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浜松陸軍墓地跡と戦跡散策【浜松1】

令和元年7月

浜松に赴く用事があったので、脚を運んでみました。

浜松陸軍墓地跡
(住吉墓苑平和記念広場)

浜松には歩兵第67聯隊が明治41年(1908)に進出したことにより軍都としての一歩が始まる。。
大正15年(1926)には立川の陸軍飛行第7聯隊が進出。のちに浜松陸軍飛行学校として拡大し、また三方原教導飛行団なども展開。周辺には軍需工場も展開され、浜松は一大軍事拠点となっていた。

浜松陸軍墓地は明治41年の歩兵第67聯隊の進出にあわせて、兵営・練兵場などとあわせて設置された。

昭和18年(1943)に浜松陸軍墓地の地に「忠霊殿」が竣工。戦後は遺族会が管理していたが平成17年(2005)に老朽化により解体。忠霊殿祀られていた10857体の位牌は処分を強いられたという。

総務省サイトには【1万857柱の戦死、戦災死者を合紀する住吉「忠霊殿」 】があると記載されているが、その忠霊殿は、既にない・・・

総務省トップ > 政策 > 一般戦災死没者の追悼 > 国内各都市の戦災の状況 > 浜松市における戦災の状況(静岡)

http://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/situation/state/tokai_03.html

浜松の瓦屋さん(柳本産業)のサイトに「忠魂殿」屋根瓦が保管されている旨の記事がありました。(2010年の記事、現在はわかりません)

https://yanagimoto.hamazo.tv/e2561754.html

公園に保存するという話も立ち消えてしまたようで、なんとも複雑な気持ち。
次回、浜松に訪れる機会があれば、この瓦屋さんにも足を運んで、残っていれば拝見させていただきたいな、と思いつつ。

濱松陸軍墓地道
(浜松陸軍墓地跡)

濱松陸軍墓地道
昭和七年十月 濱松會建之

平和の道標
皆さんの美しい故郷の
山や河を守り
日本の平和と豊かな
暮らしを願いながら
長い戦争の中で
亡くなられました。
今日の平和を思う時
私達はここに眠る人々を
決して忘れません。
この尊い心を受け継ぎ
感謝の心を持って
一日、一日を
大切に生きましょう。
 平成25年9月吉日
 浜松市遺族会

英霊顕彰之碑
(浜松陸軍墓地跡)

英霊顕彰之碑
昭和57年7月17日
静霊奉賛会浜松市連合支部長建立

平和祈念の碑
(浜松陸軍墓地跡)

平和祈念の碑
 この碑は、戦争中軍人や軍属として、弾丸に傷つき、あるいは、病魔に侵された傷痍軍人、及びその生涯を献身的に扶けた妻の記念碑である。
 われらは、戦争の悲惨を、身をもって体験した者として、二度と戦争をくりかえすことのないよう心から訴える。
 ここに、日本の繁栄と世界の恒久平和を祈念し、われらが最後の傷痍軍人であり、またその妻であることを願ってこの碑を建てる。

 終戦50周年記念
 平成7年8月吉日
 浜松市傷痍軍人会
 同 妻の会

忠霊殿 扁額か?
(浜松陸軍墓地跡)

忠霊殿
昭和廿八年八月とある。戦後の昭和28年に作られた忠霊殿の扁額か。

前述のとおり、ここにあった忠霊殿は解体されてしまった。

陸軍標石

「陸軍用地」と記載のある標石が、住吉墓苑平和記念広場公園内(恐らく移築されたもの)と、住吉墓苑南古墳近くの2つを確認。

「住吉墓苑平和記念広場」内の陸軍標石

「住吉墓苑南古墳」の近くにある陸軍標石

住吉墓苑南古墳

住吉墓苑南古墳 住吉四丁目
旧陸軍墓地(現青少年の家南側)にある住吉墓苑古墳は、古墳時代中期末、五~六世紀の前方後円墳である。現在は高さ3米、直径30米ほどの後円部が残るのみであるが、墳丘には楠やはぜの木などの多くの木々が枝を広げ、各種の野鳥の四季折々の住みかとなっている。
戦後、旧陸軍墓地は住吉墓苑と改められ、青少年の家、白亜の霊廟の忠霊殿などとともに、広く市民の憩いの場として親しまれている。

あぁ、「白亜の霊廟の忠霊殿」・・・

青少年の家

この地図をみて、いまさら気づきました。。。。
「トーチカ」ってなんですか???
見損ねました・・・あちゃあ。

門柱跡
(浜松陸軍墓地跡)

位置関係(浜松陸軍墓地)

今昔マップ on the web 」より。
「歩兵営」と「練兵場」「陸軍墓地」があるのがわかる。
(大正6年測図)
「歩兵営」は現在の「静岡大学浜松キャンパス」
「練兵場」は現在の「和知山公園」

静岡大学浜松キャンパス には、往時の門柱が残るというが今回は未訪問。
さきほどのトーチカとあわせて次回の宿題とする。


浜松城公園に移動。

浜松市戦災被爆者慰霊碑
(浜松城公園)

浜松市戦災被爆者慰霊碑
浜松市長 平山博三 書

慰霊碑撰文
昭和十六年(一九四一年)十二月八日
太平洋戦争に突入したわが国は緒戦に勝利を収めたもののやがて戦況は逆転し同二十年八月十五日遂に降伏のやむなきに至った
この間浜松市は三十回余りに及ぶ空爆艦砲射撃を受け市の大半が廃墟と化し死傷者も八千人を越えた
特に昭和二十年六月十八日の敵機による焼夷弾投下は熾烈を極め市の中心部は一瞬にして紅蓮の炎に包まれた恐怖の一夜が明け死を免れた
人々が肉親を求めて彷いあるいはあとかたも無いわが家の跡を茫然と眺める悲惨な姿は言語に絶するものであった
しかし戦争が終わってすでに三十四年戦前をはるかに越える豊かで平和な暮しは人々をしてその念頭から死の街と化した郷土の惨状や往時の苦難やまた戦災死者の方々への痛恨の情を日ごとに稀薄なものにしていく
かかる時市民の間からこれを何らかのかたちで後世に遺そうとの議が興り市各界の方々からも深いご理解による浄財が寄せられここに浜松市戦災被爆者慰霊碑を建立して悲惨な戦争の絶滅を期し三千有余名の戦災死者のご冥福と世界の恒久平和を祈念するものである
 昭和五十四年三月二十一日
 浜松市戦災被爆者慰霊記念碑建設委員会

浜松市及び周辺の空襲被害状況
戦災死者 3,549人
戦災重軽傷者 4,870人
全半壊建物 7,536戸
全焼家屋 20,303戸
半焼家屋 462戸
投下弾 3,081発
焼夷弾 79,553発
砲弾(艦砲射撃) 20,000発
飛来機 B29 557機
    小型機 500機
被災地域 全市の70%

合掌。


浜松復興記念館

戦後の復興土地区画整理事業が昭和58年3月に終了したことを記念して、昭和63年に開館。

艦砲弾の破片、焼夷弾の弾頭、爆弾の筒
武蔵
武蔵

浜松市復興記念館公式サイト

http://fukkoukinenkan.com/

浜松城公園の南、五社神社・諏訪神社の南に位置している。この場所はかつての浜松医学校跡。

せっかくなので、こちらにも足を運んでみた。
郷土資料からみる戦争資料と復興資料。こじんまりとした空間であれど、なかなか見応えはあった。
浜松は空爆のみならず艦砲射撃を受けた街ということもあり、その破片も生々しく。

五社公園

向かいの五社公園は「旧浜松市役所」という。
さらに前にさかのぼると「杉浦国頭邸跡」という。
いくつかの記念碑があった。

戊辰之役報国隊紀念碑(五社公園)

遠州報国隊。
慶応四年(1868年)の鳥羽・伏見の戦いで勝利し、徳川慶喜追討のため江戸に向かった官軍に、同行・協力するため神職を中心に結成された有志隊。

万葉歌碑 引馬野爾の歌 (五社公園)

万葉集遠江歌考
賀茂馬渕

浜松といえば賀茂真淵。すっかり失念していました。

愛郷 顕彰碑(五社公園)

浜松市消防殉職者を祀る。昭和41年建立。

誠忠碑・鳩の塔(五社公園)

帝国在郷軍人会浜松連合分会が発起、浜松尚兵義会が建立。
大正8年(1919)の創建。
日清戦争・日露戦争・第一次大戦の戦死者の霊を祀る。

ここには何も説明がなく、予備知識がないとまったくよくわからない塔。
ただ造形美と、堂々とした姿に「これは只者ではない」と感じさせるなにかがある。忠魂塔と知れば、なおさらである。
できることであれば解説板を設けてほしい。ちょっと残念な状態が嘆かわしく。


浜松には、「 エアーパーク 航空自衛隊浜松広報館 」もあり、他にも多くの戦跡が残っており見どころ豊富。
次回以降の課題としたいと思う。

高尾山の戦争慰霊碑

平成31年1月

2019年の1月は高尾山に。硫黄島の慰霊碑に。

高尾山有喜苑

高尾山薬王院へ赴く途中、 男坂と女坂に挟まれた高台に仏舎利塔がある。
その敷地内に幾つかの慰霊碑もある。

高尾山有喜苑
 護國英霊碑
 南無護国英霊

硫黄島戦没者慰霊碑

 硫黄島は此処から南六百里の洋上に浮かぶ孤島であるが 大東亜戦争の末期 太平洋に於ける日米攻防戦の天王山であった
 されば昭和二十年二月十九日から展開された戦闘は凄惨熾烈を極め 日本軍は約二万名が玉砕したのに対し 米軍も亦戦死約七千名 負傷二万千名を算した
 米軍の上陸した同島南海岸正面の防衛戦闘に 独立歩兵第309大隊の機関銃中隊長として奮戦した阿部武雄氏は死闘の末遂に捕らえられて 米軍野戦病院に収容され奇しくも生還した
 阿部氏は当協会常任理事 組織部長として 協会の事業目的達成の為献身奔走する一方 戦没者の供養と平和を祈念する為 この慰霊碑及び平和観音を建立の上 碑下に戦没者舎利を納める事を発願し今茲に結願す 功徳実に大である
 仏舎利塔に隣接した聖域を 薬王院当局の好意に依り卜する事が出来たが 硫黄島への渡島が困難である事情に鑑み 此処に詣でて 遥かに南溟の空を仰げば 必ずや平和観音の妙智が作用して現地供養を彷彿たらしめる効を顕わすものと信ずる次第である
 讃に曰く
  丘上新碑影 尊像馥郁香 
  佇立望南溟 滂沱憶硫黄
 昭和四十六年四月十八日
 硫黄島協会 会長  和智恒蔵 謹撰
       副会長 森本一善 謹書

硫黄島の形をした慰霊碑

永代供養
厚生大臣 小泉純一郎書

鎮魂
平和への
 もといとなりし
  み霊よび
 高尾の森に 
  小鳥とあそべと
 丁丑皐月二十四日(平成9年5月 24日)
 硫黄島協会

支那駐屯歩兵第二聯隊
慰霊顕彰碑

高尾山大僧正秀順書 
昭和55年建立

支那駐屯歩兵第二聯隊は昭和11年に天津駐屯歩兵隊を改編して設けられ、天津の海光寺に在ったことから、海光寺部隊と呼ばれた。

七生報国
盧溝橋事件勃発 
昭和12.7.14日 聯隊は通州に向う

望郷 シベリアに眠る抑留者供養碑
異国の丘

大本山高尾薬王院貫首隆玄謹書
平成22年10月28日建立

嗚呼シベリア鎮魂歌(レクイエム)
一、嗚呼シベリアの七ツ星
  眺める夜空に出る涙
  鶴嘴持つ手に血もゆかず
  息吹きも凍る密林の
  拓く茨の身は哀し

二、酷寒零下四十度
  飢えと寒さにまたノルマ
  今日も凍える友を抱く
  たおれし六万同胞の
  慰霊は眠る北の国

三、バーム鉄道鳴る汽笛
  あゝ誰がためぞそのレール
  平和を叫けぶ友の声
  耐えし抑留その史実
  語り伝えよ北の星

満蒙大陸林業人供養塔

昭和49年6月
外林会 満蒙部会 建立

碑文
 近代日本の国策に則り 曽てアジア大陸の一角で満蒙林野の正業経営に挺身すべく 官民一体の民族の大移動が行われた しかし残念ながら敗戦により雄図空しく祖国に帰還せざるを得なくなった
 その間国境を越えた物故の五族協和同人は多数に上っている
 この「満蒙大陸林業人供養塔」は これら物故者の英霊に供養を捧げ その冥福を祈るために 満蒙に住んだ官民林業関係者が悉く参画し 全魂こめた体制で建立したものである
 これが建立にあたっては 特に 高尾山薬王院をはじめ 林野庁 東京営林局 東京営林署 東京都 日本林業技術協会 全国林業改良普及協会 その他の 絶大なるご援助を賜った なお工事関係については 吉田茂八 後藤東吉両氏の労を多とするものである 以上銘記し 深甚の謝意を表する
 昭和四十九年六月

観音像
みたまよ やすらかに ねむれ

みたまよ やすらかに ねむれ
 平成15年4月9日開眼
 陸軍士官学校第六十一期生会
 陸軍軍官学校第七期生会
 陸軍経理学校第十一期生会


日泰親善高尾山仏舎利塔

1956年建立。

東日本大 震災物故者追善菩提也


高尾山薬王院

高尾山薬王院飯縄権現堂

たこ杉(蛸杉)

高尾山

高尾山ケーブルカー 高尾登山電鉄

茨城縣護國神社と水戸歩兵第二聯隊の戦跡散策

平成29年8月

レンタサイクルで水戸市内の戦跡散策を。

茨城県護国神社

茨城縣護國神社は昭和16年11月に創建。
御祭神は幕末から明治維新以後、日清日露の戦役、大東亜戦争に至る支那事変等において国事にたおられ護国の礎となられた茨城県出身の63400余柱の戦没者(軍人・軍属のほか従軍看護婦など女性も含む)の英霊を祀る。

慰霊安鎮

訪れたらちょうど「みたままつり」の季節。
7月10日から8月19日まで実施されているようです。
良き時期の参拝。ありがとうございます。

御朱印。
女性の神職さんが力強い筆使いで書いてくださいまして。 そして一言「全国の護國神社を廻られているんですか?」と。
気がついて戴けました。ありがとうございます。
「靖國神社の御朱印帳に護國神社の御朱印」集印を。地道に少しずつ…

征清記念碑

陸軍大将 小松宮彰仁親王篆額
日清戦争に際して犠牲となった茨城県人を慰霊。

征清記念碑
陸軍大将大勲位功二級彰仁親王篆額
 我が神州、建國以来、外征の史に見るる者、蓋し十有餘次なり。遠くは、神后三韓を征し、近くは豊太閤朝鮮を伐つ。其の功烈最も古今に卓絶す。而して輓近、皇師討清の役、實に二役以来の大事たるなり。已に甲数十萬を起して、兵を千里の外に用ひ、陸は堅城を抜き、海は大艦を奪ふ。而して訊馘以て京観を築くべきなり。斥地以て版圖を廣ぐるに足るなり。其の、皇威を震耀し、國光を宣揚するは想ひ如何と為すや。其の功夐に豊太閤に軼りて、其の烈實に、神后より光有り。亦古今の大捷と謂ふべきなり。惟ふに其の役大なる故に、我が喪ふ所の兵士の數、蓋し亦少しと為さず。今や、茨城一縣を以て之を算ふるに、其の戰ひて敵弾に斃れ虜鋒に殞し、及び盡瘁して病没せる者、數百人を下らず。是れ盡く桓桓の将士に非ずんば、則ち赳赳の武夫なり。誰か國家の為に惜しまざらんや。水戸の常磐の地には、素より鎮靈の社有りて、其の嘗て命を國事に致せる者を祀る。今茲志士相謀り、縣内の士にして討清の役に死せる者を合祀し、以て大いに弔祭を修し、而して又特に一大碑を社の側に建て、以て其の忠烈を表彰し、其の靈をして憑る所有り、而して其の名をして傳はる所有らしめんと欲し、余に其の文を撰ばんことを請ふ。余嘗て國乗を讀み、夙に關東の古俗、特に義勇を以て著るるを欽ぶ。嚮に清に事有るに及び、東兵果たして克く恥を重んじ、死を輕んじ、實に古の勇名に負かざるを聞く。乃ち彼の戰勝功取に於て蓋し最も與って力有るを知る。其の勲功は寧ぞ没すべけんや。善きかな此の舉たるや。余適任に在り、毎に管民軍士を歸葬し、郡市を舉げて、輙ち哀を致すを観る。而して今又修祭を為し碑を建つ。嗚呼闔縣協力此の如し。其れ至れるなり。亦能く國家の兵士を待つの恩意を體すると謂ひつべし。之を太閤征韓の役の、陣没する者算ふる無く、其の屍を原野に委ねて俺ず、其の魂は彷徨して之れが憑る所無く、哀れむべきを視るに、豈其れ日を同じくして談ずべけんや。是れ固より昭代の至徳に由るなりと雖も、抑も亦東人の義を好むの致す所を見んのみ。夫れ此の勇也、義也、今併せて以て之を表す。庶幾くは、後人をして風を聞きて、激励奮起する所有らんことを。是に於てか書す。
 明治30年4月
 茨城県知事正五位勲五等江木千之撰 
 茨城県書記官従五位勲五等渡邊秀書
 (社)日本郷友連盟茨城県支部建之 

征清記念碑
 この碑は明治34年4月即ち日清戦争の直後に水戸常盤地内鎮霊社の傍らに茨城県人で日清戦役に従軍した将士が国のために壮烈に戦い戦死し又は病に斃れた数百柱を合祀した際、その名誉を後の世に人々に伝えようと県を挙げて慰霊祭を執り行い県で建てられたものであります。
 碑文の概要は過去に神功皇后の三韓征伐、豊臣秀吉の朝鮮征伐とあったが、今度の日清戦争はその比ではない大戦果であった。
 戦が大きかっただけに、我軍の損害も多く茨城県だけでも戦死、戦病者が数百人以上ある。誰が国家のため惜しまないものがあろうか。茨城県人は古来から義勇心が強かったが今度の戦役でも勇名を挙げた。
 後世の人もこの話を聞いて奮起することであろう。

北征記功碑

陸軍中将 閑院宮載仁親王篆額
日露戦争に際して犠牲となった茨城県人千数百名を慰霊。

北征記功碑
 この碑は明治39年(1906年)2月即ち日露戦争(明治37年1904年 明治38年1905年)の直後、茨城県内の戦死、戦傷病者千数百名の慰霊祭を行ない碑を建て戦況を叙しその功績を永久に伝えようとして県で建てたものであります。
碑文の概要は弘安の役(1274年)では、元軍を一挙に全滅した。
日露戦争では海陸大小数百の戦いに勝ち世界を震撼させた。
 これは上に神のように賢い天皇陛下がおわしまし 下には賛襄の良民がおり 将士の忠勇義烈の心がすぐれていたからである。
 元寇は10万以下の兵力であったがロシヤ軍は100万以上で戦も大きく偉大な功績も挙げ弘安の役の比ではなかった。
 茨城県の従軍軍人は数万人海に陸に勇戦奮闘し茨城男子の面目をあげ皇国軍人の精華を発揮したが戦死、戦病死者千数百人その死にかたは違うが忠義の鬼である。
 この碑を読む人は必ず感奮して我が国の権威と力を大いにあげるだろう。

北征記功碑
陸軍中将大勲位功四級載仁篆額
 我が邦の威武、四表に烜燿たるや尚史し。弘安の役、元寇を一輿に殲す者は、上に軫憂祈神の亀山上皇有り、下に勇断斬使の北条時宗有るを以てなり。三十七八秊の役、我軍を百戦に剿する者は、・に叡聖神武の 英主有り、下に輔弼賛襄の良臣有るを以てなお将士の忠勇義烈に至りては、即ち日を同じくして語るべからざるもの有り、且つ元寇は十萬を出ず、我軍は即ち百萬を過ぐ。故に戰大にして功も亦偉なること、決して弘安の比に非ざるなり。彼は宇内の強大國を以て一母五乳の意図を懐き、満韓を侵蝕し、以て東洋の平和を擾さんと欲す。我安んぞ其の亡状を責めざるを得ん。是に於て 王師海を絶り以て掃蕩を期す。海軍は即ち敵艦を旅順港外に撃破し死士をして船を沈め港口を壅せしむ。又浦塩艦隊を蔚山の洋に摧残し、終に波羅斯艦隊を日本海に邀撃し、之を殲滅す。海上権は全く我に帰す。陸軍は則ち先づ鴨緑江の儉を奪ひ、普蘭店、王家屯の要を扼へ、鳳凰、摩天嶺、南山、得利寺、岫崿、柝木、遼陽、旅順の諸要砦を抜き、遂に奉天を破り、以て敵を北満州に駆逐する有り。海陸大小數百戦、竒勛偉績は天地を震撼し、鹵獲俘虜の夥しきこと勝げて紀すべからず。我が縣の従軍する者、将士合わせて數萬人、海に陸に勇戦奮闘し、以て常総男子の面目を顕揚し、皇国軍・・の精華を発揮す。而して戦死病没する者千九百餘人、其の死は殊にすと雖も忠義の鬼たるは、即ち一なり。今や和成り、事平なり。余郷紳と胥ひ謀り、大に弔祭を脩し、且つ碑を建て戦況を略叙し、以て之を不朽に傅へん。顧みて邦人の談元寇の事に及べば、草野安達等慮艦を斫つの壮烈を稱せざるは無く、以て武夫の龜鑑と為す。後の今を視ること猶今の昔を視るがごとく、即ち其の碑を讀む者、必ず應に感奮する所有り、以て倍我が邦の威武を宣揚すべきなり。
 明治三十九年二月    
 茨城縣知事正四位勲三等寺原長輝撰并書
  (社)日本郷友連盟茨城県支部建之 

大東亜戦争記念碑

天皇陛下御在位60年を奉祝し昭和61年8月15日建立。

碑銘
 過ぐる昭和初期における世界的政治経済大恐慌のさなか、祖國日本の苦難の歴史は、昭和六年九月十八日、満州事変に発し、支那事変(昭和十二年七月七日)、張鼓峰事件(同年七月九日)、ノモンハン事件(同十四年五月十二日)を経て遂に昭和十六年十二月八日には米英両大国に対する大東亜戦の布告となり、その後昭和二十年八月十五日の終戦に至るまで、約十五年にわたる日本民族存亡の命運を賭する肇国以来未曾有の長期大戦争に進展するに至った。
 かくしてその戦域は中国全土及び東南アジア諸域はもとより遥か度洋、豪北、ニューギニア各地、さらには全太平洋海域にまたがる実に全地球の二分の一に渡る広大な範囲に拡大され、四百余万にのぼるわが将兵は、過去数世紀の間西欧先進諸国の隷属化に喘いでいた旧植民地の各地に転戦。終始連合国軍の圧倒的物量攻勢と対決し、陸に海に空に善戦敢闘苛烈な敵攻撃を受けて屍山血河の激戦を展開した。
 その間、わが本土もまた度重なる敵の無差別爆撃や艦砲射撃を受け、なかんずく非人道的極まりない原子爆弾投下により一面の焦土と化し、銃後一般国民の蒙る戦禍も日毎に増大するに立ち至った。しかも一億国民の気概は屈することなく、なお総力を挙げて徹底抗戦の構えは不動なものがあったにもかかわらず、戦局は必ずしも我に利あらず、最後に本土決戦による皇国興亡の関頭に立ち、折しもソ連の機を穿っての不法参戦大挙侵入に遭うなど、諸般の大勢の赴くところ、遂に聖断によってポツダム共同宣言受諾の止むなきに至り、終戦の大勅を拝するに及び、一億国民号泣の涙と共にこの長期にわたる大戦の幕は閉じられた。
 この戦いに全国二百五十万有余の同胞の尊い生命が失われ、茨城健児も精悍無比、この国家危急の秋に当たり終始伝統たる不抜の闘魂を遺憾なく発揮したが、五万三千五百余名の軍人軍属を始め、四千八百余名の内地外地における婦女子を含む被災死亡者を合わせ五万八千四百余名の県民が国難に殉じたのである。これらの人々の鮮血に塗れた最後の姿は今にして想い起こすだに惨烈悲痛の極みである。
 終戦のこのかた四十年、我が国民は「終戦の詔書」の示されるところに従い 敗戦の汚名を甘受し、耐え難きを耐え、偲び難きを偲んで今日の国家隆盛の姿をみるに至ったのであるが、われわれ県民も同様、筆舌に尽くしがたい数々の屈辱と苦渋を乗り越え、辛苦勉励によりこの経済復興し繁栄とをもたらし得たのである。ここに及んで往時を顧みればこれひとえに今は亡き諸英霊の献身と御加護の賜と衷心からの感謝の誠を捧げたい。さらにまた、長い戦乱の陣痛ののち、かってのアジアを始めとするも全世界の植民地が次々に解放され、新たなる希望に満ち、民族独立の雄叫びが聞かれるとき、この西欧列強と伍し、日本がよく明治開国以来アジアにおいて唯一の栄光ある独立国家とし、その名誉と道統を守り抜いた日清日露の両戦役と同様、この度の戦いは日本民族が自存自衛とアジア植民地解放の宿命的使命を果たした「聖戦」であり、世界人類史上に残した燦然たる足跡は永く後世に伝承せられることを確信する。
 よって時あたかも今上陛下御在位六十年の千載一遇のこの年に当たり、聖寿のいや栄えまさんことと、祖国日本の永遠の伸展並びに世界恒久の平和を祈念しつつこの碑を建立し、以て英霊の功績をとこしえに顕彰するものである。
 昭和六十一年八月十五日 
 茨城県大東亜戦争記念碑建立発起人

