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油壺周辺の戦跡散策・その3

令和元年8月31日~9月1日

油壺に泊まる機会がありましたので、チャンスとばかりに周辺を散策。

「その3」では油壺湾の南側に位置する諸磯湾方面に向かってみます。

  • その1 東大三崎臨海実験所と特攻戦隊司令部、新井城址
  • その2 油壺験潮場、震洋桟橋と油壺地下格納壕、胴網狙撃用洞窟陣地
  • その3 油壺公園、諸磯湾の海龍格納壕と隧道 など

場所

https://goo.gl/maps/F2abH8HFhUZboxeY8

昭和21年(1946)02月15日-米軍撮影写真を一部加工
USA-M46-A-7-2-235
Google航空写真

油壺湾を経て諸磯湾に向かう道をくだっていきます。

油壺公園

石碑がありました。

この小網代をスタートして
われらは進んだ、永遠のレースへ
吹きつのる風、おしよせる波
最期まで、力を尽くしてたたかった
あの水平線のかなたは、われらのしとね
海を愛する人々よ、忘れないでくれ
海のきびしさ、海のやさしさ、
そして、海を愛するこのわれわれを

海の安全を祈って
初島・利島ヨットレース 遭難の碑
 昭和37年11月3日夜、相模湾で行われたヨットレースで思いがけないことが起こりました。参加した43隻の大型ヨットのうち慶応義塾大学の「ミヤ号」(乗組員4人)と早稲田大学の「早風号」(乗組員6人)が、突然の暴風のために行方不明になり、さらにほかの艇に乗っていた慶應義塾大学の一人も波にさらわれてしまいました。
 家族の人や両大学の友人や関係者、海上保安庁、自衛隊、そして、各地の漁協や消防署まで、大勢の人々の創作活動が続けられましたが、ヨットは発見されませんでした・・・
 元慶應義塾大学教授 村井実著
 小学校5年教科書「ヨットのそうなん」より抜粋


「油壺公園」
谷戸といってよい谷間の平地。このあたりには兵舎があつまり、周辺には海龍格納壕が多数残されているというが、ちょっと緑が多すぎて夏はわからないですね。リベンジが必要。

油壺湾の南、諸磯湾に向かいます。

諸磯湾

海龍格納壕

道路脇に壕がふたつ残されていました

そのまま道なりに西に進んでいきます。

基地連絡用隧道(東西)

海軍が掘ったというトンネル。2本並んだ隧道。真ん中で隣の隧道に接続。H型。隧道の真ん中で隣の隧道へと移動ができる。現在は一本のみ使用。

トンネルを抜けると、小さな造船所。この先は立入禁止。
ここにも海龍格納壕が幾つか残っているという噂。

基地連絡用隧道(南北)


おまけ

今回の記事「その1」「その2」「その3」は時系列はバラバラで掲載でした。令和元年8月31日から9月1日の二日間を利用して周辺を散策。

油壺に、会社で契約しているリゾートマンションがありまして、そこを拠点に散策。ベース基地としてこれはとても有益ですね。
嫁さんに気に入ってもらえたので、また利用したいと思います。

二日目はレンタサイクルを借りました。三浦半島はアップダウンが多くて、これも有益でした。

三崎には古い建物も多く残っていますが、今回は回りきれず。次回散策時まで残っていることを祈りつつ。

油壺周辺の戦跡散策・その2

令和元年8月31日~9月1日

油壺に泊まる機会がありましたので、チャンスとばかりに周辺を散策。

その1」では、海軍が本部として接収した東大実験所を掲載しました。それ以外にも海軍にまつわる戦跡が点在しておりますので、ちょっとみていきましょう。

  • その1 東大三崎臨海実験所と特攻戦隊司令部、新井城址
  • その2 油壺験潮場、震洋桟橋と油壺地下格納壕、胴網狙撃用洞窟陣地
  • その3 油壺公園、諸磯湾の海龍格納壕と隧道 など
震洋桟橋

場所

https://goo.gl/maps/F2abH8HFhUZboxeY8

昭和21年(1946)02月15日-米軍撮影写真を一部加工
USA-M46-A-7-2-235
Google航空写真

油壷バス停から東に赴いたところに「油壷験潮場入口」(国土交通省国土地理院)がありますので、ここから海面に降りていきます。

途中、基準水準点があります。
油壺の基準水準点は昭和5年(1930)設置。
標高は16.6905m

エメラルドグリーンな海面が見えてきました。


油壷験潮場

明治27年(1894)竣工

油壷験潮場
この建物の中には、海面の上がり下がりを自動的に精密に記録する験潮儀が設置されています。この記録は高さの基準をきめたり土地の変動を調べるために非常に大切な資料となります。 国土地理院

油壷験潮場(旧建屋) 明治27年(1894)竣工
(公社)土木学会において、「我が国の初期の測量技術を今に伝え、日本の標高の基準である「日本水準原点」の管理に重要な役割を果たしてきた貴重な施設」との評価を受け、平成30年度の土木学会推奨土木遺産に認定されました。
 平成30年11月 国土地理院


霊岸島水位観測所

日本水準原点


油壷験潮場の左側に、桟橋が残っています。

震洋桟橋

水上特攻艇「震洋」の接岸用の桟橋跡。係留用の杭(ボラード)も残っている。

満潮時に撮影(令和元年8月31日)

水位は刻々と変わります。海側を巡る際は潮の満ち引きにご注意を。

こちらは干潮時に撮影(令和元年9月1日)
水位がだいぶ違います。

水上特攻艇「震洋」

※靖國神社遊就館大ホールには復元された震洋が奉納されている。

震洋は船首内に250キロ炸薬を搭載し敵艦への体当たり攻撃を目的とした特攻艇 各型合せて6200隻が量産され4000隻が配備。震洋隊戦没者は2500余名という。

原寸模型 震洋一型
1/10模型 震洋五型

震洋桟橋から東に歩みをすすめる。

人工物が残る。

近づいてみる。

干潮時もしくは冬季であれば緑も少なく、もう少し先すすめるようだけど。今回は東側はここまで。このさきにはもう一つの震洋桟橋もある。
また今度の干潮のときにでも訪れましょう。(このときの干潮時は東大実験所の方をメインとしましたので)


験潮場から西に。看板のすぐ後ろに洞穴がありました。
奥行きはさほどには深くなく中はY字に分岐。

海岸に沿って歩いてみましょう。

係留用の杭が大量に残る。

震洋格納庫(格納壕)

震洋の格納庫といわれている洞穴。奥が一段高くなっていた。

さらに東に歩みをすすめる。

験潮場で位置関係を把握。

最大干潮を狙ってきたので、容易に歩けます。
潮が満ちていたら、無理ですね。

謎の人工物。

神奈川県のマーク

海龍格納壕 ?

謎の人工物

さらに東に脚をすすめる。
今回は海岸線沿いをあるく。内陸に進めば別の壕があるというが、夏場は草木の繁りが邪魔をする。

神奈川県のマーク多い

東大の実験所が見えてきました。

東大の実験所に関しては「その1」で。

ウニ

荒井浜海岸

このまま歩みをすすめていけば、「荒井浜海水浴場」に到着。人の賑わいが安心感。途中で潮が上がったら、逃げ場がなくなるので、時間を気にしながら歩きました。
この日は、午前10時に験潮場をスタートして最大干潮の11時に東大実験所周辺に到着。 荒井浜海水浴場 に到着したのは11時45分。

火照った体をかき氷で冷やす。


胴網海岸

油壺の北側にある胴網海岸、小網代湾。こちらにも戦跡があるので脚を運んでみた。

その1」でも触れた三浦道寸の墓から下った先に広がる海岸。右手に洞穴がみえる。近づいてみよう。

胴網海岸の地下壕

二つの入口がある。地下壕を前提とした格好ではなかったので、入り口のみを観察。次回訪れるときは足元をきっちりした靴で来よう・・・
詳細不明。

狙撃用洞窟陣地

遊歩道の脇に開口。
油壺マリンパークの資材置き場と可していた。

胴網海岸には油壺マリンパークの海水ポンプなどが設置。

こちらも穴。

戦跡を観ながら海と花を愛でる。

「諸磯湾」そのほかは「その3」で

いったん〆

油壺周辺の戦跡散策・その1

令和元年8月31日~9月1日

油壺に泊まる機会がありましたので、チャンスとばかりに周辺を散策。

今回は以下の3部構成。

  • その1 東大三崎臨海実験所と特攻戦隊司令部、新井城址
  • その2 油壺験潮場、震洋桟橋と油壺地下格納壕、胴網狙撃用洞窟陣地
  • その3 油壺公園、諸磯湾の海龍格納壕と隧道 など

東京大学三崎臨海実験所
旧本館
旧水族・標本館 

2019年度に取り壊されることが決定

旧本館(日本海洋生物百周年記念館)は昭和11年(1936年)
旧水族・標本館は昭和7年(1932)

設計は2つの建物ともに内田祥三。
「内田ゴシック」といわれるデザインパターンの建物を数多く設計。代表作は東京大学大講堂(安田講堂)をはじめとし東大構内に多数が残されている。

昭和20年2月、大日本帝国海軍が本実験所を接収。
特殊潜航艇基地の本部として活用された。

横須賀鎮守府所属
第一特攻戦隊第十一突撃隊
  特殊潜航艇「海龍」
   第1海龍隊・第2海龍隊・第3海龍隊(36隻)
  水上特攻艇「震洋」
   第27震洋隊・第51震洋隊・第56震洋隊(100隻)
  特殊潜航艇「回天」
   第14回天隊(6隻) ただし未展開


関連記事

東京大学大学院理学系研究科附属臨海実験所
= 日本海洋生物学百周年記念館 棟下式 =
 海洋生物学に大きく貢献してきた日本海洋生物学百周年記念館(通称:記念館)が2019年度に取り壊されることが決定しました。3月30日(土)には、記念館に馴染みの深い100名近くの方が参列し棟下式が開催されました。

http://www.mmbs.s.u-tokyo.ac.jp/jp/news/20190330muneoroshiki.html

東京大学大学院理学系研究科附属臨海実験所
= 記念館の利用中止について =
 当実験所の日本海洋生物学百周年記念館(以下、記念館)は、東京大学施設部の調査により、耐震性に問題がある危険建物と判定されました。これに伴い、記念館の外来利用を全面的に中止いたします。

http://www.mmbs.s.u-tokyo.ac.jp/jp/news/160629-1.html

東大三崎臨海実験所
安全優先で解体決定
安全確保や構造上補修が困難であることなどから、大学は解体の方針を固め、新築する総合研究棟へ機能移転するとした。
旧水族・標本棟(425平方メートル)は1932年、旧本館(1021平方メートル)は1936年に建設され、いずれも築80年超。同大施設企画課によると、海に隣接する2棟は、塩害と経年劣化により柱や梁、壁面などに亀裂が入り、随所でコンクリートが爆裂。自重や地震の揺れに耐えられないほど構造躯体が劣化しているという。また、建物内部の鉄骨も腐食が進行。やせ細っているものや端部が欠損している箇所も多く確認され、「鉄筋コンクリート造の構造上、新材に交換ができず補修が困難」と施設写真を交えて説明。「本来の使用目的を維持させた状態で構造の安全性・耐久性の確保が難しいため、取り壊しを決定した」と述べた。

https://www.townnews.co.jp/0502/2018/08/03/443367.html

場所

https://goo.gl/maps/F2abH8HFhUZboxeY8

昭和21年(1946)02月15日-米軍撮影写真を一部加工
USA-M46-A-7-2-235
Google航空写真
三崎臨海実験所 周辺

東京大学三崎臨海実験所
旧本館(海側より)

昭和11年(1936年)

最大干潮時に海岸側よりアクセスしております。満潮時は海岸からのアクセスは困難を極めます。
潮の満ち引きによっては、危険な状態になりますので自己責任でお願い致します。

曲線美あふれる海側の建物

東大が使用している桟橋は、当時の航空写真のころから位置関係が変わっていない。周辺に残る地下壕も再利用。

旧本館手前の海岸には煉瓦片が散乱していた。

謎の人工物

東京大学三崎臨海実験所
旧本館(陸側より)

昭和11年(1936年)

東京大学三崎臨海実験所
旧水族・標本館

昭和7年(1932)

砂浜側から

ガラス模様もオシャレ

衛兵の詰所?

