葛飾郡田中村十余二に陸軍の新飛行場を建設する旨を決定。
昭和13年11月に「陸軍柏飛行場」(東部第105部隊)が完成。東京立川から「飛行第五戦隊」が移転してきたことにより、柏飛行場は、帝都防空の航空基地となり、軍都としての歩みもここからはじまった。

昭和20年4月には、ロケット推進戦闘機「秋水」開発のための陸軍の特殊部隊、陸軍航空審査部特兵隊が柏飛行場に進出。柏には、秋水の燃料貯蔵庫なども設けられた。

高射砲部隊
昭和12年10月、「飛行部隊」とは別に、帝都防空のもう一つの主役として「高射砲部隊」が千葉県市川市国府台に高射砲第二連隊が新設。
昭和13年11月に柏飛行場の完成とあわせて、柏(富勢)に「高射砲第二連隊」も移動。帝都防空の一翼を担うとともに、東葛地域の飛行場の防御も担当した。
昭和16年に東京に「高射砲第二連隊」主力が移動。その後、 高射砲第二連隊 の跡地には留守近衛第二師団の歩兵・工兵補充隊が駐留し、昭和20年に東京師管区第二補充隊(東部八三部隊)と同近衛工兵補充隊(東部一四部隊)となった。

その他
昭和12年11月、東京憲兵隊市川分隊柏分遣隊開設

昭和14年2月、第4航空教育隊(東部第102部隊)が開設。飛行機の整備に関する訓練や教育を担当した。
昭和14年4月、陸軍航空廠立川支廠柏分廠も開設され、飛行場に配備されていた飛行機や車両の整備・点検を行う補給機関を担った。
同じ昭和14年4月には、陸軍柏病院が開設。
昭和20年6月には柏(鎌ヶ谷)に、陸軍藤ヶ谷飛行場が完成している。現在の海自下総航空基地となる。
また、昭和18年11月には、柏陸軍墓地忠霊塔も建設された。

ーーー

ファイル: USA-M29-58
昭和24年(1947年)2月8日、米軍撮影の航空写真を一部加工。


柏陸軍墓地の門柱
(柏公園の門柱)

現在の「柏公園入口」信号に残る門柱。
柏陸軍墓地の参道ともなる道路の両脇に設けられた門柱。旧水戸街道に面している。

柏公園入口交差点


境界標石?

柏公園入口交差点から参道にはいったすぐのところに。
境界標石っぽい石があった。削れて摩耗しているが、きっと往時の名残。

そのまま参道を歩む。


「陸軍」標石

柏公園の近く。参道脇に。
「陸軍」と刻まれていることがわかる境界標石。
この地が、柏陸軍墓地の造成地であったことを物語る史跡。


柏公園

電話機があった。

電話機のすべり台と、受話器のベンチ。

プッシュホン形すべり台
千葉県の加入電話150万台公衆電話3万台突破記念
昭和56年3月・寄贈電電公社/柏電報電話局


柏公園 忠霊之碑

公園の奥にそびえ立つ「忠霊之碑」。
柏陸軍墓地の由緒を受け継ぐ、慰霊顕彰の碑。

柏公園 忠霊之碑
 この地に柏陸軍墓地忠霊塔が建設されたのは、太平洋戦争の最中、昭和18年11月のことでした。戦争が長期化する中で、戦没者を祀るための施設として建設されましたが、終戦に至るまで遺骨が納められることはありませんでした。戦後、この地は、大蔵省(現在の財務省)から柏市が借り受け現在のような柏公園として整備されました。
 我が国は終戦時の混乱を経て、復興の道を力強く歩み、経済の発展と国民生活の安定を実現してきましたが、忠霊塔は歳月の経過とともに、破損状態もひどくなり見る影もなくなりました。終戦から十年余を過ぎた昭和31年、柏市でも忠霊碑建設の意欲が高まり、議会の承認を受け、鈴木悦三市長を会長とした柏市慰霊碑建設奉賛会が設立され、市民からも多くの寄付を受け、建設が進められました。
 そして、昭和33年7月、戦没者を弔い、そして祖国再興を誓い、永遠の平和への悲願を籠めて現在の忠霊塔の姿に改新築されました。
 建設当初、この碑には、明治、大正、昭和を通じた柏市の戦没者803柱が祀られましたが、今では、その後判明したシベリア等の抑留死者、あるいは平成17年に柏市と合併した旧沼南町の戦没者などを含む合計1023柱が祀られています。
 また、市内にはその他に慰霊碑が30か所あり、忠霊之碑はそれらを代表する碑にもなっています。
 昭和から平成、そして令和へと時代が流れても、今日の日本を築いてきた多くの先人達に想いを致し、我が国及び世界の平和を改めて祈念する心の拠り所として、この忠霊之碑はあります。
 令和元年12月
  柏市

入り口は封鎖されている。

ちなみに忠霊の碑の後方はブルーシートでテントが構築され、居住されている方がいたために近寄らず。。。

柏公園内には、「聖徳太子の碑」もあった。
明治26年建立、陸軍墓地造成よりも古い碑。もっとも最初からこの地にあったか、移転されてきたものかは不詳。


関連

陸軍墓地関連

陸軍工兵学校跡地散策(松戸)

千葉県松戸市。
松戸駅のすぐ東側の高台に、かつて陸軍の学校があった。そんな駅チカ戦跡散策を実施してみる。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M860-194
昭和23年(1948年)3月29日、米軍撮影の航空写真を一部加工。

上記、航空写真を一部拡大。
「松戸工兵学校」のあった台地は、かつて「相模台城」と呼ばれていた城跡でもあり。
この地は、城跡=競馬場跡=陸軍工兵学校跡、でもあった。

Google航空写真で現在の様子を。
松戸駅のすぐ東側。松戸中央公園・聖徳大学・松戸市立第一中学校を中心に、往時の境界線を今でも感じることができる。


陸軍工兵学校(松戸)

大正8年(1919)、相模台にあった松戸競馬場の跡地に開校。
日本陸軍が創設した工兵教育・下士官教育・甲種幹部候補生教育の為の学校であり、工兵用兵器資材の研究試験なども行われた。
日本陸軍では、騎兵・砲兵。歩兵などの学校はすでにあったが、松戸に設置された、工兵学校は、日本陸軍唯一の工兵学校であった。
現在の松戸中央公園・聖徳大学・松戸市立第一中学校・相模台公園・法務局松戸支局・松戸簡易裁判所・松戸市立相模台小学校などのある高台が、そのまま松戸工兵学校であった。


松戸駅から松戸中央公園へ

あとあと歩いてみて気がついたことではあったが、松戸駅前にそびえ立つ「イトーヨーカドー」の後ろが、陸軍工兵学校の地であり、イトーヨーカードーの店内を抜けて行くのが目的地への最短ルート。もっともそれは味気なさすぎるので、外周から赴くが。

聖徳大学に向けて歩く。陸軍工兵学校の敷地は今は聖徳大学となっている。

聖徳大学

ついつい「しょうとく」と読みたくなるが、「せいとく」が正しい読み方。
女子一貫教育を行なっている。大学院と通信教育課程のみ男女共学というが、基本は女子大のイメージ。
聖徳家政学院として昭和8年(1933年)に創立。陸軍工兵学校のあとにこの地に展開していた千葉大学工学部が転出(昭和39年)したのちの昭和40年(1965年)に千葉県松戸市に聖徳学園短期大学を開設。


「陸軍」境界標石(陸軍工兵学校・西部)

イトーヨーカドーから高台を右手に北上をする。
さっそくありました。境界石。
下は埋もれていますが、はっきりと「陸軍」と読むことができます。

場所

https://goo.gl/maps/1WQDpTG9ghKBgb1KA


「陸軍用地」境界標石(聖徳大学入口)

この細い路地を「女子大」の入り口とするのもどうかと思うが、ここを進むと「聖徳大学」に赴くことができる。
陸軍工兵学校の戦跡散策としても、ここが重要なポイント。

「陸軍用」と見ることができる境界標石。「地」は埋もれてますね。

場所

https://goo.gl/maps/PkFLe3j9fr5KgdAc9


聖徳大学石段小路

石段を登っていきます。絶対、女子大の入り口ではないだろ、この雰囲気は。

「松戸市」の標石

このあたりは、どうだろう。

埋もれているし、摩耗しているからなんともいえないけど、もしかしたら、陸軍の標石かもしれない。


「陸軍用地」境界標石(陸軍松戸工兵学校・北部)

石段を登りきった突き当りに、「陸軍用地」境界標石と「コンクリート造の倉庫」がみえる。
ここの「陸軍用地」は、立派に存在感を放っていた。

上部に矢印が刻まれている。これは、矢印の範囲で陸軍の敷地を示していると思われる。
この場所でいうと内側の90度が陸軍敷地外で、外側の180度は陸軍敷地内、か?

場所

https://goo.gl/maps/UjLcgG6FgDCtM7zAA


陸軍工兵学校の倉庫跡

陸軍工兵学校の倉庫、とされるコンクリート造の建物が残されている。
この先にある旧公務員住宅(相模台住宅)は閉鎖済み。このあたりも近いうちに再開発されるのだろうか。この先はどうなるかわからないが、少なくとも1945年に廃止されてから、75年以上たっているが2021年7月現在では、残っている。
陸軍工兵学校の軽油保管庫(軽油庫)とされている。
扉の上位部の穴から煙突が出ていたと思われ、気化したガスを抜くための穴であったことが予想できる。

場所

https://goo.gl/maps/sHfnSUexbUVooxDT8


松戸中央公園

そのまま歩むと、イトーヨーカドーの裏、聖徳大学の入口、に到着する。
その先は、松戸中央公園。公園内には、いくつか往時を物語るものが残っている。

陸軍工兵学校跡

記念碑がある。ここに陸軍工兵学校があった証。

宮原國雄
明治7年(1874)7月15日、広島県福山市生まれ。
昭和46年(1971)8月26日に享年97歳で没。
軍歴は、陸軍中将。陸軍士官学校を卒業し、陸軍砲工学校に入校。工兵畑を進む。
明治35年(1902)に陸軍工兵大尉となり、英国チャタム陸軍工兵学校に入校。日露戦争勃発のために帰国し第三軍工兵部副官として、旅順要塞攻撃や奉天会戦などに参戦。
大正6年(1917)、 陸軍工兵大佐となり陸軍省軍務局工兵課長に就任していた宮原國雄が工兵学校設立を進言したことにより、大正8年に工兵学校が設立したきっかけとなったとされている。 その後も、大正14年(1925)、佐世保要塞司令官、大正15年(1926)に陸軍中将となり、陸軍砲工学校校長などを歴任している。
宮原國雄は、昭和2年(1927)に予備役編入となっているが、その後も昭和46年まで余生を全うした。