大東亜戦争記念碑 大東亜戦争要図

満州事変以降大東亜戦争本県人戦没者
軍人軍属 53,542人
一般県人 4,879人
計 58,421人

平和のねがい

工兵第22連隊戦友会(昭和62年8月9日建立)
昭和十三年六月に水戸工兵隊より編成され第二十二師団工兵第二十二聯隊として創立。
主に中国大陸で展開され、終戦時はビルマ反撃作戦準備の為道路構築中であった。

顕勲の塔

碑文
この塔は日清の役から太平洋戦争までの幾多の戦いにおいて国のため散華された県下の五万八千余柱の英霊を慰めその偉勲を後世に伝えようと県のはからいにより全遺族の祈りをこめて建てられたものであります
なおこの塔には支那事変以来分骨された七千七百余柱の遺骨が納められております 諸霊やすらかにこの地に鎮まり郷土の平和繁栄にながく加護を垂れ賜わりますよう祈念いたします
 昭和三十八年五月

戦没者留魂の處

戦没者留魂の処と碑
戦没者留魂の処は、財団法人茨城県遺族会連合会が戦没者の納骨施設として昭和二十五年十一月水戸市堀町字立原二〇八五番地の旧陸軍墓地跡に建設し七千七百余柱の分骨を納骨していたが昭和三十八年三月に「顕勲の塔」が建立されたため この分骨は顕勲の塔内に移管され留魂の処には碑のみが遺された。
このたび留魂の処跡地を水戸市に返還したことを機会にこの碑および灯篭などをここに移転したものである。
 昭和五十九年六月吉日
 財団法人茨城県遺族会連合会 会長 狩野明男

さくら山遺品館

開館時間は午前10時から午後2時まで。
私が参拝したのは午後3時すぎ。
残念です。また来ましょう。

ペリリュー島守備部隊鎮魂碑

水戸第十四師団隷下、水戸歩兵第二聯隊を鎮魂する。
歩兵第二聯隊長は中川州男大佐。
中川連隊長がペリリュー島守備隊長となり、水戸連隊がペリリュー島の戦いの主役となる…

ペリリュー島守備部隊鎮魂碑
碑文
明治七年建軍以来、幾多の国難に出陣して赫々たる武勲に輝く水戸歩兵第二聯隊は、大東亜戦争酣の昭和十九年三月、北満の守りから中部太平洋の要衝ペリリュー島に転用され聯隊長中川州男大佐は、一万有余名の陸海軍諸部隊を併せ指揮して同島に布陣し敵の侵攻に備えて堅固な陣地を構築すると共に、全島民をパラオ本島に避難させた。
九月十五日、四万有余名の米軍機動部隊来襲し、想像を絶する砲爆撃の掩護下海面を圧する敵上陸舟艇群を迎撃して大打撃を与えた。爾後上陸せる敵増援部隊と七十余日に及び、洞窟陣地に拠る死闘を繰り返しつつ持久の任務を遂行したが、十一月二十四日、遂に戦力尽き、中川部隊長は、軍旗を奉焼し訣別電報「サクラ、サクラ」を打電して自決、残る将兵は遊激戦に転じ悉く悠久の大義に殉じた。
守備部隊の武勲は畏くも天聴に達し御嘉賞十一回に及び、陸海軍最高指揮官の感状により全軍に布告され、 世界戦史に比類無き精強部隊の名を残した。 ここに、その偉勲を景仰し、英霊の御加護による祖国の平和と繁栄を祈念して、五十年祭を期し、有志相図り、この碑を建立する。
 平成五年十一月二十四日
 歩二会・ペリリュー島慰霊推進会

ペリリュー島の戦い

昭和19年9月15日~11月25日
水戸歩兵第二連隊を中心とした日本軍が要塞化した洞窟陣地などを利用したゲリラ戦法により組織的な抵抗戦術で米軍を苦しめた戦い。
この戦い方法が、のちに硫黄島の戦いへと引き継がれていくことになる。

日本軍戦死者10,695名・捕虜202名・最後まで戦った生存者34名
アメリカ軍戦死者 2,336名・戦傷者 8,450名
一般人(島民など)死者・負傷者ともに0名  
 ※ 戦闘開始前に日本軍は島民を強制退避させている

鎮魂 岩上大隊の英霊ここに眠る

国のため散りし御魂の名をぞ記さん

岩上大隊とは独立混成歩兵第1連隊第2大隊の通称。
アドミラルティ諸島の戦い
部隊はアドミラルティ諸島ロスネグロス島に展開するも昭和19年3月3日の夜襲総攻撃にて壊滅玉砕。生存者の一部はマヌス島転進。

昭和十八年十一月茨城健児八百有余名は動員下令により応召、宇都宮歩兵第六十六連隊に集合、独立混成歩兵第一連隊(剛四八一九部隊)第二大隊(岩上隊)を編成同年一二月横須賀港より戦艦大和に便乗、トラック島に寄港し巡洋艦大淀、能代にて一九年一月一日、ニューアイルランド島カビエンに上陸せるも、同年一月二十五日アドミラルテイ諸島ロスネグロス島に増派を命ぜられ守備につく。同年二月二十九日、米豪連合軍は艦砲射撃と機銃掃射による絨毯攻撃を繰り返しながら、同日未明ハイン湾に上陸し来る。
 依って我が方は連日連夜反撃を加え、夜襲を決行撃退を図りしが効を奏せず、三月三日夜襲による総攻撃を敢行せるも、如何せん十数倍の兵力と物量戦には敵し難く部隊長以下多数の戦死者を出し、壊滅的打撃を受け玉砕を遂げたり。
 かろうじて生存せる者、マヌス本島に転進せるが食糧全く尽き、木の実、草の芽、その他ヘビ、トカゲに至るまで総てを食しながら遂にマラリヤ、アメーバ赤痢等病魔に侵され全滅せり、時に昭和十九年五月三十一日なり。
 されどその後になり十六名の九死に一生を得た者判明しその方々と相謀り昭和五十六年五月マヌス遺族会を結成し昭和五十七年十月現地ヌマス島に赴き懇ろな慰霊祭を行った。その時抱き返りし現地の霊砂と、個人の愛用せる遺品等を此の地に埋葬し、永遠に今は亡き戦没者のご冥福をお祈りし、併せて二度と戦争を繰返すまじきことを誓うものである。
 願わくば在天の諸霊安らかに眠られんことを。合掌
 平成元年五月吉日(西暦一九八九年)
 岩上大隊遺族マヌス会 

蟹石

自然石に「蟹」
日本画家・木村武山のゆかりの石。

「壇ノ浦ノ本石ニ蟹ヲ描キテ寄進ス 藤沢校長」
藤沢校長とは藤沢繁三陸軍中将、陸軍航空通信学校長。 のちにフィリピン担当の第14方面軍第2航空通信司令官となる。

境内社 桜ノ宮


茨城県護国神社の境内入口に2つの石碑が林立している。

鎮魂
(歩兵第二百十三聯隊碑)

昭和五十二年十一月吉日建立
第三十三師団歩兵第二百十三聯隊(弓六八二二部隊)戦友会

歩兵第213聯隊は茨城県出身者にて編成。
第33師団隷下としてインパール作戦に参戦。
聯隊の犠牲者のほとんどはインパール作戦であったという。

 昭和十二年支那事変勃発し、次いで昭和十六年大東亜戦争に突入するや八紘一宇の聖戦のみ旗のもと、支那大陸並びに南方戦線に遠征し、史上最も惨烈を極めたるインパール作戦を始め、各作戦に於て、軍の主兵として連日連夜克く苦難に堪えて善戦敢闘せり。此の間祖国の平和の礎となりて異國の山野に散華戦没されし戦友や将又幾許ぞ、あゝ山行かば草蒸す屍とすべてを祖国に捧げける崇高なる戦友の魂塊は、今や髣髴として甦り、春は桜に匂い秋は紅葉に色染めて、世々是れ照覧し給ふ。あゝ尊き哉、靖國の神々、戦後三十有余年堅き戦友愛に結ばれし戦友会は、み魂鎮めの碑を建立して赫々たる武勲を顕彰し、以て不滅の祖国愛の久遠の光を万古不変に輝かすべく、その梗概を録して永く後世に伝ふると共に日本の永久の平和と繁栄を庶幾はんとするものなり。
 昭和五十二年十一月吉日
 第三十三師団歩兵第二百十三聯隊
 (弓六八二二部隊)戦友会一同

あゝ戦友の碑
(茨城県東部ニューギニア戦友会)

茨城県東部ニューギニア戦友会
昭和四十七年二月吉日建立

国を想い
 南溟の果てに
  散り行きし
戦友の亡きがら抱き涙す

碑文
 とこしえの平和を願って
 過ぐる大東亜戦争に際し、わが茨城県出身の将兵は第四十一、五十一師団、第四十四兵站等の主力として昭和十八年十一月より昭和二十年八月の終戦に至る間、灼熱瘴癘の地ニューギニアの地に優勢なる米豪軍と激闘を続け、実に八千六百三十九名の若い命を失うに至りました。
 これら戦友の諸子はその戦いの場において命終わる人とするとき、何を願い何を祈ったことでありましょうか
 終戦後二十七年、我が国は奇跡的とも云うべき復興大発展を遂げ、本県また今日の隆昌を迎えましたが、これこそただひとすじに日本民族の平和と繁栄を願い、無量の望郷の懐いを抱きつつ絶海の地に散華したこれら8千有余の同胞のご加護によるものと信じるのであります。昭和四十四年秋県民各層のご支援のもとニューギニアの生存帰還者は収骨団としてニューギニアの戦跡に派遣され念願久しかった現地での慰霊を行うとともに御遺骨を郷里にお迎えし、翌四十五年春、茨城県護国神社顕勲の塔納骨大祭を催すことを得ました。
 しかるに、この二十有余星霜、今なお南海の孤島ニューギニアのジャングル奥深く苔むす屍をととしる英霊の鬼気は陰々として膚に寒くその慟哭は惻々として耳朶を打つことしきりであります。
 ひるがえって、日本の現状に想いを致すとき、世をあげて安寧豊饒の泥海に浸り、巧詐恥なく若人はまたその理想を失い堕弱享楽の幣風吹きて止まざるものがあります。人間として耐えうる限界をはるかに越えた悪条件のもと三年有余にわたる悪戦敢闘の末に散った益荒男の意志を偲び祖國の前途を思うものまことに寒心に堪えざるものを覚えます。
 よって、ここに記念碑を建立し亡き戦友諸子の冥福を祈るとともに、そのいさおしを後世に伝えもって祖國恒久の平和と繁栄を心からこいねがう次第であります。
 昭和四十七年二月吉日
 茨城県東部ニューギニア戦友会 

御英霊に感謝と哀悼を。

こうしてだいたい1時間ほど境内を巡らせていただきまして茨城県護国神社をあとします。
しばし千波公園・沢渡川のあたりをふらふら。ちらりと好文亭も見えました。

次はちょっと北上し茨城大学方面に。


レンタサイクルにて茨城大学、茨城県営球場方面に。

水戸歩兵部隊の跡碑

水戸歩兵第2聯隊の練兵場跡(堀原練兵場)に建立。
茨城県営球場の道を挟んで北側の公園内。

水戸歩兵第二聯隊の練兵場跡に建立。歩兵第二聯隊は明治7年に宇都宮に開隊。その後は佐倉から水戸に転営。尼港事件では石川正雅少佐以下水戸歩兵第二聯隊第三大隊が在留邦人を保護し赤軍に対して防戦をするが全滅。
先の大戦では、歩兵第二聯隊(聯隊長中川州男大佐)がペリリュー島守備の主役となり玉砕… 

大東亜戦争の終結既に遠く 水戸歩兵部隊跡は一変して いま僅かに尼港記念碑を残すに過ぎない
滄桑の変誠に感慨無量である
ここに終戰二十周年を期し 有志相図り 我々の郷土部隊が残した歴史を後々まで伝えたい念願から 大方の協賛を得て この碑を建てるに至った
歩兵第二聯隊は 明治七年明治天皇から軍旗を授かり千葉県佐倉に創設され 爾来西南の役 日清日露両大戦に出征し 明治四十二年水戸に移駐後は シベリア派兵 満洲 支那各事変に参加し 勇名を轟かした
大東亜戦争の戦勢傾くや 満洲から太平洋の要衝ペリリュー島に馳せ 中川大佐以下五千 敵の猛攻に堪えること七旬 昭和十九年十一月遂に玉砕し 七十年の歴史を閉じた
また歩兵第百二聯隊は ニューギニアに転戦敢闘し これに劣らない偉勲をたてた
東部第三十七部隊外留守機関は 困難な後方業務を完遂し 両聯隊をはじめ幾多郷土部隊善戦の基盤をなした
顧みて水戸歩兵部隊の武勲は 祖國の歴史とともに朽ちることなく 永遠に輝くであろう
この碑が つわものどもの夢の跡を偲ぶよすがとなり 後世に資することができるならば幸である
 昭和四十一年四月
 水戸歩兵聯隊遺跡保存会

尼港殉難者記念碑

陸軍大臣山梨半造書
水戸歩兵部隊の跡碑の隣にひときわ大きな石碑
大正11年(1922年)3月建立

尼港事件の犠牲者を慰霊する碑
大正9年(1920)シベリア出兵に際して勃発した尼港事件
派遣された守備隊、水戸歩兵第2聯隊第3大隊は在留邦人を保護し防戦をするがパルチザン軍との戦いで玉砕…

尼港殉難者記念碑
 この碑は、大正九年(一九二〇)シベリア出兵の際、尼港事件に遭い殉難された方々に対する慰霊の為在郷軍人会が建立したものである 尼港事件とは、ロシア革命後の混乱期に、東部シベリア治安維持等のため、英・仏・米等の要請を受け共同出兵(シベリヤ出兵)の際、ニコライエフスク(尼港)守備隊及び邦人が共産革命軍の残虐行為により全滅した事件である。
尼港は、沿海地方北部アムール川河口の政治経済の中心地で、僻遠の港町であった。
 大正8年4月第十四師団は東部シベリヤに派遣され、これに伴い水戸歩兵第ニ聯隊第三大隊(長陸軍少佐・石川正雅)は、ハバロスクの聯隊と別れて尼港に到り、守備隊となって在留邦人の保護等にあたった。
九月海軍と漁業関係者等が引き揚げ後の越冬者は、守備隊320名・海軍43名と石田領事ほか約350人の邦人であった。
この方面の革命軍は、極端な過激思想を持つ悪質なパルチザン軍(パ軍)で、情勢の悪化を憂い中央では増援部隊の派遣を図ったが、結氷積雪等に阻まれて断念を余儀なくされた。
ニ月五日海軍電信所はパ軍の砲撃を受けて破壊され、守備隊は約4千のパ軍と反日的市民の中に孤立した。
以来両軍は交戦状態に入ったが、二十八日秩序維持協定が成立し、市内に入ったパ軍は、協定を無視して不法暴虐の限りを尽くし、武装解除を要求してきた。
石川守備隊長は海軍及び領事等と協議の結果事態打開のため三月十二日未明一斉に攻撃を開始した。
緒戦は有利に進展したが逐次死傷者続出し、石田領事は家族と共に自決した。
その後軍民協力して防戦を続けたが、パ軍の謀略による改ざん電報により停戦し、十九日武装を解除されて全員投獄され悲惨な獄中生活を送った。
五月下旬我が救援部隊の接近を察知したパ軍は、獄内外の日本人全員を惨殺し全市を焼き払って遁走した。
獄舎内の生々しい血痕や「五月二十四日を忘れるな」と無念の恨みを込めた文字、辞世の数々が、最後を物語り、六月三日到着した救援部隊員は、なすすべもなく悲憤の涙を流すばかりであったという。
 平成八年五月二十四日
 水戸歩兵第二聯隊会
 (社)日本郷友連盟茨城県支部建立
 (撰 加藤保男)

https://goo.gl/maps/TY5mFANjA6AZ3tVW7

尼港事件

ロシア革命の内戦に際し1920年(大正9年)3月から5月に勃発した赤軍パルチザンによる大規模虐殺事件。
赤軍は尼港(ニコラエフスク)住民を虐殺。その中には日本人居留民・日本領事一家・駐留日本軍守備隊(石川正雅少佐以下水戸歩兵第2連隊第3大隊)などが犠牲に。

あぁ 在留邦人を護るために戦い玉砕した水戸歩兵第2連隊第3大隊
焼け落ちる領事館で自決した領事一家や在留邦人
投獄された日本人全員の虐殺

事件全体の日本人犠牲者は、軍属を含む陸軍関係者が336名、海軍関係者44名、外務省関係者(石田領事とその家族)4名、判明している民間人347名。合計731名…

尼港事件犠牲者の遺書 「大正九年五月24日午后12時忘ルナ」

監獄の壁に書かれた尼港事件犠牲者の遺書
「大正九年五月24日午后12時忘ルナ」
Wikipedia「尼港事件」より

https://ja.wikipedia.org/wiki/%e5%b0%bc%e6%b8%af%e4%ba%8b%e4%bb%b6

尼港陣歿将士銘碑

聳え立つ記念碑の隣に「尼港陣歿将士銘碑」
水戸歩兵第2連隊第3大隊の犠牲者の名が刻まれていた。
隊長石川正雅(陸軍少佐)以下、軍属の馬丁に至るまでの305名という。

龍車閲軍之跡
賜閲駐輦之跡

尼港殉難者記念碑の隣にひっそりと2つの碑がありました。

「龍車閲軍之跡」陸軍大将井上幾太郎書
「賜閲駐輦之跡」

「龍車」「輦」は天皇の乗物を示しており「閲」は閲兵。
昭和4年(1929)に茨城県で行われた「陸軍特別大演習」関連の記念碑
昭和5年建立

石碑がある公園は人影も少く静まり返っている。

道路を挟んだ向かい側には「茨城県営球場」や「茨城県武道館」などの運動公園が広がっており賑わっている。 石碑のある公園の裏側は「茨城交通茨大前営業所」がありバスが連なっていた。
そんなところに「第二聯隊」を偲びし碑が静かにあった。


水戸工兵隊記念碑

国立茨城大学教育学部附属中学校の隣、道路の片隅の標石。
「水戸工兵隊記念碑」
水戸工兵隊の一部は水戸歩兵第二聯隊とともにペリリュー島の戦いに参加。ペリリューの要塞構築にも尽力したことであろう。

https://goo.gl/maps/VqkdWMxM3yyABNJf6

水戸工兵隊跡碑

安井栄三郎書
「水戸工兵隊記念碑」のあった道路をすすみ団地を抜けると「跡碑」があった。 安井栄三郎は工兵出身で陸軍少将。津軽要塞司令官を勤めた人物。
碑は昭和四二年建立。 水戸工兵隊の兵営があった地。

https://goo.gl/maps/zHXnL6dnBs6KvNPAA

茨城県護国神社と陸軍関連の石碑などを探索でした。
ほかにも探せば何かしらが残っている可能性もありますが本編はひとまずは以上。
水戸ではレンタサイクルで約14キロ約2時間30分所要でした。

栃木縣護國神社

平成29年参拝

平成29年8月26日。
この日は、栃木県宇都宮市に鎮座している「栃木縣護國神社」を参拝。

宇都宮駅西口からバスで作新学園前下車。
すぐ隣が護国の社叢。

栃木縣護國神社

祖国と郷土の為に身命を捧げられた栃木県関係の英霊55,361柱を祀る、かつての内務大臣指定護国神社。

「宇都宮招魂社」として明治5年(1872)戊辰の役に殉じた旧宇都宮藩主戸田忠恕公及びその臣下等97柱の英霊を祀ったことにはじまる。(旧地は二荒山神社隣)

明治8年、官祭招魂社。
昭和14年、栃木縣護國神社と改称。
現在地には昭和15年4月29日遷座。

終戦後GHQ占領下の昭和22年11月14日に彰徳神社と改称。
昭和28年4月2日には栃木県護国神社と旧称に復称。

平成8年7月25日には、
天皇・皇后両陛下が御親拝をされており
天皇・皇后両陛下が唯一公式に御親拝された護国神社とされている。

感謝と哀悼を捧げる
参拝を

社務所で女性の神職様から御朱印を頂戴いたしました。
(靖國神社の桜の御朱印帳に戴いております)
ありがとうございます。

西側の鳥居。
社号標は昭和15年3月建立。
樞密顧問官・陸軍大将 奈良武次謹書。
奈良武次は栃木県鹿沼市の出身。陸軍大将。開戦前の昭和14年(1939年)3月に退役している。

名木「宝の木」(猿の手柏)

推定樹齢300年
明治6年の土地改良があった際に、この珍木にちなみ界隈は「宝木村」と呼称。
明治39年に宇都宮第十四師団司令部(現在の国立病院の地)が設置された際に寄進。昭和57年に社頭に献木という。

役立たずの御柱

「役立たず」と思う物を「役立ち」に変えてくれる御柱。
厄だけは「やくたたず」で結構。
なかなか面白い趣向です。

御製

今上陛下御製  

広芝をうむる人群旗持ちて
   振る音聞ゆ今日のよき日を

なんじゃもんじゃの木

ヒトツバタゴ
東日本で樹齢100年余りの「なんじゃもんじゃ」の巨木が3本も見られるのは珍しい、とのことです。


社頭のむかって左側には各部隊の「慰霊碑」が集められた「慰霊碑区画」があります。栃木の先人たちをお慰めしている慰霊碑へと。 ゆっくりと参ります。


忠霊塔

元宇都宮陸軍墓地(現在の東妙寺墓地)に眠っていた遺骨などを栃木縣護國神社境内の忠霊塔へと改葬したという。

栃木県東部ニューギニア会慰霊碑

この慰霊碑は昭和44年の遺骨収集の際に遺骨とともに持ち帰られたニューギニアの霊石。

大東亜戦争中 原始未開の東部ニューギニア北岸一帯は陸軍は第十八軍(猛部隊)の隷下に属する第二十(朝部隊)第四十一(河部隊)第五十一(基部隊)の各師団及び第四航空軍(洋)船舶団(暁)など 海軍は第二十七特別根拠地隊を主とした部隊が南太平洋防衛第一線の中央拠点として懸軍長躯孤立無援の作戦環境であったにもかかわらず 純正無比 ひたすら祖国の安泰と平和を念じて食料彈薬の欠乏を意とせず 悪疫瘴癘の地に敢闘すること実に三年有余 この間その犠牲は優に十二万人に達し しかもその大半は宇都宮師団管区に属し これら忠勇なる郷土将兵の遺骨の大部分は戦後二十有余年彼の僻遠の山野に埋れておりましたことはその遺族 戦友会は勿論 県民の一大痛恨事でありました。
万死に一生を得て生還したわれわれ戦友は栃木県東部ニューギニア会を結成し予てよりの収骨慰霊の悲願を達成するため昭和四十四年秋 厚生省が遺骨収集団を派遣する機会にこれが協力団を派遣することを企図し その趣旨の徹底とこれが費用の募金を全県下に呼びかけましたところが期せずして県民総ぐるみの一大運動として共感を喚び 予期以上の浄財を得て 昭和四十四年十月三日より十一月四日に至る約一ヶ月間収骨団は幾多の悪條件を克服し 亡き戦友に無言の対面を遂げ弔慰の辞を捧げ収骨の悲願を達成いたしました。
碑上の巌石こそは団員がかっての戦場より持帰ったもので亡き戦友の凄絶なる死闘を物語る無言の戦史であり 戦友の面影に接する感一入のものがあります。
茲に永久に英霊の偉勲を讃え その冥福を祈ってこの慰霊碑を建てるものであります。      
 昭和四十五年三月二十二日
 栃木県東部ニューギニア会 建之
 会長 澤田芳見