門柱

年代は不詳


新井城址

東京大学三崎臨海実験所の地は、相模三浦一族の最後の地でもあった。
北条早雲最大のライバルであった三浦道寸。

以下は土地の歴史として付記。

新井城址
 三浦一族滅亡の地である新井城は、面積約128ヘクタールの自然をそのまま利用した要害でした。
 相模湾に突出したこの一帯は、小網代湾と油壺湾にはさまれて、三方が海に面した断崖であり、陸地は、北方約3キロメートルの大手の引橋で、この橋を切って落せばどこからも攻めこまれないようになっていました。
 引橋は後に地名になりましたが、ここで伊勢新九郎(北条早雲)勢は、橋を引かれて渡ることが出来ず、三浦勢に時を稼がれています。
 現在は、関東大地震による隆起で、往時の面影はうすらいでいますが、当時としては大軍をもってしても攻めがたく、わずかの手兵で三年間籠城することができました。三浦一族の奮闘もさることながら、城としても、守りにすぐれた構えであったといえます。
 室町期の居館としての新井城の遺構は、本丸を中心にめぐらされている空堀に往時を偲ぶことができます。
 三浦市

油壺湾
 油壺の名のいわれは、永正十三年(1516年)、新井城(今の油壺一帯)を最後の居城として立て篭もった三浦一族が北条早雲の大軍を相手に、三年間にわたって奮戦しましたが、空しくついに全滅し、一族の将・三浦道寸義同(どうすん・よしあつ)をはじめその子・荒次郎義意(よしおき)は自刃、他の将兵も討死、または油壺湾へ投身したと伝えられ、そのため湾一面が血汐で染まり、まるで油を流したような状態になったので、後世「油壺」といわれるようになりました。
 北条五代記には、三浦一族全滅の模様を次のように記しています。
「今も七月十一日には毎年新井の城に雲霧おおいて日の光も定かならず。丑寅の方と未申の方より雷(いなずま)かがやき出て両方光入乱れ、風猛火を吹き上げ、光のなかに異形異類の物有りて干戈(かんか)をみたし、虚空に兵馬馳け散り乱れ、天地をひびかし戦う有様、おそろしきと言うばかりなり云々」
 三浦市

油壺マリンパークの北側に、新井城碑がある。

新井城碑

三浦義意の墓

三浦道寸の子

その先には三浦一族最期の当主、三浦道寸の墓

三浦道寸の墓

引橋

油壺は他にも見どころがありますが、続きは「その2」で。

本編はいったん〆

十河信二・新幹線建設記念碑(新幹線の父)

令和元年9月撮影

東海道新幹線18番・19番ホームの先端。
1973年に建立された「東京駅新幹線建設記念碑」がある。

碑の表には「十河信二のレリーフ」

十河信二 座右の銘「一花開天下春」

碑の裏面
「新幹線開業」記念と「鉄道百年」記念

新幹線 開業
鉄道百年 1972.10.14 日本国有鉄道
東京-新大阪 1964・10 552,6km
新大阪-岡山 1972・3 180,3km
岡山-博多 1975・3 443,6km

十河信二
1884年4月14日-1981年10月3日
第4代日本国有鉄道総裁を務め「新幹線の父」と称された人物。
鉄道院官僚、南満州鉄道理事、愛媛県西条市長。

第4代日本国有鉄道総裁。
日本国有鉄道総裁としての在任期間は1955年~1963年。
東海道新幹線建設を推進するも完成の前年に総裁職から退任。

1964年10月1日「東海道新幹線」開通。
ホームで行われた「出発式」に国鉄は十河を招待しなかった。

1973年、招待されなかった出発式が執り行われた場所に「東京駅新幹線建設記念碑」が建立。

その碑には十河信二の功績を讃え、十河のレリーフとともに座右の銘「 一花開天下春 」が刻まれている。
記念碑を目にした十河は一言「似とらん」と感想を発したそうである。

十河信二は東海道新幹線の出発を見つめ続けていた。


青梅鉄道公園

場所はかわって、青梅鉄道公園

青梅鉄道公園
日本国有鉄道
総裁 十河信二

明治5年、はじめて鉄道が新橋、横浜間に開通して以来、ここに90周年の輝かしい記念日を迎えるにあたって、永い間活躍した歴史的車両を保存し、あわせて国民の皆様に国鉄をよく理解していただくために、風光明媚な青梅に鉄道公園を設立しました。
 昭和37年10月14日


靖國神社・旧外苑休憩所(解体済)

思えば、もっと写真をたくさん撮っておけばよかったです。

もとの建物は昭和11年に奉納されたのものでした。
靖國神社・外苑休憩所、在りし日の姿。
(令和元年10月10日に新休憩所がオープンしました。 )


平成30年6月17日撮影

休憩所の由来
 この建物は昭和十一年五月三十日東京家政学院の豊原繁尾先生の献納されたものである。
 先生は彦根藩士の女として生れ若くして國を思ふ心が強く日日靖國の社に参拝し英霊を慰めまた朝夕この休憩所において参拝者の世話にあたられた
 記して豊原先生の篤志を永く後世に伝へるものである
  昭和四十五年十月十八日
  靖國神社社務所
  学校法人 東京家政学院


平成29年7月14日撮影


平成29年3月11日撮影

昔ながらの牛丼、あの場所でもう一回食べたかった・・・


平成28年11月23日撮影

なぜか牛丼の写真ばかりデータに残っていました・・・


平成30年9月1日撮影


令和元年9月2日撮影

令和元年9月4日撮影

新休憩所は令和元年10月10日にオープンしました。
新たな名物は「特攻の母・鳥濱トメさんの玉子丼」

ひとまず〆

艦船の神棚(艦内神社・船内神社)

古来より船霊を祀った神棚が艦船に奉じられてきた。
それは現在の艦船においても変わらぬ姿。
さまざまな艦船の神棚(艦内神社・船内神社)を、以下に記録しておきます。

  • 「三笠」大日本帝国海軍 戦艦/記念艦
  • 「氷川丸」日本郵船/大日本帝国海軍 特設病院船
  • 「いずも」海上自衛隊 ヘリコプター搭載護衛艦
  • 「はるさめ」海上自衛隊 護衛艦
  • 「さみだれ」海上自衛隊 護衛艦
  • 「ひらど」海上自衛隊 掃海艦
  • 「はちじょう」海上自衛隊 掃海艦(除籍済)
  • 「うらが」海上自衛隊 掃海母艦
  • 「やまゆき」海上自衛隊 護衛艦/練習艦
  • 「しらせ」海上自衛隊 砕氷艦
  • 「YT-95」海上自衛隊 曳船95号
  • 「かとり」海上保安庁 (先代・除籍済)
  • 「宗谷」海上保安庁 保存船
  • 「みやこどり」東京消防庁 大型化学消防艇
  • 「白竜丸 」水産庁 漁業取締船
  • 「東光丸」 水産庁 漁業取締船
  • 「よこすか」海洋研究開発機構(JAMSTEC) 深海潜水調査船支援母船
  • 「海竜」 東京都港湾局 浚渫船
  • 「なとり」 井本商運 球状船首型内航コンテナ船
  • 「羊蹄丸」青函連絡船(解体済)

大日本帝国海軍
戦艦「三笠」(記念艦「三笠」)

2016年6月11日撮影

東郷神社 破魔矢

三笠神社(艦内神社)
日露戦争当時には現在のような艦内神社の姿ではなかったと思います。

三笠神社
 日本の軍艦には伊勢の大麻を受けて天照大神を艦内の神社に奉斎し、艦名を冠して、その艦の武運を念じ、また乗員に修行の糧とする風習がありました。
 三笠神社は、幸運や勝利が長く続くことを祈願して設けられました。

筥崎宮 敵国降伏 御守護

筥崎宮敵国降伏御守護
 現役中の三笠の艦長室に奉祀されてあった神棚です。1922(大正11)年9月、三笠が第4予備艦に定められ、艤装解除されることになった時、同月付きで第17代三笠艦長(大正11年6月9日-9月10日)から軍令部参謀に補職を命ぜられた八角三笠艦長(岩手県、海兵29、海軍中将、昭和40年・1・20没)が、歴代艦長によって大切に護持されてきた、この由緒あるお守りの行く末を案じられ、手元に安置されていました。記念艦三笠復元後も、変わることなく今日に伝わっている、いわれの深いものです。 

祈願文「敵国降伏」
国土の神聖を護持する神仏が、その不可思議な力-突然雷によって敵軍を撃ちのめすとか、台風で敵船を吹き帰すとか-によって、異敵を「降し伏する」ことを祈願する言葉。(日本の歴史8 黒田俊男著 中央公論社 66頁

 この祈願文は八幡大菩薩筥崎宮(福岡市東区箱崎町に鎮座)に伝わる社宝。国土防衛のシンボルとして知られています。
 現行(文永11(1274)年、弘安4(1281)年)の際、亀山上皇(第90代天皇、1249-1305)が蒙古幸福を祈願して、聖算の数だけ、諸方の神社に奉納された親書で、これはその一書であります。
 対馬方面に来襲した元・高麗の大兵船は大風雨により、壊滅、敗退しましたが、この大風雨は、神威によるものと信じられ、神風と呼ばれました。 

2003年9月4日撮影 筥崎宮
「敵国降伏」篇額

日本郵船
(大日本帝国海軍・特設病院船)
「氷川丸」

2016年8月28日撮影

大宮氷川神社 祈祷神璽

 氷川丸は埼玉縣大宮市高鼻に鎮まります武蔵國一の宮氷川神社の御守護を御願いして名付けられたものです
 二百三十八回の太平洋横断の歴史に長い年月も氷川神社の御守りによって無事努めを果し戦前造られた大きな船で現在残つているのはこの船唯一隻だけであります
今でも此の神棚には氷川神社をお祀りして氷川丸と御来船の皆様の幸福と安全を朝夕御祈り致しております

大宮氷川神社の御神紋「八雲」がインテリアとして氷川丸船内に取り入れられている。

海上自衛隊
護衛艦「いずも」

2019年10月撮影

出雲大社(島根)
神棚も「出雲大社型」
参拝も「出雲式」

食堂近くの通路際に

出雲大社拝礼方法
最初にお賽銭を入れる。
 賽銭箱に落とすように入れる。
  参考(15円  十分ご縁がありますように)
    (45円  始終ご縁がありますように)
    (415円  良いご縁がありますように)
 二拝する。
  腰を90度に曲げて深く礼をします。
 四拍手する。
  手を合わせた後は上下に少しずらして拍手する。
  これは、節合わせ→ふしあわせ→不幸せ を避けるという意味合い。
 神様に祈る。
  日頃の感謝を伝え、最後にお願い事をする。
 一拝する。
  最後にもう一度深く礼をする。

海上自衛隊
護衛艦「はるさめ」

2019年10月撮影

艦橋の後方に
 亀山八幡宮 神札(佐世保)
 宇佐神宮 海上安全守護(大分)
 金刀比羅宮 御供米(香川)
艦橋下の階段脇に
  「はるさめ」艦銘板は宇佐神宮宮司・到津公斎書

海上自衛隊
護衛艦「さみだれ」

2019年10月撮影

艦橋の艦長席上部に
 亀山神社(呉)
 天照皇大神宮
 金比羅宮
艦橋の階段下に
 「さみだれ」艦銘板は神宮権禰宜・熊谷泰揮毫 
 授贈は「戦艦三笠」

海上自衛隊
掃海艦「ひらど」

2019年10月撮影

食堂に神棚(ちゃんと撮影できませんでした・・・)

海上自衛隊
掃海艦「はちじょう」(除籍済)

2016年9月10日撮影

伊勢神宮・天照皇大神宮大々御神楽祈祷大麻
春日神社
金比羅宮
鵜戸神宮
筥崎八幡神社
立磐神社

海上自衛隊
掃海母艦「うらが」 MST-463

2018年8月4日撮影

伊勢神宮・天照皇大神宮大々御神楽祈祷大麻

海上自衛隊
「やまゆき」
護衛艦DD-129 →練習艦TV-3519

2014年7年27日撮影

神社名不明
(士官室の上、艦橋の下)

海上自衛隊
砕氷艦「しらせ」AGB-5003

2017年8月20日撮影

富士山本宮浅間大社

海上自衛隊
「YT-95」曳船95号(えい船)

令和元年11月撮影

走水神社

海上保安庁 銚子海上保安部
巡視船「かとり」PL125 (先代・除籍済)

2016年10月15日撮影

銚子川口神社 御神札
銚子川口神社 御潮祭

海上保安庁
巡視船 「宗谷」PL107(保存船)

操舵室の後方の海図室に神棚(船内神社)がある。
「宗谷神社」
富士山本宮浅間大社の浅間大神を勧請?という。

「戦時中、宗谷が沈まなかったのは艦内にあった宗谷神社のおかげ」と伝承され、戦後に「宗谷神社」が復活。
海上保安庁として、最初に誕生した船内神社。

神棚(宗谷神社)
宗谷は強運の船として崇められています。

東京消防庁
大型化学消防艇「みやこどり」

2017年5月28日撮影

神社名不明
(作戦室)

水産庁
漁業取締船「白竜丸」

2016年7月18日撮影

住吉神社御神札(山口下関か?)

