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市ヶ谷水管橋

市ヶ谷水管橋(水道管の橋)は、JR市ヶ谷駅前の市ヶ谷橋と並行して、線路と外堀を跨いでいる水管橋。
市ヶ谷水管橋の南半分は線路と市ヶ谷駅ホーム、そして北半分は外濠を活かした釣り堀となっている。

市ヶ谷見附跨線水道橋
市ヶ谷水管橋

長さは98.1m。
昭和5年(1930)に完成した水道橋。

昭和四年
株式会社横河橋梁製作所
製作

銘板にある株式会社横河橋梁製作所は、現在の株式会社横河ブリッジ。今も昔も橋梁メーカー。

市ヶ谷フィッシュセンター。
市ヶ谷駅のホームから見える釣堀が有名ですね。


市ヶ谷橋

市ヶ谷水管橋に併設された橋。
昭和2年(1927)竣工。
橋としての長さは36.40m。水管橋より短い。
市ヶ谷門に架かる見附橋。


市ヶ谷駅から市ヶ谷橋を渡れば、その先は市ヶ谷台。防衛の中枢。

彩帆観音(サイパン観音)

東京都北区。
王子駅より荒川の方角に15分ほど歩く。
「西福寺」という寺院に、サイパンゆかりの観音様が建立されているというので足を運んでみた次第。

彩帆観音(サイパン観音)

彩帆観世音菩薩(サイパン観世音菩薩)

昭和48年建立。
西福寺住職が、サイパンにて日本軍が玉砕した洞窟から血に染まった土砂や遺骨を収集して、観音塔に遺骨を埋葬し、聖観音像を安置し、彩帆観音塔として建立。

サイパン玉砕慰霊の観音様
昭和19年6月15日から7月9日にかけてマリアナ諸島サイパン島で激戦が繰り広げられ、海上ではマリアナ沖海戦(あ号作戦)も発生。
サイパン島での日本軍の戦死者は約3万人、民間人の死者は約1万人。米軍の死者は3441人という。

合掌

彩帆観音塔建立の賦
私は一昨年の十二月下旬、戦争を知らない学徒代表ら拾名を伴い、第二次世界大戦で数多くの戦死者を出した南太平洋上に浮かぶミクロネシア諸島激戦の跡を歴訪した。特に日本人全員玉砕の悲しい思い出を残したサイパン島においては、怨恨親平等の仏教精神に則り、サイパン政庁長官と互にメッセージを交換して親善友好を深めると共に、自ら導師となって慰霊祭を執行し、国境を超えて現地人に多大な感銘を与えたが、その際旧日本軍参謀本部跡の洞窟内から血に染まった土砂や遺骨を収集しt帰国した。今回機縁熟するところとなり、塔内に遺骨を埋葬して聖観音像を安置し、彩帆観音塔と銘してこれを建立したわが国唯一のものである。
願わくは亡き英霊が現世に廻向して観音菩薩の慈悲を仰ぎ、世界平和国家隆盛萬民豊楽のために、無限のご加護あらんことを祈念して建立の賦とする。

 謹んで唱へ奉る
  南無彩帆観世音菩薩

 昭和48年9月
  当山主 小松原賢誉 
          合掌

彩帆観音

英霊菩提
世界平和

鎮護国家
現世安楽


西福寺

東京都北区に鎮座する真言宗豊山派の寺院。
山号は三縁山
院号は無量寿院

江戸六阿弥陀霊場1番札所
豊島八十八ヶ所霊場67番札所
荒川辺八十八ヶ所霊場20番・33番札所


場所

ちなみに、近くの「豊島公園」は明治大正期に陸軍によって作られた「豊島ドッグ」と呼ばれた掘割の跡。現在は埋め立てられており、往時の雰囲気は、細長い公園にその姿を感じさせるのみ。

これはまた別の話題ですね。

旧官幣大社南洋神社鎮座跡地遥拝殿(久伊豆神社境内社)

埼玉県越谷市 久伊豆神社境内社

旧官幣大社南洋神社鎮座跡地遥拝殿

旧官幣大社南洋神社鎮座跡地 遥拝殿
(きゅうかんぺいたいしゃなんようじんじゃちんざあとちようはいでん)

南洋神社は、南洋群島の中心地パラオ(現パラオ共和国のコロール島)に昭和15年2月11日、皇紀2600年に際して、昭和天皇の格別の思し召しにより創立された神社です。その御祭神を「皇祖天照大神」一座とする官幣大社であり、我々神社人が「本宗」と仰ぐ伊勢の神宮の「南洋における分社」ともいうべき神社です。その後、昭和20年8月の終戦によって、御社殿は御焚き上げとなり、神社の祭祀は終結、社殿跡地が残るのみとなりました。しかし、創立以来、南洋の地で開拓・入植に励んだ方々が、また戦時下、アジアの解放と大東亜共栄圏の実現を信じて、遥か遠く故郷を離れて南方の戦地へと赴いた部隊・兵士たちが篤い祈りと誓いを捧げられた事実は永遠に消滅するものではありません。

伊勢の神宮と旧南洋神社との御神縁・御神慮を拝し、神宮当局の御指導・御協力を賜って平成16年4月11日久伊豆神社境内に「旧官幣大社南洋神社鎮座跡地遥拝殿」を建立いたしました。この遥拝殿は、氏子・崇敬者共々遥かに、幾多の兵士の最期の祈りと誓いをお受けになった大神様の御霊を和め、遠く故国を離れた南洋の地に散華された英霊への感謝と慰霊・鎮魂、功績顕彰の誠を致す御殿です。

久伊豆神社公式サイト より

旧官幣大社南洋神社鎮座跡地遥拝殿竣工をお祝いして
この度、久伊豆神社境内に戦前パラオに創立され敗戦によって廃止された官幣大社南洋神社を偲び彼の地で戦没された方々の御霊を慰霊顕彰するための施設である旧官幣大社南洋神社鎮座跡地遥拝殿が目出度く竣工いたしました。洵に御同慶の至りであり衷心よりお祝い申し上げる次第であります。
ご承知の通り、南洋神社は我々神社人が本宗と仰ぐ伊勢の神宮の南洋における分社ともいうべき格別の神社であり、御祭神を皇祖天照大神一座とする官幣大社として昭和天皇の格別の思し召しから創立された神社であります。
そのことは、昭和15年2月1日付で拓務大臣小磯国昭が慎みて皇統の始祖に存します天照大神を奉祀し、永へに報本反始の誠を致さしめたく祭神を天照大神とし、社号を南洋神社と定め、社格を官幣大社に列せられる旨仰せ出られたく、右慎みて奏すと昭和天皇へ上奏し、それを天皇が裁可されたことからもご理解いただけることでしょう。
そして日本が、国際連盟規約により委任統治していた南洋群島の中心地であるパラオに鎮座した南洋神社に、南洋の地で開拓入植に励んだ方々が、また戦時下アジアの開放と大東亜共栄圏の実現を信じて遥か遠く故国を離れて南方の戦地に赴いた部隊・兵士たちが、篤い祈りと誓いを捧げた事実は、永遠に消滅するものではありません。
伊勢の神宮と旧南洋神社との御神縁御神慮を拝し、神宮御当局の御指導御協力を賜って、久伊豆神社境内に旧官幣大社南洋神社鎮座跡地遥拝殿が恙無く無事建立竣工なったことに、改めて慶賀の意を表すと共に、氏子崇敬者の方々はじめ多くの人々が竣工なったこの遥拝殿を通じて、幾多の兵士の最期の祈りと誓いをお受けになった旧南洋神社を偲び、遠く故国を離れた南洋の地に散華なされた英霊への感謝と慰霊、鎮魂、御功績顕彰の誠を致されることを記念致すものであります。
 平成16年4月11日
  國學院大學教授 阪本是丸