戦友よ安らかに眠れ
第三十三師団第二百十四聯隊戦没者慰霊塔

吾が聯隊は昭和十四年三月白虎隊の精神を受継ぐ会津若松聯隊に於いて編成を終え勇躍一路支那大陸に出陣かん湘会戦を初め錦江作戦中原会戦続く普察冀辺区作戦など数次に亘る戦闘に参加その都度赫々たる武勲をたて大東亜戦争の勃発するや長駆南方戦線へ転進を命ぜられ泰国「バンコック」へ上陸泰緬国境の峻険を突破ビルマ戡定作戦に入るや破竹の快進撃を続け遂に敵の要衝「ラングーン」そして「エナンジヨン」の油田地帯を占領中部ビルマ一帯の掃蕩を完了数々の感状を受領。 
然し十九年に入るや各戦線とも熾烈な反撃を受け作戦転換を余儀なくされた方面軍は「インパール作戦」を企図約十ケ師団二十三万の兵力を投入無謀に等しい戦闘にも拘らず聯隊はひたすら祖国の安泰と平和を念じ愛国の血と白虎魂を以って圧倒的優勢を誇る敵軍を動揺せしめた。 
この間彈薬食料の欠乏と悪疫を克服斬込み肉薄攻撃など悪戦苦闘実に三年有余その犠牲は十八万人を数え而もその大半は宇都宮師団管区内に属し本県出身者も実に五六八五名の勇士がビルマの山野に再び還らぬ護国の鬼神と化したその尊い遺骨の大半は未だに異国の山野に埋もれ収集と慰霊塔の建立は遺族戦友は勿論国民の一大悲願であり吾等生存者一同の責務でもある。
昭和四十六年一月ビルマ戦跡慰霊巡拝の壮途に参加した増渕幹男氏は一同を代表して山野の英霊と再会碑の建立を誓い碑中に奉納すべく現地の仏像と戦場の石をひそかに運んだ。 
聖域に南十字星輝くこの碑は亡き戦友の死闘を後世に伝える無言の戦史であり平和の希求である。
殉国の英霊願わくばとこしえに安らかに眠り給え 茲に吾等はその御遺功をたたえ聯隊の武勲を永久に顕彰するものなり。
 昭和四十六年九月廿日
 元支那、元ビルマ 遣第三十三師団歩兵第二百十四聯隊 生存者一同

鎮魂

昭和六十年十一月二十三日建之   
 北支派遣陣第二九九三部隊    
 独立歩兵第七十八大隊高陽一九会 

鎮魂

明治天皇御製
 身をすてて いさををたてし 人の名は
  くにのほまれと ともにのこさむ

鎮魂
第三十三師團 山砲兵第三十三聯隊之碑

山砲兵第三十三聯隊は弓第三十三師團の師團砲兵として昭和十四年仙台及び高田において東北各県新潟県茨城県栃木県群馬県長野県の出身者をもって編成され中国江西省に出征
その後北関東及び長野県出身者を主とするよう変更され揚子江南及び黄河北方の大小の作戦に参加
昭和十六年暮から終戦までタイ国上陸後ビルマ進攻作戦インパール作戦イラワジ会戦等苛烈な作戦に参加輝かしい弓師團の戦斗に貢献しました
この間には一八九六名の戦友が尊い生命を捧げた事は痛恨の極みであります
ここに故友の遺烈を後世に傳える為この碑を建立します
 平成三年三月十日
 弓六八二五部隊山砲兵第三十三聯隊戦友会

軍馬慰霊 山砲兵第三十三聯隊

軍馬は、かけがえのない、我々の戦友であった。召されて故国を出て、中国大陸の南に北に、ついでタイ、ビルマ、インドと多くの作戦に参加し、重い火砲や弾丸を負い、暑さ寒さひもじさに堪えて働いてくれた。この間弾丸に倒れ或は糧食の欠乏と豪雨とにより、多くが戦陣に死し、戦い敗れて一頭も故国に帰ることなく、悉くが南方の土に帰した。ここに万斛の涙とともに聯隊千三百頭の無言の戦友の霊を弔う。
 平成九年三月十日
 山砲兵第三十三聯隊戦友会

慰霊 宝木会

宝木会は昭和二十五年旧歩兵第五十九聯隊並に東部第三十六部隊関係者により創設、英霊の顕彰と遺族の慰霊及び会員相互の親睦をはかり、毎年慰霊祭を実施してきた。
宝木会は護国神社参道、前庭、及び神苑に桜樹二百数十本のほか銀杏の木を献木、忠霊塔の修理参道の整備及び神社幔幕、錦旗、旗幟等を寄進し、また歩兵第五十九聯隊激戦終焉の地パラオ諸島より戦友の遺骨を収集、我が歩兵第五十九聯隊兵営跡に宇都宮歩兵聯隊跡の碑を建てた。
我々は大東亜戦争終結後早くから、祖国の安泰と発展のため殉ぜられた、先輩戦友諸士の偉大なる功績顕彰と英魂の平安を祈り、護国神社及び忠霊塔を中心と仰ぎ、神霊の尊崇敬仰慰霊に精魂を傾け、また日本の安全と平和を祈念してきた。
茲に本会並に関係者の意図と哀情を子孫がこれを理解し永えに継承されんことを念願し、創立三十周年を記念してこの碑を建立する。
 昭和五十五年四月吉日   
 宝木会

慰霊
宇都宮第14師団・照集団 野砲兵第20連隊之碑

第十四師団砲兵として編成されるも島嶼防衛の為に部隊改編。
水戸歩兵第二連隊、宇都宮歩兵第五十九連隊、高崎第十五連隊等に転属。
パラオ本島に歩十五連隊、そして歩二はペリリュー島、歩五十九はアンガウル島に展開。
昭和19年7月20日、歩五十九連隊はパラオ本島防衛強化の為、ア島に後藤大隊を残置主力は本島に転進。
9月6日、米機動部隊来襲ペリリュー・アンガウル両島を猛爆艦砲射撃。
9月23日、歩十五連隊飯田大隊はペ島に逆上陸を敢行し玉砕…

野砲兵第20連隊が配属されたペ島・ア島。
ペリリュー島は11月24日「サクラ」「サクラ」を連送して玉砕。
ペ島砲兵隊関係戦死者五三六名。
アンガウル島には9 月17日に米軍来襲。
残留の後藤守備隊長は連隊本部との連絡も途絶えたまま二十倍の敵と対峙し10月19日玉砕と推察

野砲兵第二十連隊は明治三十八年満洲で創立凱旋後第十四師団砲兵として宇都宮に駐屯し茨城・栃木・群馬・長野四県より選ばれた壮丁で構成。
昭和十五年三十余年練武の地宇都宮からチチハルに移駐し関東軍の中核としてソ連軍の侵攻に備えた。
昭和十九年二月師団に動員下令。
島嶼作戦に適応した編成装備に改変し、水戸歩兵第二連隊、宇都宮歩兵第五十九連隊に砲兵各一ケ大隊を配属、高崎第十五連隊には個々に転属、編成外人員は全員他部隊に転出、馬匹はチチハルに残置し連隊は栄光に満ちた四十年の歴史を閉じた。三月大連出航、制空制海権共になき海域を奇跡的に無事パラオ到着。
本島に照集団司令部 歩十五連隊主力等を置き歩二連隊をペリリュー島、歩五十九連隊をアンガウル島に配備、硬いさんご礁に苦しみながら陣地構築に励んだ。
七月二十日歩五十九連隊はパラオ本島防衛強化の為、ア島に後藤大隊を残置主力は本島に転進。
九月六日機動部隊来襲パ・ア両島を猛爆艦砲射撃も加え連日続行された。
米戦史によれば上陸前三日間に十七万トンの砲爆弾を使用し島形変じ地上物件すべて飛散した。
九月十五日中川州男守備隊長以下一万の守備するペ島に上陸開始、大隊長小林与平中佐・常持良二大尉・天童隆大尉・大橋栄一大尉率いる各中隊の砲兵は第一波の海兵隊を猛射千名に壊滅的打撃を与え緒戦は勝利したが装備物量の差に加え四倍の敵に対し複郭陣地に依り抗戦、九月二十三日歩十五連隊は砲兵より転属した新井道彦大尉以下五九名を含む飯田大隊の逆上陸救援作戦も効果なく軍旗を奉焼して十一月二十四日「サクラ」「サクラ」を連送して玉砕した。
ペ島砲兵隊関係戦死者五三六名。
ア島には九月十七日来襲、後藤丑男守備隊長は連隊本部との連絡も途絶えたまま二十倍の敵と対峙し配属砲兵中隊長芝崎省三郎大尉以下一九七名高射機関砲隊柏原中尉以下三〇名も一致団結よく敢闘したが十月十九日玉砕せるものと推察される。
本島の近藤大隊・丸山・谷口両中隊では飢餓との戦いにより三三名・砲兵団神山大隊・小宮山中隊他三ケ中隊で六二名の犠牲を生じた。

遠い南海の孤島で家族の安泰と祖国日本の弥栄を念じつゝ激闘の末若い尊い命を捧げた亡き戦友達の霊を慰め其の業績を永く後世に伝えるべく遺家族・戦友の有志相集い深い感謝を込めここに慰霊碑を建立し御霊の安穏を祈念し奉る。
 平成十九年十月 建之

英霊顕彰碑
山砲第三十三聯隊第四中隊

戦没勇士196柱 
永遠に讃え祀らむ平和の礎

戦友の霊に
国破れて山河あり 
先の大戦が終結し五十年の星霜は緑の大地は蘇らせることはできたが異境に眠る御英霊への思いは愈々つのるばかりである 
時の流れと共に戦争の悪夢は次第に風化されたとは言え、戦争体験者にとっては脳裏に焼き付いた心の痛みは永遠に消えることはない
懐古すれば、長い歴史と伝統を誇る我が国は、千古の昔から瑞穂の国を標榜する住みよい国である
然るに昭和の時代に至るや俄に世界の風雲急を告げ、世界諸国連合は我が国に経済封鎖の包囲網を繞らし強圧したるも大和民族は断じてこれに屈せず国家の存亡を賭けて総決起し、万止むなく大東亜戦争開戦の悲運となる 
この時代に生を享けた我等青年は、青春の全てを捧げ国難に立ち向かうべく、従容として戦地に赴き、幾多の戦線に従軍する 
かくして緒戦を飾ることはできたが、凄惨苛烈な死闘に国力の差を乗り越え幾百万の同朋は尊くも犠牲という人類最悪の悲劇を蒙り終戦を迎える結果となる。
思えば、今なを戦友の多くは、中国の広野に万里異境のビルマの地で、そして白骨街道のインパール(印度領)の果てに無念の涙を流し、当地の守護神と化して山野に眠っている。
九死に一生を得た私共は、祖国再建と平和国家実現に最善を尽すことが亡き戦友への供養であろうと確信し、その道を歩み続ける。
今や日本は苦難の道を乗り越え、戦争を放棄し、自由と平等の下教育文化は言うに及ばず経済大国として世界に誇示する迄に至る。
これぞ、まさしく悠久の大義に殉じられ、平和の礎となられた御英霊の賜である。
この時に及んで中隊戦没勇士の御尊名を深く刻み、ここに顕彰の碑を建立し、その偉業を声を大にして子子孫孫に伝えんことを我等一同お誓いするものである。
 平成八年(一九九六)五月十六日  
 復員五十周年記念日建立
 弓山砲山四会生存者一同 

忠魂碑
栃木県立宇都宮商業高等学校同窓会

陸軍大将従二位勲一等功三級男爵奈良武次書
昭和9年1月、栃木県立宇都宮商業学校同窓会
昭和30年4月、 栃木県立宇都宮商業高等学校同窓会

満洲事変戦死者及び支那事変戦死者・大東亜戦争戦死者の名が刻まれている。

白鹿丸遭難之碑

昭和十九年十月十八日
コレヒドール沖合

兄小田尚命は、さきの第二次大戦において陸軍少年飛行兵を志願し 
昭和十七年四月東京陸軍航空学校に入学 
昭和十八年3月同校卒業同年四月陸軍航空通信学校(水戸)に入学 
翌住区年七月同校卒業 
第三航空軍に配属されその任地に赴くにあたり瑞穂丸に乗船 
同年九月二十一日比島周辺で沈没、護衛駆逐艦に救助された 
その後白鹿丸に乗船、少年飛行兵第十四規生(甲)二十一名を含む軍人約二千名と軍需品を積載 
船団を編成してマニラから、シンガポールに向かい航行中十月十八日午前七時五十分ごろ東経一一九度五一分、北緯十四度〇四分地点で敵の潜水艦により撃沈され 名誉ある戦死をとげた
正に弱冠十九才   
ここに兄の戦績を偲び文碑を建立した
 平成十六年十二月八日  
 小田信明(博)「九百九十九日の青春」に基づいて編集
 第十四期生甲 大曽根 敬雄  小田 清子

慰霊碑区画の反対側。
御社殿の向かって右側にも幾つかの碑が集まっておりましたので、そちらにも参りましょう。

境内社

日本赤十字社殉職救護員慰霊碑

栃の木かげに還る

この碑は日華事変から大東亜戦争にかけて日本赤十字社栃木県支部所属救護員として応召し黄塵と酷寒の大陸や、灼熱の南方地域に派遣されあるいは浪荒き海を海上輸送の任務について戦傷者の救護に献身し、若く尊い命を捧げた殉職救護員二十六名の清く凛々しい姿をしのびみたまを慰めるとともに、永遠の安らぎと世界平和の深い祈りをこめて建立し、その遺徳を後世に伝え師表と仰ぐ資とするものであります
 昭和五十三年十一月八日
 日本赤十字社看護婦同方会栃木県支部

特攻勇士の像

私たちは決して忘れない 
かつて太平洋戦争の末期、敵の圧倒的戦力を阻止しようと爆弾をかかえ、あるいは魚雷を抱いて、敵艦等に体当たりを敢行した特攻隊員のことを 。
祖国の安泰を信じ、太平洋の陸に海に空に散華した特攻隊員は、全国で実に五千八百余柱、本県で九十四柱に及ぶ。
このたび、特攻隊戦没者慰霊平和祈念協会寄贈の「特攻勇士の像」を 多くの県民の浄財によってここに顕彰碑として建立することができた。 特攻隊員の崇高な美挙が、この碑によって永遠 に語り継がれることを願うものである。
 平成二十二年八月十五日  
 栃木県特攻慰霊顕彰の会

満洲開拓青年義勇隊慰霊碑

我等は若き義勇軍  祖国の為ぞ鍬とりて  萬里涯なき野に立たん
今開拓の意気高し  今開拓の意気高し

満洲開拓青少年義勇隊は昭和十二年に創設され、十四歳から十九歳までの青少年が、茨城県内原訓練所を経て満洲(中国東北地方)に移住し、前後三年間、各種の訓練に従事しつつ北方守備の一翼を担ったのである
当時政府は、民族協和、王道楽土、第二の祖国建設等の政策を掲げ、全国の青少年がその国策推進に協力することを奨励した。
この政策に夢と理想を見出した幾多の純粋な若い魂は、進んで義勇隊に入り、内原での厳しい訓練に堪えて渡満した。この数全国で九万余、本県からも二千数百余名が応じた。
この間義勇隊の訓練と生活は言語を絶するものがあったが、夢と使命感を秘めていた拓友は、酷寒猛暑を克服してひたすら開拓の鍬を振るい、初志貫徹のため日夜精励した。そしてその苦闘も報いられ、理想郷の実現する日も近くにあるやに思っていた。
しかるに昭和二十年八月、敗戦という過酷な現実に、若い情熱と努力の結晶は水泡に帰した。その後の苦難は筆舌に尽くし難く、酷寒と飢餓、病魔に侵される悲惨な日が続き、斃れて若い生命を奪われたもの、本県のみでも三百六十余名に及んだ。  
幸いわれわれは、励まし合い助け合って九死に一生を得、なつかしい母国の土を踏むことが出来たが、大陸の広野に空しく消えた拓友を忘れることは出来なかった。
ここにかれらの魂魄を故郷に幾久しく鎮めるため、生還し得た本県の有志が相集まり、相謀って、聖なるこの地に慰霊碑を建て、その冥福を祈念するものである。願わくば友よ、安らかに眠られんことを。

鎮魂賦
少年雄叫ぶ満洲の原  
戦い敗れ辛酸言うに耐えず
八百の青雲興国の志
故郷の山は英魂を鎮めんと欲す

 昭和四十七年十一月十二日  
 元満洲開拓青年義勇隊  
 慰霊碑建設協議会建之

防人の歌 (万葉歌碑)

昭和15年1月10日、栃木縣教育會建立

火長今奉部與曽布の歌
今日よりは顧みなくて大君の
 志このみたてと出で立つ我は
樞密顧問官陸軍大将従二位勲一等功三級男爵奈良武次書


西側の「鳥居の外側」になにかいました。

「夢福神」
栃木県内では「夢福神・九難除け至福神社めぐり」というものが有るんですね。

栃木県護国神社の散策は以上にて。

栃木県護国神社サイト

http://www.gokoku.gr.jp/index.html

栃木県護国神社・慰霊碑のご案内

http://www.gokoku.gr.jp/sanctuary_9.html

あぁ、見逃しがあるのが判明しました・・・再訪ですね。
・平和の門( 基第二八〇二部隊(歩兵第六十六聯隊) )
・憲兵之碑

巣鴨プリズン跡地と護國寺界隈の戦跡散策

平成29年10月・12月23日ほか撮影


巣鴨プリズン跡

池袋サンシャイン60。
かつて巣鴨プリズンと呼ばれていた巣鴨拘置所跡地。
そのサンシャイン足元の東池袋公園。

そこには、ひっそりと往時を偲ぶよすががある。

「永久平和を願って」
鎮魂の碑 この節目の日(12月23日)には、多くの人々が訪れていた。

永久平和を願って

永久平和を願って

碑裏文
第二次世界大戦後、東京市谷において極東国際軍事裁判所が課した刑及び他の連合国戦争犯罪法廷が課した一部の刑が、この地で執行された。 戦争による悲劇を再びくりかえさないため、この地を前述の遺跡とし、この碑を建立する。
昭和五十五年六月

昭和23年12月23日。
極東国際軍事裁判にて、いわゆるA級戦犯とされ、死刑囚とされた7名に対する絞首刑が執行された。
これは当時の皇太子殿下(現在の 天皇陛下)の誕生日という、12月23日の尊い「国民の祝い日」を敢えて刑の執行日に選んだともされている。

昭和受難者

1978年(昭和53年)10月17日に「昭和殉難者」(国家の犠牲者)として靖国神社に合祀。

靖國神社に合祀された「昭和受難者14柱」は以下の方々。

昭和23年12月23日に絞首刑執行(刑死)
 東條英機
 広田弘毅
 土肥原賢二
 板垣征四郎
 木村兵太郎
 松井石根
 武藤章
終身刑(刑期中に病死)
 平沼騏一郎
 白鳥敏夫
 小磯国昭
 梅津美治郎
 東郷茂徳
戦犯指定を受けたが判決前に病死
 永野修身
 松岡洋右

豊島区立 東池袋中央公園

公園案内図には該当の碑の案内はなく、碑文も奥歯に物が挟まった感が強く、なかなかに複雑な気分にさせられる。

そびえたつ池袋サンシャイン60。 まるで墓標のようでもあり……


巣鴨プリズンの排水口跡

移設保存されました

サンシャイン60と造幣局東京支局跡の台地の下。
石垣が連なっており、よく見ると穴が。

これが巣鴨プリズンの排水口跡。
この排水口から、ここにかつて流れていた水窪川に排水がされていたという。
巣鴨プリズンの名残。

これが巣鴨プリズン(巣鴨監獄)を物語る唯一の残存した史跡。

あの当時の歴史を思い起こすには、史跡のインパクトは弱く小さいけど、逆に考えると「よくぞ残ってくれた!」という感慨も強い。
ここにはなにも案内看板も無いけども、貴重な歴史証言物。

https://goo.gl/maps/mNpYJCvRYaeDN2eD7

巣鴨プリズンの排水口跡があるのであれば、排水口が設けられたこの石垣も往時の名残なのか。
石垣の向こう側の台地が巣鴨プリズン跡。 サンシャイン60を遠望することが出来る場所は、今は静かな住宅街。
歴史的には極めて感慨深い空間であった。

移設保存されました。
以下で、新規に記載。


東条英機墓(雑司ヶ谷霊園)

東條家墓 (東条英機・東條英樹)

サンシャインの真南側に雑司ヶ谷霊園がある。
その霊園には東条英機が眠る。

昭和23年(1948)12月23日午前零時1分
巣鴨拘置所(スガモプリズン)内
東条英機は極東国際軍事裁判(東京裁判)にて裁かれ、ときの皇太子誕生日であった12月23日に死刑(絞首刑)が執行された。64歳没。

巣鴨プリズン跡に墓標のようにそそりたつサンシャイン60ビルを見つめつつ参拝を…

「東條家墓」(東條英機墓)

明治四十四年七月 第二代英俊埋葬の機会に於て墓地を浅草区松葉町清水寺より雑司ヶ谷共葬地に移し新に此墳墓を築く 第三代英教 識す

※東條家第二代東條英俊(盛岡藩士)、第三代が東條英教(陸軍中将・東条英機の父)、そして第四代が東條英機。

奇しくも東條家墓の後方には、
サンシャイン60が、
かつての巣鴨プリズンが、
まるで東條英機を偲びし墓標のように大きくそびえ立っていた。

用賀にあった東条英機邸

東条英機邸跡

身代地蔵尊(護國寺)

巣鴨プリズンの最後の教誨師であった「巣鴨の父」田嶋隆純大僧正の発願で昭和28年3月24日建立。
台石の下には戦争犯罪人として死刑宣告され殉じられた1068名の人々の氏名を刻んだ銅板と防蝕の処置された「世紀の遺書」が納められており、その御霊を慰めている。

「世紀の遺書」の収益金の一部で建立されたのが東京駅前の「愛の像(アガペの像)」

雑司ヶ谷霊園の東隣には豊島岡墓地と護国寺。
そこに陸軍墓地もある。脚を運んでみましょう。


陸軍省境界石

「陸軍省」と記された陸軍境界石(陸軍標石)
ちょっと傾いてますね。

陸軍省が管理していた「陸軍音羽埋葬地」との境目。
この境界線の前の道路は不忍通り、後の敷地が護国寺と日大豊山高校。

https://goo.gl/maps/pRt73yrCJg1gM9KA9


音羽陸軍埋葬地(音羽陸軍墓地)

塀に囲まれた一角に「音羽陸軍埋葬地(音羽陸軍墓地)」と呼称される空間がありました。

音羽陸軍埋葬地 英霊之塔

明治陸軍黎明期の早い段階で設けられた陸軍墓地。 2400余柱を祀る。
戦後は護国寺に管理が委ねられ、墓地は整理され現在はこの英霊之塔を中心に40基ほどの区画となっている。

音羽陸軍埋葬地 英霊之塔の由来
この地は戦前、明治以降の近衛その他の在京部隊に在籍し、幾多の戦役等で身を挺して勇戦敢闘され、国に殉じた二千四百余柱の英霊を埋葬した墓地でしたが、戦後は護国寺が管理しています 。
本英霊之塔は昭和三十二年十一月、護国寺第五十一世岡本教海大僧正の建立によるもので、中央に英霊と仏像を安置した英霊之塔、その周囲に有縁墓地四十を配して現在の姿に改葬され、殉国の英霊の眠る聖地となりました。
毎年十一月にはその遺徳を偲び顕彰する慰霊祭が行われ、敬虔な感謝の誠が捧げられております。 平成七年十一月十一日  社団法人日本郷友連盟東京都支部

英霊之塔の両脇には合葬碑が。

「陸軍軍人合葬之碑」
向かって右 明治三十七八年戦役戦歿将校以下遺骨
明治39年8月建 (日露戦争)

向かって左
満州事変戦歿将校以下
昭和7年12月建 陸軍中将林仙之書

護国寺多宝塔

護國寺多宝塔の由来
この多宝塔はもと当山の薬師堂の西側に、明治二十五年十二月二十一日に建立されたものである。
明治二十七・八年の日清戦争で遼東半島の各地の野に戦病没した、忠勇義烈の軍人の遺骨を収集、本国に送還し一時京都泉涌寺の舎利殿に仮安置された。明治三十五年秋、多宝塔の正面に拝殿としての忠霊堂が完成、同年十一月二日当山に遺骨も移され、塔下に埋葬、慰霊大法要が厳修された。
その後、この塔は長い年月風雨に曝され、近年は破損甚だしく今般大修理を施し、音羽陸軍埋葬地遺族会の協賛を得て、この地に移築建立したものである。
平成八年十一月十一日 
大本山護國寺

https://goo.gl/maps/BYz1koQaFKb4Mfxm8

護國寺墓地

ここには「陸軍埋葬地」以外にも著名人のお墓が多い。
が、この日はあまり持ち時間が無かったので個々のお参りはせずに。

明治の有名人では 三条実美・大隈重信・田中光顕・山田顕義・山県有朋など
軍人では 武藤信義・土肥原賢二・野村吉三郎など

日を改めて…


位置関係

国土地理院サイトより
1947年08月08日-米軍撮影航空写真(USA-M390-34)より。

今昔マップ on the web より

Google Map より


巣鴨監獄道碑

巣鴨小学校近くの東福寺の門前に石碑がある。

右 大塚道
向 巣鴨監獄道
左 巣鴨庚申塚道

明治三捨七年七月建立

巣鴨監獄、のちの巣鴨拘置所、そして巣鴨プリズン。
往時の名前を残す石碑。


関連

習志野の戦跡散策(騎兵から空挺へ・習志野駐屯地)