水産庁
漁業取締船「東光丸」

2016年7月18日撮影

筥崎八幡宮 御神札(福岡・筥崎宮)
船魂神社 御朱印 (北海道)
虎ノ門金比羅宮 御朱印 (東京)

海洋研究開発機構(JAMSTEC)
深海潜水調査船支援母船「よこすか」

2016年7月18日撮影

金比羅宮
(操舵室)

東京都港湾局
浚渫船(しゅんせつ船)「海竜」

2017年5月28日撮影

金毘羅宮 御神札
(操舵室)

井本商運
球状船首型内航コンテナ船「なとり」

2016年7月18日撮影

金比羅宮 御神札(香川県)

青函連絡船
「羊蹄丸」(解体済)

2011年9月11日撮影

神社名不明

随時、見かけたら追加していきます

ひとまず〆

早川徳次像(地下鉄の父)

令和元年8月撮影(令和5年写真更新)

日比谷線銀座駅の地下通路に。


早川徳次(はやかわ のりつぐ)

明治14年(1881)10月15日~昭和17年(1942)11月29日

東京地下鉄道(のちの帝都高速度交通営団→東京地下鉄・東京メトロ)の創業者。
日本に地下鉄を紹介・導入したことから「日本の地下鉄の父」と称された。
山梨県出身。郷里の先輩に根津嘉一郎(東武鉄道・南海鉄道に関わった実業家、日本の鉄道王)がいる。
早川は根津の右腕として手腕を発揮し佐野鉄道(東武佐野線)や高野登山鉄道(南海高野線)の再建に成功。

大正9年(1920)8月29日に東京地下鉄道株式会社を設立。
大正14年(1925)9月27日に浅草ー上野間の地下鉄工事を開始。
昭和2年(1927)12月30日、浅草駅から上野駅まで開業。(現在の東京メトロ銀座線の同区間)

早川徳次の像は昭和16年の朝倉文夫作。
前年昭和15年の皇紀2600年記念式典において、早川徳次が緑綬褒章を賜ったことを記念し翌年の昭和16年に株主・社員一同によって設立された。
早川徳次はその翌年昭和17年に61歳で亡くなっている。

もともと早川徳次胸像は、昭和16年(1941年)に、新橋駅に建立されていたが、開通50周年に際して1977(昭和52)年に、銀座駅に転座している。
この旨は、金春安明様よりコメントを頂きまして、再確認をしました。

2025/07/13、投稿します。様々なページに、「東京メトロ銀座駅構内の早川徳次像」と紹介されてますが、「地下鉄開通50周年記念行事」までは早川徳次氏の会社と、渋谷駅から来た会場の接合点の「地下鉄銀座線の新橋駅」に有った像を銀座駅構内に移設したのです。地下鉄の博物館に説明が有りますし、能楽の金春安明の記憶にも新橋から銀座に移設という記憶あり。
2025年7月13日 11:18 PM

メトロアーカイブのサイトにも「早川徳次胸像」に関して下記の記載がありました。

早川徳次氏胸像の除幕式
地下鉄開通50周年記念行事のひとつとして、新橋駅構内に設置してあった「早川徳次氏の胸像」を銀座駅に移転し除幕式を行った時の様子。
その他の記念行事としては、記念乗車券の発売や、日本橋三越での地下鉄50年展などがあり、それぞれが大盛況であった

https://metroarchive.jp/pic_year/year1970/box09-082.html


早川徳次胸像

銀座駅に。

社長早川徳次像

以下は、駅改修工事中の写真(令和元年)

地下鉄の父
早川徳次像
(1881~1942)
朝倉文夫作

氏は明治14年山梨県に生まれ
帝都高速度交通営団の前身である
東京地下鉄株式会社を創立、幾多の困難を克服
昭和2年12月30日アジアで最初の地下鉄
浅草~上野間(2.2キロ)を開業させ
引き続きて銀座へ新橋へとレールを伸ばし、
今日に見る地下鉄時代の礎を築きました。

社長早川徳次像
夙ニ帝都ヲ立體的近代都市タラシムルノ計画ヲ樹テ 東京地下鐵道株式會社ヲ創立シ 未曾有ノ難事業ヲ完成セリ 洵ニ是レ我國交通史上ニ一新紀元を劃ヌルモノ 天下萬人之ニ依ツテ享クル利便頗ル大ナリ 其ノ功績畏クモ 天聴ニ達シ皇紀二千六百年記念式典ニ際シ緑綬褒章賜フ 茲ニ同志相謀リ壽像ヲ建立シテ永ク後世ニ傳フト爾云

昭和16年5月
重役株主社員一同

日比谷線・銀座駅

余談
早川徳次(はやかわのりつぐ)は、「東京地下鉄道」の創業者、地下鉄の父
早川徳次(はやかわとくじ) は、「シャープの創業者」


写真を追加(2023年1月)
駅改修完了後の写真

旧多摩聖蹟記念館(多摩市)

令和元年8月

京王線「聖蹟桜ヶ丘駅」。京王線ユーザーであれば馴染み深い駅名。

気にはなっていましたが、実はまだ「聖蹟」に脚を運んだことがなく。
近いと言えば近いので、ちょっと赴いてみました。

京王電鉄「聖蹟桜ヶ丘駅」
格別に美しい駅名だと思います。

ここから「記念館」行きのバスに。

旧多摩聖蹟記念館

明治天皇が当地に行幸されたことを記念して作られた施設。

旧多摩聖蹟記念館 多摩市指定有形文化財

 明治10年代、明治天皇が30才の頃、ここ連光寺の山や多摩川に兎猟 や鮎漁を行うため、4回ほど訪れました。
 時の天皇が行幸された地を「聖蹟」と呼び、全国的に多くの記念碑がみられます。
 この記念館は昭和5(1930)年に、明治天皇の偉業を讃えるため、元宮内大臣田中光顕が中心となり、当時の人々による土地の寄付や工事の協力などによって建設されました。
 「聖蹟桜ヶ丘」という駅名は、この建物の名前をもとにつけられたものです。
 この建物を設計した関根要太郎は、20世紀初頭にヨーロッパでおこった建築革新を目指す運動に関心をもった建築家といわれています。大正末期から昭和初期にかけての日本の近代建築は、鉄筋コンクリート構造の急速な普及に加え、外観のデザインとして欧米の古典主義的なものから、モダンデザインのものまで、さまざまな様式の影響を受けた建物がみられます。
 この記念館は、オーストリアでおこったセセッションと、ドイツのユーゲントシュテイルと呼ばれる建築デザインの影響をみることができます。数少ない多摩地域の近代洋風建築の中でも完成度が高く、最も優れたものであります。
 このように貴重な建築作品であることから、文化財保護の目的に沿って保存・公開すると同時に、建物の有効活用をはかるため、ギャラリーとしてもご利用いただくことができます。
 昭和61年6月24日指定
 多摩市教育委員会

多摩聖蹟記念館
昭和5年9月
伯爵田中光顕敬著

多摩市指定文化財
東京都「特に景観上重要な歴史的建造物」選定

関根要太郎と蔵田周忠が設計。
近代式鉄筋コンクリート造り、両袖の付いた円形の大殿堂。
起工1929年10月12日、竣工1930年6月26日

曲線の多用した大胆なデザインが美しい建造物。

渡辺長男作、明治天皇騎馬等身像(昭和5年)は圧巻。
明治天皇が当地に初めて訪れた30歳の姿を再現。

内部は撮影禁止のため、パンフレットと図録より。

五賢堂

五賢堂
 1968年(昭和48年)、明治維新100周年を祝して全国的に記念行事が行われました。当時、多摩聖跡記念館を管理・運営していた財)多摩聖跡記念会でも、維新の志士を顕彰する目的で「五賢堂」を建設することにしました。
 「五賢」とは、明治維新に功績のあった五人の志士(三条実美、岩倉具視、木戸孝充、大久保利通、西郷隆盛)を言います。五賢堂は神奈川県大磯の元総理大臣吉田茂邸にもありますが、西郷隆盛の代わりに伊藤博文が数えられています。西郷隆盛は西南戦争で朝敵とされましたが、吉田茂のすすめもあって五賢に数えられたとされます。
 1968年(昭和43年)11月3日に建設式典が行われ、小金丸幾久が制作した五賢のブロンズ製胸像が安置されました。なお、明治天皇の立像も小金丸幾久が同時期に作成したものですが、初代は記念館内に置かれており、1986年(昭和61年)の改修工事の際に五賢堂内に移されました。

明治大帝( 五賢堂 )

明治大帝

第一二二代天皇御名睦仁
御在位一八六七、一九一二年
嘉永五年九月二十二日孝明天皇の第二皇子として京都で御誕生され御年少の折のよび名を祐と称された
慶応二年十二月孝明天皇崩御のあとをうけ慶応三年一月九日御践祚
翌慶応四年一月に元服三月に五ヶ条の御誓文を神前に誓い九月八日明治と開眼して一世一元の制を定めた
十二月一条天皇の三女美子昭憲皇太后皇后に迎えられた
明治天皇は統帥権をもちみずから積極的に政治に携わられた
御性格は英邁御在位期間における国威の著しい伸長とあいまって英明の君主とうたわれ大帝とたたえられ国民の尊敬を一身に集められた
一九一二年全国民の病気回復の願望空しく病没京都伏見桃山御陵に葬られた
御歳六十一才であった

明治維新五賢堂建立の趣旨
五賢堂は明治維新にあたり明治大帝を補佐し新日本の建設に偉勲を樹てた三条実美、岩倉具視、大久保利通、木戸孝允、西郷隆盛の功労を後古に伝えるため明治百年に際し明治百年記念事業の一環として明治維新五賢堂建立委員会を設け全国各方面にわたる有志のご協力によりその建立の実現をみたものであります
 昭和43年11月3日
 (以下略

五賢人(五賢堂)

三条実美之像

岩倉具視之像

木戸孝允之像

大久保利通之像

西郷隆盛之像

五賢堂のとなりに石碑がある。

田中光顕公歌碑

 結髪勤王事中年侍聖君
 老來濟世志不肯伍仙群
  奉祝 青山田中先生耆徳
 
 皇紀二千六百年三月二十八日
 田中光顕公追慕會

明治天皇御製
昭憲皇太后御歌 歌碑

明治天皇が明治17年(1884)に当地へ行幸された際の御製と、昭憲皇太后が詠まれた御歌2首。

明治天皇御製
 春の半頃山ふかく狩し
 ける折に鶯の鳴くを
 きゝて
春ふかき山の林にきこゆ
なりけふをまちけむ鶯の


昭憲皇太后御歌
 御狩場よりかへらせたまひ
 ける日狩場雪といふことを
兎とる網にも雪のかかる日に
ぬれしみけしを思ひこそやれ
 おなしおり深山鶯といま
 ことを
春もまたさむきみやまの
鴬はみゆきまちてや鳴き
はしめけむ

正二位勲一等伯爵 田中光顕 謹書

明治百年
記念の樹

明治天皇御野立所跡の碑

皇紀二千六百年仲秋建立(1940年/昭和15年)

明治天皇御野立所
海軍大将末次信正謹書

御野立所からの遠望

桜ヶ丘公園

参考リンク

http://www.city.tama.lg.jp/0000003475.html

http://www.city.tama.lg.jp/0000001541.html

https://www.tokyo-park.or.jp/park/format/index065.html

大正殿と富士森公園(八王子)

令和元年8月

中央線と京王線の中間あたり。位置で言うと、京王線山田駅と中央線八王子駅の間にある「富士森公園」。

ちょっと脚を運んでみました。

大正殿(浅間神社拝殿に流用)

昭和2年(1927)、 大正天皇多摩陵での「大喪の儀」で「祭場殿」として使用された建物。同年に下賜され「富士森公園」に移設。同じ年には「浅川駅(現在のJR高尾駅)」も移設されている。

昭和28年(1953)に、「浅間神社」の拝殿として公園内から富士塚前に移築。現在に至る。

公園入口の「大正殿」標石は昭和4年3月建立。

浅間神社は、慶長年間(1596~1613)に関東代官頭として八王子に陣屋を構えた大久保石見守長安の勧請による。

富士森公園ノ浅間神社
 (台町ノ浅間神社)

本務社は八幡八雲神社。

浅間神社縁起
 浅間神社は木花咲耶姫を祭神とし、一つに富士浅間様とも言い、駿河国の本宮浅間神社を分社したものです。
 慶長年間(1596~1613)、大久保石見守長安が高さ約二丈(約6m)周囲六十間(約109m)余りの塚を築き、頂上に浅間神社を勧請したのが当社の起源です。
 この場所は、往古より樹木生い茂れる森にて、藤森と言い、塚も藤塚と書かれていましたが、慶長年間、富士浅間神社創立後は富士森又は富士塚と書くようになりました。
 宝永年間(1705頃)、社殿破壊に及び、延享二年(1755)改めて石造りの社を再建したのが本殿で、現在の奥の院石造りの社です。又、天明六年(1787)には石の階段が造られました。当社は元々拝殿がなく、祭典は毎年山上で行ってきました。例祭は八月一日で七月三十一日の宵宮より参拝者で雑踏し、境内には団子を売る商人が軒を並べ、この団子を食べる者は暑気にあたらぬとの言い伝えに、別名『団子祭り』とも呼ばれる様になりました。
 この団子祭りの起こりは、明治の中頃社頭に住居して宮守をして居た者が、当社に献じた洗米で団子を作り、希望者へ分与したのが始まりです。
 当社の例祭に行う、湯の花の神事は、心身の汚れを祓い清め、すがすがしい精神で氏子一同神へ奉仕する意味です。
 当社は子授かり、安産の神として信仰されていますが、この由来は、天照大神の御孫瓊々杵命の皇后である当社の祭神木花咲耶姫命が、一夜にして身ごもったため夫の命より疑いを受けた際、身の潔白を立証するため、産屋に火を放ち、火中で皇子を安産されたと言う古事に起因するものです。
 現在の拝殿は昭和二十八年に大正殿(大正天皇のご大葬の時多摩御陵に造られた式典用の建物)を移築し建て直したものです。
 昔より古い歴史を持つこの浅間神社は今、台町一丁目、台町二丁目、台町三丁目、台町四丁目及び万町二丁目によりお護りされています。

灯籠

灯籠は「八王子軍人中」の奉納。
明治39年11月建立。

御大典記念植樹

御大典記念植樹は昭和3年11月。

JR高尾駅は、 大正天皇の大喪列車の始発駅として「新宿御苑に設置された仮設駅舎」(新宿御苑宮廷臨時停車場)を 大正天皇 多摩陵 の玄関口である八王子高尾に移築したもの。

https://senseki-kikou.net/?p=1387


八王子市戦没者慰霊塔(忠霊塔)

明治29年に日清戦争の犠牲者のために忠魂碑が富士森公園に建立されたことに始まる。日露戦争の忠魂碑も建立されたが、終戦に際して撤去。
昭和40年に現在の慰霊塔が改めて建立された。