旧官幣大社南洋神社遥拝殿

南洋神社

現在のパラオ共和国コロール島に鎮座していた神社。
旧社格は官幣大社。

1914年に勃発した第一次世界大戦にて、日本は日英同盟に基づき連合国として参戦。日本海軍はパラオを統治していたドイツ軍を降伏させ占領。
1919年の第一次世界大戦戦後処理であるパリ講和会議によって、南洋諸島は日本の委任統治領となった。
コロール島には南洋庁及び南洋庁西部支庁(パラオ支庁)が置かれ、南洋諸島の中心的な島となり、多くの日本人も移住。
紀元2600年記念事業の一環として、そして南洋群島総鎮守として、昭和15年(1940)に創建。
太平洋戦争では、コロール島は帝国海軍の重要な基地として、北西太平洋方面の作戦拠点として展開。
昭和19年(1944)には、コロール島の南に位置するペリリュー島にて、ペリリュー島の戦いが勃発。日米双方に多くの戦死者を出した。
昭和20年(1945)8月の終戦により、日本の南洋統治は終了。

昭和20年9月11日に、南洋神社奉焼式が行われ社殿奉焼。11月17日、日本政府より南洋神社廃止の連絡を受け、翌1946年1月5日、パラオ本島の仮本殿で昇神の儀・仮本殿の奉焼を行い、ご神体は船で東京の宮内省に運ばれ、1月19日御奉遷の手続きが行われた。

https://ja.wikipedia.org/wiki/南洋神社

http://www.himoji.jp/database/db04/preview.php?name=南洋神社

位置関係

久伊豆神社(ひさいず神社)

埼玉県越谷市越ヶ谷鎮座。越ヶ谷総鎮守。旧社格は郷社。
元荒川流域に分布する久伊豆神社の総本社とされている。
境内には国学者平田篤胤の仮寓跡もある。

https://www.hisaizujinja.jp/

第三鳥居
伊勢神宮の第61回遷宮撤去材の皇大神宮板垣南御門を再建
平成7年9月28日竣工

平田篤胤仮寓跡

平田篤胤(1776-1843)は、江戸時代後期に復古神道を唱えた有名な国学者です。しばしばこの地を訪れ、暮らしたと伝えられています。
 平成18年12月 久伊豆神社 越谷市教育委員会 埼玉県教育委員会

平田篤胤先生遺徳之碑

昭和17年10月建立

久伊豆神社の藤
平田篤胤遺愛の藤。樹齢200余年。

誠忠碑
神社本庁総裁北白川房子謹書

昭和6年満州事変、昭和12年支那事変、昭和16年大東亜戦争戦没者と応招者の名前を刻む。
昭和38年5月建立

戦捷記念碑
埼玉県知事従四位勲四等大久保利武謹書

明治39年12月建立、日露戦争

自由学園明日館

令和元年撮影

訪れた際、何かの団体の貸し切りだったため、外観撮影のみです。

国指定重要文化財な建造物。大正末期から昭和期に建設されたオシャレな洋館。

重要文化財
自由学園 明日館

自由学園明日館 国指定重要文化財
 自由学園は、羽仁吉一・もと子により大正10年(1921)に女学校として創立された。明日館はその自由学園誕生の校舎で、その設計は羽仁夫妻の教育思想に共鳴した世界的建築家フランク・ロイド・ライトで、彼は自らの建築思想を融合させて校舎を建築した。
 自由学園は生徒の増加に伴い、昭和9年(1934)に東京都東久留米市に移転し、この建物は卒業生の活動の場として使われ、羽仁夫妻が自由学園と日本の教育の明日を託して「明日館」と命名した。太平洋戦争末期の空襲で池袋周辺は壊滅的被害を受けるが、幸い明日館は被災を免れた。
 その後老朽化が進み、昭和40年代になると取り壊しの可能性もあったが、卒業生、建築家をはじめ多くの関係者の保存への思いが実り、この地における保存が決定した。
 建築の特徴は高さを抑えて水平線を強調した屋根、窓やドアなどをはじめ多用されている幾何学的デザイン、建物の中に入ると床の高さを少しずつ変えた部屋を連続させた空間構成など、「プレーリースタイル(草原様式)」というライトの第一期黄金期の作風をよく表している。昭和2年(1927)に道路を隔てて竣工したライトの弟子、遠藤新設計の講堂とともに、これら一連の建物がライトの作風を示す典型的な建築として重要であると評価され、平成9年5月29日に重要文化財に指定された。その後、約3年間の保存修理工事が実施され、現在は「使いながら保存する文化財」として、見学はもちろん結婚式、コンサート、展示会、公開講座など多くの人が利用し、文化財建造物として歩zんされている。
 平成28年 豊島区教育委員会

重要文化財
自由学園 明日館
羽仁もと子・吉一夫妻創立の自由学園校舎として大正10年(1924)から昭和2年(1927)にかけて建設されました。設計はアメリカの巨匠フランク・ロイド・ライト氏及び遠藤新氏です、平成9年(1997)国の重要文化財に指定され、約3年の歳月を費やし保存修理が行われました。中央棟、東西教室棟および道路南側の講堂からなっておりウィスコンシンの大草原を舞台としてライトが発想した草原住宅のたたずまいが特徴となっています。
 学校法人 自由学園

ご見学のご案内

最新情報は、公式サイトにて

https://jiyu.jp/tour/


自由学園 明日館

大正10年(1924)竣工。フランク・ロイド・ライト氏設計。

自由学園 講堂

昭和2年(1927)竣工。フランク・ロイド・ライト氏の弟子、遠藤新氏設計。

明日館の梟

明日館の梟
明日館は大正10年に自由学園がこの地に設立された時の校舎です。
この梟像は豊島区の区制70周年を記念した事業で「梟の路」として設置された物です。平成15年に自由学園の生徒たちが明日館に所縁のある大谷石で制作しました。
豊島区・梟の樹を創る会をはじめ近隣の皆様のご協力をいただきました。
梟デサイン制作・詩 自由学園男子部64回生(製作時・高等科3年)
題字・詩書家 望月氿蔭
企画 梟の樹を創る会
建立 平成15年11月29日

今回は外観だけでしたので、次回探訪時は内部見学も行いたいですね。

東京府庁舎跡

令和元年9月撮影

東京国際フォーラムの片隅に、古めかしい石碑が残っている。

東京都の前身、東京府時代の庁舎跡を示す石碑。

東京府廳舎
 大正六年七月

東京都指定旧跡
「東京府庁舎跡」
所在地 東京都丸の内三の五の一
指定 昭和30年3月28日(旧跡)
所有 東京都(産業労働局)

 東京府庁舎は、当初東京市幸橋門内(現在の内幸町一丁目)の旧大和郡山藩邸に開設されその後1894年(明治27年)に丸の内(現在の有楽町駅前)に新たに建設されました。
 1898年に東京市庁舎も完成し、第二次世界大戦中の1943年に東京市 と東京府 が廃止され東京都が設置されましたが、この建物は戦災で焼失しました。
 1955年3月に敷地一帯が、旧跡として東京教育委員会により文化財指定されました。
 かって、東京府庁舎があったことを示すものとしては、本石碑だけが残っています。

上部には何かしらのレリーフが埋め込まれていたのだろうか。
不自然な空間が残る。

側面には、「大正六年七月」とある。

日本海軍大東亜戦争戦没者殉国者慰霊碑(龍口寺)

令和元年(2019年)11月撮影

神奈川県藤沢市片瀬鎮座の龍口寺。
日蓮が処刑されそうになった地。

ちょうど江ノ島の入口に位置しており、門前には江ノ島電鉄(江ノ電)が走る。

そんな龍口寺の境内に、人知れず大東亜戦争の海軍慰霊碑がある。

日本海軍大東亜戦争戦没者殉国者慰霊碑

日本海軍戦没者47万3千余柱と殉国者200余柱の英霊を慰霊する。
昭和62年4月8日建立。

日本海軍大東亞戰争戰没者殉国者 
南無妙法蓮華経 慰霊碑 

 龍口十三世 日宣(花押)

維時 昭和六十二年四月吉日 
 海交会 
  龍口寺大本願人
   秦野秀雄 建之

追悼の辞
大東亜戦争日本海軍戦没者四十七万三千余名殉国者二百余名の 
 御英霊に捧ぐ 
祖国日本の繁栄と同朋の幸福を念じつ 悠久の大義に殉じた 
御英霊に感謝申し上げ御冥福を祈る
 施主 元海軍一等兵曹 秦野秀雄 
  奉賛者 
   元法務大臣 秦野章 
   元参議院議員 藤井裕久
   衆議院議員 田中慶秋 
   立正山光妙寺 柴山宣哲