陸軍工兵学校跡
 元陸軍中将 宮原國雄謹書

陸軍工兵学校は主として工兵が技術を研究練磨しその成果を全国各工兵隊の将兵に普及する使命をもって大正八年十二月一日景勝の地ここ相模台上に創立せられ逐年その実績を挙げ大正十五年十月二十八日摂政宮殿下の台臨を始めとして幾多の栄誉に浴せしが昭和二十年戦争の終局とともに光輝ある二十七年の歴史を閉じたり。いま台上往年の面影を留めずよって縁故者あい謀り記念碑を建立して後世に遺す。 
 昭和四十二年四月 
 工友会


陸軍工兵学校の跡地には、千葉大学工学部が進出していた。
千葉大学工学部が千葉市に移転した後に、聖徳大学がこの地に展開し、現在に至る。

千葉大学工学部跡

千葉大学工学部跡
 ここは昭和20年10月から同39年7月まで、旧制東京工業専門学校とそれに引き続く千葉大学工学部、同工業短期大学部があった場所です。
 両校の前身である東京高等工芸学校は大正10年、東京芝浦に創立されました。戦時下の昭和19年3月東京工業専門学校と解消され、同20年5月戦災による焼失のため、旧陸軍工兵学校のあった当所に移転してきました。
 昭和24年学制改革により新たに千葉大学として発足し、同39年千葉市に移転するまでの19年間、この地で多くの人材を輩出してきました。
 本年、創立80周年を記念し、ここに沿革を記します。
  平成13年12月吉日 
   千葉大学工学部
   千葉大学工学同窓会

松戸中央公園。
陸軍工兵学校の前は、松戸競馬場であったというが流石にその面影は残っていない。


旧陸軍工兵学校正門門柱
旧陸軍工兵学校歩哨哨舎

松戸中央公園の正門は、往時は陸軍工兵学校の正門であった。
往時と今と、門柱などがかわらずに、入り口の役目を果たしている。

松戸市 市指定有形文化財
○松戸中央公園正門門柱
 (旧陸軍工兵学校正門門柱)
○旧陸軍工兵学校歩哨哨舎

旧陸軍は、工兵のより高度な技術研修のため、相模台にあった松戸競馬場(船橋市・中山競馬場の前身)跡地に大正8年(1919)工兵学校を開校し、昭和20年8月まで存続させました。
煉瓦造の正門は、大正9年に造られたもので、市内に残る数少ない煉瓦建造物です。警備のための歩哨哨舎は、竣工当時木造でしたが、昭和2年から昭和10年頃にコンクリート造にしたものです。
正門は、門柱頂部の門灯と門扉がなくなっていますが、現存する門柱4基と歩哨哨舎が当時の様子を伝えています。
 平成21年6月18日
  松戸市教育委員会

門扉のレール跡もくっきりと残っている。

門灯と門扉はなくなっているが、堂々たる風格。

門柱の隣には、歩哨舎。

関東近郊で、気楽に立ち入りできる歩哨舎は貴重。

場所

https://goo.gl/maps/ZNYG7xCPgTUcXwv68


「陸軍用地」境界標石(陸軍工兵学校・西部)

正門跡から坂を下る。
かつて工兵学生たちが、訓練を終えて最後に駆け上がっていた急勾配の坂は、「地獄坂」と呼称されている。
そんな「地獄坂」は、今も昔も変わらぬ場所に。
その坂の途中に、境界石があった。

くっきりと残る「陸軍用地」境界標石。

場所

https://goo.gl/maps/ZNYG7xCPgTUcXwv68


相模台公園

地獄坂の南側の高台にある「相模台公園」。
この南側の高台には、「馬場」や「校南作業場」や「相模台練兵場」などがあった。

場所

https://goo.gl/maps/65UW1XQdjGb4GNCn7


相模台公園の片隅に、ひっそりと忠魂碑があった。
合掌。

松戸市忠魂碑

忠魂碑
総理大臣 吉田茂謹書

松戸市忠魂碑
 この碑は明治維新以降、日清日露、第1次世界大戦、満州事変、支那事変、大東亜戦争、その他に於て、国のため一命を捧げた本市出身の将兵、当時千二百二十柱を合祀せる、松戸市戦没者慰霊の碑であります。
 本市社会福祉協議会と建設特別委員会の合同により、昭和三十一年三月末、この地に建設されたものであります。
 その費用の内には当時大関「松登」が全盛時代の頃であり本市に於いて大相撲を開催し、その利益金を寄附されたという話も聞いております。
 遺族会では、毎年春彼岸、お盆、秋彼岸とお正月に各支会の役員により聖僧都参拝をし、市の追悼式当日には、常任委員会全員の参拝を実施しております。
 現在は、転入御家族の増加に伴い、千八百余柱の御霊をお慰めする鎮魂の碑として市内全域から高く崇められておるものであります。
 先の大戦から既に七十年が経ち関係syが徐々に少なくなってきている時期にあたり国家国民のために命を捧げられた先人に感謝の念をもってその御心を体し後世に傳えると共に我が国の平和と発展を祈念しここに忠魂碑の謂れを明らかにするものであります。
註記
 昭和三十年八月五日までに、大東亜戦争のため海外に居た日本軍将兵は母国へ帰国した。
 然し、ソ連は満州に居た日本軍将兵約六十万人を強制的にシベリヤへ抑留し、日本へ帰国させずに苛酷な労働を強いた。このため約六万人が病に倒れ、彼の地で亡くなった。
 その中には松戸市出身の将兵十余人がおり、この松戸市忠魂碑の御霊千二百二十柱の中に含まれている。
 平成二十七年八月吉日
   松戸市社会福祉協議会 松戸市遺族会 東葛偕行会


「陸軍用地」(陸軍工兵学校・南西部)
相模台公園

相模台公園の中にも「陸軍用地」境界標石があった。公園の中=相模台の高台となるため、正直いって公園の中にあることがイマイチ理解できないが、移転してきた?

相模台城の郭があったっぽい公園。

相模台城と第一次国府台合戦

「相模台城」は、戦跡としても著名。もちろん近代陸軍ではなく、中世の戦跡として。

天文7年(1538)に勃発した「第一次国府台合戦」。
房総の豪族であった真里谷氏や里見氏に擁立された小弓公方・足利義明は古河公方や千葉氏と対立していた。関東で勢力を広げていた後北条氏・北条氏綱は、扇谷上杉氏の本拠地であった河越城をい攻略。古河公方・足利晴氏は、小弓公方・足利義明や扇谷上杉氏との対抗で、北条氏綱と同名を結ぶことで、小弓公方・ 足利義明と北条氏綱が激化。
国府台北側の相模台で戦闘が始まるも、 足利義明の弟・基頼や息子・義純の討ち死に報が入り、足利義明が逆上して北条軍目がけて自ら突撃を図り戦死。
そんな複雑怪奇な足利公方の古戦場でもあり・・・。

よくわからない構造物もある。

松戸工兵学校時代の何か?かどうかはわからない。


境界標石?(陸軍工兵学校・南部)

相模台公園から南端の道路を歩く。
境界石っぽい、それっぽい、なにかをいくつか見つけることができた。

場所

https://goo.gl/maps/S414513DxbkdscL1A


陸軍工兵学校・南東部
相模台城土塁?

そのまま南端部を歩くと、松戸拘置支所の南側にたどり着く。
この土塁は、中世の相模台城の名残か、それとも陸軍工兵学校名残か。。。

境界石っぽいものもあった。

場所

https://goo.gl/maps/8xiiEP5DvKue2yWcA


「陸軍」境界標石(陸軍松戸工兵学校・東部)

東側の道を北上していたら、ありました。
「陸軍」と刻まれた境界石。

場所

https://goo.gl/maps/dkJhyBkL2aJNXFDc8


松戸工兵学校・北東部

このあたりが、敷地の北東部。それっぽい何かはありませんでした。


松戸工兵学校・北部

北側の岩瀬住吉公園内に土地区画整理竣工記念碑があった。
記念碑の竣工は皇紀2600年(昭和15年)。

松戸工兵学校の北部は、すでに戦前の段階で区画整理されていたことがわかる。
確かに冒頭の航空写真をみれば宅地となっていることがわかる。

場所

https://goo.gl/maps/BQtJU2cHZphsc4mt7

高台の向こうには、聖徳大学。

そうして、陸軍松戸工兵学校のあった地を一周して、最初の場所に戻ってきました。

松戸の陸軍工兵学校の跡地。駅チカ感覚で散策してみましたが、往時を物語る戦跡が豊富でした。これは良いですね。特に門柱と歩哨舎が残っているのが、すばらしい。
このまま戦跡を伝承する土地として、残していってほしいものです。


散策ログ

1時間45分で約4.5キロ、でした。

※2021年6月撮影


関連

工兵つながりとして。

赤羽台の戦跡散策

ブルーインパルスと東京オリンピック2020


2021年7月23日。
東京オリンピック2020(TOKYO2020)

昭和39年(1964)
昭和の東京五輪(東京オリンピック)開会式にて、航空自衛隊のアクロバット飛行「ブルーインパルス」が東京の空に五輪の輪を描いた。
この航空自衛隊のアクロバット飛行を行う、ブルーインパルスは、もとを正せば、日本海軍で曲芸飛行を披露した源田実の「源田サーカス」に始まるとも言ってもよく、その源田実は昭和の東京五輪当時、航空幕僚長であった。

そして、57年後の東京の空。
令和3年(2021)
令和の東京五輪(東京オリンピック2020)開会式にあわせて、「T-4ブルーインパルス」が東京の空を舞った。

どこで、ブルーインパルスを見上げようか。。。
迷いに迷って、明治神宮で、令和の空を、東京の空を見上げることとした。

入間基地を飛び立ったブルーインパルスは、新宿を北から南に飛び抜ける。

12時38分すぎ。
明治神宮の御神木・夫婦楠のはるか上空を飛び去っていくブルーインパルス。

そして、明治神宮境内の東から。
編隊を組んだブルーインパルスは、国立競技場上空で、オリンピックカラーの5色スモークを青空に描く。

12時45分すぎ。

西の空に、大きな大きな五輪の輪を描くブルーインパルス。
雲が多めで五輪をはっきりと拝むことができなかったがそれでもわかる大きな円。
描いている途中、なぜだろう、なにやら感無量となって目頭が熱くなる。

ありがとう

ブルーインパルスの曲芸がおわり、明治神宮境内で鑑賞していた人々から、大きな大きな拍手が何度も巻き起こる。
鑑賞していた人々も皆、一体となって感動を分かち合う空間。

ありがとうございました。

一生記憶に残る、良き思い出となりました。

猿江界隈の戦跡散策(江東区)

猿江恩賜公園。ここもまた戦争の爪痕を残す公園であった。
そんな猿江恩賜公園と猿江界隈を散策してみる。


猿江恩賜公園
(東京大空襲犠牲者仮埋葬地)