灯籠は「在郷軍人会八王子市聯合分会」。戦前の気配を唯一残している。

碑文
 西南の役から太平洋戦争に至る殉国の英霊および戦災殉難の霊をここにまつる
  昭和40年10月
  八王子市長 植竹 国次

八王子海軍わだつみ会記念樹

昭和41年4月15日


平和の像

富士森公園内に。

八王子市は先の第二次世界大戦において大きな戦禍を被り多くの
尊い人命が犠牲になりました。
このような戦争による悲惨な生活は再び繰り返してはなりません。
よって、非核平和都市宣言十周年にあたり世界の恒久平和を願う
市民の象徴としてここに平和の像を建立します。
 平成五年一月
 八王子市


これは、昭和20年(1945年)8月6日、原子爆弾の被災を受けた広島市役所旧庁舎の前庭の敷石の一部です。


これは、昭和20年(1945年)8月9日、原子爆弾の被災を受けた長崎市山里国民学校の校舎の壁の一部です。


忠魂之碑

富士森公園内の浅間神社に。
篇額は元帥陸軍大将 大山巌 書、明治39年11月建立。日露戦争の戦没者を祀る。

石坂昌孝之碑(放庵石坂君碑記)

富士森公園内の浅間神社に。
篇額は 海軍大将 樺山資紀 書。
大正5年建立。

石坂昌孝は明治期の政治家、自由民権運動家。


浅川・大和田橋

この節のみ2017年11月撮影。
八王子空襲の戦跡遺産として掲載しておきます。

焼夷弾・弾痕の保存について

 八王子市は太平洋戦争終結の13日前、昭和20年8月2日未明に米空軍のB29爆撃機180機の空襲を受け、約450名が死没、2,000余名が負傷し、旧市街地の約80%の家屋が焼失する被害を受けました。そのとき多くの市民が大和田橋の下に避難し、尊い命が助かりました。
 大和田橋の歩道上には、この空襲のとき透過された焼夷弾の跡が17箇所残っています。
 車道の部分は過去の補修により弾痕は残っていませんが、現在歩道上に残っている弾痕数から推測すると橋全体では約50戸以上の焼夷弾が投下されたと思われます。建設省相武国道工事事務所では、この大和田橋の補修工事にあたり焼夷弾の弾痕を保存し太平洋戦争の痕跡を永く後世に伝えるものです。
 弾痕の保存については、上下歩道上各1箇所は、透明板で覆い、他15ヶ所は色タイルで、その位置を示してあります。
 平成9年10月
 建設省関東地方建設局
 相武国道工事事務所

八王子関連の戦跡は以下も参考に

日本再建ノ三大恩人銅像(八王子・雲龍寺)

令和元年8月参拝


日本救民の恩人
 諾楽守 摩訶薩 元帥 (アメリカ合衆国・ダグラスマッカーサー元帥) 
日本再興の恩人
 蔣中正 大総統 (中華民国・蒋介石) 
日本独立の恩人
 謝得和畄天寧 大統領 (スリランカ・ジャヤワルデネ大統領) 

曹洞宗 天海山 雲龍寺

( 東京都八王子市山田町 )

京王線山田駅から南に10分ほど歩いたところに鎮座している寺院の駐車場の片隅に三体の銅像があった。
この寺院では、マッカーサー、蒋介石、ジャヤワルデネの3氏を「日本再建の三大恩人」として顕彰されている。


諾楽守 摩訶薩 元帥閣下
(ダグラスマッカーサー元帥)

BENEFACTOR IN RELIEF OF JAPANESE PEOPLE
COMMANDER-IN-CHIEF OF OCCUPATION FORCESE IN JAPAN
GENERAL DUGLAS MacAUTHOR

日本救民の恩人
日本占領軍総司令官
 諾楽守 摩訶薩 元帥閣下(ダグラスマッカーサー元帥)


蔣中正 大元帥閣下
(蒋介石) 

BENEFACTOR IN JAPANESE RECONSTRUCTION
PRESIDENT OF REPUBLIC OF CHINA
GENERAL CHIANG CHUNG CHENG

日本再興の恩人
中華民国大統領 蒋中正 介石 大元帥閣下
(蒋介石)


謝和畄得天寧 大統領
(スリランカ・ジャワエルデネ大統領) 

BENEFACTOR IN JAPANESE INDEPENDENCE
PRESIDENT OF SRILANKA
Dr J.R.JAYEWARDENE

日本独立の恩人
翠巒華国大統領  謝得和畄天寧 博士閣下
 スリランカ国大統領 ジャエワルデネ博士閣下
  (ジャヤワルダナ・ジャワエルデネ )


日本再建ノ三大恩人 銅像建立報恩之記

日本亡国
 1931(昭和6)年9月18日。日本は中国に難癖つけ兵火を開き、侵略拡大11年。彼我疲弊の極、無謀にも41年極月8日、釋尊成道の日、米国真珠湾に無通告の暴挙。鬼畜米英蘭支に正義膺懲の開戦とラジオが天皇詔勅を怒鳴る。更に東洋諸国に無差別侵攻。爾来4年。相手国立ち直り、不意打緒戦の勝利夢と消、陸海空三軍は詐称転進、敗退を続け、遂に全土灰燼に帰す。
 ’45(昭和廿年)盂蘭盆会8月15日、敵五十五ヶ国連合軍に無条件降伏せりと天皇ラジオ放送。二千六百年神州不滅と誇った大日本帝国遂に滅亡。天皇、政府、人民、国土。戦勝国軍下に入り明日の運命分からぬ民草のみ残る。

蔣中正大総統(蒋介石)
 中華民国。14年間全土侵攻され、二千万殺戮さる。東北は奪われ満州国とされ広大国土荒廃に帰す。
 然るに日本降伏となるや、蔣大総統は、「以徳報恩」(とくをもってうらみにむくいん)の大号令を発し、「悉く無事故国へ帰し、賠償等求めてはならぬ。」と厳命。何應鉄将軍は船車総動員。日本軍民二百十万の青壮を僅か十ヶ月にて家郷へ送還させた。
 東北侵攻のソ連共産軍に老幼婦女は凌辱虐殺され、捕虜は酷寒シベリヤ苦役幾年の果て、斃る十幾万。今も残留孤児の哀話絶えぬ例を比較せば、蔣大総統、何将軍、中華人民の大慈悲忘れ得ようか。
 日本の復興これより始まる。

摩訶薩元帥(マッカーサー元帥)
 ’45(昭和20)年8月30日、連合国代表占領軍総司令官 諾楽摩訶薩元帥、厚木に飛来。午後2時05分、コーンパイプを手に丸腰でタラップ下りる姿見て、生き残り日本人はホッと安堵の胸撫で下ろす。
 爾来7年。天皇、政府、官民悉く元帥の命の下に生きる。昨日の敵が今日飢餓に瀕しているを見て、同じく窮乏の本国より物資食料取り寄せて、元帥は一億餓死を救ってくれた。農家は米を隠したが、民家は摩訶薩給与で生き延びて「摩訶薩は神様だ。」と合掌した。まさに菩薩摩訶薩(ボーサーマッカーサー)である。
 足利正明創立の孤児院(村長の反対で閉鎖)、養老院、保育園、老幼すべて米国食料で命を繋いだ。元帥帰国を知り日本民衆は皆泣いた。

謝和得天寧大統領(ジャヤワルデネ大統領)
 ’51(昭和26)年9月4日。米国桑港(サンフランシスコ)にて戦勝五十一ヶ国が日本処分の講和会議である。戦中、日本にゴム等物資を奪取され苦しんだ錫蘭 (セイロン)翠藍華(スリランカ)国代表 謝和得天寧 ジャワエルデネ (現大統領)博士は堂々佛陀の教えを説き、「報怨以恨 恨永劫不尽。忘恨報慈悲」「狂気の戦いは終った。彼我倶に疲弊の今、日本に即時独立を許し、賠償等求めまい。日本は昔の通り亜細亜の兄、亜細亜の老となってくれ。」吉田茂日本代表は感泣し、米国は深考。ソ連圏は脱退し、四十八ヶ国の調印で、日本は分割統治から免れた。

報恩微衷
 主恩忘れぬハチ公は庶民の感動で首都駅頭に銅像となり、人間の師範となる。貴い人の身を享け恩を忘れて恩を忘れては犬畜生に劣る。恩を仇で返えす鬼畜ふえゆく日本はどうなる。
 大被害蒙った敵国の大慈悲で新日本は生れ、今日の繁栄を得た。然るに、物で栄え心で亡びゆく今の祖国を悲しみ、四十余年前の大恩忘れてならぬと子孫に伝うべく、その像をつくり、報恩の微衷を捧げ後世への警鐘とする。

 1987(昭和62)年10月21日
  中華民国何應欽将軍九十七才永眠ノ日
  天海山 37世 入笠沙門 曹洞宗大教師 足利正明 並 親友一同

この碑文を作成された、ご住職は独特の歴史感ですが、ここではその是非には触れません。解釈の線引は必要ですが、戦後の日本の発展を考える上で、この3人を欠かすことができないということには同意です。

雲龍寺第37世 足利正明 氏は、戦役から帰郷し当寺を運営し、平成19年3月に92歳で遷化されている。

https://unryuuji.com/

ちなみに、この八王子の雲龍寺、長野県戸倉上山田温泉「日本歴史館」の建屋と敷地を買い取ったらしく、その地にある「雲龍寺公園」では、同じようにこの像が陳列されているというが放置状態にあるという。未訪問。

小野光賢と小野光景父子にまつわる史跡散策(信州小野と横浜)

平成28年4月ほか

友人と諏訪地方を訪れる機会があった。

というよりも、もともと友人が「この記念館」に訪れるために事前予約をしており、私が便乗した、という機会があった。


小野光賢光景記念館

〒399-0601
長野県上伊那郡辰野町小野985
TEL 0266-46-2001(要事前連絡)

小野光賢と小野光景親子の記念館

信州小野の名士であった小野光賢(みつかた・小野兵助とも)は、創生期の横浜で活躍し、横浜発展の礎を築き横浜開港の創始者ともいわれている人物。
文政元年(1818年)信州小野生まれ。
安政6年(1859年)に横浜に出て貿易を営み、草創期に横浜発展に尽力し町名主や横浜副市長などを務めた人物。

光賢の子である小野光景(みつかげ)は横浜商法学校(現市立横浜商業高校)や横浜正金銀行などに絡む人物。

明治から大正にかけて、創生期の港町横浜の縁の下を支えた小野親子の記念館。

現在の小野家の当主は小野光賢の曾孫に当たる方。
小野家当主自ら小野光賢光景記念館の隅々を案内していただきました。話が非常に面白く時間を忘れるほどに。
以下、順番に記念館を見ていきます。


以下、館内写真は許可を得て撮影

光賢庵

小野光賢終焉の庵という。

光賢庵
横浜開港の創始者とうたわれた兵右エ門光賢(通称兵助)終焉の庵である。
安政6年(1859)横浜開港の時、苗字帯刀御免の大名主をつとめた兵助は、開港といふ激務のため健康をそこない「わが素志、成就のときなり」と時の県令陸奥宗光公に辞意を表明、許されて職を長子光景に譲り、明治5年十有余年ぶりに故郷信州に帰り、風月を共に悠々自適、静養につとめていたが、明治33年(1900)7月27日83歳の天寿を全うし、
ここ光賢庵に於いて波瀾の生涯をとじた。
 館長

蔵も残っている。

小野光賢光景記念館 館内

建物の創建年代は不詳。(聞いておけばよかったです)
信州小野に唐突に現れた洋館にビックリ。

小野光景翁像

横浜で活躍した小野光賢は幕末の三舟とも親交があり、記念館には勝海舟・山岡鉄舟・高橋泥舟から小野光賢に贈られた書も展示してあった。

小野の集落を見下ろす高台に、小野光賢の像があった。
郷土の名士を誇る記念像。
例の如く戦中供出されて、今は台座のみ残っている。 (後述)
台座のレリーフは小野家の紋章。

レリーフは台座から落ちていたのを見つけた人が届けてくれた、と。
4面のうち、3面はまだ台座に残っていました。

台座から落下したレリーフ
小野光賢像の台座

戦前の外交官・来栖三郎は実は小野家の親戚にあたる。
小野光景の義弟が横浜財界を代表する来栖壮兵衛。その子が外交官の来栖三郎。

曜変天目茶碗(稲葉茶碗)
国宝茶碗にも小野家が絡んでいたり。
将軍家から春日局・稲葉家へと伝えられ、小野光景が大正7年に購入し昭和9年に岩崎小弥太へ。現在は静嘉堂文庫美術館所蔵。

旧家ゆえ色々と歴史的なものも多く。
川中島の合戦絵図。
この絵の面白いところは信玄が謙信に追われ騎馬で後ろを見せて逃げていたり。 ここは信玄の地元たる甲州ではなく信州諏訪ですから(意味深

光賢墓碑陰記

拓本・総持寺
日下部東作書

光景頌徳碑記
拓本

小野病院前庭
貴族院議員高橋作衛選

小野光景は横浜正金銀行頭取、横浜商工会議所会頭、貴族院議員などを歴任。郷里小野では病院設立、紡績工場運営などに携わっている。

明治21年9月29日 公論新報(明治の新聞)

私選東京市長最高点者 福沢諭吉 (右)
私選横浜市長最高点者 小野光景 (左)

あの福沢諭吉と並んで取り上げられてました。

小野光賢光景記念館 は要事前予約となりますが、ご興味ございましたら是非に。
当主の話が面白く展示も興味深いもの多く気がつけばあっという間に二時間を過ごしてしまいました。