主要慰霊行事 
一 中部太平洋ソロモン方面慰霊祭施行 海交会 
   昭和五十六年十一月十二日より十二月一日まで
一 タラワ ナウル グアム マショロ島慰霊祭施行 
   昭和五十八年十一月二十二日より十二月一日まで
    熊野原妙光寺 田中栄海 
    亀井野法泉寺 酒井光雄 
    愛国歌手 渡辺はま子
一 南太平洋方面慰霊祭施行 
   昭和五十九年十一月二十八日より十二月九日まで
一 フィリッピン 台湾 沖縄方面慰霊祭施行 
   昭和六一年十一月二十六日より十二月十日まで
 
世話人 
 海交会 元海軍中尉 山北林
 謹書 元海軍少尉 米本八百重

(碑面裏)
昭和六十二年四月八日建之
 (以下奉賛者名は略)


地下壕(陸軍抵抗拠点陣地)

龍口寺境内に残されている、陸軍抵抗拠点陣地は戦跡として著名。
陸軍歩兵第401聯隊のよる米軍上陸による水際の防衛陣地。
実際には使われることなく終戦を迎えているが、境内には地下壕の開口部が数箇所残されている。

今回は、地下壕が目的ではなかったので、この話題はここまで。
関係者以外進入禁止エリアですし。

龍口寺や界隈の地下壕に関しては、ネット上に情報が散見しておりますので、ご参照をば。

龍口寺(りゅうこうじ)

神奈川県藤沢市片瀬鎮座。
文永8年(1271)9月12日に日蓮宗の開祖日蓮が、この地にあった龍口刑場で処刑されそうになったことに、関連する寺院。

明治43年(1910)建立の五重塔。

天保3年(1832)建立の本堂。

昭和45年(1970)竣工の仏舎利塔。

龍口刑場跡

山門前には、江ノ電。

鎌倉江ノ島界隈は戦跡が多いけれども、巡りきれておりません・・・

関連

浦和飛行場跡(埼玉第一飛行場跡)

令和2年2月。

荒川横堤(宗岡第二横堤) 昭和6年竣工
飛行場施設は横堤の南側にあった(写真右手)

1938年、首都圏近郊の「浦和飛行場」「調布飛行場」「砂町飛行場(東京市飛行場)」の3つの飛行場建設が承認された。

そのうち、調布飛行場は昭和14年(1939)に建設着手。昭和16年(1941)竣工。
砂町の東京市飛行場は現在の「夢の島公園」のあたり。埋め立て途中での戦時下の物資不足で工事は中断。竣工することはなかった。

浦和飛行場
(埼玉第一飛行場)

昭和14年(1939)に「浦和飛行場」の建設が承認。
この地には、すでに戦時下防空やグライダー育成を目的とした「埼玉第一飛行場」が起工しており、昭和12年(1937)頃にはすでに滑走路が出来上がっていたという。埼玉第一飛行場の設置者は埼玉義勇飛行会で、当時は「秋ヶ瀬飛行場」とも「秋ヶ瀬浦和飛行場」と呼称されていた。
昭和15年(1940)に「浦和飛行場」と名称変更され、拡張工事が始まるも、最終的には完成を見る前に終戦。跡地は放置。
戦後、荒川の直線化工事に伴い、当時の面影は残されていない。

当時と変わらずに残っているのは「荒川横堤」。
浦和飛行場の北側にある「宗岡第二横堤」は昭和4年(1929)着工、昭和6年(1931)竣工。当時は、この宗岡第二横堤の南側に飛行場施設が建設されていた、という。
荒川横堤は、日本では荒川のみの独特な堤防として土木遺産に選定されている。

また、荒川直線化工事の影響は、市境にも残されている。
志木市とさいたま市(旧浦和市)の屈折した市境は荒川が曲線だったときの名残。「浦和飛行場」(埼玉第一飛行場)は「浦和」と言いつつも、浦和側ではなく現在の志木市(当時の宗岡村)側であった。

位置関係

国土地理院航空写真(写真ファイル名:891-C2-66)
1944年9月28日-大日本帝国陸軍撮影

https://mapps.gsi.go.jp/maplibSearch.do#1

上記航空写真を拡大のうえ加工

横堤(宗岡第二横堤)の下流に「飛行場施設」
荒川の曲線の内側に「飛行場」
その下流には「秋ヶ瀬橋」

横堤と秋ヶ瀬橋の間に当時「浦和飛行場」(埼玉第一飛行場)があった。

戦後の航空写真。
あまり変わっていないようだけれども、飛行場跡地が開拓されているのがわかる。

同じく国土地理院航空写真より(写真ファイル名:USA-M675-55)
1947年11月28日-米軍撮影

現在の様子。
GoogleMAPS航空写真を加工。
荒川の直線化により、飛行場のあった場所の大部分が川の中に。
横堤は往時から変わらずに。

志木市とさいたま市(旧浦和市)の市境。荒川の東側に志木市の飛び地が残っている。この飛び地は、往時の飛行場跡地でもあり荒川が曲線であった頃の名残でもある。

浦和飛行場跡
(埼玉第一飛行場跡)

秋ヶ瀬河川敷
実際のところ、当時の遺構は残っていない。

飛行場跡地は、荒川の水の下に。

横堤(宗岡第二横堤)

昭和4年(1929)着工、昭和6年(1931)竣工。
当時は、この宗岡第二横堤の南側に飛行場施設が建設されていた、という。
荒川横堤は、日本では荒川のみの独特な堤防として土木遺産に選定されている。

このあたりに、当時は飛行場施設があったと思われる。

横堤の端。

ちょうど横堤の端には、不正投棄を監視する防犯カメラ。
河川敷には不正投棄が多いとのことで。

横堤の堤防上。

秋ヶ瀬取水堰

現在は、独立行政法人水資源機構の管轄。荒川で最も下流に位置する取水堰。

飛行場があった当時は、この取水堰があった場所が滑走路の中心地点。
今ではここに飛行場があったとは信じられない光景。

宗岡取水口

秋ヶ瀬取水堰

ここに、飛行場があったとは今では信じられない場所。
住宅地や工業団地になった飛行場は多いが、「浦和飛行場」は、まさか川になってしまった場所でした。

和田堀給水所(世田谷・代田橋)

令和のとある冬に。

京王線代田橋駅のすぐ近くに古風で壮大な建物が残っていた。
聞くところによると、近々で建て替えになるとのことで、いま残っている歴史的建造物を慌てて記録してきました。

和田堀給水所-昭和9年(1934年)竣工

位置関係

上から見ると、特徴的な建造物の様子を知ることができる。
円形が、一号配水池
方形が、二号配水池

1947年11月28日-米軍撮影航空写真(国土地理院-USA-M676-211)

1947年

2009年4月27日-国土地理院航空写真(国土地理院-CKT20092-C67-20)

2009年

そして2020年の航空写真。
すでに方形の二号配水池は解体済み。円形の一号配水池を残すのみ。

Google航空写真(2020)

2020年

和田堀給水所一号配水池

大正元年(1912)9月に東京市の水道拡張事業が認可され、翌年より着工。
和田堀給水所は2つの配水池が設けられていた。
 一号配水池 昭和9年(1934年)竣工
 二号配水池 大正13年(1924年)竣工
現在、和田堀給水所は、二号配水池が解体され建て替え工事中。
給水を止めることができないため、新しい二号配水池が完成するまでの間は、一号配水池は引き続き稼働。
二号配水池完成後に、この歴史的な建造物=一号配水池も解体され新たな配水池が建造予定。

細部のデザインにこだわりを感じる。

八角形の排気塔

付随する建造物

階段のデザインも美しい

東京都水道局 和田堀給水所

建築計画
完了予定は平成34年3月31日=令和4年=2022年

建造から80年以上が過ぎ、老朽化と耐震性、給水量の問題などがあり、解体の上でリニューアルとなる、歴史的建造物。
しかし、歴史的建造物であるまえに、現役の給水設備建造物。
現役の給水設備建造物であるがゆえに建て替えを余儀なくされている。