昭和7年(1932)、現在の南側が「猿江恩賜公園」として開園。もともとは江戸幕府公認の貯木場、そして明治政府御用達の貯木場であった。
昭和20年3月10日の東京大空襲では、焼死者の仮埋葬地となる。仮埋葬地としての規模は、錦糸公園の1万2895名に次ぐ多さであり、猿江恩賜公園では1万2749名が仮埋葬されたという。
東京都の施設で焼却出る限界を超してしまったために、多数の遺体を放置しておくわけにもいかないということから、軍部は都内各地の公園や空き地、寺院などに「仮埋葬」を行った。犠牲者を仮埋葬したという土地でもあり花見での宴会は禁止されている。ただ、現在、猿江恩賜公園には、そのエピソードを物語る「何か」というものは残っていない。

ちなみに猿江恩師公園の北側は、1972年に猿江貯木場が廃止され、1981年以降の開園となる。


空襲で破損した石碑?(猿江恩賜公園)

真偽は不詳。上部が欠けているのは、空襲による損傷であると言われている。

猿の彫刻?たしかに損傷しているようには、みえる。

猿江恩賜公園
開園の由来を記した石碑。昭和7年の開園時に建立されたものと思われる。

猿江恩賜公園

南側地区。石碑は「現在地」看板から公園に入っていったところにある。

猿江材木蔵跡、もある。

場所

https://goo.gl/maps/8uEDNtXWB3TRMmjR6


猿江恩賜公園から猿江神社に足を伸ばす。
近年は、御朱印で人気を集めている神社。

猿江神社
(国内最古級の鉄筋コンクリート社殿)

創建は、康平年間(1058~1065)という。源義家が前九年の役出征の途中、当地の入り江で家臣の猿藤太が亡くなり、祠を建立したことに始まる。当地は、猿藤太が亡くなった入り江で、猿江と呼称されるようになった。

大正12年(1923)の関東大震災で社殿消失。昭和6年(1931)に社殿を再建した際に宮内省設計技官によって鉄筋コンクリート造の社殿が建立。東京大空襲では深川が灰燼に帰すなかで、奇跡的に難を逃れ、錦糸町の駅からでも焼け野原に残る社殿を望むことができたという。

社号標は昭和4年建立

国内最古級の鉄筋コンクリート造社殿

大東亜建設一億一心滋
祈願威神力四民唯念之

昭和17念8月建立の旗立台

石灯籠は昭和6年9月吉日、建立。

裏参道の石灯籠も昭和6年9月建立。
揮毫は、海軍中将子爵小笠原長生

場所

https://goo.gl/maps/YibnxzESUHeSCFBT6


重願寺

浄土宗寺院。不虚山当知院重願寺。
戦国末期から江戸初期に開山されたという。

みまもり観音(みまもり観世音)

昭和56年(1981)、重願寺に建立された観世音菩薩像。関東大震災や東京大空襲の犠牲者の冥福を祈るために建立。
薬師寺東院堂の国宝「銅像観音菩薩立像」を模写し2.2倍の大きさとしている。

合掌し頭を垂れる

殉難慰霊平和祈願
みまもり観音
造立由来

みまもり観世音は東京大空襲による戦災や関東大震災などの災害で殉難された方々のご冥福を祈り戦争や天災のもたらす悲惨さと平和の尊さを後世に伝えるため当山檀信徒をはじめ、猿江地区6ヶ町有志の方々等1万数千巻に及ぶお写経の勧進によって造立されました。(昭和56年9月1日除幕開眼)
観音像足下の地下収納庫には5千人に及ぶ人々のご納経がカプセルに保護されて収められています。
みまもり観音と云う名称は殉難された多くの方々に対する心からなる慰霊の念をこめて観音さまに、亡き人々を『みまももり給え』と願い、また限りない観音さまの大慈悲をもって、いま生きる私達を『日々にみまもり給え』と祈念して名づけられました。
 戦災(ひ)に消えし 亡き人々よ 安かれと
 祈りて 今朝(けさ)も 経の字を写す 
                 主水

南無みまもり観音

場所

https://goo.gl/maps/iSoZH3AhxDeE1oay9


場所は猿江から亀戸にかわるが、参拝記録として掲載。

自性院

慶長2年(1597)開山。通称は役者寺。

戦災地蔵尊・大慈悲観音

東京大空襲の亀戸6丁目界隈の犠牲者を祀る。1262遺体が当寺院に仮埋葬されたという。
昭和23年に住職が地蔵尊を建立。
地蔵尊が風化してきたために、平成6年(1994年)に「大慈悲観音」を建立。
大慈悲観音の下には、身元不明者の遺骨が今も葬られているという。

合掌

戦災祈念尊
昭和23年3月10日

場所

https://goo.gl/maps/kVE76NE7HpHJMDVb9


関連

東京大空襲・慰霊

東京大空襲を耐えた「元江戸川区役所文書庫」


東京東部、江戸川と荒川に挟まれた河口部に「江戸川区」がある。
そんな江戸川区の中でも、いちばんの西部寄り=江東区・墨田区寄り・旧中川の近くの平井・小松川地区もまた、東京大空襲の被害甚大であった。
そんな江戸川区の小松川に、東京大空襲を耐え抜いた建物が残されている。

大正13年(1924)に南葛飾郡役所倉庫として建設され、その後江戸川区役所文書庫として活用されてきた建物。


江戸川区役所旧文書庫

江戸川区役所旧文書庫
 小松川さくらホールと小松川さくら公園一帯は、明治11年(1878)に成立した南葛飾郡の役所があったところです。昭和7年(1932)に東京市と周辺5郡が合併して東京35区が誕生しました。このとき、郡役所の庁舎が江戸川区役所になりました。
 現在小松川さくら公園に残る鉄筋の2階建ての建物は、大正13年(1924)に郡役所の倉庫として建てられました。当時は珍しい中村式のコンクリートブロック建築でした。江戸川区役所となってからは、行政文書を収める文書庫でした。
 昭和20年(1945)3月、小松川地区は大きな空襲に襲われました。区役所は火炎に包まれ、全焼しています。その最中、文書庫に納められた戸籍簿などを守るために、2名の当直職員が20個の麻袋に詰められた重要書類を炎の中から運び出し、庁舎脇の用水路に沈めて守りました。
 区役所は被災後しばらく第七高等女学校(小松川高校)校舎で業務をおこない、昭和23年(1948)に現在地(中央1丁目)に新築移転しています。郡役所跡地を江戸川区が購入し、保健相談所を建設するとき、建物の陰に隠れ残っていた文書庫も保存されることになりました。
 平成元年(1989)に文書庫の補修工事がおこなわれました。平成3年(1991)「世代を結ぶ平和の像」が制作され、平成7年にここに設置されました。毎年開催している東京大空襲の犠牲者追悼の集会にあわせて区民の寄贈品を集めた戦争資料展も開催してきました。
 江戸川区は平成7年に平和都市宣言をし、犠牲者の追悼、平和教育の推進などさまざまな平和への取り組みをおこなっております。平成30年3月、東京大空襲の被災地であるこの小松川に、常設の江戸川区平和祈念展示室を設置しました。戦争の悲惨さを語り伝え、恒久の平和こそ人類の大きな責務であることを心に刻みたいと念じております。
 平成30年3月 江戸川区

平和の尊さを語り継ぐ
 元江戸川区役所文書庫

 昭和20年3月10日未明の東京大空襲で下町一帯は火の海と化し、江戸川区内でも死者800名、焼失家屋11000戸の被害を蒙りました。
 この辺りも、すべての家屋が焼失し、ただこの江戸川区役所文書庫だけが焼けただれた姿で残りました。
 区では、戦争の傷痕を止めるこの文書庫を貴重な歴史的遺産として保存し、戦争の惨禍を再び繰り返さぬよ次の世代に語り継ぐことにしました。
 江戸川区

内部は非公開。焼け焦げた内部壁面は江戸川区のサイトに掲載がある。

江戸川区役所旧文書庫について
https://www.city.edogawa.tokyo.jp/e009/kuseijoho/gaiyo/shisetsuguide/bunya/bunkachiiki/heiwatenji/bunshoko.html

場所

https://goo.gl/maps/6tdRz7ppp8zZov889


東京大空襲江戸川区犠牲者追悼
世代を結ぶ平和の像

江戸川区役所旧文書庫のある「小松川さくら公園」内に。

東京大空襲江戸川区犠牲者追悼
 世代を結ぶ平和の像
 昭和20年3月10日の東京大空襲により、下町は炎の海と化し、10万人が亡くなり、100万人が家を失いました。
 江戸川区でも、平井・小松川地区がほぼ全滅、800余名の人びとが尊い命を失い、当時小松川後にあった区役所も焼失し、その中で文書庫だけが焼け残りました。
 江戸川区は、戦争の悲惨さと秘話の尊さを語り継ぐ、貴重な歴史的建造物として、文書庫を保存することにしました。
 この母子像は、文書庫の保存を記念して、戦争の過ちを再びくり返さない誓いを込めて、東京大空襲で理不尽にも尊い命を落とされた犠牲者を追悼し、平和の尊さを世代を超えて語り継ぐために、1万数千余の方々の浄財をもとに、戦災を体験された文化勲章受章彫刻家圓鍔 勝三先生に制作を委嘱し、平成3年3月10日に「世代を結ぶ平和の像」をつくる会より、江戸川区に寄贈されたものです。

煉瓦の基礎が残されている。これも東京大空襲で焼失した名残という。


江戸川区小松川さくらホール
江戸川区平和祈念展示室

隣の小松川さくらホールには、「江戸川区平和祈念展示室」が開設されている。

江戸川区平和祈念展示室

 昭和20年3月10日未明の大空襲で、一夜にして都内では推定10万人、区内でも約800人の尊い命が失われました。心からご冥福をお祈りいたします。
 私たちは、この日を忘れることなく、平和への想いを新たに、今後も戦争の悲惨さと平和の大切さを次の世代に伝えていかなければなりません。
 これまで東京大空襲江戸川区犠牲者追悼「世代を結ぶ平和の像の会」の皆様が中心となって追悼の集いを催してまいりました。このたび戦争の悲惨な経験を風化させず、平和への思いをさらに確かなものとすることを祈念して、ここに常設の平和祈念展示室を設けました。区民ひとりひとりが平和を希求し、実現し、永続させるよりどころとなることを確認しております。
 平成30年3月 江戸川区長 多田正見

M69焼夷弾

M69焼夷弾
 アメリカ軍が木造住宅の密集した市街地を焼き払うために開発した爆弾です。東京大空襲では、密着性のある油脂(ナパーム)を詰めた、貫徹力の強い合金製の焼夷弾38本を束にした「M69収束焼夷弾」が用いられています。投下の数秒後に、油脂を詰めた焼夷弾単体がばらばらになって落下しました。油脂が燃えつきると、筒だけが残りました。

昭和20年3月10日

1945年3月10日 東京大空襲
 太平洋戦争末期の1944年6月、アメリカ軍の戦略爆撃機B29が北九州の工業地帯を初空襲しました。同年8月にマリアナ諸島を攻略したアメリカ軍は、B29の基地を建設して、日本本土を爆撃範囲としました。B29による東京初空襲は1944年11月で、区内でも初めて空襲による死者がでました。
 当初は主に航空機工場などの軍需施設を目標として精密爆撃でしたが、1945年3月10日の東京の下町を焦土と化す大規模な都市無差別爆撃がおこなわれ、江戸川区の小松川・平井一帯も、一夜にして焼きつくされました。

