「陸軍」カテゴリーアーカイブ

習志野の戦跡散策(騎兵から空挺へ・習志野駐屯地)

平成29年8月

この日は陸自・習志野駐屯地一般開放日「習志野駐屯地夏祭り」
基地公開日に見学できる施設が「空挺館」
未訪でしたので、是非これは行っておきたい。
ついでに折角だから寄り道しながら駐屯地を目指してみました。

※第一空挺団の降下訓練初め

習志野駐屯地

空挺館 (旧御馬見所)

「空挺館」(明治44年/1911年建立)
こちらが見たかったのです。
このために習志野に脚を運んだのです。
年に何回かの基地公開日にしか入れませんから。

明治44年建立。
もともとは目黒の陸軍騎兵実施学校に明治天皇が天覧あそばされた際の「天覧台」(御馬見所 )として建設。
大正5年(1916)に習志野に騎兵学校が移転に際して当館も移築。

正面入口からは傾斜のゆるやかな帝王階段。

明治天皇が天覧されたという2階のバルコニー。

実は装飾の菊御紋は2種類あり15弁と16弁がある。
これは正規の枚数だけだと天皇陛下以外は御立所に上がれなくなってしまうため他の皇族にも配慮したためという。

明治天皇が天覧されたという2階のバルコニー。
この椅子は津田沼駅で皇族が利用された貴賓室用椅子。

貴賓用椅子
津田沼駅は明治40年9月1日に鉄道省の一駅として営業を開始。旧軍時代は騎兵旅団、騎兵学校などがあり、習志野練兵場の表玄関だったので、皇族がたくさんこの駅を利用されていた。その当時皇族が使用されていた貴賓用椅子である。

習志野原

明治天皇(諱は睦仁)が命名されたという「習志野原」の額も展示。

睦仁
習志野原

習志野之原演習行幸

明治6年4月30日に明治天皇は習志野原にて近衛兵の演習を天覧されている。

帝王の階段とも称された中央階段の装飾。

精鋭無比

中央階段踊り場に掲げられた文字は降下塔にあるものの原本。(平成24年12月取り付け。)
書家青華氏による。お孫さんが第1空挺団に所属していた際に無理を言ってかいてもらったものという。

自衛隊唯一の空挺部隊
空挺精神「精鋭無比」

空の神兵像

立像と座像と

2階部分は旧軍に関する展示。
いくつか注目してみてみましょう。

秋山好古 日本騎兵の父

日露戦争時の騎兵第1旅団長(直下に騎兵第13連隊及び騎兵第14連隊)での活躍は言うまでもなく。あとは「坂の上の雲」を参考に。

騎兵の街・習志野に縁の深き人物であり、第2代騎兵学校長でもあった。

西竹一 騎兵中佐

昭和7年ロサンゼルスオリンピック障害馬術の部で日本人としての初の金メダルを受賞。(今日に至るまで馬術の金メダルは西のみ)
男爵でもあった西は「バロン西」として社交界で愛されるも、硫黄島において戦車26連隊長として参戦し散華。

日本軍空挺部隊と空挺作戦

日本軍には陸軍と海軍とそれぞれに落下傘部隊が展開されておりました。

まず海軍としては日本史上初の落下傘降下作戦を成功させた横須賀特別陸戦隊によるメナド降下作戦(昭和17年1月11日)や続くクーバン降下作戦などの展示あり

日本海軍
横須賀鎮守府第1陸戦隊 メナド降下作戦
横須賀鎮守府第3陸戦隊 クーパン降下作戦

横一特・横三特(海軍陸戦隊)
空挺部隊の慰霊碑は海軍落下傘部隊発祥の地館山の安房神社境内にありますので参考まで

安房神社境内
海軍落下傘部隊慰霊碑 内閣総理大臣田中角栄揮毫

パレンバン空挺作戦 
昭和17年2月14日

陸軍・挺進第2聯隊
南方の石油資源確保のために精油所を空挺攻撃し占領。
陸軍が初めて実施した空挺作戦であり、日本国民が初めて落下傘部隊を知った作戦。
往時の衣装や遺品が展示

血染めのどくろ旗

パレンバン空挺作戦 昭和17年2月14日

陸軍・挺進第2聯隊第1中隊中尾隊の小隊長・長谷部正義少尉が出撃前夜に小隊員39名と共に寄せ書きしたドクロの小隊旗。中央にはドクロと共に「落下傘大明神」と記載。
長谷部少尉は降下占領作戦中に戦死。

レイテ空挺作戦 
昭和19年12月6日~

陸軍第二挺身団「高千穂部隊」
レイテに上陸した米軍に対しての防衛作戦に呼応しレイテ島ブラウェン飛行場に空挺作戦を決行。一時的に飛行場を占領したものの援護なく後退。オルモック救援降下部隊ともどもほとんどの将兵は戦死…

陸軍・義烈空挺隊
義号(沖縄)空挺作戦 
昭和20年5月24日

沖縄本島に上陸した米軍に対し陸海軍特攻機を援護するため、奥山道郎大尉率いる義烈空挺隊(97式重爆撃機12機)に乗り込み読谷・嘉手納飛行場に特攻し強行着陸・飛行場機能停止を目指した作戦。

昭和20年5月24日18時40分。
沖縄を救援するために熊本・健軍飛行場を飛び立った義烈空挺隊12機。
そのうちの1機が読谷北飛行場への強行着陸成功し破壊活動を実施。

挺進殉國
義烈空挺隊 隊長 奥山道郎

義烈空挺隊 隊長 奥山道郎 
遺書
昭和二十年五月二十二日
此の度、義烈空挺隊長を拝命 
御垣の守りとして敵航空基地に突撃致します
絶好の死場所を得た私は日本一の幸福者であります
只々感謝感激の外ありません
幼年学校入校以来十二年
諸上司の御訓誡も今日の為のように思はれます
必成以て御恩の万分の一に報ゆる覚悟であります
拝顔お別れ出来ませんでしたが道郎は喜び勇んで征きます
二十有六年親不孝を深く御詫び致します 
                          道郎
御母上様

配布資料
知っていますか?義烈空挺隊
~昭和20年5月24日夜の話~

配布資料
腹が減っては戦は出来ぬ
~義烈空挺隊「食」の話~

配布資料
神兵を癒やした観音湯
~「堤はつ」さんと義烈空挺隊~

空の神兵

空の神兵
作詞 梅木三郎
作曲 高木東六

藍より蒼き 大空に大空に
忽ち開く 百千の
真白き薔薇の 花模様
見よ落下傘 空に降り
見よ落下傘 空を征く
見よ落下傘 空を征く

空挺館の1階部分は陸自のコーナーでした。
(旧軍関連が2階)

配布資料
遠い神代の物語
~陸上自衛隊「空の神兵」事始め~

配布資料
ようこそ空挺館へ!!
習志野駐屯地広報室


駐屯地内に点在するあれこれを見て回ります。

軍人勅諭下賜五十周年記念碑

手前の砲弾のようなものは
「軍人勅諭下賜五十周年」砲弾型記念碑。
明治十五年軍人勅諭が下賜されて50周年の昭和7年に建立された記念碑。
騎兵学校建立。

軍馬慰霊之碑

軍馬慰霊之碑・秋山好古揮毫

日本騎兵の父と称された秋山好古は日露戦争時の騎兵第1旅団長であり第2代騎兵学校長であった。
この軍馬慰霊碑は秋山が逝去する1ヶ月前に揮毫され、そしてこれが絶筆となった。建立は昭和5年11月。秋山好古大将の亡くなった月であった。

日本騎兵の碑

昭和41年建立
碑文は武藤一彦(元中将・元大分市長)
裏面は秋山久三少将(最後の騎兵学校長)の筆による。

ちょうど「日本騎兵の碑」の向こう側では駐屯地イベントの大人気スポット「お化け屋敷」が展開されておりました。
大盛況。 私はしずしずと駐屯地内の石碑めぐりなどを。

94式37mm速射砲

昭和9年(皇紀2594年・1934年)に帝国陸軍が開発・採用した対戦車砲(速射砲)。
正式名称は九四式三十七粍砲 俗称は九四式三十七粍速射砲

備える防人(ひと)

空の神兵の像

古賀忠雄が昭和17年の大東亜戦争美術展にて朝日新聞社賞を受賞した名作「天降る像」が原型。
昭和19年に三宅坂の陸軍第1航空軍司令部が武蔵野市吉祥寺の成蹊大学に疎開した時に当時の司令官部屋を飾った像をベースにしている。戦後は成蹊大学から偕行社を通じ第1空挺団に寄贈。
本像は昭和46年に復元銅像化。

鎮魂之碑

「礎」の碑 初代空挺団長・衣笠駿雄揮毫
昭和33年に創隊された第1空挺団
陸軍挺進隊より継承する「挺進赴難」の伝統と「精鋭無比」を目標に部隊を練成してきたが、不幸にも志半ばで職に殉じた第1空挺団同僚先輩たち「殉職された御霊のご冥福」を慰霊。
殉職者慰霊之碑

第1空挺団殉職者慰霊之碑が立ち並ぶ空間。

「挺身赴難」「精鋭無比」の精神で志半ばで斃れられた方々に合掌

第1空挺団 本部

第1とはあるけども、第2以下はなく、日本で唯一の空挺部隊。

降下訓練塔

敷地に中央部に聳えるは「降下訓練塔」
空挺降下の訓練に使われる高さ80mをほこる訓練塔。

心字池

昭和3年、習志野に移転する前に、目黒にあった陸軍騎兵実施学校の庭園・階段・門柱などの一部を材料に建設された池。
「心」という字を型どっている。
騎兵学校時代は将校集会所の庭園として親しまれていたという。

駐屯地夏祭り

各部隊の幟がでていて、ちょっと一味違う空間。

習志野駐屯地

このあたりの建物は陸軍時代のものの可能性高し。東門近く。

習志野駐屯地東門。
このレンガの門柱も陸軍時代のものなのかどうか。
古さが漂っていましたが、詳細は不明。

位置関係

習志野駐屯地、また改めて散策したいですね。


習志野に騎兵学校が移転する前は、目黒にありました。

習志野界隈の関連はこちらも

習志野の戦跡散策(騎兵聯隊編)

平成29年8月

かつて存在せしものは、時代の価値観をこえて保存し、記念すべきものである。それが、文明というものである。
 司馬遼太郎

この日は陸自・習志野駐屯地一般開放日「習志野駐屯地夏祭り」
基地公開日に見学できる施設が「空挺館」
未訪でしたので、是非これは行っておきたい。
ついでに折角だから寄り道しながら駐屯地を目指してみました。


京成大久保駅

天地無私 秋山好古大将

京成大久保駅前の商店街を北上すると「馬のモニュメント」が。

習志野第一騎兵旅団長
秋山好古大将

天地無私

いよいよ「騎兵の町・軍郷習志野」の地です。

秋山好古と習志野

日本とロシアの間に緊張が高まった明治36年(1903年)、秋山好古は当時大久保にあった騎兵第一旅団に赴任し、翌37年、日露戦争が始まると同旅団長として中国に渡りました。
戦地では、沙河・黒溝台・奉天等の激戦地を駆け巡り、当時世界最強と呼ばれたロシア・コサック騎兵と互角に渡り合い、あるいは凌ぎ、日本軍の危機を幾度も救う活躍を見せました。
司令官でありながら最前線で指揮を執り、退却時には自ら殿をつとめた好古の勇姿は、敵・味方をこえて評判となり明治38年9月、日本とロシアの間に講和条約が締結されると開けて明治39年早春、好古は歴戦の痕跡を残す聯隊旗と共に
堂々と大久保の地に凱旋しました。
この戦功により後に日本騎兵の父と呼ばれた秋山好古、そして日本海海戦で赫赫たる戦果を上げた連合艦隊の主席参謀、実弟・秋山真之の活躍は世界から驚きをもって称賛され、後に小説「坂の上の雲」(司馬遼太郎著)の主人公として描かれ、現在も多くの人々にその名が知られています。
当時の日本が他のアジア諸国のように西洋列強の隷属や植民地にならなかったのは秋山兄弟の功績に追うところが大きく、習志野の地にいた数年間は好古の人生にとっても日本にとっても重要な日々であったとこは後の歴史が物語っております。

注・習志野騎兵第一旅団の編成軍
騎兵第十三聯隊(現東邦大学)騎兵第十四聯隊(現日本大学)

平成21年4月吉日

習志野・誉田八幡神社

商店街の東に「誉田八幡神社」という神社が鎮座。この神社の北西側、現在の「八幡公園」に「騎兵第一旅団司令部」があった。
神社の創建は延宝年間(1673年~1681年)と伝承。豊臣方の武将市角頼母によって大阪羽曳野の誉田八幡が分霊され当地が開拓。

紀元二千六百年記念参道敷石竣工之碑

境内にある一際大きな石碑
紀元二千六百年記念参道敷石竣工之碑
陸軍少将 栗林忠道書

なんと硫黄島の栗林忠道陸軍大将謹書。
昭和15年(1940)が紀元2600年。
このとき栗林少将は習志野にて騎兵第2旅団長、次いで騎兵第1旅団長であった縁あり。

騎兵第一旅団司令部跡地

習志野の八幡公園
「騎兵第一旅団司令部跡地」
誉田八幡神社の近く。
騎兵第一旅団司令部(現・八幡公園)の下には騎兵第13連隊(現・東邦大学)及び騎兵第14連隊(現・日本大学)が編成。

公園の入口は往時の門柱が残っている。

習志野騎兵旅団発祥の地

閑院純仁書
昭和51年4月建立

碑銘を書かれた閑院純仁は臣籍降下前は閑院宮春仁王(陸軍少将)
日露戦争時の騎兵第二旅団長であった閑院宮載仁親王(元帥陸軍大将)の次男。

騎兵連隊・旅団司令部跡

 明治初頭より旧陸軍の演習が行われていた小金原は、同6年(1873年)明治天皇行幸の祭に「習志野原」と命名されてから、周辺に軍隊が急速に創設され、それにともない拡張されてきました。 
 明治32年、日本陸軍初の快速兵団として騎兵連隊が習志野原に創設され、同34年には大久保に転営して、現在の東邦、日本大学付近に第13・14連隊からなる第一旅団と、東邦中学校・高校附近に第15・16連隊からなる第二旅団がおかれました。 
 さらに、八幡公園・習志野郵便局の地に旅団司令部がおかれました。 
 日露戦争(明治37~38年)の折には、両旅団が派遣されましたが、満州事変(昭和6年)・支那事変(同12年)には第一旅団が派遣されました。この頃より軍隊の機械化がすすみ、騎兵連隊は装甲部隊に最編制されていきました。 
 第二次世界大戦後、連隊跡は学校に、旅団司令部本部の建物は郵便局になり、八幡公園にあった司令部の講堂には、私立大久保保育園が開設されました。この保育園は昭和24年(1949年)津田沼町に移管されて、本市第一号の公立保育所となり、昭和40年、泉町三丁目に移転しました。 
 昭和56年12月 習志野市教育委員会

習志野の騎兵

近衛師団
 騎兵第1旅団→麾下 騎兵13聯隊 騎兵14聯隊
第1師団
 騎兵第2旅団→麾下 騎兵15聯隊 騎兵16聯隊

日露戦争時の旅団長(少将)
騎兵第1旅団長→秋山好古 【秋山支隊】
騎兵第2旅団長→閑院宮載仁親王

旅団司令部のあった八幡公園の北側には文教エリアが拡がる。

すなわち
習志野陸軍病院→習志野病院
騎兵第13連隊→東邦大学
騎兵第14連隊→日本大学
騎兵第15連隊→東邦中学校高等学校
騎兵第16連隊→大久保住宅

昭和19年10月16日に陸軍が撮影した航空写真(8911-C1-1)

騎兵第14連隊跡
(日本大学津田沼キャンパス )

騎兵第14連隊跡地は日本大学生産工学部津田沼キャンパス。
私が訪れた時は絶賛オープンキャンパス中。
うわっ、高校生多し。気が引けたけど何食わぬ顔で守衛さんに「スミマセン、石碑が見たいんですけど」と申告。許可を得まして石碑の場所も教えてくれました。

現在の日本大学生産工学部津田沼キャンパス内に。

騎兵第十四聯隊之跡

昭和43年14号館前デ発掘サレタルモノヲ復元
昭和62年10月

石碑群は大学構内の南西、駐輪場の奥に。

騎兵第十四聯隊発祥之地

竹田恒徳書
竹田恒徳は皇籍離脱前の竹田宮恒徳王。
最終階級は陸軍中佐。陸軍大学校卒業後に満州ハイラルの騎兵第14連隊第3中隊長を拝命している。
騎兵第十四聯隊会奉納の馬像も凛々しく。

明治天皇御製
人ならば
 ほまれのしるし
  授けまし
軍(いくさ)の庭に
 立ちし荒駒(あらこま)

墓碑
騎兵第十四聯隊ハ畏クモ明治天皇ヨリ軍旗ヲ 親授セラレテ明治三十四年十一月創設サレ此 ノ地習志野ニ駐屯シタ
明治三十七年日露戦争ガ勃発スルヤ満州ニ出 征シ沈旦堡ニ於イテ勇戦奮闘シテ克ク騎兵ノ 精華ヲ発揮シタ
戦終ッテ此ノ地ニ帰還シ練武ニ精励シタガ昭 和七年六月満州事変ニ出動シ其ノ後此ノ地ニ ハ戦車第二聯隊ガ駐屯シタ
騎兵第十四聯隊ハ満州ニ於イテ夏季豪雨ニヨ ル泥濘ヲ冒シテ馬占山討伐等ニ従軍シ同年冬 広漠タル厳寒ノ北満ホロンバイルニ進出シ海 拉爾周辺ニ駐留シテ六年に亘リ満ソ国境守備 ノ重責ヲ遂行シタ
昭和十三年六月騎兵集団ニ出動命令ガ下リ其 ノ隷下ニアッタ聯隊ハ海拉爾ヨリ長駆河南省 帰徳淮陽方面ニ進撃次イデ蒙彊地区ニ転戦シ 昭和十七年十二月機甲兵団ノ新設ニ伴ヒ包頭 附近ニ於イテ機動歩兵第三聯隊ニ改編セラレ 戦車第三師団ニ属シテ再ビ河南省ノ鄭州洛陽 周辺一部ハ遠ク湘桂方面ニ作戦シ赫々タル武 勲ヲ挙ゲタ
此ノ兵営跡ハ昭和二十九年日本大学ノ敷地ト ナッタガ大学御当局ヨリ深イ御理解ト温カイ 御厚意ヲ戴キ有志相図リ幾多先輩戦友ノ偉勲 ヲ偲ビツツ此処騎兵第十四聯隊発祥ノ地ニ此 ノ碑ヲ建テ我ガ聯隊ノ事績ヲ永ク伝エヨウト スルモノデアル

昭和六十一年十月二十六日
騎兵第十四聯隊会

戦車第二聯隊の跡

騎兵から戦車の時代に。
戦車第二聯隊は昭和8年に久留米の第一聯隊とともに日本で最初の戦車聯隊として創設。騎兵第14聯隊駐屯の跡に移駐。ビルマ・ガダルカナル島・レイテ・マニラと各地で奮戦。

戦車第二聯隊の跡
戦車第2聯隊は昭和8年8月千葉陸軍歩兵学校教導隊戦車隊を強化改編して、国軍最初の戦車聯隊として創設され、騎兵第14聯隊駐屯の跡に移駐した。
その練習部は、全国歩兵聯隊から派遣された将校・下士官の教育に専念し、後に陸軍戦車学校に発展した。
昭和12年7月動員下令、聯隊の主力は北支に出動。
保定会戦、黄河以北戡定作戦、徐州会戦等に赫々たる武勲を揚げた。
13年7月、部隊は戦車第8聯隊に改編され、中原会戦、満州、北支警備等の後、17年秋、南海のラバウルへ転進した。
戦車第2聯隊は昭和13年7月留守隊を強化し、此処習志野で再編成された。
16年秋再び動員され、蘭印作戦に参加し各地に善戦した。
分遣された第1中隊はビルマ、第4中隊はガダルカナルに於て悪戦苦闘した。
聯隊は17年秋習志野に帰還した。
この間、習志野で編成した戦車第4大隊は昭和9年奉天に、支那駐屯軍戦車隊は11年天津、戦車第17聯隊は17年綏遠省平地泉、独立戦車第7・第8中隊は19年夏フィリッピンに派遣された。
河野第7中隊はレイテ島に、岩下第8中隊はマニラ飛行場周辺に三度壮烈な出撃戦を展開、戦車魂を発揮して全員華と散った。
戦局緊迫するや、動員令により戦車第2聯隊は昭和19年相模地区に移動、その補充隊は20年4月新たに6個の戦車聯隊を編成し、相共に配備につき本土決戦に備えたが、8月終戦を迎えた。
この度、日本大学当局より理解ある御協力を戴き、有志相図り、幾多戦友の偉勲を偲びつつ、此処戦車第2聯隊駐屯の跡に、この碑を建て聯隊の事蹟を永く伝う。
昭和63年8月1日
戦車第2聯隊会