惜しむらくは、すでに二号給水池が解体された後に、興味を持ち始めたこと。
知るのが、少し遅かったのが悔やまれます。もう少し早ければもっとちゃんとした記録が残せたのですが。。。
それでも、まだ一号給水池が解体前に接することができたのが、せめてもの救いでした。


伏見宮家別邸(祥雲寺)

令和の、とある冬の日の参拝。

東京都豊島区。
要町駅のほど近くに鎮座する寺院「祥雲寺」。
境内に珍しい建造物があるというので足を運んでみました。

祥雲寺と伏見宮家別邸

祥雲寺は小田原北条氏の天文元年(1532)に江戸城内に開山。徳川家康の江戸整備により、江戸城から神田・日暮里・白山と遷座。
大正4年に豊島区の現在地に鎮座。

昭和9年(1934)3月4日の火災で寺院堂塔すべてを消失。

この時の住職(第三十世)は、住職として寺を守るとともに、市ヶ谷の陸軍士官学校で教鞭をとっていた。その時の学生に皇族がおられ、火事に見舞われた祥雲寺の支援に奔走し、伏見宮家別邸が移築されることとなった。

そうして火災後の伽藍復興に努めていた祥雲寺は伏見宮家別邸を譲り受け昭和10年2月に移築。寺院再建までの仮本堂として伏見宮家別邸を使用された。
譲り受けたのは2つの和館と洋間の3棟。東御殿(和館と洋間)を仮本堂に、西御殿(和館)を方丈(住職宅)として用いた。その後、西御殿は祥雲寺と縁の深い神奈川県伊勢原市の「勝興寺」に移築された。

宮邸移築の経緯
東京大学心理学部を卒業した第三十世和尚は、住職として寺を守る傍ら、市ヶ谷陸軍学校で教鞭をとっていました。その時の学生の中に若い皇族がおられ、火事に見舞われた祥雲寺の窮状に接して、縁りの方々に呼びかけてくれました。そして昭和10年、祥雲寺に運びこまれたのが、今の中野坂上あたりにあった伏見宮家別邸です。譲り受けたのは、同家の兄弟が使用していた2つの和館と洋間の計3棟。東御殿(和館と洋間)を仮本堂に、西御殿(和館)を方丈(住職の住まい)として用い、戦後の苦しい時代を過ごしました。その後、西御殿は祥雲寺と縁りの深い神奈川県伊勢原「勝興寺」※に移築され、法事等の客間として使われています。
※先代住職の時代から祥雲寺と縁りがあり、現在は、祥雲寺住職の実弟が住職を努める。

祥雲寺>施設ご案内>別邸 https://shounji.com/info/bettei/

伏見宮家別邸

中野区中央一丁目(小淀町)にあった伏見宮家別邸は、もともとは山岡鉄舟の邸宅であったものを明治19年(1886)に伏見宮家に献上されたことにはじまる。
山岡鉄舟邸は、伏見宮家に献納され伏見宮家別邸として使用されてきたが、昭和16年(1941)に民間に払い下げられた。
この地に、山岡鉄舟を開基とした「高歩院」(山岡鉄舟の諱が山岡高歩)が開山。

この移築された建造物が、山岡鉄舟時代からのものかどうかは不詳であるが、趣深いゆかりがあった。

余談だが、境内にはソーラーパネルが巧みに設置されていた。
非常にアグレッシブさを感じさせる寺院でした。

そして祥雲寺の新しい試みが、お寺のカフェ「ぼうず’n coffee」
私が参拝した際はお休み中でしたが、不定期に営業しているらしい。

撮影はしていなかったが、境内墓苑には「首切り浅右衛門(七代目山田浅右衛門)」「松本藩戸田氏」「石ノ森章太郎」の墓などがある。


祥雲寺 公式サイト

https://shounji.com/

陸軍航空士官学校坂戸飛行場跡(陸軍坂戸飛行場跡)

東武東上線「若葉駅」のすぐ北側のエリアにかつて飛行場があった。

もっとも飛行場があった戦前には、まだ若葉駅は開業前(若葉駅は昭和54年開業)で、最寄り駅は「坂戸駅」。坂戸駅(当時は坂戸町駅)は大正5年(1916)開業。

かつて坂戸飛行場があったエリアには「女子栄養大学」「筑波大学附属坂戸高等学校」「山村国際高等学校」「坂戸市役所」、そして住宅地「UR若葉台団地」や「富士見工業団地」へと姿を変えている。

坂戸中学校に残る陸軍坂戸飛行場の弾薬庫跡

陸軍航空士官学校坂戸飛行場
(陸軍坂戸飛行場)

陸軍航空士官学校
昭和12年(1937)に陸軍所沢飛行場内に陸軍士官学校の分校として「陸軍士官学校分校」が開校。(現在の入間基地・入間飛行場)
昭和13年5月に「陸軍士官学校分校」が豊岡町(現在の入間市)に移転。
昭和13年12月に、「陸軍航空士官学校」として独立し、昭和16年には行幸された 昭和天皇より「修武台」の名称を賜った。

陸軍航空士官学校の本校は豊岡(入間)、その他に飛行練習をするために狭山・高萩・坂戸・館林の陸軍飛行場が練習地として使用された。

坂戸飛行場は、昭和15年に建設開始。
坂戸八幡神社の由緒によると「昭和15年2月5日に坂戸飛行場建設のために政府の政策により、社殿の移転を余儀なくされた。」旨が伝承されている。

そして、戦争末期の空襲により兵舎や格納庫などの主要施設は炎上し、そのまま終戦を迎えている。
戦後は開墾地を経て、昭和40年に土地区画整備が行われ、住宅団地119ha・工業団地96haの「住・工セット型団地」として再開発が行われた。

位置関係

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1946年2月13日に米軍撮影の航空写真(国土地理院より)

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1946年2月13日に米軍撮影の航空写真より、坂戸飛行場を拡大

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1946年2月13日に米軍撮影の航空写真より、坂戸飛行場の施設部分を拡大
追記加工あり。

GoogleMapで現在の様子を。

同じく施設部分を拡大。

陸軍航空士官学校坂戸飛行場跡地散策

東武東上線若葉台駅より散策を開始。

まずは、「筑波大学附属坂戸高等学校」の敷地内に残る防火水槽跡を敷地外から見学。

坂戸飛行場の防火水槽

筑波大学附属坂戸高等学校敷地内

ひとつめは、少々わかりにくいですね。
なんとなく円形が察せられたので、多分これかな、と。

坂戸飛行場の防火水槽
ふたつめは、わかりやすいですね。

隣は坂戸中学校。

坂戸飛行場の弾薬庫

坂戸中学校の敷地内に弾薬庫が2棟残されておりました。

旧陸軍坂戸飛行場弾薬庫
 旧陸軍坂戸飛行場の正式名称は、陸軍航空士官学校坂戸飛行場で、昭和16年5月25日に開場したとの記事が、当時の新聞に掲載されています。滑走路は、路面が土で距離も短かかったようです。
 この飛行場の施設として、弾薬庫が建設されました。
 弾薬庫の規模は、幅7.6メートル、奥行5.6メートルの長方形で、入口が向かい合うように二棟作られ、高さは、4.3メートルです。
 入口以外に、内部を確認できる場所は、入口上部と入口の反対側の小さな窓だけです。
 さらに、建物全体が、厚さ約20センチメートルのコンクリート製で、堅牢なつくりです。
 戦後50年以上が経過しましたが、戦争という悲惨な事実をあたらめて認識し、平和の尊さを次の世代へ伝えていくため、この弾薬庫を保存していきます。
 平成12年10月
 坂戸市教育委員会

坂戸飛行場の本部跡地

法務局坂戸出張所のあたりが、陸軍航空士官学校坂戸飛行場の本部があった場所という。

そのすぐ近くに坂戸市役所。

坂戸飛行場の防風林(移植)

市役所駐車場の赤松は、陸軍坂戸飛行場の防風林として植えられていたものを、1971年に坂戸町役場移転に伴い移植されたもの、という。

坂戸飛行場の陸軍標石

陸軍坂戸飛行場に関係する陸軍標石は3箇所あるという。
1ヶ所は西側の「坂戸市役所第3駐車場」に残されており、2ヶ所は東側の民家の陰に残されている。東側は今回は未踏。
西側の坂戸市役所第3駐車場の陸軍標石を見学。