小野光賢・光景記念館 紹介サイト

http://www.shiojiri.info/~ryouono/onomitsukage/HTML/index.html

場所

https://goo.gl/maps/t3yvPSQaXtXYbSrv7


小野宿


南塩終点の地

太平洋沿岸で取れる塩が伊那谷・伊那街道を北上してこの地(南小野)まで運ばれた。北隣の松本藩では越後の塩が糸魚川街道によって北小野まで運ばれた。
南北の小野が南北の塩の境目でもあった。


小野光景翁寿像
(小野公園)

小野駅の南東側、小野光賢光景記念館 の東側。
丘の上に小野光景の像が・・・あった。

小野公園

https://goo.gl/maps/jUpdtku6XDqXXdz58

小野光景翁寿像の台座。

小野光景翁寿像 の 台座

小野光景翁と寿像
 小野光景(みつかげ)は父光賢(みつかた)の長子として1845年(弘化2年)に生まれ、21歳の時、国内の政治混乱に「男子時至れり」と横浜に出奔。
 先に横浜に出て行政面で名を成した父の跡を継いで「横浜港内第一区小一区戸長」を手はじめに要職を歴任する傍ら生糸貿易にかかわり、横浜商法学校(現・市立横浜商業高校)創設、横浜商法会議所(現・横浜商工会議所)会頭、横浜成金銀行(現・三菱東京UFJ銀行)頭取を務めるなど、貿易商としても成功しました。横浜は光賢(1900年没)と父子が活躍した縁とゆかりの地です。
 以来、一世紀半の歳月が流れ、2009年に横浜市は開港150周年を迎えました。改めて小野光賢・光景父子の功績が脚光を浴び、横浜市と新たな交流も始まりました。
 特に光景翁は郷里である小野(旧・小野村)の地にも、小野駅敷地を寄贈、小野病院(現・小野国保診療所)、小野図書館の設立、高等小学校の敷地、校舎の建設など、郷里の発展のために多大な貢献をされました。
 これらの功績を記念して、郷里の人々はこの小野公園山頂に小野光景翁の寿像を小野家の方向に向けて1919年(大正8年)に建立いたしました。その後、銅像部は第二次世界大戦のために供出され、現在は台座だけになっていますが、それでもこの大きさには圧倒されるものがあります。
 平成22年9月吉日
 小野地区振興会

小野公園から見渡す小野の街なみ。
小野光賢と小野光景親子が育んだ街。


忠魂碑

右は乃木希典公、左は有馬良橘公


小野光賢翁・小野光景翁生誕記念碑


横浜開港と郷土発展の恩人
小野光賢光景父子の実績

横浜開港と郷土発展の恩人
小野光賢光景父子の実績

撰文 明海大学教授 岩下哲典
 小野光賢は、文政元年(1818)小野村名主小澤小左衛門の二男に生まれ、のち名主小野光珍の養子となった。安政6年(1859)42歳の時、幕府の開港事業を知り、これに応じて横浜に出た。横浜本町5丁目はじめ太田町等の名主を勤め、明治元年(1868)新政府設置の公選横浜町名主や副市長となった。また小野村周辺から横浜に出た郷土の人士をよく世話した。激務により退職し帰郷後、同33年7月7日、小野の光賢庵にて死去した。享年83。
 小野光景は、光賢の長男として弘化2年(1845)小野村に生まれた。慶応2年(1866)父光賢を頼って信州を出た。横浜では光賢を補佐して町政に携わり、神奈川県会議員となり、又貴族院議員に勅任され国家に貢献した。そのほか横浜商法学校(現Y高)設立者、横浜正金銀行頭取、横浜商法会議所会頭、横浜本町他十三か町貿易商組合総理、横浜鉄道会社創立発起人等を務めた。まさに横浜の財界発展やインフラ整備に果たした役割は大きかった。のみならず、小野高等小学校敷地・校舎建設費や小野駅敷地の寄付、小野病院の設立等々揚げて枚挙の遑あらざる偉業を成し遂げた。大正8年(1919)9月18日横浜別邸にて死去。享年74であった。
 小野光賢光景父子は、横浜開港とその発展のみならず常に郷土に思いを馳せ、その発展に多大なる貢献をした。ここに光賢翁生誕二百年を記念して一碑を建て、光賢・光景翁の実績を永く後世に伝えることを願ってやまない。
 平成24年9月9日 建立
 小野光賢・光景翁
 生誕記念碑建立委員会
 小野地区・北小野地区
 辰野町 


詠帰亭の碑

詠帰亭の碑
大正8年5月有志相はかり郷土出身の実業家小野光景翁の寿像が建立された際、翁のため此の地に別荘を新築。中国の故事に倣って詠帰亭と称した。然しながら翁は一度も入来することなく同年9月逝去。
以後詠帰亭は地域の人々の社交の場として利用されていた。
昭和3年11月、詠帰亭は昭和天皇即位の大礼記念事業として小野村青年会館と改称され、同時に図書館を併設、小野村がこれを管理することとなった。
その後、昭和28年に至って図書館は移設され、昭和36年辰野町へ合併するにあたり辰野町小野財産区の所有となり小野商工会工業部によって管理されてきた。
ところが、平成7年8月28日未明の火災によって全焼。建設以来70有余年にして詠帰亭の歴史は幕を閉ることとなった。
ここに詠帰亭の由来の一端を記し、末永く記憶にとどめるものである。
 平成8年10月吉日
 辰野町小野財産区


小野病院

小野光景氏が設立した小野病院は、今は両小野診療所となっている。


小野駅

小野駅の敷地も小野光景氏の寄付。
小野駅は明治39年(1906)、中央本線の岡谷-塩尻間開通と同時に開業。

小野の集落で、小野光賢光景父子を偲びし歴史散策。あまり知ることない郷土史の一幕に触れることができたのは貴重な経験。知的好奇心への良き刺激となりました。


場所と月日はかわって、平成28年(2016年)8月。
横浜の本牧に、脚を運んでみました。
小野の集落を訪ねたときと同じ友人と一緒に。

本牧臨海公園

本牧臨海公園が「小野光景別邸」跡地、という。
三渓園の隣。

https://goo.gl/maps/jtGGXc6NQb9Q4Jne7

公園には「横浜市 八聖殿 郷土資料館」があり、この場所もかつては「小野光景別邸」であった。

横浜市 八聖殿 郷土資料館内にも、小野光景の紹介がある。

https://www.rekihaku.city.yokohama.jp/shisetsu/hasei/

https://www.city.yokohama.lg.jp/kurashi/machizukuri-kankyo/midori-koen/koen/koen/daihyoteki/kouen006.html

https://shimin-rinkai.jp/

本牧臨海公園と小野光景氏
 ここ本牧臨海公園一帯は明治時代に生糸貿易商として活躍した小野光景氏の約2万6千坪(約8.6ha)に及ぶ別荘地であった。
 海が見渡せる丘に洋館を始めとする幾つかの建物が点在していた。
 当時、別荘地の一部分は市民に広く公開され、「小野公園」と呼ばれていた。

横浜開港の功労者
小野光景別邸跡
 かって、この地は幕末の激動がようやく鎮まった安政六年(1859)横浜開港の創始者とうたわれた横浜町名主小野塀上門光賢の長子小野光景の広大な別荘地で当時この公園と呼ばれていました。豪華絢爛たる洋式別荘は外国使節団当承知ノ場とされ、開港にかかわる歴史的場羽陽な場所であった。
 明治五年(1872)、光景は父光賢の職を継ぎ、次いで明治十三年(1880)、わが横浜商工会議所の創設を始め、横浜学校の始、壮行・如春の二学舎の開設、横浜正金銀行開設、横浜商法学校設立、新港埠頭の建設、八王子横浜間鉄道の新設等々、揚げて枚挙にいとまなく主唱者として貢献し、更に、明治十六年(1883)には自ら貿易行小野商店を開業するなど、障害の前半を成二に、後半を実業に捧げて燃えつくし、と横浜の地鶴見の総持寺の一隅に、父光賢の墓とならんで葬られている。
 このように、この地は横浜発展の礎を築いた小野光景を偲ぶことのできる場所であり、ここに一碑を建て光景の事情を永く後世に伝えることを願ってやまないものである。
 平成15年11月13日 横浜商工会議所会頭 高梨昌芳

春惜しむ
 臨海公園
  波遠し
    忠秋
     記念碑寄贈者 光景生家 忠秋

小野光景氏の功績
 1845年に長野県上伊那郡辰野町小野に生まれ、1859年の開港直後、横浜に移住した。
 父光賢氏の職を引き継ぎ町政業務に携わるとともに、横浜商法会議所(現横浜商工会議所)や横浜正金銀行(現三菱東京UFJ銀行)及び横浜商法学校(現横浜商業高等学校)、新港埠頭、横浜鉄道(現JR横浜線)等を設立・建設した。
 また、生糸貿易商としても活躍し、明治期の横浜の発展に大いに貢献した人物である。

「小野公園」の記憶
 この油絵は、往時の「小野公園」を海に向かって描いたもので、光景氏の三男哲郎氏の妻、煕子氏の作品である。
 広い芝地に50mのプールがあり、海の水をポンプアップして使っていた。また、海岸に出るためのトンネルが掘られ、崖下は絶好の釣り場となっていた。この芝地はいつも手入れが行き届いていて、秋にはよく運動会が開かれていたという。

小野光景氏別邸洋館
 小野光景氏別邸は、2階建ての洋館で、シャンデリアのついた大広間もあり実に立派なものであったという。
 この豪華絢爛な洋館には、政府の要人や外国の使節を招待するなど、華やかな政治・外交の舞台となっていた。
 しかし、大正12年(1923)9月1日の関東大震災で倒壊したといわれる。
 前列中央の、赤ちゃんを抱いているのが小野光景氏である。

明治4年(1871年)頃の本牧の海岸
 かつての本牧の海には良質な漁場が広がっていた。明治末頃からは海苔の要職が盛んになった。また、景色も良く海も美しいことから海水浴場としても使われていくようになる。

埋立で大きく変わる本牧の海岸
 昭和34年(1959年)から46年(1971年)にかけて、根岸湾埋立が行われた。
 左は根岸湾の埋立前の写真。八聖殿が見え、「小野公園」の山の一部がまだ残っている。
 下は昭和30年代末の写真。埋立が進み、本牧臨海公園の整備が行われている。

本牧臨海公園・本牧市民公園・三渓園
周辺からみた景色。


2015年3月撮影

横浜正金銀行本店
(現・神奈川県立歴史博物館)

横浜正金銀行は明治13年(1880)開設。
小野光景氏は 横浜正金銀行 設立にかかわり、そして第二代頭取(1882-83)を務めた。
現在の建物は明治37年(1904)完成。残念ながら小野光景が関わっていた時代ではなく。

http://ch.kanagawa-museum.jp/dm/syoukin/ysb_ayumi/nenpyo/d_toudori02.html


場所は変わって鶴見総持寺。

小野家墓所(総持寺)

鶴見の総持寺に小野家の墓、小野光賢墓と小野光景墓がある。浅野一族(浅野総一郎)と同じ並び。奥まった区画に小野家の墓があった。小野家墓所の区画番地は「中央ハ2」。具体的な場所の情報が皆無のため、この場所を見つけ出すのに結構時間を要してしまった。
(目印となる浅野総一郎墓「中央ハ6」、清浦奎吾墓「中央ニ1-27」とも近い。)

総持寺には、小野光賢夫妻と小野光景夫妻をはじめ、一族が眠っている。

※撮影は令和2年12月

小野光賢夫妻の墓。

小野光景夫妻の墓。

親子で並んでいる。

小野家の家紋。

通路の突き当りが浅野家の墓。小野家の墓は、浅野家の脇の通りに鎮座。


横浜開港の功労者である小野光賢と小野光景の親子。正直にいってほとんど知名度がなく、あまり知られていない人物。横浜の人ですら知らないのでは・・・といったレベル。
そんな横浜の功労者を知ることができた今回の散策はとても貴重なものとなりました。

惜しむらくは、信州小野の「祭林寺」のお墓に詣でていなかったこと。
またの機会は有るのだろうか。。。

本記事はいったん〆

諏訪護國神社

平成28年4月参拝

友人と諏訪地方を訪れる機会があった。

諏訪湖の高島城。その高島城のある高島公園の南端に鎮座。

諏訪護國神社

諏訪招魂社として明治33年(1900)に創建したことにはじまる。
諏訪市、岡谷市、茅野市、諏訪郡より出征されて、戦死・戦病死された英霊、並びに国家公共の為に尽くした人々の神霊を祀る。
内務省指定外護國神社。

ちなみに参拝時に、あっちこっちに水が流れ出しているのは、なぜか庭園の水が溢れていたため。

境内に存在感のある胸像があった。

永田鉄山中将像

永田鉄山
明治17年(1884)11月14日-昭和10年(1935)8月12日
長野県諏訪郡上諏訪町本町(諏訪市)出身
永田家は代々、高島藩の藩医を努めてきた家であった。
高島尋常小学校・諏訪高等小学校(現在の諏訪市立高島小学校)に入学。
父に死去に伴い東京牛込に転校し、明治31年に東京陸軍地方幼年学校に入校。
明治37年(1904)、陸軍士官学校を16期主席卒業。
昭和7年(1932)、陸軍少将に昇進。昭和9年、陸軍省軍務局長に就任。

永田軍務局長の押し進めた人事の刷新(派閥排除)は、皇道派の大御所である真崎甚三郎教育総監の逆麟に触れ、たまりかねた永田軍務局長は今井清人事局長とはかり、真崎教育総監を昭和10年7月に更迭。

相沢事件(永田事件・永田局長惨殺事件)
昭和10年(1935)8月12日、行動派の真崎甚三郎教育総監更迭に憤激し皇道派青年将校に共感する相沢三郎陸軍中佐が、統制派の陸軍省軍務局長永田鉄山陸軍少将を惨殺した事件。その後の二・二六事件につながる。
永田鉄山は死後に陸軍中将昇進。