勅諭拝受50周年記念碑

為聖諭拝戴五十周年並御紋章掲揚記念
昭和7年

実は石碑群のすぐ隣に神社もありました。

日本大学津田沼キャンパス構内の稲荷神社。
騎兵連隊時代と関係あるかないかはわかりませんが、これはこれで興味深いですね。

騎兵第13聯隊跡
(東邦大学習志野キャンパス)

さて、日大の隣の東邦大に向かいます。
こちらもオープンキャンパスやっていて高校生多数。
気にせずに守衛さんに石碑の見学許可を得て構内に。
東邦大の守衛さんも石碑の場所を教えてくれました。
ありがとうございます。

あら、こちらにも稲荷神社さんです。
碑には大正9年度除隊紀念とあります。
それこそ騎兵聯隊と関係ありそうな感じですね。
石碑を探しにきた大学構内で、おもむろに連続で出会った神社さんは想定外。

騎兵第十三聯隊跡
騎兵第十三聯隊発祥之地

「騎兵第十三聯隊跡」
「騎兵第十三聯隊発祥之地」 
船橋市長大橋和夫書 平成5年4月29日建立

実は東邦大の「騎兵第十三聯隊」の碑と日大の「騎兵第十四聯隊」の碑は塀を挟んでとなり合っています。それぞれ入口は違いますが。

騎兵第十三聯隊概史

 日露の戦雲漸く急を告ぐる秋 日清戦争の経験に基づき宇内の趨勢に鑑み騎兵大部隊の必要性を痛感せる我が陸軍は明治三十二年騎兵第一, 第二旅団の編成に着手 我が騎兵第十三聯隊は騎兵第十四聯隊と共に騎兵第一旅団の兄弟聯隊として此の地習志野原の南隅千葉県津田沼町大久保(現船橋市三山)に創設され明治三十四年十二月十九日軍旗を拝受す
 明治三十七年二月日露の開戦に及び聯隊は我が国騎兵の父と仰がれし秋山好古旅団長指揮の許勇躍出征 五月遼東半島塩大澳に上陸第二軍に属して曲家店、沈旦堡等の戦闘に於いて世界に名だたるコサック騎兵と交戦赫々たる偉功を奏し早くもその名声を中外に宣揚す 奉天大会戦に於いては敵の右翼を包囲せんとする第三軍の迂回運動を庇護して全軍大勝の基を拓き更に長駆奉天北方に進出して敵軍主力の側背に迫り露軍敗退の因をなせり
 降って満洲事変勃発するや昭和七年六月出動 泥濘悪路を克服してその機動力を発揮し馬占山討伐を始め東辺道討伐、乾元鎮の攻略等全満各地の作戦に活躍 八年二月海拉爾に進駐対蘇戦に備えて教育訓練に邁進す 支那事変に於いては昭和十三年八月海拉爾より長駆北支に出動主力を以て歸徳一部を以て寧陵、睢縣に在って新黄河北方地域に於ける掃蕩及び陽動作戦に活躍 十四年二月更に遠く蒙彊の地へ転進主力を以て固陽一部を以て薩拉齋に駐屯 駐蒙軍に属して各種の作戦警備に任ず 特に十四年十二月の包頭戦に於いては集団司令部の危急を救い十五年の二次に亘る五原作戦に於いてはその中核として活躍敵の蠢動を封殺し蒙彊地区の安寧に寄与す この間十四年十月我が騎兵機械化施策の一環として自動車編制に改編され更に十七年十月には戦車第三師団の創設に伴い騎兵第十四聯隊と共に機動歩兵第三聯隊を編成軍旗を奉還 茲に騎兵甲聯隊たる四十余年の栄えある歴史を閉ず 然れどもその輝ける伝統は新しき聯隊に脈々として継承せられ特に十九年五月 太平洋方面の戦況非なる時支那大陸戦線に於いて敢行せられし大陸打通作戦の一環たる洛陽攻略に於けるその活躍は永く青史にその名を止むべし 但惜しむらくは敗戦による皇軍の解体と共に聯隊の栄誉を後世に伝うる術もなかりしに幸い戦後此の地に設立せられし東邦大学より記念碑建設の快諾を得 依って我等戦友有志相諮り此処聯隊発祥の地に碑を建て聯隊歴史の概要を刻し以てその栄誉を永く後世に伝えると共に亡き戦友の霊を慰めんとす
 庶幾くは後人后後我等が微衷を察し祖国の安泰と発展に尽瘁あらん事を

歴代集団長
第1代 宇佐美 興屋  
第2代 蓮沼 蕃  
第3代 笠井 平十郎  
第4代 稲葉 四郎  
第5代 内藤 正一  
第6代 吉田 悳  
第7代 小島 吉蔵  
第8代 馬場 正郎  
第9代 西原 一策

歴代旅団長
第1代 渋谷 在明  
第2代 秋山 好古  
第3代 本多 道純  
第4代 河野 政次郎  
第5代 永沼 秀文  
第6代 稲垣 三郎  
第7代 田村 守衛  
第8代 小畑 豊之助  
第9代 宮内 英熊  
第10代 原田 宗一郎  
第11代 梅崎 延太郎  
第12代 柳川 平助  
第13代 吉岡 豊輔  
第14代 高波 祐治  
第15代 中山 蕃  
第16代 小川 正輔  
第17代 黒谷 正忠 
第18代 野沢 北地  
第19代 大賀 茂  
第20代 片桐 茂  
第21代 栗林 忠道  
第22代 森 茂樹

歴代聯隊長
第1代 田村 久井  
第2代 小池 順  
第3代 永沼 秀文  
第4代 牧野 正臣  
第5代 渡部 為太郎  
第6代 南 次郎  
第7代 高須 一万太郎 
第8代 土屋 篤  
第9代 原田 宗一郎  
第10代 宇佐美 興屋  
第11代 中山 蕃  
第12代 山内 保次  
第13代 星 松尾  
第14代 和田 義雄  
第15代 横田 卓二  
第16代 猪木 近太  
第17代 小原 一明  
第18代 山崎 武四

司馬遼太郎氏文学碑

「かつて存在せしものは、
  時代の価値観をこえて保存し、
      記念すべきものである。
 それが、文明というものである」
          司馬遼太郎

司馬遼太郎
我が国騎兵の父と仰がれ騎兵第13聯隊等を指揮した、騎兵旅団長秋山好古は、司馬文学最高傑作の一つ「坂の上の雲」の主人公である
こいねがわくば在天の魂 時にこの故郷ふるさとに訪れ給はむことを
平成八年 騎兵第十三聯隊会

騎兵十三聯隊と碑について

本学習志野キャンパスがあるこの地には、かつて騎兵第十三聯隊が置かれていました。
騎兵第十三聯隊は、日露戦争が風雲急を告げる明治三十四年、騎兵第十四聯隊(隣接する日本大学の地)と共に、騎兵第一旅団の兄弟聯隊として創設されました。
その後、騎兵連隊は日露戦争において。当時世界最強と謳われたロシアのコサック騎兵を奉天会戦などにおいて退けるという偉業を成し遂げます。これは当時のロシア帝国主義から日本を守った大きな一因になったと言われております。
騎兵第十三聯隊は、司馬遼太郎氏の傑作「坂の上の雲」に登場する主人公のひとり、秋山好古旅団長が指揮したことでも有名です。
秋山好古旅団長は後に陸軍大将となり、「日本騎兵の父」と仰がれることとなります。
ここには次の碑が残されています。
一、騎兵第十三聯隊跡碑 (昭和七年)
二、 軍人勅諭下賜五十周年碑 (昭和七年)
三、 騎兵第十三聯隊発祥の地碑 (平成五年)
四、 司馬遼太郎氏文学碑 (平成八年)

司馬遼太郎氏の文学碑には、司馬氏から騎兵第十三聯隊会会長宛に送られた手紙の一節が、次のように刻まれています。

「かつて存在せしものは、時代の価値観をこえて保存し、記念すべきものである。それが、文明というものである」

軍人勅諭下賜五十周年碑

軍人勅諭下賜五十周年碑(昭和7年4月24日建立)
五角柱の碑。
各面に「忠節」「礼儀」「武勇」「信義」「質素」の5つの徳目が彫られている。陸軍大将南次郎書。

騎兵第13聯隊倉庫

すぐとなりにある「柔道場」
実はこの建物は騎兵第13連隊倉庫であったという。
陸軍騎兵連隊時代を今に伝える貴重な建物。

取り壊しとなりました

騎兵第15聯隊跡
(東邦大学付属東邦中学校高等学校)

騎兵13聯隊の東邦大と騎兵14聯隊の日大を巡り東に向かう。
東邦大学付属東邦中学校高等学校の入口に小さな標柱が建っている。

「騎兵第十五聯隊跡地」
裏面には平成26年5月7日と記載があった。

騎兵16聯隊跡

騎兵13聯隊・騎兵14聯隊・騎兵15聯隊ときましたがその隣の「騎兵16聯隊跡地」はあるようでないようで。
騎兵16聯隊のあった場所は、昭和7年(1932年12月)より陸軍習志野学校の敷地として編入されている。

「陸軍習志野学校」は化学戦学校であり毒ガス研究が行われていた、と。

陸軍習志野学校
(習志野の森)

もと陸軍騎兵第16聯隊及び騎兵15聯隊の地に展開されたのが「陸軍習志野学校」(昭和8年~昭和20年)。
戦後は警察署・学校・住宅・保育園などに転用。中心部は「千葉大腐食研究所」が展開されていたというが現在は移転。その跡地は「習志野の森」として国有地になっている。

「習志野の森」
現在は国有地となっており年に何度かの公開日以外は立入禁止。戦後に学校建屋を活用して展開された千葉大腐食研究所跡地に習志野学校時代の基礎や土台のみが残っているという。
奥には動物実験の犠牲になった「動物慰霊之塔」もあるという。

※見学してきました


※写真は敷地外より

陸軍習志野学校跡の兵舎跡

習志野学校兵舎の一部といわれる建屋が「習志野の森」近くに残っているが、詳細は割愛。

陸軍習志野学校の車廠床跡

習志野市立大久保保育所の敷地内に。
「陸軍習志野学校の車廠床跡」といわれる往時からのコンクリート床という。
レールのようなものも名残か。
が、駐車場整備が行われているので、その後どうなったかはは不明。
(撮影は2017年)

陸軍習志野学校の弾薬庫跡

習志野市「泉児童公園」
この不思議な形の古めかしいコンクリートの遊び場?は「弾薬庫跡」を利用したものとされている。

陸軍習志野学校の裏門柱跡

よくみると「門柱だなあ」とわかるが、ぱっと見ただけでは草に覆われすぎていてなかなか分かりにくい。
残っているのはこの片方側。もう片方側は何も残ってない。

習志野学校の裏門柱の跡の裏には以前はコンクリート製の「衛兵所」が残っていあっというが現在は取り壊しされている。
敷地は「国有地」

門柱から伸びる「境界土居跡」にそって東に歩む「鉄道連隊演習線跡」の道路に合流。


場所は変わって。

陸軍習志野演習場は広大な面積を占めており船橋市・八千代市・習志野市にまたがっている。
「習志野駐屯地」は船橋市だし、これから向かう習志野霊園も船橋市。習志野市ではないのです。

船橋市習志野霊園
(習志野陸軍墓地)

市民霊園の片隅に今となっては異色な空間がある。

「陸軍墓地」旧習志野陸軍墓地
日露戦争戦没者墓と慰霊碑。
捕虜として習志野に連れられてきたロシア軍人戦没者慰霊碑、第一次大戦のドイツ人戦没者慰霊碑がある。
戦後再整備が行われ昭和44年に船橋市民霊園として開設。

記念碑
 この墓地は旧陸軍の墓地として遠く明治37、8年の日露戦争当時の日本軍人戦没者の碑50数基をはじめ、西端のほぼ中央に第一次世界大戦におけるドイツ軍人戦没者の慰霊碑1基、更にその南端には不明確ではあったが、日露戦争時におけるソ連軍人戦没者慰霊の墓標があった。
 第二次世界大戦後放置状態にあった当墓地は旧陸軍習志野演習場に入植した開拓農業協同組合員が墳墓として使用していたが、当市は旧軍人を始め国際的意義の見地からこの異国の地に眠る両国軍人の英霊を祭祀し、併せて一般市民の利用に供すべく国有財産である当墓地の整備を計画し、昭和44年3月国からの貸与を受け、茲に三国軍人碑の移設・改葬を行ない船橋市習志野霊園と称し開設したものである。 
昭和46年4月  船橋市

習志野霊園
「陸軍墓地」旧習志野陸軍墓地

中央には「日本軍人戦没者慰霊之碑」
向かって左には「ドイツ軍人戦没者慰霊之碑」
向かって右には「ソ連軍人戦没者慰霊之碑」

日露戦争と第一次世界大戦と。

敷地の周辺には日露戦争時の戦没者墓が林立している。

中央部はちょっとした広場になっており。

友愛の木  
日露戦争習志野収容所病歿者慰霊の木

安らぎの木  
第一次世界大戦習志野収容ドイツ軍人戦没者慰霊の木

習志野霊園の奥に見える塔は、習志野駐屯地の「降下訓練塔(高さ80m)」

船橋市郷土資料館

耐震補強工事中でした。
もっとも郷土資料館(や野外展示してあるD51)には直接的な用事はなく、その隣の「薬円台公園」にある石碑に御用が。

習志野 地名発祥の地
附 明治天皇駐蹕之処の碑

当地は明治7年より昭和20年(1874~1945)まで陸軍演習場であった。
明治6年、明治天皇が近衛兵を率いて行幸され近衛兵の演習を天覧。
皇居還御後に勅諭をもって当地に「習志野ノ原」と名を賜ったことに始まる。 碑は大正6年建立。山県有朋謹書。

東部軍教育隊の裏門門柱
(東部軍管区教育隊)

新京成線・習志野駅のすぐちかく。
ここに門柱が1本だけ残っている。

https://goo.gl/maps/oByFNCw1NtR8uFEQ8

こうして歴史の証言物として残っている姿に感謝。

本編はいったんここで〆

習志野編の関連はこちらも。

習志野の戦跡散策(鉄道聯隊と演習場跡)

平成29年8月

陸自・習志野駐屯地一般開放日「習志野駐屯地夏祭り」に赴く途中に、折角だから寄り道しながら周辺を散策してみました。

津田沼駅

午前9時。
目標地は習志野駐屯地だけど最初に降り立った駅は「津田沼」でした。

陸軍・鉄道第二聯隊兵営表門跡
(鉄道第二連隊隊門跡)

まず訪れたのがJR津田沼駅近くの「千葉工業大学」 大学正門が「陸軍・鉄道第二聯隊兵営表門跡」(鉄道第二連隊隊門跡)。登録有形文化財。

おっと、ちょうどオープンキャンパスでした。
人の出入りの合間をみてパチリ。

現在の千葉工業大学正門・国有形文化財

登録有形文化財 第12-0007号

この門は明治40年(1907年)当地に移駐した陸軍鉄道連隊第三大隊(大正7年に鉄道第二連隊に改組)兵舎の表門として使用されたものです。
第二次大戦後、ここが千葉工業大学の校地になった後も、「工大の煉瓦門」として親しまれています。
平成10年5月、国土の歴史的景観に寄与するものとして、国の登録有形文化財に指定されました。 
千葉工業大学

位置関係

津田沼駅周辺
1944年10月16日‐陸軍撮影の航空写真(8911-C1-4)

K2形機関車134号機

千葉工業大学から線路を挟んだ反対側にある公園。
習志野市「津田沼一丁目公園」

ここに鉄道連隊ゆかりの機関車が保存されている。
「K2形機関車134号機」

「K2形機関車134号機」
陸軍鉄道第2連隊の演習線で活躍し戦後は西武鉄道に払い下げられた機関車。
西武鉄道で使用されたのちにユネスコ村で静態保存。同村閉園の為に鉄道連隊ゆかりの千葉県習志野市に引き取られ当地で保存。
日本国内での現存唯一のK2形とされている。

K2形機関車134号

 この蒸気機関車は、かつてここ津田沼に本部を置いていた陸軍第2連隊がしようしていたもので、現在の新京成線敷地内にあった陸軍演習線での機関車として活躍したものです。
 この度、西武鉄道㈱ユネスコ村に保存してあったものを譲り受け、鉄道連隊ゆかりの、この津田沼一丁目公園に設置したものです。
 平成6年3月

新京成電鉄

新京成線は「カーブが多い路線」として有名。
カーブが多い理由は陸軍第2連隊時代に敷設や運転の演習の為に故意に曲げた為と。
その陸軍演習線を新京成線が一部転用した為に、ご覧の有様。
新津田沼駅から京成津田沼駅まで往時のカーブの気配を堪能しながら移動しましょう。

京成津田沼駅

京成津田沼駅から西に伸びている一本の道路。
線路脇に石碑が立っています。

御大典記念道碑

昭和4年2月建立
昭和天皇の即位(御大典)を記念して京成津田沼駅から線路に沿って谷津に向かう道路を作ったよ、という記念道。

京成津田沼駅から西に伸びる「御大典記念道」を歩く。
今でこそ普通の道ではあるが地元の寄付金などで建設されたこの「御大典記念道」は大仰な名前とともに悲願の賜物であっただろう。

陸橋の下にもひっそりと石碑が残っている。
こちらの碑は摩耗が目立っていた。

「御大典記念道」をチラリと見学して駅に戻る。 ここから陸軍鉄道連隊が敷設した線路跡の道路(鷺沼台遊歩道)を歩いてもよかったのですが、体力温存の為に京成津田沼から京成大久保までの一駅だけど電車で移動。

そういえば新京成「ふなっしー電車」がいました。

京成大久保駅

京成大久保駅周辺
1944年10月16日‐陸軍撮影の航空写真(8911-C1-4)

鉄道連隊演習線(習志野線)

京成大久保駅前の北側に、東西に伸びている遊歩道。
この道が「鉄道連隊演習線(習志野線)」
(新京成線は鉄道連隊演習線松戸線)の跡。
遊歩道としては「ハミングロード」

鉄道連隊演習線の路線図には往時の周辺情報も。
京成大久保駅の北側には「騎兵旅団司令部」「騎兵13聯隊」「騎兵14 聯隊 」「騎兵15 聯隊 」「騎兵16 聯隊 」と。 このあたりは別記事で。

https://www.google.co.jp/maps/place/35%C2%B041’10.8%22N+140%C2%B002’44.5%22E/@35.6863333,140.0451472,19z/data=!3m1!4b1!4m5!3m4!1s0x0:0x0!8m2!3d35.686321!4d140.045695?hl=ja

鉄道聯隊演習線跡

この地は、鉄道連隊の演習線が走っていたところです。
明治40年(1907年)東京中野にあった鉄道大隊は鉄道連隊に昇格し、千葉市と津田沼町に転営しました。この前年、津田沼-習志野間に軽便鉄道が敷設されました。日露戦争時に購入した鉄道資材を習志野の捕虜収容所跡に保管するためでした。この資材をさらに千葉の鉄道連隊材料廠に移転するため、明治41年~42年、習志野-千葉間に軽便鉄道が敷設されました。資材の移転は明治44年(1911年)に完了し、その後この鉄道は鉄道連隊の演習線路として用いられました。線路は、初期に多少のルート変更が有りましたが、津田沼-大久保-三山-高津-犢橋-宮之木-園生-千葉の約16.7㎞の区間で、軌間600mmの軽便鉄道でした。軌間1067mmや1435mmの普通鉄道が並行して布設されたこともあった様です。
津田沼に置かれた鉄道連隊第三大隊は、大正7年(1918年)に鉄道第二連隊に昇格し、この演習線や昭和7年(1932年)頃までに敷設が完了したと言われる津田沼-松戸間の演習線で、鉄道の敷設・撤去・修理の訓練や、機関車の運転訓練を行いました。
戦後、演習線の跡は津田沼-松戸間がほぼ新京成線になりました。津田沼-千葉間は、津田沼-高津間が一時期自衛隊の演習線として用いられた後、現在は大部分が道路となっています。

陸軍境界石

「陸軍習志野学校裏門」から東に歩み「鉄道連隊演習線跡」の道路と合流するあたり。往時は「演習場(練兵場)」が展開されていた場所らしい。
ここに2つありました。

https://goo.gl/maps/eDVB3c6yX1z66RVt6

「鉄道連隊演習線跡」の道路に合流してちょっと北上。
このあたりも 「演習場(練兵場)」 だったあたりなのかな。

畑の中に、仲良く葱と並んで「陸軍用地」(陸軍境界石)
見つけた時に、ちょっと笑ってしまいました。

https://goo.gl/maps/uPHJuAw7U43i863bA

鉄道連隊演習線(習志野線)

東に向かって歩いてます。

https://goo.gl/maps/1aMwiyWhZyhgSj499

演習線跡を歩みつつ。

支那囲壁砲台(旧陸軍演習場内圍壁)