坂戸飛行場の駐機場跡

格納庫前の駐機場(待機所)のアスファルトが駐車場に残されているという。

坂戸市役所公用駐車場

路地裏の民間駐車場

坂戸飛行場の排水池(栄池)

当時も今も変わらぬ場所にある「池」。
当時は坂戸飛行場の排水池であったという。

坂戸の戦跡、まだまだ調べることは多そうです。
今回は飛行場の東側は未踏でしたし。(そこにも標石があるという)

本記事はひとまず〆


関連

陸軍関東松山飛行場跡(唐子飛行場跡)

松山飛行場

今も昔も「松山」という地名は混乱をきたす。
戦国の頃は、この地にも「松山城」があり、武蔵の松山もそれなりの知名度を持っていたが、愛媛松山に対して「東の松山」という位置づけ。

東上鉄道(東武東上線)が大正12年(1923年)に「武州松山駅」を開業。(戦後に東松山駅に改称)
当時は「武州松山駅(東松山駅)の隣の駅は「菅谷駅(現在の武蔵嵐山駅)であり、まだ「森林公園駅」は開業前であった。

その当時は存在していなかった「森林公園駅」の南側に、かつて飛行場があった。

「陸軍松山飛行場(陸軍関東松山飛行場)
通称は、地元名称から「唐子飛行場」(唐子の飛行場)と呼称していたという。

愛媛の松山には、松山海軍航空隊・松山海軍航空基地(源田実の第343海軍航空隊が著名)、そして現在の松山空港があり、海軍と陸軍でそれぞれの松山だった感じですね。

余談ついでに。
台湾は台北飛行場(松山飛行場)が昭和11年(1936)日本統治時代の台湾総督府によって建設されておりますので、戦前のあるタイミングでは3つの松山飛行場があった、というわけですね。

陸軍関東松山飛行場(唐子飛行場)

戦時中、首都防衛のために関東各地に陸軍の飛行場が建設され、この松山飛行場もそのうちの一つ。

昭和17年(1942)
測量と土地買収が開始される。

昭和19年(1944)10月
現在の森林公園の南側の地に、陸軍によって「松山飛行場」建設開始。
同時に松山飛行場建設のために、東武鉄道東上線「武州松山駅(東松山駅)」~「武蔵嵐山駅」間5.3キロを北に迂回させる必要があった。。
迂回工事は松山中学(現在の松山高校)の生徒なども動員され3ヶ月後の昭和20年1月には完了。
西側の旧軌道跡は、飛行機誘導路としてそのまま利用され、そのまま現在も道路として活用されている。

昭和20年8月
飛行場未完成のまま終戦。
滑走路面が固まりきっておらず離着陸にはまだ使用できない状況で、飛来した航空機が不時着を試みたことがあったが、車輪が滑走路にめり込んで転倒してしまったいう。

戦後は「農業地」「東松山工業団地」として再開発。

位置関係

昭和22年に米軍撮影の「関東松山飛行場跡」周辺の航空写真。
比較的にわかりやすい正方形。
国土地理院より)

USA-R356-18
1947年10月24日-米軍撮影

今昔マップ on the webで、飛行場ができる前、昭和14年の地図を以下に参照。一部加工済み。

昭和14年 飛行場建設前
東武東上線は「旧線」

青線は、飛行場建設後に北側に移転された線路。
ポイントは「森林公園駅」と「つきのわ駅」。

赤線は、飛行場区画。
ポイントは区画の四隅。
現在の様子。
昭和14年と照らし合せると違いがわかりやすい。
GoogleMAPを一部加工。
紫ポイントは「開拓記念之碑」石碑

森林公園駅

昭和46年(1971)開業。飛行場当時は当駅はまだ存在していなかった。

東松山工業団地案内板

飛行場跡地は工業団地に。比較的良くある戦後再開発。

森林公園駅の南側、住宅地区画の先が、旧飛行場エリア。

都開拓記念碑

松山開拓都会館に「開拓の石碑」が建立されていた。
開拓の歴史は、この地に「飛行場」があった歴史の記録でもあり。

都開拓記念碑
 旧村の宮前、唐子両村を境して、民地約二00ヘクタールが大東亜戦争に軍用の唐子飛行場となったが終戦とともに、戦後国民の食糧事情が飢餓の状態であったので、開拓による食糧増産が国策となり、唐子飛行場跡地も開拓入植の土地となりこの旧宮前地区には昭和二十五、二十六年にわたり、旧宮前、唐子の人達家族ごと十五戸が入植となった。この地は字名を都と称し、唐子分は新郷と称したとくに、表土をけずられてあるこの都は、黄塵にして荒れ、開拓家族は、石油ランプをたよりに起居し、農具も鍬や万能の、手による作業で、血と汗にまみれ排水工事を施工、困苦の日々の闘いの開拓であった。開拓当初、都開発者は唐子開拓農業協同組合を設立したが旧村がそれぞれに町村合併により東松山市と滑川村とになり、組合も松山開拓農業協同組合と合併した。電灯も入り辛苦の十数年、作物も実りが得られるようになった。この頃より国の経済の動向は農業から工業生産と変化した。市村も将来の発展的計画に基づき県企業局の協力のもとに工業団地として組合にその協力を求められた。血と汗の結晶の土地であるが組合として協力の決がとられた。その後地区内を関越高速道の通過があり全員が協力した。以上のように開拓者一致の協力は、この地域と住民の発展を大きく進展させたことは事実でありかっての苦闘の努力は歴史を綴り不滅に輝き続けてゆくことであろう。都開拓三十周年記念の開拓者建碑にあたり碑文とする。 
 滑川村長小久保正男 
 昭和五十八年四月吉日建之 

大東亜戦争に軍用の唐子飛行場となったが・・・

刻まれる「唐子飛行場」の名称。

石碑の向いている南側が、かつての飛行場区画。

飛行場区画の東側に足を伸ばしてみた。
「東武東上線の旧線」にあたる道路であり、水路との境界地。

この水路は「唐子飛行場」時代から設けられた水路。当時の飛行場排水路であろうと推測。

石碑と水路と。
往時を偲ぶものはさほどには残されていないが、地図には当時の飛行場を忍ばせる区画が残っていた。

軍隊と羊羹

酒保(軍隊での売店)での人気の甘味のひとつであった「羊羹(ようかん)」。
そんな羊羹を以下、つれづれと。

間宮羊羹

海軍将兵に最も愛された艦として有名な特務艦「間宮」

艦隊勤務の海軍将兵に給糧として甘味をもたらしてくれる特務艦。
「間宮」ではアイスクリームやモナカ、ラムネなどの嗜好品を生産しており、なかでも羊羹は一番人気だったとか。

「間宮羊羹」とは

【特務艦 間宮】
 広島県呉市を母港とする艦艇の中で、海軍将兵に「最も愛された、人気のあった艦」と言えば、間違いなく特務艦「間宮」でしょう。
 特務艦とは、他の艦艇の活動を支援することを任務とする艦で、「間宮」は他艦に糧食を供給する給糧艦でした。
 「間宮」は、内地から部隊に糧食を輸送するだけでなく、艦内に食品を製造加工できる設備をも有し、食品の他にモナカや大福、羊羹などの菓子類も製造していました。

【海軍将兵に大人気だった「名物 大型羊羹」】
 昭和17~18年に間宮主計長を務めた角本元海軍中佐の話によると、「と○やの羊羹より大きく!」との命令が申し送らされていたそうです。
 結果、当時「間宮」で製造されていた羊羹は、最低でも2kgはあったと思われます。
 そのサイズの羊羹を「間宮」では1日に2200本製造できる能力があったそうで、まさに「一大製菓工場」と言われていたのは不思議なことではありません。

※この商品は公益社団法人呉青年会議所、海軍料理研究家の方々の協力により当時レシピにて可能な限り再現したものです。

特務艦間宮戦没者慰霊碑

広島県呉市 海軍墓地

給糧艦「間宮」
就役当時は間宮は世界最大の給糧艦であり、日本海軍としても初の給糧艦であった。補給の要として活躍。艦隊の酒保として非常に人気が高く帝国海軍の中では最も有名な艦の一つ。
昭和19年12月21日、米潜水艦の雷撃により沈没。