東京大空襲
 1945年(昭和20年)3月10日、東京にアメリカ軍のB29爆撃機による大規模な空襲があり、一夜で10万人ともいわれる命が失われました。江戸川区でも、小松川・平井地区がほぼ焼失し、800人を超える方々が亡くなりました。
 空襲はその後も続き、東京では8月15日までにさらに数万人が犠牲となりました。

小松川文書庫の保存
 1945(昭和20)年3月10日の空襲でここにあった当時の江戸川区役所が全焼しました。奇跡的に焼け残った文書庫を、戦争の悲惨さを伝える建造物として残すために補修をほどこし、1989年(平成元)3月9日に公開されました。

江戸川区役所旧文書庫と小松川さくら公園
 小松川さくらホールと小松川さくら公園一帯は、明治11年(1878)に成立した南葛飾郡の郡役所があったところです。昭和7年(1932)に東京市と周辺5郡が合併して東京35区が誕生したとき、郡役所の庁舎が江戸川区役所になりました。
 公園の「世代を結ぶ平和の像」の後ろに残る建物は、1924年(大正13年)に郡役所の倉庫として建てられました。区役所となってからは、行政文書を収める文書庫でした。大空襲で区役所は火災に包まれ、全焼。その最中、文書庫に納められた戸籍簿などを守るために、2名の当直職員が20個の麻袋に詰められた重要書類を炎の中から運び出し、庁舎前の水路に沈めて守りました。空襲の記憶をとどめ、後世に伝える建造物として大切に保存しています。

旧中川東京大空襲犠牲者慰霊碑
 東京大空襲により旧中川で犠牲になった方を慰霊する碑です。2001(平成13)年8月15日の第3回「灯篭流し」で、ふれあい橋車詰に慰霊碑「鎮魂」を建立しました。揮毫は平井在住の鈴木春朝氏です。


旧中川東京大空襲犠牲者慰霊碑

小松川さくら公園から、旧中川を北上していくと、ふれあい橋が見えてくる。その端の両端に、江戸川区と江東区の慰霊碑がそれぞれ建立されている。

鎮魂
甦った川に灯籠を流す

慰霊碑のいわれ
 昭和20年3月10日の東京大空襲の折り、江戸川区平井と、江東区、墨田区に挟まれた、川巾60米程の旧中川には猛火に追われて二千八百余名に及ぶ犠牲者が出ました。この真実を後世に語り継ぎ風化させないため毎年8月15日の終戦記念日に、亀戸地区の有志と語らってこの地区で戦火に倒れた方々、併せてこの戦争で犠牲になられた全ての犠牲者の慰霊と、住民の皆様のご先祖の霊を慰めるとともに今後地域の一層の発展を願って灯籠流しを挙行しております。
 下町火戦の環境整備が進み、旧中川は甦りました。江東区側にはすでに「水彩都市」と刻まれた立派な碑が建てられているので私達有志の間から江戸川区側には、戦没者慰霊碑建設との声が湧きあがり、多くの篤志の方々の浄財によって「鎮魂」の碑が建立されました。
  平成13年8月15日 建立
   旧中川東京大空襲犠牲者慰霊「灯籠流し」を行う会

ふれあい橋の江東区側にも慰霊碑がある。

平和の祈り
 昭和20年(1945年)3月9日夜半から10日未明にかけての東京大空襲の際、米国のB29爆撃機から投下された数百発の焼夷弾により、10万人の犠牲者が出たと言われています。
 又、当日の強風に煽られて下町一帯が焼け野原となり熱風に耐えかねた人々が、旧中川に次々と飛び込み3000人余りの命が失われたと記録されています。
 年々、当時を体験した人が少なくなる中、悲惨な戦争体験を次世代に語り継ぎ、太平洋戦争での犠牲者の鎮魂と永久なる平和を末永く忘れることのないように、この「平和の祈り」の記念碑を建立しました。
 平成12年12月建立(2001年2月C.N30周年)
 平成23年 4月修復 (2011年2月C.N40周年)
 東京城東ライオンズクラブ

東京大空襲に際して、火災から逃れるために多くの人々が旧中川に飛び込み、そして亡くなったという。

場所

https://goo.gl/maps/ETmVDwr3Nv6qmdvA8


関連

東京大空襲・慰霊

「造船の父と造船の神様」赤松則良墓と平賀譲墓

日本海軍の軍艦造船において、「造船の父」と呼ばれた男と、「造船の神」と呼ばれた男がいた。
そんな二人の墓参りをしてみた。


「日本造船の父」(日本造船学の父)
赤松則良(赤松大三郎)

赤松則良(あかまつ のりよし)
天保12年11月1日(1841年12月13日) – 大正9年(1920年)9月23日)
海軍中将、従二位勲一等男爵。

幕末
安政4年(1857年)、長崎海軍伝習所に入所して航海術などを学ぶ。
万延元年(1860年)、日米修好通商条約批准書交換の使節団に随行し、咸臨丸で渡米。
米国海軍のポーハタン号に乗艦した万延元年遣米使節団の正使は新見正興、副使は村垣範正、目付は小栗忠順
同行する咸臨丸司令官は軍艦奉行の木村喜毅(木村芥舟)艦長は勝海舟

文久2年(1862年)、榎本武揚(運用術、砲術、機関学)・上田寅吉(船大工習得)・林研海(西洋医学)らとともにオランダに留学。
文久3年(1863年)4月、オランダ・ロッテルダムに到着。「運用術、砲術、造船学」などを学ぶ。
慶応2年(1866年)、オランダで完成した開陽丸(上田寅吉が開陽丸船匠長)に乗船して榎本武揚らは帰国するも赤松はオランダへ残留、留学を継続する。
慶応3年(1867年)、フランスにてパリ万国博覧会が開催。徳川幕府は将軍慶喜の弟、徳川昭武を名代として派遣し、この一行に日本資本主義の父・渋沢栄一も同行。パリにて、赤松則良と渋沢栄一が交わっている。

慶応4年(1868年)、大政奉還を知り、留学を中止し帰国の途に着き、5月17日、横浜港へ帰着。
戊辰戦争では、榎本武揚に合流を目指すも叶わずに静岡藩に移る。

明治
勝海舟の助言があり、明治政府に出仕。海軍中将にまで昇進。
海軍主船寮長官、海軍兵学校大教授、横須賀造船所長、海軍兵器会議議長、海軍造船会議議長、横須賀鎮守府司令長官などを歴任。

明治8年(1875年)から横須賀造船所所長(後の横須賀海軍工廠)に就任。
1876年(明治9年)、日本国内で初めて西洋技師の手を借りずに4隻の軍艦(清輝・天城・海門・天竜)を設計。
横須賀造船所では、赤松則良とともに西洋造船技術を習得していた上田寅吉が造船技術者として出仕し、横須賀海軍工廠初代工場長ともなっていた。赤松則良の設計のもとで、製図を引いたのが、上田寅吉であった。近代日本の造船技術と海軍の基礎固めに大きく貢献したことから、赤松則良と並び上田寅吉も「日本造船の父」と称されている。なお、赤松は上田を「近代日本造船界の一大恩人」とも賛辞している。

明治20年(1887年)5月24日、男爵を叙爵。貴族院議員も務める。
明治22年(1889年)、新たに開庁した佐世保鎮守府初代司令長官の要職を務める。
明治24年(1891年)、横須賀鎮守府司令長官に就任。
明治26年(1893年)、予備役、明治38年(1905年)10月19日、後備役に編入。
明治42年(1909年)11月1日に退役、大正6年(1917年9月14日)に隠居。

明治13年(1880年)、日本海員掖済会の設立とともに委員長に就任。
明治30年(1897年)、造船協会の設立とともに会長に就任。(現在の日本船舶海洋工学会)

旧赤松家記念館(静岡県磐田市見付)が残っている。これは赤松則良が予備役編入後、隠居所として設けた建物。静岡県指定文化財。


赤松則良墓

赤松則良は、大正9年9月23日に81歳で没している。
墓所は、文京区の吉祥寺。

赤松則良の妻・貞は、オランダ留学に同行した蘭方医であった林研海の妹。その姉は榎本武揚に嫁いでおり、赤松則良と榎本武揚は義兄弟であった。そして、榎本武揚と赤松則良は、同じく文京区の吉祥寺に眠っている。

赤松家之墓

大正元年11月 竣工

墓誌
赤松家先祖代々之霊位
壽仙院殿海家屋南明大居士 初代 大正9年9月23日歿
 従二位勲一等男爵海軍中将 赤松則良 行年81歳
(以下略)

場所
〒113-0021 東京都文京区本駒込3丁目19−17
諏訪山 吉祥寺

https://goo.gl/maps/SrfSwAvEtAEBmhsx8


造船の神様
平賀譲

平賀 譲(ひらが ゆずる)
1878年(明治11年)3月8日 – 1943年(昭和18年)2月17日[1])
海軍造船中将 従三位 勲一等 男爵 工学博士。東京帝大総長。従三位勲一等男爵。
父、平賀百左ヱ門は海軍主計官。兄、平賀徳太郎は海軍少将。

平賀譲は、兄同様に海軍兵学校を目指すも、体格検査で落第。第一高等学校工科に入学。
そして、東京帝国大学工科大学に進学し造船学科を専攻し首席で卒業。
海軍造船学生となり、明治34年に海軍造船中技士(後の海軍造船・造機中尉)となる。
横須賀海軍造船廠を経て呉海軍工廠造船部々員に着任。

明治38年(1905)、イギリス駐在。グリニッジ王立海軍大学造船科修学。
明治42年(1909)、帰国し海軍艦政本部々員、東京帝国大学工科大学講師を務める。
明治45年(1912)、横須賀海軍工廠にて、製図工場長、新造主任。戦艦「山城」、巡洋戦艦「比叡」、二等駆逐艦「樺」を担当し造船工場棟兼任となる。
大正5年(1916)、海軍技術本部第四部に勤務、八八艦隊主力艦の基本計画を担当。
大正7年(1918)、東京帝国大学工科大学教授兼任。

大正9年(1920)、海軍艦政本部再編、海軍艦政本部第四部長に山本開蔵就任に伴い、計画主任に就任。
海軍艦政本部で艦艇設計に従事し、戦艦紀伊型(戦艦陸奥・長門)、重巡洋艦古鷹型、妙高型、軽巡洋艦夕張、川内型、駆逐艦神風型、若竹型を設計。特に妙高型重巡洋艦などの画期的な重武装艦を設計する。