異国的なものが見えてきました。

習志野演習場跡
「支那囲壁砲台」(旧陸軍演習場内圍壁) 国登録有形文化財
これは中国での戦いを想定し演習用に中国風家屋を模して作られた銃眼砲台ミニチュア。民家として一部現存している。

https://goo.gl/maps/gBE6ee7izinci81m7

号砲台跡

支那囲壁砲台から20分ほど歩く。イオンタウン東習志野の北側。

「号砲台跡」
「陸軍省所轄地」 が移設保存。
陸軍演習場習志野原の号砲台を記念して築かれた小塚。
現在は工場敷地内。道路側から小塚を眺める事が出来る。

https://goo.gl/maps/95kSWVSRovWwWdie7

本編はここまで。

京成大久保駅からの騎兵聯隊や習志野駐屯地は別にまとめます。

駒澤練兵場跡地の戦跡散策

平成30年2月‐4月

世田谷区池尻・三宿・下馬、目黒区駒場・大橋界隈の散策
駒沢練兵場や陸軍騎兵学校、騎兵第一聯隊、陸軍獣医学校、糧秣廠、野砲兵第一聯隊など。


世田谷区の池尻・三宿・下馬や目黒区の駒場・大橋といったエリアはかつての陸軍軍用地であった。
以下に残存する面影を求めつつ散策した記録を。
なお本記事は平成30年2月及び4月の幾日かにエリアを分割して散策をしております。


位置関係

参考地図
今昔マップ on the webさんをベースに、グーグル地図は実際に散策したエリア。それぞれに補足記載。駒澤練兵場(現在の三宿駐屯地)を中心に軍用地が広がっているのがわかります。


上目黒氷川神社

池尻大橋駅近くに鎮座しているのが「上目黒氷川神社」
まずはここから行きましょうか。
ん?戦跡散策ですよね、神社??
実は神社境内の裏側には「陸軍騎兵実施学校」(のちの陸軍騎兵学校)があったのです。
現在の駒場高校や目黒区立第一中学校、東邦大学医療センター大橋病院のあたり。


「上目黒氷川神社」境内社「稲荷神社」後方。
神社敷地の隣りの私有地にありました。

陸軍境界石(陸軍騎兵学校・上目黒氷川神社境内)

明治期に上目黒氷川神社の後方に展開されていた「陸軍実施学校」は、大正5年に習志野に移転し「陸軍騎兵学校」と改称。
目黒の騎兵学校跡地には陸軍輜重兵第一連隊が駐留。その名残。


仰光寮

神社から北へ。 都立駒場高校と目黒区立第一中学校の間の道路の突き当り、高校の敷地内。
「仰光寮」大正7年 香淳皇后が皇太子(後の 昭和天皇)妃に内定された大正7年に御実家の久邇宮邸内に建てられた建物。
当初は麹町一番町の久邇宮邸内にあったが昭和26年に現在地に移築という。(敷地外より撮影)


天覧台

都立駒場高校グランドを周回するように西側に。
このグランド、かつての「陸軍輜重兵第一連隊の射撃場」の地であり、さらには「陸軍乗馬学校(陸軍騎兵実施学校)」の地でもあり。
そんなグランドと大橋住宅の間に「天覧台」という碑がある。
そして東側には前述の「仰光寮」の屋根も垣間見れる。

天覧臺(天覧台)
陸軍中将畑英太郎書 (畑俊六の兄)

由来記
記念碑天覧台は 明治天皇親しく此の台上より陸軍乗馬学校(後の陸軍騎兵学校)卒業馬術を明治25年(1892年)天覧なされてより延11回 大正天皇におかせられても4回行幸なされた御聖徳を偲び昭和3年11月14日陸軍輜重兵第一大隊が建立したものである
以来部隊の象徴として日夜心身の錬磨に努めていたが昭和20年8月復員発令に伴ない題字及び碑文を抹消放置したまま30有余年を閲した
此の碑を心の糧として軍の補給輸送に任じ祖国の平和を祈り異郷に散華された数多将兵の忠誠を顕彰し併せて陸軍輜重兵第一聯隊及び関連部隊の栄誉を永遠に伝えるため戦友相寄り相計ると共に明治神宮宮司高澤信一郎先生の題字復元を得て修理を完成した
昭和56年11月14日
 天覧台保存会

記念碑天覧台は明治25年以来
明治天皇11回
大正天皇4回
に亙(わた)り陸軍乗馬学校卒業馬術展覧のため行幸なされた御聖徳を偲び昭和3年11月14日陸軍輜重兵第一大隊が之を建立した

天覧台周辺地図が掲示されてました。
大正5年(1916)に「陸軍乗馬学校(陸軍騎兵実施学校)」が習志野に移転(陸軍騎兵学校)したのち、この地には「陸軍輜重兵第一聯隊」が駒場高校及び区立第一中学の地に、「陸軍輜重兵学校」が駒場東邦中学高校及び筑波大学附属駒場中学高校の地に展開された事がわかる。


馬神碑

天覧台から西に。「陸軍輜重兵学校」があった駒場東邦中学校・高等学校の南西、騎兵山とも呼称されている斜面(高層マンションが建ってます)に碑が残っておりました。

「馬神碑」(昭和5年7月建立)
戦没した馬たちを霊を祀る碑 騎兵にとって馬は何よりも大切な相棒 蹄鉄と人参が備えてありました

馬神碑のある騎兵山はすなわち「騎兵第一聯隊」の跡でもあり。

で、その聯隊跡を物語る跡地を探してプチ迷子。
慌てて検索してみると扉付きの階段の上に公園があるらしく、そこが聯隊跡を物語る碑の場所。行ってみます。(扉の開放しっぱなしはNG、立ち入りの制限はなし)


騎兵第一聯隊阯
戦死病没者表忠碑

明治二十七八年及三十七十八年戦役(日清戦争及び日露戦争)

「戦死病没者表忠碑」
陸軍中将大勲位功四級 載仁親王 書


明治28年9月 陸軍騎兵中佐 秋山好古 建立
明治39年11月 陸軍騎兵中佐男爵 名和長憲 再建

騎兵第一聯隊阯
「戦死病没者表忠碑」脇石碑

征清之役戦死者哀
悼碑建設工ヲ竣ル
滋二其姓名ヲ勒シ
永ク後世ニ傳フ
明治29年6月30日 騎兵第一聯隊長 秋山好古 謹記

日清戦争時、秋山好古は陸軍騎兵少佐(戦中に中佐昇進)として出征。
明治29年8月には陸軍乗馬学校長(のち陸軍騎兵実施学校長)に就任。

騎兵第一聯隊阯
「騎兵第一連隊創設百年記念」
竹田恒徳(陸軍中佐)
昭和48年3月吉日 騎兵第一聯隊会

…昭和二十年一月今田義男聯隊長以下全員悉く国難に殉じ斃れて後已む壮烈真に鬼神も為に哭く…先人の英魂を弔い其遺烈と勲業とを永く後毘に伝えんが為、聯隊の旧阯駒場台上忠魂碑の傍に此碑を建つ

騎兵第一聯隊阯
満洲事変・支那事変・大東亜戦争
戦没者慰霊塔


木標に書かれた文字は風化しており辛うじて読み取れるものでした。
日清・日露戦争の表忠碑の隣に。

日清戦争、日露戦争、満洲事変、支那事変、大東亜戦争…
厳粛な空間が保たれている騎兵山の慰霊碑で、心静かに哀悼と感謝を捧げる…


陸軍獣医学校跡

騎兵山から北上。突き当りにある学校が「駒場学園高等学校」、この地はかつての「陸軍獣医学校」 。
騎兵と馬、馬と獣医。深き関係。 秋山好古は明治31年に駒場の陸軍騎兵実施学校長に赴任し、翌年には陸軍獣医学校長を兼務している。

駒場学園高等学校の守衛さんの許可を得て入構し跡地の碑を見学。

陸軍獣医学校軍馬碑

過ぐる大戦において多くの俊馬が大陸にまた南方に徴発され一頭も帰還することなく彼の地に没した
人為による無謀とはいえそのいたみを忘れぬことこそ我らの務めである
軍馬と因縁浅からぬこの地に小碑を建立し永遠にその霊を慰める
平成2年5月1日 駒場学園高等学校 校長 笠原喜四郎

陸軍獣医学校にあった「動物慰霊之碑」は両国回向院に戦後に移転している。


陸軍境界石(陸軍獣医学校)

陸軍獣医学校のあった駒場学園高等学校の東側の道路に「陸軍境界石」がいくつか残っておりました。
保育園建設敷地に沿って2つ。これはこのまま残ってくれるかな、保育園の完成後にどうなるかは気になるところ。

https://www.google.com/maps/place/35%C2%B039’23.3%22N+139%C2%B040’41.7%22E/@35.6564722,139.6760613,17z/data=!3m1!4b1!4m9!1m2!6m1!1s10Eq3VaKbm1RN8QosP52Fpi9tNlk!3m5!1s0x0:0x0!7e2!8m2!3d35.6564703!4d139.6782459

※保育園完成後に撤去されました。。。現存してません。。。

駒場学園高等学校と隣接する富士中学校の東側にもありました。
「陸軍境界石」(陸軍獣医学校)
陸軍省と見えますね。
笹藪の中に唐突に境界石を見つけて、ちょっと嬉しくなりました。 陸軍軍用地であったことを物語る歴史の証人。

この場所からそのまま北上していくと「京王井の頭線」。
その北側は駒場東大。
駒場東大には東京帝大航空研究所があったり、駒場公園前田家本邸には中島飛行機本社が疎開してきたりしますが、それはまた別の機会に。


池尻稲荷神社

この神社の南方には「駒澤練兵場」が展開。
今昔マップ on the web に合わせてみると、駒澤練兵場は現在は世田谷公園・自衛隊中央病院・三宿駐屯地などになっていることがわかります。


駒澤練兵場の排水水路・排水溝跡

神社の脇にちょっとした空間が不自然に残っていて。
これが「駒澤練兵場の排水水路・排水溝」の跡といわれている暗渠。
神社の敷地に沿うようにウネウネと排水溝跡が残っておりました。

池尻稲荷神社から駒澤練兵場方面へは暗渠が通路として活用されている。
(写真1枚のバイクの先が神社)
練兵場方面に進んでいたら途中で暗渠は見失いましたが。


陸軍糧秣廠の馬糧倉庫

池尻稲荷神社と駒澤練兵場のあいだあたりに。
「陸軍糧秣廠の馬糧倉庫」の転用倉庫が残っている。
現在は「ヤマト運輸 太子堂センター」と「生協パルシステム東京池尻センター」が利用している倉庫。
外装は今風だけれど、骨組は往時の基礎を活かしているようです。

かつての「陸軍糧秣廠の馬糧倉庫」の近くに、今は「学校法人 食糧学院 東京栄養食糧専門学校」。
なんだかんだで食糧つながり。
食糧学院のルーツは大正7年発足の食糧問題研究会。 昭和14年に食糧学校が開校。初代学長は三井清一郎陸軍中将・貴族院議員。 戦後の昭和21年に現在地に移転している。


陸軍境界石(陸軍糧秣廠)

「食糧学院」かつての「陸軍糧秣廠」の敷地に沿って歩いていると、ありました。(サイト「帝都を歩く」さんの)案内つきです。

「陸軍用地」(陸軍境界石)
黒く塗っているのが斬新。わかりやすくはありますが。
このあたりが「駒沢練兵場」の北端。


野砲兵連隊の兵営

駒沢練兵場西側。駅的には池尻大橋駅より三軒茶屋駅のほうが近いです。
例のごとく今昔on the web で補完。

駒沢練兵場西側には野砲兵連隊の兵営が集中。

近砲=近衛野砲兵聯隊 →昭和女子大
野重砲八=第一師団野戦重砲兵第八連隊
野砲一=第一師団野砲兵第一連隊 →下馬アパート

第一師団野砲兵第一連隊兵舎跡

下馬アパート近く。野砲兵第一連隊兵営の地。今となっては時代錯誤感にあふれる木造平屋建造物が残っている。

東京世田谷某国会館 (写真見ればわかりますが某国と伏せます) かつての第一師団野砲兵第一連隊の兵舎跡。 戦後に某国会館として利用されるようになった経緯は不明。なんとなく複雑な気分。


馬魂碑(野砲兵第一聯隊)

都営下馬アパート近く。
このあたりは前述したとおり野砲兵第一連隊の兵舎があった場所。
都営団地に囲まれるように小さな公園があり、その公園の片隅に幾つかの石碑が集められていた。

軍馬慰霊の碑…

https://www.google.com/maps/place/35%C2%B038’31.4%22N+139%C2%B040’33.8%22E/@35.6420556,139.6738669,17z/data=!3m1!4b1!4m9!1m2!6m1!1s10Eq3VaKbm1RN8QosP52Fpi9tNlk!3m5!1s0x0:0x0!7e2!8m2!3d35.6420648!4d139.6760489

「馬魂碑」
(都営下馬アパート近くの小公園「下馬アパート公園」)
昭和14年12月建立
(右の小碑は昭和44年12月に下馬史跡保存会建立)

野砲を牽引する為に馬の力が必要。砲兵と軍馬の繋がりも深く。愛護憐憫に溢れた慰霊の碑。
裏面を見ると「野砲兵第一聯隊留守隊長陸軍砲兵中佐◯◯」と記載がある。

「馬頭観音」
都営下馬アパート近くの小公園「下馬アパート公園」に。
ここでいう馬頭観音は仏教菩薩でもあり軍馬の仏でもあるのか。
軍馬慰霊の馬頭観音。

「軍馬梨山号 昭和十一年一月二十四日殉職」と書かれた慰霊碑もあった。


以下、2021年5月再訪

馬魂碑(再開発中)

都営下馬アパート再開発のために、馬魂碑のあった公園は封鎖されていました。
そのまま公園として復してくれるとよいのですが。

2024年 移築保存されていることを確認しました


東山の馬頭観音

馬頭観世音。軍馬を慰霊する馬頭観音。

東山の馬頭観音
 かつて、このあたり一帯は旧駒沢練兵場の跡で、旧陸軍の近衛第一師団5000人の将兵と1300頭の軍馬が日夜訓練に励んでいたところです。特に東山の傾斜地での急坂路訓練は大砲を6頭立てや8頭立ての馬に引かせて坂を駆け上がり下りをくりかえす人馬一体となっての厳しい訓練でした。
 この馬頭観音は軍馬を愛し大切にしていた旧軍隊の兵士が訓練に倒れた2頭の軍馬の供養碑として建てたものです。正面に馬頭観音の文字を刻み、背面には「〝苫良号〟腰椎骨折、大正11年5月22日供養、第3中隊」と由来が書かれています。東山中学生や地元の人々の善意で屋架が大切に保存されています。  
平成4年3月 
目黒区教育委員会

結構な坂道。かつて軍馬もこの地で訓練に明け暮れ、そして斃れた。

場所

https://goo.gl/maps/92W54pc343rEDGXr9


記事追加(2021年5月)

陸軍境界石

都営下馬二丁目アパートの南側に、境界標石が2つ確認できた。

ひとつめ。

ふたつめ

場所

https://goo.gl/maps/NUgMaQRLAddaRGuK9


三軒茶屋と池尻大橋界隈。
この界隈は、軍馬との繋がりを深く感じる散策でした。

動物慰霊之碑(陸軍獣医学校・両国回向院)

平成30年参拝

かつて陸軍獣医学校内にあった「動物慰霊之碑」(昭和3年3月建立)が、紆余曲折あって、戦後に両国回向院に移転している。
陸軍獣医学校 はかつては世田谷区の、現在の 駒場学園高等学校 のあたりにあった。(後日まとめます)

両国回向院(本所回向院)は、動物供養でも著名な寺院さん。

動物慰霊之碑

昭和3年3月建立陸軍獣医総監 岡田勝男 謹書。
岡田勝男は、東京帝大獣医学科卒の陸軍獣医中将。

昭和三年三月
動物慰霊之碑
陸軍獣医総監 岡田勝男 建立

碑裏面
この碑は東京都世田谷区下代田町旧陸軍獣医学校内にあったもので、同校明治以降の教育研究に犠牲となった動物及び物言えぬ戦士として戦場に散華した軍用動物の霊を慰めるため、当時の学校長岡田勝男氏により建立され懇ろに祀られて来たのであるが、昭和20年敗戦の後は全く荒廃に委ねられて来たこと、幸い当回向院並に多数援助者の厚志により、今回この地に移し永く供養し得ることとなったこと、当時それら40数万に及ぶ軍用動物と生死を共にした旧陸軍獣医部員5千余名の深く喜びとするところである。
昭和38年4月29日
紫陽会
会長 渡辺満太郎

陸軍獣医学校の跡はこちら


回向院

 明暦3年(1557)、江戸史上最悪の惨事となった明暦大火(俗に振袖火事)が起こり、犠牲者は10万人以上、未曾有の大惨事となりました。遺体の多くが身元不明、引き取り手のない有様でした。そこで四代将軍徳川家綱は、こうした遺体を葬るため、ここ本所両国の地に「無縁塚」を築き、その菩提を永代にわたり弔うように念仏堂が建立されました。
 有縁・無縁、人・動物に関わらず、生あるすべてのものへの仏の慈悲を説くという理念のもと、「諸宗山無縁寺回向院」と名付けられ、後に安政大地震、関東大震災、東京大空襲など様々な天災地変・人災による被災者、海難事故による溺死者、遊女、水子、刑死者、諸動物など、ありとあらゆる生命が埋葬供養されています。
墨田区 

諸宗山 回向院
明暦三年(一六五七年)江戸大火(振袖火事)に依る死者10万8千余人を弔うために建立された。
本尊 阿弥陀如来 (東京都重要文化財)
安政大地震(一八五五年)の死者2万5千人余を初めとして、江戸府内の無縁仏、天地地変に因る死者も埋葬され近くは大正12年の関東大震災の死者10万余人の分骨も納骨堂に安置されています(以下略

「陸軍中野学校 ・豊多摩監獄・野方配水塔」中野の戦跡・近代史跡散策

平成29年

・陸軍中野学校
・豊多摩監獄
・野方配水塔

平成29年10月28日。
当初の予定が雨で崩れたために予定変更の散策。

さすがに中野は再開発で見るべきところはすくないけど、ちょっとだけ往時を偲ぶ痕跡を探してみました。

中野駅前

JR中野駅北口。物産展やってました。
この場所がすでに陸軍用地。戦前の「陸軍中野学校」がこのあたりに展開されていました。
何度かの開発を経て、この写真に写っている「中野区役所」と「中野サンプラザ」の地は更なる再開発になるとのことで。

中野駅の北側に「陸軍中野学校」、
その北は「豊多摩刑務所」。

戦後、陸軍中野学校の跡には警察大学校・警視庁警察学校などがあったが2001年に府中に移転。
その後は2008年に東京警察病院がこの地に移転。
また「中野四季の森公園」が整備され、明治大・帝京平成大学などが開設している。

位置関係

以下は、1944/11/07(昭19)陸軍撮影の航空写真(8921-C6-140)

中野区役所の前に、お犬様がおりまして。

陸軍中野学校よりも前の時代。江戸時代。
この地には5代将軍・徳川綱吉公の時代、元禄8年(1695)に作られた「犬屋敷」があったという。この犬像は1991年に寄贈。

中野区役所の前庭に。
中野が歩んできた歴史の一節が記載されておりました。

中野史跡碑」(昭和43年建立)
徳川五代将軍綱吉の犬小屋、八代将軍吉宗が桃園と御立場を設置、明治に中野電信隊・鉄道隊・気球隊が創設、そして陸軍中野学校が整備、戦後のGHQ進駐から警察大学校など…。

中野四季の森公園

平成24年、警察大学校の跡地を活用してできた防災公園。
中野四季の森公園の周囲には「明治大学」「帝京平成大学」「中野セントラルパークサウス」「中野セントラルパークイースト」などが展開されている。

もちろん、この地も戦前は陸軍中野学校跡。

当地には陸軍の鉄道隊・電信隊・気球隊が明治30年(1897)に創設。
のちに鉄道隊と気球隊は千葉に移転。(習志野鉄道聯隊など
当地に残った電信隊が第一電信聯隊と改称し、のちの「陸軍中野学校」へと。 電信をスタートして諜報や防諜・宣伝など秘密戦へと進化。

中野四季の森公園 いまとむかし(一部抜粋)
時は流れ、明治期から第二次世界大戦の終戦までは陸軍関係の施設がありました。陸軍の鉄道隊・電信隊・気球隊兵舎が明治30年(1897年)に創設され、後に交通兵旅団司令部も置かれましたが、やがて鉄道隊・気球隊は千葉県下に移転し、電信隊のみが残り、第一電信連隊と改称しました。その後にできたのが陸軍中野学校でした。この学校は『「謀報謀略の化学化」に対応するための要員養成所』として設けられたと言われています。

陸軍中野学校

スパイ養成学校と言った感じでとにかく後世のイメージは悪いですよね。

陸軍中野学校は、諜報や防諜・宣伝など秘密戦に関する教育や訓練を目的とした大日本帝国陸軍軍学校で情報機関のひとつ。
昭和13年に防諜研究所として創設され、昭和15年には陸軍中野学校と改称。

昭和13年の創設時は東京九段(軍人会館近く)にあった愛国婦人会本部別館にあったが、昭和14年4月に旧電信隊跡地の中野に移転。

昭和19年には静岡浜松天竜に遊撃戦(ゲリラ戦)要員養成の為の「陸軍中野学校二俣分校」が開校。

昭和20年4月、空襲激化に伴い陸軍中野学校は群馬富岡に疎開。松代大本営と東京の中間地が富岡の選定理由という。
そうして疎開先の富岡で終戦。(疎開先は現在の県立富岡高校)