間宮羊羹専用 海軍刀

間宮羊羹専用 海軍刀
ようかん和菓子ナイフ
大日本帝國海軍の群島は錆びにくいステンレス刀が多く使われておりました。
この「ようかん和菓子ナイフ」は、ステンレス洋食器の一大産地「新潟県燕市」の職人が一つ一つ手磨きで仕上げた物です。どうぞ安心してお使いください。

「間宮羊羹」とは?
大日本帝國海軍の艦隊勤務者に一番愛されたフネは、大和・武蔵ではなく「給糧艦間宮」。
それは間宮が甘い物を届けてくれるから。アイスクリーム・最中・ラムネ等の嗜好品を艦内で生産していた間宮。その中でも「間宮羊羹」の愛称で親しまれた羊羹が一番人気でした。


江田島羊羹(江田島ようかん)

友人からの戴き物

江田島は美しい広島湾に位置して、東は呉市に北は広島市に相対し、西は名勝安芸の宮島に接した南北に細長い島です。明治廿一年八月海軍兵学校がこの江田島にできました。以来旧海軍のメッカとして若人のあこがれの地でありましたが、昭和廿年八月終戦とともに約六十年の歴史の幕を閉じました。
昭和廿一年一月海上自衛隊第一術科学校が発足し、再び海の男達の修練の場として脚光を浴びることとなりました。
江田島羊かんは古鷹羊かんと共に兵学校時代よりこの海の男の皆様から、常にご愛用を賜り御土産品として絶えず御利用戴いています。


航空携帯糧食 玉羊羹

靖國神社遊就館の売店にて購入

玉羊羹
ゴム製の風船を容器として売られる球状になった羊羹。

支那事変(昭和12年)のころに、戦地の兵隊さんへ送る慰問袋用菓子として、日本陸軍から開発指示により生まれたことに始まるという。

当時は「日の丸羊羹」とも呼称された。

航空携帯糧食 玉羊羹
~航空糧食の特徴~
玉ようかんは、高高度飛行の気圧変化の激しい環境下でも容器が破裂することなく、容易に携帯でき、甘味による疲労回復の糧食として携帯されていました。


大日本帝國海軍の伝統を受け継ぐ海上自衛隊でも。

海軍羊羹 観艦式ようかん

自衛隊観艦式2019 限定の「観艦式ようかん」(さかくら総本家)


海軍羊羹(さかくら総本家)

海軍羊羹とは
明治時代からさかくら総本家の和菓子は海軍御用達品でした。
長期保存できる甘味品を望んでいた海軍からの依頼を受け、開発された羊羹を当時の味のまま再現したものが「海軍羊羹」です。

(海軍羊羹)
やや硬めで仕上げた当時の食感をお楽しみください。

(海軍羊羹 抹茶)
※本品は製造方法をそのままに、白あんと宇治抹茶を使用し現在風に仕上げた羊羹となっております。

海軍御用達品

さかくら総本家の羊羹は横須賀をはじめ、呉、佐世保各鎮守府に納められておりました。
長期保存できる甘味料を望んでいた海軍からの依頼を受け、開発された羊羹を当時のまま再現したものが海軍羊羹です。


巡羊羹(呉・武田製網)

靖國神社遊就館売店にて入手。

一等国の一等品

呉名物

巡羊羹

伝統につちかわれた羊羹を独自の製法により新しい感覚にアレンジして現在にマッチした羊羹に仕上げました。


海上自衛隊 塩ようかん

ポケット羊羹で安定の「かし原」ですね。


「ようかん」は、今も昔も愛される甘味ですね。

大船軒のサンドウヰッチ 

2019年撮影

大船軒サンドウヰッチ

大船軒サンドウヰッチ(サンドウィッチ/サンドイッチ)
SINCE 1898
鎌倉ハム
ボンレスハム使用

ボンレスハムの層にマスタードを使用しています。

日本初の駅弁
「サンドウィッチ」誕生秘話
 大船軒創業者の富岡周蔵が明治政府の要人・黒田清隆から薦められ。自ら考案した「サンドウイッチ」は好評を博し大船の名物となりました。明治32年のことでした。

創業明治31年
湘南鎌倉 大船軒

 日本初の「駅弁サンドウィッチ」を売り出したのは東海道線大船駅にある大船軒で、まだ文明開化の風もおさまらぬ明治32年のことでした。
 「鎌倉ハム」のブランドができたのもこの頃で、そのハムを使った「駅弁サンドウィッチ」の美味しさは大評判を呼びました。
 大船軒は他に湘南名物「鯵の押寿し」や鎌倉にちなんだ「あじさいちらし寿し」が有名で、古くから文人墨客にも親しまれています。

鎌倉ハム

http://www.kamakuraham-tomioka.co.jp

鎌倉ハム富岡商会

当時の鎌倉ハム製造業者の一人に、現在の「鎌倉ハム富岡商会」の創業者、富岡周蔵がいました。
「鎌倉ハム富岡商会」の歴史は、駅弁の製造販売会社、大船軒の開業にさかのぼります。
大船軒で明治32年(1899年)、ハムサンドウィッチを売り出したところ、これが大評判となり、やがて多数の食料品業者からハムだけの注文がくるようになりました。そこで、富岡周蔵は、明治33年(1900年)、「鎌倉ハム富岡商会」として、ハム製造部門を独立させ製造を開始しました。「鎌倉ハム富岡商会」の百年を超えるハム作りの歴史は、まさにこの時にスタートしたのです。

鎌倉ハム富岡商会・ブランドストーリー

鎌倉ハムとマスタードのサンドイッチが4つ
チーズのサンドイッチが2つ

シンプルだけど美味なサンドイッチ。

明治32年(1899年)以来の伝統の味は120年変わらぬ名物。

明治の味、文明開化の味を楽しみつつ。

振武臺記念館(陸軍士官学校皇族舎)

陸上自衛隊朝霞駐屯地
陸上自衛隊広報センター(りっくんランド)

2020年1月に行ってきました。

なお、もともとは座間にあったものを移転したものです。


振武臺記念館

振武臺記念館
 戦前、ここ朝霞の地に旧陸軍の予科士官学校が所在しておりました。陸軍士官学校は明治時代から市ヶ谷(東京)ありましたが、昭和の時代に入り初級将校を多く養成する必要性が生じ、当時の市ヶ谷では手狭となり本科が昭和12年に座間(神奈川)へ、予科は昭和16年10月に朝霞に移転してまいりました。陸軍士官になるには予科で約2年、その後の本科において約1年8ヶ月の教育訓練を受けなければなりませんでした。修学後、部隊での見習士官を経て少尉に任官するという制度となっておりました。また航空要員は予科修了後、入間(埼玉)にありました陸軍航空士官学校へと進みました。朝霞では終戦の昭和20年8月まで、57期生から61期生の合わせて19,147名の学生が学びました。振武臺記念館では当時の貴重な資料や所縁の品などを展示、古墳時代以来の朝霞の歴史と合わせて皆様に紹介しております。『振武臺』という名前の由来は昭和18年12月9日、昭和天皇が当校に行幸された際、学生達に対し「将来益々武を振るえ」という思いからお名付けになられた学校の別称です。
 また本記念館の建物は、陸軍士官学校(本科)にありました「皇族舎」(皇族男子学生の特別宿)を昭和53年、隊員の手によって座間から移築した歴史的建造物す。

陸上自衛隊広報センター「りっくんランド」で有名ですが、どちらかというと、現在の自衛隊よりも旧軍及び歴史に興味がある私ですから、迷うことなく振武臺記念館に。

陸上自衛隊広報センター
振武臺記念館見学ツアー

かつて朝霞駐屯地の場所に所在していた陸軍豫科士官学校の貴重な資料や、歴史的建造物である陸軍士官学校皇族舎の建物や当時の貴重な資料等を見学することができます。

隊員ガイド付き振武臺記念館見学ツアー
申し込んでみました。
この日は、この時間は私のみでした。つまり、隊員のガイドを独り占め状態。なにやら申し訳無い状態ですが、日と時間によっては、まれにあることだそうです。