永田鉄山中将胸像碑文
(カタカナを平仮名に置き換え句読点を補完しました)

永田鉄山中将は明治十七年一月十四日上諏訪町本町に生まる。
郡立高島病院長永田志解理氏の四男なり。
高島尋常高等小学校に学ぶ年少志を立てて東京陸軍地方幼年学校に入り進みて陸軍士官学校陸軍大学校を卒ふ。
天禀の優秀に加ふるに非凡の勉強を以てし各校の卒業毎に成績抜群にして恩賜賞を授与せらる。
夙に上司の属望を受け官命に由つて渡欧する事三度、入りては陸軍省参謀本部教育総監部の諸要職に就き、出でては歩兵第三連隊長第一旅団長たり、遂に陸軍軍政の中心軍務局長に補せらる。
中将頭脳明晰識見高邁裁決流るるが如く思慮周到造詣深遠難局に処して苟も挙借を謬らず、最も独創企画に秀で軍隊教育令青少年訓練国家総動員等中将の立案献策に係るもの少なからず、国軍の進展に寄与せる所絶大なり。
陸軍の至宝として永田の前に永田無く永田の後に永田無しと称せらる。
多年意を大陸国策の研究に注ぐ。
満州事変以来の非常時局に際し其蘊蓄を傾け枢機に参画して処信に邁進せる間妖言累を及ぼし、昭和十年八月十二日不慮の災禍に遭つて執務中局長室に斃る。
享年五十二歳なり。
中将の死は真に身命を君国に処せるもの正に戦場の死と択ぶ所無し。
因て同郷の有志協議地を此処にとし中将の胸像を建て、以て此の偉材の英姿を永遠に伝へんとす。
 昭和十三年十一月十三日 永田鉄山中将記念会

この胸像は先の太平洋戦争に際して金属回収のため撤去したるも、このたび故人を崇敬する有志により新たに台石を築造原位置に復旧するを得たものである。
 昭和四十年四月十一日 
 永田鉄山中将胸像復旧期成同盟会

鎮魂慰霊碑
御祭神御英霊の尊い犠牲により今日の平和と繁栄があります。英霊奉賛の為に諏訪郡市軍人恩給者連盟は全国連盟五十周年記念事業として建立致します。
 平成16年11月吉日
 諏訪護国神社宮司 有賀寛典
 長野県軍恩連盟 諏訪郡市協議会

二・二六事件に関してはこちらも。


せっかくなので諏訪護國神社のある「高島城」にも触れておきます。

高島城

天正18年(1590)に日根野高吉によって築城。
これまで鎮座していた八剣神社を遷座させて、文禄元年(1592)着工。
慶長3年(1598)完成。
典型的な水城で「諏訪の浮城」と称された。

日根野氏以降は旧領主諏訪氏が復領し幕末まで諏訪氏代々の城となる。
明治8年1875に天守以下建造物は破却。
現在の天守・櫓・門・塀は昭和45年(1970)の復元。


諏訪と言われて何を思い出すだろうか?
少なくとも、私ですら流石に一番最初に「永田鉄山」は思い出さない。

諏訪大社、諏訪湖、温泉。
諏訪ゆかりの人物でと言ったら、諏訪姫とか武田勝頼とかを思い出すのが無難なところであるが、諏訪と言われて私は一人の鬼っ子を思い出してしまった。
鬼っ子といわれた悲運の男。 家康公の六男…

高島城の南之丸跡。現在は諏訪市役所。
その駐車場の片隅に祠がある。

松平忠輝公館跡
(高島城南之丸)

この南之丸跡に「松平忠輝公神社」ともいうべき小祠が鎮座している。
忠輝公が人生の大半を過ごしたのが高島城南之丸…

高島城南之丸跡
 高島城本丸の南方にある一郭を南之丸という。松平忠輝のお預かりを勤めて以来整備され、以後、高島藩が江戸幕府の罪人を預かった場所である。周囲は湿地で、堀と柵とで厳重に囲われ、ただ一つの橋が城に通じているだけの孤立した郭であった。
 忠輝は、徳川家康の六男で越後高田六〇万石の城主であったが、大坂夏の陣直後の元和元年(一六一五)家康から勘当を申し渡され、翌年幕府から改易され、正室五郎八(いろは)姫(伊達正宗の長女)とも離別、伊勢朝熊で二年、飛騨高山で七年過ごしたのち、寛永三年(一六二六)から初代高島藩主諏訪頼水が預かった。改易の理由は、乱暴な性格とも、大久保長安等と天下取りを企てたからとも伝えられるが、真相は不明である。
 忠輝の南之丸での生活は、外部との交渉を絶たれた寂しいものではあったが、家臣は諏訪で抱えた者を加えると八五人にもなり、大名の格式をもって生活した。五八年間の長きに渡り不遇な境涯にあったが、文芸に心を慰め、余生を楽しんだという。天和三年(一六八三)、九三歳の生涯をここで閉じ、市内の貞松院に葬られた。
 その後、幕府の儀式を司る高家を務めていた吉良上野介義央の養嗣子である吉良義周(よしちか)が、赤穂浪士襲撃事件後の評定によって、領地を召し上げられ元禄一六年(一七〇三)に四代藩主諏訪忠虎へお預けとなった。高島藩では南之丸を修理し住まわせたが、三年後の宝永三年(一七〇六)に病没、市内の法華寺に葬られた。以後も数人の預かり人がいたが、幕末までにはこの場所は「御茶園」となったようである。
 諏訪市教育委員会

松平忠輝公

越後高田75万石の大名であり徳川家康の六男。越後少将。

東北の雄たる伊達政宗の長女いろは姫を娶り家康公の息子であったにも関わらず、元和2年(1616)に高田藩は改易され忠輝公は配流。

元和2年(1616)25歳の時に改易され配流。伊勢朝熊で2年、飛騨高山で8年、そして寛永3年35歳のときに諏訪高島城南の丸に移り、その後58年を諏訪で過ごす。
天和3年(1683・五代綱吉の治世)に諏訪高島城南之丸で92歳の生涯を終える。
諏訪高島藩にとってなんとも厄介なお荷物であったろう。なんせ、この流人は藩主諏訪氏よりも位階が高く(藩主・諏訪頼水公は従五位下因幡守に対して、忠輝公は従四位下左近衛権少将)、さらには東照大権現・家康公の六男。そんな人物が58年間をこの諏訪高島城で過ごしていた。

ちなみに、 南の丸には松平忠輝のあとには赤穂事件の吉良上野介の子である吉良義周も配流されてきている。

歴史の上では松平忠輝という人物は何ら重要ではない。
教科書的には徳川家康の御子として兄の松平信康、(結城)秀康、そして二代将軍秀忠、弟の紀州・尾張・水戸御三家の間に埋もれ名前すら記載されていない。

私は、そんな松平忠輝という人物がどことなく好き。それは伊達政宗との縁かもしれない。忠輝の妻は政宗の長女いろは姫。天下を搖さぶり続けた政宗に翻弄され、実力を発揚する機会もないまま将軍秀忠に恐れられ改易。
そんな忠輝であったが、信長・秀吉・家康と伝えられた天下取りの名笛「野風」を父から賜り、笛を吹きつつ長き半生を諏訪湖畔で風流にすごした。
実際の忠輝はどのような人物であったかは知らない。
痛快な時代小説『捨て童子・松平忠輝』(隆慶一郎著)のような鬼っ子のイメージが強いが、家康の嫡子として信長に恐れられ自害させられた長男信康や、秀吉に疎まれ結城家に養子と出された次男秀康のような英雄型の人物であったとされている。

捨て童子・松平忠輝 隆慶一郎著
隆の代表作「影武者徳川家康」でスパイスを効かせていた忠輝は、この「 捨て童子 」で主役となる。

松平忠輝の墓は高島城の北東にある「貞松院」にある。
「東に忠輝、西に光悦」といわれたほどの名墓碑であり、忠輝が生前自ら撰んだ墓石であるという。

貞松院

ここに松平忠輝公の墓所がある。

また、忠輝公の遺品もある。
信長・秀吉・家康と天下人に受け継がれた銘笛「乃可勢」(野風)などが有名。ただし非公開、以下の公式サイトで拝見できます。

迎冬山 貞松院 月仙寺 サイト  

http://teishoin.jp/jihou.html

松平忠輝公墓
 寂林院殿心誉輝窓月仙大居士

貞松院・松平忠輝公墓
木立の下に一際に大きな墓石がある。
隆慶一郎の著作で忠輝公に魅了され、その数奇な運命を知って以来、ずっとお参りしたいと思っていました。 ようやく、訪れる事が出来ました。
合掌

松平忠輝公の略歴
文禄元年(1592)、江戸城において出生。家康公六男、母は茶阿の方、幼名辰千代。11歳で上総介に任ぜられ、14歳で参内し、従四位叙任、右近衛少将に補せらる。また同年将軍の名代として大阪城に秀頼を訪い、豊臣、徳川両家の緊張緩和に功績を挙げる。15歳、政宗公の娘五郎八姫と結婚。19歳にして越後60万石の大大名となる。その性俊英にして果敢、気宇また壮大、開国思想を持った逸材。たまたま鎖国政策に向かう幕府に入れられず、また政宗公や大久保長安との関係も幕府の注目するところとなり、大阪夏の陣後、怠戦等些細な理由で25歳元和2年改易された。伊勢に3年、飛騨に7年、35歳寛永3年当地に配流。当藩主頼水公は南の丸を整備して迎え厚遇した。この地に住むこと58年間、天和3年(1683)7月3日、93歳を一期に没せられ、当院に葬られた。生前当地の文化向上に多大な影響を与え、今日も郷土の恩人として敬われている。

境内には諏訪藩医井出家の墓所もありました。家康の侍医であった片山宗哲が、諏訪に流されていたときの縁で井出氏が諏訪藩医に。二代目井手苔庵は松平忠輝公の最期も看取っていた。

近代史跡や戦跡からは脱線してしまいましたが、たまにはこういうこともあります。

明治天皇巡幸記念碑(塩尻峠)

平成28年4月参拝

友人と諏訪地方を訪れる機会があった。
なぜか午前7時の朝靄の中・・・であったが、これは予定の隙間の寄り道でした。

塩嶺御野立公園
(えんれいおのだち公園)

塩嶺御野立公園 展望台
 岡谷市中心部より北方5Kmに位置するこの公園は、八ヶ岳中信高原国立公園内にあり、信濃の国信州でも美しい自然に恵まれた公園とされている。ここからは南方に脚下の諏訪湖を隔てて遠く富士の霊峰、南西側に南アルプス、南東側に八ヶ岳連峰、北西側には日本アルプスの山々を見渡すことができる。日本一の富士山(3776m)、第二峰の北岳(3192m)、第三峰の奥穂高(3190m)といった我が国の三高峰が望める唯一の場所でもある。また、四季折々のすぐれた自然に恵まれ「小鳥の森」に指定され、「小鳥の楽園」として毎年5・6月の毎日曜日には早朝小鳥バスも運行され人気を呼んでいる。春は桜に始まり、レンゲツツジ、唐松の芽ぶき、夏はニッコウキスゲの群生、秋は紅葉と、県内外を問わず多くの観光客が訪れている。尚、右手にある明治天皇巡幸記念碑の前では日本一短いと言われている「御野立記念祭」が塩尻市と当市の間で毎年催されている。
 岡谷市役所経済部商業観光課

明治天皇巡幸記念碑

聖駕駐蹕記
大勲位 威仁親王 篇額 ( 有栖川宮 威仁親王 )
明治39年(1906) 従三位 一等 股野琢 撰并書 (宮内官僚・漢学者)

明治13年(1880)6月24日、塩尻峠を御巡幸された 明治天皇がお立ち寄りになられたことを記念して建立された石碑。

明治天皇塩尻峠御野立所

明治13年(1880) 6月24日、 明治天皇御巡幸
昭和22年(1947)10月14日、 昭和天皇御巡幸

塩嶺御野立記念祭

明治13(1880)年6月24日に 明治天皇が、
昭和22(1947)年10月14日に 昭和天皇が、
それぞれ同地を訪れたことを記念し、毎年6月24日と10月14日に両市が祭りを開いている。 春6月は岡谷市、秋10月は塩尻市の担当。

明治天皇が訪れた時間にあわせて午前10時に、参列者一同が一礼をする祭礼。
 1,整列
 2,一同 「礼」
 3,解散
春秋共に20秒ほどで終わる、「日本一短い祭」として有名。

塩尻市観光協会>御野立記念祭

https://tokimeguri.jp/annual_event/1195.php

毎日新聞>日本一短い祭り 100年の節目も20秒で終了 長野

https://mainichi.jp/articles/20160625/k00/00e/040/191000c

中仙道(中山道)
塩尻峠ノ富士浅間社

松本領と諏訪領の郡境の宮として塩尻峠に鎮座する石祠。
この地は中仙道。

塩嶺御野立公園 展望台

朝もやってましたが、かろうじて諏訪湖がわかりました・・・。
天気が良いと富士山も見えるらしいです。

塩尻市観光協会>塩尻峠

https://tokimeguri.jp/spot/1072.php

浜松陸軍墓地跡と戦跡散策【浜松1】

令和元年7月

浜松に赴く用事があったので、脚を運んでみました。

浜松陸軍墓地跡
(住吉墓苑平和記念広場)