平成29年8月

この日は陸自・習志野駐屯地一般開放日「習志野駐屯地夏祭り」
基地公開日に見学できる施設が「空挺館」
未訪でしたので、是非これは行っておきたい。
ついでに折角だから寄り道しながら駐屯地を目指してみました。

※第一空挺団の降下訓練初め

習志野駐屯地

空挺館 (旧御馬見所)

「空挺館」(明治44年/1911年建立)
こちらが見たかったのです。
このために習志野に脚を運んだのです。
年に何回かの基地公開日にしか入れませんから。

明治44年建立。
もともとは目黒の陸軍騎兵実施学校に明治天皇が天覧あそばされた際の「天覧台」(御馬見所 )として建設。
大正5年(1916)に習志野に騎兵学校が移転に際して当館も移築。

正面入口からは傾斜のゆるやかな帝王階段。

明治天皇が天覧されたという2階のバルコニー。

実は装飾の菊御紋は2種類あり15弁と16弁がある。
これは正規の枚数だけだと天皇陛下以外は御立所に上がれなくなってしまうため他の皇族にも配慮したためという。

明治天皇が天覧されたという2階のバルコニー。
この椅子は津田沼駅で皇族が利用された貴賓室用椅子。

貴賓用椅子
津田沼駅は明治40年9月1日に鉄道省の一駅として営業を開始。旧軍時代は騎兵旅団、騎兵学校などがあり、習志野練兵場の表玄関だったので、皇族がたくさんこの駅を利用されていた。その当時皇族が使用されていた貴賓用椅子である。

習志野原

明治天皇(諱は睦仁)が命名されたという「習志野原」の額も展示。

睦仁
習志野原

習志野之原演習行幸

明治6年4月30日に明治天皇は習志野原にて近衛兵の演習を天覧されている。

帝王の階段とも称された中央階段の装飾。

精鋭無比

中央階段踊り場に掲げられた文字は降下塔にあるものの原本。(平成24年12月取り付け。)
書家青華氏による。お孫さんが第1空挺団に所属していた際に無理を言ってかいてもらったものという。

自衛隊唯一の空挺部隊
空挺精神「精鋭無比」

空の神兵像

立像と座像と

2階部分は旧軍に関する展示。
いくつか注目してみてみましょう。

秋山好古 日本騎兵の父

日露戦争時の騎兵第1旅団長(直下に騎兵第13連隊及び騎兵第14連隊)での活躍は言うまでもなく。あとは「坂の上の雲」を参考に。

騎兵の街・習志野に縁の深き人物であり、第2代騎兵学校長でもあった。

西竹一 騎兵中佐

昭和7年ロサンゼルスオリンピック障害馬術の部で日本人としての初の金メダルを受賞。(今日に至るまで馬術の金メダルは西のみ)
男爵でもあった西は「バロン西」として社交界で愛されるも、硫黄島において戦車26連隊長として参戦し散華。

日本軍空挺部隊と空挺作戦

日本軍には陸軍と海軍とそれぞれに落下傘部隊が展開されておりました。

まず海軍としては日本史上初の落下傘降下作戦を成功させた横須賀特別陸戦隊によるメナド降下作戦(昭和17年1月11日)や続くクーバン降下作戦などの展示あり

日本海軍
横須賀鎮守府第1陸戦隊 メナド降下作戦
横須賀鎮守府第3陸戦隊 クーパン降下作戦

横一特・横三特(海軍陸戦隊)
空挺部隊の慰霊碑は海軍落下傘部隊発祥の地館山の安房神社境内にありますので参考まで

安房神社境内
海軍落下傘部隊慰霊碑 内閣総理大臣田中角栄揮毫

パレンバン空挺作戦 
昭和17年2月14日

陸軍・挺進第2聯隊
南方の石油資源確保のために精油所を空挺攻撃し占領。
陸軍が初めて実施した空挺作戦であり、日本国民が初めて落下傘部隊を知った作戦。
往時の衣装や遺品が展示

血染めのどくろ旗

パレンバン空挺作戦 昭和17年2月14日

陸軍・挺進第2聯隊第1中隊中尾隊の小隊長・長谷部正義少尉が出撃前夜に小隊員39名と共に寄せ書きしたドクロの小隊旗。中央にはドクロと共に「落下傘大明神」と記載。
長谷部少尉は降下占領作戦中に戦死。

レイテ空挺作戦 
昭和19年12月6日~

陸軍第二挺身団「高千穂部隊」
レイテに上陸した米軍に対しての防衛作戦に呼応しレイテ島ブラウェン飛行場に空挺作戦を決行。一時的に飛行場を占領したものの援護なく後退。オルモック救援降下部隊ともどもほとんどの将兵は戦死…

陸軍・義烈空挺隊
義号(沖縄)空挺作戦 
昭和20年5月24日

沖縄本島に上陸した米軍に対し陸海軍特攻機を援護するため、奥山道郎大尉率いる義烈空挺隊(97式重爆撃機12機)に乗り込み読谷・嘉手納飛行場に特攻し強行着陸・飛行場機能停止を目指した作戦。

昭和20年5月24日18時40分。
沖縄を救援するために熊本・健軍飛行場を飛び立った義烈空挺隊12機。
そのうちの1機が読谷北飛行場への強行着陸成功し破壊活動を実施。

挺進殉國
義烈空挺隊 隊長 奥山道郎

義烈空挺隊 隊長 奥山道郎 
遺書
昭和二十年五月二十二日
此の度、義烈空挺隊長を拝命 
御垣の守りとして敵航空基地に突撃致します
絶好の死場所を得た私は日本一の幸福者であります
只々感謝感激の外ありません
幼年学校入校以来十二年
諸上司の御訓誡も今日の為のように思はれます
必成以て御恩の万分の一に報ゆる覚悟であります
拝顔お別れ出来ませんでしたが道郎は喜び勇んで征きます
二十有六年親不孝を深く御詫び致します 
                          道郎
御母上様

配布資料
知っていますか?義烈空挺隊
~昭和20年5月24日夜の話~

配布資料
腹が減っては戦は出来ぬ
~義烈空挺隊「食」の話~

配布資料
神兵を癒やした観音湯
~「堤はつ」さんと義烈空挺隊~

空の神兵

空の神兵
作詞 梅木三郎
作曲 高木東六

藍より蒼き 大空に大空に
忽ち開く 百千の
真白き薔薇の 花模様
見よ落下傘 空に降り
見よ落下傘 空を征く
見よ落下傘 空を征く

空挺館の1階部分は陸自のコーナーでした。
(旧軍関連が2階)

配布資料
遠い神代の物語
~陸上自衛隊「空の神兵」事始め~

配布資料
ようこそ空挺館へ!!
習志野駐屯地広報室


駐屯地内に点在するあれこれを見て回ります。

軍人勅諭下賜五十周年記念碑

手前の砲弾のようなものは
「軍人勅諭下賜五十周年」砲弾型記念碑。
明治十五年軍人勅諭が下賜されて50周年の昭和7年に建立された記念碑。
騎兵学校建立。

軍馬慰霊之碑

軍馬慰霊之碑・秋山好古揮毫

日本騎兵の父と称された秋山好古は日露戦争時の騎兵第1旅団長であり第2代騎兵学校長であった。
この軍馬慰霊碑は秋山が逝去する1ヶ月前に揮毫され、そしてこれが絶筆となった。建立は昭和5年11月。秋山好古大将の亡くなった月であった。

日本騎兵の碑

昭和41年建立
碑文は武藤一彦(元中将・元大分市長)
裏面は秋山久三少将(最後の騎兵学校長)の筆による。

ちょうど「日本騎兵の碑」の向こう側では駐屯地イベントの大人気スポット「お化け屋敷」が展開されておりました。
大盛況。 私はしずしずと駐屯地内の石碑めぐりなどを。

94式37mm速射砲

昭和9年(皇紀2594年・1934年)に帝国陸軍が開発・採用した対戦車砲(速射砲)。
正式名称は九四式三十七粍砲 俗称は九四式三十七粍速射砲

備える防人(ひと)

空の神兵の像

古賀忠雄が昭和17年の大東亜戦争美術展にて朝日新聞社賞を受賞した名作「天降る像」が原型。
昭和19年に三宅坂の陸軍第1航空軍司令部が武蔵野市吉祥寺の成蹊大学に疎開した時に当時の司令官部屋を飾った像をベースにしている。戦後は成蹊大学から偕行社を通じ第1空挺団に寄贈。
本像は昭和46年に復元銅像化。

鎮魂之碑

「礎」の碑 初代空挺団長・衣笠駿雄揮毫
昭和33年に創隊された第1空挺団
陸軍挺進隊より継承する「挺進赴難」の伝統と「精鋭無比」を目標に部隊を練成してきたが、不幸にも志半ばで職に殉じた第1空挺団同僚先輩たち「殉職された御霊のご冥福」を慰霊。
殉職者慰霊之碑

第1空挺団殉職者慰霊之碑が立ち並ぶ空間。

「挺身赴難」「精鋭無比」の精神で志半ばで斃れられた方々に合掌

第1空挺団 本部

第1とはあるけども、第2以下はなく、日本で唯一の空挺部隊。

降下訓練塔

敷地に中央部に聳えるは「降下訓練塔」
空挺降下の訓練に使われる高さ80mをほこる訓練塔。

心字池

昭和3年、習志野に移転する前に、目黒にあった陸軍騎兵実施学校の庭園・階段・門柱などの一部を材料に建設された池。
「心」という字を型どっている。
騎兵学校時代は将校集会所の庭園として親しまれていたという。

駐屯地夏祭り

各部隊の幟がでていて、ちょっと一味違う空間。

習志野駐屯地

このあたりの建物は陸軍時代のものの可能性高し。東門近く。

習志野駐屯地東門。
このレンガの門柱も陸軍時代のものなのかどうか。
古さが漂っていましたが、詳細は不明。

位置関係

習志野駐屯地、また改めて散策したいですね。


習志野に騎兵学校が移転する前は、目黒にありました。

習志野界隈の関連はこちらも

習志野の戦跡散策(騎兵聯隊編)

平成29年8月

かつて存在せしものは、時代の価値観をこえて保存し、記念すべきものである。それが、文明というものである。
 司馬遼太郎

この日は陸自・習志野駐屯地一般開放日「習志野駐屯地夏祭り」
基地公開日に見学できる施設が「空挺館」
未訪でしたので、是非これは行っておきたい。
ついでに折角だから寄り道しながら駐屯地を目指してみました。


京成大久保駅

天地無私 秋山好古大将

京成大久保駅前の商店街を北上すると「馬のモニュメント」が。

習志野第一騎兵旅団長
秋山好古大将

天地無私

いよいよ「騎兵の町・軍郷習志野」の地です。

秋山好古と習志野

日本とロシアの間に緊張が高まった明治36年(1903年)、秋山好古は当時大久保にあった騎兵第一旅団に赴任し、翌37年、日露戦争が始まると同旅団長として中国に渡りました。
戦地では、沙河・黒溝台・奉天等の激戦地を駆け巡り、当時世界最強と呼ばれたロシア・コサック騎兵と互角に渡り合い、あるいは凌ぎ、日本軍の危機を幾度も救う活躍を見せました。
司令官でありながら最前線で指揮を執り、退却時には自ら殿をつとめた好古の勇姿は、敵・味方をこえて評判となり明治38年9月、日本とロシアの間に講和条約が締結されると開けて明治39年早春、好古は歴戦の痕跡を残す聯隊旗と共に
堂々と大久保の地に凱旋しました。
この戦功により後に日本騎兵の父と呼ばれた秋山好古、そして日本海海戦で赫赫たる戦果を上げた連合艦隊の主席参謀、実弟・秋山真之の活躍は世界から驚きをもって称賛され、後に小説「坂の上の雲」(司馬遼太郎著)の主人公として描かれ、現在も多くの人々にその名が知られています。
当時の日本が他のアジア諸国のように西洋列強の隷属や植民地にならなかったのは秋山兄弟の功績に追うところが大きく、習志野の地にいた数年間は好古の人生にとっても日本にとっても重要な日々であったとこは後の歴史が物語っております。

注・習志野騎兵第一旅団の編成軍
騎兵第十三聯隊(現東邦大学)騎兵第十四聯隊(現日本大学)

平成21年4月吉日

習志野・誉田八幡神社

商店街の東に「誉田八幡神社」という神社が鎮座。この神社の北西側、現在の「八幡公園」に「騎兵第一旅団司令部」があった。
神社の創建は延宝年間(1673年~1681年)と伝承。豊臣方の武将市角頼母によって大阪羽曳野の誉田八幡が分霊され当地が開拓。

紀元二千六百年記念参道敷石竣工之碑

境内にある一際大きな石碑
紀元二千六百年記念参道敷石竣工之碑
陸軍少将 栗林忠道書

なんと硫黄島の栗林忠道陸軍大将謹書。
昭和15年(1940)が紀元2600年。
このとき栗林少将は習志野にて騎兵第2旅団長、次いで騎兵第1旅団長であった縁あり。

騎兵第一旅団司令部跡地

習志野の八幡公園
「騎兵第一旅団司令部跡地」
誉田八幡神社の近く。
騎兵第一旅団司令部(現・八幡公園)の下には騎兵第13連隊(現・東邦大学)及び騎兵第14連隊(現・日本大学)が編成。

公園の入口は往時の門柱が残っている。

習志野騎兵旅団発祥の地

閑院純仁書
昭和51年4月建立

碑銘を書かれた閑院純仁は臣籍降下前は閑院宮春仁王(陸軍少将)
日露戦争時の騎兵第二旅団長であった閑院宮載仁親王(元帥陸軍大将)の次男。

騎兵連隊・旅団司令部跡

 明治初頭より旧陸軍の演習が行われていた小金原は、同6年(1873年)明治天皇行幸の祭に「習志野原」と命名されてから、周辺に軍隊が急速に創設され、それにともない拡張されてきました。 
 明治32年、日本陸軍初の快速兵団として騎兵連隊が習志野原に創設され、同34年には大久保に転営して、現在の東邦、日本大学付近に第13・14連隊からなる第一旅団と、東邦中学校・高校附近に第15・16連隊からなる第二旅団がおかれました。 
 さらに、八幡公園・習志野郵便局の地に旅団司令部がおかれました。 
 日露戦争(明治37~38年)の折には、両旅団が派遣されましたが、満州事変(昭和6年)・支那事変(同12年)には第一旅団が派遣されました。この頃より軍隊の機械化がすすみ、騎兵連隊は装甲部隊に最編制されていきました。 
 第二次世界大戦後、連隊跡は学校に、旅団司令部本部の建物は郵便局になり、八幡公園にあった司令部の講堂には、私立大久保保育園が開設されました。この保育園は昭和24年(1949年)津田沼町に移管されて、本市第一号の公立保育所となり、昭和40年、泉町三丁目に移転しました。 
 昭和56年12月 習志野市教育委員会

習志野の騎兵

近衛師団
 騎兵第1旅団→麾下 騎兵13聯隊 騎兵14聯隊
第1師団
 騎兵第2旅団→麾下 騎兵15聯隊 騎兵16聯隊

日露戦争時の旅団長(少将)
騎兵第1旅団長→秋山好古 【秋山支隊】
騎兵第2旅団長→閑院宮載仁親王

旅団司令部のあった八幡公園の北側には文教エリアが拡がる。

すなわち
習志野陸軍病院→習志野病院
騎兵第13連隊→東邦大学
騎兵第14連隊→日本大学
騎兵第15連隊→東邦中学校高等学校
騎兵第16連隊→大久保住宅

昭和19年10月16日に陸軍が撮影した航空写真(8911-C1-1)

騎兵第14連隊跡
(日本大学津田沼キャンパス )

騎兵第14連隊跡地は日本大学生産工学部津田沼キャンパス。
私が訪れた時は絶賛オープンキャンパス中。
うわっ、高校生多し。気が引けたけど何食わぬ顔で守衛さんに「スミマセン、石碑が見たいんですけど」と申告。許可を得まして石碑の場所も教えてくれました。

現在の日本大学生産工学部津田沼キャンパス内に。

騎兵第十四聯隊之跡

昭和43年14号館前デ発掘サレタルモノヲ復元
昭和62年10月

石碑群は大学構内の南西、駐輪場の奥に。

騎兵第十四聯隊発祥之地

竹田恒徳書
竹田恒徳は皇籍離脱前の竹田宮恒徳王。
最終階級は陸軍中佐。陸軍大学校卒業後に満州ハイラルの騎兵第14連隊第3中隊長を拝命している。
騎兵第十四聯隊会奉納の馬像も凛々しく。

明治天皇御製
人ならば
 ほまれのしるし
  授けまし
軍(いくさ)の庭に
 立ちし荒駒(あらこま)

墓碑
騎兵第十四聯隊ハ畏クモ明治天皇ヨリ軍旗ヲ 親授セラレテ明治三十四年十一月創設サレ此 ノ地習志野ニ駐屯シタ
明治三十七年日露戦争ガ勃発スルヤ満州ニ出 征シ沈旦堡ニ於イテ勇戦奮闘シテ克ク騎兵ノ 精華ヲ発揮シタ
戦終ッテ此ノ地ニ帰還シ練武ニ精励シタガ昭 和七年六月満州事変ニ出動シ其ノ後此ノ地ニ ハ戦車第二聯隊ガ駐屯シタ
騎兵第十四聯隊ハ満州ニ於イテ夏季豪雨ニヨ ル泥濘ヲ冒シテ馬占山討伐等ニ従軍シ同年冬 広漠タル厳寒ノ北満ホロンバイルニ進出シ海 拉爾周辺ニ駐留シテ六年に亘リ満ソ国境守備 ノ重責ヲ遂行シタ
昭和十三年六月騎兵集団ニ出動命令ガ下リ其 ノ隷下ニアッタ聯隊ハ海拉爾ヨリ長駆河南省 帰徳淮陽方面ニ進撃次イデ蒙彊地区ニ転戦シ 昭和十七年十二月機甲兵団ノ新設ニ伴ヒ包頭 附近ニ於イテ機動歩兵第三聯隊ニ改編セラレ 戦車第三師団ニ属シテ再ビ河南省ノ鄭州洛陽 周辺一部ハ遠ク湘桂方面ニ作戦シ赫々タル武 勲ヲ挙ゲタ
此ノ兵営跡ハ昭和二十九年日本大学ノ敷地ト ナッタガ大学御当局ヨリ深イ御理解ト温カイ 御厚意ヲ戴キ有志相図リ幾多先輩戦友ノ偉勲 ヲ偲ビツツ此処騎兵第十四聯隊発祥ノ地ニ此 ノ碑ヲ建テ我ガ聯隊ノ事績ヲ永ク伝エヨウト スルモノデアル

昭和六十一年十月二十六日
騎兵第十四聯隊会

戦車第二聯隊の跡

騎兵から戦車の時代に。
戦車第二聯隊は昭和8年に久留米の第一聯隊とともに日本で最初の戦車聯隊として創設。騎兵第14聯隊駐屯の跡に移駐。ビルマ・ガダルカナル島・レイテ・マニラと各地で奮戦。

戦車第二聯隊の跡
戦車第2聯隊は昭和8年8月千葉陸軍歩兵学校教導隊戦車隊を強化改編して、国軍最初の戦車聯隊として創設され、騎兵第14聯隊駐屯の跡に移駐した。
その練習部は、全国歩兵聯隊から派遣された将校・下士官の教育に専念し、後に陸軍戦車学校に発展した。
昭和12年7月動員下令、聯隊の主力は北支に出動。
保定会戦、黄河以北戡定作戦、徐州会戦等に赫々たる武勲を揚げた。
13年7月、部隊は戦車第8聯隊に改編され、中原会戦、満州、北支警備等の後、17年秋、南海のラバウルへ転進した。
戦車第2聯隊は昭和13年7月留守隊を強化し、此処習志野で再編成された。
16年秋再び動員され、蘭印作戦に参加し各地に善戦した。
分遣された第1中隊はビルマ、第4中隊はガダルカナルに於て悪戦苦闘した。
聯隊は17年秋習志野に帰還した。
この間、習志野で編成した戦車第4大隊は昭和9年奉天に、支那駐屯軍戦車隊は11年天津、戦車第17聯隊は17年綏遠省平地泉、独立戦車第7・第8中隊は19年夏フィリッピンに派遣された。
河野第7中隊はレイテ島に、岩下第8中隊はマニラ飛行場周辺に三度壮烈な出撃戦を展開、戦車魂を発揮して全員華と散った。
戦局緊迫するや、動員令により戦車第2聯隊は昭和19年相模地区に移動、その補充隊は20年4月新たに6個の戦車聯隊を編成し、相共に配備につき本土決戦に備えたが、8月終戦を迎えた。
この度、日本大学当局より理解ある御協力を戴き、有志相図り、幾多戦友の偉勲を偲びつつ、此処戦車第2聯隊駐屯の跡に、この碑を建て聯隊の事蹟を永く伝う。
昭和63年8月1日
戦車第2聯隊会

勅諭拝受50周年記念碑

為聖諭拝戴五十周年並御紋章掲揚記念
昭和7年

実は石碑群のすぐ隣に神社もありました。

日本大学津田沼キャンパス構内の稲荷神社。
騎兵連隊時代と関係あるかないかはわかりませんが、これはこれで興味深いですね。

騎兵第13聯隊跡
(東邦大学習志野キャンパス)

さて、日大の隣の東邦大に向かいます。
こちらもオープンキャンパスやっていて高校生多数。
気にせずに守衛さんに石碑の見学許可を得て構内に。
東邦大の守衛さんも石碑の場所を教えてくれました。
ありがとうございます。

あら、こちらにも稲荷神社さんです。
碑には大正9年度除隊紀念とあります。
それこそ騎兵聯隊と関係ありそうな感じですね。
石碑を探しにきた大学構内で、おもむろに連続で出会った神社さんは想定外。

騎兵第十三聯隊跡
騎兵第十三聯隊発祥之地

「騎兵第十三聯隊跡」
「騎兵第十三聯隊発祥之地」 
船橋市長大橋和夫書 平成5年4月29日建立

実は東邦大の「騎兵第十三聯隊」の碑と日大の「騎兵第十四聯隊」の碑は塀を挟んでとなり合っています。それぞれ入口は違いますが。

騎兵第十三聯隊概史

 日露の戦雲漸く急を告ぐる秋 日清戦争の経験に基づき宇内の趨勢に鑑み騎兵大部隊の必要性を痛感せる我が陸軍は明治三十二年騎兵第一, 第二旅団の編成に着手 我が騎兵第十三聯隊は騎兵第十四聯隊と共に騎兵第一旅団の兄弟聯隊として此の地習志野原の南隅千葉県津田沼町大久保(現船橋市三山)に創設され明治三十四年十二月十九日軍旗を拝受す
 明治三十七年二月日露の開戦に及び聯隊は我が国騎兵の父と仰がれし秋山好古旅団長指揮の許勇躍出征 五月遼東半島塩大澳に上陸第二軍に属して曲家店、沈旦堡等の戦闘に於いて世界に名だたるコサック騎兵と交戦赫々たる偉功を奏し早くもその名声を中外に宣揚す 奉天大会戦に於いては敵の右翼を包囲せんとする第三軍の迂回運動を庇護して全軍大勝の基を拓き更に長駆奉天北方に進出して敵軍主力の側背に迫り露軍敗退の因をなせり
 降って満洲事変勃発するや昭和七年六月出動 泥濘悪路を克服してその機動力を発揮し馬占山討伐を始め東辺道討伐、乾元鎮の攻略等全満各地の作戦に活躍 八年二月海拉爾に進駐対蘇戦に備えて教育訓練に邁進す 支那事変に於いては昭和十三年八月海拉爾より長駆北支に出動主力を以て歸徳一部を以て寧陵、睢縣に在って新黄河北方地域に於ける掃蕩及び陽動作戦に活躍 十四年二月更に遠く蒙彊の地へ転進主力を以て固陽一部を以て薩拉齋に駐屯 駐蒙軍に属して各種の作戦警備に任ず 特に十四年十二月の包頭戦に於いては集団司令部の危急を救い十五年の二次に亘る五原作戦に於いてはその中核として活躍敵の蠢動を封殺し蒙彊地区の安寧に寄与す この間十四年十月我が騎兵機械化施策の一環として自動車編制に改編され更に十七年十月には戦車第三師団の創設に伴い騎兵第十四聯隊と共に機動歩兵第三聯隊を編成軍旗を奉還 茲に騎兵甲聯隊たる四十余年の栄えある歴史を閉ず 然れどもその輝ける伝統は新しき聯隊に脈々として継承せられ特に十九年五月 太平洋方面の戦況非なる時支那大陸戦線に於いて敢行せられし大陸打通作戦の一環たる洛陽攻略に於けるその活躍は永く青史にその名を止むべし 但惜しむらくは敗戦による皇軍の解体と共に聯隊の栄誉を後世に伝うる術もなかりしに幸い戦後此の地に設立せられし東邦大学より記念碑建設の快諾を得 依って我等戦友有志相諮り此処聯隊発祥の地に碑を建て聯隊歴史の概要を刻し以てその栄誉を永く後世に伝えると共に亡き戦友の霊を慰めんとす
 庶幾くは後人后後我等が微衷を察し祖国の安泰と発展に尽瘁あらん事を