ガイドの隊員さんと連れ立って、記念館に。
建物そのものの説明、そして館内資料の説明など、約30分ほどの貴重な時間を過ごす。

館内は撮影禁止。


雄健神社

入り口には「雄健神社(おたけび神社)」が復元されていた。

雄健神社は、昭和16年10月の陸軍豫科士官學校の朝霞移転とともに、学校の守護神として建立。
雄健の由来は神話から引用されており、「雄壮にして雄叫びを発し、もっと勇気を発奮し」ということから青年将校の理想像とされ、心の拠り所として学生達が毎日参拝をしていました。
平成14年、偕行社及び予科士官学校卒業生によって、鎮座跡地に「雄健神社跡碑」が建立。跡地は立入禁止。駐屯地一般開放日などに跡地を見学できる場合があるという。

市ヶ谷台の雄健神社


振武臺記念館館内(撮影禁止)

1階は、
・朝霞の歴史
・終戦関連展示品
・旧軍関連図書
・雄健神社(復元)

2階は、
・学校本部関連展示品
・学校施設配置模型
・教育訓練関連展示品
・軍服 生徒服
・在籍学生名簿(57期~61期)


振武臺記念館
旧・陸軍士官学校皇族舎

振武臺記念館
 この振武臺記念館は、昭和53年(1978年)3月に神奈川県座間市にありました陸軍士官學校の皇族舎を隊員によって解体し移設した建物で、市ヶ谷から朝霞に移転した陸軍豫科士官學校に関する資料等を中心に展示されています。
 振武臺の由来は、昭和18年(1943年)12月、昭和天皇陛下が行幸された折に「将来益々 武を振るえ」と言った意味からお名付けになられたそうです。
 皇族(男子)が、陸軍士官學校や海軍兵學校で将校教育を受ける際に用意された特別の宿舎であり、本皇族舎は東久邇宮電化(54期生)や賀陽宮殿下(55期生)が使用されたと記録に残っています。

朝霞駐屯地の歴史と振武臺記念館について
 我々自衛官が勤務しているこの朝霞駐屯地は、昭和16年10月に陸軍豫科士官學校として開講し、終戦の昭和20年8月まで多くの青年将校が巣立った場であり、約19000余名の学生が学んだ場でもあります。終戦後この地には、米軍が進駐しキャンプドレイクとして朝鮮戦争やベトナム戦争の後方きちとして使用され、昭和35年にはこの建物は日米共同使用という形態で朝霞駐屯地が開設されました。
 又、木造建ての建物は、皇族の方が使用していた建物であり、現在は記念館として旧軍及び陸軍豫科士官學校の資料等を展示しております。


もともと座間の陸軍士官学校にあった建物(皇族舎)を戦後に朝霞の陸軍予科士官学校のあった地に移転させたという歴史的な建造物。座間時代から、よく残ってくれたたものです。

陸軍予科士官学校正門門柱

陸軍豫科士士官學校正門門柱
 この門柱は、陸軍豫科士士官學校が昭和16年(1941)10月から終戦までここ朝霞の地で使用していたものであり昭和53年(1978)8月に、現在地から南へ約1kmの所にあった当時の正門を移設して保存しているものです。

陸軍豫科士官學校跡

陸軍予科士官学校当時の門柱。一枚岩でできている。
当時の学校正門は、現在の朝霞駐屯地正門(大泉門)南側の「長久保交差点」付近にあったという。

遥拝所石碑

陸軍予科士官学校当時、構内に数ヶ所の遥拝所が設けられていた。その一つを振武臺記念館脇に移設したもの。

遥拝所石碑について
 陸軍豫科士士官學校当時、敷地内に数ヶ所あった「遥拝所」に建てられた石碑の一つを、振武臺記念館の側に移設したものです。将校生徒達は、毎朝雄健神社に参拝した後、皇居や両親の方向に向かい、遥拝(遠く離れた所から拝むこと)を行いました。

表も裏も「遥拝所」と掘られている遥拝所石碑。

九九式十糎山砲
(99式10せんちさんぽう)

山砲ですね。

九九式十糎山砲
 大日本帝国陸軍が1939年(昭和14年)に制式化した口径105mmの山砲です。
 日中戦争当時、中国軍からろ獲した105mm砲(仏製)を再設計し、分解運搬できるように改良したものです。通常馬2頭で運搬しますが、悪路等では分解して10頭の馬を使用していました。
 最大で約7km(所沢インター付近まで)、有効射程は約4kmの射撃が可能です。
 昭和16年大阪陸軍造兵廠製

米軍第8軍団第1騎兵師団モニュメント碑

こちらは旧軍ではなく。
戦後5年間、駐留していた米軍の記念碑。

「キャンプドレイク」モニュメント

朝霞駐屯地一帯は、大東亜戦争終了直後の昭和20年(1945年)9月から昭和25年(1950年)7月までの5年間、アメリカの第8軍団第1騎兵師団が駐留し「キャンプ・ドレイク」と呼ばれていました。
 「キャンプ・ドレイク」の名前の由来は、昭和20年(1945年)のフィリピン作戦中に戦士した「ロイス・A・ドレイク大佐」を偲んでつけられたものです。
 このモニュメントの中央にある「黄色地に馬のマーク」は、第1騎兵師団のシンボルマークであり、同師団がこの地を去るときに作成したものを、平成20年(200。8年)7月に再整備したものです。


陸上自衛隊朝霞駐屯地
陸上自衛隊広報センター(りっくんランド)

世間一般的には、振武臺記念館よりも広報センターがメイン。

「サマーワ宿営地」の看板

陸自の装備など、屋内外に。

次回は駐屯地の一般開放日にも訪れてみたいです。

鈴木貫太郎邸跡

現在の文京区千石3丁目。不忍通りの猫又坂に名残の石垣だけが残っている。
当時は丸山町と呼称された地域。
この地に、終戦時の総理大臣・鈴木貫太郎の私邸があった。

昭和20年8月15日、鈴木貫太郎は終戦反対派に襲撃されるも、からくも私邸から脱出。そのときに鈴木貫太郎私邸は焼き討ちされた。(宮城事件)

戦後、鈴木貫太郎は生まれ故郷の関宿に隠棲。関宿の邸宅跡地は鈴木貫太郎記念館となっている。
文京区の私邸は長男の鈴木一がこの地に居住していたが、孫の代にマンションへと姿を変えており、残された石垣が往時の姿を伝えていた。

もしかしたらマンションの後ろの樹木は、鈴木貫太郎邸の頃からの樹木かもしれない。

石垣だけは、鈴木貫太郎時代から変わらない佇まい。

開戦時の総理大臣・東条英機邸宅跡は何も残っていなかったが、終戦時の総理大臣鈴木貫太郎の邸宅跡は石垣が残っているだけ、史跡として救いがあった。

東条英機邸跡

国旗掲揚所跡(秋葉原・岩本町)

秋葉原・岩本町界隈。
「和泉橋」の隣の駐輪場に、ひっそりと「昭和の遺産」が残っていた。

国旗掲揚所跡
(国旗掲揚台跡・国旗掲揚塔跡 )

(表面)
帝國在郷軍人會
國旗掲揚所 第拾班
神田區分會

(側面)
陸軍中將赤井春海書
昭和八年八月建設 寄贈 大熊柳三

大熊柳三は東京神田の呉服商。
陸軍中将・赤井春海(1876-1954)は、大正12年(1926)に陸軍中将、昭和5年(1930)に予備役。

「星と錨」が掲げられた。国旗掲揚台。
星と錨は「帝国在郷軍人会」のシンボルマーク。
「帝国陸軍の五芒星」と「帝国海軍の錨」。

「帝国在郷軍人会」のシンボルマークは、昭和8年(1933)建設以来、約90年の時を経て、留め具が緩み始めていました。

国旗掲揚台には、当時、国旗を掲げたであろう木製の柱の残骸も残っていた。


帝国在郷軍人会

現役を離れた軍人(予備役・後備役の軍人)が入会していた団体。

全国統一的組織としての「帝国在郷軍人会」は、1910年(明治43年)11月3日、予備役・後備役軍人の軍人精神向上などを目的に伏見宮貞愛親王を総裁として発足。

以下は、参考資料。
平和祈念展示資料館(新宿)展示の帝国在郷軍人会徽章

現在、帝国在郷軍人会に相当する組織は、自衛隊員OB組織である公益社団法人隊友会、か。


和泉橋

国旗掲揚台の隣は和泉橋。
この橋も実は古い。

江戸期には伊勢国津藩の藤堂和泉守屋敷があったことから、「和泉橋」と呼称。町名としても「神田和泉町」として残っている。
大正5年(1916)に鋼橋に架け替えられ、昭和2年(1927)に、帝都復興事業の一環で拡張。今も残る親柱は大正5年当時のもの。