大正12年(1923)、欧州出張。ワシントン条約下の列強建艦状況調査し、翌年帰国。
大正14年(1925)6月、海軍技術研究所造船研究部長に就任。12月に海軍技術研究所所長兼造船研究部長に就任。
大正15年(1926)、海軍造船中将に昇進。
昭和6年(1931)、予備役。
昭和9年(1934)、友鶴事件「臨時艦艇性能調査会」事務嘱託。
昭和10年(1935)、海軍艦政本部の造船業務嘱託。大和設計にも影響を及ぼす。同年に発生した第四艦隊事件の「臨時艦艇性能改善調査委員会」で海軍艦政本部嘱託。
昭和13年(1938)、東京帝国大学十三代総長就任。翌年、「平賀粛学」を断行し教授等13名を追放。また、工学者や技術者を養成するために、平賀譲の発案によって東京帝国大学第二工学部の設置も進めた。平賀譲は興亜工業大学(現・千葉工業大学)の創立を支援している。

昭和18年(1943)2月17日、総長現役のまま64歳にて死去。東京大学医学部に脳保存されている。
昭和18年(1943)2月23日、東京帝国大学の安田講堂に大学葬を挙行され、墓所は多磨霊園にある。


平賀譲墓(平賀譲先生墓

平賀譲の墓は、多磨霊園にある。墓所は23区1種2側。

平賀譲先生墓
(裏面 昭和三十一年十一月建之 平賀譲先生をしのぶ會)

平賀譲先生頌徳碑

場所

https://goo.gl/maps/ysq5ycU3CsRjof5XA


多磨霊園には、牧野茂 の墓もある。せっかくなので付記として。

平賀譲の高弟・戦艦大和の設計主任
牧野茂

牧野 茂(まきの しげる)
1902年(明治35年)8月9日 – 1996年(平成8年)8月30日)
日本海軍技術将校。最終階級は海軍技術大佐。
牧野茂は、師匠であった平賀譲と同じ多磨霊園に眠っている。

1936年(昭和11年)〜1941年(昭和16年) 、呉海軍工廠造船部設計主任。大和設計主任として大和建造に携わる。
1945年(昭和20年) 終戦。海軍技術大佐、海軍艦政本部第4部設計主任。
1955年(昭和30年) 海上保安庁灯台補給船『宗谷』の南極観測船への改造設計に携わる。
1996年(平成8年) 没。享年94歳。

牧野茂墓

牧野

1902.2.9~1996.8.30

1907.4.15~2009.5.13

場所

https://goo.gl/maps/RHvfWPcvbWcJSUrw7

※赤松則良墓は2021年撮影、平賀譲墓と牧野茂墓は2016年撮影。


関連

「東京陸軍刑務所跡」渋谷界隈の戦跡散策

若者で賑わう街「渋谷」。
この街には、かつて「陸軍の刑務所」があった。
そして、この地で「二・二六事件」に関与した若者たち、青年将校たちが処刑された。


東京陸軍刑務所の陸軍標石1

渋谷のハチ公口から渋谷マークシティ方面にあゆむ。
繁華街のまっただなか。

パチンコ屋の細道をいくと、「陸軍用地」境界標石と「景品交換所」と「ガールズバー」と「居酒屋」があった。

「ガールズバー」は閉店してしまっているが、陸軍用地境界標石は今も変わらずに残っている。
それにしても、人の目も気になり、写真が撮りにくい場所。
景品交換所に向かう人々の往来が途絶えない。

陸軍用地

このあたりは憲兵隊が駐留していたという。

よくぞ残ってくれた、という感じ。

場所

https://goo.gl/maps/LMQDrntfWdzPgSmz9


東京陸軍刑務所の陸軍標石2

渋谷の街を北上する。
東急ハンズ渋谷店の裏、渋谷区清掃事務所宇田川分室に、同じように陸軍標石があった。

陸軍用地

この場所より北側に、東京陸軍刑務所があった。
現在の「NHK放送センター」「渋谷区役所」「渋谷区立神南小学校」などは、当時の陸軍刑務所の敷地内であった。この標石は、も都の場所からは、数メートル移転しているというが、いまはフェンスの向こうできっちりと保存されているので安心。

東急ハンズ渋谷店の裏側。

場所

https://goo.gl/maps/uFkgxMvXV4EFjFXy6


二・二六事件慰霊碑
東京陸軍刑務所跡

東京陸軍刑務所跡にたつ慰霊碑。
観音像は昭和40年2月26日建立 。
昭和11年7月12日、二・二六事件首謀者に対する刑が、この地で執行された。

関連記事は以下も参照。

この場所の撮影は2021年2月26日。

二・二六事件慰霊碑
碑文
昭和十一年二月二十六日未明、東京衛戍の歩兵第1第3聯隊を主体とする千五百余の兵力が、かねて昭和維新断行を企圖していた、野中四郎大尉等青年将校に率いられて蹶起した。
當時東京は晩冬にしては異例の大雪であった。
蹶起部隊は積雪を蹴って重臣を襲撃し総理大臣官邸・陸軍省・警視廳等を占據した。 齋藤内大臣・高橋大蔵大臣・渡邊教育総監は此の襲撃に遭って斃れ、鈴木侍従長は重傷を負い岡田総理大臣・牧野前内大臣は危く難を免れた。
此の間、重臣警備の任に當たっていた警察官のうち五名が殉職した。
蹶起部隊に對する處置は四日間に穏便説得工作から紆余曲折して強硬武力鎮壓に變轉したが二月二十九日、軍隊相撃は避けられ事件は無血裡に終結した。
世に是を二・二六事件という。
昭和維新の企圖壊れて首謀者中、野中、河野両大尉は自決、香田、安藤大尉以下十九名は軍法會議の判決により東京陸軍刑務所に於て刑死した。
此の地は其の陸軍刑務所跡の一隅であり、刑死した十九名と是に先立つ永田事件の相澤三郎中佐が刑死した處刑場跡の一角である。
此の因縁の地を選び刑死した二十名と自決二名に加え重臣警察官其の他事件関係犠牲者一切の霊を合せ慰め、且つは事件の意義を永く記念すべく廣く有志の浄財を集め事件三十年記念の日を期して慰霊像建立を發願し、今ここに其の竣工をみた。
謹んで諸霊の冥福を祈る。
 昭和四十年二月二十六日
 佛心會代表 河野司 誌

碑銘にある佛心會代表の河野司氏は、河野壽陸軍大尉の実兄。
河野壽陸軍大尉は二・二六事件に参加。
河野隊を率いて湯河原で牧野伸顕侍従長(伯爵)を襲撃。その際に負傷し、後に自決。

この慰霊碑の脇にある「赤レンガ壁」は東京陸軍刑務所の名残を残しているもの(残存壁)、とされている。

合掌


位置関係

時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」
 1/50000東京西南部
 明治45年縮図
 リスト番号:76-7-1

「衛戍監獄」の記載がわかる。のちの「東京陸軍刑務所」。
「南豊島御料地」は、のちの明治印宮、「練兵場」は「代々木公園」となる。


関連

神田駅西口高架橋に残る機銃掃射弾痕?

神田駅西口から「煉瓦造りの高架橋」を散策してみました。


JR神田駅

大正8年(1919)、中央本線の万世橋駅ー東京駅間の途中駅として開業。
今も活用されている「高架橋」は開業と同じく大正期に建造。高架橋は当時の最新技術であった鉄筋コンクリート造りをベースと赤レンガ装飾を施している。これは、明治後期に新橋駅ー東京駅間の総レンガ積み高架橋と外観を統一するためであった。

JR神田駅西口から南に向けて。
今も残る「赤れんがの高架橋」を丹念にみてみると、ところどころに欠けが見受けられる。これは一説によると「機銃掃射の弾痕」だという。
そう思って、改めて観察してみると確かに「機銃掃射弾痕」に見えてくる。

近隣では、日本橋川に架かる「鎌倉橋」にも機銃掃射弾痕がある。
鎌倉橋は昭和19年11月の空襲であったというが、神田駅の高架橋に残された弾痕はいつのものかは不詳。


神田駅西口高架下に残る機銃掃射弾痕?

神田駅西口を出て、すぐ目の前の高架橋。さっそく弾痕ぽい跡があったけれども、いったんは、ちょっと北側に歩いてみて、順番に見ていきましょう。

第2鍛冶町橋高架橋(北側)

第1鍛冶町橋高架橋(南側)

神田駅西口改札側

新石橋架道橋(北側)

焼け跡?

新石橋架道橋→新石町橋高架橋

神田駅西口改札の道路を挟んだ南側。

新石橋架道橋から新石町橋高架橋の間

新石町橋高架橋(南側)

千代田町橋高架橋(北側)

千代田町橋高架橋


神田駅の周辺に、こんなに機銃掃射弾痕が残っているとは、露知らず、でした。
スキマ時間でも、散策できるスポット。ちょっと気にして歩いてみるのも良い感じです。


関連

煉瓦に対する機銃掃射としては、半田赤レンガ建物(中島飛行機半田製作所・衣糧倉庫)もある。

日本初の田園都市・田園調布の玄関口「旧田園調布駅舎」

「田園調布」
日本を代表する高級住宅街は、渋沢栄一の理想とした田園都市でもあった。


田園調布

田園調布は、1918年(大正7年)に渋沢栄一らによって立ち上げられた『理想的な住宅地「田園都市」の開発』を目的とする田園都市株式会社により主に開発され、1923年(大正12年)8月から分譲された地域であった。

渋沢栄一はイギリスで提唱された田園都市構想を理想とし模範的な住宅街を開発。
田園調布駅前広場を中心に放射状に延びる街路は、当時のヨーロッパの都市に見られた特徴をそのまま取り入れたものであった。渋沢栄一の四男であった渋沢秀雄が、日本の田園都市建設の参考とするために、大正8年(1919)に欧州11カ国を視察し住宅事情を学び、帰国後に田園都市株式会社に取締役として入社。
「田園調布」開発へとつながった。

田園調布の由来
この広場を中心とする凡そ八十万平米の地域は、明治文化の先駆者渋沢栄一翁が、我国将来の国民生活の改善の為に、当時漸く英米に現われ始めた「田園都市」に着目して都会と田園との長所を兼ねた模範的住宅を実現させようと念願して、既にあらゆる公的関係から退かれた後であるにも関らず自ら老躯を運んで親しく土地を選定された所であります。
 その目的の為に大正七年、田園都市株式会社が創設されて、翁の理想に共感する人々に土地の分譲を行ない、我国最初の近代的大計画都市が実現しました。そして居住者による社団法人が生まれました。
 この都市全体を一つの公園のように明るく美しいものにする為、建築その他に関し色々な申し合せを固く守り殊に道路との境界には一切土塀板塀などを設けず、花壇か生け垣の低いものの程度にすることなどを、厳格に実行しました。その協力の結果、この明るい住宅地と楽しい散策地が生まれたのであります。
 大正十一年には同社の姉妹会社として目黒蒲田電鉄が創立され大正二年三月、当時荏原郡調布村であった当地に調布という駅が設けられ間もなく田園調布という駅名に改められました。その後この地区が東京市に編入された際、町名改正がおこなせれて当都市のみならず周辺の町村をもひろく含めて田園調布と呼ぶこととなりました。その折当会の地域は頭初の田園都市の約三分の二となり、他の三分の一は、世田谷区玉川田園調布となりました。
 ここに明るく住む方々も、ここを来し訪れる方々も、渋沢翁が永くここに栄えてゆくようにこの田園都市を愛護して下さるようお願い致します。
 昭和三十四年秋
 社団法人 田園調布会 会長 矢野一郎