歴代集団長
第1代 宇佐美 興屋  
第2代 蓮沼 蕃  
第3代 笠井 平十郎  
第4代 稲葉 四郎  
第5代 内藤 正一  
第6代 吉田 悳  
第7代 小島 吉蔵  
第8代 馬場 正郎  
第9代 西原 一策

歴代旅団長
第1代 渋谷 在明  
第2代 秋山 好古  
第3代 本多 道純  
第4代 河野 政次郎  
第5代 永沼 秀文  
第6代 稲垣 三郎  
第7代 田村 守衛  
第8代 小畑 豊之助  
第9代 宮内 英熊  
第10代 原田 宗一郎  
第11代 梅崎 延太郎  
第12代 柳川 平助  
第13代 吉岡 豊輔  
第14代 高波 祐治  
第15代 中山 蕃  
第16代 小川 正輔  
第17代 黒谷 正忠 
第18代 野沢 北地  
第19代 大賀 茂  
第20代 片桐 茂  
第21代 栗林 忠道  
第22代 森 茂樹

歴代聯隊長
第1代 田村 久井  
第2代 小池 順  
第3代 永沼 秀文  
第4代 牧野 正臣  
第5代 渡部 為太郎  
第6代 南 次郎  
第7代 高須 一万太郎 
第8代 土屋 篤  
第9代 原田 宗一郎  
第10代 宇佐美 興屋  
第11代 中山 蕃  
第12代 山内 保次  
第13代 星 松尾  
第14代 和田 義雄  
第15代 横田 卓二  
第16代 猪木 近太  
第17代 小原 一明  
第18代 山崎 武四

司馬遼太郎氏文学碑

「かつて存在せしものは、
  時代の価値観をこえて保存し、
      記念すべきものである。
 それが、文明というものである」
          司馬遼太郎

司馬遼太郎
我が国騎兵の父と仰がれ騎兵第13聯隊等を指揮した、騎兵旅団長秋山好古は、司馬文学最高傑作の一つ「坂の上の雲」の主人公である
こいねがわくば在天の魂 時にこの故郷ふるさとに訪れ給はむことを
平成八年 騎兵第十三聯隊会

騎兵十三聯隊と碑について

本学習志野キャンパスがあるこの地には、かつて騎兵第十三聯隊が置かれていました。
騎兵第十三聯隊は、日露戦争が風雲急を告げる明治三十四年、騎兵第十四聯隊(隣接する日本大学の地)と共に、騎兵第一旅団の兄弟聯隊として創設されました。
その後、騎兵連隊は日露戦争において。当時世界最強と謳われたロシアのコサック騎兵を奉天会戦などにおいて退けるという偉業を成し遂げます。これは当時のロシア帝国主義から日本を守った大きな一因になったと言われております。
騎兵第十三聯隊は、司馬遼太郎氏の傑作「坂の上の雲」に登場する主人公のひとり、秋山好古旅団長が指揮したことでも有名です。
秋山好古旅団長は後に陸軍大将となり、「日本騎兵の父」と仰がれることとなります。
ここには次の碑が残されています。
一、騎兵第十三聯隊跡碑 (昭和七年)
二、 軍人勅諭下賜五十周年碑 (昭和七年)
三、 騎兵第十三聯隊発祥の地碑 (平成五年)
四、 司馬遼太郎氏文学碑 (平成八年)

司馬遼太郎氏の文学碑には、司馬氏から騎兵第十三聯隊会会長宛に送られた手紙の一節が、次のように刻まれています。

「かつて存在せしものは、時代の価値観をこえて保存し、記念すべきものである。それが、文明というものである」

軍人勅諭下賜五十周年碑

軍人勅諭下賜五十周年碑(昭和7年4月24日建立)
五角柱の碑。
各面に「忠節」「礼儀」「武勇」「信義」「質素」の5つの徳目が彫られている。陸軍大将南次郎書。

騎兵第13聯隊倉庫

すぐとなりにある「柔道場」
実はこの建物は騎兵第13連隊倉庫であったという。
陸軍騎兵連隊時代を今に伝える貴重な建物。

取り壊しとなりました

騎兵第15聯隊跡
(東邦大学付属東邦中学校高等学校)

騎兵13聯隊の東邦大と騎兵14聯隊の日大を巡り東に向かう。
東邦大学付属東邦中学校高等学校の入口に小さな標柱が建っている。

「騎兵第十五聯隊跡地」
裏面には平成26年5月7日と記載があった。

騎兵16聯隊跡

騎兵13聯隊・騎兵14聯隊・騎兵15聯隊ときましたがその隣の「騎兵16聯隊跡地」はあるようでないようで。
騎兵16聯隊のあった場所は、昭和7年(1932年12月)より陸軍習志野学校の敷地として編入されている。

「陸軍習志野学校」は化学戦学校であり毒ガス研究が行われていた、と。

陸軍習志野学校
(習志野の森)

もと陸軍騎兵第16聯隊及び騎兵15聯隊の地に展開されたのが「陸軍習志野学校」(昭和8年~昭和20年)。
戦後は警察署・学校・住宅・保育園などに転用。中心部は「千葉大腐食研究所」が展開されていたというが現在は移転。その跡地は「習志野の森」として国有地になっている。

「習志野の森」
現在は国有地となっており年に何度かの公開日以外は立入禁止。戦後に学校建屋を活用して展開された千葉大腐食研究所跡地に習志野学校時代の基礎や土台のみが残っているという。
奥には動物実験の犠牲になった「動物慰霊之塔」もあるという。

※見学してきました


※写真は敷地外より

陸軍習志野学校跡の兵舎跡

習志野学校兵舎の一部といわれる建屋が「習志野の森」近くに残っているが、詳細は割愛。

陸軍習志野学校の車廠床跡

習志野市立大久保保育所の敷地内に。
「陸軍習志野学校の車廠床跡」といわれる往時からのコンクリート床という。
レールのようなものも名残か。
が、駐車場整備が行われているので、その後どうなったかはは不明。
(撮影は2017年)

陸軍習志野学校の弾薬庫跡

習志野市「泉児童公園」
この不思議な形の古めかしいコンクリートの遊び場?は「弾薬庫跡」を利用したものとされている。

陸軍習志野学校の裏門柱跡

よくみると「門柱だなあ」とわかるが、ぱっと見ただけでは草に覆われすぎていてなかなか分かりにくい。
残っているのはこの片方側。もう片方側は何も残ってない。

習志野学校の裏門柱の跡の裏には以前はコンクリート製の「衛兵所」が残っていあっというが現在は取り壊しされている。
敷地は「国有地」

門柱から伸びる「境界土居跡」にそって東に歩む「鉄道連隊演習線跡」の道路に合流。


場所は変わって。

陸軍習志野演習場は広大な面積を占めており船橋市・八千代市・習志野市にまたがっている。
「習志野駐屯地」は船橋市だし、これから向かう習志野霊園も船橋市。習志野市ではないのです。

船橋市習志野霊園
(習志野陸軍墓地)

市民霊園の片隅に今となっては異色な空間がある。

「陸軍墓地」旧習志野陸軍墓地
日露戦争戦没者墓と慰霊碑。
捕虜として習志野に連れられてきたロシア軍人戦没者慰霊碑、第一次大戦のドイツ人戦没者慰霊碑がある。
戦後再整備が行われ昭和44年に船橋市民霊園として開設。

記念碑
 この墓地は旧陸軍の墓地として遠く明治37、8年の日露戦争当時の日本軍人戦没者の碑50数基をはじめ、西端のほぼ中央に第一次世界大戦におけるドイツ軍人戦没者の慰霊碑1基、更にその南端には不明確ではあったが、日露戦争時におけるソ連軍人戦没者慰霊の墓標があった。
 第二次世界大戦後放置状態にあった当墓地は旧陸軍習志野演習場に入植した開拓農業協同組合員が墳墓として使用していたが、当市は旧軍人を始め国際的意義の見地からこの異国の地に眠る両国軍人の英霊を祭祀し、併せて一般市民の利用に供すべく国有財産である当墓地の整備を計画し、昭和44年3月国からの貸与を受け、茲に三国軍人碑の移設・改葬を行ない船橋市習志野霊園と称し開設したものである。 
昭和46年4月  船橋市

習志野霊園
「陸軍墓地」旧習志野陸軍墓地

中央には「日本軍人戦没者慰霊之碑」
向かって左には「ドイツ軍人戦没者慰霊之碑」
向かって右には「ソ連軍人戦没者慰霊之碑」

日露戦争と第一次世界大戦と。

敷地の周辺には日露戦争時の戦没者墓が林立している。

中央部はちょっとした広場になっており。

友愛の木  
日露戦争習志野収容所病歿者慰霊の木

安らぎの木  
第一次世界大戦習志野収容ドイツ軍人戦没者慰霊の木

習志野霊園の奥に見える塔は、習志野駐屯地の「降下訓練塔(高さ80m)」

船橋市郷土資料館

耐震補強工事中でした。
もっとも郷土資料館(や野外展示してあるD51)には直接的な用事はなく、その隣の「薬円台公園」にある石碑に御用が。

習志野 地名発祥の地
附 明治天皇駐蹕之処の碑

当地は明治7年より昭和20年(1874~1945)まで陸軍演習場であった。
明治6年、明治天皇が近衛兵を率いて行幸され近衛兵の演習を天覧。
皇居還御後に勅諭をもって当地に「習志野ノ原」と名を賜ったことに始まる。 碑は大正6年建立。山県有朋謹書。

東部軍教育隊の裏門門柱
(東部軍管区教育隊)

新京成線・習志野駅のすぐちかく。
ここに門柱が1本だけ残っている。

https://goo.gl/maps/oByFNCw1NtR8uFEQ8

こうして歴史の証言物として残っている姿に感謝。

本編はいったんここで〆

習志野編の関連はこちらも。

習志野の戦跡散策(鉄道聯隊と演習場跡)

平成29年8月

陸自・習志野駐屯地一般開放日「習志野駐屯地夏祭り」に赴く途中に、折角だから寄り道しながら周辺を散策してみました。

津田沼駅

午前9時。
目標地は習志野駐屯地だけど最初に降り立った駅は「津田沼」でした。

陸軍・鉄道第二聯隊兵営表門跡
(鉄道第二連隊隊門跡)

まず訪れたのがJR津田沼駅近くの「千葉工業大学」 大学正門が「陸軍・鉄道第二聯隊兵営表門跡」(鉄道第二連隊隊門跡)。登録有形文化財。

おっと、ちょうどオープンキャンパスでした。
人の出入りの合間をみてパチリ。

現在の千葉工業大学正門・国有形文化財

登録有形文化財 第12-0007号

この門は明治40年(1907年)当地に移駐した陸軍鉄道連隊第三大隊(大正7年に鉄道第二連隊に改組)兵舎の表門として使用されたものです。
第二次大戦後、ここが千葉工業大学の校地になった後も、「工大の煉瓦門」として親しまれています。
平成10年5月、国土の歴史的景観に寄与するものとして、国の登録有形文化財に指定されました。 
千葉工業大学

位置関係

津田沼駅周辺
1944年10月16日‐陸軍撮影の航空写真(8911-C1-4)

K2形機関車134号機

千葉工業大学から線路を挟んだ反対側にある公園。
習志野市「津田沼一丁目公園」

ここに鉄道連隊ゆかりの機関車が保存されている。
「K2形機関車134号機」

「K2形機関車134号機」
陸軍鉄道第2連隊の演習線で活躍し戦後は西武鉄道に払い下げられた機関車。
西武鉄道で使用されたのちにユネスコ村で静態保存。同村閉園の為に鉄道連隊ゆかりの千葉県習志野市に引き取られ当地で保存。
日本国内での現存唯一のK2形とされている。

K2形機関車134号

 この蒸気機関車は、かつてここ津田沼に本部を置いていた陸軍第2連隊がしようしていたもので、現在の新京成線敷地内にあった陸軍演習線での機関車として活躍したものです。
 この度、西武鉄道㈱ユネスコ村に保存してあったものを譲り受け、鉄道連隊ゆかりの、この津田沼一丁目公園に設置したものです。
 平成6年3月

新京成電鉄

新京成線は「カーブが多い路線」として有名。
カーブが多い理由は陸軍第2連隊時代に敷設や運転の演習の為に故意に曲げた為と。
その陸軍演習線を新京成線が一部転用した為に、ご覧の有様。
新津田沼駅から京成津田沼駅まで往時のカーブの気配を堪能しながら移動しましょう。

京成津田沼駅

京成津田沼駅から西に伸びている一本の道路。
線路脇に石碑が立っています。

御大典記念道碑

昭和4年2月建立
昭和天皇の即位(御大典)を記念して京成津田沼駅から線路に沿って谷津に向かう道路を作ったよ、という記念道。

京成津田沼駅から西に伸びる「御大典記念道」を歩く。
今でこそ普通の道ではあるが地元の寄付金などで建設されたこの「御大典記念道」は大仰な名前とともに悲願の賜物であっただろう。

陸橋の下にもひっそりと石碑が残っている。
こちらの碑は摩耗が目立っていた。

「御大典記念道」をチラリと見学して駅に戻る。 ここから陸軍鉄道連隊が敷設した線路跡の道路(鷺沼台遊歩道)を歩いてもよかったのですが、体力温存の為に京成津田沼から京成大久保までの一駅だけど電車で移動。

そういえば新京成「ふなっしー電車」がいました。

京成大久保駅

京成大久保駅周辺
1944年10月16日‐陸軍撮影の航空写真(8911-C1-4)

鉄道連隊演習線(習志野線)

京成大久保駅前の北側に、東西に伸びている遊歩道。
この道が「鉄道連隊演習線(習志野線)」
(新京成線は鉄道連隊演習線松戸線)の跡。
遊歩道としては「ハミングロード」

鉄道連隊演習線の路線図には往時の周辺情報も。
京成大久保駅の北側には「騎兵旅団司令部」「騎兵13聯隊」「騎兵14 聯隊 」「騎兵15 聯隊 」「騎兵16 聯隊 」と。 このあたりは別記事で。

https://www.google.co.jp/maps/place/35%C2%B041’10.8%22N+140%C2%B002’44.5%22E/@35.6863333,140.0451472,19z/data=!3m1!4b1!4m5!3m4!1s0x0:0x0!8m2!3d35.686321!4d140.045695?hl=ja

鉄道聯隊演習線跡

この地は、鉄道連隊の演習線が走っていたところです。
明治40年(1907年)東京中野にあった鉄道大隊は鉄道連隊に昇格し、千葉市と津田沼町に転営しました。この前年、津田沼-習志野間に軽便鉄道が敷設されました。日露戦争時に購入した鉄道資材を習志野の捕虜収容所跡に保管するためでした。この資材をさらに千葉の鉄道連隊材料廠に移転するため、明治41年~42年、習志野-千葉間に軽便鉄道が敷設されました。資材の移転は明治44年(1911年)に完了し、その後この鉄道は鉄道連隊の演習線路として用いられました。線路は、初期に多少のルート変更が有りましたが、津田沼-大久保-三山-高津-犢橋-宮之木-園生-千葉の約16.7㎞の区間で、軌間600mmの軽便鉄道でした。軌間1067mmや1435mmの普通鉄道が並行して布設されたこともあった様です。
津田沼に置かれた鉄道連隊第三大隊は、大正7年(1918年)に鉄道第二連隊に昇格し、この演習線や昭和7年(1932年)頃までに敷設が完了したと言われる津田沼-松戸間の演習線で、鉄道の敷設・撤去・修理の訓練や、機関車の運転訓練を行いました。
戦後、演習線の跡は津田沼-松戸間がほぼ新京成線になりました。津田沼-千葉間は、津田沼-高津間が一時期自衛隊の演習線として用いられた後、現在は大部分が道路となっています。

陸軍境界石

「陸軍習志野学校裏門」から東に歩み「鉄道連隊演習線跡」の道路と合流するあたり。往時は「演習場(練兵場)」が展開されていた場所らしい。
ここに2つありました。

https://goo.gl/maps/eDVB3c6yX1z66RVt6

「鉄道連隊演習線跡」の道路に合流してちょっと北上。
このあたりも 「演習場(練兵場)」 だったあたりなのかな。

畑の中に、仲良く葱と並んで「陸軍用地」(陸軍境界石)
見つけた時に、ちょっと笑ってしまいました。

https://goo.gl/maps/uPHJuAw7U43i863bA

鉄道連隊演習線(習志野線)

東に向かって歩いてます。

https://goo.gl/maps/1aMwiyWhZyhgSj499

演習線跡を歩みつつ。

支那囲壁砲台(旧陸軍演習場内圍壁)

異国的なものが見えてきました。

習志野演習場跡
「支那囲壁砲台」(旧陸軍演習場内圍壁) 国登録有形文化財
これは中国での戦いを想定し演習用に中国風家屋を模して作られた銃眼砲台ミニチュア。民家として一部現存している。

https://goo.gl/maps/gBE6ee7izinci81m7

号砲台跡

支那囲壁砲台から20分ほど歩く。イオンタウン東習志野の北側。

「号砲台跡」
「陸軍省所轄地」 が移設保存。
陸軍演習場習志野原の号砲台を記念して築かれた小塚。
現在は工場敷地内。道路側から小塚を眺める事が出来る。

https://goo.gl/maps/95kSWVSRovWwWdie7

本編はここまで。

京成大久保駅からの騎兵聯隊や習志野駐屯地は別にまとめます。

駒澤練兵場跡地の戦跡散策

平成30年2月‐4月

世田谷区池尻・三宿・下馬、目黒区駒場・大橋界隈の散策
駒沢練兵場や陸軍騎兵学校、騎兵第一聯隊、陸軍獣医学校、糧秣廠、野砲兵第一聯隊など。


世田谷区の池尻・三宿・下馬や目黒区の駒場・大橋といったエリアはかつての陸軍軍用地であった。
以下に残存する面影を求めつつ散策した記録を。
なお本記事は平成30年2月及び4月の幾日かにエリアを分割して散策をしております。


位置関係

参考地図
今昔マップ on the webさんをベースに、グーグル地図は実際に散策したエリア。それぞれに補足記載。駒澤練兵場(現在の三宿駐屯地)を中心に軍用地が広がっているのがわかります。


上目黒氷川神社

池尻大橋駅近くに鎮座しているのが「上目黒氷川神社」
まずはここから行きましょうか。
ん?戦跡散策ですよね、神社??
実は神社境内の裏側には「陸軍騎兵実施学校」(のちの陸軍騎兵学校)があったのです。
現在の駒場高校や目黒区立第一中学校、東邦大学医療センター大橋病院のあたり。


「上目黒氷川神社」境内社「稲荷神社」後方。
神社敷地の隣りの私有地にありました。

陸軍境界石(陸軍騎兵学校・上目黒氷川神社境内)

明治期に上目黒氷川神社の後方に展開されていた「陸軍実施学校」は、大正5年に習志野に移転し「陸軍騎兵学校」と改称。
目黒の騎兵学校跡地には陸軍輜重兵第一連隊が駐留。その名残。


仰光寮

神社から北へ。 都立駒場高校と目黒区立第一中学校の間の道路の突き当り、高校の敷地内。
「仰光寮」大正7年 香淳皇后が皇太子(後の 昭和天皇)妃に内定された大正7年に御実家の久邇宮邸内に建てられた建物。
当初は麹町一番町の久邇宮邸内にあったが昭和26年に現在地に移築という。(敷地外より撮影)


天覧台

都立駒場高校グランドを周回するように西側に。
このグランド、かつての「陸軍輜重兵第一連隊の射撃場」の地であり、さらには「陸軍乗馬学校(陸軍騎兵実施学校)」の地でもあり。
そんなグランドと大橋住宅の間に「天覧台」という碑がある。
そして東側には前述の「仰光寮」の屋根も垣間見れる。

天覧臺(天覧台)
陸軍中将畑英太郎書 (畑俊六の兄)

由来記
記念碑天覧台は 明治天皇親しく此の台上より陸軍乗馬学校(後の陸軍騎兵学校)卒業馬術を明治25年(1892年)天覧なされてより延11回 大正天皇におかせられても4回行幸なされた御聖徳を偲び昭和3年11月14日陸軍輜重兵第一大隊が建立したものである
以来部隊の象徴として日夜心身の錬磨に努めていたが昭和20年8月復員発令に伴ない題字及び碑文を抹消放置したまま30有余年を閲した
此の碑を心の糧として軍の補給輸送に任じ祖国の平和を祈り異郷に散華された数多将兵の忠誠を顕彰し併せて陸軍輜重兵第一聯隊及び関連部隊の栄誉を永遠に伝えるため戦友相寄り相計ると共に明治神宮宮司高澤信一郎先生の題字復元を得て修理を完成した
昭和56年11月14日
 天覧台保存会

記念碑天覧台は明治25年以来
明治天皇11回
大正天皇4回
に亙(わた)り陸軍乗馬学校卒業馬術展覧のため行幸なされた御聖徳を偲び昭和3年11月14日陸軍輜重兵第一大隊が之を建立した

天覧台周辺地図が掲示されてました。
大正5年(1916)に「陸軍乗馬学校(陸軍騎兵実施学校)」が習志野に移転(陸軍騎兵学校)したのち、この地には「陸軍輜重兵第一聯隊」が駒場高校及び区立第一中学の地に、「陸軍輜重兵学校」が駒場東邦中学高校及び筑波大学附属駒場中学高校の地に展開された事がわかる。


馬神碑

天覧台から西に。「陸軍輜重兵学校」があった駒場東邦中学校・高等学校の南西、騎兵山とも呼称されている斜面(高層マンションが建ってます)に碑が残っておりました。

「馬神碑」(昭和5年7月建立)
戦没した馬たちを霊を祀る碑 騎兵にとって馬は何よりも大切な相棒 蹄鉄と人参が備えてありました

馬神碑のある騎兵山はすなわち「騎兵第一聯隊」の跡でもあり。

で、その聯隊跡を物語る跡地を探してプチ迷子。
慌てて検索してみると扉付きの階段の上に公園があるらしく、そこが聯隊跡を物語る碑の場所。行ってみます。(扉の開放しっぱなしはNG、立ち入りの制限はなし)


騎兵第一聯隊阯
戦死病没者表忠碑

明治二十七八年及三十七十八年戦役(日清戦争及び日露戦争)

「戦死病没者表忠碑」
陸軍中将大勲位功四級 載仁親王 書


明治28年9月 陸軍騎兵中佐 秋山好古 建立
明治39年11月 陸軍騎兵中佐男爵 名和長憲 再建

騎兵第一聯隊阯
「戦死病没者表忠碑」脇石碑

征清之役戦死者哀
悼碑建設工ヲ竣ル
滋二其姓名ヲ勒シ
永ク後世ニ傳フ
明治29年6月30日 騎兵第一聯隊長 秋山好古 謹記

日清戦争時、秋山好古は陸軍騎兵少佐(戦中に中佐昇進)として出征。
明治29年8月には陸軍乗馬学校長(のち陸軍騎兵実施学校長)に就任。

騎兵第一聯隊阯
「騎兵第一連隊創設百年記念」
竹田恒徳(陸軍中佐)
昭和48年3月吉日 騎兵第一聯隊会

…昭和二十年一月今田義男聯隊長以下全員悉く国難に殉じ斃れて後已む壮烈真に鬼神も為に哭く…先人の英魂を弔い其遺烈と勲業とを永く後毘に伝えんが為、聯隊の旧阯駒場台上忠魂碑の傍に此碑を建つ