浜松には歩兵第67聯隊が明治41年(1908)に進出したことにより軍都としての一歩が始まる。。
大正15年(1926)には立川の陸軍飛行第7聯隊が進出。のちに浜松陸軍飛行学校として拡大し、また三方原教導飛行団なども展開。周辺には軍需工場も展開され、浜松は一大軍事拠点となっていた。

浜松陸軍墓地は明治41年の歩兵第67聯隊の進出にあわせて、兵営・練兵場などとあわせて設置された。

昭和18年(1943)に浜松陸軍墓地の地に「忠霊殿」が竣工。戦後は遺族会が管理していたが平成17年(2005)に老朽化により解体。忠霊殿祀られていた10857体の位牌は処分を強いられたという。

総務省サイトには【1万857柱の戦死、戦災死者を合紀する住吉「忠霊殿」 】があると記載されているが、その忠霊殿は、既にない・・・

総務省トップ > 政策 > 一般戦災死没者の追悼 > 国内各都市の戦災の状況 > 浜松市における戦災の状況(静岡)

http://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/situation/state/tokai_03.html

浜松の瓦屋さん(柳本産業)のサイトに「忠魂殿」屋根瓦が保管されている旨の記事がありました。(2010年の記事、現在はわかりません)

https://yanagimoto.hamazo.tv/e2561754.html

公園に保存するという話も立ち消えてしまたようで、なんとも複雑な気持ち。
次回、浜松に訪れる機会があれば、この瓦屋さんにも足を運んで、残っていれば拝見させていただきたいな、と思いつつ。

濱松陸軍墓地道
(浜松陸軍墓地跡)

濱松陸軍墓地道
昭和七年十月 濱松會建之

平和の道標
皆さんの美しい故郷の
山や河を守り
日本の平和と豊かな
暮らしを願いながら
長い戦争の中で
亡くなられました。
今日の平和を思う時
私達はここに眠る人々を
決して忘れません。
この尊い心を受け継ぎ
感謝の心を持って
一日、一日を
大切に生きましょう。
 平成25年9月吉日
 浜松市遺族会

英霊顕彰之碑
(浜松陸軍墓地跡)

英霊顕彰之碑
昭和57年7月17日
静霊奉賛会浜松市連合支部長建立

平和祈念の碑
(浜松陸軍墓地跡)

平和祈念の碑
 この碑は、戦争中軍人や軍属として、弾丸に傷つき、あるいは、病魔に侵された傷痍軍人、及びその生涯を献身的に扶けた妻の記念碑である。
 われらは、戦争の悲惨を、身をもって体験した者として、二度と戦争をくりかえすことのないよう心から訴える。
 ここに、日本の繁栄と世界の恒久平和を祈念し、われらが最後の傷痍軍人であり、またその妻であることを願ってこの碑を建てる。

 終戦50周年記念
 平成7年8月吉日
 浜松市傷痍軍人会
 同 妻の会

忠霊殿 扁額か?
(浜松陸軍墓地跡)

忠霊殿
昭和廿八年八月とある。戦後の昭和28年に作られた忠霊殿の扁額か。

前述のとおり、ここにあった忠霊殿は解体されてしまった。

陸軍標石

「陸軍用地」と記載のある標石が、住吉墓苑平和記念広場公園内(恐らく移築されたもの)と、住吉墓苑南古墳近くの2つを確認。

「住吉墓苑平和記念広場」内の陸軍標石

「住吉墓苑南古墳」の近くにある陸軍標石

住吉墓苑南古墳

住吉墓苑南古墳 住吉四丁目
旧陸軍墓地(現青少年の家南側)にある住吉墓苑古墳は、古墳時代中期末、五~六世紀の前方後円墳である。現在は高さ3米、直径30米ほどの後円部が残るのみであるが、墳丘には楠やはぜの木などの多くの木々が枝を広げ、各種の野鳥の四季折々の住みかとなっている。
戦後、旧陸軍墓地は住吉墓苑と改められ、青少年の家、白亜の霊廟の忠霊殿などとともに、広く市民の憩いの場として親しまれている。

あぁ、「白亜の霊廟の忠霊殿」・・・

青少年の家

この地図をみて、いまさら気づきました。。。。
「トーチカ」ってなんですか???
見損ねました・・・あちゃあ。

門柱跡
(浜松陸軍墓地跡)

位置関係(浜松陸軍墓地)

今昔マップ on the web 」より。
「歩兵営」と「練兵場」「陸軍墓地」があるのがわかる。
(大正6年測図)
「歩兵営」は現在の「静岡大学浜松キャンパス」
「練兵場」は現在の「和知山公園」

静岡大学浜松キャンパス には、往時の門柱が残るというが今回は未訪問。
さきほどのトーチカとあわせて次回の宿題とする。


浜松城公園に移動。

浜松市戦災被爆者慰霊碑
(浜松城公園)

浜松市戦災被爆者慰霊碑
浜松市長 平山博三 書

慰霊碑撰文
昭和十六年(一九四一年)十二月八日
太平洋戦争に突入したわが国は緒戦に勝利を収めたもののやがて戦況は逆転し同二十年八月十五日遂に降伏のやむなきに至った
この間浜松市は三十回余りに及ぶ空爆艦砲射撃を受け市の大半が廃墟と化し死傷者も八千人を越えた
特に昭和二十年六月十八日の敵機による焼夷弾投下は熾烈を極め市の中心部は一瞬にして紅蓮の炎に包まれた恐怖の一夜が明け死を免れた
人々が肉親を求めて彷いあるいはあとかたも無いわが家の跡を茫然と眺める悲惨な姿は言語に絶するものであった
しかし戦争が終わってすでに三十四年戦前をはるかに越える豊かで平和な暮しは人々をしてその念頭から死の街と化した郷土の惨状や往時の苦難やまた戦災死者の方々への痛恨の情を日ごとに稀薄なものにしていく
かかる時市民の間からこれを何らかのかたちで後世に遺そうとの議が興り市各界の方々からも深いご理解による浄財が寄せられここに浜松市戦災被爆者慰霊碑を建立して悲惨な戦争の絶滅を期し三千有余名の戦災死者のご冥福と世界の恒久平和を祈念するものである
 昭和五十四年三月二十一日
 浜松市戦災被爆者慰霊記念碑建設委員会

浜松市及び周辺の空襲被害状況
戦災死者 3,549人
戦災重軽傷者 4,870人
全半壊建物 7,536戸
全焼家屋 20,303戸
半焼家屋 462戸
投下弾 3,081発
焼夷弾 79,553発
砲弾(艦砲射撃) 20,000発
飛来機 B29 557機
    小型機 500機
被災地域 全市の70%

合掌。


浜松復興記念館

戦後の復興土地区画整理事業が昭和58年3月に終了したことを記念して、昭和63年に開館。

艦砲弾の破片、焼夷弾の弾頭、爆弾の筒
武蔵
武蔵

浜松市復興記念館公式サイト

http://fukkoukinenkan.com/

浜松城公園の南、五社神社・諏訪神社の南に位置している。この場所はかつての浜松医学校跡。

せっかくなので、こちらにも足を運んでみた。
郷土資料からみる戦争資料と復興資料。こじんまりとした空間であれど、なかなか見応えはあった。
浜松は空爆のみならず艦砲射撃を受けた街ということもあり、その破片も生々しく。

五社公園

向かいの五社公園は「旧浜松市役所」という。
さらに前にさかのぼると「杉浦国頭邸跡」という。
いくつかの記念碑があった。

戊辰之役報国隊紀念碑(五社公園)

遠州報国隊。
慶応四年(1868年)の鳥羽・伏見の戦いで勝利し、徳川慶喜追討のため江戸に向かった官軍に、同行・協力するため神職を中心に結成された有志隊。

万葉歌碑 引馬野爾の歌 (五社公園)

万葉集遠江歌考
賀茂馬渕

浜松といえば賀茂真淵。すっかり失念していました。

愛郷 顕彰碑(五社公園)

浜松市消防殉職者を祀る。昭和41年建立。

誠忠碑・鳩の塔(五社公園)

帝国在郷軍人会浜松連合分会が発起、浜松尚兵義会が建立。
大正8年(1919)の創建。
日清戦争・日露戦争・第一次大戦の戦死者の霊を祀る。

ここには何も説明がなく、予備知識がないとまったくよくわからない塔。
ただ造形美と、堂々とした姿に「これは只者ではない」と感じさせるなにかがある。忠魂塔と知れば、なおさらである。
できることであれば解説板を設けてほしい。ちょっと残念な状態が嘆かわしく。


浜松には、「 エアーパーク 航空自衛隊浜松広報館 」もあり、他にも多くの戦跡が残っており見どころ豊富。
次回以降の課題としたいと思う。

高尾山の戦争慰霊碑

平成31年1月

2019年の1月は高尾山に。硫黄島の慰霊碑に。

高尾山有喜苑

高尾山薬王院へ赴く途中、 男坂と女坂に挟まれた高台に仏舎利塔がある。
その敷地内に幾つかの慰霊碑もある。

高尾山有喜苑
 護國英霊碑
 南無護国英霊

硫黄島戦没者慰霊碑

 硫黄島は此処から南六百里の洋上に浮かぶ孤島であるが 大東亜戦争の末期 太平洋に於ける日米攻防戦の天王山であった
 されば昭和二十年二月十九日から展開された戦闘は凄惨熾烈を極め 日本軍は約二万名が玉砕したのに対し 米軍も亦戦死約七千名 負傷二万千名を算した
 米軍の上陸した同島南海岸正面の防衛戦闘に 独立歩兵第309大隊の機関銃中隊長として奮戦した阿部武雄氏は死闘の末遂に捕らえられて 米軍野戦病院に収容され奇しくも生還した
 阿部氏は当協会常任理事 組織部長として 協会の事業目的達成の為献身奔走する一方 戦没者の供養と平和を祈念する為 この慰霊碑及び平和観音を建立の上 碑下に戦没者舎利を納める事を発願し今茲に結願す 功徳実に大である
 仏舎利塔に隣接した聖域を 薬王院当局の好意に依り卜する事が出来たが 硫黄島への渡島が困難である事情に鑑み 此処に詣でて 遥かに南溟の空を仰げば 必ずや平和観音の妙智が作用して現地供養を彷彿たらしめる効を顕わすものと信ずる次第である
 讃に曰く
  丘上新碑影 尊像馥郁香 
  佇立望南溟 滂沱憶硫黄
 昭和四十六年四月十八日
 硫黄島協会 会長  和智恒蔵 謹撰
       副会長 森本一善 謹書

硫黄島の形をした慰霊碑

永代供養
厚生大臣 小泉純一郎書

鎮魂
平和への
 もといとなりし
  み霊よび
 高尾の森に 
  小鳥とあそべと
 丁丑皐月二十四日(平成9年5月 24日)
 硫黄島協会

支那駐屯歩兵第二聯隊
慰霊顕彰碑

高尾山大僧正秀順書 
昭和55年建立

支那駐屯歩兵第二聯隊は昭和11年に天津駐屯歩兵隊を改編して設けられ、天津の海光寺に在ったことから、海光寺部隊と呼ばれた。

七生報国
盧溝橋事件勃発 
昭和12.7.14日 聯隊は通州に向う

望郷 シベリアに眠る抑留者供養碑
異国の丘

大本山高尾薬王院貫首隆玄謹書
平成22年10月28日建立

嗚呼シベリア鎮魂歌(レクイエム)
一、嗚呼シベリアの七ツ星
  眺める夜空に出る涙
  鶴嘴持つ手に血もゆかず
  息吹きも凍る密林の
  拓く茨の身は哀し

二、酷寒零下四十度
  飢えと寒さにまたノルマ
  今日も凍える友を抱く
  たおれし六万同胞の
  慰霊は眠る北の国

三、バーム鉄道鳴る汽笛
  あゝ誰がためぞそのレール
  平和を叫けぶ友の声
  耐えし抑留その史実
  語り伝えよ北の星

満蒙大陸林業人供養塔

昭和49年6月
外林会 満蒙部会 建立

碑文
 近代日本の国策に則り 曽てアジア大陸の一角で満蒙林野の正業経営に挺身すべく 官民一体の民族の大移動が行われた しかし残念ながら敗戦により雄図空しく祖国に帰還せざるを得なくなった
 その間国境を越えた物故の五族協和同人は多数に上っている
 この「満蒙大陸林業人供養塔」は これら物故者の英霊に供養を捧げ その冥福を祈るために 満蒙に住んだ官民林業関係者が悉く参画し 全魂こめた体制で建立したものである
 これが建立にあたっては 特に 高尾山薬王院をはじめ 林野庁 東京営林局 東京営林署 東京都 日本林業技術協会 全国林業改良普及協会 その他の 絶大なるご援助を賜った なお工事関係については 吉田茂八 後藤東吉両氏の労を多とするものである 以上銘記し 深甚の謝意を表する
 昭和四十九年六月

観音像
みたまよ やすらかに ねむれ

みたまよ やすらかに ねむれ
 平成15年4月9日開眼
 陸軍士官学校第六十一期生会
 陸軍軍官学校第七期生会
 陸軍経理学校第十一期生会


日泰親善高尾山仏舎利塔

1956年建立。

東日本大 震災物故者追善菩提也


高尾山薬王院

高尾山薬王院飯縄権現堂

たこ杉(蛸杉)