東京警察病院

戦後、陸軍中野学校跡に「警察大学校」「警視庁警察学校」などが開設。それらの警察学校は平成13年(2001年)に府中に移設。
2008年(平成20年)に「東京警察病院」が千代田区富士見から当地に移転し現在に至る。一応、誰でも受診出来るらしい…

陸軍中野学校址碑

東京警察病院敷地内
敷地内の北西角にある「碑」を見学。
極めてわかりにく場所。その歴史を隠すかのようにひっそりと植え込みの中に「陸軍中野学校を物語る碑」があった…

陸軍中野学校址碑
碑裏面

國際情勢の緊迫と列強秘密戦の激化に鑑み軍は昭和十三年七月九段に後方勤務要員養成所を臨設 翌年四月現在地に移設し昭和十五年八月これを陸軍中野学校と改称した
昭和二十年四月群馬県富岡町に移転するまで六星霜、全軍より厳重に審査簡抜せる要員を集め情報勤務教育を施すと共に國軍高度の秘密戦研究に当たった
創設の精神を発揚し負荷の重責を果たすため本校は特に精神の陶冶を重視してその中心として楠公社を建立 学生は夙夜この社頭に魂の修練を重ねた此の碑の立つ所即跡地である

陸軍中野学校 初代幹事 福本亀治 謹書
中野校友会 建立

「陸軍中野学校址碑」を謹書した福本氏は陸軍中野学校の創設メンバーの一人。 (岩畔豪雄中佐・秋草俊中佐・福本亀治中佐の3名が創設委員)
福本亀治氏は二・二六事件当時は東京憲兵隊特高課長で取り調べを担当。のちに中野学校幹事に就任。その後は第六方面軍憲兵隊司令官兼漢口憲兵隊長・少将。

摂政宮殿下行啓記念碑

「陸軍中野学校址碑」の隣には「摂政宮殿下行啓記念碑」
これは大正12年5月28日に当地の「中野陸軍電信隊」を摂政宮殿下(昭和天皇)が行啓されたことを記念。

碑裏には「昭和6年3月」「軍用鳩調査委員事務所職員一同」と記載あり。
中野の電信隊では軍鳩の飼育研究も行われていたのだ。

中野陸軍電信隊と軍用鳩・・・

写真は靖國神社の「鳩魂塔 」

この靖國神社「鳩魂塔」は、伝書鳩の霊を慰める為に昭和4年に中野陸軍電信隊内に建立されたことに始まる。
その後、上野恩賜公園を経て昭和57年に靖國神社に復元奉納。

軍用鳩魂の記憶は、平和を希求する「靖國神社の白鳩」へと受け継がれているのだ。


陸軍中野学校の跡から北北東の方向に歩みをすすめる。

中野区立 平和の森公園

かつての豊多摩刑務所(後の中野刑務所)
1910年に開庁、1975年に廃庁。
1985年に跡地に平和の森公園として部分開園。

中野「平和の森公園」南側。
矯正研修所東京支所と野水再生センターの間の道から垣間見れます。

旧豊多摩刑務所表門
(豊多摩監獄・中野刑務所)

後藤慶二・大正4年(1915)
旧豊多摩刑務所表門は大正時代の建築家であり35歳で急逝した後藤慶二の手による現存する唯一の建築物。 イギリス積。

豊多摩監獄設計者 後藤慶二
大正モダニズム建築の傑作 豊多摩監獄

豊多摩監獄の工事主任及び現場監督として、実質的な設計にあたったのが後藤慶二(明治16年‐大正8年・1883-1919)でした。
完成をみたのは大正4年(1915)、後藤が東京帝国大学卒業後司法省に入り、技師となってまだ6年目のことでした。洋画を学び豊かな芸術的才能を持ち合わせた後藤は、監獄という機能的な建築物の設計において、先進の技術を用いながら、大正モダニズム建築の代表作として評価される芸術的な作品を生み出しのたのです。しかし、彼は惜しくも36歳の若さで夭折しました。
中野刑務所の遺構である旧豊多摩監獄表門は、今日現存する彼の唯一の作品です。( 矯正図書館 展示より)

旧豊多摩刑務所表門から、そのまま道なりに歩いていけば「法務省 矯正研修所東京支所」に。
中野刑務所時代の塀かどうかはわからないけど、古さを感じさせる良き気配。 でもこの先は立入禁止。

矯正研修所東京支所の隣に「CAPIC刑務所作業製品展示ルーム」。
併設された「矯正会館・矯正図書館」ではちょうど矯正図書館開設五十周年特別展示が行われておりました。

「刑務所近代化の歴史とそれを支えた人びと」
まったく予定しておりませんでしたが面白そうなので立ち寄りを。

以下、興味を持った展示内容などを。

豊多摩監獄内の神社「寶樹稲荷社」
元は市ヶ谷の備中松山藩板倉家鎮守社。
明治8年の市ヶ谷監獄建設に伴い市ヶ谷監獄の鎮守社に。
大正4年に市ヶ谷監獄が豊多摩監獄に移転した際に当社も遷座。
平成27年に中野新井の新井天神・北野神社の境内稲荷社に遷座合祀。

清浦奎吾揮毫「刑は刑無きに期す」(昭和8年・複製)・尚書(書経)
清浦奎吾(1850-1942)は内務省警保局長・司法次官・司法大臣等を歴任し日本行刑制度の基礎を築いた。
1900年から1909年までは監獄協会(現在の矯正協会)の会頭・総裁。
1924年に内閣総理大臣就任。

旧豊多摩監獄(中野刑務所)で使用されていた煉瓦。
これは「桜花」が刻印された「小菅監獄製煉瓦」。
豊多摩監獄では「小菅監獄製」の他には「上敷免製」刻印の日本煉瓦製造会社製の2種類があったという。

廃庁嗟惜

惟時、昭和58年3月31日。
此の日、職員41名、在監者なく、天気麗燿なれど寒風強し。 
豊多摩監獄、豊多摩刑務所、中野刑務所と三代70年に亘り、行刑の栄光と苦難の道を一途に歩み来たりしも、今、将に永遠に終焉の帷りを閉じなんとす。
(中略)
孤独なれど粛然として消え去り行く、我が中野刑務所よ。
 静かに眠れ。
  そして、消え去れよ。
   嗚呼
昭和58年3月31日 中野刑務所長 …

矯正図書館企画展にて良き学習を。
刑務所からみる近代史というのは縁がなかったもので。

さて移動。
「平和の森公園」の平和資料展示室に行こうと思ったら…へっ?
「平和資料展示室」は展示終了、展示資料の一部は区役所に…って区役所は散策の最初だったし、区役所に戻るつもりもないのでまたの機会に。。。

北上。西武新宿線を越えて哲学堂公園近くまで歩む。

中野区立 水の塔公園

名前の通り、ここには水の塔=配水塔があります。

野方配水塔

国登録文化財
淀橋浄水場などを手がけ近代上水道の父と称された中島鋭治博士の設計。
着工は昭和2年(1927)、竣工は昭和4年。高さは33.6m、直径は約18mの鉄筋コンクリート造り。
世田谷区喜多見で多摩川から引水。
昭和41年まで稼働。東京近郊都市化のシンボル。

正面には弾痕の跡が残る。
大きくシンボル的であった給水塔も戦禍の歴史を刻んでいた。

野方配水塔
空襲時の弾丸の傷跡が残されている配水塔です。
関東大震災後、都市化による水の需要に応えるため、この地にあった給水場に、配水塔がつくられました。
この配水塔は1966(昭和41)年に配水を止め、その後、災害用給水槽として使われてきました。
中野区

旧野方配水塔(国登録文化財)

野方配水塔は、荒玉水道の給水場につくられた塔でした。荒玉水道は大正12年(1923)の関東大震災後、東京市に隣接した町村の急激な都市化による水の需要に応じるため、当時の豊多摩・北豊島両郡にある13の町々が連合して設立しました。
配水塔は、ドイツで衛生工学を学び、淀橋浄水場をつくった「近代上水道の父」中島鋭治博士(1858~1925)の設計です。
着工は昭和2年(1927)で竣工は同4年です。高さは33.6m、基部の直径約18mの鉄筋コンクリート造りです。
世田谷区の喜多見で多摩川から引水し、60万人の2時間分が貯水可能と言われ昭和41年(1966)まで使われていました。その後、解体計画もありましたが、平成22年(2010)に国登録文化財となり大切に保存されています。
ドーム型の屋根が、地域の特徴ある景観を形づくり、江古田の水道タンク・水の塔・給水塔などと親しまれてきた、東京近郊都市化のシンボルです。
平成26年2月 
中野区教育委員会

正面の「みずのとう幼稚園」側から、水の塔を臨む。
頂点の造形が配水塔にしておくにはもったないくらい美しい。

今回の中野散策編はこれでおしまい。

満蒙護國神社

平成30年6月参拝

埼玉県・出雲大社朝霞教会 境内社

満蒙護國神社
平成元年四月十五日建立

照清大権現縁起
霊夢に依り昭和十四年五月ソ満国境ノモンハン事変に参戦護国の英霊となられた戦友七千六百拾六名の御霊を靖国神社より分祀 
この地の守護神としてここに祭る

ノモンハンの桜

満蒙護国神社
由緒
昭和14年5月、ソ満(旧・ソ連と満州)国境に勃発して”ノモンハン事変”にて英霊となられた戦友7,616名の御霊をお祀りしています。(先代教会長・渡邉清はこの戦争を経験しました。)

出雲大社朝霞教会

埼玉県朝霞市鎮座。
宗教法人 出雲大社朝霞教会は昭和58年3月に宗祠(出雲大社)よりご分霊をお祀りし、埼玉県内唯一の出雲大社として創建されました。
地域の皆様には、“朝霞の出雲大社”“埼玉の出雲さん”などの愛称で親しまれています。 由緒はサイトより

2019年現在、新社殿造営中。仮社殿となっております。
以下の写真は過去の模様です。

御朱印をいただきました。
あわせて幸福の飴もいただきました。
ありがとうございます。

大阪城周辺の戦跡散策

平成29年4月

平成29年4月18日。大阪に用事のあった私は午前中の空き時間を利用して大阪城界隈へ。
実に10年ぶりの大阪城公園。
普通に廻っても面白くないので、近代史跡・戦争史跡(戦跡)を中心に散策してみました。 それでは参りましょう。


大阪城の戦跡関連


大阪城公園

JR環状線「大阪城公園駅」に到着したのが午前9時頃のことでした。
この日の散策は大阪城公園駅を起点終点に城の周りをぐるぐると。
真田さんの出迎えで気分が高揚してきますね。

大阪城公園駅から大阪城ホール方面に歩く。
最初に見えてきたのが「大阪砲兵工廠跡」


大阪砲兵工廠跡

昭和34年建立の記念碑。
もとは旧本館付近にあったが、大阪城ホールが建設されたため移築された。

現在の大阪城ホールのある場所(大坂城三の丸米蔵跡地)が「大阪砲兵工廠本館跡地」。 大阪砲兵工廠(大阪陸軍造兵廠)はアジア最大の規模を誇り、陸軍唯一の大口径火砲の製造拠点であったという。

余談ながら。
靖國神社第二鳥居は、1887年(明治20年)に「大阪砲兵工廠」で鋳造されたもの。 靖國神社に4つある鳥居の中で一番古く、また青銅製鳥居として日本一の大きさを誇っている。
写真は靖國神社第二鳥居(大阪砲兵工廠鋳造)


砲兵工廠荷揚げ門(第一荷積場)

大阪城ホールの北側。 「砲兵工廠荷揚げ門」(第一荷積場)
明治4年(1871)に建設されたアーチ荷揚げ門という。
周辺は立入禁止なので回りから眺める感じで。

北外堀を西に向かいます。
「大阪城桃園」がありました。


大阪砲兵工廠化学分析場(化学試験場)

大正8年(1919)竣工。
ネオ・ルネサンス様式、煉瓦造、地上2階・地下1階の建造物。
かつては阪大校舎や自衛隊建物として使用されるも、現在は使用されておらず放置中…。


守衛詰所(もしくは便所)とされる建物

化学分析場(化学試験場)の隣に。
筋鉄門跡附近。
建物は立入禁止。
化学分析場もであるが荒廃が進んでおり先行き不安。


大阪砲兵工廠 表門(正門)跡
明治天皇聖躅碑

碑には砲兵工廠と刻まれている。
筋鉄門跡。
「大阪砲兵工廠」としては左右の石組を残す。


大阪偕行社附属小学校跡

一度、大阪城公園から外に。
外堀と学校に沿って歩く。
この学校は「追手門学院」
学校に古風な門柱があり、戦前の「大阪偕行社附属小学校」名残。

偕行社とは陸軍将校倶楽部(海軍は水交社)。
戦後、大阪偕行社解散後に小学校は「追手門学院」として存続。

大阪偕行社附属小学校は、今は中高等学校。

当時からの壁か。古風な雰囲気を残す。

陸軍標石も残っている。

意味ありげな柱。


通りすがりに目についたのが

大阪府庁舎本館

大正15年(1926)竣工。
現行の都道府県庁舎として最も古いものであると。


その「大阪府庁舎本館」の道を挟んだ隣に。

大阪連隊区庁舎跡

コンクリ壁。 敷地は工事中でした。
コンクリ壁はなんとなく残ってますね。


大阪府庁から大手門の方に向かいます。 見えてきたのが

大阪市大手前配水場高地区ポンプ場

昭和6年(1931)建造とのことで。


大阪城大手門の近くに。
近代史跡じゃないけど、ここには立ち寄らねばと思いました。

生國魂神社お旅所跡

秀吉よりも前の時代。
難波を代表する大社である生國魂神社(式内名神大社・官幣大社)は、かつてこのあたりに鎮座していたという。

さて。そろそろ大阪城へ近寄りましょう。
堀の向こうに大きく見えるのは「教育塔 」。
そちら側へはまたのちほどで参ります。


大阪陸軍兵器補給廠

大手門から城内へと侵入すると右手に「大阪城公園内城内詰所」が見えてくる。
この場所は戦前は「大阪陸軍兵器補給廠」であり、レンガ壁と門柱は、往時を偲びし現存する貴重な遺構。


大阪砲兵工廠製造の水道管

ん?なんかパイプが見えますね。 大坂城天守閣南西側の内堀にかかるパイプ、実はこれは「水道管」 日本で初めて製造された「鋳鉄管」を用いた水道管は「大阪砲兵工廠製造」の水道管なのです。 これも貴重な近代産業遺産。

石山本願寺!


豊国神社(大阪)

折角なので大阪城内の「豊国神社」に参拝。
京都と名古屋は「とよくに」で大阪は「ほうこく」だそうです。

名古屋の豊国神社さんの御朱印帳に大阪の豊国神社さんの御朱印を頂戴致しました。ありゃ、これは京都にも行かないとダメですかね。

豊臣秀吉公像。

ところでこの日の大阪城界隈は中韓の観光客がぱっと見の体感で8割ほどおられましたが、秀吉公の像で記念撮影している方々もおられましたが、それで国に帰っても大丈夫なのでしょうか。


第四師団司令部庁舎

旧・大阪市立博物館 かつての「第四師団司令部庁舎」
第4師団司令部庁舎として昭和6年(1931)3月に竣工。 市立博物館としては2001年に閉館。2017に複合施設として再開業。

今回は天守閣には登りませんでした。
今思えば登れば上から「第四師団司令部庁舎」がみれたんですね。惜しいことしましたがどのみち時間が無かったと思います。


教育勅語記念碑

売店の裏手に。訪れる人もなくひっそりと碑がございました。
「教育勅語渙発40周年記念」として大阪市内の教育者たちによって建碑されたものです。
昭和6年2月11日竣工。

朕?惟フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇?ムルコト宏遠?ニ德ヲ樹ツルコト深厚ナリ……

歴史を物語る一証人として、記念碑は静かにそこにあった。
記念碑を前にして、しばし教育勅語と対座する空間。

大阪城の天守閣を背にして南下します。


地下壕入口

第四師団司令部庁舎の向かい。内堀に穴が空いてまして。 これは「地下壕入口」とのことで。 よく見るといろいろありますね。


大阪城公園の南外堀に移動。

城南射撃場跡碑

城南射撃場は昭和7年5月に陸軍によって建設。戦後は自衛隊に引き継がれ昭和43年に撤去。大阪城公園として再整備された。
訪れた際は辺り一面が桜花びらの絨毯で、記念碑に腰掛けて記念撮影している方もいたり。

城南射撃場は昭和7年5月陸軍によって建設、戦後は陸上自衛隊に引き継がれて隊員の訓練などに供されていた。昭和43年11月、大阪市の緑化100年運動の一環である大阪城公園の整備推進に協力し撤去された。
昭和44年5月24日 大阪市


南外堀にひときわ大きな塔がある。

教育塔

昭和11年(1936)建立。
教育に関する殉職者・殉難者の慰霊を目的として建設された。

「教育塔」
レリーフは「教育勅語を奉読する校長先生と子供たち」「台風から子どもを守る先生」を描いたものという。元々は教育勅語が発布された10月30日に「教育祭」が行われていたが、2008年から最終日曜となったらしい。

外堀の南からぐるりと東廻りで北上。
ちょっと行程が悪いですね。

改めて北側の山里門から再度大阪城内堀へ。
秀吉公と淀君の自刃の地。


北側の山里郭にある記念碑。

真心 碑

旧中部第三十五航空情報隊
女子防空通信手有志
昭和四十一年十一月吉日

女子防空通信隊宿舎の跡。
昭和20(1945)年6月1日の空襲で焼夷弾により焼失。

北側の山里曲輪や天守台には「機銃掃射跡」や「1トン爆弾による石垣のずれ」もあるというが…天守台のほうは、うっかり忘れていたり、機銃掃射は石垣の上ばかりみていて見逃していたりしたとか。

再訪しています


位置関係

午前9時ちょい前にスタートして11時半に駅に戻りまして。
所要時間はざっと2時間半で8キロの散策。

大阪城には意外と近代の何かが残っていて。
思ったよりは結構楽しい散策ができました。

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M84-1-97
1948年08月31日に米軍が撮影した航空写真を加工。

このエリア、取りこぼしが多いので、再訪すると思います


関連

東京砲兵工廠はこちら

西淡路高射砲陣地跡(解体済)

(西淡路高射砲台・国次高射砲陣地)

平成30年(2018)8月及び令和元年(2019)6月撮影

※解体済み

大阪に出張に行く機会がありまして。
フォロワーさん(盡忠報國さん)情報で、道路新設の為に近々取り壊し予定という高射砲台跡をみてきました。


西淡路高射砲陣地
(西淡路高射砲台・国次高射砲陣地)

大阪市東淀川区

戦後に住居として再利用された高射砲台跡。


位置関係

以下、参考として。
戦後に米軍が撮影した航空写真(1948年02月20日撮影)

ファイル:USA-M18-4-21-2.jpg
地図・空中写真閲覧サービス
及び
Google航空地図を抜粋加工。

北のほうを拡大

現在の様子

3D


高射砲陣地の解体前写真

写真など。

以下は平成30年

以下は令和元年6月、まだ現状維持のままでした。


高射砲陣地の指揮所

指揮所は、2021年春の段階では、まだ残っていた。。。


名古屋熱田の戦跡散策

平成29年1月

・名古屋陸軍造兵廠跡
・熱田神宮被爆鳥居
・堀川被爆護岸堤防

平成29年1月29日昼過ぎ。熱田到着。
過去、熱田神宮には何度か参拝に来たことはあった。しかしかつては熱田神宮と境外社などしか訪れておらず、で。
熱田に戦争関連の史跡が残っているとは露知らず、でした。


神宮東公園

JR熱田駅に東側に、「神宮東公園」という公園がある。
その一番北の方に、案内も特にないけどなにやら記念碑のようなものがあって、それが最初の目的地。


名古屋陸軍造兵廠跡

1904年(明37)東京砲兵工廠熱田兵器製造所として発足。
1923年(大12)名古屋工廠熱田兵器製造所。
1940年(昭15)名古屋陸軍造兵廠熱田製造所。

名古屋陸軍造兵廠シンボルマークは「名古屋城の金鯱」をイメージしたもの。

名古屋陸軍造兵廠跡・碑文

名古屋陸軍造兵廠は明治三十七年陸軍省がこの地に東京砲兵工廠分廠として創設以来昭和二十年八月の終戦まで国家の要請に応えて来た。 第二次大戦末期には本部の外、熱田・高蔵・千草・鳥居松・鷹来・楠・柳津等の製造所を有し、三万五千人が奉職して居た。 私達は多くの殉職者のご冥福と世界平和を祈ります。 碑は名古屋陸軍造兵廠のマークで名古屋城の金の鯱を象ったものである。
 昭和五十四年十一月三日
  名古屋陸軍造兵廠記念碑建立委員会

一大軍需工場であった熱田の地を偲ぶ記念碑。
いまは静かな公園の片隅に佇むこの記念碑に見向きをする人もすくなくはなってしまったが、私のような人がときより訪れるわけで。
往時を偲び、自然と手を合わせてしまう場所でもある・・・