秋葉原、岩本町界隈。
ひとしれず、戦前を偲ぶものが残っている空間でした。

鎮守様の戦跡~海老名・神武社

海老名市河原口(海老名市河原口3丁目3付近)に小さなお社が鎮座している。
その名も「神武社」。
海老名市総鎮守・有鹿神社の境外摂社。

社号の通り「神武天皇」を祀っている当社は「石碑」がご神体という、珍しい神社。

神武社
神武天皇碑
日露戦争戦勝祈願 橿原神宮遥拝記念

神武社

江戸時代の頃は、辺りは桑畑であったといい、この地には「石神社」が鎮座していた。
明治37年(1904)に勃発した日露戦争に際して、戦勝祈願の為に、この地に河原口の人々が集まり、橿原神宮を遥拝したという。その後、橿原神宮遥拝の地を記念して「神武天皇碑」が建立。その石碑を覆う社殿も建立されたという。
社殿と鳥居は橿原神宮の方向(西面)を向いている。

もともと河原口の氏神様は神明社であったが、戦後に神武社にかわった、とされる。
河原口地区には、神武社が建立される前、「新編相模風土記」によると、天神社・神明社・諏訪社・熊野社・石神社・第六天社・弁天社などが鎮座していた。明治期の神社合祀政策により、これらの小社は「有鹿神社」に合祀されたが、その後に河原口地区で疫病が流行ったために、現在地に遷座。
現在、「神武社」の境内には、石神社・神明社・天神社・熊野社・第六天社の石祠が鎮座している。

<本記事は有鹿神社宮司様よりお伺いしたお話を基礎としております>

神武天皇碑
神武社
神武社
鳥居は昭和35年建立
神武社と石祠群
石祠は、 石神社・神明社・天神社・熊野社・第六天社 という(順不同)
御社殿と鳥居は西面。橿原神宮の方向。
ちょうど西日が差す先には現在は「圏央道」

海老名総鎮守「有鹿神社」(あるか神社)

相模国最古の神社。近年はパンダ宮司で有名。

公式サイト

https://www.arukajinja.jp

有鹿神社の後方には「横須賀水道」が縦断している。
これもまた「戦跡」のひとつ。

「横須賀水道みち」の戦跡散策もおすすめ。

東郷氏祖先発祥地

海老名駅から綾瀬市役所方面に向かうバスに揺られて、城山公園バス停で下車。

この地にあった「城山城」が、「東郷平八郎の祖先発祥の地」であったという。早川城址の物見塚の上に記念碑が建立されている。

東郷氏祖先発跡地

東郷氏祖先発跡地
 元帥伯爵東郷平八郎書之

相模高座の郡早川郷は往古渋谷庄司重国の領地にして其子光重孫重直実重の住地なり
光重承久の乱に戦功あり薩摩国薩摩郡の数郷に封せられたり
光重は長男重直と共に早川に在城し次男早川次郎実重三男吉岡三郎重保四男大谷四郎重茂五男曹同五郎坊定心下男落合六郎重貞は宝治二年の春薩州の封地に下向せり而して実重は川内川の上域東郷の地を領し姓を東郷と改む
元亀元年東郷の一族島津氏に帰服するに至る迄三百十有余年間其子孫東郷地方に割拠し渋谷党と称し雄を北薩に振へり爾来東郷の姓を冒す者概ね其後裔なり昭和六年有志相謀り東郷氏の祖先発跡の旧地を卜し早川の城山物見塚に碑を建て以て後昆に伝ふと云爾
 昭和六年 月
  海軍中将正四位勳一刀功四級東郷吉太郎撰並書

物見塚と東郷氏祖先発祥地碑
 早川城本郭の西側に位置するこの塚は、物見塚と呼ばれています。南北21m、東西23m、高さ約2mの塚です。発掘調査の結果, 表土直下に宝永火山灰(1707年、富士山の噴火による火山灰)が見られることから江戸時代初期以前に築かれていることは明らかです。また、塚の作り方が土塁と同 様の版築(黒土と赤土を交互に敷きつめて突き固めたもの) であることから、城郭の関連遺構のひとつであり、外敵の侵入を見張るため築かれた塚であると思われます。
 物見塚の上には、昭和7年に祖先発祥地東郷会により建てられた「東郷氏祖先発祥地碑」があります。この碑は日露戦争で有名な旧海軍元帥である東郷平八郎の先祖の地であることを記念して建てられたものです。東郷家は、早川城主であったと伝えられる渋谷氏の末裔の一つでした。
 綾瀬市

早川城址
東郷元帥祖先発祥地

県下名勝史蹟四十五佳撰当選記念 横浜貿易新報社

城山公園

早川城跡
 早川城跡は、地元では古くから「城山(じょうやま)」と呼ばれ、鎌倉時代の御家人渋谷氏の城と伝えられています。しかし、文献資料がないことから、その実態は明らかではありませんでした。
 そこで、綾瀬市教育委員会では平成元年度から平成六年度にかけて、早川城跡の学術調査を行ないました。
 発掘調査によって、堀切・土塁・物見塚・曲輪等、多くの城郭関連遺構が発見され、県内でも有数な保存状態の良好な中世城郭であることが明らかとなりました。また、城郭が構築される以前には、縄文時代や古代の集落が営まれていたことも明らかとなりました。

渋谷氏と早川城跡
 渋谷氏は平安の末期、綾瀬市域を中心に渋谷荘(吉田荘)という荘園を支配し、勢力をもった武士でした。『吾妻鏡』によると、平治の乱(1159年)に敗れて奥州に落ち延びていく源氏の重臣佐々木秀義を渋谷重国が保護したとの記事があることから、この頃までには綾瀬市域一帯を支配下に置いたものと思われます。
 鎌倉時代になると、渋谷重国は源頼朝の家臣である御家人となり、その子高重が後をつぎました。高重は早川次郎と名乗り、早川に拠点を置いて一族を統率していたものと思われます。1213年の和田合戦では高重は和田義盛に組したため高重はじめ多くの一族が討たれましたが、1247年、宝治合戦の後、その軍功により薩摩国入来院ほかに所領を得、地頭となり、その際多くの一族が移っていきました。しかし、室町時代の初め頃までは綾瀬市域に渋谷氏の支配が続いたと思われ、その一族が早川城を築城したものと考えられます。

堀切と土塁
 鎌倉時代に築城されたと推定される早川城跡は、天守閣を持つ江戸時代の城と異なり、自然の地形を巧みに利用し、堀切と土塁を周囲に巡らした「砦」的な要素の強い城郭であることが発掘調査によって明らかとなりました。堀切とは外敵の進入を防ぐため、城の周囲に巡らされた堀のことです。
 堀切の内側には、堀切を掘った土を利用して、土塁と呼ばれる高い土手を築き、さらに堅固な防御施設を作り上げています。早川城の場合、東西及び南側は急峻な崖に囲まれ、自然の要害となっています。しかし、北側は平坦なため、幅約11メートル、深さ5メートル以上という大規模な堀切と土塁を築いて敵の侵入を阻んでいます。
 早川城は、有事の際に周囲に暮らす武士たちが集結して、外敵の進入に備える防御施設として、また、領民に対しては、権力を誇示するシンボルとしてそれぞれ機能していたものと思われます。

見事な堀切と土塁が残る。

西側は低地の湿地帯となっている。天然の要塞。現在は湿生園として整備されている。

薩摩の東郷平八郎の東郷氏が、まさか渋谷氏の流れを踏んでいるとは、此の地に足を運ぶまで知りませんでした。
良い知的散策が出来ました。