田園調布駅前、放射状の起点となる西口広場に由来を記した石碑が建立されている。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:C50-C2-29
昭和16年(1941年)4月2日、日本陸軍撮影の航空写真を一部加工。

上記写真を加工。

現在の様子。GoogleMap航空写真

田園調布駅から西側には、同心円状のエトワール型(パリの凱旋門周辺と同型)の道路と街路樹、広場、公園が設けられている。


旧田園調布駅舎

1923年(大正12年)3月11日
 目黒蒲田電鉄の開通と同時に開業。開業当時の駅名は「調布駅」であった。
1926年(大正15年)1月1日
 駅名を「田園調布駅」に改称。
1990年(平成2年)9月4日
 田園調布駅地下化のため、旧駅舎解体。
2000年(平成12年)1月15日
 旧駅舎を田園調布駅のシンボルとして復元(駅舎としては使用せず)。

旧田園調布駅舎設計者は神宮外苑の絵画館や上高地帝国ホテル、伊豆の川奈ホテルなどを設計した矢部金太郎。
特徴的な屋根の形はマンサード・ルーフという欧州中世紀の民家がモデルになっているという。

田園調布を造成した田園都市会社は、東急電鉄目蒲線前身である目黒蒲田電鉄の母体会社でもあった。

※撮影2021年5月


関連

板橋の田園調布

田園調布の南側は多摩川

「田園調布」と「調布」は、ちょっと違う。。。

渋沢栄一関係

はじめに

もう一つの東京大空襲「山の手大空襲」表参道の戦跡散策

若者たちが集う街、表参道。
表参道の交差点には1対の石灯籠があり、そこから明治神宮にかけてケヤキ並木となっている。
明治神宮とともに整備された参道。

昭和20年5月25日「山の手空襲」
表参道の石灯籠は、山の手空襲の爪痕を今も残していた。


山の手大空襲

東京は昭和19年以降、100回以上に及ぶ空襲を受けてきた。
昭和20年3月10日に東京下町を襲った空襲では死者は10万人を超え、罹災者も100万人を超えており、1回の空襲としては、世界史上に例を見ない規模として「東京大空襲」と称されれているが、その他にも多くの空襲があった。

昭和20年5月25日、空襲警報発令22時22分。
山の手地域に470機ものB‐29が襲来した空襲では、死者3600余人、罹災者は約56万人、焼失16万6千戸にも及び、国会議事堂周辺や東京駅も被災。皇居も被災し 昭和天皇・香淳皇后は御文庫に避難、皇居内の明治宮殿は、この空襲で焼失。

東京地方では、2番目の被災規模であり「山の手大空襲」と称されている。
なお、3月10日の下町を襲った東京大空襲で襲来したB-29は325機であり、山の手大空襲で襲来したB-29の470機は東京大空襲以上であった。

米軍は、昭和20年5月25日の「山の手大空襲」でもって、東京の市街地はほぼ壊滅したと判断し、この日以降、東京への大規模な空襲は終了した。
まさに、東京に止めを刺した空襲が、この「山の手大空襲」であった。


和をのぞむ(「山の手空襲」追悼碑)

表参道交差点、現在の「みずほ銀行青山支店」、当時は「安田銀行青山支店」の手前に慰霊碑がある。
山の手大空襲に際して、多くの人々が、火から逃れようとして堅牢であった銀行の建物前に集い、そしてそのままこの場所で斃れ、そして、この銀行のそばには多くの遺体が積み上げられていたという。
この、みずほ銀行青山支店のすぐ近くに、「山の手空襲」追悼碑が建立された。

和をのぞむ
  太平洋戦争の末期、昭和二十年五月、山の手地域に大空襲があり、赤坂・青山地域の大半が焦土と化しました。
  表参道では、ケヤキが燃え、青山通りの交差点付近は、火と熱風により逃げ場を失った多くの人々が亡くなりました。
  戦災により亡くなった人々を慰霊するとともに、心から戦争のない世界の平和を祈ります。
  港区政六十周年にあたり、この地に平和を願う記念碑を建立します。
  平成十九年一月
  港区赤坂地区総合支所
  区政六十周年記念事業実行委員会


表参道・ケヤキ並木

表参道は、明治神宮の参道として、昭和9年(1920)に開通。
表参道のシンボルであるけやき並木は、昭和10年に植樹。
しかし、山の手大空襲で、201本のうち13本のみを残して全焼。現在のケヤキのほとんどは戦後に植え替えられた。
ケヤキの幹の太さで、戦前の植樹か戦後の植樹かが分かるらしい・・・。


表参道・石灯籠

表参道の二基の大灯籠。山の手大空襲の生き証人。
台座の一部が欠けているのは、焼夷弾が着弾した痕、ともいう。
そして、石灯籠の台座は黒ずんでいる。これは、山の手大空襲の犠牲者の血と脂が黒く滲みこんだものといわれている。

合掌


表参道・山陽堂書店

明治24年(1891年)創業。
昭和6年(1931年)御幸通り造成のために現在地に移転。地上3階地下1階の鉄筋鉄骨コンクリートビル建立。建物の地下には井戸が掘られていたことが、後々、功を奏することとなった。

昭和20年5月25日、山の手大空襲。青山の表参道交差点周辺は火の川となる中で、好運にも山陽堂書店ビルは鉄筋鉄骨コンクリートと地下室の井戸水に助けられ、多くの避難民の命を救った。
この界隈では、鉄筋コンクリート建ての「同潤会青山アパート」 と」「山陽堂書店ビル」、そして青山霊園に避難して助かった人々がいた。

昭和38年(1963年)東京オリンピックのため青山通り道路拡幅で山陽堂書店ビルは頑丈であったために壊すのではなく3分の1に建物を削り現在の姿となった。


善光寺(青山善光寺)

南命山善光寺。信州・善光寺の東京宿院。東京都港区北青山3-5-17鎮座。
善光寺は、永禄元年(1558)谷中に創建、宝永2年(1705)当地へ移転。

毎年、山の手大空襲のあった5月25日に、青山善光寺本堂にて「山の手大空襲慰霊法要」が執り行われている。

陸軍経理学校生徒隊慰霊碑

青山善光寺の境内に建立されている慰霊碑。
帝国陸軍のシンボル、金色の五芒星が輝いている。

陸軍経理学校生徒隊1500余名のうち戦死された方々を慰霊鎮魂。
昭和十二年八月に初代区隊長が戦死し、その法要を善光寺で行なった縁により慰霊碑が建立された。

陸軍経理学校生徒隊慰霊碑
碑誌
陸軍經理學校生徒隊ハ昭和十一年ヨリ終戦迄陸軍經理部ノ中核タル将校訓育ノ揺籃タリ
ココニ志魂ヲ育クマレタル健兒一千五百餘名ハ先ノ大東亜戦争ニ際シ勇戰奮闘克クソノ精華ヲ發揚セルモ戰局ノ推移ニ伴イ全戰域ニ亙リ數多散華殉難ノ士ヲ出スニ至リタルハ痛惜ニ堪エズ
コレガ供養ノ為昭和十二年八月初代區隊長戰死ノ法要ヲ當善光寺ニテ執行以來戰後モ毎歳新タナル物故者ノ合祀ヲ重ネ慰霊法要会ヲ嚴修シ連綿今日ニ及ベリ
此ノ間住職心譽觀導上人ヲハジメ當山ノ囘向終始懇篤ナルハ洵ニ感激ニ堪エザルトコロナリ
曽ツテ同ジ武窓ニ行住坐臥苦樂ヲ共ニセシ我等今日幽明ヲ異ニスルモヤガテハ彼岸ニ於テ同坐團樂ヲ希ウノ情切ナルモノアリ
茲ニ第四十三囘法要会ニ際シ一同ノ総意ニヨリ因縁深キ當寺寶前ニ靈璽簿ヲ奉安スルト共ニ慰霊碑ヲ建立シ全会員及ビソノ家族ニ至ルマデノ心ノ縁タラシメントスルモノナリ
 昭和五十四年五月二十日
 陸軍經理學校生徒隊  十誠会 会員一同

戦災殉難者諸精霊供養塔

戦後、山の手大空襲の犠牲者の法要が、表参道のみずほ銀行の前で行われていたという。
昭和41年に、山の手大空襲の犠牲者が多かった土地の土を持ち帰り、善光寺境内に「供養塔」を建立し、現在は、毎年5月25日13時より、「山の手大空襲慰霊法要」が執り行われている。

戦災殉難者諸精霊供養塔
昭和二十年五月二十五日 為大東亜戦争青山周辺戦災殉難者
昭和四十一年五月二十五日  有志一同建立

後世を担う若人たちで賑わう街、表参道。
「山の手大空襲」の歴史は、静かに伝承されていた。

改めて、
慰霊鎮魂の合掌を。

※撮影2021年4月-6月


関連

東京大空襲・慰霊

平河天満宮に残る機銃掃射弾痕

平河天満宮。文明10年(1478)、太田道灌の創建による天満宮。
江戸三大天神の一つとも称される平河天満宮にも戦争の爪痕が残っているというので足を運んでみた。


平河天満宮

菅原道真公を祀る。
江戸平河城城主太田道灌公が、ある日菅原道真公の夢を見た翌朝に、菅原道真公自筆の画像を贈られたこともあり、その夢を霊夢であるとし、文明10年(1478年)に江戸城内の北へ天満宮を建立したことに始まる。
徳川家康の江戸入府と江戸城再整備にあたり、平川門外に遷座。徳川秀次の代に現在地に奉遷され、平河天満宮の遷座したこの地が平河町と呼ばれるようになった。

平河天満宮は、1923年(大正12年)の関東大震災、1945年(昭和20年)の戦災ではほとんどの施設を焼失している。戦後、仮社殿にて祭祀を執り行っていたが、1969年(昭和44年)に本殿が再建されている。


平河天満宮・銅鳥居

弘化元年(1844)12月、奉納された銅鳥居。千代田区最古の鳥居という。千代田区指定文化財。

左右の柱木には丸く銅板が欠損し、内部の石が露出している部分があります。これは戦時中、空襲の際の機銃掃射によるものです。

機銃掃射の弾痕。銅板を丸く削っている。

鳥居の貫の部分など、焦げたような跡が残る。


平河天満宮・石牛

嘉永5年(1852)奉納。常夜燈と同じく菅原道真公の950年遠忌の奉納であった。千代田区指定文化財。
石牛のところどころの欠損など、戦争の爪痕かどうかは定かではない。