名古屋陸軍造兵廠跡
現在はその敷地の大部分を「中京倉庫」が活用をしている。
倉庫敷地内にはおそらく往時からと思われるレンガ造りの建造物が点在しておりました。

中京倉庫敷地の一番北側。
道路に面してレンガ造りの建物が横たわっております。
これはなかなか見ごたえのある建造物ですね。

歩道橋から俯瞰してレンガ建物を見学することが出来ました。
これは圧巻。

名古屋陸軍造兵廠跡
中京倉庫の敷地内には、よく見るとほかにもレンガ建物が点在してますね。

名鉄とレンガが一緒に見れるポイントに、心がワクワクしてます。


熱田神宮

さて、続いては熱田神宮さんへ。
熱田神宮を境内境外含めじっくり参拝すると半日は余裕で消費してしまいますが、さすがに時間がないので今回はさくっと参ります。
名鉄神宮前駅の入り口から参進。
東門ですね。
・・・というか、熱田神宮宮廳の入り口ですね。

参拝。
すごい人出です・・・さすが熱田さんや。

熱田神宮さんの御朱印・・・いえ熱田神宮さんでは「御神印」と表現しております。
今回は熱田神宮さんの御神印だけを頂戴致しました。
(別宮や境内社・境外社、それぞれ参ればいろいろいただけます)

御神木 大楠
圧巻の存在感です。


熱田神宮 南の鳥居

さて本題。 熱田神宮に訪れたのは参拝したかったというのも勿論ですが、戦災の記憶がここにもあるわけで。

昭和20年6月9日。
米軍爆撃機B29が名古屋市熱田区を空襲。
熱田神宮南側の鳥居には、その時の爆弾の破片で受けた傷とされるものが残っておりました。 破片傷だけで済んでおり類焼を免れたのは奇跡的というしかなく。

さて、熱田神宮の次は、川岸に向かいます。
熱田神宮の川岸といえば、察しの良い方は「七里の渡し」(東海道熱田‐桑名の海路)を思い出すかもしれませんが、今回は七里の渡しのある堀川の対岸のちょっと北側になります。

めざす目標は愛知時計電機のすぐ隣の土手。


愛知時計電機

航空機製造メーカーとして著名であった「愛知航空機」は、まさにこの愛知時計電機から航空分門が分社した会社であり、親会社の「愛知時計電機」もまた戦前は軍需産業を担っていた。

さきほどの熱田神宮の鳥居でも触れた、昭和20年6月9日の熱田空襲の本命目標は、それこそ軍需工場であった「愛知時計電機」や「名古屋陸軍造兵廠」であった。
写真は 「愛知時計電機」 本社建屋(名古屋市まちなみデザイン貢献賞受賞)


熱田空襲 被爆堤防

堀川運河。
愛知時計電機のすぐ脇に保存されている戦跡。
そこには、 熱田空襲の爆撃を喰らった堤防が移築の上で保存されている。

被爆堤防の碑文

この護岸は、昭和八年に築造され、平成四年度から実施した「マイタウン・マイリバー整備事業」による新たな護岸の設置にあたり、撤去したものの一部である。
護岸表面にみられるくぼみは、昭和二十年六月九日のいわゆる「熱田空襲」の爆撃によりできたものである。
 平成八年三月 
  名古屋市

護岸表面にみられるくぼみ。写真では伝えにくいが、見た目以上に深くくぼんでおります。試しに10円玉を置いてみました。爆弾の破片の威力の大きさを感じることが出来ます。

往時を記録する堤防を前にして、空襲で犠牲になった方々のことを思い静かに手を合わせる。

広島護國神社と戦跡散策

平成29年(2017年)

廣島護國神社

3月3日夕刻。この日は広島中心部に宿を取っていた。
宿に向かう途中、広島護國神社に立ち寄り。
実は3回目の参拝。とはいっても10年ぶり。
その10年前は、一部で有名な例の「万灯みたままつり」の参拝でした。それはそれで懐かしい思い出…

広電に揺られて紙屋町経由で社頭に到着したのは15時30分のこと。
現在の鎮座地は「広島城跡」内。
戦後の遷座。

広島護国神社

明治元年12月、戊辰戦争において陣没された七十八柱を「水草霊社」に奉祀されたのが創建。

以来、大東亜戦争に至るまでに戦没された御英霊約九万二千余柱(勤労奉仕中に原爆の犠牲となられた動員学徒、女子挺身隊等約一万柱を含む)の御神霊をお祀りしている。

昭和9年、御社殿の老朽化に伴い、創建の二葉の地より西練兵場(旧市民球場の辺り)西端に新社殿を造営し遷座。
昭和14年に広島護国神社と改称。
昭和20年8月6日、至近距離上空で原子爆弾が炸裂し御社殿すべてを焼失。

写真は旧鎮座地の旧市民球場かいわい。

これは完全に余談。
映画「この世界の片隅に」にて
昭和16年12月に護國神社参道で、すずさんとすみちゃんが貝を売っていた参道は現在の護國神社の地ではなく、被爆前の旧鎮座地(=現在の原爆ドームの向かいの旧市民球場界隈)。

画像は「この世界の片隅に」ロケ地マップ及び絵コンテ集より

被爆後、同地に小祠にて再建。
昭和31年秋に現在の広島城跡に新社殿が造営され遷座。
平成5年4月、本殿拝殿などが竣功し、平成21年6月に社務所などが再整備され、現在に至る。

深く拝する。

感謝と哀悼を。

御由緒

9万2000余柱を奉斎。
そのうち1万柱は、地域・職域・義勇隊・動員学徒・女子挺身隊などの公務原爆関係の御祭神。

社号標は陸軍中将田部正壮。幕末から日清日露戦争の頃の軍人。広島出身。退役後は広島市長も務めている。

双鯉の像
昇鯉の像

狛鯉…ここは確かに広島ですね。

完全に逆光シルエットになってしまいましたが、護國神社らしい力強い狛犬もちゃんとおります。

英霊にささぐ

英霊にささぐ

父慕い
母の育み
幾春秋
深き恵みに
われはこたえん

昭和53年10月吉日 広島市遺族会青年部

神馬像

御朱印を戴きました。
桜柄の靖國神社御朱印帳に各地の護國神社の御朱印を戴く事に。

広島護國神社にはオリジナル御朱印帳が三種類ございました。
凄く悩みましたが戴くのは自粛。 錦鯉の御朱印帳! 巫女さんの御朱印帳!

やはり、広島護國神社といえば「万灯みたままつりの巫女おどり」が有名です。
護國のみたま祭。 御霊を慰める為の華やかなみこ踊りの祭礼。

かなり昔の平成16年(2004)に「万灯みたままつりの巫女おどり」を見学しておりまして。100人位の巫女さんが踊るのですが。
以下はそのときの写真。

まあ、そのはなしは良いかな。戻ります。

護國神社周辺の散策に向かいましょう。


中国軍管区司令部 防空作戦室跡

広島護國神社の向かって左側に。
中国軍管区司令部防空作戦室跡が残っている。
が、工事……

中国軍管区司令部 防空作戦室跡(爆心から約700メートル)
広島城とその周辺には、多くの軍事施設(中国軍管区司令部など)があり、ここには半地下式の防空作戦室が設けられていた。ここでは、多くの軍人、軍属に混じって、学徒動員された比治山高等女学校の女学生たちも働いていた。原爆で、市内の電信電話は破壊されたが、かろうじて残ったここの軍事専用電話を使って、女学生が広島の壊滅を通信した。これが、広島の原爆被災の第一報と言われている。

中国軍管区司令部防空作戦室跡。
入れなかったので覗いてみた。

中国軍管区司令部 地下通信室跡

中国軍管区司令部原爆慰霊碑

慰霊碑にて頭を垂れる。
(慰霊碑の撮影をするのを忘れておりました。そういう時もあります……

慰霊碑や中国軍管区司令部のあった場所のすぐ裏は堀があり、そして広島城二の丸跡が。

広島大本営跡

広島護國神社から天守閣のある方へ。
ここに広島大本営の基礎石が残っている。

日清戦争当時、広島城内にあった第五師団司令部建物が 明治天皇の行在所となり大本営が明治27年(1894)9月15日から翌年4月27日まで設けられた。 建物は原爆により倒壊。

基礎石のみが残る空間。

標柱は残るも上部を埋め固められている。

昭憲皇太后御座所跡

こちらは昭憲皇太后の御座所跡。
大本営跡の向かって左側に独立した基礎。

近代化の歩みのなかで、日清戦争当時、 明治天皇と皇后が前線近くの広島まで遷座され指揮を執られたといことだけでも、国を挙げての大決戦であったことを窺い知ることが出来る。

広島城

昭和20年の原爆によってすべてを建築物の焼失。
昭和33年に鉄筋コンクリートにて五層天守が再建。
今回は時間都合により天守閣は外から眺めるのみで…。

広島城趾をあとにして、外堀に沿って歩みを進める。

池田勇人像

逆光のなか、誰の像かなと近づいてみたら、池田勇人でした。
広島出身でしたか。
このポージングはインパクト大です。

歩兵第十一連隊跡

広島城の外堀に。
ひっそりと往時を偲ぶ空間がありました。

歩兵第十一連隊入口正門の門柱跡。
原爆被災するも残存。

門柱の由来
この石柱は歩兵第十一聯隊入口正門として建っていた門柱で長年月にわたり入隊訓練帰還と幾多の年代的過程を静かに見守って来た歴史の商人とも言える記念すべき門柱であります。しかも原爆被災の中で残存し得た当時を偲ぶ唯一の遺跡でもあります。幸い篤志家の手により広島市立福木保育園に保存されていたもので今般譲りうけゆかりの地に移転建立し歴史の証とするものであります。
昭和五十九年九月吉日 歩十一会

歩兵第十一聨隊略歴
一、明治八年五月広島の地に創設。同年九月九日聨隊旗受領
二、明治九年十月萩の乱に出動
三、明治十年西南の役に出動
四、明治二十七年日清戦争に出動、朝鮮、中国北部各地を転戦。同二十八年七月復員
五、明治三十三年北清事変に出動
六、明治三十七年四月日露戦争に出動、南満州(現中国東北部)の各地を転戦し、同三十八年十二月復員
七、大正八年七月シベリアに出兵。
八、昭和十二年七月二十七日中戦争に出動、中国全土を転戦
九、昭和十六年十二月八日太平洋戦争勃発、マレー作戦に参加し、のち南太平洋諸島を転戦中、昭和二十年八月十五日終戦となる。同年八月二十六日シンガポールにおいて軍旗を焼く。創設以来七十二年の歴史を閉じ解隊する。
十、この間、特に、昭和十二年日中戦争以降、歩兵第十一聨隊を母体とする藤部隊、槍部隊、開部隊、望部隊、西部第二部隊等を創設、各々克く健闘した。  
ここに、聨隊跡碑を建立し往時を偲ぶ縁とする。  
昭和五十五年七月建立
平成六年八月改刻 歩十一会


どうしても広島護國神社となると「万灯みたま祭」の印象が脳裏を離れないもので。
当時、戴いた団扇を。

護国の祈り

 春は微笑む 広島ざくら
  秋は冴えざえ 城の月
 平和を祈り 偲ぶは誰ぞ
  涙うるむ 大鳥居

 人のこころに 大本営の
  遠い明治を 語る風
 戦雲晴れて 社にねむる
  わが父わが子 わが友よ

 明治大正 昭和の御代の
  歴史映した 大田川
 九万余柱 勲は朽ちず
  いまは御国の 守り神
 
 世界平和を 求めて散りし
  人のいのちの 尊さよ
 護國の庭の 玉砂利踏んで
  御霊に平和 ただ祈る

山梨縣護國神社と戦跡散策

平成29年9月

甲府
・山梨縣護國神社
・陸軍歩兵第四十九聯隊(甲府聯隊)
・陸軍歩兵第四十九聯隊糧秣庫跡(赤レンガ)

平成29年9月3日。
護國神社巡りは長野と山梨に。
この日は無謀にも松本市と甲府市をハシゴし「長野縣護國神社」と「山梨縣護國神社」を参拝。
あわせて戦跡として「松本歩兵聯隊」と「甲府歩兵聯隊」名残の糧秣庫跡(赤レンガ)も散策してきました。
こちらは山梨編。

14時すぎ。松本から甲府に移動して甲府駅からバス。
「護国神社入口」バス停で下車。
北に向かえば武田神社、東に向かえば護國神社。
約10分ほど歩けば護國神社に到着。地図を見ていると武田家臣団の屋敷跡が点在していてそれはそれでワクワクする…。

山梨縣護國神社

狛犬台座には韮崎市軍恩連盟の碑銘。(平成4年建立)

慰霊のことば
私達は嘗て共に戦い祖国のためにその命を捧げ平和と繁栄の礎となられた英霊に感謝と慰霊の誠を捧げ安らかに神鎮りますことを祈願いたします
平成4年5月吉日 韮崎市軍恩連盟

社号標は松本三良謹書(甲州市勝沼ぶどう園「宮光園」)

実はワインと戦争の関係は深い。ワインに含まれる酒石酸を元にしたロッシェル塩がソナー(対潜音波探信儀)の材料となっていたのだ。
「ブドウは兵器だ」のスローガンを元に、戦うためのワイン造りを強いられた時代…

以下は参考として

戦時中のワイン造りの奨励 国税庁

https://www.nta.go.jp/about/organization/ntc/sozei/quiz/1212/index.htm

器造るための醸造 産経ニュース

https://www.sankei.com/region/news/150812/rgn1508120025-n1.html

戦争とワイン 宮光園 Wikipedia

https://ja.wikipedia.org/wiki/%e5%ae%ae%e5%85%89%e5%9c%92#.E6.88.A6.E4.BA.89.E3.81.A8.E3.83.AF.E3.82.A4.E3.83.B3

山梨縣護國神社

西南戦争以来の山梨県関係の戦没軍人軍属の戦死者を祀る。
西南戦争 50柱
日清戦争 568柱
日露戦争 449柱
台湾討伐 55柱
満州上海事変 73柱
支那満洲事変 1784柱
大東亜戦争 22071柱
御祭神計25,050柱(平成28年10月5日現在)

明治12年(1879)招魂社として太田町(現・遊亀公園)に建立
昭和17年(1942)に現在地に遷座
昭和19年(1944)山梨縣護國神社に改称
戦後の一時期は、山梨宮に改称していた
(現在は境内社の社号・後述)

感謝の念と哀悼の誠と。
参拝をする。

「御朱印」と「御守」を頂戴いたしました。

「海軍軍艦旗」と海軍シンボル「桜に錨」が刺繍された御守。
これは前々から頂戴したかったのです。
他にも陸軍迷彩カラーの御守や、陸軍四式戦闘機「疾風」が富士山と桜を背景に飛翔する絵馬など、意匠的な授与品が多数。

山梨縣護國神社 招魂斎庭

山梨縣護國神社では、山梨県出身の西南戦争から大東亜戦争に至るまでの殉国の御霊25050柱を祀るとともに摂社山梨宮において殉職された山梨県出身の自衛官の御霊(11柱)を奉祀している。

参拝の道標

ここは平和の杜です。
このお社は護國神社と言います。
明治十二年十二月招魂社として甲府市太田町に創建され昭和十九年山梨県民の総意により護國神社と改称しこの地に御遷座されました。
日本の平和と美しい山河や家族を護るために戦争で尊い生命を捧げられた山梨県出身の約二万五千人余りの方々を、神様としてお祀りしてあります。
私たちが平和で豊かな生活を送ることが出来るのはこの人達の尊い生命の犠牲のお陰です。
 「ありがとうございます」
と感謝の心をもってお参りしましょう。
これからも平和であるとともにご参拝により常識や道徳心を高め勤勉努力して、健康と強い心を養い自らを護り家族を護ることをお祈りしましょう。
山梨縣護國神社

戦没者(英霊)とは、”地球よりも重い”といわれる、一つしかない生命を、祖国日本と国民のために捧げた方々なのです。
英霊にこたえる会山梨県本部

今日の日本の平和と繁栄は、これを願って犠牲となられた多くの戦没者(英霊)のお陰であることを、忘れてはなりません。
英霊にこたえる会山梨県本部

山梨縣護國神社 
摂社 山梨宮

昭和二十一年社名を山梨宮と改称した時に合祀した 一世の亀鑑、師表と仰がれた民間人八柱が合祀。昭和二十七年境内に摂社山梨宮を創建。
 加賀美光章命(国学)
 志村天目命(心学)
 長田円右衛門命(御岳新道開削者)
 徳島兵右衛門命(徳島堰開削者)
 関戸左近命(義民大総代)
 金子重右衛門命(太桝事件主唱者)
 三沢重右衛門命(太桝事件主唱者)
 くり女命(節婦)

摂社「山梨宮」

殉職自衛隊員顕彰之碑
国防忠魂

自衛隊殉職者の霊に捧ぐ
平成14年建立

戦没者納骨堂

昭和20年、岩窪に陸軍墓地の建設が始まるも完成を見ないまま終戦。
陸海軍も解体され納骨堂は当時の大蔵省に移管。
昭和38年に甲府市に払い下げられ県の管理となる。
昭和51年に現在地に移築。
戦没者分骨5325柱、霊璽簿24915柱を奉安。

岩窪の地に陸軍墓地が予定されており、一部は納骨されていた。
山梨縣護國神社内に納骨堂が移設された際に改葬という。

現在は甲府市つつじが崎霊園となっている。
霊園内には甲府空襲慰霊碑や将校個人墓3基あるという。
(時間の都合で入口のみ写真撮影。霊園内は未調査)

慰戦没戦友之霊

昭和33年建立・四九会有志
甲府歩兵第49連隊(通称「甲府連隊」)
昭和17年に一部部隊をグアム島に展開。
昭和19年にフィリピンのレイテ島・セブ島に主力を展開。レイテ島守備部隊はその大部分が壊滅している。

愛の燈

日本赤十字社看護婦同友会山梨県支部・1973年建立

第二次世界大戦に際し赤十字の旗の下に勇躍応召し、大陸の荒野にて傷病者の救護活動に献身し、愛と奉仕の使命に殉ぜられた日本赤十字社山梨県支部救護看護婦の方々の遺徳をしのび、そのみたまのとこしえに安かれと祈ってこの碑を建立しました
平和のいしずえとして尊い命をささげられた私どもの同僚がこよなき誇りを抱きつつかかげた愛のともしびの偉大さをしのび、これを後世に永く伝えんとするものであります
1973年12月1日
日本赤十字社看護婦同友会山梨県支部

傷病軍人之碑

昭和五十六年建立・山梨県傷痍軍人会

我等は祖国の危急に際し、わが身を顧みることなく国難に赴き、苛烈を極めた戦火の中に多くの戦友を失い、自らは傷痍の身となって終戦を迎えた。
昭和二十七年同志相諮り、山梨県傷痍軍人会を結成、更に昭和三十五年妻の会の結成をみ、相寄り相扶け、傷痍を克服し、平和の願いをこめて、祖国の再建興隆につとめてきた。傷痍の身を顧み、あれを思い、これを思うとき、傷痍軍人の事跡をとどめるものは何ひとつないばかりか、永久の国の平安を希求する我等の心情を、後世に伝えるよすがとてもないことに思い至り、昭和五十四年八月十五日傷痍軍人の碑建立の議を起こし、心をひとつにする会員の善意を結集し、妻の会の協力のもと、戦没英霊の祀られるこの地に、平和の礎として完成をみるに至った。
 昭和五十六年四月十三日
  山梨県傷痍軍人会

豫科練の碑

平成7年建立

昭和五年六月一日、横須賀海軍航空隊へ第一期飛行豫科練習生七十九名が入隊した。以来昭和二十年八月十五日太平洋戦争終結まで、実に十五万人に及ぶ青少年が、国の防衛ならんと大空を目指して巣立って征った。山梨県からも多くの若人が、横須賀・土浦・三重・人吉・岡崎・奈良海軍航空隊をはじめ、全国十三の豫科練航空隊へ入隊し、自ら求めて日夜を分たぬ鉄石の猛訓練に耐え、心身を鍛え抜いたのである。
昭和十二年七月七日、日支日支事変が勃発するや、渡洋爆撃をはじめ各戦線に於て豫科練の初陣を飾った。やがて昭和十六年一二月八日、太平洋戦争開戦時には海軍航空隊の中堅搭乗員として、北は千島の果てより、南はソロモン諸島、西は印度洋へと、国家民族の為一命を捧げて国防の任に当たったのである。
昭和一九年十月には一機一艦を撃沈するの、特攻出撃は空のみならず、海では人間魚雷「回天」「震洋」「伏竜」隊員として豫科練の同窓生は、全作戦に参加し若い命を桜花の散るごとく、護國の神となって散華した。
生還した吾々は、昭和三十九年一月二十六日、県内在住の同窓有志に呼びかけ、豫科練雄飛会山梨県人会を結成以来、亡き友の慰霊を護國神社に於て続けてきた。
太平洋戦争終結五十周年に当たり、会員及び有志の浄財におり、ここ護國神社境内に「豫科練の碑」を建立し、県出身戦没同窓生の慰霊をその偉勲を永く後世に伝えるとともに、我国の安泰と世界の恒久平和を祈念し、この碑を建立するものである。
 平成七年八月十五日
    豫科練雄飛会山梨県人会