高尾山

高尾山ケーブルカー 高尾登山電鉄

靖國神社の御神菓

令和元年(2019)ほか

正式参拝(昇殿参拝)の撤下神饌

昇殿参拝の撤下神饌では、羊羹がお頒かちされます。
靖國神社すぐ近く、靖国通りに店舗を構える「 宝来屋本店 」さん。
明治元年(1868)創業。

撤下神饌
この撤下神饌は大前にお供えした神饌の一部です。
皆様におさがりとして、お頒かち致します。どうぞ神霊の御加護のもと、ご健勝にお過ごしください。
靖國神社

九段・宝来屋サイト

ホームページ

例大祭

撤下神饌
新宿中村屋の大月餅と金平糖。
大月餅は靖國神社御神紋。
たいへん大きくズッシリした月餅。

靖國神社では、新宿中村屋の月餅が定期的に神菓としてお頒かちされます。

2019年正月 

神菓
「靖國紋」と「干支・猪柄」の月餅

2018年秋
(靖國神社秋の夜長参拝)

神菓
「靖國神社御神紋」と「中秋の名月を愛でる兎」

2018年正月

神菓
「靖國紋」と「干支・戌柄」の月餅

2017年秋
(靖國神社みらいとてらす)

神菓
「靖國神社御神紋」と「中秋の名月を愛でる兎」

2017年正月

神菓
「靖國紋」と「干支・酉柄」の月餅

2016年正月

九段・宝来屋の和三盆糖入り菓子

2015年正月

九段・宝来屋の和三盆糖入り菓子


靖國神社の御神酒

海軍中将 真木長義 邸(調布市)

令和元年8月撮影

真木邸(真木家住宅)
 国登録有形文化財(建造物)

明治43年(1910)、海軍中将 真木長義(男爵)の隠居所として、長男・真木平一郎によって、現在の港区白金二丁目に建設。
その後、昭和11年秋から昭和12年5月にかけて、真木平一郎が調布の多摩川左岸の景勝地であった現在地に移築した邸宅。

明治後期の和館洋館併存住宅として貴重な建造物
 洋館部は、木造2階建、切妻造、桟瓦葺
 日本館部は、木造平屋建、寄棟造、桟瓦葺

平成12年(2000)、国登録有形文化財建造物に登録。

平成23年(2011)に「日本館」と「調度品」が調布市に寄贈。
平成29年9月に真木家先代当主婦人がなくなったことにより、「洋館部」ほか全てを調布市に寄贈。

現在は調布市郷土博物館の管理物件。(非公開)


真木長義(1836-1917)
最終階級は海軍中将、男爵。佐賀藩士。
長崎伝習所において海軍全般の軍事を学び、戊辰戦争では「電流」艦長として参戦。
明治4年、真木中佐は連合艦隊・常備艦隊の走りとなった、小艦隊指揮官に就任。この「小艦隊」は実質的な日本海軍の艦隊発祥でもある。

明治18年(1885)、海軍中将となり海軍機関学校長、将官会議幹事、呉鎮守府建築委員長などを経て明治38年(1905)に退役。
明治39年(1906)から明治44年まで貴族院議員をつとめた。
大正6年(1917)3月2日に死去。墓所は青山霊園。

真木平一郎(1869-1945)
明治2年に真木長義の長男として産まれる。
工学博士として京都市電や東京市電、感城市電などの敷設主任技師、技師長としてかかわった。真木男爵家を襲爵。三枝守富の次女 (大隈重信の養女) である知恵と結婚。

真木家住宅の外観写真

敷地外から撮影。令和元年(2019)8月

洋館部の玄関車寄せ
日本館(和館)
門柱

参考データ

文化遺産オンライン 真木家住宅日本館

https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/138931

文化遺産オンライン 真木家住宅洋館

https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/186390

調布市議会議員のレポート(2012年の見学会)

https://osuga01.tamaliver.jp/e212780.html

所在地

所在地:東京都調布市上石原2-48-4

https://goo.gl/maps/64j96DsJA6pf5Xqx8

現在は調布市郷土博物館の管理となっている真木家住宅。
一般公開を市民として期待してますので、再整備等よろしくお願いいたします。


真木長義の墓

真木家の墓は青山霊園にある。
場所は1種イ4-6

宮中顧問官
海軍中将
正二位勲一等男爵真木長義墓

旅順港閉塞作戦・小池幸三郎を偲ぶ(日露戦争の戦跡散策・埼玉川口)

令和元年8月散策

2019年の8月某日、この日は埼玉県川口市に足を運ぶ機会があった。
せっかくなので、川口市内に残る戦跡を散策してみる。

川口市総鎮守「川口神社」
境内に「川口護國神社」が鎮まっており、その傍らに水兵姿の凛々しく躍動感あふれる胸像が鎮座してた。

小池幸三郎像(日露戦争)
軍帽のペンネント(兵用軍帽前章)は、乗艦「大日本軍艦高千穂」

小池幸三郎

小池幸三郎は明治13年(1880)7月15日、現在の川口市に産まれる。
明治33年(1900)、徴兵年齢に達した20歳の小池幸三郎は横須賀海兵団に入団。
明治35年(1902)に軍艦「高千穂」の乗組員となる。
明治37年(1904)2月10日、日露戦争が勃発する。
同年3月27日、連合艦隊は第二回旅順港閉塞作戦を実施。小池幸三郎は閉塞隊に志願し、広瀬武夫指揮する福井丸に乗組し敢然と作戦に従事。
閉塞船福井丸沈没後、カッターボートにて帰還途中に、小池幸三郎は被弾し戦死を遂げる。享年二十五歳。

小池幸三郎の葬儀は川口市内の善光寺で斎行。(墓所も善光寺)

日露戦争戦勝30周年を記念して昭和11年(1936)に川口市公会堂(現在の川口市立中央公民館)前に小池幸三郎像が設置。

平成7年5月27日に川口市海交会によって、川口神社境内「川口護國神社」に小池幸三郎銅像を移転。

海軍一等機関兵小池幸三郎を偲ぶ

海軍一等機関兵小池幸三郎を偲ぶ
君は小池武平氏の次子。
明治13年7月15日、川口町268番地に生る。
明治33年12月横須賀海兵団に入り、同35年6月軍艦高千穂の乗組員となる。
日露の戦役起るや直ちに旅順の攻略に従い、決死旅順港口第二次閉塞隊に志願し、広瀬武夫海軍中佐指揮の福井丸に乗船して、猛砲火の下に港口水道に突入したが、黄金山の西海岸半鏈に達した時、ついに敵駆逐艦の魚雷をうけた。
よって自ら爆沈して任務を完遂し、広瀬中佐・杉野兵曹長と共に帰らず、英魂とこしえに靖国の霊となる。
実に明治37年5月23日夜である。

忠勇義烈

旅順港閉塞作戦

第二回目の旅順閉塞作戦において広瀬武夫指揮下で使用された「福井丸」。
福井丸は旅順港閉塞作戦に際して、閉塞船として自沈用の爆薬やセメントなどを積み込み出港。
旅順港にて爆薬に点火し、乗組員はボートで退避。
その際に杉野孫七上等兵曹が福井丸にて行方不明となり、広瀬武夫少佐が船内を三度捜索したが見つからず。
 ※ このときのエピソードが唱歌「広瀬中佐」の題材となる。

1.轟く砲音(つつおと)、飛来る弾丸(だんがん)。
  荒波洗ふ デッキの上に、
  闇を貫く 中佐の叫び。
  「杉野は何処(いずこ)、杉野は居ずや」。

2,船内隈なく 尋ぬる三度(みたび)、
  呼べど答へず、さがせど見へず、
  船は次第に 波間に沈み、
  敵弾いよいよあたりに繁し。

3.今はとボートに 移れる中佐、
  飛来る弾丸(たま)に 忽ち失せて、
  旅順港外 恨みぞ深き、
  軍神廣瀬と その名残れど

文部省唱歌「広瀬中佐」

広瀬少佐は退却時に艇上にて砲弾の直撃を受けて戦死。
この際に菅波政次二等信号兵と小池幸三郎二等機関兵も戦死している。

第二回旅順口閉塞作戦での戦死者は4名。
 広瀬武夫 少佐(没後、中佐)
 杉野孫七 上等兵曹「朝日」乗組(没後、兵曹長)
 小池幸三郎 二等機関兵 「朝日」乗組(没後、一等機関兵)
 菅波政次 二等信号兵曹 「高千穂」乗組(没後、一等信号兵曹)
いずれ福井丸に乗り込んでいた。

NHK大河ドラマ「坂の上の雲」

NHK大河ドラマ「坂の上の雲」でも、小池幸三郎 二等機関兵の戦死シーンが描かれている。

旅順港閉塞作戦を記念した小池像。

つい最近まで、川口市にこのような素晴らしい像があるとは知りませんでしたし、大河ドラマ「坂の上の雲」で観ていた小池幸三郎の戦死シーンのことも失念してしまっていたことが申し訳なく。
小池の地元である川口市では、いまも胸像がこうして損なうこともなく後世に伝承され慰霊顕彰されおりました。
この素晴らしい躍動感あふれる胸像、変わらずに伝承されていくことを祈念。

ちかくの善光寺には「小池幸三郎のお墓」があるというのであわせて脚を運んでみました。


善光寺(埼玉県川口市)にある小池幸三郎之墓

海軍一等機関兵勲八等功七級
小池幸三郎之墓

川口市舟戸町にある真言宗智山派寺院善光寺

海軍一等機関兵勲八等功七級小池幸三郎之墓
香炉台 桜に錨

小池幸三郎の勇姿に

合掌

感謝と哀悼を


小池幸三郎像のある川口神社の境内には川口護國神社が鎮座している。

川口護國神社

平和の神 
川口護國神社

【御祭神】
国家公共につくした人の神霊
【御祭日】
四月第二土曜日
【御由緒】
川口護國神社は、昭和二十三年四月、時の川口市長の指導により市役所神殿の譲渡を受け、西南戦争から大東亜戦争に至る各戦役にて戦没せられた川口市出身全英霊を奉斎するお社として、川口神社境内に設立を見たものである。
爾来毎年四月あるいは五月に、川口市遺族会が主体となり例大祭を斎行してきた。平成十五年からは市民有志が主催し、遺族のほか市内各界代表者の参列を得て川口市民平和祈願祭を奉行してゐる。

御製
國がため あまた逝きしを 悼みつつ 
 平らけき世を 願ひあゆまむ

わが郷土から出征して尊い一命を国に捧げ、平和と繁栄の礎となられた英霊に感謝し、また平和への努力を誓うため、全市民こぞって参拝すべき神社である。

川口神社

埼玉県川口市金山町鎮座。川口市総鎮守。明治社格は県社。

国威宣揚台
大東亜戦争戦勝祈願の大鳥居

日露戦争ゆかりの橋が近くに保存されているというので脚を運んでみた。

凱旋橋(川口市指定文化財)

明治39年(1906)1月に日露戦争出征兵士の凱旋を祝し架設された。

凱旋橋
明治39年1月架設
片側の欄干のみが残されている。

川口市指定記念物 史跡
凱旋橋跡付凱旋橋之碑
平成21年6月24日指定

 日露戦争終結の翌年の明治39年(1906)5月13日に挙行された川口町(当時)出身兵士の凱旋祝賀会に際し、凱旋パレードの通過点として当時ここを流れていた錫杖寺杁用水に架設された石像アーチ型の凱旋橋の遺構です。橋は同年1月に、たもとに建立された凱旋橋之碑とともに竣工し、2月18日には開通式が行われました。由来などを記した凱旋橋之碑は、現在、川口神社境内に移設されています。
 川口の鋳物業は、日露戦争(1904~1905)を契機として砲弾や機械部品などの製造が盛んになり、工場数も倍増し大量受注大量生産体制が確立しました。これが戦時体制下での鋳物生産体制に組み込まれたことにより、技術の進展と相まって飛躍的に近代化が図られるようになったのです。
 この凱旋橋跡は、江戸時代にあっては日光御成街道川口宿の北の玄関口に位置し、続く近代には本市を代表する地場産業である鋳物業発展のエポックとなった日露戦争とこれにかかわった人々の記憶を留めている貴重な歴史遺産です。
川口市教育委員会

場所

https://goo.gl/maps/nb9T8cnksdZ4LhAMA

川口市立文化財センター

http://www.kawaguchi-bunkazai.jp/center/bunkazai/CulturalProps/bunkazai_131.html

川口神社の境内には、「凱旋橋之碑」が移設保存されている。

凱旋橋之碑 (川口市指定文化財)

川口神社境内。凱旋橋の由来が記載されている。

近衛師団長陸軍中将 浅田信興 題額
浅田信興(1851‐1927)は武蔵国川越藩出身。
日露戦争時は近衛歩兵第一旅団長として出征し、戦中の明治37年(1904)9月に陸軍中将に進級し近衛師団長に新補。最終階級は陸軍大将、男爵。

日露戦争に際して川口町からの応召従軍者は74名。
凱旋橋之碑には、海軍一等機関兵 小池幸三郎 をはじめ、生きて凱旋が叶わなかった川口出身の戦死者三士のことを讃えている。

川口には何度も脚を運んだことがあり、川口神社も過去に参拝をしたことがあったが、かつての私はさほどに戦史に興味を抱いていなかったということもあり、小池幸三郎像を気にすることもなく、凱旋橋の存在も知らなかった。

いま、改めて興味をもって訪れてみれば、その極めて貴重な存在に感じ入ることでき、戦後の破壊等を免れて、こうして今日まで残ったことの意義深さを知ることができた。これは後世に伝承し続けなければならない史跡。
良き見聞ができたことに感謝。
今回は時間がなかったので訪れませんでしたが、川口には海軍史的に興味深いエピソードもった艦長のお墓もあるので、また来ることになりそうです。


高島秋帆と馴染みのあった川口の鋳物師・増田安二郎の復元18インチカノン砲は、こちらにて掲載。