平河天満宮・狛犬

享和元年(1801)の奉納。千代田区指定文化財。
平河天満宮は、たびたび火災に見舞われているために、焼けたような痕跡も見受けられるが、これが戦災によるものか関東大震災によるものか、江戸時代の大火によるものかの判別は難しい。
狛犬の頭上にはかつては角もあったが、欠け落ちた(焼け落ちた?)という。


平河天満宮・常夜燈

嘉永5年(1852)奉納。千代田区指定文化財。
かつては2基あり左右一対であったが、昭和20年(1945)の空襲で被災した際に、破損し、1基のみ残る。
奉納された嘉永5年は、石牛と同じく菅原道真公の950年遠忌に当たる年であった。


平河天満宮境内

ご社殿は、1969年(昭和44年)の再建という。

桜の季節の参拝でした。

※撮影2021年3月

陸軍糧秣廠本所倉庫跡と千種稲荷神社(錦糸公園)

錦糸町駅前の「錦糸公園」は、かつて陸軍の倉庫であり、空襲犠牲者の仮埋葬地であった。

錦糸公園

墨田区立錦糸公園は、大正12年(1923年)に発生した関東大震災で壊滅的な被害を受けた東京復興事業の一環として、隅田公園・浜町公園と並んで計画された公園であった。
当地は、帝国陸軍の糧秣廠本所倉庫であったが、大正14年に出張所として流山に倉庫が設けられて移転し、公園として再整備が行われ、昭和3年(1928)7月に開園。
太平洋戦争中は、空襲からの避難所としての役割や戦災で命を落とした人たちの仮埋葬所としても利用された。1945年3月10日の東京大空襲においては、1万2895の遺体が錦糸公園に仮埋葬された。
仮埋葬された遺体は戦後に掘り起こされて改装されている。
現在、錦糸公園には仮埋葬などを物語る戦跡などは特に残っていない。


千種稲荷神社

郷土の守護神としてこの地に鎮座してきた稲荷様。
陸軍糧秣廠本所倉庫の建設に際し、陸軍省は稲荷社を撤去。その後、倉庫周辺で火災が頻発したことから対策に苦慮し、取り払った稲荷社を元に戻したところ、火災は収まったという。
その後に、関東大震災で東京大空襲でも稲荷社周辺は無傷であった。

千種稲荷神社由来記
千種稲荷神社は、江戸時代此の地が湿地帯であり荒廃のままになっていたが、寛文から延宝の二十年間(徳川四代将軍家綱)の長きにわたり治水を目的として土木工事が行われ、更に其の後此の地を武家の下屋敷の敷地として、整地を行いなお商家の営業も地域内に許可され、加えて横十間川が当時舟運の盛んな処であった関係で、武家屋敷が横十間川をはさんで両側に軒を連ねていたと云う頃より、此の柳島村の守護神として祭られていたものと伝えられて居ります。その後、徳川幕府は明治政府に替り、従来の武家制度は廃止され武家屋敷も解体されて、農耕地に変わり其の武家下屋敷解体の際にも、此の稲荷社は保護されて郷土の守護神として残されました。

その後、政府は陸軍糧秣廠本所倉庫を此の地に建設しその敷地内に此の稲荷社があり、陸軍省は敷地整理に際し、この稲荷社を取り払いし処、その後倉庫並びに周辺に再三火災が発生し、陸軍省も面目問題として苦慮を重ね、後になり敷地内より取り払ったままになっていた稲荷社に気付き、旧位置に再建して祀りし処、不思議にもその後火災等は全くなくなりました。大正十二年の震災には此の地一帯は、灰燼に化したが稲荷社には少しの被害を受けませんでした。昭和三年七月十八日、復興局の手により創設された錦糸公園も開園となり、同じ頃神田より製菓業者が公園周辺に集団移転し、営業を開始した処早々より町内に火災多発して、町民が不安に苦しんでいた処、或る時静岡県より来られた行者さんが、昔より此の地に祀られてあった守護神が公園建設の際園内の何れかに放置されたままに成っているとの言葉に、町内有志により探し出し、公園課の了解を得て稲荷社を旧位置に祀りし処、其の後火災も無くなり、又商売繁盛、災厄消除等諸々の願いも成就するとて多くの信者が参拝致す様になりました。昭和二十年三月十日の空襲にも此の稲荷社は少しの被害もなく多くの人が境内に避難し戦火を免れました。昭和二十九年千種講世話人相計り、戦後荒廃した稲荷社の整備計画が建てられ、その年より玉垣、鳥居、参道、水屋、石燈籠、本殿の増改築等遂年に渉り工事を重ね、境内の整備を完了した次第です。昭和三十年五月十八日付けを以って右建物一切を東京都の申し出により、都に寄贈致し保存と管理を千種講が委任されました。その後昭和四十年四月から墨田区の公園になりました。
昭和五十年、千種講より春秋二回にわたり吉野桜を区の公園課に寄贈し、よりよい桜の公園として其の景観の向上を願っている次第であります。
 (趣文 真宗末一・千種稲荷由来記より)

錦糸公園内に鎮座する千種稲荷社の御由緒が、往時をわずかに物語っている。

錦糸公園


関連

東京大空襲・慰霊

「日本初の常設サーキット」多摩川スピードウェイ跡地(取り壊し前)

かつて多摩川の河川敷に「サーキット場」があった。
場所は、東急東横線多摩川橋梁の隣、多摩川駅と下丸子駅の間の川崎側。堤防に観客席跡などが今も残っている。

多摩川スピードウェイは、アジア初・日本初の常設サーキットパーマネントサーキット・クローズドサーキット・常設コースを備えた競技専用施設)であり、なおかつ日本唯一の常設サーキットでもあった。
常設サーキットとしては1962年に鈴鹿サーキットが開設されるまでは、多摩川スピードウェイが国内で唯一の自動車が使用できるサーキットであった。

「多摩川スピードウェイ」跡地は、築堤工事のため取り壊されました。
観客席の一部が移設保存。横並びの3席分、幅約3・3メートル分。

取り壊し後の記事はこちらから。
なお、新設されたプレートには、当サイトの写真が採用されております。
ありがとうございます。

移設保存にあっては、多摩川スピードウェイの会 (Tamagawa Speedway Society)の多大な尽力があった。

https://ja-jp.facebook.com/TamagawaSpeedwaySociety/


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:C50-C2-31
昭和16年(1941年)4月2日、日本陸軍撮影の航空写真を一部加工。

多摩川スピードウェイ

多摩川スピードウェイ跡地の現在の様子。


多摩川スピードウェイ(オリンピアスピードウェイ)

1936年(昭和11年)開業。東急電鉄により運営。収容人数は約3万人。コース長は1,200m。
多摩川の堤防土手を利用したメインスタンドを持つ構造であった。

多摩川スピードウェイは、アジア初・日本初の常設サーキットであり、なおかつ日本唯一でもあり、「東洋一の自動車大競走場」として、注目を集めていた。

1936年6月7日に第1回全国自動車競走大会が開催された。
第1回大会では、外国車に交じって国産車も参戦。のちに本田技術工業を創設する本田宗一郎や、ダットサン日産自動車の鮎川義介などを押しのけ、国産自動車部門では、太田祐雄のオオタ自動車工業が優勝した。
3ヶ月後の第2回大会(1936年10月)では、鮎川義介の日産ワークスが雪辱を果たし、第3回大会(1937年5月)はオオタワークス再び優勝。

全国自動車競走大会は1936年の第1回以降、1938年4月17日の第4回大会まで計4回実施された。前年1937年7月7日に勃発した盧溝橋事件以降の支那事変(日中戦争)拡大の影響もあり、第4回大会を最後に自動車競争大会は中止となった。
その後、オートバイ競争大会は行われていたが、それも1941年12月8日の太平洋戦争勃発により中止。終戦後1945年8月以降、ガソリンの供給が市中に出回り始めることで、オートバイの草レースが復活したという。

オートバイ専用の競技場として1950年10月に千葉船橋オートレース場が開設され、また周辺住民が増えてきたことから騒音問題などもあり、1950年代に廃止となり、1952年には野球場に改装。
多摩川サーキット廃止後、国内には常設サーキット(パーマメントサーキット)が存在しない状況となってしまったが、1962年に、多摩川サーキットの第1回全国自動車競走大会にも出走した本田宗一郎のホンダが鈴鹿サーキットを開設させることで再び日本に常設サーキットが復活した。

多摩川スピードウェイ
多摩川スピードウェイは、日本初の常設サーキットとしてこの地に建設されました。階段状のコンクリート製堤防は、当時の観客席そのものです。
1936年6月の第1回大会以降、ここで第2次世界大戦前の数年間を中心に自動車・オートバイのレースが開催され、3万人の観客を集めていました。
若き日の本田宗一郎氏をはじめ、出場者・関係者の多くは、レースで得た技術・経験を活かし、戦後の自動車産業の発展において中心的な役割を果たしました。
開場80周年を機に、多摩川スピードウェイが果たした役割と、先人たちの功績を後世に語り継ぐべく、この碑に記します。
 寄贈 多摩川スピードウェイの会 2016年5月


多摩川スピードウェイ跡地

現在は、多摩川堤防のコンクリート部分に、往時の観客席の跡が残っている。

すぐ脇を、東急東横線が走る。(東急東横線の多摩川橋梁)

東急東横線の車窓から。

階段状のコンクリート製観客席の遺構も多く残る。

等間隔にある穴は、座席用の穴と思われる。

サーキットのあった場所は、今は野球グランドに。

ちなみに映画「シンゴジラ」でゴジラが多摩川を渡るのが、この界隈。


場所

https://goo.gl/maps/j3y8QwAGA7SRcocTA


参考

https://www.shinkosugi.jp/town/kosugisanpo200807_01.html

https://car.watch.impress.co.jp/docs/series/oku_race/1249120.html

「救援のために水を運ぶ婦人の像」(日本赤十字看護大学広尾キャンパス)

東京都渋谷区。日本赤十字看護大学広尾キャンパス前庭。

赤十字社と戦争は切っても切れない関係がある。
日本において、赤十字社は、1877年(明治10年)の西南戦争の最中に設立された「博愛社」という救護団体が前身であり、日本政府のジュネーブ条約(赤十字条約)加入翌年の1887年(明治20年)に「博愛社」は「日本赤十字社」に改称している。

https://www.jrc.or.jp/about/history/

戦前の日本赤十字社は陸軍省、海軍省管轄の社団法人であった。
戦後は厚生省管轄を経て、現在は厚生労働省管轄の認可法人。
伝統的に皇室の援助が厚く、初代の昭憲皇太后以降歴代皇后を名誉総裁とし、皇太子妃ほかの皇族を名誉副総裁としている。