永久に語り継がなむ
 豫科練の
昭和の御代の
 武勲のあと

  平成七年八月十五日
   北巨摩郡大泉村 吟詠 十八期 小池 嘉昭

衣第三〇四一部隊 慰霊の碑

昭和63年10月建立
昭和17年4月に甲府東部六三部隊に於て編成。北支那方面派遣。終戦時にソ連軍の捕虜となり将兵全員がシベリア抑留。犠牲は330余名。
慰霊碑の全面には「シベリアの土」が奉納。

衣三〇四一部隊は、大東亜戦争勃発後の昭和十七年四月 甲府東部六三部隊に於て編成され北支那方面の治安維持、民生安定の警備に当たるために派遣されて、数多くの作戦に参加した。
この間、戦死・戦傷病死者多数の犠牲者を出した。
昭和二十年七月、北朝鮮咸與地区に移駐直後終戦となり、同時にソ連軍の捕虜となって、将兵全員がシベリア抑留の身となった。
抑留将兵は体力の限界に耐え、零下四十度余の酷寒と、飢えと、重労働のなか、さらに悪疫の流行によって悲しくも斃れた戦友の数は、全将兵一千名中、実に三三〇余名の多きに達した。
これら戦友の鎮魂と永久の平和を平和を祈念し、現存する元衣三〇四一部隊戦友一同の名においてこの慰霊碑を建立す。
 昭和六十三年十月六日

満蒙開拓青少年義勇隊之碑

昭和50年8月15日建立

拓友(とも)よ 安らかに 
眠れ 友よ帰らぬ友よ
君の大陸に残した足跡は深く大きくしるされている
われらはその足あとをしっかり踏みしめて前進する
友よ逝きて帰らぬわが友よ
静かに安らかにここにねむれ

満蒙同胞殉難慰霊碑

昭和36年3月建立

朔北の 満蒙の地に 逝きて帰らぬ 同胞を憶う

昭和二十年八月祖国の運命に殉じた満蒙開拓団・満蒙開拓青少年義勇隊・満州報告濃勤労奉仕隊・満蒙在留同胞の霊一九三六柱を此の處に祀る

ソビエト不法侵攻の尊き犠牲…

故満鐵本家義勇隊之慰霊碑

昭和50年4月8日建立
第七次満蒙開拓青少年義勇軍満鉄李家訓練所

あぁ、ソビエト…

二井義勇隊の碑

平成5年8月15日建立

昭和18年6月、満蒙開拓青少年義勇軍として山梨中隊を編成。 旧満州国北安省除海村二井屯の満鉄二井訓練所に入所。
終戦時に隊員は四散し、四十余名が大陸の土と化した…

硫黄島戦没者慰霊碑

碑面は「硫黄島」を型どっておりました。
昭和20年2月19日 ~ 3月26日 硫黄島の戦い

硫黄島戦没者慰霊碑
鎮魂の詩碑(平成7年建立)
詩碑は元横須賀海軍鎮守府昭和十一年会所属の篠原勤氏によるもの。

軍神若林東一顕彰碑

平成19年建立

若林東一中尉は第38師団歩兵第228聯隊第10中隊長。
若林中隊はガダルカナル島で戦いにて補給途絶えつつも陣地死守を敢行する。
「後ニ続ク者ヲ信ズ」の一言を残して昭和18年1月14日戦死。
ガ島52日分の日記を残す。

山梨県海軍戦没者 慰霊碑

山形県海交会は太平洋戦争終結五十周年にあたり祖国の繁栄と不滅を念じて祖国の英霊となられた、県内海軍戦没者四千七百二名の純真な気持ちを永久に顕彰するため、山梨県護国神社の聖域に慰霊碑を建立し、後世までの遺徳を偲び、感謝を誠を捧げるものである
 平成七年十一月三日
  山梨県海交会会長 塩川 光男

鎮魂 鵄三〇六三部隊戦没者鎮魂之碑

平成8年建立。鵄三〇六三部隊の慰霊碑。
昭和十八年四月に甲府にて編成。
おもに中国大陸の南京・上海に展開。
(第61師団歩兵149聯隊鵄3063部隊)

父の像

平成7年4月5日建立

殉国の戦士の遺児は、亡き父への思慕と誇りとを胸に 母と共に強くたくましく生きてきた 戦争の悲惨さ、平和の尊さを後世に伝えたいとの願いを込め 終戦50周年を機に、ここに父の像を建立する

気がつけば1時間半近くを境内で過ごしていたようで。
慰霊碑が多いとおのずと滞在時間も増えます。
佳き参拝が出来ました。護國神社をあとにします。

「山梨縣護國神社」の隣にあるのは「山梨県神社庁」


余事ながら
「山梨縣護國神社」の鎮座地 は、戦国時代は「甘利備前守虎泰の屋敷跡」
甘利虎泰は武田二十四将、信虎時代の武田四天王の一人。

江戸時代は「龍華山永慶寺跡」(柳沢吉保の菩提寺)という。
なお寺院は柳沢家の所領替え(甲府から大和郡山)に際して移築。

余事ながら
山梨縣護國神社の近くには「武田信玄公御墓所」(武田信玄火葬塚)もあります。
せっかくなので脚を伸ばしてみました。
周辺は「護国神社風致地区」として整備されているようです。

余事ながら
「武田信玄公御墓所」の向かいに「川尻塚」もありました。
甲斐国で武田遺臣に討たれた川尻秀隆の首塚ですから、扱いも、まあお察しです…
武田関連はキリがないのでこのぐらいで。次は甲府聯隊関連を。

陸軍歩兵第四十九聯隊(甲府聯隊)

まずは甲府連隊跡関連の地図を。
地図の記載場所は罠でした。
これのお陰で現地で「迷子」になりましたので、正しい場所と補足を画像で添付。

現在の「山梨県福祉プラザ」の駐車場。
その片隅に跡碑が残っている。

旧歩兵第四十九聯隊 営門跡

甲府聯隊の営門跡。昭和60年7月建立

歩兵第四十九聯隊跡碑

昭和44年4月20日建立

明治38年に習志野にて編成。
明治42年に甲府の現在地に新兵舎移転。
昭和19年12月20日、レイテ島に於いて聯隊の主力が玉砕。
昭和20年8月、聯隊残部隊はセブ島にて終戦解隊。

歩兵第四十九聯隊跡碑
堀内一雄・筆

堀内氏は帝国陸軍歩兵少佐、満州国陸軍少将。山梨県出身。 戦後は富士山麓電気鉄道(富士急)社長を経て衆議院議員などを歴任。 子息は堀内光雄氏。

聯隊歌七節
 新に兵営なりしかば こゝに衛戍の命受けて  
  移りし年は翌春の 弥生半を過ぐる頃   
   峡中の地に武夫の 清き花をば植えにけり
明治百年記念 四九會

歩兵第四十九聯隊跡碑は市営団地(市営むつみ荘)に面した道路側に鎮座。

その場所から山梨大学小学校・中学校方面を覗いてみれば。建屋の向こうに赤レンガが見えます。そちらに行ってみましょう。

歩兵第四十九聯隊糧秣庫跡
(山梨大学赤レンガ館)

山梨大学教育学部附属中学校の入口が開放してあり、赤レンガを間近で見学することができます。 行ってみましょう。

歩兵第四十九聯隊糧秣庫跡(山梨大学赤レンガ館)

建設は明治41年頃。明治42年(1904)に歩兵第四十九聯隊(甲府聯隊)の糧秣庫(食料庫)として使用開始。 オランダ積み構造で甲府煉瓦製造の赤煉瓦を使用。 山梨県最大規模の煉瓦造建築物。

聯隊解隊後に跡地は山梨大学附属小学校・中学校用地となり中学校校舎として使用。
平成10年に大雪で破損したのを機に保存のための耐震工事などが行われ平成14年に改修完了。
文化庁・登録有形文化財

夕日に照らされる赤煉瓦を眺めつつ散策は終わり。
時間は17時。あとはのんびりと甲府駅に戻るだけに。

長野縣護國神社と戦跡散策

平成29年9月

松本
・長野縣護國神社
・陸軍歩兵第五十聯隊(松本聯隊)
・陸軍歩兵第五十聯隊糧秣庫跡(赤レンガ)

平成29年9月3日。
護國神社巡りは長野と山梨に。
この日は無謀にも松本市と甲府市をハシゴし「長野縣護國神社」と「山梨縣護國神社」を参拝。
あわせて戦跡として「松本歩兵聯隊」と「甲府歩兵聯隊」名残の糧秣庫跡(赤レンガ)も散策してきました。
こちらは長野松本編。

松本には魅力的な神社も史跡も多い。
が(過去に何度か訪れているので)、今回は誘惑を断ち切り長野縣護國神社のみに立ち寄ることを決意。
0935に松本駅に到着し、松本城・信州大学方面に向かうバスに乗り込んで、長野縣護國神社の社頭に到着したのは10時過ぎだった。

長野縣護國神社

信濃国総守護。長野県出身の明治戊辰の役以来大東亜戦争に殉ぜられた御英霊を祀る。
昭和13年、陸軍歩兵第50連隊(松本聯隊)に隣接する現在地に長野県招魂社として鎮座。
昭和14年、長野縣護國神社と改称。(内務大臣指定護國神社) 終戦後の一時期は美須々之宮とも呼称。

大鳥居をくぐり参進する。
参道の脇にひときわに大きな碑が目に飛び込んでくる。
いつもは慰霊碑には御社殿参拝後に巡拝するのだが、この碑の存在感に私の脚は自然と吸い寄せられてしまった。

南十字星の下に散華せる
「嗚呼戦友」

杉山茂謹書(元陸軍大佐・元陸将)

南十字星の下に散華せる
「嗚呼戦友」

大東亜戦争に日本を遠く遥か南溟の彼方ニューギニア島及其の周辺に祖国防衛のため挺身し、
 海行かば水漬く屍 山行かば草むす屍
と散りし友の歩んだ途は惨烈悲壮筆舌に尽くし難し
 嗚呼 友の霊何処にぞ
戦終り時移りて此処に三十年 今ぞ群霊懐かしの故郷信州に帰りてこの地に鎮まり新しき日本の礎となる
吾等亡き友の昔日を偲び
 御霊よ 久遠に安かれ 
と信濃の国各地の不変の石にこの祈願を刻し、やがては同じ石下に吾等も魂魄を鎮め共に昔を語らんことを期して、此処にこれを建てる
長野県ニューギニア会
昭和49年7月28日

晴れ渡る夏空の下で、 拝する。

御英霊に感謝と哀悼の誠を捧げる。
そして
御英霊の御加護のもと、祖国の平和と繁栄を祈念する。

ありがとうございます。

社頭には「終戦の詔勅」が現代語訳とあわせて掲示されておりました。

御朱印を頂戴いたしました。 ありがとうございます。

護國神社のイメージに反して当て紙が可愛らしい。
なお、オリジナル御朱印帳は3種類あることを確認いたしました。 (「御神紋柄」青と桃の2色と「日の丸モチーフ表装」の3種類)


長野県ブーゲンビル会 献木

ブーゲンビル島。
1943年4月。山本五十六大将搭乗機が、この島の上空で撃墜され戦死する事件が起こる(海軍甲事件)。
同年11月には同島にアメリカ軍が上陸し、ブーゲンビル島の戦いとして終戦まで同島では戦闘が続いた。

平和の像

1995年(平成7)8月15日
松本深志ライオンズクラブ建立 平和の象徴「鳩」と子どもたちの像。

あゝ特攻 特攻勇士之像

大東亜戦争の末期、特別攻撃隊が編成され、祖国の平和と繁栄を祈り、愛おしい父母妻子家族と別れ、一機一艇をもって敵艦に体当たりして、勇戦敢闘し散華されました。 長野県出身者は、陸海軍合せ百六十余名の若者が特攻隊員として戦死されております。
松本市内には、出撃を待つ多くの特攻隊員が滞在し、陸軍松本飛行場から前線へと飛び立って行きました。又、当時浅間温泉に疎開していた東京世田谷の学童達と温かい交流もありました。 国家存亡の危機に敢然と立ち向かわれ、今日の平和な日本の礎となられた諸英霊の崇高なる精神を永く県民の心に刻み、後世に伝えるため、終戦七十周年を期しここに建立いたしました。

平成27年10月10日
長野県特攻勇士之像建立委員会

國の為 誠の道を一筋に
 進み行くこそ大和魂
  秋山白厳 詠

シベリア抑留慰霊碑

相澤英之書
1945年8月の終戦は、ポツダム宣言の受諾によるが、同宣言9項を無視したソ連の蛮行により、日本軍将兵ら60万余がシベリア各地へ強制連行され、飢餓、酷寒、過酷労働の三重苦に苛まれ、犠牲者6万余に及ぶ悲劇的な大惨事となった。
人道に悖るかかる暴挙の風化を忍べず、忘却させてはならない残酷史として後世に伝え、犠牲者の冥福と恒久平和を祈念し、本慰霊碑を建立する。
2005年8月9日
シベリア抑留慰霊碑建立委員会

シベリア抑留慰霊碑

「異国の丘」
今日も暮れゆく 異国の丘に
友よつらかろ せつなかろ
我慢だ待ってろ 嵐が過ぎりゃ
帰る日もくる 春が来る

シベリア抑留の大地で「凍てつく岩石を掘る」シーンと「伐採作業」シーンが碑に描かれておりました・・・。

拓友之碑

満蒙開拓青少年義勇軍・佐藤中隊碑(佐藤剛吉中隊長)
昭和44年建立

拓友之碑

満蒙開拓青少年義勇軍第7次斉藤中隊碑(斉藤義男中隊長)
昭和51年建立

満蒙開拓青少年義勇軍。14~15才の少年達が満蒙の広野に開拓の意気高く大陸に渡るも昭和20年8月満蒙国境を打ち破ったソ連軍の捕虜となり過酷な重労働で多くは異国の土となった…

砲魂

佛印派遣討4237部隊第4中隊
昭和61年建立

旧歩兵第五十聯隊跡碑

昭和33年建立
松本歩兵第五十聯隊
通称「松本聯隊」

大戦当初は満州・華北方面に展開されていた。 昭和19年3月テニアン島守備部隊となり、同年8月2日にテニアン島にて玉砕…

松本聯隊の跡地には小さな社が鎮座していました。

北に長野縣護國神社。南に松本聯隊。
現在、松本聯隊の跡地は文教地区として「信州大学」や「長野県松本美須々ヶ丘高校」などが展開。
信州大学の校内に往時ゆかりの建物が残っているので行ってみましょう。

信州大学・松本キャンパス

キャンパスマップの32番に「旧松本歩兵第五十連隊糧秣庫」って書いてありますね。分かりやすくて助かります。
ただこのキャンパスマップは「北が下」なのがちょっと不親切。

松本歩兵第五十聯隊糧秣庫跡
(信州大学松本キャンパス)

登録有形文化財。
明治40年に松本に第五十聯隊の衛戍地が決定し、翌年に聯隊が展開。
この糧秣庫の建設年代は明治41年(1907)ごろと推定。
外壁レンガはイギリス積み。
正面入口には…門柱がかなり短縮カット状態で保存。

旧松本歩兵第五十連隊糧秣庫

現在の信州大学松本キャンパスには、もともと松本歩兵第五十連隊の施設があった。
第五十連隊は日露戦争中の明治38年(1905)に編成され、明治40年(1907)に松本を衛戍地(えいじゅち)とすることが決まり、その翌年に現地に入った。
糧秣庫の建築年代は定かでないが、第五十連隊が衛戍地に入った明治41年(1908)頃であろう。
建物は梁間9.09m(約5間)、桁行36.32m(約20間)で、煉瓦造平屋建、切妻桟瓦葺屋根である。
外壁の煉瓦はイギリス積みになっている。
小屋組は、洋小屋組、キングポストトラス構造で、陸梁が1間おきに架けられ、建物の北側には廊下が通っている。
出入り口には2種類の大きさがあり、西面には大きな出入り口が1つ、北面には、西側から大きな出入り口、小さな出入り口、大きな出入り口の3つがある。
外壁には、北・南・東面に2種類の大きさのアーチ形の窓が連続して取り付けられており、北面には出窓がある。
現在の第五十連隊糧秣庫に残る痕跡から、当初の姿や改修の過程を見ると次のようになる。
・かつて、北面の外壁には大小4つの出入り口があった。
・当初の間取りは3ヵ所の煉瓦の内壁で4部屋に仕切られていた。
・それぞれの部屋の北西の外壁には、2つの窓と1つの出入り口が設けられていた。
・4部屋に仕切られていたとき、一番西側の部屋だけに床が張られていた。
・出窓は大きな窓を改修して取り付けられた。
第五十連隊糧秣庫は、用途の移り変わりによって内部の改修が行われてきたが、外部への改修は少なく、建設当初の姿をよく残している。この建物は戦争の記憶を現代に伝えるだけでなく、本学によって教育的にも利用され、時代を通してさまざまな人々の活動の場となってきた。

内装はいろいろ弄ったそうだけど外観は往時の姿を残しているという。
周辺は建物に囲まれているので空間はなかなか撮りにくい。

入口のところに転がってました。
保存?
「陸軍用地」境界石


松本市「 旧松本歩兵第五十連隊糧秣庫 」

https://www.city.matsumoto.nagano.jp/smph/miryoku/bunkazai/takara/kuni/touroku/50rentai.html

松本市戦争遺跡建立事業

https://www.city.matsumoto.nagano.jp/shisei/heiwa_suisin/heiwa_tutaeru/rinewal_sensou_iseki.html

松本市内に残る戦争遺跡など

https://www.city.matsumoto.nagano.jp/shisei/heiwa_suisin/heiwa_tutaeru/rinewal_sensou_iseki.files/itizu003.pdf

信州大学サイト
「旧松本歩兵第五十連隊糧秣庫」登録有形文化財登録証等伝達式

http://www.shinshu-u.ac.jp/topics/archive_data/2012/09/post-487.html

相模原界隈の戦跡散策

平成30年9月及び10月

平成30年9月。相模原界隈を散策してみました。
横浜線矢部駅から淵野辺駅までの散策と京王相模原線多摩境駅からの散策を。
軍都・相模原のほんの一部ですが、散策した様子を以下に。

位置関係

国土地理院・空中写真閲覧サービスより

昭和19年10月15日に陸軍が撮影した相模原界隈の空中写真
Google航空写真

当時は相模原駅と淵野辺駅間の矢部駅はまだ開業しておらず相模陸軍造兵廠への引き込み線があるレベル。

1948年(昭和23年)4月12日に米軍が撮影した航空写真を加工
1948年(昭和23年)4月12日に米軍撮影

相模原駅から北側にはどどーんと在日米軍相模総合補給廠が展開。
旧陸軍の相模陸軍造兵廠跡は今もそのまま在日米軍。
ゆえに相模原駅からは車窓以外は見るべきものがあまりなく。

基地内にある相模神社は相模陸軍造兵廠時代に建立されたもの。
また敷地内に残された建屋の多くも陸軍造兵廠時代のものという。

相模陸軍造兵廠跡と相模神社

この一節だけ別日に訪れました。たまたま基地内の公開がありましたので。

SHRINE PARK (神社公園)

SHRINE PARK HISTORY (神社公園の歴史)

この公園は1936年(昭和11年)に建設され、神道における武道の神、鹿島と香取を祭った神社を持つ。神社は早稲田大学教授の田辺泰博士により設計されたが、公園自体はコーネル大学卒業生のトーノ教授によって設計された。
本公園は1942年(昭和17年)に奉納され開園した。園内には、当時ここで働いていた日本人従業員の出身地から集められた様々な草花、低木、岩石や樹木が配置されている。

献燈

Sagami Fountain(相模の泉)
御手洗

凄い勢いで水が溢れ出しておりました。 アメリカンナイズな御手水。

Sagami Fountain(相模の泉)

これは御手洗(みたらし)と呼ばれ、通常は神社の本殿に通じる参道脇に置かれている。
参拝者は神社の神にお参りする前にここで手を洗い、口をすすいで身を清める。

Taiko Bridge (太鼓橋)

太鼓橋は、その高く丸い弧と水面に映る姿が作り出す円形が太鼓を彷彿させることからその名がついた。。 円形が満月のように見えることから、英語ではMoon Bridge とも呼ばれる。

SHRINE PARK (神社公園)
旧・相模陸軍造兵廠
Sagami Shrine「相模神社」

Sagami Shrine (相模神社)

相模神社は、昭和17年に当時の相模陸軍造兵廠で働いていた日本人従業員の献金によって建造された。
日本神話において天皇の祖先とされる神道武人の神、鹿島と香取を祭っている。
造兵廠の従業員達は、製造した兵器が両神の加護を受け、戦線において神威を発揮することを願った。

千木が残念な状態でした。
神紋は「左三つ巴」と「五七桐」。 鹿島神と香取神の御神紋。

Sagami Shrine「相模神社」
神社公園内の樹木は、相模陸軍造兵廠で働く工員と同じく全国から集められたものという。
そんな歴史を刻みし場も不思議なもので、いまでは米軍基地の中・・・
逆に米軍基地内だからこそ残った空間でもあり。

かつての境内地は、今では「BBQ」な場所。
アメリカンナイズな空間。

SHRINE PARK (神社公園)
旧・相模陸軍造兵廠

公園の隣はヘリポート。
さらにその向こうには鳥居が見えます。
ゲートとしてのカッコよさも神道文化の習合。

旧・相模陸軍造兵廠
敷地内の建物のほとんどは相模陸軍造兵廠時代の名残らしく。
私はこのときは「神社公園」に多くの時間を費やしてしまったために、建造物の追跡までやりきれませんでしたのでそのあたりは課題。

何気ない階段、ぜったいお前ら当時からのものだろ?