騎兵第一聯隊阯
満洲事変・支那事変・大東亜戦争
戦没者慰霊塔


木標に書かれた文字は風化しており辛うじて読み取れるものでした。
日清・日露戦争の表忠碑の隣に。

日清戦争、日露戦争、満洲事変、支那事変、大東亜戦争…
厳粛な空間が保たれている騎兵山の慰霊碑で、心静かに哀悼と感謝を捧げる…


陸軍獣医学校跡

騎兵山から北上。突き当りにある学校が「駒場学園高等学校」、この地はかつての「陸軍獣医学校」 。
騎兵と馬、馬と獣医。深き関係。 秋山好古は明治31年に駒場の陸軍騎兵実施学校長に赴任し、翌年には陸軍獣医学校長を兼務している。

駒場学園高等学校の守衛さんの許可を得て入構し跡地の碑を見学。

陸軍獣医学校軍馬碑

過ぐる大戦において多くの俊馬が大陸にまた南方に徴発され一頭も帰還することなく彼の地に没した
人為による無謀とはいえそのいたみを忘れぬことこそ我らの務めである
軍馬と因縁浅からぬこの地に小碑を建立し永遠にその霊を慰める
平成2年5月1日 駒場学園高等学校 校長 笠原喜四郎

陸軍獣医学校にあった「動物慰霊之碑」は両国回向院に戦後に移転している。


陸軍境界石(陸軍獣医学校)

陸軍獣医学校のあった駒場学園高等学校の東側の道路に「陸軍境界石」がいくつか残っておりました。
保育園建設敷地に沿って2つ。これはこのまま残ってくれるかな、保育園の完成後にどうなるかは気になるところ。

https://www.google.com/maps/place/35%C2%B039’23.3%22N+139%C2%B040’41.7%22E/@35.6564722,139.6760613,17z/data=!3m1!4b1!4m9!1m2!6m1!1s10Eq3VaKbm1RN8QosP52Fpi9tNlk!3m5!1s0x0:0x0!7e2!8m2!3d35.6564703!4d139.6782459

※保育園完成後に撤去されました。。。現存してません。。。

駒場学園高等学校と隣接する富士中学校の東側にもありました。
「陸軍境界石」(陸軍獣医学校)
陸軍省と見えますね。
笹藪の中に唐突に境界石を見つけて、ちょっと嬉しくなりました。 陸軍軍用地であったことを物語る歴史の証人。

この場所からそのまま北上していくと「京王井の頭線」。
その北側は駒場東大。
駒場東大には東京帝大航空研究所があったり、駒場公園前田家本邸には中島飛行機本社が疎開してきたりしますが、それはまた別の機会に。


池尻稲荷神社

この神社の南方には「駒澤練兵場」が展開。
今昔マップ on the web に合わせてみると、駒澤練兵場は現在は世田谷公園・自衛隊中央病院・三宿駐屯地などになっていることがわかります。


駒澤練兵場の排水水路・排水溝跡

神社の脇にちょっとした空間が不自然に残っていて。
これが「駒澤練兵場の排水水路・排水溝」の跡といわれている暗渠。
神社の敷地に沿うようにウネウネと排水溝跡が残っておりました。

池尻稲荷神社から駒澤練兵場方面へは暗渠が通路として活用されている。
(写真1枚のバイクの先が神社)
練兵場方面に進んでいたら途中で暗渠は見失いましたが。


陸軍糧秣廠の馬糧倉庫

池尻稲荷神社と駒澤練兵場のあいだあたりに。
「陸軍糧秣廠の馬糧倉庫」の転用倉庫が残っている。
現在は「ヤマト運輸 太子堂センター」と「生協パルシステム東京池尻センター」が利用している倉庫。
外装は今風だけれど、骨組は往時の基礎を活かしているようです。

かつての「陸軍糧秣廠の馬糧倉庫」の近くに、今は「学校法人 食糧学院 東京栄養食糧専門学校」。
なんだかんだで食糧つながり。
食糧学院のルーツは大正7年発足の食糧問題研究会。 昭和14年に食糧学校が開校。初代学長は三井清一郎陸軍中将・貴族院議員。 戦後の昭和21年に現在地に移転している。


陸軍境界石(陸軍糧秣廠)

「食糧学院」かつての「陸軍糧秣廠」の敷地に沿って歩いていると、ありました。(サイト「帝都を歩く」さんの)案内つきです。

「陸軍用地」(陸軍境界石)
黒く塗っているのが斬新。わかりやすくはありますが。
このあたりが「駒沢練兵場」の北端。


野砲兵連隊の兵営

駒沢練兵場西側。駅的には池尻大橋駅より三軒茶屋駅のほうが近いです。
例のごとく今昔on the web で補完。

駒沢練兵場西側には野砲兵連隊の兵営が集中。

近砲=近衛野砲兵聯隊 →昭和女子大
野重砲八=第一師団野戦重砲兵第八連隊
野砲一=第一師団野砲兵第一連隊 →下馬アパート

第一師団野砲兵第一連隊兵舎跡

下馬アパート近く。野砲兵第一連隊兵営の地。今となっては時代錯誤感にあふれる木造平屋建造物が残っている。

東京世田谷某国会館 (写真見ればわかりますが某国と伏せます) かつての第一師団野砲兵第一連隊の兵舎跡。 戦後に某国会館として利用されるようになった経緯は不明。なんとなく複雑な気分。


馬魂碑(野砲兵第一聯隊)

都営下馬アパート近く。
このあたりは前述したとおり野砲兵第一連隊の兵舎があった場所。
都営団地に囲まれるように小さな公園があり、その公園の片隅に幾つかの石碑が集められていた。

軍馬慰霊の碑…

https://www.google.com/maps/place/35%C2%B038’31.4%22N+139%C2%B040’33.8%22E/@35.6420556,139.6738669,17z/data=!3m1!4b1!4m9!1m2!6m1!1s10Eq3VaKbm1RN8QosP52Fpi9tNlk!3m5!1s0x0:0x0!7e2!8m2!3d35.6420648!4d139.6760489

「馬魂碑」
(都営下馬アパート近くの小公園「下馬アパート公園」)
昭和14年12月建立
(右の小碑は昭和44年12月に下馬史跡保存会建立)

野砲を牽引する為に馬の力が必要。砲兵と軍馬の繋がりも深く。愛護憐憫に溢れた慰霊の碑。
裏面を見ると「野砲兵第一聯隊留守隊長陸軍砲兵中佐◯◯」と記載がある。

「馬頭観音」
都営下馬アパート近くの小公園「下馬アパート公園」に。
ここでいう馬頭観音は仏教菩薩でもあり軍馬の仏でもあるのか。
軍馬慰霊の馬頭観音。

「軍馬梨山号 昭和十一年一月二十四日殉職」と書かれた慰霊碑もあった。


以下、2021年5月再訪

馬魂碑(再開発中)

都営下馬アパート再開発のために、馬魂碑のあった公園は封鎖されていました。
そのまま公園として復してくれるとよいのですが。

2024年 移築保存されていることを確認しました


東山の馬頭観音

馬頭観世音。軍馬を慰霊する馬頭観音。

東山の馬頭観音
 かつて、このあたり一帯は旧駒沢練兵場の跡で、旧陸軍の近衛第一師団5000人の将兵と1300頭の軍馬が日夜訓練に励んでいたところです。特に東山の傾斜地での急坂路訓練は大砲を6頭立てや8頭立ての馬に引かせて坂を駆け上がり下りをくりかえす人馬一体となっての厳しい訓練でした。
 この馬頭観音は軍馬を愛し大切にしていた旧軍隊の兵士が訓練に倒れた2頭の軍馬の供養碑として建てたものです。正面に馬頭観音の文字を刻み、背面には「〝苫良号〟腰椎骨折、大正11年5月22日供養、第3中隊」と由来が書かれています。東山中学生や地元の人々の善意で屋架が大切に保存されています。  
平成4年3月 
目黒区教育委員会

結構な坂道。かつて軍馬もこの地で訓練に明け暮れ、そして斃れた。

場所

https://goo.gl/maps/92W54pc343rEDGXr9


記事追加(2021年5月)

陸軍境界石

都営下馬二丁目アパートの南側に、境界標石が2つ確認できた。

ひとつめ。

ふたつめ

場所

https://goo.gl/maps/NUgMaQRLAddaRGuK9


三軒茶屋と池尻大橋界隈。
この界隈は、軍馬との繋がりを深く感じる散策でした。

動物慰霊之碑(陸軍獣医学校・両国回向院)

平成30年参拝

かつて陸軍獣医学校内にあった「動物慰霊之碑」(昭和3年3月建立)が、紆余曲折あって、戦後に両国回向院に移転している。
陸軍獣医学校 はかつては世田谷区の、現在の 駒場学園高等学校 のあたりにあった。(後日まとめます)

両国回向院(本所回向院)は、動物供養でも著名な寺院さん。

動物慰霊之碑

昭和3年3月建立陸軍獣医総監 岡田勝男 謹書。
岡田勝男は、東京帝大獣医学科卒の陸軍獣医中将。

昭和三年三月
動物慰霊之碑
陸軍獣医総監 岡田勝男 建立

碑裏面
この碑は東京都世田谷区下代田町旧陸軍獣医学校内にあったもので、同校明治以降の教育研究に犠牲となった動物及び物言えぬ戦士として戦場に散華した軍用動物の霊を慰めるため、当時の学校長岡田勝男氏により建立され懇ろに祀られて来たのであるが、昭和20年敗戦の後は全く荒廃に委ねられて来たこと、幸い当回向院並に多数援助者の厚志により、今回この地に移し永く供養し得ることとなったこと、当時それら40数万に及ぶ軍用動物と生死を共にした旧陸軍獣医部員5千余名の深く喜びとするところである。
昭和38年4月29日
紫陽会
会長 渡辺満太郎

陸軍獣医学校の跡はこちら


回向院

 明暦3年(1557)、江戸史上最悪の惨事となった明暦大火(俗に振袖火事)が起こり、犠牲者は10万人以上、未曾有の大惨事となりました。遺体の多くが身元不明、引き取り手のない有様でした。そこで四代将軍徳川家綱は、こうした遺体を葬るため、ここ本所両国の地に「無縁塚」を築き、その菩提を永代にわたり弔うように念仏堂が建立されました。
 有縁・無縁、人・動物に関わらず、生あるすべてのものへの仏の慈悲を説くという理念のもと、「諸宗山無縁寺回向院」と名付けられ、後に安政大地震、関東大震災、東京大空襲など様々な天災地変・人災による被災者、海難事故による溺死者、遊女、水子、刑死者、諸動物など、ありとあらゆる生命が埋葬供養されています。
墨田区 

諸宗山 回向院
明暦三年(一六五七年)江戸大火(振袖火事)に依る死者10万8千余人を弔うために建立された。
本尊 阿弥陀如来 (東京都重要文化財)
安政大地震(一八五五年)の死者2万5千人余を初めとして、江戸府内の無縁仏、天地地変に因る死者も埋葬され近くは大正12年の関東大震災の死者10万余人の分骨も納骨堂に安置されています(以下略

「陸軍中野学校 ・豊多摩監獄・野方配水塔」中野の戦跡・近代史跡散策

平成29年

・陸軍中野学校
・豊多摩監獄
・野方配水塔

平成29年10月28日。
当初の予定が雨で崩れたために予定変更の散策。

さすがに中野は再開発で見るべきところはすくないけど、ちょっとだけ往時を偲ぶ痕跡を探してみました。

中野駅前

JR中野駅北口。物産展やってました。
この場所がすでに陸軍用地。戦前の「陸軍中野学校」がこのあたりに展開されていました。
何度かの開発を経て、この写真に写っている「中野区役所」と「中野サンプラザ」の地は更なる再開発になるとのことで。

中野駅の北側に「陸軍中野学校」、
その北は「豊多摩刑務所」。

戦後、陸軍中野学校の跡には警察大学校・警視庁警察学校などがあったが2001年に府中に移転。
その後は2008年に東京警察病院がこの地に移転。
また「中野四季の森公園」が整備され、明治大・帝京平成大学などが開設している。

位置関係

以下は、1944/11/07(昭19)陸軍撮影の航空写真(8921-C6-140)

中野区役所の前に、お犬様がおりまして。

陸軍中野学校よりも前の時代。江戸時代。
この地には5代将軍・徳川綱吉公の時代、元禄8年(1695)に作られた「犬屋敷」があったという。この犬像は1991年に寄贈。

中野区役所の前庭に。
中野が歩んできた歴史の一節が記載されておりました。

中野史跡碑」(昭和43年建立)
徳川五代将軍綱吉の犬小屋、八代将軍吉宗が桃園と御立場を設置、明治に中野電信隊・鉄道隊・気球隊が創設、そして陸軍中野学校が整備、戦後のGHQ進駐から警察大学校など…。

中野四季の森公園

平成24年、警察大学校の跡地を活用してできた防災公園。
中野四季の森公園の周囲には「明治大学」「帝京平成大学」「中野セントラルパークサウス」「中野セントラルパークイースト」などが展開されている。

もちろん、この地も戦前は陸軍中野学校跡。

当地には陸軍の鉄道隊・電信隊・気球隊が明治30年(1897)に創設。
のちに鉄道隊と気球隊は千葉に移転。(習志野鉄道聯隊など
当地に残った電信隊が第一電信聯隊と改称し、のちの「陸軍中野学校」へと。 電信をスタートして諜報や防諜・宣伝など秘密戦へと進化。

中野四季の森公園 いまとむかし(一部抜粋)
時は流れ、明治期から第二次世界大戦の終戦までは陸軍関係の施設がありました。陸軍の鉄道隊・電信隊・気球隊兵舎が明治30年(1897年)に創設され、後に交通兵旅団司令部も置かれましたが、やがて鉄道隊・気球隊は千葉県下に移転し、電信隊のみが残り、第一電信連隊と改称しました。その後にできたのが陸軍中野学校でした。この学校は『「謀報謀略の化学化」に対応するための要員養成所』として設けられたと言われています。

陸軍中野学校

スパイ養成学校と言った感じでとにかく後世のイメージは悪いですよね。

陸軍中野学校は、諜報や防諜・宣伝など秘密戦に関する教育や訓練を目的とした大日本帝国陸軍軍学校で情報機関のひとつ。
昭和13年に防諜研究所として創設され、昭和15年には陸軍中野学校と改称。

昭和13年の創設時は東京九段(軍人会館近く)にあった愛国婦人会本部別館にあったが、昭和14年4月に旧電信隊跡地の中野に移転。

昭和19年には静岡浜松天竜に遊撃戦(ゲリラ戦)要員養成の為の「陸軍中野学校二俣分校」が開校。

昭和20年4月、空襲激化に伴い陸軍中野学校は群馬富岡に疎開。松代大本営と東京の中間地が富岡の選定理由という。
そうして疎開先の富岡で終戦。(疎開先は現在の県立富岡高校)

東京警察病院

戦後、陸軍中野学校跡に「警察大学校」「警視庁警察学校」などが開設。それらの警察学校は平成13年(2001年)に府中に移設。
2008年(平成20年)に「東京警察病院」が千代田区富士見から当地に移転し現在に至る。一応、誰でも受診出来るらしい…

陸軍中野学校址碑

東京警察病院敷地内
敷地内の北西角にある「碑」を見学。
極めてわかりにく場所。その歴史を隠すかのようにひっそりと植え込みの中に「陸軍中野学校を物語る碑」があった…

陸軍中野学校址碑
碑裏面

國際情勢の緊迫と列強秘密戦の激化に鑑み軍は昭和十三年七月九段に後方勤務要員養成所を臨設 翌年四月現在地に移設し昭和十五年八月これを陸軍中野学校と改称した
昭和二十年四月群馬県富岡町に移転するまで六星霜、全軍より厳重に審査簡抜せる要員を集め情報勤務教育を施すと共に國軍高度の秘密戦研究に当たった
創設の精神を発揚し負荷の重責を果たすため本校は特に精神の陶冶を重視してその中心として楠公社を建立 学生は夙夜この社頭に魂の修練を重ねた此の碑の立つ所即跡地である

陸軍中野学校 初代幹事 福本亀治 謹書
中野校友会 建立

「陸軍中野学校址碑」を謹書した福本氏は陸軍中野学校の創設メンバーの一人。 (岩畔豪雄中佐・秋草俊中佐・福本亀治中佐の3名が創設委員)
福本亀治氏は二・二六事件当時は東京憲兵隊特高課長で取り調べを担当。のちに中野学校幹事に就任。その後は第六方面軍憲兵隊司令官兼漢口憲兵隊長・少将。

摂政宮殿下行啓記念碑

「陸軍中野学校址碑」の隣には「摂政宮殿下行啓記念碑」
これは大正12年5月28日に当地の「中野陸軍電信隊」を摂政宮殿下(昭和天皇)が行啓されたことを記念。

碑裏には「昭和6年3月」「軍用鳩調査委員事務所職員一同」と記載あり。
中野の電信隊では軍鳩の飼育研究も行われていたのだ。

中野陸軍電信隊と軍用鳩・・・

写真は靖國神社の「鳩魂塔 」

この靖國神社「鳩魂塔」は、伝書鳩の霊を慰める為に昭和4年に中野陸軍電信隊内に建立されたことに始まる。
その後、上野恩賜公園を経て昭和57年に靖國神社に復元奉納。

軍用鳩魂の記憶は、平和を希求する「靖國神社の白鳩」へと受け継がれているのだ。


陸軍中野学校の跡から北北東の方向に歩みをすすめる。

中野区立 平和の森公園

かつての豊多摩刑務所(後の中野刑務所)
1910年に開庁、1975年に廃庁。
1985年に跡地に平和の森公園として部分開園。

中野「平和の森公園」南側。
矯正研修所東京支所と野水再生センターの間の道から垣間見れます。

旧豊多摩刑務所表門
(豊多摩監獄・中野刑務所)

後藤慶二・大正4年(1915)
旧豊多摩刑務所表門は大正時代の建築家であり35歳で急逝した後藤慶二の手による現存する唯一の建築物。 イギリス積。

豊多摩監獄設計者 後藤慶二
大正モダニズム建築の傑作 豊多摩監獄

豊多摩監獄の工事主任及び現場監督として、実質的な設計にあたったのが後藤慶二(明治16年‐大正8年・1883-1919)でした。
完成をみたのは大正4年(1915)、後藤が東京帝国大学卒業後司法省に入り、技師となってまだ6年目のことでした。洋画を学び豊かな芸術的才能を持ち合わせた後藤は、監獄という機能的な建築物の設計において、先進の技術を用いながら、大正モダニズム建築の代表作として評価される芸術的な作品を生み出しのたのです。しかし、彼は惜しくも36歳の若さで夭折しました。
中野刑務所の遺構である旧豊多摩監獄表門は、今日現存する彼の唯一の作品です。( 矯正図書館 展示より)

旧豊多摩刑務所表門から、そのまま道なりに歩いていけば「法務省 矯正研修所東京支所」に。
中野刑務所時代の塀かどうかはわからないけど、古さを感じさせる良き気配。 でもこの先は立入禁止。

矯正研修所東京支所の隣に「CAPIC刑務所作業製品展示ルーム」。
併設された「矯正会館・矯正図書館」ではちょうど矯正図書館開設五十周年特別展示が行われておりました。

「刑務所近代化の歴史とそれを支えた人びと」
まったく予定しておりませんでしたが面白そうなので立ち寄りを。

以下、興味を持った展示内容などを。

豊多摩監獄内の神社「寶樹稲荷社」
元は市ヶ谷の備中松山藩板倉家鎮守社。
明治8年の市ヶ谷監獄建設に伴い市ヶ谷監獄の鎮守社に。
大正4年に市ヶ谷監獄が豊多摩監獄に移転した際に当社も遷座。
平成27年に中野新井の新井天神・北野神社の境内稲荷社に遷座合祀。

清浦奎吾揮毫「刑は刑無きに期す」(昭和8年・複製)・尚書(書経)
清浦奎吾(1850-1942)は内務省警保局長・司法次官・司法大臣等を歴任し日本行刑制度の基礎を築いた。
1900年から1909年までは監獄協会(現在の矯正協会)の会頭・総裁。
1924年に内閣総理大臣就任。

旧豊多摩監獄(中野刑務所)で使用されていた煉瓦。
これは「桜花」が刻印された「小菅監獄製煉瓦」。
豊多摩監獄では「小菅監獄製」の他には「上敷免製」刻印の日本煉瓦製造会社製の2種類があったという。

廃庁嗟惜

惟時、昭和58年3月31日。
此の日、職員41名、在監者なく、天気麗燿なれど寒風強し。 
豊多摩監獄、豊多摩刑務所、中野刑務所と三代70年に亘り、行刑の栄光と苦難の道を一途に歩み来たりしも、今、将に永遠に終焉の帷りを閉じなんとす。
(中略)
孤独なれど粛然として消え去り行く、我が中野刑務所よ。
 静かに眠れ。
  そして、消え去れよ。
   嗚呼
昭和58年3月31日 中野刑務所長 …

矯正図書館企画展にて良き学習を。
刑務所からみる近代史というのは縁がなかったもので。

さて移動。
「平和の森公園」の平和資料展示室に行こうと思ったら…へっ?
「平和資料展示室」は展示終了、展示資料の一部は区役所に…って区役所は散策の最初だったし、区役所に戻るつもりもないのでまたの機会に。。。

北上。西武新宿線を越えて哲学堂公園近くまで歩む。

中野区立 水の塔公園

名前の通り、ここには水の塔=配水塔があります。

野方配水塔

国登録文化財
淀橋浄水場などを手がけ近代上水道の父と称された中島鋭治博士の設計。
着工は昭和2年(1927)、竣工は昭和4年。高さは33.6m、直径は約18mの鉄筋コンクリート造り。
世田谷区喜多見で多摩川から引水。
昭和41年まで稼働。東京近郊都市化のシンボル。

正面には弾痕の跡が残る。
大きくシンボル的であった給水塔も戦禍の歴史を刻んでいた。

野方配水塔
空襲時の弾丸の傷跡が残されている配水塔です。
関東大震災後、都市化による水の需要に応えるため、この地にあった給水場に、配水塔がつくられました。
この配水塔は1966(昭和41)年に配水を止め、その後、災害用給水槽として使われてきました。
中野区

旧野方配水塔(国登録文化財)

野方配水塔は、荒玉水道の給水場につくられた塔でした。荒玉水道は大正12年(1923)の関東大震災後、東京市に隣接した町村の急激な都市化による水の需要に応じるため、当時の豊多摩・北豊島両郡にある13の町々が連合して設立しました。
配水塔は、ドイツで衛生工学を学び、淀橋浄水場をつくった「近代上水道の父」中島鋭治博士(1858~1925)の設計です。
着工は昭和2年(1927)で竣工は同4年です。高さは33.6m、基部の直径約18mの鉄筋コンクリート造りです。
世田谷区の喜多見で多摩川から引水し、60万人の2時間分が貯水可能と言われ昭和41年(1966)まで使われていました。その後、解体計画もありましたが、平成22年(2010)に国登録文化財となり大切に保存されています。
ドーム型の屋根が、地域の特徴ある景観を形づくり、江古田の水道タンク・水の塔・給水塔などと親しまれてきた、東京近郊都市化のシンボルです。
平成26年2月 
中野区教育委員会

正面の「みずのとう幼稚園」側から、水の塔を臨む。
頂点の造形が配水塔にしておくにはもったないくらい美しい。

今回の中野散策編はこれでおしまい。

満蒙護國神社

平成30年6月参拝

埼玉県・出雲大社朝霞教会 境内社

満蒙護國神社
平成元年四月十五日建立

照清大権現縁起
霊夢に依り昭和十四年五月ソ満国境ノモンハン事変に参戦護国の英霊となられた戦友七千六百拾六名の御霊を靖国神社より分祀 
この地の守護神としてここに祭る

ノモンハンの桜

満蒙護国神社
由緒
昭和14年5月、ソ満(旧・ソ連と満州)国境に勃発して”ノモンハン事変”にて英霊となられた戦友7,616名の御霊をお祀りしています。(先代教会長・渡邉清はこの戦争を経験しました。)

出雲大社朝霞教会

埼玉県朝霞市鎮座。
宗教法人 出雲大社朝霞教会は昭和58年3月に宗祠(出雲大社)よりご分霊をお祀りし、埼玉県内唯一の出雲大社として創建されました。
地域の皆様には、“朝霞の出雲大社”“埼玉の出雲さん”などの愛称で親しまれています。 由緒はサイトより

2019年現在、新社殿造営中。仮社殿となっております。
以下の写真は過去の模様です。

御朱印をいただきました。
あわせて幸福の飴もいただきました。
ありがとうございます。

大阪城周辺の戦跡散策

平成29年4月

平成29年4月18日。大阪に用事のあった私は午前中の空き時間を利用して大阪城界隈へ。
実に10年ぶりの大阪城公園。
普通に廻っても面白くないので、近代史跡・戦争史跡(戦跡)を中心に散策してみました。 それでは参りましょう。


大阪城の戦跡関連


大阪城公園

JR環状線「大阪城公園駅」に到着したのが午前9時頃のことでした。
この日の散策は大阪城公園駅を起点終点に城の周りをぐるぐると。
真田さんの出迎えで気分が高揚してきますね。