救援のために水を運ぶ婦人の像

第二次イタリア独立戦争中の1859年6月24日、イタリア北部ロンバルディア地方のソルフェリーノを中心に行われた戦闘「ソルフェリーノの戦い」。
ナポレオン3世率いるフランス帝国軍とヴィットーリオ・エマヌエーレ2世率いるサルデーニャ王国軍の連合軍が、フランツ・ヨーゼフ1世率いるオーストリア帝国軍と戦い、フランス・サルデーニャ連合軍が勝利した。
世界戦史上、すべての交戦当事国の君主が親征に出て軍を指揮した最後の主要戦闘とされている。

この戦いの現場に遭遇したアンリ・デュナンは、戦場の惨状に強い衝撃を受け、「ソルフェリーノの思い出」と題した書籍を出版、これが後の赤十字運動へつながった。

「傷ついた兵士はもはや兵士ではない、人間である。人間同士、その尊い生命は救われなければならない」

デュナンは、国家に関係なく負傷者の治療に当たる専門機関の結成を訴えた。1863年、戦傷兵国際救済委員会(のちの赤十字国際委員会)が結成され、やがて赤十字運動は世界へと広がっていった。

「救援のために水を運ぶ婦人の像」は、「ソルフェリーノの戦い」で傷病兵に敵味方なく水を届け、赤十字制度のきっかけになった農村の女性をイメージしているという。
制作は、岩田実
建立は、平成23年5月16日

場所

https://goo.gl/maps/KAp99F1om5c3kz9A9


(関連)
殉職救護員慰霊碑と看護婦立像

場所は変わって東京都港区の日本赤十字社本社前庭には、殉職救護員慰霊碑と看護婦立像がある。
参考までにリンク提示。


日本赤十字看護大学

日本赤十字社の関連団体である学校法人日本赤十字学園が設置、運営する看護学部のみを有する4年制大学。
1890年(明治23年)日本赤十字社病院における看護婦養成を前身とする。

併設施設として、日本赤十字社医療センター、日本赤十字社医療センター附属乳児院、日本赤十字社総合福祉センター等が同じ敷地内にある。

レンガ造りの校門

レンガ造りの校門
日本赤十字社医療センターの前身の日本赤十字社病院は、1886年(明治19年)に東京飯田町に開院し、1891年(明治24年)に現在地に移転した。病院の建設の際に道路沿いに長い煉瓦塀が造られた。特別に注文した煉瓦を使ったという。煉瓦塀は現在の病棟新築の際に取り壊されたが、日本赤十字看護大学新校舎建築の際に、煉瓦を利用した校門が造られた。また医療センター入口付近にも煉瓦塀の一部が復元され、共に往時の煉瓦塀を偲ばせている。

佐倉藩下屋敷跡の松
日本赤十字社医療センターの構内は、江戸時代の佐倉藩の下屋敷跡で、広い敷地内に多くの松があったことが当時の絵図により知られる。その中に宗吾(そうご)の松と呼ばれた有名な松があった。佐倉藩の名主の佐倉宗吾(本名は木内惣五郎)が、重税に苦しむ村民のために将軍に直訴して、この松にしばりつけられたという伝説をもつ。
病院内では、手術室のそばにあった。この松は昭和初期に枯れ、他の松も姿を消して、今では一株だけとなった。1890(明治23)年以来、赤十字看護教育の歴史を見てきた松である。

日本赤十字看護大学広尾キャンパス周辺には煉瓦が多い。

※撮影は2021年4月


関連

日本看護婦会慰霊塔

日本赤十字社殉職救護員慰霊碑(日本赤十字社栃木県支部所属救護員慰霊碑)

栃木縣護國神社

愛の燈(日本赤十字社山梨県支部救護看護婦慰霊碑)

陸軍流山糧秣廠跡地と千草稲荷神社

「流山糧秣廠」、正式名称は「陸軍糧秣本廠流山出張所」。
流鉄平和台駅近くに、かつて日本陸軍の糧秣保管の施設があった。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-R393-54
1947年10月23日、米軍撮影の航空写真を一部加工。


流山糧秣廠

糧秣廠は、兵士の食糧と軍馬の飼料を管理していた日本陸軍の部署であった。
糧秣本廠は越中島にあり、倉庫は向島本所(墨田)にあったが、手狭になったことや、干し草などの飼料の自然発火などの危険性があっために、大正14年に出張所として流山に倉庫が設けられた。流山は水運と鉄路に恵まれ、また軍馬飼料の藁や干し草の産地とも近いという好立地であった。
当地からは近衛第一師団への糧秣や宮内省・警視庁などに牧草を供給した。
戦後は、民間に払い下げられ、キッコーマンの工場となっていたが、現在は再開発され、イトーヨーカドーやマンションなどになり、当時の面影は残されていない。

元陸軍糧秣本廠流山出張所跡碑

元陸軍糧秣本廠流山出張所跡碑について
当所は元陸軍馬糧倉庫として、東京本所錦糸堀の旧津軽藩屋敷跡にあったが周辺の人家増加して火災の危険を生じたため流山に移り、大正十四年七月一日開庁、敷地三五、二六〇坪建物七、五九七坪(倉庫二〇棟、事務所、工場等一五棟)であった。業務は軍馬用大麦、燕麦、高粱、牧草は本廠の指示により、また干草、ワラは関東地方各都県より買入れて貯蔵し、干草は圧搾工場にて四〇瓩梱包に精撰加工し、近衛第一師団下各部隊並びに宮内省、警視庁に補給した。また所管下の習志野、駒沢支庫がこれを補足した。なお江戸川岸に架空輸送機があって舟運の荷役に用いられ、ガラガラと称され名物であった。
流山がこの基地に選定された主因は、干草、ワラの主産地が千葉、茨城県下でその収集、補給に水陸両運の便が得られたためである。かくて流山は特徴ある有名な町となった。
やがて終戦となり、進駐軍に英和文リストを提出し接収された。その後構内及び職員共に運輸省東京鉄道局所管となり、特殊物資(進駐軍返還の各軍用品)を受け入れて整理、出納する鉄道用品庫流山支庫として6カ年余つづいたが、国鉄改革のため、昭和二十七年三月五日閉止され大蔵省を経て野田醤油並びに東邦酒類両会社と流山町に払下げられ、現在の状態となった。
回顧すれば、大戦中は敵機の攻撃目標となり、爆弾も投下され、且つ東京糧秣本廠が空襲のため全焼するや、その業務の一部が当所に加重されるなど重大任務の遂行と防空対策とで職員は殆ど不眠不休の苦労を重ねた。さらに終戦直後は軍廃止のため全員失職の運命に遭い、物資の欠乏、生活の困窮は実に甚しく、またともすれば流言飛語に迷わされがちな不安の中にあって、複雑な引継ぎと残務処理を一同一糸乱れず誠実に無事に完遂した。その労苦多としたい。
右の実情に鑑み、ここに本碑を建立して、史跡の標識とし、後代の参考に供する次第である。
 昭和五十五年八月十五日
  元陸軍糧秣本廠流山出張所長
  記念碑建設委員長 瀧上浦治郎
       建立者氏名裏面参照

流山糧秣廠跡(ながれやまりょうまつしょうあと)
大正14年~昭和20年(1925~1945)に陸軍馬糧倉庫があった。敷地35,260坪、建物7,597坪。業務は軍馬用の大麦等の貯蔵や干し草の加工。正式名は陸軍糧秣本廠流山出張所(りくぐんりょうまつほんしょうながれやましゅっちょうじょ)。


元陸軍糧秣本廠流山出張所跡碑の後方に神社がある。

千草稲荷神社

流山糧秣廠で祀られていた稲荷様。
「干し草」をあつかう糧秣廠倉庫の鎮守様ということで「千草稲荷」だろうか。

元を辿れば錦糸町にある錦糸公園内にある「千種稲荷神社」からの勧請ともいえる。
「陸軍糧秣廠本所倉庫」があった場所の地主神が「千種稲荷神社」。陸軍が倉庫を設けた際に稲荷社を撤去したところ、火災が頻発し対応に苦慮した陸軍は撤去した「千草稲荷神社」を再建したところ、火災はおさまったという。そして関東大震災に際しても、「千草稲荷神社」は無傷で残ったという。
「陸軍糧秣廠本所倉庫」が流山に移転するにあたり、霊験ある「本所の千種稲荷神社」も流山に勧請したものと考えるられる。

千種稲荷社

千草稲荷

陸軍糧秣本廠流山出張所奉納の手水鉢。

昭和17年8月
陸軍糧秣本廠流山出張所

陸軍糧秣本廠流山倉庫奉納の石灯籠

陸軍糧秣本廠流山倉庫親和會
昭和11年6月

陸軍糧秣本廠流山倉庫奉納の狛狐

陸軍糧秣本廠流山倉庫職員以下一同
大正15年7月1日

なかなかの茂り具合。。。

場所

https://goo.gl/maps/6eLZbPugbtK8NTmm7

https://goo.gl/maps/AEyrgDaFZv7hYito9


流山糧秣廠跡地散策

元陸軍糧秣本廠流山出張所跡碑と千種稲荷神社の北側にはイトーヨーカドー流山店。
南側には千葉県立流山南高等学校。
東側のビバホーム流山店や、ミニストップ 流山平和台店、城の星保育園、柳田団地などがあるあたりがすべて流山糧秣廠の敷地であった。

位置関係には違和感がないため、当時から同じように水路があったかもしれない。
糧秣廠の南側。

流山糧秣廠の方向は暗渠となっていた。

流鉄平和台駅の南側。このあたりも流山糧秣廠の敷地。
流鉄(総武流山電鉄、当時は流山鉄道)から引き込み線が流山糧秣廠に伸びていた。
東邦酒類(東邦酒類株式会社流山工場があったが閉鎖済み、東邦酒類は現・メルシャン)の引き込み線もあった。

昭和8年(1933)に赤城駅として開業。昭和40年に赤城台駅に解消し、昭和49年に平和台駅に改称し現在に至る。

駅前の案内マップ。

「流山糧秣廠跡」もバッチリ記載があります。

電車が走ってきたのであわててパチリ。

普段の設定で建物撮影メインのためにシャッタースピードを下げていたのを忘れていたので、見事に電車にシャッタースピード合わずな写真。

昭和20年7月17日、流山鉄道(流鉄)の列車が米軍戦闘機の機銃掃射を受けて被弾している。
馬橋駅から流山駅に向けて走行していた列車が狙われ、特に蒸気機関車が集中攻撃を受けたために機関士が重傷を受けている。
列車は貨客混載で、貨車には陸軍糧秣本廠流山出張所へ運ぶ乾燥芋などを積載し、客車は最後尾に連結されていた。

流山は陸軍糧秣本廠があり、そしてすぐ北部には陸軍柏飛行場、南部の松戸に陸軍工兵学校などがあったために、このエリアも米軍の攻撃ターゲットとなっていた。

以下、流鉄流山線の機銃掃射の記録がまとめられている動画があったのでリンクしておく。

https://www.youtube.com/watch?v=dZyKB4PyhCU

列車と機銃掃射の関連記事


流山の周辺は、別途それぞれに散策記事をまとめる予定。
柏や松戸はかなり話題豊富なので。。。