最近は米軍基地内も厳しくなっているようで、一般公開時でも上記のような散策は難しいかもしれません。そのときのルールに従って見学を。昔は開放されていた場所でも、次回は開放されていないかもしれませんし。

それでは、基地の外へ。

矢部駅

この日は矢部駅から散策スタート。
「在日米軍相模総合補給廠」方面を望む。かつての「相模陸軍造兵廠」
このあたりに引き込み線が広がっていた。

矢部駅は戦後に進駐した在日米軍が相模総合補給廠へ赴く際に臨時停車して乗降が始まったために昭和25年に相模仮乗降場開業。昭和32年に矢部駅へと昇格という。

矢部駅から「在日米軍相模総合補給廠」方面に歩いてみる。
すぐにゲートで行き止まり。
あまり長居するものでもないので駅前に戻る。

矢部駅前の公園(上矢部公園)の北側に記念碑がある。
子どもたちが元気よく遊ぶ空間。そんな公園の片隅に。

相模陸軍造兵廠跡

第三代廠長 原乙未生 書 (原乙未生 陸軍中将)

碑面裏には沿革が記載されていた。

昭和12年3月  陸軍東京工廠相模兵器製造所設立
昭和13年6月  戦車・牽引車・砲弾の生産を開始
昭和15年6月  相模陸軍造兵廠に昇格
昭和16年4月  横浜線相模原駅開設
昭和20年8月  終戦により閉鎖  
第四代土岐鉾治廠長、従業員約3万人

そのまま北上。
在日米軍相模総合補給廠(旧相模陸軍造兵廠跡)の脇を。
廃線跡。

廃線跡
草に埋もれし鉄路の先は米軍のフェンス。

相模陸軍造兵廠・陸軍用地境界石

これはちょっと可愛い。
フェンスが標石を避けるように張られています。
保存する意思が明白に感じられる空間。

このあたりは防衛省の宿舎もあるエリア。
防衛庁時代の標石もありました。
こちらもフェンスが調整されてますね。

在日米軍相模総合補給廠(旧相模陸軍造兵廠跡)

なんか一部に廃墟のような倉庫建屋が広がってますが・・・ 端の方の倉庫は既に積極的には使っていないのかもしれません。
そういえば以前に火事もありました・・・


陸軍兵器学校の弾薬庫

相模陸軍造兵廠跡を離れて東に。
こちらには「陸軍兵器学校」が展開。 その北端、現在の民間工場の敷地内に「陸軍兵器学校の弾薬庫」とされるものが残っているという。敷地外より見学。

陸軍兵器学校跡地を歩く。
現在の「防衛省 防衛装備庁 陸上装備研究所」

相模原市立大野北中や大野北小、そして麻布大学も「陸軍兵器学校」の跡地。

麻布大学の南側、かつて「陸軍兵器学校」の正門があった場所。
この陸軍兵器学校正門があった場所近くに「記念碑」が残っている。

相模原市立博物館にて掲示の写真
陸軍兵器学校正面(昭和10年代撮影)

陸軍工科学校・陸軍兵器学校跡碑

第四十一代校長 永野叢人書 昭和52年12月吉日 工華会建之

本校は明治5年諸工傳習所の名で小石川後楽園の地に創設、その後幾変遷を経て陸軍砲兵工科學校 陸軍工科學校となり昭和14年その18、19期生の時生徒数の増加に伴い小石川本校及び板橋分校より當地新校舎に移轉21期に及んだ。
昭和15年陸軍兵器學校と改称、生徒は1期となり學生 幹部候補生 練習諸隊も併設され、83萬5千平方米の敷地に7千人以上の人員を収容したが昭和20年8月67期生の卒業を待たずに兵器技術教育73年に亘る歴史の幕を閉じた。

そういえば小石川でも記念碑を拝見してました。
「陸軍砲兵工科学校・工科学校跡・諸工伝習所跡記念碑」
昭和13年(1938)、小石川から相模原に陸軍兵器学校が移転してました。

淵野辺の陸軍兵器学校跡(麻布大学)の地から次の目的地に移動をする。
淵野辺駅の南東、青山大学相模原キャンパスの横浜線を挟んだ南側にとある神社が鎮座している。

「新田稲荷神社」(しんでん稲荷神社)
文政元年(1818)創建の淵野辺新田地域の鎮守様
今回は境内社に注目。

新田稲荷神社・境内社
「細戈神社」(くわしほこ神社)

陸軍兵器学校内に鎮座していた神社。
昭和20年終戦後に陸軍兵器学校から新田稲荷神社境内に遷座。
社号の「細戈」は日本書紀巻三・神武紀に書かれた「細戈千足国」(くわしほこちたるくに)=立派な武器が多くある国の意。
社号標は昭和16年7月13日建立

細戈神社由来
細戈神社は天照大神・武甕槌命・経津主命を祭神とし、社名は伊弉諾尊が日本を細戈千足国と讃えられし語に拠る。
もと陸軍兵器学校々庭にあり、その精神的支柱として仰がれていたが、昭和20年新田稲荷神社氏子の好意によってこの地に遷り生産向上の神として鎮座してきた。
しかるに社殿は長年の風雪に損われ現状のまま存置することは不可能となった。
依て稲荷神社氏子並びに旧工科学校及兵器学校同窓会工華会は協力してその改修に当った。
工成るに及び工華会は記念の建碑を企て撰文を需めた。
ここに由来を記した所以である。
今や産業計画拡充に伴って科学技術の振興を一層重すべき直面している。
願わくは細戈の神霊益々神徳の 顕著ならんことを

昭和50年4月6日 工華会建立
 工華会=陸軍工科学校及び陸軍兵器学校同窓会

新田稲荷神社
境内社・今熊神社
境内の丘は「呼ばわり山」と呼称され、迷子や行方不明者が出た際に鐘や太鼓を叩いて呼ばわると必ず現れると信仰された。
最近では、小惑星探査機「はやぶさ」リーダーを務めていた川口淳一郎JAXA教授が「発見祈願」に毎夜訪れて、そしてはやぶさが見つかった逸話も。

そんなJAXA相模原キャンパス(宇宙航空研究開発機構・宇宙科学研究所)は新田稲荷神社の南西、淵野辺公園の近くにある。
JAXAや相模原市立博物館、淵野辺公園のある一帯は、かつての「陸軍機甲整備学校」の跡地。

「陸軍機甲整備学校」(陸軍自動車学校)は、もともとは世田谷(東京農業大学近く)にあったが、昭和18年に相模原の当地に移転。
移転前の世田谷にあった陸軍機甲整備学校(東農大) は下記に。

世田谷の方にはいろいろ残っていましたが、相模原の方は・・・見つける体力的余裕があまりありませんでした(疲労が溜まっていた)

淵野辺公園を眺めながら、休憩がてらに相模原市立博物館に行ってみることに。

相模原市立博物館
(陸軍機甲整備学校跡)

近代史関連の展示を。

常設展示・軍都計画と相模原

http://sagamiharacitymuseum.jp/tenji_shisetsu/josetsu/josetsu5/

「陸軍用地境界杭」
こちらは前述の陸軍兵器学校・敷地境界用杭として使用されたもの。 ところで私は「境界石」とか呼んでましたがコレの正式名称ってなんだろうな…。

相模原の軍関連施設の分布
今回は相模原駅~淵野辺駅界隈でしたが、このエリアには相武台の陸軍士官学校(キャンプ座間・座間駐屯地)なども宿題なんですよね。
あと陸軍通信学校(相模女子大学)

相模陸軍造兵廠開庁記念湯呑
相模兵器製造所が昭和15年に相模陸軍造兵廠に昇格したことを記念

榴散弾弾薬箱(陸軍兵器学校で使用)

大型空気入れ(相模陸軍造兵廠で使用)

乗馬用鞍(陸軍士官学校で使用)

常設コーナーは一区画だけですがご興味ございましたら是非に。


相模原市立博物館をあとにして、淵野辺駅へ。
淵野辺駅から橋本駅経由で多摩境駅に移動します。
この日の最終目的地へ。

京王多摩境駅から徒歩5分ほど歩くと、「都立小山内裏公園」に到着。
この公園から東に伸びる尾根緑道は通称「戦車道路」と呼称されている。

「戦車道路」(尾根緑道)

戦車道・・・ かつて、相模陸軍造兵廠で製造された戦車の走行テスト用道路であった。 (全長約8キロメートル)
それゆえの「戦車道路」 この道を完成したばかりのチハ車(九七式中型戦車)などが試験走行したという。

靖國神社遊就館のチハ

かつて戦車が走った道は今では尾根を望む散策路として、往時の伝承を残しつつ、往事を知る人知らない人それぞれありつつ憩いの空間として活用。
見晴台からかつて相模陸軍造兵廠があった方向を遠望しつつ。

金沢城周辺の戦跡散策

平成31年12月散策 石川県金沢市

金沢城公園

金沢城公園。
金沢城址の周辺にも、興味深いものがあるので散策してみましょう。


金沢城に残る戦跡

レンガ造りのトンネル

明治から昭和にかけて金沢城は旧陸軍の所管となり軍用施設が設けられました。このトンネルは旧陸軍によって弾薬庫が建設された明治から大正期につくられたものとされています。

明治8年(1875)に陸軍歩兵第7連隊、明治31年からは陸軍第9師団司令部が金沢城址に駐留。 弾薬庫に通じるトンネル。


鶴丸倉庫(金沢城土蔵)

国重要文化財
幕末の嘉永元年(1848)に建立。城郭内の土蔵としては最大級の規模。 明治以降は陸軍第九師団被服倉庫として使用。


第六旅団司令部

明治31年に建てられた木造平家建て建造物。
換気口には陸軍のシンボル五芒星もある。

「旧第六旅団司令部」と札はあるものも内部は公開されておらず。
それ以上の格別な案内もなく。金沢城内の西のはずれにあり、訪れる人も少なし。


ここからは金沢城の周辺に。まずは金沢城の南から南東方面へ。
ちょっと神社に立ち寄りつつ。

「石浦神社」
金沢市本多町鎮座
旧社格は県社。延喜式神名帳 加賀国加賀郡 小社「三輪神社」式内社論社。金沢市最古の神社という。
奈良時代には神仏習合し石浦山慈光院長谷寺とも。(旧日本三大長谷寺第二番所)。金沢城地の産土神。 参拝を。


陸軍第九師団長官舎

登録有形文化財
現在は石川県立美術館広坂別館

元は加賀藩家老本多氏上屋敷の地。
大正11年(1922)に第9師団の司令長官舎として建立。かつては和館も併設されていた。戦後は米軍将校官舎、金沢家庭裁判所、児童会館などで使用。平成28年に修復再整備。

玄関回りは当時の姿をよく残している。

建屋の裏側。

「陸軍第九師団長官舎」
内部は一部の部屋が公開されておりました。
かつての「応接室」
現在は石川県立美術館広坂別館修復工房ガイダンス室。

なおかつての「師団長公室」は事務室となっており非公開。

内部は一部の部屋が公開されておりました。
かつての「食堂・会議室」
現在は「多目的室」
なにかの展示会をしていました。お邪魔して室内を撮影。

現在は石川県立美術館広坂別館

長官舎の裏庭には築山が残る。
当時からの庭園の名残を感じる。


「金澤神社」
兼六園の南東に鎮座。
寛政6年(1794)、加賀藩11代藩主前田治脩が藩校明倫堂を建てた際、その鎮守社として学問の神であり前田家の祖先とされる菅原道真を奉斎する神社を創建したことにはじまる。
本殿および拝殿が登録有形文化財。

金城霊沢(きんじょうれいたく)
金沢ローカルでは著名な芋掘藤五郎伝説。
藤五郎が芋を洗っていたら、泉の水がキラキラ光って砂金が泉に溜まっていた。金洗沢と呼ばれたことが金沢の地名由来のひとつだとか。

金城霊沢碑
洞の中には碑文、天保15年(1844)建立。


石川県立能楽堂、しかし工事中。残念。

第九師団司令部庁舎と金沢偕行社

実は、この敷地内には「第九師団司令部庁舎」「金沢偕行社」があるのだがリニューアル工事中で見学不可。東京国立近代美術館工芸館が移転してくるのだ。

つまり「近衛師団司令部庁舎」から「第九師団司令部庁舎」へ移転。


金澤陸軍兵器支廠兵器庫三棟
(石川県立歴史博物館)

手前の第一棟は大正3年(1914)、真ん中の第二棟は大正2年(1913)、奥の第3棟は明治42年(1909)に竣工。国重要文化財。
戦後は金沢美術工芸専門学校(金沢美術工芸大学)の校舎に転用され、昭和61年から石川県立歴史博物館となった。

建屋内の撮影を試みたのですが、外気との急激な寒暖の差でレンズが曇ってしまい。ほんの僅かだけ撮影。


大阪護國神社

平成29年(2017)参拝

大阪府に戦没者の御霊を恒久的に奉斎する神社がなかったために、昭和15年に内務大臣指定護國神社として創建。

御祭神
明治維新前後の天誅組8柱をはじめ、西南の役、日清日露戦争、大東亜戦争に至る大阪にゆかりのある10万5600余柱の英霊を祀る。

敗戦後は進駐軍の監視のもとで慰霊祭が禁止され、社号も改称せざるを得なく、大阪浪速興隆の礎を築かれた仁徳天皇を祀り「浪速宮」と改称して存続。

昭和27年のサンフランシスコ講和条約締結後に「大阪護國神社」に復称。奉安殿に仁徳天皇をまつり、相殿には東郷平八郎元帥を御遺髪とともに祀っている。

御朱印

大鳥居

大阪府最大級の鳥居

昭和15年の社号標

御社殿

10万5600余柱の英霊を祀る

奉安殿

仁徳天皇 東郷元帥を祀る。

ほまれの宮

御英霊と深い絆で結ばれ亡くなられた戦友やご家族の皆様を御英霊のおそばでお祀りするお社。


さざれ石

母に感謝の像

辛い時 悲しい時
 何時も 私達を
力強く抱きしめ
 励まし育ててくれた
母の姿を
 忘れてはならない
お母さん
 ありがとう

財団法人 日本遺族会
 会長 古賀誠 書


あゝ特攻 特攻勇士之像

平成21年10月建立

特攻勇士に捧ぐ
 大東亜戦争の戦局が一段と厳しくなった昭和19年10月以降、多くの若者が愛する祖国と家族を護るために一命をなげうち、わが身もろとも敵艦に体当りする特別攻撃を敢行、遥かな南の空や海に散華されました。
 私たち「特攻勇士の像を奉納する会」一同は、大阪府ご出身の五百余の特攻戦士を慰霊しその功を永く伝えるため、像をここ大阪護國神社に建立いたしました。この像を仰ぐ方々が、若者たちが身命をかけて崇高な「日本人の心」を実践したこと、そして今日の平和と繁栄はその尊い死の上にあることに、ぜひ思いを致されんことを、一同こい願うものであります。
 平成21年10月24日
  (財)特攻隊戦歿者慰霊平和祈念協会
   日本人の心を伝える会
   碑文・揮毫 吉田 學
   慰霊碑像デザイン 塚本 哲


慰霊碑

大阪護國神社のサイトを参照

http://www.osakagokoku.or.jp/publics/index/84/

慰霊碑は東西の区画にわかれている。

大日本帝国海軍
海軍関係戦没者 慰霊碑

碑文
 明治初年に創設され、その後幾多の輝かしい歴史と伝統を保有し、わが国の栄光と国威の象徴として、国民に尊敬され親しまれた日本帝國海軍は、さきの太平洋戦争において善戦空しく敗れ、昭和20年8月15日の終戦と共に、その八十年の長い歴史を閉じた。
 この戦において、四十万余の海軍軍人・軍属が、その貴い生命を祖国に捧げて勇戦奮闘の末、国の御楯として散華した。
 大阪を中心とする近隣府県在住の海軍関係生存者ら有志相寄り相図り、ここ大阪護国神社の聖域に慰霊の碑を建立した。
 海軍を弔い、永遠の平和を希求し、戦没者に心から慰霊の誠を捧げ、以ってその芳勲を千秋に伝えんとするものである。
  昭和60年5月
   海軍関係戦歿者慰霊碑建立委員会
    委員長 岡山幸男

建立・管理建立委員会委員長 岡山幸雄
揮毫者大阪護國神社宮司 柳澤 寮
建立年月日昭和六十年六月
慰霊祭の主催者水交会
祭神数五四,○○○柱

豫科練 
貴様と俺と翼の碑

碑文
 昭和5年に、すぐれた飛行機搭乗員の養成は英才の早期教育に俣つとの観点より「海軍飛行予科練習生」の制度が創設され、昭和12年には甲種、乙種、その後丙種、特乙種の修業課程が定められた。国を愛し空に憧れた少年達が全国各地はもとより遠く海外にあった者も勇躍志願をしたのである。
 予科練出身搭乗員は、昭和12年8月、日支事変に於てその初陣を飾って以来、太平洋戦争では名実ともにわが航空戦力の中核となって、嚇々たる武勲をたてたのであるが、戦局利あらず本土決戦の秋来るや、祖国日本の弥栄を信じ一死もって国難に殉ぜんと相ついで航空、水上、水中特別攻撃隊員となり、空に海に敢然として散華していった。
 我ら元予科練習生は終生そのきづなを深め、この聖地に名を連ね、英霊の顕彰と昭和の御代に「予科練」という紅顔のさきがけありと後世に伝え、世界の平和と子孫の繁栄をこい希い本碑を建立する。
 嗚呼
昭和57年12月5日
 関西甲飛会 建立

建立・管理関西甲飛会
建立年月日昭和五十七年十二月
慰霊祭の主催者関西甲飛会
祭神数一八,○○○柱

鎮魂 
第三十四師団通信隊

第34師団は昭和14年(1939)に新設。大阪にて編成。中国戦線に派遣される。

建立・管理健通会
建立年月日昭和五十九年三月
慰霊祭の主催者健通会
祭神数八八柱
軍馬・軍鳩之碑

つわもの之碑 
野砲兵第二十六聯隊

建立・管理野砲兵第二十六連隊
揮毫者陸軍少将正四位 吉富徳三
建立年月日昭和五十年四月
慰霊祭の主催者野砲二六会
祭神数四,三七七柱
軍馬之碑

龍山歩兵第七十九聯隊
戦友はここに眠る之碑

建立・管理歩兵第七九戦友会
揮毫者山崎孝三
建立年月日昭和五十七年四月
慰霊祭の主催者歩七九会
祭神数一八,○○○柱

慰霊
海軍第一期 飛行専修予備生徒慰霊碑

 海軍第1期飛行専修予備生徒は、戦雲急を告げる昭和18年12月10日、学業半ばにして臨時現役兵として應召し、各海兵団を経て、三重及び鹿児島の海軍航空隊に於て基礎訓練を受け、中練教程の後、予備士官として実戦に参加した。
 主として沖縄特攻、その他数々の戦場に於いて我々は同期165名を失った。
 戦後30年ここにその名を銘記し、今は亡き戦友の御霊を永遠に弔うものである。

建立・管理海軍第一期飛行学生
建立年月日昭和五十一年八月
慰霊祭の主催者一生会
祭神数一六五柱

サイパン島戦没者慰霊碑

明治二十九年、歩兵四十聯隊は大阪歩兵二十聯隊に仮兵舎をおいて聯隊本部を設置したことに始まる。
明治三十年に大阪から鳥取に転営。
大東亜戦争では歩兵第四十聯隊第三大隊がサイパンで玉砕。本体は本土決戦準備のため宮崎へ移動、そこで終戦を迎えた。

建立・管理サイパン奉賛会
揮毫者鳥取四十連隊長 愛甲立身
建立年月日昭和四十五年五月
慰霊祭の主催者サイパン奉賛会
祭神数五○,○○○柱

海軍大尉 粟井俊夫之碑

粟井俊夫命
神風特攻第三筑波隊にその名が確認できる。
飛行科予備学生第14期。 昭和20年4月16日に沖縄方面の機動部隊に対して特別攻撃を敢行。

建立・管理粟井岩吉
建立年月日昭和四十四年五月吉日

慰霊
独立輜重兵 第五十四大隊慰霊碑

昭和16年に大阪にて編成。東北満州の警備に当たる。昭和19年3月に中国戦線に転戦し、終戦。

建立・管理独立輜重兵第五十四大隊
建立年月日昭和五十二年八月
慰霊祭の主催者独立輜重兵第五十四大隊
祭神数六三九柱

歩兵第二百十七聯隊之碑

第34師団隷下。昭和14年に大阪にて編成。

建立・管理歩兵第二百十七連隊
揮毫者内閣総理大臣 田中角栄
建立年月日昭和四十八年三月
慰霊祭の主催者歩二一七会
祭神数二,三○五柱
軍馬・軍犬・軍鳩之碑

歩兵第十四聯隊之慰霊碑

明治8年に小倉で創設。昭和15年以降の徴募区は大阪を主体とする。昭和20年4月、本土決戦部隊として宮崎に進駐、終戦を迎える。

建立・管理大阪勝山会有志
建立年月日昭和六十三年十一月
慰霊祭の主催者大阪勝山会
祭神数七一一柱

騎捜会
鎮魂之碑

建立・管理騎捜鎮魂会
騎兵第四連隊
捜索第四連隊
騎兵第二十八連隊
捜索第二十連隊
ほか
揮毫者大阪府知事 岸 昌
建立年月日昭和六十年十月
慰霊祭の主催者騎捜鎮魂会
祭神数一,四○○柱
愛馬之碑