大阪城公園駅から大阪城ホール方面に歩く。
最初に見えてきたのが「大阪砲兵工廠跡」


大阪砲兵工廠跡

昭和34年建立の記念碑。
もとは旧本館付近にあったが、大阪城ホールが建設されたため移築された。

現在の大阪城ホールのある場所(大坂城三の丸米蔵跡地)が「大阪砲兵工廠本館跡地」。 大阪砲兵工廠(大阪陸軍造兵廠)はアジア最大の規模を誇り、陸軍唯一の大口径火砲の製造拠点であったという。

余談ながら。
靖國神社第二鳥居は、1887年(明治20年)に「大阪砲兵工廠」で鋳造されたもの。 靖國神社に4つある鳥居の中で一番古く、また青銅製鳥居として日本一の大きさを誇っている。
写真は靖國神社第二鳥居(大阪砲兵工廠鋳造)


砲兵工廠荷揚げ門(第一荷積場)

大阪城ホールの北側。 「砲兵工廠荷揚げ門」(第一荷積場)
明治4年(1871)に建設されたアーチ荷揚げ門という。
周辺は立入禁止なので回りから眺める感じで。

北外堀を西に向かいます。
「大阪城桃園」がありました。


大阪砲兵工廠化学分析場(化学試験場)

大正8年(1919)竣工。
ネオ・ルネサンス様式、煉瓦造、地上2階・地下1階の建造物。
かつては阪大校舎や自衛隊建物として使用されるも、現在は使用されておらず放置中…。


守衛詰所(もしくは便所)とされる建物

化学分析場(化学試験場)の隣に。
筋鉄門跡附近。
建物は立入禁止。
化学分析場もであるが荒廃が進んでおり先行き不安。


大阪砲兵工廠 表門(正門)跡
明治天皇聖躅碑

碑には砲兵工廠と刻まれている。
筋鉄門跡。
「大阪砲兵工廠」としては左右の石組を残す。


大阪偕行社附属小学校跡

一度、大阪城公園から外に。
外堀と学校に沿って歩く。
この学校は「追手門学院」
学校に古風な門柱があり、戦前の「大阪偕行社附属小学校」名残。

偕行社とは陸軍将校倶楽部(海軍は水交社)。
戦後、大阪偕行社解散後に小学校は「追手門学院」として存続。

大阪偕行社附属小学校は、今は中高等学校。

当時からの壁か。古風な雰囲気を残す。

陸軍標石も残っている。

意味ありげな柱。


通りすがりに目についたのが

大阪府庁舎本館

大正15年(1926)竣工。
現行の都道府県庁舎として最も古いものであると。


その「大阪府庁舎本館」の道を挟んだ隣に。

大阪連隊区庁舎跡

コンクリ壁。 敷地は工事中でした。
コンクリ壁はなんとなく残ってますね。


大阪府庁から大手門の方に向かいます。 見えてきたのが

大阪市大手前配水場高地区ポンプ場

昭和6年(1931)建造とのことで。


大阪城大手門の近くに。
近代史跡じゃないけど、ここには立ち寄らねばと思いました。

生國魂神社お旅所跡

秀吉よりも前の時代。
難波を代表する大社である生國魂神社(式内名神大社・官幣大社)は、かつてこのあたりに鎮座していたという。

さて。そろそろ大阪城へ近寄りましょう。
堀の向こうに大きく見えるのは「教育塔 」。
そちら側へはまたのちほどで参ります。


大阪陸軍兵器補給廠

大手門から城内へと侵入すると右手に「大阪城公園内城内詰所」が見えてくる。
この場所は戦前は「大阪陸軍兵器補給廠」であり、レンガ壁と門柱は、往時を偲びし現存する貴重な遺構。


大阪砲兵工廠製造の水道管

ん?なんかパイプが見えますね。 大坂城天守閣南西側の内堀にかかるパイプ、実はこれは「水道管」 日本で初めて製造された「鋳鉄管」を用いた水道管は「大阪砲兵工廠製造」の水道管なのです。 これも貴重な近代産業遺産。

石山本願寺!


豊国神社(大阪)

折角なので大阪城内の「豊国神社」に参拝。
京都と名古屋は「とよくに」で大阪は「ほうこく」だそうです。

名古屋の豊国神社さんの御朱印帳に大阪の豊国神社さんの御朱印を頂戴致しました。ありゃ、これは京都にも行かないとダメですかね。

豊臣秀吉公像。

ところでこの日の大阪城界隈は中韓の観光客がぱっと見の体感で8割ほどおられましたが、秀吉公の像で記念撮影している方々もおられましたが、それで国に帰っても大丈夫なのでしょうか。


第四師団司令部庁舎

旧・大阪市立博物館 かつての「第四師団司令部庁舎」
第4師団司令部庁舎として昭和6年(1931)3月に竣工。 市立博物館としては2001年に閉館。2017に複合施設として再開業。

今回は天守閣には登りませんでした。
今思えば登れば上から「第四師団司令部庁舎」がみれたんですね。惜しいことしましたがどのみち時間が無かったと思います。


教育勅語記念碑

売店の裏手に。訪れる人もなくひっそりと碑がございました。
「教育勅語渙発40周年記念」として大阪市内の教育者たちによって建碑されたものです。
昭和6年2月11日竣工。

朕?惟フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇?ムルコト宏遠?ニ德ヲ樹ツルコト深厚ナリ……

歴史を物語る一証人として、記念碑は静かにそこにあった。
記念碑を前にして、しばし教育勅語と対座する空間。

大阪城の天守閣を背にして南下します。


地下壕入口

第四師団司令部庁舎の向かい。内堀に穴が空いてまして。 これは「地下壕入口」とのことで。 よく見るといろいろありますね。


大阪城公園の南外堀に移動。

城南射撃場跡碑

城南射撃場は昭和7年5月に陸軍によって建設。戦後は自衛隊に引き継がれ昭和43年に撤去。大阪城公園として再整備された。
訪れた際は辺り一面が桜花びらの絨毯で、記念碑に腰掛けて記念撮影している方もいたり。

城南射撃場は昭和7年5月陸軍によって建設、戦後は陸上自衛隊に引き継がれて隊員の訓練などに供されていた。昭和43年11月、大阪市の緑化100年運動の一環である大阪城公園の整備推進に協力し撤去された。
昭和44年5月24日 大阪市


南外堀にひときわ大きな塔がある。

教育塔

昭和11年(1936)建立。
教育に関する殉職者・殉難者の慰霊を目的として建設された。

「教育塔」
レリーフは「教育勅語を奉読する校長先生と子供たち」「台風から子どもを守る先生」を描いたものという。元々は教育勅語が発布された10月30日に「教育祭」が行われていたが、2008年から最終日曜となったらしい。

外堀の南からぐるりと東廻りで北上。
ちょっと行程が悪いですね。

改めて北側の山里門から再度大阪城内堀へ。
秀吉公と淀君の自刃の地。


北側の山里郭にある記念碑。

真心 碑

旧中部第三十五航空情報隊
女子防空通信手有志
昭和四十一年十一月吉日

女子防空通信隊宿舎の跡。
昭和20(1945)年6月1日の空襲で焼夷弾により焼失。

北側の山里曲輪や天守台には「機銃掃射跡」や「1トン爆弾による石垣のずれ」もあるというが…天守台のほうは、うっかり忘れていたり、機銃掃射は石垣の上ばかりみていて見逃していたりしたとか。

再訪しています


位置関係

午前9時ちょい前にスタートして11時半に駅に戻りまして。
所要時間はざっと2時間半で8キロの散策。

大阪城には意外と近代の何かが残っていて。
思ったよりは結構楽しい散策ができました。

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M84-1-97
1948年08月31日に米軍が撮影した航空写真を加工。

このエリア、取りこぼしが多いので、再訪すると思います


関連

東京砲兵工廠はこちら

西淡路高射砲陣地跡(解体済)

(西淡路高射砲台・国次高射砲陣地)

平成30年(2018)8月及び令和元年(2019)6月撮影

※解体済み

大阪に出張に行く機会がありまして。
フォロワーさん(盡忠報國さん)情報で、道路新設の為に近々取り壊し予定という高射砲台跡をみてきました。


西淡路高射砲陣地
(西淡路高射砲台・国次高射砲陣地)

大阪市東淀川区

戦後に住居として再利用された高射砲台跡。


位置関係

以下、参考として。
戦後に米軍が撮影した航空写真(1948年02月20日撮影)

ファイル:USA-M18-4-21-2.jpg
地図・空中写真閲覧サービス
及び
Google航空地図を抜粋加工。

北のほうを拡大

現在の様子

3D


高射砲陣地の解体前写真

写真など。

以下は平成30年

以下は令和元年6月、まだ現状維持のままでした。


高射砲陣地の指揮所

指揮所は、2021年春の段階では、まだ残っていた。。。


名古屋熱田の戦跡散策

平成29年1月

・名古屋陸軍造兵廠跡
・熱田神宮被爆鳥居
・堀川被爆護岸堤防

平成29年1月29日昼過ぎ。熱田到着。
過去、熱田神宮には何度か参拝に来たことはあった。しかしかつては熱田神宮と境外社などしか訪れておらず、で。
熱田に戦争関連の史跡が残っているとは露知らず、でした。


神宮東公園

JR熱田駅に東側に、「神宮東公園」という公園がある。
その一番北の方に、案内も特にないけどなにやら記念碑のようなものがあって、それが最初の目的地。


名古屋陸軍造兵廠跡

1904年(明37)東京砲兵工廠熱田兵器製造所として発足。
1923年(大12)名古屋工廠熱田兵器製造所。
1940年(昭15)名古屋陸軍造兵廠熱田製造所。

名古屋陸軍造兵廠シンボルマークは「名古屋城の金鯱」をイメージしたもの。

名古屋陸軍造兵廠跡・碑文

名古屋陸軍造兵廠は明治三十七年陸軍省がこの地に東京砲兵工廠分廠として創設以来昭和二十年八月の終戦まで国家の要請に応えて来た。 第二次大戦末期には本部の外、熱田・高蔵・千草・鳥居松・鷹来・楠・柳津等の製造所を有し、三万五千人が奉職して居た。 私達は多くの殉職者のご冥福と世界平和を祈ります。 碑は名古屋陸軍造兵廠のマークで名古屋城の金の鯱を象ったものである。
 昭和五十四年十一月三日
  名古屋陸軍造兵廠記念碑建立委員会

一大軍需工場であった熱田の地を偲ぶ記念碑。
いまは静かな公園の片隅に佇むこの記念碑に見向きをする人もすくなくはなってしまったが、私のような人がときより訪れるわけで。
往時を偲び、自然と手を合わせてしまう場所でもある・・・

名古屋陸軍造兵廠跡
現在はその敷地の大部分を「中京倉庫」が活用をしている。
倉庫敷地内にはおそらく往時からと思われるレンガ造りの建造物が点在しておりました。

中京倉庫敷地の一番北側。
道路に面してレンガ造りの建物が横たわっております。
これはなかなか見ごたえのある建造物ですね。

歩道橋から俯瞰してレンガ建物を見学することが出来ました。
これは圧巻。

名古屋陸軍造兵廠跡
中京倉庫の敷地内には、よく見るとほかにもレンガ建物が点在してますね。

名鉄とレンガが一緒に見れるポイントに、心がワクワクしてます。


熱田神宮

さて、続いては熱田神宮さんへ。
熱田神宮を境内境外含めじっくり参拝すると半日は余裕で消費してしまいますが、さすがに時間がないので今回はさくっと参ります。
名鉄神宮前駅の入り口から参進。
東門ですね。
・・・というか、熱田神宮宮廳の入り口ですね。

参拝。
すごい人出です・・・さすが熱田さんや。

熱田神宮さんの御朱印・・・いえ熱田神宮さんでは「御神印」と表現しております。
今回は熱田神宮さんの御神印だけを頂戴致しました。
(別宮や境内社・境外社、それぞれ参ればいろいろいただけます)

御神木 大楠
圧巻の存在感です。


熱田神宮 南の鳥居

さて本題。 熱田神宮に訪れたのは参拝したかったというのも勿論ですが、戦災の記憶がここにもあるわけで。

昭和20年6月9日。
米軍爆撃機B29が名古屋市熱田区を空襲。
熱田神宮南側の鳥居には、その時の爆弾の破片で受けた傷とされるものが残っておりました。 破片傷だけで済んでおり類焼を免れたのは奇跡的というしかなく。

さて、熱田神宮の次は、川岸に向かいます。
熱田神宮の川岸といえば、察しの良い方は「七里の渡し」(東海道熱田‐桑名の海路)を思い出すかもしれませんが、今回は七里の渡しのある堀川の対岸のちょっと北側になります。

めざす目標は愛知時計電機のすぐ隣の土手。


愛知時計電機

航空機製造メーカーとして著名であった「愛知航空機」は、まさにこの愛知時計電機から航空分門が分社した会社であり、親会社の「愛知時計電機」もまた戦前は軍需産業を担っていた。

さきほどの熱田神宮の鳥居でも触れた、昭和20年6月9日の熱田空襲の本命目標は、それこそ軍需工場であった「愛知時計電機」や「名古屋陸軍造兵廠」であった。
写真は 「愛知時計電機」 本社建屋(名古屋市まちなみデザイン貢献賞受賞)


熱田空襲 被爆堤防

堀川運河。
愛知時計電機のすぐ脇に保存されている戦跡。
そこには、 熱田空襲の爆撃を喰らった堤防が移築の上で保存されている。

被爆堤防の碑文

この護岸は、昭和八年に築造され、平成四年度から実施した「マイタウン・マイリバー整備事業」による新たな護岸の設置にあたり、撤去したものの一部である。
護岸表面にみられるくぼみは、昭和二十年六月九日のいわゆる「熱田空襲」の爆撃によりできたものである。
 平成八年三月 
  名古屋市

護岸表面にみられるくぼみ。写真では伝えにくいが、見た目以上に深くくぼんでおります。試しに10円玉を置いてみました。爆弾の破片の威力の大きさを感じることが出来ます。

往時を記録する堤防を前にして、空襲で犠牲になった方々のことを思い静かに手を合わせる。

広島護國神社と戦跡散策

平成29年(2017年)

廣島護國神社

3月3日夕刻。この日は広島中心部に宿を取っていた。
宿に向かう途中、広島護國神社に立ち寄り。
実は3回目の参拝。とはいっても10年ぶり。
その10年前は、一部で有名な例の「万灯みたままつり」の参拝でした。それはそれで懐かしい思い出…

広電に揺られて紙屋町経由で社頭に到着したのは15時30分のこと。
現在の鎮座地は「広島城跡」内。
戦後の遷座。

広島護国神社

明治元年12月、戊辰戦争において陣没された七十八柱を「水草霊社」に奉祀されたのが創建。

以来、大東亜戦争に至るまでに戦没された御英霊約九万二千余柱(勤労奉仕中に原爆の犠牲となられた動員学徒、女子挺身隊等約一万柱を含む)の御神霊をお祀りしている。

昭和9年、御社殿の老朽化に伴い、創建の二葉の地より西練兵場(旧市民球場の辺り)西端に新社殿を造営し遷座。
昭和14年に広島護国神社と改称。
昭和20年8月6日、至近距離上空で原子爆弾が炸裂し御社殿すべてを焼失。

写真は旧鎮座地の旧市民球場かいわい。

これは完全に余談。
映画「この世界の片隅に」にて
昭和16年12月に護國神社参道で、すずさんとすみちゃんが貝を売っていた参道は現在の護國神社の地ではなく、被爆前の旧鎮座地(=現在の原爆ドームの向かいの旧市民球場界隈)。

画像は「この世界の片隅に」ロケ地マップ及び絵コンテ集より

被爆後、同地に小祠にて再建。
昭和31年秋に現在の広島城跡に新社殿が造営され遷座。
平成5年4月、本殿拝殿などが竣功し、平成21年6月に社務所などが再整備され、現在に至る。

深く拝する。

感謝と哀悼を。

御由緒

9万2000余柱を奉斎。
そのうち1万柱は、地域・職域・義勇隊・動員学徒・女子挺身隊などの公務原爆関係の御祭神。

社号標は陸軍中将田部正壮。幕末から日清日露戦争の頃の軍人。広島出身。退役後は広島市長も務めている。

双鯉の像
昇鯉の像

狛鯉…ここは確かに広島ですね。

完全に逆光シルエットになってしまいましたが、護國神社らしい力強い狛犬もちゃんとおります。

英霊にささぐ

英霊にささぐ

父慕い
母の育み
幾春秋
深き恵みに
われはこたえん

昭和53年10月吉日 広島市遺族会青年部

神馬像

御朱印を戴きました。
桜柄の靖國神社御朱印帳に各地の護國神社の御朱印を戴く事に。

広島護國神社にはオリジナル御朱印帳が三種類ございました。
凄く悩みましたが戴くのは自粛。 錦鯉の御朱印帳! 巫女さんの御朱印帳!

やはり、広島護國神社といえば「万灯みたままつりの巫女おどり」が有名です。
護國のみたま祭。 御霊を慰める為の華やかなみこ踊りの祭礼。

かなり昔の平成16年(2004)に「万灯みたままつりの巫女おどり」を見学しておりまして。100人位の巫女さんが踊るのですが。
以下はそのときの写真。

まあ、そのはなしは良いかな。戻ります。

護國神社周辺の散策に向かいましょう。


中国軍管区司令部 防空作戦室跡

広島護國神社の向かって左側に。
中国軍管区司令部防空作戦室跡が残っている。
が、工事……

中国軍管区司令部 防空作戦室跡(爆心から約700メートル)
広島城とその周辺には、多くの軍事施設(中国軍管区司令部など)があり、ここには半地下式の防空作戦室が設けられていた。ここでは、多くの軍人、軍属に混じって、学徒動員された比治山高等女学校の女学生たちも働いていた。原爆で、市内の電信電話は破壊されたが、かろうじて残ったここの軍事専用電話を使って、女学生が広島の壊滅を通信した。これが、広島の原爆被災の第一報と言われている。

中国軍管区司令部防空作戦室跡。
入れなかったので覗いてみた。

中国軍管区司令部 地下通信室跡

中国軍管区司令部原爆慰霊碑

慰霊碑にて頭を垂れる。
(慰霊碑の撮影をするのを忘れておりました。そういう時もあります……

慰霊碑や中国軍管区司令部のあった場所のすぐ裏は堀があり、そして広島城二の丸跡が。

広島大本営跡

広島護國神社から天守閣のある方へ。
ここに広島大本営の基礎石が残っている。

日清戦争当時、広島城内にあった第五師団司令部建物が 明治天皇の行在所となり大本営が明治27年(1894)9月15日から翌年4月27日まで設けられた。 建物は原爆により倒壊。

基礎石のみが残る空間。

標柱は残るも上部を埋め固められている。

昭憲皇太后御座所跡

こちらは昭憲皇太后の御座所跡。
大本営跡の向かって左側に独立した基礎。

近代化の歩みのなかで、日清戦争当時、 明治天皇と皇后が前線近くの広島まで遷座され指揮を執られたといことだけでも、国を挙げての大決戦であったことを窺い知ることが出来る。

広島城

昭和20年の原爆によってすべてを建築物の焼失。
昭和33年に鉄筋コンクリートにて五層天守が再建。
今回は時間都合により天守閣は外から眺めるのみで…。

広島城趾をあとにして、外堀に沿って歩みを進める。

池田勇人像

逆光のなか、誰の像かなと近づいてみたら、池田勇人でした。
広島出身でしたか。
このポージングはインパクト大です。

歩兵第十一連隊跡

広島城の外堀に。
ひっそりと往時を偲ぶ空間がありました。

歩兵第十一連隊入口正門の門柱跡。
原爆被災するも残存。

門柱の由来
この石柱は歩兵第十一聯隊入口正門として建っていた門柱で長年月にわたり入隊訓練帰還と幾多の年代的過程を静かに見守って来た歴史の商人とも言える記念すべき門柱であります。しかも原爆被災の中で残存し得た当時を偲ぶ唯一の遺跡でもあります。幸い篤志家の手により広島市立福木保育園に保存されていたもので今般譲りうけゆかりの地に移転建立し歴史の証とするものであります。
昭和五十九年九月吉日 歩十一会

歩兵第十一聨隊略歴
一、明治八年五月広島の地に創設。同年九月九日聨隊旗受領
二、明治九年十月萩の乱に出動
三、明治十年西南の役に出動
四、明治二十七年日清戦争に出動、朝鮮、中国北部各地を転戦。同二十八年七月復員
五、明治三十三年北清事変に出動
六、明治三十七年四月日露戦争に出動、南満州(現中国東北部)の各地を転戦し、同三十八年十二月復員
七、大正八年七月シベリアに出兵。
八、昭和十二年七月二十七日中戦争に出動、中国全土を転戦
九、昭和十六年十二月八日太平洋戦争勃発、マレー作戦に参加し、のち南太平洋諸島を転戦中、昭和二十年八月十五日終戦となる。同年八月二十六日シンガポールにおいて軍旗を焼く。創設以来七十二年の歴史を閉じ解隊する。
十、この間、特に、昭和十二年日中戦争以降、歩兵第十一聨隊を母体とする藤部隊、槍部隊、開部隊、望部隊、西部第二部隊等を創設、各々克く健闘した。  
ここに、聨隊跡碑を建立し往時を偲ぶ縁とする。  
昭和五十五年七月建立
平成六年八月改刻 歩十一会


どうしても広島護國神社となると「万灯みたま祭」の印象が脳裏を離れないもので。
当時、戴いた団扇を。

護国の祈り

 春は微笑む 広島ざくら
  秋は冴えざえ 城の月
 平和を祈り 偲ぶは誰ぞ
  涙うるむ 大鳥居

 人のこころに 大本営の
  遠い明治を 語る風
 戦雲晴れて 社にねむる
  わが父わが子 わが友よ

 明治大正 昭和の御代の
  歴史映した 大田川
 九万余柱 勲は朽ちず
  いまは御国の 守り神
 
 世界平和を 求めて散りし
  人のいのちの 尊さよ
 護國の庭の 玉砂利踏んで
  御霊に平和 ただ祈る

山梨縣護國神社と戦跡散策

平成29年9月

甲府
・山梨縣護國神社
・陸軍歩兵第四十九聯隊(甲府聯隊)
・陸軍歩兵第四十九聯隊糧秣庫跡(赤レンガ)

平成29年9月3日。
護國神社巡りは長野と山梨に。
この日は無謀にも松本市と甲府市をハシゴし「長野縣護國神社」と「山梨縣護國神社」を参拝。
あわせて戦跡として「松本歩兵聯隊」と「甲府歩兵聯隊」名残の糧秣庫跡(赤レンガ)も散策してきました。
こちらは山梨編。

14時すぎ。松本から甲府に移動して甲府駅からバス。
「護国神社入口」バス停で下車。
北に向かえば武田神社、東に向かえば護國神社。
約10分ほど歩けば護國神社に到着。地図を見ていると武田家臣団の屋敷跡が点在していてそれはそれでワクワクする…。

山梨縣護國神社

狛犬台座には韮崎市軍恩連盟の碑銘。(平成4年建立)

慰霊のことば
私達は嘗て共に戦い祖国のためにその命を捧げ平和と繁栄の礎となられた英霊に感謝と慰霊の誠を捧げ安らかに神鎮りますことを祈願いたします
平成4年5月吉日 韮崎市軍恩連盟

社号標は松本三良謹書(甲州市勝沼ぶどう園「宮光園」)

実はワインと戦争の関係は深い。ワインに含まれる酒石酸を元にしたロッシェル塩がソナー(対潜音波探信儀)の材料となっていたのだ。
「ブドウは兵器だ」のスローガンを元に、戦うためのワイン造りを強いられた時代…

以下は参考として

戦時中のワイン造りの奨励 国税庁

https://www.nta.go.jp/about/organization/ntc/sozei/quiz/1212/index.htm

器造るための醸造 産経ニュース

https://www.sankei.com/region/news/150812/rgn1508120025-n1.html

戦争とワイン 宮光園 Wikipedia

https://ja.wikipedia.org/wiki/%e5%ae%ae%e5%85%89%e5%9c%92#.E6.88.A6.E4.BA.89.E3.81.A8.E3.83.AF.E3.82.A4.E3.83.B3

山梨縣護國神社

西南戦争以来の山梨県関係の戦没軍人軍属の戦死者を祀る。
西南戦争 50柱
日清戦争 568柱
日露戦争 449柱
台湾討伐 55柱
満州上海事変 73柱
支那満洲事変 1784柱
大東亜戦争 22071柱
御祭神計25,050柱(平成28年10月5日現在)

明治12年(1879)招魂社として太田町(現・遊亀公園)に建立
昭和17年(1942)に現在地に遷座
昭和19年(1944)山梨縣護國神社に改称
戦後の一時期は、山梨宮に改称していた
(現在は境内社の社号・後述)