鎮魂
歩兵第二百十六聯隊鎮魂碑

建立・管理歩兵第二百十六連隊戦友会
建立年月日昭和五十二年九月
慰霊祭の主催者歩二一六会
祭神数二,三六二柱
軍馬・軍犬・軍鳩之碑

歩兵第百八聯隊
つわもの之霊
ここに鎮まる

建立・管理歩兵第百八連隊
揮毫者服部敏夫
建立年月日昭和五十三年十月
慰霊祭の主催者歩百八会
祭神数一,三○○柱

騎兵第四聯隊慰霊碑

建立・管理騎兵第四連隊
揮毫者大槻 章
建立年月日平成六年十一月
慰霊祭の主催者
祭神数三,○○○余柱

歩兵第三十七連隊慰霊碑

建立・管理歩兵第三十七連隊
揮毫者陸上幕僚長 杉田一次
建立年月日平成五年十一月
慰霊祭の主催者歩三七会
祭神数二,○○○余柱

檜 第六十八師団
慰霊碑

建立・管理檜第六十八師団
慰霊碑建立委員会
揮毫者大場軍勝
建立年月日昭和六十二年十一月
慰霊祭の主催者檜会
祭神数一○,六七二柱

平和の礎 歩兵第八連隊之慰霊碑

建立・管理歩兵第八連隊
揮毫者大阪護國神社宮司 柳澤 寮
建立年月日平成元年五月
慰霊祭の主催者歩八会
祭神数二,七○○柱

信太山砲四会之碑
鎮魂

建立・管理信太山砲四会
建立年月日昭和五十七年四月
慰霊祭の主催者信太山砲四会
祭神数七,五○○柱
愛馬の碑

香8114部隊の碑
殉國の英霊 このところに鎮まる

建立・管理独立歩兵第六十七大隊
第四中隊
揮毫者中山二郎
建立年月日昭和五十三年八月
慰霊祭の主催者香親会

塩沢幸一題
皇風洽六合 明徳侔太陽之碑

塩沢幸一海軍大将。海軍兵学校第32期。同期は堀悌吉、山本五十六、吉田善吾、嶋田繁三郎ら。日米開戦時は軍事参議官。山本五十六戦死時に国葬の司祭長を勤めた。昭和18年11月に病死。

建立・管理岡本忍一
揮毫者海軍大将 塩沢幸一
建立年月日昭和十七年八月

参拝は2月下旬。境内には梅が咲きつつある春間近な季節。
御英霊に感謝と哀悼の祈りを捧げつつの参拝。

ありがとうございます。

新宿戸山の戦跡散策

平成30年8月

新宿区戸山・戸山公園を中心としたエリアの散策。
陸軍戸山学校など。

新宿戸山散策

平成30年8月19日、新宿区戸山界隈を散歩してみました。
主たるポイントは「陸軍戸山学校」、現在の戸山公園を中心としたエリア。
以下、連々と写真を展開。


位置関係

今回の散策コースはこんな感じ。

JR新大久保駅スタートで戸山公園を経て都営新宿線・曙橋駅。
これでザックリと約8キロ。 所要時間は2時間半程度。歩数は約13000歩でした。

今昔マップ on the web さんで当時の様子を参考に。

東京西部(戸山) 昭和4年二修/昭和6年6月30日発行。
今回のポイントを黄色で示してみました。 エリア的にはこんな感じ。

http://ktgis.net/kjmapw/kjmapw.html?lat=35.702704&lng=139.713744&zoom=15&dataset=tokyo50&age=2&screen=2&scr1tile=k_cj4&scr2tile=k_cj4&scr3tile=k_cj4&scr4tile=k_cj4&mapOpacity=10&overGSItile=no&altitudeOpacity=2


海城中学校・高等学校

古賀喜三郎(海軍少佐)によって明治24年に海軍兵学校へのエリート人材育成の為の海軍予備校として創立。

海城とは戦艦を意味する古語に由来。

明治33年に海軍省の要請により海城学校と改称。
現在も海軍以来の伝統として「質実剛健・リベラルでスマート」な校風を標榜している。

海城のクスノキ

昭和2年に霞が関から当地に学校が移転して来たのちに植えられたものであり「海城のシンボル」として大切にされている。


海城から東に。

都立戸山公園大久保地区の南端にさしかかります。
このあたりは射撃場跡。

「今昔マップ on the web」より
(東京西部1/25000 昭和20年部修・昭和22年7月30日発行)

「国土地理院 地図・空中写真閲覧サービス」より
(ファイル名8911-C2-82/昭和19年10月16日陸軍撮影)

射撃場土塁跡

都立戸山公園大久保地区の南端に土塁が残ってる。
「射撃場土塁跡」
射撃場の周りは土塁で囲まれており、その名残。

前述中心部の画像や地図で射撃場の場所に見える東西に細長く連なる建屋は昭和3年完成の屋根で覆われた射撃場。
周辺住民への配慮として流れ弾防止や騒音抑制の為に設けられたという。

戸山の射撃場土塁跡と陸軍境界石

射撃場の土塁がまさに境目。
コンクリート壁と一体化するように陸軍境界石も残ってました。

戸山の射撃場土塁跡
都立戸山公園大久保地区の南端の土塁から連なるように道を挟んだ東側の「西大久保住宅」の南側にも土塁が残っている。

黄枠の部分が土塁が残っているエリア

明治通りを北上し、低地へと下るエリアを東に向かう。

地図で見ると現在は唐突に細長く住宅地が拡がる。
当時は南北を陸軍施設に挟まれる区画。ここもかつての射撃場跡。

陸軍戸山学校射撃場跡

そのエリアに降り立てば周辺が高台となっており射撃場は低地にあったことがわかる。


明治通りを北上すると右手に赤い鉄門が見えてくる。

学習院旧正門(国指定重要文化財)

明治10年、当時の華族学校(現学習院)の正門として建立。川口の鋳物工場で製作された唐草模様をあしらった和洋折衷の鉄門。

昭和25年に現在地に移転。現在は学習院女子大学などの正門として使用。


明治通りと諏訪通りの交差点。 東に行けば学習院女子、西に行けば諏訪神社。

新宿ノ諏訪神社

弘仁年中(810~820)創建と伝わる古社。
現在の社殿は昭和55年造営。 境内にある宮神輿庫はコンクリート造の校倉造という珍しいもの。

諏訪の霊水

「新宿ノ諏訪神社」 境内には「明治天皇射的砲術天覧所阯碑」がある。

明治天皇射的砲術天覧所阯碑

明治15年、神社南の「近衛射的場」に、 明治天皇の行幸があり境内より射撃演習を天覧。その後も射撃場にみられる各宮殿下が諏訪神社社務所でご休息遊ばれたという。境内地の天覧高台は昭和18年に東京都より行幸史跡に指定。

明治天皇の天覧を記念し、諏訪神社御社殿の向拝の蟇股には菊の御紋を掲揚。
また、拝殿内に掲げられている神号額は小松宮彰仁殿下の御真筆という。
写真の拝殿の外側の神号額は佐文山(佐々木文山・江戸時代中期の書家)によるもの。

今回の参拝では御朱印を戴いておりませんでした。 (前回戴いたものを掲載)


新宿ノ諏訪神社のかつての別当寺であった玄国寺(真言宗豊山派)に。
こちらへは近代史的な話題で寄り道を。 境内案内の記載をよく見ると 「文化財 岩倉具視邸(現書院)」とありますね。気になります。

岩倉具視邸

玄国寺 「岩倉具視邸(現書院)」
元勲岩倉具視の旧邸の一部を大正年間?に移築したものという。和洋折衷の建築物。現在も寺院の庫裡として使用されており内部は非公開。

さて、本筋に。

近衛騎兵連隊

学習院女子大の方に向けて歩んでいく。
本当であれば学習院女子大の中にある「建造物」を見学したいが女子大ゆえに見学難易度は高そうなので別の機会?に。

学習院女子大には近衛騎兵連隊兵舎炊事所が残っており近衛騎兵聯隊之碑がある。画像は煉瓦壁とGoogle Earthを参考まで。

馬場下町交差点。わかりやすく言うと穴八幡の交差点。

三朝庵(閉店済)

この交差点の角に100年以上に渡り歴史を伝えてきた蕎麦屋があった
(過去形・・・)

「三朝庵」
元 近衛騎兵連隊 御用
元 大隈家 御用

残念ながら平成30年7月31日でもって閉店・・・。
ここへ訪れるのがあと一歩遅かったです、残念です。

別の日(令和2年)に撮影。コンビニになっておりました。。。

今回は時間の都合で穴八幡宮は社頭で遥拝。

高田馬場の流鏑馬の時代から、近衛騎兵聯隊まで。
馬つながりを感じつつつ。

穴八幡の南西にある箱根山を目指します(都立戸山公園箱根山地区)

陸軍戸山学校の野外演奏場跡

都立戸山公園箱根山地区
「陸軍戸山学校の野外演奏場跡」

気持ちよさそうに寝そべった方が居りました。 写真どうしよっかな…と悩みながらなるべくじゃまにならないようにパチリを。

この場所が野外演奏場(野外音楽堂)
陸軍戸山学校では軍楽隊の訓練も行われていたとのことで。

箱根山 陸軍戸山學校阯

都立戸山公園箱根山地区
「箱根山 陸軍戸山學校阯」

陸軍戸山学校
明治6年(1873)6月、旧尾張藩下屋敷跡に陸軍兵学寮戸山出張所が設置
明治7年2月、陸軍兵学寮戸山出張所を陸軍戸山学校と改称
大正元年(1912)9月、戦術科、射撃科、教導大隊が陸軍歩兵学校として分離独立
昭和20年9月10日、閉校

箱根山 陸軍戸山學校阯

この地は和田戸という武士の館の跡で源頼朝が源氏の勢ぞろいをした所と伝えられ後代和田戸山と呼ばれた
寛文年間尾張徳川侯の下屋敷となり殿堂宮祠等かずかずの建物と箱根山を中心とし東海道五十三次に擬した風雅な庭園が造成された
明治六年その地に兵学寮戸山出張所が設けられ翌明治七年陸軍戸山学校と改称されて以来約七十年にわたって軍事の研究教育が行なわれ国軍精強の基を培ったばかりでなく国民の体育武道射撃音楽の向上に幾多の寄与をした記念すべき地である
この度東京都がこの地に緑の公園を整備されるにあたってこの記念碑を建てて東京都に贈る
昭和四十二年十一月
元陸軍戸山学校緑故有志一同

箱根山地区の歴史
(略)
明治七年(1874)からは陸軍戸山学校用地となり、第二次大戦後は国有地となりその一部が昭和二十九年から今日の公園となった。
陸軍用地の頃から誰からともなく、この園地の築山(玉円峰)を「函根山」「箱根山」と呼ぶようになり、この山だけが当時を偲ぶ唯一のものとなっている。

戸山公園
箱根山 標高44.6m

「登頂証明書」は戸山公園大久保地区のサービスセンターにて。 (貰いそこねました)
山頂から見える建物を近くでみてみましょう。
陸軍戸山学校の名残の建造物。

陸軍戸山学校将校集会所

「陸軍戸山学校将校集会所」(戸山公園箱根山地区)
戸山学校時代は将校集会所として使われていたという建造物。
現在は「戸山教会・戸山幼稚園」として使用されている。
この半地下式の石造りの部分が将校集会所の跡とされている。

「陸軍戸山学校将校集会所跡」(戸山公園箱根山地区)
現在は戸山教会及び戸山幼稚園として現役。
常識の範囲内で見学を。


陸軍軍医学校跡

戸山公園の隣の区画
現在は「国立感染症研究所」「国立健康・栄養研究所」などがある地は、かつての「陸軍軍医学校」(昭和4年に麹町より移転) の地であった。

この軍医学校跡地からは国立感染症研究所(当時は前身の国立予防衛生研究所)建設に際して大量の人骨が発見されたりもしている(1989年)。

現在の国立国際医療研究センター研究所のある場所。

当時の「陸軍軍医学校」の向かい側には「陸軍第一病院」があり「陸軍軍医学校」とは地下でつながっていたという。
その地下道の入り口とされる場所。 なにやら塞いだ感に溢れてますね・・・。

戸山「陸軍軍医学校」と「陸軍第一病院」

うっすらと「医療…」と書かれた御影石。
これも「陸軍軍医学校」の名残かどうか
向こう側には「陸軍第一病院」地下道出入り口が見える。


戸山から牛込まで南下。
奇しくも海の海城から陸の成城への散策。

成城中学校・高等学校

明治18年(1885)創立。当初は文武講習館として、築地に創立。軍人志望の少年の養成にあたる。
明治19年に「成城学校」と改称し陸軍士官学校・陸軍幼年学校への全寮制予備校となる。明治24年に現在地に移転。

牛込までくればアンテナが見えてくる。

市ヶ谷の防衛省。
かつての陸軍士官学校。

そのまま南下すれば都営地下鉄の曙橋駅。
今回の新宿区戸山界隈の散策はこれで〆

東農大周辺の戦跡散策

平成29年(2017年)5月撮影

東京都世田谷区桜丘。
現在の東京農業大学世田谷キャンパスがある一帯。
この地は戦前は陸軍用地であった。
「陸軍自動車学校」(陸軍機甲整備学校)
その名残を辿ってみようと思う。

陸軍自動車学校
陸軍機甲整備学校
正門門柱
(東京農業大学正門)

これは旧・陸軍機甲整備学校の門柱跡。
現在は東農大の正門。

位置関係

8910-C1-27
昭和19年(1944年)10月16日‐陸軍撮影を加工
USA-M388-111
1947年08月01日-米軍写真を加工

この写真のころはすでに東農大が移転後の状況。
GoogleMapを加工

陸軍自動車学校
陸軍機甲整備学校

1925年(大正14年)陸軍自動車学校が設立
1941年(昭和16年)陸軍機甲整備学校に名称変更
1943年(昭和18年)神奈川県相模原市に移転

昭和20年終戦とともに解散

1946年(昭和21年)世田谷の陸軍機甲整備学校跡地に東京農業大学が移転。


往時を偲ぶものは少ない。

冒頭の門柱が最大の見どころ。 あとは界隈に境界標石が点在しているレベル。

「東京農業大学」正門柱
旧・陸軍機甲整備学校門柱跡


東京農業大学と隣接する東京農業大学第一高等学校・中等部が、陸軍用地とほぼ等しい。

せっかくだから、大学構内を散策してみます。

正面奥に胸像がありますね。

榎本武揚先生像

実は榎本武揚が農大創設者。
(開設は地下鉄飯田橋駅A4番出口附近の「東京農業大学開校の地」)
本胸像は昭和56年に創立90周年記念にて建立。

東京農業大学は、1898年(明治31年)より、渋谷常磐松町(渋谷の青学や國學院の近く)に校舎を構えていたが第二次世界大戦の際に空襲により校舎を焼失。

1946年(昭和21年)、世田谷の陸軍機甲整備学校跡地に移転。これが現在の世田谷キャンパス。


湖北農場慰霊碑「寂」

湖北農場慰霊碑「寂」の由来

この碑は昭和二十年の終戦時に当時の満州(現中国の東北地方)のソ連国境近くにあった東京農業大学湖北農場において実習中の農業拓殖科学生五十六名と教員二名が戦禍に遭遇し、不幸にして殉難した霊を慰めるために、農業拓殖学科創立二十周年を機に建立したものである。
昭和53年10月30日 東京農業大学

合掌

動物実験 供養

昭和49年4月建立

横井時敬先生胸像

東京農業大学初代学長、近代農学の祖。
榎本武揚から私立東京農学校の学校経営を委託され明治44年から昭和2(1927)年まで東京農業大学学長として農業教育の発展に尽力尽力。

「稲のことは稲に聞け、農業のことは農民に聞け」

基準点がありました。

東京農業大学基準点 標高47.002


さて大学の敷地外へと足を進めましょう。

今回の散策範囲はこちら。

大学の南が正門。
そこから東に2ヶ所あるマークが陸軍用地の東端。 大学の北側4箇所が陸軍用地の北端となります。
それぞれ陸軍境界石などがありました。


陸軍境界石

住宅地の道路の脇に。
こうやってひょっこり顔を出している歴史的な標石を見つけるのが楽しいんです。なんか宝探しをしている感覚。

「陸軍自動車学校」(陸軍機甲整備学校) 陸軍境界石

なんとなく「陸」と書いてあるような気がします。

ひとつめ

ふたつめ

もう一つ、それぽいものがありました。

こちらは「東京農業大学第一高等学校・中等部」の裏門。

さきほどの陸軍標石の奥に学校が展開されてます。

ここも陸軍用地。 学校に沿って北上していきます。

ここからは陸軍用地の北端となります。

これは解りやすいです。
今では道路拡張の境界でもありますね。

みっつめ

よっつめ

陸軍用地北端部を歩いていきます。
北西側の道路に、「陸」なアイツが境界してました。道路拡張されてない場所というのがひとつのポイントですね。

陸軍自動車学校
陸軍機甲整備学校
裏門門柱跡(とされるもの)

ちょっと前の情報ではここに一対の門柱が残っていたのですが、訪れたときには片柱が工事エリア内となっており…

裏門の片側の工事エリアは「東京農業大学第一高等学校・中等部」の北東西。 「東京農業大学稲花小学校」(平成31年開校予定)の工事。

完成予想図の南東角が「裏門柱」のある場所なのですが、歩道整備で道路拡張っぽいので…片側は消滅かも?

で、ストリートビューしましたら。

片側は消滅してました・・・

庚申塔

このエリアの最後は近代と近世の出会い。
実はこの北端の道は江戸時代からの古道でもあり庚申塔が鎮座。

庚申様は安永8年(1779)建立
四街道の道標(四谷道・青山道・府中道・大山道)

陸軍境界石は刻印が掠れている。
いつつめ

「庚申様」
碑面には「安永八亥年九月吉日」と記載あり。

「庚申様」
台座は「昭和五十三年」建立

表には「古老の話」「地名変遷」 が刻まれている。
そして
裏には「当地の話」(陸軍用地になった話など)が刻まれている。
記銘年が異なっており表面は昭和53年、裏面は昭和59年銘。

で、困ったことに裏面が壁と接していて…
角度的に読めない…

当地の話
大正5年4月陸軍自動車学校の設立が決定され、土地の買い上げ通知があり、7月に買い上げとなりました。地主は大貫孝・長嶋作太郎外数名で一坪金1円80銭でした。同年6月工事着工、大正6年4月に信濃町輜重兵大隊より80名が自動車班として着任した。大正7年水谷少佐が英国より洗車を導入。大正8年練兵場に鉄条網・坂・穴等の妨害物を赤羽工兵隊が作り2月2日より戦車・自動車の総合訓練が摂政宮殿下隣席の下に行われました。戦車は穴に落ちて出られず立ち往生しました。2月5日は大雪で戦車を穴から出すために7日に工兵隊の人が雪の中を大貫の台所の火で代わる代わる暖を取り5日がかりで戦車を穴から出したのです。大正10年11月には第二次買収通知があり大正11年3月大貫孝・常徳院の土地合計六千坪が坪4円で買い上げられました。ここに大正12年11月には研究部ができました。また全国中で一番危険な自動車の坂道をつくりました。昭和12年3月馬場建設のため第三次買収が決められ、大貫菊次郎の土地六百坪が坪6円で買い上げられました。昭和20年8月終戦。昭和21年には渋谷より東京農大が自動車学校跡に移転してきました。又桜丘中学校も昭和22年にできました。研究部跡には農大付属高校が設立されました。
 昭和59年1月 設立者 大貫菊次郎 90歳

この庚申塔より西側は道路が拡張されていたりで痕跡薄そうでしたので割愛。

小田急線千歳船橋駅を13時30分スタートで東農大周辺をぐるぐると散策して小田急線経堂駅に到着したのが16時。
ざっと2時間30分散策でした。
23区内にこうしてひっそりと残る戦争の痕跡、奥深いものあります。

おまけ
東京農業大学・開校の地

飯田橋駅A4出口近くに「開校の地」碑がありました。

明治24年(1891)
徳川育英会育英黌農業科が設立。
初代黌主は榎本武揚。
明治25年に大塚窪町に、明治31年に渋谷に移転。
※黌=(こう)、学校の意

北辰社牧場跡

飯田橋~九段下界隈
戊辰戦争で幕府海軍を率いて活躍した榎本武楊は戦後は捕らわれの身となるも、その才能を惜しんだ明治政府に重用。
一方で幕府時代にオランダ留学していた知識を活かし旧幕臣子弟の為に育英黌農業科(のちの東京農業大学)や北辰社牧場を開設している。

以上で〆