感謝の念と哀悼の誠と。
参拝をする。

「御朱印」と「御守」を頂戴いたしました。

「海軍軍艦旗」と海軍シンボル「桜に錨」が刺繍された御守。
これは前々から頂戴したかったのです。
他にも陸軍迷彩カラーの御守や、陸軍四式戦闘機「疾風」が富士山と桜を背景に飛翔する絵馬など、意匠的な授与品が多数。

山梨縣護國神社 招魂斎庭

山梨縣護國神社では、山梨県出身の西南戦争から大東亜戦争に至るまでの殉国の御霊25050柱を祀るとともに摂社山梨宮において殉職された山梨県出身の自衛官の御霊(11柱)を奉祀している。

参拝の道標

ここは平和の杜です。
このお社は護國神社と言います。
明治十二年十二月招魂社として甲府市太田町に創建され昭和十九年山梨県民の総意により護國神社と改称しこの地に御遷座されました。
日本の平和と美しい山河や家族を護るために戦争で尊い生命を捧げられた山梨県出身の約二万五千人余りの方々を、神様としてお祀りしてあります。
私たちが平和で豊かな生活を送ることが出来るのはこの人達の尊い生命の犠牲のお陰です。
 「ありがとうございます」
と感謝の心をもってお参りしましょう。
これからも平和であるとともにご参拝により常識や道徳心を高め勤勉努力して、健康と強い心を養い自らを護り家族を護ることをお祈りしましょう。
山梨縣護國神社

戦没者(英霊)とは、”地球よりも重い”といわれる、一つしかない生命を、祖国日本と国民のために捧げた方々なのです。
英霊にこたえる会山梨県本部

今日の日本の平和と繁栄は、これを願って犠牲となられた多くの戦没者(英霊)のお陰であることを、忘れてはなりません。
英霊にこたえる会山梨県本部

山梨縣護國神社 
摂社 山梨宮

昭和二十一年社名を山梨宮と改称した時に合祀した 一世の亀鑑、師表と仰がれた民間人八柱が合祀。昭和二十七年境内に摂社山梨宮を創建。
 加賀美光章命(国学)
 志村天目命(心学)
 長田円右衛門命(御岳新道開削者)
 徳島兵右衛門命(徳島堰開削者)
 関戸左近命(義民大総代)
 金子重右衛門命(太桝事件主唱者)
 三沢重右衛門命(太桝事件主唱者)
 くり女命(節婦)

摂社「山梨宮」

殉職自衛隊員顕彰之碑
国防忠魂

自衛隊殉職者の霊に捧ぐ
平成14年建立

戦没者納骨堂

昭和20年、岩窪に陸軍墓地の建設が始まるも完成を見ないまま終戦。
陸海軍も解体され納骨堂は当時の大蔵省に移管。
昭和38年に甲府市に払い下げられ県の管理となる。
昭和51年に現在地に移築。
戦没者分骨5325柱、霊璽簿24915柱を奉安。

岩窪の地に陸軍墓地が予定されており、一部は納骨されていた。
山梨縣護國神社内に納骨堂が移設された際に改葬という。

現在は甲府市つつじが崎霊園となっている。
霊園内には甲府空襲慰霊碑や将校個人墓3基あるという。
(時間の都合で入口のみ写真撮影。霊園内は未調査)

慰戦没戦友之霊

昭和33年建立・四九会有志
甲府歩兵第49連隊(通称「甲府連隊」)
昭和17年に一部部隊をグアム島に展開。
昭和19年にフィリピンのレイテ島・セブ島に主力を展開。レイテ島守備部隊はその大部分が壊滅している。

愛の燈

日本赤十字社看護婦同友会山梨県支部・1973年建立

第二次世界大戦に際し赤十字の旗の下に勇躍応召し、大陸の荒野にて傷病者の救護活動に献身し、愛と奉仕の使命に殉ぜられた日本赤十字社山梨県支部救護看護婦の方々の遺徳をしのび、そのみたまのとこしえに安かれと祈ってこの碑を建立しました
平和のいしずえとして尊い命をささげられた私どもの同僚がこよなき誇りを抱きつつかかげた愛のともしびの偉大さをしのび、これを後世に永く伝えんとするものであります
1973年12月1日
日本赤十字社看護婦同友会山梨県支部

傷病軍人之碑

昭和五十六年建立・山梨県傷痍軍人会

我等は祖国の危急に際し、わが身を顧みることなく国難に赴き、苛烈を極めた戦火の中に多くの戦友を失い、自らは傷痍の身となって終戦を迎えた。
昭和二十七年同志相諮り、山梨県傷痍軍人会を結成、更に昭和三十五年妻の会の結成をみ、相寄り相扶け、傷痍を克服し、平和の願いをこめて、祖国の再建興隆につとめてきた。傷痍の身を顧み、あれを思い、これを思うとき、傷痍軍人の事跡をとどめるものは何ひとつないばかりか、永久の国の平安を希求する我等の心情を、後世に伝えるよすがとてもないことに思い至り、昭和五十四年八月十五日傷痍軍人の碑建立の議を起こし、心をひとつにする会員の善意を結集し、妻の会の協力のもと、戦没英霊の祀られるこの地に、平和の礎として完成をみるに至った。
 昭和五十六年四月十三日
  山梨県傷痍軍人会

豫科練の碑

平成7年建立

昭和五年六月一日、横須賀海軍航空隊へ第一期飛行豫科練習生七十九名が入隊した。以来昭和二十年八月十五日太平洋戦争終結まで、実に十五万人に及ぶ青少年が、国の防衛ならんと大空を目指して巣立って征った。山梨県からも多くの若人が、横須賀・土浦・三重・人吉・岡崎・奈良海軍航空隊をはじめ、全国十三の豫科練航空隊へ入隊し、自ら求めて日夜を分たぬ鉄石の猛訓練に耐え、心身を鍛え抜いたのである。
昭和十二年七月七日、日支日支事変が勃発するや、渡洋爆撃をはじめ各戦線に於て豫科練の初陣を飾った。やがて昭和十六年一二月八日、太平洋戦争開戦時には海軍航空隊の中堅搭乗員として、北は千島の果てより、南はソロモン諸島、西は印度洋へと、国家民族の為一命を捧げて国防の任に当たったのである。
昭和一九年十月には一機一艦を撃沈するの、特攻出撃は空のみならず、海では人間魚雷「回天」「震洋」「伏竜」隊員として豫科練の同窓生は、全作戦に参加し若い命を桜花の散るごとく、護國の神となって散華した。
生還した吾々は、昭和三十九年一月二十六日、県内在住の同窓有志に呼びかけ、豫科練雄飛会山梨県人会を結成以来、亡き友の慰霊を護國神社に於て続けてきた。
太平洋戦争終結五十周年に当たり、会員及び有志の浄財におり、ここ護國神社境内に「豫科練の碑」を建立し、県出身戦没同窓生の慰霊をその偉勲を永く後世に伝えるとともに、我国の安泰と世界の恒久平和を祈念し、この碑を建立するものである。
 平成七年八月十五日
    豫科練雄飛会山梨県人会

永久に語り継がなむ
 豫科練の
昭和の御代の
 武勲のあと

  平成七年八月十五日
   北巨摩郡大泉村 吟詠 十八期 小池 嘉昭

衣第三〇四一部隊 慰霊の碑

昭和63年10月建立
昭和17年4月に甲府東部六三部隊に於て編成。北支那方面派遣。終戦時にソ連軍の捕虜となり将兵全員がシベリア抑留。犠牲は330余名。
慰霊碑の全面には「シベリアの土」が奉納。

衣三〇四一部隊は、大東亜戦争勃発後の昭和十七年四月 甲府東部六三部隊に於て編成され北支那方面の治安維持、民生安定の警備に当たるために派遣されて、数多くの作戦に参加した。
この間、戦死・戦傷病死者多数の犠牲者を出した。
昭和二十年七月、北朝鮮咸與地区に移駐直後終戦となり、同時にソ連軍の捕虜となって、将兵全員がシベリア抑留の身となった。
抑留将兵は体力の限界に耐え、零下四十度余の酷寒と、飢えと、重労働のなか、さらに悪疫の流行によって悲しくも斃れた戦友の数は、全将兵一千名中、実に三三〇余名の多きに達した。
これら戦友の鎮魂と永久の平和を平和を祈念し、現存する元衣三〇四一部隊戦友一同の名においてこの慰霊碑を建立す。
 昭和六十三年十月六日

満蒙開拓青少年義勇隊之碑

昭和50年8月15日建立

拓友(とも)よ 安らかに 
眠れ 友よ帰らぬ友よ
君の大陸に残した足跡は深く大きくしるされている
われらはその足あとをしっかり踏みしめて前進する
友よ逝きて帰らぬわが友よ
静かに安らかにここにねむれ

満蒙同胞殉難慰霊碑

昭和36年3月建立

朔北の 満蒙の地に 逝きて帰らぬ 同胞を憶う

昭和二十年八月祖国の運命に殉じた満蒙開拓団・満蒙開拓青少年義勇隊・満州報告濃勤労奉仕隊・満蒙在留同胞の霊一九三六柱を此の處に祀る

ソビエト不法侵攻の尊き犠牲…

故満鐵本家義勇隊之慰霊碑

昭和50年4月8日建立
第七次満蒙開拓青少年義勇軍満鉄李家訓練所

あぁ、ソビエト…

二井義勇隊の碑

平成5年8月15日建立

昭和18年6月、満蒙開拓青少年義勇軍として山梨中隊を編成。 旧満州国北安省除海村二井屯の満鉄二井訓練所に入所。
終戦時に隊員は四散し、四十余名が大陸の土と化した…

硫黄島戦没者慰霊碑

碑面は「硫黄島」を型どっておりました。
昭和20年2月19日 ~ 3月26日 硫黄島の戦い

硫黄島戦没者慰霊碑
鎮魂の詩碑(平成7年建立)
詩碑は元横須賀海軍鎮守府昭和十一年会所属の篠原勤氏によるもの。

軍神若林東一顕彰碑

平成19年建立

若林東一中尉は第38師団歩兵第228聯隊第10中隊長。
若林中隊はガダルカナル島で戦いにて補給途絶えつつも陣地死守を敢行する。
「後ニ続ク者ヲ信ズ」の一言を残して昭和18年1月14日戦死。
ガ島52日分の日記を残す。

山梨県海軍戦没者 慰霊碑

山形県海交会は太平洋戦争終結五十周年にあたり祖国の繁栄と不滅を念じて祖国の英霊となられた、県内海軍戦没者四千七百二名の純真な気持ちを永久に顕彰するため、山梨県護国神社の聖域に慰霊碑を建立し、後世までの遺徳を偲び、感謝を誠を捧げるものである
 平成七年十一月三日
  山梨県海交会会長 塩川 光男

鎮魂 鵄三〇六三部隊戦没者鎮魂之碑

平成8年建立。鵄三〇六三部隊の慰霊碑。
昭和十八年四月に甲府にて編成。
おもに中国大陸の南京・上海に展開。
(第61師団歩兵149聯隊鵄3063部隊)

父の像

平成7年4月5日建立

殉国の戦士の遺児は、亡き父への思慕と誇りとを胸に 母と共に強くたくましく生きてきた 戦争の悲惨さ、平和の尊さを後世に伝えたいとの願いを込め 終戦50周年を機に、ここに父の像を建立する

気がつけば1時間半近くを境内で過ごしていたようで。
慰霊碑が多いとおのずと滞在時間も増えます。
佳き参拝が出来ました。護國神社をあとにします。

「山梨縣護國神社」の隣にあるのは「山梨県神社庁」


余事ながら
「山梨縣護國神社」の鎮座地 は、戦国時代は「甘利備前守虎泰の屋敷跡」
甘利虎泰は武田二十四将、信虎時代の武田四天王の一人。

江戸時代は「龍華山永慶寺跡」(柳沢吉保の菩提寺)という。
なお寺院は柳沢家の所領替え(甲府から大和郡山)に際して移築。

余事ながら
山梨縣護國神社の近くには「武田信玄公御墓所」(武田信玄火葬塚)もあります。
せっかくなので脚を伸ばしてみました。
周辺は「護国神社風致地区」として整備されているようです。

余事ながら
「武田信玄公御墓所」の向かいに「川尻塚」もありました。
甲斐国で武田遺臣に討たれた川尻秀隆の首塚ですから、扱いも、まあお察しです…
武田関連はキリがないのでこのぐらいで。次は甲府聯隊関連を。

陸軍歩兵第四十九聯隊(甲府聯隊)

まずは甲府連隊跡関連の地図を。
地図の記載場所は罠でした。
これのお陰で現地で「迷子」になりましたので、正しい場所と補足を画像で添付。

現在の「山梨県福祉プラザ」の駐車場。
その片隅に跡碑が残っている。

旧歩兵第四十九聯隊 営門跡

甲府聯隊の営門跡。昭和60年7月建立

歩兵第四十九聯隊跡碑

昭和44年4月20日建立

明治38年に習志野にて編成。
明治42年に甲府の現在地に新兵舎移転。
昭和19年12月20日、レイテ島に於いて聯隊の主力が玉砕。
昭和20年8月、聯隊残部隊はセブ島にて終戦解隊。

歩兵第四十九聯隊跡碑
堀内一雄・筆

堀内氏は帝国陸軍歩兵少佐、満州国陸軍少将。山梨県出身。 戦後は富士山麓電気鉄道(富士急)社長を経て衆議院議員などを歴任。 子息は堀内光雄氏。

聯隊歌七節
 新に兵営なりしかば こゝに衛戍の命受けて  
  移りし年は翌春の 弥生半を過ぐる頃   
   峡中の地に武夫の 清き花をば植えにけり
明治百年記念 四九會

歩兵第四十九聯隊跡碑は市営団地(市営むつみ荘)に面した道路側に鎮座。

その場所から山梨大学小学校・中学校方面を覗いてみれば。建屋の向こうに赤レンガが見えます。そちらに行ってみましょう。

歩兵第四十九聯隊糧秣庫跡
(山梨大学赤レンガ館)

山梨大学教育学部附属中学校の入口が開放してあり、赤レンガを間近で見学することができます。 行ってみましょう。

歩兵第四十九聯隊糧秣庫跡(山梨大学赤レンガ館)

建設は明治41年頃。明治42年(1904)に歩兵第四十九聯隊(甲府聯隊)の糧秣庫(食料庫)として使用開始。 オランダ積み構造で甲府煉瓦製造の赤煉瓦を使用。 山梨県最大規模の煉瓦造建築物。

聯隊解隊後に跡地は山梨大学附属小学校・中学校用地となり中学校校舎として使用。
平成10年に大雪で破損したのを機に保存のための耐震工事などが行われ平成14年に改修完了。
文化庁・登録有形文化財

夕日に照らされる赤煉瓦を眺めつつ散策は終わり。
時間は17時。あとはのんびりと甲府駅に戻るだけに。

長野縣護國神社と戦跡散策

平成29年9月

松本
・長野縣護國神社
・陸軍歩兵第五十聯隊(松本聯隊)
・陸軍歩兵第五十聯隊糧秣庫跡(赤レンガ)

平成29年9月3日。
護國神社巡りは長野と山梨に。
この日は無謀にも松本市と甲府市をハシゴし「長野縣護國神社」と「山梨縣護國神社」を参拝。
あわせて戦跡として「松本歩兵聯隊」と「甲府歩兵聯隊」名残の糧秣庫跡(赤レンガ)も散策してきました。
こちらは長野松本編。

松本には魅力的な神社も史跡も多い。
が(過去に何度か訪れているので)、今回は誘惑を断ち切り長野縣護國神社のみに立ち寄ることを決意。
0935に松本駅に到着し、松本城・信州大学方面に向かうバスに乗り込んで、長野縣護國神社の社頭に到着したのは10時過ぎだった。

長野縣護國神社

信濃国総守護。長野県出身の明治戊辰の役以来大東亜戦争に殉ぜられた御英霊を祀る。
昭和13年、陸軍歩兵第50連隊(松本聯隊)に隣接する現在地に長野県招魂社として鎮座。
昭和14年、長野縣護國神社と改称。(内務大臣指定護國神社) 終戦後の一時期は美須々之宮とも呼称。

大鳥居をくぐり参進する。
参道の脇にひときわに大きな碑が目に飛び込んでくる。
いつもは慰霊碑には御社殿参拝後に巡拝するのだが、この碑の存在感に私の脚は自然と吸い寄せられてしまった。

南十字星の下に散華せる
「嗚呼戦友」

杉山茂謹書(元陸軍大佐・元陸将)

南十字星の下に散華せる
「嗚呼戦友」

大東亜戦争に日本を遠く遥か南溟の彼方ニューギニア島及其の周辺に祖国防衛のため挺身し、
 海行かば水漬く屍 山行かば草むす屍
と散りし友の歩んだ途は惨烈悲壮筆舌に尽くし難し
 嗚呼 友の霊何処にぞ
戦終り時移りて此処に三十年 今ぞ群霊懐かしの故郷信州に帰りてこの地に鎮まり新しき日本の礎となる
吾等亡き友の昔日を偲び
 御霊よ 久遠に安かれ 
と信濃の国各地の不変の石にこの祈願を刻し、やがては同じ石下に吾等も魂魄を鎮め共に昔を語らんことを期して、此処にこれを建てる
長野県ニューギニア会
昭和49年7月28日

晴れ渡る夏空の下で、 拝する。

御英霊に感謝と哀悼の誠を捧げる。
そして
御英霊の御加護のもと、祖国の平和と繁栄を祈念する。

ありがとうございます。

社頭には「終戦の詔勅」が現代語訳とあわせて掲示されておりました。

御朱印を頂戴いたしました。 ありがとうございます。

護國神社のイメージに反して当て紙が可愛らしい。
なお、オリジナル御朱印帳は3種類あることを確認いたしました。 (「御神紋柄」青と桃の2色と「日の丸モチーフ表装」の3種類)


長野県ブーゲンビル会 献木

ブーゲンビル島。
1943年4月。山本五十六大将搭乗機が、この島の上空で撃墜され戦死する事件が起こる(海軍甲事件)。
同年11月には同島にアメリカ軍が上陸し、ブーゲンビル島の戦いとして終戦まで同島では戦闘が続いた。

平和の像

1995年(平成7)8月15日
松本深志ライオンズクラブ建立 平和の象徴「鳩」と子どもたちの像。

あゝ特攻 特攻勇士之像

大東亜戦争の末期、特別攻撃隊が編成され、祖国の平和と繁栄を祈り、愛おしい父母妻子家族と別れ、一機一艇をもって敵艦に体当たりして、勇戦敢闘し散華されました。 長野県出身者は、陸海軍合せ百六十余名の若者が特攻隊員として戦死されております。
松本市内には、出撃を待つ多くの特攻隊員が滞在し、陸軍松本飛行場から前線へと飛び立って行きました。又、当時浅間温泉に疎開していた東京世田谷の学童達と温かい交流もありました。 国家存亡の危機に敢然と立ち向かわれ、今日の平和な日本の礎となられた諸英霊の崇高なる精神を永く県民の心に刻み、後世に伝えるため、終戦七十周年を期しここに建立いたしました。

平成27年10月10日
長野県特攻勇士之像建立委員会

國の為 誠の道を一筋に
 進み行くこそ大和魂
  秋山白厳 詠

シベリア抑留慰霊碑

相澤英之書
1945年8月の終戦は、ポツダム宣言の受諾によるが、同宣言9項を無視したソ連の蛮行により、日本軍将兵ら60万余がシベリア各地へ強制連行され、飢餓、酷寒、過酷労働の三重苦に苛まれ、犠牲者6万余に及ぶ悲劇的な大惨事となった。
人道に悖るかかる暴挙の風化を忍べず、忘却させてはならない残酷史として後世に伝え、犠牲者の冥福と恒久平和を祈念し、本慰霊碑を建立する。
2005年8月9日
シベリア抑留慰霊碑建立委員会

シベリア抑留慰霊碑

「異国の丘」
今日も暮れゆく 異国の丘に
友よつらかろ せつなかろ
我慢だ待ってろ 嵐が過ぎりゃ
帰る日もくる 春が来る

シベリア抑留の大地で「凍てつく岩石を掘る」シーンと「伐採作業」シーンが碑に描かれておりました・・・。

拓友之碑

満蒙開拓青少年義勇軍・佐藤中隊碑(佐藤剛吉中隊長)
昭和44年建立

拓友之碑

満蒙開拓青少年義勇軍第7次斉藤中隊碑(斉藤義男中隊長)
昭和51年建立

満蒙開拓青少年義勇軍。14~15才の少年達が満蒙の広野に開拓の意気高く大陸に渡るも昭和20年8月満蒙国境を打ち破ったソ連軍の捕虜となり過酷な重労働で多くは異国の土となった…

砲魂

佛印派遣討4237部隊第4中隊
昭和61年建立

旧歩兵第五十聯隊跡碑

昭和33年建立
松本歩兵第五十聯隊
通称「松本聯隊」

大戦当初は満州・華北方面に展開されていた。 昭和19年3月テニアン島守備部隊となり、同年8月2日にテニアン島にて玉砕…

松本聯隊の跡地には小さな社が鎮座していました。

北に長野縣護國神社。南に松本聯隊。
現在、松本聯隊の跡地は文教地区として「信州大学」や「長野県松本美須々ヶ丘高校」などが展開。
信州大学の校内に往時ゆかりの建物が残っているので行ってみましょう。

信州大学・松本キャンパス

キャンパスマップの32番に「旧松本歩兵第五十連隊糧秣庫」って書いてありますね。分かりやすくて助かります。
ただこのキャンパスマップは「北が下」なのがちょっと不親切。

松本歩兵第五十聯隊糧秣庫跡
(信州大学松本キャンパス)

登録有形文化財。
明治40年に松本に第五十聯隊の衛戍地が決定し、翌年に聯隊が展開。
この糧秣庫の建設年代は明治41年(1907)ごろと推定。
外壁レンガはイギリス積み。
正面入口には…門柱がかなり短縮カット状態で保存。

旧松本歩兵第五十連隊糧秣庫

現在の信州大学松本キャンパスには、もともと松本歩兵第五十連隊の施設があった。
第五十連隊は日露戦争中の明治38年(1905)に編成され、明治40年(1907)に松本を衛戍地(えいじゅち)とすることが決まり、その翌年に現地に入った。
糧秣庫の建築年代は定かでないが、第五十連隊が衛戍地に入った明治41年(1908)頃であろう。
建物は梁間9.09m(約5間)、桁行36.32m(約20間)で、煉瓦造平屋建、切妻桟瓦葺屋根である。
外壁の煉瓦はイギリス積みになっている。
小屋組は、洋小屋組、キングポストトラス構造で、陸梁が1間おきに架けられ、建物の北側には廊下が通っている。
出入り口には2種類の大きさがあり、西面には大きな出入り口が1つ、北面には、西側から大きな出入り口、小さな出入り口、大きな出入り口の3つがある。
外壁には、北・南・東面に2種類の大きさのアーチ形の窓が連続して取り付けられており、北面には出窓がある。
現在の第五十連隊糧秣庫に残る痕跡から、当初の姿や改修の過程を見ると次のようになる。
・かつて、北面の外壁には大小4つの出入り口があった。
・当初の間取りは3ヵ所の煉瓦の内壁で4部屋に仕切られていた。
・それぞれの部屋の北西の外壁には、2つの窓と1つの出入り口が設けられていた。
・4部屋に仕切られていたとき、一番西側の部屋だけに床が張られていた。
・出窓は大きな窓を改修して取り付けられた。
第五十連隊糧秣庫は、用途の移り変わりによって内部の改修が行われてきたが、外部への改修は少なく、建設当初の姿をよく残している。この建物は戦争の記憶を現代に伝えるだけでなく、本学によって教育的にも利用され、時代を通してさまざまな人々の活動の場となってきた。

内装はいろいろ弄ったそうだけど外観は往時の姿を残しているという。
周辺は建物に囲まれているので空間はなかなか撮りにくい。

入口のところに転がってました。
保存?
「陸軍用地」境界石


松本市「 旧松本歩兵第五十連隊糧秣庫 」

https://www.city.matsumoto.nagano.jp/smph/miryoku/bunkazai/takara/kuni/touroku/50rentai.html

松本市戦争遺跡建立事業

https://www.city.matsumoto.nagano.jp/shisei/heiwa_suisin/heiwa_tutaeru/rinewal_sensou_iseki.html

松本市内に残る戦争遺跡など

https://www.city.matsumoto.nagano.jp/shisei/heiwa_suisin/heiwa_tutaeru/rinewal_sensou_iseki.files/itizu003.pdf

信州大学サイト
「旧松本歩兵第五十連隊糧秣庫」登録有形文化財登録証等伝達式

http://www.shinshu-u.ac.jp/topics/archive_data/2012/09/post-487.html